B-REVIEW作品投稿掲示板


世界   

百均@B-REVIEW ON/ 
作成日時 2017-08-20
コメント日時 2017-12-28

 

 あした、逆上がりが出来たら褒めてくれるかな。  きっと誰かが、わたしの事を見てくれるはずだと  淡い期待を抱きながら、夕暮れの公園で  鉄棒とエッチしている  私はなんのために  何を、どのようにして、空を駆け上がる必要があるのだろうか  みたいな漠然とした不安にさいなまれてしまうのは  私の頭が悪いからだと思う  毎日を生きる事に対して  本当に疲れてもないくせに  なんで私はこの坂道を上って毎日学校に通ったり  家に帰らなければならないのかとか  世の中の複雑な仕組みについて誰かの生活に纏わる  刺激や便利さを支える為に勉強しなければならないのかとか  そういうったむずかしい事ばかり考えながら  わたしは、  クラスの中で一人だけ、  二十とびと逆上がりが出来なかった  欲しい物も特にないし、  貯金箱にお金がたまるばかりで  旅行という経験や人形のような物じゃ満たされないと思ったので  何もない、わたしの部屋の棚の中には何もなかった  机の引き出しに入った物差しで  わたしの心の長さをはかると  一ミリも満たない ああ、  つまらないね  そういうわたしが、  今を、なんとなく生きられる世の中が  幸福である事。  そういう事だけは、なぜか知ってる  わたしの生まれた世界が  もう少し不幸だったり  にぎやかだったりしたら  もう少し幸せに感じられのだろうか  みたいな事、  考えてしまうと  それは本当に不謹慎なんだ  みたいな感じで、頭がおかしくなる  普通に、ただ、毎日、朝起きて学校に行くこと、勉強すること、出来ない運動をする事、そのまま一人で家に帰ってテレビを見ること、そのたびに身長が大きくなる事、髪が伸びる事、服がしわくちゃになること、ランドセルが恥ずかしくなる事、人形がボロボロになって、捨ててしまいたくなること    そういうが、ふつうである事、の、隣で、私の弟が、いじめられている事。  わたし、怖くて何もしてげられない  だって、ふつうだから、  って、言い訳にしてしまいたかった  そういうの、だから、  今、ここで逆上がりが出来ない事で、  わたしは、それだけが、後できればよかった、  そうすれば、多分、本当のふつうになれるから、  わたしが、  今生きている理由は、逆上がりが出来るようになるまで、家に帰らなくていいから  だった、  初めて、まめができてボロボロになった右手、とか、沈みかけそうな太陽とか、私を探しにきたお母さんとか、あざだらけの弟の顔とか、何にもできない私わたしとか、そういうわたしが生きている事、みたいな事、みたいな事、 一か月くらい、一人で、校庭で、闇雲に登ろうとしていた、  あの鉄棒の向こうの空、  世界が、  反転する場所に向かって、足や手を動かした事、  初めてひたむきになった事、  色々な思い、  鉛筆が転がるくらいの軽さしか  ないかもしれないけれど、  ふつうって何?  みたいな所で、わたしの頭はおかしくなる  姉としてのふつうって何?  みたいな事も全て忘れてしまいたかった    それから、  なんとなく大人になるまで生きていると、  仕事している時にふと、思い出す事がある、  それは、人生の無意味さと、結局逆上がりが出来なかった事、その後迎えに来た母親と弟に挟まれて、家族三人で、初めて手を繋いで帰ったあの日の事、  そして  一生で一度きり  本当に最後の一度きり、  あの日、  あの場所で、  あの時に、唐突に、  姉として、弟に謝った日の事を、


コメント欄を表示する (14)
花緒 (2017-08-20):

<普通>という概念が揺らいでいるのに、なんとなく、<普通>に生きてしまえる現代社会を叙情的に掠め取ろうとした一作なのだろう。着想や構成は悪くないと思うけれど、文章が切り詰められていないと思う。端的に言って、推敲できていないように感じる。一連目から、鉄棒とエッチしている、など、不必要にリスクのある表現を使ってしまっているように思う。文章が、表層を流れてしまっているようで、作中話者が女性であることの必然性が立ち上がっていないのではないだろうか。

右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-08-21):

青春の気分が伝わってきました。好きな詩です。自分とは何か、を真剣に考える作中女性の姿勢が魅力的に浮かんできます。 推敲が足りない、という花緒さんのご意見はその通りだと思います。誤字脱字が数カ所あることと、第一聯がその後の展開の中で完全にズレてしまっているところが気になりました。それから、作中女性の視点が少女時代にあるのか、成人後にあるのか、が不明確です。意識的に不明確にしているのかもしれませんが、そうするという意図もはっきり伝わらないのです。これは文の書き方ひとつでどうにでもなるところではないでしょうか。

まりも (2017-08-21):

花緒さんの〈一連目から、鉄棒とエッチしている、など、不必要にリスクのある表現〉ここに同感。逆上がりとあるから、当然、いわゆる「鉄棒」のはずなのですが、この一行だけ見て連想するのは、上り棒と少女のエロティックな関係性ですね・・・でも、いわゆる前回りや逆上がりをする鉄棒、何ですよね。空を駆けあがる、というイメージと、何度も何度も密に取り組んで挑戦して・・・という、鉄棒との感応・・・を、このような砕けた口語で(しかも、小学生らしい女児の言葉として)表現することの不自然さを感じてしまいました。 普通、ってなんだろう。普通、でないから、弾かれる、虐められる、仲間外れになる、浮いてしまう、のか・・・ということは、「普通、そんなことしないよ」「普通、そんなこと考えない」と言われ続けた、私自身の子供時代に重なります。私はトイレに一緒に行く「おトイレ友達」のような不必要な「つるみ方」群れ方が嫌で、意図的に同級生の群れから外れていた、ようなところもありますが・・・本が友達、という、それだけでも「普通」ではない生き方を選択した時点で、クラスの大多数から浮いてしまうのも、仕方なかったのかもしれません。高校に入って、そんなタイプの子たちが同じクラスに沢山いる、という情況に初めて接し・・・まともに本の話をしても、煙たがられたり嫌がられたりしない、そのことがとても新鮮で嬉しくて・・・詩の投稿掲示板って、実社会で「まともに詩の話や本の話をしても、なんだか良くわからない、難しい、ジャンルが違う、と敬遠されてしまう」そんな人たちが、気楽に、気安く本や詩の話ができる場所、なんじゃないかな、と思うと・・・高校に入った時の解放感と似たような気持ちを思い出します。 全然、内容や文章に触れていないですね、批評になっていないですね・・・私も、誤字にはずっこけました。一気呵成に繰り出す新鮮さを保持しつつも、それを推敲していく過程が、絶対に必要だと思います。もちろん、いくら推敲しても、完成、には至らない、としても。 姉の目線で語る、のは・・・弟(語り手?)が謝られてしまった時の、その衝撃を思い出しながら、姉の心の中を辿り直す、そんな「他者に成り切ってその時を回想する」意識が働いているから、なのかな、と思いつつ・・・鉄棒ができるようになっても、弟が「いじめ」から解放されるはずはない、その無力感を知りながら、それでも、自分にできることを、なんとか・・・祈りのような気持ちで、やらざるを得ない、没頭せざるを得ない。でも、出来ない。できないから、君が苦しんでしまう、助けてあげられない・・・から、そこから絞り出された「ごめんね」なのだ、と思うのだけれど。〈鉛筆が転がるくらいの軽さ〉しかないのではないか。そんな想いが、弟の側にはしっかり深く刻まれている。そのことだけでも、〈姉〉には救いなのではないか・・・という気もします。

みうら (2017-08-21):

推敲不足は置いておくとして、百均さんの最高傑作だと思う。ここ1年間の間で読んだ作品の中では。皮肉ではないよ。百均さんはグジグジしたテーマで作品を書かれるととても魅力的な作品になる。大凡、グジグジ的なセンチメンタルな内容の作品というのは、失敗すると沼になる。読むものとすれば、そんな沼には入りたくないと拒否感が先にくる。なぜだろうか百均さんの作品は沼で溺れる感でなく、雨に少し濡れたぐらい的な印象になる。具体的な文言を拾うと、 ・出来なかった ・何もなかった ・満たない ・なぜか知ってる ・しまいたかった と残念な気持ちで終わるそれぞれの一節一節。 極め付けは、「だった、」と改行してまで置いてる。 これらの言い回しの作用が独特な濡れ性を出しているのかもしれない。参考までに私の持論を云えば、失敗して沼になってしまう作品というのは、こういった残念な吐露が続くことに併せて、飛ばし過ぎな暗喩が込められたケース。今作にはそれが無い。唯一、 『机の引き出しに入った物差しで  わたしの心の長さをはかると  一ミリも満たない』 というメタファーがあるけれども、この一つだけの効果が大きい。 素晴らしい作品ではないか。いや、かもしれない。

sonetirasonetira (2017-08-23):

女子ならどの世代も共感できるような、誰もが口に出したかったけどうまく言えない感情をこまかく表現していると思いました。 読んだあと、悔しくなりました。嫉妬しました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-08-28):

花緒さん 色々頂いたレス読んで考えたのですが、やっぱり書き手の都合みたいな物の方が勝りすぎてしまったのかなぁと思いました。ここら辺、多分プロみたいに文章を売るみたいなところで考えていったときの親切さみたいな所が大切なのだろうと思いました。なんというか、無駄な所で破綻したって誰も得しないし読まないよみたいな所ですよね。 最終的にそういう所に行き着けたらいいなぁと思いました。そういう意味で本作が僕にとっての過程の詩であるという再認識が取れたように思います。率直な感想ありがとうございました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-08-28):

Migikataさん 花緒さんの指摘して下さった事で、ある意味対面的な拙さみたいな所については僕はあまり返せる言葉を持たないのですが、なんというか、やっぱり本作は実験みたいな所もあったのかなと思います。例えば「エッチ」っていう部分については女の子が自然とエッチっていう言葉をどういう時に使うのかなみたいな所で、試しにやった部分もあります。勿論それだけではないのですが、そういう新しい事を試す代償として作品が拙くなってしまう…みたいな所が一応の言い訳になっちまう所ではありますね。 今回女の子の部分については、エッチの所はともかくとして、半分くらいは成功して半分くらいは失敗しちゃったのかなぁという感じがします。次回以降の作品で上手く調整出来たらと思いました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-08-28):

まりもさん 性的な物のモチーフをネタにするという時に、やっぱり連想に力が非常に強く働いてしまうのだなぁと、思いました。要はセックスってなんというか万能であるし、その分使う時にはどうしても引っかかってしまう連想の糸を意識するか断ち切る形で使ってやらないといけない諸刃の剣なのだと思いました。 普通の部分については、色々な見方があると思います。そこらへんについても、多分未成熟な所で出してしまったのかなぁと思います。推敲の部分にも絡んでくる所ではあるのですが。僕は推敲が一人じゃやっぱり出来ないんですね。物を書いている時に10作品位のうち9作品くらいは過程で終わってしまっている。その最終点を模索するための作品を公開し、アドバイスをもらうことによって一作何かしら納得するものができる。それができる度にまた最初から何かを作り始める、という所で本作は多分僕にとっての過渡期に当たる作品。そういう意味で今回頂いたレスの多くが未熟であるという指摘は、自分で自作をそう思ったり、たかをくくってみる以上に、ガツンと大分心に来ましたね。なんだかんだいって落ち込みました。 そこら辺も含めて、女の子を主人公になぜ僕は据えたのかについても、姉と弟が登場するのかとか、普通みたいな概念について、明確な回答を作品の中で提示できるように、やってみようと思います。といいつつ、中々狙って書けるものではないのですけれども。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-08-28):

三浦果実さん >大凡、グジグジ的なセンチメンタルな内容の作品というのは、失敗すると沼になる。読むものとすれば、そんな沼には入りたくないと拒否感が先にくる。  b-reviewを始めて、色々作品を読んできましたが、多分評価を下さねばならなかった時に一番辛かったのは、多分三浦さんの言葉を借りれば「沼」をもつ作品。僕は一貫して「辛い」という言葉で表現してきた作品だと思います。それは僕自身もそういうものを題材にして書いてきた事が、大きく背景にあります。なぜなら、そういった作品がどこに行っても大体評価されなかったからです。でもそういった事を例えばレスとして託して批評できるかという時に、それはやっぱり僕の個人的な都合であるという風にも強く思っていたので、だから自分が書いてきた事に対してダメ出しを無理やりつけていくみたいで、本当に辛かったですね。僕はやっぱり自分に近いと思ってしまう作品のスタンスが本当に苦手だ、という時に僕にできる事を考えた時に、もう一度僕なりに沼を書いていく事が、ある意味有用かなという所で、模索し始めた所があります。    何も伝わっていないような気もしますが、僕が女の子を主人公にしている理由はつまるところそこにしかありません。どうやったら皆読んでくれるだろうかっていうのとどうやったら僕にとって書きやすいだろうか。その結果として何が伝わるだろうか。という事。現実は本当に甘くないですね。でも頂けたレスは本当にどれも貴重な情報で溢れている。僕には見えなかった景色ばかりです。三浦さんから指摘してくださった所を読むまで、本当に嫌いでしたが、効果的だといって下さって本当に嬉しかったです。次の作品を書くための道筋や、頂いたコメントを客観視するきっかけもいただけました。ありがとうございます。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-08-28):

sonetiraさん >女子ならどの世代も共感できるような、誰もが口に出したかったけどうまく言えない感情をこまかく表現していると思いました。 >読んだあと、悔しくなりました。嫉妬しました。 女の子になりきれているか、本当に毎回書く度に怖いのですが、それが本当に達成できていたのであれば、こんなに嬉しい事はないように思います。読んでくださり、本当にありがとうございました。頑張ります。

るるりら (2017-09-04):

おはようございます。 はじめに ことわりますが、なんども読み返しました。私の大切な記憶を喚起させる力がこの詩にはあります。 わたしは、今まさに自身の現在の不安と格闘していた時に、 この詩を拝読しました。わたし自身には 小学校の低学年時に 鉄棒の課題が出され、私の場合は成功体験としてのこっているところがこの詩と違うのですが、ク私はクラスで 最後に さかあがりができたので、たいして違わないです。私の中に いまもなお内在する心が煮える思いが さかあがりというワードに感じます。 煮え心情が蘇ったのは、この詩と 同じように私にも弟がいて 私も 弟に謝ったことなどがあるからです。。また鉄棒にたして、エッチという表現があったので 小学生低学年というより 思春期を思うことで、わたしにとって身近に感じました。 わたしは エッチという言葉がリアルな二十代にもさかあがりにチャレンジしたことがあります。 おさないときに さかあがりができなかった人も 艱難に出会ったとき、さかあがりをしようとするかもしれないです。多くの人が 普通にできる簡単なことができるという 成功体験獲得のために、エッチという言葉が思いつくような精神年齢のときに、さかあがりに かける。 そんなことは きっと あると 思いました。それができたら 世界は変わるに違いないです。 さかあがりによって獲得したい心情が おなじルーティーンの訓練の先には あるのだと思いました。わたしの場合は 弟を亡くしているので あのとき 謝罪できたことすら 宝なのです。ですが、こんな私は 普通ではないなー。とも、思いました。  駄文になりましたこと、謝りたい気分です。うなだれている詩は そうでない詩より 地面が近くて いいなあと 思いました。こんな うなだれぎみの詩がかける方は 共感力の高い方、よりそう気持ちのあるかたような気がしました。 

