B-REVIEW作品投稿掲示板


高校一年生   

雨粒あめ子 
作成日時 2017-05-25
コメント日時 2017-09-01

 

大嫌いな数学のテスト。ほとんどの問題がわからなくて、いつも適当に消去法で答えていたよ。大嫌いな人間の前では不機嫌な表情でいたよ。 学校なんてサイテーだ。体がこわばって、身動きも取れないじゃないか。いじめ以上いじめ未満は、いじめに相当すると思いますか?私はそうだと思うんです。 ひとのこころを、よわいところを、罵ったり笑ったりして楽しむのならば。 センセは気づいていた。だけど センセは私の名前しか知らなかった。 半透明なわたし ここは いったい どこ 過敏性腸症候群になりました 起立性調節障害は悪化する一方です それでも休みながらも通います 『行かないとだめ』だから ほんとうは サイテーなあの子たちと喋って笑ってみたかった ほんとうは サイテーなセンセに舌打ちしてやりたかった ばかみたいばかみたいっていうか私はばか。勉強に縋るのも親に愚痴を一切言わないのも一人でいるのも陰口に耐え続けるのもぜんぶぜんぶぜんぶ ばか 高校一年生の三学期 私は学校に 行くことを やめた 透明に なった


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クヮン・アイ・ユウ (2017-05-25):

実はとうめいにも線があって 色があって 先端から末端 末端から先端 どちらが先か後か、今となってはわからない とにかく、線が伸びていて 切れかけだったり てんせんだったり 太かったり細かったり 色もあって なんでって それでも色があって 「それはなんの色?」って それはいたいときの色 イタイイタイの色 このとうめいは見つかるべきだ そんな色 ちゃんとみえる色 ----- 突然失礼いたしました。 amagasasasiteさま、はじめまして。 なぜかあのような言葉を書かせていただきたくなりました。失礼いたしました。 >>「ほんとうは サイテーなあの子たちと喋って笑ってみたかった」 この箇所がいちばん好きだなぁと思いました。生きる強さを感じたからです。 素敵な詩をありがとうございました。

夏生夏生 (2017-05-25):

はじめまして、amagasasasiteさま! 御作にコメントさせて頂きます。高校生の頃の自分と重なる心情がいくつかあり、何も越えられないままの当時の自分が今も心の中にいることを思い出しました。四連目は本当によく思ったことで。内に内にと心が引きこもっていました。共感できる、に留まらず、見てよ!と叫んでいるような 強さを感じました。

朝顔朝顔 (2017-05-26):

はじめまして。 とても気持ちを揺さぶられる詩でした。 こういう経験って何度も何度も私はあって、なかなか出口に到達しませんでした。 >ばかみたいばかみたいっていうか私はばか。勉強に縋るのも親に愚痴を一切言わないのも一人でいるのも陰口に耐え続けるのもぜんぶぜんぶぜんぶ/ばか この二行が一番詩的です。 たぶん、もっともっと本当の自分のありのままの気持ちを出していいんだろうなぁと、 最近は自分は感じています。夜明け前が一番暗いんだと思います。

花緒 (2017-05-26):

学園物で、透明とくると、どうしても私は酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文をイメージしてしまうのですよね。一般的に、やはりそこをイメージしてしまうのではないだろうか。今の所、そのような指摘は一切ないので、私の勘違いかもしれないけれど。犯行声明文に共感を示すにせよ、差異を打ち出すにせよ、このテーマ・題材ならば、もう一段、パンチが欲しいぜ!とも思いました。読みやすい一作ですが、であるがゆえに。

鳩村鳩村 (2017-05-27):

数学の、試験において、消去法で、答える、という状況が、わからないのですが・・単に白紙、なのでは・・?

エイクピアエイクピア (2017-05-27):

矢張り 「ほんとうは サイテーなあの子たちと喋って笑ってみたかった ほんとうは サイテーなセンセに舌打ちしてやりたかった」 こられの詩行ですね。「~したかった」想い、思いが詩に成って居ると思いました。

雨粒あめ子 (2017-09-01):

>クァン・アイ・ユウさんへ お久しぶりです。返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。 わたしのこの詩から、わたしが想像し得ないイメージをくみ取っていただけた事がとても嬉しく思います。 この詩は実体験なのですが、今更遅いけれど本当は賑やかで意地悪な子とも仲良くしてみたかったんですよね…。

雨粒あめ子 (2017-09-01):

>夏生さんへ 初めまして。 返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。 あの頃は心の内に秘めていただけで、半透明で中途半端なままで。 せめて学校を休学する前に、一度でいいからいじめっ子と戯れてみても良かったんじゃないかと振り返って未練がましく思うのです。 読んでいただき、ありがとうございます。

雨粒あめ子 (2017-09-01):

>朝顔さんへ 初めまして。これからどうぞ、よろしくお願いいたします。 返信がとても遅れてしまい申し訳ありません。 思春期ならではのなんというか、心を塞いでしまう時期は誰しも経験しますね。 「ばかみたいーーー」は、当時の気持ちと現在の気持ちを表現してみました。 夜明け前が一番暗いですね…。朝が訪れたら楽になるのか、わたしには今でもそうでない日もあります。

雨粒あめ子 (2017-09-01):

>花緒さんへ お久しぶりです。返信が遅くなってしまい申し訳ありません。 そうですね…。 わたしは彼のことを一切想像せずに、当時の自分の実体験をもとに描いたので、花緒さんの指摘にはとても驚いてしまいました。 ここではいつも、もう一捻りほしいと批評してくださる方が多いので、その言葉を励みにこれからもっと身につけられるよう邁進していきたいです。

雨粒あめ子 (2017-09-01):

>鳩村さんへ 初めまして。 数学の試験で消去法で答える、というのは、鳩村さんがどこか誤解をしているとおもわれます。 具体的に言うと、問題用紙の問題にいくつかの選択肢があるとして、苦手且つまったく分からないものに対して、選択肢を消去法を使って選んで解答用紙に答えた、ということです。

雨粒あめ子 (2017-09-01):

>エイクピアさんへ 初めまして。返信がとても遅れてしまい、申し訳ありません。 「〜したかった」という気持ちは、当時を振り返ると常に心にありました。それがこの詩につよく全面に押し出されているのかと思います。 批評していただき、ありがとうございます。


せいけつなくらしと、   

葛西佑也 
作成日時 2017-05-28
コメント日時 2017-06-19

 

あまたたびのうそを 正の字をしるして数えた いくつめかの正の字の四画目で 私は手を止め 手を止め 窓の外の群青を仰ぎ見、た 日は沈めばまた登り われわれが定めた暦に応じて 昨日までのことがなぜだか改まった気になる とはいえ、なにも変わってはいない 日は昨日と同じ日で 月は昨日と同じ月で 今日も昨日の風が吹く そっと摘み取って息を吹いた 思うようには飛ばない綿毛 全てがうそのようであった 私は思い切り力を込めて 一本の横棒を書き足した 私にとってはこれな人生最後の正義であった


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葛西佑也葛西佑也 (2017-05-28):

※最終行 私にとってこれが最後の正義であった お恥ずかしい誤字。

仲程仲程 (2017-05-28):

これは好きです。 とだけで終えたいのですが、叱られそうなので少し 男女の話だけではない。嘘はどこにあるのか。身近な人、毎日のニュース、社交辞令、などなど、それよりも自分自身、の いやぁ、途中からのめりこんで、はぁ とため息です。このごろ、何も変わらずに、いつの間に、気づくと何年も経ってしまっています。毎日毎日、ほんとは違うはずなのに。最後の正義 忘れたつもりになって、 とこんなに抑制の効いた詩なのに、つらつらといつまでも心なのか思考にまとわりつく、いいなぁと思います。批評にならなくてすみません。

鈴木 海飛 (2017-05-29):

ぽややん、と書いております。 あまたたびのうそ をどういう意味に読むかによって 感想が変わるかなぁと 思いましたが、 変わらないのが不思議。 たくさんよんで、 たくさんうたって (たくさん嘘ついて) 完成しない正に至る気持ち どうもこの詩は、 ひとによってはうそつきと呼ばれるかもしれない。後で、やられた、みたいに。 でも、本当はそれ嘘じゃないみたいな。 その悪気もないうそに気づいたとしても感想も批評も、向かう方向は同じ道なんじゃないかなー。と、初見のテキトーです。 時代が変わっても正義なんてそんなものかもしれない。 「うそ」は嘘じゃないけど、 でもうそつきにもなりたくないし。 だからこそ、そうじゃなくても 判断を迫られたときに力を込めて正を足して、たしかな将来が分からない決断する。 なぜ最後なのか…。 終わりを覚悟したのかなぁ。全然違うかも、 そんな風に、この詩を読んで頭のなかに、できてしまったクイズに答えています。 頭がよければ、素直にこの私情をあじうことができるのかもなぁ。 いいなぁと思いました。

鈴木 海飛 (2017-05-29):

あ、人生最後じゃないのですね。りよーかいです。

花緒 (2017-05-30):

タイトルがいいですね。<この文章は嘘です。>という文章が、嘘とも本当とも言えない、ということと同じ構造を持った作品として読みました。嘘でもなければ、本当でもない。嘘と本当の間にあるわけではなく、真に、嘘でも本当でもないのが、人生であり、文を書くということなのでしょうか。そんなことを思いました。やはり、さすが、わたしのごときヘボには到底書けない、上手い一作だなと思いました。

エイクピアエイクピア (2017-05-30):

あまたたびのうそを 正の字をしるして数えた いくつめかの正の字の四画目で 私は手を止め 手を止め 窓の外の群青を仰ぎ見、た 矢張り最初のこの連ですね。簡潔な表現の中、内容的にも可不足が無いと思いました。「正の字」「群青」など印象的な内容がありました。詩の根幹があると思いました。

鈴木 海飛 (2017-05-30):

ぽややんと読んでいたので、最後の正義についてかけませんでしたが、しゃききんとなったので、最後の正義について書いてみます。自分の魂の鼓動のごとく書き出しますので、ただのひとつの妄想じみた感想としてとらえてやってください。 あまたたびのうそ には、ふたつの意味があって (この世に)いくらでもいつでも溢れる嘘 と (自分が)それに対抗するがごとく鬱憤をためている心情という ふたつの意味をもったセンテンスとしてとらえたときに 最後の正義とは、 世に無頓着な正義が溢れることに失望せずとも、この世のすべての正義が「うそ」なのだから、ある意味隠居する姿勢(第一線を退いてはいるけど、自分が取り組む問題については考え抜く態度というような意味あい)で取り組むこと。それが自分のなかに、最後の正義として折り合いをつけた人の姿がだんだんとみたような気がします。 飛躍しすぎで、すいませーん。

まりも (2017-05-30):

