B-REVIEW作品投稿掲示板


食べて下さい   

クヮン・アイ・ユウ 
作成日時 2017-04-22
コメント日時 2017-06-07

 

都会の路地裏 陽の光からも逃げ果せたその場所で、とおくとおくの空を見上げて勝ち負けの「負け」とか「虚しさ」を抱いて、幾世かが経過した ここにも時々温みはあって、例えばそれは地熱で、空調機から吹く風で 「光も届かないのにどうして?」なんて疑問も、久しぶりの温みに抱かれて気がつくと眠っていた 温かさは、直接私たちに降らなくても届く 世界の温みを冷たいところで感じられる 光は、きっと届かない それでも光は届かない すべての人々に平等に陽は射さず、「そんなこと何を今更」と嘲ける君にもどうかそこに居て欲しい 食べる食べられるの階層も知らない誰かが見ている じっと見ている そこにはカラス、イタチ、野良猫、生ゴミ、割れたガラス窓、錆びたボルト、ボルトの錆、なにかの粉、 命のそのあと、命いがいの その小さな窓から、沈没船内の天井すれすれで僅かな酸素を吸うみたいにして、昨日も生きていたんだろう? 俺は君を知っているぜ そこに届く言葉がないことも、届けられないことも俺は知っているぜ なぁ悔しいなぁ くらいやがれこの詩を 昼間くわれた俺が何もくわなくても排泄したみたいな詩だよ 「それってゴミでしょ?」 まぁまぁ、何もくわなくても排泄したみたいな詩だからほんとうだぜ なぁ、お前年中、年中その小さな部屋で季節感のない服を着て丸まって、大きな災害不幸を待ってるんだろう? その大きな毒素を出さなければ、もう死んでしまうもんな だからやさしいお前がそんなこと願ってるんだろう そんな浅い呼吸の日々で、お前今日まで生きていたんだろう? 俺は君を知っているぜ そこに届く言葉がないことも、届けられないことも、俺は知っているぜ 「俺を知ってくれ!」と現在未来に向けて叫んだ過去に 俺はお前を知っているぜ 「世界の温みは冷たいところで感じられる」とそいつが言った (嘘つけ!この気持ち知らないくせに) 光は、きっと届かない それでも光は届かない なぁ悔しいだろう?お前がこの詩を壊してくれよ 俺なんかがこんな気持ちにのせられて、詩なんか書かないでいられるように 「さよなら」なんか言わずとも、人はこれまでそうして来たし、「さよなら」が馴染むように美しくなんて生きられない 「さよなら」が口に浮いている だからわかるよな 光は、きっと届かない それでも光は届かない


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花緒 (2017-04-23):

リフレインを伴いながら、食べる食べられない、といった円環的な言い回しを伴いながら、作品が編まれており、興味深く拝読した。命のそのあと、命以外の、以降の連が、わたしにはやや冗長に感じられる。知っているぜ、の連投、生きていたんだろう?壊してくれよ、悔しいだろう?という呼びかけ。ひとつひとつはひと昔前のロックの歌詞のような言い回しであり、冗長さが目立ってしまっているような印象を受けた。初読の印象。

まりも (2017-04-23):

「陽の光からも逃げ果せた」このあたりの比喩は、上手いけれどオーソドックス、という感じですが、「幾世かが経過した」こういう飛躍が独特で素敵だと思います。 「地熱で、空調機から吹く風」都会、を新たな「自然」として生活する都市生活者の息吹を感じます。砂漠の岩場に住むチョウゲンボウが、都市の摩天楼に巣作りをして話題になったことがありましたが・・・そのような、肌身、五感でとらえる「都市空間」。 「ここにも~どうかそこに居て欲しい」の連は、口語体を導入しているから、かもしれませんが、若干、冗漫な印象を受けます。もっと刈り込むことも可能なのでは?抱いた疑問すらも眠っていく、というところは魅力的。 「食べる食べられるの階層」喰う喰われる、は、日常語ではないだけに、人に喰われる、資本主義社会の弱肉強食、といった比喩としても用いられることが多い言葉。食べる、食べられる、という日常的に、実際に食べる時に用いる言葉をあえて使うところに、生々しいリアリティーが出ているように思いました。 「そこに届く言葉がないことも、届けられないことも俺は知っているぜ」なんとなく、モタモタしたリズムという・・・言葉なんか届かない、とか、言葉を喰らって溺れちまえ、とか、何かこう、叩きつけるような、きりっと短い、シャウト感のある言葉の方が、先へ先へと進行していくメリハリが出るのかな、と思いました。 世界崩壊、世界破滅を願っている(反語である、としても)君、は、それを知っている、この詩を叩きつけてやる、と叫ぶ俺の鏡像なのかもしれません。 光は「平等」になんて届けられない、言葉だって救えない、いっそ世界なんて滅びちまえばいい(ああ、そう叫ばなければいられないほど、俺は追い詰められているんだ)そんな時、冷え切った場所であるほど、都市の抱え持つ地熱(都市の体温)空調の温み(都市の排気、息遣い)が身に染みて感じられる・・・そんな都市生活者の姿を、実際に肌身で感じて描き出そう、としつつ・・・「君」に「俺」が寄り添おうとし過ぎている、のではないか。「なぁ悔しいなぁ」とか「もう死んでしまうもんな」という、共感を示すというのか・・・突き放し切れていない言葉の湿り気のようなものが、作品を、なんとなくもたつかせているように感じました。 ドライな質感で疾走感を持って突っ切るか、もっと湿潤なところ(寄り添うとか、肩を抱く、ような方向)に向かうか・・・ロックな感じで行くのか、バラード系に行くのか、というような方向性が見えにくいような気はします。

もとこもとこ (2017-04-25):

貧困とか食物連鎖とか詩作に関するルサンチマンとか世界の終わりを夢見る引きこもりとか、それぞれのテーマは明確だし各パーツごとで見ると悪くないんですが、全体的な構造物として眺めるとハウルの動く城みたいな感じに思えるのです。その内側にすごい力を秘めているのは分かるのですが、見た目がちょっと難ありという感じ。特にメインであるはずの、 >光は、きっと届かない >それでも光は届かない という表現が個人的に違和感バリバリなんですよね。あと少しで、もっと良くなるのにというもどかしさがあります。 >すべての人々に平等に陽は射さず、「そんなこと何を今更」と嘲ける君にもどうかそこに居て欲しい このフレーズ、好きです。ピンク・フロイドの「Wish You Were Here」を連想しました。

クヮン・アイ・ユウ (2017-04-26):

花緒さま おはようございます。 ご覧くださり、ありがとうございます。 「冗長さ」について、おっしゃる通りかも知れません。そのご意見ご感想を受けて、リーディングで聴いて下さった方にもどう受け取られるかお聞きしたいと考えていました。 いつもありがとうございます。

クヮン・アイ・ユウ (2017-04-26):

まりもさま おはようございます。コメントをくださり、ありがとうございます。 「たべる」の表記については迷いました。結果今回の形にしましたが、まりもさまのコメントを拝見して報われた想いです。ありがとうございます。 私の詩には、間違いなく冗長さや冗漫さがあると言えると思います。 たとえばテキストを声で表現するときには、聴き手がさらに受け取りやすいように主語述語の関係を補足することではっきりと示すことがあります。目の前で聴いて下さっている方に届けたいという想いからしていることですが、その良い悪いはまだわからず勉強中です。 投稿掲示板のように、その方がその方のペースでご覧いただける様なところでは、詩をもっと見つめ直す必要がありそうです。 ありがとうございます。 いただいたコメントの最後の箇所についてですが、おっしゃる通りだと思います。 日々生きていますと、どちらにもなれないことを痛感します。そのほんとうを描きたく、今回の詩となったと考えております。それが結局「君」に届かないのなら、もう一度考え直さなければならないと思っています。

クヮン・アイ・ユウ (2017-04-28):

もとこさま おはようございます。 「内側にすごい力を秘めている」と言っていただけて嬉しいです。 「見た目」について、おっしゃる通りかも知れません。他の方からも、言葉に異質なイメージがついてしまっていることをご指摘いただいたことがあります。センスと言ってしばえばそれで終わりそうですが、そこを少しでもよくしていけるように学んでいきたいと思います。 コメントをくださり、ありがとうございます。 「冷たく引き離して、さてあなたはそこからどうする?」という問いを受けるところからスタートして欲しくて、光に関して書きました。

みうら (2017-04-28):

本作が一番ユウさんのテーマ(勝手に三浦が推測しておることですが)である、ヒエラルキーに対する抵抗的なもの、反骨的なメッセージ性がよく出ているかと思います。 『「そんなこと何を今更」と嘲ける君にもどうかそこに居て欲しい』 ここがすごくいいですね。 ひとつだけ、云わせてもらいますと、ネット詩硬派組(これも三浦の妄想の存在かもしれません)からも評価され得る作品とする為には(別に評価されなくてもいいのですが、、)少し冗長な感がしました。私は、文学極道に今でも投稿を続けている理由のひとつは、ネット詩硬派組の感性を知りたいなということだったりします。まあ、相手にもされないんですけどね、でも、私なりの戦いなんです。本作で云わんとすることにも似た、『なぁ悔しいだろう?お前がこの詩を壊してくれよ』という気持ち。

朝顔朝顔 (2017-04-28):

お初にお目にかかります。皆さんが仰られるように、まだまだ技巧的には磨ける詩かも知れません。でも、わたしはこういう世界、どん底の世界に住む住人を知っています。そういう場所で飯炊きをしていたことも、タコ部屋で数か月暮らしたこともある。無論、詩と言うのは経験を昇華しなければ成り立たないものではありますが、この詩に込められた激情は、私は(もはや自分に取っては些か過去のものになりつつありますが、)ヒリヒリと痛いように想起します。活字での投稿も無論大切なのですが、朗読で勝負するのであれば、表現の上っ面のみをこねくり回さない方がいいような気もしますね・・・。すべての人が希望を持っている、届けられるというのは殆ど嘘なので。

朝顔朝顔 (2017-04-28):

(続きます。)それでも、シャウトしていたいと言うのがユウさんのスタンスであるとは理解しているつもりです。三浦さんの仰るところのネット詩硬派組は、そこから逃げちゃっているんですよね。

朝顔朝顔 (2017-04-28):

連投すみません。この詩のまずいところ(敢えて言います、)は、自分も往々にしてやりがちなんですが、同じ状況に置かれたまたは、置かれたことのある人以外にとって、どうでもいいよと言わせてしまう部分があるところなんです。例えば、ボブ・ディランの詞なんかはもっともっと緊縮されてます。そこが、皆さんが冗長だと仰るところかなと。つまり説明になっちゃっている。自戒を込めてコメントしました。

朝顔朝顔 (2017-04-28):

ちょっと酷い物言いになりました、ごめんなさい。私も、これ今直面している表現上の問題なのでコメントがブレました。最近、知人と話し合っていて、百人を感動させることは無理だよねと。九十九人がそっぽを向いても、一人に何がしかが伝わればいい。 私も、昔はみんなに分かって欲しくて説明に説明を重ねていたのですけれども。少なくとも、最後の二行は私にはすごく刺さります。

クヮン・アイ・ユウ (2017-04-28):

三浦さん コメントをくださりありがとうございます。 テーマは、誰かにとっての業のようなものであるとしたら、自分には何があるのだろうと考えています。そして予想のつくものがあります。 三浦さんからは今回のコメントのようなご推測をいただいているとのことで、それを受けて、私のそれが何であれ確かに何かが伝わっているという事実に喜びを感じています。 「すごくいい」と言っていただいた箇所に関しては、「ほんとう」を書きたい私にはこれまた嬉しいお言葉でした。 「ネット詩硬派組の感性」、おもしろい視点だなぁと刺激を受けつつ考えていました。 (届けたい。 誰に? みんなではない、みんなには届かない ではそのうえで誰に?) さいきんその答えがだんだん見えてきた気がしています。 僕が尊敬する方は、りょうほうの世界でかっこよくてすげぁーなぁーって思っています。 朝顔さま はじめまして。コメントをくださりありがとうございます。 絶望をただ絶望としてそのまま事実描くなら、私がやる必要はないと考えています。私に出来ないことだろうとも考えています(コメントを受けて考え始めた事なのですが)。 少なくとも生きることにして、生きているから、じゃあなぜ進むのか耐えるのかを詩の中に含ませられたらと、これも後づけ的に願っております(無意識にはあったのかも知れません)。 >>「同じ状況に置かれたまたは、置かれたことのある人以外にとって、どうでもいいよと言わせてしまう部分があるところなんです。」 この言葉がとても響きました。ほんとうにその通りであると思います。 リーディングする時、説明したいと希求します。テキストの内容をステージに立ってから瞬間的に選択し変えることが多くあります。 最悪だれにも届かないことを知ったその上で、誰に、なにを届けたいのか。そのことを考えざるを得ません。 未熟だから冗長なのかも知れません。端的に、余白を持たせて、相手の能力や価値観にゆだねる美しさがあると思います。そのうえで、どうしていくのかを選んでいきたいと思います。 最後の二行に関して、ありがとうございます。 昨年末に、これまで詩のライブを観たことがない(自分よりもひとまわりも若い)人たちの前でLIVEしました。 あとでその誰か一人に届いていたことをご本人から聞いて知り、これだと改めて確認しました。 皆様からいただいた「冗長さ」について、そのことを受け止めたうえで、引き続き勉強し続けていきたいと思います。 ありがとうございました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-07):

 詩の話がメインで、そこに説得力を持たせる為の場面の設定があり、その為の排泄のイメージを促すような語彙群のイメージが羅列されているのかという感じがします。という感じで前半は割と道具っぽいイメージというか、なんだろうな、大雑把な物言いですが劇みたいな物かなと思いました。  君という人称代名詞に向かって物を話すという形、俺が君を「食べる食べられるの階層も知らない誰かが見ている」 そのような存在であって、そこにいるお前には何も届かないという事、その媒体として「詩」が飛び出してくる。言葉という光を下から当ててもその温み(最底辺の、言葉という誰もが持ちうるたった一つの武器というか)は上に伝わらない。という事の絶望みたいな物を感じます。 それで、ここでは君の立ち位置は読者が一番近しいからそれに簡単に同化しやすいと言えると思いますから、急に語り手が出てきて「君」=「読み手」を糾弾するように、それは光=多分言葉=詩というものが、下から上に当てても届かない叫びのイメージにつながっていく。という訳で要はメタ詩みたいな物でもあるのかなと思います。    光のイメージというのは多分基本的には上から発せられるものであるし、それは多くの場合絶対であって(太陽や街灯なんかは普通上にある)下から光を当てるには自分が光になるしかない訳ですが、それが凄く大変な事だよなぁという感じがしました。

