作品投稿掲示板 - B-REVIEW

白島真


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三浦果実 さん 丁寧なお返事、ありがとうございます。 ビーレビの新企画、期待しております。 田中修子さん そう、自分なりに無意識の層を覗いてみました。 【まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。 折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。】 まあ、こんな事は知らなくても一向に構いませんし、 それでも修子さんのように感覚的に分かってくれるので嬉しい。 修子さんの妄想を刺激したなら、この作品は成功と言えそうです^^ いつもコメ、感謝でっす!! (古代そして意識の地層は)

2017-12-10

三浦果実さん 私の詩の定義は叫びと祈りがあり、生と死を見つめる眼差しが必須だということです。そのようなスタンスで詩を書いています。(それ以外は詩ではないという意味でなく、あくまで私のスタンス) そういう意味で作品に「白島」というバイアスがかかっているのではなく、同じような死や叫び、祈りを反復されるからではないでしょうか?それは良く言えば、作風ができている、悪く言えば、一種のパターン化ともいえ、長短こもごもなのかも知れません。 「宇宙の深淵」・・・・この詩句だけ読み返してみると陳腐な表現ですが、 宇宙の深淵が心に射し込んで 滅び去った星の光芒に揺蕩っていた夜だった このフレーズは実感で、書いています。 「宇宙の深淵」という文節をフレーズによって生かしたいと考えた箇所でした。 (ご質問の内容とはそれていると思いますが、改めて感じたので記しておきます) >作品だけをみて読むべきであって作者の人物像は無関係 これは、もう自明の理であって、その通りでしょう。 とは言っても、有名、無名を問わず、その作者のおかれた環境や時代、病みや闇の深さ、などを知ったことで作中の言葉が思わぬ衝撃を与えてくれることは往々にしてあります。難解と思われた詩が、意外とすらすらか解読されるケースもあります。 ただ、それはあくまで補助的要素であって、必須のものではないと思います。 詩を解読できることは、逆に詩のひろがりを自ら阻害してしまうので、 分からないなりにその詩に酔える状態が理想ですね。 (古代そして意識の地層は)

2017-12-06

この詩にインスパイアされた詩でしょうか。 素敵です!! まりもさんは、オノマトペの使い方、うまいですねー。 「ひた、ひた、ひた」はよくあるパターンですが 挿入する場所が効果的! (古代そして意識の地層は)

2017-12-01

マレー南印紀行はマレー蘭印紀行 間違い。 当たってないから、関係ないけどw (補遺)

2017-11-29

まあ、前回のSept Papillons 同様、  意味を追うと難解以外の何物でもないですね。 しかし、どこかに惹かれて何度も読んでしまう。 タイトルが〈補遺〉だから、最初はガルシア・マルケスあたりへのオマージュ作品かとも思いましたが、〈注連繩〉が出てくるのでは違う気がする。 でも、誰かの作品か、実人生へのオマージュ感はぬぐえない。(金子光晴のマレー南印紀行?) >Phallophilia 《精神医学》巨根性愛 こうなると光晴でもなさそう。 >はながみを啜る首だ はながみを啜る〈音〉だと思ったら〈首〉だって。 思わず二条河原のさらし首を連想してしまう。 終聯だけが見事な五七! 意図的かどうかは分かりませんが、補遺は案外きっちりした性格が 出ている作品なのかも知れない。 きっとご自身の人生への〈補遺〉なのでしょう。(前言撤回) 〈膠〉・・・〈蓼〉食う虫も好き好きで、私はこの作品好きだ、で締めようと思っていたら、なんと蓼(たで)でななく、膠(にかわ)ではありませぬか!膠食ってもうまくないと思うけどなー。 ってことで、頭が膠着状態のまま終わります。 (補遺)

2017-11-29

仲程さん いつもご感想をありがとうございます。 重厚なシンフォニー!!これは作者としては嬉しい言葉です。 折原信夫は古代に帰れといいましたが、現代社会にあって共同体やいろいろなしきたり、祖霊、 こういったものが失われつつあります。 それを自己の内奥の深層心理と照らせ合わせ、詩的に書いたものです。 お題目、後で検索してみます^^ ありがとうございました。 (古代そして意識の地層は)

2017-11-28

コーリャさん あ、文極ラジオで読んだのは拙詩「花の化石」でした。(詩集『死水晶』に収録) まあ、同じ作者ですから似ている箇所はあったかも知れません。 この詩は私の近作ですが、今までで一番難解な作品かも知れません。 だから、長く感じてしまうのも仕方ないかと(笑 でも、感想をいただき嬉しいです。 下手をすると全くコメが付かないかと思ってましたからw (古代そして意識の地層は)

2017-11-27

タイトルに「パッチワーク」とあるように、少女が一応、狭い少女的世界から一歩踏み出すことを 前半「第三者的視点」、中盤「少女の視点」。終盤「ぼくの視点」からそれぞれをパッチワークのように貼り合わせて創作した作品と読みました。 (私も少女の成長過程を書いた「花の化石」という作品があります) 作中主体が変わっても、ごく自然な形でその世界に入っていけるのは、主体は変わるたびに、新規の題材が周到に用意されているためでしょう。 特に終連の「箸の持ち方に、恋をする」のくだりは一番、面白かったです。 >「その後、少女は売りを覚え、東北の地で一人暮らしを始めましたとさ、めでたし、めでたし。それでは、宴は終わりです、皆様お気をつけてお帰り下さい」 上記のような手法は効果より、逆にマイナスの方が大きいと感じ、ここではややしらけました。 この作中主体は上記三者には属せず、よりパッチワーク的効果を狙ったようには思うのですが。 (パッチワークライフ)

2017-11-27

6連 「時じくの香の木の実を採りに行つた人びとは         帰って来ない」 「人々は」と「帰って」の間が随分空いてますが、これはコピペミスで、一舛空けです。 折口信夫を想起しながら、お読みいただけるとありがたいです。 (古代そして意識の地層は)

2017-11-27

仲程さん ゴルゴダでなく即興ゴルゴンダでしたね^^ 訂正いたします。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-27

静かな視界 さん 苦手と言われてしまうと書いた者としては少々辛いですが、ただ、好みはそれぞれです。 私なら苦手な作品には、レスをしませんが、レスをいただけたこと自体はうれしいです。 >このような作品にするためには散文のようなものを書き、添削し、一度壊し、さらに詩作品に向けてのメタファーを選択し、詩句を構成していくという、まさに根気の居る仕事なのだと思います。 まったく、こういうことはありません。 散文と詩はそもそも別のもの(小林秀雄が言ったように、散文の中にこそ詩はあるとは別の意味で)と考えていますから、散文を添削して詩を作るような私にとっては邪道と思える行為は詩作50年の生活の中では、一度もしたことはありませんし、できないと思います。 死生観と詩の対比というお言葉ももうひとつピンときませんでした(すみません) 私にとっては死生観そのものを言語表現したものが詩であると考えているので、対比すべきものでないという考えがあるからでしょう。 タイトルに関しては、いつも迷います(つけるのが下手なんです) 一般名称としてのシロナガスクジラ(カタカナ)ではなく、 私独自の幻想憧憬を踏まえて「しろながすクジラ」(ひらがな、カタカナ混在)とし 主題はそれが人智を越え、「ゆうゆう」と私の心象風景や憧憬の中に棲んでいる様を それこそ「現実生活」と「対比」させて描きたかった気持ちがありました。 絶滅危惧種はシロナガスクジラでもあり、同時に現代資本主義文明に侵されたわれわれ人類=私 ではないかという問いかけでもありました。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-27

田中修子さん 修子さんの夢は幻想小説そのものだなーw(ラブクラフトか!^^) たしか「魂にメスはいらない」の掌中で夢日記を書き綴った「明恵」のこと 紹介してたよね?(読んだのが大分前なので、違ってたらゴメン、本が手元にすぐ出てこないんで) 「明恵 夢を生きる」は河合さんの著書だったと思いますが、なかなか面白かったのでお薦めします。 明恵は鎌倉時代くらいの坊さんだけど、せっせ、せっせ、と毎日見た夢を書き続けた人で 夢の自己分析をフロイトなんかより数世紀早くやっている。 世界的にもこんな事例はそうないんでは? (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-27

仲程さん ゴルゴタは名前は知っていますが、参加したことはないので詳しくはないです。 しかし、最近「機関車」の詩も書いたので、リプの内容には心惹かれています。 時間をみて調べて、読んでみたいですね。 もし、URLを貼っていただけるなら、うれしいですが、 それは他サイトだからまずいかなw (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-27

まりもさん >自分自身を外側から見た時の、感情の断片というのか、自分の分身 >語り手の胸の内から抜け出した詩情を体現したもののように思われました。 このあたりの読み、当たっています。 そもそも、明確な意味を最初から言葉に当て嵌めようとはしていないので、 いろいろな読み方があっていいと思います。 ただ、書いた言葉がそのときの自分の心情(これも曖昧な言葉ですが)に 合致しているか、していないかだけは厳しく自己チェックをしています。 整然とした落ち着きと言っていただいたのも、うれしいです。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-27

あー!! 反映されてないじゃん!! 何でだろ? (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-26

あれ?? 田中修子さんまでの3人に返信リプしたのに 反映されてない? (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-26

カップ麺幻想といいますか、賛歌といいますか 面白く読ませてもらいました。 あさま山荘事件の時は、警察の労をねぎらい定価の半額で売るなどしたことが 功を奏して、その後のカップ麺の認知度は飛躍的に高まったようです。 野口聡一宇宙飛行士が宇宙ステーションで「Space Ram (とんこつ味)」を食べ、宇宙でラーメンを食べた最初の人となったことも話題になりましたね。 正直、台湾出身の安藤百福が日清のチキンラーメンだけでなく、カップヌードルまで、生みの親であったことは知りませんでした。チキンラーメンは小3か小4の頃、母が新発売だと言って買ってきて食べたことを鮮明に覚えています。どんぶりの上に平皿を被せ、まつこと3分でしたが、こんなうまいものがあるのかと、それ以後、おやつはチキンラーメンが増えましたね。TVでも「類似品にご注意ください」なんてのがしょっちゅう流れていました。(パケージの縞模様の数が違ったそうで) 本題に戻れば、とくに分かりにくい描写はないのですが、 ・まるでハンバーガーなんだなあと(対談を読んでないので意味不明) ・さとり サ鳥 SATORI(白人青年はカップ麺を食べてさとりをひらいた?) ・下火になるとともにフォークに取って変わられた。 (日常用品としてのフォークとフォークソングをかけている?) ・露天風呂で溺れかけていた赤ら顔のサル(日本赤軍か?w) 散文としては面白かったですが、詩情というものは残念ながら、感じられなかったです。 かなり以前に読んだ(タイトルは忘失)、猫の写真を撮るため、ぐんぐんフォーカスしていき ディテールを表現していった作品、あれはインパクトがありました。 あのような作品をまた読ませて欲しいものです。 (カップ麺)

2017-11-18

すれ違いで、まりもさんがレスを入れておられました。 しかし、内容は西洋キリスト的、文体はどこか漢詩的、翻訳詩的。 マニアックを好む者には面白いと言えば、面白いのですが、 なかなか受け入れにくい作品かもしれません。 (夜光虫)

2017-11-17

誰もコメントされないようなので、ライトレスします。 ブログでは36作中、「霧中にて」他、数編は拝読してますが なかなか技巧的で相当の書き手さんだなという印象でした。 お若い方のようなのに、このような古典的、且つ重厚な作品を書かれるとは 意外や意外。手がかりを求めて検索して辿りついたのが以下。 【ルシフェラーゼ (luciferase) とは、発光バクテリアやホタルなどの生物発光において、発光物質が光を放つ化学反応を触媒する作用を持つ酵素の総称である。 発光酵素 とも呼ばれる。】 【そしてルシフェラーゼの語源は、かの堕天使の名でもある、ルシファーだとききます。 3.はこのスペイン詩人の言葉(ロルカ)を用いることとしました。 夜光虫、そして揺れる光と心に茫洋と顕れる海、その不安と深さ、それらが伝われば幸いであります。】 と、あります。 この前置きがあって、初めてこの難解な詩の語るところが、うっすら見えてきます。 つまり、堕天使ルシファーは元々はキリストに次ぐほどの高い位にあった天使だったわけですが、 それが人間に対して全権を持とうとしたばかりに地に堕とされ、堕天使(悪魔)となってしまった。 我々の中には必ず正邪の感情が潜みます。ルシファーの見えざる黒い手が伸びてきます。 そしてルシファーが奪おうとした自由意志があります。 ある意味、多分に宗教的な詩でもあるわけですが、 その堕ちた者の悲哀を、海に光る夜光虫のイメージを主軸にして描いた作品なのでしょう。 (夜光虫)

