B-REVIEW作品投稿掲示板


音楽   

百均@B-REVIEW ON/ 
作成日時 2017-09-27
コメント日時 2017-12-22

 

いますぐしんじゃいそうな わたしのうつを 癒しておくれ ((  )) 水たまりに浮かんだ わたしのかお 君が言った ひかる、 ひかった みたいな感動 すりきずしてる そこらじゅうで 火花散らしてる ゆめの中で聞こえた音楽 あした、 きゅうすいとうに穴があいて、 せかいに虹が落ちるから、 「小さな虹がかかるかな」 じゃなくて、 もっとすごい想像 して、 みて、 よ・ ねぇ、 水びだしになったら、 引き出しを 引いて 溢れてきだしたら 両手を広げても 押さえきれなかったら そんな とうめいなもの 目にみえない まぶたで 抑えてた ためこんでた わたしの欠片が かけてしまった 記憶の隅っこに残ってる 何か。 何か みたいな傷音 うまくいえない ずっと、 スネアドラムを ゆっくりたたくよ 流れていく風景やドラマがある ただのダジャレじゃない 生真面目な韻が踏みたい 鉄琴の音 コンクリートのビル郡 スケボーで街を駆ける そして耳を澄ます うっすらあけた車窓から 聞こえてくるよ 音楽、


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みうら (2017-09-28):

なんだか、笑いながら読んでしまった。失礼。素朴に当時の気持ちを詩にする。まさに詩人的な。まったく話は別だが、うちの家内は人間失格を学生時代に読んで爆笑したというのだ。あれは自虐風コメディーだと思っていたらしい。音楽は哀しく切ないものもあるが、小躍りしたくなる音楽もあるのだ。私には本作から愛と哀しみのボレロが聴こえてきた。読み手の琴線は無尽蔵にある。百均さんの想いを私が笑いとして受け取ったとして、それは、宇宙が素晴らしいという詩の証明だ。

こうだたけみ (2017-09-28):

百均さん、こちらでははじめまして。アーカイブから見るとコメント欄がスクロールできない問題が解決すると気づいたので、参加してみましたよっと。 読んでいて、「音楽」というタイトルに反して静寂、無音状態を感じました。あるいは、どこか遠くの空の下では賑やかに奏でられているのかもしれないという感じ。 それと、ダジャレ好きでときどき韻まで踏んでしまう人間といたしましては、不真面目でどうもすみませんという気持ちです。笑。

survof (2017-09-28):

キュレーターさんの作品だけにどう読んでいいのか悩んでしまう部分があります。冒頭の「いますぐしんじゃいそうな/わたしのうつを/癒しておくれ」からしてかなりのインパクトで、こういう表現をあえて確信犯的に使うことで、難しい言葉や隠喩を使いたがる「お偉い」感受性を逆に揶揄していると取るべきなのか、あるいは揶揄というより三浦さんがコメントしておられるように単に自虐風コメディーとして読むべきなのか、あるいはものすごいメタな構造が仕掛けられていて、よっぽどの予備知識がないと掴めないなにかがあるのか、あるいは普通に素直に読むべきなのか...。全体的にもゆるっとしていて全然締まりが感じや、言葉のリズム感がグダグダな感じなど、自分としては自虐風コメディーとして読んでみたいところなんですが、だとしたら少し物足りないです。笑いのツボが少しずれていたというだけなのかもしれません。個人的にはこういう「ポエムな」言葉選びは決して嫌いではないので、もう少し引き締まった形でまとまっていれば、普通に素直に読んで楽しめたかもしれません。すべては好みの問題なのかもしれませんね。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-12-17):

三浦果実さん こうだたけみさん survof  ずっと返信考えていたのですが、やっぱり答えでないですね。三人から頂いた言葉ずっと僕の中の宿題です。今思うと、これは朗読と書き物の中間くらいのイメージで書いていました。多分このテキストは僕が声に出して読むべきのものであるし、そういった文脈が必要なのかなと思いました。ただ、思ったはいいのですが、最近舞台に立つまで確かな事も言えませんでした。最近思うのは僕に取っての詩はやはり音楽に近いという事です。言葉なのですが、言葉じゃ無い物それは音楽の音が日常に溢れていない事と同義であると思いました。そこに何かあるのではないかと信仰してしまっているのかな。この作品はその途上にあるような気がしました。  これから僕は生きるたびに色々な文脈を身につけながら、それらをそぎ落としながら、それでもまた身に付けなたら最後はシンプルな比喩に連なる何かを手に入れたいと思っているのかなぁとは思っていますが、回答は見えません。かなり遅くなってしまったのですが、多分答えられる時が来たら作品やレスで徐々に還元させて頂く事になると思います。  素敵なレスをありがとうございました。

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-12-19):

数ヶ月前の作品で、既に作者からのコメントもあるところに、コメントして良いのか、迷ったのですが、私もこの詩を拝読して、他のコメントされた方とは、たぶん少し違う感覚から思うところがありました。お邪魔でしたら申し訳ありません。 今、旧暦(太陰暦)生活を勧める本を読んでいるのですが、その中に、我々の体は7割がたも水でできている、という指摘があります。 月はあの大きな海すら変形させる。で、あれば人間の体の水分も引っ張って、影響を与えるのではないか。と、いう指摘で、私はなるほどと思いました。 それを思い出しつつ、音楽も、我々が水でできていることと深く繋がるものがあるかもしれないなあ、と、この詩を読んで私は感じました。 波紋のような図を鉤括弧で示し、少しづつ、水を語ってゆく。音楽も波紋であることが、腑に落ちました。 また、給水塔の穴からの小さな虹と水を視覚や触覚に感じ、それが展開して、無限定の巨大な水への感覚を呼び起こされます。 僕は、この詩はイイなあ、と思いました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-12-22):

蛾兆ボルカさん レスありがとうございます。 多分、B-REVIEWの影響とか色々水に纏わる話を沢山聞く影響が大きいのかなと思うのですが、水のモチーフは本当に色々な所に出てくる一方、なんで水をここまで使うのかみたいな事をよく考えます。その中で、色々な物にもまれながらこの詩を書いたと思うのですが、僕は物を書く時に多分そこに描くモチーフをメタ化したい欲求があるのではないかと蛾兆さんのレスを読んで思いました。 >波紋のような図を鉤括弧で示し、少しづつ、水を語ってゆく。音楽も波紋であることが、腑に落ちました。 また、給水塔の穴からの小さな虹と水を視覚や触覚に感じ、それが展開して、無限定の巨大な水への感覚を呼び起こされます。 なんで括弧書きを頭に置いたのか、給水塔のイメージを持ちだして、音楽というタイトルを付けたのか、虹を出したのか、自分で気がついていない所を気づかされました。前に、kaz.さんから、誰かの書物を通じて「水という思想」という言葉をもらったのですが、僕なりの回答がこれなのかなぁと思いました。


一歩前へ(未完)   

クヮン・アイ・ユウ 
作成日時 2017-09-09
コメント日時 2017-11-18

 

昨夜はたくさん笑ってた 少し過剰なくらいに 信号機の点滅 今朝は一歩も二歩も前に出て あれは よかった あの時思い直して、ちゃんと抱きしめてから家を出て シークレット、シークレット 誰にも見つからないよう この世界に隠れよう シークレット、シークレット 誰にも見つからないよう かすかな音で、涙を流すんだよ? 誰のことも悲しませないよう そう言って隠れる君のシークレット それが世界のシークレット 一番大切なものは、 目には見えないように出来ているから、 そう書いて、 「使い古された言葉」と人が嗤っても、 書くことを選んだ君のシークレット 信号機の点滅 今朝は一歩も二歩も前に出て あれは、間違えようもなく


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花緒 (2017-09-10):

ループ返詩風コメント 上手いなと思う一方で、何が書いてあるのかよくわからない。と書きかけて、そうかいシークレットかい、と気づかされる。巧みである。結局、大して何も書いてないのでは、と書きかけて、そうかい未完かい、と気づかされる。巧みである。が、巧みなのであるが、では、すごく面白いのか?と読後、自分に問いかけると、まあそれなり、というのが正直な感想かとも思う。でも、小品として上手いなと思う。巧みである。

みうら (2017-09-11):

おおおっと、思った。ユウ作品の中でも、なんか、違う気がした。「シークレット」の繰り返しがリーディング者としての作風だと思わせるけれども、なんか、今回は違う気がする。まったく話しは逸れるが、この印象論で終始しても許される掲示板なところが嬉しい。そうそう、なんでもコメントして良いのだよ。整理整頓されたロジックが多くの人に伝わるわけでもないよ。詩壇(?)の優秀な人のコメントが素晴らしいとも限らないよ。いや、詩壇の優秀な人は未だ現れていないのだろうけれども。 話しを作品に戻すと、本作はヒエラルキー化した世界への反骨がテーマなんだと思うけれども、本当に言いたいこと、詩にしたいことは隠さないといけないんだよなあって、思った。なるほど。うん。うん。

まりも (2017-09-12):

あまり深刻さは感じられないけれども・・・たとえば、今日、僕が死んでしまったら。たとえば、今日、君が死んでしまったら。そんな思考実験をしている印象を受ける作品でした。 毒蛇にかかとを咬ませて、砂漠の中に消えていく星の王子様。彼は、おそらく生まれ故郷に帰ったのだろう・・・と読者に思わせつつ、死によって、永遠に地上では巡り合えない存在となったことも暗示される。その彼が残した言葉。 ネット上で、姿を消してしまう人のことを考えました。それもまた、ひとつの死、であることには変わりない。しかし、あえて「未完」と書くのって(^_^;)

クヮン・アイ・ユウ (2017-09-14):

花緒さん こんばんは。 いつもコメントをくださり、ありがとうございます。 おもしろい形式のコメントで楽しく読ませていただきました。 「巧み」と言っていただき嬉しかったです。 すごく面白かったかどうかという観点は忘れないようにしたいなと思いました。 ありがとうございます。

クヮン・アイ・ユウ (2017-09-14):

三浦さん こんばんは。 コメントをくださりありがとうございます。 「ヒエラルキー化した世界への反骨」、そのように伝わっていたのだなぁと楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。 いつもとなんか違うという感覚的な感想を伝えていただけるということ、僕はありがたいなぁと思います。 あさ、ちゃんと仕事には行くんですけど、 交差点で、 ちょっと死にたくなることがありました。