クヮン・アイ・ユウ (2017-05-16):

hyakkinnさま コメントをくださりありがとうございます。 日の目を見るということや、言葉の無力・有力、人と人の関係について考えていました。 あえて絶望を描き、「それで君はやめるの?」という問いをもって挑発したかったところがありました。そして、必ず奮起して欲しかったです。

右肩ヒサシ右肩ヒサシ (2017-05-16):

クヮン・アイ・ユウさん、こんにちは。 この詩の問題点は、逆に届きすぎてしまうことにあるのかもしれません。 詩世界がすべて解釈から成り立っているので、言葉が言葉そのものの持つ世界を、読み手の文脈に合わせて右から左へ移動させているような。自立したモノ自体の存在感に欠けてしまっているのだと思います。気持ちの強さは充分よくわかるのですが。

クヮン・アイ・ユウ (2017-06-07):

Migikataさま おはようございます。 コメントをくださり、ありがとうございます。 随分遅くなってしまいましたが、今こうして読ませていただいていて、なんとなくすっと胸に入ってくる感覚がありました。 僕の詩は道筋、読み方を示しすぎているのかも知れません。 読んでもらう為に書いていた詩も、リーディングするとなれば、手直しをせざるを得ません。 言葉がどんどん音となって耳に入りは流れていく。その事実にどう抗えばいいのか。どうすれば意味を聴いてもらえるのか。 その先で僕の今の形があるのだと思います。 読んでもらう詩だけを意識して、解釈の余地のある詩を書いてみたいと思います。 ありがとうございます。


no title   

浅井康浩 
作成日時 2017-04-02
コメント日時 2017-06-03

 

ノルマンディー・コーヒーのレシピが、世界大戦さなかのアイルランドの港町フォインズで生まれたことを憶えている人であれば、飛行艇が水上で給油する間、コクピットに忘れ去られたままの沿岸測量部発行の大西洋横断航空図に曳かれた数々の線をなつかしく思い浮かべることもできるだろう。そして、カルバドスをめぐる記憶は、さらにささやかなものとなるだろう。たとえば原料となる林檎の貯蔵法のような。あるいは発酵させた果実の蒸留法のような。だが、「飲む」ということ以上に、その土地への、あるいは時間への関わり方があるだろうか。その土地がもたらすもの、大地に密植させることで栽培される樹木、受粉する蜜蜂の飛行、雨とともに訪れる6月の降雨量と昼夜の温度差、あるいはオーク材の樽における蒸留から熟成までの流れをそのまま受け取るように、記憶するように関わることは。気候、土壌、日照。そのどれもが肥沃であるがゆえに葡萄の、そしてブランデーの製造に適さずにいたこの平野部が、穏やかな湿気と粘土質の土をもって「アップル・ブランデー」カルバドスをつくりあげた16世紀には、聖パトリックの島嶼においてさえ、果実酒へと発酵してゆくための繊細でおおらかな時間が流れはじめる。爪先にまでしみる寒さのなか、ただ待つだけの空隙をなぐさめることになるささやかなレシピを整える準備が、じんわりと人々の気持ちに行きとどいてゆく 羊皮紙とは、わたしにとってなにか。それは少なくとも、石板やパピルスのようにあわただしく地上をすぎていった戦争や侵攻をしるすための、痕跡ではなかった。高価であるがゆえに、一度起こった出来事を刻んだのちに削られ、あるいは正反対の内容を刻まれることなる羊皮紙たち。キリスト者により異端とされ削られたあなたの教義を、潜文としてときほぐし、目の前にそっとさしだせば、あなたは、日常的な会話をしているかのようにやわらかく、いいようのないやさしさを漂わせ、透明感のある手ざわりのなかにわたしを引きずりこんでしまう。そのようにして綴られることとなるものがたりたち。神話。収穫物。あるいは教会に埋葬された人物の由来。かつてはひとびとのあいだで語り継がれてきた時間の、やわらかな流動性を、いまは乾いて固まってしまったけれど、あたためるようにして繙いてゆけば、糸で巻かれた茉莉花茶がときはなたれてゆくにおいのように、新鮮に嗅いでみることのできるものたち。まずは、ひとつ、神話を。あるいは、こよみの、よみかたを。ひとつの地域やひとつの時代、それぞれにあった判読法と省略法を覚えながら、書式の変遷をたどるようにめぐれば、過ぎ去った歴史への哀惜にひたされることのない穏やかな時間が、薄明かりのようにわたしとあなたを照らしだそうとするだろう 織り手はどこか。機織り機はシンプルな架構式の家屋に置かれている。チュアン・ニェットは絹絣を織っている。織りは糸の上に図柄を染め分けていく技法として始まる。クメールの織り手たちは、ラックカイガラムシの巣で赤く染める術でもって、布を染める。それは移動によっても、変遷によっても途絶えることないニェットの記憶となる。15世紀、クメールはまだ西欧にその存在を知られていない。だが、後背地クメールを含めた東西交易網、は存在する。港市都市マラッカ、アユタヤ、アチェは、海峡によって形成された中国、ペルシア、オランダの流れるような交易の集合体における関節部分として、流通の運動性を無数に繋ぐ要衝となることを望み、同時に内陸部へ外来者が版図を拡げることを拒む。ゆえに、クメールの存在は知らせることない。そして、内陸民チュアン・ニェットにとって逗留する多層的な外来者は、疫病と武力をもたらし、蹂躙する者以外のなにものでもない。チュアン・ニェットにとって世界のスケールとは何か。それは南シナ海へと注ぐメコン川流域あるいはその両岸まで。15世紀南シナ海世界が、地元商人とイスラム商人の世紀から、西欧および明が東南アジア海域としてひとくくりに勢力下に置く世紀へと移行しても、あるいは1431年、3次にわたるアユタヤ朝の侵攻によって、クメール王朝が滅亡する世紀においても変わることはない。変わるとすれば、機織り機の置かれた場所。略奪される宝石や財宝に混じって、機織りは、アユタヤ王宮へと連れ去られる。1世紀を経て王宮は滅ぼされる、ビルマに。同時に南シナ世界は西洋のスケールに包含されてゆく。ニェットの流れを継ぐ機織りたちの世界は。限りなく屈縮している。だが、織物はシャン族の織物のなかにその姿をとどめ、潜む。シャン、中国名で、白夷。やがて、草木染めのやわらかく布になじむ時間の経過は、時に南から季節風が吹くこととなる八月の洋上で起こり、だが、あくまで布をうつくしく彩る 羊皮紙に書かれた言語を読むと、時間が止まる。一語一語、息を吸うように言葉をつないで、断片と断片を結びつけるように、わたしは読むだろう。繋ぎあわせ、貼り合わせるように記された過去の出来事をたどり、やがてそれは、受難の死を迎えた少女の生涯を照らす。あるいは、その物語が断片の前奏曲にすぎず、少女の受難の死が冒頭で語られる騎士物語が浮かび上がり、明確な結末など存在しないままに唐突に話が終わる。文字は、ジャンルを無視する。あっさりと。ロマンスに、あるいはファンタジーにしむけるわたしの視線に一瞥もない。どのように書かれた過去も、物語と変容する瞬間に、事実と異なる断片となるものだから、それぞれの物語が、みずからのプロットに従って、連続的に進行し、みずからの生きた時代の全体性をあらわす主旋律を表現することは、不可能であるにちがいない。わたしが読みたい物語。その断片にすぎないものは、ひとつの時代、ひとつの地域を主題として、みずからをひとつの変奏曲に位置付けているものがたり。あるいは、沈黙だけが、最後にわたしの身体とひっそりと呼応しているような、物語。 モーリシャス。1598年。ここから始まるオランダ統治の1世紀は、ドードーの絶滅する世紀として記憶すれば充分である。島の始まりは、つまり1710年、島の放棄からはじまる。フランス領、とりわけ19世紀のモーリシャスは、その都市のなかに、いくつかの記憶を入れ子状にとどめている。10世紀のアラブ地図への記載からはじまり、帝国への帰属までを含めて。それらの諸国との結びつきが、モーリシャスに寄港船の停泊地としての地位を築かせる。島の西海岸に、港湾都市としてのポートルイスがあり、船着き場のあるダルム広場のいくつもの通りのなかに、ひとつの通りが、ファルカー通りとしてある。通りを俯瞰すれば、総督府をはじめとする行政機関があり、道はそのままバザールへと直結する。その通りの角地に郵便局は位置する。19世紀、何の変哲もない切手が、額面に記された価値の範疇を越える。その現象は20世紀のある時点においていささか、倒錯といっていい域に入ってゆく。それは「ブルー・モーリシャス」に起こる。一枚の額面に、ヴィクトリア女王の横顔を重ねあわせ彫刻された、赤みがかったオレンジと深いブルーの2枚の切手こそ、宗主国と帝国植民地の定額郵便制度を集約するように浮かび上がる「ペニー・ブラック」のおもかげという名にふさわしい。英国のそのまなざしが、宗主国につらなろうとするインド洋西部に浮かぶ「イル=ド=フランス」を、法廷での公用語をフランス語から英語に切りかえようとしのぎを削る植民地を、愛するとはいわないまでも、見守ろうとしていたのなら、「POST PAID」と表示されるべき額面が「POST OFFICE」と刻まれる間違いに、気づくこともあったのではないか。定額郵便という領域が、宗主国を手本にしてあるかぎり、モーリシャスの切手は、絶えず更新されるべき郵政当局者の課題にほかならず、だからこそ宗主国がその存在に気づきはじめたころ、モーリシャス島ではすでに七度にわたって切手が発行されている。 ひとつひとつの物語は、世界から流れはじめた血液のようなものに思える。それぞれがその内に秘めた世界を語ろうとするが、世界史は、地図上のあちこちで分岐してゆくさまざまな出来事を、ひとくくりの体系の中へと換算し、一つのかぎられた時間軸で並べなおす時間と場所をもつことができないために、いくつもの物語は全体性をつかさどる主旋律の和音となることさえできず、針金を伝う水滴の行方のように、書かれることない世界の譜面に無秩序に滴るしかない。だが細かく分岐しては、やがて主題でさえなくなり、ある種の香りだけを漂わせながら、空気のように軽やかな楽節として、すばやく遠ざかってゆく世界史としての譜面は、いたずらのように記された水滴を音符として読みとり、ある種の変奏曲として、ある場所の、ある時間に、連弾として、あるいは重唱曲のようにかさなりあいながら、世界の全体性へと近づいていこうとするだろう。


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みうら (2017-04-03):

読者の皆さんは「プリンプリン物語」を御存知だろうか。いや、知らないとしても、私は、浅井康浩さんの初投稿作を皆さんに紹介するべく、批評を書かなければならないと、なんというか、見えない使命感に突き動かされながらコメントを書く。私が初っ端に書かなければ、天才詩人がまた、合理的な世界史実を基にした批評を展開し、その批評を読んだ一般人が本作品をスルーすることになるのではないかと危惧するので。⇦(これは半分冗談です。念の為) そこで、プリンプリン物語。この物語にはオサラムームー島という、平和と長閑を絵に描いたような共同体が出てくるのだけれど、その島民は普段から「働くより、寝ていたほうがいい♪」という鼻歌を口ずさんでいるのだ。また、プリンプリン物語には一方で、IQ1300を誇るルチ将軍という悪い奴が登場する。プリンプリン物語とはじつは、植民地化と労働についての寓話なのである。では、浅井康浩さんの本作に流れるものは何か。それは、変遷をたどることにより今を知る系譜学と世界で同時発生することが粒子レベルで解明されようとしているミーム理論を表現した壮大な植民地化と労働についての抒情詩なのである。 最後に云うまでもないけれども、三浦が無学であることが前提であり、一切の御指摘にはお応えしない。相当な勘違い野郎であるかもしれないことは、御勘弁いただきたい。 ノークレーム・ノーリターン。

もとこもとこ (2017-04-03):

作者の豊かな知識に裏付けられた、圧倒的な情報量の詩である。ノルマンディー・コーヒーというカクテルからスタートして、源流であるアイリッシュ・コーヒー、その誕生地であるフォインズ、そこにあってカクテル誕生のきっかけとなった飛行艇用の飛行場、そこを寄港地とした大西洋横断航空路、ノルマンディー・コーヒーのベースに使われているカルヴァドス、その誕生の歴史……第1連だけでも、欧州の古典的名作のプロローグを読んでいるような気持ちになってくる。 第2連は羊皮紙について語られている。石版やパピルスの巻物に記された歴史。その多くは血なまぐさい紛争の記録でもある。そしてパピルスより保存性や携帯性に優れた羊皮紙の台頭。表面を削って再利用できるという特性への記述。いわゆるパリンプセストと呼ばれるものと宗教の関わり。その他、羊皮紙に記録された様々な記録と、そこに秘められた物語に対する豊かな想像力。 第3連では織物がテーマ。その発展と拡大の歴史はまた、様々な交易や紛争の歴史でもある。ここではクメールの織物の衰退が語られているが、この連に織り込まれた美しさと哀しさを知るには古代から近代に至るカンボジアの歴史を理解する必要があるのだろう。ちなみに織物(textile)とtextの語源は同じである。 第4連はモーリシャスの歴史を語りながら絶滅したドードー、オランダやフランスやイギリスの統治などが簡潔に語られるが、メインとなるのは世界で最も高額な切手と言われている「ブルー・モーリシャス」である。世界最初の切手「ペニー・ブラック」と同様にヴィクトリア女王の横顔が描かれてたその切手は、詩の中で語られているように「POST OFFICE」の間違いと最初の発行枚数の少なさから1枚の価格が日本円で億単位だという。作者は、この超高額切手誕生の原因が、モーリシャスに対するイギリスの関心度の低さであるとしている。モーリシャスとコレクションとしての切手に関する相当の知識がなければ、この発想はできないだろう。 最終連で語られる「世界史」についての考察。作者はその特性を音楽に例えているが、この詩自体が壮大な組曲なのではないか。徹夜明けの頭を振り絞って中学生のような感想文を書きながら、私はそう考えるのである。そして最後に付け加えるのなら、三浦果実氏はオチとして「ノークレーム・ノーリターン」ではなく「ノークレーム・ノータリーン」と書くべきではなかったのか(大きなお世話である