2017-11-17

なかたつ さん 素敵な読解をありがうございました。 詳細に読み込んでいただき、お時間がかかったであろうレス、 感謝いたします。 その解釈の一つ一つに、これは正解、不正解は詩に限ってはありませんので、 ともかく解釈、ありがたい限りでした。 と言いますのも、私は詩は元々、何かを明確に言い述べたいがために作るのではなく、 その言おうとして言葉ならないものを、あえて表現していくものと思っております。 もし確固として言いたいことがあれば、それは散文で心ゆくまで手を替え、品を替えして述べるでしょう。 ですから、詩は隠喩がどこか自分の心象にひっかかる、そのような表現を心掛け、模索しております。 それが自己中心的なものか、広く理解(誤読含む)され得るものかに、詩の言葉を磨く意味がありそうです。 このような読み込みをいただけたことは、ですから本当に嬉しく思いました。 (私自身がなるほど~(^^♪と思う箇所もあったりで) 100人いれば100人が違う解釈をする、そんな詩を書いてみたいものです。 ありがとうございました。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-16

弓巠 さん 早速のレスをありがとうございます。 地元県の詩人集に乗せる予定の作品です。(事前掲載は問題ない) 詩書きの日常性と、内奥どこかに眠る母胎回帰願望、そんなものを表現してみました。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-16

琴、いやcotonoさん、こんにちは(^^♪ 自らの老い(初老?)と老いた蛇口のイメージを重ね まるで意識の源流を辿る旅にように、水源への遡行を試みる描写 とても美しいと感じました。 欲を言えば、例えば2連 この水源はどこにあるのだろう 出会いが呼び水となり 都市のタンクから もう県境を越え あの山の湧水に繋がってこんなにも 水は豊かに運ばれてくる 「出会いが呼び水となり」はあきらかに作中「わたし」の心象。 「都市の~」以下は水道水経路の描写であって隠喩ではなさそう。 つまり心象と現実的描写が混在していて惜しい気がします。 心象なら心象、描写なら描写と連ごとにしっかり書き分けた方が より、分かりやすくイメージ喚起力が強くなったように思います。 つづく3連 夢の支流に沿って 知らない街の囁きや 異国の音楽の路上演奏 散っては芽吹く花の一日が 果てしなく連なっている 夢の支流は心象でもあり、水の流れでもありますが 水がそのような異国の街をとおり、路上音楽を聴き 花の1日を見ている と同時にそれは心象風景でもあるので この連は成功していると思います。 イメージが一体化されていてすっと入ってくるのですね。 最後の2連、特に そっと、空いた湯呑みを沈めた はこの作品の風格、優しさを感じさせ大好きです。 水とともに旅をし、水をいとおしむ感情、 それがこの詩の核であり、うつくしい抒情詩に仕立てあげていますね。 (とうとう)

2017-11-16

う~ん、分かるようで分からない詩です。 俗な読解で全く見当はずれな読みかも知れませんが 読んでみます。 壁に芸能人だか、好きな人の写真だかポスターが貼ってあり 主体である「ぼく」はそれをじっと見つめて、あれこれ妄想にふける。 (どうして、こんな表情ができるのか、どういう内面を持った女なのかetc、etc) しかし、所詮、写真なのでそんなことは分かるはずもなく ともかく表層の表情にのみ、主体の関心は移っていく。 最後に2連は分かりませんでした。 壁の写真、ポスターに抱擁したい思いを 鼠の登場で自己戯画化したようにも読めますが。 「抜け道」「確かなほう」この2詩句が読み取り難解でした。 ふっと我に返ったということ? (表層)

2017-11-16

・・・---・・・ あ、書き込む場所間違えた?^^ 猫田「いや、これは詩界にとって言語のSOSじゃニャーのか!」 詩書「そ、そ、そんなオーバーなもんでは・・・」 猫田「猫フェスとしては、こんな長い作品はだな、ニャニャニャ~ンなのだ!」 詩書「駅の横断幕にでも使っていただければ・・・」 猫田「・・・・・」☚こうばこ作って呆れ顔中w 失礼いたしました!前半のリズム、ノリノリで楽しかったです! (猫田議員の猫詩データー、完全版。)

2017-11-14

---- ・・- ・- ・・- ---- ---- ・-・- ・・-・- -・・・ -・-- ・・ ・-・-・ ---- ・・ ・・-・・ ・- ・・- -- --・ ・-・・ ・- ・-・・ ・・ -・ ・・ ・-・  (かもめ)

2017-11-14

初めて作品を拝読します。 ひと、ヒト、ひとつ    ↓ ヒト、ひとあし、ひとあしと    ↓ ひとひとつ、ひとり、ひとあし ひとひとひと これらの軽快なH音のリズムに挟むように構成された詩だと思いました。 途中のK音の反復もよく、リーディング向きの詩ではないでしょうか? 発声してみると心地良かったです。 途中のカタカナ表記も意味は不明ですが、発声してみると何か分かる気がします。 軽やかな詩句ではありますが、 出勤途上で溢れる群衆(ヒトヒトヒト)の中で 自己をみつめる孤独のような詩情を感じました。 (ひとひと)

2017-11-14

私も最初に読んだときは、表現内容が妙に生なましく、痛過ぎ、すぐに感想は書けませんでしたが、再読してこれを高校生時代に書いたということに改めて驚くと同時に敬意を表します。 特に小説でありながら詩的な要素が詰まっていることに、現在の詩人としても才能を持つ修子さんの原型を見る気がします。表現が素晴らしいと思った箇所、改稿した方がいいのではと思えた箇所を抜き書きしてみます。 ☆素晴らしいと思った箇所 上 ・自分の目で世界を見るよりも、母の目を一度覗き込んでから、外を見るのが好きでした ・多くの大人に、間違えて悪くした味噌汁のような声でいわれます ・何しろ、わたしの中の半分の血は、その残酷で猟奇な男のものなのですから ・魚のような顔をして襤褸をまとった醜い老婆 ・あたしは人魚の肉をくろうて死ねずにさまよっているが 下 ・それは昔赤ん坊だった頃によく受けたけがらわしいものをみる目ではありませんでした。少し、哀しみの混じっているような、良く見ると底に不可思議な緑の澱りがある目でありました ・わたしは自分の腕を切り刻んだ事があります。赤いものが出てきて、月のものが違うところから出てきたようだと思いました ・蝶がわたしを育てたのだもの、花の蜜なのは当然だとも言えましょう。 蝶の片羽根を千切った男の血が流れているのですもの、毒が混ざっているのも当然だと言えましょう ・しばらくしてすうっとふすまを開けてやってきたのは、絵草紙でしか見たことのない、鬼でした。すこし楼主に顔が似ているようにも思います。兄を頭からばりばりと食っていきます。 ・何年、何百年経ったか分かりませんでしたが、ある日わたしは、母の姿を完全に描いた、と思いました。そうしたら襖の中から、蝶の羽をふわりと背にかかげた母がおりて来たのです。  母はあのころのままの天女のように降りてきて、わたしの首に、あの優しい微笑みで、手をかけてくれるのでした。 改稿した方がいいのではと思えた箇所 (その理由も書いておきます) 上 ・そんな母にあかるい先を告げたものがいました。母が、あれはわたしと心中しようとしていたのかもしれません。(「あれ」の指示語が曖昧で、後を読んでやっと分かるというのはどうか?) ・わたしはめずらしい運命をたどる存在になろう。(文の脈絡がどこか合わない) ・子堕しの婆に引きずり出してもらってよかった(文意から言えば、「子堕しの婆に引きずり堕してもらえばよかった」ではないか) ・そういったことに気付くと、母はわたしをかばいました。(気付くの主語が、一時的に曖昧) ・誰かが何を話しかけても、言葉は返ってくることもあったけれど、それは言葉ではなかった。目の前にいるのに、遠い、とても不思議です。(最後が構文的に違和感がある) ・おめえがいるからおかしくなったんだ、と父に、祖父に犯されました。  家の中はもうめちゃくちゃでした。(ちょっと書き過ぎでは?リアリティーが欠如) 下 ・それからいらっしゃいますお客様は、みな優しい方ばかりでした。 (その前に天井から吊るされたり、樽の中に入れられて、水責めにあっっていて、どうしてこうなるかが分かりません) ・さて、いつの頃でしょうか--  兄を、わたしはころしました その記憶だけははっきりしています ずいぶん昔に血にまみれて錆になっているような色で、グズグズになっておりました (主人公の少女はそれまでは小さい頃から鮮明な記憶を持っている人物なのに、「いつの頃でしょうか」というのは違和感あり。まあ、地獄へ場面が転換していくための布石とも読めなくはないが) (乳房がぐずぐずという表現も稚拙) ・そうか、これが、わたしの父か。 (結局、母を犯したのは白痴の兄だったことが分かったということのようですが、ここはもう少し、書き込んで欲しかった気がします) まあ、長短、細かい点を指摘しましたが、これだけの内容のものを書いたことは素晴らしい。母親の名前を「蝶」にして、時代背景が遊郭のあったころの物語として読んでいたら、いきなり私が三途の川にいるという場面転換は見事です。それまでの小説としての物語性が一挙に無化され、詩的幻想の中に落とされてしまう。確固として残るものは「蝶」という母親とその娘との愛の桎梏のドラマ。最後の蝶の名前を生かした描写はお見事! 小説としての感慨より、やはり散文詩的小説というような新たなジャンルさえ期待できる内容ではないでしょうか。もう、このようなものは書けないと思えば書けないのであって、是非、田中修子の現在を語る作品にチャレンジして、また素晴らしい作品を読ませて欲しいと、心底思いました。 (「三途川」 下)

2017-11-13

補足: 無意識の領分ということについて、考えていたことをもう少し補足してみます。 例えば音楽を聴き、それに感応することは無意識の領分である。 余程の専門家でない限り、難しい理論書や解説書を読んで、「この形式がソナタ形式で、A、B、Д`、Aのリピート構成で、主題が云々)と言葉で感応するわけではない。 つまり、この散文詩は多分に音楽的であるということなのだが、 それは、朗読的に韻やリズムが心地良いという意味合いとは少し違う。 (勿論、心地良いのですが) 通常、音楽や詩の朗読は「耳」という器官を使い味わうわけだが、 この詩の味わいは耳を通さず、極端に言えば「言語」の持つ意味さえ通さない。 集中、「ユング風の飛行船」という言葉があるが、これが何を意味するかはよく分からない。しかし、偶然にせよこの散文詩を読んでいるとユングの唱えた集合的無意識の存在ということが妙に私自身の中でリアリティーをもってそそり立ってくるのである。 詩行の連なりが、私の無意識の中の原風景(言葉以前のイメージだろう)と一体化し、詩の中に私を没入させていく。そういう意味での音楽なのだ。 それは有能な指揮者が楽譜を読み取ることで、音楽をイメージする行為や 盲目な方々が点字を指という皮膚感覚を通して理解し、詩や文章を味あう行為に近いかも知れない。 言葉という意味性そのものを主要な媒介としないのだ。 勿論、これは言葉を用いて書かれた散文詩であるから、「あああ、いいいい」では このようなイメージの獲得はできないが、言葉で書かれながら、すぐさまその意味性を消滅させ、潜在意識に確たる音楽的なイメージを残す、これがこの著者の優れた散文詩的技法ではないか、そんなことを思わせてくれた。 (Sept Papillons)

