詩論 ルドンの眼 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

真清水るる

時の名を考える

奇妙な味わい

時の名前、おもしろい発想です。黒髪ワールド炸裂です。

yamabito

声明 流木から

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

魔法はある 犬ver

うまいと感じました(内容は15禁)

レスが少ない順から眺めていったんですが、埋もれてましたので掘り出しました。

yamabito

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち❤️久遠恭子

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち❤️久遠恭子

初恋

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち❤️久遠恭子

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち❤️久遠恭子

藤の花

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち❤️久遠恭子

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち❤️久遠恭子

犬のしっぽ

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち❤️久遠恭子

あなたのために

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

十月

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

真清水るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

死んだベテルギウス

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

七月の雨

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow

桃太郎の神殿

幻想的な具体、具体的な幻想

時刻、刻々、刻むということは生きるということである。生きる、生まれる、死を予感する全ての事象が望む新たな幻想、書かれるべき詩、読まれるべき詩がここにある。

狂詩人

優しい人が好き

淡くうかびあがる差異のせつなさ

自分にとって「優しい人」と他者にとって「優しい人」は同じ「優しい人」だろうか。同じ言葉を使っていながら思いうかべるものは同じだといえるだろうか——

沙一

死ね、ニュートン

こいつはいい

こいつはいいよ。文体とイメージは翻訳ランボーの剽窃だが詩の勢いはホンモノ。

豆大福の日

ひとつ私に くださいな。

仮に、お伽噺のような平和があるとしても 敵は、存在するする。人には 雉、猿、そして犬のようなタイプの人のように個性が色々であっても、共通する敵が いる。敵に勝つために、もっとも大事なことは、共通する喜びに きがつくこと

真清水るる

ひらいて、とがって

ひらひらとひらかれひかれて

ひざこぞう、に出逢ってください。そして手をのばして作品の言葉にためすすがめつ、触れてほしい。

ほば

薬売り

胡散臭さがたまらない

怪しいものや不思議なものが好きな方におすすめしたい、世にも奇妙な掌編——

沙一

書かざる言わざる、雄弁に水銀を

黙って笑ってろ、沈黙は金

これを見ているあなた、恥ずかしくはないんですか? 答えられないのですか。 なんでですか。 理由があるという訳でもないのですか? ああ、そうか。 全部、冗談だというのですね。