花緒 (2017-04-03):

はじめまして。ネット詩新規参入者の小生も、お名前は伺ったことがありました。 投稿いただきまして、嬉しく思います。 本作、解説や読解が必要な作品とは思われないですね。最終練が本作そのものを語っている。自己言及的な構造が打ち込まれたメタ詩と読みました。ジャンルとして、しかし、これはなんなのでしょうか。文字はジャンルを無視する。と本作の中でも自己言及がなされていますね。わたしも共感するところがあります。「現代詩」という枠に依拠しなくても読めることを、作品の強度と捉えるか、「現代詩」という枠の中で読まれうることを、作品の強度と捉えるか。わたしは前者の立場の方に共感を覚えます。本作は現代詩として構えて読まなくても、読める作品のように感じます。 さて、本作、長いですね。紙に打ち出すなら、もっと長くても良いのかもしれませんが、スクリーンだとややきつい分量です。行きがかり上、ネット詩メディアの運営に携わることとなった手前、ネット詩とはどうあるべきか、考えることがあります。スクリーンで読むことに適しているものが、あるべきネット詩と考えるなら、本作はかなり問題ありです。他方、詩誌の投稿欄では収まらない、自由度の高い形態の作品群をあるべきネット詩と考えるなら、本作こそあるべきネット詩なのでしょう。わたしは、クリエイティブライティング作品として、本作は優れていると感じました。

fiorina (2017-04-04):

読み進むことがただただうれしい。 知と未知が脳の小径で出会って、小さい瞬間が生まれ続けます。 音楽や絵画に比べると言葉は不自由という人がいましたが、 言葉でしかできない旅をしているようです。

まりも (2017-04-07):

冒頭、翻訳文のような印象を受けました。「ことを憶えている人であれば」とか、「ささやかなものとなるだろう」というようなフレーズというか、語感ですね。時間、時の遡行。詩的情趣に富んだ、随想(エセー、いわゆるエッセイではなく)の一節を読んでいるような感覚が、裁ち切られるようにして「羊皮紙」の連が現れる。この連が、私にとって、もっとも「散文詩」だと感じさせる部分です。書かれなかった歴史、ではなく、書かれたけれども消され、書き直され、失われていった歴史。更新され続ける世界、という極めて現代的な(インターネットが普及して以降の)世界観が、羊皮紙を用いていた時代までのスパンで重層化される。現代的な世界観で、数百年を透かしながら見直していくような・・・ガラスに描かれた歴史の層を、重ねて、それを裏側から見ているような感覚、と言えばいいでしょうか。 クメールの織り手の章、モーリシャスの章は、意図的に詩的情趣を覗いて、即物的に記述されているように見え・・・ある種の写生文と言いましょうか、そこに歴史観や批判精神も垣間見えるように思うのですが、冒頭のエセー風の部分、「羊皮紙とは、わたしにとってなにか。」の章の詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました。 「ひとつひとつの物語は、世界から流れはじめた血液のようなものに思える。」この一行を導き、説得力を持たせるための、具体的事例・・・と呼ぶには、歴史叙述的部分の分量も重量も多い。欧米の植民地であった(そのことによって、物語が消され、別の物語が書かれるという形で更新されていく時間)地域を、オムニバス風にもっと断片化して、複数の例として配置する方法を採らずに、そこに入り込んで詳述していく方向を選んだのか。そういった創作意図のようなものを知りたいと思いました。

まりも (2017-04-07):

訂正:意図的に詩的情趣を覗いて→除いて  そこに入り込んで詳述していく→なぜ、そこに入り込んで詳述していく

葛西佑也葛西佑也 (2017-04-08):

浅井さん、お久しぶりです。こちらでお会いするなんて、不思議な感覚ですね。情報量が多く、説明的過ぎるような気もしますが、私は一言で言うと、好きな詩です。浅井さんの作品群の中でも。堪能させていただきました。具体的に深い感想を書こうと思って、ずっと暖めていたんですけど、なんだかいろいろ言うのも野暮かなあとそんな風に思わされてしまいました。

浅井康浩浅井康浩 (2017-04-08):

三浦さん、返信ありがとうございます。 >浅井康浩さんの本作に流れるものは何か。それは、変遷をたどることにより今を知る系譜学と世界で同時発生することが粒子レベルで解明されようとしているミーム理論を表現した壮大な植民地化と労働についての抒情詩 ということを書いたうえで、上記を論証することもなくいきなり >三浦が無学であることが前提であり と書いてしまう心性が気になりました。普通のレスならば別に気になりませんが、 >批評を書かなければならないと、なんというか、見えない使命感に突き動かされながらコメントを書く。私が初っ端に書かなければ、天才詩人がまた、合理的な世界史実を基にした批評を展開し、その批評を読んだ一般人が本作品をスルーすることになるのではないかと危惧するので。 というように、サイトを代表して「批評」する発言であることを考慮すると、やはり気になります。 端的に言うと >三浦が無学である (何に対して「無学」であるのか、ということさえわかりませんが)と書いてしまうのは、「現在の私には読み込めない作品」に直面した時に、私は(このサイトは)真摯に作品に向かい合うことなく、同時に私の基本的認識を崩すこともせず、「粒子レベル」や「ミーム理論」や「植民地化」のような「難解な用語」を、どのような文脈で定義されたものかを確定させなくてもなんとなく使えば、相手も難解なことを書いてるんだしなんとなくわかるでしょ、テヘッ、的な感じなのかな、と思います。 「現代詩」っていうのを相手にそれを「批評」する、ということは、常に「未知のもの」との出会うことであるし、理解できない(私には読み込めない)異質な作品そのものをどう私なりのやり方で解きほぐしてゆくか、という作業の連続かと思います。 それを、「無学」という言葉を使用し、その「作品」を難解なものとしたうえで適当な解釈をくわえ、「ノークレーム・ノーリターン」とみずからの言葉に「応答性」を担保しない、という「手口」が、このサイトを背負う「使命感」に突き動かされた人がとりうるものであるとするなら、(個人的な感想になりますが)とても「恥ずかしい」ことであると感じます。

浅井康浩浅井康浩 (2017-04-08):

もとこさん、返信ありがとうございます。 作品の「要約」ありがとうございます。 「要約」部分を除けば、 >欧州の古典的名作のプロローグを読んでいるような気持ちになってくる。 >そこに秘められた物語に対する豊かな想像力。 >この連に織り込まれた美しさと哀しさ >壮大な組曲 というような、(読書感想文で優秀な成績をおさめそうな)「中学生のような感想文」であることはご自身で言われている通り否めないようです。 >ちなみに織物(textile)とtextの語源は同じである。 というような視点を掘り下げていければ、「要約」にならなかったかも、と思えるだけに、残念です。

浅井康浩浅井康浩 (2017-04-08):

花緒さん、返信ありがとうございます >クリエイティブライティング作品として、本作は優れている の根拠が、 >詩誌の投稿欄では収まらない、自由度の高い形態の作品群 といい、その「自由度の高い」というのが >紙に打ち出すなら、もっと長くても良いのかもしれませんが、スクリーンだとややきつい分量 というような、文字数の多寡に還元されるべき要素、ということでしょうか。 >ネット詩メディアの運営に携わることとなった手前 とのことですが、「あるべきネット詩」というものは「投稿作単体」だけが優れているということはありえないのではないでしょうか。運営に携わるのであれば、自分自身の問題意識をいかにサイトの特色として反映させ、潜在的な投稿者にいかにアプローチするのか、あるいは投稿された作品をどう社会とシェアしてゆく仕組みを作るのか、などトータル部分でのありかたが「あるべきネット詩」というものだと思ったりもします。

浅井康浩浅井康浩 (2017-04-08):

Fiorinaさん、返信ありがとうございます。 >読み進むことがただただうれしい。 書いてよかった、と思えます。そのような読み方をしていただけたのはありがたいです。

浅井康浩浅井康浩 (2017-04-09):

まりもさん、返信ありがとうございます。 当たり前の話ですが、創作意図などをここで語ったとしても、それが「正解」であるとか「意図」がどれくらい作品に反映され、読み手がその意図に従ってメッセージを過不足なく受け取っているか、などの「判断」は、まったく意味をなさないものである。というのがあります。 そのうえでいうなら、「オムニバス風にもっと断片化」したものがこの作品で、オムニバス風になるまえの「そこに入り込んで詳述していく方向」というのが例えば、下記の http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/382.html#msg7072 ようなものとなります。 上記のような「そこに入り込んで詳述していく方向」の作品が縦方向にいくつかあり、それを横串でもってオムニバス化した、ということができます。 もちろん、そのオムニバス化にあたってのテーマであるはずのポスコロの「地図作成法」がごっそり自分の中で忘れられていた点については >詩的情趣に満ちた散文詩部分、最後に置かれた、全体を総括するような連――論文の最後に置かれた要約であったり、長歌をしめくくるように置かれた反歌のような部分と、歴史的叙述の断片のような部分との混在の意図が気になりました と見事に指摘されたとおりです。

浅井康浩浅井康浩 (2017-04-09):

葛西さん、返信ありがとうございます。 >なんだかいろいろ言うのも野暮かなあ 葛西さん、大人ですね。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-01):

 レシピ、織物、というものと、 羊皮紙、に描かれる物語でもいいし或いは地図でもいいのですが、その差異みたいなものかなぁ、というのが交錯しながら最終連に結び付けられていくという事。 今丁度「本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~」http://ncode.syosetu.com/n4830bu/これ読んでてですね、文章の質とかそういうのはさておき、結構同じ事を異世界転生でやってるのをここで再読したような感じがして、なんだか楽しかったです。(まだ序盤までしか読んでないので紙の部分についてはあれですけど…紙を作るのは単純に大変ですよね)美味しいレシピは男の腹を満たし、綺麗な布や(もしくは装飾でもいいかもしれない)は女を磨くので、なんだかんだあっても伝わりやすいのかもしれませんね。紙に綴られるものという所については、まぁ、単純に野暮ですね。これ以上何か書き添えるのは。最後の連を読めばそこに答えは書いてあるという感じです。 細かい指摘については突っ込めるほと細読しきれていないので、今は保留ですが、単純に例え話として壮大な気がしました。そういう意味でロマンにあふれた作品ですね。一つの世界と歴史をまとめた地図であるという感想でひとまずは閉じようと思います。

浅井康浩浅井康浩 (2017-05-02):

>単純に例え話として壮大な気がしました。そういう意味でロマンにあふれた作品ですね。 単純、っていうならば、時間や場所に関係なく、海外からでも書き込みをできるこの掲示板につながることのできる、「現代」を取り扱った作品ってのが「壮大」っていうのであって、それに比べればこの作品なんてのは人が地上にはいつくばってる人を扱っただけの、ロマンどころか「みすぼらしい」作品なのだと思ったりするのだけれど、どうでしょう。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-06-03):

   >単純、っていうならば、時間や場所に関係なく、海外からでも書き込みをできるこの掲示板につながることのできる、「現代」を取り扱った作品ってのが「壮大」っていうのであって、それに比べればこの作品なんてのは人が地上にはいつくばってる人を扱っただけの、ロマンどころか「みすぼらしい」作品なのだと思ったりするのだけれど、どうでしょう。  まぁ、結論から申し上げますと、人の見方感じ方によって、異なるという風な答えになってしまうとは思うのですが(それはまさしく虚構という概念が一見あらゆる物事に対して万能であり、絶対的なゼロとして機能してしまうように)  僕は本作の例え話をちょっとだけ気に入ったというだけの話です。「現代」を取り扱った作品というのが、おしなべて壮大であるかどうか、というのは僕は甚だ疑問です。現に僕は今は海外にいる発起人達と連絡をとりあっていますけれども、うまれた時から既に、ネット環境が側にあった僕からすれば、そこまで壮大な事には思えない訳です。    たとえば、僕は昨日みんなで『創世記を読もう』みたいな会に参加していて、そこで「サラの埋葬」の章を読んだのですが、そこでサラの埋葬地をアブラハムが決める時に、「わたしはここの土地を銀四〇〇なんちゃらで買ってここをサラの墓地にするぞ!」とみんなの前で宣言するシーンがあるんですね。では、なぜそんな事をしたのか、今だったら紙に書いて証拠を残したりするじゃないか、っていう疑問を僕が投げかけたら、そこから一時間半紙の歴史の講義が始まって、それが中々面白かったわけです。しかも、そこではさらに、浅井さんがここでくださった情報に加え、上に示した下克上の知識も重なって非常に面白い話が出来ましたし、見識が広がりました。自分が手にする紙に対する感覚も少しだけかわりましたしね。さて、こんな体験は、果たしてネット上だけで起こりうる物だったのでしょうか?  僕からすれば昨日のアナログな読書会は、ロマンに溢れていましたよ。僕は今、人の持つ文化という物、あるいは虚構でもいいですが、そういうものが好きになりました。  僕がいいたいロマンというのはつまりこういう事ですよ。遠い時代の物を見たときにむしろ僕らの生きている現代というものが浮上してくる。その瞬間こそがドラマなんですよね。その遠さというのは、紙のつくり方一つとってもぼくらは何もしらないという所に一つの端緒がみられるかと思いますけどね。そういうものにクローズアップして歴史を描くことによって、ロマンは再生するのではないでしょうか。むしろかえって。  そして、浅井さんがここに示してくださった、例え話というのは、もっと厳密に見ていくと面白い事が沢山いえると思うんですが、まぁ良くもこれだけ短い詩篇の中につぎこんでくださったと思います。色々な方と本作についてちょこっと話したときに、最後まで読みきれなかったという意見をききましたが、その点は僕も少しだけおもいます。一連目はある意味牽制球みたいなもんですもんね。別にただの例え話であると聞けば校長先生の長話みたいなもんであって、落ちに全てが詰まっているあの感じかなとか思うのですが、しかし流して読み切ってしまえば僕からすれば知らない情報ばかりですし、そこから意味を抽出して自分なりの(あるいは語り手なりの)回答を導き出している。普通に読んでいて破綻している箇所は僕には見当たらないし、ならば今は受け入れるしかありません。無論、そこに何かしらの「欠点」があるかどうかについてはわかりません。僕はあくまでも語り手による講義の聞き手であって、そこに感心してしまったただの人間でありますからね。ここに記述された歴史そのものに対する疑義を唱えられる訳もないので、まぁ僕は素直に読書を楽しんだという事であります。 つまり、僕にとって本作を読書する事には意味があり、現実にその意味が役に立ちました。その意味がこれから僕の人生において、校合され無に帰す事があるかもしれませんが、今この瞬間にネット上で、本作を拝めた事、それ自体の意味は僕の中で失われる事はありません。そういう意味では現代という時代はロマンに溢れているのかもしれませんけどね。要は浅井さんからのといに対する僕の答えは「そんな事聞かれても困る。本作が僕にとって既にロマンとなってしまった以上、なんと答えればよいのか。僕はこの感慨を作者に殺されたくない」という感じになりますかね。

kaz. (2017-06-03):

