まりも

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B -review 応援隊員。 詩集、発売中です。 https://t.co/tlUQU5j8NS


あなまどい

2018-11-06

首を選ぶ ※

2018-09-08

息を継ぐ ※

2018-08-30

うりずん

2018-08-08

梅雨晴れ

2018-07-02

沈黙

2017-12-14

2017-11-18

縫い針

2017-10-12

焼成

2017-10-02

夕立

2017-09-29

奏楽

2017-09-01

流露

2017-08-20

朝のスケッチ

2017-07-21

惑星

2017-07-13

グラスハープ

2017-06-25

鋳型

2017-06-02

播種

2017-05-14

現況

2017-05-04

夢魔

2017-04-23

雨後

2017-03-26

Heel improvisation

2017-03-09

私の鳥

2017-02-10

とつとつとした語り口ながら、一貫して他者の詩に触れていく、詩を探していく、という体験の不思議を、実感として捉えようとする強い意思が感じられて良かったと思います。 日常的にはあまり使わない言い回しが出てくる、そこで滑らかな読みに凹凸が生まれる。 そこを違和感と取るか、言い得ないことを、何とか今現在の段階で言おうとする故に出てきた必然なのか。 違和感があるゆえに、それがアクセントとなって読者に入ってくる部分もあるので、私は必然だと感じます。 彼の詩、が、いつのまにか彼そのものになっていく。詩が彼なのか、詩を越えて作者そのものが読者に触れてくる感覚を伝えたいのか、あるいは、作者を越え、詩作品そのものを越えた、詩そのものが、彼と名指されているのか・・・ 代名詞の使い方をもう一度見直してみると良いのではないかと思いました。 (川魚)

2019-03-19

面白い。 イメージの飛ばし方、実感の捉え方。 各連の立ち上がりと次の連に飛ぶ前の引き締め方に工夫があって、表現の「自分らしさ」を探索しているところ(なおかつ実感として伝わってくるところ)が良かった。 他方、各連ごとのまとまりが良すぎるために、音楽で言えばぶちぶちと途切れた感じになってしまってはいないか・・・ 青すぎる夜、白い星々、流れ星、黒曜石・・・ 群青色のビー玉を喉に詰まらせたまま(言えないことも言えないまま)青臭さを抱えたまま、世の中に羽ばたいていく(それぞれの進路に別れていく)かつての自分達のような君たち、への憧憬と共感と切なさ、がテーマだと思うのだけれど。 言い換えの工夫をし過ぎて、かえってイメージが、拡散してしまっている気もする。 粘り強さ(全体を緩やかに繋ぐための、潤滑油のような、通奏低音のようなもの)があっても良かったかな・・・ (星の名前)

2019-03-19

思うままを素直に書き記したイメージで、詩を読み慣れていない人にもスッと入っていける可読性を備えている反面、自分語り的な要素が強すぎて、既視感があると思いました。 細かいところで恐縮ですが、捨てれる→捨てられる こういうところで引っ掛かりを作ってしまうのはもったいないとも感じます。 自分の動きに応じて引き起こされる波のイメージ、映像や肌に感じる質感のイメージ・・・現実界のイメージにとらわれるのではなく、人や物が透き通って押し寄せてくる異空間を抜き手を切って泳いでいくようなイメージなど、もっと自在に、今現在の感覚をダイレクトに伝える工夫を「楽しんで」みると良いのではと思いました。 (人生の泳ぎ方)

2019-03-19

ああ、これも最後の二行、特に最終行が、ほとんど消えかかっていて、見えない・・・。 私のパソコン環境のせいかもしれませんが。 理念的すぎる、というのが、第一印象でした。いわゆる男性性、女性性、というものを、力強さ(=権力欲、勝利欲、ファルス主義)柔和さ(=協調性、優柔不断、包容力、慈愛)というパターンで分類するか、理性的、感性的、というパターンで分類するか・・・どちらも便宜上であって、社会的、文化的に生み出されてきた傾向である、に過ぎない。 権力欲、支配欲や征服欲(の一形態としての性欲)、物欲はよろしくない、それは大地(自然)と切り離されているから(そして、その不安が背後にあるから)であって、自然の一部としての自覚(と謙虚さ、充足感)を得る為に、大地(自然)との聖なる交合(比喩的な意味として)が必要なのである、というようなこと?を、言いたいのかな、と思いつつ。 それらを「言い訳」にした狂信者が、レイプなどの犯罪を犯して、警察に自首する、という「設定」なのか・・・そのあたりが、よくわかりませんでした。 (凍てつく波動)

2019-03-11

なにやら猛烈に多忙(というか気忙しい お腹コワシマクッタ)2月、あんまりこちらに来られませんでした。 来てみたら、右肩さんが投稿されていて。 ・・・私のパソコンの調子のせいなのか、右肩さんが意図された「エフェクト」なのか、 「言葉の  契約は解除されたから言葉は動か  ない。」この部分が、フェイドアウトするみたいに薄れていって、最後はほとんど見えない、状態になっているんですよね・・・これは、機器の方の問題なのかもしれませんが。 疑問点は、「ある。」「くる。」「いた。」などの改行の仕方。ある、とか、いる、くる、は、二重の意味性が生まれるので(意識しすぎ、という感じにもなるけれど)面白い効果が出ると思いますが、「のだ。」は、音感やリズム感で区切った、ということでしょうか。 「しょぼしょぼ  薄明るい尿を放ち」 薄明るい、という感覚と、しょぼん、とうなだれている感じと、排せつ物(不要物)の方がよほど美しくて元気がよくて、という情けなさ、的な感じなどが、いい感じだな、と思うと同時に、尿が汚く見えない、というところ、諧謔やドギツサ、えげつなさを「ねらっていない」自然な感じ、が良かった、と思いました。 しと、と読みたい感じ。 (新年のお慶び*)

2019-03-11

大賛成です。 技術的に可能ならば、「読んだよ」ボタンと、内容ごとのポイント評価ボタン、併用はとても良い案だと思います。 (【必読】B-REVIEW3.0企画書の公開)

2019-02-16

適度なユーモアと力の抜け感、リズムなどの小気味よさが魅力的な作品だと思ったのですが、その小気味よさが、後半で少しダレてしまうような気がしました。「お手拭き どうぞ」あたりで止めた方が、ピリッと辛子が効いてよかったのではないか、と思いました。 (そして乾杯)

2019-02-15

独特の語りのリズムが面白かったです。 言葉を区切る、ところで、ひと段落が付くように見えて、ふっとずれる。 日常生活の中で、「天使の翼は本当は汚い。」と気づいた瞬間の微妙さ。 花にそそぐ視線、音を消して、という集中の仕方を意識する細やかさが良いと思いました。 (生活)

2019-02-15

前半の言葉の重ね方(特に四行目以降、祈りを捧げる、の前まで)が効果を発揮しているか否か、というところが課題ではないでしょうか。 お手玉を右から左へ、左から右へ・・・と投げ交わすような、自己撞着的な手法。その内面の想いが先に行かず、内面でとどまっているもどかしさのような感じ、を表すには成功していると思いますが、もたもたと内面で呟いている様相を全て書き記すことが読み手に取って「作者の必然性を感じさせる」強度に達しているか、と問えば、達していない、と思います。同じ言葉を繰り返すとき、リズム的な必然や音韻としての流れの必然、もしくは情動の必然、そのどれかを充たしていないと、言葉が過剰という印象につながるように思いました。 (天満宮)

2019-02-15

二行目以降の「標語」的な呼びかけが、その先を読む気を削いでいるように思います。 「人間的で笑いに値する」「人間の愚かさ」の諸例が、安易な性的快楽に限定されているところが表層的だと感じました。人間の愚かさは、性に関わる欲望のみである、として、徹底して掘り下げるのか、あるいはより領域の広い非性的な快楽を拾い出すのか・・・どちらかに振り切った方が良いと思いました。 後半、「母なる女神よ」以降、偽仏典のような風情があるのですが、いささか文言が自然回帰をイメージさせるエレメンツの安易な使用で終わっている感もあります。 (空炎)

2019-02-15

生まれてくる、ということは、とうぜん、場を占める、ということで・・・それを罪と「自覚」することと、原罪(宗教的な)との差異について、しばし考えました。罪、という名付は、作者による発見である、わけですが・・・罪、という言葉の重さと釣り合うのか、どうか、ということ、ですね。 存在の神秘への慄き、いわば、畏怖が、本作のテーマなのではないか。と思う、のだけれど。 何かの意図のために、効果や効率のために、「加工」されなくてもよいではないか(ありのままで、どうして認められないのか)という悲しみ、を歌う作品であるならば・・・そのままで存在しようとすること、が、許されない、ということ・・・が、罪、と称される、ということへの疑義であるとして・・・やっぱり、題名のインパクトと、内容が、どうもずれているような印象を受けるのですが、どうでしょう。 それを、罪、 (罪)

2019-02-15

縦読みの面白さを隠すというような方法もあったかな、と思いつつ。 ひらがな、から浮かぶイメージと情景を結び付ける方法が、少し強引なのかもしれません。 (いみたいに)

2019-02-15

いわゆる俳句の「連作」では、一年を通じて、という広い範囲ではなく、もっと期間やテーマを絞りつつ、一句一句の距離はより広くとる、という方法を用いているように思います。 詩の創作者が俳句(の連作)を綴る時、比較的、全体のドラマ性や構成を意識した流れを作ることが多いなと思っていたので、そうした観点から面白い試みとして拝見しました。 立ち葵から季節が移っていくわけですが・・・ひなげし、が、その「間」のつなぎ、にもなっているのかな・・・早春のイメージが冒頭に4句続くので、今、を歌う冒頭と、回想を歌う中盤から後半、という意識で、あえて連分けにしてみるのも一案かなと思いました。 (唯識デカダンス)

2019-02-15

「と歌ったのは誰だったっけ?」「のはどの歌だったっけ?」「言ってたのはどこの誰だっけ?」と明記してあるので、まあ、一般常識的な範囲で、借用というか引用だな、とわかりますし・・・引用部分も全体の四割以下なので、まあ、著作権料を払え、と万が一言ってきた、としても、それは言いがかりでしょう、と客観的に判断してもらえる、範囲ではないかと思いますが・・・(法律上の詳しいことはわかりませんが、通常の慣用として)コメント欄に書かれていること(~からの引用があります、とか、~からインスパイアされた部分があります、など)を、注記として作品の最後に付しておくと万全かな、とは思いました。 「もう一度編み直せば、~」以下の部分が、ちょっと説明過多でまだるっこしい印象を受けます。対話的、会話的な軽さで、全体を統一してもよかったかな、と思いました。 (糸)

2019-02-15

「偽りの祈りを幾つ」い、の音の連なり。「抽象の牙」は、音としては中傷、に響かせようとしているのか。 「穢れた」という自らの認識を入れるべきか、否か。(入れなくてもいいんじゃないか、ここは。繁殖を準備する濡れた~、では、あまりにもそのまま、だけれど。) 「さんざめく声の嘘の本当」そう、嘘、フィクション、虚構でしか表現し得ない、自らの真実、本当、を書きしるすこと、が・・・詩の機能のひとつ、ではあるはず。でも、嘘の本当、とつなぐのは、少し安易ではあるまいか・・・全体で、嘘の本当、を示すこと、が、詩であると思うので。 「こびりついた感情の肉片を払う覚悟 が」必要、なのか、欲しい、のか、無い、のか。そこを伏せて、ためらい傷に持っていく(一行アケでいったん、切り替えを入れて)潔さが小気味よい。 (l*st for you)

2019-02-15

後半の展開が面白かったです。冒頭に「希望のベランダ」と書いてしまう、明示してしまうことに、最初は抵抗感があったのですが、ベランダ内の語り手を、外から眺める、というあたりで、意識の飛翔と自己の客観視、死を仮構して自らをリセットする感覚、などを志向している作品ではないかと思い、そうなると冒頭の「希望の」は、反語的なシニカルな表現に見えてきますね。 でもやはり…冒頭は「見晴らしもいいベランダが好きだった」にとどめ、いつだって死ねる、だから、今日ではなくてもいい、という気力の整え方が次第に見えてくるように持っていく方が良いような気もしました。 (希望のベランダ)

2019-02-15

「筆箱がない」(書く物が無い、与えられていない、あるいは、奪われてしまった)というフレーズと、「一人声に出して問答をしている」(書けないので、音声に出す他ない)というフレーズが響きあっていますね。意図的なものなのか、無意識に表出したものなのか。 「考えられるようになったと思ったので」考えられるようになったので、ではない、ということ。~と思った、という、どこまでも自認の域に留まることの自覚が、意識的にせよ、無意識的にせよ、この作品のテーマなのではないかと思います。 (環境)

2019-02-15

なかなか切実な内容ですが、決然と未来に向かって、自活していく、自立していく志向が見えて、希望を感じさせる作品だと思いました。 ハハ、と笑い声のような表記であることが、この作品では効果をあげていると思いますが、若干、人称名詞が多いのではないか、という余剰感も覚えました。 怯えているハハ・・・一人で彷徨う孤独、不安を解消するために、娘(自身の分身)を虐待する存在、という客観視が生まれているからこそ、「ハハ」から自立していくことができたのではないか、という読み方と、実際の生母ではなく、自分自身が作り出した幻想の母(こうあるべき自己)からの離脱、という読み方も可能ではないかと思います。 (漂流)

2019-02-15

漢語の熟語を多用しているせいか、静謐なのに格調が高い印象を受けます。 瞳、爪先、てのひら、肩・・・肉体が外界と接する先端部、外郭が意識され、そのことによって自らの輪郭を確かめていく行為と、過去の記憶を呼び起こす行為、自然の息吹を感受する体感とが融合していく過程をなぞっていこうという意識が表れた作品だと思いました。 進行を抑制しているからかもしれませんが、自らの輪郭を得る(充填する)行為への切実さ、内的衝迫のようなものが伝わってこないもどかしさもありました。 充填された内実が、外界、過去の時空とゆるやかに交感しあう肉体への、やわらかな望み・・・その表れとしての肉体。意識の方向性としては、難しいけれどもユニークな志向を示していると思いました。 (現象 )

2019-02-15

水面、みなもと読むか、すいめんと読むか。素足、と並ぶので、何となくすいめんと読みたいように思いました。 同時に・・・様々な人の心の内面(表はたいらかでも、内面は嵐のように渦巻いている)奥深くを見ることなく、すべるように歩んでいきたい、というような願いも込められているように思いました。 にくむ、という言葉、その直接性を、どう考えるか。 ひらがなの柔らかさで、直接的な刺激からはまぬがれているように思うけれど・・・ 私を刺したあの人の、というような、別の意味での直接性も試してみる価値があるかなと思いました。 具体的な動作を表す動詞と、愛する、憎む、怒る、悲しむというような、感情を表す、抽象性の高い動詞と、どちらを用いるか。 作者のスタンスの問題でもありますが・・・ (ゆび)

2019-01-18

仮名吹さん 勤勉さというものは、どこか感覚を自ら麻痺させていくことのような気もします。それをどう、取り戻すのか、取り戻すべきなのか、眠らせておくのか・・・ 羽田恭さん 実際に首を絞められたことはないのですが(笑)柔道をやっている人から、すうっと意識が落ちる感覚、というのを聞いて、体感してみたいな、と思ったことが、根っこにあります。意識が張り詰めている場所から、ふっとずれたい、というような。 みうらさん 「うまくなくてはいけない」というのは、ウーム、というか、なんと返していいのか・・・いわゆる、減点法に引っかからないように作詩する、というような方向性の「うまさ」であるとしたら、むしろその檻に閉じ込められて氷漬けにされていく恐怖を意識しなくてはいけない。狂うことができたら、というのは、むしろ本心かもしれません。 つきみさん ありがとうございます。確かに、「そうして」はユルイですね・・・~から、と持ってきて、予測通りに落ち着いていく進行は、散文(叙述文)へと傾斜している。それがわかりやすさの追求だということになるのか、ダレている、飛躍の鋭利が失われている、と自戒すべきなのか。「秋」になってしまったので、仕方なく眠る支度、をしている、けれども、実は眠りたくない、のかもしれない、と思いつつ。書き手は眠ることをむしろ望んでいるように見えますね・・・そのアンビバレントが、もっと鮮明に出るような激しさを内在させつつ、音や響きのやわらかい官能をも所有したいという欲望。 柴田蛇行さん 冒頭二行は、確かに詩になっているかもしれないけれど、そこから惰性的に続けてしまっているかもしれない、その惰性の甘さに、身をゆだねる心地よさや落ち着きや安堵を求めたかった、ということもあるのかもしれない、と思いましたが、やはり、冒頭の二行(最初に出た詩行)以外は、ゆるかった、というのが、皆さんの印象でもあり、私自身の反省でもあるような気がしました。 蛾兆ボルカさん 穴と蛇、たしかに性的なイメージがありますね。そこから、からだのいちぶ、というフレーズも出てくる、わけでもある、のですが。身体の疼きを眠らせて、精神の覚醒のみで生きていくのもキツイので、いっそのこと、すべてを眠らせてしまおう、というようなこと、だったのかな、など。 fiorinaさん 論理的説明文のような文言を入れるかどうか、そこで迷うところでもあるのですが、辞典を読んでいて、妙な詩情を感じたりすることもあって(学術的、科学的説明文であっても) くるうことさえできたら、その言葉そのものを、勤勉な蟻に片づけてもらいたい、自分で捨て去ることができないから、というようなこと、なのかもしれません・・・ (あなまどい)

2018-12-20

余呉の湖、芭蕉、蕪村・・・過ぎ去った者たちへの感傷に誘われつつ、水墨画のような背景の中で、「吉村」と「僕」は、腐肉を漁る鴉=死神(的な存在)に魂を吸い取られるような官能の(タナトスを充たされるような)口づけを交わしている、という情景が展開されているように思いましたが・・・エロスとタナトスの溶融、というような方向性というか意図は、あまり感じられず。滅びへの志向が強いのか。 後半、情より理が勝った会話に移行するのは、精神が肉体から離れかけているようなイメージなのか・・・。肉体からの分離を暗示するような飛翔体験への夢想シーンが、唐突に現れる印象も受けました。前段が丁寧に助走を持つような描写であるので、なおさらそう感じたのかもしれません。 (余呉)

2018-12-14

僕には一人だけ読者がいた、と始めると、え、何の読者だろうと、読む人を引き込んでいくかもしれないと思いました。(その後、ブログと出てくるので、流れはわかるし、) だんだん見えてくる楽しみ、のようなものと、あい子さんは、実はAI子さんだったのか!という驚き(実は姿を見せない学者の企み、)を、よりくっきり、際立たせることができるのではないかと思いました。 (仮想詩人)

2018-12-08

Ⅷ 硝子壜に詰めた匣   愛は天秤秤で量り売りしています Ⅸ 瑪瑙碧のしたたり   煮え立つ言葉を切り開いて供する (秘法(第一巻))

2018-12-08

どこまで語り手の身上に迫れているのか、というところで二の足を踏んでしまうのですが・・・ 言葉の選び方のカラリとした感覚や、スピーディーに進行していく詩行に好感を抱きました。 多くの人が様々な形で抱えている(程度にも激しく差のある)生きづらさのようなものを、障害という「比喩」で表しているとしたら、気持ちの上で抵抗が残ります。 障害を持つものが、いかに境遇を受容していくか、ということであるのか。 その過程に寄り添うことで、健常者(と呼ばれる人達)に気付きを与えようというようなことであるのか・・・ 僕は何にでもなれる この明るさが、とても良いと思いました。 (貴形児)

2018-12-07

江角マキコの少女時代を妄想して書いた、というような展開でも面白かったかもしれませんね。 他人の恋愛話を聞くなんて退屈だよね、的なツナギは、文字数を稼がなくてはいけない作文なら実用的な効果があるかもしれませんが(あるいは、あえて停滞するニュアンスを出したいということなら、効果が出ているかもしれませんが)もっと凝縮して、生まれた余白を活用して掘り下げる、というような作業が必要かもしれません。 (ニューヨーク天神駅75「電車で向かう」)

2018-12-07

特別支援学級に進学させることが、この子のためです、と、説得されて、兄弟で別の学校に通わせることを選んだ親御さんが、ずっと悩み続けていました。 同じ時間を繰り返すことはできない。選択は人為なのに、結果は人為を越えている。 抽象度の高い、全体の通奏低温となるような「冬越し」と、具体的な「明日」と「公民館」を組ものにした意図を、考えました。 感覚的には、舞台の背景を冬越しで作り、そこで展開するストーリーをその後の2篇に託す、ということなのかな、とか。 (しらやまさんのこと 冬越し)

2018-12-07

不思議な屈折を持った詩ですね。 ~を、~を、と重ねていく、一見、もたついて見える進行。風と風邪をかけているのか、鼻風邪の時の、ツンと刺すような痛みと、制服・・・学生服かと思いましたが、後半を見ると軍服のイメージもありますね・・・が鼻の奥を刺す、というのは、ナフタリンの臭いなどでしょうか。 アメリカに征服された場合の日本という、もうひとつの未来を想定しているように思いました。 (八時)

2018-12-07

大作ですね。ゴブラン織の重厚な織物のよう。 造語の面白さを、各連が修飾しているようで、興味をひかれました。 たとえば微光草、この言葉だけでは、何となく発光する草のイメージしかわかないけれど、原初の暗闇、肌感覚の接触、持ち寄った種のイメージ・・・発芽しようとする何か(ポエジー)を、言葉が捉えかねて駆け去っていく、その繰り返しのなかで、微光を発するように見えてくるものを描きたいという感触が伝わってきました。 続きはまたあとで。 (それは素粒子よりも細やかそれはあやとりそれは贈り物)

2018-11-25

幻想的な景。 立っていた、と、二度言い直す効果(2度めが必要かどうか) 風と共に飛来する蝶は、「きみ」自身の魂なのか、きみにとって大切な人の魂なのか判然としませんが、隔てられている、ということの切なさ(蝶になって触れたいと思うのに出来ない)がもっと迫ってくると、より引き込まれる作品になると思いました。 表面的なきれいさ、美しさが、どこに由来しているのか(失われた思い出は、とりわけ美しく見える、というような)伏線として描きこまれているといいなと思います。 (境界)

2018-11-25

○○音頭、のような口調の良さが、プラスに作用するときとそうでないときがあると思いますが・・・調子の良さに流されて、思想というのか、思いの深みへの「ひっかかり」まで取りこぼしてしまう感がありました。 (歩行禅)

2018-11-25

冒頭からユーモアを交えつつ、きれいごといってんじゃねえよ、という反発力がガンガン響いていて、言葉の軽快な流れやリズムも心地よかったです。 最後、語り手を天国へ移送してしまった飛ばし具合、面白いと読むか、その一歩手前で、まだ生きている体に叫ばせよ、と思うか・・・他の方はどうでしょう。 (リコール17)

2018-11-22

ものすごく「正攻法」の、いわゆる社会派の作品だなと思いつつ・・・あえて直球で、世界の悲惨に涙する感性をまだ有している、それでも仕事はしなくちゃね・・・・というような反語の方向に、つまり、ある種の諷刺の方に向かおうとしているのか?と思うところもあり。 社会的な事象に、一定の理解を示しています 共感、同情する感性も捨ててはいません ・・・というその先で、斜に構えるのか、何もできない自分に憤るのか、諦めるのか・・・言葉で訴えるのだとしたら、オムニバスのようにたくさんの景に気持ちを寄せては離していく、ということでは通りすぎてしまうので、どれかひとつのエピソードに肉薄していく、というようなアプローチの仕方があるかもしれません。 (嗚咽 *)

2018-11-22

体感を主体につづられているので、たくさんの読者に心情が伝わる作品だと思いました。 井戸に投げ込んだのも自分自身・・・切実であると同時に、ここで説明が先走っている感もあり・・・ 場面を切り替えて、「地上」で両者が葛藤していた時のシーンを挿入してみるなど、何らかの変化やバリエーションを加えてみるのも良いかもしれません。 (井戸の底から(私の魂より))

