まりも

投稿作品数: 31 コメント数: 1177プロフィール: B -review 応援隊員。 詩集、発売中です。 https://t.co/tlUQU5j8NS

投稿作品

私の鳥

2017-02-10

雨後

2017-03-26

夢魔

2017-04-23

現況

2017-05-04

播種

2017-05-14

鋳型

2017-06-02

惑星

2017-07-13

流露

2017-08-20

奏楽

2017-09-01

夕立

2017-09-29

焼成

2017-10-02

縫い針

2017-10-12

2017-11-18

沈黙

2017-12-14

梅雨晴れ

2018-07-02

6月分選評

2018-07-14

うりずん

2018-08-08

首を選ぶ ※

2018-09-08

あなまどい

2018-11-06

コメント

自分で自分を埋葬して、そこから(ひそかな)再生を図る、感じなのかな、と思いました。 たんたんと始まって、ガーッと盛り上がって、静かに締める。音楽的な構成が、さりげないけれど巧みだな、と。 代わりに死んで、と願い、かわいそうに、とうそぶいて、うらやましい、と「死んでしまえる」幸福を羨望して・・・ その「羨望」ごと、埋葬するのでしょうね。詩の世界で行う、死を眠りとする就寝儀式のような。 (「弔い人形」)

2017-02-10

桐ヶ谷忍さんへ 雑談コーナーを読んで、気になったので来てみました。 「面白くない」と言われたら、確かにムッとしますよね。あんた一人のために書いてんじゃない、と言いたくなる。 なぜ、面白くないんですか、と、ストレートに聴く権利もある、と思います、作者には。でも、非建設的な、感情的な応酬になったら、いやだな・・・と、放置してしまうかもしれない(内心、ムッとしつつ。) でも、もし・・・展開が予想内に収まってしまう、そこが惜しい、もっと面白くできるはず・・・というコメントだったら、どうでしょう? 花緒さんの評の通り、とても完成度の高い作品だと思います。クラシック音楽でいう、コーダが、きちんと収まっている。安心して読める。でも、意外性というのか、予想外の展開を求める人にとっては、もの足りないかもしれない・・・。 語り手の「私」が、もう一人の「私」を、埋葬する、わけですが・・・もう一人の「私」は、最後まで「物」として、身代わりのままでいる。もう一人の「私」の感情を解放してあげることができたら・・・と、思いました。 かといって、人形に血が通っていたり、突然手をつかみに来たり・・・涙を流したりしたら、それこそ安っぽいホラーになってしまう。一年後に、この場所に来てみたら、不思議な花が咲いていて・・・とか、埋める時に人形がふっと重くなり、その瞬間、自分の中に刺さっていた棘が、すうっと溶けるような気がした、というような、事後の体感、内観があったり・・・人形たちが反乱を企てたり・・・というような、自由な展開があると、また、別の面白さが出るかもしれない、と思いました。埋めた時、なぜか懐かしい匂いがして、気持ちが安らいだ、とか・・・その場に木が芽吹いて、私にはわからない、でも、心地よい葉擦れの歌を歌っている、などなど(もちろん、これはあくまで提案であって、いや、バシッと決めたいのだ、そうした方が書き手の気持がしっくりくるのだ、ということであれば、一番、そのようにするのが良いのだと思います。) 人形(として、「私」のかたしろ、になっている物の声)が、何かの形で(人間の声、でなくても)聞こえて来ると、風がもっと通うのにな、と思いました。私は、感情の強度が足りない、といつも言われる方なので・・・桐ケ谷さんのように、感情をぶわっと溢れさせるような、そんな書き方ができる人、スゴイと思います。 (「弔い人形」)

2017-02-13

硬質な題と、「アタシ」から始まるギャップが、面白い「入り方」だと思いました。高踏的な引き締まった感じの詩かな、という予想を、軽くいなすような感じで、うまく裏切ってくれる。嫌い、自死、と突き放すような言葉がガツンと入って来るけれど、夏/冬、という対比のリズム感とか、法則、残酷、というような脚韻的な軽やかさとかが、すっと読んでいける感じに繋がっているのかな・・・無垢な娼婦、老いた赤子というクリシェ的な表現は、書き慣れた人が使いたくなるような表現かな、という気がして、ちょっと気になりました。 そのあとの、「白夜の通学路」の連が、とても清新で素敵だと思います。 (彷徨)

2017-02-10

鮮やかな天空的なイメージが、一気に闇夜の中に白く淋しく光るコンビニの映像に変わる。「ちゃんと殺してあげるのだった」と強めの断定で(ということは、自分に言い聞かせるように?)殺してしまうのは、自分の中で期待し続ける、現れるはず、の君の姿、自分自身の持っている期待感、なのかな、という気がしました。殺してあげるよ、と呼びかけの形にすると、どうイメージが変わるんだろう・・・自分を優しく包むような感じになるのかな・・・。 川底に~のイメージが、とても美しくて、鮮烈で好きです。 (白い夜)

2017-02-10

三浦さんへ 女子視線・・・意識していなかったけれど、なるほど、です。ネタバレかもしれないですが、蠢いている唇、のイメージソースは、口紅の色見本写真。これ、男子はあまり見ないのかも(すみません、果実さんが女子だったら、すごく失礼なこと、言ってますね(;^ω^) kaz.さんへ >浮遊するシニフィアンの表象なのかもしれない。 まさに、その通りです。ある種の失語状態、私にとっての、それが真実である・・・という状態を、散文なら何十枚も原稿用紙が必要だけれど、詩ならイメージで言えるな、という・・・。そこが伝わって、よかった。鳥は、歌をさえずるもの、独自の「うた」を持っているもの、という憧憬のイメージですね。 kaz.さんの鳥は、飛翔するもの、のイメージが強いのかな・・・。 スカッとする感があるかどうか、という部分は、停滞感(まったり感)が好きかどうか、という好みの問題になってくると思うので、突破感を目指している!はずの詩が停滞していたりすれば、そこに改善の余地があるでしょう。 この詩は、停滞感、を目指しているというか、どこにも行けない感、そこを言いたい、でもどこかに抜け出す道があるはず・・・みたいな、もたもたした感じ、ねっちょりした感じ、を言いたかったので、むしろ成功したのかな、と。 嘴と口、このイメージの齟齬は、指摘されるまで気づかなかった。詩的ロジックというのか、言葉の喚起するイメージとズレすぎますね。問題点は、どこにあるんだろう・・・題名で「鳥」を喚起しながら、「人」が登場人物として動いていて、なおかつ、途中で魂の鳥というのか、具体的に姿を現さない、イメージだけの「とり」が出て来るあたりのズレ、なのかな・・・ネタバレ題名なのは、少し考え直す必要があるかもしれません。 登場人物は、「ひと」の姿をしていることは、伝わっています、よね? (私の鳥)

2017-02-10

三浦さんへ コメントへのレスが、途中でした・・・。ありがとうございます。教官、のイメージは、外部者の声、外界からの侵入者、というか、私が拒否したいのに、私を教導とする誰か、あるいは何か、のイメージ、なのだと思います(たぶん。)途中で現れる男、は、ユング的な言い方をすれば、アニマ、なのかな・・・私を、本来、正しく導いてくれるはずの、他者としての内在者、的な。 (私の鳥)

2017-02-10

花緒 さんへ 寓喩の詩、ですね、無理やり分類すると・・・。このモチーフは、作者にとって何を意味するのか?と、謎ときのように読み解いて頂く読み方もあるでしょうし(そうすると、作者自身が気づいていない、無意識層の何か、に出会えるかもしれない)自由に読んでいただければ、と思います。最後のところ・・・自分でもどうなるのかわからないまま放り出している感もあり・・・そうですね、ここから展開させたいですね。連作とか。 Migikataさんへ 幻視としての実体、なるほど、簡潔かつ実感のある表現ですね。花緒さんの「手触り」という言葉にもつながると思うのですが、私にとっての真実、アナザーディメンション・リアリティー(河合隼雄さんの言葉を借りれば)あるいは・・・最近はやりの、オルタナティブ・ファクトとしての実体、事実、なのかな、という・・・。 世界の「現実」はひとつ、でも、それをどう解釈するか、で、読み解く者の数だけ、「真実」がある。実社会がそうなっては困りますが、詩の世界は、むしろそうした多義性、多様性、多層性が生かされて欲しい、その自由が守られる場所であってほしい、と思います。 Ichigo Tsukamotoさんへ コメントありがとうございます。夢を見ているかのように描いている、自分でもとらえどころのない実感、と言えばいいでしょうか・・・。一枚の写真を、蛍光灯の下で、皆で囲んで討議する、それがコメント欄の言葉(批評的散文、論理の言葉、説明の言葉)だとすると一枚の写真を暗がりに置き、それぞれが自前の光源で照らして「見た」ものを、持ち帰る。それが、詩の読み方かな、という気がしていて・・・一人一人の光源が、多様であればあるほど、作者にとっても予想外のことが「見えて」くる(きっと)。だからこそ、自分の「見た」ものを、それぞれ「説明の言葉」で並置して、お互いに交換しあう、交流し合う・・・そこに、多様な豊かさが生まれるのではないか。そんな気がしています。 kaz.さんへ 題名が、少し安易だったかな、と思い・・・「密室」に変えようと思います。カーテンで仕切られた密室、なんて変なので、そうなると「カーテン」は「ひだ」とかになるのかな・・・。肉感的で、非現実的なのに実体感があって、その方がいいかもしれない、という気がしてきました。 (私の鳥)

2017-02-11

天才詩人さんへ 鋭いコメント、ありがとうございます。そもそも、口語自由詩って、なんじゃいな、というところにも関わるのだけれど・・・私にとっての「真実」を、比喩を用いて表明する、これが、私の目指している「詩」の内容です、と、先に言いますね。「詩」と言われる(称される)文芸の中の、ごく狭い領域である、ということになります。(そうではない「詩」を書く方も、たくさんいらっしゃるわけです。)ただ、その領域における代表作を、常に目指していきたい(今は、まだ麓あたり)とは思っています(思い続けたい、と自分で自分に喝を入れる。) 〈「部屋」それから鳥が入っている「箱」この2つの空間醸成装置をアーキテクチャーとしてシュルレアリスト絵画みたいなストーリーの場面が、読者に謎解きのように提示されている〉異界を設定して、その中で、できるだけクリアーに、輪郭線をはっきり辿ることができるような緩い動きの中で、論理的にうまく説明できないけれども感じていること、を伝えるための、アニメーションのようなものを作ろうとしている、それが、伝わっているか、どうか、が、とりあえず、ここでの問題でした。 私は、「綺麗な感じ」「美的な心地よさ」「古典的な均整美」の方向にまとめて行ってしまう、傾向があり・・・優等生的とか、感情の強度が弱い、とか、破綻が少ない、という批判を受けたりもする、わけだけれど・・・表現主義的、野獣派的な手法を目指すのか、新古典主義的な映像美を目指すのか、という事に関しては、作者の美観とか感性による部分が多いでしょう。前衛を目指す方にとっては、未知の美を開拓して、提示する作品にしか、存在価値はない、過去に「美」と認知されたものの枠内に居て、なにが楽しい、という意見もある、でしょうし・・・・。 なんでもかんでもマルチに挑戦していたら、人間の一生は本当に短いので、全部中途半端で終わる。どれだけの選択肢を捨てることができるか、ということでもあるのかな、と・・・。考えていたら、よくわからなくなってきた。続きは、また後で。 (私の鳥)

2017-02-14

今取りかかっている仕事が、ひとまず二月末で一段落つくので、三月以降に考えさせてください。とはいえ・・・たとえば、阿部嘉昭さんという詩人/批評家の『換喩詩学』という本があるのですが、そのあたりを、読書会的に読んでみる、とか・・・。スカイプの使い方とかイマイチよくわかっていないので、テキストデータの交換の方がいいのかもしれませんが・・・とりいそぎ。 (私の鳥)

2017-02-15

天才詩人さんへ 非常に面白い問題提起です。スレッドが上がってしまうので、続きはフォーラムでやりましょう。トピックを立てます。他の方にも、自由に参入していただけると嬉しい。 「私の鳥」に関して、「まり」と「りも」の対話、として、辛レスをつけておきます。 まり:平板で、盛り上がりにかけると思います。最後の「落し」が、生理的に嫌い。もぞもぞ動く唇(動くタラコみたいな)のを持ってくる意図が、よくわらかない。生理的嫌悪感に訴えて、衝撃を与える、という目論見なら、表現としてあざといと思います。 りも:冒頭から、現実には「ありえねーだろ」設定を持ち込んで、ひとつの空間を作りだしているわけですが・・・空間の作成には成功している、ように思うけれども(わりと映像や音声が具体的だし)わざわざ異時空間を設定する意図って、なんなんだろう・・・面白い空間を作ってみたい、ということなのかな まり:もし、そういうエンタメ系を目指すなら、もっとドラマ性とか、盛り上がりが必要だよね りも:平板さは、形式へのこだわりとか、表現のテンションを一定のリズムで刻むというのか、抑制していく「張り」感みたいなものへの志向があるんじゃないか、と思うんだけれど・・・。バロック音楽が好きか、ロマン派音楽が好きか、みたいな、好みの問題にもなりそう。 まり:落伍者、ということへの自己認識というか、それを認める事への抵抗感とか、そこから抜け出したいという欲望とか、そういう葛藤が根底にあるんだと思うんだけれど、その感情的な表出というか、噴出の度合いが、弱い気がする。綺麗にまとめている、とは思うけどね りも:そこなんだよね。綺麗さ、整った感じ・・・小作りになるよね。せっかく異時空間を設定しているのに、壮大な展開というのか、そういう広がりが感じられない。すごく、閉塞している。 まり:だからさ、本人のその、閉塞感というか、そこに押し込められている感がテーマなのかもしれないけど、その切実さが、ズシンと響いて来ないんだよな・・・書かざるを得なくて書いた、という感じではなくて、作品を書いてみたくて、書いてみた、的な。自分のための「箱庭」を作成している、というか。 りも:切実さが前面に出過ぎると、押し付けられ感も強まってくるかも、というのはあるけど。自分の葛藤を激白してます、的なやつだと、単なる感情の垂れ流しじゃん、とか思っちゃうし。作品を作ります、という意図があっても、いいんじゃないの? まり:自分の「箱庭」を作品として並べて、展覧会みたいにみんなで品評する、的な・・・それもアリかもしんないけど、「私の鳥」に関していえば、露骨っていうか・・・あざとい感じが気になるんだよね。好き嫌いに還元しちゃっていいのかな・・・この方向で進めて行ったら、すごく奇形的な、「キモかわ」的なものとかホラー的なおどろおどろしさとか、そういうものばっかりが「新奇で面白い」ということになるんじゃないの?それってどうなのよ、と思う。 りも:設定の無茶さ加減とか、唇が独立して動くという奇異感とか驚きとか・・・「口唇」機能の社会的意味ってなによ、的な問いかけはあるのかもしんないけど・・・そういう理智的な感じが、いやっみっぽい。非現実的な景を「比喩」として使って、意味とか理念に対応させようとしているっていうか・・・花緒さんが、ひとつひとつ読み解こうとしているけど、そういう謎解き的な遊びに落とし込んでいくところが、すごく閉鎖的だよね。 まりも:要するに、ダメ感が強い、小作りな作品、ということですね(笑) こういう「対話」みたいなものがあっても、面白いと思いました。 (私の鳥)

2017-02-16

投稿掲示板には入れるのに、フォーラムには入れませんでした・・・なので、トピックスを立てられなかった。新しく登録し直すんでしょうか。 (私の鳥)

2017-02-16

るるりらさんへ はじめまして(まりも、としては)はるりら、さんと一時的に名のっておられた時に、初めて出会ったと思います。るるりらファンとしては、ここで出会えてうれしい。今後ともよろしくお願いします。 (私の鳥)

2017-02-16

きらるびさんへ 心の中の美術館、そんなイメージもありました。ありがとうございました。 クヮン・アイ・ユウさんへ 成長過程、まだ未生の詩の世界、なのかもしれません。多面的な分析、ありがとうございます。 (私の鳥)

2017-02-28

ユーカラさんへ 「君のものにならないうちは、鳥を放ってはならない、 の下りは、少しでも自分を疑った時、鳥は逃げていってしまう、そんな意味合いがあるのかな、と思いました。 自分を信じきる、というのは、とても難しいことだから。」なるほど、自身をどこまで信じ切れるか。言葉を、どこまで信じられるか・・・そんな隠れテーマが、あったのかもしれない。そんな気がしてきました。「ユーカラ」は北方の歌と同じ響きですね。ユーカラさんの歌も、聴かせてください。 (私の鳥)

2017-03-02

hyakkinnさんへ そうか、口は発信する器官、ですよね・・・「手」もよく詩に登場するのですが・・・これもまあ、発信側、の器官かもしれない。視覚や聴覚は、受容を旨とする。そこに・・・特に情報過多の現代社会では・・・押しつけがましさや圧迫感や強制感を感じてしまって、逃げ出したくなるのかもしれない、と(レスを拝見して)思いました。とりいそぎ、御礼まで。 (私の鳥)

2017-03-09

初めまして。文法そのものを破壊して、自分だけ「わかってる感」満載の難解文体を作りだす新しさ、には反対だけれど、この作品のように、一般的に読解できる範疇を守りながら、その中に他者性というのか、その単語自体に重力があるような異語を入れて来る感じは、いいな、と私は思います。 日本語、という、とりあえず共通のルールの中でやろうぜ、と言っている口語自由詩、なんだし。 ネット掲示板なら、絵文字(emoji)とかも使える。 すぐに「今から何十年も前に、既に試みられていた」みたいなことを言い出す人もいるけれど・・・言葉の歴史は、千年、二千年の命があって、人間一人の数十年では、とても太刀打ちできない。もともと出来上がっている言葉(文法)を習い覚えるところから始まるわけだし・・・そうなると、どうやっても、どこかで誰かがやっていたこと、に、似てこない方がおかしい。 疾走感・・・言葉の音が頭韻のように次の言葉を引き出していくスピード感とか・・・ちりばめられた「ベラルーシ語」の鳥・・・「面接官」・・・アレクシェービチさんの話をちょうど聞いてきたばかりだったので、体制という檻に閉じ込められた魂の自由の渇望、平和への願い、などなどを、エナジーとして感じました。 なにかしてくれましたか/何か、してくれましたか/何貸してくれましたか 私/渡し 詩/死の土地 など、ひらがな表記の多重性を楽しめて良かったな、と思う反面・・・鍵とか、隠された、とかそういった意味語は、漢字でもいいのかな、とか・・・面接官の言葉は、カタカナだったらどうなるだろう、とか・・・そんな、表記の多様性について、もっと工夫できるかも、と思いました。 (映画🎞ワイルド・スタイル)

2017-02-10

失礼、鍵は、嗅ぎつけた、から引き出されていたのかもしれない・・・ (映画🎞ワイルド・スタイル)

2017-02-10

追伸。「日野啓三」という固有名詞を持ち込むのは、いわば「借景」の手法である、ような気がするのですが・・・背後に膨大な作品群というか、思想/詩想の渦を持っていて、それが押し寄せて来る感じになってしまうので、詩作品としては「盛り込み過ぎ」のイメージを、個人的には持ってしまう、けれども・・・けっこう、メインの主題なんですよね。その処理は、これでいいのかな(もっと、固有名詞を使わずに、一般名詞で行けないか?)という、課題が残るかもしれない、と思いました。 (映画🎞ワイルド・スタイル)

2017-02-10

やわらかく進行していくのに、一本、芯が通っていて、いい詩だと思いました。 最後に丁寧に「反歌」のように、読者への配慮もついていて・・・かけ離れた超越的なもの、に対してではなく、 肉体から、細く糸のように繋がっている(つながりうる)存在への想い、それが祈りだ、と告げているような気がしました。 (prayer)

2017-02-10

賛同します。 作者の側にも、批評や批判に対する「耐性」を求める場合(他の参加者が、それはそういう意味ではないかもしれないよ、的なフォロー)を入れる必要がある、かもしれません。 褒め言葉はいいけれど、批判に対しては守りに入る、というのか・・・人格否定された、と見做す傾向が(一般的日本人には)多いですし・・・もちろん、批判側の言い方もあるのですが。 「賞讃」する場合に、この場において「いい人」と思われたい、というパターンから生まれる、非具体的な褒め言葉も、いわゆる「褒め殺し」につながるものだと思うし・・・「批判」する場合に、「自分はこんなに知っているんだぞ」「自分はこんなにすごいんだぞ」と思わせたいパターン(時には、そういうスタンドプレー的なものも、必要な場合はありますが)になっていないか、参加者自身が自省する(他の参加者が、その議論の推移を見ながら、フォローに入る)必要もある、と思うし・・・ より、この作品をよくするためには?とか、より、自分の作品をよくするために、この作者から何を学べるだろう、何を盗めるだろう、とか・・・そういう方向性の議論を求めておられる、そういう理解でいいでしょうか? (運営からの告知:マナーガイドライン)

2017-02-11

花緒さま ありがとうございます。明晰な運営スタイル、素晴らしいと思います。今後、どのような場に発展していくのか、とても楽しみです。 (運営からの告知:マナーガイドライン)

2017-02-11

天才詩人さま 「審判」や「コーディネーター」がいる場での真剣勝負、のような試み、大きな期待感を持って「観戦」し、また、「参戦」したい、と思っています。 何度も紙媒体でも試みられたにも関わらず、どうも上手くいかなかった、廃れてしまった、ということの理由は、どこにあったのか、ということも考えていきたい問題です。 俳句の句会のような場では、匿名であるがゆえに公平に「点数をつけあう」という、「遊び」であると同時に真剣勝負(人によっては、それこそが人生、というほどの濃度の「遊び」)が可能である・・・ネットの準匿名の場での可能性と、通じ合うものがある。批評や批判の形態の可能性を試す場ともなりそうですね。どうぞよろしくお願いします。 (運営からの告知:マナーガイドライン)

2017-02-12

Migikataさんへ 物語詩、あるいは神話的な詩、異界幻想譚など好きなので、好ましく読ませていただきました。 気になったのは、散文詩と掌編小説、の境目を、Migikataさんご自身は、どこに設けておられるのか、ということです。 私個人の境界線は、読者に手渡す部分が多いか少ないか、というあたり。これは、あくまでも私個人の規範なので、一般的なものではない、のですが・・・。 たとえば、「「向こう側」とは~そう答えるしかない。」このように、語り手の判断や内省が入って来た時点で、ここは小説だな、と感じてしまう。散文詩であれば(あくまでも、私の考える、と限定付きですが)「裂け目の向こうは僕には認識不可能な領域だった。」から「裂け目へ向かって河が流れる。」へ、一行あけくらいで、説明抜きに飛躍してほしいな、と思ってしまう。え、何?どうなってるの?という驚きや、語り手の置かれた混乱状況や困惑をそのまま追体験しながら(語り手が、自分自身を納得させる答えを内面で語るのを聴かされるのではなく、読者自身が、自分で納得する答えを探すように強いられる、そのような強引さで先に進む、と言えばいいのか・・・)読者自身が、その謎の世界に取り込まれて、語感全体で、作者の描き出す世界を味わうことができる、そんな楽しみ方をしたいな、と思ってしまう、のですが・・・これは、あくまでも私の考える「散文詩」の定義であって、他の方には、異論反論、多々あることかもしれません。 同じ言葉を繰り返す効果、たとえば一行目の「死の水」「冷たい」を三文に渡って少しずつ重ねながらくり返していくグラデーションは面白いと思いました。でも、「これも幻想だ。この世界は幻想だ、と僕は叫んでいるが、その僕も幻想なので、」このあたりは、幻想という抽象語、しかも自己解説している言葉を三度も重ねている、のですが・・・もっと、視覚や異次元における語り手の体験、体感を語る、ような具体性(リアルな実感がありながら、それゆえに非現実感が増殖していくような・・・手触りのある夢を見ているような)があると、もっと読者は引き込まれるのではないか、という感想を持ちました。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-12

Migikataさんへ  何度もありがとうございました。 >詩と小説の違い、それは言葉が手段として存在するのか、それ自体が目的となっているか、ということ。小説では言葉が物語に奉仕するのに対して、詩では物語が言葉に奉仕する 鶏と卵、みたいな問題ですが・・・言葉を愛する詩人の姿が仄見えて、素敵な「定義」だと思いました。 言語遊戯のような詩は、一見すると言葉を「目的」としているように見えるけれども・・・なんだか、私には「言葉」をズタズタに切り刻んでいるように見えてしまう時があります。 Migikataさんの「詩では物語が言葉に奉仕する」というベクトル・・・言葉の力によって生み出された世界が、そこに「世界」を作りだす、あるいは言葉の力によって物語が展開されていく。そんなイメージで受け取りました(また、私の解釈が入って、少しずれてしまっているかもしれませんが。) 生身の肉体を持った「僕」の語りというより、言葉によって生み出された場に置かれた「僕」という登場人物、「詩を語る主体」が、生きて動く自主性を持った存在として思考したり内省したりする・・・それを、書き手としてのMigikataさんが受け止めて、作品化している。そんな構造を感じました。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-18

「慣れ合い」に堕さないために・・・という心意気に一票を投じつつ、「スカスカポエム」という評が、果たして当たっているのか?ということに、疑問を呈したいですね。すかすか、という、語彙は、内容が空疎、という価値評価が加わって来るけれども・・・同時に、空間があいている、すき間がある、という状態説明でもある。 体言止めや言い切りの形で、散文に流れる文体に断裂を入れていく、そこに空間を作っていく。歩行ではなく、跳躍のリズムで進行させていく文体に、躍動感を感じます。 「カモメのジョナサン」を個人的には連想してしまう、そこに、ありがちな青春の咆哮を感じなくもない、のですが・・・二連目に持ち込まれた「薬品」による魂の飛翔(と読める部分)のイメージが、個人的には「全体」から浮いている印象がある。もう少し前後の「鳥」あるいは羽搏きのイメージに絡むと(あるいは、伏線的にイメージをちりばめると)もう少し全体に馴染むのではないか、という気がしました。 硬質な漢語の使用(使用語彙の物理的、技術的語感)が新鮮。 最終行に関しては(映画の題名とかぶる、という時期的な問題もありますし)花緒さんの評に同意したい。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-12

まりもです。文学極道は、のぞいてはいましたが、荒んだ感じのコメント(日常生活でのうっぷん晴らしを、この場でやっているんじゃないか、的な)にどうにも抵抗があり、姉妹サイトの「うおのめ」の方を、比較的よく、利用していました。メビウスや現代詩フォーラムは、なんとなく肌が合わないような気がして、参加しませんでした。今は主に、対面の研究会や読書会に参加したり、紙媒体の同人誌などを、友人たちと出しあうというような形に移行しています。 先輩方の話を伺ったり、様子を見ていると・・・コンテストなどで絞って行く時は、選者の「ものさし」に照らしながら、まずは欠けているもの、届いていないもの、を落とし、その後、良い方向に抜けているものはプラス、良くない方向のものはマイナス、という形で評価していくことが多いように思います。 合評などの場で、落とすためではなく、お互いに向上していこう、という場合、プラスの評価が中心になりますが(その時には短所と見えていても、長所が突出していくと、野菜のアクや香料のクセみたいに、その短所こそが魅力、アクセント、となる場合もある、ので)マイナスの評価をする場合は、自分には、何がどう欠けている、足りない、と思われたのか、その判断の根拠を、具体的に表明して下さる方が多いように思います。単なる短所の指摘に終わってしまうと、もしかしたら将来、その短所がアクセントになる可能性を削いでしまったり、作者の創作意欲自体を阻害してしまうことがある、かもしれないし・・・。 問題は、自分の「ものさし」を越えているものと出会った場合。そこを、長所と観るか、短所と観るか・・・ここで、時には真反対の意見が出ることもある。(印象派の絵画を、こんなの主観的印象に過ぎない、と短所と観た人が当時は多かったけれども、実はそれこそが、作品の長所だった、というような。) 「ものさし」を越えている部分に関する「批評」に、その人の価値判断や、詩に対する考え方が現れるようにも思うけれども(場合によっては、好き嫌い、という、感性の問題に帰結したり。)この部分にマイナス評を下す場合には、他と異なる特質(実は長所)を、短所と読み誤っているかもしれない、という、自制や自省を持つことが必要なのではないか、と思っています。その判断がつかない時には(ずるい、と言われるかもしれないけれど)、他とは異なる、こんな特質がありますね、と特徴の指摘だけに留めて、他者の意見や感想、異見を聴いてみる、というような方法もアリなのかな、と思ったりします。 自分の「ものさし」を拡張し続けていくこと、様々な種類を持つ物差しを持てるようになること、それが、読みの幅を広げたり、多様性を楽しんだりすることに繋がる、と思うのですが・・・そうすると、他者には「なんでもOKって、安易じゃない?」と見られたりすることもあって、「ものさし」の範囲の取り方が、物凄く難しい。でも、それを考えることが、「自分にとって、詩とは何か」を問う事でもあるのかな、と・・・。 「私の小さなものさし」「種類の少ないものさし」を、良い意味で破壊し、更新してくれる、そんな創造的な破壊力のある作品に出合いたい、と思うし・・・価値判断の幅を広げてくれるような、そんな新鮮な魅力に出会いたいとも思います。 異世代の方の「感想」や「雑感」「印象」を聴いて、へえ、この作品から、そんなことを、感じるの!なんで、どうして?・・・と、そこが新たな読みの始まりにつながったりもすることがあるので、ひと言感想とか、単純な印象批評なども、どんどんつけていった方がいい、と思う、けれども・・・さっきも言ったように、ひと言感想でマイナス印象を表明する場合は、作者の創作意欲そのものに水を差す場合もある、でしょうから・・・なんでそう思ったのか、ある程度、作者が納得する「説明」が必要なのかな・・・。プラスコメントの場合も、ただ褒めるだけだと、「なれ合い」や相手の気分をアゲルだけに終わってしまったりするので、結果的に作者の為にならない。どう感じたか、という、ちょっとした具体性に触れた方が、作者にとってはありがたいのかな(コメントの勉強や、読みの勉強にもなるし)と思います。ややこしい批評言語を駆使して、これ、美文だけど、よくわかんない・・・みたいな「批評」も、あんまり、作者の為には、ならない、かも・・・。ながなが書いてしまいましたが、「対面の合評」を主に体験してきた者による、あくまでも個人的な、一意見、に過ぎませんので・・・。 (《雑談/議論/自己紹介スペース》)

2017-02-13

私自身、もともと美術史だったので、文学畑の方とは、少し視点がずれているところがあると思っています。音楽的な抽象性(いわゆる言語派であったり、言語遊戯や言語実験を意識的に行う傾向)の強い作品は苦手で、視聴覚映像がリアルに伝わって来る作品に引かれる、という偏向性もあります。そのような人間が、コメントを読んで考えたことを、まとめるというよりはメモするように書いてみます。 「分量として極端に多くないもの」場にあった、とても分かりやすい定義だと思いました。叙事詩など、長い「詩」だってあるだろう、という人もいるけれど・・・詩集一冊、という分量には収まるとしても、複数が投稿するネット掲示板や詩誌の作品欄には収まらない。割り当てられたスペースは平等、そこで自由に、言葉を用いた作品を展示する。本人が、これは「詩」である、と提示するものは、とりあえず「詩」である、と受容する(分量が規定内であれば。)その上で、いちおう、「日本語」の「口語」を用いる、という共通ルールを設ける。競う場合は、特に。「口語」と言っても、現在でもある程度読み解きうるもの、という意味で、文語を使う自由もあるでしょう。記号、絵文字を使う自由もあるでしょうし、外国語を用いる自由もあるだろうと思います(注記などは必要でしょうけれど) ただ、「作品」と感じるか、「作品」の下書き、草稿、草案と感じるか、という差異はあると思います。 具象画と抽象画を並べて展示することはできても、具象画としての完成度と、抽象画としての完成度に、優劣をつけることは出来ない。でも、それぞれの「ジャンル」の中での達成度同士なら、比較し得る。さらにインスタレーションのような展示になってくると、作品そのものの達成度というよりも、その場において観客に与えるインパクトの度合いや、時代性といったものが審査基準として新たに取り入れられる、ということもあるでしょう。 これは「私の詩です」と提示された「詩作品」を読む時、その人の考える「詩とは何か」が、その背後にあるはずだし、あってほしい、と思います。 人の心を癒す言葉が「詩」です、という人もいれば、響きやイメージの美しさ、心地よさ、驚きが「詩」です、という人もいる。詩想の生まれるところ、言葉の生まれる以前の未生の場との交流を可能にするものが「詩」である・・・「詩」とは何か、という批評性や内省を踏まえているものが「詩」だ・・・異界を現出させてくれるものが「詩」だ・・・つまりは、自分の思っている既知の「詩」や、こんな「詩」もあったのか、という未知の「詩」と出会う、その出会いを求める、ということが、「詩作品」を読むということなのだろうと思っています。 その「詩作品」の、完成度や達成度とは何か・・・読み手が、過去作品を読み重ねていく中で生み出されていった基準、つまり、既知の「詩作品」から生まれる基準もあれば、自分の体験や経験、知識から生み出された、まだ存在しない理想形を基準とする場合もあるでしょう。まだ存在しない、という前提は、その人の既知の詩のストックや、詩論、評論のストックに影響される場合と、まったく自由に、たとえば「オルフェウスの歌った歌」のような、漠然とした理想の場合もあるだろうと思います。 作品そのものの、その時点での「完成度」を見る場合もあるだろうし、この作品が、この方向性で将来、どのように展開するか、という予見を含めた完成度もあるだろうし・・・複数の基準の中の、この基準に照らした場合、今この時点では完成度に達している。でも、この方向性で進んで行くと、行き詰るだろう・・・という評価もあり得るだろうし・・・読み手としての自分が、いかにインパクトを受けたか、という印象批評、感想的なものから、自身の考える「詩」を背景にした、詩論的な批評もあるだろうし・・・自身の「詩」を絶対視して、それを押し付けたり、それ以外を排除するような狭量な批評でなければ、なんでもあり、なのではないかと思うのですね。 全然、まとまっていませんが、とりあえず。 (《雑談/議論/自己紹介スペース》)

2017-02-19

bananamwllowさん、こんにちは。 私も実は、Twitterで開設のお知らせを見て、参加したのが、そもそものきっかけでした。 もちろん、複数の投稿サイトを(様々な名前で)巡っていましたし、それぞれのサイトの問題点も自分なりに感じてはいましたが・・・この場所を、どのような場所にしていきたいか(他の場所と比較したりこだわったりすることなく)参加者の皆さんが、各々、目指していく、そんな総合体のような場所になっていけばいいなあ、と、想ったりしています。よろしくお願いします。 (《雑談/議論/自己紹介スペース》)

2017-07-06

はじめまして。冒頭三行でひとつの世界を作り出すことに成功している。疑問に思ったのは、その、という散文的(説明的)な語が何を指しているのか、ということと、そっくり、という、これまた説明的な語ではなくて、これは父の○○だ、というような形で、実感をこめて言い切ってしまった方が衝撃力が増すのでは?と感じました。 石も冷たいけれど、まだ温もりやざらついた質感がある。それが、触れているうちに鉄・・・冷たくてつるりとしていて、人間の肌を拒絶する硬度を持ったもの、としてしか感じられなくなる。その変化が、父を(その冷ややかさ、冷酷さ?)を思い起こさせる、ということなのか・・・迷うのは、風という、ポエジーを盛り込むのに実に便利な語が先に来ているので、風が石を鉄に代える、とも読めること。 墓参が、先祖の墓で、地縁血縁に縛られる暗さを指しているのか、既に父が死んでいて、その墓参なのか・・・父の墓なら、風は父の気配、再来する魂を予感させる風。十字架の変容に、父の何を重ねているのか、死を恐れない異常さ?が鉄の魂と感じられたのか・・・ とまあ、既に冒頭の奥行きにつかまって長々書いてしまいましたが・・・内容や、意味を説明する詩にしてほしい、ということではないんですね・・・むしろ逆。 あえて言うなら、作者がどんな意識で書いていたのか、そこを詰めているのか。詰めずに、曖昧なまま何となく、詩の世界を作り出すところに主眼を置いていたのか、どちらなんだろう、というところが、バシッと伝わってこなかった、のでした。 (藁の家)

2017-02-14

全体を読んでから、冒頭部分に戻って、書こうと思っている内に長くなってしまったので、いったん終了・・・していたら、澤さんがガーッと書いて下さっていた・・・ 乾ききった歯(病室で意識のないまま眠り続けている父の奈落の底のような口のイメージ)を思わせつつ、渇望し続けたイメージも重ねつつ・・・の部分、「子」が「父」の闇の中に飲み込まれていく(噛み砕かれて、消滅していく)感があって、興味を惹かれました。グレートマザー的に、子を精神的にも身体的にも飲み込んで消滅させたまま、勝手に死んでいってしまった父への愛憎(と簡単に言い切れない)感情的葛藤・・・を、アラン諸島の岸壁に並ぶ石の十字架の荒涼とした僧院の光景、のような寂寥感の中に描き出している、という印象を受けた、ということを、付記しておきます。 (藁の家)

2017-02-16

まず、〈ギタギタに酷評/罵倒頂いてかまいません。発起人の作にはマナーへの配慮、一切不要です。〉この言葉に疑問。 酷評や歯に衣着せぬ辛辣な評も可とすることと、「罵倒」も良し、とすることは、根本的に異なる、と思う。発起人のみに可、というのも・・・それで公平性が保てるのか?うっぷん晴らしをするために、発起人だけを狙う「会員」が現れた時、イエローカードを出せるのか。酷な言い方をするなら、自分が傷を負ってみんなを(この場を)守るぜ、という、ヒロイズムに堕す危険はないのか。 発起人にこそ、酷評を!という意識には賛成、しかし、「罵倒」はどんな場合であっても、反対、というサイトであってほしい。誰もが、自分も他人も、大切にする場であってほしい、ということです。 辛めに評するなら(自身に突きつけられる刃でもあるが)無駄が多い、と思う。 「四人の僧侶」を連想させる書き出しが面白いが、パロディーなのか、オマージュなのか、たまたまの偶然の相似なのか。 〈これは何の実験だろう、と思っ〉たから、〈これは何の実験ですか、と尋ねる〉に決まってるんだから、~と思って、なんてモタモタした散文的な表記を無駄に重ねることはない。行分けにしている意味も薄れてしまう。 〈何の実験でもありません〉から、無意味(と語り手に思われる、そのことによって理不尽さや不穏さ、不安が増す)な言葉が機械音声のように流れる。この無機的な反復情況の提示が、今の社会の(一見無意味な)ルーティンワークの連鎖の反響となっている。この言葉の「あふれだし」の部分を際立たせるためにも、語り手の言葉はバシッと短く切りつめた方がメリハリが出る、と思う。 言葉を重ねていくことで強調する効果と、(慣れによって)無意味化していく効果、わたし、やあなた、という代名詞を持ち込むことによって、なにか「意味深な場」を作りだしている、と思わせる効果(実際には、ただうるさいだけ、に陥る場合が多い)その差異を、どこまで自己検証しているか。 「あなた」がたに理不尽な行為を強いられる「わたし」もまた、「あなた」の一人に回収されていく。そういう群衆の不気味さ、個人への重圧、「わたし」もまた、群衆の一員として加害者になりうる。そういう社会的意識を語りたいという欲求と、言葉を過剰に重ねていくことによって無意味化、稀薄化していこうとする文学的欲求と、どちらに振り子を振ろうとしているのか、そのあたりが曖昧。個性をかろうじて有している語り手が「わたし」であるなら、無個性の群衆と化している「わたしたち」は、「われわれ」として別個のものとする、あるいは「わたし」が「わたしたち」へと変容していく不気味さに焦点をあてる、など、4連もバリエーションの場を用意しているのだから、もっと展開に工夫ができるのではないか。 (ALWAYS_RETURNING)

2017-02-14

追伸。肋骨を持ち込む最終連に重点をおけば、「あなた」と「わたし」が男と女の関係性を描いたもの、と読める。そこから冒頭に戻って、永遠に理解し得ない男と女、実験とは恋愛行為そのものの喩、と読み取れ・・・それだけ、全体が多義的に、重層的になってくるのだが・・・となると、けっこういい詩なんだよね、これ、という尻すぼまりに収まってしまう、のではあるが・・・ (ALWAYS_RETURNING)

2017-02-14

抑えた抒情性に満ちた作品だと思いました。「連帯」とか「誓い」という、非常に重力のある言葉が、作品に根を下ろしているかどうか、ということが問題になってくる、のかな・・・ 一連目、特に冒頭三行、これは素晴らしい入りだと思います。一滴の「誓い」が芽生えるところ。連帯に悶えている、という流れから、荒んだ人の心に、潤いを一滴でも与えられる存在になりたい、そんな「誓い」なのかな、という印象を受けました。 気になったのは、〈死の永続性を砂に誓う〉〈物質の未練を救済していく〉という、とてもカッコよくまとめてあるのだけれども、抽象度が高いゆえに・・・連帯に悶えている、という身体的な切実さから、少し離れてしまっているように思われるところ。誓い、という言葉の重ね方も、少し多いのかな(力み過ぎているように感じられる)と思いました。 季節としての夏(これは、青春とか、情熱に燃えた季節、ということなのか?)は過ぎ去ったけれども、夏は過ぎ去らない、という、ある種の矛盾・・・二度目の夏は、灼熱の大地をもたらす夏、人の心を干からびさせる強烈な夏、という意味なのか?という気もするのですが・・・だとすれば(違っていたらごめんなさい)照りつける陽射しとか、焼き尽くそうとする陽射しとか・・・そういう、烈しさ、荒廃をイメージさせる「なつ」に持って行き、それでもなお、自分は一滴の水をもたらす存在になる、と決意を感じさせると、よりエネルギーと実感に溢れた作品になると思いました。 (誓い)

2017-02-15

三年、辛抱している間に、〈船を捨てるやつもいたんだ〉 単純な「がまん」や「辛抱」ではなく、命がけ、生きる、というギリギリをかけた選択の果ての「辛抱」・・・肉声が入ってくるところにリアルさがあるのですが、仕事の「辛抱」や、震災復興の「辛抱」、恋人の気持が戻るのを待つ「辛抱」など、色々な想いを重ねて読むことの出来る詩だと思いました。 最後の連で、〈おまえの海〉と呼びかける。この海は、心の海や社会の海、生活の海・・・荒海であろうと思い・・・恐らく陽に灼けた皺だらけの顔に、じんわりと浮ぶ笑顔、経験に裏打ちされた自信(確信)に満ちた、その迫力に、きっとこの「聴き手」は力づけられただろうと思い・・・それがそのまま、読者へと反転する。自然で素直に見えるけれども、巧みな構成だと思いました。 (はたはたパイ 食べろ)

2017-02-15

流れるような言葉が、非常に読みやすかったです。 最初、これは自伝的エッセイ、あるいは私小説風小説、断章集・・・なのではないか、と想い・・・題名と「一般的に小説として読まれるスタイル」との「付け合い」について考え(マルセル・デュシャンの「泉」とか、マグリットの「これはパイプではない」など)・・・ 男とAの「交通」の不毛性、その不可能を可能にする(かもしれない)「夢のようなケーブル」を敷設すること、それが詩を志向する者たちの間に何らかの「交通」を可能とするのではないか。そのための自分の行為、事績を思い返す、というスタイルを取る、一種のメタ詩なのかな、というのが、読後(初読)の感想です。 口語自由詩・・・口語で自由に書き、語るもの、であってみれば、文体が限りなく世間で小説やエッセイや随想(思索的随筆)に近いものであっても構わないのだろう、とは思いながらも・・・「芸術的」である、という言葉を形容詞としてつけるなら、音の響きやイメージの美しさ――これは、個人の審美眼によるので、千差万別ですが――に、私は何らかの「個人的なこだわり」を読み取りたい、タイプなので、「詩的な思惟」「詩的な発想」「詩想/思想」を得た瞬間のドキュメンタリータッチの「小説」という気がしてしまうのですね。もちろん、「領域」を逸脱していく、逃れていく、自由、があるわけで・・・でも、「詩」というフィールドで作品を「競う」場合、このジャンルというのか、「領域」の問題は看過できない、と思い・・・これからも悩み続けていくのだろうな、というのが、再読した折の読後感想です。難しい。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-18

言葉が発せられることによって、作者の中からまた別の、関連する言葉(意味の繋がりというよりも、音の繋がりによって引き出される言葉)を引き出していくような、言葉が言葉を産んでいくような増殖感が新鮮な詩だと思いました。 大量の言葉の海の中で、「高潔な魂」を持った者の言葉は浮き上がってしまい、蒸散してしまい、大衆に受け容れてもらえないまま、はかなく消えてしまう、というようなイメージを感じました。 ~て、でつないでいく流れの良さ、構成、達成、と脚韻を踏んでいくような音感・・・「派/ハ」と、自分で自分を笑い飛ばすような印象が途中に入ったり、「中で拳や指が突き上がる/飼い殺された想いには首輪」と、自分の中にある、本当に言いたい事、を自身で抑え込んでいるようなもどかしさや、自制心を自ら笑うような感覚・・・「利き手」は「聞き手」ともつながりますね。私は、「紐」をネット、ライン、と重ねて、サイバー空間をつないでいく紐として読みました。 底、は、今いる自分の場所がどん底、というイメージを喚起します。底から「そこ」本当の聞き手、紐を辿って行くと辿りつける場所にいる人達の居るところに、行きたい/生きたい、という感情を書いたもののように感じました。 (水底の住人)

2017-02-21

一連目のリズムの取り方というのか、読みの呼吸というのか、息継ぎの仕方、その間合いに、冒頭から引き込まれました。 母への恋慕とも憎悪ともつかぬ感情が託された三連目、夜の海の不気味さと、「優しい/強迫」という切りつめた、相反する語によって暗示される「やわらかい罠」のように語り手を捕らえて離さない「母」の気配が重なって行くところ。 五連目の「踏切の音が聞こえてくるようなときにかぎって 便りがきた それは/いのり のような/意思」恐らく「母」が、語り手が淋しさの底にいるような時に必ず「便り」を送ってくれる、という安心感であると共に、「便り」が「頼り」であるような・・・執拗に語り手に精神的にまとわりつく縛りでもあって、どうしようもなくそうした「母」のもとに引き寄せられていってしまう語り手の心が上手く現れていると思います。 「年上の スーツ姿になびいていった」「わたし」は、母のような年上の女性のところへと、「母」から逃れるために流れて行ったのかな、と思い・・・愛想をつかして出て行ったのが誰か、分かりにくいのですが、カッコ内の、どこにお前が行こうと、握りつぶせるんだよ、と読める怖さを含んだ言葉が、執拗な愛情で子を縛ろうとする母のセリフのように思われ、その言葉を、「わたし」は出ていく「お前」に言ってやりたかったのかな、と思いました。 体の芯まで、逃れたいのに飲み込まれたい、そんなアンビバレントな感情に駆られる「母」に染められてしまった「わたし」の、どうしようもない日常を描きつつ、「わたし」はその状況をむしろ感受しているのではないか。流血(死)をイメージさせながら、同時に甘さやノスタルジーを喚起する苺シロップのイメージが、全体にまぶされているように思います。 (いちごシロップ)

2017-02-21

語り手にしか感じられない、内的な感覚を、身体的な感覚として伝えているところに、多数の読者に開かれた作品であるという好印象を持ちました。 自身の中で出口を求めてさまよっているのは、自分自身の自我かもしれない(蛾とも音の連想で繋がる)し、魂かもしれない(蝶と魂、飛ぶもののイメージでつながる)。 出口を探しなさいよ、と自分でもう一人の自分に言いながら、なかなか出口を見いだせずに迷っている「わたし」を抱えて、語り手は自ら誘蛾灯に目を向ける。誘蛾灯は死をもたらすもの、ではあるけれど、光によって惹きつける、灯台のような希望でもある。 私の死によって、この迷いや閉塞感は、いつか解消される、そんな(いつか必ず訪れる)希望があれば、逆に生きていける。そんな、いつか死すことを意識した人間であるがゆえの想いを、万人にわかりやすく伝える詩だと思いました。 (「無明」)

2017-02-21

自分の気持を、ボールにして、右手と左手の間でお手玉のようにキャッチボールしているイメージの詩だと思いました。 世界に罅が入る、という「衝撃の伝え方」は着眼点として面白いけれども・・・「世界」というものが、言葉の大きさの割には具体性が(この詩の中では)乏しいので、観念的な「世界」になってしまっているのかな、という感覚があって、そこが少し残念に思いました。愛するのではなく、熱する、を手に入れた、ということですが・・・熱する、というのは、熱意を持つ、ということを手に入れた、ということ、なのか・・・。愛の中に埋もれながら、愛したことなどない、という部分も、愛という言葉の大きさ、抽象性によりかかり過ぎているかな、という印象があります。 リズム感や独特の音律が備わっている(語りのリズムがある)ところを生かして、もう一歩深く踏み込むような・・・「世界」の様相、「愛」の質感のようなものに、より近接していってほしいと思いました。 (罅)

2017-02-21

チャンプルーは好きだ、とまず、先に言います。 でもって・・・あらゆる既成概念から、自由になってやるぜ感は受けるけれど、ビジュアルポエム的な、ロゴタイプや文字ポイントまでこだわり抜いた視覚的鮮烈さ、に突き抜けてる感じでもないし、だじゃれや言葉遊びや、音感の引き出すイメージの氾濫に溺れる、というような、徹底した陶酔感も中途半端な感じがあるし・・・ 他方、全てが適度に混ぜ合わされた馴染み感とか、青春の自意識みたいな主題・・・自分自身を破壊して、その幻想の死体を足で蹴飛ばしながら、苛立ちとか満足しつつの焦燥感とか、何かそういった、名付け難い感情に触れていく、というような、作品そのものへの入りのよさ、のようなものもある。 激辛に突き抜けるでもなく、激苦とか、何かそういった、他人には絶対に食わせてやんねえ、みたいなパンチを目指すでもなく・・・ 誰もが食べてみて、けっこう美味しいじゃん‼と感じるんだけど、この味わい、うまく名付けらんないよね、的な印象が残る・・・懐かしさもあるし。なので、チャンプルー、を食した後のような感じがするのでした、 (色彩🌈のフーガ)

2017-02-25

ローマ字の連なりが、区切り線のように見えて新鮮でした。 >雨は私を洗うかのように まだまだいつまで降り続くの こういう所だけ見ると、ベタな歌謡曲の歌詞のような印象があって、自身の悲しみの中に浸りこんでいるポーズを取っているような甘さが鼻につく感じを受けてしまうのですが、 >君が呉れた悲しみの欠片が2つ という謎めいた詩行(考えさせる、読者をとどまらせる)と、 >昔より増えたね、雨の日も というような、あれ、これは通常の「雨」のことなのではないのかも(クセが増えることはあっても、雨が増える、というのは奇妙で面白い)と思わせるような詩行に挟まれることによって、感傷的な歌詞のイメージからは逃れているように思いました。 追悼、という題、kuroifukuが暗示する喪服・・・「君」の葬儀の知らせだったのか、と想像を巡らせましたが、その割には衝撃度が抑えめで、古い言い方ですが、アンニュイな諦観に身を任せる、というような、気分に流れて行く感覚が強い詩だと思いました。(歌詞的な印象を受けるのも、そのせいなのかもしれない。) 失恋した自分の気持を葬る、というように(無理に)読めないこともないな、と想い・・・雨、が、テレビのブラウン管(これも古いか)にザーッと映る白黒の細かい画像のようにも見え・・・段ボールやhanamukeという言葉から連想される引っ越し(想いを断ち切るための)のようにも感じられ・・・ 色々と想像を巡らせる楽しみはあるけれども、全体に甘さに流れている傾向はないだろうか、というのが、今現在の印象です。 (追悼)

2017-02-21

下地を堅固に、何層にも塗り固めたカンバスに、極めて自然な筆致で、スケッチ風に、その時の情感を描きとった・・・という印象を与える作品だと思いました。 「下地」というのは、固有名詞が醸し出す抒情、ムード。自然な筆致で、というのは・・・悪い意味ではないのですが、大衆性、ポピュラリティー。 アメリカ人(あるいはアメリカ文化圏に育った人)が演歌を英語で書いて、それを巧みな日本語の使い手が日本語に翻訳した、という印象を受ける・・・のですが・・・その理由を、まだ、上手く説明できません。批評、と呼ぶにはかなり不十分ですが、感想、として受け止めていただければと思います。 (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-02-23

全体に言葉が多いのではないか、という印象と、感覚を歌っているはずなのに、少し理詰めに過ぎないか(ロジックとしては極めて整合的なのだけれども・・・一人の女性の内面を描いた小説の粗筋を、抒情的な語りによって再現した、というような・・・語りの印象の強いシャンソンの歌詞を読んでいる感覚、と言ってもいいかもしれない)と思っていたのですが・・・レスの往還を読んで、また少し印象が変わりました。変った、けれども・・・実体験をベースにした語り手と、作品の中に明らかに生きている語り手とを、どう結び付けるのか、あるいはどう分離するのか、という部分が、私個人の問題として新たに生じている気がします。 初潮を赤飯などを炊いて祝った時代と異なり、「汚らわしい」「わずらわしい」という感想をもらして、娘を傷つけるケースが増えているようですが・・・背景には、娘が「おんな」になって行くことへの戸惑いとか(それは自身の老いを自覚させることでもある)、女性の社会進出に伴う、社会活動における不便さ(体調や心理的不調など)への想いなどが、複雑に絡まり合っているように思うのですが・・・ この作品の中での「それは悪い魔女の呪文のように/アタシの中に苦痛を刻んだ」という深い傷のイメージは、あるいは「薔薇族的」な傾向が現れた息子に対する母の心情、その瞬間に立ち会ってしまった時の「もとこ」さんの痛みや苦しみから生み出されたものなのか、と思い・・・ 作品の独立性、ということにも関わって来る問題なので、軽々には言えないのですが、私が「レス」を読んだ後に感じた作者の痛み、のようなもの(もちろん、私が勝手に感じたに過ぎない、作者の「ほんとうの」苦悩とはかけ離れたもの、であるかもしれませんが)を積極的に伝えるか、伝えないか・・・作品の中に、男子の制服を着るのがいやだった、というような「仕掛け」を作るか、作らないか、というような選択があると感じました。 (フラワー・オブ・ロマンス)

2017-02-23

魂の避難所、アジールとしての「詩の世界」その美しさ、揺蕩い、はかなさ、永遠性・・・について、しばしば考えます。その「世界」が、あまりにも素晴らしければ、現世の汚辱に還ってくることが、苦痛にすらなってしまう。でも、その美しい「逃げ場所」があるからこそ、その世界に一度逃げて、傷ついた魂を癒して、再び「現世」の冷たい風に身をさらす活力を得て、戻って来ることができる。そう、思うのです。 「詩の世界」にいったん逃避させてくれるような、美しい詩、があるべきだ、と思います。そして、その世界に浸った人が、そこで「鎧」を得るのか、防寒着としての肌触りのよい「毛皮のコート」を得るのか・・・肌そのものが鍛えられて、たくましい身体として戻って来るのか。そこで得るものは、人それぞれ。得る物の差異が、詩の多様性の担保でもある、と思っています。 光原百合さんの『星月夜の夢がたり』という短編小説集があります。その中に「遥か彼方、星の生まれるところ」という美しいファンタジーがあります。現世で心身共にボロボロに傷ついた人が(あるいは、そういった傷を負った人、だけが)訪れることのできる、神秘の場所。そこで出会う、この世ならざる美しい光景。そこで、主人公は「僕と同じくらいの歳に見える女の子」と出会います。 「ここはどこ?」「星の生まれるところさ」僕はそう答えた。それだけで充分だった。ここに来ることでようやく息をしていられる。そんな嵐を彼女も経験していることだけは確かだったから。それ以上、何を語り合う必要があっただろう。 光原さんが描いている、この場所・・・それは、ポエジーの生まれる場所であり、ユング風に言えば、人類共有の、気づかないところでつながっている無意識層に眠っている美の世界、だと思うのですね・・・ この「小説」の中では、ファンタジーの世界でのみ出会うことができていた二人が、大人になって、現実界で再会するところまでを描き・・・最後に、こんな一節が置かれます。 どうかこの世のすべての寄る辺ない魂が、遥か彼方、星の生まれるところへの道をみいだせますように。 詩を書くこと、読むことが、そうした探索の道であればよい、と思っています。 余計なことをたくさん書いてしまいましたが・・・ >こころしずかなとろみ →安らぎを得ることのできる、魂の温泉のようなイメージ。 >ゆめの古城 →言葉は甘いけれども、人々の心の奥にあるファンタジーの王国、その中心地を連想。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の中心に置かれた、幼心の君、「月の子」の異名を持つ姫の住む城、のような。 >雪をいくら降らせても凍ることのない、  確かな地表を熱さで覆い、 →茫漠と広がる、無垢、純白の地、心の白紙の部分。そこに描かれていく物語こそが、その人のライフヒストリーになるはず、の。そこに、熱さという情熱で、足あとを付けていくこと。 >ぼくたちは悠久のカケラの、うちの、うちの、  宇宙へと身を乗りだし、 →一人一人が「宇宙」をその背後に抱えている。そんな河合隼雄さんの言葉を思い出しつつ、一人一人が「宇宙」の入口であり・・・その個々の、分断されているかにみえる「宇宙」の一番果ては、集合的無意識の層として、結局は一つにつながっている、ように思います。その個々の「宇宙」の探索こそが、他者の作品を読むという行為である、と思うのですね・・・。 >月の砂漠は、ひたひたの蜃気楼をぼくのこころに、  みせたりなんか、しない。  ただ、この場所に存在している、  きみと、ぼくとの真実が、なによりものオアシスであり、 →心の余白は、意味の無い幻想を見せてくれる場所という、単なる逃げ場所ではなさそうですね。確かにこの場所に存在している「真実」がある。それが、「ぼく」と「きみ」の出会いによってもたらされる幸福感と高揚感・・・もちろん、それは永続するものではないけれど、途切れてもまた、再び起きる、そんな予感もはらむ。 >「 きみとよく似たまなざしの、  「 ぼくを、みつけるようなキモチで、  「 きみをみてしまうよ、 →実際の恋人どうしの話と読むこともできるけれども、自身の内面のもう一人の私、アニマとアニムスのような、そんな二人の幸福な出会い、を連想します。心の中の多数の「私」を自覚し、それぞれを認め合い、欠けた所を補い合うことができれば、現世の辛さに対峙する「チーム」を組むことができる。もちろん、この二人が出会って、そのまま「駆け落ち」して、どこか遠くへ行ってしまいたい、という思いにもとらわれる、事でしょうけれども・・・たくさんの「ミクロコスモス」を探索していく、そんな好奇心が心の中に湧いて来れば、いなくなってしまった「わたし」を探しにいくこともできるでしょうし・・・。 なんてことを、色々、考えたり感じさせられたり、しました。 (なみだもろい愛をこめて)

2017-02-26

もとこさんのレスにほぼ同感です。 自動筆記的に詩を生み出す、その行為の空無性にとらわれつつ、詩を書きたいという「産褥の苦しみに涙を流している」主体の在り処を訪ねる、といったところでしょうか。 「蝶という長音の 結びに 朝露をこぼす」 このあたりに、文字(形骸化したイマージュ、氷結している詩想)に「朝露」のような美しい契機をあたえて、形骸を「音」へ・・・読者の心の中で生きて動き出すイマージュに変換させる、そのような詩を書きたい、そこに「sense」を感じますが、他方、「たかいたかいとして立ち昇る」「たたかいたたかいとして立ち昇る」など、立ち昇る、を引き出すために措定されたような(つまり、詩的必然性に乏しい印象を受ける)音の連鎖、音による語の誘引がある。感情や意志による誘引があって、そこに音が伴っている時、読者により強いインパクトを与えることができるのではないか、と思いました。 「再生を謳う処女膜に触れるように こぼされる白に」 受胎することなく流された「白」のイメージ、着想が文字として、詩として定着・生育しないまま霧散していくことへの感傷が、ここには歌われているように思います。 「空」の中にある、あるいはあるはずの「紛れもない名前」それを見出し、受胎させ、作品として生み出すこと、それが、私にとっての「詩作」である、という、まっすぐなメッセージが伝わって来るような、真摯で静かな情熱を秘めた作品だと思います。参考書を見ていて、それで詩が書けるか!・・・という、自己批評的な側面も感じられる。この先、どのように展開していくのか、楽しみな詩人だと思いました。 (sense。)

2017-02-23

私の奥の、むずがゆいところ、という「もぞもぞ」した感覚と、湿潤な感じ、閉ざされた水、のイメージ・・・が結びついて、子宮口、その奥の羊水、実際の肉体というよりは、宇宙の肉体の持つ子宮・・・そんな感覚がありました。 暗い池に浮かぶコウホネの花のイメージと、文字が喚起するイメージが、うまく合致していると思います。 (未来の私)

2017-03-09

自分で自分の生み出す言葉に「ツッコミ」を入れていくあたりに、 伝達不能性という・・・詩なんて、本来、絶対に、「ほんとう」には伝わらねーんだよ、という、深い絶望というのか、諦念のようなものを感じました。絶望といっても、真にどん底に落ちているわけではなく、だって、そういうもんなんだから、仕方ねーじゃん、という明るい受容とセットになった、絶望。 それでも書く意味って、なんだろう、ということ、ですよね・・・ 正直、中盤が長いように思いました。作品としては、もっと刈り込んだ方がいいのではないか、というのが・・・意識の流れのままに書き流された(ように見える、あるいはそのように振る舞っている)全体をスクロールしながら読んだ時の印象です。 「優劣のついた風が強く吹き抜ける」詩に、優劣をつける意味なんてあるのかよ、という批評性を感じます。その直後に、自分で自分を茶化すような、言葉遊びの軽さも含めた数行のセンスに惹かれつつ、「わおっ」からの数行は、横一列にガーッと並べて、先へと進んでほしい、と思ってしまう(もっとも、作者にはそれだけの長さ、読ませるための時間、が必要なのでしょうけれど・・・。)ビデオインタヴューのところどころを、編集の際に早回しするような、そういう処理をあえてやらない、長回しのままの映像を視聴している感じ、と言えば伝わるかな・・・。 「誰よりも深く傷つく才能がない」から「感傷的になってろよ」までの行も、詩作を求めずにはいられない自己と、その自己を突き放すように視る批評性とを強く感じる部分です。「共感なんてされたら/そこは地獄になる/反感なら/それはアクセサリー」このあたりも、単なる同調や同情を求めているんじゃない、傷を舐めあう様な詩の読み合いなんて、糞くらえだ、反発くらいが心地いーんだよ、という反発心や自恃の心が出ていていいなあ、と思う。その間をつなぐ「あほんだらっ」というツッコミの入れ方も、複数だけれど単数の自己同志の自問自答、その小気味よい「つなぎ」になっていて・・・こうやって細かく見ていくと、全部の行が結局必要になってくる、のだけれど・・・でも、長いよなぁ、という印象がぬぐえない・・・。 「夕暮れ」から「頭がないのです/なっ」までの「間」が、惰性的に(言葉が出て来るのを、抑えたりせずに)そのまま出している感覚があって・・・詩の朗読会とか、ある程度の尺があって、その間にラジオドラマを聞いている時に受けるような、盛り上がりや停滞や沈黙、緊張、焦燥・・・といった音楽的な情感の流れ、を聴きたい、と思うけれども・・・全部が同じような一行アケの形式で淡々と続いていくから、単調な感覚を受けてしまうのかな、と思い・・・ じっくり間を取りたいところは、一行アケ、少しスピードを速めたいところは横一行にズラッとつなげる、言葉を塊としてぶつけたいところでは、文字を塊のように配置してみる、ツッコミ部分を空間的にずらして配置する、など・・・そうした視覚面(しづら、というのでしょうか、詩面)を工夫することによって、全体にドラマティックな緊張感が出るのではないか、と思ったのですが・・・ まったり、ソファーに引っくり返ったまま、スマホをスクロールして読むときには、こういう形式の方がいいんだよ、という意見もありそうだな、と思ったり・・・ アスファルトを突き破って咲く「すみれ」のイメージと、言葉やイメージの層を突き破って「咲く」ポエジーのイメージが重なりました。君、は詩でもありそうな・・・。メメント・モリは、死を想え、だけれども。詩を想え、とも重なりそうですね(日本語の場合。) (すみれ)

2017-02-26

訂正:引っくりかえる→ひっくりかえる。 「編集」って、まだ出来ないのかな、この、掲示板・・・。 (すみれ)

2017-02-26

その あとのそのあとは 無限にプリントされる そのあと… ここがポイントなんだろうな、と思いながら・・・言葉の横溢、あるいは虚無の「流れ出し」そんな印象を持ちました。最初に読んだ「詩」のもたらした「むなしさ」。それは、「詩」の空しさ、であるというよりは、語り手の眼にうつる世界の「むなしさ」であり、その「空無感」の増幅されていく、繰り返されていく「意味の無い日常」、「期待できない未来」を、イメージの浮かぶままにスケッチしていった、というような・・・。 創作メモという印象を受けてしまいました。この連想の中から、自分自身にとっての内的必然性を見出していく、あるいは、読者に対して、こんな世界を見せてやろう、とか、こんな世界観を提示してやろう、というような、仕掛けというのか、作戦というのか・・・そういった制作意図、のようなものを、もう少し露骨に出してもいいのかな、と思いました。 (そのあと)

2017-02-28

前作で感じた文体上の違和感が完全に払拭されている、というのか・・・これは間違いなく、詩です、私にとって。 盛り込み過ぎかどうか、という点・・・過剰な印象はありますが、「意味」を伝えるというよりは、現在もなお1945が続いている(あるいは進展していない)、という感覚、高度経済成長を続ける日本の軋みのようなものを肌で感じ取ってぶつけている(ぶん投げている)という感覚が伝わってくる、ので・・・言葉を整理して言った時に、はたしてこの、塊の熱量のようなものがガツンと来る、という感覚が残るかどうか、ということを考えました。 一連目と二連目の抑制された筆致と、三連目以降のブワーッとあふれ出す感じ・・・この間の差は、崖を飛び越えるくらいの幅がある、印象なのですが。 これは意図的なものなのか、あるいは技術的な問題で、実際には「ちょっと飛び越す」「またぐ」くらいの幅にしておきたかったのか・・・ 行替え部分、抒情に流れるのを抑えるためなのか、あまり「うたって」いないのですが・・・だったら散文体のままでもいいじゃないか、というのがあり。 甘くなるので難しいのですが、あえて詩形を変えるなら、もっとそこに必然性がほしい、と思いました。 (THE COLD WAR)

2017-03-09

冒頭、ここまで並べるか?と思い・・・読者の目を引き付ける「あざとさ」のような抵抗感を覚えたのですが、中盤の立て並びの「ファック」の部分を見て、この伏線だったのか、と思い直しました。 「爆竹で遊んでいた頃、」から「ほら、ボラの鱗が光って見える。」まで、引き込まれながら読みました。 ここを読んでから冒頭に戻ると、「美化された少年時代」「無垢であった時代」を感傷的に振り返りたい自分自身に泥を塗りたい感情、というのか・・・自分にとっての「聖なるもの」を汚したい、というような衝動を感じます。 「封鎖が解かれる事はない。」ここで、被災地を連想し・・・以降の社会批判的な視点にも注目しました。現在の「俺」(という一人称は出てこないけれど)の眼で観た、愛憎半ばする故郷への想いと、それを客観視する視点の獲得。視点の獲得は、郷愁や甘さの喪失という痛みをも伴うわけですが・・・。 「ザーメン」は「アーメン」に語感が似ているな、と思い、不毛性(受胎しないまま流れ去る精神、のような)の象徴でもあるのかな、と思い・・・「約束された未来」というアイロニーに満ちた言葉の重みも考えつつ・・・ 無情に創り上げられていく(作り返られていく)きらびやかな未来、自分にとっては違和感をもたらすハコモノを中盤に入れ込んで、「シの発想が出てこないのは救いだ、」ここで詩を止めても(余韻があって)良かったかな、と思いました。 (何もない場所#1 )

2017-02-28

非常に整った作品だと思いました。 「詩の勉強」みたいなところ・・・カルチャーセンターとか、通信教育みたいなこと、をやると、「私は」と書くのをやめましょう、と言われる人が多い(笑) 日本語は、「私」無しで成立する。語り手が語っている、その実感を自ずから示している、だから代名詞をたくさん使うと、翻訳詩のようになってしまう・・・からだと思います。 沢山、日本の詩や文学作品を読んできたから、こういう文体になっているのかな、と思います。 作品の中に、すうっと入りこんで読んで行って・・・〈叶わなかった祈りが充満しているのを感じる〉~すると、~を感じる。これで文章は美しくまとまる、のだけれど・・・密度の濃い「なにか」が、確かにそこに存在している、その実感を感じた瞬間、を、読者も感じたい、と思ってしまう(少なくとも、私は。) 椅子に座っていると、密度の濃い空気が締め付けて来る、ようだったのか、肌にはりついてくる、ようだったのか、押しつぶされる、ようだったのか・・・心地よい、とあるから、布団で包まれて、上からぎゅーっと押し付けてもらった、そんな子供の頃のなつかしさのようなものに、通じる感覚なのかな・・・。何かそんな、どんな感じだったのか、ということを、知りたいな、と思いました。 〈祈ることは かなしみを直視することだから〉 この真っすぐな「認識」「発見」と、割れたステンドグラス、という現実、それが陽射しを透過することによって、なにか美しくはかない「ゆらぎ」のようなものに昇華される、という流れ。打ち砕かれた現実を直視したからこそ、発見できる美しさのようなもの、それを感じました。 (祈りの残骸)

2017-03-02

4行で進行していく地のフレーズと、サビのように置かれた6行のフレーズ。 思索的、感覚的なシャンソンを聞いているような気がしました。 永遠に目覚めることのない(目覚めた時は、自分が破たんする時)胎児を抱え続ける語り手の重さ、ディラックの海、思わずネットで調べてしまいましたが、「無」という羊水の中に漂い続けているような感覚がユニークだと思います。 「無」とか「有」というような抽象的、観念的なワードを、「刹那と永遠って/けっこうパンに合うらしい」というような、予想外の展開で「味わうもの」に変えてしまい、そのすぐ後に「惨い現実も残酷な真実も/お腹いっぱい食べ飽きた」と重ねていく。連としては途切れていて、全然つながっていないように見えるのに、刹那=惨い現実、永遠=残酷な真実、と、意味が内的に対応していくように思われ・・・転調して同じフレーズを繰り返すような、そんな感覚が得られると思います。ここはうならされました。 辛さを「食べ飽きる」ほどに味わってしまった主人公だからこそ、みんなの為に「夢を見る」ことができるのかもしれません。夢見ることを、仕事として引き受ける、そんな宿命を負っている、というべきか。その「しんどさ」に、ひそかにバトンタッチを、終わりが来ることを、待ちながら・・・。 (Tangerine Dream)

2017-03-02

面白いファンタジーとして読ませていただきました。 看護婦の「語り」というのか、「説明」が、ちょっとくどいかな、という印象はありましたが・・・あえて文字をぎっしりと詰めて、音声と化した言葉の群れが通り過ぎていくような感覚を受けるので、構成としては成功しているのかな、と・・・でもやっぱり、ぱみゅぱみゅ的な歌手、を設定して持ち込んでいるところと、尖がって渦を巻いて、人をにらみつけているようでありながら、視線が定まらない、そんな「視線」のイメージと、双方を論理で結び付けようとしているところに・・・少し「盛り込み過ぎ」の印象を持ちました。 小説であれば・・・一章では「まいこちゃん」のことを描き、二章では憧れて真似をして挫折していく(夢破れて)体調を崩していく女の子たちのことを描き、三章でその女の子たちが獲物をねらうように「ぼく」に迫って来る・・・そして、消滅させてしまう、そんな恐怖と陶酔とないまぜになったような状況を描く、ということも可能なのかな、と思いました。 この長さで収めるなら、そして「詩」として、曖昧さや不思議さをあえて残すなら(セザンヌの絵の、塗り残し、みたいに)看護婦の「説明」を、このカタツムリはカラーコンタクトである、これを付けると「なましびれ、なまめまい、なまくらみ、」が訪れて、とろけるような感覚を得られる・・・という程度にしておいて、後は看護婦が妖艶に迫って来る、そのまなざしの魅惑と恐怖、反発と誘惑、そんな相反する感情を同時に感じさせるような、そんな読後感を残す・・・なんていうのも面白いかもしれない、と思いました。あくまでも、一案、ですが。 (もちろん、このようにしなさい、とか、そういう意味では、ないですから!) (まいまいつむりのまいこちゃん)

2017-03-02

前半、脚韻的というのか、語尾に余韻を残して空間を作って行く感じ・・・手の中でお手玉を右へ、左へ、と投げ渡していくような、そんな自問自答の甘さに浸る感じ・・・の歌いっぷりというのか、歌い方が心地よい回想モードを作っているな、と思って読んでいたのですが・・・ 中盤から、語りの方に比重がかかって行く。内容を伝えることに前のめりになっている、というのか・・・前半、自然に思い出されることを待って、それを手の中で右、左、と打ち返し打ち返し・・・しながら、余韻を保った回想空間を作りだしている、感覚があるのだけれども・・・そこから、意図的に「出よう」としているのであれば、方法としては成功だと思いますが・・・内容を伝えたい、という気持ちが先走って、歌のリズムというのか、揺蕩い感を突き破って外に出て行っている、としたら、果たして、それは成功、なのか?と考えさせられました。 (ルウさんちの写真館)

2017-03-09

改行の頭に助詞を持ってくる、このイレギュラーによって、語りのリズムを作りだすと共に、「真夏日」とか、「どどどどど……、と/実体のない雷の音ばかりが/夕方の薄暗がりの中を這う」とカッコに入れて、それを外側から語る、という構造が生まれる。 マグリットの絵に、風景の前にカンバスを置いて、つながっているように見える光景を描いたものがあるけれども・・・このカンバスをどかしたら、向こうには全然違うものがあるかもしれないし、カンバスに描かれたままの風景が広がっているかもしれないし・・・というクリアーな不思議さのようなものを感じる絵なのですが・・・〈けだるげな雲の流れは遅く  のっぺりとした空は  吐き出しきれずに  つぶれてしまいそうで怖い〉 これがもともと描かれている風景で、その中に 〈実体のない雷の音ばかりが  夕方の薄暗がりの中を這う〉 が置かれている感じ、と言えば伝わるでしょうか。 〈人の温もりにも似た  半透明な夏の眩暈〉 ここに、居たはずの人が、戻ってきてくれたはず、なのに、またいなくなってしまった、というような二重の喪失感が現れているように思います。 青田の風景の中に、雷が落ちる、不穏な状況なのに、その不穏さこそが、亡き人が戻ってきてくれたという「体感」を呼び覚ます、ある種の超常現象であるのかもしれない。 重苦しい湿度と濃密な黒雲、突然の雷雨・・・その「非常」と共に死者が訪れ、また還って行くという出来事が起こり、それを実際に体験した語り手が語っているような、そんなリアルさがありました。 (茄子のうし)

2017-03-02

咲き出て/先出て・・・触れて/(気が)ふれて・・・意味の揺蕩いというのか、幅を楽しみながら読む詩かな、と思いました。 ドウリ・・・いつも通り、普段通り/道理/いずれにせよ、ルーティンを強いられる感覚、それがギリギリとドリルのように切り込まれていく感覚が、音感から迫って来る、ここが面白いと思いました。 行分けにして先に進めていくのか、散文体で小説のように「語って」いくのか。 〈そのうち、「息が出来ない!」と苦しみ出すのだけれど、伴って〉 第三者的に、客観描写的に語っているけれども・・・~けれど、従って、というような文の運びのスピード感と、緊迫していく状況とが、果たして釣り合うかどうか、ここに疑問を感じました。「息が出来ない!」と苦しみ出す。・・・とスパッと切って、先へ先へと前のめりに進めていった方が、緊張感が伝わるのではないか・・・なんだか、間延びしてしまってもったいないように思いました。 語り手が「苦しい」という情況に陥って、それを訴えるというような、主観的な語りにする方法もありそうですね。 〈煩かったそいつも、やがてイイモンになった〉わずらわしい・・・「道理」を受け入れることに抵抗し続けていた「そいつ」も、イイモン・・・自滅、昇天してしまって、道理を人形のように受け入れるようになっていく、なんて読み方をしてみました。(各々が読み方を見つけていく、そんな読み方が良いように思います) 〈レバーもボタンも、 母がしたように砂山は、 拡散した〉 ここは舌足らずというのか、あえて曖昧さを残したというのか、謎を隠した、というのか・・・母、砂山などの語感が呼び覚ますノスタルジーと、レバー(引手?一瞬、肉のレバーの生々しさを想起しつつ、ボタン、で引手のイメージに戻る)ボタン、といった、何かのスイッチ、稼働させるきっかけのようなものと併存させる。そこに、作者は何を込めたかったのか・・・ここにもどかしさを感じました。 (サキデテフレテ)

2017-03-02

無駄なく、流麗に流れて行く文体、読ませることに長けた作者だと思いました。 生きるやるせなさ、生身の感覚を放棄してその重さに耐えている日常、そのゆえに獲得する、淡々と「物を見る目」・・・ 感情の流れがドラマティックに盛り上がり、それでいてロンドのように、安定して収束する。古典派とロマン派の境目の音楽のよう。 内容をドキュメンタリーのように克明に描写していったら、重すぎて読むのがつらいでしょうね・・・流れにのせて、静かに歌う、このスタイルだと、笹舟に自身の苦悩を身代わりにのせて、小川を流していく、そんな印象を受けました。 (セパレータ)

2017-03-09

言葉が囀りながら先へ先へと進んで行く(いや、進んで行く、というよりは、自分の周りに出て、飛び回っている)それなのに、本体はどっしり構えて、動かない、そんな感覚がありました。 大きな岩のようなものがあって、その周りを(電子が原子核のまわりを)飛び回っている、的な映像。の、イメージ。 個人的には・・・せっかく朝の魂の場、捨てられた森、に戻って来たのだから、そこで詩を止めてもよかったのでは・・・と思ったのですが、それでは予定調和に成り過ぎるのかな・・・あえて馬鹿野郎、と崩すというか、外していく感じで、円環を閉じるのを避けている。拒んでいる、というほどの厳格さではなく。どこか、気楽な閉じ方。鍋の蓋を、とりあえず閉めておく、的な。 言葉の流れというか、選択の仕方が、ライトな感じなのにスキがなくて、巧みだと思いました。 (営み)

2017-03-09

題名に惹かれ・・・人を喰った「死者」だな、と思いながら読み・・・戦死者を呼び覚まされた時点で、死者=使者でもあるのだな、と思いました。 折口の描いた使者の重さ、濃厚さの対極を行くような・・・パイレーツ・オブ・カリビアンに出て来る、ひょうきんな骨ほねの死者たち、のような・・・。 「世界を皮肉る呼吸」こういった軽めの、でも鋭い一言に、批評性を感じます。世界を皮肉るための息を発すること・・・それが、詩人の発話なのではないか。いや、視る事こそ大切なのだ、永続して、死者から死者へと「眼」を受け継いでいくこと、こそが・・・。 その「眼」を手にしてしまった者・・・この語り手の歩んでいく先を、考えさせられました。 (石の眼)

2017-03-09

言葉の粒立ち感がある、というのか・・・とととと・・・と散らばって、一定のスピードで進んでいくような感覚が面白いと思いました。 雨を薄めて飲む君、という状況描写ではなく、~することにした君、と、人格描写でもあり、今後の意思というのか、生き方を規定していくような人物造形描写である、という立ち上がり方、とか・・・ 舌先、と聞くと動物の湿潤な感覚を想うのですが、この作品を読むと、なぜか多肉植物のような、植物的な感覚を受けました。 約束印で絆され とか 心解けの水温 というような、造語というのか、独特の(通常の用例とは異なる)用法が、アクセントになっているところが面白い。 全体に一定のスピードで進行していく、その安定感に惹かれる一方で・・・もう少し緩急があってもよいのかな、と感じました。 (約束印の絆)

2017-03-09

永遠に磨かれることのない窓、という、内面化された窓(鏡)のイメージと、実際に自分の外面にある、綺麗に磨かれた鏡のイメージ。 窓は、他者の作品を通して見えて来るイメージの堆積を透かして見ているようにも思われ・・・対する鏡は、他者の眼に映る自分、他者の眼を通して見える自分、そんなイメージでもあります。 地の文という言葉から、たとえば「おくのほそ道」のような、散文と詩文の混交文体を連想。地の文が平穏な日常(没個性的な人生)、詩文の部分が、創作活動への飛躍を重ねているように予想したのですが、この作品では、地の文にあえて埋没していく、その欲求を示している。となると、「何ものかのために生きる」のが地の文以外の人生で、地の文の中に入り込んでしまう、というのは、自分の為だけに生きる、そんな世界のことなのかな、と思いました。 境界線、というものを挟んで、創作世界と実世界との揺らぎの中で「自分」とは何者か、と問う・・・そのあたりを、より鮮明に、体感的に描いていただけると、もっと読者を奥へ引き込む力を獲得するのではないか、と思いました。 「いくじなし!」や「ほーろーぼーすーっ。」というような口語(話し言葉の音声化)を持ち込むことは、臨場感につながる一方、観念的な自問自答、という全体のテーマに、果たしてふさわしい語法であるのかどうか、若干とまどいがありました。 この部分、あえて万葉仮名にしてみるとか・・・・(吉増剛造みたいになってしまいますが) (じのぶんのおはなし)

2017-03-23

皆様へ そうですね、攻撃性というのか・・・悪役とヒールが重なる(そもそも、踵落しとか、そういう荒技から来た意味らしいのですが)面白さから、連想を広げていったものです。 即興、で書き始めた当初(目の前を、黒いピンヒール、しかも足裏が朱色というか赤というか、ぬめぬめどぎつい、すごい靴が歩いて行ったので、よし、これで書こう!という・・・)終わり方は、彼女が振り向き、お先に失礼、と傍らをすり抜けていく。空中には、彼女のくっきりしたアイラインが、チェシャ猫のように残り、私をにらみつけて離さない・・・というものでした。 なんだか違うな、と思い、しばらく寝かせて・・・書き直してみたら、いつのまにか「彼女」を「私」が見ている詩、から、「彼女」を見ていた「私」が、いつのまにか「彼女」そのものになって、街中を闊歩して歩いている、感じになりました。 感情移入が度を越すと、憑依してしまう、そんな感覚で、他者になりきって書いたので・・・かえって今の心境が、ストレートに出ているかもしれません。 (Heel improvisation)

2017-03-12

黒髪さんへ かなりデフォルメはしていますが、具体的にモデルがいます(笑) その人が、私の為に裏切ってくれた、ことを頭では理解しているのに、気持ちが相反する、渇望する、という感じ、でしょうか・・・ 繰原秀平さんへ 足裏、は、あうら、とルビをふりたかったです。イモリの腹の、朱色のような、黒とまだらの怪しげなイメージ、ぬめぬめした両生類的な感じ・・・が、毒蛇、コブラ、のようなイメージにずれていっている、かもしれない、と・・・レスを拝見して思いました。水にも陸にも住める(どちらにも安住できない)イメージが、当初あったのか、なかったのか・・・(自問自答しています) なかたつさんへ そうですね、女、を見ている「私」という一人称視点が、女の中に、あるいはヒールそのものがもつ意志に、同化していっている・・・かもしれません。その一貫性の無さを、変容の範囲でとらえ得るか、読者を遠ざける要因、と見るか・・・たぶん、真情の韜晦という意識と、それを(一部を)デフォルメして、それを面白がってみたい(そのことで、自分から切り離してみたい)という感情があるのかもしれません。自分ではそんなに深刻になって書いたつもりはなかったのですが、案外、知らぬ間に真情がにじんでしまうもの、かもしれませんね。 (Heel improvisation)

2017-03-16

kaz.さんへ 躍動感、ありがとうございます。普段は書かないようなスタイルなのですが(知人には、畳みかけていく感じは、いつもっぽい、と言われましたが)皆さんの影響を受けているのかな、と思います。割と一気に書いたし。 URLをコピペして検索してみたのですが、ファイルを開けませんでした・・・やり方が悪いのかな・・・デジタル音痴です。 (Heel improvisation)

2017-03-17

るるりらさんへ 劇中劇、なるほど!ありがとうございます。「この女性は視線をくぎづけにして目から殺すタイプのように思い、」わお・・・実は、この詩は最初、この女性が振り向き、歌舞伎の隈取みたいに、アイラインの枠線だけを空中に残して消えていく、というイメージでした。。。実際に、私の前を歩いていた女性は、振り向かなかったのですが。そうやって、現実の風景から、自由に連想したり想像したりするのは、楽しいですよね。たしかに、劇中劇かも・・・。 (Heel improvisation)

2017-04-18

銃口、は、男性器のメタファーかな、と思いながら、BL的世界を感じながら読んでいて・・・作者からのレスを読んで、なんとなく腑に落ちるものがありました。 ザーメンを白い雨に喩えるなら、黒い雨、は、罪悪感の象徴でもあるのかな、と思い・・・BL的頽廃に揺蕩う感じ、というのか・・・世界を倦むような「2人の世界」の作り方、そこに埋もれていく感じがありました。 「そして僕の指先が祈る」ここでバシッと終りにしても良いようにも思います。あるいは、あくまでも「君」と「僕」にしておいて、少年少女、というような言葉は出さない方が、いいのかな、とか。もちろん、BL的世界に留めておきたくない、ということであれば、あえて性別不明で書いた方が面白いのかもしれませんが。 (ring)

2017-03-12

技術がないないと書いていらっしゃるけれども・・・〈わるくない〉〈口笛〉といった区切り方というのか、詩行の止め方(止め方、ということはつまり、先への進み方、其の時のエネルギーの溜め方、弾み具合、ですね)に天性のリズムがあると思いました。ぽっと、思いついたままの言葉を綴って行くようにまずはどんどん書いてみて、それから余分な言葉を抜いていく、省いていく、というような推敲の仕方がいいのかな、と思いました。 (あたらしい夜のポリシー)

2017-03-17

いきる ことは めしいるような いろいろの こうせんを いっしんにうけ たましいを ささげ つづけ る ぎしき だ この部分、あまりにも真っすぐ過ぎて・・・これを通常の文体で書いたら、当たり前すぎだろう、という印象にもなるかもしれませんが・・・まあ、全体に長い、その印象はどうにもぬぐえず・・・。 今、死出の旅路に赴こうとしている「あなた」を送る「呪文」であるように思いました。だからこそ、嫋々と糸を引くような、切ない「ひきのばし」が必要になるのかな、と・・・。単純に再生を祈ることができない。だからこそ、死後の再会、死後の地での再生を祈る呪文。 あるいは・・・あなたが死した後にも、私は悲しまない、そのことをあなたに誓う、そのための呪文、というのか・・・そうであれ、と自分自身に祈る、自分自身に魔法をかける、自分を納得させる。そのための呪文、というべきか。 ・・・にしても、やっぱり、ながい、印象、は、あります・・・。 (呪文)

2017-03-12

語感(音の響き、イメージ)が良い、ほぼ一連四行で進行するリズムがよい、ので・・・とんとんとん、と読まされてしまうのだけれど・・・ イメージがわんさか詰め込まれている感じで、たとえるなら、たくさんのモチーフが張りこまれたコラージュ作品を見ている印象。どうも、うまく繋がって行きません。 1連目が喚起する、ヨットハーバーがありそうな、スタイリッシュな港のイメージ。 2連目、髪をまとめている女性の白い喉を、三メートルほどの近すぎもせず、遠すぎもせずに見ている感じ。 3連は、なんだろう・・・虫の心臓、牛の鼻輪・・・牧草地と黒いこうもり傘のイメージ? 4連目は、眠りの中で深い森を歩いているイメージ。地面の中から、地上を歩く者を見ているような、鏡像的な感覚もあり・・・しかし、ここでどうして森の中に入り込むんだろう。 5連、執刀医が登場し、もしかしたら、これまでの詩は、手術前の麻酔に落ちていく時間の描写であったのか?と思いつつ・・・ここで初めて、題名の「火の子」(火の粉とかけている?)に関連しそうなモチーフが出て来る、わけだけれども・・・ 6連目、森が湖の底に沈む、のではなく、湖が森の底に沈む、という逆説。言葉の世界だけで起きている出来事、というニュアンスが強く出ている部分であるようにも思うけれども・・・花の茎の崩壊は、老いと死の暗示なのかな・・・ 7連、遅生まれの弱々しい命のイメージ・・・はあるけれど、それらが増殖している感覚が、どうもうまくつかめない。 8連、今度は望遠鏡。宇宙からの歌を受信する、ということか。白鳥の演説?という、ファンタジックなイメージ・・・自転車のイメージも登場、するも・・・ 9連、包帯が~噛み砕く イメージできなくもないが、滑稽なお化けのような像しか出てこない・・・夕焼のイメージか。 10連。中空に浮ぶホルンのイメージと、三半規管のイメージと・・・でも、裸足が駆けていく、であれば繋がるものがあるが、裸足の水槽、となると・・・水槽から足が生えているようなものしか、私の中では像を結ばない、のですね・・・ 11連。これはもう、私には全然つかめない。申し訳ない。 12連、「時は瀕死だ」こういうカッコイイ表現、好きなんですが、連関が、イマイチわからない。 13連、「卵巣の飛散した無口なオレンジの恒星」執刀医とか、全体を彩る赤やオレンジのイメージ、生と死のイメージ・・・の終着点、なのだろうけれども・・・ 火の子、が作品全体とどのようにからんでくるのか。一行ずつ見ると文法を破壊しているわけでもない、矛盾を詰め込んでいるわけでもない、のに、全体が分離されたまま寄せ集められている感覚があり、うまく全体がまとまった流れとならない。 イメージが文節され過ぎているのではないか、という印象を受けました。 ひとつひとつのモチーフのキャラが立ったコラージュ作品、として、全体のイメージの重層性や響き合いを楽しむ、ということでよいのか・・・とは思いつつ、イメージが過剰過ぎて、装飾的なものに平板化されてしまっている感もあり・・・奥に詠み込んで行こうとすると、手前ではぐらかされてしまうような感覚もあり・・・ 映像的な美を作りだそうとしたのか、もっと深い創作意図があるのか(その意図を、私が読めていない、のか)作者の側からのコメントがあれば嬉しいと思いました。 (火の子)

2017-03-23

朗読すると、ものすごいインパクトがありそうな印象ですね。 言葉が(視覚的にも)音となって立ちあがって来る強さがあります。 「無駄に作って光って爆発」の前に一行アケを作るとか、*を付けるなどしても面白いかもしれない、と思いました。 舞台上で、冒頭の二行をナレーターが朗々と・・・その後、コーラスでガツンと声の束が迫って来る、というような、詩劇的な迫力と映像的イメージを感じたので。 (メルトダウン)

2017-03-12

詩の立ち上がりから〈(物語の侵食を告げる警報、〉ここまで、 極めてスタイリッシュで緊迫感もあって、不穏な花のイメージが一貫していて・・・行き止まりに追い詰められている焦燥感のようなものも凝縮されている感じで、とても良いと思ったのですが・・・この後の部分、作者が実は一番いいたいところ、かもしれないけれど、ここは、蛇足だったのではないか、という印象を持ちました。 (Dicotyledon)

2017-03-18

髪を切る、ということの凶暴性と自傷衝動(実際には、今現在のどうしようもなさ、が万が一改善されれば・・・億分の一、ほどの希望かもしれないけれど・・・生の衝動へと転化するはずのエネルギー、であるはずの)から出発する作品であるのだから、いっそ女子になりきって書いた方がよかったかもしれない、と思いました。 まつ毛に目がとまるあたりも、繊細な女子目線が感じられるので・・・なおさら、「床屋」ではなく「美容室」にしてみるとか。 読点の打ち方の多さ、この細切れ感は、意図的なものでしょうか。散文体でさらさら流していきたくない、のであれば、体言止めや言い切りの形、唐突に断裂する文章、そういった形で、文体そのものにリズムをつけるというのか、空隙を作って行く方法もあるかもしれない。あえて散文体にするのであれば、読点が多すぎるのではないか…という印象があります。言いよどむ感じ、語りをデコボコにしたい、そうならざるを得ない、という心境を描くのであれば、またそれなりの読点の打ち方もあるだろうな、と思いつつ・・・。 (かなC)

2017-03-12

力作だと思う一方で・・・メタファー満載の「戦後詩」的世界が再現されているようにも思い・・・そこに、申し訳ないけれども既視感がある、というのか・・・なかなか入っていけない、閉ざされている感じ、がありました。この一作のみから受けた、初読の印象ではありますが。 (homecoming)

2017-03-12

ずいぶんと穏やかな文体だなあ、と思い・・・3.11の日に投稿されたことを想い・・・ 「一人の旅に出た友よ」の前に、一行アケを設けた方がよかったかな、と個人的に思いつつ。 カタリ=語り/騙り とも重なって行く擬音である、ということ・・・について、考え込まざるを得ませんでした。 薪とは、何か・・・自らを(罪の意識によって、滅ぼすための)火葬/仮想の薪、なのかな、とか・・・たまたま、今打っていて出たのだけれども、「神の夕べの巻」(に、を、の、にしていますが)とも(無理やり)読めるな、とか・・・ 一人の君、に託しているけれども・・・何千、何万という死者たち、ひとりひとりのことを想った追悼詩、だと感じました。 (海)