百均@B-REVIEW ON/ (2017-12-22):

るるりらさん 返事遅くなってしまい、申し訳ありません。見返していたら気がつきましたので、遅くなりましたが返信させてください。 >うなだれている詩は そうでない詩より >地面が近くて いいなあと 思いました。こんな うなだれぎみの詩がかける方は 共感力の高い方、よりそう気持ちのあるかたような気がしました。  こういう風に言って下さって、嬉しいです。うなだれ気味の詩は、多分大体ダメだダメだと言われ気味じゃないのかと僕はなんとなく思っているし、自分でも良く思ってしまいます。でも、そういう詩なら寄り添えるだろうと言う所もあるのかなと思いながら、これを書いていた時期は特にそう思っていたかもしれません(今もそうかもしれません)。そう、地面に近くありたかった。もしくは、地面に近くあらざるを得なかったというのか。逆上がり、僕も出来ない人間だったので、出来ない人の詩というか、才能のない場所から書ける物を書いたつもりです。そういう物が、何かしらの感慨を生んだのであれば、本当に嬉しいです。 ありがとうございました。

5or6(ゴロちゃん。) (2017-12-23):

鉄棒とエッチしている。 この詩情を切なく表現したらキュンとするかな。 逆上がりのひっくり返った世界。 一人きりの革命ですね。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-12-28):

5or6(ゴロちゃん。)さん >鉄棒とエッチしている。 > >この詩情を切なく表現したらキュンとするかな。 >逆上がりのひっくり返った世界。 >一人きりの革命ですね。 色々レス頂いてから考えたのですが、最近思うのは直接的な言葉はやっぱり面白くないですね。無駄に高級である必要はないのですが、使うべきタイミングや場所は考える必要があると思いました。やってる事は逆上がりなのですが、それが大きく描けていたのなら本望です。端的で且つ嬉しいレスを、ありがとうございます。


手作りの命   

りん 
作成日時 2017-08-05
コメント日時 2017-10-14

 

死体を作りました。 人を殺してはいません ただ動かない人を 作ったのです 死体を作りました。 意味がないと言われました 魂が入ってなければ 役にはたたないと 死体を作りました。 生きた人はもう、 ずいぶんと前に 作りました そう、それは14年ほど 前のお話 君が生まれたときのはなし


コメント欄を表示する (8)
花緒 (2017-08-05):

初めまして。ダークですね。素晴らしい。好きです。それ以外に言いようがない。生きた人はもう、/ずいぶんと前に/作りました、がダークすぎる。生きた人を産んだことと、死体を作ったことが、同値であるかのような世界観ですね。そして、おそらくですが、死体を作った人として、作者は本作を描いたのではなく、死体を作られた側として、倒錯的に本作を描かれたのではないだろうか。そんな印象を受けました。好き嫌い別れるだろうけれど、こういう徹底的にダークな作品は嫌いじゃないです。

まりも (2017-08-07):

花緒さんの〈死体を作られた側として、倒錯的に本作を描かれたのではないだろうか。そんな印象を受けました。〉この印象、同感です。 14歳・・・微妙な年頃ですが、死んだように生きている、という実感。自らを死体に比す、そのことによってしか、乗り越えられない感情がある、出来事がある、のかもしれない、と思いつつ・・・作品として客観化されているので、そこからは既に、離れている、のかもしれないと思いました。 青年になった語り手が、14歳当時の自分を振り返って記したような・・・そんな達観を感じます。息子や娘を、母の立場の語り手が描いている、とも読めなくないですが・・・語り手が自らを母の立場に置いて書いた作品のように思いました。

ハァモニィベルハァモニィベル (2017-08-08):

はじめまして、よろしくお願いします。 いろいろな読み方ができる、というか、してみたくなる作品でした。 まず最初に、詩論として、二通りに読むことができ、次にまた作品としても二通り以上に読むことができます。  まず詩論としての第一は、行き詰まった現代詩からの呪詞となるのでダーク感は、芯に迫って漂っていることになりますが、しかしその場合には、内容的にはわりと単純だということになってしまい、この場合には、私の感想は、前に作ってから「ずいぶん」経つわけだから、(今、もしくはこれから)はどうしましょ?という感じになるだけです。  詩論としての第二の方は、なかなか興味深くて、作者の「書く」修行の過程が書かれている、と読めます。それだと、長い年月の書く修練を(他律的に)やって来たことへの感慨が漂い、新時代への寿詞を予感させます。  つぎに、テクストそのものを、あくまで作品として味わってみた場合、  第一に、これが、自分の子供に向かって、お前は「魂が入っている」か?と、言うつもりで書いた素朴な作品だったとしても、テクスト自体は、もっと広がりのある作品性を獲得しています。 例えば、近現代人というのは、「作」れると驕っていますから、そのあたりも突いているのか、とも取れそうでした。 「人を殺してはいません」と断り書きが入っていますので、その線は消えますが、しかし、タイトル「手作りの命」から、現代の大量生産工場=学校=現代人(≒詩その他TV番組も含めての作品群)批判までイメージの射程には(私が読むからか)入っている面白そうな気配を盆栽にしたような作品とも読めなくはありません。  第二には、ドラマチックに。若い頃、事情があって仕方なく子供を産んで置いてきた。その後、安定した家庭をもち子供が欲っしたが死産が続いた。という悲しみを綴った抒情詩。  又は、可愛く伸び伸びしていた我が子は、いま中学生になり、魂を失った死体のようになってしまっている、という日常風景を異化した(わりとありそうな)現代詩。 というわけで、色々な読み方ができる作品ですが、 わたしの最終的な鑑賞は以下の通りです。  わたしが読むと、1、2,3聯・・と曲を付けたい感じで、流れている。なのに、 最後の聯でいきなりストップするのが、特徴的であると感じます。 そのストップは懐旧感を強調します。 ですが、それは昔を良しとするのではなく、むしろ、昔を突き放して見ています。 視点は《今に至るまで》に向けられていますが、それも突き放して見ています。 唯一、これからに対する視点を欠いているか、題名の「手作り」+「命」のかけ合わせが、否定もできれば肯定もできることは承知のうえであろうことから、核に見えるのは、シニカルな視点で未来に対しては安全を確保している、という印象でした。 そういった意味では、まだ死体を作りきれていないし、魂を入れきれていないかも知れません。 ただ、そのどちらとも言えるようなものが「作られて」ここにあります。

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-08):

私は、語り手は真実を語っている、と考えて詩に向き合ってみる、という読み方をします。 それでうまくいくときもあれば、それではうまくいかない時もありますが、この詩については一つの解釈が可能でした。 語り手が十四年前に産んだ子供「きみ」が、お気の毒なことですが意識不明な状態になり、そうなる過程で語り手は、延命のための選択なり行為なりをした。 と、いう背景で、語り手が自分は二度、きみの命を作ったね、と「きみ」に語りかけている。と、いう解釈です。 その解釈で鑑賞すると、ひたすら切ない詩ですが、でも奥深い。 必要なら、何度でも生み直す。死体としてしか産めないなら、死体としてでも産むよ、という、これを何と言うのか。やっぱり愛かな。

ユーカラユーカラ (2017-08-08):

皆さんの深い洞察力に唯、唯感心するばかりですが、すごく心動かされた作品なので、コメントしてみようと思います。 私の、感覚で言うと、矢張り母の立場で書かれた作品かな、と。 死体を作りました と、あるのは、自分の意思で、というより、周りから我が子を見てそう言われたから、という気がしました。 というのは、二連からの 意味がないと言われました 魂が入ってなければ 役に立たないと これは重い 自分は産んだ 魂を持った子を それがここで言うところの、14年前に作った君。 なのにその子は傷つくなりして魂の脱け殻のようになっている。 他人から見ればそれは意味のない、役に立たないものであって、よって主人公はそれを‘’死体‘’と表現するしかない。 或いは、動けなくなった自らを指しているのかもしれませんが。。 私は母親として、子供がそういう状況に陥った時期を経験したことがあります。 傷つき元気をなくし無表情になり、無理に声をあげて笑っているのに目が笑ってないのです。我が子のそういう姿にどれだけ心を痛めたことか。外から聞こえてくる子供達の笑い声を聞いて、「あぁ!うちの子も、いつかまた、あんな風に笑える日が来るのだろうか?」と、何度涙したことか。 と、思わず自分に引き寄せて考えてしまった次第ですが。 本人を 死体 と表現する、もまた同じように感じた時期があるので、ついつい自分を重ね合わせて読んでしまう。 でも、その場合の 君 は、僅か14才。 これもまた辛い。 いづれにしろ、重い詩だと感じました。そして、この詩、大好きです。

survof (2017-08-24):

「生きた人はもう、/ずいぶんと前に/作りました」の部分の衝撃が深く深く余韻を刻んで何度も読み返してしまいました。本当に好きな詩に巡り合った時っていつも言葉を無くします。あまりに語ってしまうと何かがダメになりそうに感じてしまって、ただただ何回も読み直します。

ミナト螢 (2017-08-24):

ラストで、胸が締め付けられるような、命が生まれ変わるような印象を受けました。不法投棄でも、ラストのインパクトが凄いと思ったので、これからも楽しみにしています。

kaz. (2017-10-14):

りんさんのこの作品ですが、3連目が弱いと感じました。もう少し、深みのある詩行になると良いのではないでしょうか。


センサイ   

弓巠 
作成日時 2017-08-16
コメント日時 2017-10-11

 

ただ弱さだけを尖らせて あの夏の光からあの雪の降る音から 綴いてきた ばらばらの自分も時間の流れも 何も与えはしなかった ただ弱さが育っていった 水晶のように刃のように 武器として 使えないほどに鋭く それで人を殺そうと思った日も確かにあって その破片がいまも駆り立てる、遠くまでも 思いたくもないことを思いながら 道端には浄められた血の 草草が生きていた 水を一つ所に留めて 名付けられることなく 風の音がした また、自由に歌わされる 僕が死んだ時には 弱さは世界に帰るだろうか 植物になって ありつづけるだろうか もしそうなら どんなに寂しいだろうか どんなに僕は無意味だろうか どんなに世界はいいだろうか


コメント欄を表示する (4)
まりも (2017-08-18):

一気に、二作、溢れるように投稿された、のでしょうか・・・ 合評を促進するため、一週間程度、間をあけることを推奨していますが・・・思わず出て来てしまった、そんな時は、そのまま勢いで「えいや!」と出すことも、また、有効なのかもしれません。 有効かもしれないけれど・・・こちらの作品の流れるような言葉を考え、こちらを先に作品として創作されていたのではないか。そして、そこから溢れた言葉を、一気に、もう一作の方に投下されたのではないか、という印象を持ちました。 作品の完成度としては、こちらの作品の方が吟味されていると思いましたが、最後のまとめ方が、急に意気消沈してしまった、というのか・・・ 水晶のような弱さ、弱いからこそ鋭利な刃物のような弱さ、それが、他者ではなく自身を傷つけ、その傷が、道端の草を育てている。そんなイメージを持ちましたが・・・〈弱さは世界に帰るだろうか/植物になって/ありつづけるだろうか〉ここを、もう一歩、詰めてほしい、と感じます。

弓巠 (2017-08-30):

まりもさん、コメントありがとうございます。 合評を促進させるためにわけて投稿するべきとのご指摘、ありがとうございます。次回以降参考にさせていただきます…… 最後に意気消沈してしまっている、というご指摘について、この詩においては、言葉をあえて投げやりに使う、大づかみに断定してしまうという試みを行いました。「いい」とか「世界」とかいう言葉ですね。 そういった言葉によって、逆に何か断定的ではないものを漂わせられないか、と考えました。ただ、まりもさんのおっしゃるように、やや戦略性が足りず、上手くいかなかったように思いますね……

なかたつ (2017-09-02):

 自らの「弱さ」を主題とした作品であって、弱さを見つめ、その形・行方をとらえようとした作品なのでしょう。それでも、そこだけに焦点が当てられているのではなく、「道端」から草草、留まった水といった転換もあります。これらのモチーフが一体どのような彩を与えているのかと言えば、自らの死後の世界を考えるヒントとして使っています。  弱さは僕の所有物でありますが、自らの内に秘めているものという当たり前を越えて、僕の死後、僕から離れていって、「植物になって/ありつづけるだろうか」という発想が挿入されています。つまり、弱さというのは僕が所有している種であると同時に、僕の内に秘めたものであって、僕が死なない限りは表に出ないものであるということなのでしょう。  僕が生きているうちは、僕の弱さは誰にも見られることがないが、僕の死後は植物となって、誰かの目に晒されてしまいます。そうやって一つの形を纏ってしまうことに対して、最後の三行が語られているのではないでしょうか。 「どんなに寂しいだろうか」  行くあてもなく、ただその地に根差すことしかできない植物への悲嘆。 「どんなに僕は無意味だろうか」  僕から離れて、僕とは無関係に育っていく植物=弱さ。 「どんなに世界はいいだろうか」  この一行だけ逆説的になっていて、僕とは無関係になった世界と植物=弱さがただただ自然に育っていくという摂理への希望なのでしょうか。

弓巠 (2017-10-11):

なかたつさん コメントありがとうございます。(返信が遅くて申し訳ございません) 抽象的な話になってしまうのですが、作中の「僕」の問題意識として、自らの死後に、「世界」というものがどのように変化するか、というものがあります。「僕」はその問題を紐解く上で、自らの弱さが「世界」に還元されていく、ということを重要に考えているのですね。生物を構成していた元素が、その生物の死後にも、消滅することなく、別の何かを構成しながらあり続ける、ということ、その意識が植物に仮託されています。 このような問題意識を、なかたつさんに読み取っていただき、また、新たな切り口を加えていただき幸いです。最後の三行に着目していただけたのもまた、嬉しく思います。僕はこの三行をを、あえて乱暴に書きました。というのも、「寂しい」「無意味」「世界」「いい」という言葉に対して、僕はその意味に暴力的なもの(あるいは、意味が信用しがたいとでもいいましょうか)を感じていて、むしろこのような暴力性こそが、先に挙げたような、生、死、世界、といった問題を取り上げる上では、そういった、ある種恣意的な物言いが必要だと、考えたからです。最後の「世界がいい」という表現に対しては、いかようにも捉えることができると思います。肯定的にも、投げやりにも取れる、そういう詩的な広がりを持たせたかったのです。


初夏/のと・かが   

仲程 
作成日時 2017-08-08
コメント日時 2017-10-10

 