2018-11-22

冒頭から、おおっ?となりますね。SFが始まるのか? 二行目、コロンビア、で、円筒形のもの、は、コーヒー缶かな、と思い・・・ 大げさなくらいにデフォルメされたことによって生まれるイメージを楽しんでいるうちに、 またもや、予想外のところに飛ばされる。 心地よい飛躍だと思いました。 無意味なイス取りゲーム、なるほど・・・ そう、わけわかんないこと言いつのるやつなんざ、豆腐の角に頭ぶっつけて、死んじまえってんだ、ねえ。 (ささやかな日常の重石)

2018-11-15

最初、あはっと笑って、それから ぢ と じ の微妙な使い分けに感心して、 なんでヨモギ?と思い・・・ それから、ちょっとしんみりしました。 深刻なところにまで落ち込まずに済んだのは、冒頭から一貫して続くユーモアの感覚、 あたしはげんきっ!と、自らにカツを入れるような明るさ、あたしがやらなきゃしょうがない!という、心地よい責任感のようなもの、に由来するのだと思います。 ところで・・・ 〈やにやら光った!保険証通帳印鑑の発見だ!これで 家主を証明できる!  彼女は 列記とした 私の叔母様だと証明できた 〉 「なにやら」 「れっきとした」、ではありますまいか。 〈誰かであるかと保証がされている あなたとわたし〉「誰であるかと」「誰かであると」 〈ひさしく走ったことのない重く冷たい両足が足元から照られ血が通う〉「照らされ」 ・・・前半の〈ぢぁり〉〈じぁあ〉という、繊細な推敲との差が、気になって、気になって・・・ 〈すべてのものが繭ごもっている~うごかない時間が/ユックリ揺レテイル 〉          〈保存された時間が死んだまま/シッカリ動イテイル 〉 この部分の、ゆれながら刻み込まれていく感じ、心に残りました。    (よしっ。いや、ちょっと マテ。 *)

2018-11-15

ステレオタイプさん ありがとうございます。へびだけにへヴィー(笑) 蟻の群から、働かない蟻を取り除くと、働いていた蟻の一部が、一定の割合で、働かなくなるそうです。予備要員なのか。 常に、どこかを休ませていなくてはいけない、フル稼働はいけない、そんなメッセージであるように思います。 (あなまどい)

2018-11-14

わらわら・・・という感じで、たくさん書いてしまいましたが、ひとりひとりには、ほんの少しに、なってしまい・・・これだ、という一言を、自分なりにお届けできていれば、嬉しいです。 コメントしよう、と思って読むと、だれかに、無意識のうちに話しかけたり、説明したりしながら読むと思うのですね。その、見えない対話を繰り返すうちに、おしゃべり苦手な人が、好きになったり、得意になったりする。 実際の人間関係でも、それがプラスに働くこともある。 コメントを書くことは、だから、生き方の潤滑油を自分で自分に補給することなんじゃないか、と、思うわけです。 まずは嘘だと思って、やってみてくださいね、ほんとだから。 (10月分 フル選評(まりも))

2018-11-14

物語風の展開に引き込まれました。 〈よくよく話を聞くと彼女はある日突然 「あなた」と言えなくなり、恋人も友だちも 失って一人になってしまったのだと言う〉 この部分が、説明的な要素が強い一方で、あなた、を言えない人が、それを説明する、という部分もなんだか、理屈からいうと、変だな、という感覚が残り・・・ 指さした、というところで、「  」を言えない、でも指させる、ということは伝わる、ので・・・ その指さした手を、取ってあげたらどんな感触だったのだろう(すり抜けてしまい、悲しそうなまなざしだけが残る、のか、それとも、水のように冷たい指が、僕、の手の中に滑り込んできたのか、あるいは、懐かしい温度を感じさせる指、であった、のか・・・)そこを知りたくなったのですが、どうでしょう。 (「 」が言えない)

2018-11-14

sagiri ni otoko waku この響きが面白いと思いました。どのような情景かと読み進めると 〈青く均された露天湯に向かう友達〉渡り廊下などで宿から離れた風呂でしょうか。 急に具体的な景が立ち上がってきますね。 〈音だけが橋を渡ってきた〉この描写も面白い。 バイクが走っている、という認識を先に出して、その認識をもたらした聴覚を後から添える。 〈もうすぐで水たちは無事に夜番の努めを果たす〉ここは、なんだろう・・・ 出水?もうすぐで? もうすぐ 水たちは なのかな・・・水が夜番をしている、という発想も新鮮。 最後の一行も、ドキリとしますね。〈西の彼方〉は、彼岸の方向でもある。 青く沈んだ街並みが、目覚めていく時刻。朝霧が沸いて、その中に影が現れ、消えていく感覚。 生者も死者も、共に〈談話〉した夕べがあったのか。 早朝の朝露(霧?)の水気を体に沁み込ませながら、周囲の気配(生も死も混在しているような一瞬)に耳を澄ませている(肌で感じようとしている)かすかな緊張感が、引き締まった文体から伝わってきました。 (寒露)

2018-11-14

二行目と三行目の間に、空白があった方がよいかもしれないと思いました。 このままだと、「~横暴で/俺が君の瞳の中に観たのは~」と一文に見えてしまうのですが、 二行目は最初の一行に付いている文で、三行目は独立して始まっているのではないか、という気がしたので。 (pistols)

2018-11-14

〈会えたなら逆行し〉というフレーズが新鮮でした。 会うたびに、時間が巻き戻される感覚とは、生きなおす感覚、生きている、と実感できる感覚なのでしょうか。 会うたびに、ひっくり返すとまた流れ出す(時間が動き出す)砂時計、のような〈私〉。 今はもう、ひっくり返ることもなく、砂が流れることもない・・・ 全体を形に整えようとしすぎて、言葉がぎくしゃくしているような印象があるのですが、どうでしょう。 もっと素直に、ご自身のイメージを、文体や詩行に縛られずに書いてみて、それから不要な部分を削る、という方法を試してみるとよいかもしれないと思いました。 (動力)

2018-11-14

自らが生きるために(糧を得るために)、雑草をむしり、害虫をつぶさねばならない、魚を殺さねばならない・・・その情景と、たとえば人事に配属されている人が、リストラを言い渡す役を命じられているというような情景や、下請けを「殺す」ような条件を伝えに行かなければならない社員の姿を重ねてみました。食いつぶされるように、こき使われて使い捨てにされる自身を、重ねていくこともできるかもしれません。 毎日崖っぷちに立っている、その心象は切実だけれど、自分がむしったり殺したりする虫や魚の中に、自身を見る発想との間には、少し飛躍があるようにも感じます。 殺されていく虫が、一瞬向き直って、目があったら。草を抜き取ったとき、一瞬、根っこが指に絡んで、かすかな悲鳴が聞こえたら。 生きる価値があるのか、ないのか、と論理的に問い詰めていくところから、想像力、感性の世界に一歩、足を踏み出してみたら、何が見えるだろう。そこに広がる世界を観たいと思いました。 (崖っぷち)

2018-11-14

〈確かにその時、/あなたの質量だけこの部屋の密度が高まった。〉 ここから先が、とても良いと思いました。 前半、息を一定量に調整したまま、低空飛行を続けるような感じ、といえばいいのか・・・ 漢語が多いこと、説明的な描写が多いことで、導入が重くなっているように感じます。 まだ藍の濃い空、白く輝く明け残りの明星。北風が吹きこむのにも構わず、あえて窓を開けて、コーヒーを入れる。 珈琲、でなくてはいけない理由、があるのかもしれませんが・・・この、朝の景を、どのように表すか。 即物的に、さらりと書いてしまった方が、後半の幻想景との対比が出るような印象も持ちました。 (績)

2018-11-14

この短さに、たくさんの想いを詰め込もうとしている、そのぎゅうぎゅう詰まった感じがみずみずしいですね。 もったいないところは、儚さ、という言葉が、なんども出てくるところ。道の途中に置き忘れられた、夢の傷跡って、どんな傷跡、なんだろう。儚いって、どれくらい儚いんだろう。 どこまでも続く道。これから続く、未知の人生を暗示する、進路。 そこで手に取った(そして、手に取ったとたんにとけるように消えてしまった)なにか、とはなんだろう。 傷跡のように道に刻まれた絵が、現れては消えていく景を思ったり、逃げ水のように映像を映し出して、行ってみると跡形もない、というような景を想像してみました。 咲羽さんの、最初に浮かんだイメージは、どんな感じ、でしたか? (儚い夢)

2018-11-14

吹き出す汗の感覚と、〈人の形をした標的〉を狙わねばならない緊張感。 生き物のように暴れる小銃を〈力の限り押さえつけ〉という感覚がリアルです。 火を噴く竜を腕に抱えているような印象。 〈赤い〉という一語で切ったときに広がる、鮮血の幻視。 〈棒〉という一語から、畳みかけていく、無機的な作業の緊迫感。 有事であれば、人の形、人のような、標的ではなく、人を、実際に狙わなければならない。 それも、相手からも銃口を突き付けられながら。 無駄のない文体の進行もよかったです。 (小銃射撃)

2018-11-14

凡て すべて ではなく。 凡庸、平凡、凡人、 すべて塗り広げられた平坦さで 平滑な生を送るということ 几帳面に点を打つ、その内側に点を穿つ、 その一歩を踏み出せぬまま 沸き起こる疼きが身を燃やし尽くすのを 夢想しながら果たされない、その、平凡 かつえているのだよ、すべてに、だれもが もらい火ではなく 点火せよ マグネシウムが発火する (ほわいと・ふぁいあー *)

2018-11-14

蚊取り線香の威力を調べようと思って、蚊に煙を当ててみたら、手足を縮めるようにして落ちて死んだことを思い出しました。一瞬、ぞっとしました。 この二行の短詩で、消えてしまったのは、なにか・・・題名に「言わざりし言葉」と明示されてしまっているので、言葉、と「答え」が出てしまうのですが、短絡的に「答え」が出てしまう流れではなく、題名と本文との間に、あと一息、余白やずらしがあるとよかったのではないか、と感じました。 あるいは、例えば ルナールの 蝶/二つ折りの恋文が花の番地を探している 蛇/長すぎる のように、エスプリの効いた比喩の面白さを伝える、ということであれば、 言わざりし言葉/煙に当てられて、網戸の目も抜けだしていけぬ蚊 と止める、など。 言いかけて、飲み込んで・・・のどのあたりに挟まったまま、という不快な感じが、うまく出せるといいなと思いました。 (言わざりし言葉)

2018-11-14

きしみながらレール(定められた進路)の上を疾走する自分自身、そこからの解放を切に願う、という流れに共感しました。残念、もったいないと思った点と、素敵だなと思った点について書きます。 残念な点は、荘重に始まりますが、母、を客体化するところまでは至り切れていないのではないか、ところ。〈私は電車を運転する〉の連から始めた方が、自然に読者を作品に導入できるように思いました。 また、日本語は「私」を明示することが少ないので、全体に翻訳詩を読んでいるような印象を持ちます。(このあたりは好みでもありますが) 素敵だなと思ったのは、以下のようなフレーズ。 〈換気をしよう   換気をしてくれ  ありとあらゆる窓を開け  凍えるほどの寒風を頼む  潮風や焼けた夕風 喉に痛いほどに   私の中を駆け抜けるよう〉 〈私のなかには盗掘された場所ある  なくなった財宝、私のからっぽが  明澄な光りに晒されている〉   〈私の内側の小鳥たちがいっせいに羽ばたく  野蛮な太陽が目覚めさせる秘密〉 このあたりに「詩」がある、と感じました。 (私の輪郭)

2018-11-14

皆さんありがとうございます 規定(目安?)に従い、大賞一作、優良三作、推薦四作を挙げていますが、その他にも優れた作品や惹かれた作品、心に残った作品、コメントしておきたい作品が多数あったので、イレギュラーですが(アーカイブ上は投稿作品欄になりますが)ひとこと選評、という形で、コメントを付させて頂きました。 (10月分 フル選評(まりも))

2018-11-10

るるりらさん ありがとうございます。首を絞める癖のある上司!!! ・・・精神的、にではなく、実際の行動として、ということであれば、これは大問題、今ならパワハラで訴えられるレベルですね。 おっしゃるように、わたしの「くびしめ」は、精神的な比喩、ですが、ある種、もう限界、というところまで追い込まれた時の、精神的な空白、というのか・・・その中を彷徨うときに、今、実は真に生きている、のかもしれない・・・と思った、のでした。タナトス的なエロスの感覚に近いのかもしれません。 心身が、ともにキリキリと締め上げられる状況に至った場合・・・恐らく、人は生きてはいられないでしょう。体の、少なくとも一部が、むしろ反応しない(心の言うことを聞かない、心と連動しない)からこそ、人は、この地上にとどまることができるのではないか。そんなことを、蟻が黙々とエサを運んでいく動きを眺めながら、感じたのだと思います。 しかし。ああ、いっそのこと、くるってしまいたい、すべてを投げ出してしまいたい、と、思うことは、ありますね・・・。 花緒さん ありがとうございます。ひらがな・・・にしようかとも思ったのですが。 漢字が目に飛び込んできて、そこから「音声」あるいは「イメージ」として、脳内で立ち上がるときの速度と、ひらがなが同様に立ち上がるときの速度の違い、そこにこだわりたいと思いました。 プディングの中のアーモンドプラリネ、のように、漢字を置いていきたい、という感覚を持っている、のですが(なかなか、この感覚をうまく説明できない)葡萄パンの葡萄、とか。 〈意味というより語感〉この〈語感〉は、五感で感じる感覚、かもしれません。 ※ビーレビュー杯不参加作品 書き忘れました。 (あなまどい)

2018-11-08

桐ケ谷さんの「罪人レプリカ」を読んで、思い出したので投稿しました。 以前、『ユリイカ』に投稿して「佳作」になったもの。彫刻家は舟越保武です。 佳作、になった理由は、おそらく、あまりにも理屈っぽい、ということでしょう。 今の私も、同様に判断すると思います。 でも、論理や理屈、が隠れてしまうと、伝えることが難しい「思い」や「考え」もある・・・ それを「詩」として表すべきか。エッセイや評論など、散文にすべきか。 いつも迷うところ、なのですが。 情感のみ、を伝えるのが「詩」なのか、といえば、これまた異なる。 「漢詩」のグループトークが立ち上がっていますが、「漢詩」は「述志」も重視する。 ・・・それにしても、最後の一行、「~ねばならない」が、なんとも青臭い、と赤面しつつ。 このストレートさ、初心忘るべからず、という言葉もあることですし、直さないまま、載せておきます。 ※ビーレビュー杯不参加作品、でした、書き忘れました。 (美しいと感じる時は(桐ケ谷忍さんの「罪人レプリカ」への返詩))

2018-11-08

つめたい瞳・・・あるいは、それは前を行く車のテールランプなのかもしれません。 夜景を見ると、胸を締め付けられる、と語る人がいました。 誰かが、確かにそこにいる、その切なさに胸がきゅうっとなる、と・・・ 前を行く車の中にも、同じような孤独を抱えて、黙って走っているのかもしれない。その、無言の連帯感というようなものと、私たちを包み込むように広がる暗い海、そして、自分の内面にも、同じように広がる海があることへの内省。 静かな作品ですが、自分と向き合う時間を大切にとらえた作品だと思いました。 (ドライブ)

2018-11-06

塩の都という、魅力的な題名と、塩漬けにされる臓物や肉体の生々しいイメージの、遭遇の面白さにひかれました。 ただ、全体に装飾過多の印象も受けます。言葉が踊ると、書いていて「気持ちがいい」わけですが、書き終えて、一息おいてから「他者の目」で見直してみると、本当にこのデフォルメや、強調、あえて文語調の口調で格調やムードを加味する・・・その、加減が適切か、ということが見えてくるのではないかと思いました。 もちろん、あえて、より過剰な装飾に振りきってしまう、という方向に舵を切る、というやり方もありますが・・・ (塩の都)

2018-11-06

永遠の生命を望みながら、実際には「幸福な瞬間」が続くことを願うのであって、ただ無為に生き続けることを願うのではない、ということ・・・そして、「幸福」は、失われるものだと自覚しているがゆえに、輝いて見える、かけがえのないものとして認知される、という絶対的な矛盾。 流れるような美しい文章で、時に極端な虚構に振ることで「きみ」への恋慕の切なさ、一時の陶酔への憧憬を歌う。 散文ですが、リアルな室内から心象の風景に瞬時に、しかも、自然に飛ぶなど、コンパクトに凝縮された佳品だと思いました。 (十億年)

2018-11-06

いつもいつも、誠実に自らを見つめて、時には厳しすぎるくらいに、自制して・・・その、倫理的ともいえる精神性が魅力であると同時に、もっと肩の力を抜いて、夏生さん自身に、優しくしてあげて、と伝えたくなりました。 夢を追い、光に照らされることを願い、果たされぬ寂しさをいかに納得して受け止めるか。 誰もが葛藤することを、泡の行く末に託し、未練がわだかまるのを、また、じっと見つめる、冷静さと、寂しさを乗り越えていく強さと・・・ 第一行め、最初から否定の強さで始まっていますが、上りつつある泡、途中で消えてしまった行き先、そこに視点を持っていくのも、ひとつの方法であるかもしれないと思いました。 (泡)

2018-11-05

不思議な懐かしさがありますね。谷内六郎の絵のような。 あえて旧仮名を用いたことが、味わいとなるか、目眩まし的な作用となるか・・・ 少しずつずらしてノリで貼り付けていくように、川や子供たちを重ねて行くのに、 いつまでも夕方にならない (真昼の幻影が続く) 幾千もの帽子~溶けていつた (実はすべてが非現実の幻だった) あまりにも鮮明な白昼夢のような映像に、しばし立ち止まりました。 時間を超越した、永遠の、夏。 (小さな村で見た)

2018-11-05

この短さの中で、氷と心臓が頻出するのは・・・重ねによる強調よりも、インパクトを薄めてしまう結果になるのでは?という懸念がありますね。 冒頭のイメージ、あえて回りくどい言い方をする、打ち砕く勢いの出し方は、とても良いと思います。 ブーツの踵が、いったい何を掘り出しているのか・・・最後までひっぱって、実は落としてしまい、氷漬けに(それも、永遠の)になってしまっていた心臓だった、という展開なども、一考してみてください。 (シャーベット)

2018-11-02

映画のワンシーンのようだと思いながら読んでいて・・・最後の転換で、おお、となりました。 比喩も詩だけれど・・・リアル、が、実は虚構だった・・・そして、その虚構こそが、私(の心にとっては)真実なのだ、というところに「詩」がある、と思うので・・・おお、となったのだと思います。 女神は、何者なのだろう。羽振りの良かった(事業がうまく行っていた)時のことを思い出して、感慨にふける男の「内なる女神」。 少したとえが安易なような危うさもあるけれど・・・ 俺が求めていたものは、金や名誉ではなかった、という思いが、巡礼者、というイメージの中からにじんでくるような気がしました。 (女神)

2018-11-02

声の下の喉の叫び・・・さりげないけれど、新鮮な表現だと思いました。 青空が続く、という表現と合わせて、声は青空を広がっていくもの、そして、青空の下で声をあげる、叫ぶわたしたち、というイメージが伝わってくるような気がしました。 悲しみは、いつか凝縮して、透き通ったビー玉のように美しいものとなるのかもしれません。 (おはよう)

2018-10-30

蛍光灯に照らされた室内に、ひしめく人々・・・そこには「光」がない、ということか。 屋内の冷たい明るさを、外から観ている「わたしたち」には、「光」がない、ということか。 前者の読み方をすれば、屋内の人工灯に照らされた人々には、自然の豊かさがない、ということになり・・・後者の読み方をすれば、光=希望、屋内に入ることを拒まれた(あるいは自ら拒否した)者の視点となる・・・ 無駄を省いた詩行であるがゆえに、光の捉え方で姿の異なって見える作品だと思いました。興味深いです。 (駐車場から)

2018-10-30

ジグソーパズル、これは、やる、のか、する、のか、遊ぶ、のか・・パズル、だから解く、のでしょうね。 失ってしまった、私の分身・・・を探し続ける・・・シルヴァースタインでしたか、僕を探しに、という絵本を思い出したりもしました。 数十億年、など、思いきって「飛ばして」いるところと、地道なくらいに、丁寧に重ねて表現している(説明している)ところが、混在している印象。 わたしとあなた、頻繁な入れ換えが、効果に繋がらず、ややこしい、という印象を残してしまうような感もありました。 わたし、が、なぜ最低と言われてしまうのか?ほんとうの「わたし」を、置き去りにしてしまった、と、今の私を、責めているんだろうか。 自分を持て余しているような、そんな少し混乱した気持ちが、文体や主語の頻繁な入れ替わりに現れているように思いました。 ほんとに言いたいこと、を、もう少し絞っていくと、もっと面白くなるような気がします。 (最低)

2018-10-27

面白い、と思いつつ、実はまだ安部公房の当該作を、読んでいなくて・・・とコメントをためらいつつ、やっぱり面白いので、いったん上げます。 (円滑水槽)

2018-10-19

琥珀の孤独、これは「こ」の音に引っ張られて出てきた言葉なのか・・・このフレーズだけを見ると、琥珀の中に閉じ込められた昆虫を想像しました。 バイオリンの流れからいうと、弦にぬる松脂なのかなとも思いますが・・・ F字孔からこぼれる悲鳴・・・あの、キ~ッという、バイオリンの不協和音、でしょうか。演奏しているのは自分か他者か。いずれにせよ、描けない、表現できない、という苦悩と、大丈夫?と畳み掛けていく声(これも、自分が発したものか、他者が発したものか)が、切り替えのリズムを作り出していると思いました。 白紙のスケッチブックの連は、心象風景でもあるのか。印象的な連ですが、前後の連結が少し離れすぎていて、無理がかかっているようにも思いました。 湖とトウシューズ。バレエ音楽(白鳥の湖など)をイメージしました。赤いクリームソーダ、にもビックリ。 なぜ、わざわざ「しののめ」なんて洒落た言葉を使ったのか。なぜ、殺してって、という重く切迫する言葉が、こんなにも軽く、遊ぶような調子で置かれるのか・・・ムードに流されているのでは?という印象も残る終り方に、疑問が残りました。 耳を塞ぎ でも笑った、という、きゅうっと縮こまるような感覚と、からりと解放する感覚を並置していく軽やかさに魅力を感じました。 (Mr.Gibson)

2018-10-19

共感なんていらない、という叫びに、共感を求めているような作品だというのが、第1印象。 私の絵を、「本当に」見てほしい、という叫びと、私を「本当に」見てほしい、という切実さが、伝わらないもどかしさ、おざなりの誉め言葉でその場をしのいでいく、やり過ごしていくような教師への苛立ちが、ユーモラスな音感に乗せて歌われていくところが面白かったです。 よくわからなかったのは、判を押したような人間、という批判(不満?)が、誰から誰に向けられたものなのか、というところ。 先生たち(お前ら)が、判で押したような、決まりきった誉め言葉しか口にしないこと、への苛立ち、という読み方が、いちばんしっくり来るのかなと思うのですが・・・ここでの置き方を見ると、先生から生徒への言葉のようにも見えますね。 分かったような口を聞くなよ、という不満が出てくるのはなぜだろう。 提出作品に、「良い」か「悪い」か、いずれにせよ、他の作品と比べて突出するものがなく、可もなく不可もなく、それなりに収まってしまう作品になっている、からではないのか・・・ そこを突き抜けて、私を見てよ、という叫びにまで辿り着けたら、凄い噴出力を持った作品になるのではないか? そんなことも考えました。 (恐怖! 判子人間)

2018-10-19

最後の、これでもか、という重ね・・・文字で読むとかなり重い気がしますが、リーディングだと、むしろぐわーっと押し寄せてくるクライマックスになるのかもしれないですね。 最初の方の「僕」は、親指PならぬPそのもの?と思いつつ・・・ 詩とか、声とか、魂そのもの、命そのもの、と重なっていくような気もしました。 声帯も・・・まあ、こすらないけど、震えて擦り合わせて声を出すんですよね。 にんげん って、なんだろう。 自分の意思で立つことができる存在?他者を慰めたり、慰められたり、そういう、ある種の湿っぽい依存ではなくて、自らの意思でお互いに触れあいながら、寄り添ったとしても寄りかかりあわない、そんな関係、なのかな・・・ 海のくだりが、とても美しく、心に残りました。 肌に触れるように、そっといとおしむように、人の心の水面にそっと手を触れるような。 (信頼)