鳴海幸子

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詩論 ルドンの眼    

 書き出しはいつも陰鬱な空と雲で覆われている。それは根源的な存在の虚しさであると同時に、詩作と情況に半世紀近く対峙してきた者の心象風景かも知れない。人は何故、表現しようとするのか。20代でものした清水昶氏の評論集『詩の根拠』から抜粋する。    みずからの生への絶望を舐めつくすようにただ視つづけている詩人、彼に対して何故、あなたは視つづけるのかと問うたところで、彼は「いきているから」とだけしか答えない。生への絶望は、必然的に死への誘惑へと繋がっていくが、死は終局、生者を手痛くこばむ想念としてのみ存在することを知ったとき、生に絶望してなお生きる者は、「生きかた」ではなく「生きざま」を曝しつづけねばならなくなるという痛い存在の在りようを想い知ることになるのだ。しかし、彼は生の淵にあやうく立っているという恐怖によって、生の辺境で醒めつづける運命に曝されることにおいて、生や生活の実体をより深く視きわめ得るのかも知れない。微妙に揺れるまだかたちになりきらない単語のひと切れすら、生を病んだ病者たちは素早くとらえ、わたしたちの鼻さきにナイフのように生のきわみのおそろしさを突きつけてくるのである。                  清水昶「詩の辺境」より    生の底部に触れることによって、逆にイメージの豊かさをひろげることは、つきつめた詩人の不幸であっても、詩の不幸ではない。                                     「同」          「疎外」という言葉がマスコミをにぎわすようになったのは70年代の高度成長期の頃ではなかったか。本来、哲学や経済用語であった「疎外」が「疎外感」と人口に膾炙され、教育や心理学などあらゆる場面で援用された。10代後半から20代に私が感じていたそれは高度経済社会から弾き出された一生活者の疎外というより、もっと直接的な心因性のものだった。父親の死、友人の死、恋人との別離が短期間で重なり、強烈な希死願望に囚われていた。    表現することは私にとっては詩を書く行為だったが、新しい詩の表現を見出すことが、どこかに不安な魂の置き場所を探し当てるのではないかという漠然とした期待も一方にあった。ぎりぎりまで生の底部に堕ちていくことを自らに課し、言の葉を紡ぐことはそれを凝視する行為であり、自身を生に繋ぎとめる防波堤であった。だが限りなく己に閉ざしていく思考は精神を衰弱させ、狂気をも孕み、裡なる無意識を探れば探るほど分裂をおこし、自己というものが如何に多重的な構造をもつものであるかに気付かされるだけだった。    拙詩集『死水晶』のあとがきに書いた「異界がどこかに存在するのではなく、今この生こそが異界なのではないか」の言葉は私の偽らざる心象である。67歳になった今でも、発すべき言葉の存在が内奥深くにあるはずという思いは強いが、孤立を深め狂気すれすれの精神の深淵にひとり降りたっていく鋭い感性はいま和らいでいる。何故か。それは年齢的な問題というより、日常を反復する営みを課し、肉体の欲求にあえて従順になることで、自らの詩論を放棄した結果の必然だろう。あるいは詩が自己の生活を止揚していくという幻想から目覚めたからかも知れない。しかし詩はつねに存在する。詩が存在する以上、表現の境界、横断はさして問題ではない。伝統と歴史に裏付けられた短歌の韻律、日本人のこころに内在するこの音楽性を現代詩は果たして超えることが可能であろうか。ある著名な詩人が言っていたが、短歌の調べに驚愕し、大いなるインスパイアを受けても、その逆はないのではないか。    詩、短歌の実作を通して感じることは、短歌の場合と詩の場合では書きはじめの段階で既に書こうとする潜在意識下の詩の摘出度が違っているという事実に尽きる。短歌では摘出された魂・心情を如何に歌うかが問われるが、詩の場合、全体の一部のみが降りたってきて、言葉のイメージが新たなイメージを呼び込み、連鎖していくようにして一篇をものする場合が多い。詩論、歌論を読み比べてみても後者の方が圧倒的に分かり易いのはそのためだろう。いずれにしろ、再度精神の深みに降り立つためには、今早急に自らの詩論を再構築する必要を感じている。間違えてはいけないのは、詩論が言葉を紡ぎ出すのではない。あくまで深奥より吐き出された言葉を外部から客観的に捉えるものが詩論である。拙詩集表紙のルドンの輝く巨眼、言葉の結晶化に焦がれながら結晶化を拒む怜悧な眼差しがその役割を担ってくれることを願うものである。


作成日時 2017-07-09
コメント日時 2017-07-18

詩論 ルドンの眼 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 17
P V 数 : 660.4
お気に入り数: 0
投票数   : 0
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項目全期間(2022/07/07現在)投稿後10日間
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2022/07/07 18時49分46秒現在
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    作品に書かれた推薦文

詩論 ルドンの眼 コメントセクション

コメント数(17)
花緒
(2017-07-11)

詩ではない文章がたくさん投稿される場になればとも常々感じておりますゆえ、詩論を投稿いただけましたこと嬉しく思います。一方で、如何様にレスをつけさせて頂くべきなのか、、、逡巡しております。詩論というか、詩作に対する想いが綴られた本作、文章としての完成度の高さは言うまでもないと思います。 正直に申して、私は、精神の深みに降り立つ、という詩の書き方、あるいは、深奥より吐き出された言葉を外部から客観的に捉えるものが詩論である、といった考え方に対して、私自身はその立場に立てないといった躊躇いも感じます。例えば、音楽に例えれば、魂を歌にぶつけてやるぜ!と言うようなロックシンガーやソウルシンガーのような歌い方もあれば、精神の深みが表出しないように感情を廃して歌うようなテクノ音楽のような歌い方もある。音楽であれ文学であれ、<精神の深奥>というものが在り、それを表現を通じて実現する、という直球な態度に、時代的に皆、向き合えなくなり、あるいは向き合わなくなり、テクノのような表現の方にシフトしつつある、のかもしれませんが、だからこそ、最近の表現者の書くものは、ますます表層的になり、つまらなくなってきているとも言えるのかもしれません。 なんというか、わたしには、詩論などなく、詩論について語れないということに、気づかされました。下らないレスで申し訳ないですが、本作、多くの方の目に触れて欲しいので、一旦上げさせて頂きます。

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白島真
(2017-07-11)

ふぇー!!朝1・5時間もかけて書いたレスがログインされてなくて(途中でログアウトになったか) 全部ぱー。戻るボタンで戻るようにならんのかなー。また、いずれ書きます。とりあえず花緒さん、レス、ありがとう!!