ハルジオン(春紫菀)  みんなでつくりあげることが たいせつなんだよ それは間違いない のだろうけど 花壇の外れの ハルジオン の小さな花の前で シジミが順番待ちしている その風景もまた真実なんだろう 春が待ち遠しかったり 冬に憧れたり やがて まるくなったねなんて言われる頃も過ぎて 君も僕も 誰かの風景になってゆく ハルジオン 少しゆれた花 もう少し優しくなれたらいいと 思った                 ニワゼキショウ(庭石菖)          やらなければいけないことが          たまっている          そんな時にかぎって          思い出すことがある          親水公園からの帰りみち          あの             ふたつめの花がかわいかった          と聞こえたのだけど          あぁ           と答えた僕には          どんな花だったのか検討つかない          そうこうしているうちに君は          いくつの花を見つけていったのだろう          あいかわらずの僕は          ときどき縁側の端からこうして          君の             こえ を          庭先にこぼしてしまう ムラサキサギゴケ(紫鷺苔)      ただいま 毎年の 「ただいま」 が年々ぎこちなくなってゆくのを 自分で感じているのに      おかえりなさい あなたの 「おかえりなさい」 は年々なじんで 小川の ゆれる水面のようになってゆく 田植えの終わったころ なんとなしに咲く 小さな花が好きだった 何年も忘れられたたんぼの脇で 今年も咲いている はず 散歩 しませんか  いえ      私がそうしたいのです           シャガ(著莪)                   少し湿ったね と           旧道沿いの           あしもとのほうから           梅雨のにおい と           祖父のにおいがした           ふりかえると           あたり一面にシャガの花           思い出すひとがいるから           咲くのだろう           もう一度ふりかえると           祖父の家           明日から空家となる スナビキソウ(砂引草) あの子は 気分のいいときも 泣きたいときも 海を見に行った ブレーキの利かない自転車を 力いっぱいこいで 砂をかんでぱたりと倒れた              のは初夏 そこに 咲いた花が そこに 咲いている花が 海を見ているとか 風を待っているとか うそぶく前に 生きている そのことだけを そのこと     だけを 感じて ぱたり     と倒れた          ヤマホタルブクロ(山蛍袋)          光る様子を          じんじん          と言って追っかけて          転んで擦り傷だらけになった          この川沿いには今でも          白いホタルブクロが咲く          目を閉じてひとつふたつと数えると          す っと          あの娘の          笑顔が浮かんだような気がした           たぶん          そんな気がしただけで          今日も          光には会えない          目をこらせ          じんじん          ほら          まだ消えていないから          まだ消してないから          じんじん          壺屋の水は甘かったか          久茂地の水も甘かったのか          今は          酒屋の水も          なんだかとても酸っぱい          じんじん          今も          その花に隠れているのか          そこからも          誰かの光は見えているのか          じんじん          あの娘の涙を飲んで          落ちて来るか          じんじん                じんじん ハマダイコン(浜大根) 船が出るのを 見ていた 風が吹いていた 揺れていたのは 波なのか風なのか 花なのか僕なのか 船が帰って来るのを 見ていた もう帰って来ないものも 見ていた 揺れていたのは 集魚灯の光 と帰れない風 その揺れる花の種を 耕した畑に撒くと 太くてきれいな大根ができる 君もやがて 標準語で恋を語るようになる それもいいかもしれない けれど ただ 揺れてるだけでもいいと 微笑む花もいい 明日 晴れるかもしれない 雨かもしれない 風に揺れるだけで いい             


コメント欄を表示する (7)
北北 (2017-08-09):

こんばんわ。 これは僕の草花ノートからインスパイアされたのでしょうか? もしそうならば、こんなに嬉しいことはありません。 なぜ嬉しいかというと、僕は草花が好きだからです。 そして、こうして草花が咲いている光景を、 心象で眺め捉えておられる。 これも、写真でキュレーション(Breview用語)すれば、 きっと僕の元祖草花ノートよりもっと涙ものになると思います。 僕は海辺に住んでないから生ハマダイコンみたことないのです。 ………………… 個人的には、僕の勘違いだったら申し訳ありませんが、 このように、この作品が、たまたま、僕の草花ノートがきっかけだっとして、 それでも、もしも、この作品を僕とまったく同じ様式で詩作しておられたら、 それはパクリとか、そういう意味ではなく、僕の草花ノートは 人の心のなかで、遺産になってしまうと考えていたからです。 だけど、こうして違う形で、(違う心で)マイナーチェンジしながら、 草花に触れてもらうと、草花で詩に触れるという根本的な行為が、 伝統になって引き継がれていくと思うからです。 そうなれば、誰もが草花を実際に見たとき、ちょっと気持ちよくなって、 この瞬間の喜びの気持ちを、また誰かに伝えたくなる。←ここが肝です。 伝統ではなく、遺産になっちゃうと、その形状、形式のみを守ろうとするあまり、 人ってバカだから、保守したいが故に、草花の周りを傷つけてしまうと思うのです。 だから僕は、ユネスコの世界文化遺産の概念には賛同なんですが、 山(自然の見た目だけの形状)守るために、マタギという尊い文化を事実上排斥した、 世界自然遺産の概念には猛反対なのです。 そもそも自然は生き続けているので、遺産じゃないですから! ………………… すいません、興奮のあまり話題が政治へすっ飛びそうになりました。 ………………… 僕はこの作品の、画像キュレーション(Breview用語)も作ることを推奨します。 まずその理由に、テーマの花を画像を通して実際に見て知れること。 第2に、その花の由来と、(若しくは生態←個人的オタク趣味) 詩文を合わせ読みできること。 第3に、新たな詩情が連想されること。 最後に、読者としての観覧者が、画像草花と実際に出会ったとき、ちょっと嬉しくなること。 これについては、賛否はあって当たり前ですが、ツイッターでも言いましたが、 100人中、99人が反対でも1人賛同なら、それは制作に対する大義になります。 なぜなら、賛同なするよりも反対する方が気軽ですから。 気軽なのですから、その作品が、人のために心根で善ければ、反倒していた人も、 気軽に賛同に転じてくれますし、きっと時勢とはそういうものだと思うからです。 長々と失礼しました。とにかく僕は、草花ノートを遺産としてではなく、 伝統として作者の中で変化しながら継承されていることが、 この際、僕の思い込みでもいいです。嬉しかったです。

静かな視界静かな視界 (2017-08-09):

全体を通して、しっかりとした観察眼と、それに伴うエピソードが巧く描かれていると感じました。 一般に、高山植物などの花がもてはやされますが、実は雑草の花が美しいと私も感じています。 それらの変哲もない草花を鋭い視点でそれぞれ書かれている。巧いですね。 今、私も詩作に悩んでいますが、何かいいヒントをいただきました。

仲程仲程 (2017-08-09):

北さん ありがとうございます。 まず、ご気分害されてなくて 大変ほっとしています。 北さんの(初夏の)草花ノートの花言葉の項まで読んで、あぁどうしようかと迷ったあとで、投稿しました。 9年前の春から夏にかけて、仕事半分、趣味半分で野花をつんでました。触れて初めてじわじわと感じることがあったのかと思います。数十種あった中で、7つだけが小詩で残ってました。 「誰もが草花を実際に見たとき、ちょっと気持ちよくなって、この瞬間の喜びの気持ちを、また誰かに伝えたくなる」 ということの一助になるとしたら幸いです。なにせ北さんにレスをもらえたことがうれしいです。 拙詩投稿したあとで、「草花ノート」の花言葉以後の文章を拝読しました。特に印象的だっとことについて、ほんの少しですが、あとでレスさせていただきます。

仲程仲程 (2017-08-10):

静かな視界 さん お読みいただきありがとうございます。 ほんとに、知らない花が多くて、小さい花でもちゃんと見るとなかなかなものです。 何か響くものがあったとしたなら幸いです。

北北 (2017-08-10):

気分を害するなんてありえないですよ! 喜んでますよ。超めっちゃスゲー喜んでます。(^O^☆♪

仲程仲程 (2017-08-11):

北さん 8年間ほったらかしのブログがまだ生き残ってました。 草花ノートのおかげです。探してみるものですね。 初夏の項→ http://nakahodo-ab.blogspot.jp/2008/05/ もし、このレスにお気づきなりましたら、ご笑覧いただければ幸いです。 系統だててませんが、その当時の詩作の動機は、「草花ノート」に似ていたかもしれません。 *運営のみなさま、すみません、不適当なレスとご判断あれば削除お願いします。

仲程仲程 (2017-10-10):

いまごろすみません。 8月選評で 「仲程さんの北さんにインスパイアされた作品」とされた とこだけ訂正したくて、たしかにインスパイアされて投稿しましたが、 花の写真を撮ったり、詩を書いたのは9年前です。 とまあ、たいしたことではなくここに書くことではないかもしれませんが、 選評おもしろかったです。


「おくわ」伝説   

白島真 
作成日時 2017-08-30
コメント日時 2017-10-02

 

とり残された桜並木の土手を歩く はなびらが路上を染めるころ 時折、うすい血のにおいがする おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか 土手には風化した石造りの祠がひとつ 傍らに曼珠沙華の茎がせつなげに赤をひそめ 贄の娘おくわが聞く とおい夏祭りの声 快活な恋人たちは祠の影にも気が付かない 桜並木を分断した大通りを背に川にでた 鵜匠の庭の剪定鋏が水面のひかりをさらに光らせた 河原で白い首の女がおくわのしずまる水と戯れる わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない 川のいのちに浮かぶ篝火が ゆっくりと夜を動かす  鵜の嘴が苦しまぎれに何かを吐き出した 村一番の美少女が黄泉で食した銀色の あやしくふるえて光るもの


コメント欄を表示する (19)
みうら (2017-08-30):

何かしら、生贄がキーワードとしてある神話が背景としてあるのだろうかと一読した。その神話か史実としてか知識を持ち合わせずに読んだので、置かれている言葉から受けるところの情景は極私的なものになってしまうが、この作品にある夏祭りが生活する地域に潜む禍を鎮めるため、という目的があるとすれば、「贄の娘」と「快活な恋人」は、今昔の時空を超えた不思議な繋がりを感じる。その不思議なる感じが、「祠の影」であり、結末にある「あやしくふるえて光るもの」に現れ、夏祭りの賑やかな描写の影としてコントラストを与えていると思う。しかし、読者の欲を言えば、霊的なものの象徴としての娘、美少女であるとすれば、その少女・娘の表情まで描かれていた方がいい、と思う。なぜならば、幽霊を私は何度も観ている。彼、彼女らは、一般的に語られるような無表情ではなく、いつも微笑していたり、怒っていたりするから。失礼。

ハァモニィベルハァモニィベル (2017-08-30):

はじめまして。よろしくお願いします。 雄総の桜堤から夜の長良川にいたる叙景詩。絵画ならラファエル前派など神話伝説を題材にしたみごとな作品がありますが、本作も、スケッチというより絵画のように彩られた、伝説をモチーフにした作品ですね。 《ひとに命を捧げるものを詩人という》という定義にしたがえば、この小さな祠に祀られた、偉大な少女(=《詩人》)をタイトルにした詩としては、一読したとき、ドライな印象を受けたので、むしろ「おくわ」より「伝説」という方に重点をおいたリアリズムなのかな、と思いましたが、よく読むと、渋い(抑制のきいた)ロマンチシズムが香っている、あるいは、拭いきれないロマンの苦さをさり気なく湛えた、とても好ましい名品と(わたしは)感じました。  「とり残された桜並木」からおちた路上の花びらに薄れつつある血のにおいを思い出す。その抒情から、一聯めのおわりは、一転団子の話へ(リアリズムを思わせる)。  つぎの聯でも、同じく、情景描写から、さいご一転、「恋人たちは祠の影にも気が付かない」 とリアリズムな感じ。  そこで、リアリズムな感性の作者なのか、と思わせながら、じつは、第三聯からは、 「わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない」とリアリズムにはなり切れない心情が、かすかに吐露される(ようにわたしは感じた)。  なぜなら、次の聯で、「鵜」が、「苦しまぎれに何かを吐き出」さねばならなかったから。  それが、たんに鵜の嘴に瞬殺されたアユであるなら、(鵜自身も)なにも苦しむことはない。けれど、それが、人々のために自らを貫いた《覚悟》であったなら、その偉大な《詩人》のこころを想うもう一人の詩人のこころに、絡みつき、胸につかえたものになるに違いない。  私は、そのようにこの作品を読みました。 (以上です)

白島真白島真 (2017-09-01):

三浦さん 遅くなってすみません。コメありがとうございました。 史実かどうかはまだまだ研究の余地がありそうですが、一応、江戸期の長良川氾濫をせき止めるため 生贄の風習があったことは、いくつかの地区でも言い伝えが残っています。 この「おくわ」の祠は自宅のまん前にあり、徒歩1分です。伝承は以下のブログを参照してください。 http://www.lets-gifu.com/page/machi_detail.php?c_topic_id=7883 私が書きたかったそもそもの動機は「風土」という問題意識からで、たまたま家の前の祠のいわれを調べたことから始まりました。当初は伝承そのものに関心があり、詩にするつもりはなかったのです。 >「贄の娘」と「快活な恋人」は、今昔の時空を超えた不思議な繋がりを感じる その通りで、贄の娘「おくわ」も伝承によれば生きながら人柱にされたわけですから、さぞ無念であっただろうし、現代の若者のように恋のひとつもしてみたかったと思います。河原の「白い首の女」も同じような意味あいで登場させていますが、やや怪しい雰囲気作りの導入部となっています。 少女・娘の表情まで描いて欲しかったとのことですが、それですと神話的意味あいが薄らいで、あまりにリアリティーを持ちすぎてしまうので、私は同意しかねます。おくわに対して「幽霊」という発想も皆無でした。

白島真白島真 (2017-09-01):

ハァモニィベル さん コメ、ありがとうございます。 >雄総の桜堤から夜の長良川にいたる叙景詩 冒頭から意表を突かれてしまいました。詳しいし当たっている・・・・(笑 岐阜市にお住まいなのか、伝承にご興味があって調べていらっしゃるのか、あるいは私の詩集(作品は未掲載ですが)を読んでいただいて、跋、あとがきなどから類推されたのか、ツイッターを見てらっしゃたのか、いずれにしろビックリw  リアリズムをベースにした詩の切り取り方の考察、とても参考になりました。 この詩は実は伝承を調べているうちにどうしても書きたくなって、詩作。 たまたま市の文芸祭があるのを知り、間にあって応募したところ文芸祭賞受賞となりましたが、 その時の選者のひとりが、リアリズムの素晴らしい詩を書かれる方でした。(受賞後に買って拝読) この場合のリアリズムとは、生活の中から詩を発見して言葉にすると言う意味で おそらくここでのハァモニィベル さんもそのような意味合いで使ってらっしゃるのではと思います。 いわゆる生活詩と呼ばれるものもその一つでしょう。 通常、私はもっと観念的な詩のスタイルですが、やはり伝承というテキスト、祠という実在物、おくわ団子、長良川、鵜飼という叙景などがあるので、どうしても観念とリアルが結び付き、拮抗することになります。 そのリアリズムと観念のバランスを無理なく調和し、違和感を持たれないよう作詩したわけですが、 果たして成功しているかどうかは、読者の判断を待つしかありません。 そういう意味で辛口のハァモニィベル さんに「好ましい作品」と言っていただけたことは、素直にうれしいです。 技法的には >快活な恋人たちは祠の影にも気が付かない >わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない この2行の意識的な「カ音」の多用。 >川のいのちに浮かぶ篝火が ゆっくりと夜を動かす この行だけで、20回位は書き直し、推敲を入れております。 ちなみに生贄の娘を詩人と思う発想は皆無でしたが、言われてみれば、なるほど、そういう解釈もあるなーと思いました。  「あやしくふるえて光るもの」は勿論、直接的には「鮎」ですが、鮎は神話上、この世とあの世を繋ぐ生き物とされています。鵜飼という行事もそれだからこそ、長い伝統を持ったのでしょう。ですから、これは少女の化身でもあり、光に反照されるわたしたちでもあるという気持ちを込めました。それが、ひらがなに開いた意味でもあります。

まりも (2017-09-01):