2018-10-18

なかなか強烈な作品ですね。 情景描写がリアルな分、これは現代なのか?ということが気になりました。 あまり設定やシチュエーションを書き込んでいくと小説になってしまいますが、現代であれば難民キャンプや疫病や飢饉に教われている、「後進国」のイメージ。 江戸時代の天然痘やコレラが大発生した景も思い浮かべました。 (蠅)

2018-10-18

金木犀の香りと、ネット上で発散していたリリシズムの「香り」・・・匂、というべきかもしれませんが、その両者が濃厚に結び付いていて、強い印象を残す作品でした。 てがみが来る、というのも、これも待つ気持ちの比喩ということなのか・・・実際には面識がなく、一方的に憧れていたネット詩人への熱烈な讃歌と、喪失を嘆くエレジーが、ところどころに巧みな比喩を組み込みながら歌われています。 新宿駅の雑踏に飲み込まれて同化していくような感覚も、そうしなければ生きていられないような切実な体感として伝わってきました。 最後の二行、余韻や気配で示した方が良かったような気がしますが、どうでしょう。 (底)

2018-10-18

2歳くらいの、ようやく自意識を持ち始めた頃から、まるでアルバムをめくるように、一人の女性の人生が描き出されていきます。その芯を貫いているのが、自由とは、なにか。 それを口語自由詩で綴っていく。 ~からの自由、~への自由、自らを由とする、という日本語の意味通りの(自立して自らの意思で、何物にもとらわれず判断する)自由・・・ 日本の「自由」には、自分勝手、というようなマイナスのイメージもありますが、自由を求める自由に直面させられた時の思考こそが、自由を問い始めるスタート地点なのかもしれません。 表現としては、小気味良く時間が進行していく主語や表記の変化に魅力を感じました。変化しつつ繰り返すバリエーションの面白さもありますね。 もっとも、役員からの解放、という自由から、一気に残りの人生にまで飛んでしまうのは、全体が広く浅くなってしまうのではないかと思いました。 エピソードが比較的身近な事柄であるので、平均的な女性の感覚にマッチしていくとは思いますが、それゆえに「私」の問いが薄まってしまうのではあるまいか。 ~からの/~への自由、から離れた、個として向き合わねばならない自由を、掘り下げていくと良いかもしれません。 (歩み)

2018-10-13

彼ら、それ、など、抽象的な言葉が多く、白地の多い、薄塗りの絵画を見ているような感覚が残りました。 自分だけ取り残されて、彼らだけが先に行ってしまった、という感慨でしょうか。 彼らが、知っている場所におり、自分は知らない場所にいる、というところからは、彼らが旅だったのではなく、自分だけ弾き飛ばされる、自分だけ切り離されて遠ざかっている、そんな動きも感じられました。 なぜ、こうべを垂れるのか。 彼らが漂流していた、と思っていたが、実は自分がさ迷っていた・・・ということなのか。 ここに、という言葉が不用意に重ねられていて、印象が薄まってしまう感もあるので、同じ言葉を重ねるときは、作品内における効果を十分に考えるという習慣をつけると良いかもしれません (漂流)

2018-10-13

切り裂かれ 抉り出されて 流れ尽くして後はもう 澄んだ透明な液体しか滲み出さなくなった 僕の胸の空洞 鳩が住めるくらいには 空いているよ 誰も 来ないけど からっぽの体で 夏を吸い付くした 秋の落ち葉を踏んでいく 行く宛なんて ない 君がいた場所を たどる 地雷を踏むように 垂直に君が 君の影が 僕を突き上げる 粉々に吹き飛ばされ そのまま地に降るものとなる いいんだ、それで 僕にはもう 後がないから (秋の赤)

2018-10-13

冒頭の神話的、童話的な導入部と、中間の切実な様相との落差について考えています。 真に迫ってくる強迫感のようなものを緩和するために、語り手が自らを・・・あえて離れた場所において、そこから語り始める、という手段をとっているから、なのか。 読者をスムーズに主題へと導くために、神話的導入を用意したのか・・・ 絶対に振り返ってはいけないと・・・から詩を立ち上げる方が、読者へのインパクトが数段増すように感じたのですが、どうでしょう。 そこから次第に、現代の神話と古来からの物語を重ねていく、というような構成にしていくのも、ひとつの方法かもしれないと思いました。 (冥府へ)

2018-10-13

ペルソナ(仮面)という言い方をしますが・・・社会的役割、家族というコミュニティーにおける自身の役割、あるいは友人同士の「コミュニティー」における位置取り・・・そうしたものが定まってくる(固まってくる)と安定、安心が得られるけれども、同時に窮屈さ、うっとうしさ、自分でないものに押し込められているような苦痛、を感じるのが常、であるようで・・・そこから、液体のように流出してみたい、そんな欲望に駆られます。 この作品での語り手は、感覚主体になる、のではなく、むしろ、意思するもの、思考するものとしての主体となり、全身を液体となって巡るようです。 その状態を、幼虫から蛹(蛹の皮の中で、どろどろにとけて変態する蝶のようなイメージ)に託して、「大人」になって〈黒くて細長い手足を伸ばそうとする〉未来を予見している、ということでしょうか。 恥の器官とは、恥ずかしい、と感じ取る心が、こうした変態を駆動させている、ということなのかと思います。感覚的に書いているようでいて、非常に理知的というのか、ロジックに沿って記された作品、という印象を受けました。 変態(さらに一段階上の、自由な思考を生きることのできる存在)への脱皮を促すものは、外界をささいなこだわりを捨てて、どん欲に吸収すること・・・他者と同じ、模様が嫌だ、というような、外形的なことではなく(そんな些末なこと、にこだわるのではなく)もっと根源的なところをとらえたい。 詩を書いていくことになぞらえれば、詩形や文体、よく用いる用語法、といった表層的なことがらではなく、もっと宇宙のダイナミズムのような、根源的なエネルギーを取り込みたい、そんな意欲を描いているように思われました。若干、理が先走っているように思われたのが残念。 (青々)

2018-10-12

蔀県さん、ありがとうございます、一さんと_さん・・・そそっかしくて、すみません。 (ambient)

2018-10-11

こぞ今年貫く棒の如きもの・・・高浜虚子の名句ですが、時間や、その間に去来する様々な思いといった、自らの中を流れていく感覚、その感覚と外を流れていく感覚との齟齬、が、表現の出発点にある、として・・・それを、体感的、具体的な感覚のうちに、なんとか当てはまる(ギリギリ、近い)表現を探しだす、探求する。そこに、言葉を探し続ける面白さがある、と思っていて・・・この詩は、その体感的な探求を、冒頭から行っている、というところが魅力的だと思いました。 (夜長月)

2018-10-09

雨は 道を支配して そこを川のようにして 足を取りにくる この感覚、そして、雨、闇、重い(物理的にも、精神的にも)荷物、それらを「友」としなくては歩むことすらできない、「行軍」の荷重が、リアリティーを持って伝わってきました。短く切り詰めた、寡黙な言葉の並びもよかったと思います。しかし、もう少し圧縮、凝縮、できたのではないか・・・ゆるみを、もっと絞り込みたい作品でした。 (友達)

2018-10-09

君、を投げ捨てた、ゆえに・・・自らの左手にナイフを突き立て、その痛みの中に、捨てられた君、が現れる、のを感じる、というストーリーを思い描きました。 君、は、水子。生まれる前に親の自己都合で殺されてしまった命。その命の痛みを、自らの左手を突き刺して眺めることしかできない、語り手、という設定。 久々の卵子の排出=久々の月経、というところから、なんとなく。 (再生)

2018-10-09

パズーとシータ、ラピュタの主人公二人ですね。ラピュタのイメージと、世界帝国(征服主義)のイメージが結びつくことは、なんとなくわかる、のですが・・・。 ヒトラーもスターリンも、イデオロギー的には異なるはずなのに、結局、恐怖政治、絶対主義へと傾いていく、のは、なぜか・・・欲望を持った人間が、独裁を行おうとするから、でしょうか。 (タモリとの縁)

2018-10-09

新生 溢れ出す涙を、そのままにあふれさせることができる その幸せが 空からゆっくり、降りてくる 輝かしい朝 あなたがいて そこに居てくれて はじめて私は私であることを ゆるされたのだ その事を何よりも大切なあなたが誰よりも深く 静けさのなかに放って それをいま ふたりで並んで見ているということ これが えいえん なのだ 現れては消え とらえようとしては逃れ いつも隠れていて 時折 からかうように目の前に立つ 一瞬の至福 青いベールに包まれた大地が 僕らを迎える もうすぐ (眩しい光)

2018-10-07

❇皆さんへ 皆で作り上げていく場 として動き出したビーレビューだと思っていたし、今も思っています。皆さんの意見を総合していくと、ひとつ上のステージに至る道が見えてくるように思いました。 ❇渡辺さんへ  最初の出発点が見えにくくなってきているように思います。 投票数が多くないのに、大賞候補が多い、という状況で、僅差で接戦、という投票に意味があるのだろうか?という疑問や問題から発したのではなかったか・・・ その問題解決策として、細則を含めた新ルールが出てきたと思うのですが、目の前の問題解決に意識が向かいすぎてしまった結果の細則であるのかもしれません。 ❇皆さんへ 澤さんがこれまでの流れをまとめる形で再提出してくださっているので、以下に引用します。 ~~~~~~~~~~~~~ ●大賞投票の候補作数が多すぎると問題が起こる。 上記はstereoさんも渡辺さんも指摘なさっていることです。このことには、「候補作が30作もあったら、投票者も全作をまじめになど読めまい」といった推測から、わたしも同意します。運営が定めた適正な数に、運営が定めた適正な基準で、大賞投票の候補数を制限することに、問題はないと思います。 そこで問題になるのが、「諸事情で大賞投票進出がかなわなかった大賞候補」の扱いですが、 ●どんな理由であれ、フル・キュレーターに推挙された大賞候補を「優良に降格」させることには問題がある。 この一点に関しては、stereoさんも渡辺さんも同意なさっており、stereoさんは❶「反対者が多ければ撤廃したい」、渡辺さんは❷「準大賞に至らなかった大賞候補のために、優良以上準大賞以下の新しい等級を設置したい」とお考えなのですね。 ~~~~~~~~~~~~~引用終わり 全作品を読むという、時間と労力と熱意とを傾けた者に、自分の推薦する作品を推す権利がある→大賞候補作品が、沢山生まれるということは、それだけ熱意をもって作品を読み込んだ推薦者が沢山いる、ということ、でもある。 その推薦者の熱意を汲むという意味でも、一定の作品数を越えた場合、優良へ降格するという案は撤回して、元のルールに戻すのが良いと思いました。(思い直しました。) そのための判断基準を、コメント数に求める、という更なる細則も、自動的に撤回、となりますね。 やってみてから考えたら?というスタンスと先に述べましたが(運営チャットの方でも、そう考えて賛意を示していました)、新ルールを提示、ということを「やってみた」結果の、皆さんから理にかなった反対意見を頂いたわけで、私自身も納得しました。改めて考えるきっかけにもなりました。 ダントツでこれが一番、という作品が存在しないときは、すべてを準大賞にしたい。 この点、澤さんの意見に、私も賛成です。 ❇渡辺さんへ 渡辺さんが、優良以上、準大賞以下の新しい等級(大賞推薦作品、など)を設けるのはどうか、と述べたのは、等級に段階を設けて、より上位を目指したい、というモチベーションを高める、という枠組みを作りたいから、ですか? それとも、準大賞、という言葉の持つ印象が(ボルカさんが述べておられるように)大賞に準じるもの、であるからですか? ボルカさんは、準という言葉の持つ印象ゆえに、準大賞は、大賞と拮抗した数作にこそふさわしい、それ以外の準大賞該当作品は、大賞ノミネート作品、というような呼称がよいのでは、と提案されていますね。 花緒さんが指摘された、この場をどうしていきたいのか、ということが見えない、というプリンシプル問題にも関わってきますが、 賞を段階的に設定し、上位入賞を競うことで作品の向上をめざす場にしていきたいのか。 皆がキュレーションに参加し、参加者の推す多様性を確保しつつ、ある程度の総意に基づいた「おすすめ作品」を推奨していく場にしていきたいのか。 どちらなのでしょう。 作品の向上、という点に関して、 適切な批判によって切磋琢磨していく、あるいは、ふるい落としていく(他者からの働きかけによって、効率的に作品を磨く) 読み手が良作と思うもの、長所と思う点を推奨する、それを作者が読むことによって自ら学ぶのを待つ(自発的に作品を見直す目を養う) という、二つの方向がありますね。もちろん、どちらかに峻別出来るわけではなく、どんな場合でも、双方の要素があり、結局、どちらの割合が強いか、によって、方向性が決まるのだと思いますが・・・ 渡辺さんは、ビーレビューがどちらの方向に向かうことを望んでおられますか? 以上、皆さんのご意見を参照した上での、私の意見と、渡辺さんへの質問です。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-07

実に不思議な展開の作品。 急激なブレーキ音・・・ただ事ではない、事故か?・・・という方向には思考は向かわず、自分の脳内に突き刺さったブレーキの音、さらには、それをブレーキと呼ぶ行為、文字として呼び出す行為、その文字を物理的に切り裂くことによって、脳内に刺さり続けるブレーキ音、その音が喚起するイメージを、どうにか脳内から消し去ろうとする意識の働きを凝視する。 ブレーキ音にトラウマを持つ(過去に大きな事故に遭った。目の前で事故を目撃した)俺、という主人公を設定しているのか。 あるいは、俺が突き進んでいる事態に、ブレーキをかけねばならない(道ならぬ恋とか、叶うはずのない夢の追求とか)と意識していて、それゆえにブレーキ音が脳内から抜けないのか・・・ これほど心を掻き乱すものが、実際には繊維1本分程度の、しかし、絶対強固、な強度を持つものなのか・・・という流れはスッと入ってきましたが、オリーブが核だという、ある種の秘薬は、うまく受け止められませんでした。 ここが気になっています。 (一人合点)

2018-10-06

るるりらさんへ すてきなご意見、ありがとうございました。 私は「運営」とは少し異なるスタンス・・・お手伝いなどはするけれども、どちらかというと応援団、というスタンスで関わっている(関わっていく)つもり、でおります。だから、あまりごちゃごちゃ書き込むのも、とためらいがある、のですが。 大賞候補、が、すべて「大賞」となる、これが、理想、なのかもしれません。でも、今現在、他サイトである「面白いぞ!現代詩」のご協力(ご厚意)により、ビーレビューの大賞作品を、転載させていただいている、のですね・・・。 大賞受賞者の「権利」や「特典」のように思っている方がいるかもしれない、と、時々思うことがあって・・・ もちろん、双方のサイトが、お互いに読み手が増えますように、ということを期待しての、転載のご快諾だと思います。花緒さんが尽力してくださったので、こうしたご厚意を受けることができている、ということも忘れてはいけない、でしょうし・・・ 大賞受賞作が複数になった場合、その複数をそのまま「載せてください」とお願いするわけにはいかないと思うのですね。先方に選んでいただく、という、新たな方法をご相談させていただく、ことは可能かもしれませんが。 大賞が、投票により一点に決まった時は、転載をご依頼する。 同率で複数作品が大賞、となった場合は、すべてを準大賞、として(該当作なし、として)ビーレビュー内のアーカイブで準大賞欄に掲示する。 ・・・というような方法もある、のかな、などと、思っています。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

澤さん、渡辺さん、なかたつさん  ルールを細かく設ければ設けるほど、なんだかよくわからない、ということになっていきはしませんかね・・・。新運営の方々が、いろいろな課題に一つ一つ、対処していくこと、を、どうなるかな、うまくいくといいな、求めているもの、目指しているもの、が、どんどん明確になっていけばいいな、という思いもあって、まずは思う通りにやってみたら?そして、それから考えよう、というのが、すこし「いいかげん」に見えるかもしれないけれど、私のスタンスです。この「掲示板上のスレッド」が生まれたのも、必然の流れなのかな、と思います。 かるべさん  フォーラムを開けるようにしてくださっている、とのこと、ありがとうございます。 確かに、今、ここで行われている「議論」は、掲示板上のほうが目につきやすい・・・かもしれないけれど、フォーラムは、こうしたリアルタイムの議論をする場所、ではなくて、どんどん動いていく掲示板より、ひと月に一回でも、じっくり読める場所があるといいな、と思う人のための場所なのかな、という気持ちがあります。「弓庭夜話」を、掲示板に貼っていくとドンドンスレッドが長くなってしまうし、その都度、上に上がってしまう、ので、こういう「目指して読みに行くもの」は、フォーラムのほうが落ち着いて読めるかな、などと思っています。 皆さん 「賞」の名前に関して言うと、大賞、準大賞、優良、入選(推薦だとヤヤコシイので、というのに同意)なんてどうだろう、と思いました。ものすごく平凡で、ありきたり、ですが。 今後、大賞、準大賞専用の展示場所をビーレビュー独自に設けるとか、冊子にして店頭に並ぶようにする、とか、そういう話が出たら楽しいな、とは、思っています。 ぜんぜん、まとまっていませんが・・・思うところを、なんとなく、つらつらと、書いてみました。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

幾重にも行方かさね 沸き起こる思いかさね 行き過ぎるものを 現れては消え去るものを 追い求め 空をつかみ そして うなだれる 木々の葉擦れの その落ちかかる影の 重なりの向こうに こうこうと 月 夜は薄められはぎとられ はずかしめられ また重なり 光を吸った薄い影に 闇は覆われ わたし の すすみゆくまなざしの 遮断 ただ、立っている 押し寄せる闇の圧に あらがうほど 肌の 輪郭の わたし の 境界が 溶けて 膨満する どこまでも ひとり だ なんとなく、返詩のような形で、感想を記したくなりました。 水晶のイメージが、凍るイメージと辛うじて結びつくようにも思うのですが、 どちらかというと漿液のような、生理的、体感的、透明な液体のイメージと、 それが凍るイメージ、そして何よりも音の相似が「取り合わせ」を要求した単語であるようにも思います。夜、鉱物としての水晶、その後の透明感ある生理的な液の巡りのイメージが、うまく結びつくのか、どうか。伝達性、ということを意識するのであれば、このあたりが課題であるようにも思いました。 木々、そして葉が吸い上げる溶液のイメージと、葉脈や道管、透明な葉、形をとる前の・・・イマージュとしての植物のイメージ。 リルケが「おお、そこに一本の木がそそり立つ」と歌い始める賛歌を遠くに聞きつつ、 ここにはとても静かな、生理的で湿潤な始まりの世界がうごめいているように思いました。 (いくえ)

2018-10-03

かげふみ、と読めますね。影踏みを思い出しました。 吐露・・・が、とろとろと流れ出す。それを、聞くのが辛い、と言いながら、実は「おいしい」と思っている。なぜなら、相手が困ったり、苦しんだりしているから・・・ということ、かな・・・。 卵かけご飯、のねちょねちょのおいしさ、にたとえた感覚的なところは面白いと思ったけれど。 まじめに相談に乗ってやっている、聞いてやっているふり、をする自分と「お前」との関係も、実は後ろの席のやつらがやっている関係と一緒、お前、それ気付いているか?という、屈折・・・が、どこに向かっている、のか・・・自分へなのか、お前、になのか。そんなことを思いました。 (陰文)

2018-10-03

〈君を最初に抱きしめたとき、何かを背負った気がした。〉 その「何か」を、つきつめていく、探っていく、言葉にするとしたら、どのような表現が、一番しっくり来るんだろう、と、問い続ける・・・そこから、あなた自身の詩、あなたにしか書けない詩、に、なっていくように思います。 つい、感傷に浸ってしまいそうになる、その瀬戸際で、どう、踏みとどまるか。そこを攻めていってほしいと思いました。 (残響)

2018-10-03

弓庭夜話第二回 9月19日(水)第三部 3 5or6(ゴロちゃん。)さんに聞く《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》より 火垂る(ほたる) by.夕暮れぴあの   [fiorina] 火垂る(ほたる) by.夕暮れぴあの. あなたから よぉくみえるように 花火うちあげて あなたから よぉくみえるように 花火うちあげて   あたしたち きらきら 垂れる してしまう 景色から零れ続け 抜け落ちたあたしは あたしたちの音をそっとかくして (心臓のまたたき。)   なんでだろうね   なにもかもは うまくいかないんだ      ここは    地上から300キロ    を離れた    周廻軌道上    天の河を準えて    あかいほし    あおいほし      「そうね、    あの島にゆくより    ずっと    近いんですもの。      「ほら、    すごい爆発だ    きらきら    だ。    裂け目から    あたしたち    垂れる    してしまう。   ((あなたから  よぉくみえるように  あたし  花火うちあげて ここいら一帯は ばらまかれた ひかり まばゆい ひかり 消える。消える。 際限もなくその裂け目から ふれられる程そばに ふれられぬ程そばに すべてがね いとおしくて あたしは呼吸をも景色へ俯せたよ そのうしろで死んでゆく ちっぽけなグライドをみていた      あたしは吸い上げられてゆく   爆発する 音域を無にしたら 目の玉がやけどしてしまうよ      みえてしまうよ。   ・・・・・えぇ。そんなことはいいんです。 ・・・・・えぇ。そんなことはないんです。 ・・・・・えぇ。そんなことは。   数限りなく あおざめてゆくような 彼方からひろがるは音域 (同時に塞がれる景色。)   こなごなになる足許 裸足をくすぐった綿毛が 天の河を準えて いま いま   ((あたしは いま うちあげられて      7千の島々には    7千の花々が    咲いててね    だけどね    その名前は    忘れちゃった      あたしは    うちあげられて      点滅しているのは    ほしたち    きらきらだ    きらきらだ   光と銃声の溝で ふきだまる電流の ゆうぐれたグライド あなたあらざる そのからだにおりたい    さがしていたの    ずっと    おりるべき    からだ     おりるべき    にくたい      ここは    地上から300キロ    を離れた    周廻軌道上   だけどね すぐ 垂れる してしまうんだ   あかいほし((きらきら       だ。 あおいほし((きらきら       だ。   中空で裂けた声をきいた? だけど 決して呼び間違えたりはしないんだ    大きな音がするよ    だけどね     決して    呼び間違えては    いけないんだ。   あ。 ほら みて あたし駆けるたびに まっしろな閃光が奔る もえたつ わたげ わたげ うちあがる      あたし    花火    だ。   わたげ まっしろにもつれたまま      あたし    花火    だ。      あたし    誰かの    しあわせだけを    祈ったりして   わたげ ひばな  発芽したばかりの やわらかな 吐息を   生まれ落ちては なんども なんども あたしは景色になった あたしは中空で声をあげた ただ そのようにあるだけの ことばで溢れた地上にも 光はやってきて   かなしくて もろい うつくしい ひかり   駆け抜けた すぐうしろから もえたつのは    わたげ    ひばな    ひかり ひかり ひかり あたしたち きらきら に なってしまう      あらゆる    周廻軌道上から    あたしたち    垂れる    してしまう。   はしゃぎまわっている 雪みたいに発光している綿毛 ここはとても明るいよ 明るくて灼けようとしている てのひらとてのひらを つぼみのようにあわせえたら ただしづかに供えました   あたし 花火うちあげて わたげ あしもとから もっとまっすぐに とべ   いとおしい いとおしい てのひらとてのひらをあわせて ここは どこの周廻軌道上ですか?    ちがうよ    ひかりのうみだよ      ひかりのうみだよ   もえたちる ほたる あたしのあしもとから つぎつぎに うちあがれよ   ここいらいったいは ばらまかれた ひかり まばゆい ひかり   こどもたち みんな てんしみたいにわらって わらって [杜 琴乃] 「垂れる/してしまう。」が頭から離れなくて。 [帆場蔵人] 杜さん、ぼくもそこに引っかかってます。後、グライドとか。 [杜 琴乃] とても、若い女子っぽいなぁと思いました。 [fiorina] 花火がどこまでも上がり続けないである高さに到達するとはじけて、落ちてしまう。 おちてしまわなければ、どこまで上がり続けるのか、と言う畏怖のような高みが花火に託されて描かれている。 [帆場蔵人] だから周回軌道上、あかいほし、あおいほし? [杜 琴乃] なんとなく、言葉が縺れるような口調の、幼さとか、あどけなさが可愛い。 [fiorina] 人のみでありながら、光りをこんなにも内包していることにきづく。垂れる、してしまう、ことで人に戻っていく過程をたどるかのような… おさなさをかんじさせつつ、凄く感覚の豊かな鋭い詩だ、と。 [杜 琴乃] 本当に! [るるりら] 周回軌道をまわってるあいだは、永遠だけど、たれると 夢から醒めそうです。眠くなりました。なんだか、いい夢みそう。おやすみなさいです。 (るるりらさん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [fiorina] 花火がぱーっとひらいた後に、さ~と垂れる絵が見えます。 [杜 琴乃] 星には届かない、花火は空中で爆発して、垂れる、滑空する火花、きらきら、 儚さ。 [帆場蔵人] 永遠と現実の狭間で意識が揺れてるのかな。 fiorina 永遠にはけっして達しないのに、永遠幻想が常にある。 [杜 琴乃] 幼い感じがしたけど、最後はこどもたち、へと思いを馳せる。こちらもなんとなく、大人になってしまった、かつての少女、のようなものも感じますね。 [帆場蔵人] 花火が咲いて散る、一瞬に何度も生と死が起きて人生を幾度も体験するような気分です。 [fiorina]  垂れる してしまう 景色から零れ続け 抜け落ちたあたしは あたしたちの音をそっとかくして [杜 琴乃] 花火は周廻軌道上まで到達したようにも思えて、でも、垂れてしまう。落ちてしまう。星にはなれない。それが、あたし。花火。かな。 周「廻」か。 [fiorina]  ゆうぐれたグライド あなたあらざる そのからだにおりたい    さがしていたの    ずっと    おりるべき    からだ     おりるべき    にくたい (鈴木海飛さん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [fiorina]  中空で裂けた声をきいた? だけど 決して呼び間違えたりはしないんだ [帆場蔵人] グライド、滑空とか滑る、 ゆうぐれたグライド? [杜 琴乃] 垂れた火花、ばらまかれたひかり、がほたるになって、あたしのあしもとから、うちあがれよ。 それを見る、子供たちは無邪気に「キレイだ」と笑う。天使みたいに。なかなか残酷な最後にも読めますね。 [fiorina]  「そうね、    あの島にゆくより    ずっと    近いんですもの。 [杜 琴乃] 生と死がめぐる様、ですかね。 [fiorina] ですね、琴乃さん。 [杜 琴乃] あの島、架空の楽園...? [fiorina] 性って、死でしか描けないみたいな。 島、の使い方が、 [帆場蔵人] だから 廻。 ひかりのうみ、 魂が還る場所だろうか。 届かない永遠、周廻軌道上を何度も目指して辿り着く。 [杜 琴乃] 少女から、女になる、ようなものも感じます。処女の喪失、少女性の喪失への恐れ、嘆きにも。 [帆場蔵人] 最後の方の言葉遣いの変化。 [杜 琴乃] 夢見がちな少女は、そういうところで、自分がいちど死んだように感じる...というのは私の感覚ですが。 [fiorina] 普遍的な光景とも読めます。 [帆場蔵人] ぼくは普遍的光景を浮かべたのですが少女、という部分で杜さんの解釈がしっくり来ますね。グライド、という単語からリリィ・シュシュのすべてとかも思い浮かべてしまった。 [fiorina] 時間の流れよりも瞬間を感じます。 [杜 琴乃] 描写が美しく、鮮やかに映像が浮かびますね。「すべてがね、いとおしくて」ですごく母性を感じました。超越しちゃってる感じ。 うーん!そろそろお時間です! [fiorina] はーい [帆場蔵人] 動画で流したい詩だ。 早いなぁ。 [杜 琴乃] 早い〜!今夜も楽しかったです! [fiorina] すみません、ちょっと 10月の夜話を、作品選びなどやっていただける方いませんか? 掲示板でも募集しますので、またおかんがえくださ~い では、おやすみなさい~ [杜 琴乃] はい!おやすみなさい! [fiorina] 琴乃さん、みなさん、お疲れ様でした。 [帆場蔵人] ありがとうございました! ではおやすみなさい。楽しかったです!お疲れさまでした。 [杜 琴乃] 気軽に、色んなひとが見に来てくれると嬉しいですね!楽しかったです! (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-10-01