指を文字から離すことなくなぞりながら音読していくような・・・御簾やすだれで日差しを遮った室内で、数人で書き物を囲んで、ひとりが静かに音読しているような。 2連目から、急に現代にリンクしていく感じがありました。なぜなのか・・・ 昨日までの事件を、まるで終わったことのように過去に流して、新しいニュースを重ねていく。それが「正しい」事実の伝え方、であるなら・・・あの日の出来事、あのときに見聞きした事件、にこだわり続けることは、「正しくない」ことなのでしょうか。記憶は、呼び戻された時が「今」です。過去の時点でわからなかったことが、あとで思い返して、わかったりするときもある。 過去の記憶を再生するとき、心の内で何らかの編集が行われ、物語として確定していく。その事まで含めれば、世界は虚構の集合体とも言えますね・・・ せめて文学の世界は、世間一般的な事実としての物語ではなく、その人にとっての真実である虚構を追求してほしいと思います。 批評というより感想でした。

葛西佑也葛西佑也 (2017-06-14):

仲程さま コメント、誠にありがとうございます。好きという言葉は、最大の賛辞だと思います。大変嬉しく思います。正義や嘘と言った言葉は、よく目にしたり耳にしたりするものの、とても難しい言葉だと感じます。この詩の中で、どれだけインパクトを持って語れたか甚だ不安ですが、何かしら響いたようでよかったです。 鈴木海飛さま 丁寧にお読みいただき誠にありがとうございます。飛躍できる詩の方が、私は面白いと思います。鈴木さまの読み、大変興味深く拝読いたしました。短くまとめたが故に、様々な解釈の可能性が生まれたようで、それが私の意図するものせぬものであるに関わらず、作品を育ててくれるのだと思います。貴重なご感想、感謝いたします。

葛西佑也葛西佑也 (2017-06-15):

花緒さま ありがとうございます。タイトルには、いつも気を配っているつもりですので、嬉しく思います。確かに、全体として、パラドックスと呼べる内容に仕上がっているといいますか、仕上げたつもりです。短い中に、仕掛けがあるのですが、それが有効に作用しているか、不安ではありましたが、コメント拝見し、成功している部分が多いのかなと思いました。励みになります。 エクイピアさま コメントありがとうございます。いつもは長たらしく書いてしまうのですが、今回は短く凝縮させてみるのが目標でした。お褒めの言葉、ありがたいです。

葛西佑也葛西佑也 (2017-06-19):

まりもさま ご感想、誠にありがとうございます。現代とはるか昔とを行き来するような、そんな作品が昔から理想です。そうして、古くからの世界と現代とがリンクし、様々なことへの気づきがあるような。書き物は書いた瞬間にノンフィクションであっても、フィクションの要素が出てくると思うのです。書き手による記憶の解釈であるとすれば、そこには当然、現実をそのまま寸分たがわずに切り取ったものがあるわけではないので。そういうことを考えながら、こちらを書き上げました。


なかった、ように   

夏生 
作成日時 2017-05-18
コメント日時 2017-06-14

 

テーブルをふく 力をこめて たてによこに 行ったり来たり つやの出たテーブルに 満足して周りを整える 何事もなかったように 一点の汚れも逃さず ふいてもこすっても 落ちないものは 傷 削るか、ごまかすか そのままにするか 削ればひどくなる ごまかしは剥がれる そのままでは痛々しい いつの間に ついたのか つけられたのか ふれると低いくぼみ 粗い肌がわずかに見えた やさしい色のテーブルクロスを 大きく広げ 傷ごと覆い隠した これ以上 傷つかないように 汚れないように 何事もなかったように 傷を忘れられるように 本当に何事もなかった と 間違えるまで


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花緒 (2017-05-18):

一行一行が平易で分かりやすく読めますし、まとまりも良く、はっきりと良作だと感じました。初読の印象です。

鳩村鳩村 (2017-05-18):

寓意が、あまりにも、見えやすく、これほどハッキリした「意味」を、詩として表現する必然性を、問いたくなります。丁寧な言葉遣いなので、筆力はある方なのだと、思います。

黒髪 (2017-05-19):

描写の的確さに、目を見張りました。はっきりとしたビジョンが、比喩としてうまい距離で機能していて、その愛の行為に対して、 心を洗われます。愛を知っていて、愛を隠し持っている。構想と、筆力が、幸せに溶け合っている感じです。心からの気持ち を感じることは、なかなかないもので、人が読んで気持ちのいいものは、なかなか書けません。というわけで、天性の才を 活かされている、という感じを持ちました。

まりも (2017-05-19):

テーブルを拭く、という行為の中に、自分の心を磨く、という行為が隠れているわけですが・・・机でも床でもなく「テーブル」であるところが大事だと思いました。 ダイニングテーブル。家族で囲む食卓。ひと昔まえなら、ちゃぶだい。 周り中が「前衛詩」(暗喩満載の)を書いている時に、辻征夫さんは「ライトヴァース」「平易過ぎる」などと批判?されながら、易しく優しく心に沁みる作品を書き続けていました。あの勇気は大変なものだと思う、と、八木幹夫さんという詩人がおっしゃっていたことがあります。 優しく易しく書く勇気、について、考えさせられる一作です。

夏生夏生 (2017-05-19):

花緒さま コメントありがとうございます!わかりやすく書くことの難しさにいつもぶつかっておりますので、とてもうれしいお言葉でした。ありがとうございます。 鳩村さま コメントありがとうございます! <ハッキリした「意味」を、詩として表現する必然性、についてですが、これを書きたい!と思って書いてしまうので、まだまだ浅いところ、描けていないところもあったかと思います。 ご指摘くださいまして、ありがとうございます。 黒髪さま  コメントありがとうございます!もったいないお言葉の数々、大変恐縮でございます。大きな励みになりました。ありがとうございます。 まりもさま  コメントありがとうございます!辻征夫さんのエピソードをご紹介くださいまして、ありがとうございます。わかりやすく書くことの難しさを改めて痛感しました。 深くお読みくださいまして、ありがとうございます。

るるりら (2017-05-19):

傷がなかったかのように感じるために さまざまな努力精進して 汚れをとったり磨き上げたり、最後にテーブルクロスで 傷を覆うというのが この詩です。とてもリアルなイメージが浮かび上がってきましたので、実話であると 感じました。 実話だとして、このテーブルの傷は詩作品化されたことで、作者の心になにが 今 おこっているだろうかと 想像してしまいました。テーブルをしらない読者も このテーブルには傷があることを知っています。このことから、作者が このテーブルの傷を忘れるには さらに時間が必要だということになったなあと、 思いました。 詩人は「無」のために言葉を奉じることがあるなあと おもうのです。 これは なかなかの感慨かもしれないです。 まるで 生活者としての詩人のありように対する 禅問答のようです。 この詩に限らず、なにかを わすれるために詩人は詩を書くことがあるように 思います。 そういえば、禅は 一に掃除が重んじられ、二に掃除が重んじられ、三四がなくて 五に掃除だそうです。

夏生夏生 (2017-05-20):

るるりら様 コメント下さり、ありがとうございます! この詩の内部まで読み込んでくださり、とてもうれしく思いました。この詩を実話である、とお感じになった。半分正解でございます。 希望といいますか、もっとできたらよかった、と、今でもできればやってみよう、と思うことがあり、詩に託してみました。 <なにかを わすれるために詩人は詩を書くことがあるように 思います。 私も同感です。書くことによって「事」から解放するような感じで。

鈴木 海飛 (2017-05-28):

2回目に読んだときに刻まれた傷にひきずられているところがある。 しかしなぜ、最初に読んだときにあんなに清々としたものを感じたのに、今再び読むと正反対なのか。 丁寧に読まないからかなぁ。なんでだろう。 作者の狙った物語性はけして、難しいものではないのに自分のなかで相容れないふたつの読後感をもったままテキトーに書いています。(ふたつの相容れない想いをありのままに受け入れれば簡単なのかもしれません。) 自己を拡散した詩めいた もの を 私は書いてきました。とっちらかしたと書いてもいいのかもしれません。 こんな風に、見やすく、はっきりと書けたらいいなぁと思います。 聞いていても無理のない言葉。 耳と耳の間にこの詩がはいってきても、そこに目から言葉が交差しても なんら違和感もなく受けとめる言葉を連ねてみたいものです。 4Sだとか6S というスローガンめいた言葉が会社にはよくあります。 昔ながらの品質管理が積極的に行われている会社では聞いたことがあるかもしれません。 4Sとは単語の頭文字をとった言葉です。 基本は「整理」「整頓」「清掃」「清掃」の4つからとって、4S. この4Sを基本にして、様々なパターンがあります、真面目な会社では「しつこく」「しっかり」を足して6S。 古い会社では「躾」を足して5S。 私のような不良社員だと 「(できなくても)しかたねぇか」 「(忙しかったから)しょうがない」と ふたつばかり付け加えて6Sにしたりもします。 うちの会社はそんなやつにばかりにめぐまれているので、なかなか環境が整然としない。 整理とは、不必要なものは捨てること。 整頓とは、使いやすく正しいところにものを置く。 整然とした秩序を取り戻すための、 無秩序ではどこに何があるかわからないでしょうからね。 寺山修司という不良の先輩の言葉に「忘れようとして思い出す」という言葉を覚えています。 彼はきっと忘れることは下手な人だったと思います。 忘れようとして忘れようとしたことも忘れてしまえる人がたぶん、 忘れることが上手な人なのかもしれません。変な言い方ですね。 それは、待つことが上手な人のように、待つことを忘れて待てる人と思っていただければと思います。 こんな風に当たり前のことしかかけません。 ふと、クロスを洗濯するときにテーブルに古傷を思い出した。 「やぁ、もう笑い話だけど、そんなこともあったね。」と 「…まだ、そこに、あったのかぁ…。」と そんなイメージが最後に2つほど私のなかにできましたというしまりのない無秩序な私の感想です。

夏生夏生 (2017-06-02):

鈴木 海飛さま ご丁寧にお読みくださいましてありがとうございます!拙作を二回もお読みくださったこと、とてもうれしく思いました。        整理整頓できることが一番良いのはわかっていても…なかなか難しいときってありますよね。私は苦手です(笑)        忘れたことも忘れ…忘れてしまうことは寂しく困ってしまうことでもありますが、忘れられることが幸せということもあり。        鈴木様のコメントから改めて考えることができました。ありがとうございます。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-06-12):