四行ずつに形にまとめられた連が、さらに四連重なっている。起承転結を、自然な形で二重に封じ込めた構成的な美に、まずは感嘆しました。 〈時折、うすい血のにおいがする〉〈土手には風化した石造りの祠がひとつ〉〈わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない〉〈鵜の嘴が苦しまぎれに何かを吐き出した〉 異界へ取り込まれていきそうな不穏さが、ひしひしと迫ってきますね。 無理のない「写実」的表現によって綴られていく。この場合の「写実」は、写真機で映した情景、ということではなく、心の眼がフォーカスを絞った点を写生した、というような、そんな意味での「写実」です。 かつて、生贄として捧げられた少女の魂は、まだ川の中を漂っていて・・・時に川藻に宿り(少女の髪の毛のように、訪れる者の足にからみ)、時に鵜に飲み込まれて、苦しさのあまり鵜によって吐き出され・・・(鵜は有と音が同じですね、そういえば。)ひかりながら、ふるえながら、再び川に戻っていく。 〈川のいのちに〉ここで、いのち、という言葉を使ってしまって、いいのか、どうか・・・私も、いつも迷うところです。なんだか、安易に観念に逃げてしまっているのではないか、そんな気がしてしまう。川が息づいている、なまめかしくうねっている、その表に反射する篝火・・・川藻が生み出す女の髪のイメージから、さらには女の肌のイメージにまで行けそうなところ、ですが・・・妖しすぎるかな(笑) 河原で~の情景のあと、わたし、の片足が水の中にある景に飛ぶ。もちろん、充分に情景は観えるのですが・・・たとえば。踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない、と動きを先に入れておくと、川に入ってしまったわたし・・・禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか、なんて、余計なことも考えたりしつつ・・・ 美しく妖しく凝縮された作品だと思いました。

前田ふむふむ前田ふむふむ (2017-09-02):

こんにちは、白島さん。 作者が、村の繁栄を願いながら人柱になったおくわ伝説のことを 思いながら、村の繁栄を願う、夏祭りがおこなわれている この対比がとても、鮮やかに出ていて、このテキストを、より ダイナミックにさせていると思いました。 全体として、コンパクトに4連でまとめていて、 とても密度も濃く、語られている情景が、見事なほど、 リアルに読み手の僕に、ひしひしと伝わってきました。 また同時に、 「河原で白い首の女」「銀色の あやしくふるえて光るもの」 「鵜匠の庭の剪定鋏が水面のひかりをさらに光らせた」など、 夜なのでしょうね。この世とあの世をつないでいる 境界をイメージ出来て、エロスさえ感じます。 ただ、1連目の、僕の誤読かもしれませんが 少し弱く感じました。 「染めるころ」「せいだろか」という語り方が、 やや感傷的なせいかもしれませんが、 「染めるころ」を「染めていた」としたなら、 2連目以降の、きっちりとしたリアルな強さが出たのではないかと思いました。 でも、そうしたら、全体がギスギスしてしまうかもしれないので、 あくまでも、僕の好みの感想です。 勿論、見事に纏めた、とても、良い作品だと思いました。

田中修子 (2017-09-02):

何と申しますか、とてもエロティックですてきですー! 「おくわ団子のたれ」 すごいですね。ぞっとしました。 私はおくわも、おくわ団子のことのことも、はじめてこの詩で知ったのですが、 二回目に拝読したときに、みたらし団子のようなおくわ団子のたれが真っ赤な血そのもので染まって、 夏祭りでみんな美味しそうに血塗れの団子(=おくわの魂であり肉)を食べている、 そうして胃でおくわ団子が溶けたころ、自身にもなぜか贄にされた記憶がかすかに思い浮かび、 快活な恋人たちが、快活に笑いながら川に入って自ら意味もなく贄になってゆく、 という死の伝染のような情景が浮かんできました。 想像過多なんでしょうけれども、想像過多にさせる文章って見事で素晴らしいですね。 おくわという響きがもうたまりませんでした。

白島真白島真 (2017-09-04):

まりもさん オーソドックスで的確な読みをありがとうございます。 そもそもこの詩を書き始めた動機は、前にも言ったとおり「風土」に関心を持ったからです。洪水を止めるため「おくわ」という村一番の美少女(処女でしょう)が、抜擢されて生きたまま埋められる人柱となる。彼女が進んでその犠牲を受けたのか、相当の逡巡があった末なのか、言い伝えは分かれています。このころの長良川の氾濫は畑を水没させ、村人を飢餓に陥れるほどひどかったといいますし、やさしいおくわはしばらくの逡巡後、自ら引き受けたのではないでしょうか。従って、片脚に絡みついた川藻は、おくわの長い髪というイメージは勿論あるのですが、おどろおどろしいものではなく、生贄の風習に対してと、その犠牲者が忘れられていくことに対しての反発の隠喩でした。 反発といえばその前の桜「並木を分断した大通り」も行政批判の隠喩です。昔はずっと延長された素晴らしい土手だったのですが、環状線着工がそれを分断し、短い桜並木になってしまいました。白い首の女も現代の川端で遊んでいる少女の象徴ですが、川で遊べることに、同じような年齢の死を書けた行為があったこともきっと知らないでしょう。怪しい雰囲気作りへの導入部と書きましたが、多少の現代の若い人たちへの皮肉もこめられています。従って3連はかなり批判的な連といってもいいかもです。 そのような中で川の安寧、静けさが保たれているので(勿論、おくわ人柱だけの効力ではないですが)、あえて「いのち」という表現を入れました。この辺りは斎藤道三が戦ったところでもあり、多くの血が川に流されています。おくわ、戦死者の命を浮かべる歴史の川なのです。 >女の肌のイメージにまで行けそうなところ >禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか いずれも一理あって面白そうですが、4行で纏めるという制約の中では難しそうです。 「踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない」ですとどうしてもセンテンスが長くなってK音の効果も薄れてしまう気がします。 しかしながら、しっかりした読み込み、感謝です。 ありがとうございました。

白島真白島真 (2017-09-04):

前田ふむふむ さん >「染めるころ」「せいだろか」という語り方が、 >やや感傷的なせいかもしれませんが、 たしかにそういうお考えもあるかと思います。 しかし、「染めていた」ではその光景や「染めていたそのもの」に主眼が要ってしまいます。 ここはあくまで「季節」を打ち出したかったので、「ころ」としました。 実はおくわ団子を売っている時期は夏まつりではなく、桜満開の春なのですね。 そしてどこかで村の夏祭りがあり、(勿論、土手でも簡単なものをやってます)、やがて曼殊沙華の秋を思わせてと、結構、季節の時間の流れも読み込んだつもりなのです。 あと「おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか」は、これから少し重い人柱(贄)のことを語るので 導入部わざととぼけた感じで意図的に軽くしました。「何じゃ、これは?」と思っていただければ大成功といったところです。 ただ、この2行で全体的な雰囲気をやや壊しているとお感じになれば、それは各人の感性、詩的体内リズムのせいでしょう。わたしには、とぼけていてもそう違和感がありません。

白島真白島真 (2017-09-04):

田中修子さん おくわ団子への想像力、素晴らしい。もう、これは修子さんの詩的世界だから、是非、そのような作品を書いてください(詩でも散文でも) きっと修子さんの筆力なら面白いものが書けそうだね。 団子に焦点を当てて、ここまで想像を膨らませられる修子さん、 おぬし、やはり只者ではないわー。

前田ふむふむ前田ふむふむ (2017-09-04):

こんにちは。僕は、夏を主眼に読んでしまい、季節の流れを読みませんでした。誤読したようですね。失礼しました。 でも、その誤読でも、詩の良さが十分出ていて、映像を思わせる良さがありました。とても良い詩です。

白島真白島真 (2017-09-04):

まりもさん 私の返信箇所、2連「死を書けた」ではなく「死を賭けた」です。訂正します。

白島真白島真 (2017-09-04):

前田ふむふむ さん 詩は誤読あって何ぼのものと思っています。 特に最近の現代詩は意味のとりにくいものが多く、 大半の読者や選者が誤読を前提として、詩を読んでいるような気がします。 それでいいのだと思うのです。 映像を思わせる詩という褒め言葉は狙ったものであっただけに、うれしいです。

二条千河 (2017-09-05):

こんにちは。 おくわ団子、祠、桜並木、鵜飼のいる川などの具象性が、詳細の書かれていない(ゆえに、知らない読者には実際に存在するものなのかどうかすらわからない)伝説のミステリアスな雰囲気と相まって、とても印象的な作品ですね。 一人の少女が人柱として埋められ、それが迷信とか因習とか見なされる時代になった今、こうして詩という形で掘り返すというのは(作品の外側の感想で恐縮ですが)、時を超えた浪漫があるなあと思いました。

白島真白島真 (2017-09-06):

二条千河さん ご感想をいただき、ありがとうございます。 風土の中の言い伝え(因習)や、迷信、あるいは名付けられた土地の由来など、調べていくとなかなか面白いものがあります。その中で詩のネタになるようなものもあり、結構、その時代に浸る感覚を覚えたりするので楽しいです。伝説の再生産、ってところです。

田中修子 (2017-09-29):

「おくわ団子」  友人が、たのしい地獄、と名付けた都会を歩いている。この街はいつも電気と人の祭りで、夜中になろうとするのに、夜があかるい。  ここではみな、男も女も見分けがつかない。年寄りも若いのも、うじゃうじゃいて、みんな同じだ。  この群れの中では私ははみだしものだと思いたいけれど、はみだしものすらうじゃうじゃに混ざって、やはり、私もなんでもない。  誰かをいじわるに思う私すら、いったい誰だろう。部屋に大量に湧き出て、無表情でつまみあげて塩をかけた巨大ななめくじたちのように、都会という排水溝の中にまざりあって溶けている。  電車ですぐ来られる距離にかかわらず、私は普段ここまで外出することがない。近所のスーパーに買い物にゆき、運動不足の解消のため近所のスポーツジムでときたま泳ぐ、精神の安定のために近所のカウンセリングに行く、人をならしてたのしい地獄の病。  それで時たま祭りに参加したくなる。昔ながらのハレの祭りではない、ケの日常でもないのなら、名づければ毎日催される、どんより曇の毎日誰もが無理やりはしゃぐ祭り、排水溝の中でぐちゃぐちゃにまざりあってゆく都会のあかるい夜よ。  外国人が巨大な電気と人のぐちゃぐちゃに入乱れる交差点をを動画におさめ、私はそれを見る。すらりとしたいまどきの人形のような女の子が歩いてゆく。体のどこかにピアスを付けた男が歩いてゆく。こないだ来たときとも変わらずに毎日催される、けばけばしい、どんより曇祭り。  私も緑の電車にしゃがみこんで、そっと参加している。  隣にいた男がごそりとリュックから紙を取り出して読み出すと、いきなり、その声で曇が割れた。  都会の薄明るい空がごっそりと、田舎の夜のように暗くなる。電光掲示板に、巨大な狐の面が浮かぶ。白に赤、ニヤリと笑う。 「 おくわ伝説 とり残された桜並木の土手を歩く はなびらが路上を染めるころ 時折、うすい血のにおいがする おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか ・・・・・・ 」 ほがらかな人柄を思わせる、しかしなにかがのりうつったように腹からひびく声を聞いて、私の耳にとどろいた。  男のとなりには幼子のような男の妻が立っていて、男の腕に手をかけほほ笑んでいる。  私は猛烈に腹が空いた。  腹が空いてめまいがして倒れそうになった。  瞬きして気づくと、そこは、祭りだった。  老若男女すべてが、とつぜん、浴衣を着こなし下駄をはいていた。ヘンテコな今様の浴衣をきている若い娘も、ピアスが映えるような黒い浴衣を着ている若い男もいれば、正当で、あれぞ日本じゃ、とほれぼれするような着こなしをしている人々も多い。片手に缶ビールや電球ソーダ。もう片手に焼きそばやたこ焼き、それから、団子を持っている人々も多い。  その団子は、いっけんみたらし団子のようだったが、みたらし団子と違ってタレは茶色ではなく、ぞっとするような、血のように澄んだ赤なのだった。  私だけは取り残されたように、近所のスーパーで適当に買いそろえたままの服を着ていた。  あれが、「おくわ団子」だ、と私は分かった。そうして、知らぬはずの「おくわ」のついての知識が、脳の階層の中からふっと発見されたアンモナイトの化石のように、つやつやと思い出されてくるのであった。  「おくわ」とは、ある町の発展のために人柱にされてきた娘であった。そうして「おくわ」は、実はすべての人柱の、もととなる者だった。  人柱の風習がはじまって終わるまで、人柱とされた娘には、たとえば「すず」とか「おりょう」とか、そういう名前の娘ももちろんあった。しかし、日本で最初に人柱となった娘の名が、「おくわ」であった。そうして、いままでに何十人か何千人か知らぬけれども、人柱となってきた「すず」とか「おりょう」たちも、実は、すべて「おくわ」の生まれ変わりなのである。同時代、同時刻に人柱にされた「すず」も「おりょう」も、不気味なほどに同じ容姿をしているのだが、それに気づいたものはない。中には、双子が人柱となるときがあり、手をつないで息絶えるとき、ふたりの「おくわ」ははじめて、ひとりゆく孤独を知らないこともあった。  私は、本当の名前を思い出した。  私は、「おくわ」である。  いくつの村、いくつの町のために、どれだけ人柱となってきたろうか。どれだけ荒ぶる川に投げられ、土に埋もれてきただろうか。テレビで恐ろしい氾濫を起こすあの川の底に、いまはくさむらとなったあの廃村の空き地にも、輝く都会の地の底に、私は存在していた。  私が幼いころから両親に疎まれてきた理由が分かった。何人か男と付き合ったが、誰も私の空虚を埋められた男はいなかった。私は数多の自らの死の上に立ち、飽きて、そして、死を乞うていた。  巨大な交差点は、トウトウと黒く鳴る川になり、浮き灯籠が赤に橙に輝きながら流れ、夜だというのに鵜も、鵜飼いもいるようである。  渋谷の駅前の百貨店は「露店ストア」と名が変わっていた。  さて、最後の腹ごしらえをしよう。私はうきうきと「露店ストア」に入っていく。  威勢のいい男たち女たちが、リンゴ飴や広島焼、ビッグ・ポテトフライやケバブ、射的ゲームなどに声をあげて客寄せをしている。私はこれから人柱になるので、手を差し出せば多くのたべものが手に入り、子どものようにはしゃぎながらゲームをやった。  最後に〆で食べたのは、もちろん「おくわ団子」であった。  もともと「おくわ団子」とは、川に入った「おくわ」の死体を食べて肥えただろう鮎(鮎が取れない時期は、白身魚で代用する)をすりつぶしてつくね芋や卵白と合わせてはんぺんのようにし、水あめにベニバナをといたタレをかけたものである。すこし塩辛く、タレはべとりとして甘い。  もう、腹はいっぱいである。  「あなたのその帯をいただけませんか」  となりの若い女の子が現代風の帯にしている淡いチュールをそのように頼むと、女の子は素直に帯をほどいてくれ、浴衣の前がはだけたが、それよりもこれから行われる儀式の一部に自分の帯が使われることを誇りにしているようであった。  さきほどまで巨大な交差点であった、いまは浮き灯籠が赤に橙に黒く流れる川の前に立ち、私は足をチュールの帯でくくった。  私の両隣には、私とまったく同じ顔をした女たちが、同じようにずらりと並び、人柱になる準備をしていた。数百人はいる。彼女たちは私であって、すべての「おくわ」であった。  足をくくりながら私たちは懐かしくおしゃべりをする。  「ねぇ、これだけ私たちが人柱になって、この街は、この国は、またどのように発展するかしら。ぜんたい、私たちのおかげよねぇ」 「私たちがこれだけ集うことも珍しいわね。はじめての出来事かしら。いいえ、日本書紀に出てくるあのころ、いちどあったような記憶もあるわね」 「あなたよく覚えていてね。私はもう覚えてないわ。でも嬉しいわ、私たち、これまでだいたいひとりぽっちだったのにね」 「滅びるんじゃないかしら」  もう、誰が私で、私が誰なのか、どの「おくわ」がそういったのか分からない。  「滅びのための人柱ではないかしら」  「じゃ、お先に」  私は立って川に飛び込んだ。  暗く流れる川の底、私の口や鼻から漏れてあがってゆく銀色の泡。底から見上げる浮き灯籠の輝き、ひらめく魚たち。つぎつぎにしずかに「おくわ」たちが川の底に落ちてくる。  息苦しさに目をつむる。  これから素晴らしい発展をとげるこの街、そのすばらしき礎。 --- 「おくわ団子」があまりに頭を離れないので書いてしまいました! (書きあがりナウ。誤字脱字ないかこわいナウ) もちろん作中のおくわ団子は私の創作です。 そもそもは白島さんの詩で思いついちゃったものでありますからしてどうしようかな~と。 とりあえずこちらに投稿ポチン。