アソート、色々な美味しさの詰め合わせをどうぞ、ということでしょうか。 最初の「青」、幻想的なムードの中で〈着なれた制服を脱いで/水面に放り込むと/優しさが 世界に満ちて〉という一節が光っていると思いました。住処へ帰る=本来の場所に戻る。魂が夜の夢想の狭間で、自由な素の姿に戻るのを、静かに見守っている書き手の意識を感じました。 ▼ も面白いですね。なんだかわからんもの、でも、天から恵与される、という方向性を含んでいるような視覚効果があります。 人々が▲の方向性を意識したとき、世界は(心は)貧しくなるのかもしれない。だからこそ、一緒に戯れる。栞にして記憶のひっかかりにしておく。そんな向き合いかたがよいのかもしれませんね。 〈どこまでも どこまでも 美しい裏切りが 地下水になって流れている のを〉のフレーズや、雨の冒頭の設定の面白さも印象に強く残りました。 (アソート Ⅰ)

2018-10-01

失礼しました、第二回ではなく、第三回でした❗ (ambient)

2018-09-28

ー さん、こんにちは。 フィオリーナさん主催の「弓庭夜話」の第二回https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2246 で、ー さんの作品について、皆でワイワイ語り合ったりしています。よかったら覗いて見てくださいね。 (ambient)

2018-09-28

彼女、との、あまぁい日々の描写?に見せかけて、実はすべてが夢、という作りなのかな・・・1885という題名が、もっと意味を持って響いてくるような一節、もしくは小道具なり舞台装置があっても良いと思いました。 (1885年の夢)

2018-09-28

護ったつもりで、守れずにかえって傷ついてしまう心、その柔らかさこそが本来なのに、そのなまもののような繊細さに苛立つ意志。 最終連に向けての助走なのかと思いつつ・・・前半は勢いの方が先行してしまっている印象もありました。 (ヒール)

2018-09-28

弓庭夜話第二回 9月19日(水)第二部 2 仲程「しらやまさんのこと 夏」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2109 …   [fiorina] しらやまさんのこと 夏 仲程 作成日時 2018-08-07コメント日時 2018-09-17   なごしおおはらえ   かんぬしまちの おさななじみだったおねえちゃん がみこさんなったとき ぼくのこころは ふ ってはずれて べっくうさんやのほうに ぷかり ぷかり とんでった     きれいだったんやろなあ   と 毎年三度後悔している   茶店   参道下の古ぼけた店で 岩魚の塩焼きを齧る 雨が降ってるので ゆっくり と齧る   しらやまさんに降った雨は 百年後の加賀平野を潤す   その雨が 降っているので ゆっくりとお茶を すする   次の岩魚の季節に訪ねると その店は駐車場になっていた   虫送り   竹ざおの先に灯火をぶらさげて 小さな子から先にあぜ道を歩いて行く ひと粒の米に 千もの神が宿っていた頃から続く火で 稲の葉を食べる虫を追い払う   のだと言うが 揺れる火はまるで 人魂のよう  とは 誰もが気付いていながら 誰も口には出さずに   そんなふうにして 僕も大人になったようで   虫送りの火は遠く どこまでも遠く なってゆきながら いつかは 僕の魂も その竹ざおの先に ぶらさがっているのかもしれない   喧嘩太鼓の音に いくつもの魂がひとつになって 一際高い火柱になって 昇ってゆく   ひとつぐらいは 誰かの竹ざおに ぶらさがったままでもいいのに   虫送りの火は遠く どこまでも遠く [杜 琴乃] 仲程さんの3編構成はいつも素敵です。繋がりが。 [帆場蔵人] この題、最初はしらやまさんという人の話かと盛大に勘違いしました。 [杜 琴乃] 蔵人さん、タイトルだけだと私もです。最初は巫女さんになったお姉ちゃんがしらやまさん、かと思った。 [るるりら] わたしもです。しろやまさんかと。 [まりも] 近所に白山神社があります。白山信仰ですね。全国にあるようです。 [帆場蔵人] 石川県や飛騨など有名ですね。 [まりも] 人名のように呼びかけられることによって生まれる感情はなんでしょう。 [杜 琴乃] 初恋、かと思いました。 [fiorina] 魂が宿る感、親しさ感、まりもさん。 [帆場蔵人] 地元の信仰には、なんとかさんという呼び方結構ありますね。 [まりも] 急に、神様が近くなりますよね。 [fiorina] 祭りの名にもさん付けしますね。 [鈴木海飛] 親しみ? [まりも] 稲荷神社は怖いけれど、おいなりさんは、おばあちゃんのウチ、的な親しさ。子供の頃から慣れ親しんだ、そんな呼び方が思い出させるノスタルジーのような。 [帆場蔵人] ひらがな表記は幼さ、なんだろうけど頭で考えていない、感じるままの自由さを感じてしまいます。だから、ふっ、と飛べるのかなあ、と。 [るるりら] 虫送りとか 全然しらなかったです。火が綺麗みたいで素朴な信仰って感じなんだろうなー。 [杜 琴乃] 巫女さんになるお姉ちゃん、なんて少年からしたら憧れの存在ではないでしょうか。 そこから、茶店のしらやまさん に降った雨は百年後の加賀平野を潤す。でも帰ってきたら駐車場になっていて、あの場所はもうない。ノスタルジック! [fiorina] 個人的に、こんな風に生きていけたら言うことないわ、と思う 他にたくさんほしがらないでも、ぜんぶあるみたいな。 [まりも] お姉ちゃんを神様に取られちゃった、という思いはあるかな・・・それが後悔? [杜 琴乃] 虫による稲の害は、不幸な死を遂げてしまった人の怨霊と考える御霊信仰に関係する、とWikiに。不幸な死=叶わなかった初恋、とか。 [なかたつ] 「諸行無常への嘆き」が大きな主題となっていると思われます。詳細を述べると長くなりますが…、その想いがよく伝わってくるのが「ひとつぐらいは/誰かの竹ざおに/ぶらさがったままでもいいのに」です。 [帆場蔵人] 時間を移動して旅するような胸に響くノスタルジー。 神さまに取られたと言うとしらやまさんで亡くなったイメージがわきます。神子で巫女ともいうし。 [まりも] 心が故郷に飛ぶ、過去に飛ぶのもあるかも。 [杜 琴乃] なかたつさんのあげたところ好きです。 ぶら下がったままでもいいのに/虫送りの火は遠く... すべて飛んでいってしまう。 茶店が駐車場に変わってしまったように。 [なかたつ] 1.おさななじみ→みこ、になる 2.茶店→駐車場、になる 3.竹ざおの先の灯火→一際高い火柱、になる その中で、語り手の欲望が述べられているのが、さきほどの部分で、たけざおの先の灯火(人魂)のままでありたかったという願い。さらに言えば、その竹ざおを持っているのが小さな子であるという。自らだけでなく、周りの世界も含めた時間の流れへの想いがひしひしと伝わります。 [帆場蔵人] おー!なるほど、たしかに無常観ですね。 [杜 琴乃] そうですね。 それを表現する、ひらがなの使い方が本当に上手い。 [まりも] 火柱は、個々の存在が、おおきな祖霊になるというイメージなのかな。 神々の世界に入る、亡くなった人の成仏は、本来は喜ぶべきことであるのに、その人を思う人には淋しいことでもある。 [杜 琴乃] そうですね。残された方、見送る方はやっぱり寂しいです。 [fiorina] 日本人の営みの中に息づいている火、水、が描かれてますね。 [杜 琴乃] 虫送りそのものも、かつては全国各地に見られたが、農薬の普及、過疎化や農業の衰退も影響し行わない地域が多くなった。(Wiki) 時代の流れを感じます。 [fiorina] 虫やとりから米をまもるために、いろいろ素朴なことをしていましたね。 [杜 琴乃] そうですね。便利な世の中だけど、こういう儀式的なものにはひとのあたたかみを感じますよね。 [fiorina] ひもに空き缶をたくさんつけて、雀が稲に集まるとひもを遠くで引いて大きな音を立てて追っ払ってた。雀追い、夏休み中毎日、子どもの仕事でした。それに比べると静かで美しい。 [なかたつ] つい、岩魚の旬っていつだろうって調べて、初夏だそうで、初夏って祭、もしくはまつりごとが多いイメージがあって、祭って、やはりその土地に根差して、代々伝わっていくものだなあ、と思ってました。祭に限らず、儀式や、田の話も同様ですね。文字通り、ローカルルール。 人や風景は変わろうとも、祭や儀式や風習そのものは変わらないこそ、わびしさ、というか、自分が置かれている位置が露わになってくる気がして。 [fiorina] 祭りが子どもの情感を育てますねー匂いも覚えてる。 [杜 琴乃] 「なごしおおはらえ」では、「毎年三度後悔している」ここが漢字で主人公が大人になってしまった、現代の姿があらわれていますね。 [なかたつ] 地元の祭があったとしても、昔はその中に入ってわいわいできたのに、今は遠くから眺めることしかできない。でも、やってることは同じはずなのに。 [帆場蔵人] うちは海辺の田舎なので年末から年明けに豊漁の儀式、氏神さんに捧げる魚鳴と呼ばれるものがあったそうですが、いまは一部しか残ってません。 [るるりら] 灯りが どこまでも続くって、平野部の美だと おもいました。わたしも、灯の祭列みたことあるけど、わたしの地域だと、山間で 光列 見えなくなっちゃう。 (なかたつさん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [杜 琴乃] 「虫送り」では「誰もが気づいていながら/誰も口には出さずに//そんなふうにして/僕も大人になったようで」とあります。 皆さん、それぞれ思い出のおまつりがあるようで...いいなぁ。私は盆踊りくらいです。 [fiorina] 大人になっても準備段階から参加すると、意外にまつりは失われないかも知れないですね。 [帆場蔵人] 毎年、三度。 一度でもなく二度でもなく、 三度。三度がおさまりが良いんだけど、なぜ三度なんだろう。 [杜 琴乃] 私も、どういう節目だろうと思いました。 [鈴木海飛] ふゆ はる あき はこちらから迎えにいくけど 夏はきてくださるから? [杜 琴乃] なるほどー! [鈴木海飛] てきとーでーす。 [まりも] 春と秋のお彼岸と、夏のお盆とか。 [杜 琴乃] そうか...お彼岸とお盆もありますね。(そろそろ40分です!) (まりもさん 退室 ありがとうございました、おやすみなさい!) [杜 琴乃] 次はどちらが来るか…? [fiorina] 一作目がいい方…では二作目をやりたい方 [杜 琴乃] より印象に残っているのは二作目です。 どちらも好きだった…。 [帆場蔵人] 火垂る、かな。二作目。 [fiorina] では、2作目をやります(私もなので [杜 琴乃] おお! [鈴木海飛] はーい。 [帆場蔵人] お願いしまーす。 [fiorina] るるりらさんはいいかな?では、まいります。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-28

仮名吹さん 気づくのが遅れて失礼しました。 当初のものを掲示板に、改稿したものをコメント欄に貼っています(まだ、手直しするかもしれません。)人間に内在する、「慈しまねばいられない」情動と、「破壊し尽くさねばいられない」衝動、どちらも極端に触れると恐ろしいことになるように思いますが・・・双方に触れていけたら、という思いもあります。 (首を選ぶ ※)

2018-09-25

渡辺さん ご回答ありがとうございます。 了解しました。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-25

社町さん、コメントありがとうございます。 作品を読んで、共感するときって、じわ~と、来ますよね。おおっ?と驚くときは、新鮮なドキドキがある。 この表現、このシーン、いいなぁ、と思ったときは、それを他の人に言いたくなるし、どうして、いいなと思ったんだろう、と考え出すと、その理由を知りたくなる。 そうした心の動きを、そのまま、モヤモヤのままにしておいたらもったいない、それを言葉に表すことができたら!モヤモヤがスッキリするし、たくさんの読者とそれがシェアできる。それって、すてきだよね、と、そう思っています。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-25

弓庭夜話第三回 9月19日(水)第一部 一作「[ ]」について [杜 琴乃] こんばんは。約10分後からはじまります!今回、タイムキーパーをつとめます杜琴乃です。今夜は 1 一 「[ ]」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2097 … 2 仲程「しらやまさんのこと 夏」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2109 … 3 5or6(ゴロちゃん。)さんに聞く《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》 「ファラウェイ。」 by.アネモネ. or 火垂る(ほたる) by.夕暮れぴあの です。 宜しくお願いします! (※1、2、3、を三部に分けて、数日おきにコメント欄に貼ります。フォーラムが整備されたら、そちらに移行します。) ★議題 1 一 「[ ]」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2097 …について [fiorina] ログ出します~ただいまから40分ですね。 [ ] 一 作成日時 2018-08-06 コメント日時 2018-09-10 海は戻ってくるんだ。それは戻ってくる。積み木を立てる。野菜をうえる。日が昇る。幸いの声をきく。梯子が宙に浮かぶ。サンゴが魚を食べる音を知っている?うそサンゴは魚をたべはしない。じゃあほこりができる音を聞いたことがある?あるわけない。だってほこりはほおこりだもの。違うよ、ふけがおちてほこりになるんだよ。それはだってふけやない、じゃほこりじゃないよ。じゃほこりはいつできるんだ?おかしいじゃないか。神はどうしてわれらを作ったのか?吹けば飛ぶこの生。 電信技官がその声を聴いたのは唐突であった。それはなにかが水底からたちのぼってくるようなおとであり、二つに割かれた双子のようであり、闇を割く灯台の光のようでもあった。とにかくそれはなにかをつんざいて聞こえる類の音だった。かれはとっさに受話器を耳からはなした。ちょうどその時だった。上官が彼を呼ぶ声がみみにはいったのは。彼は階段を下りていった。受話器だけがのこされた。受話器はなぜ受話器というのだろう。それはこちらが話すことを前提としていない。よびごえをきくことしかわれらにはできない。光はいつからそこにあったのだろう。静かにちりだけがまう。光のなめらかな目が細められる。光はどこからきたのだろうとちりが問うている。 [杜 琴乃] こちら、作品もですが、コメント、選評もとても面白かったです。 [鈴木海飛] 今回の選評では、一番優良にたくさんの人から選ばれていましたね。 [るるりら] 選びましたよ。(⌒∇⌒) [fiorina] そうですね。私はコメントしていないので、少しまとめたものを貼ります。 [fiorina] 歓びのリズム、希望のリズムがありますね。それはどこからきたか。 海は戻ってくる、このことを知っていたし、待っていた。そして海は戻ってきた。すべてが踊りだすような日常が帰ってきた。幸いの声が聞こえている。珊瑚は魚を食べる。その音を自分が食べられるように苦しく聞いていた。でも、実際は珊瑚は食べてなどいなかった。珊瑚はそんなことはしない。歳月が降り積もる、ほこりのおと、ふけ(老け・笑)をくるしんだ。でもそれにだって光が当たる。幸いの声をきく。 電信技官が聞いたその声。二つに割かれた双子のようになつかしい海の声。唐突に現れ、受話器から呼び声のように聞こえている。まるで光りが始まったときのように。光が差してものは初めてそこにあることを知る。ものに乗ることによって光はそこに届いたことを知る。光りとちりは二つに裂かれた双子のように、互いによって存在している。 [杜 琴乃] 私は、行分けされた作品にまず目が行くのですが、こちらは冒頭の「海は戻ってくるんだ。それは戻ってくる。積み木を立てる。野菜をうえる。日が昇る。幸いの声をきく。梯子が宙に浮かぶ。サンゴが魚を食べる音を知っている?」までのリズムが素晴らしいな、と。 「くる」「くる」「てる」「える」「昇る」「きく」「浮かぶ」「知っている?」 一気に読ませるリズム。 「ほこりができる音」も新鮮な言葉で、興味を持ちました。 [まりも] 埃と誇り、双方に読めますね。塵から始まり、塵に戻る、ひと、という生き物。 [杜 琴乃] そうすると、「誇り」は誰のでしょう?ひとという生き物の誇りはどこから...?という問なのかな? [まりも] そうした問いを自問自答しているように読めますね。 前半はうねるように意味が押し寄せては去っていく、波のように。 後半は、それを物語構成を持ち込むことによって、ひとつの神話のように読者に届けてくれる。 [るるりら] さまざまな意味で 動きが感じられますね。杜 琴乃さまのおっしゃる 動詞おわりの「る音韻」とか、塵から始まり、塵に戻る、ひと、という生き物。とか。 [帆場蔵人] 人と言う存在への自問自答?同時に誇りは埃のようなものと両方をさして、吹けば飛ぶこの生に流れて行くのでしょうか。 [るるりら] 誇りと、いえば この詩に漂う社会が気になります。「電信技官」なる存在の、なにやら制服の襟の正しそうな感じが。 [杜 琴乃] やっぱり埃の誇り、ですかね?つまり、ひと としての誇り。 [鈴木海飛] ふぅむ、これを誇りと読むとそんな広がりがあるんだなぁ。 [なかたつ] ほこりについてですが、作品に沿えば、「誇り」かどうかは明言できません。ただ、作中において視点が向けられているのは、その生まれた過程です。 [杜 琴乃] ほこり と ちり で、最初と最後が違うのは、また別の視点ということでしょうか。 [なかたつ] 〈じゃあほこりができる音を聞いたことがある?あるわけない。だってほこりはほおこりだもの。違うよ、ふけがおちてほこりになるんだよ。〉 ほこりができる音は聞いたことがない、つまり、ほこりというのは何かの結果として生まれたものである。 その発想から敷衍/類推によって、「神はどうしてわれらを作ったのか?」という疑問につながっています。 [るるりら] ほこりのおと、ふけ(老け・笑)をくるしんだ。でもそれにだって光が当たる。幸いの声をきく。 って、ことは 明るいものを見ているわけですけど。塵芥(ちりあくた)というと つまらないものの意味ですけど、そうじゃなくて あかるいですよね。 [帆場蔵人] ひかりが始まった。 [なかたつ] ほこり、ちりの違いは、地にあるか、宙に舞っているのかの違いではないでしょうか。 「ふけがおちてほこりになるんだよ」は、地に落ちたふけであり、「静かにちりだけがまう。」と、ほこりが地にあって、ちりは宙にあるものとして、この作品内では位置付けられているように思いました。それが同一であったとしても、置いてある場所の違い、ですかね。 [杜 琴乃] なるほど! [まりも] 声を聴くために、降りていく、この方向性も面白い。 ひとつは遠くから聞こえてくる、受話器を通して届けられる声。もうひとつは、無意識への下降のように、降りていくことで聞こえる声。 [杜 琴乃] 私も顕在意識と潜在意識について...かなと思いました。 [なかたつ] あー、確かに、その縦関係の運動性みたいなのは連関してるかもしれないです。 [杜 琴乃] 二つに裂かれた双子、とか。 [るるりら] 受話器って、なぜ受話器なのかって おもしろいです。 [なかたつ] 「受話器はなぜ受話器というのだろう。それはこちらが話すことを前提としていない。よびごえをきくことしかわれらにはできない。」はピカイチですよね。 [るるりら] 受送話器が ほんとうらしいですけど、受話器って いいますよね [杜 琴乃] 最後の「光のなめらかな目が細められる。」ここからの結びが美しいです。光、神にあたたかく見守られているような、そこでちりが無邪気に問うような、柔らかな風景を浮かべました。 [まりも] 光に照らされることによって、はじめて、存在が明らかになる。宙を舞う埃が、人を生み出す塵になる。 [なかたつ] 光は光そのものを照らすことができず、光が存在すると、人に認識させるために、光がちりを照らすはずなのに、光をさえぎるちりがむしろ光を照らす、という逆説…。やべ、日本語がおかしい。 [fiorina] 逆にものによって初めて光りの存在も明らかになる。 [なかたつ] あ、fiorinaさんのそれです、言いたかったこと…。 [fiorina] 歓喜の歌のような気がします。一条の光が差したときの光とちりの姿。 [るるりら] わたしは単純なので、朝起きたときに、ほこりがむわんと舞い上がって光が斜めに差し込んでるときに、神様ぽいものを感じるんですが、 [帆場蔵人] るるりらさん、解ります。あの光景は何故か神々しい。 ほこり、はやはり人?それともひかりに照らされるすべてのものだろうか。 [まりも] 「だって、ほこりはほおこりだもの」この幼い者たちの会話のような響きに、宮沢賢治の双子を思いました。 [fiorina] 一見たどたどしいですよね、ことば運び。 [るるりら] あー宮沢賢治 ふたご いますね。 [fiorina] 小さい、ありふれたものに向ける目。 電信技官と上官が呼応してますね。 ほこりは自分であり、他者であり、すべての存在? [るるりら] 群衆が この詩の後ろにいると思います。だって、電信技官と上官がなにか 聞いたんですから。この事件のあと 社会はかわるんだと思う。 [fiorina] 作者のユーモアとおしゃれを感じます→電信技官、上官。 [杜 琴乃] ほこりは光の子ども、ひと、と読みました。 るるりらさん、なるほど。電信技官、どうしても、争いごと、陰謀とか思い浮かべます。 [fiorina] 上官は妻とか母親とかだったりして(すみませんw [るるりら] ちかい!争いごと、陰謀とか 母親とか。 [まりも] 上官=権威者=母(笑) 電信技官もケンジっぽい。埃も、たよりないけれど、そこにあるもの、そんなふわふわした存在感。 [杜 琴乃 なるほどー!面白い! [まりも] 案外、二階に居る時に詩を思いついたのかも。 [るるりら] 電信技官もケンジっぽいですね。かれは 透明な電気すきです。 [なかたつ] そもそもこの詩の構造って、後段の初めに「電信技官がその声を聴いたのは唐突であった。」とあり、「その声」が何を指すのか、それがまるまる前段部分だと思うんです。後段については、「その声」を聞いている、つまり、物思いにふけっていて我ここにあらず状態で、それを現実に引き戻したのが「上官が彼を呼ぶ声」であると読みました。 つまり、前段は電信技官にしか聞こえてこなかった声。そこから受話器の発想や「よびごえをきくことしかわれらにはできない。」というフレーズにつながるのでは、と。 [帆場蔵人] 確かに何かが起こる予兆にも見える。 電信技官は何に耳を傾けていたのかな。自分の意識に潜っていた、眠ってて母に呼ばれた? [鈴木海飛] 上官は意識的 技官は無意志的な立ち位置トシテ読んでました。 [fiorina] なんか、再会の歓びを自分の身の周りのものを踊らせて壮大に描いてるように感じます(思い込み強い派 [るるりら] 帆場蔵人さん、なにか起こる予兆感じます。潮流。 [fiorina] 海がたとえだとしたら何でしょう? [るるりら] fiorinaさんが、作者のユーモアとおしゃれを感じます→電信技官、上官って、いってたけど、受話器はきっと、スチームパンクな感じだと想像しちゃいました。 [まりも] 二階から降りていくという現実の動きと、そこから、宇宙の始まりや人のはじまりに夢想が拡がる流れと。 上官と言われると、軍艦のようでもありますね、戦闘態勢にある。 [帆場蔵人] 潜水艦の中を最初、思い浮かべました。 [杜 琴乃] 私は天空の城ラピュタをまず浮かべました。 [鈴木海飛] わたしは海は聴覚の海として見て、実際みた海の底でみたものとみるとそんなに疑問がなかったのですが。 (杜 琴乃 40分経ちました!) (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-25