2017-03-12

花緒さんと、同感でした。冒頭4行、もしくは5行・・・ここがとてもまとまっていて、同時に「最果タヒ」的で・・・後半が作者の「真意」であるならば・・・世界平和なんて、どうでもいい、君が僕のことを特別だ、と思ってくれさえすれば・・・そんなふうに、僕のことを想ってくれる人がいればいいな、という、恋愛待望論、というのかな・・・その先に、もっとツッコメ!その裏を突け!と、喝を入れたいなあ、と感じます。 (6㎜×35行)

2017-03-12

あまりにも正攻法というのか・・・リルケの『マルテの手記』は、果たして小説なのか、散文詩なのか、というようなことが、しばしば問われますが・・・そんな、ある種のビルドゥングスロマン的な小説の一節を読んでいるような感覚がありました。翻訳文体と言えばいいのか。もう若くもない二人、という所から見て、戦後50年以上が過ぎているのか。ドレスデンの再建はいつまでだったか、とググったら、フラウエン・キエウヒェの再建が終了したのは戦後60年、とのことでした・・・そんなにも時間がかかっている(かけることに意義を見出している)のか。スペインのサグラダ・ファミリアもそうですが・・・宗教的背景があるのかもしれませんが、日本の戦後再建、復興との差異をそこに感じますし、そういったことへの批評的視座が、今後の作品に現れて来るとより深まるのではないか、と思いました。 ドレスデンの、徹底した再建の執念は、恐るべきものがありますね・・・北の陰鬱な空と、寡黙で黙々と仕事に従事する人々、フリードリヒが描いたドレスデン近郊の淋しいような悲しいような沼沢地の映像、海辺の風景を重ねつつ・・・ ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-12

キエウヒェ、ではなく、キルヒェ、です・・・修正の仕方がわからないので、レス欄で。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-12

作為なのか偶然なのか必然なのかわかりませんが・・・「えぐる」という肉体感覚、それから「匂い」の感覚が鮮烈な作品でした。 「まず一錠~私。死ぬつもりありませんから。」までの、ライトノベル風というのか、軽めで言葉が過剰に放出されるけれども、核心をさけて(迂回して)いる、といったムードの部分、個人的な好みとしては、もっと言葉を刈り込んで、スピーディーに後半部に接続していった方がよいのではないか、と思ったのですが・・・前半部を「リーダビリティー」と感じる方の方が、多いのかな・・・。 理恵さんと八重ちゃん、ふたりのレズビアン的な(それも、なにやら薬剤を介在させているかのような)関係性に託して、言葉による誘引、意識の混濁、魂の幽体離脱、のような感覚が描かれているとも読め・・・生理的感覚を持った、詩の内省化・・・いや、違うな、詩を生み出していく過程を二人の関係性に託して描いているようにも読め・・・なかなかスリリングな作品だと思いました。 今、これを出すという時機的なことについて、なのですが。大阪の某理事長が「トカゲのしっぽ切り」はせんで下さい、とユーチューブで流していたことが被ってきてしまうのですが・・・それは、かぶったり、重ねて読まれてもよい、ということ、なのでしょうか。あの騒動とは関わりない作品、だということは、読めばわかる、とは思いつつ。 (私はトカゲ)

2017-03-12

都会というスタイリッシュでドライな場所に、人間の生々しさと血脈が投じられる冒頭から驚きつつ読んでいるのですが。 「欲しいのは、乾いた音  物としての音だ  濡れた声はいらない」 ここに、優れた肉声を感じました。自分自身を確認できない、したくもない、させられたくもない・・・あるいは、物そのものになり切ってしまいたい、そんな主人公の思いが、どこから生まれるのか・・・死を、医師に宣告されたのか。いや、自分ではなく、親族、血族が、死を告げられたのではないか。そんな印象を受けました。臨場感のある作品だと思います。 (あの夜の街で)

2017-03-14

追伸 「都会というスタイリッシュでドライな場所」というイメージは、題名、その言葉の荷重から得たものです。新宿や六本木などの、ネオンが瞬く夜の町、そのイメージから入って、一行目との落差、幅の取り方に「うわ、やられた」という感じでした。 (あの夜の街で)

2017-03-16

ごくさりげない一行目・・・に油断すると、良い意味で裏切られる。 平日も黒・・・喪服/フォーマル(型にはまった、形骸化した)/地味 な人たちが、 〈赤い服着て肌纏う〉語感やリズムがいいのに、赤(アンデルセンの赤い靴とか、古いかもしれないけれどコミュニストたちとか、華やかな祝着、赤子、命の色)の多義性の中に迷い、しかも「肌纏う」という不思議な用法・・・自分の意思で身に着けるのではなく、肌が勝手に纏う、感じ。 だから、という接続詞は、散文的になるから避ける、というのが「定番」ですが、この詩の場合、語り手にとっては「当たり前」「当然」の論理であるにも関わらず、読み手にとっては「以外」「想定外」「新鮮」な論理なので、上手く活かされた接続詞だと思いました。 虹色が七色の伏線となり、物足りない、勿体ない、と言葉遊びのような軽さに逃がしながら自死願望(裏返された生への渇望)を述べ立てて、〈マンモスだって~失くしてしまった〉という、ユーモラスでありながら、人類普遍の感情のところにまで持って行くスケールの大きさ。 人間が人間らしさを失ってしまった現代、その現代に生きる生き辛さをリストカット、という「抵抗手段」「闘争手段」でしか表明できない・・・そんな若者の心情を代弁しているように思いました。 テンポの良さ、ユーモアや軽さの配合具合、堅固に全体を固めるのではなく、あえて隙間というのか、息抜き場所を用意しているような全体の作り、無駄のない詩行など、技術力の高さも印象に残りました。 (今日も、ちいろはめでたく赤)

2017-03-18

ような、如く、みたいな・・・とこれだけ直喩を連発してクサクないのは、確信犯か?という立ち上がりですね。おおっ、次はどうなる?と、スピーディーに読者を引き込んでいく。 〈チョコレート工場が頭の上に〉というシュールで具体的な状況設定、〈身体は検体〉リアルな肌感覚を伴った金縛り感、それでいて〈七色の熱電球〉という祭りのような、ハイテンションのムード、〈機械音は蛮人の儀式〉という意外なシチュエーションと・・・映画の『チョコレート工場』の、侏儒たちのダンスのようなイメージ。 ベッドに「くくりつけられたまま」の躰と、部屋の壁の対照が〈トラックのライトは部屋の壁を刺して去る〉という、光が刃物のような鋭さを持っている感じで、躰の上を素通りしていく感じ・・・自分が固定されたまま、外部の世界が展開している感覚があって、面白いと思います。 そういう、展開(というか、「送り」詩行の「運び」)が素早いのに、丁寧な状況設定があるので、空中に浮いた工場に見張られている、なんて妙なシチュエーションなのに説得力があるんだな、と思います。 〈存在感は異空の穴のよう重く  その一点だけが歪んで見える〉 そこに幽体離脱して吸い込まれていくような、でも踏みとどまっているような恐怖感の上に、〈血のようなチョコの臭い〉チョコレート色の血液のどろりとした血栓のような、吐血のようなイメージ。死の象徴なのかもしれない。 夢魔というのか、魔女が突然現れるところの突発感、突然感が弱い、というか・・・もっと衝撃的なシチュエーションによる「登場シーン」があっても良かったのかな、というのと・・・〈工場に眼球など~機械音は容赦なく増していくばかりだ〉の部分が長いので、バランスが取れない、という印象があるのですね。ここを、もう少し切りつめてもよいのかな、と思いました。 (kissはチョコの味)

2017-03-17

「あたし」という主語なのですが、なぜか「わたくし」と語る主人公のような気がしました。どこか懐かしいような、小津映画のような静かな流れの・・・愛のままに突き進みたい、と願いながら、結果的に妻ある人と恋に落ちてしまった、そんな物語を感じます。 冒頭の立ち上がり、通常なら文末の「接吻の」は、次行に送るでしょう。 それをあえて一行におさめることで、一気に「言い難い」ことを言い終え、息をつく語り手の呼吸のようなものが感じられ、そこから思いが立ち上がり・・・次へ次へと、進んで行く。得られた「愛」と思っていたものは、想いとはかけ離れたものだったのかもしれない・・・誰かを傷つけてまで愛し、愛されたはずの男性との関係も、実は幻想だったのかもしれない・・・そんな想いが、行間に折りたたまれているように思う、のですが・・・抑制され、切りつめられた小説、のようなストーリー性(ストーリ―の細部の描写を省いて、想いだけで綴ったような)を感じるから、かもしれません。 (唇の皮に色が着くよう)

2017-03-14

連載小説を読んでいるような感覚になってきました・・・ 昭和10年代の日本を(敗戦を知っている現在から視る、のではなく、未来がまだ見えていない当時の視点で観よう、と思って)必要があって調べているのですが・・・過去の出来事、その心のわだかまりや、憎悪が、飛び地のように未来にも点在していて、そこに触れてしまうことがある・・・そんな想いに囚われることがあります。 〈加害者としての日本がアジアにあることと似ていた〉そのことを「理解」ではなく、「情解」した上で・・・歴史上の「事実」の間違いであったり、相互の誤解に基づく歴史認識を正していかねばならない、と思います。(すみません、詩からずれてしまいましたが・・・でも、ダグマが堪えている、祖国の「罪」を負って堪えている、ことに、切なさも感じます(というような言い方をすると、右翼みたいに思われますが、自分では中道左派、だと思っています、と変な弁明をしつつ。) ( ダグマ 2)

2017-03-16

URLがうまくコピペできなかったので、とりあえず横書きのままで拝読しました。 「私は傘になりたい。」この一行目から、引き込まれました。縦書きなら、沈黙の空間がまずあって、その後に押し出されるように置かれた一行、ということになるのでしょう。隠喩なのだけれど、明愉というような・・・非常に寓意性の高い、それでいて明晰で、切なくて、でも感情過多にならない、優れた作品だと思いました。 語り手は両親への困惑と、愛憎を抱きながら成長したのかもしれませんが・・・自分が社会人になって、たとえばブラック企業に接するとか、理不尽な搾取に接するなどの体験を経て(勝手な想像ですが)両親の抱え持つ辛さ、苦しさを了解し・・・かつては「かなしみ」や「にくしみ」「とまどい」であったものが、「いとおしさ」に変わったのではないか。そんな気がしました。 「初めてその存在に気づいたのです。 しかし、紛れもなく私の家族。/私は、このとき、 初めて生まれたのです、この世界に。(望んでも いないし、望まれてもいない。)」 そのことに気付いて後・・・家族の未来を、自身が(見通しのよい、そして不幸を防ぐ)透明傘になって、護りたい、という・・・切ない願いの表明、祈りの詩だと思います。 スラッシュや句読点、空間の取り方・・・縦書きにこだわる意味も、きっとそこにあるのだろう、と思いますが・・・視覚的に空間を設ける、詩形にこだわる、リズムに配慮する、といった細やかな心遣いで、パッと見た時に(映画で、音楽が大きな力を持っているように)言葉にならないニュアンスを付加している。よく練りあげられた作品だと思いました。 (明日も、雨なのですか。)

2017-03-16

性を描きながら、快感を書くのでもなく、侮蔑を描くのでもなく、讃嘆を描くのでもなく、屈辱を書くのでもなく、煽情を目的とするのでもなく、義憤を書くのでもなく、哀憐を描くのでもなく・・・つまりは、肌感覚や感情に関わることを書いていない、その淡々とした筆致に驚きました。 人間関係のわずらわしさ、ひいては(変な言い方ですが)生きていくわずらわしさ、そこに照準が当たっているのですね・・・レストランでマズイ食事を出されてしまって、そのウェイトレスとの会話のような・・・「風俗」という生々しさ、アングラのイメージとはまるで異なる、日常の続きの様な書き方が印象に残りました。 (証明書)

2017-03-23

メリハリがきいていて、無理がないのに、独自の断定が爽やかな読後感です。 モチーフを自然に思いついたまま並べているようでいて、ロンドのように繰り返し登場させたりするなど、構成もよく練られていると思いました。 (潔癖症)

2017-03-23

纐纈が、しょっぱなから読めなくて(^_^;) コピペしてググってしまった・・・ こうけつ、あるいは こうけち、でいいんでしょうか。奈良時代の絞り染め、鹿の子しぼりのこと、とな。なるほど・・・(何がどう、なるほどなんだか、自分でもよくわからないながら) 冒頭のズラッと言葉の並んだ部分、音声認識機能を使ったのか、と思ったのですが、そうではなさそうですね・・・文章がひとつあって、その文章を寸断するように他の文章が切り刻まれてはめ込まれている、という印象を受けました。 「れいてつ」と打つと、冷徹、が出て来る。作品では、怜悧の怜と徹底の徹、ですね・・・ということは、パソコンで自動的に出て来る同音異義語を偶然的に用いた、ということではなく、意図的に作った造語、ということなのかな。作者の意図が込められた部分なのかもしれませんが、冒頭から肩の力が入り過ぎ、というのか、構えた感じがしてしまう。そのことが「面白そう」「読み解きがいがありそう」と読者を引き付けることになるのか、あるいは、「難解そう」「何言ってんだかわからん」と読者を遠ざけてしまうのか・・・。 私には、「怜徹の~中として」までが、枕詞のように意味を背後に遠ざけたものとして置かれていて、「水子冬の空に私の眠りを支える影になって」がインパクトのある詩行として、こちらに飛び込んでくるように思われました。「強いのに」「ところで」「ふと気がつくと」「いいよ」といった部分は、多声の混入というのか、進入というのか・・・ノイズ的に言葉が入って来る感じ。「すぐはかなきちがい」すぐは、という言葉と、はかない、の成りかけが目に入って、すく/はかなき/ちがい と響くのだけれど、「きちがい」という言葉が最後に残って、はかな、が、ばかな、に見えてきたりする。意味がすぐに取れない、そのために読者の目が滞留する、そのために、様々な読み方が生じてしまう、気がするけれども・・・ここで(こんなところで)読者の目をとどめておく、そんなことを作者はさせたいのか?という、疑問が起きてしまう。 第一パートの二連目は、一文字アケとか句読点を用いずに一気に綴った、というだけで、つまり、あえて読みにくい感じにしているけれど、詩として成立していると思いました。「私の中の~振りかぶる私」これを「私の中の私 何度も何度も強く 激昂のソーダを振りかぶる私」と切るか、「私の中の私何度も 何度も強く激昂 のソーダを振りかぶる私」と切るか・・・少しずつ重ねながら貼り付けていった文章のような、掛詞的に意味が重なって行くようでもあり・・・。ややこしいけれど、面白いニュアンスが出る部分だな、と思いました。 余計に、第一パートの一連目の不自然さが、読者を攪乱しよう、という意図なのかな、というような・・・実験してるぞ、という意図が先に立ってしまって、空回りしているような、そんな「肩に力入ってる」感が、強く伝わってきてしまう、のですね・・・。 第一パートの三連目、「恋に譲り渡す陰嚢の印籠の高温と奇術せよ」は、恋に/故意に、奇術/記述/既述 と、意識的に二重性を用いてみた、のかな、という印象。陰嚢の印籠、肛門じゃなかった、黄門様の印籠みたいに、「陰嚢」という言葉が出て来た時点で隠微さや不穏さが出るなあ、そこに「高温」という、熱量をイメージさせる言葉を持ってくるのか、ここは面白いフレーズだな、と思います。 巫女の魂、というようなドラマティックな言葉を受けて、第二パートの、ちょっと舞台のセリフがかった、というのか、荘重な感じの部分があって、第三パート。 儀式的な、大げさな身振りで呼び出した「言葉」と「私」が、親密に睦みあう、そんなパートであるように思いました。そこに「そっか、」と肉声(口語)を入れる、これは、成功なんだろうか・・・半かっこ( を口話の冒頭に入れるとか、何か操作を加えた方がいいかもしれない。このままだと、私は文体の齟齬を強く感じます。 最終パート。纐纈/硬結、ここで冒頭と音が繋がる。ここまで持ってくるのか!長い、回りくどいぞ、とツッコミを入れたくなりました・・・。高潔もありますね、音から言えば。意味は重なるのかな・・・。「虚空を徘徊する石目のごとく」こういう、漢語の熟語を重ねていく作風を試している方も沢山いるけれども、なんというか、高踏派を狙ってます、的な印象は残るけれども、カッコよさの他に、何を目指しているの?と聞き返したくなってしまう。古さも感じますね。徘徊/俳諧の意味重ねとか・・・最後のオチが、意味としてはココを言いたいのだろう、と思う、力のこもった一行だと思うのですが、ダジャレっぽくないか?あまりにも・・・。 「優れた死(詩)は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ」 舞台で、青年が一人叫んで暗転、息をつめて見守っていた観客が一斉に拍手、という終り方なのですが・・・朗読などで聴衆を引き込んでいければ、最後に「おお!」と感動がある、と思うのだけれど、文字で読むと、大げさ過ぎないか?とシラケてしまう危険のある終わり方でもあるな、と思いました。 全体の印象として、力のこもった(若さのエネルギー、実験のエネルギー)作品だと思いますが、冒頭は肩に力が入り過ぎ、若干空回りしている。中盤はカッコつけてる感があり、後半は仰々しく成り過ぎている、のではないか・・・と感じました。 言葉を孕む、ということ、水子となって流れて行くもの、言葉を儀礼のように自らの上に降ろす、ということ、その言葉を発話する、ということ・・・そんな、詩の発生の時点を問おうとしている方向性を感じて、面白いな、とは思うのですが・・・なんとういうか、やり過ぎ感が強いな、ということでしょうか。 (声のみの声――起草)

2017-03-27

冒頭の「白いように思えた水」と終盤の「白いように見えていたのだが」が微妙にずらされながらリンクしていて、「あなた」と「私」との間の屈折、私の眼(水晶体)と世界との間の屈折、光の当て方(当たり方)によって、世界が異なって見えて来るのに、その差異をうまく言い当てられない、そんな表現上の屈折を洗練された表現で示しているように思いました。 冬の向こう側、周辺・・・本当に言い当てたい場所の周辺や手前側でもどかしく探っている、そんな「私たち」について考えさせる作品だと思います。 (屈折率)

2017-03-23

毛が逆立ってくる、という、ぞわぞわっとしてくるような緊張感と孤独感。 選ばれる者と選ばれない者、閉じ込められていく恐怖。 具体的に、現実に視た光景を描写しているような臨場感があるけれども、同時にメタファーとなっていて、今の世の中の閉塞感を暗示しているような、底深いオソロシサを感じました。婦人紙、は、婦人誌、かな・・・。古紙はこれでよいのでしょうけれど。ウールの、ではなく、毛製の、という手触り感のある言葉から、なんとなく濡れそぼったネズミのような、惨めな外見の女性をイメージしました。 (発行禁止)

2017-03-23

全体にモニャモニャ、むにゃむにゃ、した感じ、にしたかったんだろうな、と思いつつ・・・長い、ねむくなる!・・・とツッコミ入れたくなりました(それ待ってる?) カバ、は水底に居る、として・・・冒頭から「海」の底ですし、プランクトンを食べる、わけで・・・これは死者たちかな、と思いながら読みました。カバをひっくり返すと・・・というのも想定しつつ。 めざめはいらない、夢がほしい、という最後の一行を引き出すための、この前段の長さなのかな、と思いつつ。やっぱり、長い・・・。 夢があれば、生きていけるのか。夢の無いまま、深海の底で目覚める恐怖、食べるものもなく、仲間も見当たらず、水圧に押しつぶされそうになる「めざめ」よりは、「夢(将来の、生甲斐としての)」を追い求める「夢(眠りに人をとどまらせる)」を見続ける愛すべきおバカさん達、を連想。 (ゆめであえたら・・・ (B-REVIEW EDITION))

2017-03-25

あんまりたくさん星が動くから/淡く青くなる あ、の三連符。青空をこんな風に表現するのか、という新鮮な驚きがありました。第一パートを読んでいくと、星=いい生き物たち=死者たち、であるように思われました。 数パートに分かれているのですが、小品を連作として、オムニバスのように連ねている印象があり・・・一つの作品として読むには長いかな、とも思うのですが、アステリで区切られているので、無理な長さではない、という気もします。難しいところです。 「人は詩集を/開いて/「昔」を「音」に/書きかえていく」過去の出来事、過去の想いを、音という、今、そこにあるものにしていく、その場に立ち上げていく。それが、詩集を読むということ、そんな柔らかい詩論のようなものを感じる部分です。 「枯れていく台詞たちよ」「物語に汚染された道の上」など、語ること、物語ることを深く考えている様子が、幻燈のようなファンタジックな映像として映し出され、柔らかい語り口によって進行していく、流れが美しいと思いました。 後半も詳しく見ていきたいのですが、とりあえず、今はここまで。 (待つこと)

2017-03-23

るるりらさんの上記のコメント、黒鍵さんへのものが、自動的にコピーされてしまったようです。 私も、別の方にコメントして、すぐ後に別の方のコメント欄を開けて、いったん閉じて別の作品に移動しようとしたら、コメント欄に先に打ち込んだものが、コピーされていて、慌てて消しました。 (待つこと)

2017-03-25

全体を通して読み、やはり少し冗漫かな、という印象はあります。 お前、君、といった呼称の変化は、本来は異なる作品として成立するものが、一つに緩やかにまとめられているから起きている事なのか、お前、と呼ばれる存在が君、と変化していく流れを作りたいのか(私には、同一の呼びかけられる対象の呼称の変化というよりも、別の人称の導入のように思われるのですが)判断がつきかねる部分がありました。 体内に樹木が育っていくような感覚、外部から得たものが自分の中で育っていく感覚は、言の葉が形を得ていく感覚のアナロジーであるように思いました。 (待つこと)

2017-03-25

「友達、家族だと認識している人の顔は見知らぬ他人」この怖さ、尋常ではないですね。生まれたての赤ん坊、これは複数の自分自身であるように思いました。家族にすら、様々な仮面を(その時々のTPOにあった服や身なりも含めて)つけて接している私を、素の状態に戻したような・・・しかし、そのたくさんの「私」は、夢の中ですら監視されている。ユング的に云えば、老賢者であるはずの老人、によって・・・。 胸を隠すのは、恥ずかしいから、なのかな・・・授乳拒否、幼児である「私」を、育てる(大人にする)ことを拒否していることの現れであるようにも思われました。 いずれにせよ、「仮想現実は理想郷とは限らない」ことを十分に意識しながら、しかも、素顔でそこにいる身内や家族、友達が、見知らぬ者に見えるほどの距離感を感じながら、自分は素のままでそこにいる。そんな作者の立ち位置が見えるように思いました。 (迷子のお知らせ)

2017-03-25

「あなたが列を成して」このあたり、ヤン・トーロップ(世紀末象徴派、だった、と思います)の絵を連想しつつ・・・言葉の流れが綺麗なので、おどろおどろしい感じがしないところが良いなと思います。 「夕闇を閉じる役目」を語り手は担っている。そんな神話的な部分に惹かれます。 あなた、は私の頬をなでてくれる、のに・・・わたし、からあなたへと切なくのびる鎖、に象徴されるような、片思い、あるいは行き違いのニュアンス。 そうですね、もとこさんが既に書いておられますが、女性の情念・・・どこかかわいらしさも含んでいるのは、柔らかく丁寧な語り口にあるのかもしれません。 (きつねび)

2017-03-23

動詞の使い方がめちゃくちゃうまい作品だと思いました。 女子高生、という、人格とか性格とか、そういった個人的なものと関わりなく、メディアの中で(あるいは、アニメの中で)創り上げられていくイメージは、限りなく人形に近い、気がしています。女子高生というフィギュア。 現実の女子の高校生、の持つ「わからなさ」、「知りたい」という感覚を刺激する何か・・・でも、素顔を見せてくれない(現実の女子の高校生が、ではなく、メディアの中で増殖し続ける女子高生の総体、的な、なにか)の不気味さや不穏さが、グワッと伝わって来るなあ、と思います。 実写映像に、蛍光ライトでどんどん加筆していくような、それもかなり目まぐるしく、サイケデリックな感じで切り替わって行く映像を見ているような読後感がありました。 (夕陽に顔面)

2017-03-30

情景描写が緻密なので、前半と後半は時間が逆転しているのかと思ったのですが、作者のレスを見ると、審判中の逃亡?シーンであるような・・・。無実の嫌疑をかけられ、逃亡の果てに捉えられて、法廷に引き出される、その矛盾というのか困惑、というところが主題だと、通常なら思う、のですが・・・ 本人は、理不尽な冤罪に困惑している、というよりも、無実だ、と主張する行為に比重がかかっているようであり・・・その主張に疲れて逃亡したけれども、また捉えられた、という時系列とも読める。 私が連想したのは、聖書の幼児殺害のエピソードです。ヘロデが、イエスの出現を恐れて、同年代の幼児を全て殺させる、というもの。 命じたけれども、自分は手を下していない。そのヘロデ王を審判の場に立たせたら・・・そんな景を考えました。 (X)

2017-03-30

ハンドルネームと題名をかぶせているのは、偶然なのか、意識してのものか・・・ 音の言語化を試みるところから、雪解け水を想起し(想像する、というよりも呼び出す、に近い、イメージとして現前させる、感覚)そこから「青い空」のイメージを引き出す・・・のは、凍てついた心(時代)の雪解けと晴れやかな空を呼び覚ましたい、という心象の言語化でもあるのかな、と思いました。 ホログラム、という、現実でありながら捉え難いもの・・・と、音の響きとの関連が、今一つ掴みがたいのではありますが・・・張りつめた、という硬質な世界を、まろやかで調和したものに変化させていきたい、という、柔らかい意志を感じる作品でした。 (ホログラムのアリア)

2017-03-25

かなり前、の時代になるのか・・・婚期を逃した女性を年末のクリスマスケーキ、などと揶揄した(された)記憶が・・・。今、そんなことを言ったらメタメタにバッシングですが。 三行目で「俺は~」とネタばれするのは、少し早すぎやしないか?と思ったのですが、ここでくすっと笑わせて、後は一気に喩えの面白さで読ませる・・・ためには、やはり最初から「俺は~」と「定義」しておく必要があるのでしょう。 軽さの中にひょうひょうとした批評性もあり・・・彼女を未だに諦めていない(諦めきれない)自分のしつこさ?を油臭さになぞらえたところが面白い。彼女にとってはしなびたネギ、でも、自分はまだまだギトギトだぜ、と宣言しているようでもあり・・・。 (消費期限)

2017-03-25

オノマトペから始まって、一気に言いつのるような焦燥感のある一行の呼吸。 ずるり、という言葉の醸す不穏なムードは、びろうな表現ですが月経中の血の塊が降りる感覚を連想しました。実らないまま流れ去って行くもの、のイメージ。 詩脚をそろえた甘めの二連目は、このまま感傷的なポエムとなるのか、と思わせて、ギシリ、というこれまた不穏な音を入れて、更に前頭葉という術語を持ってくる。 余命という言葉の重さは、自分もしくは愛しい人(大切な人)が、今、まさに命を失おうとしている、そのことに対する思いの重さを背景に有している言葉であるように思うのですが・・・この作品全体から感じるのは、春雨のムードにのせた、失恋の感傷のような、若さやみずみずしさの感覚。 私の読み取りが間違っているのか、あるいは「余命」という言葉をカッコよさで選んでいる、のか・・・そのあたりの判断に迷う作品です。 (はるの雨夕)

2017-03-25

冒頭の入り方、とても良いと思いました。現実界の出来事であるような書きぶりながら、三連目あたりで、比喩としての「神様の居場所」本当に自分が還るべきところ、を、探す話なんだな、という深みが増してくる。 六連目まで来て・・・さまよう魂の道行きの物語、というイメージで読んできて・・・女子高生、ここねえ・・・現実のような、でも非現実のような(魂の片割れ、的な、アニマのような)存在が現れて、神社への道を教えてくれて、そして忽然と消えてしまう、あるいは見失う、という「事件」があって、「一緒に神社に帰るんだ」と叫ぶ、あたりで止めても良かったのでは、という気もしました。 夢オチ的な終わり方も、なんとなく「ありきたりだな」という感想に至ってしまうし・・・後半四連の疾走感、面白いのだけれど、もう少し推敲して、言葉を(前半のように)絞っていってもいいのかな、という印象もあり・・・光り輝く彼女、と、一つになる妄想(法悦の境地、的な)を描いて、むしろそこに(想像の世界で)突入していくような飛躍の仕方があってもよかったのかな(このままだと、あまりにも女子高生が現実感あり過ぎて、安っぽい感じがしてしまう) 前半と後半の質感の違いを意図しているなら、文体(詩形)を少し変えてみるとか、途中に一行アキやアステリスクをつけて二連構成にするとか・・・いっそ、女子高生を見た、そこから後は、筋の通らない言葉が勝手にあふれ出す、というような形式にしてみるとか(ひらがな、カタカナばっかりとか)文体に工夫を加える余地があるような気がしました。 (セイヨウカガク)

2017-03-30

最終小節、という題名。最終小説でもあるのかな、歌詞の形を使った書簡体小説を連想しました。 4343と続く整った詩形の美しさ、リフレインまではいかないけれど、脚韻を踏むように余韻を重ねていく音感の良さ、対句的な印象の刻印の仕方、このあたりが魅力の作品だと思います。 「淡いオレンジ色が揺れていて それは揺れ動く鼓動のよう」 「褪せたセピア色が愛しくて それは止まらない時のよう」 こうした比喩が素晴らしい。素晴らしいだけに・・・風のように消えてしまう、とか、(朝が来たら消える)星のように消えてしまう、これはいささか常套句的で、モッタイナイ、と感じます。 五連あたりが、盛り上がるところ、のはずですが・・・ひとめぼれは~というような一般的な言い方で留めるのではなく、もっとここを掘り込んでほしい、と感じました。彼の輝きが、いかに語り手の心に深く刺さったのか、残ったのか、あるいは心を奪い去ったのか。そのあたりを、もうひと押し。 (最終小節)

2017-03-30

花緒さんへ 怖いですか(笑) 今、ネットで話題になっている東大(教養学部?)の卒業式祝辞の中で、自らを焼き尽くして、その中から新生せよ、というようなニーチェの言葉がありました。まず、自分を滅ぼしてしまいたい、それからだ、というような思いは、常にあります(たぶん。) アポロン的な美とデュオニソス的な美、の他に、ガイア的というのか、大地母神的な美というものが、あるだろうと思うのですね。生成に関わる、畏怖を伴うなにか。 日本風に言えば、アマテラス(アポロン)的な美と、スサノオ(デュオニソス)的な美、そしてイザナミ(ガイア)的な美。父権性が強まった後、イザナミは山姥に格下げされて、民間信仰の中に生き続けることになるわけですが・・・。ミューズはどちらかというとアポロン系で・・・金髪に純白の衣服、花を摘み、琴を奏でて小鳥と遊ぶ、というような清純な美少女のイメージですが、私の思う「詩の神」は、カーリー女神のような、太母、大地母神的なイメージです。(答えになってないですが) もとこさんへ はい、かたつむり、がイメージソースです。以前話題になった、『でんでんむしのかなしみ』という絵本も被っているかもしれません。自身の悲しみを抱え込んで、その中に感傷的に浸る・・・生誕以前の安住にのめり込む、のではなくて、殻をぶち壊してやるから、外に出ろよ、自分の感性だけを信じて、先に進んで行けよ、的な(やっぱり、コワイかな) fiorinaさんへ 宿命の重荷、オイディプスですか、なるほど・・・深いところで連想を辿って頂けて嬉しいです。剃刀の刃の上でも、カタツムリは傷つかずに歩くことができる。そういう実験があるのですが・・・そういうことを確かめよう、刃の上を歩かせよう、という発想は、確かに残酷かもしれないですね。 大学院で、学会発表の前に、討ち死にしたら骨くらい拾ってやるから、思い切ってやってこい、というエール?を頂いたことがあり・・・なんだか、剣の橋を渡ってこい、死んでも知らねーよ、と言われているような気がしてすくみ上ったことがあるのですが・・・詩を書くということは、どこか、そんなイメージもあるのかもしれません。 (雨後)

2017-03-30

fiorinaさんへ 再コメありがとうございます。感覚を、大切にしたいですね。 エイクピアさんへ 文字の音声化というのか・・・黙読でも、音声に解凍されてから意味の引き出しや連想への飛翔が始まる、と考えると・・・詩の質感や手触りは、意味を主体として伝える通常分(散文)よりも音声や面立ち(詩形や空間の取り方など)に左右される部分が多いのかな、と思います。日本語の二人称の呼び方は、実に難しい、いつも迷います・・・。 黒髪さんへ そうですね、名指すこと、名付けること、によって、他者の脳裏にイメージや質感を移し替えていく・・・呼び覚ましていく。そんな魔法をかけるのが、名辞かもしれません。 (雨後)

2017-04-02

中学までは、まあ、そこそこ点数を取っていたのだけれど、高校に入ってサッパリわからなくなり・・・学年テストで、途中式も全部書いたのに0点、ということがあって、職員室に質問に行ったのですね。なんで、部分点をくれないんですか、と。 そうしたら、本当にごめんね、という顔をして、「悪いけど、一行目から、考え方そのものが、全部、違ってるんだよ」と・・・。 その時だったかどうか忘れましたが、1÷0が、なぜ1では無いのか、という質問をした時の、先生の眼の白黒加減も良く覚えています。 ホールケーキを2人で分ければ、1÷2=2分の1。4人で分ければ4分の1。 0人で分ければ・・・つまり、分けないんだから、1、まるごと残る。0になるのは、おかしい。 先生は、分けない、んじゃなくて・・・と言ったところで、頭を抱えてしまいました。数字をイメージに置き換えるくせは、いまだに直っていません。 余談ばかり書いてしまいました・・・ (πをわりきる)

2017-03-30

これはまた、なんというか、ひらひらひらひらした詩だなあ、と・・・ 蝶の飛翔のイメージと、ゆらゆらふわふわした感じの語感が重なりました。 歌謡体というのでしょうか、呼びかけの意識が強いのは、想定する読者がいるのか・・・。 蝶と「つくし」は、特に結びつかない。幼子(あるいは幼児期の記憶)とは、結びつく。いつくしみ、という言葉の中にも、つくし、が入っている。 「追い越していく雲の向こうに/約束を結んである」この一行が素晴らしい。 でも、全体に言葉の選択が、ゆるゆる、という感じだな、というのがあり・・・ のどかな春の空気感を出したかった、のかな、と思いつつ。 「今日の中に精いっぱいを見つけて」精いっぱい、という副詞?を、名詞として用いている、こと・・・ここで立ち止まるのですが、たくさんの発見により、充実した新鮮な日々を送りましょう、という、あまりにストレートなメッセージが置かれているようにも見え・・・。題名のあえて構えたような感じの硬質さと、本文のふわふわ感との関係に、何か意図があるのか、どうなのか・・・と、色々疑問を感じる作品でした。 (蝶の示すような愛情)

2017-03-30

硬質な抒情詩。印象に残りました。 内省(内声)を詩形でも明確にして、対話としている。 秋のショーウィンドウ・・・複雑に屈折したガラス面に、希薄な影となり、なおかつ複数に分断されて写り込む自分の姿、そんな情景を、心象風景として書き込んでもよかったかな、と思いました。 秋の街路、ですからね・・・最後は「秋の公園」に到り、そこで噴水と対峙するわけですが。 詩のように・・・この直截な比喩は、「詩」は安心を与えてくれるもの、という作者の詩論というのか、前提が現れている部分のように思いますが、このあたりは、もっと疑い深く、詩を書きながら、詩に疑念を持つような批評精神で対しても良いように思います。 (秋の街路(2016.11.01))

2017-03-30

なんだなんだ、この「理屈っぽさ」が、妙に心地よい感覚は・・・と読みながら思い出したのが、川崎洋さんの「ぺんぎんの子が生まれた」を読んだ後の読後感、でした。 ぺんぎんの子が生まれた 父さんと母さん それぞれのおじいさんとおばあさん さらにはひいじいさんとひいばあさん と ほんの二五代さかのぼっただけで この子の両親を始めとする先祖の総計は 六七一〇万八千八百六二羽になる そのうちのどの一羽が欠けても この子はこの世に 現れなかった ぺんぎんの子が生まれた 川崎さんの詩は、子供に命の大切さ、存在の貴重さを教える、というしごく真面目な観点から(ひょうきんな語り口ではありますが)書かれているので、途中でぶっとんだりしませんが・・・ 北さんの詩は、そうした「まじめ」なメッセージと共に、大真面目な顔をして他愛もない話題に振ったり、自由に想念を飛ばしたりして、枠からはみ出している。 「貴方は、宇宙が生まれたその瞬間にまで記憶を馳せ、 そこから今に向かって、正確な綿密さで編み込まれた量子的波の上で、 今までを思い起こさなければならない。」こういう、教科書に載っているような正攻法の文章を「いきなり」提示されたら、堅苦しい、めんどくさい、と拒否反応が起きるかもしれないけれど、その前段に・・・とぼけたような、え、この話、どこに行くの?という迷走のような真面目なような展開が置かれているので、なるほど、という納得感が生まれるのだろう、と思いました。 「これらの膨大な数の事実の集合体、これこそ、真実という眩しすぎる光の玉!」 こんな一節は、私の好きな伊東静雄の「孤寂なる発光体」というような、人間の捉え方にも通じるものがあるなあ、と思ったり・・・ ただ、「ありがとう」から始まって、「ありがとう」で締める枠構造、安定感があり過ぎませんか?特に、終行は、作品全体を感じて読者が考えること、であるような気がして・・・作者に言われると、ダメ押し感がある、かも。 だからこそ、という論理的であるような顔をして、実は此処では論理的に接続していない、という面白さはあるけれども・・・「ありがとうとは違います。 私たちが普段使用しているこの感謝という言葉について、 私たちは何を感じ、何に対して謝っているのでしょう。」で止めるとか、 「だからこそ、まずは・・・」というように、途中でぶち切りしてみるとか、そんな工夫があっても良いかもしれない、と思いました。 (真実の体積)

2017-03-30

アルファベットの羅列は人ゲノムか?とか、スポーツのところに□が沢山並んでるけど、これは何だ?と思ったら、全部「絵文字」だったんですね・・・ emoji が wasabi や sushi と同様、国際的に認証されつつある、と聞きますが・・・互換性の問題とか、解決されなければならない問題が多すぎるようにも思います。 たとえば、様々なスマホにデフォルトで入っている(こういう使い方でよいのか?)絵文字を順番に連打していく、それを詩として提示する、というのは、たとえば「偶然性」を選択したことになるのか、どうか、とか・・・ ネットに接続すると、「感受性の祝祭」である現代社会(ネット空間)の中をさまよっているというのか、情報の海に放り出されている感覚になるのだけれど、そんな圧倒される量感のようなものを、言葉遊び的に、ちょいとひとひねり、というような、組み伏せるというほど大げさではなく、手元で操作してみせる、というような・・・なんだろう、ネットに溺れている者を尻目に、サーフボードですいーっとすべっていっちまったぜ、おい、的な感覚になる「詩」でした。 「詩」とカッコに入れたのは、互換性のある、つまり、創作者と読者とが同一条件で読める、という前提のもとに「文字の芸術」としての詩を投稿する場所だよね、という前提条件があるわけで・・・これは、同じ土俵で勝負していることにならないのではないか?という感覚があるから、なのですが・・・ プロレスとかで(ほとんど見ないけど)場外から乱入してみるとか、ロープの上から飛びかかってみるとか、そういう「イレギュラー」をむしろ見せ場として用いて、観客を楽しませる、その感じに近いのかな、とか・・・ 『地名論』批判、を意図しているのですかね、これは・・・。詩史の上では「でかい出来事」となっているけれども(そして、アンソロジーなどには、必ず引かれる、けれども)いわゆる、ある一時期、話題になったもの、の代表作一例、というような感じ、なのかな・・・ 「おとのかたまりが壁に投げつけられて」こういった表現(状態、感覚)を、もっと掘り下げて行って欲しい、というのが現段階での感想です。 (ようやっと普通の詩を書いてきたと思ったら)

2017-04-02

黒い瞳、という歌があったなあ、と思いながら・・・ 子猫ちゃんの真ん丸な黒い瞳、を連想し・・・夜に出会ったあやかしの魅力をたたえた存在、をイメージしました。 おんな、としか思えないほど、しっとりとなついて馴染んで・・・誰よりも身近に居てくれて、自分の悲しみも苦しみも全部、黙って、その目に吸い込んで見守っていてくれた、そんな愛猫が、今はもういない、という空虚感。凍てついた青空に、ペンで乱暴に描き殴ったような裸木が林立している寒々しさを想いました。 言葉の切り方(語尾の余韻)、寡黙で無駄を省いたストイックさが凛々しい文体。 (目)

2017-04-05

自然に言葉が発せられているように思うのだけれど、周到に練られている、感があり・・・モード感がある、と呼びつつ、この詩をどう、評すればいいのかわからない、けれども、惹かれる、という・・・うむむ。 冒頭に文字で「音」を持ってきたところが憎いですね。 (薄明)

2017-04-18

一二連目の古風な感じは、どこから来るのか、と思い、もとこさんのレスを見て、そうだ、西脇が居た、と思い・・・ 自由連想を書き連ねたような顔をして、伏線を縦横に張り巡らせた作品。用意周到だと思ったのですが、レスを見ると、かなり無意識的に抽出されているようでもあり・・・。 冒頭、生贄のイメージがありながら、生々しくない。古代ギリシャというのか、地中海の香りがするのは、サモトラケのニケ像のようなイメージとか、書庫とかヒヤシンス、僧侶、などの単語が喚起する複合的なイメージの故でしょうか。西脇の「カルモヂイン」苅藻寺院、のような明るさ(実際は愛用していた睡眠薬の名のもじりだそうですが)を連想したところで、二連目の、もとこさんが西脇的と評する秋祭りの景に入る。 蠍の祭り、これは宮沢賢治の蠍の心臓を喚起させますし・・・「ぼくたち」が「ぼく」になって、「きみ」を捜す永遠の旅に出る、という展開を夢想するなら、犠牲となって(人類の罪、誰かの不幸の身代わりとなって)死んだカンパネルラを捜すジョバンニの旅、のようでもあり・・・。 三連目の「かみのようにまっしろく」これは、紙に記された物語、を連想すると共に、神のように真白く・・・19世紀以降の、白いギリシャのイメージを喚起します。神々に捧げられた葡萄酒のイメージ、神の血、人間の罪を贖うものとしての贖罪の血、のイメージも重なる。 冒頭で「ぼくたち」であったはずの、幸福な状態を求め続けてさまよう主人公、その舞台としての、少し古典的なギリシャ風(東洋的ギリシャではなく、西脇や近代西欧人たちが夢見た、ヨーロッパ文明の故郷としてのギリシャ)の風景が印象に残る作品でした。 灯台も、人間を啓蒙するものとしての、知の灯台、啓蒙の灯をともす白い塔、のイメージでもあります。 (one)

2017-04-02

言葉の区切り方(呼吸や間合いの取り方)がとても上手いと思いました。 私だけではないと思いますが、読者が予測する切り方と異なる区切りで刺激され、その間合いや、一気に流れ出す勢いに感情を刺激される。音のない音楽のような(映画で感情を作りだす音楽のような)役割を果たす。 何を捜しているのか、何をしようとしているのか、それが明確にならないまま(具体的にならなくても全然かまわないのですが)自分の奥深くに入り込んで行った時に出会う、四方の壁が蛍光灯の冷ややかな質感を持ったライトテーブル(漫画家がトレースに使ったり、写真家がネガを確かめるのにつかう、あれ)で囲い込まれているような、ある種パニック障害を引き起こすような環境に追い込まれる(ことがあるように思う)その感覚が、うまく表現されているなあ、と思いました。 「終わらないまま、」の一行、これ、一行のままで良いのでしょうか・・・ 私だったら(あくまでも一案ですが) 終わらないまま、暖色の肌寒い光が、 カーテンの隙間から ゆっくりと 刺し、 ピストルは真っ直ぐ伸ばされ、 銃口は私を 向き、 というような感じに、するかもしれないなあ、と思いました。 もちろん、一気呵成に絞り出して、そこから「よーい どんっ」に向かっていく、ということでいいのですが・・・ ピストルが、運動会の「競争開始!」というずっこけるような「オチ」で、緊張しまくっていた気持ちが解放される、そこに眼目がある、ならば・・・(もちろん、競争に駆り立てられること自体が、また新たな白い箱に閉じ込められる、追い込まれることになる、のであれば、そうした伏線も必要かもしれませんが) 銃口が私に向けられる、という緊迫感は、もっと、このまま殺される!という緊迫感を持たせた方がよい、と思うのですね。運動会の「よーい どんっ」は、銃口は空に向いていて、「私」には向かっていない、わけだし。 (開幕エンドロール)

2017-04-03

冒頭は、演歌的展開(涙、波止場、マドロス、的な常套句連投)を予測したのですが、三行目あたりから、ちょっと姿勢を正して読み直す、感じになりました。 初読の印象は、千鳥ヶ淵に散る桜、かつて千人針に無事を祈り込めて身近な大切な人を送り出した老婦人が、静かに歌った詩、という感覚です。 「花のおもひでは莫かれ」莫かれ、と流れ、とをかけているのかな、とも思うのですが・・・泪と泣く、悲しむ、このあたりはあまりにも同系色なので・・・色合いがぼんやりしすぎて、テーマの見えずらい絵、のような印象を受ける部分はあります。そうした曖昧さが心地よい、という読者もいるでしょうけれど。陶酔性が強すぎるのかな・・・題は「詩情」と超ストレートですし、一行目から 酔わせる、ですからね。 (詩情)

2017-04-02

自爆テロという、絶望の果ての凶行(西欧先進国が追い詰めていった結果、でもあるので、手が重くなりますが)が、驚く程の身近さで起きている現在、を・・・言葉の次元でとらえると、こういう形になるのかな、と思いつつ・・・直接つながっていないように見えるものごとが、予想外に繋がっている、という感覚に言及されている感もありつつ・・・表現の軽さ、というのか、表層性と、自爆テロ、というテーマの持つブラックホールのような重さとのアンバランスについて考えざるを得ませんでした。 もっとも、どれほど重厚に生真面目に深刻に語ったとしても、自爆テロがすぐ身近で起きる、すぐ隣の人がその悲惨に関わっている、という、世界史的に見ても異常事態といえる現状を表し得るものではなく・・・自らの来ているTシャツの言葉の意味すら気にせずに、単なるファッションとして消費していく現在を「批判」するためには、こうした、軽薄さというのか、軽く流していくような表現形態をとるしかないのか、と思い直しつつ、やはり、テーマに比して、表現が表層的すぎないか、というのが、感想です。 (Without knowing anything, but not do anything, the bomb is dropped, children are blown off.)

2017-04-02

震災と原発以降、「デブリ」には宇宙衛星のゴミ、という遙か遠いところでの出来事から、原発デブリという、人類への害毒を発し続ける、それでいて非常に身近な物質へと、言葉の質感、語感が変わってきている、と思います。その変化を体感的に捉えていると思いました。 ご自身のことを書いている、はずなのですが、同時に、人類がエネルギーや利益を「食って」いたはずなのに、実は命を、健康を「食われている」現状も、背景に(ということは、作者の思考の中に)響いている、と思います。 「あれ食われてるのはこっち側だよね、)」この口語表現、あれ、と句読点を打った方がいいかな、と思いました。 最後が解放かっこになっている、これは意図的なものか、うっかりミスかわかりませんが・・・まだまだ続く、という余韻を残す、良いエンディングだと思いました。 改行の仕方などもよく工夫されていて、何度も推敲されているように思います。丁寧な作りです。 何に対するアンサーソングなのか。私たち一人一人が、考えねばならない問題だと思いました。 (Answer song)

2017-04-03

公立高校なのに、音楽の先生の趣味で、なぜか卒業式や入学式にヘンデルの「メサイヤ」のハレルヤコーラスの部分を歌う学校だったので、語感の晴れのイメージだけではなくて、春とハレルヤのイメージが重なるのですね。 ビターチョコレート・・・と四月。どうしても、チョコレートというとバレンタインを連想するのですが・・・ 「この交差点の先は唐突にくだり坂、そしてその落差こそが修羅だと 今まで何度もあなた達に聞かされた苦しみの話と、哀しみを巡る季節だと」 このあたり、とてもいいと思います。 この詩では学生のイメージが強いのですが、社会人にとっても、「春」は悦びではなく、苦悩や不安の季節の始まりであることも多い。 春、ということで、全体に浮ついた感じの町のイメージと、重さに打ちひしがれるような主人公のイメージ、それなのに青信号で前に進まねばならない、そんな強制感が伝わってきました。若々しさを感じます。 (春のひと)

2017-04-02

冒頭三連、軽めの筆致で、口語も混ぜて、気楽に導入しておいて・・・「酸素」空気じゃないの?というアクセントに刺激され、そこからいきなり「そろそろタトゥイーンに行ってきます。」に飛ぶ。そこで、「空気」ではなく「酸素」である必然性のようなものに、納得させられる。 職場という閉鎖空間で、窒息しかけた魂を救済するための場所、が、たとえばタトゥイーンであるのかもしれない、などと思いました。 「火の無い所に~」あたりから最後まで、におい、と関連してくる部分ですね・・・俗っぽい読み方ですが、題名の「さんかく」が、三角関係、の暗示でもあるように見え(それは噂であって、事実ではないかもしれないけれども)そうなると、「しかく」は死角でもあるのかな・・・職場だけに、資格、も当てはまりそうですが。 「私を誰も客観視することはないのだった。」という終行、「私」が噂の当事者にされているようにも読めて、面白かったです。 (さんかく、まる、しかく、におい)

2017-04-02

オーソドックスな作風ながら、「地中深くに眠る自分のところまで」まずここで驚かされ、五連目の突出する感情におののかされ・・・ 「死なれる嘆き」日本語としての「こなれ」はどうなんだろう、と思う所ですが(キーワードだけに、気になります)母に「死なれる」、母が自分を置いて死んでいく、その際に、自分は嘆くだろうか。母は、私に微笑んでくれるだろうか、そんなことはないだろう、無いに決まっている。そんな冷たい予測のようなもの・・・その凍てついた感じと、土の中に、既に死んだように眠っている球根に自分を比す娘のイメージが重なります。自分の魂を死なせて、土に埋めた者が語っているようにも読める。「死なれる嘆き」に主語が無いので、娘に自死される嘆きを、母は嘆かない、という穿った読み方も、できなくもない。 母の死を歌っているように見えて、自分の魂を土に埋めた者が、幼年時代(あるいは赤ん坊の時)の母の微笑によって再び新生する、そんな「春を待つ」であるような気がしました。 (「春を待つ」)

2017-04-02

なるほど・・・なぜ、まず自身を土に埋めたような、感情を凍結するようなところから始まって、「母の死」に到るのか、そして、母は死に際に、「私」に感情を残していかない、私も嘆かない、と、相互の感情の往復が凍結、もしくは遮断されているような印象が出て来るのか、と思っていたのですが・・・お母さんが死んじゃったらどうしよう、という不安を、むしろ自身の感情を凍結させることで事前に堪えよう、準備しよう、としていたのかもしれないなあ、とか・・・あまりにも嘆きが大きいかもしれない、から、だからこそ、嘆きそのものを否定するような、自己韜晦的な表現が出て来たのかもしれない、と思い直しました。 もちろん、そうした作者側のコメントに感情移入しすぎるのもよくないことかもしれませんが・・・この作品の持つ不思議な重層性の謎が、少し解けたような気がしました。あ、もちろん、「韜晦」は悪いこと、ではないですよ。むしろ、感情の強度を残して、なおかつ事実を虚構に作り直していく、生み直していく過程が、作品化、ということかもしれないので・・・。 (「春を待つ」)

2017-04-03

私も花緒さんのように、石窯が並ぶ部分は、ザーッとスクロールしながら読んでしまったのですが(丁寧に読もうとしても、立て並びになっているので、だんだん目が麻痺してきて、ザーッと流し読みしてしまう)「タウンページ」を流し読みしながら、この町にはこんなにたくさんの店があるのか、と「総体」として圧倒される、ような・・・一つ一つの名辞が意味を持つ、ということではなく、むしろ大量に並ぶことによって意味が希薄になり、とにかくたくさんなのだ、という「かたまり」として飛び込んでくる効果が生まれると思いました。 そして、これを縦書きでやると、どんどんページを繰って行くことになってしまう。めくる、という行為の時間差、手間が、これはどこまで続くんだ?という苛立ちに結びつくかもしれないけれど・・・パソコン画面ならスクロールで読み流していくことになる。その後の「私」がパンを買ってからの連が、一気に解放する感じで良いと思いました。石窯焼きという、手間も工夫も凝らすはずのものが、誰もが「石窯焼き」を導入することによって、陳腐になってしまう、平凡化されてしまう。その、大量にあることによって希薄化されてしまった「石窯焼き」の本来の意図、意味を、一人の部屋で一人で賞味することによって確かめる、取り戻す。 「現代詩」における、ある種のスタイルの流行を、寓意的に批判しているようにも読めました。 前半、ここまで丁寧に書き込む必要があったろうか、もっと早めに、石窯の連呼に突入してもよかったのではないか、とも思います。 (石窯パン)

2017-04-07

すこうし、冗漫だなあ、というのが、初読の印象です(ごめんなさい) いつまでも独身貴族の息子に、お母さんがのどかに、電話をかけてくる。うるせえよ、と思いながらも、もしかしたら、どこか嬉しい気持ちもありつつ、息子は辛抱強く、母の電話を受けている。そんなほのぼのした親子関係がうかがわれるような作品でした。 作者の、実際の親子関係の反映であるのかどうかわかりませんが(そして、実景でも、創作でもどちらでも構わないのですが)、なんとか話の接ぎ穂を探ろうとして、スマホの使い方がわからない、なんて甘えて見たりする「お母さん」の必死さであったり、主人公より北の地に住んでいるらしい母(故郷)の風景が垣間見えたり・・・最後が「もう」ではなく、「まだ」と捉える息子の優しさのようなものが見えたり。 最初の「ずっと同じはなしをきいてる」の後は、最終連の二行重ねのところまで、省いてしまってもよいような気がしました。リフレインの効果というよりも、冗漫さの方が勝ってしまう、ような気がするし、二連目、三連目を、時間で始める方がスタイリッシュになるかな、と思うので・・・。もちろん、私の勝手な意見ですが。 (ずっと同じはなしをきいてる)

2017-04-02

前半、ずいぶん軽めで「きれい」な詩だなあ、と思いながら、だんだん鋭くなっていく、怖くなっていく。鋭角の角度が増して、最後は砂時計が落ちるように、あるいは、なにか絞った滴りが落ちていくように、形の上からも崩壊していく様が伝わって来るように思いました。 最後、誕生、で締めくくる。そこに作者の「思想」が反映されているのかもしれませんが、少し安易な終わり方であるような気がします。 互いの心臓を切り裂いて貪りあう様な、どこか刹那的な愛が見えて来るようで、それはポーズに過ぎないのか(極端な言い方をすれば、ですが)という思いが兆してしまう。最後はそうあってほしい、そうありたい、という願望に収斂していくとも読める。レスを読んでいて、「ぶりっこ」という言葉があり・・・刹那的な烈しさに突き抜けていくのではなく(突き抜けなければいけない、というわけでは無いが)死、その後の再生、生き直し、という方向にするりと抜けて行ってしまう、その軽さへの回帰が、ポエム的な印象を与えることにもなっているのではないか、と思います。 「忘れらんない」とか「飛んでみたかったんだぁ」といった口語は、用い方が難しい。あえて甘ったれた感じ、を出したかったのであれば成功、なのですが・・・お互いに(もう一人の自己と)烈しく切り裂くように、血みどろになって「合一」しようと欲するのに(そうした全体性の回帰願望がくっきり描かれているのに)表現上の軽さ、ぶりっ子っぽい感じ、へと、再び自らを分離し、むしろ「甘え」の中に、自らを追い込んでしまってはいないか。甘ったれた感じに味付けするのが、自分らしさ、なんだよね、というような、自ら作った狭い枠の中に、もう一人の自分自身を詰め込んでしまってはいないか・・・そんなことを、じっくり考えさせられる作品でした。 (ぼくたちの青色廃園)

2017-04-07

冒頭、翻訳文のような印象を受けました。「ことを憶えている人であれば」とか、「ささやかなものとなるだろう」というようなフレーズというか、語感ですね。時間、時の遡行。詩的情趣に富んだ、随想(エセー、いわゆるエッセイではなく)の一節を読んでいるような感覚が、裁ち切られるようにして「羊皮紙」の連が現れる。この連が、私にとって、もっとも「散文詩」だと感じさせる部分です。書かれなかった歴史、ではなく、書かれたけれども消され、書き直され、失われていった歴史。更新され続ける世界、という極めて現代的な(インターネットが普及して以降の)世界観が、羊皮紙を用いていた時代までのスパンで重層化される。現代的な世界観で、数百年を透かしながら見直していくような・・・ガラスに描かれた歴史の層を、重ねて、それを裏側から見ているような感覚、と言えばいいでしょうか。 クメールの織り手の章、モーリシャスの章は、意図的に詩的情趣を覗いて、即物的に記述されているように見え・・・ある種の写生文と言いましょうか、そこに歴史観や批判精神も垣間見えるように思うのですが、冒頭のエセー風の部分、「羊皮紙とは、わたしにとってなにか。」の章の詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました。 「ひとつひとつの物語は、世界から流れはじめた血液のようなものに思える。」この一行を導き、説得力を持たせるための、具体的事例・・・と呼ぶには、歴史叙述的部分の分量も重量も多い。欧米の植民地であった(そのことによって、物語が消され、別の物語が書かれるという形で更新されていく時間)地域を、オムニバス風にもっと断片化して、複数の例として配置する方法を採らずに、そこに入り込んで詳述していく方向を選んだのか。そういった創作意図のようなものを知りたいと思いました。 (no title)

2017-04-07

訂正:意図的に詩的情趣を覗いて→除いて  そこに入り込んで詳述していく→なぜ、そこに入り込んで詳述していく (no title)

2017-04-07

千鳥ヶ淵、ではなくて、「英霊」の祀られている靖国、のハンカチ。 使ってください、と何のこだわりもなく言える世代と・・・宮城の方を向いて毎朝礼拝し、路面電車の中でも、宮城のそばを通る時には帽子を取って敬礼したり礼をしたりした、そんな世代にとっての「靖国」の意味の差は、きっと大きいと思います。 渡されたものの・・・畏れ多い、という思いがあったのかもしれない。その後、これ、何のハンカチだっけ、と問いかけた、のかもしれないけれど・・・どうしよう、もったいない、と、押し頂くような感覚で、少しおろおろしていたのかな、という気もしました。 会話主体にしているところ、無駄を省いているところ(人物説明とか一切抜きで)がとても良いと思いました。戯曲(詩劇、というのもありますが)の一節を読んでいるようです。 文科の学生から、まずは出征させられた・・・人の心を作る、育てる、そのための人文学がまず切り捨てられて、医者や工学、電気技師といった実学の者たちは、国家の為に奉仕させられた。本当は詩人になりたかったのに、父親に無理やり工学部に進学させられて、そのおかげで出征を免れた大正生まれの方が、自分は生き残ってしまった、死に損ないなんだ、と、しばしば語っていたのが心に残っています。詩を書き続けているのは、彼等に対する弔いなんだ、と。そんなことを、思い出しました。 (供養)

2017-04-05

可愛いような、軽めの題で、ドドーンとこれを持ってくるか、という・・・。 「あそぼう震えて痙攣して細動で」このように畳みかけていく音感とか、ひらがなの部分で読みのスピードを少し抑えていくような手加減(結果的に、子供の言葉のような舌足らず感とか、もたもた感が加わる)・・・言葉の響きというのか、脳内で音声化されていく時の流れやメリハリが面白い作品でした。電子音声で、通信が途絶えていく(通信者も飲み込まれるなりして滅びてしまった、後の)ようなエンディング、横書きで、白黒のラインがザーッと横に流れて行くようなイメージも面白いですが、縦書きだとひたすら下に下に落ちていく感じになりますね・・・。「巨獣の細動はふしぎなちからで森を暗くしていく/森はもうだめだから巨獣はあそびはじめたんだ」巨獣(居住と同じ音ですね)が森を破壊していくのではなく、暗くしていく。「ぼくら」は、人間かと思って読み始めたのですが、むしろ「ぼくら」こそが森を(命の住む場所を)増殖しながら破壊していく存在のようでもあり・・・。原発(巨獣)と放射能(ぼくら)なんて読み方もできそうです。 縄文時代からの時間を想起させる「椎の実」、思惟とかけているんですね、恣意ではなく・・・「ちりばり跳ねて」ちらばり、ではなく、ちりばり?楽しい表現ですが、ここはこれでいいいのか? (ふぁんしーあいらんど)

2017-04-05

ディストピア後の世界を描いているようでありながら、アルファ、これから始まる予感。「われら孤寂なる発光体」(伊東静雄)を思い出しつつ、半額の・・・でちょっとずっこけ・・・(スーパーマーケットで、少しくたびれて半額になったレタスを連想してしまいました・・・)宇宙に旅立っていくようなイメージから「ぼくたま」(日渡早紀でしたっけ)を連想したり・・・。 植物の電気信号をとらえた写真を見たことがあります。闇に発行する、命の光。水分子を突き抜けると光るというニュートリノ、とか・・・命と発光って、なんで繋がるんだろうな、と思いながら・・・「彼」を見送る「アタシ」が、星の王子さまと薔薇のようにも思えてきたりするのでした。 言葉が綺麗すぎるのが、何点(じゃなかった)難点かなあ。「半額になったアタシの」の連、詩脚がそろっていて、見た目にも美しい、リズムも整っていて、バロック音楽のような美しさになっている、と思います。その整然とした美しさのゆえに、「密告者」とか「遺跡」とか「半額」とか、本来ならそこで立ち止まるはずの言葉をするっと飲み込むように読んでしまう。「ぼく地球」的なイメージを喚起されるのは、こうした言葉をさりげなく埋め込んでいく手仕事の故かもしれません。 (Alpha)

2017-04-05

三連目、四連目で、へえ、そういう展開になるのか、という驚きがありました。 ウィットに富んだ、童謡的な気持ちを含んだ作品だと思いました。 思い出したのは、「それは神の生誕の日」という西脇順三郎の一節であったり、「虹二重神も恋愛したまへり」という俳句であったり、まど・みちおの「ドロップスのうた」などなど。 ウィットをきかせて、日常を少しだけ異なった視点から見てみると、日々に新鮮さが戻って来る・・・そうした、日々の深呼吸のために書かれたようなライトヴァ―ス。 (神様の落日)

2017-04-06

冒頭三連、起承転結できっちりと形と反復のリズムを作り、続く三連で、若い二人の気持が盛り上がって行く感覚を、形を崩さない緊張感の中で盛り上げ・・・一気にサビに突入する。そんな歌の形式を存分に生かした作品だと思いました。 最終連、 「君は反復するスーパースター」ちょっと、安易な感じ? 「光と同じ速さで考える」これはとても面白い 「誰にとっても自分の命は切れるまで生きる」これは当たり前でしょ、とツッコミを入れたくなりつつ・・・自分の命を生き切る、そうした疾走感を持続することの難しさと、疾走感を保ち続ける、あるいは加速し続けることこそ「生きる」なんだ、というような思想を感じる部分。 「少しドジでもいいはずさ」少し「抜け感」があって、ほほえましい感じ、にはなりますが・・・新鮮さには、遠いかな・・・ 「打ちのめされたその目の奥までが優しいね」ギラギラと飢えた獣のような貪欲さ、が、打ちのめされた後、の眼・・・ならば、死んだようにうつろになっているだろう、と思うのだけれど、ここでは「優しい」。本来の優しさ、その人の良さのようなものが、そこに光っている、ということなのかな、と思います。 (日々の)泥濘の中から、キラリと輝くものを見つけ出す瞬間。そこに向かって疾走しようぜ、そんな、自分にも読者にも呼び掛けている歌のような詩だと思います。 (カタログを埋める重言)

2017-04-06

等身大の言葉で、実況中継のように書かれている、のに・・・意表を突くフレーズ(それだけ、新鮮な驚きをもたらす)ものが次々に、それも自然な形で現れる。天性の感覚かな、と思いました。たとえば・・・ 浴槽、身を丸める、となれば、当然胎児を予想するわけですが、そこからちょっとずらして「卵のかたち」。胎児という生々しさが、画家の卵、作家の卵、というような、比喩的に用いられる用法とリンクし、同時にオーヴァルの美しい形(輪郭)が想起される。 「肺呼吸をおこなうほかに」水中で息をしたい・・・魚、あるいは人魚を連想しつつ、息をする、呼吸する、ではなく、「肺呼吸」という理科の教科書に出て来るような言葉が面白い。地上に両生類が現れた時期の絵(理科の図録とか)を連想しました。 「ばかばかしくてしあわせなんだよ」苦しいはずなのに、その苦しさによって、生きている、ということを、確かめているような、どこか陶酔境にあるような感覚か、と思いきや、「いつかそちらの世界に」あれ、生と死の間に選があるとすれば、語り手は浴槽に浮びながら、死の側に近い自分を想定していたのか、という驚き。 生き生きと社会生活を行っている状態を「生」、心身を弛緩させ、精神的に無の境地(安息の状態でもある)に漂っている状態を「死(に限りなく近い状態)」とするなら、浴槽の中で、完璧な輪郭(楕円形)を保っている状態こそが「死(という幸福な安息)」に近い状態、なのかな、そこから手足を伸ばし、躰をのばして「輪郭」を崩していく、のが、「生」ということなのかな、と思いました・・・とはいいつつも、題名は、輪郭は滲むけれど・・・滲むもの・・・ぼやけたり拡散したりしていくものであって・・・崩れたり、途切れたりするもの、ではないんだよなあ・・・と、つぶやきばかりが増えていく、意外さや予想外の感じに沢山出会える作品でした。 (輪郭は滲むけれど)

2017-04-06

言葉を切りつめていくこと、長い時間をかけてブラッシュアップされてきた「五七調」に新鮮な息吹を吹き込んで再生させていくこと・・・これもまた、現代詩(口語自由詩)が切り捨てて来た過去の参照であり、更新であると考えます。 五七調は、七五調(あるいは八六体)の歌謡調とは異なり、刻んでいくリズムといえ、読者の視線が先に流れて行かない。じっくり印象を刻み込んでいくことのできる韻律であると思います。 とはいうものの・・・ 「星雲ごとく」せいうんごとく、と読むのか、ほしくもごとく、と読むのか・・・いずれにせよ、「の」が必要ではありますまいか。 「地々に満ちるる」これも、ちぢに、と読むのでしょうか。千々に、と音韻が重なり、燦然と散っている煌めきを感じる美しい行ですが、満ちるる、これは文法的にあっていますか?擬古文を用いる効果を否定するわけではありませんが、こうしたところで読者が引っかかるのは、もったいないと思います。古典に詳しくないので(葛西さんなど専門家にコメントしてほしい)自信ありませんが(だったら言うなよ、という感じですが(^_^;)「満ちをる」ではないのかな、という気がします。 シリア空爆が行われた直後であるだけに、星灯りと街灯りが馴染むように輝く美しさは、平和の象徴でもあり、願いでもあるように感じます。空爆で闇と化した、破壊された街へ、兵士たちはこれから向かっていくのでしょうか。 全体にリズムが単調になりがちな韻律です。難しいところに挑戦している、その意欲に拍手を送りつつ・・・もし、私が読んだような社会的意識を込めているのであれば、前半をもっと凝縮し(あるいは、もっと美しさを多面的に展開し)後半を不穏な形へ(形式を崩していくことも含めて)追い込んでいく、そんな展開も魅力的かもしれない、と思いました。 (街星々)

2017-04-09

どんな業種であっても、その道を究めた人であったり、専心している人が語る「その仕事の日常」と、その「日常から発見されたこと」「日常の中で考えたこと」は、なぜか哲学的な色彩を帯び、皆、同じような深さを持つようになる、と思うのです。 志村ふくみさんのエッセイが好きでよく読むのですが、陶芸家の文章も、画家の文章も、機械工の文章も、つきつめていくと、同じような達観というのか、卓見に到る、という・・・。 いきなり「近い将来、文芸作品も~」の連を持って来たら「これは詩論であって、詩ではないのではないか?」という疑問を感じたかもしれませんが、段階を追って、ずらしながら、それでいて論理的に積み重ねていく、その時間の経過(思考の経過)が、詩だと思いました。 題名が、そのまま文体を表している・・・現代美術の作品にもありそうな命名法ですね。花緒さんが投稿された作品の中で、これが一番、良かったです。 (プレーン・ライティング)

2017-04-11

自由に前後の字間を想像しつつ(下敷きにした「事実」や「作者の創作意図」、とは離れて、独自の・・・あえていうならば、二次創作として)思い描いた物語は、恋人によるDVに苦しみながらも、彼の飢えた心を見捨てることができない、そんな自分への苛立ちの寸描、です。 散々、彼は彼女を傷めつけ、痣だらけにしておきながら(あるいは心に刻み付けた痣、と読むこともできそう)、彼女を愛おし気に、自らの罪を消し去ろうとするかのように、愛撫する。彼を許しがたく憎悪しながら、彼の抱え持つ痛みに惹かれ、離れがたく、最後にはすべてを許してしまう、彼女。 「彼」のために塗ったマニキュア、それを、事後には剥がし、浴室でシャワーに打たれながら、烈しく声を絞りだす。この「唄」がこの「詩」であると言うには、歌謡的な性格が弱いので、心の唄、と読みたいけれども・・・シャワーの中で、泣きながら彼女は叫んで(声を出しているかいないかは問わない)いるだろう。 「消そうとする」という能動性。「消そうとしてくれる」だったら、家族によってつけられた(あるいは別の男に付けられた)痣を、この「彼」が拭い去ろうとしてくれる、と読みたくなるが、この、能動的な意志的な言葉、語り手自身が突き放すような、第三者的な視点で冷静に観察しているような言葉に、感情の濃度を感じました。 マニキュアの色が、彼好みの色だったのか、あるいは黒とか紫とか、あえて娼婦風の色だったのか(そうなると、この「彼」は恋人ではなく、常に自分を指名してくる顧客、という読み方もできる)でも、この作品の・・・清新さのようなものは、やはり、登場人物「ふたり」が、抜き差しならない、でも切り離せない、不合理だけれども受容する他ない、そんな関係の恋人どうし、なのかな、という気がします。 (log)

2017-04-11

訂正 字間→時間 logという題名の意味が、イマイチよくわからない、というか、つながって行かない・・・丸太、日誌、コンピューターの過去ログ、とかもこれ、なのかな・・・数学のlogは、また異なった意味に用いられるらしい、けれど・・・内容の「小見出し」である必要はないけれど、題名は作品のキャッチコピーでもあり、主題の提示でもあるので・・・この難解な題名には、疑問の余地が残ると思いました。 (log)

2017-04-11

三詩形(短歌、俳句、現代詩)融合の試みが、最近なされるようになりましたが・・・古文と現代文の融合(この場合は混ぜた、というよりも、ポリフォニー的な配置、というべきか?)もあったかあ、と思いつつ・・・ 古文の部分、句読点に違和感があるのですが・・・。ずらっと並ぶと読みにくいので、一文字あけ、などで対応するのはどうでしょう(あくまでも一案です) 「名前という者」これは、者、として擬人化した表現でよいのか、あるいは「もの」「物」なのか、気になりました。 死、が怖いのではなく、死に至る苦悩、苦痛が怖ろしいのだ、と常々思うのですが・・・自分の息子に、いわば死に至る痛苦(もしかすると悶絶、阿鼻叫喚、のごとき)を見せながら、血の気が失せた「ましろ」になって旅立っていった祖母、その壮絶さに、しばし絶句。「母の死に様」を思い出しては泣く父、それは父の中の「少年」の部分でもある。少年とは、世界を感受する童心の部分ではあるまいか。少女もまた、祖母の中にある少女の部分、世界を感受する部分、その魂のようなものが、人の姿をとって現れたように思いました。 ビー玉と「たま」(魂)、目玉をしゃぶって育つ「龍の子太郎」、「死」という実在を刻印して逝った祖母の存在感・・・祖母の眼(世界を見る、視方)を、祖母の死によって語り手は獲得した、とも言えそうですが・・・。 Migikataさんのコメントにもありますが、どうも「少女」との会話の部分が、浮いている感があり・・・私は、この突然現れる「少女」を、祖母の声の記憶が呼び覚ました、祖母の魂の現前、と読みたいのですが・・・漢字を教えてくれた(日本語の奥行きを教えてくれた)祖母と、背に文字を書いて「対話」を試みる書き手と、その背に父を、さらには自分自身を見る、という重層性の表現の部分・・・いささか混乱するように思います。 もう少し、能の橋掛りの部分のような「装置」が必要なのではないか、と思いました。 (あさぼらけ)

2017-04-12

春はあけぼの、という審美眼は、枕草子で初めて打ち出されたものだ、それまでの(古今和歌集)などには無かった、と聞いたことがありますが・・・それゆえ斬新である、ともいえるのでしょうが・・・祖母の死と春(曙という時間帯のイメージ、そこから始まる、という再生の場であるイメージ)が結びつく場に、夏の生命の盛りのクワガタを虫籠に閉じ込めるイメージが、ちらっと出て来て、さらに、祖母の死は冬だ(すべてが眠りにつく、命を奪われる、始まり、ではなく、終わり、の季節である)という部分が、急展開すぎるように感じました。ついしんです。 (あさぼらけ)

2017-04-12

琵琶湖疎水について、ほとんど何も知らなかったので、調べてみました。 第1トンネル東口 伊藤博文「気象万千」、西口 山県有朋「廓其有容」、第2トンネル西口 西郷従道「随山到水源」、東口 井上 馨「仁以山悦智為水歓」、第3トンネル入口 松方正義「過雨看松色」、西口 三条実美「美哉山河」・・・大変な工事だったのですね。日本が近代化していく為の、国家的事業、抱負、自負、当時の政治家たちが負っていた責任感・・・。 琵琶湖疎水歴史探訪、といった趣ですが、「時の歩みが蒼白に弛む」「夢の余波」といった言葉には、単なる時間の経過への感慨だけではない、現在への批判的な視点も感じられます。「わたしは琵琶湖うまれ」と二度繰り返した後の「琵琶湖うまれの泪」が印象的。語り手は、泪の一滴、だったのか・・・? 「仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶ」と読み下すとのこと(北さんに、ではなく、自分自身のメモの為に、書いている次第)この一節は、論語の 「蕹也第六」にある孔子の言葉、「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむとあり。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのち)ながし」を踏まえている、とのこと・・・。山も、長い目で見れば変化するものではありますが、人間の命のスパンで観れば、不動のもの、永遠のもの。対して、流れる水は変化、更新、流動性・・・なのかな?智慧とは、この場合、近代的科学技術の進歩のこと、なのか・・・時を経て変わるもの、変わらないもの。科学技術は、本当に人間を幸せにした、のか・・・。 「季節の袖で風を拭う」袖を泪で濡らす、のではなく、「風」を拭う。風、とは何か。時代の風潮でないことを祈りつつ。 (引用部分には、意味や意図までは書かなくてもよいですが、出典などを記載しておいた方がよいかもしれません) (疎水情繪)

2017-04-09

全体に漂う終末(破滅)の予感、預言的な高揚感(人間以外の者から告げられた言葉のような・・・)、漢語の語彙や音感、撃たれる、軋む、突き刺す、といった動詞の強靭さ(表現主義絵画の色彩感やタッチの激しさ、のような)が、ひとつの完成度を持った作品に至らしめている、と思う一方で・・・その強さや烈しさの連続や多用が、大仰な、芝居がかった印象を生んでいるとも感じました。作者が意識的にドラマティックな情景構築を目指したのであるなら、あとは受け取り手の好みの問題ですが(モネが好きか、ココシュカが好きか、といったような)多くの人が《荘重な情景》と感じる詩的空間を構築したい、ということであるなら、強度を持った言葉の使用量について、再考する必要があるかもしれません。 特に考慮すべきは、音の喚起する多義性を引き出すための「掛詞」なのか、意味を無化して言葉の意味性(読者に与えるインパクト)を軽量化しようとするための「言葉遊び」なのか、判然としない同音異義語の多様です。(詩/死、至る/痛る:これは、文法的にかなり無理がありますね:伽藍堂/がらんどう、など)文語を使用し、全体に力のこもった、荘重さを目指した作品であるように感じるので、意味の軽量化ではなく、意味の多義性を目指している、と思われるのですが・・・ 襤褸切れの赤旗、量産される鉤十字擬き、こうしたフレーズの選択に、預言書的な終末観と第二次大戦の悲惨のイメージが重なりました。これから起こる(かもしれない)破滅の予示としての・・・預言としての詩、託宣としての詩、という古代からのイメージも喚起されました。 冒頭に「それ」と提示されたものを、最後に「詩」と種明かししてしまうことの効果についても、考えねばならないと思います。始めの方で「右腕に吊り下げた老王の額を突き刺すは詩」と述べている時点で、「詩」は世界を破滅から救う存在であることを予感するのですが、すぐに「死」と書き換えられてしまう。「詩」が「死」となって、破滅をもたらす者としての「老王」を突き刺し、死に至らしめるのか。「右腕に吊り下げた老王の額を突き刺す」この部分、右腕に老王が吊り下げられている、とも読めてしまうので(たぶん、詩/死を右腕に下げた戦士のイメージなのでしょうが)言葉のリズムや音感を重視するのか、意味の伝達を重視するのか、推敲の際によく吟味してほしいと思います。 後半で「即ちニンゲンとは青き豚畜生の別名である」と「漏斗型の聖職機たち」が宣言する。この時点で、滅ぼされるのは人間そのものである、という予告であると読みたいのですが、レスを拝読すると、「詩」というものを特別な力を持った、なにか神聖なもの、のように扱いたい衝動と、そうしたすべての欲動に反発したい衝動、その双方がせめぎ合っているように感じます。(詩を掲げたり説いたりすることで人格者ぶる蒙昧な大人たち、或いは自分自身もそうなっているのかもしれない恐怖と、自己を弁護するための大仰な言葉の鎧=伽藍堂の鎧に覆われているのは虚ろな自我でしかない、と。)大仰な言葉の鎧、そのことを自覚しつつ、その手法で表現する、この矛盾をどう解決するのか。あえて「どぎつさ」や「あざとさ」で勝負するのか、過度な動きや大仰なセリフを抑制するのか。難しいけれども、魅力的な課題を抱えた作品だと思いました。 (abaddon)

2017-04-14

道なり、という題名、「道なり」に歩まされている、という苦い回想を連想しつつ、一連目に入りました。 六行の中に五行、しかも連続して「歩く」という動詞を入れる荒技。 自然なリズムに乗って進行するので、そんなにしつこさは感じない、ということと、 「歩くこと」歩く、という行為を、客観的なもの、自身に関わるものではないもの、として見つめている段階 「歩かされている」使役的に、無理やり、いやいや、仕方なく、歩いている段階 「歩いてきた」随伴者が居たことによって、歩行が可能となっていたのだ、という、今の時点からみた回想と発見(と感動) 「歩ける」語り手自身が、自らの力によって歩いている、そのことの確認。歩かされる、のでもなく、他者が歩く、のを、外部から余所者のように見ている、のでもなく、自身が歩いている、ということ 地名という名詞によって寸断しながら、それぞれの地名の持つ風情、詩情を喚起しつつ、語り手の過去の時間を背景(舞台装置)のように呼びおこす。 「ジャジャ麺」のエピソードは、かつては(語り手の子供時代は)厳格で絶対的な、ある種の権威的な(時に恐怖や反発、憎悪をすら呼び起こす)存在であった父が、すっかり弱り、語り手と素直に接するようになった、そんな老いていく父への感慨のように思われる。 遺骨と粉雪のイメージは、雪に降り込められるような陰鬱な地(故郷、自らの自由を押し込められていた「家」という存在)をイメージさせつつ、父が故人となってもなお(なったからこそ、なおさら、)語り手が行くところ、どこにでも「遺灰」として振り続ける、視界を灰色に染める、そんな、どこにでも居る存在になったと感じさせる。 「野生のクジャクが踊っている その隣にあるアウディの所有者が 父より稼いでいるとは思えない それは車窓というフィルターによって そう思わされているだけか」 ここが、切りつめられすぎていて、よくわからなかった。恐らく農夫として、過酷な労働を強いられたのに貧しいままに一生を終えねばならなかった「父」と、同様の家業であるはずの隣人が、どうしてあんな裕福な暮らしをしているのか、という問い、なのか・・・あるいは、隣の芝生は青く見える、そんなひがみ目を、車窓というフィルターに転化しているのか。 挿入歌が鬼束ちひろの唄からの引用であることを、もとこさんのレスで知ったが・・・たとえ数行であっても、文末に~の引用あり、などと明記しておいた方が無難だと思う。 「電車が止まってしまった    犯人は都会のはずれに住む兄弟だ」 この部分も、よくわからない。分岐、という言葉が、兄弟の分岐(不和、別の道を行く)のメタファーなのか・・・だとしたら、前半に兄弟の存在を暗示する伏線がほしい。都会のはずれ、と明示している意図、兄弟が、なぜ電車を止めるのか、そう、断定するのは何か。「意味シン」なことを言いかけて、あえて黙ってしまったような、そんな消化不良感が残る部分。 「灰を生み落すコツとしては 歩みを止めて目を細めること」 コツとしては、という説明口調と、文体の軽さが、全体から浮いていないか。「歩みを止めて目を細めると/うまく生み落すことができる」というような表現の方が、次の象徴的な行と上手くリンクするのではないか。 「生まれ、落ちる、ものは、その場所を、選べない、が、選ばれて、生み、落ちた」 故郷から逃げ出したい、囚われたくない、因習や血縁、地縁から逃れたい、そんな否定的な感情を抱いていた「故郷」を、自ら受容しようとする心情を感じた。選ばれた、から、そこに「住まわされる」のではなく、自ら「生み落して」その地を選択する、という、強制から能動への転換。 「止まってしまった家系図のその先に 一筋の道を掘り起こしたい」 自らの代で、この家系を終りにしたい、断絶させたい、と思っていた語り手が、「きみ」という伴侶を得て、共に子供を育んでいきたい、次の代につなげていきたい、と思うようになった・・・そんな心境の変化を感じた。 小説という形式だったら、かなりの分量を要する「物語」を、詩という形式によって、かなり凝縮して示しえている、と思う。 (道なり)

2017-04-11

追伸。北陸の「寺田駅」は、大きな分岐点に位置している、ようですね・・・。実感としてリアルに捉えられないので、これ以上の言及が出来ないのですが・・・。 (道なり)

2017-04-11

左から読んで、右から読んで・・・ 揺れる感じそのものが、春の感じ、なのかな、と思いつつ・・・ 春の二面性を表現した作品、と小見出しをつけるとして、さて。 形の面白さと、反転する意味、その創作の魅力というのか、創作意欲に、詩情が喰われてしまっているのではないか、という危惧があります。 読むときに揺れる、この感覚はとても新鮮で、春の感じにぴったりだな、と思いました。その割には、創造主とか、破壊者とか、そうした重い言葉が置かれていますし・・・「作っている時が楽しい」まさに、その楽しさが全面に出ている作品、ということ、なのかなあ。 (春作と風時)

2017-04-18

映画のエンディングのクレジット(でいいんですよね、呼び名は)、昔はこんなに名前があったか?と思うのだけれど、CGが入るようになってから、なのか、関わったスタッフすべての名前を出すぞ、という意識的なことなのか、とにかく、ズラッと、物凄い数が並びますよね。しかも、すごいスピードで(可読の域を越えているのではないか、という速さで)スクロールされていく。固有名が(情報過多によって)海の波音とか風の音とか、そういった環境音のようなものに後退して、私たちを「包む」感覚になってとりまいている、そんな現代の(情報過多時代の)空間感覚・・・映画のクレジットに限らず、ツイッターでもなんでも・・・そうした現代の空間感覚の中に、なまで浸っているような印象がありました。スクリーンとか、液晶画面のこちら側で、情報空間を眺めている、ような詩は沢山あるように思うのだけれど。 空中を飛び交っている言葉を、ガーッと網を振って掴まえた、みたいな、臨場感。自分にとって意味があったり、気になったりする言葉だけが(あるいは言葉尻だけが)文字、という形を与えられ、それ以外の言葉は景観音楽に後退して背後を(地を)支えている、ような・・・空間を地とモチーフとで可視化した、というのかな、それも立体で、固定化されたもの、としてではなく・・・という印象。これを、どう呼べばよいのか、よくわからん、わからないながら・・・絵文字とかだと、読者の再現環境によって表示が変わってしまうという問題があるな、と思っていたので、これなら、そこはクリアできる、面白い試みだと思いました。 感じを分解して並べるって、形成途中の文字みたいです。イメージの生成過程の可視化、とも言えそう。こんなこと思いつくやついるか?(ここにいるか。) (誰にも真似できないように)

2017-04-12

感じを分解して→漢字。 勢いで打ち込んでいるので、訂正が多い、です、すみません。 (誰にも真似できないように)

2017-04-12

私自身がじたばたしていて、どう言い表せばいいんだ?と唸っている部分を、空間的な手触りのある感覚の中でとらえている。「手すりのない」という、いつ足をすべらせるか分からないような不安感と、つかまえてもつかまえても抜け殻、みたいな「わたし」の把握不安のようなものとが、実にうまく繋がっている、と思いました。 円環の上、を回っている、わけではない、けれども・・・直線を進んでいるわけでもない、というような時間感覚。DNAの二重螺旋も遠くに響かせつつ。 私の場合、「私をわたしが脱ぎ捨てる」みたいな(苦し紛れですけれど)表現に持ち込んでみたりしたのですが、結局これって、言葉の上だけのことだよね、という苛立ちが残り・・・桐ケ谷さんの作品は、「私」から逃れよう、とするのではないところ、掴まえよう、と、前に前に手を伸ばしていく能動性が光っているなあ、と思いました。 (「螺旋 表/裏」)

2017-04-12

すごくストレートで、好感が持てました。 詩論として詰めていく、という方向性に向かっていく、という方法もありそうですし、(詩とはなんぞや、的な)(詩を書く、とはなんぞや、というものもありそうですし・・・)詩を書く行為そのものを、たとえば自分の実感する体感に即して、なにかに喩えるならば、どうだろう、と考えてみる、というのも、面白いと思います。 坑道(夢やイメージが、鉱物として埋まっている)を掘り進んでいくようなイメージ、なのか。プレゼントを手渡したり、受け取ったりする、そういう箱物のやり取りをする(その中身が、詩想というか、ポエジーですね)のイメージ、なのか。はてしない海、のような場所から、コップや入れ物に何かを汲み取る、汲み上げる、イメージなのか。小鳥のさえずりのように、言葉にならない思いが、自分の中に充満している、のか。 「せかいがぼくのことを/見捨ててしまった」孤独感や、置き去りにされた感、の中で、「僕も人間だと思い込んで/等身大に暮らしてみた」こんな素敵な着想があるのに、それを生かさなかったら勿体ない。 まず、第一にもったいない!のは、題名です。最初から、これは詩ではありません、詩以前の代物です、と宣言してしまっている。「こんなの、詩ではないよ」と言われるのが怖くて、このような題にしてしまったのなら・・・そういう心配はしなくていいから。ここは、そういう場所だから。と、言いたいです。 自分の書きたい「詩」が書けない、という葛藤やもどかしさ、それ自体が「詩」になる、のに・・・それを誤字脱字とか、推敲しない(できない)という具体的な、あまりにも身近な例、に留めてしまうのも、もったいない。 学校で、先生に「詩」を書きなさい、と言われて、しぶしぶ書いてみたけれど、という弁解、みたいな感じに聞こえてしまう、のだけれど・・・だとしたら、そういう対話とか、そのしぶしぶ感、を、むしろ作品化してしまう、なんて方法もあり、かもしれないな、とか・・・色々、やってみてください。 (詩以前)

2017-04-12

近代国家によって(他国のエゴによって)勝手に国境線を引かれた痛み、怒り、絶望・・・についての、社会的な告発の詩なのだ、と思いながら読み始めて・・・ 存在の不安定さ、頼りたいのに頼ることのできない不安、垂直に落下していくような「あること」のオソロシサ、のようなものが、ひしひしと伝わってくる感じで・・・桐ケ谷さんも既に書いておられますが、「生誕の眩暈」・・・人が生まれた時から、既に始まっている「傾き」なのかな、と思いました。 どこまで行ったら、この「傾き」は止まるのか。そんな時代の空気感のようなもの。張りつめて行った緊張感に、堪えられなくなったとき、戦争が始まるのかもしれない。そんな怖さもあります。 あなた、と、あたし、を、カタカナで書くことに、私個人としては違和感があるのですが(この詩の場合、ひらがなの方が似合うような気が、ちょっとだけ、したのですが)押し寄せて来るような不安というのか、頼りなさというのか、在るという事の不確かさのような、なんとも言い難いものを「寂しい匂い」・・・これだけ出て来たら、なんとクサイ台詞!と思ってしまうのですが、静かに、明晰に積み重ねられた詩作品全体の厚みによって、まったく違和感なく納得してしまう・・・このひとことに静かに収斂させるところが、心に深く残りました。 (Lean On)

2017-04-11

返詩、の場合、元詩を加味して考えるのか、どうなのか・・・そこが思案のしどころ、ですね。言葉そのものが、習い覚えるもの、ですし・・・語彙やフレーズなども、語例から覚えていくわけですから、あらゆるものが「返詩」である、とも(広くとらえれば)言えるわけですし・・・ なので、私は、返詩作品自体を独立した作品として、評価するスタンスで行きたいと思います。 「桜は感覚器をあらゆる方向に のばして花霞の間を、まるで水の中の風景のように時間軸を狂わせていた。」生き物のような桜の妖艶さ、時空を移動する際の鮮やかさが素晴らしい。「逢いたいヒトのことを上手に生き難いヒトのことを待っていた」自らを異質な存在としてとらえる他ない人の淋しさが、美しく現れている部分だと思いました。黄桜の河童の家族の絵を思い起こしつつ、「河童のひきだしからも 春が とびだしてくる 」こんな死者の追悼の仕方、思い出し方、素晴らしいと思いました。時間がないので、すみません、このあたりで。 (Here comes the spring)

2017-04-15

「みな底の母子像」は、水底なのか、皆底、なのか。そんなことを考えながら読みましたが、独立した作品としてみる時、河童の詩の具体性というのか、迫って来る力に比べると、雰囲気やムードに流れているのかな、という気がしました。表記への気遣いや、全体に流れる柔らかさが、絵を描いたり音楽を奏でたりする方向への意識に通じているようにも思います。 「授かる」これも、表記の工夫や音の響きに鋭敏な作品だと思いました。 「おんながつむいだおとこと /おとこがむついだおんなが 」こういう対句、どこか神話的なイメージも生まれますね。紡ぐ/睦む アマテラスは織物や生糸の神様でした、そういえば。 つむぐ、からの造語なのか、あるいはそうした言葉があるのでしたら不勉強で申し訳ないのですが、睦みごと、であって、むつぎごと、ではないのではないか?という気が、しないでもなく・・・。 「花」一行目の立ち上がりが素晴らしい。 「喉の奥の胸腺が 鰓だったころのなごりであるように」えらって、魚に思う、と書くのであったか、と思いながら、なぜか鯉/恋へと連想が進みます。 「漕いで漕いで」というあたりの語感からかもしれません。 胸腺、という術語が、新鮮でした。人類史のイメージと、羊水から空気中へとやってくる胎児、そして、過去の沼、から這い上がって来た、新生する人、のイメージ、が重なりました。 (Here comes the spring)

2017-04-18

人間には明朗な反面と陰鬱な反面とが必ずあるように思うのですが、まるで自分自身の「明朗な反面」そのものであるかのような、自分自身の心の片割れであるかのような親友を失った語り手・・・喪失感はいかばかりかと推察します。 事実に基づく物語であれば、ごめんなさい、と前置きをした上で、メタファーとしての物語(深い意図のこめられた創作)として読ませていただきました。 KとYという主人公二人、KYだね、と言われ続けた自分自身を、二人の人物に引き裂いて描いているようにも思われました。 鍵のかかった箱、何が入っているかはわからないけれども・・・亡くなったYの存在感だけが(そして、呼応するように喪失感だけが)増していく。哀しみや空虚感が頂点に達して、むしろ怒り(というエネルギー)に達した時、思わず箱を叩きつけて壊してしまう。そこに現れた、希望、というメッセージ・・・パンドラの箱のイメージも重なりますが、人類へのメッセージでもあるように思いました。 実は、YはKのそんな行動も予測して、自分が居なくなった後も哀しみ続けないように、むしろ(怒りの形であっても)希望を失うなよ、というメッセージが強く刻印されるように、鍵が見つからないようにしたのではないか。哀しみという内向性から、怒りという外向性に気持ちが切り替わり、Yの想いを胸に、Kが再び生きていけるように、事前に準備していたのではないか。そんな気もしました。 自然で無理のない文章なので、散文体で行を詰めて表記すると一気に読んでしまうような気がしますが、改行や行アケを用いて、ぽつぽつとつぶやくようなリズムを作っているので、語り手と共に、立ちどまりながら読者は読むことになるでしょう。 生きていくキーワードは、希望、なのでしょうか。 (『鍵のない箱』)