2017-10-12

まりもさんへ Septだけど、これはまりもさんのおっしゃるように、フランス語の「7」つのだね。 私の間違いでしたので、訂正させていただきます。 蝶の氏族!カッコよかったんだけどなー(笑 英語の「sept」なら、私の言った通りなんだけど、これはフランス語だから 深読みに過ぎました。 (Sept Papillons)

2017-10-12

何とも上質、緻密なタペストリーのような言葉の洪水! 味わうに足る散文詩とはこういうものではないかと感動しております。 私は面倒臭がり屋なので、通常判読不明や意味不明の単語は検索しませんが、 この詩においては一語も洩らすまいと、検索数は20を超えたでしょうか。 それは「意味」を取りたいというより、言葉の輪郭をはっきりさせ、この詩を味わってみたかったからです。 冒頭「Αντιόχεια」(アンティオキア)、「Αρκαδία」(アルカディア)でいきなり聖書的な神話世界を髣髴とさせられます。 アルカディア(理想郷)と言えば、何故か郷原宏のH氏賞受賞作「カナンまで」(約束の地)を連想してしまって「我もまたアルカディアにありき」の詩篇か詩句がこの詩集にあったと紐解いて見れば、全くの思い違い。ただ、手帖あたりに郷原のそんな受賞後の一文があったのかも知れず、 折角、本の山から郷原の詩集(現代詩文庫)を取り出したのだから、詩句を引く。 蝶 そのあくまでも蒼い飛翔の伝説 きみは鯛とも鰡ともつかぬ 怪魚のまなざしで世界を視る              郷原宏詩集『カナンまで』より「蝶のゆくえ」 偶然とは言え、まさにこの散文詩は「怪魚のまなざし」であって、 冒頭七変化する「蝶」の舞は、一つひとつがタイトルのように緻密に構成された章とも読める。プロローグを除いて7連という「7」の数字も意図的ではないか。 しかも全体の表題が「Sept Papillons」。「Sept」は「September」(9月)であり、「氏族」でもあるので、制作月(投稿月)と同時に、蝶の氏族の意も込められているのだろう。 怪魚のまなざしは、オリオンの散開星団を描き、ヒンドゥー教の神、アルビノ個体、そしてバリ島の女性舞踏、黛敏郎《涅槃交響曲》を自在に描いていく。ここまでくれば、その詩の筆致、音楽的なマニアックまでの造詣の深さから、詩集を愛読してる者としては、ああ、あの方かと思わざるを得ない。 この著者の詩篇は、無意識の領分で開花していく歌の花である。 意味を追っても仕方がなく、ただただ、瞑目して己の無意識にじわじわ広がっていく詩情を感じとればよい。言語が感覚的に眩めくような発光を遂げているので、それをただ感じ取るのみである。欲を言えば「蝶」の4連「電話がなりつづけていたので」だけはあまりに現実臭があり過ぎ、やや夢から覚めてしまうような違和があったが、それも著者の計算のうちなのかも知れない。 新しい現代詩の可能性、それは無意識の領分に食い込んでくる詩句の連なりの発露であり、 ワディ(涸れ谷)に再び自由な水を蘇えさせる作業に違いない。 (Sept Papillons)

2017-10-12

まりもさん 風邪に罹って葛根湯 関節かっくんこっくんガタピシで 快活朗読過去のこと 果報は下方に風巻きて 身体もかなりキンチョール~~~!! カ行感謝の心なり。 (きっとカジュアル)

2017-10-09

田中修子さん >え~いつもの感じの白島さんの詩がいい! そうだよね!きっと、そうだよね! タララッタラッタラー、ラップに嵌ってるの(笑 (きっとカジュアル)

2017-10-04

survof さん ラップ脳内再生!! この詩の狙いはそこなので、うれしいです。 私はラップ調の朗読はできませんが、聞いてみたいものです。 祝儀敷さん なるほど、なるほど、音声学的なアプローチ、とても参考になりました。 私の全く知らない分野でした。 >他の破裂音には[p][b][t][d][g]があります [p]ポップ [b]バット [t]タンク [d]ダンス [g]ゴッド 確かに勢いがありますね。 ポップなダンス!バットとタンクでゴッドを叩き割れ、って感じですね^^ 貴重な感想をありがとうございました。 (きっとカジュアル)

2017-10-04

「純粋って 残酷よね」 冒頭のこの言葉を見て、原口統三の『二十歳のエチュード』を思い出していました。 「純潔という名のこの兇暴」という言葉と断片をノートに残し、 書いた詩は全て焼却。そして自死。 純粋さは振り返ってみれば、強烈な自我の裏返ったものではあるけれど、 見果てぬ世界への憧憬と旅立ちは、表現者への第一歩だったのかも知れません。 私の場合は、父親を早く亡くしたためか、生活者として自立することの希求が強く そのため、多くの大切な感情や童心を失った反面、生活や人間関係から得るものも大きかったように思います。 この詩を拝読し、そんな思いがヒシヒシと沸き起こってきました。 帰結部の「やさしさばかりが打ち寄せてくる」はすごくいいですね。 寄せ来る波には不純物もたくさん混じっているはずですが、 それさえも打ち消してくれる波の音を、静かに聴いていたい心境になりました。 評というより、個人的感慨を交えた感想になってしまいました。 (望郷)

2017-10-03

homaさん お読みいただき、ご感想をありがとうございました。 外国語を勉強するように!! 私としてはかなり平易なものを書いたつもりだったんですが、 分かり難かったですかね? 意味でなくリズムを感じていたっだければ幸いです。 夏生さん >重い言葉も意味もポンポンとステップ踏んでいるようで。カジュアルになれない現実に向かって、 >カジュアルにカジュアルにと言い聞かせているようなところが面白いと思いました。 いや~、そんな感じで作ってみましたので、まさに意図通りに読んでくださって、嬉しいです。ありがとうございました。 しかし、カ行のみで詩を構成するのは面白かった半面、カ行以外にしたい誘惑に何度もかられました^^ カ行だけにしたからといって、特段リズムが素晴らしくなるわけでもないのですが、 まあ、こうなると途中は「意地」でした。 (きっとカジュアル)

2017-10-03

花緒さん、初作品レス、ありがとうございます。 ちーともレスがつかないので、泣いていたところですw この作品は初めて朗読用(ポエットリーディング)用に書き下ろしたものです。 意味より音を重視し、全行「カ行」で統一してみました。 黙読ではなく、声に出して読んでいただけると嬉しいです^^ (きっとカジュアル)

2017-10-03

拙詩に短いながらもご感想をいただいたので、どのような詩を書かれる方なのだろうかと拝見いたしました。 冒頭、「虫の眼を持ち飛ぶところ」から、これは並々ならぬ書き手さんだなと引き込まれ、 5行目「解釈の川」が出たところで、おおよその詩のスタイルは推測でき、案の定その推測通りの詩でした。 私が勝手に推測するに、読者に思惟をうながすタイプの詩であり(あえて思想詩とは言いません)、はっきり言って難解です。 >これを喜びと言ってみよう などと表現するのではなく、その喜びそのものを詩で表現したものが私は好みです。 ただ、どこを切り取っても作者独自の個性的な言語のつらなりがあり、 そこは素晴らしいですね。(意味はよく分からない箇所が多かったですが) 私でないものに音を見いだせないという 記憶の山肌に 順調に走る記憶の亀裂 こういった箇所の詩句にはなぜか限りなく惹かれます。 多分、実感として理解できるからでしょう。 筋雲を伸ばす高層の赤い気流になる 逆転また逆転の転写 四本の足が焦茶色に垂れている長くくの字に曲がりながら 逆にこの箇所は全く私の頭では理解不能。 面白い表現であるとは思いますが、さっと読み飛ばし 全体を味合わせていただきました。 (人でないもの総てがつながる勢い)

2017-10-02

Migikataさん ご感想をありがとうございます。 >この詩全体が実は短詩の情趣を持っているように思えます。 これはうれしいご指摘でした。多少、短歌をかじっているからかも知れません。 >村一番の美少女 まあ、説明的と言えば、そのようにもとれるのでしょうが、 生贄が若くて処女で美少女であるという語り継がれたおそらくは後世作られた伝説を、 そのまま生かしました。それは生贄という当時の条件が現代ではほぼ忘却されているからです。「むらいちばんの、びしょうじょが」一応7・5調です(笑 (「おくわ」伝説)

2017-10-02

田中修子さん、おっは^^ 着想元が私の「おくわ」伝説なのでUPされて再度、興味深く拝読しました。 おくわ団子からよくこれだけ想を得て書けるものだと感心します。 特に中盤以降の語りはスピード感を増し、どんどん物語の中に没入してきます。 そう、過去名作の「海」シリーズ2篇を髣髴とさせてくれたのです。 文章構成ですが、前半「友人が~」から「白に赤、ニヤリと笑う」までの文章が、どうも後半のおくわたちの不思議な物語へとは繋がっていってないような気がします。何か、いろいろ書いたものを削除・推敲して、この部分だけ貼り合わせたような気さえするのです。(失礼!) 私は、むしろ前半部分は無くてもいいような気がします。 後半の「夜だというのに鵜も、鵜飼いもいるようである」は鵜飼の地方に住む者にとっては、かなり違和感のある表現です。何故ならば、鵜飼行事は夜の行事だからです。夜にいるのは当たり前というか(笑)また「鵜飼」は行事名であってここは「鵜匠」と書くべきでしょう。 気になった箇所は以上ですが、おくわが自分自身でもあり、そして何代ものおくわが同じ顔・形で現れ、集団人柱になっていくくだりなどは、深い詩情と著者のやるせない思いが反映しているようで、こころを揺さぶられました。タイトルは忘れましたが、SF映画にも主人公と同じ型のロボット(ミュー-タントだったかな)が番号をつけられ廃棄されていく中、脱出し、体制を壊していく内容のものがあったことを思い出していました。しかし、決して本作品はその亜流などという印象ではなく、作者独自のストーリー展開がなされていて、面白かったです。 (「おくわ団子」)

2017-10-02

田中修子さん 私の詩にインスパイアされての作品、 とても興味深く拝読し、うれしく思いました。 10月に入って、逆にこの作品にインスパイアされた作品を 書いてみたいと思っておりますが、できるかどうか。 しかし、おくわがこのようなSF的変貌を遂げ、ひとつの現代文明批判さえ 帯びるようになるとは思ってもいませんでしたが、新鮮な刺激を得ています。 是非、修子さんも独立した作品として投稿くださいませ。 (二重投稿になるのかならないのか、そのあたりはよく知りませんが) では、では、まずは御礼まで。 (「おくわ」伝説)

2017-09-30

純白そのものの私(!)を「白鳥」と読んでくれて、「えりがとう」(笑 白鳥の歌は死の象徴、私の詩集も死がテーマ。それで潜在的に結びついてしまうのかもですね^^ なお、アイコンはホワイトタイガーではなく雪豹です。詩集冒頭のタイトルでもあるのです。 (原発内はフィクションですが真面目に災害対策工事やってます。と一応断っておいての猫詩。)

2017-09-14

これは傑作ですね。 鬣をもった猫の描写が、最終的に社会批判にすとんと収束するところの妙を感じました。 猫の描写もやたらと恐怖心を煽るものでなく、ときに愛嬌さえ感じさせる作りになってるのがいいです。 散文詩というよりは、もう小噺のジャンルだと思いますが、 面白かったので、ジャンル云々はあえて問いません。 (原発内はフィクションですが真面目に災害対策工事やってます。と一応断っておいての猫詩。)

2017-09-12

素晴らしい詩ですね!! 以前から硬質な詩体で書かれる方とは思っていましたが、 この詩には深い感銘を受けました。 どこを切り取っても平凡でない、自ら考えた喩が成立していて それが、読むものに荘厳なレクイエムとして迫ってきます。 最後の少女のくだりも、逆光で写っていなかったのか、 あるいは、最初から作中主体の心の中のみにいた存在だったのか、 そのわざとぼかした感じが、余計に詩を感じさせ、切なさを増幅させます。 全体も、感傷的にならず、しっかり震災という悲劇を描き出していると感じました。 (透明な統計表)