クヮン・アイ・ユウ (2017-09-14):

まりもさん こんばんは。コメントをくださり、ありがとうございます。 一般的に、タイトルに(未完)と書くことは読者様にただひとつの唯一の解釈を強いることになるでしょうか?それであれば、僕はやはり配慮不足だったなぁと、あるいは頑固だったなぁと考えております。 コメントのおかげで考えられました。いつも本当にありがとうございます。 朝、ちゃんと準備をして、死にたくてもちゃんと準備をして、それで「いや、結局ちゃんと行くんですよ?ちゃんと行きますから」と心で唱えて自らに言いつつ、家を出て、それでも無意識にからだを預けてしまおうとした瞬間があって、そのことを振り返っておりました。

まりも (2017-09-15):

やっぱり、今、ここで死んだら、死ねたら・・・の思いでもあったんですね。 スポンジのことを、よく考えます。ぎゅうっと絞られるような、感動から遠ざかっていると、含んでいる水が淀んでくる、腐ってくる。でも、無理矢理絞ると、その場に溜まっている汚れ水を吸い込んでしまう。 ぎゅうっと、なる体験。心地よいときもあれば、身をちぎられるように辛かったりしんどかったりするときもあるだろうけれど・・・その体験を経たあとに、吸い込んだ水によって、なにかが変わるように思うんです。その、体験を与えてくれるような詩(詩情、私的世界)や、吸い込むとなにかが変わるような、そんな水をたっぷり湛えている詩に、出会いたいなぁ、と、いつも思っています。 一歩前へ、で、すっからかんになるまでの強さではありませんが、きゅっと、よごれた水がポタポタ垂れるくらいの強さで、絞られた気がします。

クヮン・アイ・ユウ (2017-11-18):

まりもさん お返事遅くなってすみません。 コメントありがとうございます。 スポンジについてこんなに考えたことは初めてです。 「あーもしかしてこれが詩を書くということに関係する思考方法なのかも知れない。」と、今になってわかるような感覚があります。ありがとうございます。とても勉強になります。 きっといい詩を書きます。 精進します。


夜に狭い部屋の中で   

ゆあさ 
作成日時 2017-09-18
コメント日時 2017-11-06

 

夜に狭い部屋の中で座ってじっとしていると何も聞こえない 何も聞こえない遠くから やがて水の湧く音がしてくる みずのわく みずの ゆるゆるゆる とぽとぽとぽ ぽきゅん? ぽきゅん? 湧く音がしてくる 聞こえる 聞こえない‬ 目を覚ます。 静かに湧き出でる。水が部屋で満たされる。部屋が水で満たされる 指先からかえるになれ かえるになれ さかなになれ 膨張した 青い粘膜 むらさきの ちがうみどりの うすい緑の柔らかい膣 違う 毛細血管 毛細血管? 毛細血管 先細る糸 血の伝う 先 指 指先 指先から爪はがせ、骨は薄茶色、ぴろりと細く 抜き出せ血管 細い、細いね、揺れる 目の前で、ふりこ、おもりは ない とおくとおく 見えない目で見上げるとしてんがある、ふりこはゆれる、血管でできた振り子! 喜ぶ ちゅるちゅる水は流れてきて 満たし 満たせ 渦を巻くこの部屋 シンバルが煽って昇りつめ くだれ! 頭からざぶんと水を浴びる 水が今満たされる(なかで)(どこのなかで?)(わたしの中で)(部屋の中で)(なかで)(なかで)(どこで?)(なかで)(とにかくなかで)(なかで)(なかで)(なか)(なか)(な)(な)( )( ) …… 新月がようやく上がった 途端にどこか遠くから さっき水が来たほうから りゅりりゅり りゅりりゅり 光が 光が つきのひかりが ふねが ちいさなふねが 静かに静かに顔を上げると そこは再び小さな部屋で もはや水など何処にもなく 手のひらを開けたり閉じたり して 私は正常な身体を取り戻した ぬっぺりと青い 青いなにか なにか冷たさが 冷たさが 伝わってくる 皮膚から ひふから 目が醒めて 水は青く新月は昇り 正常な これが正常な夜だ これが正常なわたしだ これが正常な 正常な窓の外 黒々と明るく 青い化け物が 夜が夜がこちらを覗いている


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みうら (2017-09-20):

「新月がようやく上がった 途端にどこか遠くから~」のところが好きだ。私は月の周期を気にするほうで、何かを始めるなら、新月と決めている。また、満月には気を付けている。正気を失いそうな場や人へは近づかないようにしている。何かそれを思い出した。

まりも (2017-09-21):

ひたひたと押し寄せて来る気配・・・部屋が水で満たされる、のはともかく、〈水が部屋で満たされる〉言葉が先に生まれたのか、感覚が先に生まれたのか・・・ここで肌が感じている質感は、部屋が感じる質感でもあり・・・部屋は個体の境界、cell(細胞壁)の感じる境界を暗示するものでもある、のでしょう。胎内回帰願望、そこで人ならぬもの、にまで還元され、そこからまた新しく生まれ出る肉体を幻視(幻覚)しているのでしょうか。言葉の陶酔的な連なりが印象に残る作品でした。

ゆあさゆあさ (2017-11-06):

三浦さん、まりもさん、コメントありがとうございます。長いこと気付かなくて返信せずにいてすみません。部屋が細胞だというのは書いてて気付かなかったので新鮮に感じました。人になれない人未満のものを最近自覚しながら書いています。それから、この詩は目が頑張って書きました。読んでくださってありがとうございます。


工事中   

エイクピア 
作成日時 2017-09-30
コメント日時 2017-10-26

 

習字カバンを持って 居なくなったので 私は骨折が出来ない 少女になりました 1984年の101号室に 入れられました 何でも飲んで居たのです 自分の体操着も 初恋も何でも飲んで 運動会に臨んだら ひたいに光るものがやって来て それが時計だと分かった時には 私はイタリア東部に飛ばされて居ました だから私の体は 今も工事中なのかもしれません


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花緒 (2017-10-01):

安定の2連投有難うございます。エイクピアさんの投稿があると、ああそうか、今月も終わったのかと、年末に行く年来る年みたいな感慨を覚えます。しかし、本作も面白いですね。意味不明ですが、しかし、意味不明なりに面白く読めるというか何というか。解読できそうで解読できない作品だと思います。すごいセンスをお持ちだと思いますし、エイクピアファン、じわじわと増殖中なのではないでしょうか。

右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-10-01):

エイクピアさん、こんにちは。 古き良きモダニズムの匂いがしますね。10行目からの意味の断裂が受け入れられるかどうか。ここが問題かな。「ひたいの光るもの」が「時計」という文脈は、割と容易に解釈を許すように思えるのですが、敢えて解釈しない、という道もありますね。 イタリアというのは割と南北で語られるので、東西というのはちょっと意表を突かれました。今、地図を見ましたが、北部は別として、南東部というのは、寡聞にしてイメージが湧かないのです。修行が足りないな。何の修行かわかりませんけど。

survof (2017-10-02):

意味は全然分かりませんが、ものすごく好きです。何度も読み返したくなる中毒性のある作品ですね。よく読むとシュールなのに、わざとらしさがなくて非常にコンパクトにまとまっているあたり、凄いなぁと憧れてしまいます。

渡辺八畳@祝儀敷 (2017-10-03):

なんだろうこのモヤモヤ感、癖になるなぁ 二次性徴を暗示しているのかもしれない。そう読むと「習字カバン」といったまさに小学校小学生然とした語句、また「少女」というストレートな表現と、「体操着」「ひたい」というフェティシズムにも繋がる語句、さらに「何でも飲んで」という動詞としてまた様々な連想をさせる語句々々の組み合わせ、いやぁエロスエロス。これ好きだわ

エイクピアエイクピア (2017-10-26):

花緒さんコメントを有難う御座います。ちょっと間を置き過ぎたのかも知れません。でも、似たような体験をしたような、この詩を体現した様な、よく分からない摩訶不思議な感じでした。でもそのおかげでこの詩を今客観視できるのかも知れません。意味不明、解読できそうで解読できない作品など、重く受け止めるべきで、好意的にも批評的にも受け入れられますが、内省を深めて、詩の深化が今後も図れればいいと思いました。

エイクピアエイクピア (2017-10-26):

Migikataさんコメントを有難う御座います。そうですね、10行目からの「ひたいに光るもの」「時計」、ここをどうとるか。ちょっと先ほどのレスレスと言うのか、コメントに対するコメントで、前後関係を勘違いして居ました。矢張り実体験でしたね。この詩の後に体験が来たわけではない、それははっきりさせないといけないと思いました。 イタリアは確かにそう言われれば、よく見慣れている形なので、私もそのおかしさは指摘されると直ぐ実感できます。沖縄と言ってしまうとまた混乱してしまうのかも知れませんが、イメージの発生源がちょっとシュールだったのかも知れません。実体的な事実も含めて、もうちょっと現実の真心(ましん)も考えた方がいいのかも知れません。

エイクピアエイクピア (2017-10-26):

survofさんコメントを有難う御座います。ああ、詩作冥利に尽きます。詩作した甲斐がありました。あまり現実の体験に寄りかかり過ぎてもと思って、ちょっと詩作のイメージを飛躍させました。それが吉と出るか凶と出るか、そんな感じがこの詩の眼目だったと思います。

エイクピアエイクピア (2017-10-26):

祝儀敷さんコメントを有難う御座います。「二次性徴」、保健体育ですね。中三まではあまり真剣に勉強できなかったので、確か中一で出て来て、真剣に勉強するべきだったと思いました。なぜなら高校の生物にまで、影響を与えて居る様な気がするからです、今振り返ると。「習字カバン」は何の迷いもなく取り込めました。小中と普通に必須の授業だったからでしょう。高校で選択となりましたが。エロスだけは高等な概念のような気がします。愛と言うのかキューピッドと言うのか、現実と相即させると、難解な概念だと思うのです。でも普段は簡単に処理せざるを得ない場面が多い様な気がするので、余計難解なのかも知れません。


祈った   

エイクピア 
作成日時 2017-09-30
コメント日時 2017-10-26

 