浅井さんの作品を読むのはこれが初めてではないけれども、読んでいて、やはり多かれ少なかれマルセル・プルーストは意識しているのかな、という印象を持ちました。それは、テクストの内部でテクストそのものに言及するメタ構造を持っているという点などがそれに当たると思います。ただ、内容的にはアイリッシュ・パブで掛かっていそうな音楽を聴きながら書いたようなものなので、その点からすると私流の言い方ではプルーストとジョイスの合わせ技、という非常に乱暴な批評を試みてみます。多少の誤りがあることは承知の上で言っていますが。


やさしい無機質   

kikunae 
作成日時 2017-04-29
コメント日時 2017-05-25

 

 あ、UFO!  って無邪気に思うひと  はこの世にどれくらい  いるのだろう  あれはねUFOではないんだよ  ISSなんだよ  あれはね宇宙人の発明品ではなくて  人間の作った人口の光  シリウスよりも  他のどんな星よりも明るい人口の光なんだって  熱い命を燃やすよりも  冷たい人工物のほうが明るいの  終りはあるけれど寿命のない  冷たい人工物のほうが明るいの  「ふうっと息を吐く」  たくさんの二酸化炭素が吐き出されて  地球をじわじわと窒息させようとする  って、いうのも嘘。ぜんぶ嘘で、  つまるところ  人間であることは脳みその無駄遣い  政治屋さんに簡単に洗脳されて  二酸化炭素は悪!悪!悪!  って、いうのも嘘。ぜんぶ嘘。なのに……    すなおな心のままで  そのままで生きていればいいと思うよ  洗脳されてもそれが、幸せなら  ねえ  あなたが息をするのを止めれば地球は楽になるよ  それならばそうしたらいいよ  私と一緒に地球のために死ねばいいよ  素敵な犠牲になればいいよ  そうして十五年くらい後に  アンドロイドにでも生まれ変わって  ふうっと息を吐きだして  たくさんの酸素を吐き出して  そんな風に  地球にやさしく生きていけばいいよ    熱い命を燃やすよりも  冷たい人工物のほうが  きれいにきれいに光るのだから


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朝顔朝顔 (2017-04-29):

お初です。よろしくお願いいたします。とても好きな詩です。若々しさ、みずみずしさだけでなく、現代のひたすらにポジティブに前向きに走って行く人々への、うつくしいアンチテーゼのように感じました。「すなおな心のままで~」から始まる一連が、この詩のテーマのように思うのですが、ちょっと整理整頓が必要なのかなと。

kikunaekikunae (2017-04-29):

朝顔さん コメントありがとうございます。とても嬉しいです。 作品で思想を語るのが苦手で、やはり指摘された通り言葉が多くなりすぎてしまったようで反省しております。次回からは整理整頓をもっと意識して頑張ってみようと思います! 地球温暖化について。二酸化炭素のせいではないという説は本当に提唱されています。社会の常識をつくっているのは悪く言えば権力を持つ方々とそれを信じる無垢な人々であり、科学ではない。その悲しさと言うか虚しさが伝われば、と思っております。

5or6(ゴロちゃん。) (2017-04-29):

ニヒリズムが効いていて好きな詩です。流れが出来てますね、他の詩も読みたいと思いました。

花緒 (2017-04-30):

読みやすい最果タヒ、みたいな感じの印象を受けました。今風な感じがしますし、ちゃんと読める一作です。もう少しコンパクトにまとまっていたら、と思わないでもないですが、良作のように思いました。

なかたつ (2017-04-30):

 何かを信じるということは、世の中に対する反逆であり、何よりその人をその人たらしめるものだとこの作品を読んで感じました。作中の言葉で言えば、「すなおな心のままで/そのままで生きていればいい」ということです。  出だしから、世の中の一般的な物の見方に対して一石を投じています。UFOなんていないという一般論=先入観に対しての抵抗。続く話はまるで大人が子どもに語り掛けるように、物の見方が説明されています。その中でも核になっているのが「冷たい人工物のほうが明るいの」という繰り返されるフレーズ。  次の連も、世の中における一般論に対する抵抗です。二酸化炭素が地球温暖化の原因である、という言説を信じる人と信じない人。この語り手は少なくとも信じない人であって、信じる人に対して「洗脳」というように見ています。それでも、その抵抗が無力であることを承知であるのは、最後の「なのに…」というボヤキから見受けられます。  一般論に対しての抵抗が無力でありながらも、語り手は絶望していません。だから、「すなおな心のままで/そのままで生きていればいいと思うよ/洗脳されてもそれが、幸せなら」というフレーズが生まれるのでしょう。一般論に洗脳されていたとしても幸せであって、「地球にやさしく生きていけばいい」というのが、語り手の希望です。  こうした希望を持てるのも地球=自然に対する気遣いを持っているだけでなく、この語り手は「冷たい人工物」の美しさを知っている存在です。つまり、語り手は人工物に対してさえ気遣いができる存在です。  何かを信じるということは、一般論に対する抵抗です。周りがどうあろうと、「私」だけはこれを信じていたいという欲望でもあります。この語り手は、UFOや二酸化炭素の存在に対する一般論に対して抵抗をしているわけですが、「冷たい人工物」が「きれいにきれいに光る」ことを知っており、その美しさを信じています。その物の見方こそ、この語り手を語り手たらしめる要素であり、気遣いのある存在だと読者である僕は信じています。

まりも (2017-05-02):

熱い命を燃やすよりも 冷たい人工物のほうが明るいの 終りはあるけれど寿命のない 冷たい人工物のほうが明るいの この切なさという可矛盾というか、発見が、この詩を成立させているように思いました。後半、言葉がのってきている反面、同じような言葉を繰り返す部分が目立ってきたり・・・繰り返すことによって、酩酊感とか、エンドレス感とか、強調とか、逆に意味を薄める(意味がない、感じになっていく)とか・・・そういう「効果」があるかどうか、考えながら推敲していくと、もっと引き締まった作品になると思います。 素敵な「発見」を大事にして下さい。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-08):

UFOから始まるのずるいですね。皮肉もたっぷりですし、多分読めば大体の人には伝わると思います。 僕はそれでもあれですね、もうちょっと生きてたいし、基本的に人間は環境を壊す生き物だと思うので、あれだな、この作品のスタンスには抗って生きていきます! みたいな感想しか出てこないくらい、あれだな。作品の作りとしては、後少し短く出来るとは思いつつも、引き締まっていると思います。個人的には始まり方が多分今月の詩の中で一番好きだと思います。最初タイトルだけ見てどんなもんかときてUFOが来たからちょっとノックダウンされた。これはユーモアの力ですね。

kikunaekikunae (2017-05-25):

たくさんの丁寧なコメントありがとうございます。全て今後の糧となるように頑張ります。


小悪魔   

るるりら 
作成日時 2017-04-26
コメント日時 2017-05-25

 

野菜室101号に棲んでいる レモンは かじるのが怖い 暗い野菜室にいながら 広島産 おひさまどころ発 レモンは お日様をあつめてしまっている レモンとデーモンが似ているのは 偶然ではない どちらも お日さまを かくしている だから かじるのは怖い てのひらで ひんやりとつめたい お日さま 手におえるサイズだからこそ がぶりと かじるのが怖い


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まりも (2017-04-26):

「手におえるサイズだからこそ」ここがとりわけ、ぞくっと来ますね。 人生はマッチ箱のようなものだ、だったかな・・・確か芥川が、真面目に扱うにはばかばかしすぎるが、いい加減に扱うには危険すぎる、というような感じで喩えていたけれども・・・。 レモンで思い出すのは、梶井基次郎の檸檬・・・智恵子の檸檬・・・爆弾のように、世界を吹き飛ばしてしまう(吹き飛ばしてしまえ、という)なにか、を秘めているような、同時に、全てをゆるし、浄めてくれる太陽の滴を抱えもっている、ような・・・ 暗がりで、凝縮された光を紡錘形の形の中に張りつめさせているレモン。これから、何が起きるのだろう・・・「ひんやりとつめたいお日さま」そう、この矛盾を内包しているものが、手に負えるサイズであるからこそ、怖ろしいのです。

黒髪 (2017-04-26):

小悪魔レモンと悪魔デーモン。 お日様ということばが、つれてこられるのは、意味としては意外ではないんですが、その映像を思い浮かべたとき。 あ、お日様とレモン!?ミスマッチな関係!と驚嘆。これは、「手術台の上のミシンとコウモリ傘」なみのインパクト ですよ。僕の中では、レモンってそんなイメージだからそう思ってしまいました。 DVD『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』付属のリーフレットに、 「手に入れたものが不良品だった時に英語では「レモン」と呼ぶ」 とかいてありました。 ソール・ライター家のネコは、品行不方正なため、「エマ」から「レモン」に改名されてしまったそうです。 レモンって存在感があるけど、あまり使い道がない感じ……を僕は持っているのですが、「怖い」と思われた、 独特の意味を詩から読むと、レモンというものの、新しい置き場所を、僕の中に発見したような感じ。 野菜室の住人は、沈黙を守っている……そんなふうにも思えます。レモンは喋れないけど、人はその気持ちを さえ、代弁して、言葉にできる。そんな特別な能力を、るるりらさんは発揮している。素晴らしい詩だと思います。

みうら (2017-04-26):

これは、全天候型次世代農産システムの中を覗いた話ではないでしょうか。その夢のような、ところで育ったレモンは悪魔になってはいないかと。メタ読みが下手でごめんなさい。

花緒 (2017-04-29):

レモンとデーモンを重ねる着想の良さは当然の事、短い作品だけれど、レモン宜しく、ギュッと詰まった味がする作品のように思った。

夏生夏生 (2017-04-29):

るるりらさん、失礼致します! 御作にコメントさせて頂きます。 小悪魔、というタイトル。手におえるサイズだからこそ かぶりとかじるのが怖い、という表現に艶を感じました。                    お日様をたくさん含んだその実から予測できることと、できないことがあって。思いきりかぶりつけない。若い人との恋に悩む大人の心情のように見えました。                   

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-08):

 うーん、面白いですね。小さな太陽をレモンに見立てる、という小さな着想をここまで広げる手腕というか、その巧さに舌を巻きます。短詩の見本みたいだ。加えてまさかレモンにここまでの邪悪さ、みたいなのを感じる日が来るとは思いませんでした。  >レモンとデーモンが似ているのは  >偶然ではない  >どちらも  >お日さまを かくしている    ぼくが好きな遊戯王で「レッド・デーモン・ドラゴン」っていうキャラクターがいるんですけど、皆略して「レモン」って呼んでて、まさかここでそう来るか! と思いもよらず、多分この掲示板では一番ぼくがこの例えに頷いている感じがします。面白かったです。

鈴木 海飛 (2017-05-09):

レモンの裡(うち)にある太陽をかぢる。 がりり、とぱぁず光太郎 ぱあっと檸檬は意識がはっきりさせる。 林檎をまるごとかぶりつく少年 。 大人はどうやら林檎ですらまるごとはかぢれない。 一口サイズに切って食べる智恵を身につけた 恵子 怖いのだろうか。 悪魔の魅力のひとつに我々の意識を明確にさせる智恵が悪魔にあると思う。 その判断を誤り、間違えるのは常に人間である。 悪魔はその知恵を使い、多角的な視線で我々に提言する。とても誘惑をうける選択肢。 ときに意識を加速させる。檸檬の味も悪魔の知恵も。 いずれ、こんな風に悪魔も檸檬も受け入れる。 「 やぁ、ビタミンCが入ってるからね。体にいいんだよ。 そしてね。良薬口に酸っぱしともいうからねぇ…。」と。 ふふふ。ほら、これは悪魔のささやきでしょうか? それとも、賢人の知恵なのでしょうか? なぁんて、詩をよんでぽややんと浮かびました。 おもしろいですね。この詩!!