 個人的には、本作は傑作だと思っています。  理由は単純です。  テーブルって凄くいいモチーフだなって、思わされた。それくらいの強い意味を感じました。そう、今月一番に強い意味をテーブルから発見したのではなく、見せ付けられるような感覚。それは僕のパーソナリティを形成する大きな一部分をテーブルが担っているという所を突きつけられたからです。  テーブルというのは、よくよく考えてみると僕の人生においてはいろいろな大事なイベントがある場所でした。  実家には大きな楕円形? のダイニングテーブルがあって、そこは唯一家族が顔を合わせる場所でした。いろいろすれ違いがあっても最終的にそこに集まって顔を合わせる必要がありました。  例えば食事、朝は絶対に家族全員が顔を合わせなければいけませんでした。それから次に夕食。  あとは、小さい頃の誕生日の思い出。友達と焼いたホットーケーキ、とか、クッキーを焼いた覚えもありますね。 正月に持ちをついて皆で持ちを丸めたのもテーブルでした。  あとは、、家族会議とかでしょうか。喧嘩したり、テストの成績について問い詰められた時とか。そういった家族にとって大事なイベント事は基本的にそのテーブルの上で行われたんです。 >テーブルをふく >力をこめて >たてによこに >行ったり来たり  テーブルをたてによこに拭く、という行為から僕はテーブルという平面を感じました。どこまでも伸びていくX軸とY軸が指し示す一つの大きな平面。 >つやの出たテーブルに >満足して周りを整える >何事もなかったように >一点の汚れも逃さず  テーブルの表面を綺麗にしている様子から、大事に使っている事が伝わってきます。つやが出る程に磨き上げ、一点の汚れも逃さないように隅々までテーブルを拭いていく。ただ、「何事もなかったように」という一文が詩行に影を落としていきます。何事もなかったように、という事はこのテーブルの上で何かが起きたのです。 >ふいてもこすっても >落ちないものは >傷 >削るか、ごまかすか >そのままにするか  ふく事では落ないもの、それを本作では「傷」という言葉で表現しています。ここが一つのみそになっています。  テーブルに傷が付く瞬間というのは、僕はあんまり想像できません。物を零してしまった時はそれこそ「ふけ」ばいいんですよね。  しかも、つやの出る程大切にしてきたテーブルに付けられた「傷」という事はそれだけ重篤な意味があると考えて間違いないでしょう。 >削ればひどくなる >ごまかしは剥がれる >そのままでは痛々しい  その傷はごまかしの聞かない、見るだけで痛々しい程の傷であるという事がここからわかります。傷というのはテーブルの表面を何かで引っ掻いたものなのか、なんなのかについてはわかりませんが、多少カンナなどで表面を削ったくらいじゃ取り返しのつかないくらいに「深い傷」であること、もしくは大きな傷であることがここから分かるでしょう。 >いつの間に >ついたのか >つけられたのか >ふれると低いくぼみ >粗い肌がわずかに見えた  ここで面白いのは「肌」という語が登場する所です。今まで「傷」のイメージは物質的なイメージをほぼ一〇〇%持っていた筈です。しかし、ここで「粗い肌」と表現されることによって、人間の顔が浮かび上がってくる。その顔とは一体なんなのか。  まずはテクスト上から読み取れる物を整理していきましょう。テーブルに付けられた傷は「いつの間に/ついたのか/つけられらのか」とあるように、いつなんどき付けられたのかわかりません。ですが、テーブルのメンテナンスをし終わった直後に、ごかましのきかない程の大きな傷を語り手は見つけてします。それを粗い肌、つまり手入れのなされていない顔のようだという瞬間を手で触れることによって「わずかに見てしまう」、そのことにぞっとしてしまうんですね。  語り手はきっとテーブルを大切に思っています。それは、これはここには書かれてないことですが、テーブルとはやっぱりその家、住まいの中心にあるものなんです。一人ではなく、特にふたり以上の人間がいる家では、きっとテーブルがその家の一つの中心にあると思うんです。だから、そのテーブルを大切にしている語り手が、そのテーブルの中に自分の見過ごしてきた影を見つけた時のおぞましさというのがここで一気にむき出しにされ、可視化されるわけです。  表面的に大事にしてきた、語り手の家族、もとい同居人との関係の内部にはきっとなにかしら、見えない大きな溝があって、それらは多分見過ごされてきたんですね。でも、それが許されない瞬間というのが実はもう語り手というのは見えてしまった。テーブルに入った大きな傷を見てしまった。今までは表面上は綺麗に大事に磨き上げてきた、テーブルという平面。そこに「くぼみ」というZ軸が入ることによって、新しいフェイスが見えてしまう。いや、しまった。というべきでしょうか。  それから「粗い肌」という表現から、ストレスで疲れきった人間の顔というイメージが湧き上がってきます。テーブルについた傷を、人間の皮膚のように見てしまう。「粗い肌」からそうぞうされるのは疲れきった人間のようす。健康状態の悪そうな感じがしますね。後に続く傷を隠そうとするその態度からも「傷」を付けられたなにかしらのイベントからしばらく経っても、その傷ートラウマから逃れることの出来ない語り手の疲れ、倦怠感みたいな物が一瞬だけ見ることができます。  そして、僕は本作を読んで思ったのは、やっぱり家族会議の時の思い出です。皆がいろいろな感情を溜め込んでいて、最後にオヤジがテーブルを思いっきり叩いた時に出来た傷。物をテーブルに叩きつけた時に、テーブルの表面に現れた、または残ったくぼみのことを。あるいはオヤジが僕のことを見た時のあの疲れきった顔のことを。 >やさしい色のテーブルクロスを >大きく広げ >傷ごと覆い隠した  「やさしい色」ということばで覆われた、テーブルクロスで、無理やりレイヤーを被せることによって傷を見なかったことにしてしまう語り手。目を背けるんですね。 >これ以上 >傷つかないように >汚れないように >何事もなかったように >傷を忘れられるように > >本当に何事もなかった >と >間違えるまで  過去、テーブルの上であった事をなかった事にしてしまう。つやが出る程に大事にしてきたテーブルの上に傷があることを知ったとたんにテーブルクロスで隠してしまう事で、新しいテーブル、つまり家族を演出する。家族をリセットしようとしてしまう。家族を偽装してしまう。「間違えるまで」その傷が起きた事なんか本当に何事もなかったんだよと、という風に認識が変わってしまうまで、 「傷つかないように/汚れないように/何事もなかったように/傷を忘れられるように」四行に渡って積み重なったことばによってくぼみをまるで埋めるかのように、傷の存在をなかった事にしてしまう痛切さ、そして、その舞台をテーブルに置いたその着眼点。お見事だと僕は思います。

夏生夏生 (2017-06-14):

hyakkinn様  御丁寧にお読みくださり、細部までの解釈、言葉をくみとってくださいまして、ありがとうございます。 傑作、との評に大変恐縮しております。とてもうれしく、大きな励みになりました。 hyakkinn様のお言葉から、潜在的にある不安や昇華しきれないものなどが含まれていたこと 含んでしまった、ことに気づき、改めて良い意味での詩のこわさを感じました。 ありがとうございます!


さんらー は   

仲程 
作成日時 2017-05-31
コメント日時 2017-06-12

 

みんなおらっちのこと   さんらー  ってよんでるけど おらっちはもっとちゃんとした   せいとく っていうかっこいいなまえがあるのに でもかんじはかけないからさ   さんらー でいいかあってもおもう とくいわざはうでずもうだったけど ふつうのとはちょっとちがうよ ぽてとちっぷすたべてたり こーらのんでるわかいのがいたら それをかけてやらないかあって おらっちがぐーんてうでのばすと むこうもまっすっぐにぎりかえして それでつったったままはじまるわけ おらっちまけなかったさ だって   さんらー  だから ぽてとちっぷすはおいしかったね おらっちががっこういってるころなんか あんなもんなかったけど はたけのだいこんとかぬいて はしってにげながらたべたよ こーらもおいしいね はじめてのんだのは ぎぶみいこーら っていってもらったやつだよ かんじかけないけど えいごつかえるよ さけはおいしくないねえ でもおらっち   さんらー だから つがれたらのむわけ おらっち ちからもちだから つがれるわけよ でもねおらっちほんとは こーらのほうが ゆうべさけいっぱいつがれて ふらふらになって そっこうにおちた あおむけっていうのか すぽってからだがはまって どうにもこうにも からだうごかなくて まあいいかって このままでも だって かえっても   さんらー  ってよばれるだけだから   でもさ そしたらさ よるのそらがきれいでさ みたことなかったからさ おほしさまとか おつきさまとかさ いつもしたになにかおちてないかとか おみせのまえでぽてとちっぷすと こーらをもってるおとこがいないかとか してたから とってもきれいでさ なみだでてたみたい てもうごかなくて ふくこともできなっかったけど   さんらー は あしたのこともかんがえてなかったけど こうやって ほしみながら つきみながら しんでいくのって かっこいい って おもわないか かっこいいんじゃないかなあ って そしたらさ からだじゅうが ふわーって とけるみたいだったさ あさになって いぬがほえて おらっちはまだないていたかな おとなごろくにん おらっちのからだをひきあげた おかあ は  いつまでも こどもじゃないよっ て おらっちをなんかいもぶったけど もういたくないからねえ ぜんぜん ぜんぜんいたくないよ さんらー は さんらー のままさ しんでも いとく にはなれないみたいさ さいきん わかいおとこたちのほうから うでずもうしかけてくるけど おらっちも よわくなってきたから ぽてとちっぷすもこーらも もういいよ    もういいよ おかあ またあそこのそっこうで そらみてきたいんだけど ほんとにうごかなくなるまで みてきたいんだけど ねむってきてもいいかなあ        


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鈴木 海飛 (2017-06-01):

「聖徳」 への返詩として さんらー、たぶん、「聖徳」ってかくんだ。きみのなまえだよ。 おれのともだちにしけつとよばれるやつがいるんだが、ほんとうのなまえはずじぇなんだってさ。 おれはつーじぇとよんだら、そっちのほうがかわいいから、 そうよんでくれといわれたよ。 せいとくって かっこいいなまえだな。さんらーもいいとおもうけどね。 うみがきれいかい? さんらー つきとほしがきれいならうみもきれいなんだろうな。 あかいおおきなはなはさいているかな。 きれいなはながさくばしょなんだろ。 さんらー、そっこうにはまってしぬより いつかうみにむかってしんでやろうよ。 さんらーでしぬより、 せいとくっぽくしんでやろうぜ。さいごなんだから、さ そっこうじゃ、おまえのからだにはあわないよ。ちいさすぎる。 おおきいやつはおおきいところでしんでやったほうがいい。 そっこうでしんでたら、 また、おとなをたくさんよばなきゃいけないし、ぬけなかったら、そこでせんこうとおきょうをあげなきゃいけないからさ。 さいきんじゃ、ぽてとちっぷすはこうきゅうひんなんだぜ。 さんらー、 そのうでずもうのやりかたしってるぜ。 さんらーにうでずもうかちたがるわかいのがいるってのがわかるようなきがするよ。 おれもおまえにかちたいきぶんだな。 いや、せいとく。 とよぶね。

仲程仲程 (2017-06-03):