羽根が黒いので 白く塗って 家計簿で犬を殴った ロバに大量に枝を乗せても 耐えられるそんな犬を 期待していたのに 期待に応えてくれない犬がもどかしかった ラッキーな日だった ラーメンにごみが入っていたので イライラして居た日でもあった 江戸時代にもクリスマスイブを 祝う習慣はあった筈だと確信して セノビックを飲んで居れば 私が殴った犬は スパンクだと判明した 私は粛々と債務を履行して 犬の冥福を祈った


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右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-09-30):

エイクピアさん、こんにちは。 犬はいいですね。生きている犬はもちろん、死骸になった犬もいいです。 おそらくこの詩の中心は実在と言語の間に成立した「犬」です。 惜しいことに犬に体臭がありません。アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』に登場する「ソロー(悲しみ)」という犬はいつもおならをしているという設定でした。 言語は言語から離れようとすればするほど意味と物語に捕らえられますが、逆に言語の持つとされる現実への対応性を形作る、そのルールに一層忠実であることで、その拘束から逃れ得るのだと思います。

エイクピアエイクピア (2017-10-26):

Migikataさんコメントを有難う御座います。実在と言語の間に成立した「犬」ですか。スパンクと言う引用も含めて、「犬」と言う概念の難しさを思います。スパンクは虚構とは言え、実在の犬をモデルとして居るでしょうから、実在と虚構の間にもスパンクと言う、「キャラクター」が居るのだと思います。 「犬」の体臭ですか。難しいですね。ああ、アーヴィングの「ホテル・ニューハンプシャー」。読んだことありませんが、「ソロー」と言うネーミングセンスや、おならを何時もするという設定も含めて考えさせられるものがあります。 意味と物語に捕えられる「言語」。そして言語の現実対応性。そのルール。言語の拘束性から逃れ得る契機。現実への対応性は大変考えさせられますね、詩作へ資すること大だと思いました。


Sept Papillons   

まりにゃん 
作成日時 2017-09-27
コメント日時 2017-10-13

 

Αντιόχεια、 Αρκαδίαへの旅路、埋もれてゆく わたしたちの肉体を捜す、灰いろに翳った 叢雲のしたに葡萄の樹を植える 鼬のやわらかな毛皮を抱いて河をわたり そののち、崩れた墓標をみつけ ひと房の髪のたばをそなえ 静寂を装う蝶、ではなく……/おもえばいつから冬の睡りに憧れつづけてきたのだろうか、たとえば沸騰する水の、鍋や薬罐のそこからたちのぼる気泡のなかで、つかのまの、偽りの生を購おうと捥がいていた遠い日々、とすると、いかにも安易な夢想だろうか、舞いあがる硝子屑が気管を傷めつけ、水蛇の首が生えだす、水菜のそよぎ、それでは単調にすぎる、と、湿った襞に舌をはわせ、とも書かれはしまい、幾度も幾度も書かれては消されていった曖昧な光景の、夕陽に照らされた山なみが一瞬ののちに黯く沈んでいき、時計の針が震えるたびに霙や雪が降ってくる、舟唄が聴こえてきそうだ、荒れはてた田野にたち籠める水銀燈の、あるいは誘蛾燈の、さめざめとした蒼い靄にまぎれて、冬眠する虫たちの、氷結した池の底で眼球を濁らせる鯉や鮒の、声にならない声が顫動している、遙か昔に湧きだしたのらしい熔岩が、冷えてかたまってできたのだという奇巖が、あちらこちらにたっている地形を、声はさまよう、いや、聴こえるはずもない通信衛星からの遭難信号に、鯨たちはいっせいに頭を擡げる 蝶の死骸で埋めつくされたしろい部屋、で……/雪のうえにおかれた右耳に、硝子細工のように精緻で、やわらかな膚ざわりの音が訪ねてくる、まるで花器へと墜ちていった雨燕の、あわい白墨のような匂いに惑わされたかのように、さながら、口吻をのばしきった星蜂雀や蝦殻天蛾の肥った胴が、斬り棄てられた拇のようにさわさわとなりつづけているからか、泡をふき、竹箒に誘われて、苦い茎にうちつけられた海流の霊魂は、植物学のヴォカリーズを聴いている、聴いていない、逆さまにかけられた肖像画には夜の成層圏に響きわたるトロンボーンの表皮が、薄いいちまいの大きな痣のような布地になってただよっているのが描かれている、ヴィシュヌの横貌が透けて見えてくるが、裸子植物らの扇のようにひらいた葉に幾重にも隠されてしまっているので、ここからは蒼じろい光の翳となって角膜にはりついているのみである、とはいえここには空白を満たすだけの絹織もなく、縹渺と樹氷が延びひろがっていくだけなので、湿り気をおびた繊細な榠樝のはなびらの端から漏れてくる一滴の溲に溶けていく ものおもう壁に塗りこめられた蝶……/トラペジウム、方角を探りあてようとする指がきらめく鈴鏡をいじくっている、なにか、鶲乞いでもするような、抽象的な教会へと鰓の名残りの紫陽花をひらかせるものの禮拝する姿が、半透明な鶏冠のある鳴囊に鎖されている、夢の腹腔に鳥たちの残骸をつめ、アコーディオンの繊くながい頸の森に惑う伝書鳩の群れをひきずって歩く、フェルドマンの眼鏡と識って、盲の修道女などが駈けよってくる鎮痛剤はひそめいて、ときどきあなたがたが去勢するのを忘れてしまう羽蟻の城に迷いこみ、地平線に擬態した二匹のカメレオンの粘ついた舌にからめとられてしまっている、粉砂糖味の海の斜めうえをユング風の飛行船が揺蕩うのにまかせて若鷺のまぼろしの翼を捥ぐのも愉しい、飽和する獣の蛹もぶらさがり、埋められた蓮池に波紋がひろがるとしたら、漂着した空壜に白孔雀の片脚が刺さっているからだろうか、煮え湯に観念的な村落の風景が浮かびあがり、さびれた気象台に寝相の悪い観賞魚の瘦せた猩紅熱から枯れかかった瞽女が生え揃って、それを虁牛と白す 痛みに翅を顫わせる蝶、または……/裏木戸にははや糸瓜の蔓が巻きついて、黄いろい花をいくつもしがみつかせている、糸がほどけて崩れた古い本に挿まれてあった栞がわりの柊の葉に卵を産みつけたのは電話がなりつづけていたので、流星痕がほのじろい象牙質の霧笛を響かせながら、エナメル質の冷たい半月を薄衣で覆い隠すものもあれば、傍目にも陶磁器の花瓶などには季節のうつりかわりを縫いつけてあるのが見えもする、鯖雲だとか、羊雲だとか、刷毛でやわらかくおかれていったような芍薬の花の重たげなそぶりもどこか睡そうに映り、だれも裸足では沼地にはいかないし、食虫植物の鉢植が籐を編んだ麒麟か羚羊のおきものわきにひっそりとある、それらのくちびるが赤かったのか、それとも黒かったのか、薄緑いろに淡く発光していたのかどうかといったことはことのほか重要ではなかったが、ようするにアルビノ個体のまっしろな鴉の濃い桃いろに赫くふうにも見える眼をふちどる蠍のきらめきに、夜ごと失明しつつパラフィンの湖に寝転がっていたことをもいまさらかき消そうと躍起になる 黝い蝶のかたちをした痣、それから……/冷ました湯のなかでゆっくりと葉をひろげていく、ほとんど黒にちかい緑いろの瞼はアルフォンソのもの、霜にふちどられた裸の肺にひとつずつカドミウムの結晶をつめていく、大量の蘯けた海雀がおさめられた海豹の脹れた幼獣に鋸をいれ、アンモナイトの殻を掘りかえそうとしている、それは空井戸だろうか、いずれ乾燥するだろう湿地帯に朱い嘴をつきたてた浄瑠璃を歩かせている寡婦と、握りしめられたひとつの書物と叫び、または偽名を剝がし終えることもなく、書かれそうでも書かれなさそうでもない、ある曜日と曜日のあいだに沈みこんだ臓器の輪郭にだけ、踏み潰されて凍える果肉から漏れでた、日録に疵をあたえる注射針のような痰を、貯水池の畔に建つ惑星にはだれも、黄金の、そうでなければ紫いろの仮面をかぶった女が、ひとりでに鳴りはじめ、響きわたり、そしてやんでしまうらしい鼓動の、薄い皮の表面を流れおちようとする幻燈機から抛げやられた、破れた肉声、倒れる欅、崖のしたからひきあげられた頭のない強盗犯、鉄塔はあとじさり 桃の果汁に濡れる蝶、最後に……/溺れる午に異教徒が唱えるものの名を写しとったくちからは、電報にも記されてはいない亡命者たちの頭髪と虹彩のいろとがカタログからきりとられ、そのひとたちにとっての事件や楽園はバターナイフによって攪拌されてしまっている、泡だっていく脂の艶やかな瞬間にそって黒酸塊を養い、矮小な瞑想を、つまりはゆるやかな階段に付随する機関についてのやわらかで未発達な海綿体に、空虚で粗暴な知識のみによって醱酵させた骨組織を移植する不毛な手つきを難詰し、草原を駈ける謎にも視線をかぶせようとしている、たとえば瘤牛や驢馬の朽ちて砂に埋もれかかった屍骸をまたぎ、枯れ草の繁みに棄ておかれた乳呑み児にスクリーンをかけ、くりかえし放たれつづける映像のむこうからポンパドゥールの毛髪が彼らの襞の隙間から防波堤だけが延びていて、刺青を施された夢に乗りこんで、砂嘴の先端からインキを垂らしたように浮かぶいくつもの島まで、分裂していく文字を頼ってふたたびの冬眠に備える、そのどれもが裏がえされるたびにひき攣るのに堪えながら さらに涙滴のなかに隠された蝶……/消去されれば稗をまき、銀蜻蜓の光合成をうながすひとびと、たてかけられた葭簀の蔭に沈んだ北極星の肉筆にも咬みついて、硼砂の隠滅をこころみる、湿ったままの木綿の襁褓のうえでふやかされていく解剖学者の唾液のなかを泳ぐサラバンドであれば、軒さきに吊るされた脳下垂体を模写する余暇も滲ませられるだろう、どれも海鞘の殻のそとへと流れていくオパールをまねてひき離されていく、炭素繊維の樹に咲く誰のものかもわからない花、乳房でできたチェロを弾くひとの影をつまんではカンパノロジーとも讃えられ、水琴窟へと鯱の仔を探しにいく旅をへて、レポン、もしくはレゴンは幾許かの渇きにも耐え、魚卵の簇がりはポインセチアの根元から蘇り、埴破と筏葛のうわすべりに爆ぜ、半地下からのぞいて見える巨頭の窓には梵字らしき翳りもあって、無花果に曇り、波羅蜜にはしゃいで遽からしくふるまう、雛罌粟を茹で、和薄荷をあまやかし、水黽臭のする空中庭園に鵟や薑をおろし、やがて雩や旱に竽をふくひとの鼓に紐を通せば柿渋いろの夜景めぐり