白島真白島真 (2017-09-30):

田中修子さん 私の詩にインスパイアされての作品、 とても興味深く拝読し、うれしく思いました。 10月に入って、逆にこの作品にインスパイアされた作品を 書いてみたいと思っておりますが、できるかどうか。 しかし、おくわがこのようなSF的変貌を遂げ、ひとつの現代文明批判さえ 帯びるようになるとは思ってもいませんでしたが、新鮮な刺激を得ています。 是非、修子さんも独立した作品として投稿くださいませ。 (二重投稿になるのかならないのか、そのあたりはよく知りませんが) では、では、まずは御礼まで。

右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-10-01):

白島真さん、こんにちは。 最終聯、最終行の >あやしくふるえて光るもの がいいですね。ここに詩情の核を感じました。体言で止めるというのは和歌、俳句の伝統的短詩のスタイルの多用する修辞ですが、この詩全体が実は短詩の情趣を持っているように思えます。 だとすると >村一番の美少女 など、過剰に散文的な説明は削れるように思うのですが……。

白島真白島真 (2017-10-02):

Migikataさん ご感想をありがとうございます。 >この詩全体が実は短詩の情趣を持っているように思えます。 これはうれしいご指摘でした。多少、短歌をかじっているからかも知れません。 >村一番の美少女 まあ、説明的と言えば、そのようにもとれるのでしょうが、 生贄が若くて処女で美少女であるという語り継がれたおそらくは後世作られた伝説を、 そのまま生かしました。それは生贄という当時の条件が現代ではほぼ忘却されているからです。「むらいちばんの、びしょうじょが」一応7・5調です(笑


詩論:再び偽りに終わったとしても   

みうら 
作成日時 2017-08-23
コメント日時 2017-09-29

 

詩の投稿掲示板に参加するようになって一年になる。少しは上達したのだろうか。私が書く文章は私が憧れている作家が持つ魅力的な言葉に近づけているのだろうか。 『僕は、何度も狂気を作品で書きたいと挑戦します。残念ながら一度も本物の狂気は現せない。いつも偽りに終わる。』 詩を書き始めた頃の気持ちはこんな感じだった。単純に思う。私は一年間で本当に上達したのだろうか。それを私は知りたい。だから、もう一度、狂気を書きたいと思う。偽りの狂気で終わってしまっても、何もなかった一年だったと、残念に思うよりはいい。一年前と明らかに変わったと自覚できること。自らを罵倒できるようになったこと。 あんた読めないし書けないよ。


コメント欄を表示する (18)
花緒 (2017-08-23):

テクストだけみたのでは、作品としての体を成しているとは思えない。背景を鑑みると、<そうですね、わたしと同時期にネット詩に参入されたんですよね、1年ですごく上手くなられたと思いますよー、久しぶりですねー>、とでも言いたくなる誘惑に駆られるけれど、私信ではなく、作品として投稿されているのだから、批評ではなく、<返信>を惹起するしかないような作文では、評価の俎上に上りうるとは思えない。その意味では、本作はタイトルからして違うと思う。これはどう読んでも、詩論ではないように感じる。<僕は、何度も狂気を作品で書きたいと挑戦します。残念ながら一度も本物の狂気は現せない。いつも偽りに終わる>という中二病のような一節に、俺のことを分かって欲しい、受け入れて欲しい、という読者への甘えを感じる。どう考えても技術的には上達しておられるのだから、直球で、上達の成果を見せて頂きたかったように思う。次回作に期待。

地(🌐)球 (2017-08-24):

最近「ビーレビューに於ける詩の批評」って何だろうなあ、って考えることがあるんです。詩人さんはたくさんいるけれど批評出来る人は少なく、批評プラットフォームにはまだまだ成れないものだなあ、と思ったりしていました。(批判ではなく、自分の反省ふくめ) 詩と詩の批評ってそもそも異質なもので、両方を兼ね備えている方の方が稀だったりもしますよね。たまに捉え違いをされる方いますが、延長線上にある訳でもない。 で、花緒さんの上記コメントはまちがいなく批評だなあ、きれいな批評だなあ、と詩をそっちのけで眺めていました。 今作品はテーマに捉われての本質の置き去り具合、言葉の上滑り具合、ポーズのキメ具合が、座標のぶれ具合が、最高に「三浦くんの」ロックだなあ、と思ってます。 まちがいなく三浦くんらしい作品で、これはある意味突き詰めたら面白いなあと感じたりもするんです。 けれど花緒さんの批評を読んだら、花緒さんの言うとおり三浦くんの言うとおり、直球だったり本物の狂気だったりをみたくなりました。 そもそも狂気を持っているのかは知りませんけど、なんとなく何かを隠し持っているのはわかるので。 とても丁寧なことばを紡げる方だとおもうし、それからその為の努力をちゃんとしている方だとおもいます。 今回はプロローグ的なものだと思うのでわたしも次の作品が楽しみです。とにかく、インドの山奥での修行おつかれさまでした。

sonetirasonetira (2017-08-24):

三浦さんはツイッターで尖っているイメージがありましたが、こういうものを読んで人間を知れることは嬉しいです。 これは詩ではないというひともいるかもしれませんが、最後の一行でこれは確かに詩だなと思いました。

みうら (2017-08-24):

花緒くん。瑞々しいが、強度が足りていないと、書いて欲しかったなあ。しかし、相変わらず切れのあるコメント有難う。 り さん。「詩論を書けないやつは信用出来ない」という言葉をB-REVIEWに持ち込もうではないか。白島さんが自らの詩論の投稿によって示してくれたことを私なりに解釈すれば、ツッコミどころが満載なスカスカな文章であっても、投稿者はみんな、書きたいこと、書こうとしていることをステートメントするべきだと思う。なんとなく詩を書いてみましたでもいいのだけれど、それじゃ、他所の掲示板と変わらないと思う。だから、「なにがしたいの?」って突っ込まれてしまうのだ。書けていないと言われるよりも、「なにがしたいの?」なんていわれることのほうが哀しいだろ。

みうら (2017-08-24):

sonetiraさん。コメント有難う。遠慮しないで、愚かな僕を君の詩で殺してくれ。。。

竜野欠伸 (2017-08-24):

初めまして。 タイトルにあるように詩論として読みましたが、内容としては、反実仮想について、何らの論理展開があるとは思いました。それらは経験論としての叙述があってはいるところですが、最期の結語については、どのように結論がなされているのか、読み手にとっては分かりづらいと考えます。詩論としての本論が欠如していないか、と思いったので、少し残念でもあります。なるべく冗長にならないように、したのでしょう。しかし、詩論としては、論理に飛躍があるとの思いが拭えません。序論と本論と結論を結ぶ内容が必要でしょう。まだまだ工夫の余地はありますので、ガンバですねー。カキイレドキを見失わないうちにですネ。では。

survof (2017-08-24):

ものすごく素朴な感想なのですが、「狂気を書こう」とすればするほど、それは狂気からは離れていくような気もします。何をもって「狂気」とするか、の捉え方の問題なのですが、個人的には「狂気」ってもっと日常的な姿をしているイメージなんです。何をもって「狂気」とされているのか、三浦果実さんにとっての「狂気」とは何かっていう部分をもっと読みたかったな、、という気がします。こちらの読み取り不足もあるのかもしれませんが。。

羽田恭 (2017-08-24):

即興で、返詩を。 それでも書いてゆこう。届かない世界へ目指して。 いくら悲しんでも、どこか覚めいる。 怒りに震えても、頭に風が吹く。 狂気へ自分を追い込んでも、仏性が止めさせる。 罵倒しよう。自分を際限なく。 自虐しよう。自分を永久に。 自傷しよう。自分を。 (そうだたのしいんだ 生きる喜び  たとえむねの傷がいたんでも) それでも書いてゆこう。 読んだ誰かは、何かを受け取る。

みうら (2017-08-25):

竜野さん コメント有難う御座います。「序論・本論・結論」!論と名付けて文章を書く際の基礎を私は知りませんでした。勉強になりました。半年後か一年後にまた書くであろう詩論へ活かしたい所存であります。 survofさん 狂気とは、自死する者が異常な状態にて直前に現すであろう言葉、そこに正常では感じることの出来ない生の充実があると考えます。しかし、ノーマルに生きる私にはその異常と正常が交りあう「ゾーン」へ突入することが難しい。そんなことは出来ないのが当たり前なのかもしれない。そこで、私は自分を追い込んでみました。ジョギングやヒルクライムで身体を苛めてみました。残念ながら、身体を苛めるだけでは得られないみたいです。「ゾーン」はもう少し、その先にあるようです。いずれにしましても、ノーマル日常生活のまま「ゾーン」へ突入することが出来ないかと、考えておる次第です。イタコかシャーマンみたいな。意味不明なレスレス失礼。 HAneda kyou さん みえてる。みえてる人ですね?kyouさん。上に、狂気についてレスレス書いたけれども、返詩の内容そのままでびっくり。

羽田恭 (2017-08-25):

みえてるつもりはないんですけども。 なんだかアンパンマンマーチを思い浮かべてしまいまして。 あの歌詞はどこかで命綱のように正気に続いているかもしれませんね。 ところで今思ったんですが、「陽極まれば陰となり 陰極まれば陽となる」のなら正気でいることは狂気に意外と簡単に続いてますよね。 だから中道でいなければならないのかなと。

survof (2017-08-25):

返信ありがとうございます。なかなかに衝撃的な内容でした。 ノーマル日常生活のまま「ゾーン」へ突入することが出来ないかと、考えておる次第です ノーマルであることを厳しく自覚しながらも「自死する者が異常な状態にて直前に現すであろう言葉」としての「狂気」に、ある意味激しく憧れ、その境地に達するために自分の心身を激しく痛めつけていく。三浦果実さんの定義する「狂気」とは違うかもしれませんが、これは私にとってはある意味立派な「狂気」です。HAneda kyou さんのの最後のコメントに通じるものがあるかもしれません。 そういう意味では、ひとつひとつの作品だけでは決して完結しえず、三浦果実さんの生き方、言動そのものが、あるいは作品となるのかもしれませんし、もしかしたらそうした作品を意図されているのではないか、、などといろいろと深く考えさせられました。表現することに本質に触れる問題を提起してくださっているように感じますし、表現物がそれ単体では「表現」として完成しえないことの多さについて考えさせられます。形式が持つコンテキストからは独立し得ないということもそうですが、表現者自身がもつ文脈とは無縁ではいられないということについてです。 (私個人としては表現そのものが単体としてもつ強度や普遍性というものに対してもっと純粋でありたい、と望んでいますが、それはもしかしたら叶わないことなのかもしれないと思ったりもします)

まりも (2017-08-26):

詩論、って、なんぞや、ということにもなるのですが・・・自分にとって、詩とはなんぞや?と問い続け、書き続け、これが「詩」である、と規定されるものの枠内に収まりつつ独自性を発揮するのか、そこから逸脱し続ける孤独な道を選ぶのか、という選択を迫られる・・・ということでもあるでしょう。 上達したのか、と他者に問う時点で、口語自由詩100年の歴史の中で、なんとなく、これが「詩」である、と規定され、認知されている枠組みにおいて、うまくなってる?と問いかけているように思うのですが・・・ 〈もう一度、狂気を書きたいと思う。偽りの狂気で終わってしまっても、〉この一節が明確に自覚されている時点で、旧来の枠組みからは逸脱してやるぜ、という意識も垣間見えるのですね。そこに矛盾を感じました。 書いても書いても書いても、とらえられない感情を、これでどうだ!と他者に向かって突きつけていくのか・・・自分が忘我の境地で迷い込んだ異界での体験を、持ち帰って「こんなところがありました」と提示するのか・・・ 自分で自分の成長記録の為に(自己認識の文字化のために)「作品」を書くのであれば、日記や創作メモで良いわけです。草稿を提示する必要もない。 狂気、その姿を捉えることが、俺にとっての詩なんだ!・・・ということなのか、自ら狂気の域に達して、憑かれたように書きまくる、それが、俺にとっての詩なんだ!・・・なのか。 「美しく発狂した」という過去の名フレーズを、果たして超えることができるのかどうか、そこに、詩史的な意味での「上達」がある、のかもしれませんが・・・自分自身を否定し、殺害し、また再生させて乗り越えていく、そうした狂気じみた行為の中から出てくるものを読みたい、書きたい、ということであるなら・・・(なんだか仮定ばかりの文章になっていますが)やはり、これは詩論だな、と思いつつ。 前半部分の、やたらに丁寧な「説明」部分、やっぱり、いらなかった、ような、気がします・・・

fiorina (2017-08-26):

この世、今見えているものみな幻であり、リアルと信じていること自体狂気で、自分を含め道行く人は皆狂人だと思います。 自分にとってのありふれたを書き切れば、結果として狂気が描けているのではないでしょうか。

薄氷楓薄氷楓 (2017-09-27):

三浦果実さま 読みました。昨日投稿した詩「あなたにとって死にがいとは」を書く前に読んでいました。実は御詩論に触発されて、「あなたにとって」を書き始めた経緯があります。 過去にコメントなさっている方(survofさま&fiorinaさま)のご見解と、一部重複しそうではありますが……私も狂気とは、死の手前よりも日常生活の只中にこそ、存在するのではないかと思います。私は狂気に手を伸ばす事よりも、その存在を敏感にキャッチして、自分の体内へ注ぎ込み、かつ克服する事の方にこそ魅力を感じます。ここで「克服する」などと安易な口が利けるのは、私の念頭に置いている狂気たちが、比較的静的な質のものである為かもしれませんが。 私は基本、狂気を前面に出すような言葉は好みません。がしかし、とあるきっかけで自分の中のつらみが増えて、その重圧が如何ともし難いほど膨らみ始めてしまったので、心を軽くする意図で「あなたにとって死にがいとは」を書きました。これは、私自身の無意識や記憶を精算する為に書いた作品であると同時に、三浦さまがご自身に対して設営なさった問いに対する、私なりのアンサーでもあった気がします。

まりにゃんまりにゃん (2017-09-28):

kaz.さんへの返信ですよね。

まりにゃんまりにゃん (2017-09-28):

とおもったけどぜんぜん違うかもしれない……。

みうら (2017-09-28):