冒頭三行で、幼子の足取りと可愛らしいお尻、夢中で泥んこ遊びしている傍らに寄り添って座る若い母の姿が見えてきます。 時々、空を見上げるのは、子育てへの不安なのか、それとも自分にはもう取り戻せない子供時代への郷愁なのか。 子どもの世界にすっぽり入り込めてしまったらいいのに。そんな想いが、透明になる、という言葉に現れているようにも思います。 子供にもどりたい、なりたい、なのか、親になる重圧から逃れたい、なのか。 郷愁を喚起されて、きゅうっと胸が切なくなった瞬間を描こうとして、親になるって、何だろう、という問いがさらに重なっているように思いました。 整理していくとすれば、そのあたりから、かもしれません。 みずみずしい作品でした。 (公園の朝)

2018-09-24

1面のひまわり畑・・・に辿り着いたとき、向日葵の陰の暗がりに目を止めていた君(自分が向日葵のように生きられないことに、そうした期待に応えられない、という重圧に苦しんでいる姿)、赤のお誕生ケーキの陰に、1度もお誕生日を祝ってもらったことがなかった(かもしれない君)・・・というような、具体的な陰影があると、より説得力のある文章になったような気がします。 あとは、少し筆が滑ってしまって、言い過ぎているような部分をカットしていくと、より凝縮された作品になるのではないだろうかと、期待を込めて。 (Happy Colors)

2018-09-24

ゆるゆるっとしたムードで書きたかった・・・ゆえに、同じ言葉の繰り返しが多くなっている、のだと思うけれど・・・文字で読むときには、その辺りをもう少し刈り込むこともできるのかな、という気持ちもありますね。 もっとも、ぱたぱた、りんりん、という擬態語が後半の前触れとなっているのは面白い。 〈ぱたぱたと取り出した微風と りんりんに痛みを感じながら〉 アンパンマンのマーチの中に、そういえば勇気りんりん、なんてフレーズがあったな、と思いだし・・・凛々と「みなぎる」のではなく、りんりんと響き、痛みとして帰ってくるもの、のことを思いました。 (夏風)

2018-09-24

あなた、を何度も重ねていく入り方に、想いがこもっているように感じました。 わたしの、あなた(たち)と同じ部分をちぎっていく、その感触が切実。 どこまで行っても、私独自、の部分、私ならではの部分なんて、あるのだろうか・・・あなた(たち)を見渡すと、自分(という幻想)が、その中に埋没して薄れて消えてしまうような気がする。そんな漠然とした不安をうまくとらえていると思いました (禅)

2018-09-24

死が、明るみの中に立って呼んでいる、心地よい歌で誘っている、そちらへ一歩踏み出せば良いのだ、しかしその一歩は明日への一歩と同じくらい重い。自分は夜の中を歩き続けている・・・ そんな思いを感じました。 (暁の詩)

2018-09-24

インナーチャイルド、というような言い方をしますが、自分の中の無垢な自分、本来の心を、赤ん坊で表しているように思いました。 もったいないなと思ったのは、揺れる、赤子、などの言葉を、近い位置で重ねて使っていること。 リフレインのように、あえて重ねて強調する時もありますが、この場合は、普通の文を長さで改行した印象で、重ねる効果にまでは至っていない気がします。 揺らされても起きない。その子を起こさないように気を付ける、それなのに汚い言葉で目覚めてしまう、ということですから、 心にはいつも 赤子がいる 揺りかごの中で眠っている 揺らしても揺らしても 目覚めることはなかったのに ある日 汚い言葉で・・・ というような形にしてみるなど、もう一工夫してみると良いかもしれません。 (絵と赤子)

2018-09-24

冒頭三行、企業のシステム管理や工場の複雑な工機の操作手順に悩まされている語り手が、人間であることの限界に到って生まれた言葉、のように感じました。ロボットのように、感情や抑揚を失った言葉。 そこから、いきなり〈ヒューマンエラーで生まれた破壊神/あらびきこしょうをふりかけて〉この展開、びっくりしました。粗びき胡椒を振りかけて、喰っちまえ!ということか。肉料理、卵料理・・・。 こしょう、には、故障/呼称もかかっているのかな。 〈焦燥を声に漏らす朝に君は〉と前のめりに刻んでいくようなリズムの後、 〈じゅうぶんになまえをあたえられ〉とやわらかく、なんらかの「なまえ」を持つ者として、 ・・・ということは、社会的役割を担わされた者、として、バス停に立つ。 〈朝陽を浴びて悪霊が土に還るのを/踏みしめて破壊神が歩きまわる〉 このあたりはゲームのキャラクターのような具体的、映像的なイメージですが、 〈気分屋が炎上し急速に発達する入道雲〉このあたりは、 燃え上がる、むくむくと爆発的にあふれかえる、という、勢いや運動性が前面に出ていますね。 〈ひとしき飛びまわり〉これは、ひとしきり、かな・・・ 〈破壊神は明滅しながら/コンビナート湾岸線上に降り立った〉 地図上での場所探しのようなイメージや、湾岸戦争の時の、闇の中で飛行機と爆撃が「明滅」していたことなどを思い出したりしましたが・・・そこまで読むのは、難しいかな・・・。でも、続いて張り裂ける 何もかもぐちゃぐちゃにしてぶち壊してやりたい、というような衝動に襲われた一日、 それなのに、焦燥感に追い立てられながら与えられた「呼称」の自分を演じる一日、 そんな日々はもう、「さよなら」だ、とユーモラスにテンポよく歌っているように感じました。 (破壊神)

2018-09-22

ティーンエージャーの息子と娘がいる、ので・・・ 母よ、と呼びかけられると、なんとなく反応してしまいます。 東大、ではなく、あえて「東京大学」とフルネームで呼ぶ。 そのていねいな口調に、反発するような拒否ではなく、 言い聞かせるとか、説き伏せるような思いが重ねられているように思いました。 「美しい生きもの」の、美しい、とはなんだろう。 母、の求める「美しさ」が、外見だけの美しさ、綺麗さ、なのだろうか。 大学で何をやりたいか、という中身ではなく、偏差値やブランドといった 外見にばかり目を奪われてしまう母への、子供からの「説き伏せ」が、 ここにも隠れているように思います。 (母よ)

2018-09-22

〈屈折の先がわからずに ただ身を任せている〉物理的な屈折と、自身の心の屈折。タワーは夢の象徴でもあるだろう。夢を追い続けて、すべてを投げ出したくなる一瞬が訪れたときの気持ちをそのまま掬いとったように思う。 (ambient)

2018-09-13

〈いや何時も顔がむくむ白昼夢明けを3cm毎に毎日刻むように。〉 〈現実的な事を気取ってしか書けない哀れな左脳型透析機にとって、今の季節は視えもしない10℃前後じゃないと納得できないらしい。 例えば生焼けのTVの画面グルメ番組で唐突に殺人が行われれば、死体は透明化するか?〉 インパクトのあるフレーズ。 イメージは右脳主体というけれど・・・詩も音楽も右脳型思考回路から生まれるのかもしれません。 ※実際の右脳/左脳ということではなく(脳梁で繋がれているし)型、という便宜上の表現です (99頁、なくしたのはたぶん)

2018-09-13

魂が飄々とノックする逃避の窓・・・その向こうに広がる蒼天。窓は、内から叩かれるのか、外から叩かれるのか。 青から紫へのグラデーション。その先の色は紫外線、人には見えずとも蝶には見える。魂にもきっと見えるだろう。 (「蒼」)

2018-09-13

〈漏れだすような胡粉の明かりが/泡だつ雲の灰いろを~〉つや消しの細い三日月と、黒々と艶めくカラス・・・日本画の作品を描写するのかと思っていたら、夏から秋へと移り変わる季節の叙景詩でした。なるほど・・・ 〈引き出しの中の貝殻は おもちゃや鉛筆に追いやられて〉夏休みが終わることへの、子供の心が抱く感慨を、いま、鮮やかに呼び出している。そこに朽ちていく夏草や音として存在感を増していく虫の鳴き声が醸し出す感慨(今現在の、夏の終わりへの思い)を重ねていく。 語り手の現在の思いには、それまでの経験や体験の蓄積が加算されていく。その重奏を感じさせる叙景作品。 (夏弔風月)

2018-09-13

分析が的確で、説得力のある評だと思いました。 静止画像的、だけれども、完全な静止というより、スローモーション映像を一部きり出したような、緩やかな動感もある。 そこを感じさせる部分を短い動作ごと切り出して引用するところも、とても良いと思う。 (【選評】イル「ナツ」【ワンポイント・キュレーション】)

2018-09-13

〈僕は正統派な父親でも反面教師な父親でもなくなって、今一度君のアイドルになれたら、それだけでいい。〉 育児ノイローゼになりかかっていたお母さんに、児童館のベテラン職員が、あなたはこの子のアイドルなんだから、と語りかけた。虚ろだったお母さんの目が、ふっと動いて、子供の目を見た。久しぶりにお母さんと目があった子供は、動揺したように目をそらし、それから抱きついていった。お母さんは、泣いていたように思う。 あとで様子を見に行くと、擦りきれた畳の部屋で、お母さんがあぐらをかいて、その中に子供が座って、絵本を読んでいた。子供は同じページを何度も戻して、その都度、くくくくくっと勢いよく笑う。お母さんもくくくくくっと笑っているのが、背中から見えた。 この二人は生きていける。この子が他にアイドルを見つけても。 なぜかそのときのことを思い出した。 (献花)

2018-09-13

〈詩は、今は僕のまさに傍らで寄り添っています。〉この一行から成立する「選評」だと思いました。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年8月分>)

2018-09-13

平凡であるはずの出勤風景が引き伸ばされて、その間に感覚が塗り伸ばされていく。 イスからイスへ、逃れようのない閉塞感、変化のなさと、冒頭のミルクが濁っていくイメージと、透明になり切らない地平線のイメージが重なっていく。 チョコワを瞳と見てしまう時点で、既にこの主人公は他者の視線にさらされ続ける都市生活に悲鳴をあげている。 それでも他者と接しなくてはいけない日常が、会話も成立せず、名前も覚えられない黒人の男を車に同乗させる、という行為に現れているようにも思う。名前も覚えられないのに「頼れる男」と言い切る(そう、自分に言い聞かせて不安を押し潰す)不自然さを、〈おまえはそのあいだジッと目をつぶって、何も心配しなくていい。免許は持ってる。だから心配ないんだ。もう黙れ、うるさい。マニュアルだ。〉と、ここでも自らに言い聞かせて、無理やり打ち消す。 おまえとは、誰だろう。日常のルーティンから逃れたいと願っている、語り手の分身のような存在だろうか。 パルコの時代が終わり、ダイソーの時代になり・・・物は溢れているのに、欲しいものはそこにはない。 パルコのぽえむ・ぱろーるを再現したイベントに行ったとき、詩は社会を変えられる、という希望(期待)が漂う時代だった、と感じたのだった。その期待が消えたから、ダイソーの時代になったのだろうか。自分と社会との関係を、詩を通じて問い続けている人達が、こんなにもいるというのに。 でも、ダイソーをウロウロする感覚、私は好きです。それもまたよし。 (Wheel of F F F FFFF For tune)

2018-09-13

こときり、これは、指切りげんまん、の、地域性の強い言い方なのかな、と思いつつ・・・事切れる、という死の場面も何となく想起しました。 ノスタルジーの漂う、〈車で2時間なのに、毎週末には帰ってくれば/いいのに、元気な顔で帰ってくればいいのに。〉という親子、そして街と故郷との微妙な関係を描いている、作品だと思いながら、ぜんたいにゆるい感じだなあ、と思って読んでいたのですが・・・後半で出て来る〈彼女〉は、実際のところ、何者なのだろう。街から、故郷へ、いつか帰ろう、と思っている、語り手の心が少女の姿を取って現れ出た・・・そんなイメージを抱きました。 キリコが出て来るけれど、キリコの絵は、非現実の街の中で、不思議な少女の後ろ姿が描かれていたりします。その連想もあるのかな、と思いつつ・・・「キリコ祭り」のこと、でしょうか。 (交差点のリリィ)

2018-09-10

蝶・・・はしばしば、魂の象徴だと言われたりもしますよね。蝶が、空中に何かを書いている、それは、天からの手紙かもしれない・・・冒頭に〈ひ〉みたいに、と出て来るので、そこに火のような・・・という意味を読み込ませる、というような、そういう奥行きを用意してもいいかもしれない、と思いました。 (ひみたいに)

2018-09-10

肌にまつわる感覚、質感の変化をとらえて、そこに季節の変わり目を感じ取ろうとする、繊細な意識が素敵だと思いました。〈外界にわたしの馴染む余地〉少し硬い表現ですが、今まで居心地の悪かった、跳ね返されていたような大気に、受け入れられる感覚が戻って来た、ということでしょうか。〈実存〉という観念的で重い(意味の詰まった言葉と言えばいいでしょうか)単語が入って来ると、なんとなくそこだけ、浮いてしまうような印象もありますね。単純に、季節の変わり目を感じた、ということ以上に、人生の秋の到来をも思わせた、ということを伝えたいのかなと、思ったのですが・・・実存を感じさせた、それは、なぜなのか、なにゆえにか、そこを追求してほしいとも思いました。 (秋)

2018-09-10

〈あなたの美しい灰〉〈もう二度と/笑い合うことのないあなたへ〉〈からっぽのぬくもりで/白々しく/生き延びている/陰が/ある〉・・・このフレーズを巡って、ぐるぐると考えています。遺灰、想い人亡きあとの空虚、その喪失にも関わらず、生き延びている(生きのびてしまっている)〈私〉・・・ にしては、切実さや重さが伝わってこない。他に灰、から連想するものというと、煙草の灰。 〈時々日常から落っこちて/手の隙間から/震えて見ている/くせに〉〈近くのあなたを/抱きしめられない〉 うーん・・・どちらも、誤読、のような気がする・・・前半の軽さと、白々しく生き延びる、という重さが、どこで繋がるんだろう、とか・・・。〈心が少し/地面から浮かんで〉このあたりは、うきうきした「感じ」を受けるのだけれど。感覚を、ちょっとおしゃれな言い回し、少し変わった言葉づかいで表現してみよう、とする意識が伝わって来るのだけれど、その背景にあるもの、この詩を書きたい、と思った、その動機が、もっと前面に出て来てほしいと思いました。 (陰)

2018-09-10

近未来SF的な要素を感じる作品でした。 現在の状況(シリア情勢にしても、沖縄の基地負担にしても、なにも変わることがない、というような諦念も含めた、逆説的な怒り)と”がらんどう”の僕、の空虚感。〈子々孫々根絶やしになっても極東の風はいつだって「神がかってる」と、みんなが幻想を抱くだけだ。僕は根無し草だ。〉というフレーズが、特に印象に残りました。 花魁、これは、機械仕掛けのダッチワイフのような、高性能アンドロイドのようなイメージ、でしょうか。〈子孫を浴びては、顔中が真っ白く濡れてゆっくり瞬きする。〉これは、ザーメンを顔面に浴びている、的な状況を、暗喩も含めて描いた情景かなあ、と思いました(間違っていたら、ごめんなさい) 2020年のオリンピックも、現在からその時に至るまでの世界情勢も、俺は知らねーよ、という無関心の蔓延する社会、その空虚感と・・・それまでに世界大戦が起って、全ての都市が放射能防御のドームに覆われている近未来社会(女性は子供を産むことが出来なくなっており(あるいは死に絶えており)、男性は高性能AIで淋しさを紛らわせている、というような物語を背景に感じたのですが・・・妄想を飛ばせすぎている、かもしれません。 全体の構成や、現在の事象と将来的な事象との接続具合、明るい文体で虚無的な世界を描いていく、というバランスの問題、そのあたりが、いまひとつ、うまく掴み取れないような感も残りました。 (2019年の花魁。沖縄にて)

2018-09-09

折句の楽しみ、みたいなものを、もっと皆さんがやっても楽しいだろうな、と思っていたところだったので・・・冒頭から〈表裏を決める2085日目の音が 貴いね〉このあたりとか、名前を折り込んでいるところ、ですね・・・ほかの土地に足を踏み入れる時、その地を統べる神様への挨拶(ということは、畏れと敬意)に代えて、その神様の名前や、関わる物の名前などを折り込む、というもの。 星空が綺麗だなあ(よく打ち込んだなあ)・・・という感想は、評とは言い難い、かもしれないけれど。 貴音さんの了解を得て、この作品を投じているのか、どうか、という点が、ちょっと、気になりました。 貴音さんへのリスペクトが感じられる作品なので、大丈夫だろうとは思いますが・・・。 ( 「Zero gravity dropping」 stereotype2085 featuring 貴音&EMI)

2018-09-09

君の匂いを感じた、というところで、猫が語り手なのかな、と思ったのですが。 〈犬に小便かけられた〉から一気に言いつのる感じ、そして、最後にアンニュイに投げ出しつつ 〈君の匂いなんて思い出したはずもない〉と、パシッと否定するあたり。 平井堅のような声質の人に、歌ってもらいたい詩だなあ、と思いました。 (飼い主のない猫)

2018-09-09

ニンゲンはもともと四つ手四つ足、頭は二つ、という球体の生きものだった・・・という神話?を思い出しました。 あまりに力が強大になってしまったので、神が二つに割いてしまった。以来、その喪失感を埋めようとして、失われた片割れを探し続けている、それが恋愛である、という話。 〈精神接続接触〉・・・心どうし、魂同士が融け合うようなエロス、を夢想するのに、決して満たされることはない。肉体が交わっても、心は寂しくなるばかり・・・そんな、逃れようのない真実を、軽めの鼻歌のような調子で捉えようとしている、そんな印象を受けました。 (早朝、遊楽の雷雨と日の出)

2018-09-09

もぐもぐ、ずるずる、ぱちくり、もぞもぞ・・・そして、バタン。 あえて、なのか、思わず、なのかはわかりませんが、誰もが使う、使い古されたような擬音や擬態語を使うことで現れて来るのは、絵本を読んでいるような、昔話を聞いているような感覚でした。 無言で食事を済ませた後、その相手に「おやすみ」を言う、のは、語り手なのか。 あるいは、ベッドに横たわり、から先は、語り手の話になっていて、扉から出ていくのは、無言で食事をしていた、その人、なのか。 自分の「家」での、家族とのひとコマ、とも読めますし、 ひとりの夜、家が広く感じられるような夜に、自分自身の影が自分を訪ねて来る、そんな生霊体験を思い描くのも面白いのではないか、と思いつつ・・・家、という題名が、どのように働いているのか、ということを考えさせられました。これは、イエ、と読むのか。うちでは、こんな夕食の光景でね・・・という場合の、ウチ、と読むのか。そんなことも含めて。 (家)

2018-09-09

二条千河さん 〈ぬめるので目が覚めた〉という書き出しが印象的、とのこと・・・ありがとうございます。実は、その後、改訂版?を書いたのですね。そこでは、〈血だまり〉を先に出している、のだけれど・・・皆さんへのご返信の後に、その「改訂版」を貼りますので、良かったら読み比べてみてください。 岩垣弥生さん 物語性を追いかけたものも、書いてみたいという思いがあります。短編より短くて、短編と同様の読み終え感があるものを書いてみたい、というような・・・ところで、「首を選ぶ」の方、ひな人形を出したので、そのままの延長でひな人形のカシラに読んでしまう、ようですね。浄瑠璃人形のカシラをイメージしていたので、改訂版では、そこを書き換えています。 帆場蔵人さん 女が男の首を断ち落し、新たに首を突きさして・・・という設定にしていたのですが、五連目の〈彼女は〉という、ひな人形が生きて笑っている、的挿入句があるために、かえってわかりにくくなっている、ようなので、挿入句的な別ストーリーを省いて、改訂版では彼女を消しました。 紺さん そうですね、いびつな人間関係、であると同時に・・・女性的なもの、がベースになっているのに、社会は男性的なもの、役割的なものしか受け入れないではないか、という苛立ちが、当時、あったようにも思います。詩は、マスキュリン、フェミニン、という(実際の性とは関わりなく)区分をするならば、本来、フェミニン(感性主体)なものであろう、という思いもあります。 渡辺八畳さん 物語性を追いかけていくと、どうしても既視感というのか、ありがちストーリーに寄って行ってしまいますね。独自のストーリーを作ろうとすると、突拍子が無さ過ぎて、読者が置いてけぼりになることもある。ひな人形がニッと笑うあたりは・・・戦火で命よりも大事な右腕を失った人形師のところに、その人形師が作った花簪をさした美少女(もちろん、焼けて無くなってしまった雛人形)が、あなたの右腕に成りに来ました、と尋ねて来る童話があって・・・子供のころ、なんともゾッとする魅力に惹かれた、ということがあり・・・その流れで、雛人形を入れてしまった(首を引っこ抜いたのは、実話)という安易さもありました。改訂版では、もう少し周辺の空間まで入れてみたのですが、どうでしょうね。 stereotype2085さん 悪夢設定が最初からわかる方がいいのか、いきなりホラー的な異界が始まって、後から、もしかしたらこれは「悪夢」なのか?とわかる、方がいいのか・・・夢の中で、自分はターバンを巻いたインドの男性で、テロだかゲリラ戦だかを戦っていて、誰かの首を搔き切った感触がなまなましく残っている状態で目覚めた、ということがありました。オカルト好きの人なら、それを前世、というのかもしれませんが、はてさて。 「そしてまた、夜になる」 目覚めると私は血だまりの中にいる 冷えていくぬめりを確かめながら うごめいている気配に耳を澄ます 青い光が差し入り天井にのびていく 黒い影がベッドのまわりをうろついている 分厚い本を抱えた 首の無い男 今日の首を 男に選んでやらねばならない 少年 青年 壮年 夫 父 息子 恋人 赤の他人(これから知ることになるはずの人) 男が首を差し出したとき私は誓ったのだ これから私が作るカシラは すべてあなたのものとなりましょう、と・・・ 壁面に無数のカシラが突き刺してある 昨夜の首を断ち落とした手で 白い面差しをひとつひとつあらためる カシラを選んで瞳を血で描きいれる ひざまづく男の白く丸い脊髄をめがけて 芯棒を深く突き通す 男の目に光が宿り 腕が私をしぼりあげる 私のからだからしたたりおちる塩水 扉の外には炎が燃え盛っている 男はまた今日も部屋を出ていく 真新しい首を振りたてながら (首を選ぶ ※)

