作品投稿掲示板 - B-REVIEW

まりも


投稿作品数: 34
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まりもの記録 ON_B-REVIEW・・・・

初コメント送信者の燈火

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神がかったB-Reviewer

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屈指の投稿者

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あなまどい

2018-11-06

首を選ぶ ※

2018-09-08

息を継ぐ ※

2018-08-30

うりずん

2018-08-08

梅雨晴れ

2018-07-02

沈黙

2017-12-14

2017-11-18

縫い針

2017-10-12

焼成

2017-10-02

夕立

2017-09-29

奏楽

2017-09-01

流露

2017-08-20

朝のスケッチ

2017-07-21

惑星

2017-07-13

グラスハープ

2017-06-25

鋳型

2017-06-02

播種

2017-05-14

現況

2017-05-04

夢魔

2017-04-23

雨後

2017-03-26

Heel improvisation

2017-03-09

私の鳥

2017-02-10

緑の深い集落 なぜか対話にならない、一方通行の会話・・・場面設定は豊かなのに、あと一歩の踏み込みがほしいという印象が残ります。 擬音語、擬態語の取り込み方が、散文的表現に傾きすぎている(説明的になりすぎている)ことも気になります。 かわいそうだねと「手渡される」球根。言葉の、想いの凝縮した、これから芽吹く塊のようなイメージなのか。 白痴のふりをして、というフレーズも、どうしても文学的な既視感がある言葉なので、そこに頼らずに表す工夫があると良いと感じました。 語り手は、死んだように生きている、という感覚があって・・・再び生命感を得たいと願っているように思われます。 (球根)

2020-05-12

シラサギの自由落下、で思い出したのは、宮沢賢治のヨダカの自由「上昇」。あれも、葛藤と、理不尽な強制への「抗い」、戦いを放棄しての「自殺」、美しさへの解消ですよね。 詩を綴るということは、モノローグなのか、ダイアローグなのか。届くことを、願いながら諦めている、それでも綴ってしまう愚かさをまっすぐに見つめているようでもあり。 憧憬を集めて濾過していくこと、それを暗喩に託していくこと、その行為が、悲しみからの「解き放ち」に至りますように、という願いも感じます。 最終行が、あえて軽さへの脱出を図ったような・・・蛇足の感があるのと、題名に、もう一工夫あれば良かったと思いました。 反戦歌という言葉が一般的に指すのは、太平洋戦争など過去の戦争への「反戦歌」なので、8月というワードも、どうしてもそこに結び付いてしまうのですが・・・困難との戦いや苦悩との戦いを強いる、「励まし」の歌への反意へと開いていくことはできないか(反戦=戦争への、という既成概念に、私が毒されているのかもしれませんが)そう考えると、反戦歌というワードについても、今いちど、考え直してみても良いかもしれません。 (自殺の詩)

2020-04-28

美しい、という言葉は使い方が難しいのだけれど。 ~と思える朝だった、という立ち上がりで、過去の沈み混んでいた気持ちの流れを推測させる。良い立ち上がりだと思いました。 身体感覚を丁寧に掬い上げていくところ、言葉の流れを意識して整えたであろう運び、真っ白な雪をあえて自分が「汚していく」跡付けていく、という意志。 リフレインでアクセントになっている擬音、擬態語が、少し凝りすぎているかなという印象を受けたことと、題名が・・・少し安易に過ぎないかという点が気になりましたが、体感と気持ちを上手く馴染ませた作品だと思います。 (名残の雪)

2020-04-28

徹底して「語りかける」モードが豊かな印象を与えると思いました。 〈月船に結露〉冒頭にイメージをパンと出す、それも、ひんやりした(心の)質感と共に出してくるあたり、いいなと思いました。 〈洗面台、背後で起こる言葉のエンスト。ブラックアウトするYouTube。毛布をかけられるパソコン。スマホは手からするりと滑り落ちた。〉この辺りの描写にリアリティーがあります。 (BUMP OF CHICKENを嫌いになる日)

2020-04-26

畳み掛けていくフレーズ感が心地よい反面・・・語尾を揃える、その効果が、うまく発揮できていない気がします。 全体に言葉が多い気もしますが、絞りこんでいくか、語尾の変化も含めて、読みの目が止まるアクセントを設けるか・・・そんな工夫があるといいかもしれないと思いました。 手のイメージ(触感と、そこに生まれる安らぎや安堵への情景)が全体を緩やかに連結しているところにひかれました。 (2020年4月26日1:09)

2020-04-26

最後の一行、難しいなぁといつも思うのですが。神など「どでかい」言葉を持ってくると、そこだけ浮いてしまうような気がします。もっとキリッとした、でも、神、のような「大きくてあいまい」な言葉に神頼み、するのではないような・・・ 盲目、という「たとえ」を経由して、「りゅうせんけい」のような、流れるような「言葉」を伝えたいのに伝えられないもどかしさ。 流れるような音階で伝えたいのに(白から黒までのグラデーションの機微まで含めて)白か黒か、ですら伝えられない、言葉の持つ裏腹感(思っていたことと逆に伝わったり、伝わると思っていたのに全然伝わらなかったり、的な)も含めて・・・そこからも弾かれてしまっているもどかしさを、もがくのではなく、静かに受け入れているような落ち着きも感じる詩でした。 (盲目の詩)

2020-04-26

詩と散文(小説、エッセイ、評論)と、どちらに分類するかと問われたら、私はこの作品は(散文詩より小説に近い)散文だと答えます。 でも、この掲示板は、そうした(狭い)範疇から、「詩」を解放する、という目的も、おそらく持っているはず。その場合、作者のスタイル・・・本人らしい語り口、語り方やリズムが作り出されているかどうか、ということが、第一の評価基準となっていくと思います。 語り手の心の動きを、等身大の描写で丁寧に追っていくところは、同様の疑問を感じたことのある読者を自然に引き込んでいくと思いました。 細かなディテールをとらえて、そこから登場人物の人間性や具体的なイメージを描いていくところが特に小説的であるわけですが、こうした説明的な描写によって、作者が作り出した空間の中で具体的に人物が動き出す。それは、「詩」がしばしば陥る隘路・・・抽象化や凝縮を目指すがゆえに具体性が薄れて、時には曖昧さの中に置き去りにされ、作者自身も立ち往生してしまう・・・危機から、作品の持つ空間を解放していく方向でもあるように思います。 夏目漱石でしたか、作者が作中人物をしっかり造形することさえできれば、あとは、勝手に物語が動き出す、と述べた作家がいたことを思い出しました。 作中人物の生活スタイル、生育歴、普段、どんな服装をしているか、どんなものを食べているか。そうした、作品の中に描かれていない背景が作者の中では思い描かれていて、その具体的な想像力に沿って作品が綴られている、というような、表現上の自然さと(描かれていない部分も感じさせる)厚みのある掌編小説だと思いました。 ※彫刻家、舟越保武が、次のような言葉を遺していたと思います。うろ覚えですが・・・世界が美しいのではない、見る人の心が美しいのだ。 あるいは、多様を美として受け止めることのできる広さや豊かさ、柔軟性を持った心の持ち主には、世界が「美しく」見える、と言い換えても良いかもしれない。 stereoさんの作品では、語り手はすべてを安易に受け止めてしまう(許してしまう)自分に、むしろ否、と言う強さを呼び戻そうとしている。醜いもの=人として許せないもの、それを、美しくないものとして峻別する強さを欲しい、と思う・・・その心の動きを「青くさい」ものと客観視しながら、それを捨てたくない、と意志する力を、どのように持ち続けるのか、問い続けるのか。 そんな主題が見えてくるように思いました。 (なぜ君は世界が美しいと言えるのか)

2019-10-15

よくまとまっている散文詩だと思いました。 古墳というワードが過去から引き連れてくるものを、せき止めることなく、しかし多くを語らない、一見すると写実に徹しているスタイル。 空想する夢のあり方、という一節が、安易にまとめすぎている感があります。 カーブミラーと異界をつなぐ手法が自然。利便性、工場といった言葉がもたらす「現代文明に対する疑問と批判」のスタンスが、やや型通りか。優等生的な納め方とも言えます。 一連で触れる「何か」・・・死者を追うイメージが中断されているのか。あるいは文明社会の歯車として量産、消費される(ことに抵抗したい)「私 」が、「今」という場を抜けて、一瞬でも異界と通じる為の、使者のような存在、として、三連までひそかに繋がっているのか。 その辺りをもっと知りたいと思いました。 (夜道)

2019-10-15

羽ばたき方を忘れた蝶々、は、語り手の内面が形を取った影像なのでしょう。ぐるぐる、行き場を失っている心模様を説明的な言葉を使わずに示す、良い書き出しだと思いました。 隠していたお菓子の色が、あなたと見た雲の色だと言い切ってしまう思いきりの良さも、飛躍につながる表現だと思います。 (音の鳴らない)オルゴール、(まだ現れない)星の輝き、という連想は、いまだに歌い出さない、動き出さない、現れようとしない何か、という心の奥の「言いたいこと」を美しく可憐に表現するイメージだと思いますが、綺麗なもの、可愛いものを次々並べていくと、装飾が前面に出てしまって、いまだ~という、本当に伝えたいことが表層で読み手にスルーされてしまうような気がします。 まだ鳴らないオルゴール、を出したのであれば、そのイメージにもう少しこだわってもいい。俳句的な言い方をすれば、材料が多すぎてしまう。 「足もとに少し冷たい空気をこぼす」この体感的な表現は、とても良いですね。なぜ、空気を「こぼす」のか。行き場を失っている室内の空気(イコール自身の内面)を、自らの意思で窓を開けることによって、動かそう、という運動が生まれているからではないですか。ここは、もっと詳しく書き込んでも良いかと思います。 これから雨が降る(悲しみがやってくる)という冷たさをはらんだ大気なのか。 奥歯に詰まったアーモンドの皮のように、言いたいことが言えない、もどかしさを抱えている&糖衣錠が包む苦さ、このふたつの比喩が出てくる時点で、語り手の抱えているモヤモヤの正体も滲み出ているのですが・・・そこから逃げるかのように、よろこびとほころび、という言葉の響きの甘さや、置き去りの秘密、というような、これまた甘いモチーフに頼ってしまうところが惜しい。 (アフタヌーンティー)

2019-10-14

俺、私、私達と、複数の語り手が登場する時点で、構成を工夫しないと、「実際に言われた(そして傷ついた、嫌だった)」という設定そのものが、生きてこないと思います。 実体験と想像との間にあるものは何だろう。 想像→取材力によって、実際に他者を傷つけている言葉を集め、語り手を想像力の中で作り上げ、その人たちに言わせる形で構成した→これならノンフィクション的な、あるいは取材に基づくドラマとして迫真力を持ちうるかもしれない。 でも、想像→自分も言う側、言葉を投げる側に立ちたい→世間一般良識に照らして批判されたり非難されたくない→つまり、自分の欲望の捌け口として言葉を利用しているだけなら、他者の心を動かす迫真力を備えた作品にまで、ブラッシュアップすることは出来ない、と予想します。 痛みを感じている自分、というシチュエーションを設定して、そうした状況に怒りを感じたり、共感したりしてほしいのか・・・最後に(取って付けたように出てくる)自殺は許さない、という「一般良識的」な言葉を、実はいちばん、言いたいのだ(自殺に逃げたくなる自分を鼓舞するためにも)ということなのか。 吐露を主体として書くのであれば、自分は何をしたいのか、ということをもう一度考えてみてください。 他者の心を動かして「いじめ」の悲惨さを訴えたい、ということなら、たくさんの声を取材して「事実」をコラージュしていく方法が適しているかもしれませんし、 他者を傷つける暴力的な言葉を自分も口にしてみたい、という好奇心や欲望が根にあるなら、いじめる側の独白的な視点で書ききってみて、自分の内部にもある醜さを他者の醜さとして客観化するという方法が良いかもしれません。 (いじめ)

2019-10-14

詩と再生→死と再生・・・ 誤変換 ! (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-18

ぬ から始まる、組もの。 ひとつのテーマを、立場を変え、見方を変え、多角的に描き出そうとしているように感じました。 その地の主のような樹木と、共感力によって同化しているかのような語り手。天と地を繋ぐ樹木、天と地の往還を繰り返す水。いずれも詩と再生を(そして、そのとどおこりない循環が続いていくことを)祈る想いが背後にあるように思いました。 水に流されて亡くなった少女が魚になるというイメージ。 私の好きな詩人が、水に流されたり海で溺れた少年たちが、しゃっぱになる、という伝承を織り込んだ詩を書いています。有明海の干潟の泥のなかに生きる、海老のような透明な生き物だとか(伊東静雄)。そんなことも思い出しました。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-18

冒頭、ロマンチックな南の海をイメージしましたが、故郷で聞いた戦災の死者、その魂の再生を祈る歌、なのですね・・・と読むと。 みづくかばね、は、水浸く屍、であったような(そこが、少し気になりました)。 もっとも、水浮く俺、と、パロディー的に替え歌を歌いながら、亡くなった同時代の「君」のことを、歌っているとも読めるので・・・だとしたら、戯れに、というような言葉が入ると、語り手と君との仲の親しさや関係性が、より明確に伝わってくると思いました。 (波)

2019-08-17

スピーディーな展開、冒頭二行で、輝かしく、常人とは異なったユニークな「スター」の姿を描き出すところがいいなぁと思いました。 理不尽に解雇通知を突きつけられてしまった、私らしく生きることを許されない「私」にとって、スターの「君」は、自分とは真逆の姿を写し出す、鏡のようなものだったのかもしれません。 その鏡があることで、私らしく生きることのリスクや、時には演技することの大切さなどを(逆転した理想像として)照らし出してくれる。自分を冷静にとらえたり受け止めたりすることもできるようになる、そんな鏡であったのかもしれません。 それなのに・・・自分とは真逆だと思っていたのに、内面は自分と同じだとわかってしまった。 そのことで、麻痺したように平坦になっていた「私」の気持ちも、動き出す、わけだけれど。 中盤のリフレイン部分が、気持ちの切り替えの強制的なスイッチとして迫ってくるような効果を感じました。 きっと、「私」は、これからは、「君」は自分とは全く違うから、どんなに頑張ったってあんな風にはなれないよ・・・という、投げやり、捨て鉢な気持ちから、結局、外見は違っていても、内面は一緒なんだな、というわけで、「君」に向かっていた感嘆の気持ちや羨望の感情が、自分に向かっていく、かもしれません。 (スターの君と部屋の私)

2019-08-17

おとな、への階段を昇る、というイメージと、実際に吹き抜けの学校ホールのようなところの、中二階の踊り場的な空間をイメージしました。 中二病、という言葉もなんとなく連想されますね。 最終二行、おとなになる、ことと、性の自覚とを重ねる表現、なのか・・・風にちらつく、ということは、穿いているのではなく、それだけが風に揺れている、のかな、とも思いましたが、私にはこの部分が、とらえにくかったです。 おとな になるって、どんなことなんだろう。 ちょっと「不良」っぽい領域に足を踏み入れる=おとなしく規律や規範に従わない、ということ、なのかな。 あるいは、結婚して、子供を持つということ(死産という悲しみも引き受けなくてはならないということ)、なのかな。 そんな、まだ「おとな」になるというイメージが定まっていない学生の目から、一足先に「おとな」になっていった人たちのことを見ているような印象がありました。 スカイツリーが、「おとなになったら見える景色」の、ひとつのシンボルとして機能していると思います。 (きざはし)

2019-08-17

四行ずつリズミカルに進行していく構成、伝えたいことを後半になるにつれて重ねていく盛り上げ方が、読み手の印象に残る作品だと思いました。 類型、統計と脚韻を踏むようなリズムの取り方と、ぶち壊せ、という願いもうまく連動していると思います。 他方、傷が萌す(きざす、と読むのでしょうか?)可能性、のところ、頭韻的な響きをより重視した言葉の選択なのでしょうか。 思いを歌う、表に出すことで〈たくさんの傷を負うことになったとしても〉あるいは〈隠されていた傷が再び見え始めたとしても〉大丈夫だよ、美しさは損なわれない、という流れ、なのか、どうなのか・・・全体の流れからはそう読み取れるのですが、文脈からは、傷を負う可能性はあるけど、憂鬱に包まれているから見えなくなっている?から、美しさが損なわれることはないよ、と読めてしまう。ここが分かりにくいと感じました。 また、人の不埒さを食らって、という適度な抽象度を持った魅力的な表現があるのに、ぶくぶくと醜く太って、と、やや安易な表現、身体的、具体的なイメージに納めてしまうところがもったいないように思います。なぜ不思議さに惑い、さ迷うとたちまち痩せる、ことになるのか。 身体的に太っているのは醜くて、痩せているのは美しい、という凡庸かつ一般的な価値観が背後に見えてしまうような気がします。 そうした「世間の思い込み」をぶち壊してなおかつ、というところに持っていってほしい、と思います。 (アイドルガール)

2019-08-17

論理の明快さとグルグル具合が絶妙で、面白かったです。 紙媒体・・・は、実際のところ、発信してもほとんど反応はない、のれんに腕押し、というあやふやな「かんじ」しかなくて、合評等で作品を前にガチでやりあったりしたときの充実感の方が、いかにも「たしか」な時間を過ごしたなぁ、という実感として残るのですね。 詩集、それ自体に憧れを持つ場合はともかくとして、「詩人」として「詩」を書いているからには、「詩集」を出さなきゃあかんよ、みたいな話になっていくことが多いのが、俗にいう「詩壇」なるもの、なのかもしれませんが、出してあげるよ、なんて話は滅多に降ってくるものではなくて、そうなると自費で出すなら賞をとって元を取ってやろう、なんて話になるのもムベナルカナ、とも思うのですが。 賞狙いとは別に、自分の心覚というのか、ある種の記念に私家版の小冊子を作ったりした際に・・・ごく少数の信頼できる友人から、忘れた頃に届く手紙による感想に、痺れるような体験をするというような「よろこび体験」があると、やっぱり作って(読んでもらえて)良かったな・・・というように、どっぷりはまっていったり、するのですね。 これは返信なのか、触発されて自分勝手に書いているお手紙なのか、既によくわからなくなってはおりますが。 詩・・・なんなんでしょうね。語り得ない、でも、たしかに思ったり感じたりしたことを、ありとあらゆる手段と工夫を通じて書き表そうとして、結局、その途中経過報告や、問いを読者に投げるところで中断しているもの(特にそれを文字媒体で行う行為)とでも、言う他なさそうです。 (ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット)

2019-06-17

とつとつとした語り口ながら、一貫して他者の詩に触れていく、詩を探していく、という体験の不思議を、実感として捉えようとする強い意思が感じられて良かったと思います。 日常的にはあまり使わない言い回しが出てくる、そこで滑らかな読みに凹凸が生まれる。 そこを違和感と取るか、言い得ないことを、何とか今現在の段階で言おうとする故に出てきた必然なのか。 違和感があるゆえに、それがアクセントとなって読者に入ってくる部分もあるので、私は必然だと感じます。 彼の詩、が、いつのまにか彼そのものになっていく。詩が彼なのか、詩を越えて作者そのものが読者に触れてくる感覚を伝えたいのか、あるいは、作者を越え、詩作品そのものを越えた、詩そのものが、彼と名指されているのか・・・ 代名詞の使い方をもう一度見直してみると良いのではないかと思いました。 (川魚)

2019-03-19

面白い。 イメージの飛ばし方、実感の捉え方。 各連の立ち上がりと次の連に飛ぶ前の引き締め方に工夫があって、表現の「自分らしさ」を探索しているところ(なおかつ実感として伝わってくるところ)が良かった。 他方、各連ごとのまとまりが良すぎるために、音楽で言えばぶちぶちと途切れた感じになってしまってはいないか・・・ 青すぎる夜、白い星々、流れ星、黒曜石・・・ 群青色のビー玉を喉に詰まらせたまま(言えないことも言えないまま)青臭さを抱えたまま、世の中に羽ばたいていく(それぞれの進路に別れていく)かつての自分達のような君たち、への憧憬と共感と切なさ、がテーマだと思うのだけれど。 言い換えの工夫をし過ぎて、かえってイメージが、拡散してしまっている気もする。 粘り強さ(全体を緩やかに繋ぐための、潤滑油のような、通奏低音のようなもの)があっても良かったかな・・・ (星の名前)

2019-03-19

思うままを素直に書き記したイメージで、詩を読み慣れていない人にもスッと入っていける可読性を備えている反面、自分語り的な要素が強すぎて、既視感があると思いました。 細かいところで恐縮ですが、捨てれる→捨てられる こういうところで引っ掛かりを作ってしまうのはもったいないとも感じます。 自分の動きに応じて引き起こされる波のイメージ、映像や肌に感じる質感のイメージ・・・現実界のイメージにとらわれるのではなく、人や物が透き通って押し寄せてくる異空間を抜き手を切って泳いでいくようなイメージなど、もっと自在に、今現在の感覚をダイレクトに伝える工夫を「楽しんで」みると良いのではと思いました。 (人生の泳ぎ方)

2019-03-19

ああ、これも最後の二行、特に最終行が、ほとんど消えかかっていて、見えない・・・。 私のパソコン環境のせいかもしれませんが。 理念的すぎる、というのが、第一印象でした。いわゆる男性性、女性性、というものを、力強さ(=権力欲、勝利欲、ファルス主義)柔和さ(=協調性、優柔不断、包容力、慈愛)というパターンで分類するか、理性的、感性的、というパターンで分類するか・・・どちらも便宜上であって、社会的、文化的に生み出されてきた傾向である、に過ぎない。 権力欲、支配欲や征服欲(の一形態としての性欲)、物欲はよろしくない、それは大地(自然)と切り離されているから(そして、その不安が背後にあるから)であって、自然の一部としての自覚(と謙虚さ、充足感)を得る為に、大地(自然)との聖なる交合(比喩的な意味として)が必要なのである、というようなこと?を、言いたいのかな、と思いつつ。 それらを「言い訳」にした狂信者が、レイプなどの犯罪を犯して、警察に自首する、という「設定」なのか・・・そのあたりが、よくわかりませんでした。 (凍てつく波動)

2019-03-11

なにやら猛烈に多忙(というか気忙しい お腹コワシマクッタ)2月、あんまりこちらに来られませんでした。 来てみたら、右肩さんが投稿されていて。 ・・・私のパソコンの調子のせいなのか、右肩さんが意図された「エフェクト」なのか、 「言葉の  契約は解除されたから言葉は動か  ない。」この部分が、フェイドアウトするみたいに薄れていって、最後はほとんど見えない、状態になっているんですよね・・・これは、機器の方の問題なのかもしれませんが。 疑問点は、「ある。」「くる。」「いた。」などの改行の仕方。ある、とか、いる、くる、は、二重の意味性が生まれるので(意識しすぎ、という感じにもなるけれど)面白い効果が出ると思いますが、「のだ。」は、音感やリズム感で区切った、ということでしょうか。 「しょぼしょぼ  薄明るい尿を放ち」 薄明るい、という感覚と、しょぼん、とうなだれている感じと、排せつ物(不要物)の方がよほど美しくて元気がよくて、という情けなさ、的な感じなどが、いい感じだな、と思うと同時に、尿が汚く見えない、というところ、諧謔やドギツサ、えげつなさを「ねらっていない」自然な感じ、が良かった、と思いました。 しと、と読みたい感じ。 (新年のお慶び*)

2019-03-11

大賛成です。 技術的に可能ならば、「読んだよ」ボタンと、内容ごとのポイント評価ボタン、併用はとても良い案だと思います。 (【必読】B-REVIEW3.0企画書の公開)

2019-02-16

適度なユーモアと力の抜け感、リズムなどの小気味よさが魅力的な作品だと思ったのですが、その小気味よさが、後半で少しダレてしまうような気がしました。「お手拭き どうぞ」あたりで止めた方が、ピリッと辛子が効いてよかったのではないか、と思いました。 (そして乾杯)

2019-02-15

独特の語りのリズムが面白かったです。 言葉を区切る、ところで、ひと段落が付くように見えて、ふっとずれる。 日常生活の中で、「天使の翼は本当は汚い。」と気づいた瞬間の微妙さ。 花にそそぐ視線、音を消して、という集中の仕方を意識する細やかさが良いと思いました。 (生活)

2019-02-15

前半の言葉の重ね方(特に四行目以降、祈りを捧げる、の前まで)が効果を発揮しているか否か、というところが課題ではないでしょうか。 お手玉を右から左へ、左から右へ・・・と投げ交わすような、自己撞着的な手法。その内面の想いが先に行かず、内面でとどまっているもどかしさのような感じ、を表すには成功していると思いますが、もたもたと内面で呟いている様相を全て書き記すことが読み手に取って「作者の必然性を感じさせる」強度に達しているか、と問えば、達していない、と思います。同じ言葉を繰り返すとき、リズム的な必然や音韻としての流れの必然、もしくは情動の必然、そのどれかを充たしていないと、言葉が過剰という印象につながるように思いました。 (天満宮)

2019-02-15

二行目以降の「標語」的な呼びかけが、その先を読む気を削いでいるように思います。 「人間的で笑いに値する」「人間の愚かさ」の諸例が、安易な性的快楽に限定されているところが表層的だと感じました。人間の愚かさは、性に関わる欲望のみである、として、徹底して掘り下げるのか、あるいはより領域の広い非性的な快楽を拾い出すのか・・・どちらかに振り切った方が良いと思いました。 後半、「母なる女神よ」以降、偽仏典のような風情があるのですが、いささか文言が自然回帰をイメージさせるエレメンツの安易な使用で終わっている感もあります。 (空炎)

2019-02-15

生まれてくる、ということは、とうぜん、場を占める、ということで・・・それを罪と「自覚」することと、原罪(宗教的な)との差異について、しばし考えました。罪、という名付は、作者による発見である、わけですが・・・罪、という言葉の重さと釣り合うのか、どうか、ということ、ですね。 存在の神秘への慄き、いわば、畏怖が、本作のテーマなのではないか。と思う、のだけれど。 何かの意図のために、効果や効率のために、「加工」されなくてもよいではないか(ありのままで、どうして認められないのか)という悲しみ、を歌う作品であるならば・・・そのままで存在しようとすること、が、許されない、ということ・・・が、罪、と称される、ということへの疑義であるとして・・・やっぱり、題名のインパクトと、内容が、どうもずれているような印象を受けるのですが、どうでしょう。 それを、罪、 (罪)

2019-02-15

縦読みの面白さを隠すというような方法もあったかな、と思いつつ。 ひらがな、から浮かぶイメージと情景を結び付ける方法が、少し強引なのかもしれません。 (いみたいに)

2019-02-15

「と歌ったのは誰だったっけ?」「のはどの歌だったっけ?」「言ってたのはどこの誰だっけ?」と明記してあるので、まあ、一般常識的な範囲で、借用というか引用だな、とわかりますし・・・引用部分も全体の四割以下なので、まあ、著作権料を払え、と万が一言ってきた、としても、それは言いがかりでしょう、と客観的に判断してもらえる、範囲ではないかと思いますが・・・(法律上の詳しいことはわかりませんが、通常の慣用として)コメント欄に書かれていること(~からの引用があります、とか、~からインスパイアされた部分があります、など)を、注記として作品の最後に付しておくと万全かな、とは思いました。 「もう一度編み直せば、~」以下の部分が、ちょっと説明過多でまだるっこしい印象を受けます。対話的、会話的な軽さで、全体を統一してもよかったかな、と思いました。 (糸)

2019-02-15

「偽りの祈りを幾つ」い、の音の連なり。「抽象の牙」は、音としては中傷、に響かせようとしているのか。 「穢れた」という自らの認識を入れるべきか、否か。(入れなくてもいいんじゃないか、ここは。繁殖を準備する濡れた~、では、あまりにもそのまま、だけれど。) 「さんざめく声の嘘の本当」そう、嘘、フィクション、虚構でしか表現し得ない、自らの真実、本当、を書きしるすこと、が・・・詩の機能のひとつ、ではあるはず。でも、嘘の本当、とつなぐのは、少し安易ではあるまいか・・・全体で、嘘の本当、を示すこと、が、詩であると思うので。 「こびりついた感情の肉片を払う覚悟 が」必要、なのか、欲しい、のか、無い、のか。そこを伏せて、ためらい傷に持っていく(一行アケでいったん、切り替えを入れて)潔さが小気味よい。 (l*st for you)

2019-02-15

後半の展開が面白かったです。冒頭に「希望のベランダ」と書いてしまう、明示してしまうことに、最初は抵抗感があったのですが、ベランダ内の語り手を、外から眺める、というあたりで、意識の飛翔と自己の客観視、死を仮構して自らをリセットする感覚、などを志向している作品ではないかと思い、そうなると冒頭の「希望の」は、反語的なシニカルな表現に見えてきますね。 でもやはり…冒頭は「見晴らしもいいベランダが好きだった」にとどめ、いつだって死ねる、だから、今日ではなくてもいい、という気力の整え方が次第に見えてくるように持っていく方が良いような気もしました。 (希望のベランダ)

2019-02-15

「筆箱がない」(書く物が無い、与えられていない、あるいは、奪われてしまった)というフレーズと、「一人声に出して問答をしている」(書けないので、音声に出す他ない)というフレーズが響きあっていますね。意図的なものなのか、無意識に表出したものなのか。 「考えられるようになったと思ったので」考えられるようになったので、ではない、ということ。~と思った、という、どこまでも自認の域に留まることの自覚が、意識的にせよ、無意識的にせよ、この作品のテーマなのではないかと思います。 (環境)

2019-02-15

漢語の熟語を多用しているせいか、静謐なのに格調が高い印象を受けます。 瞳、爪先、てのひら、肩・・・肉体が外界と接する先端部、外郭が意識され、そのことによって自らの輪郭を確かめていく行為と、過去の記憶を呼び起こす行為、自然の息吹を感受する体感とが融合していく過程をなぞっていこうという意識が表れた作品だと思いました。 進行を抑制しているからかもしれませんが、自らの輪郭を得る(充填する)行為への切実さ、内的衝迫のようなものが伝わってこないもどかしさもありました。 充填された内実が、外界、過去の時空とゆるやかに交感しあう肉体への、やわらかな望み・・・その表れとしての肉体。意識の方向性としては、難しいけれどもユニークな志向を示していると思いました。 (現象 )

2019-02-15

水面、みなもと読むか、すいめんと読むか。素足、と並ぶので、何となくすいめんと読みたいように思いました。 同時に・・・様々な人の心の内面(表はたいらかでも、内面は嵐のように渦巻いている)奥深くを見ることなく、すべるように歩んでいきたい、というような願いも込められているように思いました。 にくむ、という言葉、その直接性を、どう考えるか。 ひらがなの柔らかさで、直接的な刺激からはまぬがれているように思うけれど・・・ 私を刺したあの人の、というような、別の意味での直接性も試してみる価値があるかなと思いました。 具体的な動作を表す動詞と、愛する、憎む、怒る、悲しむというような、感情を表す、抽象性の高い動詞と、どちらを用いるか。 作者のスタンスの問題でもありますが・・・ (ゆび)

2019-01-18

仮名吹さん 勤勉さというものは、どこか感覚を自ら麻痺させていくことのような気もします。それをどう、取り戻すのか、取り戻すべきなのか、眠らせておくのか・・・ 羽田恭さん 実際に首を絞められたことはないのですが(笑)柔道をやっている人から、すうっと意識が落ちる感覚、というのを聞いて、体感してみたいな、と思ったことが、根っこにあります。意識が張り詰めている場所から、ふっとずれたい、というような。 みうらさん 「うまくなくてはいけない」というのは、ウーム、というか、なんと返していいのか・・・いわゆる、減点法に引っかからないように作詩する、というような方向性の「うまさ」であるとしたら、むしろその檻に閉じ込められて氷漬けにされていく恐怖を意識しなくてはいけない。狂うことができたら、というのは、むしろ本心かもしれません。 つきみさん ありがとうございます。確かに、「そうして」はユルイですね・・・~から、と持ってきて、予測通りに落ち着いていく進行は、散文(叙述文)へと傾斜している。それがわかりやすさの追求だということになるのか、ダレている、飛躍の鋭利が失われている、と自戒すべきなのか。「秋」になってしまったので、仕方なく眠る支度、をしている、けれども、実は眠りたくない、のかもしれない、と思いつつ。書き手は眠ることをむしろ望んでいるように見えますね・・・そのアンビバレントが、もっと鮮明に出るような激しさを内在させつつ、音や響きのやわらかい官能をも所有したいという欲望。 柴田蛇行さん 冒頭二行は、確かに詩になっているかもしれないけれど、そこから惰性的に続けてしまっているかもしれない、その惰性の甘さに、身をゆだねる心地よさや落ち着きや安堵を求めたかった、ということもあるのかもしれない、と思いましたが、やはり、冒頭の二行(最初に出た詩行)以外は、ゆるかった、というのが、皆さんの印象でもあり、私自身の反省でもあるような気がしました。 蛾兆ボルカさん 穴と蛇、たしかに性的なイメージがありますね。そこから、からだのいちぶ、というフレーズも出てくる、わけでもある、のですが。身体の疼きを眠らせて、精神の覚醒のみで生きていくのもキツイので、いっそのこと、すべてを眠らせてしまおう、というようなこと、だったのかな、など。 fiorinaさん 論理的説明文のような文言を入れるかどうか、そこで迷うところでもあるのですが、辞典を読んでいて、妙な詩情を感じたりすることもあって(学術的、科学的説明文であっても) くるうことさえできたら、その言葉そのものを、勤勉な蟻に片づけてもらいたい、自分で捨て去ることができないから、というようなこと、なのかもしれません・・・ (あなまどい)

2018-12-20

余呉の湖、芭蕉、蕪村・・・過ぎ去った者たちへの感傷に誘われつつ、水墨画のような背景の中で、「吉村」と「僕」は、腐肉を漁る鴉=死神(的な存在)に魂を吸い取られるような官能の(タナトスを充たされるような)口づけを交わしている、という情景が展開されているように思いましたが・・・エロスとタナトスの溶融、というような方向性というか意図は、あまり感じられず。滅びへの志向が強いのか。 後半、情より理が勝った会話に移行するのは、精神が肉体から離れかけているようなイメージなのか・・・。肉体からの分離を暗示するような飛翔体験への夢想シーンが、唐突に現れる印象も受けました。前段が丁寧に助走を持つような描写であるので、なおさらそう感じたのかもしれません。 (余呉)

2018-12-14

僕には一人だけ読者がいた、と始めると、え、何の読者だろうと、読む人を引き込んでいくかもしれないと思いました。(その後、ブログと出てくるので、流れはわかるし、) だんだん見えてくる楽しみ、のようなものと、あい子さんは、実はAI子さんだったのか!という驚き(実は姿を見せない学者の企み、)を、よりくっきり、際立たせることができるのではないかと思いました。 (仮想詩人)

2018-12-08

Ⅷ 硝子壜に詰めた匣   愛は天秤秤で量り売りしています Ⅸ 瑪瑙碧のしたたり   煮え立つ言葉を切り開いて供する (秘法(第一巻))

2018-12-08

どこまで語り手の身上に迫れているのか、というところで二の足を踏んでしまうのですが・・・ 言葉の選び方のカラリとした感覚や、スピーディーに進行していく詩行に好感を抱きました。 多くの人が様々な形で抱えている(程度にも激しく差のある)生きづらさのようなものを、障害という「比喩」で表しているとしたら、気持ちの上で抵抗が残ります。 障害を持つものが、いかに境遇を受容していくか、ということであるのか。 その過程に寄り添うことで、健常者(と呼ばれる人達)に気付きを与えようというようなことであるのか・・・ 僕は何にでもなれる この明るさが、とても良いと思いました。 (貴形児)

2018-12-07

江角マキコの少女時代を妄想して書いた、というような展開でも面白かったかもしれませんね。 他人の恋愛話を聞くなんて退屈だよね、的なツナギは、文字数を稼がなくてはいけない作文なら実用的な効果があるかもしれませんが(あるいは、あえて停滞するニュアンスを出したいということなら、効果が出ているかもしれませんが)もっと凝縮して、生まれた余白を活用して掘り下げる、というような作業が必要かもしれません。 (ニューヨーク天神駅75「電車で向かう」)

2018-12-07

不思議な屈折を持った詩ですね。 ~を、~を、と重ねていく、一見、もたついて見える進行。風と風邪をかけているのか、鼻風邪の時の、ツンと刺すような痛みと、制服・・・学生服かと思いましたが、後半を見ると軍服のイメージもありますね・・・が鼻の奥を刺す、というのは、ナフタリンの臭いなどでしょうか。 アメリカに征服された場合の日本という、もうひとつの未来を想定しているように思いました。 (八時)

2018-12-07

大作ですね。ゴブラン織の重厚な織物のよう。 造語の面白さを、各連が修飾しているようで、興味をひかれました。 たとえば微光草、この言葉だけでは、何となく発光する草のイメージしかわかないけれど、原初の暗闇、肌感覚の接触、持ち寄った種のイメージ・・・発芽しようとする何か(ポエジー)を、言葉が捉えかねて駆け去っていく、その繰り返しのなかで、微光を発するように見えてくるものを描きたいという感触が伝わってきました。 続きはまたあとで。 (それは素粒子よりも細やかそれはあやとりそれは贈り物)

2018-11-25

幻想的な景。 立っていた、と、二度言い直す効果(2度めが必要かどうか) 風と共に飛来する蝶は、「きみ」自身の魂なのか、きみにとって大切な人の魂なのか判然としませんが、隔てられている、ということの切なさ(蝶になって触れたいと思うのに出来ない)がもっと迫ってくると、より引き込まれる作品になると思いました。 表面的なきれいさ、美しさが、どこに由来しているのか(失われた思い出は、とりわけ美しく見える、というような)伏線として描きこまれているといいなと思います。 (境界)

2018-11-25

○○音頭、のような口調の良さが、プラスに作用するときとそうでないときがあると思いますが・・・調子の良さに流されて、思想というのか、思いの深みへの「ひっかかり」まで取りこぼしてしまう感がありました。 (歩行禅)

2018-11-25

冒頭からユーモアを交えつつ、きれいごといってんじゃねえよ、という反発力がガンガン響いていて、言葉の軽快な流れやリズムも心地よかったです。 最後、語り手を天国へ移送してしまった飛ばし具合、面白いと読むか、その一歩手前で、まだ生きている体に叫ばせよ、と思うか・・・他の方はどうでしょう。 (リコール17)

2018-11-22

体感を主体につづられているので、たくさんの読者に心情が伝わる作品だと思いました。 井戸に投げ込んだのも自分自身・・・切実であると同時に、ここで説明が先走っている感もあり・・・ 場面を切り替えて、「地上」で両者が葛藤していた時のシーンを挿入してみるなど、何らかの変化やバリエーションを加えてみるのも良いかもしれません。 (井戸の底から(私の魂より))

2018-11-22

冒頭から、おおっ?となりますね。SFが始まるのか? 二行目、コロンビア、で、円筒形のもの、は、コーヒー缶かな、と思い・・・ 大げさなくらいにデフォルメされたことによって生まれるイメージを楽しんでいるうちに、 またもや、予想外のところに飛ばされる。 心地よい飛躍だと思いました。 無意味なイス取りゲーム、なるほど・・・ そう、わけわかんないこと言いつのるやつなんざ、豆腐の角に頭ぶっつけて、死んじまえってんだ、ねえ。 (ささやかな日常の重石)

2018-11-15

最初、あはっと笑って、それから ぢ と じ の微妙な使い分けに感心して、 なんでヨモギ?と思い・・・ それから、ちょっとしんみりしました。 深刻なところにまで落ち込まずに済んだのは、冒頭から一貫して続くユーモアの感覚、 あたしはげんきっ!と、自らにカツを入れるような明るさ、あたしがやらなきゃしょうがない!という、心地よい責任感のようなもの、に由来するのだと思います。 ところで・・・ 〈やにやら光った!保険証通帳印鑑の発見だ!これで 家主を証明できる!  彼女は 列記とした 私の叔母様だと証明できた 〉 「なにやら」 「れっきとした」、ではありますまいか。 〈誰かであるかと保証がされている あなたとわたし〉「誰であるかと」「誰かであると」 〈ひさしく走ったことのない重く冷たい両足が足元から照られ血が通う〉「照らされ」 ・・・前半の〈ぢぁり〉〈じぁあ〉という、繊細な推敲との差が、気になって、気になって・・・ 〈すべてのものが繭ごもっている~うごかない時間が/ユックリ揺レテイル 〉          〈保存された時間が死んだまま/シッカリ動イテイル 〉 この部分の、ゆれながら刻み込まれていく感じ、心に残りました。    (よしっ。いや、ちょっと マテ。 *)

2018-11-15

ステレオタイプさん ありがとうございます。へびだけにへヴィー(笑) 蟻の群から、働かない蟻を取り除くと、働いていた蟻の一部が、一定の割合で、働かなくなるそうです。予備要員なのか。 常に、どこかを休ませていなくてはいけない、フル稼働はいけない、そんなメッセージであるように思います。 (あなまどい)

2018-11-14

わらわら・・・という感じで、たくさん書いてしまいましたが、ひとりひとりには、ほんの少しに、なってしまい・・・これだ、という一言を、自分なりにお届けできていれば、嬉しいです。 コメントしよう、と思って読むと、だれかに、無意識のうちに話しかけたり、説明したりしながら読むと思うのですね。その、見えない対話を繰り返すうちに、おしゃべり苦手な人が、好きになったり、得意になったりする。 実際の人間関係でも、それがプラスに働くこともある。 コメントを書くことは、だから、生き方の潤滑油を自分で自分に補給することなんじゃないか、と、思うわけです。 まずは嘘だと思って、やってみてくださいね、ほんとだから。 (10月分 フル選評(まりも))

2018-11-14

物語風の展開に引き込まれました。 〈よくよく話を聞くと彼女はある日突然 「あなた」と言えなくなり、恋人も友だちも 失って一人になってしまったのだと言う〉 この部分が、説明的な要素が強い一方で、あなた、を言えない人が、それを説明する、という部分もなんだか、理屈からいうと、変だな、という感覚が残り・・・ 指さした、というところで、「  」を言えない、でも指させる、ということは伝わる、ので・・・ その指さした手を、取ってあげたらどんな感触だったのだろう(すり抜けてしまい、悲しそうなまなざしだけが残る、のか、それとも、水のように冷たい指が、僕、の手の中に滑り込んできたのか、あるいは、懐かしい温度を感じさせる指、であった、のか・・・)そこを知りたくなったのですが、どうでしょう。 (「 」が言えない)

2018-11-14

sagiri ni otoko waku この響きが面白いと思いました。どのような情景かと読み進めると 〈青く均された露天湯に向かう友達〉渡り廊下などで宿から離れた風呂でしょうか。 急に具体的な景が立ち上がってきますね。 〈音だけが橋を渡ってきた〉この描写も面白い。 バイクが走っている、という認識を先に出して、その認識をもたらした聴覚を後から添える。 〈もうすぐで水たちは無事に夜番の努めを果たす〉ここは、なんだろう・・・ 出水?もうすぐで? もうすぐ 水たちは なのかな・・・水が夜番をしている、という発想も新鮮。 最後の一行も、ドキリとしますね。〈西の彼方〉は、彼岸の方向でもある。 青く沈んだ街並みが、目覚めていく時刻。朝霧が沸いて、その中に影が現れ、消えていく感覚。 生者も死者も、共に〈談話〉した夕べがあったのか。 早朝の朝露(霧?)の水気を体に沁み込ませながら、周囲の気配(生も死も混在しているような一瞬)に耳を澄ませている(肌で感じようとしている)かすかな緊張感が、引き締まった文体から伝わってきました。 (寒露)

2018-11-14

二行目と三行目の間に、空白があった方がよいかもしれないと思いました。 このままだと、「~横暴で/俺が君の瞳の中に観たのは~」と一文に見えてしまうのですが、 二行目は最初の一行に付いている文で、三行目は独立して始まっているのではないか、という気がしたので。 (pistols)

2018-11-14

〈会えたなら逆行し〉というフレーズが新鮮でした。 会うたびに、時間が巻き戻される感覚とは、生きなおす感覚、生きている、と実感できる感覚なのでしょうか。 会うたびに、ひっくり返すとまた流れ出す(時間が動き出す)砂時計、のような〈私〉。 今はもう、ひっくり返ることもなく、砂が流れることもない・・・ 全体を形に整えようとしすぎて、言葉がぎくしゃくしているような印象があるのですが、どうでしょう。 もっと素直に、ご自身のイメージを、文体や詩行に縛られずに書いてみて、それから不要な部分を削る、という方法を試してみるとよいかもしれないと思いました。 (動力)

2018-11-14

自らが生きるために(糧を得るために)、雑草をむしり、害虫をつぶさねばならない、魚を殺さねばならない・・・その情景と、たとえば人事に配属されている人が、リストラを言い渡す役を命じられているというような情景や、下請けを「殺す」ような条件を伝えに行かなければならない社員の姿を重ねてみました。食いつぶされるように、こき使われて使い捨てにされる自身を、重ねていくこともできるかもしれません。 毎日崖っぷちに立っている、その心象は切実だけれど、自分がむしったり殺したりする虫や魚の中に、自身を見る発想との間には、少し飛躍があるようにも感じます。 殺されていく虫が、一瞬向き直って、目があったら。草を抜き取ったとき、一瞬、根っこが指に絡んで、かすかな悲鳴が聞こえたら。 生きる価値があるのか、ないのか、と論理的に問い詰めていくところから、想像力、感性の世界に一歩、足を踏み出してみたら、何が見えるだろう。そこに広がる世界を観たいと思いました。 (崖っぷち)

2018-11-14

〈確かにその時、/あなたの質量だけこの部屋の密度が高まった。〉 ここから先が、とても良いと思いました。 前半、息を一定量に調整したまま、低空飛行を続けるような感じ、といえばいいのか・・・ 漢語が多いこと、説明的な描写が多いことで、導入が重くなっているように感じます。 まだ藍の濃い空、白く輝く明け残りの明星。北風が吹きこむのにも構わず、あえて窓を開けて、コーヒーを入れる。 珈琲、でなくてはいけない理由、があるのかもしれませんが・・・この、朝の景を、どのように表すか。 即物的に、さらりと書いてしまった方が、後半の幻想景との対比が出るような印象も持ちました。 (績)

2018-11-14

この短さに、たくさんの想いを詰め込もうとしている、そのぎゅうぎゅう詰まった感じがみずみずしいですね。 もったいないところは、儚さ、という言葉が、なんども出てくるところ。道の途中に置き忘れられた、夢の傷跡って、どんな傷跡、なんだろう。儚いって、どれくらい儚いんだろう。 どこまでも続く道。これから続く、未知の人生を暗示する、進路。 そこで手に取った(そして、手に取ったとたんにとけるように消えてしまった)なにか、とはなんだろう。 傷跡のように道に刻まれた絵が、現れては消えていく景を思ったり、逃げ水のように映像を映し出して、行ってみると跡形もない、というような景を想像してみました。 咲羽さんの、最初に浮かんだイメージは、どんな感じ、でしたか? (儚い夢)

2018-11-14

吹き出す汗の感覚と、〈人の形をした標的〉を狙わねばならない緊張感。 生き物のように暴れる小銃を〈力の限り押さえつけ〉という感覚がリアルです。 火を噴く竜を腕に抱えているような印象。 〈赤い〉という一語で切ったときに広がる、鮮血の幻視。 〈棒〉という一語から、畳みかけていく、無機的な作業の緊迫感。 有事であれば、人の形、人のような、標的ではなく、人を、実際に狙わなければならない。 それも、相手からも銃口を突き付けられながら。 無駄のない文体の進行もよかったです。 (小銃射撃)

2018-11-14

凡て すべて ではなく。 凡庸、平凡、凡人、 すべて塗り広げられた平坦さで 平滑な生を送るということ 几帳面に点を打つ、その内側に点を穿つ、 その一歩を踏み出せぬまま 沸き起こる疼きが身を燃やし尽くすのを 夢想しながら果たされない、その、平凡 かつえているのだよ、すべてに、だれもが もらい火ではなく 点火せよ マグネシウムが発火する (ほわいと・ふぁいあー *)

2018-11-14

蚊取り線香の威力を調べようと思って、蚊に煙を当ててみたら、手足を縮めるようにして落ちて死んだことを思い出しました。一瞬、ぞっとしました。 この二行の短詩で、消えてしまったのは、なにか・・・題名に「言わざりし言葉」と明示されてしまっているので、言葉、と「答え」が出てしまうのですが、短絡的に「答え」が出てしまう流れではなく、題名と本文との間に、あと一息、余白やずらしがあるとよかったのではないか、と感じました。 あるいは、例えば ルナールの 蝶/二つ折りの恋文が花の番地を探している 蛇/長すぎる のように、エスプリの効いた比喩の面白さを伝える、ということであれば、 言わざりし言葉/煙に当てられて、網戸の目も抜けだしていけぬ蚊 と止める、など。 言いかけて、飲み込んで・・・のどのあたりに挟まったまま、という不快な感じが、うまく出せるといいなと思いました。 (言わざりし言葉)

2018-11-14

皆さんありがとうございます 規定(目安?)に従い、大賞一作、優良三作、推薦四作を挙げていますが、その他にも優れた作品や惹かれた作品、心に残った作品、コメントしておきたい作品が多数あったので、イレギュラーですが(アーカイブ上は投稿作品欄になりますが)ひとこと選評、という形で、コメントを付させて頂きました。 (10月分 フル選評(まりも))

2018-11-10

るるりらさん ありがとうございます。首を絞める癖のある上司!!! ・・・精神的、にではなく、実際の行動として、ということであれば、これは大問題、今ならパワハラで訴えられるレベルですね。 おっしゃるように、わたしの「くびしめ」は、精神的な比喩、ですが、ある種、もう限界、というところまで追い込まれた時の、精神的な空白、というのか・・・その中を彷徨うときに、今、実は真に生きている、のかもしれない・・・と思った、のでした。タナトス的なエロスの感覚に近いのかもしれません。 心身が、ともにキリキリと締め上げられる状況に至った場合・・・恐らく、人は生きてはいられないでしょう。体の、少なくとも一部が、むしろ反応しない(心の言うことを聞かない、心と連動しない)からこそ、人は、この地上にとどまることができるのではないか。そんなことを、蟻が黙々とエサを運んでいく動きを眺めながら、感じたのだと思います。 しかし。ああ、いっそのこと、くるってしまいたい、すべてを投げ出してしまいたい、と、思うことは、ありますね・・・。 花緒さん ありがとうございます。ひらがな・・・にしようかとも思ったのですが。 漢字が目に飛び込んできて、そこから「音声」あるいは「イメージ」として、脳内で立ち上がるときの速度と、ひらがなが同様に立ち上がるときの速度の違い、そこにこだわりたいと思いました。 プディングの中のアーモンドプラリネ、のように、漢字を置いていきたい、という感覚を持っている、のですが(なかなか、この感覚をうまく説明できない)葡萄パンの葡萄、とか。 〈意味というより語感〉この〈語感〉は、五感で感じる感覚、かもしれません。 ※ビーレビュー杯不参加作品 書き忘れました。 (あなまどい)

2018-11-08

桐ケ谷さんの「罪人レプリカ」を読んで、思い出したので投稿しました。 以前、『ユリイカ』に投稿して「佳作」になったもの。彫刻家は舟越保武です。 佳作、になった理由は、おそらく、あまりにも理屈っぽい、ということでしょう。 今の私も、同様に判断すると思います。 でも、論理や理屈、が隠れてしまうと、伝えることが難しい「思い」や「考え」もある・・・ それを「詩」として表すべきか。エッセイや評論など、散文にすべきか。 いつも迷うところ、なのですが。 情感のみ、を伝えるのが「詩」なのか、といえば、これまた異なる。 「漢詩」のグループトークが立ち上がっていますが、「漢詩」は「述志」も重視する。 ・・・それにしても、最後の一行、「~ねばならない」が、なんとも青臭い、と赤面しつつ。 このストレートさ、初心忘るべからず、という言葉もあることですし、直さないまま、載せておきます。 ※ビーレビュー杯不参加作品、でした、書き忘れました。 (美しいと感じる時は(桐ケ谷忍さんの「罪人レプリカ」への返詩))

2018-11-08

つめたい瞳・・・あるいは、それは前を行く車のテールランプなのかもしれません。 夜景を見ると、胸を締め付けられる、と語る人がいました。 誰かが、確かにそこにいる、その切なさに胸がきゅうっとなる、と・・・ 前を行く車の中にも、同じような孤独を抱えて、黙って走っているのかもしれない。その、無言の連帯感というようなものと、私たちを包み込むように広がる暗い海、そして、自分の内面にも、同じように広がる海があることへの内省。 静かな作品ですが、自分と向き合う時間を大切にとらえた作品だと思いました。 (ドライブ)

2018-11-06

塩の都という、魅力的な題名と、塩漬けにされる臓物や肉体の生々しいイメージの、遭遇の面白さにひかれました。 ただ、全体に装飾過多の印象も受けます。言葉が踊ると、書いていて「気持ちがいい」わけですが、書き終えて、一息おいてから「他者の目」で見直してみると、本当にこのデフォルメや、強調、あえて文語調の口調で格調やムードを加味する・・・その、加減が適切か、ということが見えてくるのではないかと思いました。 もちろん、あえて、より過剰な装飾に振りきってしまう、という方向に舵を切る、というやり方もありますが・・・ (塩の都)

2018-11-06

永遠の生命を望みながら、実際には「幸福な瞬間」が続くことを願うのであって、ただ無為に生き続けることを願うのではない、ということ・・・そして、「幸福」は、失われるものだと自覚しているがゆえに、輝いて見える、かけがえのないものとして認知される、という絶対的な矛盾。 流れるような美しい文章で、時に極端な虚構に振ることで「きみ」への恋慕の切なさ、一時の陶酔への憧憬を歌う。 散文ですが、リアルな室内から心象の風景に瞬時に、しかも、自然に飛ぶなど、コンパクトに凝縮された佳品だと思いました。 (十億年)

2018-11-06

いつもいつも、誠実に自らを見つめて、時には厳しすぎるくらいに、自制して・・・その、倫理的ともいえる精神性が魅力であると同時に、もっと肩の力を抜いて、夏生さん自身に、優しくしてあげて、と伝えたくなりました。 夢を追い、光に照らされることを願い、果たされぬ寂しさをいかに納得して受け止めるか。 誰もが葛藤することを、泡の行く末に託し、未練がわだかまるのを、また、じっと見つめる、冷静さと、寂しさを乗り越えていく強さと・・・ 第一行め、最初から否定の強さで始まっていますが、上りつつある泡、途中で消えてしまった行き先、そこに視点を持っていくのも、ひとつの方法であるかもしれないと思いました。 (泡)

2018-11-05

不思議な懐かしさがありますね。谷内六郎の絵のような。 あえて旧仮名を用いたことが、味わいとなるか、目眩まし的な作用となるか・・・ 少しずつずらしてノリで貼り付けていくように、川や子供たちを重ねて行くのに、 いつまでも夕方にならない (真昼の幻影が続く) 幾千もの帽子~溶けていつた (実はすべてが非現実の幻だった) あまりにも鮮明な白昼夢のような映像に、しばし立ち止まりました。 時間を超越した、永遠の、夏。 (小さな村で見た)

2018-11-05

この短さの中で、氷と心臓が頻出するのは・・・重ねによる強調よりも、インパクトを薄めてしまう結果になるのでは?という懸念がありますね。 冒頭のイメージ、あえて回りくどい言い方をする、打ち砕く勢いの出し方は、とても良いと思います。 ブーツの踵が、いったい何を掘り出しているのか・・・最後までひっぱって、実は落としてしまい、氷漬けに(それも、永遠の)になってしまっていた心臓だった、という展開なども、一考してみてください。 (シャーベット)

2018-11-02

声の下の喉の叫び・・・さりげないけれど、新鮮な表現だと思いました。 青空が続く、という表現と合わせて、声は青空を広がっていくもの、そして、青空の下で声をあげる、叫ぶわたしたち、というイメージが伝わってくるような気がしました。 悲しみは、いつか凝縮して、透き通ったビー玉のように美しいものとなるのかもしれません。 (おはよう)

2018-10-30

蛍光灯に照らされた室内に、ひしめく人々・・・そこには「光」がない、ということか。 屋内の冷たい明るさを、外から観ている「わたしたち」には、「光」がない、ということか。 前者の読み方をすれば、屋内の人工灯に照らされた人々には、自然の豊かさがない、ということになり・・・後者の読み方をすれば、光=希望、屋内に入ることを拒まれた(あるいは自ら拒否した)者の視点となる・・・ 無駄を省いた詩行であるがゆえに、光の捉え方で姿の異なって見える作品だと思いました。興味深いです。 (駐車場から)

2018-10-30

ジグソーパズル、これは、やる、のか、する、のか、遊ぶ、のか・・パズル、だから解く、のでしょうね。 失ってしまった、私の分身・・・を探し続ける・・・シルヴァースタインでしたか、僕を探しに、という絵本を思い出したりもしました。 数十億年、など、思いきって「飛ばして」いるところと、地道なくらいに、丁寧に重ねて表現している(説明している)ところが、混在している印象。 わたしとあなた、頻繁な入れ換えが、効果に繋がらず、ややこしい、という印象を残してしまうような感もありました。 わたし、が、なぜ最低と言われてしまうのか?ほんとうの「わたし」を、置き去りにしてしまった、と、今の私を、責めているんだろうか。 自分を持て余しているような、そんな少し混乱した気持ちが、文体や主語の頻繁な入れ替わりに現れているように思いました。 ほんとに言いたいこと、を、もう少し絞っていくと、もっと面白くなるような気がします。 (最低)

2018-10-27

面白い、と思いつつ、実はまだ安部公房の当該作を、読んでいなくて・・・とコメントをためらいつつ、やっぱり面白いので、いったん上げます。 (円滑水槽)

2018-10-19

琥珀の孤独、これは「こ」の音に引っ張られて出てきた言葉なのか・・・このフレーズだけを見ると、琥珀の中に閉じ込められた昆虫を想像しました。 バイオリンの流れからいうと、弦にぬる松脂なのかなとも思いますが・・・ F字孔からこぼれる悲鳴・・・あの、キ~ッという、バイオリンの不協和音、でしょうか。演奏しているのは自分か他者か。いずれにせよ、描けない、表現できない、という苦悩と、大丈夫?と畳み掛けていく声(これも、自分が発したものか、他者が発したものか)が、切り替えのリズムを作り出していると思いました。 白紙のスケッチブックの連は、心象風景でもあるのか。印象的な連ですが、前後の連結が少し離れすぎていて、無理がかかっているようにも思いました。 湖とトウシューズ。バレエ音楽(白鳥の湖など)をイメージしました。赤いクリームソーダ、にもビックリ。 なぜ、わざわざ「しののめ」なんて洒落た言葉を使ったのか。なぜ、殺してって、という重く切迫する言葉が、こんなにも軽く、遊ぶような調子で置かれるのか・・・ムードに流されているのでは?という印象も残る終り方に、疑問が残りました。 耳を塞ぎ でも笑った、という、きゅうっと縮こまるような感覚と、からりと解放する感覚を並置していく軽やかさに魅力を感じました。 (Mr.Gibson)

2018-10-19

共感なんていらない、という叫びに、共感を求めているような作品だというのが、第1印象。 私の絵を、「本当に」見てほしい、という叫びと、私を「本当に」見てほしい、という切実さが、伝わらないもどかしさ、おざなりの誉め言葉でその場をしのいでいく、やり過ごしていくような教師への苛立ちが、ユーモラスな音感に乗せて歌われていくところが面白かったです。 よくわからなかったのは、判を押したような人間、という批判(不満?)が、誰から誰に向けられたものなのか、というところ。 先生たち(お前ら)が、判で押したような、決まりきった誉め言葉しか口にしないこと、への苛立ち、という読み方が、いちばんしっくり来るのかなと思うのですが・・・ここでの置き方を見ると、先生から生徒への言葉のようにも見えますね。 分かったような口を聞くなよ、という不満が出てくるのはなぜだろう。 提出作品に、「良い」か「悪い」か、いずれにせよ、他の作品と比べて突出するものがなく、可もなく不可もなく、それなりに収まってしまう作品になっている、からではないのか・・・ そこを突き抜けて、私を見てよ、という叫びにまで辿り着けたら、凄い噴出力を持った作品になるのではないか? そんなことも考えました。 (恐怖! 判子人間)

2018-10-19

なかなか強烈な作品ですね。 情景描写がリアルな分、これは現代なのか?ということが気になりました。 あまり設定やシチュエーションを書き込んでいくと小説になってしまいますが、現代であれば難民キャンプや疫病や飢饉に教われている、「後進国」のイメージ。 江戸時代の天然痘やコレラが大発生した景も思い浮かべました。 (蠅)

2018-10-18

金木犀の香りと、ネット上で発散していたリリシズムの「香り」・・・匂、というべきかもしれませんが、その両者が濃厚に結び付いていて、強い印象を残す作品でした。 てがみが来る、というのも、これも待つ気持ちの比喩ということなのか・・・実際には面識がなく、一方的に憧れていたネット詩人への熱烈な讃歌と、喪失を嘆くエレジーが、ところどころに巧みな比喩を組み込みながら歌われています。 新宿駅の雑踏に飲み込まれて同化していくような感覚も、そうしなければ生きていられないような切実な体感として伝わってきました。 最後の二行、余韻や気配で示した方が良かったような気がしますが、どうでしょう。 (底)

2018-10-18

2歳くらいの、ようやく自意識を持ち始めた頃から、まるでアルバムをめくるように、一人の女性の人生が描き出されていきます。その芯を貫いているのが、自由とは、なにか。 それを口語自由詩で綴っていく。 ~からの自由、~への自由、自らを由とする、という日本語の意味通りの(自立して自らの意思で、何物にもとらわれず判断する)自由・・・ 日本の「自由」には、自分勝手、というようなマイナスのイメージもありますが、自由を求める自由に直面させられた時の思考こそが、自由を問い始めるスタート地点なのかもしれません。 表現としては、小気味良く時間が進行していく主語や表記の変化に魅力を感じました。変化しつつ繰り返すバリエーションの面白さもありますね。 もっとも、役員からの解放、という自由から、一気に残りの人生にまで飛んでしまうのは、全体が広く浅くなってしまうのではないかと思いました。 エピソードが比較的身近な事柄であるので、平均的な女性の感覚にマッチしていくとは思いますが、それゆえに「私」の問いが薄まってしまうのではあるまいか。 ~からの/~への自由、から離れた、個として向き合わねばならない自由を、掘り下げていくと良いかもしれません。 (歩み)

2018-10-13

彼ら、それ、など、抽象的な言葉が多く、白地の多い、薄塗りの絵画を見ているような感覚が残りました。 自分だけ取り残されて、彼らだけが先に行ってしまった、という感慨でしょうか。 彼らが、知っている場所におり、自分は知らない場所にいる、というところからは、彼らが旅だったのではなく、自分だけ弾き飛ばされる、自分だけ切り離されて遠ざかっている、そんな動きも感じられました。 なぜ、こうべを垂れるのか。 彼らが漂流していた、と思っていたが、実は自分がさ迷っていた・・・ということなのか。 ここに、という言葉が不用意に重ねられていて、印象が薄まってしまう感もあるので、同じ言葉を重ねるときは、作品内における効果を十分に考えるという習慣をつけると良いかもしれません (漂流)

2018-10-13

切り裂かれ 抉り出されて 流れ尽くして後はもう 澄んだ透明な液体しか滲み出さなくなった 僕の胸の空洞 鳩が住めるくらいには 空いているよ 誰も 来ないけど からっぽの体で 夏を吸い付くした 秋の落ち葉を踏んでいく 行く宛なんて ない 君がいた場所を たどる 地雷を踏むように 垂直に君が 君の影が 僕を突き上げる 粉々に吹き飛ばされ そのまま地に降るものとなる いいんだ、それで 僕にはもう 後がないから (秋の赤)

2018-10-13

冒頭の神話的、童話的な導入部と、中間の切実な様相との落差について考えています。 真に迫ってくる強迫感のようなものを緩和するために、語り手が自らを・・・あえて離れた場所において、そこから語り始める、という手段をとっているから、なのか。 読者をスムーズに主題へと導くために、神話的導入を用意したのか・・・ 絶対に振り返ってはいけないと・・・から詩を立ち上げる方が、読者へのインパクトが数段増すように感じたのですが、どうでしょう。 そこから次第に、現代の神話と古来からの物語を重ねていく、というような構成にしていくのも、ひとつの方法かもしれないと思いました。 (冥府へ)

2018-10-13

ペルソナ(仮面)という言い方をしますが・・・社会的役割、家族というコミュニティーにおける自身の役割、あるいは友人同士の「コミュニティー」における位置取り・・・そうしたものが定まってくる(固まってくる)と安定、安心が得られるけれども、同時に窮屈さ、うっとうしさ、自分でないものに押し込められているような苦痛、を感じるのが常、であるようで・・・そこから、液体のように流出してみたい、そんな欲望に駆られます。 この作品での語り手は、感覚主体になる、のではなく、むしろ、意思するもの、思考するものとしての主体となり、全身を液体となって巡るようです。 その状態を、幼虫から蛹(蛹の皮の中で、どろどろにとけて変態する蝶のようなイメージ)に託して、「大人」になって〈黒くて細長い手足を伸ばそうとする〉未来を予見している、ということでしょうか。 恥の器官とは、恥ずかしい、と感じ取る心が、こうした変態を駆動させている、ということなのかと思います。感覚的に書いているようでいて、非常に理知的というのか、ロジックに沿って記された作品、という印象を受けました。 変態(さらに一段階上の、自由な思考を生きることのできる存在)への脱皮を促すものは、外界をささいなこだわりを捨てて、どん欲に吸収すること・・・他者と同じ、模様が嫌だ、というような、外形的なことではなく(そんな些末なこと、にこだわるのではなく)もっと根源的なところをとらえたい。 詩を書いていくことになぞらえれば、詩形や文体、よく用いる用語法、といった表層的なことがらではなく、もっと宇宙のダイナミズムのような、根源的なエネルギーを取り込みたい、そんな意欲を描いているように思われました。若干、理が先走っているように思われたのが残念。 (青々)

2018-10-12

蔀県さん、ありがとうございます、一さんと_さん・・・そそっかしくて、すみません。 (ambient)

2018-10-11

こぞ今年貫く棒の如きもの・・・高浜虚子の名句ですが、時間や、その間に去来する様々な思いといった、自らの中を流れていく感覚、その感覚と外を流れていく感覚との齟齬、が、表現の出発点にある、として・・・それを、体感的、具体的な感覚のうちに、なんとか当てはまる(ギリギリ、近い)表現を探しだす、探求する。そこに、言葉を探し続ける面白さがある、と思っていて・・・この詩は、その体感的な探求を、冒頭から行っている、というところが魅力的だと思いました。 (夜長月)

2018-10-09

雨は 道を支配して そこを川のようにして 足を取りにくる この感覚、そして、雨、闇、重い(物理的にも、精神的にも)荷物、それらを「友」としなくては歩むことすらできない、「行軍」の荷重が、リアリティーを持って伝わってきました。短く切り詰めた、寡黙な言葉の並びもよかったと思います。しかし、もう少し圧縮、凝縮、できたのではないか・・・ゆるみを、もっと絞り込みたい作品でした。 (友達)

2018-10-09

君、を投げ捨てた、ゆえに・・・自らの左手にナイフを突き立て、その痛みの中に、捨てられた君、が現れる、のを感じる、というストーリーを思い描きました。 君、は、水子。生まれる前に親の自己都合で殺されてしまった命。その命の痛みを、自らの左手を突き刺して眺めることしかできない、語り手、という設定。 久々の卵子の排出=久々の月経、というところから、なんとなく。 (再生)

2018-10-09

パズーとシータ、ラピュタの主人公二人ですね。ラピュタのイメージと、世界帝国(征服主義)のイメージが結びつくことは、なんとなくわかる、のですが・・・。 ヒトラーもスターリンも、イデオロギー的には異なるはずなのに、結局、恐怖政治、絶対主義へと傾いていく、のは、なぜか・・・欲望を持った人間が、独裁を行おうとするから、でしょうか。 (タモリとの縁)

2018-10-09

新生 溢れ出す涙を、そのままにあふれさせることができる その幸せが 空からゆっくり、降りてくる 輝かしい朝 あなたがいて そこに居てくれて はじめて私は私であることを ゆるされたのだ その事を何よりも大切なあなたが誰よりも深く 静けさのなかに放って それをいま ふたりで並んで見ているということ これが えいえん なのだ 現れては消え とらえようとしては逃れ いつも隠れていて 時折 からかうように目の前に立つ 一瞬の至福 青いベールに包まれた大地が 僕らを迎える もうすぐ (眩しい光)

2018-10-07

❇皆さんへ 皆で作り上げていく場 として動き出したビーレビューだと思っていたし、今も思っています。皆さんの意見を総合していくと、ひとつ上のステージに至る道が見えてくるように思いました。 ❇渡辺さんへ  最初の出発点が見えにくくなってきているように思います。 投票数が多くないのに、大賞候補が多い、という状況で、僅差で接戦、という投票に意味があるのだろうか?という疑問や問題から発したのではなかったか・・・ その問題解決策として、細則を含めた新ルールが出てきたと思うのですが、目の前の問題解決に意識が向かいすぎてしまった結果の細則であるのかもしれません。 ❇皆さんへ 澤さんがこれまでの流れをまとめる形で再提出してくださっているので、以下に引用します。 ~~~~~~~~~~~~~ ●大賞投票の候補作数が多すぎると問題が起こる。 上記はstereoさんも渡辺さんも指摘なさっていることです。このことには、「候補作が30作もあったら、投票者も全作をまじめになど読めまい」といった推測から、わたしも同意します。運営が定めた適正な数に、運営が定めた適正な基準で、大賞投票の候補数を制限することに、問題はないと思います。 そこで問題になるのが、「諸事情で大賞投票進出がかなわなかった大賞候補」の扱いですが、 ●どんな理由であれ、フル・キュレーターに推挙された大賞候補を「優良に降格」させることには問題がある。 この一点に関しては、stereoさんも渡辺さんも同意なさっており、stereoさんは❶「反対者が多ければ撤廃したい」、渡辺さんは❷「準大賞に至らなかった大賞候補のために、優良以上準大賞以下の新しい等級を設置したい」とお考えなのですね。 ~~~~~~~~~~~~~引用終わり 全作品を読むという、時間と労力と熱意とを傾けた者に、自分の推薦する作品を推す権利がある→大賞候補作品が、沢山生まれるということは、それだけ熱意をもって作品を読み込んだ推薦者が沢山いる、ということ、でもある。 その推薦者の熱意を汲むという意味でも、一定の作品数を越えた場合、優良へ降格するという案は撤回して、元のルールに戻すのが良いと思いました。(思い直しました。) そのための判断基準を、コメント数に求める、という更なる細則も、自動的に撤回、となりますね。 やってみてから考えたら?というスタンスと先に述べましたが(運営チャットの方でも、そう考えて賛意を示していました)、新ルールを提示、ということを「やってみた」結果の、皆さんから理にかなった反対意見を頂いたわけで、私自身も納得しました。改めて考えるきっかけにもなりました。 ダントツでこれが一番、という作品が存在しないときは、すべてを準大賞にしたい。 この点、澤さんの意見に、私も賛成です。 ❇渡辺さんへ 渡辺さんが、優良以上、準大賞以下の新しい等級(大賞推薦作品、など)を設けるのはどうか、と述べたのは、等級に段階を設けて、より上位を目指したい、というモチベーションを高める、という枠組みを作りたいから、ですか? それとも、準大賞、という言葉の持つ印象が(ボルカさんが述べておられるように)大賞に準じるもの、であるからですか? ボルカさんは、準という言葉の持つ印象ゆえに、準大賞は、大賞と拮抗した数作にこそふさわしい、それ以外の準大賞該当作品は、大賞ノミネート作品、というような呼称がよいのでは、と提案されていますね。 花緒さんが指摘された、この場をどうしていきたいのか、ということが見えない、というプリンシプル問題にも関わってきますが、 賞を段階的に設定し、上位入賞を競うことで作品の向上をめざす場にしていきたいのか。 皆がキュレーションに参加し、参加者の推す多様性を確保しつつ、ある程度の総意に基づいた「おすすめ作品」を推奨していく場にしていきたいのか。 どちらなのでしょう。 作品の向上、という点に関して、 適切な批判によって切磋琢磨していく、あるいは、ふるい落としていく(他者からの働きかけによって、効率的に作品を磨く) 読み手が良作と思うもの、長所と思う点を推奨する、それを作者が読むことによって自ら学ぶのを待つ(自発的に作品を見直す目を養う) という、二つの方向がありますね。もちろん、どちらかに峻別出来るわけではなく、どんな場合でも、双方の要素があり、結局、どちらの割合が強いか、によって、方向性が決まるのだと思いますが・・・ 渡辺さんは、ビーレビューがどちらの方向に向かうことを望んでおられますか? 以上、皆さんのご意見を参照した上での、私の意見と、渡辺さんへの質問です。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-07

実に不思議な展開の作品。 急激なブレーキ音・・・ただ事ではない、事故か?・・・という方向には思考は向かわず、自分の脳内に突き刺さったブレーキの音、さらには、それをブレーキと呼ぶ行為、文字として呼び出す行為、その文字を物理的に切り裂くことによって、脳内に刺さり続けるブレーキ音、その音が喚起するイメージを、どうにか脳内から消し去ろうとする意識の働きを凝視する。 ブレーキ音にトラウマを持つ(過去に大きな事故に遭った。目の前で事故を目撃した)俺、という主人公を設定しているのか。 あるいは、俺が突き進んでいる事態に、ブレーキをかけねばならない(道ならぬ恋とか、叶うはずのない夢の追求とか)と意識していて、それゆえにブレーキ音が脳内から抜けないのか・・・ これほど心を掻き乱すものが、実際には繊維1本分程度の、しかし、絶対強固、な強度を持つものなのか・・・という流れはスッと入ってきましたが、オリーブが核だという、ある種の秘薬は、うまく受け止められませんでした。 ここが気になっています。 (一人合点)

2018-10-06

るるりらさんへ すてきなご意見、ありがとうございました。 私は「運営」とは少し異なるスタンス・・・お手伝いなどはするけれども、どちらかというと応援団、というスタンスで関わっている(関わっていく)つもり、でおります。だから、あまりごちゃごちゃ書き込むのも、とためらいがある、のですが。 大賞候補、が、すべて「大賞」となる、これが、理想、なのかもしれません。でも、今現在、他サイトである「面白いぞ!現代詩」のご協力(ご厚意)により、ビーレビューの大賞作品を、転載させていただいている、のですね・・・。 大賞受賞者の「権利」や「特典」のように思っている方がいるかもしれない、と、時々思うことがあって・・・ もちろん、双方のサイトが、お互いに読み手が増えますように、ということを期待しての、転載のご快諾だと思います。花緒さんが尽力してくださったので、こうしたご厚意を受けることができている、ということも忘れてはいけない、でしょうし・・・ 大賞受賞作が複数になった場合、その複数をそのまま「載せてください」とお願いするわけにはいかないと思うのですね。先方に選んでいただく、という、新たな方法をご相談させていただく、ことは可能かもしれませんが。 大賞が、投票により一点に決まった時は、転載をご依頼する。 同率で複数作品が大賞、となった場合は、すべてを準大賞、として(該当作なし、として)ビーレビュー内のアーカイブで準大賞欄に掲示する。 ・・・というような方法もある、のかな、などと、思っています。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

澤さん、渡辺さん、なかたつさん  ルールを細かく設ければ設けるほど、なんだかよくわからない、ということになっていきはしませんかね・・・。新運営の方々が、いろいろな課題に一つ一つ、対処していくこと、を、どうなるかな、うまくいくといいな、求めているもの、目指しているもの、が、どんどん明確になっていけばいいな、という思いもあって、まずは思う通りにやってみたら?そして、それから考えよう、というのが、すこし「いいかげん」に見えるかもしれないけれど、私のスタンスです。この「掲示板上のスレッド」が生まれたのも、必然の流れなのかな、と思います。 かるべさん  フォーラムを開けるようにしてくださっている、とのこと、ありがとうございます。 確かに、今、ここで行われている「議論」は、掲示板上のほうが目につきやすい・・・かもしれないけれど、フォーラムは、こうしたリアルタイムの議論をする場所、ではなくて、どんどん動いていく掲示板より、ひと月に一回でも、じっくり読める場所があるといいな、と思う人のための場所なのかな、という気持ちがあります。「弓庭夜話」を、掲示板に貼っていくとドンドンスレッドが長くなってしまうし、その都度、上に上がってしまう、ので、こういう「目指して読みに行くもの」は、フォーラムのほうが落ち着いて読めるかな、などと思っています。 皆さん 「賞」の名前に関して言うと、大賞、準大賞、優良、入選(推薦だとヤヤコシイので、というのに同意)なんてどうだろう、と思いました。ものすごく平凡で、ありきたり、ですが。 今後、大賞、準大賞専用の展示場所をビーレビュー独自に設けるとか、冊子にして店頭に並ぶようにする、とか、そういう話が出たら楽しいな、とは、思っています。 ぜんぜん、まとまっていませんが・・・思うところを、なんとなく、つらつらと、書いてみました。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

幾重にも行方かさね 沸き起こる思いかさね 行き過ぎるものを 現れては消え去るものを 追い求め 空をつかみ そして うなだれる 木々の葉擦れの その落ちかかる影の 重なりの向こうに こうこうと 月 夜は薄められはぎとられ はずかしめられ また重なり 光を吸った薄い影に 闇は覆われ わたし の すすみゆくまなざしの 遮断 ただ、立っている 押し寄せる闇の圧に あらがうほど 肌の 輪郭の わたし の 境界が 溶けて 膨満する どこまでも ひとり だ なんとなく、返詩のような形で、感想を記したくなりました。 水晶のイメージが、凍るイメージと辛うじて結びつくようにも思うのですが、 どちらかというと漿液のような、生理的、体感的、透明な液体のイメージと、 それが凍るイメージ、そして何よりも音の相似が「取り合わせ」を要求した単語であるようにも思います。夜、鉱物としての水晶、その後の透明感ある生理的な液の巡りのイメージが、うまく結びつくのか、どうか。伝達性、ということを意識するのであれば、このあたりが課題であるようにも思いました。 木々、そして葉が吸い上げる溶液のイメージと、葉脈や道管、透明な葉、形をとる前の・・・イマージュとしての植物のイメージ。 リルケが「おお、そこに一本の木がそそり立つ」と歌い始める賛歌を遠くに聞きつつ、 ここにはとても静かな、生理的で湿潤な始まりの世界がうごめいているように思いました。 (いくえ)

2018-10-03

かげふみ、と読めますね。影踏みを思い出しました。 吐露・・・が、とろとろと流れ出す。それを、聞くのが辛い、と言いながら、実は「おいしい」と思っている。なぜなら、相手が困ったり、苦しんだりしているから・・・ということ、かな・・・。 卵かけご飯、のねちょねちょのおいしさ、にたとえた感覚的なところは面白いと思ったけれど。 まじめに相談に乗ってやっている、聞いてやっているふり、をする自分と「お前」との関係も、実は後ろの席のやつらがやっている関係と一緒、お前、それ気付いているか?という、屈折・・・が、どこに向かっている、のか・・・自分へなのか、お前、になのか。そんなことを思いました。 (陰文)

2018-10-03

〈君を最初に抱きしめたとき、何かを背負った気がした。〉 その「何か」を、つきつめていく、探っていく、言葉にするとしたら、どのような表現が、一番しっくり来るんだろう、と、問い続ける・・・そこから、あなた自身の詩、あなたにしか書けない詩、に、なっていくように思います。 つい、感傷に浸ってしまいそうになる、その瀬戸際で、どう、踏みとどまるか。そこを攻めていってほしいと思いました。 (残響)

2018-10-03

弓庭夜話第二回 9月19日(水)第三部 3 5or6(ゴロちゃん。)さんに聞く《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》より 火垂る(ほたる) by.夕暮れぴあの   [fiorina] 火垂る(ほたる) by.夕暮れぴあの. あなたから よぉくみえるように 花火うちあげて あなたから よぉくみえるように 花火うちあげて   あたしたち きらきら 垂れる してしまう 景色から零れ続け 抜け落ちたあたしは あたしたちの音をそっとかくして (心臓のまたたき。)   なんでだろうね   なにもかもは うまくいかないんだ      ここは    地上から300キロ    を離れた    周廻軌道上    天の河を準えて    あかいほし    あおいほし      「そうね、    あの島にゆくより    ずっと    近いんですもの。      「ほら、    すごい爆発だ    きらきら    だ。    裂け目から    あたしたち    垂れる    してしまう。   ((あなたから  よぉくみえるように  あたし  花火うちあげて ここいら一帯は ばらまかれた ひかり まばゆい ひかり 消える。消える。 際限もなくその裂け目から ふれられる程そばに ふれられぬ程そばに すべてがね いとおしくて あたしは呼吸をも景色へ俯せたよ そのうしろで死んでゆく ちっぽけなグライドをみていた      あたしは吸い上げられてゆく   爆発する 音域を無にしたら 目の玉がやけどしてしまうよ      みえてしまうよ。   ・・・・・えぇ。そんなことはいいんです。 ・・・・・えぇ。そんなことはないんです。 ・・・・・えぇ。そんなことは。   数限りなく あおざめてゆくような 彼方からひろがるは音域 (同時に塞がれる景色。)   こなごなになる足許 裸足をくすぐった綿毛が 天の河を準えて いま いま   ((あたしは いま うちあげられて      7千の島々には    7千の花々が    咲いててね    だけどね    その名前は    忘れちゃった      あたしは    うちあげられて      点滅しているのは    ほしたち    きらきらだ    きらきらだ   光と銃声の溝で ふきだまる電流の ゆうぐれたグライド あなたあらざる そのからだにおりたい    さがしていたの    ずっと    おりるべき    からだ     おりるべき    にくたい      ここは    地上から300キロ    を離れた    周廻軌道上   だけどね すぐ 垂れる してしまうんだ   あかいほし((きらきら       だ。 あおいほし((きらきら       だ。   中空で裂けた声をきいた? だけど 決して呼び間違えたりはしないんだ    大きな音がするよ    だけどね     決して    呼び間違えては    いけないんだ。   あ。 ほら みて あたし駆けるたびに まっしろな閃光が奔る もえたつ わたげ わたげ うちあがる      あたし    花火    だ。   わたげ まっしろにもつれたまま      あたし    花火    だ。      あたし    誰かの    しあわせだけを    祈ったりして   わたげ ひばな  発芽したばかりの やわらかな 吐息を   生まれ落ちては なんども なんども あたしは景色になった あたしは中空で声をあげた ただ そのようにあるだけの ことばで溢れた地上にも 光はやってきて   かなしくて もろい うつくしい ひかり   駆け抜けた すぐうしろから もえたつのは    わたげ    ひばな    ひかり ひかり ひかり あたしたち きらきら に なってしまう      あらゆる    周廻軌道上から    あたしたち    垂れる    してしまう。   はしゃぎまわっている 雪みたいに発光している綿毛 ここはとても明るいよ 明るくて灼けようとしている てのひらとてのひらを つぼみのようにあわせえたら ただしづかに供えました   あたし 花火うちあげて わたげ あしもとから もっとまっすぐに とべ   いとおしい いとおしい てのひらとてのひらをあわせて ここは どこの周廻軌道上ですか?    ちがうよ    ひかりのうみだよ      ひかりのうみだよ   もえたちる ほたる あたしのあしもとから つぎつぎに うちあがれよ   ここいらいったいは ばらまかれた ひかり まばゆい ひかり   こどもたち みんな てんしみたいにわらって わらって [杜 琴乃] 「垂れる/してしまう。」が頭から離れなくて。 [帆場蔵人] 杜さん、ぼくもそこに引っかかってます。後、グライドとか。 [杜 琴乃] とても、若い女子っぽいなぁと思いました。 [fiorina] 花火がどこまでも上がり続けないである高さに到達するとはじけて、落ちてしまう。 おちてしまわなければ、どこまで上がり続けるのか、と言う畏怖のような高みが花火に託されて描かれている。 [帆場蔵人] だから周回軌道上、あかいほし、あおいほし? [杜 琴乃] なんとなく、言葉が縺れるような口調の、幼さとか、あどけなさが可愛い。 [fiorina] 人のみでありながら、光りをこんなにも内包していることにきづく。垂れる、してしまう、ことで人に戻っていく過程をたどるかのような… おさなさをかんじさせつつ、凄く感覚の豊かな鋭い詩だ、と。 [杜 琴乃] 本当に! [るるりら] 周回軌道をまわってるあいだは、永遠だけど、たれると 夢から醒めそうです。眠くなりました。なんだか、いい夢みそう。おやすみなさいです。 (るるりらさん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [fiorina] 花火がぱーっとひらいた後に、さ~と垂れる絵が見えます。 [杜 琴乃] 星には届かない、花火は空中で爆発して、垂れる、滑空する火花、きらきら、 儚さ。 [帆場蔵人] 永遠と現実の狭間で意識が揺れてるのかな。 fiorina 永遠にはけっして達しないのに、永遠幻想が常にある。 [杜 琴乃] 幼い感じがしたけど、最後はこどもたち、へと思いを馳せる。こちらもなんとなく、大人になってしまった、かつての少女、のようなものも感じますね。 [帆場蔵人] 花火が咲いて散る、一瞬に何度も生と死が起きて人生を幾度も体験するような気分です。 [fiorina]  垂れる してしまう 景色から零れ続け 抜け落ちたあたしは あたしたちの音をそっとかくして [杜 琴乃] 花火は周廻軌道上まで到達したようにも思えて、でも、垂れてしまう。落ちてしまう。星にはなれない。それが、あたし。花火。かな。 周「廻」か。 [fiorina]  ゆうぐれたグライド あなたあらざる そのからだにおりたい    さがしていたの    ずっと    おりるべき    からだ     おりるべき    にくたい (鈴木海飛さん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [fiorina]  中空で裂けた声をきいた? だけど 決して呼び間違えたりはしないんだ [帆場蔵人] グライド、滑空とか滑る、 ゆうぐれたグライド? [杜 琴乃] 垂れた火花、ばらまかれたひかり、がほたるになって、あたしのあしもとから、うちあがれよ。 それを見る、子供たちは無邪気に「キレイだ」と笑う。天使みたいに。なかなか残酷な最後にも読めますね。 [fiorina]  「そうね、    あの島にゆくより    ずっと    近いんですもの。 [杜 琴乃] 生と死がめぐる様、ですかね。 [fiorina] ですね、琴乃さん。 [杜 琴乃] あの島、架空の楽園...? [fiorina] 性って、死でしか描けないみたいな。 島、の使い方が、 [帆場蔵人] だから 廻。 ひかりのうみ、 魂が還る場所だろうか。 届かない永遠、周廻軌道上を何度も目指して辿り着く。 [杜 琴乃] 少女から、女になる、ようなものも感じます。処女の喪失、少女性の喪失への恐れ、嘆きにも。 [帆場蔵人] 最後の方の言葉遣いの変化。 [杜 琴乃] 夢見がちな少女は、そういうところで、自分がいちど死んだように感じる...というのは私の感覚ですが。 [fiorina] 普遍的な光景とも読めます。 [帆場蔵人] ぼくは普遍的光景を浮かべたのですが少女、という部分で杜さんの解釈がしっくり来ますね。グライド、という単語からリリィ・シュシュのすべてとかも思い浮かべてしまった。 [fiorina] 時間の流れよりも瞬間を感じます。 [杜 琴乃] 描写が美しく、鮮やかに映像が浮かびますね。「すべてがね、いとおしくて」ですごく母性を感じました。超越しちゃってる感じ。 うーん!そろそろお時間です! [fiorina] はーい [帆場蔵人] 動画で流したい詩だ。 早いなぁ。 [杜 琴乃] 早い〜!今夜も楽しかったです! [fiorina] すみません、ちょっと 10月の夜話を、作品選びなどやっていただける方いませんか? 掲示板でも募集しますので、またおかんがえくださ~い では、おやすみなさい~ [杜 琴乃] はい!おやすみなさい! [fiorina] 琴乃さん、みなさん、お疲れ様でした。 [帆場蔵人] ありがとうございました! ではおやすみなさい。楽しかったです!お疲れさまでした。 [杜 琴乃] 気軽に、色んなひとが見に来てくれると嬉しいですね!楽しかったです! (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-10-01

アソート、色々な美味しさの詰め合わせをどうぞ、ということでしょうか。 最初の「青」、幻想的なムードの中で〈着なれた制服を脱いで/水面に放り込むと/優しさが 世界に満ちて〉という一節が光っていると思いました。住処へ帰る=本来の場所に戻る。魂が夜の夢想の狭間で、自由な素の姿に戻るのを、静かに見守っている書き手の意識を感じました。 ▼ も面白いですね。なんだかわからんもの、でも、天から恵与される、という方向性を含んでいるような視覚効果があります。 人々が▲の方向性を意識したとき、世界は(心は)貧しくなるのかもしれない。だからこそ、一緒に戯れる。栞にして記憶のひっかかりにしておく。そんな向き合いかたがよいのかもしれませんね。 〈どこまでも どこまでも 美しい裏切りが 地下水になって流れている のを〉のフレーズや、雨の冒頭の設定の面白さも印象に強く残りました。 (アソート Ⅰ)

2018-10-01

失礼しました、第二回ではなく、第三回でした❗ (ambient)

2018-09-28

ー さん、こんにちは。 フィオリーナさん主催の「弓庭夜話」の第二回https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2246 で、ー さんの作品について、皆でワイワイ語り合ったりしています。よかったら覗いて見てくださいね。 (ambient)

2018-09-28

彼女、との、あまぁい日々の描写?に見せかけて、実はすべてが夢、という作りなのかな・・・1885という題名が、もっと意味を持って響いてくるような一節、もしくは小道具なり舞台装置があっても良いと思いました。 (1885年の夢)

2018-09-28

弓庭夜話第二回 9月19日(水)第二部 2 仲程「しらやまさんのこと 夏」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2109 …   [fiorina] しらやまさんのこと 夏 仲程 作成日時 2018-08-07コメント日時 2018-09-17   なごしおおはらえ   かんぬしまちの おさななじみだったおねえちゃん がみこさんなったとき ぼくのこころは ふ ってはずれて べっくうさんやのほうに ぷかり ぷかり とんでった     きれいだったんやろなあ   と 毎年三度後悔している   茶店   参道下の古ぼけた店で 岩魚の塩焼きを齧る 雨が降ってるので ゆっくり と齧る   しらやまさんに降った雨は 百年後の加賀平野を潤す   その雨が 降っているので ゆっくりとお茶を すする   次の岩魚の季節に訪ねると その店は駐車場になっていた   虫送り   竹ざおの先に灯火をぶらさげて 小さな子から先にあぜ道を歩いて行く ひと粒の米に 千もの神が宿っていた頃から続く火で 稲の葉を食べる虫を追い払う   のだと言うが 揺れる火はまるで 人魂のよう  とは 誰もが気付いていながら 誰も口には出さずに   そんなふうにして 僕も大人になったようで   虫送りの火は遠く どこまでも遠く なってゆきながら いつかは 僕の魂も その竹ざおの先に ぶらさがっているのかもしれない   喧嘩太鼓の音に いくつもの魂がひとつになって 一際高い火柱になって 昇ってゆく   ひとつぐらいは 誰かの竹ざおに ぶらさがったままでもいいのに   虫送りの火は遠く どこまでも遠く [杜 琴乃] 仲程さんの3編構成はいつも素敵です。繋がりが。 [帆場蔵人] この題、最初はしらやまさんという人の話かと盛大に勘違いしました。 [杜 琴乃] 蔵人さん、タイトルだけだと私もです。最初は巫女さんになったお姉ちゃんがしらやまさん、かと思った。 [るるりら] わたしもです。しろやまさんかと。 [まりも] 近所に白山神社があります。白山信仰ですね。全国にあるようです。 [帆場蔵人] 石川県や飛騨など有名ですね。 [まりも] 人名のように呼びかけられることによって生まれる感情はなんでしょう。 [杜 琴乃] 初恋、かと思いました。 [fiorina] 魂が宿る感、親しさ感、まりもさん。 [帆場蔵人] 地元の信仰には、なんとかさんという呼び方結構ありますね。 [まりも] 急に、神様が近くなりますよね。 [fiorina] 祭りの名にもさん付けしますね。 [鈴木海飛] 親しみ? [まりも] 稲荷神社は怖いけれど、おいなりさんは、おばあちゃんのウチ、的な親しさ。子供の頃から慣れ親しんだ、そんな呼び方が思い出させるノスタルジーのような。 [帆場蔵人] ひらがな表記は幼さ、なんだろうけど頭で考えていない、感じるままの自由さを感じてしまいます。だから、ふっ、と飛べるのかなあ、と。 [るるりら] 虫送りとか 全然しらなかったです。火が綺麗みたいで素朴な信仰って感じなんだろうなー。 [杜 琴乃] 巫女さんになるお姉ちゃん、なんて少年からしたら憧れの存在ではないでしょうか。 そこから、茶店のしらやまさん に降った雨は百年後の加賀平野を潤す。でも帰ってきたら駐車場になっていて、あの場所はもうない。ノスタルジック! [fiorina] 個人的に、こんな風に生きていけたら言うことないわ、と思う 他にたくさんほしがらないでも、ぜんぶあるみたいな。 [まりも] お姉ちゃんを神様に取られちゃった、という思いはあるかな・・・それが後悔? [杜 琴乃] 虫による稲の害は、不幸な死を遂げてしまった人の怨霊と考える御霊信仰に関係する、とWikiに。不幸な死=叶わなかった初恋、とか。 [なかたつ] 「諸行無常への嘆き」が大きな主題となっていると思われます。詳細を述べると長くなりますが…、その想いがよく伝わってくるのが「ひとつぐらいは/誰かの竹ざおに/ぶらさがったままでもいいのに」です。 [帆場蔵人] 時間を移動して旅するような胸に響くノスタルジー。 神さまに取られたと言うとしらやまさんで亡くなったイメージがわきます。神子で巫女ともいうし。 [まりも] 心が故郷に飛ぶ、過去に飛ぶのもあるかも。 [杜 琴乃] なかたつさんのあげたところ好きです。 ぶら下がったままでもいいのに/虫送りの火は遠く... すべて飛んでいってしまう。 茶店が駐車場に変わってしまったように。 [なかたつ] 1.おさななじみ→みこ、になる 2.茶店→駐車場、になる 3.竹ざおの先の灯火→一際高い火柱、になる その中で、語り手の欲望が述べられているのが、さきほどの部分で、たけざおの先の灯火(人魂)のままでありたかったという願い。さらに言えば、その竹ざおを持っているのが小さな子であるという。自らだけでなく、周りの世界も含めた時間の流れへの想いがひしひしと伝わります。 [帆場蔵人] おー!なるほど、たしかに無常観ですね。 [杜 琴乃] そうですね。 それを表現する、ひらがなの使い方が本当に上手い。 [まりも] 火柱は、個々の存在が、おおきな祖霊になるというイメージなのかな。 神々の世界に入る、亡くなった人の成仏は、本来は喜ぶべきことであるのに、その人を思う人には淋しいことでもある。 [杜 琴乃] そうですね。残された方、見送る方はやっぱり寂しいです。 [fiorina] 日本人の営みの中に息づいている火、水、が描かれてますね。 [杜 琴乃] 虫送りそのものも、かつては全国各地に見られたが、農薬の普及、過疎化や農業の衰退も影響し行わない地域が多くなった。(Wiki) 時代の流れを感じます。 [fiorina] 虫やとりから米をまもるために、いろいろ素朴なことをしていましたね。 [杜 琴乃] そうですね。便利な世の中だけど、こういう儀式的なものにはひとのあたたかみを感じますよね。 [fiorina] ひもに空き缶をたくさんつけて、雀が稲に集まるとひもを遠くで引いて大きな音を立てて追っ払ってた。雀追い、夏休み中毎日、子どもの仕事でした。それに比べると静かで美しい。 [なかたつ] つい、岩魚の旬っていつだろうって調べて、初夏だそうで、初夏って祭、もしくはまつりごとが多いイメージがあって、祭って、やはりその土地に根差して、代々伝わっていくものだなあ、と思ってました。祭に限らず、儀式や、田の話も同様ですね。文字通り、ローカルルール。 人や風景は変わろうとも、祭や儀式や風習そのものは変わらないこそ、わびしさ、というか、自分が置かれている位置が露わになってくる気がして。 [fiorina] 祭りが子どもの情感を育てますねー匂いも覚えてる。 [杜 琴乃] 「なごしおおはらえ」では、「毎年三度後悔している」ここが漢字で主人公が大人になってしまった、現代の姿があらわれていますね。 [なかたつ] 地元の祭があったとしても、昔はその中に入ってわいわいできたのに、今は遠くから眺めることしかできない。でも、やってることは同じはずなのに。 [帆場蔵人] うちは海辺の田舎なので年末から年明けに豊漁の儀式、氏神さんに捧げる魚鳴と呼ばれるものがあったそうですが、いまは一部しか残ってません。 [るるりら] 灯りが どこまでも続くって、平野部の美だと おもいました。わたしも、灯の祭列みたことあるけど、わたしの地域だと、山間で 光列 見えなくなっちゃう。 (なかたつさん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [杜 琴乃] 「虫送り」では「誰もが気づいていながら/誰も口には出さずに//そんなふうにして/僕も大人になったようで」とあります。 皆さん、それぞれ思い出のおまつりがあるようで...いいなぁ。私は盆踊りくらいです。 [fiorina] 大人になっても準備段階から参加すると、意外にまつりは失われないかも知れないですね。 [帆場蔵人] 毎年、三度。 一度でもなく二度でもなく、 三度。三度がおさまりが良いんだけど、なぜ三度なんだろう。 [杜 琴乃] 私も、どういう節目だろうと思いました。 [鈴木海飛] ふゆ はる あき はこちらから迎えにいくけど 夏はきてくださるから? [杜 琴乃] なるほどー! [鈴木海飛] てきとーでーす。 [まりも] 春と秋のお彼岸と、夏のお盆とか。 [杜 琴乃] そうか...お彼岸とお盆もありますね。(そろそろ40分です!) (まりもさん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [杜 琴乃] 次はどちらが来るか…? [fiorina] 一作目がいい方…では二作目をやりたい方 [杜 琴乃] より印象に残っているのは二作目です。 どちらも好きだった…。 [帆場蔵人] 火垂る、かな。二作目。 [fiorina] では、2作目をやります(私もなので [杜 琴乃] おお! [鈴木海飛] はーい。 [帆場蔵人] お願いしまーす。 [fiorina] るるりらさんはいいかな?では、まいります。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-28

仮名吹さん 気づくのが遅れて失礼しました。 当初のものを掲示板に、改稿したものをコメント欄に貼っています(まだ、手直しするかもしれません。)人間に内在する、「慈しまねばいられない」情動と、「破壊し尽くさねばいられない」衝動、どちらも極端に触れると恐ろしいことになるように思いますが・・・双方に触れていけたら、という思いもあります。 (首を選ぶ ※)

2018-09-25

渡辺さん ご回答ありがとうございます。 了解しました。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-25

社町さん、コメントありがとうございます。 作品を読んで、共感するときって、じわ~と、来ますよね。おおっ?と驚くときは、新鮮なドキドキがある。 この表現、このシーン、いいなぁ、と思ったときは、それを他の人に言いたくなるし、どうして、いいなと思ったんだろう、と考え出すと、その理由を知りたくなる。 そうした心の動きを、そのまま、モヤモヤのままにしておいたらもったいない、それを言葉に表すことができたら!モヤモヤがスッキリするし、たくさんの読者とそれがシェアできる。それって、すてきだよね、と、そう思っています。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-25

弓庭夜話第三回 9月19日(水)第一部 一作「[ ]」について [杜 琴乃] こんばんは。約10分後からはじまります!今回、タイムキーパーをつとめます杜琴乃です。今夜は 1 一 「[ ]」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2097 … 2 仲程「しらやまさんのこと 夏」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2109 … 3 5or6(ゴロちゃん。)さんに聞く《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》 「ファラウェイ。」 by.アネモネ. or 火垂る(ほたる) by.夕暮れぴあの です。 宜しくお願いします! (※1、2、3、を三部に分けて、数日おきにコメント欄に貼ります。フォーラムが整備されたら、そちらに移行します。) ★議題 1 一 「[ ]」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2097 …について [fiorina] ログ出します~ただいまから40分ですね。 [ ] 一 作成日時 2018-08-06 コメント日時 2018-09-10 海は戻ってくるんだ。それは戻ってくる。積み木を立てる。野菜をうえる。日が昇る。幸いの声をきく。梯子が宙に浮かぶ。サンゴが魚を食べる音を知っている?うそサンゴは魚をたべはしない。じゃあほこりができる音を聞いたことがある?あるわけない。だってほこりはほおこりだもの。違うよ、ふけがおちてほこりになるんだよ。それはだってふけやない、じゃほこりじゃないよ。じゃほこりはいつできるんだ?おかしいじゃないか。神はどうしてわれらを作ったのか?吹けば飛ぶこの生。 電信技官がその声を聴いたのは唐突であった。それはなにかが水底からたちのぼってくるようなおとであり、二つに割かれた双子のようであり、闇を割く灯台の光のようでもあった。とにかくそれはなにかをつんざいて聞こえる類の音だった。かれはとっさに受話器を耳からはなした。ちょうどその時だった。上官が彼を呼ぶ声がみみにはいったのは。彼は階段を下りていった。受話器だけがのこされた。受話器はなぜ受話器というのだろう。それはこちらが話すことを前提としていない。よびごえをきくことしかわれらにはできない。光はいつからそこにあったのだろう。静かにちりだけがまう。光のなめらかな目が細められる。光はどこからきたのだろうとちりが問うている。 [杜 琴乃] こちら、作品もですが、コメント、選評もとても面白かったです。 [鈴木海飛] 今回の選評では、一番優良にたくさんの人から選ばれていましたね。 [るるりら] 選びましたよ。(⌒∇⌒) [fiorina] そうですね。私はコメントしていないので、少しまとめたものを貼ります。 [fiorina] 歓びのリズム、希望のリズムがありますね。それはどこからきたか。 海は戻ってくる、このことを知っていたし、待っていた。そして海は戻ってきた。すべてが踊りだすような日常が帰ってきた。幸いの声が聞こえている。珊瑚は魚を食べる。その音を自分が食べられるように苦しく聞いていた。でも、実際は珊瑚は食べてなどいなかった。珊瑚はそんなことはしない。歳月が降り積もる、ほこりのおと、ふけ(老け・笑)をくるしんだ。でもそれにだって光が当たる。幸いの声をきく。 電信技官が聞いたその声。二つに割かれた双子のようになつかしい海の声。唐突に現れ、受話器から呼び声のように聞こえている。まるで光りが始まったときのように。光が差してものは初めてそこにあることを知る。ものに乗ることによって光はそこに届いたことを知る。光りとちりは二つに裂かれた双子のように、互いによって存在している。 [杜 琴乃] 私は、行分けされた作品にまず目が行くのですが、こちらは冒頭の「海は戻ってくるんだ。それは戻ってくる。積み木を立てる。野菜をうえる。日が昇る。幸いの声をきく。梯子が宙に浮かぶ。サンゴが魚を食べる音を知っている?」までのリズムが素晴らしいな、と。 「くる」「くる」「てる」「える」「昇る」「きく」「浮かぶ」「知っている?」 一気に読ませるリズム。 「ほこりができる音」も新鮮な言葉で、興味を持ちました。 [まりも] 埃と誇り、双方に読めますね。塵から始まり、塵に戻る、ひと、という生き物。 [杜 琴乃] そうすると、「誇り」は誰のでしょう?ひとという生き物の誇りはどこから...?という問なのかな? [まりも] そうした問いを自問自答しているように読めますね。 前半はうねるように意味が押し寄せては去っていく、波のように。 後半は、それを物語構成を持ち込むことによって、ひとつの神話のように読者に届けてくれる。 [るるりら] さまざまな意味で 動きが感じられますね。杜 琴乃さまのおっしゃる 動詞おわりの「る音韻」とか、塵から始まり、塵に戻る、ひと、という生き物。とか。 [帆場蔵人] 人と言う存在への自問自答?同時に誇りは埃のようなものと両方をさして、吹けば飛ぶこの生に流れて行くのでしょうか。 [るるりら] 誇りと、いえば この詩に漂う社会が気になります。「電信技官」なる存在の、なにやら制服の襟の正しそうな感じが。 [杜 琴乃] やっぱり埃の誇り、ですかね?つまり、ひと としての誇り。 [鈴木海飛] ふぅむ、これを誇りと読むとそんな広がりがあるんだなぁ。 [なかたつ] ほこりについてですが、作品に沿えば、「誇り」かどうかは明言できません。ただ、作中において視点が向けられているのは、その生まれた過程です。 [杜 琴乃] ほこり と ちり で、最初と最後が違うのは、また別の視点ということでしょうか。 [なかたつ] 〈じゃあほこりができる音を聞いたことがある?あるわけない。だってほこりはほおこりだもの。違うよ、ふけがおちてほこりになるんだよ。〉 ほこりができる音は聞いたことがない、つまり、ほこりというのは何かの結果として生まれたものである。 その発想から敷衍/類推によって、「神はどうしてわれらを作ったのか?」という疑問につながっています。 [るるりら] ほこりのおと、ふけ(老け・笑)をくるしんだ。でもそれにだって光が当たる。幸いの声をきく。 って、ことは 明るいものを見ているわけですけど。塵芥(ちりあくた)というと つまらないものの意味ですけど、そうじゃなくて あかるいですよね。 [帆場蔵人] ひかりが始まった。 [なかたつ] ほこり、ちりの違いは、地にあるか、宙に舞っているのかの違いではないでしょうか。 「ふけがおちてほこりになるんだよ」は、地に落ちたふけであり、「静かにちりだけがまう。」と、ほこりが地にあって、ちりは宙にあるものとして、この作品内では位置付けられているように思いました。それが同一であったとしても、置いてある場所の違い、ですかね。 [杜 琴乃] なるほど! [まりも] 声を聴くために、降りていく、この方向性も面白い。 ひとつは遠くから聞こえてくる、受話器を通して届けられる声。もうひとつは、無意識への下降のように、降りていくことで聞こえる声。 [杜 琴乃] 私も顕在意識と潜在意識について...かなと思いました。 [なかたつ] あー、確かに、その縦関係の運動性みたいなのは連関してるかもしれないです。 [杜 琴乃] 二つに裂かれた双子、とか。 [るるりら] 受話器って、なぜ受話器なのかって おもしろいです。 [なかたつ] 「受話器はなぜ受話器というのだろう。それはこちらが話すことを前提としていない。よびごえをきくことしかわれらにはできない。」はピカイチですよね。 [るるりら] 受送話器が ほんとうらしいですけど、受話器って いいますよね [杜 琴乃] 最後の「光のなめらかな目が細められる。」ここからの結びが美しいです。光、神にあたたかく見守られているような、そこでちりが無邪気に問うような、柔らかな風景を浮かべました。 [まりも] 光に照らされることによって、はじめて、存在が明らかになる。宙を舞う埃が、人を生み出す塵になる。 [なかたつ] 光は光そのものを照らすことができず、光が存在すると、人に認識させるために、光がちりを照らすはずなのに、光をさえぎるちりがむしろ光を照らす、という逆説…。やべ、日本語がおかしい。 [fiorina] 逆にものによって初めて光りの存在も明らかになる。 [なかたつ] あ、fiorinaさんのそれです、言いたかったこと…。 [fiorina] 歓喜の歌のような気がします。一条の光が差したときの光とちりの姿。 [るるりら] わたしは単純なので、朝起きたときに、ほこりがむわんと舞い上がって光が斜めに差し込んでるときに、神様ぽいものを感じるんですが、 [帆場蔵人] るるりらさん、解ります。あの光景は何故か神々しい。 ほこり、はやはり人?それともひかりに照らされるすべてのものだろうか。 [まりも] 「だって、ほこりはほおこりだもの」この幼い者たちの会話のような響きに、宮沢賢治の双子を思いました。 [fiorina] 一見たどたどしいですよね、ことば運び。 [るるりら] あー宮沢賢治 ふたご いますね。 [fiorina] 小さい、ありふれたものに向ける目。 電信技官と上官が呼応してますね。 ほこりは自分であり、他者であり、すべての存在? [るるりら] 群衆が この詩の後ろにいると思います。だって、電信技官と上官がなにか 聞いたんですから。この事件のあと 社会はかわるんだと思う。 [fiorina] 作者のユーモアとおしゃれを感じます→電信技官、上官。 [杜 琴乃] ほこりは光の子ども、ひと、と読みました。 るるりらさん、なるほど。電信技官、どうしても、争いごと、陰謀とか思い浮かべます。 [fiorina] 上官は妻とか母親とかだったりして(すみませんw [るるりら] ちかい!争いごと、陰謀とか 母親とか。 [まりも] 上官=権威者=母(笑) 電信技官もケンジっぽい。埃も、たよりないけれど、そこにあるもの、そんなふわふわした存在感。 [杜 琴乃 なるほどー!面白い! [まりも] 案外、二階に居る時に詩を思いついたのかも。 [るるりら] 電信技官もケンジっぽいですね。かれは 透明な電気すきです。 [なかたつ] そもそもこの詩の構造って、後段の初めに「電信技官がその声を聴いたのは唐突であった。」とあり、「その声」が何を指すのか、それがまるまる前段部分だと思うんです。後段については、「その声」を聞いている、つまり、物思いにふけっていて我ここにあらず状態で、それを現実に引き戻したのが「上官が彼を呼ぶ声」であると読みました。 つまり、前段は電信技官にしか聞こえてこなかった声。そこから受話器の発想や「よびごえをきくことしかわれらにはできない。」というフレーズにつながるのでは、と。 [帆場蔵人] 確かに何かが起こる予兆にも見える。 電信技官は何に耳を傾けていたのかな。自分の意識に潜っていた、眠ってて母に呼ばれた? [鈴木海飛] 上官は意識的 技官は無意志的な立ち位置トシテ読んでました。 [fiorina] なんか、再会の歓びを自分の身の周りのものを踊らせて壮大に描いてるように感じます(思い込み強い派 [るるりら] 帆場蔵人さん、なにか起こる予兆感じます。潮流。 [fiorina] 海がたとえだとしたら何でしょう? [るるりら] fiorinaさんが、作者のユーモアとおしゃれを感じます→電信技官、上官って、いってたけど、受話器はきっと、スチームパンクな感じだと想像しちゃいました。 [まりも] 二階から降りていくという現実の動きと、そこから、宇宙の始まりや人のはじまりに夢想が拡がる流れと。 上官と言われると、軍艦のようでもありますね、戦闘態勢にある。 [帆場蔵人] 潜水艦の中を最初、思い浮かべました。 [杜 琴乃] 私は天空の城ラピュタをまず浮かべました。 [鈴木海飛] わたしは海は聴覚の海として見て、実際みた海の底でみたものとみるとそんなに疑問がなかったのですが。 (杜 琴乃 40分経ちました!) (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-25

冒頭三行で、幼子の足取りと可愛らしいお尻、夢中で泥んこ遊びしている傍らに寄り添って座る若い母の姿が見えてきます。 時々、空を見上げるのは、子育てへの不安なのか、それとも自分にはもう取り戻せない子供時代への郷愁なのか。 子どもの世界にすっぽり入り込めてしまったらいいのに。そんな想いが、透明になる、という言葉に現れているようにも思います。 子供にもどりたい、なりたい、なのか、親になる重圧から逃れたい、なのか。 郷愁を喚起されて、きゅうっと胸が切なくなった瞬間を描こうとして、親になるって、何だろう、という問いがさらに重なっているように思いました。 整理していくとすれば、そのあたりから、かもしれません。 みずみずしい作品でした。 (公園の朝)

2018-09-24

1面のひまわり畑・・・に辿り着いたとき、向日葵の陰の暗がりに目を止めていた君(自分が向日葵のように生きられないことに、そうした期待に応えられない、という重圧に苦しんでいる姿)、赤のお誕生ケーキの陰に、1度もお誕生日を祝ってもらったことがなかった(かもしれない君)・・・というような、具体的な陰影があると、より説得力のある文章になったような気がします。 あとは、少し筆が滑ってしまって、言い過ぎているような部分をカットしていくと、より凝縮された作品になるのではないだろうかと、期待を込めて。 (Happy Colors)

2018-09-24

ゆるゆるっとしたムードで書きたかった・・・ゆえに、同じ言葉の繰り返しが多くなっている、のだと思うけれど・・・文字で読むときには、その辺りをもう少し刈り込むこともできるのかな、という気持ちもありますね。 もっとも、ぱたぱた、りんりん、という擬態語が後半の前触れとなっているのは面白い。 〈ぱたぱたと取り出した微風と りんりんに痛みを感じながら〉 アンパンマンのマーチの中に、そういえば勇気りんりん、なんてフレーズがあったな、と思いだし・・・凛々と「みなぎる」のではなく、りんりんと響き、痛みとして帰ってくるもの、のことを思いました。 (夏風)

2018-09-24

あなた、を何度も重ねていく入り方に、想いがこもっているように感じました。 わたしの、あなた(たち)と同じ部分をちぎっていく、その感触が切実。 どこまで行っても、私独自、の部分、私ならではの部分なんて、あるのだろうか・・・あなた(たち)を見渡すと、自分(という幻想)が、その中に埋没して薄れて消えてしまうような気がする。そんな漠然とした不安をうまくとらえていると思いました (禅)

2018-09-24

死が、明るみの中に立って呼んでいる、心地よい歌で誘っている、そちらへ一歩踏み出せば良いのだ、しかしその一歩は明日への一歩と同じくらい重い。自分は夜の中を歩き続けている・・・ そんな思いを感じました。 (暁の詩)

2018-09-24

インナーチャイルド、というような言い方をしますが、自分の中の無垢な自分、本来の心を、赤ん坊で表しているように思いました。 もったいないなと思ったのは、揺れる、赤子、などの言葉を、近い位置で重ねて使っていること。 リフレインのように、あえて重ねて強調する時もありますが、この場合は、普通の文を長さで改行した印象で、重ねる効果にまでは至っていない気がします。 揺らされても起きない。その子を起こさないように気を付ける、それなのに汚い言葉で目覚めてしまう、ということですから、 心にはいつも 赤子がいる 揺りかごの中で眠っている 揺らしても揺らしても 目覚めることはなかったのに ある日 汚い言葉で・・・ というような形にしてみるなど、もう一工夫してみると良いかもしれません。 (絵と赤子)

2018-09-24

冒頭三行、企業のシステム管理や工場の複雑な工機の操作手順に悩まされている語り手が、人間であることの限界に到って生まれた言葉、のように感じました。ロボットのように、感情や抑揚を失った言葉。 そこから、いきなり〈ヒューマンエラーで生まれた破壊神/あらびきこしょうをふりかけて〉この展開、びっくりしました。粗びき胡椒を振りかけて、喰っちまえ!ということか。肉料理、卵料理・・・。 こしょう、には、故障/呼称もかかっているのかな。 〈焦燥を声に漏らす朝に君は〉と前のめりに刻んでいくようなリズムの後、 〈じゅうぶんになまえをあたえられ〉とやわらかく、なんらかの「なまえ」を持つ者として、 ・・・ということは、社会的役割を担わされた者、として、バス停に立つ。 〈朝陽を浴びて悪霊が土に還るのを/踏みしめて破壊神が歩きまわる〉 このあたりはゲームのキャラクターのような具体的、映像的なイメージですが、 〈気分屋が炎上し急速に発達する入道雲〉このあたりは、 燃え上がる、むくむくと爆発的にあふれかえる、という、勢いや運動性が前面に出ていますね。 〈ひとしき飛びまわり〉これは、ひとしきり、かな・・・ 〈破壊神は明滅しながら/コンビナート湾岸線上に降り立った〉 地図上での場所探しのようなイメージや、湾岸戦争の時の、闇の中で飛行機と爆撃が「明滅」していたことなどを思い出したりしましたが・・・そこまで読むのは、難しいかな・・・。でも、続いて張り裂ける 何もかもぐちゃぐちゃにしてぶち壊してやりたい、というような衝動に襲われた一日、 それなのに、焦燥感に追い立てられながら与えられた「呼称」の自分を演じる一日、 そんな日々はもう、「さよなら」だ、とユーモラスにテンポよく歌っているように感じました。 (破壊神)

2018-09-22

ティーンエージャーの息子と娘がいる、ので・・・ 母よ、と呼びかけられると、なんとなく反応してしまいます。 東大、ではなく、あえて「東京大学」とフルネームで呼ぶ。 そのていねいな口調に、反発するような拒否ではなく、 言い聞かせるとか、説き伏せるような思いが重ねられているように思いました。 「美しい生きもの」の、美しい、とはなんだろう。 母、の求める「美しさ」が、外見だけの美しさ、綺麗さ、なのだろうか。 大学で何をやりたいか、という中身ではなく、偏差値やブランドといった 外見にばかり目を奪われてしまう母への、子供からの「説き伏せ」が、 ここにも隠れているように思います。 (母よ)

2018-09-22

〈屈折の先がわからずに ただ身を任せている〉物理的な屈折と、自身の心の屈折。タワーは夢の象徴でもあるだろう。夢を追い続けて、すべてを投げ出したくなる一瞬が訪れたときの気持ちをそのまま掬いとったように思う。 (ambient)

2018-09-13

〈いや何時も顔がむくむ白昼夢明けを3cm毎に毎日刻むように。〉 〈現実的な事を気取ってしか書けない哀れな左脳型透析機にとって、今の季節は視えもしない10℃前後じゃないと納得できないらしい。 例えば生焼けのTVの画面グルメ番組で唐突に殺人が行われれば、死体は透明化するか?〉 インパクトのあるフレーズ。 イメージは右脳主体というけれど・・・詩も音楽も右脳型思考回路から生まれるのかもしれません。 ※実際の右脳/左脳ということではなく(脳梁で繋がれているし)型、という便宜上の表現です (99頁、なくしたのはたぶん)

2018-09-13

魂が飄々とノックする逃避の窓・・・その向こうに広がる蒼天。窓は、内から叩かれるのか、外から叩かれるのか。 青から紫へのグラデーション。その先の色は紫外線、人には見えずとも蝶には見える。魂にもきっと見えるだろう。 (「蒼」)

2018-09-13

〈漏れだすような胡粉の明かりが/泡だつ雲の灰いろを~〉つや消しの細い三日月と、黒々と艶めくカラス・・・日本画の作品を描写するのかと思っていたら、夏から秋へと移り変わる季節の叙景詩でした。なるほど・・・ 〈引き出しの中の貝殻は おもちゃや鉛筆に追いやられて〉夏休みが終わることへの、子供の心が抱く感慨を、いま、鮮やかに呼び出している。そこに朽ちていく夏草や音として存在感を増していく虫の鳴き声が醸し出す感慨(今現在の、夏の終わりへの思い)を重ねていく。 語り手の現在の思いには、それまでの経験や体験の蓄積が加算されていく。その重奏を感じさせる叙景作品。 (夏弔風月)

2018-09-13

分析が的確で、説得力のある評だと思いました。 静止画像的、だけれども、完全な静止というより、スローモーション映像を一部きり出したような、緩やかな動感もある。 そこを感じさせる部分を短い動作ごと切り出して引用するところも、とても良いと思う。 (【選評】イル「ナツ」【ワンポイント・キュレーション】)

2018-09-13

〈僕は正統派な父親でも反面教師な父親でもなくなって、今一度君のアイドルになれたら、それだけでいい。〉 育児ノイローゼになりかかっていたお母さんに、児童館のベテラン職員が、あなたはこの子のアイドルなんだから、と語りかけた。虚ろだったお母さんの目が、ふっと動いて、子供の目を見た。久しぶりにお母さんと目があった子供は、動揺したように目をそらし、それから抱きついていった。お母さんは、泣いていたように思う。 あとで様子を見に行くと、擦りきれた畳の部屋で、お母さんがあぐらをかいて、その中に子供が座って、絵本を読んでいた。子供は同じページを何度も戻して、その都度、くくくくくっと勢いよく笑う。お母さんもくくくくくっと笑っているのが、背中から見えた。 この二人は生きていける。この子が他にアイドルを見つけても。 なぜかそのときのことを思い出した。 (献花)

2018-09-13

〈詩は、今は僕のまさに傍らで寄り添っています。〉この一行から成立する「選評」だと思いました。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年8月分>)

2018-09-13

平凡であるはずの出勤風景が引き伸ばされて、その間に感覚が塗り伸ばされていく。 イスからイスへ、逃れようのない閉塞感、変化のなさと、冒頭のミルクが濁っていくイメージと、透明になり切らない地平線のイメージが重なっていく。 チョコワを瞳と見てしまう時点で、既にこの主人公は他者の視線にさらされ続ける都市生活に悲鳴をあげている。 それでも他者と接しなくてはいけない日常が、会話も成立せず、名前も覚えられない黒人の男を車に同乗させる、という行為に現れているようにも思う。名前も覚えられないのに「頼れる男」と言い切る(そう、自分に言い聞かせて不安を押し潰す)不自然さを、〈おまえはそのあいだジッと目をつぶって、何も心配しなくていい。免許は持ってる。だから心配ないんだ。もう黙れ、うるさい。マニュアルだ。〉と、ここでも自らに言い聞かせて、無理やり打ち消す。 おまえとは、誰だろう。日常のルーティンから逃れたいと願っている、語り手の分身のような存在だろうか。 パルコの時代が終わり、ダイソーの時代になり・・・物は溢れているのに、欲しいものはそこにはない。 パルコのぽえむ・ぱろーるを再現したイベントに行ったとき、詩は社会を変えられる、という希望(期待)が漂う時代だった、と感じたのだった。その期待が消えたから、ダイソーの時代になったのだろうか。自分と社会との関係を、詩を通じて問い続けている人達が、こんなにもいるというのに。 でも、ダイソーをウロウロする感覚、私は好きです。それもまたよし。 (Wheel of F F F FFFF For tune)

2018-09-13

蝶・・・はしばしば、魂の象徴だと言われたりもしますよね。蝶が、空中に何かを書いている、それは、天からの手紙かもしれない・・・冒頭に〈ひ〉みたいに、と出て来るので、そこに火のような・・・という意味を読み込ませる、というような、そういう奥行きを用意してもいいかもしれない、と思いました。 (ひみたいに)

2018-09-10

肌にまつわる感覚、質感の変化をとらえて、そこに季節の変わり目を感じ取ろうとする、繊細な意識が素敵だと思いました。〈外界にわたしの馴染む余地〉少し硬い表現ですが、今まで居心地の悪かった、跳ね返されていたような大気に、受け入れられる感覚が戻って来た、ということでしょうか。〈実存〉という観念的で重い(意味の詰まった言葉と言えばいいでしょうか)単語が入って来ると、なんとなくそこだけ、浮いてしまうような印象もありますね。単純に、季節の変わり目を感じた、ということ以上に、人生の秋の到来をも思わせた、ということを伝えたいのかなと、思ったのですが・・・実存を感じさせた、それは、なぜなのか、なにゆえにか、そこを追求してほしいとも思いました。 (秋)

2018-09-10

〈あなたの美しい灰〉〈もう二度と/笑い合うことのないあなたへ〉〈からっぽのぬくもりで/白々しく/生き延びている/陰が/ある〉・・・このフレーズを巡って、ぐるぐると考えています。遺灰、想い人亡きあとの空虚、その喪失にも関わらず、生き延びている(生きのびてしまっている)〈私〉・・・ にしては、切実さや重さが伝わってこない。他に灰、から連想するものというと、煙草の灰。 〈時々日常から落っこちて/手の隙間から/震えて見ている/くせに〉〈近くのあなたを/抱きしめられない〉 うーん・・・どちらも、誤読、のような気がする・・・前半の軽さと、白々しく生き延びる、という重さが、どこで繋がるんだろう、とか・・・。〈心が少し/地面から浮かんで〉このあたりは、うきうきした「感じ」を受けるのだけれど。感覚を、ちょっとおしゃれな言い回し、少し変わった言葉づかいで表現してみよう、とする意識が伝わって来るのだけれど、その背景にあるもの、この詩を書きたい、と思った、その動機が、もっと前面に出て来てほしいと思いました。 (陰)

2018-09-10

近未来SF的な要素を感じる作品でした。 現在の状況(シリア情勢にしても、沖縄の基地負担にしても、なにも変わることがない、というような諦念も含めた、逆説的な怒り)と”がらんどう”の僕、の空虚感。〈子々孫々根絶やしになっても極東の風はいつだって「神がかってる」と、みんなが幻想を抱くだけだ。僕は根無し草だ。〉というフレーズが、特に印象に残りました。 花魁、これは、機械仕掛けのダッチワイフのような、高性能アンドロイドのようなイメージ、でしょうか。〈子孫を浴びては、顔中が真っ白く濡れてゆっくり瞬きする。〉これは、ザーメンを顔面に浴びている、的な状況を、暗喩も含めて描いた情景かなあ、と思いました(間違っていたら、ごめんなさい) 2020年のオリンピックも、現在からその時に至るまでの世界情勢も、俺は知らねーよ、という無関心の蔓延する社会、その空虚感と・・・それまでに世界大戦が起って、全ての都市が放射能防御のドームに覆われている近未来社会(女性は子供を産むことが出来なくなっており(あるいは死に絶えており)、男性は高性能AIで淋しさを紛らわせている、というような物語を背景に感じたのですが・・・妄想を飛ばせすぎている、かもしれません。 全体の構成や、現在の事象と将来的な事象との接続具合、明るい文体で虚無的な世界を描いていく、というバランスの問題、そのあたりが、いまひとつ、うまく掴み取れないような感も残りました。 (2019年の花魁。沖縄にて)

2018-09-09

折句の楽しみ、みたいなものを、もっと皆さんがやっても楽しいだろうな、と思っていたところだったので・・・冒頭から〈表裏を決める2085日目の音が 貴いね〉このあたりとか、名前を折り込んでいるところ、ですね・・・ほかの土地に足を踏み入れる時、その地を統べる神様への挨拶(ということは、畏れと敬意)に代えて、その神様の名前や、関わる物の名前などを折り込む、というもの。 星空が綺麗だなあ(よく打ち込んだなあ)・・・という感想は、評とは言い難い、かもしれないけれど。 貴音さんの了解を得て、この作品を投じているのか、どうか、という点が、ちょっと、気になりました。 貴音さんへのリスペクトが感じられる作品なので、大丈夫だろうとは思いますが・・・。 ( 「Zero gravity dropping」 stereotype2085 featuring 貴音&EMI)

2018-09-09

ニンゲンはもともと四つ手四つ足、頭は二つ、という球体の生きものだった・・・という神話?を思い出しました。 あまりに力が強大になってしまったので、神が二つに割いてしまった。以来、その喪失感を埋めようとして、失われた片割れを探し続けている、それが恋愛である、という話。 〈精神接続接触〉・・・心どうし、魂同士が融け合うようなエロス、を夢想するのに、決して満たされることはない。肉体が交わっても、心は寂しくなるばかり・・・そんな、逃れようのない真実を、軽めの鼻歌のような調子で捉えようとしている、そんな印象を受けました。 (早朝、遊楽の雷雨と日の出)

2018-09-09

もぐもぐ、ずるずる、ぱちくり、もぞもぞ・・・そして、バタン。 あえて、なのか、思わず、なのかはわかりませんが、誰もが使う、使い古されたような擬音や擬態語を使うことで現れて来るのは、絵本を読んでいるような、昔話を聞いているような感覚でした。 無言で食事を済ませた後、その相手に「おやすみ」を言う、のは、語り手なのか。 あるいは、ベッドに横たわり、から先は、語り手の話になっていて、扉から出ていくのは、無言で食事をしていた、その人、なのか。 自分の「家」での、家族とのひとコマ、とも読めますし、 ひとりの夜、家が広く感じられるような夜に、自分自身の影が自分を訪ねて来る、そんな生霊体験を思い描くのも面白いのではないか、と思いつつ・・・家、という題名が、どのように働いているのか、ということを考えさせられました。これは、イエ、と読むのか。うちでは、こんな夕食の光景でね・・・という場合の、ウチ、と読むのか。そんなことも含めて。 (家)

2018-09-09

二条千河さん 〈ぬめるので目が覚めた〉という書き出しが印象的、とのこと・・・ありがとうございます。実は、その後、改訂版?を書いたのですね。そこでは、〈血だまり〉を先に出している、のだけれど・・・皆さんへのご返信の後に、その「改訂版」を貼りますので、良かったら読み比べてみてください。 岩垣弥生さん 物語性を追いかけたものも、書いてみたいという思いがあります。短編より短くて、短編と同様の読み終え感があるものを書いてみたい、というような・・・ところで、「首を選ぶ」の方、ひな人形を出したので、そのままの延長でひな人形のカシラに読んでしまう、ようですね。浄瑠璃人形のカシラをイメージしていたので、改訂版では、そこを書き換えています。 帆場蔵人さん 女が男の首を断ち落し、新たに首を突きさして・・・という設定にしていたのですが、五連目の〈彼女は〉という、ひな人形が生きて笑っている、的挿入句があるために、かえってわかりにくくなっている、ようなので、挿入句的な別ストーリーを省いて、改訂版では彼女を消しました。 紺さん そうですね、いびつな人間関係、であると同時に・・・女性的なもの、がベースになっているのに、社会は男性的なもの、役割的なものしか受け入れないではないか、という苛立ちが、当時、あったようにも思います。詩は、マスキュリン、フェミニン、という(実際の性とは関わりなく)区分をするならば、本来、フェミニン(感性主体)なものであろう、という思いもあります。 渡辺八畳さん 物語性を追いかけていくと、どうしても既視感というのか、ありがちストーリーに寄って行ってしまいますね。独自のストーリーを作ろうとすると、突拍子が無さ過ぎて、読者が置いてけぼりになることもある。ひな人形がニッと笑うあたりは・・・戦火で命よりも大事な右腕を失った人形師のところに、その人形師が作った花簪をさした美少女(もちろん、焼けて無くなってしまった雛人形)が、あなたの右腕に成りに来ました、と尋ねて来る童話があって・・・子供のころ、なんともゾッとする魅力に惹かれた、ということがあり・・・その流れで、雛人形を入れてしまった(首を引っこ抜いたのは、実話)という安易さもありました。改訂版では、もう少し周辺の空間まで入れてみたのですが、どうでしょうね。 stereotype2085さん 悪夢設定が最初からわかる方がいいのか、いきなりホラー的な異界が始まって、後から、もしかしたらこれは「悪夢」なのか?とわかる、方がいいのか・・・夢の中で、自分はターバンを巻いたインドの男性で、テロだかゲリラ戦だかを戦っていて、誰かの首を搔き切った感触がなまなましく残っている状態で目覚めた、ということがありました。オカルト好きの人なら、それを前世、というのかもしれませんが、はてさて。 「そしてまた、夜になる」 目覚めると私は血だまりの中にいる 冷えていくぬめりを確かめながら うごめいている気配に耳を澄ます 青い光が差し入り天井にのびていく 黒い影がベッドのまわりをうろついている 分厚い本を抱えた 首の無い男 今日の首を 男に選んでやらねばならない 少年 青年 壮年 夫 父 息子 恋人 赤の他人(これから知ることになるはずの人) 男が首を差し出したとき私は誓ったのだ これから私が作るカシラは すべてあなたのものとなりましょう、と・・・ 壁面に無数のカシラが突き刺してある 昨夜の首を断ち落とした手で 白い面差しをひとつひとつあらためる カシラを選んで瞳を血で描きいれる ひざまづく男の白く丸い脊髄をめがけて 芯棒を深く突き通す 男の目に光が宿り 腕が私をしぼりあげる 私のからだからしたたりおちる塩水 扉の外には炎が燃え盛っている 男はまた今日も部屋を出ていく 真新しい首を振りたてながら (首を選ぶ ※)

2018-09-09

言葉のタイではなく、開襟シャツ、かっちりスーツではなく、ニットジャージ(でも、上質)のカジュアルジャケット、そんなムードの文体ですね。 でも、最初に選者の観点、視点を明確に出している所が、とても読みやすかったし、納得がいく選評になっていると思いました。 (8月分の選考。stereotype2085がタイを取りスーツを捨てた。《選評》)

2018-09-08

〈他者の詩/視線をいかに自らのうちに取り込めるか〉この視点、素晴らしいと思いました。 選評を読んだ感想を、他の人にも聞いてみたいです。 (選評:8月投稿作品)

2018-09-08

煙草を吸ったことがないのだけれど、冒頭、久しぶりに吸い込んだタバコ、を想像しました。 前半、途切れ目がないようでいて、「ミニシアターに行く」「うぉううぉうと」でなんとなく画面が変わる。 ゆるやかに移り変わる。シャープな切り替えではなくて、ふにゃあ、と画面が消えていくと、ふわあ、と別の画面が現れてくるような、映像が融けて別の映像に移っていくような、感じ。 「角質」を落したい、これ、カカトの角質とか(笑) そういう、皮膚系の方なのでしょうけれど、目の角膜の連想もあって、見たもの、というのか・・・見たこと、そのものを脱ぎ落したいという、そんなイメージもわきました。前半、こんなゆるい感じの映画を見た、で、後半、町の光景を自撮りした映画みたいに書き込んでいる、感じを受けました。 最後の一行、俺はシネマを見たかった(のに、観られなかった、観た、という実感がない)なのか、俺はシネマを見たかった(見たくて映画館に行ったけれど、シネマだな、と思ったのは、むしろ街景だった、なのか) 他の人は、どう読むのかな。そんなことが、気になりました。 (角質)

2018-09-08

リズミカルな作品ですね。やっぱりこれは、リーディングで聞く作品かなあ、と思いました。 ワードとワールド、音読だと(特に日本語と交互だと)その境界がどんどん曖昧になるような感覚もあって、面白い。 (call me xxxxxxx)

2018-09-08

無自覚な正義と、自覚的な正義、どちらの方がタチが悪いんでしょうね。 私はいいことをしている、献身している、貢献している、役に立っている・・・という系統の正義は、善意の押し付け、だし。 私は公平である、双方の言い分を聞いて、私は中庸を取ることができる、正しい判断をすることができる、系統の正義は、ナルシズム入ってるし。どちらにしろ、どっちも承認欲求の裏返しでもあり、自分の精神を文字通りの神的なものだと崇めてしまうこと、でもあるのでしょうね。 あ、これは自分のことでもあり、他人のことでもあります。 (そのみひうまたはひむ)

2018-09-08

世界が全滅すればいい、というのは、未知ならぬ恋の渦中にあってベッドインしている男女が、このまま世界が終ってしまえばいい、と願うのと、結構似ているんじゃないか、と思いました。 学校行きたくない学生が、このまま電車が大事故になって、全てが終ってしまえばいい、と願ったり・・・ そういう、なんだろう、困難を乗り越えていくためのエネルギーが、=生きるためのエネルギーにならない場合、の、このまま終わっちゃえばいい、的な感じ。 世界を滅ぼしてやる、破壊してやる、にはなっていない、ところが、〈甘ったれた感性が/透明なままで水浴びをする〉なのかな、と。 わたしを怒らせたら、世界は滅びる、という詩を書いて、すごく気持ちよかったことを思い出しました。 (0. my world.)

2018-09-07

魔女狩りの記録を読みながら、へ~ほ~は~と、どこまで人間残虐になれるんだ、と感心しつつ、ちょっとワクワクしながら読んでいた時のことを思い出しました。明治大学の地下にある、拷問用具の博物館、面白いです。聖人たちがいかに残虐に殺されたか、と「悲惨さ」とそれゆえの「崇高さ」を語るはずの語りが、嗜虐趣味を満たすような逆転現象を起こしたりするところにも興味があります(ちなみに、高校時代はクトゥルフ神話にはまってました) わたしにも首ちょんぱ系の詩があるので、投稿してみますね。 作品そのものに関していえば、最初の三行は必要なのだろうか、ここは外した方が衝撃度が高まっていいのではないか、と思いました。どちらにしろ、妄想で殺しているのに、それを信じてもらえない悲哀(自分は本当に殺しているという実感が、まだまだ得られない、殺したりない)を畳みかけていくところで、非現実である、ということは明らかにされているわけですし。 (殺させてくれたのに)

2018-09-07

詩を読むの、楽しい~♡ という感覚が伝わって来て、ほっこりしました。〈わたしの至福〉とか〈大好物〉とかってもう、美味しいお菓子を味わっている時のしあわせだよね~、という・・・。 〈この詩は尊いと感じました。 なぜなら、この詩は 波のように 寄せては返してくるのです。 〉 ふわあっと来る、感じって、なかなか言葉にならない、のだけれど・・・そうか、こういう感じ方、そうだったなあ、と。読んだあとに、イメージとかムードとか、もやもやした意味のようなものが、後から来る、感じ、でもありますね。 (八月のるるり選。より一層の素直を大切にしました。ほんまどすて。)

2018-09-07

みたな→みたいな、です(笑) (貴音さんの選評、8月篇)

2018-09-07

熱さがバンバン伝わって来るような選評で、イキがいいというのか、これを言いたいんだよ~、届け~!!みたいな感じがすごく伝わってきました。私は、どうしても「わたくしは、こう読みました」的な、報告みたいな感じになっちゃう、というのか・・・これが、好きだ~!みたいな感覚を、いったんわきにおいて考えて・・・みたいな感じになってしまうことが多くて、今更そこをどうにかする、というのも、なかなかうまく行かず、というところで、グルグルしているんですが・・・どう読んだら(接したら)いいんだろう、という作品を、こう読んだらどう?と言ってもらったような感じもありました(みたな、とか、感じ、とかばっかり言ってますが!)サンクスです。 (貴音さんの選評、8月篇)

2018-09-07

ゴロちゃんさん ありがとうございます。 3000文字世界、と言われると、三千世界、みたいですね!(と、いま、気づいた) (【選評】8月投稿作品)

2018-09-07

 (【選評】の一部を、こちらに貼ります)  尾田さんの「向日葵」は、〈ところで〉という、話題の転換から始まる。話者(詩の語り手)がいる空間で、その前から続いていた〈俺〉と〈お前〉との会話に一気に読者を引き込んでしまう、実にさりげない「仕掛け」である。さりげないので、読者は油断する。油断したところで、読者は〈夜を安全な場所にやり〉という不思議なフレーズに出会う。〈夜〉は固有名詞なのか、あるいは不安や恐れといった形ないものの暗喩なのか。〈戦争を妊娠しながらベットにいる〉さらに読者は驚く。戦争を孕む。それは、時代、なのか、国家、なのか。一人の女性の胎が、歴史、地球といった時空に繋がる大きさに開かれるのだが、脳内にはベッドに居る一人の妊婦の姿が像を結ぼうとしている。そのギャップに、読者は驚くのだ。脳は、ギャップを解消するために論理で「理解」しようとする。戦争、は、戦い、争い、不穏、といった出来事の暗示なのだろうか。これから、この二人に起ること(たとえば、別れ、争い)のメタファーとしての戦争と見れば、個々の関係に絞り込んでいくことになるし、俺を人民、お前を国土や時代の暗喩と見れば、個人対国家というような、大きな枠組みがそこに出現することになる。  語り手は、読者の様々な推論などお構いなしに、相変わらずさりげない調子で〈俺はといえば〉と話題を転換する。読者は黙ってついていくしかない。〈日増しに膨らんでゆく/ノスタルジアに〉ここでもまた、像を結び難い、曖昧な、しかし誰もが知っているなにか、が現れる。夜、戦争、ノスタルジア。概念として知っており、雰囲気やムードも判っているのに、明確な形で捉えられず、輪郭を持ったものとして形容できない言葉。続いて記された〈帆をたてて〉によって、自ら帆を張るヨットのようなイメージが浮かぶ。ノスタルジアの海へと船出していく、孤独な小舟。〈帆をたてて/太平洋を横切っていく〉この流れは実に自然だ。〈俺〉のメタファーとしての、大洋を横切っていく孤独な小舟・・・を連想したところで、〈太平洋を横切っていく疲れた太陽に唾を吐く〉。突然、太陽(理性、正義、肯定、輝かしい世界etc.)に唾を吐く反逆児の姿が現れる。A.ランボーが抗ったような、あらゆるものに対する反逆。太陽のイメージによって、題名の向日葵が通奏低音のように響いていたことまで、読者は知らされることになる。  その後、語り手は〈明け方の街〉という具体的な場を提示するのだが、そこに溢れるのは肉体ではなく〈迷走した論理〉である。論理が彷徨う場所は語り手の脳内であり、いったん外部のものとしてイメージされた〈明け方の街〉が、語り手の心身の内にある世界のメタファーとして二重写しになって来る。そこを〈漂流する傷ついた人間の魂〉は(語り手の魂も含め、傷ついた者たち一般)を、〈つつきまわる鴉の群れ〉は(魂を蝕む不安や死への恐れ)と読んでいくことになるだろう。〈澄み切った人間の感性を差し出す〉は、前の行からの繋がりで読むと、「鴉たち」に感性の清らかな部分を生贄のように捧げる、というフレーズとなり、都市生活に疲弊していく人間精神があぶりだされる。〈コンクリートは願望の歪みを記憶化し〉ここでも願望、記憶化という、夜やノスタルジアと同様の、明確な像を結ばない抽象性の高いイメージが登場する。コンクリートはビル街や無機的な街並みの換喩、冷たい都市の関係性と、そこで受けた痛みの経験が投影されたフレーズと読むことが出来るだろう。疲弊していく漂流する魂を酒で紛らわす、刹那的な生き方が暗示されたところで、語り手は2連に移る。  2連は〈だが/俺は平凡な日常が存在するこの場所を嫌悪した〉と始まる。この場所、とは、コンクリートの街並みのことだろうか。そう、読者が問う間もなく、広大な北海道の耕地のような光景が持ち込まれ、更に〈意識と窓は似ている〉と思弁的な行に飛躍する。〈神経とは統制のきかない自我なのだ〉過敏すぎて都市生活では傷を負ってしまう、そんな自我を、語り手は広大な原野の中に解放しようというのか。トウモロコシをこぼしていくトラクターの親父の居る景色とは、現実の景なのか、心の内に描き出された幻想の原野なのか。ここは、その後のフレーズ、〈人間から零れだした精神を海と呼び〉の伏線ともなっている。心の窓とも呼ばれる目。目がとらえた視覚世界、それは語り手の認知世界ということでもあるのだが、そこで展開しているのは、光が〈人間の進化の深さと広さ〉を照らし出す景であり(一連で、語り手は太陽=光、に、唾を吐きかけていた)、その結果として見ることになるであろう廃墟を〈見つめる〉闇の到来への思惟だ。人間の進化、あるいは進歩を、むしろ廃墟をもたらすものとして、語り手は警鐘を鳴らしているのである。  〈俺たちの追憶〉、ここは一連の、ノスタルジアに呼応する、と見ることもできるだろうが・・・ここから一気に、詩はクライマックスを迎える。しかし、〈人間から零れだした精神を海と呼び/太陽と呼び/文字と呼び/国家と呼び〉この畳みかけていく語法がもたらす切迫感と、太陽、文字(文学、思想、思考その他、文字によって記されるものすべて)、国家(実際の国家、理念としての国家、たとえば神の国、というような言い回しも含め)という大きく、曖昧な言葉の連続がもたらすドラマティックな感慨は、具体的な実感がもたらす身体的な感慨ではなく、言葉そのもの、観念それ自体の大きさが、人間精神を圧倒する迫力からもたらされるものである。  作品は、観念の羅列に陥ることなく、〈人間の肉塊を蒼穹に解き放つ〉という、パラシュートで降下していくような身体的開放感を呼びこむ。さらに、〈木蓮の花が空に突き刺さり〉という誇張表現で春先の空を背景に置いた上で、脚韻を踏むように〈一億枚の窓ガラスをつき破る〉という鮮烈なイメージを展開する(前段に出て来た〈意識と窓は似ている〉というフレーズが、ここにも響いている)。そこから太陽、あるいは光を暗示する向日葵、それも〈俺の庭の向日葵〉はまだ咲かない、とバシッと決める終行は、俗な言い方で恐縮だが、実にカッコイイ。けれども・・・季節的な懸隔、意味内容、観念世界の懸隔、共にあまりにも大きすぎはしないだろうか。壮大なものを、凝縮して詰め込むことによって、本来、大きな広がりを持っていた意味世界が、観念語の中に折りたたまれ、仕舞われた状態に留まってしまうことになりはしないか。  一連目は、イメージが言葉に先行しているように思われるのだが(読者は、その現れては消える様相を味わいつつ追っていく)、二連目は言葉が先に立って詩を無理に率いていこうとしている、言葉に寄りかかり過ぎている、そんな印象があった。  ベットか、ベッドか、という点について、まったく関係ないかもしれないが・・・私の父母は、ベッドを「ベット」、ピッツァ(ピザ)を「ピザパイ」と呼ぶ。同じ世代の義父母も、「ベット」と言うので、そこに懐かしさのようなものも感じた。余談だが、記しておきたい。 (向日葵)

2018-09-07

すみません、バタバタしていて、いま、書き込みを拝見。 なかなかタイミングがあわず・・・ 前回の合評の様子(コメント欄に再録してくださったもの)とても面白かったです。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-06

針金でヒトガタを作る、彫像を作る、その「ココロ」や、いかに?という問への、 これはひとつの結論、ということなのかなと思いました。 前半はターミネーターのようで、不気味さがありますが・・・ 後半は、芽吹かない、無機質の肉体を豊かな花咲く大地に変えたい、と望む、「つくられたもの」のココロが動いていく、と言えばいいのでしょうか。 人もまた、何者か、によって「つくられた」ものであり、人生において何事かを成す、ことを、花を咲かせる、実をつける、と比喩で表したりもする、わけですが・・・、さて。 『チロヌップのきつね』という絵本がありました。最後には、力尽きて雪の中に斃れる狐の親子。春になって、その狐たちを案じる老夫婦が再びその地を訪れた時、そこには、親子の形にレンゲが咲いていた、というシーンで終ります。花を供える、手向ける、という「祈り」の行為が、その人の痕跡をとどめる、記憶に残す、美しい者へと変容させる、という行為に変貌する。そうした願いが、自らの「かたち」に花が咲くこと、へと結びつくのでしょう。羽田さんの作品の中で、主人公(針金男?)が願うのは、自らの肉体の「かたち」や「記憶」を残す、ということよりも、下水、汚水の流れる場所を美しいものへと変えたい、という願いであるように思います。 (フィラデルフィアの夜に Ⅶ)

2018-09-05

〈対人援助演習で! わたしは、うなずいて向き合うのですが、 今、なんて言ったらいいのか、どのくらい黙ったらいいのか、どうまばたきしたらいいのか、 そんな想いが身体に滲み出てるのか 滲み出ていないのか〉 この一節と、詩(を成り立たせるなにか)と向き合った時の感覚が、とても似ている、そのことと、作品の名付けとの関係について考えました。 持ち運ぶ、持ち寄る、という言葉はあるけれど、持ち起こす、持ち寄せる、と記す時の奇妙な違和感。文法的にずらしていく、という技巧的な部分、よりも・・・運ぶ、寄る、という語り手の能動性を促す言葉と、起こす、寄せる、という、そっと対象に手を添えるような、一歩後ろに引いたニュアンスの言葉、と・・・。 〈ニッポリノ繊維街〉日暮里の繊維街、ではなく、ニッポリノとひとつながりで表記されると、ニュートリノのような、一つの単語のイメージに寄っていきますね。ニッポリ人、と記すと、にっこり、という音に似ていると同時に、どこか、そうした名前の国の人、というイメージもわいてくる。 〈今夜使うための麻の紐〉さりげなくコワイというのか、不気味な表現。誰かを、何かを縛る、あるいは・・・首吊りの紐。(硬直した身体、からの連想かもしれません) 運ぶのは骨折り仕事、その仕事を率先して引き受けている、ように見えて、実のところ、〈そうするしかなかった〉と朴訥に語る、〈なんでも屋の社長〉。その社長に、卒論か修論か・・・あるいは企業研修論文か何かの為に、インタビューをしている、そんな設定の、語り手と社長との関係。何のために、と問えば、理屈を押していけば「社長の仕事を、楽にするために、椅子に持ち運び用の紐をかける、その為の手ごろな紐を探している」ということになるのでしょうけれども・・・。 〈そうするしかなかった〉と語る社長を前にして、何を言うべきか、黙り込んでしまう他はない語り手、その語り手が、その時の思いを言葉にする、ということが、そもそも、詩を書く、という事であるのかもしれません。 (詩でしか言えない)

2018-09-05

舞台上で、複数の俳優が入れ替わり立ち代わり、一人、の人を演じながら(その立ち位置に立ちながら)次々に台詞をかぶせていく・・・ような感覚で読み始めたのですが、そこかしこに、今、現在の断片というのか、ネット掲示板、ツイッター、市販されている詩集、その断片が織り込まれていく、その臨場感のようなものについて、考えました。永続的な作品を目指したというよりも、今、の感覚を置き並べていくような・・・。 固有名はその背後に、固有名にまつわる作品や人物イメージを、作品の内容の暗示や引用は、それ以外の部分が醸し出すイメージを、借景のように背負っている。その厚みを描きたいというよりは、むしろ撹乱していくような言葉の乱れ撃ち、といった印象ですが・・・ 通過していく言葉、消費されていく言葉、その中で残っていくもの・・・は、流れ去ったという「感覚」なのではないか、というようなことについて、などなど・・・。 (タイトルはボブ・ディランですが、もう掃除機とか百均はダイソーよりキャンドゥとかでいいし、どうでもいいし、かんそうだし)

2018-09-05

〈百物語がしたくても~お化けを目の前に呼べないでいる〉この連が面白かったです。 言葉にも勢いがあって、なめらかに一気に言い切るような、ここで気持ちが盛り上がって、一旦おさまるような感じで、脳内再生してみました。 その後の連を、もう少し刈り込むことができるような気もしますが・・・暗闇が消えてしまった時間的な経過と共に、心の中で想像を膨らませる余地が枯れてしまったような感覚、そこに着目したことが、とても大切だと思いました。 (怪郷)

2018-09-05

〈曖昧になった境界線が、欠けゆく夕陽のように小さく震えはじめ、僕は少しづつフローリングの下へ沈んでいった。〉 〈それまでしっかりと膨らんでいた境界線も、どこか曖昧になっちゃって、僕たちは欠けゆく夕陽のようにベッドの下へ沈んでいく‪。‬〉 〈僕はたしかきみの、規則的に強弱をつけてチップスを噛む音が、いつだって気に入らなかった。そう、かな。僕はきみの、喧嘩するとすぐに黙りこくって待ちに入るスタイルが気に入らなかった。僕は、きみのページを捲ってはすぐに戻る読み方が、僕は、カーペットの起毛なんかと簡単に一緒になってしまうきみの、細い髪の毛をよく気にしていた、僕はミキの、違う。誰だ。でもきっとポニーテールだ。じゃなくて僕は、きみとエッチがしたい、違う。違う? じゃあ、きみじゃなくてもいい、違う。いや、違わない。じゃあ、僕は、僕はきみの、〉 〈細い髪の毛を、「愛してるよ」とひと撫でし、コンビニへ向かう、きみはきっと、僕に向かって何か言っている。でももう知ったことじゃないんだ。僕は聞こえているふりをして手を振る。きみも応えて手を振っている、と思う。それはとても優しい拍数だ。〉 〈二人で息を切らし、どこだか遠くの夕陽が見えるところへ行きたかった。そうして残されたきみは、この部屋からまたべつのどこかへ行くまでのわずかな時間を、どうして過ごすんだろうか、とか、そんなことを思いはせるより先に、〉 妄想全開、疾風怒濤の饒舌体、というムードですが・・・今、抜き出した、いわゆる「詩的」な部分を、あえて生活感のある地の文の中に埋め込む、埋没させる感じが、そもそも、境界線を曖昧にする、行為である、ような気がしました。日常の(それも脳内、体内の)妄想の中にある詩、その境界線を限りなく曖昧にしていく、行為。 最後の一連、急に「リアル」に戻って来たような感覚がありますが・・・〈近所のコンビニに新しく入った女の子〉を、〈ぜんぜん知らない若い兄ちゃん〉が実は、店の裏で殺してしまっていた、的な展開にも接続しそうだな、とも思いました。 (もうなにもかも知らないし何も知らなかった)

2018-09-04

内容の重さ、に比して、言葉が軽さを保とうとしている、そこのギャップをどう読むか、ということなのかな、と思いました。 「シャボン玉」の歌(歌詞)は、亡くなった愛児への思いを美しいイメージに昇華して歌ったもの、だとか。 本作の「パチン」にも、このシャボン玉のようなイメージを持ちました。同時に、スイッチをパチン、と切る、というイメージも重なり、ネット社会から自らを消す、そのパチン、であるようにも思いました。 〈今は自分殺しが流行で〉〈今は自己疎外が流行で〉歌を口ずさむような軽さでリフレインされるこのフレーズ、本当はそんなことをしたくない、それなのに、自らせざるを得ない所に追い込まれている〈自分〉を自ら揶揄するような、自分を突き放すことで(一種の道化的な存在と見ることで)がんじがらめの現実から逃れる自由を得る、という心の働き、であるように思いつつ・・・〈生きるのは難しい〉と、わりあいに一般的な言葉で、さらりと言い退けてしまうようなところが・・・その先、を知りたい、あるいは、その奥、へと踏み込んでほしい、という読者の思いと相反する部分なのかな、とも思います。このあたりが、今後の課題となってくる部分ではないでしょうか。 (弾け音(ね))

2018-09-04

物憂さ、その「気分」を軽やかな口調でとらえているところに魅力を感じました。 ぬるくなったアイスコーヒー、手を付けられずに残されたグラス。 喫茶店で別れ話をした恋人が、黙って立ち去った後、〈ガラスの自動ドアがカンと鳴って閉じる〉のを聴きながら、必死に息を吸って、吐いて、その時をやり過ごそうとする語り手・・・を連想しつつ・・・ そこまで「物語」を読むのは、かなり恣意的な勝手な解釈だろうなとも思ったのですが(そこまでの、切実な感じ、は迫ってこないですし)そんな「物語」を読み込んでみたくなるような、余白が生きた作品だと思いました。 (指でなぞった憂鬱)

2018-09-04

遺骸と「意外」を、かけている、のでしょうか。 〈無理やり頼んだギムレットと身に覚えのないノスタルジーに急かされて買ったニッキ棒〉 なんとなく、大人っぽい、ような、カッコイイ、ようなカクテルと、例えば昭和を知らない平成生まれが、昭和にノスタルジーを感じるような、奇妙な感覚を呼び覚ますニッキ棒。 この二行にこそ、詩情が潜んでいるように思うのですが、いかがでしょうか。 浪費する為に、というのは、意識が発する言葉。その意識に先駆けて、思わずギムレットを頼んでしまった感覚、ニッキ棒を「なつかしい」と錯覚する感性、がある。その感覚を捉えるところに、詩の源泉があるように思うのです。 (遺骸)

2018-09-04

かるべまさひろさん 時空の水場・・・のようなイメージがあって、うまく言い表すことが出来ずにいるのですが、海をイメージしてくださった、とのこと、ありがとうございました。 鈴木 海飛さん 「  」の中に収めた言葉は、後から足したものでした。三名の中まで小さな同人誌をやっているのですが、その仲間たちと”読み合わせ”を行った際、冒頭に〈思いがけぬ言葉〉とあるのに、いつのまにかそれが消えてしまうのはどうか、という意見が出て、最後に心の中に響いている声を挿入したのでした。 題名も、当初は「息をする」だったのですが、息継ぎの方がよいだろう、ということで、そちらに変えました。合評の効果ですね。 父の声、と読み取って頂いても、内在化された父の声、あるいは、様々な人や物を通じて、声ではなく伝わって来る声、として読んで頂いても、その他の読み取り方をして頂いても・・・どうぞ、ご自由に楽しんで下さい。 (息を継ぐ ※)

2018-09-04

〈きみは酒飲みを思い切り飲み干した〉このあたりから、展開していきますね・・・ 〈きみ〉に〈ぼく〉が”飲まれる”と読んでみたい。 〈きみは懐かしかったを思い切り飲み干した〉このフレーズも多層的に読み取れて、とても面白い。 出逢った時に、相手に不思議な懐かしさを覚えたりすることがありますが、 その心理がユニークな動作イメージで現れているところが新鮮でした。 五官の内、口、目、耳は記されるけれども、嗅覚と触覚については触れられていない。 〈僕〉以降は器具?も用いながらの房事の描写とも、身体的な交流を暗示しつつ、人と人との内面的な交流を描いた、とも読めるけれども・・・口語をそのまま取り込んだような後半、少し冗漫に感じてしまう部分もありました。 〈良かったのがよくなかったので〉〈よかったのがよくないので〉こうした、論理的であるようでいてナンセンスな揺り戻しや、 ≒で繋いでいくようでいてずらしていくような並列の仕方も面白かったです。 (ハロー!)