HAneda kyouさん 中道について。ノーマルに生きるとは、ある意味、バランスが取れるということなのかもしれません。バランスを取らなくてよい生き方、それは、真の孤独。田中一村が奄美大島の掘立小屋を晩年の創作場所としたような。 まりもさん 憑かれたように書きまくる。そうです。晩年の田中一村が呼ばれたように、死神と呼ばれる姿。 fiorina さん ありふれた日常のなかに狂気は宿っている、かもしれません。が、往々にして人はそれを観てみぬふりをする。私が詩文を書きたい気持ちになるのはもしかしたら、観てみぬふりをしたくないだけなのかもしれません。 薄氷楓さん もしかしたら、狂気を誘発するのは、怨念なのかもしれません。皆が怨念を隠しながらノーマルを装う。その怨念を放てる確実な場所は、真の孤独な場所なのかもしれません。が、人は真の孤独な場所へは、大概は向かわない。作り笑いを持って人の輪へ紛れ込む。視点を変えれば、孤高の人であることがノーマルで、作り笑いで世間に潜むことの方が狂人なのかもしれません。 まりにゃんさん kaz.さんの作品へのまりにゃんさんのコメントは拝見しておりました。一つのビジネスにも成りえる狂気。偽りの狂気を群衆に与える。ほら、格好いいだろう?この狂気、みたいな。ファッション狂気。

薄氷楓薄氷楓 (2017-09-29):

三浦果実さま お返事頂き、ありがとうございます。概ね同意です。ただし私なら、「怨念」という言葉の代わりに「ストレス」という言葉を使います。ストレスにも幾つかのグラデーションがあって、そのうち最も濃度の強いものが「怨念」になるのではないかと。 ふつう、人混みの中で怨念を放てば、監獄行き、という事になりますね。法に守られながら怨念を放てる場があるとすれば、それはやっぱり「文学」という事になるのでしょうか。 あなたは普通の人間だよ、と言って頂けたような気がして、とても嬉しくなりました。ごく平凡な感性を持つ人間として、これからも、何かを書き続けていきたいです。


広島   

fiorina 
作成日時 2017-08-08
コメント日時 2017-09-27

 

娘の仮住まい 四畳半の離れで泣いている さっきまで笑っていた 明かりが消え 向こう向きに横たわったまま 肩をふるわせ それでも最後まで観るのだというように テレビの画面は進行していた 森繁の演じる「恍惚の人」 午後には殺虫剤を抱いて 部屋のあちこちから湧き出るという 黒い虫と戦っていた 朝には メモをとらせて 遺言を語り 花の終わった桜の土手 震えのやまない母とあるく 京橋川に架かる吊り橋 数歩歩いては立ち止まり かすかな揺れに驚いて 幼子のように笑った     * いつか「ソフィーの選択」を観た ナチの死の扉に どちらか一人を迫られて 咄嗟に娘の背を押し 息子を抱いた そのように 他国の背を押す 過去の一ページ 広島を福島を忘れる     *     広島が好きだ 水は大きく空を映し 路面電車の窓から街はおおらかに広がり むすめたちはよく笑い美しかった 瀕死の床から母が生還し 私が初めて詩を書くことを知った場所 母の傍らで母の詩を書いていると 「そげんあたまをつこうたらいかん」 と何度も何度もいまも


コメント欄を表示する (22)
るるりら (2017-08-09):

拝読いたしました。広島でのご家族との 温かい交流や景色が 美しいです。 恍惚の人も、ソフィも わたしは 観てませんので、詩の半分もできていません。 こがいに、頭をつかんようなやつで、もうしわけないです。

るるりら (2017-08-09):

詩の半分も、理解できてないです。【脱字でした】重ね重ね、すみません。

fiorina (2017-08-09):

いえいえ~ 随分前同じやり取りをしたなーと思い出しましたが、 お互い変わらず、それなりに健やかなので こういうときは、やっぱり多様性の尊重でしょうね。 メールはゆっくりと夜にしますね。

まりも (2017-08-11):

2010年頃初稿、という、題に添えられた「但し書き」・・・これも題の一部、ということになるのでしょう。 作品の冒頭は、「恍惚の人」を母と観ている光景、を思い出している、のでしょうか・・・歌うような調子で綴られていくリズムが、回想の色を濃くしています。二連目は、ドラマの中のシーンではないか、という気がするのですが・・・この表記だと、見ている母が、そういう行動をしている、ようにも読めてしまいますね。一字下げにするとか、画面の中では・・・というような一行を添えるなどした方がよいように思われました。 三連目は、美しい回想シーンですね。私も「恍惚の人」になるのだろうか。子どもの重荷となりたくない・・・そんな母心を感じ取った語り手が、そっと外に連れ出す。葉桜の季節、吊り橋に心を躍らせる母を、大人の語り手が愛おしんでいる、そんな関係性も感じられます。 *の後が、震災後に書き加えられた部分なのでしょう。急に、他国を犠牲として生き残ろうとする国家の醜さへの感慨・・・といった大きなテーマに振られて戸惑いました。 その後の連で、作者が詩を書くということについて語られるのであれば・・・個人では答えようのない問い、それでも問わざるを得ない国際問題・・・そのことを思うたびに生じる、どうしようもない無念さ、無力さについて、飽くことなく書き続ける、ということ、それが私にとって詩を書く、ということなのです、という展開であれば・・・この挿入部分も、さほど違和感は覚えなかったのですが・・・ 〈母の傍らで母の詩を書いていると/「そげんあたまをつこうたらいかん」〉と母に心配されてしまう。国際問題のような、大きな出来事について考える、のではなかったの?と思い・・・いや、母のことを書くのも、国同士のことを書くのも、結局は穴の開いたバケツに水を汲むような、答えのない事柄なのだ・・・海辺で砂の城を築き続ける、そんなどこか虚しささえ含む行為なのだ、ということ、なのかな、と思い返してみたりしつつ。 でも、やっぱり、国同士の話が「唐突に」入って来る、感覚は否めないですね。

fiorina (2017-08-11):

まりもさんへ 過去に「ダグマ」において、自分が住んでいる町や好きな街を 大切そうに書いていた頃、 戦争においてまもられなかった街広島からの声として、 るるりらさんよりコメントをいただきました。 そのレスとして、広島に対する素朴な感情、自分の広島を書きました。 福島は、今回書き添えましたが、年代が矛盾しますね。 ご指摘ありがとうございます。 2連、他国の背を押す、は、ソフィーがそうであったように、 一人の個人が心の中でする、してしまう、ぎりぎりの選択を あくまで個人レベルで考えていましたので、 国同士の行為とは思っていまませんでした。 いつもありがとうございます。

fiorina (2017-08-11):

追記です。 2連の殺虫剤を抱いてなど、も母の描写でした。

るるりら (2017-08-19):

この詩には題名に、私の ハンドルネームも 記されているのに、あんまりにも単純なレスになってしまったので、気をとりなおして、もう一度 お返事を書かせていただきます。 あらゆる場所のあらゆる風景には、その場所なりの力があると 感じます。 この作品では、心理学でいうところの つり橋効果の表れなのか 橋での楽しそうな様子を表現しておられ、ほほえましいなあと 思いました。ただ、この橋は それだけの橋では無いかもしれません。この橋は、もしかしたら「工兵橋」かもしれません。 もしも あの橋であるとしたら 基町アパートがほど近いです。ご存じだとは思いますが、基町アパートは復興と大きく関係しています。 原爆投下後、なにもなくなった場所での人々は ご自分たちで  それぞれが家を建てておられました。にもかかわらず その方々の家々は、都市計画のために立ち退きが よぎなくされ、基町アパート移動して住まわれること なりました。 つまり 詩の中に登場している橋は、原爆の記憶をもっておられる方が多いアパートの近くにある 橋のような気が 私はしています。 前作で書いておられたドレスデンも廣嶋も 戦争被害にあった場所です。ドレスデンのあるドイツの国民性は 戦争によって破壊された建物もできるだけ 元の姿に再構築するという選択をする国民性だと私は聞いたことがあります。  広島の選択は、ドレスデンは違います。まったく違う街を構築しました。中心に公園を据えて、その周辺には ありとあらゆる文化が集まるような街にしたのです。当然以前の廣嶋とは まったく別の街になりました。  ドレスデンは文化的独自性重視の美ですが、今の広島にも 風景としての美が力があると 私は感じています。人々の幸せのために 街を造ったのは 同じです。  前作の詩についてなのですが、私には すこし疑問点がありました。ドイツ兵が破壊されないと誤解するような力を強調し そのような力はある。という表現をしておせれる。そこに 私は首をかしげたのです。  でも、実際にはドレスデンは破壊されたと書いておられるではないですか?美の力だけでは 崩壊は まぬがれなかったということでは(・・? 風景には破壊を免れる力は無かったのです。  ドレスデンの魅力は、過去の人々の心にあるのではないと思います。現在のドレスデンに繋がる人々にあるのではないでしょうか?戦争で崩壊しても 以前のような姿に再構築したいから再構築したドレスデンの人々の【ドレスデン愛】が 現在のドレスデンの魅力だと 個人的には感じているところです。  ドイツの話は、それはそれとして、広島の場合は 街が白紙になったあと まったくの別物の街を 造りました。なかなかの多様性重視です。だから、広島にも素敵なパン屋もありますよ。 いい匂いをさせています。   さて、あなたのお書きになった詩の中に出てくる つり橋に 話を戻します。さきに いいましたように広島と廣嶋の光景は まるで違う風景です。ですが、この詩にでてくる橋が「工兵橋」だとすると、工兵橋だけは 廣嶋にも存在していた数すくない建造物かもしれません。 私は、この詩の中にでてくるご年配の方のセリフ部分が好きです。私も暗い様々なことに頭を使うことばかりが良いこととは 私にも思えないからです。 ただ、詩中にある橋が  もしも「工兵橋」だとしたら、それは広島と廣嶋の光景を結ぶ大切な橋である気がして、そのことだけは お伝えしてみようと思った次第です。橋の位置が原爆の波動と水平だったために骨格が 壊れなかったのが、工兵橋という橋だと聞いています。工兵橋は 兵隊さんが利用した橋でも ありました。

fiorina (2017-08-19):

るるりらさんへ ありがとうございます。工兵橋だと思います。 「広島と廣嶋の光景を結ぶ大切な橋」だったのですね。 吊り橋から下流を覗くと、柔らかな砂地が半月のように現れて、 静かな流れに桜の枝と陽光が映るのがきれいでした。 土手のうっそうとした桜並木に、これが戦後復活した街?と驚きを禁じ得ませんでした。 上手の苔むした塀の細道を入っていくと、大きな家も並んでいて歴史を感じました。 お線香の香りに誘われて、幟に色とりどりの布を垂らしたお墓が延々と続いているところにも (寺町だと思います。)たどり着きました。       ♢  ♢  ♢ >ドイツ兵が破壊されないと誤解するような力を強調し そのような力はある。という表現をしておせれる。そこに 私は首をかしげたのです。  でも、実際にはドレスデンは破壊されたと書いておられるではないですか?美の力だけでは 崩壊は まぬがれなかったということでは(・・? 風景には破壊を免れる力は無かったのです。            (るるりらさん) ここが争点ですね。そして、再度の問いにくり返しお答えしたつもりでいるのです。 るるりらさんが言われている、「美しい場所だったが破壊されたではないか」、というのは、 美しい場所がだめだったのではなく、破壊した方が無知だったからだと思うのです。 この点を私は、【熟知】ということばで書いたのです。       ♢  ♢  ♢ 【熟知】について 美しい街で歓びとともに寝起きし、それらを作り上げた先人や長いじかんに思いをはせ、 自然にわき上がってくる感謝の念の中で育っていく。 ヒットラーやアメリカの大統領、過去の日本の侵略者がもし生まれ変わったら、 そういう場所で赤ちゃんのときからやり直して欲しいと思います。 一見そういう場所に恵まれていた彼らには、 美しい場所で育つことの内の何かが欠けていた、熟知をしていなかったと思うのです。 人間の暮らしを歓びのうちに皮膚から毛穴から呼吸して、 景色ごと、おいしいパンも葡萄酒もあなたもわたしも、 大切に思わずにいられない。 それがなし得るのは、真に美しい環境ではないかと思っているんです。 それは人びとに平等な福祉であり、やればやっただけ歓びが増していく事業。 家庭が不幸せであるときも、一歩街に出れば目から幸福が飛び込んできて、 ここでなら永遠に生きたい、でも今すぐに死んでもいいわ、と思うような、 一回きりのわたしたちの人生の書き割りであり、舞踏会場。 生きとし生けるものが漏れなく死んでいく場所として、 すべての魂に最高の死に場所を与えることでもあります。       ♢  ♢  ♢ その美しい街、とは、こぎれいな街、ではないんです。 圧倒的に美しい街、信じられないほど素敵な街、人間にここまでできるのか・・・、 ここに爆弾が落とせるなら落としてみろ!とさえ言ってみたいほどの街なんです。 (そして、それらを享受するのは、これから生まれるすべての子どもたちや訪れる世界の人々なので、 分母に無限大が来る、すなわちコストは限りなくゼロに近いと思うのです。) そんな夢物語、と言われるかもしれませんが、 度重なる戦禍にもかかわらず、それを実現しようとしている国は、 たくさんあります。ドレスデンはそれらの地のひとつの例として書きました。 twiterにそういう街や村の画像を集めていきますので、 よろしかったら覗いてみてくださいね。→https://twitter.com/bara20006       ♢  ♢  ♢ >私は、この詩の中にでてくるご年配の方のセリフ部分が好きです。私も暗い様々なことに頭を使うことばかりが良いこととは 私にも思えないからです。 (るるりらさん) 【そげんあたまをつこうたらいかん】について。 私は小さい頃から頭痛がひどく、母親は元気に育つことを最上としていました。 その願い通り、自然のなかを歩き回ることしかしないように育ちましたので、 机に向かってるのをあまり見たことが無かったんだと思います。 「あたまをつかうな」は普通の親とは違うらしいし、 それを頭の弱っていた母がそばから心配そうに何度も言ったので、 可笑しかったのです(笑)。 「私も暗い様々なことに頭を使うことばかりが良いこととは」(るるりらさん) るるりらさんや他の方々に暗く頭を使わせたとしたら、お詫びするしかないのですが・・・。 自分の我が儘な歓びのために、ごく偶に少しだけこうして頭を使うのは決して暗くはありません。 私の時間の本当にわずかな部分ですので、どうかご心配なさらないでくださいね。 再度のコメント、ありがとうございました。

ウエキウエキ (2017-09-21):

はじめまして。 細かいことですが……。 「恍惚の人」は森重ではなく森繁(森繁久彌)ですよね。 その点が気になりましたので、コメントさせて頂きました。

fiorina (2017-09-21):

ウエキさん、こんにちは。 >「恍惚の人」は森重ではなく森繁(森繁久彌)ですよね。 ほんとですね(笑)。 ありがとうございます。

花緒 (2017-09-26):

大賞作掲載にあたって、森重→森繁に修正しました。ご確認いただけると嬉しいです。念のため。

るるりら (2017-09-26):

この作品は、大賞だということでしょうか?