鈴木海飛さん お読みいただきありがとうございます。 おつきあいいただき、さらっと(ではないかもしれませんが)よりそったレスポンスがくるのはうれしく思います。 「聖徳」かっこいいですね。おっしゃるとおり「三郎(さんらー)」もいいひびきです。 --- すみません、さびのとこ私の凡ミスで せいとく の せ が抜けてしまいました。 さんらー のせいではありません。

鈴木 海飛 (2017-06-03):

三郎!!! 三郎!! 三郎! さんらーは さぶろうという言葉だったのですね。 はぁーーー!!! めぐりめぐって。 さんらーってどんな意味なんだろう。って考えていた時期があります。 名前だとしても、 外国系なのかなぁと思ってたり、 なにか特殊な地方の意味があるのかなと思っていた時期もありました。 それが今、正解をいただいたことで、 なんだかしごい 多幸感。 まるで、さんらーが そっこうにはまってみていた月、星の気分です。ありがとうございました。 さんらーは 映画「ナヴィの恋」 で出てきた名前だったのです。 どんな意味なんだろうと、この詩を読みながら 思い出したりもしていました。

仲程仲程 (2017-06-12):

鈴木海飛さん ありがとうございます。 さんらーがみた星のよう というのはなんだかうれしいです。ナビィの恋みたいな詩 書けたらいいんですけど。


ブラックコーヒー   

奏熊ととと@所詮詩書き 
作成日時 2017-05-01
コメント日時 2017-06-12

 

幼少の頃の僕は今でも 「お星さまがいない夜みたいだね」って 笑って飲んだ マグカップに入った暗闇が 苦くて 酸っぱくて トラウマになって、 大きくなることを馬鹿にした頃がいました なんで大人達は好んでいるの? なんで飲めば大人になれるの? 大人ってやせ我慢が好きなんだね 維持張ってさ子供みたいなんだね だって何ができるの? だって何を教えてくれるの? 僕にはわからない暗闇だった 知ろうとしなかった過剰の芽 地球は逆週できずに 若さを覚えた時は今 何度も受けていた罵声や説教が重く感じたんだ この世界で唯一反抗できることは 星のない夜を二度と味わなかったことだ 鉄棒とコンクリートで囲まれた箱で もみくちゃにされた帰り道 オシャレな自販機の飲み物達は 一人除いて輝いて 意地悪な気分の僕は 除かれた一人を買ったブラックコーヒー トラウマが思い出す 味わった苦味や酸味は 僕自身のつらさを知っていたんだ 同情の味なんて言葉じゃ言い表せないほど 星のない夜の味は優しかった


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奏熊ととと@所詮詩書き (2017-05-01):

5月にしてようやく自分が求めるテーマで詩を作りました。 こういった日常の行動を詩で綴ることが私の詩作となります。

朝顔朝顔 (2017-05-01):

とてもいいなと思います。 なかなかどうして、自分自身のテーマを発見しまた書いてゆくことは存外難しいです。 私もやっとスタートラインに立ったところですね。

花緒 (2017-05-02):

筆致が良いと思う。テーマというのもそうなのだろうが、ご自身の筆致で書かれているのではないだろうか。そんな気がする。コーヒー、闇、夜を重ねあわせながら、柔らかいポエジーを描いておられるように思った。初読の印象です。

まりも (2017-06-02):

維持張って、とか、逆週できずに、など・・・これは、あえて、の表現なのか・・・馬鹿にした頃がいました、これは、ありました、の方が自然な流れとなる木もします。 もしミスなら、これらはちょっと残念。 子供時代、〈僕〉は苦くて酸っぱくて、いやでいやで仕方がない飲み物を、笑って飲む。 味覚(だけではなく、恐らく感性すべてにおいて)過敏の、大人びた子供。「ポエジー」で自身の気持を抑え込むことを、既に学んでいる(学ばされている)子供。数行でそれだけのことを描写してしまう的確さ。無駄のない、それでいて流れるような、どこか音楽的な(たとえば最初は四拍子)詩行の流れが美しい。 〈この世界で唯一反抗できることは 星のない夜を二度と味わなかったことだ〉味わわなかった、かな、正しくは(重箱の隅を、あえて突いてます、だって、もったいないもの) この二行、非常に魅力的。こと、と二回重ねる、ちょっとモタモタした感じのリズムの方がよいか、この世界での唯一の反抗は/星の無い夜を二度と味わわなかったこと、とさらりと流すか・・・あえて、こと、こと、と、躓き気味にした方が(つまり今のままの方が)よいかもしれない・・・ 〈鉄棒とコンクリートで囲まれた箱〉一人のシーンなら、マンションでの孤立ともとらえられるけれど、〈もみくちゃにされた〉という接続で、学校であることがわかる。しかも、その言葉を発したくないほどの、悪意にさらされるような場所。 〈帰り道〉で薄闇に閉ざされた夜道が浮かび・・・〈オシャレな自販機〉というカタカナまじりの表現で、こちらの気持など知らぬげに、煌々と明るく輝いている自動販売機を、どこか斜めに、皮肉っぽく眺めている視線が伝わって来る。その、オシャレで煌々と輝いている自販機は、〈僕〉を取り巻いている世界の縮図でもあるのでしょう(メタファーとなっている)飲み物達、という擬人化が、これは今、僕が置かれている社会そのものだ、と気づいた作者の心の動きを示しているように感じます。 〈一人除いて~優しかった〉この流れが実に良いと思いました。〈星のない夜〉とは希望のない時間のことかもしれないけれど、自分には理解できないこと、受け入れがたいことを、闇は闇のまま、静かに受け入れてしまおう、という豊かさがそこにあるような印象を受けました。 自分で自分の世間への馴染みがたさを、受け止める。その苦みや酸味を、優しい味、と感じながら飲み干す。それが大人になる、ということか、という切なさが、なぜか、余裕のように受け止められるのは、ゆったりとした流れの文体のゆえかもしれません。秀作。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-06-03):

 これは秀作だなぁ。文句の言い様がない。  奏熊とととさんの作品の中では一番の好みです。  単純な子共と大人の対比として描いている訳じゃなくて、多層的、重層的な作りになっていますね。そこからにじみ出る詩情が素晴らしく、言葉にするのが勿体無い作品です。    これは近い内にブログの方に紹介記事書かせてください。社会人の心にすっと入ってくる、とてもいい詩だと思います。ああ、とてもいい。  

るるりら (2017-06-08):

こんどもし辛い気持ちになったときに、読み返したい作品に出会えました。

夏生夏生 (2017-06-08):

奏熊ととと様、はじめまして。御作にコメントさせて頂きます。 なんで?と思う素直さ、幼いなりに分析していく過程が成長の兆しなのでしょう。 ブラックコーヒーの味わいに暗い印象を持って、トラウマと感じた子どもの頃から、 鉄棒とコンクリートに囲まれた箱の中での生活から、ブラックコーヒーの苦みを に救われる最後。とてもいいなぁと思いました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-06-12):

 この作品は一連が「こども」パート。二連が「おとなになる」パートになっています。   ●一連 「お星様がいない夜」つまり、星から飛躍して天の川=ミルキーウェイのイメージから、ミルクコーヒーのイメージも微かに匂ってきます。こどもから見たときのユーモアある物の捉え方から素朴な語り手のキャラクターも見えてきます。  語り手は初めて「おとな」の飲み物であるブラックコーヒーを飲みますが、本当にまずかったんでしょうね。  そこから逆ギレするようにこじれて「おとな」を一緒に馬鹿にしてしまうわけです。 語り手はブラックコーヒーの表面的な「苦さ」しか分からない。それで、その分からない感情が飛躍して、大人ってなんなんだっていう疑問をぶつけてしまうわけですね。そこが「マグカップに入ったブラックコーヒー」の「暗闇」に喩えられている訳です。  意固地になった語り手はそれを知ろうとしませんでした。 ●二連  そのまま二連に入って「おとなになる」パートになります。  時間は戻す事ができません。戻ることもできません。そして、逆週からは一週間のニュアンスも微かに臭ってきます。月曜から始まる長い長い社会人という道のりです。  鉄棒とコンクリートで囲まれた箱という表現から、語り手が都会、もしくはそれに準ずるような町で、社会人として働いている様子が伺えます。個人的には檻のイメージのニュアンスも伺え、まさに社畜のイメージにつながってくるでしょう。 そして、まだまだ若い新入社員の語り手は、自分が如何に若い存在であるかを自覚したばかりなので、罵声や説教を沢山受けまくります。そしてそのことが本当に辛い。軽く受け止めることができません。「おとな」的な物に反抗するためにまだブラックコーヒー(星のない夜の味=二四時間明かりのついている社会の味=辛酸なんか舐めたくない)なんか飲みたくないと反抗しています。  それでも、働いてクタクタになった自分の目の前にある自動販売機は「社会」が作り上げた一つの機構(「箱」)であってその中には煌びやかなジュース達がズラッと並んでいます。自動販売機は基本二四時間稼働していて、真っ暗になることはほとんどありません。しかも、多分その多くの商品が売り切れ状態なんですよね。その様はまさに、自分はまだ若くて社会の一員になりきれていない様子に加えて、そのようなリア充なジュース達(勝ち組)達に対する小さな嫌悪感を投影しているようです。  そんな中、語り手は売れ残ったブラックコーヒーを買ってしまいます。今まで避けていた筈のブラックコーヒーがここではなぜか弾きものの自分と、同化して見えてしまったんですね。(ブラックコーヒーは日本の自動販売機とかを見るとわかりますが、暑い夏の日とか本当に売れ残っちゃうんですよね)  そこで久しぶりに手に乗ったブラックコーヒーを飲んだ時にブラックコーヒーの「苦さ」から「優しさ」という概念を獲得するんです。  これはどういうことか。  「おとな」になるというは、苦さを楽しめるようになるということなんですね。これは、青年漫画と少年漫画の違いについて鳥嶋社長が白泉社のインタビューの中で答えていますが、精神年齢が上がるということは、人生の中にある苦さを、楽しむことができるようになるということだと思います。  語り手は、今までブラックコーヒーの表面的な味しか掴めませんでした。苦い物はいやだ、説教や罵倒はいやだ、働きたくない、逃げたい、おとなってなんなんだ、なんであんなに我慢して仕事して生きてるんだみたいに、「知ろうとする事」から逃げて何もかも分からん分からんと拒否反応を示したり、理解する事を反抗し、拒もうとします。    ですが、いざ、自分がおとなになって、初めてブラックコーヒーを飲んでみたら、それが美味しかったんでしょうね。そして、大人達がなぜブラックコーヒーを好んで飲んでいるのか、という事を一瞬で悟る訳です。ブラックコーヒーの持つ苦さが、自分の中にわだかまっていた「苦さ」っていうの教えてくれる。  つまり、「知ろうとしなかった」自分に対して、ブラックコーヒーが「おとな」というものを「教えてくれた。」そこに優しさがあるわけです。ここに「同情の味ではいい表せないほど」というニュアンスの隠し味があるわけですよね。  反抗期の自分に対して、文明が差し出したいっぱいの缶コーヒー。それが教えてくれたおとなという立場、それがブラックコーヒーの工業的な辛酸のイメージを掻き立ててきます。  幼い頃おとながマグカップに淹れてくれた暗闇の味を表層的な理解から、おとなになる事で、深く知る事ができる。つまり、この語り手はブラックコーヒーを飲むことによって、おとな=辛酸を知ったのです。おとなになるという事は、その人生を、渋みを知りながら、受け止めて、それらを人生の味わいとして感受しながら長い道のりを生きていくだと悟るんですね。  その結果表層的な「トラウマ」としてあったブラックコーヒーというほろ苦さが、おとなになりかけの語り手の心をすくってしまったのです。  それが本作の最大の見所であって、僕が押したい理由です。書いてあることはただおとなになってブラックコーヒーを飲んだ、ただそれだけ。ですが、それを単なる二項対立に収めず、ブラックコーヒーをブリッジにして人生における苦味の獲得を多層的に、立体的に描いています。本作を読んだ後に、BOSSのCMを見ていただければ、よりそのニュアンスが伝わるのではないでしょうか。