2017-04-11

nullって、なんだ?とググるところから始めるデジタル音痴ですが・・・ リアルな日常生活と、スマホやSNSの「向こう側」に広がっている世界の境界線を抵抗なく行き来してしまう、現代女子?(女子に限らないかもしれませんが、いわゆる現代っ子)の感覚をうまく掬い取っている、と思いました。 ハッシュタグをつける感覚って、どんなものなんだろう、というのが、実はよく、わかっていなくて・・・。「共通の話題」でつながっているような繋がっていないような、言葉は投げ出しているけれど、特に返信なくてもいいよ(仕方ないじゃん、でも、誰か共感していればいいな)的な感覚なのかな・・・。 「揺らぎゆく移り火が誰にも染められていない赤い糸を、乙女の外へと萌やしてゆきます。」このあたり、「恋」に限らず、命を燃やすもの、情熱を掻き立てるもの、命を輝かせるもの、そうした「なにか」に向かっていく「赤い糸」が、わらわらと周囲に伸びていく(千手観音みたいに)感覚があって、SNSで「つながる」けど、つながっていない、ような感覚に近いのかな、と思いました。その「なにか」が、定かでないというのか・・・手ごたえがない、虚無に手を伸ばしているような空しさが背後にある、というのが、現代、なのかな、と思ったり・・・自分を無にしてしまいたい、透明にしてしまいたい、失くしてしまいたい、そんな感覚が核にあって、そこから無数の赤い糸、を外部へと触手のように伸ばしていく、そんなイメージに共感しました。 (乙女たちはハッシュタグを忍ばせて)

2017-04-12

花緒さんへ 後半の「メッセージ性」の部分は、読者を「自分の子ども」に設定しているから、ですね・・・。中高生でも読める(イメージを追っていける)ように意識して書いていた、と思います。言葉のインパクトが弱い(日常生活で、通常使われる言葉を、通常使われる文脈で並べている)のと、心の中の水鏡、といった、昔から用いられるイメージを借景として借りている感覚なので、どうしても新鮮さに薄れる、と思います。 もとこさんへ 中高生向けに書いている、といった時期のもの、ですね。「現代詩」って、なんだろう、と考えていて・・・結局は、読者を誰に設定するか、の問題でしかないのではないか、という、答えの出ないところに行きついている、のですが・・・詩をあまり読んだことのない人にも伝わる形式ではある、と思います。でもまあ、理屈っぽいですね、最後の方が・・・。 (一枚の鏡のように)

2017-04-15

るるりらさん 一連目の、やたらに理屈っぽいところ(その分、直球になってしまっている、というのか)その、骨のようなところに注目して頂けて嬉しいです。 その「骨」を感じさせる肉体、をいかに動作させるか、なんじゃないか、と思いつつ・・・その骨をそのまま出す、というやり方があってもいいんじゃないか、とか・・・詩(作品としての)が肉をまとった骨である、として・・・肉が朽ちた後に(読者に読まれ、忘れられた後に)白く骨が残って光っているような、そんな詩が書けたらいいなあ、と、るるりらさんからのお返事を読みながら思いました。 (一枚の鏡のように)

2017-04-29

歌詞的な印象の作品だな、と思いながら読んでいき(音韻やリズム感を大切にしている、という意味)最後に「きみを別枠に配置して歌うことにした」と出て来て、なるほど、と納得。 一連目、~が、~た、~を、~た、という語尾は、~が、の連投になるのを無意識的に避けたのでは、という気がしました。「公平性が」は、確かに「主語」かもしれないけれど、更に厳密に言うなら、「(私は)メロディから語り合った公平性(というもの)が/真夜中の商店街で破壊された(ということを、記述している)」という隠された主語(主体、というのか、この場合・・・)が存在しているので、「連鎖を」を「連鎖が」と見た目の主語に直したとしても、なんとなくギクシャクするのではなかろうか。こちらは「(私は)きみとぼくの不思議な連鎖(というもの)を/真新しい価値観(というものを持つ人々の妨害)で改竄された(ことを記述している)」ですね・・・。 「満足するまで軽蔑する」「退路を育てる覚悟」、おやすみ、と武器、の並置、など、驚くような組み合わせを自然に引っ張って来るところが、新鮮でした。「きみが口にした言葉を全部/五線譜から外れた音符として永久に残す」ここは、言葉にならない思いを「詩」として残す、というような、詩論的なものの現れとして読めるような気がします。 レスの中の、ルビ、という部分・・・面白いというか、もったいない、というか・・・ルビを振れないので仕方ないのですが(カッコにいれて、後ろにつけても間が抜ける)、見た目の文字と、音のズレがハウリングするような感覚も面白いですね。 (生活残響)

2017-04-15

もとこさんではありませんが、まず、「うまいな」という・・・ 一連目、「言葉のようにね」を指で隠したり、見えるようにしたりしながら、二連目以降を読み進み・・・三連目の「二人の魂は一行の詩となるが」この時点で、ああ、言葉のようにね、は必要だな(伏線になっているし)と納得。 「荘厳な陶酔の底/自動車修理工場横」~koと脚韻を踏む、詩的世界と日常的世界の対照という、広い詩的空間の取り方が素晴らしいと思い・・・その中で、「人体はベニヤ板を貼り合せた立方体に等しい」という生々しい実感の稀薄な肉体把握をする「君」が、「詩」そのものでもあるような読み方をしたくなりました。日常と非日常(詩的高揚感の世界)とをつなぐ「橋」。そして、どれほど深い交歓を交わしても、「強度を持たないベニヤ板は/べこんぼこんと撓みながらやがて割れるはず」というある種の不毛性・・・発せられる言葉が、すぐにパラパラと剥離していって、何も残らない。その空虚感の中で、詩的高揚を望む魂だけが、詩的世界へと(空の底、へと)上昇/下降していく。しかし、そこにたどり着くのは、全てが無、となることと同義である・・・というような。 「総ての言葉の隙間に花弁が惑乱している~白に近い色彩の嵐のただ中にある」 まだ見ぬ、未来の「詩」が降り注いでいるような光景だ、と思ったところで、一行あけの後にバシッと置かれる一行が光っています。 「事象はミクロの次元を更に越えると~極小の粒子の次元を知らなければならない」 この部分は、作品全体を要約するような(あえて理屈っぽい、観念的な言葉を用いていることもあり)簡潔さを持った部分だと思いました。音楽でいえば、全体のテーマを最後に再現する、部分。一粒の砂にも世界が宿る、だったか・・・ブレイクの言葉を思い出しつつ・・・ ミクロ、冒頭一連目の、徹底した肉眼による観察を突き抜けて、心眼でしか見えない、失われたもの、が見え始め、それが「言葉」となる、というところから、「橋」によって結ばれる日常と非日常(空の底、マクロの世界)への展開。よくできてるよなあ、ともう一度つぶやきつつ・・・ 「僕は路上を見つめる見つめる見つめる」の前に、一行アケを設けてもよかったのでは?と感じました。 (橋の春)

2017-04-15

二次創作、という「創作」の力強さを、改めて感じました。 滑るように流れて行く文体の心地よさが魅力のひとつであるだけに・・・「ありがとう言うはどうだろう」これ、あってますか?舌足らずの、もどかしい感じ、を表明しようとしたのなら、全体にもっと気を配ってほしいな、と思いつつ・・・ 後日談を楽しんでいたら、最後に鋭く、現実に投げ返される、突きつけられる。圧殺されようとしている「童心」の、ニヒルな告白のように感じました。 (小さな星の孤独な王)

2017-04-14

写生に徹しながら、都会の中の孤独、置き去りにされた繁栄(の名残)に触れていくような、コクーンの中で死者の声を再生するような感覚を、簡潔な言葉で捕えた佳品だと思います。それにしても・・・この、まんまネタバレの題名、このままでいいの? (つぶれたカラオケボックス)

2017-04-14

くり返し、ぶり返すように襲ってくる失恋の痛みを、感情の流れのままに発出していくような・・・即興性を感じるのは、勢いで書いているから、でしょうか。音楽と共に、朗読されると引き立つ作品であるように感じます。 読む作品、としてなら、もう少し全体を引き絞ってもいいように感じました。 たとえば(あくまでも、私の好みであって、押し付けるつもりは毛頭ないのですが) 春なんだよ ←叩きつけるような立ち上がりが素晴らしい 陽炎のように揺らめく ←陽炎は、「ゆらめく」もの。揺らめく、と~ように、の部分を外して始める手もある。 淡い燐光に           白い光線に じゅくじゅくの傷を晒す 別途、 ←別途、と、ベッド、をかけているのか・・・続いて同義の言葉を重ねているので、意味としては過剰の感もある。 それだけが          有り狂れた僕らの道だった ←ありふれた、に、当て字で意味を加味している?面白い用法ですが・・・ (acid & spring)

2017-04-15

ずいぶん、ストレートというのか、素直な表現の詩だな、と思ったのですが・・・ ~される、のではなく、~する、を私は望むのだ!と宣言した直後に 「真実だけを差し出して欲しい」と、相手(まだ見ぬ、理想の誰か、未来の誰か、かもしれないけれど)に要求する。~されたい、と烈しく望む。この自己矛盾(葛藤)が面白い作品だと思いました。 自分自身を、もっともっと、突き詰めていく余地の残る作品だと思います。矛盾を徹底してついていく、というような。 (路肩の花)

2017-04-15

起承転結、を周到に守った、リフレインを効果的に用いた一作。 「余韻もなしにさようなら/次見上げたなら葉桜よ」ここは調子が良すぎて、ものすご~く私感ですが、演歌っぽい。 ひとつ、ひとり、時間が足りないね、時間も言葉も足りないね、持ち越され、投げかけられ・・・と、微妙にバリエーションをつけながら展開していって、最後に叩きつけるように感情を奔出させる。 この構成は面白いと思いましたが、バリエーションが「微妙」なので、どうしても同じようなフレーズを何度も読んでいる、気がしてくる。好みの問題にもなりますが、リフレインによる「強調」効果を求めている、というよりは、オムニバス映画のように様々な人生(共に、花を楽しむ余裕もなく、ギリギリの生活にキリキリ舞いさせられている登場人物)が並置される、群像的な効果を求めているように思うので、変化の幅を、もう少し大きくしてもよかったのかな、と思いました。桜散る散る、というような語感のよい表現が、どうしてもリフレインの場合には目立って、前面に出て来てしまう。そうすると、長めの文に、微妙にバリエーションを加えてリフレインする・・・といった小技の部分が、背後に埋もれてしまう。 インパクトの強いリフレインを挿入する場合、その流れというのか、音感の強さに引きずられていないか、さまざまな角度から読み直す必要があるように思いました。このままだと、桜吹雪の中に、一人一人の個別性(個別、とはいっても、私たち一人一人の代表者、というような、象徴的な存在ではありますが)が埋もれて行ってしまうような気がします。 「残高0無一文のさっきのが」ここも、ちょっと分かりにくかったです。さっきのあんちゃん、ねえちゃん? (風のありか)

2017-04-15

カッキュウ、という言葉の響き、全体の弾けていくようなリズム。 若さだなあ、と「あこがれ」を、まずは感じます。スティックハイライトがわからず、思わずググってしまった・・・化粧品ですか?眼の下(泪袋、とか?)あたりに入れるハイライト・・・こうした小道具で、一気に女子高生感が出る、のかなあ(小道具に、即座にピンと来る、人であれば。) 冒頭の三行、これが素晴らしい。 あの時の・・・あの子・・・馬鹿みたいな空・・・朝顔は咲かない・・・ Aの響きを響かせながら進行していく。いきなり、朝顔は咲かない、と、理由がわからないまま断定されて、そこに納得してしまう勢いと力がある。 「好きだよって肯定してあげたい傲慢。かなしさをずっと許さない。」 このあたり、すごく新鮮でかっこいい、のですが・・・最果タヒ風、と感じるのは、なぜなんだろう。真似してるとか、そういうこと、を言いたいのではない、けれど。 好きだよって・・・という始め方、かなあ・・・。 ぼく、が男の子でも女の子でもいいのですが・・・この作品、登場人物は一人?ふたり?その判断に迷いました。もう少し、人物の造形をくっきりさせてもよいかも。 (あこがれて渇求)

2017-04-18

3、4、5連がぶっ飛んでるなあ、という・・・。 幻想旅行案内、その伏線としての1、2連、であるわけですね。 セールストークで前後を挟んでいる。ナンセンス的な、世界(幻想界)旅行案内、として、ロジックをつなげていく、ならば・・・一連目の「きいてもらえますか」は、無いだろう、と。セールストークの効いた「御理解いただけましたか」以降のノリというか口調で書いた方が、枠構造がはっきりするし、内部の「旅」部分が、もっと際立つと思いました。 素晴らしいものをご用意いたしました、とか、ご準備いたしました、と前ふりがあれば、二連目以降が、この幻想旅行(幻視体験)に突然連れ込まれる語り手(読者)ということがはっきりする。そういう小細工を、もっと工夫すると、ナンセンス度が増す、と思います。 (世界構造プール)

2017-04-18

生きているのに「死んだ」と思われ、柩に収められて・・・そこで目が覚める、みたいなパターンは、色々な人が何度も繰り返し試している、ように思うけれども・・・ この「会話」は、誰が、どこで、どんなシチュエーションで行っているのか? 霊安室で、幽霊どうしが会話している?生き返った者どうし?もしかして、魂と肉体が、幽体離脱したまま会話している? 全体のコミカルさ、ユーモアでぶっとばすぜ、的な勢い、特に最後の万万歳の連呼(こうなったら、一万歳×一万歳、生きてやるぜ、という感じにも読めて来る)が、シャウト系の朗読詩という印象で、元気になる詩だなあ(変な言い方ですが)と感じました。 ところで・・・「忘れ去ってくだ さい/の角のように独り歩む~」この改行は意図的な掛詞、ですよね・・・その前の「とぼけたよう/な間抜けな面か」区切りミスか、ナマ抜け(なんて言葉があるのかどうか、わからないけれど、なんとなく魂が生きたまま抜けたみたいな感じ?)なのか、気になりました。 (霊安室で目が覚めた)

2017-04-18

素直な書き方に好感を抱くのですが・・・あまりに共感部分が多いがゆえに、逆にオリジナリティーが感じられなくなってしまうのでは?という危惧もありますね・・・ 多くの人が、自分たちの代弁者、のように感じてくれる、かもしれない。けれど。だったら、自分の言葉で、自分の体験を語るぜ!と、思う、かもしれない。 薄っぺらな、稀薄な、影のような「友人」が増えていくほど、孤独が増していく感覚・・・そこにもう一歩踏み込んで、これが俺だ!というなにか、ガツン、としたものを、これでどうだ!とぶつけてほしい。もどかしい。そんな気がします。 あと、詩の始まり方は、とても大事です。 深夜、で始まっていますが・・・なぜ、目が覚めたのか。覚める時、何を感じたのか。どうして、目が覚めてしまったのか。その時の体の状態は?心の状態は?そんなことを、尋ねてみたくなりました。 (友人へ)

2017-04-18

連投、が、詩を三篇連投する、という行為であるならば、いささか安易な題名の付け方ではないか、と思いました。 同時に、音から「連祷」を連想しました。短く刈り込んだエッセイを、語りのリズムで区切って並べていく、そんな形式・・・詩とは、語り口のリズムである、そんな加藤さんの「詩論」が詩形に現れている、ように思うのですが・・・心をなるべく波立たせずに、淡々と、外側から眺めるように綴っている。もっと詩の内部に自らを投じてもよいのではないか、そんな想いにも駆られます。 (連投)

2017-04-29

メリハリがきいていて、とても面白かったです。konsaiのkの音と、キックマシーンのk。「オレたちは/オレたちの」このあたり、なんとなく、もたつき感があるのですが・・・三行にこだわった結果であるなら、それは二行や一行で飛ばしてもいいのかな、と思いますし・・・「蹴るものが蹴られるものに」このあたり、観念的というのか、倫理的というのか(笑) 蹴って蹴られて、というような音感にのせて爆走する、という終わり方でもいいような気もしました。 (ASHIZAWAキックマシーン (B-REVIEW EDITION))

2017-04-23

最初の三連目まで、子供が無邪気に父親(なんとなく、少女が父親に向かって)に語りかけているように思ったのですが、「ぜんぶを~」から後、心中に向かう男女の、童心に戻っての会話であるような気がして、しん、と心が鎮まるような感じで読みました。 「万物の母へ物語を捧ぐ」このフレーズ・・・全ての時間を世界の始まりに流し込む、戻す、というような・・・震災後の世界の再生、のような(そういう作品だ、と思っている、というわけでは無いのですが)強い願い、思いが込められた部分だと思うのですが、それだけに・・・万物の母、物語、こうした、背後に重厚な歴史や意味の群れ、ニュアンスの群れを引き連れているような言葉をガッと持ってくると、凝縮しすぎているのではないか、という気もします。 ここを、もっと「り」さんの体感的な、独自の感覚で解きほぐし、広げてその奥行きを見せてほしい、と思いました。 (十戒)

2017-04-26

「上の眺めを先に知る君」爽やかな表現に惹かれました。憧れる友人、なんでも一歩先を行く先輩、のようなイメージで読んでいたのですが「よりによって光が射すから君が 一瞬だけ影のようになって消える」この不思議な一行、そして、また現れる君・・・自分から抜け出して、理想の僕(未来イメージの僕)が先を駆けている、それを実体の僕が追いかけている、ようにも感じられて面白かったです。 (登っていく)

2017-04-26

コメントしたはずなのに、入っていなかった・・・ 「ふたりきりは   ぼくらに素敵な空白で」ここでふたりの間に広がる沈黙が白く現れるような気がしました。居心地のよい、沈黙。暑い夏の日盛りに、そこに冷たい麦茶が置かれる。グラスの周りにつく水滴、泪のように落ちていく水滴、テーブルの上に溜まる水たまり。三人目の存在(空虚)が示されたところで、2人の間の沈黙が、少し異質なものに見えてきました。 「グラスの表面に     ひとすじ雲の光線が通り」飛行機雲のようなイメージでしょうか。まったりした時間に、すっと筋がつけられた、傷がついた、感じ。 「希死念慮を   ひとかけらも   抱けない仕方で     「短命は徳なんだ」と   わかりながら   帰った」 もしかしたら、三人目の空白は、自死によってもたらされたものなのかもしれない、と感じ・・・そのことを、理解できないまま、心の底で腑に落ちるようにとらえる、その時間が「空白の時間」だったのかもしれない、と冒頭に戻ったところで、かくめい・・・命を革める、という転覆の言葉が置かれる。平仮名の柔らかさに考えさせられつつ・・・自分はどうやって生きて行ったらいいのか、と、静かに自問しているようなエンディングだと思いました。 (かくめい)

2017-04-26

~いる、~いる、と脚韻を踏ませるように軽く、オーソドックスな抒情詩のような入り方で始まり・・・風車のように闇が回転。違和感なく読みながら、よく考えるとありえない展開が、ここに在り得ている、という言葉の妙を想います。いい風/滋養ある風 と巧みにずらし・・・(いきなり、風を食べる、という感覚!風車とも重なり、語り手は闇を見ている闇そのもの、でもあるかのような気がしてくる) 「背中がバッサリ斬られていて」これは、誰なんだろう・・・翼を根元から切り取られた天使? 「携帯の電源を入れる 明日のきみを救いたい 勝手な願望 または冒涜 安心したいだけ 俺が、俺が、俺が。」 スパッと言い切る潔さ。自らの救世主(勇者?)願望と、それを突き放して嗤う感覚・・・自己批評的視点、というのかな、双方を、この短さで実現してしまっている。 「点々と白い血の後を帰る 血はバクテリアが食って発光して星になる 森が、路傍が宇宙になる その宇宙を 僕はジャンプした、」 白い血、を流しながら行く人が誰なのか、すごく気になるのですが(君、なのか?)その血が星になる、痛みが光になる。そこに生まれる宇宙を飛び越える。この飛翔感が爽快な作品でした。秀作。 (郊外)

2017-04-23

コンパクトにまとめた作品であるだけに、同じ表現を繰り返し使うことの効果を考える必要があるかもしれない、と思いました。 青い空、紅い空、白い雲がラインを引く。読後に残るイメージは、三色旗の色ですね、白が少し狭いけれど。 貫く、という語感に、何をこめているのか・・・切り裂く、でもなく、描いていく、や、線を引いていく、でもない。 昼の空、夕のそら、周囲がどんな色であっても、染まらずに、惑わずに、一筋の意志を持って進んで行く、その姿に自らの「そうありたい」姿を重ねている、のでしょうか。「存在感を示すように」といった直喩は、説明的になる印象があるかな、と思いました。すっと一本、筋を通して「貫く」飛行機雲、という描写だけで、既に存在感を示しているので、ここは省いてしまった方がすっきりします。・・・あえてそこを強調するのであれば、もう少し踏み込んだ表現を工夫されると良いと思いました。 (ひこうき雲)

2017-04-23

連詩の場合は、つかず離れずというのか、少しずつずらしたり飛ばしたりしながら、はるかな場所に連れて行ってもらう、連れまわしてもらう、イメージなのだけれど・・・リレー詩、これは・・・なんだろう、トラックを周回している感じになるのかな(リレーという学校!な感じの言葉、ティーンエージャー!!という感じの言葉のせいかもしれない)文体を一体化させていくような書き方、すごく新鮮でした。 (リレー詩 ~百均&奏熊ととと~ (B-REVIEW.Exhibition))

2017-04-26

「陽の光からも逃げ果せた」このあたりの比喩は、上手いけれどオーソドックス、という感じですが、「幾世かが経過した」こういう飛躍が独特で素敵だと思います。 「地熱で、空調機から吹く風」都会、を新たな「自然」として生活する都市生活者の息吹を感じます。砂漠の岩場に住むチョウゲンボウが、都市の摩天楼に巣作りをして話題になったことがありましたが・・・そのような、肌身、五感でとらえる「都市空間」。 「ここにも~どうかそこに居て欲しい」の連は、口語体を導入しているから、かもしれませんが、若干、冗漫な印象を受けます。もっと刈り込むことも可能なのでは?抱いた疑問すらも眠っていく、というところは魅力的。 「食べる食べられるの階層」喰う喰われる、は、日常語ではないだけに、人に喰われる、資本主義社会の弱肉強食、といった比喩としても用いられることが多い言葉。食べる、食べられる、という日常的に、実際に食べる時に用いる言葉をあえて使うところに、生々しいリアリティーが出ているように思いました。 「そこに届く言葉がないことも、届けられないことも俺は知っているぜ」なんとなく、モタモタしたリズムという・・・言葉なんか届かない、とか、言葉を喰らって溺れちまえ、とか、何かこう、叩きつけるような、きりっと短い、シャウト感のある言葉の方が、先へ先へと進行していくメリハリが出るのかな、と思いました。 世界崩壊、世界破滅を願っている(反語である、としても)君、は、それを知っている、この詩を叩きつけてやる、と叫ぶ俺の鏡像なのかもしれません。 光は「平等」になんて届けられない、言葉だって救えない、いっそ世界なんて滅びちまえばいい(ああ、そう叫ばなければいられないほど、俺は追い詰められているんだ)そんな時、冷え切った場所であるほど、都市の抱え持つ地熱(都市の体温)空調の温み(都市の排気、息遣い)が身に染みて感じられる・・・そんな都市生活者の姿を、実際に肌身で感じて描き出そう、としつつ・・・「君」に「俺」が寄り添おうとし過ぎている、のではないか。「なぁ悔しいなぁ」とか「もう死んでしまうもんな」という、共感を示すというのか・・・突き放し切れていない言葉の湿り気のようなものが、作品を、なんとなくもたつかせているように感じました。 ドライな質感で疾走感を持って突っ切るか、もっと湿潤なところ(寄り添うとか、肩を抱く、ような方向)に向かうか・・・ロックな感じで行くのか、バラード系に行くのか、というような方向性が見えにくいような気はします。 (食べて下さい)

2017-04-23

落ち着け、落ち着け、以降の部分に、もう少し疾走感(言葉が崩れていく感)があった方が、酔いが廻っていくリアル感があったかな、というのと・・・個人的には、一連目は少しシラフっぽい感じで書いた方が二連目との落差が出る、であろうから・・・同じ言葉やフレーズの重なる部分をできるだけ推敲して、圧縮するという、文章編集的な作業を更に加えた方が良いような気がしました。 (言葉にチェイサーを)

2017-04-23

一連目、ではなかった、「トイレに入ると~」の連は二連目ですね。「落ち着け~」の連が、二連目ではなく、三連目、になる。落ち着け、まりも。 (言葉にチェイサーを)

2017-04-23

題名と一行目のギャップが良いですね。 「君はもう既にその若さから戦場に立っているようである」推定9歳とあるので、「その若さから」は省いてもいいかもしれない(そうすると、既に戦場に、と切迫感のある語が並ぶし)と思いました。 「他人にできることは、たとえば、」という説明口調の書き出しと、「われわれは他人、絶対善にも絶対悪にもならない、リアル、われわれは現代を正しく生きるにんげん。」疾走感や緊迫感のある書き終わりとを見比べると、立ち上がりがのっそりしている、感じになりませんか?好みかもしれませんが・・・「同情や世話の芽を~」から始めた方が、インパクトが増すのではないか、という気がします。 「夏は多くの家庭のプライバシーが無料開放されていて、」この部分も、比較的平凡というか、一般的な説明に近い。他方、「夏は個別感情の熱量が沸点を超えやすい。」この書き出しは、キリッと締まっていて、単語の並びが新鮮。この行を三連の書き出しに持ってきた方が、「おっ?」これから何が始まるんだ?という期待感が高まるように思います。 ・・・冒頭になんとなく説明的な行を置いて、その後、詩的空間に飛躍する、というパターンがある、かもしれず・・・離陸のための滑走も必要だけれど、長いと冗漫になるので・・・ヘリコプターが地上でブルンブルン回り出して、パッと離陸する、みたいな「思い切り」があってもいいのかな、と感じました。 (こんなときの愛)

2017-04-23

漢語の連発、感嘆詞の多発の為でしょうか、現代人が古文の文体を用いる時「擬古文」と呼びますが・・・「擬近代詩」のような質感を感じました。レトロモダンと呼べばいいでしょうか。Elotm, Essaim,frugativi et appellavi. サブカル系に疎いのでなんとも言えないのですが、悪魔召喚の「既成」の呪文を用いる(借りる)のではなく、自ら悪魔を呼び寄せるような、オリジナリティーのある、おどろおどろしい文言が並んだら、もっとインパクトのある作品になったのではないか、と思いました。 BELIAL. BUDDHA. BABEL. そうか、全部Bで始まるんだな、と面白く感じつつ(ここは、B レビュー、ですし)こうした歴史的な厚みを持った固有名詞を持ってくると、傘を借りている、感が強く出てしまうような気がします。この固有名詞に匹敵する強度を持った言葉、もしくはフレーズを、発見できるか、どうか。そこに詩の探索の面白さがある、のではないか、などなど・・・。 (demon)

2017-04-23

皆さんへ なるほど、確かに翻訳体的な感じもあるかもしれません。カッコイイ言葉というか、術語のようなものを使って見たかった、というのもありますし・・・ もともとは、昔から繰り返し見る悪夢というのか、美しさに吸い込まれそうになる夢、がベースなのですが・・・落ちていく火が、自分だったら・・・と思うとぞっとする。そんな、危うげな網のようなものの上で、言葉というネットワークでかろうじてつながっている「いのち」のようなもの・・・・(それは、実際の命というより、言葉の命とか、そんなイメージかもしれませんが)を書きたい(かけない)というあたりの、言葉を生みたい、的なもの、なのかなあ、と・・・思い、ます・・・。 (夢魔)

2017-05-09

ちょっとだけ変えて投稿して、運営側がどう対応するか見てみよう、違いを見定められるか、確かめてやろう、という意図であったのか、僅かな差異を持つ作品を二点並べて、その微妙なずれ具合というのか、ハウリング効果のようなものを楽しんでもらおう、という意図であったのか、どちらであったのか、よくわからないのですが・・・レスのやり取りを見ている限りでは、祝儀敷さんの「ni_ka氏はコンセプチュアルアートだと明言はしていないので、はじめは単なる投稿ミスだったの(氏のツイートでも「詩を二重投稿して荒らしのようになってしまう自分ばかだなぁ」とあるし)を後から愉快犯的にコンセプチュアルアートだと匂わせているだけかもしれない。」と述べておられる意見に、私も同感です。 1月に2作品まで、これは「ルール」で決まっていることですね。投稿間隔を一週間以上開けるのが望ましい、というのは、1つの作品を皆でじっくり鑑賞したり批評し合ったりする時間を取る為に推奨していることで・・・つまりは、作者の自主性に任されている部分です。他の人達が感覚を開けて投稿している中で、明言せずに連続投稿すれば、ミス投稿だと判断される可能性が高まります。 連続投稿することによって、ミス投稿だとして、片方が消される。その偶然性までをも想定していたのであれば、消されたことを非難することは出来ないでしょう、偶発的に消されるという「出来事」そのものが、「作品」に含まれるわけですから。 ミス投稿だと判断される可能性を想定していなかった、としたら、それは、差異を見つけ出すことができるか、挑戦してやろう、という意識の現れだ、と判断されてもやむを得ないのではないか、と思います。 どうしても、ここで2者を見比べてほしい、という意図があるなら、1作品の中で、まったく同じような(でも、少しだけ異なる)作品を2つ並べる形で投稿する方がよいでしょうね。連続投稿した時点では2作は並んでいますが、レスの付き方によって、自然にばらけて表示されることになる。そうすると、単に二作品を連続投稿した、というに過ぎなくなってしまいますから。 通常はカタカナで表記される言葉を平仮名で表記することによって、湿潤さやまとわりつくような質感が現れる・・・そのことに気付かされる作品でしたが、冒頭の、やわらかいハイテンション、とでも言うような部分が過剰過ぎるように思いました。 「いつかうさぎが、この殻だを脱皮して、本物のうさぎになった時、」少し引き締まった印象で現れるこの行から後、母と娘の葛藤が描かれるであろう部分に、焦点を当てていくべきところを迂回しているように感じます。 「生きせる国の神」死せる、と対応させたかったのかもしれませんが、ここは文法的には「生けるうさぎの国」「生ける者の国」ではないのかな・・・。 オンナであり続けようとし、母となってくれることのなかったことへの寂しさや憤りを「架空の母に、」訴えようとしている作品、と読みたいのですが、あまりにも砂糖菓子のような装飾的な言葉が過剰なので、焦点がぼやけてしまうように感じました。アニメ作品のモチーフは、濃度の差こそあれ、それ自体が様々なニュアンスやストーリー性を孕んでいます。意味や物語性の強い言葉をたくさん使い過ぎると、盛り込み過ぎ、という印象を作品に与える事にもなると思いました。 (はるのつき)

2017-04-25

感覚を開けて⇒間隔をあけて 考え考え書いていたら、ミスを見落としました。すみません。 (はるのつき)

2017-04-25

マイハニー、と呼ぶところを、あえて「ハニートースト」と呼び変えている、ことによって、奇妙な錯視が現れて来る・・・食べる、という生の行為も、性のエクスタシーも、何度「満たされた」と思っても、またすぐに空虚に、渇望に苛まれる。食べ慣れることによって飽きて来る心理、見慣れることによって飽きて来る心理。 「茶色の髪色と 優しい目の輪郭だけが 浮かび上がる夜に 別のきみを想う (つまり、見飽きた黒髪とキツネ目のことだ」 ここは辛辣さと不気味さとを兼ね備えた部分だと思いました。 四歳サバをよんだ人、と、生クリームで飾り立てたハニートーストとは、重なっているのでしょうか? 生クリームの持つ質感と甘さ、シナモンシュガーの持つ渋さや爽やかさ、懐かしさを孕んだ甘さ、このあたりの比喩がユーモラスだと思いながら、杏仁豆腐がもう一人(?)出て来て、その関係性が読み取れませんでした。 「目」が印象的に繰り返されるのですが、全体がもやもやとした空間の中に放置されているようにも感じます。ハニートーストの生クリーム添えとシナモンシュガー添えの微妙な差異(という比喩)に徹しても良かったのではないか。杏仁豆腐の位置取りが、腑に落ちない作品でした。 (めでたしの始まり)

2017-04-25

無機的な記録のような題名、その後に三行、少しずつ書き換えながら・・・何度書いても、しっくりこない、上手く言い表せない、というもどかしさを醸し出している三行に引き込まれました。 介護の情景なのかな、と思いながら・・・続く風景描写が素敵ですね。 「外灯に高く ブランコ二つ 影が揺れてる」ふたりだけ、世界に取り残されたような寂しさを、情景描写で描き出している部分。細かいことですが、外灯/街灯、辞書的な意味が若干異なるので、これはどちらの意味で用いているのか、ちょっと気になりました。横書きだと、二はカタカナに見えてしまうので(一瞬、ですけどね)ブランコふたつ、と表記した方が良いかもしれない、と思いました。 冒頭7連目までの飛躍の仕方、距離の取り方が絶妙、言葉の流れもこなれていて、全体に引き締まった詩だと思って読んでいましたが・・・「世の中が過ぎていく」以降は、あえて自動筆記的に、詩を緩めるような意図で書かれたのか・・・自分自身からあふれてくるものが収拾つかなくなって、流れ出すままに任せたのか・・・そこが判然賭しないのですが、緩んでいるように感じました。「楽しそうな~」から「ノクターン 無念の~」あたりまで、もう少し刈り込むことができるのではないか、また、一字下げなどにして、少し地の文とずらしても良かったのではないか、と思いました。 終盤、社会事象などがランダムに自分の中に流れ込んでくるような、そんな内省/内声で終わっているのですが、認識している体は、まだ夜の公園にいる、のだろうと思い・・・あるいは、その情景に戻って(オーソドックスな額縁型の詩形ですが)最後を締めてもよかったかもしれない、と(あくまでも個人的な感想ですが)思いました。 (20170425)

2017-04-26

「手におえるサイズだからこそ」ここがとりわけ、ぞくっと来ますね。 人生はマッチ箱のようなものだ、だったかな・・・確か芥川が、真面目に扱うにはばかばかしすぎるが、いい加減に扱うには危険すぎる、というような感じで喩えていたけれども・・・。 レモンで思い出すのは、梶井基次郎の檸檬・・・智恵子の檸檬・・・爆弾のように、世界を吹き飛ばしてしまう(吹き飛ばしてしまえ、という)なにか、を秘めているような、同時に、全てをゆるし、浄めてくれる太陽の滴を抱えもっている、ような・・・ 暗がりで、凝縮された光を紡錘形の形の中に張りつめさせているレモン。これから、何が起きるのだろう・・・「ひんやりとつめたいお日さま」そう、この矛盾を内包しているものが、手に負えるサイズであるからこそ、怖ろしいのです。 (小悪魔)

2017-04-26

食欲と性欲、三者のまぐわい、というかなり(本来なら)異常ともいえる状況が、むしろ普段通りの情景としてそこにある、という不思議な大らかさが印象に残りました。性を恥ずかしいもの、隠すべきもの、としてではなく、自然なもの、相手を満たすもの、という関係性でとらえている。 食事を作り、提供する「妻」の行為は、二人の「夫(?)」への好意であり、厚意でもある。リュウをいかせること、「夫」を満たすこと、に「妻」が満足を覚えるなら・・・「妻」を満たしてあげるのは誰なんだ、と疑問を抱いたところに、「妻」の所望した土産が出て来るわけ、ですが・・・。 対談、ではなく、鼎談の場合、三者が同時に対話することはなく、常に二者が語り合って、それをもう一人は聞き手として聞くことになります。 三者が絡む行為、というものが、正直な所私の理解を越えていて・・・その場合でも、行為は常に二者の間にのみ行われ、独りは「見ている」ことになるのかな、と思い・・・。「僕」は、二人を見ているだけで満たされてしまう、ということなのか。「僕」は何もしてあげられない、という淋しさを抱えているのか。 リュウの事後に、「妻」を満たすことが「僕」の役割であったのかもしれないけれど、それを果たすことができない「僕」の失望感とか自分自身に対する苛立ちのようなものを解消するものがバイブローターなのかな・・・「保険」という言葉が出て来るのは、そのあたりに理由があるのかもしれない、などと思いました。 どちらにせよ荷物は届かず、三人とも満たされないままの夜を過ごした、ということ・・・と残念な夜、というイメージは結びつくのですが、「大陸的」という言葉のニュアンスが、今一つ、よく伝わって来ませんでした。 中国と日本と朝鮮の三つ巴の関係性に重ねてみれば、見えて来るものがある、のかもしれないけれど・・・それにしては情景描写も用いる単語もストレートなので(笑) メタファーというよりは、やはり三者の関係性の物語、と、単純に読んだ方がよいのかもしれないですね。 (大陸的な夜の残念さについて)

2017-04-27

なんとも不思議な読後感の作品でした。 『鳩の目のような寝返り』、そんなものあるの?と思いつつ、きっとあるに違いない、と納得してしまう、不思議な書き出し。棚には、ではなくて、まるで棚そのものが意志を持って並べているような(家屋は、の部分なんか特に)、物が者としてそこにあるような、それでいて人がどこにいるのかわからない、そんなシチュエーション設定から生まれる不思議さなのだろうと思います。「電球と 稀に 豆電球は/まえかけに貯めて/小ネジを加えて」このあたり、とても面白いけれども・・・「ま」でつながって行く音感とか・・・その前後が具体的な情景描写なので、アクセントとしての面白さ、と・・・混然・困惑をもたらすイメージの流れに、遊び過ぎ?という感想を抱く人もいるかもしれないな、と思いました。 最終連の謎めいた終わり方と、「電球と 稀に 豆電球は」の部分の奇妙さとが合わさって、さらに題名の、イメージの鮮烈さと、本文との関係に謎を残す付け合い・・・シュールレアリスムの絵画を鑑賞しているような感覚が残りました。 (黄緑色の虫)

2017-04-27

朝顔さんの論に触発されつつ。手書きで詩を書いていた人が、ブラインドタッチでパソコンを打てるようになった後、パソコンで詩を書くと、無意識層が自然と現れやすくなった、ということを聴いたことがあります。スマホで自動筆記的に打ち込むときは、なおさらでしょう。 朝顔さんが「推敲が一見して足りないように見える部分がむしろ魅力的」という表現をしておられますが・・・ある種の舌足らずな感じ、とでも言えばいいでしょうか。でも、モタモタした感じにならないのは、言葉の流れが歌詞的に把握されているからではないか、と思いました。 「美しいものへの思慕要らないものにだって憧憬」と、体言止め、対句的に言葉を重ねた後に「~よ」と脚韻的に止めていったり、「いつもここにいた私自身分身憎めはしない」ここにいた私、私自身、とずらしながら重ねたり、自身分身と韻を踏んだりするところとか・・・。「秘密ないかまたはある/真夜中に太陽は上らない考えること/それは悲しいことうるっとくるね」このあたりも、一気に読み流す(歌う)リズムが優先されて、通常の語法が、破壊されるほどではないけれど・・・なんだろう、崩す、とも違う、ずらす、と言えばいいのかな・・・意味を辿ると、当たり前のことを言っているのに、文体の持つリズムで、そこがむしろ新鮮に聞こえるところが面白いと思います。 三連目は、少し観念的になってしまったかな、という印象があるのですが、二連目の鳥かごに閉じ込められている(自ら檻を作りだして、その中に閉じこもってしまっている)歌い手、としての心、詩人の心をカナリアに喩えた部分が、とても素敵だと思いました。 (答え尋ね)

2017-04-27

題名と内容との絶妙な関係性に、まず拍手です。 石垣りんさんの「暮らし」を遠く重ねつつ・・・自分自身を調理して提供している語り手、その様子をどこかユーモラスに捉える二連目の、息継ぎというか語りかけ(言いつのっていく)リズム。強度のある短い三行で、矩形の中に詰め込まれた言葉を更に挟む詩形。最後に骨にまでなった「私」は、その骨によって明るくキッチンを照らし出す・・・予想外のラスト。白く照らし出されたキッチンには、きっともはや、誰もいないのでしょう。家族たちは、「私」を食い尽くして、それぞれが自分の部屋なり、仕事場なりへ出かけてしまっている、ように思います。でも、この詩はその告発ではない。「私」の哀れさを訴えるわけでもなく、「私」の犠牲精神に焦点を当てるわけでもなく・・・ただただ、事実としての「家族」の有り様を、静かに照らし出しているようなところに、凄みを感じました。 聖家族、という「美しい」「理想的な」家族の情景が、全て食い尽くされた「私」が白々とその光景を照らし出すというアイロニーによって、まったく別物として描き出されている、と言えばいいでしょうか。 (聖家族団欒)

2017-04-27

春先の、まだ肌寒い(息が白くみえる)時節の、深呼吸。 少し黒い手、は、日焼けした手かもしれないし、真冬のどんよりと暗い曇り空ではなく、明るいグレートーンの空にかざして、逆光で黒く見えているのかもしれない。 いずれにせよ、くろいて、の「く」から、くもり空の「く」へとつなげながら、空を引きちぎってのむ、というダイナミックなイメージに惹かれました。 吐いた白い息が、灰色の雲を浄化して白く吐き出しているようにも見え・・・語り手自身が、春を呼び覚ましていくような・・・体そのものが自然の一部となって再生を感じ取っているような感覚がありました。 最終連、くすぶっている、で止めた方が余韻が残ったような気がするのですが、どうでしょう・・・。 なめらかに膨らんでいった後、息が弾んでいるような小さな乱れがある、そんな息づかいのリズムが、詩形に現れているようにも思います。 (息)

2017-04-27

崩れやすい豆腐、のような「私の心」ということ、なのかな、と思い・・・じっとみつめているうちに、自分がそのものになってしまう、同化していってしまう、そんな幼児期にとりわけ顕著な心象が、そのまま描かれているような不思議な感覚がありました。 (暗いくらい水の中)

2017-04-29

一行目の衝撃的な立ち上がりは、「ありえない」情景であるがゆえに何かの比喩だ、と思って読んでいて・・・そうではない、「ほんとうに」燃やしたのだ、と明かされていく展開に驚嘆しました。 「私」と「彼女」が頻発するけれども、不思議とうるさくない・・・繰り返されていく感覚が、ある種の酩酊感を醸し出すからかもしれません。 ロジックがとてもしっかりしていて・・・「彼女」は「私」に「幻想」を与えてくれる、夢を見させてくれる。その代わり、「彼女」は「私」の代わりに傷を負う。語り手(私)が魂で、魂が見ている「彼女」が肉体、であるように思われてなりませんでした。 具体的に、リアルな手順で「彼女」を燃やすところは、詩を語る主体(私)が、焼身自殺を詩の中で完成させた、ようにも思われました。 冒頭のシロツメクサの花冠を作る場面が、〈枯らせずに腐って叱られて捨てた草の冠〉として最後にまた現れる。(ガソリンが床を腐らせる、という言葉も出てきますが、これは、最後の草冠を腐らせる、を導くために置かれた伏線、なのか・・・ここは、若干、違和感がありますね・・・)ドライフラワーとして美しく保存するのではなく、腐らせてしまった子供時代の魂と肉体の蜜月の記憶・・・いつまでも子供でいるんじゃない、と言われ続けて、無理やり自身を引き裂いて大人になる、ある種の通過儀礼でもあるようです。マッチで燃やす、という設定も、マッチ売りの少女を連想し、自らの夢を燃やしていくかのような痛みを感じました。 (親愛なる灰へ)

2017-04-28

古風な均衡のとれた表現の中に、季節が季節を「喰い破る」という、強度を持った動詞が入って来るところが面白いと思いました。 どこかはるかなところからやってきて、食い尽くす、のではない。既に内包されているものが、皮を喰い破るようにして現れる、イメージ。 「喰う」と「食う」が共に用いられているのですが、意図的に言葉を変えたのか、単純なミスという可不統一なのか・・・小さなところですが、大事な言葉なので気になりました。 (喰らふ)

2017-04-28

外界と接する時に、仮面をつける、というイメージを抱く人は多いと思いますが、どうも「仮面」では言い表せない、衣服のように全身を包むもの、鎧、のようなもの・・・をイメージするのですが、それもまたしっくりこない・・・そんな感覚を持っていたので、なるほど、膜か!と手を打ちました。繭を自ら創り上げて、その中にこもってしまう、ような。でも、完全に閉じこもってしまうわけではない。もっと柔らかくて、内側から手をのばせば、その形に変化して、その膜を通じて外部の物に触れることもできる。 その膜を、洗い流してしまいたい、まっさらな身体で外部と接したい、と思っている、そんなイメージで「洗う」という言葉を畳みかけていく連が生きていますね。他方、「五時間の流れ/膜の中へ/呼ばれ/はじかれ/追いやられ」の連が、全体の流れの中で私には掴みがたかった。なぜ、五時間、なのか。膜の中へ(戻る)と、いったん文の流れが切れているのか、あるいは、膜の外へ呼ばれ、今度は膜の中へ呼ばれる、と対句になっているのか・・・。 全体に抽象性が強く、もどかしさもありますが、外界との間の「膜」の質感、膜の内側の居心地よさ、しかしそこから脱しようとする意志のようなものが伝わってきました。 (膜)

2017-04-29

熱い命を燃やすよりも 冷たい人工物のほうが明るいの 終りはあるけれど寿命のない 冷たい人工物のほうが明るいの この切なさという可矛盾というか、発見が、この詩を成立させているように思いました。後半、言葉がのってきている反面、同じような言葉を繰り返す部分が目立ってきたり・・・繰り返すことによって、酩酊感とか、エンドレス感とか、強調とか、逆に意味を薄める(意味がない、感じになっていく)とか・・・そういう「効果」があるかどうか、考えながら推敲していくと、もっと引き締まった作品になると思います。 素敵な「発見」を大事にして下さい。 (やさしい無機質)

2017-05-02

今日も 風が吹いています だけど 風は何も語りません 明日も 風が吹くでしょう だけど 風は何も教えてはくれません この印象的な始まりを、あえて最後にもう一度繰り返してみる、とか・・・ 繰り返し感のある部分と、シャウト感のある部分が、もう少しくっきりするようにメリハリをつける、とか・・・意味を追う部分(バラード的に、語る部分)と、歌に徹して語りを支える部分を仕分けしていくなど・・・そんな整理がなされると、もっと訴える力が強くなるような気がしました。 (風とともに生きてゆく)

2017-05-02

サメは軟骨魚類だったなあ、と思い、骨の無い魚、これは鮫と読んでも面白いかもしれない、と勝手に考え・・・鮫のことを、古代日本では鰐、と読んでいたなあ、と思い・・・稲葉の白兎、鰐。古代神話の世界が、時代性を剥奪されて、ロンド形式の構造の中に散りばめられている、その質感を考えながら・・・利口ぶっているけれど騙されて、ひどい目にあって殺される(死ぬ)「うさぎ」的な人々と、黙って使役されることによって、むしろ生き残る部類の「さめ」的な人々のイメージを抱きました。「さめ」的な人々は、「うさぎ」的な人々の死を、悼むことすらしない(気づかない、から)。うさぎって、なんだか、詩人たちの暗喩みたいだな、と思いつつ・・・ (Land Scape Goat)

2017-05-02

文章の区切り方(改行のリズム)に独特の屈曲があって、そのリズム感に揺さぶられながら読みました。 「弟のなきがら みたいな顔してねむってるはなみずを」 なんて、えっと驚いて、それからずっこけるようなズラシがあったり・・・ 「体が割れていく、ゆびきり、寒さが、少し空いた窓から差し込んできた夜が、本当に寂しい」この、とつとつと途切れながら、流れるように一気にあふれ出すような一行、とか・・・「わたしの/ 体が前に歩く」魂だけが夜空に抜け出して、歩いている、ような感覚とか・・・ どんなに子守りの上手い姉でも、「呆然とするわたしのこころの外側を抱いてくれる」ことはあっても、こころの内側、本当に寂しい、その芯のところは、抱いてはくれないんだな、とか・・・ 「みんな丘の上から流れていく比喩、きっと、朝日がこうして昇るから、その度におもいだす、不甲斐なさと一緒に流れてしまう、削がれ落ちた透明な手のひらのひふがはがれおちて、」この流麗な一節、とても素敵でした。 丘は、故郷の景であるように見えるけれども・・・子供時代とか、想い出の国と、現実界との境界にある「丘」のように感じました。 (丘の向こうに消えてゆく)

2017-05-02

眠れない夜。ちびちびとふっている雨、なのに、まるで自分が孤島に取り残されているような、水の底に町全体が沈んでしまったような感覚。足裏のトゲ、この、命に関わらないけれども実にうっとうしくて痛くてうんざりする、そんなやっかいなものが、心のトゲとして最後にもう一度、現れるような気がしました。 (ノイズ)

2017-05-02

壺の紋様、ではなく、もんよう、と平仮名で表記されることによる、読みのスピードの調整・・・「変調による捻れが吐く嘆息の」のような、ワルツに似たリズム、「半音の意識の針」haの音が導いていく、息を少し混ぜていくような質感、右斜め上、ならぬ、「耳斜め上」・・・。音感の豊かな作品だと思いました。 題名そのものも音楽的ですが(あるいは、サティがギリシアの壺を見ている、そのシーンに同化しつつ)「誰かを見ていたように/誰かに見られていたわたしの」から反転していく後半、なかなかスリリングですね。 作品を作る、それを残す、ということに対する永続性(への願い)と、忘れ去られる、葬り去られる、それならいっそ何もなかった、その方がよい、というような、創作家の内面の揺れ動きが表現されているように感じました。 (ジムノペディ)

2017-05-02

火に油注ぎ、という、通常は慣用句で用いられる言葉が入ることで、なんとか笑顔を保っている生産者の方の心が、煮え立ったり燃え立ったり、時には苦痛で歪んだり・・・しているような気がしました。なんども自身に「生きている間は幸せだったのだから」と言い聞かせ、牛をお客のために焼く。炎を上げる油、自身に言い聞かせて、収まったはずの心の波立ちが、再び激しくなる・・・「少なくとも今/苦しくありませんように」人間の欲望の狭間に立つ人の、祈りだと思いました。 (牛肉)

2017-05-02

宇宙人、というのは、この詩を書いている人、が、まるで宇宙人のようだ、というイメージと重ねている、のかなあ・・・と思ったり、ダースベイダーが出て来るんだから、宇宙人に決まってんじゃん!と思ったり・・・ 大真面目に「バターを多めにとって」と言われると、逆にずっこけるような面白さが出て来る、のは、なぜなんだろう・・・ちびくろサンボ(今は、この名前は使わない、ようですが)の、バターになって溶けてしまったタイガーたちを思い出したり・・・。 「小豆のさやにライターで/火を付けると/幻想的な発色をした」個人的には、こうした詩行が好きです。豆を煮るのに、豆のさやを燃やす、という故事も、なんとなく思い出しました(これは、関係ないかも、ですが・・・) (宇宙人)

2017-05-02

hyakkinnさんへ 何考えて投稿してんの、というのは、読みようによってはスンゴイ失礼な言い方かも(^_^;) 読む人をびっくりさせたいとか、反響を聞きたいとか、イメージのぶっ飛び具合の中に、他の人は何を観るんだろう、とか、そういう意識はあるのかな、と推測しつつ・・・行間イメージが飛び過ぎているので、全体をまとめるというのか、流れにのせていくような、何か盛り上がりみたいなもの、旋律のようなもの(音感とか独自の韻律とか)なにか、そういった「仕掛け」がある方が、「ニッチな需要」が「より広い需要/受容」になっていくきっかけになるかもしれないですね。 (宇宙人)

2017-05-11

異存は無かった  意味は無かった 畏友が増えた 井田さんに会いに行った 伺候して この、い、で始まる言葉が一定間隔で出て来る、その、ある種の酩酊感のようなものが、まず印象に残りました。柵を越えて、から、一気に弾けるというのか・・・言葉が飛びまくる、というのか・・・全体に、たんたんと一定のリズムで進んで行くような感覚があるのですが、後半、内容がはじけていくのと呼応して、リズムもノッテ行くような、そんな「序破急」の構成にしてもよいかもしれない、と感じました(好みですけれどね。) (頑張った)

2017-05-02

冒頭の「あたたかく降り積った」という部分から、雪原というよりも天国(雲の上)を連想しました。 朝顔さんも引用されていますが、 「女になるというのは 自分が一番遠い他人のように感じる生き物に なる事なのだ 」 この断定にドキッとさせられます。 「呟きでも、言葉に出来るなら救われるのに」 少女の時は、無邪気になんでも言葉に出来ていた、ということでしょうか。 他者を慮る、他者に遠慮する、他者に・・・という外からの視線が見えて来るのが、大人になる、ということなのかもしれません。 「影の出来ないわたしの空模様を面白がって 」ここは面白いですね。いつも曇天が頭の上にある「わたし」と、いつも晴天が頭の上にある「あなた」。 その人の醸し出す雰囲気、ムードを、いつも曇天の下にいる(だから影ができない)人と、いつも晴天の下にいる人、という比喩で表す。比喩が、頭の上に雨雲が浮いていて、その人が移動するたびについてくる、というような、個人的な曇天のイメージが脳裏に浮かんで・・・晴れた空の下で、ひとり、雨雲を頭の上に浮かべて、そこから降り注ぐ雨に濡れている主人公をイメージしました。 言葉が生むイメージが、詩的ロジック(論理)を進めていくところが面白い。 実際にはありえない光景が、詩の中で無理なく自然に成立している。 気になったのは、「薄暗いさみだれを落としながら」の部分。五月雨(陰暦の梅雨、なので、実際には六月くらい?)のイメージと、題名の「花曇り」のズレが、意図的なものなのか、時間が経過したのか、疑問を覚えました。 (「花曇り」)

2017-05-03

5月始めに投稿されていたのに、読み落としていました・・・一覧表で確認しました😅 人を好きになるって、自分が自分でなくなっていくことと、いかに向き合うのか、という戦いでもあるような気がします。 恋の力で、一気に燃え上がった、日常からの離脱・・・それは瞬間に過ぎず、生活、ルーティンに回収されていってしまう。そのささやかな幸せ、単調な日々に幸せを感じられるふたりならいいけれど・・・ 一人だけ、気持ちの回収がままならない苛立ち、それを彼女と共有できない切なさを思いました。 カフェインの取りすぎ?で、一回はち切れて・・・イン/アウト、汚れの中の汚れ、水の中の水・・・あたりから、自動筆記のように言葉が溢れだしていく感覚ですが、もう少し後半を整理しても良かったかな、と、感じました。イエスキリストまで出てきてしまうと・・・ここでは特に宗教的な意味はないと思いますが・・・その無意味さと、言葉そのものの重さが解離しているところに面白味があるとも感じますが、意味の希薄化というのかな、そのフレーズの分量が多すぎるようにも思いました。 百日紅、灰皿、と、目につくもの、思い付くものを気持ちのままにかき集めてぶちまけるような、言葉を集めて投げ出す感覚の中に、気持ちのやるせなさ、が、出ているようにも思うのだけれど。 (希望灯)

2017-06-01

維持張って、とか、逆週できずに、など・・・これは、あえて、の表現なのか・・・馬鹿にした頃がいました、これは、ありました、の方が自然な流れとなる木もします。 もしミスなら、これらはちょっと残念。 子供時代、〈僕〉は苦くて酸っぱくて、いやでいやで仕方がない飲み物を、笑って飲む。 味覚(だけではなく、恐らく感性すべてにおいて)過敏の、大人びた子供。「ポエジー」で自身の気持を抑え込むことを、既に学んでいる(学ばされている)子供。数行でそれだけのことを描写してしまう的確さ。無駄のない、それでいて流れるような、どこか音楽的な(たとえば最初は四拍子)詩行の流れが美しい。 〈この世界で唯一反抗できることは 星のない夜を二度と味わなかったことだ〉味わわなかった、かな、正しくは(重箱の隅を、あえて突いてます、だって、もったいないもの) この二行、非常に魅力的。こと、と二回重ねる、ちょっとモタモタした感じのリズムの方がよいか、この世界での唯一の反抗は/星の無い夜を二度と味わわなかったこと、とさらりと流すか・・・あえて、こと、こと、と、躓き気味にした方が(つまり今のままの方が)よいかもしれない・・・ 〈鉄棒とコンクリートで囲まれた箱〉一人のシーンなら、マンションでの孤立ともとらえられるけれど、〈もみくちゃにされた〉という接続で、学校であることがわかる。しかも、その言葉を発したくないほどの、悪意にさらされるような場所。 〈帰り道〉で薄闇に閉ざされた夜道が浮かび・・・〈オシャレな自販機〉というカタカナまじりの表現で、こちらの気持など知らぬげに、煌々と明るく輝いている自動販売機を、どこか斜めに、皮肉っぽく眺めている視線が伝わって来る。その、オシャレで煌々と輝いている自販機は、〈僕〉を取り巻いている世界の縮図でもあるのでしょう(メタファーとなっている)飲み物達、という擬人化が、これは今、僕が置かれている社会そのものだ、と気づいた作者の心の動きを示しているように感じます。 〈一人除いて~優しかった〉この流れが実に良いと思いました。〈星のない夜〉とは希望のない時間のことかもしれないけれど、自分には理解できないこと、受け入れがたいことを、闇は闇のまま、静かに受け入れてしまおう、という豊かさがそこにあるような印象を受けました。 自分で自分の世間への馴染みがたさを、受け止める。その苦みや酸味を、優しい味、と感じながら飲み干す。それが大人になる、ということか、という切なさが、なぜか、余裕のように受け止められるのは、ゆったりとした流れの文体のゆえかもしれません。秀作。 (ブラックコーヒー)

2017-06-02

とても良い作品だと思ったので、細かいですが、気になったことを書きますね。 「恐らくは悪阻の度に アルコホルで痛みを誤魔化していたのであろう」 大人になった「私」が、母の辛さを理解し、包み込むように受容している、とても印象に残る推察だと思うのですが、悪阻(つわり)であれば痛みよりも痛苦、悪寒、などで、陣痛ならば痛み、なのでは?と思います。 「ゆらゆらとしたアルコホルのかほりがした」通常なら、ゆらゆらとアルコホルの・・・となるのでしょう。~とした、~がした、と脚韻を踏むような肌なじみの良い語感ですが、「ほ」の音を際立たせるなら、むしろ、ゆらゆらとアルコホルの・・・と持って行った方が良いようにも感じます。 それから、アルコホル、かほり、この表現が、セピア色のトーンを重ねるような独特のニュアンスを醸し出していて、個人的にとても好きです。 でも、それならば、なぜウヰスキイ、にしないのか、とか、促音の「つ」はどうする?とか、「言ふ」「あらう」になるんじゃないか、とか(旧仮名に詳しくないので、自信ないですが・・・)もちろん、かほり、アルコホル、だけ、あえて固有名詞のように「ほ」を用いる、という方法もあるかと思いますので、そのあたりはあまり厳密に考える必要はないとも言えますが。 「無常に流れ」ここも、もしかしたら「無情に」なのではないか?とか・・・ 説明的な、直截な表現が多い、という印象はありますが、あえて、淡々と「報告」するように綴り、その歳月をまたぐ叙述を「ゆらゆらと」という語感とイメージでつないでいく。全体が水の中に揺蕩っているような、不思議な揺らめき感の中で展開していくところが素敵だと思いました。 (恩讐)

2017-05-03

不思議な構成ですね。自分自身のオムニバス物語、のような。 一連目は運転席にいる自分自身から幽体離脱した魂が、自分の肉体を見つめているような感じ。 二連目は、タクシーや運転手付き(!)の車にガタガタ揺られている感じ(というシチュエーションが浮かぶけれど、そうすると〈運転席にあったはずのからだ〉が、なんとなく浮いてしまう・・・) 三連目は、抽象的で凝縮された行により、一、二連めの「車」が、自分の人生の喩であることを鮮やかに示している。最初は自分で〈運転〉できていたのに、いつのまにか他人(誰だかわからない)にハンドルを取られ、後部座席で振り回されて、傷だらけになってしまった・・・ここで、一連目の冒頭二行、初読ではなんとも抽象的なこの二行が、人生(運命)に流されるのではなく、その渦中に自ら巻き込まれるのが好きなのさ、と自身の惨状?を肯定しようとする二行、であるように見えてくる。〈誓いはやがて意識の遠くへ〉誓いって、なんの?という疑問がわくので、伏線となるように、冒頭二行を「誓い」っぽく書いておいてもよいかもしれないですね。ちかい/遠く、の言葉遊びに見えてしまわないよう、唐突感を感じさせないような工夫があればよかったかも。 朝顔さんも四連目を評価しておられますね。実生活で心身ボロボロになった主人公が、無意識の岸辺、幼少期の思い出や詩情の生まれて来る、心の奥底に広がる浜辺に立つシーン。自分で自分の人生をコントロールしていた(と感じられていた)幼少期、その喜ばしさだけが輝いている記憶・・・それは〈羨望と妬み〉、社会人がさらされる〈渦〉に巻き込まれていなかったから、ではないのか。自分自身の心をわしづかみにして・・・という一節に、実感がこもっていますね。ここは、一字下げにしてもよかったかも。 二十四時間、からの部分は、また現実に戻ってきての、シャウトしているような感じの部分ですね。 〈同じような想いを抱いている人がいないかとSNSをチェックすることが癖になった〉この部分、もしかしたら〈SNSをチェックする〉だけで先に進めた方が、リズムが引き締まる様に思います。〈同じような想いを~〉という説明部分は、次の〈みんな、みんな本当に?この焦燥感を持たないの?〉に内包されているし、〈いつも間に合えない〉とか〈今日も向かっている〉の、いつも、とか、も、という一語で、〈~癖になった〉ことはわかる。 〈何より、言葉に出来ない想いを持っているということ自体への苦しみを〉この部分も、〈言葉に出来ないこの苦しみを〉とリズミカルにしてみてもよいかもしれないなあ、とか・・・。 〈想いを捨てて前へゆくことがそのまま重さになる〉〈ここが変だと、一緒に笑ってくれ〉〈それでも追いかけるしかない時を生きている〉 他人を意識しない、競争しない、自分が世界の中心にいて、全てのものが新鮮で輝いていた子供時代・・・は過ぎてしまって、他者との比較、弱肉強食、止まることを許されない日常に晒されている。誰かにハンドルを奪われて、先に進んでいるのか、渦に巻き込まれてその場でグルグル回っているのか、既にもう、わからない・・・ 年輪のように、大人になっていく時間が子供の時間の外側に育って行っても、真ん中には子供の時間が生きているはず。そこで、詩を感じたり、書いたり、読んだり、するのではないかなあ、という気がします。 (Driver)

2017-06-02

引きこもりの孤独で淋しい女の子が、不法入国で強制退去命令が出ている、いい加減だけど限りなく優しい男に恋をした、感じ。 キスが上手いんだな、この男。きっと舌の使い方が(甘言づかいも)うまいに違いない。 なんとなくアフリカまでついていってしまって・・・そこで初めて、「家族」の味を知ってしまったんだろう、この女の子は。この女の子も、不法入国者になるのかな、その辺がちょっとよくわからない。 アサミ、を帰国させなければ・・・泣きながら、毎日大使館に電話するのは、この男の誠意?優しさ?二人の間の子どもは、ダニエルのお母さんとダニエルが育てることになるのか。 亜咲美としては生き辛く、アサミ・タデッセと名乗りながら、ダニエル・タデッセを置き去りにして日本に帰って来た、と・・・きっとアルコールに溺れながら、この女の子は語るのだろう。本当の話かどうかは別として。自分が置き去りにした、と言いながら、日本に置き去りにされた、と泣いているのではないかしらん。 最初の二行を、誰が、どんなシチュエーションで言ったのか、ということが曖昧にされていて・・・それが面白みなのかもしれないけれど、ちょっと消化不良。 不法入国とか強制退去などのフレーズが、単なる思い付きで(シチュエーションやムード作りの為だけに)用いられていたとしたら、はっきり言って駄作。社会問題告発的な重さや強度を持った用語を、ムード作りに安易に使うな、ということです。同様の関係性やムードを、そうした言葉を用いなくても表現できるはずだし、それが詩を作る、という事だと思う。 実際にあった話を踏まえてのことであるなら(この女の子はエチオピアに不法入国したのか、どうか、とか)もうちょっとだけ、丁寧な描写が欲しかった、と思います。 日本の生き辛さ、エチオピアの温かさ(生きやすさ)を対照しつつ、生きるってなんだろう、と問いかけていくような深さにつなげていく・・・。 あえての酷評ですよ(笑) 愛をこめて。 (アフリカの人、置き去り計画(エチオピアVer))

2017-06-02

〈ふと、思う。〉とか、〈少し気になって〉というような、説明的な部分が、余分に感じてしまいますね・・・。ここは省いてもよいかもしれない。 ある日、「人間」が「蟻」にしか見えなくなってしまった、そのターニングポイント・・・大げさな言い方をすれば、達観して、何かを悟ってしまった瞬間の世界、の眺め。面白い視点だと思うと同時に、蟻が「せかせか」というのは、なんとなく常套句だな、という印象もあり・・・こうした言葉を、もっと別の、独自の表現がないか、と探してみるとか、せかせかしている情景を、もっと具体的に(想像力を働かせて)描いてみる、などすると、なんとなく聞いたことのある表現だなあ、という印象が、お、これは新鮮!に変わるはず。 「地獄篇」の方が読みものとして面白くて、「天国篇」は単調でつまらない、それは世の常。 自分が地獄の渦中にいる時は天国をあんなにも切望したのに・・・この矛盾が、人間の面白さであり、厄介な所なのでしょうね。自身が地獄の中にあっても、そこから離れた高みから、自分自身を見下ろすことができるなら・・・物語の中で苦しんだりもがいたリしている自分を、物語の主人公として見ることも出来るかもしれない。そんな転機を描きとった作品だと思います。 (社会。)

2017-06-02

同種のフレーズを重ねていくことで、かえって表現が強まる場合と、くどくなる場合(うるさく感じる場合)があるように思います。この作品では、言いたいことを重ねている、というよりも、自分の考えを静かに重ねていく、行きつ戻りつしながら、その道程そのものを作品にしている、という印象があるのですが、どちらかというと、くどい印象を受ける人が多い、かもしれない、と思いました。 評価を受ける。 それは承認欲求の満ちる要因の一つ。 だけど、 なぜだろう、 僕は嬉しくない。 心の奥底で何かがくすぶっている。 褒められることの優越感とそうなれなかった者の妬み。 その両方は僕は知っている。 僕は嬉しい。 だけど他人はどう思うの? 「あいつはうぬぼれている」 「あいつは抜け駆けをした」 「あいつを引きずり降ろそう」 僕にはそんな声が聞こえる。 ・・・たとえば、こんな形で削りながら、先へ先へと進めていく、というのも、一案だと思いました。(こうしなくてはいけない、ということではないですよ、あくまでも、ひとつの例、です) (僕は愁う。)

2017-05-03

かぐやひめ 二次創作、という感じ、なのかな・・・ かぐや姫が犯した罪、とはなんぞや、というのを、『国文学』とかで喧々諤々やっていたのを、以前読んだことがあります。永遠の謎、だからこそ面白い、というのか・・・ 愛することを許されていない、それなのに人を愛してしまった、という罪だとか、死を願ってはいけないのに、死するサダメの人間界に憧れてしまった罪、なんだ、とか・・・月に居る時はまだ罪を犯しておらず、地上に降りた後に犯すであろう、という、未来予測的な罪、なのだ、とか・・・ 祝儀さんの「かぐや姫」、その犯した罪とはなんぞや、というのが、気になってしかたないものの・・・心を持つことを願う、人間的な存在であることを願う、それが「罪」だとされることなのかな、と感じました。だとすれば、苦しんでも悲しんでも(喜んでも楽しんでも)人間でよかった。 科学文明がひたすら進化して、人間の心の波立ちをコントロールする薬ができて、どんなに孤独でも退屈でも「何も感じない」ことができるようになって、いつまでも健康で長生きできるようになった、として・・・それじゃあ、生きている甲斐がない。私もきっと、かぐやにもらった不死の薬を、燃やしてしまうでしょうね。 (かぐやの涙)

2017-06-02

これは面白い。なんで評がついてないの・・・評の氷河期。 ひょうひょうと、トボケタような飄逸さ、昔語りから得たようなユーモア。 雨月物語、のような昔ながらの・・・語りをイメージさせたところに、〈家の設計図は〉とか〈同じ社会構造に〉と現代を思わせる語が入ってくる、この絶妙なずらしの感覚。 〈胡座の裡〉?あぐらのうち?こざのうち、なんて言葉があるのか?と思ってググってみたら、『胡座の裡』という、明治(!)45年の『阪本龍馬』という本がヒットしましたが・・・ 靖子さんって、誰?(笑) もちろん、誰でもいいのですが・・・こんな書き方をされると、夜な夜なたち歩く幽霊氏は、恋煩いで亡くなったのかもしれないなあ、なんて気がしてきました。 蒼ざめし我が頭蓋骨。さわりたいのに触れない。それなのに墓で両腕に頭蓋骨を抱いて、こちらを見ているのは、誰なのか・・・。あちらが「今生」こちらが「来世」という逆転も面白い。 〈心臓に名前がなかった〉〈暦の境界に靴を脱ぎ〉上手いですね、この表現。幽明境にして、とは言いますが、k音の連続と、妙に行儀のよい仕草、ビルの屋上からの飛び降りを連想しつつ、既に死んで骨になっているのだから、飛び降りるも何もないもんだろう、という・・・。 私の心臓には、どんな名前をつけてあげようかな。やっぱり、イケメン男性、それも用紙じゃなかった、容姿ではなく、精神のイケメン。そのファーストネームは。 (蒼ざめし)

2017-06-02

以前の投稿作、疎水情繪を改変して下さったんですね。ありがとうございます。 註を付けた方が・・・というようなことを記した記憶があり・・・忠実に実践して下さったのだな、と思い・・・もちろん、私の書き込みのみの影響、という事だけではないでしょうけれども・・・註を、意味もろとも本文の中に入れ込むのは、読みやすさの点でどうなんでしょう、読みの流れを分断しすぎる印象を受けました。文節する、という意図があるなら、また別の読み方をしなくてはいけないのでしょうけれども。 琵琶湖疎水を辿りながら、過去の偉人が刻んだ(そして、この流れを行く旅人が、様々な感慨を込めながら見上げたであろう)「言葉」がまとう歴史性に、現在の「わたし」が想いを馳せる、ということと、今、咲いている桜によって喚起される情趣、その融合を目指した、ということなのだろう、と思います。 あえて漢文読み下し調に直しておられますね。刻まれた漢詩文から得た感慨が先なのか、情景や歴史への思いが先にあり、そこから喚起された想いがあって、そこに漢詩文の意味や想いが重なるのか・・・前回の投稿作は、情景から喚起されるものが先で、そこに漢詩文の思いが重ねられている、ように感じました。 今回は、ご自身の投稿作を推敲していく過程で、むしろ漢詩文の醸し出す意味や歴史性に引かれての改作、と感じます。 たとえば、冒頭部分、 萬物資始 ※1) さくら淡く電燈に透けながら ほどけるをみる 気象万千 ※2) もこそに馳せた大陸は 帯状に弛む疎水の門をくぐり 寳祚無窮 ※3) あかりまるく落ちるを知る というような感じで、漢文の読みもリズムに取り込みながら、全体の可読性を考えてスッキリ記して、「意味」や出典は、作品の最後にまとめて註の形で記す(それも作品に含める)というような方法の方が、流れの美しさ(疎水のイメージ)に沿って行くことになるのではないか・・・などと、思いました。 時間がかかったと思います。それなのに、色々、注文メイタことを言って申し訳ないですが、読みにくいなあ、と感じてしまったのは、事実なので・・・。 (琵琶湖疎水扁額史會)

2017-05-04

花緒評を見ながら、蝶って、紫外線が見えるんだよ!蜜を捜したり、異性を捜すのに、紫外線が大事なんだよ!とツッコミをいれつつ。 あおいそら、に飛び立っていける蝶と、飛び立っていけない私、を対比してみたいのですが・・・力いっぱい羽ばたいても、誰かにつまみあげられて自由にならない蝶、が、〈わたし〉に重ねられていたとして・・・押さえつける、自由を奪う、という残酷な行為を、何の気もなく出来てしまう、〈わたしはそんなにも つよいいきものだったか〉という感慨の方に力点があるのか、私もまた、誰かに押さえつけられている生き物に過ぎない、という感慨なのか・・・ 全体にさらりと美しく、表面をなでるように綴られているので、双葉月さんが感じた「なにか」の上を、上滑りしていってしまうような感覚がありました。 (午前10時のあおいそら)

2017-06-02

再読して、なきむし(泣き虫)と、〈虫のついたわらい〉虫のついた笑い、の対応を発見。虫は無視でもある・・・ 初読の時は、後半が急展開過ぎる、と感じたのですが、いつまでたっても延命していて、どれほど国民が騒いでも生き延びているA政権こそ、アシナガバチなんではないか。そのしぶとさを、怒りを込めて笑う、社会風刺の詩なのではないか、という気がしてきました。 (なきむし)

2017-06-02

フェイドアウトするような冒頭、「手」の温もり、手触り、手紙・・・手に関わる太い流れがあって・・・てのひらに刻まれた「壺」の中に、作者は(読者も?)入り込んで(落ち込んで)しまったかのような、西遊記的な驚きがありました。 「みんなの為に この人は素手で こんなことをしていたのか」この一行が、とても好きです。蛇つかいの音楽みたいに、不思議ワールドに連れて行ってくれる、癒しなのかもしれないし、冒険なのかもしれないし、そんな音楽。手を汚さないと、美しいものも不思議なものも出来ない。 入り込んだ不思議な町は、手を触れない、手を汚さないようにした「罰」なのか、そのことに気付いて手を洗うふり、をしたのか・・・それとも、誰にも知られないところで、黙って手を汚している、そんな素敵な仕事をしている人の存在に気付いた人だけが体験できる、「ご褒美」なのか・・・彼、古い友達、彼女、とたくさん人が出て来て、ちょっと混乱しました。その「困惑」も、作者の手品にかかってしまった、ということなのかな・・・でも、人間関係をもう少し、はっきり見てみたい気もします。 (彷徨い)

2017-05-09

「私を雑にしまわないで」え~!語り手、しおりさん、だったのか・・・という・・・。「夜を読む度に跳べる」こういう、新鮮な感覚、好きです。「文字だんごの尾は短く」こういう生き物が、いるに違いない、という妙な確信を感じてしまう。私は、ハリネズミみたいな(文字をピンピン背にけば立たせているような)生き物を想像しました。「誇りを毛だち欲しがっている」毛達?けだち、と読むのかな、他の部分が、意味は自由に飛んでいるのに文法が全部「正しい」ので、ちょっと引っかかりました。ワザとなのかな・・・わからん・・・「指で謎る 揺らぐ言葉の毛を」謎めいた、意味の理解できない、でも意味のわかる、不思議な何か、を指でなぞる、感じ。言葉の毛・・・ということは、その前の「毛だち」も、言葉の毛立ち、なのかな・・・。 「言葉の速度は駆け抜ける」「文字の塊が心に溶けていくから」ハリネズミみたいな文字だんご君が、心に溶け込んで一緒に疾走していく、ような・・・そこに、夜の雨がしっとりと降り注いでいる、わけですね・・・ 本が閉じられる時、魂も一緒に挟み込んでしまって、本体(肉体)が眠っている間に夜空を旅しているような感じがしました。楽しい。 (栞紐)

2017-05-09


 冒頭のこの記号が、なんとも気になって気になって・・・ それはともかく。花緒さんの「現代版のお経」まさにそんな感じですね。リフレインが繰り返されていくうちに、陶酔境に入っていく。ただ入っていくだけではなく、きっと「ことだま」としてのなにか、が、作用し続ける(だろう)。 以前、うつくしい、を連発する詩を書いたことがあります。 赤いフィルターを通して世界を見ると赤が消えてしまうように、醜さを通して世界を見ると醜さだけが消えて、美しさが残るのではないか、という、実に理屈っぽい詩でしたが・・・ あきらさんの詩は、美醜に限定されない。すべてを肯定しようとする。14歳からの哲学、という本がありましたが・・・17歳の観想、と名づけたくなりました。 (かなしみ)

2017-06-02

個人的に「ネモフィラ」(瑠璃唐草)が好きなので、どんな感じになるんだろう、と思いながら・・・「祖母」は「きみ」で「少女」なのか?という不思議な困惑を覚えつつ・・・ 「一年前のぼくを ぼくのもとに帰すために 青の海へ行く」 一年前に、何を、約束したのでしょう。「青い花」夢の花、いのちの花・・・ 補色の橙、これは、帰化植物の「ナガミヒナゲシ」あるいは「ハナビシソウ(カリフォルニアポピー)」ではないか、と思いますが・・・水色と透き通るようなオレンジ色、美しい絵のようです。アメリカ育ちの少女、と不思議に重なって見えてきて・・・まるで、ひなげしの化身のような気がしてきました。 「人は誰だって花の種だ」この箴言風のカッコイイ台詞、そこから続く、ちょっと理屈っぽい場面を、もう少し凝縮して、硬質な説明的叙述(もっと簡潔な感じ)にしてもいいのかな、と思ったり・・・ 美しい花園のイメージの中で、花の化身と出会った一瞬を描いている、そんなファンタジックな幻想に誘われる作品でした。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-14

哀愁漂う男の背中が、こんなにくっきり見える詩もあるか? と思いながら読んでいて・・・「紺青の暖簾」これ、今生、なの?と思ったり・・・ 鳥になって・・・この世から飛び立っていったのか? 男は、生きているのか、死者なのか、と(もしかしたら、他の人には自明のこと?) 男のところに、兄がやってくる、のか・・・ 最後にだきあっているのは、生者どうしなのか、あるいは死者を迎えに来た生者なのか・・・ ・・・というようなところでぐるぐる、路地裏をさ迷い歩いているような感覚に襲われつつ。 文章の流れが(変な言い方ですが)手練れ、というのか・・・見事に型にはまっていて、 読ませる詩だなあ、というのが、読後の印象。 男船の歌詞も読んでみました。渡り鳥と響かせているのかなと思いつつ、 牛の背に乗っている白い鳥のイメージ、まるでインドの絵画に出てくるような、 そのイメージがずうっと心に残って・・・残像。 後半に惑わされてます。 ( the bird )

2017-06-05

「それぞれの距離は等間隔であるのに、むしろ不均衡な空気がただよっているのなら、」仮定法であるのに、既に起こってしまった出来事を叙述しているような不思議な感覚がありました。起きてしまった出来事を、もう一度、時間を逆廻しにして思い返しているような・・・起きてしまったこと、を、起き得たこと、と時間を遡行して言い換えようとしている(でも、それは不可能である、ということによって、限りない切なさが生まれる)というような。 夫を失い、弱った母親を一人にするわけにはいかない、と同居することになった娘夫婦と娘の母親・・・その間に通う、和やかとは言い難い空気、そのような物語を感じました(人によって、長いこと離れて住んでいた親子とか、別の関係性を見るかもしれません) 「その人のまくられたセーターからこぼれる腕の静脈のひとつひとつを「ひかり」と呼べるほど、」白い腕に浮ぶ静脈を見つめる語り手の眼は、観察者の眼であって、肉親を想ったり大切な人を慮ったりする感情移入が感じられない、どこか突き放した距離感もある。その微妙な感動の所在を、「その人のぎこちのない笑顔に慣れていないわたしがいるから」と静かに、2人の関係性をも含めて見つめる視点。 それでいながら、冷たく突き放すわけではない。むしろ「その人」に温かく寄り添い、その人が発したいであろう言葉、しかし(遠慮して)飲み込んでしまっている言葉のことを想い、「その人」が、再び自由に歌を奏でることを祈っているような、そんな温もりを感じました。 (no title)

2017-05-07

戦争でなくなった人たちは、桜をどのように見ていたのか、どんな風に想いを重ねたり残したりしていたのか・・・「まっかなまっかなさくらいろ」なんだか、血の雨のような・・・朝顔さんも書いていらっしゃるけれど、「終」の字の怖さがひしひしと迫って来るような気がしました。 (さくらちゃん)

2017-05-09

連分けしていないのだけれども・・・なんとなく、連ごとにまとまっているのかな、という感じで読みました。 「~Kちゃんは・・・~いる」「~Kちゃんは・・・~呟く」と同形の前置きがあって、「いつもいつも私のきりのない愚痴を~」から、散文体というのか、語りのような感じになる。いつも呟く、の「いつも」を受けているのかな、と思いつつ、ここから先は、あえて「詩」にしようとしないで、「そのまま」言葉を置いたような、自然な印象を受けました。 黙って話を聞いてくれる・・・簡単そうで難しいこと・・・それは、「※印と()のついた「大好きだよ」」から発せられることなんだろうな、という、留保付きの「大好き」で・・・そのことを語り手も分かっているから、「もう疲れた」と呟いて重荷を下ろしたくなるんでしょうね・・・。 水素水を飲む、アイスクリーム禁止、という、軽めの行為/厚意/好意による「やるべきこと」の提示・・・まるでカウンセラーのようだと思いながら・・・語り手は、「Kちゃん」との対話を思い起こすことで、気持ちを解放したり、自分でそれを確かめたりすることができるようになって行くのかもしれない、と思いました。 (カカオトーク)

2017-05-09

終わり、から始まって(というのも変ですが)始まり、で終わる。流れるような文章は、もしかしたら連想によって次々生まれるにまかせたのかな、という気がしました。 言葉/言葉、心/心、と重なる部分、鳥/飛び、差別する言葉/励ます心、と重なる部分が目に飛び込んできます。爽やかに終わって、砂糖菓子のように始まるのか・・・何事もそうありたいなあ、と思いつつ。 他の方はどのように読むのか、それもまた、読んでみたい作品です。 (The Last)

2017-05-09

あの日って、いつだろう・・・震災とか、親しい人を失った日とか・・・魂が死んでしまうような、そんな衝撃を受けた日。 君、とは誰なのか、僕自身、なのか・・・僕という肉体はまだ寝ていて、幽体離脱のように僕の意識だけが抜け出していて、世界を見つめている感覚でした。君、という存在の稀薄感のゆえかもしれません。 「苦しいことも ほんの/今日の割り当ての分だけしかない」とか 「僕は僕より ほんの少し遠くにいる/僕は君の隣にいる僕より 一メートル遠くにいる」 「君が投げそこね 子供の僕はとりそこねる/僕は投げそこね 子供の君がとりそこねる」 というような言い換えが、散文では絶対に言えない部分だなあ、と思います。 君、は、普通の読み方をすれば恋人なんだろうな、と思いつつ・・・詩なのかもしれないな、と思ったり・・・。 矛盾や葛藤を、そのまま併存させてしまう、そんな言葉の力を感じるのが詩の楽しみの一つで・・・この詩は、そんな「ありえないけどありえる」情景を、静かに歌っているところが素敵だと思いました。 (距離)

2017-05-11

濁った石を 手の中に隠したまま 僕は立ち止まる あまりにお粗末な終奏に 行き止まりを告げられたから 一行目の立ち上がりがとても新鮮なのですが、二行目で進行が止められてしまう(早々と自省してしまう、からなのかな・・・読者に理由を考えさせる方が、先に進んで行く動力になりますよね・・・)二行目飛ばして、二連目に持って行く、とか・・・最後も、「初恋の感覚が飛び跳ねる」面白いと思いました。「初恋が飛び跳ねていく」みたいにした方が、もっと印象に強く残るかもしれません。初恋の感覚、と説明してしまっている感じがあって、興がそがれるかな、と・・・。 人への恋でも、物や詩や夢への恋でも、両方ありますよね。蛍石のイメージがうつくしいですね。 (蛍火の河)

2017-05-11

一貫して「自分の世界」を持っている作者だということが、投稿を通じてわかって来る、そうなると、ある種の連作的な面白さが見えてきますね。 ゴシックホラーの世界、とでもいうのでしょうか・・・吸血鬼や悪魔、黒魔術の魔導士が現れる、クラシックな造りの映画を観ているような感覚もあります。 (viciousness)

2017-05-14

ねじめ正一さんの、マシンガントークみたいな勢いの「脳膜メンマ」か何かの朗読ビデをを観たことがあるんですが・・・小笠原鳥類さんの、息せき切って前のめりになるような、だけれど体は後ろにあって声だけが先に進んで行くような、超高速朗読も聞いたことがあるのだけれど・・・そういう場面の朗読シーンを、まず連想しました。 これだけ分量が迫っていると、読ませるということよりも、文章の圧というのか、塊をぶつけたい、という感情を先に感じますね・・・ 正直、読みにくいです(ごめんなさい)でも、文章にそれほど飛躍も意味の断裂もないので、文章として辿っていける。辿っていける、読める、その分だけ・・・なんだろう、妙な不満のようなもの・・・もっと飛躍させて(ところどころ切りつめて)先へ運んで行ってもいいんじゃないか、とか・・・ 意識の流れを追っていく、なら、行分けのような形で(間をもっと抜いて)静かに呟くようにしてもいいのかもしれないけれど・・・怒涛のマシンガントークのような感じで、今考えていること、思っていること、感じていることを、ダーッと出したいんだ、俺は~!!!みたいな勢いを感じる、のだけれど・・・ 画面いっぱい横幅使わないで、画面四分の三くらいまでに止めてみるとか、表記をもうちょっと工夫してほしいな、というのが、個人的な感想ではあります。 夢で事故にあったのか!と思わせておいて、実際に轢かれたのか!!というビックリ仰天の終わり方、意識もうろうとした状態の中で、ドーパミン出まくりの状態の再現、という面白さには強く惹かれます。 (水を過分に含んだように重そうに)

2017-05-11

都会の夜、ホストみたいな、でもそうした「職業」についているようでもない感じの・・・カッコイイ、寂しげで青白くて、そんな青年を追いかけたドキュメンタリータッチの映像(映画というより、音楽のプロモーションビデオ)を見ているようなきがしました。 美しすぎる人工的な光景と、「醜」を象徴するような二連目の冒頭・・・美と醜を対比するような感じで進んでいくのか、と思ったのですが、美しさと寂しさと喪失感(砕けていく、滅びていく、という進行形の感じではなくて、繰り返される骨折のイメージのような、カクッと断ち切られたようなイメージ)の方に傾いている・・・のを最後まで読んで、もっと伏線的に「醜」「汚」(でも愛すべき、人間らしさ、のような)ものを入れていった方がいいのか、二連目の冒頭の唐突感を、むしろやわらげた方がいいのか・・・どっちなんだろうな、と思いつつ・・・ (night/MATERIAL BOY)

2017-05-11

痰・・・最後のオチが、大真面目であるだけに、ユーモラスでした。 言葉が、身体の内側を上がったり下がったりしながら、内側を焼いている、そんな烈しさ、苦痛、それでも絞り出したい、という欲求を感じました。 命の宿った言葉とは、それだけで自立して、人から人へ、手渡されていったり、呑まれてまた生まれ直したりする言葉、なのでしょうね。命を宿す前に霧散してしまった思い・・・それがまるで気焔のように、喉を焼く感じが痛切でした。 (言葉弔い)

2017-05-14

『草の花』などに出て来る「少年愛」「青年愛」は、精神性を添わせるというのか、同調させることの快感ですよね・・・男性は、わりあいに「地」で普段からいられるから、精神性の部分を寄り添わせたい、そんな寂しさを埋めたい、と思うのかな・・・女性の場合、張りつめた鎧を脱げる相手、ばふっと布団に身を投げるみたいに受け止めてくれる相手を求める傾向にあるのかな、と思ったり・・・ そんな「相手」と出会えた、そのこと自体が素晴らしい、と思ったのですが、その「相手」と分かれて・・・という話なのかと思ったら、親友として継続している!!!それが素晴らしいと思いました(すみません、詩から内容の方に傾き過ぎているけど・・・) 最近、エッセイ詩、と呼んだりする散文詩もありますし・・・伊藤比呂美さんの『木霊草霊』刊行記念トークイベントに行ったとき、出版社が(!)エッセイ集、と帯に付けようとして、伊藤さんが「これは詩集なの!」と反対し、かといって詩集とも書けない、と出版社も頑張って、帯にはどっちの文言もない、という(笑)話を聞いたのですが、伊藤さんが「朗読」を始めたとたん、語りの部分と詩の部分が、流れるように連結されていることに驚きました。 桐ケ谷さんの作品だと、ブログのように読みやすく改行している(でも、実際は散文を読みの呼吸で区切っている)改行の部分が「語り」で、「他人の顔色を窺う事に長けた事で」とか「くだらないとか馬鹿らしいとか、そんな言葉すら浮かばないほど」こういう、朗読の時、ひとフレーズで一気に息を吐くような部分、それが「歌」の部分だろうなあ、と思います。 良い詩でも良いエッセイでも、その人なりの「語り」や「謡い/歌」のリズムがあって、桐ケ谷節、のようなものが現れていれば、そこに「詩情」が漂うのだろう、と思います。 正直、説明部分というのか、叙述部分が長いかな、という気が、しないでもないですが(^_^;) あと、「エッセイ」とするのであれば、「私が作り上げたキャラクターを上手く演っている事を気が付く友達が。 」ここは、「事に気が付く友達が。」になるんじゃなかろうか。でも、「キャラクターを」「演っている事を」と脚韻的なリズムを優先すれば、「を」になるだろうな、とか・・・だとすれば、一息に「~を~を」と続けて、ここで改行して「気が付く友達が。」と持ってくる方が、より詩的リズムに富んだ「エッセイ」になるんじゃなかろうか、とか・・・ 通常の「エッセイ」は、文字通りベタに埋めた散文だと思いますが、ブログの影響なのか、改行した散文のような独自の文体を記す方が増えているように思います。 ブログ体、と名付けてみたい誘惑に駆られています。 (「檻の中の同性愛」エッセイ)

2017-05-12

最初、「叶わぬ恋も携帯でできる!」の部分を、叶わぬ恋も携帯できる!と、誤読してしまったのですが・・・恋を気軽に(リアルでないからこそ)持ち歩ける、そんな、逆説的な悲しみのようなものを感じたんですね。読み直して、「携帯で、叶わぬ恋も出来る」だったのか、と納得はしましたが・・・ 最初の方の 「今日も携帯と充電器 イヤフォンと音楽を栄養にする」 すごくユーモラスで実感があっていいな、と思う部分、 今日もスマホと充電器 イヤフォンと音楽を栄養にする にしてみたらどうだろう。スマホとじゅうでんき、って、なんかリズムがいいな、とか、イヤフォン、と次の行でカタカナが出るので、文字にも繰り返しのリズムが出て面白いな、などと思いました。変えた方がいいですよ、ということではないですが、いろいろ差し替えたり取り替えたり、言葉を入れ替えたりすると、また違って見えてきたり、別の感情が見えてきたりすることもあるので、面白いですよ、というおススメ、です。 (ゆりかご)

2017-05-12

途中で送ってしまった・・・・ 最初の方、スマホと充電器、としておいて、 後の方で携帯、と言い換えると、ちょっとしたバリエーションだけれど、恋も携帯できる、みたいな別の意味も重なって来るし・・・そんな、また別の意味を重ねて行っても面白いな、と思ったら、携帯で、出来る⇒携帯できる、にしてもいいかもね、と思った、のでした。 (ゆりかご)

2017-05-12

祭り、とは何か。そんなことを考えました。死んで生まれる、「死」が穢れではなく(穢れとなる暇なく)命の祝祭に取り込まれていく。鳥居(死者の魂が鳥となって宿るところ)その赤さ、赤ん坊の赤さ、赤飯の赤さ、白馬岳の白さ・・・。 おごっつぉ、というのは、命が生まれたことへのお祝いの膳だと思っていたけれど、あきらさんの詩を読んでいると、無事再生したこと、無事輪廻転生したことのお祝い、という気もしてきて、永劫回帰の世界観まで感じられて、怖いような面白さがありました。 もっとも・・・そうした世界観の表明、ということが先に立ちすぎて、全体に観念的になっている。リズムの面白さや音の繰り返しの面白さを民謡風に重ねてみよう、という意識が強すぎるようにも思います。 (おごっつぉ)

2017-05-14

そこ、は、場所の「そこ」だと思って読み始めたのに、「底」なのかもしれない、と思いました。 「水を飲むのも苦しいのに」苦しいのは、「僕」なのか「きみ(とは呼ばない)」もう一人の誰か、なのか・・・病に伏している誰か、なのか、気持ちが苦しくて水すら飲めない「僕」なのか・・・「あるいはこと」子、孤、個、どの字が入るのだろう、などなど・・・「かわるがわるすべてになってくれる」包容力のある(理想の母親的な)人をイメージしました。 「ぜんぶ送る いいねは押さない 空白ではないからそこにスミレを挿す 今日からスミレと呼ぶ」 このリズム感と、どこか突き放したような潔さ、スミレを持ってくる感覚、このあたりがスタイリッシュですね。 あえて意味を惑わせているのか、揺らしているのか、掴みがたい印象はありました。 (そこ)