0
角田 寿星
(2017-07-11)

ふはは…何かコメントしたいなー、でも気難しい人でアホなこと言って怒らせたら怖いなー、どーしよと思ってたの(^-^; でも「ふぇー!!」で全部消し飛んだぞw1.5時間の労力、けして無駄じゃなかったですよ、白鳥さん^^ まずは詩と短歌の比較に関しては同意かも。 短い言葉で的確に切り取ってあって、素直に感心しました。 短歌の人が「そうぢゃねーよ」と20分くらい文句言い出す構図まで思い浮かべました。 生の深淵、底辺ねぇ…先日、大学時代の同期をガンで亡くしたんです。 末期の末期まで働いて、最期は身動きできない状態で入院して、そっから1ヵ月経ちませんでした。 見舞いに行った入院の話では、筋肉モリモリの体力の塊だった彼が腕も動かせずに、 「こうやってボーっとした精神状態で、ベッドにずっと寝てて、陽射しが当たって、生活の音がかすかに聞こえて…  まるで天国にいるみたいで、この生きてる瞬間がすごい幸せな気分だ」 ということを話してたそう。これもまた、生の正しい深淵なんだろと思う。 こうして生の底辺を乗り越えてしまった人たちを、結構見てきたから、ねえ… 若い頃に直面してきた死とも、だんだん捉え方も送り方も変わってきた、と自分でも感じてますよ。

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角田 寿星
(2017-07-11)

白島さんでした…名前間違えてゴメンナサイ(_ _)

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白島真
(2017-07-12)

花緒さま コメント、ありがとうございます。 前述した通り、昨日、長いレスを書きましたが、全てパー。 意気消沈して、昨日のような長いレスはもう書けませんが思い出しながら書いてみます。 音楽のロックとテクノに詩精神の在りかをシンボライズされたこと、分かり易く良かったです。 このように二極化する構造のリスクは(お互い)重々承知の上、話を簡単にするために あえてそのまま援用させていただきますので、読まれた方もではレゲエ、民謡、jazzはどうなんだというような 反論は無用でお願いいたします。 私はテクノ的な詩を否定するものではありませんし、どちらが「高尚」だとか「低俗」だとかの判断もしませんが、ただ、好きか嫌いかがあるだけです。 多くの現代詩(詩誌、ネット詩)を読んでいて、言葉の斬新性に心打たれるのは、むしろテクノ的詩に多い気がしますが、ただ反面、心の琴線に触れてこない。 何故、それを詩という器に盛らねばならなかったのか、散文で書けばいいではないかという作品も多い気がしています。 詩という定義が、従来の行分け詩、散文詩からさらに広がっていて、意欲的な実験詩のような挑戦がそこに見られますが、何らかの形で琴線に触れてこないものはやはり私はダメですね。 では、琴線に触れるとは「抒情」なのかというと、そうだと答えざるを得ませんが、 この「抒情」というものさえ、時代の影響を受け、質的に変化・変質していっているのかも知れない。 具体的に言えば、ある方のネット詩で私がいいと思っていても「泣けはしない」詩を、若い方が「泣けた」とおっしゃるような場面が多々あり、それは個々の感性を通りこして、何か時代の基盤たる共同幻想の変質を感じ取ってしまうのですね。 今後はテクノ的詩からはそのようなものを読み取っていきたいと考えています。 (前回、パーになった内容とは随分、論旨が違うもののなってしまったw)

0
白島真
(2017-07-12)