2017-09-12

まりもさんへ(追記) 『雪の女王』はアンデルセンの童話の話でしたね。 お目目大きいとか、完璧に間違いw 無視してください。 (塩の柱)

2017-09-12

あおのみどりさん とっても嬉しいご感想、ありがとうございます。 ちっぽけな人間の心情に宇宙観をもたせ、図太い精神を表現してみたいとは ずっと思っています。この作品もまだまだその一過程に過ぎないのですが、 好きといってくださったこと、今後の励みになりますし あらたな原動力になります。嬉しかったです。 (塩の柱)

2017-09-12

amagasasasiteさん お初ですね。こちらでは、というとあちらですかね^^ 「もしこころがひとつの建造物だったらもっとずっと透明な柱を打ち込むはずだったのにーーーー」 この箇所も比較的スーと天から舞い降りたような感じでした。 当然、多少の悔しみは残りますが、「今」を大切にしていくしかないですよね。 (塩の柱)

2017-09-12

夏生さんへ 言葉の七変化!!これはうれしい言葉ですね。 ありがとうございました。 宣井 龍人 さん なかなか新作が書けなくて、ここと他サイトではメンバーが違うので あえて投稿してみました、自分としては従来のパターンを打破できる可能性がある作品と思っています。 書いていて、何故か言葉がすらすら出て来るんですね。死んだ猫の首輪だとか、塩の柱を含めた4連は殆ど天から降ってきた感じで書けました。2連はやや推敲が多かった連ですね。 ご感想、いつもありがとうございます。 (塩の柱)

2017-09-12

まりも さんへ この詩からジプリとディズニーの二つのアニメ映画を想起してくれたことは嬉しいです。 元々、私の詩は観念的なものが多いので、像を結びにくいのが欠点でもありました。 (像を結ぶということは一種のリアリティーを獲得するということですから) 詩体を散文詩に変えると、選択する語彙が変わってくるし、スピード感も変わってきて、 結果、従来にないものが出てきたのかもしれません。 ただ、私は「アナと雪の女王」は全く受付ませんでした。(妻も) 友人がいい、いい、というのでDVDを借りたのですが、 あの大きなお目目のキャラを全然いいとは思えない(笑 ジプリお方はすきですけどね。 星、惑星、月、銀河、遊星、こういった大きなイメージ、あるいは使い方によっては既視感のある言葉たち それをどう表現していくかは非常に難しいですね。失敗すれば陳腐なものになってしまうし、 成功すれば、大きなスケールで人間や人間の魂との思わぬかかわり方が表現できます。 ご感想をいつもありがとうございます。 (塩の柱)

2017-09-12

塚本一期さん 最果さんは、好き嫌いが分かれるようですが、詩作に復帰してから初めて読んだ時の衝撃は、私には大きかったです。まあ、文極にもいらっしゃったようですから、みなさん、評価は分かれるのでしょう。 センチメンタルですか。そうかなー。私は彼女の詩に、非常に冷めたものを感じました。 前田ふむふむ さん 結構、スタイルはいろいろあります。 悪く言えば、まだ、自分のスタイルが確立してないとも言えますが、 いろいろなスタイルで書くことが楽しいので仕方ないですね。 硝子さん お初です。お読みいただき、感想をありがとうございました。 そうですね。この詩はある詩誌の企画で寄稿したものですが、 挨拶(おはよう、こんにちは、さよなら等)を入れるのが条件でしたので、 最後に「さよなら」を入れた次第。 でも、思わぬ効果があったようで良かったです。 (塩の柱)

2017-09-08

語り口調がほのぼのとして、癒されます。 ディテールもしっかりしているので、着眼点のよさと相まって 詩を成立させていると感じました。 (1セント銅貨が居りまして)

2017-09-08

何だかよく分からんのだけど、ともかく終連が好き。 御大層なタイトルと、それまでのやや硬質(サイダー、サボテンのサ音遊びは除く)な詩形を 自ら破壊し、嘲笑するような終連です。 さよなあら、ばんそーこ、 きずーぐちー、はがしたあら 特にここね。 私の硬化した脳みそがふたたびザックリと割れ、新鮮な赤い血が噴き出しそうです。 そして、しずかにしずかに、少しばかりの含羞をもって、ばんそーこ、を貼りたくなったのです。 (夏のハルディン急行)

2017-09-07

まず、六連六行同じ字数揃えの詩、立派というよりほかないです。 私も一つ、二つ作ってみたことがありますが、形を整えれば、主旨がずれる、 主旨を重視すればどうしてもフォルムが乱れるw ともかくお忙しいのに、ビ-レビの新たな門出が祝えました。 さて、まずタイトル「奏楽」ですが、変換では出てきますね。 しかし、私はあまり聞きなれない言葉だったので、検索。 大辞林 ① 音楽を演奏すること。また、演奏されている音楽。 ② 下座げざ音楽の一。雅楽を模したもので、王代物の御殿や寺院の場などで奏する。 世界大百科事典 …近世の浄瑠璃,地歌,箏曲などでは歌の歌詞をさす。 いろいろ調べてみると、やはり近世浄瑠璃、筝曲などの歌詞に使う古い単語と解していいのではないでしょうか。大辞林①の意味で使用する方は、まずおらず「演奏」が一般的でしょう。 従って何か古典演奏に通じる内容の詩を期待しましたが、そういう面はないようです。 お祝いですから、どこかに雅楽に通じる潜在意識のなせる業でしょうか。 冒頭「ガラスの鍵盤」から始まる一連はきれいですが、どうも「ガラスの鍵盤」の正体がはっきりしない。 ガラスのように透明な音楽という比喩でなく、そこにはたしかにガラスの鍵盤を持ったピアノらしきものがあって、少年が弾くと(あるいは他に弾く人がいる?)鳥の声を奏でるのですから、あまりこだわらず、童話的な読みでいいのかもしれませんね。 2連はいろいろな読みができますが、後半に「母」が出てきますし、詩集なども参考にすると、我が子の誕生という出来事でしょうか。 すると浴槽に身を横たえているのは、作中主体ではなく、生まれたばかりの赤ん坊、浴槽も赤ん坊を洗う桶ってとこかな?(最近の誕生現場を知らないから、今は桶などでなく浴槽ですぐ赤ちゃんを洗うのかな?) 我が子の成長を見守り、やがて子離れ、親離れしていくストーリーに詩を書く若い人々への賛歌だと思いました。 おまえは私の冷えた体を 求め 慕い 包み 温め あとはもはや何もいらぬ ただそれだけを望む母を 「あとはもはや何もいらぬ」はどうしても流れから「おまえ」を主語として読んでしまいます。 でも、おそらくこの主語は「母」。 これはまりもさんの癖かもしれないですね。 やや、読解を複雑なものにしてしまう。 >うるおう壁は碧く険しく 70年代に皆が新宿歌声喫茶で歌った「きみの~ゆく道は~♪果てし~なく遠い~♫だのに~なぜ~(ハモる)」をつい連想してしまいましたが、フォルムがあるから仕方ないね(笑 何かケチばっかしつけたような雑文になってしまいましたが、これだけの詩型、立派です。 書こうと思っても書けるもんじゃないです。 あらたな門出、わたしからも心から「おめでとうございます!!!」 (奏楽)

2017-09-06

面白いですね。 数学とか算数で使う言語を効果的にちりばめ 独特の世界を作り上げていると思いました。 徐々にでいいから さんの詩はいくつか読んでいますが、 独自の詩型をお持ちになっていますね。 (斜になる)

2017-09-06

4連目までは、硬質な詩型から、内奥を深く洞察せざるを得ない緊張感が伝わってきて心地良かったです。 ただ、5連目以降、同じような内容を伝え過ぎていて、やや冗長と感じました。 もっと思わぬ飛躍(その場から離れて)があった方が、より抒情性が深まったのでは? >わたしは ただひとり孤独を >帯びるだけだ 特にこの2行はいわずもがな、なのですが、徒に同じ情景に追い打ちをかけているだけのように思えました。 ただ、前半の緊迫感、抒情性など、力作ですね。 (距離)

2017-09-06

塚本一期さん ご感想をありがとうございます。 理論的に整然とした詩評も嬉しいですが、このように直截的な感想はさらに嬉しいものです。 何か、「私が探していたような詩」だなんて言っていただけると、作者冥利に尽きます。 この作品は詩作に復帰して、最果タヒに感化を受け、書いたものです。 それまでは、名前も知らないほど、詩から離れていましたが、恐ろしい若い詩人が出現したものだと思いました。人によって好き嫌いがあるようですが、私は大好きですね。ただし、好きなのは今のところ詩だけですが。 仲程さん お読みいただき、ご感想をありがとうございました。 最終連は結構、書き直しをして、推敲しました。 田中修子さん ガー!!ぎゃあああ!! 私も嬉しい悲鳴を上げております。(笑 修子さんのこの直截性、大好きなんです^^ また、ウギャオオーー!!って言っていただける作品を書いていきます! (塩の柱)

2017-09-06

二条千河さん ご感想をいただき、ありがとうございます。 風土の中の言い伝え(因習)や、迷信、あるいは名付けられた土地の由来など、調べていくとなかなか面白いものがあります。その中で詩のネタになるようなものもあり、結構、その時代に浸る感覚を覚えたりするので楽しいです。伝説の再生産、ってところです。 (「おくわ」伝説)

2017-09-06

前田ふむふむ さん 詩は誤読あって何ぼのものと思っています。 特に最近の現代詩は意味のとりにくいものが多く、 大半の読者や選者が誤読を前提として、詩を読んでいるような気がします。 それでいいのだと思うのです。 映像を思わせる詩という褒め言葉は狙ったものであっただけに、うれしいです。 (「おくわ」伝説)

2017-09-04

まりもさん 私の返信箇所、2連「死を書けた」ではなく「死を賭けた」です。訂正します。 (「おくわ」伝説)

2017-09-04

田中修子さん おくわ団子への想像力、素晴らしい。もう、これは修子さんの詩的世界だから、是非、そのような作品を書いてください(詩でも散文でも) きっと修子さんの筆力なら面白いものが書けそうだね。 団子に焦点を当てて、ここまで想像を膨らませられる修子さん、 おぬし、やはり只者ではないわー。 (「おくわ」伝説)

2017-09-04

前田ふむふむ さん >「染めるころ」「せいだろか」という語り方が、 >やや感傷的なせいかもしれませんが、 たしかにそういうお考えもあるかと思います。 しかし、「染めていた」ではその光景や「染めていたそのもの」に主眼が要ってしまいます。 ここはあくまで「季節」を打ち出したかったので、「ころ」としました。 実はおくわ団子を売っている時期は夏まつりではなく、桜満開の春なのですね。 そしてどこかで村の夏祭りがあり、(勿論、土手でも簡単なものをやってます)、やがて曼殊沙華の秋を思わせてと、結構、季節の時間の流れも読み込んだつもりなのです。 あと「おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか」は、これから少し重い人柱(贄)のことを語るので 導入部わざととぼけた感じで意図的に軽くしました。「何じゃ、これは?」と思っていただければ大成功といったところです。 ただ、この2行で全体的な雰囲気をやや壊しているとお感じになれば、それは各人の感性、詩的体内リズムのせいでしょう。わたしには、とぼけていてもそう違和感がありません。 (「おくわ」伝説)