2018-09-09

言葉のタイではなく、開襟シャツ、かっちりスーツではなく、ニットジャージ(でも、上質)のカジュアルジャケット、そんなムードの文体ですね。 でも、最初に選者の観点、視点を明確に出している所が、とても読みやすかったし、納得がいく選評になっていると思いました。 (8月分の選考。stereotype2085がタイを取りスーツを捨てた。《選評》)

2018-09-08

〈他者の詩/視線をいかに自らのうちに取り込めるか〉この視点、素晴らしいと思いました。 選評を読んだ感想を、他の人にも聞いてみたいです。 (選評:8月投稿作品)

2018-09-08

煙草を吸ったことがないのだけれど、冒頭、久しぶりに吸い込んだタバコ、を想像しました。 前半、途切れ目がないようでいて、「ミニシアターに行く」「うぉううぉうと」でなんとなく画面が変わる。 ゆるやかに移り変わる。シャープな切り替えではなくて、ふにゃあ、と画面が消えていくと、ふわあ、と別の画面が現れてくるような、映像が融けて別の映像に移っていくような、感じ。 「角質」を落したい、これ、カカトの角質とか(笑) そういう、皮膚系の方なのでしょうけれど、目の角膜の連想もあって、見たもの、というのか・・・見たこと、そのものを脱ぎ落したいという、そんなイメージもわきました。前半、こんなゆるい感じの映画を見た、で、後半、町の光景を自撮りした映画みたいに書き込んでいる、感じを受けました。 最後の一行、俺はシネマを見たかった(のに、観られなかった、観た、という実感がない)なのか、俺はシネマを見たかった(見たくて映画館に行ったけれど、シネマだな、と思ったのは、むしろ街景だった、なのか) 他の人は、どう読むのかな。そんなことが、気になりました。 (角質)

2018-09-08

リズミカルな作品ですね。やっぱりこれは、リーディングで聞く作品かなあ、と思いました。 ワードとワールド、音読だと(特に日本語と交互だと)その境界がどんどん曖昧になるような感覚もあって、面白い。 (call me xxxxxxx)

2018-09-08

無自覚な正義と、自覚的な正義、どちらの方がタチが悪いんでしょうね。 私はいいことをしている、献身している、貢献している、役に立っている・・・という系統の正義は、善意の押し付け、だし。 私は公平である、双方の言い分を聞いて、私は中庸を取ることができる、正しい判断をすることができる、系統の正義は、ナルシズム入ってるし。どちらにしろ、どっちも承認欲求の裏返しでもあり、自分の精神を文字通りの神的なものだと崇めてしまうこと、でもあるのでしょうね。 あ、これは自分のことでもあり、他人のことでもあります。 (そのみひうまたはひむ)

2018-09-08

世界が全滅すればいい、というのは、未知ならぬ恋の渦中にあってベッドインしている男女が、このまま世界が終ってしまえばいい、と願うのと、結構似ているんじゃないか、と思いました。 学校行きたくない学生が、このまま電車が大事故になって、全てが終ってしまえばいい、と願ったり・・・ そういう、なんだろう、困難を乗り越えていくためのエネルギーが、=生きるためのエネルギーにならない場合、の、このまま終わっちゃえばいい、的な感じ。 世界を滅ぼしてやる、破壊してやる、にはなっていない、ところが、〈甘ったれた感性が/透明なままで水浴びをする〉なのかな、と。 わたしを怒らせたら、世界は滅びる、という詩を書いて、すごく気持ちよかったことを思い出しました。 (0. my world.)

2018-09-07

アンダーバーさん?の 「 」、なんだかうまく言えないんだけれど、波のように、語りかけてくるように、入って来る感じ、がする、というような印象を持つ人が多いんだなあ、私は、感じる、前に、読もうとしてしまったから、うまく「感じる」ことが出来なかったのかもしれない、と思いました。 前半は、右に、左に、言葉でキャッチボールするような感じ、お手玉で遊ぶような感じで・・・後半は、急に空間が出て来る。〈電信技官〉が降りていく。声を聴く人、が、奥底へと降りていく。 いわゆる「批評」的な言葉でいえば、無意識への沈降のメタファーとして・・・というような解説的な文言になるのでしょうけれど、そのやり方では、結局なにも言えない、言ったことにならない、そんな気がしていたところでした。 〈このテキストはわたしの感覚に直接語りかけてくるから、たぶん、いのちがある。〉ばしん、と伝わってきました。 (ワンポイントキュレーション いのちがある)

2018-09-07

魔女狩りの記録を読みながら、へ~ほ~は~と、どこまで人間残虐になれるんだ、と感心しつつ、ちょっとワクワクしながら読んでいた時のことを思い出しました。明治大学の地下にある、拷問用具の博物館、面白いです。聖人たちがいかに残虐に殺されたか、と「悲惨さ」とそれゆえの「崇高さ」を語るはずの語りが、嗜虐趣味を満たすような逆転現象を起こしたりするところにも興味があります(ちなみに、高校時代はクトゥルフ神話にはまってました) わたしにも首ちょんぱ系の詩があるので、投稿してみますね。 作品そのものに関していえば、最初の三行は必要なのだろうか、ここは外した方が衝撃度が高まっていいのではないか、と思いました。どちらにしろ、妄想で殺しているのに、それを信じてもらえない悲哀(自分は本当に殺しているという実感が、まだまだ得られない、殺したりない)を畳みかけていくところで、非現実である、ということは明らかにされているわけですし。 (殺させてくれたのに)

2018-09-07

詩を読むの、楽しい~♡ という感覚が伝わって来て、ほっこりしました。〈わたしの至福〉とか〈大好物〉とかってもう、美味しいお菓子を味わっている時のしあわせだよね~、という・・・。 〈この詩は尊いと感じました。 なぜなら、この詩は 波のように 寄せては返してくるのです。 〉 ふわあっと来る、感じって、なかなか言葉にならない、のだけれど・・・そうか、こういう感じ方、そうだったなあ、と。読んだあとに、イメージとかムードとか、もやもやした意味のようなものが、後から来る、感じ、でもありますね。 (八月のるるり選。より一層の素直を大切にしました。ほんまどすて。)

2018-09-07

コメントを拝読して、なるほど~、と思い・・・散文形式というのか、いわゆる、普通の文の形、で書いてみると、気分も見た目も変わって、掌編詩論、的な感じになって、それも面白いかな、と思いました。 なかたつさんも挙げているけれど、 〈空っぽというものを知っている人を/無意識に探す癖、 直した方がいいのは/分かっているのに止められない〉これ、なんか、すごく「来る」なあ、と思いました。空みたいな人、ほわあ、と受け容れてくれる、溶け込ませてくれる、感じの人、みたいな感じ、かなあ・・・。 〈でも私が選んだのは空虚感を全く/解しないあなただった/正しい選択だった 〉 ここも面白い。中身がぎっちり詰まっている人、ということ、かなあと思ったのだけれど。ぽっかり大きな広がりを持っていて、なおかつ、その広がりのことを意識していない、人かもしれない。少なくとも、ぶれない人、頼れる人、寄りかかれる人、のようなイメージ。 尊敬している人で、岩の周りに真綿を巻いたような感じの人がいます。あたりはふわっとしていて、どんな形にもなりそうなのに、芯のガツンと固い部分は動かない。動じない。素敵だなあ、と思ってみています(なんの話だか) (自明と理外)

2018-09-07

みたな→みたいな、です(笑) (貴音さんの選評、8月篇)

2018-09-07

熱さがバンバン伝わって来るような選評で、イキがいいというのか、これを言いたいんだよ~、届け~!!みたいな感じがすごく伝わってきました。私は、どうしても「わたくしは、こう読みました」的な、報告みたいな感じになっちゃう、というのか・・・これが、好きだ~!みたいな感覚を、いったんわきにおいて考えて・・・みたいな感じになってしまうことが多くて、今更そこをどうにかする、というのも、なかなかうまく行かず、というところで、グルグルしているんですが・・・どう読んだら(接したら)いいんだろう、という作品を、こう読んだらどう?と言ってもらったような感じもありました(みたな、とか、感じ、とかばっかり言ってますが!)サンクスです。 (貴音さんの選評、8月篇)

2018-09-07

ゴロちゃんさん ありがとうございます。 3000文字世界、と言われると、三千世界、みたいですね!(と、いま、気づいた) (【選評】8月投稿作品)

2018-09-07

 (【選評】の一部を、こちらに貼ります)  尾田さんの「向日葵」は、〈ところで〉という、話題の転換から始まる。話者(詩の語り手)がいる空間で、その前から続いていた〈俺〉と〈お前〉との会話に一気に読者を引き込んでしまう、実にさりげない「仕掛け」である。さりげないので、読者は油断する。油断したところで、読者は〈夜を安全な場所にやり〉という不思議なフレーズに出会う。〈夜〉は固有名詞なのか、あるいは不安や恐れといった形ないものの暗喩なのか。〈戦争を妊娠しながらベットにいる〉さらに読者は驚く。戦争を孕む。それは、時代、なのか、国家、なのか。一人の女性の胎が、歴史、地球といった時空に繋がる大きさに開かれるのだが、脳内にはベッドに居る一人の妊婦の姿が像を結ぼうとしている。そのギャップに、読者は驚くのだ。脳は、ギャップを解消するために論理で「理解」しようとする。戦争、は、戦い、争い、不穏、といった出来事の暗示なのだろうか。これから、この二人に起ること(たとえば、別れ、争い)のメタファーとしての戦争と見れば、個々の関係に絞り込んでいくことになるし、俺を人民、お前を国土や時代の暗喩と見れば、個人対国家というような、大きな枠組みがそこに出現することになる。  語り手は、読者の様々な推論などお構いなしに、相変わらずさりげない調子で〈俺はといえば〉と話題を転換する。読者は黙ってついていくしかない。〈日増しに膨らんでゆく/ノスタルジアに〉ここでもまた、像を結び難い、曖昧な、しかし誰もが知っているなにか、が現れる。夜、戦争、ノスタルジア。概念として知っており、雰囲気やムードも判っているのに、明確な形で捉えられず、輪郭を持ったものとして形容できない言葉。続いて記された〈帆をたてて〉によって、自ら帆を張るヨットのようなイメージが浮かぶ。ノスタルジアの海へと船出していく、孤独な小舟。〈帆をたてて/太平洋を横切っていく〉この流れは実に自然だ。〈俺〉のメタファーとしての、大洋を横切っていく孤独な小舟・・・を連想したところで、〈太平洋を横切っていく疲れた太陽に唾を吐く〉。突然、太陽(理性、正義、肯定、輝かしい世界etc.)に唾を吐く反逆児の姿が現れる。A.ランボーが抗ったような、あらゆるものに対する反逆。太陽のイメージによって、題名の向日葵が通奏低音のように響いていたことまで、読者は知らされることになる。  その後、語り手は〈明け方の街〉という具体的な場を提示するのだが、そこに溢れるのは肉体ではなく〈迷走した論理〉である。論理が彷徨う場所は語り手の脳内であり、いったん外部のものとしてイメージされた〈明け方の街〉が、語り手の心身の内にある世界のメタファーとして二重写しになって来る。そこを〈漂流する傷ついた人間の魂〉は(語り手の魂も含め、傷ついた者たち一般)を、〈つつきまわる鴉の群れ〉は(魂を蝕む不安や死への恐れ)と読んでいくことになるだろう。〈澄み切った人間の感性を差し出す〉は、前の行からの繋がりで読むと、「鴉たち」に感性の清らかな部分を生贄のように捧げる、というフレーズとなり、都市生活に疲弊していく人間精神があぶりだされる。〈コンクリートは願望の歪みを記憶化し〉ここでも願望、記憶化という、夜やノスタルジアと同様の、明確な像を結ばない抽象性の高いイメージが登場する。コンクリートはビル街や無機的な街並みの換喩、冷たい都市の関係性と、そこで受けた痛みの経験が投影されたフレーズと読むことが出来るだろう。疲弊していく漂流する魂を酒で紛らわす、刹那的な生き方が暗示されたところで、語り手は2連に移る。  2連は〈だが/俺は平凡な日常が存在するこの場所を嫌悪した〉と始まる。この場所、とは、コンクリートの街並みのことだろうか。そう、読者が問う間もなく、広大な北海道の耕地のような光景が持ち込まれ、更に〈意識と窓は似ている〉と思弁的な行に飛躍する。〈神経とは統制のきかない自我なのだ〉過敏すぎて都市生活では傷を負ってしまう、そんな自我を、語り手は広大な原野の中に解放しようというのか。トウモロコシをこぼしていくトラクターの親父の居る景色とは、現実の景なのか、心の内に描き出された幻想の原野なのか。ここは、その後のフレーズ、〈人間から零れだした精神を海と呼び〉の伏線ともなっている。心の窓とも呼ばれる目。目がとらえた視覚世界、それは語り手の認知世界ということでもあるのだが、そこで展開しているのは、光が〈人間の進化の深さと広さ〉を照らし出す景であり(一連で、語り手は太陽=光、に、唾を吐きかけていた)、その結果として見ることになるであろう廃墟を〈見つめる〉闇の到来への思惟だ。人間の進化、あるいは進歩を、むしろ廃墟をもたらすものとして、語り手は警鐘を鳴らしているのである。  〈俺たちの追憶〉、ここは一連の、ノスタルジアに呼応する、と見ることもできるだろうが・・・ここから一気に、詩はクライマックスを迎える。しかし、〈人間から零れだした精神を海と呼び/太陽と呼び/文字と呼び/国家と呼び〉この畳みかけていく語法がもたらす切迫感と、太陽、文字(文学、思想、思考その他、文字によって記されるものすべて)、国家(実際の国家、理念としての国家、たとえば神の国、というような言い回しも含め)という大きく、曖昧な言葉の連続がもたらすドラマティックな感慨は、具体的な実感がもたらす身体的な感慨ではなく、言葉そのもの、観念それ自体の大きさが、人間精神を圧倒する迫力からもたらされるものである。  作品は、観念の羅列に陥ることなく、〈人間の肉塊を蒼穹に解き放つ〉という、パラシュートで降下していくような身体的開放感を呼びこむ。さらに、〈木蓮の花が空に突き刺さり〉という誇張表現で春先の空を背景に置いた上で、脚韻を踏むように〈一億枚の窓ガラスをつき破る〉という鮮烈なイメージを展開する(前段に出て来た〈意識と窓は似ている〉というフレーズが、ここにも響いている)。そこから太陽、あるいは光を暗示する向日葵、それも〈俺の庭の向日葵〉はまだ咲かない、とバシッと決める終行は、俗な言い方で恐縮だが、実にカッコイイ。けれども・・・季節的な懸隔、意味内容、観念世界の懸隔、共にあまりにも大きすぎはしないだろうか。壮大なものを、凝縮して詰め込むことによって、本来、大きな広がりを持っていた意味世界が、観念語の中に折りたたまれ、仕舞われた状態に留まってしまうことになりはしないか。  一連目は、イメージが言葉に先行しているように思われるのだが(読者は、その現れては消える様相を味わいつつ追っていく)、二連目は言葉が先に立って詩を無理に率いていこうとしている、言葉に寄りかかり過ぎている、そんな印象があった。  ベットか、ベッドか、という点について、まったく関係ないかもしれないが・・・私の父母は、ベッドを「ベット」、ピッツァ(ピザ)を「ピザパイ」と呼ぶ。同じ世代の義父母も、「ベット」と言うので、そこに懐かしさのようなものも感じた。余談だが、記しておきたい。 (向日葵)

2018-09-07

すみません、バタバタしていて、いま、書き込みを拝見。 なかなかタイミングがあわず・・・ 前回の合評の様子(コメント欄に再録してくださったもの)とても面白かったです。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-06

針金でヒトガタを作る、彫像を作る、その「ココロ」や、いかに?という問への、 これはひとつの結論、ということなのかなと思いました。 前半はターミネーターのようで、不気味さがありますが・・・ 後半は、芽吹かない、無機質の肉体を豊かな花咲く大地に変えたい、と望む、「つくられたもの」のココロが動いていく、と言えばいいのでしょうか。 人もまた、何者か、によって「つくられた」ものであり、人生において何事かを成す、ことを、花を咲かせる、実をつける、と比喩で表したりもする、わけですが・・・、さて。 『チロヌップのきつね』という絵本がありました。最後には、力尽きて雪の中に斃れる狐の親子。春になって、その狐たちを案じる老夫婦が再びその地を訪れた時、そこには、親子の形にレンゲが咲いていた、というシーンで終ります。花を供える、手向ける、という「祈り」の行為が、その人の痕跡をとどめる、記憶に残す、美しい者へと変容させる、という行為に変貌する。そうした願いが、自らの「かたち」に花が咲くこと、へと結びつくのでしょう。羽田さんの作品の中で、主人公(針金男?)が願うのは、自らの肉体の「かたち」や「記憶」を残す、ということよりも、下水、汚水の流れる場所を美しいものへと変えたい、という願いであるように思います。 (フィラデルフィアの夜に Ⅶ)

2018-09-05

〈対人援助演習で! わたしは、うなずいて向き合うのですが、 今、なんて言ったらいいのか、どのくらい黙ったらいいのか、どうまばたきしたらいいのか、 そんな想いが身体に滲み出てるのか 滲み出ていないのか〉 この一節と、詩(を成り立たせるなにか)と向き合った時の感覚が、とても似ている、そのことと、作品の名付けとの関係について考えました。 持ち運ぶ、持ち寄る、という言葉はあるけれど、持ち起こす、持ち寄せる、と記す時の奇妙な違和感。文法的にずらしていく、という技巧的な部分、よりも・・・運ぶ、寄る、という語り手の能動性を促す言葉と、起こす、寄せる、という、そっと対象に手を添えるような、一歩後ろに引いたニュアンスの言葉、と・・・。 〈ニッポリノ繊維街〉日暮里の繊維街、ではなく、ニッポリノとひとつながりで表記されると、ニュートリノのような、一つの単語のイメージに寄っていきますね。ニッポリ人、と記すと、にっこり、という音に似ていると同時に、どこか、そうした名前の国の人、というイメージもわいてくる。 〈今夜使うための麻の紐〉さりげなくコワイというのか、不気味な表現。誰かを、何かを縛る、あるいは・・・首吊りの紐。(硬直した身体、からの連想かもしれません) 運ぶのは骨折り仕事、その仕事を率先して引き受けている、ように見えて、実のところ、〈そうするしかなかった〉と朴訥に語る、〈なんでも屋の社長〉。その社長に、卒論か修論か・・・あるいは企業研修論文か何かの為に、インタビューをしている、そんな設定の、語り手と社長との関係。何のために、と問えば、理屈を押していけば「社長の仕事を、楽にするために、椅子に持ち運び用の紐をかける、その為の手ごろな紐を探している」ということになるのでしょうけれども・・・。 〈そうするしかなかった〉と語る社長を前にして、何を言うべきか、黙り込んでしまう他はない語り手、その語り手が、その時の思いを言葉にする、ということが、そもそも、詩を書く、という事であるのかもしれません。 (詩でしか言えない)

2018-09-05

舞台上で、複数の俳優が入れ替わり立ち代わり、一人、の人を演じながら(その立ち位置に立ちながら)次々に台詞をかぶせていく・・・ような感覚で読み始めたのですが、そこかしこに、今、現在の断片というのか、ネット掲示板、ツイッター、市販されている詩集、その断片が織り込まれていく、その臨場感のようなものについて、考えました。永続的な作品を目指したというよりも、今、の感覚を置き並べていくような・・・。 固有名はその背後に、固有名にまつわる作品や人物イメージを、作品の内容の暗示や引用は、それ以外の部分が醸し出すイメージを、借景のように背負っている。その厚みを描きたいというよりは、むしろ撹乱していくような言葉の乱れ撃ち、といった印象ですが・・・ 通過していく言葉、消費されていく言葉、その中で残っていくもの・・・は、流れ去ったという「感覚」なのではないか、というようなことについて、などなど・・・。 (タイトルはボブ・ディランですが、もう掃除機とか百均はダイソーよりキャンドゥとかでいいし、どうでもいいし、かんそうだし)

2018-09-05

〈百物語がしたくても~お化けを目の前に呼べないでいる〉この連が面白かったです。 言葉にも勢いがあって、なめらかに一気に言い切るような、ここで気持ちが盛り上がって、一旦おさまるような感じで、脳内再生してみました。 その後の連を、もう少し刈り込むことができるような気もしますが・・・暗闇が消えてしまった時間的な経過と共に、心の中で想像を膨らませる余地が枯れてしまったような感覚、そこに着目したことが、とても大切だと思いました。 (怪郷)

2018-09-05

〈曖昧になった境界線が、欠けゆく夕陽のように小さく震えはじめ、僕は少しづつフローリングの下へ沈んでいった。〉 〈それまでしっかりと膨らんでいた境界線も、どこか曖昧になっちゃって、僕たちは欠けゆく夕陽のようにベッドの下へ沈んでいく‪。‬〉 〈僕はたしかきみの、規則的に強弱をつけてチップスを噛む音が、いつだって気に入らなかった。そう、かな。僕はきみの、喧嘩するとすぐに黙りこくって待ちに入るスタイルが気に入らなかった。僕は、きみのページを捲ってはすぐに戻る読み方が、僕は、カーペットの起毛なんかと簡単に一緒になってしまうきみの、細い髪の毛をよく気にしていた、僕はミキの、違う。誰だ。でもきっとポニーテールだ。じゃなくて僕は、きみとエッチがしたい、違う。違う? じゃあ、きみじゃなくてもいい、違う。いや、違わない。じゃあ、僕は、僕はきみの、〉 〈細い髪の毛を、「愛してるよ」とひと撫でし、コンビニへ向かう、きみはきっと、僕に向かって何か言っている。でももう知ったことじゃないんだ。僕は聞こえているふりをして手を振る。きみも応えて手を振っている、と思う。それはとても優しい拍数だ。〉 〈二人で息を切らし、どこだか遠くの夕陽が見えるところへ行きたかった。そうして残されたきみは、この部屋からまたべつのどこかへ行くまでのわずかな時間を、どうして過ごすんだろうか、とか、そんなことを思いはせるより先に、〉 妄想全開、疾風怒濤の饒舌体、というムードですが・・・今、抜き出した、いわゆる「詩的」な部分を、あえて生活感のある地の文の中に埋め込む、埋没させる感じが、そもそも、境界線を曖昧にする、行為である、ような気がしました。日常の(それも脳内、体内の)妄想の中にある詩、その境界線を限りなく曖昧にしていく、行為。 最後の一連、急に「リアル」に戻って来たような感覚がありますが・・・〈近所のコンビニに新しく入った女の子〉を、〈ぜんぜん知らない若い兄ちゃん〉が実は、店の裏で殺してしまっていた、的な展開にも接続しそうだな、とも思いました。 (もうなにもかも知らないし何も知らなかった)