角田さま コメントありがとうございます。 短歌の実作者からの「そうぢゃねーよ」より、私は詩人から「そうぢゃねーよ、詩からインスパイアされて短歌だってできるじゃん」って言われることを実は恐れていますw この詩論(って言えるかどうか分かりませんが)は実は私が所属している短歌の会の求めに応じて書いたものなんです。「隣人としての詩」というテーマです。 だから、あのような文章が唐突に出てきますw 大学時代の同期の方の死、いわゆる「達観」ですね。 人間は言葉を操り、創造力、想像力も豊かですが、 死を前に恐れを抱き、打ち震えます。それが普通でしょう。 しかし、動物たちはそうではなく、死を自然に受け入れます。 (今まで飼ってきた犬や猫、みなそうでした) 達観とは人間が動物に還るだけの話かも知れません。 私もより動物的に死を迎え入れられるようになりたいものです。 そんなことをコメントから想起いたしました。

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蛾兆ボルカ
(2017-07-13)

僕には、この詩論は、親しみを感じるものでした。 僕にとっても、十代の終わり頃にしていた詩作は、内なる深淵を見ることでしたし、この散文の筆者はそうした詩論を新詩集に至るまで、おそらくは中年期の初めまでに捨てたということなのかな、と、拝読したのですが、私も若い頃の詩論は捨てました。捨て去るのが数日か数ヶ月か、分からないけれども少し遅ければ生きていなかったでしょう。 さらに、この白島さんは、若い頃の詩論を離れても、そこと不可視のケーブルを接続して詩を書いておられるのかな、と思うのですが、私もそうです。 むしろちょっとぐらいは、ここに書かれていないことをコメントしたいなあ、と愚考しまして、安部公房を持ってきました。  安部公房BOT 安部公房BOT @abekoubou_bot 見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある。見られる傷みに耐えようとして、人は歯をむくのだ。しかし誰もが人間になるわけにはいかない。見られた者が見返せば、今度は見ていた者が、見られる側にまわってしまうのだ。 『箱男』 清水氏がいうように、深淵を見つめるひとに、なんでわざわざ深淵を見たりするのかを問うても、おそらくは、まだ生きているからだ、としか言いようがないのでしょう。 しかし、その深淵を見るときですら、見るからには見るものは対象への愛を差し向けているのではないでしょうか。絶望への愛も愛である、ということから、この詩論のうらに

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蛾兆ボルカ
(2017-07-13)

(続き) この詩論のさらにうらに、詩の地底国を築くような詩論を私は探していこうと思っています。 地底国アガルタには、シャンバラという美しい都市があるのだ、と伝説に言いますよ。

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田中修子
(2017-07-13)

こちらの詩論、こう、肉厚! うまみがギュッと詰まってる! ですね! 漢字とひらがなとカタカナのバランスがすばらしくよくって、ぱっと見「上手い人の文章」で、やっぱりお上手ですねぇ。 内容がまた、噛めば噛むほど味が出る、って感じで、文庫本一冊くらい読みたくなっちゃう感じです。 白島さんの詩も、鋭くっていまにも壊れちゃうんじゃない? というよな危うさがありつつ、構成がすっごくしっかりされていて言葉の一つ一つがあるべきとことにおかれているように考え抜かれてるので、安心してカミカミしながら読める不安感、というものがあります。詩論にも、出るものなんですねぇ。 「詩の場合、全体の一部のみが降りたってきて、言葉のイメージが新たなイメージを呼び込み、連鎖していくようにして一篇をものする場合が多い。」 これ、面白くって、私が一時目指していたエンターテイメント系小説では、どうしても描きたいもりあがる風景を最初に文字で起こし、その風景を差し込みながらストーリーを展開させていく、という、ハリウッド式と大学では習ったやりかたがありますけれど、「描きたい風景」ではなく「書きたい言葉」で、そこから連鎖し展開していくのは、これは白島式なのだなぁ、と。 ちょっと真似してみようかな、したことのないやりかたで書いていくのも、練習になりますね。

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白島真
(2017-07-13)