奏熊ととと@所詮詩書き (2017-06-12):

>>朝顔様 ありがとうございます。 このように些細なことから膨大にストーリー作る。 このスタイルで今後行こうかと思います。 >>花緒様 自分の経験と言うと自分はバリバリ中学生の頃からブラックコーヒーを飲んでいます。 しかし、この詩はあるきっかけがあって作られました。 そのことについてはいずれお話しします。 >>まりも様 ある意味あえての表現でもあります。 >>るるりら様 ありがとうございます。 その時はブラックコーヒーと共に思い出してみてください。 >>夏生様 幼い時の私は実はどうでもいいことに疑問を追求する子供でして、 大人になった今でも自分はこういうことをずっと考えてしまいます。 >>百均様 この度は感想と解説を頂きましてありがとうございます。 私の思いと多重構造の策が行き届いてすごく嬉しく思いました。 そして、最後にこの作品で私が伝えておきたかったことを述べたいと思います。 私が知りたいのはこれを読んだ読者が今度はブラックコーヒーを飲んだ時、どのように感じるのかを知りたい そういう意味では実験詩になるのかもしれません。


鼓と 雨垂れのつづき   

みいとかろ 
作成日時 2017-05-25
コメント日時 2017-06-11

 

喉の終わる空間は 実際に晴天だった 鳥類図鑑が一頁ずつめくられ ホイッスルが様々に甲高く鳴る。 ふくらむ胸のなかで 細かく往復するコルク球。 雲間のかなた 化繊の糸に吊られた 釣針が垂れてくる 本当にゆっくりと まっすぐに もぐらの鼻先へと触れる。 灌木と風の合図で集まってくる左腕が しかし 表そうと挑む仕草はさざ波だった。


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田中恭平田中恭平 (2017-05-25):

短い詩編であるけれど、ここまで暗喩に凝った詩は好き嫌いがわかれそう。 もぐらの登場でひっかかりがありつつ、現代日本のゆるさを考えればアリか。 反対にこの短さだからいいのかも知れません。 反対に長いと辟易してしまいそうで。 最後の一行が前行とのつづきだけれど、一応意思表明として 感情が読み取れる。そこを救いとして数度読んだけれど、面白かったです。

みいとかろみいとかろ (2017-05-25):

田中さん 暗喩を、暗喩の表層のままに受け取らなければ、おそらくこの作品は駄作と読まれるだろうと思います。暗喩の意味するふかみへ手をつっこむのではなく、表現の表面を撫でてその凹凸や質感を、味わってもらえれば。 それゆえ、ご指摘頂いた通り、長すぎてはダメだと私も思います。手のひらに乗せることができ、頭からお尻まで一度に撫でられる程度の長さが最適かと思います。そうすれば、何度も撫でることができるから。 コメント嬉しく思います、ありがとうございます。

朝顔朝顔 (2017-05-26):

これとても好きです。エロティックな雰囲気を感じるのは、私だけでしょうか? 何となく、西脇順三郎の世界を思い出すのですが。 >ふくらむ胸のなかで/細かく往復するコルク球。 >しかし 表そうと挑む仕草はさざ波だった。 この三行がとても好きです。いい詩をありがとうございます。

みいとかろみいとかろ (2017-05-26):

朝顔さん 最後の行は自分でも気に入っています。この詩は今年初めごろか、昨年末頃にかいたものなのですが、西脇順三郎、もしかしたらこの詩を書いたとき、ちょうど読んでいたかもしれません。 コメントありがとうございました。

なかたつ (2017-05-27):

 こう言ってはつまらないですが、この作品を一言でまとめるならば、雨後の動きを示したのだと捉えました。ただ、例えるならば、それがシュールレアリスムの絵画のようになっています。  冒頭、ミクロな空間で起こる晴天から、マクロな世界へと映像が切り替わります。スタート地点のカメラが喉の中にあって、口の外へと拡がる空間へと飛び立つように。そして、そこでは、「鳥類図鑑」の中から鳥が羽ばたいています。そして、映像は改めて身体の中へ、胸の中へと移り、おそらく今入ってきたのではなく、元から内包されていたコルク球が蠢いています。再び、映像は身体の外、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、雲から釣針が垂れてきて、気づけばもぐらがいる地上へとたどり着きます。おそらく、これはしとしとと降り続けていた雨のことを指しているように思えますが、この表現方法が単純に面白かったです。そして、終には、地上を歩いているだろう人の左腕に視点がフォーカスされ、蠢く左腕を「さざ波」と表されているのでしょう。それはきっと、「雨垂れ」によって、地上が水で満たされており、その地上より高く、灌木より低くある人の左腕が地上の水の表面となっているから、左腕がさざ波に見えるのでしょう。(萩原朔太郎の作品にも、人ごみ、人のあたまだったかを波に喩える作品がありますね)  この作品の語り手は心情を語るのではなく、カメラとしての役割を徹底しています。意味を伝える作品ではなく、イメージを伝える作品として、純粋に楽しめました。特に釣針がもぐらの鼻先に落ちるところですね。

みいとかろみいとかろ (2017-05-28):

なかたつさん コメントありがとうございます。僕のばあい、インプットするときもアウトプットするときも、映像を経由するのだとおもいます。音や匂いよりも、視覚です。作品も視覚的イメージに依ってるかなと思います。 もぐらのあたりは、人により+にも−にもなるようです。勉強になります コメントありがとうございました

まりも (2017-06-08):

冒頭は、天空の女神(エジプト神話に描かれているような)が空の東から西へ、大きく体をアーチ状に展開していて、その喉・・・の先の胸は青空、そんなイメージでした。 鳥類図鑑から、めくられるたびに飛び出して行く鳥たち、のようにホイッスルが鳥の声をなぞり・・・コルク球が上下しているイメージと、なぜかラムネ瓶のイメージが重なりました。 空から地上のもぐらへと連なる、一本の糸のイメージ・・・左腕がさざなみとなっている景に、なぜかワンピースの(誰でしたっけ)考古学者女性の、あのわらわらと腕が波立っていくイメージを重ねつつ・・・う~ん、これはシュールレアリスム絵画、のような面白さ、がある、けれども・・・壮大な空間も感じるけれども・・・ぶっ飛び過ぎ、ではないか?という(伝達性、という一点において)印象はぬぐえないですね・・・。

みいとかろみいとかろ (2017-06-10):

まりもさん。 これまで自作について頂く感想では、「よくわからない」とか「つかみどころがない」というものが多くて、「イメージは面白いけれど、手渡されるものがない」という或る方から頂いた感想が、いまのところしっくりきています。 ビーレビでは、たぶん同じような意味で「ぶっ飛びすぎ」というふうに指摘を頂きます。みいとかろぶっとび問題です。 この作品については、ぶっとび加減がすごく好きだなあと自分では思っていて、変な言い方ですが、調和のとれたぶっとびだなぁ、と思っています。完璧ではありませんが。 ぶっとび問題、どう消化すべきか、かなーり重大な問いになりそうです。 コメントありがとうございましたっ。

あおのみどりあおのみどり (2017-06-10):

かろさんの詩は以前から読んでいますが、短詩が持ち味であると思います。今回の詩も、かろさんにしかかけない詩ですね。 暗喩等の理解を超えて、そのことがとても大切だと感じています。誰にでもかける詩ではないこと、それは意外に難しいことです。かろ流を極めてください。

みいとかろみいとかろ (2017-06-10):

あおのみどりさん。 理解できるようには書かれていなかったり、理解することがナンセンスだったりする作品かもしれません。理解よりも好みに訴えるタイプ。好き嫌いに依存する作風。 わかってもらうための工夫を、どのくらいいれるべきか、その匙加減を学びたいなと頑張ってます。 コメントありがとうございますっ!

5or6(ゴロちゃん。) (2017-06-11):

この、意味のない、というスタイルを貫くのか飽きるのかその先を目指すのか、で作者が意味あるものになります。 もぐらの鼻先、可愛い。 そんなイメージが残りました。もぐらの鼻先、なんか湿ってそう。触りたい。次回もなんか可愛いイメージを一つお願いします。


私達が隠者になる日   

鈴木 海飛 
作成日時 2017-05-31
コメント日時 2017-06-10

 

戦争なんて…と続く言葉を 蝿の雲がかっさらっていった 目の前の、畳の上のうめき声も羽にのまれてく かたわらに雲をながめる少女 包帯の交換とうじを箸でつまんで皿の上に集める日課をくりかえす小人の戦争 海のそばにあるちいさな家のなかで 黒い雲がだんだんと勢いをましてゆく かまどで煮える包帯がもくもくとけむる ちいさな家をとじこめているようでした。 四六時中、腹をおさえて なんて惨めなのだろうと柱にもたれる ざらつく新聞と油ぎったネットニュースが毎日流れるだろう。 少女の口のなかに隠れている私達。 蝿の雲に煙を巻かれてるかのように いずれおちゆくさだめならば なんのためにうたってきたのだろうか 上等な皮肉をつくりあげるためにうたってきたのだろうか 口のひらけぬ少女のもどかしさ、口惜しさ いかばかりかならむ。


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るるりら (2017-05-31):