2018-08-31

〈やんわりと断って〉印象的なフレーズ。 青信号、になるのを、待つのか。いらいらとクラクションを鳴らす車たちを、ボタン一つで遮って、堂々と「渡る権利」を、行使するのか・・・ 人間関係、世渡りのメタファーとして作品を読みたい。アザミの種のように、軽やかに野山を渡って行けるなら、どんなにいいか、と思いつつ、それはかなわない願いだから・・・人慣れした野良猫のように、気ままに生きていく、ということも、出来ない相談、だから・・・。 無理やり流れを止めて、渡る、人が多いけれども、それを語り手は、したくない。〈難しいことではない〉、と言いつつ、しない。苛立ちながら迂回路を探す、ということもしない。青信号になるのを、待つ心。 〈クラクション鳴らすくらいなら/雲を震わせ雨でも降らせてみせて〉 怒りや苛立ちを叫びたてる側、に立つのか。雨を降らせる側、に立つのか。 〈ダサいレインコートを真剣に選んで それでもどうしたって染み込んで 張り付いてくる無情さを知らないひとは 迂回路で矢印が出るまでおりこうにしてなさい〉 降り注ぐ雨、それは、共に泣く、ということ、共に涙を流す、ということであるのかもしれない。 共に泣いたからといって、どうにもならないこと、はある。そのどうにもならない(何もしてあげられない、何もできない) 無情さを知らない人が、道を押し渡っていいのか・・・。 〈わたし〉は、待つ心を持っている。〈青信号〉になるまで、待つ心。はりついてくる雨の冷たさを知る人、であるから、なおさら、青空が待ち遠しい。曇り空の赤信号のイメージが、青空を飛ぶ綿毛のイメージに変容していくところ、猫のイメージがちらほらと現れては消えるところなど、映像的な余韻も残る作品でした。 (ROUTE)

2018-08-31

前半は幻想の世界と思って読んでいたのですが、中盤からリアル世界に移り変わっていく感覚がありました。 〈一度断ると 左手に強引に握らされた だから世界の三分の二が消滅した〉助けたはずの手負いの天使、彼?彼女?が元気になって・・・天使に〈強引に〉握らされた魔剣を手にした、〈だから~消滅した〉この流れは、なかなかにコワイ。ファンタジーアニメのような夢想、と表面的に読んでもよいけれど、心に傷を負った人と巡り合い、その人の虜になって、こんどは自分の世界、が侵食されていく・・・そんな関係性の変化が描かれている、と読みたくなりました。 (シワン月の六日)

2018-08-31

たった ふた文字 この、ひらがなと漢字の割合が、絶妙ですね。 作品として見て行くなら、最後の一行を隠して、余韻(読者が想像を巡らせる余地)を残した方が、より読者を引き込んでいく作品になるように思いました。 (ゆうき)

2018-08-31

以前、こんな文言から始まる詩を書いたことがありました。 多面体のクリスタル・・・その中央に「わたし」は居て、その「わたし」をぼんやりと外側から見ている。外側にいる「私」は外にいるはずなのに、内側にいる「わたし」が、限定された一面から外を見る、その視界をしか、得ることができない。内側にいるはずの「わたし」が、カットされた一面、一面の存在に気付くのは、外側から誰かに(何かに)よって、光を当てられ、その面を透過した時のみだ。その周囲は闇ともつかない、灰色の流体のような、濃度の濃い大気のような、そんなもので包まれている・・・ やたら説明口調の割には、なにやらイメージがつかみがたくて、そのまま放置している、のですが・・・社町さんの作品を読んで、なるほど、ミラーハウス!と手を打ちました。 自分を意識したり認識したりするのは、他者と接した時、である、わけですが・・・その他者の中の、自分と同質の部分に反応するのか、異質な部分に反応するのか・・・自分で気に入っている部分を相手方に見出すと幸せは二倍、ということになるのかもしれないけれど、自分で嫌だ、と思っているところを相手方に見つけてしまった時には、二倍どころか、四倍になって帰って来る。お前の姿だ、これは、と突きつけられている、ような・・・。 人と人との間には、透明な被膜のようなものがあって、マジックミラーのように、急に素通しになったり、鏡になってはねかえしたりしながら、私達の「関係」を生み出しているのかもしれない・・・そんなことを思ったら、これもまた遊園地にあるような遊具、大きな透明なバブルがいくつも組み合わせられたジャングルジムのようなものを思い出しました。私達ひとりひとりが、透明なバブルの中に入っていて、そのバブル同士がくっついたり離れたりしながら、それぞれの姿を映し合っているような・・・そんな世界も想像しました。 題名の「瞑想」、とても分かりやすくて良いのですが、作品の主題を最初に出してしまっているので、もったいないような気もしました。 もっと、あれ、なんだろう?という気持ちになる、謎めいた題名の方が(・・・と言い出すと、いわゆるゲンダイシ病、それがいかんのだ、という声も、聞こえて来る、ような気もしますが・・・) (瞑想)

2018-08-31

〈くうきもからだをとおりぬけていく〉この一行があって、良かったです。 逆に言えば、その他の行は全体に甘すぎる、印象もあり・・・その、思いついたままを、ひねらずに歌ってみる感じ、が、ひねりまくった「現代詩」へのアンチテーゼといいう面も持つ、のかな、と思いつつ・・・ 「さくらももこ先生が描く一枚絵や映画「わたしの好きな歌」などからインスピレーションを受けて書いた詩」 このコメントを、作品の末に注記として入れて、それもまた作品の一部にする、というやり方を持ち込むか、どうか、ですね。 題名を「ぱらいそ」にして成功だったと思います。 〈にぎやかな港町を〉→〈ひとでにぎわうみなとまちが〉にしたところも。語り手が町を感じる、という構図から、語り手の意識が後退して、町が生き物的な質感で立ち上がって来る。また、人で賑わう、とも読めるけれども、一瞬、ひとりで賑わう、と空目したりもして面白かったです(というのは、個人的な感想ですが) (ぱらいそ)

2018-08-31

ガントレット、がわからなくて調べました。甲冑の籠手、のことだとか。あるいは、ゲーム、あるいは映画・・・ わたくし、という古風な言い回しが印象に残りますが、全体にモチーフが拡散しているようにも思いました。 闇夜の体感から始まり、自らの〈残酷さ〉と自らの孤独に想いを馳せる2連・・・があって、3連で急に夕景に「戻る」のですが、その次に明け方が来る。夕景の部分が過去の回想部分の挿入だと見れば、ここを一字下げなどにしてみると、もう少し作品の縦軸が見えて来るようにも思いました。 (浮遊するガントレット)

2018-08-30

一連が、素敵でした。 砂時計のイメージと、花束のイメージが入って来るところ、 きらめいて飛び散るガラスやセロファンの破片のようなイメージが、軽めのイラストのようなイメージに掻き消されてしまうような感もありました。 最終行、余韻が残ります。 (ぜつぼうのあじ)

2018-08-30

〈いきるうちにいろんな色に僕らは染まって〉 い の音が連なって切迫していく感じ、うったえて来るものがありました。〈僕らから解散していった〉体感をイメージに変換することに成功していると思います。ここも、から、の「か」が「かいさん」の「か」を引き出しているのか・・・。 色、のイメージと〈二本の線〉のイメージが出て来ますね。君の軌跡と、僕の軌跡、それが一瞬の幻のように、刷毛ですうっと線を引いたように「見えた」瞬間があった、のではないか、と思うのですが、どうでしょう。あるいは、君、の中に押し込められていた無数の色彩が飛び出し、飛び散り、様々な絵を描くのを、僕が感じ取っていた、としたら・・・そこを、知りたいように思いました。 後半、特に最後の止め方、日常的なつぶやきに戻ってしまっている感覚があり、もったいないなあ、と感じました。 (交わり)

2018-08-30

マザーグース的な、ナンセンスの面白さはあるのですが・・・ 吾輩は猫である、名前はまだない、という、あまりにも著名なフレーズがあるので、そちらにのまれてしまいますね・・・ パロディーにまで話を膨らませるには、あるいは、名作の借用ををむしろ生かすにはどうしたらいいか・・・ 全体的に説明が多いような気もするので、その説明部分でリズムを作るように工夫してみるとか、拾ってきた&自分もお姉ちゃんもヒロシ、ヒロコである、という共通項(自分達も拾われてきた、適当に名前をつけられてしまった、等々)をいかしてみるなど、色々試してみると良いかもしれないと思いました。 (ぼくの飼っている猫)

2018-08-27

冒頭の、夏の典型、ともいえる「幻影」と、最後の〈だから僕の夏は~〉の「典型」への転換。 振り幅が大きく、そこに魅力を感じました。 実際には「夏の典型」ともいえるような「夏」を過ごすことが出来なかったからこそ、永遠の憧れ、として、 体験しなかった幻が、実体験のような記憶となって思い出の中を占めている、ということでしょうか。 中盤の〈~すればよかった〉が続く場面、抽象度が高いので、実際にあったこと、を、具体的なエピソードに触れずに「解説」しているように見えるのが、少し残念だと思いました。その当時感じたことを、同等の感覚を伝えることができるような比喩に置き換えてみるなどを工夫を試みると、もっと切実さが伝わるような気がしました。 (僕の夏)

2018-08-27

「中学校の同窓会があったら、あいたい人がいる。」と始まって、「同窓会があっても おだくんに会うことはないだろう。」 で終る、その枠組みは自然なのだけれど、なぜ「会うことはない」と断言できるのか、その理由が明かされていないところに、謎がありますね。あいたい人、と書かれているので、会う可能性が失われているわけではない。でも、会うことはない、と語り手は予測する。 なぜ・・・?何か理由があって、クラスメートには二度と会いに来ない、と語り手は”わかって”いるのか、そのことに、なんらかの思いがあるのか、ないのか・・・。 「あいたい人がいる」という一行めを省いてみると、いきなり「おだくんは~」と始まることになります。読み進めていくうちに、中学一年の時のこととわかってくる。でも、あう、という可能性について触れられていないので、「おだくん」が今でも実在しているのか、あるいは既に亡き人、なのか、読者にはわからなくなる。そこまで、可能性を広げて提示してみるのも一案だと思いました。 (おだくん)

2018-08-27

最初の「私は」は、痴漢をした方、で、次の「私は」は、痴漢をされた方、で、チンピラみたいにイキガッテいるのは、後の方の「私」の彼氏、でいいのかな・・・ 以前、男女でペアを組んで、気の弱そうな男性をターゲットにしてお金を巻き上げていた犯人が捕まりましたね。 女性が「置換された」と訴え、俺は見ていた、法学部の学生です、と「目撃者」となった男が名乗り出る。 なんだか、その情景を思い出しました・・・。 この詩の「私」は、おどおどした「痴漢」の手で、実際に触られてみたい、と思っている、のかな・・・こんな、ペテンみたいなやり方で、架空の痴漢話、にしてしまう、のではなくて。(勝手に、サギ事件を主題にしている、設定でコメントしています) (初体験.by.のぞみ.)

2018-08-24

註記も含めての一篇の詩ということを、改めて考えました。 ガードレールに沿って・・・ 世間の規範から逸れることなく、かといって乗り越えるのでもなく・・・足裏に落葉を感じるところがニクいですね。 アスファルトの舗装面からあえて外れて、その外を歩く。 自然を味わい、過去の思い出を呼び戻しながら歩くには、舗装道路ではなく、少しだけそこから「ずれて」見ることが大事なのかもしれません。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-24

「鉄塔のてっぺんの点滅する赤い光  どこかへ行くのだと思っていた」  夜の底をくすぐるように  赤くもだえている君たちのツブツブの  ・・・いや、すべてが消え去った夜があった  底冷えする春の・・・  その話はもうよそう  どこにも行けない、ということが、わかっただけ  どこにも行きたくない、ということもわかったので  君と一緒に  夜の赤い光の点滅を見ている    僕は君と会ったことがない  それでも君が今、空を見ていて  空が暗くつながっていて  その向こうから何万光年も時間を費やして  僕等に迫って来るものがある     鉄塔のてっぺんの点滅する赤い光  数十万年後に地球がとっくに滅び去って  それでもこの赤い光は  届く人を求めて探して  宇宙空間を飛行し続けている  そこには、きっと君の言葉も  絡んで濡れて光っている  いつか手繰り寄せる手のために  それは蒼ざめた肌かもしれない  緑色の肌かもしれない  その指先のぬくもりのために  僕らは今  別々の場所で  互いに断絶しながら  同じものを 見ている (鉄塔)

2018-08-23

その瞬間、止まった時間 滴のようにまるくふくらみ円を描いて 油滴の虹をとりこみ、とりこみ 渦を巻いて巻き込み、落ち込み 深い穴へと滑り落ちる 落ち切った底で水の壁に背をもたれかけて 水のスクリーンに映る世界のすべてを あなたは見つめて見つめ続けて やがて一気に 上昇する 花火のように弾ける時間 そこから流れ出しあふれ出し 全てが再び動き出して 水のスクリーンに幻燈のように浮かんでいた もろもろの薄物が 華やいでひろがりあなたから離れ 絡んでいた糸も綱もいつのまにかすべて薄れ 闇の中で花のように咲いている 見ていた歌い手も火の粉と共に舞い上がり ふりそそぐあなたの光の中で踊る 戯れる その手をそっと 取ってください 色とりどりの夜の灯りが 薄らいで消えて霞み始める地平線のそのまた向こう 朝が 少しずつ領域を広げようとしています (ラ・ラ・ラ族)

2018-08-23

前作の「四谷シモンの人形」が命を得て動き出したような感もありますが・・・「あゝ、人形じゃない人形」を毎回連頭に持ってくるのは、どうなんでしょう・・・二回くらいでもよいような気もします。 〈巨大なハサミを背負って〉あたりから、じわじわと怖さに持って来たかった、ということなのか・・・ここから、リフレインなしに一気に駆け抜ける感じでもいいかな、などなど。 つい最近、チタニウムホワイトを用いた詩を同人誌に公開したところでした。白の微妙な質感、気になります。セラミックホワイト、シルバーホワイト、ジンクホワイト、チタニウムホワイト・・・絵を描かない人は調べたりすることになると思うのですが、人形ならざる人形の、透き通るような白さと冷徹さ、そのムードを良く捉えていると思いました。 中盤、カッコで言葉を連ねていくあたり、アニメの異界に取り込まれてしまったような・・・現実とフィクション世界の境界が浸潤しあっているような感覚があって、面白かったです。 (Coppelia)

2018-08-23

病室で、星、あるいは光源としてその場にいる人々を照らし出す役目を担わされている自分・・・設定の物語として読みました。 父親の亡霊が見える、このあたり、ハムレット的な面白さがありますね。生い立ちのせい、と一行でおしまいにしてしまわず、 むしろその部分を創作していく(事実を元にしても、完全なフィクションであっても)と、どんな展開になるのだろう、と思いました。 (大人の楽園)

2018-08-23

前半の自然な流れも面白く読ませて頂いたのですが、後半の、半ば即興的な要素が入って来るあたりから、文章がうねるような勢いを増してきていて、いいなあ、と思いました。 (まとめのにがてなこどもみたいな、こどもっぽい、こと。)

2018-08-23

粉々に砕けた蝶の欠片と、おそらくは夢半ばで昇天することになった君への思いを重ねた作品、と読めそうな作品なのですが、砕かれた蝶の羽の美しさ(夢は破れても美しい)という無情感への思いが主題なのか、君(あるいは君の気配)が、語り手のもとを訪れた、という体験が主題なのか・・・呼びかけ、語りかけの甘さが、切なさを覆い隠してしまっているような印象もあります。 (再び)

2018-08-23

金縛り状態にある身体と、緊張が解けかかって、ムズムズしている皮膚表面の感覚を覚えておられるのでしょうか。 写生風の描写で特異な体験を確かめようとするような描写を追いかけていたら、〈それは愛する2人の衝突だった〉という「まとめ」に、一気に飛び越えてしまったような感覚がありました。ここをもう少し追っていったら、ユニークな世界が現れてくるような気もします。 (ある夜の恐怖(幼少期の記憶))

2018-08-23

飛び降りようと思って昇った先で見た景色、であったら、どうだろう、そんなことを考えました。不幸も幸福も、美しさも醜さも含めて、ああ、今、自分はそれを見ることが出来る、と、ふっと思いとどまって、そこから詩を書く、方向にシフトした、というような設定。 (絶景)

2018-08-23

単純に「準備」をしただけでは駄目で、冷凍庫で凍るのを待つ、という「時間」が必要なのだ、ということ・・・そして、熱さを耐えたからこそ、その「時間」も、予想した美味しさ、期待した美味しさを楽しむことが出来る、ということ・・・そのための「準備」が生きる、ということ、などについて、考えました。こうした考え方は、詩の素材(自分が感動したきっかけ)を大事に寝かしておいて、言葉になるのをジリジリ焦がれながら待つ、そんな状態にも通じるかもしれません。 言葉の語調というのか、調子を整えようとし過ぎて、全体が流れているような気もします。詩論的な含みというのか、二重性も持ち得る、という寓意の力を意識してみてはいかがでしょうか。 (みかん風呂)

2018-08-23

まど・みちおさんの「輪回し」でしたか、輪回しを遊ぶ詩が、輪回しの形に並んでいて、子どもたちの読み聞かせなどで見せながら読むと、大人気でした。「かいだん」というのもあったなあ・・・ 形に縛られる不自由もありますが、その不自由さが、自分では思ってもみなかった言葉を引き出してくれる、予想外の言い回しを引っ張り出してくれる、という効果があったりします。 作品そのものが詩の形を決めて行ったり、出来上がった形が推敲の段階で言葉を変える手助けになったりもする、と思うので、様々な形で遊んでみるのも良いかもしれませんね。 (段)

2018-08-23

るるりらさん ありがとうございます。蛹を実際に見た時は、文字通り金属光沢そのもので、ああ、黄金だ!とびっくりしたのですが、飛び立った後の抜け殻は、まるで光らない、うすい皮膜でした。鏡のように、透き通った面の内側に光を跳ね返す部分があるのかもしれません・・・ドロドロにとけた肉体の段階も、既に蝶になった段階でも、どちらも輝いていました。あんなに目立つ蛹が、無事に生きのびて来たことが不思議でしたが・・・なるほど、食草の毒を身体にため込んでいるのですね。毒蛇と同様、食べたら危険、のマークなのかもしれないですね。 三浦さん 現実からズレて、いますか(笑) 子どもたちに、ママって相当変 相当、てんねん と言われております・・・先日も、血豆をツバメ、と聞き間違えました。なんで足の指に「つばめ」が出来るんだ、と大爆笑されましたが・・・「つばめ」としか聞こえなかった。ツバメのことを考えていたのかもしれません。前後の脈絡に関係なく、脳内の夢想がつながってしまう、のかもしれませんね。 二条千河さん 人間の五感や身振り手振り、これは万国共通、世代間もある程度共通、のような気がします。絵画や音楽に関しても、もちろんそれまでの経験値や知識体験が影響してくるとは思いますが、言葉以上に「通じ合う」ものがある、ように思います。 そう考えると、言葉の翻訳は、本当に難しいですね。地域、環境が異なっているだけで、同じ日本語を母語とする人であっても、受け取り方がぜんぜん異なる。沖縄戦を体験した方と、そうでない方との間では、「うりずん」そのものも、かなり異なって受け止められるようです。沖縄の悲惨極まりない地上戦が始まった時期が、ちょうと「うりずん」の頃で・・・今でも、この時期の雨に触れると体調が悪くなる方がいらっしゃるそうです。うりずんは血の雨涙雨、という言葉も聞きました。その経験がありながら(そのことを知りながら)自分の体験、体感に正直に書く、ということの矛盾についても、考えています。三浦さんの言う「断絶」が、そこにはどうしても介在するのかもしれません。 (うりずん)

2018-08-23

街角に路地裏に子供の声が溢れていた時代は既に過去のものなのでしょうか。自分が育った、子どもがワラワラといた時代、に比べて、孤独、孤立した状態で子育てをすることを強いられる、そんな時代になっているような気がします。 熟れすぎて、あるいは痛んで持ちこたえられなくなって、落ちていく寸前のトマト・・・それは、子育てに張りつめていく、孤独な母親たちがみな抱え持つ、ある種の爆弾であるような気がしました。 (自転車を押す坂道にて)

2018-08-19

飛んでった、ハト、トリ、永遠にはヒヨコじゃないの・・・という言葉が、どんどん目に飛び込んでくる感じ。それに対して、今のわたし、は、モグラ、なんだろうな、体感的に・・・そこから、どうやって飛び立とう、そんな(三浦さんの言葉を借りれば)肯定感がありました。 〈食べられなくても三本あればトリあえずは死なないって言ったよね先生あの時〉しんどい、辛い時間を、後から(私だったら)こんなに軽やかにユーモラスに振り返ることができるだろうか。そんな驚きも含めての肯定感、です。 (進化の過程¥崩壊)

2018-08-19

〈流されやすいから〉と〈こぼれかけの身体を押し込んだ〉の間に、〈眼の奥ではぢりりと黒焦げトースト〉〈ルビーのふりしなくちゃいけなくて〉が入って来る、この感覚が新鮮でした。見ているもの、が、そのまま自分、になってしまっている、ような・・・stereotypeさんが「暑さを表す表現」とコメントされているけれど、身体が焦げてしまうような昨今の暑さ、燃え落ちていく星、に自身を重ねていくような心象、どちらも感覚的に結びついていくような気がします。 〈8月の雲にクーラーをのっけて 底なしの青いあくびへ迷いたい〉このあたりも、ライトな表現だけれど、あのうんざりするような暑さを ひっくり返すような(雲の上で、涼しい風に吹かれながら、とろけるような眠りを眠りたいよ~というような)面白さがありました。 堕ちる、燃える、焼け焦げる、腫れた(晴れた)空とみみずばれ(のような堕ちる星の痕跡)が生みだす、必死に生きて行こうとしているのに(ルビーのように輝く者で居なくてはいけない、そうでありたい、のに)堕ちていくような体感、焼け焦げていくような体感がある・・・という深刻さや重さを、〈8月の雲にクーラーをのっけて〉というような軽さと甘さでバランスを取っているのかな、という気もするのですが・・・トースト、クーラーという軽やかさの方が勝っている印象もあります。 (堕ちる星)

2018-08-19

寂しくはないのか 楽しくはないのか ストレートな問いかけですが、落ちていく水音に、自身の「時間」がぽたぽたと垂れ落ちているのを感じ取るような感覚、その時間を丸ごと写生しようとするような感覚に惹かれました。 (不明)

2018-08-19

お盆に、死者が手土産に持ってきてくれた羊羹をスライスしていくと、その都度、記憶が断面に浮かび上がる・・・というような夢を見て、それを詩に描いたことを思い出しました。〈煉羊羹から連想する色は感情迸る赫だと君は嗤う〉、なるほどなあ、燃え盛るようなアカ。羊羹、文字面からの連想でもあるのですが、なんとなく”肉肉しい”感じもありますよね。 〈僕が視ていたようなサ変の上二段〉古文の文法書を開いている様子を連想。なんとなく学園のムード。(誤読、かもしれませんが) スーパーボールの弾ける感じと、濃厚な黒の色彩、誤読―誤飲へとつながる体感、一気に異界に引き込まれる感覚・・・。 〈6月の花壇の汗ばんだ君の名を忘れたから〉から〈僕が軒下で君と聴いていたのは水風船と風鈴が粉々に砕けて、蝉時雨だけが永遠を奏でる水無月〉に至るまで、断片的にイメージが連なっていくようでいて(蝉時雨はちょっと早いかな、という気もしますが)異界と現実の六月が相互に侵入しながら続いていく、そこに、都市の断片的な映像が差し込まれていく。そんなシャッフルされていく映像をイメージしました。 (水羊羹を誤読して、彼の躍動或いは記憶)

2018-08-19

大きな、大きな足のワニ、の絵本がありましたね。そんなことを思い出しました。 (足がでっかくなった)

2018-08-17

大木、の中に 仏 がいる、として・・・アニミズム的な、精霊信仰的な要素もそこには多分に含まれている、として・・・ 魂のかたち、というように「見えない」状態で収まっているものを、見出して掘り出して衆目にさらす、ということ。 それは、仏師の悲願でもあり、同時に、芸術家としての表現意欲、であるのかもしれない。 羽田さんのこの作品では、前半は「衆生の役に立ちたい」「仏師として、優れた仏像を残したい」という個人の欲望から、閉じ込められている仏様を出して差し上げましょう、という発想が生まれている、ように思うのだけれど・・・ 眼目は後半にあるのではないか。一体の仏像を掘り出すために、「余分」なものとして削り取られた、一般的にはゴミとして廃棄される木っ端に、そこにも(ひとつひとつに)仏性が宿っている、ということに気付いた僧のおののき。 個としての(仏師としての)欲望が、世界は見えざる仏性に満ちている、と気づかされた瞬間の・・・個の埋没というのか、その畏怖と喜びに満たされて、憑かれたように小刀をふるう僧の痕跡、それを木っ端の鉈痕、小刀痕に見るところに注目したい作品だと思いました。 (僧の跡)

2018-08-17

一連目、二連目は簡潔な前書きとして拝読。三連目、もっともっと膨らましても良かったかもしれない、と思いつつ・・・ 実際に舞台を観た感動は、なかなか言葉にはし得ないもの、なのか・・・フィオリーナさんがどう感じたのか、そこを、もっと知りたくなります。 (ソポクレス『オイディプス王』 ※)

2018-08-17

詩を、作品としてではなく(つまり、作られた物ではなく)作者によって生み出された、としても、そこから先はよちよち歩きであっても自立して生きていくもの、と見ているところが面白かったです。詩論的な作品だけれども、擬人的な比喩を用いなければ伝えられないことが満載、という部分が、詩なのだと思います。 全体のバランスを見ると、一連目がずっしりと重い、感じになっていますよね・・・少し、詰め込み過ぎなのかもしれません。 「詩」をとりまく親、兄弟、学校の先生、友人、部活動の先輩、街中のおじさん、おばさん・・・的な、ひとつの社会というのか、人間関係が見えてくるような面白さはある、のだけれど。 二連目以降は「評論形式」の文体が、内容と釣り合っていて、スッキリ読みやすく、また、納得もしました。 (批評について・雑感 ※ )

2018-08-17

コメント欄のコメントも面白かったです。 貴音さん〈アワビは下品 バラとザクロは官能〉なるほど・・・うねうね、のたくるから?ピンクの綺麗なアワビだったら、官能に寄る、のかしらん・・・ 杜さん〈本返し縫いのような文章だなぁと〉これも、なるほど~!でした。戻って、戻って、その都度、さわる感触が繰り返される・・・ 多肉植物の図鑑みていると、古いものは漢字だらけで、最近の園芸品種はカタカナ(ラテン語系?)も多くなっているけれども・・・いずれにせよ、超絶ロマンティック、なものが多くて、眺めているだけで嬉しくなってしまう。乙女心、虹の玉、星の王子、月兎耳・・・火祭とか黒法師とか、ゴツイのもあるけれど。脳髄丸出し、みたいな、頭が水晶みたいに透き通っている傾倒(コノフィツム類とか)も、エログロキモイ感じで、好きです。 (セダムとイヴ)

2018-08-17

〈いやなものに触り 好きだといって迎えに行く〉 嫌なもの、を、好きなもの、へと変換する、そんな考え方、感じ方の反転を起こしたい、ということなのかな・・・ 〈氏〉は死や詩と発音が同じですね。そんなことも、ちょっと脳裡をよぎりました。 (灯台)

2018-08-17

1、2、連、いささか丁寧過ぎないか?と思い、3連、4連、ここは純粋に面白く、5連、6連、妙に現実というのか、リアルに戻ってき過ぎてる感、が出ているのではなかろうか、という・・・自分の「好み」に寄り過ぎているライトレスですが。5、6連、特にテレビが出て来る当たり・・・実は5連で語り手はパソコン内部に取り込まれていて、パソコン画面の内側から室内を見ている、的な転換があるとどうなんだろう、とか(誰もが思いつくようなアイディアですね、はい。) (じゃんぱら)

2018-08-17

羽田恭さん リアルな実感、それを突き詰めていくと、どんどんオリジナリティーが増していくような気がしています。それにしても、今は牛の出産ラッシュなのでしょうか?いのちとの体を張ったやりとり。いつも楽しみにしています。 ミナト螢さん 近代詩などを読んでいると、超絶ロマンティックな作品もたくさんあったりしますよね。「現代」詩で、やってはいけない、ということはない、はずなのだけれども・・・同時に、歌詞でそのあたりは充足してしまっている、という読者も沢山いるのかな、と思ったりしています。歌で聴く時には甘すぎても「イケル」けれども、文字だとなんとなく抵抗感が出てしまう・・・そこを乗り越える、甘くて深い作品が、求められているのかもしれません。 こうだたけみさん 文字が脳内で音声に変換される、と同時に、イメージが引き寄せられる、わけですが・・・イメージが追いついた時には、変幻自在に、別のイメージに様変わりしてしまう。そんなスピード感と鮮やかな変化、これは才能だとしか思えません。日本語って、脚韻が難しい分、頭韻というのか、出だしで次のイメージ(色)が予想されていく。そこを手品のようにひっくり返してもらえる爽快感が好きです。 二条千河さん 思想、これは実に難しいのですが、人間とはなんぞや、とか、社会とは?とか、そういう、人肌に密接な世界観のようなもの、ものの観方のようなもの、だと思うのですね・・・様々な局面で、この事の意味は?とか、自分はどうすればいい?とか・・・他者の意見を参考にしたとしても、自分で考えている人の骨格、のようなもの。命名は親からのプレゼント、でもあるけれど、それが期待の押し付けであったり、子どもの私物化への第一歩であったり・・・戦時中世代の親たちが、毅、武子、栄子、勝利(かつとし)・・・などであったことも思い合わせたりしています。 地球さん キュレーターが沢山、それぞれの個性全開でキュレーションをして下さっていて、花畑のようです。自分の好きな詩に偏っても、大丈夫かもしれない、そんな安心感も生まれて(変な言い方ですが)少し、気楽に、キュレーションを楽しんでみようかな、と思ったり、しています。 (B=REVIEW 2018年7月投稿作品 選評)

2018-08-17

おわぁ、こんなところに隠れファンがいたとは。編集長に伝えておきます、もっとも、彼はいま、たしか宇宙旅行中なので、いつ返信が来るか・・・ (ウォシュレット)

2018-08-14

なつかしい、感じだなぁ、と思っていて・・・こどもがからめとられる、あたりでゾワゾワと来ました。うまい❗ (生垣)

2018-08-14

彼はそう言っていた 彼女はそう言っていた このフレーズが、リズムというのか、この詩の呼吸を作り出していると思いました。 バラッド(民謡詩、物語詩)にしばしば見られる、懐かしい枠組みが、リアルに実体化された暗喩を繰り返し読者の前に(イメージとして)提示していく。 (無題)

2018-08-14

この世に存在する、詩と名付けられたものの中に、ひとつでも俺を満足させたものがあったろうか。三千歳を過ぎた時点で、メンドーなので、既に自分の年齢を数えるのをやめたんだが、それにしても、この俺を満足させてくれる詩など、ただの1度も、この世に存在したことはなかった。 すべて、くたばっちまえ。自滅しないなら、すべてを俺は焼き尽くす、燃やし尽くす。 その灰だけが分厚く積もった空間で、はじめて俺は詩を書くのだ。己の腕を切り落として、それを筆にして地が見えるまで、灰を掻き分けながら。 おい、みうら、とやら。なぜ、見恨という本名を騙らぬ。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-14

皆さんが書いていらっしゃるので、重ねて言うことはもう無いかな、と思いつつ、「ああ /思い起こすたび /もう僕たちは薄く伸びて」橙色の中に影が長く延びていくのを並んでみている/見ていた日々、への懐古が沁みてくるなぁと思いました。オレンジ色と橙色の質感の違いもありますね。 (橙色)

2018-08-14

いやあ、おもしろい。 ぞくぞくしました。 実はわたしは、この作者を良く良く存じ上げているのです。詩誌ではなく、文芸詩でもなく、著名な現代詩想系の(厳密な会員制なので、なかなか店頭には見かけず、なおかつ、ネットでも購入不能なのですが)隔月刊行誌のメイン執筆者です。(これは、ご本人の了承を得ずに、開示している情報です) この文章が虚偽であるのか真実であるのかの判断は、読者各位にお任せしますと共に、すべての文責は「まりも」というハンドルネームを持つ雑文家(65歳男性、独身)にあることを明記しておきます。 (ウォシュレット)

2018-08-14

あ、クラブ、が、グラブ、になっていました・・・しつれい。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

ワンダフル❗というのが、第一印象でした。リフレインするところ、D.J.が、レコード?を、きゅきゅきゅきゅっとやったりする、あの感じだなぁ、と思ったり(正確な呼び方すら知らない、グラブ音痴ながら)全体で意味やストーリーを構成するというよりも、胸にカチッときた、ピタッとはまった、詩行を抜き出してシャッフルして、それを改めてノリと感覚で直感的に並べ直した、という印象があり(自分に都合よく、都合のいい部分だけを抜き出す、みたいなやり方ではなく)・・・実際にはどのように作られたのかは知らないわけですが、読んだときの印象はそんな感じでした。 後半部分、 語り手を故人にしていることだし、いっそのこと、宇宙電波をサンプリングする計画実行舞台の内紛みたいな話にガンガン持っていっても面白かったかもしれないなと思いつつ・・・パロディーというのは、現実(事実)と、うまい具合に付かず離れずだったりするから面白いのかもしれないな、とも思いつつ・・・投稿者への敬意とかリスペクトウンヌンの部分は、フィクションではないわけだから、ここはコメント欄を利用しても良かったのではないか?などなど、思ったりもしました。 熱量が前半と後半で質が違ってしまっていてなおかつ同等くらいの割合で注がれているので、そこが議論の分かれ目かと。 最近、亡くなった親友の話として語りつつ、自分自身が死んだ設定で、架空の詩がいかに編集者に無視され、いかに人心を掌握して、大ブームになったか、的な、架空の顛末をまことしやかに語るという面白い作品を読んだばかりだったので、とことんリアルっぽいけど、とことんウソ、みたいな感じも面白いのかなと思ったりしました。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

夢想を夢想として追い求めるような作風から、自分自身を見つめるような作風へと、変化しているような印象を受けています。 花やガラス器など、自分が見ても、他者が見ても美しい、と思うものを描いていた画家が、自画像を描き始めたような感じ、と言えばいいのか・・・。他者が見ても「美しい」と思うかどうかわからない。でも自分にとって、それは確かに、心を動かすものだ・・・そんな対象をさらに探していく画家になるのではないか、そんな予感も感じつつ。 (笑うギター)

2018-08-13

言葉そのものを物象化して、アクリル板やガラスの柱、モビールで吊るしたり、床の上に散らしたり・・・という展覧会に行った時のことを思い出しました。忍び込んだ一匹の〈鼠〉・・・それは、文字をこっそり消したり書き込んだりする、アートテロリストのようにも見えて、面白かったです。 (a)

2018-08-13

〈あなたさまのなかに わては溶け込んで〉この一行、冷や奴の「単なる」擬人化からだけでは出てこない言葉だと思いました。 ある意味、怖さもある言葉。水底で暮らす方が、と前置きにあるけれども・・・人の心の中の水から浮上して来たなにものか、であるような気もしました。 (冷や奴と申します)

2018-08-13

眠りは死の兄弟、という言葉があるそうです。そんなことを思いながら、冒頭二行で行きつ、戻りつ・・・。 寝ている、のは肉体で、死んでいる、のは、仮死状態になっている心なのではなかろうか・・・それが、読み終わっての感想です。 中沢新一が、私は世界と交接する、自然という女神とまぐわう、というような意味のことを書いていて、世界に欲情する、というのは、どんな感覚なのだろう、と思った記憶があります。男性の場合は、起ちそう、ということになるのか。女性の場合は、包まれている、抱きしめられている、という体感に繋がっていくものであるのかもしれない、と思いつつ・・・「世界」に対して、先端をねじ込むように入り込んでいく、没入していきたい、という感覚と、「世界」に包み込まれるようにのめり込んでいきたい、という感覚に弁別できるかもしれない、と思ったりしました。 〈後藤は人類の総体に欲情してる〉〈人類に射精した僕の精液が〉などの言葉から特に感じるのですが、〈僕〉と〈人類〉との関係性と、中沢新一のいうところの自分と世界の関係性がよく似ていますね。固有名を持っているにも拘らず、河原先輩と須田というワンペアが、アダムとエバというような・・・人類、と総称されてしまうような、〈人類〉へと普遍化されてしまう。それは、〈僕〉と河原先輩、あるいは須田との距離の大きさでもあるように思いました。〈僕〉はこの二人に対峙していて、関わりが無いわけではないはずなのに(声は向こうからかけられているのに)断絶している。〈大地〉と〈小さな方舟〉も、姿を見せぬまま鳴いているクマゼミと語り手との関係も、〈世界〉と〈僕〉との関係が別の位相で現れているものだと読むことができる。 電信柱と犬の尿?で濡れている地面とが、男根と女陰を想起させる物、と見えた、として・・・そのイメージだけで勃起してしまうようなある種の若さへの回顧、という部分もあるのかな、と思いつつ・・・でも、このあたりは、かなり表現が「なま」ですよね。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-13

fiorinaさん 〈詩は行ごとに裏切られていくものとすると〉なるほど、驚きや新鮮な発見がある改行・・・「その先」を知りたくなったり、「不思議」や「謎」が残り続ける魅惑が、詩には不可欠かもしれません。ボードレールの『パリの憂鬱』なども、文章は散文で無理なく読めるのに、なぜ?という「謎」が解けずに残ったりする。詩情と情感の違い、詩と詩情の問題・・・なども、考え続けたいと思います。 右肩ヒサシさん 丁寧で奥行き深い評をありがとうございます。沖縄の場と、その空気の中で強く感じたのが、溢れるような生命力でした。官能的、といってもいいような・・・朽ちていくにおい、腐っていくにおいが鮮明で、そこかしこに滞るように渦を巻いていて、それでいて澄んだ爽やかな息吹のようなものが、吹き通っているのでした。朽ち木を喰い破るように芽吹く緑の迫力など、いのちが色濃く漂っているような感覚があって・・・その中で戦時中の話を聞き、資料館で言葉を失い、高速道路わきの、豪勢な米軍住宅がえんえんと連なるのを見て・・・今もまだ、うまく言えないままでいます。なんども、立ち返ることになるでしょう。 帆場蔵人さん 「旅」を楽しんでいただけたとのこと、何より嬉しいです。ありがとうございます。その土地でしか感じられない質感や空気感のようなものを、うまく捉えていけるようになりたいと思っています。 (うりずん)

2018-08-13

コメント、ありがとうございました! ・・・レスを入れて、でもって、ずっと、ずうっと、書かない方がよかったかな、とか、 でも、変だよね、と思う人がいたらどうなんだろう、とか・・・ 嘘つき野郎、だとか、そういう風には思わないけれど、ちょっとだけ、裏切られ感、みたいなものがあって、書きこんでしまった、かもしれません。 〈まりもさん、ちょっとだけ違うんです。 私がイマラチオさんと本格的に共作したのは5月だけです。 共作とは言っても殆ど、書き直されたわけですが…。 でもこの書き直しは意図でもあります。 基本的に一人、月に2作までの中で 同じに人間が別名義で投稿するのはアウトですよね? だから、私の書いた詩を乗っ取って殆ど新しく作り上げてくれれば それは最早別人だろうという屁理屈の元、そうしました。〉 了解です!お話を聞けて、すっきりして、すごく、嬉しいです。 ひとりで月に四作とか、そういう「ずるさ」は嫌いだけれど、 カオティクルさんの、黙っていればわからない、はずのことを、あえて明かす潔さ、とか、もう、大好き!です。 追記で書きましたが、コメント欄で明かした時点で、運営の方々が良しとされたわけですから、OKということでよいのではないか、と思いました。 こういうやり取りができるのも、双方向性掲示板の良い所、だと、あらためて思いました。 (イマラチオ)

2018-08-12

追記 異議を申し述べたい、などと、強い口調で書いてしまいましたが、一般投稿者としての「意見」です。 共作であることが判明した時点で、運営の方が良しと判断された、という事でありましょう、後から異論を申し述べる形になってしまったことをお詫びします。 後から名前を明かされた時点で、作者名を連名にする、という方法もあるかもしれない、と(勝手ながら)思いました。 以上、追記でした。 (イマラチオ)

2018-08-12

仲程さん 沖縄で霧雨に触れた時、光を浴びているような、不思議な感覚がありました。たくさん悲惨な話を聞いたけれども、まあ、いいさあ、とゆったり乗り越えていくような、逞しさのようなものがあり・・・生命力の分量というのか、エナジーの総量のようなものが、東京のビル街の中に居る時には感じられないものでした。 杜 琴乃さん 家族で行った沖縄旅行でしたが、不思議にひとりひとりが個としてそこにあるような、そんな感覚を覚える体験でした。詩というよりは、旅行エッセイのような散文にかなり寄っていますが、旅先での情感が伝わったのであればよかったです。 かるべまさひろさん ここのところ、内面を掘り下げていくようなものが書けなくなっていて、外界との接触で感じたものに傾いている気がします。内面が枯渇しているということなのか、外から取り入れる時期なのか、よくわかりませんが・・・以前、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』という作品集の刊行イベントに参加した時、出版社はエッセイ集、と帯文を書こうとし、私は詩集だ、と反対して、結局、どちらの言葉も入れなかった、と聴衆を笑わせていましたが・・・朗読するのを聞いたら、そのうねるようなリズムが、確かに詩、なのでした。これは新鮮な体験でした。エッセイと詩の境界、小説と詩の境界・・・について、考えたりしています。 (うりずん)

2018-08-12

描写が丁寧で、映像が見えるようでした。 (雨)

2018-08-11

5月、6月の投稿作品と、7月の投稿作品、ムードが違っているのはなぜなんだろう、と思っていましたが・・・ 6月分も、今田千代さんが主体となって作った作品をあげている、7月はカオティクルさんが主となって作り、今田千代さんの名前を借りている、という理解でよいでしょうか? 6月19日投稿分の「今田千代」名義の投稿作品が「大賞」に選ばれていますけれども(そして、アンケートでも大賞に選ばれたわけですから、異は唱えませんが)実は共作であった、ということが、後から提示されているわけですよね。共作である、ということを、作品末に註でつけるなり、コメント欄なりに明かすなりしておくべきではなかったか、と思いました。作品を一人で仕上げなくてはいけない、という規定はなかったと思いますが(共作や、複数名による連詩作品なども投稿は可能、と私は考えていました。ただし、参加した作者の名前、いわゆる文責は、明示すべき。)読者は皆、今田千代さん、というお一方の作品だと思って読んだり選んだりしていたわけですから、「大賞作品」の選考が、公平であったのか、という疑問が生じます。 大賞作品は外部サイトに転載してもらうことになっていますが、公平性に疑問の残る状態で選出された作品を、外部サイトに「BREVIEWが推す、その月の代表作品」としてご紹介していいものか、どうか。この点に関して、私は異議を申し述べたいと思います。 大賞に「今田千代」作品(実際にはカオティクルさんも共作)が選出されたこと、に関しては、BREVIEW内部の問題ですから、今現在、BREVIEWに参加している方々から、特に異議などがなければ、大賞のままで良いと思います。 個人的には、私がコメントを付けたもう一つの6月投稿作品の方が、生きるとは何か、というような問いに正面から向き合っていて、好感を持ちました。7月投稿分に関しては、今コメントを付けている組作品、中でも【所詮はこんなもんだぜぃ!】が一番良かったと思います。 「犠牲がなきゃ正しい道を通れないなんて それは本当に正しい道なのかな? なんだか正解にはつくづく絶望するよ」 この三行に深く共感しました。私は、こういうカオティクルさんの作品が読みたい。 マンネリになっていて、作風の刷新がうまくできない、限界を感じる、というような足掻きの中で生まれたものであった、としても。 こっそり共作をしてみた、という事を批判したり非難したりしているわけではありません。他の参加者が「これもまた、面白い試みだったよね」「自分は、そうなんじゃないか?とわかっていたよ」「こういうのも、たまにはいいと思う」という意見が主であれば、次からは、共作の時は、最初からそう言ってね、ということで良いと思っています。 重ねて言いますが、カオティクルさんの作品、いつも楽しく拝読していますし、コメント欄などへの書き込みも元気があっていいなあ、楽しい人なんだろうなあ、と思って拝見しています。 気になっているのは、外部サイトに紹介する、という一点に関して、です。 うまく伝わるでしょうか・・・。 (イマラチオ)

2018-08-11

思いついたまま、言葉を饒舌に並べているようでいて、非常に緻密に計算(というのは、合わないなあ・・・練られている?)されているようでもあり。 非常に惹かれる作品ながら、どこから、どういう切り口で「語ればいいのか」、が、わからない。わからないものは、わからないままに書くしかないのではあるが。 ライフストーリー、ライフステージが、ひとつのエッセイとして括られていく、区切りをつけられていくとして・・・「たけちゃん」を語り手の半身、分身のようにとらえるか、あるいは、語り手の養子、ととらえるか。「ゆるやかな性」の恋人どうし、ととらえるか。生み出された作品、と、あえて、拡大解釈してみると、何が見えて来るか・・・ 現代音楽を聴く(体感する)という体験と、様々なコミュニケーションの記憶を思い出す、という体感、疑似的な死を繰り返す(あるいは忘我の境地を体験する)快感と、生きねばならない、という日常の痛苦を、生きていてもいい、生きるのもまた面白い、に切り替えていく、生きるための刺激、としての快感と・・・が、うまく言語で説明できないながら、なんとなく、感覚として伝わって来る不思議。 「その瞬間、泣くのをこれからもキスをするように続けたい。」生きようとすることが哀しみでもあって、それがまた快感でもあるような感覚、を感じました。 「創造神さん、ありがとうことよろ。これからも生むのは、大変かもしれないけれど、手を離れれば独り立ち。そしたら、貿易しましょうよ。」「その脳を詰まらせるとき、何人死んでしまうの。」 脳内に生まれた一つの人格を持った誰か(小説家の頭の中で生きて動いている登場人物たち、みたいな)を想像し、その人格を持った誰か、が一つの世界、一つの国、でもある、とするならば、その国と語り手(これもまた一つの国)が貿易する、友好関係を築く、交易する、という言葉が出て来るのも、不思議はないな、と思いつつ、やっぱり、どこから出て来る言葉なんだ?と不思議が残る。 他に面白かった言葉は「女詩的マウンティング」(女詩、男詩、という仕分けのようなものが、あるのか、聞いてみたいと思いました。もちろん、ここでいう女/男は、ジェンダー的な区分であって、実際の性別とは異なります。フェミニン、マスキュリン、といった方がよいかもしれない) 「だから社会はもう敵にならなかった。どこかの遠い創作のままでいてくれる、(丁度エッセイのよう)一粒、一粒に、それでも感情をゆっくりと、両手で上に捧げると、消えていくのをぼんやり見た。」このフレーズも印象に残りました。 「人が生まれる前のことを全く知らないのに、死んでからがこわい。だから、定期的に、死にたくないな、とぼくはこれからもたけちゃんに言います。」・・・やっぱり、「たけちゃん」って、誰?が、気になる(笑) (エッセイ飛ぶ)

2018-08-11

ポスト、投函、という言葉とイメージが、気になって気になって・・・ 赤ちゃんポスト、という言葉が、頭の中をぐるぐる。 純白(&聖母マリアの象徴、とも取れる)のカサブランカを、嫌がらせに、という、意味を深読みしていいのか、どうなのか・・・諸事情あることは充分承知しつつも、赤ちゃんを赤ちゃんポストに託していった人へ、カサブランカを捧げる、と読んだのだけれど・・・。(そもそもの前提が異なっていれば、かなり穿った解釈になってしまうので、違っていたら撤回、と、先に書いておきます) 人は、場を選んで生まれて来るわけではない。いつのまにかそこに居て、いつのまにかそこに住み着く。 よりより住処、自分に「ふさわしい」場所、を探してさまよい続けるのもまた、ひとつの人生ならば。 その住み着いた場を、よりよい場所へ、より住みよい場所へ、変えていく方に加担していく、というのもまた、 ひとつの生き方である、という気がしています。 (すいと)

2018-08-11

〈わたしの時間を乗せた電車から〉こういうフレーズが良いなあ、と思いました。一気に畳みかけていくような一連、とぎれとぎれの息遣いは、〈無意識に息、を止めていたこと、に気付いて汗を拭く、〉というような・・・息をのんで”無感動”の所在をたしかめようとしているような、そんな意識が生みだしたリズムのように思いました。 無感動=健康だが病んでいる/病んでいないが不健康 心が疲弊してしまったり、麻痺してしまったりしている大都会の日常で、ふと立ち止まる瞬間に溢れ出す、詩情への餓え。二連目であふれ出す眠りへの渇望は、鬱や精神不安をもたらす不眠への恐怖が反転されてエネルギーになって噴出しているように思いました。 三連目と六連目は対になっているのでしょうか。三連目以降、リズムに合わせてシャウトするような、あるいはラップのような感じで進行するのかな・・・前半とメリハリが聞いていて面白いと思いました。五連の問いかけも切実、ながら・・・最後、あれ、これで終っちゃうの?というあっさり感もありました。この、終わり方でいいの、かな・・・? (革命的レム睡眠)

2018-08-08

浮かぶべき銀河、ゆくべき明日・・・~べき、で始まる言葉が続いて、ほんとうはこうあってほしい、ほんとうはこうあるはず、なのに・・・という思いが現れているように思いました。 お月さま、という甘い言葉が醸し出す(指し示す)志向と、生身の人間をダッチワイフや人形のように扱おうとする暴力性を持った意識との葛藤、「身体壊すまで、言葉を犯す。犯しながら生きてゆく。」「この言葉遣いのせいで喪った信頼を、これから血だらけで模索してゆくつもりだよ。」という決意表明のような言葉の強さが印象に残りました。 性交を繰り返して、果たして”なにか”が生まれるのか・・・そこには、無理やり押し入っていくことによる、流血と痛みしかないのではないか。そんな不毛性の予感と意志による否定が混在しているようにも思いました。パロディー(愛は地球を救う、などという臭いコピーの反転、織田信長的に行くぜ、という謂いか?)が厳しさを和らげているものの、言葉が上滑りしているような印象も同時に生んでいる気がします。インパクトのある題名が、内容とどう関わって来るのか・・・そのあたりにも、課題がありそうです。 (現代詩とは近親の相姦そのものです)

2018-08-08

簡潔な表現ながら、全体に不思議な柔らかさが漂うのはなぜだろうと考えました。 するやか、光スケート、というような、質感や情景はきちんと伝わる(伝達性を保持した)造語、とつり、というユニークな擬音、体言止めといっても、個物の名称ではなく状態の名詞で止めるセンスが印象に残りました。 2連のSの響きが、3連目ではtsuの響きへと変化していく。そうした音の変化も、丁寧に言葉を吟味した結果であるように思いました。 「香木聡くけむり 洗濯物青くそよぐ」文語的な言い回しが、意識的に形を作る技巧性を感じさせるのではないか、という思いもありますが、漢字を頭にまとめ、ひらがなにやわらかくほどいていくような文字の配列がもたらす印象は、背筋を伸ばして丁寧に生きている人の生活感と柔らかな人柄(の印象)を反復しているとも言えます。 職人の手作りの(恐らくは青をべーすに、気泡の少し入った)厚手のガラスのコップの質感や、丁寧に磨きこまれた金属の蛇口からにおいたつ、スタイルを持った生活の感じは、『西の魔女が死んだ』に出てくる英国出身の老婦人の家や、写真で見たことしかないのですが、茨木のり子の家の雰囲気を思い出したりしました。 旧態依然となり勝ちな写生の詩に、独自の擬音や造語的な表現を持ち込んで新鮮な息吹を与えた好例だと思いました。 (スケッチ)

2018-08-07

はっと目を引くフレーズが沢山あって、全体に硬質な強度も漲っていて・・・ 同時に、その強度が一本調子というのか、間合いにスキがないような、全体に塊となって押し寄せて来るような感覚が残りました。強度のあるフレーズで押したら、情景を喚起するフレーズで少し間合いを作る、とか、 言葉の強さや激しさと、意味の流れで引っ張っていく部分という風に波を作る、というのはどうだろう、など・・・ 個人的な好みにも傾いてしまうので、アドバイスというよりは、勝手な提案(なので読み流していただいてけっこう)だと思ってください。 (Cigarette in your bed)

2018-08-03

なかなかコメント欄が活発になっている、ようですが・・・ 渡辺さんと同様、誤字脱字程度の間違いであれば、私も修正に参加できます。 でも、コメント欄に書き込まれているものだと、読むまでにかなりタイムラグが出来てしまうので、 ツイッターのDMでご連絡してもらえれば、賛助可能です。 大幅な自主改変が可能、ということになると、既にレスがついたものに関して、内容を大幅に改変することによって、本文とレスに食い違いが生じる・・・(その場合、レッサーが一方的に見当違いの批判を投じている、という「見た目」になってしまうことによって、レッサーと投稿者との間にトラブルが生じる・・・という例を、なんどか見かけているので、自分で編集できる、という機能は、投稿した後、24時間以内、とか・・・なにか、そういう機能があればよいのかな、と思ったりもしました。) 花緒さんには、その尽力に頭が下がる、という表現しか出来ないのですが・・・花緒さんが書き込んでいる件に関しては、一方は「超多忙なのに、それを知ってか知らずか、やれやれ、と言いつのられて不愉快」だし、他方は「自分があまり出しゃばって色々行ってもいかんしなあ・・・自分の立場としては、報告する、までに留めた方がよいだろうなあ・・・でも、こう言ってきている人がいるんだし、やってあげた方がよいだろうなあ、伝えておこう」という遠慮が、うまく噛み合わなかった、という気がしています。お互いの状況が見えない、という中で、ボランティアを続けることの難しさだと思います。 ながながと(作品と関係ないことまで書いてしまいましたが)作品評としては、たとえば、その月の掲示板の色合いというのか、雰囲気というのか、そういうことが全体の流れの中でわかる、というようなサンプリングになっていると、その月の投稿掲示板の色合いを写生しました、という、ひとつの作品となるのではないか、という気がします。 自分の持って行きたい方向に、たまたま目についた詩句を拾っていく、そこからインスパイアされたアイディアを改変しつつ盛りこんでいく、というやり方だと・・・たしかに、最後のオマージュというのか、「おことわり」の書き方が難しいですよね。 あえて、ネットでしばしば起こっている訴訟問題、あるいは訴訟するぞ、と脅す問題のパロディー的な要素を盛り込んでいるところが、面白いとも思いますが・・・双方向性の強いネット掲示板では、作品内容よりも、その手法とか問題があるかないか、という議論に流れてしまうような気もしました。 (サンプリング)

2018-08-03

命が、途切れるか、と思ったところで・・・ 無事、生まれてよかったな、と思うと共に。 〈この世への/綱を引く〉簡潔な一行ですが、鬼気迫るものがありました。 〈あの奥〉が、宇宙空間の闇のような・・・底知れぬ場所へとつながっているような感覚もあります。 (見えない向こう)

2018-08-03

Hikouは飛行、なのか、非行、なのか・・・ 夜の外出。着替えは持たないのに、アイパッドとスマホ、それから化粧品は持つ。 夜半、出会いを求めるような、求めないような、あいまいな気持ちで出歩く少女を想像しました。 霧吹き・・・心が罅割れないように、心を湿らせるための・・・そう考えてみたくなる。 花もメタファーであればなおさら。とは思いつつ、少女と夜の花は結び付けすぎになってしまうので、 花は花、のままで読みたい(そうあってほしい)・・・という、ちょっと複雑な感情もわきました。 (Hikou)

2018-08-03

息子と娘がある家の前を通るたびに「キーン」という音が聞こえる、といい・・・私には聞こえないのですね。 気になっていたら、猫よけの超音波(高周波?)を出す機械が、玄関先に設置されていた家だったのでした。 息子と娘、は、猫の比喩、ではなく、文字通りの人間の息子と娘、なのですが・・・猫に近いのかもしれない。 私には見えるのに、他の子には見えない色があって、焦ったこともありました。 中学の時の文化祭の準備中、模造紙の上の「黄緑の消しゴム取って」と言ったのに 「どれ?そんな色の、無いよ?」と言われてしまい・・・ 私が這いずって手に取ったのは「それは、オフホワイトだよ」という消しゴムでした。 手に取るとオフホワイトなのに、紙の上に置くと黄緑。 科学の先生に聞いてみたら、蛍光灯の光と、模造紙の中の蛍光増白剤とが、 消しゴムの微妙な黄色みにかぶって黄緑に見せているのだろう、とのこと。 色を、その色に見せる、って、なんだろう。以来、ずっと、考えています。 美術史の「ディスクリプション」という授業で、一枚の絵の枢機卿のガウンの色を説明するのに ある人はワイン色といい、ある人はカーマインレッドといい、ある人は象徴的歴史的色彩性をコンコンと説き始める。 歴史的、物語的意味合いを担う色もある、ということ。 見える/聞こえる/魅せる/効かせる って、なんだろうな、とか。 鼓膜が腫れあがってガンガン頭痛がして、医者に行ったら鼓膜の向こうに腫瘍があるかもしれないからCTスキャンを撮る、と言われて、ガンガン痛む頭を抱えて別の耳鼻科に行ってみたら、首をかしげながらとりあえず試してみよう、と茶色い液体を流し込まれて、これで収まらなかったらまたおいで、と帰されました。その日の夜には痛みが治まり、翌日報告に行ったら、やっぱり、亀の甲より年の功だな、入れたの、イソジンだよ、うがい薬、と言われて絶句。よくよく調査したら、羽虫が耳に入り込んで、鼓膜のそばで死んで腐ってカビていたのでした。それと関係するのかしないのか分かりませんが、今でもストレスがたまると滲出性外耳炎になります。綿棒で副腎皮質ホルモン系の薬をちょびちょびと塗り込みます。 ・・・というような思い出を、想い出しました。(これは、即興詩、なのかな、即興コメント、なのかな) (ちょうりょく)

2018-08-03

即興ラップ(時事問題取り込みながらの)を聞いたことがあるのですが、テーマとしては同質のものを感じました。 語り口はラップ調というよりは、もっとゆるやか、ですよね。肩の力が抜けている、というか。 「緊急速報の~ポチャンと落ちる」まで、非現実なのに緊迫感があり・・・それと同質のタトエというのか、 いかにも現実にありそうで、実際に当事者はわき汗も冷や汗もだらだら、になりそうなリアルなシチュエーションが なんともコミカルで笑いを誘うのは、なんででしょう・・・ 深夜帯でしたか、名前がわからないのだけれど、やたらにおっぱいの大きい女の子の幽霊が出て来る漫画を息子が見ていて、 かたわらでチラ見しながら、オトコの妄想全開、みたいな漫画だな(どさっと倒れ込んできた女の子のおっぱいにムギュウ、とつぶされる、そんでもって、ぶっとばされる、みたいな「偶然」がやたらに連発する)と半ばあきれ、半ば面白がって見ていたのですが・・・そんな感じの笑い、なのかな、とも思ったり(なんかわけわからんこと書いてますね) もっと、コントとか漫才とか、そういうお笑い系番組で、ガンガン政治家(政治やさん)を面白可笑しく、芸達者にディスれるような、そういう話芸を持った人が出てこないかな、と思いつつ・・・そういう笑いを書く芸人は、テレビ出演させてもらえなくて、小屋掛けで頑張っている、と聞いたことがあります。大衆全体が、もっと尖がった笑いを求めようぜ!と、いつもモヤモヤしたものを抱えています(ということを、なんとなく書きたくなったので、書いてみました。) (はーげ・ハーゲ・は〜げ〜)

2018-08-03

物語風の展開が面白いですね。 未来人、それは実は自分自身の姿の反映、だったのでは・・・というような方向に読めるような仕掛けがあったりすると、 もっと奥行きが深くなるような気もしました。 他者には見えて、自分には見えない。 実はそこにあるのは自分自身の亡骸で、それを自分の魂が見ている、なんていうのはどうなんだろう、とか・・・ そんな展開も考えて見たくなりました。 (今日を見つめる未来人)

2018-08-03

切り詰められた表現がとても魅力的でした。 最初は恋の始まりを、2連目は失恋後の心を表しているような気がして・・・いずれにせよ、求めても得られないもの、失うために、その痛みを身に負うために、なぜか必死に求めてしまうもの、なくてはならない熱のようなもの・・・恋だけではなく、情熱を注いで追い求めるなにか、すべてに当てはまりそうです。 最後の連が、鋭く迫ってきますね。この声とは・・・詩を、うたを綴る声なのかも知れず・・・改めて身に負った傷を(はらわた、を焼き尽くすような想いを)言葉で確かめずにはいられない、そんな衝迫を感じました。 (止痛薬)

2018-07-30

1連目の現実界と幻想界を美しく重ねていく入り方と、2連、3連の説明的過ぎるような連とのギャップについて、まずは考えさせられました。歌いたいことと、言いたいことが、そのままあふれでてしまっているようにも思います。 4連目、5連目の比喩と心象が巧みに織り成されていくところが良かったです。そら、が、くう、とも読めることも含めつつ・・・「住み処をなくしたジョーカー」が効いていますね。語り手の拠るべない心境を、自嘲気味に、でも愛惜を持ってとらえている。 6連、「やわらかな喪失感」とまとめてしまうのではなく、そこをこそ、心象に造形していって欲しいと、思います。 7連は、ここも説明的、懐古的ではありますが、もうひとつのテーマの提示と読める部分ですね。 8、9連で感じたのは、カタカナでニュアンスを変えたり、「おでかけ」とおさな言葉を用いることによって生々しさや苦しさを昇華することが出来ているのか・・・それは言葉の上での「たわむれ」に過ぎないのではないか?ということでした。 しかし、10連以降に「風」が登場し、語り手に「言葉遊び」をもたらしたものについての流れが始まる。なるほど、自問自答の中身をそのまま(過程も含めて)文字化していった、といううとなのかもしれない、と、腑に落ちるものがありました。 13連以降は、自分で問に答えてしまっている感もあります。 説明的な部分や、自問自答(特に自分で回答や解答を与えてしまっている部分)を整理して、読者に作品を手渡していくようにすると、より多くの読者の心に響く作品となるのではないかと思いました。 (わたしの風の又三郎)

2018-07-30

「どんな天井を仰いでも構わない」この一行は、「抱かれる行為すら」の一行と呼応しているのでしょうか。 あまりにも警戒心なく、誰にでも心を開いて(ボロボロにされてしまっても)その人を嫌いになれない、そんな・・・あまりにも素直すぎる心を諦めと共に受け入れてしまっている、そんな主人公を思い描きました。 そこから自立していくときの苦悩、 「1秒でも永く 人の姿で居ることを決めたのは 小学生の夏でした」 そこから、24才までの長い道のり・・・そこを乗り越えて、 「這いつくばりながら」も生きているいま、がある。 その自分を受け入れて、静かに立ち上がるとき・・・自らの内からも外からも聞こえてくる拍手、それは、主人公に命を与えた者からのらこれまで生きてきたことへの勲章なのかもしれません。 カーテンコールは、お芝居の終りに鳴り響く拍手。これから、芝居ではなく、本当の生が始まる、ということなのかなとも思いました。 (鳴り止まないカーテンコール)

2018-07-29

ペットボトルのメダカと野生のメダカ・・・の対比は、扶養されている(しかし自由はない、危険もない)立場と、自力で生きていかねばならない立場の対比に重なります。 実際にそのメダカを見ながら感慨(ある種の悟り)を覚えた、という設定かと思いますが、すべてを作者が語ってしまうと、読者の側が想いを馳せる余地がなくなってしまうような、そんな息苦しさを感じるようにも思います。 たとえば・・・ 対比している語り手を、今度はメダカの側から見てみたら・・・とか、メダカを見ている最中に、小川で自在に泳いでいたメダカがザリガニに食われる瞬間を視た時の衝撃を挟み込んで、写生的な描写で両者を描き出してみるとか・・・なにか変化を加える工夫をしてみると、もっと味わいが出るかもしれません。 (ペットボトルのなかのメダカ)

2018-07-29

茨木のり子さんに、「みずうみ」という詩があって、そこでは神秘的なまでに青い水がたたえられているのですが・・・この作品では、さらにその清らかな水の底に、濁った層がある、のですね・・・ 表現が少し直接的で、たとえるものとたとえられるものが一対一対応のような形になってしまっているので、そこが思案のしどころかなと思いました。 面白いのは、最初は眠りと共に自然に(不可抗力で)沈んでいくのに(そして、そこで攻め立てられて逃げ出そうとするのに)清らかな水を飲み干して、今度は意識的に潜っていくところ。 また、あの苦しみを体験したい・・・という、倒錯的な快感、エンドレスに悩みに浸り混んでしまう状態を書きたかったのか、あえてそこに戻り、何が起きているのか、自分は何と出会ったのか知りたい、ということなのか・・・どちらなのだろうとも思いました。 (地下水)

2018-07-29

性の官能、あるいは高揚が、ある極点を越えたら・・・あとは死、しか残されていないのかもしれません。 共に味わうエクスタシーではなく、ひとりで昇りつめて、狂気の域にまで踏み込んでしまった、そんな幻想の極点を想像で体験した、という印象の作品でした。 二人で燃え尽きた後・・・は、灰になる、のではなく、二人とも土に埋まっている、のですね・・・。〈透明 蒸発 した 私が 笑う〉しかし、〈私 は乾いた 土 に 包まって 乾いた 唇 で 思う〉。 〈贖罪 に 彼 ら の 萌芽に 降り 注げ 3月 の 雨 〉 〈 庭 に 埋め た 君 が発芽 する 頃 〉 殺された君、を大地に埋め、〈私〉は〈3月の雨〉になって降り注ぐ・・・震災と結びつけるのは不本意かもしれませんが、荒れ、暴れて、〈君〉の命を奪ってしまった〈私〉とは、大地、あるいは天空そのものではないのか。そんなイメージにも誘われました。 (エクスタシー)

2018-07-27

つれづれなるままに、を実践してみたら、こうなりました、という事後報告的な感覚があってずうっと眺めるように読んでいて(すっと入って来る言葉があるな、と思ったり、改行のリズムが音楽的な効果を持つ部分があるな、と感じたり、どこまで続くんだ?と、読むほうも「つれづれなるままに」思いつつ)最後で、書き手と読み手が逆転するような仕掛けというのか、勢いに出会って、良かったな、と思いました(という感想も、妙な具合かもしれないけれど) 流れや音感で読ませる部分と、意味や映像イメージのまとまりで読ませる部分のメリハリが、もっとあれば長さが逆に効果的になったのではないか、と思うのだけれど・・・どうでしょうか。 (徒然草)

2018-07-24

まったくもって、蒸し焼きになりそうな暑さだ、と思いながらアスファルトの道を歩いて買い物に行ったりしている体感に、案外近いものがありました。 緑の液体に溶けていく獣たち・・・アメーバのようにとろけていく感じもあって、面白い映像だと思います。 虫系のアニメなんかで体液が緑色に描かれたりするのを見たことがあるけれど・・・そのイメージと関係はありやなしや。 赤の補色としての緑、なのか、癒し系の色としての緑、のイメージなのか・・・ サバンナの光、と来ると、影、あるいは夜、を予測する。そこに液、という、ぱっと見、似た文字が置かれることで全体が流れ出すような始まり方がいい具合に裏切ってくれていて、面白さのタネになっているのかな。 美しい、きれい、という言葉も、出来れば使うのを避けましょう、と(いわゆる初心者に対して)しばしば言われる「お約束」であるわけで・・・それを連呼することで、くどさを通り越して、一つのスタイルに様式化してしまうような流れも出て来るな、とか。 白反射はともかくとして、透き緑とか赤若い、という・・・絵の具の名前を無理やり和訳したみたいな造語が、うまく機能しているかどうか。なんとなく雑音的に、引っ掛かりを作っている気がして、それはそれでアクセントとして面白いけれども、それが一連に集中している、というバランスは、どうなんだろう、とか。 (サバンナの光と液)

2018-07-24

〈だけど、僕は地を這う虫だ〉以降が、個人的には面白かったです。 「歌の翼に」ではないけれど・・・詩神というのか、ミューズ的な天使みたいな女性(に仮託された詩精神みたいなもの)が、ひたすら高く飛翔していく、というような(めちゃくちゃ生真面目な詩青年が、ああ、崇高なる詩精神よ!・・・とか詠嘆しながら夢想したイメージのような)絵柄が、パロディーなのか、素直な提示なのか分からないまま前半に展開されていて・・・後半は適度に”いなし”ながら、実感も込めて書いている、バランスが面白かったです。・・・軽めな作風を意識した、とコメント欄にあるけれども・・・(ジュナイブル、になっているけれど、ジュブナイル、ですよね?)ブログ文体的な、短めの改行で横書き、さくさく読めるようなファンタジー小説的な叙事詩、みたいなものだと、案外いけるかもしれないな、と思う時もあります。 (天と地)

2018-07-24

蔀さんがリズムについて言及されていますが、今までの投稿作品に比べて、格段に口調が良いですね。流れるような、弾むような、それでいて、いわゆる五七調などに固まってしまっていない。緩急もある。 「を/隔てて」という、つまづくような、引っ掛かりを作るリズム。書名捺印する、という責任の伴う行為、曲がり豆と書きますと、電話口で自分の名前を説明する口調を挿入するズラシ具合、間に噛ませる、という当て物の感覚と、自分自身が当て物として間に噛まされている、という奇妙な体感と・・・その隔たりは、時空であり、河が暗示する彼岸であり・・・。 全体に漂う、ひょうひょうとしたユーモアが「奏でる」口調・・・~節(ぶし)と呼ぶようなリズム感が印象に残る作品でした。 (隔てて)

2018-07-20

「パンッ!─── 乾いた破裂音が辺りを満たす。」 まるで、ピストルで撃ち抜くような感覚ですね。ファインダー越しにのぞく、ということ。獲物を狙う、ということ。 前後を読んでいくと、「なだらかな石段」を下った先、「くねくねと細長く続いていく」石段のたもと、「門前の脇に置かれた、真四角の煎餅板の上」に居る眠り猫のような、不思議な存在感のある猫(ぬし?)を「被写体」として捉えようとした、その瞬間、猫は「煎餅板」を(パンッと?)蹴り上げて、消えてしまった・・・ということ、になるのでしょうけれども・・・猫が蹴り開けた、であろう「煎餅板」があったあたり、「地面に接する板の下方は矩形に切り抜かれていた。/覗き見るとどこまでも薄暗い、遮るもののない道が続いていた。」ところが、妙にコワイ。不気味というのか、いきなり異界が開けているような感覚があり・・・その異界の先に、また、同じようにうねうねと続く石段の道が、再び現れる、というエンドレスの感覚。 同じ場所を少し角度を変えて書いているだけなのかもしれませんが、「覗き見ると~」の連が入ることによって、一つの世界に空いた穴から、同じようなもう一つの世界へと入り込んでいくような、奇妙な感覚が生まれるのですね。 くねくね、うねうね、と続く石段、それが「口縄」なのでしょうか。全体が蛇の体であり、「朱に塗り込められた、とある念仏寺の門。」が、蛇の口のように見えて来る感覚もありました。 かるべさんが、猫町(朔太郎の?)を連想していますが、かるべさんもまた、奇妙な(どこか怖いような)酩酊感を感じ取ったのでしょう。不思議な読後感の残る作品でした。 (口縄にて)

2018-07-20

こうださん かるべさん ありがとうございます・・・誤記が、「語気」になってますね(笑) 失礼しました。 脳内で変換されたものが、ブラウザでもその通りに実現されているとは限らない・・・という当たり前の話ではあるのですが。 パソコンにAI昨日、じゃなくて機能が、入ってほしいような、それも怖いような・・・。 (6月分選評)

2018-07-19

夏生さん 体全体で自然を感じたい、というのか・・・自然に溶け込んでしまいたい(自分を忘れてしまいたい)という感覚が、常にあります。止め方は難しいですね・・・高田敏子さんという詩人が、初心者向けの言葉の中で、どこで終るか、終えるか、そこが大事だという話をしていました。 (梅雨晴れ)

2018-07-19

自由奔放に「ぶっ飛んで」いくスタイル、のようなイメージがあったのですが、この作品は寝入りばなの夢想と現実がせめぎ合っているような感覚があり、話者が居る場所からさまよい出てはまたそこに戻ってくるような、回帰するイメージもあって、すっと胸に入ってきました。 毛・・・という言葉、それだけで不思議とエロティックな響きを醸し出すわけですが・・・那珂太郎の詩を思い出したりもしつつ・・・連れ合いの尻、これはシリと読むのか、ケツと読むのか(毛、を響かせながら)、なんてことも、ちょっと思ったりしつつ・・・ 猫の恋とその啼き交わしが連れ出す夢想の世界と、死(あの世、異界、夢想の現れ出る場所)が思いのほか近接していること、そこに引き込まれそうになるタナトスとエロスとがまた、せめぎ合っていること・・・そんな切り離せないけれども、傾きによって色が変わるような心の両極の在り様を、空で牛が草を食む、という妙にクッキリとイメージの浮かぶ夢幻世界と、現実界(猫が家の外で鳴いている/死んだように眠っている連れ合い/死へと傾きかける気持ちを持て余しているような自分・・・)の気配を並列させて描いているところが面白かったです。 (牛と猫)

2018-07-19

夏生さん、5or6さん、二条千河さん、ありがとうございます。これからも素敵な作品を読ませてください。 〈選評〉に語気がありました。 供物という思い言葉→重い言葉 かるべさんの作品評の部分です。 (6月分選評)

2018-07-17

蔀 県さん、こずAさん、かるべまさひろ さん コメントありがとうございます。 意識的に、ガイア的な視点で書きたい・・・という意図が先に立っている部分もあるかもしれません。 実感している部分と、観念的に(大地のお腹の中、鍾乳洞の中、自身の身体の中、消化器官、肌の内側、といった感覚を追体験する、というような)とらえたものを、感覚に戻そうとしている、というような・・・その意味では、実感したことを、体感の次元に落とし込んで、それをさらに、観念に結び付けようとしている・・・という操作を行っているかもしれません。 葉の上を転がり落ちていく露玉に意識を集中しつつ、内面を考えてみたら・・・ということ、でしょうか。 (梅雨晴れ)

2018-07-14

リンクの貼り方が悪いのか(改行を指示しなかったから?)画面からは飛べないようですが・・・コピペしてみてください。 (6月分選評)

2018-07-14

〈それ以前のものは今頃、世界のどこかの0と1、あるいは、二酸化炭素と水蒸気とわずかな煤になって、それから……。〉 デジタル世界で詩を書いてきた(データを残してきた)人ならではの感覚なのかな、と思いつつ、あるいは、で有機的な流れと繋がるところ、アナログ世界と同居しているところが面白いですね。 詩とはなんぞや、それがわからない、から、書いている、読んでいる、のかもしれませんが・・・ 絵画にも音楽にも映像にも、詩(詩情を喚起するもの)がある。風景にだって、観念にだってある。 ということは、つまり、自分の心と響き合うもの、そこに詩が生まれていて、それを言葉で拾ったら、(文字の)詩になるのかな。そんなことを考えます。 (はじまりのおわり)

2018-07-13

生真面目に始める冒頭、全体の構成、切り返し、そこから他者の痛み、これから「喰らう」ものが蓄積してきたであろう痛み、に想いを馳せる。そして、単に感傷に陥るのではなく、エイクピアさんもコメントしているけれど、〈たとえ血の味がしたって/喰うよ/それが精一杯の供養だからね〉ここですよね・・・。 攻殻機動隊、の中に閉じ込められた若者たち、の意識は。そんなことも考えました。脱皮直前の、膨れ上がった肉体が、締め付けられる痛み、なんて、考えたこともなかった。毛ガニの毛は、触覚なんでしょうか・・・クラゲのかさの縁の毛、これが感覚器だといわれて、びっくりしたことがありますが・・・猫の髭のように、人間の髪の毛、一本一本に、きちんと感覚が伝わるような仕組みがあれば、どれほど鋭敏に生きられるだろう、と思ったり・・・それでも、敏感な人は、自身の体毛のそよぎで、気配を感じ取る様です。 脱皮もしないで、肥大化する人間(幼形成熟した哺乳類、とも)への視線も読み取れて、面白かったです。 (毛蟹×一杯)

2018-07-13

〈すべてを あなたは もっていたけれど/ないようぶつは ない〉それでも、同じ人を想い続けてしまう、そこから抜けられない、ということでしょうか。ひらがなで書く必然性が、いまひとつ感じられないのですが・・・音や言葉を、ゆっくり拾っていく、詩の進行を静かにしみこませていくような効果や、柔らかさを目に与える効果がありますね。 (りんね)

2018-07-13

なんだろう、この感じ・・・ 最後に童貞を捨てた(道程と同じ音ですね。パソコンで打っていて気づきました)というか、童貞を捧げた、女性と共に風俗店をやめて、ラーメン屋を開いた(というストーリー)を、そういえば、そんなことを夢見ていた時もあったな、とどこかで思いながら、ラーメンをすすっている、的な・・・実際にそうであるかどうかはともかくとして、純情とは、なんぞや、というところから生まれた作品でもあるように感じました。 (シンクロニシティ)

2018-07-13

〈そうか俺は変わらないのか/変わっていないのか/変われないのか〉 畳みかけていく、印象に残る「入り」から、〈「お前は変わってんな」〉という本題に移行し・・・ 〈何だか相手の理屈を屁理屈と見破る事は出来るけど/そいつも正しい理屈を捏ねる事が出来ない/一体何を持ってお前らは俺より真面なんだと言ってんだ?〉 普通、そんなこと言わない、そんなことしない、変わってるね、と言われ続けて、普通がわからん、普通ってなんだ?と思い続けてきた私、としては・・・単純に、自分のやりたいことをしているだけ、皆がやっていること、でも、嫌だと思うことはやらなかっただけ、なのにな、とか・・・他人に変人と思われても構わないや、と思いながら生きて来ただけ、なんだけどな・・・と常々思っているので、このあたりは強く共感しました。まっとうに生きるって、なんだろう。真面目に生きるって、なんだろう。 私の場合は、普通の人がやりたがらない「勉強」が好きという変なオタクで、あなたはアカデミックだから、と大学でも一般学生に敬遠されて・・・結局、大学院とか研究室に出入りしている、どこかしら飛びぬけていて、なかなか「一般社会」「普通の生活」に馴染めないような、そこから弾かれてしまうような人たちと一緒に居る方が、居心地が良かった、のではありますが・・・今週のドラマの結末は、どうなる?と皆で盛り上がっているところに、一人だけ、カントがどーたら、とか言っている「空気の読めない」「読まなくても構わない」と思っている、奴でした・・・。 この作品の場合は、たとえば定職につかずにバイトをしながら夢を追いかけているとか、そういう自分に正直な生き方をしている人をイメージしました。親としては、定職について、結婚して家庭を持って・・・そういう生き方が、「まっとう」「真面」なのかな、と思い・・・そういう、世間一般の見方代表、のような両親や友人と、そこからずれてしまう(自分自身のやりたいように、思ったように、その意味では、自分の意志にしごく真面目に)生きている自分とのズレ、どっちがおかしいんだよ、どっちが変なんだよ、という「言いつのり」まではいかないにしても、「まぜっかえし」のような感覚がよかったです。 性にまつわる表現を詩に使う時、タブーを犯す、あまり使われない言葉をあえて使う、という「用いること」そのものの刺激に頼ってしまうのは、既に時代遅れ、だと思っていて・・・となると、用いることに必然性が無ければならない。 〈ほんとはちんこの先から体をバキバキ骨折しながら/お前の汲み取ろうとする膣に身を委ねて/子宮の中に入って転生なり進化なりしたいけど〉このあたりの、いっそ生き直してみたい、という切実なものが基底にある。 そこから・・・〈携帯電話を弄りながら股を開いてる女〉に(知人の話で、途中で寝ちゃうかもしれないけれど、テキトーに入れてていいから、と言われてセックスしていたら、最中に本当に相手が寝てしまい、すげー空しかった、というのを、ちょっと思い出しつつ)ほんとの裸の付き合いってのを、教えてやるよ・・・という流れに入る。 〈記憶にはないけど射精された時~そんな奴らと競争して俺が此処にいるんだ〉精子たちの「生き様」と、自分も含めた「男たち」の生き方のようなものを重ねて、精子ひとりひとり(という言い方も変ですが)のことに想いを致す、という視点の取り方も面白いと思います。 激しい行為を美化することなくリアルに描いているようでいて・・・女の腹が破裂する、というデフォルメに到るまで、スムーズに描写が進行していくところも良かったです。虚実ないまぜ、というか・・・実が虚になる境目が露骨に見えてしまうフィクション(詩も含めて)は面白くない。 ほんとの、まじの付き合いって、魂同士が刺し違えるような、命のやり取りをする覚悟がいるような、そういうもんじゃないのかよ・・・というパッションのようなものを感じました。 いわゆる「脳膜メンマ」などに描かれたデフォルメされた暴力性と、また異なった次元というのか・・・お前も、俺と同じくらいに、真剣に応えてくれよ、という切実な願いが背景にあるような、襟首をつかんでユサユサ揺さぶる、そうして、俺の話を聞いてくれよ、と訴える時のような、そんなエネルギーを感じました。 (イマラチオ)

2018-07-13

ざわざわ・・・とした中から聞こえて来る、無数の「アイミスユー」のささめき、重なりを、文字であらわしてみた、という事でしょうか。記号ではないので、音読は可能・・・だとすると、朗読を聞いてみたいような気もしました。 (雑踏)

2018-07-13

これだけ自由に想念を飛ばしながら、言葉の流れに自然なリズムがある、とぎれめなく読ませる。天性のものなのか、推敲を経て創り出された文体なのか分かりませんが・・・意味の断絶が起きるところ、意味の連なった文章が断ち切られるところを、言葉の力で自然に乗り越えて行ってしまうあたり・・・たとえば、「あの、琵琶湖、見えない海から、通した検眼を用いてよわたし舟でした。  力を抜いて、力を抜いて、軽々しいわたしの生まれ変わりを、鳴いて欲しいうぐいすフロアを駆け抜ける十七歳の。」このあたり、ですね。(「わたし」が「私」でないゆえに、渡し船、私、舟、と重なって溶け合っていくようなところも。)「右腕を、地面に突き刺してバクテリアの思うところ曰く陸奥湾の青とこの青は違うとのことで、わたしは仕方なく肺胞を捧げた。」このあたりも、とても面白い。 検眼、そして「二月堂でオレンジ色を見つけたこの目」と、青の違いを見抜く目が重なっていく。 後半、自由気まま、に進行させる、という自らの意識に、むしろ捕らわれてしまったのではないか。「やさしくない、音が聴こえる、」で始まり、「誰かが、わたしたちをやさしくする。」と受ける流れでいったん構造が生まれているのに、それを壊すために(為に、という意志的なものであるのかどうかは、わからないけれども)冗長な鼻歌を持ち込むところ、これは必要だったのか?とか、「ありがとう、B―REVIEW。」と入れて来るあたり、挨拶歌なのかな、と、なんとなく拍子抜けしてしまうようなところもあり・・・。 (妖精 down)

2018-07-13

夢、とは、憧憬の対象として呼び寄せられたなにか、のことなのか・・・。 慣れていくこと、新鮮さが失われることを、夢に殻や膜がつくからだ、と展開していくところが面白い。 とすると、ここで「夢」と語られているのは、夢見る主体、そのもののことではないのか。 夢見る私、その心の目が曇らされたり、心の手に一枚、膜がかぶさっているような鈍さを感じてしまう、そのもどかしさを脱ぎ捨て痛いから、夢をみよう、と呼びかける(現実の刺激をシャットダウンして、夢見る主体の感受性を研ぎ澄ます、洗練させる)といった感覚なのかな、と思いました。 (幕間の子守歌)

2018-07-13

二つの水晶体、そして、指先の持ち主は・・・ 薪の中から解放された、薪(というか、樹木)の魂、その二つのまなこ、目に見えない、風のように気配だけになった指先・・・というイメージで読みました。他にも様々な読み方があると思いますが・・・。 冒頭の「黒から、紫。/そして、青へと」の部分、題目に薪とあるので、薪が蒸し焼きにされて創り出されていく時の色彩、を想ったのですが・・・朝焼け、という言葉に出逢って、あれ、朝の大気の色彩だったのかな、と読み直し・・・最後は、夜の闇の中で、赤くはじける薪のイメージで終わっていますね・・・薪を作る炭焼きの炉、ではなく、火打石で火をつけるような、かなり昔風の囲炉裏、なのかな、などと情景を捉え直したりしながら、読みました。言葉の切れが鋭くて、音感もいいけれども、もう一息、光景が立ち上がるフレーズがあってもいいかもしれない、と思いました。 (薪)

2018-07-13

心、あるいは脳内の混沌・・・そして、イメージが形を成す前のカオス。表層は個人の無意識であるけれども、底抜けの底の部分は、集合的無意識にもつながっているであろう、暗たんたる湖面・・・を、「記憶の」と最初から限定してしまっていいのかな、「慌てて逃げようともがく記憶の抵抗を感じる。」こういうところも、記憶の・・・ではなく、もっと何かしら、よくわからない何か、にしておいて、読む人が、記憶?イメージ?心象?・・・と、各人の感覚で読み解いていきたくなるような、そんな余地を残しておいてもよいかもしれない、と思いました。 (記憶の鍋)

2018-07-13

銃弾が飛ぶ方向は基本、危険です。絶望的に。 銃弾自身にとっても、きっと。 存在自体が悲しいのが、銃弾かなと。 この、羽田さんのレスを読むまで、「俺ら」が銃弾である、ということに、気づきませんでした・・・兵士の声だと思っていて、どうもうまく噛み合わない詩だな、と思っていたのですが・・・銃弾の声。驚きました。 「こうありたかった夢も見ず」銃弾の見る夢、見ていた夢、とは・・・。 獣を絶命させて、持ち主の飢えを、持ち主の家族の飢えを、しのぐこと、なのか・・・ というような、貧しい、人間中心の思考しか働かない。童話などの形であれば、 もしかすると鉄鉱石の時点から、銃弾に鋳造されるまでの銃弾の意志、を語ることができる、のかもしれませんが。 視点が新鮮でした。 (音速超えて)

2018-07-13

短編であるがゆえに、具体的なエピソードの羅列や回想という手法が取れない・・・がゆえの、観念的なまとめ、という事になっていくのだとは思いますが・・・。三人の複雑な人間関係や、過去の確執、恋人たち(去っていった人たち)との関係性を描き込むには、短編という器は狭すぎるような気がします。むしろ、写実的、具体的な回想を織り込んで、中編小説のような形に膨らませる&短編として繋げていくような形をとり、たとえば薔薇の鉢を壊す一場面を中心に置いて、断片的な(薔薇を巡る)回想を呼び寄せていく、というような書き方もあるかもしれない(ミュージシャンのプロモーションビデオのような、コラージュ的な映像のイメージ)と思いました。 ((後編) 捨てる/捨てられる)

2018-07-13

「飽きているのは、即席の絶望。」 このフレーズが今の心境をスパッと言い当てているようで、素敵だと思いました。 これが「絶望」なのか・・・というような、しかし実際にはそんな深さすら持っていない、気力の落ち込みに、簡単に陥ってしまう・・・のは、希望を徹底的に打ち砕かれた絶望ではなく、そもそも希望が見当たらない、見つからない故の困惑なのか。いっそ、徹底した絶望に陥ってしまいたい・・・と、どこかで望んでいるのかも知れず。 冒頭の、本で読んだ、という知識に、最後まで影響され続けているというのか・・・反発せず、素直に受け入れたまま作品が進行していることが、何となく物足りないように感じました。もっと掘り下げていくと、得た知識にどこかで違和感を感じたり反発を覚えている自己の基盤に、突き当たるのではないか・・・沈黙のゲノムの、その先を見てみたいと思いました。 (私のゲノムは沈黙する。)

2018-07-09

書かれなかった詩が火災と洪水のあとで更地になっている・・・返詩ありがとうございます。 朔太郎へのオマージュから始まり・・・まさしく殺人事件が日本各地で起きていますね。祈る他ないのですが・・・文明を享受しすぎたが故の、温暖化が跳ね返ってきているような気がしてなりません。 (梅雨晴れ)

2018-07-09

ついしん 大文字のAと、小文字のbが並んでいるという字面、印象に残ります。A面B面の、A面を強調するという感覚もあり・・・アベ政権の批評なのか?とも(一瞬)思ったのですが、いかに(笑) (on A bed)

2018-07-08

快を「与える」喜びを得た・・・ように思ったのも束の間、結局は目の前の女・・・を通じて、もっと大きな、自然そのもの、のような大きさに包まれてしまっている・・・僕は未だに、君をしっかりと体感できていない、とらえられていない、そんな感覚なのかな、と思いました。 日常に戻るときに、パンツを履いた、という、ちょっとずっこけるようなユーモアにずらして切り替えているところが、賛否の別れるところでもあるのかなと思いました。 まぐわいを描きながら、陶酔や官能に溺れるでもなく、具体的な描写や湿潤に流れるでもなく・・・対象をとらえる、とらえられるとは何か、という、観念的な位相に踏み込んでいるのに、使っている語彙や用法は徹底的なほどに日常から離れない。そこに注目しつつ・・・イツノマニカ、このカタカナ表記の必然性が、イマヒトツ、伝わってこない。 いまカタカナを使ったのは、読みを区切って、少しだけ強調したかったから、なんですが・・・イツノマニカ、これは、硬質な音感に変容させたかったから、なのか・・・パンツ、のカタカナと呼応させるということでもないのでしょうけれど・・・読みの速度をそこだけ変えたかったからなのか、などなど。 身支度を整える、服を着る。そのあとは、立ち去ることになる。そこまで含む寂しさのようなものが、ユーモアでいったんかき混ぜられる。パンツ、という、幼児期から馴染んだ表現や、何となく可愛らしい言葉の響きがもたらす効果について、もう一度考えたいと思いました。 (on A bed)

2018-07-08

皆様へのご返信で失礼します。 割合に年配の方々から、抽象的過ぎて良くわからないという評を多く頂いた詩だったので、恐らくは若い皆さんから、具体的なイメージや丁寧な描写があるというような感想を頂いて、少し驚きがあり、また、嬉しさもありました。 いわゆる「現代詩」として若い人たちに理解されている作品と、同人誌や詩誌に大量に流通している日常詩というような作品との差異というのか、断絶の深さをも、考えさせられました。 (梅雨晴れ)

2018-07-08

小気味良い転換と凝集度。暴発しそうな感情を持て余している少年期の危うさ(歌詞でよくガラスにたとえられますよね)、対象を絞りきれない、漠然とした反抗心のようなものを、蜃気楼の蜜にはなりたくない、とか、天国なんて信じたこともない、という独白的な視点で、徹底的に主観的にとらえているところが良かったです。(主観的といっても、書いている主体は作品の外にいて、そこから主人公の少年の心を代弁しているようにみえる、その距離の取り方も。) 暴力性や意思の強さを前面に出すものの間に「少年」「カケラ」という甘さをもったパートを持ってくる構成も良く練られていると思いました。 (one day in summer )

2018-07-08

雲に覆われる・・・それは、はっきりと自他共に、気持ちをとらえがたくなる、ということでもあるのでしょうけれども、そうやって自分を隠す、さらけ出さずにいられる、傷つかずにすむと言うことがあるのでしょう。 その状態を是とするか否か。 君の笑顔に誘われて、自らをさらけ出す勇気をもらう・・・自分を隠しておきたいという気持ちから、君に、素顔を見てもらいたいという欲望へと変わる転換が、心地よかったです。 雨とあめが、涙と甘さ(飴)にも見えてきて、文字の上でも気持ちの変化が現れているように思いました。 (あめは きらいじゃない)

2018-07-08

相反する感情が、同時にせりあがってくる。それゆえに葛藤が起こり、混乱が起きる。その矛盾に苦しむ人も多いとは思いますが、「精神の拮抗作用」と言われたりもするように、矛盾や相反が同時に生起するのが、むしろ人間の感情の自然な状態であるらしい。その相反が激しい人ほど、物事を深くとらえられるということなのだと思います。 「複数の相反する磁力の間にだけの人間の感情があるように思える。」この表記は、これであっているでしょうか。反発する極同士の間に「だけ」感情があるのか、間に(ある)だけの(分量の)感情があるのか。 私の好きな詩人に、「太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ」という表現で、あることとないこと、あってほしいこととそうではないことが、同時に生起しているという感状の矛盾をとらえた表現があります。 素材として、作者の発見として、「微細な」はとても魅力的なテーマをとらえていると思いますが、表現が丁寧すぎるところ、説明的過ぎるところがあるので、詩というよりは評論や論文風のエッセイに近いような印象も受けてしまう。 この矛盾する感情を、例えば比喩で表すとしたら、どうなるでしょう。自分の「感じ」にピタッと来る表現が見つかるかどうか。そんな試行を試してみるのも1案だと思いました。 (微細な)

2018-07-08

詩語というのか、雅語の美しさに気持ちが惹かれすぎていて、言葉が先行してしまっているような印象がありました。 過去の言葉、文語や死語を用いることで、立ち上がって来るものが確かに在るはず、なのだけれども・・・全体に散りばめられてしまうと、神原有明、日夏耿之介などを好きで・・・という人の懐古趣味的な作品に、小さく収まってしまうような危惧も覚えます。 イメージの広がりを歌いたいのであれば、雅語や文語はアクセント的に用いるとか、小題に留める、といった工夫があった方がよいかもしれない(目くらましになってしまう)と思いました。 (水無月綺譚)

2018-07-03

二つ、の作品とコメントを拝読しましたが・・・ 蕪村的、芭蕉的、という詩論的な試みを含めるならば、ひとつの方法として、芸術論のような散文の中に作品を「例」として組み込む、というやり方も面白いと思いました。 個人的には、藤さんのおっしゃる、小題(テーマの提示)と、まったく同一のフレーズ、という組み合わせを併記する、という方法が、読者にとっては分かりやすいというか、作者の意図が伝わりやすいのではないか、と思いました。 他方・・・作品がどのように受け止められても良い、あるいは、どのように受け止められるか、その可能性を知りたい、ということであるならば・・・題名の欄に、たとえば公募中、と書き、コメント欄で「あなたなら、どんな名前を付けますか」と実際に公募してみるのも面白いかな、と感じました。 一つの作品を、他者がどのように読むか。照明の当て方でも、角度でも、全部異なって見える。それが、作者の見せたい意図から大きく外れる、そのことが気になる場合は、読者がその意図を読み取れるように工夫を凝らすのもまた、読者から作者への要求となるでしょうし・・・どのように読まれても構わない、むしろ、その多様性を知りたい、ということであるなら、あなたはどう読みますか、と投げかけてしまう、というのも一手でしょうし・・・ 「お星さま」一篇だけの投稿であれば、このような議論は展開されなかったでしょうから、結果的には有意義な試みであった、と思いますが、作品として、あえて二つの題名を付けて、二回に分けて投稿することが、効果的であったか、ということになると、あまり効果的ではなかったかもしれない、と思います。 芭蕉、蕪村、それぞれの一面を取り出して対称化する、それもまた比較文学の醍醐味でしょうけれども、その行為自体が、芭蕉と蕪村という多面体の芸術家の、それぞれ、今回の議論に最適な一面を取り出しただけ、という事にもなりかねないので・・・ まあ、コメント欄での話ですから、作品から読者にこれだけの背景を読み取ってください、という要求ではないので、作者としては、そこまで読み取れなくても特に構わない、というスタンスだと理解して読みましたが・・・ 芭蕉的、蕪村的、その大きな極を背景において、それを表に出さずに、作品を書いていってほしいなと思いました。 (虚ろ)

2018-07-03

さうら、さうら・・・のリフレインが、そーら、そーら、という呼び声にも聞こえてきますし、さ浦、あるいは さ裏、にも見えて来る(接頭辞のさ、ですね) 「シルト」「スコリア」これは地学や地質学の術語なのかもしれませんが、響きの美しい言葉ですね。宮沢賢治の「蛋白石」のような独特の質感とアクセントを与えているように思いました。 「なけなしのきぼう」もくれてやった、という捨て鉢な感じもありつつ、それを賽銭箱に入れる、という部分に、かすかに、それでも祈る、祈りたい、祈らせてくれ、というような思いが込められているようにも思いました。 海岸、亡き友を偲ぶ、一人で歩く。すべてはいつか砂に、土になる、巻貝(中身は朽ちて、砂のような泥のような灰色のものが流れ出す)のイメージが醸し出す、堂々巡りの行き止まりの感じ、とかとんとん、の音が醸し出す、復興の槌音・・・と結びつけてしまうのは良くないですね。(震災からは7年経過しているけれど、5100日は経っていないし・・・) 調べというのか、言葉の調子が美しく流れ過ぎてしまうような、そこに少し不安を感じてしまうところもあるのですが、良い作品だと思いました。 (海はひとりに限る)

2018-07-03

(こんなに愛しているのに。)というフレーズが効いていると思いました。 子どもが犬の糞を踏む、という、いかにもリアルな話が素材として提示されているので、最終連の「排泄物」と犬の糞が何となく連動してしまうのではありますが・・・「柔らかなベッド」をまっさらな心、排泄物を言葉と読み替えて読みたくなります。 詩(ことば)の美は、花や鉱石のように自然に生まれて来る、ものなのか。美しいものを噛み砕いて消化して血肉として・・・そこから生まれるものが、吐しゃ物や排泄物のようなものでしかない、としたら。美しいものを、咀嚼してはいけないのではないか。そのまま、受容しなくてはいけないのではないか。 そのために、まるで「可愛い犬」のように四肢を持った生き物に同化した語り手は、「走って走って走って走って、行き止まりまで走って。」行くのですが・・・。語り手がそこで悟ったものとは、汚い、臭い、と思っている排泄物そのものを、美しいと思えるまで、愛おしいと思えるまで、静かに育てていくこと、なのではないか・・・ と読むのは、意訳しすぎかもしれませんが・・・美しいもの、がこの世にあるわけではない、美しいと思う心があるだけだ、彫刻家の舟越安武の、こんな意味合いの言葉を思い出しました。 (シゼンのメカニズム)

2018-07-03

たんたんと描かれていますが、とても完成度の高い作品だと思いました。 リルケが、伏線となっているか、どうか・・・誰もが死を種として持つ、死に向かって実っていく、充実していく、熟れていく・・・という流れかと思って読んでいたのですが、なるほど、ぎこちないピアノを弾くほどの年齢のお子さんがいる若い父でありながら、死を意識してしまうような病を得て、自宅療養中、あるいは、入院先から一時帰宅中、というシチュエーションなのでしょう。 黄色と青の鮮やかな色彩、緑の芝生と白いテーブル(のイメージ)。 少しわかりにくかったのが、最終連の時制。ここだけ、現在で、それまでの連が過去、なのか。あるいは、最終連もそれまでの連も、同じ時間の中にあるのか。 あま夏には、忘れがたい、しかし忘れてしまいたい思い出を喚起させる何かがある、として・・・あま夏を巡る「思い出」の内容が、病は得ていても、幸せに満たされていたあの日、という風に読めてしまう。 最終連も幸福なあの日(あま夏をむきましょうか、と妻が声をかけたり、娘が一緒に遊びにいこうね、と声をかけて来た日)の内にあるとするなら、あま夏が喚起する「忘れたい想い出」は、いつの、どのような思い出、ということになるのか・・・ 時間をゆっくり追っていく、隙のない作品であるからこそ、最後の詰めを大切にしてほしいと思いました。 (甘夏と蟻)

2018-07-02

とても良いと思いました。 「高性能を謳われた自分の身体から 軋む音が聞こえる」この二行が、素晴らしい、インパクトがあるので、ここから始めるのも一案だったかもしれません。 人工知能、というのを、後に持ってくる、ということですね、最初に種明かしをせずに。 四連目の畳みかけるような調子、それまでは語り手が割合に冷静に、外側から語っているのに、ここでは廃棄処分される人工知能の内面からの声になっている。 優秀な人材、として企業に採用され、人間関係などで精神を病み(特に、企業の非人間的なやり方に馴染めずに病気になり)使い物にならない、とリストラされる(廃棄される)かつての「人材」を連想しました。 財務省には、人間コンピューターのような、とんでもない秀才がたくさん集まる、と言う話を聞いたので、なおさら、人工知能=かつての人材、を連想し、切なくなりました。 社会批判的な秀作だと思います。 (高性能の涙)

2018-07-02

伊藤比呂美さんの詩の中で、自分は「うんち」がきれいな言葉で、「うんこ」が汚い言葉だ、と思って生きて来たけれど、結婚した相手は(ポーランド文学の研究者の人、ですね)「うんこ」の方が綺麗な言葉だ、というので驚いてしまった、というようなフレーズが出て来て、なんだか妙に印象に残っています。 私も「うんこ」は汚い言葉だ、「うんち」と言いなさい、と言われてきたので、伊藤さんのびっくり、がわかる、のだけれど・・・伊藤さんの彼、の言うには、うんち、という音が、びちびちの下痢便のようで、なんだか汚い、という、感覚的なものだった、というのが、なおさら印象に残っている理由かもしれない。 百均さんは、文脈からの理解ですが、幼児言葉、もしくはきれいな言葉、のイメージ、丁寧な言葉のイメージで、「うんちみたいなおしっこ」と使っているように思いました。 なんでこんなことを書いたかというと、ストレスや病気で下痢便を繰り返している状態を、なんとなく想像したから。 アネモネ、姉、という言葉が含まれていることがまた、切なさと共に伝わって来る、わけなのだけれど・・・ 「わたしたちは、わっかの中にいるので、とても寒い。地下鉄のキッチンでは。冷凍マグロ達が、数万年ぶりに刺身になって。ほろ苦い地層の味。」このあたりから連想するのは、山手線の中の、ちょっとわびしい、淋しい生活。砕かれた(踏みつぶされた)ダンゴムシと、自分たちの姿も重なってくる、ような・・・。 「誰にもなれない。新しい光の中でファイバーしている。」このあたりも、都市生活者の夜景をタイムラプスで撮った画像の一部に、自分が取り込まれていくような、その他大勢に巻き込まれていくような感覚がありますね。 (ANEMONE)

2018-07-02

今月の他の作品にも感じたこと、なのですが・・・たとえば、Black is beautiful というメッセージは、Blackと「言われること」「呼ばれること」に対する差別意識や偏見を、あえて反転させて、自らの呼称として「負」のイメージから「正」のイメージに反転させる、という、強い反骨、反抗の意識、意欲が背後にあったわけです。 同様の・・・というわけには行きませんが・・・文化的背景も状況も、理不尽さ他、もろもろ含めて、同様、などと、言う事はできない、その不可能性を認識した上で・・・ メンヘラ、という言葉を、むしろ自ら選び取って発信している人にとっては、あるいは、そのような正のエネルギーを持って読み取っている人にとっては、皮肉や批判、と受け止めることも可能、かもしれないけれど・・・メンヘラ、と言う言葉を負のイメージで受け止めてしまう人が、かなり多いのではないか、という(私的な)印象を抱いていて・・・公開掲示板という場所で、こうした用語を用いることの難しさを、改めて思いました。 内容的には、overdose の方のブログを挿入している、それを読んでいる話者の感慨、ということになるでしょうか。 「ぬれながらながれる場所に 埋め込まれた あいされて死んだひとのブログ 死んだひとをあいしていたひとのブログ」 雨のイメージと憂鬱さ、そして、涙のイメージが重なり、そこに・・・ブログを読んで、そこにどうにもならないやるせなさを感じてしまうような、それでいて、人間というものの愛おしさというのか、いじらしさのようなものを感じてしまう話者の視点が入るところ、そして、「全部、ヨブ記に書いてあるよ」という、突き放すようでいて、あなただけではないよ、と寄り添うような言葉が、締めの言葉として置かれるところに惹かれました。 大きさはさまざまだけれど、時空を超えて、場所を越えて、人々の心の中で繰り返されているつぶやきを拾い上げた、というところに魅力を感じました。 (fractal)

2018-07-01

これは、「屍の歩行」と「あなたを求める」の二作による組詩、ということなのでしょうか・・・。 背に虹のような色とりどりの傷 水蒸気の中で何も呟かないままに 解れた縫い目で足跡は塞がっていた 傷、そして、ほつれた縫い目。(心の)傷を縫い閉じてもまた開いてしまう、そんな情景をイメージしました。「消えるまで眼孔を落葉のように散らせる」冒頭に屍の眼孔のイメージが黒く開いているので、目玉のない目を掻きむしるように落とし続ける(落ちないものを、落そうとし続ける)様が脳裏に浮かびました。「美の雰囲気に犯され黙っていれば急かされる行方」美の雰囲気、ここで急に焦点がぼける印象がありました。具体的なモチーフが消えて茫漠としたイメージに投げ出されてしまう感覚があるので・・・。「海を覆い尽くす窓ガラス」きらめいた感じと冷たさ、跳ね返されるようなインパクト、実は硝子窓の中に閉じ込められるような状態で海を見ている、というような情景・・・様々な想念を喚起されるフレーズだと思いました。直後に「迷子の子供の泣き叫ぶ声」具体的な音声が入って来るところもいいですね。 (屍と女の心理)

2018-07-01

>頬が痛いな、冷たいとも言えるでしょう この連、風が触れているとも読めるけれども、叩きつけられた頬の感じている冷たさとも読めるように思います。 >この勇気はあの時飛んだ勇気は  讃えられたくて褒められたくて この言いつのっていく形の変形リフレインのようなフレーズが、作品を引き締めていると思いました。 (飛んだ先)

2018-07-01

柴田さんもコメントしているけれども、とりわけ、 >その中に二次元の色が線を引いている このフレーズが印象に残りました。 水が張られていない、この冒頭の一行が、若干、説明過多であるような気がして・・・「水はないのに水面がある」このフレーズを活かすために、「水のないプール/触れば手に付きそうな色をしたプール 」とリズミカルに、さらっと始めても良いかもしれない、と思いました。 実際には水がない(そう感じられる)世界で、目を閉じて想像力で「二次元の色」が線(水平線、境界線)を引いているのを見る。そして、その線を”越えて”、異界へと入っていくわけですよね・・・そこがもっと明確になっていると、実際の水の質感と、メタファーとしての水の多重性が際立ってくるのではないかと思いました。 (うたた寝)

2018-07-01

コメントしました。よろしければご覧ください。 ツイッター連携のやり方が、いまひとつ良くわからないながら・・・今度はどうでしょう、出来ているかな・・・ (誰にも言えない話)

2018-07-01

花壇にバラが百本咲いている 私はその隣で 私を見つめている とある教会の一室で とある学校の教室で 私は言われた 人が幸福を得る時とは それ以上の幸福を望むのを やめた時です だからあなたも・・・ 探していた自分が見つかるのは 自分探しをやめて 鏡に映った自分を見た時だ、 だから自分は・・・ それから私がどうしたかは ここでは言えない そのあとその牧師が その教師が どこへ行ったのかも 私は知らない ただ花壇にバラが百本咲いて 私はその隣で 私を見つめていた あくまでもひとつの案ですが、このような形にまとめると、牧師と教師に分断されてしまっている感じが、少し解消できるように思いました。 (誰にも言えない話)

2018-07-01

ツイッター連携が出来ているのかいないのか、今一つよくわからないながら・・・コメントしましたので、よろしければご覧ください。 (AM3:00)

2018-07-01

五連、六連の畳みかけていく感覚が、気持ちの高まりや孤独の重みを跳ね返そうとする力と連動して働くような印象を与えていて、とてもよいと思いました。 それに比して、序盤の進行に少しもたつきのようなものを感じてしまうのが、少し残念でした。もちろん、なかなか好転しない気持ちの様相と読めば、共感する人はたくさんいる、と思うのですが・・・ キーボードをたたくカタカタ、という擬音のリフレインや、様々に言い換えていく言葉の重ね方に、もう少し緩急があればよかったかな(たとえば、2連の辺りを一気に言いつのるようなリズムで試みるなど)個人の感想ですので、そのような見方もある、という程度にお考え下さい。 午前三時、という時間設定は巧みですね。いわゆる丑三つ時(実際の刻限としては午前二時から二時半くらいの時間帯のようですが、三つ、という語感のゆえに)を連想させます。 現代版、眠れない夜の歌。 (AM3:00)

2018-07-01

それに 飽きて ように そこへ この辺り、ワルツのステップを踏むような感覚もあり・・・全体の流れに音楽的な緩急をつけたいのかな、という意識のようなものを強く感じました。 最後の、(気持ちを)そらしてみたんだよ、このつぶやきが効いていると思う反面、スライドのイメージからレコードのイメージへと移り行くところに、若干、唐突感も感じますね・・・ワンクッション、なにかあってもよいかもしれないと思いました。 (楽園)

2018-06-25

砂浜から海に向かって投げる林檎の数は一億個 この立ち上がりにひかれましたが・・・全体は自由律短歌の連作のようなムードですね。 全体の構成が、気持ちの波立ちや二人の関係性の変化などをもう少し明示する方向に向かっていると、登場人物の姿や、背後の物語をもっと探索したくなるような気もしました。 (蜜の夜)

2018-06-25

頭悪い、という連呼にビックリしますが・・・そう言われ続けているということなのでしょう。 愚者に仏性が顕現する・・・そのひかりを、見つめて手を合わせる眼差しに救われるものがあります。 わが心、このフレーズが、今一つつかみがたかったです。 一心に、繰り返し汚れをぬぐい続けるお坊さんを見て、感化された「私の」心、なのか。私の心にも、こんなお坊さんが住んでいる、ということなのか・・・ 冒頭から、自分をお坊さんになぞらえていると読むことも出来そうな気はしますが・・・朗唱性というのか、リズムや口ずさみのフレーズを重視しているせいか、少し読み取りにくい部分もありました。 (頭悪いお坊さん)

2018-06-25

浜辺に 幾百年の時を経て 打ち寄せられた しろい かけらを 踏みながら 日のぬくみを受けて あたたかく 鋭く あしうらを刺し はなびらのように ほろほろと崩れていく 珊瑚たちの かけらを 踏みながら 今、わたしは「つつまれている」と そう、確かに 感じたのだった 沖から寄せて来る青い波の 縁取るように先取るように 無数の白い手がうねるように舞い 泡に砕けながら押し寄せて来る あそこで手招いているのは 千年前のわたし ここで手招いているのは 百年前のわたし わたしにつながるちちのははのあねのあにの 生きたあかし ちすじのひかり  あふれかえる網の目の ほどかれてひといきに天空に投げられた 星をすなどる投網 束ねるひとは 海のむこうに輝いていて 指先にふるえる球をのせて やさしく 吹く こぼれおちるひかりの ふるえ 手招いている むすうの しろい ゆびさきの 泡となってくずれくだけ わたしに おしよせてくる つつみこむ あたたかい 痛みを踏む 海辺 (服喪)

2018-03-11

海みず?と思いながら読み始めて・・・ あの日、押し寄せた黒い海の水のことを思いつつ  きみ は わたし  わたし の 打ち砕かれた かけら の ひとつ ひとつ  わたしは あなたがたを胸にのせていた  わたしは あなたがたのうみだしたものを 腹にのせていた  わたしは あなたがたのつくりだしたものを 背にのせていた  あのひ 細かく削り取られ奪い取られ  わたしは 打たれ 裂かれ 自らの重みに押しつぶされた  わたしにやわらかく ほほをよせた みず  わたしをきよらかに あらいあげた なみ  日がのぼる時 わたしは りく と呼ばれ  日がかげる時 わたしは うみ と呼ばれ  わたしは みずからの名を 知らない  わたしの内で 掻き乱された無数の声  声があふれ わたしをのりこえ   今もなお 呼び続ける  わたしは だれ  わたしは きみ  わたしは あなた    いまも響き続けている 声   (海のとき)

2018-03-11

ログアウトしなおしてみても、まりも、に戻らないですね・・・ (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-22

ツイッター投稿有効、というのをポチってみたら、なるほど、Twitter名で表示されるのですね。というか・・・まりもアカの方と、連携出来ないのかな・・・いったん、まりも、の方に戻します(これでいいのか?テスト。) (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-22

この雑文のようなものを、必死で芸術に仕立て上げようとする奇怪な勢力と戦うことになるのか という問いかけに、果たして、この・・・書くために無理やり書いている、というような質感を持った文章が、闘い得ているのか、どうか・・・私は、この「作品」を「芸術」とは呼ばない、ですね。だから、「仕立て上げようとする奇怪な」批評めいたものも、書きたい、書かねばならない、とは思わない。思わないけれども・・・〈チョコスプレーを吹きかけたようなテーブルの~〉あたりには、比喩を用いれば即ち駄文が詩作品となるのか?という問いかけがあって、面白い。 書を棄てよ、を、書が好きよ、に書き換えた意味は、どこにあるのか、など含めて、批評性がある、とは思うのですが、さて・・・。 (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-22

今までの何作かを見ていて、勢いで書きなぐった、というような、あふれ出すような勢いで今までは書いてきていた、気がする、のだけれど(姉が語る設定の作品は、少し違っていた印象がありますが)この作品は、すごく丁寧に綴っていった、印象を受けました。改行のタイミングとか、ひらがな、カタカナ、漢字の表記などの細かな調整とか、そういった部分から受ける印象かもしれません。 アラメルモさんの評に私も同感する部分が多いのですが・・・李沙英 さんの疑問(カレーがなぜかシチューになる、という整合性の無さに、必然性が感じられないので、なんとなく流していった感が否めない)にも同意なのですが・・・ 〈肉は牛であった事を/どれくらいおぼえている〉という、原初への思いというのか・・・今、在るもの、が、もともと何であった、という思弁的な思いへ、遡りたいという(出来ないことをしりながら、願わずにはいられない)情熱、というものに触れていく。このあたりが、とても面白いと思いました。 〈透明な泥水をのんでいるみたいだ/蛇口の水はいつのまにか綺麗で/とても綺麗だ〉湧き出した清水は、清らかかもしれない。でも、それがいつのまにか泥水になる。その泥水が、浄水施設をくぐって来るうちに、また透明な水になってしまう・・・汚れを消されてしまう、目から隠されてしまうことへの思い。それを、透明な泥水を飲む、と形容する体感が、とてもよい。そこから 〈君のつくられた肌色絵の具のように〉と飛ぶところ、冒頭のアクリル絵の具に通じる部分もあって面白いのですが、冒頭のアクリル絵の具を伏線とするなら、もう少し粘って、うまく仕組んでおいた方がよかった、と思いました。君、が、生身の人間ではなくて、キャンバスの中に描かれかけた「君」で、その「君」と語り合っている(部屋には、語り手しかいない)設定、とか。 〈僕の言葉もまた/作られた都市のような悩みでベタベタだ〉ここも面白いけれど、悩み、と一言で言ってしまうところが、粘り足りない、ような気がしました。 ペーパームーン、というような安っぽさを歌いたい、わけで・・・。 〈きれいなしちゅー〉が宝石のような味がした、というのも、わかるような、わからないような・・・澄んだボルシチの色味やコンソメスープの色味を宝石と言う、流れでもなく。味が宝石のよう・・・。冒頭の鮮烈な一連の印象にひきずられて、この言葉を選ばされてしまった、という感覚。 このあたりが、すこし中だるみになっているので、もう少し絞った方がよいかなと思いました。 壁を隔てて、軋みや喘ぎが聞こえて来る。暗闇の中に浮ぶ白い裸体を思い描く・・・気を付けないと、とても陳腐になりそうな場面。僕らはこうして生まれて来たんだ、という部分と、水がいつしか泥水になって、それがまた「見た目」だけ透明になって流れて来る、というイメージと、言葉が(言葉になる前は)清らかなものであったのかもしれない、それが汚れて、手垢にまみれて、それがまた「見た目」だけ、形になって・・・という繰り返される思考、観念のバリエーションのようなものを、もっと意識的に描ければよかったかもしれない、と思います。 隣室のセックスに、耳をすませながら、普通のこと、日常のことをしている、というところに、重点を置くのか、そこを飛ばして、僕等はこうして生まれたんだ、というところに行くのか。「薄汚い」セックスが、清らかな生誕へと結びつく、という展開にするのか、隣室の行為に耳をそばだてる自身の行為を「薄汚い」と感じているのか、どちらなのか、などなど。 (らふか)

2017-12-22

誰かが これなら僕にだってつくれるよ と言うなら それは 僕だって真似してつくれるよ という意味だ でなければ もうとっくにつくっているはずだもの(byブルーノ・ムナーリ) 天才って、ずばぬけた才能とか、特別に秀でた才能、という、意味なのでしょうか・・・天然の才を持っている、ということではないかしらん。と、いつも、思います。そして、才とは、再であり、差異であり、祭である。 再は、過去の「名作」を再現する才を持っている、ということ。差異は、他者との差異を恐れない才を持っている、ということ。祭は、そうした自分の才を、ひとりで祭る、めでたがることができる、ということ。 ・・・という基準に当てはめれば、本作の作者は、バカ、ではなく、天才ですね。 後天的に、後から才を身に着けていくこと、身に着けた才を、常に磨いて、いつでも使えるようにしておくこと、それが、本当のバカ、なのではないでしょうか。○○バカにならなきゃ、何事も極められない。専門バカ、大賛成です。 (バカモノ論)

2017-12-20

シュテルンズィンゲン、という響き・・・オーストリアのお祭りでしょうか。 子供の澄んだソプラノが、星の輝く闇に吸い込まれていく・・・イメージで読み始め、〈爛れた裏切りの序章〉からの転調に首を傾げ・・・幼年期から思春期への変容を、クリスマスの受け止め方の変容に重ねて描こうとしているのかな・・・と思いました。 〈デポジットしたカップ〉、そして5セント。海外での体験なのか、と思いつつ・・・題名と一連目のリズムから、子供たちの唄を連想していたので、二連目でそのリズムに同化して、自らも気持ちが湧き立って行くような様を連想したのですが・・・そう読んでいくと、やはり、中盤の転調が急すぎるような気がしました。 〈ストールのような甘味 透き通る風の黄ばみ〉物質(触感)を味覚で捉えたり、風が黄ばむ、というような色彩(と、それに伴うイメージ)で形のないものを捉えたりする感覚が、とてもいいと思いました。 (「Sternsingen(星哥い)」)

2017-12-20

散文詩は、段落の最初のフレーズに驚きがあると、読者をグイグイ惹きつけます。 この作品で言うなら、〈文字は踊っていた〉〈夜にも光があると〉〈祈りは両目から水となって〉〈私も文字も空間からにょきにょきと〉このあたりの中盤の展開が素晴らしいと思いました。 アラメルモさんが、全体の「長さ」について(あるいは、ながい、と感じさせてしまう、冗漫さを感じさせてしまう点について)コメントされていますが、私も同じような印象を受けました。 作品そのものの冒頭、〈そんな朝は~〉を、たとえば(あくまでも一案、ですが)「芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている、街ごと湖に沈んでいる」とか、「朝の青い空気を羽に含み、白鷺が飛翔する」など、削れる部分を削ってみる、というのも、一つの工夫かもしれない、と思いました。 橋の下に向かっていく白鷺と、語り手の意識は、重なっているのでしょうか。白鷺に意識を乗せて、橋の下で夜を明かす自分の姿を、夢想している、ということか・・・額縁のように、白鷺のイメージが作品を挟み込んでいるのですが、寝袋に入って朝を待つ、という具体性、現実感と、どうリンクしているのか、そこが少し気になりました。 寝袋に入って、骨の髄まで凍てつくような夜を耐え忍ぶ、という具体的な設定のゆえに、緑の光や、その光に染まっていく過程(植物への同化、大地への同化のイメージ?)も無理なく受け入れられる。補色の赤の鮮やかさと、朝日の鮮烈さが重なり、死の緑から生の赤へ、変容が起きる。 〈真っ赤な巨大な目〉あらゆるものを見通す超自我の目、としての朝日。その朝日の色に染まることが、語り手は出来ない。緑に同化し(死んで)大地に還ることも出来ない。では、語り手は、何色に染まる、のか。 〈人は自分の居る時間の色に染まる、あの人が卵色だというのも、あの人が真昼にこそ存在しているからだ・・・また私も元に戻る、夕方の色に、私は戻るのだ〉ユニークな発想だと思いましたが、自分のいる時間、が、年齢に重なってしまう(一般的に。)作品全体を読む限り、〈あの人〉は壮年で、〈私〉は老年、という印象を受けない(ほぼ、同世代、語り手は比較的若い人、のイメージ)ので、少し違和感を覚えるフレーズでした。真昼、という言葉から(この作品では)人生の頂点とか、ときめいて今をキラキラ過ごしている、人生において、スポットライトが当たっている、そんな印象を受けるのですね。夕方、という時間帯も、生命エネルギーが低下している状態、という印象。 さらに、全体が青の時間で挟まれている、わけですが・・・青に同化する、というのは、大地にすら還れない〈私〉が、空中に霧散してしまいたい、というような、消滅してしまいたい願望、とでもいう心の色でしょうか。 まだ未整理の部分が残っているような気がしますが、とても魅力的な作品であると思いました。 (芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている)

2017-12-20

漢語の硬質な語感、色彩が生み出す透明感が印象に残りました。 ガラス細工で生み出された世界を覗き見ているような・・・氷の彫刻が、少し溶けかけたところに日の光が当たっているような印象。 少し溶けかけた・・・というイメージは、球体の持つ柔らかさや滑らかさからの印象だと思います。視覚的な印象が、質感に転換される、というべきか。 〈フットボール型の風吹く夜更け〉形あるものが、形の無い動きに変換される。 〈青そよぐ夜明け〉色彩が動きに変換される。 〈レモン香る白昼の廃墟〉ここも面白いですね。レモン色と白の色彩、味や香りがもたらすイメージ。直接的には、白昼夢として現れるような廃墟を満たす光の比喩なのでしょうけれど・・・一般に「廃墟」から喚起される「儚さ」への感傷というよりは、夢想世界への入口として捉えているようなニュアンスを受け取るのは、レモンが与える爽やかさのゆえだろうと思いました。 (淡蒼球の夢)

2017-12-20

偶然ですが、ビーレビューによく投稿してくださる夏生さん(なつお、とお読みするのだと思います)という投稿者がおられます。 似たようなペンネームを選ぶ人は、感性が似ている、と聞いたこともあります。よかったら、ぜひ、夏生さんの作品も読んでみてください。 (それ)

2017-12-20

黒田三郎の「夕方の三十分」を思い出した、のですが、なぜでしょう・・・ 具体的なことがらを、単純に記述しているようでいて、中盤に盛り上がりを持ってくる(そこに真情の吐露を重ねる)構成や、再び静かな時間に戻る流れから、そう感じたのかもしれません。 〈マサルはおごそかなこどもの目になる ぼくは穏やかな目をした 父親になる〉という比喩によって・・・二人の関係性を象徴的、普遍的な部分で捉え直すところが、特に良いと思いました。ただ一巡して戻る、のではなく、螺旋階段を巡るように、一段上の次元に「もどる」回帰の仕方。 題名と一行めが被っている、のですが・・・ あえて、題名を一行目、として、 本文を〈むろんそれはただ〉から始めても良いかもしれません。 (ある朝にぼくは)

2017-12-20

『楢山節考』冒頭の既述の、あまりにドライというのか、即物的というのか・・・情をむしろ捨て去った後の清々しさのような、奇妙な感覚で始まる叙述が、印象に残っています。 映画は観ていない、のだけれど・・・。okka yukida yukiga futtekita という、撥音、濁音を・・・連打とまではいかないけれども、重ねていく時の響きと、らめ いる ねーじゅ いる ねーじゅ という・・・ひらがなで記したくなるような、甘さを含んだ音韻の違い、これって、結構、イメージに影響するのではないか、と思いました。 テニスンの詩だったと思うのですが(うろ覚えでごめんなさい) died died deid but・・・と連呼する部分が、死に死に死にてなお・・・と翻訳されていて・・・もちろん、意味としてはあっている、のだけれど。 原詩では、ピストルでズドンズドンと撃ち殺されるような衝撃度があるのに、日本語になると、芒原でひとり、風に吹かれながら野ざらしになっていくような、そんな感覚になる。前後の意味も含めて捉えなくてはいけないのですが、それにしても、ひとつのフレーズから立ち上がるイメージの相違には、戸惑いました。 そうした、ニュアンスや質感の違いを超えて、なにかを伝えることができたとき・・・その時が、本当に道の通う一瞬、となるのだろうと思いました。 ( 楢山節考※)

2017-12-20

途中で送ってしまいました 多数の個人(他者)が追体験したり共感したり共有したりすることができる。啓示的な作品だと思いました。 (海に砂糖を、僕には何を?)

2017-12-17

弓けいさんや、くつずりさんの批評、感想に加えることがあるだろうか、と思いつつ・・・。 星条旗が象徴する、現在の世界のアンバランスと不安定感、死を目前にしているような、体感的な予示。たしかに、最後は個人的な領域に収斂していくけれど・・・大きな予感としてとらえた、ディストピアへの恐れや不安が、個人の体感に具体化されつつ、そのリアリティーによって、多数の個人 (海に砂糖を、僕には何を?)