2017-05-14

シハンセイキ、という語感の硬さ、重さに惹かれました。 25歳、というと、すごく若く感じるのに、四半世紀、といったとたんに、すごく歴史性というのか、重厚な感じを受けるのは、なぜなんだろう・・・人の一生を、歴史、として見る。そんな意識が全面に出て来る、から、かなあ、などなど・・・。 麻紐、鉄の剥離片、という言葉から、マニュファクチュアから産業革命に到る「人間」の歴史、をふっと思い起こしつつ、「蝶を放る 熱帯のパンダ」ここは、飛躍しすぎていて、置いていかれました(笑) 蝶=魂、という、ものすごくつまんない読みをして、つまづくパターン。う~、わからん・・・ この流れだと「サンダルの緒」をヘルメスのサンダル、と読みたくなるのだけれど・・・ギリシアに飛ぶのは、突っ走り過ぎかなあ・・・ (人間の四半世紀)

2017-05-14

「もってうまれた緑色とか」この一行があって、「生まれると おもって/生まれたとおもったんだな」そんな、自分自身が生まれた時の(既に忘れているはず、だけれど、きっと持っているに違いない)記憶が呼び覚まされる。「すごくきれいだったんだだから」その瞬間(世界と初めて出会った瞬間)を、一度、明確に断言する、そこがとても力強くていいなあ、と思いました。 (外灯)

2017-05-14

カギカッコ(半かっこ?)効果なのか・・・ 全体に「群読」の印象がありました。ざわざわッとした中から、一人一人立ち上がって、よくとおる声でセリフを言うような感じ。 最後の二行だけ、急に静かに独りで語る、感じに「聞こえ」ました。 「高架を矩形波で kの音の連鎖の硬質感とか・・・胸に開けたピアス、ここは、普通の読み方をすれば乳首ピアスになるのか?と思いながら、胸にぽっかり空いた穴、を連想しました。私だけかもしれませんが・・・。 「あたしたち自身を包んで  さしだすために  取り返しに行こう、 この二重構造というのか、ある種の通過儀礼のような、供儀(のようなもの?)に供するために、自分たち自身を取り返しに行く感覚が面白かったです。 学校、に閉じ込められていた「あたしたち」を取り返しにいく、ような。 (Fudge Fuzz)

2017-05-14

勢い、疾走感、言葉をボンボン投げつけて来る感じ、どれも面白いと思うのですが、同時に「まぁ決定的な違いがあるっちゃあるか。」こういったところで、その流れを引き留められてしまうような印象を受ける。そういう(乱暴な言い方をすれば)無駄な内省(自問自答している暇があったら、言葉を投げ出せ!という・・・そこで止まってるんじゃねえよ!!という感じ、かな・・・・)を、もっとカットできるのではないか、そうすると凝縮感を持たせながら、疾走感も維持できるのではないか、と思いました。 後半(最後のオチの部分)、「通学路」の連の、妙な優等生っぽい部分はなんだ?(息切れしたのか、それとも急に周囲の眼が気になったのか)とか、最後の二連の夢オチ的な安易さはなんだ?とか・・・最後の三連、ためしにカットしてみるとどうかな(というより、その前の連を、~低能なやつらを黙らせてやる、ここでぶち切りした方が、怒りのエネルギーが一気に会報されてよかったのではないか、などと思いました。)全体に言葉が多すぎる、印象はあります。 (歓喜の歌)

2017-05-17

花緒さんへ 発起人側の方に入ってしまうと、投稿者たちが遠慮してレスをつけなくなる、のであれば、それはあまり良い傾向ではない、ような気もします。(それとも、わけわかんない、どう感想書いたらいいのかわからない、という、伝わりにくさの部分でコメントがつかないのかな(^_^;)だとしたら、不徳のいたすところです。)といっても、自分のスタイルを変えようとは思わない、かもしれないけれど(笑) そうですね、身体性に即した表現をしようとすると、躰そのものに向かっていくことが多くなりますね。もっと、躰から離れたところで、体感のある表現ができればよいのですが。 三浦さんへ くろつち、と読まずに、こくど、と読んだ、ということでしょうか(笑) あかつち、くろつち・・・つち、という言葉が、なぜか好きです。なんでだろう。 細かく霧のように、さらさらと物質のように降り注ぐ朝日、をイメージしつつ(中也にさらさらと、さらさらと、というのがありましたね、そういえば)なかなかうまくいかない、のが現状です。 (播種)

2017-05-17

kaz. さんへ ノイズ、という言葉が「評」の中で出て来て、言葉にならない、でもざわざわと耳障りな、なにか・・・雑音、というのとはまた少し違う、要するに邪魔なもの、という感覚で面白いな、と思い、早速使ってみました(笑) まだ自分のものになっていない言葉を安易に引っ張ってきているところに、無理があったのかもしれません。やっぱり、浮いてますかね・・・。 朝顔さんへ。 そうですね、何かを埋葬してしまいたい、追悼したい、せめてそこから、新しくはばたく何か、があってほしい・・・そんな気持があったと思います。言葉は、聴くもの、なのか、ふれるもの、なのか、浴びるもの、なのか・・・そんなことも考えます。 夏生さんへ 耳も皮ふで(耳の一部を切断しかかる、という怪我をした時、顔の皮膚の延長だということを、初めて知りました・・・)肌感覚を持っている器官。その内部で音を聞く。外部は振動に触れる、体温に触れる、気配に触れる。内で聴き、外で触れる、その感覚が、心で聴き、肌で触れる、人の躰に近いように思います。 (播種)

2017-05-19

ひいらぎさんの「白鳥」とは関係ないのでしょうけれど、無意識的な同調というのか、テーマやモチーフが同時期に重なることって、よくあるようです。(対面の合評会でも、打ち合わせをしたわけではないのに、同じモチーフが重なって、集合的無意識、について議論になったりすることが良くあります) 星糞達、これは造語でしょうか。星屑、とは言わずに、あえて、という・・・ さぱさぱ、という不思議な擬音(新鮮なのに、違和感なく入って来る)から始まり、「海が丸みを帯び、 やがて朝へ白鳥の翼を広げる 」 体感から映像へ移っていく描写が素晴らしいと思いました。海辺の朝の光景と、心の中の朝焼けの景を共に感じます。 賢治を始め、多くの詩人たちが思い描いた天の川のような・・・さらに大きな、空の海の岸辺で、輝くことのできない(夢の潰えそうになっている)者たちを優しく包み込む、大きな白い鳥のイメージ・・・どこにもないのに、確かにある、そんな詩の海の岸辺に立って、その朝焼けに遭遇している、感覚。 「星は悟性をたおやかに極めてる」ここから先は、自らを星であると認識した一人一人の視点に移って行くように思いました。 異時空の渚に足を洗いながら再起の深呼吸をしている。 「ひかりをさえぎる手に浮かぶ 朝を思い出すかもしれない」 手のひらの中の宇宙、そんな言葉が浮かびました。 (天文潮)

2017-05-17

息の長い、うねるような文体の迫力を感じました。 往なす・・・「いなす」って、こう書くの!(すみません、調べました)と無知を恥じつつ、「白鳥の湖」と「眠りの森の美女」のバレエ作品を幻視しているような、不思議な感覚に引き込まれる冒頭部分です。「挿げ替わり」すげかわる、これは、文法的には造語になるのでしょうか・・・挿げ替える、他者が替える、イメージ。替わる、は自ら変化するイメージ。両翼が朽木に変化してしまった、そんなメタモルフォーゼの悲しみ(飛翔できない、ボロボロと崩れていく感覚)の、心の眼による視覚化、のように思うのですが。 「自ら爆破した羅針盤の切先を縫い合わせてゆく」かっこいいフレーズ。進路は自ら決めるのよ、という意思表明のようにも感じます。朽木のイメージが廃船のイメージに重なるような、もう一工夫があれば、羅針盤の唐突感が上手く全体に馴染むように思いました。 「円を描く時」先に進めないような、円環の中に閉じ込められているような感覚と、浴室という狭い空間に閉じ込められている感覚が重なって、面白いと思いました。円から歯車のイメージに移るのは、飛躍しているけれども連続しているともいえ、飛び石を飛んでわたっていくような軽やかさを感じます。 鍵盤(心理的な音楽)がバラバラに崩壊していく感じの後に、「扉は頑なに閉じようとしなかった。」この扉って、なんだろう・・・浴室のイメージを引きずっているので、浴室の扉、という物理的なイメージに占領されてしまうのですが、心の扉、と読むべきなのか・・・とは言いつつ、閉じない扉ってなんだろう、と戸惑った部分。 「非常通話のプラスチックを破る」赤い非常ボタン(押してはいけないもの)を押し破るイメージと、語り手の触れられたり破られたりしてはいけない部分に傍若無人に踏み込んでくるイメージが重なって、インパクトのある表現でした。 筆の海・・・ずいぶん古風なイメージだな、と思いながら、全体を「詩の創作」その海に重ねていくなら・・・刺青の指を持った彼は、荒れた海で船(廃船)となりかかっている語り手を操る、荒っぽい船乗り、そんな読み方も出来そうだな、と思いました。 血が凍っている、墓守・・・死のイメージに収束していく「感じ」は伝わってくるのですが、ムードに流されていないか、という印象もありました。 全体に、バレエによって表現された、男と女の葛藤劇(創作の海を迷いながら、滅びていく作者)という印象を受けたのですが、言葉のない世界を言葉で表現しようと無理している感覚も受けました。(実際のバレエを視覚化した、ということではなくて、心の中の騒擾をそのように表現した、という感覚・・・という説明で、つたわるかな、どうかな・・・) (Swan song)

2017-05-17

(笑) ショウ、と読めば「show」のようでもあり・・・ 増殖する横浜駅、の着想に惹かれつつも、その「増殖感」が体感として迫って来ない、言葉として押し寄せて来る・・・その抽象性にもどかしさを感じるのですが、どうでしょう。連鎖的にあふれ出してくるようなイメージそのもの、ではなくて、そのイメージを受け取った作者自身の内観が描かれている。その沈思の姿勢を評価するという見方もあると思います(ここは、他の方の意見をぜひ聞きたいです) 文体の疾走感が自身の内観への沈潜によって停滞してしまう、その失速に不満というか勿体なさを感じました。 ((笑))

2017-05-17

不勉強で「横浜駅SF」を知らなかったので、おっしゃるとおりに「ちんぷんかんぷん」の部分がありました。もっとも、なんだかわけわからないけれど、言葉の迫力とか語感などで迫って来るものがある、面白い、ということもあるわけで・・・ 内観、というのは、文字通りの意味です。〈「所詮はこの程度なのだ」と自分に言い聞かせる〉というような、事象を語り手がどのようにとらえたか、自ら説明してしまっている部分。自分の精神が落ち着いてくる、というような部分も、自己解説してしまっているように感じるところですね。ここを読者の側に手渡しておく詩が「ひらかれた」詩で、ここを自分で説明したり解釈したり結論付けたりして先に進んで行くものを「とじられた」詩だと考えます。 徹底して内観を積み重ねていく、知的構築体のような創作手法もあると思いますが、横浜駅の「増殖」、ライトバースの「増殖」、そこに「所詮は」「書店は」といった音韻のずらしと意味のずらし、が入って来る・・・という、文明批評的な側面を持ちながら、言語遊戯的な軽さを失わない、「増殖」していくというイメージと、寸断されつつ跳躍していくような言葉の流れ・・・といった動的な文体に魅力を感じる作品だったので、自己鎮静を促すような、水を差すような表現が、ブレーキをかけてしまっているように感じた次第です。 ((笑))

2017-05-19

これだけ非現実的な光景に、これだけ肉薄するという描写の確かさが素晴らしいと思いました。〈よい風〉〈若い草原〉さりげない表現だけれども、新鮮な組み合わせのフレーズ。三行目から、マグリットの絵のような鮮やかさ、ラピュタで空中浮遊している不可思議な物体のようなリアルさで奇妙な立方体が現れて来る。 単なる立方体ではなく、世界を映しだす鏡のような存在であり、そこに触れようとするものを弾き飛ばす、崩壊させる威力を持ったもの、でもあり・・・自らの肉体の血しぶきのイメージと、ハマナスの赤い実が散らばっているイメージとの連動が面白いと思いました。オトギリソウの葉の斑点が血しぶきである、というような伝承を思い出したり・・・。 〈宙に浮く立方体に 脚や腰や胸や首で 怯むことなく触れ続けて そのたびに体は爆ぜて爆ぜて爆ぜて ハマナスの実は一面の豊穣となって 虫は跳ねて動物は駆けて草葉は茂って水は湧いて 岬の風景は輝く光景となり 身のすべてが飛散しつくした私は 跡形もなく消え去った〉 全身で世界に触れていく、という意欲と・・・代償として得る痛み、喪失の暗示、その犠牲と引き換えに得る豊かな自然(再生した自然)のイメージ。朝顔さんも福島の人災の事に触れておられますが・・・人類が滅びた後の自然の豊穣を連想したり、世界を照らし出す行為に激しく惹かれていく詩人を重ねたりしながら読ませていただきました。 (オホーツクの岬)

2017-05-24

力の溢れ出すようなコメントを拝読しながら、こっちの方がむしろ「詩」なんじゃないのか・・・少なくとも、爆発するようなエネルギーの突出する瞬間瞬間が、詩のひらめいている瞬間なんじゃないか、という気がして・・・考え込んでいます。 震災とか事故とか天災とか人災とか・・・とにかくあまりにも強大なものにローラーで押し潰されるような感覚を潜り抜けた、という「事」を語られてしまうと、ナンだか聖域に触れるみたいな感じになって、詩だと言われればそのまま、はい、と受け止めざるを得ないような感じになってしまう、のは何だろう、遠慮なのか?人でなし、みたいに思われるのが、怖いのか? 自問自答しても、答えは出ません。 今、書いたことは、祝儀さんの作品について、ではなく、いわゆる震災詩に関してなのですが・・・ 原発を感じたのは、四角い、という形態のゆえか、触れる人を引きちぎってボロボロにしてしまう、近づいたとたんに弾け飛んでしまうような凄まじさのゆえか・・・出身地が福嶋だということは、コメントを読んで思い出しました。作品を読んでいるときには、ぜんぜんそんなこと、考えなかった。 復興しようぜ、と祭で盛り上げること、皆を元気に❗と理性で思って、自分が元気になりたい、と気持ちで思う、ということがあるかもしれない。 そんな「大変なこと」に見舞われた人達が、安奈に力強く生きている、私も頑張らなくちゃ、みたいな「元気をもらう」他見の人もいるかもしれない。 元気をもらいました、と語って帰ってくるボランティア体験者の話を聞くたびに、むねの中がワサワサするんですよ。きっと本当だろうな、と思い、違うだろ、と思い、私もそう感じたいのか?と思い、そんなの浅はか過ぎるでしょ、と思い・・・ 整然と整っているように、作り込まれた作品の中に、沸騰する毒みたいな強さがあって、それが、惹き付ける。 んなアホなことあるわけないだろ、というデフォルメの中に、鼓動する心臓をザクザク切っていくみたいな、切り込んでくる言葉の強さがある。 暗喩とか言いたくないけど、そういう生な感情の溢れだしを、イメージの中に詰め込んでるから、あるわけないだろ、的な光景なのに、おもしろ~❗と笑えない。ぐいっと引き込まれる。そういう意味では、痛いんだ、この詩は。 でも、ナンで痛いのか、理性というか頭ではぜんぜんわかんなくて、返信をみて、少し分かった。少し、だけど。 そういうレスの往還がある、ということが、投稿掲示板の、あってよかった、というところなのかな・・・ 支離滅裂になってるかもしれない、誤字脱字だらけかもしれないけど、そのまま投稿します。 返信してくれて、ありがとね。 (オホーツクの岬)

2017-06-01

装飾の調和、でバシッと決まった、かのように感じられたところで、更にあえて乱すというのか、ポツッとつぶやく、夏はしくじりました・・・ コッペリアのような、人形的な存在の背を編み上げているリボンを締め上げて、女体を完成させていくようなイメージがありました。首筋に這う男の唇、その息吹によって(つかの間の)生命を得る少女・・・ 正直、意味や情景を追っていくには、先走りすぎていて・・・かといって音韻やリズムで駆動する作品でもなく・・・しかし、ガラスの目玉のように感情をなくしてしまった少女のイメージであったり、人ではなく物として扱われ、装飾されて展示販売されていく少女を捉えているような、ドライな哀しみがあるように感じました。 (リボン)

2017-05-30

「小説」だと、なぜか私小説風であっても、自伝風であっても「フィクション」とみなされるのに、「詩」だとなぜ「ドキュメンタリー」と受け止められることが多いのか・・・未だに解決できない問題です。(最近中也賞を受賞した作品について、あれは私小説か、虚構作品か、ということを問題にする議論をよく耳にしました) ひらがなオンリーで書く、ということには、表記のあたえる柔らかさや、音が脳内で意味に変換されるまでの時間を通常よりも多くとることによる効果、など・・・魅力が多くある反面、読みにくくなる、という問題がどうしても生じますね。 それでは、この作品を漢字ひらがな混交体にしたらどうなるか、読みやすくなるか、といえば、恐らく、あまり読みやすさは変わらない。叙述の分量が丁寧である分、分量が多すぎる、と思います。 愛されたいのに、愛されたことがない、だから愛を知らない、という「起」転結と、理不尽ないじめを甘んじて(それが当然だと思って)耐えた、という「承」、しかしそのことに心身が堪えられなくて鬱病になってしまった、という「転」、神(信仰)に救いを求めたのにいまだに苦しみから抜け出せない、全てを捨ててしまった(ことばを綴ること、だけは、まだ、信じている、放棄していない)という「結」・・・ そのラインが明確になるように、言葉をもっと絞っても良いように思いました。 この作品の中で、感情が切に伝わって来るのは、「おかあさん」と訴えかける部分。事実を並べているように見えるけれども、リアリティーがあまり感じられない(切実さが伝わってこない)のは中学、高校時代の「いじめ」の部分。周囲の人間関係や階層の説明に分量を取られてしまっているからだと思います。冒頭部分で、自分の存在感の無さ、希薄さに堪えられないような状況に触れているので・・・「いじめ」という事項を設定するのであれば、こうした心理的な状態について記した方が、読者により強く訴えかけると思います。 うつ状態の日々の具体的描写は、とてもリアリティーがありました。事実を積み重ねるような描写であって、関係性の説明や解説になっていないから、だと思います。 アイディアとしては、全体をもう少し絞って、「かみさま」に訴えている設定、「かみさま」への語りかけ、にする、というのはどうでしょう。何も知らない読者に訴えようとすると、叙述的なこまごまとした説明や状況設定が必要になって、言葉の分量が多くなります。でも、「かみさま」なら、事実関係は既に知っている。だから、私の内面、私の感情、その部分だけを伝えればよい、ということになります。その部分が、凝縮されたエッセンスの部分だと思います。 『アルジャーノンに花束を』を連想した方もいるようですが、小説なら、同じ内容をくり返して重ねながらつなげて行ったり、少しずつ時間をかけて言い換えて行ったりすることに「塗り重ね」のような効果がでると思いますが、詩の場合(私が考える範囲、ということですが)もっと凝縮して、感情のエッセンスの部分が伝わるように、それ以外の叙述は、最低限必要な部分に絞った方が、多様に読者が読むことができる、多義的に作品を読むことができる。 ぼくはおかあさんにあったことがありません ぼくはおかあさんのおっぱいをすってそだったともきいています それでもぼくはおかあさんにあったことがありません おかあさんをおかあさんとよんだことも おかあさんをみておかあさんとおもったこともないのです いまだにかおのみえないじょせいにだきしめられて おかあさんおかあさんあいたかったとなくゆめをみては はれためでめがさめるのです たとえば、このような形に整理していくと、言葉の流れにうねるようなリズムが出て来て、切なさや寂しさといった感情の部分がよりはっきり伝わって来る、気がします。 お母さん、が亡くなっているのか、行方不明なのか、居るのに無視や放棄をされているのか、詳細に設定しなくても良いように思うのです。そうしたこまごまとした背景や人物の設定が作品にリアリティーを与えて、読者に訴えかける力を持つのは、小説のような、ある程度の分量を持ったジャンルであるように思います。 それから、鳩村さんのスレッドをお借りしますが・・・祝儀敷さんのコメント、人生どうなるかわからない、悲観するなよ、という「温かさ」から出たものだと思いますが・・・いささか侮蔑的(作者に対して、ということではなく、モアイと呼ばれた友人や、そうした境遇の人)と感じられる表現が多いことが残念です。 s (かみさま)

2017-05-19

訂正:という「起」転結と、⇒という「起承転結」の「起」と、 高校に進学していない、設定なので、高校時代、ではなく、高校時代に当たる年齢、ですね・・・ (かみさま)

2017-05-19

追伸。祝儀敷さんのコメントの最後の方に、〈この「人たち」って、今の文脈では「バカとかってレベルじゃない」奴らを指しているでしょうが、でも結局程度問題で我々だって苦痛のまま死んでいく存在ですよ。〉と「  」でくくって、世間一般にこう言われている、としても、という留保があり、自分たちもまた、同様の存在だ、と記しているところを読んで、少し安心はしたのですが・・・最初の方の「侮蔑的」と思われる部分も、作者の鳩村さんを励まそうという、温かい気持ちから出たものなのではないか、と判断したのも、この最後の部分があったから、なのですが・・・前の方、言い方酷いよ、と、やっぱり、思いますね・・・。 (かみさま)

2017-05-19

鳩村さん 誤読などしておられませんよ。 私が勝手に改作提案をしてしまったことに、うれしいと思う方もいれば、余計なお世話だと思う方もいるでしょう。 有効かどうか、という事に関して、読者の一人として「このように感じた」という印象を伝えて、あとは作者が自分で選択する、その方法が、最善だと思います。 リプライ、ありがとうございました。 (かみさま)

2017-05-21

テーブルを拭く、という行為の中に、自分の心を磨く、という行為が隠れているわけですが・・・机でも床でもなく「テーブル」であるところが大事だと思いました。 ダイニングテーブル。家族で囲む食卓。ひと昔まえなら、ちゃぶだい。 周り中が「前衛詩」(暗喩満載の)を書いている時に、辻征夫さんは「ライトヴァース」「平易過ぎる」などと批判?されながら、易しく優しく心に沁みる作品を書き続けていました。あの勇気は大変なものだと思う、と、八木幹夫さんという詩人がおっしゃっていたことがあります。 優しく易しく書く勇気、について、考えさせられる一作です。 (なかった、ように)

2017-05-19

内省の詩ですね・・・〈みんなが狂って飛ぶ鳥の群れに見える〉この絶妙な比喩、それを受けて〈卵の殻が割れて外に出て〉・・・三連目は他者と出会って得た自身のイメージ、四連目は爆発しそうな想いを抱えて生きている〈俺〉の日々の比喩でしょうか。 五連目から、急にロック調というのか、自身の感情をリズムに合わせて吐露していく感じになっていて、生き生きしていて面白かったです。そうなると、前半がごつごつした語り方というのか・・・もたついた感じに見えてきますね・・・2~4連を一時下げにしてみると、1連と5連との間がぐっと縮まるように感じました。 俺の目には美しいものが映っていない あるのは例えばいちゃもんをつけて満足するストーリーだ                               明日のために戦え                               他に何もできる事はないだろう 人質に取られた心を取り戻すため 弱い視力でも底力を出すんだ 行動する人間が応援されるのは みんながいつも本当を望んでいるからだ              枯れた木が崖の上に生えていた              暗闇の中で誰にも知られずに              俺はそのふもとに歩いていく              つじつまの合わない行動をするという小さなプライドのため 人の望みが分からなければ どんな行為が背徳的であるかなんてわからない                         君には見どころがある                         ただの人じゃないな                         よく考えることで                         個を超えた力を身につけられるだろう             一人はみんなのために             みんなは一人のために そして道を外れて 何となくしてしまった事の傷がついている みんな盛り上がるだろう この世の終わりみたいに 底の抜けた夜が ガス状のおぼろな朝が あくまでも、ためしに、ですが・・・多声が一つに混在しているような連になっているので、あえて散らしてみました。他にも方法があると思いますが(もっと言葉を削っても良いかもしれませんが)前半の、ちょっともたついたような進行でありながら、重量と言えばいいのかな、全体の分量に対する軽さ。後半の、勢いが出てノッテ行く感じの進行と、重量の重さ。このアンバランスがちょっと大きすぎるような印象を受けたので、私なりに解決策を考えてみました(真似してくださいとか、これがいいから、とか、そういうわけではなく、あくまでも一案として、です) (人の望み)

2017-05-24

〈新鮮なニクタイをもつ 現代人 の聴くオンガクは〉ひらがなとカタカナの用い方によって、文章の流れに違和を作る。そのことによって、語り手の感じている「からだ」や「にくたい」が、自分から離れた(異質な)物質であるかのような、そんな殺伐とした環境に置かれている、そんな印象を受けました。そうした肉体ならざるニクタイを持っている「現代人」が音楽を聞こうとするとき・・・それは「オンガク」としか表明し得ないもの、であるのかもしれませんが・・・〈キリキリと 蓋 をあけるように/音 と出逢います〉こんな切実な出会い方でしか、「音」と出会えない。そのあたりから既に、リアリティーが迫って来るように感じました。 〈なぜかそんな かれをみるたびに胸の奥から ざぁ とした 波がやってきて全身が むずむず したことを思いだします 誰も紺くんのことをスキではありません けれどもかれは 異様な ウツクシサ をもっていたのです〉 教師が率先して行う、いじめのような体罰。集団リンチ的に加虐感情を満たす、群衆としての「おれたち」。 一人の生徒の物語、として書いているけれども・・・鍵盤という「音」を奏でる部分を、弾きこなせないほどの大きさと美しさと理想を持って描き出してしまう画才を持った「紺くん」は、詩人そのものであるようにも感じました。言葉という鍵盤を用いて、人の心、世界の美しさ、そうした「音」を生み出したいと願う(でも、それができずにあがき続ける、宿命を負った)人物。彼は世間にもなじめず、同級生たちの中にも溶け込めず、助けてくれるはずの先生ですら、持て余して辛く当たる、そんな「世間から石を投げられる」存在なのです。 〈ピアノの鍵盤が 描かれたいくつもの かれの作品を一枚一枚 ていねいに鑑賞してゆきます 紺くんから 画を手渡されるたびに 波のしたで いくつもの血管が 海の底から 表面へと向けて はり巡らされて ゆく よう でした〉 詩形の美しさや、詩の語りのリズムや呼吸をなぞるような一文字あけの工夫が、まず素晴らしい。 それから、もしかしたら子供の時には描き得なかった「鍵盤」を、描くことができるようになっている彼の技量・・・彼の描き出す詩の奏でる音楽に興奮し血が騒ぎ、心が燃え立つような感覚を、実によく表している部分だと思いました。この作品の中でも、一番好きな部分かもしれません。 〈おれはいつだって 逃げ虫の傍観者 です かれをなめまわすようにみつめていた 他の生徒となにも 変わりません〉 この部分を読みながら、鍵盤を描こうと必死になっていた「紺くん」と、語り手は、実は同一人物なのではないか、という気がしてきました。詩人であることを選んだ私と、社会人としてごく普通の日常生活を選び、詩的感興とか詩情を抑圧して生きているわたし。 引き裂かれたわたしが、交合する。分裂した自己が統一される。実社会で生き辛さを抱えている、日常生活に悪戦苦闘している「私」と、詩的感興に突き動かされるまま心の音を奏でる生を選んだ「私」が、死の陶酔の中でひとつに溶け合う。ロックンロールの激しいリズムは、その高揚感を表す心音であり動機であるのかもしれません。 ・・・いじめを思わせる、かなり具体的な描写が、時には・・・同じような体験をしたことのある人に、フラッシュバック的なショックを与える、ことは、あるのかもしれませんが・・・私個人の感想としては、閲覧注意、と表記をしなければならないほどの、グロテスクな描写や残酷な描写があるようには思えませんでした。 引き裂かれた自己の融合を願う祈りの物語、であり、詩人は心の音を奏でる鍵盤(詩行)を弾きこなす人物である、という詩論が秘められている、私にはそう感じられます。 全体の流れも、丁寧な言葉の運びも美しいと思いました。 (愛くるしさの檻のなかで 闇を剥ぐケダモノに なれ よ)

2017-05-19

リフレインで前後を挟んだ形式ですね。「現実」とは何か。今、目の前にあるもの、という印象で読み始め、あれ、もしかしたら、記憶の中の「現実」なのかな、と思い・・・このあたりがとても面白いと思いつつ、踏み込みが足りない、と感じる部分です。 最後の最後まで、とは、どんな状況の「最後」なのでしょう? 痛みは記憶の彼方にある。ということは・・・記憶を思い起こす、それは、痛みをも呼び寄せてしまうことになるのか?その記憶が本物なのかどうか。本物であれば、たとえ痛みを伴ったとしても、今、ここにあるようなリアルさで、その記憶を呼び覚ましたい、それほどに懐かしい記憶なのか。本物でないなら、そんな危険を冒す必要性があるのか・・・・ 〈母の瞳や ベビーベッド〉 この記憶が、どんなシチュエーションで呼び覚まされたのか。霧のかなたにあるようにおぼろげなものなのか、水の中にあるように揺らめているものなのか、今、目の前にあるものから(例えば、自分の子どものベビーベッドを見つめながら)呼び起こされてしまった、突然の痛みの記憶、なのか・・・ といったところを掘り下げていく、という深め方もありそうです。 (小宇宙)

2017-05-21

クヮン・アイ・ユウ さんのレスを読んで、あ~❗と気づいたことがあります。 私は、純粋な好奇心というのか、この人はどんな想いでこの作品を書いたのだろう、この詩の向こうには何があるのだろう、という感じで読んでいるので、ドンドン新しいもの、珍しいもの、深いものに出会いたくなる。 一方で、自分にとって必要な言葉、自分の為に必要な思想、自分が生きていくための(大袈裟かもしれないけど)支柱になるような言葉を求めている人もいるのかもしれない。そういう人の方が、切実に詩を求めているとも言えるし、それだけ理想の作品や、自分の求める許容範囲が狭くなるとも言える。絶賛や拒否の落差が大きくなるのかもしれない、と思いました。 純粋な好奇心は、世界をドンドン広げてくれるけれど、観光客のように素通りしていく、ことでもあるかもしれない。 5年かかっても10年かかっても、自分にとってのかけがえのない一作、を求め続ける人にとっては、そんなあっさり通過したり何でも受容していく態度は、理解できないことかもしれないな、とか、切実に詩を求める人が、バシッとはまる詩と出会える場所になっていけばいいな、とも思いつつ・・・切実に詩を探索する人は、受容範囲が狭くなったり、これダメ、と拒否反応が出る作品が、他の人より多くなることもあるかもしれない。 排除しながら、自分の一作をストイックに求め続ける探査と共に、食わず嫌いではなく、まずは味見してみよう、案外おいしいかもね、と呼びかけてみたい気もしますね。 詩から離れた雑感になってしまいましたが・・・ (小宇宙)

2017-05-23

まず、気になった点から。たとえば、〈意思の疎通を図った。〉こうした翻訳体のような文体は、意図的なものなのか、日常的な用法から生まれたものなのか。 〈Lは続けた「私の家は68号通りにあるんだけど、〉と会話体で始まった文章が、〈彼女の働く新聞社の朝刊で『72号線のカーニバル』というヘッドラインのもとに一面をかざったのはついさいきんのことだった。」〉といつのまにか地の文に落ちている。彼女の話を話者が引き取って、要約しつつ語る形式なら、〈~あるんだけど、」〉といったん区切った方がいいように思いました。突然ひらがなオンリーになることも、意図的なものなのか、ミスなのか、気になりました。 (AV. 68)

2017-05-21

作品評です。森という再生と循環の場所に囲まれた、廃頽しかかっている都市文明。かつて近未来都市を目指した、その都市の夢の象徴のような建物も、既に人々の記憶から忘れ去られようとしている。その建物の存在を確認しようとする行為も、なぜか偶発的な出来事や心理的な抵抗によって無し得ない。発話されないということで、記憶からも抹消されていく建物。 その街を、Lによって案内される〈僕〉。〈僕の存在を忘れたように、早足で階段を下りはじめる。僕はLに一歩遅れたまま後ろを歩き、S字形にくねった路地をゆく彼女の背中を追う。〉L字やS字の路地という伏線のせいでしょうか、Lは女性であると共に、都市の魂の化身のような、非肉体性を備えた存在であるようにも感じられます。〈僕〉は、記憶の中にしか存在しない〈72〉に住む、都市の魂そのものに、この都市を案内されている。 廃墟のような光景、その中で繰り広げられる狂騒。カーニバルも、行われたことが記載されるだけで、その情景は、この作品の中では存在していない。つまり〈僕〉の中には存在していない、とも言えます。終末の予感を濃厚に匂わせる都市。 〈夢のようなケーブル〉は、死んでいく都市と生きている森をつなぐものなのか。人々の記憶同士を連結し、失われたものと存在するものを架橋するものなのか。 なぜ、このケーブルを引こうとしているのか・・・ 厚紙という手触りのあるものに、手書きで書き込んでいく、というアナログな確かめ方で、都市の記憶を再生させていこうとする、そんな行為が冒頭と最後に置かれ、その中に忘れられていく都市、都市に忘れられていく〈僕〉が入れ子のように収められている。 パンは、人を養うものであると共に、人の精神を養う知識や知恵の象徴でもありますね。命を暗示する森の中のパン屋で、ケーブルを引く相談をする。その構造を、より鮮明に出していくことはできないか、と感じました。 情景描写を詳細に行うほど、小説の色が濃くなり、全体の構造や意図、象徴性などが見えにくくなるような気もするのですが、どうでしょう・・・。 (AV. 68)

2017-05-21

「忖度」という、普段はあまり使われないのに、時事ネタ的に話題になっているワードを、どこまで活かすことができているか、ということですが・・・この作品に関しては、後付けの無理な感じが目立つような気がしました。 一二連めは、他者と私の関係を、私から離れたところで見ているわけですが、三連目からは「私」の独白になりますね。二連目と三連目の間に*を置いてみるとか、少し行間を開ける、などすると、〈空気の読み合いで、〉の後に、言葉にできないなにか、が省略されている、その部分がより、匂い立ってくるように思いました。 〈とても孤独で ただ、孤独なのが普通になった。〉 言葉を重ねるのは、強調の為、でしょうか、あるいは、よりよい言い方が見つからず、仕方なしに同じ言葉を用いてしまった、のでしょうか。読者としては、語り手にとっての孤独、その質感というのか、どんな状態なのか、ということを、より詳しく知りたい。普通になった、とありますが、孤独の状態に日々置かれている、その時の気持について、知りたい、と思います。 自分が選んだ、ということは、他者によって不在のまま語られる私、という状態に堪えかねて、自分から離れた、ということ、なのでしょうけれど・・・それは、そういう状態に追い込まれた、のか、自分で選んだのか、そこを悩んでいる、のかな、と感じました。 他者に伝えるために、比喩を用いる方法もありますね。水に浮ぶ一面の花びら、その中で一枚だけ、なぜか他の花から離れて、泥の岸辺に打ち上げられた花びらの光景とか・・・夜の窓の明り、その光に取り残された一本の街灯とか・・・今の加藤さんの心象にあう光景や情景が提示されると、より、心象がリアルに伝わって来ると思います。 (話)

2017-05-21

散文で書かれた詩論を、読みやすいように行分けにして表示した、という印象を受けるのですが・・・〈長年蓄積された技術こそ芸術〉という定義と、〈同じものを作って何が意味があるのだろう。〉という思考、この相反するものをぶつけていくのか、切り拓いて行くのか、止揚するのか・・・という魅力的な問いを提示しながら、そのまま先に進んで行ってしまう。この部分をもっと深く考察してほしいと思いました。 もし、その「深めていく考察」が、2節と3節であるなら・・・ 切実に心情を吐露することによって、自らを客観視したり、痛みを過去のものとして認識することができたり・・・文字にして、いったん「わたし」から離すことには、そのような効果があると思います。その文字にしたものを、読んで共感したり、返信や応答をもらったりすることで、生きる気力や勇気を得る、そんな人もいるかもしれない。その人達の生み出す言葉は、技術的、技巧的に完成した詩、とは呼べないかもしれませんが、切実に書かねばならないものがある、その部分が、詩の素材であり、詩の源泉である、と思うのです。 もし、そのような想いで、まだまだ未完成だけれども・・・と迷いながら「詩」を書いている人が、〈ある意味そういったものは表現としての/排泄物かもしれない。〉と記されているのを目にした時、どう感じるでしょう。自分自身の作品が、単なる吐露や吐瀉、排泄物に陥っていないか、と問う事と、他者の作品を〈排泄物かもしれない〉と述べることとの間には、大きな差があるように感じるのですが・・・2節が本当に必要であるかどうか、もう一度考えてみてください。 3節の、ヒトラーが画家として成功していたら、果たしてあのような歴史が起こり得ただろうか、と問うたり、少年Aが、社会的制裁を受けた後に、表現することが許されないのは是か非か、と問うことは、興味深い問題提起だと思いました。 いずれにせよ、論理展開だけでは、詩の骨格は作られたとしても、肉付けに乏しい印象を与えるのではないか、と思います。 単語のリズムで刻んでいく、とか、言葉の流れで進行させるとか、思考や論理ばかりで展開するのではなく、意味と意味との間に情感や情動が動くように工夫するなど、加藤さんらしい詩風とは何か、ということを、問い続けてほしいと思いました。 倣い、習い、それを忘れ、それを超える。型に入り、型を脱す。そのような詩を、加藤さんはきっと求めておられるのでは、と感じました。 (現代詩とポエムに寄せる。)

2017-05-21

帰宅途中にツイッターを見ていて、壮大な焔の翼を広げたような雲の写真と、これまたダイナミックな詩篇を拝読して・・・そのままスクロールしていたら、ここに投稿されていたことを知りました・・・ 改めて文字テクストで拝見。火の鳥、という題名のインパクトの強さに、やわな立ち上がりでは負けてしまうでしょうけれど・・・冒頭二行で押し返す(跳ね返す)勢いが素晴らしいと思いました。電車の中なので、取り急ぎ、続きはまた、あとで。 (火の鳥)

2017-05-21

あらためて、拝読。 ツイッターで、さっと見た時は、ばあっと翼を広げる燃えるような雲の映像が飛び込んできたので・・・既に復活して空を舞っている火の鳥、をイメージしながら読んでいたのですが・・・ 文字で読むと、題名が目に入って、まず、火の鳥のイメージが漠然と浮び・・・ それから〈太陽に焦がれながら〉で、地上にありながら空を睨みつけるようなイメージ、〈その憂愁を際立たせるもの〉という言葉で灰の中から輪郭が現れて来るイメージが浮かび・・・地上に横たわった黒い灰のようなものの中から、赤い光が熾火のように耀きはじめて、空に舞い上がっていく、その過程が描かれているように感じました。イメージが立ち上がっていく、その時間差が、写真と言葉では異なるんですね・・・ 〈初夏の草いきれを大地は呼吸し 無垢な獣たちはざわめく〉 草原を強い風がさあっと吹き抜けていった瞬間、今、天空を火の鳥が駆け抜けたのではないか、と感じた一瞬を描いているように思いました。 大地が呼吸をしている、その感覚を実感した肉体が、くちびるを開かせる。かつて、愛の言葉を語り、口づけを繰り返したくちびるから洩れるのは、大地の息吹に触れた感嘆の吐息なのか、あるいは詩の言葉なのか・・・ 海飛さんも述べておられますが、最終連で驚かされますね。 愛の記憶は、憂愁を伴うものだったのか・・・ふかい爪、あるいは爪痕。 火の鳥、とは・・・生命力を呼び覚ます命の精、であると同時に・・・記憶の中で、「わたし」の心をつかみ取って飛び去った情熱の炎であるのかもしれない、と感じました。 この短さの中で、バリエーションを付けずに同じ詩句で前後を挟むのは、或る意味冒険でもあるのかもしれませんが(単調になる危険を冒す、というような)冒頭の憂愁は、漠然とした生の憂鬱のように思われるのに、最終連では記憶の中の、情熱の炎が飛び去った後の虚脱感のように見えて来る。意味というか、色が異なって見えて来るので、冒険は成功しているのではないでしょうか。 (火の鳥)

2017-05-21

なかなか手厳しい、しかし充実したご批評を得る機会に恵まれた、ということのようですね。 火の鳥、という題名・・・よく、ネタバレ、等とも言いますが、短詩であるからこそ、あえてその「ネタ」をばらして、いわば手の内を明かして、いかに展開するか、という楽しみもあるでしょう。私は、コロンボ式作品、と読んでいます(笑) 題名に「火の鳥」と入っているので、本文中は「おまえ」とする選択肢はなかったのか、伺いたいと思いつつ、火の鳥におまえ、と呼びかける感じではなく、火の鳥とはなんぞや・・・という、少し突き放して、客観視する視点も感じたので、「おまえ」と呼びかける親密さからは、距離があるだろう、と思います。 だからこそ、題名をどうするか、というのは、悩むところ、でしょう。 憂愁、という言葉、抽象語であり、漠然と大きなものを表現し得る言葉であり、なおかつ音が柔らかくムードを持っている。憂鬱と異なって、愁嘆というような、どこか女性的な美がある。 うつくしい、というような言葉や、かなしい、という言葉も、使い方で陳腐になったり生きたりしますが・・・短詩にまとめる、その意識があるゆえに、章題や小見出しのような、総括的な「憂愁」という言葉に収めてしまったのかもしれない、という印象はありますが、これまた短詩であるゆえに、それだけ凝縮されている、ということにもなるでしょう。 二度繰り返す、それをあえて冒す勇気に見合う力(跳ね返す膂力)が、この詩にはあるように思いました。 (火の鳥)

2017-05-22

読んでいます⇒呼んでいます とほいゆきやまがゆふひにあかくそまる きよいかはぎしのどのいしにもののとりがぢつととまつて をさなごがふたりすんだそぷらのでうたつてゐる わたしはもうすぐしんでゆくのに せかいがこんなにうつくしくては こまる 吉原幸子さんの、大好きな一節です。なんとなく思い出したので、付記します。 (火の鳥)

2017-05-22

〈「汚い言葉を使う人がいるが、我々は使わないでいよう」 苦痛に満ちた世の中で せめて 詩に敬意を〉 この部分、普遍的なことでもありますが、具体的にビーレビューが目指していきたい方向だと感じました。ありがとうございます。 一つの詩が、多面体のように様々な相貌を持っている。そして、私たちはピンホールカメラを通して対象を見るように、ごく一部の「個人という窓」からしか、対象を見ることができない・・・だからこそ、たくさんの視点を集めて、多数の意見や感想を並列して、立体的に作品が浮かび上がるような、そんな手法で作品を見ていきたい、と思うのです。 それにしても、文字の羅列の間から、作者の想いや考えや喜怒哀楽がにじみ出て来る。詩って、面白い、不思議なものですね。 (ただ詩が)

2017-05-21

ツイッターに、こんな文言でアップしました。 素朴な筆致ながら、思いの方向性に深く賛同。何年も牧場での出会いや命との関わりを問い続けた作者ならではの、命の尊厳に通じる思考。(ツイッターアカウントが見当たらないので、ご連絡まで。) (ただ詩が)

2017-05-23

ないない尽くしで始まって、その空虚感に〈かみさまの慰める声がしていた〉とズドンと入って、しかも、その声すらも〈最早、届かない〉・・・この、声の(気配の)空白、「無」から始まるのですね・・・。 〈さいきんブラックコーヒーが飲めるようになったんだった〉大人になってしまった、そのことに気付いてしまった瞬間。 すべてのものが、新鮮でキラキラと輝いて見えていた季節(こども時代、と言っても良いかもしれない)が、いかにまばゆく、かけがえのないものであったか、失ってしまってから気づく・・・というような、吉原幸子さんの『幼年連祷』を巡るお話を聞いてきたばかりだったので、その切なさと重なりました。 「蠢いていた」うごめいていた、かな・・・音楽が、生きものとして「わたし」の周りを飛び回っている。触れて来る。寄り添ってくれる。その、温もりに包まれる・・・状態が、突如、失われる、ということ。やわらかかったものたちが、バタバタと落ちて死んで、その死体の中に一人、抜け殻のように立つ、ということ。 自分自身の輪郭は、触れられることで確かに今、ここにあった、のに・・・誰にも、何にも触れられなくなったとき、その空無の中に立つとき・・・「わたし」は限りなく曖昧で、拡散していくだけの存在になるのではなかろうか・・・〈魂も死んだ〉そこまで行ってしまう詩の言葉に、そんな空無の中に立ち、虚無にさらされている語り手の姿を想いました。 音楽は、もちろん楽器が奏でるものでもあるのかもしれませんが、命の音、草木や空、大地の歌、語りかけて来る家具や室内の調度の息吹・・・などもきっと、含まれるのだと思います。それらの「音」が耐える、そんな心理状態に落ちた瞬間・・・言葉が重く成り過ぎず(すみません、感想が重くなってますね)軽く軽く、浮遊していこうとするかのように(といっても、根が地上から離れていない感覚がありますが)綴られていくところに、味わいがあるように思いました。 (ラストダンス)

2017-05-22

食べることは命を飲むことなのだと、あらためてしみじみと感じました。 言葉の流れが美しい。下手に切り刻んで分析してしまうと、香りが逃げていってしまうようなはかなさ。 瑳峨信之さんの、夢の上澄み、という言葉を思い出しました。 (食事)

2017-05-23

わすれた、の連鎖が、不思議な陶酔感と切なさを思い起こさせる作品ですね。題名のシャンゼリゼ、という言葉(のもつ質感とか語感とか、歴史的な意味合いとか)のゆえに、なんとなくシャンソンを連想。気だるい、アンニュイな感じで、薄暗いバーで歌われている、ような。 二連目の次に、さらに三連目で「シャンゼリゼ」はなにか、ということを言えない、ということを重ねておられるけれども・・・詩としては、二連目から四連目に飛んだ方が、進行がスムーズになって良かったように思いました。 〈気持ち悪い感傷はだいきらいで〉こういう、ナマな表現が、なんとなく浮いているように感じられるから、というのもあるのだけれど・・・こういう、引っかかる部分というのか、アクセントになる部分がないと、前半がムードに流れてしまう、という感覚もあり・・・ 今書いたばかりだけれど、そう考えると、三連目も、やっぱり外せないな、とか・・・。 〈わたしたちにはベトナムごっことは何かとかんがえる暇もなかったもの〉ここ、すごく重要ですよね。 ベトナム、一語であれば様々な(フォー美味しいな、とか、パクチーが!とか、アオザイ、綺麗、とか、棚田の観光写真、そこに行きたい、とか)連想が浮かぶけれど、シャンゼリゼ、という言葉が先に置かれているがゆえに・・・フランス植民地としてのベトナム、解放運動、が重なって来る。さらに、ベトナム、一語から連想されるイメージの中に、当然ベトナム戦争の悲劇(とりあえず、勝利、はした、けれど)が加わって来る。 昨今の政治情勢の不穏、相変わらず「アジアの真の一員」となることより、「アジアから抜け出した、西欧化を遂げた先進国としての勝組」という地位にしがみつきたがっている日本、そうした状況への、なんとも言い難い違和感が滲み出ているように思いました。 PS:掲示板の作品に対する批判や批評はこの場で行うべきであって、外で行うのは、どんな形であれ「ルール」違反だと、私は思っています。作品紹介の場合は、それほど厳密に考える必要はないと思いますが・・・。「ルール」と「 」をつけたのは、明文化された規定ではないけれど、私が暗黙の内に、社会的な共通ルールである、と思っていることだからです(思っていた、ことだから、と言い直すべきか)。明文化についても、今後、考えていきたいと思います。 (新宿のシャンゼリゼでベトナムごっこをしたいだけ)

2017-06-04

最初、〈夜のカーテンのように、深夜のゴルフセンターがその巨大な姿を寝静まった街に立ち上がらせ、〉この始まり方はかなり散文的だと思い・・・直喩や「その」という指示語、「夜のカーテン」で既に「巨大な姿」は表せているので、言葉が余分なのではないか、などなど・・・夜のカーテンとなって、深夜のゴルフセンターが寝静まった街に立ち上がる、というように削っても良いのかな、と思ったのですが・・・ 〈国道のセンターラインは~〉からの進行が、非常に面白いですね。移動する視点と、走り抜けていく救急車、ゆき過ぎるタクシーの捉え方がユニークですし、その映像に伴って生じる哲学的思考のスケッチ、といった風情の雑感の部分に手応えを感じる作品でした。 月が登場するところの連結というのか、脈絡が唐突過ぎる印象がありました。〈月〉と〈犬〉は、固有名を持った何者かを普通名詞に置き換えて韜晦しているのか?という印象。 次の連で〈月〉と〈犬〉の関係が展開されるのか、と思いきや、急に外国小説の一節、主人公の悪夢を描写しているような情景に移る。その場で堂々巡りしているような描写の部分(若干、もたついている印象を受けました)の後に、鏡をのぞき込むと〈誰かが空気穴を両手で押さえつけている。月は気づくことなく静かな夜の中寝息を立て続けている。〉ここで二連目と繋がるわけですね・・・。空気穴のある箱?に閉じ込められた月。『星の王子様』の中で、空気穴の開いた箱の中にいる(はずの)羊を、なんとなく連想しました。 最終行で〈車は坂道に差し掛かって落ちていくようだ。落ちていく。落ちていく。どこまでも、どこまでも、どこまでも…〉ここで一連目が再登場しているのでしょうか。ということは、二連目、三連目の「幻想」シーンは、深夜の車中での出来事?なのかな・・・うーん、展開が急すぎて、面白いのですが、ついていくのが大変、というか・・・読者を置いてきぼりにして吹っ飛んでいくかと思いきや、さりげなく読者のもとに戻って来る、そんな繰り返しのような・・・ 一連目のある種哲学的な進行と描写が一体化したような展開に、魅力を覚える作品でした。 (落ちていく)

2017-05-24

美しく生まれたから、ではなく、生まれてから・・・美しく生まれる、ということが、育っていく過程で認識されていくのではなく、最初から規定されている、ということが、面白いと思いました。それにしても、何度読んでも、一連目の文の接続というのか、文体というのか、文法が間違っているわけではないのに、文章の進行具合というのが、実に不思議です。 二連目は、咲き乱れる白仙花を見つめながらの連想でしょうか。新川和江さんの「あらせいとう」とか・・・夾竹桃で非常に印象的な詩句もあったけれど、どなたの、何であったか、今、とっさに思い出せないのですが・・・花に託して生き方や自身の在り方を問う、いわばオーソドックスな手法であるはず、なのに、王、聖者、悪魔、といった、ある種神話的な名前が連続して出て来るからでしょうか、とても若々しくて、新鮮な印象を受けました。もっとも、ファンタジーゲームなどでも多用される名詞が連続して出て来るので・・・名前負けしてしまう、というか、若干、卑近なイメージに薄められてしまう印象も受けました。特定の意味を強くまとった名詞を用いることの有効性について考えさせられました。聖者とか王といった名詞を用いずに、この豊かな描写を深めていくことはできないかなあ、などと、考えてみたり・・・ 命の来歴を、花の群れの像の中で、そのイメージに溶け込みながら問う。魅力的なテーマです。 ( 美しく生まれてから)

2017-05-24

冒頭は、天空の女神(エジプト神話に描かれているような)が空の東から西へ、大きく体をアーチ状に展開していて、その喉・・・の先の胸は青空、そんなイメージでした。 鳥類図鑑から、めくられるたびに飛び出して行く鳥たち、のようにホイッスルが鳥の声をなぞり・・・コルク球が上下しているイメージと、なぜかラムネ瓶のイメージが重なりました。 空から地上のもぐらへと連なる、一本の糸のイメージ・・・左腕がさざなみとなっている景に、なぜかワンピースの(誰でしたっけ)考古学者女性の、あのわらわらと腕が波立っていくイメージを重ねつつ・・・う~ん、これはシュールレアリスム絵画、のような面白さ、がある、けれども・・・壮大な空間も感じるけれども・・・ぶっ飛び過ぎ、ではないか?という(伝達性、という一点において)印象はぬぐえないですね・・・。 (鼓と 雨垂れのつづき)

2017-06-08

「白い誘蛾灯に絶え間なくぶつかっていく羽虫たち。そこから逃れることもまた死なのだという直感。」これは、個人としての芸術表現、個の世界の表出を求められる(強制される)現代の表現者の孤独なのかもしれません。 「シャルロットの庭」の少年は、世界が続いていくこと、を知っている、信じている。自分が死した跡にも、「世界」が滅びないことを知っている。逆に言えば、自分が死ぬことで、世界を終わらせることも滅ぼすこともできない、そのことも知っている。 テロリズムに追い詰められていく人は・・・自身の死で、世界を変えられる、と信じている(信じさせられている)のでしょうか。誘蛾灯に惹きつけられて死んでいく羽虫たちのように、自分の世界を作る、理想の世界を作る、という「表現」に追い詰められていく若者たち・・・。 芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。 テロリズムもまた、悲憤の究極の表現である。芸術の創造もまた、表現である・・・ということから受けるショックを、どうとらえ、どのように言葉にして保存しておくのか・・・。 詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・ その時の心を写真集に収めた(写心集?)印象を受けました。 それぞれのテーマを、一生かけて(それでも解けないかもしれないけれど)考えていかねばならない。そんな、いくつもの問題点を含んでいる、と思います。 含んでいる、とは思いつつ、その時の心をとりあえずメモ書きのように書き留めた、という、まだナマな素材、という印象が残りました。 重いテーマですが、考え続けねばなりませんね。 (イヴ・サンローランのフランス)

2017-06-08

fiorinaさんのコメント欄の、〈「アタは建築を学ぶ若い陽気な学生で、爆撃によってイスラムの美しい建築物が破壊されるのを憤っていた」というナレーションを聞いたときに、とつぜん涙がこみ上げてきました。〉この部分に、個人としての詩情があるのではないか、と感じました。 政治的にも倫理的にも、どうしても許容できない犯罪に、なぜ、この青年は駆り立てられたのか。その罪を断罪するだけでは、憎悪と悲劇の連鎖は永遠に終わらない。 ただ、地球規模の貧困、教育や文化などの習慣に対する無理解や差別、異文化(特に宗教)に対する葛藤・・・異質なものを恐れたり、排除したりする、人間に本能的に根差す感情を、理性で抑えて「文明」や「文化」は成立するのではないか。 しかし、個人の抒情は、また別の場所にあると思うのです。 〈建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。〉ここで詩を止めてもよかったかもしれません。 極めて理智的な文章であるがゆえに、あえて抒情を排して(背後に潜めて)問いを即物的に投げかける。 青空という、希望や爽快感を象徴するイメージと、テロリストが歪められた正義によって得る達成感とが重なってしまうかもしれない最終行を重ねるのは、作者の意図とは異なる方向に誤読される可能性があるかもしれない、と感じました。 ニュースを聞いた時に、涙があふれた、という「事実」を、感情や感慨を交えずに途中に書き込み、文章はあくまでも理智的に、問いを投げかける形で終始する。政治問題を抒情や感情に還元せず、あくまでも理智の段階で受け渡しをして、その後、受け止め手の心の中で情感が生まれるのにゆだねる。そのような方法もあるかもしれない、と考えました。 難しい問題ですが、削除して「なかったこと」にするのではなく、もっと多くの人が読み、考えてほしい問題だと思いました。 (アタの涙)

2017-05-28

追伸。「アタの涙」だと、作者がアタに共感し、彼の代わりに流した涙、ということになりそうですが、それでよいのでしょうか・・・むしろ、題名は「アタ」のみの方が、fiorinaさんの意図に沿うような気がしました。 (アタの涙)

2017-05-28

前半部分は、題名の解説のような印象を受けました。 後半は、リズムを取りながらシャウトしていくような感じ、なので、もしかしたら音源と共に聞くと、かなりのインパクトを持って迫って来る作品かもしれません。 〈強制的に別れさせられて〉この連から先、ロミオとジュリエットのような設定が前提となっているのか、あるいは、YUUさんの周囲で、恋人を別れさせるような強制力が働いているのか・・・このあたりは、個性の発揮、といったテーマからは、少しずれるのかな、と感じました。 個性を発揮しなさい、とタテマエを言いながら、規範から外れたり、常識から離れたり、突拍子もないことをしでかしたりする「個性」は、「異常」「迷惑」「協調性がない」と否定されるのは世の常。 どこまでの範囲でなら、自由な個性の発揮は許されるのですか、と逆に問いたくなるかもしれませんね・・・実生活における行為や行動は、社会規範の内においてなされるとしても(他者に迷惑をかけない、というのは、これは自己表現に伴う義務でもあります)、そこで感じている抑圧や同調圧力への反発、抵抗心、そういったものを原動力にして、ぜひ、ぶっ飛んだ作品、を書いてほしいと思います。 YUUさんの今回の作品は、詩論的な詩、個性ってなんだ?ということへの、自分なりの思索の詩、だと思います。それを、エッセイや論文の形で書かずに詩の流れに乗せていく、ためには、説明的な部分をカットして、名詞や動詞で刻んでいくリズムを作りだす、というような(そのような工夫は、もちろん既になされていますが)より一層の工夫が必要になるかもしれません。 (Individuality)

2017-05-28

めちゃめちゃに傷つけられてしまった自分の心、を放棄して・・・誰かの(もう、誰のでもいいから、という叫びも感じつつ)心と取り換えたい、取り換えて、自分の心を葬ってしまいたい、というニュアンスと、相手の心を思いっきり(自分が受けたのと同じくらいに、いや、それ以上に)傷つけてやりたい、というニュアンスとを、ライトな語感で綴ることで・・・ガス抜き、というと、誤解を受けるかもしれませんが、自分の心をスッキリさせている、ような、そんな爽快感を感じました。 (BUY1 GET2 FREE)

2017-06-08

前半は、陰惨な内容を秘めた(隠した)子守歌とか数え歌とか、そんな独特の歌い出しが神秘的で魅力的だな、と思ったのですが・・・八岐大蛇とかも、ちょっと連想させますし・・・そういった神話的な大きな広がりを期待したのですが、三連目あたりから、ちょっと息切れしたのかな、という印象があって、後半は上手く伝わってきませんでした。 貴方、を渇望する詩、なのかもしれないけれど、胎児とか蟒蛇(うわばみ、なんですね、調べてしまった)というグロテスクな重みをもった言葉を、なぜ、どうして、ここに置いたのか、その必然性が、今一つ伝わってこない。ネクロマンサーとは、ゲームなどで用いられる言葉でしょうか。死人を呼び出し、ゾンビのように復活させる降霊術、その行為に対する「吐瀉」なのか・・・ (吐瀉)

2017-06-08

へっこき嫁ご、屁っぴり姉さん・・・の現代版というべきか・・・前半、勢いがあって面白いのですが、後半、やや無理矢理つなげている、ということは無いですか? 面白いけれど、ちょっと読者がおいてけぼりにされているような感があります。 なんだろう、白血病、のあたりに唐突感があるのかな・・・ てこずっている植木職人を、屁をぶっぱなして手伝ってやって(ついでに彼を吹っ飛ばしてしまったかもしれない)お礼も特に期待しないまま、日常に戻る、的な(爆) (屁の軽減)

2017-05-30

推敲と枝の剪定は、よく似てますね。と、思いました。 (屁の軽減)

2017-05-30

先日、映画監督の足立正生監督の話を聞いてきたのですが・・・ 今、一番にぎわっている映画はピンク映画だ、と言われて、いきなり観に行こうぜ、となって・・・観たな。よし、撮れ、という話になって、何がピンク映画だかわからないまま、撮ることになった、というような経緯を「え~!!!」と聞きながら・・・ちょうど、性の解放が叫ばれ始めた時だったから、ということで『堕胎』を撮って商業デビューした、と聞きました。 ピンク映画というと、芸術性、ということでいえば、煽情的で官能を喚起する(上品な言い方をすれば)ものであり、実用から言えば、本能的欲望処理のための消耗品、という印象があるのですが・・・ 『堕胎』をブラックユーモアとして撮ったのに、大真面目な性教育の為の(真面目な)映画と思われたことが以外だった、とのお話に、ひとしきり笑いました。 本人は意識の上で遊んでいた、としても・・・その人の芯に、社会批評性があれば、それがにじみ出すものなのだろう、と思います。 かなり脱線しましたが・・・冒頭三行は、AVの台本というか、設定と読みました。 撮影を終えて、独りでゆっくり、部屋でくつろいでいる「女優」・・・としてのあっけらかんとした受け止め方と、「人間のふり」という言葉の間にあるもの。 本当にどうしようもなくなって、仕方なく辻に立つ、借金や脅しでがんじがらめになって、脱ぐ他に生きる道が残されていない・・・というイメージの売春行為とは違って、「女優」として受け止めていて、性を売る、という産業の一部に取り込まれている事への抵抗感がまるでない、というところに、現代の性の・・・女子高生の安易な売春や、援助交際のもろもろ、を重ねつつ・・・ ツイッターやSNSで演じた自分の方が「事実」となり、部屋で本当に生きていた、はずの自分が、虚構となってしまう・・・女優としての私、は、メディアの中にしか生きていない。ここは、いささか、予測可能過ぎる展開なのでは?と思って物足りない感覚もありましたが・・・ 「撮影ではめられた枷が寝ても覚めてもまとわりついていたけれど」この一行が、非常に気になります。見られること、それがお前という人間なのだ、と周囲から押し付けられ続けていた、そんな女性が、自立した「私」を取り戻す。そのために、虚構の世界、メディアの世界に生きる「女優としての私」を葬る。そんな物語、のように思いました。 (ということ)

2017-06-08

指を文字から離すことなくなぞりながら音読していくような・・・御簾やすだれで日差しを遮った室内で、数人で書き物を囲んで、ひとりが静かに音読しているような。 2連目から、急に現代にリンクしていく感じがありました。なぜなのか・・・ 昨日までの事件を、まるで終わったことのように過去に流して、新しいニュースを重ねていく。それが「正しい」事実の伝え方、であるなら・・・あの日の出来事、あのときに見聞きした事件、にこだわり続けることは、「正しくない」ことなのでしょうか。記憶は、呼び戻された時が「今」です。過去の時点でわからなかったことが、あとで思い返して、わかったりするときもある。 過去の記憶を再生するとき、心の内で何らかの編集が行われ、物語として確定していく。その事まで含めれば、世界は虚構の集合体とも言えますね・・・ せめて文学の世界は、世間一般的な事実としての物語ではなく、その人にとっての真実である虚構を追求してほしいと思います。 批評というより感想でした。 (せいけつなくらしと、)

2017-05-30

通過、の連続が、タイムラインで流れて来る映像を しゅぱっ と脇に流していく(この呼び方が、よくわからない・・・)感覚に似ているように思いました。 伊藤比呂美の・・・「かのこ殺し」だったか・・・ほろぼしておめでとうございます、という言葉の連呼が異様に胸に響いてくる、あの「おめでとうございます」の語感を思い出しました。 (この街では星が見えない)

2017-06-08

言葉を刻んでいくリズム、 切りつめた進行、詩行の間に、時間が圧縮されているような印象があります。 今日、昨日、明日、なにごともないことを祈り・・・牛が食べやすいように、餌を押す。 餌を押す行為は、たとえば肉牛を一日一日、死へと近づけていく行為かもしれない。 しれないけれど・・・私たちもまた、一日一日、死に向かって生きている。 その時間を、どう過ごすのか。そう、問われているような気がしました。 (餌を押す)

2017-06-08

「戦争なんて…と続く言葉を 蝿の雲がかっさらっていった」 変形86体のような、独特の韻律の持つ陽性の軽さと、戦争、蠅、という言葉の重さ。 蠅、と打ちかけて「南風」という文字も出てきたのですが・・・なぜ、蠅?と思ったところで、 「はだしのゲン」に出てくる重傷者の姿が浮かび・・・蚊柱のように、真黒に蠅が雲のように立ち昇る末世を想像しました。 核戦争後の世界、各々の家から、大量の蠅が空に舞い上がっていくような・・・。 「なんのためにうたってきたのだろうか 上等な皮肉をつくりあげるためにうたってきたのだろうか」 歌い手を口に含んだまま、口を開けない、開こうとしない少女・・・ 「詩」が肉体を得たら、少女の姿をとるかもしれません。 しかし、今、詩が大量の蛆に蝕まれているとしたら・・・ そんなことを考えさせられる詩でした。 (私達が隠者になる日)

2017-06-08

「星のおもさにみちびかれ 好ましい背骨を飼い慣らされた ひびわれた夜たち」 美しい表現ですね。それぞれが担う、星・・・宿命の重さ、のような。背骨を(自分の根幹を)飼いならされる。そんなイメージと夜のイメージから、学生服を連想しました。痛む心、傷ついた心、ひびの入った心を、夜の闇に包んでいる若者たち。 かろうじて闇の中で、それぞれが体の内部できらめかせている星の光、その気配によって、「星空に透ける/ともだちの輪郭を」確認する、そんな、心もとなさ。「剥き出しにされた/いくつもの先端が痛む」張りつめた神経の先端を、そのまま外気にさらしているような鋭敏さ。「血をこぼさないことだけが大切な」自分の内なる情熱、想いだけを、必死に抱え込んで守っている、そんな感覚。他者まで気遣うゆとりのない、そんな利己心への、かすかな反発、批判性も感じます。 「白くふやけた ともだちも、/やわらかいものも、ひびわれる。」どんな者でも、傷つかずにはいられないような、そんな場所なのだ、という諦念も感じつつ・・・生きていく(歩いていく)ための足と、その足を(本来なら自覚的に)動かす心、その分離。足だけがどこかに向かって歩いていて、心が追いつけていない、置いていかれている。そんな分離の感覚を感じます。 そんな身体感覚がばらけてしまうような場所に生きているからこそ、どちらも喜び、一つの肉体であることを確認しあえるような、そんな喜びを得られる「どこか」に行きたくなるのでしょうね。 心よ、いっておいで、そして戻っておいで。そんな八木重吉の言葉も思い出しつつ。 (足)

2017-06-19

〈マッシュルームと呼んだ。霧の中で、私が一番呼びたかったものは、〉散文的な部分で、呼ぶ、をこんな風に重ねていくと、うるさい気がします。部屋を呼んだ、という最初の使い方と、私が呼びたかったもの、使い方のずれも気になります。 マッシュルームと名付ける。霧の中で私が一番呼びたかったものは・・・ 名づける、という意志的な行為を、入れるかどうか。呼ぶ、という行為は、呼び寄せる、は、既に在るはずのもの(自分はその名を知らなくとも、名は有しているかもしれないもの)を召喚する行為だけれど、名付ける、は、自分が名付けた以降に(自分の中で)「存在」し始めるものに対する行為、だから・・・言葉を、この場に存在させるか、呼び寄せるか、というような、詩論的な部分に関わるところで・・・うまく説明できていないけれど、伝わっている、でしょうか・・・。 〈喰らう、暗い連中が〉音の響きが生む連想が、「日の名残り」の伏線にもなっているように見えるところ、ですが・・・必然性が、イマイチよくわからない。私が読めてないだけかもしれないけれど、マッシュポテト、の後にマックフライポテト、の絵文字をつなげるのは、音のつながりの方を拾って、イメージのズレを意識させるため、なのか、させないため、なのか・・・ 〈垂れ流しの表現による表現の感染〉批評性も含んでいて、面白いところだけれど、ここと〈しかし料理とはなんであるかについては十分料理されていないと感じた。〉という命題は、どう結び付いているのか。 より硬質な感じで(そうするとより面白くなる)大仰に(哲学書のように)命題を提示して、中身はあえてハチャメチャに崩していく、とか・・・全体に理論武装で(AはBでありBはCであるから・・・みたいな感じで)あえてかっちり、しかし内容的には意図的に空疎なナンセンスに持って行く、とか・・・全体に散漫な感じで、もっと締めていく方向性が欲しいな、と思います。期待しているがゆえに。 (Always Fantasy)

2017-06-04

最初の3行に惹かれたのですが、全体に分量が多いような気がします。 「と考えつつ、さっきまでの憤怒が/冷たい体が、ずずっ。幽体より/人間に帰るころ」などの部分を、「さっきまでの憤怒が/冷たい体が/人間に帰るころ」のように、言葉を絞っていきたくなります。好みなのかもしれませんが、今、自分は〇〇をしている、今、〇〇の状態である・・・という部分を、作者の側から積極的に提示されてしまっているので・・・読者の側から想像を働かせて、行間に入っていこう、という意識がそがれてしまうような印象を受けました。 読者の側に、作品がどんどん入って来る、流れ込んで、また流れ出していく、そんな受身の読み方に向いている作品かもしれない、と思います。 父と子の間の、思いやりつつ反発するような微妙な距離感を、もっとくっきり、感じたいと思います。 (野菜スープ)

2017-06-19

ふるり、はらり・・・ふるり、は造語なのでしょうか。震えながら、けぶる・・・朝もやに包まれる感じ、なのかな・・・ 「~白玉の雫が」までは、雨の夜、あるいは早朝、朝靄が経ち始める時間帯の、美しい叙景詩になっています。青野を踏む・・・裸足で無人の草原に踏み出すような、そんな幻想的なイメージもあります。 「空の瞳を 覗きこみ」この転調が面白い。紫陽花の葉の上の白露が、空を見返す、という空間的な動き。空から降って来る滴、涙、それが雨・・・とまでは書かれていないけれど(だから、語り手自身の涙、であるかもしれないけれど)遠い青野(命、が生まれる空間、なのかもしれないですね。未生の生のありか、のような)を誰かが踏み分けていく、その足音を、気配として聞きながら、命、が薫り立つ、生き生きと生き始めるのを、語り手は感じている。 美しい言葉、美しいイメージ、美しい響き・・・を追求するあまり、少し雅文調になっているのかな、という懸念はありますが、旧仮名を用いているところとも併せて、近代詩の嫡子、という印象を受けました。確かに、渋い。 (あをの)

2017-06-19

前半部分の、鯱こばったような、理屈っぽさ、その効果をどう見るか・・・ ソウイウモノニ ワタシハ ナリタイ  梅雨、だから、なのか・・・「雨ニモマケズ」を借景として控えている、そのことに、最後に気付かされました。ユーモラスな先輩詩人へのリスペクト・・・ 前半部分、あえての理屈ぽさなのかもしれませんが、なんとなく後半と、しっくり馴染んでいないような・・・。辞書の説明分のように、思い切って素っ気なく論理的に、散文体で書いて、後半の梅干しから喚起されるイメージをつなぐ、そんな構成も面白いかもしれません。 かたくあおい~私はなりたい この部分が、この詩の本体で、その前は序文、のような感じですね。 (梅雨)

2017-06-19

「僕は僕が背負う酸素ボンベに僕の言葉を注入して歩いている。自家発電だ。そしてこれにはいつか限界が来る。」ここが、素晴らしいと思いました。 自分で自分を励まし続ける、その不毛さ・・・だからこそ、他者の言葉が、あたらしい、新鮮な酸素となって、エネルギーとなって、わたし、の中に流入してくる、その瞬間に飢えている。 「誰かの~励まされて来たはずなのだ。」ここは、飛行場でいえば滑走路の部分。そこから、離陸していく言葉が、「~酸素ボンベに僕の言葉を注入して~」という、飛躍の部分ですね。前半を、あえてもっと論文調のしかめっ面にしてみる、とか、前半を(  )にくくって、「僕は僕が背負う酸素ボンベに~」からスパンと始まっている、感じにするか・・・ きっと、前半部分の、自分の中でいろいろ考えてたどり着くまでの道程を「伝えよう」とし過ぎているのかもしれません。そうすると、ちょっと説明ぽくなりますね・・・。 中盤から後半で(一見すると飛躍しすぎていて、読者が置いてきぼりにされそうな気がするかもしれない部分)前半の想いは、充分に伝わるように思います。 (燃焼を終えたロケットにではなく、)

2017-06-08

~さま、ではなくて、さん、でいいですよ(と私が言うのも変ですが) 保健所に、あっさりと片づけられてしまう、子猫、という存在。物質、不要物、として片づけられてしまう、それまでの間・・・自身が破壊された痛み、不条理を、逆に世界を破壊する衝動として発していく。子猫の遺体から、流れ出す血や体液、脂などが路上に広がっていく、その状況を目撃した刺激、衝撃が、逆に「空想の街や自然を盛大に破壊し続ける」様として、内的につかまえられる・・・その感覚が「巨神兵」というイメージにまでつながっていくところにまた、驚きがあるのですが・・・人間もまた、自分が滅びていく時に、世界を滅ぼしていく(そんなマイナスエネルギーを放つ)存在であるのかもしれない。子猫、が「かいじゅう」となってそこに「在る」ということ。死して、生あるときよりも生々しいもの、として、死、あるいは破壊していくなにか、を感じさせる、ということ。 色々と、考えさせられる作品でした。 (かいじゅうの朝)

2017-06-19

地上に咲いた最後の花は、最後の命の責任として、その造物主、たる太陽を見つめて訴えかける・・・のであろう、その訴え=うた(白川静や折口信夫によると)・・・と思ったのですが、その太陽すら、この世界には存在していないように思われました。神の存在しない世界、その不毛。滅びを見届けさせることができない、しない、世界。 まさに〈荒涼たる天地〉ですね・・・ 思い出したのは、『星の王子様』に出て来る薔薇。 愛されたいがゆえに・・・そして、そのことにどうしても自信を持てない、確信を持てないがゆえに・・・わがままばかり言って、結局、王子様に置き去りにされてしまった、一輪の薔薇。 王子さまは様々な旅と経験を経て、地上に降り立った後も、薔薇を守るためにはどうすればいいのか、考え続ける。星を壊してしまうバオバブの芽(欺瞞や悪意でしょうね)を摘み取るための羊(救い主を暗示する)を求めながら、羊が薔薇を傷つけてしまわないか、悩み続ける・・・でも、その王子様なりの誠意は、薔薇には届かない。 薔薇が、愛されること以上に、王子様をいかに愛するか、そのことに心を砕いていたら、王子様は星を立ち去らなかったかもしれない、と思ったりしつつ・・・すみません、脱線しまくってます・・・。 同じようなフレーズを何度も重ねていくような部分が、文字で読むとくどいようにも感じるのですが、脳内再生の音声として聞くと、その「重ね」がのりしろのようにつながっていって(全体の音の流れを意識されているから、かもしれない)不思議な心地よさにもなっている。 ボールペンのインクが出るかどうか確かめる時に、螺旋状にグルグル書いたりしますけれど、そんな螺旋状のものがずーっと太い線になっていく、その流れが、この詩になっているような印象がありました。 (「最後の花」)

2017-06-04

祝儀敷さん、コメント頂いていたのに気づかず、失礼しました。 シルヴィア・プラスの「馬」のイメージに、影響を受けている、かもしれません・・・何篇か、馬の登場する詩を書いています。黙示録の馬のイメージとか、天馬や海馬のイメージ、などなど・・・私にとって馬、とは何か。そのことも含めて、考えていきたいです。 (鋳型)

2017-06-20

北村灰色さん コメントありがとうございます。身体的な感覚で捉えられるような、五感で感じられるような作品を書きたいと思っています。空虚さ、それはいつも感じていることかもしれません。 夏生さん コメントありがとうございます。~様など、どうぞ使わないでくださいね。馬、のイメージに、昔から惹かれています・・・実際の馬を見たこと、乗ったことは少ないのですが。絵本や物語からの影響かもしれません。 (鋳型)

2017-06-26

読み落していました・・・ループ詩、と呼ぶには「起承転結」の色彩が濃いですね・・・。音の(音読の)面白さよりも、ナンセンスな理屈っぽさの方に重きを置いたのか・・・ おそろしく緩いカテゴリーを設ければ、その中に全てが包接されてしまって、差異や特質が見えにくくなる。 かといって、狭い範疇に絞っていくほど、こぼれ落ちていくものが多くなる・・・。個物の個性を認めようとすれば、必ずそこには、陰にしろ陽にしろ、他との比較が前提となる。他との具体的な比較をしないのであれば、抽象的な語彙のみで特質を述べる他はなく・・・個物の個性を明らかにしようとすればするほど、曖昧で抽象的な思考に頼るか、限りなく類似する他の個物との比較に頼り、細分化していく他はない・・・ 個物と個物とが出会って、化学反応を起こすように、あるいは「交配」「交接」「交歓/交感」によって、それぞれの特徴を融合させたり変容させたりしていく、そのことによって新たなものが生まれ出る可能性と・・・出会うことによって否定しあい、拒絶しあい、消滅していってしまう可能性と・・・シンダ、ナンダ、それがどうした。無理やり小部屋に詰め込んで、化学反応を強制する、これほど無意味で暴力的な行為はないですね。 風の吹き通う平野のような場所で、自由に訪れ、自由に去る。その中で出会い、惹かれあい、なにか新たな「いのち」が生まれ、それがまた空に帰っていく、そんな景に憧れます。 (DO_NOT_CROSS_THE_BORDER)

2017-07-07

街中の会話を、採集してコラージュしたような印象を受けるのですが・・・その断片の中から立ち上がって来る、レストランやオシャレなホテル、都会的な花屋さん・・・などのイメージの間に、 「水のような開放弦」「虹を吊るしたところ」「人魚の鱗入り」などの断片が生み出す、ファンタジーの世界・・・その夢幻の世界が、日常の隙間から垣間見えるような、不思議な二重構造を感じる作品でした。 (Grimm the grocer)

2017-06-19

ひいらぎさん、メッセージありがとうございます。 思いの届かないことばかりが続きました。皆で詩について語り合ったり、合評したりできる場が、育っていくのを見たい、応援したい、という思いで参加したのですが・・・長い目で、この場がどのように動いていくのか、ひいらぎさんにも見守っていていただきたいと思います。〈ひょっとしたら〉という一節に、希望を残しつつ。 なおいっそう、投稿作品一篇一篇と、誠実に向き合っていこうと思います。 (Grimm the grocer)

2017-06-22

「わたしの羨望なんて知らずに」どこかに飛んでいきたい、ここではない、どこかへ…そんな遙かな憧れを、鴨に託して歌う冒頭部。 花緒さんも指摘されていますが、自己肯定感・・・少し言葉がナマすぎる、というのか・・・全体の質感に比べて、固い感じはしますね。ババロアの中の、木の実みたいな。 身と心の対話。心は、鴨の背に乗って、もしかしたら想像の翼で飛んでいけるのかもしれないけれど・・・身はここにいるしかない。段ボールに詰め込む私、この感覚がいいですね。日記とかノートとか、友達との写真とか・・・そんな、自分の綴った言葉、自分の記憶、それが「わたし」であって、今、ここで、そのことを考えている「私」は、「わたし」じゃない、というような、私が私であって私でない、感覚。 みずみずしい若さを感じます。 (鴨)

2017-06-19

一連目の、不思議な文法というのか・・・ぎくしゃくする語尾に、面白いアクセントがありますね。 全体的に、あえて言い差したような語尾であったり、一つの述部に複数がかかっていくような、複雑に絡まるような構文が、読むときの適度な摩擦、流れていかないためのストッパーになっているように思いました。 「こうして今日 突然 日差しが強くなったことは この暑さとの関係もなければ(○○との関係もない) 物の陰影が こんなに物々しく(見えるのはなぜだろう) (物の影そのものが)濃くなっているはずはなかった」 そんな、言外の何か、を感じます。 物の陰影が、「物々しく」濃くなっているように見える。しかし、そんなはずはない。影自体が、色を濃くする、なんてことは、あるのだろうか?自分の物の見え方、世界の見え方が、変わってしまったのか。あるいは、自分に対する世界の在り方、接し方が、変わってしまったのか・・・ 物々しい。音で聞くと、なにか物騒な感じ、なにか不穏な予兆に身構えていく感覚がありますが・・・そういえば、なんで「物々しい」と書くのでしょう。物騒、これも、物が騒ぐ、と書くのか・・・事物が蠢きだす。そんな不気味さが押し寄せて来る、感じなのかもしれないですね。 「ものの濡れた表面が日光を液状化させて含む  あるいは一斉に僕を見つめるような  眩しい視線と感じる」ここもまた、なんとなく不思議な文法、言葉の掛かり方です。 日光を液状化させて含む・・・濡れて光る質感を、このように表現する・・・素敵ですね。含む、は眩しい視線、にかかるのかな・・・。 自分を取り巻く「事物」が影を強め、てらてら、ぬらぬら、光りながら、自分を見つめて来る。凝視してくる、監視してくる・・・ここしばらく、自分を取り巻く世界を正視できなくなっていたのか。視ることができなくなっている。この体感が、独自に捉えられている一節。 幻想世界が~この一節、ごつごつした漢語の観念語がぞろぞろ出てくるあたりに、自分の「世界の視え方」あるいは世界からの「視られ方」が変わってしまった、その違和感や孤独感を、なんとか理解しよう、整理しよう、とする意識の働きを感じました。 「僕をものとして視ていればこそ」僕、が、他者によって「もの」(物、まではいっていないけれど)として見られてしまう、あるいは人間存在として認められず、道端の石や木のように見過ごされてしまう。その、他者の視線が自らに留まって行かない、素通りしていく感覚が、孤独、と表現される感覚なのだ、と腑に落ちる。語り手が今、自分で感じている、自分だけの孤独の質感が表現されていると思います。 自分自身の肉体の内部、内臓感覚、そうしたものに、照らされる。自分の肉体を意識しつつも、自分の心や感覚を意識できない、なにか、心もとないように感じる・・・それは、眠れない、という問題とも絡んでいるのでしょうか。 私ごとですが、ここ数日、悪夢に悩まされてノイローゼのようになっていたので(^_^;) 自分の感覚に引き寄せすぎているかもしれませんが、自身の感覚を、独自に表現している、秀作だと思いました。 (離反)

2017-06-19

立ち上がりが斬新。潰してしまったカタツムリ、それを「わたしの胸の乾いた血だまり」に納めて慈しんでいるようにも読めるのですが・・・潰してしまったのは、実は私の幼心、魂なのではないか?という気がしてきます。 「青い/サンタクロースの群れ」赤いサンタさんではなく、なぜか青い・・・反転したサンタクロース。甘い語感と裏腹の、謎めいたイメージの森へといざなわれる、少し大人になった二人。自分を「プレゼント」として差し出す、そんなイメージでしょうか。処女喪失の(記念日というのも変ですが)その日を美しく回想しているようにも思われます。 「って わたしは」 こうした間の取り方は、少し冗長な印象を与えるものですが、ここでは二人の間の沈黙の時間や、流れていた時間を掬い取ろうとしているように思われました。 「ふたつに割れたままの カラダの境界線のやけに湿度の たかい部分があなたの白い背すじのような 敏感なたかさを求めてしまうから」 女陰が求めるもの・・・が、肉体的なものというより、より精神的なものであることを示唆しているような一節。 果物、の暗示する実り。 2人の肉体の性愛のイメージが、2人の精神性の婚姻のイメージと重なり・・・肉体の内に、蕾を宿す。「あなたのこと/信頼してもいいのね」以降の部分が、若干間延びしているようにも思うのですが・・・蕾が花開くとき、永遠、の意味が開示されるのか。あるいは、蕾であり続ける事、胚胎し続ける事、それが2人の間に宿る「永遠」なのか・・・ 題名とあわせ、心と自然との婚姻、そこから生まれ出る言葉(詩)をイメージしました。 (自然にソッとくちづけよう)

2017-06-20

anthem、讃歌、祝歌、聖歌・・・辞書ではこうした意味が出てきますが・・・ロックミュージックなどでは、また異なった意味合いで用いられるのでしょうか。詳しい方に伺いたいです。 全身をくまなく愛おしまれている幼子・・・のイメージが、「硝子の音」「潰れた左目が」の辺りから、急に破壊されていくもの、不穏イメージ、に変化する。転調しているように感じます。 「君の故郷を燃やしてあげる」「誰もが祈り乞う声を/常に殺しながら/愛しいと抱いた」刹那的な、破壊衝動、嗜虐衝動、のようなもの。 「君の苦鳴が どれだけ 僕の幸せを呼んだか 僕が何度心の中で涙を落としたか/もっと深く刺したかった 1mmも傷つけたくないな」傷つけたい、傷つけたくない。アンビバレントな感情の中で、本来は共に生きたい、という感情が、共に滅びてしまいたい、というエネルギーに回収されていくように感じました。 左、には、何か特別なイメージがあるのか・・・中盤から後半にかけて、言葉があふれるままに絞り出しているような印象も受けるのですが(「あれ、また、嘘?/ふふふ。」というような挿入部分が、流れというか勢いを、むしろ削いでしまっているようにも感じます)前半から中盤にかけての転調部分が魅力的な作品だと思いました。 (anthem)

2017-06-19

白犬さん  >「本来は共に生きたい、という感情が、共に滅びてしまいたい、というエネルギーに回収されていく」は、私の中では少し違っていて、後半は「ほどいたげる/逃がしたげる」が入る通り、この詩の結末は「共に滅びてしまいたい」ではなく「別れてそれぞれに生きていくこと」です。 こうした、作者の側からの「思い」を聞けるということ、それが、双方向メディア(といっていいのかな)の投稿掲示板の醍醐味だと思います。なるほど、と納得しながら読みました。 「ばーにん」・・・私も否定的な感覚ではなく、魂を燃やす、燃焼させる、生き切る、というような、情熱を掻き立てるイメージとして、肯定的な意味でも捉えています。その意識が高じて、私も自分の詩の中に燃える、燃やす、焼き尽くす、といったイメージを持ち込むことが多く・・・コワイなどと言われますが(笑) ありがとうございました。 (anthem)

2017-06-23

一時、を、ひととき、と読んだり、三時、を惨事と読んでドキッとしたり(青空の果てで、鳥打の鉄砲が鳴ったらどうしよう、とか・・・) 「いちじは 卵のようだった  にどめには 親鳥に守られ 三度めには成鳥のように生きる」 魂は、三度生まれ変わる、のでしょうか・・・生まれ変わるたびに、一回り大きくなっていく心、を夢想しました。 「清潔に あらためられたカーテンを 風が部屋のこころを ゆらしている」 光は描かれていないのに、少し薔薇色を帯びてきた夕方の明るさを感じます。金色の光で満たされていく心。 「蕗の葉のやわらかいところだけを虫が食べ跡は うつくしいレース模様なのが、」 食べた跡は? 食べ 後はうつくしい? どちらかな、と思いつつ・・・柔らかいところを、食べられてしまった、ではなくて、むしろそのことによって「美」が(見えなかった美が)見えるようになった、そこに目を注ぐところに惹かれます。 「なにものでもない自分に もどるための歌を ホトトギスが聴かせてくれている」 時の鳥、と書いてホトトギス。時を告げる、ということは、命の時間を告げる、ということでもあるように思います。歌の翼に、という名曲があった、と思いだし、あれはメンデルスゾーンの・・・と調べたら、歌詞はハイネでした。 「翼の両翼ように羽ばたいたとき」両翼のように、かな(すみません、仕事柄、クセで・・・) 比翼の鳥。二人の心が寄り添って、初めて一羽の鳥となる・・・ひとつの歌、となる。 心の中で歌う鳥の声に応ずる応答、他者の響きと響き合って、歌としてはばたく、その瞬間。 いのちが芽生える。それは詩の命かもしれないですね。 (時鳥)

2017-06-08

わがまま、って、なんだろう・・・ありのまま、私のまま、は「いいこと」で、わがまま・・・わが意のまま、は「だめなこと」なのかな・・・わがままって、我のルール、自分ルールを押し付ける、ということかな・・・と考えて、最初の方の「必要のない事を押し付けました」が、なんとなく腑に落ちました。具体的なことが書かれていなくて(他の人との会話の途中、のようで、前後を想像させてくれるような、そんな曖昧さ)唐突だな、と思っていたのですが、後ろの方できちんと回収している。 「一つ一つを丁寧に大切に 包む空と一緒にありたいのです」 ひとつひとつを、包む空・・・空が何枚も重なった薄青い膜、のようで、そんなセロファンが何枚も重なっている空を連想しました。 そこで自由に羽ばたくあなた、を見ている私、それは私の心と私の体、であるのかもしれず・・・ 包むラッピングする、という行為は、どなたかに手渡すことが前提。 だれに、手渡すのか、なにを、手渡すのか・・・明晰な文体なのに、人によって、代入するものが異なる、そんな多義的な読み方の出来る作品だと思いました。 (心と空の叫び)

2017-06-08

背中の傷痕・・・について考えながら・・・ 赤ん坊を抱き上げたとき、わたしの中から感情がわくのではなく、わたしの背後から何かが押し寄せてきて、背中を破って入り込んで、胸を破って溢れ出す、みたいな感覚に戸惑ったことがあります。 いわゆる いとしさ というものは、自分の中から溢れ出すのではなく、宇宙の最先端の感覚器としての、わたしの体、を通じて溢れてくるものかもしれない、と。 なんでそんなことおもいだしたんでしょう。不思議です。 (『渡る』)

2017-06-15

語りかける温かさ、今、そこに居ない人を想う、離れた場所で、静かに思う・・・そんな抒情を感じました。 幼馴染かと思ったのですが、30代半ばを過ぎても、子供のような純粋さで「子供のおもちゃ」である、怪獣の図鑑を、繰り返し繰り返し眺めている・・・ダイアモンドのように慈しむことのできる、そんな「きみ」を連想しました。 本当の豊かさって、なんだろう。私たちの心は、いつも飢えていないか。「きみ」のように、日々「目覚める街角に立っていた、」そんな、世界との新鮮な出会い方を、いつもすることができるか。山下清のような、純朴な人がそこに居るように感じます。 (きみのこと)

2017-06-13

「甘味料の味がした。 アステルパームの味がした。」 「安易に消したのではないのですけど 今ではとても安易に消したと思い心が冷えてしまいます。」 少しずつ重ねながら行を進めていく、その緩慢さが、心の進み方、想いの進み方の緩慢さを表現しているようにも思うのですが、もう少し言葉の分量を絞ってもよいように思いました。 新しい恋人を得ても捨てきれない、未練を断ち切れない「あなた」への想い。 「ひゅるひゅると赤いテープを振って猫と遊んでも 一人生き残ってしまったような感慨が拭えないでいます、 あたらしいパートナーで、twitterで、仕事で、ガムで 円形に穴開いたこころを埋め合わせが終わったら することなんて何もなかったような錯覚で 川辺で石切りをすれば一段も飛ばなかったかったあなたを想います。」 この連にとても惹かれました。 その後、すこし饒舌すぎるくらいに語られる「新しいパートナー」との日常は、その語り方によって、相変わらず「あなた」を想い続ける、切なさ、どうしようもなさ、堂々巡りし続ける心情を示しているようにも思うのですが・・・もっと抑制した方が(寡黙さによって)かえって切なさが伝わるような気もします。 (不明)

2017-06-19

詩の始まりは、自分に「言葉」「思い」「格言」を言い聞かせるような感じですが・・・ 音楽と音楽の間に あたたかいコーヒーになろうと 湯がくるくる働く音が聞こえればいい この連が秀逸ですね。あたたかいコーヒーになろうとしている、冷たかった水、ぐらぐら沸き立ち、人の心を温めたり癒したりするために「働こう」としている「湯」の存在に気付いた人のうた。 いっぱいの珈琲に、わたし、がなれたらいいな・・・奏熊さんの作品に触発されて生まれた詩でしょうか。詩と詩が響きあって、想いが言葉になっていったら、素敵ですね。 (在ればいい)

2017-06-08

〈夕日の国 それを領土とする〉 自分が、その大地をその瞬間だけ、わたしのもの、として所有しているような・・・ 大きな空間を感じます。日に照らされるもの、すべからく民、そんな意識も感じました。 夜の闇に、世界が沈んでいく、その時間が・・・言葉の置き方、区切り方の工夫と共にゆっくり立ち昇ってきます。 (夕日の国)

2017-06-13

赤く火照るような日焼け・・・感情の燃え上がりを味わいたいのに、黒くじりじりと焦げていくような、くすぶるような燃え上がりに、気持ちが引き留められてしまう・・・そんな2重の意味を感じながら読みました。 「~起こりそう、とふと思う。」ここは、あえてこのような形にしたのかな・・・起こる、と断定してしまってもいいかもしれないなと思いました。 (最高気温36度)

2017-06-15

ストロベリームーン、という呼び名があるのだと最近知りました。苺月と書くと、また異なった印象を受けますね。 あかとあお、それもルビーの用な透明感のある赤と、紺碧の海や滝壺や沼の淵のような、緑に近いような碧。 色彩の対比が最初にあって、世界最終戦争、のような・・・ある種のファンタジーゲームの中に取り込まれてしまったようなシチュエーションが明かされるわけですが、失恋の衝撃度が、そのシチュエーションによって確かめられている、そんな印象を受けました。 サブカル系の語感というような意見が出ていますが、重厚な世界に一気に取り込まれていくような状況設定がユニークだと思います。 (苺月 -血染めの夜明け-)