おはようございます。 絶句でございました。 世界情勢は雲行きが 日々あやしいというニュースが流れていますね。 わたしは広島で育ったので、蛆との格闘 蔓延する蠅が生活を覆っていた話を多く聞いて育ちました。わたしが 書けずにいる 漠然とした不安が、この詩には描かれており 驚いています。 今の うちに 言うべきことは、ないのか!と、いう気概を得ました。 重箱の隅をつつくようなことを ひとことだけ言います。 ≫包帯の交換とうじを箸でつまんで皿の上に集める ここが「交換とうじ」に読めてしまうので、すこし わかりにくいと思います。 包帯の交換で 蛆を箸でつまんで 皿の上に集める。ですよね。 私は広島で育ったので 蛆が わいていた話をよく聞きました。 あまりに繰り返し聞いてきた話です。ですが それを私が書こうとしたことは ありませんでした。 書くべきことだと思います。聴こうとすめことだとも 思います。 口のひらけぬ少女と 比喩されている人々の思いとはいかばかりかということを書いておられる、 この詩のこの言葉の率直さに、詩人が ここにいると感嘆しました。

るるりら (2017-05-31):

えらそうですみません。 言ったはしから誤字を しました。 × 聴こうとすめことだとも  〇聴こうとすることだとも  です。(陳謝いたします。)

まりも (2017-06-08):

「戦争なんて…と続く言葉を 蝿の雲がかっさらっていった」 変形86体のような、独特の韻律の持つ陽性の軽さと、戦争、蠅、という言葉の重さ。 蠅、と打ちかけて「南風」という文字も出てきたのですが・・・なぜ、蠅?と思ったところで、 「はだしのゲン」に出てくる重傷者の姿が浮かび・・・蚊柱のように、真黒に蠅が雲のように立ち昇る末世を想像しました。 核戦争後の世界、各々の家から、大量の蠅が空に舞い上がっていくような・・・。 「なんのためにうたってきたのだろうか 上等な皮肉をつくりあげるためにうたってきたのだろうか」 歌い手を口に含んだまま、口を開けない、開こうとしない少女・・・ 「詩」が肉体を得たら、少女の姿をとるかもしれません。 しかし、今、詩が大量の蛆に蝕まれているとしたら・・・ そんなことを考えさせられる詩でした。

鈴木 海飛 (2017-06-10):

やぁ、るるりら様。コメントありがとう。 反戦というより、 もし戦争が始まるなら歌っておこうと思って書きました。あとから、文句をいうのは嫌だし、掲示板で隠者となって文句をぐっちかぐっちと垂れ流すのはやだなー。と思ったのです。どのみち、戦争が始めれば、我々はいずれ、掲示板で書き込む自由くらいしかのこされていないのかもしれません。ふふふ。 それが、隠者になる日です。

鈴木 海飛 (2017-06-10):

まりも様へ つい、この間、まりも様の真似してコメントたくさんつけてみました。もちろん、自分が気になった作品にしかつけれなかったようです。 まりも様の視野の広さに憧れますね。もし、私がそんな風に色んな人に感想書けたら素敵だなと思いましたよ。 うん。素敵だよ。 さて、詩に群がる蛆とは、ふふふ。ずいぶん、詩とは難儀ですねぇ。 しかし、蛆は腐ったところにしか発生しません。宿主が生きていようと死んでいようと。 詩は音楽に栄養を吸いとられて餓死寸前だと話を聞いたことがあります。あれから、半世紀たったいま。 詩は肉も食われきって、まわりに蠅が飛んでいるでしょう。 さて、そこで残ったのは骨でしょうね。 どんなに有名な詩人の詩でも無名の詩でも 私にはよめば詩の骨はもっている現実があるとおもいます。その詩に血肉はかよわなくともです。 B-reviewに投稿したきっかけのひとつで 詩が絶滅するのなら、 せめて「狂」でもいいから進取の波にいたいと願ったような気がいたします。 もしくは、私は狂の人々の腸の中のうんこでぎょう虫のようにぬくぬくしていたいだけかもしれません。 ただ、そう。 振り返っているほど、 後悔やら悩んでいる猶予もないほどの速さで 詩が絶滅するのなら どこでもいいなと思いつつ うん、ここで、私は遊んでいこうとおもいます。 感想ありがとうございました。


イヴ・サンローランのフランス   

fiorina 
作成日時 2017-05-25
コメント日時 2017-06-10

 

 フランスが揺れている。フランスを愛する人びともまた悲しんでいる。誰がその最初に悲しみの一粒の芽を蒔き、それから誰が、怒りで我が身を噛み切ったのか。私にはわからない。ただ、どちらも思いの発露、「表現」だと言うことに愕然とする。          *  イブ・サンローランとピエール・ベルジェの暮らした部屋を、日がな見ている。(※ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」) どんな王宮にもない、怖ろしいまでの蠱惑がここにある。服飾デザイナーとして世界に君臨し、形状、そして何よりも色彩に生涯を掛けたサンローランが、(パートナーの)ベルジェとともに一つずつ買い求め、壁に掛け、配置した部屋。ここにあってさえなお深い苦悩から逃れられなかったサンローランの痛みを秘めたまなざしのように、カメラは濃密な時と空間に時折たたずみ、対話し静かに移動していく。これもまた彼(ら)の作品であり、サンローランの死後、ペルジュによって、解体され競売に掛けられるそれらは、表現のもうひとつの運命を暗示している。  年二回のコレクションの発表は、デザイナーを想像を絶する心身の苦役に追いつめるという。その渦中で、サン・ローランは自己の作品を疑い続けた。喝采は一瞬の夢、次の瞬間葬列となるのだ。若い才能あふれるときには歓びそのものであったチャンスが、名声と引き替えに、己に向かって突きつけてくる刃、責め苦となるとき、生きることと死すこと、そして表現は初めてひとつのものとなる。 白い誘蛾灯に絶え間なくぶつかっていく羽虫たち。そこから逃れることもまた死なのだという直感。          *  かつて9・11のテロの翌日、イギリスキューガーデンのシャルロットの庭を見た。そこで、死の病を得ているらしい庭師の少年が、掘り起こした紫の花株を手に、新しく植える場所を物色していた。傍らのベンチで老婦人がひらく新聞には焼け落ちる世界が映しだされていた。少年は黙々と彼の庭に彼の心を表していた。彼が配置し、育て、染め上げた心の色を、今というこの瞬間を、何者も破壊することは出来ないと知っているかのように。世界は表現する。そのことから逃れられないことの絶望として希望として、何故とも知らずこのようにここに私は在ると。


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花緒 (2017-05-26):

パリでもテロがありましたね。パリ、ベルギーなどはやはりISのターゲットになりやすいようです。専門家によると、今後も、フランス界隈でテロが起こる可能性が高いとのこと。フランス社会は比較的、分断しやすいとテロリストから目されていると聞きます。その要因について私ははっきりしたことは分かりませんが、フランス文学など見ても、反社会的、脱社会的なセンスのものが、フランスでは評価されやすいのかなと思いますし、ファッションやそのほかの文化面を見ても、なんというか、良くも悪くも、全体主義的なまとまり方が難しい国なのかなとも思います。反ユーロ勢力も仏内では力を増しており、先般、無事マクロン政権が誕生しましたが、やはり総選挙でも反EUを掲げるルペンを支持する向きも相当強かった。文化面での成熟と社会の脆弱さ、そんなことを考えました。

fiorina (2017-05-27):

花緒さん、ありがとうございます。 ひとつには、ヨーロッパは多くの移民と共存していると言うことがありますね。 理解と無理解のるつぼという印象があります。 たとえば、フランス人の乾いた鋭いユーモアに、「どうしてそこで笑えるの?」と、鈍感な私でさえナイーブになることがありました。 どの国にもそれぞれの自己表現の仕方がありますが、その差異が許容できるときと、深く根を残す場合があったのではないかと、 一連のテロ報道を見ながら感じていました。 問題の根は、もっと凄く深いかも知れませんが、思いもかけない浅いところから深まっていったのかも知れません。 笑いの質が違う、と言うような・・・。 フランス文学も映画も、最初はえげつなさを苦手としていましたが、最近はそのすべてが好きになっています。 ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」には、フランスの表現が余すところなく描かれていました。 見終わってとくに感じたのは、彼らの勇気と信念でした。 テロも犯罪も、それぞれの当事者にとっては自己表現ですね。 今生きているすべての人、(だけでなく動物や植物、この宇宙さえ)おのおのの自己をあらん限り表現している。 それがこの世の姿だという気がします。 でも、この混沌の世界で「イヴ・サンローラン」の【表現】が私は好きだ!大好きだ!と言いたかったんですね、きっと。 そして、「シャルロットの庭」の庭師の少年が。

まりも (2017-06-08):

「白い誘蛾灯に絶え間なくぶつかっていく羽虫たち。そこから逃れることもまた死なのだという直感。」これは、個人としての芸術表現、個の世界の表出を求められる(強制される)現代の表現者の孤独なのかもしれません。 「シャルロットの庭」の少年は、世界が続いていくこと、を知っている、信じている。自分が死した跡にも、「世界」が滅びないことを知っている。逆に言えば、自分が死ぬことで、世界を終わらせることも滅ぼすこともできない、そのことも知っている。 テロリズムに追い詰められていく人は・・・自身の死で、世界を変えられる、と信じている(信じさせられている)のでしょうか。誘蛾灯に惹きつけられて死んでいく羽虫たちのように、自分の世界を作る、理想の世界を作る、という「表現」に追い詰められていく若者たち・・・。 芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。 テロリズムもまた、悲憤の究極の表現である。芸術の創造もまた、表現である・・・ということから受けるショックを、どうとらえ、どのように言葉にして保存しておくのか・・・。 詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・ その時の心を写真集に収めた(写心集?)印象を受けました。 それぞれのテーマを、一生かけて(それでも解けないかもしれないけれど)考えていかねばならない。そんな、いくつもの問題点を含んでいる、と思います。 含んでいる、とは思いつつ、その時の心をとりあえずメモ書きのように書き留めた、という、まだナマな素材、という印象が残りました。 重いテーマですが、考え続けねばなりませんね。

fiorina (2017-06-09):