花緒 (2017-09-26):

はい。発表させていただいた通りです。アーカイブスから確認できますよ。

るるりら (2017-09-27):

そうでしたか。おめでとうございます。

花緒 (2017-09-27):

他所へ掲載する場合、るるりらさんへの返詩、というタイトルのままで、るるりらさん、fiorinaさん共にオーケーでしょうか。大賞作ですので、タイトル変更必要あれば、承りますよ。

るるりら (2017-09-27):

わたしは 2010頃に つまり東北の震災の関係のない作品を 現代詩フォーラムで初めて読ませていただいています。あのとき とても嬉しかったことを覚えています。 ですが、「 るるりらさんへの返詩」という題名で多くの方が御覧になるのは、わたしには 重いです。 森繁のあの映画は老を

るるりら (2017-09-27):

つづきです。 あの映画は老を----描いた作品であり、2010頃には笑顔で受け止めれた映画内容が 今の私には 昔よりも より気の重い事柄を含んだ内容と感じられます。 2010頃にはじめてうけとったときは、ただただ ありがたかったのです。しかし 今は老の問題は もののついでに お話する気になれない心になる問題へと変化しております。 賞は素晴らしいことです。ですが、 わたしあてだと思うと 私には重いです。 できることならば、わたしあてでないという作品題名に変更して 賞の欄に掲載していただきたいです。

fiorina (2017-09-27):

花緒さん、ありがとうございます。 るるりらさんへの返信のために書いたもので、作品としてみていただけたことが驚きでした。 自分の詩は、詩的な何かに乏しいたどたどしい作文だなあと思っているので、申し訳ない気持ちですが、選んでいただいたことに感謝し、今後の励みにしたいと思います。 タイトルですが、私としましては、広島 のみとし、~るるりらさんへの返信~を詩の末尾に付す、という風に(るるりらさんの方でお差し支えなければ)お願いしたいです。 よろしくお願いいたします。

るるりら (2017-09-27):

老だけではないです。震災も広島も老の問題も、それからナチスも。この作品には 混在しています。 どの問題をとっても 本来なら軽く扱える問題ではないです。 それなのに るるりらという個人あてなのは、辛いです。

fiorina (2017-09-27):

あ、時間がかぶっていましたね。 どの問題をとっても 本来なら軽く扱える問題ではないです。 それなのに るるりらという個人あてなのは、辛いです。 世界と一人の人は、どちらが重いという問題では無いと思っています。 ですが、るるりらさんのお気持ちもわかりますので、 この掲示板での訂正はできないとしても、 他へ転載の場合は、タイトルは 広島 末尾への註も割愛した方がいいかもしれませんね。 るるりらさん、ご心労をかけお詫びします。 花緒さん、よろしくお願いいたします。

花緒 (2017-09-27):

了解です。今後、大賞作として多くの方の目に触れる可能性ありますから、とりあえず、タイトルを、広島、だけに変えましょう。掲載前に確認が取れてよかったです。 確認が後手に回ってしまいまして、ご迷惑をおかけしました。

るるりら (2017-09-27):

★fiorinaさん わたしの題名を変える意見を受け取ってくださって ありがとうございました。 世界と一人の人が、どちらが重いという問題を わたしは  お話したのではないです。 世界は一人の人なんて、時折 虫けらのように葬ります。それが事実です。まさに地獄は この世にこそあるといっても過言ではないです。地獄に墜ちた人々はカオスの中を右往左往しながら 思考すればするほど、アリ地獄のアリが地獄の奥にさらに堕ちてゆくような状況に 顔や心を ゆがませます。 そんな様々な人の様々な艱難のときにも 「そげんあたまをつこうたらいかん」という魔法の言葉がすくいになるかもしれません。 この詩をお読みになる方々が、「へぇ るるりらって人あてなんだあ。」などと 思われるのは極力 遠慮をしたいです。人々が この詩を、単にfiorinaさんの詩として お読みになることを 祈っています。「るるりらってどんな人なの?」とかいうことは、やっぱり不特定多数の読者にとっては 不要ですよ。わたしは、そう思うなあ。    そうは言っても ほんとうの本当は、この詩が私あてであることは 理解しています。私は 実際になんどもなんどもこの詩に対する思考を反芻しているし、この思考は わたしを成長させてくれるに違いありません。わたしのことを 心にとめてくださったこと自体にも深謝いたします。ありがとうございました。 ★花緒 さん 対応ありがとうございます。三者が期せずしてタイムリーに同席していたのは奇跡な思えます。このサイトには 詩の神様が確実にいらっしゃる証のようにも思えています。ビーレビのさらなる発展を こころからいのっています。さっそくの対応を ありがとうございました。


ドアノブ   

エイクピア 
作成日時 2017-08-31
コメント日時 2017-09-24

 

ドアノブが動くと 腰がムラムラとして トイレの便座から立ち上がる カラーは保証されていないから 里は乃木坂で 日が燦々と降り 土が充満した 殺人事件をせつじんじけんとしか言えない子が 居てムラムラとした マシュマロをマシマロとしか言えない シンガーみたいなものなのかもしれない ドアノブはネッシーでは無くて ヨッシーに開けてもらい 事なきを得た 外にはラカイテルと言われた カイテル将軍が立って居る様な気がした


コメント欄を表示する (8)
5or6(ゴロちゃん。) (2017-09-01):

こういう綱渡り的な言葉のチョイスと韻律、羨ましい才能だと思います。マシマロ、岡村ちゃんが言いそう。ラカイテル、カイテル将軍、立ってそう。なんかチマチマとわかる気持ち、赤の他人なのに親近感。そんな目線で読んでます。

花緒 (2017-09-02):

作家性を感じる。一定水準以上のものを常に作れる筆力に嫉妬。エイクピア節が効いている中で、せつじんじけん、とか、飛んだ発想が出てくるのがスゴイ。

渡辺八畳@祝儀敷 (2017-09-02):

→ドアノブが動くと →腰がムラムラとして 扇状的でエロティックなものをはじめに想起させるわりには、その欲情がどうこうなることなく・その後殆ど全く触れられることなく詩は続いていくはけ口の無さが良くも悪くもむずむずとする。

ミナト螢 (2017-09-02):

発想力と言語還元力みたいなのが、凄いなと惹きつけられました。

エイクピアエイクピア (2017-09-23):

5or6さんコメントを有難う御座います。マシマロは奥田民生に歌にあって記憶に残って居ました。岡村ちゃん、ナインティナインでしょうか。カイテル将軍は思い入れのある人です。ドイツ国防軍の総長をやって居た人なので、ニュルンベルク裁判では刑死して居ますしね。チマチマとでも理解して頂けると詩作した甲斐がありました。

エイクピアエイクピア (2017-09-23):

花緒さんコメントを有難う御座います。せつじんじけんは言葉遊びの類でもあったのですが、子供がもしかしたら言うのかも知れないとちらと思いました。作家性と言う事で言えば、やはり詩に留まらない、詩に終わらない、詩に完結しない、視野の事を思いました。そうすれば巡り巡って詩にも再び資することもあろうかと思うのです。

エイクピアエイクピア (2017-09-23):

祝儀敷さんコメントを有難う御座います。ドアノブ、腰などは思い入れのある物でした。ドアノブを付属させている勝手口、木戸口、キッチンドアなどの言い回しが詩心を刺激するのです。腰は英語でWaistと綴る事から来る「AI=人工知能」からの連想でしょうか。エロティックと言えば真っ先にバタイユの「眼球譚」が思い浮かびます。

エイクピアエイクピア (2017-09-24):

ミナト螢さんコメントを有難う御座います。発想力、言語還元力ですか。これからも頑張って行きたいです。でもこの詩では提示した「カイテル将軍」「乃木坂」など思い入れの深い単語なので、これからも大事にしていきたいです。そのうえでの詩作ですね。奸智に長けている様な感じもとぼけて居る様な感じも出せて行けたらと思います。


   

湯煙 
作成日時 2017-08-11
コメント日時 2017-09-21

 

祖父が 最近 セケンで聞く ニンチシヨウ というものである と知って 驚きはなく あっさりぼくは 納得したのだった 心中 安心を思ったのだった ぼくの祖父は わるいひと ではないけれども 良い関係なのだけれども よくわからないまま 足元の砂を掴んで 声を張り上げ 投げつけてくる だいたいそれは ぼくの母に言伝があると ぼくを呼びつけたときだ どこにいようと なにをしていても おかまいなく呼びつけて そうして 母にと言伝をいいつける だいたい そんな時だ 逆らえば 断ったりすれば すぐさま 声を張り上げ 砂を投げつけてくる 理由をたずねても  教えてくれない 祖父はやはり ニンチシヨウなのだ ぼくはそう理解し 納得している 友人たちには 秘密にしている ある日 夕方 学校からの帰りに 団地の広場で 友人たちと遊んでいると ベンチにいる祖父が ぼくを呼びつけて 手渡せと言って 花を差し出した なんというものか 名は知らないけれど まっすぐな茎の先に 赤い花弁を開かせていた そんな可憐な 一輪の花だった 迷ったけれども 砂を投げつけられてはと そう思って 友人たちに理由を言って さよならをして ぼくは家に 駆けていった 祖父は笑みを浮かべ 杖をついては 背中を向け またどこかに行った 団地のエレベーター に乗り 10のボタンを押して 上がっていき 家のドアを開け 靴を脱ぎ 廊下を行き 居間でテレビを見ている くつろぐ母の元に向かい 花を差し出した 母はなにもたずねず 花弁を嗅いだり 茎を眺めたり擦ったり いつまでも 慈しむようにして そうして ニコニコしていた ぼくは ベランダに行き そろそろ 夕日が沈みそうな 穏やかな いつもの空の下で 居並ぶプランターの 花たちが揺れる そんなことを感じては 手摺から 腕を伸ばしてみた だんだん薄暗くなる いつもの空の下で ぼくのてのひらも 小さく揺れた 生まれたときから 死に向かっていると 聞いた ニンチシヨウ というものである と思えば 安心なのだけれども 祖父 母 セケン と 皆が知らないようだ 誰も 何も 教えてはくれない 友人たちなら 知っているかも知れない 知らないのかも知れない いつかたずねてみたい 花の名を


コメント欄を表示する (10)
花緒 (2017-08-13):

よかったです。良い作品だと感じました。<認知症>という風に、名前をつけて、ラベルを貼れば、なんとなく分かった気分になれます。しかし、斯様なラベリングからは零れ落ちるものこそが重要であり、単純に言葉にしえぬものを、言葉で表現しようとすることが詩や文学の持つ機能の一つであり、それを<花>として表現されているのであり、と説明的に語ることにはあまり意味がないのであろう、と感じさせる、ストーリーテリングの上手さを感じました。もう少し言葉を切り詰めて描いたらもっと凄かったのではといったことも、(下手な私にもかかわらず)不遜にも感じたりはしましたが、であるがゆえに、他の方がどう評するのか興味あります。いつもレベルが高く、面白い作品を投稿いただいていますね。有難うございます。

湯煙 (2017-08-13):

花緒さんありがとうございます。ハナヲテワタシタヒといった作品を改稿したものです。散文の形式を変え、また主題をややずらしてのものとなりました。つかみどころがないといいますか、不明瞭な印象があるかもしれませんね。特に最後の一文など。秘すれば花といった古風なというものでもないですが、揺れやぼかしといったソフトフォーカスみたいな感じも悪くないのかなと考えてみたり。 そうですね。切り詰めるべきだったかもしれませんね。だらだらとしたひとり語りが全体としてはどうなのか、機能を果たしているか否かといったことを意識すべきだったようですね。

まりも (2017-08-14):

作品全体の、短めの区切りが生み出すリズム。とつとつと思い出を語っているような・・・言葉に詰まりながら、誰にともなくつぶやくように語っているような流れが、リアリティーを与えていると思います。 実際に作者の祖父が認知症であるかどうか、ということとは関係なく・・・世間一般における「名」を与えることによって、理不尽さや憤懣、やるせなさをやり過ごしてきた・・・胸の内になんとか収めてきた、そんな「家族の歴史」があって・・・それが、花を手渡す、という行為によって、和解の香りを帯びる。 だんだん薄暗くなる いつもの空の下で ぼくのてのひらも 小さく揺れた この、さりげない描写が、実に美しいと思いました。プランターに並んで咲いている花・・・でも、その花のどれにもまして、〈母〉にとっては思いのこもった花、だったのでしょう。父と娘の間でだけ共有し得る、幸福な時間を思い出させる花、であるのかもしれない。 手すりから外にのばされた手のひら。その手に差してくる夕日、夕日に照らされた手のひら、次第に赤く、夕日色にそまっていく手のひら。 狷介な祖父(母の父)の、砂を投げつけるような乱暴なやり方でしか伝言を伝えられない、その悲しみは、どこから来るのだろう。あの人は、認知症だから、怒りっぽいんだ、と、納得することでやり過ごしてきた〈ぼく〉は、心の中で、実はそうではない、ことを知っている・・・からこそ〈ニンチシヨウ〉としか、呼びようがないのかもしれません。父と娘(あるいは父と嫁)の間のわだかまりが、溶けた一瞬。それは、〈祖父〉に死が近づいてきた、そのことを彼が意識した、からなのかもしれず・・・ ニンチシヨウ、を、認知しよう、という呼びかけと、それを拒否する気持ちの表れ、と読むのは、深読みしすぎか?と思いつつ・・・ニンチショウ、とヨを小さく表記しないところが、最後まで気になるところでした。(コメント欄に、テワタシタヒ、と旧仮名風?の表記で書かれているので、その辺りも関係あるのかな・・・) それはいったん、脇に置いて・・・〈だらだらとしたひとり語り〉そう言われると、もう少し切りつめていくこともできるのではないかな、とも思いますが・・・全体でリズムを作っている、というところもあり・・・最後に〈友人たち〉を出す方がよいのか、〈ぼく〉の内省だけで止めた方がよかったのか、など・・・。 たとえば、意味から言えば〈そう思って/友人たちに理由を言って/さよならをして〉わけを言って、なんてフレーズは飛ばして、どんどん進行させた方がいい。でも、~って/~言って/~して、と続いていく語尾のリズムなどが消えてしまうので、削るのも、なかなか難しい。冒頭に出て来る、心中/安心 うんぬんのところも、省けるかな、と思ったのですが、後半にもう一度、〈と思えば/安心なのだけれども〉と出てきますよね。ニンチショウ、という病気なのだ、仕方ないのだ、と、理由のわからない怒りへの不信や不安を、安心に替える。一か所いじると、全体が動いてしまうような作例なので、やはり、この長さは必要なのかな、と思いました。

fiorina (2017-08-14):

湯煙さんでしたか。 某所で先に読ませていただいて、とてもよかったです。 ひとつの家の中で、家族の認知症は いつを境にどんなふうに認知されているのか。 身近に接するものだけが知る、 小さな行動の異変を、 ことばに出す以前の一人一人の心の中で、 ゆうぐれのように音もなく(優しく) 進行していくもの。 その戸惑いと、 まだ名付けられないことで 人の生きる自然な姿として老いを受け止め、 足りないことに添っている家族が描かれていると思いました。 そのなかに、 手から手へと赤い花がわたされていくように、 明るんだいくつもの一瞬があると。 三人の表情が見えてくるようでした。

湯煙 (2017-08-16):