蛾兆ボルカ さま 真摯でかつ好意的なコメントをありがとうございます。 考えてみると某投稿サイトでは、まったく交流(いいねのポイントやスレでのお話し)が無かったですね。 お互い詩を書いている者同士、出会うべくして出会っていくのかも知れません。 >白島さんは、若い頃の詩論を離れても、そこと不可視のケーブルを接続して詩を書いておられるのかな、と思うのですが、私もそうです。 そうなのです。不可視のケーブル接続!!流石によい言葉です!結局は人生の中を巡りに巡り、断念や無念さ、猥雑なものを巻き込んで、不可視のケーブルは太くなっていったのかも知れないですね。実感として、ちょっとくらい体重をかけてぶらっ下がっても切れないかも知れない。 安部公房!!箱男は読んでいますし、書棚の奥にあるはずですが(箱男、確か函入り本だったw)、なんせ読んだのがもう40年も前で、内容はすっかり忘れています。 難しい本なんだろうなと構えて読んだら、結構面白かったという印象と、「不在証明」という言葉だけが脳裏に焼き付いた記憶が残っている訳ですが、当時その実験的小説をどこまで理解しえていたかは疑問です(笑 「見る」「見られる」の関係は拙詩集詩篇「夏をみる人」で試してみたことがあります。 安部は「見られる」ことには憎悪があると言いますが、私の場合はそれは「成熟」の一過程として捉えていました。常に「見られる」ことを認識することは、一方的な自己認識の中に第三者の眼をもつこと、それは「客観力」の増幅であり「調和」であり、「ナルシスからの脱却」という意味合いでしたので、安部の認識とはかなり違っているかも知れません。 >その深淵を見るときですら、見るからには見るものは対象への愛を差し向けているのではないでしょうか。絶望への愛も愛である この部分は全く同意いたしますし、そこまで読み取っていただけたこと嬉しく思います。 「根源的な孤独との拮抗から生まれる言葉は、その孤独と等価の抒情になる」と新聞で評したくれた詩人(冨長覚梁氏)がおり、今後もこの言葉に勇気づけられていくことは間違いなさそうです。 時代が暗い(昏い)もの、孤絶、あるいはグロテスクなものを排斥していく傾向のなかで、シャンバラの尖塔はそういう中からこそ鮮やかな光をまとって浮き上がってくることを信じて、お互いいい詩を書いていきたいですね。 PS:そういえば最近新詩集を出された林 美脉子さん(確か旭川の詩人)、『緋のシャンバラへ 』という詩集をいただいて持っていました。もう一度、読み返してみよう。

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白島真
(2017-07-13)

田中修子さま 素敵なコメントをありがとうございます。 こういう文章を書く経験は今まであまり無かったのですが、詩の幅を広げていく意味でチャレンジしています。 そもそも。「論」と名のつくものは敬遠してきたタイプの人間ですが、潜在的に持っている(はず)の詩法や認識論を一旦は顕在的に表出させて、言葉にしてみることが必要な時期にきているようです。 >漢字とひらがなとカタカナのバランスがすばらしくよくって そうですか。詩作では常に漢字か平仮名にひらくか考えますが、文章では正直考えて書いてなかったので、そういっていただくと意外ではありますが素直に嬉しいです。 ハリウッド方式!!そういう言い方するんですね。 私の場合、風景、映像よりもどうしても観念的な言葉が先行してしまうので、そういうことになるのだと思います。逆にもっと映像、イメージをくっきりさせたものを書いてみるべきとも。 お互い、積極的「ないものねだり」みたいで、よしよしです^^

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白島真
(2017-07-13)

林 美脉子さんを旭川の詩人と書きましたが、今見たら当時は滝川市の方でした。 手帖の年鑑住所録では現在、札幌市にお住まいのようです。 お詫びして訂正いたします。

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夏生
(2017-07-15)

白島真さま、御作にコメントさせて頂きます。 人は何故、表現しようとするのか、からはじまり、死生論へと展開され、詩を書くのはなぜか、から、御自身の死生論に入り、「異界がどこかに存在するのではなく、今この生こそが異界なのではないか」という考えに至る。ここまでの流れが大変興味深く、引き込まれました。 短歌と詩の違いについて。短距離走者と長距離走者の違いのようで、面白く感じました。 最後に詩論とは…と入って。その明確さ、力強い言葉が印象的でした。 安易な感想文になってしまい、申し訳ございません。

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まりも
(2017-07-16)