2018-09-04

内容の重さ、に比して、言葉が軽さを保とうとしている、そこのギャップをどう読むか、ということなのかな、と思いました。 「シャボン玉」の歌(歌詞)は、亡くなった愛児への思いを美しいイメージに昇華して歌ったもの、だとか。 本作の「パチン」にも、このシャボン玉のようなイメージを持ちました。同時に、スイッチをパチン、と切る、というイメージも重なり、ネット社会から自らを消す、そのパチン、であるようにも思いました。 〈今は自分殺しが流行で〉〈今は自己疎外が流行で〉歌を口ずさむような軽さでリフレインされるこのフレーズ、本当はそんなことをしたくない、それなのに、自らせざるを得ない所に追い込まれている〈自分〉を自ら揶揄するような、自分を突き放すことで(一種の道化的な存在と見ることで)がんじがらめの現実から逃れる自由を得る、という心の働き、であるように思いつつ・・・〈生きるのは難しい〉と、わりあいに一般的な言葉で、さらりと言い退けてしまうようなところが・・・その先、を知りたい、あるいは、その奥、へと踏み込んでほしい、という読者の思いと相反する部分なのかな、とも思います。このあたりが、今後の課題となってくる部分ではないでしょうか。 (弾け音(ね))

2018-09-04

物憂さ、その「気分」を軽やかな口調でとらえているところに魅力を感じました。 ぬるくなったアイスコーヒー、手を付けられずに残されたグラス。 喫茶店で別れ話をした恋人が、黙って立ち去った後、〈ガラスの自動ドアがカンと鳴って閉じる〉のを聴きながら、必死に息を吸って、吐いて、その時をやり過ごそうとする語り手・・・を連想しつつ・・・ そこまで「物語」を読むのは、かなり恣意的な勝手な解釈だろうなとも思ったのですが(そこまでの、切実な感じ、は迫ってこないですし)そんな「物語」を読み込んでみたくなるような、余白が生きた作品だと思いました。 (指でなぞった憂鬱)

2018-09-04

遺骸と「意外」を、かけている、のでしょうか。 〈無理やり頼んだギムレットと身に覚えのないノスタルジーに急かされて買ったニッキ棒〉 なんとなく、大人っぽい、ような、カッコイイ、ようなカクテルと、例えば昭和を知らない平成生まれが、昭和にノスタルジーを感じるような、奇妙な感覚を呼び覚ますニッキ棒。 この二行にこそ、詩情が潜んでいるように思うのですが、いかがでしょうか。 浪費する為に、というのは、意識が発する言葉。その意識に先駆けて、思わずギムレットを頼んでしまった感覚、ニッキ棒を「なつかしい」と錯覚する感性、がある。その感覚を捉えるところに、詩の源泉があるように思うのです。 (遺骸)

2018-09-04

かるべまさひろさん 時空の水場・・・のようなイメージがあって、うまく言い表すことが出来ずにいるのですが、海をイメージしてくださった、とのこと、ありがとうございました。 鈴木 海飛さん 「  」の中に収めた言葉は、後から足したものでした。三名の中まで小さな同人誌をやっているのですが、その仲間たちと”読み合わせ”を行った際、冒頭に〈思いがけぬ言葉〉とあるのに、いつのまにかそれが消えてしまうのはどうか、という意見が出て、最後に心の中に響いている声を挿入したのでした。 題名も、当初は「息をする」だったのですが、息継ぎの方がよいだろう、ということで、そちらに変えました。合評の効果ですね。 父の声、と読み取って頂いても、内在化された父の声、あるいは、様々な人や物を通じて、声ではなく伝わって来る声、として読んで頂いても、その他の読み取り方をして頂いても・・・どうぞ、ご自由に楽しんで下さい。 (息を継ぐ ※)

2018-09-04

〈きみは酒飲みを思い切り飲み干した〉このあたりから、展開していきますね・・・ 〈きみ〉に〈ぼく〉が”飲まれる”と読んでみたい。 〈きみは懐かしかったを思い切り飲み干した〉このフレーズも多層的に読み取れて、とても面白い。 出逢った時に、相手に不思議な懐かしさを覚えたりすることがありますが、 その心理がユニークな動作イメージで現れているところが新鮮でした。 五官の内、口、目、耳は記されるけれども、嗅覚と触覚については触れられていない。 〈僕〉以降は器具?も用いながらの房事の描写とも、身体的な交流を暗示しつつ、人と人との内面的な交流を描いた、とも読めるけれども・・・口語をそのまま取り込んだような後半、少し冗漫に感じてしまう部分もありました。 〈良かったのがよくなかったので〉〈よかったのがよくないので〉こうした、論理的であるようでいてナンセンスな揺り戻しや、 ≒で繋いでいくようでいてずらしていくような並列の仕方も面白かったです。 (ハロー!)

2018-08-31

〈やんわりと断って〉印象的なフレーズ。 青信号、になるのを、待つのか。いらいらとクラクションを鳴らす車たちを、ボタン一つで遮って、堂々と「渡る権利」を、行使するのか・・・ 人間関係、世渡りのメタファーとして作品を読みたい。アザミの種のように、軽やかに野山を渡って行けるなら、どんなにいいか、と思いつつ、それはかなわない願いだから・・・人慣れした野良猫のように、気ままに生きていく、ということも、出来ない相談、だから・・・。 無理やり流れを止めて、渡る、人が多いけれども、それを語り手は、したくない。〈難しいことではない〉、と言いつつ、しない。苛立ちながら迂回路を探す、ということもしない。青信号になるのを、待つ心。 〈クラクション鳴らすくらいなら/雲を震わせ雨でも降らせてみせて〉 怒りや苛立ちを叫びたてる側、に立つのか。雨を降らせる側、に立つのか。 〈ダサいレインコートを真剣に選んで それでもどうしたって染み込んで 張り付いてくる無情さを知らないひとは 迂回路で矢印が出るまでおりこうにしてなさい〉 降り注ぐ雨、それは、共に泣く、ということ、共に涙を流す、ということであるのかもしれない。 共に泣いたからといって、どうにもならないこと、はある。そのどうにもならない(何もしてあげられない、何もできない) 無情さを知らない人が、道を押し渡っていいのか・・・。 〈わたし〉は、待つ心を持っている。〈青信号〉になるまで、待つ心。はりついてくる雨の冷たさを知る人、であるから、なおさら、青空が待ち遠しい。曇り空の赤信号のイメージが、青空を飛ぶ綿毛のイメージに変容していくところ、猫のイメージがちらほらと現れては消えるところなど、映像的な余韻も残る作品でした。 (ROUTE)

2018-08-31

前半は幻想の世界と思って読んでいたのですが、中盤からリアル世界に移り変わっていく感覚がありました。 〈一度断ると 左手に強引に握らされた だから世界の三分の二が消滅した〉助けたはずの手負いの天使、彼?彼女?が元気になって・・・天使に〈強引に〉握らされた魔剣を手にした、〈だから~消滅した〉この流れは、なかなかにコワイ。ファンタジーアニメのような夢想、と表面的に読んでもよいけれど、心に傷を負った人と巡り合い、その人の虜になって、こんどは自分の世界、が侵食されていく・・・そんな関係性の変化が描かれている、と読みたくなりました。 (シワン月の六日)

2018-08-31

たった ふた文字 この、ひらがなと漢字の割合が、絶妙ですね。 作品として見て行くなら、最後の一行を隠して、余韻(読者が想像を巡らせる余地)を残した方が、より読者を引き込んでいく作品になるように思いました。 (ゆうき)

2018-08-31

以前、こんな文言から始まる詩を書いたことがありました。 多面体のクリスタル・・・その中央に「わたし」は居て、その「わたし」をぼんやりと外側から見ている。外側にいる「私」は外にいるはずなのに、内側にいる「わたし」が、限定された一面から外を見る、その視界をしか、得ることができない。内側にいるはずの「わたし」が、カットされた一面、一面の存在に気付くのは、外側から誰かに(何かに)よって、光を当てられ、その面を透過した時のみだ。その周囲は闇ともつかない、灰色の流体のような、濃度の濃い大気のような、そんなもので包まれている・・・ やたら説明口調の割には、なにやらイメージがつかみがたくて、そのまま放置している、のですが・・・社町さんの作品を読んで、なるほど、ミラーハウス!と手を打ちました。 自分を意識したり認識したりするのは、他者と接した時、である、わけですが・・・その他者の中の、自分と同質の部分に反応するのか、異質な部分に反応するのか・・・自分で気に入っている部分を相手方に見出すと幸せは二倍、ということになるのかもしれないけれど、自分で嫌だ、と思っているところを相手方に見つけてしまった時には、二倍どころか、四倍になって帰って来る。お前の姿だ、これは、と突きつけられている、ような・・・。 人と人との間には、透明な被膜のようなものがあって、マジックミラーのように、急に素通しになったり、鏡になってはねかえしたりしながら、私達の「関係」を生み出しているのかもしれない・・・そんなことを思ったら、これもまた遊園地にあるような遊具、大きな透明なバブルがいくつも組み合わせられたジャングルジムのようなものを思い出しました。私達ひとりひとりが、透明なバブルの中に入っていて、そのバブル同士がくっついたり離れたりしながら、それぞれの姿を映し合っているような・・・そんな世界も想像しました。 題名の「瞑想」、とても分かりやすくて良いのですが、作品の主題を最初に出してしまっているので、もったいないような気もしました。 もっと、あれ、なんだろう?という気持ちになる、謎めいた題名の方が(・・・と言い出すと、いわゆるゲンダイシ病、それがいかんのだ、という声も、聞こえて来る、ような気もしますが・・・) (瞑想)

2018-08-31

〈軸のないカラダになってしまった〉この繰り返しがパツッと入って来るところと、〈なんやようわからん植物を/ブドウと思って口に入れたときの/人生の方がよかった〉ここからの、地声が聞こえて来るあたりから、動き出すところが、良かったです。 〈ズルしよるやろ みんな、ズルしよるやろう こんな世界で生きてナァ 何になるんや そこのアンタ〉 だから、ぶっ殺してやりたい、ではなく、〈轢き殺されたい〉・・・あまりにも純粋すぎて、この世に留まっていられない天使が、引き絞るような声でつぶやいたワンフレーズ、みたいだなあ、と思いました。 〈苛々する 苛々して何かしでかすくらいなら そのまま竜巻にぶち切られて、その終わりと共に消えたい〉 こうしたフレーズにも、まっすぐさというのか、誠実さというのか、そういう・・・人間性のようなものが、剥き出しで出ているような感じがありました。なまみの心をさらして歩いている、というのは、なかなか、しんどいだろうな、と思いつつ・・・。 ・・・俺はもう、情けないよ、なんでなんだよ、ご立派な大人が、れっきとした社会人が、なんなんだよ、恥しくないのかよ・・・ と、泣きたくなるような気持ちになる、そんなとき、が・・・ニュースを見ていても、新聞を読んでいても、あまりにも多すぎる。 仕事をしていると、どうしてもそういう人に遭遇せざるを得ない、逃れられない、ということもあるのだろうなあ、と・・・。 (Tender)

2018-08-31

〈くうきもからだをとおりぬけていく〉この一行があって、良かったです。 逆に言えば、その他の行は全体に甘すぎる、印象もあり・・・その、思いついたままを、ひねらずに歌ってみる感じ、が、ひねりまくった「現代詩」へのアンチテーゼといいう面も持つ、のかな、と思いつつ・・・ 「さくらももこ先生が描く一枚絵や映画「わたしの好きな歌」などからインスピレーションを受けて書いた詩」 このコメントを、作品の末に注記として入れて、それもまた作品の一部にする、というやり方を持ち込むか、どうか、ですね。 題名を「ぱらいそ」にして成功だったと思います。 〈にぎやかな港町を〉→〈ひとでにぎわうみなとまちが〉にしたところも。語り手が町を感じる、という構図から、語り手の意識が後退して、町が生き物的な質感で立ち上がって来る。また、人で賑わう、とも読めるけれども、一瞬、ひとりで賑わう、と空目したりもして面白かったです(というのは、個人的な感想ですが) (ぱらいそ)

2018-08-31

ガントレット、がわからなくて調べました。甲冑の籠手、のことだとか。あるいは、ゲーム、あるいは映画・・・ わたくし、という古風な言い回しが印象に残りますが、全体にモチーフが拡散しているようにも思いました。 闇夜の体感から始まり、自らの〈残酷さ〉と自らの孤独に想いを馳せる2連・・・があって、3連で急に夕景に「戻る」のですが、その次に明け方が来る。夕景の部分が過去の回想部分の挿入だと見れば、ここを一字下げなどにしてみると、もう少し作品の縦軸が見えて来るようにも思いました。 (浮遊するガントレット)

2018-08-30

一連が、素敵でした。 砂時計のイメージと、花束のイメージが入って来るところ、 きらめいて飛び散るガラスやセロファンの破片のようなイメージが、軽めのイラストのようなイメージに掻き消されてしまうような感もありました。 最終行、余韻が残ります。 (ぜつぼうのあじ)

2018-08-30

〈いきるうちにいろんな色に僕らは染まって〉 い の音が連なって切迫していく感じ、うったえて来るものがありました。〈僕らから解散していった〉体感をイメージに変換することに成功していると思います。ここも、から、の「か」が「かいさん」の「か」を引き出しているのか・・・。 色、のイメージと〈二本の線〉のイメージが出て来ますね。君の軌跡と、僕の軌跡、それが一瞬の幻のように、刷毛ですうっと線を引いたように「見えた」瞬間があった、のではないか、と思うのですが、どうでしょう。あるいは、君、の中に押し込められていた無数の色彩が飛び出し、飛び散り、様々な絵を描くのを、僕が感じ取っていた、としたら・・・そこを、知りたいように思いました。 後半、特に最後の止め方、日常的なつぶやきに戻ってしまっている感覚があり、もったいないなあ、と感じました。 (交わり)

2018-08-30

マザーグース的な、ナンセンスの面白さはあるのですが・・・ 吾輩は猫である、名前はまだない、という、あまりにも著名なフレーズがあるので、そちらにのまれてしまいますね・・・ パロディーにまで話を膨らませるには、あるいは、名作の借用ををむしろ生かすにはどうしたらいいか・・・ 全体的に説明が多いような気もするので、その説明部分でリズムを作るように工夫してみるとか、拾ってきた&自分もお姉ちゃんもヒロシ、ヒロコである、という共通項(自分達も拾われてきた、適当に名前をつけられてしまった、等々)をいかしてみるなど、色々試してみると良いかもしれないと思いました。 (ぼくの飼っている猫)

2018-08-27

ゼンメツさん、もなかさん ありがとうございます (約束)

2018-08-27

脳内の「書くこと」に関するお師匠さん(ユング風に言えば老賢者)と自意識を戯画化したように見えました。 外部で、あるいは講師から、学べることなど、何もない。自身で〈失明するほど映画をみて、腱鞘炎になるほど書き続ける。〉他にはない、とわかって、すぐに実行に移す者と、未だに「誰かに、何かを教えてもらえるんじゃなかろうか」という甘い?幻想に縛られて、そこに居続ける男。自身の脳内葛藤というのか、叱咤激励を〈殴られる〉という映像に置き換えているようにも見えるのですが、中盤の教師の語りというのか、説教、の部分、読むというより、見る方向、マッスとして感じさせる方向の方がよかったのではないか、と思いました。 この配列だと、見るというより、やはり読んでしまうので、しつこさを感じるように思いました。 (コント:シナリオ文学教室)

2018-08-27

さらに追伸。 ゼンメツさんの読み方を読んで、もなかさんからのレスも読んで、掛詞的な技巧や、言葉遊び的な部分を完全に見落として(技巧とは気づかずに)というか、素通りして読んでいたなあ、と、改めて気づかされました。見えない綾のような部分が絡まり合って、そこから浮上してくる一つのムード、というものが、きっとあるのでしょうね。ゼンメツさんは、そのムードがどこから来るのか、それを知りたくて読み込もうとしておられるように思いました。後からのコメントで、ごめんなさい。(もなかさん、何度もすみません) (約束)

2018-08-27

追伸 ゼンメツさんへ すぐ後にコメントしたので、ゼンメツさんの読み方を「私はしないよ~しない方がいいと思う」みたいな婉曲コメントを入れた、みたいになってしまっていますが、作品を読んで、自分のコメントを書いて、それから、ゼンメツさんのコメントを拝読しております、前後関係から言うと!・・・というわけで、もちろん、〈理屈で、ここがこうだから、こうなって、こう読み取れる、と分析しながら解説したり、読み取ったりしていく作品ではない、と思うのですね。説明放棄しているみたいで、なんとも居心地が悪いのですが、〉という私のコメントは、自分自身が、そうしたくない作品だよなあ、と思った、本当はしなくちゃいけないのかもしれないけど、でも、それはしない、今回は、的な意味合いで書いたコメント、です!(もなかさんのスレッドをお借りしました、すみません!) (約束)

2018-08-27

冒頭の、夏の典型、ともいえる「幻影」と、最後の〈だから僕の夏は~〉の「典型」への転換。 振り幅が大きく、そこに魅力を感じました。 実際には「夏の典型」ともいえるような「夏」を過ごすことが出来なかったからこそ、永遠の憧れ、として、 体験しなかった幻が、実体験のような記憶となって思い出の中を占めている、ということでしょうか。 中盤の〈~すればよかった〉が続く場面、抽象度が高いので、実際にあったこと、を、具体的なエピソードに触れずに「解説」しているように見えるのが、少し残念だと思いました。その当時感じたことを、同等の感覚を伝えることができるような比喩に置き換えてみるなどを工夫を試みると、もっと切実さが伝わるような気がしました。 (僕の夏)

2018-08-27

〈たそがれどきに 口のなかにひろがる この味はなんというのでしょう〉 この巧みな転換部から、口から発する糸、口から発する声、叫び、鳴き声へと移っていく。 前半は視覚から墓石へと感情移入し、中盤で墓石そのものになって風景を見ている景に移り、 そこから口から発するものへと意識が移っていくわけですが、視覚から聴覚への変化、というよりも、 墓石の内に入り込んだ意識が、不安に駆られてそこから抜け出そうとしている、そんな印象を受けました。 黄昏時に口に広がる味・・・真っ赤な空をイメージすると、口の中に広がる血の味を連想したりもする。 蚕の口(懐古、回顧と音が同じですね)から吐き出される糸を連想し、 それが自身の口から吐き出されていく様を想像すると、苦いようなえぐいような、そんな不気味な味も感じました。 (たそがれどき)

2018-08-27

「中学校の同窓会があったら、あいたい人がいる。」と始まって、「同窓会があっても おだくんに会うことはないだろう。」 で終る、その枠組みは自然なのだけれど、なぜ「会うことはない」と断言できるのか、その理由が明かされていないところに、謎がありますね。あいたい人、と書かれているので、会う可能性が失われているわけではない。でも、会うことはない、と語り手は予測する。 なぜ・・・?何か理由があって、クラスメートには二度と会いに来ない、と語り手は”わかって”いるのか、そのことに、なんらかの思いがあるのか、ないのか・・・。 「あいたい人がいる」という一行めを省いてみると、いきなり「おだくんは~」と始まることになります。読み進めていくうちに、中学一年の時のこととわかってくる。でも、あう、という可能性について触れられていないので、「おだくん」が今でも実在しているのか、あるいは既に亡き人、なのか、読者にはわからなくなる。そこまで、可能性を広げて提示してみるのも一案だと思いました。 (おだくん)

2018-08-27

題名から、まず谷川俊太郎の「詩人の墓」を連想し・・・それを裏返したようなパロディー作品にもなっていると思いました。 谷川の「詩人」は、評価があるかどうかにはまったく頓着せず、口から出る言葉も、文字で書かれる言葉も、すべてが「詩」になってしまう男。ただ一人の”愛する”人に詩を”贈る”(見せる)ことだけが生甲斐?なのに、その娘はやがてその虚しさに飽きて、あなたはからっぽだ、「詩」でない言葉を言って、と懇願する・・・と男は消えて、墓だけが残っている。男と娘、両方を見ることのできる第三者が語り手。 谷川の場合は、既に「詩人」と世間に認知されている人だということもあるのかもしれませんが、詩と詩人にまつわる観念世界の上澄みの部分だけを取り出して端正な物語に仕上げた、ような印象があります。 花緒さんのこの作品は、かなりクセの強そうな「ワシ」一人が語り手。なおかつ、「ワシ」は幽霊設定なのやら、実はピンシャカしていて、全てが妄想/虚構のフィクション設定なのやら・・・どっちでもええわい、的な投げ出し感もありますね。語り手の人物像が具体的に設定されているので(その人の一生とか、過去の交友関係、家族像などまで想定されている、ような・・・)戯曲や小説に寄っている気がします。 スマホで見た時と、パソコンの画面で見た時のイメージが、かなり異なりますね・・・ パソコン画面でみると、中央の「告解」部分が、墓石、墓碑のようにも見えました。 (ネット詩人の墓)

2018-08-27

「事実」の方にコメントしようかとも思ったのですが、こちらに書きますね。 引用元、あるいはインスパイアされた元作品、参照した作品、一部、参照した作品・・・などを明示した上で引用するのは、慣用として認められていると考えます。引用部分が50%を越えている場合、オリジナリティーが弱くなる(他者の作品の威力を借りている)ということで、あまり評価されない、という場合もありますが、むしろ、引用の仕方、前後のつなぎ方によって、引用元を大きく乗り越えるような自己作品へと変革している、場合には、高い評価を得ることもあります(全文引用詩、という手法を探求している方もいます) 引用元の作品の、どこを、どのように切り取って来るのか。そして、その切り取り方が、いかに作品全体に強く響いているのか、必然性があるのか、ということではないか、と思いました。 非常に有名な作品の一部を「無断」で引用した場合でも、一般的に、詩に関わる人なら、当然知っているだろう、というような著名な作品であれば、短歌でいうところの本歌取り、という扱いになることもあります。 いずれにせよ、引用された側が不快になるような引用(改変も含む)の仕方をしていなければ、特に問題にはならない、ということと、 問題になる、ならない問題、とは別に、作品として、その引用に必然性があるか、という手法と効果の問題がある、と思いました。 フランス語の多様な過去時制と、日本語で失われてしまった複雑な過去時制・・・古文に特有の過去時制の問題、そこにおける「気づき」と、ダビンチ作品が現在にまで生きのび、影響を与え続けている、という存続している過去と、創作者は過去の時点で消滅していて、現在に関わっていない、という存続していない過去、そこの差異を課題にしていけば、面白くなったのではないか、と感じました。 (季節)

2018-08-24

最初の「私は」は、痴漢をした方、で、次の「私は」は、痴漢をされた方、で、チンピラみたいにイキガッテいるのは、後の方の「私」の彼氏、でいいのかな・・・ 以前、男女でペアを組んで、気の弱そうな男性をターゲットにしてお金を巻き上げていた犯人が捕まりましたね。 女性が「置換された」と訴え、俺は見ていた、法学部の学生です、と「目撃者」となった男が名乗り出る。 なんだか、その情景を思い出しました・・・。 この詩の「私」は、おどおどした「痴漢」の手で、実際に触られてみたい、と思っている、のかな・・・こんな、ペテンみたいなやり方で、架空の痴漢話、にしてしまう、のではなくて。(勝手に、サギ事件を主題にしている、設定でコメントしています) (初体験.by.のぞみ.)