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扇子 (2017-09-27):

風景として文体を見た時にとてもどれもが煌びやかで美しいと思いました。熟読したいです。

みうら (2017-09-28):

二面性、ペルソナ的なものを読んで思った。一言感想をコメントとするのは本作のボリュームからすれば、失敬ではあるけれども、巨大な映像を前に言葉が出ない感じだ。

まりも (2017-09-28):

批評ではなく感想で申し訳ないのですが、思い出したのは、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』の刊行記念イベントに訪れた時のことでした。出版社がエッセイ集、と帯文を付けようとしたのに対して、伊藤さんが、これは絶対に「詩」なのだ、と。そして、朗読するのを聞いた時、たしかにこれは詩なのだ、と実感したのでした。なぜ、ということが、未だにうまく説明できないのですが、内的な律動に添った、うねりのようなものが、詩文に現れていた、それが声にのって、こちらにまで届いた、そういうことだったのだろうと思います。 そのとき、伊藤さんが熟読していたのが「お経」でした。法華経、般若心経、その他・・・。 イヌって、一度死んだら、生き返りませんよね、と聴衆を笑わせつつ・・・木や草は違う。死んだ、と思っても、また生き返る、その不思議に惹かれている、そんなところから、命の巡りについての話に展開していったことを、鮮やかに覚えています。 なぜ、蝶ではなく、バタフライでもなく、パピヨンなのか・・・語感の持つ質感に加えて、その言葉が背後に負うイメージ、歴史性といったものからも選択されているようにも思います。続いて響く、ギリシア語の語感。その背後(借景)のようなものが捉え難い、そんなもどかしさと、明るい霧の中に迷い込むような心地よさを感じます。魂と結びつけるのはあまりにも短絡かもしれませんが、クリシェであるということを越えて、ひらひらと「中有」をさまようもののイメージ、音感、そして冒頭の立ち上がりが(いささか強引に立ち上げる)魂の遍歴、いのちのオデュッセイア、のような予感。 一連目、〈冬の睡り〉、永遠の眠り、あるいは平安を欲する魂と、〈水蛇の首〉〈水菜のそよぎ〉〈湿った襞に舌をはわせ〉・・・と言葉が連なって生みだしていく官能の予感が、〈書かれはしまい、幾度も幾度も書かれては消されていった曖昧な光景〉と否定される。あるいは記憶を辺巡る旅であるのかもしれない。言葉によって呼び出される、自身の、そして他者を経由して、体内に蓄積されていく記憶、そこから立ち上がる、曖昧な光景を、ひらひらと訪ねていく。次々に映像を結びかけては消えていく(消されていく)言葉(が立ち上げる、幻影としての存在)の間をさまよう、声。 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に現れる、ウユララの声、を、いつも心の隅に思っています。いま、二連目以降を読み進める(ともにさまよう)時間がないので、また後で読みに来ますが、そんな声そのものが像を結びかけては消えていく(消していく)詩的空間の広がりを感じています。

survof (2017-09-28):

意味は全然分かりませんでしたが、どこか音楽のようだと思いました。文体に酔わされて、良く分からないのに最後まで読んでしまいました。文章が作り出すうねりがとても気持ちよかったです。

まりも (2017-09-30):

survofさんのコメントを拝読して、いろいろ思う所がありました。 おそらく、この作品は、意味を語るものでもなく、物語を紡ごうとするものでもない。 その過程や経過を報告するものでもない。言葉が、存在を立ち上げていく、それは、いったい、どのようなことなのだろう、その問いを問わざるを得ない、魂の彷徨、その最中で出会った無数の想念を、丁寧にとらえようとしている、そんな作品であるように感じています。 初読して、オルフェウスの竪琴は、なにを呼び覚ましたのか、何を立ち上げるのか、と作者に問いたいと思いました。思いながら、何度か拝読しています。 他の方のコメントを、ぜひ読んでみたいです。

まりも (2017-10-02):

二連目、〈蝶の死骸で埋めつくされたしろい部屋、〉白の連想からつながる雪原のイメージ、蝶と耳の形の相似、声を聞くということ、魂の飛翔のイメージ・・・そこに、雨燕、星蜂雀や蝦殻天蛾といった、文字のインパクトを持った「飛翔するもの」のイメージが幾重にも重ねられて・・・『邪宗門』を読んだ時の後味と、どこか同質のものを感じたりもしたのですが・・・〈苦い茎にうちつけられた海流の霊魂〉この飛躍には、置いてきぼりを喰うような感覚もありました。全体を流れる海のようなイメージが、伏線として置かれていれば、違和感なく入って行けたのかもしれませんが。さざめく声、から〈植物学のヴォカリーズ〉へと連なる部分は、違和感なく乗っていけました。博物館のように多様な蝶や蛾のイメージがあり、続いて、多彩な植物の標本のイメージに移っていく、そんな感覚。トロンボーン、いささか唐突ですが、音質と、途切れ目なく音程が変化していく滑らかさのイメージ、布、テクスチャーのイメージ・・・薄く覆うもの、のイメージ。その向こうに透ける〈ヴィシュヌの横貌〉には驚かされましたが、ギリシアから(同じ東洋の)インドにまで想念が至った、ということでしょうか。ひとつひとつの連が、無数の絵画で壁を埋め尽くした部屋を巡っているような濃度で描き出されているように思い、その豊かさや多様性に感嘆しつつ・・・盛り込み過ぎではないか、という印象も覚えます。 毎日一連ずつ読んで、一週間かけて読むことにしましょう。

まりも (2017-10-07):

何度か拝読しているのですが連が進んで行けば行くほど、イメージの森に迷い込んでいくような酩酊感、ある種の麻痺のような感覚にとらわれますね・・・18世紀グランドツアー時代の貴族の館、床から天井まで、びっしりと絵や剥製などが飾ってある、ひんやりと空気が溜まって、薄暗い空間に日が細く帯状に差している・・・そんないくつもの部屋を彷徨っているような感覚、と言えば伝わるでしょうか。 死骸となった蝶、壁に塗りこめられ、あるいは痣として肌に痕跡を残して浮かび上がり、桃のエロス、涙の中に現れては消える蝶・・・一連一連に盛り込まれたイメージの重量を思いながら、少し全体として、盛り込み過ぎなのかもしれない、そんな印象も覚えました。 一連、一連を独立させて、ある種の物語とか、詩の空間(七つの連作)として展開する、という、そんな試みがなされたら、どんなことになるだろう、読んでみたい、と思いました。

白島真白島真 (2017-10-12):

何とも上質、緻密なタペストリーのような言葉の洪水! 味わうに足る散文詩とはこういうものではないかと感動しております。 私は面倒臭がり屋なので、通常判読不明や意味不明の単語は検索しませんが、 この詩においては一語も洩らすまいと、検索数は20を超えたでしょうか。 それは「意味」を取りたいというより、言葉の輪郭をはっきりさせ、この詩を味わってみたかったからです。 冒頭「Αντιόχεια」(アンティオキア)、「Αρκαδία」(アルカディア)でいきなり聖書的な神話世界を髣髴とさせられます。 アルカディア(理想郷)と言えば、何故か郷原宏のH氏賞受賞作「カナンまで」(約束の地)を連想してしまって「我もまたアルカディアにありき」の詩篇か詩句がこの詩集にあったと紐解いて見れば、全くの思い違い。ただ、手帖あたりに郷原のそんな受賞後の一文があったのかも知れず、 折角、本の山から郷原の詩集(現代詩文庫)を取り出したのだから、詩句を引く。 蝶 そのあくまでも蒼い飛翔の伝説 きみは鯛とも鰡ともつかぬ 怪魚のまなざしで世界を視る              郷原宏詩集『カナンまで』より「蝶のゆくえ」 偶然とは言え、まさにこの散文詩は「怪魚のまなざし」であって、 冒頭七変化する「蝶」の舞は、一つひとつがタイトルのように緻密に構成された章とも読める。プロローグを除いて7連という「7」の数字も意図的ではないか。 しかも全体の表題が「Sept Papillons」。「Sept」は「September」(9月)であり、「氏族」でもあるので、制作月(投稿月)と同時に、蝶の氏族の意も込められているのだろう。 怪魚のまなざしは、オリオンの散開星団を描き、ヒンドゥー教の神、アルビノ個体、そしてバリ島の女性舞踏、黛敏郎《涅槃交響曲》を自在に描いていく。ここまでくれば、その詩の筆致、音楽的なマニアックまでの造詣の深さから、詩集を愛読してる者としては、ああ、あの方かと思わざるを得ない。 この著者の詩篇は、無意識の領分で開花していく歌の花である。 意味を追っても仕方がなく、ただただ、瞑目して己の無意識にじわじわ広がっていく詩情を感じとればよい。言語が感覚的に眩めくような発光を遂げているので、それをただ感じ取るのみである。欲を言えば「蝶」の4連「電話がなりつづけていたので」だけはあまりに現実臭があり過ぎ、やや夢から覚めてしまうような違和があったが、それも著者の計算のうちなのかも知れない。 新しい現代詩の可能性、それは無意識の領分に食い込んでくる詩句の連なりの発露であり、 ワディ(涸れ谷)に再び自由な水を蘇えさせる作業に違いない。

まりも (2017-10-12):

白島さんの鑑賞に、また新たな発見を得つつ。・・・Septは、フランス語の7、と思っていたのですが、9月と掛けているのかもしれないですね!? ・・・とにかく、分厚いというのか、層の厚い作品ですよね。一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう、わけですが。