るるりら (2017-05-15):

●みなさまへ おはようございます。ずいぶんと返信が遅れて申し訳ありません。 返信が遅れた理由は この詩にあるような ちいさなアクマではなく 魔について 思いをめぐらせてしまったのです。具体的にいうと親戚に不幸があり 心が重くなってしまい 小粋のつもりの私の拙詩に とまどってしまいました。(滝汗) ●まりも さんへ おおよそ人のかかえる難題や困難は 手におえると思いたいものですが、 恐いものは怖いです。 「手におえるサイからこそ」ここがとりわけ、ぞくっとされたのなら 作者の冥利です。 芥川のマッチ箱の比喩。検索で 見つけました。 引用 ≫ 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。 ↑つまり、頭燃でございますね。人生は時折 火宅の境涯にもなりえます。そして、芥川自身が、最終的には自死を選択した作家だったことを想うと、ふるえずにはいられませんです。 芥川のこの本は、下記のような詩文で終わっていました。 引用 ≫眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違いあるまい。  レモンのビタミンを摂取するためには果肉が生きていてはじめて トパーズが炸裂するのです。 死と眠りは似ています。わたしが書きたかった ちいさな小悪魔と 死へといざなう悪魔の違いをおもわせていただきました。おかげさまで貴重な読書ができました。ありがとうございます。 ●黒髪さん おはようございます。 黒髪さんは、レモンを がぶりと かじることが おできになるタイプですか? それとも かじれないタイプですか? おひさまとレモンは お友達です。わたしは瀬戸内海気候はレモンの産地で おひさまと仲よしです。レモンと デーモンは ミスマッチですよね。けれど、「手術台の上のミシンとコウモリ傘」ですか?いやあ それほどのシュールではないという気が私は します。 教えていただいて驚いたのですが、レモンとは、不良品の意味があるですね?欠陥車をレモンカーとかいう例や、 The answer is a lemon. 「(愚問に対して)あかんべーだ;返事はご免だ」(俗語表現) というのがありました。The answer is デーモン でもなんとなくおかしくない気がする例文でびっくりです。 ちょっとアメリカ版に改編してみました。なんちゃって的な 小品です。よろしかったらご笑納ください。      題【アメリカ在住デーモンの場合】      アメリカの野菜室101号に棲んでいる デーモンは      アメリカサイズ冷蔵庫の野菜室に居住していて      お日さま的な すべての事柄を冷気で包み隠し       猫背ぎみの彼は      だれに      なにを聞かれている      いつもThe answer is a lemonとだけ答えて      扉をかたく閉ざすのであった ●三浦果実 さんへ をお、全天候型次世代農産システムの話ですかあ、いいですね。 広島には もやしとかトマトとか あと豆苗の農業工場が 実際にあります。 レモンは悪魔になっているかもしれません。黒髪さんに レモンの英語表現が面白いことを教えていただいたので、この詩は冷蔵庫だけど、もっと 規模を拡張して、悪魔的量産システムの詩にいどんでみようかしら。と 微笑んでいます。 ●花緒 さん ぎゅっとした小品にしたので そこを褒めていただいて光栄です。 長編詩は得意ではないので すきま産業みたいな感じかもしれません。 ●夏生さん まあ 素敵な恋話コメントありがとうございます。 すっぱい艶を出してみました。若い人との恋に悩む大人の心情。 ⇚とっても素敵な鑑賞をありがとうございます。なんだか 燃えてきました。え?                   ●hyakkinnさんへ   遊戯王で「レッド・デーモン・ドラゴン」っていうキャラクターがいるのですね。 ハイセンスのネーミングセンスではないですか? 多分この掲示板では一番ぼくがこの例えに頷いている感じがします。 ↑ まあ 嬉しいです。ありがとうございます。 ●鈴木 海飛さんー がりり、とぱぁず光太郎。⇚すごい キャッチぃですね。 はしれはしれ こうたろう。(……みたいな。ちがうのか) 柑橘系の植物は わたしはほとんど好きです。 ただピールの苦さを 嫌う人は嫌う。 かじるという行動は、わたしには獣的なイメージなのです。野趣を感じます。 歯茎をみせて笑うのって 悪魔的でしょうか?それとも ハンサムの証でしょうか? 【ときに意識を加速させる。】という表現に わたしには はっとしました。 良識ある判断は 多角的に しかも 迅速にすべきときに迅速に判断されてはじめて良識となるような機がします。 詩を読んだりして ぽややんとでも様々なことを想い 反射神経を研ぐことは きっと素敵な ライフを作るために必要だと思いました。素敵な感想をありがとうございます。

湯煙 (2017-05-15):

一読して端的にレモンについての作品と思うのですけど、広島産やおひさま発という詩句から、二つ目の太陽を裏テーマとしていると、野暮な深読みかもですが。フュージョンではないですが、ザ・レーモンと呼びたくなるといいますか、本作品そのものが小悪魔であると、そんな風にも解釈したくなります。 、がぶッ

湯煙 (2017-05-15):

訂正します おひさま発 → おひさまどころ発 でした。失礼しました。 *そういえば、石垣りんかどなかたの詩に貝の浅利かなにかについての詩があったかと。真夜中に口をあけわらっているという。

湯煙 (2017-05-15):

浅利ではなく蛤でしたかね。常に新しい貝と書いて新貝常さんが、専門僧堂にてコピペしたうえ御教示してくださったことがありました。

るるりら (2017-05-22):

これ既読感があるんです。わたしがまだ詩作することを趣味としていなかったころに、授業かなにかで目にしたんだと思います。わたしは 父と よく浅利を掘りに行ったので貝の夜中の様子は良く知っているので、余計に この詩の印象が心に残っているのかもしれません。  この詩は、印象には残っているのですが、私が本作品をかくときには まったく記憶にのぼってはいませんでした。よく似てますね。わたしの潜在意識にまで 石垣りんは到達していたのかしらん。おそるべきなのは石垣りんです。 小品【しじみ】 るるりら しみじみ きみは 黒曜石のように黒光る 生(しょう)と 死(し)の かぷかぷ二枚貝 ぷしゅ~うと 呼吸する生身を夜中だけは さらけだす なんという  艶めかしさか  昼間の石のような意志とは裏腹に なんちゃってね。 素敵なすぐれた詩を思い起こさせていただき嬉しいです。つい、おちゃめな拙詩も添えてみたりしました。 ありがとうございます。

るるりら (2017-05-22):

これ既読感があるんです。と、書きましたが 検索かけたら以下の作品がヒットしました。おそらく、この作品のことを いっておられるのだと思っています。  ● シジミ   石垣りん  夜中に目をさました。  ゆうべ買ったシジミたちが  台所のすみで  口をあけて生きていた。  「夜がアケタラ  ドレモコレモ  ミンナクッテヤル」  鬼ババの笑いを  私は笑った。  それから先は  うっすらと口をあけて  寝るよりほかに私の夜はなかった。

湯煙 (2017-05-22):

るるりらさん シジミでしたね。失礼しました。

羽田恭 (2017-05-25):

なんとなく智恵子が檸檬を囓る詩を思い出しました。 (高村光太郎の詩にそんなのあったような) こういった作品好きです。


牛肉   

羽田恭 
作成日時 2017-04-30
コメント日時 2017-05-25

 

「生きとし生けるものが幸せでありますように」 牛肉を目の前にして よく焼かれ 脂滴る 霜降り肉 こうなるため こうするため 必死に手をかけた 生産者は笑顔で その肉をひっくり返す 油は流れ 火を大きくする A5ランク 火に油注ぎ 香ばしく 苦しい事はなかっただろうか 「生きとし生けるものが幸せでありますように」 生きている間は 牛は 動物は 明日と死後を考えない 少なくとも今 苦しくありませんように 十分火が通る 旨味と共に 飲み下す 今この時 黒毛和牛とホルスタインは 草と飼料を反芻している 少なくとも今 「生きとし生けるものが幸せでありますように」 幸せでありますように


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花緒 (2017-04-30):

個人的に、とても好きなテーマです。わたしはソフトベジタリアンで、できる限り、肉を口にしないというポリシーを持っています。一人の人間を生かすために、100匹の牛を殺しても構わない、という考え方。動物を生み、殺す管理システムは、現代社会の矛盾を考える上で、優れたメタファーやアナロジーになっていると考えています。単純に、牛さん、かわいそう、というような動物愛護的な話にとどまるものではない。生きとし生けるものが幸せでありますように、という言葉にカッコがあるように、牛肉は、生きるものではない。牛は、明日と死後を考えない、のであれば、牛をいくら殺したっていいではないか、苦痛を与えずにノックアウトできるならば、いくら殺しても、という考えも成り立ちうる。もちろん作者はそんなことを考えているわけではないでしょう。しかし、必死になって牛を育て殺すシステムに、本質的にノーを唱えて生きることはできない。うまくまとまった良作だと思います。

エイクピアエイクピア (2017-05-01):

何か祈りのようなものが、牛と馬に仮託されているのか、生きとし生けるものと言う人間も含めた、文字通り全体を対象に含めているのか、分かりませんが、漏れ聞こえているようで、「A5ランク」などの等級、 「牛は 動物は 明日と死後を考えない」 こんな箇所からも、世俗的な、知識や、牛と人間との比較を通じて、やはり祈りが垣間見えている様な気がしました。

羽田恭 (2017-05-01):

花緒さん、こんにちは。 実は今日、勤め先の牧場の牛が一頭処分されました。 乳牛なのですが、立てなくなったのです。 経営上、社会システム上、止む終えない事ではあります。(体重800キロの生き物を介護できません) 肉を食べる事、生き物を殺す事は矛盾はあるのですが、必要なものです。 せめて生きている間、死なせる必要のない間、健康と幸せを願ってホルスタインを世話しています。 肉牛農家もきっと同じように考えているかと。 エイクピアさん、初めまして。 「生きとしけるものが幸せでありますように」、これは実は初期仏教の「慈悲の瞑想」と言われるものの一部が元ネタです。 これは人だけでなく動物一般も含まれるそうです。(ですから出家者は基本菜食主義です) 自分もまた動物一般に対して祈っております。 矛盾は多々あるのですが、そうやって牛の世話をする日々です。

雨粒あめ子 (2017-05-01):

こんにちは。 日頃から意識せず食べているお肉。食べられることを知らずに生まれ育って、わたしたちのお腹を満たしてくれる。 「生きとし生けるものが幸せでありますように」…命の重みと儚いという意味を持たせるこの言葉が響く作品と思いました。

5or6(ゴロちゃん。) (2017-05-02):

良い目を持っているし、変に力入ってない文の流れも好きです。 また作品を読みたいです。

まりも (2017-05-02):

火に油注ぎ、という、通常は慣用句で用いられる言葉が入ることで、なんとか笑顔を保っている生産者の方の心が、煮え立ったり燃え立ったり、時には苦痛で歪んだり・・・しているような気がしました。なんども自身に「生きている間は幸せだったのだから」と言い聞かせ、牛をお客のために焼く。炎を上げる油、自身に言い聞かせて、収まったはずの心の波立ちが、再び激しくなる・・・「少なくとも今/苦しくありませんように」人間の欲望の狭間に立つ人の、祈りだと思いました。

羽田恭 (2017-05-02):

amagasasasite さん、はじめまして。 牛、かわいいんですけどね。でも、目の前で死なすこともありますし。 「生きとし生けるものが幸せでありますように」 そう祈って仕事する日々です。 5or6さん、はじめまして。 ありがとうございます。 また、投稿しますね。 まりもさん、こんにちは。 ”火に脂注ぎ”の箇所ですが。 確かにそうも読めますね。 実はすぐ近くに肉牛の牧場があり、そこの社長と焼き肉することがあります。 その社長、自慢げに旨いぞと自分で生産した牛肉焼いていたんで、そのイメージでした。 大変で行政に振り回されたり、矛盾もありつつ、やっぱり好きだから、みんなこの仕事やってます。 (百姓貴族という漫画にその様子が詳しく描かれております)

双葉月ありあ双葉月ありあ (2017-05-03):

命をいただかなければ生きてはいけないということと、それにしたって命を我が物顔でコントロールしすぎではないかということと、たいていの人がそれを受け入れているわりに、綺麗事が言えてしまうということと。 こういったテーマは自分ではあまり書かないけれど、個人的に好きです。なんだか気味がよくって。

羽田恭 (2017-05-04):

双葉月ありあさん、はじめまして。 畜産業、酪農業というのは命をコントロールして成り立っている訳ですが。 たまにえげつなかったりしますし。 綺麗事言うのはあまり知らないからかもしれません。 こんな感じの酪農関係の作品はまだいくつかあります。 いずれ投稿しますね。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-11):

肉を食べる、という事を考えた時に、育てる、或いは屠殺する、という過程を僕は見た事ないし、やった事も無ければ、普段気にして考えることはない。 という人が、本作を読んだ時に、おそらく考えるきっかけを持つことができるきがします。肉を食べるという、所謂業の話は色々な人が色々な仕方で書いているけれども、でもそのきっかけみたいなものを、読者に掴ませるのか、という点でまず大変なことのようにも思います。その点本作はシンプルに語り手が思う所の着想の出発点をしっかり描いていると感じます。

羽田恭 (2017-05-11):

hyakkinさん、こんにちは。 スーパーで並んでいる肉を見て、生きていた牛や豚を想像するのは確かに困難ですよね。 かといって畜産や酪農側からそんなには伝わって来ないのもあります。 (必要とされてないからかもしれませんが) ただ牛が注射により割と簡単に死んでいくのを時に見る立場なものですから、とても印象深く詩を書いてしまいます。 シンプルなのは、割と簡単に死んでいってしまう牛を見たからかもしれません。

霜田明霜田明 (2017-05-11):

この詩の肝は牛を屠り肉を食らう人間を正当化できるかだと思うのです 屠り食らっている人間が「生きとし生けるものが幸せであるように」といって 何言ってんだこいつ、お前らが殺したんじゃないかと言えるかどうかだと思うのです もちろん個人が殺したくなくて、集団の力が殺してしまう、その個人に罪はないと言うことはできますが そう言うことが詩にこそ求められているのではないかと思います その意味合いでひねくれものの僕には、この詩が十分ではなかったと思いました。

夏生夏生 (2017-05-12):

はじめまして、HAneda kyouさま。御作にコメントさせて頂きます。 面白い!と思いました。 牛肉を食べながら「生きとし生けるものが幸せでありますように」と祈るところは皮肉のように見えますが、 そこに思い至るだけ思慮深いと。スーパーの肉売り場で思うことといえば、グラム多く、値段安い肉ないかな?だけですから。 おいしいか、どうか。そこに神経が注がれます。 <牛は 動物は 明日と死後を考えない これはそうであって欲しいという願いにも感じられて。 屠殺所へ連れて行くために牛をトラックに乗せようとして、なかなか乗らない牛に戸惑う人という 映像を見た記憶があり。恐怖を感じているのか、何か悪い予感を感じているのか。 人が抱く恐怖と同じだったら、と考えると居たたまれない気持ちになります。 人に殺められ、食べられる生き物たちが苦しまず、怖がらず居てほしい。 この詩の中からその思いがたち込めているように見えました。

羽田恭 (2017-05-21):

夏生さん、はじめまして。 レスが遅れてしまいました。 スーパー行ったら自分もまた、安いかどうかでしか肉を見なかったりします。 でも、毎日生きている牛と接しているもので、生きている間は苦しくないで欲しいな、と思うのです。 「牛は 動物は/明日と死後を考えない」の箇所、実際動物は基本そのようです。 実家で飼ってた犬もそのようでしたし、科学者もそう言っていたような。 なら、今がより重いのかもしれません。 ちなみに言う事聞かない牛は、特に意味無く言う事聞かなかったり。 (嫌な予感しているのも否定できませんが)