まりもさん、ありがとうございます! コメント全文を頷きつつ読ませていただきました。 >詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・(まりもさん) この小文は、フランスでの最初のテロのショックが続いた頃書きました。 すでにそういう兆しはあったのでしょうが、蓄積したエネルギーが小さな亀裂から噴出したような「シャルリー・エブド」と呼ばれた、フランスだけでなく世界が震撼した襲撃事件です。このとき、(一国の元首や宗教的指導者が、外見や習癖を大きくデフォルメして表現されつづけていたことが、引き金になったと想定され)「表現の自由」が現地の報道で取り上げられました。 このフランス流(に限りませんが)のユーモアは、多くの芸術?の中で苛烈に表現されています。 日本を含め、アジアの人々、国民性も例外ではありません。 けれども、彼らは他者を嗤うのと同様か、それ以上の情熱で自国や自分たちの外見や習癖をあざといまでに描き、嗤い、笑っていた、それが私の印象でした。たとえばオペラや演劇で、カエルを食し、近隣諸国からカエルと揶揄されるカエル王国の物語を、大笑いしながら演じ鑑賞するのです。どこの国にも負けない頑固な愛国心を持ちつつ、【表現】【その自由】において屈しないと言うことも、譲れない自尊心、誇りとなっているように感じました。 けれども、それが他者の誇り、自由を根底から揺るがすとき、【表現の自由】とは何か? (日本にも、「恥辱」や「汚名」のために殺し殺された時代があったと思います。) 国家や民族のレベルでも、個人のレベルでも、ネットの時代はなおさらに。 >「芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。」(まりもさん) そうですね・・・。社会的な狭義の「表現者」と言うことでは並列できないと思います。 ここでは、一本の草木、蝶やトンボや星々でさえ、あらん限りの自己を表現しているという日々の実感を込めて、あえて問いかけたい気がしました。 その上で、 >少年は黙々と彼の庭に彼の心を表していた。彼が配置し、育て、染め上げた心の色を、今というこの瞬間を、何者も破壊することは出来ないと知っているかのように。世界は表現する。そのことから逃れられないことの絶望として希望として、何故とも知らずこのようにここに私は在ると。(作品引用) わたしたちに与えられる次の瞬間は、ここに存在させたものからの遙かなる贈り物であり、今という瞬間はわたしたちがそれを全身で受け取った証しだと思います。与えられそれを受け取った、今を生きている私はそこに十全に存在し、(次の瞬間が何であろうと、)この今において失うものは何もない、と言うのが引用部分の実感です。 まりもさんのコメントは、いつも新しい世界を開いてくださいます。 ありがとうございました。

天才詩人天才詩人 (2017-06-10):

Fiorinaさん、ご投稿ありがとうございます。取り急ぎ連絡のためここに書かせていただきます。もう一作のアタと建築を扱った詩なのですが、たいへん印象的な出来でありぜひ取り下げないでいただきたいと発起人一同考えております。何かあればいつでも発起人いずれかのツイッターかbungokureview@gmail.comまでご連絡ください。どうぞよろしくお願いいたします。

fiorina (2017-06-10):

天才詩人さん ありがとうございます。お言葉を受け、「アタの涙」の最初の投稿を少し修正加筆し、投稿作とさせていただくことにしました。ご配慮、ありがとうございます。


アタの涙   

fiorina 
作成日時 2017-05-25
コメント日時 2017-06-10

 

 9・11アメリカ同時多発テロの実行犯であったアタという人物は、建築学を学ぶ若い陽気な学生であったという。爆撃により、イスラムの美しい建造物が破壊されるのを憤っていたと、当時のNHKのナレーションはさりげなく伝えた。犯行後世界に広まったパスポートの写真は、あごの張った四角い意志的な顔であったが、同時に紹介された学生時代のアタの写真はスリムで、まぶしく世界をみているような魅力的なほほえみを投げかけていた。  一つの建造物が破壊されることに対するイスラムとアメリカの違いはどんなものだろう。(テロリズムを擁護するつもりはかけらもないが、)様々な歴史のもつれ、要因を捨象して、今そのことだけを考えてみる。  その財力でいつでも失われたものを再現できる国と、ひとたび失われれば二度と(あるいは自分の生存中にはまず不可能に)相まみえることのかなわない国と。  そして何より、建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。 9・11のあの日の真っ青な空は、私にはアタのこころに映る。標的としてアメリカの建築の象徴を選んだ彼らの伝言を、私はわき上がる涙とともに心密かに受け取った。


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花緒 (2017-05-26):

上手い文章だと思います。勉強させて頂いています。もし本作が英語で、アメリカで発表されていたら、また違う読まれ方をしたかもしれませんね。私は米国で暮らしたことがありますが、911は、日本人にも強いインパクトを与えましたが、アメリカほどではないとは思います。自国が攻撃を受けたわけではないですし、日本で、イスラム原理主義によるテロはまだ起こってはいない。面白い一作だと思いますが、強いていうならば、この文章が、日本語で、日本人によって書かれる意義が書き込まれていたら、もう一段、強い作品になった気がします。

白島真白島真 (2017-05-26):

fiorinaさん、こんばんは~(^^♪ 妙なところでお会いしましたね^^ この作品、昨夜拝読し、しばし考え込んでいました。 既に昏迷期に入ったとも思えるグローバリズム、資本主義の代表であるアメリカと、その対極にあるイスラム。 おそらくこの作品は同時投稿の『イヴ・サンローランのフランス 』と対をなすものなのでしょう。 卓越した表現力で見事に事象の断面を切り取ってみせるfiorinaさんのことですから、 いろいろ熟慮した末の作品であり、投稿と思われます。 この1~2年、アメリカやイスラムに関する著書をかなり読んできましたし、 大資本のなりふり構わない構造や、医療、戦争さえ金に換えてしまう無軌道ぶりには呆れるばかりです。 しかしながら、作品として見た場合、 9・11を「真っ青な空は、私にはアタのこころに映る」と表現し得るものかどうか 私には一つの疑問として残ってしまいます。 それは、どちらに視線を置くかという以前に 政治的な問題を情緒的問題に果たして置き換えられるのか、と思ってしまうのです。 難しい問題です。 アタの立場に立てば共鳴する自分と、9.11の3千人以上の犠牲者の阿鼻叫喚を思い起こせば 青い空はたちまち消えてしまう自分がいます。 花緒さんがおっしゃったような「日本語で、日本人によって書かれる意義」もお聞きしてみたい気もしております。 これは批評、批判というより、問題を抱えてしまった迷える子羊の繰り言と思っていただいて結構です。 駄文、失礼いたしました。

fiorina (2017-05-26):

花緒さん、いつもありがとうございます。 白島さん、こちらでもよろしくお願いいたします。 こうしてじっくり語り合えるのが、とてもうれしいです。 お二人に一文でお返事させていただきますね。足りないところがあれば、再度お返事したいと思います。 ***     ***     ***    ***    ***   *** 2011年9月11日、ちょうどアメリカで同時多発テロが起きていた時間だと思いますが、フランスからイギリスへ向かう空の上にいました。翌日になってはじめて知ったのですが、イギリスのヴィクトリア駅の大画面がすべて真っ赤に炎上していました。(「シャルロットの庭」と言う文章にその日のことを書きました。) 同じ空で起きた偶然と旅先で知ったと言うことで、強い印象が今でもあります。数日後、南仏に帰ったとき、語学留学に来ていたたくさんのアメリカの少女たちがテレビを見て泣き崩れていました。私はすでに一年滞在していて、アメリカ人の親しく言葉を交わした少年たちもいて、(留学期間を終え、彼らはすでに帰国していたので、)その人たちは無事だろうかと気に掛かりました。 私がこの文章を書いたのは2004年頃で、事件の数年後にNHKの追跡ドキュメンタリーを見たことがきっかけです。 私は暴力が生理的に嫌いなので、どんな事情があれテロを肯定することはありません。 アメリカの知人たちのことを思いながらテレビを観ていたのですが、「アタは建築を学ぶ若い陽気な学生で、爆撃によってイスラムの美しい建築物が破壊されるのを憤っていた」というナレーションを聞いたときに、とつぜん涙がこみ上げてきました。一瞬にして、一人の「陽気な」学生の心の軌跡を見せられた気がしたのです。私も大好きなイスラムの美しい建築と、やがてその建造にみずから携わろうと夢見ていたアタの、踏みにじられていった心が見えた気がしました。 人の命だけでなく、建造物もまた生命を持ち、ときには祈りと魂の象徴であり、そこに暮らす人々の生きる時間そのものだと言うことをそのときに一層強く想いました。 とはいえ、アメリカの人々、日本の犠牲になった方々に対してこの文章はどんな意味を持つかと考えました。 そういうすべてをあえて捨象して、一瞬、強烈に、アタの心情に心を寄せた自分を、そのときそこにあった自分を書きました。 あの日の真っ青な空をアタの心に仮託させたのは、善悪を超えて、決意して死に突き進んだ人間が最後の瞳に映すものを、見たような気がしたのです。 日本の特攻隊の少年たちが、おそらく同じ青い空を目に焼き付けて逝っただろうと想像しています。

fiorina (2017-05-27):

上記のコメントで、2011年と書いたのを2001年に訂正します。

エイクピアエイクピア (2017-05-27):

アタと言う人の名は何か聞いたことがある様な気がします。エジプト人の建築家で、同時多発テロで飛行機で特攻をかけた人、WTCに。もう9・11を考えるとイメージ喚起力がありますね、他にWTCに突っ込んだイスラム戦士たちを調べて見たくなりました。

fiorina (2017-05-27):

エイクスピアさん、コメントありがとうございます。 アタが、建築を志したのにもかかわらず、建築を破壊したと言うことにも隠れたドラマを感じますね。でも、そこに戦士、と言うことばが入ってくると、私が書いた文とはかけ離れたものになってしまい、やはりこれは出すべきでは無かったという思いに駆られます。この文章に対するコメントはこれまでとしてくださるよう、勝手ながらお願いいたします。申し訳ありません。/

fiorina (2017-05-28):

追記です。 エイクピアさん(お名前間違えていました。ごめんなさい。)のコメントによって、白島さんが書かれていたことが理解できました。 たぶんエイクピアさんは、機動戦士ガンダム、とかそういう世代で、戦士もそういう感覚で使われたかも知れませんね。 戦士ということばにナイーブになった原因は私自身にあり、もともと迷いのある投稿だったのだと思います。 コメントをいただいているので、削除にはしないでいようとおもいますが、削除扱いとさせてくださるよう、スタッフの方にお願いいたします。 しつれいしました~

まりも (2017-05-28):

fiorinaさんのコメント欄の、〈「アタは建築を学ぶ若い陽気な学生で、爆撃によってイスラムの美しい建築物が破壊されるのを憤っていた」というナレーションを聞いたときに、とつぜん涙がこみ上げてきました。〉この部分に、個人としての詩情があるのではないか、と感じました。 政治的にも倫理的にも、どうしても許容できない犯罪に、なぜ、この青年は駆り立てられたのか。その罪を断罪するだけでは、憎悪と悲劇の連鎖は永遠に終わらない。 ただ、地球規模の貧困、教育や文化などの習慣に対する無理解や差別、異文化(特に宗教)に対する葛藤・・・異質なものを恐れたり、排除したりする、人間に本能的に根差す感情を、理性で抑えて「文明」や「文化」は成立するのではないか。 しかし、個人の抒情は、また別の場所にあると思うのです。 〈建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。〉ここで詩を止めてもよかったかもしれません。 極めて理智的な文章であるがゆえに、あえて抒情を排して(背後に潜めて)問いを即物的に投げかける。 青空という、希望や爽快感を象徴するイメージと、テロリストが歪められた正義によって得る達成感とが重なってしまうかもしれない最終行を重ねるのは、作者の意図とは異なる方向に誤読される可能性があるかもしれない、と感じました。 ニュースを聞いた時に、涙があふれた、という「事実」を、感情や感慨を交えずに途中に書き込み、文章はあくまでも理智的に、問いを投げかける形で終始する。政治問題を抒情や感情に還元せず、あくまでも理智の段階で受け渡しをして、その後、受け止め手の心の中で情感が生まれるのにゆだねる。そのような方法もあるかもしれない、と考えました。 難しい問題ですが、削除して「なかったこと」にするのではなく、もっと多くの人が読み、考えてほしい問題だと思いました。