2017-12-17

破天荒なようでいて、要所を押さえている、うまく遊ぶことができている作品だと思いました。 冒頭、死んでいただきます、は、何となく任侠映画の中で、岩下志摩などがいい放つ台詞、のような気がしました。そこからエデン!に飛び、アルレッキーノが登場して、ニノ・ロータの哀愁を帯びた音楽が流れ・・・兄弟の骨肉の争いを背後に潜めつつ、最後はまた、屏風で和の世界に。 太陽、と聞くと、太陽がいっぱい、を思い出すのは、さすがに古すぎますでしょうか(笑) (掌の上には太陽)

2017-12-17

白々しい、という言葉は、嘘をつく、というようなフレーズで用いられることが多いけれど・・・白く神々しく輝くイメージに変換され、さらにその「白い輝き」が、〈真実など/ため息と同じ〉と、あえなく消えていくものとして相対化される。 心の持ちよう、という言い方には、語弊があるかもしれませんが・・・苦しい真実をフィクションという嘘で輝かせて、新たな真実(美や発見の場)として提示する。その営みが行われる、夜の時間、夜の鼓動を聞く時間。 少し観念的な把握とも言えますが、実感がこもっていると思いました。 (白々しく輝く)

2017-12-17

ニモ、は、固有名のようでありながら、アニメの中での「名前」であり、それもまた、ひとつのブランド、ひとつの社会的な記号であり・・・ベンツもまた、車種名という一般名詞であると同時に、ステータスシンボル的な、社会的なブランドであり・・・ わざわざ、ファインディング・ニモ、と言い直す男の、著名なもの、有名なものを所有していないと気がすまないような寂しさと、真顔、という切り取り方(その感覚に対する、語り手の違和感の表明)が、面白かったです。 しかし、短歌の形式をとる必然性が、今一つ、腑に落ちない、感覚もありますね・・・ (短歌~無題)

2017-12-17

声、歌声・・・ が喚起する陶酔、没入の瞬間を、冷静に見つめ、解説しよう、とすると、このような流れになっていくのだろうと思いました。 冒頭三行め、単語を畳み掛けながら「読み」のリズムを作っていく文体になっていくのだろうと思いかけたところで、語りの文体に切り替わっていく。 うたう、歌われる、誘われる、誘われる・・・ことへの憧れを、やはり歌い上げてしまうと甘さ×甘さ、という感じになってしまうので、語りの文体を用いて正解だったと思います。 他方、優しい狂気です、というような言い直しの部分は、感覚的な把握を、説明的な文脈に引き戻してしまうので、少し見直した方がいいかもしれません。 語り手の推測部分も、たくさん入ると過剰感が生まれるので、そうした部分を見直す形で絞り混んでいくと、もっとうねるような抑揚や、ドラマティックな音楽的な流れが生まれるのではないかと思いました。 (歌声へ(螺子と種子))

2017-12-17

三浦さんのコメントを拝読して、きる、の語に、切ると、やりきる、のきる、が重なっていることを、改めて感じました。 見えている人たちは、迷いのない人たち。あるいは・・・花緒さんの かみさま にも通じるのかもしれないけれど、ある、いる、と信じるほかない(自分をそう、騙す他のない)なにごとか、なのかもしれないですね。 新次元 の時評で取り上げた、和田さんの作品にも、共通テーマがあったと思います。 徐々にでいいから さんは、遠慮深い方なのでしょうか、作者の気持ち、をコメント欄で拝読できないのが、少しさびしい、気はします。 白、霧、で掴む体感。共感する作品でした。 (朝、階段で。)

2017-12-17

アラメルモさん 何と申しましょうか、さらり、と書いた、というわけではなく・・・ここ数か月の、様々な思いが、層のように重なっている、という感覚です。様々な出来事の層が、「わかれ」「拒絶」「思いが届かない」「断ち切る」といった・・・遮断のイメージで、真ん中を針で突き通されて、一つの塊に束ねられている、ような、そこから(たぶん)生まれた詩です。作者としては、たぶん、としか言いようがないというのが、自作に対する言葉でもある、のですが・・・。 survofさん 〈言葉が本来の重たい意味を失って感情の残骸や感覚の渦としてただそこにある有様〉ありがとうございます。具体的な意味、その濁りとか重さから・・・なんというか、澱を沈めるように、その上澄みの部分を取り出したかった、というか・・・きっと、「きれいなもの」にしてしまいたかった、のかもしれません。「美化」ということ、ですね。自分の中での、昇華/消化、のための。 花緒さん 詩語への傾斜、あるいは「美化」する、ということについて、考えさせられました。たしかに、その傾向がある、かもしれません。「とうめいな痛み」は・・・硫酸で肌を焼かれる、ようなイメージが元にありました。それを「できるだけ生々しく、他者に痛みを突きつけるように、剥き出しになるように」提示するか、あるいは、美化して、「きれいな」世界に回収する、ある種の人工的なイメージ、想像力で作り上げた世界に昇華してしまう(してしまいたい)という選択がある、ように思います。 硫酸のイメージから硫酸銅を連想し、あの透き通った青、に包まれるイメージを連想し・・・とうめいな痛み、というところに収めたのですが、果たして、それでよかったのかどうか。 赤剥けになった肌が、漿液を垂れ流しながら痙攣し・・・というような「具体的」で、生々しいイメージを繰り出していく方が、より「迫真性」は強まるのかもしれませんが・・・痛みそのものを強調したかった、わけではない。でも、伝えたかった「いたみ」はある、という・・・自作に関しては、なかなか「外に出て」語る、ことはできないですね。この辺で、やめておきます。 (沈黙)

2017-12-16

一行めのインパクトがかなり大きいので、くさかさんが提出している違和感、というかとまどい〈つまりこの語り手は「君」が死んでしまった割には、どこか冷静的すぎるように感じます。〉が生まれるのも、自然なことのように思います。作者としては、こうした読み方が生まれる「構成」でよいのかどうか、組み替えていく方がよいのか、そこが思案のしどころ、ということになるでしょうか。 一行目、火葬という言葉の強さのゆえに、実際の死を連想しますが、すぐに〈提案します〉という言葉が置かれて、まだ起きていない死、起きていない火葬に対する準備を「提案」している、ということがわかる。そして、そのシチュエーションを受けて次行が置かれる。宝石、ドレス、というドリーミーな世界へ誘うイメージ、〈白絶る体に火〉という不思議なフレーズ・・・白い裸体が火に包まれているイメージ(たとえばワーグナーの楽劇『二―ベルングの指輪』「ワルキューレ」の中で、炎に包まれて眠るブリュンヒルデのイメージ)を、私は連想しました。 〈君の温度が発火点をこえて〉というフレーズなども、恋愛の白熱、象徴的な「火葬」をイメージする、のですが・・・君、が発火するのか、君への想い、が発火するのか。君を「火葬」してしまいたいのか、君への想い、を火葬してしまおう、ということなのか・・・というような、君と僕との関係性が、なんとなくつかみがたい。 それは、国民、ぼくたち、というように対象が拡張される2連、3連の読み方にも関係してくると思います。2連、3連は、社会的な葬送、政治的な状況へのメタファーを含んでいるようにも見えて、何度か読み直したのですが・・・この国を「ましろ」にするために、誰かを犠牲とする、というような・・・。もちろん、この国が真白ではない、「黒い」方向に進んでいる、という、社会批判的な意味を重ねて読むべきなのか、とも思った、のですが・・・ 僕と君との個人的な葛藤が、国民のレベルまで拡張されている、と見る方が自然なのかもしれない。 パレード、白夜、白虎。白のイメージ、祝祭のイメージが、ディズニーランドのエレクトリカルパレードのようなドリーミーな世界への連想も誘う、のではあるけれども・・・〈命は系列的にしか広がっていけない〉というような、生真面目で重みをもったフレーズとのバランスが、私の中では、どうもうまく取れない、つかめない。ウイットを利かせた、ある種、omnibus的な作品、と見るべきなのかもしれないけれど・・・ (白絶の火)

2017-12-16

夏生さん ありがとうございます。葬るほど・・・そうですね、気持ちを、埋めていくというか、そうしたくなる時が、ありますね。 fiorinaさん 野生の知恵、ですか、なるほど。いい言葉をいただきました。なんだろう、姿勢も低くして、上目遣いで、あたりを伺いながら、狙って進んでいく、ようなイメージかもしれないですね・・・。 (沈黙)

2017-12-15

〈新憶の潰えたる肴の味したる新大久保〉新憶、を、記憶、と「空目」しました。なぜでしょう・・・懐かしい記憶の奥にある場所、という前提で読んだのか・・・。 しんおおくぼ、と、しんおく(記憶、の新しいバージョン、的なイメージ?)の音韻。味したる、も、味したたる、と「空目」したのですが、これも「ついえたる」との音の引き合いから引き出された言葉、でしょうか。 「カメレオン戦争、人はそう呼びます。」 「ガラスの薫風が人の心を引き裂くのです。」 この会話(対話)が、洒落ていて多義的で(現代社会を批判的に映しているようでいて、同時に、かっこいい、言い方をしてみただけ、というような表層的な美しさにもなっていて)気に入りました。 〈かがみこみ、力むと、過去が見えてきます。そこから先は、記憶へと続く長い道のりとなっていて、〉この流れも、とても素敵だと思いました。冒頭の「新憶」が、新しく刻まれていく記憶、であるなら、ここからは過去の記憶に繋がっていく。それも、身体的に「排泄」するように生まれる記憶を、自らも統御不能のまま、眺めている、感覚。眺めていること自体が、果たして快感であるのか、不快であるのか・・・〈不思議な痛覚の底を辿り〉辛い程ではないけれど、やはりピリリと痛むような、刺激のある体験である、ということでしょう。 私が記憶を排泄するのを眺めているイメージを持つ後半と、世相を言葉に変換していく、それが表層的に流れていくのを見ているような前半との幅の大きさ・・・ 場所というか、空間を切り替えることで、うまく架橋していると思いますが、〈ケーブルを引き抜き~〉の前に一行アケを作っても良かったかもしれない、と思いました。 (砂)

2017-12-15

上げます。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-12-13

〈大きなシャボン玉を作ろうと〉していた子供時代の想い出が、いつのまにか 〈シャボン液は吐き尽くした/布団を取り込んで/夕飯の支度をしなければ〉と、現在の大人の視点に変わっている。不思議な時空を旅した感覚がありました。 泡、でつながれていく連想・・・強権的な父のイメージも垣間見え・・・夢の代名詞であるかのようなシャボン玉、隣家のお姉さんの泡風呂・・・サイダーの泡を吹いているのは、大人になった語り手の子供、で、隣家のお姉さんへのイメージは、子供時代の語り手のもの、なのか・・・このあたりが、なんとなく錯綜している感もあります(もっとも、ここを整然と整理してしまうと、直線的な流れになり過ぎて、ふくらみが出ないかもしれないですね) シャボン玉(夢)の行方は、こっそり出かけた遊園地。観覧車が回るイメージは、人生が回る(終焉を迎える)イメージに重なっているのでしょう。 過去の思い出と今の風景とを重ねながら、当時の想いに浸っている、そこで留まってしまっている、という物足りなさ、のようなものも、少し感じる作品ではありました。全体に淡い思い出をコラージュしたような印象があります。つなぎ目がとてもスムーズで・・・和紙のちぎり絵とか、水彩のぼかしのように、輪郭がぼかされているので、曖昧さの中に心地よく取り込まれていく余韻が残りました。 (シャボン玉のゆくえ)

2017-12-13

〈幸福な夜の軒先に 何かを伝えようとすることが 静かな言葉では難しい〉 という印象的なフレーズの後、鉄、錫、と冷たく硬質な物への希求が語られる。 起承転結の、起と承、の部分ですよね。 そこから、色彩へ「転」じ、さらに〈蛾のような姿にかわって/あの電灯にたかっている〉 という「結」に到る。 静かな言葉、ではなく・・・速水御舟が描いた、篝火の中に飛び込んでいく色とりどりの蛾のような・・・そんな、自らを燃焼させてしまいたい、そんな衝動が背後にある、という事なのかもしれませんが・・・鉄、錫、のような、確固たる言葉がほしい、という欲求と、自らを燃焼させてしまいたい、という欲求とが、短いスパンで結び付けられてしまっている、そんな強引さを感じてしまいました。夜に金属を探す。このユニークな詩情を、もっと突き詰めても面白かったのではないか、と。 (幸福な一日の終わり)

2017-12-13

『ご相談があります。』が、ダイレクトヒット、でした。不安神経症とか、パニック症にとらわれている女性の独白、のような・・・。 統合失調症の女性が、自分の見ている光景を語った言葉を、精神科医が編集した本を読んで、衝撃を受けたことがあるのですが(他者が、藁人形のようにしか見えない、世界が、うすっぺらな張りぼてのようにしか感じられない、といった状況。病者と健常者との境目が、これほどに頼りなく、あらゆる人が病んでいるとも、健常である、とも言いうるものなのだ、ということを感じた時の衝撃、etc.) 四部作、なのか、どうなのか、組み物としての構成は、どうなのか・・・うむむ。 一部?は、どうも私には肌が合わず、うまく読めませんでした。 二部のテーテーテー以降、明日美さん、が生まれるに至るまでの概説、のようでありましたが・・・理科の教科書の楊でもあり・・・。 三部は、アラビア語?ペルシャ語?と思いかけたものの、ほぼ、模様としか思えず、これも肌に合わず・・・ 五部の『世紀末ポア(カバー)』は、オウム真理教事件の時に話題?になった「ポア」という文言が、まさに連呼されているわけですが、ブラックユーモアになり切れているのか、どうか。子どもが、やたらに「うんこ」やら「ちんこ」やら、そんなこと言っちゃダメ!と言われるようなワードを連呼して楽しんでいるような、そんな悪意のない楽しさ、を感じる部分ではありましたが・・・ 切実さとか、重みとして伝わって来る部分があるのは、どこか。他者のリアリティーが響いてくるのは、どこか、と言えば、四部の女性の独白の部分だった、ということになります。 コーリャさんへの返信の中で、〈二月から始まっているこのサイトでは出遅れていると思っております。/なので遅れを取り戻すべく〉とあるのですが・・・焦る必要、あるのかなあ・・・。 ひとりひとりのスレッド、この一面全体を用いて、ひとつの作品を構成する、という勝負でもある、と思うので・・・相互の効果というのか、五部どうしの関係性が今一つ掴めないような、詰めこみ感満載、これはどう?こっちはどう?と並べた感満載の構成、これはどうなんだろう。リミックスミュージックにもコンセプトがあり、全体の流れがあり、そうした作者の意図というか、意欲が、もっとうまく伝わるような構成を考えてみるのも大事なんじゃないかなあ、と思いました。 (お子さん、SUNgです。)

2017-12-11

〈舌足らずの玩具〉というフレーズから、悲しき玩具、を連想しました。 〈長い長いうわごとの/公衆の設備に寄りかかって/君は果つるまで汲みつづける/自分という光景〉 うわごと、は、譫言、なのでしょうけれども・・・続く公衆、と結びついて、なんとなく、うわごとのように公衆電話に向かって何かを話し続けるイメージ、が湧いたのですが、その前にある〈水の一部〉という言葉から、水の表面、上ごと(そんな言葉はないかもしれないけれど)というような連想も浮かびました。 〈自分という光景〉語り手にとって、これは重要なワードなのだろうと思うのですが、自分、が観念化され過ぎていて、なんとなく空回りしているというのか、うまく響いてこない感覚がありました。〈果つるまで〉という、官能の極限のようなシーンや、道の果つるまで、といったような情景の際に、詩語として用いられるような文語的な言葉があるせいでしょうか。 水の面に浮ぶ幻影としての自己、を、飽くことなく、水の果てるまで、汲み続ける(でも、汲み上げることが、つかみとることができない)といった心情を伝えたかったのだろう、と思いつつ・・・ここまで、込み入った表現にする必然性があるだろうか、という疑問を覚えた、と言えばよいでしょうか。 〈其処にはいない白い山羊〉・・・う~ん、何のメタファーだろう・・・山羊、というと、「僧侶」の中の〈洗濯物は山羊の陰嚢〉という、インパクト大のフレーズが、まず浮かんでしまう、のですが・・・あれは、白山羊だったか。イメージの中では、むしろ黒山羊、なのですが・・・。河原の石、耽美的な正体、と続くと、タナトスに彩られた、賽の河原の石、のようでもあり・・・ 〈頬に湾曲される水、つたう〉これは、頬に涙が流れる様子の描写、でしょうか。 コートを肩にかけている、のだから、外に居るイメージなのですが、〈果つるまで〉〈クライマックスを迎える君の〉という流れから、室内で愛し合っている景とも読める。愛、を「いとしい」のいと、と読ませているあたりからも、睦みあっている際の・・・と読みたくなる、のですが、いささか隠喩を多用しすぎているような印象が残りました。 (光景)

2017-12-11

皆さんに訴えて来るものがある、そして(花緒さんが指摘されているように)荒削りな印象も受ける、のは、おそらく・・・ 自分自身に言い聞かせる、刻み込む、ような形で綴られているからではないか、と思いました。 題名の〈渚へ〉は、具体的な人名なのか、あるいは、理性と感性の波打ち際、のような・・・現実と非現実とのあわい、のような、そんな(心象風景としての)渚、なのか。 自分自身に対しての「宣言」とも取れる作品ですが、その文言が他者にも向けられている。ある種のアジテーション、とも受け取れる。コメント欄と作品とを読み比べながら、そうか、若い人達には、こうしたストレートな「意志の刻み込み」のような作品が、インパクトを与えるのか・・・心象風景への歩み入りとか、幻想の景への侵入とか、探索、といった、非現実の場への移行ではなく、今、この場に生きている自分自身への言葉が意味を持つのか、という「発見」を得た作品でした。 最後の一行が、自分自身、から、〈俺たちにとって〉と拡大されている、ここが、もしかしたら先走り感を与えてしまう部分なのかもしれません。つまり・・・読者が、語り手の「自分自身への刻み込み」を、自らのもの、として受け止めよう、とする前に、この言葉は、俺たちみんなにも、向けたものであるんだよ、と語り手によって明かされてしまう。その性急さが・・・たとえば花緒さんのコメントの、〈最終行の、希望なのだから、は多分違う〉という違和感、ある種の抵抗感として現れている、のではなかろうか・・・という気がしました。 (渚へ)

2017-12-11

指先に走る痛み、に焦点が当てられているのではなく、〈撫でる〉という言葉に含まれる愛おしむようなニュアンスが印象に残りました。 指先に刃をすべらせ、うっすら滲む血液、その血が〈誰かの/同じ血〉へと混ざっていく、とけこんでいく、のを夢想しながら・・・実際には、血が乾いて、痛みだけがそこに残されるのを、一人で見つめて居なければならない。 わたし、であることを離れて、大きな一群、誰でもない群、の中に溶け込んで、消えてしまいたい、という願望が、満たされないまま、孤独だけが切々と・・・指先にこびりついて乾いた血が目の前に突きつけられるように、そんなリアルさで迫って来る。 そんな心情が描かれているように感じました。 二連目の、〈誰か〉という、漠然とした対象設定が、全体をなんとなく曖昧にしている感もあります。耽美的な心象風景への傾きが前面に出ている、というべきか。 命のエネルギー、あふれ出す心情・・・その熱の象徴ともいえる流れる血が、乾いてしまう、というイメージと、心が冷えて、凍り付いてしまう、液体が固体になってしまう、というイメージと〈凍える指先〉〈溶けはしない〉〈霜が訪れ〉という冬の寒さのイメージとが重なっているように思いました。 〈深い底〉とは、集合的無意識が心象映像として描き出した、群青色の湖、ということになるでしょうか。 茨木のり子の「みずうみ」という作品に、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ〉 〈田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは〉という印象的なフレーズがありますが、そんな心の奥底の湖を連想しました。 (冷たい夜明けの湖畔にて)

2017-12-11

最後のキメ台詞?の部分が、〈奪いたまふ〉なんだ、〈奪いたまへ〉ではないんだ、と・・・驚く、というのか、意外、と感じた、というのか・・・。ここで、作者としては悩んだのか、悩まなかったのか、伺ってみたいと思いました。 冒頭の流れるような二行、詩への入り方が、美しい。〈とき〉と〈時〉の使い分けも、ゆるやかに訪れる時間と、一瞬にして過ぎ去る記憶の対比、という印象が生まれて、とても良いと思いました。水仙のつぼみ、という具象的な映像が冒頭に置かれるのですが、〈そのひとりの少女・・・健やかに伸びている〉という進行により、水仙のつぼみのような少女、そして、その少女が早春(人生の早春)の冷気の中、ゆるやかに花開いていく、その予感を漂わせた〈とき〉に自然に変換されていく。 〈湿り気をほんの少し奪うので・・・ことができた〉構文だけみると、実に理屈っぽい文体なのですが、内容は論理を越えていて、語り手にとっての確信を提示しているに過ぎない。読者にとっては謎の「論理」なのに、語り手にとっては自明のものとして進んでいく、この意外性にも魅力を覚えました。 〈湿り気〉という言葉は、湿っぽい関係、という慣用的な言い方に通じます。 ドライな関係、というような言い方からも分かるように、人間関係の親密さを、乾燥の具合、水気があるかどうか、という「感覚」に喩えるのは、わりと一般的な理解の範疇なのに、新鮮さを感じるのは、なぜなのでしょう。 きっと、〈地下鉄の通路を吹く風〉が奪うものは、肌の湿り気、目の表面の湿り気、といった具体的な、手で触ることのできるような現実感を持ったもの、であるはずなのに、二人の関係性というような見えない湿り気を奪う風、となり、その結果として〈涙〉が零れる、という・・・見えるものから見えないものへとスライドしていく流れの鮮やかさに理由があるような気がします。 〈夕陽が切り裂き魔のように/中央線の走る街から光を奪ってゆく〉このフレーズも面白いですね。夕陽が切り裂き/切り裂き魔のように中央線の・・・と、二重にかかっているように読めます。ストレートに読むと〈夕陽が~光を奪ってゆく〉となりますが、光が光を奪う、という意外性が、心地よい違和感になっている。 解説するなら、夕陽が一瞬の閃光を残して、その後、昼の光が失われていく景を描写した、ということになりますが、「2人の会話」のように自然に置かれた〈ビックバン以降/無から有は一度も生まれてないのだよ〉という文言と光が響きあい、なにやら宇宙的な広がりを感じさせる行間になっています。 〈少しずつ奪い/少しずつ与える〉何を、奪い、何を、与える、のでしょう。愛?信頼?無から有は生まれない、それは、気持ち、に関しても当てはまるのでしょうか。 〈ホットミルクは熱っぽく傾く〉〈きみ〉へと熱っぽく注がれる〈ぼく〉の視線を背後に潜めつつ、グラスを傾けてミルクを飲む〈きみ〉の様子、その喉の動きまでもが浮かんで来る。 〈いつか神は奪う〉今の、この一瞬も、失われてしまう、ということか、二人の関係性も、いつか奪われてしまう、ということなのか・・・ビッグバン、月と海、といった、大きな広がりや重層的な意味を含んだワードが複数出て来るところに、さらに〈神〉という大きな意味を秘めたワードを持ち込むことが、果たして成功なのか、どうか。 ぼくらが、奪う、風が、奪う、きみが、奪う・・・という、ぼくら、に直結している関係性の内で奪われたり奪ったりする、なにか、がテーマであるはずなのに、さらに〈神は奪う〉まで広げてしまわない方がいいように思いました。 (奪われる)

2017-12-11

・・・既に、ビーレビに投稿しておりました(笑) http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=236 夢魔、です! (Stars)

2017-12-10

一連目、二連目が、なんとなく・・・説明的に聞こえてしまう、のは、なぜなんでしょう・・・人は、という、漠然とした他者、がテーマとして置かれているから、かもしれないですね。 三連目の「わたくしは~」からの連が、とても好きでした。宮沢賢治の、青い交流電燈、という、鮮烈なイメージや、貝の火(ガラス玉のような石の中で、色とりどりの火が燃えているイメージ)が、鮮明に刻印されていて・・・生命エネルギーが灯のように燃えている、イメージ。そこに通じるものが、あります。 繰り返し見る夢があります。真っ暗な、塗り籠めたような闇に、かけ渡された細い、銀色の投網のような網。その網目の交点が、線香花火のように(赤ではなく、白く)燃えては、燃え落ちようとする。すると、周囲の交点から・・・脳内のシナプスが情報伝達する時のCG画像、のように・・・光の線が伸びて、燃え落ちようとする火を、つなぎとめる。そうして、網目が編まれていく・・・というもの。網目の交点で燃えている光、あの光一つ一つが、魂の発光なのだ、と、確信的に「思い込んでいる」のですが、なぜ、そう思うのか、感じるのか、が、わからない。 そのイメージを描いた詩があるので、投稿してみますね。 (Stars)

2017-12-10

表記に関して、〈あなたのを見目〉と、〈やはらかな〉という、文語体の使用部分が、少し気になりました。 切実に、〈あなた〉を信じたいのに信じられない心情が綴られていく。〈あなた〉を、愛しい人(片思い、あるいは、不実な恋人)として読むのか、もっと大きな・・・神とか信念、未来といった観念的、精神的な存在と読むのか、両者が重なっていると読むのか・・・ 新宿、という場所というか、トポスの持つエネルギー、地霊のようなものを、もっと徹底的に新宿らしい細部や情景を「取り出す」「ちりばめる」ことによって活用するか、あえて内面にだけ目を注いで、心情の波や、不安がいかなる形象(心象風景)を伴って現れるのか・・・  どちらかに明確に舵を切った方が、より読者にインパクトを以て伝わるのではないかと思いました。 信じる、信じない、信じたいのにそれが出来ない、という切実さは、言葉を重ねていくよりも、その不安な心情に映る外景や、不安な心眼の見つめる内景に、より如実に現れるのではないか、という気がします。 信じる、ということの不能性そのものに触れる作品として、ドイツの廃墟文学と呼ばれる一群を思い出しました。 ハインリッヒ・ベルの、蝋燭を聖母に(だったかな、うろ覚え)等が印象に残っています。 (帰らないものたち)

2017-12-09

律動感と申しましょうか、言葉の流れていく速度やリズムに、動きを感じました。時計を刻んでいくような、アンダンテの速度で、語尾に軽めのスタッカートを置いて、着実に進んでいくような印象。 音感や音楽性にも心を配った作品だと思いました。 (黙々と)

2017-12-09

印象に残ったフレーズを引用しようとして・・・既に三浦さんも硝子さんも、同じところを引いておられました。 朝のグラスに、たたえられた水、透過する朝陽。とらえどころのない液体は、語り手の心そのもののメタファーともなっている。何色にも染まっていない、様々な景を歪めたり拡大したりしながら写しこむ、レンズのようなグラスと、揺れる水。 その水を見つめる自分の目が、他者の目と重なっているところ、自分を内部で感じつつ、外部からとらえているところにひかれました。 (細部)

2017-12-09

指先にぎりぎり届かない、日向・・・産毛をかすかに揺らさない、風・・・届きそうで届かない。触れられそうで、触れられない。 賢治は、あめゆじゅ、と、美しい言葉で名付けられたものを呼ぶことが出来たけれども(エスペラントで、アイラブユーと、読解できるとも聞いたことがあります)語り手が名付けようとすると、水道水を凍らせた、その融けかかりのような、なんとも味気ないものとなってしまう。 つかめそうでつかめないポエジー、陳腐な名付けしか出来ない、それゆえに呼び出すことが出来ない、しかし確かにそこにあるはずのポエジーを、切なく求めているような、その情景を描いているような作品だと思いました。 (「産毛」)

2017-12-08

仲程さんのコメントに、電車のなかで思わず吹いてしまいました・・・ 洗罪、は、無罪なのか・・・ ならば、詩罪は、いかに処すべきや? 何度でも洗い直して、また始めたいですね。 (最終判決)

2017-12-08

誘う作品でした。 (冷たい青)

2017-12-08

途中で送ってしまいました・・・ 美と殉じてしまいたい、という衝動なのか、君、を独占していたい、という感情を極度にみなぎらせたゆえなのか・・・ 君を、君のすべてを愛しているよ、と呼びかけるけれども、語り手は君との性愛の時間を愛している、と呼びかけているようにも読める。 君、は、エロスの化身なのかもしれない。自意識を忘れ、自らを離れさせてくれるもの、意識を陶酔に導いて、生きる痛みを麻痺させてくれるもの。そんな境地をもたらしてくれる、エロスへの、切ない告白、片想いに近いような独白なのではないか。 少女であり少年であるかのような中性的存在であることも、後に天使として描かれることになるエロース=アモールへの連想に誘われました。 (冷たい青)

2017-12-08

映画を見るような、それも、かなり長回しの映像が流れるような前半と、かなり急速に、強引に、映像を遮断しては挿入していく後半。 顔を塗り潰された少年のイメージが、そこに深い黒い穴のように迫ってくる感覚がありますが (冷たい青)

2017-12-08

熱量は→熱量も (赤い川)

2017-12-08

リーディングを意識されているのでしょうか、流れとまとまりがいいですね。 湧水は、いのち(の流れ)が最初にほとばしる始点でもある。 35億年の命の流れの始点、さらにその先・・・46億年を越える、命の素、の始点・・・は、果たして混沌なる無(なづけえないものの集合)なのか、整然と緊密にバランスを保ち、それゆえに動きを失った完全なる世界、なのか・・・ 脱線しました。 川床をうごめく魚は、私たち一人一人の姿でもある。完全無欠の精緻なる完璧さに彩られた世界は、雪の女王が作り上げた孤独な宮殿のような美しさだろう、そこには、熱く流れるものも、予想外にに溢れて汚したり乱したりする熱量はない。 赤い川の水面が膨れ上がり氾濫し、あたりを透明な赤で飲み尽くすとき、正気も狂気も源を同じくすることを、人は知るのだ・・・そんな気がします。 (赤い川)

2017-12-08

花緒さんが谷川俊太郎さんの印象的なフレーズに触れていますが、遺失物、夕焼け、そこに溺れる(忘我の)感傷ではなく、自身もまた、いつか消えていく存在として・・・自分自身を客体として見つめる目差しにおいても、谷川さんの世界に深くシンパシーを感じている印象を受けました。 鈴木志郎康さんや吉野弘さんなどの名作も、余韻として響いているのを感じる作品。 網棚に置かれたままの先人たちの名詩のフレーズ(新聞を、とか、夕焼けも見ないで、など)、そんな、一生携えていきたい言葉をすら、いつか置き忘れていくのかもしれないけれど・・・その言葉から生まれる何かを胸に抱いて、新たにホームに立つ人がいる。そうして、続いていくのだと思います。 (回送)

2017-12-08

鮮明に映像が立ち上がる冒頭から、思弁詩へと移行していく中盤。作品に関する指摘については、花緒さんの批評に尽くされているので特に申し上げることはありませんが・・・ 虚空に突き立っている鉛筆そのものが、語り手自身と重ねられている。自身の本領を発揮すべき機会は、どこにあるのか、いつ訪れるのか。自身で動くことが出来ないまま、じっと、何か、を待っている・・・「わたし」を用いて、本領を発揮させる「存在」は、どこにいるのか。その不在に対して、問いかけている、そんな問いかけの詩であると思います。 「ゴドーを待ちながら」の、まさにゴドーにあたる「なにか」を、待つ、という行為の切実さを、キリリと垂直に立つ鉛筆の姿に託している。鉛筆というものの「書く」という機能に即して、なおかつ垂直性、削り痕や芯の黒光りといったイメージをうまく活かした作品だと思いました。 (Bの鉛筆)

2017-12-07

空に向かって、大きく両手を差し伸べ、左右に押し開いていくようなイメージですね。 冒頭で〈さわれはしない〉と認識しているにも関わらず、空、という得体のしれない、大きなものに向かって、能動的に関わりたい、そうせざるを得ない、そんな衝動が能動性となって表れているように思います。 体言止めで言い切り、改行の冒頭に助詞を置く。文体に不自然さを与えかねない技法ですが、この場合は、~く、と脚韻を踏むように続く文体に、適度なアクセントを与える効果があると思いました。 トートロジーとは、何か・・・言葉を重ねていくことによって、麻痺していく感覚と、畳みかけていく強調や心理的切迫感とのバランスの問題なのかもしれない、とも思うのですが・・・ ひらいていく、ものは、「そら」なのか、あるいは「くう」なのか。二人の間の空白、空間、そのものがテーマなのか。水に写る鏡像、イマージュだけはそこに揺らめいているのに、〈君〉は、そこにいない。〈空の隙間に、喪われたから、〉その喪失の切実さと、君、の存在感の稀薄さ。 〈空に、水に、何度も爪立てて/何か刻んだだろうか/何か傷つけただろうか〉 無意識のうちに、あるいは未必の故意的に、誰かを、何かを傷つけているのではないか。その問いかけが、〈空〉を開いてでも、何かを確かめたい、という衝動に繋がっている、ような気がしますが、全体に心象や映像どうしの映り合い、映り込み・・・いわば、反映の連続のような曖昧さも残ります。 トートロジーとは、創作に対して、あるいは詩に対して、どのような意味を持つのか、という観念的な問いかけが、背後にあるからでしょうか。 〈あの時のあの水、みず〉に含まれる自ら、あるいは、見ず、のイメージ。空が内包する、上の空、そらごと、のイメージ・・・分解していけば、穴、が現れる「空」。だからといって、文字を分解したところで、何かを掴めるわけでは無い。言葉を綴っていく上での焦燥感に、〈きみ〉(具体的な人物というよりは、なにかの象徴としての対手であるような気がします)の像を捉えられそうで捉えられない焦燥感が重ねられているようにも思いました。 (空をひらく)

2017-12-07

〈長い泥酔と落胆 失意のあと僕は真っ白な拘禁室に収容されていた〉 この前半の‟混乱”が、苛まれていた悪夢、ということになるのでしょうけれども・・・ 冒頭のエロティックで暴力的な(被虐的な)女体のイメージは、劉邦の妻、呂雉が側室の戚夫人への暴虐を想起しました。 戚夫人が被った悲惨や苦悩と、現実社会で語り手の〈僕〉が被った悲惨とがオーバーラップされている、ということになるのでしょうけれども・・・若干、勢いで詰め込み過ぎたのでは?という印象も受けました。 幻聴や幻覚のイメージを、乱雑さを保ちながら、ある程度取捨選択して、しかもインパクトのある描写にしていくには、どうすればいいのか・・・私自身の課題としても、考えてみたいと思います。推敲の仕方の問題、と言えばよいかもしれません。 (四肢なき体)

2017-12-06

あくまでも、ひとつの「意見」として、コメントは読んでいただければと思います。 〈鉄パイプの/骨組だけを晒す・・・露出した・・・ビニールハウス〉〈妖しいプラスチックの面〉 その景が、幼児期の語り手に残した鮮烈な印象、それこそが主題であったのだろう、と思い(あるいは、そう読みたい、という思いがあり)無限、という得体のしれないものと、つながる瞬間に立ち会ってしまった、そんな幼児期のおののき、そこを、もっと読みたい、と、個人的に思ったのでした。 (物質と記憶)

2017-12-06

マッカーサー、はそのまま「使用」していて、毛沢東は〈毛宅東〉、〈周音来〉も〈鄧翔平〉も〈蒋貝石〉も、徹底的にパロディーにしている、のですね・・・ここまでやるなら、「真っ赤ーサー」なんていう遊び方でもいいかもしれない。 おもしろおかしい、スタイルに仕上げている、けれども・・・かなりブラックユーモアをきかせている。台東区・・・台湾と、ひとつ、文字が被っているけれども・・・政治的な風刺に偏り過ぎているような印象もありました。 資本主義社会の、悪しき象徴ともいえるような、フライドポテトにコカ・コーラ、そしてハンバーガー(資本主義というより、大量消費主義、というべきか) プルーチェ(フルーチェ)は、簡便で簡易式の食事のイメージ?・・・中盤というのか、このあたりが、少し筆が滑っているような感覚もあり、少女たちとの関連性が、いまひとつ(私には)読み取れず、もどかしいような思いが残りました。新鮮でぷるぷるしている、というあたりの連想なのか・・・。 〈そうやって毛は己の闇と戦ったのだ。〉賢治の「ほんとうのさいわい」は、何処にあるのでしょう。そんな問いかけを、背後に感じつつ、現状の中国や台湾への政治風刺も感じつつ。 (毛)

2017-12-06

東風 に 瑞雨 ・・・ですから、春の景、と読みたいのですが、晩秋に投稿された意味を、考えるべきなのか、どうか・・・ 全体に、やわらかで風が吹き通うような自由さが溢れていますね。たっぷりとられた余白。 言葉が、優しい輪郭をもって・・・色彩は鮮やかなのに、具体的な関係性は曖昧なまま置かれていく感覚は、なんとなく、岩崎ちひろの絵に似ているかもしれません。 〈タイムリミットを着替えたまま/いってしまった〉ひらがなの優しさ。「逝って」しまったのかもしれない、でも、既に芽吹きの、再生の予感が秘められている。それが、春先のこと、として・・・ 〈小春日和〉ここで、今の時空に戻る、ということか・・・(春、つながりで導き出された言葉、かもしれませんが) 43時間前、という、微妙な設定。具体的なようでいて、中途半端な、宙づり感に誘われる時間。 おねえさん、ではなく、絵本の文字を指で追いながら読むような「おねいさん」・・・幼子に戻ったひとの、甘えるような呼びかけを思いました。 意味を追う、詩ではないのかもしれませんが。〈わたしたちは 順次ゆく〉〈あなたが/おばあさんでも/わたしは あなたの/おねいさん〉鶏をつぶして食す、という自給自足的な田園地帯(あるいは、語り手が幼児の頃に脳裡に刻まれた、「おばあちゃんの家」での風景)が織り交ぜられ、〈鳥に自由を着せて/川に永遠を履かせて〉美しい詩語で彩られた、永遠への憧れが中途に置かれ・・・。 祖母への哀悼詩、と思いながら拝読したのですが、もっと大きなものを迎え入れるかのような詩想を背後に感じました。死、そして再生の予感(というより、願い、と呼んだ方がよいのかもしれませんが) 〈愛も恋も知らないボタンが/小さな口を二つづつあけて/囁き合うように〉愛も恋も知らないまま逝ったひと、への想い、と読むのは・・・さすがに読み込み過ぎか、と自制しつつ、あえて「愛」「恋」という甘い言葉を持ち込んで、それを否定するあたりが、気になります。ボタンホールを彷彿とさせつつ、ボタンが外れた後の空虚が〈囁き合う〉ような不思議。 具体的な関係性や時系列を読み取ることは出来ませんでしたが、あえて「させないように」曖昧に置かれた言葉を、そのまま、宇受け取った方がよい作品だとも思うので、無理に「物語」を読み取ることはしないでおこうと思います。 〈あなたの居ない空間〉を、このようにささやかなものに凝縮して、なおかつ軽やかに〈ただよい/はじめる〉と手放すように扱う、繊細な手つきに惹かれました。 前半の、光がきらめくような明るさと、ふわりと「なにか」が再訪してくるような予感・・・それこそが、東風、なのかもしれませんが。あるいは、梅の香りと共に、祖母のイメージに重ねているのかもしれない。思い起こせよ、と・・・後半の、首を切られた鶏の鮮烈な映像・・・時間感覚が上手くつかめないのですが、ここは、先に書いたように、過去に強烈に刻み込まれた「死」のイメージの挿入として読みました・・・この転調。 幼子に戻る「おばあさん」の景を経て、鶏の羽のイメージに換気扇の羽根が言葉で呼び寄せられていく。鶏に象徴されるような「死」のイメージを排出していく、そんな意識が終連に込められているように感じたのですが・・・もし、そうであるなら、若干、意図が先行しているのではないか、という感覚も覚えました。 〈帰る場所を探〉すという文言はあるものの、「本来、還るべき場所」を探している、という切実さよりも、死後、永遠という場所に放たれていく、というような、不思議な開放感を感じる作品でした。 (東風)

2017-12-06

あえて、硬い文体で、所々に説明口調を入れながら書いたということなのでしょうけれども・・・句読点がつけられていますし、行分けにする必然性(文章の進行のリズムや、読みの呼吸など。あるいは、余白のレイアウトや文字の並びが生む視覚的効果など)が、あまり感じられない。きっちり詰めた散文詩にしてみたら、印象はどのように変わるだろう、そんなことを、まず最初に感じました。 印象は、と主語的に始まりますが、これは「春はあけぼの」と同様の、テーマの提示ですね。主語として、私は、が隠れている。その「私」(想像力の主体)が、蝉の幼虫の内部に意識を内在させ、そこから「伐採された木々」に思いを馳せる、という、人間くささ、とでも言うような落差が面白いですね。 自分の価値であった、と、あえて説明してしまうのが、何となく蛇足のような気がしてしまうのですが、ビニールハウスの骨組み、幼児の目に不気味に迫るプラスティックのお面、と、具体的な景と、その「物」が、無限に連なるこわさをもつものであったこと、それゆえに好奇心を惹き付けてやまないものであった(らしい)ことが語られていく。 幼児期に感じた怖れや感動を、もっと、当時の新鮮さで呼び戻していく・・・そんな描き方をしてみるのも、ひとつのアイディアだと思いました。 (物質と記憶)

2017-12-05

「手の平の上で小さな太陽系が さらさらと微かな音を立てている」 「雨降る惑星の青を口の中に放り込めば」 創造力が、ごくありきたりのものだらけの、ありふれた日常を、一瞬で輝くものに変える。 クリスマスツリーのライトアップのような、スイッチの入る瞬間が、この比喩の部分にあると思いました。 (宇宙の底で)

2017-12-05

冒頭の、透明な幾何学、で思い出したのは、目を酷使したあとの痛みで腫れぼったい目玉を、ぐうっとまぶたの上から圧迫したときに見える、バザルリが描き出したような、歪んでいてしかも整然と並ぶ市松紋様が球体状に浮遊する、蒼い光の点滅する暗闇。 自己の内部に沈潜しようとキーボードを叩き続けて、体が浮き上がったまま幻想が脳裏を流れていく景に気持ちが巻き上げられていくのを感じている、徹夜明けの朝の感覚。 あのとき、こうしていたら、あのとき、ああしていれば、平行宇宙が陽に焼けた本の背表紙のようにめくれあがる、その裏側の肉色の空白を、触れるのを恐れながら手を差し出さずにはいられない、その衝動に駆られた視界の端を、あなたの眼差しが鋭い視線を刺して行き過ぎる、その棘は悲しみなのか怒りなのか絶望なのか軽蔑なのか、思いばかりが渦巻いて、ノートパソコンを閉じる朝の感覚。 感想を書こうと思ったら、詩のようになってしまいました、ご容赦。 (明るい部屋)

2017-12-05

クリーチャーと、クリエーター・・・詩のクリエーターが、自ら〈巨大なクリーチャーになり〉たい、とつぶやき、即座に〈そんなつまらない夢だから/台所で洗われるんだろうな〉と、自らツッコミを入れる。ショートコントのような面白さがあります。 冒頭、交わり、という言葉と胡瓜の形状から、男女の交合の隠喩でもあろうか、とも考えたのですが、同時に、軽やかな筆致のゆえに、カッパが語っているようでもあり・・・。 中盤で登場する〈君〉と、(智慧の)リンゴの、皮を全て剥きとった、はだかの気持ちの付き合い、というようなニュアンスと・・・ まだまだ頼りない、情けない僕、だけど、君を守れるような、そんな存在になりたいんだ、そんな僕の〈つまらない夢〉を、頬を染めながら聞いている〈君〉、そんな二人が見えるような気がしました。 (小さなクリーチャー)

2017-12-03

ごみ、埖とも書くのですね。塵芥のごみ、しか知らず・・・土偏に花。 意味を漢和辞典で調べたわけでは無いですが、満開の花が地に落ちたあとはゴミになる、そんな無常観のようなものが含まれた文字でもあるような気がしました。 花緒さんの指摘も、なるほど、と納得させられますね。 ゴミでできた(大量消費社会の生み出した、不要物だらけの)オートバイVS骨組みだけの、しかし余計な不要物は付けていない、必要十分な乗り物である自転車。ガソリンとエンジンで動くオートバイに対し、人力で動く自転車。 検索エンジンで動くネット社会と、自ら辞書を調べてノートをとるアナログ手法との対比であるような、そんな読み方もできそうです。 (埖)

2017-12-03

露台、という言葉(というより文字)で思い出すのは、ぎっしり文字の詰まった、茶色く縁が日に焼けた、岩波文庫などの一頁、でした。そのイメージの向こうに、うっすらとバルコニーが見え、どこか遠い夢の国の、緑の芝生が広がり、そこにパラソルをさして、ドレスをまとった婦人たちが散策している。はるか昔に夢見た、外国のイメージ。 〈南国産の果樹が数本〉このあたりから、イギリスやフランスの庭園のイメージが、インドシナなどコロニアルのイメージにスライドし、指、そしてあめふらし、という言葉から、紫の汁のしたたる生っぽい塊が脳裏に浮かび、すぐにその塊を黒く海鼠のように干からびさせていく日差しの日照りの強さが、南国の木々のイメージと共に迫って来る。 コメント欄で多かった、難しい漢字とは、たとえば「艸龜」でしょうか。旧漢字?になるのかな、クサガメですよね。 露台、もそうですが、昔の文庫本などでは、台所の台が「臺」になっていたり、芸術が藝、会は會、と、やたらに画数が多かったりする。そして、その「もぞもぞする感じ」が、妙に心地よかったりした、ものですが・・・昭和初期の古本とか、読む人も少なくなっているのかもしれません。 読んでいて、ぞわぞわっと来り、もぞもぞ、と来る感じ・・・躑躅とか、蟷螂とか、そのたぐい、ですね・・・掲示板の文字スタイルにもよるのでしょうけれど、このあたりのざらつき感とか、読んだぞ、という心地よさのようなものは、なかなか伝えるのが難しいのですが(なんか、わかるなあ、みたいな言い方しかできないけれど) 蝶になり切って書いた詩の中で、蟻に噛まれて蟻酸を首に注入される、みたいなシーンを想像して書いたことがあるのですが、蟻酸がたつ、と記されると、霧がたつ、というような動詞のイメージが呼び込まれ、四隅から黒々と魔術的な瘴気が立ち昇るような、不穏さを感じるのが面白かったです。 能管、いわゆる横笛でよいのでしょうか。音の響きが納棺、脳幹と重なるのが面白い。 きいろ、から、こあきない、の「き」にイメージがつながるのか、どうか、この連は、私にはうまくつかめませんでしたが、次の鶏小屋が出て来る連、注連縄の「しめ」のイメージと縄のイメージが重なって、首を絞められる鶏のイメージが浮かびました。 鶏の連想が浮んだせいか、〈やがてはずれる身〉の部分、なんとなく骨から肉がほろりとはずれる、そんな鍋物のイメージが浮かんだりもしました。はずれる、とは、一族から外れる、のが本来の読み方なのでしょうけれど。 身、から「みず飴」が引き出されたのか。みず飴から連想するのは、子育て幽霊の話。これもまた、かなりはずれた読み方になってしまうのかも。膠を食う、とは・・・ゼラチン?〈畠鼠を追う〉なぜか「叔父」が猫やフクロウといった、人間以外のもの、にも思われて来るのですが・・・ 鶏、のイメージが、私の中ではまだ続いていて、レタスを毟る、この文字が、羽を毟る、というイメージにスライドし、戸籍を染める、の「染める」の文字が、真っ赤に色づいているように感じられた、のではありますが。 洋蘭、という音からは、むしろ揺籃、を思い出すのだけれども・・・洋蘭は漢字なのに、レタスは萵苣、ではないのだなあ、と思ったり・・・let us という響きでもあるなあ(レタスを半分に切ったものを、塩だけで食べるサラダを、レタスウィザウトドレッシング、と呼ぶ、と聞いたことがあって・・・以来、レタス、のイメージは、ヌードにエプロン、みたいなイメージと結びついている部分もあります)と思ったり・・・そんな感じで、脱線しながら読みました。 意味、としては、いまひとつよくわからない。線路、用水路、追憶、と・・・ノスタルジーや幼年期を彷彿とさせる単語や、運ぶもの、運ばれるもの、といった意味合いが文字の上から重なって来るようには思うのですが。 題名に影響されているかもしれませんが、大きな物語への「補遺」として綴られた、イメージの断片の集積のような印象も受けました。 (補遺)

2017-12-03

一連目の、「おーい、雲よ」みたいな、絵に描いたような「入り方」だなあ、と気が緩んだところに、 二連目のパンチがくる。「生産性無いのお」これはオモロイ、というべきか、キッツいなあ、というべきか。 大阪弁?を使うことで、ストレートなのに、柔らかい感じになっていますね。 三連目で、ドン・キホーテの話に飛ぶ。「俺の息で回したる!」その意気で行け!と応援したくなりますね。 落ちも、イイ感じに気が抜けていて、笑ってしまいました。 へっこき女房、のオチは、へこき部屋を作ってもらう、だったでしょうか。 飛ばしたたんぽぽ、どこかで芽吹いて、春にはたくさん、咲くでしょう。 風車は吹き飛ばすばっかりで、種をまくことはしない、でしょうから。 (昼の足掻きに草臥れて)

2017-12-02

なにもないところから かわいた風が吹き起り たったひとりの頬に触れる つぶやいたひとこと すきだよ ごめんね いつもありがとう (詩のつくりかた)

2017-12-02

騙すのも騙されるのも そこに期待があるからだろうね 未来を夢見ることさえなければ こんなに空っぽの心をぶら下げて 暗い星の裏側を 見つめて見つめて見つめ続けて それでもなにも見えない暗さに 痛みを覚えることなんてなかったろうに 「じっと凝視(みつ)めるな わかい友  自然が与へる暗示は いかにそれが光輝にみちていようとも  凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ・・・ 手にふるる野花はそれを摘み  花とみづからをささへつつ歩みを運べ  問ひはそのままに答へであり  堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ」伊東静雄は静かに決然と 答えを求めることを棄てた 問いに出会うそのときの心のおののきをこそ 携えて歩めよと 不眠と神経症と極度の不安に苛まれる夜を抜けて 詩人は痛みを受け入れた そんなに凝視めるな その先に行け (暗い星のために)

2017-12-01

血まみれの自由! 静かなのに激しい。 ずっと夜の藍色のイメージが全体を覆っているからかも知れないですね。 狼男に象徴されるように、誰もが多かれ少なかれ抱え持っている二面性・・・「君」の都会的で美しく整った、知性的な面・・・に、牽かれたのかもしれないけれど、あえてそれを断ち切って、野性的な「君」の側面に溺れたい(共に野に埋もれるとしても)そんな読み方をしてみたくなりました。 (fool on the moon)

2017-12-01

地獄のような現世と、甘く蜜を滴らせるような天上世界・・・ 豊かな色彩と殺伐とした世界とが、二重写しになっているのが鮮烈でした。 死後の幸福を信じて自爆テロで命を落としていった魂を、カラスに重ねて読んでいました・・・そんな、具体的な意味付けは、しない方がよいのでしょうけれど、この作品は、映像作品を見ているように、景が具体的に展開されたので、そんな読み方を選んだのかもしれません。 (彷徨う羊と水蜜桃の空)

2017-11-30

拍動に乗り流れ行くままに たどりついた島にうずもれ 私は静かに根をのばした 喉の奥を洗われるたび、苦さに嗚咽し腹を震わせ 軋みながら爪を剥がしながら 根を伸ばすことだけはやめなかった 岩盤を突き抜けたとき 地上の私は崩れ去った 既に朽ちて肌はささくれ 粘菌と地衣類がぬめりを抱き込む ひた、ひた、ひた・・・ 大地の底から近づいてくる足音がする したたる水の迎え入れる速度で 穿ち抜いた空洞に潮の苦味を覚え思いだし想い返し 喉の奥を洗った渋く辛い粘質のうしおの 細かくひび割れた根の先に焼いた針の鋭さで染みてくる苦さを それは私が呼び込んだものに相違ないのではあったが・・・ ひた、ひた、ひた、 空虚が塩の味で押し寄せる 朽ちてなお 私は根を伸ばし続ける (古代そして意識の地層は)

2017-11-30

生活、せいかつ と読むのでしょうけれど、なりわい、と読ませたくなりました。 情熱が失われていく・・・この一行目に、ドキリとさせられます。 雨に現れたように、まっさらに輝いている瞬間が、子供の時は沢山あったはずなのに・・・窓ガラスから差し込んだ光が、細かな埃を光らせている、その景に息がつまるほどドキドキしながら、みいっていたときがあるはずなのに・・・あらゆるものが、埃を被って、濁っているように見えるのは、なぜなのでしょうね。 昭和初期の小説のような、懐かしさを感じる語り口調に、すうっと最後まで読んでしまいましたが、2連目の想像力の世界への逃避の部分が、後半の日常生活の中に取り込まれていったら、体が病んでいるような、世界が病んでいるような感覚が、少し異なったものとして見えてくるかもしれないと思いました。 (生活)

2017-11-30

冒頭から直喩が続きますが、実体験に即した、非常に体感的に伝わって来る比喩であるがゆえに、切実な感覚を伝えることに成功していると思いました。〈伝わらないということは、決裂に似ていた。〉言葉は、何のために生まれたのか。自らの身を守るという切実さが、生み出したものであるのかもしれない。そんな、個人を越えて(大袈裟ですが)人類の原体験を肌身で感じているような感覚が伝わってきます。テロの根源にあるものは、不信、疑惑、憎悪、警戒・・・といった感情だと思いますが、野生動物が人に怯え、牙を剥き、たとえば傷ついた獣を助けようとしているのに、暴れたり噛みついたりする必死さ、その必死さを恐れて、異質なものを排除しよう、不信を払いのけようとする感情・・・言葉が伝わらない、介在しない、という情況と、それは似ているのかもしれない、と思いました。 言葉を知らない赤ん坊が、他者に無心に笑いかけるのは、恐怖や憎悪を知らないから、でしょうか。あまりにも周囲が異質なものだらけで、何を警戒していいのか、それすら、わからないから、でしょうか。 生れたばかりの赤ん坊が、ひたすら泣き続ける。それは、やはり恐怖や混乱から生じている叫びなのでしょう。その叫びが、産着に包まれ、あたたかく胸に抱かれると、今度は快感と安心に替わる。にっこり微笑む。その不思議と、フィオリーナさんが記した〈全身のうぶ毛を抜かれた赤裸の皮膚を晒して生きるようなもの〉との間について、考えています。母語は、あるいは産着であり、母の胸の安心でもある、のか・・・。 心細さを抱えている時の心情は、赤ん坊の叫びと似ているのかもしれません。驚くほど安易に知らない人の車に乗ってしまった、その驚きの体験記を読みつつ・・・車に乗せてくれたアフリカ人は、フランスにもともといる人ではなく、移民なのかもしれない、フランスを訪れたばかりの頃の、心細さを知る人だったのかもしれない、と思いました。 ( 出口まで39キロ~南仏紀行)

2017-11-27

暗さから灰色へ。 香・・・というよりは、匂い、臭いが喚起する官能、身体的な表現を多用することによる迫真性。 意欲的な作品だと思いました。 純白のものを汚していくというイメージ、靴が醸し出すフェティッシュなエロスをかなぐり捨てつつとらわれている(とらわれにいく)ような能動性。 作者が男性か女性か不明なのですが、男性視点で、女性に顕著と言われる身体感覚や生理感覚を縦横に駆使して、死(あるいは死に至る官能)に犯される母、未だ死に侵入されていない自身を、あえて死にさらしていくような能動性。 実際の死を望むということではない、死に匹敵するような官能を激しく望みながら、どこか醒めた視点で見つめている(見定めている)精神の有り様を感じました。 陶酔と混乱の世界に「行ったっきり」にならず、現世に帰還してくる筆力にバイタリティーを感じます。 (雨に溶ける)

2017-11-25

藍を愛、と、読み替えたくなりますね。 どことなく甘えたような、妖艶な、死への誘い。きっちり四角にまとめた三行と、ふっとゆるめながら、鋭く置かれた一行のコントラストも、水槽と兎の関係性を視覚化しているようで面白いです。 (よる)

2017-11-25

あやとりのように! なるほど・・・右手から左手、左手から右手に投げ渡すお手玉のように、と、以前、別の方のレスとして書いたら、いや、お手玉は上に投げあげるんじゃないの?とツッコミが入って、そっか~とわらいだしてしまったことも。 うまくとらえる表現が見あたらなかったのですが、(二人で糸を掬いあう)あやとりのよう。ぴったりですね。 (田園に夕暮れ)

2017-11-25

夕暮れのひとときの不協和音 不協和音というワードで瞬時にとらえる立ち上がり、 センター試験まで ループ、ループ 明日に向かってスキップ、スキップ というようなリズム感、 コップに浮かんだエクボが笑って というようなユニークで自由なイメージの展開にひかれました。 なんにせよ、若さ全開、という感じですね! (15秒の青春)

2017-11-25

作品も素晴らしいけれど、黒髪さんのレスにも感動。 作品に戻ると、冒頭から一気にファンタジーの世界に引き込む。そして、ファンタジーの世界こそが真である、という作者の思いが伝わって来るような気がします。 これだけ優しい、易しい言葉で、深い思いを綴れることがすばらしい。 隠れたテーマとして、人は「泣き方」を知っている、という思いがあるのでしょう。そして、人が再び海に抱かれるとき、人の悲しみは潮騒や桜など、より普遍的なものに変容し、歌い続ける存在となるだろう・・・そうあってほしい、という作者の願いも含めて、綴られた作品のように思いました。 海の縞模様、という不思議な生き物(光に煌めく広大な海の姿を想う人も、ウミウシのようなかわいらしい生き物を想う人も、砂浜に残されていく、波打ち際の潮の跡を想う人もいるでしょう)について、客観的な第三者が語っているような冒頭から、いつのまにか、その生き物の目線に視点が移動する。最後は、その生き物の姿も溶け込むように消えて、私、という、作者と同一人物であるかのような位置にたどり着く。 この視点は、作者のものであると同時に、作者が思いを馳せる、死者の視点でもあるでしょう。 この世の人間である作者が、想像の世界でしか出会えない死者たちと、いつのまにか2重の存在となって、その厚みを通して語っているような気がしました。 (砂の中の海)

2017-11-25

セピア色のフランス映画を観ているような感覚がありますね。パリのアパルトマンの屋根裏、絵描き志望の日本人留学生と、フランスの大人びた少女・・・ あえて、なのだと思いますが、枯れすすき、廃線、日本海、と、思いっきり演歌的な、記号といってもいいワードが入っているがゆえに、日本を感じる一方で・・・乾いた恋愛というのか、女性があっさりと別れを受け入れてしまうドライな感覚や、ポートレート、マグカップ、ベッドライトといった小物使いが、上に述べたような印象を作り出しているのかもしれません。 映画的な作品だと思いました。 (マリア)

2017-11-25

夏生さんへ ありがとうございます。感想、感じて、そして想うこと、想像すること、思いを馳せること・・・それが、すべての鑑賞の基本であり、たどり着く到達点でもあると思っています。 かっこ内、まったく、絶対に、ぜんぜん、すっかり、気にすることも、謝ることも、ないですからね (海)

2017-11-25

【俺にくれよ】の、ロックな感じ(ちょっと、ラップ風のところも)、ぐわーっと押し寄せて来ますね。 全体の構成や、クライマックスに持って行く盛り上げ方、音楽的な構成力を感じました。快楽を求めながら、常に醒め続けている精神の叫び、刺激を求めながら、冷静に事態を見詰めている精神、を感じました。 【逃げない光】、【ベーション・ルーパー】、【筆の糸】、この関連が、いまひとつ・・・ 連作とするなら、それなりの関連性が必要なのかな、とも思いました。一度に投稿してしまったら、もったいない!・・・という、感じ? (BABY NEAPOLITANS)

2017-11-23

湯煙さんへ お名前は、「_ 」アンダーバー、さんだと思います。ユニークなハンドルネームですね。 ある、いる、と記されるのと、アル、イル、と記される強さ、表記の工夫が生み出す印象について、考えさせられる作品でした。 (watashi)

2017-11-23

獅子が子を谷に落とす(もちろん、愛情ゆえ、ですが、鍛えるため、でもあり) その前の「宣言」であるような、厳かで、かつ、決然とした意志の強さを感じさせる作品でした。 〈今生の朝を死に切る〉この一語の強度について、考えます。人生を朝昼夕、そして死を夜にたとえる、普遍的なイメージがありますが・・・人の一生、それは、常に朝だ、そのことを、ゆめ忘れるな、と釘を刺しているようにも聞こえる。 ローリングストーンの意味合いが、国によって、あるいは時代によって異なっている、と聞いたことがありますが、人生は常に稚魚として放たれた、まさにその瞬間なのだ、常に転がり続けている、その過程なのだ、その過程をこそ「生き切る」ことが、尊いのだ、そんな「宣言」を感じました。 (宣告)

2017-11-23

るるりらさんへ 貴重なお話し、ありがとうございました。 魂、という「もの」について語ろうとすると、科学者はすぐに眉を顰める、しかし、人間にとってもっともたいせつなものが、そこにあるのではないか・・・0から1までの間に、心と体、がある、として・・・どこかで両者を切り離そうとすれば、必ず何かを取りこぼしてしまう、何かが抜けてしまう、逃げて行ってしまう。そんな、カミソリの刃一枚くらいのところに、魂はあるのではないか・・・正確な言葉ではありませんが、河合隼雄さんが、そんなことを(よしもとばななさんとの対談であったか・・・)記していた記憶があります。そうした不可分の領域に触れていくことのできるものが、宗教(本来の意味においての。既成宗教として、系統立てられたもの、組織だてられたもの、ではなく)や芸術なのではないか。そんな気がしています。 (海)

2017-11-23

一連め、二連めは、対句的な用法や、リズミカルな文体、体言止めや語尾をリフレイン的に繰り返すなど、神話的な語り物といった印象を受けました。 三連目で急に〈果てなきデッドスペース〉と横文字が入ると、なぜか急に現代の世相を表しているような感覚を覚えるのが面白いと思いました。デッドスペースは、使われていない空き空間、というのが本来の用法なのでしょうけれども、この作品では文字通りの意味、死が充満している空間、と読みたくなる。弱肉強食の世界から一歩抜け出すための「文明」であったはずなのに、結局、資本主義という、金銭による弱肉強食の世界にたどり着いて、強者はあいかわらずのさばり、弱者は疲弊しているように思われる、わけですが・・・〈無数の命がただ生きて死んでいくだけ〉まさに、そうした空間として、現代は存在しているようにすら思われます。 競争の果て、全てが不毛に帰した後にも、そのスペースを「有効利用」しようとする抜け目ない不動産屋がやって来る。四連目はそんな文明批評的なイメージで読みました。先行御三方の批評に、ほぼ同意、ということですね。 まるで別の話になる、のかもしれませんが・・・口語自由詩の100年の歴史、について、なんとなく思い起こしていました。 不毛の大地を開拓し、拡大し、広げていく「フロントランナー」たち。彼らが去った後の地が放置されていれば、また荒地に戻ってしまう。たくさんの人が住みついて、耕し、肥料を施し、繰り返し耕作して・・・ようやく肥えた土が生まれ、豊穣の地となる。 しかし、フロントランナーの名は碑銘に記されても、その後に耕作を続けた無数の者たちの名は、記されることはない。この地の豊穣を生み出したのは、外ならぬ、こうした無名の多数者たち、であるのに・・・ というイメージと共に。アメーバのように進行していく詩の総体についてもイメージします。四方八方に触手を伸ばし、どこか一方に向かって本体が動いていく。向かう方向に伸びた触手は本体に吸収され、他方に伸びた職種は切り離され、取り残されて離れ小島となる。離れ小島となって、そのまま干からびて不毛の地となる触手の先端もあれば、そこから芽吹いて、別種の花を咲かせる離れ小島もある。本体がまた戻って来て、離れ小島を吸収していくこともある・・・ 先端の動き、伸ばされた触手の先端だけが、詩史上の出来事として記されることが多いのですが・・・大切なのは本体の動きであり、本体内部で、先鋭が去った後に、その地を耕作し続け、豊かに保って行く人々なのではないか、と思うこともたびたびです。 かなり話が脱線してしまいましたが、そんなことも考えたりしました。 (不毛の神)

2017-11-21

何善→何千、です! (頬)

2017-11-21

〈その涙が僕の  名だと〉 この一節にドキリとさせられました。 ほんとうの名、を取り戻すことができたら、自由になる。 普遍的な、誰もが抱くであろう真の望み・・・。 『雪の女王』の最終章を思い出しました。 悪魔が作りだした、批判点ばかりを増幅させる鏡の欠片・・・その欠片が人の目に入ると、美しいものが醜く歪んで見え、些細な欠点が全てを覆いつくすほどに巨大化して見える、そんな鏡、自分が利口になったと人を錯覚させる鏡の欠片・・・が眼に入ってしまった少年カイは、雪の女王の口づけによって「人間らしさ」を奪われ、心臓を凍りつかせたまま、雪の女王の雪の広間の中にある「理性の鏡」と呼ばれる、何善という氷の欠片に覆われた湖で、ひとり、氷の欠片を組み合わせる「遊び」に興じている。雪の女王に、もし「永遠」を表す言葉、その形に欠片を並べることができたら、「おまえを自由な身にしてあげよう。それに、おまえに全世界と、新しいスケート靴を一足、贈ってあげるよ」と言われているのに、目に入っている悪魔の鏡の欠片のために、どうしても「永遠」という形を見つけ出すことができずにいる。 そこに、カイを助けに来た少女ゲルダが訪れ、カイをだきしめて「熱い涙」をこぼすと、その涙がカイの心臓まで沁み込んで氷を溶かしていく。ゲルダが歌う賛美歌に思わず泣きだしたカイは、自分の目から溢れる涙によって、目に入った悪魔の鏡の欠片を押し出し、カイもゲルダに抱きついて・・・気づくと、氷の欠片たちが2人の嬉しさにつられて踊り出し、いつのまにか「永遠」の形に並んでいて・・・晴れて二人は自由の身となって、雪の女王の城を去る。 〈ゲルダは、カイのほおにキスをしました。すると、ほおは、花咲くように生き生きしてきました。ゲルダは目にキスしました。するとそれは、ゲルダの目のように輝きました。手と足にキスしました。するとカイは元気できびきびしてきました。こうなればもう、雪の女王が帰ってきたってかまいません。カイの自由の保証書が、きらきら輝く氷のかけらで、ちゃんと書かれているのですから〉(『雪の女王』大塚勇三訳 福音館書店) ユング風に言えば、ゲルダはアニマで、カイはアニムス、なのでしょう。ゲルダは感性、カイは理性とも読むことができる。知性を習得する際に身につけねばならない、批判精神・・・時には、長所としてみなされるべき部分まで、突出している、という理由で短所と見なしたり、自身の批評家精神を誇示するかのように荒探しに興じたりする、そんな歪んだ批判精神、も含めて・・・カイが身に着けた知識は、感性との再会を阻害するものであったに相違ない。そして、感性の熱い思いによって、知識や批判精神にがんじがらめにされた「理性」は救済され、幸福な魂の全一感を得る・・・私は『雪の女王』の最終連を、そのような物語として読んでいるのですが(そんなアンデルセンの想いが現れた部分、として、という意味です)フィオリーナさんの今回の投稿作品に、同様の香りを感じました。 評というよりは、別の作品の引用ばかりになってしまいましたが・・・。 (頬)

2017-11-21

題名が、なんともストレートで・・・なんとなく「説教くさい」文章だったら、どうしよう、とおそるおそる、という感じで本文を拝読したのですが・・・ 〈気持ちを突っつく 信頼の入口に明かりがついている〉 この二行、とても素敵だと思いました。 それも、求められて、〈おそるおそる〉やってみる、すると・・・という流れ。 この一言を言ってしまったら、関係が壊れるのではないか・・・そんなことを恐れて、表層的にすり抜けよう、上手くかわそう、として・・・繰り返すうちに〈信頼の入口〉そのものを見失ってしまう。そんなことが、人生にはきっと、何度も繰り返し訪れるのだと思います。 信頼の在り処、ではなく、入口。そこに入るか入らないか、それは訪れた人に任されているのかもしれませんが、明かりをともして〈こんな場所〉で待っている人も、扉に鍵はかけていない、ということでしょう。 明かりの色は、きっと菜の花色。そんな気がしました。 (信頼を築く幸せ)

2017-11-21

斉藤木馬さん コメントありがとうございます。自分が「体験」したこと・・・現実世界で、ということだけではなく、他者にはうかがい知れない、非現実世界、での「体験」も含めて・・・を文字に書き起こして、伝える事、それをやりたいのかもしれない、最近、そう思うようになりました。 恐らく前半から〈あの明るみの中に居る〉という、自己中心的な了解まで含めて、そうした「体験」を描こうとしているのだとは思いますが、〈まだ温かい肉体は~〉の部分は特に、自分自身が、父は死んでいないのだ、と死を拒否しようとしている、そのための「言い聞かせ」だったのかもしれない、と、考えたりしています。結局、なんだかよくわからない、でも「たしかにあった」出来事を描こうと腐心しているわけですが・・・おそらく、まだこれから、何年も、書き直し続けることになる、そんな気がしています。 (海)

2017-11-21

「一人の男」、「その男」、を「わたし」と言い換え、さらに「俺」に言い換えていく、という意識の外から自身の意識の中心に向かっていく距離感と方向性が前半部分には感じられるのですが、既に一連の中で「その男」と「俺」が混在している、2連でも「俺」と「わたし」が混在している。 ひとりの人間の自意識が年輪状に重ねられた球体からなる、そんなイメージを持っているのですが、その表層から深層まで、揺れ動きながら〈ラップトップに向かって原稿を書いている〉自分を捉えようと試み、その自分がサイバー空間の中に取り込まれていることを意識しつつ、そのサイバー空間に向けて原稿を打ち込んでいく。そんな入れ子構造が面白いと思いました。 サイバー空間の繭の中にいるような印象ですね。果たして、「道」は、本当にひとつ、なのでしょうか。 無数の「ローマ」があり、放射状に道が張り巡らされ、それぞれの「ローマ」に、一個の表現者がいる。そんな気がしてなりません。 (ROME)

2017-11-21

くつずり ゆうさん 沼尾奎介さん 田中修子さん コメントありがとうございます。事実を書こうとしたとき、結局書き手の一面的な見方でしか、書くことができない。過去の出来事を「思い出して」今の時点に引き寄せて書こうとすると、知らず知らずのうちに、それまでの経験や体験が加わって、意図したものでなくても「脚色」してしまう。息子が交通事故にあった時も(軽傷でしたが)証言者、運転手、息子の証言が、当事者であるにも関わらず、すべて食い違ったのでした。断片をひとつの「物語」として繋げてしまう、そうしないと「理解」ができない。人間には、そういう性向があるのかもしれません。だったら、フィクションにまで拡げてしまっていいじゃないか、という思いにもなるのですが(ノンフィクションで描いたとしても、虚構や脚色が入り込むのであるから) くつずりさんのあげて下さった〈まだ温かい肉体は 物質であって父ではない〉は、もしかしたら、自分でそう言い聞かせたかった、自分で自分を納得させたかっただけなのかもしれない、そして、他者に同意を求めたかったのかもしれない、そんな気がしてきました。 沼尾さんの〈冷静で俯瞰的な眼差し〉、ありがとうございます。当事者でありつつ、第三者的な視点で書こうとしていたかもしれません。事実をドキュメンタリータッチで、抑制して記す。徹底的に写生的技法にこだわる・・・私の知る範囲では、苗村吉昭さんなどが、こうした技法で優れた作品を残しておられるわけですが・・・他者を自分ひとりの空想空間に引きこむのに必要な迫真性と、事実として肉体が体験したこととの間の乖離について、改めて考えたいと思いました。 田中さんがおっしゃるように、〈現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為〉が、果たして成功しているのか、どうか・・・海の女性性と父の男性性、これは考えていませんでした。なるほど・・・太陽は、父の暗喩に良く用いられますよね。アポロンが男性だから、かもしれない。天照やケルト神話ではたしか女性だった、などなど、文化によっても色々あって面白いです。大日如来は男性なのでしょうけれど、仏像を拝見する限り、ほとんど中性。天使は中性であるらしい。田中さんの案を拝見して、「蝶墜ちて大音響の結氷期」という俳句を思い出しました。 (海)

2017-11-20

花緒さん、クヮン・アイ・ユウさん、survofさんへ 重なる部分も多いので、御三方への返信としつつ、多くの方にも議論に参加していただきたいと思います。 詩や創作文芸はフィクション、虚構である、ので、この作品の中で亡くなった父と、現実の私の父、が同一人物であるかどうかわからない。つまり、いかに「現実に起こった事件」のように描かれていたとしても、それが、事実であるとは、限らない。作品中の「わたし」も、作者その人であるかどうか、わからない。花緒さんと、この点を、まず、共有したいと思います。その上で・・・ 死の悲しみとか、死をめぐる観念とか、死後の世界というものに対する死生観のようなものが、他者に伝わる表現となっているかどうか。なっているとして、それが効奏しているか、ということになるかと思います。 花緒さんの「現実に詩が勝てないだろう」「技巧が優れていればいるほど、いずれにせよ現実を決定的に矮小化せざるを得ないことを受け入れている」そしてsurvofさんの「具体的な描写が多いことで逆に表現としては作り物っぽさが増してしまう」「日常の「死」と思想としての「死」が同時に語られていて、それをうまく交差させて読めない」という指摘は、非常に的確で、ありがたい、大切なご指摘だと思いました。 本作は、実際に父が亡くなった時のことを書いています。いわゆるドキュメンタリーとして描いている部分と(言葉のリズムなどで、詩、に引き寄せようとはしているけれども、フィクションというよりはノンフィクションに近い部分)人は死んだら、どうなるのだろう、どこに行くのだろう、死後の世界を見てみたい、想像で作り上げた世界であったとしても、その中を冒険してみたい、という日頃の願望を満たすために描き出したフィクションの部分とを、組み合わせる形で書いています。 死、という絶対的な現実を、ドラマティックに演出するためには、どうすればいいか、と頭を巡らして「創作」している部分と・・・実際に父の死の際に聞いた、「ごぼごぼ」という水音、ああ、この人はもう戻ってこない、という感慨、自動的に(クヮンさんが「半ば自動的なからだの動きを感じさせる表現」と指摘してくれた部分)体が動いて、人工呼吸の真似事をしていた時のこと、それから、恐らくは慣れない人工呼吸で酸欠になり、目の前がぼーっと白く霞んで見えたこと。その後、父が死んで、そこに横たわっているのに、まるで「悲しみ」が湧いてこなかった不思議(嫁に行って以来、父とは離れて暮らしているわけですが、そうした日常的な別離の感覚と、まったく同じ感情しかわかなかった、という事実)をどう、自分の中で解釈したらいいのか・・・葬儀の時も、柩を火葬場へ送りだす時には、少しは涙が出たような気もしますが、ぜんぜん、「かなしい」という気持ちにも「さびしい」という気持ちにもならなかったこと、その不思議を、どう解釈したらいいのか・・・ということを、17年間、考え続けている、のだけれど・・・父が、肉体としては死んだけれど、離れたところで、別に生活している、という感覚が抜けない。ならば、その「感覚」こそが、「自分にとっての真実」だと思うことにしよう。父、は、この世から、少し違う場所に移っただけで、死んではいない、肉体が滅びたに過ぎない、そういう自己解釈を、自らを納得させるための「仮の結論」として用意して、この作品を「創作」した、ということになるでしょうか。 まだ存命の「母」が亡くなったことに替え、私、を「僕」に替え(異性間での人工呼吸という行為に、タブーに触れていく快感を喚起されるだろう、という前提のもとに)性別を変えてみると、どうなるか。(もちろん、同性間でも恋愛感情がわくこともある、ので、あくまでも一般的なエロス、への働きかけ、ということになります)・・・特に、花緒さんの問いに対して、ということになりますが、 そのように、「死」という現実を「利用」して、なんらかの思想や詩想を創作することは、「死」に対する、冒涜ではないのか・・・という問いかけであるなら、まさにその通りなのですが、「死」を、いかにも現実らしく、徹底したドキュメンタリーとして「誠実」に描くことで読者の感情を動かそう、とすること、それ自体に「強い疑義を覚える」のであるとすれば、それは違うのではないか、と思います。 作者にとっても、読者にとっても、感情を強く揺さぶられる出来事、として、「死」は動かしがたく存在していますし、万葉集の時代から、哀悼、追悼という形で、死は歌われてきている。 問題は、「他者の死」を哀悼する、事実として述べて、その際の作者の裡に起きる情動と同様の強度を持った感情を、他者の裡にも喚起する、それを言葉の力で行おうとする、という欲動と、「死後の世界」を体験してみたい、というような作者の好奇心、読者の好奇心を満たしたい、という欲動、その両者を、現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為が、成功しているのか、どうか。 成功していないから、つくりもの、のような感情や、あえてドラマティックに盛り上げていくことで、作品を「創作」しようとする手つきの方が目立ってしまって、作者の心情に添っていくことが難しくなっている、ということ、ではないのか・・・というのが、花緒さんやsurvof さんのコメントを読みながら、考えたこと、でした。実を言うと、伊東静雄賞に提出して、佳作は得たものの、本賞の受賞は逃がした作品です。おそらく、審査員の方も、こうした「死」という現実を描く際のわざとらしさや、現実の死と、創作の死後の世界とを結びつける手つきといった部分に、違和感を感じられたがゆえの落選ではないか、という気がしました。 たとえば、白血病で余命いくばくもない恋人との残された日々、という物語を設定したとして、それをいかにも現実らしく書いて、他者の「涙を誘う」作品に仕上げた、として・・・死とはなにかとか、哀しみとは何か、といった、大げさな言い方ですが、実存的な問いを問う作品なのか(俗に言う、純文学を目指しているのか)泣きたい、感動したい、刺激を得たい、他者の人生を、ある一定の時間、仮に生きてみたい・・・という読者の欲求を満たすために書かれた、エンターテインメント作品、であるのか。 作者側の制作意欲を主とするのか、享受する側、読者の側の体験意欲を主とするのか、と言い換えてもいいのかもしれないけれど・・・もちろん、分離不可能な問いですが・・・ 死、は、生者にとっては未体験の出来事ですから、想像力を駆使して体験してみたい、と思うし、それを興味本位に文学作品として描き出すことは、別に不遜でも冒涜でもない、と思っています。問題は・・・現実に他者の死(それも、身近な、大切な人の死)と出会い、打ちのめされたり、喪失感から立ち直れなくなったりしたときに、死後の世界を夢想することで少しでも救われたり、立ち直るきっかけになったり・・・生きて行く意欲が得られたりする、のであれば、そのためにこの作品を役立てたい、と思ったりする(実際には、自分がいかに、死を消化し、死を了承するのか、その自問自答を、作品として提出しているわけですが)心性なのかな、と考えたりもしました。 クヮンさんが、映像を見ているようだ、とコメントしてくれていますが、そこは意図した通りです。うまくいっているようで良かったな、と思います。他方、現実の死、という題材で、死後の世界を夢想する、その空間世界に無理やり結びつける、そこは、成功しているのか、どうか・・・現実の死、とは別個に、自分が死後の世界を探訪する(ダンテみたいに)好奇心に満ちた旅行のような書き方であれば、違和感なく、楽しんでもらえる作品になるのか。徹底してドキュメンタリーの手法、写実の手法にこだわり、寡黙で感情を抑制した筆致で、他者の裡に、自身が感じ取ったと同様の強度の感情を喚起する、その手法が、もっとも妥当、なのか・・・問いは尽きませんが、長くなったので、ひとまず、このあたりで。 (海)

2017-11-18

いいなあ、という、まずは第一印象を。 ひらがなと漢字のバランス、視覚的な情景から始まり、音、あるいは音が喚起する質感へとスライドしていくときの自然な(意図したものではないでしょうけれど、計算された)そぶり。 〈わたしの誕生日をわすれて  割れてしまった果実のような気持ちを  接着しました〉 男の人は、わりあい簡単に記念日や誕生日を忘れますね(私も忘れる方なので、男っぽいのかもしれません)女の人は、そのことに、かなりショックを受けたりする、ようですが・・・。 〈あなたは きっと 自由で苛酷な 馬になれるでしょう わたしは きっと どこかの土になれるでしょう〉 読者が、自由に〈あなた〉と〈わたし〉の関係性を「物語」として思い浮かべればよい、のでしょうけれど(恋人同士とか、先生と生徒、とか、あるいは、離れて暮らす母と息子、とか・・・)私は、父と娘の切なさ、いとおしさを重ねながら読みました。それぞれの読者が、それぞれの関係性を思いながら読むことができる。そうした奥行きというのか、余白が残されているところに惹かれます。 〈あなたが生きている 手をつないで あったかい、つめたい 毛布をかけて あったかい、さむくない 口の動きで 心が色づく それだけで〉 最後に、心の高まりのままに歌い上げる部分も、声高に叫ぶわけでは無く、あくまでも控えめに畳みかけていく。素敵な作品でした。 (蹄の音)

2017-11-18

ニーチェの言葉を想い返しつつ、奴隷、という言葉の持つ強度(と頻出)にためらいつつ・・・ 奴隷、という言葉の強さだけではなく、奴隷、という状態を、もっと異なった言葉で表現したらどうなるのか、とか、そういうバリエーションで展開させていくと、すごく膨らみの出て来る作品であるように思いました。 (奴隷)

2017-11-18

インスタント焼きそばの「作り方」を(文豪の誰それが)書いてみたら・・・という「たられば」が、Twitterに流れていたことがあったのを思い出しました。特に、一連目。簡便なもの、安易に済ませられてしまうもの・・・の扱いや、そうした「ささいなもの」への思い入れの在り方などに、各人の個性が出たりもしますね。 個人的に興味を惹かれたのが、2連目。私の生まれ年は、浅間山荘事件の年なのですね。2度にわたる安保闘争が、学生側、あるいは日本側の敗北、として、意識に決定づけられた時代の、終焉となった事件。 ウルトラマンの3分は、カップ麺からの連想なのか、逆にウルトラマンから「3分」が導かれたのか、よくわかりませんが(最近は、4分の麺とかもありますね) 南極の昭和基地で、温かいものを食べたい(食べさせたい)という思いから即席めんが生まれた、と聞いたことがあります(袋に入った、四角く固めてある方) そのうち、カップ麺にあらゆる栄養素が搭載され、これひとつでOKなんて時代、がくる、のかも・・・。 (カップ麺)

2017-11-18

壁、実際の壁ではなくて、心理的な障壁、であるような気がしますね・・・ 発想もとは、壁のポスターかもしれませんが。 1連、2連のリズムが作りだす緊張感、実景であるように見せつつ、暗喩的な重層的世界に読者を引き入れていくような言葉の選択、語尾の重ね方、きびきびした進行などに惹かれました。 3連目に、少し口語調に傾いた、肉声というのか、日常思考に引き戻した発話があり、 また4連、5連と、詩的思考の域に戻って、実景のようなメタファーでもあるような、危ういところで緊張感を保ちながら詩を閉じる。 〈女〉が、魅力的な笑みを称えながら、私を読み解いてみなさい、私の中に入っておいでなさい、と妖艶に誘う「詩文」であり・・・実際に読み解いていこう、行間に入り込んで行こう、とすると、壁にぶち当たって拒絶されてしまう。そんな作品に出合った時の困惑、そう読んでみると(作者の想いから、飛躍してしまっているかもしれないけれど)すごく面白い一作だと思います。 そういえば、長田弘が、エミリー・ディキンソンの家に住み着いたネズミに成り切って、詩人の心の内を描く、という児童文学がありました。 読みを拒否する作品、その壁を齧ってすり抜ける、歯が欲しい。ネズミ年なので、なおさら。 (表層)

2017-11-18

びょうびょう、むびゅう、と響きが連なっていく。字形の固さや古語の奏でるクラシックなイメージ。 業によりかたどられた、という設定が、重厚な印象を残します。 夜光虫の光を印象に残す一連目。夜光虫の光の質感を〈寂寥に震へる〉と喩え、それは〈魂を言祝ぐもの〉と転換し、そこから〈古の貝〉に眠る旋律、に想念を滑らせていく・・・までの流れは、とても繊細に描かれていると思いました。三連目、急に天や大洋といった大きな景に場面転換したり、煉獄という大きな空間が〈波間〉に置かれたりする。 手元の小景から遠くの大きな景への転換、これは俳句や漢詩の短詩などで用いられる手法ではありますが、1、2連で粘り強く夜光虫の光や海辺の景を辿ってきているので、飛躍の幅に差があり過ぎるような気もします。 (夜光虫)

2017-11-16

そこは海ではなく 台所だったかも知れない そこは台所ではなく 非常階段の踊り場だったかも知れない そこは やはり 海であらねばならない この転換が、ユニークですね。飛躍するのに、違和感がない。青い魚、頭に藻が生えているあたり、なかなか面白い。緑の髪の毛を生やした、人面魚を想像してしまいました。自分自身を外側から見た時の、感情の断片というのか、自分の分身、のような・・・。 しろながす・・・聞き流す、読み流す、にも通じそうです。詩集の上を泳ぐ魚とは、語り手の胸の内から抜け出した詩情を体現したもののように思われました。 〈水平線といのちの垂直軸が交わるあたり〉世界、に屹立する個々の時間。いのち、とひらがなに開かれて、やわらかな感覚がありますが、一人一人の個々の時間が突き刺さっていくような鋭さもありますね。そんな「いのち」の姿を描きとったあとに、自分自身のユーモラスな分身を、バリバリ、頭から「喰って」いく、しろながすクジラ、とは、なにものなんだろう。時間そのもの(死にいたるまでの)でもあるかのようです。 積み重ねられた詩集の「海」、大型不燃物、白骨化した生き物・・・不要なもの、ですよね、一般的には。 詩集もまた、不要なもの、であるのかもしれない。でも、絵画のモチーフになるような存在感を持つ、置換不可能、そのものが意味を持つ、そんな存在でもある、ような・・・・。 ぶっ飛んでいるようでいて、冒頭の青い魚がロンドのようにまた戻って来たり、二行ごとに抑えていく詩行で形を整えたりしているので、整然とした落ち着きもありますね。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-16

空の髪が死んで、雨となって抜け落ちる なかなか不気味な表現ながら、木版浮世絵の雨の表現を思い出しました。 線描で雨を表す、これは意外に難しい発見というのか、発明であるようです。 しとしとふる雨、詩都市と死と・・・こんな言葉遊びのようなことを試して見ながら、予想外の詩面(しづら)に驚いたりする。これは絵を描くときに、実際に描きながら確かめていく感覚に似ているでしょうね。 ひらがなとカタカナの使い分けは、計算したものなのか、感覚的なものなのか・・・ 〈雨の雫として空に、止まるために 目に、他のヒトは固定され結晶していく〉ために、の め を受けての、音のつながりが、 目、という意味を持ち、その目に映る人々の像が〈固定され結晶していく〉不思議な空間。 しとしと、ではなく、ひと、と聞いた時から・・・ 冒頭の、髪が降る(神とも紙とも同じ音なのがおもしろいです)も含め、 自然現象が生身の肉体を持ち、自らの内外を流れるなにか、のようなイメージにも変容する。 水が流れ落ちているのを見ている内に、自分が流れ去っていくような、感覚の移動というのか、転化が生まれていく(感覚が外在化していく過程、のような)経過が面白いと思いました。 (ひとひと)

2017-11-16

煙草を吸わないので、初めて吸った時、の感覚というのか、印象の描写が面白かったです。 タブーを犯すような、思い切って「一線」を越えた後の、なんとなく間が抜けたような、味気ない感じ。 もっと刺激的な何か、を、期待していたのでしょうね。 父が昔、煙草を吸っていて・・・普段はその煙がいやで仕方なかったのに、風邪を引いた時は、なぜかその匂いが香ばしくて好きでした。いつのまにか煙草を辞めていたのに、母も私も気づかず・・・お正月に祖母の家で灰皿を出された時、いや、もうやめたので、と父が答え母が「いつやめたの?」と聞き返したとたんに、祖母(母方の祖母でしたが)に「なにやってんだい、気づかなかったのかい!」といきなり怒鳴られた時には、かなり驚きました。  朝。  白い陶器の灰皿に死を見る。  海に沈静すると燻る蒼白の焔があらわれる。  新たな一本から天を昇って漂う。  一日が始まる。  公園の片隅でよくたばこを吸った  青白く冷ややかな石膏の空に紫煙をくゆらせて 思い思いにたわいもない話をくりかえした   交わす言葉の行方など気にせず灰を叩き落としちぢこまる身を寄せた   靴底に素早く擦りつけると赤色に塗り込められた灰皿代わりの一斗缶のなかへ放り   かじかむ両手にながい息を吹きかけて 背を丸めて公園を後にした   からからと音を立ててころがる落葉 川面に漂い散り散りになって  吸い込む。そして、吐き出す。  紫煙をくゆらせながら燃焼する。  灰を見つめる。 今、抜き出した「詩」の部分を、散文が繋いでいる。その間に、コラージュのように煙草の脇に添えられた文言が貼りつけられている、という構成が面白いと思いました。 こんなに文面が異なるとは知りませんでした。タールやニコチンの分量も。 (たばこをめぐる断章)

2017-11-16

かもめ、という題名と、無数の点と線から、私は大海原を思い描きました。 たとえば、ビジュアルポエム展などに、銀板に刻んで掲示されていたら、はっと息をのむような衝撃度を持って迫って来る作品、かもしれません。 ・・・ひらがなでつづられた「抒情詩」の部分、音の流れも言葉の響きも、とても美しい、のですが・・・イメージの展開も、いいなあ、という思いがあったのですが・・・モールス信号の部分を、「翻訳」すると、この詩に成る、ということ、でよいのでしょうか。 海原をイメージしながら読んだので、翻訳作品、を読んだ時のイメージというのか、読後感と、実はあまり変わらなかった。その理由を考えているのですが、どうも言葉になりません。 激しく突き刺さって来るような「情動」ではなく、たゆたうような言葉の流れで、胸の内に去来する歌の由来、そして、エコーのように聞こえて来るカモメの声、砂浜に寄せる波の音・・・を想起しながら読んだから、かもしれません。 点字の詩集を「ながめ」ながら、それともまた異なる。言葉って、なんでしょう。外国語であっても、同じコードを理解する人であれば「意味」を交換可能、であるわけですが・・・質感とか、イメージを伝える、その力も、文字にはある、はずなのだけれど・・・行間にも、詩形にも。 戦後詩が、書になじまない、という批評家の言葉を読みながら(近代詩は書として上手く収まる)メディアと書法について、考えている所です。 (かもめ)

2017-11-14

とうとう、○○してしまった、の「とうとう」かと思いきや、滔々と流れる豊かな水を想起させつつ・・・ 夜中の台所でしょうか。老いた蛇口、少しサビの出た蛇口。家と共に歴史を重ね、家族を見守り・・・時には、蛇口から水を流しながら、皿を洗いつつ泣いたりしたことも、あったかもしれない。(お皿を洗う時って、正々堂々と泣けますよね(笑) 素敵だなと思ったのは、〈出会いが呼び水となり〉から、夢想の中ではるかかなたの水源地に意識を向けていくところ、そして、〈夢の支流に沿って〉から、さらに異国の街並みへと、自由に夢想を羽ばたかせていくところ。 そこから、手元の暗がりに戻り(現実の生活に戻り)〈排水溝へ流すしかない夜の溜まりが/酷く惜しくて〉夜の溜まり、は、暗くて黒くて捨ててしまいたいイメージ、を予期するのですが・・・流してしまう他ないものが、惜しくて、という、そこの驚き。 夜の溜まり、これは、夜の間に少しずつ溜まっていった自由連想や夢想、そうしたイメージの堆積、なのかもしれません。実生活には、特に何かの役に立つ、というものではないけれど。そうしたイメージの堆積こそが、詩、になっていく、そんな・・・あるかないか、わからないような、でも、虹色に輝いているような、なにか。 胸の中を去来する思い。その想いが湧きおこるたびに、涙腺が緩む。それを、感傷と呼ぶのはたやすいですが、感傷そのものに浸るのではなく、軽やかにそこから自分の身を引き離して、遥かな水源や遥かな異国の街並みに夢想を馳せる、その心の動きに惹かれました。 連ごとに位相を変えていくところが、上手いと思います。 (とうとう)

2017-11-14

詩書、史書となる。 秘書は既に秘密の書を抱え ひっかきまわしたあげくに消えて その痕跡を歴史と名付ける。 他者を冒涜する者を 許容する己を許容することを その弱さをこそ ・・・にゃんとかすべえ poesy、ここんところ、すっかり湧いてきませんです、はい。 (猫田議員の猫詩データー、完全版。)

2017-11-14

〈自分の中の正義が悪に変わったとき わたしが死んでいった〉 そのとき、手をさしのべてくれた〈あなた〉になりたい・・・ 〈乾ききった心に/水分を与えてくれた〉このフレーズ、実によく伝わってくるのですが、私は泉である、とか、私を飲みなさい、といった、聖書や仏典で用いられる喩えや、心を潤す、といった、日常生活でもよく使われる表現で、あっさりと通り過ぎられてしまっているので、そのときの、本当の嬉しさ。のようなものが、なんとなく伝わりにくくなっているのかな、という気がしました。 あなた、が、イエス様や観音様のような、観念的な存在なのか。あるいは、詩歌、なのか。人、ではない存在であるかもしれない。そんな読み方をしてみたくなります。あともう、ひとおし、粘ってほしい、ご自身の五感でとらえた、独自の比喩を見いだしてほしい、そんなことを、思いました。 (あなたへ)

2017-11-12

たのもしいなぁ(笑) (寂しくて辛い)

2017-11-12

不眠と神経症で苦しんでいたときに「名作」をものし、その後は(当時の鮮烈さが緩んだ故に)生活詩に退行した、と評されてきた伊東静雄という詩人がいるのですが、彼が、不眠の夜をあらしめよ、と呼び掛けるように終わる詩があります。その中に(七転八倒で苦しんでいた当時を思い起こしているであろう、時に)光の繭、という言葉が出てくる。 苦悩の中で、光の繭に包まれた❗・・・と感じる一瞬が、創作の一瞬なのかも・・・と考えると、創作の「業(ごう)」のようなものを感じてしまいますが・・・後年の穏やかな詩の中にも、しっかり当時の芯のようなものが息づいている。そこを見いだして、照明を当てることも、批評の大切さだと、最近思うようになりました。 (「三途川」 下)

2017-11-12

スパッと短く切っていく呼吸と、流れるのを抑えるように、中途で少し前のめりになりながら止めるような文体が交互に織り成す「物語」・・・ ひといきに時間を巻き戻して、原初のエネルギーを解放するかのような・・・カーニヴァル等で火を放たれる巨大な紙人形のような胎児の炎上が、鮮烈に印象に残りました。 (フィラデルフィアの夜に Ⅲ)

2017-11-12

題名で黄昏と記して、すぐに本文の方でも黄昏が出てきてしまうのは、もったいないような気がしました。 絶望が沈んでいく・・・血の滴るように真っ赤な太陽が沈んでいく、誰もいない砂漠を想起したのですが・・・あるいは雪原に、あたりを凍りつかせながら沈んでいく満月・・・ 読者の自由に任されている半面、絶望・黄昏・果てしない・罪深い・・・と、同質の世界観、意味的に近い内容が続くと、行間の余白が乏しくなって息苦しくなるかもしれないですね。俳句などなら、付きすぎ、というところでしょうか。 紙の世界に産み出される詩の空間、果てしない空間と、かみ、という音から引き出される神、のイメージ・・・創造神から引き出される、創造者としての自分。そんな重厚な世界を想像しうる豊かさを持つ人間と、その人間が産み出したもの、言葉の芸術の、吹けば飛ぶような軽さ。 抽象語や観念語を、五感でとらえ直すと、どのような比喩がふさわしいのか・・・その選択の仕方に、その作者の個性が出るように感じていて・・・そこを知りたいと思いました。 (黄昏)

2017-11-12

なるほど・・・コンセプトが勝ると、コンセプト倒れになる、いわば空中分解することも多いのですが、エモーションの流れに乗っていくことで、その危険を回避し得ているのかもしれませんね。 先鋭的、もしくは実験的な、言語領域の可能性や意味領域の拡大、もしくは無化・・・を意図する「果敢な挑戦」もたくさんなされていますが、少なくとも私の手元に送られてくる詩誌は、比較的リーダブルな、日常や自然の閃きの中に詩想を得たものも多いですね・・・もっとも、平易な表現の中に多義的な重層性を込めるとか、余情に想いを含めるといったことに成功している作品は少なく、説明的な叙述の日記のようなところでとどまっているものも多いように感じて、もっと・・・偏光顕微鏡でひとつのものを見るように、様々なフィルターで見てほしいなぁ、と思うことも多いです。 言葉を意味から解放していくと、霧散してしまうこともある・・・それをまとめる新たなシンタックスは、何か。エモーションや音楽性や、そこに生じる異空間の奥行き、等なのかもしれません。 (カップリング)

2017-11-12

作者からリプライがあることが、嬉しくもあり、怖くもあり、楽しみでもあり・・・ぜんぜん違う、そこは、がっかりすべきか、いや、それほどに多義的に読めるのである❗と喜ぶべきか・・・ご返信、ありがとうございました (宇宙)

2017-11-12

~ように、という直喩が続くのですが、見慣れた感じではなく、なぜか新鮮に読める。それは、〈固まり掛けの石粉粘土〉とか〈樹海に置かれた死体を演じる役者のような色〉といった具体的な、独自の感覚でとらえた比喩が続くから、なのでしょう。 〈着色された瑪瑙のような瞳をしていた。〉ここから〈私の正体はこの女に限りなく近いと思った。〉この飛躍に惹かれます。それこそ、私の正体だ、というように、断定しても良いのかもしれませんが、散文性の強い文体なので、~と思った、の方が自然に受け取れるような気もします。 花緒さんの感じた不思議さは、〈復讐するかのようにじっくりと見つめれば見つめる程〉の話者は、舞台上で化粧を落とした役者を見ている観客の視点、であり、〈周囲を警戒しつつ、~〉の話者は、実は舞台上の役者の視点に移動しているのではないか、というギミックが施されているから、ではないのか、という気がしました。 観客こそが〈愉快なピエロ〉〈寡黙な船頭〉〈ステージに向かってカンペを差しだしている〉子連れの女性・・・なのではないか。 〈あるいは銀紙を放り投げてもドレスを着た銀粘土を放り投げることはしない、〉銀紙つながりで銀粘土が引き出されたのか、と思いつつ、ここは脈絡がうまく捉えられませんでした。 石粉粘土で作り上げるビスクドール、粘土、という言葉から詩の内部でつながっているイメージと、粘土が結びつく、のか・・・。 〈団長〉に追い出された〈私〉こそ、〈ぱさぱさの髪を靡かせる滑稽な女〉なのかもしれない。その滑稽な女が〈道化師〉にスライドしているのかもしれない。 〈唯一分かるのは、悪魔の皮を被った子どもには、大人の皮を被った大人がついてくるということだ。〉この断定部分も、語り手にとっては自明のこと、読者にとっては謎として提示されている。面白い試みだと思います。 少しずつずらされていく語り手や話者の視点に翻弄されつつ、楽しんで読むことができました。一貫して道化やビスクドールのイメージが流れ、不思議なまとまりを持った世界を作りだしていると思いました。 (交差でぼろぼろになった、後)

2017-11-10

〈急いでる人は/感情を失って〉ここの部分と〈一人消えて〉、 〈笑ってる人は/でたらめに生きて〉ここの部分と〈一人生まれ〉が、 対応しているような気がしました。 (都会)

2017-11-10

〈~ほんとなの水が、〉とか、〈~きよらかであれ永遠の、愛が~〉〈~その手を、離さないで離れないで~〉という区切りの呼吸感、こういう節回し的な部分に、ニュアンスが宿るんだろうなあ、と思いました。詩を書くときは、最初の一行目というのか、一連目あたりがぽわっと浮んだら、あとはガーッと書いて、一呼吸おいてパソコンに打ち込み直しながら推敲する・・・最近は、そんな感じが多いのですけれど、即興的な勢いは、まるで出てきません。(まあ、即興とは言い難いですね・・・溜まって来たものを、ずるずる引っ張り出す感じ、なのかもしれない)瞬発力。短距離走と長距離走の向き不向きもある、かもしれないです。そんなことを思いました。 (曇天サーカス)

2017-11-10

たんたんと異次元に突入する冒頭。素敵です。 行間を飛ばし気味に、寡黙に、余白を残しながら綴られた詩行。 咎める、復讐、鍵がかかる音、鳥籠・・・小さなマンションの一室に「とらえられた」女性、をイメージしつつ(もちろん、私の勝手な妄想ですが) 〈葬った、私の小さな身体で寂しさを紛らわしながら きっと涙でも流しているんだろう、ほら〉 この予知的な詩行が、語り手の〈私〉が〈あなた〉に用意する復讐、なのではないか・・・ そのことを既に見通しながら〈あなた〉に抱きすくめられている〈私〉の醒めた視線の鋭利さを感じました。都会的な、二人の密室で展開されるドラマ、そこを埋め尽くす、〈息もできないほどの宇宙〉。 鮮烈な作品でした。 (宇宙)

2017-11-10

すごい迫力ですね。ひと息に「読まされて」しまいました・・・意味を追うよりも先に、勢いとか、盛り上がってハイテンションで突っ走る部分と、抑制されて力をこめて低音、低速で進行する部分と・・・ カップリング、これだけだとよくわからないのですが、シングル、と重ねられることによって、音楽のレコードやCDのイメージが呼び込まれる。〈彼女〉に、あなたの詩は、あなたの人生の添物、付随物みたいね、そうではなくて、あなた自身の、本当の物語を聞かせて、と呼びかけられ、荒み切った人生を再生させる、までの「物語」というのか・・・物語性を持ったひとつの楽曲、のような。 ふたつのクライマックスの間、が、ちょっと間延びしているような印象も受けてしまったのですが・・・三行ずつの構成で、気持ちを抑制させつつ語る、この部分の進行は、とても魅力的なのですが(整然とした印象もありますし)次につなげていく、~り、とか~て、といった語尾が、改行されてはいるけれども、完全に切れてはいない、継続して進行していく流れを作っている。部分的に行詰めしたり、もう少し絞れるところを削ったりして、ここをもっと、スピーディーに乗せていけたら、もっと面白かったのではないか、と感じました。(希望さえ朽ち果てた荒れ地というような、常套句的な用法とか、巡り会えた幸せに喜び打ち震えながら、あるいは、愛を信じあえる奇跡の器、といった抽象的な表現などは、なにかもっと、鋭い表現にできそうな気もします。) 〈跪き 俯いて うなだれた昨夜の鼓動よ 僕らの影をくるめとって 草原のそばに葬って欲しい その時世界は輝いたままで美しくなるのだろう〉こうした表現、とても新鮮でした。 〈風の吹き抜ける草原で虚無から開放され 僕は澄み切った眼差しでただただ遠方にある未来を見つめていた〉この部分につながっていく伏線ともなっている部分。こうしたところを、大切にしてほしいと思います。 (カップリング)

2017-11-10

高校生・・・!!!流れるような筆致。前半は現世の話なのに、いつのまにか三途の川を越えて、あの世になっている不思議。岩井志麻子作品をはじめて読んだ時の衝撃と、ある種の陶酔感覚を思い出しつつ。 南総里見八犬伝のノベライズ版などを中学生くらいの時に読んで、ひええ、、、と思いながら惹かれ、高校生の時にはラヴクラフトに耽溺し・・・いやまあ、それはひとまず置く、として。 原罪を負った人間、という発想は西洋だけのもののようにも思いますが・・・東洋には、それはない、ように思っている、のですが・・・生まれながらに「罪」を負わされた子供、を、人は愛せるのか、という問であったり、不運や暴力、業(ごう)の連鎖、といった重さ、であったり・・・こうした思想的なものが、いろいろ、エンターテインメント的な物語性の中に埋め込まれているのを感じました。 (「三途川」 下)

2017-11-09

大きな ばってん 、過剰防衛であったり、過剰な忖度であったりする、自然な思いやりや自然な違和感が、なかなかうまく表明できない、そんな時代・・・。 正義、というのも厄介ですね。妊婦さんがマタニティーの札を下げていたのに、気づかなかった初老の男性が、つかみかからんばかりの勢いで、そばに経っているご婦人に席を譲れ、と迫り、白髪のそのご婦人が恐縮(を通り越して、おろおろ)していたり・・・ 障碍の碍も、当用漢字に無かった、それで「害」の字が応急措置的に充てられた、と聞いたことがあります。 ポリティカルコレクトネス、をもじって、あえて大量にしつこく「言い換え」をしたパロディー作品を読んで、そのあまりのバカバカしさに捧腹絶倒しながら、多様性が絶対善なのか?と考えさせられたりしたこともありますが・・・〈私が時代の本流から~〉以降の文体の勢い、前半の愚直なまでの文体の対比(それゆえにとまどい、逡巡しているイメージが出ますね)が印象に残りました。 (半身の体の雨降りの午後)

2017-11-09

助詞をあえて行頭に持ってくることによって作り出される、少しだけ突っかかるような、摩擦を持ったリズム。それは、砂浜に打ち上げられた命の残骸、命の形骸を避けながら歩く、歩みそのもののリズム、なのかもしれません。 〈命をたらふく 食んで まだ足りない〉海、で思い出すのは・・・大震災の時の映像でもあるのですが。 最終連の〈押し寄せる波が/大きな手に見えた日を/思いだした〉につながっていきますね。 中間部、風の吐息とか、海の唄、といった文言は、甘さに傾いた印象を与えるかもしれない(ロマンチックな気分、に浸っている、ような・・・)という感想も持ちましたが、遠い記憶の、と記され、〈海の唄〉羊水のゆらぎ、胎内で聴いた波の音の記憶、にまで重なっている、と読むと、一段と深みを増しますね。 胎内を連想させるような文言を、どこかに忍ばせてもよいような気もしました。 (海の唄)

2017-11-09

ひらがなで、やわらかく、じっくり、反芻するようにつづられた部分と・・・いわば、感情そのものが物語っている部分と、意志や反省、理性といった思考が物語る部分が、絶妙に組み合わせられていると思いました。 〈愛情の 元来の使い方〉〈愛情というものへの  不信〉こうした理智で捉えていく、まるで解答があるかのような部分と、それは幻想にすぎない、というような・・・ふしぎ、としかいいようのない感情の部分。あのとき、いっしょだった、あの時間は、あの時の気持ちの一体感は、いったいぜんたい、なんだったんだろう・・・私も、ここにいること、が、ふしぎです。いま、そんな気分です。 (まちあわせ)

2017-11-09

前作と参照はしていないのですが、詩行がきっちりと締まっている、そんな印象を受けました。 なぜでしょう・・・一行、もしくは二行で一文が完結しているところが多いから? いや、前回もそうだったのかな・・・ 飛ぶ、上下がない、魂は金属質、硬質の塊として実在する、この緊密な連関、その連関をひとまとまりとして、一方、と対比していく構成・・・語彙、崖、解釈、注がれ・・・ここから、ネット空間を飛び回る魂と、降り注ぐ圧とのめくるめくような混沌へと想念が弾け、〈快楽の糸引く混濁、瑠璃色の眠り〉というような、ある種のエクスタシーに到る。それは〈複眼で微分すると物語ではなく時間経過となるこの冒険〉この断定に、なるほど、と首肯させるものがありました。魂(の込められた言葉)がネット空間で浴びる解釈の乱舞、のような・・・。 そこに屹立するもの、このイメージも、唐突な出現ですが、納得させられてしまいました。去年今年貫く棒のごときもの、この句の棒に似た、抽象的ながら実在感のあるイメージ。 〈どこもかしこも尖った摩耗のない破片の集合体として/一本に見える柱〉めくるめく冒険へと魂を旅立たせる、意志の総体、のような。 〈 かつてゴムの塊のような思考形式をもったため  私でないものに音を見いだせないという主体が 飛ぶ〉金属の、硬質な魂、ではなく、ゴムの塊のような・・・かたまり、とたましい、なんでこんなに字形が似ている、と改めて思いつつ・・・ 〈走るよ走る 硫黄の臭いたばしる痺れる新生が  中心もない隙間もないホンモノの空間から  同時に複数の複数蜂起する〉このあたりから、一気にラストへと向かっていくわけですが。 〈複眼で微分すると物語ではなく時間経過となるこの冒険〉ここに複眼が響いている。 ひとつの、一個の魂の飛翔が、一つの視点、単眼で捉えた冒険、ではなく、複眼で捉えた冒険・・・が、いつのまにか複数の視点に分裂しながら飛び交っている、ような。 ネット空間に無数に張り巡らされた他者の視線が行き交っている、そこに飛び込んでいった一個の魂の、複数の視点の、複数の時間、視点に寄ってずれたり異なったりする物語が同時に生起する、状態の酩酊感・・・を連想しました。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-09

家、その他、とありますが・・・四章構成の楽曲のようなイメージで拝読。 全体を覆うミルク色のイメージ、明確な壁に「守られている」空間ではなく、漠然とした脳内のどこかにある場所、子供時代のイメージを喚起させる場所・・・そして、そいつ、あなた、きみ、と「他者」の気配がありつつ、ひとりの孤独が際立つ空間。読んだ時の余韻が重なっていくような語尾や言葉の選択、繰り返し挿入される祈りの文言が印象に残りました。 俺、は一章と四章、二章はわたくし、が、語り手、になるのか・・・三章には明確な語り手が現れないのですが、〈闇夜激しく/愛しあった/夜と曙は。〉夜と曙の擬人化された空間をイメージしながら読みました。眠れない夜のあわいに現れた、幻想。 四章の〈祈りは聞き入れられ 俺は路傍に一人じゃなかった あたたかいのか、つめたいのか 確かに手が触れた 誰かが俺の背中に触れていた。〉 この最終連がたどりつくべき「家」なのかもしれない、と思いました。 壁を持った家、家族という明確な安全圏が見当たらないような、朧に霞むミルク色の空間の中で触れた、誰か、の気配。背中に触れていてくれる、見えざる気配。 (家 その他三編)

2017-11-08

一行目の視覚的な鮮烈さと、マチネー、の不思議な違和感。なんとなくガーデンウェディングの光景を思い浮かべつつ(そんな真昼の光景を思い浮かべつつ)〈みんなで行った海の思い出に私はいない〉私、も居たはず、なのに、存在感が希薄(あるいは希薄にさせられている)切なさ。〈出席者名簿の最初の5人に名前を書かれた人は将来有望〉この部分もそうですね。きっと、語り手は最初の5人の中には、名を記されていない。 〈居心地の悪い世界にロードされても ベルが鳴るまでやり続ける 子ども部屋の地球儀の速度で〉 この世に生まれさせられてしまった悲しみ、を思いました。 生れたからには、演者として誕生させられたからには、演じ切らねばならない・・・。 子ども部屋の地球儀の速度で 素敵な比喩ですね。演じ切らねば、という悲壮感にどっぷり浸かっているという感じではなく、その外側から、自分の意志で世界と関りながら見ている、ような感覚。その光景を包んでいるのは、子供部屋、という空間。全体が物語の中に包み込まれていく、ような・・・。 向日葵で始まり、冬で終わる、季節の転換がずいぶん早いな、という読後感ですが(夏の海のイメージが、中央に挟まれているのでなおさら、) ソワレが幕を開ける時は、既に冬、なのでしょうか・・・。 それらがすべてエチュードだ、という、全体を少し離れて見ているような・・・悲壮感の中にどっぷりつかり込むのではなく、その外に立って見ている感覚が良かったです。 (それもetude)

2017-11-07

〈ピルケースの中の銀河で起きたビックバン/ときめきが歩きまわった交差点の衝突事故〉 ピルケースの色とりどりの薬のイメージと、スクランブル交差点のような、色とりどりの都市風景を重ねました。そこで二人が出会った瞬間の・・・俗な言い方ですが、ビビッと来た、二人で見つめ合った、そんな遭遇、を連想しました。 〈この地球でたったひとりの君と〉〈この宇宙でたったひとりの君と〉そこまで思いつめた君との出会い、それから〈太陽はいつのまにか地面に落ちて粉々に〉ある種の痛みを持って、一日が終わるイメージと、恋が弾けて終わる、イメージ・・・あるいは、恋の始まりの瞬間の激しさ、ときめきのようなものが、粉々になって砕けていくイメージ。指輪にしてしまおう、という、身近で小さくてかわいいものにしてしまう流れは、激しく炸裂する衝動を、ポップで軽快なものに置き換えていく印象がありますね。 〈夜の視線に刺されながらベットで踊る/あちこちが痛いや 嬉しい痛み このために生まれた〉 夜の視線とは、他者の(眼に見えない)視線でしょうか。この一行が際立っていると思いました。その視線に刺される、そのことが痛いけれども、嬉しい、という逆説・・・。 〈宇宙の真理〉と大上段に構えられてしまうと、なんと大袈裟な・・・という印象をうけてしまうのですが、全篇に散りばめられた地球や宇宙という言葉が、単語一つ一つのイメージを軽くしていると思いました。もっとも、言葉の意味を軽く記号的に、装飾的に用いているゆえに、きらびやかではありますが、表層に留まっているような読後感が残りました。 (光)

2017-11-07

大統領とあってトランプ来日を想起し、そういった社会事象に感化されての作品か、と思いきや・・・言葉の勢いがスゴイですね。ねじめ正一の朗読を、なんとなく思い出しました。 冒頭は吉祥寺の街中を歩きながら、ある種の写生的情景なのかな、とも思ったのですが。〈ネコの怨念が飛ぶしなま首がにゃ~にゃ~言って浮浪者を起こすありさまでして ぎゅう乳をやると首が増えるんのですが むしろくびの無いイヌも走っては腹を見せて〉このあたりから、幻想の力がぐいぐい増してくる。〈ばつぐんにすだれ髪のオヤジの性癖SEX, SEX, アウシュビッツの女所長の重金属塊から漏れる血飛沫ギガガググァーンゴギュギュビュプニュボゴそのままに〉このあたりは、意味を問うということよりも、劇画漫画の一場面を見ているような疾走感を感じました。強度のある言葉が連続しているけれども、言葉が近い場所に集められて居るからでしょうか、それぞれの強さが相殺して、意味が軽減されているような印象がありました。 最後は吉祥寺に戻って来るのですね。全体に散りばめられた車(擬人化されて、存在感を増した車)のイメージもあり、都市を(レンズの効果で)まるでおもちゃの街のように撮影する写真家(名前を失念)を連想したりもしました。 セルロイド、という言葉の昭和感、チープシックなイメージ、そのイメージとハイヒールの組み合わせの意外性が効奏しているのか、どうか・・・大量のモチーフに埋もれてしまって、セルロイドのインパクトが薄まっている気もするのですが、どうでしょう。 ハイテンションで続く詩行の数というのか、濃度が濃い、分量的に多い、ような気がしますが・・・ THE都市、といった読後感が残りました。 (セルロイド)

2017-11-07

題名から既に、ひらがな、カタカナ混交ですね。 指をすべらせていく手つき・・・指で文字を辿りながら、その世界に入り込んでいく景を想起しました。 言葉を、意味として辿る、音として辿る・・・さらには、質感、語感、触感のようなものとして辿る。そういう読み方をするしかない文字列もある、わけですが・・・そのようにして(意味を解体され、音の連鎖や質感の連鎖となって浮遊している文字列を追っていくと)見えて来る景が 〈ある渓谷には秋がおりていた/葉葉は黄や赤にぬれ、緑は弱り/あらゆるものの背中に/枯れの清流がうつりこんで〉と一瞬立ち上がる。言の葉の森、と読み替えてしまったらつまらないのかもしれないけれど、その森で、「意味」が解体されていく快感に、むしろ身を任せているような「読み方」をする作品を読んでいる(辿っている)時の感覚を思い起こしました。 そうした作品を読んで(辿って)いる時、作者はどこにいるんだ、という思いに駆られることもあるのですが・・・〈ヒカリ、君は/ここで、どこにいたりする〉まさに、そう問い掛けたくなる時があるのですね。そんな共感もあったので、なおさら・・・意味、としてではなく、テクストとして辿る他はないような、そんな作品を読んでいる時の印象を作品化したような読後感があって、新鮮でした。 (なガれ)

2017-11-07

誕生石の色やアイコンのモチーフといった、本人の付随物のようなもの、が似ている。それだけでも嬉しい、と述べた後に、〈少しも似てない2人の狭間で〉〈似やしない2人の間で〉と繰り返される落差の切なさ。 〈冷たい夜にわざと窓を開けて眠る僕を〉どうして〈僕〉は、自分に厳しく、辛く接してしまうのでしょうね・・・それは、〈君〉を傷つけたくないから、汚したくないから、ということ、なのか・・・。 エメラルドの色の深さと、〈僕〉の心の深さ、〈エメラルドは深い闇を通って来た〉闇を見て来た自分と、その闇を〈君〉には見せたくない、そんな想いをさせたくない、という〈僕〉の思いと。 〈エメラルドのジャム〉と〈ペリドットのマーマレイド〉鮮やかなイメージ。ぐちゃぐちゃ、に潰れているジャム(のような自分)と、澄んだ色の中にスライスされた果物の形が残っているマーマレイドの対比。 畳みかけていく調子や、嬉しかった、と述べた後の落差のリフレイン、鮮明なイメージなど、リーディングの際に非常に効果的(訴えかける力、印象に残る力)が強い作品ではないか、と思いました。 アクを取りながらじっくり炊いたジャムの、澄んだ色合いと濃厚な触感、これもまた美味ですよ。 (peridot marmalade)

2017-11-07

題名は、これでいいのか?と(題をつけるのが超絶苦手な自分のことを振り返りつつ)疑問を抱きつつ。 おもろかなしい、とでも言えばいいでしょうか、〈濁流〉に投げ込まれ続ける心、その心が〈いったい心は固く閉じていて/その形のまますこしも欠けずに下流で貯まる〉その不毛性・・・気持ちや想いを言葉にして、〈濁流〉に投げ込み続ける行為と、その〈心〉(文字として綴られた想い)が読み解かれることなく、過去ログとして堆積していく情景を重ねながら読みました。 鼻歌を歌うような軽さと、呼びかける調子、寓話としての面白さ。心を流す、という景を視覚化したらどうなるか・・・‟どこまで景として見ることができるか”という興味の行く先、詩的ロジックの展開の面白さと軽妙な仕上げ具合・・・土俗性の強い、重厚な(濃度の高い)作風から、じゃっかん方向転換しているのかな、という印象。 (寂しくて辛い)

2017-11-07

祝儀さんへ。パソコンで「だいなり」と打ち込むと、>と表示されますが、スマホからだと、表示されないでしょうか? (2017年の秋祭り)

2017-11-03

雨粒はスタッカート、で切り、落とした羽根は濡れた雨、でも切る・・・花や蝶のイメージ(ある種の質感、物質性を持った像)と、そこに入って来る雨や風のイメージ(動き、触感)が、すべて等質に均されているような、不思議な感覚がありました。気高さや優しさ、といった抽象的な語彙のせいかもしれません。 「その言葉の意味をあなたは知ることができない」「浮かんで揺れてその行く先、あなたを置き去りにする」言葉になりかけたまますり抜けていったイメージ、そのとらえどころのなさ、肌をかすめていった感覚を、あえて捉えようとするような印象でした。言葉の流れの美しさや、響きの心地よさに「流されて」いないか、という部分(それは、好みの問題にもなってきますが)が、少し気になるところでした。 (蝶々)

2017-11-03

「それ自体はややもたつき感もある一文からの転調」という花緒さんのコメントがありますが、やはりそこに眼が止まりますね。 〈かつて花が降っていた隙間〉春の花吹雪、大学の図書館、そこには〈かれ〉の残像がある、のか。 花が降っていた、卒業の時期の大学、を連想しました。 もうすでに、大学を卒業して何年にもなるのに、そっと大学図書館に戻って来る、というシチュエーションでしょうか。〈神輿〉晴れてるけれど低気圧、とあるから、秋祭りの頃か・・・。 感慨を軽めに歌った唄、という印象を受けました。 (song)

2017-11-03

あれ、結局、遠足の日、は、水曜日、ではなかったのかな?と思いながら・・・お父さん、が息子の弁当を作る、設定だったのか?母子家庭なのかな?いや、違うな、と読み直して・・・ ああ、水曜は休みだから、起こさないでね、と妻に頼んだことすら忘れて眠りこけていた「お父さん」の唄、なのか、と・・・。 いや、早く着替えないと!初の遅刻だぞ! 奥さん、なんで起こしてくれなかった? ああ。そうだ、今日は遠足の日だったな 自分の妻に、「奥さん」と呼びかける夫、なんですね(笑) 自分の弁当は冷凍食品で「済まされて」しまうのに、文句も言わず。息子の遠足弁当に夢中になっている奥さんを、温かく見ている旦那さん。朝からロッキーのテーマで自分を鼓舞して、会社に出かける、旦那さん。 息子に夢中になるくらいに、いつも手をかけてあげられなくてごめんね、という、妻から夫への思い、も、内包されているや否や・・・。 ホームドラマ的な面は否めませんが、書き方で次第に景や関係性が見えてくるように、丁寧に描かれた作品ですね。 いかに「泥のように」夫が眠りこけているか。その夫の疲れ具合を、書き手は察知して描いている(家計を助けるための共働きで、日々疲れ切っている自身の疲れ、を、妻の疲れ、としてではなく、夫の疲れ、に反転して書いている、可能性もありますが)そこが面白いと思いました。 (おぼえている)

2017-11-03

遠藤周作が、自分にとっての「キリスト教」あるいは、日本人である自分、にとっての「キリスト教」を、徹底して考え続けたことを、思い出しました。全体に、ずいぶん「固い」印象がある、のですが(全身の筋肉をこわばらせて、ひとことひとことを発声しているような、息詰まるような緊張感)返詩でもある、とのことですので、いったん、ここで・・・。 (MARIAへ)

2017-11-03

おかしみ、と一行目に置く。え、誤字?と思いつつ、独特のリズムや「かろみ」の中で読んでいって・・・可笑しみ、面白み、を美味しく楽しんでもらいたい、という作者の詩への思いを感じました。 「醤油だけで食らってもらいたい」飾ったり気取ったり、詮索したりせず、変に手を加えず、そのままかぶりついてもらえるような詩行を書きたい、と読み替えていくと、なかなか面白いですね。 刺身に「すじ」があったら、これはどちらかというと食べにくい刺身、気骨のある刺身、ということになるのかもしれませんが(いわゆる高級品ではなく、普段の生活で頂く刺身、のような・・・)新鮮さも含め、「刺身でなら/多少/僕の/筋を感じでもらえる」あえて、その「すじ」を感じてもらいたい、という意識も含め・・・自ら釣りに行って手に入れた「サカナ」を捌いて、読者に供する。そんな気取らない素材主義、のようなものと、同時に、やはり「美しい綺麗な」お造り、を造りたい、という思いと、だからといって、澄ましておちょぼ口で上品に‶いただく″のではなく、「食らって」もらいたい、という思いと・・・単純そうにみえて、なかなか複雑な、微妙なところを丁寧に「おかしみ」を持って描いていると思いました。 (お造り)

2017-11-03

桐ヶ谷忍さん 実は、パソコン音痴というか、デジタル音痴で・・・自分のパソコンの方では、28文字35行、縦書きのフォーマットにしています。そのままコピペすると、こう、読みにくくなってしまう・・・今度、どなたかに、やり方を教わります。ひらがなの効果を活かす・・・そうですね、もう少し、全体の詩形というか詩面を考えた方がよかったかもしれません。フォルムも含めて。 >「いやに生々しく感じます」ありがとうございます。フィクション、の物語ではありますが、父や祖母、恩師や知人、友人の死・・・を重ねて、その時々に受けた想いをもとにして書いています。その意味では、事実の再構成によるフィクション、と呼べばよいでしょうか。ことばに「遺していく」とは、なんだろう。そんなことを、日々、考えています。 夏生さん 四苦八苦、なんていう言葉がありますが、苦しみや悲しみが「通常」で、喜びや楽しみが「非通常」なのではないか、と思う時があります(さすがに、日常/非日常、とは言いませんけれども・・・)特に、老いた人と接していると、その思いが深くなります。忘却は幸福なのではないか、と思うこともたびたびです。「無視という言葉で自分を突き刺し、責めることが応急処置のよう」それが正しいことだ、と言い聞かせねば耐えられないことが、必ずあるように思います。その「正しさ」を、自身が信じ切れぬ、その自己欺瞞が、またブーメランのように戻って来るわけでもありますが。誰もが、幸福に「生き切る」ことが、できますように、と、願うばかりです。 (私は耳からすべりいり・・・)

2017-11-03

もなかさん、ご返信ありがとうございます。 >「文体そのものが生み出す叙情性」に関してわたしは肯定的な観点を持っています。 (まりもさんが危惧されているのは、様式然とした陳腐化による内容の消滅なのではないかと思われますが、齟齬がありましたら申し訳ありません。) まさしく、その通りですね。語り口そのものが奏でる情動、色彩感や質感のようなもの、言葉にできない、その部分を楽しむのもまた、詩歌であろう、と思い・・・おそらく、翻訳で伝える時に、もっとも苦労するのが、その部分であろう、とも思い・・・またいずれ、ゆっくりお話しできたら嬉しいです。とりいそぎ、御礼まで。 (be)

2017-11-02

気持ちの「き」が見えて来る、ような・・・不思議な感覚を持った寓話として拝読。 「き」の生え方や育ち方、様子などが、その人の性格や人となりを表している・・・敏感な人が感じ取る、その人の「ひととなり」を感じさせる「オーラ」のようなものを、わかりやすい「き」として表したら、こんな感じになるのかもしれない。見えないものをユーモラスに「見える化」してもらったような感覚がありました。 同世代の人たちの「き」は、あくまでも生命力であったり、性格をあらわすもの、であったりするようですが・・・ おじいちゃんの背中の木の「角度」は、生命時計の針の角度でもあるようで・・・残りの命を示してしまう、そんな不思議さを感じさせます。 「き」の様子や育ち方に着目する前半と、残りの命の長さに気づかせる後半、その双方を「き」が持っている、という部分、なかなかユニークな作品だと思いました。 (背中の樹)

2017-11-02

冒頭は、姿勢を正しくして読み上げる、ような硬質な文体で、〈みんな失敗してしまったんだね〉ここから、急に語り掛けるような文体に替わる。最初が音楽無しの「語り」の部分で、〈みんな~〉から、ギターをかきならしながらフォークソング風に歌い出す、そんな「呼びかけ」を感じました。 間違いを許してもらえるくらいに 一生懸命願って もしかしたら言葉がきれいになって 生きるべきものとしていられて 手をつないで 街の中の沢山の明かりの下に あるもの全てが想像できたり ここが、よかったです。何といえばいいのか・・・〈あらゆる人ははきっと答えを与えられている/それを発見していくのだ〉という、黒髪さんの「発見」というのか、様々な事象から、そのように結論付けた、その「答え」の部分、について、よりも、なぜ、その「答え」に至ったのか・・・黒髪さんが、誰の、どこに、どんなところに、注目して、そう、考える、気づく、に至ったのか・・・という部分を、より、知りたいかもしれない、という気がしました。 つまり・・・皆が最終的に辿り着く答えは、〈あらゆる人ははきっと答えを与えられている〉という、同じところにたどり着く、のだろう、と思うのですね。ただ、人によって、その過程が異なる、道程が異なる。 私もあなたも、同じ結論に達した、でも、ある人は花が咲いて散る姿からそれを見出し、ある人は運動会で自分の子供が転ぶところを見て、それを見出し、ある人は、言葉同士の響き合いからそれを見出し、というように、過程が異なっていて、そこが多様で、面白いのではないか。同じ結論に、きっと辿り着くにしても。そんなことを思いました。 (良く考える)

2017-11-02

スケットダンスって、なんだろう、と調べて(漫画音痴です)ウィキペディアまで作成されているのですね・・・ 言葉の響きからも助っ人、を連想しましたが、中途採用もまた、助っ人として採用され、文字通り踊らされる、存在なのかもしれません。〈死んでいる我々〉を蘇らせてくれた、それも〈審査買え審査買えと鼓舞し〉審査を、買う?偶然ですが、cow、と表示が出て、牧場とつながりそうな・・・気もしつつ(それはまあ、偶然でしょうけれど)漫然と日々を過ごしていくよりも、買ってでも審査を受けろ、そこに何らかの実入りがあるだろう、というような、鼓舞、のメッセージを感じました・・・バターで汚れる川、に、グルグル回っているうちに溶けてバターになってしまった虎のお話し、をちょっと思い出しました。 (中途採用)

2017-11-02

剥奪、散乱、膠着・・・と戦闘や暴力をイメージする、郷土のある言葉と、霧雨、というやわらかなものとの取り合わせ。再受肉した亡霊、透明な眼球の化身、といった、ゴシックホラー的なイメージ・・・ 濡れた視線、痙攣し続ける椎骨の鎖といった、エロティックなイメージも、ゴシックホラー的な世界に結びつくような印象を受けました。 詐称する弾性、座礁する菌床、と硬質な言葉のイメージと、音が引き出す言葉の連鎖のあとに、流れるように綴られるひらがなの波・・・。きりさめ、げすい、くうかん、と、前半がここで、やわらかく再現されている、と見ればよいのか。 意味を辿る、というよりも、感覚や質感を辿る、作品なのだと思いつつ・・・いささか実験性が強すぎないか、という思いもあるのですが。 硬質の観念どうしがぶつかり合うような空間を濡らしていく霧雨のイメージ、そこに拡散する白、明確なイメージを取ろうとする、その意識を寸断していくような、/を多用した行替え部分。 灰染めの空間で崩壊していく(溶けていく)硬度。ひらがなでやわらかに馴染んでいく言葉の流れ、その中から夢の中のつぶやきのように取り出される 白という白/溝という溝/罅という罅・・・捉え難い感覚はありましたが、硬質な世界から柔らかな世界に解かれていく感覚に身を任せながら、やわらかい雨に濡れるような感覚を味わう詩だなあ、と思いました。 (霧雨)

2017-11-01

ダビデ像になりたかった少年、なのか・・・ゴリアテ、を倒したかった、少年。 〈女のように/石壁に抛物線を投げるという〉投げたものが、放物線を描く、のではなく、放物線そのものを投げる・・・? この地では、真っ直ぐ投げる、のが男投げで、放物線を描いて投げる、のが女投げ、なのか・・・と最初から悩みつつ、悩まないで感覚で流しながら読みなさい、という詩なのかな、とも、思いつつ・・・ 〈醜い人間の集合離散への嫌悪の/生命線〉女たちの井戸端会議、のような、そんな嫌な群れ方を、放擲する、ということ、なのかな・・・ なんというか、冒頭から、私には難解です。 〈肌がその土地土地になじみ/故郷を忘れる。〉〈呪詛を唱えながら/各国を旅してきた少年〉 なんどもなんども生まれ変わりながら、ダビデ・・・デイヴィッド、が遍歴する・・・物語、なのか。うーむ。 〈ヒガンバナの曲線〉〈ユリの曲線〉はなびらの曲線と、茎の直線。死(を象徴する、和の)花と、聖(を象徴する、洋の)花・・・? 〈繰り返されたおまじまい〉おまじない、を、おまじまい、と聞き間違えた幼児期の記憶。その記憶のままに、おまじまい、をつぶやく少年・・・ 教室で、切られる髪。「いじめ」の記憶、でしょうか。「らーる、ぷー、らーる」芸術の為の芸術、芸術至上性・・・ LArt pour lart・・・芸術への憧憬によって、少年は痛みや苦しみを堪えたのか。 〈抛物線を投げては/曲線に見惚れている/それは誰の生命線だったか。〉生命線が、象徴するもの・・・ 少年は、ゴリアテを、倒さないまま、地上を遍歴しているのでしょうか。 他の方は、どう読むのでしょう・・・。 (デイヴィッド)

2017-11-01

まさに極彩色の世界、ですね・・・ 赤々と燃え盛るような水面に、匿名のシルエットとして並ぶ〈影絵と化した僕ら/匿名に浸る彼ら〉 鮮明に立ち上がるイメージ。〈在るはずのない病室が視えた〉あたりから始まる幻視、〈空っぽの生気 充満する邪気〉といった脚韻的な音の響き、リズムで進行していく詩行。〈錆びたメスがもたらす破傷風〉このフレーズからは、野戦病院のようなイメージも浮かびますが、チェーンソー、ブラックボックス、ミサイルと投げ込まれる言葉の強さが鮮烈で・・・(最近刊行された『ブラックボックス』も連想しました)ネットサーフィンしながら、高揚感の中に取り込まれていく心境を重ねながら読みました。 イメージの立ち上がりから、ノンストップでハイテンションのまま最後まで突っ走るような感じの作品、なのですが、リーディングをイメージして書かれている、のでしょうか。 黙読で読む、時には、少し余白を用意した方がよい、ような気もしました。冒頭のように、鮮やかな映像が「見える」部分と、言葉のイメージや強度、勢いで押していく部分、そのメリハリが、もっとあった方がよい、ような・・・途中に、イメージが明白に「見える」ような部分をつくると、階段の踊り場で小休止をするような感じになって、いいかもしれないな、という(個人的好み、でもあるので、スルーしていただいて構いませんが)そんな印象を受けました。 (Out Of This World)

2017-11-01

人間ヶ池、という、どこかにありそうな固有名を思わせて、人間が、池、と掛けているのかな、そんなユーモアを感じました。 人間の内部が水、で満たされているなら・・・ニュートリノが人間を通り抜けていく時、人間は発光しているのではないか?そんなことを、考えたことがあります。骨を折った時、皮膚の内側にブヨブヨ水が溜まって、ああ、皮膚って革袋なんだなあ、と、しみじみ感心したこともあります。 びしょびしょに濡らしたスポンジを、うすいゴムで包んでいる、ような・・・人体。ちょっと押しつぶすと、すぐに敗れて、水が溢れ出すかもしれない。そんな危うさを、〈淵からこぼれ出し、周りを水浸しにする〉〈せっかくただの水たまりじゃないのに人間は〉とユーモラスに表現するところ、そのことに「気づかされる」のが、月光に照らされた池のイメージである、というところ。人が月に照らされた池、なら、そばに〈東山慈照寺、いわゆる銀閣寺の観音殿みたいな建物〉があったっていいじゃないか、というハズシカタ、とても面白いですね。 人間の水分が70パーセントなら、残りの30パーセントはいったい何なんだ、という問にも、つながって来そうです。〈わからいのかな〉は、お里言葉、なのでしょうか・・・〈木やら苔やら、自然と共存〉ここが、30パーセント部分、なのかもしれない。 最終連、ユーモラスに終わる面白さがある一方、自然が引っ越さないと、というのは、木やら苔やら・・・を受けての言葉、なのだとしても、若干、唐突な印象がありました。 全体のリズムが楽しいですね。 (人間ヶ池)

2017-11-01

崖のきりかぶ、かぶのうえ、とやわらかなひらがなに「油断」していると、翠黛、澗底、山壑、と漢詩の中の言葉のような漢語に遭遇する。ババロアの中に散りばめられたアーモンドキャラメルのプラリネのような(変な比喩ですみません)卓抜なアクセントになっていると思いました。 崖の上の切り株、かなり不安定な場所で、深い谷を見下ろしながら、「みどりやみ」の山容を眺める・・・〈み凝らす〉、は目をじっと凝らす、イメージでしょうか。視凝らす? 気持ちがくらがりに向かう時は、谷底(澗底)の闇を思い、気持ちが新たな方向に向かう時は、遠くの山並みの「みどりやみ」(翠黛)に眼を向ける。森の中へと意識を彷徨わせ、奥へ奥へと向かっているのかもしれません。それは新たな生への志向であり・・・谷底への意識は、投身への欲望でもあるのかもしれません。 漢詩の読み下しを、より口語詩に引き寄せたような試みが印象に残りました。 (崖のきりかぶ)

2017-11-01

遭遇、という言葉の選択に、ドキッとさせられますね。実は、出会いたくなかった、それなのに出会ってしまった一句、のような・・・。 〈譲って欲しい〉という一言は、本心からのものだったのか・・・他の人に、この書を見られたくない、見せたくない、そんな気持ちも働いたのかもしれない・・・そんな想像に誘われました。 哀しみ、の表し方は、人によって異なる。自身があまりにも深く傷ついてしまっている時には、むしろ何事もなかったかのように、記憶の底に深く仕舞われてしまう、ということもある。自死した娘の葬儀で、半ばはしゃぎながら親族に食事や酒をふるまっていた、伯母のように。その後何十年も、伯母は月命日にお坊さんを家に読んで、経をあげてもらい、娘が倣っていた書道を極める、と、傍目にも異常なほどにのめり込み、書道の師範となりましたが・・・はたして、彼女の裡には、白い花は咲いているのか。まだ、何色ともわからない花が、泥沼のなかからようやく、蕾をもたげているだけかもしれません。 自身の悲しみの表現に引き寄せて、それを物差しとして他者を計る、そんな自己中心性をもった書家なのかもしれませんが、それゆえに、山頭火の自己中心性・・・自己中心から逃れられない悲しみ、を、身をもって知ることのできる書家なのかもしれません。 (個展)

2017-11-01

くり返される、〈広くて静かで誰もいない〉という、空白の空間。 〈人びとが川のように〉という直喩が、〈人の川が絶えず流れている〉という「時」や「時代」の喩にズレ、最後はレーテーの河、彼岸と此岸とを隔てる川へと変容していく。おそらく海辺の墓地、なのでしょうけれど、〈潮の匂いがする〉と置かれることによって、人の河、時の河が、やがて流れ入る海、へとイメージが広がりますね。 登場人物の関係性を、あえて明示しないことで、読者が様々な物語を読み取ることができるような気がしました。恋人を失った後、新しい人を迎えた夫、からの「型通りの絵葉書」なのかもしれないし、娘を失った夫妻が、悲しみを抑えて、いかにも幸せに暮らしています、と伝えるための「型通りの絵葉書」なのかもしれない。語り手と、もう一人の男性の関係性も、よくわからないながら・・・墓地に眠る女性に、いずれにせよ深い想いを残している二人、であることだけが、静かに伝わってきました。 (広くて静かで誰もいない)

2017-11-01

過去の事件が記憶の欠損、記憶の封印を呼び起こしている娘、それゆえに(その欠を埋めるために)創作に没頭する娘と、その娘の「夢想」あるいは、夢想世界への逃避、を、受け入れられない母。 前編の母子の会話は、ごく平凡な家庭の一風景、といった趣で・・・読者に、ごく自然な感じで、隣人の生活を垣間見せるような、そんな自然さを感じさせるとは思いますが・・・事件、のある種の凄惨さ、非日常、との落差を生じさせたい、という試みかもしれませんが・・・いささか、冗漫には過ぎないでしょうか。 〈腹に突き立てられた剣は蛇〉蛇をペニスと読むのが、一般的な読み方でしょう。幼児期に繰り返された虐待、その虐待を痛苦と受け止めつつ、快楽を(もしかしたら)開眼させられ、そのことに関しても「欠損」を生じざるを得ない、そんな複雑な少女の心身、それがテーマ、であるのか。 あるいは、母子の葛藤そのものが、テーマであるのか。 形式的には、内的独白の部分と会話体の部分が、双方、「   」に収められているので、会話体の部分に限定使用した方がよいでしょう。 ゴシックホラー的な(少女が逃避する為の)少女が生み出しつつある「物語」「小説」と、現実の会話をクロスオーバーさせながら構成する、といった手法の方が、より緊迫感などが増したのではないか・・・そして、そのゴシックホラーの世界で、少女が怪物に襲われる/救済される/苦痛と快楽を与えられる、といった、相反する(引き裂かれの)感情が表明されることによって、少女の内面の傷の深さが、よりいっそう、際立つのではないか。そんなことを考えました。あくまでも一案、ですが。 (ゴースト(後編))

2017-10-28

林檎、という象徴性。 佐倉と真里亞、アダムとイブ、その再現のイメージ。佐倉の「故郷」から送られてきた林檎・・・エデンの園が、人間の故郷であるなら。原風景への帰還を望む心理と、あえてその林檎を口にしない、拒否する、捨てる、という行為に秘められた、楽園帰還を拒否する心理・・・そこに、人間の自由意志は存在するか、という自由意志論も絡んでくる(ここは、哲学を専攻している、という佐倉が登場する所以でもある) 風呂を、羊水への帰還、胎内回帰願望と、神、という「幻影」から逃れた再生を促す場、と見たいですね。となると、その産婆役を務めるのが、佐倉、という狂言回しの存在になるわけです。 後半、かなり面白く読みましたが・・・今あげたような象徴性を深めていく、重層化していくために、前半を思い切って削って、後半に真里亞の過去を断片的に織り込んでいく、佐倉の家族観なども、あえて削る、というようなカットを施すと、短編として深まるような気がします。 逆に、描写を殖やし、丁寧に叙述を重ねていくことによって、今あげたような象徴性を検証していく、中篇や長編にして行く事も可能であるように思います。 最終連にもっていくために、若干、駆け込んで結論を急いでいる印象があり、もったいないような気がしました。 (MARIA2 短編)

2017-10-26

神との関係を、端的に書こうとすると、かなり難しくなってしまいますね。長編小説であるなら、ともかく・・・短編であるからこそ、あえて謎を残すような形で、叙述部分を削っていく、という方法があるかもしれません。断片的に、洗礼を受けた時の記憶や、神学校受験を準備していた時の記憶などを交錯させながら挿入してみる・・・ううん、難しい。 たとえば、の案、ですが。冒頭、英文科うんぬんの叙述を、あえて隠して、いきなりナゾの女性、真里亞を登場させる。うつむきながら歩いている真里亞の目に映る陽炎の中に、神に祈る父の姿が「観え」、お前を生んで、お前のお母さんは死んだ、という声が反響し・・・父は今は、どこにいるか定かではない、というような端的な説明を入れて、あとはカット、喫茶店でテキパキ働いている景に移る。〈バックヤードで社員と鉢合わせ〉した時に、授業、ついていけてるの?みたいな問い掛けを入れ、黙って無視する、あるいは話を逸らす、というような「会話」を入れると、そこでだいたいの状況が見えてきますね。読者に「わかりやすく」説明する、のではなく、読者が探偵のように、なぜ、ここにこの会話が出て来るのだろう、と入り込んで、知りたくなる、そんな形に持って行く&第三者(神の目)としての語りの視点と、真里亞の体感的な視点とを自在に行き来しながら、幻想風景や夢想といった、真里亞にしか「観えない」「感じられない」景を描くようにすると、もっと読者を引きこむ者になるような気がしました。 吉野弘の「I was born」が持つ、母への筆舌に尽くしがたい想いに通じるものがある、そこを、いかに、神という観念的なものや、信仰する/しない、といった、かなり重いテーマと結びつけていくか。(切り結ぶ、という方が適切かもしれないですね)なかなか意欲的な作品だと思いました。 (MARIA1 短編)

2017-10-26

いまはもう、ゆとり世代、なる言葉は、使われなくなっているのでしょうか・・・ ひとつぶ、空から落ちて来る滴に、自身を重ねている、そんなイメージで読みました。 雨、が、地球、に跳ね飛ばされる。そのまま一直線に❝ふっとばされていく❞体感と、〈とりあえず大きく見えるようにって・・・ぺらぺらな意思〉観念の融合。いきなり地球が連想される時点で、読者の好みは分かれると思いますが(デフォルメの面白さを受容できるか否か、など)リーディングの要素も含めて受容されるべき作品ではないのか、という気がします。(音読を聞いてみたいです) お・か・し、は、をかし、とお菓子を掛けているのか・・・〈雀の瞬きで飛ばされるレベル〉tの音の連続や比喩のユニークさで、このフレーズはとても良いと思いました。〈お・か・し・の~〉のフレーズを抜いて、いきなり〈雀の~〉につなげてもいいのかな、と思いかけたのですが、指で隠して読んでみると、お・か・しの中黒点が、いい具合に流れていく詩行の軽いストッパーとなっているのですね。なぜここに〈お・か・し・の~〉が出て来るのか、理解は出来ぬまま、音の流れとしては納得させられるものがありました。 タンポポの綿毛を飛ばすように、軽々と〈ため息〉を飛ばした女の子、これは、語り手が出会った第三者なのか、語り手自身、なのか・・・〈できるかなって空見上げ〉るのが、この作品の語り手、なのでしょうね。通りすがりに見かけた、女の子、というイメージでしょうか。 濡れる、ことを否定的にとらえるのではなく〈空の憂鬱も受け止めてあげるから〉とむしろ肯定的にとらえていくあたりに(古いですが「雨に唄えば」などを連想しつつ)最初に❝ふっとばされた❞〈小さき魂〉と、〈ひとつぶぽつん〉の雨粒と、〈ツイートボタンはおさなかった〉〈空の憂鬱も受け止めてあげるから〉と綴る語り手(歌い手)との関係性は、どうなっているのかな・・・と考えました。 こんなことをゴチャゴチャ考えていると、〈そんな難しい顔しないで 〉と言われてしまいそうですが(笑) (ゆとりブルース)

2017-10-26

〈彼女の時間を間借りしているだけ〉〈日陰でオブジェと化す/がんばれ/誰かに小さく呟く/誰も見ていない〉〈投影する虚しい今という過去〉〈爽やかな朝に引きこもる〉〈小難しい本を枕元に並べよう/アマゾンで買う/届くころには忘れている〉 自らの小ささ、を意識する、自覚している男のつぶやき、そう感じる部分を抜き出してみました。夜から朝、にかけての時間でしょうか。その間に脳裡というのか、心の裡に去来したイメージのような・・・。 目が覚める、以降は、〈忘れてるのが先か/思い出すのが先か/どっちみち/当たり前となり/初動の感覚はない〉というように、気持ちも冷めている(醒めている)感じですね。 (恐ろしく小さな男)

2017-10-23

流れ落ちる水柱、チューリップのしなびた葉といった有機的で流麗なイメージと、〈意識の沈澱物〉〈照射されぬ電磁場の蛍光〉といった無機的で重厚なイメージとが絡まり合って、ひとつの構築物になっているような印象がありました。その唐草紋様のような構築物をつないでいくリフレイン。誤答、贈答、正答といったバリエーションも含め、この「つなぎ」の部分が主知的な感じになっていて、理が先に立つような印象を与えるように思いました。 激しく流れ落ちる水、その水が巻き上げ、掻き立てる水底の砂・・・その映像はまた、心中に沈殿している記憶、意識の澱を巻き上げるように落ちて来る(外部からやってくる)水柱を映してもいる。 隠蔽される進路/岐路/帰路・・・自身の行き先が定まらない、そんな状況が、激しく意識(の底の砂、過去の堆積した記憶)を巻き上げる水柱、として捉えられているように思いました。電磁波や感染、監察官の模倣性といった言葉が、うまく響きあっているか、どうか・・・掻き立てられた記憶(水底の砂)が見せた幻影、のように感じるのですが、ひらひらと舞い上がっては消えていくというような、飛翔感、浮遊感のある書き方ではなく、がっちりと文章の中に組み込まれているので、そこに意味を求めよう、意味を見よう、としてしまう。浮遊するイメージは、文脈から切り離して、自由に置いて行く、という方法もありそうです。 水柱が落ちて、掻き上げているのは、いま、進行していること、というイメージで読んだのですが、最終行で〈一つの潰瘍となってしまった〉と(傷痕として)固定されてしまうと、全体が既に過去のこと、になってしまうような気がします。この最後の一行は、伏せておいた方が良いかもしれません。 (水柱の重さに)

2017-10-23

〈原色。 部屋が、開いた一冊だけで輝き出す。  そして、本の上で踊りだす。 針金が。人の形をした、不格好な針金が。 樹脂を塗られ、鮮やかな人間が、そこに。 現実には無い世界で、踊る。〉 この、凝縮された一節、暗い部屋で、テレビだけが光を放っているような映像が立ち上がる一節が、静かな語り口調の間に埋め込まれている。この緩急のリズムに惹かれました。 〈机の上に、さらに一冊。 それは落ち着いた色合いでした。 人形は酷くくすんだ赤色で、灰色の中に。 じっと、座っていました。 細い、隙間だらけの姿で。  きっと、それが男の実際の姿だったのでしょう。〉 前作では、そのような事件があった、と「報告」するような印象がありましたが、 この作品では、部屋に入っていく数人と共に、読者もまた入っていくような感覚がありますね。 そして、男の遺したものを「発見」する。 部屋の中に造形物としてある、のではなく、書物の中にあって・・・開くと、その場に空間を伴って現出するようなイメージが新鮮でした。物語を作りだす事、物語ることは、その人の人となりを描き出すこと、登場人物を、その人に見合った時空間で躍らせること、なのかもしれません。その物語を読むたびに、その人物は再び立って踊り出す。 実際にあった「事件」が発想源であったとしても、このように自由に、自身のイマジネーションで展開していくならば、それは事件をもとにした、ということではなく、(インスパイアされた)本人の作品になっている、と思いました。 (フィラデルフィアの夜に Ⅱ)

2017-10-23

二行目の「話」と、三行目の「話」・・・音の話と、文字の話、と言えばいいのか・・・この不思議なずれが引きこんでいく、夢と現実のあわい。 〈キック力だけがあって褒められたけど、俺は知らなかった。オフサイドを知らなかった。だから、何の力にもなれなかった。〉 〈私立の中学に通ってから 地元の知り合いが全くいなくなった〉 〈地元に残ることを選んだ俺〉 ・・・私自身は埼玉の片田舎で(通学路から秩父連山が見え、通学途上に白鷺が飛んでいるようなところでした)私学といえば、全寮制の学校しかない。数年に一度、私学に進学する子がいるかどうか、というくらいの地域だったので、東京にお嫁に来て・・・小学校に子供が行き始めたら、私学への進学率が8割程度だったので驚きました。 私が住んでいたような場所で(つまり、めったに私学に進学しない地域で)私学へと「ぬけだしていく」ことは・・・いわばエリートコースに乗ることであり、あいつは俺たちとは違うんだ、という目で見られることにもなるのだろうなあ、と思いながら読みました(そういう地域ではなかったかもしれませんが。) 逆に、公立の中学、高校を経て、やがて「都会」に「出ていく」人が多い中で、地元に残る、という選択をすることもまた、あいつは変っているね、という目で見られることになるのかもしれません。 能力を認められて、その場で期待に応えようとして、うまくいかなかった、という過去の記憶と、眠りの中で再現的に見る「夢」と・・・そういうときにうまくいけばいいな、という期待、希望としての「夢」。 話の二重性もそうですが、「夢」の二重性。償い、という言葉の重さと、夢の軽さ、曖昧さというのか、希薄さが釣り合うのだろうか、という疑問を持ちつつ、そのズレ(他者が感じる、どうってことなさ、と、語り手にとっての、大事さの度合いというのか、温度差のようなもの)が、この作品の中では重要なのだと思いました。ぱらぱら、という言葉の二重性もまた。 足が、重い・・・の、突出した一行。歩みの心理的な重さと、水に濡れたからだ、と何度も自身に言い聞かせる(しかし心は納得していないから、しつこく言い重ねることになる)部分、詩形的にも音の流れとしても、想いを畳みかけていく、重ねていく強さがあって、アクセントになっていますね。まるかっこの中の、溢れる思いを抑え込みつつ、抑えきれずに語る、ような語り口の部分も。 (夢の償い)

2017-10-23

おはようございます、すみません、大変な誤読をしておりました(笑) 語り手が変わるのではなく、三連とも一貫していて、語りの次元が異なる、のですね。 男について書き、野良犬について書き、どちらもいなくなった世界について描く・・・とも言えますが、 はじめは過去の男の行為、続いては現在の男(野良犬)の行為、そして最終連で、これからのことについて、予言的に描く・・・そんな読み方をしてもよいかもしれない。そう、思ったのでした・・・ (蒐集家)

2017-10-22

コレクター、でもなく、収集家、でもなく。蒐集、その文字の密集度。魑魅魍魎、といった文字を見た時のニュアンスに近いものを感じました。 三連の緊密な構成。形容詞、副詞を極限まで削った緊密な構成、力強い語尾の連打。ストイックな文体に惹かれます。 対句的な表現は、しばしば型に陥りがちですが、死体を集める男と、墓を漁る野良犬、両者がずれながら重なっていくがゆえに、ひとりの男の行為を、両面から照らし出していく。それを、一連、二連、と言い換えていく。そんな新鮮なバリエーションのように感じました。 魂に光がある、そう信じて(あるいはそう願って)集めた〈死んだ人間〉(の生み出した産物、過去の物語)は流れ去り、埋められた過去をほじくり返してみても、〈集めたものには魂の光などなかった〉と自嘲する他はない。 銀盤とは、なんでしょう・・・超自我の眼、のようでもあり。太陽に擬せられた鏡、のようでもあり。 〈時の華やかな音色を告げる〉という次行から、大きな時計もイメージしました。華やかな、という言葉がトランペットのような、あるいはカリヨンのような金属的な響きを呼び覚まし・・・終末へのカウントダウンを想起。大きな、華やかな、という形容が、ここに集中しているせいか、インパクトがあります。 三連目、〈窪みに溜まった潮の塊よ〉という呼びかけの部分、唐突感がありました。伏線的に、海や涙といったイメージを、一連、二連に潜ませておいても良かったかもしれません。 私がイメージしたのは、白く光を照り返す塩田でした。涙の干上がった海、という読み方をしたくなります。塊、という文字と、魂という文字も、似ていますね。 ここでの語り手は誰なのでしょう。過去の物語を集めていた男は、既に行方不明、埋もれている過去をほじくり返していた野良犬も、既に骨になっている。その景を明確に見据えながら(嫋々と歌い上げたり、喪失を嘆いたりするのではなく、断固とした現状把握、現状報告、といった文体で)三連に登場した語り手は、銀盤の欠片と野良犬の骨を拾っていく。 〈熱い光〉とはなんだろう・・・すべてを焼き尽くす、神の火か?魂も消え失せる、のですから、三連目の語り手こそ、全てを目撃していた「魂」なのかもしれません。 (蒐集家)

2017-10-21

以前、夢の解放区、という試みがありました。 www.renga.com/rengeiza/dream/coco/kaihouku.htm 集合的無意識との、夢の関連性、共有財産、というイメージでしょうか。 一色真理さんの『夢千一夜』という電子ブックも出ています。ワード検索などが可能なので、紙媒体ではなく、電子媒体を選んだ、ということのようです。 「著作権フリーの映像」という発想、面白いです。 (夢覚めて)

2017-10-21

おお、冬を「秋が」孕んでいる、と・・・。なんで誤読したのでしょうね・・・ 〈たおやかにのびた細指〉が、たくましい夏、のイメージから、竜田姫の秋の指先、と感じてしまう、ところなのかな、とか、最後の二行、かもしれないですね・・・ 夏、の季節の中に、細指の気配を感じた瞬間を思い起こして、夏の指と感じ取れるようにする、とか、〈ひたりひたりと なでていた〉のを、秋の腹と分るように(でも直接的に書くと、興ざめですし、難しいですね・・・) 秋が抱えている、白い殻を被った冬、その中に、氷雪のイメージ、霜で凍てついた息が巡っているようなイメージを取り込む、など・・・してみると、イメージがより、鮮明に伝わるかもしれない、と思いました。 (たたきわる)

2017-10-21

〈夢の水面が ひとりと揺れた〉一人、という意味が薄れて、不思議な擬態語のような音感に聞こえてくるのが面白いと思いました。色彩が鮮やかですね。 夜と朝の境目、夏と秋の境目。めいっぱい秋を「孕んで」いる、夏。すやすや眠る、胎児の秋。〈薄い胎を喰い破り/白い殻をばきりと割って〉現れ出るもの・・・それが秋、であるのなら・・・「秋の涙」は、いったい、誰が、どこで流すものなのか。作品の内部におけるロジックを徹底させることによって、特異な感覚で捉えられた季節の変わり目の斬新な変化のイメージ(たとえば、季語の「今朝の秋」のような)が、より鮮明に伝わるような気がしました。 (たたきわる)

2017-10-20

完備さん、「まあまあ良い」と思われたのはなぜなのでしょう、そこを書いていただけると、そこから新たな展開があるような気がします。 偏と旁、「へん」と「つくり」・・・偏に例えられてしまう、喩えられる、の方が意味としては相応しいかもしれないですね。構えていて、そのカテゴリーをしめしたり、ジャンルを示したり、そんな指示的な役割を果たす、それなのに、脇役的な扱い・・・というようなニュアンスかな、と思いながら読みました。 一連目、よくわからないながら、〈もっと大きくて姿すら分からぬものたちに見られている/元の大きさのものたちにも見られている〉このイメージが印象に残りました。〈体を大きくさせられた〉と〈体を成すことだけが存在である〉この響き合いも気になります。〈水を飲んだだけ〉水を向ける、水を差す、様々に用いられる言葉ですね・・・う~ん、やっぱりよく、わからない。 二連目に描かれた、さわやかな「日常」のイメージと、最終連のちょっとおしゃれで美味しそうな「日常」。その間に挟まれた部分。〈アホみたいに柔らかな体が欲しい〉の一節と、一連目の一行との連関が、作者の中ではあるのだろう、猫は、いったいどのような「存在」なのか・・・知りたいことが、たくさん湧いてくるような作品でした。 (偏に、例えられたとて)

2017-10-20

なかなか複雑な作品ですね。人民、キャタピラーで踏み潰す頭蓋骨、知識人を殺戮せよ・・・という言葉で思い出すのは、まずはポル・ポト政権ですね。文化大革命や光州事件や天安門事件も連想の裡に浮んで来ます。 日本の保守/は儒教精神/武士道/が  このぎくしゃくした区切り方は、人間ではなく、機械音声が発語しているような印象を受けました。今もなお、日本の(日本人、と呼ばれている人々の)モラルに影響を与えているかどうか、私にはよくわかりませんが、正義と仁義の違い・・・正しさ、それは、絶対的善、が存在する。他方、仁は、人と人との関係性において成立する。絶対的善の主張がレイシズムに繋がることを考えれば、大切にしていくべきは仁義なのかもしれません。しかし、その「思想」を徹底させよう、押し付けようとしたとき、いったい、何が起きるのか。 自分さえよければよい、というエゴイズムを否定するためにエゴイストを抹殺する。そのエゴイズムは、皆の為に、正義の為に、という「大義」を掲げているがゆえに、個人さえよければ、という自分勝手のエゴイズムより、より悲惨で荒廃した世界を生み出すかもしれない。そんなことを考えました。 「保守」も「革新」も・・・本来は、現状の悲惨、問題、課題を解決する為の思想、施策であるはず。どちらも極端に先鋭化すれば、異質の思想を排除する方向に働く。現状を破壊して作り直す、その動きが支配される側から起こったコミュニズムと、支配する側から起きたファシズム・・・いずれも「インターナショナル」を目指していたのではなかったか。 人民のために、という「大義」が先鋭化し、多様性を排除する方向に働く時。私たちに、何ができるのか。 この作品が、反語的に突きつけて来るメッセージが、現実のものとならないことを祈りたいです。 (理由)

2017-10-20

漢語を多用することによるインパクト、黄泉、常世と言った単語が醸し出す「境界領域」のイメージ。 塹壕戦、空中戦といった言葉が作り上げていく詩の空間と、〈無軌道 無慈悲 無数の銃弾/透明な機銃には薬莢も硝煙も無い〉といった、非現実の、しかし激しい戦闘のイメージ。 〈泣き濡れた風〉はクリシェですし、〈黄泉の睡蓮〉といった言い回しも、言葉のカッコよさから選択されているような印象を受け、冒頭部分に重々しさをもたらす為に置かれた言葉のように感じました。 〈蜘蛛の巣巡る網戸が破れる〉から、〈刹那、降りしきる秋雨/雑音 雑談 雑踏〉に飛んでも良かったように思いますが、どうでしょう。鴉、鳩、この暗喩は何を、誰を差しているのか。 〈曇天の下 腐った奴の石榴を割った〉脳天を割った、イメージ。他者を言葉で抹殺してしまった。ビジネスで相手を叩き潰してしまった。その時の心理的イメージを映像化したら、こんな姿をとるのではないか。 〈赤色がおちない両手とシャツ〉マクベス婦人が見る幻影のようです。洗っても洗っても、自ら手を下してしまった、その記憶、罪悪感は消えない、そんなイメージのショッキングな形象化。 題名は、これでよいのでしょうか。少し漠然とし過ぎている気もしますが・・・ (秋雨に映る世界と私)

2017-10-20

政見放送という、今、現在進行形のモチーフと、病で入院していて、窓の外の向日葵のように、命が尽きていくのを予感している語り手・・・未来へ希望を託す時間は、もはや残されていない、という設定でしょうか。 その状況で、選挙という手段しか持たない私たちに、いったい何ができるのか・・・一人一人の命を生き切ること、しかないのかもしれませんが。それでもやはり、自分が居なくなった後の未来を信じて、一票を投じたいですね。 (枯れた向日葵)

2017-10-20

ぬけだせない悪夢のようなイメージを、意識的に構築しているのかと思いきや、レスを拝見して、そのまま、とあり・・・鮮明さ、具体性に驚きました。この夢を実際に見たとしたら、そうとう身体的にストレスがかかりそうです。 〈燃えている人はみな爆破テロに巻き込まれその火が引火したのだそうだ 芝を焦がしながら犯行国への憎悪を露わにしている〉 この二行は、意識的に跡付けて入れたのかと思ったのですが、これも夢の中で聴いたフレーズ、ということになるのでしょうか。燃えながら漕ぎ続ける自転車の不気味さ。自転車でエネルギーを発生する装置がありましたが、その連想も含め、社会のエネルギーを発生させる歯車の一部としてこき使われ、餌食となって消費されていく「人間たち」のようでもあり・・・世界崩壊の予知夢のようでもあり。 具体的な「テロ」という文言や、反抗国への憎悪、といった、定型的な文言のようなものは、実際に夢で見た、としても・・・ナマすぎるともいえるので・・・もう少し工夫して取り込むと良いように思いました。 (夢覚めて)

2017-10-20

もなかさんへ ありがとうございます。もともと、ある人への感想文、といった趣の文章の一部を切り出して、手を加えて、最終二文を足して「詩」にしたものです。見抜かれた時点で、ひええ~!!!という反応しか、出来ないのですが(笑) 「行替詩よりもこういった散文詩、あるいは随想の方が読みやすい」考えさせられました。なんだろう、行替詩で、情感や感覚を伝えたい、と思いながら、思想とか世界観といった観念的なものを伝えたい、という意識の方が勝っていて、それで行替詩が、伝わりにくくなっているのかもしれない、そんな印象も持ちました。 行替詩では、多重露光の写真のような、そんなイメージの重層性を持たせたい、という思いもあるのですが(と書いている時点で、コンセプトを文字で添えないと成立しない、コンセプチュアルアートのようになっていますね)可読性について、考えていきたいと思っています。 (縫い針)

2017-10-20

不思議な作品ですね。僕ら、と連呼しているのに、なぜか気配が漂っている感覚で、一人の人間の身体の各部がせめぎ合っているようなテクスチャーでした。 意図的に用いているのだと思いますが、あまりにも美しすぎるフレーズや(黄昏というエリクテュールが喉元を通過して、など・・・エクリテュール?)綺麗に決まっているフレーズ(僕らが僕らと呼ばれた時代の歌声が聞こえてきて/消費されるべきクリシェ)情景描写や、詩の空間が生み出す抒情ということよりも、文体そのものが生み出す抒情性に傾いてしまわないか、そんな危惧を持ちました。 〈背骨を渡って名残の秋を惜しんでいた〉ところから、〈黄昏〉を経て〈血液の落葉〉のざわめきへと体感が移り、〈僕らは僕らの髄液から僕らを解き放つ〉ここまで、観念的ともいえる世界を、粘り強く秋のイメージの中で捉え直し、なおかつ背骨、神経、髄液といった精神の集中する場所へと意識を集めて、ひといきに開放する。この流れがとても美しいと思いました。 神とか世界、といった言葉は、扱いがとても難しいと言われますが、〈神話の日常に満たされる水〉このフレーズの「神話」も、神話という言葉が醸し出すイメージというのかニュアンスのようなものに、寄り過ぎているかもしれない、そんな甘さを作品に加えてしまうかもしれない、という気がします。 〈ReとReのやりとりの隙間を埋めていく〉この一行が、とても繊細だと思いました。ネット空間でのやりとり、その「現実感」がありながら、非現実の手ごたえの曖昧さも同時に持っている。そんな浮遊感を、丁寧に埋めていこうとする意識、願いのようなものを感じます。 この一行を経ているせいか、〈高速に過ぎゆくそれらは偽りではないかと/歯型をつけながら彷徨する〉このあたり、詩の空間を彷徨うイメージと共に、いわゆるサイバー空間で、確かなものを求めながら彷徨い歩くイメージが伝わってくるような気がしました。 〈観測して初めて存在するという僕らの存在を 感触なしに確かめるように 言葉は僕らを傷つけ 僕らは言葉を傷つけ〉 このあたりも、とても面白いですね。観測不能性を持った存在、ではない。気づくことで、そこにある、ことを知る、気配、音、響き、詩情といった曖昧なもの・・・が、言葉になっていく、あるいは言葉を纏おうとするときのズレのようなもの。 〈僕らの祝祭は僕ら自身のうたごえによってもたらされる〉 体の深部で沸き起こり、身体的な悦楽のように背筋を抜けて、血を沸き立たせるもの。そうして、消えていくもの・・・。そうした、一人の人間の内部で沸き起こる、詩情の出現と消滅のドラマのようなもの、それが音や響きを経て、言葉へと形を成しては消えていく経過・・・が、〈ReとReのやりとりの隙間を埋めていく〉この一行によって、一人の身体感覚を越えて、サイバー空間にまで感覚が拡張される。 感覚領域が拡大されていく、拡散していく、と言えばいいのか・・・うまく言葉に出来ないのですが。そんな、ひとり、の枠組みを超えて行き交う「僕ら」とはなにものなのか。そんなことを、体感的に感じさせ、考えさせる作品だと思いました。 (be)

2017-10-20

最初は、かるい感じで読み始めて・・・なんで「カテーテル」という題名と、「カーテンで遮るような社会」カーテンって、音が似ているな、なんて軽さで読んでいて・・・4連目のきっちり綺麗にそろった部分、なんでこんなに丁寧に、心をこめて刻み込むように、それでいて、なんというか、「あたりまえ」のこと、「ふつう」のことを、ずいぶんと丁寧に書いているな、なんでだろう・・・と思いながら読み進めて・・・5連で、喉が詰まりました。 児童館でも、詩の仲間のお子さんでも・・・様々な個性、境涯を持った子供たちに出会ってきたけれど・・・みんな、お母さん大好き、お父さん大好き、なのでした。 〈悪意の無い世界で 笑顔と泣き顔が交差して 理解しながら受け入れる〉 驚いたリ、不思議に思ったり・・・時には嫌悪や優越感や、嬉しさや悔しさや・・・自分の内に沸き起こる感情、外から避けようもなく押し寄せてくる感情、様々な渦巻く感情に出会ったとしても・・・理解、ということと、情解、ということ、その双方が満たされる世界であってほしい。 理解、という言葉の意味、大切さを、改めて思いました。完全な共感なんてできないとしても。きっと、限りなく、想像力によって、追体験したりする、自分に置き換えて考える、ことは出来るんじゃないか。その、自分に置き換えて考える、それが、理解、なんじゃないか。他者の眼に自分の眼を置いてみること。他者の心に、自分の心を添わせてみること。 〈カテーテルの意味を 理解出来るよう 真っ直ぐな瞳で伝えたい それは謝るだけじゃなく お前をどんなに 愛しているかという事〉 言葉を通さずに、伝わるものがあるでしょう。 言葉では伝わらない、でも、瞳を通して、触れあうことを通して、伝わる、こと。 それを、言葉にしてみたら。そんなことを、思いました。 (カテーテル)

2017-10-17

象形と、書こうとして、情景にしてしまいました(笑) (魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜)

2017-10-16

アポリネールの雨とか噴水とか鳩・・・漢字の情景性や、東洋の書、アラビアの書(装飾紋様のような、それ自体が植物のように命を持っているような)などのインパクトも影響しているのではないか、と思いますね。文字の形や、文字列そのもの、詩形そのものが、感覚に直接訴えてくるもの、そこに後から、文字情報に秘められた意味が重なっていく。 (魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜)

2017-10-16

詩とは何か、ポエジーとは何か・・・そんなとらえどころのないものを、自分の身体(あるいは身体圏内)から離れた、夢想世界、精神世界、詩の空間と呼びたくなるような異次元で探索している・・・そんな作品を、以前は投稿されていましたね。そこから、心の叫びをダイレクトに投げ出すような作品、寓喩と描写のバランスの取れた作品というように変化していく様子を拝見していたのですが、今回の作品は、自身の身体圏内からとらえた感覚と、ゲームをしている(サイバー空間に入り込んでいる)もうひとつの身体の感覚圏内、その双方から、詩をとらえようとしている印象がありました。 心底好き、というわけでもない(たぶん、相手からは好かれているにしても)異性とのひとときを、嘘の時を過ごしてしまった、というようなある種の後悔を抱いて思い返している、そんな「物語」を感じました。 いやでも思い返してしまう、そんな自分自身を消してしまいたい、という願い、のようなもの。自らを罰すること、自らを(ゲームの中であっても)抹消してしまいたいと願いながら、一方で「ほんとう」を求め続けている。そんな若々しい心象も感じます。 全体に、比喩が後退して、直情的な表現が増えているのですが(それゆえに、耳で聞いて素直に理解できるような、1回性のリーダビリティーが、増していると思います。ただ、この方向に進みすぎると、(花緒さんもポエム感、という言い方をしていますが)心情の吐露、という、いわば詩の素材のところでとどまってしまうのではないか?という懸念も覚えました。 何度も戻って、多層の意味を確かめていく、という、黙読でしかできない多義性の探求ではなく、頭から素直に読んでいって、そこで意味が取れるという可読性、でもあるわけですが・・・ 「意味なく」自分自身を撃ち殺す、その意味をやはり深めていってほしい、と思いました。 (次の日の嘘つき)

2017-10-16

もなかさんの詳細かつ鋭敏な批評感想に、さらに何か付け加えることはあるのか?と読み直しつつ・・・ 一連目を、そいつが運の・・・とすると語数やリズムが揃うけれど、ここは文字数を揃えたかったのかな、とか・・・まあ、85のリズムも出てくるし、イレギュラーに揺れたりもしているから、厳密に音数を揃えようということではなく、もっと感覚的な(身体的な)心地よさを目指したのかな、と思います。57のリズムとは違って、86や75は歌謡や舞踊の、弾むような音感が、全体に生き生きとした情感を与えているように感じました。 二連目、題名の層雲が響いたのか、空から衣をひいて野を行く人影(空すべてを覆ってしまうほど大きな)を思いました。西日を照り返す、水を張った田んぼのきらめき。牛蛙の声、それを「踏む」白い足のイメージ・・・実際に踏んだというより、雲間から差す光が人のように野を駆けていく、その足取りに同化しているような、そんな歌い手の心象を感じました。 昨日できていたことが、今日も出来ているか?という問いかけ、軽く記されているけれど、重い問いだなと思いました。昨日の私と今日の私の連続性が、途切れている感覚。 鳥にも、けものにも区分しきれない曖昧な生き物ばかりを目でおってしまうのは、その時の「私」のどっちつかずの心象を反映しているように思われました。憶えているか?と(月に)問いかけても、答えはない(口がない、でも見ているコワサ) 昔っていつだろう。煙突で月まで登れた(夢想を自在に働かせることができた)頃のことかなあ? 過去の私と、今の私が、家路を急ぐ一瞬に邂逅した感じ。夜をもたらして去っていく夕焼け色の裾をひく空(天、あるいは時間)と出会ったとき、その「目」に、見られていると感じるときの感覚。 何か大きなものに出会った時間を感じました。 (層雲)

2017-10-15

魚のヒレとか鳥のくちばしとか・・・ここまで芸が細かいと、まさに職人芸ですね。言葉遊びや、パロディーがあちこちに仕込まれていて(いま、スマホで見ているのですが)美しい形が保たれている。ビックリです。言霊ならぬ、詩形だま、型だま、が宿りそうな・・・。 タイポグラフィーを活かした作品に、アニメーションが加わったら面白いですね。(現行掲示板では無理ですが、土曜美術社のepubとか、そんな電子書籍なら可能かもしれないな・・・なんてことも思いました。) (魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜)