るるりら (2017-05-22):

はじめまして わたしは昔、パートタイマーで牛群管理システムにデータを打ち込む仕事をしたことがある者です。酪農家の方々に書いていただいた牛の一頭一頭の情報をデータ化する作業や、酪農家の方々からいただいたアンケートの集計。それから、牛の格付けなどの勉強会で 日々の努力しておられるお話をまじえなからランクの高い牛を 試食させていただいた経験もあります。そのような経験を持つ私にとって、 この詩は とても興味深い詩です。 ≫牛は 動物は ≫明日と死後を考えない 人間は、牛の明日のこと つまり 死後(食べる)のことばかり考えています。明日(未来)と死後は同意語です。人間が考えているのは 牛の明日だけではないです。過去のことも考えていて、私がしていたデータ入力という作業もあります。 牛はどのようなランク付けの両親であるか、そして どのような育ち、最後にどのように 命を終えるかを、人間は記録に残す。 はたと思いました。幸せとは、そもそも なんでしょうか? 人間とは何であるかも 思いました。 人間だって、未来は かならず死ぬわけですが、人間は ほかの動物とちがって 明日と死後を考える。 しあわせとは なんでしょうか? わたしは 牛さんの瞳をのぞきこんで、人間より牛さんのほうが幸せなのではないかと感じたことがあるのです。 人間は 事細かに比較をする動物です。 けれども、牛の瞳は 比較することをしらないように思えて 牛は 人間より しあわせなのではないかと 私は思ったことがあります。 わたしは 牛のような、つぶらな瞳で 詩に向き合いたいです。牛が比較をしないように 私も比較をしない時間が欲しいです。比較するとき 、なにかしら 心の奥にも分裂が生じている気がするのです。 分裂は、ふしあわせな気持ちの種のように思うのです。  わたしは批評が苦手なので  HAneda kyouさんが返事をお書きになりにくい感想になってしまったきもしています。ぜひ また 別の作品も 拝読させていただきたいです。楽しみです。

fiorina (2017-05-22):

初めまして。 興味深く拝読しました。 肉を食べないひとが、肉を焼く香ばしいにおいを嗅いでおいしそう、と思うこと自体が、心の中では食べていることだと聞いたことがあります。 そのことがたとえば一頭の牛の死に直結していると。 また、生きとし生けるものには、バクテリアなども含まれ、風邪薬を飲んでも殺戮を行っていると。 それに、樹木の根の張り方、すさまじい生命力を見ると、彼らが牛や豚と同じように声を持っていたら、と 思わずにいられません。 命を奪い合うこの世の闇は計り知れませんが、与えられたひとつの場所、ひとつのじかんを、書くこと(筆の力)で小さく照らすのは、わたしたちがそこに見るもの、感じるものとして存在する意味ではないかと思います。

羽田恭 (2017-05-23):

霜田明さん、レスをし忘れてました! すいません。 そうなんです、そこが自分の矛盾点ではあるのです。 でも社会が必要とし、自分も負担にならず、楽しく感じてしまうのです。 ですのでこの仕事をやっています。 (自分は乳牛相手ですが、やはり牛をときに死なせてしまう仕事なのです) るるりらさん、はじめまして。 そのようなパートタイムあるのですね。知りませんでした。 幸せとは、苦しみがないこと、苦しみをなくした状態のことのような気がします。 今牛舎にいる牛がそうであればいいのですが。 それと、比較しないでいたい、ということですが、すべては関係性でしかないとの話があります。そう物事を見るのが悟りや空なのではないというのです。 以上初期仏教オタからでした。草薙龍瞬という人がわかりやすいです。 fiorina さん、はじめまして。 何らかの殺戮によって生きながらえているのは事実なんですよね。 だからこそ感謝と殺さないですんだ命に向かって祈るのが慈悲の瞑想なのかもしれません。 それと、書くことでそれをあらわすのが詩の能力かもしれませんね。 また何か書こうと思いました。

奏熊ととと@所詮詩書き (2017-05-23):

この作品は引っかかったので感想を 命の大切さをA5ランクの牛肉で訴える部分ではあるが、勿体無い。 せっかく、A5ランクの牛肉が使われているのに「美味しさの表現」が少ないせいで「命の大切さ」が伝わってこない。 A5ランクの牛肉を使うのであれば、味覚、聴覚、嗅覚、フォルムの表現まで入れて最後に命の大切さを訴えれば良い作品になると私は思う。

白島真白島真 (2017-05-23):

初めまして。 数日前にステーキを食ったばかりなので、多くは書きません。 「生きとし生けるものが幸せでありますように」 「少なくとも今 苦しくありませんように」 ここに生業として仕事を選ばざるを得なかったギリギリの諦念と、悲しみ、祈りがあります。 いい詩だと思いました。 ステーキはまた食べます。 「いただきます」がより深く自分に響くように。

羽田恭 (2017-05-24):

奏熊とととさん、はじめまして。 なるほど、そういう意見ですか。 実は鼻炎で味覚と嗅覚が人より鈍いため、そのような表現は苦手なのです。 自分には「A5ランクであっても食べ散らかす事になる命」という感覚の方が強いです。 ですので、このような書き方になっています。 白島真さん、はじめまして。 数日前に焼き肉食いました、自分は。 それでもこの仕事好きなんで、まだまだ牛の世話やります。 それでは自分もまた「いただきます」。

湯煙 (2017-05-24):

- インドでは、よい詩のことを、牛の鳴く声のようだと形容するそうです。そいえば、ぼくなんて、毎日のように牛やブタや鶏の肉を口にしていますが、ぼくの肉は彼らには一度として食べさせたことがありませんね。これは不公平かもしれません。ぼくが死んだら、ぼくの肉を、牛やブタやニワトリのえさにしたって、バチはあたらないかもしれないなと、ふと考えました。でも、じっさいだったら、嫌かな。死んでるから、そのほうが合理的なのに、どしてでしょう。うううん。- 田中宏輔 - 死んでいるものを新鮮だと言って食べる人間 - 今 道子 牛がモチーフとなった作品には良いものがあるなあと、あらためて思いました。私も投稿当初から何度も反芻しています。 - うん。いい動物だ - 湯煙

羽田恭 (2017-05-25):

湯煙さん、はじめまして。 はい、かわいいです。牛。 でかくて好き勝手動いて、頭突きしてきたり、足踏まれたら凄まじく痛いけれど。 また牛関係の詩を投稿しますね。


宇宙人   

エイクピア 
作成日時 2017-04-30
コメント日時 2017-05-23

 

三蔵法師の打算がダサくて 神に祈った 小豆のさやにライターで 火を付けると 幻想的な発色をした 火を魅せ付けられる 火を見ていると 三蔵法師よりも ダースベイダーだと思う イームズ回顧展で 宇宙人を探すと 堪えてつかあさいと 自重を求められるが 切りつけられて怪我をしてしまった この矛盾を解決するのが ダースベイダーだ バターを多めにとって 宇宙人と向き合うと 岸壁の母よりは有用で ダースベイダーの剣を 躱(かわ)さない方が 有効だと思うのだ


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まりも (2017-05-02):

宇宙人、というのは、この詩を書いている人、が、まるで宇宙人のようだ、というイメージと重ねている、のかなあ・・・と思ったり、ダースベイダーが出て来るんだから、宇宙人に決まってんじゃん!と思ったり・・・ 大真面目に「バターを多めにとって」と言われると、逆にずっこけるような面白さが出て来る、のは、なぜなんだろう・・・ちびくろサンボ(今は、この名前は使わない、ようですが)の、バターになって溶けてしまったタイガーたちを思い出したり・・・。 「小豆のさやにライターで/火を付けると/幻想的な発色をした」個人的には、こうした詩行が好きです。豆を煮るのに、豆のさやを燃やす、という故事も、なんとなく思い出しました(これは、関係ないかも、ですが・・・)

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-11):

なんじゃこりゃ笑 突拍子がなさすぎる気が第一にしますが、それでもなんだかうーん、変に納得しちゃうような詩行の連続ではありますね。ある種ニッチな需要はありそうですけれども、売れない感じがします。作者は何考えて投稿してんのかなぁ

まりも (2017-05-11):

hyakkinnさんへ 何考えて投稿してんの、というのは、読みようによってはスンゴイ失礼な言い方かも(^_^;) 読む人をびっくりさせたいとか、反響を聞きたいとか、イメージのぶっ飛び具合の中に、他の人は何を観るんだろう、とか、そういう意識はあるのかな、と推測しつつ・・・行間イメージが飛び過ぎているので、全体をまとめるというのか、流れにのせていくような、何か盛り上がりみたいなもの、旋律のようなもの(音感とか独自の韻律とか)なにか、そういった「仕掛け」がある方が、「ニッチな需要」が「より広い需要/受容」になっていくきっかけになるかもしれないですね。

朝顔朝顔 (2017-05-11):

すごい好きですコレ。ミーハーに好みです。 意味は全く取れないのですが、何故かげらげら笑ってしまいました(失礼)。 なんつっても、「岸壁の母」と「ダースベイダー」を同列に持ってくる、この飛躍。 ・・・でも、ほんとうに飛躍なのか?ってちょっと心理学的に考え出すと意外に底がものすごく深いんです。 岸壁の母は、日本的な慈愛の母親ですよね。でも、そっちよりもダースベイダーつまり、西欧的な権力的な父親、と言うもののダークサイドと戦う方が面白いよ、と。 そう考えると、「バターを多めにとって」と言う一行もなかなかに意味深です。バタ臭い、という単語が昔ありましたね。 うん、面白い。

エイクピアエイクピア (2017-05-23):

まりもさんコメントを有難う御座います。ダースベイダーは陳腐なイメージの使い方だったのかも知れません。でも分かり易さ、イメージの鮮明さと言う点で、捨て難いイメージでした。バターを多めにとってにしても私なりの個別性、歴史性が考慮されました。小豆の莢を燃やすと言うのは、ある意味余分な行為ですね。単に捨てればいいのですから、実用的には。でもそこに詩的行為があると思いました。美化するつもりはないのですが、詩的イメージの胎動があると思ったのです。ちびくろサンボのバターに溶けてしまったタイガーですか。これは何か詩的イメージが濃厚ですね。この作品は差別排除運動があったりして一筋縄ではいかない作品のようですが。

エイクピアエイクピア (2017-05-23):

hyakkinnさんコメントを有難う御座います。ニッチな需要ですか、隙間産業みたいな(意味が違ったか)感じを受けます。売れない感じと言う評言は孤高なイメージに包まれた弧峰性が含意されて居る様な気もします。私としては、この作品は津田三蔵さん、ニコライ二世さんなど歴史的な登場人物も実は意識されていました。

エイクピアエイクピア (2017-05-23):

まりもさん再コメントを有難う御座います。行間イメージの飛び過ぎは反省すべき点なのかも知れません。音感と独白の韻律ですか。考慮しておきましょう。そう言う観点からはもう一回自分の詩を読み返して見て ダースベイダーの剣を 躱(かわ)さない方が 有効だと思うのだ この最後の三行は蛇足だったのかも知れません。自分の詩の内省を深める意味でもレスレスはやって見るものですね。

エイクピアエイクピア (2017-05-23):

朝顔さんコメントを有難う御座います。そうですね、岸壁の母は確かに一筋縄ではいかないイメージだと思います。ダースベイダーとの組み合わせも異化を狙ったわけではないのですが、何か並列する事から来る、イメージの刷新を図ったのかも知れません。バタ臭いですか。マーガリンとの比較から来る、含意もある程度はありました。マーガリンは出てませんが。飛躍と言う観点、心理がから見たアプローチ、再び自作詩を再読して見る意義を見出せたような気がしました。矛盾を解決するのがダースベイダーだと言うフレーズがありました。何か自作詩ながら、ダースベイダーがステレオタイプのイメージから解放されて行く感じを持って行く感じがしたのです。


丘の向こうに消えてゆく   

百均@B-REVIEW ON/ 
作成日時 2017-04-30
コメント日時 2017-05-22

 

★ 三角谷の端っこにわたしの家があって そこで水汲みしていると 朝日が昇ってきて ひび割れたわたしの右手、 彩る 色彩が貫通して手のひらの影に虹色のうつすから そうやって草の上で、 膝を抱えていつまでも眠っていたい わたしを 姉が呼び止めて殴られた 小さな言葉で託された 弟のなきがら みたいな顔してねむってるはなみずを スカートでぬぐう ★ 幻が水に裂けて だんだん、 今日の働きを終えた子供たちが、 丘の上へのぼっていく、ダンボールを広げたコースターで 坂を滑る遊びをしながら 遠くの空を見ていると、日と星が落ちてくる 「みてあれ」って 指さした向こうから、出稼ぎでボロボロになった皮膚で、 頭を撫でてくれる、大人たちと手をつないで家路についた わたしの手は誰もつかんでくれない 子守の、得意な姉になりたかった 守られるばかりのわたし をぶんれつしたい そういって一緒にシチューを囲む食卓 ★ 夜半に目が覚めて 体が割れていく、ゆびきり、寒さが、少し空いた窓から差し込んできた夜が、本当に寂しい  /さみしさが一人歩きして、二階のベランダに上がる  わたしの  体が前に歩く 星で溢れているから、一人で踊ってもこわくない けど、弟が起き出してきて、わたしをみている のをみているわたしをみて、泣き出した、弟を、なだめるわたしは、わたしじゃ、どうにもならないから、夜に、 みんな起きだして わたしが、お下がりである事、 夜は、 夜であることを思い出すまで、 また、 朝日が昇ってくるように 姉が 呆然とするわたしのこころの外側を抱いてくれる ★  思いついた言葉で、夢を占おう、何もない水たまりに、ちぎった花束をとかそう、ばらけた赤い花弁を両手ですくい上げて、唇にしよう、手をつないだ弟、指に加えた音を風でかわかそう、水を組み上げるわたしの手、泣いてしまう弟の涙、そういうのみんな、みんな丘の上から流れていく比喩、きっと、朝日がこうして昇るから、その度におもいだす、不甲斐なさと一緒に流れてしまう、削がれ落ちた透明な手のひらのひふがはがれおちて、おとなたちが帰ってくる前に、ダンボールにまたがって坂を下った、やけくその野原を駆け巡るか細いこころで、 ★ 妹が生まれるという知らせが、大きくなった弟の耳に、 初めて入る時の音 思い出がよみがえる、 透明になって消えた、 あの坂の上の、 丘の向こうに、消えていった