昨日のツイキャスで、白島さんの「詩論」が、まさか「朗読」されるとは思わなんだ・・・音の流れとか言葉の区切りとか呼吸とか、そうした面にも、工夫が凝らされているなあ、いわゆる「カチコチの論文」ではないな、ということを、聴きながら感じました。 詩論に詩論で返信するのも変ですが、フェイスブックに載せた投稿から、一部を抜粋します。 死後、分子、原子の段階まで微塵になっていけば、あらゆる物質と同等のもの、同質のものに還元される。物質同士の関わり合い、働きあい、影響の与え合い・・・そうした動きそのものが、いのち、なのだろう、と思うようになりました。分解と統合、消滅と再生。肉体という物質の運動が生み出す「いのち」ですが・・・魂、の居場所は、どこにあるのか。肉体にいのちが宿っている間、魂は肉体に仮住まいしているのだろうか・・・そうした魂の問題について触れていくことができる、探っていくことができる、それは、既成宗教にはとらわれないとしても、ある種の宗教的次元においてなされることなのではないか、それを文学で行おうとする時、もっとも濃厚に触れていくことができるのが、詩歌なのではないか・・・そんな想いを抱いています。詩歌の生まれるところ、さらに言えば、ポエジーの生まれ来るところ、その場所に、物質やいのちの生まれるところも重なっているように思えてならないのです。 さらに付け加えるならば・・・昨日、ツイキャスのコメントに書き込んだこと・・・「わたし」が「わたし」であり続ける事への欲望と、そのことからの忌避(嫌悪)、しんどさ、のようなもの・・・それは自分が消滅してしまう事への本能的な恐怖なのでしょうけれど、翻って、海岸の砂粒の一粒に過ぎない自分が、消し去られたとて、砂浜そのものは何も変わることがない、ということに対する(これもまた、青春期特有の、誇大な自意識の反転なのでしょうけれど)不毛さの中で、なぜ生きねばならないのか、というようなこと、にも繋がっていくのかな、と思います。 離別や生きて行く上で被ってしまう悲しみ、苦悩、こんなもの、無ければいいのに、という感情・・・それを忘れるために、何かに没頭する、夢中になる、我を忘れる、その欲望に突き動かされたりもするわけですが・・・その欲望がまた、新たなパッションを生み出したりもするのでしょうが・・・感情の振幅を、理性でなだめすかして生きている、それが、人間の営みなのかな、と思うことが多いです。 白島さんの詩論全体を見据えているルドンの描いた、巨大な目玉・・・超自我の眼、それはまた、吹けば飛ぶような、消え去ればすぐに忘れ去られてしまうような、そんな存在の矮小さの自覚と、矮小な存在であるはずの人間が、なぜ、広大な宇宙や、生命の神秘や、壮大な夢想、詩想、思想・・・を生み出したり、抱え込んだり、その中を彷徨ったりすることができるのか。 こんな小さなものが、こんな大きな世界に、なんで触れていくことができるんだろう。 そんな神秘、不思議、を知りたくて、詩を書いているような気がします。 返信ともいえない返信ですが。歌論も詩論も、ポエジーの生まれ来る源泉を問う。そして、生まれ来るものを、どのように表現するか(修辞)問う。その修辞が、どのように受け止められるのか(読解されるのか、社会的、文化的文脈も含めて)問う。そんな、三段階で考えていくと、わりとわかりやすく構造化されるのかな、とは、思っています。

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白島真
(2017-07-16)