2017-09-04

まりもさん オーソドックスで的確な読みをありがとうございます。 そもそもこの詩を書き始めた動機は、前にも言ったとおり「風土」に関心を持ったからです。洪水を止めるため「おくわ」という村一番の美少女(処女でしょう)が、抜擢されて生きたまま埋められる人柱となる。彼女が進んでその犠牲を受けたのか、相当の逡巡があった末なのか、言い伝えは分かれています。このころの長良川の氾濫は畑を水没させ、村人を飢餓に陥れるほどひどかったといいますし、やさしいおくわはしばらくの逡巡後、自ら引き受けたのではないでしょうか。従って、片脚に絡みついた川藻は、おくわの長い髪というイメージは勿論あるのですが、おどろおどろしいものではなく、生贄の風習に対してと、その犠牲者が忘れられていくことに対しての反発の隠喩でした。 反発といえばその前の桜「並木を分断した大通り」も行政批判の隠喩です。昔はずっと延長された素晴らしい土手だったのですが、環状線着工がそれを分断し、短い桜並木になってしまいました。白い首の女も現代の川端で遊んでいる少女の象徴ですが、川で遊べることに、同じような年齢の死を書けた行為があったこともきっと知らないでしょう。怪しい雰囲気作りへの導入部と書きましたが、多少の現代の若い人たちへの皮肉もこめられています。従って3連はかなり批判的な連といってもいいかもです。 そのような中で川の安寧、静けさが保たれているので(勿論、おくわ人柱だけの効力ではないですが)、あえて「いのち」という表現を入れました。この辺りは斎藤道三が戦ったところでもあり、多くの血が川に流されています。おくわ、戦死者の命を浮かべる歴史の川なのです。 >女の肌のイメージにまで行けそうなところ >禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか いずれも一理あって面白そうですが、4行で纏めるという制約の中では難しそうです。 「踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない」ですとどうしてもセンテンスが長くなってK音の効果も薄れてしまう気がします。 しかしながら、しっかりした読み込み、感謝です。 ありがとうございました。 (「おくわ」伝説)

2017-09-04

ハァモニィベル さん コメ、ありがとうございます。 >雄総の桜堤から夜の長良川にいたる叙景詩 冒頭から意表を突かれてしまいました。詳しいし当たっている・・・・(笑 岐阜市にお住まいなのか、伝承にご興味があって調べていらっしゃるのか、あるいは私の詩集(作品は未掲載ですが)を読んでいただいて、跋、あとがきなどから類推されたのか、ツイッターを見てらっしゃたのか、いずれにしろビックリw  リアリズムをベースにした詩の切り取り方の考察、とても参考になりました。 この詩は実は伝承を調べているうちにどうしても書きたくなって、詩作。 たまたま市の文芸祭があるのを知り、間にあって応募したところ文芸祭賞受賞となりましたが、 その時の選者のひとりが、リアリズムの素晴らしい詩を書かれる方でした。(受賞後に買って拝読) この場合のリアリズムとは、生活の中から詩を発見して言葉にすると言う意味で おそらくここでのハァモニィベル さんもそのような意味合いで使ってらっしゃるのではと思います。 いわゆる生活詩と呼ばれるものもその一つでしょう。 通常、私はもっと観念的な詩のスタイルですが、やはり伝承というテキスト、祠という実在物、おくわ団子、長良川、鵜飼という叙景などがあるので、どうしても観念とリアルが結び付き、拮抗することになります。 そのリアリズムと観念のバランスを無理なく調和し、違和感を持たれないよう作詩したわけですが、 果たして成功しているかどうかは、読者の判断を待つしかありません。 そういう意味で辛口のハァモニィベル さんに「好ましい作品」と言っていただけたことは、素直にうれしいです。 技法的には >快活な恋人たちは祠の影にも気が付かない >わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない この2行の意識的な「カ音」の多用。 >川のいのちに浮かぶ篝火が ゆっくりと夜を動かす この行だけで、20回位は書き直し、推敲を入れております。 ちなみに生贄の娘を詩人と思う発想は皆無でしたが、言われてみれば、なるほど、そういう解釈もあるなーと思いました。  「あやしくふるえて光るもの」は勿論、直接的には「鮎」ですが、鮎は神話上、この世とあの世を繋ぐ生き物とされています。鵜飼という行事もそれだからこそ、長い伝統を持ったのでしょう。ですから、これは少女の化身でもあり、光に反照されるわたしたちでもあるという気持ちを込めました。それが、ひらがなに開いた意味でもあります。 (「おくわ」伝説)

2017-09-01

三浦さん 遅くなってすみません。コメありがとうございました。 史実かどうかはまだまだ研究の余地がありそうですが、一応、江戸期の長良川氾濫をせき止めるため 生贄の風習があったことは、いくつかの地区でも言い伝えが残っています。 この「おくわ」の祠は自宅のまん前にあり、徒歩1分です。伝承は以下のブログを参照してください。 http://www.lets-gifu.com/page/machi_detail.php?c_topic_id=7883 私が書きたかったそもそもの動機は「風土」という問題意識からで、たまたま家の前の祠のいわれを調べたことから始まりました。当初は伝承そのものに関心があり、詩にするつもりはなかったのです。 >「贄の娘」と「快活な恋人」は、今昔の時空を超えた不思議な繋がりを感じる その通りで、贄の娘「おくわ」も伝承によれば生きながら人柱にされたわけですから、さぞ無念であっただろうし、現代の若者のように恋のひとつもしてみたかったと思います。河原の「白い首の女」も同じような意味あいで登場させていますが、やや怪しい雰囲気作りの導入部となっています。 少女・娘の表情まで描いて欲しかったとのことですが、それですと神話的意味あいが薄らいで、あまりにリアリティーを持ちすぎてしまうので、私は同意しかねます。おくわに対して「幽霊」という発想も皆無でした。 (「おくわ」伝説)

2017-09-01

花緒さま 70年代新宿ゴールデン街、入り浸っていました^^ 詩とはこういうものだ!は褒め過ぎですが、何か感じていただけたのなら嬉しいです。 (扉)

2017-07-24

エイクピア さんの詩を初めて読みました。 普通、訳が分からないと数行で読まなくなるのですが、 読みながら、あれ?バラバラじゃん、あ、ここで統合されて・・・やっぱりバラバラ・・・統合・・ ってことで、最後まで読まされてしまいます。 音楽で言えば転調、小説などでの違うストーリーが並行して描かれて、最後に統一されるような展開でしょうか。 意味は数度読んでも殆ど理解できませんが、その理解できない非統合なものを敢えて表現したようにも思えてきます。言葉のスピード感、展開の意外性、K音を多用した韻律など、面白い作風だと思いました。 (カイコ~東にあるイタリア~)

2017-07-24

まりもさま 全編にわたる正確かつ緻密な読み、ありがとうございます。 これだけ正確に作者の思うところ(時には作者でさえ、まだ無意識の作為であったところも含め)を述べていただくと、そう付け加える部分もなさそうですが、ご感想を読みながら書いていきます。 マグリット!!確かに大好きな画家で、若い頃に嵌っていた記憶があります。言われてみれば冒頭2行などは天から降ってきた言葉でしたが、そういう深層イメージが言葉になって表出されたようにも思えます。(あまりにマグリット的ですよねw) 〈言葉は二重の雲をかかえ 越えられない岩壁を瞬いている 唇から落ちる偽装の飛沫 取りそこねた水底のあおいガラス〉 この箇所を詩論と解釈いただいたのも、なるほどという思いで読ませていただきました。 勿論、本人は詩論でなく詩を書いたつもりですが、結果、たしかに詩論になっている。 そして解釈もまさにドンピシャ!! そうなのです。この詩はびーぐる34号投稿用として作り入選しましたが、この当時は超スランプで、自分の詩や詩作に対する姿勢を考え詰めていた時期でした。必然、その考えが詩論っぽく表出されたのでしょう。 >茨木のり子さんの唯一?の童話、『貝の子プチキュー』 読んだような、読んでいないような(笑 機会をみて図書館で借りてみようと思います。 何かよさそうな物語ですね! >〈猥雑な酒場〉〈訣別の半旗〉といったフレーズや、〈しなやかに梳く制度の指〉というような暗喩、なんとなく、学生運動期の詩世界を連想してしまうのですけれども・・・〈老婆よ〉というような、ハイトーンの呼びかけも含めて・・・当時の文体をリバイバルさせ、現代に蘇らせた、という印象もありました。 このあたりは、おっしゃる通りまさに70年代です^^ この時期、再読していた清水昶の影響も色濃く出ているのではないでしょうか。 >あえて少女は老婆の内面性である、と読みたい そのつもりで書き込んでいます。 まあ、シェイクスピアの魔女というとすぐ思い出すのは、マクベスの 綺麗は汚い 汚いは綺麗 綺麗は汚い 汚いは綺麗 さあ飛んで行こう 霧の中 汚れた空をかいくぐり ですが、そこまでは意識していませんが、イメージはどこか繋がっているかも知れませんね。 生と死の考察、と言っては大上段に構え過ぎかも知れませんが、押しつぶされない程度に煮詰めていくことはライフワークではあります。意志の力、このお言葉は嬉しいです。(ニーチェにあったけ?) エイクピアさま 初めまして。ご感想をありがとうございます。 「おまえ」が2回出てきますが、ちょっと分かりにくかったと思います。 最初は、当然老婆を指していますが、2回目は作中主体なので、白髪は老婆のではなく作中主体(ほぼ作者)のものです。 ここは、分からなくて当然かと思います。別の表現に変えるべきだったかも知れません。 (扉)

2017-07-24

るるりらさま お読みいただきありがとうございます。 観念的な詩ですので、なかなかピタっとこない部分があったこととおもいます。 (一言いうならば決して人間そのものを描きたいと思って書いているわけではありません) 詩の自解はあまりしたくはありませんが、二重の雲を抱えについてのお尋ねがありましたので少しだけ。 これは表層言語と深層言語を意味させたつもりです。 無意識にある言葉、ここには棘のある言葉、恍惚とさせる言葉、自分に都合が悪く耳をふさぐ言葉など様々な言葉が眠っており、その取り出し方も人によってきっと様々でしょう。 Self(大文字のS)を取り巻く言葉の発見こそ、己の発見に連なっていくものという意味を込めました。 しかし、詩ですから、どのような捉え方をしていただいても構いません。 年金云々もかえって余計なことを言ったと思っております。 「老」という語感の中には、自身でさえ不明な様々なニュアンスがあり、無意識の世界ではいろいろなことを感じているはずです。そのイメージを少しでも解体、再構築することが、また詩を読み、作る楽しさに繋がっていけば良いと思っています。 (ちなみに母神という読み取り、当たっています^^) (扉)

2017-07-21

宣井 龍人さま >この2行が一番初めに降りてきたのでしょうか? そうです。まず、2行が降りたってきました。天孫降臨でっすw そこから展開をふくらませていきました。 老成した詩を書いてみたいという思いだけは強かったのですが、 成功しているかどうか・・・・。 最初の老婆の詩句は、ぼんやりしたものが既にありましたが、 ここで初めて纏まった気がしています。 年金の減額、介護制度の不備、老人に対する敬意のなさ、そのような風潮を 老婆に象徴させてみました。 いつもお読みいただき、ありがとうございます。 kaz. さま お久しぶりです^^ お褒めいただき、恐縮です。 心はちーとも綺麗ではないですが、だからこそ綺麗な嘘を書いております(笑 蛾兆ボルカ さま バッハは大好きで、ご指摘の三声のインヴェンションなどもたまに聴きます。 天才グールドさまは、どうしても演奏中の声が気になり、私はダメなのですが・・・。 この詩を音楽の三声に分けて評していただけたこと、嬉しいですし、流石の見識眼だと感じました。 自分では意識していなかった部分を深く掘り起こされた気がしています。 この評は最初に構成することが苦手な私にとって、大きなヒントをいただけました。 ゴールデン街のイメージ、まさにピンポ~ンでしたw 民衆、群衆は政治的であるかどうかで使い方が違うでしょうし、そもそも個に対して群衆があり、また最近では群衆のうちのひとりが個である、同時に個のなかに群衆(世界)があるだけという考えに至っています。 いわゆる個と集団の立ち位置が同等なのです。(群衆もひとりひとりの個であるという意味において) 孤塁、孤高という言葉に若い時分は憧れてきましたが、今は、人間関係こそ個を生じさせしめていると思っています。人は関係性の中でしか生きられない、が実感です。関係性を大切にしていきたいですね。 (本日発売のびーぐる36号にそんな詩を投稿し、入選したようですので、よろしければ。) 新宿では70年代に私も街頭詩人から、いくつか詩集を買ってますね。 名前は忘れましたが、友人の紹介ではかなり有名な方だったから、その冬子さんだったかも知れません。 年代が合うかどうか分かりませんが、新宿街頭で詩集を売っていた時期はそう長くはないでしょうから。 >そして灯台の海への扉を重ねて、僕はイメージしました。 そんなイメージもあるかも知れませんね。 灯台の海への扉を開けると、はてしない異界がひろがっていそうです。 祝儀敷 さま 詩は冒頭でどれだけ惹きつけられるかが、勝負だと思っおり、たいていの現代詩人はそのことを意識しているはずです。冒頭4~5行が悪くて(いわゆる既視感があって独自性が欠けたもの)、いい詩だったと感じることはあまりないですね。 (その逆で、冒頭は良いけど、全体はどうかなーってのは多いですがw) 「現代詩的な概念」、私はまだよく分かりません。概念がまだ概念として成立しておらず、人それぞれのような気もする。 現代詩とは何ぞや的な論考はそこそこ読んでいますが、戦後詩といった定説は影を潜め始めているようです。 また、最近亡くなった大岡信なども正確な言葉は忘れまが、現代詩の表層的な言葉のみが空回りしている、というような批判をしていました。述志がないということにも通じるものでしょうか。 私が「現代詩」だー、と明らかに認識するものは、記号の多用、漢字と振り仮名の逆転、振り仮名に別の言葉を当てて、二重、三重に読ませるスタイル、コンクリート詩(視覚重視)などでしょうか。 そういう意味で言えば、私の作品は言葉のつらなりは多少、今風のところがあるかも知れませんが、 むしろ古典的な作風に通じるもののようにおもいます。 (扉)