2017-10-15

貴重なコメント、ありがとうございました。〈イメージが定着されるよりまえに容易にひるがえってまったく別のそれへと反転しつづけてしまうような光景〉イメージが呼び出されては消えていくような作品全体の情景が、すうっと腑に落ちるような気がしました。survofさんなどの鑑賞にも、音楽が響いていますね。 〈それが散文ではない限り、あるひとつのイメージにこだわる、描出したり、その主題をもとに感情を吐露させたり、ということはほとんどしません。詩は散文とは違って、絵画や音楽のようにして読むものであって、読解するものではない、と考えます。もはや詩は喩ではない。〉この部分も、詩論、詩観と申し上げてもよいでしょうか。 私は、絵画でいえば具象画(あるいは心象風景画)を目指したいと思う側であり、詩とは喩を用いて、その折々の(自身の、あるいは、語り手として設定した主人公の)感情を吐露したり、思索を展開させたりするもの、というスタンスなので、非常に新鮮な思いで拝読しました。(もちろん、それは私個人のものであって、様々なスタンスがあること、その多様性を大切にしたいと思っています) 〈「一般読者」という、架空の、存在しない多数の読者に届くかどうか、という発想は現実的ではない、と考えています。〉おっしゃる通りです。架空の集団を意識して、忖度して、自身に制限をかけて、果たして、自由な創作が可能か?ということは、常に考えます。その時代の多数の「一般読者」には「難解」であるとか、「実験性が強い」として受け入れられなかった美が、実は次世代の美を予見したり、予兆となっていたりする。その予兆こそが、先んじて次代の美を牽引したりする。(もちろん、その美を生み出そうとする人、は、牽引しようなどという意識は微塵も持っていなかった、としても。) 〈現代音楽も、あるいは「現代」とつくジャンルがみなそうですが、一見、とっつきにくそうな雰囲気ではあっても、しっかりそれとむきあえば、その味も感じとることは可能〉そこに、恐らく「批評」の介在する意味がある、と思うのですが、果たして、私が行おうとしていることが、その介在になっているかどうか。目指していたとしても。その問いは、常に自身に投げかけています。 抽象絵画が置かれていて、大多数の鑑賞者が、「なんだかわけわからない」と素通りしたとして・・・その中に、絵画の色彩やマチエール、蠢いているイメージのようなもの、に激しく心を揺さぶられる人、がいた、ならば。そして、その人が、自身の感動を、その場にいる人たちに「わかる言葉」で、うまく伝えることができた、ならば。 今まで、それを「美」として認識できていなかった、そのような扉を開けていなかった人たち、そのようなアンテナのスイッチを入れていなかった人たちに、扉を開けたり、スイッチを入れたりする、きっかけを提供する、ことになるのではないか。〈いつかそれぞれの読み手にとって、いってみればピンとくるような状況〉が、自然に訪れるのを待つ、ばかりではなく、批評や感想によって、その状況が訪れやすくする、そんなきっかけを、用意することになる、のではないか。 私がコメント欄に書いた、〈一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう〉という言葉は、そうした意味合いも含んでいます。自戒を込めて、ということですね。言葉の連鎖の中から、人はどうしても「意味」を見出そうとしてしまう。ならば、いっそ、独自の物語を、それぞれが紡ぎ出していってもいい。抽象絵画の中から、様々な物語をひろいあげ、作者も気づかなかったような、多様な「具体的な」物語を、創り上げていってもいい・・・そんなことも、考えます。 陶酔感がある、イメージのゆらぎの中に導き入れられるような気がする・・・こんな印象批評で、どれだけ「伝わる」んだ、と思ったり唸ったり、するわけですが・・・白島さん始め、複数の方が独自の「読解」を提供してくださっていますね。こうして、様々な人の心に、様々な形で響いたものを、それぞれが言葉にしていく試みの場である・・・そんな掲示板を目指したいと思っています。 (Sept Papillons)

2017-10-13

〈わかるものを呼び止めて これ大丈夫ですかね? と 聴いたら 大丈夫大丈夫 ほとんど変わんないからって言われて ひとまず安堵する〉 このあたりのユーモアと、 〈ほとんど変わらないのに なぜ 更新する必要があるんだろう〉 この感慨による「受け」の部分が、とてもいいと思いました。 その後、少し冗漫な感じになる、印象があるのですが・・・ 更新する必要があるんだろう、この後、一気に〈全ての更新が終われば〉にスピーディーに持って行ってもいいかもしれない、と思いました。 変わりたい、という願望と、変わりたくない、という願望。変化への憧れと、不安。 そうした揺れを、「自動更新」のアナロジーとして「発見」したことが、きっとこの詩の種なのだと思います。 変ってしまう自分、変わらない自分、その差ってなんだろう・・・どこが変わって、どこが変わらないんだろう。 カチカチ動きながら、その終了を待っている時の不安のような、期待のような、焦燥のようなもの・・・ それと同じような「感じ」を、ご自身の身体、に感じた瞬間って、今までにありましたか?あったら、その時のことを(具体的な事例として、書いて下さい、ということではないですが)聞きたい、と思いました。 (自動更新)

2017-10-13

ガラスを透過して、外に降る「雪」・・・のように、もろもろの記憶が降る、イメージ。関わり合い、離れていった人の面影が、雪のように降る、そんなイメージにまず、とらわれました(私の、あくまでも個人的な読みですが。) その中で口をつぐむ魂、凍り付いている心・・・尾ひれは金魚のような魚のイメージ、命の自由な遊泳・・・を喚起しますが・・・同時に、話に尾ひれがついて・・・というような、人間関係の澱みに追い込まれていくイメージも重なってきます。 〈おおきくなりました おもくなりました 自分の足ではあるかないので 空を飛んでいるようです ふたりからさんにんへ さんにんからたくさんへ〉 ひらがなの用い方、やわらかな言葉の並び。若い夫婦に赤ん坊が生まれ、いつのまにか家族、という日々に「私自身」がふわふわと持ち去られていくような感覚を(自身に引き付けながら)覚えつつ。 〈羽化されるように よるよりもあかるく〉このあたりも、浮かされる、とイメージが重なりますね。凍蝶から深い所でつながっているのかもしれませんが、蝶の羽化、誕生のイメージ。ひらがなに開くことによって、夜という暗いもの、のイメージがいったん後退して、yoという明るい音が心に落ちていく。(代、世、無意識のうちにこうした「響き」も呼ばれているのかもしれません) 〈かげおくり のような ひかりおくり〉この行も美しいですね。冒頭の〈ひかり〉が呼び寄せられる。影、去っていった人、亡くなった人、そんな命の送りのイメージが、ひかりおくり、に転換される。 〈ひかり 開いたページの上に落ちる 読み上げることもない 文字の形に 舌を這わせ みつめている ずっと〉 〈おまえのなまえがきざまれた 本の表紙を なぜる 闇に同化した文字のゆくさきを だれかに託しながら ひかりを 閉じ込めて とじる〉 始まりと終り、この〈ひかり〉が印象に残りました。 現実の(物質としての)本、というよりも、ひとりの命、その道行き、ゆくえを記された(あるいは、これから記されていく、であろう)白紙の本、ひとりの人の物語。生きることは、時を経ること、時を経ることは、命が何かを体験していくこと。そんないのちの物語が記される本。 〈闇に同化した文字のゆくさきを〉ゆくえ、と記さず、あえて「ゆくさき」と強く方向性を指示するような言葉を選ぶところに惹かれました。闇も漢字の重さと固さを持って記される。 まだ幼い命の「ゆくさき」にひかりあれ、と願う、そんな若い母のくちずさむうた。いささか自分の思いに惹きつけすぎているかもしれませんが、そんな詩の世界を(私の中に思い描いて)読ませていただきました。 (ゆくえ)

2017-10-13

〈筆力が卓抜しておられることはもはや私ごときが〉そのままお返ししましょう。花緒さんの筆力には掛け値なしに感嘆しています。それゆえに、その筆力をもって何を書くのか、ということに、興味があります。それゆえに、疑問を感じたり異論を唱えたりもしたくなるわけですが。 〈無駄と無為と無意味の集積によって成り立つ世界〉補足するなら、「世界」の前に、わたしの、という言葉が入ります。さらに言えば、「わたし」という枠内からしか、外界を知ることはできない、そのような制約を人は負っている、と思っています。〈意味のある逡巡〉〈有意味な逡巡〉とは、一見、「意味」がありそうな・・・しかし、社会的に何らの実行力を持たない、つまり、言葉として、書き物として表明したところで、単なる無駄と無為と無意味にしか成り得ない、そうした逡巡である、と書き直してもよいでしょう。 その、意味がありそうな(意味のあることを、「わたし」は真剣に考えている、「社会」に対して、「世界」に対して、誠実に向き合おうとしている、そんな素振りを見せている、そんな素振りを「生きる」ということに、自らの存在意義を見出そうとしている)自己語りを、「作品」として提出することに、「意味」があるのか。〈日記の一編だったら十分〉であろうけれども・・・という問いでもあろう、と考えます。 おそらく、花緒さんが問い掛けたかったこと、は、上記の如き内容であろう、と勝手に措定した上で・・・ 「おもしろいか」どうか、ということを、聞いてみたかったですね。生真面目に眉間に皺を寄せて、考えたところでどうにかなるものでもない、そんな個人を大きく超えた問題のことで「頭」を悩ましている暇があったら(そんな自分に密かに自己満足している暇があったら)もっとエピキュリアン的に、個人としての生活を楽しむことが先決なのではないか。(と花緒さんが言っている、というわけではなく、これは、私の考えです。) 埒もあかないことを、ゴチャゴチャ繰り返している、その「わたし」という空間の中で散漫に浮遊しているもろもろを突き通し、脈絡あるものに綴り合せていく、そんな力を持ちたい、という、ある種の「決意表明」のようなものに過ぎない。その意味では、ご指摘の通り、〈完成しきったものにはなってない〉わけです。その行為の痕跡が、なんらかの共感につながればいい、という希望、願望を示してもいるけれども。同じような悩みにとらわれて、なかなか抜け出せないような人がいた、として、その悩みを共有することはできないか。同じ問いかけを持つことはできないか。微力が集積することによって、なんらかの波及効果が及ぶのではないか。個人としては無力である「世界」に対して、なんらかの働きかけのようなものが、動き出すのではないか。 個人と「世界」との関わり方、それを、大げさな言い方ですが「実存的な問い」と呼ぶとして・・・そうした問いかけを(意味がなくとも)持ち続けること、そこに、「意味」が生まれるのではないか。一人では完結できない「意味」ですね。 悩んでも仕方ないことがらを悩む、そんな(聞かされるだけ、うんざりしてしまうような)一瞬と、猫ちゃん写真を見て、かわい~とウケている、今日のごはんは、何にしようかな、とワクワクしながらスーパーの売り場を巡っている。今度はあんなことをしよう、こんなことをしよう、と楽しいこと、面白いこと、そんな計画を練っている。それらがすべて同居している状況。 あるいは・・・世界の「悲惨」社会の「無残」を知り、心を痛める、という行為自体が・・・平坦な日常に刺激をもたらそうとする本能的な行為に過ぎないのかもしれない。「おもしろい」こと、新奇な刺激や興奮を与えてくれる何か、を求める行為に過ぎないのかもしれない。そういう問を「問うている」状態に、自分を追い込むことで、意義のある人生を生きているような錯覚を得たいのかもしれない。まあ、そういう自分語り、の一瞬のドキュメント、そんなところでしょうか。 (縫い針)

2017-10-13

返詩を続けて行けば、連詩になりそうですね(笑) 夕景をイメージしたので、夜につなげたのですが、 〈やがて塞がれて炎に横たわる〉そこに行きますか! 登り窯から白く道が伸びる 夜陰に刻まれた神の爪痕 顔を灼く火照りの向こうで きしみながら生れ出ずる (17:58)

2017-10-13

まるい、プチトマト、ではなく、四角いプチトマト・・・。型枠にはめて、あえてその形に育てる、という育て方がありますが・・・(四角い西瓜を、見たことがあります)母として、子どもを「型枠」に嵌め込もうとしていないか、という自問自答・・・というわけでもなさそうですし・・・意外性のある部分なのですが、他の方はどう、読むのでしょう。 (柔い種)

2017-10-12

落とし込まれる藍の深さに ともしびの紐をたぐる 現れる影が息を引き継ぎ 体に命じて闇を奏する (17:58)

2017-10-12

白島さんの鑑賞に、また新たな発見を得つつ。・・・Septは、フランス語の7、と思っていたのですが、9月と掛けているのかもしれないですね!? ・・・とにかく、分厚いというのか、層の厚い作品ですよね。一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう、わけですが。 (Sept Papillons)

2017-10-12

もなかさん コメントありがとうございます。どちらかというと、お年寄りには不評でした・・・よくわからん、という。確かに、こねくり回して、「作って」いるところが大きいと思います。〈言葉がもたらすイメージの速度感がいちいち殺されていく選語はきっと意図されたものなのでしょう〉ご指摘いただいて再読。動きの大きな動詞と、静止した空間、形態観察的なイメージとが、たしかに互い違いに出てきますね・・・どちらかというと、無意識の選択でした。進みたい、疾走したい、気持ちと、とどまりたい、そのままでありたい、気持ちのアンビバレントが、自然に滲み出ているのかもしれません。 〈上から目線〉という感想は、予想外でした。どのあたりで、それを感じられたのでしょう・・・たとえば同じ床面で、輪読するように朗読する、そんなイメージの作品ではないかもしれないですね。聴衆がいて、舞台にいちいち立って行って、そこで朗読する、どちらかというと声を立てて、真っ直ぐに前を向いて、固い言葉で(かっこつけて)そんな読み方、になるような語感や詩行かな、と思いました。身近で寄り添うような感じの言葉ではないですね。 いろいろな発見を頂くコメントでした、ありがとうございました。 (焼成)

2017-10-09

題名の持つ批評性というべきか・・・公民権運動の時期のアメリカの、吊るされたフルーツ、として描かれた悲惨・・・黒人への凄惨なリンチの取材であったり・・・現在のアメリカへの状況を思い合わせたりしながら読み始めて、二連目でナチが出て来る。いささか唐突感がありました。アメリカのネオナチ的な動きへの想いもあるのでしょうか・・・完備さんの鑑賞にも一理ありますが、ころす、の連呼を、そのままストレートに受け取るかどうか、という問題でもあるでしょう。殺せ、という強い文言が、果たして反転する意味を備えているのか、題名との連関も含めて(批評性を加味できているかどうか、という点も含めて)いまひとつ、つかみきれないような思いが残る作品でした。 (pulitzer)

2017-10-09

朗読を意識された作品なのかもしれませんが、繰り返しというのか、同内容のリフレインが、少し冗長な印象を受けてしまいました。 でも、すうっと胸に入って来る。ある種の潔癖症である語り手・・・自分だけは、せめて「正しく」あろう、と思う純粋さ、自分は汚れていない、無垢な者として生まれて来たはず、という信頼・・・が、〈自分にも裏があると/分かってしまった今では〉という誠実さに、いわば、身内から裏切られる、その悲しみ。 〈汚れながらも/穢れながらも/生きていればこそ〉、〈わたしはまだ諦めきれずにいるから〉と呟く強さは、世界はきっと、美しい、という、強い信念があるから、かもしれません。そうあってほしい、と思います。 (『もう、手は洗わない』)

2017-10-09

〈汗だくになりながら息を止め、ひたすら時を待ちます〉この行を二行連ねる、ここの部分の「ため」と言いましょうか、朗読することを考えた時の緊張感、迫力のこもった作品だと思いました。 冒頭のシリアスな描写、それは夢だ、と、ほっとさせられる中盤、しかし、実はそれは日常の反映であった、と語られる後半。コーリャさんが記しているように「一貫した論理」がありますね。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、この迫力で書ききることの強さを感じる作品でした。ただ黙っている、のではなく。諦めて悟っている、のでもなく。最後の一行で、むしろ爽快感を感じました。 (逆光)

2017-10-09

前半は、いわゆるチェーンメールを送ろうとしている主人公の心理・・・といった印象を受けました。 後半、〈点線と実線〉に、つながりの濃さや薄さ、信頼度や不安感などが反映されているように思うのですが・・・このあたりを、もう少し踏み込んでいくと、より面白くなるのではないか、と思いました。 (返信全員に返信転送)

2017-10-09

コメントを拝読しながら、音楽でいう速度表示、たとえば「レント」など記すという方法もあるかもしれない、と思いました。 (舞踏)

2017-10-09

戦時中に、ある種の「戦争詩」として書かれた短歌に、満月に照らされた病馬を捨てていく、という歌がありました。 戦場の非情さを描くことによって、体制側に対しては「情を切り捨てて、我らは戦いに行くのだ」という姿勢をアピールしつつ(そうせざるを得ない状況があった、わけでもありますが)実際には、戦場の悲惨を訴える詩として読んだ記憶があります。万が一、に備えて装備したり訓練したりしつつ、その万が一は絶対的に避けたい、避けてほしい、と願いつつ・・・ (行軍の名月)

2017-10-09

言葉でしかできないこと、をやっている、という面白さと・・・面白さを追求しすぎたのかな、という思いと・・・。 空が、地面の底のように、あるいは水底のように、思われる時がありますよね(と感覚を押し付けるのも変ですが)草原に寝ると、自分が空の底に落ちていくように感じる。そんな時の感覚を思い出しました。 前半は身体感覚に添っているように思うのですが、「詩を書き始めた」から後は、面白い図柄を描き出そう、という意識の方が先行しているようにも感じました。 (シュール Real)

2017-10-09

〈手折った夏草をぶんぶん振り回しながら ひるまずに突き進んでいった丘の道 尖った葉はきらきらと光の乱反射 不意に幾度もあなたに斬りつけた〉 若さゆえの勢い、若さゆえの憤り、若さゆえの・・・と記しながら、若さって、なんだろう、と考えます。 恐れを知らない事、だろうか。ジークフリートは、恐れを知らない若者、という設定だった。 恐れげもなく、まっすぐに進んでいく、そのまなざしへの羨望が、冒頭の一言になったのではないか・・・ そんな思いで読みました。たぶん、「純粋って 残酷よね」と、聞かされる側、ではなく、言う側に、私が近い場所にいるから、かもしれません。 硬質な思惟の言葉が織り込まれているのに、全体にとても柔らかい。詩行の飛躍が適度で心地よかったです。 恥ずかしさ、に自ら気づきながら、なおもそれを〈小さい生き物のように手の中に匿おうとして〉生きている、生きて行く、ということ。遠い過去の出来事であるように描かれているけれども、すぐ身近にあること、なのかもしれません。打ち寄せる波音が、時間の波のように思われました。 (望郷)

2017-10-09

〈東急ハンズにもあるかもしれない ぽぇじぃ〉という身近さ、〈うまれくる森の種が銀色〉というファンタジー、〈ぷらちながピチカートを刻みピンヒールは飛沫する〉〈 ゆれるるるる螺旋のるるる〉という音の面白さ。ある意味で弾けまくっていて、どこに行くんだ?と思っていたら・・・これまた、ある種「はじけて」いる、〈「もう一回いうと がうでぃなんだよ」/おさないわたしのために 風呂場に 魚や蟹の形のタイルを入れて〉ここに続くのか、とほっこりしました。 なんでも「ぴかそだなあ、うん」と孫をほめちぎっていた「おじいちゃん」が知人におりますけれども(笑) おじいちゃんの憧れ、孫への期待、それががうでぃでぃ、という楽しい音の中から響いてくるような気がしました。 (がうでぃでぃ)

2017-10-09

勝手気ままにカッコよく 書いて拡散掻き乱し 隔靴掻痒拡大解釈 かくなる上は過去を解消 感謝感激覚悟歓迎 活舌よろしい快活朗読 果報は寝て待て佳日好日 寒暖差激しい折から おkaらだどうぞご自愛ください (きっとカジュアル)

2017-10-09

飛影、かと思って調べたら、花びらが散ること、と出て来て、なるほど、と思いました。 改竄、配列、あるいは螺旋する、といった漢語の用法が生み出す硬さがアクセントになっていると思う一方、全体がブツブツと途切れがちのようなイメージになるのは、まりにゃんさんが指摘されているように、語尾の処理の問題などもあるのかな、と思いました。題名も、No title で「空白」。白という色彩の持つイメージや、〈白い、と形容された/影〉という表記に顕著な、白そのものの持つ意味を追いかけようとした作品なのかな、とも思いました。 〈白い少女は線の上を歩きながら/踏み外さぬように正確に〉〈正確に/一定の周期で旋回する/白い、と形容された/影は〉〈影は/少女を追いかけながら/垂直に螺旋する〉というように、少しずつ重なりながらずれて行っている(ずらされている)ようにも読めますね。モダニズム期の白、「白い少女」とか「白のアルバム」、「白い夏野」などについて、もろもろ考えているところだったので、考えさせられました。 (No title)

2017-10-09

孤独と疎外は違う。自ら選び取った孤独と、一人の状況にいやおうなく追い込まれる(あるいは集団の中に居て、孤立させられる)疎外との違いについて、考えさせられました。『うたげと孤心』が再注目されていますが、自ら選び取った孤独、その性質を〈それは 対話であり黙考である〉と「解説」し、〈後悔であり希望である〉と置換し、〈安らかで苛烈な閉じられた部屋だ〉と比喩でたとえる。この三連が面白かったです。 (独り)

2017-10-09

意味って、なんだろうなあ、という・・・意の味。異の味?意の身。 かいたない という連呼、(幼稚園に)いきたくない、を言えなくて、いたくない、いたくない、と泣いていた子どものことを思い出しました。た、という音はごく自然に口にのぼる。解体&再構築の「作業」をしながら、音読を繰り替えした、というコメントを読んで、なるほど、と思いました。 意味、が、目的を持った場所へと読者を導いていく行為を助けるもの、である、として・・・この言葉はこの内容を意味する、という決まりというか汎用を学んで、「知らない」場所から「知っている」場所へと移動する、と言えばいいのか・・・その移動そのものが意図されていない。あるいは、ひとつのストーリーを伝える、という目的が、意図されていない。音楽性、というものとも異なる、単語そのものが持つイメージの集積がもたらすなにものか、とも異なる。意図しない、為にあえて意図された作品、という・・・(何書いているのか、それこそ意味がない(笑) アナグラムのように組み替えていくと、別の言葉や別の意味が現れる(書いたって、の書をはずすと、「いたって」という副詞が現れる、居たって、と漢字を当てると、また別の意味が現れる、というような)そんな予想外の発見を楽しむ作品なのかな、と思いました。 (意味はない)

2017-10-09

おそらく、通常なら「~楽しくなれたあの頃 」で改行するのでしょうけれど・・・一気にいいつのるような、勢いのある一行。ちょうど、湯のみのヒビがパキッと割れて・・・そこから先の「未来」に不穏な感じ、がつきまとうような感覚・・・の詩を投稿したばかりなので(夏野さんの方が、先に投稿されていたのですね。真似っこしたみたいになっています(笑) 共感しながら拝読しました。 〈滑り落ちていく 宝石散りばめられた地獄の坂道〉この行の重ね方が面白いですね。滑り落ちていく宝石、宝石散りばめられた地獄の坂道、と両方にかかっているように読める。短歌などではよく使われる手法ですが、ひと息に読み通すような一行を用意されるところなどを見ても、短歌に親しんでおられる方なのかな、という気もします。 〈夢から醒めれない〉醒められない、が文法的には正しいのかな、と思いますが、「ら抜き」言葉の持つ若々しさや疾走感は、あえて用いる価値のある「誤報」だと思っています。「もうどうにもとまらない」なんて歌詞もありましたね(すみません、古くて) 〈もう少し控えめでいいから私を照らして光〉この行も面白いですね。控えめでいいから、私を照らして・・・という願いを、ひかり、と体言止めで君に向かって呼びかけている、ようにも見えるし、ひかれ、と命令形で呼びかけている、そんな強さを持った一行とも読める。 「ぬるま湯」のような世界で戯れていた語り手が、厳しい表現の道、に踏み出し、〈針を隠し持った〉ような鋭さを持った君、光り輝いている君、に出会った、のではなかろうか。そして(君、が実在の友人であれ、詩とか小説、といった非実在の対象、であれ)その光に自分も照らされたい、自分もいつか発光したい、そんな「夢」をミルクバスのようなぬるま湯、のような沼、に隠して(冒頭のぬるま湯と、うまく響きあっていますね)「夢」にむしろ浸り込むことを望んでいる・・・そんなイメージで読みました。 地獄に堕ちていくとか、内容的には重くなるはずのテーマなのに、言葉の振り切って進むような勢い(つまり文体)と、夢にむしろ浸っていたい、抜け出したくない、というような、ちょっと甘めの夢想、歌詞的な軽めのリフレインが、全体を瑞々しい軽さに仕上げていると思いました。 (ミルキーデザイア)

2017-10-07

自主勉強会、が、自主勉協会、という、奇妙なアソシエーションになっておりました(笑)  立ち上げますかね、自主勉 協会。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-07

再レスです。少しお作品から離れますが・・・以前、自主勉協会のワークショップで、面白いテキストを用意して来たメンターがいました。散文詩、のような断片がたくさん集めてあるのですが、辞書の一節であったり、小説の一節、新聞や雑誌の記事の一節、改行詩をひとマスあけの散文詩のような形に改変したもの、などなど・・・と、いわゆる散文詩が混ぜてあって、さあ、どれがどれでしょう、という・・・。あらゆるジャンルの文章に、「詩情」を感じさせる部分、というものはあるのだ、と、あらためて再確認しました。 現代詩、とか、口語自由詩、の定義そのものが、人によって違う、という、なんとも奇妙なジャンルが「現代詩」なのかもしれません。私の立ち位置は、ひとりひとりが自らの文体を探していく行為、そのものが詩作である。自分自身の内面のミクロコスモス、その空間で体験したり経験したりしたことを、他者に伝える・・・というより、イメージとしては、言葉という手段を用いて、シェアしていく、それが表現、ということなのかな、という「感じ」を持っています。個々人のミクロコスモスは、人智の及ばない、どこか遠くで、ひとつにつながっている、のかもしれず・・・(集合的無意識、のような)そうではなく、永遠に個として分断されている、のかもしれず・・・。いずれにせよ、隔靴掻痒ではありますが、自身の体感を何らかの表現で伝えたい、と思うのが「ひと」であって、だからこそ、「ひと」は言葉を生み出したり、絵や記号、音楽を生み出したのだろうなあ、というのが、はるかな古代への想いです。 言葉は、既知のものと対応しているわけで・・・未知の体験を既知の言葉を用いて表現する、という、そもそも矛盾だろう、無理でしょう、という状態から、なんとか近いところにもっていく、という「もがき」や「あがき」があるのでしょう。そして、既知の物を類推、例として用いることによって、近づけていく。そこに、比喩の面白さがある、と思うのですが・・・表しえないこと、とりこぼしてしまうこと、どうしても類例を見いだせないもの、に関しては、沈黙を選ぶほかはない。 もっというなら・・・深い沈黙の海の中で、島のように個々人の「言葉」が点在していて・・・その個々人の「言葉」の多島海を渡りながら、様々な木の実や草の実を運んでいる鳥たち・・・その「鳥」にあたるものが、表現された様々な作品、ということなのだろうなあ、と(なんでクジラから、鳥に話が飛ぶのか、自分でもよくわかりませんが)そんなことを、湯煙さんの作品を読みながら、考えていました。 思いっきり脱線しまくってますが(笑) (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-07

何度か拝読しているのですが連が進んで行けば行くほど、イメージの森に迷い込んでいくような酩酊感、ある種の麻痺のような感覚にとらわれますね・・・18世紀グランドツアー時代の貴族の館、床から天井まで、びっしりと絵や剥製などが飾ってある、ひんやりと空気が溜まって、薄暗い空間に日が細く帯状に差している・・・そんないくつもの部屋を彷徨っているような感覚、と言えば伝わるでしょうか。 死骸となった蝶、壁に塗りこめられ、あるいは痣として肌に痕跡を残して浮かび上がり、桃のエロス、涙の中に現れては消える蝶・・・一連一連に盛り込まれたイメージの重量を思いながら、少し全体として、盛り込み過ぎなのかもしれない、そんな印象も覚えました。 一連、一連を独立させて、ある種の物語とか、詩の空間(七つの連作)として展開する、という、そんな試みがなされたら、どんなことになるだろう、読んでみたい、と思いました。 (Sept Papillons)

2017-10-07

句読点を多用した、ぼつぼつと切るような、力強いリズム、冒頭の丁寧な自然描写、そして、その後の飛躍。ユニークな作品だと思いました。 「お母さん」と書いている所を見ると、語り手はまだ少年の設定でしょうか。その母が、無造作にトンボの薄羽をつまんで、息子の鼻先に突きつける。オニヤンマの胸の筋肉、クローズアップされる牙、そして〈森の静寂さを気づかせる。〉獲物を取る肉食の昆虫の持つ迫力、動の美とでもいうのでしょうか、豹が獲物を狙う前の静けさとか、獲物に狙い定める猛禽の静けさ、とか・・・単純な静けさではなく、たわめた鋼を抑え込んでいるような、そんな緊迫した力を秘めている静けさ、を感じます。 高い空、大きな視野から始まって、トンボが落ちる、という、まだ距離のある情景、そこから一気にクローズアップしていくところ(母親が、オニヤンマをつかまえる無造作な動きの中に潜む残酷さのようなものに、敏感に反応する息子の視点も現れているかもしれません) 〈免疫細胞のように虹は 水銀や、コバルトブルーを食べる。〉ここからの飛躍が素晴らしいですね。 〈ピンク色をした、バスタブの排水口のイメージ、 ステンレス製のぎらぎらと光る縁取りから、深淵が覗けた。〉 喰うものと喰われるもの、その間に存在する緊張感。〈オニヤンマの複眼に残る、/うねりを帯びた敏捷さ 〉が 色を喰らって炎となって燃える虹の中にも、どこか肉感的な不気味さもある〈バスタブの排水口〉の中にも、見出される〈うねりを帯びた敏捷さ〉と同質のなにか。 〈シャボン玉の内側に、この世はあって、〉壊れやすいシャボン玉の内側にある、この世・・・という認識。シャボン玉の虹色と、先ほどの虹が響きあっていることを、この時点で知る、わけですが・・・樹液を手に付けて持ち帰ろう、という少年の思いと、樹液を吸うコガネムシに自己同化していく眼差し、そのまま虫になって〈ぶーうぅーん。〉と飛ぶ群れの中に、自分自身も混ざっていくような、混然とした感覚、最後まで響く〈羽音〉・・・ 幾層にも折り込まれながら、オニヤンマの複眼に宿るある種の力、喰うものと喰われるもの(死に喰われる人間、も含めて)の関係性、自在に虫の気持ちになって空を飛び回るような少年期の想い・・・夕刻の〈アメジスト色〉に照らされている、記憶。 映つる、など、表記の疑問がありますが、よく練り上げられた秀作だと思いました。 (記憶)

2017-10-07

るるりらさん ありがとうございます、私が伝えたかったように伝わって嬉しいです。 私の好きな伊東静雄という詩人が、初期の頃は、ドイツの観念的な詩をそのまま直訳したみたいな詩とか、哲学書の一節抜き出し、みたいなものを書いていて、同人たちに「詩人ぶってる」「高みで笑ってないで降りてこい」みたいなことを、ガンガン書かれていました(笑) 当時の詩誌はすごいです。お互い、ボロクソに言い合っている・・・もちろん、伊東は他の人を馬鹿にするつもりで高踏的なものを書いていたわけではなく、本人が、そうした世界に限りなく憧れていた、からですが・・・ よくわからないけれど、すごいのを書いてるぞ❗という人や作品に出会うと、それこそ脳髄がぴきっとなるような感じで、うおぉ、あそこに行きたい~みたいになるのですが。行ってみたら更地だったとか、そもそもたどり着く手段がなかった、とか、対岸で指くわえて見てる、とか・・・ そんな感じにもなるのですが・・・レトリックみたいなものは、たとえば川を渡るためのロープみたいな役割を果たしたりするので、使いこなせるようにするのは、悪いことではないと思っています。もっとも、手持ち道具の品評会のようになってしまっても、喜ぶのは同業者だけ、なので(笑)やっぱり、その道具を使ってどこに行くか?何をするか?どう仕上げるか?ということなんだろうなぁ、と思いました。 (焼成)

2017-10-06

survofさん 湯呑みが割れた、という事実から、何か日常にぴきっとヒビが入ったような感覚があり、そこから何かが漏れ出していくような・・・自分自身の体も殻のようにぴきっとヒビが入って、溜め込んでいたものが漏れ出ていくような感覚があった、と思います。 最初の方は「勢い」でどんどん書いて・・・その後はロジックが繋がるか?ということを意識しながら書いていたので、前半は自然湧出、後半はひねり出しています。ぜんぶバレバレなので(笑) ヌード写真出すより、詩を出す方が・・・いや、まあ、これは冗談ですが。 (焼成)

2017-10-06

kaz. さん そうですね、すっと入ってくる詩と、くんずほぐれつ、になる詩と、ありますね・・・他の方の感想などとも含めて、この詩は、いかにレトリックを活用するか、というところに、かなり比重がかかっていたと思います。詩を学ぶ学生たちが読者の詩誌だと伺い、ちょっと肩肘はる、というか、しゃちこばって書いていたかもしれません。その分、勢いとか柔らかさが削がれていて、そこに皆さん、不満を感じる、ということなのだと思いました。夜は、もちろん時間的な夜と精神的な夜のイメージですが・・・夜中の窯の火の美しさとか、むしろそういう方向に向かった方が良かったかもしれません。 (焼成)

2017-10-06

Migikataさん 湯呑みが割れた、というところから、どんどん別方向に(内面に)進んでしまったので、物質性というのか、手触りからは、離れてしまったようです。Migikataさんの作品の、飛躍の幅が大きすぎて、ついていけない、なんて泣き言を言いながら、自分もやっているじゃないか、と苦笑しつつ。素敵な俳句をご紹介頂き、ありがとうございました。 (焼成)

2017-10-06

完備さん いやはや、お見通しですね(笑)ありがとうございます。使い慣れていた湯呑みが、ぱきっというか、ぺきっという感じで割れた・・・のは事実なのですが、これって何かの予兆?と思いながら、様々な事象と重ね合わせつつ、自身の内部の空洞と、自身が器になる、イメージを重ねつつ・・・と構造化して書いたものです。実はあまり推敲はしていないのですが、イメージトレーニングみたいに、何度も頭の中で湯呑みを割り直したので(笑) 当初のイメージが、何度も下絵を写し直して整えた絵のような固さになったのかもしれません。 (焼成)

2017-10-06

鉱物が好きで、よく、科学実験材料のお店や、鉱石ショップなどに立ち寄ります。ミネラルショップ、という言い方があるのですね。ミネラルときくと、なんとなく栄養素のような気もしてきて・・・心の栄養素を置いている店、そんな印象を持ちました。 〈悠久の時〉という言い方は、なんとなくコマーシャルコピーのような印象もあって、使うのに抵抗がある言葉なのですが、化石とか鉱石には、本当にしっくりくる言葉だと思いました。 それにしても、〈鯨の耳石〉とは。いや、正確ではないですね。〈鯨の耳石と名付けられた商品〉・・・語り手が、え?クジラの耳石?そんなもの、本当にあるの?と半信半疑で手に取り、じっくり観察して、質感や外見から様々な連想、想像に誘われ・・・最後に〈静謐がひんやり染み込んでくる。〉という感動に至るまでの過程が、実に丁寧に、かつ無駄なく描かれていて、とても美しい文章だと思いました。 二連目も、学術的な解説(必要最低限の、絞り込まれた文章)から、一転して〈想像の川をくだり〉〈思考の網はゆるやかにひもとかれて流氷のささやきのままに誘われていく。〉思考が「わたし」という狭い枠から流れ出していく、その流出の感覚と、想像を働かせて川を下り、大洋に到り、最後はクジラが棲む南氷洋まで到る。地球を半周しているわけです。壮大な想像力の旅。 三連目で、また大きく転換して・・・なぜ〈わたし〉が〈耳石〉に惹かれたのか、その理由が明かされる。クジラの〈耳の穴はふさがり耳殻も持たない〉という「説明文」に、なぜ目が留まったのか。〈音の受動と伝達は骨伝導による〉クジラのコミュニケーション方法、音の「聴き方」が、なぜ強く印象に残ったのか・・・ 語り手自身が、片耳の聴力を失っていて、通常の空気の振動からは、音を聞き取ることができない、そうした来歴を持つ人物であるからこそ、クジラの音の「聴き方」、通常とは異なるコミュニケーション、その証しでもあるような耳石の質感に心が留まったのだ、ということが、寡黙な語りの中から明かされていく。 最終連で作者はさらに飛躍します。言葉、という空気の振動によって伝えられたり、文字、という表記によって伝えられたりする方法「ではない」方法で伝わっていくなにか・・・〈意味の裏側〉言葉が含意するもの。表に現れたものの背後に潜む思い。 クジラの泳ぐ南氷洋にちなんで言うなら、氷山のように空中に出ている部分が言葉、その海中に没している部分が想いや感情の部分であり、その海中に没している見えない部分、音、として聞こえない部分、〈はりついたままの沈黙〉、それを〈止むことを知らない喧騒のなか〉で、聞き取ること・・・それは、空中を伝わる振動ではなく、骨伝導で伝わっていくなにか、のようなものであるのかもしれません。わたしたちの「聴く」という行為の中にも、クジラの耳石のような、美しい石/意志が、生まれているのでしょうか。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-05

くじらが打ち上げられる。壮大な風景と共に、どこか神話的な世界が引き寄せられるような気がします。陸地が身を震わせる、という比喩が、すぐ続いて語られるから、であり・・・最終連で、またその「語り」がくりかえされるから、でもありましょう。 二連目で、〈わたしはまだココノツで セカイは、おろし立てのシーツのようで〉といきなり転換するわけですが・・・なぜかここで、授業中の子供の姿がイメージに浮びました。 国語の授業で、「くじらぐも」、という不思議な作品がありました。7歳から8歳くらいの子供達が学ぶ教材であった、と思いますが・・・ 〈言葉の溶接面にふれて その〈ねちねち〉を愉しんでいたりした。〉独特の感性。文字と文字が接続する。そこに、意味が立ち上がる。その質感に違和感を覚えたり、通常の意味ではない意味で捉えてしまったり(私は、たとえば咽喉から手が出る、と聞くと、実際にぬめぬめと濡れた白い腕が、喉から伸びて来る姿を思い描いてしまいます・・・こどもの頃は、それで息が苦しくなったりしました)そんな、異常なほどに「言葉」の喚起する「意味」に敏感な子供の心理を、大人になった「今」の時点で振り返っているような、そんな感覚の作品だと思いました。 〈言葉はとてもうれしそうで、〉この連から先、覚えたばかりの言葉が嬉しくて仕方がない、そんな気持ちで「手紙」を回しているような、そんな感覚もありますね。 〈雲が降りてきた…… 帰るころにはきっとまたドシャ降り〉このあたりは、授業中の「くじらぐも」の夢想と、現実の風景が重なっているような感覚もありました。 意味の飛躍を意図的に大きく取っている感もあり、解釈が難しい作品でもあるような気がしますが、意欲的な作品だと思います。 (潮音)

2017-10-04

二連目、〈蝶の死骸で埋めつくされたしろい部屋、〉白の連想からつながる雪原のイメージ、蝶と耳の形の相似、声を聞くということ、魂の飛翔のイメージ・・・そこに、雨燕、星蜂雀や蝦殻天蛾といった、文字のインパクトを持った「飛翔するもの」のイメージが幾重にも重ねられて・・・『邪宗門』を読んだ時の後味と、どこか同質のものを感じたりもしたのですが・・・〈苦い茎にうちつけられた海流の霊魂〉この飛躍には、置いてきぼりを喰うような感覚もありました。全体を流れる海のようなイメージが、伏線として置かれていれば、違和感なく入って行けたのかもしれませんが。さざめく声、から〈植物学のヴォカリーズ〉へと連なる部分は、違和感なく乗っていけました。博物館のように多様な蝶や蛾のイメージがあり、続いて、多彩な植物の標本のイメージに移っていく、そんな感覚。トロンボーン、いささか唐突ですが、音質と、途切れ目なく音程が変化していく滑らかさのイメージ、布、テクスチャーのイメージ・・・薄く覆うもの、のイメージ。その向こうに透ける〈ヴィシュヌの横貌〉には驚かされましたが、ギリシアから(同じ東洋の)インドにまで想念が至った、ということでしょうか。ひとつひとつの連が、無数の絵画で壁を埋め尽くした部屋を巡っているような濃度で描き出されているように思い、その豊かさや多様性に感嘆しつつ・・・盛り込み過ぎではないか、という印象も覚えます。 毎日一連ずつ読んで、一週間かけて読むことにしましょう。 (Sept Papillons)

2017-10-02

丁寧な詩行だな、ということを、最初に感じました。丁寧なのは、読者に正確に伝えたいから、でもあるのでしょうけれど・・・その分、説明的な感じ、文章量をもっと絞れるのではないか、という気持ちが、沸き起こります・・・。冒頭二連の、歌謡的な心地よいリズム。たとえば一連目の〈近場にも景色があったりする〉の行は、続く詩行で明かされていく部分なので、省けるかもしれないなあ、そうすると、すぐに二連に入れるなあ、とか・・・。 ゴーストタウン、ではなく、生活感はあるのに、人気のない昼下がり、でしょうか。古い家並み。そこに見つける〈無意味な傷〉そこに、物語を見出そうとする語り手。 その中に入っていく、ということ。怖いけれど・・・という部分、もっと掘り下げるなら、街の内部に入る、ということではなく、街の有している記憶、その物語の中に入る、ということでもあるのでしょう。 果たして〈僕を読んでくれたね〉という、僕の内面の物語を読む、イメージが重なって来る。 生活感はない、でも人気のない、寂しさや怖さもあって、無意味な傷がそこかしこにある・・・そんな街並みと、自分自身の内面世界(心象風景)とを、もっと重ねて描くことができたら、ガラス絵を重ねるように、より重層的な作品になったのではないか、そんな気がしました。 コンビニという場所、そこでは〈最適な構造は予測されてしまう〉。対して、古い町並み(あるいは自分自身の内部の街並み)では、答えが見つからない。この対比を鮮烈に打ち出す、のであれば・・・〈ふと視界は開けて〉の連を、もっと絞ってみる、とか・・・強調するところと、省略するところ。全体にメリハリがつくと、もっと鮮明な作品になると思いました。 (遠回りアフターウィーク)

2017-10-02

一連目、せっかくユニークなリズムで始まったのだから、二連目も 〈の事や物のほうが多い〉を 〈の  事や物  のほうが多い〉 なんて形に改行しても面白かったかもしれない、と思いました。リズムの反復。 〈見解もいて誘惑してくる〉いて、というのが楽しいですね。無数の「見解」が心の中の会議室に集まっていて、ああでもない、こうでもない、と円卓を叩いて議論している感じ。 〈ないより まし〉から始まる連、改行の仕方もあって、詩行の進行がゆっくりになるわけですが、それゆえに、この二連で同様の言葉を重ねていくのは、少し冗漫な印象を受けてしまうような気もします。 〈ないより まし~鍵であるのは間違いない〉ここの、自己断定というのか、自己判断の部分を隠して、次の〈ないより まし~その見解と添い寝する〉というユーモアあふれる比喩の連を続けるのはどうだろう、と思いました。 〈どんどん たくさん 日が暮れる〉この部分のリズムも、いかにも秋の日は釣瓶落し、そのスピーディーな感じが出ていて、いいですね。 (見解たち)

2017-10-02

変更、した方がよいですか?〈僕は〉が、ない方が良いような気もしますが・・・。 〈それさえもできない それが描かれているのは美しい漫画の中の夜である〉それ、と二度繰り返す意味は・・・と問いかけて、漫画の中、という場の転換に、なるほど、と膝を打ちました。 〈落ち目〉とは、自身の落ち目、であるのか、政治活動に盛り上がる人々からの〈落ち目〉であるのか・・・活動に情熱を燃やすことのできる(自身の正義を信じたり、目標を明確に定めたりすることのできる)人々、その人々のいる「空間」から、カーブし、滑り落ちていく・・・そんな語り手の感じている想いが伝わって来るような気がしました。 スマホ画面に、文字(詩のもとになるもの)を打ち込みながら、消して、削って・・・そんな行為を繰り返す。そこから抜け出すことのできない感覚をうまく捉えているように思うのですが、〈文献〉・・・書物の山を思い浮かべつつ、スマホに文字を打ち込んでいる書き手と、文献の中でうごめく?イメージとの関係性が、私にはうまくつかめませんでした。 〈あれは魂削って書いているという感じではない〉魂を削って書く、という行為・・・ペンをガリガリ言わせながら書いているイメージが浮かびますが、削る、という物質的な言葉と、スマホ画面の言葉を消去するデジタルな感覚の齟齬。そこに面白さがあるように思います。〈あれは〉が、何を差しているのか(前段落の、政治活動にいそしむ人たちが生み出している言葉、のことなのか、あるいは、自分自身の行為を回想している、のか・・・)そこに解釈の幅が生まれる。 〈僕〉と〈私〉の不統一は、意図的なものなのかどうか。そこも気になりました。 他の方は、〈あれ〉を、どのように読むのでしょう。 (単調な旋律)

2017-10-02

〈外国人が巨大な電気と人のぐちゃぐちゃに入乱れる交差点をを動画におさめ、私は外国人が日本人とは違う笑顔を浮かべるのを見る。〉この一行で、渋谷のスクランブル交差点を想起しました。 Migikataさんの〈着想に文章力が追いつかないでいる〉というご指摘にも、うなづくところがあります。 冒頭、いわばプロローグの部分、本文の「語り手」がそのままプロローグを語っているので、若干、口話的というのか・・・擬音を繰り返したり、感覚的な表現が多くなったりする、のかな、と思いました。冒頭は、わりと淡々と事実だけを語る(脚本のト書きのように)ナレーターが事務的に状況を語り、外国人が~のところから、一気に語り手が(自身の見ている)幻想風景に読者を引きこんでいく。そんな流れを試みても良いかもしれない、と思いました。(あくまでも提案、ですが) (「おくわ団子」)

2017-10-01

上履きと画びょう・・・学校、そしてイジメ、そんな辛いシチュエーションを想像してしまいますが、そのシチュエーションそのものを吹き飛ばしていくような、破壊、崩壊・・・の鮮烈なイメージ。墜落、沈没船、と下降のイメージが続くのに、どこか祭りのような、吹き上げて行くエネルギーを感じるのは、文体のゆえでしょうか。〈汚れた足跡は私だけのモノ/他人のスニーカーを蹴散らせば/靴ひもの白蛇が呻く〉毅然として、猛々しく蹴散らしていくイメージ、〈鋼鉄の熱病〉、〈生地に刻まれた流星も爆ぜて〉〈爆ぜた情熱と這い回る電流〉といった、浮かされるような高揚感。内向していく感情を、むしろ外部に噴出させる、そんなエネルギーを感じました。 (トースターの夢、おしまいが来ない朝)

2017-10-01

三部構成、その一部が劇画のように突拍子もない設定になっている、その勢いに驚きながら読みました。アニメ風の赤い目の白ウサギがスタンプのように画像に貼り込まれていくような画面をイメージしながら読んでいたのですが・・・二部、そして三部のところを、そのままつなげていかないで、いったん明確に切って切り替えた方がいいような気がしました。二部の説明的な「語り」の部分を読むと、一部の「ぶっ飛んだ」感じが、その時の実感であるようなリアリティーを増してくる。読み進めていく過程での「見え方」「感じ方」の変化が面白かったです。 (回想タクシー)

2017-10-01

奇妙に「ごつごつ」したテクスチャーは、いったいどこから来るのだろう、と思いつつ拝読したのですが・・・ 意図的なものでしょうか、あえて同じ単語を、一見すると不器用なつまづきのような形で重ねていく。体言止め、動詞の終止形の頻用。さみどり、たばしる、この部分だけ、滑らかにすべり行くような、後はつっかえたり止まったりするようなギクシャクした文体・・・批評ではなく、感想に過ぎないコメントになってしまいましたが・・・。 蠅になって飛び回っているような、奇妙な浮遊感と共に読みました。サイバー空間のようでもあるし、解釈の川、という言葉に引きずられて、詩の空間に取り込まれているようにも思えますし。 多義的な空間は、複眼で捉えた空間に似ているのかもしれません。 (人でないもの総てがつながる勢い)

2017-10-01

森田拓也さん いろいろと思う事の多い八月でした。街の中に、突然生まれた空白、更地・・・何があったかすら思い出せない、記憶力の乏しさ。なぜかそこに、私が会いに行きたい人が住んでいた、そんな気がしてならないのでした(そう思いたかっただけかもしれません) はねひつじさん ありがとうございます。どちらかというと、文字を揃える、その型の力を使わないと、情景が描けない・・・単語の音が引き出してくれないと、その次に行けない・・・時に、書いた詩です。いろんな思いを、引きちぎってしまいたい、そんな時が、あります。 (夕立)

2017-10-01

survofさんのコメントを拝読して、いろいろ思う所がありました。 おそらく、この作品は、意味を語るものでもなく、物語を紡ごうとするものでもない。 その過程や経過を報告するものでもない。言葉が、存在を立ち上げていく、それは、いったい、どのようなことなのだろう、その問いを問わざるを得ない、魂の彷徨、その最中で出会った無数の想念を、丁寧にとらえようとしている、そんな作品であるように感じています。 初読して、オルフェウスの竪琴は、なにを呼び覚ましたのか、何を立ち上げるのか、と作者に問いたいと思いました。思いながら、何度か拝読しています。 他の方のコメントを、ぜひ読んでみたいです。 (Sept Papillons)

2017-09-30

フィオリーナさんへ 好意的に受け止めて下さって、ありがとうございました。ご返信を拝読しながら、いろいろ思い出したり、考えさせられたりしています。 〈「滅び行くという美」〉〈歴史的美〉について。思い出したのは、たしかベトナムのアーティストだと記憶しているのですが(名前を失念しました)描いた作品を、野ざらしにするのですね。そして、紫外線に焼かれ、雨に打たれて、朽ちていく、その経過そのものを、美として提示する。写真を撮って、その瞬間を固定することはせず、ただ、自然にまかせていく。獣が破いたりする、その偶発的な行為も含めて。 非永続的な美を、一瞬の美として固定し(殺してしまい)それをレプリカのように博物館や美術館に展示すること。そのアーティストは、そうした「変化する美」を「不変の美」として固定し、殺してしまうことを畏れ、避けたのだと思うのです。それは、最も美しい瞬間の愛する人を、その瞬間を永遠に保存するために、殺して剥製にして保管することと、どう違うのか。それこそ、比喩による極論ですが、そんな問いも喚起されますね。そして、フィオリーナさんは、そうした保存の仕方に、違和感を覚えておられるのでしょう。 美を感じる瞬間、その一瞬性と、非永続性・・・変化し続けるということへの想いがあるのでしょう。あえて、写真で「固定」しないことも含めて。その変化を見守り続ける心の中に、フィオリーナさんのおっしゃる、滅びゆく美へのヒントがある、と思うのです。 あるいは、茶器の美。芸術作品として作られたわけではない、庶民の飯椀として作られたものに、ある日、ある時、一人の粋人が「美」や「おもしろみ」を見出す。その器を用いて行われた茶会、その時と場が、その器の「記憶」として加えられていく。記憶は、物語ること、でもある。器の来歴は、歴史であり、ストーリア、物語、でもある。「器」の言葉は・・・たとえば、貫入にしみこんだ茶渋の色や、金継ぎの痕、時には、火災の煤痕・・・など、外見が無言で語るものは別として・・・受け継いできた人々の記憶、その人達の集合的な物語でもある。その集合的な物語が、ある日、ある時、一人の詩人の心を動かし、器そのものの記憶、として物語られ始める・・・それは、器の魂の言葉を、詩人が代弁した、と言えるのではないでしょうか。 歴史遺産が内包する、その歴史遺産に様々な形で携わってきた人々の集合的物語、記憶の集積を、物語ること。それこそが、〈歴史的美をふまえた新たな歴史遺産の創造に積極的に取り組むべきだと思う。〉というフィオリーナさんの結論につながる言葉、なのではないでしょうか。そして、フィオリーナさんが、作品創作を通じて試みようとしておられること、それこそ、物語る、という行為を通じて生み出される、新たな歴史遺産、なのではありませんか?・・・そんなことを、お伝えしたい、と思いました。 ( <歴史遺産>)

2017-09-30

アラメルモさんへ 大変重要な補足をありがとうございます。〈論文的記述が詩にならないという考え方は誤りだと思う。〉まさしく、おっしゃる通りだと思います。この点に関する言及が不足していました。 まず、成立した作品としての詩(poem)と詩情(poesy)とを、ゆるく分けておきたい、と思います。そして、アラメルモさんがおっしゃる「詩」は、この場合、詩情を強く感じさせる作品、という、大きな枠でとらえておられるように感じました。 実は、私もまだ、明確に定義できていないのですが、ビーレビューで言う「クリエイティブライティング」と、旧来の(口語自由詩100年の歴史の中で、漠然と形を成してきた)詩とは、重なるけれども、一致はしていない、と思っています。大きなクリエイティブライティングの円の一部にかかるように、「詩」(時に現代詩、とくくられる)小円がある。そして、クリエイティブライティングの大きな円の境界線は、まだ曖昧ではっきりとは見えない。いずれ、その領域が、ビーレビューという場の中から生まれていくのではないか。だとしたら、その領域が成立していく様子を見たい。そんな予感や期待を持って、このサイトに参加しています。 前置きが長くなりましたが、たとえば、リルケのロダン論は「詩」なのか。谷崎の陰影礼賛は「詩」なのか・・・形式だけを問うとしたら、まったくナンセンスな問いですが、私たちがこうした文章から刺激を受けたり、感動を覚えたりするとするなら、そこには詩情があるに違いない。それは広い意味での詩、であるだろう、ここで呼ぶなら、クリエイティブライティングであるだろう、と思っています。 そして、私たちが受ける感動の由来は、もちろん内容(思想、想像力、物語られる記憶、心象映像etc.)にもよると思いますが、同時に、文体であるとか、言葉の強度、音韻が生み出す情感、詩形(詩面)といった、視覚的、聴覚的要素にも多くを負っているだろう、と思っています。 アラメルモさんの〈あなたの色、あなただけの言語色をもう少し意識してみたら如何だろう。〉というコメントに、強く共感致しました。同時に、それは形式面での話にも通じるのではないか(文体や言葉の強度といった)部分に寄ったアドバイスでもあるように感じました。 そうした、文体そのものが醸し出す詩情が、抑制され過ぎているのではないか、ということが、フィオリーナさんの今回の作品に感じた、もどかしさの要因であろう、と思うと同時に・・・仄めかされている、フィオリーナさんの「詩情」の由来が、より強く表明されていれば・・・と、僭越な言葉を使うなら、不満を感じたのでした。 それは、詩情を装った、装飾過多な形容詞や修飾語を用いるとか、気取った言い回しや、気障なレトリックを用いる、というようなことではないはず、なのだけれども・・・。 ここから先は、フィオリーナさんへのコメントに引き継ぎます。 ( <歴史遺産>)

2017-09-30

小論文の模範解答の一例、のような印象を受けてしまうのですが・・・それは、意図的に、選択されたものなのかどうか・・・ 宇宙船地球号が、人類、のために作られたもの・・・そんな産業革命以来の人間の振る舞いが、少しずつ、共生の方向へ変化しつつあると思っています。 その、共生に至るためには、人間が欲望を抑える必要がある。理性による抑制が効果的だとは思いますが・・・そして、それは教育や学習によって可能なのかもしれませんが・・・他者への驚嘆やリスペクト、美への感動、未知への畏怖、そんな、非理性的な感情の方が、より強く、共生へと人を促すのではないか・・・ とはいえ、感情は片寄りがちですから、理性による制御も欠かせないわけですが。 開発、にあたり・・・ただただ、手を加えず、人が入り込まないようにして、保存する、という発想を取るのか? 保存されるべき対象の持つ、美や感動を与える資質が周知され、自ずから人間が欲望を制御して、自然保護や環境保護に踏み出す筋道をつけるのか・・・ と言った、もろもろの問題を孕んでいるとは思いますが・・・ あまりにも正論を淡々と抑制的に論理的に記しているので、語り手の感動の所在や、こうした発想に至る必然が見えない。 歴史的美や、美の思想の欠落、それこそが、話者が問題として投げ掛けたいものではないのか?そこを突いていく、抉っていくような鋭さがほしい、そう思いました。 ( <歴史遺産>)

2017-09-29

追伸。完備さんの評の、最後をきれいにまとめようとしている、そこに意識が行きすぎている、ということだと思います。この点に関しては、確かに、おっしゃる通りだと思います。 それまでは、どちらかというとひょうきんな言い回しで、腰抜け、馬鹿者、と自身を揶揄する、言わばピエロ的な形で描いているけれど・・・涙鳥まで行くと、いささか常套句過ぎるのではないか、という印象を受けます。 その涙を流したあとは、鳥は大きく育つ、と力強く締めている。その後に、虫の歌声が急に出てくるのが唐突な感じがあるのと、調べ、という雅語に持っていくところが、少し無理矢理な感じに見えてしまう、ということなのかな、と思いました。 (鳥×鳥)

2017-09-29

短歌調、の詩文と読むのか、短歌の連作と読むのか・・・駄目でしょう、まで言うのは、駄目でしょう(笑) だって、どこがどう「駄目』なのか知りたくなりますもの。 この作品で面白いなと思ったのは、様々な鳥に託した変奏になっている、というところと、諧謔。 俳諧ではしばしば重視されるけれど、伝統短歌ではむしろ避けられてきたおもしろみ、そこに、自分自身の姿を重ねているところでしょうか。 飛んで火に入る夏の虫・・・ならぬ、焼き鳥、それもこんがり炭火焼き(笑) 花の蜜あたりから、少し集中が途切れている印象もありました。リズムがまったく同じで、破格というのか、崩しがないので、長さが上手く機能していないのではないか?と思います。 (鳥×鳥)

2017-09-29

龍に乗って空を舞う。その「あいつ」への複雑な感情が、〈強張った表情の自分〉に集約されているように思いました。 リズミカルな繰り返しと、寓話的な設定。投稿欄などで競い合っていた「ライバル」が、俗にいう詩壇デビュー、を果たした時に・・・それを素直に喜べない自分が悔しい、と涙をこぼす人と、一時間くらい、無言で喫茶店に坐っていたことがあります。その時の気持を、思い出しました。 (龍の鱗粉を浴びる)

2017-09-29

誰もが一冊の分厚いノートを心の中にもっていて、そこに日々の想いを書きつけていく、わけですが・・・ その中のエピソードや一文を拾い出して、(他者から見て)自分に都合のいいように物語を綴り直す。 あるいは、自分の望んでいるように(過去の事象を)改変して捉え直す(自分自身が、それを受容する為に、受容し得るものとするために)そんな、目に見えない心の働きがある、ように思うのですが・・・ 黒髪さんの作品は、その折々にノートに記した一行を、そのまま(いじらずに)並べていく、そんな印象を受けます。実際にそのように書いておられるのかどうかは、わかりませんが。 共感したり沁みてきたりする一行がそこかしこにある、のですが・・・全体として、どうしても散漫な印象を受けてしまう。もしかしたら、あえて散漫なまま、断片の集積という印象のまま、提出しているのかもしれない。だとすれば・・・この詩を読んだ人の中に、この一行、この部分を読めてよかった、嬉しかった、ありがたかった、考えさせられた・・・そんな反応を掻き立てる、引き起こす。そのように「読まれる」ことを、詩が自ら望む、そんな在り方をしている詩なのかな、と思いました。 (変わる)

2017-09-29

まっすぐな思い・・・。そこに鮮烈に挿入される、赤と緑のイメージ。 このイメージを大切に守っていてください。 いつか、思いがけない形で、まったく別の(魂が叫ぶような)詩へと生まれ変わるかもしれません。 題名、涙に溺れる、は、そのまま内容を事前に示してしまっているので・・・〈ありったけの雨で〉溺れた、ここを題名にしてはいかがでしょうか。 雨に溺れて え?どういうこと?という導入につながるような気がしました。 (涙に溺れて)

2017-09-29

ツイッターで「三角定規詩」なんていう試みを見かけますが・・・ きっちり行末に一行を修めず、ただ形に嵌め込んでいるものもありますね。 やはり、この「かたち」に押し込める、そのインパクトですよね。 そのために費やした時間や工夫、その技術的な重積と、そのパズルのような試みに駆り立てさせた、表現したい、でもうまくまとまらない、でも伝えたい・・・という思いの強さであったり、「創作」への純粋な好奇心や楽しさであったり・・・それを共有する(気がする)面白さが生み出す感動や感心。 ひとつの「型」を設定することによって、必然的に生まれる制約が生み出す「思いがけない発想」を得られたり、「抑制した印象」「安定感」といったものを与えたりすることができると思います。 内容によっては、型にはめる「つまらなさ」「広がりのなさ」が全面に出てしまうこともある・・・ 「型」にはめるのであれば、その「型」の制約をジャンピングボードとして、自分でも思って見ないような予想外の言葉、が飛び出してくる・・・そこまで突き詰めていっても面白いかもしれない。そんなことを思いました。 (一生愛したい)

2017-09-29

まる、さんかく、しかく、ばつ・・・いったいこの作品は、どのように「朗読」されるものなのだろう、と興味津々です。記号が「表意文字」になったり「表音文字」になったりする、変幻自在ぶりが楽しいですね。 言葉は、意味を伝えるもの、なのか。記号、なのか、道具、なのか・・・もしかして、遊び道具なんじゃないか。 音を記号で表そう、この発明が、いったい、いつ頃、なぜ、どうして、生まれたのか・・・音が言葉となった、その時も含めて・・・答えの出ない問い。 「共通言語」でしか語れない、非共通の感覚。それを〈自らに問えよ〉と告げる、おまえたちにも問うよ、と告げる。 それが詩、なのさ。詩って、知ってる?(失礼、しました。) (マル:サンカク:シカク;バツ)

2017-09-29

三浦さんの〈現代詩のトレンドを知る前に、ホンモノの詩情を感じとる感性がなければならない〉に抗弁しますが(笑) この流れるような筆致の作品、思い出したように入る「かたりかけ」や「つぶやき」の絶妙なバランスと共に、書き慣れた手つきと自由な崩しが上手く響きあっていると思いました。 新鮮な息吹を感じる作品でした。〈なることも出来なければ吹くこともなく/そういえば散ったのでした〉こうした飛躍、植物や水といった自然のエレメントに還元されていく思考。 〈含まれた頬の膨らみ〉fの音の響きあい、そして、冒頭の〈奏法〉とも相まって、オーボエやクラリネットを思い出させる具体的な実感。〈道の上に舗装された道があって/その上には舗装された空気があって/たとえば/そこを幽霊が歩くのです〉観念的、イメージとしての道(人生とか、将来の道、というような)の上に舗装という抑圧。その上の空気ですら舗装されている、という、言葉のロジックが生み出す斬新なイメージと、空気ですら型にはめられていくような感覚。肉体という実感を伴わないまま、ふらふらとそこを歩き続ける幽霊は、わたしたちの分身でもあるのでしょうか。〈その歩調を音階で表してください/かごめかごめのなるような/後ろの正面の語彙は欠損して/それでもあるき続けるような〉語彙の欠損! 表現の不能、空白のイメージと、詩、うた、音楽・・・のイメージ、音階の持つ階段のイメージ。いくつものイメージが軽やかに重なりますね。 この連が、音楽でいうところのクライマックスで・・・〈秋と名づけられた季節が/風に吹き飛ばされて/花が降りますもうすぐ〉ここでまた、冒頭の〈そういえば散ったのでした〉が呼び戻される。 膝まで花に埋もれる・・・まるで死後の花野を行くようなイメージが、最後のコーダへと引き継がれる。 〈無重力から程遠い くるぶしからひじにかけての 道筋を旅人が歩いていきます〉 ひとりの肉体の中を歩む旅人のイメージもあり・・・全体に響く音が呼び出す音楽の女神、ムーサの〈くるぶしからひじ」へと歩みを進める・・・と読むと、たおやかな官能性をもたらすものでもあり・・・そこに 〈それを見送るしかない季節に 振動をください あたらしい指使いを 吹いて 新しい名を 息継ぎして〉 見事なエンディングです。新たな振動、刺激、そして新しい名(それは、新しい命、ということでもあるでしょう)彰から冬へ、そしてまためぐる春へ。命のさやぎが、奏でられていきます。 (そのつぎ)

2017-09-29

一連目のインパクトがズシンときました。アカツメクサの語感が生む、赤い爪・・・血塗られた爪、傷を掻きむしる指先、のイメージでしょうか。〈あしもとのアカツメクサの つぶらな露が 〉あ、と、つ、の音の連鎖。改めて音を聞くと、つ、という音の持つ引っ掛かり・・・鋭さが印象に残ります。 四行三連という形の整え方が、整理されたものというよりは、自然に生み出されたもののように馴染んでいるのは、行脚を揃えず、自然な呼吸で切って改行しているからかもしれない、と思いました。 へくそかずら・・・たしかに、独特の(カメムシみたいな)臭いがしますが・・・あんな可愛い花に、なんであんな名前が(笑) そういえば、シクラメンを「豚の饅頭」とも呼ぶそうですが、牧野博士が、あまりにそれは気の毒だから、と篝火草、という名前をあてていた・・・気がします(記憶違いかもしれません)。 〈海軍兵学校の島じゃったけど /こんどはオリーブの島になるそうな 〉オリーブは、ノアの箱舟が漂流した後、最初に届けられた希望のしるし。平和と平安の予感、災厄が終わる約束。兵学校からオリーブの島へ・・・今の時代だからこそ、静かに味わいたい一行。 こうだたけみさんも上げておられますが、〈毒と言う名 どくというな 〉ここが面白い。毒と言うな!という禁止にも読めますね。薬にもなるからこその、毒。葉はハート、花は十字型のドクダミ。 〈植物のようにやさしくなりたいけれど 結局 人は人でしか 癒されないから〉そう、ほんとうに、そのとおりです。 (三大へんな植物名の花(三篇からなるオムニバス))

2017-09-29

環状道路、環状線・・・ならばもちろん、始まりも終わりもない、わけですが・・・ 感情線と音が重なっていきますね。5or6さんがあげておられますが、 〈はじまりだと、思う は思っていないのかもしれない、夜 地面を掘りながら 汚い熱に絡め取られていくぼく〉韻を踏むような歌い出し。思わず体から出てきたようなフレーズだと思いました。 〈たぶんだが参考までに/参考までに/冷え切った空白〉とか 〈まだ世界を知らないのに、/空気を知らないのに、/窓と窓は知らずに〉このあたりは、少しずつのりしろを重ねながら貼り合わせていく、そんな「つなぎめ」をつないでいくような感覚もありました。 窓と窓がすれ違う、このイメージは、車と車がすれ違うところに由来するのでしょうか。目は心の窓、なんて言い方をすることがありますが、人と人とのすれ違いをも暗示させます。 最後は〈ぼくの背後にはまたぼくがいるから〉と連続して押し寄せる自分自身のイメージに追い込まれていく。始まりがない、終わりもない、環状の感情の堂々巡り・・・。 死(実際の死というよりは、観念的な、終わりをもたらすものとしての死)だけが、この無限ループを抜け出させてくれるもの・・・なのかもしれないけれど。その時には〈世界にもう環状はない〉世界にはもう、感情はない、のかもしれないけれど。せっかくですから、死/詩の無限ループの中に、身を投じてみませんか。 (環状道路)

2017-09-29

批評ではなく感想で申し訳ないのですが、思い出したのは、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』の刊行記念イベントに訪れた時のことでした。出版社がエッセイ集、と帯文を付けようとしたのに対して、伊藤さんが、これは絶対に「詩」なのだ、と。そして、朗読するのを聞いた時、たしかにこれは詩なのだ、と実感したのでした。なぜ、ということが、未だにうまく説明できないのですが、内的な律動に添った、うねりのようなものが、詩文に現れていた、それが声にのって、こちらにまで届いた、そういうことだったのだろうと思います。 そのとき、伊藤さんが熟読していたのが「お経」でした。法華経、般若心経、その他・・・。 イヌって、一度死んだら、生き返りませんよね、と聴衆を笑わせつつ・・・木や草は違う。死んだ、と思っても、また生き返る、その不思議に惹かれている、そんなところから、命の巡りについての話に展開していったことを、鮮やかに覚えています。 なぜ、蝶ではなく、バタフライでもなく、パピヨンなのか・・・語感の持つ質感に加えて、その言葉が背後に負うイメージ、歴史性といったものからも選択されているようにも思います。続いて響く、ギリシア語の語感。その背後(借景)のようなものが捉え難い、そんなもどかしさと、明るい霧の中に迷い込むような心地よさを感じます。魂と結びつけるのはあまりにも短絡かもしれませんが、クリシェであるということを越えて、ひらひらと「中有」をさまようもののイメージ、音感、そして冒頭の立ち上がりが(いささか強引に立ち上げる)魂の遍歴、いのちのオデュッセイア、のような予感。 一連目、〈冬の睡り〉、永遠の眠り、あるいは平安を欲する魂と、〈水蛇の首〉〈水菜のそよぎ〉〈湿った襞に舌をはわせ〉・・・と言葉が連なって生みだしていく官能の予感が、〈書かれはしまい、幾度も幾度も書かれては消されていった曖昧な光景〉と否定される。あるいは記憶を辺巡る旅であるのかもしれない。言葉によって呼び出される、自身の、そして他者を経由して、体内に蓄積されていく記憶、そこから立ち上がる、曖昧な光景を、ひらひらと訪ねていく。次々に映像を結びかけては消えていく(消されていく)言葉(が立ち上げる、幻影としての存在)の間をさまよう、声。 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に現れる、ウユララの声、を、いつも心の隅に思っています。いま、二連目以降を読み進める(ともにさまよう)時間がないので、また後で読みに来ますが、そんな声そのものが像を結びかけては消えていく(消していく)詩的空間の広がりを感じています。 (Sept Papillons)

2017-09-28

survofさんへ 〈脱線していく有様、さらにいえば脱線することによって全体の意味が不明瞭になっていく有様そのものにこの作品が表現したかったかもしれない「感覚」が宿っている〉そこなのですよね。意味を解体していく、それを外から眺める、これは、観念的な思考が先に立った・・・いわば、文芸の可能性を極限まで広げる、というような、理念が先に立った手法、であるわけですが・・・それをやってみたい、あるいは、日々、感じている、という「感覚」を、表現しようとした場合にも、同様の手法を取ることになるだろう。理念が先行した手法と、結果的に同様の手法を取るに至った場合、の差異、について。 言葉を言葉で説明すること、これは、既知の言葉を組み合わせて行けばなんとかなる、わけですが、未知のものを語ろうとするとき、既知の言葉でしか語り得ない、という矛盾。自明の言葉で、自明のことを語る、その反復が繰り返される日常を描き出している、とも見える前半部、それに対して、実際に水槽の中で、魚が泳いでいるような視覚効果を持たせた、夢の叙述の部分・・・既知のものを既知の言葉で語る、それが標準化している世界を描いた前半部と、未知のもの(いわく言い難い感情)を、語ろうと苦悩する後半部、どちらに詩へ至る道があるのか、という、問いかけでもあるような気がしてきました。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-24

森田拓也さん あえて型にはめる、というのは、パズルを楽しんでいるような感覚でもあります。その楽しさも伝われば面白いな、と思っています。よく、この語尾で収めたな、自分だったら、ここはこの言葉を入れるな、というような読み方をしてもらってもいいかな、などなど。 (奏楽)

2017-09-24

浴槽で、様々なことを「考察」している、わけですが・・・ 〈その生命のわたあめを 地軸の回転が産み出していて 廻りながら眠る私〉 このユニークな三行が、この実験から発見された、発案された、そんなイメージで読みました。 前半部分、語り口に流れがあり、呼吸を伴った文体となっているように思います。 旧式の湯沸かし特有の温度差をかき混ぜる、という体験と、地球上の熱運動、という知識とのアナロジー(急にあまりにも大きな世界へ想念が飛ぶので、知識の上だけでの整合という印象にもなってしまいます)、そこから最後の三行への飛躍・・・飛躍部分を、もっと膨らませることができたら、より面白くなった、ように思いました。 (お風呂をかき回しているうちに、入道雲が沸き起こる幻影の中に自身が取り込まれて、自分自身がわたあめのようにかき回されている体感を得る、というような・・・) (小さな実験)

2017-09-24

〈ご婦人のふくらはぎ〉に見入る視線と、〈焦がしにんにく〉が醸し出す欲情・・・西日が、ふくらはぎにあたる。それを、西日が食んでいる、と感じる語り手の視線。強い性の欲望というよりは、犬が遊びで噛むような、戯れに似たかるい欲情の生起を一連に感じました。 〈群がる蟻んこの隊列 ピューラックスに希釈されるせいかつ 隠したままの表札〉 この脚韻的な軽さが面白いですね。消毒液で消毒されていく生活、それは、ふと浮かんだ欲情や、個人の名前、個性、そうした諸々を希釈していくような生活、ということでもあるのでしょうか。 その、希釈され、消毒された日常、を、突き破りたい(破壊したい、ということではなく)そんな意志を込めたようなげんこつ、その強さを感じました。 (餌やり)

2017-09-24

硬質なメタファーが、ほぼ一行ごとに連続していて・・・これはいったい、何を伝えたいのだろう、難しい、と思いながら三浦さんの評と、ウエキさんのレスを見て、はあ、そういうことか、と了解しました・・・理解した、とは、言えないですが。 (青年空間・瞬間少年・愛撫)

2017-09-24

結婚が半年で破綻した、語り手、という設定、でしょうか・・・姪っ子の結婚が上手くいかなかった、というシチュエーションを想像しかけたのですが、途中で〈誘拐沙汰になる前にマミーに電話した〉と出て来るので、小学校高学年くらいの、しっかりとした少女を想起しました。精神科医と会う、という「日常」と、結婚生活が破たんした、という「日常」とが、いささか未整理なまま詰め込まれている印象もあります。 覚えていない詩とドローイング どいつかが勝手に売った プライベートな日記と変わらない それを買った人間が自分の価値を正すために値踏みした 馬鹿げた話だ こうした批評的な目線と、〈今度は芸術家をやればいいだけ〉という、ある種、捨て鉢な言い方で詩を書く自分を肯定するような視線との絡み合いが面白かったです。 (ヘドロ)

2017-09-24

一度抱いたことのある女は、群衆の中ですれ違ったとしても判る・・・と洲之内徹が書いていたことを思い出しました。 ギリギリの緊張感の中で「そばにいる」状態と、一度肌を合わせた後の、両者を隔てている透明な幕、あるいは薄いガラスの壁、のようなものが失われた、共有空間のようなものが生まれている状態と・・・。 すれ違った際にも、そんなある種の親密さというものが、ふたりの間にはきっと、漂うようになるのだろう、と思います。 その感覚、質感のようなものは、あるいは親子の間に通う感じ・・・肌がふれあうほどにそばにいても、いわゆる「ドキドキ」や「ときめき」はなくて、馴染む感じ、懐かしい感じ、に近いかもしれない。そんな空気感の中で、ふっと感じる淋しさ、うとましさ、のようなもの。 家族的な親密さで、「心配してるんだからね」と入り込んでくる、傍若無人さ。迷える羊である自分を導く存在(希望)は失われている、そんなぽっかりと空間の開いてしまった、日曜日。 特に好きでもない、のに、引かれるように(自身の洋服を引きずりながら)その女のところに行ってしまう語り手、「たすけてあげる」と平然と言う事のできる、女の生命力、ある種の図太さ。 学校での陰湿な虐めを発端とする、心理的な病を得ている、それゆえに生命感や生存エネルギーが希薄になっている語り手と、健康そのもの、のような女性(村山槐多が描く、逞しい女性像、のような)が、対比的にではなく、並列するように描かれている、そんなイメージがありました。 図書館で記している日記、というシチュエーションの暗示、なのか・・・〈於:/田切町立図書館〉の効果が、いまひとつ、腑に落ちませんでした。最後に記すなり、最初に記すなりした方が、シチュエーション設定(であるならば)としてはよかったのではないか、と思います。 ボルカさんも記しておられますが、最後の一行、むりに伏字にしたことが、うまく機能していないように思います。女の生命力、日常力のようなものがくっきりと出ている〈マーガリンとジャムを塗った/しょくぱんなんかを/たべたりしてるんだ〉この行で詩を締めてもよかったかもしれません。 (日記)

2017-09-24

こんな良い作品に、なぜ、コメントがついていない! まず、いいこ、という題名。あなたは「いいこ」ね、と誘導されていく。あるいは、「いいこ」でいれば愛してもらえる。周囲に馴染める。そんな「いいこ」になろう、「いいこ」でいよう、という意志と、その意志に抗う感情の葛藤を予感させる題名でした。 裏切らない冒頭一行目。驚きがあります。 飲み込んでいく数字とは、なにか。点数?偏差値?ポイント?感情を数値に換算していくような不気味さ。 〈たくさんの花が根を生やして たくさんの毒をあずけていて けれど数字は浮き上った〉その数字が、体内に流れ込んできたあとに芽吹く不気味さ・・・。その不気味さを実感している語り手。〈亡くしたものだけが美しく見えたりも/した〉無くしたもの、ではない。もっと強い言葉。永遠に不在とさせられたもの、愛する者を失う、その喪失感に匹敵する「亡くした」。 僕、と、君、との関係性が曖昧ですが・・・僕、がもう一人の僕(君)に「数字」を飲ませる、口から泡を吹くように吐き戻されているのにも関わらず、それでもなお、毒となって花開く数字、を、飲ませ続ける・・・僕。 僕、と男性のイメージで語られているけれども、御受験期の(父性的な権力を持った)母と、その息子、娘、との関係性。 企業であれば、ノルマ、という数字に人間性を蝕まれていく同僚や部下と、それを強いる自分、である僕。 最後の〈数字に触れる手が/樹々の透明になるといい〉ここに、浄化への切ない願いが、美しく歌われていると思いました。 (いいこ)

2017-09-24

〈私が言いつのったのはそのときが最初だった。それからしばらくして、風景が不意にやさしくなった。〉この部分に、詩がある、と感じました。それまでの散文部分は、この一行に到るための助走であろう、という気がします。 助走部分を、もう少し内的リズムに乗せて(もちろん、~た、~た、という、脚韻的なリズムや、否定の繰り返し、畳みかけによる心理的効果はありますが)物語るようにすると、もっと凝縮された作品になったような気がします。 たとえば、〈当時私は記憶力に障害があった。〉というような部分、飯島耕一の『ゴヤのファースト・ネームは』(心理的危機にあったときに綴られた詩です)  外国に半年いたあいだ  詩を書きたいと  一度も思わなかった  わたしはわたしを忘れて  歩きまわっていた  なぜ詩を書かないのかとたずねられて  わたしはいつも答えることができなかった。 わたしはわたしを忘れて・・・音韻的な美しさや、意味の濃度、など・・・が、あるいは参考になるのではないか、と思いました。 〈初めての海外旅行で、パスポート、ヴィザの取得をはじめとする様々な手続きを、〉というような部分も、徹底的に叙述的に語る、のではなく・・・初めて、の事柄であれば、それはクッキリと記憶に刻印されるはずなのに、それがぼんやりとすり抜けて行ってしまう。他者が行っている行為のように、行為を行う自分を見ている私、がいる。 そんな状態を、簡潔に記すことができれば・・・その時の心理的インパクトが、散文的叙述の中からも伝わって来るでしょうし、そうなると、冒頭の散文部分が、単なる叙述的な説明ではなく、冒頭から「詩」である、ということになっていく、のではなかろうか・・・と思いました。あくまでも、私の個人的な詩観であって、ひとつの提案に過ぎませんが・・・。 (【赤いコート】)

2017-09-24

言葉を「自分にとって」正しく、明確に定義する、ということと、その定義を一般的に流通している意味(平均化された意味、時間的、歴史的に淘汰されてきた意味)に近づけていくこと・・・その差異について、考えています。 いわゆる標準化された意味、に、できるだけ近づけていくことによって、言葉の汎用性を高めていく・・・ことは、言葉を「意味」を伝える手段、として用いることである、と考えます。 詩とは・・・あくまでも、わたしの考える、詩とは、ですが・・・自分にとっての真実、自分にとっての明確さ、を、ありとあらゆる手段を講じ、ありとあらゆる工夫を尽くして、「他者」に伝わるものとして提示する、ものではないのか。他者にカッコをつけたのは、具体的な読者(あの人に読んでもらいたい)ということもあれば、未来の自分や過去の自分に伝えたい、という場合もあろうし、不特定多数の、いつの日にか出会う(はずの)読者を想定している可能性もあるし・・・もっと極端な例としては、神、あるいは詩神、と呼び為されてきたような、そんな抽象的な存在を想定している場合もあるだろうから、ですが・・・ 自分の個別体験をできるだけ標準化した言葉によって定義しようとする中盤部分を、どうとらえるのか・・・。ここで、私は立ちどまっています。水槽に閉じ込められ、鑑賞/干渉/感傷されるために購入される日を待つ(その運命を永遠に知ることのないまま)熱帯魚たち。その「目的」(勝手に人間が措定した目的)を果たさないまま、死んで排水口に流されていく魚たち。その色とりどりの色彩、その魚たちを消去/廃棄する時に、心の中に生じた、得体のしれない、言葉にし得ない、なにか。 それが、冒頭の「生活」を巡る連呼であり、〈感世界の中の襞〉から続く一連・・・めまぐるしく脳裡を過ぎていく、外部からの情報および、内発的な思考、解釈不能ながら、自分の「気にかかった」「意識にひっかかった」手がかり、のような言葉やフレーズを、解釈をせぬまま並列してみた、という一連・・・なのであろう、と思いました。 その後の、まみず、さみず、〈GNP拡大のために寄与する部分を俗に言う語〉を巡る「解説」部分は、冒頭の「詩」が思い浮かんだ背景を自ら探り、定義する部分、なのでしょうけれども・・・その先、一般的に了解されているはずの単語を、一般的に了解されている意味で使用していることを、わざわざ反復的に解説する、この・・・一見すると脱線部分が、作品を膨らませている、豊かにしている、と考えるのか、どうか(私には、その脱線によって、淡水、熱帯魚を巡る思考という本来のテーマが、真綿でくるまれるように曖昧にぼかされていく印象があり、その真綿の質感の方に意識が削がれてしまう、そんな不満を感じたのでした) わざわざマルカッコに入れたのは、いや、むしろこの部分こそが、主眼なのだ、と言われた場合のことを考えたのですが・・・もし、この部分が「主」であるなら、私が考えている、個別的体験から「詩」を取り出していく、生み出していく、方向性と、真逆のベクトルを取っているように思われてならない。つまり、個人的に感じ取った「詩」を、一般的、標準化された言葉へと解体していく行為、であろう、という・・・その軌跡を見せられている、感覚になります。 詩の解体作業、というべきか。 うまく評としてまとまりません、他の方の意見も聞きたいです。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-22

おしろいばな、と、白粉をはたいた女性、のイメージを重ねている、のでしょうか・・・。 べにかたつむり、まんだら・・・一昔前の下町浅草、着物の女性、そんなイメージが浮かぶ作品でした。 (寂光)

2017-09-21

シンデレラシンドローム、という「病名」が話題になっていた時がありましたが・・・ ひとりの人を追いかけ続けて、見果てぬ夢を見続けて・・・そんなロマンチックなイメージで読んでいたのですけれど、〈何人の幸せを祈ったとしても〉ここで立ち止まりました。なんぴと、と読むのか、あるいは、なんにん、と読むのか。ひとりの人、の幸せを願い続けた、ということではないのか・・・う~ん。言葉の軽やかさのわりあいに、イメージするのが難しい作品でした。 ぴったりの硝子の靴、のイメージと、何足も穿きつぶす靴のイメージ、その落差に切なさを思いました。 (シンデレラストーリー)

2017-09-21

〈アーク溶接の激烈な閃光〉この立ち上がりのインパクト。溶接作業の合間の、缶コーヒー。そんな情景が一行目から立ち上がります。面白いなと思ったのは、二行目・・・〈胸の膨らみ〉だけでは、女性とは限りませんが・・・女性の溶接工?という、なんだかカッコイイお姉さんを思い描きました。 燃料タンク、高速回転するドリル、〈穴から螺旋状に生まれてくる/アルミニュウム片〉汗くさいような、男の職場、のはず、なのに、なぜか艶やかなイメージを伴うのは、やはりそこに〈秋風が穏やかな匂いを運んできた。〉以降の抒情のゆえでしょうか。 (午後)

2017-09-21

詩歌、という言葉がありますが、詩だけではなく、短歌も楽しんでおられる方かな、と思いながら、楽しく拝読しました。〈知識のワイン〉面白いけれど、ちょっと観念的かな、とか・・・万能感、と一言で締めてしまうのではなく、その万能感って、たとえばどんな感じ?この広い海は、全部わたしのものよ、みたいな感じなのかな、とか・・・歩いている道で、すべての道端の花が、笑いかけてくれる、ような感じなのかな、とか・・・腕を振るうとモクモク入道雲が沸き起こる、そんな感覚なのかな、などなど・・・「おばあちゃんがくれたおまんじゅう」このあたりに、『ラチとらいおん』という絵本を、ふと思い出しました。守り神のように、そばにいてくれる、相棒。そんな、おまんじゅう。 (18)

2017-09-21

ひたひたと押し寄せて来る気配・・・部屋が水で満たされる、のはともかく、〈水が部屋で満たされる〉言葉が先に生まれたのか、感覚が先に生まれたのか・・・ここで肌が感じている質感は、部屋が感じる質感でもあり・・・部屋は個体の境界、cell(細胞壁)の感じる境界を暗示するものでもある、のでしょう。胎内回帰願望、そこで人ならぬもの、にまで還元され、そこからまた新しく生まれ出る肉体を幻視(幻覚)しているのでしょうか。言葉の陶酔的な連なりが印象に残る作品でした。 (夜に狭い部屋の中で)

2017-09-21

カタカナのホンモノ、は、まだ得られていない理想、のようなもので、漢字の「本物」は、ホンモノ、を手にした、と「確信」した後、の実感なのかな、と思いました。 本物、もしくはホンモノ、が連呼されていて・・・それだけ、切実さが伝わってきますが、たとえば繰り返しの面白さや心地よさといった音感を目指した連呼ではなく、意味を提示する、提示し直す、提出し直す・・・ための連呼、ですよね・・・まだ得られていない「ホンモノ」は、なんだろう、どんなものだろう。 それを手にした、と思ったとたん、「俺は本物だ」と発言権を得てしまう。その姿こそ、偽りなのではないか。思い違い、勘違い、なのではないか。その、贋物のホンモノを入手した、と喜んでいる者たちにくらべて、真摯にホンモノを問い続け、そのことに疲れて倦んで、カッターを手にしてしまう語り手の真情に共感します。 共感するけれども・・・探し続けるからこそ、同じところに留まらないで、言い換えていく、読み替えていく、ずらしていく。そうすることで、「投獄」されている、と思っていたけれど、実は扉に鍵はかかっていなかった、なんてことに、気づいたりするのではないか、と思いました。言い換えていくのって、すごく新鮮ですよ。 (供述)

2017-09-20

今更ながら、ですが・・・ 花緒さん 〈グルを否定したり、グルの範囲を逸脱することから、表現が始まるのではないか〉ガツンとくる一発、ありがとう。最近、とみに思うのです。物差しを、他者に頼り過ぎてはいないか、と。 Migikata さん 〈自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています〉平田俊子さんという詩人とお話しした折・・・自分が辿りつけそうな、そのさらに先を見てみたい、とおっしゃっていたのが、印象に残っています。映像が先に浮びますか、言葉が先に浮びますか、と問い掛けたら、どちらでもない、一本の木の中から仏像を彫り出すように、彫刻のように、言葉/イメージを掘り出すのだ、と。その、先へ、という、詩論。手ごたえのあるものを、という、詩論。 三浦果実さん あなたもまた、直感/直観の人だと、常々思います。〈破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。〉よいものを前にして、黙る他ない時の方が、人には多いのではないでしょうか。でも、じーん、と痺れている。そのしびれを味わいたくて、詩を探しているのかもしれません。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-09-20

〈でも 私が読み終わり 遠く 水平線に眼を逸らすまで 新聞記事は いつまでも 数字の視線の高さで 影のように  血のように 私をみている〉 このくだりから、数字、ではなく、名前、を刻む、という行為へ至る流れ、そこに・・・数字、という無機物の背後に、血肉を持ったひとりひとりの人間の姿を切々と感じている、見られている、と感じる、鋭い感性を感じました。 二連目の「アサガオ」の部分は、若干、観念的かな、という印象も受けましたが・・・名付けることによって、そのものとなる、名付け、という行為の神秘。 三連目、〈私の眼のなかで 笑っている/一組の家族 稲を刈る農夫たち〉と、〈私の耳のなかで/熱気をあげて 海の魚を待つ人たち〉・・・踏みつけられても逞しく繁茂する西洋タンポポの繁る大地と、〈だれもいない街〉・・・目について離れない、耳からあの声が・・・というような言い方はしますが、この作品では、語り手の眼の中に、耳の中に、まるで住んでいるよう。こうした、理屈ではあり得ないけれど、言葉の論理ではあり得る断定、こうした作者の「独断」こそが面白いのですよね。面白い、と書きましたが・・・眼、耳の中に、くっきりと住まう存在である、数字、ではない、血肉を持った存在に還元された死者。〈番号を付けられた 木棺のなかの/きみたちは いつも 熱狂的だった〉と急転する部分ですね。それから、死者たちが、本来座るべきだった席・・・を思わせる、〈片づけそこなった 椅子が/山積み〉のフレーズ。 四連の、渡り鳥のイメージと、死の国へ旅立っていく死者たちのイメージ。 五連、が無くて(ここにも、大きな空白、透明、がありますね・・・)六連、語り手の眼には、くっきりと見えているのに、スマホで撮ると、写らない。他の人たちの眼には見えない少女、語り手にだけ、見えている少女。その少女に、知り合いの名を付ける・・・つけると、付けられた者は、その者となる。語り手には、その知り合いの女性、として立ち現れて来る、のかもしれません。 〈私は 知っている在郷の詩人の名前を 紙に書いて 海鳥の足に結び付けた〉ここは、詩人の想いを、死者の元に届けてほしい、ということ、なのか・・・誰もが、いつ、死者となるか、わからない、ということ、なのか・・・他の方の評をぜひ伺いたいと思った部分でした。 全体に、分断されたイメージが連なっているように見えるのに、語り手にだけ、くっきりと見えて来る死者、あるいは、語り手によって、名付けられ、そこに「在る者」「いる者」として確認され直す死者たち・・・という首尾一貫したイメージで統合されている。分断と統合、その飛躍の具合とか、読者に手渡すときの可読性の問題、そこが難しい作品でもある、と思うのですが(特に、二連の観念論的な部分)コメンテーターが既に軒並み、良い、と評していますし・・・読むのが難しい作品であるとは思いますが、読者にしっかり、手渡されていく作品である、と思いました。 (透明な統計表)

2017-09-20

『はくちょう』という絵本があって・・・なぜか、それを思い出しました。 内田麟太郎が文を、いせひでこが絵を担当。 傷ついた白鳥を、池が守って、傷を癒しているうちに・・・池は白鳥に恋してしまうんですね。 仲間を追って飛び去っていく白鳥を、思わず池は追いかけようとする。 最後は、実はハッピーエンド、なのですが・・・その手前の、切なさマックス、という部分の映像と、本作の中で描かれる鳥(のいなくなった後の空白)が、重なりました。 (リトル・ムーヴメント)

2017-09-20

エルクさんへ 失礼しました!「ぐぐって」みたら(最近、若い人に、この言い方を教わりました・・・)出てきました。生物学的な言葉だけではなく、刺繡糸の名前などにも用いられているんですね。しかし、そうすると、尾長とハミングの組み合わせから浮かぶ鳥のイメージと、花の先端部分・・・花鳥画?を描こうとしていた、わけでもない、でしょうけれど・・・おっしゃる通り、「コメントし辛かった」です(笑) 音がイメージを呼び寄せ、音が音を生んでいく。そんな、言葉の並びで進行していくのを楽しむ作品なのだろうなあ、と、あらためて。 (りぃん)

2017-09-20

秋らしいイメージが、散りばめられた作品ですね。 水に写る月、その月影に手を差し入れる。影が壊れる・・・その欠片を探す、という行為に、古来から月の姿に想い人を重ねる伝承を思いました。 〈寄る辺を探す夜光虫の仕草/それは恋〉こうした断定こそが詩なのだ、とも言えますが・・・細かいさざなみに、きらめく月の光を夜光虫に重ねた、のでしょうけれども・・・若干、唐突かな、という印象を持ちました。 前半に、切実に人を恋う、その内発があまり感じられず、むしろ、月影を壊す、その欠片を探す、という行為に焦点が当たっているから、だと思います。 なぜ、語り手は月影の欠片を、探そうとしたのか。そんな疑問が残る作品でした。 (秋の月時計)

2017-09-19

小説的な、丁寧な始まり方が、とても印象に残りました。〈私が寝たと思うと、彼女はときどき泣いた。〉このあたりまで、実に丁寧に、繊細に展開されていて、好感を持ったのですが・・・〈その日も〉から後、いささか、展開が乱暴ではないか、という印象を持ちました。事実を述べていく、というスタイルですが、前半の「小説」的な部分の「事実」の述べ方は(ここでいう事実、とは、実際にあったこと、ではなく、そのようなシチュエーション設定がなされている、という意味です)後半の伏線となる写実であって、即物的に、そのものを描くことが目的、ではないはず・・・終盤の両者の関係性に、中盤に挿入された詩や、後輩が先輩である語り手に求めているものとの、より緊密な関係性が感じられるような、陰影や抑制や、気持ちの推し量り・・・あるいは、その時の「事実」ではなく、「感覚」、喜びや悲しみ、といったことに触れていく作品であればよかった、と思いました。 (mirage)

2017-09-19

僕の、君の、彼らの・・・という単語に、人、を思いながら・・・すぐ次の行に現れる〈葉脈の血〉そして、フレッシュなフルーツの羅列・・・果物の実りをもぎ取る瞬間の、ある種、ワクワクした感じと、ドキッとする感覚。そんな微妙な感覚を思い出しつつ・・・切り裂かれた/首、そこまでデフォルメして強調しなくてはいけない、内的な切実さが、伝わって来るか、と問われると・・・果物の爽やかさや、たとえば切り裂かれた茎の奥からふつふつと湧きだす樹液のようなイメージとか、そうした「いのち」や「湧き出す」イメージ、みずみずしいイメージの方が先に立つ気がします。なんというか・・・読者にインパクトを与えよう、その意識が先に立ちすぎて、あえて生々しい映像を盛って来たけれど、実際に伝えたかったことは、もう少し違うのではないか。そんな、ずれを感じる作品でした。 読後感の爽やかさは心地よかったです。 (lemon juice lemon eye )

2017-09-19

フランツカフカ、という固有名のインパクトと、リズミカルと呼ぶべきか、かろみ、とでも評すべき軽快さ。 収容、迫害、窒息、独裁、殺害・・・アクセントのように置かれていく言葉の持つ重さと、歴史的な重層性。 くり返される〈紙の上で〉というトポスの設定と、〈遊んでる〉という行為がもたらすイメージ。 紙の上に記されていく物語世界、詩の世界、あるいは歴史そのものも含めた・・・書かれたもの、を、普段私たちは「読んで」いるわけですが。「書く主体」側に立って、ある種の生殺与奪の全権を持って、世界を立ち上げては〈御破算〉にしてしまう、遊び・・・紙の上で、文字による世界を創作する、そのことの意味。軽い筆致ながら、そんなモロモロを考えさせられる作品でした。 (フランツカフカと遊んでる)

2017-09-18

はじめて、ですか・・・と驚きつつ。 語られない言語、と、語り得ない言葉、は、似ているようで異なる。語り得ない言葉で、どうしても言いたいことを言いたいのに、伝えられない・・・という情況ではなく、むしろ、非言語、異言語、私が「わかる」言語ではない言語で、君は「別れ」を話す。そのことへの違和感が、原点にあるのだろうと思いました。着眼点が、とても面白い。 〈また明日にひらく朝顔ではないので僕たちは永遠に取り込まれなくてはならない〉この、説明調というのか、理屈っぽいような一行、流れの中ではもたもたした感じになってしまうので、流れを整えるなら、僕たちは永遠に取り込まれてしまう・・・というような感じになるのかもしれませんが・・・この、四角張った言い方、というのか、かしこまったような、ねばならない、という切実さが、アクセントとして機能しているようにも思います。 そのあと、つながる、というWordが四回出てきます。それだけ、切実な問題なのだろう、ということを感じつつ、意図的に言い重ねているのか、偶然、同じ言葉が出て来てしまったのか、そこを考えていくとよいのではないか、と思いました。リフレイン的に、他の言葉を言い換えながら、「つながる」ことへの切なる欲求と、それを阻む透明な壁の切なさを出していく、という方法もあるでしょうし・・・別の言い方で(バリエーションのように)作中の二人、にとって、つながる、ということの意味を探っていく、という方法もあるでしょうし・・・ ハンドルネームと、作品中のキーワードが一緒。これも面白かったです。 (語られない言語)

2017-09-18

三連目からの「いきおい」がついてくるあたり、面白いと思いました。てててて・・・という擬音と、手という文字が生み出す齟齬の面白さ。「びび  び  びぃ」ここも擬音、なのか・・・尾長が出てきますね。灰色と空色の、美しい鳥。鳴き声はなかなか、シャガれて存在感がありますが。もし、擬音であるなら、〈 Ω,,   び ``Ω、〉ここは、び、の音がひっくりかえったような、裏返ったようなイメージなのかな・・・表記の実験。最初、オメガ、かと思ったのですが・・・アルファからオメガまで、という言葉もあるくらいですから、Ω 一文字にも深い意味があるとおもいますが、この流れの中では、表記の工夫、に留まるのだろうなあ、と思います。 〈尾長の花糸〉かし、と読むのでしょうか。歌詞、瑕疵と引き寄せていくための、造語であるようにも思います。結婚飛行と結びつけるなら、花糸ではなく、かしん、花芯でもよかったかな、と思ったり(まあ、鳥に花芯は、無理がありますが・・・)最終連、かなり実験性が強いのですが、この連の手前で止めてもよかったかな、とも、思います。 (りぃん)

2017-09-18

作品そのもの、も興味深く拝読させていただいたのですが・・・コメント欄のレスの往還、これが実に・・・。 「奏楽」を例にあげて下さって、恐縮です。あれはもともと(コメントにも書きましたが)ある種のアンビエント音楽、とも言える(宗教音楽でもあるのですが)メシアンのピアノ曲を聴いていた時に浮んだイメージから、書き始めました。ガラスの鍵盤の前に少年が座っていて・・・白い指が音楽を奏で始めると、周囲の森(ガラスの森のように透き通った、イマージュの森、のような)が生成していく、そこに空間が現れる、というような・・・その「生成」というイメージが、ひとつの観念として私の中に戻ってきて・・・詩を産むという行為であったり、子を生む、個を生む、という行為へと転換されていった・・・のが、あれかなあ、という・・・。 〈水晶体が合わせ鏡になって〉薄闇の中で鏡を覗き込んだ時のイメージが浮かびました。自分で自分を見出した瞬間の恐れ、のような・・・。振り返った瞬間、開いていた三面鏡に写り込んだ自分の姿に、見つめられている、と感じた瞬間のおののき、のような。シューベルトの持つ質感・・・湿り気があって、内向的に心を鎮めていくような(高まっていく部分があっても)そんなイメージを重ねつつ。 〈古い時計の鐘が昔私に零を教えてくれました〉この印象的な出だしに、誰かが弾くショパン・・・これは、マズルカやスケルツォではなく、雨だれ、のようなプレリュードか、ワルツ系でしょうね・・・。ぴったり140字に収める、という目的が先に立っての、語尾の不統一、なのでしょうけれど・・・これが思考過程をそのまま取り出したような、中途感としてとらえるのか、不統一のもたらす不安感と読むのか・・・一連目の緊密な印象に比べて、二連目は特に後半が散漫になる印象があり、語尾の不統一が、この短さの中ではうまく機能していないようにも感じられました。 〈硝子のような深緑色〉三連目。ここは、三面鏡を直角に立てて覗き込んだ時の、永遠の回廊に迷い込んだような心細さと酩酊感を思い出す部分でした。深緑色に沈んでいく空間に、私、が映るのではなく、両親、が映る。それも、男と女、女と男、という極限にまで象徴化された、二人。最後の〈出鱈目な永遠という事になるらしい〉ここが、なんとなく緩いなあ、という印象を受けてしまいます。連続した一瞬、この硬質な質感を持続したまま、もっと何か、別の言葉で、言い重ねられなかったか・・・と、欲張った注文を出したくなりました。 〈ぞろ目の時計と目があったきっと/切符を買い忘れたのだ〉冷蔵庫の中にそれを探す、という無茶ぶりが、逆に面白いと思いました。きっと、きっぷ、という、音が引き出していく軽さに加えて・・・切符=移動するためのもの、というイメージ、冷蔵庫=冷たく保存する場所、という停滞のイメージ。そこから、今度はボートに揺られているイメージ(水、という冷たい場所で、揺られている)流れが、突拍子もないものを無理やりにひねり出しているように思われるのですが、深い所でつながっている、そう納得させるものがあります。〈花葬〉はしばしば用いられる、美しい造語ですが・・・人によって、かなりイメージも異なる言葉ではないか、という気もします。夢のはざかいに漂う自分を、ボートに浮べ、花で埋めて、霧の向こう側へ押しやる・・・そんな眠りへの導入のイメージでしょうか。 (不眠症のポエム)

2017-09-18

未来光年、という題名のカッコよさと、解釈の難しさに、しばし逡巡。はるかな未来に、いつか実現してほしい、というような、そんなイメージ、なのか・・・ 観念の中で、濃密な肉体関係を持っている、想像している・・・その妄想(というと語弊があるかもしれませんが)の中で、満たされぬ思い、届かない思いが引き出す涙が溢れていく。〈その水溜まりが命を潤し存在させても〉その涙の中で、自分はまた、再生する、生きている、と実感できる・・・そんな「愛」なのかな、と思いながら・・・身体感覚が弱いので、具体的な像をなかなか結ばない。 〈あなたがそこで人を選らばなかったとしても〉〈こんなにも穏やかなのはこの星を抱きしめてくれているからだと〉いうフレーズを読むと、ここでの愛の対象は、人間、ではなく、もっと大きな存在・・・たとえば、神、というような名辞で古来呼ばれてきた、なにものか・・・への愛、でもあるのかな、そんなことを考えました。 (未来光年)

2017-09-18

競馬をやったことがないので、なんとなく「実感」として捉え難いものがあるにはあるのですが・・・ 〈人気薄の追い込み馬が、木村を屋根に乗せて3着内に入線する姿〉というフレーズなどから、自分自身の人生を馬に重ね、騎手に重ね・・・その馬と騎手に「賭ける」一瞬、人生の決断を自分の裡で下したりしているのかもしれない、そんなことを思いました。 木村騎手が木村調教師、として、新たな人生のスタートを切る。〈会社員を辞めて、やることがなくなった〉〈やることがわからなくなった〉〈私〉が、〈とりあえず職業訓練を受けていた〉時・・・〈長年、腰椎ヘルニアと闘いながらの騎手生活であった〉木村騎手が、今度は調教師の試験に挑戦する、という話を聞く。常に挑戦を続ける木村の姿に、励まされたり、闘志を奮い立たせられたりする、そんな熱い想いを感じました。 前半部分(エッセイ部分)を導入として、「砂」という作品の背景、基盤を整える、厚みを与える・・・と読めばよいのか・・・ 「砂」は、前半部分が、安部公房の「砂の女」のような、不穏な・・・抜け出せない場所に追い詰められていくような感覚もあり・・・それが、エッセイ部分と重ねながら読むと、もう、後には引けない、というような、覚悟へと繋がっていく面もあるように思われて来るのが新鮮でした。 〈一瞬、馬と馬の/見分け/がつかなくなる〉その通りですね、と納得してしまう部分のすぐ後に、 〈友人は/あなたとあなたとの/見分け/がつかなかった〉この、そら恐ろしいような行が続く。アンソールが描く仮面の群れの中の自画像のような・・・他者はすべて同じ顔、をしているような・・・不気味さ。かといって、作者はむしろ、そのことを心地よい、とさえ思っているように感じる終行がまた、新鮮でした。 〈わたしは/すべての他人が/違う顔を持つことを/すこし、恐れる〉この部分ですね。 砂埃の中を抜けて、群れの中から一頭だけ、頭角を現す。一頭がゴールへと駆け抜ける。その時、ひとりの旗手と一頭の馬が耀き、脚光を浴びる。その時はじめて、その騎手の顔が映し出される・・・馬の名前と共に。馬の顔は、区別がつくものかどうか、わかり難いのですが・・・〈兵庫の貴公子〉だけが、他者と違う顔を持つ、そんな特別な存在なのだ、という、賛歌ということになりそうですね(誤読しているかもしれませんが。) みんな違って、みんないい、ではなく・・・なにか一点において、秀でた者だけが脚光を浴びることへの肯定を感じました。一対他、ひとりと、あとは見分けのつかない群、という対照。その群の中から、ひとり、を熱く見つめる、応援する、仮託する、重ねる、という行為。 (園田の屋根)

2017-09-18

0909・・・これは、なんと読むのでしょう。ぜろきゅーぜろきゅー? 作品全体を読み終えてから戻ると、れいきゅうれいきゅう・・・霊柩、にも聞こえるような気がしました。 湯煙さんも述べておられるけれども・・・4時(予示?)から、青、ではなく蒼(と感じられる空の色)、哀、愛、藍・・・の空色から、赤、茜の夕焼のイメージを経て、黒、のイメージへの変化が印象に残りました。(といっても、皆既日食のように反転された、黒い太陽、のイメージですが) 〈壊れた柱時計の針に絡みつく仮名の髪〉など鮮烈なイメージは、それだけで一枚の絵になりそうです。 他方、〈救いのない報道 救いようのない人生〉〈SNSそれともSOS /匿名の叫びに救急車は来ない〉〈ガキは餓鬼に変換される〉などの表現からは、SNS画像やテキストが無数の・・・空飛ぶ盾のような・・・壁に阻まれて、個人がなまの交流をシャットアウトされているような、そんな閉塞感に満ちた現代の世相、ムードを描き出しているようにも思いました。 〈狂ってもいない電波に喚く 狂っている制服と自転車 群れる羊 血塗れの牧場〉 このあたりは、先に制服が出てくることもあり、牧場=生徒を閉じ込めておく場所、というニュアンスが沸き起こる。おとなしく先生の言う事を聴き、規律に従う〈羊〉と、従わない者が血まみれになる、牧場・・・学校、という場所。〈ほら皆17歳で消費期限切れだ〉このあたりの焦燥感と疾走感は、まさに高校生ならでは、といった年齢層を感じさせます(作者がその年齢かどうかはわかりませんが、その当時の心境で書いている、という気がしました) 〈君の指先は虚無に溺れる〉 〈問う君を硝子越しに凝視する鴉の群れと暗い黒い太陽〉 いずれも、君、で締める終行。カッコよく、バシッと決めたい、そんな意欲を感じると共に、虚無、黒い太陽、といった言葉の強さに倚りかかると、作品が「食われてしまう」のではないか、という懸念も感じます。 勢いやリズムが、面白い作品でした。 (0909)

2017-09-18

切断されながら なお断続する 時の雫を凍結させて のような、硬質な表現と、 黒い夜のコロイド のような、流体のイメージが印象に残りました。したたる時、の感覚。若干、言い直しが多いこともあり・・・もちろん、言いえないものをいいあてようとするがゆえの苦心なのでしょうけれども・・・少しもったいないような気がしました。 (暗夜の白花)

2017-09-15

白い息、汚れた体を舐める母牛、そして、群がり出すカラス(の黒。)墨絵のような濃淡の中に、くっきりと描かれる生と死。 〈突き刺し食す〉のは、カラスでしょうか。厳しい動詞の連鎖が放つインパクト。人もまた、肉を突き刺し、食す生き物でもあるのでした。 〈見つめるために/立ち去っていく〉論理矛盾を含むがゆえに立ち止まらされ、言葉の流れの美しさのゆえに読まされる一行。死を、見届けるためには、生はその場を立ち去る、距離をとる他はないのか。 死せる者が、見つめる生の世界。〈吊り上げられ/世界を見る〉死者。その死が、〈見えないように/運ばれた〉生者から隠蔽され、隠されたまま運び去られる、死。その死を、たじろがずに〈それを見ていた〉語り手。秀作と思いました。 (同じ日に)

2017-09-15

かげひかり、と読ませるのですね・・・えいこう、と読みながら、教会のミサに出席した時のことを思い出していました。天に栄光、地には平和、という、繰り返される力強いフレーズ。 切り詰められた表現が、ひとつの型を作り上げる。その東洋的な感覚を、石庭に重ねる花緒さんの評に、なるほどと首肯させられました。 なればこそ・・・最後の一行、空即是色、色即是空・・・に通じる一行は、省略したほうが、余韻が深まったように思いました。 (影光)

2017-09-15

花はどこにいった・・・そんな歌詞を詩として読むときの感覚に近いかもしれないですね。と、今思いました。 (花)

2017-09-15

タサキさんと重なりますが・・・ 〈テレビが壊れてしまったと リモコンを手に立ち尽くす〉 離れた場所から、ふるさとを見ている語り手。想像を働かせれば、宇宙ステーションから、君、が生きていた痕跡を見守り続ける・・・そんな飛躍。 文体を切り詰め、リズムを整えていくことによって得られる心地よさ、潮騒のような懐かしさ・・・その音楽的な余韻が、歌詞のように優しく心に入ってくる。他方、君、が、いのち全般まで拡張されているような曖昧さ、悲しみを鞄に詰めて・・・とか、風にこぼれた種、といった、常套句的な甘さに寄りすぎてはいないだろうか・・・そんなことが、少し気になりました。 (花)

2017-09-15

面白いなぁ、と、何度も立ち止まりながら読みました。 〈物陰にはどこにもいない〉物陰はどこにもない、ではない。何を、誰を探しているのか。 〈冷たい物陰が来るとうせる〉物陰、が、やって来る、という不穏。ぽっかり開いた更地に、日が射したときに訪れる賑やかさ。何者かの気配の充満。雲が覆い、陰が訪れると、その賑やかな気配たち、とでも呼びたいなにかが、消えてしまう。そんな、繊細な観察眼を感じました。 夜になると、サボテンの針は獣の毛のように和らいで、サボテンたちは地面から足を抜き出し、腕をからめてダンスを踊る・・・そんな奇妙で面白い気配の記憶が、日差しを浴びた瓦に染み込んでいる。そんなイメージで楽しませていただきました。 (椅子と沈黙)

2017-09-15

白紙で出す、潔さ、覚悟。 私が高校生の頃、国語は全校で7番、数学は0点で、ビリ、ということがありました。 その時、途中式を書いたのに、何で部分点をくれないんですか?と職員室に聞きにいって・・・ものすごく気の毒そうに、一行目からね、間違えているんだよ。考え方そのものが違うんだ、と言われたことがあったのを思い出しました。もうひとり、幸いに0点が居たので、私は勝手に、自分はビリじゃない、最後から2番目だ、とにかく、書く努力はしたんだから・・・と、自分に言い聞かせつつ、理系進学を泣く泣く諦めたのですが(動物行動学、中でも猿学をやりたかった)今思えば、未練がましくゴチャゴチャ書かずに、白紙で出せば良かったなあ、なんて思いました。わからないから書かない、のではなく、書けないから、でもなく、自ら選んで、書かないことを選択する。 詩の余白には、そんな空白の白紙が広がっているのかもしれません。 (白紙)

2017-09-15

二個優さん 素敵な感想ありがとうございます (奏楽)

2017-09-15

m.tasakiさん オリヴィエ・メシアンの、なんとも不思議な、荘厳な、不安を掻き立てるのに懐かしいような、そんな音楽を聞いたときの、不思議な気持ちが発想のもとにあるので、その、うまく言えない気持ちのようなものが伝わって良かったです (奏楽)

2017-09-15

私は、すべてを読む、隅々まで読む、読めなくても言葉を拾う、辿る・・・これを信条としているのですが・・・今回の作品は・・・最初の4分の1くらい読んだところで、いったん、離れて全体をスクロールして、眺めました・・・フォルムとして見たというか。読むのを放棄した、というか。その上で、最後の方、行分け詩の頭にハッシュタグが、ついているみたいな部分に関しては、再び、文字として読みました。 情報が大量に流れてきて、既に文字としての機能を失い、壁紙のようになっている世界を重ねつつ。冒頭の言葉遊びのような、言葉が言葉を生んでいく様子を見るに、これは、実際に流れている文言をコレクションしてコラージュした、ということではなく、ご自身で全てを作った、ということですよね?違ったら失礼。 既に先行例はありますが、その場、その時の、言葉収集者の目を通じて集められた、実際の言葉を、コラージュした方が・・・ひとつの時代性というのか、その時の時代精神のようなものに触れていく文言が、ちりばめられることになったのではないか・・・というような、感想を持ちました。 (紙の本という文化は、地球上で最も奇妙なビジネスの一つである。(未完成))

2017-09-15

文章のなかで、なぜか気になった二点。ひとつは、一段落目の、「いくつか」ここは、いくつも、ではないのか。もうひとつは、これも一段落目なのですが、「たぶんできる」ではなくて、可能だ、の方が、文体からいっても良いだろう(そう書いてもらいたい)というところ。 自ら自在に動ける、自動車という手段ではなく、ルートに乗る、移動手段に肉体を乗せる。そして移動する目的から意識を解放して、その間に体が感受するものを体感する。そこに、土地の空気や場のムードを感じとる人の紀行文だと思いました。 詩の地平、ということをよく考えます。砂漠なのか荒れ地なのか。うっそうと繁った密林なのか。いずれにせよ、既にルートがある、しかし、その行方に何があるのか、人々の記憶からは失われている。そんな「道」を辿りながら、「未知」に至る行為が、既成の文法や単語を用いながら、詩を探していく行為に似ている、と、常々思っています。 もちろん、道そのものを開拓する猛者もいますが・・・独自の文法過ぎて、たいてい、ついては行けない。その、開拓された道は、特別仕様の乗り物や、手法でなければ踏破できないものであったりすれば、なおさら。 自動車であっても、誰かが運転してくれていれば、目的地へ至る、ということに意識を削がれることはないでしょうけれど、自分で運転するときの不自由は、途中経過や途中の風景を体感できないことにあるのでしょうね。 漠然とした雑感ですが、そんなことを感じた次第。 (アメリカ論)

2017-09-15

視覚敵→視覚的 しつれいしました。 (距離)

2017-09-12

同型のリズムを繰り返していく、古典的な安定感、美しさと、その展開に含まれる発見や驚きの意外性を、どう調和させるか、というような問題を感じました。これは、この作品に関するもの、であると同時に、他の作品の場合にも問題になることだと思います。 闇、なのに、夜、ではない。その断定の不思議に、作者の「詩情」というのか、発見がある。 そして、視覚敵に「闇」であっても「夜」ではない、「靴音」の〈乾いた響き〉、〈灰色〉の靴音を聞いた時に、初めてそこに「夜」が生まれる。自分にとっての「夜」が始まる・・・つまりは、ひとりの靴音が闇に響く、その空間を意識した時に、初めて「夜」の実感を得る、ということなのだと思いました。〈蹲るようなわたし〉の影には、〈しずかさ〉はない。それは、言葉にならない叫び、声にならない叫びを、その影が発しているから、に他ならない。 ・・・と、そこまでは寄り添って読み進めていくことができたのですが・・・ わたしが影のなかに 街路灯のひかりを見つけたとき その距離の間に やがて しずかさは生まれる 一番、大事な部分、だと思うのですが、この部分が、なんとも把握しにくかったです。それまでの連と形を揃えよう、リズムを揃えよう、としたからではないのか?という気もするのですが・・・ 影、を照らす街路灯、影、を見守る灯の存在に気が付いて・・・蹲る私(の影)が静かに立ち上がったのではないか(もちろん、観ている私、が、そこから立ち上がる、わけですが)そして、光に見守られている、包まれている、という実感を伴いながら(そのことに静けさと安堵を感じながら)ぶらんこの方に歩んで行って(影を静かに引き連れて行って)ひとりで(光に優しく包まれながら)ブランコをゆすっている。背後に、都市の息吹を感じ、威圧されそうな(集団vs孤の関係性ですね)気配も感じつつ、その威圧に対抗するように、耐えるように、街路灯に照らされながら、ひとり、ぶらんこを漕いでいる。 そんな情景を思い描きました。 夜が生まれる、その断定は腑に落ちたのですが、〈しずかさは生まれる〉この部分に関しては、形のリフレイン的な要素に引きずられる感もあり・・・情景の中で感じたことを、もう少し文章の形を崩して歌うことで(情景描写というのか、心情描写によって)表しえたのではないか、そんな気がしました。 宣井 さんの感じられたこと・・・「しずかさ」や「距離」という言葉の難しさ・・・と、同じところに疑問を感じた、ということでしょうか。 (距離)

2017-09-12

鬣(たてがみ)猫、という奇妙な存在。飼いならしているはずが、気まぐれに食い殺す、そんな凶暴性を発揮するのに、誰一人として対応しない。異常さに気が付くのは「新入社員」一人だけ。でも、恒常性バイアスが働くのか、この「新入社員」も、組織の一員として❝異常さ❞を〈撮影〉という虚構や〈日本を守る仕事〉という大義に回収して、異常と受け止めなくなっていく・・・ 語り手は中嶋さん、であるらしい。鬣猫が獰猛であることを十分に警戒していて、うっかり触れると〈鋭い牙とツメでバラバラにされてしまう〉ことも理解していて、眠っている鬣猫のしっぽに、そっと触れる・・・それ以上のことはしなかった慎重な〈中嶋さん〉が、なぜ、新入社員の前ではサーカスのパフォーマンスのような芸当を始めるのか。新入社員を、安心させるため? 中嶋さんの背後で、〈所長〉が食い殺されたというのに・・・おそらく現場責任者である中嶋さんは、一顧だにしない。 吉田所長を失った後の原発を重ねました。もちろん、ストレートな社会批判や原発批判、ではなく・・・ユーモアや諧謔の力によって・・・あるいは、劇画風にデフォルメすることによって、辛辣さを軽減した風刺、と読みました。 中盤の、〈新入社員〉の軽口部分、分量が多すぎないか、と思いつつ・・・削れないですね・・・とはいえ、地の文から、ここだけ浮いてしまう感覚もありました。 この会話部分だけ、矩形に追い込んでみてもいいのかな(言葉の塊として出してしまう)そんな表記法の工夫があれば、よりインパクトが効いた作品になったような気もします。 (原発内はフィクションですが真面目に災害対策工事やってます。と一応断っておいての猫詩。)

2017-09-12

ファミリーヒストリー(虚構であるのか、実話であるのかは問わないとして、ファミリーストーリーでもある)を繋いでいくものは、記憶なのか、血脈なのか。 血/地、~から、だ/からだ・・・の掛詞。 汚れた塀を洗浄する、ということ。それは、汚れた歴史を洗い流す、ということでもあるのか・・・〈ただただ汚かった〉としか表現されない〈汚れ〉ですが、たとえば落書きであるとか、洪水の痕であるとか、卵を投げつけられた痕、とか・・・そうした具体性が必要だ、という事ではないのですが・・・高圧洗浄機で洗い流さずにはいられない何か、があるはず。息子を精神的に追い詰めるような、何か、である、とか・・・耐え難いなにか・・・その辺りが、もう少し伝わるように描かれていると、後半の伏線となったかな、と思いました。 (父の、からだ)

2017-09-12

〈直立するBLDG.〉・・・なんかカッコイイ表現だけど、なんだろう?とググって(この言葉も最近覚えた)みたら、ビルディング・・・そうか、そうなのか。 ちょっとした言い換え、なのに、不思議なほどスタイリッシュになったり、ムードが変わったりすることがありますよね・・・あめ、あたま、のひらがな表記がうみだす柔らかさ。〈都市の寝息〉なんていう、そのやわらかさを体感しているように受け止める比喩。〈絶え間なくそっと/そっと絶え間なく〉こうしたリフレインは、うるさくなりがちですが・・・この場合は、右から、左から、というような、柔らかくタオルを畳んでいく動作のような質感につながっているような気がしました。 〈要約された心をほどけよう〉ここを、初読では、とどけよう、と誤読したのですが・・・ほどこう、ではなく、ほどけるだろう、でもなく、ほどけよう・・・文語的な表現とも言えますが、心も、ではなく、心を、なのですね。心を、なら、ほどこう、なのではないか、でもそれでは、推量や可能の意味が込められない・・・難しいところです。 〈万雷してる〉とか〈波紋してゆく〉などの造語的な用法(意味はもちろん伝わりますので、表現の工夫の範囲に収まるイレギュラーですね)されど、水打する、というような文語的な表現、〈くれろう〉などの表現がアクセントになっていますね。調子の良さや語呂、リズムの良さで流れて行ってしまいそうな詩文を、釘打ちするというのか、ちょっとひっかけて止める、そんな役割を果たしているような印象がありました。 所で・・・作品名は、れんせいの映る海、でしょうか?さざなみぼし?連星、をイメージしつつ、どちらかというと水際や水面、さざなみ・・・を全体から感じました。連星のイメージなら、引き合う力、引き合いながら、決して一体化しない、重なり合わない二人、のイメージも重なります。でも、作品から感じるのは「ひとり」。ひとり、と、まだ現れていない、あなた、きみ、への呼びかけ、という印象もありました。 都市の路上に現れた水たまり。そこに写り込む、ビル街の景色。そのゆらめく美しさと、すぐに壊れる幻影としてのはかなさ。そして、吐き出された(願われ続ける)祈りを暗示するような、幻影のビル街の間を飛んでいく、折り鶴のイメージ。 (漣星の映る海)

2017-09-12

〈私の体は煙草で炙られている。〉ここは、焦燥感なのか、満足感なのか、どちらなのだろう、と思ったのですが、 〈神様の宿る新米で、それらに手をつけられない危機がつづく。〉この一行から、ジリジリとした焦燥感に、居ても立ってもいられない、そんな心情を思いました。 〈瞑想を終えて迷走する日常に還ろう~二人手首細くあって補足〉このあたりから、急に言葉遊びのような、軽快さが出てきますね。〈ハハッ、雨の中回りつづけるメリーゴーラン、思い出せるまで深夜のラン〉このあたりからは、少し言葉が上滑りしている印象がありました。 〈私の体は煙草で炙られている。〉ここから先は、いわゆるロンド形式の終連部分、ということになりますね。真ん中で、浮薄というくらいのところ、ギリギリにまで広げて薄めた言葉を、回収していく部分。 ありがとう、の音のつながりから引き出された言葉でもありますが・・・ガトー・ショコラの、重苦しい甘さを持った存在感が、最後に作品を締めている、と思いました。 (ラヴレター(とおいあなたへ))

2017-09-10

美しい言葉に、身を預ける心地よさ、全肯定して受け入れる心地よさと、夏の終りの壮大な夕焼けを思いました。 前田さんの評を読みながら・・・そうですね、たとえば、今回の作品では、あえて〈鳥の柔らかなはばたきが/明日が近づいてくるのを/知らせている〉で、止めてみる。気づきは、余韻として、風の中に置いておく・・・という方法もあるかな、と思ったり・・・〈今日の美〉という美について、もっと詳しく魅せて/見せてほしい、と思ったりしました。昨日の美と違うのか。違うのであれば、それはなぜか。 葛藤を通りぬけた後の、爽快感を描いているようにも思われ・・・その葛藤をあえて書いて下さい、ということではないものの・・・語り手が、その美を感じる、その心の地模様と言いましょうか、そういった部分に、触れていきたい、と思いました。 (光、ほどけて)

2017-09-10

印象に残る行を、抜き出してみました。 感情は少し遅れてやってきます 線が心の裏と今日明日の課題を青くつなぐように 丸や四角と子供の気持ちはまだつながったままです 雨が槍の様に心を打ちつけるとき 悔しくて怖くてしょうがなかったのでした あてもない不完全さを繰り返しても 何も変えられないのです 豆電球のような小さい明かりが僕だけの何かを示します くたびれた靴をひっくり返して悪いことについて考えています 今日の靴の裏側はそれほど汚くはありません 一度微笑んだ後は何もなかったのです 尖ったままの心をなだめる方法が見つからなくて 限りなく続く時は本体だけを見れば最も美しいものです 星の間を進む船 窓から明かりがきらきら光ります 歌に 暗いところはなかったですか 知らない歌を教わることも 力の誇示も同じ人が行為することです 僕には呪いの歌を歌わない自由があります 昔のしるしの中でも形となれたものは 個別の時間を失い 誰かが興味を持ち拾い上げるまで 砂漠の砂のなかや森の下草の陰や海の海溝の底などに 古く置かれたままになっています 物語が終わるとき僕はそれらと同じものになると知っています 暇な占い師が練習をしていました 王土が球に映っていました 周りの空間が歪んで 今という現実が見逃しているもの その有様は変わっても 僕自身は頑固に保ち続けるほうがいいのです きらめく一行、が、たくさんありますね。骨組みともいえるのかもしれません・・・これもまた、一篇の詩、になっているような気がしました(勝手な抜き出し、失礼!さすがに、これでは骨骨、なので・・・) その間をつないでいく行、これは、黒髪さんにとっては、必然の一行であり、思考過程であり、感情の記憶なのだと思いますが・・・もう少し、凝縮してみると、訴求力がいっそう強まって、インパクトが増すような気もしました。 じっくり、たゆったっていくような思考の流れ、自ら言葉や感情を確かめていく感じ・・・が、黒髪さんの持ち味でもあろうと思います。先にあげた引用部は、このように省略してみたら、という提案ではなくて、あくまでも、私の心に残った部分を並列してみた、そう、ご理解ください。 (戸惑い)

2017-09-10

り さん 形に整えると、儀式的な感じ、荘厳な感じが強まりますが、それだけ、息苦しさや堅苦しさも増してきますね。その息詰まる中で、凛と背筋を伸ばして・・・というようなイメージを持とうとすると、なるほど、〈「私」の決意や意志の自己犠牲的な強さと悲壮さ〉が生じるのかもしれません。なんというか・・・手放すこと、への覚悟、というのか・・・自己献身への覚悟、というような、ことではなくて・・・親が、子離れしなきゃな、的なことは、日々思うのです。自らを、執着から引き離す、という感じ。執着や干渉は、たぶん、愛、の姿をした、我欲なので。 掲示板君、勝手に歩んで行ってくれ!(そのためには、皆さんの、がんがんコメントつけて行こうぜ~!という気合も、エールも、たくさんほしい、という気持ちも、あります、たぶん。)コメントありがとうございました。 (奏楽)

2017-09-10

あさぎさんへ ご投稿ありがとうございます。教会のような、大きな、音の響き渡る、森の中のようにうす暗い・・・そして、明り取りの窓から、光がすうっと差している・・・そんな空間をイメージしながら書きました。そこから、いきなり浴槽に飛んだり、浴槽からさらに海へと飛んだりするので、連の間の飛躍が、大きすぎるかな、ギリギリかな、という懸念を抱きつつ・・・なるほど、洗礼の浴槽。全体に森のような教会のようなイメージを名残として残しながら読んで下さったのですね。白島さんの、浴槽にいるのは、赤ちゃん?という疑問も、洗礼盤のイメージが浮かんだから、かもしれません。新たな視点をありがとうございました。 (奏楽)

2017-09-10

白島さん ご批評、多謝。他の方へのレスでも書きましたが、形を決める、ということに、あえてこだわっていた時期の作品が、ベースになっています。無理やり、言葉の引き出しを広げよう、とジタバタしていた時期です。 「奏楽」は・・・高校時代、入学式の式辞の一番最初に「奏楽」とあり、なんだろう、と思っていたら、いきなりヘンデルの「ハレルヤコーラス」が降り注いできた(体育館の、二階回廊部分に、在校生の有志が並んで、そこから)あの時の衝撃が、そのまま刷り込まれている、かもしれません(・・・指摘されて、ああ、これはかなり、個人的な体験だったなあ、と反省しつつ・・・ある種の儀礼的なイメージ、ではありました)公立校で、ミッション系ではないのにも関わらず(笑) 〈冒頭「ガラスの鍵盤」から始まる一連〉ここは、注記を付けるか迷ったのですが・・・直接的なイメージとしては、オリヴィエ・メシアンのピアノ曲を聞いた時の衝撃があります。ピアノで、鳥の声を模していく。そこに、旧来の音型に従うでもなく、逸脱するでもない、不安と安心を同時に与えてくれるような・・・生まれたての赤ん坊が、初めて風の音や草木のさやぎを聞いた時、そんな気がするのではないか、というような・・・音が重ねられていく。その時の衝撃体験をイメージすると、こんな感じ、という・・・メシアンへのオマージュ、という言葉を添えたとして、それに意味があるかどうか、迷って、註は付けませんでした。 〈すると浴槽に身を横たえているのは、作中主体ではなく〉いえ、作中主体、です!自分もまた、赤んぼの気持になっている、というのか、戻っている、というのか・・・戻る、感覚ではないですね。同一化している、一体となっている、感覚・・・は、男性には、ないのでしょうか?自分も生まれ直す、ような感じ。 〈「あとはもはや何もいらぬ」はどうしても流れから「おまえ」を主語として読んでしまいます。 でも、おそらくこの主語は「母」。〉そうですね、おまえ(子)が、母を求めてくれる、包んでくれる、温めてくれる・・・あとはもはや、何もいらない、と(母は)思うけれども、おまえは、あっさりと母の元から、旅立ってしまう、という感じ、でしょうか。あたりまえのことを、当たり前に書いている、とも言えます・・・「あとは~いらぬ」とかぎかっこを付ければいいのかもしれませんが、詩面(しづら)を尊重しました。 〈70年代に皆が新宿歌声喫茶で歌った「きみの~ゆく道は~♪〉形に追い込むことで、新鮮な表現が出て来る、という保証はない、その証明、と言いましょうか(笑) 人生行路は、碧く険しい お寺のお坊さんとか、神父さんの説教に出てきそうな、クリシェな表現。それが、形の中に嵌め込まれることで、なんとなく常套から免れている、という印象を与えているのかもしれません。 いろいろ、ありがとうございました! (奏楽)

2017-09-10

survof さんの「自己分析」感心しながら拝読しました。他者の眼で、自作を見るということは、とても難しいことでもあるので。 私が、面白いと思ったところは、ラジオから流れて来る曲が〈何だかとても凄惨〉ということを、二人は共有している、ということ、です。でも、〈君〉は、凄惨だ、という気持ちには共感するけれど、それが嫌だからチャンネルを変えてくれ、とは言っていない。〈君〉もきっと、聴きたくないだろう(凄惨、ということを、僕と同じように感じてくれているのだから)と、〈僕〉はチャンネルを変えるけれども・・・凄惨だけれども(だからこそ)興味をそそられて、聴いてみたい、と、〈君〉が思うことはないのか。そんな、ちょっとひねくれたことを考えたりもします。 絵の怖さ、に対する、二人のずれ。写真の怖さ、に対する、二人のずれ。〈僕〉の絵は、どんな絵なのか示されていないけれど・・・写真の方に人がいないのであれば、絵の方は人を描いているのかもしれない。二人が怖い、と感じるシチュエーションやムードが、真逆だったら・・・二人の関係は、〈もうとっくに手遅れだった〉のも、当然の成り行きでしょう。 ・・・とするなら・・・凄惨、という感覚を共有している二人が、その凄惨さに対して、どのようなたいおうを取るか、その対応の違いが、二人の関係の将来に関わって来るのだろう、と思います。 チャンネルを変えた時の、〈君〉の態度が、さりげなく示されていたら。また、〈僕〉の絵に、何が描かれているのか(ここは、読者の想像に任せる、という方法もあるでしょう)そんな案が浮かびました。 (君の写真)

2017-09-10

週末青空わんにゃん通り・・・までは、面白い言葉の流れだな、と思ったのですが、食堂、ではなく、食道!呑み下す、大きな都市(という生き物)を思い浮かべました。 道、のイメージもありますね。商店街を貫く道の両側から、漂ってくる匂い、活気ある掛け声、蠕動する人々の欲望・・・。 食品名が並ぶところ、これは音声で聴きたいですね。♪これっくら~いの おべんとば~こに ・・・にんじんさん(二本指、三本指)ごぼーうさん(五本指、三本指)れんこんさん(親指、人差し指でわっか作る・・・)♪ なんて手遊びをしていた頃、を思い出したりしました。 ちくわ そば ふき べーぐる・・・の辺りから、なにやら不穏な雰囲気。 人を掻き分けていく感覚と、先の「食堂」ならぬ「食道」に飲み込まれていく感覚と。 都市の欲望に飲み込まれていくような・・・煽られていくような感覚もありました。 〈ごった煮青空食道 料理人も詩人も〉このあたりの、さりげなく批評性を含んだ比喩も面白い。 私は詩をスープでイメージすることが多いので(上質の材料を手間ひまかけて煮込んだコンソメスープと、インスタントのコンソメスープ、ことこと煮込んだポタージュスープ、だしのきいたおすまし、おばあちゃん手作りの具沢山のごった煮スープ、滋養強壮に良さそうな薬膳スープ、伝統にこだわったボルシチ、風邪を引いたときのチキンスープ、療養中のおかゆ、世界三大スープと言われながら、好みが烈しくわかれる刺激に富んだトムヤムクン、特殊な材料を体を張って(あるいは、他人様が体を張って)集めて来た、燕の巣スープ、などなど・・・たまに、桃のデザートスープ、なんていうものもありますね) 最後の「いただきました」は、人々を見守り続ける「かみさま」のような存在のつぶやく、ごちそうさま、でもあるような気がしました。 正しく腹が減る、という表現が、いきること、にそのまま直結しているような気もしました。 (週末青空わんにゃん通り食道)

2017-09-08

最初、私、が男性で、あなた、が女性、なのかと思いながら読んでいて・・・最後まで来て、あれ、逆だったの、と読み直しました。 草いきれと曇天、このシチュエーションから、すでにたちこめてくるものがありますね。つながれている手をふりほどきたくなる、でも離れたくない。そんな感覚も、ビビッドに伝わてきます。緑が豊かに残る郊外の住宅地、その中の道路・・・車の往来がほとんどない、そんな場所にお嫁に来た若い女性を想像してみました。すぐに走り出したくなるような、はつらつとした若さを持った女性。律儀に(車が来なくても)信号を守る、男性。手首のひんやりした感じと相まって・・・まだまだ、ふわふわと飛んで行ってしまいそうな、家庭、という環境に根付かないような女性と、「家庭」や、その安定に憧れる男性、を思い描いたリしました。 そうやって読んでいくと、二連目は・・・あなたのことは、好き、だけれど、一緒にもいたい、けれど・・・熱い手に繋がれているような息苦しさからは逃れたい・・・でも、つかまえられていたい、つかんでいたい。安心したい、自分がどこかに飛んで行ってしまわない、ために・・・そんな、ゆれるような心の内を、テンポのよい語り口で歌った作品のように思いました。 (八月の不確かさ)

2017-09-08

とても丁寧で、やわらかい語り口で・・・たしかに、絵本を読んでいるような感覚があっていいな、と思うと同時に・・・やや冗漫ではないか、という気もしてしまいますね。 〈どうやって来たのか知りませんが〉これは、語りの合いの手、のように考えることもできますが・・・この一行を隠して、一連目を4行にしてみたら、より引き締まったのではないか、とか・・・〈知りたがり虫が騒いだので/ちょっと調べてみました〉ユーモラスな諧謔味を持った、これも「合いの手」的な、つなぎのフレーズだけれども・・・でも、ここを省いてしまうと、次の「調べた事」が上手くつながらなくなる。調べたこと、を、その本文のままに抜き出してしまう、という方法もあるけれど、そうすると、子どもに語り聞かせているような優しさや易しさが消えてしまう。 〈可愛そうな1セント銅貨/それでどうなったか…〉このあたりも、「合いの手」的感覚。歌の掛け合いなどで(古来からの、即興の歌合わせ、のような・・・歌垣とか、南西諸島のもーあしび(毛遊び)のような)それから、どうなった?と声をかける合いの手があるのですが、そんなことを思い出しつつ・・・ 「合いの手」部分を、そして、それから、どうなった?というような、リフレイン的なフレーズにして、繰り返しのリズムで全体を締める、なんていう方法もあるかな、などと思いつつ。 花緒さんの、「ほんの少しいじるだけで、大化けしそうなポテンシャルを感じる作でもあるのですけれど、例のごとく、話を纏めるのが、上手いなと思います。下手にいじると夏生さんの良さが消えてしまう懸念も感じます。」という評に、まったく同意ですね・・・。これはこれで、ゆったりムードのリズムを楽しむ、ということで、よいのかな、と(ここまで色々書いてきて、結局、そこ?と言われそうですが)思いました。 (1セント銅貨が居りまして)

2017-09-08

〈ひとつの海の駅名〉ひとつの海、という言葉の持つイメージと、海の名、という予測を裏切る駅名。なんとなく『千と千尋の神隠し』に出て来る、海の中の駅・・・賢治の銀河鉄道を、海の中に引いたような、そんな駅を連想しました。 〈永遠と惑星という言葉の隙間〉永遠、という、あまりに大きすぎて扱いにくい言葉を最初に持ってきて・・・惑星という、ある種の具体物を持ってきて、そこに〈隙間〉を見出す。イメージを扱いながら、言葉を探っている。この感覚から思い出したのは、『雪の女王』の中に出て来る、氷の池のイメージ。たくさんの「言葉」が氷で作られていて、その言葉をパズルのように組み合わせたり、積み木のように遊んだりしているシーン。ほんとうの言葉を見つけ出すまでは、その場から逃れられない、という宿命を負っていて・・・そんな知性の凍てついた荒野に閉じ込められた少年を、少女は、共に「ほんとうの言葉」を探し出すことによって解放します。(手元に本がないので、うろ覚え、ですが)〈星の履歴書〉とは、いのちを遡行する、というような感覚なのかな、と思いました。 三連が、いちばん、タヒさんっぽい、かもしれない(笑) 文体的には、ここは「白島」さんっぽくない、ような気はしました。死、という文字の、一本棒の下を読むと、タヒ・・・ご本人は否定している、とのことですが。徹底的に「死」とは何か、と考え続けている、最果さん、なのかもしれない、と思う時はあります。 最後の二連からも、やはり、雪の女王の氷の池で、言葉を探し続ける少年・・・心に悪魔の作りだした鏡の欠片が刺さってしまったまま、少女を(ひそかに)待ち続けている少年、を思いました。 聖書と結びつける必要性があるのか、ないのか・・・意味を知らなくても、調べなくても、なんとなくイメージのわく言葉ではありますよね・・・。 人柱とか、神様をひと柱、と呼ぶのを思い出しつつ、日本的な感性では、塩の柱は、真っ白に結晶化した人の姿、のようなものを想起するのではなかろうか、と、思いました。 言葉を探し続ける行為の、ある種の不毛性と、それでもなお、その行為に憑かれた者のイメージ世界。飛び降りた先には、「死」ではなく、新たな誕生があるような気がします。 (塩の柱)

2017-09-08

田さん、とお呼びすればよいでしょうか・・・貴重な返信レス、ありがとうございます。 まず・・・「現代詩というのは直接的な体験を一義的排他的に尊ぶのでしょうか。」というご質問について。 そう考える方もいらっしゃるでしょうし、そうでない方もいらっしゃるでしょう。ひとりひとりが、これが自分の詩だ、というものを、探していく、それが、「現代詩」であろうと思っています。 私の場合は、新奇さを目指して言語実験を繰り返す作品の、技巧的な到達度に驚嘆したり感動したりすることもありますが・・・言わずにおれない、そんな心情が切々と伝わってきたり、一気にその人の内面世界に引きこんでくれたり、言わずにおれない、その切実さを、どうにか他者に伝わるように、と腐心している・・・そんな作品に心惹かれるところがあります。 半ば冗談で言うのですが、現代詩、には、「ゲンダイシ」と「現代の詩」がある、と思っているんですね。たとえば吉増剛造さんは(私の中では)「ゲンダイシ」で、たとえば石垣りんさんは「現代の詩」・・・というような、ゆるい区分けがあります。いわゆる、前衛的実験詩・・・詩史に照らして、言語領域や文学の可能性を極限まで広げよう、と果敢に挑戦しているような作品群・・・を中心に「現代詩」と呼ぶのであるとして・・・伝えたい事、が、まず、その根底にあってほしい。その切実な、言わざるを得ないこと、が、旧来の表現技法の中では言い得ない、場合に・・・言葉が、旧来の用語法や語順や文節などを「逸脱」してしまう。その「逸脱」の中に、心あまりて言葉足らず・・・というような、切実さ、が伝わって来るかどうか、ということが、大切なのではないか、と(個人的に)思っています。 そして、詩、全体をアメーバのような有機体、として考えた時、実は「ゲンダイシ」は、その辺縁に当たるものであろう、とも思います。有機体全体が、ある一つの方向に進んでいく時(それは、ある程度時間が経ってから、振り返る時に見えて来るもの、でもあるでしょう)その方向に突起を伸ばしていた辺縁が、後に詩史におけるトップランナー、時代のエポックとなる作品、と呼ばれる(評価される)ことになる。しかし、全体が進んでいく方向、ではない方向に伸びていた突起は、ちぎれて、取り残されていく。しかし、取り残されたものを後で振り返ってみた時、非常に優れた作品である、ということが再評価されて・・・今度は、有機体全体が、その「とりのこされた」島のような部分に向かって動いていく、というようなことも起きる。 そうした「辺縁」の動きばかりに(つまり、変化ばかりに)目が行きがちですが・・・有機体全体を動かしている根幹、その部分も、とても大切だと思っています。表現としては、旧来の技法(既に、多くの人に受け容れられている文法、話法、技法)に立脚していて・・・つまり、表現技法によって読者を瞠目させたり、新奇な表現によって驚かせたり、するのではなく・・・その時の心情や、事実の積み重ねや、その時の体験、想い、思想・・・といったものを大切にする、という、作風。 それとても、千年の歴史の中で見たら・・・平安時代や江戸時代の文法や話法と比較するなら、口語自由詩は、それだけでどれほど驚嘆させられる「変化」であるか、ということは言えるでしょう。ただ、一般の読者に、より受け入れられてきている、その時代にとって「馴染みのある」技法である、ということが言えると思います。 田さんの今回の投稿作品は、一般的な読者に馴染みのある技法を用いて、創作されている、と思いました。特に新奇さを狙ったり、読者に文学的な驚きをもたらそう、という文学的な意欲に基づいて生み出された技法を用いている、わけではない。だからといって、「それは詩作品としては不十分と観念される材料になるのでしょうか。」ということでもない、のですが・・・ 何と言えばいいのかな、ええと・・・ 田さんの、今回の投稿作品について・・・私がお伝えしたかったのは(他の方のレスなども含めて、考えるに)田さんが〈「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」〉この一言を聞かされた時の、田さんの衝撃、感情的な波立ち、怒り、悲しみ、絶望・・・それが、充分に伝わっているのか、ということ、です。 その言葉によって(もちろん、それまでの教師との関係性であったり、社会との関係性であったり・・・教師の「熱心さ」を誤解していたのか、私は裏切られたのか、という衝撃であったり・・・もろもろの、言葉にし得ない感情が、そこには渦巻いているはず、なのですが・・・)田さんが、あれほどの衝撃を受けたのに、他者は特に意識していないようだった、という孤立感であったり疎外感であったり・・・そうした感情を覚えた、そこに「詩情」があるのであろう、と思うのですね。 さらに、社会に出た後、俺たちは社会を動かす重要なモチーフだ、お前たちは歯車に成れ、社会を円滑に動かすための部品に成れ、というような排他的な圧力であったり、形の見えない優越感や特権意識に出会ったりする・・・そのたびに、自分の中にざわざわと蠢く感情があり、それを「相手側」はまるで感じていないように見える、その違和感や齟齬・・・それを感じた、そこにもまた、「詩情」がある、と思うわけです。 その「詩情」を、たとえば「いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか」と思った、と説明してしまう、のではなく・・・その時の感情の強度や感情の波立ち、衝撃を伝えるような、同等の比喩はないか、と模索してみたり、その時の真情が、よりよく伝わる、よりインパクトを持って伝わる、語順はないか・・・と(読者の側として、自分の作品を読みながら)模索してみたり・・・そうした探索や模索の中に、たとえば詩の「うまさ」とか、技巧的な向上、といったものが、あるのではないか、と思っています。 単純に、他者を驚かしたり、新奇な目新しさで「すごいだろう」というようなこと、ではなくて・・・その時の感情の強度や、切なさや怒り、悲しみ、といった心情が・・・もちろん、感情的な言葉を直接書く、ということではなく、抑制された表現の中に、その心情がにじみ出す場合もある、でしょうけれど・・・ダイレクトに読者の心に伝わってくるようであれば、これは本当に、心ふるえるだろう、と思うのです。 われわれの人生を、なんだと思っているのだ! この気持に、そうだそうだ、と頷く人もいるでしょうし、あなたはそう思ったかもしれないけれど、気持ち的に、ピンとこないな・・・というように、単純にひとつの話題として聞く人もひる、でしょう。 それでも・・・いや、だからこそ、その時に語り手が受けた衝撃を、匹敵するような比喩で伝えたり、衝撃がそのまま追体験できるような語順で伝えたり、そうした工夫をしてみる価値が、あるのではないか。あるいは、その言葉を使わずに、事実を端的に(取捨選択しながら)積み重ねていく、写実的な表現によって、その言葉を思い浮かべた時の心の憤りを、他者の心の内に表現できないか・・・というような探求もある、と思います。(たとえば、悲しい、と説明せずに、悲しい心情を、情景描写に託して歌う、といいうような。子規の写生論などにもつながる問題であろうと思います。) そうした・・・その人が感じ取った「詩情」を、その人の独自の表現で表そうとする、その試行錯誤や紆余曲折の中に、詩を産む楽しみも苦しみもある、のかな・・・と思っています。 その時の思考を正確に伝える、ということであるなら、エッセイやノンフィクションスタイルの小説、論文などの方が、より適しているかもしれません。 でも、これが私の「詩」である、という作品によって、その時の真情や心情、イメージ、言葉にならない心の波立ち、それらを、伝えよう、とするとき・・・言葉、という不自由なものを使って、他者の心の中に再現する、喚起させる、そんな試みを、試そう、試みよう、とする、とき・・・そこに「詩」が生まれるのではないか。そう、思っています。 長文、失礼。ご質問に、うまく応えられているかどうか、心もとない、のですが・・・。 (ときどき人に話すこと)

2017-09-06

咲きの→先の 何度も、失礼(笑) (門)

2017-09-05

途中で、送ってしまった(笑)  ~過去には無かった「道具」を持っていて、しかもそれを使いこなす技量があれば、その探求者は、対岸に滑空して、未知の領域を訪ね歩くことが出来るかもしれない。 だからこそ、大いに実験してほしい、と思うと同時に(中略)示唆されているような・・・そんな行き止まりの予感の前で、抗っているように見えると、もっと他の道を試してみたらどう?と、口出ししたくなってしまったり、もします・・・ 今回の作品、前半部分は「意味」と形を連動させようとしているように思われたけれど、後半は、形を作る面白さや困難さに夢中になってしまっているようにも見え・・・確かに、言葉からあえて「意味」を剥奪して、その形体や語感やインパクトを、美的要素のひとつとして構成する・・・という試みもある、とは思うけれど・・・まあ、まりにゃんさんが、もしかして、言葉の引出しの乏しさを誤魔化そうとしてる?なんて見方を(たぶん、あえて)提出している、けれども(私はそうは思わないけれども)意味と形を連動させつつ、言葉(音声)によって駆動していくものと、形態を構成する、という欲望を添わせる(幸福な婚姻に持ち込む)という「意図」が伺われる前半部が、途中から、息切れしてしまって、形態構成欲求、に、負けてしまっている、ような気がするんですよね・・・どうでしょうね。 せっかく、前半部分でギリギリの可能性を試したのに・・・そこから、形を作る、という、安易な方向にずれてしまった、そんな、もったいなさ、を、すごく感じるのだけれど・・・ これが、さらに次世代掲示板で、アニメーションや音声と同時に、言葉が形態に整っていったり、また崩れていったりするのが「見える」そんな新しい技術(咲きのたとえで言えば、グライダー)を手にしていたら。また、ゼンゼン違った面白さと共に、見えてくるのかな、という期待は抱いています。 なんか、ワケわからん長文になって、失礼。 (門)

2017-09-05

まりにゃんさんの返信を拝読した流れで、こちらのスレッドも拝見。 新しい言語領域や、文体の可能性を探る、という「実験」は、道なき道を切り開いて、それを地図として残す行為に似ている・・・と思うんですよね。 これこそ、誰も切り開いたことのない道だ❗と思って、山刀を振るっていたら・・・藪の中に、かつての探求者のキャンプの跡を見つけてしまったりする。もしや、この先は行き止まりか?と、不穏な予感を持ちながら、更に進んでいくと・・・野晒しになったしゃれこうべに遭遇したり、崖に出てしまって、にっちもさっちも行かなくなって、途方にくれたりする。 でも、もし・・・その崖から、対岸に滑空する事の出来るグライダー等の新たな道具を持っていて、 大いに実験してほしい、と思うと同時に・・・それが、既に為されていて、行き止まりかもしれない・・・という可能性が示唆されているような・・・ (門)

2017-09-05

良く使い込まれた、清潔なガラスのコップ、そんな「なにげない」ものに焦点が絞られて・・・〈うつくしいひとの 魂のよう〉と飛躍する。飛躍するのに、この作中人物は、魂をなにかの入れ物、のようにとらえているのだな・・・壊れやすく、透き通っている、玻璃のような輪郭を持った、これから満たしていくもの、人の心を潤してくれるもの、あるは、熱く滾った心を冷たく癒してくれるもの・・・と、とらえているのだろうな、ということが、体感的に伝わってきました。水の嵩が減る、すると店員が金属の(注ぎ口の細い)水差しから、冷えた水を注ぐ。既にコップにはたくさんの露がついていて、店員の指を濡らす。そんな暑い夏の、喫茶店・・・あるいは、トラットリアのような、気さくなレストランを想起させます。 その、ガラスのコップの向こう側にいる人の瞳に、日が差して、きらめく。そのひと(うつくしいひと)ではなく、その手前にあるコップを見つめていたのは・・・うつくしいひと、に魅入られて愛してしまわないように、という自制心だったのか・・・うっかり見てしまった君の瞳のきらめきに、僕の心を潤してくれる水をたたえた魂を持った人・・・君のことを、そんな〈軽率さで、/ぼくはきみを/愛してしまっている〉 勝手な「物語」を読んでしまいましたが、そんな自由な解釈を働かせてみたくなるような、行間の余白の豊かな作品だと思いました。序破急の展開が巧みですね。 (contour)

2017-09-05

まりにゃんさんへ ハンドルネームが似ていて(笑) 拝読する前から親近感を覚えてしまいました。 25字揃えだった、とのこと・・・ワードでインデントをかけて行末をそろえる方が多いと思いますが(まりにゃんさんのやり方については判りませんが)ちょっと面倒ですが、「改行」で人為的に文字数を揃えれば、うまく貼り込めるのではないか・・・と思います。 (星々の獣道)は、どなたの詩篇からの引用句でしょうか・・・(不勉強ですみません)星が、哺乳動物のように葉陰をかすめて行き過ぎるようなイメージがありますね。 〈草木の靡く〉という触覚に〈耳をすませ〉る。触れて来る気配を、聴く。〈蜜蜂や蝶の描くおぼつかない風の起こり〉を、肌で感じ取るものを、嗅ぐ。ある種の共感覚、と言えばよいのでしょうか。音のイメージ、触覚のイメージ、匂いのイメージを、セロファンを重ねるように重ね合わせていくような、不思議な空間が立ち上がって来る気がしました。 〈はじける泡〉という、何かがふつふつと沸き立って、生まれて来るようなイメージ。 〈こまかな粒〉という、卵や種のような、原初的なイメージ。 その粒の〈その内側へ、封じられた声を辿って虹はたなびき〉 この部分は、たしかに観念的、抽象的とも言えそうですが・・・原初的な粒子から何かが生まれ出て来る、その瞬間を映した動画を、逆再生しているような、不思議な感覚がありました。そのすぐ後に〈蛹や繭〉という、具体的になにかが生まれて来る、その直前の姿が描かれる。この〈蛹や繭〉は、その直前に記された〈蜜蜂や蝶〉の生まれる直前の、姿でもある・・・ここでも、想像力によって映像が逆回しされているような、時間を遡行していくような感覚を覚えます。 それから一行アケがあって、葉桜の季節が過ぎ、蝉が命の限りに鳴き交わした夏を経て、桃や枇杷の実が、種(リルケ風に言えば、死の種でもある、わけですが)を胚胎しつつ、官能的な実りの季節を迎える。ここは、実際の時間軸に添って時間が流れていきますね。 反転していた時間、ゼロに向かって流れていた時間が、〈はじまり〉を迎えて、今度は折り返していく。 鶯の早春、遠花火の晩夏・・・〈幻想は波のうえでだけ舞う〉この幻想は、過去の景を、今の夢想の中に呼び覚ます、そんな幻想、なのでしょう。時の流れの中に戯れる、想像力が呼び覚ます記憶。〈波〉は、時(の記憶)の揺らぎでもあるように思われました。 〈乾いた土が濡れるのはただ、紙片がめくられつづけるからだ〉この一行も、不思議な質感を残していきますね。一人一人、読む人によって、受け止め方は異なるような気がしますが・・・私は、いささか感傷的に読ませていただきました。一人一人の記憶(が綴られていく、いのちの書物)そのページが風に煽られるたびに、過去の記憶がランダムに現れ、涙を誘う・・・というような。そんな甘ったるい、センチメンタリズムからは離れたところで記された一行のようにも思われるのですが・・・濡れる、紙片(詩篇と音が同じ)という言葉が喚起するのは、たとえば「落葉松」を濡らす雨、心を濡らす雨、余白が既に残り少なくなった、『わたしの一生の物語』をめくって過去を次々、幻燈のように映し出す風の気配・・・といったイメージに繋がっていく。これは、私の勝手な「誤読」かもしれません。(レスを拝見して、これからを生きる子供たちのために、その未来を言祝ぐために綴られた作品、であることを知りました。)でも、暗喩的な多義性を背後に蓄えた一行であるがゆえに、自由に解釈することが許されるだろう、と思う次第です。 最後の連、なんとなく唐突感があって、でも、里山の風情があって・・・5or6さんが「ジブリ」をあげていますけれども・・・まさにトトロの世界ですね。瞳が走る、という躍動感、笹笛・・・レスで拝読して、なるほど、と納得したのですが・・・イメージだけ、謎めいた形で、このように示されるのもまた、面白いと思いました。 (道へ)

2017-09-05

〈セブンスターを一箱買って帰る〉と、パチンコを勝って帰る。 勝てずに、お金を「すって」しまう。マッチを擦ってしまう、煙草を吸ってしまう、にもかけているのか・・・ダジャレ的な要素が強いのかな、という印象はありますが・・・冒頭一連目のリズムとか、kの音、撥音の入り方、などの音感含め、心地よい、独自の「節回し」があると思いました。 〈一週間の永遠のうちに巡るのも 渋々ここにいるも〉1週間(7日)と7starsの7もつながっていく面白さがありますね。 退屈な1週間は永遠にも思えるし、過ぎて見れば一瞬でもある。今、自分が居る場所、居る時間こそが、すべて・・・ ところで、語り手はパチンコで「勝った」のでしょうか?〈一円違わずツケを済ませる〉のだから、きっと多少は勝った、のだろう、と思いつつ、流れで見る限り、まだパチンコに行っていないような、あるいは行ったけれども、負けて一杯飲み屋でヤケ酒をあおっている、ような・・・。立ち上がりの〈一円違わず受け取るコインの正確〉に再帰するためのフレーズであるなら、ちょっと、展開に無理があるかな、と言う気もします・・・。 (7stars)

2017-09-05

〈角が立つから〉と言われたら、場を収めるために我を抑えよ、と言われるかと思いきや・・・ 〈君も立ちなさい/と/注意される〉ちゃんと自分を表現しなきゃダメだよ、と、引っ込み思案の人に注意する先生、を思い浮かべました。 かどがたつ、という読み方ではなく、頭角を現す、という読み方、をしています。そのためには、自分もきちんと立たなきゃだめだ、自分自身に立脚せよ、という注意、を受けてしまう。日本人は引っ込み思案だから、なおさら。 すると、〈隣の逆鱗に触れる〉ことにもなる、わけですが・・・。 三角定規なら、斜めになって当たり前、なのですが・・・しゃに構える、という慣用句を、うまく物にずらしてあてはめている。 目の玉が飛び出るくらい高い、というような「慣用表現」を、リアルにイメージすると、なんとも不気味な映像になりますが・・・そうした誇張表現を、あえて生真面目に「物」に当てはめた時に見えて来る、くすっと笑いたくなるようなユーモアが楽しい。 実際に、人間関係のトラブルに巻き込まれて、深刻に落ち込んでいる時に、ふっと、こんな風に情景をずらして見ることができたら、どんなに気持ちが楽になるでしょう。 完備さんが提案されているように、杓子定規は、慣用的な使用に傾き過ぎていますね。せっかく、定規や物差しが「やってくる」という擬人化の面白さが、あいつは杓子定規だから・・・というような慣用句に飲み込まれてしまうように感じました。 立つ、のではなく、座る、のでもなく。斜めになる。角が立たないように、逆鱗に触れないように、斜めという中間をとる、というようにも読め、面白かったです。 そういえば、杓子定規の杓子って、なんだろう、と思って調べてみたら、杓子(おたま)のように曲がっているものを、定規として使うと正しく測れない、ということ、であるようなんですが・・・なんとなく、融通の利かない、型通りの対応しかしないような時に使う言葉、というイメージがありました。 (斜になる)

2017-09-05

なんとなく、うっすらと、うまく言えないけれど、恐ろしい・・・という「そらおそろしい」が、読み終わったとたんに「空、恐ろしい」に変換されてしまう。 嫌、なことが、好き、なことに反転する。大地が、空に、反転する。殺風景、という語感、意味、文字の迫力が、〈ころすふうけい〉にゆるんでしまう。放たれてしまう。恐ろしさを削がれてしまう、と言ってもいいかもしれない。そんな反転の起こる「さかあがり」という不思議。 〈いまでも わたしは あんなふうに まわしたい〉 この1行が効いていますね。何かを反転させたい、ネガティブをポジティブに、嫌い、を好き、に、苦手、を得意、に・・・反転させたいことばかり。 言葉で、逆上がりができないか。言葉で、世界をひっくり返せないか。そんな言葉の「さかあがり」が未完成であるからこそ、言葉を探し続けるのかもしれませんね。 (そらおそろしい)

2017-09-05

survofさんへ これはもともと、縦書きの四連構成だったのですが、ビーレビューの新たな門出、ということで、全面的に手直しして、さらに二連、加えました。 縦書きで、連が横に並ぶ形だと、それほど威圧感はないのですが・・・なんだろう、この形だと、なんだかトーテムポールのような(笑) 掲示板に、縦書き仕様があればいいな(ワードでできるようなことが、できるようになるといいな)と、おもったり、は、しています。 祝儀敷 さんへ 一時期、あえて形を決めて、そこに入れ込むことで、新たな言葉を開拓する・・・無理やり引っ張り出す、みたいなことを、集中してやっていました。結局、いかに「言い換えて」いくか、ということの訓練にはなるけれど・・・技巧的な隠喩や換喩にずれ続ける、ということになり・・・果たして、それが「いいたいこと」に近づくことになるのか。言いたい事、の周りを、自由詩であれば単にぐるぐる回っている、だけだけれど・・・型に嵌め込むことで、装飾的な周回に終わってしまうのではないか、という気がすることもあります。偶然、面白い表現が見つかることもありますが。もともと四連だったのですが、それだと妙に息苦しい。6連に、いわば「起承転結」を崩すことで、少し開放感が出たかな、という気もします。 そう考えると、やはり、型に嵌め込むことで失われてしまうもの、息苦しくなること、それと引き換えに得るものが、どれほど効果があるか・・・という、天秤になっていくのでしょう。 sizuku000さんへ 旅立ちを見送る、側に立つのか、旅立つ側に立つのか・・・想像力を働かせれば、どちらにも立つことができますが、私は定一に居て、見送る方が好きかもしれません。ありがとうございました。 (奏楽)

2017-09-03

~である、と畳みかけられていくリズムの中に挿入される、〈バスを待つことに似ている〉の一文。『永遠に来ないバス』という名詩集を、借景として思い描きつつ・・・より普遍的な(他にも、生きることとバスに乗り込むこと、運ばれていくことを重ねる詩人が沢山いるように)生き方のイメージを描こうとしているように思いました。 〈バスはまだ来ない。未来はそこに行くまで来ない。それは身体を伴うことである。それは出来事である。冬は寒くてみんな震えている。でももうすぐ春が来る。〉 その「とき」を待つ、ということ。身体を伴うことである、という部分に、観念的に頭の中でイメージを巡らせるのではなく、実際に書く、という行為がその「とき」を引き寄せるのだ・・・そんな、ある種の詩論のようなものを感じました。 (バスが来る文体)

2017-09-01

日常生活で、ふと気づかされたこと、のスケッチ、のような作品だと思いました。 吉野弘が、電車の中で泣きだした子と若い母親の姿を描きながら、そこに聖母子の姿を重ねる(そして、今日は素敵な情景を見た、と「しあわせ」を感じる)作品がありましたが・・・(題名は失念しました) いたいの、いたいの、とんでけ~と、〈手かざしでサラリとかわす〉情景描写の部分、さらりとひらめくお母さんの手の下から、まるで魔法にかかったように、にこやかな笑顔が現れていたら。そんな情景が描かれていたら・・・もっと臨場感が増したのではないか、と思いました。 実際の光景を、実際の時間軸に添って描いた、ものかもしれませんが・・・みやちゃん、の「いたいの」が「とんでけ~」と飛ばされた途端に、その外国の方がその「いたいの」をもらった、というような関係性に圧縮してみたら、どうだったろう。 他者の痛みを、知らぬ間に他の人が分かち合い、受け止め、軽くして逃がしていく。そんな不思議な「しくみ」に気付いた・・・そんな発見について触れて行こうとする作品である、という気がするのですが・・・もしそうであるなら、もう少し、そこに踏み込んでみても良かったかもしれない、と思いました。 (みやちゃん)

2017-09-01

薔薇、花弁、朽ちる・・・といった、文語に近いような言葉が続いた後に、「ぼてっぼてっと」という、俗っぽい口語を持ってくるセンスが面白いと思いました。 〈僕が君に見惚れていて、〉薔薇族なんて言葉は、今は死語なのかもしれませんが・・・BL的な匂いも漂っていますね。 朽ちた薔薇の花弁まで想像できる、予感できるかどうか、ということは・・・二人がこれから重ねていくであろう時間を想像できるか、可能性を信じることができるか、ということでもあるでしょう。 その時間を予測できない。美しい間、盛りの間だけの付き合いで終わってしまいそうな予感を、君との関係性の中に感じている〈僕〉は、外見の美しさに〈見惚れている〉わけではない。 対して〈君〉は、若く美しい間に散りたい、という、美意識を持っている人、なのかもしれないなあ、などと思いました。 頽廃の美を、外見的にとらえるのか、内面(積み重ねていく時間、堆積されていく記憶)から内面的にとらえるのか。朽ちた姿が、観えるかどうか。考えさせられました。 (薔薇の花弁)

2017-09-01

〈瞳の奥が宇宙に繋がっていて〉一気に、この奥行きに引きこんでいくところが、素敵です。 円の隅、という不思議な題名。円・・・まるいもの。円らな瞳。題名含め、冒頭部分で、あなたの瞳(が垣間見せる、あなた、という内奥に広がる宇宙)に引きこまれて、雨の日でも風の日でも私の夜空(あなたの瞳の中に住む私)の世界は素敵な夜空・・・そんな、見つめ、見つめられる濃厚な愛の時間を想います。 だからこそ・・・あなたの瞳の隅に生きる、それでよい、それだけでよい、と思う恋だからこそ・・・取り込まれてしまったら、〈その中で生きるのが/少し息苦しい〉〈天井も壁も無くて/果てなんて無い〉〈強く締め付けられて/やがて小さくなり/何も残さず消えてしまう〉そんな予感がする。 あなた、に取り込まれ、飲み込まれ、自分、が消えてしまうような・・・そんな恋になっていくような気がする。だからこそ、〈やっぱり私は眺めているだけにしておきます〉と、冷めた目でこの詩を閉じる。もちろん、私の勝手な読み、ですが(笑) 熱烈な恋愛に引きこまれそうな、黒い瞳の魅惑、だからこそ、踏みとどまろう、眺めているだけにしよう、という思いが働く。そんな艶やかな駆け引きを感じました。 少し気になったのが、~けど、という表現。全体に、とてもやわらかく、丁寧な言葉で綴られているのですから、~けれど、と表記した方が、全体の質感に添うものになったのではないか、と思いました。 (円の隅)

2017-09-01

三行ずつの進行は、「序破急」の進行とも言えます。 〈足元に映る錆びた自分を追う〉この一行がとりわけ素晴らしいと思いました。 逆に、確かにその通り、なのだけれども、それを見て、語り手はどのように感じたのか・・・ということを知りたくなるのが、たとえば〈瞳はやつれて潤んで見える〉というようなフレーズ。なんとなく、水が干上がりつつある沼が、月夜に不気味に照らされている・・・そんな深さや澱みを感じさせる目、であったのでは?と感じるのですが・・・瀕死の飢えた狼の眼、というような表現をした詩人がいましたが、なにかそんな、びしっと決まる比喩(錆びた自分を追う)が、あともう少し、あればどんなに良かったか、と思いました。 三浦さんは、野良犬のイメージを重ねているけれど、〈息荒く手綱に寄り添うように〉とあるので、引き綱(リード)に引きずられるように足を運ぶ、老いた飼い犬、ではないでしょうか? 森田さんが読むように、全体が老いた人(かつて、社畜と呼ばれることもあった、会社人間)の比喩にもなっているような作品だと思います。そう読むと、〈地平線〉は実景ではなく、見果てぬ夢の行き着く先、ということになるでしょう。そこに行くまでの体力が、もう自分には残されていない。それでも一歩一歩、大地を踏みしめていく。もうすぐ訪れる闇(死の世界)から吹き寄せて来る風は、生まれた時に感じていたような、新鮮さを失っていない・・・そんな風がまた吹き寄せて来る〈懐かしさ〉に励まされて、歩みを運ぶ。 朔太郎の犬、三好豊一郎の犬・・・詩人たちが描いてきた犬にもイメージを重ねつつ。 (老犬)

2017-09-01

四行ずつに形にまとめられた連が、さらに四連重なっている。起承転結を、自然な形で二重に封じ込めた構成的な美に、まずは感嘆しました。 〈時折、うすい血のにおいがする〉〈土手には風化した石造りの祠がひとつ〉〈わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない〉〈鵜の嘴が苦しまぎれに何かを吐き出した〉 異界へ取り込まれていきそうな不穏さが、ひしひしと迫ってきますね。 無理のない「写実」的表現によって綴られていく。この場合の「写実」は、写真機で映した情景、ということではなく、心の眼がフォーカスを絞った点を写生した、というような、そんな意味での「写実」です。 かつて、生贄として捧げられた少女の魂は、まだ川の中を漂っていて・・・時に川藻に宿り(少女の髪の毛のように、訪れる者の足にからみ)、時に鵜に飲み込まれて、苦しさのあまり鵜によって吐き出され・・・(鵜は有と音が同じですね、そういえば。)ひかりながら、ふるえながら、再び川に戻っていく。 〈川のいのちに〉ここで、いのち、という言葉を使ってしまって、いいのか、どうか・・・私も、いつも迷うところです。なんだか、安易に観念に逃げてしまっているのではないか、そんな気がしてしまう。川が息づいている、なまめかしくうねっている、その表に反射する篝火・・・川藻が生み出す女の髪のイメージから、さらには女の肌のイメージにまで行けそうなところ、ですが・・・妖しすぎるかな(笑) 河原で~の情景のあと、わたし、の片足が水の中にある景に飛ぶ。もちろん、充分に情景は観えるのですが・・・たとえば。踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない、と動きを先に入れておくと、川に入ってしまったわたし・・・禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか、なんて、余計なことも考えたりしつつ・・・ 美しく妖しく凝縮された作品だと思いました。 (「おくわ」伝説)

2017-09-01

〈皮一枚のわずかな距離でもあれば、青を想える〉とか〈きみの青とぼくの青を混ぜたら、どれほど青くなれるだろうか〉と言ったフレーズを、際立たせたい、という思いが残りました。あえてここを(  )に入れる、とか・・・このままだと、青を綴る言葉の中に、埋没してしまうような感覚がありました。 ハァモニィベルさんと、同じところで、私も引っかかりました・・・同じ理由、であるかどうか、までは分かりませんが・・・。 前半部分は、海の青、空の青にも染まずただよう、という、あまりにも有名な一首がありますが、いわばその本歌取り、のようにも読める部分。後半は、魚、そして飛翔のイメージが重なり、親和的な世界、夢想世界への飛翔部分のように読めるのですが・・・ここが、前半と同じ「語り口」であることと、内容的な飛躍との間に、齟齬が生じているのではなかろうか・・・読者が置いてきぼり感を覚えてしまう、のではなかろうか。そんな印象を持ちました。 〈音になればいいと寄り添う光。光もまた、見せるだけの色。その姿を見ることができない。〉このあたりの思念が生まれて来る理由というのか・・・その情景の中に、踏み込んでみたい、そんな想いに駆られます。 (青の断章)

2017-09-01

花緒さんは、〈自ら別れてきた〉と読んでいますが・・・逆にも読めますね。 〈突然 別れの言葉 告げてきたけど〉 彼女が、自分に、突然、別れを告げて来た。未だにそれが、信じられない・・・ survofさんの〈問いかけとも取れる〉という読み方にも繋がりますね。 わたしが 捨てた おんな について、嗜虐的に(韜晦しながら)歌うのではなく、 素直に素朴に、ひと夏の恋への感傷を歌った作品ではないか、という気がします。 言葉の流れや、畳みかけていく感じ、リズムの取り方、は心地よい、けれど・・・ 波打ち際、夕陽、星・・・シチュエーションの設定が、若干、型通りなのが残念。 いいな、と思ったところは、夕方から夜になり、そして朝日が昇る、それまでのスパンが、揺れる波を背景に描かれること。揺れる波打ち際(ゆれる気持ち、揺れる心)、陽が沈み、一日が終わるイメージと、華やかな夕陽のような鮮やかさを残して恋が果てて、夜(闇)となり、思い出が一筋の希望(一筋の流れ星)となって煌めき・・・やがて新たな朝を迎えた時、あの失恋は、本当のことだった、と、秋の風情を含んだ風が、語りかけて来る・・・そんな、情景と気持ちの重ね合わせが印象に残りました。 (Adieu...)