白島真白島真 (2017-10-12):

まりもさんへ Septだけど、これはまりもさんのおっしゃるように、フランス語の「7」つのだね。 私の間違いでしたので、訂正させていただきます。 蝶の氏族!カッコよかったんだけどなー(笑 英語の「sept」なら、私の言った通りなんだけど、これはフランス語だから 深読みに過ぎました。

白島真白島真 (2017-10-12):

補足: 無意識の領分ということについて、考えていたことをもう少し補足してみます。 例えば音楽を聴き、それに感応することは無意識の領分である。 余程の専門家でない限り、難しい理論書や解説書を読んで、「この形式がソナタ形式で、A、B、Д`、Aのリピート構成で、主題が云々)と言葉で感応するわけではない。 つまり、この散文詩は多分に音楽的であるということなのだが、 それは、朗読的に韻やリズムが心地良いという意味合いとは少し違う。 (勿論、心地良いのですが) 通常、音楽や詩の朗読は「耳」という器官を使い味わうわけだが、 この詩の味わいは耳を通さず、極端に言えば「言語」の持つ意味さえ通さない。 集中、「ユング風の飛行船」という言葉があるが、これが何を意味するかはよく分からない。しかし、偶然にせよこの散文詩を読んでいるとユングの唱えた集合的無意識の存在ということが妙に私自身の中でリアリティーをもってそそり立ってくるのである。 詩行の連なりが、私の無意識の中の原風景(言葉以前のイメージだろう)と一体化し、詩の中に私を没入させていく。そういう意味での音楽なのだ。 それは有能な指揮者が楽譜を読み取ることで、音楽をイメージする行為や 盲目な方々が点字を指という皮膚感覚を通して理解し、詩や文章を味あう行為に近いかも知れない。 言葉という意味性そのものを主要な媒介としないのだ。 勿論、これは言葉を用いて書かれた散文詩であるから、「あああ、いいいい」では このようなイメージの獲得はできないが、言葉で書かれながら、すぐさまその意味性を消滅させ、潜在意識に確たる音楽的なイメージを残す、これがこの著者の優れた散文詩的技法ではないか、そんなことを思わせてくれた。

まりにゃんまりにゃん (2017-10-12):

 テクストについてはテクスト自体が語るだけの説得力を持たなければ意味がない、という立場なので、解題することは避けてきましたが、いくつか種明かしをしておきますと、タイトルはカイヤ・サーリアホというフィンランド出身の作曲家が書いたチェロ独奏のための組曲に基づきます。短い7つの楽章からなる作品です。蝶の、いっけん無思索とも至極自由だともおもわれる飛行曲線を辿るようなチェロの旋律(といって現代曲はみなそのようにおぼつかない歌えないメロディーばかりですが)が印象的な楽曲で、けれども蝶の飛び方はさまざまな条件に左右されてもいます。空気の流れや敵の有無、花のありかや他の個体がどこにいるか、であるとか。イメージが定着されるよりまえに容易にひるがえってまったく別のそれへと反転しつづけてしまうような光景、それを目指したといえばそうですし、そもそもわたしがなにかを書くときには、それが散文ではない限り、あるひとつのイメージにこだわる、描出したり、その主題をもとに感情を吐露させたり、ということはほとんどしません。詩は散文とは違って、絵画や音楽のようにして読むものであって、読解するものではない、と考えます。もはや詩は喩ではない。  さらに、わたしが育った環境は、文学とも音楽ともまったく無縁でしたが、わたしはそれを深く愛しています。「一般読者」という、架空の、存在しない多数の読者に届くかどうか、という発想は現実的ではない、と考えています。というのは、現代音楽も、あるいは「現代」とつくジャンルがみなそうですが、一見、とっつきにくそうな雰囲気ではあっても、しっかりそれとむきあえば、その味も感じとることは可能ですし、多数の読者にとって理解しやすいかどうか、に重点をおいてしまっては、表現に足枷を課すことになってしまいます。詩は読解するものではない、と書いておきながら矛盾するようですが、読解不可能、ということはありえない。たとえひとりだけであったとしても、その作品を味わい、または理解し、共鳴してくれるひとはいるはずです。それが「いつ」か、「どこ」かはたいせつではない。詩は、多くの読書家にとっても「難解だ」とおもわれてしまっているようですが、ほんとうにそうでしょうか。いつかそれぞれの読み手にとって、いってみればピンとくるような状況も訪れるのではないでしょうか。おなじように、多くの詩の読者にとって「難解」なものでも、もしかしたらそうではないことも起こりうるかもしれません。その可能性を棄却してはいけない、そう考えます。

まりも (2017-10-13):

貴重なコメント、ありがとうございました。〈イメージが定着されるよりまえに容易にひるがえってまったく別のそれへと反転しつづけてしまうような光景〉イメージが呼び出されては消えていくような作品全体の情景が、すうっと腑に落ちるような気がしました。survofさんなどの鑑賞にも、音楽が響いていますね。 〈それが散文ではない限り、あるひとつのイメージにこだわる、描出したり、その主題をもとに感情を吐露させたり、ということはほとんどしません。詩は散文とは違って、絵画や音楽のようにして読むものであって、読解するものではない、と考えます。もはや詩は喩ではない。〉この部分も、詩論、詩観と申し上げてもよいでしょうか。 私は、絵画でいえば具象画(あるいは心象風景画)を目指したいと思う側であり、詩とは喩を用いて、その折々の(自身の、あるいは、語り手として設定した主人公の)感情を吐露したり、思索を展開させたりするもの、というスタンスなので、非常に新鮮な思いで拝読しました。(もちろん、それは私個人のものであって、様々なスタンスがあること、その多様性を大切にしたいと思っています) 〈「一般読者」という、架空の、存在しない多数の読者に届くかどうか、という発想は現実的ではない、と考えています。〉おっしゃる通りです。架空の集団を意識して、忖度して、自身に制限をかけて、果たして、自由な創作が可能か?ということは、常に考えます。その時代の多数の「一般読者」には「難解」であるとか、「実験性が強い」として受け入れられなかった美が、実は次世代の美を予見したり、予兆となっていたりする。その予兆こそが、先んじて次代の美を牽引したりする。(もちろん、その美を生み出そうとする人、は、牽引しようなどという意識は微塵も持っていなかった、としても。) 〈現代音楽も、あるいは「現代」とつくジャンルがみなそうですが、一見、とっつきにくそうな雰囲気ではあっても、しっかりそれとむきあえば、その味も感じとることは可能〉そこに、恐らく「批評」の介在する意味がある、と思うのですが、果たして、私が行おうとしていることが、その介在になっているかどうか。目指していたとしても。その問いは、常に自身に投げかけています。 抽象絵画が置かれていて、大多数の鑑賞者が、「なんだかわけわからない」と素通りしたとして・・・その中に、絵画の色彩やマチエール、蠢いているイメージのようなもの、に激しく心を揺さぶられる人、がいた、ならば。そして、その人が、自身の感動を、その場にいる人たちに「わかる言葉」で、うまく伝えることができた、ならば。 今まで、それを「美」として認識できていなかった、そのような扉を開けていなかった人たち、そのようなアンテナのスイッチを入れていなかった人たちに、扉を開けたり、スイッチを入れたりする、きっかけを提供する、ことになるのではないか。〈いつかそれぞれの読み手にとって、いってみればピンとくるような状況〉が、自然に訪れるのを待つ、ばかりではなく、批評や感想によって、その状況が訪れやすくする、そんなきっかけを、用意することになる、のではないか。 私がコメント欄に書いた、〈一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう〉という言葉は、そうした意味合いも含んでいます。自戒を込めて、ということですね。言葉の連鎖の中から、人はどうしても「意味」を見出そうとしてしまう。ならば、いっそ、独自の物語を、それぞれが紡ぎ出していってもいい。抽象絵画の中から、様々な物語をひろいあげ、作者も気づかなかったような、多様な「具体的な」物語を、創り上げていってもいい・・・そんなことも、考えます。 陶酔感がある、イメージのゆらぎの中に導き入れられるような気がする・・・こんな印象批評で、どれだけ「伝わる」んだ、と思ったり唸ったり、するわけですが・・・白島さん始め、複数の方が独自の「読解」を提供してくださっていますね。こうして、様々な人の心に、様々な形で響いたものを、それぞれが言葉にしていく試みの場である・・・そんな掲示板を目指したいと思っています。


いいこ   

弓巠 
作成日時 2017-09-21
コメント日時 2017-10-11

 

君の体に数字を流しこんでいく 何よりも 悲しい数字を 君は眠い、見えてなどいない けれど頷いて、頷いて ゴクゴクと飲んでいく ここではないどこかを考えながら、流しこんでいく 数字は豊かだった たくさんの花が根を生やして たくさんの毒をあずけていて けれど数字は浮き上った ゴクゴクと喉を鳴らして 君はいいひとなんだよ、いいひとなんだよ そう口ずさみながら 亡くしたものだけが美しく見えたりも した 数字は何も教えなかった だけど君は飲み続けた これからも 何年も、何十年も バラバラになったとしても 口から溢れた数字が唇を潤ませた 泡が何度も君を開いて 落ちていった 大丈夫、大丈夫だよと、言って そのためにどこまでも不安だった いつか 数字に触れる手が 樹々の透明になるといい 君が覚めて、眠るままに 飲んだ数字は空に帰って 僕は笑わせられてしまって 君が声を出さないように……


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まりも (2017-09-24):

こんな良い作品に、なぜ、コメントがついていない! まず、いいこ、という題名。あなたは「いいこ」ね、と誘導されていく。あるいは、「いいこ」でいれば愛してもらえる。周囲に馴染める。そんな「いいこ」になろう、「いいこ」でいよう、という意志と、その意志に抗う感情の葛藤を予感させる題名でした。 裏切らない冒頭一行目。驚きがあります。 飲み込んでいく数字とは、なにか。点数?偏差値?ポイント?感情を数値に換算していくような不気味さ。 〈たくさんの花が根を生やして たくさんの毒をあずけていて けれど数字は浮き上った〉その数字が、体内に流れ込んできたあとに芽吹く不気味さ・・・。その不気味さを実感している語り手。〈亡くしたものだけが美しく見えたりも/した〉無くしたもの、ではない。もっと強い言葉。永遠に不在とさせられたもの、愛する者を失う、その喪失感に匹敵する「亡くした」。 僕、と、君、との関係性が曖昧ですが・・・僕、がもう一人の僕(君)に「数字」を飲ませる、口から泡を吹くように吐き戻されているのにも関わらず、それでもなお、毒となって花開く数字、を、飲ませ続ける・・・僕。 僕、と男性のイメージで語られているけれども、御受験期の(父性的な権力を持った)母と、その息子、娘、との関係性。 企業であれば、ノルマ、という数字に人間性を蝕まれていく同僚や部下と、それを強いる自分、である僕。 最後の〈数字に触れる手が/樹々の透明になるといい〉ここに、浄化への切ない願いが、美しく歌われていると思いました。