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紅月紅月 (2017-04-30):

百均さん、こんばんは。 語り手は三人姉弟の真ん中であり、「わたしの手は誰もつかんでくれない」という記述から推察するに、共働きかなにかの理由で両親とあまりコミュニケートすることが出来ない家庭環境であるようです。事実、家族について語られているとおぼしきこの詩には「姉」や「弟」といった単語は何度も登場するのに直接的に両親を指す単語は一度も登場していません。辛うじて「おとな」というよそよそしい単語が出てくる程度でしょうか。そして語り手たち姉弟は、「おとな」達に頼らず、自分たち(子供)だけでもなんとかうまくやっていかなければならないと思っていることが、「子守の、得意な姉になりたかった」という語りからもわかります。 個人的な話になって申し訳ないのですが、私も家庭環境が色々複雑だったりしまして、語り手と同じく幼い頃から両親と良好な関係を築くということが出来なかったんですね。それもあってなんというか、こういう詩を読むときどうしても語り手をどこか自分と重ねてしまいすごく複雑な気持ちになります。ただ私は当時一人っ子だったこともあり、暗い意識はずっとおとな(両親)へと向いていたので、この詩の語り手のようにおとな以外へ眼差しを向けていくような思考というのは自分にとってすごく異質で、私にも姉弟がいたらこのような考え方をしたのだろうかと考えさせられもしました。なんか私的な話でごめんなさい。 百均さんはいつも実直な詩を書かれますね。百均さんの評にも言えることだけれど、自分の言葉で読み、自分の言葉で書くというのは誰にでもできることじゃなくて、百均さんの素敵な才能だと思います。何が言いたいのか分からなくなってきましたが、とにかくこの詩をなんとなく好きだなあと思ったのでした。ただの感想で申し訳ないです。

まりも (2017-05-02):

文章の区切り方(改行のリズム)に独特の屈曲があって、そのリズム感に揺さぶられながら読みました。 「弟のなきがら みたいな顔してねむってるはなみずを」 なんて、えっと驚いて、それからずっこけるようなズラシがあったり・・・ 「体が割れていく、ゆびきり、寒さが、少し空いた窓から差し込んできた夜が、本当に寂しい」この、とつとつと途切れながら、流れるように一気にあふれ出すような一行、とか・・・「わたしの/ 体が前に歩く」魂だけが夜空に抜け出して、歩いている、ような感覚とか・・・ どんなに子守りの上手い姉でも、「呆然とするわたしのこころの外側を抱いてくれる」ことはあっても、こころの内側、本当に寂しい、その芯のところは、抱いてはくれないんだな、とか・・・ 「みんな丘の上から流れていく比喩、きっと、朝日がこうして昇るから、その度におもいだす、不甲斐なさと一緒に流れてしまう、削がれ落ちた透明な手のひらのひふがはがれおちて、」この流麗な一節、とても素敵でした。 丘は、故郷の景であるように見えるけれども・・・子供時代とか、想い出の国と、現実界との境界にある「丘」のように感じました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-22):

紅月さん  色々、遅れてしまってすいません。  なんだろうな、凄く嬉しいレスでした。なんだか、上手くここでは返事ができないのですが、最近の紅月さんへの色々な返事の中で書いているとおり、僕の場合は「姉」という存在が非常に偉大な物としてありまして(それは良くも悪くもなのですが)父や母ともそれで色々あったのですが、そういう物の一部分を、今回は少しだけ描けたのかなと思います。  とはいいつつも、本作は、多分紅月さんからの影響を割と、モロに受けている感じが、しています。  レスありがとうございました。  僕は自分の書くものが何もかも嫌いだと思いながらずっと生きているのですが、少しだけ好きになってもいいのかなとおもいました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-22):

まりもさん  遅れてしまってすいません。  「丘」という言葉をどうしても使いたくて、でも、僕には丘という記憶がどこにもなかったので、捏造するしかなかったのですが、その過程の中で、丘の持つイメージというのが、何かしらの象徴みたいになりそうな予感がしてきましてて、それが最後に上手く弾けてくれればいいなと思いながら本作を書いたのですが。それがまりもさんには伝わったのかなと思い、レスを読んでいて嬉しくおもいました。  文章のどこを書き足して引き算するのか、というのが、今回は少しだけ上手くいった感じがあります。今回引用して下さった所は、個人的に調整みたいなのを加えた所が多く、ちょっとだけ推敲の手触りというか、こういう感じで持っていけばいいのかなという感じが得られたような気がしました。  レス、ありがとうございました。


ふるさと   

加藤圭一郎( @tenku ) 
作成日時 2017-04-19
コメント日時 2017-05-21

 

ふるさとに 何を思うのか。 この場所が この土地が好き そう思うこともある。 この場所にとtに 好き好んでうまれた わけじゃない。 そう思うことも ある。 ふるさとという土地に 根を生やし 生きている。 遠くに住んだら 懐かしく思うだろうか そう思っている。


コメント欄を表示する (13)
渡辺八畳@祝儀敷 (2017-04-19):

「この場所にとtに」は打ち損じでしょうか

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-04-19):

はい。

花緒 (2017-04-19):

平易な文章でわかりやすく読めますし、かたちになっています。であるがゆえに、打ち損じはちょっと痛いですね。

渡辺八畳@祝儀敷 (2017-04-19):

修正版の文をコメントに書いてもらえますか

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-04-19):

ふるさとに 何を思うのか。 この場所が この土地が好き そう思うこともある。 この場所にこの土地に 好き好んでうまれた わけじゃない。 そう思うことも ある。 ふるさとという土地に 根を生やし 生きている。 遠くに住んだら 懐かしく思うだろうか そう思っている。

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-04-19):

>花緒 ありがとうございます。そうですね。

渡辺八畳@祝儀敷 (2017-04-20):

なんともコメントしずらいというのが正直なところだ。 花緒さんの言うよう、平易だし故に形は整っている。いや、整っているというより崩れようがない。活字化されていることと文が孕んでいる内容とが1:1すぎて、内容を膨らませ(所謂「行間」に詩情を含ませること)ようとしての失敗が起こりようがない。 シンプルすぎるから、読み手が勝手にそこに推測を加えることもできなくはない。例えば、これは室井犀星の「ふるさとは遠きにありて」(http://tad.world.coocan.jp/poems_1/poem_02.htm)のオマージュであるとか。しかし際限ないそういった推測をすべきなのだろうか、禅問答のようなそれをすべきなのだろうかとも思う。 ハンドルネームにもあるTwitterのアカウントを見させてもらいました。ワサラー団なんですね。そして、千早Pなんですね。 カオスラウンジにも足を運ばれているようで。そういった、オタクカルチャーに近しい人物にしてはあまりに素直な詩作品だなと思いました。貶す意思は全くありませんと申しておきます。ただ、正直素直すぎて読解の面白さは感じられないです。難解にすればいいってわけではない(むしろ私は無駄に難解な作品は良しとしません)ですが、一捻り二捻りのスパイスは欲しい所です。 文学極道という実質B-REVIEWの姉妹サイトに、Jupiterから来たンゴ氏の「雪と少女」という詩(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=516;uniqid=20170203_684_9426p#20170203_684_9426p)が投稿されています。 実はこの詩は、アイマスの萩原雪歩好きの氏が、「アイマスの雪歩にケツ穴ほじほじしてほしい」(原文ママ)気持ちを詩にしたものです。 ケツ穴云々はまぁとりあえずとしても、ある種の二次創作として氏はこれを書き、そしてサイト内で月間佳作をもらいました。 媒体が何であろうと創作を行う際、その創作行動を起こさせる熱いパッションが不可欠でしょう。加藤さんはこの「ふるさと」や「連投」のような内容を、どこまで深く激しく感じて書いているのかなと気になりました。推測ですから必ずしも当たらないのを承知で書きますが、もしかして加藤さんは詩とはこういうものだという先入観の元でとりあえずきれいな語句きれいな内容で書いてみた、ということはないでしょうか。もしそうだとしたら、余程の技術を持っていない限り成功させるのは難しいかと思います。 私の提案として、例えば千早、またカオスラウンジのようなサブカルチャーの流れ、そういったものものと触れて感じた思いから詩を書くのはどうでしょう。素直な感性で書かれたものはきっと良い出来になるでしょう。そして振れ幅ができるので、その時こそ今回の詩のような方向性のものも客観的に見られて、そして上手く深く書けるようになるのではないかと思います。 (勿論個人的な提案なので必ずしも従う必要はありません) 以上、長々と書かせていただきました。

みうら (2017-04-20):

どんな詩を書こうとも、それは作者の自由である。どのように詩を読もうとも自由。それを場と時間が縛る。場と時間が制限を加える。特定の個人を罵る内容の作品は投稿掲示板にふさわしくない。時の権力を罵ることは問題ないかもしれない。しかし、権力側の方々には問題となるだろう。大震災が発生し、世間が大騒ぎしている時世には詩を投稿している場合じゃないだろうと、不快に思われるかもしれない。その、世間の眼を気にすることがそもそも人間として死んでると敢えて詩を投稿するものが正しかったりするかもしれない。時と場を越えて、自由に詩を書き投稿するとは、覚悟が少しいるんだ。人によっては、その覚悟を考えると眠れないかもしれない。その覚悟が伝わらなかったり、誤解を受けてしまうかもしれない。もしかしたら、時と場なんて意味がわからず投稿したら、投稿禁止になってしまったりするかもしれない。でも、覚悟したんだから、それはそれでいいじゃない。 本作『ふるさと』はシンプルで平易な言葉であり、素直に書かれた作品なのだと思う。『そう思うこともある。』『根をはやし生きている。』この置かれた二つの言葉のうち、どちらかを「そう思う。」か「生きる。」という断言とすれば、そこに覚悟という詩情が生まれないだろか。しかし、そう思うのも私の感性でしかないが、敢えて断言します。詩情が生まれます。 加藤さん、初投稿有難う御座います。

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-04-21):

祝儀敷さん >正直素直すぎて読解の面白さは感じられないです。難解にすればいいってわけではないですが、一捻り二捻りのスパイスは欲しい所です。 素直さは性格から来るところもあるので、率直な鋭さなど狙うべきかもしれませんね。 >創作行動を起こさせる熱いパッションが不可欠 思い返していると、たしかにこれを書いている時はパッションが不足していたと思います。 「パッション」を入れすぎると、サブカル的な意味で「中二病」ぽくなるので、それで破棄した作品がある(駄作も含めて大量に破棄してしましました。今考えるともったいないですが)ので、あえて避けてしまったというところは私内部であったかもしれません。 この返信を書いている時のほうがよほどパッションがあるようにも思います(詩を書くモチベーションに承認欲求的なものもあるので他者の存在は大事なのだと思います)。また、これらの作品を書いた時不調な感じもありました。 >私の提案として、例えば千早、またカオスラウンジのようなサブカルチャーの流れ、そういったものものと触れて感じた思いから詩を書くのはどうでしょう。素直な感性で書かれたものはきっと良い出来になるでしょう。そして振れ幅ができるので、その時こそ今回の詩のような方向性のものも客観的に見られて、そして上手く深く書けるようになるのではないかと思います。 試してみようかと思います。

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-04-21):

>どんな詩を書こうとも、それは作者の自由である。どのように詩を読もうとも自由。それを場と時間が縛る。場と時間が制限を加える。特定の個人を罵る内容の作品は投稿掲示板にふさわしくない。 そうですね。投稿掲示板よりブログの方が自由はあります。ただ、人間関係や知名度によっては公開されていても他者不在になりえます。 >時の権力を罵ることは問題ないかもしれない。しかし、権力側の方々には問題となるだろう。 詩人によっては権威主義であり、また、ある詩人は反権威主義、反権力であろうと思います。権威や権力は打ち倒されるべき存在でもあると思います。 >大震災が発生し、世間が大騒ぎしている時世には詩を投稿している場合じゃないだろうと、不快に思われるかもしれない。 大地震が起こっている時も、ミサイルが落ちようとも、戦争が起ころうとも、世界大戦が起ころうとも、あるいは富士山が噴火しようとも、詩人というのは詩を書くことが正しいと思っています。 >その、世間の眼を気にすることがそもそも人間として死んでると敢えて詩を投稿するものが正しかったりするかもしれない。 確かに、他者に評されることで、人間として、詩人としての情熱や生きがいといったものを取り戻せるのかもしれません。 >時と場を越えて、自由に詩を書き投稿するとは、覚悟が少しいるんだ。人によっては、その覚悟を考えると眠れないかもしれない。その覚悟が伝わらなかったり、誤解を受けてしまうかもしれない。もしかしたら、時と場なんて意味がわからず投稿したら、投稿禁止になってしまったりするかもしれない。でも、覚悟したんだから、それはそれでいいじゃない。 そのとおりですね。眠れなかったり、誤解を恐れたりするのは、どちらかというと繊細な詩人ですね。確かにそれでいいのだと思います。 >本作『ふるさと』はシンプルで平易な言葉であり、素直に書かれた作品なのだと思う。『そう思うこともある。』『根をはやし生きている。』この置かれた二つの言葉のうち、どちらかを「そう思う。」か「生きる。」という断言とすれば、そこに覚悟という詩情が生まれないだろか。しかし、そう思うのも私の感性でしかないが、敢えて断言します。詩情が生まれます。 その変化を取り入れたほうが詩情が生まれる。指摘されて私もそう思います。 >加藤さん、初投稿有難う御座います。 こちらこそ。このような場に投稿するきっかけを作って下さり、ありがとうございます。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-05):

 割と皆思う事なんじゃないかなぁ、、、という点で考えると、的は突いている。と思います。ただ、「皆これぐらいは普通に思うよね」という感じが強いし、そういう意味では無価値かなとも思います。このままだと単なるボヤキっていう感じすかね。