2017-09-01

なぜか、いつも月末に投稿されるエイクピアさん・・・ ~を付けたから/~を受け取る 文法的にも文脈的にも違和感は無いのに、なぜ、「自他の区別を付けた」から、なのか、なぜ「雨の降る森」なのか、「報酬」とは何か・・・など、なぞだらけ。 謎だらけなのに、言葉のリズムで❝読まされて❞しまう、不思議。 ユリア、わからなくて調べたのですが・・・「北斗の拳」の登場人物、でしょうか? 私は見ていないので、具体的なイメージが湧かないのですが、響きから大人っぽい、しっとりした女性をイメージしました。ちなみに、ジュガール、もわからない・・・わからないけれど、間に合わせ、その場しのぎ、というような❝意味❞がある言葉のようなので・・・そんな❝意味❞を擬人化されたのかな、と拝察。 雨の降る森(もり)から始まり、激しく盛り(もり)蕎麦を降らせた、というエンディング。ナンセンスなようでいて、音で収束する遊び心、とでも言えばいいのか・・・ 自他の区別をつける、というところから、自意識と他者の視線を想起。他者(それも、憧れの人)の前で、〈盗人〉(ずるいこと、偽善、悪意を持った行為)はできない、という青年期の潔癖さのようなものを覚え・・・他方、〈小さな角を隠して〉〈役者のように報酬を受け取る〉と言ったフレーズから、他者を意識して自身の欲望(協調性を乱す欲望や、社会的には抑制しなくてはいけない欲望)を隠し、仮面をつけるように「自分」を演じて、〈報酬〉を受け取る、という自己批判的・・・自身を揶揄するような諧謔精神・・・に富んだ視線を感じました。 最近の「ラノベ」は、句点が無くてズルズル連なっているような文章、なのでしょうか・・・なんとなく、会話体が多くて余白の多いページをイメージするのですが・・・それとも、息継ぎする場を見いだせないような、そんな圧迫されるような感覚、なのか・・・。 〈女の心〉の収まり具合が何とも捉え難いのですが・・・それなのに、存在感がスゴイ。他者の視線に〈女〉を強く感じる作品でした。 (女の心)

2017-09-01

なんだか、辛口のコメントが連続してしまっていますね・・・ 一連目と二連目の対比が、とても面白かったです。記憶というものの曖昧さ・・・自分で「作り上げてしまったかもしれない」記憶、その言葉にとらわれてしまう、それ以降の人生。 さて、しかし、うむむ・・・順番、というのでしょうか。 例えば、冒頭部分、〈私の記憶が正しければ〉と、まっすぐに語り始める。意外性があるのは(読者が、え?と驚かされるのは)「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」という、学年主任の言葉、ですよね。この衝撃的な一言が、前後の文脈なく、どん、と出されて・・・読者が、え?何?どうしたの?と思っていると、次々に、これが実は学年主任の言葉で、しかも卒業式当日に放たれた言葉、だということが分かって来る・・・という展開であれば、この時点で、読者の中における「驚き」の連鎖と、作者の伝えたい驚きや怒り、衝撃の連鎖、が、同じ速度で、同じ順番で進んでいくわけです。〈いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか〉という独白部分は、読者が作者と同様の進行で情景を「体験」していれば、自然に生み出されるものですから、書かなくても伝わる。それをあえて書いてしまうと、なんとなく「あたりまえのこと」を、言われているような、気がしてしまう・・・のではないか、と感じました。 成績、が良いことが、果たして社会的に有用なのか。社会的に有用であること、が、そく、人間の価値、に繋がるのか。 ひとりひとりの「人間」を育てるべき学舎で、お前たちは社会の歯車に成れ、機械になれ、と申し渡される。そのことを自慢げに語る教師。そのことに、怒りや疑問や理不尽を感じる語り手と、当然のように受け入れている(問題にすらしていない)周囲の友人たちとの齟齬。その齟齬が生み出す孤独・・・ この一連目、あるいは二連目を掘り下げて行くことができたら、とても魅力的な作品になるのではないでしょうか。三連め以降の様々なエピソードも、ひとつひとつの事柄の背後に、感情の起伏があるはず。その感情の起伏が、どのように起こったのか、という「進行過程」と、出来事がどのように起きたのか、という事実を叙述する過程は、異なると思います。その意味では、エピソードが盛り込まれ過ぎていて、一連目で言いたかった感情、が、薄れてしまう(そんな風に受け止められてしまう)のではないか、と感じました。 たとえば(荒川洋治が、散文と詩文との差異について、言葉の語順が生み出す効果についても書いていたように思いますが) あの丘の上に見える、白い壁の、赤い屋根の家の窓辺、その家の中に、君は閉じ込められていた。僕とは会わせてもらえなかった。という説明的な文章があった、として・・・その時の「僕」の感情の起伏は、このままでは、なかなか伝わりにくいのではないか。でも、 光が僕を射抜く 痛い! 跳ね返される光 窓だ、君と僕を隔てるガラスが 僕を遮る 近づけない、 白い壁 岡の上の 昇りつめた先の あの、赤い尖った 鋭利に青空を裂く屋根の下の・・・ というような感じに(私なら、ということですが)書き換えていく、かもしれないなあ、そうすると、その時の「僕」の切なさや、どうしようもない、というジレンマのようなものが、より、切実に他者に伝わるのではないか・・・などと、思いました。あくまでも、ひとつの例、なので・・・ほかにも、色々な(説明しすぎない)書き方、感情の起伏が素直に伝わるような(論理的な順番は無視したとしても)書き方、などを、試してみると良いのではないか、と思いました。 (ときどき人に話すこと)

2017-08-30

〈わたしには拇指か人差し指がない〉拇指がない、とか、人差し指がない、ではなく。 印象的で謎めいた立ち上がりですね。お父さん指、お母さん指、と重ねて読む、のか・・・親指を立てる(人を馬鹿にする)、人を指さす(中傷する)ことがない、のか・・・そして、〈余分なもの〉とは、何か。 ~だけ/なのか という、自分自身への問いかけが、ある種、とぼけた味わいになっていて、重さに沈んでいく一連目を軽く仕上げている、と思いました。 掛け声をかけながら、むりやり運んでいかねば進まない体。踏切を前にして、飛び込んでしまいたくなる衝動・・・その衝動の恐怖と、ある種の高揚感に、生理的に反応する肉体、そんな若い男性の生理に、嫌悪を抱くような感情・・・(黄色く汚れたのか、白く汚れたのか、で、また捉え方が異なって来る、とは思いますが・・・) 最終連から、中学生か高校生(低学年)を連想しました。(作者が、ということではなく、主人公の年齢設定が、という意味です)大切なものをつまみあげる、親指も人差し指もない、のか・・・〈余分なもの〉とは何か。 読者に含みを持たせている、とも言えますが、あえて曖昧にぼかして書いている、というような、未消化な感覚を受けた最終連でもありました。 (拇指)

2017-08-30

題名の切実さ、重さと・・・内容との「ズレ」に、ほっとするというのか、戸惑うというのか・・・ リズミカルに刻まれていく音感は、中也的な軽やかさを持っていますね。中也の泥沼のような重さの中から、あの軽さが生み出された、ということを考える時、リズムの軽妙さが、作品が重さに傾くのを防いでいるのかもしれない、と思いました。 〈ふとした瞬間の遣る瀬無さ〉といった漠然とした感覚は、「漠然とした不安」にも通じるような「死にたい、消えてしまいたい」なのかもしれませんが、忘れようとしても忘れることのできない〈あなたの掌〉〈誰かの言葉〉は、極めて具体的とも言えますね。その具体的な記憶が、語り手を「この世から消えてしまいたい」「ここから逃げ出してしまいたい」という思いに追い詰めていく、のである、としたら・・・そこに、何か切迫するような調子があってもよいのではないか、と思いました。 sonetiraさんの「少しだけアクセントとなるリズムの狂いもあったら」という批評も、そのあたりの印象に関わって来るのかもしれません。 〈脳髄の尻尾〉という表現、とてもユニークで印象に残りました。引きちぎってくれる、のを待つのか。自身で引きちぎってやる、という形で、押し寄せて来るもの、引きずり続ける不安、に向かっていくのか・・・握りしめているのは、自身のしっぽでもあるでしょう。そのしっぽが、震えていたのか、しん、と落ち着いていたのか。そんな「感触」を知りたいと思いました。 (希死念慮)

2017-08-30

一連目、音感から「うつ伏せに」で止めたのかな、と思いつつ。その後は何だろう・・・死体が水に浮いている光景、かな、そこまで描くのをためらったゆえの止め方なのかな、と思いました。 二連目の〈痛さでつらい/爪先立ちした彼女よ〉背伸びし続けたゆえに、心に痛みを負ってしまった彼女、とメタファーで読みたいのですが、すぐに〈交わりは〉という直接的な表現があるので、急行の中での立位の交わり、という、なんとも身も蓋もない情景を念頭に置くべきか・・・〈ウィラードが待つ光よ〉これも語感としては、非情に「かっこいい」のだけれども。唐突感が否めない・・・前半部分に、〈ウィラード〉が呼び出される伏線があればよかったのかもしれない、と思いました。 最終連は、列車がスピードを落として止まる、その過程と作中人物の呼びかけとを重ねた、のであろう、と思いつつ・・・ここをもう一工夫しても良かったのではないか。きさま、という、くだけた乱暴な物言いとサマーバケーションの軽さ。傷口とか絆創膏といった、メタファーというには、いささか安易なのでは?という小物、到着するのは(二人の)傷口(傷口駅)と駅員がアナウンスしているような表記の仕方。 どうすればいいか、と問われると、とっさには思いつかない、のですが・・・この、最終連・・・列車の停止音が、そのような「言葉」として聞こえた、としても。もう少し、なんとか、言い方を工夫できないか・・・というところが、気になりました。 (夏のハルディン急行)

2017-08-30

最初に、質問・・・「誰でもあってもよさそうな」誰であってもよさそうな、ではなく、誰でも、なのでしょうか? 全体の構成が実に巧みですね。夢と現実の層が何層にも重なっていて、しかも心の内部にまで(まるで女性器の中に指を差し入れられるように)官能ではなく、忘我を強いるような・・・〈僕〉の意識を眠らせる、〈実在の核心〉が生々しい。自身の意識を封印する(抑圧する)自意識の化身であるように感じました。 冒頭のシーンが印象に残ります。ドクダミが最初に喚起するものが、臭いではなく、無数に折り重なった〈白〉。十薬、馬に食べさせると十の効能があるとされる、十文字の草。その花が、十文字の道を過ぎたところに、繁茂している。 剃刀を喉に当てられている、という情況で見る「夢」なのか、「記憶の反復」なのか。自分は、その呪われた(祟られた)家系に属する者なのか? 〈数日前〉の床屋での夢想と、その夢想が〈未だに心身を蔽い、僕の意識は朦朧としている〉今。今、〈僕〉はその家の前に立っているのか?〈苦く臭う草むらの向こうの大きな木造平屋建。いつしかそこを垣根の隙から覗いていた。〉ここで、ようやくドクダミの「臭い」が鼻に届く。しかし、実際にその場に居た、というよりも・・・生霊のように自身の肉体を抜け出し、呪われた家を覗き見ている、という幻影に取り込まれている、と読みたいような気がしました。臭いが漂ってきている時点で、現実世界よりも夢想世界の方が「現実味」を帯びている、としても。 〈僕はほんとうに生きてここにいるのか。〉問いかける時の肉体は、床屋の椅子に腰かけているのでしょう。けれども、床屋の話(鏡の中から聞こえて来る、と言い換えてもいい)に取り込まれ、意識はすでに祟られた家、に飛んでいる。 最後まで、〈僕〉は床屋の中に居て、意識だけが肉体を抜け出して、床屋の話に触発されて(嫌でも)想起させられた、祟られた家、に飛んでいる。そんな魂の出入りを、魂の側から描写したら、こんな摩訶不思議な(一見すると入り組んだように見える)散文詩になるのかな、と思いました。 〈僕もまた不信という靴を履き、絶望のバッグを肩に掛けよう〉この一節は、型に決まり過ぎている、という印象もありました。 謎めいた家系への興味が掻き立てられ、出生の秘密にも届きそうなのに、〈僕〉が淡々としているのは、どうしてなのだろう。そこにも自己抑制、抑圧をかける白い指の力が、働いているのか・・・知りたい、のか、知りたくない、のか。その振り子のような曖昧さが、 〈そんな気がする。  そんなでもない気もする。  どちらでもない気もする。〉 と、投げ出されたようにそこに置かれている。途中で「知りたい/知りたくない」を放棄した、ということなのか。曖昧に投げ出されることによって、当人の抱いた切実な感情を訴えた「うた」、ではなく、床屋の話に喚起されて、因習に閉ざされた祟られた家の記憶の中に入り込んでみた、という体験記のような印象を受けます。 ああそうか、だからこそ、題名が 僕の「体験」となっているのか、と、今コメントを書きながら思い至ったのでもありますが・・・ 〈僕〉がそこから逃れたいのか、囚われたいのか、どちらかわからない。その煮え切らない感じが、どうにも歯がゆいように思ってしまうのですが、その停滞感というのか、揺蕩っていて、決めかねている感じ、が作品の特質でもある。個人的には「どっちなのか、決めてほしい!少なくとも、決められない自分、に対して、もっと葛藤してほしい!」と思ってしまいますが、それはそれ。 その葛藤の手前で「ゆらゆら」と体験している、肉体を出入りしている、その感覚が鮮やかに切り取られた作品だと思いました。 ( 夢の中で何度も繰り返しながらその都度忘れてしまう「僕」の体験)

2017-08-30

以前、血だまりの中で目覚めると、首なしの男がウロウロしている。前夜、男に頼まれて首を斧で断ち落したことを思い出す。さて、この男に、今朝もまた、首を選んでやらなくてはいけない・・・という詩を書いたことがあって、読んだ人皆に「こわい」と言われたのですが(笑) 心理的な葛藤をリアルに描こうとすると、映像が怖くなる、ということは、多々あるような気がします・・・ 男は女によって足(自力で歩く行為)を奪われ、女は自ら捕らわれの身となって男に奉仕する。ある種の共依存の関係が、ここには展開されているような気がします。 あなたが居なくては生きていけない・・・そんな情熱的な恋愛、忘我の極致に到るような恋愛は憧憬の対象であるけれども・・・実際にその泥沼に陥った時、そこから先は、既に生存の道も閉ざされてしまう。そんな瀬戸際を共有した瞬間の二人の胸中を描いているように感じました。 物語の中でだけ、その「忘我の極致」を体験出来たら・・・あるいは、二人っきりでいる時「だけ」その秘密の時間を共有出来たら・・・そこから戻ってこれなくなる危険は無いのかもしれませんが、それがリアルの生活を侵食し始めたら、大変ですね。そんな危うさを秘めた関係を(特に最後の一連から)感じました。 (愛の名前)

2017-08-27

細い細い光を3本・・・さりげなく、実景のように書かれているけれども、過去、現在、未来を射抜く光、なのかもしれないな、と思い・・・冒頭から繊細な手つきに唸りました。 〈美しい花は全部散り散りに破いて~〉この、一気にほとばしるような一行が印象に残ります。唄でいうなら、サビの部分? 未来の破たんを予感しつつ・・・お化粧が濃いよね、というフレーズの軽さを考えると、これは架空恋愛なのかな、と思ったり・・・。 美しい思い出だけを残して、全てを(事前に)棄ててしまいたい。そんな未来を憧憬しながら悲嘆するという、不思議なジレンマが歌われているように感じました。 (未来の)

2017-08-27

印象的な作品ですね。言葉を削る、というのか・・・抑制することによって立ち上がって来る緊張感。 私は虐待を受けた人の気持になって(寄り添って)故郷からの旅立ち(自己解放)を歌った作品のように感じました。 赤、という色・・・赤で区切られた結界、禁忌。卑俗なイメージで、よく赤い腰巻などが出てきますが・・・寺山修司の描く赤、とか・・・旗、と書くことによって生まれる共産圏のイメージと、歪んだ共産主義の抑圧のイメージも、確かに重なってきます。 survof さんも上げている、言葉の区切り方、改行の仕方が生み出す呼吸のようなものが、躊躇いや、言葉を発する時にかかる圧力を暗示していて、余白で語る力を持った作品になり得ていると思いました。 (手を振る)

2017-08-27

麻痺、礼儀、ドキュメンタリー、罪、人間味・・・い、の音で終わる行が連なって生み出す流れを感じます。 一行詩の連作、とのことですが・・・確かに、全体の流れはあるのに、その行間が広すぎて、ついていくのが大変、という感覚はありました。 人間味、食べていく汚点・・・生きて行くために食べる、という行為が繰り返されるわけですが、実際に「食べる」ことと、人を喰って生きて行く、というような、比喩的な意味での「食べる」こと、両方を含めて、そのことに汚点を感じてしまう、そんな潔癖さ(青春期特有のもの?)を感じました。 感覚を先行させることはとても重要だと思います。 思うけれども・・・せっかく、無制限のワルツ、〈上書きされる〉生、を見出しつつあるのだから、そこを攻めていってほしいなあ、という読後感を持ちました。 〈実況は望まない本来の礼儀〉が、冒頭の〈器用に人間味 私の礼儀〉に還っていくのであれば・・・これは、花緒さんが呼ぶところの「ループ詩」の一種なのかな、と思いつつ。 しばらく麻痺、した感覚の中から、これを言いたかったんだ!というものが表に強く出て来るといいなあ、と思いました。 (しばらく麻痺)

2017-08-27

〈西の方角を頻りに示唆して〉死の安楽の地を示唆する景色を目にしながら、語り手(主人公)は〈不死と成り果てた身〉を引きずって奮い立たせて、生き続けなくてはならない。なんと残酷な運命なのだろう、と思いました。〈遠い一点から呼ばれる声を〉待ちながら、何度も何度も、生き返って闘わなくてはいけない・・・。 最後に〈滑らかな木のような女が音もなく滑りでて/その無垢な首筋を横からやさしく抱いた〉という一節が置かれることによって、この不死身の戦士の苦悩は、少しは報われるのではないか、と思いました。 (神話の果て)

2017-08-27

〈待つ人は疎らで、降りる人ばかりがやたらに多い。〉のは、哀しみを引き受けて旅立つことよりも、そこから下りてしまうこと、抱えていくのを放棄する人が多い、ということなのかな、と感じました。 群衆の中の孤独。生きている、ということが、必然的に引き受けなければいけない孤独。それを淋しい、と取るのか、自由、と取るのか・・・。失われた片割れを追い求めるというイメージは、あるべき自分と今ある自分の乖離でもあるでしょうし・・・1と9、かけ離れているようでありながら、すぐ隣り合う不思議、生と死、始まりと終わりが、同じホームで連結されている、そんな不思議も思わせます。 〈小さな切符〉と〈大きな決断〉。それは、詩を書く、という切符を手にした、たくさんの〈君〉への呼びかけでもあるのかもしれませんね。 〈もうすぐ、君の到着する時刻だ。〉で止めず、さらにその先の希望というのか、期待を記すあたりの・・・そのこころ、を知りたくなりました。 (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-27

〈芽が伸びつづけるのをそのままに〉とか〈左半身を植える〉といった植物的なイメージと、声、音(音楽)のイメージ。そして、猫?のような、獣に変容(なり切る)するイメージ。 〈写真は色つやが褒められるから〉〈手製のジオラマから〉写真のイメージもありますね・・・ 困惑させられつつ、言葉のリズムで読まされてしまう。迷路に迷い込むような感覚がありました。 蝙蝠の持つ、二重生活者的なイメージ(鳥でもなく獣でもなく)、嚙み殺す猫の牙と、そこから滴る血痕の鮮烈・・・。 ちょっと織り込み過ぎたのか?という印象もあります。断章的な映像の連続と、音の心地よい連鎖が印象的な一作。 (変調)

2017-08-27

〈肩書は成金税金騙し 駒が金になるが如くいとおかし 駄菓子をばら撒くような言葉〉 このあたりは、きれいごとばかり並べたてる選挙演説への痛快な一発という感じで、現代社会への小気味よい批判精神を感じました。その後の 〈垂れ流す曲は 「耐えがたきを耐え、忍びがたきを…」 40s,詞に抑圧された記憶 80s,詞で踊らされた記録 なぁ似非ロッカー なぁMISS DJ 君らには魂があるのかい そこに自由はあるのかい?〉 このあたりは・・・日本の「ロック」の歴史に詳しくないのですが・・・通俗的な似非ロッカーや、今までの歌詞全般に対するエネルギッシュな反発を感じました。 言葉に勢いがあって、ガツンと揺さぶられる感じがとても面白かったです。 ちょうど、ボブ・マーリーやダニー・ハサウェイの話を聞いてきたところでもあったので・・・植民地支配に対する抵抗や公民権運動などの中から出てきた破壊や反発のエネルギーとか、陽気さや高揚感の中で徹底的に宿敵をディスるような展開とか、単純に徹底攻撃するだけではなく、ウィットを聞かせてどこかに救というのか、ユーモアに逃すような逃げ道を作るあたり、などの「言葉のエネルギー」について考えつつ。 日本、で、そのエネルギーを発生させること、維持すること、その難しさについても考えていたところだったので、このエネルギッシュな作品には驚かされました。 (監獄ブルース 脱獄ロック)

2017-08-27

光と音。 題名からイメージするのは、花火、雷、爆弾・・・ 〈この世界を満たす〉この幸福感のある語感からは、花火を思ったのですが、続く詩行の〈怒りに心奪われ/悲しみに声張り上げる〉ここから一気に、爆弾のイメージに転化しました。 あれは  あれは 詩    歌 唄い   詠い 世界を揺るがした この、ある種ロマンチックな把握の部分を、どう読めばよいのか・・・歌、唄の原初は、神仏への訴え、心の叫びである、と聞いたことがあります。人間の悲惨、不条理、苦悩を「うったえる」うた、である、のか・・・。 原爆に対する、戦争を終わらせるための必要悪であった、という立場と、人類、そして歴史に対する、言語道断の罪である、とする立場、その両極に引き裂かれた「人類至上初」の悲劇のことを想いながら・・・そうした、政治的な「うったえ」ではないのだろう、と思い・・・ 内容の重さ(兵士が 民衆が 政治家が/沈黙の声を上げ)(なくなった者と残された者の/呪いを/発して散ったそれ自身の/悲哀を)に対して、従来、用いられてきた「うた」の言葉の軽さ、を考えます。 鎮魂の祈りが、本来のうた、であるのかもしれない。恨みや憎悪を鎮める、それだけの力が、本来の「うた」にはあったのかもしれない。そんな本来の歌、に対する希求なのかな、と思うのですが・・・ 閃光と爆音に衝撃を受け、それもまた「うた」なのだ、と自身に言い聞かせながら、〈なくなった者と残された者の/呪い〉が鎮まるのを祈る、そんなイメージで読み終えました。 うた、を二つに割くように置く。この配置が、果たして効果を得ているか、否か・・・。 他の読者の意見も伺いたい作品です。 (光 音)

2017-08-27

〈血流のような真実となってみるものの血に乗り移ってくる。〉 これは批評文の中における「詩的」な感受、詩として感覚された部分、ですよね。感動を体感的に伝える部分。観客の血が滾り立つような感覚、と言えばいいのでしょうか。 文字に、いわば凍結されている演劇を、蜷川の演出が解凍してなおかつ火を入れて、観る者の血に乗り移る、までに高めてくれたことへの賛辞であると共に批評でもある。 こうした「生きた言葉」が、説明的な批評文に命を吹き込むのだと思います。 〈どんな悲劇もまさしく成就なのだ。観客は故しれぬ爽快感の中で、自己の魂と向き合うことになる。〉 ここは、「ギリシア悲劇」そのものに対してアフォリズム的に射抜いた部分ですね。 〈「王女メディア」はギリシアの三大悲劇詩人のひとり、〉ここから後の部分は、いわば純粋な批評というのか、作品紹介(本人の感想、批評、含めた)部分なので・・・その前に破線とか*とか、何か区切りを入れた方がいいような気がしました。 前半でテクストを演じる、とは?「ギリシア悲劇とは」?とガツンとつかんでいる、ので、そのつかみの部分を際立たせつつ、後半の各論に導く、というような、視覚的な仕掛けがあると良い、と思った次第。 (<演劇「王女メディア」>)

2017-08-27

〈私は救われたと経験としての事実がある〉この、回りくどいような行が面白い!あえて引っ掛かりを作ろうという部分なのか?と思うと同時に・・・ほかにこんな言い回しが無いので・・・という経験としての事実、とか、なにかそんな「言葉抜け」があるのかな、とも思いました。 〈この世を恨もうとして〉〈死の世界にやってきた〉〈私〉に〈懸命に呼びかける声がする〉この声は、どこから、聞こえてくるのだろう。もしかしたら、〈重たい荷物〉そのものが〈私〉に呼びかけているのかな、という気もします。 〈鳥よ渡れ時を翼に乗せて〉ここから先は、いつもの(というのも変な言い方ですが)黒髪節というのか、黒髪スタイルで言葉が繰り出されていく、歌っていく部分。前半の、生きるための重荷のようなものを、あえて引き受けてこの世に帰ってきた、という(比喩的な)死からの生還の部分は、比較的叙述的で情景が良く見える。 〈鳥よ渡れ~〉の部分と、前半部分との間に一行アキやアステリスク(*)などを置いて、二部構成にしてもいいかもしれない、と思いました。 最後の〈ハッピーケーキ〉は、新たな生を祝福する誕生日ケーキ、なのかな・・・生きる選択を引き受けることは、捨て去りたい重荷を引き受ける事、でもあるかもしれないけれど・・・そして、その重荷は自分自身に関わることであると共に、他者に関わる、自分ではなんともしがたい事柄、であるのかもしれないけれど・・・他者の物語をも、自らの物語(人生)の一部として生きて行くことができたら。 重さ、が、充実、に変わるかもしれない。そんなことを思いました。 (嬉しい荷物)

2017-08-27

分裂した眠り、希望も欲望も抱き得ない〈僕〉が居る場所はあるのか、〈僕〉を包み込む世界はあるのか・・・ という問いかけが根底にあるのかな、と思いました。 突然出て来る〈彼らの星屑〉。星屑、は、前連の〈宇宙〉から引き出されたものであると共に、もしかしたら・・・欲望(ほしい)から引き出される言葉であるのかもしれない。それにしても、いきなり〈彼ら〉?といぶかしんだのですが・・・なるほど、すぐに〈僕〉が現れる。彼らと僕、その三角関係をイメージすればいいでしょうか。 〈皮膚の下に潜む殺害をいなすので精一杯〉、自身の裡に潜む殺害衝動のようなもの、そうした暴力性を抑え込む、往なす、散らす、ので精一杯という感覚なのかなあ、皮膚の下に、という言葉のリアリティーが真に迫ってきて、とてもよい表現だと思いました。 〈鍵をかけて 魂の無心はもう要らないね 強奪だけが残された道だろう 絶望していないことに軽い絶望 さえ無くなって 僕はよく笑うようになった〉 そんな〈僕〉の気持に鍵をかけて、〈君〉を〈強奪〉することだけが最後の希望、というような文脈に読めるなあ、と思いながら・・・果たして、作者はそのような「意味」や「ストーリー」を描こうとしているのだろうか、という疑問を覚えました。これは、作者に対して、というより、自分自身の「読解」に対する疑問でもあるのですが。まあ、文脈を追っていくと、そうした物語、として読みたくなる。最後に、撃ちころしてくれ、と頼むのは、〈僕〉なのだろうけれど・・・〈僕〉と〈君〉を殺して、なのか、〈君〉を含めた〈彼ら〉を殺して、なのか、〈僕〉と〈彼ら=天使〉なのか・・・などと考え込んでしまいました。 言葉のリズム感や勢いで進行する作品であり、意味よりも瞬発力やキツイ音の流れ、柔らかい音の流れ、といった「うねり」のようなものにのって読んでいく作品なのだろう、と思いつつ・・・彼らと僕の関係性が、最後まで気になる作品でもありました。 (sleeps)

2017-08-27

詩論、って、なんぞや、ということにもなるのですが・・・自分にとって、詩とはなんぞや?と問い続け、書き続け、これが「詩」である、と規定されるものの枠内に収まりつつ独自性を発揮するのか、そこから逸脱し続ける孤独な道を選ぶのか、という選択を迫られる・・・ということでもあるでしょう。 上達したのか、と他者に問う時点で、口語自由詩100年の歴史の中で、なんとなく、これが「詩」である、と規定され、認知されている枠組みにおいて、うまくなってる?と問いかけているように思うのですが・・・ 〈もう一度、狂気を書きたいと思う。偽りの狂気で終わってしまっても、〉この一節が明確に自覚されている時点で、旧来の枠組みからは逸脱してやるぜ、という意識も垣間見えるのですね。そこに矛盾を感じました。 書いても書いても書いても、とらえられない感情を、これでどうだ!と他者に向かって突きつけていくのか・・・自分が忘我の境地で迷い込んだ異界での体験を、持ち帰って「こんなところがありました」と提示するのか・・・ 自分で自分の成長記録の為に(自己認識の文字化のために)「作品」を書くのであれば、日記や創作メモで良いわけです。草稿を提示する必要もない。 狂気、その姿を捉えることが、俺にとっての詩なんだ!・・・ということなのか、自ら狂気の域に達して、憑かれたように書きまくる、それが、俺にとっての詩なんだ!・・・なのか。 「美しく発狂した」という過去の名フレーズを、果たして超えることができるのかどうか、そこに、詩史的な意味での「上達」がある、のかもしれませんが・・・自分自身を否定し、殺害し、また再生させて乗り越えていく、そうした狂気じみた行為の中から出てくるものを読みたい、書きたい、ということであるなら・・・(なんだか仮定ばかりの文章になっていますが)やはり、これは詩論だな、と思いつつ。 前半部分の、やたらに丁寧な「説明」部分、やっぱり、いらなかった、ような、気がします・・・ (詩論:再び偽りに終わったとしても)

2017-08-26

〈花がないかも知れない浄土が見えた、〉生真面目?な、魂を引き絞るような深刻な叫び・・・なのかと思いきや、ちょっととぼけたような(そして、苦笑する他ないような一抹の寂しさ、悲しさを含んだ)ユーモアのある一行が挿入される。 全体のリズム運びが、生き生きしていて楽しいですね。〈僕は労働、ロックンロール、〉ろ、と連なっていく響き。 〈死んだ男達がもう一度語りかけてくる庭の裏、〉という、少し異界に踏み込んでいるような場所のイメージ、泥、そして花、と繋がっていく、飛躍しているのに無理なく読者を運んでいく連想。睡眠をすら忘れて踊り狂う、歌い狂うような狂騒を思わせながら、同時に〈治りがたい歯痛〉なんてユーモラスなフレーズを差し入れていく感覚が、適度に日常から離れない距離感を保つ効果を出していると思いました。 〈それは脳、かもしれないぜ。〉それはノー、かもしれないぜ、とも読める、面白い一行。〈真実をなじめせた絵具で壁に絵を画く。〉なじませる、でしょうね(水星さんが引用していらっしゃるように。) 迸る感情が、壁に描き殴る花(花火のような?)のイメージとして伝わって来るように思いました。 〈難破船は行ってしまった、〉ここで止めてもよかったのでは?という読後感を持ちました。私の勝手な感想ですが・・・。難破船からスカルの連想に飛ぶのでしょけれども・・・スカルの音から〈受かる〉につなげるあたり・・・書き手にとって切実な部分であるのか、切実だからこそ、笑い飛ばしてしまえ、という諧謔なのか、単に音つながりの言葉遊び、的な軽さに持って行きたかったのか・・・〈あくるんです〉これは、あるくんです、なのか、ということも含め・・・本格的な運動のあとのクールダウン的な意味での「軽さ」なのか、勢いで(惰性的に)つなげてしまった部分なのか、重くなった全体を軽さに収束させたかったのか・・・というあたりに、若干の戸惑いが残るラストでした。 (ローリン、ローリン)

2017-08-26

二個優さんの作品を拝読したあとにkikunaeさんの作品を拝読して・・・同じ「煙草」なのに、こんなにも捉え方が異なるのか、と驚きました・・・と書き始めて。紫煙=煙草の煙、とは言い切れないのではないか、という感触を持ちました。 文字通りの、紫がかった煙、なのか・・・ 〈吐き出された血は/歪な球形をなして/果てない宇宙に散らばり〉煙草の煙、という前提で読むと・・・たとえば二個優さんが、吐き出された魂になぞらえているけれども・・・自らの血(いのち)を吐き出す、というような、壮大な比喩とも読め・・・壮大すぎて、ちょっとデフォルメをやり過ぎているのではないか?という気持ちになるのですが、他方、激しく閃光を発して、紫がかった煙が視野全体を埋め尽くすような、世界崩壊の瞬間に立ち会っているようなイメージを表現したかったのである、とするなら・・・千々にちぎれて宇宙の一部として溶け込んでいくような肉体と意識の中で、もうもうたる煙の中に飲み込まれていく、最後の視野に写った光景、に見えて来る。 ドラマティックな悲劇の死に共感し共振した書き手の心が、素直に描かれていると思いました。 (紫煙と咲く花)

2017-08-26

〈まあるく・・・流れてく〉ものと、〈四角いアパート〉〈正方形の生活〉との対比。まる、は、正方形に内接しているのか?収まり切れずに抜け出していくもの、そこに自身の意識が乗って行くのであれは、〈正方形〉の内側には空虚が残る。都市生活者の、漠然と捉え難い疲弊、杓子定規のルーティンワークからの離脱願望のようなものを、幾何学的なイメージでとらえているところが面白いと思いました。 魂は何グラムか、という「実験」について、しばしば言及されますが・・・〈吐き出た魂/何個分〉という、いわば〈魂〉の軽さ(実際にあるかないかわからない、というような意識を、ユーモアで置換していく筆触の軽さも含めて)について言及しているところに、むしろリアリティーを感じます。 無数の大衆、無数の群衆の中に埋没しているような自分自身の捉え方と見ればよいのでしょうか。〈ほこりのようなわたしのたましいと/けむりのようなわたしのからだ〉埃のような/誇りのような 両方に読める部分ですが、そのすぐ後に〈けむり〉と続くので、〈ほこり〉は埃にしか読めなくなってしまう・・・意味が限定されていくことで見えて来るもの、せっかくひらがなで表記しているのだから、詩のテクスチャーとしての柔らかさだけではなく、音の響きが引き出す意味のズラシ、といった効果を、もっと上手く使うことができたら、面白さが増したようにも思いました。 吐き出す煙のように頼り無くて存在感が希薄で、でも、まあるい、やわらかい、直線や角を持った生活に規定されない、ゆらぎたつもの。そのものが収まっていた肉体を養う〈食事〉の写真で、日々の記録を重ねていく意識。 〈荷物になった気持ち〉とは、体を侵食していく気持ち、肉体を煙のように希薄にしていく気持ち、なのではないか。そんな煩わしさを吐き出して、〈食事〉で日々を埋めていく。仮の充実かもしれないけれど、都市生活で侵蝕されてしまった肉体を補っていく行為なのかもしれない・・・そんなことを思わせる作品でした。 (正方形の生活)

2017-08-26

〈発送源の動画〉発想源、なのでしょうけれども・・・あくまでもそこから「ヒント」や「着想」を得た、ということであればともかく・・・見てみると、かなり多くの画像イメージを踏襲していますね。ここまで被っているなら、引用元とか、オマージュ、という形で借用していることを、添書きした方がよいでしょうね。無断借用とか無断盗用と判断される可能性があります。 画像データや、無料イラストなどをどこまで「着想」元と考えるか、これは今後のネット社会を考えていく上でも、大変大きな問題だと思っています。絵画作品などに関しては・・・本人が「無断盗用」の意識が無い場合は特に・・・出版の際には、誰それの作品にインスパイアされた、とか、誰それの〇〇という作品に着想を得た、などと注記を付けるように助言していると思います。可能な限り、著作権者に確認を取る、などの対応もしているはずです。 投稿掲示板の場合、読者に先入見を与えたり、いわゆるネタバレさせないために、あえて隠す、ということもあるのかもしれません・・・その場合、コメント欄などで(今回のように)ネタ元を明記すれば良いのではないか、とも思いますが・・・難しい問題だなあ、と、改めて感じました。 (三人の女―固定された視界にて―)

2017-08-26

survofさん 質感を感じていただけて、嬉しいです。生きている時は七色のセロファンのように輝いて空中を飛び交っているのに、捉えたとたんに灰になって崩れて吹き散らされてしまう・・・そんな美しくはかない生き物。言葉を、そんな風に感じることがあります。緑の沼の中で、揺らめきながら形をとる、のに・・・捉えようとすると溶けて消えてしまう、そんな得体のしれない怪物、のように感じることもあります。言葉って、不思議ですね。 (流露)

2017-08-26

るるりらさん ありがとうございます。意識的に「海」を描こうとすると海が逃げていくのに、海から離れたことを描こうとすると、海や川や泉のイメージから逃れられなくなる・・・不思議なものです。本当に書きたかったこと、は、たぶん・・・私の発した言葉が、傷つけたかもしれない人のことを思ううちに自分の心が腫れあがっているような気がしてきて・・・そんな「気がする」感傷に囚われている自分を洗い流してしまいたくて、どうしようもなかった、というような、ぐるぐる巡って答えの出ないようなところから、出てきたもののように感じています。そこを、上手く言えなかった、のだから、そこは片手落ち、なんですが・・・ (流露)

2017-08-26

sonetiraさんへ 流れるような感覚を味わっていただけて、嬉しいです。逆にいえば、その感覚以外のことを、いうことができなかった・・・中途半端なものでもあります。質感とか、言葉の響き、間合い、といったニュアンス的なことも考えつつ、もう少し中身のあるものを盛り込んでいきたいと思っています。 (流露)

2017-08-26

ハァモニィベルさんへ ありがとうございます。ううむ・・・燃え盛る炎の中で、彼女は何を思ったのか・・・それこそ、清冽な流れにオルレアンの乙女を静めて鎮めて差し上げたいですね。私は、逃げます(笑) (流露)

2017-08-26

ベルさんとふむふむさんの議論、分量、熱量、内容共に、非常に興味深く拝見しました。 ベルさん、「ふつーの国語力があれば」って、なんだか、反論されてムカッとして言い返したみたいな感じに読めましたよ(笑) 勢いで書いちゃったのかな・・・ ふむふむさん、たぶん、黄色であることは、無意識的な必然だったのではないかと、私は思います。ベルさんが教えてくださったような、文化的伝統も絡んでいるのかもしれませんが・・・穏やかで暖かい黄色ではなく、注意信号とか、蜂や毒蛇の黄色のような、本能的に危険と察知される類いの黄色。 その色が、全体を貫いていて、なおかつ、猿のイメージが鮮烈。これはやはり、ウサギや犬や猫ではダメだったんだろう、と思うし・・・その猿が、なぜ思い浮かんだか、作者本人にも明確な説明はなしがたいのであろう、と思います。 だからこそ、いろんな人の、多様な意見が読めるという掲示板って、面白い場所だな、と思うんですよね・・・ 自作について熱く語る作者と、これまた、自身の見立てや解釈や読み方について熱く語るレッサーと・・・でもって、それを拝読して、ほお、とか、なるほど、と思う読者と・・・三つ巴の熱量。おいしく頂きました❗ (黄色の足跡)

2017-08-22

m.tasaki さん 大海の中に取り残されているように感じる時も、川のせせらぎの中に立たされているように感じる時もありますよね。私は、目で見ている時はその感覚だけが肥大して、他の身体感覚が消えてしまう。触覚の時、聴覚の時、それぞれ、体が融けてなくなってしまって、感覚器官だけが残っている、そんな頼りない感覚を、しばしば覚えます。だからなのか、体の一部や器官を自在に取り外したり、置き直したりすることに、まるで違和感がない。ないから、当然そのように書く、のだけれど・・・その書き方に驚く方が多いです。皆さんは、いつでも自分の身体は一体としてとらえている、のでしょうか?感覚器官だけが特化して、闇の中に浮いているような、そんな頼りない感覚になることは、ない、のでしょうか・・・逆に知りたいです。 のどは・・・そうですね、なんであんな言葉を発してしまったのだろう、という悔恨の炎に焼かれている喉、ですね、たぶん。その痛みを癒してくれるのは、自分の感情というよりは、外から流れてきて、私の中を流れて過ぎ去っていく、他者の感情、なのかもしれない・・・そんな想いがありました。 (流露)

2017-08-21

花緒さん ループ詩、のようなものを書いてみよう、と試みて、書いてわかったことは、これはループ詩ではなく、リフレインである、ということです。なぜ、そう「わかった」のか、上手く説明できないのですが・・・〈流れていく流れ、は自己言及しているに過ぎない〉ということに、たぶん関連するのですが、そこに留まること、ではない。 音の反復は、ひとつの空間をぼんやりとたちあげる、その空気、のようなもの、なのだけれども・・・流れない流れは無い、と意味に換言すれば、まるで意味の無い繰り言になるわけです。たとえば、光る光、という言葉は成立するけれど、何を言及しているのか。光らない光はない。そう考えると、意味としては何も言及していない。でも、空気感は、音の響きの反復の中に、ぼんやりと気配を表す、というような・・・。 流れる、といったときに動き出したものが、流れ、と名詞で止められたときに生じる停止感は、たしかに澱みと受け止められるかもしれません。今回は、音の方を取りたかったので、こんな感じになりましたが・・・。動詞を名詞として用いる、名付ける、そのことが昔から気になってはいます。風、という名詞は、風るとか、風く、というような動詞にはならない。光は光る、と動詞がある。白は白む、明りは明るむ、と動詞がありますよね、どちらも変化を示す動詞。時間経過を示す、と言ってもいい。 たぶん、ですが・・・ループする時、無の空間に言葉で何かを立ち上げていく。そして、一巡した時にまた最初に戻り、そこからまた、新たに語り直す。その時、少しずつ位相がずれたりしながら、新しく立ち上げ続ける、という能動性が生じる。空間が螺旋状に、語り直す能動性によって埋め尽くされていく、感覚、がある、わけですが・・・ リフレイン、の場合は・・・すでに世界は流れているというか、詩的空間がそこにあって、既に「ある」ところに、「私」を持ち込む、そこで体験することを語る、感覚があるように思います。語りながら、回想地点に戻って、そこからまた、体験し直す、確かめ直す。その間中、その空間には、詩的空間と時間が流れている、あり続ける。言葉で作っていく、という能動性ではなく、既に在るところに、その場に体を持って行く、という能動性、のような・・・気がする、のだけれど・・・その体験を、リフレインを用いて、確かめ直す、というような。うーん、うまく、説明できていませんが。とにかく、書いてみてわかったことは、これはループ詩ではなさそうだ、ということです。 (流露)

2017-08-21

〈またお金が落ちる音がする、ちゃりーんと、それで幸せが得られるのであるならば、どのような労働であろうと文句を言われる筋合いはないから、〉お金で体を売る、買われる、ということを、積極的に選択するのか、必然的に追い込まれていくのか、ということもあるし・・・その結果として、ある種の諦念を噛みしめながら、お金で買われるのは気持ちがいい、と自己肯定する・・・というような印象の詩集を、ちょうど読んだばかりなので、どうしてもその詩集の作者と重ねてしまうのですが(もちろん、仙台とは関係ないし、この作品中の作者とも関係ない、でしょうけれども)・・・〈僕は教授に頭を下げて感謝をした、その時、地面に天の川は流れていなかった。〉実社会に定着して、安定して労働の対価としての金銭を受け取ることのできる教授と接している時には、地上に天の川は流れていない。〈美しい天の川に乗って、できるだけお金を落とす、ちゃりーんと、天の川を彩るために硬貨を落とす、そのために、今日も明日もおじいさんとおばあさんの話を聞く、ちゃりーん、ちゃりーんと、でも、天の川の美しさに誘われて、あなたの詩を、読みたい。〉話を聞く、という行為に、本来は行き交うはずのないお金の音が聞こえる。労働対価としてのお金ではなく、誰かの話を聞いた時に、何かがキラキラ輝きながら、お互いの耳の奥にだけ響く音で、ちゃりーんと響く、ような・・・そのきらめきが、地上に流れる天の川として、幻視されている、ような・・・そんな不思議な感覚がありました。そう考えていくと、お金で体を買う、買われる、という関係性の中にも、その人の心の声を聞く、というような、そんな「ちゃりーん」に匹敵する気持ちの交感のようなものが、あった、あるいはあってほしい、ということなのかな・・・。ムーミン谷のスナフキンを、なんとなく語り手に重ねてしまいました。他者の幸せを願いながら、放浪を旨として生きる人。 (星の誕生日)

2017-08-21

花緒さんの〈一連目から、鉄棒とエッチしている、など、不必要にリスクのある表現〉ここに同感。逆上がりとあるから、当然、いわゆる「鉄棒」のはずなのですが、この一行だけ見て連想するのは、上り棒と少女のエロティックな関係性ですね・・・でも、いわゆる前回りや逆上がりをする鉄棒、何ですよね。空を駆けあがる、というイメージと、何度も何度も密に取り組んで挑戦して・・・という、鉄棒との感応・・・を、このような砕けた口語で(しかも、小学生らしい女児の言葉として)表現することの不自然さを感じてしまいました。 普通、ってなんだろう。普通、でないから、弾かれる、虐められる、仲間外れになる、浮いてしまう、のか・・・ということは、「普通、そんなことしないよ」「普通、そんなこと考えない」と言われ続けた、私自身の子供時代に重なります。私はトイレに一緒に行く「おトイレ友達」のような不必要な「つるみ方」群れ方が嫌で、意図的に同級生の群れから外れていた、ようなところもありますが・・・本が友達、という、それだけでも「普通」ではない生き方を選択した時点で、クラスの大多数から浮いてしまうのも、仕方なかったのかもしれません。高校に入って、そんなタイプの子たちが同じクラスに沢山いる、という情況に初めて接し・・・まともに本の話をしても、煙たがられたり嫌がられたりしない、そのことがとても新鮮で嬉しくて・・・詩の投稿掲示板って、実社会で「まともに詩の話や本の話をしても、なんだか良くわからない、難しい、ジャンルが違う、と敬遠されてしまう」そんな人たちが、気楽に、気安く本や詩の話ができる場所、なんじゃないかな、と思うと・・・高校に入った時の解放感と似たような気持ちを思い出します。 全然、内容や文章に触れていないですね、批評になっていないですね・・・私も、誤字にはずっこけました。一気呵成に繰り出す新鮮さを保持しつつも、それを推敲していく過程が、絶対に必要だと思います。もちろん、いくら推敲しても、完成、には至らない、としても。 姉の目線で語る、のは・・・弟(語り手?)が謝られてしまった時の、その衝撃を思い出しながら、姉の心の中を辿り直す、そんな「他者に成り切ってその時を回想する」意識が働いているから、なのかな、と思いつつ・・・鉄棒ができるようになっても、弟が「いじめ」から解放されるはずはない、その無力感を知りながら、それでも、自分にできることを、なんとか・・・祈りのような気持ちで、やらざるを得ない、没頭せざるを得ない。でも、出来ない。できないから、君が苦しんでしまう、助けてあげられない・・・から、そこから絞り出された「ごめんね」なのだ、と思うのだけれど。〈鉛筆が転がるくらいの軽さ〉しかないのではないか。そんな想いが、弟の側にはしっかり深く刻まれている。そのことだけでも、〈姉〉には救いなのではないか・・・という気もします。 (世界)

2017-08-21

六連三連というリズミカルな繰り返し、〈ストレンジ・バタフライよ〉と呼びかける歌い出し。 歌詞の印象が強い、スタイリッシュな作品だと思いました。 三浦さんが〈少し醒めてしまう〉と感じたところ、私も同感です。直喩だから、ということ以上に・・・センチメンタル気分で、というような、音楽にのせて歌われたらしっくり馴染むような部分。文字で読むと、意図的に感傷的な世界を用意して、ほら、こんな感じを感じてよ、と手渡されてしまうような、ある種の強引さを感じる、と言えばいいのか・・・。 夜の蝶として〈悪びれずに〉飛んでいる〈君〉が、自分の思い通りにならない(というと変ですね。思いが上手く伝わらない)恋人や片思いの君、なのか・・・あるいは、親が娘を歌っている、設定なのか?小悪魔的に夜の街を飛び回る〈君〉を、ハラハラしながら見守るしかない〈私〉。〈とうとう脆くばらけてアスファルトの上/散らばった君の欠片をかき集め〉る〈私〉。もう立ち直れないほどに〈君〉は傷つけられてしまったのか、と思ったのですが・・・最終連で、〈私〉の足もとにふてくされて引っくり返っているようなイメージでもあり(それゆえに、親子という設定を連想したのですが)なんとなく、無事でよかったな、という読後感を持ちました。 (蝶と私)

2017-08-21

即興で作った、とありますが・・・なるほど、というべきか、ええ!びっくり!と言うべきか・・・ 右目はいらない、という立ち上がりの鮮烈さ。そこから連想される、それじゃあ左は・・・という思いの続き、なのでしょうか、いきなり今度は、心臓もいらない、と来る。せつなさやドキドキばかりを押し付ける、こんな苦しい臓器、いらない!という流れかと思いきや、今度は〈個体に縛られた葉は散る〉・・・この飛躍に驚きました。一本の樹木、あるいは一本の草花のような、語り手の❝身体❞の把握。 そこからの飛躍・・・〈喜びの肌触りは子宮という宇宙/創作と誕生〉このあたりから、若干、観念の方に偏ってしまった気がします。肌触り、という感性主体の進行が、〈子宮という宇宙〉詩の創造と身体の創造、創造という宇宙、といった観念世界に拡散してしまう。 〈まだ産まれて生きて書く前に/違和感がないのに幸せなのに/何も得られない〉この感覚は新鮮でした。書く、ことで語り手は「生きる」実感を得る、のだろうか・・・書くことをしなくても、違和感がない。充分に幸せ。それなのに、〈何も得られない〉という飢えの感覚を覚えている。 〈何も縛られない〉この縛る、という語感が〈個体に縛られた葉は散る〉とを連結させ、言の葉、言葉を想わせる。 残された左目で〈ウタウ〉ということ。世界の叡智を得るために、片目を差し出す神話がありますが・・・痛みと引き換え、そんな覚悟というより、右目いらない、心臓いらない、という軽やかさの方が先に立つのが面白い。 子宮に遊泳・・・これも「生み出すもの」「作りだす場所」といった、観念的な子宮を持ち込んできている印象を受けます。僕、と単数ではなく、僕ら、としているゆえに、観念世界に引き寄せられているのかもしれないですね。個としての〈僕〉にどこまで引き付けて描いていくことができるか。そんな視点で考えてみるのも良いかもしれません。 創作するぞ!という、意志が軽やかに踊っているような、そんな読後感でした。 (ウタウ)

2017-08-20

長いなあ、と思いつつ、明快な口調のリズムゆえか、最後まで飽きずに納得しながら読んでいました。 しいて言えば、最後の一行は必要か?ということと、句読点をつけた散文形式にして、 〈視界を司る私はそれを理解している〉までを一連、〈私は知って理解することができている〉までを二連(仮に) といった形にしてみると、また異なった印象で(ヴィジョンの解説譚のような)読むことができるかもしれない、と思いました。ひとつの案に過ぎませんが。 三人の女性、というイメージは、少女、壮年、老年と示されることが多いようですが、ここには老年が出てこない(笑) 〈高校生の雰囲気を持つ奥の女は世界樹かの如くおそろしいほどに巨大〉この異様な肥大というのか存在感のようなものが、語り手の青年の意識を占めている意識・・・憧れつつ畏れる、というような・・・を体現しているようにも思われ、興味を惹かれました。「おそるべき君等の乳房夏来る」という三鬼の句に通じるものを、この女子高生的女神?の描写に感じました。 三美神などのように、繰り返し描かれてきたイメージでもあり、そこに〈それぞれがそれぞれに美しい存在だ〉と結語を置く必要があるのか、既に作品中で、しつこいほど丁寧に語られているにも関わらず・・・ということが考えます。 (三人の女―固定された視界にて―)

2017-08-20

都市生活で疲弊した語り手・・・他者の気持を慮ったり、唾を吐きかけられたり(そんな痛罵を浴びせられたり)する日常から、一瞬、魂だけがアフリカのサバンナに飛び、思いっきり大地を掴んで駆け抜けていく・・・そんな夢想全開、という若々しさを感じました。 大地に感じた〈いとおしさ〉。その感触は、なぜ、愛おしかったのか。懐かしかった、のか、自分の足が大地を踏みしめていること、それが愛おしいのか・・・ネイティブインディアンの詩のような言葉を集めた中に、今日は死ぬのにもってこいの日だ、というような、生きている一日の賛歌があったことを思い出しました。 〈生きることはなんて気持ち良いのだろう〉この感嘆の部分を、その時肌に感じた風の感触や、鼻先を過ぎていった匂いや自身の汗の質感、肌を焼く日差しの感覚・・・などで「気持ちよさ」を伝えてくれると、もっとリアルに追体験できるかもしれない、と思いました。 (野を駆ける)

2017-08-20

〈硝子が砕けるように〉怯えながら見る夢。その夢から目覚めているはず、なのに、現実の裏庭から見える光景が〈指先から朝焼けになって 赤く血の色に染まっていた〉指さすと血の色に染まっていく、ように感じてしまう。まだ、夢の中にいるような、目覚めていないような感覚ですね。その感覚を受け止めてくれる〈母のやわらかい胸〉そこに抱かれる安堵。 安堵の世界の話が続くのか、と思ったら、その安堵を奪う、悪夢の世界(一連目)の内容が明かされる。ある種のエディプスコンプレックスが夢となって表れている、と「解説」することに、果たして意味があるのか、どうか・・・ 〈母〉が襲われるのを助けるのは、〈父〉ではなく、〈わたし〉。〈わたし〉が殺すのは、〈父〉ではなく〈大きな一頭の黄色い猿〉・・・本来は、〈父〉を(観念的に)殺さなくてはいけないのに、代替物としての猿を、繰り返し殺しているように思いました。その〈猿〉を、〈母〉が調理して、自分に食べよ、と差し出す。これもまた(父の代替物であればなおさら)恐怖であるはずなのに、ためらいもなく食べる、これもすごい。 2連では、〈黄色〉は悪のイメージですが、3連では〈黄色い閃光〉として現れる。「暖炉のような家庭」もまた、黄色やオレンジの暖色をイメージさせますが、閃光、刺しいるものとしての鋭さは、心地よい暖色の黄色ではない。待合室は、死の前に滞在する、待合場所なのでしょうか。最後の審判を待つ前に。家庭とは、かくあるべし、そんな「強制」を吹き込まれるような、そんな場所、なのではないか・・・という気もしてきます。心身を病んだ人たちが待たされる場所、〈治療〉をほどこされる場所・・・死による救済、それが〈治療〉なのだ、という、ある種の諦念も感じる部分です。〈診察を受けた人は 必ず 首を絞められて猿のような叫び声をあげるという〉治療が、〈猿〉として殺され、食べられてしまう、前半部分に回帰するイメージになっているところが、確かに入り組んでいるように思いました。2連目では〈猿〉はエディプスコンプレックス的な意味での〈父殺し〉の代償物として描かれていますが、3連では、花緒さんのように〈猿は死の象徴〉と読むこともできそうです。同時に、誰もが抱えている殺すべきなにか、の寓意でもあり、自分たちがそのものとして殺されてしまう(自分の中の対峙/退治すべきなにものか、を乗り越えようとして、自分自身がそのものになってしまう、飲み込まれてしまう)そんな恐怖や不安を描いているように思いました。 4連。〈母〉の介護をしながら、鏡に映った自分を見ている、のでしょうか。自分の中の猿、が映り込んでいる、と読みたいのですが、同時に・・・杖を必要とする母が座っている、という情景があるので、母そのものが、猿として鏡に映っている、とも読めますね。 自分がやっつけよう、退治しよう、乗り越えよう・・・母を襲う、憎き猿、と思っていたものが・・・実は母の実体でもあり、それは悪意を持ったもの、ではなく、実は〈神々しいほどの聡明な視線〉を持った猿、である。 自分が殺そう、殺さねば・・・と思い続けていたものは、実は、悪ではなく、人間本来の姿であったのではないか。その神々しさに、老いた母の姿を通じて、語り手は気づいたのではないか・・・そんな、自身の葛藤との和解を本作の中に見出せるように思いました。 (黄色の足跡)

2017-08-19

〈全ては僕を大人にさせる、そんな陰謀めいたものを感じた 加速し、薄く広がる苛立ち、僕を中心にして円を作る そこに踏み入れた者をジロと睨んだ 行き場の無い焦燥〉 この部分、~た/~る、~だ/~しょうそう、と、脚韻を踏んでいくような感じでリズミカルに読めるのですが、 ジロと睨んだ、と書くと、語り手の〈僕〉が睨んだ、ように読めますね。〈苛立ち〉が、〈僕〉を睨む、という擬人的な表現であるなら、睨む、の方が、前後のつながりが良いように思いました。 大人になるように強制される感覚。同じところで回り続けているような焦燥感と、しかし、少しずつ上ってはいるのではないか、という思いと、同時に、それが闇の中で、確かめることができない、という苛立ちと・・・深い闇の中にある螺旋階段。このくだりが、こうした感覚をよく表していると思いました。 全体に、ちょっと説明的な語句が多いかもしれません。状況説明や、自分自身の心の状態を説明する言葉が少し多いので、闇の中の螺旋階段、のような、感覚的にわかる映像や五感に訴える感覚を取り込む工夫をすると、もっと読者の心に訴える作品になると思いました。 (若者は)

2017-08-19

ひとつひとつの連が、とても息が長い。根を詰めて、丁寧に、一定の速度で(ピンと糸を張りつめたような緊張感を持った感じで)綴られているように思いました。〈大切な備忘録〉とか〈健気な幸せ〉という時の「大切な」とか、「健気な」という一般的な形容の、その様態を知りたい、という思いもあります。 〈小さな群集として/四つ葉のクローバーが/佇む草原〉ユニークな表現ですね。群衆として、など特に。 〈すでに薄命の母が届けた花瓶とは/そう妻がいつも話す思春期の寂寞のこと〉奥様の思春期の〈寂寞〉に、〈薄明の母〉が花瓶を届ける。奥様によって思い出されたエピソード、とても気になります。こうした具体的な部分を、もっと展開して重ねていくような手法もあるのかもしれない、と感じました。 早くに亡くなられたお母様の記憶が、奥様の中に保たれ続ける、ということ。人生の「夜」の中を歩みながら、明るい希望の朝、を待つような、そんな人生の途上であったとしても、その道行きを照らしてくれる、仄かな明りとして、その思い出が輝き続けるということ。その思い出の中の〈母〉に花冠の為の花を摘む・・・あるいは、人生の折々にみつける四葉のクローバー(ささやかな幸せ)それが実は群生しているところがあるのかもしれない。そこでクローバーを摘んで花冠を作る、のかもしれない(そこまで想像したら、勝手な読みが勝り過ぎかもしれませんが) ひとりの人の「夢の黄昏」が、次の人に受け継がれていく。そんな光の連鎖を思いました。 (僕たちが頑張ると云うこと)

2017-08-19

やっかいな哲学的命題に取り組んだ一作ですね。〈私が私を私をして〉私が私をする、であれば、私が「私」を演じる、ということになるのでしょうけれど・・・私が、私を、という言葉に、「私をする」という動詞が付く。思考実験というのか、思考の旅を経て〈私は私を私をしているというただの心地〉に帰着する、わけですが・・・。 〈私が他者と混じりどこが私なのか・・・私と言う確固たる本質的私をしている私では無いか〉このあたりの感覚、とても観念的な用語の用い方ですが、体感的に伝わってきます。 他者から見た自分、を意識して初めて・・・「私」を得る。しかし、もともと漠然と、もやもやと、いろんなことを感じたり、考えたりしている、「私」がいる、はず。はて、この「私」と、外から見られることによって発見した「私」は、同じものなのか、違うものなのか?そもそも、私の意見、だと思って行動しているけれども、これは、他者に影響されて得た、他者の意見なのではないか?・・・などと、考え出したらキリがないですね。 哲学的、抽象的な命題なので、仕方ないとも言えますが・・・こうした自己撞着的な議論を繰り広げているときの「感覚」「感じ」を、比喩によって表現すると、どんな「感じ」になるのだろう。迷路?森の中?砂漠?それとも、都市の裏道を彷徨う感じ?入り組んだショーウィンドウに移り込む、自身の影に惑わせられて迷い込んでしまうような感覚とか・・・そんな「感じ」を知りたいなあ、という思いもあります。 (していく)

2017-08-19

飛行機に乗って行く・・・いわゆる「エスカレーター」で、私立の小学校や中高一貫校に入れ、親が塾に送迎し・・・でも、真の意味で子供に寄り添っていない親子関係を想起しました。 一方、〈錆びたトランポリン〉は、手作りの教材で宿題の補助をしたり、部活動の話をつきっきりで聴きながら、必要な道具などを手作りや市販品の工夫によって用意してくれる、そんな親子関係を想起しました。 〈何の景色も見ずになる笑顔が〉この部分は、この表記でよいのでしょうか?もしかしたら、文字の打ち間違いがあるのかな、とも感じました。 それから、最後の一行、なんとなく「決意表明」のような、宣言文のような感じに読めてしまう・・・。 たとえば(あくまでも一案、ですが)〈今想像もできないような景色を/両親に見せる〉この前連をリフレインして、 〈いつか絶対 今想像もできないような景色を/両親に見せる〉なんて感じにしてもいいのかな、と思いました。 もちろん、これも決意表明、ではあるのですが・・・表現が、ちょっと変ですね、何といえばいいのかな・・・両親に見せる、というのは、意志で・・・嬉しく思いたい、は、願いで・・・意志で終わるのか、願いで終わるのか、ということもあるでしょうし、終わり方が、多くの方の予測がつく、俗にいう「予定調和」で終わっていて、そこに、若干意外性が乏しいという部分があるので、そこを、リフレインの音楽性や余韻でカバーできないか、という、提案です。 (トランポリンと両親)

2017-08-19

前田ふむふむさん そうだったんですね。現在の「**研究会」は、長谷川さんと私とで司会を担当しています。渡さんも、時々参加してくださいますね、長尾さんは常連ベテランメンバーです。私は前田さんの後に参加したので、お目にかかる機会はありませんでしたが・・・。私の指針、これは批評に関することだけではなく、詩を書いていく時の指針でもあります。お読みいただき、想い出をお知らせいただき、ありがとうございました。 竜野欠伸さん はい、あえて「エッセイ」を投稿してしまいました・・・。分量的に、詩誌4ページくらいの分量が、この掲示板ではこのくらいの量になる、というモデルケースとしても見て頂けるかと思います。詩論や批評論を書こうとすると、どうしても肩に力が入ってしまうのですが、「エッセイ」として書くと、意外にすうっと楽に書けるようにも思います。ありがとうございました。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-08-19

一気に、二作、溢れるように投稿された、のでしょうか・・・ 合評を促進するため、一週間程度、間をあけることを推奨していますが・・・思わず出て来てしまった、そんな時は、そのまま勢いで「えいや!」と出すことも、また、有効なのかもしれません。 有効かもしれないけれど・・・こちらの作品の流れるような言葉を考え、こちらを先に作品として創作されていたのではないか。そして、そこから溢れた言葉を、一気に、もう一作の方に投下されたのではないか、という印象を持ちました。 作品の完成度としては、こちらの作品の方が吟味されていると思いましたが、最後のまとめ方が、急に意気消沈してしまった、というのか・・・ 水晶のような弱さ、弱いからこそ鋭利な刃物のような弱さ、それが、他者ではなく自身を傷つけ、その傷が、道端の草を育てている。そんなイメージを持ちましたが・・・〈弱さは世界に帰るだろうか/植物になって/ありつづけるだろうか〉ここを、もう一歩、詰めてほしい、と感じます。 (センサイ)

2017-08-18

生きる、日常生活を送る、社会人として生きる・・・そのときに、違和感を感じる人と感じない人がいて、感じる人が、「表現」をしたくなるのではないか、と考えることがあります。 本作から、表現への切実な意欲を感じました。 〈それはなんて悪い心だろう なんて悪い心だろう〉と言い聞かせるのは、良識派の自分の意識であり、他方、 〈自分はなんていいのだろう なんていいのだろう〉と肯定する自分が、この詩の書き手、主体であるように思いました。 気になったのは、〈風邪になるのだけを畏れ〉と、〈こうしいる時にも〉風、こうしている、ではありませんか? パソコンの場合は、ワードに打ち込んで確認して、それをコピペする。スマホの場合は、フォーラムの投稿前のテストフォームを使われると良いと思います。編集ができない仕様になっているのは、投稿された作品にコメントを付けて頂いた後に、本文を大幅に訂正されてしまうと、コメントと符合しなくなる、そのような齟齬を防ぐため、だと(勝手に)思っています。 〈ほんとうのことしか知らず そのために声をもたない人たちが〉 声を持つ人、は、「ほんとう」でない世界で満足してしまっている、そんな人なのだろうか。ほんとう、を知っている人は、むしろ声を奪われてしまう・・・そして、人々の中に、埋もれてしまう、ということ、なのかな、と思いつつ・・・〈たくさんの人が行き交う/ほんとうのことしか知らず/そのために声をもたない人たちが〉文法的には、たくさんの人=声をもたない人たち、とも読めるな、と、ここは少し迷いました。 〈自分が何かを落としたからだ/遠く遠くにいる、自分の一匹が〉自分、という言葉がずいぶん頻発する作品だな、と思いながらも・・・なぜか「うるさい」と感じない。それよりも、表現の切実さ、が、先に訴えて来るから、なのかな。その意味では、まだナマ削りの感覚もありますが、その粗っぽさゆえに惹かれる。そんな「開示」があるように思います。 (ここには)

2017-08-18

〈兵士が着ている迷彩模様は 裸になっても付きまとう鎧〉 ここ数週間の、アメリカと北朝鮮のチキンレース(そこに便乗するかのような、日本の対応)を思い合わせながら、兵士は兵士であることを、肌にしみこませてしまうのかもしれない、そうさせられてしまうのかもしれない、と思い・・・兵士が「戦う者」として、戦地に送り込まれることがないように、と、祈ってしまいました。 なかたつさんの評に乗せていただきつつ、作者が「思いを馳せる」ことのできる人であることが嬉しい。 沖縄でお世話になったタクシードライバーさんが、オスプレイが飛ぶのを見て、「沖縄らしい」と喜ぶ本土の観光客がいる、と話してくれて・・・思わず絶句する他ありませんでした。基地と切り離せない沖縄、それで、本当によいのか?良いわけがない、けれども・・・ブルーハワイ、アメリカンミュージック、ハンバーガー・・・さんぴんちゃ、島唄、ごーやちゃんぷるー・・・ふくよかな風、海の家。 なんだかまとまりのない「感想」になってしまいましたが。 (みゅーじっくはうす)

2017-08-17

ヒントを、他者の言葉から得る、ということは多々ありますが・・・ここまで真っ直ぐに、しかも誠実に、さらに、ご自身の言葉に換骨奪胎して、〈花色の交代が/加速度〉この一行だけ提示されたら、ハテナ?となってしまう唐突な定義を、丁寧なロジックの展開によって納得させてしまう。面白かったです。そうか、秋が加速してやってくる、のですね。それは、年齢を重ねるごとに、加速度が増す、ということでもあるのでしょうか。 人生の加速度。 (秋の花色)

2017-08-17

軽やかな中に、重みを感じる、良作だと思いつつ・・・ 題名が、既に内容を暗示してしまう。この短さで、この題名(俗な言い方で言えば、ネタバレ、的な)は、もったいないような気もしますね・・・。 訪問者、とか・・・(うむむ、「夜の訪問者」とか、そういった先例に影響されてますね。なにか、もっといい言葉、ないかな・・・) 花が揺れるのは、夜、の重さ、なのか、罪、の重さ、なのか、影、の重さ、なのか・・・黒に紅茶猫さんが、いったいなにを込めているのか。そこをもっと、知りたいように思いました。イメージの強い言葉であるだけに、使い方によっては、ムードに流されてしまう。 銅版画の花のような、しっとりとした風情が美しいですね。 (夜の水遣り)

2017-08-17

流れるような言葉の響きと、緩やかにたゆたうような、叙情性にあふれた流れ。 先月の投稿作品を思い浮かべつつ、同じ作者?と仰天しました。 近未来の、ロボット(というよりは、アンドロイド?)が意志を持ち、恋をしている、そんな世界を思い浮かべつつ・・・ 〈僕の受け入れているもの全て〉を知りたい、という・・・ある意味、これほど究極の愛の告白はないのではないか、という情熱のこもった言葉を、控えめに、知的に洗練されたムードでつぶやく〈あなた〉。 〈あなた〉がそばにいてくれれば、悲しみを「忘れる」ことは出来なくても、悲しみを「凍結させる」ことはできる。 〈僕〉を照らし始める〈日差し〉は、ようやく差し染めた希望の光、のようにも思われ・・・ 科学や物理に疎い私は、リチウム、というと、リチウム電池、くらいしか思い浮かべられません。そんな、ごくごく一般的な、文系オンリー読者の視点からの読み方に限定されますが、リチウムによって、むりやりエネルギーの注入をしなければ生きていられない、動くことのできない、そんな「時間」から、〈あなた〉がそばにいてくれることによって、内発的にエネルギーが生み出される、自分から動くことができる、そんな「時間」に移行していく・・・〈あなた〉によって〈僕〉が生かされていく。そんな物語を感じました。 原子力発電所が現れる冒頭、そして〈卵のオブジェが無数に置かれた森〉のイメージは、原発事故と、その後の再生への取り組み、復興に向けた様々な分野の表現者たちの想いを感じるのですが・・・あまり、そうした時事性に結びつけず、柔らかく流れる恋愛詩、として読みたいような気がします。 (リチウム)

2017-08-17

映像喚起力の、ずば抜けて強い作者だと思ってはいましたが、この映像の迫力はまた、すごいですね・・・ 冒頭三行の、細かく刻んでいくような、舌をせわしく叩くように使わないと生み出されない音の流れの生み出す切迫感と臨場感。リアルに立ち上がる裏路地の風情。8月の投稿、ということも含め・・・ 〈ひしめくひしめく体の群れ〉は、空襲の死者と重ねてしまうのでは、ありますが・・・ 〈アスファルトと空中にはそれぞれの胴体を同心円とした 幾重もの波紋が止まらず広がり続け 地も空中も揺れぼやけている〉 こうした微細な部分にふれていく丁寧な描写が、非現実の風景を、なまなましくリアルに現前させる。 実際にその映像を「観た」あるいは「体感」したかどうか、幻視したかどうか、ということよりも、 その時の場と空間を文字によって作り上げる。その膂力によって、語り手と同じ場所、同じ時間に立つことになる読者が、そこから先、何を感じ、何を考えるのか・・・語り手の過剰な共感の強制がない。突き放すように、場を描いているだけ、そのことによって、読者は自身で感じ、考えることを強いられる。共感の強制がない自由と、その場に立ったことに依って自ら感じねばならない自由。自由詩の「自由」にも通じるものが、そこにはありますね。 二連目もとても丁寧で実感があるのですが、もう少し詩行を絞れるのではないか。なぜ、そう考えるかと言うと、三連目の冒頭のインパクトが、二連目の長さによって弱まってしまうように思われるから。どうでしょうか。 それから、三連目の「もし」という仮定、必要なのか?と考えてしまいました。 痙攣、という言葉そのものの持つ質感と衝撃。実際に降れてしまった、その後のこと、を書いている、と言ってもいい。その臨場感に、「もし」は必要なのか?という問です。 震災後の夜の四つ辻で、無数の死者に出会ったひとの話を聞いた(読んだ)ことがありますが・・・その時は、分断されたり寸断されたりしている死者ではなく、普段の姿の人であった、ようです。 御巣鷹山で救助に当たった自衛隊員の方が、その後、悪夢のゆえの不眠で体調を崩された、と聞きました。 枝から垂れ下がった腕が、助けを求めるように迫って来る、のだそうです。 〈ただただ震え続ける   生え伸びた無意味〉 白い、青ざめた胴体、手足のみが揺れ続ける、海の底のような裏路地。 なにかを見てしまった人の、その後。透き通りながら、白く濁って、そこに「在る」実在に対して、語り手の肉体は存在しているのか。語り手もまた頭部をもぎ取られ、体を二つにちぎられて浮遊する者に、なるのではないか。声を上げることすら奪われ、断末魔の痙攣をすら、それと意識することなく〈ただただ震え続ける/生え伸びた無意味〉となる、のではないのか。 そんなことを、考えさせられました。迫力のある作品であるがゆえに、描写が過剰に重ねられていないか・・・あともう少しだけ、絞った方が、より凝縮度が高まるのではないか(読者に息をつかせる余白のようなもの、かな・・・)という私の主観が、果たして妥当であるのかどうか、これは本人が吟味していくほか、ないのではありますが。 (裏路地)

2017-08-17

しゅんかん、と、ひらがなにしているところを、音読する時の速度、について、強度、について、考えました。 この身(好みと音が同じですね)を預けてしまいたい、そんな〈素晴らしい夜空の景観〉。 ずるいなあ、と思います。だって、作者だけにわかる素晴らしさを、作者が独り占め、してしまっているから。 どんなふうに、素晴らしいの?言葉で伝えたくなるほどの素晴らしさって、どんな感じ? そこのところ、を、読者にも分けてください! (この身を預けて...)

2017-08-17

黙すること、という言葉が、8月に投稿されると、黙祷を思います。 そこに「光のように」と言われた時に、思い出す8月の光、原爆の光、そこに「眠い」光を忘れて眠り込む人々を思い起こしました。(作者がそれを意図していたかどうか、そこまでは分かりませんが・・・) 迫撃砲、という言葉で、現代の戦場に引き寄せられる。「軽々しくもルビに塗る」文法としては実に不思議な用法ですが、ルビを振る、ではなく・・・ルビに塗る。読み替えを強制する。黒塗り。言葉を削っているがゆえに、様々なことを想起させますね。 〈かたつむりのように目を瞑り/世界からアンテナを引っ込めて〉唐突な組み合わせのように見えて、「つの」のような目をひっこめるカタツムリのイメージと、世界を感受するアンテナをひっこめるイメージが重なりますね。 〈アカウントに鍵をかけるときのような〉この比喩も、ネットを遮断することによって自分に都合のよい情報を与えてもらえる世界にのみ閉じこもっていく、そんなイメージを喚起する。 ・・・ここまで読んでくると、最初の「黙すること」が(黙祷などではなく)ネット社会で黙ること、にも思われてきます。様々な読み方ができる、と共に・・・現代、という世相の一端を描いている、寡黙な良品だと思いました。 (黙すること)

2017-08-16

下二段落、頭の一時下げを忘れてしまいました。もとは4ページの「エッセイ」です。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-08-16

麦わら帽子と雪だるま、梅に桜・・・季節が一気に押し寄せて来る感じですね。 〈僕は涎を垂らし 君は内臓を垂らす〉この一行に、まずびっくりです。 春夏秋冬と、一気に季節(への夢想?)が駆け抜け・・・。 どこかの季節、どこかの時間に、じっととどまっている、という感覚ではなくて、 季節の記憶の断片、写真画像が無数に散らばっている、そんな世界を駆け抜けていくような疾走感を感じました。 少し、ついていくのが大変、というくらい、目まぐるしい印象がありました。 (桜花或いは梅に抱かれ肝臓散る)

2017-08-15

斧でのされそうになる、というとかなりインパクトのある一行ですが、斧、と、己れ、慄く、各々・・・の「おの」つながり・・・と観ると、かなりユーモラスな言葉遊び的な感じにも見えてきますね。つまらんなあ、から何を連想するか・・・妻ランナー、走る人・・・「妻乱」はなかなか思いつきませんでした。 (帰ってくればよかったのに)

2017-08-15

思いのたけを(酒の力を借りたとしても)叫ぶことのできる〈女の酔っ払い〉と、抑制してしまう、内におさめてしまう、〈私〉・・・。〈誰も見ていなくたって/ 川は流れる花は咲く〉〈自尊心が埋もれていく/ 誰にも気付かれず〉〈誰も聞いてなくてたって/ 風の吹く音木々の揺れる音〉〈私の心臓だって/ 誰にも気付かれなくても/ 動いている〉この繰り返しが印象に残ります。 〈君〉と〈女の酔っ払い〉は同一人物なのか、どうか。〈私の欠片〉とは、誰か、何か。〈雪〉は、心を凍てつかせるもの、の暗喩なのか、実際に降った薄雪、なのか・・・そこを明示する必要はないと思いますが、君と私、の関係性(特に首を絞める、というような、ある種、センセーショナルな行為が入って来ることもあり)が、もう少し、はっきりと出ていると伝わりやすかったかな、と思いました。 m.tasaki さんも触れておられますが、途中に平仮名多様で挿入される歌のような部分(3、6、8連)が面白い。ここを一字下げにして、詩形全体にメリハリをつけてもよいかもしれない、と思いました。 (私の欠片は朝焼けの中)

2017-08-14

作品全体の、短めの区切りが生み出すリズム。とつとつと思い出を語っているような・・・言葉に詰まりながら、誰にともなくつぶやくように語っているような流れが、リアリティーを与えていると思います。 実際に作者の祖父が認知症であるかどうか、ということとは関係なく・・・世間一般における「名」を与えることによって、理不尽さや憤懣、やるせなさをやり過ごしてきた・・・胸の内になんとか収めてきた、そんな「家族の歴史」があって・・・それが、花を手渡す、という行為によって、和解の香りを帯びる。 だんだん薄暗くなる いつもの空の下で ぼくのてのひらも 小さく揺れた この、さりげない描写が、実に美しいと思いました。プランターに並んで咲いている花・・・でも、その花のどれにもまして、〈母〉にとっては思いのこもった花、だったのでしょう。父と娘の間でだけ共有し得る、幸福な時間を思い出させる花、であるのかもしれない。 手すりから外にのばされた手のひら。その手に差してくる夕日、夕日に照らされた手のひら、次第に赤く、夕日色にそまっていく手のひら。 狷介な祖父(母の父)の、砂を投げつけるような乱暴なやり方でしか伝言を伝えられない、その悲しみは、どこから来るのだろう。あの人は、認知症だから、怒りっぽいんだ、と、納得することでやり過ごしてきた〈ぼく〉は、心の中で、実はそうではない、ことを知っている・・・からこそ〈ニンチシヨウ〉としか、呼びようがないのかもしれません。父と娘(あるいは父と嫁)の間のわだかまりが、溶けた一瞬。それは、〈祖父〉に死が近づいてきた、そのことを彼が意識した、からなのかもしれず・・・ ニンチシヨウ、を、認知しよう、という呼びかけと、それを拒否する気持ちの表れ、と読むのは、深読みしすぎか?と思いつつ・・・ニンチショウ、とヨを小さく表記しないところが、最後まで気になるところでした。(コメント欄に、テワタシタヒ、と旧仮名風?の表記で書かれているので、その辺りも関係あるのかな・・・) それはいったん、脇に置いて・・・〈だらだらとしたひとり語り〉そう言われると、もう少し切りつめていくこともできるのではないかな、とも思いますが・・・全体でリズムを作っている、というところもあり・・・最後に〈友人たち〉を出す方がよいのか、〈ぼく〉の内省だけで止めた方がよかったのか、など・・・。 たとえば、意味から言えば〈そう思って/友人たちに理由を言って/さよならをして〉わけを言って、なんてフレーズは飛ばして、どんどん進行させた方がいい。でも、~って/~言って/~して、と続いていく語尾のリズムなどが消えてしまうので、削るのも、なかなか難しい。冒頭に出て来る、心中/安心 うんぬんのところも、省けるかな、と思ったのですが、後半にもう一度、〈と思えば/安心なのだけれども〉と出てきますよね。ニンチショウ、という病気なのだ、仕方ないのだ、と、理由のわからない怒りへの不信や不安を、安心に替える。一か所いじると、全体が動いてしまうような作例なので、やはり、この長さは必要なのかな、と思いました。 (花)

2017-08-14

shun kitaokaさん レスポンスありがとうございます。種あかし?していただいて、うれしいような、後続の読者の興を削がなければよいな、という、ちょっとだけ、心配もあります。 私自身、「かまあげうどん」という題名で、ざるうどん、のことを詩に書いて・・・読者はみな、釜揚げうどんを想像しながら読むわけです。そして、面白がってくれる人が多かったのですが・・・うどん屋さんに入って、メニューに添えられた写真を見て、「げげっ、私ってば、ざるうどんと釜揚げうどん、勘違いしてたじゃん」と焦ったことがありました・・・。結果的に、読者を良い意味で欺く作品になったので、良かったのですが。 〈母親と「双子少女」の関係性が、いまひとつ、つかみがたく〉という、私の疑問への回答を頂いたことに感謝します。同時に、そうか、そこをもっと、わかるように書いた方がいいのかな・・・でも、わかるように書くと、なんとなく通俗的な話になりかねないな・・・読者によっていろいろな読み方ができる。その、省略具合や飛躍の具合が、絶妙な間合いとなっているのかもしれないな・・・など、思った次第。 (がらす)

2017-08-11

雪月花を描いた、小景、のような素振りながら・・・ この登場人物たちは、果たして「人間」なのだろうか、と不思議な気持ちになりました。 季節を司る、時の精のようでもあり・・・自然界の妖精のようでもあり・・・。 花と雪、あるいは花と氷。共にはありえないものが共にある場所は、死の世界でもあるような・・・。 (春雪と彼)

2017-08-11

シュルレアリストの絵画で(誰の作品だったか、忘れましたが)ピストルから芽が出て、蔓のようなものが緩やかにからまり、そこに蝶が止まっている絵を見たことがありました。 砲声ではなく、歌声を聴きたい。銃声ではなく、声を聞きたい。 それは、暴力ではなく対話を望む、万人の想いかもしれません。 強い言葉と短文を連ねて作りだす力強さが印象に残りました。 若干、表層的というのか・・・メッセージ性に偏り過ぎているような気がします。 (声を出せ)

2017-08-11

これはまた、ずいぶん極彩色の作品ですね・・・読みながら、万華鏡のように色彩が乱舞する感じ。 〈貴方と壊れたかった あの日の夕陽と月の色に 世界の背骨に そっと爪を立てて〉 この部分が、もっと際立つといいのにな、と思いました。 〈君〉と〈貴方〉が同一人物なのか、〈貴方〉は、〈君〉が語り手(歌い手)のことを、そう呼んだ、ということなのか・・・ちょっと判然としませんでしたが、〈君〉が世界そのもの、のような存在であって・・・歌い手の視界すべてを覆いつくしている、感覚のすべてを奪いつくしている。それほどに自分を惹きつける〈君〉を、だからこそ、壊してしまいたい、一緒に壊れてしまいたい、というような、情念というのか、感情の迸りを歌っている、ように思いました。 〈世界の背骨に~〉までの連は、言葉が締まっていていいなと思ったのですが、後半、感情に流されているというのか、冗長な印象を受けました。背後に音楽があれば、また異なって感じられるのかもしれませんが。 (little FANTSY)

2017-08-11

2010年頃初稿、という、題に添えられた「但し書き」・・・これも題の一部、ということになるのでしょう。 作品の冒頭は、「恍惚の人」を母と観ている光景、を思い出している、のでしょうか・・・歌うような調子で綴られていくリズムが、回想の色を濃くしています。二連目は、ドラマの中のシーンではないか、という気がするのですが・・・この表記だと、見ている母が、そういう行動をしている、ようにも読めてしまいますね。一字下げにするとか、画面の中では・・・というような一行を添えるなどした方がよいように思われました。 三連目は、美しい回想シーンですね。私も「恍惚の人」になるのだろうか。子どもの重荷となりたくない・・・そんな母心を感じ取った語り手が、そっと外に連れ出す。葉桜の季節、吊り橋に心を躍らせる母を、大人の語り手が愛おしんでいる、そんな関係性も感じられます。 *の後が、震災後に書き加えられた部分なのでしょう。急に、他国を犠牲として生き残ろうとする国家の醜さへの感慨・・・といった大きなテーマに振られて戸惑いました。 その後の連で、作者が詩を書くということについて語られるのであれば・・・個人では答えようのない問い、それでも問わざるを得ない国際問題・・・そのことを思うたびに生じる、どうしようもない無念さ、無力さについて、飽くことなく書き続ける、ということ、それが私にとって詩を書く、ということなのです、という展開であれば・・・この挿入部分も、さほど違和感は覚えなかったのですが・・・ 〈母の傍らで母の詩を書いていると/「そげんあたまをつこうたらいかん」〉と母に心配されてしまう。国際問題のような、大きな出来事について考える、のではなかったの?と思い・・・いや、母のことを書くのも、国同士のことを書くのも、結局は穴の開いたバケツに水を汲むような、答えのない事柄なのだ・・・海辺で砂の城を築き続ける、そんなどこか虚しささえ含む行為なのだ、ということ、なのかな、と思い返してみたりしつつ。 でも、やっぱり、国同士の話が「唐突に」入って来る、感覚は否めないですね。 (広島)

2017-08-11

行替え(改行)が生み出す歩行のリズムに加えて、句読点の生み出す、息継ぎのリズム・・・作者の肉声が伝わってくるように思いました。 はじめた/はじめて と二度重ねる冒頭。~し始めた、という通常の意味が、なぜか「初めて観た」と思われて来るのは、なぜでしょう。傘を差し始めた、というような表現を、通常は使わないから、でしょうね、きっと。その、微妙な用法のずらしが、意図的なものなのか、偶然生まれた産物なのか・・・ 雨、が降っている間中、雨を受けていた語り手。雨が実際のものであれ、比喩としてのものであれ、体の芯まで冷え切って、濡れるがままに任せていた、ことになります。雨が土砂降りの間、むしろ、為す術がなく濡れていたのではなかろうか。その雨が少し小降りになって、もうすぐ止む、という確信を持てたころ・・・希望を感じられたとき、ようやく、自らの身を濡れないように守る傘、を差す気持ちになった。その気持ちになって、初めて見る光景・・・が、その次の行から続いていくような気がします。 今、ようやく自分は、自分で傘を差す気力を得た、それなのに・・・かつての自分と重なる、黄色い長靴の少年が歩いてきているのに。すってんころりん、びしょぬれになって、それでも何か、私に言おう、語りかけようとしているのに。自分は今度は、自分の身を守るための傘がある、ゆえに・・・その傘に当たる雨音に消されて、少年の心の声が、聞こえない・・・かつての自分の声を、聴くことができなくなりつつある、ということでもあるでしょう。同じような想いを抱いている人の声を、自分は本当に聴くことができているのか?ということでもあるでしょう。 ・・・ということを感じたのは、以前に投稿された作品を既に読んでいた、から、でもありますが・・・傘となって、不運や苦悩の雨から、家族を守りたい、という思いをつづった作品、ですね・・・この作品だけを読んだ読者にとっては、ハアモニィベルさんが感じたような、釈然としない感じ?を受けるかもしれません。もちろん、そうした前後がなくても、作品そのものに秘められた余情、のようなものが、ほわっと伝わればよい、のでしょうけれど・・・。 ベルさんの〈>雨が止みはじめた頃に、/>傘を差しはじめてみた。/これだと、かなり変わった感受性の持主が語り手だと読者は思います。(面白いつかみにも思える)〉という部分、私も特徴的だと感じました(コメント冒頭に書いた通りです) 〈懐かしい長靴の黄色〉na の音によって導かれる響きと、黄色い長靴という、小学生時代を彷彿とさせる、ある種の記号の用い方・・・一般読者に寄り添い過ぎている、と観るか。いや、あえて、誰もが知っている表象を持ってくることで、少年時代の自身の換喩を成立させている、と観るか・・・ここは、他の読者の意見も聞きたいところです。 (ある雨の日、君の弟は。)

2017-08-11

ご返信、感謝です。なるほど・・・もちろん、「「理屈」の形をとっているんですが、言っていることは全く論理的ではない」そのことは、了解していて・・・何といえばいいのかな、〈主観が自らを顧みる、ということ。〉という、定義のような文言を、直接書き込んでしまう、明示してしまうのは、どうなんだろう・・・そのことで、読者が、パシッと弾かれてしまう、そんな印象を受けやしないか(私は受けてしまう)ということと・・・ 〈〈俺は自分がダンクレオステウスの変形〉というところまで夢想を飛躍させるのは、いささか急峻ではないか〉とコメントしたのは、詩的ロジック、というのか・・・フィクションとしての構造物の中で、論理展開が段階を追って、という丁寧な叙述ではなく(丁寧過ぎるのも、説明が多すぎてうるさくなるのですが)かなり振り幅が大きいよね、読者が、ここで振り落とされてしまうのではないかしらん・・・という、これもまた、私の主観的印象を持った、のですね。それを直した方がいいとか、直すべき、とかそういう事ではないのですが。 その効果を狙っているのか、狙っていないけれど、偶然そうなってしまったのか。 Migikataさんの〈作者と作中人物と、作品と読者と、それぞれの関係にある「詩情」の断絶を楽しむというやり方〉というコメントを拝見して、偶然そうなってしまった、のではなく、確信犯的に行っておられる操作なのかな、という印象を持ちました。 そうであるなら、読者が、台所という日常の「場」、今、ここ、という「時間」から、一気に時間も空間も超えたところに飛ばされる。そのトリップ感を楽しむ詩、として読み直したくなってきました・・・ そうなってくると、〈言い張るつもりもない〉というような、堅苦しい言い回しが、逆に気になり始めますね・・・文体そのものも、もっと破天荒でいいのかな、と・・・でも、この重々しさで、最後まで持って行く方が、Migikataさんらしいのかもしれませんね・・・ここは、コメントそのものも難しい。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-11

茶道のような、ある種の儀式めいた感じで始まる冒頭、も、の音を連ねていくモヤモヤ感、そして〈シンク中央の排水口が丸い瞳となって俺を見ている。〉この感覚、実によくわかります。排水口の中に広がる闇に、じっとみつめていると吸い込まれそうな気がしてきたりする・・・。何かを洗って、汚れ(穢れ)を流していく、その流れを吸い込んでいく排水口が、瞳となって見返すものとなる、反転。瞳の奥に引きこんでいく(吸い込まれていく)どこか不気味な、それでいて魅惑的な感覚。それを、どうとらえるか。 〈目に似るものはみなものを見る。幻を見る。/主観が自らを顧みる、ということ。〉ここだけ見ると、観念の直接的な表明を、説明的でうるさい、と否定的に見ることも、理智の方向に感覚を振り向けていく指標の役割を果たしている、と肯定的に見ることも出来ると思うのですが・・・もう少し読むと、続く〈お前は俺を何と見るのか?妻よ、非実在の長い髪の妻よ。〉を引き出すための前提ともなっていることがわかる。重要な布石だと思いました。 排水口、どこか不気味な、自分を異界に引きこんでいくような眼差しが、いつのまにか〈お前〉と呼びかけられる存在の眼差しに変わっている。しかも、非実在の、長い黒髪の、妻・・・。〈水系の果てがここだ。/水系の果てはここではない。〉妻、が、オンディーヌのような水性の存在であり・・・日本的なイメージで言うならば、水神、蛇のイメージも喚起される。いずれにせよ、男を死へと誘う、魔性を秘めた存在、を感じさせます。この展開は見事だと思いました。 その後の数行、特に〈俺は自分がダンクレオステウスの変形〉というところまで夢想を飛躍させるのは、いささか急峻ではないか、と思いました・・・皿、を洗う、その〈皿〉を論理で解説してしまうと・・・冒頭の、いったい何を洗っているのだろう、自身の汚れか、自身の想いか・・・といったあいまいさが、理屈に還元されてしまうような気がして、私にはちょっと興ざめに感じられる部分でした。 最後は、この〈妻〉は〈殺されても死なない妻。シンクの縁を移動する小さい蜘蛛となり、一切俺を関知しないまま、糾弾する。〉という段階にまで変容する、のだけれども・・・幻覚にしばしば現れる、不安の表象としての蜘蛛、であるようにも思われるのですが・・・いずれにせよ、不気味ながら魅惑的でもある存在、であったはずの、長い黒髪の〈妻〉が、ただ気持ち悪い、不気味なだけの蜘蛛に帰着していくのは、なぜだろう。泡の七色、これは希望の喩でもあろうか。その七、を引き出すための、八本の足、なのだろうか・・・ 排水口に「見つめられる」ところから立ち上がる、どこか魔性を秘めた不気味で美しい幻影が、途中で思考実験的な観念の世界に取り込まれ、最後は幻覚なのか実際にそこに居るのかわからない、蜘蛛に具体化する・・・。 後半の展開に、少し無理があるように思ったのですが、どうでしょうか? (スポンジでものを洗う)

2017-08-09

スマホで見てみたら、また形が、全然ちがう、ことに驚きました・・・ 幾何学的な形態が喚起する感情と、内容(あるいは音韻の連なり)の奏でる印象とが、 どのように絡んでいくのか・・・ひらがな多用の部分と、漢字の部分の詩面の違いとか、記号連発の部分の、奇妙にざわざわした質感などを、読者の内面で、どのようにまとめて行けばいいのか(鑑賞技法にも関わって来るのかもしれない)そんな問題を、改めて考えます。 (門)

2017-08-09

〈君の傷から噴き出した彼の姿〉この一節のインパクトがすごいですね。 〈 Mata, Raisede.〉君、は、自殺を予告して去っていったのか・・・。 〈それを電話越しで語る君が/確かにまだ生きているのだと/知ったから〉 〈私〉の元を去っていった〈君〉は、〈彼〉のために深く傷ついている。 それでもきっと、〈君〉は〈彼〉を愛しているのでしょう・・・こんなにも〈君〉を愛している〈私〉ではなく。 〈きみが置いていった形見の色〉青春の苦さ。恋の苦悩。 私の勝手な読み方ですが・・・そんな切ない物語が秘められているように感じました。 〈造作もないというのだ〉とか〈もうここには居ないね〉といった、太く叩きつけるような骨太の言葉。ハスキーボイスの男性が渋く歌うジャズバラードを想起しました。 (Connected - Powdery Blue )

2017-08-08

何を、不法投棄、したのか・・・〈私は朝を待つ〉のだから、腐ってしまった〈私〉を、こっそり不法投棄、したのかもしれませんね。 「恋人」や「友人」、彼等と作り上げた「思い出」・・・それらのすべてから逃れたい、裁ち切ってしまいたい、でも、それがどうしてもできない。そんなしがらみにがんじがらめになった「自分」を押入れに押し込めて、それが「腐って」見向きもされなくなるのを、待つ・・・そんな「私」を捨てに行く(私の勝手な読み方、ですが)。前作もそうですが、最終連にインパクトがある、どんでん返しに驚かされる、そんな作品だと思います。 (不法投棄)

2017-08-08

形と連動させる言葉、文字、その意味・・・ビジュアルポエムで、孤、という文字で正方形を埋め尽くし、真ん中を正方形に抜いて、ど真ん中に 私 と一文字置いた作品を見て、インパクトに唸ったことがあります。 まど・みちおの、階段状に階段の詩を並べた作品を、子供たちの詩の授業の時に使ったり(これは、子供を楽しませようという作品であるがゆえに、子供の食いつきがすこぶるよろしい)その時に、怒、という文字を目の位置に嵌め込んだ、母親(と思しき)「顔」を制作した児がいて、ひえー!と思ったりしました。 形を活かしていく、のであれば・・・思い切って、フレーズの意味、ではなく(そこはもう、寸断してしまって)文字の意味を活用する、という方向に持って行った方が、多くの人に、より受け入れられやすくなるのではないか、と思いました。 いまさらアポリネールの鳩や噴水、雨を持ち出すまでもありませんが・・・中途半端に「読めて」しまうところが、かえってこの作品の場合は、うるさく見えてしまうのかな・・・ (門)

2017-08-08

形が、パソコンの画面にパッと全体が出る、くらいの範囲に収まっていると、一発で見えて面白いだろうな、と思ったのですが・・・前半のひとpart、ふたpartくらいまでは、形に意味を添わせながら(渡るようなさんず/いに在庫がなかった)この辺りは、ちょっと頑張ってひねり出したかな、くらいの感覚で読めましたし、〈より増し的に割/り増し的に割り/箸的に〉このあたりの、音韻が次の音を引っ張り出してくる感じも、ある種の面白さ、として読めたのですが・・・この三角partの連続が、ちょっと長すぎて・・・図形の中を埋める言葉を、無理やり引っ張り出したというのか、息切れしながら必死に埋めた、というような印象を受けてしまいました。 最後の方、ぴらぴら広がるリボンのような形にほどけていく。このパートを、もっと早めに出した方がよかったのではないか、というのが感想です。 (門)

2017-08-08

言葉の区切り方に、どくとくの味わいがありますね。 夜の窓ガラスに写り込む少女の横顔のイメージと、鏡の向こうの世界、のような・・・一人の人間の中に潜む、光と影、二面性のある双子、的な魂の影、のような・・・。 はらのはれたははおや、haの音で導かれて、餓鬼のような不気味な映像が浮かび上がる。 砂粒は、すなつぶ、と読むのか、さりゅう、と読むのか・・・さりゅう、と読むと、音の響きから砂流、のイメージにも繋がります。砂時計を連想しました。 〈夜流する外気〉夜流、これは造語でしょうか。意味はわかる、けれど・・・逆に、文字の意味をそのまま受け取ればよい、ということか・・・。「双子」を隔てていたガラス窓、その境界が失われる夜・・・流れ込んでくる外気。外気を吸いこむ、はらわたがうずうずする。そんな「外界との内部での合一」「双子」の魂の合一、を イメージとして受け取ったのですが・・・最終連の飛躍が少し大きすぎて、捉え難い、ということと・・・母親と「双子少女」の関係性が、いまひとつ、つかみがたく・・・そこに消化不良感が残った、というのは、あります。 (がらす)

2017-08-08

コメントを伏す➡コメントを付す、の誤記です。編集機能が無いので、こちらで訂正しておきます。 (小夜瑠璃物語)

2017-08-07

渚鳥sさんへ  ユニークな解読をなさいますね。この作品に、この作品を「用いて」不都合な存在を黙らせようとする・・・意図は、私には読み取れませんでした。 それから、率直な感想や批評のやり取りを奨励する場ではありますが、否定的、批判的コメントを伏すとき、気持ち悪い、というような感覚的で短文のコメントは、思わぬ誤解を生むことがあるかもしれません。 もし、渚鳥sさんが、まだ未読でいらっしゃるようでしたら、マナーガイドラインをご一読頂ければ嬉しいです。http://breview.main.jp/index/guideline/ (小夜瑠璃物語)

2017-08-07

花緒さんの〈死体を作られた側として、倒錯的に本作を描かれたのではないだろうか。そんな印象を受けました。〉この印象、同感です。 14歳・・・微妙な年頃ですが、死んだように生きている、という実感。自らを死体に比す、そのことによってしか、乗り越えられない感情がある、出来事がある、のかもしれない、と思いつつ・・・作品として客観化されているので、そこからは既に、離れている、のかもしれないと思いました。 青年になった語り手が、14歳当時の自分を振り返って記したような・・・そんな達観を感じます。息子や娘を、母の立場の語り手が描いている、とも読めなくないですが・・・語り手が自らを母の立場に置いて書いた作品のように思いました。 (手作りの命)

2017-08-07

切りつめられた詩情が、凝縮されて連ねられている。そんな読後感でした。 自由律短歌の連作を読んだ時の感覚に近いのですが・・・このように断片を連ねて「詩作品」となす場合、6連の構成に、もう少しドラマティックな構成を加味した方が良いような気もしました。あるいは、3、4連の挿入エピソードのような「転」の部分を、一字下げにする、など・・・ 1、2、5、6連。具体的な「戦争」という事ではないのでしょうけれど、経済戦争を行っている「社会」に出て行って、殺されてしまった兄・・・に重ねながら、同じように殺されていった読者諸氏への哀悼歌であるようにも感じます。 五行一連の構成の美しさ、形式性が生み出す整然とした秩序のイメージ。枠を設定することによって、逆に予想外の言葉が引き出される可能性・・・は大事にしたいけれど、今回の作品に関しては、もっと自由に崩してもよかったのではないか・・・若干、無理やり引き出した行があるようにも思われ・・・本筋から離れることで意識を逸らしつつ、また本筋に戻る、といった、エクスカーションの楽しみを与えてくれる行でもありますが・・・そのエクスカーションが、あまりに頻繁だと、読者に煩雑な印象を残しはしないか。そんな感想を持ちました。 (小夜瑠璃物語)

2017-08-07

はじめまして。 音、が鳴った瞬間は、音、でしかない。その音、の連なりが喚起する音楽・・・その感動や抒情は、いったい、どこにあるのか・・・音と音の間の出来事の記憶。その連なりは、音節の連続が生み出す言葉、詩作品が生み出す余韻にも似ています。 音楽や詩から生まれる「詩情」の行方を尋ねる作品なのか、と思ったら・・・〈白くなってゆく僕の左手/苦しみの花びらや/呼ばれはしない待ち人の/指輪をはめてもいい時を待つ〉結婚、というひとつの象徴的なイメージが置かれる。白くなってゆく、というイメージは、血の気が失せていくイメージ、なのでしょうか。心がとうめいになっていくイメージにも重なりますが・・・夢想の中に入り込んで、自らの存在感が消えていく感覚、夢想の時空に、自らが融けていく感覚を想起しました。 具体的な、恋人のイメージが現れないこともあり・・・音と言葉の婚姻とか、イメージと言葉の結婚、といった、観念をつなぐものとしての「指輪」を連想しました。〈苦しみの花びら〉甘美な表現ですが・・・苦しみを感受するとか、現れない恋人を待つ、というイメージが生み出す切なさ、とか・・・具体的な事象によって喚起されたイメージよりも、シチュエーションを夢想することによって心が誘われる感覚を捉えようとしている作品のように思われました。もう少し具体性が強い方が、作者の肉声というのか・・・真情が、より切実に伝わるような気もします。 (指輪)

2017-08-07

これはまた、ユニークな作品ですね。 無数の「宇宙」の重層性。一人一人がミクロコスモスとして存在している、その心の在りようのようでもあります。 そして、ひとりの人、の中に、また複数の、ミクロコスモスへの入口がある・・・。 宇宙間を《波》が〈伝播していく〉。すると、〈届けられた《波》は/音楽や/絵画になる/そのあわいできみたちはみたされ/漂う くらげのようだった〉ここは、詩であると共に、詩論・・・詩想がどのように生み出されていくか、という思いを、イメージによってあらわしている、そんな印象を受けました。 きみたちって、誰だろう。精神と意識と心・・・そんな一般的な普通名詞に置き換えてしまいたくはないですが、語り手の内部で生き生きと蠢いている、妖精のようなミューズ。座敷童のような、詩想の運び手。そんなイメージで読ませていただきました。 (units)

2017-08-07

魅力的な作品ですね。 全てが「創作」「フィクション」であるかもしれないし、実際に見た「夢」の「自己分析」であるのかもしれない。 どちらでもよいと思うのですが・・・際立つのは、溝口さんという、本来仮想の存在であるはずの人物が放つリアリティーと、その夢を見ている主体、であるはずの肉体の・・・実在感の稀薄さ、です。 ユング的に言うなら、自身のアニマとの邂逅、ということになるのでしょうか・・・本来は夢見る主体であるはずの〈わたし〉が、まるで〈わたし〉自身の影のような存在として描かれていることがインパクトとして迫ってきます。希死念慮を持った主体(男性)と、その主体(影のような暗さに満ちた存在)の内部で様々な〈光〉を集め、その〈光〉そのものとなろうとするかのような不思議な体験を繰り返す女性。 事後性、反復・・・術語を使うことに、意味はないですね。女性の消滅は、主体への吸収であるとも捉えられますが・・・つまり主体は、溝口さん、という存在によってしか行えなかった〈かすかに差し込んでくる薄い陽光のうち必要なものとそうでないものを弁別していく作業〉を、自ら行うことが可能になった、ということを暗示している。 それと同時に、溝口さん、という仮の存在は消えてしまう、わけですが・・・消えてしまったがゆえに、その存在感、とりかえしがつかない、という切なさ、焦燥感、遺された謎・・・が深まっていく。その謎を解くために、主体は再び、溝口さんが居た時、に戻らなければいけない。しかし、戻るということは、主体と溝口さんとの「止揚」がとりあえず終了し、自らの内部と外部が「和解」している状況から、乖離している状況、苦痛であった時点への回帰、を反復する、ということでもある・・・。 語り手が、溝口さんの居た場所に戻ることによって、何を得るのか。どんな語りがそこから生まれるのか。展開に強く興味を惹かれました。 (溝口ノート(一))

2017-08-07

窓際族を、独自の視点で描写していく。ユニークな作品だと思いました。 一連目・・・少し力が入ってしまったのでしょうか?若干、常套句的というのか・・・視野が壮大であるけれども、一般的に人々が用いて来た言い方に、倚りかかり過ぎているような気がしました。 二連目以降の独自性、おそらくはご自身の日常から導き出された実感の描写が、とても良いと思いました。 これは質問なのですが・・・二連目、〈体じゅうの血が巡っているのは/点滴を打たれたような痺れが/僕の両手に拳を握らせた〉ここは、ロジックが未完のように感じます。巡っているのは~拳を握らせたからだ、なのか。巡っている、でいったん途切れるのか。ちょっと、気になりました。もしミスであるなら、こうしたところで躓いてしまうのは、推しいです。あえて文法をずらしたのであれば・・・効果がうまく出ていないように思いました。 (窓際族)

2017-08-07

5or6さんの〈綱がまるで腐敗した死体の様〉という評を読んで、はたと膝を打ちました。 打ち捨てられた大蛇の成れの果て、のような・・・かつては神蛇とあがめられていたものの成れの果て、のような印象もありました。守り主が、擦り切れて、そこに横たわっている印象。 〈取り出されて ・・・解か れた     小脳の皺の ような    歩き疲れた右足の    (乾い た)   親指の       ・・・指紋の  ような   打ち 捨てられて放 置された    (擦り切れて)煤けた       ・・・畳表の  ような〉 なんども言い換えながら(そして、言い換えるたびに、本当にいいたいことは指の間をすり抜けていく、そんなもどかしさを感じながら)畳みかけていく、表層の叙述。表層を喩える、その対象そのものに、小脳・・・基礎代謝とか自律神経を司る機能が、さらけ出されている感じ・・・とか、人生の旅路を歩き疲れて、指紋もすり減ってしまった感じ、とか・・・既に廃れてしまって、かつての賑わいの失せた故郷の座敷の思い出、とか・・・そんな、語り手の中に仕舞われていたイメージが、喩という形で引き出されていく。その結果としての滂沱と流れる、熱い泪。 泪が溢れる、という方向で自身の感動を表現しようとすると、しばしば陳腐な表現に陥ってしまいますが・・・この作品の場合は、泪が溢れるに至る前段階が、独自のイメージから紡ぎ出されているがゆえに、読者を自然に共感に誘う泪になっていると思いました。 レイアウトも、とぐろをまいた綱にも見えてきますし・・・途切れがちの語りのリズムにも呼吸感が出ていて、成功していると思います。 (綱)

2017-08-07

自分への呼びかけが、他者への呼びかけになる。 自分自身を、ひとりの他者として尊重できるようにする、 これもまた、とても大切なことなのだと・・・いつからかは忘れましたが、思うようになりました。 〈夜の匂いがしますから〉夜の匂いの中で、他者の息吹に耳をすませる。 ネットの明りではなく、人の営みに目を向ける・・・ 優しい言葉の、決然とした意志を感じる詩だと思いました。 (今を)

2017-08-06

ハァモニィベルさんが「再登場」しているので、私も「再登場」しますね(笑) ハァモニィベルさんの真面目さというのか、誠実さ、文字だけでみると、初読の方には怖い感じにみえるかもしれないな、という気がしたもので・・・(黒髪さんが、そう感じない、ということであれば、スルーして下さい!) 「不在」というのは、    他の何よりも、誰よりも それが《心》の中に存在する   と、いうことです。 この定義、とてもわかりやすくていいですね。このまえ、なかたつさんの作品「縁」でも、「不在」という観念語(に対する、個々のイメージの違い)面白いなあ、と感じたばかりです。 観念語は、様々な具体的な経験や体験から抽出されて、ひとつの言葉の裡にまとめられていくもの、ですから・・・人によって、同じ「不在」というラベルが貼られた箱であっても、中身がずいぶんちがう、ということも多々起こり得る。 ラカンは結構、難解な書物で、私も難渋しています。誰もが読んでいるわけではない、と、申し添えましょう(黒髪さんが、もちろん読んでます、ということであれば、これまた失礼) あなた、が不在であるがゆえに、より一層、つよく思い起こさせられる、ということなのか・・・あるいは、その不在を思い起こすと、私の心が千々に乱れる、という、その乱れをテーマにしたかったのか・・・あなた、という対象を描きたかったのか、不在、という情況が生み出す、私、の状況を描きたかったのか・・・というようなことを、知りたいなあ、と思います。 (不在)

2017-08-06

はじめまして。早口言葉のような・・・これは、高速再生で朗読されるような、そんなイメージかな?と思ったら、〈この放送は箕面市からお送りしております。〉劇中劇のラジオドラマのようなシチュエーション。ユニークな構成ですね。 面白いのは、〈星見てたら/たまに降ってくんねん/どっかその辺に落ちてんのちゃうかな〉これは、普通にありえそうな、ギリギリのところですよね・・・流れ星が落ちて来る、という、実際にありそうな話を、ユーモラスに表現した、という表現力の問題。その勢いにのせられて、作者の世界に入り込んでしまうと・・・〈サダハル〉という、摩訶不思議な生き物の描写が始まる。現実にありえそうな、でも想像不能の、生き物、怪物のような。 頭の中に、奇妙なイメージの生き物が飛び回り始めたところで、「回想」シーンとなる。名前をつけること(サダハル、に、たとえば龍とか、サラマンダーに似た生き物、とか、そんな命名をすることで、分かった気分、になってしまう、人間の不思議さ)脳内物質、笑い・・・最後はまた、ラジオ(空想の)から流れて来る音声のようにも思われるエンディング。呼びかけで終わるということは、こちらも何か、応答しなければいけないような気分にもなりますし、ラジオ、ですから、ただ聴きっぱなしでよい、という気もしますし・・・ 巧みな構成で読み手のイメージを目いっぱい攪乱する、ユニークな作品だと思いました。 他の作品も読んでみたいです。 (ポスト!)

2017-08-06

抽象的、観念的な題名と、愛、という、これまた抽象的、観念的な言葉から立ち上がる一行目、その不確かさ、曖昧さを、作品全体がどのように具体的な・・・手触りあるものにしていくか、という「経過」「過程」を味わう作品なのかな、と思いました。 長い、物語のテクストがあって、その中の言葉を切り出して並べていくような断裂した感覚、その断裂具合が作りだす、独特のリズム。ノートに書きつけられた断片を集積していくような、思考の過程が記録されていくような進行が、黒髪さん独自のテイストを作りだしているように思う反面、連綿と並んでいくような形だと、ついていくのがつらい、という、読みがたさがありましたが・・・ 今回の作品では、連分けを上手く用いて、 〈傷跡を治せ〉と〈時〉に呼びかけるプロローグ、善悪の葛藤、嘘と混乱の中で〈私は心臓の部分を叩きつける〉と強度を持った一行が光る二連、自己啓発的な三連と、〈時〉が訪れたことを暗示する四連を経て、トンネルという具体的なものを寓意に用いた、実感のある(体感的に伝わる)五連が置かれる。呼びかけを含む六連のエピローグは、誰に向けられたものか。五連の最後に現れる、〈あなた〉に向けてのものか・・・だとすると、〈不在〉は、〈あなた〉の不在、なのか・・・ 〈張り詰めた空気の中に雪が降り始めて〉この一行も美しいですね。冷たい、悲しい、嬉しい、という相反する心情。〈あなた〉という幻想から離れたから、雪が降るのか。〈あなた〉に出会うことで、トンネルを抜け出すことができたのか。〈あなた〉は、水槽の中の〈私〉を見つめる視線なのか・・・ ハァモニィベルさんの読みにほぼ重なりますが、やはり、〈あなた〉と〈私〉の関係性、さらに、最後に呼びかけの形が用いられる理由、そのあたりを、もう少し踏み込んで聞かせてほしい様に思います。 (不在)

2017-08-04

魅力的な題名ですね。 〈夕暮色の心臓を抱えて/一番低い空気を吸う〉腫れあがった心臓を抱えて、大地に付すイメージ。 公園、と二度繰り返す畳みかけが、功を奏しているか・・・二度目の「公園」は、大地とか地球とか、なにか別のWordに切り替えた方が、〈傷溜まりをまたいで〉というユニークな言葉が生み出す異次元世界への導入がスムーズになるような気がしました。 〈美しさだけが爆ぜる羽の心臓/美しさだけが爆ぜる羽の胎児を見て〉 印象的なリフレインですが・・・心臓に羽根が生えていて、そのまま飛翔していくようなイメージ、でしょうか。その赤剥けの心臓が、胎児のイメージに変容する、のか・・・。〈落下するように止まった〉ここで再び、地上に回帰した感もありますが、〈秋から夏へ落ちる茜〉ここで時間が逆行している。それだけ大きな展開をするのに一行だけで表現するのは、さすがに凝縮しすぎている、というべきか・・・この一行が付けたしのように見えてしまって、もったいないような気もします。 今、この場所から飛び立ちたい、離れたい、という想いは強く伝わってきました。 (羽の胎児)

2017-08-04

ファイブ・ペニーズ、この題名が喚起する借景のようなイメージ・・・親娘の情愛、悔恨、音楽への情熱、絶望と奇跡のカムバック、尽きることのない友情・・・に、作品がどのように関わっているのか。 五連構成で、ひとり、が耳を傾けるところから始まる。ひとり、が感じる〈埋めたい距離〉は、ふたりなら埋まるのか・・・そっと、じっと、といった促音が生むリズム、読みの呼吸に合わせた流れが美しいと思いました。 二連目、〈何かを通わせたい僕と君〉ふたりのリエゾン・・・2人でいるのに、あるいはいるがゆえに、さらに深まる孤独の影。〈居ないひとり きり/の/ふたり〉言葉を途切れるように配置していくリズム、ほとり、ひとり、ふたり、悲しい、遠い、繋がり・・・いの脚韻が緩やかに綴る余韻。 三連目、オレンジ売りを、なぜ〈アマダイダイ〉と読ませるのか、疑問が残るが・・・才を持て余しながら枯渇させていく(他者に手渡せない)男の旅路を描いているような、寓意性の強さが印象に残りました。 四連目、音楽でいえばクライマックスに当たるところに挿入された散文詩・・・。〈美への憧れ〉と〈詩への誘惑〉がテーマの章ということになるのでしょうか。初恋というよりも初美、とでも呼びたいような、早熟な体験の記憶、大人の女性と線香花火が作り上げる一瞬の美、そこに〈宿り咲いて生きている美〉を認めた、まだ10にならぬ少年。その記憶を、大人になった今、寺田の文章などを援用しながら、理智によって確かめていく過程が描かれているように思います。埋もれていた、美と遭遇した折の記憶を思い起こす行為、それが詩情を見出す行為である、そんな詩論的なものを感じさせる部分。 五連目、オレンジ売りと同様、寓意性の強い連。四連目との関連でいえば、少年期から青年期までの歩みを、詩情と遭遇する過程にまで純化させた上で、砂漠で〈水の入った金属の壺を、頭に載っけた美しい女〉に遭遇するのを心待ちにするイメージに凝縮して描き出す、詩空間の作り方が美しいと思いました。象徴性の強さで読むなら、鴉は死の暗喩なのでしょうけれど・・・美と出会う時、それは死の瞬間である、というような想念が背後にあるのか・・・最終行のイメージの飛躍が、いささか唐突な印象も持ちました。 一連目、二連目のプロローグというのか、導入部分と、題名も含めた全体が有機的にからんでいるのかどうか・・・一、二連は、日常で感じる孤独を、ひとりとふたり、その質感を変えながら、音楽的な言葉で捉えた印象。三、四、五は、寓意性や象徴性、思弁性の強い断章形式・・・この構成そのものは非常に魅力的だと思いましたが、ファイブという題目にあわせての五連なのか、映画のイメージと重ねているのか(だとすると、かなり無理もあるような気もしますが)題名の喚起力の強さが、うまく全体に作用しているのかどうか、その部分に関して、私にはうまく読み込めない印象が残りました。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-04

この作品、すごく良い、と思ったのですが・・・アーカイブで見たら、三作目ですね。 うっかりミスの投稿であれば、8月投稿扱いにしていただけるかもしれません。 (腑に落ちる)

2017-08-02

「灰色の丘」の迫力と比べると、この作品の緊迫感は、いまひとつ・・・というところなのかな、と思いました。比べると、という言い方も変ですが・・・。 「埋め立てて」の方のインパクトと幻想性、意味に拠らない意味(というのも、これまた変ですが)世界観の映像化、というようなダイレクトな感覚・・・の方が、ずっと迫力はあると思いました。 〈君は依然として動かずに すらりとした背骨を伸ばしたまま テレビのほうを向き続けている〉 〈俺〉の方を向いていない、かといってテレビから流れるAVにのめり込んでいるわけでもない。 〈君〉は、映像の中の虚飾を実地で確かめた後、なのか。演技などしてやるものか、という意志の表れ、なのか・・・〈俺〉が、〈君〉の態度に焦りを覚えているのか失望しているのか満足しているのか・・・という心情が、まるで伝わってこない。伝わらないように抑制している、そこが眼目であるのかもしれないけれど・・・世界の傍観者のように〈君〉を見つめ、〈君〉が見ている(興奮も高揚感も与えてくれない)映像を見つめている〈俺〉とは、いったい何者なのか。 〈一切干渉できない〉〈今は感じられない〉このフレーズから、激しい交感を望む〈俺〉と、それを拒否する〈君〉との関係性を描きたかったのか、女性の感覚についに同化し得ない男性を客観視しようとした、のか・・・映像喚起力は強いけれども、その関係性を通じて言わんとしているところが、(他の二作と比べて)どうもいまひとつ伝わってこない、そんなもどかしさを覚える作品ではありました。 (氷の女王)

2017-08-02

この度はお日柄もよく、から始まって、この旅はお日柄もよく、と締める、枠構造。 足もとの悪い中・・・という、いわゆる定型口上の型枠だけ用いて、その中にナンセンスに言葉をはめ込んでいくセンスが絶妙と思いました。 〈塩味とまる味〉は、塩辛さとまろやかさ、その両方の喩でありつつ、その後の〈親切設計のまあるい彼の後頭部〉に繋がっていく。ひっすのさいえんす、というような音の運びや、冬のイメージが、スープ、温かい自販機、毛皮のミンク、と、関係性は寸断しながら、連想でゆるやかにまとめていくような言葉の斡旋、緑化/流浪の民、のイメージから引き出される砂漠(のような殺伐とした空間)と、〈2時間目からは着席してノートを取り〉というフレーズから、一気に学校のイメージに飛ばされるような空間の取り方。ノートを取りアリアを~が、ノートを取り・・・こんなのって、あり?と投げかけられた感もありました。 キリンのフレーズは、なんとなく「じゃがりこ」の、ギャグを連発するキャラクターの図を思い出しながら読んでいました(笑) この作品と「じゃがりこ」は関係ないかもしれないけれど。 〈お客さま〉は、いったい何を買わされる(あるいは契約させられる)のでしょう。気になる一作です。 (ケーブルサラダ・フレーズドレッシング)

2017-08-02

花緒さんの評に、テーマがまず鮮やかに切り取られている、と感心すると同時に、ひょっとこ面の意味合いを、個人的にもう少しよく考えたい、と思いました。 この作品のユニークさは、まずはクロコとして、祭りを盛り上げたり、下支えしたりする「立場」から逃げ出した自分、を、見ている自分がいる、というところ、ですね。 そして、現代社会や会社組織などの喩であるのか、と思いながら読み進み・・・そこから逃げ続ける自分が、むしろ逃げることによって〈祭り〉の「賑やかし」となってしまうばかりか、人々が〈塊、追手となる〉(そのように見えて来る)悪夢のような事態にまで発展する・・・その時に思い出すのが、〈愉快だった幼い頃〉であり、〈誰でもなくて俺だった記憶〉である、ということ。童心を思い出したところで〈腑に落ちる〉。何が、腑に落ちたのか。自分の望む者に、いつだってなれる、成りたい者に成れる、という、自分の未知の可能性を思い出した、のではあるまいか・・・。 腑に落ちた語り手は、ひょっとこ面をつけて、共同体に戻っていく。クロコとして、影の存在として祭りに参加するのではなく、そこから逃げ出すことによって皆の慰み者になる、のでもなく・・・自ら、祭りを盛り上げる仮面をつけて、よし、祭りに参加してやろう、俺が笑いの主役になってやろう、と、自らの意志で「祭り」に戻る。 会社でも日常でも、バカバカしすぎることなのに、必死に全力投球しないと乗り切れない、そんな・・・これは祭りだ、とでも割り切らなければやっていけないような狂騒が、日々起きているのではないか、という気がします。その「祭り」に、どのように関わっていくのか。意図的に演じる道化。その俺を、終始一貫して見つめている、書き手としての俺。 言葉のリズムも心地よいですし、よく吟味され、凝縮された作品だと思いました。 (腑に落ちる)

2017-08-02

〈しかし、あの色素が薄く清楚で可憐な黒髪の乙女である無垢の権化のようなモモミヤさんがイジメに加担するとは思えず〉白、の権化であるようなモモミヤさんを信じたのに・・・という切なさ、ですね、私が感じたものは。書き忘れました。 (白を信じて染みが付く)

2017-08-01

読みやすさと、切々と胸に迫って来るような感じと・・・疑いながら、もしや、という可能性にかけた主人公が、惨めに(無様に、非情に)裏切られるところ・・・なんとも残酷ながら、なぜか爽やかな読後感がありました。ウシオが打ちのめされておらず、むしろ〈彼らはきっと学校という複雑な人間関係の中で身も心も擦れ切ってしまっているのだろう。〉という、ある種の達観にまで達しているから、かもしれません。 〈「この汚い世の中で、例え心が擦れようとも大事な所を守る芯の部分だけは純粋なままであり続けよう」という信念〉という、荘厳、といってもよい信念と、その形としての表れが「白いブリーフ」という滑稽さ・・・泣き笑いしてしまいそうな、そんな人間の崇高さと滑稽さとが、軽めのタッチで(重いテーマを、重くなりすぎないように息抜きさせながら)描かれているように思います。 最後のところ、読者にトリックをしかけている、のでしょうか・・・家から「白いブリーフ」を持ってきていた、はずのウシオが、いつのまにか、夕日を浴びながら裸で(下半身だけ?)立っていて、おもむろにブリーフを穿く・・・〈ひとしきりの狂騒の後〉という一行、ですね・・・書かれてはいないけれど、・・・わらわらと出て来たクラスメートに脱がされる、という、更にひどい虐めを受けた、のか・・・いずれにせよ、夕日に向かって、堂々と立つ、ウシオの姿が凛々しいと思いました。 (白を信じて染みが付く)

2017-08-01

うじ、わし・・・マギ、マザー・・・音が微妙に連なっているのに、意味が見事にずれていく(ずらし、ではないですね、既に切り替え、という領域です)ところが、読みの面白さになっているように思います。この短さでキリッと締めて、成功だったのではないでしょうか。 〈植物が茂り始めて/悪徳の栄え/雨期を忘れて〉善悪といった、人間的な論理を越えて繁茂する感じ、あふれ出す感覚・・・雨期には「浮き」や「憂き」のニュアンスも含まれているのか(勝手に読者が喚起するだけかもしれませんが)「悪徳の栄え」が固有名詞でもあると同時に普通名詞(!)のようにも見えて面白い。 〈又医者に成って仕舞う〉で止めないで、〈気分をどうすることも出来なかった〉と、とぼけた調子で付け足したところで、題名に回帰する。なぜ医者になるのか、さっぱりわからないのですが(笑) 異常な状態に繁茂したもろもろを、また正常に復帰させる・・・そんな「医者」的な要素が働いているような気がしました。 (又医者に)

2017-08-01

構成が非常に面白いと思いました。〈ですからつまらないものをつまらな〉と、途中で打ち切っている感じになっていて・・・第一連?への応答、なのか、と思いきや・・・これはこれで、「つまらない詩」として独立したものとしても読み解ける(笑) 独立、という言い方も変ですね・・・前の内容(の無内容?無意味さ?)を受けながら、次へとつないでいく、のりしろのような役割を持っている題名。 後半は、〈愛〉を語る不能性というのか、不毛さを〈愛を売る/詩人は/嘘つきだ。〉と痛快に締めたところで・・・その詩人(であるかもしれない)〈I〉が、遠くから訪れる〈雨〉を受け止めようと腕をのばすような映像が浮かび、さらに、その〈雨〉を受け止めた〈I〉が、「芥子粒」のような存在であることに気付いて・・・〈詩を書きながら/少しずつ/僕を消していた〉という状態に至る。 自分が〈まぼろしの明日〉を探しに行く、という、自我が自ら世界を求めていくところから始まって、つまらない、そうではない、というような水掛け論や愛とはなんぞや(自分にとって)という不毛な議論を重ねている間は、自分に囚われている、とも言えますね。自我が全開になっている、というべきか。それが、はるかな場所、自分を超えた場所から訪れるものを静かに待ち受ける、という姿勢を取るようになったときから、少しずつ変わり始める。 詩を書くことが、自分を刻印していく、自我全開の行為から、むしろ、自分を消していく、世界に同化させていく、世界の受容器になっていく・・・そんな変化が、〈I〉に訪れたのかもしれない。そんなことを想いました。 (無題)

2017-07-31

綺麗なイメージの作品ですね。 大好きな茨木のり子さんの「みずうみ」の、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ//田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは/話すとわかる 二言 三言で・・・〉という一節を思い出しました。茨木さんの作品は、確かに誰かの心の底にある湖、のこと、ですが・・・二つ目の心臓さんの作品では、世界そのものが湖のように思われる朝、のことを歌っている。ここでの〈あなた〉を、語り手を取り巻く世界そのもの、であると受け止めると、より大きくイメージが広がりますね。 後半、うつくしい、という語を何度も記しておられますが・・・二つ目の心臓さんが感じる「うつくしさ」とは何か。うつくしい、という一語に集約してしまうのではなく(人によって、「うつくしい」と感じるものや、その質感が大きくことなるので、受け止める側に大きな幅が生まれて、曖昧になっていく、拡散していく、ので)青い湖の底にいるような朝、の美しさであったり、そこで出会った微笑みの美しさであったり、きらりと光る道端の小石の美しさであったり・・・そんな具体的な景に、もっと触れていくと良いかもしれない、と思いました。 (みずうみ)

2017-07-31

天才詩人&花緒の議論に割って入る、ということではないのですが・・・「不在」という言葉に、つきまとうニュアンスを、お二人が共有しているのかどうか、ということには、疑問が残りました。 不在という語に、喪失感、空虚感、失望感を感じているのか、いないのか。花緒さんは事実としての不在、に言及していて、いわば、状況説明の言葉。天才詩人さんは、「不在」という言葉が喚起する詩的感興が、この作品には強く感じられない、だから、これはモノローグとどこが違う?という疑問を発しているのではないかと思いました。 不在である、という情況があるけれども、そのことに語り手は渇望したり苦悩したりしていない。むしろ、その不在である空間に、想起の力を用いて「いま、ここにいない人」「その人がいた時の時空」を呼び出している。次々に、内的空間に呼び出されては、また消え去っていく想念。それはいったい、何なのだろう、と、静かに見つめているような印象を受けます。追憶として、無理に追いかけたり、もう得られないものを切望したりする衝動性を感じない。今、自分が居るところから、その想念が訪れて来る過去のある時点に飛んでいきたい、居てもたってもいられない、でもできない・・・というような焦燥感を感じない。自分の中に訪れて来る想念を吟味しながら、語り手は偶然のように出会うもの、訪れるものを、待っている感覚がある。その安定感というのか、慌てないで待っている静けさというのか・・・その動じない語り手のスタンスのようなものが、落ち着いた語り口、それでいてオムニバスのようにどんどんスライドしていく語りを生み出しているように思います。 なかたつさんへ。 「作品を拡げた読みがしっくりくるような、こないような感じです。」ありがとうございます。何といえばいいのか・・・作品の意図するところを読み解こうとか、語り手の心情を推しはかろうとか、そういう感覚ではない所で読んでいる、というのか・・・作者が意識しているかいないかには関わらず、なぜ、これほどに「煙草」にこだわるのか、というところに興味が向いています。 さりげない小道具のように扱われていて・・・でも、全篇に網のように覆いかぶさっている。 〈煙草を吸い始めたのは少女との約束を守るためだった〉〈僕と結婚する人にお願いしたいのは、僕の喫煙を辞めさせて欲しい。そうすれば少女との約束を破れるから〉〈右手に握られているものが何であるかを今は知る由もない〉自分が吸いたくて吸っている、という自発的意思という雰囲気ではないのに、自分ではやめられない。少女との約束を守っている間は、沖縄に行けない、その約束を自らに確認させるために、この主人公は煙草を吸っているのだろうか・・・結婚によって、無理に(他律的に)破る約束とは、なんだろう。結婚後に、煙草の代わりに右手に握るもの、とは、なんだろう。結婚によって、新たな約束をする、ということ、なのだろうか・・・〈母〉の煙草を、作者が「気に留めて」書き込んだのは、なぜだろう。〈兄〉は吸うのか吸わないのかわからないけれど、約束を守るために吸う、というような行為からは逃れることができている人なんだろうな、などなど・・・。 作者が意識している以上に、煙草(とそのイメージ)は、作品全体に、大きな影響を及ぼしているという気がして・・・煙草、約束、守る、破る、そういう情況に主人公を導く小道具としての機能・・・が気になっています。 (縁)

2017-07-31

kaz.さんのコメントを拝読して、なんというか・・・知識が多すぎるのかな、という印象がありました。知識を得た時に、その発見から何を感じたのか、何に驚いたのか、どうして驚愕したのか・・・なぜ、そのことを人に伝えたくなったのか、というような・・・ kaz.さん発信の部分が、そのきっかけとなった知識の陰に埋もれてしまって、他者に伝わりにくくなっている、ような・・・人によっては、知識の開陳だ、と煙たがる人もいるかもしれません。私はそうは思いませんが・・・純粋に、感動がその原点にあるはず。 子規の(ある種、極端にデフォルメされた)写生論にも通じるものがあるけれども・・・芭蕉(あるいは芭蕉のエピゴーネンたち)へのアンチテーゼとして提出されたものではありますが・・・自身の心を動かした「実景」を、いかに他者にそのまま手渡すか、という、即物主義のような発想。即知識主義、なんて表現があるのかどうか、わかりませんが・・・言葉の多さ、語彙の豊富さのもたらすハレーション、その弾けた先にあるものを、どうしても見たい、と(私は)思ってしまう。 数字の神秘に感動して、魔法陣の詳細な解説を延べている「散文」を読んだことがあるのですが、その思い入れの強さと、気持ちが先走って論理を飛び越していく勢い、そこから紡ぎ出された文体は、これは詩だ、と感じさせるものがありました。ご本人は、いかに自分が魔法陣の神秘に感動したか、そこにこだわって述べている、だけだったように思いますが・・・。関係ないことばかり書いてしまいましたが、雑談的に読み取って下されば幸いです。 (911+311=1222)

2017-07-31

形の美しさ、レイアウトの美しさ、そこに、あえて意味を乗せていくことで生れるもの・・・ なんとういうか、男性側から見ると、いわゆる「できちゃった婚」も、これほどスッキリ美しいフォルムに整理できてしまうのか、という驚きのようなものがありました。倫理的なこととか、そういう余計なことを負わせようという思いがあるわけでもなく、もちろん、非難でもないです、と前置きしたうえで・・・できちゃったけど、どうしよう、というドロドロの悩み相談を持ち掛けられたり、逆に、あえて子供を(男を騙して)宿して、なんとか結婚に持ち込もうとしたり(これもまた、男性側とドロンドロンのトラブルになった)という、とにかくぐっちゃぐちゃの相談を幾度ももちかけられている、ので・・・そのたびに、まずは子供にとって、一番よい方法を考えよう、と、どうにもならない出来事をなんとかどうにかしようとしてゴニョゴニョ、ああでもないこうでもない、と話を重ねながら・・・結局、想定外の妊娠の際に仕事を辞めなくてはいけないのも女性だし、時には子供の「命を絶つ」という最悪の決断をして、一生、トラウマのように引きずるのも女性だし・・・という女性側から描いたら、どうやっても、こんな風にスッキリと美しい形、にはおさまらないだろうな、というような・・・なんだろう、知恵の輪みたいにぐっちゃぐちゃの、こんぐらかった網の目のような感じになる、かな。とか・・・(何度もいってますが、非難とか、批判ではないです!ただ、スッキリ具合に、驚いた、ということなので・・・) 横からみたら、女性が子を宿す、孕む形、とも見えて来る・・・もっと丸さを意識して、結婚というような制度的なことよりも、妊娠とか出産という生理現象と、詩を産む、言葉を生む、というようなアナロジーとを重ねていった方が、より(意味的には)面白いのではないか、という気もしました。 (結婚)