2017-06-15

〈冷たい夜と朝のあいだ〉を知る人・・・それは、独りで立つ孤独を知る人、でしょうか。 〈あそこに暮らす人間も、ルールも道徳も、監視も抑圧もコントロールも〉一気に吐き出す一行・・・がんじがらめになって、動きが取れなくなっている日常、そこからの離脱。それは、詩の世界なのか、死の世界なのか・・・カレーの匂い、がほっとしますね。思うに任せない日常から、暮らしの肌触りのある日常へ。帰還する、ということ。 (宇宙で死にたい)

2017-06-13

何気なくおかれた 指先から 流れ出してゆく わたし 髪ばかりがつやつやと ひかる この一節にとりわけ深く引き付けられました。 自分、を包んでいる皮膚という入れ物。白い毛皮のラグに触れている、その境界線のあたりに意識が集中していく。じっと沈黙する体、置かれた指先の血流がすうっと引いて・・・ああ、私、というものが、ここにあった、と、再び捕まえるような、捕まえたことにしておこう、というような感覚。 懐かしさを感じました。電灯の使い方がいいですね。 (ラグ)

2017-06-15

雨が降るのを、避ける、のではなく、むしろ待ち望む・・・濡れることを避けるのではなく。惠の雨、私たちの心身を潤してくれる雨・・・は、降るべき時なのに、降らない。 傘が舞い上がっていく情景、それは傘の魂が昇天していくようにも感じました。 傘は、降るものを避けるためにあるのか。降ることを知る、ためにあるのか。 渇望しつつ、得られないものばかりの日々です。 (「曇天に舞う」)

2017-06-13

しかるべき立場の人がしかるべき時にしかるべき態度でしかるべき行為をなすべきだ、的な傾向が、特に日本では強いのかもしれないな、と思うことが多いです。 それじゃしかるべきって、なんだ、という・・・ しかるべき立場の人以外が口を出すと、かえってもめるから、お前に言ったんじゃん‼なんでそれがわかんねーんだよ、みたいな感情もわからぬでもなく。 しかし、素材が生すぎる。当て擦りの感情爆発、そう感じてしまうわけですが・・・ ゴキブリをわざと入れる客の話がよくありますが、いつのまにか飛来しているゴキブリ、なんですね・・・匂いが美味しそうだから、寄ってくるのでは? しかし素材が生すぎる。 (DO_NOT_CROSS_THE_BORDER #2)

2017-06-15

慎み歩く小虫、その気配に意識を注ぐ語り手は、いったい、誰なのだろう・・・ 〈一滴の私が包羅する大地のそこふかく〉いってき、ひとしずくの私、大地の底深くからわき出す「私」、〈もたれた硝子コップのなかで/きまって草原をおもいだす〉「私」・・・摘み取られた一輪の花、コップにもたれた一輪の花、その花びらが散る様を想いました。 〈胸の透明なオルガンに風がおくられて メロディーをゆっくりはいてみる。〉 摘み取られた花は、あとは死していくだけ、なのでしょうか。本当の命へと還っていく、その間際に見る夢・・・その花の胸の中で、透明なオルガンが鳴り、その響きが思い出された草原を渡る風に溶け、心ははるか草原へと戻っていく。 〈夜露から朝露へ なまえとおいたちがかわるころ 水のいらなくなった魚が草原を駆ける〉ここから続く、息を長く吐きながら大きく盛り上げていくような一連、豊かなイメージが交錯している空間から、一輪の花が生まれ落ちるまでの・・・夢から現への移り変わりを描いているようで、特に惹かれた一節でした。 (涵養)

2017-06-13

ひろがりの中にひかれていく 海と空との境目を あなたとわたしのてのひらでそっと つかまえる あわいから飛び立っていくもの ふたりの時が 1年また1年と重なっていく 記念日のたびに焼く 香ばしいケーキ そっとひそめる 小さな鼓動 みつけたら 君が王様 きっと世界の 真ん中に立つ ・・・返詩を記したくなりました。 (ある詩)

2017-06-15

ところどころに刺し挟まれる、刺さって来る言葉の質量、そのアクセントの間に、埋め込まれるように置かれた、たくさんの言葉・・・全体に溢れ出すような・・・とぎれなく流れ出す布の帯、その波打つ山の部分に、ところどころ光る刺繍のように光る言葉がある、そんな印象を受けました。 るるりらさんも引用しておられますが、冒頭、~から、~のだ、という明確な「理由と答え」の構文なのに、内容は論理では説明できない、直感でしかとらえられないことを断言している。この説明不能な、でも納得させられてしまう断言、そこに詩情があるのだと思います。 たとえば、 (その距離とは実はそれほど遠くもないのか (心の壁が実際よりも遠く感じさせるのだろう というように、ところどころ、推察の強い部分に( を付けてみる、とか・・・ 連あけしなくても、詩的直観による断言と、推察の部分とを視覚的に分けてみる、などすると、 もっと(見た目に)メリハリのきいた感じになるかもしれない、と思いました。 泥沼には使い古した靴だけを残して 君は立ち上がれる僕もそれに従おう こうしたメッセージばかりが続いていたら、ストレート過ぎてしんどいかもしれないですね・・・うねるような流れの中に埋め込まれている、そこに、ふっと思い出したように現れるメッセージ。そのさりげなさが素敵だと思いました。 見方を批判して 憎悪を知っているとは まるで指を曲げるみたいに簡単に言うんだね 妄想だけが責められるべきじゃないから ここは、見方(誰かの、一面的な視点)なのか、味方なのか、両方なのか・・・。 真実は見つかるだろう、とか、我々は罪にまみれている、犯罪は他人事ではない、こうしたフレーズは、既にたくさんの人に口にされた言葉であるような気もしてしまう、のですが・・・流れの中では必要なのかな、でも、全体に長くて、ちょっとメリハリが弱い印象があって、もったいない気がするので、こうした「世間一般でよく言われるようなフレーズ」を削ってみる、というのも、一つの方法かもしれない、と思います。 視野の端っこに映っているものも 何かを持ち上げるための踏み台としてはいけない 連続してはいない人格がその展開の場を開くのであれば 私はその建物の中でのあれこれを 人々のために正しく置きなおしてもいいと思う こうしたフレーズに惹かれます。作者独自の空間感覚や比喩の感覚に裏打ちされた、作者からのメッセージ(肉声)のように感じるから。 「誰をも拒否しない噴水のように」静かで美しい、でも、決然とした・・・素敵な余韻を味わうことができました。 (good-bye my love)

2017-06-26

〈死人と生者の間に属する中間管理職的な生き方〉をせざるを得ない〈わたし〉と、〈わたし〉を包む、あるいは〈わたし〉が包む〈家族〉との関係性・・・その関係が〈シュール〉なのだろうと思いました。 ユーモアにあふれた筆致なので、深刻になりすぎなくていいですね。それでも、ピリリとした緊張感と批評性があります。家出した〈ル〉、あるいは〈キミ〉が残していった、爪研ぎ用小物。人間用の道具だとしても・・・猛獣や猛禽の爪・・・鋭利な攻撃性を持った爪を持つ〈キミ〉を連想します。 家出されてしまった側の〈わたし〉〈家族〉もまた、爪を持つ。〈この胸にある うずき〉が、伸びていく爪の先で疼いている。その疼きを、〈キミ〉が残していった、爪研ぎ用小物で整えて、なかったことにするのか。あるいは・・・ 家族、を、会社とかPTAの役員とか、趣味のグループなど・・・いろいろなものに置き換えることもできそうです。考えさせられる作品でした。 (シュール)

2017-06-23

冬が降る/暖かい/雪が降る この展開に、赤い雪や緑の雪が降ったら・・・と絵の中で実験?してみた、という美しい絵本のことを思い出しました。 雪は、見た目は綿のようで、暖かい。暖かい死、眠り、に誘うもの、というイメージもあります・・・非雪国の太平洋岸に住む者の、いささかロマンチックなイメージではありますが・・・・。「歪な物 怖い物」ですら、覆いこめて眠らせてしまう、雪の優しさ、なのか、非情さ、なのか・・・。 雪の怖さや凶暴性は、雪国に住んで、日々、雪と戦う人にしか実感できないことなのかもしれません。 雪は微細な結晶/緻密な物が 壊れるのも厭わず/降りしきる この連が印象に残りました。 壊して、一冬が過ぎて・・・その後、雪だけが消える。「歪な物 怖い物」は、消えていない、壊されていない。壊されて、無くなってしまうのは、緻密な物、だけ・・・緻密な物、とは何か。繊細な何か・・・。 人の心に雪が降り積ったとしたら。雪融け後には、どんな景色が現れるのでしょう。 再び、繊細で緻密な、可憐な小花に覆われる、そんな日を夢見て。 (雪が降る)

2017-06-26

体感的に、暖かいもの、なのですね❗ そういえば、今年は雪が少なかったから、新芽が痛んでしまった、という話を、雪国の方に聞いた記憶が・・・ 覆いつくすもの、守るもの、眠らせるもの、リセットさせるもの・・・雪国の方ならではの雪の感覚を、別の作品でも聞きたくなりました。 (雪が降る)

2017-06-27

こんにちは。ステレオタイプ、というハンドルネームは、「夜間飛行」や「夢の虜」といった、カッコイイ決め詞をあえて多用する文体に対して、自ら付けられた名前でしょうか。 体言止めの多様と、息継ぎの速度でつないでいく詩行、呼びかけの文体。 歌詞を強く想起させます。 歌詞の持つ強さを、黙読を主体とした詩の世界に呼び込みたい、という想いを持っているので、歌詞的な文体であることそのものは個性であると考えていますが、読まれる詩、でもある、ということを考える時、もったいないなあ、と思う所が何点かありました。 たとえば、〈涙さえ濁す/心さえ枯れ果てて〉というような部分。 歌として聞くときは、さえ、の連呼が感情を盛り上げていく効果があるかもしれませんが、読むときは・・・近い位置に並んでいるので、かえって感興を削がれてしまうような気がしました。雨が涙を濁してしまう。体は芯まで濡れそぼっていくのに(心まで冷えていくのに)逆に心は潤されることなく、枯れ果てている・・・モノクロの瞳、これは、モノクロ写真のように、心に移る映像が色を失ってしまった、そんな喪失感を表したかったのか、あるいは、語感のカッコよさ(スタイリッシュな感じ?)から選択された言葉、なのか・・・ 逆に、〈鳥は翼はためかせて 僕を置き去りにして〉こうした部分は、脚韻的な効果、余韻が、聴いた場合でも読んだ場合でも残るような気がします。 ~さえ、という限定の言葉の持つ強さが、近い感覚で連なる場合の効果は、いわば濃い色を加筆していく印象。 ~て~て、という、まだつながる予感を残しながら省略する効果は、水彩のぼかしやにじみの効果、といえばよいでしょうか。 僕の翼は折れてしまって、飛び立てない、それなのに君だけは(僕の手のひらに抜け落ちた羽だけを残して)飛び去ってしまった、という冒頭三連の抒情が、持続されないまま今度は僕は蝶になって飛び立つ、と四連目で切り替わっている。〈夜間飛行〉という言葉が目印のように置かれているので、三連と四連との間に、作者の中では切り替わるタイミングがあるのでしょう。もう一行あけるなどすると、見た目にメリハリがつくと思います。 そこから、今度は〈懐中時計〉また、詩情を喚起する言葉を冒頭に置いた連に飛ぶのですね・・・ここは二行アケになっているので、作者の中では区切りがあるのだろうと思います。蝶になる、というイメージが、燕になる、と変容していく。イメージの流れの変化の面白さに惹かれますが、その分、一つの感情を深めていく、その方向性が背後に隠れてしまうような気もします。 一気に宇宙まで飛ぶ詩想も、ダイナミックだけれども、作者一人で飛び立ってしまった、というような印象もあり・・・気持ちを、もう少し丁寧に追っていく方が、読者と並走する作品になるのではないか、と思いました。 (夜間飛行)

2017-06-28

漢語の多様によって整えられた詩形、その硬質なインパクトが際立つ作品だと思います。 〈この爛れた暗闇の濁世に/尖鋭なる刃の光をもたらす〉宣言文のような力強さを持っていますが、若干、ステレオタイプの言葉であるような印象を受けてしまう・・・力が入り過ぎている、のか・・・ 松明が、いかに暗闇を照らし出すか。その様相に目を注いで、そこに(作者の眼にだけ)見えてくるものを描いてくださると、読者を静かに作品の中に誘い込む、そんな深さや魅力を持つ作品になっていくように思います。 今のままだと・・・語感もかっこいいし、気分を盛り上げてくれる、そんな力強さを得られるけれども・・・言葉の強さによって、むしろ跳ねのけられてしまうような感覚を覚えました。 (松明を掲げよ)

2017-06-28

言葉の音が音を呼んで進行していく、リズミカルであるのに軽く成り過ぎない(それは、適度に意味が加算されていくから、だと思いますが)詩の駆動力が魅力の作品だと思いました。 〈煙巻かれ 匿名に抱かれ〉ここは、煙に巻かれ、の「に」落ちでしょうか? 〈そして〉に、多少違和感があるのですが・・・あえての挿入、なのか・・・この接続詞に、説得力が感じられませんでした。 〈忙しいのは生活よりも心の中さ〉一連目は空間的な喧騒、混沌。 〈彼岸花の枯れない境界戦線〉二連目は紅白、男女、生死、正気と狂気の境界領域。 〈凍傷する海辺 水羊羹の凝固〉三連目は精神の夏と冬・・・あえてクサイ言い方をすれば、青春の記憶と、その喪失。 音によって(時にはダジャレ的に)繰り出される言葉のリズム、その展開の軽快さが、深刻に沈んでいくのを防いでいる、そんな印象を受けました。 季節の終りとしての冬と、恋の喪失を実感する(誰もいないクリスマス、のような)12月。ディスカウントストアで大量消費されていく「情熱」の成れの果てとしての詩(への批判精神)・・・を連想しつつ、だからこそ、掘り出し物、これはお宝、というような詩と出会いたい、とも思います。 (抽象的な境界の切断)

2017-06-28

烈しい詩ですね! 唐突ですが、罪を犯していない者から石を投げよ、という、聖書の一節を、ロックンロールで表現したら、実はこうなるのではないか、というような思いを受けました。 痛い、詩だけれども・・・むしろ爽快感のある(いつまでもじくじく残らない)痛み、だなあ、、と。 〈さようならと裂いた/静寂と閃光〉sの音の連鎖。〈海と空を泳ぐ目玉〉は、すべてをみそなわす・・・はずの、時には神、あるいは運命、などとも呼ばれる、こともある・・・超自我の目玉、であるような気がしました。 白知、は、白痴、なのかな、とも思うのですが・・・表現上必要である、として認められる範囲である、と思いますが・・・単語として、なかなか使うのが難しい言葉です。一言、余計ながら・・・。 (knife)

2017-06-23

1 バス待ち・・・声をかけよう、とするのは、若者なのか、と思ったら・・・車椅子の老人が、若者に声をかけようとして・・・という展開だったのですね。振り返る若者は、自分も声をかけよう、と迷っていたのか、あるいは、声を掛けられる(そのような素振り、を感じて)待っていた、のか・・・ 懇親会などに行くと、声をかけられる、その瞬間を待っている人に多く出会います。どうして遠慮するのだろう。ちょっと笑顔で、会釈する、そこから始まる「出会い」もあるのに・・・。その場だけ、のすれ違いでも、その時に、何かを受け取る、何かを受け渡す。その交感/交換の記憶が、出会った、ということの積み重ねなのだ、と思います。 あらゆるものの声を、受け止められる受容体のような身体を持てたらいいな、と思いつつ・・・あらゆる声が刺さって突き抜けていく身体は、あまりにもしんどいだろうな、とも思う・・・思いつつ、壁のように跳ね返す体ではなく、スポンジのように通しながら、エッセンスだけを吸収したり、吸収したものを渡したり、そんなことの出来るような体でありたいな、と思います(すみません、批評になってないですね) 星待ち、の章、一気に流れ出すような文体の勢いはありますが・・・ 30文字くらいで改行して、目が左右にぶれ過ぎずに読めるような工夫があってもよいかもしれない、と思いました。 同じ言葉を意図的に重ねているのかもしれませんが、分量の多さと天秤にかけて、省ける部分は省いてもよいかもしれない、などなど・・・。 (花束と折り鶴が少しだけ風に揺れる、ように)

2017-06-26

消失点は、笑う人の笑いにある。顔の下半分だけに残る音のない笑い。そこで彼女についての記憶は消失している。僕にとって彼女はひとつの表情だった。知らない女性の微笑が、今~昼間の月として淡く輝いている。 語り手の兄と、兄の内妻、その二人の間の生活・・・知らされていなかった間は、語り手にとっては存在すらしていなかった世界が、いきなり(暴力的ともいえる衝撃度で)語り手の世界に侵入してくる。故郷の、どこか寂し気な、でも美しい、確かに実在する(はず)の場所に居ながら、語り手は僕が不在である世界、すなわち、東京、兄がいまだに入院し、兄と内妻の生活が崩壊していった東京の恐らくは下町・・・にとらわれている。兄の事件を知らされるまでは、まったく無関係だったはずの・・・故郷の景色に、僕に関係のない世界の、僕に関係のない生命体が、僕の知らない場所から僕の情欲を支配されてしまう、ということ。心細い、と書いてはいるけれども・・・足もとが底なしの砂地に吸い込まれていくような、不安に苛まれるような心細さなのではないか、と思いました。 故郷で、枯草が風に吹かれている、という、なにげない叙景が、風が吹き抜けていくような語り手の心象を巧みに表していると思います。 兄の事件・・・を、消化できず、受容できず、ただ侵入してくるものとして、己をつかまれてしまうものとして受け止める他はない・・・それは、兄への兄弟としての愛情というような、想い出に関わるような抒情的な問題ではなく・・・傷病や死の苦痛が僕という個体を鷲掴みにする前に、僕は逃げたものを捉えなければいけないはずだ。が、それはとうに諦めている。とあるように、兄と兄の内妻が被った(引き受けざるを得なかった)傷病や死の苦痛、といった観念的な問題意識が、極めて密接な、身体的に圧迫してくるような、自然の景物に紛れ込んで語り手の元に押し寄せてくるような切迫感を持って迫って来る、という展開に詩情を感じました。 傷病や死の苦痛、といった、肉体に密接に関りながら、観念的な思考対象となるテーマを論理で突き詰めていくのではなく(たとえ突き詰めたとしても、答えの出ない問いですが)叙景や抒情といった手法で、からめとるように掴もうとする。核心を明示できるわけではないけれど、何かしらの核を含んだ、もやもやとしたものを、風景を心象の側から捉え直す、その文章によってからめとって、そこに置く。核心を突くことのできないものを、いかに言葉としてとらえるか。その試みへの挑戦を、評価したいと思います。 (故郷の河・東京・兄の内妻)

2017-06-23

すみません、引用部分に〈 〉を付けたつもりだったのですが、記号選択を間違ったらしく、反映されていません。 最初の一段落めは、全て引用です。 (故郷の河・東京・兄の内妻)

2017-06-23

ザクロ、からペルセフォネ―の物語を連想したのですが・・・この作品では、パックリと口を開けた、傷口、のような果実のイメージが優勢であるように思います。 一連目は前奏のようなイメージでしょうか。〈欲しくて欲しくて仕方がないものは、魔術で手に入れた(これは比喩でもなんでもない)まだ〉魔術をいきなり持ってくるのは、安易、というのか、いささか強引な感じもしますが・・・その強引さをあえて出したかったのか・・・なんでもない、と言い切って、まだ、で区切る切り方に、長い息を一息に吐き出す呼吸を感じます。 石のブレスレット、ザクロ石?かと思ったのですが、違うのかな・・・ピンク色の石・・・お守りを身に着けて、さて、歌うぞ、という印象を受けました。君、の連投に勢いを感じます。 〈土のように痛々しくて健康〉な君、その中でうごめき、芽吹く僕。君が肉体で、僕、が精神、そのようなイメージで読みたくなります。 最終連、僕、は君の中で育ち、実となるのか・・・この時、ようやく君と僕とは一体となるのか・・・百合のイメージは、どこから出て来るのでしょう。清純さの象徴?結婚式のブーケ?最終連は、思いつくイメージをそのままどんどん並べていったように感じて、読者としては、少しおいていかれたような感覚が残りました。雑然とした野性的な強さというのか、エネルギーを感じつつ・・・〈一生 裏切りの上に立って 一生 そばに居続けるのだよ 君〉このインパクトのある二行、そしてザクロ(傷だらけの君)と一体化したような僕、の予見する〈血の溢れる僕の頭の中の、輝かしい 未来〉・・・流血するような痛みを乗り越えた先に輝く未来・・・を呼び寄せようとする言葉なのか、あるいは反語的に吐露された言葉、なのか・・・〈そうなるんだよ〉と言い聞かせるような、その言葉の強さに、肯定の感情を見たいと思いました。 (ザクロの花嫁)

2017-06-22

一連目の描写が魅力的ですね。二連目は、悪夢のようなイメージと、アニメーションのようなユーモラスなイメージが重なりますが、擬音が、一般に使い慣れた言葉なので、少し軽い感じになってしまいますね。三連、四連、言葉を詰め込んでいる印象を受けますが、精神が味わっている状況を丁寧に、独自の表現で描写していて、迫真力があります。芥川龍之介の『歯車』をお読みになったことはありますか?あの感覚に通じるものがありますね。 最終連で、冒頭の連に戻る、ロンド形式のようになっていますが・・・形を整えることに意識が向かい過ぎたようにも思います。〈溶解しつつある自己〉が抽象的過ぎて、感覚として追体験しにくい。 幻想の薄霞の河(白く靄のように流れる、イメージ?)に、自分が断片となってちぎれて消えて行ってしまうような、そんな心細い状況を描いているように思うのですが・・・その前の〈自分という幻想の存在しない世界〉ここも、哲学的に結論を出してしまっている感があり・・・この時の心境を描いていただけると、もっと読者を引きこむ作品になったと思います。 (高熱にうなされて)

2017-06-28

浅草のあたりにある、金色の火の玉のような「ビールの泡」を表すという飾り?を屋上に乗せたビル、を、一瞬連想しましたが・・・ビルがどんどん建てられていく「都市の歴史」をタイムラプス映像で見ているような感覚にもなりました。 〈長いテーブルの向こうの絵みたいに一枚 僕が掛けられている 次の宴会が始まって 絵は人のように見ている〉 この部分が秀逸と思いました。僕、自身を客観視して見つめる語り手の視点。それもまた、僕、であるには違いないのですが、創作者の僕ですよね。流れて来る仕事を片付けているのか、自分自身も片づけられていくのか・・・そうした、社会でもまれている働き手の僕、を見ている詩人の僕。 (ビールみたいに運ばれて)

2017-06-23

はじめまして。私も「ランボーの母音」を連想したのですが・・・あるいは、踏まえての作品だと思ったのですが、自由連想で母音に至ったのですね。音や響き、あるいはイメージよりも、まず、目に飛び込んできた形から連想しているところが面白いと思いました。 日本語は、常に母音と切り離せない。思いがけず遭遇するものごとのモロモロ・・・〈母音が絡んで来ることを避けること〉はできないのと同様、切り離すことはできない様々な事柄への連想に誘われました。 最後の連は少し唐突な印象も受けましたが・・・切り離せないものであるからこそ、見方を変えてみたらどうだろう。考え方を変えてみたらどうだろう。そんな反転のメッセージを強く感じました。おっしゃるように、とんち、生きる知恵、のようなもの、なのかもしれません。 (情報)

2017-06-22

〈だけど誰も近づけない空気がある〉その空気感を、いかに醸し出すか、そこが腕のみせどころなのかな、と思いました。〈ツァラトゥストラが好きで 帆船の模型を作り/窓の外を虚ろな目で 眺めては/口をつぐんで 考え込む〉青年を、外から観察して書いている、ので・・・読む側に、もどかしさが残るのかもしれません。 この青年の、内省モラトリアム、そのものの中に入り込んで、そこから世界を見たら、どんな風景が広がっているのだろう。そんなことを知りたくなりました。 (内省モラトリアム)

2017-06-28

内容については、他の方が触れておられるので、文体的なことについて。 冒頭、あえて「ただの」を挿入しているところ。散髪用のハサミではない、ごく普通の、文房具としてのハサミを、私はこれから使うのだ、という宣言ですね。このような使い方を、大事にしてほしいと思いました。一方、〈漆黒の髪〉これは、まるで慣用句のように用いられる言葉。あと一歩、私にしか言えない形容、比喩、を探してほしい、と思います。 〈生まれた時に切る事を忘れた〉〈毛先は鋭利な刃物のように〉こうした表現に魅力を感じます。直後に、人生を表している、と続く。今、髪を切ろう(実際の髪なのか、心理的な、内面の髪なのか、どちらでもよいのですが)と決意した時、毛先(心理状態)は、鋭利な刃物のようだ、という。針ではなく、刃物の鋭さを持った毛先を、自分の意志で切り落とす。そこに注目したいと思いました。 〈チョキン チョキン〉という擬音も、いささか使い廻された言葉、であるような気がして、もったいない。全体にとても丁寧に書かれていますが、もっと省略して、スピーディーに最後の崩落(滑落?)にまで持って行ってもいいかもしれない、そんなことも思いました。 (髪を切る)

2017-06-28

四拍子で進んでいく、歩行のリズムとでも言いましょうか。 二行ごとの整然とした連、そこに三行でふくらみを持たせた構成。 形や音の美しさに鋭敏な作者だと思いました。 (ハートブレイク)

2017-06-29

短編集、という題名から、複数の恋物語を予想したのですが・・・一連毎に独立しているようでいて、恋、あるいは二人でいるということ・・・という一貫したテーマに貫かれている。時折、鋭い(アフォリズムのような)一行がスパッと入って来る。この不思議な構成は、どこから来たのだろう、と思っていつつレスを拝読して・・・自作の詩を再編集(再構成)した作品だったのですね。 一連目は恋に恋する、というような、相手の中に結局自分を見てしまう、そんなもどかしさを感じました。 二連目の、「燃やしても消滅しません」という断言に、失恋した後の心境を想いました。 「たくさん殺せば功績も大きくなります」このフレーズ、愛しあう、とは、時には(心や思いを)殺し合う、ということなのか?と・・・考えさせられる一節でした。ある種の束縛の愛、のような。 続く「愛するほど君を鳥篭で飼えない /愛するほど君は自由に空を飛ぶ」の連は、束縛しない愛、そんな理想の姿を描いているようにも思います。 「実用化できないのも恋/流行がないのも恋/廃れないのも恋の大きな特徴です」こうしたユーモラスなフレーズが入って来ると、全体の中でちょっと息抜きするような、小休止の感覚になりますね。 「水をあげ終えた恋には/与えられた運命を思います」このフレーズには・・・想いを注いだら、その責任を引き受けねば、という、決意のような重さを感じました。 「幸せも不幸せも一枚のカードである」「自分が傷付いてるときは /誰かを傷つけてるもんだ」人生の先輩から、作者が受けた言葉なのか、あるいは自身が見出した言葉なのか・・・そんな人生訓(というのも変な言い方ですが)的なメッセージ性を感じます。 その後の「手を繋ぐと温かいと喜ぶ/君は極度の冷え性だから/また一緒に居る理由が増えた」このあたりから、恋、が愛、に替わっていく、離れている二人が思いあう、というシーンから、二人でいる意味やあり方に触れていく。そんな印象を受けます。 「手を繋ぐと温かいと喜ぶ/君は極度の冷え性だから/また一緒に居る理由が増えた」こんな生真面目なフレーズのあとに、「みんなお好み焼き」、と来ると、緊張が一気にほぐれるというのか・・・さあ、肩の力を抜いて、と言われたような気になりますね。 一つの作品として見ようとすると、全体にまとまりが緩いというのか、連の間の隙間というか、空間が多すぎる、ようにも感じますが、構成につかず離れず、の流れがあって・・・ひとつのテーマを変化を続けながら持続していく、そんな連続性を感じました。 (2005-2006 詩・ポエム板 北 ◆FUCKcjokcg 恋の短編集 )

2017-06-26

前半は、思い出すままに言葉を軽く並べていくような、そんな準備運動的な感じ・・・音楽でいえば前奏なのでしょうか。 後半の散文部分、力がこもっていますね。花緒さんも注目している部分ですが・・・誰もが原風景としてもっている、自分の核となる部分、童心の部分・・・現実の(大人の)僕が探し求めてもなかなか見つけられない「流れ星」が、心の中では、童心のままの「僕」を取り巻いて、光り輝かせるものとして周回している・・・原子核を電子が取り巻いて高速で回転しているCG映像を見たことがありますが、そんなイメージを連想しました。 そして、その輝かしい核を、僕が自分自身に感じている、ように、きっと君も、感じられるはずだ。そんな強いメッセージを受け取ったような気がしました。 (きみを思い出すうた)

2017-06-26

なかたつさん 作者からのコメントに感謝します。 前奏、という書き方だと、なるほど、それがなくても成立する、前半と後半が別個のもの、という感じに受け止められますね。 前半は後半の助走になっている・・・という方が、より的確に伝わるかもしれませんね。 (きみを思い出すうた)

2017-06-30

4、4、3、3、2、2・・・少しずつ行数を落としながら(気持ちを抑制しながら)整えていったような印象を受けます。 電子レンジがチーン、となる。すぐに開けないと、またチーン、となりますね・・・その音が〈幸せな家族の象徴〉である、という部分が、シニカルな悲しみをこめた反語なのか、あるいはそのままの意味なのか。他の方はどう読むのだろう、と思いました。 冒頭二連、流れるような立ち上がりですね。抑えた悲しみと喪失感が刻まれていくような、静かだけれど力のこもった二連だと思います。 三連目の冒頭〈哀しみはふとした日に訪れる〉言葉の流れというのか、口ずさんだ時の心地よさから選択された言葉であるようにも思いますが、もし〈手が離せなくてまたチーン!と鳴る〉のが、遺品整理という辛い作業のゆえに手が離せない、のだとしたら・・・ふとした日に、という軽めの言葉が、有っているかどうか・・・具体的な(辛い)作業を暗示する行を置いて、行為によって悲しみを滲ませる、というような手法の方が、この作品の場合、効果的かもしれません(かも、です、あくまでも) 〈夕食に作ってくれたコロッケ〉ここも、少し戸惑いました。語り手のお母様は、コロッケをよく作ってくれた、そのことを思い出しながら、スーパーやお総菜屋さんで買ってきたコロッケを、温め直さないで(お母さんの作ってくれた、揚げたて、の時の味とは違うから・・・かえって、電子レンジのべちゃっとしたコロッケを食べると、わびしさ、切なさが増してしまうから・・・)冷たいまま、食べる、というようなこと、なのかな、とも思うのですが・・・冒頭2連くらいの、適度な状況説明があると、よりよいかもしれない、と思いました。 (母へ)

2017-06-25

雄々しい、は、プラスイメージの言葉なのに、女々しい、は、マイナスイメージの言葉ですよね・・・ 長いこと続いた、男尊女卑(とまで言うと言い過ぎかも知れませんが)が当たり前、の社会が文化的に生み出してきた言葉、であると思います。 男らしさ、女らしさって、なんだろう・・・従来の(男は黙ってサッポロビール、みたいな)価値観にがんじがらめにされている男性への、皮肉、として書かれた作品なのかな、とも思うのですが・・・ 〈卑しい女性的な顔があった〉ここは、皮肉として、受け止めてもらえるか、どうか・・・。 男だろ、しっかりせい、みたいにどやしつけられて、よっしゃ!シャキッとするぞ!と言いながら、でも、なんで「男だから」しっかりしなきゃいけないんだよ、と愚痴っている、そんな子供のような、あるいはいかにも情けない顔をした生き物、が、男の身体の中に巣くっていて・・・というシチュエーションなら、もっと面白かったかな、とか・・・ 生物学上の男、が、本来の自分、である「中の顔」を、社会によって「情けない」「女々しい」「卑しい」と非難されて、仕方なく〈咀嚼し/すり潰し飲み込んだ〉というオチなら、「男らしさ」という世間の押し付けに対する、ユーモラスな抵抗の詩、ということにもなるでしょうけれど・・・・ (男らしさ)

2017-06-25

コメントありがとうございます。 二連目、確かに、日常性から、突き抜けてないというか、ぶっとび感、デフォルメの勢い、そのあたりが、まだ足りないかもしれません。 アルマジロ的な防御、の生真面目さ、よりも、エリマキトカゲ的な、どわーっと駆け回るユーモアというのか、あっけにとられるぜ、的な感覚の方が、突き抜ける強さに繋がるような気がします。 (グラスハープ)

2017-06-27

完備さんへ 率直なコメントありがとうございます。痛みを美化する、ストレートさを削ぐ、あるいは真綿でくるむ・・・という、守りの手法だけでは、自分の鬱屈を別の言い方で言い換えたに過ぎない、逃避なのかもしれません。単なる言い換えではなく、そこに新たな詩的世界を現出する、その方向に多少なりとも踏み出しているか否か・・・その部分を、常に自省していきたいと思います。 Migikata さんへ 元々は童話の形態で書き出したものでした。学校、という閉ざされた空間で、複数の登場人物が主人公を追い詰めていく会話となり、他者を外したモノローグの形になりました。賢治の世界も響いているかもしれません。 村田さんへ カルメ焼って岩石(火山岩)に似ているな、と常々思っていたので、このような比喩がイメージされたのかもしれません。 全く種類が違うけれど、外見や性質や状況が似ている・・・という連想ゲームのようなやり方で、物事を見ることが多いです。コメントありがとうございました。 (グラスハープ)

2017-07-04

一行目の言葉の強さが際立つ作品ですね。救済のラジオ・・・聞こえて来るはずの、救済の声を掻き消す雨、それは心の内に容赦なく降り注ぐ土砂降りなのでしょうけれど・・・驟雨と音の重なる「秋雨の死を祈る」と続くと、その雨を掻き消してくれる何か、を必死に祈る、そんな景に思われてきます。 そこまで、語り手に窮迫しているものはなんだろう、語り手を脅かしているものはなんだろう・・・首を落とした(刎ねられた)てるてる坊主には、その雨を降りやまさせる力はない。〈色のない巨人共〉、見えない、しかし圧迫感で語り手に迫ってくるなにか、を言語化した、とでも言えばいいのでしょうか・・・言葉によって呼び出された、不安の形象化。〈無言の死体〉は、首を落とされたテルテル坊主、を暗喩しているのか・・・ と読み解いていくと、なんだか謎解きをしているみたいで、本当に作者が言いたかったのは、そこか?という疑問に突き当たります。二連目以降は、一連目のイメージを増幅させながら(変奏のように)奏でられる、〈雨〉の降りやまない、降りやませることができない日々の中で、一時の夢想(アルコールによる)に逃避する、その幻想の時間を描いているように感じました。 太陽と青空、赤と青。〈ボンベイ・サファイア〉の青。〈シャウエンの蒼すぎる景色 〉(どこなのか不明ながら)青ではなく、蒼の(死の?)風景。〈無表情で無機質な透明の薬液 〉とは、酒が単なる薬液としか感じられない心象であるように思います。 〈獣性を隠した異性 〉このあたりは・・・異性との関係のよじれ絡まっている、その状態、なのか・・・ごめんなさい、ここは読者として、置いて行かれた、そんな心細さを覚えます。 〈青と赤が交わり生まれた 〉ここから以降・・・太陽と青空、が生み出した葉緑体・・・植物のような僕たち、なのかな・・・酔いの回った体で、山手線を周回しているのか、あるいは日常生活(ルーティンワーク)の暗喩か。 あえてデフォルメした表現で、日常性を超脱する、これはとても重要なこと、だけれども・・・〈凍てついた山手線を輪廻する〉ここまで大仰な表現を使う必然性が、全体の流れの中から、出て来るか、どうか・・・ 〈藍を喪失した窓 無軌道に溢れだす紅 〉愛、に通じる藍、闇夜に通じる藍。自殺なのか事故なのか、一人の少女が命を失った、それなのに(時には、電車が遅れた、そのことに不平不満を述べる、というような)動じることもない乗客たち。それが、私たちの日常。無軌道に溢れる紅、それは少女の血であると同時に、悲しみや孤独、辛さや痛み、そうしたものに感応することのない社会に対する、言葉にならない叫びのように思われました。 このエピソードを、もっと中心に据えてもよかったのではないか、という気もします。 〈淡く青いラムネではなく /淫らに澱んだ ロゼの熟れた液になった〉鮮明な青と赤、が、透き通った青と、赤の刺激を失った透明な赤、に「熟れて」いく、ということ。感情が弛緩して、広がって膨張して・・・しかし、鈍感さが増していく(そうでなければ、外界の悲劇に対して対応できない、ということ、でもあるでしょう)ということ・・・ 後半のエピソードがあって、心の中に止むことのない驟雨が降り注いでいるのか。そう読んでいくと、全体がつながって来る気もするのですが・・・酒に逃げるようなシーンや、異性との関係性を暗示するシーンなどが盛り込まれて、全体に惑わされてしまう、そんな読後感が残りました。 (アルコール何色 愛せよ、何を?)

2017-06-29

月経が訪れる直前の、重苦しい痛み、これは、男性にはなかなかわかりずらいものだと思いますが(その前後に、ホルモンバランスの関係で精神的な不調をきたす方も多いようです)〈それは愛にも似ている。〉という一節に、共感と違和感、双方を覚えます。 諸事情で妊娠を恐れている関係、である、と思いつつも(だから、不快な月経を心待ちにしている?) 一カ月かけて。    私は。    私を更新する。    私は。    私ではなくなる。 ここまで、大きな(自分自身の)刷新に到るような、感覚にまで至るのは、なぜだろう、何だろう・・・子宮そのものに迫って、流れていく(死んでいく)卵細胞に焦点を当てているのか。だとしたら、不妊治療を繰り返していて、命を待ち望んでいる、という設定、なのか・・・としても、少女のイメージが全体を支配している。月経を迎えると、まるで別人のように男性を激しく求める、そんな少女の豹変を描いている、ようにも思われる・・・。 性に溺れている間は、砂糖水にひたされた世界を味わっているような、甘美な気持ちになれる、ということか・・・世界を食べ過ぎてしまった、そんな状態を「過食症」と表現したのか・・・ 実際に過食症の苦悩を体験したことがある方なのか、イメージとして言葉を援用したのか、その部分で判断に迷うのですが・・・ 生と死、その観念性をとらえようとする意識にとらわれ過ぎている、という印象もあります。言葉の流れや詩形は美しいですが、少女と男性との関係性を、もう少し鮮明に(あるいは具体的に)知りたい、世界を食べる、という「大きな」テーマを、もう少し絞って、具体化してほしい、そんな読後感が残りました。 (砂糖水に浸して)

2017-06-29

雨はすべての世界を狭窄してしまうほど憂鬱 透きとおるような横顔 夏の、まいあがる草いきれと土ぼこりの中、甲高い声がありきたりな日常をふるわせて生活の時を刻んだ。 未来は少しずつしなだれてゆくけれど、何かを数えるでもなく、君の声はふくらんだ突起物をけたたましく刈り取ってゆく。 そのひとつひとつが、私たちの日々だった。 壮大なイマジネーションがひとつの光源となり、しだいに明確になってゆく。こまかい事柄がさらに複雑な数値をたずさえて、ひとつふたつと入道雲のようにふくらんで熱量を帯びてくる。屈折のない光と直線と空間、とり憑かれたうねりの渦に次々と人々が巻かれてゆく。はじけてころがされた鬱屈が其処此処に黙って潜んでいる。 巨大な建物の中をあらゆる空気が風となって吹き渡る。織り成す生活の地肌がにおいを放っている。 ひとつの行動が終わり、次へと向かう時のふと漏らす息遣い、そのようにいくらかの不満を口にし かつて、後部座席には私たちの子供たちが乗り、行くあてのない旅のことも知らず、名もない歌をうたっていた。 詩、を感じる部分を抜き出してみました。アメリカセンダングサ、のイメージが、故里ではない場所を終の棲家、と定めた夫婦のイメージに重なりました。子供たちが独立し、久しぶりに夫婦で出かけた買い物。その最中に感じた(書き手を襲った)ポエジーを、散文の間に埋め込んだ、そんな作品のように感じました。 (帰化植物)

2017-06-29

完備さんのコメントをお借りすれば、散文部分、と私が感じたのは、〈丁寧で地に足の着いた描写〉がなされている部分で、そこから、非日常の瞬間へ超脱している、と感じる部分が、詩的な部分、ということになりますね・・・ 詩的な部分、を、行替え詩の形にして、残りをベタな散文にする、という試みも、試してみる価値があるかもしれません。 (帰化植物)

2017-06-29

名前、が呼び覚ます、幻としての わたし を見詰める わたし について、想いを喚起される作品でした。 畸形の花、ここで区切られることによって喚起される、曖昧ながらひとつのまとまりを持った花のイメージが、改行でハラハラと散る断片のイメージとなり、そこから、強引なのに素直に納得してしまう急峻さで包装紙のイメージに変容する。 展開の流れに無駄がなく、読んでいて爽快感を覚えました。 いちぶ尖った・・・とは、潰されて廃棄(リサイクル)されるアルミ缶のイメージでしょうか。それが裏返る、という予想外の新鮮な驚きが、かれの身体が裏返り・・・という、カ行で駆動する、これまた新鮮なフレーズの伏線となっている・・・ 畸形の花、という言葉の持つイメージの幅が大きい(読者によって受け止めるものの違いが大きい)という部分を、どう捉えるか、という問題が生まれると思いますが・・・ 畸形、を、何か特別のもの、個別のもの、として、そこに価値観を見いだしていた、のに・・・それもまた、無数の、雑草と呼ばれるものに過ぎなかった、と見る、失望と安堵、その両方の感情を、私は呼び覚まされました。 私、と、かれ、の関係性が、曖昧すぎるような(もう少し踏み込んで、そのあたりを聞いてみたいような)気もするのですが・・・固有のものとして、私、を、際立たせるもの、としてのまぼろし・・・を希求する、そんな願いを感じました。 (names)

2017-06-27

なめらかな言葉、静かな筆致が、とても上質の叙情を奏でていると思いました。 手放すことのできない宝石、とはなんだろう。自らの魂、だろうか。 己の魂を握りつぶして、血まみれのまま差し出す、そんな思いのまっすぐさ、に対して・・・おいおいおい、生き生きと輝いている魂をそのまんま見せてくれる方が、どれだけ美しいか・・・と苦笑している神様・・・そんな景色が浮かびました。 わたくし、という言葉がまとう、宮沢賢治的なまっすぐさに想いを馳せつつ。 (手のひらの宝石)

2017-06-27

はじめまして。お作品と、ステートメントを拝読しながら、評、というよりは、「おしゃべり」「雑感」になるかもしれませんが、少しお話しさせてください。 『『日本詩人』と大正詩』(勝原晴希編)をぽつぽつ読み進めながら、口語詩とは何だろう、ということを考え続けています。朔太郎による否定の意味。口語(日常語)、民衆に寄り添った言葉、非学術的な、非高踏的な言葉、伝統を強制的に学ばされる行為を前提としない、自由な発話・・・は、本当に詩情を喪失させるのか。 日常の言葉、優しい、易しい言葉・・・によって、たとえば「イデア」とか「本質」とか、そういった哲学用語を用いなくとも、その概念(を思考する、想起するプロセス)の中に生まれる詩情を、表現できないか。 そのような方向性「のみ」に限定するのは間違いだと思いますが、詩の多様性、豊かさへの道筋として、そうした方向性の探索は続けられるべきだし、そこにまた、新しい発見や実りがあるだろう、と思います。 最近出会った食べ物の詩、の中で印象に残っているのは、たとえば瀬崎祐さんの「ミカサ屋」(これもラーメン屋が舞台でした、『片耳の、芒』所収)とか、川口晴美さんの「うどんを食べる」(文学フリマ、ポエケット用の小詩集、『僕たちはおなかがすく』所収)でした。いずれも五感に即した、肉薄してくるような表現で、たとえば「ミカサ屋」では、ポエジーが生まれて来るということ、消費されていく、ということ、記憶の道筋に迷い込む、ということ・・・などの、詩情が生まれて来る、その源泉が問われていく。「うどんを食べる」は、うどんを食べる、という行為の触覚や、呼びかけ、という文体の強さによって・・・官能の喜びと、愛し合う二人がせめぎ合い、奪い合い、求めあう・・・その瀬戸際に生まれる交情、その関係性そのものを描き出していく。 食べる、という行為は、生きる、行為でもある。生きる、行為である、ということは・・・この世との関係の在り方、にも繋がっていく。 日常では、いちいち、そんなことを考えていないし・・・とらわれていたら先に進んでいけない、けれど・・・だからこそ、今、ここで、生きているって、なんだろう、どんなだろう、どうすればいいんだろう、そうした、答えにならない問いを、答えが出ないからこそ、訪ねていく。その行為が、詩情を求める行為、なのだろう、と感じています。 ボルカさんの「純粋ラーメン」と「純粋詩」を巡る問い。 「純粋」なラーメンは、食欲からも切り離されているのでしょうか。 はたして、それはラーメン、なのか?観念だけで、人は生きて行けるのか? 「一滴の雨が/どこかで土に落ちる/そして吸い込まれて消えるとき/に、ついて」 考える、ということ。それは、日常生活で囚われていたら、暮らしていけない、社会生活においては「無駄」な思考でるけれども、人として生きる、その豊かさにおいて、もっとも必要なポエジーに連なる思考なのではないか。 一滴、という存在が(そこに生れ、確かに在った、ものが)消えて、無くなる、ということの意味。 「誰かがこの世をさるとき/もし、そのひとが/脳溢血による全失語状態なら」言葉を発しない、その人にとって、存在が語られない、思考が語られない、その事態は、「存在しない」ことになるのか。たとえ言葉によって語られなかったとしても、そこに想念、イメージは、生じているのではないか(他者に伝える、その手段が、なかったとしても) 食欲をそそらない、匂いも触感も味わいもない、観念だけの・・・ラーメン。純粋なラーメンのイデア、のようなもの。物であること、存在であること、の上澄み、のようなもの。美しいかもしれないけれど・・・純粋かもしれないけれど・・・それって、本当に「ラーメン」なのか?と問いかけつつ、そうした、体を養う糧になるわけでもなく、遥か遠い場所で、土に吸い込まれていく一滴の行方を想うような、そんな「日常においては、まるで役に立たない、かもしれない」想念を、豊かに思い描く、その時間を持つ、ということ。その瞬間に出会うことができる、ということ。 日常から切り離された、詩情の生まれる場所、に到る、そうした瞬間のことを、ラーメン、という、ユーモラスというのか、あまりにも身近で日常的な食べ物、その物質性を削いだ(削がれた、上澄みのような)純粋ラーメン、というイメージで描こうとしている。そのことに驚きと、新鮮さを覚えました。 あまりにもとりとめのない雑感で恐縮ですが・・・ 個人的には、前半が丁寧過ぎるような印象もあり・・・後半の展開部分を、もっと早めに出してもよいのかな、とも思いましたが・・・この、ゆったりとした時間が、読者を無理なく連れていく速度、でもあるのかな、とも思います。 (純粋ラーメン)

2017-06-29

起承転結、その細やかなリズムで綴られていく進行に心地よさを感じます。 冒頭、日常から非日常・・・自分だけの世界、空想の世界にふわっと包まれる、連れていかれる、その感覚が、うまく表現されていると思いました。 〈街は誰かへのプレゼントになる〉夕方の薔薇色の光に照らされた街、あるいは、美しい夜景に見とれてしまう、そんな光景。その街で、上司とちまちましたやり取り、うんざりするようなルーティンワークをこなしていた、のかもしれません。 監督、と呼びかけるのは・・・すべてをフィクションの映画として、フレーミングしようとする意識の表れでしょうか。妖精が~の連は、空想全開、という感じですね。子供の頃の、夢想全開の時代に戻っているのかもしれない。 きくらげの卵炒め、なんとなくほっこりした日常への帰還。誰もが帰る先があればいいな、帰りたい家があればいいな、と思いました。そんな願いを、かすかに感じつつ。 (夏至)

2017-07-06

はすのはな、のha、つた、ではなく、しだ、の絡まる洋館と、つだ、という名前。 津田さんが、なぜ墨を吐くのかさっぱりわからないながら、ダークなイメージがダースベイダーに繋がっているのか・・・ダースベイダーのdaと、ダヴ。 音や、語感のイメージが、ギリギリのところでつないでいるように見えますが、最後の飛ばし方は、さすがにやり過ぎでは?と感じました。 一つ一つのイメージが映像化されたら、ポップで刺激的なプロモーションビデオ作品のような、インパクトを持った映像作品になるような気もします。 (ダヴ)

2017-07-04

それでは、また来月にコメントを入れましょう。 (飛込み)

2017-07-03

早とちりしました、もう、来月、になっていましたね・・・ アドバルーンが上がっている、ではなく、上げている、という能動から始まる。都市、が上げているのか。童心をくすぐるような、どこか懐かしい、心温まる単語が置かれた後に、他者、であるはずの死が語られる。他人の物のように動く手(腕や体、顔は記憶から抜け落ちる)に焦点が当たり、他は消え去ってしまったかのような不思議な空間。灰色の空間に、白い手だけが蠢いているように感じます。語り手の心眼が見た世界が描かれることによって、やわらかく流動していた心が(他者の死、によって)固まり、動きが鈍る、全体を把握できなくなって、一部の動きにのみ目が留まる。そんなどうしようもない状態を描きとっているように感じました。 自分に関係ない、と物事をきっぱり切り捨てたり、流したり、忘れたりすることが上手にできる人は、そもそも、詩など書かなくても生きていけるのかもしれません。 〈縛り上げられてゆく暖気の名残〉ここが、よくわからなかった・・・人の気配や温もりのようなものが、縛り上げられ、片づけられていくような感覚、でしょうか・・・〈かすめられる昼食時〉ここも能動ではなく受動ですね。(他者の死、によって、自分にはどうしようもない、不可抗力にも関わらず)食欲のわかない昼時が、他人の時間のように自分の外側を過ぎ去っていく感覚を描いているように感じました。 〈ゼンマイがほぐれてゆく/玩具のように〉ここは、唐突感を感じる読者も多いかもしれません。 私は常々、人間の内部にいのちのゼンマイのようなものがあって、それが動いたりゆるんだり巻き戻ったり・・・する、と感じているので、自分に引き付けた読み方になりますが、この部分に違和感は覚えませんでした。 他者の死によって、固まってしまっていたこころがようやくほどけて、またゼンマイも動き出す、その瞬間、のような・・・動き出した心に連動して、体にまた、息吹が戻って来る。まずは足から。スニーカーの穴から〈また唐突に呼吸が始められる〉息詰まっていた身体が、また息を吹き返すような感覚が伝わってきました。ボタン、は、バタン、という擬音にも似ている、けれど・・・それは関係ないのかな・・・ボディーにまで、息づく体、息づく時間、が戻って来たような感覚がありますね。 そしてまた、列車は何事もなかったかのように動き出す・・・。 水面の微細なさざなみを記録していくような、そんな繊細な手つきを感じます。言葉が抑制されているので、ドラマティックな展開や壮大な空間を望む読者には物足りないかもしれません。でも、言葉にしえない、微妙な心身の感覚を静かに見つめて、その繊細さのままに描き出そうとした、そんな意欲を感じる作品でした。 (飛込み)

2017-07-03

剣舞、以降は、高速回転する意識の暴走状態、というのでしょうか・・・読者としてはついていくのが大変、というより、ほとんど無理、強引な展開をあっけにとられて見ている感覚になるのですが・・・これが、たとえば横尾忠則的な、色や形の鮮明な、画像のコラージュ作品であったら・・・と夢想し、それを言葉で行おうとしているようにも感じます。 ここまで意味としての繋がりが寸断されていると、文字テクストとしては、音韻的な流れや繋がり、意味の連想による、緩やかな繋がりがある方がよいように感じます。 (意識)

2017-07-04

投瓶通信、という詩誌を発行していた方がいらした記憶があります。瓶に言葉を詰めて、無辺の海に投げ入れる。このイメージは、ある意味、ステレオタイプでもあるので、容易に入っていけるけれど、自分の詩にしていくのがものすごく難しいテーマだと思います。 誰でも入っていける 手頃な世界と真逆のやり方で この捉え方に、オリジナリティーを感じました。 「今は夜です 真っ暗です 海へ飛び込むかわりに 言葉を先に放り投げました」 これが、瓶の中身なのか・・・自己消滅を願うほどの、精神の夜にとらわれている「私」の声が(思いが)誰か、に届くことを切望する・・・ 手近なものに丁寧な目を向けて、そこから普遍的な、観念的な世界を二重写しで読者に提示する。そんな持ち味を持つ作家だと思っています。その「読者が作り上げたイメージ」に自らを縛られる必要はないけれど、その持ち味をいかに活かすか、そこから出発しても良かったのではないか・・・そんな印象を受けました。 大きな、観念的なテーマに挑戦しようとする意欲が、本来の持ち味を後退させてしまったかもしれない、それではもったいないような気がしました。 (メッセージ)

2017-07-02

〈きゅうんとレンズが鳴る。〉この一行で、物体であるはずのカメラが、生き物として動き始める。人間の眼というシャッターで、直感、というフラッシュを焚いて、記憶という媒体に被写体を写し取ったならば・・・などと拡大解釈してみても面白い。 〈切り取られてばらばらの被写体が/光学の手順で縫合される/それから〉この表現もユニーク。人や物、といった被写体が、被写体という図像、画像としてカメラに吸い込まれ・・・デジタル処理を経て画像、となる。文節された世界が、縫合・・・医者の手つきのような操作・・・によって全体像を取り戻す。コマに区切られた、無数の瞬間の連続が、ひとつの物語を生み出す。その連続性=文学、そんな(背後にある)思想のようなものを感じました。 みいとかろさん自身が、写真を撮る瞬間の想いを作品にされたのだ、と思いますが・・・この詩の中では、語り手は被写体で、写真家に「いかがです」と問われる側、そして語り手は、観客として〈イカガデス〉と問い返す側・・・という関係性、でいいのでしょうか。 〈それから〉が二回出てきますが・・・一連目と二連目は、非常に強く(意味的、時間経過的に)繋がっているのに、二連目と三連目は全く別の次元にまで飛んでいますね。二度目の「それから」の意味合いが、気になります。 (被写体)

2017-07-05

手堅い作品だな、と思う一方、論理で組み立てていった、という印象も残りました。 〈サリと崩れてしまう〉この擬音がユニーク。しょりしょり、さりさり・・・と崩れていく、はかなさ、もろさ、薄さが伝わって来るように思いました。去り、と(無意識のうちに)かけているのか、否か・・・。 だから、とあえてわざわざ置くのは、自分自身に言い聞かせるためであるように思います。ドライフラワーだって、崩れたりカビたりして、今以上に醜くなる可能性は孕んでいるのだから・・・。 美への憧憬、死への冒涜・・・ここも、観念に回収されてしまっていて・・・狂おしいような美への憧憬、あるいは、背徳の快感を含む(かもしれない)死への冒涜(死、への、という方向性も面白いですね・・・死に至る過程への冒涜?)その内実に触れて行ったら、読む人を不穏に掻き乱す作品になったように感じます。 最終連が、もっとも伝えたいこと、なのでしょう。生きながら醜くなっていく、それは、「ほんとうに」感じていること、なのか・・・観念として、そのように、自分自身を規定してしまっている、のか・・・美しく枯れている、のであれば、プリザーブドフラワーの方が美しい、かもしれない。 水を断たれて、即身仏のように枯れていった花たちと、水を乞い、生々しい感情のうごめきを感じながら、汚れたもの、醜い(かもしれない)もの、を吸着していく、私、というような・・・ある種の、宗教的な自省を感じます。 でも、「ほんとうに」生きれば生きるほど、人は醜くなっていくのかな・・・醜いって、桐ケ谷さんにとって、どんな感情なんだろう・・・もしかしたら、醜いって、他者からの視線や規定に過ぎなくて、実はいいこと、なのかもしれない、面白い、こと、なのかもしれない・・・というような(詩からは離れてしまいますが)醜さ、という観念の逆転とか、そこに照準を当てていくとか、そういう予想外のひっくり返し、どんでん返し、を、期待したい気持ちもあります。 (「花の死体」)

2017-07-03

しんちゅう、しんじゅう・・・相手が、もう死んでしまいたい、という深みにとらわれて、浮上できないでいるとき・・・自分の心を引き裂いて分け与えれば、それで済むのか?(済まない)、相手は、生きたい、のだから、共に・・・ そのどうしようもなさに、生きることそのものの「ままごと性」というのか・・・そこに位相をずらすことで、ギリギリのところを共に回避して浮上(停滞しているけれど)していく、そんなふたりの、解放されたとは言いがたいけれど、深みに引きずり込まれずに済んだ、という回避の流れを感じました。 いつのまにか海に水没している列車のイメージは、しばしば海や水で象徴される無意識界への沈潜を物語化していく過程のように思われました。 言葉のリズムや語感が巧みですね。読む楽しさがそこに入ってくる。ぶどうぱん、という音の楽しさ。イッキン、はきつい、ニキン、は物足りない、サンキン、静かだけど安定していて、撥音もないし、柔らかすぎないし・・・言葉や音が先にあって、良い意味で戯れながら、深刻になろうと思えば、とことん落ち込むことの出来る事象を、軽い質感の物語に置換していく。そんな、物語化への意欲を感じました。 平田俊子さんの面白さに通じる路線だなぁ、と思いつつ。 (心中に予告、心中に遅刻)

2017-07-02

冒頭の歌詞の部分(でしょうか、違っていたらごめんなさい)、頑張った、という言葉の無限ループのような繰り返しが、インパクトとして残ります。どんなに頑張っても、無理。その不毛性とそれゆえの無念、断念しきれない思い。 初読では、前半と後半のトーンの違いが気になったのですが・・・後半は、ことがここに至ってしまった、二人の感情のねじれのようなものを「物語る」部分なのでしょうか。 全体に長さに流されてしまう印象があるので、中間部(あの歌を聴いている~君を癒せない僕の詩に、どんな意味が?まで)を一字下げにして、全体に三部構成のようにすると、見た目にメリハリが出るかもしれない、と思いました。 銃声と獣性・・・自分ではどうにもならない、相手、の心の内で荒れ狂う愛の苦悩・・・ 〈君の悪夢の中に銀を撃ち込みたいなぁ〉ここ、なんで「~なぁ」と柔らかく逃しているのだろう、撃ち込みたい、と言い切った方が強さが出るのではないか、と思いつつ・・・悪夢を一息に断ち切ってやりたい、という感覚と、狂おしく暴れもがく、その様を、むしろ煽りたい、眺めていたい、というような・・・愛の持つ凶暴性とでも言えばよいのか・・・そんな相反する感情を感じました。 〈連結/解体/目につく〉というように短く畳みかけていくリズムと、〈ジャパニーズ・パラダイス・フライ・キャッチャーの〉と一気に長く息を吐きだす、そんな一行の掛け合いのリズム。 君、の一日を優しく温かく見守るような眼差しと、君、の内部でうごめき、いつか暴れ出す(かもしれない)〈その植物性の情欲の獣性〉を、実は心待ちにしているかのような、貪欲さ・・・ ヒリヒリとした、ナマでぶつかり合う愛の切実さ・・・癒しを求めながら傷つけられることをむしろ望み、いたわり、抱きすくめたいと望みながら、むしろすべてを引き裂いて終りにしてしまいたい、というような湧き上がる衝動にも襲われている、そんな相反する愛のもどかしさを、音源に載せていくようなリズム感と迫力で表現しているように思いました。 (dry and rains )

2017-07-03

少女至上主義、という題名そのものが、非常に矛盾を孕んだ言葉ですよね・・・ 少女、であり続けようとする語り手が、「少女」であることを捨て去った(奪われた)時、それでも少女であり続けようとすれば、いったい何が起きるのか・・・。 〈奪われた処女性〉〈聖なる純潔〉という部分に、少女=処女、という、やや古風な観念が正面に出て来ている印象を受けました。少女の痛みや欲望や葛藤、といった感情(の推察)に向かうのではなく、処女性や純潔を奪われる、失う、という行為が、少女の心象になにを及ぼすのか、といった、問いかけの感情が強く働いているように思います。 理由はいきさつは描かれていませんが、少女が一線を越えてしまった、その後は・・・ 〈焼け爛れたピンク色のその先で、愛の真似事〉を続けること、しか、少女には道は残されていない、その果ては灰色の末路、というような、荒んでいく「少女」の心象を、色彩に仮託して描いているように思いました。 少女の内面的な葛藤に、もっと踏み込んでいくような描き方がなされると、もっと奥行きの増す作品になったように感じました。 (少女至上主義)

2017-07-03

あまやか、ひそやか、という言葉の持つ質感や音韻に惹かれつつ、その内容、感受する感覚を、もっと体感で表してほしい、そんな欲を覚えました。たとえば、淋しい、と言われた時、どんな風に?と問いかけたくなる、その具体性の部分、といえばよいでしょうか。 〈梅雨前の緑〉という自然景と、つゆまえの、という音の響き。緑の黒髪、という言葉を背後に潜ませつつ、〈艶やかな 黒髪を〉と、自らの肉体に引き寄せていく。 自分自身の身体の一部が、昨日からそこにあり続ける、ということ。その認識に、驚く感性を持っている、ということ。その過去の自分、過去の時間を切り落としていく、という行為に見出す意味。非情に魅力的な題材だけに、ひそやかな感傷、と、定型的なフレーズに収めて行ってしまうところが、なんとももったいないような気がしました。 増殖していく自然と連動するように、「わたし」の意識とは無関係に増殖していく髪の毛、伸びていく爪、に対する、違和感はないのか。違和感ではなく、感嘆や讃嘆があるのか。「わたし」は取り残されているのに、体だけが今日を、明日を生きている、という乖離の感覚はないのか。あるとしたら、そこには安堵があるのか、不安があるのか・・・などなど・・・すみません、ちょっと突っ込んだことを書き過ぎているかもしれませんが・・・鋭敏さに共感する部分が多々あるので、このようなコメントになりました。余計なことであれば、スルーして下さい。 (散髪)

2017-07-05

非情に→非常に です、誤変換。 (散髪)

2017-07-05

真っ直ぐな作品だなあ、と、ちょっと気押されるような感覚がありました。 最初の一連目、一行目二行目は、とても自然な、前置き的な立ち上がりだと思いましたが・・・だけど、から後の三行は、これから「言いたい事」を先に言ってしまっている、ということにはならないか・・・悩むところです。 〈あの丘の上に咲いている向日葵のように/いつか 太陽よりも輝ける人になりたい〉 この宣言も、あまりにも真っすぐ過ぎて、まぶしいような感じです。でも、そう、私もこんな風に、素直に、たじろがずに空を見上げた時もあった、かもしれない・・・そんな、懐かしさも感じる一節。自分の失ってしまった真っすぐさに、憧れ(羨望?)を覚える一節、といってもいいかもしれない。でも、まあ、表現としては、やはり、ストレート過ぎる、かな、という印象はあり・・・ 素直さ、を、いかに生かすか、ということなのだと思います。歌詞のように、リフレインや音韻をより一層、意識してみる、とか・・・。 〈だから もう僕は止まらない〉 〈だから 今日も僕は止まらない〉 〈ずっと僕は止まらない〉 このヴァリエーションが印象に残ります。ここを頂点にするように、言葉を盛り上げていって、転調しながら繰り返していく、高揚感を増していく、そんな楽曲を連想します。 その流れが、どうもしっくりこない、のは・・・止まらない、と同義の、でもニュアンスというか、質感の異なる「歩きだそう」が、全体に絡まっているから、なのかな、と思いました。 〈青春とは 一歩ずつ歩き続けること/だから もう僕は止まらない〉前半で、青春を定義してしまっていて・・・後半は、今の自分の状態、心象を吐露している。前半部分が、後半部分の疾走感に、ブレーキをかけてしまっている。 向日葵に向かって、駆けて駆けて・・・それでも遠のいていくのか、近づいてくる、のか、幻として消えてしまう、のか・・・舞台が暗転した瞬間、緊張感に胃を搾り上げられるような感覚、足が震えながらギターを掴んでいる、その神経がピリピリ引きつるような瞬間に、あの向日葵が、幻日のように現れる、のか・・・なぜ、そんなにも「丘の上の向日葵」に憧れるのか。誰かの暗喩なのか。そんな疑問が、次々に湧きだしてくる作品でした。 (向日葵の詩)

2017-07-03

常套句、使い古された言葉、新鮮味の薄れた言い回し・・・常識とか社会通念とも、少し違う。音としては「上等」にも通じる。喧嘩上等、というような(笑) 草を根っこから抜く。その穴から出て来る、という発想にびっくりしました。 〈誰もいない森〉それは、未知の言葉の森、でもあるのでしょうか。熊は(ユーモラスな言い方ですが)無意識の闇から立ち上がる、自分自身の影でもあるように思います。 新しい言葉、新しい言い回しを掘り起こそうとして・・・いい加減くたびれた、その疲れたあとに、いったん、全部を埋め込んで、きっぱり、サッパリと冷麦をすする。夏だ、という最後の一言が、ごちゃごちゃとよどんだ心や思いをいったん追いやって、さて、と立ち上がるような爽快感を生んでいると思います。 (根っこから)

2017-07-03

物語詩、ですね・・・ 告白する、ということ・・・誰に向かって、何に向かって・・・神、と呼ばれる存在が、すべてを「みそなわす」存在が、もしも本当にいるのであれば、その、全てを知る人、に向かって・・・ 〈寄せ来る不幸の荒波を〉不幸、という言葉が、ちょっとストレート過ぎるかな、と思いましたが・・・ここを比喩などで置き換えていくという作業を入れれば、きっと物語の進行、流れを遮ってしまうことになるでしょう。このままがいいのかな、と思いつつ・・・読む、ということよりも、聴く、ということを意識すれば、ここにさほど違和感を感じないのでしょうけれど・・・文字で読むと、あまりにもあっさりと「荒波」を「不幸」という一言で言い換えてしまっている、感覚もあり・・・(でも、先に言ったように、ここでゴチャゴチャ脱線すると、物語から外れてしまいますね) 〈そこにいる魂に呼びかけるために〉ここで止めてもよかった、ようにも思います。 なぜなら、人々の前で〈この人は空っぽです〉と言い放ったのは、語り手自身の精神である、ように思えた、から・・・。自分の精神が、自身の魂を追い出してしまった、心を殺してしまった、瞬間、を描いている、ように感じた、から・・・。 私自身が、周囲の目に(圧力に)負けて、私自身の心を殺してしまった、魂を追い出してしまった。その魂を取り戻すために、〈生くる屍と共に/この長い人生という旅路を/ずっと歩いているのです〉それが、この語り手にとっての「巡礼」なのだと、感じたから・・・ 過去に、他者との間で起きた出来事への悔恨の作品かもしれませんが(たとえば、自分の娘と自分、母と自分、友人との関係、などなど)、〈それを取り戻す事が出来るのは/わたし以外にいないのですから〉この爽やかな宣言に、やはり、この作品は過去の自分と現在の自分との対話から生まれた作品、であるように感じました。 (『巡礼』)

2017-07-03

完全に誤読していて(女性が流産してしまった悲しみを描いた、のだと思って)花緒さんのコメントを読んで、ああ!と思いました・・・。 そうか、作者も男性だし・・・流れ去った、は、時間、のこと、だったのですね・・・。 〈お父さんの背中は洗っても/洗っても洗っても背中/恐くて優しい背中だった〉 このリフレインが、とても素敵でした。 (お祖父ちゃん)

2017-07-05

男性名詞、女性名詞・・・という区分に驚いたことがあります。もちろん、実際の性別ではないのですが・・・イメージ、というものが重なりますね。 石は男性的、草は女性的、そんなイメージが背景にあるのでしょうか。 〈石は考えることが好きである。ひたすら考える、それも延々と/むしろ考えると言うよりも瞑想である/ただ、瞑想はするが行動はしない〉対して草は、〈草は、考えることすら出来ず、外の気配を感じるだけの皮膚を持つ 虫をはべらせ、しなやかな体躯と、美しい花弁をもった横顔で風を感じ陽光を待ち望む 草はとにかく良く伸びる、そして自分がどれだけ伸びたのかは知らないようだ〉考えることが、出来ないのか、しないのか・・・このあたり、読者によって見解が分かれそうですが、外界を感受する、そのことに意識を集中する。そんな草の性質に着目するところに魅力を感じました。 外界の受動的な感受、そこから羽虫(蛾や蠅のような生き物を想像しました)へとイメージが移っていく、このあたりの流れは実に自然で面白かったのですが、そこから先、モチーフが次々と登場し、ちょっと盛沢山すぎるような印象を覚えます。もっと切りつめて、たとえば冒頭三連で一篇の詩、また別のテーマで、別の一篇、お地蔵さんとの対話で一篇、トイレ考で一篇・・・というように、分節してはいかがでしょうか。 (真実)

2017-07-05

冒頭、翻訳文体を連想しました。〈春の七草のひとつタビラコをよく見ます。〉見かけます、ではないところとか、〈植物が地面に対し茎は短く葉は這いつくばるような形態で中心から放射状に生えていることをさして云います。〉このあたりの、構文構造の作り方とか・・・。〈タンポポの種子についても申しあげませば〉申し上げますれば、だと思いつつ、このあたりから、今度は講演文体になっていきますね。最初は、手元の説明文を読みながら解説している印象、途中から顔をあげて、聴衆に向かって講演している、語りかけている印象。 歴史的変遷を追いながら、同定していく過程は推理小説の様です。あふれ出す言葉の分量と知識量によって、逆に迷路に迷い込まされるような不思議な酩酊感もあります。実際に食してみる、という体感的な体験に注目している所、引用文を噛み砕いてご自身の文章として述べ直すところも面白い。 ロゼットを植物が形成するに至る過程・・・そして、その際に場を選ぶ、選び方・・・そこに、人の生き方を重ねていきつつ、その生命力をこそ、人々は古来より体に取り込もうとしていたのではないか、その部分に興味を惹かれたのですが(そして、そこに詩的感興も覚えるのですが)植物の分類や同定に情熱を燃やした古人の視線の方に、むしろ作者は乗って行く。そこから、知識の森に迷い込まされてしまうような不思議なトリップ感に誘われる・・・ ロゼットそのもの、植物の生き方に詩情を感じたというよりも、その生き方を人々がどのように受け止め、どのように名づけたり伝えたりしてきたのか。その伝承の歴史そのものを、植物を起点として捉えたい、そのような意欲を感じました。 ホトケノザ、と図鑑的な呼び方ではなく、あえて「仏の座」と漢字で書くことによって付与される意味。「仏の座」を食することによって、人々が何を祈り、何を感じて来たのか。 「ふたたび未来に仏の座。」という謎めいた小見出しと、〈多くの植物に対する人間の答えはひとつでありましょう。〉という、一見あっさりと見える結論部。 分類上、科が異なっていたり種が異なっていたり、味も異なったり・・・と色々、もろもろ、あるけれども・・・「仏の座」を「人日」に食する、その意味とは・・・というところに詩情を感じるのですが・・・そこに至るまでの過程が、なんとも膨大な知の旅、探求の旅を経なくてはいけないものである、という提示の手法に、疑問、というよりは、困惑を多少、感じました。 文献の引用部を註に追い込んで、本文では口語訳?のみを提示する、というような方法を取ってもよいのかな、とも思うのですが・・・ (タビラコと仏の座のロゼット)

2017-07-05

文体に独特の味わいがありますね。歩行のリズムというのか、軽く区切りながら進行するアンダンテの流れ。動詞を活かしたアクセントの付け方。 〈道中〉とは、何の、何処への道中、なのか・・・前半は、いかにもごく普通の野良ネコちゃん、を連れ帰って来たように見えるのですが、〈春〉〈夜〉の連の、宇宙的な大きさまで茫洋と広がった存在のような不穏さ。この猫ちゃんは、なにか「あやかし」のものまで、連れてきているのではなかろうか・・・この猫に、❝名前はまだない❞。以前、地球猫、という不思議な歌が「みんなの歌」で流れていましたが・・・宇宙猫、とでも呼びたいような存在感が気になります。 (ある猫)

2017-07-05

乱配置というような、イレギュラーな言葉の置き方、それでいて整然と置かれた言葉・・・。心中の乱れを、抑制しながら並べていった言葉のように感じました。 テニスンというイギリスの詩人の詩の中に、dying dying dying と連呼する部分があって、まるでピストルの弾をガンガン撃ち込まれているみたい、と思ったのですが、訳文を見ると、死に死に死にて・・・となっているのですね。不思議なことに、しにしに・・・とサ行で綴られると、芒原を風が渡っていくような、そんなびょうびょうとした景色の中にしゃれこうべが転がっているような感覚を覚えます。 逆子で生れた子牛でしょうか・・・衝撃がナマのまま綴られているような印象を覚えます。遺骸で生れてしまった、その時の焦燥感と悔恨と祈りを伝えようとするあまり、作品として対象と距離が取れていない、そんな感覚もありました。同じような言い回しや言葉を重ねていく時・・・気持ちのクライマックスに向かって重ねていくのか、切なさを抑制するために、呪文のように重ねていくのか、そうした効果を意図せずに、思わず使ってしまった、ということであるなら、言葉の重ねを遂行していく必要があるかもしれない・・・そんな部分に目を配りつつ、死との遭遇、その時に「私」が受けた衝撃・・・について、じっくり想いを聞かせてほしいと思いました。 (死にて死に)

2017-07-05

そうだったんですね・・・ 衝撃が、そのままに伝わって来たことは事実です。ですから、推敲されたくない、というお気持ちもよくわかります。 そっと、置いておく詩、手放していく言葉。そんな祈りの言葉なのでしょう。 自分なりの鎮魂。静かに噛みしめたい言葉です。 (死にて死に)

2017-07-06

〈そして食べておくれよ〉この一節から、まるで世界が変わって見えてきますね。 〈速く速く〉〈遠く遠く〉というリフレイン。 フランダースの犬、では、ネロが死んでいくわけですが・・・このお話しの中では、パトラッシュがネロに自らの身を投げ出そうとする。舌を噛み切るのは、君、と呼びかけられるパトラッシュではなく、君、と呼びかける、飢えに支配された語り手、なのでしょうか・・・。 君と彼、という対応が、少し気になりました。君と僕、ではなくて? (死にたがりのパトラッシュ)

2017-07-05

〈僕は今日さえ穏やかに住む〉この「さえ」という言葉が印象に残ります。今日ですら、ということか。冴える、イメージ、住む/澄む、イメージ。 〈仮面の上には表情されず/ふたりの吐息に攪拌されて/部屋の水温に溶け込んでしまう〉音韻から選ばれた語句かも知れませんが、表情されず、というような・・・ある種、明治文学に用いられたような古風な語感、拡販、水温、といった漢語のアクセントに味わいがあると思いました。 心の中では思いが乱れているはずなのに、まったく表情に表さず、黙り込んでいる恋人・・・その恋人に対して、怠惰、と告げているのか、あるいは、その心中に踏み込もうとしないまま、無邪気な笑みを浮かべている〈僕〉が怠惰、なのか・・・。2人を包む、水底のような空気。もう少し、二人の関係性に踏み込んでほしい、という欲を覚えつつ。 (怠惰)

2017-07-05

冒頭の四行が印象深いですね。不可知である、それゆえに知りたい、と欲する、感情、なるもの・・・ 触覚が〈受精のような一撃〉〈純粋に抽出されたマントル、血の泡〉といったインパクトのある言葉で辿られていく、その手つきがユニークだと思います。 〈あまりにも、な空間が体のあらゆる箇所にあると思った〉自分の身体の不可知な部分、感覚の謎、そんなエアポケットのような掴みがたい感覚について触れておられるのでしょうか・・・ 海王星の環の摩擦!イメージの飛躍が大きすぎて、置いてけぼりを喰ったような感覚も残りますが、日焼けの後の剥けた皮膚みたいに薄い〉など、体感、五感を駆使した比喩に、具体性を感じます。 (不可知)

2017-07-06

246号線というと、我が家からは二子玉川に向かっていく路線ですね・・・都市の景観と田園風景、高級住宅街を駆け抜けていくイメージ。 現代社会の、表面的には豊かさや繁栄を享受しているのに、背後では悲惨な事件が頻発する、そんな格差社会が、今日もまた生み出される、というような、こと、なのかな・・・と推し量りつつ・・・ 僧、という❝聖なる者❞が暴力行為を行う、という価値観の反転に、「四人の僧侶」などへのオマージュも含まれているのかもしれない、と思いました。 (ありしところのもの)

2017-07-06

〈それではもし、目が人類全部の間で共有だったらどうなるのだろう。考えられないことはないはずだ。 そう思った瞬間、僕の想像は真っ白になった。限界を超えたのだった。しばらくして、心配そうに僕を見つめる君の瞳を見た。〉隣にいる〈君〉、を、ある意味、放り出して、自らの思念に没頭している〈僕〉・・・その時のことを、プラネタリウムの星空を眺めながら、プラネタリウムをある意味、放り出して、自らの記憶の再生に没頭している〈僕〉・・・その二重構造が面白いと思いました。 そして、そこから始まる思考実験。犬の嗅覚で世界を「見て」みたら。蝙蝠の超感覚で、世界を「見て」みたら・・・そんな夢想をすることがありますが・・・ケーキの上の苺の種(に見られている、という感覚が、直感的にある、ということでもある)が眼だったら、という発想が、とてもユニークだと思いました。 お祝いの夜、だからこそ・・・千の眼、万の眼で、その光景を見届けたい、そんな想いが背景にあるように感じました。 (考察と「苺」)

2017-07-05

四行ずつ綴られていく、安定感のある詩行、脳内ニューロン?の情報伝達に作用する・・・というような、学術的な考察が展開されるのか、と思いきや・・・「根性焼き」、でしょうか?(違っていたら、ごめんなさい)びっくりです。 あなた、とは、誰なのか、何者なのか・・・もぎ取られるような痛み、そこまでして求める刺激、〈おれの壊せるものは/おれの身体ひとつ、それしか/残されていないんだ〉・・・その切実さ。 共産主義の崩壊、それは、信じた理想の瓦解(裏切られた、絶望、失意、情熱の矛先を失った虚無感)ということでもあるのでしょうが・・・ 私は、浅間山荘事件の年に生まれたので、学生運動の熱気や失望を、伝聞で聴くに過ぎませんが・・・あるいは、この語り手は、あの時代を経ているのか。そんなことを想像させる作品でした。 上手く読めていないように思いますが・・・ (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-06

受理された食卓、まずこの立ち上がりから驚かされます。命を養うところ。事務的に無機的に〈受理された〉という語感・・・音の響きがすんなりと❝受理❞されていくフレーズなのに、意味が曖昧なままに先に運ばれていく。 ん、という、どこか官能的な響き、きみ、という甘やかな言葉・・・に続いて、〈切断された性器を測り〉これもまた、事務的というのか、たんたんと処理されていく作業、のような・・・生々しさをまるで感じない不思議に驚きつつ・・・しばしば性の営みにおいて、自らの意志から離れた、小さな生き物、別の生物・・・のように感受される性器(女性、男性ともに)の不思議にも触れていくような・・・行為の際にはあんなにも生き生きとしていたのに、今はまるで死体のように横たわっている、そんな性器の不思議(精気の行方、といってもよいのかもしれません)に触れていくような気がしました。 そのように読み進めていくと、冒頭の食卓は、わたし、の肉体を、きみ、に捧げる、そんなある種の宗教的な供儀としての寝台にも思われてきます。 mの音でつながれていくフレーズ。立体(肉体?個体?)から世界へとのびていく感覚・・・ 〈路線を正しく語る貨物列車の/うしなわれた窓に反射するメタファー。〉kの音が印象に残りました。 貨物列車には、何が積まれていた、のか・・・記憶や想いを、異界に運ぶ列車なのか。窓から、その内部をうかがい知ることのできない、ブラックボックスのような貨物列車。 清冽な性の余韻を感じます。 (mapping)

2017-07-06

べっこう飴色の夕景でしょうか。7音の重ねで書き起こすリズミカルな冒頭。 紙芝居のノスタルジー・・・一日の「物語」が終わったことの暗示のように感じました。 サイレンと鴉、現実界において不穏さを予感させる記号のようなイメージが置かれることによって、二連目の抽象的な〈眠りの密林 輪廻の滑り台〉一節が、不穏な宿命に巻き込まれた語り手のイメージに重なっていくように思いました。 〈僕も君も純粋さと飴を切らして〉ここには、紙芝居に象徴されるような童心=純粋さ、その後にもらえる水飴やべっこう飴の懐かしさ、甘美さ・・・への憧憬がある様にも感じます。 〈いつかの無邪気な〉〈複雑骨折〉〈とうの昔に〉・・・8音、7音のリズム。7・5調、8・6体、などと呼ばれる、いわゆる歌謡体(古来からの)、馴染みのある音感が散りばめられていて、口ずさむ進行が意識された作品だと思いました。 〈恐らく四時四十四分〉ここから、作品としては佳境に入るのでしょうが・・・飛躍が大きすぎて、読者としてはついていくのが大変でした。めくるめく不気味さや不穏さ、その連打に身を任せる、という読み方(聴き方)をすればいいのかもしれませんが・・・ 4(死?に通じるとして嫌う人も多い数)が3回、続いた時刻に、〈三番目のトイレで行方不明の少女〉。〈逢魔が時〉に出会う不思議。歪む鏡面、〈赤い花嫁〉〈赤マント〉・・・まさに〈溢れる奇と狂〉、ですが・・・自由奔放に想像力を駆けまわらせすぎている、そんな印象も受けました。後半のぶっ飛び感?に、面白さや勢いを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが・・・。 べっこう飴色の夕景から始まって、〈茜色 蹂躙される日々と人々〉の時刻を経て、〈夕暮れのエンドロール/そして夜が 夜が始まる〉までの時間帯に体感した幻影を、観客の一人として見せて頂いたような気がしました。。 (四時四十四分)

2017-07-07

ミシガン、教授、アダムやイヴ、ネイティヴ・・・こうした語感から、アメリカ中西部の話を連想しつつ、二連目から(ミヨちゃん、あたりから)日本で、今、語っている(綴っている)わたし、へと回帰する、そんな呼称の面白さを感じました。 本物って、なんだろう。贋物って、なんだろう・・・偽物と違って、贋物は「本物」を真似た、という前提があるように思うのですが・・・ ああ でも   握り締めたい石ころとか   抱きしめたいぬいぐるみとか   そんなものだって本当の記憶で   小っちゃい真実だったんじゃないか   机上の空論は楽しい   それを笑って聞いてくれる優しい人が愛しい   お父さんだったかお母さんだったか   君も聞いてくれていた   それだけでも僕にとっての   真実の世界じゃないか 平易な表現ですが、ここが作品のクライマックスだと思いました。私自身が、いつも立ち返る場所でもあります。わたし(の心、記憶)にとって、その瞬間「真実」「本当」であった、その煌めき、あれは、何だろう、どこに行ってしまうのだろう、というような・・・心のひだにしまい込まれた、宝石のような記憶。それを掘り起こした時の、懐かしさ、もう二度と戻ってこない寂しさ、それは、遺物、なのか・・・ 子供の頃ディズニーランドに行って、なんと素晴らしい場所だろう、と感動しまくったのですが、大人になって子供を連れて行ったら・・・スペースマウンテンのレールは見えてしまうし、後ろで人形を操っているパイプや歯車が見えてしまうし・・・こちらは完全に興冷めしているのに、子供達には、真実の宇宙空間、本当の生きた人形、と見えている。そのように体感している。真底、羨ましいと思いました。 〈ベースに向かう軍服の学生が/足元の野花に気づいて/ステップでよけた/とても笑顔の似合う若者だった〉 この最後の一節が、不思議にまた、アメリカを想起させます。 なぜ、ミシガンなのか、なぜレリックス、と英語なのか、そのあたりは未だに謎、ですが(笑) 記憶の輝きと、現実の興冷め感というのか、既に過去のものとして「展示」されていて、生きてはいない感情、そんなとらえどころのない、モヤモヤした部分を、遺物、という物質的な物に仮託して描いているように思われました。 (ミシガン・レリックス)

2017-07-07

説明的な題名の直後から「うた」が始まる構成に、まず惹かれました。 字下げで切り替えて、〈故郷では~特筆すべき何事も起こらず、〉この部分が、実に巧みなプロローグになっている、と思い・・・(この連の最後の一行、その暗喩?が、私にはちょっと飲み込めませんでしたが)〈工事現場に地下鉄は~〉と現在(大人になった語り手、都市に住むわたし)の姿がクローズアップされる。映画が始まるような感じでした。 〈やかんに汲んだ水は冷たいのに 危機である どこまでも青い 守りたい〉 〈嘘は言わない 口にすると 心の中が干からびるだろう〉 ここがとてもいいなと思いました。心の渇き、周り中がたくましく見える中で、おそらく心細さを抱えている語り手、その心の渇きを癒す水・・・のイメージ。その水は、果たして乾いた心に注がれるのか? 続く絵本屋のシーン・・・幼い頃の回想かと思ったのですが、大人になって通りかかったお店、のイメージなのか・・・人生を辿る、そんな想いに囚われている時に、ふと通りかかった、童心を呼び戻す場所?〈人々は~〉の連、このお店の中での光景かな、と思いつつ・・・なんとなく未整理な感じがする部分でもありました。〈憧れたことは忘れない/水のようなそれで口は潤った〉先のやかんの水、大切に心の中で守られてきた水・・・以心伝心で分かり合える世界、そこに通う潤い、をイメージしましたが・・・ 〈今はまるで~〉の最終連は、また、場所が変わっているのでしょうか。〈大人になるのに失敗した だから怖い劣等感から逃げている〉ここは、周り中の人がすべて、たくましく見える、大人であるように見える、ということと対応しているように思います。 〈今はまるであの時みたいだ 似た望みが浮かんでいる 空に寝そべっていたいと思えるような 一人でいること以外には全て同じ〉 絵本屋で、心を潤してくれる水、幼い頃の豊かさ、を思い出した、のか・・・ 〈自然さが大切だ〉というような、若干ナマな表現・・・自己啓発的な発見、とでも言いましょうか、こうした部分は、もしかしたら隠しておく(読者に、行間で感じさせる)方がよいかもしれない、とも思います。〈心の原石が私の中にあるのだ〉ここも、同じような印象を受けました。 過去に浸ったり、夢想に耽ったりする自由。自らの心を開放して、大人であること、あらねばならないことからも自由である時間。地上のしがらみからも放たれた時間。そうしたひとときに、むしろ満ち溢れていたのが、子供時代ではないのか・・・もう失ってしまった時間。当時は、持っていたことすら、気づいていなかった時間。そのときの心に触れて行こう、とする・・・そんな心の揺らめきを感じました。後半の二連が、少し言葉が多いというのか・・・自らの発見をそのまま書き入れているところと、その発見に至る行為と、発見を得た時の感情と・・・が、混在しているように見えて・・・そのモヤモヤ感が良さでもあるのでしょうけれど・・・もう少し整理すると、伝わりやすくなるかな、と感じました。 (眼差しによって心が通うこと)

2017-07-11

素直に想いを綴られているのだろう、と思うのですが、論理の岸辺に立って、感情の海に流されないように、想いの風に乱されないように・・・背筋を正して書いている。そんな論理的、構築的な印象を受けました。 作品の三行ずつ進んでいくリズムや、情況を淡々と説明していく文章をリズムで行替えにしていくような構成の仕方から、そうした印象を受けるのだろうと思います。 感情の海に足を踏み入れながら、自然の景物に託して(自分から離れて)綴られた作品の方に、より惹かれる、という思いはあります。この作品は、いかにも理詰めで・・・自分自身に言い聞かせるような、自分を自分で説得しているような、そんな説諭的な感覚があるのですね・・・。何を、言い聞かせるのか。それは、子供を生んだら一人前、とか、子供を持てば世界が変わる、とか、子供が生まれれば、自ずから母性が身につく、母性が現れる、というような、ある種の社会的な圧力・・・実際は、ぜんぜん、そんなことはなくて、百人百様、千差万別のはず、なのだけれど・・・そもそも、母性が最初から母胎(女体)に備わっている、なんて、誰が決めたんだ?というような、社会に対する反発心と、幼子が手を伸ばしてきたとたんに、体の中、というよりも、背後というのか、自分を越えたところから、自分を突き破って訪れる感情のようなもの、に驚くとか・・・愛しい人を腕に抱いた時に、突然、そうした感情を喚起されて(こどもを生んだことがあってもなくても)驚いたリ、とか・・・そうしたもろもろについて、日々、感じたり考えたりしているわけですが・・・少なくともこの詩の語り手は、社会が要請する「正しさ」「あるべき生き方」に無意識に圧迫をうけていて、その圧迫感を海(母体の象徴でもあり、無意識や女性性の象徴でもある)に流すことで、そこから解放される、そんな感覚がありました。 花緒さんがデトックス効果、と評していますが・・・なるほど、デトックス、ですね。ゆりかご、を、いつまでも抱えていないで、捨てる、還す。海に沈める。その開放感。 (「ゆりかごを捨てに」)

2017-07-13

□の羅列は、タイル、の視覚化・・・なのでしょうね。目地、という言葉には、目、が入っている。その目地に口があったら、何を語るか・・・。文字イメージからの発想でしょうか。 題名で「タイルの目地」と明かしてしまって、なおかつ一行目からそのことを明示してしまうよりも、たとえば二連目から初めて、なんだなんだ?と読者の心を沸き立たせて、それから〈タイルの目地よ〉と呼びかける(一連目を隠し、題名も、もう少しひねったものに変える)てみると、もっと読者の想像の余地が広がるかもしれません。 さびた・・・きんしのほう・・・しゃめいろに・・・と、区切られていくリズム、有刺鉄線、渇望、から喚起される、閉塞感と解放への秘められた欲求。このイメージの流れには、とても惹かれました。何が始まるのだろう、と読者を引きこんでいく。 でも、〈懇情の外□□□燃を懇願する□□下垂と〉あたりから、ちょっとついていくのが苦しかったです。 懇情(根性や今生と同音)、懇願、外燃(概念と同音)下垂(脳下垂体を連想しつつ、垂れ下がるもの、という文字通りの意味か?) 〈更迭の海馬は内□□燃する〉更迭(鋼鉄と同音)海馬は、脳内の組織でしょう、内燃は、外燃と対置されているのか・・・脳内の幻想が、漢語のイメージと共に外に溢れ出している、ように思われますが・・・それをタイルの目地の語りに仮託する、その想いの出所を知りたい、と思いました。 (タイルの目地)

2017-07-13

冒頭の「しんでください」の連投、誰の言葉か、何の言葉か、その勢いに呑まれつつ・・・二連目から、まるでどこかから引き連れてきてしまった(貞子のような)女の幽霊、その気配を感じ、悪夢の映像を見ているようなスリリングな感覚を覚えました。そこから〈そんな話を!~〉の連に到って、女、が母、にも思われてきて・・・別の意味で背筋にぞわっとする感覚を覚えました。 実のところ、〈そんな話を!~〉の連、〈落ち武者のように伸びきった髪の毛がそこに映っているはずだ〉でいったん止めて、これをひとつの作品、とした方が良かったのではないか。続く連は、連作のⅡ、とする、など・・・ 全体の長さや構成、読みやすさなどを考えると、そうした二部構成の方が良かったように思いました。 〈ここに一万本の比喩が咲くんです~一つのわっかになる。〉比喩、とは何か・・・この連の重量感というのか、迫力が凄い。これで一篇の詩とした方がよいのかもしれない、そんな熱量を感じます。言葉の連続して繰り出される強度にも惹かれました。 その分、〈夜。場末のバーで、~〉と、〈この話をするたびに君は死ぬ。~〉の連が、なかだるみ、の感がありました。 「もっとかきなさい からの連は、高揚感と消耗感、突上げて来る衝動に任せて書き散らかして、そのあとぐったりと果てる、そんな詩作とのアナロジー・・・勢いで書き連ねていく、若さと体力に任せた詩の書き方・・・書き上がったものを見て、〈焚書するしかありません〉というある種の自罰感情のような、書きたい衝動に振り回されている感覚・・・を想起しました。 ネット空間と現実とのはざまで、押し寄せて来る言葉、押し寄せてくる感情、押し寄せて来る「どうにもならない出来事」・・・いつまでもそれをグダグダ言ってんじゃねぇよ!・・・と突きつけられたような感覚も覚えつつ(これはまったくの、個人的な、勝手な受け止め方です)〈そこから顔をどれだけ見上げ直しても、誰も映らなかった。それでも待っていた。僕は待っていた。誰かを待っていたんだ。ずっとキーボードを叩いていた。ここぼくは存在していた。という、なんの意味も持たない感情が、とても愛おしいんだって、Twitterで伝えようとした。〉この一節を、何度も何度も、読みました。誰か、を待つのか、何か、を待つのか・・・わからないけれど・・・それを、Twitterで伝えよう、という発想は、私には無かった、その新鮮さも含めて・・・響く部分でした。 〈街路樹は植えられるときに、邪魔な大きさ木の根を切り取られる事の意味の話を思い出した。それは、生まれたての赤ちゃんの手足を切断して、小さな箱の中に入れて生き埋めにすることと同じなんだって。〉助詞が、抜けてる?と思う所が、全体に何カ所があって・・・〈大きさ木の根〉あたりも、脱字かな、という気がしないでもないですが・・・型に嵌め込まれるということ、社会に嵌め込まれる、ということ、無理やり適応させられる、ということ・・・その残酷さを思い出した、その瞬間をとらえているように思い、ここもまた、惹かれる部分です。 〈そもそも書きたい比喩なんてどこにもなかった。〉書きたい詩なんて、何処にもなかった、と言うに等しい・・・でも、詩、と言わない、あくまでも比喩。そのものをそのままに捉える他ない、そのことを記憶しようとしても、薄れてしまう、失ってしまう、忘れてしまう・・・ということの意味。 書いても語っても失われていく、大量の言葉、日々、流れていく思いの流れ・・・ 私たちは、ただ、そのほとりに茫然と立ちすくんでいるだけなのかもしれません。 (皆殺しの比喩)