前田ふむふむ前田ふむふむ (2017-09-24):

こんにちは。弓巠さん 僕は、とても、怖い詩であると思いました。 そういう意味で、とても新鮮です。 語り手の主体が「僕」であるとして、読んでいくと、 「悲しい数字」は、数字の持つ不条理を言っているのでしょうか。 「数字は豊かだった たくさんの花が根を生やして たくさんの毒をあずけていて」 数字で表れるものに対して、否定的ではなく、 善悪両義的であるといっていますね。人間社会において、数字で表せる数量はそういう面を持っているのは、確かですから、それを語っているのでしょうか。 数字を、いいこ、だといいながら、君に、強制的に飲ませていく、 口から溢れるくらい何十年も飲ませ続けるわけですから、 壮絶な現代社会の現状の比喩だとおもいました。 数字で溢れる現代社会は、留まることはないのだから、 「大丈夫、大丈夫だよと、言って そのためにどこまでも不安だった」 のでしょうか。とても、実存的ですね。 最終連は、 「いつか 数字に触れる手が 樹々の透明になるといい 君が覚めて、眠るままに」は 語り手、僕が言っているのであつて、 君が感じている感慨ではないように思われます。 語り手「僕」が、持つ、あきらめにも似た、数字に関わる諸々の行為から、 解放されたい願望にも見えますし、 直接的に読めば、「僕」の「君」に対する、競争社会のなかでの、どろどろした悪意のようなものが伺えます。 語り手の悪意で、「透明になること」を望めないのも関わらず、そういい放つ、社会のエゴを、代弁して、「僕」が言っているように思えるからです。 最後の「君が声を出さないように」というところが、何も文句は言わせないというような、 怖い表現だと思いました。 まりもさんも言っているように、 従順な君=よいこ、に対して父権的なもの、強者、権力側の立ち位置で、「僕」は、 数字の比喩で、従属させているように思います。 この詩は、数字というものに、囲まれて、GDPが代表するような数量で価値を考えている現代社会への痛烈な風刺であると 読むことができると思いました。

徐々にでいいから徐々にでいいから (2017-09-25):

面白いです。数字を体に流し込んでいく。ごくごく飲んでしまう。 ユニークだなと思う反面、人はみな、数字を飲んでいるのかもな、と真剣に考えを巡らしてしまう、実感が伝わる詩に感じました。リアルな詩に感じるのは何故か。もっと考えたくなりました!

mumu (2017-09-25):

はじめまして。大変美しく、また、悲しい詩だと思います。素晴らしいです。 私自身の好みとしては、「数字」がもっと抽象度を増し、育つもの、根を張り、水を汲み上げ幹を伸ばし、降り注ぎ、「僕」の頭上を覆い尽くすものとして、動き回っていてほしい、循環を繰り返していてほしい、と、思ったりもしました。でも、そうすると、この詩のうちに流れる静謐さが失われてしまうのかもしれません。 それにしても、この「飲まされる数字」という言葉は、イマジネーションを掻き立てます。 「ゴクゴクと飲んでいく」という表現はどことなく、ツェランの死のフーガを連想させますし…震災のことなのでは?とか、戦争と虐殺のことなのでは?とか、年齢という歳月を積み上げることの空虚感なのでは?とか、いろいろ……。 と、いうか、最初「悲しい数字」という言葉を読んだときに、思い起こされるものは、私には一つしかありませんでした。それから、批評を読み、詩を読み返し、別の読み方を探してみましたが、どうも、私には、はじめに受けた印象から逃れられませんでした。 震度XX、死者数XX、負傷者数XX、上空XXを通過、半径XXキロに渡って壊滅的打撃、あれからXX年、など…。私たちは、とらえ難いもの、咀嚼し難いものを、数字で無理矢理のみこもうとします。というか、否が応でものまされます。 「数字は何も教えなかった/だけど君は飲み続けた」 死者が数字に置き換えられたとき、それはもはや人間ではない。どんな家に住み、どんな暮らしを営んでいたか、誰を愛し、家族は何人いたのか、庭でラヴェンダーを育てていたのか、それとも、ベッド脇に服を吊している貸家だったのか、誰も気に留めなくなる…彼らは、無機質で事務的なただの数字になる。 というような言葉を思い出しました。(出典は分かりません。正確でもありません。誰かの名言なのか、小説で読んだのか、映画のセリフなのか…とにかく、このような意味の言葉です。)そしてそれは、恐ろしいくらい真実です。 そんな仕方でしか悲しみを飲み下す術を持たない私たちは、それ故に、「君はいいひとなんだよ、いいひとなんだよ」と、「大丈夫、大丈夫だよ」と、口ずさんでいなければならないのかもしれません。「亡くしたものだけが美しくみえたりも/した」のだとしても……。 死者に向けられた言葉は、同時に私たち自身に向けられたものでもあります。 「僕」と「君」の境界が曖昧なのもそのせいなのかもしれません。 人様の詩に批評などするのは初めてなので、ちゃんと批評出来ているのか、自分の解釈を書き連ねているだけではないのか?そもそも、見当違いの読み方をしているのではないかと、甚だ心許ないですが、素人だと思ってどうぞご容赦下さい。 もちろん、詩はなぞなぞではないので、正解も不正解もないことはわかっていますが……。 私には、そんなふうに読めました。(批評というものは、作品に踏み込む行為では無く、こちら側に引き寄せる行為なのですね。とかく私の場合は……。なので、ここで書かれている事は、詩作品そのものとは別の次元で機能しています。一種のオマージュというか…コラージュというか…) 失礼ついでにひとつだけ。最終連の、「大丈夫、大丈夫だよと、言って/そのためにどこまでも不安だった」から、「いつか」への繋がりが唐突で、少し解決を急ぎ過ぎているように感じました。いっそ、宙に浮かせたままでもいいな、と……。けれど、その後に続く「いつか/数字に触れる手が/樹々の透明になるといい」という詩連は、作中、最も音楽的な美しさを有しているので、切り捨てるのは間違いでしょう。「いつか」へと続く適切な詩行があればいいのですが…野暮ったくならない程度に…難しいですね…。始めにも書きましたように、この詩の持つ美しさは、言葉数を切り詰めたことによって生まれる、張り詰めた静謐さだと思いますので、それを損なうことだけは、何としても避けた方がよろしいかと……。それに、あまり筋道立てると、「数字」という言葉の抽象性によって引き出されるイメージの多様性も失われるでしょうし……。そう思うと、手を加える必要などないのかもしれません。 物理学では、数式で万物を言い表すことができるそうです。そうして、数字に捕らわれた天才物理学者は、周りの景色が数字に見えはじめ、ミイラ取りがなんとやらで、精神の均整を保てなくなった者も少なくないと言います。 あながち、数字というのは隠喩とは言い切れないのかもしれませんね。数字は私たちの周りで蠢き、そっと息を殺して、飲まれ、そして空に帰るときをひっそりと夢見てるのかもしれません。 長々と失礼しました。

右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-09-26):

弓巠さん、こんにちは。 僕は数字は人に対しての悪ではないと思います。人間の主観がある型の中で成立していて、その型の本質が数字ではないかと思っているからです。どんなにあがいても、主観は数字という形で表されてしまう人間の枠組みからは逃れられない定めです。悲しいけれど主観の理不尽は通らない。大人はそれを数字を飲み込ませるという愛に溢れた暴力で子どもに教えていかなければならないのです。むしろ夢や愛という言葉をむやみに振り回して、人を絶望に追いやる連中が危険です。 飲んだ数字は飲んだ人よりも早く空っぽの浄土に帰っていく、無理筋かもしれませんが、僕はそう読んで「ココロ無き」数字を擁護したいのです。浄土には善もなければ悪もない、喜びもなければ悲しみもない。実質のない枠組みだけがあって、それが美しいのです。

弓巠 (2017-09-26):

まりもさん、コメントありがとうございます。 評価していただいて、光栄です。 人は人より上に立って、いいこ、いいひとという暴力的な言葉を使って、なんらか支配してしまう、あるいは嘘をついてしまう。まるでそれを相手のためであるかのように。 そしてそれに気づいているからこそ、「僕」は葛藤している。まりもさんが具体的に例を出して下さったのは嬉しいですね。私は抽象的なイメージとして「僕」と「君」の閉鎖的な関係、依存的な関係に数字を投影させましたが、まりもさんの例えはごもっともで、「僕」と「君」の関係性は暴力性と誤魔化しをもそのままに、社会の中にも続いていく。そういうことに自分の詩ながら気づかされましたね。 亡くしたの部分など、細部まで読み取っていただけて非常に嬉しいです。ここには、「僕」の何かしらの不在性のようなものが刻まれてもいるんです。 まりもさんは最後を「美しい」とおっしゃってくださいましたが、不穏のなかに美しい何かをあらしめることができればな、と考えています。

弓巠 (2017-09-26):

前田ふむふむさん、コメントありがとうございます。 前田さんは、「数字」を社会的な側面から捉えてくださったのですね。そうして、それに関わるといくことの実存的不安と。 「数字」という言葉の取り方によって、この詩はどのようにも読むことができると思うんですね。個人的な、閉鎖的な関係についての詩とも、社会的な葛藤を孕んだ詩とも。「君が声を出さないように」という言葉が、「透明になればいい」と同居していること、それもある意味暴力なのかもしれませんね。 「僕」は悲しいと思いながらも、しかし続けていく。支配してしまう。騙してしまう。それはマクロにも、ミクロにも存在している。前田ふむふむさんの読みのおかげで詩としてのスケールが広がったように思いますね。

弓巠 (2017-09-26):

徐々にでいいからさん、コメントありがとうございます。 ユニークである反面普遍性も感じるとのお言葉、嬉しいですね。リアルだ、というお言葉をいただきましたが、それは私の狙いとしてあって、いかに特殊でいかに普遍的に書くか、ということを問題にしていきたい、という考えがありますね。 たくさん考えてくださると光栄です…!