2017-07-30

911と311・・・一方は人災、他方は自然災害と言えなくもないですが、やはり人災の側面のある、悪しき記念の数字・・・この、象徴的な出来事を、私たちは言葉で表現し得るのか?というような問いかけなのか、と思って読み始めたのですが、そういうことでもなさそうだし・・・その時、日本の文壇は何をしていた、という問いかけというか、問題提起なのか?と思ったのですが、そういうわけでもなさそうだし・・・ ポッカレモンと牧歌檸檬、これは語呂合わせなのか? 吉里吉里人は、あの作品を念頭に置いている、のであろうけれど、両者を対置する理由は、なんだろう・・・ 大量に投下された、言葉のマッスというのか、量塊のような部分は・・・自動筆記と呼ぶほどには自由に任せたという感じではないし(意識の制御の元にある、印象)かといって、意識の流れ、というほど、向かっていく方向、進行具合が見えるわけでもなく・・・改行詩の部分の飛躍具合は面白いけれど、いま一つ(私の力量では)全体への効果にしても構成の意図についても、つかみがたく・・・ 〈ノイズ。 またアメリカが降り始める。〉 この終行、予言のようで、ドキリとさせられますね。 (911+311=1222)

2017-07-30

なるほど、色々な感想があるのだなあ、と思いつつ・・・軽めの日常会話が続いて、そこにポンと置かれた二連、〈ぼんやりとした日常が/はっきりとした日常へ/変わった その瞬間を/僕は恋と呼びます〉〈きっかけを見つける度に/ちっぽけに見える日々が/輝いた その瞬間を/僕は恋と呼びます〉ここで締めているな、という印象があったので・・・う~ん。 友情より、ちょっと色の濃いような、でも、なんとも名付けがたい想い、それをとりあえず僕らは「恋」と呼びます、というような、これが僕らの恋だ、というような、そんな宣言と受け取ったのですが・・・ 何が本当の「恋」だかわかりませんが(^_^;) 恋は、こんな爽やかな、日常がくっきりと際立って、鮮やかに匂い立ってくる、そんな肯定的なもの、だったろうか・・・自分自身を奪われるような、自分で自分の意志がままならないような、私、という枠を破壊されて持ち去られるような、そんな暴力的なものではなかったか・・・嫉妬や疑いや、そんなドロドロした、自分が抱えていることすら知らなかった暗部をいやというほど見せつけられて、それでも渇望して、そんな自分に苛立ち、相手に憤り、それでいて、ちらりとでも目があって、微笑んでもらえたら、一日幸福の絶頂に居られる、というような・・・そんな麻薬的な魅力を持ったもの、ではなかったか・・・と、振り返ってみる、のですけれど。 もう二度と、あんな思いはしたくない、と思う一方で・・・またもう一度、あんな焼け焦げるような思いに身をさらしてみたい、という思いもあります。やっかいですね、恋は。 (通学路)

2017-07-30

文化遺産や歴史遺産を「人質」にとって、自分たちの短期的、短絡的な欲望を満たそうとする・・・この不毛性と・・・文化遺産を守るために、失われる命の問題と・・・。 ドレスデンの再建に関する、詳細なドキュメントと人々の情熱を見て、圧倒された想いがあります。 〈皮肉にも、ドレスデンは、(そして京都は、)最も歴史的に尊ばれ美しいからこそ、攻撃の標的になり得たかもしれないという。〉この一節から、私はなぜか『金閣寺』を思い出したのですが・・・ 〈連合軍はこの芸術の都には手をつけないだろう、とナチスの将校達が楽観していたから〉この一節から思い出したのは、ヴェルコールの『海の沈黙』でした。ナチスの将校ですら、芸術の価値を理解し、愛することが出来た・・・それなのに、戦場で「やむを得ず」行う非道ではなく、極めて冷静に、緻密に、論理的に、ユダヤ人撲滅という非道を実行したのは、なにゆえか・・・ハンナ・アーレントの映画がしばらく前に話題になりましたが・・・集団心理の謎について(そして、その謎が解けない限り、また再び、起きるとも限らない)考えざるを得ません。南京の虐殺にせよ、ルワンダの虐殺にせよ、ISの虐殺にせよ・・・ナチスほど組織立って、論理的かつ周到に行われた例は、未だかつてなかったように思いますが、一度はあった、ということは、これからもまた、あり得る、ということでもある。 その時に、文化遺産や、文化遺産を愛する気持ちが、人間性の最後の砦、となり得るのか。なり得てほしい、と強く、願いつつ。 (ダグマ Ⅲ)

2017-07-30

〈職場は言葉を失うどころか笑いに包まれる。〉〈職場は嘲笑や失笑を越えて温かみに覆われる。〉 〈飲み屋での打ち明け話に、僕らはただ「そんなことは関係ない」と答えるだけだ。〉 一連目は、たとえば事故や病気で後天的に脳に障害を負った方をイメージしましたし、二連目は発達障害などのハンディを負った方をイメージしました。三連目と四連目は、精神的には「健常者」(一般的な用語法に於いて、と但し書きを付けます)であるけれども、貧困や虐待によって学びの機会を失してしまった方をイメージしました。 全体に、いわゆる社会的弱者、と呼ばれる方をイメージしながら、そこに弱さとか「庇ってあげなきゃ」とか、「守ってあげる」といった、「~をしてあげる」的な「強者」(健常者)の論理ではなく、ごく自然に打ち解けて、共に生きている状態を描いている、ように思いました。 後半、何度も繰り返される、天使になった、天国に行った・・・この文言が、いささかくどい様に思います。事実であるかどうかは問いませんが、突然いなくなってしまった、という喪失感を前面に出した方が良かったのではないか。たとえば、いつも彼が座っていた椅子が、不在のまま残されている。いつも笑いながらドアを開けて、おはよう、と言ってくれた時刻に、彼は来ない。彼、がいないことで、職場から失われた笑い、職場から失われた憩い、それらについて、改めて思いを馳せる、というような。 障害者施設での残虐な殺人事件から、一年たったところで提出された作品だったので、そうした社会批判的なメッセージが含まれているのか、と思ったのですが・・・前半の寡黙な展開を活かすためにも、後半をもう少し練り直した方が良い様に感じます。 (海江さん。)

2017-07-30

はずむようなリズム感が楽しい作品ですね。台風の夜のワクワク・・・これは、〈丈夫な船に乗っているから〉でもあるでしょうけれど、信頼できる家族(両親とか)と共に、家の中という安全な場所にいる、ということの喩でもあるような気がしました。 嵐がやってきた時に、家族で(母の腕に抱かれて)過ごした、非日常の楽しさ、面白さ。子供時代にはそれだけで済んでいた、かもしれないけれど・・・大人になった今は、翌朝の町の汚さ、役割を奪われた者の悲しさ、が見えてしまう。祭りの後の静けさというのか、乱れた虚ろな感覚まで、気づかされてしまう。そんな内的な対比を描きたかったのか・・・と思いつつ・・・冒頭の台風の夜にワクワクしている、という高揚感と、僕等はゴミのない街が好きだ、という冷静な感覚、その変化のわけと、ガラスの海、というイメージがどこから出てきたのか、という謎について、作者に聴いてみたいと思いました。 (ガラスの海で)

2017-07-30

題名のインパクトと、最初の一連の驚きが、とても魅力的な作品だと思いました。 先端を尖らせながらぐいぐいと思索に食い込んでいくようなイメージの一連に対して、 〈来たことのあるような場所に着いて〉急に現実世界に着地するような印象がありますね。 〈目抜き通りで/海岸線で〉このフレーズと、来たことあるような場所、とが、関連しているのか・・・。 感情の先端から、自分の過去の心情を探っていく、そんな作品と読みたい(作者の意図には反するかもしれませんが。)たとえば、恋人と初めて訪れた場所が、かつて子供時代に連れられて来た(かもしれない)記憶の場所であるような気がして・・・というシチュエーション。それも、過去の記憶の中に封印されていて、自分では掘り起こせないような記憶・・・そんなシチュエーションを想起しました。 (先端覆す。)

2017-07-30

シずくをシずかに ユるやかにユらして といった頭韻、〈希望の水滴〉〈夏風の断片〉といった対句的表現、〈あるかもしれない〉といった反復・・・立原的世界というのでしょうか、ひとつの抒情世界を作りだして、その中で歌っていく、という流れが丁寧に展開されているように思いました。 〈情熱が溶け出した/真夏の色彩は/小麦色に染まる〉赤や朱をイメージしたところで、小麦色・・・黄金色でしょうか、色彩イメージがずらされ、どこに向かっていくのかと思うと、今度は〈夜空を超えた悲しみがある〉・・・赤から橙、朱色、そして金へと陽が落ちて行って、やがて青の夏の夜空に変化していく、その流れを描いている、のか・・・情熱と悲しみを対置しようとしたがゆえに、赤や金の暖色と青や黒の寒色とがイメージに現れたのか・・・冒頭から少女の悲しみ、について歌っているので、もしかしたら「情熱」は少女の恋、その恋が破れた後の悲しみ、という流れなのかな、と思いつつ。 対句や言葉の響きに意識を向けるあまり、具体的な悲しみの内容や、悲しみの質感、伝えたい強度、といったもの(希望に変化するかもしれないもの)が、うまく伝わってこないもどかしさが残りました。 〈小さな慟哭〉が、〈小さな陶酔〉に変わる、そのきっかけは何だったのだろう。悲しみの涙が、希望の一滴に替わる、そのきっかけが、きっとあったはず。そこにもう一歩、踏み込んでほしいように思いました。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-07-30

題は、さんかく、とよむのでしょうか・・・しばしば、神の眼、あるいはプロビデンスの眼、として、三角形の中に目玉というインパクト大の図像で示されるイメージを思い出しました。超自我の眼――自分を監視する存在、自分を超越したところから見つめる超越的な第三者としての自己――の投影でもあるようです。 るるりらさんの作品では、三角形ではなく、さらにそれを立体化して幻視しているのですね。その中に閉じ込められた自分、を外から見ている書き手がいて、その書き手(詩を書く主体)を見返している、閉じ込められた自分、がいる・・・空中に浮かぶピラミッドの中で、頂点を目指して上昇しようとして壁に阻まれ、底辺に降りようとしてまた底に阻まれ、身動きが取れない自分を、なぜか外から見ている自分、そんな構図が浮かびました。 〈想像と意志〉が戦っている、せめぎ合っているもの、という認識も新鮮でした。なぜ、ぶつかり合わねばならないのか。〈他人の価値観に翻弄され/あらがう意志の力が微弱〉なとき、自分を閉じ込めるピラミッドが現れる・・・書き手の自由な想像力の羽ばたきを封じてしまうものとして、ピラミッドが現れるのでしょう。そして、そのピラミッドは、〈私〉を閉じ込めるものであると同時に、〈ときには地べたに ひれ伏した思いのまま〉・・・地べたに押し付けてひれ伏させる、〈私〉にのしかかって来る、屈強な存在、でもある(あった)・・・それが、ある日、なぜか反転する。 地べたに押し付けられていた〈私〉は、上からのしかかって来るものに意識を注ぎながら、地面を見つめていたのかもしれない。でも、押し付けられている地面の〈草の匂いを嗅ぎ/水を飲み/汗を流し〉・・・大地の息吹を体に取り込んで、反転した時、押し付けるものとしてのしかかっていたピラミッドを、底辺から見る、見返す力を得たのではないか。 〈身体に似合う大きさ四角錐〉この発想も面白いですね。自分を閉じ込めていたピラミッド、いわば檻から逃れて、大地からその檻を見返している。さらには、その檻を、自ら己に合ったサイズに自在に修正する・・・その時、自分を閉じ込める檻であったピラミッドは、己を守る家、鎧、自在に出入り可能な私的空間へと変貌する。 〈ある日〉起きた反転――私を閉じ込める出入り不能の檻が、私を守る出入り可能な囲いに変貌する瞬間――がなぜ訪れたのか、その辺りは曖昧ですが、草の匂いを嗅ぐ・・・自然の息吹に身を添わせる・・・という行為が、なんらかのキーだったのだろうと感じました。外からの眼、他者からの視線にがんじがらめになっていた〈私〉が、外からの視線=他者の視線に投影された自己の視線、と気づいて自らを解放する瞬間、と呼んでもよいのかもしれません。共感しつつ、うまくまとまらないコメントになってしまいましたが、そんなドラスティックな瞬間を、鮮やかな映像や空間的な体感として読者にもリアルに伝えてくる、迫真力が素敵だと思いました。 (それから、〈やすせなく〉は、やるせなく、でしょうか?〈身体に似合う大きさ四角錐〉大きさの四角錐、と、こちらも「の」が入るような気がします・・・) (△)

2017-07-28

イタリアと日本、シルクロード・・・イタリアの絹織物。どちらから見て東か西か、どこを世界の中心とするか。マルコポーロに訪ねても、きっと答えは見つかりますまい・・・ 題名、カイコとカタカナで書くと、回顧、とも読めるのが面白いですね。 供給、排泄、供給、と重ねていく進行速度の遅さ、全体に粘り強く「カイコ」にこだわっていく流れ、その流れを寸断するように〈違和感を持つ/いい説だ/ワイセツだ/カラーの手紙が届いた/家訓がびっしり書かれて居る〉い、い、せつ、せつ、か、か、か・・・と音から先に引き出された連想と日常がないまぜになったような、不思議な展開・・・。自動筆記を試しておられるのかな、と思いつつ、なかなかついていくのが大変で、もどかしさが残る作品ではあります(そのもどかしさを演出するのが狙いなのかどうか・・・) 〈今回はまゆの段階で殺さぬ/成虫を誕生させる〉この強い意志は、どこから由来するのか、どこに着地していくのか。このフレーズが、強く印象に残りました。 (カイコ~東にあるイタリア~)

2017-07-28

以前に投稿されたAV.68の、比較的綿密な構成や伏線を忍ばせた丁寧な推敲に比して、この作品はあまり推敲に時間をかけていない、ラフスケッチの状態であえて提出されたもののように感じるのですが・・・。〈以上の文章は、わたし自身の遍歴をまとめたものだ〉この一節が、私小説風の虚構であるのか、事実に基づく文章であるのか・・・いずれにせよ、〈歩道でぼんやりしていた〉とか〈ただ冷たい窓ガラスに頬をくっつけたり〉〈暑かったからじゃない。〉といった文体は、10代後半から20代の頃の・・・一般的にいうところの青春時代の・・・感情や言葉遣いを、そのまま思い起こして記しているように感じられました。 作中人物の作中年齢に応じた言い方や感じ方で記していく、そのこと自体は作品に(創作としての)リアリティーを与えていく大事な要素だと思いますが・・・〈以上の文章は、~〉が、作品欄に記されている、ということの虚構/非虚構を、どのように受け止めればよいのか・・・コメント欄に記されているわけではない、ということ、ですね・・・。 率直な感想として、「AV.68」の完成度に比べるならば、やはり本作は、ラフスケッチ、という印象を受ける部分が多い作品でした。 (カニ族)

2017-07-27

二の最後で、なぜ、〈おそらく、「空洞」と化した死者の視線の横溢する「窓の外」では、「生者の論理」をもって闖入したとしても、たちまち窒息してしまうだろう。そこで息を保つことができるのは、「不具の児」だけだ〉と性急に結論へと飛躍してしまうのだろう・・・と疑問に思ったのですが、それゆえの「補」の必然なのですね。 死者の眼が〈私〉を刺す空洞、その空洞を子宮として産み落とされた「不具の児」、その父親は〈きみらすべて〉だと叫ぶことによって・・・自らを抉り刺すことになる、という絶対的な矛盾・・・ 〈冒頭部の「死をまつ男」の目にはなりえても、みずからが「不具の児」として「這う」姿を幻視しているといってしまったら、それは欺瞞でしかない。〉この手厳しい批判は、もしかするとご自身に対しても向けられたものなのかもしれません。だからこそ、ここまで切実に黒田の内面に迫れるのかもしれない(これは、私のまったくの空想ですが。)作者にとって、書かざるを得ない必然性に突き動かされたゆえの論考だと感じました。 「不具の児」は、自身の夢や希望が潰えた絶望、その絶望を他者に投げ渡そうとして、そのことを自身に許しえない、その自己撞着が生み出した、黒田の詩文そのものなのかもしれません。 〈この「見えない」は、ほんとうに見えていないのだ。だから、幻視では決してない。「不具の児」が「這ってくる」のに対して、ただただ、「見えない過程のまんなか」すなわち「見えない」道のどまんなかで、醜くも悶えているのがこの時点での黒田喜夫の、あまりにもしょうじきな姿ではなかったか。私はこの姿、この「にがさ」だけは忘れないようにしたいと思う。〉大変、勉強になりました。ありがとうございました。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

二、〈あなたの「目」〉が〈死者の眼としてそこにある〉空間で、〈あなた〉に見られる、ということ・・・魂の底を抉られるような、切り込んでくる視線。黒田は、その視線にさらされていたのだ、というbananamwllowさんの読み解きが、具体的な作例から明らかにされていく。 〈詩人は他人の(「死をまつ男」の)目になることを欲望している。〉だが、それは、死者に成り代わって、死者の代弁をするため、ではない。黒田にとって、死者は〈決してうたわない〉うたえない、あるは、うたうことを剥奪された、そこに失われずに在り続ける死者、〈「しつような」沈黙そのもの〉としての死者。 たとえば、黒田がハンガリー事件に際して(もちろん日本国内における自身の立場や、恋という、これもまたのっぴきならない非常事態にあった、ということを考慮した、としても)いきなりブダペストで吊るされている、という「実感」・・・読者にとっては詩的虚構、ひとつのレトリック、として片づけられてしまいかねないことが、黒田にとって、どれほど切実な「真実」であったか、ということが、bananamwllowさんの読み解きによって鮮やかに、説得力を持って提示されていく。これぞ批評、だと感じ入りました。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

一、bananamwllowさんが明快かつ論理的に黒田の胸に抉られた〈空洞〉を顕在化させていく、その手際に脱帽です。「二つの愛」という作品からbananamwllowさんは丁寧に〈黒田喜夫において眼差すことは、なによりもよく見ることから出発し、いつのまにか時空を異にする他人(ここでは「にわとり」だ)の目になることを通過して、成り代わった目のさきで幻視し、思考していく運動〉であることを導き出した上で、黒田は過去、現在、そして、特定できないがゆえに〈宙ぶらりん〉であり、それゆえに永遠に逃れる事の出来ない場である時空、その三つを同時に体験していることを指摘する。その〈宙ぶらりんの空間〉〈特定の自制をもたない空間〉こそが、黒田が〈「空洞」と名指〉した空間であり、その空間には〈「魂ものこらない火葬」をされた「怒号」が鳴り響いているとしたらどうだろう。「蛆にまかされた土葬」をされた「兵士の群」のいくつもの開いた目、それ自体がそこ(「空洞」)に凍結されているとしたら〉と、黒田の「空洞」を鮮やかに追体験していく。 詩人が抱えていたであろう詩空間に、このように踏み込んでいくことによって、読解の道が新たに開ける。これこそ批評の醍醐味でしょう。詩人の言葉の手前で立ち止まらされていた読者も、bananamwllowさんが切り拓いた道筋によって、黒田の世界に立ち入らせてもらえるわけです。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

力のこもった詩論のご投稿、ありがとうございます。スクロールしながら読むのが難しかったので、紙に打ち出しました。 まずは、序について。黒田特有の、〈みないわけにはいかない〉というような屈折した表現・・・どうしてもせざるを得ない、自らの意志というよりも、外部から目に見えない何者かによって突き動かされるような、そうした衝動によってあふれ出す思い・・・を論理で抑え込むというのか、捻じ曲げてなんとか言葉の枠に収める、暴れ馬をロープでくくりあげるような文体・・・よく難解と言われるゆえんですが、その文章自体を解析していくのではなく、bananamwllowさんの配置(編集)や要約(解釈含めて)によって読み解いていく構成がすばらしいと思いました。 冒頭引用部の核は、意味を剥奪された死そのもの、そのナマの暴力的な存在感、圧倒的な力で迫って来る、動かしがたい死という現実について、黒田が烈しく反応している、という点にあるのですが、〈フィクションの正常なレールの外に投げ出されているのをみないわけにはいかない〉この部分が、よくわからない。でも、その後にbananamwllowさんによる要約を経て、〈意味を持ち得る死〉――革命の為に、社会の為に、人類の為に、といった理由付けをされ、価値づけをされることによって、死が無意味ではない、と意味づけられていくこと――それこそが「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に死を乗せていくことなのではないか?という黒田の問いかけが明らかにされていく。死の美化、死者の英雄化、そうした「仮構のレール」・「フィクションの正常なレール」に乗せていくことによって「死」を描くことによって、ドラマティックな物語や、人々の心を熱く震わせるパッションを持ったドラマが生み出されるわけですが・・・そして、それこそが「描く」ことが成功した例、なのでしょうけれども・・・黒田はあえて、〈「描く」ことを失敗するようなしかたでしか描かれないとき、〉つまり、死をパッションやドラマや「~の為」といった価値づけから切り離された、物質としての死を注視することによって、黒田は〈はじめて死者たちは物質としての屍体であると同時に、いつまでも「失くならず」に在り続ける死者の眼差しを持ちうる〉という視点に到達したのだ、と結論づける。 黒田が死者を見つめる、のではなく、死者に見つめられている、そのことを否応なしに感じている、それゆえに〈見返さざるを得ない〉という、のっぴきならない、息詰まるような詩的空間。黒田の世界が、なぜ、そのような奥行きを持たざるを得なかったのか?その問いを、黒田の「見る」こと、「目」に着目することによって、考えていく・・・素晴らしい「序」です(二度目ですね) (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-07-26

皆さんが採り上げているけれども・・・〈創造するためには何がいるのか/恐ろしい幽霊とも右手で握手する〉このインパクトですね。 私が思い出したのは(古すぎますが)ファウスト博士の、メフィストフェレスとの契約。創造という行為が、狂気を孕み、時には倫理や道徳を越えてしまうことがある・・・その闇に取り込まれていく恐怖と、我を忘れて飲み込まれてしまいたい、という欲望、その両方を、人は抱いているように思います(創造とか表現を志す人は、特に) 〈必要としているものは/形のないもので/攻撃的なものではない/シャボン玉の兵器〉 夢想という名、想像力という名の兵器。心を自由に保つ為の・・・社会的圧力やストレスから自らの魂を守るための・・・防御のための兵器、であるのかもしれない、と思いました。 〈集団は崩れるもの/和を取り持つ者が/みんなの耳に同じ文句を届けたら/嬉しいのに/同じ文句を聞いた経験から/広がっていくことが可能にはならないか〉妙に理屈っぽい表現ですが、面白いですね。人が集まれば、必ず(といっていいほど)行き違いや思い違いや気持ちのすれ違いが起こる。それも、皆が深入りしないように、ほどほどに(冷たく)付き合っていればやり過ごせるのに、熱くなればなるほど、お互いに「譲れない」ものが出て来て、その核に触れた途端にぶつかり合ってしまう。う~ん。〈文句〉という言葉は、文言、という意味もあるけれど、この場合は苦情、的な文句、なのかな・・・和を取り持つ人が届ける「文句」は、笑顔になろう、かな・・・。仲良くやろうよ? 許し合おうよ、かもしれない、歩み寄ろうよ、かもしれない、けれど。 〈悲しい気持ちは嬉しい気持ちと同じ主人に仕えているさ〉喜びや楽しみだけを感じる心なんて、ありえない。喜びに鋭敏であればあるほど、悲哀や苦悩、憤りや悔しさ・・・を感じる心のキャパシティーも大きくなるような気がします。すべてに鈍感になる心を得るくらいなら、痛みが増幅したとしても、喜びや楽しみを強く感じられる心を持ちたい、と思いつつ・・・痛みを感じた時は、こんなもの、捨ててしまいたい、と落ち込んだりもするんですよね(;^ω^) 〈それらを分かつのはひっきょう叡知のあるなしさ〉叡智、これは後から得るものではなく、全ての人に内在されていて、様々な試練に寄って開示されていくもの、のように感じています。 〈誰もが一人ずつのヒーロー〉表現する者たち、ひとりひとりが創造主であり、自分自身のヒーローだ、というような、創作者へのエールを感じました。 〈分かり合えないということが分かり合おうとする理由だ〉ここで、なぜ詩を止めなかったのだろう、ということが、ひとつの疑問として残りました。一般に、〈神〉を出してしまうと、話が大きくなりすぎて、逆に言葉の重みが薄れたり、装飾過多に感じられたりします。ここでは〈神々〉なので、なんとなくギリシャのミューズたち、のようなイメージもあるのですが・・・幽霊が出て来て悪魔が出て来て、そこまでは自身の内面の闇、自分が眼をそむけていた自分自身の欲望や野望のメタファーのようにも読めるのですが、さらに神々が出て来ると、オールスター総出演、のような、ちょっと過剰な印象を受けてしまいました(私個人の感覚、かもしれませんが。) (必要)

2017-07-26

ふらぺちーの、という語感もそうですが、全体に弾んでいくようなリズム感が、独自のスタイルとなっていますね。 残る。確かになにかが、そこに残る。しかし、いったい何が・・・ 〈全部飽きたけど代用品がないので放置〉〈空白に耐えられなくて埋めまくったら〉空白恐怖症のような現代。とにかく新しい情報で次々に隙間を埋めて行って、横に流していって・・・しかし、いったい最後に、何が残るのか?そんな不毛感を、〈僕〉一人の視点から歌うように描き出している。 〈コンビニが優しいのは気のせい〉〈景色を盗んで心情のふりをした情景が邪魔〉 〈神様ばっかつくってるから、感受性を介護される〉印象に残るフレーズでした。 〈僕〉の周囲を猛スピードで過ぎ去っていく日常、ネットの情報、その中で・・・生きて動いている僕、が本物なのか、発信し続けて過ぎ去っていく言葉(記憶)が本物、なのか・・・ 題名がすごくキャッチ―で惹かれるのですが、しかし、内容と幅があり過ぎて・・・ハテナ?がいっぱい。なぜ、この題名を付けたのか、ぜひ伺いたいです。 (フラペチーノ、産まれる)

2017-07-25

一連目の、抑えた写生的描写、映画が始まるような印象を受けました。二連目の反転で驚かされました。肌身に沁み込んでくるような、直接の血縁ではないかもしれない、でも、故郷に深く根差していたはずの人々の、その卒塔婆・・・背に貼りついてくる湿った質感。〈まるで卒塔婆を這う無数の小さな蛇にしか見えない。〉初読では、ここはずいぶん説明的な一行だと思ったのですが、後半の、文字が抜け出して〈冷たく見下ろす〉、その伏線となっていたのですね。 三連目。祖先たちの魂の化身のような、時には陰湿でさえあるような、しかし深い故郷への愛憎を内に秘めた蛇たち、その魂の群れを、自ら舐めとって体に収める、一体化していくような凄まじさ。 それは〈卒塔婆に付いた泥が口の中に入っていく。/泥は粘膜を汚していく。〉自らの内を〈汚していく〉ことであるのかもしれないけれど・・・父祖たちの想いを全部飲み込んで、その山の「もののけ」に変容していくような、そんな運び手の覚悟のようなもの、全てを身の裡に引き受けるような、そんな重厚さを感じました。 地縁血縁、因縁その他もろもろを断ち切ってしまいたい、という思い、逃れたい、という思いに裏打ちされた作品や、故郷を美化したり憧憬したりする作品には数多く出会ってきましたが、愛憎も、汚れも痛みも、そうした負の部分もすべて飲み込んでやる、というような、そんな迫力を持った作品には、なかなか出会わない。秀作だと思いました。 (卒塔婆を背負いて山をゆく)

2017-07-24

国立競技場に関わっていた、23歳の青年が、過労死で自死した、という報道と、重ねながら読みました。柔らかい言葉で流れるように重ねていく筆致は、少し丁寧過ぎるのかな(人によっては、冗漫と感じるかもしれない)と思ったのですが、内容の重さ(辛さ)の角を取っていくというのか、まるく磨いていくような、そんな時間でもあるのかな、と感じました。 〈肩で 息をしつづけている 小さな夜の羽虫はわたし〉羽虫はわたし、まで言うべきか、言わざるべきか・・・はむしはわたし、この音の重ね、その響き・・・羽虫、で止めると、黙って感情移入している感じになりますが、羽虫はわたし、まで言うと、本当は違うものであってほしい、というような思いと、でも、この羽虫はわたしなの、と言いつのる感じ、その両方が出るように思いました。 (小さな夜の羽虫は遺書)

2017-07-24

庭に咲いていたネジバナがちょうど茶色に枯れて・・・ 猛暑に焼け焦げた庭を見ながら、白犬さんの作品を拝読しました。 迫って来るものがあるのだけれど・・・直接過ぎて、痛い、痛い、と思いながら読んで・・・ 首に縄をかけた死の瀬戸際で、供物のように炙られる(あるいは、自らを炙る)、そして 〈退屈だから飲めよ 愛があるならごっくんしなよ? そんで吐け〉この強烈な一節。 このわたしを、食い尽くせ、と迫るような・・・ 最初の擬音を多用したプロローグ、 〈そうして女は~〉から始まる、アグレッシブに高まっていく、愛と生と性と死の欲動・・・が、一歩一歩刻み込むような(たとえば、~て、~で、~な、といった抑え込むような語尾や体言止め、一行アキの作りだす呼吸)リズムで進み、〈勃起 螺旋 血 耳 夢 声 月 粉砕〉エロスとロマンを凝縮したような単語が並んだ果ての、粉砕、という一語・・・〈夢のような歌を聴いた、~〉この間奏曲のような一節が入って、静かに収まっていくようなエピローグ。 インパクトが大きすぎて、評どころか、感想としても届いていないかもしれませんが・・・構成が巧みに練られて、音楽的な躍動感や高揚感、終息感を覚える読後感でした。 (steps)

2017-07-24

これは、どう読んだらいいのか・・・と思いあぐねて・・・シュールレアリスムの絵画が連鎖していくような感覚でした。ギャラリーに鮮烈な絵画が並んでいて、その一枚、一枚に引きこまれながら鑑賞していく感覚。輪郭のわりあいにはっきりした、マグリットのような、空や海やガラスなど、澄明なイメージの強いスタイルの絵。エルンストとか、そういう輪郭をぼかしていくような方向ではなく・・・。 〈言葉は二重の雲をかかえ 越えられない岩壁を瞬いている 唇から落ちる偽装の飛沫 取りそこねた水底のあおいガラス〉 ここは、詩による詩論だと思いました。意味とイメージ、いずれも雲のようにとらえどころがなく、曖昧なものを抱え込んでいる言葉。しかも、雲の合間に、越えられない岩壁のような(その先に至らせてくれない、目の前の壁のような)拒絶が垣間見える。くちびるは、それでも言葉を発するけれども・・・本当にとらえたい真実、イマージュの源泉というのか・・・ポエジーそのものの結晶のような、そのもっとも美しいもの、たとえるならば、水底のあおいガラス、のような・・・ものは取り損ねてしまう。唇から漏れるのは、〈偽装の飛沫〉に過ぎない・・・。 この一連から(!)思い出したのは、茨木のり子さんの唯一?の童話、『貝の子プチキュー』の中の一節でした。 日常のルーティンに退屈した貝の子が(よせばいいのに)「みたことのないものをみようとおもって」深海への冒険に出発します。途中で〈きれいなもの〉をせっせと集めているタツノオトシゴ(恐らく、詩人の喩)に出会うのですね。タツノオトシゴは、海の上から落ちて来るガラスの欠片、最初は〈トキトキの とがった やつが 波に あらわれて・・・だんだん まあるくなって すきとおってくる〉それを見つけて、洞穴にため込んでいます。ため込んでどうするの、と尋ねられたタツノオトシゴは、時々眺めに行く、そうすると、頭がすっとする、と答えます。貝の子は〈たつのおとしごちゃんは おとな? こども? どっち?」と尋ね、タツノオトシゴが「おとなだよ」と答えると、じゃ、と、さらに違うものを探しに行きます。 最終的には、寂しさや競争心ばかりを見つけて、疲れ果てたあげくに貝の子は死んでしまう、のですが・・・見たことのないもの、を見るために、命をかけて無謀な旅を続ける、そんな貝の子とは、何者なのだろう、と、しばしば考えます。 〈猥雑な酒場〉〈訣別の半旗〉といったフレーズや、〈しなやかに梳く制度の指〉というような暗喩、なんとなく、学生運動期の詩世界を連想してしまうのですけれども・・・〈老婆よ〉というような、ハイトーンの呼びかけも含めて・・・当時の文体をリバイバルさせ、現代に蘇らせた、という印象もありました。 全体に、一定の張りつめたトーンで格調高く詠われていく、その強度と、扉を開けたらそこに青空が〈立っている〉かのごとく立ちふさがっているイメージ・・・摩天楼の廊下の突き当りの扉を開けたら、すぐそこに空がある、ような・・・鮮烈なイメージから、詩論的な、詩を生み出す、ポエジーを求めるとは、なんぞや、的な問いかけをしつつ・・・一気に地上の喧騒にまで滑空していくようなスピード感。老婆と少女の関係性がちょっとわかりにくかったのですが、あえて少女は老婆の内面性である、と読みたい・・・かつてみずみずしい海をたたえていた、詩人の内面のアニマ(である少女)、いつしか老いて老婆となってしまった少女・・・あるいは、しばしば老賢者と言われる、心の中のもう一人の私・・・私の影として対置される存在・・・などと読みたい、ような気持ちにかられる、けれど・・・解釈すればするほど、わけがわからなくなるので(意味もないので)、シェイクスピアの詩劇の中に現れる老婆(魔女的な)イメージの画像として、受け止めたいと思います。 そんな画像を次々に鑑賞してくような、そんな映像的な感覚がありました。 〈休止符はわたしの譜面に死をのせる〉残された時に、あえて死を置いて行くこと(意識化していくこと)によって、あえて生を凝縮していく、輝かせる方向に立ち上げていく。そんな意志の力を感じます。 (扉)

2017-07-23

語り手が、誰かに命じられたり、話しかけられたりするようなフレーズと、語り手自身が感じたり思ったりしているフレーズと、「あなた」に語りかけているように思われる部分と・・・不思議なリミックス感がある作品だなと思いました。 〈何も知らないまま〉〈うつくしい白さに〉〈清潔な直角を踏みしめて〉〈あきらめない、白い道を〉〈白い言葉に焼かれて、うつくしい灰も〉 純粋な夢や希望を抱く心を、乱したり汚したりするもの・・・挫折や、人の世の醜さや、世の中の闇の部分、そうした暗さを未だ知らない(知らなかった)時代への郷愁を感じました。〈あなた〉と〈私〉の関係性が、いまひとつよくわからないのですが(わからなくてもよいのかもしれませんが)〈あなた〉は、未だ夢を抱いている、汚れを知らない心の〈私〉であるようにも感じられました。 よごれっちまった悲しみに、の、汚れる前の私へのラブレターのような・・・。 (無能)

2017-07-23

言葉の連なりが、静かに歌うような感じで、綺麗な流れになっているな、と思いました。 〈感じるだって〉ここは、通常なら〈感じる、だって〉とか、〈感じる/だって〉と読点や空白、改行などを入れるところだろうな、と思ったのですが・・・一息に言い切ろうとするリズムの尊重なのか、あるいは、〈青白くて〉〈みたいで〉〈視界で〉といった語尾と脚韻を踏ませるような、そんな口ずさむ感じの心地よさを求めているのか・・・いずれにせよ、こうした細かな整え方が、全体に音の響きの心地よさを与えているのかな、と思いました。 なんども繰り返して吐いてしまう、それは実際に吐く、という行為であると共に、いやな物とか言葉とか、様々なものを吐露する苦しみでもあろうと思います。生きながら死んでいる、のではなく、死んでいるように生きている・・・その自分を、客観的に見つめ直す視点から描かれている。自分、から少し離れたところから自分を見つめることができる。そこに、詩を創作する主体、自身の喜びも苦悩も、客観化できる(突き放して視ることのできる)主体が生まれようとしている。 赤く塗った爪、どこまで切りつめて行けば、血が出るのか・・・という、ちょっとドキドキ、ハラハラするような感覚も含めて・・・自分自身をどこまで突き詰めて行ったら、血が出るのだろう、そんな、自分自身を観察してみよう、というような視点も感じました。 なにか不穏なものに飲み込まれてしまいそう、という〈わたし〉を、外から眺めることができる、そんな〈わたし〉が居て、言葉を投げ出すのではなく、丁寧に響きや行替えなどを整えて行こうとする意識を働かせることができる。 そんな〈わたし〉が 〈そこにいる そこにたしかにいる から、いまはまだだいじょうぶ〉 私もそう、思います。 (きれいな爪をしているから,いまはまだだいじょうぶ)

2017-07-23

唸る絵筆、のイメージは、アクションペインティング。雨傘、のイメージは、私の場合はマグリット、でした・・・(もちろん、極めて個人的な感覚ですが)。 表現主義的な激しさと、冷静な筆致による、超現実の世界、を予感しつつ読み進めていくと、水彩と油絵、溺死体と焼死体、相反するイメージが連続で出てきます。強度を持った言葉が畳みかけられて一句、その連続が積み上げていく残像は、戦争画でしたが・・・現実世界を反映させる、未だ描かれていない絵画のイメージと、それを表現しようとして葛藤する画家、炎の激しさと水の沈鬱、その両極に引き裂かれながら創作に向かおうとする画家の内面・・・を追体験しているような気持ちになりました。 〈宗教 胎教〉とか、〈気紛れに~/気が触れたように〉というような、言葉の音韻が意味に先立って次の言葉を生んでいくような感覚とか、言葉の響きが引き出す対句、のような表現が多用されていて、それが作品を先へと薦める駆動力にもなっているのですが、水と火というような、象徴的な意味というのか、イメージそのものに重みがあるものも、たくさん対句的に多用されているので、ひとつひとつのイメージが、意味を削ぎ取られて軽くなってしまうような感覚もありました。 戦争画を描かざるを得ない(でも、描きたくない、雨によって、血を洗い流してしまいたい)画家の葛藤を二連、三連から強く感じたので・・・対句的な表現が、装飾過多と感じられないように、もう少し整理した方が、より迫真力が増したかもしれない、とか・・・最終連で、出て来るパステルのイメージは何だろう、とか・・・(相反するものの止揚?) 最終連が、その前の重さや強度に比べると、バランスが弱いかな、ということも感じました。 (唸る絵筆と折れた傘)

2017-07-22

〈コンビニでしか会えないずるぷかる君がコンビニにいない時、君が何をしているのかを知る術はない。〉コンビニを二度重ねることによって生まれる、意識的に再確認しなくてはいられないような焦燥感、知るすべはない、という大仰な表現の裏に仄見える、どうしても知りたい、という切実な感覚。それを、気持を表面化する方向性ではなく、無機的な叙述的な散文体によって、沈潜させながら語っていく語り方、その心地よさが全体に響いているように思いました。 〈母は~と述べた。〉これもまた、ずいぶん畏まった、大仰な言い方。自分のことを述懐する、のか。口上を述べる、のか・・・自らをホタル族、と定義することの意味。家族の中での、かすかな疎外の感覚。母の煙草の話が、なぜ急に〈兄〉の話になるのか、と思ったら・・・煙草の火のイメージが、最後まで巧みに織り込まれているのですね・・・。 〈煙草を吸っていることを家族に知られてはいたが、その姿は見せないようにしていた。だけど、旅行ともなればいたしかたなく、母親に薦められたものだから、〉母の吸う煙草、それは、家族からは疎んじられている行為に身を染める、その誘惑に身を委ねる、ということでもあったのか・・・その母の誘惑に、語り手も誘い込まれている。 兄、は、きっと、煙草を吸う(なにかに依存しないと生きていけない)こと無しに生きていける存在なのでしょう。弟は、その兄に憧れている。兄の抱く〈家族への心配〉は、母と弟が共有している、なにかに依存しないと生きていけない(とはいっても、煙草、くらいの、ささやかな、やめようと思えば辞められるはずの、それでいて自力ではなかなかやめられない、何か)性向への〈心配〉であるようにも感じました。 〈最後の家族旅行〉や、家族の不在に象徴されるような、家族離散、あるいは家族の崩壊のイメージ。ずるぷかる君、という印象的な名前(と存在)は、自分の心のよりどころ(とまで大げさではなくとも、母の思い出やらなにやら、との連続性を喚起する)煙草を買う、という行為において、接点を持つ存在。 ずるぷかる君、がいない、見当たらない、そのことが、煙草を買わない、煙草を辞める、きかっけになるのか? 〈煙草を吸い始めたのは少女との約束を守るためだったこと。だから、僕と結婚する人にお願いしたいのは、僕の喫煙を辞めさせて欲しい。そうすれば少女との約束を破れるから、奥さんと子どもを沖縄旅行へ連れて行こうと思う。その時、右手に握られているものが何であるかを今は知る由もないのだ〉 知る術もない、という冒頭の表現と、〈知る由もない〉という終盤の表現が作りだす、ある種の枠構造。少女との約束とは何か(母の中の小女性、にまでつなげるのは、私の勝手な読み、ですが)。 結婚=家族を得る=現在の家族喪失、家族崩壊、の状況の修復。そこまで考えると、寂しさを癒すための仮の火が、夜のベランダで吸う一服の煙草、なのかな・・・その寂しさ(言葉にすると大げさだし、その程度のことは家族には伝わらないから、黙っている、でも、しんしんと感じている寂しさ)を母は感じる人で、兄はさほど感じない人で、弟は敏感に受け継いでしまっている人で・・・今は皆、バラバラで生きている、そんな家族の姿を思い浮かべました。 ささやかだけれど、家族と共に居ても(ともにいるからこそ)感じてしまう淋しさ、のようなもの・・・それを逃すなにか、を右手に持って(そのことを予感して)、自分の家族を持つことになる、であろう弟。そこまで予感できたからこそ、言葉にうまく出来ないながら、漠然と心配してくれている兄に、〈「生きてて良かった」のは何も「私」=「歌い手」だけではないんだと思います。僕はそんな夜をもう見つけています。〉ということを、弟は伝えたいのかな。そんなことを想いました。 (縁)

2017-07-22

〈きみは√5を演じた。〉この不思議な立ち上がり、数学苦手な私には、絶対に思いつかないものだと思いつつ・・・数学の(比較的)得意な息子に、ルート5って、なにかイメージある?と聞いてみたけれど・・・なにか普遍的なイメージがある、というわけでもなさそうなので、逆に言えば、読む人ごとに自由に解釈されて構わない、ということなのかな、と思いました。 掛けあわせると、5、になる。五体満足、の五・・・につなげるのは、いささか無理があるかな、と思いつつ・・・掛けあわせないと完全なものにならない、そんな不完全性を私は感じました。 〈えいえんの数列をとほく見つめて〉このフレーズから思い出すのは、吉原幸子さんの哀切な詩句。でも、全体にそのテイストが響いているというわけでもないので、この行だけ、なんとなく浮いている気もしますね・・・でも、とほく、でなければ、どうしても表せない「気持ち」があるのかな・・・必然性があるのか、どうか・・・素敵な詩行を暗記するほどに読み込むと、そのムードに飲まれてしまうことが多々起こるので、私も自戒するところです。 〈冬生まれのかさぶた、〉傷を保護するための、仮の存在。直れば、用済みとして剥がれ落ちるもの。親の言葉(傷つけることもあるけれど、手助けになることも、たまにはある)も、子供の心のかさぶたみたいなものかな、と思うことがありますが・・・ここでは、きみ、そのものが、かさぶた、と捉えられている。この感覚の新鮮さに惹かれつつ、イマイチ入り込めない、なぜだろう、という気持ちが残ります。 〈きみの生まれた日が 《最初のさんけた》 という『言葉』で伝えられたとき 演じる私に演じよと差し出されたてにをはを ひとつひとつ拾ってくれて、本当にありがとう。〉 このフレーズも、sの音の連鎖や(記憶に刻まれる)最初の3ケタ、という独特の言い方、私もまた、演じる者である、という設定や、出会いが言葉のやり取りに還元されていく流れなど、とても面白いと思いました。 〈怒りをしらないきみの右目が 『数字』を知っていく日々に 左目だけは数を見つめていた。〉 数、と数字。右目と左目・・・作者が伝えたい乖離の感情であったり、矛盾や理不尽、社会との不整合、などなど・・・様々な事柄を代入しながら読みたいと思いつつ、そのような重さをできるだけ削ぎ落して、左右とか、数と数字、といった無機的な記号のようなもの・・・なまなましさを削ぎ落した、観念的な世界に誘い込まれるような気がしました。あえて重苦しいものに蓋をして、それを観念という箱に納めて、その箱を並べていくような感覚。辛さや痛みが伝わって来るわけではないので、心地よく読めますが・・・箱の中身は何だろう、というもどかしさも残りますね。 三桁とさんけた、漢字のごつごつしたイメージと、やわらかく開かれたひらがなのイメージ・・・も、なんとなく、伝わるような、伝わらない、ような・・・ 言葉の感覚に敏感な作者だと感じました。個人的に体感している鋭敏さと他者が感じている度合いの差、これは、大変に難しい問題だと思いますが・・・作者個人が体感している違和感や、観念世界に託している想いの内実を、より詳しく知りたい、そんな印象を受ける作品でした。 (irrational)

2017-07-22

トランプ政権とかナチスドイツの検閲、といった社会事象や歴史的事象を・・・挟み込んでいく、ことの意味が、今一つ・・・前回の「カラジウム」のイメージが、ここにも生きているのかな・・・ 〈記憶の中のムー大陸は〉〈一日に飲めるのは乳の滝の下で浴びる一杯〉を得られる場所。童心のまだ生きている場所、自身のルーツ、その根源にたどり着く旅、それがムー大陸を探し求める、ということなのかな、と思いつつ・・・その場所への耽溺が詩を生み出すのではなく、そこからの飛躍、俯瞰的視座の獲得、そこに、自分の詩が生まれるのだ、という、詩論的なイメージも重ねつつ読みました。 近未来SF、と呼ぶには、ノスタルジーの要素が強すぎるし・・・ディストピア小説と呼ぶには、破壊というのか、崩壊度が弱いようにも感じるし・・・不勉強ですみません、〈ボラーニョ〉がよくわからない。〈ポラーノ〉と掛けている? (姆大陆――記憶のムー大陸――)

2017-07-19

〈南半球まで伸びる乳管のなかを 這って進むしかない ボルネオあたりでちょろちょろ臍帯血が合流 羊水の大海へと至る〉 このフレーズに、大きな母体としての地球、その中をうごめいていく命・・・というようなイメージを描出されたいのかな、と感じたのですが・・・真ん中の幼児語?の部分は、幼子に話しかける側、の語りなのかな・・・(一時、ワイドショーをにぎわせていた、T議員の幼児語も、連想しつつ)となると、セーラー服の青年に似た〈私〉が、孤島で幼子に話しかけている、という景が浮かぶ、のだけれど・・・。 最終連は、孤島からの救済者の暗示、なのか。赤子は、閉じられた空間、孤絶した空間で、生まれ変わる〈私〉自身でもあるのか。謎が残る作品でした。 (赤子)

2017-07-19

リズムや韻律が、なつかしいような心地よいような感覚に連れて行ってくれますね。 百均さんのツイキャスでもコメントしたのですが、心が乾いてしまっているから、脆く折れてしまうのであるなら・・・その心を生き返らせる雨、水、思いやりや優しさ・・・は、惠の雨のはず、なのですが。 既に、乾いた心はその脆さゆえに傷ついていて・・・乾いている時には、その痛みに気付かずにいられるのに、雨で生き返っていくと、その痛みを思い出してしまう、そんなジレンマを、体感的に感じました。 あの時の痛み、この時の痛み・・・それが、かさぶたのように乾いているのに、またはがれてしまう、そんな感覚にも似ているけれど・・・もっと全体が、バラバラと壊れていくような切実さを感じます。 (なさけない人)

2017-07-19

〈フィラデルフィア・ワイヤーマン(仮にそう呼ばれている)作品〉知りませんでした、なるほど・・・ 〈右手の定位置にあった引き金をどうしても引けなかった〉そのゆえに(優しさ、というべきか、人間らしさ、というべきか・・・戦場においては、脆弱さ、優柔さ、軟弱さ、と非難される感情、なのでしょう)友人と上官が、敵弾に斃れる。〈こびりついたジャングル〉このフレーズがズシンと心に落ちてきました。こびりついた血でも、こびりついた叫び声、でもない。出口のない、見えない敵に取り巻かれた、魂の暗部のような、迷路の果てのような、ジャングル・・・。 長島三芳という詩人が、戦時中に実際に敵兵を撃った瞬間のことを・・・倒れていく兵士の顔が自分自身となり、その顔が母となり・・・という幻影として描いていました。実際に、そう感じた、真実の感情だろうと思います。自分自身の魂を、さらには、その自分を愛する係累ごと、撃ち殺してしまうような感覚。ワイヤーマンを作成した人が、実際の帰還兵かどうかは分かりませんが、とても説得力のあるドラマを見せて頂いたような気がしました。 (フィラデルフィアの夜に)

2017-07-19

〈起こさなきゃ が ひとりでに散歩に出ないよう リードを用意して〉 このフレーズのユーモアがいいですね。 〈このまま 六時になっても起きあがらないで 朝の散歩に出てみない〉 きっちり、時間を守る、律儀な〈大切な人〉を起こさなきゃ・・・と焦っている語り手、というイメージなのですが、肉体が〈大切な人〉で、語り手は一足先に目覚めてしまった〈精神、心〉のような気もしました(そんな風に読んでみたい、きもしました。) 自分自身に、そんなにきっちり、かっちり時間を守って生きていないで、時にはダラッとしようよ、と語りかける、ような。 〈後で ちゃんとしっかり六時に間に合うから〉 少しぐらいルーズに生きても、ちゃんと間に合うよ、という締め方が素敵だなあ、と思いました。 (起床)

2017-07-19

角田 寿星さんのコメントに、何か加えることがあるのか?と思いつつ・・・ 〈恋する剥製、乾いた心で 地面を這うように忍び寄る そして上体を少し起こして 君に挨拶するよ、ご機嫌いかが?〉 このフレーズ、コモドドラゴン、のような爬虫類系の生き物が、ズルズルっと愛する女性のそばに忍び寄って、顔を見上げる、そんな図柄が(なぜか)浮かびました。 乾いた心、干からびた魂、空洞の身体の剥製・・・が、にじり寄って来る、ユーモラスな感じと、ホラー的な恐怖。驚いて落すものは、水風船、という極めてみずみずしいもの・・・。乾いた心の僕と、水びたしの君。 (恋する剥製)

2017-07-18

彗星、という天体の名前に惹かれて作品を拝読しました。 ちょうど今、惑星、という拙作への変身をしていたのですが・・・偶然にも、百舌鳥さんの詩にも「頬」というWordが出てきますね。 〈現代の無謬〉とか〈朝陽の瓔珞〉という漢語が・・・かっこいいけれども、固さにも通じるのかな、という気がします。あえて多用して、硬質な文体を創る、という方法もあるかもしれませんが。 〈耳の中に生まれた、黒子〉ほくろ、なのでしょうけれども・・・くろこ、とも読みたくなる。なにか、得体のしれない存在感を持ったもの。それが、耳の中に生まれる、住まっている、という感覚・・・。 〈無の/内蔵〉は、内臓と音が同じですね。なんとなく部屋の内臓としての沈黙、あるいは無、その中にいる語り手、を連想しました。 〈crawlする烏〉鴉、英語のクロウ、とかけておられるのか・・・くろこの俺、クロールのように、何もない無で満たされた部屋を泳ぐ(あがく)だけの俺、というような・・・。なぜ、君は彗星となって去って行ったのだろう。なぜ、俺は君を彗星、と感じるのだろう。そんなことを知りたくなりました。 (彗星)

2017-07-18

角田 寿星さんへ 地球、と恥丘・・・うわ、確かに音が、一緒でした・・・いや、頬、です、顔、です!(そもそも、君、は男性ですし!!!) 〈手首を切り落として、次の人に渡す、世代交代までの生きてる間に、 最終連で水が「やさしく引きはじめて」、そうすると「ミズノナカ」に埋もれてた居場所が顕れるんだよね。 いわば家の再誕。 この惑星はやっぱ優しいんだな、と思いました。〉 そうですね、本来の居場所、は、もっと温もりのある場所、なのではないか・・・そんな想いを抱かせる「昔話」をしてくれた人がいて・・・今更、どうにもできないけれど、これからの時間、命が尽きるまでの間に、そんな(水のように冷たくて、水底のように重苦しい、冷ややかな)空気に満たされた場所ではなくて、あたたかいぬくもりに満ちた場所を、その人が得られますように、という・・・ような感じ、でしょうか。 (惑星)

2017-07-18

最終連、ダメですか(笑) sora ga sumireiro ni sの音の連なりや、朝焼けの赤やオレンジでもなく、夜の藍色や昼の青空でもなく・・・その溶け合う時間、かわたれどき、たそがれどきの、すみれ色の空・・・いわゆるメルヘン調の絵にありそうな、感じではありますが・・・。 ちょうど、支倉隆子さんという詩人の「洪水伝説」という詩劇を視聴する機会があり、水がひく、そこから新しい世界が現れる、というイメージに感化されていたかもしれません。 やさしく、というような形容詞、できるだけ使わないようにしたい、と思う一方で・・・曖昧ながら、この言葉、でしか伝えられない感覚、というものもあるような気がします。穏やかに、でもないし、静かに、でもないし・・・ミズが引いていくことで、冷え切っていた体に、ほのかに体温が戻ってくる、そんな感じ・・・やさしく布でくるまれるような、そんな感じ・・・ 通りすがりのロム専さんなら、どんな言葉を選んだらいい、と思われますか? 長文で、しかもひとつひとつ、とても丁寧で的確で・・・大変ありがたかったです。 熱心に読み込んで下さる読者と出会えるという事、それこそが、最も書き手にとって、幸せなことだと思うのです。 またぜひ、ご参加くださいね。「通りすがりのロム専」さんだと、なんとなく一過性の方なのかな、という印象を抱いてしまうハンドルネームなので、もう少し違ったお名前で参加していただいてもいいかもしれないですね。 (惑星)

2017-07-18

三連、〈ただ行の字数を揃えたいという欲求の現れでなければ何なのだろうか。〉ここは、行数をそろえる、という枠を課すことで、新しい言葉が生まれてくること・・・を期待した、のですが・・・期待に反して、ムードに流れた、というか・・・おっしゃる通り、陳腐なイメージに終始してしまったかもしれません。時々、実験的にやってみるのですけれど・・・口馴染みのよい言葉しか出て来なかったり、ありきたりのクリシェしか出て来なかったり・・・でも、その既視感のようなものとか、地模様のような感覚が、懐かしさとか穏やかさとか、意味を離れた、言葉の流れの心地よさ、のようなものに、つながらないかなあ・・・という期待を持っていて・・・技巧を凝らしているけれど、無駄な努力、という結果になってしまった、かも・・・。もう一度、こうした書き方について考えてみます。 四連の的確なご指摘にも通じるのですが・・・三連で音楽的に(ムード的に)盛り上がって、そこから一気に四連、という意識があったのですが・・・三連のせいで、かえって失速してしまったのかもしれないですね。肌に指で触れる。そのことによって、薄皮のように重なっていたものが、はらはらと舞い落ちていく。そのことによってあらわになった傷(かつて、そのはは、によって付けられ、今、私、を母と仮託して幼い頃の想いを語っている君、の頬に付けられた傷)に触れる。それが、君の書いた詩を読む、ということ、なのだ、そして、その行為は、私が死んだ後にも、また別の人によって受け継がれていくだろう・・・そうあってほしい。 う~ん、ここまで書いてくると(というか、説明してくると)なんだか恥ずかしくなってきました。 だいたい、自分で説明できてしまう(あるいは、説明しなくてはきちんと伝わらない)詩は、駄作なんですよね(;^ω^) 五連の身体的描写=〈80年代女性詩の安易な模倣〉であるのかどうか、ここには、疑問を覚えています。女性は身体性を生かした詩を書くべきだ、とか、肌感覚を生かした詩が、女性はうまいよね、とか、この詩は身体性が豊かで、女性性に富んでいる、とか・・・男性詩人の中には、このようなステレオタイプ的な評をされる方も多いのですが・・・人間の感覚の、最も根源的かつ、共通理解が得られる部分は、五感に基づく感覚ではないか、という思いがあって・・・そこを意識的に刺激する詩を書いていけたら、と思っています。身体性、と呼ぶときに、特に80年代女性詩の、性に関わる言葉を(女性はつつましくあるべき、というような社会通念を破る形で)意図的に多用する、そのような「身体性」のことを指しておられるなら、私が目指している身体性は、もっと(男女問わず)普遍的な肌感覚、触覚を表現すること、だと思います。(この詩で、それが上手く表現できているかどうか、は、また別の問題ですが・・・) 〈現代ならではの身体性をあらたに詩に組み込む、あるいは獲得することが必要なのではないか。 〉このご指摘にも通じる部分ですが、肌感覚には、男女問わず感応するものだと思うのですが、性に関しては女性の方が感応しやすい、と聴くこともあり・・・(実際のところ、どうなのかよくわからないのですが)男性詩人が、いいねえ、と褒める詩を読ませてもらうと、女性の肌感覚、というよりも、女性の性的興奮や官能の悦楽、のようなものを肌感覚を通して描いている、そんな陶酔型の作品が、案外多くて・・・そうした身体性(もしかしたら、男性視点から女性詩人に期待されている、あるいは押し付けられて来た)からは逃れたい、単純に触覚という、人類普遍の感覚の方向を目指したい、という思いはあります。 (惑星)

2017-07-18

通りすがりのロム専さんへ 大変丁寧で、なおかつ深い読み込みをして下さって、感謝です。 他の方へのレスでも少し書いていますが、いつも具象画を描いている者が、モチーフを丁寧に描くことよりも、輪郭やモチーフ同士の位置関係を、あえて曖昧にして・・・色彩やマチエールで感情に直接訴える、そんな抽象画的な作品を書いてみたい、と試みて・・・どうもそれが、うまくいかなかった、ようです。 「惑星」という題名は、悩んだ末に最後に付けました。水の惑星、のイメージから、なんとなく漠然とした、大きなもの・・・包括的なもの、のイメージから選んだのですが、イメージ倒れだったかもしれません。「惑星」という題名から、まず大きな宇宙空間のような、俯瞰的な視座が思い浮かぶのに、いきなり頬、とクローズアップしてしまう。その落差を、どう処理するか、という問題も残りますね。 引用はじめーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー >細かく鋭く この観察の「鋭く」という選語は独特である。何に対して鋭く、なのか。頬が裂けていく様を「細かく」裂けている、「鋭く」裂けているの並列で並べているが「鋭く」避けるという表現は珍しい。「鋭さ」に内包されたのは「ほほ」ではなく「心」であり、それはははのくちびるに細かく生えた棘=ははの言説によって細かく裂けた対象者の心、と読むことが出来る。 ははの視点に寄りながら、対象者の心を言葉で裂いている様を俯瞰的な視座から見ている。脱はは(=母性からの逃走)を予感させる、つまり対象者は「はは」の「子」である可能性を忍ばせる、初聯である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用おわり ここは、まさにその通りのことをお伝えしたかったのでした。深く汲み取って頂いて、大変ありがたいです。 〈「ミズノナカに」ではないことに注視したい。〉ここは、迂闊でした。~に、という一語の持つ、方向性・・・。ミズノナカにあるものだと と書いて、にあるもの、と繋がってしまうので、楽譜でスラーをかけるように、ここまでですよ、というフレーズ感でカタカナにしています。 もちろん、水に見ず、あるいは診ず、看ず・・・を重ねました。水という冷たさの質感、心が冷えていく感覚、水圧で押さえつけられている感覚・・・も描きたかったように思います。 通りすがりのロム専さんの、二連の読み込みの深さ、感服いたしました。私の伝えたかったことが、ほぼまるごと、そのまま伝わっています!嬉しいです。長くなるので、いったんここで、上げますね。 (惑星)

2017-07-18

はじめまして。 実際の夢をそのまま記述した、というより・・・(もちろん、私の想像に過ぎないのですが)具体的なイメージがまず先にあって、そのイメージに夢から得た材料を埋め込んで行ってできた作品、のように感じました。 冒頭の〈学校の廊下だけが、永遠につらなってできている〉で思い出したのは、三面鏡の鏡台。両翼を直角に立てて、首を入れて覗き込むと、永遠に続く回廊に取り込まれるような気がして・・・怖ろしいのに、なぜか夕方になると覗き込む、覗き込みたくなる、そんな誘惑を感じる場所でした。 確かに、題名に既に「夢」と入っているし、最後の一行はいらなかったかな、と思いました。 プレパラートのように薄い窓ガラス・・・プレパラート、という言葉が醸し出す、実験室とか、診断される、観察されるイメージと・・・薄さ、ということから連想される、カバーガラスのイメージ・・・逃れたい、救済されたい、そのために祈ってほしい、という願いと、自分で祈らなくてはならないのだ、という自己認識。映像がくっきりと立ち上がって来る作品でした。 (夢夜、四 獣の影と永遠の放課後の廊下)

2017-07-17

ウルトラマンティガは、息子と一緒にテレビ(であったか、ビデオであったか)見ていますね・・・映画も、舞台も見ている。その時にも感じたのですが、そもそも、正義ってなんだ?善悪とはなんだ?ということでした。 それぞれの「立場」から書くと、それぞれに「正義」が成り立ってしまう。 たとえばISを悪魔的な恐怖政治として悪、と断罪する「正義」があり・・・その「正義」を主張する人々に対して、手段を問わずに自己の「正義」を主張する側があり・・・ ウルトラマンやキリエル人のことを良く知らない人たちにとっても、現在社会を反映した寓話、もう一つの(あり得たかもしれない)歴史というような、そんな印象を受ける作品でした。 技法(と呼ぶのも変かもしれませんが)〈そのキリエル人は〉と書き起こす、黙示録的というのか・・・そのような語り方、その語り方が持つ重厚さが、寓意的な作品としての重みにつながっていると思いました。 (キリエル人(きりえるびと・ウルトラマンティガ))

2017-07-17

彼、は、歌(音楽)の道を選び、自分なりに自分の感性で自分の違和感を表出することに成功した(賛否両論があるとしても) 他方、僕は言葉(文字テクスト)の道を選び、〈この20年で収穫となるものはほとんどなかった〉発表するに足るもの、俗な言い方をすれば、世に問うべきもの、は、未だ成していない、ということでしょうか。 〈雨があがり、水浸しになった路上に、「愛」とタイトルされた歌の広告看板が倒され、踏みつけられる意図が、理由が、そして誰の手によってか、僕は悲しいことに今は理解出来る。〉 それは、〈僕〉が自分の感性に素直であり続けたから、なのでしょう。 ごく私的な違和感や、うまく説明できないけれど腑に落ちた、というような事柄を、「表現」として作品化していく。そのこと自体が、リスキーということでもあるのか・・・とか、言葉だけではなく、音楽に補われて(あるいは音楽が主となって)思いや想いを伝えるという行為と、言葉に専住して思いや想いを伝えるという行為の差とは何なのか・・・とか、「愛」とは何か、そう一般化して問う事じたいへの違和感であるとか・・・色々なことを考えさせられる作品でした。 〈彼の方〉〈僕の方〉と、~の方を付けるのはなぜでしょう。彼は、僕は、ではなくて・・・。最近、~の方、という言い方が増えてきていることも影響しているのでしょうか。 (愛)

2017-07-17

白島真さん イメージ先行で突っ走り過ぎた、それゆえの伝達性の不足、ということであるように感じています。そのほほ、そのはは・・・というような音韻にこだわってみたい、という意識と、君のほほに私が・・・という冒頭部のイメージに、さらに、具体的な接触ではなく、言葉(詩)による接触であるのだ、というような自己韜晦とか、君、は〈詩〉の向こうに〈母〉を見続けているのですね、というような問いかけのような気持ちとか、その〈母〉は実際の〈母〉ではなくて、もっと象徴的な、イメージとしての〈母〉でしょう、というような気持ちなどなど・・・が絡み合っている(いた)のではないか、と・・・白島さんのコメントを読みながら思いました(発見しました)。 読み手としての「私」がこの世を去っても、読み手であること、は次の人に受け継がれていくはずだ、という思いもあり・・・読み手って、手がつくんだよね、という文字からの発想もあったかもしれないです。 (惑星)

2017-07-17

宣井 龍人さん  宣井 さんに読解力がないのではなく、私の伝達力が不足しているのです。 意味やロジックを意識的に犠牲にした、というのか・・・ギリギリまで説明を排して、果たして成立するか、という実験を行ってみて、うまくいっていない、反省作品であると思います。 〈柔らかい優しい絵画的なイメージの中に刺々しい痛みが散りばめられている〉描きたかった部分が伝わっているようで、良かったです。絵画的なイメージに寄り過ぎて、動画的なイメージが足りない、それゆえに・・・物語絵の連作の、一部だけを示したような印象を与えてしまうのかもしれない、と思いました。 (惑星)

2017-07-17

昨日のツイキャスで、白島さんの「詩論」が、まさか「朗読」されるとは思わなんだ・・・音の流れとか言葉の区切りとか呼吸とか、そうした面にも、工夫が凝らされているなあ、いわゆる「カチコチの論文」ではないな、ということを、聴きながら感じました。 詩論に詩論で返信するのも変ですが、フェイスブックに載せた投稿から、一部を抜粋します。 死後、分子、原子の段階まで微塵になっていけば、あらゆる物質と同等のもの、同質のものに還元される。物質同士の関わり合い、働きあい、影響の与え合い・・・そうした動きそのものが、いのち、なのだろう、と思うようになりました。分解と統合、消滅と再生。肉体という物質の運動が生み出す「いのち」ですが・・・魂、の居場所は、どこにあるのか。肉体にいのちが宿っている間、魂は肉体に仮住まいしているのだろうか・・・そうした魂の問題について触れていくことができる、探っていくことができる、それは、既成宗教にはとらわれないとしても、ある種の宗教的次元においてなされることなのではないか、それを文学で行おうとする時、もっとも濃厚に触れていくことができるのが、詩歌なのではないか・・・そんな想いを抱いています。詩歌の生まれるところ、さらに言えば、ポエジーの生まれ来るところ、その場所に、物質やいのちの生まれるところも重なっているように思えてならないのです。 さらに付け加えるならば・・・昨日、ツイキャスのコメントに書き込んだこと・・・「わたし」が「わたし」であり続ける事への欲望と、そのことからの忌避(嫌悪)、しんどさ、のようなもの・・・それは自分が消滅してしまう事への本能的な恐怖なのでしょうけれど、翻って、海岸の砂粒の一粒に過ぎない自分が、消し去られたとて、砂浜そのものは何も変わることがない、ということに対する(これもまた、青春期特有の、誇大な自意識の反転なのでしょうけれど)不毛さの中で、なぜ生きねばならないのか、というようなこと、にも繋がっていくのかな、と思います。 離別や生きて行く上で被ってしまう悲しみ、苦悩、こんなもの、無ければいいのに、という感情・・・それを忘れるために、何かに没頭する、夢中になる、我を忘れる、その欲望に突き動かされたりもするわけですが・・・その欲望がまた、新たなパッションを生み出したりもするのでしょうが・・・感情の振幅を、理性でなだめすかして生きている、それが、人間の営みなのかな、と思うことが多いです。 白島さんの詩論全体を見据えているルドンの描いた、巨大な目玉・・・超自我の眼、それはまた、吹けば飛ぶような、消え去ればすぐに忘れ去られてしまうような、そんな存在の矮小さの自覚と、矮小な存在であるはずの人間が、なぜ、広大な宇宙や、生命の神秘や、壮大な夢想、詩想、思想・・・を生み出したり、抱え込んだり、その中を彷徨ったりすることができるのか。 こんな小さなものが、こんな大きな世界に、なんで触れていくことができるんだろう。 そんな神秘、不思議、を知りたくて、詩を書いているような気がします。 返信ともいえない返信ですが。歌論も詩論も、ポエジーの生まれ来る源泉を問う。そして、生まれ来るものを、どのように表現するか(修辞)問う。その修辞が、どのように受け止められるのか(読解されるのか、社会的、文化的文脈も含めて)問う。そんな、三段階で考えていくと、わりとわかりやすく構造化されるのかな、とは、思っています。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-16

言葉の区切り方の、プツプツとしたリズム感が面白いですね。確かめながら、言葉を置いて行く感じ。 最初は、ひそかに恐れながら口笛を吹く。当然、頼りない音、声が緊張で裏返る、というような言い方をしますが〈空気のひっくり返った〉これが面白い。部屋の中の空気全体が、引っくり返るような感じ。 出てこない、ので・・・もう一度吹く。〈今度は太い音/犬が飛んできそうな〉この陽気さ、身近さ。犬なら、もし出て来ても怖くない(笑)ですね。万が一、呼び出してしまった、としても。 〈口笛で歌ってみた〉気持ちが楽になって、大丈夫だ、私の言葉で、恐ろしいものを呼び出してしまう、そんな心配、しなくていいんだ・・・とばかり、陽気に口笛で歌い出す。と、「ほんとうに」蛇が出て来る。ぜんぜん、怖くない、かわいらしい蛇が。 河合隼雄さんの『影の現象学』を、遠く思い出しつつ・・・自分の無意識や、心の深淵をのぞき込む旅は、かなりの恐怖や不安と直面するものだと思います。それでも、深い穴を覗くみたいに、怖いもの見たさに、その闇に引き寄せられていくのも人間。 その旅は、何によってなされるのか・・・詩を綴る人にとっては、それはやはり、言葉で為されるのでしょうね。自分自身の自問自答、感情との対峙、時には醜いものを見てしまう、こともある・・・でも、そのことを恐れずに〈愛の歌〉を吹けたら。きっと、無意識の闇、自身の影に満たされた夜が明ける、そんな気がします。 (口笛)

2017-07-14

流れの美しい作品ですね。一連目に特に惹かれました。 気になったのは、〈ように〉の重ねや、〈~こと〉の重ね。リズムを作るためでしょうか?あまり、うまく機能していないように感じます、ちょっと引っかかる部分でした。〈いけなかった〉とか、〈あってほしかった〉という部分の重ねは、引っかかる感じではないのですが・・・5or6さんの「淡い水彩画」というイメージ、私も同感です。不透明水彩ではなく、淡彩、透明水彩を、何度も重ねて、ムードやニュアンスを出していく手法。 ない、もの、ない、場所が、あってほしい、という憧憬・・・ポエジーの上澄みの、一番澄んだところを取り出したような、その柔らかな質感に惹かれますが、ゼリーを頂いたような読後感というのか、清涼感や甘さが残って、香りも残って、でも、歯ごたえとか、ガツンとした具があってもいいかな、という、物足りなさが残る、といえばいいのか・・・ 〈いないということの、ふるえて、 あるということになっていく〉 句読点の使い方、行替えの仕方で作りだす呼吸やリズムに持ち味があるように思います。 きらめく水面を見つめながら、ポエジーが沸き起こって、そのつかみがたいぼんやりした質感を、そのままに紙に移し取ろうとした印象を受けました。 その時の、非日常の時間に連れ出されるような感覚、その揺蕩いに身を任せる感覚には共感するのですが、そのムードに身を任せすぎていないか・・・そんな漠然とした感じ、物足りなさ、あっさりした印象、が残りました。 (水のおぼえ)

2017-07-14

蛾兆ボルカさん 意味(というか論理的なつながりを)少し犠牲にしているかな、という思いがあったので、音韻や流れから読んでいただけたこと、とてもうれしかったです。言葉の持つイメージや音の響きも、言葉にならない思いを伝えるために活かしていきたいと思います。 黒髪さん 水の中に、と書いてしまったら、なんとなく違うな、と思い・・・苦肉の策で「ミズノナカニ」としました。これが果たしてよかったのかどうか、わかりませんが・・・気持ちがすうっと冷えていく、そんな静けさの中に沈んでいる、そんな感覚を書きたいと思いました。変わるもの、変わらないもの、について、考えていきたいです。 夏生さん 惑星、大きすぎるかな、と迷った題名です・・・いつも、題名で最後まで悩みます。題名をつけるのが、苦手です。惑星、という言葉から、水の惑星をイメージしてもらえたようで、良かったです。束の間、肉体を借りて地上に宿る、それが人間・・・という思いがあります。ミズノナカに、静かに埋もれているような、そんな気持ちになっている人達を冷やし続けている水が、引いてくれますように・・・そんな祈りをこめつつ。 (惑星)

2017-07-14

冒頭の「しんでください」の連投、誰の言葉か、何の言葉か、その勢いに呑まれつつ・・・二連目から、まるでどこかから引き連れてきてしまった(貞子のような)女の幽霊、その気配を感じ、悪夢の映像を見ているようなスリリングな感覚を覚えました。そこから〈そんな話を!~〉の連に到って、女、が母、にも思われてきて・・・別の意味で背筋にぞわっとする感覚を覚えました。 実のところ、〈そんな話を!~〉の連、〈落ち武者のように伸びきった髪の毛がそこに映っているはずだ〉でいったん止めて、これをひとつの作品、とした方が良かったのではないか。続く連は、連作のⅡ、とする、など・・・ 全体の長さや構成、読みやすさなどを考えると、そうした二部構成の方が良かったように思いました。 〈ここに一万本の比喩が咲くんです~一つのわっかになる。〉比喩、とは何か・・・この連の重量感というのか、迫力が凄い。これで一篇の詩とした方がよいのかもしれない、そんな熱量を感じます。言葉の連続して繰り出される強度にも惹かれました。 その分、〈夜。場末のバーで、~〉と、〈この話をするたびに君は死ぬ。~〉の連が、なかだるみ、の感がありました。 「もっとかきなさい からの連は、高揚感と消耗感、突上げて来る衝動に任せて書き散らかして、そのあとぐったりと果てる、そんな詩作とのアナロジー・・・勢いで書き連ねていく、若さと体力に任せた詩の書き方・・・書き上がったものを見て、〈焚書するしかありません〉というある種の自罰感情のような、書きたい衝動に振り回されている感覚・・・を想起しました。 ネット空間と現実とのはざまで、押し寄せて来る言葉、押し寄せてくる感情、押し寄せて来る「どうにもならない出来事」・・・いつまでもそれをグダグダ言ってんじゃねぇよ!・・・と突きつけられたような感覚も覚えつつ(これはまったくの、個人的な、勝手な受け止め方です)〈そこから顔をどれだけ見上げ直しても、誰も映らなかった。それでも待っていた。僕は待っていた。誰かを待っていたんだ。ずっとキーボードを叩いていた。ここぼくは存在していた。という、なんの意味も持たない感情が、とても愛おしいんだって、Twitterで伝えようとした。〉この一節を、何度も何度も、読みました。誰か、を待つのか、何か、を待つのか・・・わからないけれど・・・それを、Twitterで伝えよう、という発想は、私には無かった、その新鮮さも含めて・・・響く部分でした。 〈街路樹は植えられるときに、邪魔な大きさ木の根を切り取られる事の意味の話を思い出した。それは、生まれたての赤ちゃんの手足を切断して、小さな箱の中に入れて生き埋めにすることと同じなんだって。〉助詞が、抜けてる?と思う所が、全体に何カ所があって・・・〈大きさ木の根〉あたりも、脱字かな、という気がしないでもないですが・・・型に嵌め込まれるということ、社会に嵌め込まれる、ということ、無理やり適応させられる、ということ・・・その残酷さを思い出した、その瞬間をとらえているように思い、ここもまた、惹かれる部分です。 〈そもそも書きたい比喩なんてどこにもなかった。〉書きたい詩なんて、何処にもなかった、と言うに等しい・・・でも、詩、と言わない、あくまでも比喩。そのものをそのままに捉える他ない、そのことを記憶しようとしても、薄れてしまう、失ってしまう、忘れてしまう・・・ということの意味。 書いても語っても失われていく、大量の言葉、日々、流れていく思いの流れ・・・ 私たちは、ただ、そのほとりに茫然と立ちすくんでいるだけなのかもしれません。 (皆殺しの比喩)

2017-07-13

□の羅列は、タイル、の視覚化・・・なのでしょうね。目地、という言葉には、目、が入っている。その目地に口があったら、何を語るか・・・。文字イメージからの発想でしょうか。 題名で「タイルの目地」と明かしてしまって、なおかつ一行目からそのことを明示してしまうよりも、たとえば二連目から初めて、なんだなんだ?と読者の心を沸き立たせて、それから〈タイルの目地よ〉と呼びかける(一連目を隠し、題名も、もう少しひねったものに変える)てみると、もっと読者の想像の余地が広がるかもしれません。 さびた・・・きんしのほう・・・しゃめいろに・・・と、区切られていくリズム、有刺鉄線、渇望、から喚起される、閉塞感と解放への秘められた欲求。このイメージの流れには、とても惹かれました。何が始まるのだろう、と読者を引きこんでいく。 でも、〈懇情の外□□□燃を懇願する□□下垂と〉あたりから、ちょっとついていくのが苦しかったです。 懇情(根性や今生と同音)、懇願、外燃(概念と同音)下垂(脳下垂体を連想しつつ、垂れ下がるもの、という文字通りの意味か?) 〈更迭の海馬は内□□燃する〉更迭(鋼鉄と同音)海馬は、脳内の組織でしょう、内燃は、外燃と対置されているのか・・・脳内の幻想が、漢語のイメージと共に外に溢れ出している、ように思われますが・・・それをタイルの目地の語りに仮託する、その想いの出所を知りたい、と思いました。 (タイルの目地)

2017-07-13

〈僕の片側が濡れて芯から冷え 僕の片側が血と膿でまみれ それでも僕は笑顔でいられる 僕は綺麗なままの片側しか見せない〉この連の迫力と、次の連の 〈それは君がこっちを向いて笑っているから 君がこっちを向かず 別のとこを向いて笑ったら 別のとこを向いて笑ったら〉このリフレインの怖さに惹かれました(というのも、変な言い方ですが。) 一二連のリフレイン(三行ずつ)の定型的な安定感と、一気に反転する中盤、そして中盤を挟んだ三行、四行、の連・・・この四行の中の〈来てほしい でも来てほしくない〉は、三行ずつ、~る、と脚韻を踏んだ定型の枠に挿入された、ひそかなつぶやき(自ずから漏れた心の声)のように感じます。 最後の二行、離れた場所から〈君〉を、心臓をぎゅっと緊張させながら見つめている・・・ここで、〈来てほしい でも来てほしくない〉の心の声が響いてくる。〈僕〉が、近づいてくる(かもしれない、来ないかもしれない)〈君〉を、じりじりしながら待ち受けている、その時の夢想が、作品として文字化されている。そんな構成になっているように思いました。 君、が、もし、僕、を愛してくれたら。僕は、限りなく優しく美しく綺麗な面を、君に見せるだろう。でも、もし、君に拒否されたら・・・僕は、どんな残酷なことを(君に対して)しでかしてしまうだろうか?そんな、自分自身の未知の領域に、足を踏み入れようとしている、そのことを恐れつつも心待ちにしている・・・そんな思春期の心理を活写しているように感じました。構成もこなれていて、良作だと思います。 (握られた胸ポケット)

2017-07-13

説明的な題名の直後から「うた」が始まる構成に、まず惹かれました。 字下げで切り替えて、〈故郷では~特筆すべき何事も起こらず、〉この部分が、実に巧みなプロローグになっている、と思い・・・(この連の最後の一行、その暗喩?が、私にはちょっと飲み込めませんでしたが)〈工事現場に地下鉄は~〉と現在(大人になった語り手、都市に住むわたし)の姿がクローズアップされる。映画が始まるような感じでした。 〈やかんに汲んだ水は冷たいのに 危機である どこまでも青い 守りたい〉 〈嘘は言わない 口にすると 心の中が干からびるだろう〉 ここがとてもいいなと思いました。心の渇き、周り中がたくましく見える中で、おそらく心細さを抱えている語り手、その心の渇きを癒す水・・・のイメージ。その水は、果たして乾いた心に注がれるのか? 続く絵本屋のシーン・・・幼い頃の回想かと思ったのですが、大人になって通りかかったお店、のイメージなのか・・・人生を辿る、そんな想いに囚われている時に、ふと通りかかった、童心を呼び戻す場所?〈人々は~〉の連、このお店の中での光景かな、と思いつつ・・・なんとなく未整理な感じがする部分でもありました。〈憧れたことは忘れない/水のようなそれで口は潤った〉先のやかんの水、大切に心の中で守られてきた水・・・以心伝心で分かり合える世界、そこに通う潤い、をイメージしましたが・・・ 〈今はまるで~〉の最終連は、また、場所が変わっているのでしょうか。〈大人になるのに失敗した だから怖い劣等感から逃げている〉ここは、周り中の人がすべて、たくましく見える、大人であるように見える、ということと対応しているように思います。 〈今はまるであの時みたいだ 似た望みが浮かんでいる 空に寝そべっていたいと思えるような 一人でいること以外には全て同じ〉 絵本屋で、心を潤してくれる水、幼い頃の豊かさ、を思い出した、のか・・・ 〈自然さが大切だ〉というような、若干ナマな表現・・・自己啓発的な発見、とでも言いましょうか、こうした部分は、もしかしたら隠しておく(読者に、行間で感じさせる)方がよいかもしれない、とも思います。〈心の原石が私の中にあるのだ〉ここも、同じような印象を受けました。 過去に浸ったり、夢想に耽ったりする自由。自らの心を開放して、大人であること、あらねばならないことからも自由である時間。地上のしがらみからも放たれた時間。そうしたひとときに、むしろ満ち溢れていたのが、子供時代ではないのか・・・もう失ってしまった時間。当時は、持っていたことすら、気づいていなかった時間。そのときの心に触れて行こう、とする・・・そんな心の揺らめきを感じました。後半の二連が、少し言葉が多いというのか・・・自らの発見をそのまま書き入れているところと、その発見に至る行為と、発見を得た時の感情と・・・が、混在しているように見えて・・・そのモヤモヤ感が良さでもあるのでしょうけれど・・・もう少し整理すると、伝わりやすくなるかな、と感じました。 (眼差しによって心が通うこと)

2017-07-11

べっこう飴色の夕景でしょうか。7音の重ねで書き起こすリズミカルな冒頭。 紙芝居のノスタルジー・・・一日の「物語」が終わったことの暗示のように感じました。 サイレンと鴉、現実界において不穏さを予感させる記号のようなイメージが置かれることによって、二連目の抽象的な〈眠りの密林 輪廻の滑り台〉一節が、不穏な宿命に巻き込まれた語り手のイメージに重なっていくように思いました。 〈僕も君も純粋さと飴を切らして〉ここには、紙芝居に象徴されるような童心=純粋さ、その後にもらえる水飴やべっこう飴の懐かしさ、甘美さ・・・への憧憬がある様にも感じます。 〈いつかの無邪気な〉〈複雑骨折〉〈とうの昔に〉・・・8音、7音のリズム。7・5調、8・6体、などと呼ばれる、いわゆる歌謡体(古来からの)、馴染みのある音感が散りばめられていて、口ずさむ進行が意識された作品だと思いました。 〈恐らく四時四十四分〉ここから、作品としては佳境に入るのでしょうが・・・飛躍が大きすぎて、読者としてはついていくのが大変でした。めくるめく不気味さや不穏さ、その連打に身を任せる、という読み方(聴き方)をすればいいのかもしれませんが・・・ 4(死?に通じるとして嫌う人も多い数)が3回、続いた時刻に、〈三番目のトイレで行方不明の少女〉。〈逢魔が時〉に出会う不思議。歪む鏡面、〈赤い花嫁〉〈赤マント〉・・・まさに〈溢れる奇と狂〉、ですが・・・自由奔放に想像力を駆けまわらせすぎている、そんな印象も受けました。後半のぶっ飛び感?に、面白さや勢いを感じる方もいらっしゃるかもしれませんが・・・。 べっこう飴色の夕景から始まって、〈茜色 蹂躙される日々と人々〉の時刻を経て、〈夕暮れのエンドロール/そして夜が 夜が始まる〉までの時間帯に体感した幻影を、観客の一人として見せて頂いたような気がしました。。 (四時四十四分)

2017-07-07

起承転結、その細やかなリズムで綴られていく進行に心地よさを感じます。 冒頭、日常から非日常・・・自分だけの世界、空想の世界にふわっと包まれる、連れていかれる、その感覚が、うまく表現されていると思いました。 〈街は誰かへのプレゼントになる〉夕方の薔薇色の光に照らされた街、あるいは、美しい夜景に見とれてしまう、そんな光景。その街で、上司とちまちましたやり取り、うんざりするようなルーティンワークをこなしていた、のかもしれません。 監督、と呼びかけるのは・・・すべてをフィクションの映画として、フレーミングしようとする意識の表れでしょうか。妖精が~の連は、空想全開、という感じですね。子供の頃の、夢想全開の時代に戻っているのかもしれない。 きくらげの卵炒め、なんとなくほっこりした日常への帰還。誰もが帰る先があればいいな、帰りたい家があればいいな、と思いました。そんな願いを、かすかに感じつつ。 (夏至)

2017-07-06

冒頭の四行が印象深いですね。不可知である、それゆえに知りたい、と欲する、感情、なるもの・・・ 触覚が〈受精のような一撃〉〈純粋に抽出されたマントル、血の泡〉といったインパクトのある言葉で辿られていく、その手つきがユニークだと思います。 〈あまりにも、な空間が体のあらゆる箇所にあると思った〉自分の身体の不可知な部分、感覚の謎、そんなエアポケットのような掴みがたい感覚について触れておられるのでしょうか・・・ 海王星の環の摩擦!イメージの飛躍が大きすぎて、置いてけぼりを喰ったような感覚も残りますが、日焼けの後の剥けた皮膚みたいに薄い〉など、体感、五感を駆使した比喩に、具体性を感じます。 (不可知)

2017-07-06

四行ずつ綴られていく、安定感のある詩行、脳内ニューロン?の情報伝達に作用する・・・というような、学術的な考察が展開されるのか、と思いきや・・・「根性焼き」、でしょうか?(違っていたら、ごめんなさい)びっくりです。 あなた、とは、誰なのか、何者なのか・・・もぎ取られるような痛み、そこまでして求める刺激、〈おれの壊せるものは/おれの身体ひとつ、それしか/残されていないんだ〉・・・その切実さ。 共産主義の崩壊、それは、信じた理想の瓦解(裏切られた、絶望、失意、情熱の矛先を失った虚無感)ということでもあるのでしょうが・・・ 私は、浅間山荘事件の年に生まれたので、学生運動の熱気や失望を、伝聞で聴くに過ぎませんが・・・あるいは、この語り手は、あの時代を経ているのか。そんなことを想像させる作品でした。 上手く読めていないように思いますが・・・ (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-06

246号線というと、我が家からは二子玉川に向かっていく路線ですね・・・都市の景観と田園風景、高級住宅街を駆け抜けていくイメージ。 現代社会の、表面的には豊かさや繁栄を享受しているのに、背後では悲惨な事件が頻発する、そんな格差社会が、今日もまた生み出される、というような、こと、なのかな・・・と推し量りつつ・・・ 僧、という❝聖なる者❞が暴力行為を行う、という価値観の反転に、「四人の僧侶」などへのオマージュも含まれているのかもしれない、と思いました。 (ありしところのもの)

2017-07-06

受理された食卓、まずこの立ち上がりから驚かされます。命を養うところ。事務的に無機的に〈受理された〉という語感・・・音の響きがすんなりと❝受理❞されていくフレーズなのに、意味が曖昧なままに先に運ばれていく。 ん、という、どこか官能的な響き、きみ、という甘やかな言葉・・・に続いて、〈切断された性器を測り〉これもまた、事務的というのか、たんたんと処理されていく作業、のような・・・生々しさをまるで感じない不思議に驚きつつ・・・しばしば性の営みにおいて、自らの意志から離れた、小さな生き物、別の生物・・・のように感受される性器(女性、男性ともに)の不思議にも触れていくような・・・行為の際にはあんなにも生き生きとしていたのに、今はまるで死体のように横たわっている、そんな性器の不思議(精気の行方、といってもよいのかもしれません)に触れていくような気がしました。 そのように読み進めていくと、冒頭の食卓は、わたし、の肉体を、きみ、に捧げる、そんなある種の宗教的な供儀としての寝台にも思われてきます。 mの音でつながれていくフレーズ。立体(肉体?個体?)から世界へとのびていく感覚・・・ 〈路線を正しく語る貨物列車の/うしなわれた窓に反射するメタファー。〉kの音が印象に残りました。 貨物列車には、何が積まれていた、のか・・・記憶や想いを、異界に運ぶ列車なのか。窓から、その内部をうかがい知ることのできない、ブラックボックスのような貨物列車。 清冽な性の余韻を感じます。 (mapping)

2017-07-06

そうだったんですね・・・ 衝撃が、そのままに伝わって来たことは事実です。ですから、推敲されたくない、というお気持ちもよくわかります。 そっと、置いておく詩、手放していく言葉。そんな祈りの言葉なのでしょう。 自分なりの鎮魂。静かに噛みしめたい言葉です。 (死にて死に)

2017-07-06

乱配置というような、イレギュラーな言葉の置き方、それでいて整然と置かれた言葉・・・。心中の乱れを、抑制しながら並べていった言葉のように感じました。 テニスンというイギリスの詩人の詩の中に、dying dying dying と連呼する部分があって、まるでピストルの弾をガンガン撃ち込まれているみたい、と思ったのですが、訳文を見ると、死に死に死にて・・・となっているのですね。不思議なことに、しにしに・・・とサ行で綴られると、芒原を風が渡っていくような、そんなびょうびょうとした景色の中にしゃれこうべが転がっているような感覚を覚えます。 逆子で生れた子牛でしょうか・・・衝撃がナマのまま綴られているような印象を覚えます。遺骸で生れてしまった、その時の焦燥感と悔恨と祈りを伝えようとするあまり、作品として対象と距離が取れていない、そんな感覚もありました。同じような言い回しや言葉を重ねていく時・・・気持ちのクライマックスに向かって重ねていくのか、切なさを抑制するために、呪文のように重ねていくのか、そうした効果を意図せずに、思わず使ってしまった、ということであるなら、言葉の重ねを遂行していく必要があるかもしれない・・・そんな部分に目を配りつつ、死との遭遇、その時に「私」が受けた衝撃・・・について、じっくり想いを聞かせてほしいと思いました。 (死にて死に)

2017-07-05

〈僕は今日さえ穏やかに住む〉この「さえ」という言葉が印象に残ります。今日ですら、ということか。冴える、イメージ、住む/澄む、イメージ。 〈仮面の上には表情されず/ふたりの吐息に攪拌されて/部屋の水温に溶け込んでしまう〉音韻から選ばれた語句かも知れませんが、表情されず、というような・・・ある種、明治文学に用いられたような古風な語感、拡販、水温、といった漢語のアクセントに味わいがあると思いました。 心の中では思いが乱れているはずなのに、まったく表情に表さず、黙り込んでいる恋人・・・その恋人に対して、怠惰、と告げているのか、あるいは、その心中に踏み込もうとしないまま、無邪気な笑みを浮かべている〈僕〉が怠惰、なのか・・・。2人を包む、水底のような空気。もう少し、二人の関係性に踏み込んでほしい、という欲を覚えつつ。 (怠惰)

2017-07-05

〈そして食べておくれよ〉この一節から、まるで世界が変わって見えてきますね。 〈速く速く〉〈遠く遠く〉というリフレイン。 フランダースの犬、では、ネロが死んでいくわけですが・・・このお話しの中では、パトラッシュがネロに自らの身を投げ出そうとする。舌を噛み切るのは、君、と呼びかけられるパトラッシュではなく、君、と呼びかける、飢えに支配された語り手、なのでしょうか・・・。 君と彼、という対応が、少し気になりました。君と僕、ではなくて? (死にたがりのパトラッシュ)

2017-07-05

完全に誤読していて(女性が流産してしまった悲しみを描いた、のだと思って)花緒さんのコメントを読んで、ああ!と思いました・・・。 そうか、作者も男性だし・・・流れ去った、は、時間、のこと、だったのですね・・・。 〈お父さんの背中は洗っても/洗っても洗っても背中/恐くて優しい背中だった〉 このリフレインが、とても素敵でした。 (お祖父ちゃん)

2017-07-05

非情に→非常に です、誤変換。 (散髪)

2017-07-05

あまやか、ひそやか、という言葉の持つ質感や音韻に惹かれつつ、その内容、感受する感覚を、もっと体感で表してほしい、そんな欲を覚えました。たとえば、淋しい、と言われた時、どんな風に?と問いかけたくなる、その具体性の部分、といえばよいでしょうか。 〈梅雨前の緑〉という自然景と、つゆまえの、という音の響き。緑の黒髪、という言葉を背後に潜ませつつ、〈艶やかな 黒髪を〉と、自らの肉体に引き寄せていく。 自分自身の身体の一部が、昨日からそこにあり続ける、ということ。その認識に、驚く感性を持っている、ということ。その過去の自分、過去の時間を切り落としていく、という行為に見出す意味。非情に魅力的な題材だけに、ひそやかな感傷、と、定型的なフレーズに収めて行ってしまうところが、なんとももったいないような気がしました。 増殖していく自然と連動するように、「わたし」の意識とは無関係に増殖していく髪の毛、伸びていく爪、に対する、違和感はないのか。違和感ではなく、感嘆や讃嘆があるのか。「わたし」は取り残されているのに、体だけが今日を、明日を生きている、という乖離の感覚はないのか。あるとしたら、そこには安堵があるのか、不安があるのか・・・などなど・・・すみません、ちょっと突っ込んだことを書き過ぎているかもしれませんが・・・鋭敏さに共感する部分が多々あるので、このようなコメントになりました。余計なことであれば、スルーして下さい。 (散髪)

2017-07-05

〈きゅうんとレンズが鳴る。〉この一行で、物体であるはずのカメラが、生き物として動き始める。人間の眼というシャッターで、直感、というフラッシュを焚いて、記憶という媒体に被写体を写し取ったならば・・・などと拡大解釈してみても面白い。 〈切り取られてばらばらの被写体が/光学の手順で縫合される/それから〉この表現もユニーク。人や物、といった被写体が、被写体という図像、画像としてカメラに吸い込まれ・・・デジタル処理を経て画像、となる。文節された世界が、縫合・・・医者の手つきのような操作・・・によって全体像を取り戻す。コマに区切られた、無数の瞬間の連続が、ひとつの物語を生み出す。その連続性=文学、そんな(背後にある)思想のようなものを感じました。 みいとかろさん自身が、写真を撮る瞬間の想いを作品にされたのだ、と思いますが・・・この詩の中では、語り手は被写体で、写真家に「いかがです」と問われる側、そして語り手は、観客として〈イカガデス〉と問い返す側・・・という関係性、でいいのでしょうか。 〈それから〉が二回出てきますが・・・一連目と二連目は、非常に強く(意味的、時間経過的に)繋がっているのに、二連目と三連目は全く別の次元にまで飛んでいますね。二度目の「それから」の意味合いが、気になります。 (被写体)

2017-07-05

文体に独特の味わいがありますね。歩行のリズムというのか、軽く区切りながら進行するアンダンテの流れ。動詞を活かしたアクセントの付け方。 〈道中〉とは、何の、何処への道中、なのか・・・前半は、いかにもごく普通の野良ネコちゃん、を連れ帰って来たように見えるのですが、〈春〉〈夜〉の連の、宇宙的な大きさまで茫洋と広がった存在のような不穏さ。この猫ちゃんは、なにか「あやかし」のものまで、連れてきているのではなかろうか・・・この猫に、❝名前はまだない❞。以前、地球猫、という不思議な歌が「みんなの歌」で流れていましたが・・・宇宙猫、とでも呼びたいような存在感が気になります。 (ある猫)

2017-07-05

剣舞、以降は、高速回転する意識の暴走状態、というのでしょうか・・・読者としてはついていくのが大変、というより、ほとんど無理、強引な展開をあっけにとられて見ている感覚になるのですが・・・これが、たとえば横尾忠則的な、色や形の鮮明な、画像のコラージュ作品であったら・・・と夢想し、それを言葉で行おうとしているようにも感じます。 ここまで意味としての繋がりが寸断されていると、文字テクストとしては、音韻的な流れや繋がり、意味の連想による、緩やかな繋がりがある方がよいように感じます。 (意識)

2017-07-04

はすのはな、のha、つた、ではなく、しだ、の絡まる洋館と、つだ、という名前。 津田さんが、なぜ墨を吐くのかさっぱりわからないながら、ダークなイメージがダースベイダーに繋がっているのか・・・ダースベイダーのdaと、ダヴ。 音や、語感のイメージが、ギリギリのところでつないでいるように見えますが、最後の飛ばし方は、さすがにやり過ぎでは?と感じました。 一つ一つのイメージが映像化されたら、ポップで刺激的なプロモーションビデオ作品のような、インパクトを持った映像作品になるような気もします。 (ダヴ)

2017-07-04

完備さんへ 率直なコメントありがとうございます。痛みを美化する、ストレートさを削ぐ、あるいは真綿でくるむ・・・という、守りの手法だけでは、自分の鬱屈を別の言い方で言い換えたに過ぎない、逃避なのかもしれません。単なる言い換えではなく、そこに新たな詩的世界を現出する、その方向に多少なりとも踏み出しているか否か・・・その部分を、常に自省していきたいと思います。 Migikata さんへ 元々は童話の形態で書き出したものでした。学校、という閉ざされた空間で、複数の登場人物が主人公を追い詰めていく会話となり、他者を外したモノローグの形になりました。賢治の世界も響いているかもしれません。 村田さんへ カルメ焼って岩石(火山岩)に似ているな、と常々思っていたので、このような比喩がイメージされたのかもしれません。 全く種類が違うけれど、外見や性質や状況が似ている・・・という連想ゲームのようなやり方で、物事を見ることが多いです。コメントありがとうございました。 (グラスハープ)

2017-07-04

少女至上主義、という題名そのものが、非常に矛盾を孕んだ言葉ですよね・・・ 少女、であり続けようとする語り手が、「少女」であることを捨て去った(奪われた)時、それでも少女であり続けようとすれば、いったい何が起きるのか・・・。 〈奪われた処女性〉〈聖なる純潔〉という部分に、少女=処女、という、やや古風な観念が正面に出て来ている印象を受けました。少女の痛みや欲望や葛藤、といった感情(の推察)に向かうのではなく、処女性や純潔を奪われる、失う、という行為が、少女の心象になにを及ぼすのか、といった、問いかけの感情が強く働いているように思います。 理由はいきさつは描かれていませんが、少女が一線を越えてしまった、その後は・・・ 〈焼け爛れたピンク色のその先で、愛の真似事〉を続けること、しか、少女には道は残されていない、その果ては灰色の末路、というような、荒んでいく「少女」の心象を、色彩に仮託して描いているように思いました。 少女の内面的な葛藤に、もっと踏み込んでいくような描き方がなされると、もっと奥行きの増す作品になったように感じました。 (少女至上主義)

2017-07-03

冒頭の歌詞の部分(でしょうか、違っていたらごめんなさい)、頑張った、という言葉の無限ループのような繰り返しが、インパクトとして残ります。どんなに頑張っても、無理。その不毛性とそれゆえの無念、断念しきれない思い。 初読では、前半と後半のトーンの違いが気になったのですが・・・後半は、ことがここに至ってしまった、二人の感情のねじれのようなものを「物語る」部分なのでしょうか。 全体に長さに流されてしまう印象があるので、中間部(あの歌を聴いている~君を癒せない僕の詩に、どんな意味が?まで)を一字下げにして、全体に三部構成のようにすると、見た目にメリハリが出るかもしれない、と思いました。 銃声と獣性・・・自分ではどうにもならない、相手、の心の内で荒れ狂う愛の苦悩・・・ 〈君の悪夢の中に銀を撃ち込みたいなぁ〉ここ、なんで「~なぁ」と柔らかく逃しているのだろう、撃ち込みたい、と言い切った方が強さが出るのではないか、と思いつつ・・・悪夢を一息に断ち切ってやりたい、という感覚と、狂おしく暴れもがく、その様を、むしろ煽りたい、眺めていたい、というような・・・愛の持つ凶暴性とでも言えばよいのか・・・そんな相反する感情を感じました。 〈連結/解体/目につく〉というように短く畳みかけていくリズムと、〈ジャパニーズ・パラダイス・フライ・キャッチャーの〉と一気に長く息を吐きだす、そんな一行の掛け合いのリズム。 君、の一日を優しく温かく見守るような眼差しと、君、の内部でうごめき、いつか暴れ出す(かもしれない)〈その植物性の情欲の獣性〉を、実は心待ちにしているかのような、貪欲さ・・・ ヒリヒリとした、ナマでぶつかり合う愛の切実さ・・・癒しを求めながら傷つけられることをむしろ望み、いたわり、抱きすくめたいと望みながら、むしろすべてを引き裂いて終りにしてしまいたい、というような湧き上がる衝動にも襲われている、そんな相反する愛のもどかしさを、音源に載せていくようなリズム感と迫力で表現しているように思いました。 (dry and rains )

2017-07-03

真っ直ぐな作品だなあ、と、ちょっと気押されるような感覚がありました。 最初の一連目、一行目二行目は、とても自然な、前置き的な立ち上がりだと思いましたが・・・だけど、から後の三行は、これから「言いたい事」を先に言ってしまっている、ということにはならないか・・・悩むところです。 〈あの丘の上に咲いている向日葵のように/いつか 太陽よりも輝ける人になりたい〉 この宣言も、あまりにも真っすぐ過ぎて、まぶしいような感じです。でも、そう、私もこんな風に、素直に、たじろがずに空を見上げた時もあった、かもしれない・・・そんな、懐かしさも感じる一節。自分の失ってしまった真っすぐさに、憧れ(羨望?)を覚える一節、といってもいいかもしれない。でも、まあ、表現としては、やはり、ストレート過ぎる、かな、という印象はあり・・・ 素直さ、を、いかに生かすか、ということなのだと思います。歌詞のように、リフレインや音韻をより一層、意識してみる、とか・・・。 〈だから もう僕は止まらない〉 〈だから 今日も僕は止まらない〉 〈ずっと僕は止まらない〉 このヴァリエーションが印象に残ります。ここを頂点にするように、言葉を盛り上げていって、転調しながら繰り返していく、高揚感を増していく、そんな楽曲を連想します。 その流れが、どうもしっくりこない、のは・・・止まらない、と同義の、でもニュアンスというか、質感の異なる「歩きだそう」が、全体に絡まっているから、なのかな、と思いました。 〈青春とは 一歩ずつ歩き続けること/だから もう僕は止まらない〉前半で、青春を定義してしまっていて・・・後半は、今の自分の状態、心象を吐露している。前半部分が、後半部分の疾走感に、ブレーキをかけてしまっている。 向日葵に向かって、駆けて駆けて・・・それでも遠のいていくのか、近づいてくる、のか、幻として消えてしまう、のか・・・舞台が暗転した瞬間、緊張感に胃を搾り上げられるような感覚、足が震えながらギターを掴んでいる、その神経がピリピリ引きつるような瞬間に、あの向日葵が、幻日のように現れる、のか・・・なぜ、そんなにも「丘の上の向日葵」に憧れるのか。誰かの暗喩なのか。そんな疑問が、次々に湧きだしてくる作品でした。 (向日葵の詩)

2017-07-03

常套句、使い古された言葉、新鮮味の薄れた言い回し・・・常識とか社会通念とも、少し違う。音としては「上等」にも通じる。喧嘩上等、というような(笑) 草を根っこから抜く。その穴から出て来る、という発想にびっくりしました。 〈誰もいない森〉それは、未知の言葉の森、でもあるのでしょうか。熊は(ユーモラスな言い方ですが)無意識の闇から立ち上がる、自分自身の影でもあるように思います。 新しい言葉、新しい言い回しを掘り起こそうとして・・・いい加減くたびれた、その疲れたあとに、いったん、全部を埋め込んで、きっぱり、サッパリと冷麦をすする。夏だ、という最後の一言が、ごちゃごちゃとよどんだ心や思いをいったん追いやって、さて、と立ち上がるような爽快感を生んでいると思います。 (根っこから)

2017-07-03

物語詩、ですね・・・ 告白する、ということ・・・誰に向かって、何に向かって・・・神、と呼ばれる存在が、すべてを「みそなわす」存在が、もしも本当にいるのであれば、その、全てを知る人、に向かって・・・ 〈寄せ来る不幸の荒波を〉不幸、という言葉が、ちょっとストレート過ぎるかな、と思いましたが・・・ここを比喩などで置き換えていくという作業を入れれば、きっと物語の進行、流れを遮ってしまうことになるでしょう。このままがいいのかな、と思いつつ・・・読む、ということよりも、聴く、ということを意識すれば、ここにさほど違和感を感じないのでしょうけれど・・・文字で読むと、あまりにもあっさりと「荒波」を「不幸」という一言で言い換えてしまっている、感覚もあり・・・(でも、先に言ったように、ここでゴチャゴチャ脱線すると、物語から外れてしまいますね) 〈そこにいる魂に呼びかけるために〉ここで止めてもよかった、ようにも思います。 なぜなら、人々の前で〈この人は空っぽです〉と言い放ったのは、語り手自身の精神である、ように思えた、から・・・。自分の精神が、自身の魂を追い出してしまった、心を殺してしまった、瞬間、を描いている、ように感じた、から・・・。 私自身が、周囲の目に(圧力に)負けて、私自身の心を殺してしまった、魂を追い出してしまった。その魂を取り戻すために、〈生くる屍と共に/この長い人生という旅路を/ずっと歩いているのです〉それが、この語り手にとっての「巡礼」なのだと、感じたから・・・ 過去に、他者との間で起きた出来事への悔恨の作品かもしれませんが(たとえば、自分の娘と自分、母と自分、友人との関係、などなど)、〈それを取り戻す事が出来るのは/わたし以外にいないのですから〉この爽やかな宣言に、やはり、この作品は過去の自分と現在の自分との対話から生まれた作品、であるように感じました。 (『巡礼』)

2017-07-03

早とちりしました、もう、来月、になっていましたね・・・ アドバルーンが上がっている、ではなく、上げている、という能動から始まる。都市、が上げているのか。童心をくすぐるような、どこか懐かしい、心温まる単語が置かれた後に、他者、であるはずの死が語られる。他人の物のように動く手(腕や体、顔は記憶から抜け落ちる)に焦点が当たり、他は消え去ってしまったかのような不思議な空間。灰色の空間に、白い手だけが蠢いているように感じます。語り手の心眼が見た世界が描かれることによって、やわらかく流動していた心が(他者の死、によって)固まり、動きが鈍る、全体を把握できなくなって、一部の動きにのみ目が留まる。そんなどうしようもない状態を描きとっているように感じました。 自分に関係ない、と物事をきっぱり切り捨てたり、流したり、忘れたりすることが上手にできる人は、そもそも、詩など書かなくても生きていけるのかもしれません。 〈縛り上げられてゆく暖気の名残〉ここが、よくわからなかった・・・人の気配や温もりのようなものが、縛り上げられ、片づけられていくような感覚、でしょうか・・・〈かすめられる昼食時〉ここも能動ではなく受動ですね。(他者の死、によって、自分にはどうしようもない、不可抗力にも関わらず)食欲のわかない昼時が、他人の時間のように自分の外側を過ぎ去っていく感覚を描いているように感じました。 〈ゼンマイがほぐれてゆく/玩具のように〉ここは、唐突感を感じる読者も多いかもしれません。 私は常々、人間の内部にいのちのゼンマイのようなものがあって、それが動いたりゆるんだり巻き戻ったり・・・する、と感じているので、自分に引き付けた読み方になりますが、この部分に違和感は覚えませんでした。 他者の死によって、固まってしまっていたこころがようやくほどけて、またゼンマイも動き出す、その瞬間、のような・・・動き出した心に連動して、体にまた、息吹が戻って来る。まずは足から。スニーカーの穴から〈また唐突に呼吸が始められる〉息詰まっていた身体が、また息を吹き返すような感覚が伝わってきました。ボタン、は、バタン、という擬音にも似ている、けれど・・・それは関係ないのかな・・・ボディーにまで、息づく体、息づく時間、が戻って来たような感覚がありますね。 そしてまた、列車は何事もなかったかのように動き出す・・・。 水面の微細なさざなみを記録していくような、そんな繊細な手つきを感じます。言葉が抑制されているので、ドラマティックな展開や壮大な空間を望む読者には物足りないかもしれません。でも、言葉にしえない、微妙な心身の感覚を静かに見つめて、その繊細さのままに描き出そうとした、そんな意欲を感じる作品でした。 (飛込み)

2017-07-03

それでは、また来月にコメントを入れましょう。 (飛込み)

2017-07-03

投瓶通信、という詩誌を発行していた方がいらした記憶があります。瓶に言葉を詰めて、無辺の海に投げ入れる。このイメージは、ある意味、ステレオタイプでもあるので、容易に入っていけるけれど、自分の詩にしていくのがものすごく難しいテーマだと思います。 誰でも入っていける 手頃な世界と真逆のやり方で この捉え方に、オリジナリティーを感じました。 「今は夜です 真っ暗です 海へ飛び込むかわりに 言葉を先に放り投げました」 これが、瓶の中身なのか・・・自己消滅を願うほどの、精神の夜にとらわれている「私」の声が(思いが)誰か、に届くことを切望する・・・ 手近なものに丁寧な目を向けて、そこから普遍的な、観念的な世界を二重写しで読者に提示する。そんな持ち味を持つ作家だと思っています。その「読者が作り上げたイメージ」に自らを縛られる必要はないけれど、その持ち味をいかに活かすか、そこから出発しても良かったのではないか・・・そんな印象を受けました。 大きな、観念的なテーマに挑戦しようとする意欲が、本来の持ち味を後退させてしまったかもしれない、それではもったいないような気がしました。 (メッセージ)

2017-07-02

しんちゅう、しんじゅう・・・相手が、もう死んでしまいたい、という深みにとらわれて、浮上できないでいるとき・・・自分の心を引き裂いて分け与えれば、それで済むのか?(済まない)、相手は、生きたい、のだから、共に・・・ そのどうしようもなさに、生きることそのものの「ままごと性」というのか・・・そこに位相をずらすことで、ギリギリのところを共に回避して浮上(停滞しているけれど)していく、そんなふたりの、解放されたとは言いがたいけれど、深みに引きずり込まれずに済んだ、という回避の流れを感じました。 いつのまにか海に水没している列車のイメージは、しばしば海や水で象徴される無意識界への沈潜を物語化していく過程のように思われました。 言葉のリズムや語感が巧みですね。読む楽しさがそこに入ってくる。ぶどうぱん、という音の楽しさ。イッキン、はきつい、ニキン、は物足りない、サンキン、静かだけど安定していて、撥音もないし、柔らかすぎないし・・・言葉や音が先にあって、良い意味で戯れながら、深刻になろうと思えば、とことん落ち込むことの出来る事象を、軽い質感の物語に置換していく。そんな、物語化への意欲を感じました。 平田俊子さんの面白さに通じる路線だなぁ、と思いつつ。 (心中に予告、心中に遅刻)

2017-07-02

なかたつさん 作者からのコメントに感謝します。 前奏、という書き方だと、なるほど、それがなくても成立する、前半と後半が別個のもの、という感じに受け止められますね。 前半は後半の助走になっている・・・という方が、より的確に伝わるかもしれませんね。 (きみを思い出すうた)

2017-06-30

月経が訪れる直前の、重苦しい痛み、これは、男性にはなかなかわかりずらいものだと思いますが(その前後に、ホルモンバランスの関係で精神的な不調をきたす方も多いようです)〈それは愛にも似ている。〉という一節に、共感と違和感、双方を覚えます。 諸事情で妊娠を恐れている関係、である、と思いつつも(だから、不快な月経を心待ちにしている?) 一カ月かけて。    私は。    私を更新する。    私は。    私ではなくなる。 ここまで、大きな(自分自身の)刷新に到るような、感覚にまで至るのは、なぜだろう、何だろう・・・子宮そのものに迫って、流れていく(死んでいく)卵細胞に焦点を当てているのか。だとしたら、不妊治療を繰り返していて、命を待ち望んでいる、という設定、なのか・・・としても、少女のイメージが全体を支配している。月経を迎えると、まるで別人のように男性を激しく求める、そんな少女の豹変を描いている、ようにも思われる・・・。 性に溺れている間は、砂糖水にひたされた世界を味わっているような、甘美な気持ちになれる、ということか・・・世界を食べ過ぎてしまった、そんな状態を「過食症」と表現したのか・・・ 実際に過食症の苦悩を体験したことがある方なのか、イメージとして言葉を援用したのか、その部分で判断に迷うのですが・・・ 生と死、その観念性をとらえようとする意識にとらわれ過ぎている、という印象もあります。言葉の流れや詩形は美しいですが、少女と男性との関係性を、もう少し鮮明に(あるいは具体的に)知りたい、世界を食べる、という「大きな」テーマを、もう少し絞って、具体化してほしい、そんな読後感が残りました。 (砂糖水に浸して)

2017-06-29

一行目の言葉の強さが際立つ作品ですね。救済のラジオ・・・聞こえて来るはずの、救済の声を掻き消す雨、それは心の内に容赦なく降り注ぐ土砂降りなのでしょうけれど・・・驟雨と音の重なる「秋雨の死を祈る」と続くと、その雨を掻き消してくれる何か、を必死に祈る、そんな景に思われてきます。 そこまで、語り手に窮迫しているものはなんだろう、語り手を脅かしているものはなんだろう・・・首を落とした(刎ねられた)てるてる坊主には、その雨を降りやまさせる力はない。〈色のない巨人共〉、見えない、しかし圧迫感で語り手に迫ってくるなにか、を言語化した、とでも言えばいいのでしょうか・・・言葉によって呼び出された、不安の形象化。〈無言の死体〉は、首を落とされたテルテル坊主、を暗喩しているのか・・・ と読み解いていくと、なんだか謎解きをしているみたいで、本当に作者が言いたかったのは、そこか?という疑問に突き当たります。二連目以降は、一連目のイメージを増幅させながら(変奏のように)奏でられる、〈雨〉の降りやまない、降りやませることができない日々の中で、一時の夢想(アルコールによる)に逃避する、その幻想の時間を描いているように感じました。 太陽と青空、赤と青。〈ボンベイ・サファイア〉の青。〈シャウエンの蒼すぎる景色 〉(どこなのか不明ながら)青ではなく、蒼の(死の?)風景。〈無表情で無機質な透明の薬液 〉とは、酒が単なる薬液としか感じられない心象であるように思います。 〈獣性を隠した異性 〉このあたりは・・・異性との関係のよじれ絡まっている、その状態、なのか・・・ごめんなさい、ここは読者として、置いて行かれた、そんな心細さを覚えます。 〈青と赤が交わり生まれた 〉ここから以降・・・太陽と青空、が生み出した葉緑体・・・植物のような僕たち、なのかな・・・酔いの回った体で、山手線を周回しているのか、あるいは日常生活(ルーティンワーク)の暗喩か。 あえてデフォルメした表現で、日常性を超脱する、これはとても重要なこと、だけれども・・・〈凍てついた山手線を輪廻する〉ここまで大仰な表現を使う必然性が、全体の流れの中から、出て来るか、どうか・・・ 〈藍を喪失した窓 無軌道に溢れだす紅 〉愛、に通じる藍、闇夜に通じる藍。自殺なのか事故なのか、一人の少女が命を失った、それなのに(時には、電車が遅れた、そのことに不平不満を述べる、というような)動じることもない乗客たち。それが、私たちの日常。無軌道に溢れる紅、それは少女の血であると同時に、悲しみや孤独、辛さや痛み、そうしたものに感応することのない社会に対する、言葉にならない叫びのように思われました。 このエピソードを、もっと中心に据えてもよかったのではないか、という気もします。 〈淡く青いラムネではなく /淫らに澱んだ ロゼの熟れた液になった〉鮮明な青と赤、が、透き通った青と、赤の刺激を失った透明な赤、に「熟れて」いく、ということ。感情が弛緩して、広がって膨張して・・・しかし、鈍感さが増していく(そうでなければ、外界の悲劇に対して対応できない、ということ、でもあるでしょう)ということ・・・ 後半のエピソードがあって、心の中に止むことのない驟雨が降り注いでいるのか。そう読んでいくと、全体がつながって来る気もするのですが・・・酒に逃げるようなシーンや、異性との関係性を暗示するシーンなどが盛り込まれて、全体に惑わされてしまう、そんな読後感が残りました。 (アルコール何色 愛せよ、何を?)

2017-06-29

四拍子で進んでいく、歩行のリズムとでも言いましょうか。 二行ごとの整然とした連、そこに三行でふくらみを持たせた構成。 形や音の美しさに鋭敏な作者だと思いました。 (ハートブレイク)

2017-06-29

一連目の描写が魅力的ですね。二連目は、悪夢のようなイメージと、アニメーションのようなユーモラスなイメージが重なりますが、擬音が、一般に使い慣れた言葉なので、少し軽い感じになってしまいますね。三連、四連、言葉を詰め込んでいる印象を受けますが、精神が味わっている状況を丁寧に、独自の表現で描写していて、迫真力があります。芥川龍之介の『歯車』をお読みになったことはありますか?あの感覚に通じるものがありますね。 最終連で、冒頭の連に戻る、ロンド形式のようになっていますが・・・形を整えることに意識が向かい過ぎたようにも思います。〈溶解しつつある自己〉が抽象的過ぎて、感覚として追体験しにくい。 幻想の薄霞の河(白く靄のように流れる、イメージ?)に、自分が断片となってちぎれて消えて行ってしまうような、そんな心細い状況を描いているように思うのですが・・・その前の〈自分という幻想の存在しない世界〉ここも、哲学的に結論を出してしまっている感があり・・・この時の心境を描いていただけると、もっと読者を引きこむ作品になったと思います。 (高熱にうなされて)

2017-06-28

言葉の音が音を呼んで進行していく、リズミカルであるのに軽く成り過ぎない(それは、適度に意味が加算されていくから、だと思いますが)詩の駆動力が魅力の作品だと思いました。 〈煙巻かれ 匿名に抱かれ〉ここは、煙に巻かれ、の「に」落ちでしょうか? 〈そして〉に、多少違和感があるのですが・・・あえての挿入、なのか・・・この接続詞に、説得力が感じられませんでした。 〈忙しいのは生活よりも心の中さ〉一連目は空間的な喧騒、混沌。 〈彼岸花の枯れない境界戦線〉二連目は紅白、男女、生死、正気と狂気の境界領域。 〈凍傷する海辺 水羊羹の凝固〉三連目は精神の夏と冬・・・あえてクサイ言い方をすれば、青春の記憶と、その喪失。 音によって(時にはダジャレ的に)繰り出される言葉のリズム、その展開の軽快さが、深刻に沈んでいくのを防いでいる、そんな印象を受けました。 季節の終りとしての冬と、恋の喪失を実感する(誰もいないクリスマス、のような)12月。ディスカウントストアで大量消費されていく「情熱」の成れの果てとしての詩(への批判精神)・・・を連想しつつ、だからこそ、掘り出し物、これはお宝、というような詩と出会いたい、とも思います。 (抽象的な境界の切断)

2017-06-28

漢語の多様によって整えられた詩形、その硬質なインパクトが際立つ作品だと思います。 〈この爛れた暗闇の濁世に/尖鋭なる刃の光をもたらす〉宣言文のような力強さを持っていますが、若干、ステレオタイプの言葉であるような印象を受けてしまう・・・力が入り過ぎている、のか・・・ 松明が、いかに暗闇を照らし出すか。その様相に目を注いで、そこに(作者の眼にだけ)見えてくるものを描いてくださると、読者を静かに作品の中に誘い込む、そんな深さや魅力を持つ作品になっていくように思います。 今のままだと・・・語感もかっこいいし、気分を盛り上げてくれる、そんな力強さを得られるけれども・・・言葉の強さによって、むしろ跳ねのけられてしまうような感覚を覚えました。 (松明を掲げよ)

2017-06-28

内容については、他の方が触れておられるので、文体的なことについて。 冒頭、あえて「ただの」を挿入しているところ。散髪用のハサミではない、ごく普通の、文房具としてのハサミを、私はこれから使うのだ、という宣言ですね。このような使い方を、大事にしてほしいと思いました。一方、〈漆黒の髪〉これは、まるで慣用句のように用いられる言葉。あと一歩、私にしか言えない形容、比喩、を探してほしい、と思います。 〈生まれた時に切る事を忘れた〉〈毛先は鋭利な刃物のように〉こうした表現に魅力を感じます。直後に、人生を表している、と続く。今、髪を切ろう(実際の髪なのか、心理的な、内面の髪なのか、どちらでもよいのですが)と決意した時、毛先(心理状態)は、鋭利な刃物のようだ、という。針ではなく、刃物の鋭さを持った毛先を、自分の意志で切り落とす。そこに注目したいと思いました。 〈チョキン チョキン〉という擬音も、いささか使い廻された言葉、であるような気がして、もったいない。全体にとても丁寧に書かれていますが、もっと省略して、スピーディーに最後の崩落(滑落?)にまで持って行ってもいいかもしれない、そんなことも思いました。 (髪を切る)

2017-06-28

〈だけど誰も近づけない空気がある〉その空気感を、いかに醸し出すか、そこが腕のみせどころなのかな、と思いました。〈ツァラトゥストラが好きで 帆船の模型を作り/窓の外を虚ろな目で 眺めては/口をつぐんで 考え込む〉青年を、外から観察して書いている、ので・・・読む側に、もどかしさが残るのかもしれません。 この青年の、内省モラトリアム、そのものの中に入り込んで、そこから世界を見たら、どんな風景が広がっているのだろう。そんなことを知りたくなりました。 (内省モラトリアム)

2017-06-28

こんにちは。ステレオタイプ、というハンドルネームは、「夜間飛行」や「夢の虜」といった、カッコイイ決め詞をあえて多用する文体に対して、自ら付けられた名前でしょうか。 体言止めの多様と、息継ぎの速度でつないでいく詩行、呼びかけの文体。 歌詞を強く想起させます。 歌詞の持つ強さを、黙読を主体とした詩の世界に呼び込みたい、という想いを持っているので、歌詞的な文体であることそのものは個性であると考えていますが、読まれる詩、でもある、ということを考える時、もったいないなあ、と思う所が何点かありました。 たとえば、〈涙さえ濁す/心さえ枯れ果てて〉というような部分。 歌として聞くときは、さえ、の連呼が感情を盛り上げていく効果があるかもしれませんが、読むときは・・・近い位置に並んでいるので、かえって感興を削がれてしまうような気がしました。雨が涙を濁してしまう。体は芯まで濡れそぼっていくのに(心まで冷えていくのに)逆に心は潤されることなく、枯れ果てている・・・モノクロの瞳、これは、モノクロ写真のように、心に移る映像が色を失ってしまった、そんな喪失感を表したかったのか、あるいは、語感のカッコよさ(スタイリッシュな感じ?)から選択された言葉、なのか・・・ 逆に、〈鳥は翼はためかせて 僕を置き去りにして〉こうした部分は、脚韻的な効果、余韻が、聴いた場合でも読んだ場合でも残るような気がします。 ~さえ、という限定の言葉の持つ強さが、近い感覚で連なる場合の効果は、いわば濃い色を加筆していく印象。 ~て~て、という、まだつながる予感を残しながら省略する効果は、水彩のぼかしやにじみの効果、といえばよいでしょうか。 僕の翼は折れてしまって、飛び立てない、それなのに君だけは(僕の手のひらに抜け落ちた羽だけを残して)飛び去ってしまった、という冒頭三連の抒情が、持続されないまま今度は僕は蝶になって飛び立つ、と四連目で切り替わっている。〈夜間飛行〉という言葉が目印のように置かれているので、三連と四連との間に、作者の中では切り替わるタイミングがあるのでしょう。もう一行あけるなどすると、見た目にメリハリがつくと思います。 そこから、今度は〈懐中時計〉また、詩情を喚起する言葉を冒頭に置いた連に飛ぶのですね・・・ここは二行アケになっているので、作者の中では区切りがあるのだろうと思います。蝶になる、というイメージが、燕になる、と変容していく。イメージの流れの変化の面白さに惹かれますが、その分、一つの感情を深めていく、その方向性が背後に隠れてしまうような気もします。 一気に宇宙まで飛ぶ詩想も、ダイナミックだけれども、作者一人で飛び立ってしまった、というような印象もあり・・・気持ちを、もう少し丁寧に追っていく方が、読者と並走する作品になるのではないか、と思いました。 (夜間飛行)

2017-06-28

名前、が呼び覚ます、幻としての わたし を見詰める わたし について、想いを喚起される作品でした。 畸形の花、ここで区切られることによって喚起される、曖昧ながらひとつのまとまりを持った花のイメージが、改行でハラハラと散る断片のイメージとなり、そこから、強引なのに素直に納得してしまう急峻さで包装紙のイメージに変容する。 展開の流れに無駄がなく、読んでいて爽快感を覚えました。 いちぶ尖った・・・とは、潰されて廃棄(リサイクル)されるアルミ缶のイメージでしょうか。それが裏返る、という予想外の新鮮な驚きが、かれの身体が裏返り・・・という、カ行で駆動する、これまた新鮮なフレーズの伏線となっている・・・ 畸形の花、という言葉の持つイメージの幅が大きい(読者によって受け止めるものの違いが大きい)という部分を、どう捉えるか、という問題が生まれると思いますが・・・ 畸形、を、何か特別のもの、個別のもの、として、そこに価値観を見いだしていた、のに・・・それもまた、無数の、雑草と呼ばれるものに過ぎなかった、と見る、失望と安堵、その両方の感情を、私は呼び覚まされました。 私、と、かれ、の関係性が、曖昧すぎるような(もう少し踏み込んで、そのあたりを聞いてみたいような)気もするのですが・・・固有のものとして、私、を、際立たせるもの、としてのまぼろし・・・を希求する、そんな願いを感じました。 (names)

2017-06-27

体感的に、暖かいもの、なのですね❗ そういえば、今年は雪が少なかったから、新芽が痛んでしまった、という話を、雪国の方に聞いた記憶が・・・ 覆いつくすもの、守るもの、眠らせるもの、リセットさせるもの・・・雪国の方ならではの雪の感覚を、別の作品でも聞きたくなりました。 (雪が降る)

2017-06-27

コメントありがとうございます。 二連目、確かに、日常性から、突き抜けてないというか、ぶっとび感、デフォルメの勢い、そのあたりが、まだ足りないかもしれません。 アルマジロ的な防御、の生真面目さ、よりも、エリマキトカゲ的な、どわーっと駆け回るユーモアというのか、あっけにとられるぜ、的な感覚の方が、突き抜ける強さに繋がるような気がします。 (グラスハープ)

2017-06-27

なめらかな言葉、静かな筆致が、とても上質の叙情を奏でていると思いました。 手放すことのできない宝石、とはなんだろう。自らの魂、だろうか。 己の魂を握りつぶして、血まみれのまま差し出す、そんな思いのまっすぐさ、に対して・・・おいおいおい、生き生きと輝いている魂をそのまんま見せてくれる方が、どれだけ美しいか・・・と苦笑している神様・・・そんな景色が浮かびました。 わたくし、という言葉がまとう、宮沢賢治的なまっすぐさに想いを馳せつつ。 (手のひらの宝石)

2017-06-27

冬が降る/暖かい/雪が降る この展開に、赤い雪や緑の雪が降ったら・・・と絵の中で実験?してみた、という美しい絵本のことを思い出しました。 雪は、見た目は綿のようで、暖かい。暖かい死、眠り、に誘うもの、というイメージもあります・・・非雪国の太平洋岸に住む者の、いささかロマンチックなイメージではありますが・・・・。「歪な物 怖い物」ですら、覆いこめて眠らせてしまう、雪の優しさ、なのか、非情さ、なのか・・・。 雪の怖さや凶暴性は、雪国に住んで、日々、雪と戦う人にしか実感できないことなのかもしれません。 雪は微細な結晶/緻密な物が 壊れるのも厭わず/降りしきる この連が印象に残りました。 壊して、一冬が過ぎて・・・その後、雪だけが消える。「歪な物 怖い物」は、消えていない、壊されていない。壊されて、無くなってしまうのは、緻密な物、だけ・・・緻密な物、とは何か。繊細な何か・・・。 人の心に雪が降り積ったとしたら。雪融け後には、どんな景色が現れるのでしょう。 再び、繊細で緻密な、可憐な小花に覆われる、そんな日を夢見て。 (雪が降る)

2017-06-26

前半は、思い出すままに言葉を軽く並べていくような、そんな準備運動的な感じ・・・音楽でいえば前奏なのでしょうか。 後半の散文部分、力がこもっていますね。花緒さんも注目している部分ですが・・・誰もが原風景としてもっている、自分の核となる部分、童心の部分・・・現実の(大人の)僕が探し求めてもなかなか見つけられない「流れ星」が、心の中では、童心のままの「僕」を取り巻いて、光り輝かせるものとして周回している・・・原子核を電子が取り巻いて高速で回転しているCG映像を見たことがありますが、そんなイメージを連想しました。 そして、その輝かしい核を、僕が自分自身に感じている、ように、きっと君も、感じられるはずだ。そんな強いメッセージを受け取ったような気がしました。 (きみを思い出すうた)

2017-06-26

ところどころに刺し挟まれる、刺さって来る言葉の質量、そのアクセントの間に、埋め込まれるように置かれた、たくさんの言葉・・・全体に溢れ出すような・・・とぎれなく流れ出す布の帯、その波打つ山の部分に、ところどころ光る刺繍のように光る言葉がある、そんな印象を受けました。 るるりらさんも引用しておられますが、冒頭、~から、~のだ、という明確な「理由と答え」の構文なのに、内容は論理では説明できない、直感でしかとらえられないことを断言している。この説明不能な、でも納得させられてしまう断言、そこに詩情があるのだと思います。 たとえば、 (その距離とは実はそれほど遠くもないのか (心の壁が実際よりも遠く感じさせるのだろう というように、ところどころ、推察の強い部分に( を付けてみる、とか・・・ 連あけしなくても、詩的直観による断言と、推察の部分とを視覚的に分けてみる、などすると、 もっと(見た目に)メリハリのきいた感じになるかもしれない、と思いました。 泥沼には使い古した靴だけを残して 君は立ち上がれる僕もそれに従おう こうしたメッセージばかりが続いていたら、ストレート過ぎてしんどいかもしれないですね・・・うねるような流れの中に埋め込まれている、そこに、ふっと思い出したように現れるメッセージ。そのさりげなさが素敵だと思いました。 見方を批判して 憎悪を知っているとは まるで指を曲げるみたいに簡単に言うんだね 妄想だけが責められるべきじゃないから ここは、見方(誰かの、一面的な視点)なのか、味方なのか、両方なのか・・・。 真実は見つかるだろう、とか、我々は罪にまみれている、犯罪は他人事ではない、こうしたフレーズは、既にたくさんの人に口にされた言葉であるような気もしてしまう、のですが・・・流れの中では必要なのかな、でも、全体に長くて、ちょっとメリハリが弱い印象があって、もったいない気がするので、こうした「世間一般でよく言われるようなフレーズ」を削ってみる、というのも、一つの方法かもしれない、と思います。 視野の端っこに映っているものも 何かを持ち上げるための踏み台としてはいけない 連続してはいない人格がその展開の場を開くのであれば 私はその建物の中でのあれこれを 人々のために正しく置きなおしてもいいと思う こうしたフレーズに惹かれます。作者独自の空間感覚や比喩の感覚に裏打ちされた、作者からのメッセージ(肉声)のように感じるから。 「誰をも拒否しない噴水のように」静かで美しい、でも、決然とした・・・素敵な余韻を味わうことができました。 (good-bye my love)

2017-06-26

北村灰色さん コメントありがとうございます。身体的な感覚で捉えられるような、五感で感じられるような作品を書きたいと思っています。空虚さ、それはいつも感じていることかもしれません。 夏生さん コメントありがとうございます。~様など、どうぞ使わないでくださいね。馬、のイメージに、昔から惹かれています・・・実際の馬を見たこと、乗ったことは少ないのですが。絵本や物語からの影響かもしれません。 (鋳型)

2017-06-26

雄々しい、は、プラスイメージの言葉なのに、女々しい、は、マイナスイメージの言葉ですよね・・・ 長いこと続いた、男尊女卑(とまで言うと言い過ぎかも知れませんが)が当たり前、の社会が文化的に生み出してきた言葉、であると思います。 男らしさ、女らしさって、なんだろう・・・従来の(男は黙ってサッポロビール、みたいな)価値観にがんじがらめにされている男性への、皮肉、として書かれた作品なのかな、とも思うのですが・・・ 〈卑しい女性的な顔があった〉ここは、皮肉として、受け止めてもらえるか、どうか・・・。 男だろ、しっかりせい、みたいにどやしつけられて、よっしゃ!シャキッとするぞ!と言いながら、でも、なんで「男だから」しっかりしなきゃいけないんだよ、と愚痴っている、そんな子供のような、あるいはいかにも情けない顔をした生き物、が、男の身体の中に巣くっていて・・・というシチュエーションなら、もっと面白かったかな、とか・・・ 生物学上の男、が、本来の自分、である「中の顔」を、社会によって「情けない」「女々しい」「卑しい」と非難されて、仕方なく〈咀嚼し/すり潰し飲み込んだ〉というオチなら、「男らしさ」という世間の押し付けに対する、ユーモラスな抵抗の詩、ということにもなるでしょうけれど・・・・ (男らしさ)

2017-06-25

4、4、3、3、2、2・・・少しずつ行数を落としながら(気持ちを抑制しながら)整えていったような印象を受けます。 電子レンジがチーン、となる。すぐに開けないと、またチーン、となりますね・・・その音が〈幸せな家族の象徴〉である、という部分が、シニカルな悲しみをこめた反語なのか、あるいはそのままの意味なのか。他の方はどう読むのだろう、と思いました。 冒頭二連、流れるような立ち上がりですね。抑えた悲しみと喪失感が刻まれていくような、静かだけれど力のこもった二連だと思います。 三連目の冒頭〈哀しみはふとした日に訪れる〉言葉の流れというのか、口ずさんだ時の心地よさから選択された言葉であるようにも思いますが、もし〈手が離せなくてまたチーン!と鳴る〉のが、遺品整理という辛い作業のゆえに手が離せない、のだとしたら・・・ふとした日に、という軽めの言葉が、有っているかどうか・・・具体的な(辛い)作業を暗示する行を置いて、行為によって悲しみを滲ませる、というような手法の方が、この作品の場合、効果的かもしれません(かも、です、あくまでも) 〈夕食に作ってくれたコロッケ〉ここも、少し戸惑いました。語り手のお母様は、コロッケをよく作ってくれた、そのことを思い出しながら、スーパーやお総菜屋さんで買ってきたコロッケを、温め直さないで(お母さんの作ってくれた、揚げたて、の時の味とは違うから・・・かえって、電子レンジのべちゃっとしたコロッケを食べると、わびしさ、切なさが増してしまうから・・・)冷たいまま、食べる、というようなこと、なのかな、とも思うのですが・・・冒頭2連くらいの、適度な状況説明があると、よりよいかもしれない、と思いました。 (母へ)

2017-06-25

烈しい詩ですね! 唐突ですが、罪を犯していない者から石を投げよ、という、聖書の一節を、ロックンロールで表現したら、実はこうなるのではないか、というような思いを受けました。 痛い、詩だけれども・・・むしろ爽快感のある(いつまでもじくじく残らない)痛み、だなあ、、と。 〈さようならと裂いた/静寂と閃光〉sの音の連鎖。〈海と空を泳ぐ目玉〉は、すべてをみそなわす・・・はずの、時には神、あるいは運命、などとも呼ばれる、こともある・・・超自我の目玉、であるような気がしました。 白知、は、白痴、なのかな、とも思うのですが・・・表現上必要である、として認められる範囲である、と思いますが・・・単語として、なかなか使うのが難しい言葉です。一言、余計ながら・・・。 (knife)

2017-06-23

白犬さん  >「本来は共に生きたい、という感情が、共に滅びてしまいたい、というエネルギーに回収されていく」は、私の中では少し違っていて、後半は「ほどいたげる/逃がしたげる」が入る通り、この詩の結末は「共に滅びてしまいたい」ではなく「別れてそれぞれに生きていくこと」です。 こうした、作者の側からの「思い」を聞けるということ、それが、双方向メディア(といっていいのかな)の投稿掲示板の醍醐味だと思います。なるほど、と納得しながら読みました。 「ばーにん」・・・私も否定的な感覚ではなく、魂を燃やす、燃焼させる、生き切る、というような、情熱を掻き立てるイメージとして、肯定的な意味でも捉えています。その意識が高じて、私も自分の詩の中に燃える、燃やす、焼き尽くす、といったイメージを持ち込むことが多く・・・コワイなどと言われますが(笑) ありがとうございました。 (anthem)

2017-06-23

浅草のあたりにある、金色の火の玉のような「ビールの泡」を表すという飾り?を屋上に乗せたビル、を、一瞬連想しましたが・・・ビルがどんどん建てられていく「都市の歴史」をタイムラプス映像で見ているような感覚にもなりました。 〈長いテーブルの向こうの絵みたいに一枚 僕が掛けられている 次の宴会が始まって 絵は人のように見ている〉 この部分が秀逸と思いました。僕、自身を客観視して見つめる語り手の視点。それもまた、僕、であるには違いないのですが、創作者の僕ですよね。流れて来る仕事を片付けているのか、自分自身も片づけられていくのか・・・そうした、社会でもまれている働き手の僕、を見ている詩人の僕。 (ビールみたいに運ばれて)

2017-06-23

〈死人と生者の間に属する中間管理職的な生き方〉をせざるを得ない〈わたし〉と、〈わたし〉を包む、あるいは〈わたし〉が包む〈家族〉との関係性・・・その関係が〈シュール〉なのだろうと思いました。 ユーモアにあふれた筆致なので、深刻になりすぎなくていいですね。それでも、ピリリとした緊張感と批評性があります。家出した〈ル〉、あるいは〈キミ〉が残していった、爪研ぎ用小物。人間用の道具だとしても・・・猛獣や猛禽の爪・・・鋭利な攻撃性を持った爪を持つ〈キミ〉を連想します。 家出されてしまった側の〈わたし〉〈家族〉もまた、爪を持つ。〈この胸にある うずき〉が、伸びていく爪の先で疼いている。その疼きを、〈キミ〉が残していった、爪研ぎ用小物で整えて、なかったことにするのか。あるいは・・・ 家族、を、会社とかPTAの役員とか、趣味のグループなど・・・いろいろなものに置き換えることもできそうです。考えさせられる作品でした。 (シュール)

2017-06-23

すみません、引用部分に〈 〉を付けたつもりだったのですが、記号選択を間違ったらしく、反映されていません。 最初の一段落めは、全て引用です。 (故郷の河・東京・兄の内妻)

2017-06-23

消失点は、笑う人の笑いにある。顔の下半分だけに残る音のない笑い。そこで彼女についての記憶は消失している。僕にとって彼女はひとつの表情だった。知らない女性の微笑が、今~昼間の月として淡く輝いている。 語り手の兄と、兄の内妻、その二人の間の生活・・・知らされていなかった間は、語り手にとっては存在すらしていなかった世界が、いきなり(暴力的ともいえる衝撃度で)語り手の世界に侵入してくる。故郷の、どこか寂し気な、でも美しい、確かに実在する(はず)の場所に居ながら、語り手は僕が不在である世界、すなわち、東京、兄がいまだに入院し、兄と内妻の生活が崩壊していった東京の恐らくは下町・・・にとらわれている。兄の事件を知らされるまでは、まったく無関係だったはずの・・・故郷の景色に、僕に関係のない世界の、僕に関係のない生命体が、僕の知らない場所から僕の情欲を支配されてしまう、ということ。心細い、と書いてはいるけれども・・・足もとが底なしの砂地に吸い込まれていくような、不安に苛まれるような心細さなのではないか、と思いました。 故郷で、枯草が風に吹かれている、という、なにげない叙景が、風が吹き抜けていくような語り手の心象を巧みに表していると思います。 兄の事件・・・を、消化できず、受容できず、ただ侵入してくるものとして、己をつかまれてしまうものとして受け止める他はない・・・それは、兄への兄弟としての愛情というような、想い出に関わるような抒情的な問題ではなく・・・傷病や死の苦痛が僕という個体を鷲掴みにする前に、僕は逃げたものを捉えなければいけないはずだ。が、それはとうに諦めている。とあるように、兄と兄の内妻が被った(引き受けざるを得なかった)傷病や死の苦痛、といった観念的な問題意識が、極めて密接な、身体的に圧迫してくるような、自然の景物に紛れ込んで語り手の元に押し寄せてくるような切迫感を持って迫って来る、という展開に詩情を感じました。 傷病や死の苦痛、といった、肉体に密接に関りながら、観念的な思考対象となるテーマを論理で突き詰めていくのではなく(たとえ突き詰めたとしても、答えの出ない問いですが)叙景や抒情といった手法で、からめとるように掴もうとする。核心を明示できるわけではないけれど、何かしらの核を含んだ、もやもやとしたものを、風景を心象の側から捉え直す、その文章によってからめとって、そこに置く。核心を突くことのできないものを、いかに言葉としてとらえるか。その試みへの挑戦を、評価したいと思います。 (故郷の河・東京・兄の内妻)

2017-06-23

ザクロ、からペルセフォネ―の物語を連想したのですが・・・この作品では、パックリと口を開けた、傷口、のような果実のイメージが優勢であるように思います。 一連目は前奏のようなイメージでしょうか。〈欲しくて欲しくて仕方がないものは、魔術で手に入れた(これは比喩でもなんでもない)まだ〉魔術をいきなり持ってくるのは、安易、というのか、いささか強引な感じもしますが・・・その強引さをあえて出したかったのか・・・なんでもない、と言い切って、まだ、で区切る切り方に、長い息を一息に吐き出す呼吸を感じます。 石のブレスレット、ザクロ石?かと思ったのですが、違うのかな・・・ピンク色の石・・・お守りを身に着けて、さて、歌うぞ、という印象を受けました。君、の連投に勢いを感じます。 〈土のように痛々しくて健康〉な君、その中でうごめき、芽吹く僕。君が肉体で、僕、が精神、そのようなイメージで読みたくなります。 最終連、僕、は君の中で育ち、実となるのか・・・この時、ようやく君と僕とは一体となるのか・・・百合のイメージは、どこから出て来るのでしょう。清純さの象徴?結婚式のブーケ?最終連は、思いつくイメージをそのままどんどん並べていったように感じて、読者としては、少しおいていかれたような感覚が残りました。雑然とした野性的な強さというのか、エネルギーを感じつつ・・・〈一生 裏切りの上に立って 一生 そばに居続けるのだよ 君〉このインパクトのある二行、そしてザクロ(傷だらけの君)と一体化したような僕、の予見する〈血の溢れる僕の頭の中の、輝かしい 未来〉・・・流血するような痛みを乗り越えた先に輝く未来・・・を呼び寄せようとする言葉なのか、あるいは反語的に吐露された言葉、なのか・・・〈そうなるんだよ〉と言い聞かせるような、その言葉の強さに、肯定の感情を見たいと思いました。 (ザクロの花嫁)

2017-06-22

ひいらぎさん、メッセージありがとうございます。 思いの届かないことばかりが続きました。皆で詩について語り合ったり、合評したりできる場が、育っていくのを見たい、応援したい、という思いで参加したのですが・・・長い目で、この場がどのように動いていくのか、ひいらぎさんにも見守っていていただきたいと思います。〈ひょっとしたら〉という一節に、希望を残しつつ。 なおいっそう、投稿作品一篇一篇と、誠実に向き合っていこうと思います。 (Grimm the grocer)

2017-06-22

はじめまして。私も「ランボーの母音」を連想したのですが・・・あるいは、踏まえての作品だと思ったのですが、自由連想で母音に至ったのですね。音や響き、あるいはイメージよりも、まず、目に飛び込んできた形から連想しているところが面白いと思いました。 日本語は、常に母音と切り離せない。思いがけず遭遇するものごとのモロモロ・・・〈母音が絡んで来ることを避けること〉はできないのと同様、切り離すことはできない様々な事柄への連想に誘われました。 最後の連は少し唐突な印象も受けましたが・・・切り離せないものであるからこそ、見方を変えてみたらどうだろう。考え方を変えてみたらどうだろう。そんな反転のメッセージを強く感じました。おっしゃるように、とんち、生きる知恵、のようなもの、なのかもしれません。 (情報)

2017-06-22

祝儀敷さん、コメント頂いていたのに気づかず、失礼しました。 シルヴィア・プラスの「馬」のイメージに、影響を受けている、かもしれません・・・何篇か、馬の登場する詩を書いています。黙示録の馬のイメージとか、天馬や海馬のイメージ、などなど・・・私にとって馬、とは何か。そのことも含めて、考えていきたいです。 (鋳型)

2017-06-20

立ち上がりが斬新。潰してしまったカタツムリ、それを「わたしの胸の乾いた血だまり」に納めて慈しんでいるようにも読めるのですが・・・潰してしまったのは、実は私の幼心、魂なのではないか?という気がしてきます。 「青い/サンタクロースの群れ」赤いサンタさんではなく、なぜか青い・・・反転したサンタクロース。甘い語感と裏腹の、謎めいたイメージの森へといざなわれる、少し大人になった二人。自分を「プレゼント」として差し出す、そんなイメージでしょうか。処女喪失の(記念日というのも変ですが)その日を美しく回想しているようにも思われます。 「って わたしは」 こうした間の取り方は、少し冗長な印象を与えるものですが、ここでは二人の間の沈黙の時間や、流れていた時間を掬い取ろうとしているように思われました。 「ふたつに割れたままの カラダの境界線のやけに湿度の たかい部分があなたの白い背すじのような 敏感なたかさを求めてしまうから」 女陰が求めるもの・・・が、肉体的なものというより、より精神的なものであることを示唆しているような一節。 果物、の暗示する実り。 2人の肉体の性愛のイメージが、2人の精神性の婚姻のイメージと重なり・・・肉体の内に、蕾を宿す。「あなたのこと/信頼してもいいのね」以降の部分が、若干間延びしているようにも思うのですが・・・蕾が花開くとき、永遠、の意味が開示されるのか。あるいは、蕾であり続ける事、胚胎し続ける事、それが2人の間に宿る「永遠」なのか・・・ 題名とあわせ、心と自然との婚姻、そこから生まれ出る言葉(詩)をイメージしました。 (自然にソッとくちづけよう)

2017-06-20

「わたしの羨望なんて知らずに」どこかに飛んでいきたい、ここではない、どこかへ…そんな遙かな憧れを、鴨に託して歌う冒頭部。 花緒さんも指摘されていますが、自己肯定感・・・少し言葉がナマすぎる、というのか・・・全体の質感に比べて、固い感じはしますね。ババロアの中の、木の実みたいな。 身と心の対話。心は、鴨の背に乗って、もしかしたら想像の翼で飛んでいけるのかもしれないけれど・・・身はここにいるしかない。段ボールに詰め込む私、この感覚がいいですね。日記とかノートとか、友達との写真とか・・・そんな、自分の綴った言葉、自分の記憶、それが「わたし」であって、今、ここで、そのことを考えている「私」は、「わたし」じゃない、というような、私が私であって私でない、感覚。 みずみずしい若さを感じます。 (鴨)

2017-06-19

~さま、ではなくて、さん、でいいですよ(と私が言うのも変ですが) 保健所に、あっさりと片づけられてしまう、子猫、という存在。物質、不要物、として片づけられてしまう、それまでの間・・・自身が破壊された痛み、不条理を、逆に世界を破壊する衝動として発していく。子猫の遺体から、流れ出す血や体液、脂などが路上に広がっていく、その状況を目撃した刺激、衝撃が、逆に「空想の街や自然を盛大に破壊し続ける」様として、内的につかまえられる・・・その感覚が「巨神兵」というイメージにまでつながっていくところにまた、驚きがあるのですが・・・人間もまた、自分が滅びていく時に、世界を滅ぼしていく(そんなマイナスエネルギーを放つ)存在であるのかもしれない。子猫、が「かいじゅう」となってそこに「在る」ということ。死して、生あるときよりも生々しいもの、として、死、あるいは破壊していくなにか、を感じさせる、ということ。 色々と、考えさせられる作品でした。 (かいじゅうの朝)

2017-06-19

「星のおもさにみちびかれ 好ましい背骨を飼い慣らされた ひびわれた夜たち」 美しい表現ですね。それぞれが担う、星・・・宿命の重さ、のような。背骨を(自分の根幹を)飼いならされる。そんなイメージと夜のイメージから、学生服を連想しました。痛む心、傷ついた心、ひびの入った心を、夜の闇に包んでいる若者たち。 かろうじて闇の中で、それぞれが体の内部できらめかせている星の光、その気配によって、「星空に透ける/ともだちの輪郭を」確認する、そんな、心もとなさ。「剥き出しにされた/いくつもの先端が痛む」張りつめた神経の先端を、そのまま外気にさらしているような鋭敏さ。「血をこぼさないことだけが大切な」自分の内なる情熱、想いだけを、必死に抱え込んで守っている、そんな感覚。他者まで気遣うゆとりのない、そんな利己心への、かすかな反発、批判性も感じます。 「白くふやけた ともだちも、/やわらかいものも、ひびわれる。」どんな者でも、傷つかずにはいられないような、そんな場所なのだ、という諦念も感じつつ・・・生きていく(歩いていく)ための足と、その足を(本来なら自覚的に)動かす心、その分離。足だけがどこかに向かって歩いていて、心が追いつけていない、置いていかれている。そんな分離の感覚を感じます。 そんな身体感覚がばらけてしまうような場所に生きているからこそ、どちらも喜び、一つの肉体であることを確認しあえるような、そんな喜びを得られる「どこか」に行きたくなるのでしょうね。 心よ、いっておいで、そして戻っておいで。そんな八木重吉の言葉も思い出しつつ。 (足)

2017-06-19

前半部分の、鯱こばったような、理屈っぽさ、その効果をどう見るか・・・ ソウイウモノニ ワタシハ ナリタイ  梅雨、だから、なのか・・・「雨ニモマケズ」を借景として控えている、そのことに、最後に気付かされました。ユーモラスな先輩詩人へのリスペクト・・・ 前半部分、あえての理屈ぽさなのかもしれませんが、なんとなく後半と、しっくり馴染んでいないような・・・。辞書の説明分のように、思い切って素っ気なく論理的に、散文体で書いて、後半の梅干しから喚起されるイメージをつなぐ、そんな構成も面白いかもしれません。 かたくあおい~私はなりたい この部分が、この詩の本体で、その前は序文、のような感じですね。 (梅雨)

2017-06-19

ふるり、はらり・・・ふるり、は造語なのでしょうか。震えながら、けぶる・・・朝もやに包まれる感じ、なのかな・・・ 「~白玉の雫が」までは、雨の夜、あるいは早朝、朝靄が経ち始める時間帯の、美しい叙景詩になっています。青野を踏む・・・裸足で無人の草原に踏み出すような、そんな幻想的なイメージもあります。 「空の瞳を 覗きこみ」この転調が面白い。紫陽花の葉の上の白露が、空を見返す、という空間的な動き。空から降って来る滴、涙、それが雨・・・とまでは書かれていないけれど(だから、語り手自身の涙、であるかもしれないけれど)遠い青野(命、が生まれる空間、なのかもしれないですね。未生の生のありか、のような)を誰かが踏み分けていく、その足音を、気配として聞きながら、命、が薫り立つ、生き生きと生き始めるのを、語り手は感じている。 美しい言葉、美しいイメージ、美しい響き・・・を追求するあまり、少し雅文調になっているのかな、という懸念はありますが、旧仮名を用いているところとも併せて、近代詩の嫡子、という印象を受けました。確かに、渋い。 (あをの)