2017-07-21

田中修子さま 修子さんに「かっこいいー」って言ってもらえると素直に嬉しい^^ 言葉のイメージ連鎖で作ってみたような詩です。 5or6さま >イメージの連鎖、構成、飛躍する言葉のチョイス、行間、韻律 そうですね。私も他の方の詩や詩集を読むとき、こういうことに気を配って読みます。 特に初めはあまり意味を追わず、で、いいなと思えたものは2回目で意味を探るようにしてます。 私自身はイメージや言葉のチョイス、繫がり、韻は気にして詩作しますが、「構成」は最初に考えることができないタイプです。こんな主題で、とか、こんなイメージで、はあっても最初から1連はこれこれ、2連は~、3連は~という風には書いたことがないですね。作りながら考えていく感じかな。推敲時に構成のことをチェックします。全体がギクシャクしていれば、気に入っていた行、連でも作り直す時もあります。 晩年、・・・・・・やはり晩年は意識してしまいます。67歳ですからw でも、辻井喬なんかは西武社長を退いた60代後半から後の10年で凄い文学的仕事を成し遂げたので励みになります。また、たしかに80代、90代で頑張っておられる方もたくさん。やれるだけやって、くたばりたいものです^^ 夏生 さま ほぇー、翻訳詩に近い懐かしさですかー。まあ、何かを感じていただけたのは嬉しいですが、私はあまり外国の詩は読みません。(最近でこそ、リルケと上田敏の『海潮音』読み直しましたが、いいのですが、自分の詩作上においてはあまり役立っていません。『海潮音』の訳は凄い!と思いましたが。、何せ原文が読めないのでw 外国詩はやはり音韻の美しさで読ませる部分、リルケなどの深い宗教観、を理解した上でないと本当にその詩の良さは分からないでしょう。翻訳の場合、韻を取るか意味を取るかの二者択一ですが、たいていは「意味」を取ります。意味をさらに深い意味に造型する韻律が欠けてしまえば、それは全く別物と断じてもいいくらいです。だから、20代のころから外国詩は殆ど読まなくなりました。パウル・ツェラン、シュペルヴィエルくらいですね。関心があるのは。ノーベル賞詩人など殆ど知りませんw >その勢い力強さはこれからを感じ、鮮やかな飛翔を見た気がしました。 ありがとうございます。大いに励まされます。                        (よく消えてしまうので、ここで一度UPします) (扉)

2017-07-21

修子さんのお歳で、円谷幸吉遺書が出てくるとはびっくりしました。 1964年東京オリンピックでアベベ優勝、円谷銅メダル。 そして、私が18歳の誕生日を迎えた2日後に、彼は右頸(けい)動脈を切断、自死しました(28歳) 当時、マスコミのその遺書が掲載されると誰もがその真摯な思いに胸を打たれました。 三島由紀夫や川端康成もまだご存命で、その遺書の美しさを褒め湛えたものです。 http://www.playnote.net/archives/001114.html  (円谷耕吉 遺書全文) 美味しうございました 暮らしとうございました なら また食べれば 暮らせば よかったのに 私は、この詩句にどうしようもない深みと、その後にくる自身を照らし返した詩句、その上での悼まれない どうしようもない気持ち、哀切を感じます。決して他人事ではなく、軽い言葉ではないことを感じます。 そして当時、誰もがそう思ったのです。 彼はマラソンに己の全生命を賭け、そして国民的英雄としてのプレッシャー、婚約破棄などの要因が重なったにしろ、やはり練習のハードワークの末、走ることを断念せざるを得なかった故の自死でした。 そのとき、我々は「いかなることがあっても自殺はよくない、生きるべきだ」と声を大にして言えるだろうか、 修子さんが書かれたように、ただ、泣きじゃくって、 美味しうございました 暮らしとうございました なら また食べれば 暮らせば よかったのに と無念の思いで言うことしかできないような気がします。 死を徒に美化することは避けねばなりませんが、彼の残した遺書はあまりに美し過ぎる。 その繊細すぎる遺書を前に、わたしたちは死を包摂させた生を生きるしかない。 亡き舞踏家、大野一雄さんから直接お聞きした言葉。 生きていても死んでいる人がいる 死んでいても生きている人がいる (小さな夜の羽虫は遺書)

2017-07-20

面白く読ませてもらいました。 起こさなきゃ が ひとりでに散歩に出ないよう ここからの展開がユニークで意表をつきます。 6時5分前に相手を起こすため、目覚めたはいいが自分も疲れている。 その5分の間にうとうとと見ている一種の白昼夢(という表現でいいかな?朝だけどw)のような そんな読み方もできますね。 (起床)

2017-07-19

宣井 龍人 さま コメント、ありがとございました。 おっしゃるように青春時代?の経験は大きく現在に作用していると思われます。 疵を深く抉ることで、何かとてつもなく大切なものも、また同時に獲得できる予感もあり、 単に疵を癒すという考えからは脱皮しています。 お互い、この年齢ですから、人生一通りの喜怒哀楽は体験してきているはずで、 それは余ほどでもない限り、そう特異なことでないような気がしております。 ただ、その受け止め方や、その表現方法が違うだけではないでしょうか? それにしても、清水昶が20代でこのような洞察を得て、かくなる一文をしたためたことは やはり早熟であり、驚異と言えます。 生存に対する本質的な言論は、時を経ても生き生きと私の胸を打ちます。 ベックリンの「死の島」、知りませんでした。 今度、検索してみますね^^ ありがとうございました。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-18

宣井さん、こんにちは~(^^♪ この作品は某所に私が入る以前のものなんですね。 >SFテレビ番組『トワイライト・ゾーン』的な味付けをしてみたものです とありますから、幼少期の記憶を創作という形にしたものかと思います。 私も幼少期に風邪で高熱を出したとき、天上の節穴や木目が迫ってきて、 そのまま包み込まれて消滅してしまうのではないかという恐怖体験があります。 おそらく誰にでもある体験でしょう。 ただ、宣井さんの体験はそれよりももっと怖い体験だったように思います。 それを、散文詩的に表現されたこと、素晴らしいですね。 詩はある意味、幼少に還ることも大切かと思っています。 失われた幼少期の記憶。恐怖だけでなく、樹々が生々しく新鮮に語り掛けてきたこと、 道端のあらゆるものに興味の眼を注いだこと、 雨の音、曇った窓硝子に字や絵を描いたこと、 母の匂い、父の煙草の匂い、 掘りごたつに潜った冒険譚、 初めて水中眼鏡を買ってもらって、風呂の水中を見て感激した思い出、 近所の路地でさえ、何か異世界を思わせる翳りがあったこと、 そんなこんなを思い出していました。 視るということに慣れ切って、 実は何も視えていないかも知れないわれら老年、 意識してしっかりものを視たいものです。 (四番目の息)

2017-07-17

まりもさん、こんばんは~(^^♪ 正直、難解な詩でした。 タイトルの「惑星」、そして「母」が作者自身なのか(勿論、作中の主体)、 あるいは作者の母なのかで随分、考えてしまいました。 「露わになった傷を」以降は比較的分かり易く、まりもさんの詩に関わる在り方、そうして痛い詩も 頭ではなく指を通した皮膚・肉体感覚で読解されているという読む者の誠実さを感じました。 >君ははなからあきらめていた >青年になっても壮年になっても とありますから、やはり作者がいとおしむ詩人、その詩人は家は「ミズノナカニ」あると感じていて 母のような抱擁をもってしても、結局は傷をひろげるだけで、救うことはできない。 それどころか自らも傷を受け、その柔らかだったはずの指を通してみた詩的世界に戸惑いを隠せない。 この世の全てをおおう水は やさしく引きはじめている これはそういう状況下でのギリギリの願望なのかも知れません。 きっと「大地の母」のイメージが根底にあり、そこから「惑星」が引き出されてきたのかも知れません。 難解ではありますが、冒頭の韻がきれいで印象に残る詩でした。 (惑星)

2017-07-16

夏生さま 感想コメントをありがとうございます。 まだまだ未熟な「論」なのですが、何かを感じ取っていただければ嬉しいです。 まりもさま コメント、お待ちしておりました。 昨日のツイキャス、私に関するところは5分しか聞けず、残念です。 (録音されているかと思ってツイキャスの場所を探しましたが、お気に入りに入れておらず、ビーレビ(アルファベット)検索でもヒットせず、また、ツィートのラインでももう案内ツィートがスクロール限界で出てきません。) えっ?朗読もされたんですか!!それはびっくり。私が別のPCで入った時は、もう殆ど終わりかけでした。 どのような批評をされたのか知りたかったですね。 まりもさんのフェイスブックの論考をお読みし、三度も四度も頷いている自分がいました。 生命・魂というものの捉え方、似ているようで若干の違いがあるようなので、私の考えを述べてみます。 幼少時、生命のトンネルを抜けてこの世に誕生するという何とも不思議な夢の体験を経て、10代ころまでに私の中で魂(いのち・意識と言ってもよい)は霊妙な一種の物体であり、肉体という物質の中に仮に住まうものという死生観ができあがったようです。唯物論は神を否定するもので、ロクに読んでいなかったのですが、最近、それは魂を「波動」「物体」として捉えていることを知りました。魂=波動=物体。物は全て波動からできており、その波動が精妙で細かいものか(心)、粗くてごつごつしたもの(所謂、物体)かの違いだけがある。 勿論、ガイアとしての地球の波動、また宇宙そのものの波動もあるのでしょう。人のオーラの「色」のことがよく神秘学などでは言われますが、それは心の波動の違いではないかと思います。端的な例でいえば、殺人犯、凶悪犯(例えば気の合わない人でもいい)などの傍にいて、嫌な気分にさせられるのも、相手の心の波動をどこかで受け取っているからではないでしょうか。 私の中では、当然それらの考えは、輪廻転生説、涅槃、業の清浄、などに結びつき、前世・宿痾( シュクア)などの概説を許容します。多分に仏教的ではありますが、知識としてではなく感性がその方向に私を導いていってしまうのです。 疎外や私性といった概念は、多分に社会的なもので、生きている以上、それらを後天的障壁と言って避けることはできません。それらを直視することもひとつ、詩人としての自覚ではないか、そうでなければ苦悩から脱出するため何らかの宗教にすがればいい。そのあたりの詩に対するまりもさんの言及、まったく同意いたします。 死んだら終わり、あとは無になるだけという立ち位置で詩を書かれている方も存外に多い気がします。 従って、不思議なもの、言葉で捉えられないもの、それが両者(魂の実在論、不在論)の間に共通する言語であることが求められています。 そうでなければ、言葉は一方的な宇宙観を指し示すだけで、魂の実在を信じる人の間だけに通じる「詩宗教」になってしまうリスクがあります。 その橋を架ける言葉(共通言語)こそ、透徹した人間観察と人間に対する愛から立ち上がってくるものでしょう。そのようなスタンスであらためて詩を書いていきたいと、まりもさんの論考をお読みし感じ取った次第です。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-16