夏生さま 感想コメントをありがとうございます。 まだまだ未熟な「論」なのですが、何かを感じ取っていただければ嬉しいです。 まりもさま コメント、お待ちしておりました。 昨日のツイキャス、私に関するところは5分しか聞けず、残念です。 (録音されているかと思ってツイキャスの場所を探しましたが、お気に入りに入れておらず、ビーレビ(アルファベット)検索でもヒットせず、また、ツィートのラインでももう案内ツィートがスクロール限界で出てきません。) えっ?朗読もされたんですか!!それはびっくり。私が別のPCで入った時は、もう殆ど終わりかけでした。 どのような批評をされたのか知りたかったですね。 まりもさんのフェイスブックの論考をお読みし、三度も四度も頷いている自分がいました。 生命・魂というものの捉え方、似ているようで若干の違いがあるようなので、私の考えを述べてみます。 幼少時、生命のトンネルを抜けてこの世に誕生するという何とも不思議な夢の体験を経て、10代ころまでに私の中で魂(いのち・意識と言ってもよい)は霊妙な一種の物体であり、肉体という物質の中に仮に住まうものという死生観ができあがったようです。唯物論は神を否定するもので、ロクに読んでいなかったのですが、最近、それは魂を「波動」「物体」として捉えていることを知りました。魂=波動=物体。物は全て波動からできており、その波動が精妙で細かいものか(心)、粗くてごつごつしたもの(所謂、物体)かの違いだけがある。 勿論、ガイアとしての地球の波動、また宇宙そのものの波動もあるのでしょう。人のオーラの「色」のことがよく神秘学などでは言われますが、それは心の波動の違いではないかと思います。端的な例でいえば、殺人犯、凶悪犯(例えば気の合わない人でもいい)などの傍にいて、嫌な気分にさせられるのも、相手の心の波動をどこかで受け取っているからではないでしょうか。 私の中では、当然それらの考えは、輪廻転生説、涅槃、業の清浄、などに結びつき、前世・宿痾( シュクア)などの概説を許容します。多分に仏教的ではありますが、知識としてではなく感性がその方向に私を導いていってしまうのです。 疎外や私性といった概念は、多分に社会的なもので、生きている以上、それらを後天的障壁と言って避けることはできません。それらを直視することもひとつ、詩人としての自覚ではないか、そうでなければ苦悩から脱出するため何らかの宗教にすがればいい。そのあたりの詩に対するまりもさんの言及、まったく同意いたします。 死んだら終わり、あとは無になるだけという立ち位置で詩を書かれている方も存外に多い気がします。 従って、不思議なもの、言葉で捉えられないもの、それが両者(魂の実在論、不在論)の間に共通する言語であることが求められています。 そうでなければ、言葉は一方的な宇宙観を指し示すだけで、魂の実在を信じる人の間だけに通じる「詩宗教」になってしまうリスクがあります。 その橋を架ける言葉(共通言語)こそ、透徹した人間観察と人間に対する愛から立ち上がってくるものでしょう。そのようなスタンスであらためて詩を書いていきたいと、まりもさんの論考をお読みし感じ取った次第です。

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宣井 龍人
(2017-07-17)

白島真さん、こんにちは。 某サイトでは大変お世話になっております。 作品を拝読致しました。 お読みして、すぐ思ったことは、詩に対する姿勢が私とは全く違うなということです(汗)。 勉強になります、お歳も5年くらい先輩のようですが、それにしても私もそれなりの年月を生きているわけで…。 人並みの苦労はしてきたつもりですが、私は今までの長い年月を何をやっていたのだろう?(笑) 内容的には白島さんの詩に対する立場、考え方が、シャープにソリッドに良い意味でシンプル、コンパクトに書かれていると思います。 引用部分(「詩の根拠」?「詩の辺境」?)のひとつめは、私が無学なせいか少し回りくどく感じましたが、ふたつめは、わかりやすくバッチリだと思います。 青春時代に強烈な経験を色々なさっていることがよくわかりました。 やはりそれが原点なのでしょうか? 最後の1行も良いですね、私はここが一番理性も感情も文に同化します。 ルドンの輝く巨眼は、言葉を失うほど存在感があります。 全然詳しくないですが、ベックリンの「死の島」等象徴主義の絵画は、詩に通じるものがあるような気がします。

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白島真
(2017-07-18)

宣井 龍人 さま コメント、ありがとございました。 おっしゃるように青春時代?の経験は大きく現在に作用していると思われます。 疵を深く抉ることで、何かとてつもなく大切なものも、また同時に獲得できる予感もあり、 単に疵を癒すという考えからは脱皮しています。 お互い、この年齢ですから、人生一通りの喜怒哀楽は体験してきているはずで、 それは余ほどでもない限り、そう特異なことでないような気がしております。 ただ、その受け止め方や、その表現方法が違うだけではないでしょうか? それにしても、清水昶が20代でこのような洞察を得て、かくなる一文をしたためたことは やはり早熟であり、驚異と言えます。 生存に対する本質的な言論は、時を経ても生き生きと私の胸を打ちます。 ベックリンの「死の島」、知りませんでした。 今度、検索してみますね^^ ありがとうございました。

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