2017-06-19

一連目の、不思議な文法というのか・・・ぎくしゃくする語尾に、面白いアクセントがありますね。 全体的に、あえて言い差したような語尾であったり、一つの述部に複数がかかっていくような、複雑に絡まるような構文が、読むときの適度な摩擦、流れていかないためのストッパーになっているように思いました。 「こうして今日 突然 日差しが強くなったことは この暑さとの関係もなければ(○○との関係もない) 物の陰影が こんなに物々しく(見えるのはなぜだろう) (物の影そのものが)濃くなっているはずはなかった」 そんな、言外の何か、を感じます。 物の陰影が、「物々しく」濃くなっているように見える。しかし、そんなはずはない。影自体が、色を濃くする、なんてことは、あるのだろうか?自分の物の見え方、世界の見え方が、変わってしまったのか。あるいは、自分に対する世界の在り方、接し方が、変わってしまったのか・・・ 物々しい。音で聞くと、なにか物騒な感じ、なにか不穏な予兆に身構えていく感覚がありますが・・・そういえば、なんで「物々しい」と書くのでしょう。物騒、これも、物が騒ぐ、と書くのか・・・事物が蠢きだす。そんな不気味さが押し寄せて来る、感じなのかもしれないですね。 「ものの濡れた表面が日光を液状化させて含む  あるいは一斉に僕を見つめるような  眩しい視線と感じる」ここもまた、なんとなく不思議な文法、言葉の掛かり方です。 日光を液状化させて含む・・・濡れて光る質感を、このように表現する・・・素敵ですね。含む、は眩しい視線、にかかるのかな・・・。 自分を取り巻く「事物」が影を強め、てらてら、ぬらぬら、光りながら、自分を見つめて来る。凝視してくる、監視してくる・・・ここしばらく、自分を取り巻く世界を正視できなくなっていたのか。視ることができなくなっている。この体感が、独自に捉えられている一節。 幻想世界が~この一節、ごつごつした漢語の観念語がぞろぞろ出てくるあたりに、自分の「世界の視え方」あるいは世界からの「視られ方」が変わってしまった、その違和感や孤独感を、なんとか理解しよう、整理しよう、とする意識の働きを感じました。 「僕をものとして視ていればこそ」僕、が、他者によって「もの」(物、まではいっていないけれど)として見られてしまう、あるいは人間存在として認められず、道端の石や木のように見過ごされてしまう。その、他者の視線が自らに留まって行かない、素通りしていく感覚が、孤独、と表現される感覚なのだ、と腑に落ちる。語り手が今、自分で感じている、自分だけの孤独の質感が表現されていると思います。 自分自身の肉体の内部、内臓感覚、そうしたものに、照らされる。自分の肉体を意識しつつも、自分の心や感覚を意識できない、なにか、心もとないように感じる・・・それは、眠れない、という問題とも絡んでいるのでしょうか。 私ごとですが、ここ数日、悪夢に悩まされてノイローゼのようになっていたので(^_^;) 自分の感覚に引き寄せすぎているかもしれませんが、自身の感覚を、独自に表現している、秀作だと思いました。 (離反)

2017-06-19

街中の会話を、採集してコラージュしたような印象を受けるのですが・・・その断片の中から立ち上がって来る、レストランやオシャレなホテル、都会的な花屋さん・・・などのイメージの間に、 「水のような開放弦」「虹を吊るしたところ」「人魚の鱗入り」などの断片が生み出す、ファンタジーの世界・・・その夢幻の世界が、日常の隙間から垣間見えるような、不思議な二重構造を感じる作品でした。 (Grimm the grocer)

2017-06-19

anthem、讃歌、祝歌、聖歌・・・辞書ではこうした意味が出てきますが・・・ロックミュージックなどでは、また異なった意味合いで用いられるのでしょうか。詳しい方に伺いたいです。 全身をくまなく愛おしまれている幼子・・・のイメージが、「硝子の音」「潰れた左目が」の辺りから、急に破壊されていくもの、不穏イメージ、に変化する。転調しているように感じます。 「君の故郷を燃やしてあげる」「誰もが祈り乞う声を/常に殺しながら/愛しいと抱いた」刹那的な、破壊衝動、嗜虐衝動、のようなもの。 「君の苦鳴が どれだけ 僕の幸せを呼んだか 僕が何度心の中で涙を落としたか/もっと深く刺したかった 1mmも傷つけたくないな」傷つけたい、傷つけたくない。アンビバレントな感情の中で、本来は共に生きたい、という感情が、共に滅びてしまいたい、というエネルギーに回収されていくように感じました。 左、には、何か特別なイメージがあるのか・・・中盤から後半にかけて、言葉があふれるままに絞り出しているような印象も受けるのですが(「あれ、また、嘘?/ふふふ。」というような挿入部分が、流れというか勢いを、むしろ削いでしまっているようにも感じます)前半から中盤にかけての転調部分が魅力的な作品だと思いました。 (anthem)

2017-06-19

「甘味料の味がした。 アステルパームの味がした。」 「安易に消したのではないのですけど 今ではとても安易に消したと思い心が冷えてしまいます。」 少しずつ重ねながら行を進めていく、その緩慢さが、心の進み方、想いの進み方の緩慢さを表現しているようにも思うのですが、もう少し言葉の分量を絞ってもよいように思いました。 新しい恋人を得ても捨てきれない、未練を断ち切れない「あなた」への想い。 「ひゅるひゅると赤いテープを振って猫と遊んでも 一人生き残ってしまったような感慨が拭えないでいます、 あたらしいパートナーで、twitterで、仕事で、ガムで 円形に穴開いたこころを埋め合わせが終わったら することなんて何もなかったような錯覚で 川辺で石切りをすれば一段も飛ばなかったかったあなたを想います。」 この連にとても惹かれました。 その後、すこし饒舌すぎるくらいに語られる「新しいパートナー」との日常は、その語り方によって、相変わらず「あなた」を想い続ける、切なさ、どうしようもなさ、堂々巡りし続ける心情を示しているようにも思うのですが・・・もっと抑制した方が(寡黙さによって)かえって切なさが伝わるような気もします。 (不明)

2017-06-19

最初の3行に惹かれたのですが、全体に分量が多いような気がします。 「と考えつつ、さっきまでの憤怒が/冷たい体が、ずずっ。幽体より/人間に帰るころ」などの部分を、「さっきまでの憤怒が/冷たい体が/人間に帰るころ」のように、言葉を絞っていきたくなります。好みなのかもしれませんが、今、自分は〇〇をしている、今、〇〇の状態である・・・という部分を、作者の側から積極的に提示されてしまっているので・・・読者の側から想像を働かせて、行間に入っていこう、という意識がそがれてしまうような印象を受けました。 読者の側に、作品がどんどん入って来る、流れ込んで、また流れ出していく、そんな受身の読み方に向いている作品かもしれない、と思います。 父と子の間の、思いやりつつ反発するような微妙な距離感を、もっとくっきり、感じたいと思います。 (野菜スープ)

2017-06-19

背中の傷痕・・・について考えながら・・・ 赤ん坊を抱き上げたとき、わたしの中から感情がわくのではなく、わたしの背後から何かが押し寄せてきて、背中を破って入り込んで、胸を破って溢れ出す、みたいな感覚に戸惑ったことがあります。 いわゆる いとしさ というものは、自分の中から溢れ出すのではなく、宇宙の最先端の感覚器としての、わたしの体、を通じて溢れてくるものかもしれない、と。 なんでそんなことおもいだしたんでしょう。不思議です。 (『渡る』)

2017-06-15

赤く火照るような日焼け・・・感情の燃え上がりを味わいたいのに、黒くじりじりと焦げていくような、くすぶるような燃え上がりに、気持ちが引き留められてしまう・・・そんな2重の意味を感じながら読みました。 「~起こりそう、とふと思う。」ここは、あえてこのような形にしたのかな・・・起こる、と断定してしまってもいいかもしれないなと思いました。 (最高気温36度)

2017-06-15

ストロベリームーン、という呼び名があるのだと最近知りました。苺月と書くと、また異なった印象を受けますね。 あかとあお、それもルビーの用な透明感のある赤と、紺碧の海や滝壺や沼の淵のような、緑に近いような碧。 色彩の対比が最初にあって、世界最終戦争、のような・・・ある種のファンタジーゲームの中に取り込まれてしまったようなシチュエーションが明かされるわけですが、失恋の衝撃度が、そのシチュエーションによって確かめられている、そんな印象を受けました。 サブカル系の語感というような意見が出ていますが、重厚な世界に一気に取り込まれていくような状況設定がユニークだと思います。 (苺月 -血染めの夜明け-)

2017-06-15

何気なくおかれた 指先から 流れ出してゆく わたし 髪ばかりがつやつやと ひかる この一節にとりわけ深く引き付けられました。 自分、を包んでいる皮膚という入れ物。白い毛皮のラグに触れている、その境界線のあたりに意識が集中していく。じっと沈黙する体、置かれた指先の血流がすうっと引いて・・・ああ、私、というものが、ここにあった、と、再び捕まえるような、捕まえたことにしておこう、というような感覚。 懐かしさを感じました。電灯の使い方がいいですね。 (ラグ)

2017-06-15

ひろがりの中にひかれていく 海と空との境目を あなたとわたしのてのひらでそっと つかまえる あわいから飛び立っていくもの ふたりの時が 1年また1年と重なっていく 記念日のたびに焼く 香ばしいケーキ そっとひそめる 小さな鼓動 みつけたら 君が王様 きっと世界の 真ん中に立つ ・・・返詩を記したくなりました。 (ある詩)

2017-06-15

語りかける温かさ、今、そこに居ない人を想う、離れた場所で、静かに思う・・・そんな抒情を感じました。 幼馴染かと思ったのですが、30代半ばを過ぎても、子供のような純粋さで「子供のおもちゃ」である、怪獣の図鑑を、繰り返し繰り返し眺めている・・・ダイアモンドのように慈しむことのできる、そんな「きみ」を連想しました。 本当の豊かさって、なんだろう。私たちの心は、いつも飢えていないか。「きみ」のように、日々「目覚める街角に立っていた、」そんな、世界との新鮮な出会い方を、いつもすることができるか。山下清のような、純朴な人がそこに居るように感じます。 (きみのこと)

2017-06-13

〈夕日の国 それを領土とする〉 自分が、その大地をその瞬間だけ、わたしのもの、として所有しているような・・・ 大きな空間を感じます。日に照らされるもの、すべからく民、そんな意識も感じました。 夜の闇に、世界が沈んでいく、その時間が・・・言葉の置き方、区切り方の工夫と共にゆっくり立ち昇ってきます。 (夕日の国)

2017-06-13

冒頭は、天空の女神(エジプト神話に描かれているような)が空の東から西へ、大きく体をアーチ状に展開していて、その喉・・・の先の胸は青空、そんなイメージでした。 鳥類図鑑から、めくられるたびに飛び出して行く鳥たち、のようにホイッスルが鳥の声をなぞり・・・コルク球が上下しているイメージと、なぜかラムネ瓶のイメージが重なりました。 空から地上のもぐらへと連なる、一本の糸のイメージ・・・左腕がさざなみとなっている景に、なぜかワンピースの(誰でしたっけ)考古学者女性の、あのわらわらと腕が波立っていくイメージを重ねつつ・・・う~ん、これはシュールレアリスム絵画、のような面白さ、がある、けれども・・・壮大な空間も感じるけれども・・・ぶっ飛び過ぎ、ではないか?という(伝達性、という一点において)印象はぬぐえないですね・・・。 (鼓と 雨垂れのつづき)

2017-06-08

「白い誘蛾灯に絶え間なくぶつかっていく羽虫たち。そこから逃れることもまた死なのだという直感。」これは、個人としての芸術表現、個の世界の表出を求められる(強制される)現代の表現者の孤独なのかもしれません。 「シャルロットの庭」の少年は、世界が続いていくこと、を知っている、信じている。自分が死した跡にも、「世界」が滅びないことを知っている。逆に言えば、自分が死ぬことで、世界を終わらせることも滅ぼすこともできない、そのことも知っている。 テロリズムに追い詰められていく人は・・・自身の死で、世界を変えられる、と信じている(信じさせられている)のでしょうか。誘蛾灯に惹きつけられて死んでいく羽虫たちのように、自分の世界を作る、理想の世界を作る、という「表現」に追い詰められていく若者たち・・・。 芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。 テロリズムもまた、悲憤の究極の表現である。芸術の創造もまた、表現である・・・ということから受けるショックを、どうとらえ、どのように言葉にして保存しておくのか・・・。 詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・ その時の心を写真集に収めた(写心集?)印象を受けました。 それぞれのテーマを、一生かけて(それでも解けないかもしれないけれど)考えていかねばならない。そんな、いくつもの問題点を含んでいる、と思います。 含んでいる、とは思いつつ、その時の心をとりあえずメモ書きのように書き留めた、という、まだナマな素材、という印象が残りました。 重いテーマですが、考え続けねばなりませんね。 (イヴ・サンローランのフランス)

2017-06-08

めちゃめちゃに傷つけられてしまった自分の心、を放棄して・・・誰かの(もう、誰のでもいいから、という叫びも感じつつ)心と取り換えたい、取り換えて、自分の心を葬ってしまいたい、というニュアンスと、相手の心を思いっきり(自分が受けたのと同じくらいに、いや、それ以上に)傷つけてやりたい、というニュアンスとを、ライトな語感で綴ることで・・・ガス抜き、というと、誤解を受けるかもしれませんが、自分の心をスッキリさせている、ような、そんな爽快感を感じました。 (BUY1 GET2 FREE)

2017-06-08

前半は、陰惨な内容を秘めた(隠した)子守歌とか数え歌とか、そんな独特の歌い出しが神秘的で魅力的だな、と思ったのですが・・・八岐大蛇とかも、ちょっと連想させますし・・・そういった神話的な大きな広がりを期待したのですが、三連目あたりから、ちょっと息切れしたのかな、という印象があって、後半は上手く伝わってきませんでした。 貴方、を渇望する詩、なのかもしれないけれど、胎児とか蟒蛇(うわばみ、なんですね、調べてしまった)というグロテスクな重みをもった言葉を、なぜ、どうして、ここに置いたのか、その必然性が、今一つ伝わってこない。ネクロマンサーとは、ゲームなどで用いられる言葉でしょうか。死人を呼び出し、ゾンビのように復活させる降霊術、その行為に対する「吐瀉」なのか・・・ (吐瀉)

2017-06-08

先日、映画監督の足立正生監督の話を聞いてきたのですが・・・ 今、一番にぎわっている映画はピンク映画だ、と言われて、いきなり観に行こうぜ、となって・・・観たな。よし、撮れ、という話になって、何がピンク映画だかわからないまま、撮ることになった、というような経緯を「え~!!!」と聞きながら・・・ちょうど、性の解放が叫ばれ始めた時だったから、ということで『堕胎』を撮って商業デビューした、と聞きました。 ピンク映画というと、芸術性、ということでいえば、煽情的で官能を喚起する(上品な言い方をすれば)ものであり、実用から言えば、本能的欲望処理のための消耗品、という印象があるのですが・・・ 『堕胎』をブラックユーモアとして撮ったのに、大真面目な性教育の為の(真面目な)映画と思われたことが以外だった、とのお話に、ひとしきり笑いました。 本人は意識の上で遊んでいた、としても・・・その人の芯に、社会批評性があれば、それがにじみ出すものなのだろう、と思います。 かなり脱線しましたが・・・冒頭三行は、AVの台本というか、設定と読みました。 撮影を終えて、独りでゆっくり、部屋でくつろいでいる「女優」・・・としてのあっけらかんとした受け止め方と、「人間のふり」という言葉の間にあるもの。 本当にどうしようもなくなって、仕方なく辻に立つ、借金や脅しでがんじがらめになって、脱ぐ他に生きる道が残されていない・・・というイメージの売春行為とは違って、「女優」として受け止めていて、性を売る、という産業の一部に取り込まれている事への抵抗感がまるでない、というところに、現代の性の・・・女子高生の安易な売春や、援助交際のもろもろ、を重ねつつ・・・ ツイッターやSNSで演じた自分の方が「事実」となり、部屋で本当に生きていた、はずの自分が、虚構となってしまう・・・女優としての私、は、メディアの中にしか生きていない。ここは、いささか、予測可能過ぎる展開なのでは?と思って物足りない感覚もありましたが・・・ 「撮影ではめられた枷が寝ても覚めてもまとわりついていたけれど」この一行が、非常に気になります。見られること、それがお前という人間なのだ、と周囲から押し付けられ続けていた、そんな女性が、自立した「私」を取り戻す。そのために、虚構の世界、メディアの世界に生きる「女優としての私」を葬る。そんな物語、のように思いました。 (ということ)

2017-06-08

通過、の連続が、タイムラインで流れて来る映像を しゅぱっ と脇に流していく(この呼び方が、よくわからない・・・)感覚に似ているように思いました。 伊藤比呂美の・・・「かのこ殺し」だったか・・・ほろぼしておめでとうございます、という言葉の連呼が異様に胸に響いてくる、あの「おめでとうございます」の語感を思い出しました。 (この街では星が見えない)

2017-06-08

言葉を刻んでいくリズム、 切りつめた進行、詩行の間に、時間が圧縮されているような印象があります。 今日、昨日、明日、なにごともないことを祈り・・・牛が食べやすいように、餌を押す。 餌を押す行為は、たとえば肉牛を一日一日、死へと近づけていく行為かもしれない。 しれないけれど・・・私たちもまた、一日一日、死に向かって生きている。 その時間を、どう過ごすのか。そう、問われているような気がしました。 (餌を押す)

2017-06-08

わがまま、って、なんだろう・・・ありのまま、私のまま、は「いいこと」で、わがまま・・・わが意のまま、は「だめなこと」なのかな・・・わがままって、我のルール、自分ルールを押し付ける、ということかな・・・と考えて、最初の方の「必要のない事を押し付けました」が、なんとなく腑に落ちました。具体的なことが書かれていなくて(他の人との会話の途中、のようで、前後を想像させてくれるような、そんな曖昧さ)唐突だな、と思っていたのですが、後ろの方できちんと回収している。 「一つ一つを丁寧に大切に 包む空と一緒にありたいのです」 ひとつひとつを、包む空・・・空が何枚も重なった薄青い膜、のようで、そんなセロファンが何枚も重なっている空を連想しました。 そこで自由に羽ばたくあなた、を見ている私、それは私の心と私の体、であるのかもしれず・・・ 包むラッピングする、という行為は、どなたかに手渡すことが前提。 だれに、手渡すのか、なにを、手渡すのか・・・明晰な文体なのに、人によって、代入するものが異なる、そんな多義的な読み方の出来る作品だと思いました。 (心と空の叫び)

2017-06-08

一時、を、ひととき、と読んだり、三時、を惨事と読んでドキッとしたり(青空の果てで、鳥打の鉄砲が鳴ったらどうしよう、とか・・・) 「いちじは 卵のようだった  にどめには 親鳥に守られ 三度めには成鳥のように生きる」 魂は、三度生まれ変わる、のでしょうか・・・生まれ変わるたびに、一回り大きくなっていく心、を夢想しました。 「清潔に あらためられたカーテンを 風が部屋のこころを ゆらしている」 光は描かれていないのに、少し薔薇色を帯びてきた夕方の明るさを感じます。金色の光で満たされていく心。 「蕗の葉のやわらかいところだけを虫が食べ跡は うつくしいレース模様なのが、」 食べた跡は? 食べ 後はうつくしい? どちらかな、と思いつつ・・・柔らかいところを、食べられてしまった、ではなくて、むしろそのことによって「美」が(見えなかった美が)見えるようになった、そこに目を注ぐところに惹かれます。 「なにものでもない自分に もどるための歌を ホトトギスが聴かせてくれている」 時の鳥、と書いてホトトギス。時を告げる、ということは、命の時間を告げる、ということでもあるように思います。歌の翼に、という名曲があった、と思いだし、あれはメンデルスゾーンの・・・と調べたら、歌詞はハイネでした。 「翼の両翼ように羽ばたいたとき」両翼のように、かな(すみません、仕事柄、クセで・・・) 比翼の鳥。二人の心が寄り添って、初めて一羽の鳥となる・・・ひとつの歌、となる。 心の中で歌う鳥の声に応ずる応答、他者の響きと響き合って、歌としてはばたく、その瞬間。 いのちが芽生える。それは詩の命かもしれないですね。 (時鳥)

2017-06-08

詩の始まりは、自分に「言葉」「思い」「格言」を言い聞かせるような感じですが・・・ 音楽と音楽の間に あたたかいコーヒーになろうと 湯がくるくる働く音が聞こえればいい この連が秀逸ですね。あたたかいコーヒーになろうとしている、冷たかった水、ぐらぐら沸き立ち、人の心を温めたり癒したりするために「働こう」としている「湯」の存在に気付いた人のうた。 いっぱいの珈琲に、わたし、がなれたらいいな・・・奏熊さんの作品に触発されて生まれた詩でしょうか。詩と詩が響きあって、想いが言葉になっていったら、素敵ですね。 (在ればいい)

2017-06-08

哀愁漂う男の背中が、こんなにくっきり見える詩もあるか? と思いながら読んでいて・・・「紺青の暖簾」これ、今生、なの?と思ったり・・・ 鳥になって・・・この世から飛び立っていったのか? 男は、生きているのか、死者なのか、と(もしかしたら、他の人には自明のこと?) 男のところに、兄がやってくる、のか・・・ 最後にだきあっているのは、生者どうしなのか、あるいは死者を迎えに来た生者なのか・・・ ・・・というようなところでぐるぐる、路地裏をさ迷い歩いているような感覚に襲われつつ。 文章の流れが(変な言い方ですが)手練れ、というのか・・・見事に型にはまっていて、 読ませる詩だなあ、というのが、読後の印象。 男船の歌詞も読んでみました。渡り鳥と響かせているのかなと思いつつ、 牛の背に乗っている白い鳥のイメージ、まるでインドの絵画に出てくるような、 そのイメージがずうっと心に残って・・・残像。 後半に惑わされてます。 ( the bird )

2017-06-05

〈マッシュルームと呼んだ。霧の中で、私が一番呼びたかったものは、〉散文的な部分で、呼ぶ、をこんな風に重ねていくと、うるさい気がします。部屋を呼んだ、という最初の使い方と、私が呼びたかったもの、使い方のずれも気になります。 マッシュルームと名付ける。霧の中で私が一番呼びたかったものは・・・ 名づける、という意志的な行為を、入れるかどうか。呼ぶ、という行為は、呼び寄せる、は、既に在るはずのもの(自分はその名を知らなくとも、名は有しているかもしれないもの)を召喚する行為だけれど、名付ける、は、自分が名付けた以降に(自分の中で)「存在」し始めるものに対する行為、だから・・・言葉を、この場に存在させるか、呼び寄せるか、というような、詩論的な部分に関わるところで・・・うまく説明できていないけれど、伝わっている、でしょうか・・・。 〈喰らう、暗い連中が〉音の響きが生む連想が、「日の名残り」の伏線にもなっているように見えるところ、ですが・・・必然性が、イマイチよくわからない。私が読めてないだけかもしれないけれど、マッシュポテト、の後にマックフライポテト、の絵文字をつなげるのは、音のつながりの方を拾って、イメージのズレを意識させるため、なのか、させないため、なのか・・・ 〈垂れ流しの表現による表現の感染〉批評性も含んでいて、面白いところだけれど、ここと〈しかし料理とはなんであるかについては十分料理されていないと感じた。〉という命題は、どう結び付いているのか。 より硬質な感じで(そうするとより面白くなる)大仰に(哲学書のように)命題を提示して、中身はあえてハチャメチャに崩していく、とか・・・全体に理論武装で(AはBでありBはCであるから・・・みたいな感じで)あえてかっちり、しかし内容的には意図的に空疎なナンセンスに持って行く、とか・・・全体に散漫な感じで、もっと締めていく方向性が欲しいな、と思います。期待しているがゆえに。 (Always Fantasy)

2017-06-04


 冒頭のこの記号が、なんとも気になって気になって・・・ それはともかく。花緒さんの「現代版のお経」まさにそんな感じですね。リフレインが繰り返されていくうちに、陶酔境に入っていく。ただ入っていくだけではなく、きっと「ことだま」としてのなにか、が、作用し続ける(だろう)。 以前、うつくしい、を連発する詩を書いたことがあります。 赤いフィルターを通して世界を見ると赤が消えてしまうように、醜さを通して世界を見ると醜さだけが消えて、美しさが残るのではないか、という、実に理屈っぽい詩でしたが・・・ あきらさんの詩は、美醜に限定されない。すべてを肯定しようとする。14歳からの哲学、という本がありましたが・・・17歳の観想、と名づけたくなりました。 (かなしみ)

2017-06-02

再読して、なきむし(泣き虫)と、〈虫のついたわらい〉虫のついた笑い、の対応を発見。虫は無視でもある・・・ 初読の時は、後半が急展開過ぎる、と感じたのですが、いつまでたっても延命していて、どれほど国民が騒いでも生き延びているA政権こそ、アシナガバチなんではないか。そのしぶとさを、怒りを込めて笑う、社会風刺の詩なのではないか、という気がしてきました。 (なきむし)

2017-06-02

花緒評を見ながら、蝶って、紫外線が見えるんだよ!蜜を捜したり、異性を捜すのに、紫外線が大事なんだよ!とツッコミをいれつつ。 あおいそら、に飛び立っていける蝶と、飛び立っていけない私、を対比してみたいのですが・・・力いっぱい羽ばたいても、誰かにつまみあげられて自由にならない蝶、が、〈わたし〉に重ねられていたとして・・・押さえつける、自由を奪う、という残酷な行為を、何の気もなく出来てしまう、〈わたしはそんなにも つよいいきものだったか〉という感慨の方に力点があるのか、私もまた、誰かに押さえつけられている生き物に過ぎない、という感慨なのか・・・ 全体にさらりと美しく、表面をなでるように綴られているので、双葉月さんが感じた「なにか」の上を、上滑りしていってしまうような感覚がありました。 (午前10時のあおいそら)

2017-06-02

かぐやひめ 二次創作、という感じ、なのかな・・・ かぐや姫が犯した罪、とはなんぞや、というのを、『国文学』とかで喧々諤々やっていたのを、以前読んだことがあります。永遠の謎、だからこそ面白い、というのか・・・ 愛することを許されていない、それなのに人を愛してしまった、という罪だとか、死を願ってはいけないのに、死するサダメの人間界に憧れてしまった罪、なんだ、とか・・・月に居る時はまだ罪を犯しておらず、地上に降りた後に犯すであろう、という、未来予測的な罪、なのだ、とか・・・ 祝儀さんの「かぐや姫」、その犯した罪とはなんぞや、というのが、気になってしかたないものの・・・心を持つことを願う、人間的な存在であることを願う、それが「罪」だとされることなのかな、と感じました。だとすれば、苦しんでも悲しんでも(喜んでも楽しんでも)人間でよかった。 科学文明がひたすら進化して、人間の心の波立ちをコントロールする薬ができて、どんなに孤独でも退屈でも「何も感じない」ことができるようになって、いつまでも健康で長生きできるようになった、として・・・それじゃあ、生きている甲斐がない。私もきっと、かぐやにもらった不死の薬を、燃やしてしまうでしょうね。 (かぐやの涙)

2017-06-02

〈ふと、思う。〉とか、〈少し気になって〉というような、説明的な部分が、余分に感じてしまいますね・・・。ここは省いてもよいかもしれない。 ある日、「人間」が「蟻」にしか見えなくなってしまった、そのターニングポイント・・・大げさな言い方をすれば、達観して、何かを悟ってしまった瞬間の世界、の眺め。面白い視点だと思うと同時に、蟻が「せかせか」というのは、なんとなく常套句だな、という印象もあり・・・こうした言葉を、もっと別の、独自の表現がないか、と探してみるとか、せかせかしている情景を、もっと具体的に(想像力を働かせて)描いてみる、などすると、なんとなく聞いたことのある表現だなあ、という印象が、お、これは新鮮!に変わるはず。 「地獄篇」の方が読みものとして面白くて、「天国篇」は単調でつまらない、それは世の常。 自分が地獄の渦中にいる時は天国をあんなにも切望したのに・・・この矛盾が、人間の面白さであり、厄介な所なのでしょうね。自身が地獄の中にあっても、そこから離れた高みから、自分自身を見下ろすことができるなら・・・物語の中で苦しんだりもがいたリしている自分を、物語の主人公として見ることも出来るかもしれない。そんな転機を描きとった作品だと思います。 (社会。)

2017-06-02

引きこもりの孤独で淋しい女の子が、不法入国で強制退去命令が出ている、いい加減だけど限りなく優しい男に恋をした、感じ。 キスが上手いんだな、この男。きっと舌の使い方が(甘言づかいも)うまいに違いない。 なんとなくアフリカまでついていってしまって・・・そこで初めて、「家族」の味を知ってしまったんだろう、この女の子は。この女の子も、不法入国者になるのかな、その辺がちょっとよくわからない。 アサミ、を帰国させなければ・・・泣きながら、毎日大使館に電話するのは、この男の誠意?優しさ?二人の間の子どもは、ダニエルのお母さんとダニエルが育てることになるのか。 亜咲美としては生き辛く、アサミ・タデッセと名乗りながら、ダニエル・タデッセを置き去りにして日本に帰って来た、と・・・きっとアルコールに溺れながら、この女の子は語るのだろう。本当の話かどうかは別として。自分が置き去りにした、と言いながら、日本に置き去りにされた、と泣いているのではないかしらん。 最初の二行を、誰が、どんなシチュエーションで言ったのか、ということが曖昧にされていて・・・それが面白みなのかもしれないけれど、ちょっと消化不良。 不法入国とか強制退去などのフレーズが、単なる思い付きで(シチュエーションやムード作りの為だけに)用いられていたとしたら、はっきり言って駄作。社会問題告発的な重さや強度を持った用語を、ムード作りに安易に使うな、ということです。同様の関係性やムードを、そうした言葉を用いなくても表現できるはずだし、それが詩を作る、という事だと思う。 実際にあった話を踏まえてのことであるなら(この女の子はエチオピアに不法入国したのか、どうか、とか)もうちょっとだけ、丁寧な描写が欲しかった、と思います。 日本の生き辛さ、エチオピアの温かさ(生きやすさ)を対照しつつ、生きるってなんだろう、と問いかけていくような深さにつなげていく・・・。 あえての酷評ですよ(笑) 愛をこめて。 (アフリカの人、置き去り計画(エチオピアVer))

2017-06-02

維持張って、とか、逆週できずに、など・・・これは、あえて、の表現なのか・・・馬鹿にした頃がいました、これは、ありました、の方が自然な流れとなる木もします。 もしミスなら、これらはちょっと残念。 子供時代、〈僕〉は苦くて酸っぱくて、いやでいやで仕方がない飲み物を、笑って飲む。 味覚(だけではなく、恐らく感性すべてにおいて)過敏の、大人びた子供。「ポエジー」で自身の気持を抑え込むことを、既に学んでいる(学ばされている)子供。数行でそれだけのことを描写してしまう的確さ。無駄のない、それでいて流れるような、どこか音楽的な(たとえば最初は四拍子)詩行の流れが美しい。 〈この世界で唯一反抗できることは 星のない夜を二度と味わなかったことだ〉味わわなかった、かな、正しくは(重箱の隅を、あえて突いてます、だって、もったいないもの) この二行、非常に魅力的。こと、と二回重ねる、ちょっとモタモタした感じのリズムの方がよいか、この世界での唯一の反抗は/星の無い夜を二度と味わわなかったこと、とさらりと流すか・・・あえて、こと、こと、と、躓き気味にした方が(つまり今のままの方が)よいかもしれない・・・ 〈鉄棒とコンクリートで囲まれた箱〉一人のシーンなら、マンションでの孤立ともとらえられるけれど、〈もみくちゃにされた〉という接続で、学校であることがわかる。しかも、その言葉を発したくないほどの、悪意にさらされるような場所。 〈帰り道〉で薄闇に閉ざされた夜道が浮かび・・・〈オシャレな自販機〉というカタカナまじりの表現で、こちらの気持など知らぬげに、煌々と明るく輝いている自動販売機を、どこか斜めに、皮肉っぽく眺めている視線が伝わって来る。その、オシャレで煌々と輝いている自販機は、〈僕〉を取り巻いている世界の縮図でもあるのでしょう(メタファーとなっている)飲み物達、という擬人化が、これは今、僕が置かれている社会そのものだ、と気づいた作者の心の動きを示しているように感じます。 〈一人除いて~優しかった〉この流れが実に良いと思いました。〈星のない夜〉とは希望のない時間のことかもしれないけれど、自分には理解できないこと、受け入れがたいことを、闇は闇のまま、静かに受け入れてしまおう、という豊かさがそこにあるような印象を受けました。 自分で自分の世間への馴染みがたさを、受け止める。その苦みや酸味を、優しい味、と感じながら飲み干す。それが大人になる、ということか、という切なさが、なぜか、余裕のように受け止められるのは、ゆったりとした流れの文体のゆえかもしれません。秀作。 (ブラックコーヒー)

2017-06-02

力の溢れ出すようなコメントを拝読しながら、こっちの方がむしろ「詩」なんじゃないのか・・・少なくとも、爆発するようなエネルギーの突出する瞬間瞬間が、詩のひらめいている瞬間なんじゃないか、という気がして・・・考え込んでいます。 震災とか事故とか天災とか人災とか・・・とにかくあまりにも強大なものにローラーで押し潰されるような感覚を潜り抜けた、という「事」を語られてしまうと、ナンだか聖域に触れるみたいな感じになって、詩だと言われればそのまま、はい、と受け止めざるを得ないような感じになってしまう、のは何だろう、遠慮なのか?人でなし、みたいに思われるのが、怖いのか? 自問自答しても、答えは出ません。 今、書いたことは、祝儀さんの作品について、ではなく、いわゆる震災詩に関してなのですが・・・ 原発を感じたのは、四角い、という形態のゆえか、触れる人を引きちぎってボロボロにしてしまう、近づいたとたんに弾け飛んでしまうような凄まじさのゆえか・・・出身地が福嶋だということは、コメントを読んで思い出しました。作品を読んでいるときには、ぜんぜんそんなこと、考えなかった。 復興しようぜ、と祭で盛り上げること、皆を元気に❗と理性で思って、自分が元気になりたい、と気持ちで思う、ということがあるかもしれない。 そんな「大変なこと」に見舞われた人達が、安奈に力強く生きている、私も頑張らなくちゃ、みたいな「元気をもらう」他見の人もいるかもしれない。 元気をもらいました、と語って帰ってくるボランティア体験者の話を聞くたびに、むねの中がワサワサするんですよ。きっと本当だろうな、と思い、違うだろ、と思い、私もそう感じたいのか?と思い、そんなの浅はか過ぎるでしょ、と思い・・・ 整然と整っているように、作り込まれた作品の中に、沸騰する毒みたいな強さがあって、それが、惹き付ける。 んなアホなことあるわけないだろ、というデフォルメの中に、鼓動する心臓をザクザク切っていくみたいな、切り込んでくる言葉の強さがある。 暗喩とか言いたくないけど、そういう生な感情の溢れだしを、イメージの中に詰め込んでるから、あるわけないだろ、的な光景なのに、おもしろ~❗と笑えない。ぐいっと引き込まれる。そういう意味では、痛いんだ、この詩は。 でも、ナンで痛いのか、理性というか頭ではぜんぜんわかんなくて、返信をみて、少し分かった。少し、だけど。 そういうレスの往還がある、ということが、投稿掲示板の、あってよかった、というところなのかな・・・ 支離滅裂になってるかもしれない、誤字脱字だらけかもしれないけど、そのまま投稿します。 返信してくれて、ありがとね。 (オホーツクの岬)

2017-06-01

5月始めに投稿されていたのに、読み落としていました・・・一覧表で確認しました (希望灯)

2017-06-01

推敲と枝の剪定は、よく似てますね。と、思いました。 (屁の軽減)

2017-05-30

へっこき嫁ご、屁っぴり姉さん・・・の現代版というべきか・・・前半、勢いがあって面白いのですが、後半、やや無理矢理つなげている、ということは無いですか? 面白いけれど、ちょっと読者がおいてけぼりにされているような感があります。 なんだろう、白血病、のあたりに唐突感があるのかな・・・ てこずっている植木職人を、屁をぶっぱなして手伝ってやって(ついでに彼を吹っ飛ばしてしまったかもしれない)お礼も特に期待しないまま、日常に戻る、的な(爆) (屁の軽減)

2017-05-30

装飾の調和、でバシッと決まった、かのように感じられたところで、更にあえて乱すというのか、ポツッとつぶやく、夏はしくじりました・・・ コッペリアのような、人形的な存在の背を編み上げているリボンを締め上げて、女体を完成させていくようなイメージがありました。首筋に這う男の唇、その息吹によって(つかの間の)生命を得る少女・・・ 正直、意味や情景を追っていくには、先走りすぎていて・・・かといって音韻やリズムで駆動する作品でもなく・・・しかし、ガラスの目玉のように感情をなくしてしまった少女のイメージであったり、人ではなく物として扱われ、装飾されて展示販売されていく少女を捉えているような、ドライな哀しみがあるように感じました。 (リボン)

2017-05-30

指を文字から離すことなくなぞりながら音読していくような・・・御簾やすだれで日差しを遮った室内で、数人で書き物を囲んで、ひとりが静かに音読しているような。 2連目から、急に現代にリンクしていく感じがありました。なぜなのか・・・ 昨日までの事件を、まるで終わったことのように過去に流して、新しいニュースを重ねていく。それが「正しい」事実の伝え方、であるなら・・・あの日の出来事、あのときに見聞きした事件、にこだわり続けることは、「正しくない」ことなのでしょうか。記憶は、呼び戻された時が「今」です。過去の時点でわからなかったことが、あとで思い返して、わかったりするときもある。 過去の記憶を再生するとき、心の内で何らかの編集が行われ、物語として確定していく。その事まで含めれば、世界は虚構の集合体とも言えますね・・・ せめて文学の世界は、世間一般的な事実としての物語ではなく、その人にとっての真実である虚構を追求してほしいと思います。 批評というより感想でした。 (せいけつなくらしと、)

2017-05-30

追伸。「アタの涙」だと、作者がアタに共感し、彼の代わりに流した涙、ということになりそうですが、それでよいのでしょうか・・・むしろ、題名は「アタ」のみの方が、fiorinaさんの意図に沿うような気がしました。 (アタの涙)

2017-05-28

fiorinaさんのコメント欄の、〈「アタは建築を学ぶ若い陽気な学生で、爆撃によってイスラムの美しい建築物が破壊されるのを憤っていた」というナレーションを聞いたときに、とつぜん涙がこみ上げてきました。〉この部分に、個人としての詩情があるのではないか、と感じました。 政治的にも倫理的にも、どうしても許容できない犯罪に、なぜ、この青年は駆り立てられたのか。その罪を断罪するだけでは、憎悪と悲劇の連鎖は永遠に終わらない。 ただ、地球規模の貧困、教育や文化などの習慣に対する無理解や差別、異文化(特に宗教)に対する葛藤・・・異質なものを恐れたり、排除したりする、人間に本能的に根差す感情を、理性で抑えて「文明」や「文化」は成立するのではないか。 しかし、個人の抒情は、また別の場所にあると思うのです。 〈建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。〉ここで詩を止めてもよかったかもしれません。 極めて理智的な文章であるがゆえに、あえて抒情を排して(背後に潜めて)問いを即物的に投げかける。 青空という、希望や爽快感を象徴するイメージと、テロリストが歪められた正義によって得る達成感とが重なってしまうかもしれない最終行を重ねるのは、作者の意図とは異なる方向に誤読される可能性があるかもしれない、と感じました。 ニュースを聞いた時に、涙があふれた、という「事実」を、感情や感慨を交えずに途中に書き込み、文章はあくまでも理智的に、問いを投げかける形で終始する。政治問題を抒情や感情に還元せず、あくまでも理智の段階で受け渡しをして、その後、受け止め手の心の中で情感が生まれるのにゆだねる。そのような方法もあるかもしれない、と考えました。 難しい問題ですが、削除して「なかったこと」にするのではなく、もっと多くの人が読み、考えてほしい問題だと思いました。 (アタの涙)

2017-05-28

前半部分は、題名の解説のような印象を受けました。 後半は、リズムを取りながらシャウトしていくような感じ、なので、もしかしたら音源と共に聞くと、かなりのインパクトを持って迫って来る作品かもしれません。 〈強制的に別れさせられて〉この連から先、ロミオとジュリエットのような設定が前提となっているのか、あるいは、YUUさんの周囲で、恋人を別れさせるような強制力が働いているのか・・・このあたりは、個性の発揮、といったテーマからは、少しずれるのかな、と感じました。 個性を発揮しなさい、とタテマエを言いながら、規範から外れたり、常識から離れたり、突拍子もないことをしでかしたりする「個性」は、「異常」「迷惑」「協調性がない」と否定されるのは世の常。 どこまでの範囲でなら、自由な個性の発揮は許されるのですか、と逆に問いたくなるかもしれませんね・・・実生活における行為や行動は、社会規範の内においてなされるとしても(他者に迷惑をかけない、というのは、これは自己表現に伴う義務でもあります)、そこで感じている抑圧や同調圧力への反発、抵抗心、そういったものを原動力にして、ぜひ、ぶっ飛んだ作品、を書いてほしいと思います。 YUUさんの今回の作品は、詩論的な詩、個性ってなんだ?ということへの、自分なりの思索の詩、だと思います。それを、エッセイや論文の形で書かずに詩の流れに乗せていく、ためには、説明的な部分をカットして、名詞や動詞で刻んでいくリズムを作りだす、というような(そのような工夫は、もちろん既になされていますが)より一層の工夫が必要になるかもしれません。 (Individuality)

2017-05-28

美しく生まれたから、ではなく、生まれてから・・・美しく生まれる、ということが、育っていく過程で認識されていくのではなく、最初から規定されている、ということが、面白いと思いました。それにしても、何度読んでも、一連目の文の接続というのか、文体というのか、文法が間違っているわけではないのに、文章の進行具合というのが、実に不思議です。 二連目は、咲き乱れる白仙花を見つめながらの連想でしょうか。新川和江さんの「あらせいとう」とか・・・夾竹桃で非常に印象的な詩句もあったけれど、どなたの、何であったか、今、とっさに思い出せないのですが・・・花に託して生き方や自身の在り方を問う、いわばオーソドックスな手法であるはず、なのに、王、聖者、悪魔、といった、ある種神話的な名前が連続して出て来るからでしょうか、とても若々しくて、新鮮な印象を受けました。もっとも、ファンタジーゲームなどでも多用される名詞が連続して出て来るので・・・名前負けしてしまう、というか、若干、卑近なイメージに薄められてしまう印象も受けました。特定の意味を強くまとった名詞を用いることの有効性について考えさせられました。聖者とか王といった名詞を用いずに、この豊かな描写を深めていくことはできないかなあ、などと、考えてみたり・・・ 命の来歴を、花の群れの像の中で、そのイメージに溶け込みながら問う。魅力的なテーマです。 ( 美しく生まれてから)

2017-05-24

内省の詩ですね・・・〈みんなが狂って飛ぶ鳥の群れに見える〉この絶妙な比喩、それを受けて〈卵の殻が割れて外に出て〉・・・三連目は他者と出会って得た自身のイメージ、四連目は爆発しそうな想いを抱えて生きている〈俺〉の日々の比喩でしょうか。 五連目から、急にロック調というのか、自身の感情をリズムに合わせて吐露していく感じになっていて、生き生きしていて面白かったです。そうなると、前半がごつごつした語り方というのか・・・もたついた感じに見えてきますね・・・2~4連を一時下げにしてみると、1連と5連との間がぐっと縮まるように感じました。 俺の目には美しいものが映っていない あるのは例えばいちゃもんをつけて満足するストーリーだ                               明日のために戦え                               他に何もできる事はないだろう 人質に取られた心を取り戻すため 弱い視力でも底力を出すんだ 行動する人間が応援されるのは みんながいつも本当を望んでいるからだ              枯れた木が崖の上に生えていた              暗闇の中で誰にも知られずに              俺はそのふもとに歩いていく              つじつまの合わない行動をするという小さなプライドのため 人の望みが分からなければ どんな行為が背徳的であるかなんてわからない                         君には見どころがある                         ただの人じゃないな                         よく考えることで                         個を超えた力を身につけられるだろう             一人はみんなのために             みんなは一人のために そして道を外れて 何となくしてしまった事の傷がついている みんな盛り上がるだろう この世の終わりみたいに 底の抜けた夜が ガス状のおぼろな朝が あくまでも、ためしに、ですが・・・多声が一つに混在しているような連になっているので、あえて散らしてみました。他にも方法があると思いますが(もっと言葉を削っても良いかもしれませんが)前半の、ちょっともたついたような進行でありながら、重量と言えばいいのかな、全体の分量に対する軽さ。後半の、勢いが出てノッテ行く感じの進行と、重量の重さ。このアンバランスがちょっと大きすぎるような印象を受けたので、私なりに解決策を考えてみました(真似してくださいとか、これがいいから、とか、そういうわけではなく、あくまでも一案として、です) (人の望み)

2017-05-24

これだけ非現実的な光景に、これだけ肉薄するという描写の確かさが素晴らしいと思いました。〈よい風〉〈若い草原〉さりげない表現だけれども、新鮮な組み合わせのフレーズ。三行目から、マグリットの絵のような鮮やかさ、ラピュタで空中浮遊している不可思議な物体のようなリアルさで奇妙な立方体が現れて来る。 単なる立方体ではなく、世界を映しだす鏡のような存在であり、そこに触れようとするものを弾き飛ばす、崩壊させる威力を持ったもの、でもあり・・・自らの肉体の血しぶきのイメージと、ハマナスの赤い実が散らばっているイメージとの連動が面白いと思いました。オトギリソウの葉の斑点が血しぶきである、というような伝承を思い出したり・・・。 〈宙に浮く立方体に 脚や腰や胸や首で 怯むことなく触れ続けて そのたびに体は爆ぜて爆ぜて爆ぜて ハマナスの実は一面の豊穣となって 虫は跳ねて動物は駆けて草葉は茂って水は湧いて 岬の風景は輝く光景となり 身のすべてが飛散しつくした私は 跡形もなく消え去った〉 全身で世界に触れていく、という意欲と・・・代償として得る痛み、喪失の暗示、その犠牲と引き換えに得る豊かな自然(再生した自然)のイメージ。朝顔さんも福島の人災の事に触れておられますが・・・人類が滅びた後の自然の豊穣を連想したり、世界を照らし出す行為に激しく惹かれていく詩人を重ねたりしながら読ませていただきました。 (オホーツクの岬)

2017-05-24

最初、〈夜のカーテンのように、深夜のゴルフセンターがその巨大な姿を寝静まった街に立ち上がらせ、〉この始まり方はかなり散文的だと思い・・・直喩や「その」という指示語、「夜のカーテン」で既に「巨大な姿」は表せているので、言葉が余分なのではないか、などなど・・・夜のカーテンとなって、深夜のゴルフセンターが寝静まった街に立ち上がる、というように削っても良いのかな、と思ったのですが・・・ 〈国道のセンターラインは~〉からの進行が、非常に面白いですね。移動する視点と、走り抜けていく救急車、ゆき過ぎるタクシーの捉え方がユニークですし、その映像に伴って生じる哲学的思考のスケッチ、といった風情の雑感の部分に手応えを感じる作品でした。 月が登場するところの連結というのか、脈絡が唐突過ぎる印象がありました。〈月〉と〈犬〉は、固有名を持った何者かを普通名詞に置き換えて韜晦しているのか?という印象。 次の連で〈月〉と〈犬〉の関係が展開されるのか、と思いきや、急に外国小説の一節、主人公の悪夢を描写しているような情景に移る。その場で堂々巡りしているような描写の部分(若干、もたついている印象を受けました)の後に、鏡をのぞき込むと〈誰かが空気穴を両手で押さえつけている。月は気づくことなく静かな夜の中寝息を立て続けている。〉ここで二連目と繋がるわけですね・・・。空気穴のある箱?に閉じ込められた月。『星の王子様』の中で、空気穴の開いた箱の中にいる(はずの)羊を、なんとなく連想しました。 最終行で〈車は坂道に差し掛かって落ちていくようだ。落ちていく。落ちていく。どこまでも、どこまでも、どこまでも…〉ここで一連目が再登場しているのでしょうか。ということは、二連目、三連目の「幻想」シーンは、深夜の車中での出来事?なのかな・・・うーん、展開が急すぎて、面白いのですが、ついていくのが大変、というか・・・読者を置いてきぼりにして吹っ飛んでいくかと思いきや、さりげなく読者のもとに戻って来る、そんな繰り返しのような・・・ 一連目のある種哲学的な進行と描写が一体化したような展開に、魅力を覚える作品でした。 (落ちていく)

2017-05-24

クヮン・アイ・ユウ さんのレスを読んで、あ~❗と気づいたことがあります。 私は、純粋な好奇心というのか、この人はどんな想いでこの作品を書いたのだろう、この詩の向こうには何があるのだろう、という感じで読んでいるので、ドンドン新しいもの、珍しいもの、深いものに出会いたくなる。 一方で、自分にとって必要な言葉、自分の為に必要な思想、自分が生きていくための(大袈裟かもしれないけど)支柱になるような言葉を求めている人もいるのかもしれない。そういう人の方が、切実に詩を求めているとも言えるし、それだけ理想の作品や、自分の求める許容範囲が狭くなるとも言える。絶賛や拒否の落差が大きくなるのかもしれない、と思いました。 純粋な好奇心は、世界をドンドン広げてくれるけれど、観光客のように素通りしていく、ことでもあるかもしれない。 5年かかっても10年かかっても、自分にとってのかけがえのない一作、を求め続ける人にとっては、そんなあっさり通過したり何でも受容していく態度は、理解できないことかもしれないな、とか、切実に詩を求める人が、バシッとはまる詩と出会える場所になっていけばいいな、とも思いつつ・・・切実に詩を探索する人は、受容範囲が狭くなったり、これダメ、と拒否反応が出る作品が、他の人より多くなることもあるかもしれない。 排除しながら、自分の一作をストイックに求め続ける探査と共に、食わず嫌いではなく、まずは味見してみよう、案外おいしいかもね、と呼びかけてみたい気もしますね。 詩から離れた雑感になってしまいましたが・・・ (小宇宙)

2017-05-23

ツイッターに、こんな文言でアップしました。 素朴な筆致ながら、思いの方向性に深く賛同。何年も牧場での出会いや命との関わりを問い続けた作者ならではの、命の尊厳に通じる思考。(ツイッターアカウントが見当たらないので、ご連絡まで。) (ただ詩が)

2017-05-23

食べることは命を飲むことなのだと、あらためてしみじみと感じました。 言葉の流れが美しい。下手に切り刻んで分析してしまうと、香りが逃げていってしまうようなはかなさ。 瑳峨信之さんの、夢の上澄み、という言葉を思い出しました。 (食事)

2017-05-23

読んでいます⇒呼んでいます とほいゆきやまがゆふひにあかくそまる きよいかはぎしのどのいしにもののとりがぢつととまつて をさなごがふたりすんだそぷらのでうたつてゐる わたしはもうすぐしんでゆくのに せかいがこんなにうつくしくては こまる 吉原幸子さんの、大好きな一節です。なんとなく思い出したので、付記します。 (火の鳥)

2017-05-22

なかなか手厳しい、しかし充実したご批評を得る機会に恵まれた、ということのようですね。 火の鳥、という題名・・・よく、ネタバレ、等とも言いますが、短詩であるからこそ、あえてその「ネタ」をばらして、いわば手の内を明かして、いかに展開するか、という楽しみもあるでしょう。私は、コロンボ式作品、と読んでいます(笑) 題名に「火の鳥」と入っているので、本文中は「おまえ」とする選択肢はなかったのか、伺いたいと思いつつ、火の鳥におまえ、と呼びかける感じではなく、火の鳥とはなんぞや・・・という、少し突き放して、客観視する視点も感じたので、「おまえ」と呼びかける親密さからは、距離があるだろう、と思います。 だからこそ、題名をどうするか、というのは、悩むところ、でしょう。 憂愁、という言葉、抽象語であり、漠然と大きなものを表現し得る言葉であり、なおかつ音が柔らかくムードを持っている。憂鬱と異なって、愁嘆というような、どこか女性的な美がある。 うつくしい、というような言葉や、かなしい、という言葉も、使い方で陳腐になったり生きたりしますが・・・短詩にまとめる、その意識があるゆえに、章題や小見出しのような、総括的な「憂愁」という言葉に収めてしまったのかもしれない、という印象はありますが、これまた短詩であるゆえに、それだけ凝縮されている、ということにもなるでしょう。 二度繰り返す、それをあえて冒す勇気に見合う力(跳ね返す膂力)が、この詩にはあるように思いました。 (火の鳥)

2017-05-22

散文で書かれた詩論を、読みやすいように行分けにして表示した、という印象を受けるのですが・・・〈長年蓄積された技術こそ芸術〉という定義と、〈同じものを作って何が意味があるのだろう。〉という思考、この相反するものをぶつけていくのか、切り拓いて行くのか、止揚するのか・・・という魅力的な問いを提示しながら、そのまま先に進んで行ってしまう。この部分をもっと深く考察してほしいと思いました。 もし、その「深めていく考察」が、2節と3節であるなら・・・ 切実に心情を吐露することによって、自らを客観視したり、痛みを過去のものとして認識することができたり・・・文字にして、いったん「わたし」から離すことには、そのような効果があると思います。その文字にしたものを、読んで共感したり、返信や応答をもらったりすることで、生きる気力や勇気を得る、そんな人もいるかもしれない。その人達の生み出す言葉は、技術的、技巧的に完成した詩、とは呼べないかもしれませんが、切実に書かねばならないものがある、その部分が、詩の素材であり、詩の源泉である、と思うのです。 もし、そのような想いで、まだまだ未完成だけれども・・・と迷いながら「詩」を書いている人が、〈ある意味そういったものは表現としての/排泄物かもしれない。〉と記されているのを目にした時、どう感じるでしょう。自分自身の作品が、単なる吐露や吐瀉、排泄物に陥っていないか、と問う事と、他者の作品を〈排泄物かもしれない〉と述べることとの間には、大きな差があるように感じるのですが・・・2節が本当に必要であるかどうか、もう一度考えてみてください。 3節の、ヒトラーが画家として成功していたら、果たしてあのような歴史が起こり得ただろうか、と問うたり、少年Aが、社会的制裁を受けた後に、表現することが許されないのは是か非か、と問うことは、興味深い問題提起だと思いました。 いずれにせよ、論理展開だけでは、詩の骨格は作られたとしても、肉付けに乏しい印象を与えるのではないか、と思います。 単語のリズムで刻んでいく、とか、言葉の流れで進行させるとか、思考や論理ばかりで展開するのではなく、意味と意味との間に情感や情動が動くように工夫するなど、加藤さんらしい詩風とは何か、ということを、問い続けてほしいと思いました。 倣い、習い、それを忘れ、それを超える。型に入り、型を脱す。そのような詩を、加藤さんはきっと求めておられるのでは、と感じました。 (現代詩とポエムに寄せる。)

2017-05-21

あらためて、拝読。 ツイッターで、さっと見た時は、ばあっと翼を広げる燃えるような雲の映像が飛び込んできたので・・・既に復活して空を舞っている火の鳥、をイメージしながら読んでいたのですが・・・ 文字で読むと、題名が目に入って、まず、火の鳥のイメージが漠然と浮び・・・ それから〈太陽に焦がれながら〉で、地上にありながら空を睨みつけるようなイメージ、〈その憂愁を際立たせるもの〉という言葉で灰の中から輪郭が現れて来るイメージが浮かび・・・地上に横たわった黒い灰のようなものの中から、赤い光が熾火のように耀きはじめて、空に舞い上がっていく、その過程が描かれているように感じました。イメージが立ち上がっていく、その時間差が、写真と言葉では異なるんですね・・・ 〈初夏の草いきれを大地は呼吸し 無垢な獣たちはざわめく〉 草原を強い風がさあっと吹き抜けていった瞬間、今、天空を火の鳥が駆け抜けたのではないか、と感じた一瞬を描いているように思いました。 大地が呼吸をしている、その感覚を実感した肉体が、くちびるを開かせる。かつて、愛の言葉を語り、口づけを繰り返したくちびるから洩れるのは、大地の息吹に触れた感嘆の吐息なのか、あるいは詩の言葉なのか・・・ 海飛さんも述べておられますが、最終連で驚かされますね。 愛の記憶は、憂愁を伴うものだったのか・・・ふかい爪、あるいは爪痕。 火の鳥、とは・・・生命力を呼び覚ます命の精、であると同時に・・・記憶の中で、「わたし」の心をつかみ取って飛び去った情熱の炎であるのかもしれない、と感じました。 この短さの中で、バリエーションを付けずに同じ詩句で前後を挟むのは、或る意味冒険でもあるのかもしれませんが(単調になる危険を冒す、というような)冒頭の憂愁は、漠然とした生の憂鬱のように思われるのに、最終連では記憶の中の、情熱の炎が飛び去った後の虚脱感のように見えて来る。意味というか、色が異なって見えて来るので、冒険は成功しているのではないでしょうか。 (火の鳥)

2017-05-21

〈「汚い言葉を使う人がいるが、我々は使わないでいよう」 苦痛に満ちた世の中で せめて 詩に敬意を〉 この部分、普遍的なことでもありますが、具体的にビーレビューが目指していきたい方向だと感じました。ありがとうございます。 一つの詩が、多面体のように様々な相貌を持っている。そして、私たちはピンホールカメラを通して対象を見るように、ごく一部の「個人という窓」からしか、対象を見ることができない・・・だからこそ、たくさんの視点を集めて、多数の意見や感想を並列して、立体的に作品が浮かび上がるような、そんな手法で作品を見ていきたい、と思うのです。 それにしても、文字の羅列の間から、作者の想いや考えや喜怒哀楽がにじみ出て来る。詩って、面白い、不思議なものですね。 (ただ詩が)

2017-05-21

帰宅途中にツイッターを見ていて、壮大な焔の翼を広げたような雲の写真と、これまたダイナミックな詩篇を拝読して・・・そのままスクロールしていたら、ここに投稿されていたことを知りました・・・ 改めて文字テクストで拝見。火の鳥、という題名のインパクトの強さに、やわな立ち上がりでは負けてしまうでしょうけれど・・・冒頭二行で押し返す(跳ね返す)勢いが素晴らしいと思いました。電車の中なので、取り急ぎ、続きはまた、あとで。 (火の鳥)

2017-05-21

鳩村さん 誤読などしておられませんよ。 私が勝手に改作提案をしてしまったことに、うれしいと思う方もいれば、余計なお世話だと思う方もいるでしょう。 有効かどうか、という事に関して、読者の一人として「このように感じた」という印象を伝えて、あとは作者が自分で選択する、その方法が、最善だと思います。 リプライ、ありがとうございました。 (かみさま)

2017-05-21

リフレインで前後を挟んだ形式ですね。「現実」とは何か。今、目の前にあるもの、という印象で読み始め、あれ、もしかしたら、記憶の中の「現実」なのかな、と思い・・・このあたりがとても面白いと思いつつ、踏み込みが足りない、と感じる部分です。 最後の最後まで、とは、どんな状況の「最後」なのでしょう? 痛みは記憶の彼方にある。ということは・・・記憶を思い起こす、それは、痛みをも呼び寄せてしまうことになるのか?その記憶が本物なのかどうか。本物であれば、たとえ痛みを伴ったとしても、今、ここにあるようなリアルさで、その記憶を呼び覚ましたい、それほどに懐かしい記憶なのか。本物でないなら、そんな危険を冒す必要性があるのか・・・・ 〈母の瞳や ベビーベッド〉 この記憶が、どんなシチュエーションで呼び覚まされたのか。霧のかなたにあるようにおぼろげなものなのか、水の中にあるように揺らめているものなのか、今、目の前にあるものから(例えば、自分の子どものベビーベッドを見つめながら)呼び起こされてしまった、突然の痛みの記憶、なのか・・・ といったところを掘り下げていく、という深め方もありそうです。 (小宇宙)

2017-05-21

「忖度」という、普段はあまり使われないのに、時事ネタ的に話題になっているワードを、どこまで活かすことができているか、ということですが・・・この作品に関しては、後付けの無理な感じが目立つような気がしました。 一二連めは、他者と私の関係を、私から離れたところで見ているわけですが、三連目からは「私」の独白になりますね。二連目と三連目の間に*を置いてみるとか、少し行間を開ける、などすると、〈空気の読み合いで、〉の後に、言葉にできないなにか、が省略されている、その部分がより、匂い立ってくるように思いました。 〈とても孤独で ただ、孤独なのが普通になった。〉 言葉を重ねるのは、強調の為、でしょうか、あるいは、よりよい言い方が見つからず、仕方なしに同じ言葉を用いてしまった、のでしょうか。読者としては、語り手にとっての孤独、その質感というのか、どんな状態なのか、ということを、より詳しく知りたい。普通になった、とありますが、孤独の状態に日々置かれている、その時の気持について、知りたい、と思います。 自分が選んだ、ということは、他者によって不在のまま語られる私、という状態に堪えかねて、自分から離れた、ということ、なのでしょうけれど・・・それは、そういう状態に追い込まれた、のか、自分で選んだのか、そこを悩んでいる、のかな、と感じました。 他者に伝えるために、比喩を用いる方法もありますね。水に浮ぶ一面の花びら、その中で一枚だけ、なぜか他の花から離れて、泥の岸辺に打ち上げられた花びらの光景とか・・・夜の窓の明り、その光に取り残された一本の街灯とか・・・今の加藤さんの心象にあう光景や情景が提示されると、より、心象がリアルに伝わって来ると思います。 (話)

2017-05-21

作品評です。森という再生と循環の場所に囲まれた、廃頽しかかっている都市文明。かつて近未来都市を目指した、その都市の夢の象徴のような建物も、既に人々の記憶から忘れ去られようとしている。その建物の存在を確認しようとする行為も、なぜか偶発的な出来事や心理的な抵抗によって無し得ない。発話されないということで、記憶からも抹消されていく建物。 その街を、Lによって案内される〈僕〉。〈僕の存在を忘れたように、早足で階段を下りはじめる。僕はLに一歩遅れたまま後ろを歩き、S字形にくねった路地をゆく彼女の背中を追う。〉L字やS字の路地という伏線のせいでしょうか、Lは女性であると共に、都市の魂の化身のような、非肉体性を備えた存在であるようにも感じられます。〈僕〉は、記憶の中にしか存在しない〈72〉に住む、都市の魂そのものに、この都市を案内されている。 廃墟のような光景、その中で繰り広げられる狂騒。カーニバルも、行われたことが記載されるだけで、その情景は、この作品の中では存在していない。つまり〈僕〉の中には存在していない、とも言えます。終末の予感を濃厚に匂わせる都市。 〈夢のようなケーブル〉は、死んでいく都市と生きている森をつなぐものなのか。人々の記憶同士を連結し、失われたものと存在するものを架橋するものなのか。 なぜ、このケーブルを引こうとしているのか・・・ 厚紙という手触りのあるものに、手書きで書き込んでいく、というアナログな確かめ方で、都市の記憶を再生させていこうとする、そんな行為が冒頭と最後に置かれ、その中に忘れられていく都市、都市に忘れられていく〈僕〉が入れ子のように収められている。 パンは、人を養うものであると共に、人の精神を養う知識や知恵の象徴でもありますね。命を暗示する森の中のパン屋で、ケーブルを引く相談をする。その構造を、より鮮明に出していくことはできないか、と感じました。 情景描写を詳細に行うほど、小説の色が濃くなり、全体の構造や意図、象徴性などが見えにくくなるような気もするのですが、どうでしょう・・・。 (AV. 68)

2017-05-21

まず、気になった点から。たとえば、〈意思の疎通を図った。〉こうした翻訳体のような文体は、意図的なものなのか、日常的な用法から生まれたものなのか。 〈Lは続けた「私の家は68号通りにあるんだけど、〉と会話体で始まった文章が、〈彼女の働く新聞社の朝刊で『72号線のカーニバル』というヘッドラインのもとに一面をかざったのはついさいきんのことだった。」〉といつのまにか地の文に落ちている。彼女の話を話者が引き取って、要約しつつ語る形式なら、〈~あるんだけど、」〉といったん区切った方がいいように思いました。突然ひらがなオンリーになることも、意図的なものなのか、ミスなのか、気になりました。 (AV. 68)

2017-05-21

〈新鮮なニクタイをもつ 現代人 の聴くオンガクは〉ひらがなとカタカナの用い方によって、文章の流れに違和を作る。そのことによって、語り手の感じている「からだ」や「にくたい」が、自分から離れた(異質な)物質であるかのような、そんな殺伐とした環境に置かれている、そんな印象を受けました。そうした肉体ならざるニクタイを持っている「現代人」が音楽を聞こうとするとき・・・それは「オンガク」としか表明し得ないもの、であるのかもしれませんが・・・〈キリキリと 蓋 をあけるように/音 と出逢います〉こんな切実な出会い方でしか、「音」と出会えない。そのあたりから既に、リアリティーが迫って来るように感じました。 〈なぜかそんな かれをみるたびに胸の奥から ざぁ とした 波がやってきて全身が むずむず したことを思いだします 誰も紺くんのことをスキではありません けれどもかれは 異様な ウツクシサ をもっていたのです〉 教師が率先して行う、いじめのような体罰。集団リンチ的に加虐感情を満たす、群衆としての「おれたち」。 一人の生徒の物語、として書いているけれども・・・鍵盤という「音」を奏でる部分を、弾きこなせないほどの大きさと美しさと理想を持って描き出してしまう画才を持った「紺くん」は、詩人そのものであるようにも感じました。言葉という鍵盤を用いて、人の心、世界の美しさ、そうした「音」を生み出したいと願う(でも、それができずにあがき続ける、宿命を負った)人物。彼は世間にもなじめず、同級生たちの中にも溶け込めず、助けてくれるはずの先生ですら、持て余して辛く当たる、そんな「世間から石を投げられる」存在なのです。 〈ピアノの鍵盤が 描かれたいくつもの かれの作品を一枚一枚 ていねいに鑑賞してゆきます 紺くんから 画を手渡されるたびに 波のしたで いくつもの血管が 海の底から 表面へと向けて はり巡らされて ゆく よう でした〉 詩形の美しさや、詩の語りのリズムや呼吸をなぞるような一文字あけの工夫が、まず素晴らしい。 それから、もしかしたら子供の時には描き得なかった「鍵盤」を、描くことができるようになっている彼の技量・・・彼の描き出す詩の奏でる音楽に興奮し血が騒ぎ、心が燃え立つような感覚を、実によく表している部分だと思いました。この作品の中でも、一番好きな部分かもしれません。 〈おれはいつだって 逃げ虫の傍観者 です かれをなめまわすようにみつめていた 他の生徒となにも 変わりません〉 この部分を読みながら、鍵盤を描こうと必死になっていた「紺くん」と、語り手は、実は同一人物なのではないか、という気がしてきました。詩人であることを選んだ私と、社会人としてごく普通の日常生活を選び、詩的感興とか詩情を抑圧して生きているわたし。 引き裂かれたわたしが、交合する。分裂した自己が統一される。実社会で生き辛さを抱えている、日常生活に悪戦苦闘している「私」と、詩的感興に突き動かされるまま心の音を奏でる生を選んだ「私」が、死の陶酔の中でひとつに溶け合う。ロックンロールの激しいリズムは、その高揚感を表す心音であり動機であるのかもしれません。 ・・・いじめを思わせる、かなり具体的な描写が、時には・・・同じような体験をしたことのある人に、フラッシュバック的なショックを与える、ことは、あるのかもしれませんが・・・私個人の感想としては、閲覧注意、と表記をしなければならないほどの、グロテスクな描写や残酷な描写があるようには思えませんでした。 引き裂かれた自己の融合を願う祈りの物語、であり、詩人は心の音を奏でる鍵盤(詩行)を弾きこなす人物である、という詩論が秘められている、私にはそう感じられます。 全体の流れも、丁寧な言葉の運びも美しいと思いました。 (愛くるしさの檻のなかで 闇を剥ぐケダモノに なれ よ)

2017-05-19

不勉強で「横浜駅SF」を知らなかったので、おっしゃるとおりに「ちんぷんかんぷん」の部分がありました。もっとも、なんだかわけわからないけれど、言葉の迫力とか語感などで迫って来るものがある、面白い、ということもあるわけで・・・ 内観、というのは、文字通りの意味です。〈「所詮はこの程度なのだ」と自分に言い聞かせる〉というような、事象を語り手がどのようにとらえたか、自ら説明してしまっている部分。自分の精神が落ち着いてくる、というような部分も、自己解説してしまっているように感じるところですね。ここを読者の側に手渡しておく詩が「ひらかれた」詩で、ここを自分で説明したり解釈したり結論付けたりして先に進んで行くものを「とじられた」詩だと考えます。 徹底して内観を積み重ねていく、知的構築体のような創作手法もあると思いますが、横浜駅の「増殖」、ライトバースの「増殖」、そこに「所詮は」「書店は」といった音韻のずらしと意味のずらし、が入って来る・・・という、文明批評的な側面を持ちながら、言語遊戯的な軽さを失わない、「増殖」していくというイメージと、寸断されつつ跳躍していくような言葉の流れ・・・といった動的な文体に魅力を感じる作品だったので、自己鎮静を促すような、水を差すような表現が、ブレーキをかけてしまっているように感じた次第です。 ((笑))

2017-05-19

kaz. さんへ ノイズ、という言葉が「評」の中で出て来て、言葉にならない、でもざわざわと耳障りな、なにか・・・雑音、というのとはまた少し違う、要するに邪魔なもの、という感覚で面白いな、と思い、早速使ってみました(笑) まだ自分のものになっていない言葉を安易に引っ張ってきているところに、無理があったのかもしれません。やっぱり、浮いてますかね・・・。 朝顔さんへ。 そうですね、何かを埋葬してしまいたい、追悼したい、せめてそこから、新しくはばたく何か、があってほしい・・・そんな気持があったと思います。言葉は、聴くもの、なのか、ふれるもの、なのか、浴びるもの、なのか・・・そんなことも考えます。 夏生さんへ 耳も皮ふで(耳の一部を切断しかかる、という怪我をした時、顔の皮膚の延長だということを、初めて知りました・・・)肌感覚を持っている器官。その内部で音を聞く。外部は振動に触れる、体温に触れる、気配に触れる。内で聴き、外で触れる、その感覚が、心で聴き、肌で触れる、人の躰に近いように思います。 (播種)

2017-05-19

追伸。祝儀敷さんのコメントの最後の方に、〈この「人たち」って、今の文脈では「バカとかってレベルじゃない」奴らを指しているでしょうが、でも結局程度問題で我々だって苦痛のまま死んでいく存在ですよ。〉と「  」でくくって、世間一般にこう言われている、としても、という留保があり、自分たちもまた、同様の存在だ、と記しているところを読んで、少し安心はしたのですが・・・最初の方の「侮蔑的」と思われる部分も、作者の鳩村さんを励まそうという、温かい気持ちから出たものなのではないか、と判断したのも、この最後の部分があったから、なのですが・・・前の方、言い方酷いよ、と、やっぱり、思いますね・・・。 (かみさま)

2017-05-19

訂正:という「起」転結と、⇒という「起承転結」の「起」と、 高校に進学していない、設定なので、高校時代、ではなく、高校時代に当たる年齢、ですね・・・ (かみさま)

2017-05-19

「小説」だと、なぜか私小説風であっても、自伝風であっても「フィクション」とみなされるのに、「詩」だとなぜ「ドキュメンタリー」と受け止められることが多いのか・・・未だに解決できない問題です。(最近中也賞を受賞した作品について、あれは私小説か、虚構作品か、ということを問題にする議論をよく耳にしました) ひらがなオンリーで書く、ということには、表記のあたえる柔らかさや、音が脳内で意味に変換されるまでの時間を通常よりも多くとることによる効果、など・・・魅力が多くある反面、読みにくくなる、という問題がどうしても生じますね。 それでは、この作品を漢字ひらがな混交体にしたらどうなるか、読みやすくなるか、といえば、恐らく、あまり読みやすさは変わらない。叙述の分量が丁寧である分、分量が多すぎる、と思います。 愛されたいのに、愛されたことがない、だから愛を知らない、という「起」転結と、理不尽ないじめを甘んじて(それが当然だと思って)耐えた、という「承」、しかしそのことに心身が堪えられなくて鬱病になってしまった、という「転」、神(信仰)に救いを求めたのにいまだに苦しみから抜け出せない、全てを捨ててしまった(ことばを綴ること、だけは、まだ、信じている、放棄していない)という「結」・・・ そのラインが明確になるように、言葉をもっと絞っても良いように思いました。 この作品の中で、感情が切に伝わって来るのは、「おかあさん」と訴えかける部分。事実を並べているように見えるけれども、リアリティーがあまり感じられない(切実さが伝わってこない)のは中学、高校時代の「いじめ」の部分。周囲の人間関係や階層の説明に分量を取られてしまっているからだと思います。冒頭部分で、自分の存在感の無さ、希薄さに堪えられないような状況に触れているので・・・「いじめ」という事項を設定するのであれば、こうした心理的な状態について記した方が、読者により強く訴えかけると思います。 うつ状態の日々の具体的描写は、とてもリアリティーがありました。事実を積み重ねるような描写であって、関係性の説明や解説になっていないから、だと思います。 アイディアとしては、全体をもう少し絞って、「かみさま」に訴えている設定、「かみさま」への語りかけ、にする、というのはどうでしょう。何も知らない読者に訴えようとすると、叙述的なこまごまとした説明や状況設定が必要になって、言葉の分量が多くなります。でも、「かみさま」なら、事実関係は既に知っている。だから、私の内面、私の感情、その部分だけを伝えればよい、ということになります。その部分が、凝縮されたエッセンスの部分だと思います。 『アルジャーノンに花束を』を連想した方もいるようですが、小説なら、同じ内容をくり返して重ねながらつなげて行ったり、少しずつ時間をかけて言い換えて行ったりすることに「塗り重ね」のような効果がでると思いますが、詩の場合(私が考える範囲、ということですが)もっと凝縮して、感情のエッセンスの部分が伝わるように、それ以外の叙述は、最低限必要な部分に絞った方が、多様に読者が読むことができる、多義的に作品を読むことができる。 ぼくはおかあさんにあったことがありません ぼくはおかあさんのおっぱいをすってそだったともきいています それでもぼくはおかあさんにあったことがありません おかあさんをおかあさんとよんだことも おかあさんをみておかあさんとおもったこともないのです いまだにかおのみえないじょせいにだきしめられて おかあさんおかあさんあいたかったとなくゆめをみては はれためでめがさめるのです たとえば、このような形に整理していくと、言葉の流れにうねるようなリズムが出て来て、切なさや寂しさといった感情の部分がよりはっきり伝わって来る、気がします。 お母さん、が亡くなっているのか、行方不明なのか、居るのに無視や放棄をされているのか、詳細に設定しなくても良いように思うのです。そうしたこまごまとした背景や人物の設定が作品にリアリティーを与えて、読者に訴えかける力を持つのは、小説のような、ある程度の分量を持ったジャンルであるように思います。 それから、鳩村さんのスレッドをお借りしますが・・・祝儀敷さんのコメント、人生どうなるかわからない、悲観するなよ、という「温かさ」から出たものだと思いますが・・・いささか侮蔑的(作者に対して、ということではなく、モアイと呼ばれた友人や、そうした境遇の人)と感じられる表現が多いことが残念です。 s (かみさま)

2017-05-19

テーブルを拭く、という行為の中に、自分の心を磨く、という行為が隠れているわけですが・・・机でも床でもなく「テーブル」であるところが大事だと思いました。 ダイニングテーブル。家族で囲む食卓。ひと昔まえなら、ちゃぶだい。 周り中が「前衛詩」(暗喩満載の)を書いている時に、辻征夫さんは「ライトヴァース」「平易過ぎる」などと批判?されながら、易しく優しく心に沁みる作品を書き続けていました。あの勇気は大変なものだと思う、と、八木幹夫さんという詩人がおっしゃっていたことがあります。 優しく易しく書く勇気、について、考えさせられる一作です。 (なかった、ように)

2017-05-19

花緒さんへ 発起人側の方に入ってしまうと、投稿者たちが遠慮してレスをつけなくなる、のであれば、それはあまり良い傾向ではない、ような気もします。(それとも、わけわかんない、どう感想書いたらいいのかわからない、という、伝わりにくさの部分でコメントがつかないのかな(^_^;)だとしたら、不徳のいたすところです。)といっても、自分のスタイルを変えようとは思わない、かもしれないけれど(笑) そうですね、身体性に即した表現をしようとすると、躰そのものに向かっていくことが多くなりますね。もっと、躰から離れたところで、体感のある表現ができればよいのですが。 三浦さんへ くろつち、と読まずに、こくど、と読んだ、ということでしょうか(笑) あかつち、くろつち・・・つち、という言葉が、なぜか好きです。なんでだろう。 細かく霧のように、さらさらと物質のように降り注ぐ朝日、をイメージしつつ(中也にさらさらと、さらさらと、というのがありましたね、そういえば)なかなかうまくいかない、のが現状です。 (播種)

2017-05-17

勢い、疾走感、言葉をボンボン投げつけて来る感じ、どれも面白いと思うのですが、同時に「まぁ決定的な違いがあるっちゃあるか。」こういったところで、その流れを引き留められてしまうような印象を受ける。そういう(乱暴な言い方をすれば)無駄な内省(自問自答している暇があったら、言葉を投げ出せ!という・・・そこで止まってるんじゃねえよ!!という感じ、かな・・・・)を、もっとカットできるのではないか、そうすると凝縮感を持たせながら、疾走感も維持できるのではないか、と思いました。 後半(最後のオチの部分)、「通学路」の連の、妙な優等生っぽい部分はなんだ?(息切れしたのか、それとも急に周囲の眼が気になったのか)とか、最後の二連の夢オチ的な安易さはなんだ?とか・・・最後の三連、ためしにカットしてみるとどうかな(というより、その前の連を、~低能なやつらを黙らせてやる、ここでぶち切りした方が、怒りのエネルギーが一気に会報されてよかったのではないか、などと思いました。)全体に言葉が多すぎる、印象はあります。 (歓喜の歌)

2017-05-17

息の長い、うねるような文体の迫力を感じました。 往なす・・・「いなす」って、こう書くの!(すみません、調べました)と無知を恥じつつ、「白鳥の湖」と「眠りの森の美女」のバレエ作品を幻視しているような、不思議な感覚に引き込まれる冒頭部分です。「挿げ替わり」すげかわる、これは、文法的には造語になるのでしょうか・・・挿げ替える、他者が替える、イメージ。替わる、は自ら変化するイメージ。両翼が朽木に変化してしまった、そんなメタモルフォーゼの悲しみ(飛翔できない、ボロボロと崩れていく感覚)の、心の眼による視覚化、のように思うのですが。 「自ら爆破した羅針盤の切先を縫い合わせてゆく」かっこいいフレーズ。進路は自ら決めるのよ、という意思表明のようにも感じます。朽木のイメージが廃船のイメージに重なるような、もう一工夫があれば、羅針盤の唐突感が上手く全体に馴染むように思いました。 「円を描く時」先に進めないような、円環の中に閉じ込められているような感覚と、浴室という狭い空間に閉じ込められている感覚が重なって、面白いと思いました。円から歯車のイメージに移るのは、飛躍しているけれども連続しているともいえ、飛び石を飛んでわたっていくような軽やかさを感じます。 鍵盤(心理的な音楽)がバラバラに崩壊していく感じの後に、「扉は頑なに閉じようとしなかった。」この扉って、なんだろう・・・浴室のイメージを引きずっているので、浴室の扉、という物理的なイメージに占領されてしまうのですが、心の扉、と読むべきなのか・・・とは言いつつ、閉じない扉ってなんだろう、と戸惑った部分。 「非常通話のプラスチックを破る」赤い非常ボタン(押してはいけないもの)を押し破るイメージと、語り手の触れられたり破られたりしてはいけない部分に傍若無人に踏み込んでくるイメージが重なって、インパクトのある表現でした。 筆の海・・・ずいぶん古風なイメージだな、と思いながら、全体を「詩の創作」その海に重ねていくなら・・・刺青の指を持った彼は、荒れた海で船(廃船)となりかかっている語り手を操る、荒っぽい船乗り、そんな読み方も出来そうだな、と思いました。 血が凍っている、墓守・・・死のイメージに収束していく「感じ」は伝わってくるのですが、ムードに流されていないか、という印象もありました。 全体に、バレエによって表現された、男と女の葛藤劇(創作の海を迷いながら、滅びていく作者)という印象を受けたのですが、言葉のない世界を言葉で表現しようと無理している感覚も受けました。(実際のバレエを視覚化した、ということではなくて、心の中の騒擾をそのように表現した、という感覚・・・という説明で、つたわるかな、どうかな・・・) (Swan song)

2017-05-17

(笑) ショウ、と読めば「show」のようでもあり・・・ 増殖する横浜駅、の着想に惹かれつつも、その「増殖感」が体感として迫って来ない、言葉として押し寄せて来る・・・その抽象性にもどかしさを感じるのですが、どうでしょう。連鎖的にあふれ出してくるようなイメージそのもの、ではなくて、そのイメージを受け取った作者自身の内観が描かれている。その沈思の姿勢を評価するという見方もあると思います(ここは、他の方の意見をぜひ聞きたいです) 文体の疾走感が自身の内観への沈潜によって停滞してしまう、その失速に不満というか勿体なさを感じました。 ((笑))

2017-05-17

一貫して「自分の世界」を持っている作者だということが、投稿を通じてわかって来る、そうなると、ある種の連作的な面白さが見えてきますね。 ゴシックホラーの世界、とでもいうのでしょうか・・・吸血鬼や悪魔、黒魔術の魔導士が現れる、クラシックな造りの映画を観ているような感覚もあります。 (viciousness)

2017-05-14

痰・・・最後のオチが、大真面目であるだけに、ユーモラスでした。 言葉が、身体の内側を上がったり下がったりしながら、内側を焼いている、そんな烈しさ、苦痛、それでも絞り出したい、という欲求を感じました。 命の宿った言葉とは、それだけで自立して、人から人へ、手渡されていったり、呑まれてまた生まれ直したりする言葉、なのでしょうね。命を宿す前に霧散してしまった思い・・・それがまるで気焔のように、喉を焼く感じが痛切でした。 (言葉弔い)

2017-05-14

個人的に「ネモフィラ」(瑠璃唐草)が好きなので、どんな感じになるんだろう、と思いながら・・・「祖母」は「きみ」で「少女」なのか?という不思議な困惑を覚えつつ・・・ 「一年前のぼくを ぼくのもとに帰すために 青の海へ行く」 一年前に、何を、約束したのでしょう。「青い花」夢の花、いのちの花・・・ 補色の橙、これは、帰化植物の「ナガミヒナゲシ」あるいは「ハナビシソウ(カリフォルニアポピー)」ではないか、と思いますが・・・水色と透き通るようなオレンジ色、美しい絵のようです。アメリカ育ちの少女、と不思議に重なって見えてきて・・・まるで、ひなげしの化身のような気がしてきました。 「人は誰だって花の種だ」この箴言風のカッコイイ台詞、そこから続く、ちょっと理屈っぽい場面を、もう少し凝縮して、硬質な説明的叙述(もっと簡潔な感じ)にしてもいいのかな、と思ったり・・・ 美しい花園のイメージの中で、花の化身と出会った一瞬を描いている、そんなファンタジックな幻想に誘われる作品でした。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-14

そこ、は、場所の「そこ」だと思って読み始めたのに、「底」なのかもしれない、と思いました。 「水を飲むのも苦しいのに」苦しいのは、「僕」なのか「きみ(とは呼ばない)」もう一人の誰か、なのか・・・病に伏している誰か、なのか、気持ちが苦しくて水すら飲めない「僕」なのか・・・「あるいはこと」子、孤、個、どの字が入るのだろう、などなど・・・「かわるがわるすべてになってくれる」包容力のある(理想の母親的な)人をイメージしました。 「ぜんぶ送る いいねは押さない 空白ではないからそこにスミレを挿す 今日からスミレと呼ぶ」 このリズム感と、どこか突き放したような潔さ、スミレを持ってくる感覚、このあたりがスタイリッシュですね。 あえて意味を惑わせているのか、揺らしているのか、掴みがたい印象はありました。 (そこ)

2017-05-14

祭り、とは何か。そんなことを考えました。死んで生まれる、「死」が穢れではなく(穢れとなる暇なく)命の祝祭に取り込まれていく。鳥居(死者の魂が鳥となって宿るところ)その赤さ、赤ん坊の赤さ、赤飯の赤さ、白馬岳の白さ・・・。 おごっつぉ、というのは、命が生まれたことへのお祝いの膳だと思っていたけれど、あきらさんの詩を読んでいると、無事再生したこと、無事輪廻転生したことのお祝い、という気もしてきて、永劫回帰の世界観まで感じられて、怖いような面白さがありました。 もっとも・・・そうした世界観の表明、ということが先に立ちすぎて、全体に観念的になっている。リズムの面白さや音の繰り返しの面白さを民謡風に重ねてみよう、という意識が強すぎるようにも思います。 (おごっつぉ)

2017-05-14

シハンセイキ、という語感の硬さ、重さに惹かれました。 25歳、というと、すごく若く感じるのに、四半世紀、といったとたんに、すごく歴史性というのか、重厚な感じを受けるのは、なぜなんだろう・・・人の一生を、歴史、として見る。そんな意識が全面に出て来る、から、かなあ、などなど・・・。 麻紐、鉄の剥離片、という言葉から、マニュファクチュアから産業革命に到る「人間」の歴史、をふっと思い起こしつつ、「蝶を放る 熱帯のパンダ」ここは、飛躍しすぎていて、置いていかれました(笑) 蝶=魂、という、ものすごくつまんない読みをして、つまづくパターン。う~、わからん・・・ この流れだと「サンダルの緒」をヘルメスのサンダル、と読みたくなるのだけれど・・・ギリシアに飛ぶのは、突っ走り過ぎかなあ・・・ (人間の四半世紀)

2017-05-14

「もってうまれた緑色とか」この一行があって、「生まれると おもって/生まれたとおもったんだな」そんな、自分自身が生まれた時の(既に忘れているはず、だけれど、きっと持っているに違いない)記憶が呼び覚まされる。「すごくきれいだったんだだから」その瞬間(世界と初めて出会った瞬間)を、一度、明確に断言する、そこがとても力強くていいなあ、と思いました。 (外灯)

2017-05-14

カギカッコ(半かっこ?)効果なのか・・・ 全体に「群読」の印象がありました。ざわざわッとした中から、一人一人立ち上がって、よくとおる声でセリフを言うような感じ。 最後の二行だけ、急に静かに独りで語る、感じに「聞こえ」ました。 「高架を矩形波で kの音の連鎖の硬質感とか・・・胸に開けたピアス、ここは、普通の読み方をすれば乳首ピアスになるのか?と思いながら、胸にぽっかり空いた穴、を連想しました。私だけかもしれませんが・・・。 「あたしたち自身を包んで  さしだすために  取り返しに行こう、 この二重構造というのか、ある種の通過儀礼のような、供儀(のようなもの?)に供するために、自分たち自身を取り返しに行く感覚が面白かったです。 学校、に閉じ込められていた「あたしたち」を取り返しにいく、ような。 (Fudge Fuzz)

2017-05-14

途中で送ってしまった・・・・ 最初の方、スマホと充電器、としておいて、 後の方で携帯、と言い換えると、ちょっとしたバリエーションだけれど、恋も携帯できる、みたいな別の意味も重なって来るし・・・そんな、また別の意味を重ねて行っても面白いな、と思ったら、携帯で、出来る⇒携帯できる、にしてもいいかもね、と思った、のでした。 (ゆりかご)

2017-05-12

最初、「叶わぬ恋も携帯でできる!」の部分を、叶わぬ恋も携帯できる!と、誤読してしまったのですが・・・恋を気軽に(リアルでないからこそ)持ち歩ける、そんな、逆説的な悲しみのようなものを感じたんですね。読み直して、「携帯で、叶わぬ恋も出来る」だったのか、と納得はしましたが・・・ 最初の方の 「今日も携帯と充電器 イヤフォンと音楽を栄養にする」 すごくユーモラスで実感があっていいな、と思う部分、 今日もスマホと充電器 イヤフォンと音楽を栄養にする にしてみたらどうだろう。スマホとじゅうでんき、って、なんかリズムがいいな、とか、イヤフォン、と次の行でカタカナが出るので、文字にも繰り返しのリズムが出て面白いな、などと思いました。変えた方がいいですよ、ということではないですが、いろいろ差し替えたり取り替えたり、言葉を入れ替えたりすると、また違って見えてきたり、別の感情が見えてきたりすることもあるので、面白いですよ、というおススメ、です。 (ゆりかご)

2017-05-12

濁った石を 手の中に隠したまま 僕は立ち止まる あまりにお粗末な終奏に 行き止まりを告げられたから 一行目の立ち上がりがとても新鮮なのですが、二行目で進行が止められてしまう(早々と自省してしまう、からなのかな・・・読者に理由を考えさせる方が、先に進んで行く動力になりますよね・・・)二行目飛ばして、二連目に持って行く、とか・・・最後も、「初恋の感覚が飛び跳ねる」面白いと思いました。「初恋が飛び跳ねていく」みたいにした方が、もっと印象に強く残るかもしれません。初恋の感覚、と説明してしまっている感じがあって、興がそがれるかな、と・・・。 人への恋でも、物や詩や夢への恋でも、両方ありますよね。蛍石のイメージがうつくしいですね。 (蛍火の河)

2017-05-11

ねじめ正一さんの、マシンガントークみたいな勢いの「脳膜メンマ」か何かの朗読ビデをを観たことがあるんですが・・・小笠原鳥類さんの、息せき切って前のめりになるような、だけれど体は後ろにあって声だけが先に進んで行くような、超高速朗読も聞いたことがあるのだけれど・・・そういう場面の朗読シーンを、まず連想しました。 これだけ分量が迫っていると、読ませるということよりも、文章の圧というのか、塊をぶつけたい、という感情を先に感じますね・・・ 正直、読みにくいです(ごめんなさい)でも、文章にそれほど飛躍も意味の断裂もないので、文章として辿っていける。辿っていける、読める、その分だけ・・・なんだろう、妙な不満のようなもの・・・もっと飛躍させて(ところどころ切りつめて)先へ運んで行ってもいいんじゃないか、とか・・・ 意識の流れを追っていく、なら、行分けのような形で(間をもっと抜いて)静かに呟くようにしてもいいのかもしれないけれど・・・怒涛のマシンガントークのような感じで、今考えていること、思っていること、感じていることを、ダーッと出したいんだ、俺は~!!!みたいな勢いを感じる、のだけれど・・・ 画面いっぱい横幅使わないで、画面四分の三くらいまでに止めてみるとか、表記をもうちょっと工夫してほしいな、というのが、個人的な感想ではあります。 夢で事故にあったのか!と思わせておいて、実際に轢かれたのか!!というビックリ仰天の終わり方、意識もうろうとした状態の中で、ドーパミン出まくりの状態の再現、という面白さには強く惹かれます。 (水を過分に含んだように重そうに)

2017-05-11

hyakkinnさんへ 何考えて投稿してんの、というのは、読みようによってはスンゴイ失礼な言い方かも(^_^;) 読む人をびっくりさせたいとか、反響を聞きたいとか、イメージのぶっ飛び具合の中に、他の人は何を観るんだろう、とか、そういう意識はあるのかな、と推測しつつ・・・行間イメージが飛び過ぎているので、全体をまとめるというのか、流れにのせていくような、何か盛り上がりみたいなもの、旋律のようなもの(音感とか独自の韻律とか)なにか、そういった「仕掛け」がある方が、「ニッチな需要」が「より広い需要/受容」になっていくきっかけになるかもしれないですね。 (宇宙人)

2017-05-11

あの日って、いつだろう・・・震災とか、親しい人を失った日とか・・・魂が死んでしまうような、そんな衝撃を受けた日。 君、とは誰なのか、僕自身、なのか・・・僕という肉体はまだ寝ていて、幽体離脱のように僕の意識だけが抜け出していて、世界を見つめている感覚でした。君、という存在の稀薄感のゆえかもしれません。 「苦しいことも ほんの/今日の割り当ての分だけしかない」とか 「僕は僕より ほんの少し遠くにいる/僕は君の隣にいる僕より 一メートル遠くにいる」 「君が投げそこね 子供の僕はとりそこねる/僕は投げそこね 子供の君がとりそこねる」 というような言い換えが、散文では絶対に言えない部分だなあ、と思います。 君、は、普通の読み方をすれば恋人なんだろうな、と思いつつ・・・詩なのかもしれないな、と思ったり・・・。 矛盾や葛藤を、そのまま併存させてしまう、そんな言葉の力を感じるのが詩の楽しみの一つで・・・この詩は、そんな「ありえないけどありえる」情景を、静かに歌っているところが素敵だと思いました。 (距離)

2017-05-11

都会の夜、ホストみたいな、でもそうした「職業」についているようでもない感じの・・・カッコイイ、寂しげで青白くて、そんな青年を追いかけたドキュメンタリータッチの映像(映画というより、音楽のプロモーションビデオ)を見ているようなきがしました。 美しすぎる人工的な光景と、「醜」を象徴するような二連目の冒頭・・・美と醜を対比するような感じで進んでいくのか、と思ったのですが、美しさと寂しさと喪失感(砕けていく、滅びていく、という進行形の感じではなくて、繰り返される骨折のイメージのような、カクッと断ち切られたようなイメージ)の方に傾いている・・・のを最後まで読んで、もっと伏線的に「醜」「汚」(でも愛すべき、人間らしさ、のような)ものを入れていった方がいいのか、二連目の冒頭の唐突感を、むしろやわらげた方がいいのか・・・どっちなんだろうな、と思いつつ・・・ (night/MATERIAL BOY)

2017-05-11

連分けしていないのだけれども・・・なんとなく、連ごとにまとまっているのかな、という感じで読みました。 「~Kちゃんは・・・~いる」「~Kちゃんは・・・~呟く」と同形の前置きがあって、「いつもいつも私のきりのない愚痴を~」から、散文体というのか、語りのような感じになる。いつも呟く、の「いつも」を受けているのかな、と思いつつ、ここから先は、あえて「詩」にしようとしないで、「そのまま」言葉を置いたような、自然な印象を受けました。 黙って話を聞いてくれる・・・簡単そうで難しいこと・・・それは、「※印と()のついた「大好きだよ」」から発せられることなんだろうな、という、留保付きの「大好き」で・・・そのことを語り手も分かっているから、「もう疲れた」と呟いて重荷を下ろしたくなるんでしょうね・・・。 水素水を飲む、アイスクリーム禁止、という、軽めの行為/厚意/好意による「やるべきこと」の提示・・・まるでカウンセラーのようだと思いながら・・・語り手は、「Kちゃん」との対話を思い起こすことで、気持ちを解放したり、自分でそれを確かめたりすることができるようになって行くのかもしれない、と思いました。 (カカオトーク)

2017-05-09

皆さんへ なるほど、確かに翻訳体的な感じもあるかもしれません。カッコイイ言葉というか、術語のようなものを使って見たかった、というのもありますし・・・ もともとは、昔から繰り返し見る悪夢というのか、美しさに吸い込まれそうになる夢、がベースなのですが・・・落ちていく火が、自分だったら・・・と思うとぞっとする。そんな、危うげな網のようなものの上で、言葉というネットワークでかろうじてつながっている「いのち」のようなもの・・・・(それは、実際の命というより、言葉の命とか、そんなイメージかもしれませんが)を書きたい(かけない)というあたりの、言葉を生みたい、的なもの、なのかなあ、と・・・思い、ます・・・。 (夢魔)

2017-05-09

戦争でなくなった人たちは、桜をどのように見ていたのか、どんな風に想いを重ねたり残したりしていたのか・・・「まっかなまっかなさくらいろ」なんだか、血の雨のような・・・朝顔さんも書いていらっしゃるけれど、「終」の字の怖さがひしひしと迫って来るような気がしました。 (さくらちゃん)

2017-05-09

「私を雑にしまわないで」え~!語り手、しおりさん、だったのか・・・という・・・。「夜を読む度に跳べる」こういう、新鮮な感覚、好きです。「文字だんごの尾は短く」こういう生き物が、いるに違いない、という妙な確信を感じてしまう。私は、ハリネズミみたいな(文字をピンピン背にけば立たせているような)生き物を想像しました。「誇りを毛だち欲しがっている」毛達?けだち、と読むのかな、他の部分が、意味は自由に飛んでいるのに文法が全部「正しい」ので、ちょっと引っかかりました。ワザとなのかな・・・わからん・・・「指で謎る 揺らぐ言葉の毛を」謎めいた、意味の理解できない、でも意味のわかる、不思議な何か、を指でなぞる、感じ。言葉の毛・・・ということは、その前の「毛だち」も、言葉の毛立ち、なのかな・・・。 「言葉の速度は駆け抜ける」「文字の塊が心に溶けていくから」ハリネズミみたいな文字だんご君が、心に溶け込んで一緒に疾走していく、ような・・・そこに、夜の雨がしっとりと降り注いでいる、わけですね・・・ 本が閉じられる時、魂も一緒に挟み込んでしまって、本体(肉体)が眠っている間に夜空を旅しているような感じがしました。楽しい。 (栞紐)

2017-05-09

フェイドアウトするような冒頭、「手」の温もり、手触り、手紙・・・手に関わる太い流れがあって・・・てのひらに刻まれた「壺」の中に、作者は(読者も?)入り込んで(落ち込んで)しまったかのような、西遊記的な驚きがありました。 「みんなの為に この人は素手で こんなことをしていたのか」この一行が、とても好きです。蛇つかいの音楽みたいに、不思議ワールドに連れて行ってくれる、癒しなのかもしれないし、冒険なのかもしれないし、そんな音楽。手を汚さないと、美しいものも不思議なものも出来ない。 入り込んだ不思議な町は、手を触れない、手を汚さないようにした「罰」なのか、そのことに気付いて手を洗うふり、をしたのか・・・それとも、誰にも知られないところで、黙って手を汚している、そんな素敵な仕事をしている人の存在に気付いた人だけが体験できる、「ご褒美」なのか・・・彼、古い友達、彼女、とたくさん人が出て来て、ちょっと混乱しました。その「困惑」も、作者の手品にかかってしまった、ということなのかな・・・でも、人間関係をもう少し、はっきり見てみたい気もします。 (彷徨い)

2017-05-09

終わり、から始まって(というのも変ですが)始まり、で終わる。流れるような文章は、もしかしたら連想によって次々生まれるにまかせたのかな、という気がしました。 言葉/言葉、心/心、と重なる部分、鳥/飛び、差別する言葉/励ます心、と重なる部分が目に飛び込んできます。爽やかに終わって、砂糖菓子のように始まるのか・・・何事もそうありたいなあ、と思いつつ。 他の方はどのように読むのか、それもまた、読んでみたい作品です。 (The Last)

2017-05-09

「それぞれの距離は等間隔であるのに、むしろ不均衡な空気がただよっているのなら、」仮定法であるのに、既に起こってしまった出来事を叙述しているような不思議な感覚がありました。起きてしまった出来事を、もう一度、時間を逆廻しにして思い返しているような・・・起きてしまったこと、を、起き得たこと、と時間を遡行して言い換えようとしている(でも、それは不可能である、ということによって、限りない切なさが生まれる)というような。 夫を失い、弱った母親を一人にするわけにはいかない、と同居することになった娘夫婦と娘の母親・・・その間に通う、和やかとは言い難い空気、そのような物語を感じました(人によって、長いこと離れて住んでいた親子とか、別の関係性を見るかもしれません) 「その人のまくられたセーターからこぼれる腕の静脈のひとつひとつを「ひかり」と呼べるほど、」白い腕に浮ぶ静脈を見つめる語り手の眼は、観察者の眼であって、肉親を想ったり大切な人を慮ったりする感情移入が感じられない、どこか突き放した距離感もある。その微妙な感動の所在を、「その人のぎこちのない笑顔に慣れていないわたしがいるから」と静かに、2人の関係性をも含めて見つめる視点。 それでいながら、冷たく突き放すわけではない。むしろ「その人」に温かく寄り添い、その人が発したいであろう言葉、しかし(遠慮して)飲み込んでしまっている言葉のことを想い、「その人」が、再び自由に歌を奏でることを祈っているような、そんな温もりを感じました。 (no title)

2017-05-07

上記のレスはまりもです。スマホからで、失敗しました。 (Saveと私)

2017-05-05

上記のレスはまりもです。スマホからで、失敗しました。 (把握していない真相な新装の深層である心理)

2017-05-05

上記のレスはまりもです。 (一枚の鏡のように)

2017-05-05

上記のレスはまりもです。 (ル・カ)

2017-05-05

上記のレスはまりもです (なきむし)

2017-05-05

スマホから、です(まりも) (地面を舐めた)

2017-05-05

赤土と黒土、砂を、実際に食べて確かめる、ということをやらかした幼稚園時代(だと思っているのですが、わりと鮮明な記憶なので、小学校低学年かも知れません)を経験しているので、共感しながら読みました。 赤土は渋くて、黒土は甘くて、砂は傷口の味、血の味というのか・・・砂鉄の味がしました。 後半の、さみしさに踏み込んでいくところは、夏生さんの独自性が現れているところでしょう。なにも応えてくれない、という、不毛感のような寂しさ、空虚感。 転んだ時、あるいは転ばされたとき、の屈辱や傷みを思い出してしまった、というような、全体をメタファーとしても読めると思います。 地を舐めるほどあなたに近づいたのに、応えてくれない、というような(そこまで読むと、恣意の方に引っ張りすぎになってしまいますが) (地面を舐めた)

2017-05-05

コメントありがとうございます。 様々な書き方があると思いますので、手本とか見本と言われるとむしろ恐縮してしまいますが(私なりに目指している方向性、ということで言えば) パッと全体を見渡せる分量、非現実的な設定であっても、つじつまというか、ロジックが連なっていて、意味や情景を負っていける可読性があること、幻想性や神秘性を感じる領域に踏み込みたい、そこで現実の影になっているもの、重なりあっているものを、その重層性のままで表せたら・・・というような、欲望は抱いています(笑) (現況)

2017-05-05

という状態、とか、と言っていい、というような叙述は・・・クールな、客観的な叙述である、という感覚を与えたいのかな、と思ったのですが・・・言い切り、断定の形にした方が、臨場感が出るかもしれない、と思いました。 後半の展開が面白いのですが、いささかストレート過ぎるかな、という印象もあります。 (なきむし)

2017-05-05

背景に音楽があったら、酩酊感の中のインパクトとか、メリハリがもっと際立ってくるのかな、と思いつつ・・・揺れ動く感情、アンビバレントな感情の流れの中に読者自体も取り込まれてしまうようなところがあり・・・迷宮の中に閉じられて、いつ、ここから出られるんだ?という感覚を覚えた作品でした。 他の方のレスも見てみたいです。 文字作品としては、もっとメリハリや構成を考えた方が良いのかな、と思うのですが、この酩酊感や取り込まれ感は、推敲や言葉の絞り込みを重ねると消えてしまうものなのかな、等々・・・ (ル・カ)

2017-05-05

amagasasasiteさんやhyakkinnさんのコメントを拝読して、自分では素直すぎるくらいに「べた」な比喩で書いていると思っていたのですが、最初に観念(骨格)を出して、あとから肉付けしていたんだな、と気づかされました。肉付けの部分こそが、実は詩なんじゃないか、と思っていて・・・つまり、いきなり骨格標本見せられたり、解剖模型を見せられても、そこに美を感じるのは難しい(もちろん、肉体を見慣れた人には、むしろ骨格や内蔵の方が面白かったり美しかったりするかもしれませんが)そんなことを、ボンヤリ考えました。 (一枚の鏡のように)

2017-05-05

勢いがあって、流れがあって、しかもうまくまとめてきている。良作だと思いました。 表層的なものを捉えているようでいて、「彼女」の造形がくっきりしている。 しゅパッ・・・「スマホ画面で、指をスライドさせて通知を消す」行為、でいいんですよね(ネットを使い始めたのが30代後半なもので・・・)その、一瞬で捨て去ってしまう関係性と、サイダーを開けた瞬間の、心の蓋も一瞬で開いてしまったような、スイッチが入ってまた消えたような(例えば、一瞬浮上する殺意)感覚がとても新鮮でした。 スマホやネットがあたりまえの世代の「世界把握」というと大袈裟ですが、そうした感覚的な、新鮮な捉え方が光る作品だと思います。 (把握していない真相な新装の深層である心理)

2017-05-05

饒舌体、というのでしょうか。徹底的に独白なのに、自分の内部ではなく、外部を見続けている。外部が「私」に何をもたらしているのか、を確認し続けている、とでも言えばいいのか。 特に前半の連は、きりきり引き絞るような一定のテンションで、言葉を断定的に切りながら文の流れは切らない(太い流れがあって、表面だけスタッカートを入れていく感じ)その、感じる主体の首尾一貫性を評価したいと思いました。 幻想的な情景とリアルな情景とが無理なく連結されているのも、主体が一貫しているからだと思います。 その分、周囲に馴染めない、沈むことが出来ないのか、浮上することが出来ないのかわからないけれど、自身が水と油のように弾かれてしまっている体感のようなものが伝わる作品になっていると思いました。 最後、素晴らしい、を止めて、すごい、と言い直しているけれども・・・反語的な「素晴らしい」であるなら、三連チャンであえてぶつける、というのもあるかな、と感じました。 (Saveと私)

2017-05-05

同種のフレーズを重ねていくことで、かえって表現が強まる場合と、くどくなる場合(うるさく感じる場合)があるように思います。この作品では、言いたいことを重ねている、というよりも、自分の考えを静かに重ねていく、行きつ戻りつしながら、その道程そのものを作品にしている、という印象があるのですが、どちらかというと、くどい印象を受ける人が多い、かもしれない、と思いました。 評価を受ける。 それは承認欲求の満ちる要因の一つ。 だけど、 なぜだろう、 僕は嬉しくない。 心の奥底で何かがくすぶっている。 褒められることの優越感とそうなれなかった者の妬み。 その両方は僕は知っている。 僕は嬉しい。 だけど他人はどう思うの? 「あいつはうぬぼれている」 「あいつは抜け駆けをした」 「あいつを引きずり降ろそう」 僕にはそんな声が聞こえる。 ・・・たとえば、こんな形で削りながら、先へ先へと進めていく、というのも、一案だと思いました。(こうしなくてはいけない、ということではないですよ、あくまでも、ひとつの例、です) (僕は愁う。)

2017-05-03

とても良い作品だと思ったので、細かいですが、気になったことを書きますね。 「恐らくは悪阻の度に アルコホルで痛みを誤魔化していたのであろう」 大人になった「私」が、母の辛さを理解し、包み込むように受容している、とても印象に残る推察だと思うのですが、悪阻(つわり)であれば痛みよりも痛苦、悪寒、などで、陣痛ならば痛み、なのでは?と思います。 「ゆらゆらとしたアルコホルのかほりがした」通常なら、ゆらゆらとアルコホルの・・・となるのでしょう。~とした、~がした、と脚韻を踏むような肌なじみの良い語感ですが、「ほ」の音を際立たせるなら、むしろ、ゆらゆらとアルコホルの・・・と持って行った方が良いようにも感じます。 それから、アルコホル、かほり、この表現が、セピア色のトーンを重ねるような独特のニュアンスを醸し出していて、個人的にとても好きです。 でも、それならば、なぜウヰスキイ、にしないのか、とか、促音の「つ」はどうする?とか、「言ふ」「あらう」になるんじゃないか、とか(旧仮名に詳しくないので、自信ないですが・・・)もちろん、かほり、アルコホル、だけ、あえて固有名詞のように「ほ」を用いる、という方法もあるかと思いますので、そのあたりはあまり厳密に考える必要はないとも言えますが。 「無常に流れ」ここも、もしかしたら「無情に」なのではないか?とか・・・ 説明的な、直截な表現が多い、という印象はありますが、あえて、淡々と「報告」するように綴り、その歳月をまたぐ叙述を「ゆらゆらと」という語感とイメージでつないでいく。全体が水の中に揺蕩っているような、不思議な揺らめき感の中で展開していくところが素敵だと思いました。 (恩讐)

2017-05-03

今日も 風が吹いています だけど 風は何も語りません 明日も 風が吹くでしょう だけど 風は何も教えてはくれません この印象的な始まりを、あえて最後にもう一度繰り返してみる、とか・・・ 繰り返し感のある部分と、シャウト感のある部分が、もう少しくっきりするようにメリハリをつける、とか・・・意味を追う部分(バラード的に、語る部分)と、歌に徹して語りを支える部分を仕分けしていくなど・・・そんな整理がなされると、もっと訴える力が強くなるような気がしました。 (風とともに生きてゆく)

2017-05-02

文章の区切り方(改行のリズム)に独特の屈曲があって、そのリズム感に揺さぶられながら読みました。 「弟のなきがら みたいな顔してねむってるはなみずを」 なんて、えっと驚いて、それからずっこけるようなズラシがあったり・・・ 「体が割れていく、ゆびきり、寒さが、少し空いた窓から差し込んできた夜が、本当に寂しい」この、とつとつと途切れながら、流れるように一気にあふれ出すような一行、とか・・・「わたしの/ 体が前に歩く」魂だけが夜空に抜け出して、歩いている、ような感覚とか・・・ どんなに子守りの上手い姉でも、「呆然とするわたしのこころの外側を抱いてくれる」ことはあっても、こころの内側、本当に寂しい、その芯のところは、抱いてはくれないんだな、とか・・・ 「みんな丘の上から流れていく比喩、きっと、朝日がこうして昇るから、その度におもいだす、不甲斐なさと一緒に流れてしまう、削がれ落ちた透明な手のひらのひふがはがれおちて、」この流麗な一節、とても素敵でした。 丘は、故郷の景であるように見えるけれども・・・子供時代とか、想い出の国と、現実界との境界にある「丘」のように感じました。 (丘の向こうに消えてゆく)

2017-05-02

熱い命を燃やすよりも 冷たい人工物のほうが明るいの 終りはあるけれど寿命のない 冷たい人工物のほうが明るいの この切なさという可矛盾というか、発見が、この詩を成立させているように思いました。後半、言葉がのってきている反面、同じような言葉を繰り返す部分が目立ってきたり・・・繰り返すことによって、酩酊感とか、エンドレス感とか、強調とか、逆に意味を薄める(意味がない、感じになっていく)とか・・・そういう「効果」があるかどうか、考えながら推敲していくと、もっと引き締まった作品になると思います。 素敵な「発見」を大事にして下さい。 (やさしい無機質)

2017-05-02

眠れない夜。ちびちびとふっている雨、なのに、まるで自分が孤島に取り残されているような、水の底に町全体が沈んでしまったような感覚。足裏のトゲ、この、命に関わらないけれども実にうっとうしくて痛くてうんざりする、そんなやっかいなものが、心のトゲとして最後にもう一度、現れるような気がしました。 (ノイズ)

2017-05-02

サメは軟骨魚類だったなあ、と思い、骨の無い魚、これは鮫と読んでも面白いかもしれない、と勝手に考え・・・鮫のことを、古代日本では鰐、と読んでいたなあ、と思い・・・稲葉の白兎、鰐。古代神話の世界が、時代性を剥奪されて、ロンド形式の構造の中に散りばめられている、その質感を考えながら・・・利口ぶっているけれど騙されて、ひどい目にあって殺される(死ぬ)「うさぎ」的な人々と、黙って使役されることによって、むしろ生き残る部類の「さめ」的な人々のイメージを抱きました。「さめ」的な人々は、「うさぎ」的な人々の死を、悼むことすらしない(気づかない、から)。うさぎって、なんだか、詩人たちの暗喩みたいだな、と思いつつ・・・ (Land Scape Goat)

2017-05-02

宇宙人、というのは、この詩を書いている人、が、まるで宇宙人のようだ、というイメージと重ねている、のかなあ・・・と思ったり、ダースベイダーが出て来るんだから、宇宙人に決まってんじゃん!と思ったり・・・ 大真面目に「バターを多めにとって」と言われると、逆にずっこけるような面白さが出て来る、のは、なぜなんだろう・・・ちびくろサンボ(今は、この名前は使わない、ようですが)の、バターになって溶けてしまったタイガーたちを思い出したり・・・。 「小豆のさやにライターで/火を付けると/幻想的な発色をした」個人的には、こうした詩行が好きです。豆を煮るのに、豆のさやを燃やす、という故事も、なんとなく思い出しました(これは、関係ないかも、ですが・・・) (宇宙人)

2017-05-02

異存は無かった  意味は無かった 畏友が増えた 井田さんに会いに行った 伺候して この、い、で始まる言葉が一定間隔で出て来る、その、ある種の酩酊感のようなものが、まず印象に残りました。柵を越えて、から、一気に弾けるというのか・・・言葉が飛びまくる、というのか・・・全体に、たんたんと一定のリズムで進んで行くような感覚があるのですが、後半、内容がはじけていくのと呼応して、リズムもノッテ行くような、そんな「序破急」の構成にしてもよいかもしれない、と感じました(好みですけれどね。) (頑張った)

2017-05-02

壺の紋様、ではなく、もんよう、と平仮名で表記されることによる、読みのスピードの調整・・・「変調による捻れが吐く嘆息の」のような、ワルツに似たリズム、「半音の意識の針」haの音が導いていく、息を少し混ぜていくような質感、右斜め上、ならぬ、「耳斜め上」・・・。音感の豊かな作品だと思いました。 題名そのものも音楽的ですが(あるいは、サティがギリシアの壺を見ている、そのシーンに同化しつつ)「誰かを見ていたように/誰かに見られていたわたしの」から反転していく後半、なかなかスリリングですね。 作品を作る、それを残す、ということに対する永続性(への願い)と、忘れ去られる、葬り去られる、それならいっそ何もなかった、その方がよい、というような、創作家の内面の揺れ動きが表現されているように感じました。 (ジムノペディ)

2017-05-02

火に油注ぎ、という、通常は慣用句で用いられる言葉が入ることで、なんとか笑顔を保っている生産者の方の心が、煮え立ったり燃え立ったり、時には苦痛で歪んだり・・・しているような気がしました。なんども自身に「生きている間は幸せだったのだから」と言い聞かせ、牛をお客のために焼く。炎を上げる油、自身に言い聞かせて、収まったはずの心の波立ちが、再び激しくなる・・・「少なくとも今/苦しくありませんように」人間の欲望の狭間に立つ人の、祈りだと思いました。 (牛肉)

2017-05-02

連投、が、詩を三篇連投する、という行為であるならば、いささか安易な題名の付け方ではないか、と思いました。 同時に、音から「連祷」を連想しました。短く刈り込んだエッセイを、語りのリズムで区切って並べていく、そんな形式・・・詩とは、語り口のリズムである、そんな加藤さんの「詩論」が詩形に現れている、ように思うのですが・・・心をなるべく波立たせずに、淡々と、外側から眺めるように綴っている。もっと詩の内部に自らを投じてもよいのではないか、そんな想いにも駆られます。 (連投)

2017-04-29

るるりらさん 一連目の、やたらに理屈っぽいところ(その分、直球になってしまっている、というのか)その、骨のようなところに注目して頂けて嬉しいです。 その「骨」を感じさせる肉体、をいかに動作させるか、なんじゃないか、と思いつつ・・・その骨をそのまま出す、というやり方があってもいいんじゃないか、とか・・・詩(作品としての)が肉をまとった骨である、として・・・肉が朽ちた後に(読者に読まれ、忘れられた後に)白く骨が残って光っているような、そんな詩が書けたらいいなあ、と、るるりらさんからのお返事を読みながら思いました。 (一枚の鏡のように)

2017-04-29

崩れやすい豆腐、のような「私の心」ということ、なのかな、と思い・・・じっとみつめているうちに、自分がそのものになってしまう、同化していってしまう、そんな幼児期にとりわけ顕著な心象が、そのまま描かれているような不思議な感覚がありました。 (暗いくらい水の中)

2017-04-29

外界と接する時に、仮面をつける、というイメージを抱く人は多いと思いますが、どうも「仮面」では言い表せない、衣服のように全身を包むもの、鎧、のようなもの・・・をイメージするのですが、それもまたしっくりこない・・・そんな感覚を持っていたので、なるほど、膜か!と手を打ちました。繭を自ら創り上げて、その中にこもってしまう、ような。でも、完全に閉じこもってしまうわけではない。もっと柔らかくて、内側から手をのばせば、その形に変化して、その膜を通じて外部の物に触れることもできる。 その膜を、洗い流してしまいたい、まっさらな身体で外部と接したい、と思っている、そんなイメージで「洗う」という言葉を畳みかけていく連が生きていますね。他方、「五時間の流れ/膜の中へ/呼ばれ/はじかれ/追いやられ」の連が、全体の流れの中で私には掴みがたかった。なぜ、五時間、なのか。膜の中へ(戻る)と、いったん文の流れが切れているのか、あるいは、膜の外へ呼ばれ、今度は膜の中へ呼ばれる、と対句になっているのか・・・。 全体に抽象性が強く、もどかしさもありますが、外界との間の「膜」の質感、膜の内側の居心地よさ、しかしそこから脱しようとする意志のようなものが伝わってきました。 (膜)

2017-04-29

一行目の衝撃的な立ち上がりは、「ありえない」情景であるがゆえに何かの比喩だ、と思って読んでいて・・・そうではない、「ほんとうに」燃やしたのだ、と明かされていく展開に驚嘆しました。 「私」と「彼女」が頻発するけれども、不思議とうるさくない・・・繰り返されていく感覚が、ある種の酩酊感を醸し出すからかもしれません。 ロジックがとてもしっかりしていて・・・「彼女」は「私」に「幻想」を与えてくれる、夢を見させてくれる。その代わり、「彼女」は「私」の代わりに傷を負う。語り手(私)が魂で、魂が見ている「彼女」が肉体、であるように思われてなりませんでした。 具体的に、リアルな手順で「彼女」を燃やすところは、詩を語る主体(私)が、焼身自殺を詩の中で完成させた、ようにも思われました。 冒頭のシロツメクサの花冠を作る場面が、〈枯らせずに腐って叱られて捨てた草の冠〉として最後にまた現れる。(ガソリンが床を腐らせる、という言葉も出てきますが、これは、最後の草冠を腐らせる、を導くために置かれた伏線、なのか・・・ここは、若干、違和感がありますね・・・)ドライフラワーとして美しく保存するのではなく、腐らせてしまった子供時代の魂と肉体の蜜月の記憶・・・いつまでも子供でいるんじゃない、と言われ続けて、無理やり自身を引き裂いて大人になる、ある種の通過儀礼でもあるようです。マッチで燃やす、という設定も、マッチ売りの少女を連想し、自らの夢を燃やしていくかのような痛みを感じました。 (親愛なる灰へ)

2017-04-28

古風な均衡のとれた表現の中に、季節が季節を「喰い破る」という、強度を持った動詞が入って来るところが面白いと思いました。 どこかはるかなところからやってきて、食い尽くす、のではない。既に内包されているものが、皮を喰い破るようにして現れる、イメージ。 「喰う」と「食う」が共に用いられているのですが、意図的に言葉を変えたのか、単純なミスという可不統一なのか・・・小さなところですが、大事な言葉なので気になりました。 (喰らふ)

2017-04-28

なんとも不思議な読後感の作品でした。 『鳩の目のような寝返り』、そんなものあるの?と思いつつ、きっとあるに違いない、と納得してしまう、不思議な書き出し。棚には、ではなくて、まるで棚そのものが意志を持って並べているような(家屋は、の部分なんか特に)、物が者としてそこにあるような、それでいて人がどこにいるのかわからない、そんなシチュエーション設定から生まれる不思議さなのだろうと思います。「電球と 稀に 豆電球は/まえかけに貯めて/小ネジを加えて」このあたり、とても面白いけれども・・・「ま」でつながって行く音感とか・・・その前後が具体的な情景描写なので、アクセントとしての面白さ、と・・・混然・困惑をもたらすイメージの流れに、遊び過ぎ?という感想を抱く人もいるかもしれないな、と思いました。 最終連の謎めいた終わり方と、「電球と 稀に 豆電球は」の部分の奇妙さとが合わさって、さらに題名の、イメージの鮮烈さと、本文との関係に謎を残す付け合い・・・シュールレアリスムの絵画を鑑賞しているような感覚が残りました。 (黄緑色の虫)

2017-04-27

題名と内容との絶妙な関係性に、まず拍手です。 石垣りんさんの「暮らし」を遠く重ねつつ・・・自分自身を調理して提供している語り手、その様子をどこかユーモラスに捉える二連目の、息継ぎというか語りかけ(言いつのっていく)リズム。強度のある短い三行で、矩形の中に詰め込まれた言葉を更に挟む詩形。最後に骨にまでなった「私」は、その骨によって明るくキッチンを照らし出す・・・予想外のラスト。白く照らし出されたキッチンには、きっともはや、誰もいないのでしょう。家族たちは、「私」を食い尽くして、それぞれが自分の部屋なり、仕事場なりへ出かけてしまっている、ように思います。でも、この詩はその告発ではない。「私」の哀れさを訴えるわけでもなく、「私」の犠牲精神に焦点を当てるわけでもなく・・・ただただ、事実としての「家族」の有り様を、静かに照らし出しているようなところに、凄みを感じました。 聖家族、という「美しい」「理想的な」家族の情景が、全て食い尽くされた「私」が白々とその光景を照らし出すというアイロニーによって、まったく別物として描き出されている、と言えばいいでしょうか。 (聖家族団欒)

2017-04-27

朝顔さんの論に触発されつつ。手書きで詩を書いていた人が、ブラインドタッチでパソコンを打てるようになった後、パソコンで詩を書くと、無意識層が自然と現れやすくなった、ということを聴いたことがあります。スマホで自動筆記的に打ち込むときは、なおさらでしょう。 朝顔さんが「推敲が一見して足りないように見える部分がむしろ魅力的」という表現をしておられますが・・・ある種の舌足らずな感じ、とでも言えばいいでしょうか。でも、モタモタした感じにならないのは、言葉の流れが歌詞的に把握されているからではないか、と思いました。 「美しいものへの思慕要らないものにだって憧憬」と、体言止め、対句的に言葉を重ねた後に「~よ」と脚韻的に止めていったり、「いつもここにいた私自身分身憎めはしない」ここにいた私、私自身、とずらしながら重ねたり、自身分身と韻を踏んだりするところとか・・・。「秘密ないかまたはある/真夜中に太陽は上らない考えること/それは悲しいことうるっとくるね」このあたりも、一気に読み流す(歌う)リズムが優先されて、通常の語法が、破壊されるほどではないけれど・・・なんだろう、崩す、とも違う、ずらす、と言えばいいのかな・・・意味を辿ると、当たり前のことを言っているのに、文体の持つリズムで、そこがむしろ新鮮に聞こえるところが面白いと思います。 三連目は、少し観念的になってしまったかな、という印象があるのですが、二連目の鳥かごに閉じ込められている(自ら檻を作りだして、その中に閉じこもってしまっている)歌い手、としての心、詩人の心をカナリアに喩えた部分が、とても素敵だと思いました。 (答え尋ね)

2017-04-27

食欲と性欲、三者のまぐわい、というかなり(本来なら)異常ともいえる状況が、むしろ普段通りの情景としてそこにある、という不思議な大らかさが印象に残りました。性を恥ずかしいもの、隠すべきもの、としてではなく、自然なもの、相手を満たすもの、という関係性でとらえている。 食事を作り、提供する「妻」の行為は、二人の「夫(?)」への好意であり、厚意でもある。リュウをいかせること、「夫」を満たすこと、に「妻」が満足を覚えるなら・・・「妻」を満たしてあげるのは誰なんだ、と疑問を抱いたところに、「妻」の所望した土産が出て来るわけ、ですが・・・。 対談、ではなく、鼎談の場合、三者が同時に対話することはなく、常に二者が語り合って、それをもう一人は聞き手として聞くことになります。 三者が絡む行為、というものが、正直な所私の理解を越えていて・・・その場合でも、行為は常に二者の間にのみ行われ、独りは「見ている」ことになるのかな、と思い・・・。「僕」は、二人を見ているだけで満たされてしまう、ということなのか。「僕」は何もしてあげられない、という淋しさを抱えているのか。 リュウの事後に、「妻」を満たすことが「僕」の役割であったのかもしれないけれど、それを果たすことができない「僕」の失望感とか自分自身に対する苛立ちのようなものを解消するものがバイブローターなのかな・・・「保険」という言葉が出て来るのは、そのあたりに理由があるのかもしれない、などと思いました。 どちらにせよ荷物は届かず、三人とも満たされないままの夜を過ごした、ということ・・・と残念な夜、というイメージは結びつくのですが、「大陸的」という言葉のニュアンスが、今一つ、よく伝わって来ませんでした。 中国と日本と朝鮮の三つ巴の関係性に重ねてみれば、見えて来るものがある、のかもしれないけれど・・・それにしては情景描写も用いる単語もストレートなので(笑) メタファーというよりは、やはり三者の関係性の物語、と、単純に読んだ方がよいのかもしれないですね。 (大陸的な夜の残念さについて)

2017-04-27

春先の、まだ肌寒い(息が白くみえる)時節の、深呼吸。 少し黒い手、は、日焼けした手かもしれないし、真冬のどんよりと暗い曇り空ではなく、明るいグレートーンの空にかざして、逆光で黒く見えているのかもしれない。 いずれにせよ、くろいて、の「く」から、くもり空の「く」へとつなげながら、空を引きちぎってのむ、というダイナミックなイメージに惹かれました。 吐いた白い息が、灰色の雲を浄化して白く吐き出しているようにも見え・・・語り手自身が、春を呼び覚ましていくような・・・体そのものが自然の一部となって再生を感じ取っているような感覚がありました。 最終連、くすぶっている、で止めた方が余韻が残ったような気がするのですが、どうでしょう・・・。 なめらかに膨らんでいった後、息が弾んでいるような小さな乱れがある、そんな息づかいのリズムが、詩形に現れているようにも思います。 (息)

2017-04-27

「上の眺めを先に知る君」爽やかな表現に惹かれました。憧れる友人、なんでも一歩先を行く先輩、のようなイメージで読んでいたのですが「よりによって光が射すから君が 一瞬だけ影のようになって消える」この不思議な一行、そして、また現れる君・・・自分から抜け出して、理想の僕(未来イメージの僕)が先を駆けている、それを実体の僕が追いかけている、ようにも感じられて面白かったです。 (登っていく)

2017-04-26

連詩の場合は、つかず離れずというのか、少しずつずらしたり飛ばしたりしながら、はるかな場所に連れて行ってもらう、連れまわしてもらう、イメージなのだけれど・・・リレー詩、これは・・・なんだろう、トラックを周回している感じになるのかな(リレーという学校!な感じの言葉、ティーンエージャー!!という感じの言葉のせいかもしれない)文体を一体化させていくような書き方、すごく新鮮でした。 (リレー詩 ~百均&奏熊ととと~ (B-REVIEW.Exhibition))

2017-04-26

コメントしたはずなのに、入っていなかった・・・ 「ふたりきりは   ぼくらに素敵な空白で」ここでふたりの間に広がる沈黙が白く現れるような気がしました。居心地のよい、沈黙。暑い夏の日盛りに、そこに冷たい麦茶が置かれる。グラスの周りにつく水滴、泪のように落ちていく水滴、テーブルの上に溜まる水たまり。三人目の存在(空虚)が示されたところで、2人の間の沈黙が、少し異質なものに見えてきました。 「グラスの表面に     ひとすじ雲の光線が通り」飛行機雲のようなイメージでしょうか。まったりした時間に、すっと筋がつけられた、傷がついた、感じ。 「希死念慮を   ひとかけらも   抱けない仕方で     「短命は徳なんだ」と   わかりながら   帰った」 もしかしたら、三人目の空白は、自死によってもたらされたものなのかもしれない、と感じ・・・そのことを、理解できないまま、心の底で腑に落ちるようにとらえる、その時間が「空白の時間」だったのかもしれない、と冒頭に戻ったところで、かくめい・・・命を革める、という転覆の言葉が置かれる。平仮名の柔らかさに考えさせられつつ・・・自分はどうやって生きて行ったらいいのか、と、静かに自問しているようなエンディングだと思いました。 (かくめい)

2017-04-26

無機的な記録のような題名、その後に三行、少しずつ書き換えながら・・・何度書いても、しっくりこない、上手く言い表せない、というもどかしさを醸し出している三行に引き込まれました。 介護の情景なのかな、と思いながら・・・続く風景描写が素敵ですね。 「外灯に高く ブランコ二つ 影が揺れてる」ふたりだけ、世界に取り残されたような寂しさを、情景描写で描き出している部分。細かいことですが、外灯/街灯、辞書的な意味が若干異なるので、これはどちらの意味で用いているのか、ちょっと気になりました。横書きだと、二はカタカナに見えてしまうので(一瞬、ですけどね)ブランコふたつ、と表記した方が良いかもしれない、と思いました。 冒頭7連目までの飛躍の仕方、距離の取り方が絶妙、言葉の流れもこなれていて、全体に引き締まった詩だと思って読んでいましたが・・・「世の中が過ぎていく」以降は、あえて自動筆記的に、詩を緩めるような意図で書かれたのか・・・自分自身からあふれてくるものが収拾つかなくなって、流れ出すままに任せたのか・・・そこが判然賭しないのですが、緩んでいるように感じました。「楽しそうな~」から「ノクターン 無念の~」あたりまで、もう少し刈り込むことができるのではないか、また、一字下げなどにして、少し地の文とずらしても良かったのではないか、と思いました。 終盤、社会事象などがランダムに自分の中に流れ込んでくるような、そんな内省/内声で終わっているのですが、認識している体は、まだ夜の公園にいる、のだろうと思い・・・あるいは、その情景に戻って(オーソドックスな額縁型の詩形ですが)最後を締めてもよかったかもしれない、と(あくまでも個人的な感想ですが)思いました。 (20170425)

2017-04-26

「手におえるサイズだからこそ」ここがとりわけ、ぞくっと来ますね。 人生はマッチ箱のようなものだ、だったかな・・・確か芥川が、真面目に扱うにはばかばかしすぎるが、いい加減に扱うには危険すぎる、というような感じで喩えていたけれども・・・。 レモンで思い出すのは、梶井基次郎の檸檬・・・智恵子の檸檬・・・爆弾のように、世界を吹き飛ばしてしまう(吹き飛ばしてしまえ、という)なにか、を秘めているような、同時に、全てをゆるし、浄めてくれる太陽の滴を抱えもっている、ような・・・ 暗がりで、凝縮された光を紡錘形の形の中に張りつめさせているレモン。これから、何が起きるのだろう・・・「ひんやりとつめたいお日さま」そう、この矛盾を内包しているものが、手に負えるサイズであるからこそ、怖ろしいのです。 (小悪魔)

2017-04-26

マイハニー、と呼ぶところを、あえて「ハニートースト」と呼び変えている、ことによって、奇妙な錯視が現れて来る・・・食べる、という生の行為も、性のエクスタシーも、何度「満たされた」と思っても、またすぐに空虚に、渇望に苛まれる。食べ慣れることによって飽きて来る心理、見慣れることによって飽きて来る心理。 「茶色の髪色と 優しい目の輪郭だけが 浮かび上がる夜に 別のきみを想う (つまり、見飽きた黒髪とキツネ目のことだ」 ここは辛辣さと不気味さとを兼ね備えた部分だと思いました。 四歳サバをよんだ人、と、生クリームで飾り立てたハニートーストとは、重なっているのでしょうか? 生クリームの持つ質感と甘さ、シナモンシュガーの持つ渋さや爽やかさ、懐かしさを孕んだ甘さ、このあたりの比喩がユーモラスだと思いながら、杏仁豆腐がもう一人(?)出て来て、その関係性が読み取れませんでした。 「目」が印象的に繰り返されるのですが、全体がもやもやとした空間の中に放置されているようにも感じます。ハニートーストの生クリーム添えとシナモンシュガー添えの微妙な差異(という比喩)に徹しても良かったのではないか。杏仁豆腐の位置取りが、腑に落ちない作品でした。 (めでたしの始まり)

2017-04-25

感覚を開けて⇒間隔をあけて 考え考え書いていたら、ミスを見落としました。すみません。 (はるのつき)

2017-04-25

ちょっとだけ変えて投稿して、運営側がどう対応するか見てみよう、違いを見定められるか、確かめてやろう、という意図であったのか、僅かな差異を持つ作品を二点並べて、その微妙なずれ具合というのか、ハウリング効果のようなものを楽しんでもらおう、という意図であったのか、どちらであったのか、よくわからないのですが・・・レスのやり取りを見ている限りでは、祝儀敷さんの「ni_ka氏はコンセプチュアルアートだと明言はしていないので、はじめは単なる投稿ミスだったの(氏のツイートでも「詩を二重投稿して荒らしのようになってしまう自分ばかだなぁ」とあるし)を後から愉快犯的にコンセプチュアルアートだと匂わせているだけかもしれない。」と述べておられる意見に、私も同感です。 1月に2作品まで、これは「ルール」で決まっていることですね。投稿間隔を一週間以上開けるのが望ましい、というのは、1つの作品を皆でじっくり鑑賞したり批評し合ったりする時間を取る為に推奨していることで・・・つまりは、作者の自主性に任されている部分です。他の人達が感覚を開けて投稿している中で、明言せずに連続投稿すれば、ミス投稿だと判断される可能性が高まります。 連続投稿することによって、ミス投稿だとして、片方が消される。その偶然性までをも想定していたのであれば、消されたことを非難することは出来ないでしょう、偶発的に消されるという「出来事」そのものが、「作品」に含まれるわけですから。 ミス投稿だと判断される可能性を想定していなかった、としたら、それは、差異を見つけ出すことができるか、挑戦してやろう、という意識の現れだ、と判断されてもやむを得ないのではないか、と思います。 どうしても、ここで2者を見比べてほしい、という意図があるなら、1作品の中で、まったく同じような(でも、少しだけ異なる)作品を2つ並べる形で投稿する方がよいでしょうね。連続投稿した時点では2作は並んでいますが、レスの付き方によって、自然にばらけて表示されることになる。そうすると、単に二作品を連続投稿した、というに過ぎなくなってしまいますから。 通常はカタカナで表記される言葉を平仮名で表記することによって、湿潤さやまとわりつくような質感が現れる・・・そのことに気付かされる作品でしたが、冒頭の、やわらかいハイテンション、とでも言うような部分が過剰過ぎるように思いました。 「いつかうさぎが、この殻だを脱皮して、本物のうさぎになった時、」少し引き締まった印象で現れるこの行から後、母と娘の葛藤が描かれるであろう部分に、焦点を当てていくべきところを迂回しているように感じます。 「生きせる国の神」死せる、と対応させたかったのかもしれませんが、ここは文法的には「生けるうさぎの国」「生ける者の国」ではないのかな・・・。 オンナであり続けようとし、母となってくれることのなかったことへの寂しさや憤りを「架空の母に、」訴えようとしている作品、と読みたいのですが、あまりにも砂糖菓子のような装飾的な言葉が過剰なので、焦点がぼやけてしまうように感じました。アニメ作品のモチーフは、濃度の差こそあれ、それ自体が様々なニュアンスやストーリー性を孕んでいます。意味や物語性の強い言葉をたくさん使い過ぎると、盛り込み過ぎ、という印象を作品に与える事にもなると思いました。 (はるのつき)

2017-04-25

~いる、~いる、と脚韻を踏ませるように軽く、オーソドックスな抒情詩のような入り方で始まり・・・風車のように闇が回転。違和感なく読みながら、よく考えるとありえない展開が、ここに在り得ている、という言葉の妙を想います。いい風/滋養ある風 と巧みにずらし・・・(いきなり、風を食べる、という感覚!風車とも重なり、語り手は闇を見ている闇そのもの、でもあるかのような気がしてくる) 「背中がバッサリ斬られていて」これは、誰なんだろう・・・翼を根元から切り取られた天使? 「携帯の電源を入れる 明日のきみを救いたい 勝手な願望 または冒涜 安心したいだけ 俺が、俺が、俺が。」 スパッと言い切る潔さ。自らの救世主(勇者?)願望と、それを突き放して嗤う感覚・・・自己批評的視点、というのかな、双方を、この短さで実現してしまっている。 「点々と白い血の後を帰る 血はバクテリアが食って発光して星になる 森が、路傍が宇宙になる その宇宙を 僕はジャンプした、」 白い血、を流しながら行く人が誰なのか、すごく気になるのですが(君、なのか?)その血が星になる、痛みが光になる。そこに生まれる宇宙を飛び越える。この飛翔感が爽快な作品でした。秀作。 (郊外)

2017-04-23

題名と一行目のギャップが良いですね。 「君はもう既にその若さから戦場に立っているようである」推定9歳とあるので、「その若さから」は省いてもいいかもしれない(そうすると、既に戦場に、と切迫感のある語が並ぶし)と思いました。 「他人にできることは、たとえば、」という説明口調の書き出しと、「われわれは他人、絶対善にも絶対悪にもならない、リアル、われわれは現代を正しく生きるにんげん。」疾走感や緊迫感のある書き終わりとを見比べると、立ち上がりがのっそりしている、感じになりませんか?好みかもしれませんが・・・「同情や世話の芽を~」から始めた方が、インパクトが増すのではないか、という気がします。 「夏は多くの家庭のプライバシーが無料開放されていて、」この部分も、比較的平凡というか、一般的な説明に近い。他方、「夏は個別感情の熱量が沸点を超えやすい。」この書き出しは、キリッと締まっていて、単語の並びが新鮮。この行を三連の書き出しに持ってきた方が、「おっ?」これから何が始まるんだ?という期待感が高まるように思います。 ・・・冒頭になんとなく説明的な行を置いて、その後、詩的空間に飛躍する、というパターンがある、かもしれず・・・離陸のための滑走も必要だけれど、長いと冗漫になるので・・・ヘリコプターが地上でブルンブルン回り出して、パッと離陸する、みたいな「思い切り」があってもいいのかな、と感じました。 (こんなときの愛)

2017-04-23

漢語の連発、感嘆詞の多発の為でしょうか、現代人が古文の文体を用いる時「擬古文」と呼びますが・・・「擬近代詩」のような質感を感じました。レトロモダンと呼べばいいでしょうか。Elotm, Essaim,frugativi et appellavi. サブカル系に疎いのでなんとも言えないのですが、悪魔召喚の「既成」の呪文を用いる(借りる)のではなく、自ら悪魔を呼び寄せるような、オリジナリティーのある、おどろおどろしい文言が並んだら、もっとインパクトのある作品になったのではないか、と思いました。 BELIAL. BUDDHA. BABEL. そうか、全部Bで始まるんだな、と面白く感じつつ(ここは、B レビュー、ですし)こうした歴史的な厚みを持った固有名詞を持ってくると、傘を借りている、感が強く出てしまうような気がします。この固有名詞に匹敵する強度を持った言葉、もしくはフレーズを、発見できるか、どうか。そこに詩の探索の面白さがある、のではないか、などなど・・・。 (demon)

2017-04-23

一連目、ではなかった、「トイレに入ると~」の連は二連目ですね。「落ち着け~」の連が、二連目ではなく、三連目、になる。落ち着け、まりも。 (言葉にチェイサーを)

2017-04-23

落ち着け、落ち着け、以降の部分に、もう少し疾走感(言葉が崩れていく感)があった方が、酔いが廻っていくリアル感があったかな、というのと・・・個人的には、一連目は少しシラフっぽい感じで書いた方が二連目との落差が出る、であろうから・・・同じ言葉やフレーズの重なる部分をできるだけ推敲して、圧縮するという、文章編集的な作業を更に加えた方が良いような気がしました。 (言葉にチェイサーを)

2017-04-23

コンパクトにまとめた作品であるだけに、同じ表現を繰り返し使うことの効果を考える必要があるかもしれない、と思いました。 青い空、紅い空、白い雲がラインを引く。読後に残るイメージは、三色旗の色ですね、白が少し狭いけれど。 貫く、という語感に、何をこめているのか・・・切り裂く、でもなく、描いていく、や、線を引いていく、でもない。 昼の空、夕のそら、周囲がどんな色であっても、染まらずに、惑わずに、一筋の意志を持って進んで行く、その姿に自らの「そうありたい」姿を重ねている、のでしょうか。「存在感を示すように」といった直喩は、説明的になる印象があるかな、と思いました。すっと一本、筋を通して「貫く」飛行機雲、という描写だけで、既に存在感を示しているので、ここは省いてしまった方がすっきりします。・・・あえてそこを強調するのであれば、もう少し踏み込んだ表現を工夫されると良いと思いました。 (ひこうき雲)

2017-04-23

自然に言葉が発せられているように思うのだけれど、周到に練られている、感があり・・・モード感がある、と呼びつつ、この詩をどう、評すればいいのかわからない、けれども、惹かれる、という・・・うむむ。 冒頭に文字で「音」を持ってきたところが憎いですね。 (薄明)

2017-04-18

左から読んで、右から読んで・・・ 揺れる感じそのものが、春の感じ、なのかな、と思いつつ・・・ 春の二面性を表現した作品、と小見出しをつけるとして、さて。 形の面白さと、反転する意味、その創作の魅力というのか、創作意欲に、詩情が喰われてしまっているのではないか、という危惧があります。 読むときに揺れる、この感覚はとても新鮮で、春の感じにぴったりだな、と思いました。その割には、創造主とか、破壊者とか、そうした重い言葉が置かれていますし・・・「作っている時が楽しい」まさに、その楽しさが全面に出ている作品、ということ、なのかなあ。 (春作と風時)

2017-04-18

「みな底の母子像」は、水底なのか、皆底、なのか。そんなことを考えながら読みましたが、独立した作品としてみる時、河童の詩の具体性というのか、迫って来る力に比べると、雰囲気やムードに流れているのかな、という気がしました。表記への気遣いや、全体に流れる柔らかさが、絵を描いたり音楽を奏でたりする方向への意識に通じているようにも思います。 「授かる」これも、表記の工夫や音の響きに鋭敏な作品だと思いました。 「おんながつむいだおとこと /おとこがむついだおんなが 」こういう対句、どこか神話的なイメージも生まれますね。紡ぐ/睦む アマテラスは織物や生糸の神様でした、そういえば。 つむぐ、からの造語なのか、あるいはそうした言葉があるのでしたら不勉強で申し訳ないのですが、睦みごと、であって、むつぎごと、ではないのではないか?という気が、しないでもなく・・・。 「花」一行目の立ち上がりが素晴らしい。 「喉の奥の胸腺が 鰓だったころのなごりであるように」えらって、魚に思う、と書くのであったか、と思いながら、なぜか鯉/恋へと連想が進みます。 「漕いで漕いで」というあたりの語感からかもしれません。 胸腺、という術語が、新鮮でした。人類史のイメージと、羊水から空気中へとやってくる胎児、そして、過去の沼、から這い上がって来た、新生する人、のイメージ、が重なりました。 (Here comes the spring)

2017-04-18

3、4、5連がぶっ飛んでるなあ、という・・・。 幻想旅行案内、その伏線としての1、2連、であるわけですね。 セールストークで前後を挟んでいる。ナンセンス的な、世界(幻想界)旅行案内、として、ロジックをつなげていく、ならば・・・一連目の「きいてもらえますか」は、無いだろう、と。セールストークの効いた「御理解いただけましたか」以降のノリというか口調で書いた方が、枠構造がはっきりするし、内部の「旅」部分が、もっと際立つと思いました。 素晴らしいものをご用意いたしました、とか、ご準備いたしました、と前ふりがあれば、二連目以降が、この幻想旅行(幻視体験)に突然連れ込まれる語り手(読者)ということがはっきりする。そういう小細工を、もっと工夫すると、ナンセンス度が増す、と思います。 (世界構造プール)

2017-04-18

るるりらさんへ 劇中劇、なるほど!ありがとうございます。「この女性は視線をくぎづけにして目から殺すタイプのように思い、」わお・・・実は、この詩は最初、この女性が振り向き、歌舞伎の隈取みたいに、アイラインの枠線だけを空中に残して消えていく、というイメージでした。。。実際に、私の前を歩いていた女性は、振り向かなかったのですが。そうやって、現実の風景から、自由に連想したり想像したりするのは、楽しいですよね。たしかに、劇中劇かも・・・。 (Heel improvisation)

2017-04-18

カッキュウ、という言葉の響き、全体の弾けていくようなリズム。 若さだなあ、と「あこがれ」を、まずは感じます。スティックハイライトがわからず、思わずググってしまった・・・化粧品ですか?眼の下(泪袋、とか?)あたりに入れるハイライト・・・こうした小道具で、一気に女子高生感が出る、のかなあ(小道具に、即座にピンと来る、人であれば。) 冒頭の三行、これが素晴らしい。 あの時の・・・あの子・・・馬鹿みたいな空・・・朝顔は咲かない・・・ Aの響きを響かせながら進行していく。いきなり、朝顔は咲かない、と、理由がわからないまま断定されて、そこに納得してしまう勢いと力がある。 「好きだよって肯定してあげたい傲慢。かなしさをずっと許さない。」 このあたり、すごく新鮮でかっこいい、のですが・・・最果タヒ風、と感じるのは、なぜなんだろう。真似してるとか、そういうこと、を言いたいのではない、けれど。 好きだよって・・・という始め方、かなあ・・・。 ぼく、が男の子でも女の子でもいいのですが・・・この作品、登場人物は一人?ふたり?その判断に迷いました。もう少し、人物の造形をくっきりさせてもよいかも。 (あこがれて渇求)

2017-04-18

素直な書き方に好感を抱くのですが・・・あまりに共感部分が多いがゆえに、逆にオリジナリティーが感じられなくなってしまうのでは?という危惧もありますね・・・ 多くの人が、自分たちの代弁者、のように感じてくれる、かもしれない。けれど。だったら、自分の言葉で、自分の体験を語るぜ!と、思う、かもしれない。 薄っぺらな、稀薄な、影のような「友人」が増えていくほど、孤独が増していく感覚・・・そこにもう一歩踏み込んで、これが俺だ!というなにか、ガツン、としたものを、これでどうだ!とぶつけてほしい。もどかしい。そんな気がします。 あと、詩の始まり方は、とても大事です。 深夜、で始まっていますが・・・なぜ、目が覚めたのか。覚める時、何を感じたのか。どうして、目が覚めてしまったのか。その時の体の状態は?心の状態は?そんなことを、尋ねてみたくなりました。 (友人へ)

2017-04-18

生きているのに「死んだ」と思われ、柩に収められて・・・そこで目が覚める、みたいなパターンは、色々な人が何度も繰り返し試している、ように思うけれども・・・ この「会話」は、誰が、どこで、どんなシチュエーションで行っているのか? 霊安室で、幽霊どうしが会話している?生き返った者どうし?もしかして、魂と肉体が、幽体離脱したまま会話している? 全体のコミカルさ、ユーモアでぶっとばすぜ、的な勢い、特に最後の万万歳の連呼(こうなったら、一万歳×一万歳、生きてやるぜ、という感じにも読めて来る)が、シャウト系の朗読詩という印象で、元気になる詩だなあ(変な言い方ですが)と感じました。 ところで・・・「忘れ去ってくだ さい/の角のように独り歩む~」この改行は意図的な掛詞、ですよね・・・その前の「とぼけたよう/な間抜けな面か」区切りミスか、ナマ抜け(なんて言葉があるのかどうか、わからないけれど、なんとなく魂が生きたまま抜けたみたいな感じ?)なのか、気になりました。 (霊安室で目が覚めた)

2017-04-18

返詩、の場合、元詩を加味して考えるのか、どうなのか・・・そこが思案のしどころ、ですね。言葉そのものが、習い覚えるもの、ですし・・・語彙やフレーズなども、語例から覚えていくわけですから、あらゆるものが「返詩」である、とも(広くとらえれば)言えるわけですし・・・ なので、私は、返詩作品自体を独立した作品として、評価するスタンスで行きたいと思います。 「桜は感覚器をあらゆる方向に のばして花霞の間を、まるで水の中の風景のように時間軸を狂わせていた。」生き物のような桜の妖艶さ、時空を移動する際の鮮やかさが素晴らしい。「逢いたいヒトのことを上手に生き難いヒトのことを待っていた」自らを異質な存在としてとらえる他ない人の淋しさが、美しく現れている部分だと思いました。黄桜の河童の家族の絵を思い起こしつつ、「河童のひきだしからも 春が とびだしてくる 」こんな死者の追悼の仕方、思い出し方、素晴らしいと思いました。時間がないので、すみません、このあたりで。 (Here comes the spring)

2017-04-15

花緒さんへ 後半の「メッセージ性」の部分は、読者を「自分の子ども」に設定しているから、ですね・・・。中高生でも読める(イメージを追っていける)ように意識して書いていた、と思います。言葉のインパクトが弱い(日常生活で、通常使われる言葉を、通常使われる文脈で並べている)のと、心の中の水鏡、といった、昔から用いられるイメージを借景として借りている感覚なので、どうしても新鮮さに薄れる、と思います。 もとこさんへ 中高生向けに書いている、といった時期のもの、ですね。「現代詩」って、なんだろう、と考えていて・・・結局は、読者を誰に設定するか、の問題でしかないのではないか、という、答えの出ないところに行きついている、のですが・・・詩をあまり読んだことのない人にも伝わる形式ではある、と思います。でもまあ、理屈っぽいですね、最後の方が・・・。 (一枚の鏡のように)

2017-04-15

ずいぶん、ストレートというのか、素直な表現の詩だな、と思ったのですが・・・ ~される、のではなく、~する、を私は望むのだ!と宣言した直後に 「真実だけを差し出して欲しい」と、相手(まだ見ぬ、理想の誰か、未来の誰か、かもしれないけれど)に要求する。~されたい、と烈しく望む。この自己矛盾(葛藤)が面白い作品だと思いました。 自分自身を、もっともっと、突き詰めていく余地の残る作品だと思います。矛盾を徹底してついていく、というような。 (路肩の花)

2017-04-15

くり返し、ぶり返すように襲ってくる失恋の痛みを、感情の流れのままに発出していくような・・・即興性を感じるのは、勢いで書いているから、でしょうか。音楽と共に、朗読されると引き立つ作品であるように感じます。 読む作品、としてなら、もう少し全体を引き絞ってもいいように感じました。 たとえば(あくまでも、私の好みであって、押し付けるつもりは毛頭ないのですが) 春なんだよ ←叩きつけるような立ち上がりが素晴らしい 陽炎のように揺らめく ←陽炎は、「ゆらめく」もの。揺らめく、と~ように、の部分を外して始める手もある。 淡い燐光に           白い光線に じゅくじゅくの傷を晒す 別途、 ←別途、と、ベッド、をかけているのか・・・続いて同義の言葉を重ねているので、意味としては過剰の感もある。 それだけが          有り狂れた僕らの道だった ←ありふれた、に、当て字で意味を加味している?面白い用法ですが・・・ (acid & spring)

2017-04-15

歌詞的な印象の作品だな、と思いながら読んでいき(音韻やリズム感を大切にしている、という意味)最後に「きみを別枠に配置して歌うことにした」と出て来て、なるほど、と納得。 一連目、~が、~た、~を、~た、という語尾は、~が、の連投になるのを無意識的に避けたのでは、という気がしました。「公平性が」は、確かに「主語」かもしれないけれど、更に厳密に言うなら、「(私は)メロディから語り合った公平性(というもの)が/真夜中の商店街で破壊された(ということを、記述している)」という隠された主語(主体、というのか、この場合・・・)が存在しているので、「連鎖を」を「連鎖が」と見た目の主語に直したとしても、なんとなくギクシャクするのではなかろうか。こちらは「(私は)きみとぼくの不思議な連鎖(というもの)を/真新しい価値観(というものを持つ人々の妨害)で改竄された(ことを記述している)」ですね・・・。 「満足するまで軽蔑する」「退路を育てる覚悟」、おやすみ、と武器、の並置、など、驚くような組み合わせを自然に引っ張って来るところが、新鮮でした。「きみが口にした言葉を全部/五線譜から外れた音符として永久に残す」ここは、言葉にならない思いを「詩」として残す、というような、詩論的なものの現れとして読めるような気がします。 レスの中の、ルビ、という部分・・・面白いというか、もったいない、というか・・・ルビを振れないので仕方ないのですが(カッコにいれて、後ろにつけても間が抜ける)、見た目の文字と、音のズレがハウリングするような感覚も面白いですね。 (生活残響)