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-05-21):

hyakkinn コメントありがとうございます。 コメント見逃していました。 「割と皆思う事なんじゃないかなぁ」というのは私としては継承された再現性であるということなんですよね。 そこから導くと、「皆これぐらいは普通に思うよね」というのは的を突いた指摘だと思います。 「ふるさと」や、例えば「夕日が綺麗」などは、「共感性」に表現を持っていけると思います。 >無価値 詩歌界隈は詩を書くこと事体に対して、もっと価値を置いたほうがいいと考えています。 無価値の判断基準は人それぞれでゲームに価値が無いという人もいれば、無いという人もいます。 ソーシャルゲームなどはどんなものでも価値を持たせようとしてるように思えて、 詩歌界隈って変なこだわりがあるように思えるんですよね。 別の視点から芸術的といういだけではなく、文化的なことでもあるので、書かれることそのものに意味があると思います。 LINEというのはよく使われるアプリケーションですが、そのやりとりしていることは他人にとって無価値だったりします(内容のないようなコミュニケーションでもコミュニケーションとして価値はあると思いますが)。 ただ、そういった無価値(に思えることの)の集積が「時代性」を生み出したりすることもあるので、難しいですね。

加藤圭一郎( @tenku )加藤圭一郎( @tenku ) (2017-05-21):

書きそびれたことがあります。「共感性」に持っていけなかったというのは作者としての落ち度であると思います。


言葉にチェイサーを   

kaz. 
作成日時 2017-04-22
コメント日時 2017-05-17

 

 《ラッキーストライク》 『モレルの発明』という小説を紹介してもらって、私は不思議と友人はジントニックリシュナとうわけわからぬ変換を経ていまこれを解明、改名、ではなく書いている。 トイレに入ると「愛より速く」という真っ赤なチラシが飛び込んできた。私はジントニックとウォッカで酔っ払い、ふらふらしながらこれを書いている。私は一気にジントニックを飲み干した。酔っ払った文章が酔っ払った形で出てくる。「とにかく力を抜いて書くことだよ」と友人は言う。ていうかこれは文章なのか? ふらふらしながら「スピリチュアルな話」という別の友人の言葉が飛び込んできたのを拾って書き留める。数の病を書いたときの私を思い出す。そして今度のバーはどれすでんだ。里海という名前のバーの女の子が妙に印象深く残っている。紫衣那という名前の女の子は宮沢賢治に影響を受けているということだった。 落ち着け、落ち着け、あとちょっとで品川だ、私の目には吐瀉物が移る、映る、移る、そして、私の気の中にも映っていか、いく、酔っ払った勢いで書いた詩なんてこんなもんだ、ガブリエル=ガルシア・マルケスみたいな、吊革に寄りかかって何度も捻れている私、広がらないつながり、そしてようやく渋谷だ、帰り道、帰途、言葉なんて覚えるんじゃなかった、私はふらふら、し、な、がわ品川に向かっている、酔っ払い、危うくしゃがみこみそうになりながら、さわ、澤あずき、好きこそものの上手なれ、ぐだぐだな、ぐなら詩.あるいは12656わ、カント倫理自覚の形式的批判、もしくら、「どこ行くんだよ」と声をかけられた、「取り柄があって素敵ですね」と声。をかけられたのは里海さん、あななかすような、カストラート、もしくは、ビックバン、病は気から、ないしは、関連メディアの創設、デコンストラクティブ、的な、何か、というように、酔って、寄って、辿り着いたのが、彼女の家だった、こんな最中にも我を失わずにいた、私は、口説こうとした女の子のことを思い出していた、「男の本性を明かすための心理学的考察がある、それはまずギャンブルをやるか、もしくは、落ち着け、女の子をはべらせて酒を飲ませるかだ、」という一言。を!よく覚えている、わたしは酔っているらしいです、 朝の歌 シルビア・プラスにα米 言ったんだよ、彼女いなかったら俺里海さんのこと口説いてるんだけどなあって、そしたら言うんだよ、彼女のこと大事にしてやってくださいって。健気だなあって思った。ティラーソン国務長官の首をもぎ取ってバナナみたいに食べてみたいな。そんな風に彼女のことも一瞬食べてみたくなっちゃった、なんて言ったら引かれるから言わなかった、でも心の底ではそう思ってたかもしれない、でも彼女は言った、彼女には彼もいる、今の彼女を大事にしてやってねって。君のことを詩にしていいかなって僕は言った、そしたら少し照れて笑っていいよと言ってくれた。友人が冗談でいつか大物になったら  《地面に落ちた水煙草を吸うほど貧しかった》 🚬 痛む頭のこめかみを押さえていると次第に止んできた、雨止みのように、言葉の雨が止んだ、私はふらふらと傘を差しながら外へ出た、モレルの発明品を借りに、酒の雨だった、彼女とのキスは酒の香りがした、燻蒸されていた、私たちの言葉は 散る桜 積もる桜も 散る桜 力を抜いて、息をするように言葉する、 どうか、どうか。  《祈りの中の薔薇》 🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹🌹 整然とした薔薇 バラバラでない薔薇 いやそこまで汲み取ってくれる人はいないか


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花緒 (2017-04-23):

良い。良作だ。前半ちゃんと読める感じのスタートを切ったことで、リーダビリティが明らかに向上している。しかし、これは貴兄にとっては今月3本目の投稿作のはずだ。まだ酔っ払っておられるのか?良作なので、消さない。5月分の投稿作扱いとさせて頂きたいと思う。

kaz. (2017-04-23):

花緒さんへ ガーン。盥が落ちてきたような気分です。大変申し訳ないです。書けたときの興奮冷めやらぬままに(そして酔いも覚めぬままに)投稿してしまいました。謹慎などなんなりとお申し付けくださいませ。完全に失念しておりました。可能であれば、私の作品を選考から外してもらえたらと思います。謝罪いたします。

まりも (2017-04-23):

落ち着け、落ち着け、以降の部分に、もう少し疾走感(言葉が崩れていく感)があった方が、酔いが廻っていくリアル感があったかな、というのと・・・個人的には、一連目は少しシラフっぽい感じで書いた方が二連目との落差が出る、であろうから・・・同じ言葉やフレーズの重なる部分をできるだけ推敲して、圧縮するという、文章編集的な作業を更に加えた方が良いような気がしました。

まりも (2017-04-23):

一連目、ではなかった、「トイレに入ると~」の連は二連目ですね。「落ち着け~」の連が、二連目ではなく、三連目、になる。落ち着け、まりも。

花緒 (2017-04-23):

>kaz.さん いえいえ〜。上述の通り、本作は4月の選考から外して、5月の選考対象第1作目ということにさせて頂きたく。

もとこもとこ (2017-04-25):

そうかー、これ酔っぱらった勢いで書いたのかー。私も「あなパイ」の頃の「もとこ」名義の詩はほとんど酔った時に書いていたからなー。しかも投稿した後で規定違反というオチ。ここまでが遠足という感じで脱帽です。しかも酔って書いたこの詩が、これまでで一番読みやすいという現実。これは作者にとって良いことなのか悪いことなのか。それはともかく、ノーチェイサーは身体に悪いということですね、わかります。 「落ち着け、落ち着け、あとちょっとで品川だ、」から「澤あずき」までは特にネ申展開。そして「朝の歌/シルビア・プラスにα米」ですでにTKO勝ちレベル。最後の「いやそこまで汲み取ってくれる人はいないか」という呟きで「これは勝ったな」と思った瞬間に上から投稿規定違反という特大の盥が落ちてくるという、まるで「龍の歯医者」の冒頭における海戦シーンみたいな展開に感動の笑いがあふれてくるのであります。

kaz. (2017-05-09):

もとこ様、お読みくださりありがとうございます。良いものが書けるということは同時に何かが欠けることなのかもしれませんね。今、「書ける」と書こうとして、「欠ける」という言葉や、「×」という記号やらが出てきたのですが、不思議なことに、書けるという言葉こそが、何か肝心なものを取り払ってしまった後の痕跡であったり、あるいは何かの過ちであったりするのかもしれない。できればゼロではなく2以上をかけたいものです。本作はどうだったでしょうか。果たして、本作の不徳の致すところは数限りなく、実に多くの問題をはらんでおりますが、読みやすいと言って頂けたことはうれしく思います。

朝顔朝顔 (2017-05-09):

これは傑作ですね。一度ざあっと拝読しただけでそう思いましたが、つらつらと丁寧に読みましてその感が増しました。 言葉の疾走感があるのです。 にも関わらず、内容が単なる言葉ひねりに堕していない。気に入った女性に誠実に拒否られて、自分も黙って帰って来る。「君の事を詩にしていいかな」と言う一言を残して。 そして、雨の中(現実の雨なのか、また酒を飲んでいるのかは判然としないのですが・・・)で、おそらくは詩を練りながら、 「力を抜いて、息をするように言葉する、/どうか、どうか。/ 《祈りの中の薔薇》」 この三行が本当にうつくしいです。ダンディですね。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-11):

 一緒にお酒飲んだから、いつもよりなんかあれかなぁ、安心して読めたかもしれない。あの状況まんまですもんね。だから、多分あれだな、kaz.さんの事をもっと知れたら、知れただけkaz.さんの作品は面白く読めるかもしれないですね。もちろんこれは、あの時に花緒さんから出されたお題だったから、偶々そう思うのかもしれない。普段の作品で、それが通用するとは思わないけれども(多分、個々の作品毎に用意される背景というのは異なるだろうから)、そんなことを読んでて思いました。 これは、もう感想じゃないレスになってしまってるし、だからなんだという話だと思うのですがね。すごく漠然とした言葉でこのレスを纏めるなら、読んでて凄く切ない気分になった。酔っ払いの詩ではあるけれども。

kaz. (2017-05-17):

朝顔様 お読みくださりありがとう。疾走感ということはよく言われますが、私には正直よくわかりません。それはたとえていうなら、私自身が走っているというよりも、あなた自身の走行速度に比べると、私自身が光のような速さでいるから、そもそも私からすれば走っているという前提はないし、あなたからすれば速いように見える、という話だと思います。本当に疾走感のある詩は、自分から見て遥かに遠くに見えると思います。 百均さん、どうもありがとう。 『ツァラトゥストラはかく語りき』の最後に、「酔歌」という章がありますよね。また、李白だったと思うのですが、酔った勢いで水に映った月を捉えようとして溺れ死んだという話がありますよね。私が書きたいのはそういう話だったりします。


ノイズ   

雨粒あめ子 
作成日時 2017-04-30
コメント日時 2017-05-16

 

夜はかわいくないよ。 足の裏に刺さったトゲのその色、悲惨 昨夕からちびちびと降り出した雨によって 都会はでっかい湖となった わたし 部屋の窓が閉まっていることを確認し、 ベッドサイドに置いてあるぬるくって、 あまいミルクを飲んだあと、 眠りに就こうと目を 閉じたのに塞げない両手があるにもかかわらず耳を塞げない 隣人の眠りの宴は愉快ですこと。 わたし 未だに眠れずシガレット午前四時 お気に入りの銘柄のその色、緑 吸いすぎたせいで 無味に近い かわいくないよるに かわいげのないないわたしは 平和な夢を見ることをゆめみたい あまりにもつよいこの滝雨世界から 逃げずにあさい呼吸をしていたい、痛みなんて、忘れて。


コメント欄を表示する (8)
みうら (2017-04-30):

夜はかわいくないし きみはかわいげもない 棘を抜いてあげたいと夕暮れに ベッドの脇から引き出した 足首が両手を嫌って 平和な夜に~♪とハミングしている 雨がパランパランとビートを重ね出したころから 僕がきみが 眠らない夜が始まったんだ amagasasasiteさん、毎度投稿有難う御座います。返詩を書いてみました。

ユーカラユーカラ (2017-04-30):

拝読致しました。 アンニュイな雰囲気を纏った作品ですね。

まりも (2017-05-02):

眠れない夜。ちびちびとふっている雨、なのに、まるで自分が孤島に取り残されているような、水の底に町全体が沈んでしまったような感覚。足裏のトゲ、この、命に関わらないけれども実にうっとうしくて痛くてうんざりする、そんなやっかいなものが、心のトゲとして最後にもう一度、現れるような気がしました。

百均@B-REVIEW ON/ (2017-05-11):

夜はかわいくない、から始まって流れていく、比喩の硬さも程よく、選語も滑らかでいいですね。 本作は何よりも始まり方がいい。ノイズって何? というタイトルから、夜の可愛さから、雨の話にもつれ込む。そこから都市、湖への緩やかな広いイメージのつらなり、ミルクを挟んだ後で、宴会(都市)のイメージ、からお気に入りのシガレットが無味に感じる、という所でストレスの消し方の対比があって、そこから滝雨のイメージを世界の名付けてしまう、この疲れ切った感じ。 止まない雨はない、とはいうけどそんなの嘘で、ノイズの絶えない都市はまるで湖のように皆のストレスを底にたたえながら機能し続ける終わらないスコールの中にある世界だと言われたような気がします。本作の言葉が身に染みる方は結構いるのではないかと思います。まるで、一杯のミルクを飲んだような気分だ。

雨粒あめ子 (2017-05-16):

三浦果実さんへ きみにぬるい紅茶をあげる これが僕のほんのすこしのやさしさだ 嫌ならその怒りを声荒げなよ 発狂すれば、失神したように、 きっとふたりで眠れるから 返詩ありがとうございます。三浦さんからの返詩に返してみました。

雨粒あめ子 (2017-05-16):

ユーカラさんへ 読んでいただき、どうも有難うございます。 もどかしく、眠れない夜はどうしようもなく鬱々としていて。そんな日々の体験を詩に起こしてみました。

雨粒あめ子 (2017-05-16):

まりもさんへ 眠れない夜、しかも外は雨。こういう時って何もかもが不快に感じるんです。 足裏のトゲでうんざりするも、部屋の電気を点けてまで取る心の余裕がない。 そんな自分はきっとかわいくなんてないだろうな…と想像して描いてみました。

雨粒あめ子 (2017-05-16):

hyakkinnnさんへ 疲れ切った”かわいげのない”わたしは、生きづらい社会の中で色んな物事をなんとなく諦めながら生きています。止まない雨はないと明るい顔でいう人もおそらく大勢いて、私もそう気楽に考えられたらな、と思うこともあります…。 たまに現実から目をそらして(痛みなんて、忘れて。)生きてみたいな、と。


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