2017-07-13

〈僕の片側が濡れて芯から冷え 僕の片側が血と膿でまみれ それでも僕は笑顔でいられる 僕は綺麗なままの片側しか見せない〉この連の迫力と、次の連の 〈それは君がこっちを向いて笑っているから 君がこっちを向かず 別のとこを向いて笑ったら 別のとこを向いて笑ったら〉このリフレインの怖さに惹かれました(というのも、変な言い方ですが。) 一二連のリフレイン(三行ずつ)の定型的な安定感と、一気に反転する中盤、そして中盤を挟んだ三行、四行、の連・・・この四行の中の〈来てほしい でも来てほしくない〉は、三行ずつ、~る、と脚韻を踏んだ定型の枠に挿入された、ひそかなつぶやき(自ずから漏れた心の声)のように感じます。 最後の二行、離れた場所から〈君〉を、心臓をぎゅっと緊張させながら見つめている・・・ここで、〈来てほしい でも来てほしくない〉の心の声が響いてくる。〈僕〉が、近づいてくる(かもしれない、来ないかもしれない)〈君〉を、じりじりしながら待ち受けている、その時の夢想が、作品として文字化されている。そんな構成になっているように思いました。 君、が、もし、僕、を愛してくれたら。僕は、限りなく優しく美しく綺麗な面を、君に見せるだろう。でも、もし、君に拒否されたら・・・僕は、どんな残酷なことを(君に対して)しでかしてしまうだろうか?そんな、自分自身の未知の領域に、足を踏み入れようとしている、そのことを恐れつつも心待ちにしている・・・そんな思春期の心理を活写しているように感じました。構成もこなれていて、良作だと思います。 (握られた胸ポケット)

2017-07-13

ぱっぷりぽん・・・あかちゃんが初めて発する、くちびるを閉じた後に生まれる音、が並んでいるなあ、というのが、まず最初の感想です。あ~、う~、から始まって、ぱっ、ま~と、くちびるを閉じて生まれる音が続く。続ければ、パパ、まま、ですよね・・・かあちゃん、のか~とか、とうちゃんのと~は、上あごに舌先を付けた後に生まる音。赤ちゃんが発音の実験に興じている、その際に見つけ出す音・・・そんなイメージを入口として、生まれる前に居た(はずの)純粋無垢な(悪、を知らない)魂の居場所、それが「ぱっぷりぽん」なのかもしれない、と思いました。 心の綺麗な人、清らかな人であればあるほど、誰かを思わず傷つけてしまった、何かを思わず損なってしまった、そんな小さな棘が、いつまでも胸を刺し続けたりする。自分の心は汚れている・・・人間の本能的な欲望の闇を覗いてしまったときに覚える、嫉妬や羨望、時には憎悪や悪意・・・生きる意欲でもあるはずのもの・・・が、洗っても洗っても落ちない汚れのように感じられたりする。そんな心がとらえた、「私は悪人」という思いを感じました。そんな悪人は、住むこと能わざる場所。それが、無垢な心のおもむく先、である「ぱっぷりぽん」なのかなあ・・・ 作品の作り方で面白いと思ったのは、「と、」の呼吸ですね。余韻を残しながら改行して、と、と止める。流れていた息を一瞬止めて、ふっと開放するような「と、」。~と言う、これは説明的になって、とてもうるさい言葉なのですが、この作品では息の流れを調整する弁のような役割を果たしていると思いました。 (パップリポンから来た少女)

2017-07-13

昨日のツイキャスで、白島さんの「詩論」が、まさか「朗読」されるとは思わなんだ・・・音の流れとか言葉の区切りとか呼吸とか、そうした面にも、工夫が凝らされているなあ、いわゆる「カチコチの論文」ではないな、ということを、聴きながら感じました。 詩論に詩論で返信するのも変ですが、フェイスブックに載せた投稿から、一部を抜粋します。 死後、分子、原子の段階まで微塵になっていけば、あらゆる物質と同等のもの、同質のものに還元される。物質同士の関わり合い、働きあい、影響の与え合い・・・そうした動きそのものが、いのち、なのだろう、と思うようになりました。分解と統合、消滅と再生。肉体という物質の運動が生み出す「いのち」ですが・・・魂、の居場所は、どこにあるのか。肉体にいのちが宿っている間、魂は肉体に仮住まいしているのだろうか・・・そうした魂の問題について触れていくことができる、探っていくことができる、それは、既成宗教にはとらわれないとしても、ある種の宗教的次元においてなされることなのではないか、それを文学で行おうとする時、もっとも濃厚に触れていくことができるのが、詩歌なのではないか・・・そんな想いを抱いています。詩歌の生まれるところ、さらに言えば、ポエジーの生まれ来るところ、その場所に、物質やいのちの生まれるところも重なっているように思えてならないのです。 さらに付け加えるならば・・・昨日、ツイキャスのコメントに書き込んだこと・・・「わたし」が「わたし」であり続ける事への欲望と、そのことからの忌避(嫌悪)、しんどさ、のようなもの・・・それは自分が消滅してしまう事への本能的な恐怖なのでしょうけれど、翻って、海岸の砂粒の一粒に過ぎない自分が、消し去られたとて、砂浜そのものは何も変わることがない、ということに対する(これもまた、青春期特有の、誇大な自意識の反転なのでしょうけれど)不毛さの中で、なぜ生きねばならないのか、というようなこと、にも繋がっていくのかな、と思います。 離別や生きて行く上で被ってしまう悲しみ、苦悩、こんなもの、無ければいいのに、という感情・・・それを忘れるために、何かに没頭する、夢中になる、我を忘れる、その欲望に突き動かされたりもするわけですが・・・その欲望がまた、新たなパッションを生み出したりもするのでしょうが・・・感情の振幅を、理性でなだめすかして生きている、それが、人間の営みなのかな、と思うことが多いです。 白島さんの詩論全体を見据えているルドンの描いた、巨大な目玉・・・超自我の眼、それはまた、吹けば飛ぶような、消え去ればすぐに忘れ去られてしまうような、そんな存在の矮小さの自覚と、矮小な存在であるはずの人間が、なぜ、広大な宇宙や、生命の神秘や、壮大な夢想、詩想、思想・・・を生み出したり、抱え込んだり、その中を彷徨ったりすることができるのか。 こんな小さなものが、こんな大きな世界に、なんで触れていくことができるんだろう。 そんな神秘、不思議、を知りたくて、詩を書いているような気がします。 返信ともいえない返信ですが。歌論も詩論も、ポエジーの生まれ来る源泉を問う。そして、生まれ来るものを、どのように表現するか(修辞)問う。その修辞が、どのように受け止められるのか(読解されるのか、社会的、文化的文脈も含めて)問う。そんな、三段階で考えていくと、わりとわかりやすく構造化されるのかな、とは、思っています。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-16

流れの美しい作品ですね。一連目に特に惹かれました。 気になったのは、〈ように〉の重ねや、〈~こと〉の重ね。リズムを作るためでしょうか?あまり、うまく機能していないように感じます、ちょっと引っかかる部分でした。〈いけなかった〉とか、〈あってほしかった〉という部分の重ねは、引っかかる感じではないのですが・・・5or6さんの「淡い水彩画」というイメージ、私も同感です。不透明水彩ではなく、淡彩、透明水彩を、何度も重ねて、ムードやニュアンスを出していく手法。 ない、もの、ない、場所が、あってほしい、という憧憬・・・ポエジーの上澄みの、一番澄んだところを取り出したような、その柔らかな質感に惹かれますが、ゼリーを頂いたような読後感というのか、清涼感や甘さが残って、香りも残って、でも、歯ごたえとか、ガツンとした具があってもいいかな、という、物足りなさが残る、といえばいいのか・・・ 〈いないということの、ふるえて、 あるということになっていく〉 句読点の使い方、行替えの仕方で作りだす呼吸やリズムに持ち味があるように思います。 きらめく水面を見つめながら、ポエジーが沸き起こって、そのつかみがたいぼんやりした質感を、そのままに紙に移し取ろうとした印象を受けました。 その時の、非日常の時間に連れ出されるような感覚、その揺蕩いに身を任せる感覚には共感するのですが、そのムードに身を任せすぎていないか・・・そんな漠然とした感じ、物足りなさ、あっさりした印象、が残りました。 (水のおぼえ)

2017-07-14

言葉の区切り方の、プツプツとしたリズム感が面白いですね。確かめながら、言葉を置いて行く感じ。 最初は、ひそかに恐れながら口笛を吹く。当然、頼りない音、声が緊張で裏返る、というような言い方をしますが〈空気のひっくり返った〉これが面白い。部屋の中の空気全体が、引っくり返るような感じ。 出てこない、ので・・・もう一度吹く。〈今度は太い音/犬が飛んできそうな〉この陽気さ、身近さ。犬なら、もし出て来ても怖くない(笑)ですね。万が一、呼び出してしまった、としても。 〈口笛で歌ってみた〉気持ちが楽になって、大丈夫だ、私の言葉で、恐ろしいものを呼び出してしまう、そんな心配、しなくていいんだ・・・とばかり、陽気に口笛で歌い出す。と、「ほんとうに」蛇が出て来る。ぜんぜん、怖くない、かわいらしい蛇が。 河合隼雄さんの『影の現象学』を、遠く思い出しつつ・・・自分の無意識や、心の深淵をのぞき込む旅は、かなりの恐怖や不安と直面するものだと思います。それでも、深い穴を覗くみたいに、怖いもの見たさに、その闇に引き寄せられていくのも人間。 その旅は、何によってなされるのか・・・詩を綴る人にとっては、それはやはり、言葉で為されるのでしょうね。自分自身の自問自答、感情との対峙、時には醜いものを見てしまう、こともある・・・でも、そのことを恐れずに〈愛の歌〉を吹けたら。きっと、無意識の闇、自身の影に満たされた夜が明ける、そんな気がします。 (口笛)

2017-07-14

彼、は、歌(音楽)の道を選び、自分なりに自分の感性で自分の違和感を表出することに成功した(賛否両論があるとしても) 他方、僕は言葉(文字テクスト)の道を選び、〈この20年で収穫となるものはほとんどなかった〉発表するに足るもの、俗な言い方をすれば、世に問うべきもの、は、未だ成していない、ということでしょうか。 〈雨があがり、水浸しになった路上に、「愛」とタイトルされた歌の広告看板が倒され、踏みつけられる意図が、理由が、そして誰の手によってか、僕は悲しいことに今は理解出来る。〉 それは、〈僕〉が自分の感性に素直であり続けたから、なのでしょう。 ごく私的な違和感や、うまく説明できないけれど腑に落ちた、というような事柄を、「表現」として作品化していく。そのこと自体が、リスキーということでもあるのか・・・とか、言葉だけではなく、音楽に補われて(あるいは音楽が主となって)思いや想いを伝えるという行為と、言葉に専住して思いや想いを伝えるという行為の差とは何なのか・・・とか、「愛」とは何か、そう一般化して問う事じたいへの違和感であるとか・・・色々なことを考えさせられる作品でした。 〈彼の方〉〈僕の方〉と、~の方を付けるのはなぜでしょう。彼は、僕は、ではなくて・・・。最近、~の方、という言い方が増えてきていることも影響しているのでしょうか。 (愛)

2017-07-17

ウルトラマンティガは、息子と一緒にテレビ(であったか、ビデオであったか)見ていますね・・・映画も、舞台も見ている。その時にも感じたのですが、そもそも、正義ってなんだ?善悪とはなんだ?ということでした。 それぞれの「立場」から書くと、それぞれに「正義」が成り立ってしまう。 たとえばISを悪魔的な恐怖政治として悪、と断罪する「正義」があり・・・その「正義」を主張する人々に対して、手段を問わずに自己の「正義」を主張する側があり・・・ ウルトラマンやキリエル人のことを良く知らない人たちにとっても、現在社会を反映した寓話、もう一つの(あり得たかもしれない)歴史というような、そんな印象を受ける作品でした。 技法(と呼ぶのも変かもしれませんが)〈そのキリエル人は〉と書き起こす、黙示録的というのか・・・そのような語り方、その語り方が持つ重厚さが、寓意的な作品としての重みにつながっていると思いました。 (キリエル人(きりえるびと・ウルトラマンティガ))

2017-07-17

事業を一切行わない企業体、というものが、なぜか利益を得ていく仕組みに対する疑問というのか不満というのか謎について描こうとしているのか、と思いつつ・・・いったいぜんたい、何がどうなっているんだ?というのが、初読の印象でした。 白島さんのコメント(解説)や、作者による自解を読んで、これはいわゆるコンセプトアートに近いものなのだろう、だとすれば、経済的知識の無い読者のために、花緒さんがコメントで書いていることを註として付けておくべきではないか、と感じました。 もちろん、知識の無い人間は読まなくてよい、という考え方もあるかもしれませんが・・・。 私が思い出したのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』の中で、時間泥棒が時間を秒に換算して、いかに無駄に時間を浪費しているか、とそそのかし、人間(らしく生きるため)の時間を「時間銀行」に貯金(貯時間?)させようとする、勧誘の下りでした。床屋のガラスに書き込まれていく数字の羅列、その迫力によって追い込まれていく人間心理、その怖さ。貯蓄した時間には利子がついて、後でたっぷり使えますよ、という売り文句なのですが、もちろん、その時間は時間泥棒達が、自らが生きるための時間(いのち)として横取りしてしまう。 『モモ』の場合は、前後の流れがあって、その中でクライマックス的に(見せ場的に)描かれる場面であるわけですが・・・花緒さんの作品では、無機的な説明の後に、これまた無機的な数字が並んで・・・そこに作者が感じている〈詩〉(ポエジー)が明かされないまま、いきなり「宇宙人からの伝言」(いたずらメール?)が置かれる、という形になっているので・・・経済的知識の皆無の私には、作品そのものからは完全に置いてけぼりを喰ったような印象が残りました。 むしろ、作品の返信の方が面白かったです。 (RETURNING_TO_THE_SECOND_UNIVERSE)

2017-07-17

はじめまして。 実際の夢をそのまま記述した、というより・・・(もちろん、私の想像に過ぎないのですが)具体的なイメージがまず先にあって、そのイメージに夢から得た材料を埋め込んで行ってできた作品、のように感じました。 冒頭の〈学校の廊下だけが、永遠につらなってできている〉で思い出したのは、三面鏡の鏡台。両翼を直角に立てて、首を入れて覗き込むと、永遠に続く回廊に取り込まれるような気がして・・・怖ろしいのに、なぜか夕方になると覗き込む、覗き込みたくなる、そんな誘惑を感じる場所でした。 確かに、題名に既に「夢」と入っているし、最後の一行はいらなかったかな、と思いました。 プレパラートのように薄い窓ガラス・・・プレパラート、という言葉が醸し出す、実験室とか、診断される、観察されるイメージと・・・薄さ、ということから連想される、カバーガラスのイメージ・・・逃れたい、救済されたい、そのために祈ってほしい、という願いと、自分で祈らなくてはならないのだ、という自己認識。映像がくっきりと立ち上がって来る作品でした。 (夢夜、四 獣の影と永遠の放課後の廊下)

2017-07-17

〈たましいを静かに泣く人だった〉この冒頭の一行が、とても印象に残ります。 あなたの魂の苦しみを、なのか、自分の魂の痛みを、なのか・・・という意味の広がりとともに、たましい、の「し」が「静かに」の「し」に繋がっていく。 〈他の何もなかったことについて思っている〉この、翻訳文体のような形も面白い。今、そのことを思っている、ということを強めたかったのだろう、と感じました。 〈かるいかるい外郭に、びっしりと米粒一粒分まで隙間なく埋められていた〉この一行も鮮烈ですね。彼、の外郭(外殻?)を、びっしりと覆いつくすもの、その不気味さ。それでいて、硬質の甲冑のようなものではなく、かるい、かるい、もの・・・こわれないシャボン玉、というものがあって・・・買ってみたら、セメダインのようなものを膨らませて、薄い樹脂の膜を作る、そんな「シャボン玉」だったのですが・・・そんなふわっと透明で、壊れやすくて、でも、その人を隙間なく覆っている膜のようなものを連想しました。 〈私はあの季節、確かな重力を貰って、〉この一行も、とてもいいですね。彼はもう居ない。でも、ふわふわとして消えてしまうような自分から、確かな重さを持って、この地上にいることができるようになった語り手。その体験を得た夏、その夏をいつでも思い出させてくれる彼、その出会いが、くるぶしを洗う波によって繰り返し回想される・・・ 〈もう居ない夏にも、それが彼のだってわかった〉なんとなく舌足らずな感じの終わり方、のような気がして・・・そこに若さが出るのかな、と思いつつ・・・だからといって、彼のくれた夏、とか、彼の居た夏、とかでは、あまりにも陳腐だし・・・いっそ、もう居ない夏、それは彼だ、というような感じで言い切ってしまってもいいのかな、とか・・・こどもたちのくるぶしに、彼のくるぶしを見ているのであれば、そこをもっと押し出してもいいのかな、とか・・・もう居ない夏、彼のくるぶし、とか、なにかこう・・・ゴチャゴチャ書きましたが、適当にスルーして下さい。 (おわらない)

2017-07-17

蛾兆ボルカさん 意味(というか論理的なつながりを)少し犠牲にしているかな、という思いがあったので、音韻や流れから読んでいただけたこと、とてもうれしかったです。言葉の持つイメージや音の響きも、言葉にならない思いを伝えるために活かしていきたいと思います。 黒髪さん 水の中に、と書いてしまったら、なんとなく違うな、と思い・・・苦肉の策で「ミズノナカニ」としました。これが果たしてよかったのかどうか、わかりませんが・・・気持ちがすうっと冷えていく、そんな静けさの中に沈んでいる、そんな感覚を書きたいと思いました。変わるもの、変わらないもの、について、考えていきたいです。 夏生さん 惑星、大きすぎるかな、と迷った題名です・・・いつも、題名で最後まで悩みます。題名をつけるのが、苦手です。惑星、という言葉から、水の惑星をイメージしてもらえたようで、良かったです。束の間、肉体を借りて地上に宿る、それが人間・・・という思いがあります。ミズノナカに、静かに埋もれているような、そんな気持ちになっている人達を冷やし続けている水が、引いてくれますように・・・そんな祈りをこめつつ。 (惑星)

2017-07-14

宣井 龍人さん  宣井 さんに読解力がないのではなく、私の伝達力が不足しているのです。 意味やロジックを意識的に犠牲にした、というのか・・・ギリギリまで説明を排して、果たして成立するか、という実験を行ってみて、うまくいっていない、反省作品であると思います。 〈柔らかい優しい絵画的なイメージの中に刺々しい痛みが散りばめられている〉描きたかった部分が伝わっているようで、良かったです。絵画的なイメージに寄り過ぎて、動画的なイメージが足りない、それゆえに・・・物語絵の連作の、一部だけを示したような印象を与えてしまうのかもしれない、と思いました。 (惑星)

2017-07-17

白島真さん イメージ先行で突っ走り過ぎた、それゆえの伝達性の不足、ということであるように感じています。そのほほ、そのはは・・・というような音韻にこだわってみたい、という意識と、君のほほに私が・・・という冒頭部のイメージに、さらに、具体的な接触ではなく、言葉(詩)による接触であるのだ、というような自己韜晦とか、君、は〈詩〉の向こうに〈母〉を見続けているのですね、というような問いかけのような気持ちとか、その〈母〉は実際の〈母〉ではなくて、もっと象徴的な、イメージとしての〈母〉でしょう、というような気持ちなどなど・・・が絡み合っている(いた)のではないか、と・・・白島さんのコメントを読みながら思いました(発見しました)。 読み手としての「私」がこの世を去っても、読み手であること、は次の人に受け継がれていくはずだ、という思いもあり・・・読み手って、手がつくんだよね、という文字からの発想もあったかもしれないです。 (惑星)

2017-07-17

通りすがりのロム専さんへ 大変丁寧で、なおかつ深い読み込みをして下さって、感謝です。 他の方へのレスでも少し書いていますが、いつも具象画を描いている者が、モチーフを丁寧に描くことよりも、輪郭やモチーフ同士の位置関係を、あえて曖昧にして・・・色彩やマチエールで感情に直接訴える、そんな抽象画的な作品を書いてみたい、と試みて・・・どうもそれが、うまくいかなかった、ようです。 「惑星」という題名は、悩んだ末に最後に付けました。水の惑星、のイメージから、なんとなく漠然とした、大きなもの・・・包括的なもの、のイメージから選んだのですが、イメージ倒れだったかもしれません。「惑星」という題名から、まず大きな宇宙空間のような、俯瞰的な視座が思い浮かぶのに、いきなり頬、とクローズアップしてしまう。その落差を、どう処理するか、という問題も残りますね。 引用はじめーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >細かく鋭く この観察の「鋭く」という選語は独特である。何に対して鋭く、なのか。頬が裂けていく様を「細かく」裂けている、「鋭く」裂けているの並列で並べているが「鋭く」避けるという表現は珍しい。「鋭さ」に内包されたのは「ほほ」ではなく「心」であり、それはははのくちびるに細かく生えた棘=ははの言説によって細かく裂けた対象者の心、と読むことが出来る。 ははの視点に寄りながら、対象者の心を言葉で裂いている様を俯瞰的な視座から見ている。脱はは(=母性からの逃走)を予感させる、つまり対象者は「はは」の「子」である可能性を忍ばせる、初聯である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用おわり ここは、まさにその通りのことをお伝えしたかったのでした。深く汲み取って頂いて、大変ありがたいです。 〈「ミズノナカに」ではないことに注視したい。〉ここは、迂闊でした。~に、という一語の持つ、方向性・・・。ミズノナカにあるものだと と書いて、にあるもの、と繋がってしまうので、楽譜でスラーをかけるように、ここまでですよ、というフレーズ感でカタカナにしています。 もちろん、水に見ず、あるいは診ず、看ず・・・を重ねました。水という冷たさの質感、心が冷えていく感覚、水圧で押さえつけられている感覚・・・も描きたかったように思います。 通りすがりのロム専さんの、二連の読み込みの深さ、感服いたしました。私の伝えたかったことが、ほぼまるごと、そのまま伝わっています!嬉しいです。長くなるので、いったんここで、上げますね。 (惑星)

2017-07-18

三連、〈ただ行の字数を揃えたいという欲求の現れでなければ何なのだろうか。〉ここは、行数をそろえる、という枠を課すことで、新しい言葉が生まれてくること・・・を期待した、のですが・・・期待に反して、ムードに流れた、というか・・・おっしゃる通り、陳腐なイメージに終始してしまったかもしれません。時々、実験的にやってみるのですけれど・・・口馴染みのよい言葉しか出て来なかったり、ありきたりのクリシェしか出て来なかったり・・・でも、その既視感のようなものとか、地模様のような感覚が、懐かしさとか穏やかさとか、意味を離れた、言葉の流れの心地よさ、のようなものに、つながらないかなあ・・・という期待を持っていて・・・技巧を凝らしているけれど、無駄な努力、という結果になってしまった、かも・・・。もう一度、こうした書き方について考えてみます。 四連の的確なご指摘にも通じるのですが・・・三連で音楽的に(ムード的に)盛り上がって、そこから一気に四連、という意識があったのですが・・・三連のせいで、かえって失速してしまったのかもしれないですね。肌に指で触れる。そのことによって、薄皮のように重なっていたものが、はらはらと舞い落ちていく。そのことによってあらわになった傷(かつて、そのはは、によって付けられ、今、私、を母と仮託して幼い頃の想いを語っている君、の頬に付けられた傷)に触れる。それが、君の書いた詩を読む、ということ、なのだ、そして、その行為は、私が死んだ後にも、また別の人によって受け継がれていくだろう・・・そうあってほしい。 う~ん、ここまで書いてくると(というか、説明してくると)なんだか恥ずかしくなってきました。 だいたい、自分で説明できてしまう(あるいは、説明しなくてはきちんと伝わらない)詩は、駄作なんですよね(;^ω^) 五連の身体的描写=〈80年代女性詩の安易な模倣〉であるのかどうか、ここには、疑問を覚えています。女性は身体性を生かした詩を書くべきだ、とか、肌感覚を生かした詩が、女性はうまいよね、とか、この詩は身体性が豊かで、女性性に富んでいる、とか・・・男性詩人の中には、このようなステレオタイプ的な評をされる方も多いのですが・・・人間の感覚の、最も根源的かつ、共通理解が得られる部分は、五感に基づく感覚ではないか、という思いがあって・・・そこを意識的に刺激する詩を書いていけたら、と思っています。身体性、と呼ぶときに、特に80年代女性詩の、性に関わる言葉を(女性はつつましくあるべき、というような社会通念を破る形で)意図的に多用する、そのような「身体性」のことを指しておられるなら、私が目指している身体性は、もっと(男女問わず)普遍的な肌感覚、触覚を表現すること、だと思います。(この詩で、それが上手く表現できているかどうか、は、また別の問題ですが・・・) 〈現代ならではの身体性をあらたに詩に組み込む、あるいは獲得することが必要なのではないか。 〉このご指摘にも通じる部分ですが、肌感覚には、男女問わず感応するものだと思うのですが、性に関しては女性の方が感応しやすい、と聴くこともあり・・・(実際のところ、どうなのかよくわからないのですが)男性詩人が、いいねえ、と褒める詩を読ませてもらうと、女性の肌感覚、というよりも、女性の性的興奮や官能の悦楽、のようなものを肌感覚を通して描いている、そんな陶酔型の作品が、案外多くて・・・そうした身体性(もしかしたら、男性視点から女性詩人に期待されている、あるいは押し付けられて来た)からは逃れたい、単純に触覚という、人類普遍の感覚の方向を目指したい、という思いはあります。 (惑星)

2017-07-18

最終連、ダメですか(笑) sora ga sumireiro ni sの音の連なりや、朝焼けの赤やオレンジでもなく、夜の藍色や昼の青空でもなく・・・その溶け合う時間、かわたれどき、たそがれどきの、すみれ色の空・・・いわゆるメルヘン調の絵にありそうな、感じではありますが・・・。 ちょうど、支倉隆子さんという詩人の「洪水伝説」という詩劇を視聴する機会があり、水がひく、そこから新しい世界が現れる、というイメージに感化されていたかもしれません。 やさしく、というような形容詞、できるだけ使わないようにしたい、と思う一方で・・・曖昧ながら、この言葉、でしか伝えられない感覚、というものもあるような気がします。穏やかに、でもないし、静かに、でもないし・・・ミズが引いていくことで、冷え切っていた体に、ほのかに体温が戻ってくる、そんな感じ・・・やさしく布でくるまれるような、そんな感じ・・・ 通りすがりのロム専さんなら、どんな言葉を選んだらいい、と思われますか? 長文で、しかもひとつひとつ、とても丁寧で的確で・・・大変ありがたかったです。 熱心に読み込んで下さる読者と出会えるという事、それこそが、最も書き手にとって、幸せなことだと思うのです。 またぜひ、ご参加くださいね。「通りすがりのロム専」さんだと、なんとなく一過性の方なのかな、という印象を抱いてしまうハンドルネームなので、もう少し違ったお名前で参加していただいてもいいかもしれないですね。 (惑星)

2017-07-18

角田 寿星さんへ 地球、と恥丘・・・うわ、確かに音が、一緒でした・・・いや、頬、です、顔、です!(そもそも、君、は男性ですし!!!) 〈手首を切り落として、次の人に渡す、世代交代までの生きてる間に、 最終連で水が「やさしく引きはじめて」、そうすると「ミズノナカ」に埋もれてた居場所が顕れるんだよね。 いわば家の再誕。 この惑星はやっぱ優しいんだな、と思いました。〉 そうですね、本来の居場所、は、もっと温もりのある場所、なのではないか・・・そんな想いを抱かせる「昔話」をしてくれた人がいて・・・今更、どうにもできないけれど、これからの時間、命が尽きるまでの間に、そんな(水のように冷たくて、水底のように重苦しい、冷ややかな)空気に満たされた場所ではなくて、あたたかいぬくもりに満ちた場所を、その人が得られますように、という・・・ような感じ、でしょうか。 (惑星)

2017-07-18

角田 寿星さんのコメントに、何か加えることがあるのか?と思いつつ・・・ 〈恋する剥製、乾いた心で 地面を這うように忍び寄る そして上体を少し起こして 君に挨拶するよ、ご機嫌いかが?〉 このフレーズ、コモドドラゴン、のような爬虫類系の生き物が、ズルズルっと愛する女性のそばに忍び寄って、顔を見上げる、そんな図柄が(なぜか)浮かびました。 乾いた心、干からびた魂、空洞の身体の剥製・・・が、にじり寄って来る、ユーモラスな感じと、ホラー的な恐怖。驚いて落すものは、水風船、という極めてみずみずしいもの・・・。乾いた心の僕と、水びたしの君。 (恋する剥製)

2017-07-18

彗星、という天体の名前に惹かれて作品を拝読しました。 ちょうど今、惑星、という拙作への変身をしていたのですが・・・偶然にも、百舌鳥さんの詩にも「頬」というWordが出てきますね。 〈現代の無謬〉とか〈朝陽の瓔珞〉という漢語が・・・かっこいいけれども、固さにも通じるのかな、という気がします。あえて多用して、硬質な文体を創る、という方法もあるかもしれませんが。 〈耳の中に生まれた、黒子〉ほくろ、なのでしょうけれども・・・くろこ、とも読みたくなる。なにか、得体のしれない存在感を持ったもの。それが、耳の中に生まれる、住まっている、という感覚・・・。 〈無の/内蔵〉は、内臓と音が同じですね。なんとなく部屋の内臓としての沈黙、あるいは無、その中にいる語り手、を連想しました。 〈crawlする烏〉鴉、英語のクロウ、とかけておられるのか・・・くろこの俺、クロールのように、何もない無で満たされた部屋を泳ぐ(あがく)だけの俺、というような・・・。なぜ、君は彗星となって去って行ったのだろう。なぜ、俺は君を彗星、と感じるのだろう。そんなことを知りたくなりました。 (彗星)

2017-07-18

2人の対話による歌を想いました。 冒頭は、こどもに背を追い越された父か母、を連想し・・・右側によった部分は、これは小学生か中学生の子供を持つ主婦の「語り」の部分ですね・・・ 〈向日葵の迷路で迷いながら倒れこんで〉前のめりの四拍子、という感じのリズムに惹かれました。穏やかなプロローグのあと、急に勢い込んで歌い出す、感覚。 面白いな、と思ったのは、〈向日葵畑で踊ることを夢見てた娘〉この部分を、語り手の娘だと思って読んだのですが(プロローグのイメージもあるでしょうね)〈私の中の向日葵娘〉このフレーズで、かつて娘だった私、なのだと気づきました。 その直後に、今度は男性らしき人が語り始める。〈鼻歌まじりに〉歌う女性に対して、〈いつまでも変わらない気持ちもあるのかなぁ〉ここも面白い。この男性の、もしかしたら初恋の女性が、鼻歌まじりに向日葵の歌を歌っている、ぬかみそを掻き混ぜている女性、なのかな、とか・・・。 最終連、家内、とこの女性は別人なのかもしれませんが・・・追い越すのは誰か、ということを考えた時、いつまでも子供のような、少年のような心のままで、なんとなくふわふわしている男性と、土間にむっちり太った膝をついて、ぬかみそを掻き混ぜている、どっしりと安定している女性、そんなイメージも浮かびました。夫はまだふわふわ浮ついているのに、妻の方は地元に根付いて、家に根付いて、どっしりと腰を据えて地に足をつけて・・・生きている。 この向日葵が向いているのは、太陽の方向ではなく、この女性そのものなのではないか、そんな気もしました。 (向日葵と向日葵娘のこと)

2017-07-18

有精卵、有機体、破砕、徘徊・・・少しずつずれながら繰り返される音の流れが、リズムを刻んでいるように感じました。 全体に、昆虫の孵化の様子をクローズアップで撮影した映画を観ているような気がしました。それだけ、描写がリアルな質感を持っている、ということでしょうか。 白い平面をうごめいている幼虫・・・は、いつしか裏側に回って、蛹になる、ということでしょうか。表面からは、消えて・・・。光だけを残す、というあたりに、ぬめぬめ這い回ったカタツムリの粘液の跡のような光沢も感じました。 イメージが卵として産みつけられ・・・想像力によって孵化して動き回り、やがて表面上からは消えていく。その裏側で 〈思考が液体となり やがて蛹の中は固体化してくる〉 そこから生まれる生き物が、〈全身眼球だらけの有機体〉・・・眼の集合が、コロニーを為すのでしょうか。だとすると、無数にうごめいていた個体が、集合して一つの有機体となる(眼、という個体の痕跡を残しつつ)・・・〈詩は字面のコロニー〉という返信を読んで、バラバラの文字として産み落とされた詩の元が、ひとつの詩という有機体になる、そんな発想を感じました。 (コロニー)

2017-07-19

有精卵、有機体、破砕、徘徊・・・少しずつずれながら繰り返される音の流れが、リズムを刻んでいるように感じました。 全体に、昆虫の孵化の様子をクローズアップで撮影した映画を観ているような気がしました。それだけ、描写がリアルな質感を持っている、ということでしょうか。 白い平面をうごめいている幼虫・・・は、いつしか裏側に回って、蛹になる、ということでしょうか。表面からは、消えて・・・。光だけを残す、というあたりに、ぬめぬめ這い回ったカタツムリの粘液の跡のような光沢も感じました。 イメージが卵として産みつけられ・・・想像力によって孵化して動き回り、やがて表面上からは消えていく。その裏側で 〈思考が液体となり やがて蛹の中は固体化してくる〉 そこから生まれる生き物が、〈全身眼球だらけの有機体〉・・・眼の集合が、コロニーを為すのでしょうか。だとすると、無数にうごめいていた個体が、集合して一つの有機体となる(眼、という個体の痕跡を残しつつ)・・・〈詩は字面のコロニー〉という返信を読んで、バラバラの文字として産み落とされた詩の元が、ひとつの詩という有機体になる、そんな発想を感じました。 (コロニー)

2017-07-19

〈起こさなきゃ が ひとりでに散歩に出ないよう リードを用意して〉 このフレーズのユーモアがいいですね。 〈このまま 六時になっても起きあがらないで 朝の散歩に出てみない〉 きっちり、時間を守る、律儀な〈大切な人〉を起こさなきゃ・・・と焦っている語り手、というイメージなのですが、肉体が〈大切な人〉で、語り手は一足先に目覚めてしまった〈精神、心〉のような気もしました(そんな風に読んでみたい、きもしました。) 自分自身に、そんなにきっちり、かっちり時間を守って生きていないで、時にはダラッとしようよ、と語りかける、ような。 〈後で ちゃんとしっかり六時に間に合うから〉 少しぐらいルーズに生きても、ちゃんと間に合うよ、という締め方が素敵だなあ、と思いました。 (起床)

2017-07-19

〈フィラデルフィア・ワイヤーマン(仮にそう呼ばれている)作品〉知りませんでした、なるほど・・・ 〈右手の定位置にあった引き金をどうしても引けなかった〉そのゆえに(優しさ、というべきか、人間らしさ、というべきか・・・戦場においては、脆弱さ、優柔さ、軟弱さ、と非難される感情、なのでしょう)友人と上官が、敵弾に斃れる。〈こびりついたジャングル〉このフレーズがズシンと心に落ちてきました。こびりついた血でも、こびりついた叫び声、でもない。出口のない、見えない敵に取り巻かれた、魂の暗部のような、迷路の果てのような、ジャングル・・・。 長島三芳という詩人が、戦時中に実際に敵兵を撃った瞬間のことを・・・倒れていく兵士の顔が自分自身となり、その顔が母となり・・・という幻影として描いていました。実際に、そう感じた、真実の感情だろうと思います。自分自身の魂を、さらには、その自分を愛する係累ごと、撃ち殺してしまうような感覚。ワイヤーマンを作成した人が、実際の帰還兵かどうかは分かりませんが、とても説得力のあるドラマを見せて頂いたような気がしました。 (フィラデルフィアの夜に)

2017-07-19

リズムや韻律が、なつかしいような心地よいような感覚に連れて行ってくれますね。 百均さんのツイキャスでもコメントしたのですが、心が乾いてしまっているから、脆く折れてしまうのであるなら・・・その心を生き返らせる雨、水、思いやりや優しさ・・・は、惠の雨のはず、なのですが。 既に、乾いた心はその脆さゆえに傷ついていて・・・乾いている時には、その痛みに気付かずにいられるのに、雨で生き返っていくと、その痛みを思い出してしまう、そんなジレンマを、体感的に感じました。 あの時の痛み、この時の痛み・・・それが、かさぶたのように乾いているのに、またはがれてしまう、そんな感覚にも似ているけれど・・・もっと全体が、バラバラと壊れていくような切実さを感じます。 (なさけない人)

2017-07-19

トランプ政権とかナチスドイツの検閲、といった社会事象や歴史的事象を・・・挟み込んでいく、ことの意味が、今一つ・・・前回の「カラジウム」のイメージが、ここにも生きているのかな・・・ 〈記憶の中のムー大陸は〉〈一日に飲めるのは乳の滝の下で浴びる一杯〉を得られる場所。童心のまだ生きている場所、自身のルーツ、その根源にたどり着く旅、それがムー大陸を探し求める、ということなのかな、と思いつつ・・・その場所への耽溺が詩を生み出すのではなく、そこからの飛躍、俯瞰的視座の獲得、そこに、自分の詩が生まれるのだ、という、詩論的なイメージも重ねつつ読みました。 近未来SF、と呼ぶには、ノスタルジーの要素が強すぎるし・・・ディストピア小説と呼ぶには、破壊というのか、崩壊度が弱いようにも感じるし・・・不勉強ですみません、〈ボラーニョ〉がよくわからない。〈ポラーノ〉と掛けている? (姆大陆――記憶のムー大陸――)

2017-07-19

〈南半球まで伸びる乳管のなかを 這って進むしかない ボルネオあたりでちょろちょろ臍帯血が合流 羊水の大海へと至る〉 このフレーズに、大きな母体としての地球、その中をうごめいていく命・・・というようなイメージを描出されたいのかな、と感じたのですが・・・真ん中の幼児語?の部分は、幼子に話しかける側、の語りなのかな・・・(一時、ワイドショーをにぎわせていた、T議員の幼児語も、連想しつつ)となると、セーラー服の青年に似た〈私〉が、孤島で幼子に話しかけている、という景が浮かぶ、のだけれど・・・。 最終連は、孤島からの救済者の暗示、なのか。赤子は、閉じられた空間、孤絶した空間で、生まれ変わる〈私〉自身でもあるのか。謎が残る作品でした。 (赤子)

2017-07-19

〈コンビニでしか会えないずるぷかる君がコンビニにいない時、君が何をしているのかを知る術はない。〉コンビニを二度重ねることによって生まれる、意識的に再確認しなくてはいられないような焦燥感、知るすべはない、という大仰な表現の裏に仄見える、どうしても知りたい、という切実な感覚。それを、気持を表面化する方向性ではなく、無機的な叙述的な散文体によって、沈潜させながら語っていく語り方、その心地よさが全体に響いているように思いました。 〈母は~と述べた。〉これもまた、ずいぶん畏まった、大仰な言い方。自分のことを述懐する、のか。口上を述べる、のか・・・自らをホタル族、と定義することの意味。家族の中での、かすかな疎外の感覚。母の煙草の話が、なぜ急に〈兄〉の話になるのか、と思ったら・・・煙草の火のイメージが、最後まで巧みに織り込まれているのですね・・・。 〈煙草を吸っていることを家族に知られてはいたが、その姿は見せないようにしていた。だけど、旅行ともなればいたしかたなく、母親に薦められたものだから、〉母の吸う煙草、それは、家族からは疎んじられている行為に身を染める、その誘惑に身を委ねる、ということでもあったのか・・・その母の誘惑に、語り手も誘い込まれている。 兄、は、きっと、煙草を吸う(なにかに依存しないと生きていけない)こと無しに生きていける存在なのでしょう。弟は、その兄に憧れている。兄の抱く〈家族への心配〉は、母と弟が共有している、なにかに依存しないと生きていけない(とはいっても、煙草、くらいの、ささやかな、やめようと思えば辞められるはずの、それでいて自力ではなかなかやめられない、何か)性向への〈心配〉であるようにも感じました。 〈最後の家族旅行〉や、家族の不在に象徴されるような、家族離散、あるいは家族の崩壊のイメージ。ずるぷかる君、という印象的な名前(と存在)は、自分の心のよりどころ(とまで大げさではなくとも、母の思い出やらなにやら、との連続性を喚起する)煙草を買う、という行為において、接点を持つ存在。 ずるぷかる君、がいない、見当たらない、そのことが、煙草を買わない、煙草を辞める、きかっけになるのか? 〈煙草を吸い始めたのは少女との約束を守るためだったこと。だから、僕と結婚する人にお願いしたいのは、僕の喫煙を辞めさせて欲しい。そうすれば少女との約束を破れるから、奥さんと子どもを沖縄旅行へ連れて行こうと思う。その時、右手に握られているものが何であるかを今は知る由もないのだ〉 知る術もない、という冒頭の表現と、〈知る由もない〉という終盤の表現が作りだす、ある種の枠構造。少女との約束とは何か(母の中の小女性、にまでつなげるのは、私の勝手な読み、ですが)。 結婚=家族を得る=現在の家族喪失、家族崩壊、の状況の修復。そこまで考えると、寂しさを癒すための仮の火が、夜のベランダで吸う一服の煙草、なのかな・・・その寂しさ(言葉にすると大げさだし、その程度のことは家族には伝わらないから、黙っている、でも、しんしんと感じている寂しさ)を母は感じる人で、兄はさほど感じない人で、弟は敏感に受け継いでしまっている人で・・・今は皆、バラバラで生きている、そんな家族の姿を思い浮かべました。 ささやかだけれど、家族と共に居ても(ともにいるからこそ)感じてしまう淋しさ、のようなもの・・・それを逃すなにか、を右手に持って(そのことを予感して)、自分の家族を持つことになる、であろう弟。そこまで予感できたからこそ、言葉にうまく出来ないながら、漠然と心配してくれている兄に、〈「生きてて良かった」のは何も「私」=「歌い手」だけではないんだと思います。僕はそんな夜をもう見つけています。〉ということを、弟は伝えたいのかな。そんなことを想いました。 (縁)

2017-07-22

天才詩人&花緒の議論に割って入る、ということではないのですが・・・「不在」という言葉に、つきまとうニュアンスを、お二人が共有しているのかどうか、ということには、疑問が残りました。 不在という語に、喪失感、空虚感、失望感を感じているのか、いないのか。花緒さんは事実としての不在、に言及していて、いわば、状況説明の言葉。天才詩人さんは、「不在」という言葉が喚起する詩的感興が、この作品には強く感じられない、だから、これはモノローグとどこが違う?という疑問を発しているのではないかと思いました。 不在である、という情況があるけれども、そのことに語り手は渇望したり苦悩したりしていない。むしろ、その不在である空間に、想起の力を用いて「いま、ここにいない人」「その人がいた時の時空」を呼び出している。次々に、内的空間に呼び出されては、また消え去っていく想念。それはいったい、何なのだろう、と、静かに見つめているような印象を受けます。追憶として、無理に追いかけたり、もう得られないものを切望したりする衝動性を感じない。今、自分が居るところから、その想念が訪れて来る過去のある時点に飛んでいきたい、居てもたってもいられない、でもできない・・・というような焦燥感を感じない。自分の中に訪れて来る想念を吟味しながら、語り手は偶然のように出会うもの、訪れるものを、待っている感覚がある。その安定感というのか、慌てないで待っている静けさというのか・・・その動じない語り手のスタンスのようなものが、落ち着いた語り口、それでいてオムニバスのようにどんどんスライドしていく語りを生み出しているように思います。 なかたつさんへ。 「作品を拡げた読みがしっくりくるような、こないような感じです。」ありがとうございます。何といえばいいのか・・・作品の意図するところを読み解こうとか、語り手の心情を推しはかろうとか、そういう感覚ではない所で読んでいる、というのか・・・作者が意識しているかいないかには関わらず、なぜ、これほどに「煙草」にこだわるのか、というところに興味が向いています。 さりげない小道具のように扱われていて・・・でも、全篇に網のように覆いかぶさっている。 〈煙草を吸い始めたのは少女との約束を守るためだった〉〈僕と結婚する人にお願いしたいのは、僕の喫煙を辞めさせて欲しい。そうすれば少女との約束を破れるから〉〈右手に握られているものが何であるかを今は知る由もない〉自分が吸いたくて吸っている、という自発的意思という雰囲気ではないのに、自分ではやめられない。少女との約束を守っている間は、沖縄に行けない、その約束を自らに確認させるために、この主人公は煙草を吸っているのだろうか・・・結婚によって、無理に(他律的に)破る約束とは、なんだろう。結婚後に、煙草の代わりに右手に握るもの、とは、なんだろう。結婚によって、新たな約束をする、ということ、なのだろうか・・・〈母〉の煙草を、作者が「気に留めて」書き込んだのは、なぜだろう。〈兄〉は吸うのか吸わないのかわからないけれど、約束を守るために吸う、というような行為からは逃れることができている人なんだろうな、などなど・・・。 作者が意識している以上に、煙草(とそのイメージ)は、作品全体に、大きな影響を及ぼしているという気がして・・・煙草、約束、守る、破る、そういう情況に主人公を導く小道具としての機能・・・が気になっています。 (縁)

2017-07-31

〈きみは√5を演じた。〉この不思議な立ち上がり、数学苦手な私には、絶対に思いつかないものだと思いつつ・・・数学の(比較的)得意な息子に、ルート5って、なにかイメージある?と聞いてみたけれど・・・なにか普遍的なイメージがある、というわけでもなさそうなので、逆に言えば、読む人ごとに自由に解釈されて構わない、ということなのかな、と思いました。 掛けあわせると、5、になる。五体満足、の五・・・につなげるのは、いささか無理があるかな、と思いつつ・・・掛けあわせないと完全なものにならない、そんな不完全性を私は感じました。 〈えいえんの数列をとほく見つめて〉このフレーズから思い出すのは、吉原幸子さんの哀切な詩句。でも、全体にそのテイストが響いているというわけでもないので、この行だけ、なんとなく浮いている気もしますね・・・でも、とほく、でなければ、どうしても表せない「気持ち」があるのかな・・・必然性があるのか、どうか・・・素敵な詩行を暗記するほどに読み込むと、そのムードに飲まれてしまうことが多々起こるので、私も自戒するところです。 〈冬生まれのかさぶた、〉傷を保護するための、仮の存在。直れば、用済みとして剥がれ落ちるもの。親の言葉(傷つけることもあるけれど、手助けになることも、たまにはある)も、子供の心のかさぶたみたいなものかな、と思うことがありますが・・・ここでは、きみ、そのものが、かさぶた、と捉えられている。この感覚の新鮮さに惹かれつつ、イマイチ入り込めない、なぜだろう、という気持ちが残ります。 〈きみの生まれた日が 《最初のさんけた》 という『言葉』で伝えられたとき 演じる私に演じよと差し出されたてにをはを ひとつひとつ拾ってくれて、本当にありがとう。〉 このフレーズも、sの音の連鎖や(記憶に刻まれる)最初の3ケタ、という独特の言い方、私もまた、演じる者である、という設定や、出会いが言葉のやり取りに還元されていく流れなど、とても面白いと思いました。 〈怒りをしらないきみの右目が 『数字』を知っていく日々に 左目だけは数を見つめていた。〉 数、と数字。右目と左目・・・作者が伝えたい乖離の感情であったり、矛盾や理不尽、社会との不整合、などなど・・・様々な事柄を代入しながら読みたいと思いつつ、そのような重さをできるだけ削ぎ落して、左右とか、数と数字、といった無機的な記号のようなもの・・・なまなましさを削ぎ落した、観念的な世界に誘い込まれるような気がしました。あえて重苦しいものに蓋をして、それを観念という箱に納めて、その箱を並べていくような感覚。辛さや痛みが伝わって来るわけではないので、心地よく読めますが・・・箱の中身は何だろう、というもどかしさも残りますね。 三桁とさんけた、漢字のごつごつしたイメージと、やわらかく開かれたひらがなのイメージ・・・も、なんとなく、伝わるような、伝わらない、ような・・・ 言葉の感覚に敏感な作者だと感じました。個人的に体感している鋭敏さと他者が感じている度合いの差、これは、大変に難しい問題だと思いますが・・・作者個人が体感している違和感や、観念世界に託している想いの内実を、より詳しく知りたい、そんな印象を受ける作品でした。 (irrational)

2017-07-22

語り手が、誰かに命じられたり、話しかけられたりするようなフレーズと、語り手自身が感じたり思ったりしているフレーズと、「あなた」に語りかけているように思われる部分と・・・不思議なリミックス感がある作品だなと思いました。 〈何も知らないまま〉〈うつくしい白さに〉〈清潔な直角を踏みしめて〉〈あきらめない、白い道を〉〈白い言葉に焼かれて、うつくしい灰も〉 純粋な夢や希望を抱く心を、乱したり汚したりするもの・・・挫折や、人の世の醜さや、世の中の闇の部分、そうした暗さを未だ知らない(知らなかった)時代への郷愁を感じました。〈あなた〉と〈私〉の関係性が、いまひとつよくわからないのですが(わからなくてもよいのかもしれませんが)〈あなた〉は、未だ夢を抱いている、汚れを知らない心の〈私〉であるようにも感じられました。 よごれっちまった悲しみに、の、汚れる前の私へのラブレターのような・・・。 (無能)

2017-07-23

唸る絵筆、のイメージは、アクションペインティング。雨傘、のイメージは、私の場合はマグリット、でした・・・(もちろん、極めて個人的な感覚ですが)。 表現主義的な激しさと、冷静な筆致による、超現実の世界、を予感しつつ読み進めていくと、水彩と油絵、溺死体と焼死体、相反するイメージが連続で出てきます。強度を持った言葉が畳みかけられて一句、その連続が積み上げていく残像は、戦争画でしたが・・・現実世界を反映させる、未だ描かれていない絵画のイメージと、それを表現しようとして葛藤する画家、炎の激しさと水の沈鬱、その両極に引き裂かれながら創作に向かおうとする画家の内面・・・を追体験しているような気持ちになりました。 〈宗教 胎教〉とか、〈気紛れに~/気が触れたように〉というような、言葉の音韻が意味に先立って次の言葉を生んでいくような感覚とか、言葉の響きが引き出す対句、のような表現が多用されていて、それが作品を先へと薦める駆動力にもなっているのですが、水と火というような、象徴的な意味というのか、イメージそのものに重みがあるものも、たくさん対句的に多用されているので、ひとつひとつのイメージが、意味を削ぎ取られて軽くなってしまうような感覚もありました。 戦争画を描かざるを得ない(でも、描きたくない、雨によって、血を洗い流してしまいたい)画家の葛藤を二連、三連から強く感じたので・・・対句的な表現が、装飾過多と感じられないように、もう少し整理した方が、より迫真力が増したかもしれない、とか・・・最終連で、出て来るパステルのイメージは何だろう、とか・・・(相反するものの止揚?) 最終連が、その前の重さや強度に比べると、バランスが弱いかな、ということも感じました。 (唸る絵筆と折れた傘)

2017-07-22

言葉の連なりが、静かに歌うような感じで、綺麗な流れになっているな、と思いました。 〈感じるだって〉ここは、通常なら〈感じる、だって〉とか、〈感じる/だって〉と読点や空白、改行などを入れるところだろうな、と思ったのですが・・・一息に言い切ろうとするリズムの尊重なのか、あるいは、〈青白くて〉〈みたいで〉〈視界で〉といった語尾と脚韻を踏ませるような、そんな口ずさむ感じの心地よさを求めているのか・・・いずれにせよ、こうした細かな整え方が、全体に音の響きの心地よさを与えているのかな、と思いました。 なんども繰り返して吐いてしまう、それは実際に吐く、という行為であると共に、いやな物とか言葉とか、様々なものを吐露する苦しみでもあろうと思います。生きながら死んでいる、のではなく、死んでいるように生きている・・・その自分を、客観的に見つめ直す視点から描かれている。自分、から少し離れたところから自分を見つめることができる。そこに、詩を創作する主体、自身の喜びも苦悩も、客観化できる(突き放して視ることのできる)主体が生まれようとしている。 赤く塗った爪、どこまで切りつめて行けば、血が出るのか・・・という、ちょっとドキドキ、ハラハラするような感覚も含めて・・・自分自身をどこまで突き詰めて行ったら、血が出るのだろう、そんな、自分自身を観察してみよう、というような視点も感じました。 なにか不穏なものに飲み込まれてしまいそう、という〈わたし〉を、外から眺めることができる、そんな〈わたし〉が居て、言葉を投げ出すのではなく、丁寧に響きや行替えなどを整えて行こうとする意識を働かせることができる。 そんな〈わたし〉が 〈そこにいる そこにたしかにいる から、いまはまだだいじょうぶ〉 私もそう、思います。 (きれいな爪をしているから,いまはまだだいじょうぶ)

2017-07-23

これは、どう読んだらいいのか・・・と思いあぐねて・・・シュールレアリスムの絵画が連鎖していくような感覚でした。ギャラリーに鮮烈な絵画が並んでいて、その一枚、一枚に引きこまれながら鑑賞していく感覚。輪郭のわりあいにはっきりした、マグリットのような、空や海やガラスなど、澄明なイメージの強いスタイルの絵。エルンストとか、そういう輪郭をぼかしていくような方向ではなく・・・。 〈言葉は二重の雲をかかえ 越えられない岩壁を瞬いている 唇から落ちる偽装の飛沫 取りそこねた水底のあおいガラス〉 ここは、詩による詩論だと思いました。意味とイメージ、いずれも雲のようにとらえどころがなく、曖昧なものを抱え込んでいる言葉。しかも、雲の合間に、越えられない岩壁のような(その先に至らせてくれない、目の前の壁のような)拒絶が垣間見える。くちびるは、それでも言葉を発するけれども・・・本当にとらえたい真実、イマージュの源泉というのか・・・ポエジーそのものの結晶のような、そのもっとも美しいもの、たとえるならば、水底のあおいガラス、のような・・・ものは取り損ねてしまう。唇から漏れるのは、〈偽装の飛沫〉に過ぎない・・・。 この一連から(!)思い出したのは、茨木のり子さんの唯一?の童話、『貝の子プチキュー』の中の一節でした。 日常のルーティンに退屈した貝の子が(よせばいいのに)「みたことのないものをみようとおもって」深海への冒険に出発します。途中で〈きれいなもの〉をせっせと集めているタツノオトシゴ(恐らく、詩人の喩)に出会うのですね。タツノオトシゴは、海の上から落ちて来るガラスの欠片、最初は〈トキトキの とがった やつが 波に あらわれて・・・だんだん まあるくなって すきとおってくる〉それを見つけて、洞穴にため込んでいます。ため込んでどうするの、と尋ねられたタツノオトシゴは、時々眺めに行く、そうすると、頭がすっとする、と答えます。貝の子は〈たつのおとしごちゃんは おとな? こども? どっち?」と尋ね、タツノオトシゴが「おとなだよ」と答えると、じゃ、と、さらに違うものを探しに行きます。 最終的には、寂しさや競争心ばかりを見つけて、疲れ果てたあげくに貝の子は死んでしまう、のですが・・・見たことのないもの、を見るために、命をかけて無謀な旅を続ける、そんな貝の子とは、何者なのだろう、と、しばしば考えます。 〈猥雑な酒場〉〈訣別の半旗〉といったフレーズや、〈しなやかに梳く制度の指〉というような暗喩、なんとなく、学生運動期の詩世界を連想してしまうのですけれども・・・〈老婆よ〉というような、ハイトーンの呼びかけも含めて・・・当時の文体をリバイバルさせ、現代に蘇らせた、という印象もありました。 全体に、一定の張りつめたトーンで格調高く詠われていく、その強度と、扉を開けたらそこに青空が〈立っている〉かのごとく立ちふさがっているイメージ・・・摩天楼の廊下の突き当りの扉を開けたら、すぐそこに空がある、ような・・・鮮烈なイメージから、詩論的な、詩を生み出す、ポエジーを求めるとは、なんぞや、的な問いかけをしつつ・・・一気に地上の喧騒にまで滑空していくようなスピード感。老婆と少女の関係性がちょっとわかりにくかったのですが、あえて少女は老婆の内面性である、と読みたい・・・かつてみずみずしい海をたたえていた、詩人の内面のアニマ(である少女)、いつしか老いて老婆となってしまった少女・・・あるいは、しばしば老賢者と言われる、心の中のもう一人の私・・・私の影として対置される存在・・・などと読みたい、ような気持ちにかられる、けれど・・・解釈すればするほど、わけがわからなくなるので(意味もないので)、シェイクスピアの詩劇の中に現れる老婆(魔女的な)イメージの画像として、受け止めたいと思います。 そんな画像を次々に鑑賞してくような、そんな映像的な感覚がありました。 〈休止符はわたしの譜面に死をのせる〉残された時に、あえて死を置いて行くこと(意識化していくこと)によって、あえて生を凝縮していく、輝かせる方向に立ち上げていく。そんな意志の力を感じます。 (扉)

2017-07-23

国立競技場に関わっていた、23歳の青年が、過労死で自死した、という報道と、重ねながら読みました。柔らかい言葉で流れるように重ねていく筆致は、少し丁寧過ぎるのかな(人によっては、冗漫と感じるかもしれない)と思ったのですが、内容の重さ(辛さ)の角を取っていくというのか、まるく磨いていくような、そんな時間でもあるのかな、と感じました。 〈肩で 息をしつづけている 小さな夜の羽虫はわたし〉羽虫はわたし、まで言うべきか、言わざるべきか・・・はむしはわたし、この音の重ね、その響き・・・羽虫、で止めると、黙って感情移入している感じになりますが、羽虫はわたし、まで言うと、本当は違うものであってほしい、というような思いと、でも、この羽虫はわたしなの、と言いつのる感じ、その両方が出るように思いました。 (小さな夜の羽虫は遺書)

2017-07-24

庭に咲いていたネジバナがちょうど茶色に枯れて・・・ 猛暑に焼け焦げた庭を見ながら、白犬さんの作品を拝読しました。 迫って来るものがあるのだけれど・・・直接過ぎて、痛い、痛い、と思いながら読んで・・・ 首に縄をかけた死の瀬戸際で、供物のように炙られる(あるいは、自らを炙る)、そして 〈退屈だから飲めよ 愛があるならごっくんしなよ? そんで吐け〉この強烈な一節。 このわたしを、食い尽くせ、と迫るような・・・ 最初の擬音を多用したプロローグ、 〈そうして女は~〉から始まる、アグレッシブに高まっていく、愛と生と性と死の欲動・・・が、一歩一歩刻み込むような(たとえば、~て、~で、~な、といった抑え込むような語尾や体言止め、一行アキの作りだす呼吸)リズムで進み、〈勃起 螺旋 血 耳 夢 声 月 粉砕〉エロスとロマンを凝縮したような単語が並んだ果ての、粉砕、という一語・・・〈夢のような歌を聴いた、~〉この間奏曲のような一節が入って、静かに収まっていくようなエピローグ。 インパクトが大きすぎて、評どころか、感想としても届いていないかもしれませんが・・・構成が巧みに練られて、音楽的な躍動感や高揚感、終息感を覚える読後感でした。 (steps)

2017-07-24

一連目の、抑えた写生的描写、映画が始まるような印象を受けました。二連目の反転で驚かされました。肌身に沁み込んでくるような、直接の血縁ではないかもしれない、でも、故郷に深く根差していたはずの人々の、その卒塔婆・・・背に貼りついてくる湿った質感。〈まるで卒塔婆を這う無数の小さな蛇にしか見えない。〉初読では、ここはずいぶん説明的な一行だと思ったのですが、後半の、文字が抜け出して〈冷たく見下ろす〉、その伏線となっていたのですね。 三連目。祖先たちの魂の化身のような、時には陰湿でさえあるような、しかし深い故郷への愛憎を内に秘めた蛇たち、その魂の群れを、自ら舐めとって体に収める、一体化していくような凄まじさ。 それは〈卒塔婆に付いた泥が口の中に入っていく。/泥は粘膜を汚していく。〉自らの内を〈汚していく〉ことであるのかもしれないけれど・・・父祖たちの想いを全部飲み込んで、その山の「もののけ」に変容していくような、そんな運び手の覚悟のようなもの、全てを身の裡に引き受けるような、そんな重厚さを感じました。 地縁血縁、因縁その他もろもろを断ち切ってしまいたい、という思い、逃れたい、という思いに裏打ちされた作品や、故郷を美化したり憧憬したりする作品には数多く出会ってきましたが、愛憎も、汚れも痛みも、そうした負の部分もすべて飲み込んでやる、というような、そんな迫力を持った作品には、なかなか出会わない。秀作だと思いました。 (卒塔婆を背負いて山をゆく)

2017-07-24

ふらぺちーの、という語感もそうですが、全体に弾んでいくようなリズム感が、独自のスタイルとなっていますね。 残る。確かになにかが、そこに残る。しかし、いったい何が・・・ 〈全部飽きたけど代用品がないので放置〉〈空白に耐えられなくて埋めまくったら〉空白恐怖症のような現代。とにかく新しい情報で次々に隙間を埋めて行って、横に流していって・・・しかし、いったい最後に、何が残るのか?そんな不毛感を、〈僕〉一人の視点から歌うように描き出している。 〈コンビニが優しいのは気のせい〉〈景色を盗んで心情のふりをした情景が邪魔〉 〈神様ばっかつくってるから、感受性を介護される〉印象に残るフレーズでした。 〈僕〉の周囲を猛スピードで過ぎ去っていく日常、ネットの情報、その中で・・・生きて動いている僕、が本物なのか、発信し続けて過ぎ去っていく言葉(記憶)が本物、なのか・・・ 題名がすごくキャッチ―で惹かれるのですが、しかし、内容と幅があり過ぎて・・・ハテナ?がいっぱい。なぜ、この題名を付けたのか、ぜひ伺いたいです。 (フラペチーノ、産まれる)

2017-07-25

以前に投稿されたAV.68の、比較的綿密な構成や伏線を忍ばせた丁寧な推敲に比して、この作品はあまり推敲に時間をかけていない、ラフスケッチの状態であえて提出されたもののように感じるのですが・・・。〈以上の文章は、わたし自身の遍歴をまとめたものだ〉この一節が、私小説風の虚構であるのか、事実に基づく文章であるのか・・・いずれにせよ、〈歩道でぼんやりしていた〉とか〈ただ冷たい窓ガラスに頬をくっつけたり〉〈暑かったからじゃない。〉といった文体は、10代後半から20代の頃の・・・一般的にいうところの青春時代の・・・感情や言葉遣いを、そのまま思い起こして記しているように感じられました。 作中人物の作中年齢に応じた言い方や感じ方で記していく、そのこと自体は作品に(創作としての)リアリティーを与えていく大事な要素だと思いますが・・・〈以上の文章は、~〉が、作品欄に記されている、ということの虚構/非虚構を、どのように受け止めればよいのか・・・コメント欄に記されているわけではない、ということ、ですね・・・。 率直な感想として、「AV.68」の完成度に比べるならば、やはり本作は、ラフスケッチ、という印象を受ける部分が多い作品でした。 (カニ族)

2017-07-27

皆さんが採り上げているけれども・・・〈創造するためには何がいるのか/恐ろしい幽霊とも右手で握手する〉このインパクトですね。 私が思い出したのは(古すぎますが)ファウスト博士の、メフィストフェレスとの契約。創造という行為が、狂気を孕み、時には倫理や道徳を越えてしまうことがある・・・その闇に取り込まれていく恐怖と、我を忘れて飲み込まれてしまいたい、という欲望、その両方を、人は抱いているように思います(創造とか表現を志す人は、特に) 〈必要としているものは/形のないもので/攻撃的なものではない/シャボン玉の兵器〉 夢想という名、想像力という名の兵器。心を自由に保つ為の・・・社会的圧力やストレスから自らの魂を守るための・・・防御のための兵器、であるのかもしれない、と思いました。 〈集団は崩れるもの/和を取り持つ者が/みんなの耳に同じ文句を届けたら/嬉しいのに/同じ文句を聞いた経験から/広がっていくことが可能にはならないか〉妙に理屈っぽい表現ですが、面白いですね。人が集まれば、必ず(といっていいほど)行き違いや思い違いや気持ちのすれ違いが起こる。それも、皆が深入りしないように、ほどほどに(冷たく)付き合っていればやり過ごせるのに、熱くなればなるほど、お互いに「譲れない」ものが出て来て、その核に触れた途端にぶつかり合ってしまう。う~ん。〈文句〉という言葉は、文言、という意味もあるけれど、この場合は苦情、的な文句、なのかな・・・和を取り持つ人が届ける「文句」は、笑顔になろう、かな・・・。仲良くやろうよ? 許し合おうよ、かもしれない、歩み寄ろうよ、かもしれない、けれど。 〈悲しい気持ちは嬉しい気持ちと同じ主人に仕えているさ〉喜びや楽しみだけを感じる心なんて、ありえない。喜びに鋭敏であればあるほど、悲哀や苦悩、憤りや悔しさ・・・を感じる心のキャパシティーも大きくなるような気がします。すべてに鈍感になる心を得るくらいなら、痛みが増幅したとしても、喜びや楽しみを強く感じられる心を持ちたい、と思いつつ・・・痛みを感じた時は、こんなもの、捨ててしまいたい、と落ち込んだりもするんですよね(;^ω^) 〈それらを分かつのはひっきょう叡知のあるなしさ〉叡智、これは後から得るものではなく、全ての人に内在されていて、様々な試練に寄って開示されていくもの、のように感じています。 〈誰もが一人ずつのヒーロー〉表現する者たち、ひとりひとりが創造主であり、自分自身のヒーローだ、というような、創作者へのエールを感じました。 〈分かり合えないということが分かり合おうとする理由だ〉ここで、なぜ詩を止めなかったのだろう、ということが、ひとつの疑問として残りました。一般に、〈神〉を出してしまうと、話が大きくなりすぎて、逆に言葉の重みが薄れたり、装飾過多に感じられたりします。ここでは〈神々〉なので、なんとなくギリシャのミューズたち、のようなイメージもあるのですが・・・幽霊が出て来て悪魔が出て来て、そこまでは自身の内面の闇、自分が眼をそむけていた自分自身の欲望や野望のメタファーのようにも読めるのですが、さらに神々が出て来ると、オールスター総出演、のような、ちょっと過剰な印象を受けてしまいました(私個人の感覚、かもしれませんが。) (必要)

2017-07-26

イタリアと日本、シルクロード・・・イタリアの絹織物。どちらから見て東か西か、どこを世界の中心とするか。マルコポーロに訪ねても、きっと答えは見つかりますまい・・・ 題名、カイコとカタカナで書くと、回顧、とも読めるのが面白いですね。 供給、排泄、供給、と重ねていく進行速度の遅さ、全体に粘り強く「カイコ」にこだわっていく流れ、その流れを寸断するように〈違和感を持つ/いい説だ/ワイセツだ/カラーの手紙が届いた/家訓がびっしり書かれて居る〉い、い、せつ、せつ、か、か、か・・・と音から先に引き出された連想と日常がないまぜになったような、不思議な展開・・・。自動筆記を試しておられるのかな、と思いつつ、なかなかついていくのが大変で、もどかしさが残る作品ではあります(そのもどかしさを演出するのが狙いなのかどうか・・・) 〈今回はまゆの段階で殺さぬ/成虫を誕生させる〉この強い意志は、どこから由来するのか、どこに着地していくのか。このフレーズが、強く印象に残りました。 (カイコ~東にあるイタリア~)

2017-07-28

五連が五回重なって、五階の誤解の無限ループ・・・。 〈長引く不況〉〈中国人観光客の急増〉〈朝鮮半島情勢の緊迫〉〈存亡の危機が高まる/もはや然程青くもない地球〉〈世界とは畢竟、伝言ゲーム〉かなり明確に構築されていて、その枠内で逸脱している、という荒技・・・三連のかなり辛辣な社会風刺部分の重さと、四連の喫茶すみれからバイオレット星人にまで飛ばす軽薄なくらいの軽さ・・・ 〈本山さん〉の浮沈?をスピーディーに叙述していく乾いた風刺性・・・「カンディード」の無茶苦茶ぶりを、ふっと思い出しました。 (BACK TO THE ACID PLANET   (B-REVIEW EDITION))

2017-07-28

力のこもった詩論のご投稿、ありがとうございます。スクロールしながら読むのが難しかったので、紙に打ち出しました。 まずは、序について。黒田特有の、〈みないわけにはいかない〉というような屈折した表現・・・どうしてもせざるを得ない、自らの意志というよりも、外部から目に見えない何者かによって突き動かされるような、そうした衝動によってあふれ出す思い・・・を論理で抑え込むというのか、捻じ曲げてなんとか言葉の枠に収める、暴れ馬をロープでくくりあげるような文体・・・よく難解と言われるゆえんですが、その文章自体を解析していくのではなく、bananamwllowさんの配置(編集)や要約(解釈含めて)によって読み解いていく構成がすばらしいと思いました。 冒頭引用部の核は、意味を剥奪された死そのもの、そのナマの暴力的な存在感、圧倒的な力で迫って来る、動かしがたい死という現実について、黒田が烈しく反応している、という点にあるのですが、〈フィクションの正常なレールの外に投げ出されているのをみないわけにはいかない〉この部分が、よくわからない。でも、その後にbananamwllowさんによる要約を経て、〈意味を持ち得る死〉――革命の為に、社会の為に、人類の為に、といった理由付けをされ、価値づけをされることによって、死が無意味ではない、と意味づけられていくこと――それこそが「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に死を乗せていくことなのではないか?という黒田の問いかけが明らかにされていく。死の美化、死者の英雄化、そうした「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に乗せていくことによって「死」を描くことによって、ドラマティックな物語や、人々の心を熱く震わせるパッションを持ったドラマが生み出されるわけですが・・・そして、それこそが「描く」ことが成功した例、なのでしょうけれども・・・黒田はあえて、〈「描く」ことを失敗するようなしかたでしか描かれないとき、〉つまり、死をパッションやドラマや「~の為」といった価値づけから切り離された、物質としての死を注視することによって、黒田は〈はじめて死者たちは物質としての屍体であると同時に、いつまでも「失くならず」に在り続ける死者の眼差しを持ちうる〉という視点に到達したのだ、と結論づける。 黒田が死者を見つめる、のではなく、死者に見つめられている、そのことを否応なしに感じている、それゆえに〈見返さざるを得ない〉という、のっぴきならない、息詰まるような詩的空間。黒田の世界が、なぜ、そのような奥行きを持たざるを得なかったのか?その問いを、黒田の「見る」こと、「目」に着目することによって、考えていく・・・素晴らしい「序」です(二度目ですね) (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

一、bananamwllowさんが明快かつ論理的に黒田の胸に抉られた〈空洞〉を顕在化させていく、その手際に脱帽です。「二つの愛」という作品からbananamwllowさんは丁寧に〈黒田喜夫において眼差すことは、なによりもよく見ることから出発し、いつのまにか時空を異にする他人(ここでは「にわとり」だ)の目になることを通過して、成り代わった目のさきで幻視し、思考していく運動〉であることを導き出した上で、黒田は過去、現在、そして、特定できないがゆえに〈宙ぶらりん〉であり、それゆえに永遠に逃れる事の出来ない場である時空、その三つを同時に体験していることを指摘する。その〈宙ぶらりんの空間〉〈特定の自制をもたない空間〉こそが、黒田が〈「空洞」と名指〉した空間であり、その空間には〈「魂ものこらない火葬」をされた「怒号」が鳴り響いているとしたらどうだろう。「蛆にまかされた土葬」をされた「兵士の群」のいくつもの開いた目、それ自体がそこ(「空洞」)に凍結されているとしたら〉と、黒田の「空洞」を鮮やかに追体験していく。 詩人が抱えていたであろう詩空間に、このように踏み込んでいくことによって、読解の道が新たに開ける。これこそ批評の醍醐味でしょう。詩人の言葉の手前で立ち止まらされていた読者も、bananamwllowさんが切り拓いた道筋によって、黒田の世界に立ち入らせてもらえるわけです。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

二、〈あなたの「目」〉が〈死者の眼としてそこにある〉空間で、〈あなた〉に見られる、ということ・・・魂の底を抉られるような、切り込んでくる視線。黒田は、その視線にさらされていたのだ、というbananamwllowさんの読み解きが、具体的な作例から明らかにされていく。 〈詩人は他人の(「死をまつ男」の)目になることを欲望している。〉だが、それは、死者に成り代わって、死者の代弁をするため、ではない。黒田にとって、死者は〈決してうたわない〉うたえない、あるは、うたうことを剥奪された、そこに失われずに在り続ける死者、〈「しつような」沈黙そのもの〉としての死者。 たとえば、黒田がハンガリー事件に際して(もちろん日本国内における自身の立場や、恋という、これもまたのっぴきならない非常事態にあった、ということを考慮した、としても)いきなりブダペストで吊るされている、という「実感」・・・読者にとっては詩的虚構、ひとつのレトリック、として片づけられてしまいかねないことが、黒田にとって、どれほど切実な「真実」であったか、ということが、bananamwllowさんの読み解きによって鮮やかに、説得力を持って提示されていく。これぞ批評、だと感じ入りました。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

二の最後で、なぜ、〈おそらく、「空洞」と化した死者の視線の横溢する「窓の外」では、「生者の論理」をもって闖入したとしても、たちまち窒息してしまうだろう。そこで息を保つことができるのは、「不具の児」だけだ〉と性急に結論へと飛躍してしまうのだろう・・・と疑問に思ったのですが、それゆえの「補」の必然なのですね。 死者の眼が〈私〉を刺す空洞、その空洞を子宮として産み落とされた「不具の児」、その父親は〈きみらすべて〉だと叫ぶことによって・・・自らを抉り刺すことになる、という絶対的な矛盾・・・ 〈冒頭部の「死をまつ男」の目にはなりえても、みずからが「不具の児」として「這う」姿を幻視しているといってしまったら、それは欺瞞でしかない。〉この手厳しい批判は、もしかするとご自身に対しても向けられたものなのかもしれません。だからこそ、ここまで切実に黒田の内面に迫れるのかもしれない(これは、私のまったくの空想ですが。)作者にとって、書かざるを得ない必然性に突き動かされたゆえの論考だと感じました。 「不具の児」は、自身の夢や希望が潰えた絶望、その絶望を他者に投げ渡そうとして、そのことを自身に許しえない、その自己撞着が生み出した、黒田の詩文そのものなのかもしれません。 〈この「見えない」は、ほんとうに見えていないのだ。だから、幻視では決してない。「不具の児」が「這ってくる」のに対して、ただただ、「見えない過程のまんなか」すなわち「見えない」道のどまんなかで、醜くも悶えているのがこの時点での黒田喜夫の、あまりにもしょうじきな姿ではなかったか。私はこの姿、この「にがさ」だけは忘れないようにしたいと思う。〉大変、勉強になりました。ありがとうございました。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

題は、さんかく、とよむのでしょうか・・・しばしば、神の眼、あるいはプロビデンスの眼、として、三角形の中に目玉というインパクト大の図像で示されるイメージを思い出しました。超自我の眼――自分を監視する存在、自分を超越したところから見つめる超越的な第三者としての自己――の投影でもあるようです。 るるりらさんの作品では、三角形ではなく、さらにそれを立体化して幻視しているのですね。その中に閉じ込められた自分、を外から見ている書き手がいて、その書き手(詩を書く主体)を見返している、閉じ込められた自分、がいる・・・空中に浮かぶピラミッドの中で、頂点を目指して上昇しようとして壁に阻まれ、底辺に降りようとしてまた底に阻まれ、身動きが取れない自分を、なぜか外から見ている自分、そんな構図が浮かびました。 〈想像と意志〉が戦っている、せめぎ合っているもの、という認識も新鮮でした。なぜ、ぶつかり合わねばならないのか。〈他人の価値観に翻弄され/あらがう意志の力が微弱〉なとき、自分を閉じ込めるピラミッドが現れる・・・書き手の自由な想像力の羽ばたきを封じてしまうものとして、ピラミッドが現れるのでしょう。そして、そのピラミッドは、〈私〉を閉じ込めるものであると同時に、〈ときには地べたに ひれ伏した思いのまま〉・・・地べたに押し付けてひれ伏させる、〈私〉にのしかかって来る、屈強な存在、でもある(あった)・・・それが、ある日、なぜか反転する。 地べたに押し付けられていた〈私〉は、上からのしかかって来るものに意識を注ぎながら、地面を見つめていたのかもしれない。でも、押し付けられている地面の〈草の匂いを嗅ぎ/水を飲み/汗を流し〉・・・大地の息吹を体に取り込んで、反転した時、押し付けるものとしてのしかかっていたピラミッドを、底辺から見る、見返す力を得たのではないか。 〈身体に似合う大きさ四角錐〉この発想も面白いですね。自分を閉じ込めていたピラミッド、いわば檻から逃れて、大地からその檻を見返している。さらには、その檻を、自ら己に合ったサイズに自在に修正する・・・その時、自分を閉じ込める檻であったピラミッドは、己を守る家、鎧、自在に出入り可能な私的空間へと変貌する。 〈ある日〉起きた反転――私を閉じ込める出入り不能の檻が、私を守る出入り可能な囲いに変貌する瞬間――がなぜ訪れたのか、その辺りは曖昧ですが、草の匂いを嗅ぐ・・・自然の息吹に身を添わせる・・・という行為が、なんらかのキーだったのだろうと感じました。外からの眼、他者からの視線にがんじがらめになっていた〈私〉が、外からの視線=他者の視線に投影された自己の視線、と気づいて自らを解放する瞬間、と呼んでもよいのかもしれません。共感しつつ、うまくまとまらないコメントになってしまいましたが、そんなドラスティックな瞬間を、鮮やかな映像や空間的な体感として読者にもリアルに伝えてくる、迫真力が素敵だと思いました。 (それから、〈やすせなく〉は、やるせなく、でしょうか?〈身体に似合う大きさ四角錐〉大きさの四角錐、と、こちらも「の」が入るような気がします・・・) (△)

2017-07-28

題名のインパクトと、最初の一連の驚きが、とても魅力的な作品だと思いました。 先端を尖らせながらぐいぐいと思索に食い込んでいくようなイメージの一連に対して、 〈来たことのあるような場所に着いて〉急に現実世界に着地するような印象がありますね。 〈目抜き通りで/海岸線で〉このフレーズと、来たことあるような場所、とが、関連しているのか・・・。 感情の先端から、自分の過去の心情を探っていく、そんな作品と読みたい(作者の意図には反するかもしれませんが。)たとえば、恋人と初めて訪れた場所が、かつて子供時代に連れられて来た(かもしれない)記憶の場所であるような気がして・・・というシチュエーション。それも、過去の記憶の中に封印されていて、自分では掘り起こせないような記憶・・・そんなシチュエーションを想起しました。 (先端覆す。)

2017-07-30

〈職場は言葉を失うどころか笑いに包まれる。〉〈職場は嘲笑や失笑を越えて温かみに覆われる。〉 〈飲み屋での打ち明け話に、僕らはただ「そんなことは関係ない」と答えるだけだ。〉 一連目は、たとえば事故や病気で後天的に脳に障害を負った方をイメージしましたし、二連目は発達障害などのハンディを負った方をイメージしました。三連目と四連目は、精神的には「健常者」(一般的な用語法に於いて、と但し書きを付けます)であるけれども、貧困や虐待によって学びの機会を失してしまった方をイメージしました。 全体に、いわゆる社会的弱者、と呼ばれる方をイメージしながら、そこに弱さとか「庇ってあげなきゃ」とか、「守ってあげる」といった、「~をしてあげる」的な「強者」(健常者)の論理ではなく、ごく自然に打ち解けて、共に生きている状態を描いている、ように思いました。 後半、何度も繰り返される、天使になった、天国に行った・・・この文言が、いささかくどい様に思います。事実であるかどうかは問いませんが、突然いなくなってしまった、という喪失感を前面に出した方が良かったのではないか。たとえば、いつも彼が座っていた椅子が、不在のまま残されている。いつも笑いながらドアを開けて、おはよう、と言ってくれた時刻に、彼は来ない。彼、がいないことで、職場から失われた笑い、職場から失われた憩い、それらについて、改めて思いを馳せる、というような。 障害者施設での残虐な殺人事件から、一年たったところで提出された作品だったので、そうした社会批判的なメッセージが含まれているのか、と思ったのですが・・・前半の寡黙な展開を活かすためにも、後半をもう少し練り直した方が良い様に感じます。 (海江さん。)

2017-07-30

シずくをシずかに ユるやかにユらして といった頭韻、〈希望の水滴〉〈夏風の断片〉といった対句的表現、〈あるかもしれない〉といった反復・・・立原的世界というのでしょうか、ひとつの抒情世界を作りだして、その中で歌っていく、という流れが丁寧に展開されているように思いました。 〈情熱が溶け出した/真夏の色彩は/小麦色に染まる〉赤や朱をイメージしたところで、小麦色・・・黄金色でしょうか、色彩イメージがずらされ、どこに向かっていくのかと思うと、今度は〈夜空を超えた悲しみがある〉・・・赤から橙、朱色、そして金へと陽が落ちて行って、やがて青の夏の夜空に変化していく、その流れを描いている、のか・・・情熱と悲しみを対置しようとしたがゆえに、赤や金の暖色と青や黒の寒色とがイメージに現れたのか・・・冒頭から少女の悲しみ、について歌っているので、もしかしたら「情熱」は少女の恋、その恋が破れた後の悲しみ、という流れなのかな、と思いつつ。 対句や言葉の響きに意識を向けるあまり、具体的な悲しみの内容や、悲しみの質感、伝えたい強度、といったもの(希望に変化するかもしれないもの)が、うまく伝わってこないもどかしさが残りました。 〈小さな慟哭〉が、〈小さな陶酔〉に変わる、そのきっかけは何だったのだろう。悲しみの涙が、希望の一滴に替わる、そのきっかけが、きっとあったはず。そこにもう一歩、踏み込んでほしいように思いました。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-07-30

なるほど、色々な感想があるのだなあ、と思いつつ・・・軽めの日常会話が続いて、そこにポンと置かれた二連、〈ぼんやりとした日常が/はっきりとした日常へ/変わった その瞬間を/僕は恋と呼びます〉〈きっかけを見つける度に/ちっぽけに見える日々が/輝いた その瞬間を/僕は恋と呼びます〉ここで締めているな、という印象があったので・・・う~ん。 友情より、ちょっと色の濃いような、でも、なんとも名付けがたい想い、それをとりあえず僕らは「恋」と呼びます、というような、これが僕らの恋だ、というような、そんな宣言と受け取ったのですが・・・ 何が本当の「恋」だかわかりませんが(^_^;) 恋は、こんな爽やかな、日常がくっきりと際立って、鮮やかに匂い立ってくる、そんな肯定的なもの、だったろうか・・・自分自身を奪われるような、自分で自分の意志がままならないような、私、という枠を破壊されて持ち去られるような、そんな暴力的なものではなかったか・・・嫉妬や疑いや、そんなドロドロした、自分が抱えていることすら知らなかった暗部をいやというほど見せつけられて、それでも渇望して、そんな自分に苛立ち、相手に憤り、それでいて、ちらりとでも目があって、微笑んでもらえたら、一日幸福の絶頂に居られる、というような・・・そんな麻薬的な魅力を持ったもの、ではなかったか・・・と、振り返ってみる、のですけれど。 もう二度と、あんな思いはしたくない、と思う一方で・・・またもう一度、あんな焼け焦げるような思いに身をさらしてみたい、という思いもあります。やっかいですね、恋は。 (通学路)

2017-07-30

形の美しさ、レイアウトの美しさ、そこに、あえて意味を乗せていくことで生れるもの・・・ なんとういうか、男性側から見ると、いわゆる「できちゃった婚」も、これほどスッキリ美しいフォルムに整理できてしまうのか、という驚きのようなものがありました。倫理的なこととか、そういう余計なことを負わせようという思いがあるわけでもなく、もちろん、非難でもないです、と前置きしたうえで・・・できちゃったけど、どうしよう、というドロドロの悩み相談を持ち掛けられたり、逆に、あえて子供を(男を騙して)宿して、なんとか結婚に持ち込もうとしたり(これもまた、男性側とドロンドロンのトラブルになった)という、とにかくぐっちゃぐちゃの相談を幾度ももちかけられている、ので・・・そのたびに、まずは子供にとって、一番よい方法を考えよう、と、どうにもならない出来事をなんとかどうにかしようとしてゴニョゴニョ、ああでもないこうでもない、と話を重ねながら・・・結局、想定外の妊娠の際に仕事を辞めなくてはいけないのも女性だし、時には子供の「命を絶つ」という最悪の決断をして、一生、トラウマのように引きずるのも女性だし・・・という女性側から描いたら、どうやっても、こんな風にスッキリと美しい形、にはおさまらないだろうな、というような・・・なんだろう、知恵の輪みたいにぐっちゃぐちゃの、こんぐらかった網の目のような感じになる、かな。とか・・・(何度もいってますが、非難とか、批判ではないです!ただ、スッキリ具合に、驚いた、ということなので・・・) 横からみたら、女性が子を宿す、孕む形、とも見えて来る・・・もっと丸さを意識して、結婚というような制度的なことよりも、妊娠とか出産という生理現象と、詩を産む、言葉を生む、というようなアナロジーとを重ねていった方が、より(意味的には)面白いのではないか、という気もしました。 (結婚)

2017-07-30

911と311・・・一方は人災、他方は自然災害と言えなくもないですが、やはり人災の側面のある、悪しき記念の数字・・・この、象徴的な出来事を、私たちは言葉で表現し得るのか?というような問いかけなのか、と思って読み始めたのですが、そういうことでもなさそうだし・・・その時、日本の文壇は何をしていた、という問いかけというか、問題提起なのか?と思ったのですが、そういうわけでもなさそうだし・・・ ポッカレモンと牧歌檸檬、これは語呂合わせなのか? 吉里吉里人は、あの作品を念頭に置いている、のであろうけれど、両者を対置する理由は、なんだろう・・・ 大量に投下された、言葉のマッスというのか、量塊のような部分は・・・自動筆記と呼ぶほどには自由に任せたという感じではないし(意識の制御の元にある、印象)かといって、意識の流れ、というほど、向かっていく方向、進行具合が見えるわけでもなく・・・改行詩の部分の飛躍具合は面白いけれど、いま一つ(私の力量では)全体への効果にしても構成の意図についても、つかみがたく・・・ 〈ノイズ。 またアメリカが降り始める。〉 この終行、予言のようで、ドキリとさせられますね。 (911+311=1222)

2017-07-30

kaz.さんのコメントを拝読して、なんというか・・・知識が多すぎるのかな、という印象がありました。知識を得た時に、その発見から何を感じたのか、何に驚いたのか、どうして驚愕したのか・・・なぜ、そのことを人に伝えたくなったのか、というような・・・ kaz.さん発信の部分が、そのきっかけとなった知識の陰に埋もれてしまって、他者に伝わりにくくなっている、ような・・・人によっては、知識の開陳だ、と煙たがる人もいるかもしれません。私はそうは思いませんが・・・純粋に、感動がその原点にあるはず。 子規の(ある種、極端にデフォルメされた)写生論にも通じるものがあるけれども・・・芭蕉(あるいは芭蕉のエピゴーネンたち)へのアンチテーゼとして提出されたものではありますが・・・自身の心を動かした「実景」を、いかに他者にそのまま手渡すか、という、即物主義のような発想。即知識主義、なんて表現があるのかどうか、わかりませんが・・・言葉の多さ、語彙の豊富さのもたらすハレーション、その弾けた先にあるものを、どうしても見たい、と(私は)思ってしまう。 数字の神秘に感動して、魔法陣の詳細な解説を延べている「散文」を読んだことがあるのですが、その思い入れの強さと、気持ちが先走って論理を飛び越していく勢い、そこから紡ぎ出された文体は、これは詩だ、と感じさせるものがありました。ご本人は、いかに自分が魔法陣の神秘に感動したか、そこにこだわって述べている、だけだったように思いますが・・・。関係ないことばかり書いてしまいましたが、雑談的に読み取って下されば幸いです。 (911+311=1222)

2017-07-31

はずむようなリズム感が楽しい作品ですね。台風の夜のワクワク・・・これは、〈丈夫な船に乗っているから〉でもあるでしょうけれど、信頼できる家族(両親とか)と共に、家の中という安全な場所にいる、ということの喩でもあるような気がしました。 嵐がやってきた時に、家族で(母の腕に抱かれて)過ごした、非日常の楽しさ、面白さ。子供時代にはそれだけで済んでいた、かもしれないけれど・・・大人になった今は、翌朝の町の汚さ、役割を奪われた者の悲しさ、が見えてしまう。祭りの後の静けさというのか、乱れた虚ろな感覚まで、気づかされてしまう。そんな内的な対比を描きたかったのか・・・と思いつつ・・・冒頭の台風の夜にワクワクしている、という高揚感と、僕等はゴミのない街が好きだ、という冷静な感覚、その変化のわけと、ガラスの海、というイメージがどこから出てきたのか、という謎について、作者に聴いてみたいと思いました。 (ガラスの海で)

2017-07-30

文化遺産や歴史遺産を「人質」にとって、自分たちの短期的、短絡的な欲望を満たそうとする・・・この不毛性と・・・文化遺産を守るために、失われる命の問題と・・・。 ドレスデンの再建に関する、詳細なドキュメントと人々の情熱を見て、圧倒された想いがあります。 〈皮肉にも、ドレスデンは、(そして京都は、)最も歴史的に尊ばれ美しいからこそ、攻撃の標的になり得たかもしれないという。〉この一節から、私はなぜか『金閣寺』を思い出したのですが・・・ 〈連合軍はこの芸術の都には手をつけないだろう、とナチスの将校達が楽観していたから〉この一節から思い出したのは、ヴェルコールの『海の沈黙』でした。ナチスの将校ですら、芸術の価値を理解し、愛することが出来た・・・それなのに、戦場で「やむを得ず」行う非道ではなく、極めて冷静に、緻密に、論理的に、ユダヤ人撲滅という非道を実行したのは、なにゆえか・・・ハンナ・アーレントの映画がしばらく前に話題になりましたが・・・集団心理の謎について(そして、その謎が解けない限り、また再び、起きるとも限らない)考えざるを得ません。南京の虐殺にせよ、ルワンダの虐殺にせよ、ISの虐殺にせよ・・・ナチスほど組織立って、論理的かつ周到に行われた例は、未だかつてなかったように思いますが、一度はあった、ということは、これからもまた、あり得る、ということでもある。 その時に、文化遺産や、文化遺産を愛する気持ちが、人間性の最後の砦、となり得るのか。なり得てほしい、と強く、願いつつ。 (ダグマ Ⅲ)

2017-07-30

花緒さんの評に、テーマがまず鮮やかに切り取られている、と感心すると同時に、ひょっとこ面の意味合いを、個人的にもう少しよく考えたい、と思いました。 この作品のユニークさは、まずはクロコとして、祭りを盛り上げたり、下支えしたりする「立場」から逃げ出した自分、を、見ている自分がいる、というところ、ですね。 そして、現代社会や会社組織などの喩であるのか、と思いながら読み進み・・・そこから逃げ続ける自分が、むしろ逃げることによって〈祭り〉の「賑やかし」となってしまうばかりか、人々が〈塊、追手となる〉(そのように見えて来る)悪夢のような事態にまで発展する・・・その時に思い出すのが、〈愉快だった幼い頃〉であり、〈誰でもなくて俺だった記憶〉である、ということ。童心を思い出したところで〈腑に落ちる〉。何が、腑に落ちたのか。自分の望む者に、いつだってなれる、成りたい者に成れる、という、自分の未知の可能性を思い出した、のではあるまいか・・・。 腑に落ちた語り手は、ひょっとこ面をつけて、共同体に戻っていく。クロコとして、影の存在として祭りに参加するのではなく、そこから逃げ出すことによって皆の慰み者になる、のでもなく・・・自ら、祭りを盛り上げる仮面をつけて、よし、祭りに参加してやろう、俺が笑いの主役になってやろう、と、自らの意志で「祭り」に戻る。 会社でも日常でも、バカバカしすぎることなのに、必死に全力投球しないと乗り切れない、そんな・・・これは祭りだ、とでも割り切らなければやっていけないような狂騒が、日々起きているのではないか、という気がします。その「祭り」に、どのように関わっていくのか。意図的に演じる道化。その俺を、終始一貫して見つめている、書き手としての俺。 言葉のリズムも心地よいですし、よく吟味され、凝縮された作品だと思いました。 (腑に落ちる)