まりもさんありがとうございます。改行も何もnothingな一つながりな作文でしたが、泥棒さんの作品のスタイルといいますか、とつとつした息継ぎでもって連なるような、そうした語りに形式変えしてみた次第です。どこか全体がつかみどころがない曖昧な感じ、雰囲気はこちらがやはり良いのかなと。 -てのひらが揺れる-の箇所ですが。そうですね。 様々に想像ができるかもしれません。色や光。大事な要素になるかと思いますし、そのあたりは興味深い感想を頂けたかと。 認知症もそれぞれにまた特徴といいますか、症状反応はあるかと思いますが、寄せ付けない、或いは癇癪を起こすという方もおられますね。-ニンチシヨウ-認知しよう。これは意識はしていませんでしたが、後に私も気がつきましたし、あれ?なんだ?という。私としてはまた別の考えからニンチシヨウとしましたが、ややこしい表現となりましたかね。ハナヲテワタシタヒは、-手渡したい-、手渡した日-、と掛けて、描けて、はいました (笑。 最終連については説明といいますか、蛇足気味な感じもしますね。訳を言って、安心/心中、の御指摘された箇所等。必要なのかどうか。語りのリズム、流れと全体の構成との関係からまた考えたほうがよいのかもしれません。

湯煙 (2017-08-17):

fiorinaさんありがとうございます。はい、熱帯魚ですね(笑 どんな風に認知されているか?・・・なかなか実際の体験がなければ理解しにくい、されにくい状況かもしれませんね。診察を勧めても嫌がり癇癪を起こしてしまうような方だとそれはそれでまた余計に症状の進行か否かを疑うかもしれませんし、難しいかとも思います。我が身に引きあててといった仏教用語といいますか、考え方があるようですけど、どこかそうした気持ちを思いつつ見守るといったことも問われたりしているかなと。そんなことも感じます。 もちろん悠長なものではないと思いますし、家族だけ理解していればよいといったものでもないのでしょうね。認知=架空を実体とすると

湯煙 (2017-08-17):

コメントが途切れてしまいました。 認知=架空を実体とする働きの一つと考えたりしますと、物忘れや徘徊といったものは世間知に刷り込まれた情報なり世界から本来あった元の状態に向かっている過程なのかとも思ってみたり。

森田拓也森田拓也 (2017-09-21):

おはようございます。 僕はとてもこの詩が好きです。 一度目は目で追わせていただいて、二度目は大切に音読させていただいています。 第三連の「ある日」という言葉で、パッと詩のお話の展開が広がりますね。 お祖父さんが手渡された大切な想いが込められた名のない花の存在がとても印象的でした。 お祖父さんが手渡された花の意味に深い意味と詩情を感じ、心を打たれます。 こういう詩が書けるのって、やっぱ、すごいなって思います。 詩って、やっぱり、いいものだなって。

湯煙 (2017-09-21):

森田拓也さんありがとうございます。三度までも。恐縮します。

湯煙 (2017-09-21):

コメントが切れてしまいました。 ある日からは転にあたるのかもしれませんね。便利かつ安易な修辞だったかとも、そんなことを思いますが。


I・・・に教わったこと あるいは批評について   

まりも 
作成日時 2017-08-16
コメント日時 2017-09-20

 

もし、前世というものがあるなら。私はこの人と出会ったことがある・・・きっと、バラモン。インドのヒンズー教の僧侶。あるいはどこか南方の、ウコン染めの僧衣をまとった修行僧・・・それが、「**研究会」講師、I氏の、ファーストインプレッションだった。なぜ、そんなことを感じたのだろう。今もって理由がわからない。  浅黒い丸顔、禿頭、老年とも壮年とも見える風貌。彫りの深い目元には鷹のような眼光があり、ふっくらとした口元や頬は、南方系の血を感じさせる。真一文字に唇を結び、器用なのか不器用なのかよくわからない肉付きのよい指と手つきで、提出された詩作品の束を丁寧にめくっている。印刷された詩作品の周囲、裏側の白紙部分を、数色のボールペンの文字がびっしりと、紋様のように埋め尽くしているのが見える。権威的ではないが、安定して動じることのない、岩のような存在感があった。  研究会は、参加者が事前に詩作品を提出し、一週間前に全員の作品が回送されてくる。事前に作品を読み込んできて、当日、会場で合評しあい、最後に講師の講評を頂く。いや、頂く、という言葉は不正確だろう。対等な関係を保つ為に、講師を「さん」付けで呼ぶ。生徒として「拝聴する」のではなく、対等な関係として意見を交わし合いましょう、講師も参加者の意見を傾聴しましょう、という、「学校」「授業」的な一方通行の場にしたくない、という講師や司会の意図が明確に見えることが、とても新鮮だった。  詩作品を作者が朗読し、何人かの参加者から感想や意見を聞いた後、講師の講評を待つ。Iさんの声は、想いの他高いハイバリトンだった。かつては美しいボーイソプラノだったろう。Iさんの批評スタイルは、事前のメモを読み上げるのではなく、その場で(参加者の意見なども受けながら)評していくものであったが、語りかけるような会話体ではなく、そのまま文章として成立する、論旨の明快な批評文となっていることが鮮烈だった。  おそらくは、詩人としての直観によって得た印象が、詩の分析や解釈の原点にあるのだろうと思う。しかし、Iさんの詩評は、印象批評からは一番遠い所から始まる。詩の形式、行間や単語の持つ音感が作品に与える効果、作者の伝えたい感情の強度と、語句の選択の関係性。日常的な使用において単語の孕む意味が、たとえば配列の工夫によって新たな意味へと開かれたり、独自のニュアンスをまとったりする、その微妙な(一般には気づかれにくい)特質の指摘。文字列が生み出す表層的な意味の背後にある、作者が意識的に、あるいは無意識的に潜めた多義性を、単語や連結の仕方や語り口の呼吸などを手掛かりに、丁寧に掘り起こしていく。  Iさんの講評は、ひとつのものを偏光顕微鏡で観察したり、空間に置かれた作品を、その周囲を巡りながら多角的に観賞したりするような、様々な角度からの新しい発見に満ちていた。作品や作者に対するリスペクトが常に感じられる、その控えめな踏み込み方も、大変好ましかった。恐らくは主観的な「直観」――それも、思い付きの直感ではなく、過去作品の重層的な積み重ねを基層とした直観――から発しているであろう作品の分析過程は、なぜ自身がそう感じたのか、ということを、どのように説明すれば参加者に伝わるか、と工夫を重ねて作り上げた、独自のスタイルであるように思う。なんとなくそう感じるとか、説明できないけど、なんだかいい、というような、ディレッタント的な曖昧さがまるでない。わからない時は分からない、とはっきり言い切る率直さや、誤読である可能性を否定しない誠実さにも驚いた。 意味を読み取ることばかりを「詩の読解」だと思っていた私に、音の響きの面白さや、詩的空間の深さや奥行きを探る冒険のような新たな詩の読解の楽しみ、精神分析や心理分析を援用した多義性の探求、社会的、文化的背景を踏まえた、ある種の共時性をあぶりだしていく面白さを教えて下さったのは、まぎれもなくI氏である。同時代に生きる私たち、同じ場を共有する私たちが、気配やムード、予感といった、ぼんやりした形で感じ取っているなにかを、言葉に取り出していくこと、顕在化させていくこと・・・それもまた、詩を書く、書かざるを得ない、重要な動機となるだろう。 個人的な苦悩や喜悦、悲哀といった感情を吐露することから始まり、その個人的な吐露を普遍的なものにまで高めていく、研磨していく行為は、ぼんやりと私たちが共感している、言葉にしえない感情に触れていく行為でもあると思う。なぜ「わたし」は詩を書くのか、という問いを突き詰めていけば、詩とは何か、詩を書く私、詩を書く行為とは何か、という詩論的な思念に踏み込んでいくことになるし、許せない社会悪や、世間の理不尽に遭遇した怒りや疑問が、個人内部の世界観や反発力に感化されて、詩の言葉となることもある。日常の生活に、ふと心が留まった瞬間――そんなきらりと光る一点に繊細に目を注いで、その感情の変化を確かめるように言葉を紡いでいく人もあるだろう。 多様な詩の書き方が存在し、多様な読み方もまた存在している。その時空の中で、切実に発せられた言葉のまとう輝きに目を止めていきたい。その喜びを教えてくれた、Iさんの批評スタイルは、これからもずっと、私の大切な指針である。 初出 『ポスト戦後詩ノート』第8号 ※個人名など、一部修正


コメント欄を表示する (8)
まりも (2017-08-16):

下二段落、頭の一時下げを忘れてしまいました。もとは4ページの「エッセイ」です。

前田ふむふむ前田ふむふむ (2017-08-19):

(この御批評を読んで、書きたくなり、数名個人名を出してしまいましたが、まずいようでしたら、削除してください) こんにちは。このサイトに参加させて頂くことになりました。前田ふむふむです。 このテキストの批評ではなく、 私自身の思い出話になってしまいますが、ご容赦ください。 「・・・・研究会」は、僕には懐かしい思い出です。僕は、2007年の半ばから2009年の前半ごろまで、勉強させて頂きました。家庭の諸事情、(特に母のこと)、仕事のこととかに、 忙殺されて 参加できなくなりましたが、とても凝縮された日々だったと思っています。 年齢的にも遅く現代詩を知り、 2006年から、詩を書き始めて、右も左も分からない日々だったので、 何とか詩の勉強がしたいと、本来、極めて出不精の僕も、思い切って応募して 参加したのです。 I 氏は、先生と呼ぶと、僕は先生じゃない、「さん」呼びをしてくれと これは、僕の勉強のためにしていることもあり、皆さんから学ぶことが多いので、 と仰っていたのが印象的でした。二次会では、I 氏とは、詩の考え方、なぜ詩を 書いているかとか、本質的な話から、ふだんの日常的な他愛無い話まで、 幾度となく、話しをして頂いたことは、とても良い思い出です。大詩人でありながらとても謙虚で、その当時の研究会皆さんから、尊敬を集めていたのが印象的でした。 メンバーは、伊東浩子さん、高岡力さん、渡ひろこさん、長谷川忍さん、岡田ユワンさん、 永方ゆかさん、ブリングルさん、中井ひさ子さん、長尾雅樹さん等、錚々たるメンバーを 中心に20名から30名の方が、参加されていました。中には、秋田から泊まり込みで 来られた常連の方もおり、皆、少しでも、何かを持ち帰ろうと真剣でした。 特に,伊藤浩子さん、高岡力さん、長尾雅樹さんとは、特に親しくさせて頂きました。 渡ひろこさんは、朗読とか、その当時から活発に活動されていて、何度かイベントに誘われたのですが、本来、出不精の私は、かなわず、申し訳なかったと思っています。 この期間を通して、詩の何たるかの入り口を、自分なりに勉強できたと思っています。 その後、僕は、仕事のこと、家庭のこと等、切迫することが続き、 何度か、ペンを置くことがありましたが、今でも、なんとか詩を書こう、書きたいと 思っているのは、この「・・・・研究会」に参加した経験からだと思っています。 僕にとって、短かったが、素晴らしい時間でした。

竜野欠伸 (2017-08-19):

こんにちは。 前世と現世と後世に、詩の批評精神が伴うという 詩の批評論をエッセーとしてかみ砕いて伝えてあることが 親しみ深い言葉で描かれており、 穏やかな気持ちになりました。 今後ともよろしくお願いします。

まりも (2017-08-19):

前田ふむふむさん そうだったんですね。現在の「**研究会」は、長谷川さんと私とで司会を担当しています。渡さんも、時々参加してくださいますね、長尾さんは常連ベテランメンバーです。私は前田さんの後に参加したので、お目にかかる機会はありませんでしたが・・・。私の指針、これは批評に関することだけではなく、詩を書いていく時の指針でもあります。お読みいただき、想い出をお知らせいただき、ありがとうございました。 竜野欠伸さん はい、あえて「エッセイ」を投稿してしまいました・・・。分量的に、詩誌4ページくらいの分量が、この掲示板ではこのくらいの量になる、というモデルケースとしても見て頂けるかと思います。詩論や批評論を書こうとすると、どうしても肩に力が入ってしまうのですが、「エッセイ」として書くと、意外にすうっと楽に書けるようにも思います。ありがとうございました。

花緒 (2017-09-02):

文章として上手いし、詩を読むということが如何なることであるべきか叙述されているという意味では、一種の詩論というか、<批評>論として成立していると思う。他方、やや意地悪な目線を適用するならば、Iさんという、いわば<優しいグル>のような存在を借りて、如何に詩の読解があるべきか述べる本作は、尊敬すべき権威=グルの考えのもと詩を読むということを述べており、何か奔放な感覚が今一歩伝わってこないけれど、現代詩というものが一種の前衛表現であるならば、それで良いのだろうか、ということも思わないではない。グルを否定したり、グルの範囲を逸脱することから、表現が始まるのではないかと。と、かなり意味不明な角度から茶々入れ的批評つけるくらいしか私の能では叶わない完成度の高い一作。勉強になります。

右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-09-03):

まりもさん、こんにちは。 非常に真っ当な詩論だと思います。 修行僧のように言葉と向かい合い、人生と向かい合う方がいる。 生活の中で自己を見つめ、社会を見つめ、思索の深淵を言葉で表現する詩が書かれている。 書かれるべき内容にふさわしい語があり、より高い表現効果を目指す修辞法が探求されている。 詩には歴史があり、学ぶべき先人の軌跡がある。 当たり前のことですよね。僕は一切の当たり前のことができないままきてしまった感じがします。 自己不信、他者不信、社会不信に取り憑かれているのです。僕は自分のことは書きたくないし、自分が考えていることも書きたくありません。此処のこと、此処にあるものに対する理解も書きたくないのです。 自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています。だから僕の書くものは詩ではないと言われるのですね。 まりもさんのこの詩論を読んで、そこのところが再確認できたように思えます。

みうら (2017-09-03):

詩作品へコメントをする行為に抵抗感を持つ人は多い。と思う。当事者でなく、ある意味、傍観者であることのほうが詩作品への触れ方として、最適なのではないかと、私は、思ったりする。「この詩は良いと思う」と外へ発した瞬間に、自己にある「良いと思わないこと」を削いでいるというか。更に言えば、良いと発することによって、その詩が本来あったはずの、立ち位置を変えてしまうことにならないかと思う。北極で生まれた詩に対して「あなたはアフリカの草原に移動して下さい」というような、決めつけによる違和感を生む感じ。詩を読んだら黙って立ち去る、傍観者。デタッチメントな距離が詩を最も評価しないか?と思ったりする。 直観の人でありながら、なぜ、印象批評から一番遠い場所から始めるのか。それは、先に申し上げた、詩作品が孕む断絶の距離を自明なものとして、I さんは、詩に対して持っていらっしゃるのではなかろうか。顕微鏡で分析を加える批評とは、破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。

まりも (2017-09-20):

今更ながら、ですが・・・ 花緒さん 〈グルを否定したり、グルの範囲を逸脱することから、表現が始まるのではないか〉ガツンとくる一発、ありがとう。最近、とみに思うのです。物差しを、他者に頼り過ぎてはいないか、と。 Migikata さん 〈自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています〉平田俊子さんという詩人とお話しした折・・・自分が辿りつけそうな、そのさらに先を見てみたい、とおっしゃっていたのが、印象に残っています。映像が先に浮びますか、言葉が先に浮びますか、と問い掛けたら、どちらでもない、一本の木の中から仏像を彫り出すように、彫刻のように、言葉/イメージを掘り出すのだ、と。その、先へ、という、詩論。手ごたえのあるものを、という、詩論。 三浦果実さん あなたもまた、直感/直観の人だと、常々思います。〈破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。〉よいものを前にして、黙る他ない時の方が、人には多いのではないでしょうか。でも、じーん、と痺れている。そのしびれを味わいたくて、詩を探しているのかもしれません。


投稿作品数: 117

© B-REVIEW 2018