2017-04-15

もとこさんではありませんが、まず、「うまいな」という・・・ 一連目、「言葉のようにね」を指で隠したり、見えるようにしたりしながら、二連目以降を読み進み・・・三連目の「二人の魂は一行の詩となるが」この時点で、ああ、言葉のようにね、は必要だな(伏線になっているし)と納得。 「荘厳な陶酔の底/自動車修理工場横」~koと脚韻を踏む、詩的世界と日常的世界の対照という、広い詩的空間の取り方が素晴らしいと思い・・・その中で、「人体はベニヤ板を貼り合せた立方体に等しい」という生々しい実感の稀薄な肉体把握をする「君」が、「詩」そのものでもあるような読み方をしたくなりました。日常と非日常(詩的高揚感の世界)とをつなぐ「橋」。そして、どれほど深い交歓を交わしても、「強度を持たないベニヤ板は/べこんぼこんと撓みながらやがて割れるはず」というある種の不毛性・・・発せられる言葉が、すぐにパラパラと剥離していって、何も残らない。その空虚感の中で、詩的高揚を望む魂だけが、詩的世界へと(空の底、へと)上昇/下降していく。しかし、そこにたどり着くのは、全てが無、となることと同義である・・・というような。 「総ての言葉の隙間に花弁が惑乱している~白に近い色彩の嵐のただ中にある」 まだ見ぬ、未来の「詩」が降り注いでいるような光景だ、と思ったところで、一行あけの後にバシッと置かれる一行が光っています。 「事象はミクロの次元を更に越えると~極小の粒子の次元を知らなければならない」 この部分は、作品全体を要約するような(あえて理屈っぽい、観念的な言葉を用いていることもあり)簡潔さを持った部分だと思いました。音楽でいえば、全体のテーマを最後に再現する、部分。一粒の砂にも世界が宿る、だったか・・・ブレイクの言葉を思い出しつつ・・・ ミクロ、冒頭一連目の、徹底した肉眼による観察を突き抜けて、心眼でしか見えない、失われたもの、が見え始め、それが「言葉」となる、というところから、「橋」によって結ばれる日常と非日常(空の底、マクロの世界)への展開。よくできてるよなあ、ともう一度つぶやきつつ・・・ 「僕は路上を見つめる見つめる見つめる」の前に、一行アケを設けてもよかったのでは?と感じました。 (橋の春)

2017-04-15

二次創作、という「創作」の力強さを、改めて感じました。 滑るように流れて行く文体の心地よさが魅力のひとつであるだけに・・・「ありがとう言うはどうだろう」これ、あってますか?舌足らずの、もどかしい感じ、を表明しようとしたのなら、全体にもっと気を配ってほしいな、と思いつつ・・・ 後日談を楽しんでいたら、最後に鋭く、現実に投げ返される、突きつけられる。圧殺されようとしている「童心」の、ニヒルな告白のように感じました。 (小さな星の孤独な王)

2017-04-14

写生に徹しながら、都会の中の孤独、置き去りにされた繁栄(の名残)に触れていくような、コクーンの中で死者の声を再生するような感覚を、簡潔な言葉で捕えた佳品だと思います。それにしても・・・この、まんまネタバレの題名、このままでいいの? (つぶれたカラオケボックス)

2017-04-14

全体に漂う終末(破滅)の予感、預言的な高揚感(人間以外の者から告げられた言葉のような・・・)、漢語の語彙や音感、撃たれる、軋む、突き刺す、といった動詞の強靭さ(表現主義絵画の色彩感やタッチの激しさ、のような)が、ひとつの完成度を持った作品に至らしめている、と思う一方で・・・その強さや烈しさの連続や多用が、大仰な、芝居がかった印象を生んでいるとも感じました。作者が意識的にドラマティックな情景構築を目指したのであるなら、あとは受け取り手の好みの問題ですが(モネが好きか、ココシュカが好きか、といったような)多くの人が《荘重な情景》と感じる詩的空間を構築したい、ということであるなら、強度を持った言葉の使用量について、再考する必要があるかもしれません。 特に考慮すべきは、音の喚起する多義性を引き出すための「掛詞」なのか、意味を無化して言葉の意味性(読者に与えるインパクト)を軽量化しようとするための「言葉遊び」なのか、判然としない同音異義語の多様です。(詩/死、至る/痛る:これは、文法的にかなり無理がありますね:伽藍堂/がらんどう、など)文語を使用し、全体に力のこもった、荘重さを目指した作品であるように感じるので、意味の軽量化ではなく、意味の多義性を目指している、と思われるのですが・・・ 襤褸切れの赤旗、量産される鉤十字擬き、こうしたフレーズの選択に、預言書的な終末観と第二次大戦の悲惨のイメージが重なりました。これから起こる(かもしれない)破滅の予示としての・・・預言としての詩、託宣としての詩、という古代からのイメージも喚起されました。 冒頭に「それ」と提示されたものを、最後に「詩」と種明かししてしまうことの効果についても、考えねばならないと思います。始めの方で「右腕に吊り下げた老王の額を突き刺すは詩」と述べている時点で、「詩」は世界を破滅から救う存在であることを予感するのですが、すぐに「死」と書き換えられてしまう。「詩」が「死」となって、破滅をもたらす者としての「老王」を突き刺し、死に至らしめるのか。「右腕に吊り下げた老王の額を突き刺す」この部分、右腕に老王が吊り下げられている、とも読めてしまうので(たぶん、詩/死を右腕に下げた戦士のイメージなのでしょうが)言葉のリズムや音感を重視するのか、意味の伝達を重視するのか、推敲の際によく吟味してほしいと思います。 後半で「即ちニンゲンとは青き豚畜生の別名である」と「漏斗型の聖職機たち」が宣言する。この時点で、滅ぼされるのは人間そのものである、という予告であると読みたいのですが、レスを拝読すると、「詩」というものを特別な力を持った、なにか神聖なもの、のように扱いたい衝動と、そうしたすべての欲動に反発したい衝動、その双方がせめぎ合っているように感じます。(詩を掲げたり説いたりすることで人格者ぶる蒙昧な大人たち、或いは自分自身もそうなっているのかもしれない恐怖と、自己を弁護するための大仰な言葉の鎧=伽藍堂の鎧に覆われているのは虚ろな自我でしかない、と。)大仰な言葉の鎧、そのことを自覚しつつ、その手法で表現する、この矛盾をどう解決するのか。あえて「どぎつさ」や「あざとさ」で勝負するのか、過度な動きや大仰なセリフを抑制するのか。難しいけれども、魅力的な課題を抱えた作品だと思いました。 (abaddon)

2017-04-14

すごくストレートで、好感が持てました。 詩論として詰めていく、という方向性に向かっていく、という方法もありそうですし、(詩とはなんぞや、的な)(詩を書く、とはなんぞや、というものもありそうですし・・・)詩を書く行為そのものを、たとえば自分の実感する体感に即して、なにかに喩えるならば、どうだろう、と考えてみる、というのも、面白いと思います。 坑道(夢やイメージが、鉱物として埋まっている)を掘り進んでいくようなイメージ、なのか。プレゼントを手渡したり、受け取ったりする、そういう箱物のやり取りをする(その中身が、詩想というか、ポエジーですね)のイメージ、なのか。はてしない海、のような場所から、コップや入れ物に何かを汲み取る、汲み上げる、イメージなのか。小鳥のさえずりのように、言葉にならない思いが、自分の中に充満している、のか。 「せかいがぼくのことを/見捨ててしまった」孤独感や、置き去りにされた感、の中で、「僕も人間だと思い込んで/等身大に暮らしてみた」こんな素敵な着想があるのに、それを生かさなかったら勿体ない。 まず、第一にもったいない!のは、題名です。最初から、これは詩ではありません、詩以前の代物です、と宣言してしまっている。「こんなの、詩ではないよ」と言われるのが怖くて、このような題にしてしまったのなら・・・そういう心配はしなくていいから。ここは、そういう場所だから。と、言いたいです。 自分の書きたい「詩」が書けない、という葛藤やもどかしさ、それ自体が「詩」になる、のに・・・それを誤字脱字とか、推敲しない(できない)という具体的な、あまりにも身近な例、に留めてしまうのも、もったいない。 学校で、先生に「詩」を書きなさい、と言われて、しぶしぶ書いてみたけれど、という弁解、みたいな感じに聞こえてしまう、のだけれど・・・だとしたら、そういう対話とか、そのしぶしぶ感、を、むしろ作品化してしまう、なんて方法もあり、かもしれないな、とか・・・色々、やってみてください。 (詩以前)

2017-04-12

春はあけぼの、という審美眼は、枕草子で初めて打ち出されたものだ、それまでの(古今和歌集)などには無かった、と聞いたことがありますが・・・それゆえ斬新である、ともいえるのでしょうが・・・祖母の死と春(曙という時間帯のイメージ、そこから始まる、という再生の場であるイメージ)が結びつく場に、夏の生命の盛りのクワガタを虫籠に閉じ込めるイメージが、ちらっと出て来て、さらに、祖母の死は冬だ(すべてが眠りにつく、命を奪われる、始まり、ではなく、終わり、の季節である)という部分が、急展開すぎるように感じました。ついしんです。 (あさぼらけ)

2017-04-12

三詩形(短歌、俳句、現代詩)融合の試みが、最近なされるようになりましたが・・・古文と現代文の融合(この場合は混ぜた、というよりも、ポリフォニー的な配置、というべきか?)もあったかあ、と思いつつ・・・ 古文の部分、句読点に違和感があるのですが・・・。ずらっと並ぶと読みにくいので、一文字あけ、などで対応するのはどうでしょう(あくまでも一案です) 「名前という者」これは、者、として擬人化した表現でよいのか、あるいは「もの」「物」なのか、気になりました。 死、が怖いのではなく、死に至る苦悩、苦痛が怖ろしいのだ、と常々思うのですが・・・自分の息子に、いわば死に至る痛苦(もしかすると悶絶、阿鼻叫喚、のごとき)を見せながら、血の気が失せた「ましろ」になって旅立っていった祖母、その壮絶さに、しばし絶句。「母の死に様」を思い出しては泣く父、それは父の中の「少年」の部分でもある。少年とは、世界を感受する童心の部分ではあるまいか。少女もまた、祖母の中にある少女の部分、世界を感受する部分、その魂のようなものが、人の姿をとって現れたように思いました。 ビー玉と「たま」(魂)、目玉をしゃぶって育つ「龍の子太郎」、「死」という実在を刻印して逝った祖母の存在感・・・祖母の眼(世界を見る、視方)を、祖母の死によって語り手は獲得した、とも言えそうですが・・・。 Migikataさんのコメントにもありますが、どうも「少女」との会話の部分が、浮いている感があり・・・私は、この突然現れる「少女」を、祖母の声の記憶が呼び覚ました、祖母の魂の現前、と読みたいのですが・・・漢字を教えてくれた(日本語の奥行きを教えてくれた)祖母と、背に文字を書いて「対話」を試みる書き手と、その背に父を、さらには自分自身を見る、という重層性の表現の部分・・・いささか混乱するように思います。 もう少し、能の橋掛りの部分のような「装置」が必要なのではないか、と思いました。 (あさぼらけ)

2017-04-12

感じを分解して→漢字。 勢いで打ち込んでいるので、訂正が多い、です、すみません。 (誰にも真似できないように)

2017-04-12

映画のエンディングのクレジット(でいいんですよね、呼び名は)、昔はこんなに名前があったか?と思うのだけれど、CGが入るようになってから、なのか、関わったスタッフすべての名前を出すぞ、という意識的なことなのか、とにかく、ズラッと、物凄い数が並びますよね。しかも、すごいスピードで(可読の域を越えているのではないか、という速さで)スクロールされていく。固有名が(情報過多によって)海の波音とか風の音とか、そういった環境音のようなものに後退して、私たちを「包む」感覚になってとりまいている、そんな現代の(情報過多時代の)空間感覚・・・映画のクレジットに限らず、ツイッターでもなんでも・・・そうした現代の空間感覚の中に、なまで浸っているような印象がありました。スクリーンとか、液晶画面のこちら側で、情報空間を眺めている、ような詩は沢山あるように思うのだけれど。 空中を飛び交っている言葉を、ガーッと網を振って掴まえた、みたいな、臨場感。自分にとって意味があったり、気になったりする言葉だけが(あるいは言葉尻だけが)文字、という形を与えられ、それ以外の言葉は景観音楽に後退して背後を(地を)支えている、ような・・・空間を地とモチーフとで可視化した、というのかな、それも立体で、固定化されたもの、としてではなく・・・という印象。これを、どう呼べばよいのか、よくわからん、わからないながら・・・絵文字とかだと、読者の再現環境によって表示が変わってしまうという問題があるな、と思っていたので、これなら、そこはクリアできる、面白い試みだと思いました。 感じを分解して並べるって、形成途中の文字みたいです。イメージの生成過程の可視化、とも言えそう。こんなこと思いつくやついるか?(ここにいるか。) (誰にも真似できないように)

2017-04-12

nullって、なんだ?とググるところから始めるデジタル音痴ですが・・・ リアルな日常生活と、スマホやSNSの「向こう側」に広がっている世界の境界線を抵抗なく行き来してしまう、現代女子?(女子に限らないかもしれませんが、いわゆる現代っ子)の感覚をうまく掬い取っている、と思いました。 ハッシュタグをつける感覚って、どんなものなんだろう、というのが、実はよく、わかっていなくて・・・。「共通の話題」でつながっているような繋がっていないような、言葉は投げ出しているけれど、特に返信なくてもいいよ(仕方ないじゃん、でも、誰か共感していればいいな)的な感覚なのかな・・・。 「揺らぎゆく移り火が誰にも染められていない赤い糸を、乙女の外へと萌やしてゆきます。」このあたり、「恋」に限らず、命を燃やすもの、情熱を掻き立てるもの、命を輝かせるもの、そうした「なにか」に向かっていく「赤い糸」が、わらわらと周囲に伸びていく(千手観音みたいに)感覚があって、SNSで「つながる」けど、つながっていない、ような感覚に近いのかな、と思いました。その「なにか」が、定かでないというのか・・・手ごたえがない、虚無に手を伸ばしているような空しさが背後にある、というのが、現代、なのかな、と思ったり・・・自分を無にしてしまいたい、透明にしてしまいたい、失くしてしまいたい、そんな感覚が核にあって、そこから無数の赤い糸、を外部へと触手のように伸ばしていく、そんなイメージに共感しました。 (乙女たちはハッシュタグを忍ばせて)

2017-04-12

近代国家によって(他国のエゴによって)勝手に国境線を引かれた痛み、怒り、絶望・・・についての、社会的な告発の詩なのだ、と思いながら読み始めて・・・ 存在の不安定さ、頼りたいのに頼ることのできない不安、垂直に落下していくような「あること」のオソロシサ、のようなものが、ひしひしと伝わってくる感じで・・・桐ケ谷さんも既に書いておられますが、「生誕の眩暈」・・・人が生まれた時から、既に始まっている「傾き」なのかな、と思いました。 どこまで行ったら、この「傾き」は止まるのか。そんな時代の空気感のようなもの。張りつめて行った緊張感に、堪えられなくなったとき、戦争が始まるのかもしれない。そんな怖さもあります。 あなた、と、あたし、を、カタカナで書くことに、私個人としては違和感があるのですが(この詩の場合、ひらがなの方が似合うような気が、ちょっとだけ、したのですが)押し寄せて来るような不安というのか、頼りなさというのか、在るという事の不確かさのような、なんとも言い難いものを「寂しい匂い」・・・これだけ出て来たら、なんとクサイ台詞!と思ってしまうのですが、静かに、明晰に積み重ねられた詩作品全体の厚みによって、まったく違和感なく納得してしまう・・・このひとことに静かに収斂させるところが、心に深く残りました。 (Lean On)

2017-04-11

人間には明朗な反面と陰鬱な反面とが必ずあるように思うのですが、まるで自分自身の「明朗な反面」そのものであるかのような、自分自身の心の片割れであるかのような親友を失った語り手・・・喪失感はいかばかりかと推察します。 事実に基づく物語であれば、ごめんなさい、と前置きをした上で、メタファーとしての物語(深い意図のこめられた創作)として読ませていただきました。 KとYという主人公二人、KYだね、と言われ続けた自分自身を、二人の人物に引き裂いて描いているようにも思われました。 鍵のかかった箱、何が入っているかはわからないけれども・・・亡くなったYの存在感だけが(そして、呼応するように喪失感だけが)増していく。哀しみや空虚感が頂点に達して、むしろ怒り(というエネルギー)に達した時、思わず箱を叩きつけて壊してしまう。そこに現れた、希望、というメッセージ・・・パンドラの箱のイメージも重なりますが、人類へのメッセージでもあるように思いました。 実は、YはKのそんな行動も予測して、自分が居なくなった後も哀しみ続けないように、むしろ(怒りの形であっても)希望を失うなよ、というメッセージが強く刻印されるように、鍵が見つからないようにしたのではないか。哀しみという内向性から、怒りという外向性に気持ちが切り替わり、Yの想いを胸に、Kが再び生きていけるように、事前に準備していたのではないか。そんな気もしました。 自然で無理のない文章なので、散文体で行を詰めて表記すると一気に読んでしまうような気がしますが、改行や行アケを用いて、ぽつぽつとつぶやくようなリズムを作っているので、語り手と共に、立ちどまりながら読者は読むことになるでしょう。 生きていくキーワードは、希望、なのでしょうか。 (『鍵のない箱』)

2017-04-11

追伸。北陸の「寺田駅」は、大きな分岐点に位置している、ようですね・・・。実感としてリアルに捉えられないので、これ以上の言及が出来ないのですが・・・。 (道なり)

2017-04-11

道なり、という題名、「道なり」に歩まされている、という苦い回想を連想しつつ、一連目に入りました。 六行の中に五行、しかも連続して「歩く」という動詞を入れる荒技。 自然なリズムに乗って進行するので、そんなにしつこさは感じない、ということと、 「歩くこと」歩く、という行為を、客観的なもの、自身に関わるものではないもの、として見つめている段階 「歩かされている」使役的に、無理やり、いやいや、仕方なく、歩いている段階 「歩いてきた」随伴者が居たことによって、歩行が可能となっていたのだ、という、今の時点からみた回想と発見(と感動) 「歩ける」語り手自身が、自らの力によって歩いている、そのことの確認。歩かされる、のでもなく、他者が歩く、のを、外部から余所者のように見ている、のでもなく、自身が歩いている、ということ 地名という名詞によって寸断しながら、それぞれの地名の持つ風情、詩情を喚起しつつ、語り手の過去の時間を背景(舞台装置)のように呼びおこす。 「ジャジャ麺」のエピソードは、かつては(語り手の子供時代は)厳格で絶対的な、ある種の権威的な(時に恐怖や反発、憎悪をすら呼び起こす)存在であった父が、すっかり弱り、語り手と素直に接するようになった、そんな老いていく父への感慨のように思われる。 遺骨と粉雪のイメージは、雪に降り込められるような陰鬱な地(故郷、自らの自由を押し込められていた「家」という存在)をイメージさせつつ、父が故人となってもなお(なったからこそ、なおさら、)語り手が行くところ、どこにでも「遺灰」として振り続ける、視界を灰色に染める、そんな、どこにでも居る存在になったと感じさせる。 「野生のクジャクが踊っている その隣にあるアウディの所有者が 父より稼いでいるとは思えない それは車窓というフィルターによって そう思わされているだけか」 ここが、切りつめられすぎていて、よくわからなかった。恐らく農夫として、過酷な労働を強いられたのに貧しいままに一生を終えねばならなかった「父」と、同様の家業であるはずの隣人が、どうしてあんな裕福な暮らしをしているのか、という問い、なのか・・・あるいは、隣の芝生は青く見える、そんなひがみ目を、車窓というフィルターに転化しているのか。 挿入歌が鬼束ちひろの唄からの引用であることを、もとこさんのレスで知ったが・・・たとえ数行であっても、文末に~の引用あり、などと明記しておいた方が無難だと思う。 「電車が止まってしまった    犯人は都会のはずれに住む兄弟だ」 この部分も、よくわからない。分岐、という言葉が、兄弟の分岐(不和、別の道を行く)のメタファーなのか・・・だとしたら、前半に兄弟の存在を暗示する伏線がほしい。都会のはずれ、と明示している意図、兄弟が、なぜ電車を止めるのか、そう、断定するのは何か。「意味シン」なことを言いかけて、あえて黙ってしまったような、そんな消化不良感が残る部分。 「灰を生み落すコツとしては 歩みを止めて目を細めること」 コツとしては、という説明口調と、文体の軽さが、全体から浮いていないか。「歩みを止めて目を細めると/うまく生み落すことができる」というような表現の方が、次の象徴的な行と上手くリンクするのではないか。 「生まれ、落ちる、ものは、その場所を、選べない、が、選ばれて、生み、落ちた」 故郷から逃げ出したい、囚われたくない、因習や血縁、地縁から逃れたい、そんな否定的な感情を抱いていた「故郷」を、自ら受容しようとする心情を感じた。選ばれた、から、そこに「住まわされる」のではなく、自ら「生み落して」その地を選択する、という、強制から能動への転換。 「止まってしまった家系図のその先に 一筋の道を掘り起こしたい」 自らの代で、この家系を終りにしたい、断絶させたい、と思っていた語り手が、「きみ」という伴侶を得て、共に子供を育んでいきたい、次の代につなげていきたい、と思うようになった・・・そんな心境の変化を感じた。 小説という形式だったら、かなりの分量を要する「物語」を、詩という形式によって、かなり凝縮して示しえている、と思う。 (道なり)

2017-04-11

訂正 字間→時間 logという題名の意味が、イマイチよくわからない、というか、つながって行かない・・・丸太、日誌、コンピューターの過去ログ、とかもこれ、なのかな・・・数学のlogは、また異なった意味に用いられるらしい、けれど・・・内容の「小見出し」である必要はないけれど、題名は作品のキャッチコピーでもあり、主題の提示でもあるので・・・この難解な題名には、疑問の余地が残ると思いました。 (log)

2017-04-11

自由に前後の字間を想像しつつ(下敷きにした「事実」や「作者の創作意図」、とは離れて、独自の・・・あえていうならば、二次創作として)思い描いた物語は、恋人によるDVに苦しみながらも、彼の飢えた心を見捨てることができない、そんな自分への苛立ちの寸描、です。 散々、彼は彼女を傷めつけ、痣だらけにしておきながら(あるいは心に刻み付けた痣、と読むこともできそう)、彼女を愛おし気に、自らの罪を消し去ろうとするかのように、愛撫する。彼を許しがたく憎悪しながら、彼の抱え持つ痛みに惹かれ、離れがたく、最後にはすべてを許してしまう、彼女。 「彼」のために塗ったマニキュア、それを、事後には剥がし、浴室でシャワーに打たれながら、烈しく声を絞りだす。この「唄」がこの「詩」であると言うには、歌謡的な性格が弱いので、心の唄、と読みたいけれども・・・シャワーの中で、泣きながら彼女は叫んで(声を出しているかいないかは問わない)いるだろう。 「消そうとする」という能動性。「消そうとしてくれる」だったら、家族によってつけられた(あるいは別の男に付けられた)痣を、この「彼」が拭い去ろうとしてくれる、と読みたくなるが、この、能動的な意志的な言葉、語り手自身が突き放すような、第三者的な視点で冷静に観察しているような言葉に、感情の濃度を感じました。 マニキュアの色が、彼好みの色だったのか、あるいは黒とか紫とか、あえて娼婦風の色だったのか(そうなると、この「彼」は恋人ではなく、常に自分を指名してくる顧客、という読み方もできる)でも、この作品の・・・清新さのようなものは、やはり、登場人物「ふたり」が、抜き差しならない、でも切り離せない、不合理だけれども受容する他ない、そんな関係の恋人どうし、なのかな、という気がします。 (log)

2017-04-11

言葉を切りつめていくこと、長い時間をかけてブラッシュアップされてきた「五七調」に新鮮な息吹を吹き込んで再生させていくこと・・・これもまた、現代詩(口語自由詩)が切り捨てて来た過去の参照であり、更新であると考えます。 五七調は、七五調(あるいは八六体)の歌謡調とは異なり、刻んでいくリズムといえ、読者の視線が先に流れて行かない。じっくり印象を刻み込んでいくことのできる韻律であると思います。 とはいうものの・・・ 「星雲ごとく」せいうんごとく、と読むのか、ほしくもごとく、と読むのか・・・いずれにせよ、「の」が必要ではありますまいか。 「地々に満ちるる」これも、ちぢに、と読むのでしょうか。千々に、と音韻が重なり、燦然と散っている煌めきを感じる美しい行ですが、満ちるる、これは文法的にあっていますか?擬古文を用いる効果を否定するわけではありませんが、こうしたところで読者が引っかかるのは、もったいないと思います。古典に詳しくないので(葛西さんなど専門家にコメントしてほしい)自信ありませんが(だったら言うなよ、という感じですが(^_^;)「満ちをる」ではないのかな、という気がします。 シリア空爆が行われた直後であるだけに、星灯りと街灯りが馴染むように輝く美しさは、平和の象徴でもあり、願いでもあるように感じます。空爆で闇と化した、破壊された街へ、兵士たちはこれから向かっていくのでしょうか。 全体にリズムが単調になりがちな韻律です。難しいところに挑戦している、その意欲に拍手を送りつつ・・・もし、私が読んだような社会的意識を込めているのであれば、前半をもっと凝縮し(あるいは、もっと美しさを多面的に展開し)後半を不穏な形へ(形式を崩していくことも含めて)追い込んでいく、そんな展開も魅力的かもしれない、と思いました。 (街星々)

2017-04-09

訂正:意図的に詩的情趣を覗いて→除いて  そこに入り込んで詳述していく→なぜ、そこに入り込んで詳述していく (no title)

2017-04-07

冒頭、翻訳文のような印象を受けました。「ことを憶えている人であれば」とか、「ささやかなものとなるだろう」というようなフレーズというか、語感ですね。時間、時の遡行。詩的情趣に富んだ、随想(エセー、いわゆるエッセイではなく)の一節を読んでいるような感覚が、裁ち切られるようにして「羊皮紙」の連が現れる。この連が、私にとって、もっとも「散文詩」だと感じさせる部分です。書かれなかった歴史、ではなく、書かれたけれども消され、書き直され、失われていった歴史。更新され続ける世界、という極めて現代的な(インターネットが普及して以降の)世界観が、羊皮紙を用いていた時代までのスパンで重層化される。現代的な世界観で、数百年を透かしながら見直していくような・・・ガラスに描かれた歴史の層を、重ねて、それを裏側から見ているような感覚、と言えばいいでしょうか。 クメールの織り手の章、モーリシャスの章は、意図的に詩的情趣を覗いて、即物的に記述されているように見え・・・ある種の写生文と言いましょうか、そこに歴史観や批判精神も垣間見えるように思うのですが、冒頭のエセー風の部分、「羊皮紙とは、わたしにとってなにか。」の章の詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました。 「ひとつひとつの物語は、世界から流れはじめた血液のようなものに思える。」この一行を導き、説得力を持たせるための、具体的事例・・・と呼ぶには、歴史叙述的部分の分量も重量も多い。欧米の植民地であった(そのことによって、物語が消され、別の物語が書かれるという形で更新されていく時間)地域を、オムニバス風にもっと断片化して、複数の例として配置する方法を採らずに、そこに入り込んで詳述していく方向を選んだのか。そういった創作意図のようなものを知りたいと思いました。 (no title)

2017-04-07

私も花緒さんのように、石窯が並ぶ部分は、ザーッとスクロールしながら読んでしまったのですが(丁寧に読もうとしても、立て並びになっているので、だんだん目が麻痺してきて、ザーッと流し読みしてしまう)「タウンページ」を流し読みしながら、この町にはこんなにたくさんの店があるのか、と「総体」として圧倒される、ような・・・一つ一つの名辞が意味を持つ、ということではなく、むしろ大量に並ぶことによって意味が希薄になり、とにかくたくさんなのだ、という「かたまり」として飛び込んでくる効果が生まれると思いました。 そして、これを縦書きでやると、どんどんページを繰って行くことになってしまう。めくる、という行為の時間差、手間が、これはどこまで続くんだ?という苛立ちに結びつくかもしれないけれど・・・パソコン画面ならスクロールで読み流していくことになる。その後の「私」がパンを買ってからの連が、一気に解放する感じで良いと思いました。石窯焼きという、手間も工夫も凝らすはずのものが、誰もが「石窯焼き」を導入することによって、陳腐になってしまう、平凡化されてしまう。その、大量にあることによって希薄化されてしまった「石窯焼き」の本来の意図、意味を、一人の部屋で一人で賞味することによって確かめる、取り戻す。 「現代詩」における、ある種のスタイルの流行を、寓意的に批判しているようにも読めました。 前半、ここまで丁寧に書き込む必要があったろうか、もっと早めに、石窯の連呼に突入してもよかったのではないか、とも思います。 (石窯パン)

2017-04-07

前半、ずいぶん軽めで「きれい」な詩だなあ、と思いながら、だんだん鋭くなっていく、怖くなっていく。鋭角の角度が増して、最後は砂時計が落ちるように、あるいは、なにか絞った滴りが落ちていくように、形の上からも崩壊していく様が伝わって来るように思いました。 最後、誕生、で締めくくる。そこに作者の「思想」が反映されているのかもしれませんが、少し安易な終わり方であるような気がします。 互いの心臓を切り裂いて貪りあう様な、どこか刹那的な愛が見えて来るようで、それはポーズに過ぎないのか(極端な言い方をすれば、ですが)という思いが兆してしまう。最後はそうあってほしい、そうありたい、という願望に収斂していくとも読める。レスを読んでいて、「ぶりっこ」という言葉があり・・・刹那的な烈しさに突き抜けていくのではなく(突き抜けなければいけない、というわけでは無いが)死、その後の再生、生き直し、という方向にするりと抜けて行ってしまう、その軽さへの回帰が、ポエム的な印象を与えることにもなっているのではないか、と思います。 「忘れらんない」とか「飛んでみたかったんだぁ」といった口語は、用い方が難しい。あえて甘ったれた感じ、を出したかったのであれば成功、なのですが・・・お互いに(もう一人の自己と)烈しく切り裂くように、血みどろになって「合一」しようと欲するのに(そうした全体性の回帰願望がくっきり描かれているのに)表現上の軽さ、ぶりっ子っぽい感じ、へと、再び自らを分離し、むしろ「甘え」の中に、自らを追い込んでしまってはいないか。甘ったれた感じに味付けするのが、自分らしさ、なんだよね、というような、自ら作った狭い枠の中に、もう一人の自分自身を詰め込んでしまってはいないか・・・そんなことを、じっくり考えさせられる作品でした。 (ぼくたちの青色廃園)

2017-04-07

三連目、四連目で、へえ、そういう展開になるのか、という驚きがありました。 ウィットに富んだ、童謡的な気持ちを含んだ作品だと思いました。 思い出したのは、「それは神の生誕の日」という西脇順三郎の一節であったり、「虹二重神も恋愛したまへり」という俳句であったり、まど・みちおの「ドロップスのうた」などなど。 ウィットをきかせて、日常を少しだけ異なった視点から見てみると、日々に新鮮さが戻って来る・・・そうした、日々の深呼吸のために書かれたようなライトヴァ―ス。 (神様の落日)

2017-04-06

冒頭三連、起承転結できっちりと形と反復のリズムを作り、続く三連で、若い二人の気持が盛り上がって行く感覚を、形を崩さない緊張感の中で盛り上げ・・・一気にサビに突入する。そんな歌の形式を存分に生かした作品だと思いました。 最終連、 「君は反復するスーパースター」ちょっと、安易な感じ? 「光と同じ速さで考える」これはとても面白い 「誰にとっても自分の命は切れるまで生きる」これは当たり前でしょ、とツッコミを入れたくなりつつ・・・自分の命を生き切る、そうした疾走感を持続することの難しさと、疾走感を保ち続ける、あるいは加速し続けることこそ「生きる」なんだ、というような思想を感じる部分。 「少しドジでもいいはずさ」少し「抜け感」があって、ほほえましい感じ、にはなりますが・・・新鮮さには、遠いかな・・・ 「打ちのめされたその目の奥までが優しいね」ギラギラと飢えた獣のような貪欲さ、が、打ちのめされた後、の眼・・・ならば、死んだようにうつろになっているだろう、と思うのだけれど、ここでは「優しい」。本来の優しさ、その人の良さのようなものが、そこに光っている、ということなのかな、と思います。 (日々の)泥濘の中から、キラリと輝くものを見つけ出す瞬間。そこに向かって疾走しようぜ、そんな、自分にも読者にも呼び掛けている歌のような詩だと思います。 (カタログを埋める重言)

2017-04-06

等身大の言葉で、実況中継のように書かれている、のに・・・意表を突くフレーズ(それだけ、新鮮な驚きをもたらす)ものが次々に、それも自然な形で現れる。天性の感覚かな、と思いました。たとえば・・・ 浴槽、身を丸める、となれば、当然胎児を予想するわけですが、そこからちょっとずらして「卵のかたち」。胎児という生々しさが、画家の卵、作家の卵、というような、比喩的に用いられる用法とリンクし、同時にオーヴァルの美しい形(輪郭)が想起される。 「肺呼吸をおこなうほかに」水中で息をしたい・・・魚、あるいは人魚を連想しつつ、息をする、呼吸する、ではなく、「肺呼吸」という理科の教科書に出て来るような言葉が面白い。地上に両生類が現れた時期の絵(理科の図録とか)を連想しました。 「ばかばかしくてしあわせなんだよ」苦しいはずなのに、その苦しさによって、生きている、ということを、確かめているような、どこか陶酔境にあるような感覚か、と思いきや、「いつかそちらの世界に」あれ、生と死の間に選があるとすれば、語り手は浴槽に浮びながら、死の側に近い自分を想定していたのか、という驚き。 生き生きと社会生活を行っている状態を「生」、心身を弛緩させ、精神的に無の境地(安息の状態でもある)に漂っている状態を「死(に限りなく近い状態)」とするなら、浴槽の中で、完璧な輪郭(楕円形)を保っている状態こそが「死(という幸福な安息)」に近い状態、なのかな、そこから手足を伸ばし、躰をのばして「輪郭」を崩していく、のが、「生」ということなのかな、と思いました・・・とはいいつつも、題名は、輪郭は滲むけれど・・・滲むもの・・・ぼやけたり拡散したりしていくものであって・・・崩れたり、途切れたりするもの、ではないんだよなあ・・・と、つぶやきばかりが増えていく、意外さや予想外の感じに沢山出会える作品でした。 (輪郭は滲むけれど)

2017-04-06

可愛いような、軽めの題で、ドドーンとこれを持ってくるか、という・・・。 「あそぼう震えて痙攣して細動で」このように畳みかけていく音感とか、ひらがなの部分で読みのスピードを少し抑えていくような手加減(結果的に、子供の言葉のような舌足らず感とか、もたもた感が加わる)・・・言葉の響きというのか、脳内で音声化されていく時の流れやメリハリが面白い作品でした。電子音声で、通信が途絶えていく(通信者も飲み込まれるなりして滅びてしまった、後の)ようなエンディング、横書きで、白黒のラインがザーッと横に流れて行くようなイメージも面白いですが、縦書きだとひたすら下に下に落ちていく感じになりますね・・・。「巨獣の細動はふしぎなちからで森を暗くしていく/森はもうだめだから巨獣はあそびはじめたんだ」巨獣(居住と同じ音ですね)が森を破壊していくのではなく、暗くしていく。「ぼくら」は、人間かと思って読み始めたのですが、むしろ「ぼくら」こそが森を(命の住む場所を)増殖しながら破壊していく存在のようでもあり・・・。原発(巨獣)と放射能(ぼくら)なんて読み方もできそうです。 縄文時代からの時間を想起させる「椎の実」、思惟とかけているんですね、恣意ではなく・・・「ちりばり跳ねて」ちらばり、ではなく、ちりばり?楽しい表現ですが、ここはこれでいいいのか? (ふぁんしーあいらんど)

2017-04-05

ディストピア後の世界を描いているようでありながら、アルファ、これから始まる予感。「われら孤寂なる発光体」(伊東静雄)を思い出しつつ、半額の・・・でちょっとずっこけ・・・(スーパーマーケットで、少しくたびれて半額になったレタスを連想してしまいました・・・)宇宙に旅立っていくようなイメージから「ぼくたま」(日渡早紀でしたっけ)を連想したり・・・。 植物の電気信号をとらえた写真を見たことがあります。闇に発行する、命の光。水分子を突き抜けると光るというニュートリノ、とか・・・命と発光って、なんで繋がるんだろうな、と思いながら・・・「彼」を見送る「アタシ」が、星の王子さまと薔薇のようにも思えてきたりするのでした。 言葉が綺麗すぎるのが、何点(じゃなかった)難点かなあ。「半額になったアタシの」の連、詩脚がそろっていて、見た目にも美しい、リズムも整っていて、バロック音楽のような美しさになっている、と思います。その整然とした美しさのゆえに、「密告者」とか「遺跡」とか「半額」とか、本来ならそこで立ち止まるはずの言葉をするっと飲み込むように読んでしまう。「ぼく地球」的なイメージを喚起されるのは、こうした言葉をさりげなく埋め込んでいく手仕事の故かもしれません。 (Alpha)

2017-04-05

千鳥ヶ淵、ではなくて、「英霊」の祀られている靖国、のハンカチ。 使ってください、と何のこだわりもなく言える世代と・・・宮城の方を向いて毎朝礼拝し、路面電車の中でも、宮城のそばを通る時には帽子を取って敬礼したり礼をしたりした、そんな世代にとっての「靖国」の意味の差は、きっと大きいと思います。 渡されたものの・・・畏れ多い、という思いがあったのかもしれない。その後、これ、何のハンカチだっけ、と問いかけた、のかもしれないけれど・・・どうしよう、もったいない、と、押し頂くような感覚で、少しおろおろしていたのかな、という気もしました。 会話主体にしているところ、無駄を省いているところ(人物説明とか一切抜きで)がとても良いと思いました。戯曲(詩劇、というのもありますが)の一節を読んでいるようです。 文科の学生から、まずは出征させられた・・・人の心を作る、育てる、そのための人文学がまず切り捨てられて、医者や工学、電気技師といった実学の者たちは、国家の為に奉仕させられた。本当は詩人になりたかったのに、父親に無理やり工学部に進学させられて、そのおかげで出征を免れた大正生まれの方が、自分は生き残ってしまった、死に損ないなんだ、と、しばしば語っていたのが心に残っています。詩を書き続けているのは、彼等に対する弔いなんだ、と。そんなことを、思い出しました。 (供養)

2017-04-05

黒い瞳、という歌があったなあ、と思いながら・・・ 子猫ちゃんの真ん丸な黒い瞳、を連想し・・・夜に出会ったあやかしの魅力をたたえた存在、をイメージしました。 おんな、としか思えないほど、しっとりとなついて馴染んで・・・誰よりも身近に居てくれて、自分の悲しみも苦しみも全部、黙って、その目に吸い込んで見守っていてくれた、そんな愛猫が、今はもういない、という空虚感。凍てついた青空に、ペンで乱暴に描き殴ったような裸木が林立している寒々しさを想いました。 言葉の切り方(語尾の余韻)、寡黙で無駄を省いたストイックさが凛々しい文体。 (目)

2017-04-05

震災と原発以降、「デブリ」には宇宙衛星のゴミ、という遙か遠いところでの出来事から、原発デブリという、人類への害毒を発し続ける、それでいて非常に身近な物質へと、言葉の質感、語感が変わってきている、と思います。その変化を体感的に捉えていると思いました。 ご自身のことを書いている、はずなのですが、同時に、人類がエネルギーや利益を「食って」いたはずなのに、実は命を、健康を「食われている」現状も、背景に(ということは、作者の思考の中に)響いている、と思います。 「あれ食われてるのはこっち側だよね、)」この口語表現、あれ、と句読点を打った方がいいかな、と思いました。 最後が解放かっこになっている、これは意図的なものか、うっかりミスかわかりませんが・・・まだまだ続く、という余韻を残す、良いエンディングだと思いました。 改行の仕方などもよく工夫されていて、何度も推敲されているように思います。丁寧な作りです。 何に対するアンサーソングなのか。私たち一人一人が、考えねばならない問題だと思いました。 (Answer song)

2017-04-03

言葉の区切り方(呼吸や間合いの取り方)がとても上手いと思いました。 私だけではないと思いますが、読者が予測する切り方と異なる区切りで刺激され、その間合いや、一気に流れ出す勢いに感情を刺激される。音のない音楽のような(映画で感情を作りだす音楽のような)役割を果たす。 何を捜しているのか、何をしようとしているのか、それが明確にならないまま(具体的にならなくても全然かまわないのですが)自分の奥深くに入り込んで行った時に出会う、四方の壁が蛍光灯の冷ややかな質感を持ったライトテーブル(漫画家がトレースに使ったり、写真家がネガを確かめるのにつかう、あれ)で囲い込まれているような、ある種パニック障害を引き起こすような環境に追い込まれる(ことがあるように思う)その感覚が、うまく表現されているなあ、と思いました。 「終わらないまま、」の一行、これ、一行のままで良いのでしょうか・・・ 私だったら(あくまでも一案ですが) 終わらないまま、暖色の肌寒い光が、 カーテンの隙間から ゆっくりと 刺し、 ピストルは真っ直ぐ伸ばされ、 銃口は私を 向き、 というような感じに、するかもしれないなあ、と思いました。 もちろん、一気呵成に絞り出して、そこから「よーい どんっ」に向かっていく、ということでいいのですが・・・ ピストルが、運動会の「競争開始!」というずっこけるような「オチ」で、緊張しまくっていた気持ちが解放される、そこに眼目がある、ならば・・・(もちろん、競争に駆り立てられること自体が、また新たな白い箱に閉じ込められる、追い込まれることになる、のであれば、そうした伏線も必要かもしれませんが) 銃口が私に向けられる、という緊迫感は、もっと、このまま殺される!という緊迫感を持たせた方がよい、と思うのですね。運動会の「よーい どんっ」は、銃口は空に向いていて、「私」には向かっていない、わけだし。 (開幕エンドロール)

2017-04-03

すこうし、冗漫だなあ、というのが、初読の印象です(ごめんなさい) いつまでも独身貴族の息子に、お母さんがのどかに、電話をかけてくる。うるせえよ、と思いながらも、もしかしたら、どこか嬉しい気持ちもありつつ、息子は辛抱強く、母の電話を受けている。そんなほのぼのした親子関係がうかがわれるような作品でした。 作者の、実際の親子関係の反映であるのかどうかわかりませんが(そして、実景でも、創作でもどちらでも構わないのですが)、なんとか話の接ぎ穂を探ろうとして、スマホの使い方がわからない、なんて甘えて見たりする「お母さん」の必死さであったり、主人公より北の地に住んでいるらしい母(故郷)の風景が垣間見えたり・・・最後が「もう」ではなく、「まだ」と捉える息子の優しさのようなものが見えたり。 最初の「ずっと同じはなしをきいてる」の後は、最終連の二行重ねのところまで、省いてしまってもよいような気がしました。リフレインの効果というよりも、冗漫さの方が勝ってしまう、ような気がするし、二連目、三連目を、時間で始める方がスタイリッシュになるかな、と思うので・・・。もちろん、私の勝手な意見ですが。 (ずっと同じはなしをきいてる)

2017-04-02

冒頭三連、軽めの筆致で、口語も混ぜて、気楽に導入しておいて・・・「酸素」空気じゃないの?というアクセントに刺激され、そこからいきなり「そろそろタトゥイーンに行ってきます。」に飛ぶ。そこで、「空気」ではなく「酸素」である必然性のようなものに、納得させられる。 職場という閉鎖空間で、窒息しかけた魂を救済するための場所、が、たとえばタトゥイーンであるのかもしれない、などと思いました。 「火の無い所に~」あたりから最後まで、におい、と関連してくる部分ですね・・・俗っぽい読み方ですが、題名の「さんかく」が、三角関係、の暗示でもあるように見え(それは噂であって、事実ではないかもしれないけれども)そうなると、「しかく」は死角でもあるのかな・・・職場だけに、資格、も当てはまりそうですが。 「私を誰も客観視することはないのだった。」という終行、「私」が噂の当事者にされているようにも読めて、面白かったです。 (さんかく、まる、しかく、におい)

2017-04-02

一二連目の古風な感じは、どこから来るのか、と思い、もとこさんのレスを見て、そうだ、西脇が居た、と思い・・・ 自由連想を書き連ねたような顔をして、伏線を縦横に張り巡らせた作品。用意周到だと思ったのですが、レスを見ると、かなり無意識的に抽出されているようでもあり・・・。 冒頭、生贄のイメージがありながら、生々しくない。古代ギリシャというのか、地中海の香りがするのは、サモトラケのニケ像のようなイメージとか、書庫とかヒヤシンス、僧侶、などの単語が喚起する複合的なイメージの故でしょうか。西脇の「カルモヂイン」苅藻寺院、のような明るさ(実際は愛用していた睡眠薬の名のもじりだそうですが)を連想したところで、二連目の、もとこさんが西脇的と評する秋祭りの景に入る。 蠍の祭り、これは宮沢賢治の蠍の心臓を喚起させますし・・・「ぼくたち」が「ぼく」になって、「きみ」を捜す永遠の旅に出る、という展開を夢想するなら、犠牲となって(人類の罪、誰かの不幸の身代わりとなって)死んだカンパネルラを捜すジョバンニの旅、のようでもあり・・・。 三連目の「かみのようにまっしろく」これは、紙に記された物語、を連想すると共に、神のように真白く・・・19世紀以降の、白いギリシャのイメージを喚起します。神々に捧げられた葡萄酒のイメージ、神の血、人間の罪を贖うものとしての贖罪の血、のイメージも重なる。 冒頭で「ぼくたち」であったはずの、幸福な状態を求め続けてさまよう主人公、その舞台としての、少し古典的なギリシャ風(東洋的ギリシャではなく、西脇や近代西欧人たちが夢見た、ヨーロッパ文明の故郷としてのギリシャ)の風景が印象に残る作品でした。 灯台も、人間を啓蒙するものとしての、知の灯台、啓蒙の灯をともす白い塔、のイメージでもあります。 (one)

2017-04-02

自爆テロという、絶望の果ての凶行(西欧先進国が追い詰めていった結果、でもあるので、手が重くなりますが)が、驚く程の身近さで起きている現在、を・・・言葉の次元でとらえると、こういう形になるのかな、と思いつつ・・・直接つながっていないように見えるものごとが、予想外に繋がっている、という感覚に言及されている感もありつつ・・・表現の軽さ、というのか、表層性と、自爆テロ、というテーマの持つブラックホールのような重さとのアンバランスについて考えざるを得ませんでした。 もっとも、どれほど重厚に生真面目に深刻に語ったとしても、自爆テロがすぐ身近で起きる、すぐ隣の人がその悲惨に関わっている、という、世界史的に見ても異常事態といえる現状を表し得るものではなく・・・自らの来ているTシャツの言葉の意味すら気にせずに、単なるファッションとして消費していく現在を「批判」するためには、こうした、軽薄さというのか、軽く流していくような表現形態をとるしかないのか、と思い直しつつ、やはり、テーマに比して、表現が表層的すぎないか、というのが、感想です。 (Without knowing anything, but not do anything, the bomb is dropped, children are blown off.)

2017-04-02

アルファベットの羅列は人ゲノムか?とか、スポーツのところに□が沢山並んでるけど、これは何だ?と思ったら、全部「絵文字」だったんですね・・・ emoji が wasabi や sushi と同様、国際的に認証されつつある、と聞きますが・・・互換性の問題とか、解決されなければならない問題が多すぎるようにも思います。 たとえば、様々なスマホにデフォルトで入っている(こういう使い方でよいのか?)絵文字を順番に連打していく、それを詩として提示する、というのは、たとえば「偶然性」を選択したことになるのか、どうか、とか・・・ ネットに接続すると、「感受性の祝祭」である現代社会(ネット空間)の中をさまよっているというのか、情報の海に放り出されている感覚になるのだけれど、そんな圧倒される量感のようなものを、言葉遊び的に、ちょいとひとひねり、というような、組み伏せるというほど大げさではなく、手元で操作してみせる、というような・・・なんだろう、ネットに溺れている者を尻目に、サーフボードですいーっとすべっていっちまったぜ、おい、的な感覚になる「詩」でした。 「詩」とカッコに入れたのは、互換性のある、つまり、創作者と読者とが同一条件で読める、という前提のもとに「文字の芸術」としての詩を投稿する場所だよね、という前提条件があるわけで・・・これは、同じ土俵で勝負していることにならないのではないか?という感覚があるから、なのですが・・・ プロレスとかで(ほとんど見ないけど)場外から乱入してみるとか、ロープの上から飛びかかってみるとか、そういう「イレギュラー」をむしろ見せ場として用いて、観客を楽しませる、その感じに近いのかな、とか・・・ 『地名論』批判、を意図しているのですかね、これは・・・。詩史の上では「でかい出来事」となっているけれども(そして、アンソロジーなどには、必ず引かれる、けれども)いわゆる、ある一時期、話題になったもの、の代表作一例、というような感じ、なのかな・・・ 「おとのかたまりが壁に投げつけられて」こういった表現(状態、感覚)を、もっと掘り下げて行って欲しい、というのが現段階での感想です。 (ようやっと普通の詩を書いてきたと思ったら)

2017-04-02

fiorinaさんへ 再コメありがとうございます。感覚を、大切にしたいですね。 エイクピアさんへ 文字の音声化というのか・・・黙読でも、音声に解凍されてから意味の引き出しや連想への飛翔が始まる、と考えると・・・詩の質感や手触りは、意味を主体として伝える通常分(散文)よりも音声や面立ち(詩形や空間の取り方など)に左右される部分が多いのかな、と思います。日本語の二人称の呼び方は、実に難しい、いつも迷います・・・。 黒髪さんへ そうですね、名指すこと、名付けること、によって、他者の脳裏にイメージや質感を移し替えていく・・・呼び覚ましていく。そんな魔法をかけるのが、名辞かもしれません。 (雨後)

2017-04-02

これはまた、なんというか、ひらひらひらひらした詩だなあ、と・・・ 蝶の飛翔のイメージと、ゆらゆらふわふわした感じの語感が重なりました。 歌謡体というのでしょうか、呼びかけの意識が強いのは、想定する読者がいるのか・・・。 蝶と「つくし」は、特に結びつかない。幼子(あるいは幼児期の記憶)とは、結びつく。いつくしみ、という言葉の中にも、つくし、が入っている。 「追い越していく雲の向こうに/約束を結んである」この一行が素晴らしい。 でも、全体に言葉の選択が、ゆるゆる、という感じだな、というのがあり・・・ のどかな春の空気感を出したかった、のかな、と思いつつ。 「今日の中に精いっぱいを見つけて」精いっぱい、という副詞?を、名詞として用いている、こと・・・ここで立ち止まるのですが、たくさんの発見により、充実した新鮮な日々を送りましょう、という、あまりにストレートなメッセージが置かれているようにも見え・・・。題名のあえて構えたような感じの硬質さと、本文のふわふわ感との関係に、何か意図があるのか、どうなのか・・・と、色々疑問を感じる作品でした。 (蝶の示すような愛情)

2017-03-30

硬質な抒情詩。印象に残りました。 内省(内声)を詩形でも明確にして、対話としている。 秋のショーウィンドウ・・・複雑に屈折したガラス面に、希薄な影となり、なおかつ複数に分断されて写り込む自分の姿、そんな情景を、心象風景として書き込んでもよかったかな、と思いました。 秋の街路、ですからね・・・最後は「秋の公園」に到り、そこで噴水と対峙するわけですが。 詩のように・・・この直截な比喩は、「詩」は安心を与えてくれるもの、という作者の詩論というのか、前提が現れている部分のように思いますが、このあたりは、もっと疑い深く、詩を書きながら、詩に疑念を持つような批評精神で対しても良いように思います。 (秋の街路(2016.11.01))

2017-03-30

花緒さんへ 怖いですか(笑) 今、ネットで話題になっている東大(教養学部?)の卒業式祝辞の中で、自らを焼き尽くして、その中から新生せよ、というようなニーチェの言葉がありました。まず、自分を滅ぼしてしまいたい、それからだ、というような思いは、常にあります(たぶん。) アポロン的な美とデュオニソス的な美、の他に、ガイア的というのか、大地母神的な美というものが、あるだろうと思うのですね。生成に関わる、畏怖を伴うなにか。 日本風に言えば、アマテラス(アポロン)的な美と、スサノオ(デュオニソス)的な美、そしてイザナミ(ガイア)的な美。父権性が強まった後、イザナミは山姥に格下げされて、民間信仰の中に生き続けることになるわけですが・・・。ミューズはどちらかというとアポロン系で・・・金髪に純白の衣服、花を摘み、琴を奏でて小鳥と遊ぶ、というような清純な美少女のイメージですが、私の思う「詩の神」は、カーリー女神のような、太母、大地母神的なイメージです。(答えになってないですが) もとこさんへ はい、かたつむり、がイメージソースです。以前話題になった、『でんでんむしのかなしみ』という絵本も被っているかもしれません。自身の悲しみを抱え込んで、その中に感傷的に浸る・・・生誕以前の安住にのめり込む、のではなくて、殻をぶち壊してやるから、外に出ろよ、自分の感性だけを信じて、先に進んで行けよ、的な(やっぱり、コワイかな) fiorinaさんへ 宿命の重荷、オイディプスですか、なるほど・・・深いところで連想を辿って頂けて嬉しいです。剃刀の刃の上でも、カタツムリは傷つかずに歩くことができる。そういう実験があるのですが・・・そういうことを確かめよう、刃の上を歩かせよう、という発想は、確かに残酷かもしれないですね。 大学院で、学会発表の前に、討ち死にしたら骨くらい拾ってやるから、思い切ってやってこい、というエール?を頂いたことがあり・・・なんだか、剣の橋を渡ってこい、死んでも知らねーよ、と言われているような気がしてすくみ上ったことがあるのですが・・・詩を書くということは、どこか、そんなイメージもあるのかもしれません。 (雨後)

2017-03-30

情景描写が緻密なので、前半と後半は時間が逆転しているのかと思ったのですが、作者のレスを見ると、審判中の逃亡?シーンであるような・・・。無実の嫌疑をかけられ、逃亡の果てに捉えられて、法廷に引き出される、その矛盾というのか困惑、というところが主題だと、通常なら思う、のですが・・・ 本人は、理不尽な冤罪に困惑している、というよりも、無実だ、と主張する行為に比重がかかっているようであり・・・その主張に疲れて逃亡したけれども、また捉えられた、という時系列とも読める。 私が連想したのは、聖書の幼児殺害のエピソードです。ヘロデが、イエスの出現を恐れて、同年代の幼児を全て殺させる、というもの。 命じたけれども、自分は手を下していない。そのヘロデ王を審判の場に立たせたら・・・そんな景を考えました。 (X)

2017-03-30

動詞の使い方がめちゃくちゃうまい作品だと思いました。 女子高生、という、人格とか性格とか、そういった個人的なものと関わりなく、メディアの中で(あるいは、アニメの中で)創り上げられていくイメージは、限りなく人形に近い、気がしています。女子高生というフィギュア。 現実の女子の高校生、の持つ「わからなさ」、「知りたい」という感覚を刺激する何か・・・でも、素顔を見せてくれない(現実の女子の高校生が、ではなく、メディアの中で増殖し続ける女子高生の総体、的な、なにか)の不気味さや不穏さが、グワッと伝わって来るなあ、と思います。 実写映像に、蛍光ライトでどんどん加筆していくような、それもかなり目まぐるしく、サイケデリックな感じで切り替わって行く映像を見ているような読後感がありました。 (夕陽に顔面)

2017-03-30

最終小節、という題名。最終小説でもあるのかな、歌詞の形を使った書簡体小説を連想しました。 4343と続く整った詩形の美しさ、リフレインまではいかないけれど、脚韻を踏むように余韻を重ねていく音感の良さ、対句的な印象の刻印の仕方、このあたりが魅力の作品だと思います。 「淡いオレンジ色が揺れていて それは揺れ動く鼓動のよう」 「褪せたセピア色が愛しくて それは止まらない時のよう」 こうした比喩が素晴らしい。素晴らしいだけに・・・風のように消えてしまう、とか、(朝が来たら消える)星のように消えてしまう、これはいささか常套句的で、モッタイナイ、と感じます。 五連あたりが、盛り上がるところ、のはずですが・・・ひとめぼれは~というような一般的な言い方で留めるのではなく、もっとここを掘り込んでほしい、と感じました。彼の輝きが、いかに語り手の心に深く刺さったのか、残ったのか、あるいは心を奪い去ったのか。そのあたりを、もうひと押し。 (最終小節)

2017-03-30

冒頭の入り方、とても良いと思いました。現実界の出来事であるような書きぶりながら、三連目あたりで、比喩としての「神様の居場所」本当に自分が還るべきところ、を、探す話なんだな、という深みが増してくる。 六連目まで来て・・・さまよう魂の道行きの物語、というイメージで読んできて・・・女子高生、ここねえ・・・現実のような、でも非現実のような(魂の片割れ、的な、アニマのような)存在が現れて、神社への道を教えてくれて、そして忽然と消えてしまう、あるいは見失う、という「事件」があって、「一緒に神社に帰るんだ」と叫ぶ、あたりで止めても良かったのでは、という気もしました。 夢オチ的な終わり方も、なんとなく「ありきたりだな」という感想に至ってしまうし・・・後半四連の疾走感、面白いのだけれど、もう少し推敲して、言葉を(前半のように)絞っていってもいいのかな、という印象もあり・・・光り輝く彼女、と、一つになる妄想(法悦の境地、的な)を描いて、むしろそこに(想像の世界で)突入していくような飛躍の仕方があってもよかったのかな(このままだと、あまりにも女子高生が現実感あり過ぎて、安っぽい感じがしてしまう) 前半と後半の質感の違いを意図しているなら、文体(詩形)を少し変えてみるとか、途中に一行アキやアステリスクをつけて二連構成にするとか・・・いっそ、女子高生を見た、そこから後は、筋の通らない言葉が勝手にあふれ出す、というような形式にしてみるとか(ひらがな、カタカナばっかりとか)文体に工夫を加える余地があるような気がしました。 (セイヨウカガク)

2017-03-30

中学までは、まあ、そこそこ点数を取っていたのだけれど、高校に入ってサッパリわからなくなり・・・学年テストで、途中式も全部書いたのに0点、ということがあって、職員室に質問に行ったのですね。なんで、部分点をくれないんですか、と。 そうしたら、本当にごめんね、という顔をして、「悪いけど、一行目から、考え方そのものが、全部、違ってるんだよ」と・・・。 その時だったかどうか忘れましたが、1÷0が、なぜ1では無いのか、という質問をした時の、先生の眼の白黒加減も良く覚えています。 ホールケーキを2人で分ければ、1÷2=2分の1。4人で分ければ4分の1。 0人で分ければ・・・つまり、分けないんだから、1、まるごと残る。0になるのは、おかしい。 先生は、分けない、んじゃなくて・・・と言ったところで、頭を抱えてしまいました。数字をイメージに置き換えるくせは、いまだに直っていません。 余談ばかり書いてしまいました・・・ (πをわりきる)

2017-03-30

纐纈が、しょっぱなから読めなくて(^_^;) コピペしてググってしまった・・・ こうけつ、あるいは こうけち、でいいんでしょうか。奈良時代の絞り染め、鹿の子しぼりのこと、とな。なるほど・・・(何がどう、なるほどなんだか、自分でもよくわからないながら) 冒頭のズラッと言葉の並んだ部分、音声認識機能を使ったのか、と思ったのですが、そうではなさそうですね・・・文章がひとつあって、その文章を寸断するように他の文章が切り刻まれてはめ込まれている、という印象を受けました。 「れいてつ」と打つと、冷徹、が出て来る。作品では、怜悧の怜と徹底の徹、ですね・・・ということは、パソコンで自動的に出て来る同音異義語を偶然的に用いた、ということではなく、意図的に作った造語、ということなのかな。作者の意図が込められた部分なのかもしれませんが、冒頭から肩の力が入り過ぎ、というのか、構えた感じがしてしまう。そのことが「面白そう」「読み解きがいがありそう」と読者を引き付けることになるのか、あるいは、「難解そう」「何言ってんだかわからん」と読者を遠ざけてしまうのか・・・。 私には、「怜徹の~中として」までが、枕詞のように意味を背後に遠ざけたものとして置かれていて、「水子冬の空に私の眠りを支える影になって」がインパクトのある詩行として、こちらに飛び込んでくるように思われました。「強いのに」「ところで」「ふと気がつくと」「いいよ」といった部分は、多声の混入というのか、進入というのか・・・ノイズ的に言葉が入って来る感じ。「すぐはかなきちがい」すぐは、という言葉と、はかない、の成りかけが目に入って、すく/はかなき/ちがい と響くのだけれど、「きちがい」という言葉が最後に残って、はかな、が、ばかな、に見えてきたりする。意味がすぐに取れない、そのために読者の目が滞留する、そのために、様々な読み方が生じてしまう、気がするけれども・・・ここで(こんなところで)読者の目をとどめておく、そんなことを作者はさせたいのか?という、疑問が起きてしまう。 第一パートの二連目は、一文字アケとか句読点を用いずに一気に綴った、というだけで、つまり、あえて読みにくい感じにしているけれど、詩として成立していると思いました。「私の中の~振りかぶる私」これを「私の中の私 何度も何度も強く 激昂のソーダを振りかぶる私」と切るか、「私の中の私何度も 何度も強く激昂 のソーダを振りかぶる私」と切るか・・・少しずつ重ねながら貼り付けていった文章のような、掛詞的に意味が重なって行くようでもあり・・・。ややこしいけれど、面白いニュアンスが出る部分だな、と思いました。 余計に、第一パートの一連目の不自然さが、読者を攪乱しよう、という意図なのかな、というような・・・実験してるぞ、という意図が先に立ってしまって、空回りしているような、そんな「肩に力入ってる」感が、強く伝わってきてしまう、のですね・・・。 第一パートの三連目、「恋に譲り渡す陰嚢の印籠の高温と奇術せよ」は、恋に/故意に、奇術/記述/既述 と、意識的に二重性を用いてみた、のかな、という印象。陰嚢の印籠、肛門じゃなかった、黄門様の印籠みたいに、「陰嚢」という言葉が出て来た時点で隠微さや不穏さが出るなあ、そこに「高温」という、熱量をイメージさせる言葉を持ってくるのか、ここは面白いフレーズだな、と思います。 巫女の魂、というようなドラマティックな言葉を受けて、第二パートの、ちょっと舞台のセリフがかった、というのか、荘重な感じの部分があって、第三パート。 儀式的な、大げさな身振りで呼び出した「言葉」と「私」が、親密に睦みあう、そんなパートであるように思いました。そこに「そっか、」と肉声(口語)を入れる、これは、成功なんだろうか・・・半かっこ( を口話の冒頭に入れるとか、何か操作を加えた方がいいかもしれない。このままだと、私は文体の齟齬を強く感じます。 最終パート。纐纈/硬結、ここで冒頭と音が繋がる。ここまで持ってくるのか!長い、回りくどいぞ、とツッコミを入れたくなりました・・・。高潔もありますね、音から言えば。意味は重なるのかな・・・。「虚空を徘徊する石目のごとく」こういう、漢語の熟語を重ねていく作風を試している方も沢山いるけれども、なんというか、高踏派を狙ってます、的な印象は残るけれども、カッコよさの他に、何を目指しているの?と聞き返したくなってしまう。古さも感じますね。徘徊/俳諧の意味重ねとか・・・最後のオチが、意味としてはココを言いたいのだろう、と思う、力のこもった一行だと思うのですが、ダジャレっぽくないか?あまりにも・・・。 「優れた死(詩)は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ」 舞台で、青年が一人叫んで暗転、息をつめて見守っていた観客が一斉に拍手、という終り方なのですが・・・朗読などで聴衆を引き込んでいければ、最後に「おお!」と感動がある、と思うのだけれど、文字で読むと、大げさ過ぎないか?とシラケてしまう危険のある終わり方でもあるな、と思いました。 全体の印象として、力のこもった(若さのエネルギー、実験のエネルギー)作品だと思いますが、冒頭は肩に力が入り過ぎ、若干空回りしている。中盤はカッコつけてる感があり、後半は仰々しく成り過ぎている、のではないか・・・と感じました。 言葉を孕む、ということ、水子となって流れて行くもの、言葉を儀礼のように自らの上に降ろす、ということ、その言葉を発話する、ということ・・・そんな、詩の発生の時点を問おうとしている方向性を感じて、面白いな、とは思うのですが・・・なんとういうか、やり過ぎ感が強いな、ということでしょうか。 (声のみの声――起草)

2017-03-27

全体を通して読み、やはり少し冗漫かな、という印象はあります。 お前、君、といった呼称の変化は、本来は異なる作品として成立するものが、一つに緩やかにまとめられているから起きている事なのか、お前、と呼ばれる存在が君、と変化していく流れを作りたいのか(私には、同一の呼びかけられる対象の呼称の変化というよりも、別の人称の導入のように思われるのですが)判断がつきかねる部分がありました。 体内に樹木が育っていくような感覚、外部から得たものが自分の中で育っていく感覚は、言の葉が形を得ていく感覚のアナロジーであるように思いました。 (待つこと)

2017-03-25

るるりらさんの上記のコメント、黒鍵さんへのものが、自動的にコピーされてしまったようです。 私も、別の方にコメントして、すぐ後に別の方のコメント欄を開けて、いったん閉じて別の作品に移動しようとしたら、コメント欄に先に打ち込んだものが、コピーされていて、慌てて消しました。 (待つこと)

2017-03-25

「友達、家族だと認識している人の顔は見知らぬ他人」この怖さ、尋常ではないですね。生まれたての赤ん坊、これは複数の自分自身であるように思いました。家族にすら、様々な仮面を(その時々のTPOにあった服や身なりも含めて)つけて接している私を、素の状態に戻したような・・・しかし、そのたくさんの「私」は、夢の中ですら監視されている。ユング的に云えば、老賢者であるはずの老人、によって・・・。 胸を隠すのは、恥ずかしいから、なのかな・・・授乳拒否、幼児である「私」を、育てる(大人にする)ことを拒否していることの現れであるようにも思われました。 いずれにせよ、「仮想現実は理想郷とは限らない」ことを十分に意識しながら、しかも、素顔でそこにいる身内や家族、友達が、見知らぬ者に見えるほどの距離感を感じながら、自分は素のままでそこにいる。そんな作者の立ち位置が見えるように思いました。 (迷子のお知らせ)

2017-03-25

かなり前、の時代になるのか・・・婚期を逃した女性を年末のクリスマスケーキ、などと揶揄した(された)記憶が・・・。今、そんなことを言ったらメタメタにバッシングですが。 三行目で「俺は~」とネタばれするのは、少し早すぎやしないか?と思ったのですが、ここでくすっと笑わせて、後は一気に喩えの面白さで読ませる・・・ためには、やはり最初から「俺は~」と「定義」しておく必要があるのでしょう。 軽さの中にひょうひょうとした批評性もあり・・・彼女を未だに諦めていない(諦めきれない)自分のしつこさ?を油臭さになぞらえたところが面白い。彼女にとってはしなびたネギ、でも、自分はまだまだギトギトだぜ、と宣言しているようでもあり・・・。 (消費期限)

2017-03-25

オノマトペから始まって、一気に言いつのるような焦燥感のある一行の呼吸。 ずるり、という言葉の醸す不穏なムードは、びろうな表現ですが月経中の血の塊が降りる感覚を連想しました。実らないまま流れ去って行くもの、のイメージ。 詩脚をそろえた甘めの二連目は、このまま感傷的なポエムとなるのか、と思わせて、ギシリ、というこれまた不穏な音を入れて、更に前頭葉という術語を持ってくる。 余命という言葉の重さは、自分もしくは愛しい人(大切な人)が、今、まさに命を失おうとしている、そのことに対する思いの重さを背景に有している言葉であるように思うのですが・・・この作品全体から感じるのは、春雨のムードにのせた、失恋の感傷のような、若さやみずみずしさの感覚。 私の読み取りが間違っているのか、あるいは「余命」という言葉をカッコよさで選んでいる、のか・・・そのあたりの判断に迷う作品です。 (はるの雨夕)

2017-03-25

ハンドルネームと題名をかぶせているのは、偶然なのか、意識してのものか・・・ 音の言語化を試みるところから、雪解け水を想起し(想像する、というよりも呼び出す、に近い、イメージとして現前させる、感覚)そこから「青い空」のイメージを引き出す・・・のは、凍てついた心(時代)の雪解けと晴れやかな空を呼び覚ましたい、という心象の言語化でもあるのかな、と思いました。 ホログラム、という、現実でありながら捉え難いもの・・・と、音の響きとの関連が、今一つ掴みがたいのではありますが・・・張りつめた、という硬質な世界を、まろやかで調和したものに変化させていきたい、という、柔らかい意志を感じる作品でした。 (ホログラムのアリア)

2017-03-25

あんまりたくさん星が動くから/淡く青くなる あ、の三連符。青空をこんな風に表現するのか、という新鮮な驚きがありました。第一パートを読んでいくと、星=いい生き物たち=死者たち、であるように思われました。 数パートに分かれているのですが、小品を連作として、オムニバスのように連ねている印象があり・・・一つの作品として読むには長いかな、とも思うのですが、アステリで区切られているので、無理な長さではない、という気もします。難しいところです。 「人は詩集を/開いて/「昔」を「音」に/書きかえていく」過去の出来事、過去の想いを、音という、今、そこにあるものにしていく、その場に立ち上げていく。それが、詩集を読むということ、そんな柔らかい詩論のようなものを感じる部分です。 「枯れていく台詞たちよ」「物語に汚染された道の上」など、語ること、物語ることを深く考えている様子が、幻燈のようなファンタジックな映像として映し出され、柔らかい語り口によって進行していく、流れが美しいと思いました。 後半も詳しく見ていきたいのですが、とりあえず、今はここまで。 (待つこと)

2017-03-23

「あなたが列を成して」このあたり、ヤン・トーロップ(世紀末象徴派、だった、と思います)の絵を連想しつつ・・・言葉の流れが綺麗なので、おどろおどろしい感じがしないところが良いなと思います。 「夕闇を閉じる役目」を語り手は担っている。そんな神話的な部分に惹かれます。 あなた、は私の頬をなでてくれる、のに・・・わたし、からあなたへと切なくのびる鎖、に象徴されるような、片思い、あるいは行き違いのニュアンス。 そうですね、もとこさんが既に書いておられますが、女性の情念・・・どこかかわいらしさも含んでいるのは、柔らかく丁寧な語り口にあるのかもしれません。 (きつねび)

2017-03-23

性を描きながら、快感を書くのでもなく、侮蔑を描くのでもなく、讃嘆を描くのでもなく、屈辱を書くのでもなく、煽情を目的とするのでもなく、義憤を書くのでもなく、哀憐を描くのでもなく・・・つまりは、肌感覚や感情に関わることを書いていない、その淡々とした筆致に驚きました。 人間関係のわずらわしさ、ひいては(変な言い方ですが)生きていくわずらわしさ、そこに照準が当たっているのですね・・・レストランでマズイ食事を出されてしまって、そのウェイトレスとの会話のような・・・「風俗」という生々しさ、アングラのイメージとはまるで異なる、日常の続きの様な書き方が印象に残りました。 (証明書)

2017-03-23

冒頭の「白いように思えた水」と終盤の「白いように見えていたのだが」が微妙にずらされながらリンクしていて、「あなた」と「私」との間の屈折、私の眼(水晶体)と世界との間の屈折、光の当て方(当たり方)によって、世界が異なって見えて来るのに、その差異をうまく言い当てられない、そんな表現上の屈折を洗練された表現で示しているように思いました。 冬の向こう側、周辺・・・本当に言い当てたい場所の周辺や手前側でもどかしく探っている、そんな「私たち」について考えさせる作品だと思います。 (屈折率)

2017-03-23

毛が逆立ってくる、という、ぞわぞわっとしてくるような緊張感と孤独感。 選ばれる者と選ばれない者、閉じ込められていく恐怖。 具体的に、現実に視た光景を描写しているような臨場感があるけれども、同時にメタファーとなっていて、今の世の中の閉塞感を暗示しているような、底深いオソロシサを感じました。婦人紙、は、婦人誌、かな・・・。古紙はこれでよいのでしょうけれど。ウールの、ではなく、毛製の、という手触り感のある言葉から、なんとなく濡れそぼったネズミのような、惨めな外見の女性をイメージしました。 (発行禁止)

2017-03-23

メリハリがきいていて、無理がないのに、独自の断定が爽やかな読後感です。 モチーフを自然に思いついたまま並べているようでいて、ロンドのように繰り返し登場させたりするなど、構成もよく練られていると思いました。 (潔癖症)

2017-03-23

永遠に磨かれることのない窓、という、内面化された窓(鏡)のイメージと、実際に自分の外面にある、綺麗に磨かれた鏡のイメージ。 窓は、他者の作品を通して見えて来るイメージの堆積を透かして見ているようにも思われ・・・対する鏡は、他者の眼に映る自分、他者の眼を通して見える自分、そんなイメージでもあります。 地の文という言葉から、たとえば「おくのほそ道」のような、散文と詩文の混交文体を連想。地の文が平穏な日常(没個性的な人生)、詩文の部分が、創作活動への飛躍を重ねているように予想したのですが、この作品では、地の文にあえて埋没していく、その欲求を示している。となると、「何ものかのために生きる」のが地の文以外の人生で、地の文の中に入り込んでしまう、というのは、自分の為だけに生きる、そんな世界のことなのかな、と思いました。 境界線、というものを挟んで、創作世界と実世界との揺らぎの中で「自分」とは何者か、と問う・・・そのあたりを、より鮮明に、体感的に描いていただけると、もっと読者を奥へ引き込む力を獲得するのではないか、と思いました。 「いくじなし!」や「ほーろーぼーすーっ。」というような口語(話し言葉の音声化)を持ち込むことは、臨場感につながる一方、観念的な自問自答、という全体のテーマに、果たしてふさわしい語法であるのかどうか、若干とまどいがありました。 この部分、あえて万葉仮名にしてみるとか・・・・(吉増剛造みたいになってしまいますが) (じのぶんのおはなし)

2017-03-23

語感(音の響き、イメージ)が良い、ほぼ一連四行で進行するリズムがよい、ので・・・とんとんとん、と読まされてしまうのだけれど・・・ イメージがわんさか詰め込まれている感じで、たとえるなら、たくさんのモチーフが張りこまれたコラージュ作品を見ている印象。どうも、うまく繋がって行きません。 1連目が喚起する、ヨットハーバーがありそうな、スタイリッシュな港のイメージ。 2連目、髪をまとめている女性の白い喉を、三メートルほどの近すぎもせず、遠すぎもせずに見ている感じ。 3連は、なんだろう・・・虫の心臓、牛の鼻輪・・・牧草地と黒いこうもり傘のイメージ? 4連目は、眠りの中で深い森を歩いているイメージ。地面の中から、地上を歩く者を見ているような、鏡像的な感覚もあり・・・しかし、ここでどうして森の中に入り込むんだろう。 5連、執刀医が登場し、もしかしたら、これまでの詩は、手術前の麻酔に落ちていく時間の描写であったのか?と思いつつ・・・ここで初めて、題名の「火の子」(火の粉とかけている?)に関連しそうなモチーフが出て来る、わけだけれども・・・ 6連目、森が湖の底に沈む、のではなく、湖が森の底に沈む、という逆説。言葉の世界だけで起きている出来事、というニュアンスが強く出ている部分であるようにも思うけれども・・・花の茎の崩壊は、老いと死の暗示なのかな・・・ 7連、遅生まれの弱々しい命のイメージ・・・はあるけれど、それらが増殖している感覚が、どうもうまくつかめない。 8連、今度は望遠鏡。宇宙からの歌を受信する、ということか。白鳥の演説?という、ファンタジックなイメージ・・・自転車のイメージも登場、するも・・・ 9連、包帯が~噛み砕く イメージできなくもないが、滑稽なお化けのような像しか出てこない・・・夕焼のイメージか。 10連。中空に浮ぶホルンのイメージと、三半規管のイメージと・・・でも、裸足が駆けていく、であれば繋がるものがあるが、裸足の水槽、となると・・・水槽から足が生えているようなものしか、私の中では像を結ばない、のですね・・・ 11連。これはもう、私には全然つかめない。申し訳ない。 12連、「時は瀕死だ」こういうカッコイイ表現、好きなんですが、連関が、イマイチわからない。 13連、「卵巣の飛散した無口なオレンジの恒星」執刀医とか、全体を彩る赤やオレンジのイメージ、生と死のイメージ・・・の終着点、なのだろうけれども・・・ 火の子、が作品全体とどのようにからんでくるのか。一行ずつ見ると文法を破壊しているわけでもない、矛盾を詰め込んでいるわけでもない、のに、全体が分離されたまま寄せ集められている感覚があり、うまく全体がまとまった流れとならない。 イメージが文節され過ぎているのではないか、という印象を受けました。 ひとつひとつのモチーフのキャラが立ったコラージュ作品、として、全体のイメージの重層性や響き合いを楽しむ、ということでよいのか・・・とは思いつつ、イメージが過剰過ぎて、装飾的なものに平板化されてしまっている感もあり・・・奥に詠み込んで行こうとすると、手前ではぐらかされてしまうような感覚もあり・・・ 映像的な美を作りだそうとしたのか、もっと深い創作意図があるのか(その意図を、私が読めていない、のか)作者の側からのコメントがあれば嬉しいと思いました。 (火の子)

2017-03-23

詩の立ち上がりから〈(物語の侵食を告げる警報、〉ここまで、 極めてスタイリッシュで緊迫感もあって、不穏な花のイメージが一貫していて・・・行き止まりに追い詰められている焦燥感のようなものも凝縮されている感じで、とても良いと思ったのですが・・・この後の部分、作者が実は一番いいたいところ、かもしれないけれど、ここは、蛇足だったのではないか、という印象を持ちました。 (Dicotyledon)

2017-03-18

ごくさりげない一行目・・・に油断すると、良い意味で裏切られる。 平日も黒・・・喪服/フォーマル(型にはまった、形骸化した)/地味 な人たちが、 〈赤い服着て肌纏う〉語感やリズムがいいのに、赤(アンデルセンの赤い靴とか、古いかもしれないけれどコミュニストたちとか、華やかな祝着、赤子、命の色)の多義性の中に迷い、しかも「肌纏う」という不思議な用法・・・自分の意思で身に着けるのではなく、肌が勝手に纏う、感じ。 だから、という接続詞は、散文的になるから避ける、というのが「定番」ですが、この詩の場合、語り手にとっては「当たり前」「当然」の論理であるにも関わらず、読み手にとっては「以外」「想定外」「新鮮」な論理なので、上手く活かされた接続詞だと思いました。 虹色が七色の伏線となり、物足りない、勿体ない、と言葉遊びのような軽さに逃がしながら自死願望(裏返された生への渇望)を述べ立てて、〈マンモスだって~失くしてしまった〉という、ユーモラスでありながら、人類普遍の感情のところにまで持って行くスケールの大きさ。 人間が人間らしさを失ってしまった現代、その現代に生きる生き辛さをリストカット、という「抵抗手段」「闘争手段」でしか表明できない・・・そんな若者の心情を代弁しているように思いました。 テンポの良さ、ユーモアや軽さの配合具合、堅固に全体を固めるのではなく、あえて隙間というのか、息抜き場所を用意しているような全体の作り、無駄のない詩行など、技術力の高さも印象に残りました。 (今日も、ちいろはめでたく赤)

2017-03-18

ような、如く、みたいな・・・とこれだけ直喩を連発してクサクないのは、確信犯か?という立ち上がりですね。おおっ、次はどうなる?と、スピーディーに読者を引き込んでいく。 〈チョコレート工場が頭の上に〉というシュールで具体的な状況設定、〈身体は検体〉リアルな肌感覚を伴った金縛り感、それでいて〈七色の熱電球〉という祭りのような、ハイテンションのムード、〈機械音は蛮人の儀式〉という意外なシチュエーションと・・・映画の『チョコレート工場』の、侏儒たちのダンスのようなイメージ。 ベッドに「くくりつけられたまま」の躰と、部屋の壁の対照が〈トラックのライトは部屋の壁を刺して去る〉という、光が刃物のような鋭さを持っている感じで、躰の上を素通りしていく感じ・・・自分が固定されたまま、外部の世界が展開している感覚があって、面白いと思います。 そういう、展開(というか、「送り」詩行の「運び」)が素早いのに、丁寧な状況設定があるので、空中に浮いた工場に見張られている、なんて妙なシチュエーションなのに説得力があるんだな、と思います。 〈存在感は異空の穴のよう重く  その一点だけが歪んで見える〉 そこに幽体離脱して吸い込まれていくような、でも踏みとどまっているような恐怖感の上に、〈血のようなチョコの臭い〉チョコレート色の血液のどろりとした血栓のような、吐血のようなイメージ。死の象徴なのかもしれない。 夢魔というのか、魔女が突然現れるところの突発感、突然感が弱い、というか・・・もっと衝撃的なシチュエーションによる「登場シーン」があっても良かったのかな、というのと・・・〈工場に眼球など~機械音は容赦なく増していくばかりだ〉の部分が長いので、バランスが取れない、という印象があるのですね。ここを、もう少し切りつめてもよいのかな、と思いました。 (kissはチョコの味)

2017-03-17

kaz.さんへ 躍動感、ありがとうございます。普段は書かないようなスタイルなのですが(知人には、畳みかけていく感じは、いつもっぽい、と言われましたが)皆さんの影響を受けているのかな、と思います。割と一気に書いたし。 URLをコピペして検索してみたのですが、ファイルを開けませんでした・・・やり方が悪いのかな・・・デジタル音痴です。 (Heel improvisation)

2017-03-17

黒髪さんへ かなりデフォルメはしていますが、具体的にモデルがいます(笑) その人が、私の為に裏切ってくれた、ことを頭では理解しているのに、気持ちが相反する、渇望する、という感じ、でしょうか・・・ 繰原秀平さんへ 足裏、は、あうら、とルビをふりたかったです。イモリの腹の、朱色のような、黒とまだらの怪しげなイメージ、ぬめぬめした両生類的な感じ・・・が、毒蛇、コブラ、のようなイメージにずれていっている、かもしれない、と・・・レスを拝見して思いました。水にも陸にも住める(どちらにも安住できない)イメージが、当初あったのか、なかったのか・・・(自問自答しています) なかたつさんへ そうですね、女、を見ている「私」という一人称視点が、女の中に、あるいはヒールそのものがもつ意志に、同化していっている・・・かもしれません。その一貫性の無さを、変容の範囲でとらえ得るか、読者を遠ざける要因、と見るか・・・たぶん、真情の韜晦という意識と、それを(一部を)デフォルメして、それを面白がってみたい(そのことで、自分から切り離してみたい)という感情があるのかもしれません。自分ではそんなに深刻になって書いたつもりはなかったのですが、案外、知らぬ間に真情がにじんでしまうもの、かもしれませんね。 (Heel improvisation)

2017-03-16

追伸 「都会というスタイリッシュでドライな場所」というイメージは、題名、その言葉の荷重から得たものです。新宿や六本木などの、ネオンが瞬く夜の町、そのイメージから入って、一行目との落差、幅の取り方に「うわ、やられた」という感じでした。 (あの夜の街で)

2017-03-16

URLがうまくコピペできなかったので、とりあえず横書きのままで拝読しました。 「私は傘になりたい。」この一行目から、引き込まれました。縦書きなら、沈黙の空間がまずあって、その後に押し出されるように置かれた一行、ということになるのでしょう。隠喩なのだけれど、明愉というような・・・非常に寓意性の高い、それでいて明晰で、切なくて、でも感情過多にならない、優れた作品だと思いました。 語り手は両親への困惑と、愛憎を抱きながら成長したのかもしれませんが・・・自分が社会人になって、たとえばブラック企業に接するとか、理不尽な搾取に接するなどの体験を経て(勝手な想像ですが)両親の抱え持つ辛さ、苦しさを了解し・・・かつては「かなしみ」や「にくしみ」「とまどい」であったものが、「いとおしさ」に変わったのではないか。そんな気がしました。 「初めてその存在に気づいたのです。 しかし、紛れもなく私の家族。/私は、このとき、 初めて生まれたのです、この世界に。(望んでも いないし、望まれてもいない。)」 そのことに気付いて後・・・家族の未来を、自身が(見通しのよい、そして不幸を防ぐ)透明傘になって、護りたい、という・・・切ない願いの表明、祈りの詩だと思います。 スラッシュや句読点、空間の取り方・・・縦書きにこだわる意味も、きっとそこにあるのだろう、と思いますが・・・視覚的に空間を設ける、詩形にこだわる、リズムに配慮する、といった細やかな心遣いで、パッと見た時に(映画で、音楽が大きな力を持っているように)言葉にならないニュアンスを付加している。よく練りあげられた作品だと思いました。 (明日も、雨なのですか。)

2017-03-16

連載小説を読んでいるような感覚になってきました・・・ 昭和10年代の日本を(敗戦を知っている現在から視る、のではなく、未来がまだ見えていない当時の視点で観よう、と思って)必要があって調べているのですが・・・過去の出来事、その心のわだかまりや、憎悪が、飛び地のように未来にも点在していて、そこに触れてしまうことがある・・・そんな想いに囚われることがあります。 〈加害者としての日本がアジアにあることと似ていた〉そのことを「理解」ではなく、「情解」した上で・・・歴史上の「事実」の間違いであったり、相互の誤解に基づく歴史認識を正していかねばならない、と思います。(すみません、詩からずれてしまいましたが・・・でも、ダグマが堪えている、祖国の「罪」を負って堪えている、ことに、切なさも感じます(というような言い方をすると、右翼みたいに思われますが、自分では中道左派、だと思っています、と変な弁明をしつつ。) ( ダグマ 2)

2017-03-16

都会というスタイリッシュでドライな場所に、人間の生々しさと血脈が投じられる冒頭から驚きつつ読んでいるのですが。 「欲しいのは、乾いた音  物としての音だ  濡れた声はいらない」 ここに、優れた肉声を感じました。自分自身を確認できない、したくもない、させられたくもない・・・あるいは、物そのものになり切ってしまいたい、そんな主人公の思いが、どこから生まれるのか・・・死を、医師に宣告されたのか。いや、自分ではなく、親族、血族が、死を告げられたのではないか。そんな印象を受けました。臨場感のある作品だと思います。 (あの夜の街で)

2017-03-14

「あたし」という主語なのですが、なぜか「わたくし」と語る主人公のような気がしました。どこか懐かしいような、小津映画のような静かな流れの・・・愛のままに突き進みたい、と願いながら、結果的に妻ある人と恋に落ちてしまった、そんな物語を感じます。 冒頭の立ち上がり、通常なら文末の「接吻の」は、次行に送るでしょう。 それをあえて一行におさめることで、一気に「言い難い」ことを言い終え、息をつく語り手の呼吸のようなものが感じられ、そこから思いが立ち上がり・・・次へ次へと、進んで行く。得られた「愛」と思っていたものは、想いとはかけ離れたものだったのかもしれない・・・誰かを傷つけてまで愛し、愛されたはずの男性との関係も、実は幻想だったのかもしれない・・・そんな想いが、行間に折りたたまれているように思う、のですが・・・抑制され、切りつめられた小説、のようなストーリー性(ストーリ―の細部の描写を省いて、想いだけで綴ったような)を感じるから、かもしれません。 (唇の皮に色が着くよう)

2017-03-14

いきる ことは めしいるような いろいろの こうせんを いっしんにうけ たましいを ささげ つづけ る ぎしき だ この部分、あまりにも真っすぐ過ぎて・・・これを通常の文体で書いたら、当たり前すぎだろう、という印象にもなるかもしれませんが・・・まあ、全体に長い、その印象はどうにもぬぐえず・・・。 今、死出の旅路に赴こうとしている「あなた」を送る「呪文」であるように思いました。だからこそ、嫋々と糸を引くような、切ない「ひきのばし」が必要になるのかな、と・・・。単純に再生を祈ることができない。だからこそ、死後の再会、死後の地での再生を祈る呪文。 あるいは・・・あなたが死した後にも、私は悲しまない、そのことをあなたに誓う、そのための呪文、というのか・・・そうであれ、と自分自身に祈る、自分自身に魔法をかける、自分を納得させる。そのための呪文、というべきか。 ・・・にしても、やっぱり、ながい、印象、は、あります・・・。 (呪文)

2017-03-12

髪を切る、ということの凶暴性と自傷衝動(実際には、今現在のどうしようもなさ、が万が一改善されれば・・・億分の一、ほどの希望かもしれないけれど・・・生の衝動へと転化するはずのエネルギー、であるはずの)から出発する作品であるのだから、いっそ女子になりきって書いた方がよかったかもしれない、と思いました。 まつ毛に目がとまるあたりも、繊細な女子目線が感じられるので・・・なおさら、「床屋」ではなく「美容室」にしてみるとか。 読点の打ち方の多さ、この細切れ感は、意図的なものでしょうか。散文体でさらさら流していきたくない、のであれば、体言止めや言い切りの形、唐突に断裂する文章、そういった形で、文体そのものにリズムをつけるというのか、空隙を作って行く方法もあるかもしれない。あえて散文体にするのであれば、読点が多すぎるのではないか…という印象があります。言いよどむ感じ、語りをデコボコにしたい、そうならざるを得ない、という心境を描くのであれば、またそれなりの読点の打ち方もあるだろうな、と思いつつ・・・。 (かなC)

2017-03-12

皆様へ そうですね、攻撃性というのか・・・悪役とヒールが重なる(そもそも、踵落しとか、そういう荒技から来た意味らしいのですが)面白さから、連想を広げていったものです。 即興、で書き始めた当初(目の前を、黒いピンヒール、しかも足裏が朱色というか赤というか、ぬめぬめどぎつい、すごい靴が歩いて行ったので、よし、これで書こう!という・・・)終わり方は、彼女が振り向き、お先に失礼、と傍らをすり抜けていく。空中には、彼女のくっきりしたアイラインが、チェシャ猫のように残り、私をにらみつけて離さない・・・というものでした。 なんだか違うな、と思い、しばらく寝かせて・・・書き直してみたら、いつのまにか「彼女」を「私」が見ている詩、から、「彼女」を見ていた「私」が、いつのまにか「彼女」そのものになって、街中を闊歩して歩いている、感じになりました。 感情移入が度を越すと、憑依してしまう、そんな感覚で、他者になりきって書いたので・・・かえって今の心境が、ストレートに出ているかもしれません。 (Heel improvisation)

2017-03-12

力作だと思う一方で・・・メタファー満載の「戦後詩」的世界が再現されているようにも思い・・・そこに、申し訳ないけれども既視感がある、というのか・・・なかなか入っていけない、閉ざされている感じ、がありました。この一作のみから受けた、初読の印象ではありますが。 (homecoming)

2017-03-12

銃口、は、男性器のメタファーかな、と思いながら、BL的世界を感じながら読んでいて・・・作者からのレスを読んで、なんとなく腑に落ちるものがありました。 ザーメンを白い雨に喩えるなら、黒い雨、は、罪悪感の象徴でもあるのかな、と思い・・・BL的頽廃に揺蕩う感じ、というのか・・・世界を倦むような「2人の世界」の作り方、そこに埋もれていく感じがありました。 「そして僕の指先が祈る」ここでバシッと終りにしても良いようにも思います。あるいは、あくまでも「君」と「僕」にしておいて、少年少女、というような言葉は出さない方が、いいのかな、とか。もちろん、BL的世界に留めておきたくない、ということであれば、あえて性別不明で書いた方が面白いのかもしれませんが。 (ring)

2017-03-12

キエウヒェ、ではなく、キルヒェ、です・・・修正の仕方がわからないので、レス欄で。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-12

あまりにも正攻法というのか・・・リルケの『マルテの手記』は、果たして小説なのか、散文詩なのか、というようなことが、しばしば問われますが・・・そんな、ある種のビルドゥングスロマン的な小説の一節を読んでいるような感覚がありました。翻訳文体と言えばいいのか。もう若くもない二人、という所から見て、戦後50年以上が過ぎているのか。ドレスデンの再建はいつまでだったか、とググったら、フラウエン・キエウヒェの再建が終了したのは戦後60年、とのことでした・・・そんなにも時間がかかっている(かけることに意義を見出している)のか。スペインのサグラダ・ファミリアもそうですが・・・宗教的背景があるのかもしれませんが、日本の戦後再建、復興との差異をそこに感じますし、そういったことへの批評的視座が、今後の作品に現れて来るとより深まるのではないか、と思いました。 ドレスデンの、徹底した再建の執念は、恐るべきものがありますね・・・北の陰鬱な空と、寡黙で黙々と仕事に従事する人々、フリードリヒが描いたドレスデン近郊の淋しいような悲しいような沼沢地の映像、海辺の風景を重ねつつ・・・ ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-12

花緒さんと、同感でした。冒頭4行、もしくは5行・・・ここがとてもまとまっていて、同時に「最果タヒ」的で・・・後半が作者の「真意」であるならば・・・世界平和なんて、どうでもいい、君が僕のことを特別だ、と思ってくれさえすれば・・・そんなふうに、僕のことを想ってくれる人がいればいいな、という、恋愛待望論、というのかな・・・その先に、もっとツッコメ!その裏を突け!と、喝を入れたいなあ、と感じます。 (6㎜×35行)

2017-03-12

作為なのか偶然なのか必然なのかわかりませんが・・・「えぐる」という肉体感覚、それから「匂い」の感覚が鮮烈な作品でした。 「まず一錠~私。死ぬつもりありませんから。」までの、ライトノベル風というのか、軽めで言葉が過剰に放出されるけれども、核心をさけて(迂回して)いる、といったムードの部分、個人的な好みとしては、もっと言葉を刈り込んで、スピーディーに後半部に接続していった方がよいのではないか、と思ったのですが・・・前半部を「リーダビリティー」と感じる方の方が、多いのかな・・・。 理恵さんと八重ちゃん、ふたりのレズビアン的な(それも、なにやら薬剤を介在させているかのような)関係性に託して、言葉による誘引、意識の混濁、魂の幽体離脱、のような感覚が描かれているとも読め・・・生理的感覚を持った、詩の内省化・・・いや、違うな、詩を生み出していく過程を二人の関係性に託して描いているようにも読め・・・なかなかスリリングな作品だと思いました。 今、これを出すという時機的なことについて、なのですが。大阪の某理事長が「トカゲのしっぽ切り」はせんで下さい、とユーチューブで流していたことが被ってきてしまうのですが・・・それは、かぶったり、重ねて読まれてもよい、ということ、なのでしょうか。あの騒動とは関わりない作品、だということは、読めばわかる、とは思いつつ。 (私はトカゲ)

2017-03-12

朗読すると、ものすごいインパクトがありそうな印象ですね。 言葉が(視覚的にも)音となって立ちあがって来る強さがあります。 「無駄に作って光って爆発」の前に一行アケを作るとか、*を付けるなどしても面白いかもしれない、と思いました。 舞台上で、冒頭の二行をナレーターが朗々と・・・その後、コーラスでガツンと声の束が迫って来る、というような、詩劇的な迫力と映像的イメージを感じたので。 (メルトダウン)

2017-03-12

ずいぶんと穏やかな文体だなあ、と思い・・・3.11の日に投稿されたことを想い・・・ 「一人の旅に出た友よ」の前に、一行アケを設けた方がよかったかな、と個人的に思いつつ。 カタリ=語り/騙り とも重なって行く擬音である、ということ・・・について、考え込まざるを得ませんでした。 薪とは、何か・・・自らを(罪の意識によって、滅ぼすための)火葬/仮想の薪、なのかな、とか・・・たまたま、今打っていて出たのだけれども、「神の夕べの巻」(に、を、の、にしていますが)とも(無理やり)読めるな、とか・・・ 一人の君、に託しているけれども・・・何千、何万という死者たち、ひとりひとりのことを想った追悼詩、だと感じました。 (海)

2017-03-12

無駄なく、流麗に流れて行く文体、読ませることに長けた作者だと思いました。 生きるやるせなさ、生身の感覚を放棄してその重さに耐えている日常、そのゆえに獲得する、淡々と「物を見る目」・・・ 感情の流れがドラマティックに盛り上がり、それでいてロンドのように、安定して収束する。古典派とロマン派の境目の音楽のよう。 内容をドキュメンタリーのように克明に描写していったら、重すぎて読むのがつらいでしょうね・・・流れにのせて、静かに歌う、このスタイルだと、笹舟に自身の苦悩を身代わりにのせて、小川を流していく、そんな印象を受けました。 (セパレータ)

2017-03-09

言葉の粒立ち感がある、というのか・・・とととと・・・と散らばって、一定のスピードで進んでいくような感覚が面白いと思いました。 雨を薄めて飲む君、という状況描写ではなく、~することにした君、と、人格描写でもあり、今後の意思というのか、生き方を規定していくような人物造形描写である、という立ち上がり方、とか・・・ 舌先、と聞くと動物の湿潤な感覚を想うのですが、この作品を読むと、なぜか多肉植物のような、植物的な感覚を受けました。 約束印で絆され とか 心解けの水温 というような、造語というのか、独特の(通常の用例とは異なる)用法が、アクセントになっているところが面白い。 全体に一定のスピードで進行していく、その安定感に惹かれる一方で・・・もう少し緩急があってもよいのかな、と感じました。 (約束印の絆)

2017-03-09

題名に惹かれ・・・人を喰った「死者」だな、と思いながら読み・・・戦死者を呼び覚まされた時点で、死者=使者でもあるのだな、と思いました。 折口の描いた使者の重さ、濃厚さの対極を行くような・・・パイレーツ・オブ・カリビアンに出て来る、ひょうきんな骨ほねの死者たち、のような・・・。 「世界を皮肉る呼吸」こういった軽めの、でも鋭い一言に、批評性を感じます。世界を皮肉るための息を発すること・・・それが、詩人の発話なのではないか。いや、視る事こそ大切なのだ、永続して、死者から死者へと「眼」を受け継いでいくこと、こそが・・・。 その「眼」を手にしてしまった者・・・この語り手の歩んでいく先を、考えさせられました。 (石の眼)

2017-03-09

言葉が囀りながら先へ先へと進んで行く(いや、進んで行く、というよりは、自分の周りに出て、飛び回っている)それなのに、本体はどっしり構えて、動かない、そんな感覚がありました。 大きな岩のようなものがあって、その周りを(電子が原子核のまわりを)飛び回っている、的な映像。の、イメージ。 個人的には・・・せっかく朝の魂の場、捨てられた森、に戻って来たのだから、そこで詩を止めてもよかったのでは・・・と思ったのですが、それでは予定調和に成り過ぎるのかな・・・あえて馬鹿野郎、と崩すというか、外していく感じで、円環を閉じるのを避けている。拒んでいる、というほどの厳格さではなく。どこか、気楽な閉じ方。鍋の蓋を、とりあえず閉めておく、的な。 言葉の流れというか、選択の仕方が、ライトな感じなのにスキがなくて、巧みだと思いました。 (営み)

2017-03-09

私の奥の、むずがゆいところ、という「もぞもぞ」した感覚と、湿潤な感じ、閉ざされた水、のイメージ・・・が結びついて、子宮口、その奥の羊水、実際の肉体というよりは、宇宙の肉体の持つ子宮・・・そんな感覚がありました。 暗い池に浮かぶコウホネの花のイメージと、文字が喚起するイメージが、うまく合致していると思います。 (未来の私)

2017-03-09

hyakkinnさんへ そうか、口は発信する器官、ですよね・・・「手」もよく詩に登場するのですが・・・これもまあ、発信側、の器官かもしれない。視覚や聴覚は、受容を旨とする。そこに・・・特に情報過多の現代社会では・・・押しつけがましさや圧迫感や強制感を感じてしまって、逃げ出したくなるのかもしれない、と(レスを拝見して)思いました。とりいそぎ、御礼まで。 (私の鳥)

2017-03-09

前作で感じた文体上の違和感が完全に払拭されている、というのか・・・これは間違いなく、詩です、私にとって。 盛り込み過ぎかどうか、という点・・・過剰な印象はありますが、「意味」を伝えるというよりは、現在もなお1945が続いている(あるいは進展していない)、という感覚、高度経済成長を続ける日本の軋みのようなものを肌で感じ取ってぶつけている(ぶん投げている)という感覚が伝わってくる、ので・・・言葉を整理して言った時に、はたしてこの、塊の熱量のようなものがガツンと来る、という感覚が残るかどうか、ということを考えました。 一連目と二連目の抑制された筆致と、三連目以降のブワーッとあふれ出す感じ・・・この間の差は、崖を飛び越えるくらいの幅がある、印象なのですが。 これは意図的なものなのか、あるいは技術的な問題で、実際には「ちょっと飛び越す」「またぐ」くらいの幅にしておきたかったのか・・・ 行替え部分、抒情に流れるのを抑えるためなのか、あまり「うたって」いないのですが・・・だったら散文体のままでもいいじゃないか、というのがあり。 甘くなるので難しいのですが、あえて詩形を変えるなら、もっとそこに必然性がほしい、と思いました。 (THE COLD WAR)

2017-03-09

ユーカラさんへ 「君のものにならないうちは、鳥を放ってはならない、 の下りは、少しでも自分を疑った時、鳥は逃げていってしまう、そんな意味合いがあるのかな、と思いました。 自分を信じきる、というのは、とても難しいことだから。」なるほど、自身をどこまで信じ切れるか。言葉を、どこまで信じられるか・・・そんな隠れテーマが、あったのかもしれない。そんな気がしてきました。「ユーカラ」は北方の歌と同じ響きですね。ユーカラさんの歌も、聴かせてください。 (私の鳥)

2017-03-02

4行で進行していく地のフレーズと、サビのように置かれた6行のフレーズ。 思索的、感覚的なシャンソンを聞いているような気がしました。 永遠に目覚めることのない(目覚めた時は、自分が破たんする時)胎児を抱え続ける語り手の重さ、ディラックの海、思わずネットで調べてしまいましたが、「無」という羊水の中に漂い続けているような感覚がユニークだと思います。 「無」とか「有」というような抽象的、観念的なワードを、「刹那と永遠って/けっこうパンに合うらしい」というような、予想外の展開で「味わうもの」に変えてしまい、そのすぐ後に「惨い現実も残酷な真実も/お腹いっぱい食べ飽きた」と重ねていく。連としては途切れていて、全然つながっていないように見えるのに、刹那=惨い現実、永遠=残酷な真実、と、意味が内的に対応していくように思われ・・・転調して同じフレーズを繰り返すような、そんな感覚が得られると思います。ここはうならされました。 辛さを「食べ飽きる」ほどに味わってしまった主人公だからこそ、みんなの為に「夢を見る」ことができるのかもしれません。夢見ることを、仕事として引き受ける、そんな宿命を負っている、というべきか。その「しんどさ」に、ひそかにバトンタッチを、終わりが来ることを、待ちながら・・・。 (Tangerine Dream)

2017-03-02

面白いファンタジーとして読ませていただきました。 看護婦の「語り」というのか、「説明」が、ちょっとくどいかな、という印象はありましたが・・・あえて文字をぎっしりと詰めて、音声と化した言葉の群れが通り過ぎていくような感覚を受けるので、構成としては成功しているのかな、と・・・でもやっぱり、ぱみゅぱみゅ的な歌手、を設定して持ち込んでいるところと、尖がって渦を巻いて、人をにらみつけているようでありながら、視線が定まらない、そんな「視線」のイメージと、双方を論理で結び付けようとしているところに・・・少し「盛り込み過ぎ」の印象を持ちました。 小説であれば・・・一章では「まいこちゃん」のことを描き、二章では憧れて真似をして挫折していく(夢破れて)体調を崩していく女の子たちのことを描き、三章でその女の子たちが獲物をねらうように「ぼく」に迫って来る・・・そして、消滅させてしまう、そんな恐怖と陶酔とないまぜになったような状況を描く、ということも可能なのかな、と思いました。 この長さで収めるなら、そして「詩」として、曖昧さや不思議さをあえて残すなら(セザンヌの絵の、塗り残し、みたいに)看護婦の「説明」を、このカタツムリはカラーコンタクトである、これを付けると「なましびれ、なまめまい、なまくらみ、」が訪れて、とろけるような感覚を得られる・・・という程度にしておいて、後は看護婦が妖艶に迫って来る、そのまなざしの魅惑と恐怖、反発と誘惑、そんな相反する感情を同時に感じさせるような、そんな読後感を残す・・・なんていうのも面白いかもしれない、と思いました。あくまでも、一案、ですが。 (もちろん、このようにしなさい、とか、そういう意味では、ないですから!) (まいまいつむりのまいこちゃん)

2017-03-02

改行の頭に助詞を持ってくる、このイレギュラーによって、語りのリズムを作りだすと共に、「真夏日」とか、「どどどどど……、と/実体のない雷の音ばかりが/夕方の薄暗がりの中を這う」とカッコに入れて、それを外側から語る、という構造が生まれる。 マグリットの絵に、風景の前にカンバスを置いて、つながっているように見える光景を描いたものがあるけれども・・・このカンバスをどかしたら、向こうには全然違うものがあるかもしれないし、カンバスに描かれたままの風景が広がっているかもしれないし・・・というクリアーな不思議さのようなものを感じる絵なのですが・・・〈けだるげな雲の流れは遅く  のっぺりとした空は  吐き出しきれずに  つぶれてしまいそうで怖い〉 これがもともと描かれている風景で、その中に 〈実体のない雷の音ばかりが  夕方の薄暗がりの中を這う〉 が置かれている感じ、と言えば伝わるでしょうか。 〈人の温もりにも似た  半透明な夏の眩暈〉 ここに、居たはずの人が、戻ってきてくれたはず、なのに、またいなくなってしまった、というような二重の喪失感が現れているように思います。 青田の風景の中に、雷が落ちる、不穏な状況なのに、その不穏さこそが、亡き人が戻ってきてくれたという「体感」を呼び覚ます、ある種の超常現象であるのかもしれない。 重苦しい湿度と濃密な黒雲、突然の雷雨・・・その「非常」と共に死者が訪れ、また還って行くという出来事が起こり、それを実際に体験した語り手が語っているような、そんなリアルさがありました。 (茄子のうし)

2017-03-02

冒頭、ここまで並べるか?と思い・・・読者の目を引き付ける「あざとさ」のような抵抗感を覚えたのですが、中盤の立て並びの「ファック」の部分を見て、この伏線だったのか、と思い直しました。 「爆竹で遊んでいた頃、」から「ほら、ボラの鱗が光って見える。」まで、引き込まれながら読みました。 ここを読んでから冒頭に戻ると、「美化された少年時代」「無垢であった時代」を感傷的に振り返りたい自分自身に泥を塗りたい感情、というのか・・・自分にとっての「聖なるもの」を汚したい、というような衝動を感じます。 「封鎖が解かれる事はない。」ここで、被災地を連想し・・・以降の社会批判的な視点にも注目しました。現在の「俺」(という一人称は出てこないけれど)の眼で観た、愛憎半ばする故郷への想いと、それを客観視する視点の獲得。視点の獲得は、郷愁や甘さの喪失という痛みをも伴うわけですが・・・。 「ザーメン」は「アーメン」に語感が似ているな、と思い、不毛性(受胎しないまま流れ去る精神、のような)の象徴でもあるのかな、と思い・・・「約束された未来」というアイロニーに満ちた言葉の重みも考えつつ・・・ 無情に創り上げられていく(作り返られていく)きらびやかな未来、自分にとっては違和感をもたらすハコモノを中盤に入れ込んで、「シの発想が出てこないのは救いだ、」ここで詩を止めても(余韻があって)良かったかな、と思いました。 (何もない場所#1 )

2017-02-28

きらるびさんへ 心の中の美術館、そんなイメージもありました。ありがとうございました。 クヮン・アイ・ユウさんへ 成長過程、まだ未生の詩の世界、なのかもしれません。多面的な分析、ありがとうございます。 (私の鳥)

2017-02-28

その あとのそのあとは 無限にプリントされる そのあと… ここがポイントなんだろうな、と思いながら・・・言葉の横溢、あるいは虚無の「流れ出し」そんな印象を持ちました。最初に読んだ「詩」のもたらした「むなしさ」。それは、「詩」の空しさ、であるというよりは、語り手の眼にうつる世界の「むなしさ」であり、その「空無感」の増幅されていく、繰り返されていく「意味の無い日常」、「期待できない未来」を、イメージの浮かぶままにスケッチしていった、というような・・・。 創作メモという印象を受けてしまいました。この連想の中から、自分自身にとっての内的必然性を見出していく、あるいは、読者に対して、こんな世界を見せてやろう、とか、こんな世界観を提示してやろう、というような、仕掛けというのか、作戦というのか・・・そういった制作意図、のようなものを、もう少し露骨に出してもいいのかな、と思いました。 (そのあと)

2017-02-28

訂正:引っくりかえる→ひっくりかえる。 「編集」って、まだ出来ないのかな、この、掲示板・・・。 (すみれ)

2017-02-26

自分で自分の生み出す言葉に「ツッコミ」を入れていくあたりに、 伝達不能性という・・・詩なんて、本来、絶対に、「ほんとう」には伝わらねーんだよ、という、深い絶望というのか、諦念のようなものを感じました。絶望といっても、真にどん底に落ちているわけではなく、だって、そういうもんなんだから、仕方ねーじゃん、という明るい受容とセットになった、絶望。 それでも書く意味って、なんだろう、ということ、ですよね・・・ 正直、中盤が長いように思いました。作品としては、もっと刈り込んだ方がいいのではないか、というのが・・・意識の流れのままに書き流された(ように見える、あるいはそのように振る舞っている)全体をスクロールしながら読んだ時の印象です。 「優劣のついた風が強く吹き抜ける」詩に、優劣をつける意味なんてあるのかよ、という批評性を感じます。その直後に、自分で自分を茶化すような、言葉遊びの軽さも含めた数行のセンスに惹かれつつ、「わおっ」からの数行は、横一列にガーッと並べて、先へと進んでほしい、と思ってしまう(もっとも、作者にはそれだけの長さ、読ませるための時間、が必要なのでしょうけれど・・・。)ビデオインタヴューのところどころを、編集の際に早回しするような、そういう処理をあえてやらない、長回しのままの映像を視聴している感じ、と言えば伝わるかな・・・。 「誰よりも深く傷つく才能がない」から「感傷的になってろよ」までの行も、詩作を求めずにはいられない自己と、その自己を突き放すように視る批評性とを強く感じる部分です。「共感なんてされたら/そこは地獄になる/反感なら/それはアクセサリー」このあたりも、単なる同調や同情を求めているんじゃない、傷を舐めあう様な詩の読み合いなんて、糞くらえだ、反発くらいが心地いーんだよ、という反発心や自恃の心が出ていていいなあ、と思う。その間をつなぐ「あほんだらっ」というツッコミの入れ方も、複数だけれど単数の自己同志の自問自答、その小気味よい「つなぎ」になっていて・・・こうやって細かく見ていくと、全部の行が結局必要になってくる、のだけれど・・・でも、長いよなぁ、という印象がぬぐえない・・・。 「夕暮れ」から「頭がないのです/なっ」までの「間」が、惰性的に(言葉が出て来るのを、抑えたりせずに)そのまま出している感覚があって・・・詩の朗読会とか、ある程度の尺があって、その間にラジオドラマを聞いている時に受けるような、盛り上がりや停滞や沈黙、緊張、焦燥・・・といった音楽的な情感の流れ、を聴きたい、と思うけれども・・・全部が同じような一行アケの形式で淡々と続いていくから、単調な感覚を受けてしまうのかな、と思い・・・ じっくり間を取りたいところは、一行アケ、少しスピードを速めたいところは横一行にズラッとつなげる、言葉を塊としてぶつけたいところでは、文字を塊のように配置してみる、ツッコミ部分を空間的にずらして配置する、など・・・そうした視覚面(しづら、というのでしょうか、詩面)を工夫することによって、全体にドラマティックな緊張感が出るのではないか、と思ったのですが・・・ まったり、ソファーに引っくり返ったまま、スマホをスクロールして読むときには、こういう形式の方がいいんだよ、という意見もありそうだな、と思ったり・・・ アスファルトを突き破って咲く「すみれ」のイメージと、言葉やイメージの層を突き破って「咲く」ポエジーのイメージが重なりました。君、は詩でもありそうな・・・。メメント・モリは、死を想え、だけれども。詩を想え、とも重なりそうですね(日本語の場合。) (すみれ)

2017-02-26

魂の避難所、アジールとしての「詩の世界」その美しさ、揺蕩い、はかなさ、永遠性・・・について、しばしば考えます。その「世界」が、あまりにも素晴らしければ、現世の汚辱に還ってくることが、苦痛にすらなってしまう。でも、その美しい「逃げ場所」があるからこそ、その世界に一度逃げて、傷ついた魂を癒して、再び「現世」の冷たい風に身をさらす活力を得て、戻って来ることができる。そう、思うのです。 「詩の世界」にいったん逃避させてくれるような、美しい詩、があるべきだ、と思います。そして、その世界に浸った人が、そこで「鎧」を得るのか、防寒着としての肌触りのよい「毛皮のコート」を得るのか・・・肌そのものが鍛えられて、たくましい身体として戻って来るのか。そこで得るものは、人それぞれ。得る物の差異が、詩の多様性の担保でもある、と思っています。 光原百合さんの『星月夜の夢がたり』という短編小説集があります。その中に「遥か彼方、星の生まれるところ」という美しいファンタジーがあります。現世で心身共にボロボロに傷ついた人が(あるいは、そういった傷を負った人、だけが)訪れることのできる、神秘の場所。そこで出会う、この世ならざる美しい光景。そこで、主人公は「僕と同じくらいの歳に見える女の子」と出会います。 「ここはどこ?」「星の生まれるところさ」僕はそう答えた。それだけで充分だった。ここに来ることでようやく息をしていられる。そんな嵐を彼女も経験していることだけは確かだったから。それ以上、何を語り合う必要があっただろう。 光原さんが描いている、この場所・・・それは、ポエジーの生まれる場所であり、ユング風に言えば、人類共有の、気づかないところでつながっている無意識層に眠っている美の世界、だと思うのですね・・・ この「小説」の中では、ファンタジーの世界でのみ出会うことができていた二人が、大人になって、現実界で再会するところまでを描き・・・最後に、こんな一節が置かれます。 どうかこの世のすべての寄る辺ない魂が、遥か彼方、星の生まれるところへの道をみいだせますように。 詩を書くこと、読むことが、そうした探索の道であればよい、と思っています。 余計なことをたくさん書いてしまいましたが・・・ >こころしずかなとろみ →安らぎを得ることのできる、魂の温泉のようなイメージ。 >ゆめの古城 →言葉は甘いけれども、人々の心の奥にあるファンタジーの王国、その中心地を連想。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』の中心に置かれた、幼心の君、「月の子」の異名を持つ姫の住む城、のような。 >雪をいくら降らせても凍ることのない、  確かな地表を熱さで覆い、 →茫漠と広がる、無垢、純白の地、心の白紙の部分。そこに描かれていく物語こそが、その人のライフヒストリーになるはず、の。そこに、熱さという情熱で、足あとを付けていくこと。 >ぼくたちは悠久のカケラの、うちの、うちの、  宇宙へと身を乗りだし、 →一人一人が「宇宙」をその背後に抱えている。そんな河合隼雄さんの言葉を思い出しつつ、一人一人が「宇宙」の入口であり・・・その個々の、分断されているかにみえる「宇宙」の一番果ては、集合的無意識の層として、結局は一つにつながっている、ように思います。その個々の「宇宙」の探索こそが、他者の作品を読むという行為である、と思うのですね・・・。 >月の砂漠は、ひたひたの蜃気楼をぼくのこころに、  みせたりなんか、しない。  ただ、この場所に存在している、  きみと、ぼくとの真実が、なによりものオアシスであり、 →心の余白は、意味の無い幻想を見せてくれる場所という、単なる逃げ場所ではなさそうですね。確かにこの場所に存在している「真実」がある。それが、「ぼく」と「きみ」の出会いによってもたらされる幸福感と高揚感・・・もちろん、それは永続するものではないけれど、途切れてもまた、再び起きる、そんな予感もはらむ。 >「 きみとよく似たまなざしの、  「 ぼくを、みつけるようなキモチで、  「 きみをみてしまうよ、 →実際の恋人どうしの話と読むこともできるけれども、自身の内面のもう一人の私、アニマとアニムスのような、そんな二人の幸福な出会い、を連想します。心の中の多数の「私」を自覚し、それぞれを認め合い、欠けた所を補い合うことができれば、現世の辛さに対峙する「チーム」を組むことができる。もちろん、この二人が出会って、そのまま「駆け落ち」して、どこか遠くへ行ってしまいたい、という思いにもとらわれる、事でしょうけれども・・・たくさんの「ミクロコスモス」を探索していく、そんな好奇心が心の中に湧いて来れば、いなくなってしまった「わたし」を探しにいくこともできるでしょうし・・・。 なんてことを、色々、考えたり感じさせられたり、しました。 (なみだもろい愛をこめて)

2017-02-26

チャンプルーは好きだ、とまず、先に言います。 でもって・・・あらゆる既成概念から、自由になってやるぜ感は受けるけれど、ビジュアルポエム的な、ロゴタイプや文字ポイントまでこだわり抜いた視覚的鮮烈さ、に突き抜けてる感じでもないし、だじゃれや言葉遊びや、音感の引き出すイメージの氾濫に溺れる、というような、徹底した陶酔感も中途半端な感じがあるし・・・ 他方、全てが適度に混ぜ合わされた馴染み感とか、青春の自意識みたいな主題・・・自分自身を破壊して、その幻想の死体を足で蹴飛ばしながら、苛立ちとか満足しつつの焦燥感とか、何かそういった、名付け難い感情に触れていく、というような、作品そのものへの入りのよさ、のようなものもある。 激辛に突き抜けるでもなく、激苦とか、何かそういった、他人には絶対に食わせてやんねえ、みたいなパンチを目指すでもなく・・・ 誰もが食べてみて、けっこう美味しいじゃん‼と感じるんだけど、この味わい、うまく名付けらんないよね、的な印象が残る・・・懐かしさもあるし。なので、チャンプルー、を食した後のような感じがするのでした、 (色彩)

2017-02-25

全体に言葉が多いのではないか、という印象と、感覚を歌っているはずなのに、少し理詰めに過ぎないか(ロジックとしては極めて整合的なのだけれども・・・一人の女性の内面を描いた小説の粗筋を、抒情的な語りによって再現した、というような・・・語りの印象の強いシャンソンの歌詞を読んでいる感覚、と言ってもいいかもしれない)と思っていたのですが・・・レスの往還を読んで、また少し印象が変わりました。変った、けれども・・・実体験をベースにした語り手と、作品の中に明らかに生きている語り手とを、どう結び付けるのか、あるいはどう分離するのか、という部分が、私個人の問題として新たに生じている気がします。 初潮を赤飯などを炊いて祝った時代と異なり、「汚らわしい」「わずらわしい」という感想をもらして、娘を傷つけるケースが増えているようですが・・・背景には、娘が「おんな」になって行くことへの戸惑いとか(それは自身の老いを自覚させることでもある)、女性の社会進出に伴う、社会活動における不便さ(体調や心理的不調など)への想いなどが、複雑に絡まり合っているように思うのですが・・・ この作品の中での「それは悪い魔女の呪文のように/アタシの中に苦痛を刻んだ」という深い傷のイメージは、あるいは「薔薇族的」な傾向が現れた息子に対する母の心情、その瞬間に立ち会ってしまった時の「もとこ」さんの痛みや苦しみから生み出されたものなのか、と思い・・・ 作品の独立性、ということにも関わって来る問題なので、軽々には言えないのですが、私が「レス」を読んだ後に感じた作者の痛み、のようなもの(もちろん、私が勝手に感じたに過ぎない、作者の「ほんとうの」苦悩とはかけ離れたもの、であるかもしれませんが)を積極的に伝えるか、伝えないか・・・作品の中に、男子の制服を着るのがいやだった、というような「仕掛け」を作るか、作らないか、というような選択があると感じました。 (フラワー・オブ・ロマンス)

2017-02-23

下地を堅固に、何層にも塗り固めたカンバスに、極めて自然な筆致で、スケッチ風に、その時の情感を描きとった・・・という印象を与える作品だと思いました。 「下地」というのは、固有名詞が醸し出す抒情、ムード。自然な筆致で、というのは・・・悪い意味ではないのですが、大衆性、ポピュラリティー。 アメリカ人(あるいはアメリカ文化圏に育った人)が演歌を英語で書いて、それを巧みな日本語の使い手が日本語に翻訳した、という印象を受ける・・・のですが・・・その理由を、まだ、上手く説明できません。批評、と呼ぶにはかなり不十分ですが、感想、として受け止めていただければと思います。 (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-02-23

もとこさんのレスにほぼ同感です。 自動筆記的に詩を生み出す、その行為の空無性にとらわれつつ、詩を書きたいという「産褥の苦しみに涙を流している」主体の在り処を訪ねる、といったところでしょうか。 「蝶という長音の 結びに 朝露をこぼす」 このあたりに、文字(形骸化したイマージュ、氷結している詩想)に「朝露」のような美しい契機をあたえて、形骸を「音」へ・・・読者の心の中で生きて動き出すイマージュに変換させる、そのような詩を書きたい、そこに「sense」を感じますが、他方、「たかいたかいとして立ち昇る」「たたかいたたかいとして立ち昇る」など、立ち昇る、を引き出すために措定されたような(つまり、詩的必然性に乏しい印象を受ける)音の連鎖、音による語の誘引がある。感情や意志による誘引があって、そこに音が伴っている時、読者により強いインパクトを与えることができるのではないか、と思いました。 「再生を謳う処女膜に触れるように こぼされる白に」 受胎することなく流された「白」のイメージ、着想が文字として、詩として定着・生育しないまま霧散していくことへの感傷が、ここには歌われているように思います。 「空」の中にある、あるいはあるはずの「紛れもない名前」それを見出し、受胎させ、作品として生み出すこと、それが、私にとっての「詩作」である、という、まっすぐなメッセージが伝わって来るような、真摯で静かな情熱を秘めた作品だと思います。参考書を見ていて、それで詩が書けるか!・・・という、自己批評的な側面も感じられる。この先、どのように展開していくのか、楽しみな詩人だと思いました。 (sense。)

2017-02-23

自分の気持を、ボールにして、右手と左手の間でお手玉のようにキャッチボールしているイメージの詩だと思いました。 世界に罅が入る、という「衝撃の伝え方」は着眼点として面白いけれども・・・「世界」というものが、言葉の大きさの割には具体性が(この詩の中では)乏しいので、観念的な「世界」になってしまっているのかな、という感覚があって、そこが少し残念に思いました。愛するのではなく、熱する、を手に入れた、ということですが・・・熱する、というのは、熱意を持つ、ということを手に入れた、ということ、なのか・・・。愛の中に埋もれながら、愛したことなどない、という部分も、愛という言葉の大きさ、抽象性によりかかり過ぎているかな、という印象があります。 リズム感や独特の音律が備わっている(語りのリズムがある)ところを生かして、もう一歩深く踏み込むような・・・「世界」の様相、「愛」の質感のようなものに、より近接していってほしいと思いました。 (罅)

2017-02-21

一連目のリズムの取り方というのか、読みの呼吸というのか、息継ぎの仕方、その間合いに、冒頭から引き込まれました。 母への恋慕とも憎悪ともつかぬ感情が託された三連目、夜の海の不気味さと、「優しい/強迫」という切りつめた、相反する語によって暗示される「やわらかい罠」のように語り手を捕らえて離さない「母」の気配が重なって行くところ。 五連目の「踏切の音が聞こえてくるようなときにかぎって 便りがきた それは/いのり のような/意思」恐らく「母」が、語り手が淋しさの底にいるような時に必ず「便り」を送ってくれる、という安心感であると共に、「便り」が「頼り」であるような・・・執拗に語り手に精神的にまとわりつく縛りでもあって、どうしようもなくそうした「母」のもとに引き寄せられていってしまう語り手の心が上手く現れていると思います。 「年上の スーツ姿になびいていった」「わたし」は、母のような年上の女性のところへと、「母」から逃れるために流れて行ったのかな、と思い・・・愛想をつかして出て行ったのが誰か、分かりにくいのですが、カッコ内の、どこにお前が行こうと、握りつぶせるんだよ、と読める怖さを含んだ言葉が、執拗な愛情で子を縛ろうとする母のセリフのように思われ、その言葉を、「わたし」は出ていく「お前」に言ってやりたかったのかな、と思いました。 体の芯まで、逃れたいのに飲み込まれたい、そんなアンビバレントな感情に駆られる「母」に染められてしまった「わたし」の、どうしようもない日常を描きつつ、「わたし」はその状況をむしろ感受しているのではないか。流血(死)をイメージさせながら、同時に甘さやノスタルジーを喚起する苺シロップのイメージが、全体にまぶされているように思います。 (いちごシロップ)

2017-02-21

ローマ字の連なりが、区切り線のように見えて新鮮でした。 >雨は私を洗うかのように まだまだいつまで降り続くの こういう所だけ見ると、ベタな歌謡曲の歌詞のような印象があって、自身の悲しみの中に浸りこんでいるポーズを取っているような甘さが鼻につく感じを受けてしまうのですが、 >君が呉れた悲しみの欠片が2つ という謎めいた詩行(考えさせる、読者をとどまらせる)と、 >昔より増えたね、雨の日も というような、あれ、これは通常の「雨」のことなのではないのかも(クセが増えることはあっても、雨が増える、というのは奇妙で面白い)と思わせるような詩行に挟まれることによって、感傷的な歌詞のイメージからは逃れているように思いました。 追悼、という題、kuroifukuが暗示する喪服・・・「君」の葬儀の知らせだったのか、と想像を巡らせましたが、その割には衝撃度が抑えめで、古い言い方ですが、アンニュイな諦観に身を任せる、というような、気分に流れて行く感覚が強い詩だと思いました。(歌詞的な印象を受けるのも、そのせいなのかもしれない。) 失恋した自分の気持を葬る、というように(無理に)読めないこともないな、と想い・・・雨、が、テレビのブラウン管(これも古いか)にザーッと映る白黒の細かい画像のようにも見え・・・段ボールやhanamukeという言葉から連想される引っ越し(想いを断ち切るための)のようにも感じられ・・・ 色々と想像を巡らせる楽しみはあるけれども、全体に甘さに流れている傾向はないだろうか、というのが、今現在の印象です。 (追悼)

2017-02-21

流れるような言葉が、非常に読みやすかったです。 最初、これは自伝的エッセイ、あるいは私小説風小説、断章集・・・なのではないか、と想い・・・題名と「一般的に小説として読まれるスタイル」との「付け合い」について考え(マルセル・デュシャンの「泉」とか、マグリットの「これはパイプではない」など)・・・ 男とAの「交通」の不毛性、その不可能を可能にする(かもしれない)「夢のようなケーブル」を敷設すること、それが詩を志向する者たちの間に何らかの「交通」を可能とするのではないか。そのための自分の行為、事績を思い返す、というスタイルを取る、一種のメタ詩なのかな、というのが、読後(初読)の感想です。 口語自由詩・・・口語で自由に書き、語るもの、であってみれば、文体が限りなく世間で小説やエッセイや随想(思索的随筆)に近いものであっても構わないのだろう、とは思いながらも・・・「芸術的」である、という言葉を形容詞としてつけるなら、音の響きやイメージの美しさ――これは、個人の審美眼によるので、千差万別ですが――に、私は何らかの「個人的なこだわり」を読み取りたい、タイプなので、「詩的な思惟」「詩的な発想」「詩想/思想」を得た瞬間のドキュメンタリータッチの「小説」という気がしてしまうのですね。もちろん、「領域」を逸脱していく、逃れていく、自由、があるわけで・・・でも、「詩」というフィールドで作品を「競う」場合、このジャンルというのか、「領域」の問題は看過できない、と思い・・・これからも悩み続けていくのだろうな、というのが、再読した折の読後感想です。難しい。 (#芸術としての詩 03)

2017-02-18

Migikataさんへ  何度もありがとうございました。 >詩と小説の違い、それは言葉が手段として存在するのか、それ自体が目的となっているか、ということ。小説では言葉が物語に奉仕するのに対して、詩では物語が言葉に奉仕する 鶏と卵、みたいな問題ですが・・・言葉を愛する詩人の姿が仄見えて、素敵な「定義」だと思いました。 言語遊戯のような詩は、一見すると言葉を「目的」としているように見えるけれども・・・なんだか、私には「言葉」をズタズタに切り刻んでいるように見えてしまう時があります。 Migikataさんの「詩では物語が言葉に奉仕する」というベクトル・・・言葉の力によって生み出された世界が、そこに「世界」を作りだす、あるいは言葉の力によって物語が展開されていく。そんなイメージで受け取りました(また、私の解釈が入って、少しずれてしまっているかもしれませんが。) 生身の肉体を持った「僕」の語りというより、言葉によって生み出された場に置かれた「僕」という登場人物、「詩を語る主体」が、生きて動く自主性を持った存在として思考したり内省したりする・・・それを、書き手としてのMigikataさんが受け止めて、作品化している。そんな構造を感じました。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-18

るるりらさんへ はじめまして(まりも、としては)はるりら、さんと一時的に名のっておられた時に、初めて出会ったと思います。るるりらファンとしては、ここで出会えてうれしい。今後ともよろしくお願いします。 (私の鳥)

2017-02-16

全体を読んでから、冒頭部分に戻って、書こうと思っている内に長くなってしまったので、いったん終了・・・していたら、澤さんがガーッと書いて下さっていた・・・ 乾ききった歯(病室で意識のないまま眠り続けている父の奈落の底のような口のイメージ)を思わせつつ、渇望し続けたイメージも重ねつつ・・・の部分、「子」が「父」の闇の中に飲み込まれていく(噛み砕かれて、消滅していく)感があって、興味を惹かれました。グレートマザー的に、子を精神的にも身体的にも飲み込んで消滅させたまま、勝手に死んでいってしまった父への愛憎(と簡単に言い切れない)感情的葛藤・・・を、アラン諸島の岸壁に並ぶ石の十字架の荒涼とした僧院の光景、のような寂寥感の中に描き出している、という印象を受けた、ということを、付記しておきます。 (藁の家)

2017-02-16

投稿掲示板には入れるのに、フォーラムには入れませんでした・・・なので、トピックスを立てられなかった。新しく登録し直すんでしょうか。 (私の鳥)

2017-02-16

天才詩人さんへ 非常に面白い問題提起です。スレッドが上がってしまうので、続きはフォーラムでやりましょう。トピックを立てます。他の方にも、自由に参入していただけると嬉しい。 「私の鳥」に関して、「まり」と「りも」の対話、として、辛レスをつけておきます。 まり:平板で、盛り上がりにかけると思います。最後の「落し」が、生理的に嫌い。もぞもぞ動く唇(動くタラコみたいな)のを持ってくる意図が、よくわらかない。生理的嫌悪感に訴えて、衝撃を与える、という目論見なら、表現としてあざといと思います。 りも:冒頭から、現実には「ありえねーだろ」設定を持ち込んで、ひとつの空間を作りだしているわけですが・・・空間の作成には成功している、ように思うけれども(わりと映像や音声が具体的だし)わざわざ異時空間を設定する意図って、なんなんだろう・・・面白い空間を作ってみたい、ということなのかな まり:もし、そういうエンタメ系を目指すなら、もっとドラマ性とか、盛り上がりが必要だよね りも:平板さは、形式へのこだわりとか、表現のテンションを一定のリズムで刻むというのか、抑制していく「張り」感みたいなものへの志向があるんじゃないか、と思うんだけれど・・・。バロック音楽が好きか、ロマン派音楽が好きか、みたいな、好みの問題にもなりそう。 まり:落伍者、ということへの自己認識というか、それを認める事への抵抗感とか、そこから抜け出したいという欲望とか、そういう葛藤が根底にあるんだと思うんだけれど、その感情的な表出というか、噴出の度合いが、弱い気がする。綺麗にまとめている、とは思うけどね りも:そこなんだよね。綺麗さ、整った感じ・・・小作りになるよね。せっかく異時空間を設定しているのに、壮大な展開というのか、そういう広がりが感じられない。すごく、閉塞している。 まり:だからさ、本人のその、閉塞感というか、そこに押し込められている感がテーマなのかもしれないけど、その切実さが、ズシンと響いて来ないんだよな・・・書かざるを得なくて書いた、という感じではなくて、作品を書いてみたくて、書いてみた、的な。自分のための「箱庭」を作成している、というか。 りも:切実さが前面に出過ぎると、押し付けられ感も強まってくるかも、というのはあるけど。自分の葛藤を激白してます、的なやつだと、単なる感情の垂れ流しじゃん、とか思っちゃうし。作品を作ります、という意図があっても、いいんじゃないの? まり:自分の「箱庭」を作品として並べて、展覧会みたいにみんなで品評する、的な・・・それもアリかもしんないけど、「私の鳥」に関していえば、露骨っていうか・・・あざとい感じが気になるんだよね。好き嫌いに還元しちゃっていいのかな・・・この方向で進めて行ったら、すごく奇形的な、「キモかわ」的なものとかホラー的なおどろおどろしさとか、そういうものばっかりが「新奇で面白い」ということになるんじゃないの?それってどうなのよ、と思う。 りも:設定の無茶さ加減とか、唇が独立して動くという奇異感とか驚きとか・・・「口唇」機能の社会的意味ってなによ、的な問いかけはあるのかもしんないけど・・・そういう理智的な感じが、いやっみっぽい。非現実的な景を「比喩」として使って、意味とか理念に対応させようとしているっていうか・・・花緒さんが、ひとつひとつ読み解こうとしているけど、そういう謎解き的な遊びに落とし込んでいくところが、すごく閉鎖的だよね。 まりも:要するに、ダメ感が強い、小作りな作品、ということですね(笑) こういう「対話」みたいなものがあっても、面白いと思いました。 (私の鳥)

2017-02-16

今取りかかっている仕事が、ひとまず二月末で一段落つくので、三月以降に考えさせてください。とはいえ・・・たとえば、阿部嘉昭さんという詩人/批評家の『換喩詩学』という本があるのですが、そのあたりを、読書会的に読んでみる、とか・・・。スカイプの使い方とかイマイチよくわかっていないので、テキストデータの交換の方がいいのかもしれませんが・・・とりいそぎ。 (私の鳥)

2017-02-15

抑えた抒情性に満ちた作品だと思いました。「連帯」とか「誓い」という、非常に重力のある言葉が、作品に根を下ろしているかどうか、ということが問題になってくる、のかな・・・ 一連目、特に冒頭三行、これは素晴らしい入りだと思います。一滴の「誓い」が芽生えるところ。連帯に悶えている、という流れから、荒んだ人の心に、潤いを一滴でも与えられる存在になりたい、そんな「誓い」なのかな、という印象を受けました。 気になったのは、〈死の永続性を砂に誓う〉〈物質の未練を救済していく〉という、とてもカッコよくまとめてあるのだけれども、抽象度が高いゆえに・・・連帯に悶えている、という身体的な切実さから、少し離れてしまっているように思われるところ。誓い、という言葉の重ね方も、少し多いのかな(力み過ぎているように感じられる)と思いました。 季節としての夏(これは、青春とか、情熱に燃えた季節、ということなのか?)は過ぎ去ったけれども、夏は過ぎ去らない、という、ある種の矛盾・・・二度目の夏は、灼熱の大地をもたらす夏、人の心を干からびさせる強烈な夏、という意味なのか?という気もするのですが・・・だとすれば(違っていたらごめんなさい)照りつける陽射しとか、焼き尽くそうとする陽射しとか・・・そういう、烈しさ、荒廃をイメージさせる「なつ」に持って行き、それでもなお、自分は一滴の水をもたらす存在になる、と決意を感じさせると、よりエネルギーと実感に溢れた作品になると思いました。 (誓い)

2017-02-15

三年、辛抱している間に、〈船を捨てるやつもいたんだ〉 単純な「がまん」や「辛抱」ではなく、命がけ、生きる、というギリギリをかけた選択の果ての「辛抱」・・・肉声が入ってくるところにリアルさがあるのですが、仕事の「辛抱」や、震災復興の「辛抱」、恋人の気持が戻るのを待つ「辛抱」など、色々な想いを重ねて読むことの出来る詩だと思いました。 最後の連で、〈おまえの海〉と呼びかける。この海は、心の海や社会の海、生活の海・・・荒海であろうと思い・・・恐らく陽に灼けた皺だらけの顔に、じんわりと浮ぶ笑顔、経験に裏打ちされた自信(確信)に満ちた、その迫力に、きっとこの「聴き手」は力づけられただろうと思い・・・それがそのまま、読者へと反転する。自然で素直に見えるけれども、巧みな構成だと思いました。 (はたはたパイ 食べろ)

2017-02-15

はじめまして。冒頭三行でひとつの世界を作り出すことに成功している。疑問に思ったのは、その、という散文的(説明的)な語が何を指しているのか、ということと、そっくり、という、これまた説明的な語ではなくて、これは父の○○だ、というような形で、実感をこめて言い切ってしまった方が衝撃力が増すのでは?と感じました。 石も冷たいけれど、まだ温もりやざらついた質感がある。それが、触れているうちに鉄・・・冷たくてつるりとしていて、人間の肌を拒絶する硬度を持ったもの、としてしか感じられなくなる。その変化が、父を(その冷ややかさ、冷酷さ?)を思い起こさせる、ということなのか・・・迷うのは、風という、ポエジーを盛り込むのに実に便利な語が先に来ているので、風が石を鉄に代える、とも読めること。 墓参が、先祖の墓で、地縁血縁に縛られる暗さを指しているのか、既に父が死んでいて、その墓参なのか・・・父の墓なら、風は父の気配、再来する魂を予感させる風。十字架の変容に、父の何を重ねているのか、死を恐れない異常さ?が鉄の魂と感じられたのか・・・ とまあ、既に冒頭の奥行きにつかまって長々書いてしまいましたが・・・内容や、意味を説明する詩にしてほしい、ということではないんですね・・・むしろ逆。 あえて言うなら、作者がどんな意識で書いていたのか、そこを詰めているのか。詰めずに、曖昧なまま何となく、詩の世界を作り出すところに主眼を置いていたのか、どちらなんだろう、というところが、バシッと伝わってこなかった、のでした。 (藁の家)

2017-02-14

天才詩人さんへ 鋭いコメント、ありがとうございます。そもそも、口語自由詩って、なんじゃいな、というところにも関わるのだけれど・・・私にとっての「真実」を、比喩を用いて表明する、これが、私の目指している「詩」の内容です、と、先に言いますね。「詩」と言われる(称される)文芸の中の、ごく狭い領域である、ということになります。(そうではない「詩」を書く方も、たくさんいらっしゃるわけです。)ただ、その領域における代表作を、常に目指していきたい(今は、まだ麓あたり)とは思っています(思い続けたい、と自分で自分に喝を入れる。) 〈「部屋」それから鳥が入っている「箱」この2つの空間醸成装置をアーキテクチャーとしてシュルレアリスト絵画みたいなストーリーの場面が、読者に謎解きのように提示されている〉異界を設定して、その中で、できるだけクリアーに、輪郭線をはっきり辿ることができるような緩い動きの中で、論理的にうまく説明できないけれども感じていること、を伝えるための、アニメーションのようなものを作ろうとしている、それが、伝わっているか、どうか、が、とりあえず、ここでの問題でした。 私は、「綺麗な感じ」「美的な心地よさ」「古典的な均整美」の方向にまとめて行ってしまう、傾向があり・・・優等生的とか、感情の強度が弱い、とか、破綻が少ない、という批判を受けたりもする、わけだけれど・・・表現主義的、野獣派的な手法を目指すのか、新古典主義的な映像美を目指すのか、という事に関しては、作者の美観とか感性による部分が多いでしょう。前衛を目指す方にとっては、未知の美を開拓して、提示する作品にしか、存在価値はない、過去に「美」と認知されたものの枠内に居て、なにが楽しい、という意見もある、でしょうし・・・・。 なんでもかんでもマルチに挑戦していたら、人間の一生は本当に短いので、全部中途半端で終わる。どれだけの選択肢を捨てることができるか、ということでもあるのかな、と・・・。考えていたら、よくわからなくなってきた。続きは、また後で。 (私の鳥)

2017-02-14

Migikataさんへ 物語詩、あるいは神話的な詩、異界幻想譚など好きなので、好ましく読ませていただきました。 気になったのは、散文詩と掌編小説、の境目を、Migikataさんご自身は、どこに設けておられるのか、ということです。 私個人の境界線は、読者に手渡す部分が多いか少ないか、というあたり。これは、あくまでも私個人の規範なので、一般的なものではない、のですが・・・。 たとえば、「「向こう側」とは~そう答えるしかない。」このように、語り手の判断や内省が入って来た時点で、ここは小説だな、と感じてしまう。散文詩であれば(あくまでも、私の考える、と限定付きですが)「裂け目の向こうは僕には認識不可能な領域だった。」から「裂け目へ向かって河が流れる。」へ、一行あけくらいで、説明抜きに飛躍してほしいな、と思ってしまう。え、何?どうなってるの?という驚きや、語り手の置かれた混乱状況や困惑をそのまま追体験しながら(語り手が、自分自身を納得させる答えを内面で語るのを聴かされるのではなく、読者自身が、自分で納得する答えを探すように強いられる、そのような強引さで先に進む、と言えばいいのか・・・)読者自身が、その謎の世界に取り込まれて、語感全体で、作者の描き出す世界を味わうことができる、そんな楽しみ方をしたいな、と思ってしまう、のですが・・・これは、あくまでも私の考える「散文詩」の定義であって、他の方には、異論反論、多々あることかもしれません。 同じ言葉を繰り返す効果、たとえば一行目の「死の水」「冷たい」を三文に渡って少しずつ重ねながらくり返していくグラデーションは面白いと思いました。でも、「これも幻想だ。この世界は幻想だ、と僕は叫んでいるが、その僕も幻想なので、」このあたりは、幻想という抽象語、しかも自己解説している言葉を三度も重ねている、のですが・・・もっと、視覚や異次元における語り手の体験、体感を語る、ような具体性(リアルな実感がありながら、それゆえに非現実感が増殖していくような・・・手触りのある夢を見ているような)があると、もっと読者は引き込まれるのではないか、という感想を持ちました。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-12

「慣れ合い」に堕さないために・・・という心意気に一票を投じつつ、「スカスカポエム」という評が、果たして当たっているのか?ということに、疑問を呈したいですね。すかすか、という、語彙は、内容が空疎、という価値評価が加わって来るけれども・・・同時に、空間があいている、すき間がある、という状態説明でもある。 体言止めや言い切りの形で、散文に流れる文体に断裂を入れていく、そこに空間を作っていく。歩行ではなく、跳躍のリズムで進行させていく文体に、躍動感を感じます。 「カモメのジョナサン」を個人的には連想してしまう、そこに、ありがちな青春の咆哮を感じなくもない、のですが・・・二連目に持ち込まれた「薬品」による魂の飛翔(と読める部分)のイメージが、個人的には「全体」から浮いている印象がある。もう少し前後の「鳥」あるいは羽搏きのイメージに絡むと(あるいは、伏線的にイメージをちりばめると)もう少し全体に馴染むのではないか、という気がしました。 硬質な漢語の使用(使用語彙の物理的、技術的語感)が新鮮。 最終行に関しては(映画の題名とかぶる、という時期的な問題もありますし)花緒さんの評に同意したい。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-12

花緒 さんへ 寓喩の詩、ですね、無理やり分類すると・・・。このモチーフは、作者にとって何を意味するのか?と、謎ときのように読み解いて頂く読み方もあるでしょうし(そうすると、作者自身が気づいていない、無意識層の何か、に出会えるかもしれない)自由に読んでいただければ、と思います。最後のところ・・・自分でもどうなるのかわからないまま放り出している感もあり・・・そうですね、ここから展開させたいですね。連作とか。 Migikataさんへ 幻視としての実体、なるほど、簡潔かつ実感のある表現ですね。花緒さんの「手触り」という言葉にもつながると思うのですが、私にとっての真実、アナザーディメンション・リアリティー(河合隼雄さんの言葉を借りれば)あるいは・・・最近はやりの、オルタナティブ・ファクトとしての実体、事実、なのかな、という・・・。 世界の「現実」はひとつ、でも、それをどう解釈するか、で、読み解く者の数だけ、「真実」がある。実社会がそうなっては困りますが、詩の世界は、むしろそうした多義性、多様性、多層性が生かされて欲しい、その自由が守られる場所であってほしい、と思います。 Ichigo Tsukamotoさんへ コメントありがとうございます。夢を見ているかのように描いている、自分でもとらえどころのない実感、と言えばいいでしょうか・・・。一枚の写真を、蛍光灯の下で、皆で囲んで討議する、それがコメント欄の言葉(批評的散文、論理の言葉、説明の言葉)だとすると一枚の写真を暗がりに置き、それぞれが自前の光源で照らして「見た」ものを、持ち帰る。それが、詩の読み方かな、という気がしていて・・・一人一人の光源が、多様であればあるほど、作者にとっても予想外のことが「見えて」くる(きっと)。だからこそ、自分の「見た」ものを、それぞれ「説明の言葉」で並置して、お互いに交換しあう、交流し合う・・・そこに、多様な豊かさが生まれるのではないか。そんな気がしています。 kaz.さんへ 題名が、少し安易だったかな、と思い・・・「密室」に変えようと思います。カーテンで仕切られた密室、なんて変なので、そうなると「カーテン」は「ひだ」とかになるのかな・・・。肉感的で、非現実的なのに実体感があって、その方がいいかもしれない、という気がしてきました。 (私の鳥)

2017-02-11

やわらかく進行していくのに、一本、芯が通っていて、いい詩だと思いました。 最後に丁寧に「反歌」のように、読者への配慮もついていて・・・かけ離れた超越的なもの、に対してではなく、 肉体から、細く糸のように繋がっている(つながりうる)存在への想い、それが祈りだ、と告げているような気がしました。 (prayer)

2017-02-10

追伸。「日野啓三」という固有名詞を持ち込むのは、いわば「借景」の手法である、ような気がするのですが・・・背後に膨大な作品群というか、思想/詩想の渦を持っていて、それが押し寄せて来る感じになってしまうので、詩作品としては「盛り込み過ぎ」のイメージを、個人的には持ってしまう、けれども・・・けっこう、メインの主題なんですよね。その処理は、これでいいのかな(もっと、固有名詞を使わずに、一般名詞で行けないか?)という、課題が残るかもしれない、と思いました。 (映画)

2017-02-10

三浦さんへ コメントへのレスが、途中でした・・・。ありがとうございます。教官、のイメージは、外部者の声、外界からの侵入者、というか、私が拒否したいのに、私を教導とする誰か、あるいは何か、のイメージ、なのだと思います(たぶん。)途中で現れる男、は、ユング的な言い方をすれば、アニマ、なのかな・・・私を、本来、正しく導いてくれるはずの、他者としての内在者、的な。 (私の鳥)

2017-02-10

三浦さんへ 女子視線・・・意識していなかったけれど、なるほど、です。ネタバレかもしれないですが、蠢いている唇、のイメージソースは、口紅の色見本写真。これ、男子はあまり見ないのかも(すみません、果実さんが女子だったら、すごく失礼なこと、言ってますね(;^ω^) kaz.さんへ >浮遊するシニフィアンの表象なのかもしれない。 まさに、その通りです。ある種の失語状態、私にとっての、それが真実である・・・という状態を、散文なら何十枚も原稿用紙が必要だけれど、詩ならイメージで言えるな、という・・・。そこが伝わって、よかった。鳥は、歌をさえずるもの、独自の「うた」を持っているもの、という憧憬のイメージですね。 kaz.さんの鳥は、飛翔するもの、のイメージが強いのかな・・・。 スカッとする感があるかどうか、という部分は、停滞感(まったり感)が好きかどうか、という好みの問題になってくると思うので、突破感を目指している!はずの詩が停滞していたりすれば、そこに改善の余地があるでしょう。 この詩は、停滞感、を目指しているというか、どこにも行けない感、そこを言いたい、でもどこかに抜け出す道があるはず・・・みたいな、もたもたした感じ、ねっちょりした感じ、を言いたかったので、むしろ成功したのかな、と。 嘴と口、このイメージの齟齬は、指摘されるまで気づかなかった。詩的ロジックというのか、言葉の喚起するイメージとズレすぎますね。問題点は、どこにあるんだろう・・・題名で「鳥」を喚起しながら、「人」が登場人物として動いていて、なおかつ、途中で魂の鳥というのか、具体的に姿を現さない、イメージだけの「とり」が出て来るあたりのズレ、なのかな・・・ネタバレ題名なのは、少し考え直す必要があるかもしれません。 登場人物は、「ひと」の姿をしていることは、伝わっています、よね? (私の鳥)

2017-02-10

失礼、鍵は、嗅ぎつけた、から引き出されていたのかもしれない・・・ (映画)

2017-02-10

初めまして。文法そのものを破壊して、自分だけ「わかってる感」満載の難解文体を作りだす新しさ、には反対だけれど、この作品のように、一般的に読解できる範疇を守りながら、その中に他者性というのか、その単語自体に重力があるような異語を入れて来る感じは、いいな、と私は思います。 日本語、という、とりあえず共通のルールの中でやろうぜ、と言っている口語自由詩、なんだし。 ネット掲示板なら、絵文字(emoji)とかも使える。 すぐに「今から何十年も前に、既に試みられていた」みたいなことを言い出す人もいるけれど・・・言葉の歴史は、千年、二千年の命があって、人間一人の数十年では、とても太刀打ちできない。もともと出来上がっている言葉(文法)を習い覚えるところから始まるわけだし・・・そうなると、どうやっても、どこかで誰かがやっていたこと、に、似てこない方がおかしい。 疾走感・・・言葉の音が頭韻のように次の言葉を引き出していくスピード感とか・・・ちりばめられた「ベラルーシ語」の鳥・・・「面接官」・・・アレクシェービチさんの話をちょうど聞いてきたばかりだったので、体制という檻に閉じ込められた魂の自由の渇望、平和への願い、などなどを、エナジーとして感じました。 なにかしてくれましたか/何か、してくれましたか/何貸してくれましたか 私/渡し 詩/死の土地 など、ひらがな表記の多重性を楽しめて良かったな、と思う反面・・・鍵とか、隠された、とかそういった意味語は、漢字でもいいのかな、とか・・・面接官の言葉は、カタカナだったらどうなるだろう、とか・・・そんな、表記の多様性について、もっと工夫できるかも、と思いました。 (映画)

2017-02-10

鮮やかな天空的なイメージが、一気に闇夜の中に白く淋しく光るコンビニの映像に変わる。「ちゃんと殺してあげるのだった」と強めの断定で(ということは、自分に言い聞かせるように?)殺してしまうのは、自分の中で期待し続ける、現れるはず、の君の姿、自分自身の持っている期待感、なのかな、という気がしました。殺してあげるよ、と呼びかけの形にすると、どうイメージが変わるんだろう・・・自分を優しく包むような感じになるのかな・・・。 川底に~のイメージが、とても美しくて、鮮烈で好きです。 (白い夜)

2017-02-10

硬質な題と、「アタシ」から始まるギャップが、面白い「入り方」だと思いました。高踏的な引き締まった感じの詩かな、という予想を、軽くいなすような感じで、うまく裏切ってくれる。嫌い、自死、と突き放すような言葉がガツンと入って来るけれど、夏/冬、という対比のリズム感とか、法則、残酷、というような脚韻的な軽やかさとかが、すっと読んでいける感じに繋がっているのかな・・・無垢な娼婦、老いた赤子というクリシェ的な表現は、書き慣れた人が使いたくなるような表現かな、という気がして、ちょっと気になりました。 そのあとの、「白夜の通学路」の連が、とても清新で素敵だと思います。 (彷徨)

2017-02-10