まりも (2017-05-28):

追伸。「アタの涙」だと、作者がアタに共感し、彼の代わりに流した涙、ということになりそうですが、それでよいのでしょうか・・・むしろ、題名は「アタ」のみの方が、fiorinaさんの意図に沿うような気がしました。

fiorina (2017-05-29):

まりもさん、コメントありがとうございます。 >〈建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。〉ここで詩を止めてもよかったかもしれません。 >青空という、希望や爽快感を象徴するイメージと、テロリストが歪められた正義によって得る達成感とが重なってしまうかもしれない最終行を重ねるのは、作者の意図とは異なる方向に誤読される可能性があるかもしれない、と感じました。 >ニュースを聞いた時に、涙があふれた、という「事実」を、感情や感慨を交えずに途中に書き込み、文章はあくまでも理智的に、問いを投げかける形で終始する。政治問題を抒情や感情に還元せず、あくまでも理智の段階で受け渡しをして、その後、受け止め手の心の中で情感が生まれるのにゆだねる。 >追伸。「アタの涙」だと、作者がアタに共感し、彼の代わりに流した涙、ということになりそうですが、それでよいのでしょうか・・・むしろ、題名は「アタ」のみの方が、             (まりもさん) 自分でも懸念していた部分と、思いもかけない示唆をいただいた部分とありましたが、全体として見事に指摘していただいたと感じています。 ありがとうございます。 911は陰謀論なども早くから取りざたされており、アタが本当に実行犯だったのかも今となっては私自身疑問に思うところがありますが、2004年当時は上記の報道をそのまま信じていました。そのときのひとつの時間ひとつの場所として、今回細部の修正のみで投稿しました。 じつはパスポートの写真とされるものをはじめてテレビで見たとき、この人は最後の瞬間にも涙しないだろうと言う印象を持ちました。それは今でも変わりません。にもかかわらず、「アタの涙」としたのは、涙を流さない人が体の中で流してきた涙のイメージを込めたと思います。本来創造者である人が破壊者となるには、まず自分自身を破壊しなければならないだろうからです。それでも、読者を信じるという意味でも、センスとしても、タイトルは「アタ」だけがいいですね! 告白すると、長年、私はこの一文に愛着以上の執着を持っていました。 それが最終連で隠しきれずに出てしまって、「政治問題を抒情や感情に還元」となっているのでしょうね。 抒情、感情の他に、「一人の人間の死の瞬間には他の何人も立ち入ることができない」というような宗教的な感慨もどこかにありました。 そういう想いを独りよがりに優先して、繊細な問題についてあえて書くときの配慮が足りなかったと思います。 ありがとうございました。

花緒 (2017-05-29):

取り下げ扱いの方がいいのでしょうか。論じるに値する作だと思いますし、取り下げを希望されるならそうしますが、どうしたもんやら、という部分があります。正直なところ、アメリカの同盟国である日本においては、古くはサイクス=ピコ協定から始まって、昨今では、イラク戦争の失敗や、シリア騒乱への不適切な介入など、欧米の中東政策の欺瞞が、殆ど報道されていないので、作者の意図を超えて政治的な読まれ方をする場合があったとしても、この種の表現というのは、あって然るべきかなと思いますし、別段、政治的な読み方しかしえないということはないと思います。再びのレス、失礼しております。

fiorina (2017-05-30):

花緒さん お手数をかけ、すみません。 理想的にコメントがいただけたと感じています。 ありがとうございました。 このままの状態で取り下げ扱いにしてくださるよう、お願いいたします。

fiorina (2017-06-10):

スタッフの方へ お手数をかけ申し訳ありません。 以下の加筆訂正した文章を、本投稿として差し替えていただくようお願いいたします。 その上で、削除扱いとしていただくようお願いしたことを取り消します。 なお、履歴として最初の投稿も下欄にコピーしておきました。 アタ  9・11アメリカ同時多発テロの実行犯アタは、建築を学ぶ若い陽気な学生であったという。犯行後世界に広まったパスポートの写真は、あごの張った四角い意志的な顔だったが、同時に紹介された学生時代の写真はスリムで、まぶしく世界をみているような魅力的なほほえみを投げかけていた。 (※私は偶然あの日のおそらく同じ頃、パリからロンドンに向かう空の上にいた。事件を知ったのは翌日、立ち寄ったロンドン・ヴィクトリア駅の並んだ大画面が、すべて真っ赤に炎上していた。日本に帰国して程なく、NHKの追跡ドキュメンタリーがあった。フランスの寮生活で親しく挨拶を交わしたアメリカの知人の消息を占うようにして観ていたのだ。)  ナレーションがさりげなく「アタは、爆撃によりイスラムの美しい建造物が破壊されるのを憤っていた」と続けたとき、ふいに涙がこみ上げた。一瞬にして、イスラム建築を愛する、やがてその建造にみずから携わろうと夢見ていた、一人の「陽気な」学生の踏みにじられていった心の軌跡が見えた。 人の命だけでなく、建造物もまた生命を持ち、ときには祈りと魂の象徴であり、そこに暮らす人々の生きる時間そのものなのだ。  それらが破壊されることに対するイスラムとアメリカの違いはどんなものか。(テロリズムを擁護するつもりはかけらもないが、)様々な歴史のもつれ、要因を捨象して、今そのことだけを考えてみる。  その財力を持って平和裡にいつでも失われたものを再現できる国と、ひとたび失われれば二度と(あるいは自分の生存中にはまず不可能に)相まみえることのかなわない国と。  そして何より、建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。  今なお続く事件に対するあまたの憶測の中で、あの日崩れ去ったアメリカの建築の象徴と、死者と生者がともに見つめたあの真っ青な空が、変貌を遂げた世界の象徴として刻印されている。 「アタの涙 」(修正前) fiorina - 2017-05-25  9・11アメリカ同時多発テロの実行犯であったアタという人物は、建築学を学ぶ若い陽気な学生であったという。爆撃により、イスラムの美しい建造物が破壊されるのを憤っていたと、当時のNHKのナレーションはさりげなく伝えた。犯行後世界に広まったパスポートの写真は、あごの張った四角い意志的な顔であったが、同時に紹介された学生時代のアタの写真はスリムで、まぶしく世界をみているような魅力的なほほえみを投げかけていた。  一つの建造物が破壊されることに対するイスラムとアメリカの違いはどんなものだろう。(テロリズムを擁護するつもりはかけらもないが、)様々な歴史のもつれ、要因を捨象して、今そのことだけを考えてみる。  その財力でいつでも失われたものを再現できる国と、ひとたび失われれば二度と(あるいは自分の生存中にはまず不可能に)相まみえることのかなわない国と。  そして何より、建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。 9・11のあの日の真っ青な空は、私にはアタのこころに映る。標的としてアメリカの建築の象徴を選んだ彼らの伝言を、私はわき上がる涙とともに心密かに受け取った。


餌を押す   

羽田恭 
作成日時 2017-05-29
コメント日時 2017-06-08

 

餌を押す 給餌として 地味で重要な仕事の 牛は餌を散らして食べるから 食べやすいよう 散らした餌を押しまとめる 180頭の餌を 手が空いたらまた押す いつものごとく危機が叫ばれる今日 救難に向かった事のある昨日 どうなるかわからない明日 何もない事を祈り 餌を押す 日々の労働が祈りになればと 餌を押す 生きざまを決められない牛たちの 餌を押す 人の都合で生死が決まる牛たちの 餌を押す 召集され ライフルを人に向けなければいい また餌を押す


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花緒 (2017-05-29):

わたしはこの作者のセンスとかテーマ設定とかがとても好きなので、若干身贔屓が入っているかもしれませんが、やはり本作も良いと思いました。311以降、牛、という語は、管理社会の欺瞞を表す詩語になった感がありますね。明示的には、311は本作には関係がないのかもしれませんが、しかし、そういう風にも読めます。召集され、ライフルを人に向けなければいい、は重層的な意味が込められていますね。戦争で人を殺してるわけじゃないんだから、牛なんて何頭殺してもいいじゃんとも読めるし、牛は人にライフルを向けたり仕返ししたりしないんだからいいじゃんとも読める。反語的な締め方なのでしょうね。

羽田恭 (2017-05-30):

花緒さん、こんにちは。 実は自衛官時代に311の救援に行った経験があり、直接的でないにしろそれが少し入っています。 日常の光景ではあるのですが、牛を何頭殺しても良い、仕返ししない、という風にも読めますね。確かに。 危機が叫ばれる中、平和を祈り、牛の世話をする日々です。

仲程仲程 (2017-05-31):

日々の生業をたんたんとこなしていく。 ときには強い思いにかられながら、 詩の醍醐味で言葉が少ないので、いろんなふうに読めますが、 大事なことは何かと、誰にというわけでもなく、問うているんだろうな、と感じます。難しく考えると方にはとても大きな命題になるような。 まったく関係ないことですみませんが、ライフルの二行で、アメリカのキャンパス内で軍服を着た学生(おそらく兵学専攻)さんが、歩きながら足もとに咲いている花をステップでよけたことを思い出しました。 彼にもライフルを人に向けてほしくないと思います。 (あまあまなのは重々承知です) 餌を押す。僕は僕の日々の生業を続ける。 とても強い詩だと思います。

羽田恭 (2017-06-01):

仲程さん、はじめまして。 日々の地道な労働が平和に役立つものと思い、労働しております。 食料自給には貢献してますし。 ライフルを人に向けて欲しくない、これは大切な事と思いますよ。 たとえそうはいかないとしても。

まりも (2017-06-08):

言葉を刻んでいくリズム、 切りつめた進行、詩行の間に、時間が圧縮されているような印象があります。 今日、昨日、明日、なにごともないことを祈り・・・牛が食べやすいように、餌を押す。 餌を押す行為は、たとえば肉牛を一日一日、死へと近づけていく行為かもしれない。 しれないけれど・・・私たちもまた、一日一日、死に向かって生きている。 その時間を、どう過ごすのか。そう、問われているような気がしました。

羽田恭 (2017-06-08):

まりもさん、こんにちは。 確かに、牛を一日一日死に近づけているかもしれませんね。 でも、その牛のその一日を幸せにできるなら価値があるかなと。 自分たち自身もそうなんでしょうけども。 そんな気持ちも入っている詩です。 (世話しているのは乳牛ですけども)


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