林 美脉子さんを旭川の詩人と書きましたが、今見たら当時は滝川市の方でした。 手帖の年鑑住所録では現在、札幌市にお住まいのようです。 お詫びして訂正いたします。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-13

田中修子さま 素敵なコメントをありがとうございます。 こういう文章を書く経験は今まであまり無かったのですが、詩の幅を広げていく意味でチャレンジしています。 そもそも。「論」と名のつくものは敬遠してきたタイプの人間ですが、潜在的に持っている(はず)の詩法や認識論を一旦は顕在的に表出させて、言葉にしてみることが必要な時期にきているようです。 >漢字とひらがなとカタカナのバランスがすばらしくよくって そうですか。詩作では常に漢字か平仮名にひらくか考えますが、文章では正直考えて書いてなかったので、そういっていただくと意外ではありますが素直に嬉しいです。 ハリウッド方式!!そういう言い方するんですね。 私の場合、風景、映像よりもどうしても観念的な言葉が先行してしまうので、そういうことになるのだと思います。逆にもっと映像、イメージをくっきりさせたものを書いてみるべきとも。 お互い、積極的「ないものねだり」みたいで、よしよしです^^ (詩論 ルドンの眼)

2017-07-13

蛾兆ボルカ さま 真摯でかつ好意的なコメントをありがとうございます。 考えてみると某投稿サイトでは、まったく交流(いいねのポイントやスレでのお話し)が無かったですね。 お互い詩を書いている者同士、出会うべくして出会っていくのかも知れません。 >白島さんは、若い頃の詩論を離れても、そこと不可視のケーブルを接続して詩を書いておられるのかな、と思うのですが、私もそうです。 そうなのです。不可視のケーブル接続!!流石によい言葉です!結局は人生の中を巡りに巡り、断念や無念さ、猥雑なものを巻き込んで、不可視のケーブルは太くなっていったのかも知れないですね。実感として、ちょっとくらい体重をかけてぶらっ下がっても切れないかも知れない。 安部公房!!箱男は読んでいますし、書棚の奥にあるはずですが(箱男、確か函入り本だったw)、なんせ読んだのがもう40年も前で、内容はすっかり忘れています。 難しい本なんだろうなと構えて読んだら、結構面白かったという印象と、「不在証明」という言葉だけが脳裏に焼き付いた記憶が残っている訳ですが、当時その実験的小説をどこまで理解しえていたかは疑問です(笑 「見る」「見られる」の関係は拙詩集詩篇「夏をみる人」で試してみたことがあります。 安部は「見られる」ことには憎悪があると言いますが、私の場合はそれは「成熟」の一過程として捉えていました。常に「見られる」ことを認識することは、一方的な自己認識の中に第三者の眼をもつこと、それは「客観力」の増幅であり「調和」であり、「ナルシスからの脱却」という意味合いでしたので、安部の認識とはかなり違っているかも知れません。 >その深淵を見るときですら、見るからには見るものは対象への愛を差し向けているのではないでしょうか。絶望への愛も愛である この部分は全く同意いたしますし、そこまで読み取っていただけたこと嬉しく思います。 「根源的な孤独との拮抗から生まれる言葉は、その孤独と等価の抒情になる」と新聞で評したくれた詩人(冨長覚梁氏)がおり、今後もこの言葉に勇気づけられていくことは間違いなさそうです。 時代が暗い(昏い)もの、孤絶、あるいはグロテスクなものを排斥していく傾向のなかで、シャンバラの尖塔はそういう中からこそ鮮やかな光をまとって浮き上がってくることを信じて、お互いいい詩を書いていきたいですね。 PS:そういえば最近新詩集を出された林 美脉子さん(確か旭川の詩人)、『緋のシャンバラへ 』という詩集をいただいて持っていました。もう一度、読み返してみよう。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-13

修子さん、こんにちわ~(^^♪ 私もここに来たのはまだ最近で、投稿は2作だけです。よろしくね^^ >ここまで書いて夢オチってありえないわ~って感じかもしれませんが ありゃ、先に言われちゃった。でも、やっぱり最後の「そこで、目が覚めた。」は蛇足だなー。 読んでいた緊張感や膨らましたイメージがカッコーンと崩れてしまう。 タイトルが「夢夜」だし、内容を読めば非現実的な話だから、無くても分かる気がします。 冒頭の「さいごにだれかが言った、さようならの声だけが響いているような場所だ。」 ここはいろいろ考えてしまいました。 「さいご」とは何に対しての「さいご」だったのか。 言ったのはその場で言ったのか、はるか昔に言ったのか。 まあ、行分けの詩だったら、こんな時制的なことはどうでもいいのですが。 勿論、神話的な雰囲気を出すために、わざとボカしたことも考えられます。 終連の魔女狩り(16C~17C)、吸血鬼のしもべ、黄色い衣の男もラノベや映画からのイメージでしょうか。 年代がバラバラなものをひっくるめて二千年のうらみというのが、よく分からないのですが、神父が出てくるのでやはりキリスト教の暗示と見るべきなのかな。多分、黄色い衣の男はチェンバースの「黄衣の王」のイメージではないかと。(最初はユダかとも思いましたが、どうも違うようです) さてさて、枝葉末節の疑問はこれくらいにして本題。 相も変わらず筆致が冴えていて狂気さえ孕んだ作風は大好きです。 舞台は放課後の学校の廊下で、神父も登場してきますからミッション系の中学か高校でしょうか。 全てを呑み込んでいく獣の黒い影は、青春期の不安定な精神状態を思わせ、 それは制度であったり、押し付け教育であったり、あるいは家族を含んだ社会全体を表象しているのかも知れません。その中でもがく主人公の苦悩、神父を通して顕現される神など何の救いのもならない無念さ。 「私があなたを祈らなかったのではありません。あなたが私を祈ろうとしなかったのですのです、けっして」 ここが本作の圧巻ですね。ニーチェの「神は死んだ」をつい連想してしまいました。 しかし、主人公は「なんて私は、偉そうなことを言うのだろう。」という自戒する冷静さもまだ保っている。自戒を持ったまま、自らを動物の影の人身御供となる道を選ぶのだから、これは自虐の道、あるいは罪を背負って罰を受けようという聖書の物語にも通底する。 痛い思春期の神を問う物語と思いました。 (夢夜、四 獣の影と永遠の放課後の廊下)

2017-07-13

角田さま コメントありがとうございます。 短歌の実作者からの「そうぢゃねーよ」より、私は詩人から「そうぢゃねーよ、詩からインスパイアされて短歌だってできるじゃん」って言われることを実は恐れていますw この詩論(って言えるかどうか分かりませんが)は実は私が所属している短歌の会の求めに応じて書いたものなんです。「隣人としての詩」というテーマです。 だから、あのような文章が唐突に出てきますw 大学時代の同期の方の死、いわゆる「達観」ですね。 人間は言葉を操り、創造力、想像力も豊かですが、 死を前に恐れを抱き、打ち震えます。それが普通でしょう。 しかし、動物たちはそうではなく、死を自然に受け入れます。 (今まで飼ってきた犬や猫、みなそうでした) 達観とは人間が動物に還るだけの話かも知れません。 私もより動物的に死を迎え入れられるようになりたいものです。 そんなことをコメントから想起いたしました。 (詩論 ルドンの眼)

2017-07-12

花緒さま コメント、ありがとうございます。 前述した通り、昨日、長いレスを書きましたが、全てパー。 意気消沈して、昨日のような長いレスはもう書けませんが思い出しながら書いてみます。 音楽のロックとテクノに詩精神の在りかをシンボライズされたこと、分かり易く良かったです。 このように二極化する構造のリスクは(お互い)重々承知の上、話を簡単にするために あえてそのまま援用させていただきますので、読まれた方もではレゲエ、民謡、jazzはどうなんだというような 反論は無用でお願いいたします。 私はテクノ的な詩を否定するものではありませんし、どちらが「高尚」だとか「低俗」だとかの判断もしませんが、ただ、好きか嫌いかがあるだけです。 多くの現代詩(詩誌、ネット詩)を読んでいて、言葉の斬新性に心打たれるのは、むしろテクノ的詩に多い気がしますが、ただ反面、心の琴線に触れてこない。 何故、それを詩という器に盛らねばならなかったのか、散文で書けばいいではないかという作品も多い気がしています。 詩という定義が、従来の行分け詩、散文詩からさらに広がっていて、意欲的な実験詩のような挑戦がそこに見られますが、何らかの形で琴線に触れてこないものはやはり私はダメですね。 では、琴線に触れるとは「抒情」なのかというと、そうだと答えざるを得ませんが、 この「抒情」というものさえ、時代の影響を受け、質的に変化・変質していっているのかも知れない。 具体的に言えば、ある方のネット詩で私がいいと思っていても「泣けはしない」詩を、若い方が「泣けた」とおっしゃるような場面が多々あり、それは個々の感性を通りこして、何か時代の基盤たる共同幻想の変質を感じ取ってしまうのですね。 今後はテクノ的詩からはそのようなものを読み取っていきたいと考えています。 (前回、パーになった内容とは随分、論旨が違うもののなってしまったw) (詩論 ルドンの眼)

2017-07-12

ふぇー!!朝1・5時間もかけて書いたレスがログインされてなくて(途中でログアウトになったか) 全部ぱー。戻るボタンで戻るようにならんのかなー。また、いずれ書きます。とりあえず花緒さん、レス、ありがとう!! (詩論 ルドンの眼)

2017-07-11

fiorinaさん、こんばんは~(^^♪ 妙なところでお会いしましたね^^ この作品、昨夜拝読し、しばし考え込んでいました。 既に昏迷期に入ったとも思えるグローバリズム、資本主義の代表であるアメリカと、その対極にあるイスラム。 おそらくこの作品は同時投稿の『イヴ・サンローランのフランス 』と対をなすものなのでしょう。 卓越した表現力で見事に事象の断面を切り取ってみせるfiorinaさんのことですから、 いろいろ熟慮した末の作品であり、投稿と思われます。 この1~2年、アメリカやイスラムに関する著書をかなり読んできましたし、 大資本のなりふり構わない構造や、医療、戦争さえ金に換えてしまう無軌道ぶりには呆れるばかりです。 しかしながら、作品として見た場合、 9・11を「真っ青な空は、私にはアタのこころに映る」と表現し得るものかどうか 私には一つの疑問として残ってしまいます。 それは、どちらに視線を置くかという以前に 政治的な問題を情緒的問題に果たして置き換えられるのか、と思ってしまうのです。 難しい問題です。 アタの立場に立てば共鳴する自分と、9.11の3千人以上の犠牲者の阿鼻叫喚を思い起こせば 青い空はたちまち消えてしまう自分がいます。 花緒さんがおっしゃったような「日本語で、日本人によって書かれる意義」もお聞きしてみたい気もしております。 これは批評、批判というより、問題を抱えてしまった迷える子羊の繰り言と思っていただいて結構です。 駄文、失礼いたしました。 (アタの涙)

2017-05-26

徐々にでいいから さんの詩はいつも面白い。どこが面白いかと考えてみたのだが、 軽妙な語り口のなかに「ひねり」があり、「ユーモア」がある。 形而上の問題、例えば「生き様」や「人間関係」や「エトス」などが、 いつの間にか身近な小石やフライパンに変貌して語られる。 それが見事にきまると今回の詩のようになる。 最後の行の着地はお見事!としか言えません。 ユーモアがペーソスに変わる瞬間を目撃した気分(^^♪ (なりわい)