2017-08-02

この作品、すごく良い、と思ったのですが・・・アーカイブで見たら、三作目ですね。 うっかりミスの投稿であれば、8月投稿扱いにしていただけるかもしれません。 (腑に落ちる)

2017-08-02

構成が非常に面白いと思いました。〈ですからつまらないものをつまらな〉と、途中で打ち切っている感じになっていて・・・第一連?への応答、なのか、と思いきや・・・これはこれで、「つまらない詩」として独立したものとしても読み解ける(笑) 独立、という言い方も変ですね・・・前の内容(の無内容?無意味さ?)を受けながら、次へとつないでいく、のりしろのような役割を持っている題名。 後半は、〈愛〉を語る不能性というのか、不毛さを〈愛を売る/詩人は/嘘つきだ。〉と痛快に締めたところで・・・その詩人(であるかもしれない)〈I〉が、遠くから訪れる〈雨〉を受け止めようと腕をのばすような映像が浮かび、さらに、その〈雨〉を受け止めた〈I〉が、「芥子粒」のような存在であることに気付いて・・・〈詩を書きながら/少しずつ/僕を消していた〉という状態に至る。 自分が〈まぼろしの明日〉を探しに行く、という、自我が自ら世界を求めていくところから始まって、つまらない、そうではない、というような水掛け論や愛とはなんぞや(自分にとって)という不毛な議論を重ねている間は、自分に囚われている、とも言えますね。自我が全開になっている、というべきか。それが、はるかな場所、自分を超えた場所から訪れるものを静かに待ち受ける、という姿勢を取るようになったときから、少しずつ変わり始める。 詩を書くことが、自分を刻印していく、自我全開の行為から、むしろ、自分を消していく、世界に同化させていく、世界の受容器になっていく・・・そんな変化が、〈I〉に訪れたのかもしれない。そんなことを想いました。 (無題)

2017-07-31

読みやすさと、切々と胸に迫って来るような感じと・・・疑いながら、もしや、という可能性にかけた主人公が、惨めに(無様に、非情に)裏切られるところ・・・なんとも残酷ながら、なぜか爽やかな読後感がありました。ウシオが打ちのめされておらず、むしろ〈彼らはきっと学校という複雑な人間関係の中で身も心も擦れ切ってしまっているのだろう。〉という、ある種の達観にまで達しているから、かもしれません。 〈「この汚い世の中で、例え心が擦れようとも大事な所を守る芯の部分だけは純粋なままであり続けよう」という信念〉という、荘厳、といってもよい信念と、その形としての表れが「白いブリーフ」という滑稽さ・・・泣き笑いしてしまいそうな、そんな人間の崇高さと滑稽さとが、軽めのタッチで(重いテーマを、重くなりすぎないように息抜きさせながら)描かれているように思います。 最後のところ、読者にトリックをしかけている、のでしょうか・・・家から「白いブリーフ」を持ってきていた、はずのウシオが、いつのまにか、夕日を浴びながら裸で(下半身だけ?)立っていて、おもむろにブリーフを穿く・・・〈ひとしきりの狂騒の後〉という一行、ですね・・・書かれてはいないけれど、・・・わらわらと出て来たクラスメートに脱がされる、という、更にひどい虐めを受けた、のか・・・いずれにせよ、夕日に向かって、堂々と立つ、ウシオの姿が凛々しいと思いました。 (白を信じて染みが付く)

2017-08-01

〈しかし、あの色素が薄く清楚で可憐な黒髪の乙女である無垢の権化のようなモモミヤさんがイジメに加担するとは思えず〉白、の権化であるようなモモミヤさんを信じたのに・・・という切なさ、ですね、私が感じたものは。書き忘れました。 (白を信じて染みが付く)

2017-08-01

綺麗なイメージの作品ですね。 大好きな茨木のり子さんの「みずうみ」の、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ//田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは/話すとわかる 二言 三言で・・・〉という一節を思い出しました。茨木さんの作品は、確かに誰かの心の底にある湖、のこと、ですが・・・二つ目の心臓さんの作品では、世界そのものが湖のように思われる朝、のことを歌っている。ここでの〈あなた〉を、語り手を取り巻く世界そのもの、であると受け止めると、より大きくイメージが広がりますね。 後半、うつくしい、という語を何度も記しておられますが・・・二つ目の心臓さんが感じる「うつくしさ」とは何か。うつくしい、という一語に集約してしまうのではなく(人によって、「うつくしい」と感じるものや、その質感が大きくことなるので、受け止める側に大きな幅が生まれて、曖昧になっていく、拡散していく、ので)青い湖の底にいるような朝、の美しさであったり、そこで出会った微笑みの美しさであったり、きらりと光る道端の小石の美しさであったり・・・そんな具体的な景に、もっと触れていくと良いかもしれない、と思いました。 (みずうみ)

2017-07-31

この度はお日柄もよく、から始まって、この旅はお日柄もよく、と締める、枠構造。 足もとの悪い中・・・という、いわゆる定型口上の型枠だけ用いて、その中にナンセンスに言葉をはめ込んでいくセンスが絶妙と思いました。 〈塩味とまる味〉は、塩辛さとまろやかさ、その両方の喩でありつつ、その後の〈親切設計のまあるい彼の後頭部〉に繋がっていく。ひっすのさいえんす、というような音の運びや、冬のイメージが、スープ、温かい自販機、毛皮のミンク、と、関係性は寸断しながら、連想でゆるやかにまとめていくような言葉の斡旋、緑化/流浪の民、のイメージから引き出される砂漠(のような殺伐とした空間)と、〈2時間目からは着席してノートを取り〉というフレーズから、一気に学校のイメージに飛ばされるような空間の取り方。ノートを取りアリアを~が、ノートを取り・・・こんなのって、あり?と投げかけられた感もありました。 キリンのフレーズは、なんとなく「じゃがりこ」の、ギャグを連発するキャラクターの図を思い出しながら読んでいました(笑) この作品と「じゃがりこ」は関係ないかもしれないけれど。 〈お客さま〉は、いったい何を買わされる(あるいは契約させられる)のでしょう。気になる一作です。 (ケーブルサラダ・フレーズドレッシング)

2017-08-02

「灰色の丘」の迫力と比べると、この作品の緊迫感は、いまひとつ・・・というところなのかな、と思いました。比べると、という言い方も変ですが・・・。 「埋め立てて」の方のインパクトと幻想性、意味に拠らない意味(というのも、これまた変ですが)世界観の映像化、というようなダイレクトな感覚・・・の方が、ずっと迫力はあると思いました。 〈君は依然として動かずに すらりとした背骨を伸ばしたまま テレビのほうを向き続けている〉 〈俺〉の方を向いていない、かといってテレビから流れるAVにのめり込んでいるわけでもない。 〈君〉は、映像の中の虚飾を実地で確かめた後、なのか。演技などしてやるものか、という意志の表れ、なのか・・・〈俺〉が、〈君〉の態度に焦りを覚えているのか失望しているのか満足しているのか・・・という心情が、まるで伝わってこない。伝わらないように抑制している、そこが眼目であるのかもしれないけれど・・・世界の傍観者のように〈君〉を見つめ、〈君〉が見ている(興奮も高揚感も与えてくれない)映像を見つめている〈俺〉とは、いったい何者なのか。 〈一切干渉できない〉〈今は感じられない〉このフレーズから、激しい交感を望む〈俺〉と、それを拒否する〈君〉との関係性を描きたかったのか、女性の感覚についに同化し得ない男性を客観視しようとした、のか・・・映像喚起力は強いけれども、その関係性を通じて言わんとしているところが、(他の二作と比べて)どうもいまひとつ伝わってこない、そんなもどかしさを覚える作品ではありました。 (氷の女王)

2017-08-02

うじ、わし・・・マギ、マザー・・・音が微妙に連なっているのに、意味が見事にずれていく(ずらし、ではないですね、既に切り替え、という領域です)ところが、読みの面白さになっているように思います。この短さでキリッと締めて、成功だったのではないでしょうか。 〈植物が茂り始めて/悪徳の栄え/雨期を忘れて〉善悪といった、人間的な論理を越えて繁茂する感じ、あふれ出す感覚・・・雨期には「浮き」や「憂き」のニュアンスも含まれているのか(勝手に読者が喚起するだけかもしれませんが)「悪徳の栄え」が固有名詞でもあると同時に普通名詞(!)のようにも見えて面白い。 〈又医者に成って仕舞う〉で止めないで、〈気分をどうすることも出来なかった〉と、とぼけた調子で付け足したところで、題名に回帰する。なぜ医者になるのか、さっぱりわからないのですが(笑) 異常な状態に繁茂したもろもろを、また正常に復帰させる・・・そんな「医者」的な要素が働いているような気がしました。 (又医者に)

2017-08-01

VIP KIDさんの批評に重ねていくならば・・・なぜ、ありきたりの語句で、ありきたりの情景描写が必要だったのか、ということを、もっと切実に考えていく必要がある作品だと思いました。 〈あらゆるものがあらゆる目的で存在し〉ている穏やかさ、安定感。あるべきものが、そこにある、という、ごく自然な感覚。その中に、母と子もいる。最終連まで、母と子は、二人並んで歩いているイメージなのですが・・・最後になって、車いすを押す母の姿が垣間見える。 ひまわり、のように首をゆらしながら、息子に日傘をさしかける母と、その母に〈果実のような〉笑顔を向ける少年が、ごく自然に、街の情景に溶け込むように存在している、その光景に、作者は感動したのではないか。 〈ふたたびおだやかに夏は浸透して/蝉時雨はふと現実に戻っていた〉 母と子の姿を見た時、作者の世界は「光景」だけになって、音が消えたのだろう、と思います。 その消えていた音が、また戻って来る。せっかく、その衝撃の片鱗を描いているのに、表現がさりげなさすぎる、という思いはあります。 一連目の、母子の登場のあと、ひまわりがそのままつなげられていますが・・・2人が現れ、音が消えた衝撃、釘付けになる視線、そこをもっと、書き込んでもよかった、ように思います。ひまわりのイメージも、この位置でよかったのか、どうか・・・車椅子に関して私が誤読していれば、全ては意味の無い議論になりますので、ご容赦ください。 (夏の横断歩道)

2017-08-04

メビウス、という題名は、メビウスの輪、を暗示するのでしょうか。 最初の四連が、冷静な状況説明の印象、後半が焦燥感や孤独感といったナマの感情を吐露していく印象なので、四連目の後に*を置くなどしていったん区切り、後半はもっと言葉の区切りや改行を乱してみたり、言葉を畳みかけていくなどして、気持ちが募っていく焦燥感を音楽的にのせていく・・・そんな実験をしてみるのも、ひとつの手かな、と思いました。 (「メビウス」)

2017-08-04

ご返信ありがとうございます。 音楽的に・・・確かにわかりにくいですね(笑) 〈起承転結を交響楽的に言い換え〉た言葉です、おっしゃる通り。 言葉の韻律の美しさや、畳みかけていくスピード感なども、「音楽的」と言えなくもない・・・難しいです。 たんたんと、抑えたように進んでいく前半と、わあっと盛り上がる感じ、になっている後半のメリハリが面白い、と思う一方で、後半は、前半で言い足りない部分を、もう一度重ねていく感じの、反復的な部分なのかな、という印象もあり・・・だからといって、あえて区切ってその別をはっきりさせた方がよいかどうか。これは、作者の判断にお任せするしかないです。ただ、意識的に二度目を重ねて、変奏しています、と分る様に表現した方が、なんとなくつなげてもう一度反復しているのかな、という印象よりも、工夫している感じが伝わるかな、と思った、のでした。 (「メビウス」)

2017-08-06

魅力的な作品ですね。 全てが「創作」「フィクション」であるかもしれないし、実際に見た「夢」の「自己分析」であるのかもしれない。 どちらでもよいと思うのですが・・・際立つのは、溝口さんという、本来仮想の存在であるはずの人物が放つリアリティーと、その夢を見ている主体、であるはずの肉体の・・・実在感の稀薄さ、です。 ユング的に言うなら、自身のアニマとの邂逅、ということになるのでしょうか・・・本来は夢見る主体であるはずの〈わたし〉が、まるで〈わたし〉自身の影のような存在として描かれていることがインパクトとして迫ってきます。希死念慮を持った主体(男性)と、その主体(影のような暗さに満ちた存在)の内部で様々な〈光〉を集め、その〈光〉そのものとなろうとするかのような不思議な体験を繰り返す女性。 事後性、反復・・・術語を使うことに、意味はないですね。女性の消滅は、主体への吸収であるとも捉えられますが・・・つまり主体は、溝口さん、という存在によってしか行えなかった〈かすかに差し込んでくる薄い陽光のうち必要なものとそうでないものを弁別していく作業〉を、自ら行うことが可能になった、ということを暗示している。 それと同時に、溝口さん、という仮の存在は消えてしまう、わけですが・・・消えてしまったがゆえに、その存在感、とりかえしがつかない、という切なさ、焦燥感、遺された謎・・・が深まっていく。その謎を解くために、主体は再び、溝口さんが居た時、に戻らなければいけない。しかし、戻るということは、主体と溝口さんとの「止揚」がとりあえず終了し、自らの内部と外部が「和解」している状況から、乖離している状況、苦痛であった時点への回帰、を反復する、ということでもある・・・。 語り手が、溝口さんの居た場所に戻ることによって、何を得るのか。どんな語りがそこから生まれるのか。展開に強く興味を惹かれました。 (溝口ノート(一))

2017-08-07

これはまた、ユニークな作品ですね。 無数の「宇宙」の重層性。一人一人がミクロコスモスとして存在している、その心の在りようのようでもあります。 そして、ひとりの人、の中に、また複数の、ミクロコスモスへの入口がある・・・。 宇宙間を《波》が〈伝播していく〉。すると、〈届けられた《波》は/音楽や/絵画になる/そのあわいできみたちはみたされ/漂う くらげのようだった〉ここは、詩であると共に、詩論・・・詩想がどのように生み出されていくか、という思いを、イメージによってあらわしている、そんな印象を受けました。 きみたちって、誰だろう。精神と意識と心・・・そんな一般的な普通名詞に置き換えてしまいたくはないですが、語り手の内部で生き生きと蠢いている、妖精のようなミューズ。座敷童のような、詩想の運び手。そんなイメージで読ませていただきました。 (units)

2017-08-07

なんとも懐かしいような、斬新なような・・・ 凸凹配位座、科学や物理、あるいは工学の術語のような、それでいて、この詩の世界ではごく一般的な日常用語のように用いられている。そこにマジックがあり、作品を作者の世界に引きこんでいく魅力がある、と思いました。それにしても、故郷の気配、のような、なんとも捉え難いものが、手のひらの間に漂っている、なんて・・・ネイティブアメリカンの「ドリームキャッチャー」というものを見たことがありますが、それがふわふわと、たんぽぽやあざみの羽毛のようにただよっている、そんな幻影をっ見ているような気がしました。 村祭り、月の暦、かつては当たり前であって、いつのまにかうしなわれてしまった感覚。 賢治の『銀河鉄道の夜』の中で、サギの足がチョコレート?になったり・・・そんな「不思議」が、当たり前のように描かれていることが今でも鮮明に記憶にあるのですが・・・スクガラスって、何だろう。銀色の魚(地方名)を基にした、何かの料理?と理性では想像しつつ、なぜかステンドガラスのような、美しい衝立のようなものを想像してしまう(言葉の神秘、でしょうね)スク網が、まるで星をすなどるための網、のように思われて来る・・・。 子どもの頃に眺めた村祭りの幻想的な美しさ、大人になると、なんとなくシラケたり、色褪せて見えたりする世界が、子供時代のままに新鮮に立ち現れてくるような、不思議な回想。 目を閉じた世界では 凸凹配位座はいつまでも漂っていて 地球のちぎれた塊でしかない月との合間にも 繋ぎ合った手のひらの合間にもある そしてまだ当たり前のように 僕らの細胞のひとつひとつにすべりこんだりもする 〈凸凹配位座〉を手に入れることができれば、きっといつでも、そんな子供時代の想い出を取り戻せるのかもしれませんね。 廃線の(失われた)路線になる、幻想の踏切の音、キリコ(ガラス)の灯、虫送りの火、月明り・・・影絵のような美と、田植え、スク網作り、馴れずし・・・季節感豊かなテーマを、丁寧に追う構成が、安定した美を作りだしていると思いました。 (月の村 (L))

2017-08-05

抽象的、観念的な題名と、愛、という、これまた抽象的、観念的な言葉から立ち上がる一行目、その不確かさ、曖昧さを、作品全体がどのように具体的な・・・手触りあるものにしていくか、という「経過」「過程」を味わう作品なのかな、と思いました。 長い、物語のテクストがあって、その中の言葉を切り出して並べていくような断裂した感覚、その断裂具合が作りだす、独特のリズム。ノートに書きつけられた断片を集積していくような、思考の過程が記録されていくような進行が、黒髪さん独自のテイストを作りだしているように思う反面、連綿と並んでいくような形だと、ついていくのがつらい、という、読みがたさがありましたが・・・ 今回の作品では、連分けを上手く用いて、 〈傷跡を治せ〉と〈時〉に呼びかけるプロローグ、善悪の葛藤、嘘と混乱の中で〈私は心臓の部分を叩きつける〉と強度を持った一行が光る二連、自己啓発的な三連と、〈時〉が訪れたことを暗示する四連を経て、トンネルという具体的なものを寓意に用いた、実感のある(体感的に伝わる)五連が置かれる。呼びかけを含む六連のエピローグは、誰に向けられたものか。五連の最後に現れる、〈あなた〉に向けてのものか・・・だとすると、〈不在〉は、〈あなた〉の不在、なのか・・・ 〈張り詰めた空気の中に雪が降り始めて〉この一行も美しいですね。冷たい、悲しい、嬉しい、という相反する心情。〈あなた〉という幻想から離れたから、雪が降るのか。〈あなた〉に出会うことで、トンネルを抜け出すことができたのか。〈あなた〉は、水槽の中の〈私〉を見つめる視線なのか・・・ ハァモニィベルさんの読みにほぼ重なりますが、やはり、〈あなた〉と〈私〉の関係性、さらに、最後に呼びかけの形が用いられる理由、そのあたりを、もう少し踏み込んで聞かせてほしい様に思います。 (不在)

2017-08-04

ハァモニィベルさんが「再登場」しているので、私も「再登場」しますね(笑) ハァモニィベルさんの真面目さというのか、誠実さ、文字だけでみると、初読の方には怖い感じにみえるかもしれないな、という気がしたもので・・・(黒髪さんが、そう感じない、ということであれば、スルーして下さい!) 「不在」というのは、    他の何よりも、誰よりも それが《心》の中に存在する   と、いうことです。 この定義、とてもわかりやすくていいですね。このまえ、なかたつさんの作品「縁」でも、「不在」という観念語(に対する、個々のイメージの違い)面白いなあ、と感じたばかりです。 観念語は、様々な具体的な経験や体験から抽出されて、ひとつの言葉の裡にまとめられていくもの、ですから・・・人によって、同じ「不在」というラベルが貼られた箱であっても、中身がずいぶんちがう、ということも多々起こり得る。 ラカンは結構、難解な書物で、私も難渋しています。誰もが読んでいるわけではない、と、申し添えましょう(黒髪さんが、もちろん読んでます、ということであれば、これまた失礼) あなた、が不在であるがゆえに、より一層、つよく思い起こさせられる、ということなのか・・・あるいは、その不在を思い起こすと、私の心が千々に乱れる、という、その乱れをテーマにしたかったのか・・・あなた、という対象を描きたかったのか、不在、という情況が生み出す、私、の状況を描きたかったのか・・・というようなことを、知りたいなあ、と思います。 (不在)

2017-08-06

はじめまして。 音、が鳴った瞬間は、音、でしかない。その音、の連なりが喚起する音楽・・・その感動や抒情は、いったい、どこにあるのか・・・音と音の間の出来事の記憶。その連なりは、音節の連続が生み出す言葉、詩作品が生み出す余韻にも似ています。 音楽や詩から生まれる「詩情」の行方を尋ねる作品なのか、と思ったら・・・〈白くなってゆく僕の左手/苦しみの花びらや/呼ばれはしない待ち人の/指輪をはめてもいい時を待つ〉結婚、というひとつの象徴的なイメージが置かれる。白くなってゆく、というイメージは、血の気が失せていくイメージ、なのでしょうか。心がとうめいになっていくイメージにも重なりますが・・・夢想の中に入り込んで、自らの存在感が消えていく感覚、夢想の時空に、自らが融けていく感覚を想起しました。 具体的な、恋人のイメージが現れないこともあり・・・音と言葉の婚姻とか、イメージと言葉の結婚、といった、観念をつなぐものとしての「指輪」を連想しました。〈苦しみの花びら〉甘美な表現ですが・・・苦しみを感受するとか、現れない恋人を待つ、というイメージが生み出す切なさ、とか・・・具体的な事象によって喚起されたイメージよりも、シチュエーションを夢想することによって心が誘われる感覚を捉えようとしている作品のように思われました。もう少し具体性が強い方が、作者の肉声というのか・・・真情が、より切実に伝わるような気もします。 (指輪)

2017-08-07

魅力的な題名ですね。 〈夕暮色の心臓を抱えて/一番低い空気を吸う〉腫れあがった心臓を抱えて、大地に付すイメージ。 公園、と二度繰り返す畳みかけが、功を奏しているか・・・二度目の「公園」は、大地とか地球とか、なにか別のWordに切り替えた方が、〈傷溜まりをまたいで〉というユニークな言葉が生み出す異次元世界への導入がスムーズになるような気がしました。 〈美しさだけが爆ぜる羽の心臓/美しさだけが爆ぜる羽の胎児を見て〉 印象的なリフレインですが・・・心臓に羽根が生えていて、そのまま飛翔していくようなイメージ、でしょうか。その赤剥けの心臓が、胎児のイメージに変容する、のか・・・。〈落下するように止まった〉ここで再び、地上に回帰した感もありますが、〈秋から夏へ落ちる茜〉ここで時間が逆行している。それだけ大きな展開をするのに一行だけで表現するのは、さすがに凝縮しすぎている、というべきか・・・この一行が付けたしのように見えてしまって、もったいないような気もします。 今、この場所から飛び立ちたい、離れたい、という想いは強く伝わってきました。 (羽の胎児)

2017-08-04

どちらが「本作」でどちらが「習作」なのか・・・ 草花ノートが、サンプリング&コラージュ&連想リミックス&・・・という形でどんどん変容しながら、先へ先へと進んでいく。きっかけから進んでいく過程をロードムービーのように写し取った感じがあるのですが、作品創作、という明らかな意図がある、野に対して・・・こちらは想いをそのまま叙述していく、そんな自然さがありますね。 〈僕の悲しみは暴れ馬のようにのたうち回っているので、 手綱を雑草に委ねました。〉から始まって、〈気高い雑草は僕に謝られるのを何時も拒みます。〉 名付けられ、区別され、自分よりずっと後に生まれて来た「人間」が偉そうに 「これは雑草」「これは益草」「これは美しい」「これは醜い」と呼ぶのを、どこ吹く風、と受け流している。 雑草、と呼ぶこと自体、人間の思い上がりですね。せめて野の花、街の花、路の花・・・と呼びたい。 カヤツリグサが好きで、見つけるたびに「線香花火」と思いながら、じっと見つめていた時のことを思い出しました。 永遠に消えない、線香花火。 〈生命をデジタルのように再現するでなく、 思い出は再生を繰り返し、そしていつか色褪せて尽きろと言う〉 〈謝られると、 許したり、許さなかったりしなくてはならないではないか?そんなの面倒〉 〈雑草は誰かに枯らされたり殺されたりする前に、自分の意思で枯れ、 自分から死ぬ〉 〈雑草は、他人に罪を被せません。だから僕は安心して、 僕の悲しみの暴れ馬を、雑草に委ねているのです。〉 自ら生きて、自ら死んでいく潔さ、誰に何を言われても、何を思われても、ありのままを生きて、ありのままに死んでいく。永遠にその姿をとどめて欲しい、などという欲望すら持たないのだろう・・・ひととき、誰かの心に咲くことを、もしかしたらかすかな悦びとしているのかもしれないけれど、それすら、気づかないように、黙って咲いている野の花。 (草花ノート あとがき)

2017-08-06

切りつめられた詩情が、凝縮されて連ねられている。そんな読後感でした。 自由律短歌の連作を読んだ時の感覚に近いのですが・・・このように断片を連ねて「詩作品」となす場合、6連の構成に、もう少しドラマティックな構成を加味した方が良いような気もしました。あるいは、3、4連の挿入エピソードのような「転」の部分を、一字下げにする、など・・・ 1、2、5、6連。具体的な「戦争」という事ではないのでしょうけれど、経済戦争を行っている「社会」に出て行って、殺されてしまった兄・・・に重ねながら、同じように殺されていった読者諸氏への哀悼歌であるようにも感じます。 五行一連の構成の美しさ、形式性が生み出す整然とした秩序のイメージ。枠を設定することによって、逆に予想外の言葉が引き出される可能性・・・は大事にしたいけれど、今回の作品に関しては、もっと自由に崩してもよかったのではないか・・・若干、無理やり引き出した行があるようにも思われ・・・本筋から離れることで意識を逸らしつつ、また本筋に戻る、といった、エクスカーションの楽しみを与えてくれる行でもありますが・・・そのエクスカーションが、あまりに頻繁だと、読者に煩雑な印象を残しはしないか。そんな感想を持ちました。 (小夜瑠璃物語)

2017-08-07

渚鳥sさんへ  ユニークな解読をなさいますね。この作品に、この作品を「用いて」不都合な存在を黙らせようとする・・・意図は、私には読み取れませんでした。 それから、率直な感想や批評のやり取りを奨励する場ではありますが、否定的、批判的コメントを伏すとき、気持ち悪い、というような感覚的で短文のコメントは、思わぬ誤解を生むことがあるかもしれません。 もし、渚鳥sさんが、まだ未読でいらっしゃるようでしたら、マナーガイドラインをご一読頂ければ嬉しいです。http://breview.main.jp/index/guideline/ (小夜瑠璃物語)

2017-08-07

コメントを伏す➡コメントを付す、の誤記です。編集機能が無いので、こちらで訂正しておきます。 (小夜瑠璃物語)

2017-08-07

一連目、思いが先走って、言葉が後から追いかけていくような切迫感が印象に残りました。語尾の処理の仕方の生み出す印象だと思います。この連では、重油で真っ黒に汚れた海のイメージですが、次の連で〈くらいくらい現実がただそこに居る〉と抽象的なところに踏み込んでいく。〈言葉で触れられず〉現実とか言葉、といった抽象語がストレートに出て来る、そこがわかりやすくていいな、という思いと、〈海〉が現実の海のイメージと心中の海(自分を取り巻く世界の比喩)の二重構造になっている、ということを、もっと先になって明かしてもよかったかもしれない、という思いの、双方があります。読者に、途中まで「海の汚染」の話だ、と思い込ませておいて、途中から、あれ?と気づかせる、先へと引っ張って行って、後半で「なるほど!」と明かしていく、ようなやり方、ですね。もうちょっと、推敲してみようかな、とか、予想外の驚きをもっと加味してみたい、と思った時、実践してみても面白いかもしれません。 〈はじめての挨拶をして ただおかえりが繰り返される日々〉日々が、美しい海のまま、波となって打ち寄せて来る、そんな夢を抱いていた、という思いと、その海が(日々が)汚されてしまった、という悲しさ、寂しさ。 最後の〈宝石ひとつ加えた海鳥の飛翔〉嘴にくわえた、でしょうか? 持ち去られた宝石のイメージなのか、汚される前に海鳥が救出してくれたなにか、の結晶体、なのか・・・魂の飛翔のイメージに重ねているのであれば、きっと真っ白な鳥でしょうね。 (よごした海、しぶきあげて海)

2017-08-06

レスの応答を拝見しながら、本当に色々な立場からの知見やご意見を得られる場になって来たなあ、と思いつつ・・・ よく、多面体のクリスタルが虚空に浮んでいる、そんなイメージにとらわれます。語り手としての私、は、そのクリスタルの中央に閉じ込められていて・・・一面からしか、外を見ることができない。それも、自分でその「面」を選ぶことは出来ず、他者によって光を当てられた面しか見ることができない。それも、他者が見ている外側から、ではなく、内側から、しか、見ることができない。光を与えてくれている他者との間に、そのクリスタルが壁面として存在していて、私と「あなた」とを隔てている。そのもどかしさも含めて、不自由にあがくばかり。でも、それだからこそ、できるだけたくさんの、多くの「他者」によって、多方面、多彩な方向から光を与えてもらいたいし、その無数の蓄積によって、なんとなく「外側」から眺めたクリスタルの全体を、思い描くことができるようになる、のではないか・・・とまあ、そんなことを考えるわけです。それを詩に描けたらいいのにな、と思いつつ、散文で説明する形でしか、今はまだ、お伝えできないのがもどかしいのですが・・・ (よごした海、しぶきあげて海)

2017-08-26

自分への呼びかけが、他者への呼びかけになる。 自分自身を、ひとりの他者として尊重できるようにする、 これもまた、とても大切なことなのだと・・・いつからかは忘れましたが、思うようになりました。 〈夜の匂いがしますから〉夜の匂いの中で、他者の息吹に耳をすませる。 ネットの明りではなく、人の営みに目を向ける・・・ 優しい言葉の、決然とした意志を感じる詩だと思いました。 (今を)

2017-08-06

ファイブ・ペニーズ、この題名が喚起する借景のようなイメージ・・・親娘の情愛、悔恨、音楽への情熱、絶望と奇跡のカムバック、尽きることのない友情・・・に、作品がどのように関わっているのか。 五連構成で、ひとり、が耳を傾けるところから始まる。ひとり、が感じる〈埋めたい距離〉は、ふたりなら埋まるのか・・・そっと、じっと、といった促音が生むリズム、読みの呼吸に合わせた流れが美しいと思いました。 二連目、〈何かを通わせたい僕と君〉ふたりのリエゾン・・・2人でいるのに、あるいはいるがゆえに、さらに深まる孤独の影。〈居ないひとり きり/の/ふたり〉言葉を途切れるように配置していくリズム、ほとり、ひとり、ふたり、悲しい、遠い、繋がり・・・いの脚韻が緩やかに綴る余韻。 三連目、オレンジ売りを、なぜ〈アマダイダイ〉と読ませるのか、疑問が残るが・・・才を持て余しながら枯渇させていく(他者に手渡せない)男の旅路を描いているような、寓意性の強さが印象に残りました。 四連目、音楽でいえばクライマックスに当たるところに挿入された散文詩・・・。〈美への憧れ〉と〈詩への誘惑〉がテーマの章ということになるのでしょうか。初恋というよりも初美、とでも呼びたいような、早熟な体験の記憶、大人の女性と線香花火が作り上げる一瞬の美、そこに〈宿り咲いて生きている美〉を認めた、まだ10にならぬ少年。その記憶を、大人になった今、寺田の文章などを援用しながら、理智によって確かめていく過程が描かれているように思います。埋もれていた、美と遭遇した折の記憶を思い起こす行為、それが詩情を見出す行為である、そんな詩論的なものを感じさせる部分。 五連目、オレンジ売りと同様、寓意性の強い連。四連目との関連でいえば、少年期から青年期までの歩みを、詩情と遭遇する過程にまで純化させた上で、砂漠で〈水の入った金属の壺を、頭に載っけた美しい女〉に遭遇するのを心待ちにするイメージに凝縮して描き出す、詩空間の作り方が美しいと思いました。象徴性の強さで読むなら、鴉は死の暗喩なのでしょうけれど・・・美と出会う時、それは死の瞬間である、というような想念が背後にあるのか・・・最終行のイメージの飛躍が、いささか唐突な印象も持ちました。 一連目、二連目のプロローグというのか、導入部分と、題名も含めた全体が有機的にからんでいるのかどうか・・・一、二連は、日常で感じる孤独を、ひとりとふたり、その質感を変えながら、音楽的な言葉で捉えた印象。三、四、五は、寓意性や象徴性、思弁性の強い断章形式・・・この構成そのものは非常に魅力的だと思いましたが、ファイブという題目にあわせての五連なのか、映画のイメージと重ねているのか(だとすると、かなり無理もあるような気もしますが)題名の喚起力の強さが、うまく全体に作用しているのかどうか、その部分に関して、私にはうまく読み込めない印象が残りました。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-04

はじめまして。早口言葉のような・・・これは、高速再生で朗読されるような、そんなイメージかな?と思ったら、〈この放送は箕面市からお送りしております。〉劇中劇のラジオドラマのようなシチュエーション。ユニークな構成ですね。 面白いのは、〈星見てたら/たまに降ってくんねん/どっかその辺に落ちてんのちゃうかな〉これは、普通にありえそうな、ギリギリのところですよね・・・流れ星が落ちて来る、という、実際にありそうな話を、ユーモラスに表現した、という表現力の問題。その勢いにのせられて、作者の世界に入り込んでしまうと・・・〈サダハル〉という、摩訶不思議な生き物の描写が始まる。現実にありえそうな、でも想像不能の、生き物、怪物のような。 頭の中に、奇妙なイメージの生き物が飛び回り始めたところで、「回想」シーンとなる。名前をつけること(サダハル、に、たとえば龍とか、サラマンダーに似た生き物、とか、そんな命名をすることで、分かった気分、になってしまう、人間の不思議さ)脳内物質、笑い・・・最後はまた、ラジオ(空想の)から流れて来る音声のようにも思われるエンディング。呼びかけで終わるということは、こちらも何か、応答しなければいけないような気分にもなりますし、ラジオ、ですから、ただ聴きっぱなしでよい、という気もしますし・・・ 巧みな構成で読み手のイメージを目いっぱい攪乱する、ユニークな作品だと思いました。 他の作品も読んでみたいです。 (ポスト!)

2017-08-06

窓際族を、独自の視点で描写していく。ユニークな作品だと思いました。 一連目・・・少し力が入ってしまったのでしょうか?若干、常套句的というのか・・・視野が壮大であるけれども、一般的に人々が用いて来た言い方に、倚りかかり過ぎているような気がしました。 二連目以降の独自性、おそらくはご自身の日常から導き出された実感の描写が、とても良いと思いました。 これは質問なのですが・・・二連目、〈体じゅうの血が巡っているのは/点滴を打たれたような痺れが/僕の両手に拳を握らせた〉ここは、ロジックが未完のように感じます。巡っているのは~拳を握らせたからだ、なのか。巡っている、でいったん途切れるのか。ちょっと、気になりました。もしミスであるなら、こうしたところで躓いてしまうのは、推しいです。あえて文法をずらしたのであれば・・・効果がうまく出ていないように思いました。 (窓際族)

2017-08-07

5or6さんの〈綱がまるで腐敗した死体の様〉という評を読んで、はたと膝を打ちました。 打ち捨てられた大蛇の成れの果て、のような・・・かつては神蛇とあがめられていたものの成れの果て、のような印象もありました。守り主が、擦り切れて、そこに横たわっている印象。 〈取り出されて ・・・解か れた     小脳の皺の ような    歩き疲れた右足の    (乾い た)   親指の       ・・・指紋の  ような   打ち 捨てられて放 置された    (擦り切れて)煤けた       ・・・畳表の  ような〉 なんども言い換えながら(そして、言い換えるたびに、本当にいいたいことは指の間をすり抜けていく、そんなもどかしさを感じながら)畳みかけていく、表層の叙述。表層を喩える、その対象そのものに、小脳・・・基礎代謝とか自律神経を司る機能が、さらけ出されている感じ・・・とか、人生の旅路を歩き疲れて、指紋もすり減ってしまった感じ、とか・・・既に廃れてしまって、かつての賑わいの失せた故郷の座敷の思い出、とか・・・そんな、語り手の中に仕舞われていたイメージが、喩という形で引き出されていく。その結果としての滂沱と流れる、熱い泪。 泪が溢れる、という方向で自身の感動を表現しようとすると、しばしば陳腐な表現に陥ってしまいますが・・・この作品の場合は、泪が溢れるに至る前段階が、独自のイメージから紡ぎ出されているがゆえに、読者を自然に共感に誘う泪になっていると思いました。 レイアウトも、とぐろをまいた綱にも見えてきますし・・・途切れがちの語りのリズムにも呼吸感が出ていて、成功していると思います。 (綱)

2017-08-07

にんにくのうまみ とうがらしのからみ  まろやかにからむ きみの味わい 唐突に始まる大人への背伸び 階段を上るきみの姿は まぶしいほどに危なげだけれど 自信にあふれて下を見ることはない 硝子の階段は きみにだけ見えている 湯気がまだ消えないうちに きみとの思い出をのみこんでいく 背中に30年前の記憶を 重ねるのはもうよそう きみのくれた無数の核が 心の中にちらばっている そのまわりに 少しずつ こんぺいとうのように 光が結晶化していく 僕が死んだら このこんぺいとうを空いっぱいにばらまくよ きみがそれを口に含むかどうか そんなこと、ぼくはしらない しらないほうが、いい 冷たいプリンの甘苦いのどごし 今日は生きるのに もってこいの日だ。 (返詩です) (ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ)

2017-08-07

花緒さんの〈死体を作られた側として、倒錯的に本作を描かれたのではないだろうか。そんな印象を受けました。〉この印象、同感です。 14歳・・・微妙な年頃ですが、死んだように生きている、という実感。自らを死体に比す、そのことによってしか、乗り越えられない感情がある、出来事がある、のかもしれない、と思いつつ・・・作品として客観化されているので、そこからは既に、離れている、のかもしれないと思いました。 青年になった語り手が、14歳当時の自分を振り返って記したような・・・そんな達観を感じます。息子や娘を、母の立場の語り手が描いている、とも読めなくないですが・・・語り手が自らを母の立場に置いて書いた作品のように思いました。 (手作りの命)

2017-08-07

何を、不法投棄、したのか・・・〈私は朝を待つ〉のだから、腐ってしまった〈私〉を、こっそり不法投棄、したのかもしれませんね。 「恋人」や「友人」、彼等と作り上げた「思い出」・・・それらのすべてから逃れたい、裁ち切ってしまいたい、でも、それがどうしてもできない。そんなしがらみにがんじがらめになった「自分」を押入れに押し込めて、それが「腐って」見向きもされなくなるのを、待つ・・・そんな「私」を捨てに行く(私の勝手な読み方、ですが)。前作もそうですが、最終連にインパクトがある、どんでん返しに驚かされる、そんな作品だと思います。 (不法投棄)

2017-08-08

形が、パソコンの画面にパッと全体が出る、くらいの範囲に収まっていると、一発で見えて面白いだろうな、と思ったのですが・・・前半のひとpart、ふたpartくらいまでは、形に意味を添わせながら(渡るようなさんず/いに在庫がなかった)この辺りは、ちょっと頑張ってひねり出したかな、くらいの感覚で読めましたし、〈より増し的に割/り増し的に割り/箸的に〉このあたりの、音韻が次の音を引っ張り出してくる感じも、ある種の面白さ、として読めたのですが・・・この三角partの連続が、ちょっと長すぎて・・・図形の中を埋める言葉を、無理やり引っ張り出したというのか、息切れしながら必死に埋めた、というような印象を受けてしまいました。 最後の方、ぴらぴら広がるリボンのような形にほどけていく。このパートを、もっと早めに出した方がよかったのではないか、というのが感想です。 (門)

2017-08-08

形と連動させる言葉、文字、その意味・・・ビジュアルポエムで、孤、という文字で正方形を埋め尽くし、真ん中を正方形に抜いて、ど真ん中に 私 と一文字置いた作品を見て、インパクトに唸ったことがあります。 まど・みちおの、階段状に階段の詩を並べた作品を、子供たちの詩の授業の時に使ったり(これは、子供を楽しませようという作品であるがゆえに、子供の食いつきがすこぶるよろしい)その時に、怒、という文字を目の位置に嵌め込んだ、母親(と思しき)「顔」を制作した児がいて、ひえー!と思ったりしました。 形を活かしていく、のであれば・・・思い切って、フレーズの意味、ではなく(そこはもう、寸断してしまって)文字の意味を活用する、という方向に持って行った方が、多くの人に、より受け入れられやすくなるのではないか、と思いました。 いまさらアポリネールの鳩や噴水、雨を持ち出すまでもありませんが・・・中途半端に「読めて」しまうところが、かえってこの作品の場合は、うるさく見えてしまうのかな・・・ (門)

2017-08-08

スマホで見てみたら、また形が、全然ちがう、ことに驚きました・・・ 幾何学的な形態が喚起する感情と、内容(あるいは音韻の連なり)の奏でる印象とが、 どのように絡んでいくのか・・・ひらがな多用の部分と、漢字の部分の詩面の違いとか、記号連発の部分の、奇妙にざわざわした質感などを、読者の内面で、どのようにまとめて行けばいいのか(鑑賞技法にも関わって来るのかもしれない)そんな問題を、改めて考えます。 (門)

2017-08-09

まりにゃんさんの返信を拝読した流れで、こちらのスレッドも拝見。 新しい言語領域や、文体の可能性を探る、という「実験」は、道なき道を切り開いて、それを地図として残す行為に似ている・・・と思うんですよね。 これこそ、誰も切り開いたことのない道だ❗と思って、山刀を振るっていたら・・・藪の中に、かつての探求者のキャンプの跡を見つけてしまったりする。もしや、この先は行き止まりか?と、不穏な予感を持ちながら、更に進んでいくと・・・野晒しになったしゃれこうべに遭遇したり、崖に出てしまって、にっちもさっちも行かなくなって、途方にくれたりする。 でも、もし・・・その崖から、対岸に滑空する事の出来るグライダー等の新たな道具を持っていて、 大いに実験してほしい、と思うと同時に・・・それが、既に為されていて、行き止まりかもしれない・・・という可能性が示唆されているような・・・ (門)

2017-09-05

途中で、送ってしまった(笑)  ~過去には無かった「道具」を持っていて、しかもそれを使いこなす技量があれば、その探求者は、対岸に滑空して、未知の領域を訪ね歩くことが出来るかもしれない。 だからこそ、大いに実験してほしい、と思うと同時に(中略)示唆されているような・・・そんな行き止まりの予感の前で、抗っているように見えると、もっと他の道を試してみたらどう?と、口出ししたくなってしまったり、もします・・・ 今回の作品、前半部分は「意味」と形を連動させようとしているように思われたけれど、後半は、形を作る面白さや困難さに夢中になってしまっているようにも見え・・・確かに、言葉からあえて「意味」を剥奪して、その形体や語感やインパクトを、美的要素のひとつとして構成する・・・という試みもある、とは思うけれど・・・まあ、まりにゃんさんが、もしかして、言葉の引出しの乏しさを誤魔化そうとしてる?なんて見方を(たぶん、あえて)提出している、けれども(私はそうは思わないけれども)意味と形を連動させつつ、言葉(音声)によって駆動していくものと、形態を構成する、という欲望を添わせる(幸福な婚姻に持ち込む)という「意図」が伺われる前半部が、途中から、息切れしてしまって、形態構成欲求、に、負けてしまっている、ような気がするんですよね・・・どうでしょうね。 せっかく、前半部分でギリギリの可能性を試したのに・・・そこから、形を作る、という、安易な方向にずれてしまった、そんな、もったいなさ、を、すごく感じるのだけれど・・・ これが、さらに次世代掲示板で、アニメーションや音声と同時に、言葉が形態に整っていったり、また崩れていったりするのが「見える」そんな新しい技術(咲きのたとえで言えば、グライダー)を手にしていたら。また、ゼンゼン違った面白さと共に、見えてくるのかな、という期待は抱いています。 なんか、ワケわからん長文になって、失礼。 (門)

2017-09-05

咲きの→先の 何度も、失礼(笑) (門)

2017-09-05

〈君の傷から噴き出した彼の姿〉この一節のインパクトがすごいですね。 〈 Mata, Raisede.〉君、は、自殺を予告して去っていったのか・・・。 〈それを電話越しで語る君が/確かにまだ生きているのだと/知ったから〉 〈私〉の元を去っていった〈君〉は、〈彼〉のために深く傷ついている。 それでもきっと、〈君〉は〈彼〉を愛しているのでしょう・・・こんなにも〈君〉を愛している〈私〉ではなく。 〈きみが置いていった形見の色〉青春の苦さ。恋の苦悩。 私の勝手な読み方ですが・・・そんな切ない物語が秘められているように感じました。 〈造作もないというのだ〉とか〈もうここには居ないね〉といった、太く叩きつけるような骨太の言葉。ハスキーボイスの男性が渋く歌うジャズバラードを想起しました。 (Connected - Powdery Blue )

2017-08-08

言葉の区切り方に、どくとくの味わいがありますね。 夜の窓ガラスに写り込む少女の横顔のイメージと、鏡の向こうの世界、のような・・・一人の人間の中に潜む、光と影、二面性のある双子、的な魂の影、のような・・・。 はらのはれたははおや、haの音で導かれて、餓鬼のような不気味な映像が浮かび上がる。 砂粒は、すなつぶ、と読むのか、さりゅう、と読むのか・・・さりゅう、と読むと、音の響きから砂流、のイメージにも繋がります。砂時計を連想しました。 〈夜流する外気〉夜流、これは造語でしょうか。意味はわかる、けれど・・・逆に、文字の意味をそのまま受け取ればよい、ということか・・・。「双子」を隔てていたガラス窓、その境界が失われる夜・・・流れ込んでくる外気。外気を吸いこむ、はらわたがうずうずする。そんな「外界との内部での合一」「双子」の魂の合一、を イメージとして受け取ったのですが・・・最終連の飛躍が少し大きすぎて、捉え難い、ということと・・・母親と「双子少女」の関係性が、いまひとつ、つかみがたく・・・そこに消化不良感が残った、というのは、あります。 (がらす)

2017-08-08

shun kitaokaさん レスポンスありがとうございます。種あかし?していただいて、うれしいような、後続の読者の興を削がなければよいな、という、ちょっとだけ、心配もあります。 私自身、「かまあげうどん」という題名で、ざるうどん、のことを詩に書いて・・・読者はみな、釜揚げうどんを想像しながら読むわけです。そして、面白がってくれる人が多かったのですが・・・うどん屋さんに入って、メニューに添えられた写真を見て、「げげっ、私ってば、ざるうどんと釜揚げうどん、勘違いしてたじゃん」と焦ったことがありました・・・。結果的に、読者を良い意味で欺く作品になったので、良かったのですが。 〈母親と「双子少女」の関係性が、いまひとつ、つかみがたく〉という、私の疑問への回答を頂いたことに感謝します。同時に、そうか、そこをもっと、わかるように書いた方がいいのかな・・・でも、わかるように書くと、なんとなく通俗的な話になりかねないな・・・読者によっていろいろな読み方ができる。その、省略具合や飛躍の具合が、絶妙な間合いとなっているのかもしれないな・・・など、思った次第。 (がらす)

2017-08-11

行替え(改行)が生み出す歩行のリズムに加えて、句読点の生み出す、息継ぎのリズム・・・作者の肉声が伝わってくるように思いました。 はじめた/はじめて と二度重ねる冒頭。~し始めた、という通常の意味が、なぜか「初めて観た」と思われて来るのは、なぜでしょう。傘を差し始めた、というような表現を、通常は使わないから、でしょうね、きっと。その、微妙な用法のずらしが、意図的なものなのか、偶然生まれた産物なのか・・・ 雨、が降っている間中、雨を受けていた語り手。雨が実際のものであれ、比喩としてのものであれ、体の芯まで冷え切って、濡れるがままに任せていた、ことになります。雨が土砂降りの間、むしろ、為す術がなく濡れていたのではなかろうか。その雨が少し小降りになって、もうすぐ止む、という確信を持てたころ・・・希望を感じられたとき、ようやく、自らの身を濡れないように守る傘、を差す気持ちになった。その気持ちになって、初めて見る光景・・・が、その次の行から続いていくような気がします。 今、ようやく自分は、自分で傘を差す気力を得た、それなのに・・・かつての自分と重なる、黄色い長靴の少年が歩いてきているのに。すってんころりん、びしょぬれになって、それでも何か、私に言おう、語りかけようとしているのに。自分は今度は、自分の身を守るための傘がある、ゆえに・・・その傘に当たる雨音に消されて、少年の心の声が、聞こえない・・・かつての自分の声を、聴くことができなくなりつつある、ということでもあるでしょう。同じような想いを抱いている人の声を、自分は本当に聴くことができているのか?ということでもあるでしょう。 ・・・ということを感じたのは、以前に投稿された作品を既に読んでいた、から、でもありますが・・・傘となって、不運や苦悩の雨から、家族を守りたい、という思いをつづった作品、ですね・・・この作品だけを読んだ読者にとっては、ハアモニィベルさんが感じたような、釈然としない感じ?を受けるかもしれません。もちろん、そうした前後がなくても、作品そのものに秘められた余情、のようなものが、ほわっと伝わればよい、のでしょうけれど・・・。 ベルさんの〈>雨が止みはじめた頃に、/>傘を差しはじめてみた。/これだと、かなり変わった感受性の持主が語り手だと読者は思います。(面白いつかみにも思える)〉という部分、私も特徴的だと感じました(コメント冒頭に書いた通りです) 〈懐かしい長靴の黄色〉na の音によって導かれる響きと、黄色い長靴という、小学生時代を彷彿とさせる、ある種の記号の用い方・・・一般読者に寄り添い過ぎている、と観るか。いや、あえて、誰もが知っている表象を持ってくることで、少年時代の自身の換喩を成立させている、と観るか・・・ここは、他の読者の意見も聞きたいところです。 (ある雨の日、君の弟は。)

2017-08-11

雪月花を描いた、小景、のような素振りながら・・・ この登場人物たちは、果たして「人間」なのだろうか、と不思議な気持ちになりました。 季節を司る、時の精のようでもあり・・・自然界の妖精のようでもあり・・・。 花と雪、あるいは花と氷。共にはありえないものが共にある場所は、死の世界でもあるような・・・。 (春雪と彼)

2017-08-11

〈飲み物を飲めば セミの羽の喉ごしはぱりんとしているのかとか 食べ物を食べれば セミの胴体はぐしゃりとした歯ごたえなのかとか 〉 この発想には、文字通り仰天です。そんな感覚になる、ものなのですね・・・ ちなみに、私は毛虫でもなんでも、基本は手のひらにのせて愛でられる、くらいの虫好きです。 イラガの幼虫とかは、さすがに(毒毛を飛ばすので)そのまま踏み潰すかひねりつぶすかしますが(人間は勝手である。)通常の毛虫であれば、足には毒毛はないので、そっとすくいあげれば、指に乗せられます。 それをいじめっ子に向けて弾き飛ばして、毛虫オンナと言われて敬遠されたこともありました(笑) だから、たとえば芋虫が「キライ」という感覚が、わからない・・・あんなにすべすべしていて、背中をさすってあげると、ヘリオトロープの香りとヘクソカズラの臭いを混ぜ合わせたような臭気を出す角を出して、一人前にふくれっ面をする。あの、青虫君の、なんとも愛おしいことよ・・・(となってしまう。) とはいえ・・・死んだ、と思った蟬に触れた瞬間・・・ゼンマイが巻き戻るような勢いで痙攣する、その勢いに心底、驚いたことがあります。私の「いのちの紐」まで、一緒に巻き取られて、あの世に持って行かれる、そんな気がするような恐怖でした。 何を言いたかったのだか・・・作品としては、丁寧な叙述が好感を与えますし、段階を追って読者を虫嫌いの感覚、に連れて行ってくれるので、無理がない展開だと思いますが・・・言いたい部分、つまり、よりによって、なんで虫嫌いの私のところに、お前は来たんだ!という部分、に到るまでを、あえてジリジリと進んでいくというのか・・・できるだけ、いやな所に差し掛かるのを、先廻しにしている、というような、叙述の・・・もたつき、というと言い過ぎかもしれませんが、停滞感を、前半に感じました。 〈私は看取ってやれない〉この一文に、誠実な眼差しと、痛烈な心の痛みのようなものを感じました。やってあげたいのに、嫌い、という心情に邪魔されて、どうしてもできない、そんなジレンマ。 (「七階のセミ」)

2017-08-09

シュルレアリストの絵画で(誰の作品だったか、忘れましたが)ピストルから芽が出て、蔓のようなものが緩やかにからまり、そこに蝶が止まっている絵を見たことがありました。 砲声ではなく、歌声を聴きたい。銃声ではなく、声を聞きたい。 それは、暴力ではなく対話を望む、万人の想いかもしれません。 強い言葉と短文を連ねて作りだす力強さが印象に残りました。 若干、表層的というのか・・・メッセージ性に偏り過ぎているような気がします。 (声を出せ)

2017-08-11

nanjakorya omosirogatte iitaihoudai kakiyagatte ・・・ 真面目にレスをするなら、現代の匿名性社会が生み出したモンスター的な暴言、放言の恐怖を実体化したものであり、人間が欲望のままにコメントを発信することができるようになった社会は、いずれ崩壊する(発信者もろとも)・・・てなことになるんでしょうけれど。 本人が、メッチャ楽しんで書いているらしいので、マジメにコメントするのも、なんかあほらしゅうてあほらしゅうて・・・笑って終わりにしたい、気もしますが。 「作品として」言いたい放題、一般社会常識から外れまくった文言を列挙したとしても、誠実に真摯に一般社会常識に沿った返信をコメント欄で返信すれば、「作品として」誰もが楽しく読んでくれる、という、これは一つの(良きか悪しきかようわからんが)実例、と呼べるでしょうね・・・ 冒頭三連のノリと勢い、楽しんで書いている感じがビンビン伝わってきました。 真ん中のびっしり言葉が固まりのように並んでいるところ。言葉の暴力性のようなものは伝わって来るけれど、正直、読みにくい。「これがその時、俺の言いたいことだった。」このリフレイン部分を、たとえば赤文字にするとか、太文字にするとか、そんな色変えや修飾ができる仕様になっていると、もう少しメリハリがきいて、読みやすくなるのではないか、と思いました。きちんと読ませる、ということより、ガーッと流れていく言葉の分量、そこに主眼があるのだろうな、とは思いますが・・・。 文字が巨大オブジェとなるアイディアって、ドラえもんにあったよな、とか、ノートに書いたことが現実化するって、最近ならデスノート、ちょっと昔なら『はれ ときどき ぶた』なんてナンセンス絵本(題名はうろ覚え)にあったよな、とか・・・もちろん、金の斧、銀の斧の話は、CMなどでもずいぶん使いまわされているクリシェだし・・・そういう、あえて誰もが知っている既製品、既成概念を集めて、今の世の中の、膨大に膨れ上がったSNSの不気味さ、気味悪さ、安っぽさのようなものをうまいこと描いている。イキのいい作品だと思いました。 関連するような、しないようなこと、ですが・・・自分ひとりの声なんて、なんの価値もない、社会に届くわけもない、と思っていた人が、あれ、もしかして、自分の発言には影響力がある?と「気づいた」後の人間の暴走の怖さ。これは本当に、しみじみコワイです。 ツイッターやインスタに、悪ふざけを通り越して、非常識な行為を投稿したり、ユーチューバーなどの「アホ動画」が、どんどんエスカレートしていったり・・・バケツ・チャレンジが、これまた奇妙にゆがんだ方向にエスカレートしていったり・・・すぐに「炎上」する。その「炎上」の仕組みを社会学的に調べていくと・・・実は一割とか二割の人が、ひたすらしつこく、デマを流しているだけに過ぎなかったりする。それなのに、まるで日本全国の、顔の見えない群衆が一斉にこぞって批判しているような錯覚に陥っていく・・・そして、本来は関りの無かった人たちや、思想的に無色だった人達が、その色に一斉に染められていく。 ごく一部の人がああだこうだ言っているだけだから、放っておこう・・・と放置していたら、その「一部」が所属する集団のほとんどが、「印象操作」によってその「一部」の主張に染まってしまう・・・そんな状況も、あちこちで起きているような気がします。安易な同調であったり・・・事実関係を確認しないまま、正義の味方症候群に囚われて、分が悪そうな側を徹底的に叩いたリ・・・(もちろん、叩くことによって、自身のうっぷんを晴らす、というような、爽快感を得る、という効果もあるでしょうね) ネットの、簡単に拡散できる、という長所と短所を、ネットを開発した当の人間が使いこなせていない。そんな怖さもありますね。 面白い、というだけで、ワーッとしゃぶりつく集団心理と、大衆にはパンと見世物を与えておけばいい、というかつての「帝国」原理・・・が、社会に浸透しつつある、ということでもあるのかな、と思うのだけれど・・・。 リアクション芸人ばかりが増えてきて・・・話芸で本当に人を笑わせる芸人が減って来た、ということもありますし・・・考えずに、ただ面白がる、のではなくて、真剣に頭を絞って、想いを致して、心を絞って・・・苦しいような思いを経た後に得られる達成感の面白さや充実感を、もっと多くの人に知ってもらいたい、と思います。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-08

追伸です。〈「作品として」言いたい放題、一般社会常識から外れまくった文言を列挙したとしても、〉この部分は、この作品がそうだ、というわけではなく・・・一見するとそのように見える、と思う読者がいたとして、という話です。ネット暴言話法というのか・・・それをあえて集積することによって生み出される、強烈なアイロニー、ですね。 (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-08

表示の仕方について、もっと多様な選択肢があればよいのかもしれない、という、技術的な提案とお考え下さい。 それにしても・・・私は「B級アイドルのラブたん」=「B=REVIEW」なのかな(それだけではないでしょうが、なにせ、Bですから・・・)と思いながら読んでいたのですが、そういう「解釈」は、今のところ、全然出ていない、ですね(;^ω^) (「便所の落書き」としてのクリエイティブ・ライティング)

2017-08-11

2010年頃初稿、という、題に添えられた「但し書き」・・・これも題の一部、ということになるのでしょう。 作品の冒頭は、「恍惚の人」を母と観ている光景、を思い出している、のでしょうか・・・歌うような調子で綴られていくリズムが、回想の色を濃くしています。二連目は、ドラマの中のシーンではないか、という気がするのですが・・・この表記だと、見ている母が、そういう行動をしている、ようにも読めてしまいますね。一字下げにするとか、画面の中では・・・というような一行を添えるなどした方がよいように思われました。 三連目は、美しい回想シーンですね。私も「恍惚の人」になるのだろうか。子どもの重荷となりたくない・・・そんな母心を感じ取った語り手が、そっと外に連れ出す。葉桜の季節、吊り橋に心を躍らせる母を、大人の語り手が愛おしんでいる、そんな関係性も感じられます。 *の後が、震災後に書き加えられた部分なのでしょう。急に、他国を犠牲として生き残ろうとする国家の醜さへの感慨・・・といった大きなテーマに振られて戸惑いました。 その後の連で、作者が詩を書くということについて語られるのであれば・・・個人では答えようのない問い、それでも問わざるを得ない国際問題・・・そのことを思うたびに生じる、どうしようもない無念さ、無力さについて、飽くことなく書き続ける、ということ、それが私にとって詩を書く、ということなのです、という展開であれば・・・この挿入部分も、さほど違和感は覚えなかったのですが・・・ 〈母の傍らで母の詩を書いていると/「そげんあたまをつこうたらいかん」〉と母に心配されてしまう。国際問題のような、大きな出来事について考える、のではなかったの?と思い・・・いや、母のことを書くのも、国同士のことを書くのも、結局は穴の開いたバケツに水を汲むような、答えのない事柄なのだ・・・海辺で砂の城を築き続ける、そんなどこか虚しささえ含む行為なのだ、ということ、なのかな、と思い返してみたりしつつ。 でも、やっぱり、国同士の話が「唐突に」入って来る、感覚は否めないですね。 (広島)

2017-08-11

茶道のような、ある種の儀式めいた感じで始まる冒頭、も、の音を連ねていくモヤモヤ感、そして〈シンク中央の排水口が丸い瞳となって俺を見ている。〉この感覚、実によくわかります。排水口の中に広がる闇に、じっとみつめていると吸い込まれそうな気がしてきたりする・・・。何かを洗って、汚れ(穢れ)を流していく、その流れを吸い込んでいく排水口が、瞳となって見返すものとなる、反転。瞳の奥に引きこんでいく(吸い込まれていく)どこか不気味な、それでいて魅惑的な感覚。それを、どうとらえるか。 〈目に似るものはみなものを見る。幻を見る。/主観が自らを顧みる、ということ。〉ここだけ見ると、観念の直接的な表明を、説明的でうるさい、と否定的に見ることも、理智の方向に感覚を振り向けていく指標の役割を果たしている、と肯定的に見ることも出来ると思うのですが・・・もう少し読むと、続く〈お前は俺を何と見るのか?妻よ、非実在の長い髪の妻よ。〉を引き出すための前提ともなっていることがわかる。重要な布石だと思いました。 排水口、どこか不気味な、自分を異界に引きこんでいくような眼差しが、いつのまにか〈お前〉と呼びかけられる存在の眼差しに変わっている。しかも、非実在の、長い黒髪の、妻・・・。〈水系の果てがここだ。/水系の果てはここではない。〉妻、が、オンディーヌのような水性の存在であり・・・日本的なイメージで言うならば、水神、蛇のイメージも喚起される。いずれにせよ、男を死へと誘う、魔性を秘めた存在、を感じさせます。この展開は見事だと思いました。 その後の数行、特に〈俺は自分がダンクレオステウスの変形〉というところまで夢想を飛躍させるのは、いささか急峻ではないか、と思いました・・・皿、を洗う、その〈皿〉を論理で解説してしまうと・・・冒頭の、いったい何を洗っているのだろう、自身の汚れか、自身の想いか・・・といったあいまいさが、理屈に還元されてしまうような気がして、私にはちょっと興ざめに感じられる部分でした。 最後は、この〈妻〉は〈殺されても死なない妻。シンクの縁を移動する小さい蜘蛛となり、一切俺を関知しないまま、糾弾する。〉という段階にまで変容する、のだけれども・・・幻覚にしばしば現れる、不安の表象としての蜘蛛、であるようにも思われるのですが・・・いずれにせよ、不気味ながら魅惑的でもある存在、であったはずの、長い黒髪の〈妻〉が、ただ気持ち悪い、不気味なだけの蜘蛛に帰着していくのは、なぜだろう。泡の七色、これは希望の喩でもあろうか。その七、を引き出すための、八本の足、なのだろうか・・・ 排水口に「見つめられる」ところから立ち上がる、どこか魔性を秘めた不気味で美しい幻影が、途中で思考実験的な観念の世界に取り込まれ、最後は幻覚なのか実際にそこに居るのかわからない、蜘蛛に具体化する・・・。 後半の展開に、少し無理があるように思ったのですが、どうでしょうか? (スポンジでものを洗う)

2017-08-09

ご返信、感謝です。なるほど・・・もちろん、「「理屈」の形をとっているんですが、言っていることは全く論理的ではない」そのことは、了解していて・・・何といえばいいのかな、〈主観が自らを顧みる、ということ。〉という、定義のような文言を、直接書き込んでしまう、明示してしまうのは、どうなんだろう・・・そのことで、読者が、パシッと弾かれてしまう、そんな印象を受けやしないか(私は受けてしまう)ということと・・・ 〈〈俺は自分がダンクレオステウスの変形〉というところまで夢想を飛躍させるのは、いささか急峻ではないか〉とコメントしたのは、詩的ロジック、というのか・・・フィクションとしての構造物の中で、論理展開が段階を追って、という丁寧な叙述ではなく(丁寧過ぎるのも、説明が多すぎてうるさくなるのですが)かなり振り幅が大きいよね、読者が、ここで振り落とされてしまうのではないかしらん・・・という、これもまた、私の主観的印象を持った、のですね。それを直した方がいいとか、直すべき、とかそういう事ではないのですが。 その効果を狙っているのか、狙っていないけれど、偶然そうなってしまったのか。 Migikataさんの〈作者と作中人物と、作品と読者と、それぞれの関係にある「詩情」の断絶を楽しむというやり方〉というコメントを拝見して、偶然そうなってしまった、のではなく、確信犯的に行っておられる操作なのかな、という印象を持ちました。 そうであるなら、読者が、台所という日常の「場」、今、ここ、という「時間」から、一気に時間も空間も超えたところに飛ばされる。そのトリップ感を楽しむ詩、として読み直したくなってきました・・・ そうなってくると、〈言い張るつもりもない〉というような、堅苦しい言い回しが、逆に気になり始めますね・・・文体そのものも、もっと破天荒でいいのかな、と・・・でも、この重々しさで、最後まで持って行く方が、Migikataさんらしいのかもしれませんね・・・ここは、コメントそのものも難しい。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-11

これはまた、ずいぶん極彩色の作品ですね・・・読みながら、万華鏡のように色彩が乱舞する感じ。 〈貴方と壊れたかった あの日の夕陽と月の色に 世界の背骨に そっと爪を立てて〉 この部分が、もっと際立つといいのにな、と思いました。 〈君〉と〈貴方〉が同一人物なのか、〈貴方〉は、〈君〉が語り手(歌い手)のことを、そう呼んだ、ということなのか・・・ちょっと判然としませんでしたが、〈君〉が世界そのもの、のような存在であって・・・歌い手の視界すべてを覆いつくしている、感覚のすべてを奪いつくしている。それほどに自分を惹きつける〈君〉を、だからこそ、壊してしまいたい、一緒に壊れてしまいたい、というような、情念というのか、感情の迸りを歌っている、ように思いました。 〈世界の背骨に~〉までの連は、言葉が締まっていていいなと思ったのですが、後半、感情に流されているというのか、冗長な印象を受けました。背後に音楽があれば、また異なって感じられるのかもしれませんが。 (little FANTSY)

2017-08-11

斧でのされそうになる、というとかなりインパクトのある一行ですが、斧、と、己れ、慄く、各々・・・の「おの」つながり・・・と観ると、かなりユーモラスな言葉遊び的な感じにも見えてきますね。つまらんなあ、から何を連想するか・・・妻ランナー、走る人・・・「妻乱」はなかなか思いつきませんでした。 (帰ってくればよかったのに)

2017-08-15

〈兵士が着ている迷彩模様は 裸になっても付きまとう鎧〉 ここ数週間の、アメリカと北朝鮮のチキンレース(そこに便乗するかのような、日本の対応)を思い合わせながら、兵士は兵士であることを、肌にしみこませてしまうのかもしれない、そうさせられてしまうのかもしれない、と思い・・・兵士が「戦う者」として、戦地に送り込まれることがないように、と、祈ってしまいました。 なかたつさんの評に乗せていただきつつ、作者が「思いを馳せる」ことのできる人であることが嬉しい。 沖縄でお世話になったタクシードライバーさんが、オスプレイが飛ぶのを見て、「沖縄らしい」と喜ぶ本土の観光客がいる、と話してくれて・・・思わず絶句する他ありませんでした。基地と切り離せない沖縄、それで、本当によいのか?良いわけがない、けれども・・・ブルーハワイ、アメリカンミュージック、ハンバーガー・・・さんぴんちゃ、島唄、ごーやちゃんぷるー・・・ふくよかな風、海の家。 なんだかまとまりのない「感想」になってしまいましたが。 (みゅーじっくはうす)

2017-08-17

とても新鮮な感覚を受けました。なぜだろう・・・。 読み手が、どんな状態か、性別は、年齢は・・・ということに、かなり左右される作品かもしれません。 〈もうダメになった命〉、小さな生き物(子猫とか)なにかそうした生き物のように思う一方で、流産した後の、傷心の女性を思い描きました。作者が若い男性であることを知りつつも、そう読みたくなるインパクトがありました。 一方、〈暑さにやられたお弁当〉手作り弁当、のイメージ。部活動などで、炎天下持ち歩くような・・・急に中高生のイメージが浮かびます。〈悲しみと悲しみと悲しみとお弁当ひとつ詰めたリュックを背負っている〉畳みかける言葉の連なりの迫力と、家出少年のようなイメージ・・・そして、 そのまま都会に立ち尽くして、この子の命をどうやって燃やそうかと思案している というフリも出来ずに改札を通り抜けた と書こうとしていたら、 ここで、あっと驚かされる。〈この子〉を抱え込んでいるような語り手、がいて・・・その語り手が〈改札を通りぬけた〉のを見ている書き手がいる。〈連休前浮つく駅の改札前〉前、という言葉で韻を踏みながら、スピーディーに進行する流れの中で、〈冷たく死ぬことさえ許されなかったその子〉を見ている語り手は、その子が〈たった独り悔しさも出さずに死んで〉いるのを見ている・・・その語り手なのか、見ている語り手を見ている書き手・・・が、いきなり暴発的に、何かをかなぐり捨てるように〈爆弾ひとつ投げ捨てた〉・・・。 〈「誰でも良かった、後悔していない」〉この言葉は、冷静を取り戻した後の、通り魔事件を起こした少年の告白、のように思われました。死んだように生きている自分、を持て余しながら彷徨っている自分、を見つめている自分・・・すべてを崩壊させてしまいたい、何かをぶち壊してしまいたい、という、破壊衝動に駆られている自分・・・と、いくつにも分裂している「語り手/書き手」が、事後にひとつに収斂する。 破壊衝動に取りつかれていく主人公の内面の悲しみ、それは、周囲の誰にも理解されないもの、かもしれない。情状酌量が、正義なのか、裁くのが正義なのか・・・その悲しみを、空に放ってやりたい・・・という(かなり勝手な解釈かもしれませんが)作者の想いを感じました。 構造がかなり入り組んでいるような、入れ小細工になっているような面白さがあり、意表を突かれる展開だったと思います。コンパクトにまとまっている中で、音のつながりやリズムを意識している部分があって、緩急もある。 「ため」を作ったあとの、〈「誰でも良かった、後悔していない」/罪を認めてから唯一の言葉が冷たく響いた〉この言葉が、ズシンときますね。 (苦しさで、悲しみギュウギュウに詰めた壊れた)

2017-08-14

作品全体の、短めの区切りが生み出すリズム。とつとつと思い出を語っているような・・・言葉に詰まりながら、誰にともなくつぶやくように語っているような流れが、リアリティーを与えていると思います。 実際に作者の祖父が認知症であるかどうか、ということとは関係なく・・・世間一般における「名」を与えることによって、理不尽さや憤懣、やるせなさをやり過ごしてきた・・・胸の内になんとか収めてきた、そんな「家族の歴史」があって・・・それが、花を手渡す、という行為によって、和解の香りを帯びる。 だんだん薄暗くなる いつもの空の下で ぼくのてのひらも 小さく揺れた この、さりげない描写が、実に美しいと思いました。プランターに並んで咲いている花・・・でも、その花のどれにもまして、〈母〉にとっては思いのこもった花、だったのでしょう。父と娘の間でだけ共有し得る、幸福な時間を思い出させる花、であるのかもしれない。 手すりから外にのばされた手のひら。その手に差してくる夕日、夕日に照らされた手のひら、次第に赤く、夕日色にそまっていく手のひら。 狷介な祖父(母の父)の、砂を投げつけるような乱暴なやり方でしか伝言を伝えられない、その悲しみは、どこから来るのだろう。あの人は、認知症だから、怒りっぽいんだ、と、納得することでやり過ごしてきた〈ぼく〉は、心の中で、実はそうではない、ことを知っている・・・からこそ〈ニンチシヨウ〉としか、呼びようがないのかもしれません。父と娘(あるいは父と嫁)の間のわだかまりが、溶けた一瞬。それは、〈祖父〉に死が近づいてきた、そのことを彼が意識した、からなのかもしれず・・・ ニンチシヨウ、を、認知しよう、という呼びかけと、それを拒否する気持ちの表れ、と読むのは、深読みしすぎか?と思いつつ・・・ニンチショウ、とヨを小さく表記しないところが、最後まで気になるところでした。(コメント欄に、テワタシタヒ、と旧仮名風?の表記で書かれているので、その辺りも関係あるのかな・・・) それはいったん、脇に置いて・・・〈だらだらとしたひとり語り〉そう言われると、もう少し切りつめていくこともできるのではないかな、とも思いますが・・・全体でリズムを作っている、というところもあり・・・最後に〈友人たち〉を出す方がよいのか、〈ぼく〉の内省だけで止めた方がよかったのか、など・・・。 たとえば、意味から言えば〈そう思って/友人たちに理由を言って/さよならをして〉わけを言って、なんてフレーズは飛ばして、どんどん進行させた方がいい。でも、~って/~言って/~して、と続いていく語尾のリズムなどが消えてしまうので、削るのも、なかなか難しい。冒頭に出て来る、心中/安心 うんぬんのところも、省けるかな、と思ったのですが、後半にもう一度、〈と思えば/安心なのだけれども〉と出てきますよね。ニンチショウ、という病気なのだ、仕方ないのだ、と、理由のわからない怒りへの不信や不安を、安心に替える。一か所いじると、全体が動いてしまうような作例なので、やはり、この長さは必要なのかな、と思いました。 (花)

2017-08-14

思いのたけを(酒の力を借りたとしても)叫ぶことのできる〈女の酔っ払い〉と、抑制してしまう、内におさめてしまう、〈私〉・・・。〈誰も見ていなくたって/ 川は流れる花は咲く〉〈自尊心が埋もれていく/ 誰にも気付かれず〉〈誰も聞いてなくてたって/ 風の吹く音木々の揺れる音〉〈私の心臓だって/ 誰にも気付かれなくても/ 動いている〉この繰り返しが印象に残ります。 〈君〉と〈女の酔っ払い〉は同一人物なのか、どうか。〈私の欠片〉とは、誰か、何か。〈雪〉は、心を凍てつかせるもの、の暗喩なのか、実際に降った薄雪、なのか・・・そこを明示する必要はないと思いますが、君と私、の関係性(特に首を絞める、というような、ある種、センセーショナルな行為が入って来ることもあり)が、もう少し、はっきりと出ていると伝わりやすかったかな、と思いました。 m.tasaki さんも触れておられますが、途中に平仮名多様で挿入される歌のような部分(3、6、8連)が面白い。ここを一字下げにして、詩形全体にメリハリをつけてもよいかもしれない、と思いました。 (私の欠片は朝焼けの中)

2017-08-14

麦わら帽子と雪だるま、梅に桜・・・季節が一気に押し寄せて来る感じですね。 〈僕は涎を垂らし 君は内臓を垂らす〉この一行に、まずびっくりです。 春夏秋冬と、一気に季節(への夢想?)が駆け抜け・・・。 どこかの季節、どこかの時間に、じっととどまっている、という感覚ではなくて、 季節の記憶の断片、写真画像が無数に散らばっている、そんな世界を駆け抜けていくような疾走感を感じました。 少し、ついていくのが大変、というくらい、目まぐるしい印象がありました。 (桜花或いは梅に抱かれ肝臓散る)

2017-08-15

足のないものが、ぞわぞわと這い上がり、舐めまくる、それが「いやだ~!!!」という生理的感覚につながっていた、のかもしれない、と思いながら・・・最後の、なんともユーモラスな「オチ」が、腑に落ちるような、落ちないような・・・。 四つ足だったら(四つ足に「進化」したら)怖くなくなるのか、気持ち悪くなくなるのか。蛇は、這うから気持ち悪いのか(私は割と蛇が好きなのですが、嫌いな人が、あまりにも多いので)蛇に、手足があれば、怖くないのか。 ナメクジの、腹から生えた手足、だけが歩いていたら、どうなんだろう、とか(祝儀さんの、手足がうにょうにょしている作品を読んだ後だから、かもしれません) いずれにせよ・・・気味悪い、どうしても受け入れられない。その原因がわからない、うちは、悪夢ですね。その原因が(たとえ、自分自身を納得させるためのこじつけであっても)わかったとたんに、「悪夢」からは解放される。気持ちの悪さ、謎の怖さ、不気味さ、からは逃れられる。その解放が、一抹の淋しさ、と感じられるほど、余裕をもって接することができるようになる。 そんな、心の仕組みの不思議について、考えさせられました。 文体としては、叙述が丁寧過ぎる、のではないか、という思いも、なくはないのですが・・・「丁寧過ぎる」ことによって、むしろ、カジュアルな「語りかけ」の感じも生まれて来るのですね。これは、新たな発見です。 (獣の変身)

2017-08-17

映像喚起力の、ずば抜けて強い作者だと思ってはいましたが、この映像の迫力はまた、すごいですね・・・ 冒頭三行の、細かく刻んでいくような、舌をせわしく叩くように使わないと生み出されない音の流れの生み出す切迫感と臨場感。リアルに立ち上がる裏路地の風情。8月の投稿、ということも含め・・・ 〈ひしめくひしめく体の群れ〉は、空襲の死者と重ねてしまうのでは、ありますが・・・ 〈アスファルトと空中にはそれぞれの胴体を同心円とした 幾重もの波紋が止まらず広がり続け 地も空中も揺れぼやけている〉 こうした微細な部分にふれていく丁寧な描写が、非現実の風景を、なまなましくリアルに現前させる。 実際にその映像を「観た」あるいは「体感」したかどうか、幻視したかどうか、ということよりも、 その時の場と空間を文字によって作り上げる。その膂力によって、語り手と同じ場所、同じ時間に立つことになる読者が、そこから先、何を感じ、何を考えるのか・・・語り手の過剰な共感の強制がない。突き放すように、場を描いているだけ、そのことによって、読者は自身で感じ、考えることを強いられる。共感の強制がない自由と、その場に立ったことに依って自ら感じねばならない自由。自由詩の「自由」にも通じるものが、そこにはありますね。 二連目もとても丁寧で実感があるのですが、もう少し詩行を絞れるのではないか。なぜ、そう考えるかと言うと、三連目の冒頭のインパクトが、二連目の長さによって弱まってしまうように思われるから。どうでしょうか。 それから、三連目の「もし」という仮定、必要なのか?と考えてしまいました。 痙攣、という言葉そのものの持つ質感と衝撃。実際に降れてしまった、その後のこと、を書いている、と言ってもいい。その臨場感に、「もし」は必要なのか?という問です。 震災後の夜の四つ辻で、無数の死者に出会ったひとの話を聞いた(読んだ)ことがありますが・・・その時は、分断されたり寸断されたりしている死者ではなく、普段の姿の人であった、ようです。 御巣鷹山で救助に当たった自衛隊員の方が、その後、悪夢のゆえの不眠で体調を崩された、と聞きました。 枝から垂れ下がった腕が、助けを求めるように迫って来る、のだそうです。 〈ただただ震え続ける   生え伸びた無意味〉 白い、青ざめた胴体、手足のみが揺れ続ける、海の底のような裏路地。 なにかを見てしまった人の、その後。透き通りながら、白く濁って、そこに「在る」実在に対して、語り手の肉体は存在しているのか。語り手もまた頭部をもぎ取られ、体を二つにちぎられて浮遊する者に、なるのではないか。声を上げることすら奪われ、断末魔の痙攣をすら、それと意識することなく〈ただただ震え続ける/生え伸びた無意味〉となる、のではないのか。 そんなことを、考えさせられました。迫力のある作品であるがゆえに、描写が過剰に重ねられていないか・・・あともう少しだけ、絞った方が、より凝縮度が高まるのではないか(読者に息をつかせる余白のようなもの、かな・・・)という私の主観が、果たして妥当であるのかどうか、これは本人が吟味していくほか、ないのではありますが。 (裏路地)

2017-08-17

ヒントを、他者の言葉から得る、ということは多々ありますが・・・ここまで真っ直ぐに、しかも誠実に、さらに、ご自身の言葉に換骨奪胎して、〈花色の交代が/加速度〉この一行だけ提示されたら、ハテナ?となってしまう唐突な定義を、丁寧なロジックの展開によって納得させてしまう。面白かったです。そうか、秋が加速してやってくる、のですね。それは、年齢を重ねるごとに、加速度が増す、ということでもあるのでしょうか。 人生の加速度。 (秋の花色)

2017-08-17

黙すること、という言葉が、8月に投稿されると、黙祷を思います。 そこに「光のように」と言われた時に、思い出す8月の光、原爆の光、そこに「眠い」光を忘れて眠り込む人々を思い起こしました。(作者がそれを意図していたかどうか、そこまでは分かりませんが・・・) 迫撃砲、という言葉で、現代の戦場に引き寄せられる。「軽々しくもルビに塗る」文法としては実に不思議な用法ですが、ルビを振る、ではなく・・・ルビに塗る。読み替えを強制する。黒塗り。言葉を削っているがゆえに、様々なことを想起させますね。 〈かたつむりのように目を瞑り/世界からアンテナを引っ込めて〉唐突な組み合わせのように見えて、「つの」のような目をひっこめるカタツムリのイメージと、世界を感受するアンテナをひっこめるイメージが重なりますね。 〈アカウントに鍵をかけるときのような〉この比喩も、ネットを遮断することによって自分に都合のよい情報を与えてもらえる世界にのみ閉じこもっていく、そんなイメージを喚起する。 ・・・ここまで読んでくると、最初の「黙すること」が(黙祷などではなく)ネット社会で黙ること、にも思われてきます。様々な読み方ができる、と共に・・・現代、という世相の一端を描いている、寡黙な良品だと思いました。 (黙すること)

2017-08-16

流れるような言葉の響きと、緩やかにたゆたうような、叙情性にあふれた流れ。 先月の投稿作品を思い浮かべつつ、同じ作者?と仰天しました。 近未来の、ロボット(というよりは、アンドロイド?)が意志を持ち、恋をしている、そんな世界を思い浮かべつつ・・・ 〈僕の受け入れているもの全て〉を知りたい、という・・・ある意味、これほど究極の愛の告白はないのではないか、という情熱のこもった言葉を、控えめに、知的に洗練されたムードでつぶやく〈あなた〉。 〈あなた〉がそばにいてくれれば、悲しみを「忘れる」ことは出来なくても、悲しみを「凍結させる」ことはできる。 〈僕〉を照らし始める〈日差し〉は、ようやく差し染めた希望の光、のようにも思われ・・・ 科学や物理に疎い私は、リチウム、というと、リチウム電池、くらいしか思い浮かべられません。そんな、ごくごく一般的な、文系オンリー読者の視点からの読み方に限定されますが、リチウムによって、むりやりエネルギーの注入をしなければ生きていられない、動くことのできない、そんな「時間」から、〈あなた〉がそばにいてくれることによって、内発的にエネルギーが生み出される、自分から動くことができる、そんな「時間」に移行していく・・・〈あなた〉によって〈僕〉が生かされていく。そんな物語を感じました。 原子力発電所が現れる冒頭、そして〈卵のオブジェが無数に置かれた森〉のイメージは、原発事故と、その後の再生への取り組み、復興に向けた様々な分野の表現者たちの想いを感じるのですが・・・あまり、そうした時事性に結びつけず、柔らかく流れる恋愛詩、として読みたいような気がします。 (リチウム)

2017-08-17

しゅんかん、と、ひらがなにしているところを、音読する時の速度、について、強度、について、考えました。 この身(好みと音が同じですね)を預けてしまいたい、そんな〈素晴らしい夜空の景観〉。 ずるいなあ、と思います。だって、作者だけにわかる素晴らしさを、作者が独り占め、してしまっているから。 どんなふうに、素晴らしいの?言葉で伝えたくなるほどの素晴らしさって、どんな感じ? そこのところ、を、読者にも分けてください! (この身を預けて...)