雨粒あめ子 (2017-09-26):

初めまして。『僕』と『君』は夫婦のような、長年連れ添った関係性のように思えます。けれども、”君は眠い、見えてなどいない”のところと、”君が覚めて。眠るままに”を読むと、もしかしたら『君』はもう亡くなっているのだろうか?という疑問が生じました。優しくて悲しい詩だと思いました。 何度か視点を変えると、また違った想像ができますね。

弓巠 (2017-09-26):

muさん、コメントありがとうございます。 数字をより自由に、という考え方ですが、そういうやり方もあったのかな、と思いますね。ただ今回は開始地点があくまで「僕」と「君」であること、数字が、ただただ数字であることを主眼に据えました。僕自身、数字には様々な意味性を付与できると思うのですが、この詩は、あくまで数字を数字と言い切っている、それによって数字のもつ、独立した、無色透明な鋭さを生かしたかった、というのがありますね。 災害、戦争における、死者と数字の関係について、数字はどこまでいっても数字なのだ、というように思いますね。数字はあくまで純粋に、数を作っていく。そこにある誤魔化しや、けれどもそれをしてしまう、というのはこの詩における重要な側面だと思いますね。muさんの批評、とてもためになりました。思ったからを丁寧な言葉で伝えてくださり、嬉しい限りです。 最終連について、今回は締め方に少し迷いましたが、このようにしました。僕にとって「いつか」という単語はとても暴力的で、それまでの流れを変えてしまうものです。一気に現実が想の世界に吸い込まれるからですね。もう少し、このような言葉の効果を説得的に書くべきだったのかもしれませんね。 そうですね、muさんがおっしゃったような、使われるものとしての数字、というものは確かにあって、つまり数字の色を決めるのは「僕」であり「君」なんですね。muさんがおっしゃったような、数字、隠喩ではないそのものとしての数字、こういう現実であり概念でもあるものは、詩を書く上で重要に感じますね。数字が空に帰ると気を求めてる、よい表現ですね。

弓巠 (2017-09-26):

上のコメントについて、誤字が多くて申し訳ないです

弓巠 (2017-10-11):

Migikataさん、コメントありがとうございます。 返信が遅くて申し訳ありません。 数字は人に対して悪ではない、主観とは離れたところにある、というお言葉、僕は、実はとても共感しております。 この詩においては、実は、「僕」と「君」がかなり前提となっています。「僕」は(お言葉を借りると)「ココロ無き」数字を、自分の主観や、恣意に基づいて、「君」に呑ませていく、けれど、それをあたかもどうしようもないことであるかのように言うのですね。そうしてある種の勝手さ、暴力性、そうして、無垢であるがゆえに危険である「数字」というものが立ち現れます。この詩において、「夢や愛という言葉をむやみに振り回して、人を絶望に追いやる連中」に近いのが「僕」なのではないか、と僕は考えます。ただ、「僕」は「君」を駆り立てるのではなく、眠ったままでいさせようとするのですが。 ある意味で、「僕」は完全に主観のないはずのものであり、無垢であるはずの「数字」を、恣意的に使う、特殊な人間なのかもしれません。(書き手としては、やや主観的な考えとしての「数字」という言葉を使った、というのはあります。「僕」にとっては「数字」という”言葉”が奥深くで主観性を帯びているのだろう、というニュアンスです) 少し話は逸れてしまうのですが、Migikataさんの最後のコメントに、共感するとともに、感動いたしました。特に「飲んだ数字は飲んだ人よりも早く空っぽの浄土に帰っていく」という言葉。罪は、すべて人のものですものね。

弓巠 (2017-10-11):

初めまして、amagasasasiteさん。コメントありがとうございます。 「僕」と「君」の関係に注目してくださり、嬉しく思っています。長年連れ添った関係にみえる、ということですが、この二人の関係の、ある種静止的なところ、閉鎖的なところは、確かにそのような関係に見出せるものなのではないか、と僕は思います。「君」は徹底的に「僕」によって無力なものとして扱われます。確かに、「君」は死者かもしれません、「僕」によって、生きる時間や歳月といった数字を飲ませられ続ける、という一つの死者のあり方なのかもしれませんね。(自分の詩についてなのに推量の表現が多くて申し訳ないのですが、僕にはそのように書くのが一番自然なのです) 優しくて、悲しい詩、よおっしゃっていただいたのも、とても嬉しいです。「僕」は恣意的な人間で、「君」に対して支配的なのですが、それでもどこか「君」に対する複雑な感情、どこか恐れるような、慈しむような感情を持っているのではないか、そう思います。


僕もあなたも何のために生まれたのか   

山師 
作成日時 2017-09-24
コメント日時 2017-10-08

 

曽祖父の写真を見ていると 奇妙な気分になる この人のことを僕は知らない 覚えてる人だって少ない 伝え聞いたことだけで 何を知ってるというのだろう ただ血を受け継いだだけで 何を知ってるというのだろう 僕はただ見つめるだけで 写真に写る彼は何も言わない 僕が苦しんでも 悲しんでも 彼はいつでも笑っている ただ一言だけ交わせるならば 僕もあなたも何のために生まれたのか それだけを聞かせてほしい


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湯煙 (2017-09-24):

何故に故人に向けて人は問いを発するのか? 墓参りや法事をおこなうのか。イタコはなぜ存在するのか。そうした魂のあり方をめぐる素朴な疑問について考えさせるようです。昨今はデジタルフレームやデジタル納骨堂、あるいは散骨等。弔い、埋葬。祈りの形もまたさまざまに変化をともないつつ行われているようです。生前に記録保存された先祖が音付きで語りかける、そうしたものも興味深いです。

山師山師 (2017-09-24):

おはようございます。お初にお目にかかります内藤です。 湯煙さん早速ご感想を書いて頂きありがとうございます。

森田拓也森田拓也 (2017-09-24):

おはようございます。 どんな人だったのか会われたことも話されたこともないけど、 どこか自らのお心の片隅で忘れずに気になっておられる曽祖父さんの写真への 語りかけが、静かに描かれていますね。 特に第6連の 僕が苦しんでも 悲しんでも 彼はいつでも笑っている という表現は特に印象的な部分で、 とても( ^ω^)内藤さんの深い感性表現を感じます。 「何のために生まれたのか」 「それだけを聞かせて」 の部分の表現も心を打たれます。 ずっとそうやって曽祖父さんと無言だけど大切で静かな対話を されていくんだろうなって。

山師山師 (2017-09-24):

森田さん。以前にこちらの掲示板を紹介していただきありがとうございました。 新しい発表の場が見つかり嬉しい限りです。また、同じ詩を二度もご批評いただき恐縮です。

花緒 (2017-09-26):

初めまして。少ない構成要素で、完成度の高い作品のように思いました。仕上がっている作品のように思うので、どうレスをつけていいか思案に暮れます。もう少し色々書き込めてもいいような気もしますし、これはこれでいいような気もしますし、難しいところですね。 ー なお、余談かもしれませんが、ハンドルネームの顔文字と本作はマッチしていないと感じますね。そのお名前だと、もっと遊び心前回のふざけた感じの作品の方が似合うとは思います。

山師山師 (2017-09-28):

花緒さんどうも初めまして。 投稿内容のことは置いておいて顔文字のことを説明しますと、 このサイトに来る前あるチャットでハンドルネームに使い始めたのが元です。 内藤ホライゾンというこの顔文字はかつて一世を風靡しましたが、今は人気も落ちあまり使われなくなりました。 内藤とは皆の笑顔の為にブーンと走り続ける儚い存在でありました。僕はその儚さに心を打たれ仮の名として拝借したつもりです。 この顔文字はインターネットにおいて抽象化される僕個人を投影したものなのです。だから投稿する詩と僕と内藤は独立した存在なのです。 ところで( ^ω^)を使う際の原則として語尾に「~お」を付けなくてはならないという慣習がありますが、 今回は初投稿であったため意図的に省きました。次回以降は完全に( ^ω^)語で通していく方針ですので、皆さん何卒ご容赦ください。

花緒 (2017-09-28):

>次回以降は完全に( ^ω^)語で通していく方針ですので、皆さん何卒ご容赦ください。 どういう風になるのかあまり想像できないので、なんとも言い難いのですが、正直に申しまして、あまりウェルカムではない可能性を感じます。ガイドラインを熟読して、この場にそぐう表現になるか、この場が内藤さんに合った場所なのか、今一度検討頂きたいと思います。ネット詩投稿サイトというのは、一般にすごく荒れやすいです。そして、本サイトは、荒らし行為に興じる者に付け入る隙を与えないよう、かなりのコストを割いて、荒らし行為を徹底的にシャットアップするように苦慮しているのですね。荒らしを完全に許容しないことで、マナー重視を強調することで、自由度を損なう向きもありますし、そのことで、運営者が強権を発動していると、批判や嫌がらせを受けることも多いのですが、そうした批判があることは理解した上で、その上で、コストを取りながら運営していることを理解頂きたく思っています。そういうレスのつけ方がありなら、じゃあ俺もと、場が荒廃してしまうリスクへの配慮がなされるのか、というところですね。できればお辞めになって頂きたいようには思います。

山師山師 (2017-10-01):

花緒さんへ 僕なりに検討した結果、このサイトではふつうな話し方とすることに致します。 不快に思われたり荒らしに繋がりかねないことを考慮するとここではやはり常識に従おうと思います。

花緒 (2017-10-01):

内藤さん 有難うございます。ご配慮、感謝いたします。

コーリャコーリャ (2017-10-08):

内藤さんすてきなお名前ですね。この作品はとても不思議な感触です。ミニマルな構成で素晴らしいと思いました。題名にきちんと集約する、何か足しても、何か引いても、損なってしまうような、デリケートな魅力があると思います。なんだかとても日本文学的な、淡い美学のようなものを感じました。