2017-05-25

カミユの「シーシュポスの神話」とか中也の「汚れっちまった悲しみ」とか想起しながら読んでいました。 まりもさんがおっしゃったように、1聯は何か不思議な出足です。 確かに何も知らなければ言葉も知らないわけで、言葉を知らなければ、客観認識も生じないのかも知れません。 白仙花は、あまり花の名前には詳しくないので検索してみましたが、そう多くはでませんね。白のキンギョソウでしょうか。 一番難解だったのは、「悪魔の角を生やした優しい孤独者たち」の箇所。 悪魔を何故優しいとするのか? 悪の角を生やしはじめているという時間的推移を読み取るべきかな? 孤独者は優しいが、その裡に悪魔の心を秘め始めているということでしょうか? いずれにしろ、純白や美しさに憧れる「私」が、悪の角を生やした孤独者たちの輪の中で 結局は皆と同じに、そっとそっといつの間にか踊っているという儚さのようなものを感じました。 ( 美しく生まれてから)

2017-05-25

初めまして。 数日前にステーキを食ったばかりなので、多くは書きません。 「生きとし生けるものが幸せでありますように」 「少なくとも今 苦しくありませんように」 ここに生業として仕事を選ばざるを得なかったギリギリの諦念と、悲しみ、祈りがあります。 いい詩だと思いました。 ステーキはまた食べます。 「いただきます」がより深く自分に響くように。 (牛肉)

2017-05-23

徐々にでいいから 様 >「イメージを心に流していく」「流れていく」 私の詩の読み方もそうですね。 一読目は殆ど意味を追いません。 無意識に感じ取れる意味程度で充分で、それが心地よいかよくないか、 心のどこかに(琴線とまでは言わなくても)触れてくるかどうか、 どちらかと言えば、右脳的な読み方をしますね。 で、おっ!と思えば、再読時に多少、意味も追ってみます。 そういう訳でコメントいただいた内容はとても嬉しいです。 原始的な生命や愛、 ストラヴィンスキーの「春の祭典」さえ髣髴として蘇るようなコメントでした。 ありがとうございました。 (某紙、〆切間近なのに書けてないぞー!困ったw) (火の鳥)

2017-05-23

花緒さんがおっしゃったように、なかなか軽やかではあるけど、難解、手強い詩です。でも、面白さがある。 本来 みつけたら ここっ!って指差す似た者同士 この表現が一番面白く、深い気がするのですが・・・。 ポンに注目すると2聯は「押し出される」だから受動。 最後前の聯は「駒を動かす」だから能動。 受動から能動に成長する過程で他者を見る眼差しや 比較することによる優越感や劣等感。 そんなものは「ここって指さす」程度の差に過ぎないのだと語っているのでしょうか。 「すり減るライフ」 こりゃ、分かりません。 生きて歳をとれば、命はすり減っていくけど やはり「命」ではなく「生活」の疲れと読むべきか。 「城」、ますます難解。カフカかw 駒のあるゲームだとチェス? キングやクィーンの住む城のイメージかな? で、これも到達点のこと? 軽妙で面白いけど、もう少し、詩句にヒントがあってもいいような気がしました。 (私が見落としているだけ?) (ゲーム)

2017-05-23

まりも様 コメント、ありがとうございます。 コロンボ式作品!!なるほど、これ気に入りました!w 言い得て妙ですね。 >火の鳥とはなんぞや・・・という、少し突き放して、客観視する視点も感じたので さすがの視点、その通りです。 2聯の短い詩句からこれだけのものを読み取っていただけたのは有難いです。 タイトルづけは考えれば考えるほど、昏迷していっちゃいますねw 最近の詩集では松尾真由美さんのデヴェルティメントー花章とか、草野理恵子さんの黄色い木馬/レタスなどのタイトルづけが素晴らしいなと感じています。参考にしたいものです。 ちなみに、詩の成立根拠を少し自註しちゃいます。(不成立詩かも知れませんが) この詩は実はポーの影響下で書かれています。 影響下というより、自分の心性をポーの言葉で再確認したと言った方がいいかも知れません。 すなわち、醜の中の美、死の中の生、そういったものを火の鳥という神話性をもつ力を借りて再生してみたかった。 疵を深くもつものこそ、十全たる生を生き抜くことができるはずという思いです。 まあ、このテーマはまだまだ温めていますので、もうちょっとマシなものを書きたいと考えています。 3聯の無垢な獣に対比されるものは人間で、文明批判を込めていますが、これも陳腐と言えば陳腐w まあ、そんなところです。 大好きな吉原さんの詩をありがとうございました。 詩はよく知っていますが、さすがにタイトルは忘れ、調べました。 「むじゅん」ですね。 いただいた詩と以下の詩行が対になった構造ですね。 とほいよぞらにしゆうまつのはなびがさく やはらかいこどもののどにいしのはへんがつきささる くろいうみにくろいゆきがふる わたしはまもなくしんでゆくのに みらいがうつくしくなくては こまる! タイトルは大変「素直」でした^^ 終聯の最後には「!」がついているようです。 限りなく、この詩に惹かれてしまいます!! (火の鳥)

2017-05-23

大変、リズムが心地よいですね。冒頭の「お音」が断続的に10行以上続き、最後の4行も「お音」で締めくくられている。 しかもタイトルまで「お音」の「おごっつぉ  」^^ こういうリズム感のある詩はともすると内容が希薄になりがちですが、どこか懐かしい民話の口調を借りて 輪廻転生の物語がしっかり語られていると感じました。 これは一つの思想と呼び変えても語弊がないように思います。 私の記憶違いでなければ、たしかあきらさんは「私は女です!17歳で~す!」とツイキャスで語られていた方ではなかったかと思います。(違っていたらゴメンなさい) 現代詩で若い女性がこのような詩をものされるということに、私(67歳のおっさんですw)は、何故かとてつもない希望を見てしまうのです。 何故でしょうね? 現代詩が分かりにくい昏迷期にあるからでしょうか? 詩の世界に限らず、世相そのものがこのようなストレートな物語を避けるからでしょうか? ともかく、物語が今後、実社会との軋轢の中で、どのように変遷していくのか 楽しみでなりません。 (ちなみにツイキャスからは詩作に関わる強い意志を感じ取りました) (おごっつぉ)

2017-05-22

昨夜、よく知っている詩人の方から、ツィッターにおいてこの詩に対し、いくつかの批評をいただきました。掲載許可を取っていないのでお名前は伏せますが、私が敬意を持って接している方とだけ申し上げておきます。一晩以上考え込んで、これは自己批判すべきところもあると感じました。全ての論旨に賛同できない部分もあり、それは割愛しますが、彼の批判は以下のようでした。 ①憂愁と言わずして憂愁を語らなければならないのではないか ②タイトルが象徴の説明になってしまっている。であるならば、明確に「火の鳥」と書くべきではなかったと思う ③つまりは字足りず、語り足りず。字数制限があるため陳腐化された概念に凭れた選語の苦労は忍ばれるが、そのせいで「憂愁」と切り捨てられた「独自の心象」が死んでいる気がする。もったいない。 ④温度感も「さめて」(=時間経過で)「生温かい」のだろうけど、何かの景、あるいは契機に触れて「復活」し際立たせて」いる構造が、「火の鳥」という陳腐化された便利な表象に依存している ざっと言うと上記4点です。かなり遅くまでDMにて批評者と語りましたが、それはプライベートですのでここには掲載しません。そして、私が未だ同意できていない数点は、上記に述べましたように割愛しております。 この詩の制作の背景は前述しました通り、ツィッター詩であり、元々、投稿するつもりのないものでした。ツィッター詩は140字という制約があり、写真を見てイメージを膨らませ書く場合が7割、詩を書いてそれに合った写真を探す場合が3割といったところでしょうか。殆どが簡単な推敲を経て30分くらいで作ってしまいます。 ①については、「孤独」「苦悩」「寂しい」「美しい」などの語句を使わず、それを表現せよというごく初歩的な批評の範疇なのですが、私はこの詩で「憂愁」を語りたかったのかどうか考え続けていました。冒頭の「憂愁」は問いであり、終聯の「憂愁」は自分なりの回答という意味であえてぼんやりした意味合いを持つ「憂愁」を使用しました。「憂愁」を表現することが主要テーマではなかったことは自分の中でははっきりしていますが、二度も使えば読者はそうはとれないのも頷けます。まりもさんには二度の使用を、多少意味合いはこれと違いますが好意的に解釈いただきましたが、「憂愁」という言葉そのものの使用に問題があったことを指摘され、これは同意するより仕方がない気もします。 ②と④は殆ど同じことを言わんとする批評内容と思います。元々、ツイッターでは「無題」だったものを即席で「火の鳥」とタイトルづけした安易な姿勢を見抜かれたわけです。火の鳥という一種神話的なイメージを「くちびる」「爪」という身体的な言葉に絡み合わせて表現したいという意図がありましたが、どうも安易だったことは否めません。 ③の指摘もそのまま受け入れるしかないように思われます。 折角の好意的なご感想をいただきましたが、やはりツィッター詩に安易にタイトルをつけ、衝動的に投稿した姿勢こそ自己批判すべきと思います。 次回からは、きちんと制作したものを投稿するつもりです(時間があればですが)。ツィッター詩はよほどのものでない限り、転用しません。 これをもって、まりもさま、三浦さまへのコメントへの感想とさせていただきます。 好意的な感想は本当に有り難かったですし、その内容を全否定したわけではけっしてないので、くれぐれも誤解なきようお願いいたします。 >火の鳥、とは・・・生命力を呼び覚ます命の精、であると同時に・・・記憶の中で、「わたし」の心をつかみ取って飛び去った情熱の炎であるのかもしれない、と感じました。 まりもさんのこのご指摘などは、まさに私が言いたかったことでもあります! 三浦さん「愛じゃないのか」も嬉しかったです。 ありがとうございました。今後も精進します!! (火の鳥)

2017-05-22

いま、ツイッターで深く考えざるを得ない批評をある方からいただいたので、それについて考えています。 まりもさんと三浦さんへのコメント返しは、明日にでもまた。 (それを熟慮しないと返答できないので)スミマセン。 (火の鳥)

2017-05-22

花緒さま 初めまして。(ツィッターではお見かけしております) >詩をよんだな・・! 嬉しいお言葉、ありがとうございます。 まだまだ未熟ものではありますが これからよろしくお願いいたします。 出足、酷評もないので、たまに私自身に縄をつけてここに登場させるかもです^^ (インタヴュー記事、読み損ねたのは内緒w) (火の鳥)

2017-05-21

まりもさま まりもさまの批評に与りたいが故の発作的投稿でした^^ まずは「勢いが素晴らしい」との寸評にやれやれ一安心。 しかし、切っ先鋭き、まりもさまゆえ、油断せずに夜目を輝かす私ではあります。 お忙しいのにありがとうございました。 (火の鳥)

2017-05-21

仲程さま (今は)こんばんは~(^^♪ 多分、別のサイトでお読みいただいていたのだと思います。 昨年11月よりツィッター詩(140字制限)に嵌っており、そういう意味ではご指摘、ごもっともです。 (この詩もついさっきツィッターに載せたもの。寡作ゆえの使い回し、とおっしゃるな) しかしながら、高階杞一氏(私と同い年)の詩にこの数か月、相当の影響を受けており、 如何に短く、濃く表現し得るのかをひとつの自身の課題としている面もあります。 まだまだ高階城登頂にはふもとさえ行きつかない詩ゆえの物足りなさなのでしょう。 精進いたします。 (火の鳥)

2017-05-21

鈴木 海飛 さま 三浦さんやまりもさんの熱心さに、ついフラフラとやってきてしまいました。 現フォでは毎度さまですが(絡んだことは多分ないですが)、ここは初投稿。 結構、シビアな批評もあるようなので、ハラハラ、ドキドキですが、 最初のコメント、海飛さんで良かったです^^ ケチョンケチョンに批評されたら、1回こっきりだったかも。 たまに投稿しますので、よろしくお願いいたします。 (死水晶もw) (火の鳥)

2017-05-21