2017-08-17

ひとつひとつの連が、とても息が長い。根を詰めて、丁寧に、一定の速度で(ピンと糸を張りつめたような緊張感を持った感じで)綴られているように思いました。〈大切な備忘録〉とか〈健気な幸せ〉という時の「大切な」とか、「健気な」という一般的な形容の、その様態を知りたい、という思いもあります。 〈小さな群集として/四つ葉のクローバーが/佇む草原〉ユニークな表現ですね。群衆として、など特に。 〈すでに薄命の母が届けた花瓶とは/そう妻がいつも話す思春期の寂寞のこと〉奥様の思春期の〈寂寞〉に、〈薄明の母〉が花瓶を届ける。奥様によって思い出されたエピソード、とても気になります。こうした具体的な部分を、もっと展開して重ねていくような手法もあるのかもしれない、と感じました。 早くに亡くなられたお母様の記憶が、奥様の中に保たれ続ける、ということ。人生の「夜」の中を歩みながら、明るい希望の朝、を待つような、そんな人生の途上であったとしても、その道行きを照らしてくれる、仄かな明りとして、その思い出が輝き続けるということ。その思い出の中の〈母〉に花冠の為の花を摘む・・・あるいは、人生の折々にみつける四葉のクローバー(ささやかな幸せ)それが実は群生しているところがあるのかもしれない。そこでクローバーを摘んで花冠を作る、のかもしれない(そこまで想像したら、勝手な読みが勝り過ぎかもしれませんが) ひとりの人の「夢の黄昏」が、次の人に受け継がれていく。そんな光の連鎖を思いました。 (僕たちが頑張ると云うこと)

2017-08-19

軽やかな中に、重みを感じる、良作だと思いつつ・・・ 題名が、既に内容を暗示してしまう。この短さで、この題名(俗な言い方で言えば、ネタバレ、的な)は、もったいないような気もしますね・・・。 訪問者、とか・・・(うむむ、「夜の訪問者」とか、そういった先例に影響されてますね。なにか、もっといい言葉、ないかな・・・) 花が揺れるのは、夜、の重さ、なのか、罪、の重さ、なのか、影、の重さ、なのか・・・黒に紅茶猫さんが、いったいなにを込めているのか。そこをもっと、知りたいように思いました。イメージの強い言葉であるだけに、使い方によっては、ムードに流されてしまう。 銅版画の花のような、しっとりとした風情が美しいですね。 (夜の水遣り)

2017-08-17

〈空の青よりずっとずっとつよい〉つよい、のは、今、を感じる意識、なのか、二人のつながり、なのか、何が、強いのだろう・・・と考えさせられました。空の青、より、つよいもの。 〈社会的な問題起こして、会社をクビになろう!〉このあたりの、一見すると刹那的な感じは、「俺達に明日はない」のフィーリングにも通じますが、ずっとカジュアルな感じで・・・口にしてみた、言ってみた、そのことによって、すっきりした、というような・・・ツイッターなどでツイートしてみた、すっきりした、という、そんな感覚に似ているかもしれない、と思いました。 〈行先どこでも、二人セットでおねがい、ね。 新聞の一面でまた会おうか。 いざ勝負だ、かみさま。〉 いっそ、一緒に死ねたらいいね。この世界を、ぜんぶぜんぶ、ぶち壊して、二人もそのまま昇天しちゃいたいね。 そんな、恋、の持つ、ある種の狂気・・・それを、マックシェイクを二人分、ハンバーガーセットを二人分、というカジュアルさに落とし込んで消化している2人、の姿を思いました。 (マックシェイク飲む、いつも。)

2017-08-17

飛行機に乗って行く・・・いわゆる「エスカレーター」で、私立の小学校や中高一貫校に入れ、親が塾に送迎し・・・でも、真の意味で子供に寄り添っていない親子関係を想起しました。 一方、〈錆びたトランポリン〉は、手作りの教材で宿題の補助をしたり、部活動の話をつきっきりで聴きながら、必要な道具などを手作りや市販品の工夫によって用意してくれる、そんな親子関係を想起しました。 〈何の景色も見ずになる笑顔が〉この部分は、この表記でよいのでしょうか?もしかしたら、文字の打ち間違いがあるのかな、とも感じました。 それから、最後の一行、なんとなく「決意表明」のような、宣言文のような感じに読めてしまう・・・。 たとえば(あくまでも一案、ですが)〈今想像もできないような景色を/両親に見せる〉この前連をリフレインして、 〈いつか絶対 今想像もできないような景色を/両親に見せる〉なんて感じにしてもいいのかな、と思いました。 もちろん、これも決意表明、ではあるのですが・・・表現が、ちょっと変ですね、何といえばいいのかな・・・両親に見せる、というのは、意志で・・・嬉しく思いたい、は、願いで・・・意志で終わるのか、願いで終わるのか、ということもあるでしょうし、終わり方が、多くの方の予測がつく、俗にいう「予定調和」で終わっていて、そこに、若干意外性が乏しいという部分があるので、そこを、リフレインの音楽性や余韻でカバーできないか、という、提案です。 (トランポリンと両親)

2017-08-19

生きる、日常生活を送る、社会人として生きる・・・そのときに、違和感を感じる人と感じない人がいて、感じる人が、「表現」をしたくなるのではないか、と考えることがあります。 本作から、表現への切実な意欲を感じました。 〈それはなんて悪い心だろう なんて悪い心だろう〉と言い聞かせるのは、良識派の自分の意識であり、他方、 〈自分はなんていいのだろう なんていいのだろう〉と肯定する自分が、この詩の書き手、主体であるように思いました。 気になったのは、〈風邪になるのだけを畏れ〉と、〈こうしいる時にも〉風、こうしている、ではありませんか? パソコンの場合は、ワードに打ち込んで確認して、それをコピペする。スマホの場合は、フォーラムの投稿前のテストフォームを使われると良いと思います。編集ができない仕様になっているのは、投稿された作品にコメントを付けて頂いた後に、本文を大幅に訂正されてしまうと、コメントと符合しなくなる、そのような齟齬を防ぐため、だと(勝手に)思っています。 〈ほんとうのことしか知らず そのために声をもたない人たちが〉 声を持つ人、は、「ほんとう」でない世界で満足してしまっている、そんな人なのだろうか。ほんとう、を知っている人は、むしろ声を奪われてしまう・・・そして、人々の中に、埋もれてしまう、ということ、なのかな、と思いつつ・・・〈たくさんの人が行き交う/ほんとうのことしか知らず/そのために声をもたない人たちが〉文法的には、たくさんの人=声をもたない人たち、とも読めるな、と、ここは少し迷いました。 〈自分が何かを落としたからだ/遠く遠くにいる、自分の一匹が〉自分、という言葉がずいぶん頻発する作品だな、と思いながらも・・・なぜか「うるさい」と感じない。それよりも、表現の切実さ、が、先に訴えて来るから、なのかな。その意味では、まだナマ削りの感覚もありますが、その粗っぽさゆえに惹かれる。そんな「開示」があるように思います。 (ここには)

2017-08-18

一気に、二作、溢れるように投稿された、のでしょうか・・・ 合評を促進するため、一週間程度、間をあけることを推奨していますが・・・思わず出て来てしまった、そんな時は、そのまま勢いで「えいや!」と出すことも、また、有効なのかもしれません。 有効かもしれないけれど・・・こちらの作品の流れるような言葉を考え、こちらを先に作品として創作されていたのではないか。そして、そこから溢れた言葉を、一気に、もう一作の方に投下されたのではないか、という印象を持ちました。 作品の完成度としては、こちらの作品の方が吟味されていると思いましたが、最後のまとめ方が、急に意気消沈してしまった、というのか・・・ 水晶のような弱さ、弱いからこそ鋭利な刃物のような弱さ、それが、他者ではなく自身を傷つけ、その傷が、道端の草を育てている。そんなイメージを持ちましたが・・・〈弱さは世界に帰るだろうか/植物になって/ありつづけるだろうか〉ここを、もう一歩、詰めてほしい、と感じます。 (センサイ)

2017-08-18

やっかいな哲学的命題に取り組んだ一作ですね。〈私が私を私をして〉私が私をする、であれば、私が「私」を演じる、ということになるのでしょうけれど・・・私が、私を、という言葉に、「私をする」という動詞が付く。思考実験というのか、思考の旅を経て〈私は私を私をしているというただの心地〉に帰着する、わけですが・・・。 〈私が他者と混じりどこが私なのか・・・私と言う確固たる本質的私をしている私では無いか〉このあたりの感覚、とても観念的な用語の用い方ですが、体感的に伝わってきます。 他者から見た自分、を意識して初めて・・・「私」を得る。しかし、もともと漠然と、もやもやと、いろんなことを感じたり、考えたりしている、「私」がいる、はず。はて、この「私」と、外から見られることによって発見した「私」は、同じものなのか、違うものなのか?そもそも、私の意見、だと思って行動しているけれども、これは、他者に影響されて得た、他者の意見なのではないか?・・・などと、考え出したらキリがないですね。 哲学的、抽象的な命題なので、仕方ないとも言えますが・・・こうした自己撞着的な議論を繰り広げているときの「感覚」「感じ」を、比喩によって表現すると、どんな「感じ」になるのだろう。迷路?森の中?砂漠?それとも、都市の裏道を彷徨う感じ?入り組んだショーウィンドウに移り込む、自身の影に惑わせられて迷い込んでしまうような感覚とか・・・そんな「感じ」を知りたいなあ、という思いもあります。 (していく)

2017-08-19

〈全ては僕を大人にさせる、そんな陰謀めいたものを感じた 加速し、薄く広がる苛立ち、僕を中心にして円を作る そこに踏み入れた者をジロと睨んだ 行き場の無い焦燥〉 この部分、~た/~る、~だ/~しょうそう、と、脚韻を踏んでいくような感じでリズミカルに読めるのですが、 ジロと睨んだ、と書くと、語り手の〈僕〉が睨んだ、ように読めますね。〈苛立ち〉が、〈僕〉を睨む、という擬人的な表現であるなら、睨む、の方が、前後のつながりが良いように思いました。 大人になるように強制される感覚。同じところで回り続けているような焦燥感と、しかし、少しずつ上ってはいるのではないか、という思いと、同時に、それが闇の中で、確かめることができない、という苛立ちと・・・深い闇の中にある螺旋階段。このくだりが、こうした感覚をよく表していると思いました。 全体に、ちょっと説明的な語句が多いかもしれません。状況説明や、自分自身の心の状態を説明する言葉が少し多いので、闇の中の螺旋階段、のような、感覚的にわかる映像や五感に訴える感覚を取り込む工夫をすると、もっと読者の心に訴える作品になると思いました。 (若者は)

2017-08-19

下二段落、頭の一時下げを忘れてしまいました。もとは4ページの「エッセイ」です。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-08-16

前田ふむふむさん そうだったんですね。現在の「**研究会」は、長谷川さんと私とで司会を担当しています。渡さんも、時々参加してくださいますね、長尾さんは常連ベテランメンバーです。私は前田さんの後に参加したので、お目にかかる機会はありませんでしたが・・・。私の指針、これは批評に関することだけではなく、詩を書いていく時の指針でもあります。お読みいただき、想い出をお知らせいただき、ありがとうございました。 竜野欠伸さん はい、あえて「エッセイ」を投稿してしまいました・・・。分量的に、詩誌4ページくらいの分量が、この掲示板ではこのくらいの量になる、というモデルケースとしても見て頂けるかと思います。詩論や批評論を書こうとすると、どうしても肩に力が入ってしまうのですが、「エッセイ」として書くと、意外にすうっと楽に書けるようにも思います。ありがとうございました。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-08-19

今更ながら、ですが・・・ 花緒さん 〈グルを否定したり、グルの範囲を逸脱することから、表現が始まるのではないか〉ガツンとくる一発、ありがとう。最近、とみに思うのです。物差しを、他者に頼り過ぎてはいないか、と。 Migikata さん 〈自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています〉平田俊子さんという詩人とお話しした折・・・自分が辿りつけそうな、そのさらに先を見てみたい、とおっしゃっていたのが、印象に残っています。映像が先に浮びますか、言葉が先に浮びますか、と問い掛けたら、どちらでもない、一本の木の中から仏像を彫り出すように、彫刻のように、言葉/イメージを掘り出すのだ、と。その、先へ、という、詩論。手ごたえのあるものを、という、詩論。 三浦果実さん あなたもまた、直感/直観の人だと、常々思います。〈破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。〉よいものを前にして、黙る他ない時の方が、人には多いのではないでしょうか。でも、じーん、と痺れている。そのしびれを味わいたくて、詩を探しているのかもしれません。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-09-20

〈硝子が砕けるように〉怯えながら見る夢。その夢から目覚めているはず、なのに、現実の裏庭から見える光景が〈指先から朝焼けになって 赤く血の色に染まっていた〉指さすと血の色に染まっていく、ように感じてしまう。まだ、夢の中にいるような、目覚めていないような感覚ですね。その感覚を受け止めてくれる〈母のやわらかい胸〉そこに抱かれる安堵。 安堵の世界の話が続くのか、と思ったら、その安堵を奪う、悪夢の世界(一連目)の内容が明かされる。ある種のエディプスコンプレックスが夢となって表れている、と「解説」することに、果たして意味があるのか、どうか・・・ 〈母〉が襲われるのを助けるのは、〈父〉ではなく、〈わたし〉。〈わたし〉が殺すのは、〈父〉ではなく〈大きな一頭の黄色い猿〉・・・本来は、〈父〉を(観念的に)殺さなくてはいけないのに、代替物としての猿を、繰り返し殺しているように思いました。その〈猿〉を、〈母〉が調理して、自分に食べよ、と差し出す。これもまた(父の代替物であればなおさら)恐怖であるはずなのに、ためらいもなく食べる、これもすごい。 2連では、〈黄色〉は悪のイメージですが、3連では〈黄色い閃光〉として現れる。「暖炉のような家庭」もまた、黄色やオレンジの暖色をイメージさせますが、閃光、刺しいるものとしての鋭さは、心地よい暖色の黄色ではない。待合室は、死の前に滞在する、待合場所なのでしょうか。最後の審判を待つ前に。家庭とは、かくあるべし、そんな「強制」を吹き込まれるような、そんな場所、なのではないか・・・という気もしてきます。心身を病んだ人たちが待たされる場所、〈治療〉をほどこされる場所・・・死による救済、それが〈治療〉なのだ、という、ある種の諦念も感じる部分です。〈診察を受けた人は 必ず 首を絞められて猿のような叫び声をあげるという〉治療が、〈猿〉として殺され、食べられてしまう、前半部分に回帰するイメージになっているところが、確かに入り組んでいるように思いました。2連目では〈猿〉はエディプスコンプレックス的な意味での〈父殺し〉の代償物として描かれていますが、3連では、花緒さんのように〈猿は死の象徴〉と読むこともできそうです。同時に、誰もが抱えている殺すべきなにか、の寓意でもあり、自分たちがそのものとして殺されてしまう(自分の中の対峙/退治すべきなにものか、を乗り越えようとして、自分自身がそのものになってしまう、飲み込まれてしまう)そんな恐怖や不安を描いているように思いました。 4連。〈母〉の介護をしながら、鏡に映った自分を見ている、のでしょうか。自分の中の猿、が映り込んでいる、と読みたいのですが、同時に・・・杖を必要とする母が座っている、という情景があるので、母そのものが、猿として鏡に映っている、とも読めますね。 自分がやっつけよう、退治しよう、乗り越えよう・・・母を襲う、憎き猿、と思っていたものが・・・実は母の実体でもあり、それは悪意を持ったもの、ではなく、実は〈神々しいほどの聡明な視線〉を持った猿、である。 自分が殺そう、殺さねば・・・と思い続けていたものは、実は、悪ではなく、人間本来の姿であったのではないか。その神々しさに、老いた母の姿を通じて、語り手は気づいたのではないか・・・そんな、自身の葛藤との和解を本作の中に見出せるように思いました。 (黄色の足跡)

2017-08-19

ベルさんとふむふむさんの議論、分量、熱量、内容共に、非常に興味深く拝見しました。 ベルさん、「ふつーの国語力があれば」って、なんだか、反論されてムカッとして言い返したみたいな感じに読めましたよ(笑) 勢いで書いちゃったのかな・・・ ふむふむさん、たぶん、黄色であることは、無意識的な必然だったのではないかと、私は思います。ベルさんが教えてくださったような、文化的伝統も絡んでいるのかもしれませんが・・・穏やかで暖かい黄色ではなく、注意信号とか、蜂や毒蛇の黄色のような、本能的に危険と察知される類いの黄色。 その色が、全体を貫いていて、なおかつ、猿のイメージが鮮烈。これはやはり、ウサギや犬や猫ではダメだったんだろう、と思うし・・・その猿が、なぜ思い浮かんだか、作者本人にも明確な説明はなしがたいのであろう、と思います。 だからこそ、いろんな人の、多様な意見が読めるという掲示板って、面白い場所だな、と思うんですよね・・・ 自作について熱く語る作者と、これまた、自身の見立てや解釈や読み方について熱く語るレッサーと・・・でもって、それを拝読して、ほお、とか、なるほど、と思う読者と・・・三つ巴の熱量。おいしく頂きました❗ (黄色の足跡)

2017-08-22

都市生活で疲弊した語り手・・・他者の気持を慮ったり、唾を吐きかけられたり(そんな痛罵を浴びせられたり)する日常から、一瞬、魂だけがアフリカのサバンナに飛び、思いっきり大地を掴んで駆け抜けていく・・・そんな夢想全開、という若々しさを感じました。 大地に感じた〈いとおしさ〉。その感触は、なぜ、愛おしかったのか。懐かしかった、のか、自分の足が大地を踏みしめていること、それが愛おしいのか・・・ネイティブインディアンの詩のような言葉を集めた中に、今日は死ぬのにもってこいの日だ、というような、生きている一日の賛歌があったことを思い出しました。 〈生きることはなんて気持ち良いのだろう〉この感嘆の部分を、その時肌に感じた風の感触や、鼻先を過ぎていった匂いや自身の汗の質感、肌を焼く日差しの感覚・・・などで「気持ちよさ」を伝えてくれると、もっとリアルに追体験できるかもしれない、と思いました。 (野を駆ける)

2017-08-20

即興で作った、とありますが・・・なるほど、というべきか、ええ!びっくり!と言うべきか・・・ 右目はいらない、という立ち上がりの鮮烈さ。そこから連想される、それじゃあ左は・・・という思いの続き、なのでしょうか、いきなり今度は、心臓もいらない、と来る。せつなさやドキドキばかりを押し付ける、こんな苦しい臓器、いらない!という流れかと思いきや、今度は〈個体に縛られた葉は散る〉・・・この飛躍に驚きました。一本の樹木、あるいは一本の草花のような、語り手の❝身体❞の把握。 そこからの飛躍・・・〈喜びの肌触りは子宮という宇宙/創作と誕生〉このあたりから、若干、観念の方に偏ってしまった気がします。肌触り、という感性主体の進行が、〈子宮という宇宙〉詩の創造と身体の創造、創造という宇宙、といった観念世界に拡散してしまう。 〈まだ産まれて生きて書く前に/違和感がないのに幸せなのに/何も得られない〉この感覚は新鮮でした。書く、ことで語り手は「生きる」実感を得る、のだろうか・・・書くことをしなくても、違和感がない。充分に幸せ。それなのに、〈何も得られない〉という飢えの感覚を覚えている。 〈何も縛られない〉この縛る、という語感が〈個体に縛られた葉は散る〉とを連結させ、言の葉、言葉を想わせる。 残された左目で〈ウタウ〉ということ。世界の叡智を得るために、片目を差し出す神話がありますが・・・痛みと引き換え、そんな覚悟というより、右目いらない、心臓いらない、という軽やかさの方が先に立つのが面白い。 子宮に遊泳・・・これも「生み出すもの」「作りだす場所」といった、観念的な子宮を持ち込んできている印象を受けます。僕、と単数ではなく、僕ら、としているゆえに、観念世界に引き寄せられているのかもしれないですね。個としての〈僕〉にどこまで引き付けて描いていくことができるか。そんな視点で考えてみるのも良いかもしれません。 創作するぞ!という、意志が軽やかに踊っているような、そんな読後感でした。 (ウタウ)

2017-08-20

長いなあ、と思いつつ、明快な口調のリズムゆえか、最後まで飽きずに納得しながら読んでいました。 しいて言えば、最後の一行は必要か?ということと、句読点をつけた散文形式にして、 〈視界を司る私はそれを理解している〉までを一連、〈私は知って理解することができている〉までを二連(仮に) といった形にしてみると、また異なった印象で(ヴィジョンの解説譚のような)読むことができるかもしれない、と思いました。ひとつの案に過ぎませんが。 三人の女性、というイメージは、少女、壮年、老年と示されることが多いようですが、ここには老年が出てこない(笑) 〈高校生の雰囲気を持つ奥の女は世界樹かの如くおそろしいほどに巨大〉この異様な肥大というのか存在感のようなものが、語り手の青年の意識を占めている意識・・・憧れつつ畏れる、というような・・・を体現しているようにも思われ、興味を惹かれました。「おそるべき君等の乳房夏来る」という三鬼の句に通じるものを、この女子高生的女神?の描写に感じました。 三美神などのように、繰り返し描かれてきたイメージでもあり、そこに〈それぞれがそれぞれに美しい存在だ〉と結語を置く必要があるのか、既に作品中で、しつこいほど丁寧に語られているにも関わらず・・・ということが考えます。 (三人の女―固定された視界にて―)

2017-08-20

〈発送源の動画〉発想源、なのでしょうけれども・・・あくまでもそこから「ヒント」や「着想」を得た、ということであればともかく・・・見てみると、かなり多くの画像イメージを踏襲していますね。ここまで被っているなら、引用元とか、オマージュ、という形で借用していることを、添書きした方がよいでしょうね。無断借用とか無断盗用と判断される可能性があります。 画像データや、無料イラストなどをどこまで「着想」元と考えるか、これは今後のネット社会を考えていく上でも、大変大きな問題だと思っています。絵画作品などに関しては・・・本人が「無断盗用」の意識が無い場合は特に・・・出版の際には、誰それの作品にインスパイアされた、とか、誰それの〇〇という作品に着想を得た、などと注記を付けるように助言していると思います。可能な限り、著作権者に確認を取る、などの対応もしているはずです。 投稿掲示板の場合、読者に先入見を与えたり、いわゆるネタバレさせないために、あえて隠す、ということもあるのかもしれません・・・その場合、コメント欄などで(今回のように)ネタ元を明記すれば良いのではないか、とも思いますが・・・難しい問題だなあ、と、改めて感じました。 (三人の女―固定された視界にて―)

2017-08-26

花緒さんの〈一連目から、鉄棒とエッチしている、など、不必要にリスクのある表現〉ここに同感。逆上がりとあるから、当然、いわゆる「鉄棒」のはずなのですが、この一行だけ見て連想するのは、上り棒と少女のエロティックな関係性ですね・・・でも、いわゆる前回りや逆上がりをする鉄棒、何ですよね。空を駆けあがる、というイメージと、何度も何度も密に取り組んで挑戦して・・・という、鉄棒との感応・・・を、このような砕けた口語で(しかも、小学生らしい女児の言葉として)表現することの不自然さを感じてしまいました。 普通、ってなんだろう。普通、でないから、弾かれる、虐められる、仲間外れになる、浮いてしまう、のか・・・ということは、「普通、そんなことしないよ」「普通、そんなこと考えない」と言われ続けた、私自身の子供時代に重なります。私はトイレに一緒に行く「おトイレ友達」のような不必要な「つるみ方」群れ方が嫌で、意図的に同級生の群れから外れていた、ようなところもありますが・・・本が友達、という、それだけでも「普通」ではない生き方を選択した時点で、クラスの大多数から浮いてしまうのも、仕方なかったのかもしれません。高校に入って、そんなタイプの子たちが同じクラスに沢山いる、という情況に初めて接し・・・まともに本の話をしても、煙たがられたり嫌がられたりしない、そのことがとても新鮮で嬉しくて・・・詩の投稿掲示板って、実社会で「まともに詩の話や本の話をしても、なんだか良くわからない、難しい、ジャンルが違う、と敬遠されてしまう」そんな人たちが、気楽に、気安く本や詩の話ができる場所、なんじゃないかな、と思うと・・・高校に入った時の解放感と似たような気持ちを思い出します。 全然、内容や文章に触れていないですね、批評になっていないですね・・・私も、誤字にはずっこけました。一気呵成に繰り出す新鮮さを保持しつつも、それを推敲していく過程が、絶対に必要だと思います。もちろん、いくら推敲しても、完成、には至らない、としても。 姉の目線で語る、のは・・・弟(語り手?)が謝られてしまった時の、その衝撃を思い出しながら、姉の心の中を辿り直す、そんな「他者に成り切ってその時を回想する」意識が働いているから、なのかな、と思いつつ・・・鉄棒ができるようになっても、弟が「いじめ」から解放されるはずはない、その無力感を知りながら、それでも、自分にできることを、なんとか・・・祈りのような気持ちで、やらざるを得ない、没頭せざるを得ない。でも、出来ない。できないから、君が苦しんでしまう、助けてあげられない・・・から、そこから絞り出された「ごめんね」なのだ、と思うのだけれど。〈鉛筆が転がるくらいの軽さ〉しかないのではないか。そんな想いが、弟の側にはしっかり深く刻まれている。そのことだけでも、〈姉〉には救いなのではないか・・・という気もします。 (世界)

2017-08-21

麻痺、礼儀、ドキュメンタリー、罪、人間味・・・い、の音で終わる行が連なって生み出す流れを感じます。 一行詩の連作、とのことですが・・・確かに、全体の流れはあるのに、その行間が広すぎて、ついていくのが大変、という感覚はありました。 人間味、食べていく汚点・・・生きて行くために食べる、という行為が繰り返されるわけですが、実際に「食べる」ことと、人を喰って生きて行く、というような、比喩的な意味での「食べる」こと、両方を含めて、そのことに汚点を感じてしまう、そんな潔癖さ(青春期特有のもの?)を感じました。 感覚を先行させることはとても重要だと思います。 思うけれども・・・せっかく、無制限のワルツ、〈上書きされる〉生、を見出しつつあるのだから、そこを攻めていってほしいなあ、という読後感を持ちました。 〈実況は望まない本来の礼儀〉が、冒頭の〈器用に人間味 私の礼儀〉に還っていくのであれば・・・これは、花緒さんが呼ぶところの「ループ詩」の一種なのかな、と思いつつ。 しばらく麻痺、した感覚の中から、これを言いたかったんだ!というものが表に強く出て来るといいなあ、と思いました。 (しばらく麻痺)

2017-08-27

六連三連というリズミカルな繰り返し、〈ストレンジ・バタフライよ〉と呼びかける歌い出し。 歌詞の印象が強い、スタイリッシュな作品だと思いました。 三浦さんが〈少し醒めてしまう〉と感じたところ、私も同感です。直喩だから、ということ以上に・・・センチメンタル気分で、というような、音楽にのせて歌われたらしっくり馴染むような部分。文字で読むと、意図的に感傷的な世界を用意して、ほら、こんな感じを感じてよ、と手渡されてしまうような、ある種の強引さを感じる、と言えばいいのか・・・。 夜の蝶として〈悪びれずに〉飛んでいる〈君〉が、自分の思い通りにならない(というと変ですね。思いが上手く伝わらない)恋人や片思いの君、なのか・・・あるいは、親が娘を歌っている、設定なのか?小悪魔的に夜の街を飛び回る〈君〉を、ハラハラしながら見守るしかない〈私〉。〈とうとう脆くばらけてアスファルトの上/散らばった君の欠片をかき集め〉る〈私〉。もう立ち直れないほどに〈君〉は傷つけられてしまったのか、と思ったのですが・・・最終連で、〈私〉の足もとにふてくされて引っくり返っているようなイメージでもあり(それゆえに、親子という設定を連想したのですが)なんとなく、無事でよかったな、という読後感を持ちました。 (蝶と私)

2017-08-21

花緒さん ループ詩、のようなものを書いてみよう、と試みて、書いてわかったことは、これはループ詩ではなく、リフレインである、ということです。なぜ、そう「わかった」のか、上手く説明できないのですが・・・〈流れていく流れ、は自己言及しているに過ぎない〉ということに、たぶん関連するのですが、そこに留まること、ではない。 音の反復は、ひとつの空間をぼんやりとたちあげる、その空気、のようなもの、なのだけれども・・・流れない流れは無い、と意味に換言すれば、まるで意味の無い繰り言になるわけです。たとえば、光る光、という言葉は成立するけれど、何を言及しているのか。光らない光はない。そう考えると、意味としては何も言及していない。でも、空気感は、音の響きの反復の中に、ぼんやりと気配を表す、というような・・・。 流れる、といったときに動き出したものが、流れ、と名詞で止められたときに生じる停止感は、たしかに澱みと受け止められるかもしれません。今回は、音の方を取りたかったので、こんな感じになりましたが・・・。動詞を名詞として用いる、名付ける、そのことが昔から気になってはいます。風、という名詞は、風るとか、風く、というような動詞にはならない。光は光る、と動詞がある。白は白む、明りは明るむ、と動詞がありますよね、どちらも変化を示す動詞。時間経過を示す、と言ってもいい。 たぶん、ですが・・・ループする時、無の空間に言葉で何かを立ち上げていく。そして、一巡した時にまた最初に戻り、そこからまた、新たに語り直す。その時、少しずつ位相がずれたりしながら、新しく立ち上げ続ける、という能動性が生じる。空間が螺旋状に、語り直す能動性によって埋め尽くされていく、感覚、がある、わけですが・・・ リフレイン、の場合は・・・すでに世界は流れているというか、詩的空間がそこにあって、既に「ある」ところに、「私」を持ち込む、そこで体験することを語る、感覚があるように思います。語りながら、回想地点に戻って、そこからまた、体験し直す、確かめ直す。その間中、その空間には、詩的空間と時間が流れている、あり続ける。言葉で作っていく、という能動性ではなく、既に在るところに、その場に体を持って行く、という能動性、のような・・・気がする、のだけれど・・・その体験を、リフレインを用いて、確かめ直す、というような。うーん、うまく、説明できていませんが。とにかく、書いてみてわかったことは、これはループ詩ではなさそうだ、ということです。 (流露)

2017-08-21

m.tasaki さん 大海の中に取り残されているように感じる時も、川のせせらぎの中に立たされているように感じる時もありますよね。私は、目で見ている時はその感覚だけが肥大して、他の身体感覚が消えてしまう。触覚の時、聴覚の時、それぞれ、体が融けてなくなってしまって、感覚器官だけが残っている、そんな頼りない感覚を、しばしば覚えます。だからなのか、体の一部や器官を自在に取り外したり、置き直したりすることに、まるで違和感がない。ないから、当然そのように書く、のだけれど・・・その書き方に驚く方が多いです。皆さんは、いつでも自分の身体は一体としてとらえている、のでしょうか?感覚器官だけが特化して、闇の中に浮いているような、そんな頼りない感覚になることは、ない、のでしょうか・・・逆に知りたいです。 のどは・・・そうですね、なんであんな言葉を発してしまったのだろう、という悔恨の炎に焼かれている喉、ですね、たぶん。その痛みを癒してくれるのは、自分の感情というよりは、外から流れてきて、私の中を流れて過ぎ去っていく、他者の感情、なのかもしれない・・・そんな想いがありました。 (流露)

2017-08-21

ハァモニィベルさんへ ありがとうございます。ううむ・・・燃え盛る炎の中で、彼女は何を思ったのか・・・それこそ、清冽な流れにオルレアンの乙女を静めて鎮めて差し上げたいですね。私は、逃げます(笑) (流露)

2017-08-26

sonetiraさんへ 流れるような感覚を味わっていただけて、嬉しいです。逆にいえば、その感覚以外のことを、いうことができなかった・・・中途半端なものでもあります。質感とか、言葉の響き、間合い、といったニュアンス的なことも考えつつ、もう少し中身のあるものを盛り込んでいきたいと思っています。 (流露)

2017-08-26

るるりらさん ありがとうございます。意識的に「海」を描こうとすると海が逃げていくのに、海から離れたことを描こうとすると、海や川や泉のイメージから逃れられなくなる・・・不思議なものです。本当に書きたかったこと、は、たぶん・・・私の発した言葉が、傷つけたかもしれない人のことを思ううちに自分の心が腫れあがっているような気がしてきて・・・そんな「気がする」感傷に囚われている自分を洗い流してしまいたくて、どうしようもなかった、というような、ぐるぐる巡って答えの出ないようなところから、出てきたもののように感じています。そこを、上手く言えなかった、のだから、そこは片手落ち、なんですが・・・ (流露)

2017-08-26

survofさん 質感を感じていただけて、嬉しいです。生きている時は七色のセロファンのように輝いて空中を飛び交っているのに、捉えたとたんに灰になって崩れて吹き散らされてしまう・・・そんな美しくはかない生き物。言葉を、そんな風に感じることがあります。緑の沼の中で、揺らめきながら形をとる、のに・・・捉えようとすると溶けて消えてしまう、そんな得体のしれない怪物、のように感じることもあります。言葉って、不思議ですね。 (流露)

2017-08-26

〈またお金が落ちる音がする、ちゃりーんと、それで幸せが得られるのであるならば、どのような労働であろうと文句を言われる筋合いはないから、〉お金で体を売る、買われる、ということを、積極的に選択するのか、必然的に追い込まれていくのか、ということもあるし・・・その結果として、ある種の諦念を噛みしめながら、お金で買われるのは気持ちがいい、と自己肯定する・・・というような印象の詩集を、ちょうど読んだばかりなので、どうしてもその詩集の作者と重ねてしまうのですが(もちろん、仙台とは関係ないし、この作品中の作者とも関係ない、でしょうけれども)・・・〈僕は教授に頭を下げて感謝をした、その時、地面に天の川は流れていなかった。〉実社会に定着して、安定して労働の対価としての金銭を受け取ることのできる教授と接している時には、地上に天の川は流れていない。〈美しい天の川に乗って、できるだけお金を落とす、ちゃりーんと、天の川を彩るために硬貨を落とす、そのために、今日も明日もおじいさんとおばあさんの話を聞く、ちゃりーん、ちゃりーんと、でも、天の川の美しさに誘われて、あなたの詩を、読みたい。〉話を聞く、という行為に、本来は行き交うはずのないお金の音が聞こえる。労働対価としてのお金ではなく、誰かの話を聞いた時に、何かがキラキラ輝きながら、お互いの耳の奥にだけ響く音で、ちゃりーんと響く、ような・・・そのきらめきが、地上に流れる天の川として、幻視されている、ような・・・そんな不思議な感覚がありました。そう考えていくと、お金で体を買う、買われる、という関係性の中にも、その人の心の声を聞く、というような、そんな「ちゃりーん」に匹敵する気持ちの交感のようなものが、あった、あるいはあってほしい、ということなのかな・・・。ムーミン谷のスナフキンを、なんとなく語り手に重ねてしまいました。他者の幸せを願いながら、放浪を旨として生きる人。 (星の誕生日)

2017-08-21

分裂した眠り、希望も欲望も抱き得ない〈僕〉が居る場所はあるのか、〈僕〉を包み込む世界はあるのか・・・ という問いかけが根底にあるのかな、と思いました。 突然出て来る〈彼らの星屑〉。星屑、は、前連の〈宇宙〉から引き出されたものであると共に、もしかしたら・・・欲望(ほしい)から引き出される言葉であるのかもしれない。それにしても、いきなり〈彼ら〉?といぶかしんだのですが・・・なるほど、すぐに〈僕〉が現れる。彼らと僕、その三角関係をイメージすればいいでしょうか。 〈皮膚の下に潜む殺害をいなすので精一杯〉、自身の裡に潜む殺害衝動のようなもの、そうした暴力性を抑え込む、往なす、散らす、ので精一杯という感覚なのかなあ、皮膚の下に、という言葉のリアリティーが真に迫ってきて、とてもよい表現だと思いました。 〈鍵をかけて 魂の無心はもう要らないね 強奪だけが残された道だろう 絶望していないことに軽い絶望 さえ無くなって 僕はよく笑うようになった〉 そんな〈僕〉の気持に鍵をかけて、〈君〉を〈強奪〉することだけが最後の希望、というような文脈に読めるなあ、と思いながら・・・果たして、作者はそのような「意味」や「ストーリー」を描こうとしているのだろうか、という疑問を覚えました。これは、作者に対して、というより、自分自身の「読解」に対する疑問でもあるのですが。まあ、文脈を追っていくと、そうした物語、として読みたくなる。最後に、撃ちころしてくれ、と頼むのは、〈僕〉なのだろうけれど・・・〈僕〉と〈君〉を殺して、なのか、〈君〉を含めた〈彼ら〉を殺して、なのか、〈僕〉と〈彼ら=天使〉なのか・・・などと考え込んでしまいました。 言葉のリズム感や勢いで進行する作品であり、意味よりも瞬発力やキツイ音の流れ、柔らかい音の流れ、といった「うねり」のようなものにのって読んでいく作品なのだろう、と思いつつ・・・彼らと僕の関係性が、最後まで気になる作品でもありました。 (sleeps)

2017-08-27

〈待つ人は疎らで、降りる人ばかりがやたらに多い。〉のは、哀しみを引き受けて旅立つことよりも、そこから下りてしまうこと、抱えていくのを放棄する人が多い、ということなのかな、と感じました。 群衆の中の孤独。生きている、ということが、必然的に引き受けなければいけない孤独。それを淋しい、と取るのか、自由、と取るのか・・・。失われた片割れを追い求めるというイメージは、あるべき自分と今ある自分の乖離でもあるでしょうし・・・1と9、かけ離れているようでありながら、すぐ隣り合う不思議、生と死、始まりと終わりが、同じホームで連結されている、そんな不思議も思わせます。 〈小さな切符〉と〈大きな決断〉。それは、詩を書く、という切符を手にした、たくさんの〈君〉への呼びかけでもあるのかもしれませんね。 〈もうすぐ、君の到着する時刻だ。〉で止めず、さらにその先の希望というのか、期待を記すあたりの・・・そのこころ、を知りたくなりました。 (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-27

二個優さんの作品を拝読したあとにkikunaeさんの作品を拝読して・・・同じ「煙草」なのに、こんなにも捉え方が異なるのか、と驚きました・・・と書き始めて。紫煙=煙草の煙、とは言い切れないのではないか、という感触を持ちました。 文字通りの、紫がかった煙、なのか・・・ 〈吐き出された血は/歪な球形をなして/果てない宇宙に散らばり〉煙草の煙、という前提で読むと・・・たとえば二個優さんが、吐き出された魂になぞらえているけれども・・・自らの血(いのち)を吐き出す、というような、壮大な比喩とも読め・・・壮大すぎて、ちょっとデフォルメをやり過ぎているのではないか?という気持ちになるのですが、他方、激しく閃光を発して、紫がかった煙が視野全体を埋め尽くすような、世界崩壊の瞬間に立ち会っているようなイメージを表現したかったのである、とするなら・・・千々にちぎれて宇宙の一部として溶け込んでいくような肉体と意識の中で、もうもうたる煙の中に飲み込まれていく、最後の視野に写った光景、に見えて来る。 ドラマティックな悲劇の死に共感し共振した書き手の心が、素直に描かれていると思いました。 (紫煙と咲く花)

2017-08-26

〈西の方角を頻りに示唆して〉死の安楽の地を示唆する景色を目にしながら、語り手(主人公)は〈不死と成り果てた身〉を引きずって奮い立たせて、生き続けなくてはならない。なんと残酷な運命なのだろう、と思いました。〈遠い一点から呼ばれる声を〉待ちながら、何度も何度も、生き返って闘わなくてはいけない・・・。 最後に〈滑らかな木のような女が音もなく滑りでて/その無垢な首筋を横からやさしく抱いた〉という一節が置かれることによって、この不死身の戦士の苦悩は、少しは報われるのではないか、と思いました。 (神話の果て)

2017-08-27

印象的な作品ですね。言葉を削る、というのか・・・抑制することによって立ち上がって来る緊張感。 私は虐待を受けた人の気持になって(寄り添って)故郷からの旅立ち(自己解放)を歌った作品のように感じました。 赤、という色・・・赤で区切られた結界、禁忌。卑俗なイメージで、よく赤い腰巻などが出てきますが・・・寺山修司の描く赤、とか・・・旗、と書くことによって生まれる共産圏のイメージと、歪んだ共産主義の抑圧のイメージも、確かに重なってきます。 survof さんも上げている、言葉の区切り方、改行の仕方が生み出す呼吸のようなものが、躊躇いや、言葉を発する時にかかる圧力を暗示していて、余白で語る力を持った作品になり得ていると思いました。 (手を振る)

2017-08-27

〈花がないかも知れない浄土が見えた、〉生真面目?な、魂を引き絞るような深刻な叫び・・・なのかと思いきや、ちょっととぼけたような(そして、苦笑する他ないような一抹の寂しさ、悲しさを含んだ)ユーモアのある一行が挿入される。 全体のリズム運びが、生き生きしていて楽しいですね。〈僕は労働、ロックンロール、〉ろ、と連なっていく響き。 〈死んだ男達がもう一度語りかけてくる庭の裏、〉という、少し異界に踏み込んでいるような場所のイメージ、泥、そして花、と繋がっていく、飛躍しているのに無理なく読者を運んでいく連想。睡眠をすら忘れて踊り狂う、歌い狂うような狂騒を思わせながら、同時に〈治りがたい歯痛〉なんてユーモラスなフレーズを差し入れていく感覚が、適度に日常から離れない距離感を保つ効果を出していると思いました。 〈それは脳、かもしれないぜ。〉それはノー、かもしれないぜ、とも読める、面白い一行。〈真実をなじめせた絵具で壁に絵を画く。〉なじませる、でしょうね(水星さんが引用していらっしゃるように。) 迸る感情が、壁に描き殴る花(花火のような?)のイメージとして伝わって来るように思いました。 〈難破船は行ってしまった、〉ここで止めてもよかったのでは?という読後感を持ちました。私の勝手な感想ですが・・・。難破船からスカルの連想に飛ぶのでしょけれども・・・スカルの音から〈受かる〉につなげるあたり・・・書き手にとって切実な部分であるのか、切実だからこそ、笑い飛ばしてしまえ、という諧謔なのか、単に音つながりの言葉遊び、的な軽さに持って行きたかったのか・・・〈あくるんです〉これは、あるくんです、なのか、ということも含め・・・本格的な運動のあとのクールダウン的な意味での「軽さ」なのか、勢いで(惰性的に)つなげてしまった部分なのか、重くなった全体を軽さに収束させたかったのか・・・というあたりに、若干の戸惑いが残るラストでした。 (ローリン、ローリン)

2017-08-26

詩論、って、なんぞや、ということにもなるのですが・・・自分にとって、詩とはなんぞや?と問い続け、書き続け、これが「詩」である、と規定されるものの枠内に収まりつつ独自性を発揮するのか、そこから逸脱し続ける孤独な道を選ぶのか、という選択を迫られる・・・ということでもあるでしょう。 上達したのか、と他者に問う時点で、口語自由詩100年の歴史の中で、なんとなく、これが「詩」である、と規定され、認知されている枠組みにおいて、うまくなってる?と問いかけているように思うのですが・・・ 〈もう一度、狂気を書きたいと思う。偽りの狂気で終わってしまっても、〉この一節が明確に自覚されている時点で、旧来の枠組みからは逸脱してやるぜ、という意識も垣間見えるのですね。そこに矛盾を感じました。 書いても書いても書いても、とらえられない感情を、これでどうだ!と他者に向かって突きつけていくのか・・・自分が忘我の境地で迷い込んだ異界での体験を、持ち帰って「こんなところがありました」と提示するのか・・・ 自分で自分の成長記録の為に(自己認識の文字化のために)「作品」を書くのであれば、日記や創作メモで良いわけです。草稿を提示する必要もない。 狂気、その姿を捉えることが、俺にとっての詩なんだ!・・・ということなのか、自ら狂気の域に達して、憑かれたように書きまくる、それが、俺にとっての詩なんだ!・・・なのか。 「美しく発狂した」という過去の名フレーズを、果たして超えることができるのかどうか、そこに、詩史的な意味での「上達」がある、のかもしれませんが・・・自分自身を否定し、殺害し、また再生させて乗り越えていく、そうした狂気じみた行為の中から出てくるものを読みたい、書きたい、ということであるなら・・・(なんだか仮定ばかりの文章になっていますが)やはり、これは詩論だな、と思いつつ。 前半部分の、やたらに丁寧な「説明」部分、やっぱり、いらなかった、ような、気がします・・・ (詩論:再び偽りに終わったとしても)

2017-08-26

細い細い光を3本・・・さりげなく、実景のように書かれているけれども、過去、現在、未来を射抜く光、なのかもしれないな、と思い・・・冒頭から繊細な手つきに唸りました。 〈美しい花は全部散り散りに破いて~〉この、一気にほとばしるような一行が印象に残ります。唄でいうなら、サビの部分? 未来の破たんを予感しつつ・・・お化粧が濃いよね、というフレーズの軽さを考えると、これは架空恋愛なのかな、と思ったり・・・。 美しい思い出だけを残して、全てを(事前に)棄ててしまいたい。そんな未来を憧憬しながら悲嘆するという、不思議なジレンマが歌われているように感じました。 (未来の)

2017-08-27

〈まあるく・・・流れてく〉ものと、〈四角いアパート〉〈正方形の生活〉との対比。まる、は、正方形に内接しているのか?収まり切れずに抜け出していくもの、そこに自身の意識が乗って行くのであれは、〈正方形〉の内側には空虚が残る。都市生活者の、漠然と捉え難い疲弊、杓子定規のルーティンワークからの離脱願望のようなものを、幾何学的なイメージでとらえているところが面白いと思いました。 魂は何グラムか、という「実験」について、しばしば言及されますが・・・〈吐き出た魂/何個分〉という、いわば〈魂〉の軽さ(実際にあるかないかわからない、というような意識を、ユーモアで置換していく筆触の軽さも含めて)について言及しているところに、むしろリアリティーを感じます。 無数の大衆、無数の群衆の中に埋没しているような自分自身の捉え方と見ればよいのでしょうか。〈ほこりのようなわたしのたましいと/けむりのようなわたしのからだ〉埃のような/誇りのような 両方に読める部分ですが、そのすぐ後に〈けむり〉と続くので、〈ほこり〉は埃にしか読めなくなってしまう・・・意味が限定されていくことで見えて来るもの、せっかくひらがなで表記しているのだから、詩のテクスチャーとしての柔らかさだけではなく、音の響きが引き出す意味のズラシ、といった効果を、もっと上手く使うことができたら、面白さが増したようにも思いました。 吐き出す煙のように頼り無くて存在感が希薄で、でも、まあるい、やわらかい、直線や角を持った生活に規定されない、ゆらぎたつもの。そのものが収まっていた肉体を養う〈食事〉の写真で、日々の記録を重ねていく意識。 〈荷物になった気持ち〉とは、体を侵食していく気持ち、肉体を煙のように希薄にしていく気持ち、なのではないか。そんな煩わしさを吐き出して、〈食事〉で日々を埋めていく。仮の充実かもしれないけれど、都市生活で侵蝕されてしまった肉体を補っていく行為なのかもしれない・・・そんなことを思わせる作品でした。 (正方形の生活)

2017-08-26

携帯端末で見た時には、全体に縦長で・・・印象としては前半が「状況説明」性の強い散文(独特の波のようなうねりがある)後半が詩文、と感じたのですが・・・掲示板上で見ると一目瞭然ですね。 花緒さんの作品をすべて読んでいるわけではないのですが・・・アシザワキックマシーン、でしたか、あの作品は溢れるような感覚があって、とても印象に残っているのですが、他の作品は・・・この人は何をやりたいのだろう、そこに疑問を感じてしまうようなところがあったのですね、正直なところ。形を作りたいのか、文体を作りたいのか、型枠を作りたいのか・・・テーマは社会に広く向き合っていて、内にこもらず外に向かう方向性があり、なおかつ内的なリズムを作りだそうとしている。なんとも不思議な、捉え難い感覚がある作品が多かったように思います。 この作品は、試作品とのことですが・・・三浦さんの引用部分もそうだけれども・・・やむにやまれぬ、切実さがあって、迫って来るものがありますね。これはすごくいい、そう思いました。茨木のり子の『詩のこころを読む』に倣って言うなら、滑走部分が若干長いかな、という気がしますが・・・離陸していく部分(後半の詩文)のノッていく感じに高揚感があって、一気に飛翔していくところに惹かれました。触発されて、というべきか・・・下手な返詩を、一篇。 叩き割る時 なんどもなんども君に体ごとぶつかって もがいてあばれて胸を叩いて それでも君は腕をひろげて やさしく僕を抱きしめてくれた 少しずつ君の肌にひびが入り 少しずつ欠け落ちていくのを知っていたのに 有り得ないと、僕は見ようともしなかった 僕の腕がむこうがわに突き抜けた朝 はじめて見上げた君の顔には せせらぎのような笑みが浮かんでいた ドーナツ状に開いた向こうに 広がっている灰色の虚無 壁の崩れ去った後の黄味がかった粉塵 いや、何もない、のではなかった、 渦を巻くゆらぎの中に、 僕の顔がかすかに映る、映っている 君の体を突き抜けたその先に 崩壊していく空と大地と 雪崩うつものを抱きとめようと 踏み込んだものの僕は途方に暮れている わずかなカケラばかりを かき集めひろい集め もろいカケラを握りしめると 僕の手のひらに血がにじむ これは、君の痛みだ 気づかなかった僕の 手のひらを裂く、君の叫びだ すべてのものは突き抜けてみれば 空洞に過ぎないのかもしれない せいぜい自分の姿のぼんやりとした反映を 望んでもいないのに見せつけられる 鈍い鏡を叩き割る時 きっと僕は消滅する でもその時にきっと 僕は本当に君の中に入っていける だからもう 恐れない、なにごとも (CREATIVE WRITING 101A (B-REVIEW EDITION))

2017-08-25

〈芽が伸びつづけるのをそのままに〉とか〈左半身を植える〉といった植物的なイメージと、声、音(音楽)のイメージ。そして、猫?のような、獣に変容(なり切る)するイメージ。 〈写真は色つやが褒められるから〉〈手製のジオラマから〉写真のイメージもありますね・・・ 困惑させられつつ、言葉のリズムで読まされてしまう。迷路に迷い込むような感覚がありました。 蝙蝠の持つ、二重生活者的なイメージ(鳥でもなく獣でもなく)、嚙み殺す猫の牙と、そこから滴る血痕の鮮烈・・・。 ちょっと織り込み過ぎたのか?という印象もあります。断章的な映像の連続と、音の心地よい連鎖が印象的な一作。 (変調)

2017-08-27

光と音。 題名からイメージするのは、花火、雷、爆弾・・・ 〈この世界を満たす〉この幸福感のある語感からは、花火を思ったのですが、続く詩行の〈怒りに心奪われ/悲しみに声張り上げる〉ここから一気に、爆弾のイメージに転化しました。 あれは  あれは 詩    歌 唄い   詠い 世界を揺るがした この、ある種ロマンチックな把握の部分を、どう読めばよいのか・・・歌、唄の原初は、神仏への訴え、心の叫びである、と聞いたことがあります。人間の悲惨、不条理、苦悩を「うったえる」うた、である、のか・・・。 原爆に対する、戦争を終わらせるための必要悪であった、という立場と、人類、そして歴史に対する、言語道断の罪である、とする立場、その両極に引き裂かれた「人類至上初」の悲劇のことを想いながら・・・そうした、政治的な「うったえ」ではないのだろう、と思い・・・ 内容の重さ(兵士が 民衆が 政治家が/沈黙の声を上げ)(なくなった者と残された者の/呪いを/発して散ったそれ自身の/悲哀を)に対して、従来、用いられてきた「うた」の言葉の軽さ、を考えます。 鎮魂の祈りが、本来のうた、であるのかもしれない。恨みや憎悪を鎮める、それだけの力が、本来の「うた」にはあったのかもしれない。そんな本来の歌、に対する希求なのかな、と思うのですが・・・ 閃光と爆音に衝撃を受け、それもまた「うた」なのだ、と自身に言い聞かせながら、〈なくなった者と残された者の/呪い〉が鎮まるのを祈る、そんなイメージで読み終えました。 うた、を二つに割くように置く。この配置が、果たして効果を得ているか、否か・・・。 他の読者の意見も伺いたい作品です。 (光 音)

2017-08-27

以前、血だまりの中で目覚めると、首なしの男がウロウロしている。前夜、男に頼まれて首を斧で断ち落したことを思い出す。さて、この男に、今朝もまた、首を選んでやらなくてはいけない・・・という詩を書いたことがあって、読んだ人皆に「こわい」と言われたのですが(笑) 心理的な葛藤をリアルに描こうとすると、映像が怖くなる、ということは、多々あるような気がします・・・ 男は女によって足(自力で歩く行為)を奪われ、女は自ら捕らわれの身となって男に奉仕する。ある種の共依存の関係が、ここには展開されているような気がします。 あなたが居なくては生きていけない・・・そんな情熱的な恋愛、忘我の極致に到るような恋愛は憧憬の対象であるけれども・・・実際にその泥沼に陥った時、そこから先は、既に生存の道も閉ざされてしまう。そんな瀬戸際を共有した瞬間の二人の胸中を描いているように感じました。 物語の中でだけ、その「忘我の極致」を体験出来たら・・・あるいは、二人っきりでいる時「だけ」その秘密の時間を共有出来たら・・・そこから戻ってこれなくなる危険は無いのかもしれませんが、それがリアルの生活を侵食し始めたら、大変ですね。そんな危うさを秘めた関係を(特に最後の一連から)感じました。 (愛の名前)

2017-08-27

〈血流のような真実となってみるものの血に乗り移ってくる。〉 これは批評文の中における「詩的」な感受、詩として感覚された部分、ですよね。感動を体感的に伝える部分。観客の血が滾り立つような感覚、と言えばいいのでしょうか。 文字に、いわば凍結されている演劇を、蜷川の演出が解凍してなおかつ火を入れて、観る者の血に乗り移る、までに高めてくれたことへの賛辞であると共に批評でもある。 こうした「生きた言葉」が、説明的な批評文に命を吹き込むのだと思います。 〈どんな悲劇もまさしく成就なのだ。観客は故しれぬ爽快感の中で、自己の魂と向き合うことになる。〉 ここは、「ギリシア悲劇」そのものに対してアフォリズム的に射抜いた部分ですね。 〈「王女メディア」はギリシアの三大悲劇詩人のひとり、〉ここから後の部分は、いわば純粋な批評というのか、作品紹介(本人の感想、批評、含めた)部分なので・・・その前に破線とか*とか、何か区切りを入れた方がいいような気がしました。 前半でテクストを演じる、とは?「ギリシア悲劇とは」?とガツンとつかんでいる、ので、そのつかみの部分を際立たせつつ、後半の各論に導く、というような、視覚的な仕掛けがあると良い、と思った次第。 (<演劇「王女メディア」>)

2017-08-27

〈肩書は成金税金騙し 駒が金になるが如くいとおかし 駄菓子をばら撒くような言葉〉 このあたりは、きれいごとばかり並べたてる選挙演説への痛快な一発という感じで、現代社会への小気味よい批判精神を感じました。その後の 〈垂れ流す曲は 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを…」 40s,詞に抑圧された記憶 80s,詞で踊らされた記録 なぁ似非ロッカー なぁMISS DJ 君らには魂があるのかい そこに自由はあるのかい?〉 このあたりは・・・日本の「ロック」の歴史に詳しくないのですが・・・通俗的な似非ロッカーや、今までの歌詞全般に対するエネルギッシュな反発を感じました。 言葉に勢いがあって、ガツンと揺さぶられる感じがとても面白かったです。 ちょうど、ボブ・マーリーやダニー・ハサウェイの話を聞いてきたところでもあったので・・・植民地支配に対する抵抗や公民権運動などの中から出てきた破壊や反発のエネルギーとか、陽気さや高揚感の中で徹底的に宿敵をディスるような展開とか、単純に徹底攻撃するだけではなく、ウィットを聞かせてどこかに救というのか、ユーモアに逃すような逃げ道を作るあたり、などの「言葉のエネルギー」について考えつつ。 日本、で、そのエネルギーを発生させること、維持すること、その難しさについても考えていたところだったので、このエネルギッシュな作品には驚かされました。 (監獄ブルース 脱獄ロック)

2017-08-27

〈私は救われたと経験としての事実がある〉この、回りくどいような行が面白い!あえて引っ掛かりを作ろうという部分なのか?と思うと同時に・・・ほかにこんな言い回しが無いので・・・という経験としての事実、とか、なにかそんな「言葉抜け」があるのかな、とも思いました。 〈この世を恨もうとして〉〈死の世界にやってきた〉〈私〉に〈懸命に呼びかける声がする〉この声は、どこから、聞こえてくるのだろう。もしかしたら、〈重たい荷物〉そのものが〈私〉に呼びかけているのかな、という気もします。 〈鳥よ渡れ時を翼に乗せて〉ここから先は、いつもの(というのも変な言い方ですが)黒髪節というのか、黒髪スタイルで言葉が繰り出されていく、歌っていく部分。前半の、生きるための重荷のようなものを、あえて引き受けてこの世に帰ってきた、という(比喩的な)死からの生還の部分は、比較的叙述的で情景が良く見える。 〈鳥よ渡れ~〉の部分と、前半部分との間に一行アキやアステリスク(*)などを置いて、二部構成にしてもいいかもしれない、と思いました。 最後の〈ハッピーケーキ〉は、新たな生を祝福する誕生日ケーキ、なのかな・・・生きる選択を引き受けることは、捨て去りたい重荷を引き受ける事、でもあるかもしれないけれど・・・そして、その重荷は自分自身に関わることであると共に、他者に関わる、自分ではなんともしがたい事柄、であるのかもしれないけれど・・・他者の物語をも、自らの物語(人生)の一部として生きて行くことができたら。 重さ、が、充実、に変わるかもしれない。そんなことを思いました。 (嬉しい荷物)

2017-08-27

題名の切実さ、重さと・・・内容との「ズレ」に、ほっとするというのか、戸惑うというのか・・・ リズミカルに刻まれていく音感は、中也的な軽やかさを持っていますね。中也の泥沼のような重さの中から、あの軽さが生み出された、ということを考える時、リズムの軽妙さが、作品が重さに傾くのを防いでいるのかもしれない、と思いました。 〈ふとした瞬間の遣る瀬無さ〉といった漠然とした感覚は、「漠然とした不安」にも通じるような「死にたい、消えてしまいたい」なのかもしれませんが、忘れようとしても忘れることのできない〈あなたの掌〉〈誰かの言葉〉は、極めて具体的とも言えますね。その具体的な記憶が、語り手を「この世から消えてしまいたい」「ここから逃げ出してしまいたい」という思いに追い詰めていく、のである、としたら・・・そこに、何か切迫するような調子があってもよいのではないか、と思いました。 sonetiraさんの「少しだけアクセントとなるリズムの狂いもあったら」という批評も、そのあたりの印象に関わって来るのかもしれません。 〈脳髄の尻尾〉という表現、とてもユニークで印象に残りました。引きちぎってくれる、のを待つのか。自身で引きちぎってやる、という形で、押し寄せて来るもの、引きずり続ける不安、に向かっていくのか・・・握りしめているのは、自身のしっぽでもあるでしょう。そのしっぽが、震えていたのか、しん、と落ち着いていたのか。そんな「感触」を知りたいと思いました。 (希死念慮)

2017-08-30

一連目、音感から「うつ伏せに」で止めたのかな、と思いつつ。その後は何だろう・・・死体が水に浮いている光景、かな、そこまで描くのをためらったゆえの止め方なのかな、と思いました。 二連目の〈痛さでつらい/爪先立ちした彼女よ〉背伸びし続けたゆえに、心に痛みを負ってしまった彼女、とメタファーで読みたいのですが、すぐに〈交わりは〉という直接的な表現があるので、急行の中での立位の交わり、という、なんとも身も蓋もない情景を念頭に置くべきか・・・〈ウィラードが待つ光よ〉これも語感としては、非情に「かっこいい」のだけれども。唐突感が否めない・・・前半部分に、〈ウィラード〉が呼び出される伏線があればよかったのかもしれない、と思いました。 最終連は、列車がスピードを落として止まる、その過程と作中人物の呼びかけとを重ねた、のであろう、と思いつつ・・・ここをもう一工夫しても良かったのではないか。きさま、という、くだけた乱暴な物言いとサマーバケーションの軽さ。傷口とか絆創膏といった、メタファーというには、いささか安易なのでは?という小物、到着するのは(二人の)傷口(傷口駅)と駅員がアナウンスしているような表記の仕方。 どうすればいいか、と問われると、とっさには思いつかない、のですが・・・この、最終連・・・列車の停止音が、そのような「言葉」として聞こえた、としても。もう少し、なんとか、言い方を工夫できないか・・・というところが、気になりました。 (夏のハルディン急行)

2017-08-30

最初に、質問・・・「誰でもあってもよさそうな」誰であってもよさそうな、ではなく、誰でも、なのでしょうか? 全体の構成が実に巧みですね。夢と現実の層が何層にも重なっていて、しかも心の内部にまで(まるで女性器の中に指を差し入れられるように)官能ではなく、忘我を強いるような・・・〈僕〉の意識を眠らせる、〈実在の核心〉が生々しい。自身の意識を封印する(抑圧する)自意識の化身であるように感じました。 冒頭のシーンが印象に残ります。ドクダミが最初に喚起するものが、臭いではなく、無数に折り重なった〈白〉。十薬、馬に食べさせると十の効能があるとされる、十文字の草。その花が、十文字の道を過ぎたところに、繁茂している。 剃刀を喉に当てられている、という情況で見る「夢」なのか、「記憶の反復」なのか。自分は、その呪われた(祟られた)家系に属する者なのか? 〈数日前〉の床屋での夢想と、その夢想が〈未だに心身を蔽い、僕の意識は朦朧としている〉今。今、〈僕〉はその家の前に立っているのか?〈苦く臭う草むらの向こうの大きな木造平屋建。いつしかそこを垣根の隙から覗いていた。〉ここで、ようやくドクダミの「臭い」が鼻に届く。しかし、実際にその場に居た、というよりも・・・生霊のように自身の肉体を抜け出し、呪われた家を覗き見ている、という幻影に取り込まれている、と読みたいような気がしました。臭いが漂ってきている時点で、現実世界よりも夢想世界の方が「現実味」を帯びている、としても。 〈僕はほんとうに生きてここにいるのか。〉問いかける時の肉体は、床屋の椅子に腰かけているのでしょう。けれども、床屋の話(鏡の中から聞こえて来る、と言い換えてもいい)に取り込まれ、意識はすでに祟られた家、に飛んでいる。 最後まで、〈僕〉は床屋の中に居て、意識だけが肉体を抜け出して、床屋の話に触発されて(嫌でも)想起させられた、祟られた家、に飛んでいる。そんな魂の出入りを、魂の側から描写したら、こんな摩訶不思議な(一見すると入り組んだように見える)散文詩になるのかな、と思いました。 〈僕もまた不信という靴を履き、絶望のバッグを肩に掛けよう〉この一節は、型に決まり過ぎている、という印象もありました。 謎めいた家系への興味が掻き立てられ、出生の秘密にも届きそうなのに、〈僕〉が淡々としているのは、どうしてなのだろう。そこにも自己抑制、抑圧をかける白い指の力が、働いているのか・・・知りたい、のか、知りたくない、のか。その振り子のような曖昧さが、 〈そんな気がする。  そんなでもない気もする。  どちらでもない気もする。〉 と、投げ出されたようにそこに置かれている。途中で「知りたい/知りたくない」を放棄した、ということなのか。曖昧に投げ出されることによって、当人の抱いた切実な感情を訴えた「うた」、ではなく、床屋の話に喚起されて、因習に閉ざされた祟られた家の記憶の中に入り込んでみた、という体験記のような印象を受けます。 ああそうか、だからこそ、題名が 僕の「体験」となっているのか、と、今コメントを書きながら思い至ったのでもありますが・・・ 〈僕〉がそこから逃れたいのか、囚われたいのか、どちらかわからない。その煮え切らない感じが、どうにも歯がゆいように思ってしまうのですが、その停滞感というのか、揺蕩っていて、決めかねている感じ、が作品の特質でもある。個人的には「どっちなのか、決めてほしい!少なくとも、決められない自分、に対して、もっと葛藤してほしい!」と思ってしまいますが、それはそれ。 その葛藤の手前で「ゆらゆら」と体験している、肉体を出入りしている、その感覚が鮮やかに切り取られた作品だと思いました。 ( 夢の中で何度も繰り返しながらその都度忘れてしまう「僕」の体験)

2017-08-30

なんだか、辛口のコメントが連続してしまっていますね・・・ 一連目と二連目の対比が、とても面白かったです。記憶というものの曖昧さ・・・自分で「作り上げてしまったかもしれない」記憶、その言葉にとらわれてしまう、それ以降の人生。 さて、しかし、うむむ・・・順番、というのでしょうか。 例えば、冒頭部分、〈私の記憶が正しければ〉と、まっすぐに語り始める。意外性があるのは(読者が、え?と驚かされるのは)「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」という、学年主任の言葉、ですよね。この衝撃的な一言が、前後の文脈なく、どん、と出されて・・・読者が、え?何?どうしたの?と思っていると、次々に、これが実は学年主任の言葉で、しかも卒業式当日に放たれた言葉、だということが分かって来る・・・という展開であれば、この時点で、読者の中における「驚き」の連鎖と、作者の伝えたい驚きや怒り、衝撃の連鎖、が、同じ速度で、同じ順番で進んでいくわけです。〈いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか〉という独白部分は、読者が作者と同様の進行で情景を「体験」していれば、自然に生み出されるものですから、書かなくても伝わる。それをあえて書いてしまうと、なんとなく「あたりまえのこと」を、言われているような、気がしてしまう・・・のではないか、と感じました。 成績、が良いことが、果たして社会的に有用なのか。社会的に有用であること、が、そく、人間の価値、に繋がるのか。 ひとりひとりの「人間」を育てるべき学舎で、お前たちは社会の歯車に成れ、機械になれ、と申し渡される。そのことを自慢げに語る教師。そのことに、怒りや疑問や理不尽を感じる語り手と、当然のように受け入れている(問題にすらしていない)周囲の友人たちとの齟齬。その齟齬が生み出す孤独・・・ この一連目、あるいは二連目を掘り下げて行くことができたら、とても魅力的な作品になるのではないでしょうか。三連め以降の様々なエピソードも、ひとつひとつの事柄の背後に、感情の起伏があるはず。その感情の起伏が、どのように起こったのか、という「進行過程」と、出来事がどのように起きたのか、という事実を叙述する過程は、異なると思います。その意味では、エピソードが盛り込まれ過ぎていて、一連目で言いたかった感情、が、薄れてしまう(そんな風に受け止められてしまう)のではないか、と感じました。 たとえば(荒川洋治が、散文と詩文との差異について、言葉の語順が生み出す効果についても書いていたように思いますが) あの丘の上に見える、白い壁の、赤い屋根の家の窓辺、その家の中に、君は閉じ込められていた。僕とは会わせてもらえなかった。という説明的な文章があった、として・・・その時の「僕」の感情の起伏は、このままでは、なかなか伝わりにくいのではないか。でも、 光が僕を射抜く 痛い! 跳ね返される光 窓だ、君と僕を隔てるガラスが 僕を遮る 近づけない、 白い壁 岡の上の 昇りつめた先の あの、赤い尖った 鋭利に青空を裂く屋根の下の・・・ というような感じに(私なら、ということですが)書き換えていく、かもしれないなあ、そうすると、その時の「僕」の切なさや、どうしようもない、というジレンマのようなものが、より、切実に他者に伝わるのではないか・・・などと、思いました。あくまでも、ひとつの例、なので・・・ほかにも、色々な(説明しすぎない)書き方、感情の起伏が素直に伝わるような(論理的な順番は無視したとしても)書き方、などを、試してみると良いのではないか、と思いました。 (ときどき人に話すこと)

2017-08-30

田さん、とお呼びすればよいでしょうか・・・貴重な返信レス、ありがとうございます。 まず・・・「現代詩というのは直接的な体験を一義的排他的に尊ぶのでしょうか。」というご質問について。 そう考える方もいらっしゃるでしょうし、そうでない方もいらっしゃるでしょう。ひとりひとりが、これが自分の詩だ、というものを、探していく、それが、「現代詩」であろうと思っています。 私の場合は、新奇さを目指して言語実験を繰り返す作品の、技巧的な到達度に驚嘆したり感動したりすることもありますが・・・言わずにおれない、そんな心情が切々と伝わってきたり、一気にその人の内面世界に引きこんでくれたり、言わずにおれない、その切実さを、どうにか他者に伝わるように、と腐心している・・・そんな作品に心惹かれるところがあります。 半ば冗談で言うのですが、現代詩、には、「ゲンダイシ」と「現代の詩」がある、と思っているんですね。たとえば吉増剛造さんは(私の中では)「ゲンダイシ」で、たとえば石垣りんさんは「現代の詩」・・・というような、ゆるい区分けがあります。いわゆる、前衛的実験詩・・・詩史に照らして、言語領域や文学の可能性を極限まで広げよう、と果敢に挑戦しているような作品群・・・を中心に「現代詩」と呼ぶのであるとして・・・伝えたい事、が、まず、その根底にあってほしい。その切実な、言わざるを得ないこと、が、旧来の表現技法の中では言い得ない、場合に・・・言葉が、旧来の用語法や語順や文節などを「逸脱」してしまう。その「逸脱」の中に、心あまりて言葉足らず・・・というような、切実さ、が伝わって来るかどうか、ということが、大切なのではないか、と(個人的に)思っています。 そして、詩、全体をアメーバのような有機体、として考えた時、実は「ゲンダイシ」は、その辺縁に当たるものであろう、とも思います。有機体全体が、ある一つの方向に進んでいく時(それは、ある程度時間が経ってから、振り返る時に見えて来るもの、でもあるでしょう)その方向に突起を伸ばしていた辺縁が、後に詩史におけるトップランナー、時代のエポックとなる作品、と呼ばれる(評価される)ことになる。しかし、全体が進んでいく方向、ではない方向に伸びていた突起は、ちぎれて、取り残されていく。しかし、取り残されたものを後で振り返ってみた時、非常に優れた作品である、ということが再評価されて・・・今度は、有機体全体が、その「とりのこされた」島のような部分に向かって動いていく、というようなことも起きる。 そうした「辺縁」の動きばかりに(つまり、変化ばかりに)目が行きがちですが・・・有機体全体を動かしている根幹、その部分も、とても大切だと思っています。表現としては、旧来の技法(既に、多くの人に受け容れられている文法、話法、技法)に立脚していて・・・つまり、表現技法によって読者を瞠目させたり、新奇な表現によって驚かせたり、するのではなく・・・その時の心情や、事実の積み重ねや、その時の体験、想い、思想・・・といったものを大切にする、という、作風。 それとても、千年の歴史の中で見たら・・・平安時代や江戸時代の文法や話法と比較するなら、口語自由詩は、それだけでどれほど驚嘆させられる「変化」であるか、ということは言えるでしょう。ただ、一般の読者に、より受け入れられてきている、その時代にとって「馴染みのある」技法である、ということが言えると思います。 田さんの今回の投稿作品は、一般的な読者に馴染みのある技法を用いて、創作されている、と思いました。特に新奇さを狙ったり、読者に文学的な驚きをもたらそう、という文学的な意欲に基づいて生み出された技法を用いている、わけではない。だからといって、「それは詩作品としては不十分と観念される材料になるのでしょうか。」ということでもない、のですが・・・ 何と言えばいいのかな、ええと・・・ 田さんの、今回の投稿作品について・・・私がお伝えしたかったのは(他の方のレスなども含めて、考えるに)田さんが〈「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」〉この一言を聞かされた時の、田さんの衝撃、感情的な波立ち、怒り、悲しみ、絶望・・・それが、充分に伝わっているのか、ということ、です。 その言葉によって(もちろん、それまでの教師との関係性であったり、社会との関係性であったり・・・教師の「熱心さ」を誤解していたのか、私は裏切られたのか、という衝撃であったり・・・もろもろの、言葉にし得ない感情が、そこには渦巻いているはず、なのですが・・・)田さんが、あれほどの衝撃を受けたのに、他者は特に意識していないようだった、という孤立感であったり疎外感であったり・・・そうした感情を覚えた、そこに「詩情」があるのであろう、と思うのですね。 さらに、社会に出た後、俺たちは社会を動かす重要なモチーフだ、お前たちは歯車に成れ、社会を円滑に動かすための部品に成れ、というような排他的な圧力であったり、形の見えない優越感や特権意識に出会ったりする・・・そのたびに、自分の中にざわざわと蠢く感情があり、それを「相手側」はまるで感じていないように見える、その違和感や齟齬・・・それを感じた、そこにもまた、「詩情」がある、と思うわけです。 その「詩情」を、たとえば「いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか」と思った、と説明してしまう、のではなく・・・その時の感情の強度や感情の波立ち、衝撃を伝えるような、同等の比喩はないか、と模索してみたり、その時の真情が、よりよく伝わる、よりインパクトを持って伝わる、語順はないか・・・と(読者の側として、自分の作品を読みながら)模索してみたり・・・そうした探索や模索の中に、たとえば詩の「うまさ」とか、技巧的な向上、といったものが、あるのではないか、と思っています。 単純に、他者を驚かしたり、新奇な目新しさで「すごいだろう」というようなこと、ではなくて・・・その時の感情の強度や、切なさや怒り、悲しみ、といった心情が・・・もちろん、感情的な言葉を直接書く、ということではなく、抑制された表現の中に、その心情がにじみ出す場合もある、でしょうけれど・・・ダイレクトに読者の心に伝わってくるようであれば、これは本当に、心ふるえるだろう、と思うのです。 われわれの人生を、なんだと思っているのだ! この気持に、そうだそうだ、と頷く人もいるでしょうし、あなたはそう思ったかもしれないけれど、気持ち的に、ピンとこないな・・・というように、単純にひとつの話題として聞く人もひる、でしょう。 それでも・・・いや、だからこそ、その時に語り手が受けた衝撃を、匹敵するような比喩で伝えたり、衝撃がそのまま追体験できるような語順で伝えたり、そうした工夫をしてみる価値が、あるのではないか。あるいは、その言葉を使わずに、事実を端的に(取捨選択しながら)積み重ねていく、写実的な表現によって、その言葉を思い浮かべた時の心の憤りを、他者の心の内に表現できないか・・・というような探求もある、と思います。(たとえば、悲しい、と説明せずに、悲しい心情を、情景描写に託して歌う、といいうような。子規の写生論などにもつながる問題であろうと思います。) そうした・・・その人が感じ取った「詩情」を、その人の独自の表現で表そうとする、その試行錯誤や紆余曲折の中に、詩を産む楽しみも苦しみもある、のかな・・・と思っています。 その時の思考を正確に伝える、ということであるなら、エッセイやノンフィクションスタイルの小説、論文などの方が、より適しているかもしれません。 でも、これが私の「詩」である、という作品によって、その時の真情や心情、イメージ、言葉にならない心の波立ち、それらを、伝えよう、とするとき・・・言葉、という不自由なものを使って、他者の心の中に再現する、喚起させる、そんな試みを、試そう、試みよう、とする、とき・・・そこに「詩」が生まれるのではないか。そう、思っています。 長文、失礼。ご質問に、うまく応えられているかどうか、心もとない、のですが・・・。 (ときどき人に話すこと)

2017-09-06

〈わたしには拇指か人差し指がない〉拇指がない、とか、人差し指がない、ではなく。 印象的で謎めいた立ち上がりですね。お父さん指、お母さん指、と重ねて読む、のか・・・親指を立てる(人を馬鹿にする)、人を指さす(中傷する)ことがない、のか・・・そして、〈余分なもの〉とは、何か。 ~だけ/なのか という、自分自身への問いかけが、ある種、とぼけた味わいになっていて、重さに沈んでいく一連目を軽く仕上げている、と思いました。 掛け声をかけながら、むりやり運んでいかねば進まない体。踏切を前にして、飛び込んでしまいたくなる衝動・・・その衝動の恐怖と、ある種の高揚感に、生理的に反応する肉体、そんな若い男性の生理に、嫌悪を抱くような感情・・・(黄色く汚れたのか、白く汚れたのか、で、また捉え方が異なって来る、とは思いますが・・・) 最終連から、中学生か高校生(低学年)を連想しました。(作者が、ということではなく、主人公の年齢設定が、という意味です)大切なものをつまみあげる、親指も人差し指もない、のか・・・〈余分なもの〉とは何か。 読者に含みを持たせている、とも言えますが、あえて曖昧にぼかして書いている、というような、未消化な感覚を受けた最終連でもありました。 (拇指)

2017-08-30

四行ずつに形にまとめられた連が、さらに四連重なっている。起承転結を、自然な形で二重に封じ込めた構成的な美に、まずは感嘆しました。 〈時折、うすい血のにおいがする〉〈土手には風化した石造りの祠がひとつ〉〈わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない〉〈鵜の嘴が苦しまぎれに何かを吐き出した〉 異界へ取り込まれていきそうな不穏さが、ひしひしと迫ってきますね。 無理のない「写実」的表現によって綴られていく。この場合の「写実」は、写真機で映した情景、ということではなく、心の眼がフォーカスを絞った点を写生した、というような、そんな意味での「写実」です。 かつて、生贄として捧げられた少女の魂は、まだ川の中を漂っていて・・・時に川藻に宿り(少女の髪の毛のように、訪れる者の足にからみ)、時に鵜に飲み込まれて、苦しさのあまり鵜によって吐き出され・・・(鵜は有と音が同じですね、そういえば。)ひかりながら、ふるえながら、再び川に戻っていく。 〈川のいのちに〉ここで、いのち、という言葉を使ってしまって、いいのか、どうか・・・私も、いつも迷うところです。なんだか、安易に観念に逃げてしまっているのではないか、そんな気がしてしまう。川が息づいている、なまめかしくうねっている、その表に反射する篝火・・・川藻が生み出す女の髪のイメージから、さらには女の肌のイメージにまで行けそうなところ、ですが・・・妖しすぎるかな(笑) 河原で~の情景のあと、わたし、の片足が水の中にある景に飛ぶ。もちろん、充分に情景は観えるのですが・・・たとえば。踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない、と動きを先に入れておくと、川に入ってしまったわたし・・・禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか、なんて、余計なことも考えたりしつつ・・・ 美しく妖しく凝縮された作品だと思いました。 (「おくわ」伝説)

2017-09-01

薔薇、花弁、朽ちる・・・といった、文語に近いような言葉が続いた後に、「ぼてっぼてっと」という、俗っぽい口語を持ってくるセンスが面白いと思いました。 〈僕が君に見惚れていて、〉薔薇族なんて言葉は、今は死語なのかもしれませんが・・・BL的な匂いも漂っていますね。 朽ちた薔薇の花弁まで想像できる、予感できるかどうか、ということは・・・二人がこれから重ねていくであろう時間を想像できるか、可能性を信じることができるか、ということでもあるでしょう。 その時間を予測できない。美しい間、盛りの間だけの付き合いで終わってしまいそうな予感を、君との関係性の中に感じている〈僕〉は、外見の美しさに〈見惚れている〉わけではない。 対して〈君〉は、若く美しい間に散りたい、という、美意識を持っている人、なのかもしれないなあ、などと思いました。 頽廃の美を、外見的にとらえるのか、内面(積み重ねていく時間、堆積されていく記憶)から内面的にとらえるのか。朽ちた姿が、観えるかどうか。考えさせられました。 (薔薇の花弁)

2017-09-01

〈皮一枚のわずかな距離でもあれば、青を想える〉とか〈きみの青とぼくの青を混ぜたら、どれほど青くなれるだろうか〉と言ったフレーズを、際立たせたい、という思いが残りました。あえてここを(  )に入れる、とか・・・このままだと、青を綴る言葉の中に、埋没してしまうような感覚がありました。 ハァモニィベルさんと、同じところで、私も引っかかりました・・・同じ理由、であるかどうか、までは分かりませんが・・・。 前半部分は、海の青、空の青にも染まずただよう、という、あまりにも有名な一首がありますが、いわばその本歌取り、のようにも読める部分。後半は、魚、そして飛翔のイメージが重なり、親和的な世界、夢想世界への飛翔部分のように読めるのですが・・・ここが、前半と同じ「語り口」であることと、内容的な飛躍との間に、齟齬が生じているのではなかろうか・・・読者が置いてきぼり感を覚えてしまう、のではなかろうか。そんな印象を持ちました。 〈音になればいいと寄り添う光。光もまた、見せるだけの色。その姿を見ることができない。〉このあたりの思念が生まれて来る理由というのか・・・その情景の中に、踏み込んでみたい、そんな想いに駆られます。 (青の断章)

2017-09-01

日常生活で、ふと気づかされたこと、のスケッチ、のような作品だと思いました。 吉野弘が、電車の中で泣きだした子と若い母親の姿を描きながら、そこに聖母子の姿を重ねる(そして、今日は素敵な情景を見た、と「しあわせ」を感じる)作品がありましたが・・・(題名は失念しました) いたいの、いたいの、とんでけ~と、〈手かざしでサラリとかわす〉情景描写の部分、さらりとひらめくお母さんの手の下から、まるで魔法にかかったように、にこやかな笑顔が現れていたら。そんな情景が描かれていたら・・・もっと臨場感が増したのではないか、と思いました。 実際の光景を、実際の時間軸に添って描いた、ものかもしれませんが・・・みやちゃん、の「いたいの」が「とんでけ~」と飛ばされた途端に、その外国の方がその「いたいの」をもらった、というような関係性に圧縮してみたら、どうだったろう。 他者の痛みを、知らぬ間に他の人が分かち合い、受け止め、軽くして逃がしていく。そんな不思議な「しくみ」に気付いた・・・そんな発見について触れて行こうとする作品である、という気がするのですが・・・もしそうであるなら、もう少し、そこに踏み込んでみても良かったかもしれない、と思いました。 (みやちゃん)

2017-09-01

~である、と畳みかけられていくリズムの中に挿入される、〈バスを待つことに似ている〉の一文。『永遠に来ないバス』という名詩集を、借景として思い描きつつ・・・より普遍的な(他にも、生きることとバスに乗り込むこと、運ばれていくことを重ねる詩人が沢山いるように)生き方のイメージを描こうとしているように思いました。 〈バスはまだ来ない。未来はそこに行くまで来ない。それは身体を伴うことである。それは出来事である。冬は寒くてみんな震えている。でももうすぐ春が来る。〉 その「とき」を待つ、ということ。身体を伴うことである、という部分に、観念的に頭の中でイメージを巡らせるのではなく、実際に書く、という行為がその「とき」を引き寄せるのだ・・・そんな、ある種の詩論のようなものを感じました。 (バスが来る文体)

2017-09-01

〈瞳の奥が宇宙に繋がっていて〉一気に、この奥行きに引きこんでいくところが、素敵です。 円の隅、という不思議な題名。円・・・まるいもの。円らな瞳。題名含め、冒頭部分で、あなたの瞳(が垣間見せる、あなた、という内奥に広がる宇宙)に引きこまれて、雨の日でも風の日でも私の夜空(あなたの瞳の中に住む私)の世界は素敵な夜空・・・そんな、見つめ、見つめられる濃厚な愛の時間を想います。 だからこそ・・・あなたの瞳の隅に生きる、それでよい、それだけでよい、と思う恋だからこそ・・・取り込まれてしまったら、〈その中で生きるのが/少し息苦しい〉〈天井も壁も無くて/果てなんて無い〉〈強く締め付けられて/やがて小さくなり/何も残さず消えてしまう〉そんな予感がする。 あなた、に取り込まれ、飲み込まれ、自分、が消えてしまうような・・・そんな恋になっていくような気がする。だからこそ、〈やっぱり私は眺めているだけにしておきます〉と、冷めた目でこの詩を閉じる。もちろん、私の勝手な読み、ですが(笑) 熱烈な恋愛に引きこまれそうな、黒い瞳の魅惑、だからこそ、踏みとどまろう、眺めているだけにしよう、という思いが働く。そんな艶やかな駆け引きを感じました。 少し気になったのが、~けど、という表現。全体に、とてもやわらかく、丁寧な言葉で綴られているのですから、~けれど、と表記した方が、全体の質感に添うものになったのではないか、と思いました。 (円の隅)

2017-09-01

三行ずつの進行は、「序破急」の進行とも言えます。 〈足元に映る錆びた自分を追う〉この一行がとりわけ素晴らしいと思いました。 逆に、確かにその通り、なのだけれども、それを見て、語り手はどのように感じたのか・・・ということを知りたくなるのが、たとえば〈瞳はやつれて潤んで見える〉というようなフレーズ。なんとなく、水が干上がりつつある沼が、月夜に不気味に照らされている・・・そんな深さや澱みを感じさせる目、であったのでは?と感じるのですが・・・瀕死の飢えた狼の眼、というような表現をした詩人がいましたが、なにかそんな、びしっと決まる比喩(錆びた自分を追う)が、あともう少し、あればどんなに良かったか、と思いました。 三浦さんは、野良犬のイメージを重ねているけれど、〈息荒く手綱に寄り添うように〉とあるので、引き綱(リード)に引きずられるように足を運ぶ、老いた飼い犬、ではないでしょうか? 森田さんが読むように、全体が老いた人(かつて、社畜と呼ばれることもあった、会社人間)の比喩にもなっているような作品だと思います。そう読むと、〈地平線〉は実景ではなく、見果てぬ夢の行き着く先、ということになるでしょう。そこに行くまでの体力が、もう自分には残されていない。それでも一歩一歩、大地を踏みしめていく。もうすぐ訪れる闇(死の世界)から吹き寄せて来る風は、生まれた時に感じていたような、新鮮さを失っていない・・・そんな風がまた吹き寄せて来る〈懐かしさ〉に励まされて、歩みを運ぶ。 朔太郎の犬、三好豊一郎の犬・・・詩人たちが描いてきた犬にもイメージを重ねつつ。 (老犬)

2017-09-01

花緒さんは、〈自ら別れてきた〉と読んでいますが・・・逆にも読めますね。 〈突然 別れの言葉 告げてきたけど〉 彼女が、自分に、突然、別れを告げて来た。未だにそれが、信じられない・・・ survofさんの〈問いかけとも取れる〉という読み方にも繋がりますね。 わたしが 捨てた おんな について、嗜虐的に(韜晦しながら)歌うのではなく、 素直に素朴に、ひと夏の恋への感傷を歌った作品ではないか、という気がします。 言葉の流れや、畳みかけていく感じ、リズムの取り方、は心地よい、けれど・・・ 波打ち際、夕陽、星・・・シチュエーションの設定が、若干、型通りなのが残念。 いいな、と思ったところは、夕方から夜になり、そして朝日が昇る、それまでのスパンが、揺れる波を背景に描かれること。揺れる波打ち際(ゆれる気持ち、揺れる心)、陽が沈み、一日が終わるイメージと、華やかな夕陽のような鮮やかさを残して恋が果てて、夜(闇)となり、思い出が一筋の希望(一筋の流れ星)となって煌めき・・・やがて新たな朝を迎えた時、あの失恋は、本当のことだった、と、秋の風情を含んだ風が、語りかけて来る・・・そんな、情景と気持ちの重ね合わせが印象に残りました。 (Adieu...)

2017-09-01

〈天国へ届きそうなゆらりとする灼熱〉〈それから冬に、一度パキンと折れたはず〉〈夜真っ暗の天井隅、きみのふたつの黒目が恐ろしい穴〉・・・ 言葉の軽さと、ある種、ショッキングなイメージの取り合わせに驚かされます。 〈きみが夏に乗じて生えてくることを祈って〉この一行にも驚かされました。 再会を願う願いが、植物の成長に託される、いつのまにかずらされる。 青いワンピース、ではなく、蒼いワンピース、であるところ・・・土の中から生まれて来る蟬のイメージが挿入されるところからも・・・死者との再会を切なく願っているような読後感へ誘われていきます。 〈ゴウヤアの門をくぐりぬけたあのとき〉ゴーヤ、ニガウリ、なのでしょう、植物種としては。しかし、苦瓜という言葉のイメージに、更に業火や劫火の門をくぐり抜ける、という殺伐としたイメージが重なります。 詩/死に灼かれた夏、というのは、読み過ぎでしょうか・・・。いずれにせよ、軽いタッチの言葉遣い、驚きに溢れた、遊び心のある展開、コンパクトにまとまっているのに予定調和に収まらず、しかも、死者との再会を祈る、という影のテーマが(無意識的にかもしれませんが)仄見えるところなどが良かったと思います。 (森羅万象、待ったなし)

2017-09-01

なぜか、いつも月末に投稿されるエイクピアさん・・・ ~を付けたから/~を受け取る 文法的にも文脈的にも違和感は無いのに、なぜ、「自他の区別を付けた」から、なのか、なぜ「雨の降る森」なのか、「報酬」とは何か・・・など、なぞだらけ。 謎だらけなのに、言葉のリズムで❝読まされて❞しまう、不思議。 ユリア、わからなくて調べたのですが・・・「北斗の拳」の登場人物、でしょうか? 私は見ていないので、具体的なイメージが湧かないのですが、響きから大人っぽい、しっとりした女性をイメージしました。ちなみに、ジュガール、もわからない・・・わからないけれど、間に合わせ、その場しのぎ、というような❝意味❞がある言葉のようなので・・・そんな❝意味❞を擬人化されたのかな、と拝察。 雨の降る森(もり)から始まり、激しく盛り(もり)蕎麦を降らせた、というエンディング。ナンセンスなようでいて、音で収束する遊び心、とでも言えばいいのか・・・ 自他の区別をつける、というところから、自意識と他者の視線を想起。他者(それも、憧れの人)の前で、〈盗人〉(ずるいこと、偽善、悪意を持った行為)はできない、という青年期の潔癖さのようなものを覚え・・・他方、〈小さな角を隠して〉〈役者のように報酬を受け取る〉と言ったフレーズから、他者を意識して自身の欲望(協調性を乱す欲望や、社会的には抑制しなくてはいけない欲望)を隠し、仮面をつけるように「自分」を演じて、〈報酬〉を受け取る、という自己批判的・・・自身を揶揄するような諧謔精神・・・に富んだ視線を感じました。 最近の「ラノベ」は、句点が無くてズルズル連なっているような文章、なのでしょうか・・・なんとなく、会話体が多くて余白の多いページをイメージするのですが・・・それとも、息継ぎする場を見いだせないような、そんな圧迫されるような感覚、なのか・・・。 〈女の心〉の収まり具合が何とも捉え難いのですが・・・それなのに、存在感がスゴイ。他者の視線に〈女〉を強く感じる作品でした。 (女の心)

2017-09-01

良く使い込まれた、清潔なガラスのコップ、そんな「なにげない」ものに焦点が絞られて・・・〈うつくしいひとの 魂のよう〉と飛躍する。飛躍するのに、この作中人物は、魂をなにかの入れ物、のようにとらえているのだな・・・壊れやすく、透き通っている、玻璃のような輪郭を持った、これから満たしていくもの、人の心を潤してくれるもの、あるは、熱く滾った心を冷たく癒してくれるもの・・・と、とらえているのだろうな、ということが、体感的に伝わってきました。水の嵩が減る、すると店員が金属の(注ぎ口の細い)水差しから、冷えた水を注ぐ。既にコップにはたくさんの露がついていて、店員の指を濡らす。そんな暑い夏の、喫茶店・・・あるいは、トラットリアのような、気さくなレストランを想起させます。 その、ガラスのコップの向こう側にいる人の瞳に、日が差して、きらめく。そのひと(うつくしいひと)ではなく、その手前にあるコップを見つめていたのは・・・うつくしいひと、に魅入られて愛してしまわないように、という自制心だったのか・・・うっかり見てしまった君の瞳のきらめきに、僕の心を潤してくれる水をたたえた魂を持った人・・・君のことを、そんな〈軽率さで、/ぼくはきみを/愛してしまっている〉 勝手な「物語」を読んでしまいましたが、そんな自由な解釈を働かせてみたくなるような、行間の余白の豊かな作品だと思いました。序破急の展開が巧みですね。 (contour)

2017-09-05

〈セブンスターを一箱買って帰る〉と、パチンコを勝って帰る。 勝てずに、お金を「すって」しまう。マッチを擦ってしまう、煙草を吸ってしまう、にもかけているのか・・・ダジャレ的な要素が強いのかな、という印象はありますが・・・冒頭一連目のリズムとか、kの音、撥音の入り方、などの音感含め、心地よい、独自の「節回し」があると思いました。 〈一週間の永遠のうちに巡るのも 渋々ここにいるも〉1週間(7日)と7starsの7もつながっていく面白さがありますね。 退屈な1週間は永遠にも思えるし、過ぎて見れば一瞬でもある。今、自分が居る場所、居る時間こそが、すべて・・・ ところで、語り手はパチンコで「勝った」のでしょうか?〈一円違わずツケを済ませる〉のだから、きっと多少は勝った、のだろう、と思いつつ、流れで見る限り、まだパチンコに行っていないような、あるいは行ったけれども、負けて一杯飲み屋でヤケ酒をあおっている、ような・・・。立ち上がりの〈一円違わず受け取るコインの正確〉に再帰するためのフレーズであるなら、ちょっと、展開に無理があるかな、と言う気もします・・・。 (7stars)

2017-09-05

三行、足りない、ということ、でしょうか?三行足す、ということで良ければ、今回は、うっかりミス、ということで、修正しておきましょうか。 (1/1)

2017-09-05

〈人も緑も息切れして でも止められない営み〉 生える、という行為が「止められない」のか、「抜く」という行為が「止められない」のか・・・。 二連目で〈格別に名付ける日でなかった証拠〉普通の一日、特別に記憶に残らず、消えて行ってしまう一日、記憶されないがゆえに、なかったこと、になってしまう一日、なのか・・・それとも、何をやってもうまくいかない、そんな小さなストレスが積み重なっているような、消してしまいたい一日、なのか。 思い出した詩があります。工藤直子の「鏡」。 きょうのわたしは きげんのよい 風です できたての 綿雲です 世界中のひとを 愛せそうです けさ鏡をみたら 髪のかたちが うまくいってた ・・・だけなのですが 桐ケ谷さんの二連と、まるで正反対、だけれど・・・実は、同じことを描いている、のではないか。そんな気がしました。反転された真実。 (「消耗戦」)

2017-09-03

完備さんの、美しいこと、を、ずっと考えていて・・・彫刻家の舟越保武の言葉を思い出しました。 美しいものがあるのではない、美しいと感じる心があるのだ、というような、言葉。不正確かもしれませんが・・・ 雑草、と、呼ばれる草花にも、美しさもたくましさもある。その美に目を止めた人には、それが見える。この作品の中の語り手にも、それが見えている。なおかつ、その「雑草」に自らを重ねて、静かに感動している。 私が驚いたのは、南天の生育を助けるために、抜かなくては行けない、と、この語り手が自身に負荷をかけているように見えること、でした。 難を転ずる、南天。どんなに「炎上」しても、燃えない、火に強い草。 そこまで、意味を意識的に重ねているわけではないでしょうけれども・・・南天(強靭な作品)を育てるためには、私(私性)を抜き取っていかなくてはいけない・・・私、が、背後に沈み、作品が前面に立ち上がってこなくてはいけない、そんな詩論的なイメージでも読めるな、と思い・・・そうすると、このように生きなければいけないのに、私は自分にこだわり続けて、それができない、怠惰な日々を送っている・・・という、反省的なラストにも読めるかな、と思い・・・いや、ここでぜひ、おおいぬのふぐりの持つ美に、心震えて抜くのをやめよう、になればいいな、と思い・・・しかしそれでは、いわゆる予定調和、に、終わってしまうかな、等々、色々考えさせられました。 (「消耗戦」)

2017-09-15

ゆったりとした、バラード。 読みの呼吸というのか・・・息づかいで改行しているのであろう、と思いつつ、 さすがにこれだけ長い作品であるなら・・・散文形式で、読み方は句読点や空白マスで示す、という方法も試してみるとよいかもしれない、と思いました。 個人的な思い入れ無しには、読めない作品でした。・・・池上線沿線住人なのです。 子どもたちとよく洗足池に遊びにいったなあ、とか、千鳥町の「観月」のあたりで(斜めの道が多いので)お嫁に来たすぐの頃、迷子になって泣きそうになったなあ、とか・・・戸越銀座商店街。あそこの唐揚げ、魚屋さん。蒲田の投球屋上の、チューリップ型のミニ観覧車・・・とまあ、「想い出のアルバム」をめくっていくようで、とりわけ前半は、焦りながら読んでいました(笑) 固有名や地名を活かした、ドキュメンタリータッチの作品とも言えますね。 ドキュメンタリー、と書いたものの・・・ 一連目の〈君〉と〈僕〉の関係は、幼い娘と若い父親、のような印象がありました。二連目の〈君〉と〈僕〉は、今度は今から10年、20年くらい前の、学生時代の恋人との思い出、のよう・・・とすると、一連目の〈君〉とは、別人なのだろうか?という気持ちも、ふわりと浮かんできます。 三連目は、20代後半の、2人の思い出?〈雨もあがったから国文研に行かないか/と君がなにげにいいだしたので〉この、少しぞんざいな言い方、からして、もしかして、この連の〈君〉は、同性の友人、だろうか・・・と、またまた、迷ったり、いや、しかし・・・と考え込んだり。 最終連で〈おとなの字じゃないから/と口をとがらせたとき〉というフレーズを読んで・・・ここでまた、冒頭の「親子」の関係をふっと想起しました。そう読んでいくと・・・真ん中の連は、成長した娘(君)と、まるで恋人のように歩き回った記憶、のようにも読めたり・・・〈君〉を様々な過去の時点における、ひとりの人の姿、と読むのか。それぞれ、異なった姿を持った〈君〉と読むのか、によって、映像が異なって見えてきますね。 他の人の読み方を、ぜひ知りたいと思いました。 (帰る)

2017-09-05

〈角が立つから〉と言われたら、場を収めるために我を抑えよ、と言われるかと思いきや・・・ 〈君も立ちなさい/と/注意される〉ちゃんと自分を表現しなきゃダメだよ、と、引っ込み思案の人に注意する先生、を思い浮かべました。 かどがたつ、という読み方ではなく、頭角を現す、という読み方、をしています。そのためには、自分もきちんと立たなきゃだめだ、自分自身に立脚せよ、という注意、を受けてしまう。日本人は引っ込み思案だから、なおさら。 すると、〈隣の逆鱗に触れる〉ことにもなる、わけですが・・・。 三角定規なら、斜めになって当たり前、なのですが・・・しゃに構える、という慣用句を、うまく物にずらしてあてはめている。 目の玉が飛び出るくらい高い、というような「慣用表現」を、リアルにイメージすると、なんとも不気味な映像になりますが・・・そうした誇張表現を、あえて生真面目に「物」に当てはめた時に見えて来る、くすっと笑いたくなるようなユーモアが楽しい。 実際に、人間関係のトラブルに巻き込まれて、深刻に落ち込んでいる時に、ふっと、こんな風に情景をずらして見ることができたら、どんなに気持ちが楽になるでしょう。 完備さんが提案されているように、杓子定規は、慣用的な使用に傾き過ぎていますね。せっかく、定規や物差しが「やってくる」という擬人化の面白さが、あいつは杓子定規だから・・・というような慣用句に飲み込まれてしまうように感じました。 立つ、のではなく、座る、のでもなく。斜めになる。角が立たないように、逆鱗に触れないように、斜めという中間をとる、というようにも読め、面白かったです。 そういえば、杓子定規の杓子って、なんだろう、と思って調べてみたら、杓子(おたま)のように曲がっているものを、定規として使うと正しく測れない、ということ、であるようなんですが・・・なんとなく、融通の利かない、型通りの対応しかしないような時に使う言葉、というイメージがありました。 (斜になる)

2017-09-05

まりにゃんさんへ ハンドルネームが似ていて(笑) 拝読する前から親近感を覚えてしまいました。 25字揃えだった、とのこと・・・ワードでインデントをかけて行末をそろえる方が多いと思いますが(まりにゃんさんのやり方については判りませんが)ちょっと面倒ですが、「改行」で人為的に文字数を揃えれば、うまく貼り込めるのではないか・・・と思います。 (星々の獣道)は、どなたの詩篇からの引用句でしょうか・・・(不勉強ですみません)星が、哺乳動物のように葉陰をかすめて行き過ぎるようなイメージがありますね。 〈草木の靡く〉という触覚に〈耳をすませ〉る。触れて来る気配を、聴く。〈蜜蜂や蝶の描くおぼつかない風の起こり〉を、肌で感じ取るものを、嗅ぐ。ある種の共感覚、と言えばよいのでしょうか。音のイメージ、触覚のイメージ、匂いのイメージを、セロファンを重ねるように重ね合わせていくような、不思議な空間が立ち上がって来る気がしました。 〈はじける泡〉という、何かがふつふつと沸き立って、生まれて来るようなイメージ。 〈こまかな粒〉という、卵や種のような、原初的なイメージ。 その粒の〈その内側へ、封じられた声を辿って虹はたなびき〉 この部分は、たしかに観念的、抽象的とも言えそうですが・・・原初的な粒子から何かが生まれ出て来る、その瞬間を映した動画を、逆再生しているような、不思議な感覚がありました。そのすぐ後に〈蛹や繭〉という、具体的になにかが生まれて来る、その直前の姿が描かれる。この〈蛹や繭〉は、その直前に記された〈蜜蜂や蝶〉の生まれる直前の、姿でもある・・・ここでも、想像力によって映像が逆回しされているような、時間を遡行していくような感覚を覚えます。 それから一行アケがあって、葉桜の季節が過ぎ、蝉が命の限りに鳴き交わした夏を経て、桃や枇杷の実が、種(リルケ風に言えば、死の種でもある、わけですが)を胚胎しつつ、官能的な実りの季節を迎える。ここは、実際の時間軸に添って時間が流れていきますね。 反転していた時間、ゼロに向かって流れていた時間が、〈はじまり〉を迎えて、今度は折り返していく。 鶯の早春、遠花火の晩夏・・・〈幻想は波のうえでだけ舞う〉この幻想は、過去の景を、今の夢想の中に呼び覚ます、そんな幻想、なのでしょう。時の流れの中に戯れる、想像力が呼び覚ます記憶。〈波〉は、時(の記憶)の揺らぎでもあるように思われました。 〈乾いた土が濡れるのはただ、紙片がめくられつづけるからだ〉この一行も、不思議な質感を残していきますね。一人一人、読む人によって、受け止め方は異なるような気がしますが・・・私は、いささか感傷的に読ませてい