渡辺八畳@祝儀敷 (2017-10-08):

→内藤ホライゾンというこの顔文字はかつて一世を風靡しましたが、今は人気も落ちあまり使われなくなりました。 →内藤とは皆の笑顔の為にブーンと走り続ける儚い存在でありました。僕はその儚さに心を打たれ仮の名として拝借したつもりです。 →この顔文字はインターネットにおいて抽象化される僕個人を投影したものなのです。だから投稿する詩と僕と内藤は独立した存在なのです。 なんか下手に純文学然としたものを書くよりも、内藤氏はこういったゼロ年代のインターネット事情に対しての諸々の感情をネタとして詩を書いた方がいいのができそうな気がする。考えてみればもう近過去の域だ。5ちゃんねるになったし。ホライゾンなんて何年ぶりにみたかってぐらい。せいぜいなんJ民と原住民ぐらいしか最近は見ていなかった。 劣化しないデジタルも古びてしまう、二進数へ向けての我ら三次元空間に生息する有機体からの感傷、そういうのってこれからの時代需要があるように思う。平成版三丁目の夕日。てか私がそういうの書きたい。


トースターの夢、おしまいが来ない朝   

北村灰色 
作成日時 2017-09-29
コメント日時 2017-10-08

 

画鋲散らばる青空 その痛み その先端で 鳥たちが墜落する報道を 消えたテレビが無言で伝える 真っ暗な40インチ 無音の部屋 足の折れた四つの椅子 黎明の月が太陽を殺す スープの海に浮上する沈没船 スプーンもフォークも無く 箸はテーブルに突き刺さったまま 珈琲は透明に変換され 私はトースターをかじっている 鋼鉄の熱病 崩れゆく歯列 血は鉄の、鉄は血の味がした 三つの空席に塗られたバター 溶けゆく油脂 視えない四肢 室内を蹂躙する上履き 汚れた足跡は私だけのモノ 他人のスニーカーを蹴散らせば 靴ひもの白蛇が呻く 生地に刻まれた流星も爆ぜて 星条旗も燃やせと カーペットの水兵が喚くから 足下のマネキンも煩いから 引き裂いたコートとスカート 羞恥のない動物性 不埒な植物性が露になり 崩壊する偽装建築 皮膚のない猿の群れ 可視化する僕らの臓器 全てが暴かれた世界 裸の闇に乾杯を! パーティーを赦された 「罪」という名のアパート 1階2階3階4階 赤ワインしか出ない淫らな蛇口 305号室のみ白ワインだと 304号室の死者が嘯く 給水塔の中は動脈血 閉じない窓 破れた網戸 行軍する揚羽蝶の群れ 蛾と誤認した少女は 躊躇いもなくカッターナイフを翳す おもちゃの手錠 玩具の拳銃 少年は警官よりも 猟奇殺人鬼を夢見ている 残酷さと純粋さは似ていて 大人はそれを狂気とし 匿名で書きこむ知恵袋は正常だと マーガリンの偽りは正常だと After-hours 汚れた血と夢を落とす時 浴槽に浮かぶ薔薇の死体は綺麗 浴槽に浮かぶ石鹸は死蝋みたいだ 浴槽に投げ込むトースターの冷熱 爆ぜた情熱と這い回る電流 黒焦げの夢 濁音に染まる血 それらがやがて流れても 上履きに仕込まれた画鋲は抜けない


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みうら (2017-09-29):

意外に思うかもしれないが、私は、毎回、北村灰色さんの作品を楽しみにしている。で、毎回、私は何を待っているのか。それは北村灰色さんの終わりを待っている。いや、語弊がある。少し説明をしたい。北村灰色さんの終わりとは、一言でいうと、北村灰色さんの作品(今までの投稿作に限定する)に通底することとして「終われない世界観」を視るからだ。本作でいえばタイトルにある通り。「おしまいが来ない朝」。私は終われない世界観に北村灰色さんの、なんというか、苛立ちを感じる。投稿作品すべてに。それは北村灰色さんの魅力ではある。が、極私的な読者の欲でしかないのだけれども、終わった後に何があるのかを知りたい。感じたい。不発に終わる毎度の爆弾処理工事がいつの間にやら予定調和され安全に迎える日曜日がある日突然、消失してしまうみたいに、引鉄した後に残るであろう北村灰色さんの作品に魅了されたい気持ちである。

まりも (2017-10-01):

上履きと画びょう・・・学校、そしてイジメ、そんな辛いシチュエーションを想像してしまいますが、そのシチュエーションそのものを吹き飛ばしていくような、破壊、崩壊・・・の鮮烈なイメージ。墜落、沈没船、と下降のイメージが続くのに、どこか祭りのような、吹き上げて行くエネルギーを感じるのは、文体のゆえでしょうか。〈汚れた足跡は私だけのモノ/他人のスニーカーを蹴散らせば/靴ひもの白蛇が呻く〉毅然として、猛々しく蹴散らしていくイメージ、〈鋼鉄の熱病〉、〈生地に刻まれた流星も爆ぜて〉〈爆ぜた情熱と這い回る電流〉といった、浮かされるような高揚感。内向していく感情を、むしろ外部に噴出させる、そんなエネルギーを感じました。

北村灰色 (2017-10-08):

三浦果実さま コメントありがとうございます。(終われない世界観)、ご指摘の通り、その感覚が自分の創作、特にネット詩に於いて表出していると思います。 終わった後に何が生まれるか、『あしたのジョー』の如く真っ白に燃え尽きるか、新たな表現が生まれるか、それは自分自身でもわかり得ない所ではあります。

北村灰色 (2017-10-08):

まりもさま コメントありがとうございます。 画鋲はイジメのモチーフではなく、青空に画鋲が舞い踊っていたら残酷で綺麗だなと想い、アタマに持ってきました。上履きは、上履きを想像すると画鋲を何故か連想したので結に入れるアイテムとして用いました。 確かに下降をイメージさせるフレーズや言葉が多いですが、この作品はシュールレアリスムというか、悪夢の中でもあくまで高揚したままというのが念頭にあったので、そうしたエネルギーを感じて頂けたのではと思います。


潮音   

mu 
作成日時 2017-09-30
コメント日時 2017-10-07

 

そうしてクジラが一頭 浜辺に打ち上げられる そのたびに 陸地は、 身を震わせ 大つぶのなみだを流した わたしはまだココノツで セカイは、おろし立てのシーツのようで 頭からスッポリとくるまれていた。 錆びついたチョーク線を 黒くどろどろとした黒板から 拾い上げては、 言葉の溶接面にふれて その〈ねちねち〉を愉しんでいたりした。 言葉はとてもうれしそうで、 (恥ずかしそうで) わたしは 小さな紙切れにくるんで、 手から手へと 席から席へと 連れ出して 言葉をあやした。 (遠くで泣いてるのは誰?) 流れる小さな紙切れとなって わたしたちの手の中で 言葉は ほんの少しだけ心を許して、 はじめて歯を見せて笑って、 そうして 気ままな波乗りを楽しんでいた。 流れる溶接面は それから わたしたちのカラダを固くして 窓辺に立つ、 わたしの不様なスガタを嘲笑っていた。 雲が降りてきた…… 帰るころにはきっとまたドシャ降り そうしてクジラがまた一頭 浜辺に打ち上げられる そのたびに 陸地は、 身を震わせ 大つぶのなみだを流した


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まりも (2017-10-04):

くじらが打ち上げられる。壮大な風景と共に、どこか神話的な世界が引き寄せられるような気がします。陸地が身を震わせる、という比喩が、すぐ続いて語られるから、であり・・・最終連で、またその「語り」がくりかえされるから、でもありましょう。 二連目で、〈わたしはまだココノツで セカイは、おろし立てのシーツのようで〉といきなり転換するわけですが・・・なぜかここで、授業中の子供の姿がイメージに浮びました。 国語の授業で、「くじらぐも」、という不思議な作品がありました。7歳から8歳くらいの子供達が学ぶ教材であった、と思いますが・・・ 〈言葉の溶接面にふれて その〈ねちねち〉を愉しんでいたりした。〉独特の感性。文字と文字が接続する。そこに、意味が立ち上がる。その質感に違和感を覚えたり、通常の意味ではない意味で捉えてしまったり(私は、たとえば咽喉から手が出る、と聞くと、実際にぬめぬめと濡れた白い腕が、喉から伸びて来る姿を思い描いてしまいます・・・こどもの頃は、それで息が苦しくなったりしました)そんな、異常なほどに「言葉」の喚起する「意味」に敏感な子供の心理を、大人になった「今」の時点で振り返っているような、そんな感覚の作品だと思いました。 〈言葉はとてもうれしそうで、〉この連から先、覚えたばかりの言葉が嬉しくて仕方がない、そんな気持ちで「手紙」を回しているような、そんな感覚もありますね。 〈雲が降りてきた…… 帰るころにはきっとまたドシャ降り〉このあたりは、授業中の「くじらぐも」の夢想と、現実の風景が重なっているような感覚もありました。 意味の飛躍を意図的に大きく取っている感もあり、解釈が難しい作品でもあるような気がしますが、意欲的な作品だと思います。

るるりら (2017-10-07):

おはようございます。 金子みすずの郷里には、鯨を供養する墓や行事がのこっていることを思い出しました。 わたしたち日本人は、というか クジラで有名な場所で生まれた私は、鯨を食べてきました。 わたしは 実は くじらのお肉が好きです。 しかし、こんな私でも くじらのなみだに 思いを馳せる人を、わたしは うつくしいと思います。 他国のほかの食文化の方は「くじらにも知恵があるのに なぜ食うのだ?」お怒りのケースもあるのですが、食べるときにも 人には 心がある。浜で うちあげられた くじらを思う人の情感を思うことができる。 くじらのなみだを思う うつくしい人が ほかにもきっと大勢いらっしゃる気がして、うれしくなりました。  思い遣る能力 心の うつくしさを 感じました。   

るるりら (2017-10-07):

また、【言葉の溶接面】という発想から、わたしと同郷の方のような気がします。 わたしは海辺の造船業と鯨文化の発達した場所で 生まれました。 言葉の溶接面という言葉が好きです。鉄は あついうちでないと 溶接できないし、 この詩も 作者の情熱のようなものがあるうちに 書かれた詩であると感じたからです。


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