2018-08-24

冬の、冴え冴えとした美しい夜空、がベースである、はずなのに(理屈から言えば) 春先の、レースのカーテン越しの、やわらかい光に満ちた空間、そこで赤ちゃんを胸に抱いて、そっとそのうぶ毛をなでている若い女性、その髪もまた、やわらかく風になびいている情景・・・を想起しました。全体にパステルカラーが差し色になっていて、でも全体は白、のイメージ。ひらがなを多用しているから、なのか、音韻の柔らかさの故、なのか・・・。 〈しだいに しだいにと/ひえてゆく〉このフレーズ(と、そこまでに至る連)で感じたのは、自在に羽ばたいていく我が子を見守り、背中を押したい、という積極的な気持ちと、腕の中がすっぽりと空洞になって、居なくなって冷えていく・・・消極的、というような、対極の気持ち、ではないけれど、ぽっかり空いてしまったような空虚感、その冷えた感じ。 〈くちぶえに/にた てがみをよんだ〉光が記していく未来の文字、その文字が綴られた「手紙」が、歌(文字ならぬ、声ならぬ歌・・・音なのだけれど、言葉であることは分かる、というような)となって届けられる、それを静かに聞いている内に誘い込まれる、宇宙的な視点の幻視、を想いました。銀河鉄道、的な世界・・・大きな白鳥のような鳥(あるいはペガサス)に誘われて辿り着いた場所、そこで翼を折り畳んで休むかたわらにいる、ような感じ・・・そこに、ほわあ、と赤ちゃんのあくびの映像が浮かぶ。窓の外には、緑の豊かな田園風景。 〈ちいさなちいさな ゆびを/まだしらない そらにかたむけて/きみは さしだすのだろう〉 世代を超えて、受け継がれていく「うた」を成す言葉・・・その言葉を読める人は、実はまだ、この世界には生まれていない、のかもしれないけれど・・・私たちは既にそれを受け取り、その意味をほとんど読み取れぬまま、身体を一瞬満たして、また通り抜けさせていっている、のかもしれない、そのような、存在を感じてはいるのに、うまく読み取れないまま次世代に渡していく「ことば」によるうた、その歌を、我が子がいずれ、身体全身で歌う(謳歌する)ことを、願っている、そんなイメージで読みました。 理屈で、ここがこうだから、こうなって、こう読み取れる、と分析しながら解説したり、読み取ったりしていく作品ではない、と思うのですね。説明放棄しているみたいで、なんとも居心地が悪いのですが、やわらかく満たされるように、それでいてかなしい、さびしい、見届けることは恐らくできない、それでもねがう、というような、感覚・・・が静かに伝わって来て、とてもよい作品だと思いました。 比喩が飛躍していて、読み取りが難しい部分が多いので、難解な作品、という事になるのかもしれませんが、そのぶん、私は自由に発想する余地の残されている、多義的な豊かさを持っている作品だと感じました。 (約束)

2018-08-24

註記も含めての一篇の詩ということを、改めて考えました。 ガードレールに沿って・・・ 世間の規範から逸れることなく、かといって乗り越えるのでもなく・・・足裏に落葉を感じるところがニクいですね。 アスファルトの舗装面からあえて外れて、その外を歩く。 自然を味わい、過去の思い出を呼び戻しながら歩くには、舗装道路ではなく、少しだけそこから「ずれて」見ることが大事なのかもしれません。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-24

「鉄塔のてっぺんの点滅する赤い光  どこかへ行くのだと思っていた」  夜の底をくすぐるように  赤くもだえている君たちのツブツブの  ・・・いや、すべてが消え去った夜があった  底冷えする春の・・・  その話はもうよそう  どこにも行けない、ということが、わかっただけ  どこにも行きたくない、ということもわかったので  君と一緒に  夜の赤い光の点滅を見ている    僕は君と会ったことがない  それでも君が今、空を見ていて  空が暗くつながっていて  その向こうから何万光年も時間を費やして  僕等に迫って来るものがある     鉄塔のてっぺんの点滅する赤い光  数十万年後に地球がとっくに滅び去って  それでもこの赤い光は  届く人を求めて探して  宇宙空間を飛行し続けている  そこには、きっと君の言葉も  絡んで濡れて光っている  いつか手繰り寄せる手のために  それは蒼ざめた肌かもしれない  緑色の肌かもしれない  その指先のぬくもりのために  僕らは今  別々の場所で  互いに断絶しながら  同じものを 見ている (鉄塔)

2018-08-23

その瞬間、止まった時間 滴のようにまるくふくらみ円を描いて 油滴の虹をとりこみ、とりこみ 渦を巻いて巻き込み、落ち込み 深い穴へと滑り落ちる 落ち切った底で水の壁に背をもたれかけて 水のスクリーンに映る世界のすべてを あなたは見つめて見つめ続けて やがて一気に 上昇する 花火のように弾ける時間 そこから流れ出しあふれ出し 全てが再び動き出して 水のスクリーンに幻燈のように浮かんでいた もろもろの薄物が 華やいでひろがりあなたから離れ 絡んでいた糸も綱もいつのまにかすべて薄れ 闇の中で花のように咲いている 見ていた歌い手も火の粉と共に舞い上がり ふりそそぐあなたの光の中で踊る 戯れる その手をそっと 取ってください 色とりどりの夜の灯りが 薄らいで消えて霞み始める地平線のそのまた向こう 朝が 少しずつ領域を広げようとしています (ラ・ラ・ラ族)

2018-08-23

「我が労働歌」という重々しい題名と、どこかひょうきんな、ユーモラスな語り口。 種の殻にゆっくりと水が沁み込んでいく様を想像するところとか、「街路樹がまだ小さかったときのことを真似ているとき。」とか、 人間が木の真似をしながら立っているイメージで読んでいたら、街灯の一人語り、であったのですね。 面白いのは、一人の語りであるはずが、私達、と複数にもなったりするところ。「ひとり」の意識は確立されているのに、電線で結ばれ、電流で繋がることによって、全体でひとつの意識を持つものでもある、ような・・・脳内のシナプス一個一個と、それがつながって一連の働きをする様子とを重ねたりしました。 (我が労働歌)

2018-08-23

前作の「四谷シモンの人形」が命を得て動き出したような感もありますが・・・「あゝ、人形じゃない人形」を毎回連頭に持ってくるのは、どうなんでしょう・・・二回くらいでもよいような気もします。 〈巨大なハサミを背負って〉あたりから、じわじわと怖さに持って来たかった、ということなのか・・・ここから、リフレインなしに一気に駆け抜ける感じでもいいかな、などなど。 つい最近、チタニウムホワイトを用いた詩を同人誌に公開したところでした。白の微妙な質感、気になります。セラミックホワイト、シルバーホワイト、ジンクホワイト、チタニウムホワイト・・・絵を描かない人は調べたりすることになると思うのですが、人形ならざる人形の、透き通るような白さと冷徹さ、そのムードを良く捉えていると思いました。 中盤、カッコで言葉を連ねていくあたり、アニメの異界に取り込まれてしまったような・・・現実とフィクション世界の境界が浸潤しあっているような感覚があって、面白かったです。 (Coppelia)

2018-08-23

病室で、星、あるいは光源としてその場にいる人々を照らし出す役目を担わされている自分・・・設定の物語として読みました。 父親の亡霊が見える、このあたり、ハムレット的な面白さがありますね。生い立ちのせい、と一行でおしまいにしてしまわず、 むしろその部分を創作していく(事実を元にしても、完全なフィクションであっても)と、どんな展開になるのだろう、と思いました。 (大人の楽園)

2018-08-23

前半の自然な流れも面白く読ませて頂いたのですが、後半の、半ば即興的な要素が入って来るあたりから、文章がうねるような勢いを増してきていて、いいなあ、と思いました。 (まとめのにがてなこどもみたいな、こどもっぽい、こと。)

2018-08-23

粉々に砕けた蝶の欠片と、おそらくは夢半ばで昇天することになった君への思いを重ねた作品、と読めそうな作品なのですが、砕かれた蝶の羽の美しさ(夢は破れても美しい)という無情感への思いが主題なのか、君(あるいは君の気配)が、語り手のもとを訪れた、という体験が主題なのか・・・呼びかけ、語りかけの甘さが、切なさを覆い隠してしまっているような印象もあります。 (再び)

2018-08-23

金縛り状態にある身体と、緊張が解けかかって、ムズムズしている皮膚表面の感覚を覚えておられるのでしょうか。 写生風の描写で特異な体験を確かめようとするような描写を追いかけていたら、〈それは愛する2人の衝突だった〉という「まとめ」に、一気に飛び越えてしまったような感覚がありました。ここをもう少し追っていったら、ユニークな世界が現れてくるような気もします。 (ある夜の恐怖(幼少期の記憶))

2018-08-23

飛び降りようと思って昇った先で見た景色、であったら、どうだろう、そんなことを考えました。不幸も幸福も、美しさも醜さも含めて、ああ、今、自分はそれを見ることが出来る、と、ふっと思いとどまって、そこから詩を書く、方向にシフトした、というような設定。 (絶景)

2018-08-23

単純に「準備」をしただけでは駄目で、冷凍庫で凍るのを待つ、という「時間」が必要なのだ、ということ・・・そして、熱さを耐えたからこそ、その「時間」も、予想した美味しさ、期待した美味しさを楽しむことが出来る、ということ・・・そのための「準備」が生きる、ということ、などについて、考えました。こうした考え方は、詩の素材(自分が感動したきっかけ)を大事に寝かしておいて、言葉になるのをジリジリ焦がれながら待つ、そんな状態にも通じるかもしれません。 言葉の語調というのか、調子を整えようとし過ぎて、全体が流れているような気もします。詩論的な含みというのか、二重性も持ち得る、という寓意の力を意識してみてはいかがでしょうか。 (みかん風呂)

2018-08-23

まど・みちおさんの「輪回し」でしたか、輪回しを遊ぶ詩が、輪回しの形に並んでいて、子どもたちの読み聞かせなどで見せながら読むと、大人気でした。「かいだん」というのもあったなあ・・・ 形に縛られる不自由もありますが、その不自由さが、自分では思ってもみなかった言葉を引き出してくれる、予想外の言い回しを引っ張り出してくれる、という効果があったりします。 作品そのものが詩の形を決めて行ったり、出来上がった形が推敲の段階で言葉を変える手助けになったりもする、と思うので、様々な形で遊んでみるのも良いかもしれませんね。 (段)

2018-08-23

るるりらさん ありがとうございます。蛹を実際に見た時は、文字通り金属光沢そのもので、ああ、黄金だ!とびっくりしたのですが、飛び立った後の抜け殻は、まるで光らない、うすい皮膜でした。鏡のように、透き通った面の内側に光を跳ね返す部分があるのかもしれません・・・ドロドロにとけた肉体の段階も、既に蝶になった段階でも、どちらも輝いていました。あんなに目立つ蛹が、無事に生きのびて来たことが不思議でしたが・・・なるほど、食草の毒を身体にため込んでいるのですね。毒蛇と同様、食べたら危険、のマークなのかもしれないですね。 三浦さん 現実からズレて、いますか(笑) 子どもたちに、ママって相当変 相当、てんねん と言われております・・・先日も、血豆をツバメ、と聞き間違えました。なんで足の指に「つばめ」が出来るんだ、と大爆笑されましたが・・・「つばめ」としか聞こえなかった。ツバメのことを考えていたのかもしれません。前後の脈絡に関係なく、脳内の夢想がつながってしまう、のかもしれませんね。 二条千河さん 人間の五感や身振り手振り、これは万国共通、世代間もある程度共通、のような気がします。絵画や音楽に関しても、もちろんそれまでの経験値や知識体験が影響してくるとは思いますが、言葉以上に「通じ合う」ものがある、ように思います。 そう考えると、言葉の翻訳は、本当に難しいですね。地域、環境が異なっているだけで、同じ日本語を母語とする人であっても、受け取り方がぜんぜん異なる。沖縄戦を体験した方と、そうでない方との間では、「うりずん」そのものも、かなり異なって受け止められるようです。沖縄の悲惨極まりない地上戦が始まった時期が、ちょうと「うりずん」の頃で・・・今でも、この時期の雨に触れると体調が悪くなる方がいらっしゃるそうです。うりずんは血の雨涙雨、という言葉も聞きました。その経験がありながら(そのことを知りながら)自分の体験、体感に正直に書く、ということの矛盾についても、考えています。三浦さんの言う「断絶」が、そこにはどうしても介在するのかもしれません。 (うりずん)

2018-08-23

街角に路地裏に子供の声が溢れていた時代は既に過去のものなのでしょうか。自分が育った、子どもがワラワラといた時代、に比べて、孤独、孤立した状態で子育てをすることを強いられる、そんな時代になっているような気がします。 熟れすぎて、あるいは痛んで持ちこたえられなくなって、落ちていく寸前のトマト・・・それは、子育てに張りつめていく、孤独な母親たちがみな抱え持つ、ある種の爆弾であるような気がしました。 (自転車を押す坂道にて)

2018-08-19

飛んでった、ハト、トリ、永遠にはヒヨコじゃないの・・・という言葉が、どんどん目に飛び込んでくる感じ。それに対して、今のわたし、は、モグラ、なんだろうな、体感的に・・・そこから、どうやって飛び立とう、そんな(三浦さんの言葉を借りれば)肯定感がありました。 〈食べられなくても三本あればトリあえずは死なないって言ったよね先生あの時〉しんどい、辛い時間を、後から(私だったら)こんなに軽やかにユーモラスに振り返ることができるだろうか。そんな驚きも含めての肯定感、です。 (進化の過程¥崩壊)

2018-08-19

〈流されやすいから〉と〈こぼれかけの身体を押し込んだ〉の間に、〈眼の奥ではぢりりと黒焦げトースト〉〈ルビーのふりしなくちゃいけなくて〉が入って来る、この感覚が新鮮でした。見ているもの、が、そのまま自分、になってしまっている、ような・・・stereotypeさんが「暑さを表す表現」とコメントされているけれど、身体が焦げてしまうような昨今の暑さ、燃え落ちていく星、に自身を重ねていくような心象、どちらも感覚的に結びついていくような気がします。 〈8月の雲にクーラーをのっけて 底なしの青いあくびへ迷いたい〉このあたりも、ライトな表現だけれど、あのうんざりするような暑さを ひっくり返すような(雲の上で、涼しい風に吹かれながら、とろけるような眠りを眠りたいよ~というような)面白さがありました。 堕ちる、燃える、焼け焦げる、腫れた(晴れた)空とみみずばれ(のような堕ちる星の痕跡)が生みだす、必死に生きて行こうとしているのに(ルビーのように輝く者で居なくてはいけない、そうでありたい、のに)堕ちていくような体感、焼け焦げていくような体感がある・・・という深刻さや重さを、〈8月の雲にクーラーをのっけて〉というような軽さと甘さでバランスを取っているのかな、という気もするのですが・・・トースト、クーラーという軽やかさの方が勝っている印象もあります。 (堕ちる星)

2018-08-19

寂しくはないのか 楽しくはないのか ストレートな問いかけですが、落ちていく水音に、自身の「時間」がぽたぽたと垂れ落ちているのを感じ取るような感覚、その時間を丸ごと写生しようとするような感覚に惹かれました。 (不明)

2018-08-19

お盆に、死者が手土産に持ってきてくれた羊羹をスライスしていくと、その都度、記憶が断面に浮かび上がる・・・というような夢を見て、それを詩に描いたことを思い出しました。〈煉羊羹から連想する色は感情迸る赫だと君は嗤う〉、なるほどなあ、燃え盛るようなアカ。羊羹、文字面からの連想でもあるのですが、なんとなく”肉肉しい”感じもありますよね。 〈僕が視ていたようなサ変の上二段〉古文の文法書を開いている様子を連想。なんとなく学園のムード。(誤読、かもしれませんが) スーパーボールの弾ける感じと、濃厚な黒の色彩、誤読―誤飲へとつながる体感、一気に異界に引き込まれる感覚・・・。 〈6月の花壇の汗ばんだ君の名を忘れたから〉から〈僕が軒下で君と聴いていたのは水風船と風鈴が粉々に砕けて、蝉時雨だけが永遠を奏でる水無月〉に至るまで、断片的にイメージが連なっていくようでいて(蝉時雨はちょっと早いかな、という気もしますが)異界と現実の六月が相互に侵入しながら続いていく、そこに、都市の断片的な映像が差し込まれていく。そんなシャッフルされていく映像をイメージしました。 (水羊羹を誤読して、彼の躍動或いは記憶)

2018-08-19

正しさを主張して、火刑に処されるのを辞さず・・・ 美術史専攻(初期ルネサンス)だったので、ネオ・プラトニスムからルネサンス隆盛期へと到る過程に引き込まれた記憶があります。 それにしても、陰惨を極めた宗教戦争・・・世界観の衝突は、互いの存在を抹消し去るところにまで到らないと収束しないのでしょうか。 仏教世界ももろもろありましたが、一神教ではなく多神教の土壌ということもあるでしょうし、食料その他が豊かなモンスーン気候が母体、ということもあるでしょうし・・・最終的には中庸を取る、多種多様、共に反映せよ、という方向に落ち着いたような印象を持っています。(アジアを贔屓している、と言われそうですが・・・) 正義、あるいは正解を突き詰めていくことは、一方を捨て去ること、葬り去ること、であるのかもしれない。 素粒子の観測で生じるジレンマ・・・私たちは、「絶対」を手にすることはありえない。常に、相対的な、その場における、最善、最良と思われる地点を求めることしかできない・・・それが、お茶を濁す、と見られたり、ちゃらんぽらん、一貫していない、と思われたり、日和見の優柔不断、だと非難されたり、ルールの柔軟な適用、ではなく、単なるルール無視だと指摘されたり、する、としても・・・。 (こころ はんぶん/ブルーノ/そらの)

2018-08-17

大きな、大きな足のワニ、の絵本がありましたね。そんなことを思い出しました。 (足がでっかくなった)

2018-08-17

大木、の中に 仏 がいる、として・・・アニミズム的な、精霊信仰的な要素もそこには多分に含まれている、として・・・ 魂のかたち、というように「見えない」状態で収まっているものを、見出して掘り出して衆目にさらす、ということ。 それは、仏師の悲願でもあり、同時に、芸術家としての表現意欲、であるのかもしれない。 羽田さんのこの作品では、前半は「衆生の役に立ちたい」「仏師として、優れた仏像を残したい」という個人の欲望から、閉じ込められている仏様を出して差し上げましょう、という発想が生まれている、ように思うのだけれど・・・ 眼目は後半にあるのではないか。一体の仏像を掘り出すために、「余分」なものとして削り取られた、一般的にはゴミとして廃棄される木っ端に、そこにも(ひとつひとつに)仏性が宿っている、ということに気付いた僧のおののき。 個としての(仏師としての)欲望が、世界は見えざる仏性に満ちている、と気づかされた瞬間の・・・個の埋没というのか、その畏怖と喜びに満たされて、憑かれたように小刀をふるう僧の痕跡、それを木っ端の鉈痕、小刀痕に見るところに注目したい作品だと思いました。 (僧の跡)

2018-08-17

一連目、二連目は簡潔な前書きとして拝読。三連目、もっともっと膨らましても良かったかもしれない、と思いつつ・・・ 実際に舞台を観た感動は、なかなか言葉にはし得ないもの、なのか・・・フィオリーナさんがどう感じたのか、そこを、もっと知りたくなります。 (ソポクレス『オイディプス王』 ※)

2018-08-17

詩を、作品としてではなく(つまり、作られた物ではなく)作者によって生み出された、としても、そこから先はよちよち歩きであっても自立して生きていくもの、と見ているところが面白かったです。詩論的な作品だけれども、擬人的な比喩を用いなければ伝えられないことが満載、という部分が、詩なのだと思います。 全体のバランスを見ると、一連目がずっしりと重い、感じになっていますよね・・・少し、詰め込み過ぎなのかもしれません。 「詩」をとりまく親、兄弟、学校の先生、友人、部活動の先輩、街中のおじさん、おばさん・・・的な、ひとつの社会というのか、人間関係が見えてくるような面白さはある、のだけれど。 二連目以降は「評論形式」の文体が、内容と釣り合っていて、スッキリ読みやすく、また、納得もしました。 (批評について・雑感 ※ )

2018-08-17

コメント欄のコメントも面白かったです。 貴音さん〈アワビは下品 バラとザクロは官能〉なるほど・・・うねうね、のたくるから?ピンクの綺麗なアワビだったら、官能に寄る、のかしらん・・・ 杜さん〈本返し縫いのような文章だなぁと〉これも、なるほど~!でした。戻って、戻って、その都度、さわる感触が繰り返される・・・ 多肉植物の図鑑みていると、古いものは漢字だらけで、最近の園芸品種はカタカナ(ラテン語系?)も多くなっているけれども・・・いずれにせよ、超絶ロマンティック、なものが多くて、眺めているだけで嬉しくなってしまう。乙女心、虹の玉、星の王子、月兎耳・・・火祭とか黒法師とか、ゴツイのもあるけれど。脳髄丸出し、みたいな、頭が水晶みたいに透き通っている傾倒(コノフィツム類とか)も、エログロキモイ感じで、好きです。 (セダムとイヴ)

2018-08-17

〈いやなものに触り 好きだといって迎えに行く〉 嫌なもの、を、好きなもの、へと変換する、そんな考え方、感じ方の反転を起こしたい、ということなのかな・・・ 〈氏〉は死や詩と発音が同じですね。そんなことも、ちょっと脳裡をよぎりました。 (灯台)

2018-08-17

1、2、連、いささか丁寧過ぎないか?と思い、3連、4連、ここは純粋に面白く、5連、6連、妙に現実というのか、リアルに戻ってき過ぎてる感、が出ているのではなかろうか、という・・・自分の「好み」に寄り過ぎているライトレスですが。5、6連、特にテレビが出て来る当たり・・・実は5連で語り手はパソコン内部に取り込まれていて、パソコン画面の内側から室内を見ている、的な転換があるとどうなんだろう、とか(誰もが思いつくようなアイディアですね、はい。) (じゃんぱら)

2018-08-17

羽田恭さん リアルな実感、それを突き詰めていくと、どんどんオリジナリティーが増していくような気がしています。それにしても、今は牛の出産ラッシュなのでしょうか?いのちとの体を張ったやりとり。いつも楽しみにしています。 ミナト螢さん 近代詩などを読んでいると、超絶ロマンティックな作品もたくさんあったりしますよね。「現代」詩で、やってはいけない、ということはない、はずなのだけれども・・・同時に、歌詞でそのあたりは充足してしまっている、という読者も沢山いるのかな、と思ったりしています。歌で聴く時には甘すぎても「イケル」けれども、文字だとなんとなく抵抗感が出てしまう・・・そこを乗り越える、甘くて深い作品が、求められているのかもしれません。 こうだたけみさん 文字が脳内で音声に変換される、と同時に、イメージが引き寄せられる、わけですが・・・イメージが追いついた時には、変幻自在に、別のイメージに様変わりしてしまう。そんなスピード感と鮮やかな変化、これは才能だとしか思えません。日本語って、脚韻が難しい分、頭韻というのか、出だしで次のイメージ(色)が予想されていく。そこを手品のようにひっくり返してもらえる爽快感が好きです。 二条千河さん 思想、これは実に難しいのですが、人間とはなんぞや、とか、社会とは?とか、そういう、人肌に密接な世界観のようなもの、ものの観方のようなもの、だと思うのですね・・・様々な局面で、この事の意味は?とか、自分はどうすればいい?とか・・・他者の意見を参考にしたとしても、自分で考えている人の骨格、のようなもの。命名は親からのプレゼント、でもあるけれど、それが期待の押し付けであったり、子どもの私物化への第一歩であったり・・・戦時中世代の親たちが、毅、武子、栄子、勝利(かつとし)・・・などであったことも思い合わせたりしています。 地球さん キュレーターが沢山、それぞれの個性全開でキュレーションをして下さっていて、花畑のようです。自分の好きな詩に偏っても、大丈夫かもしれない、そんな安心感も生まれて(変な言い方ですが)少し、気楽に、キュレーションを楽しんでみようかな、と思ったり、しています。 (B=REVIEW 2018年7月投稿作品 選評)

2018-08-17

おわぁ、こんなところに隠れファンがいたとは。編集長に伝えておきます、もっとも、彼はいま、たしか宇宙旅行中なので、いつ返信が来るか・・・ (ウォシュレット)

2018-08-14

なつかしい、感じだなぁ、と思っていて・・・こどもがからめとられる、あたりでゾワゾワと来ました。うまい❗ (生垣)

2018-08-14

彼はそう言っていた 彼女はそう言っていた このフレーズが、リズムというのか、この詩の呼吸を作り出していると思いました。 バラッド(民謡詩、物語詩)にしばしば見られる、懐かしい枠組みが、リアルに実体化された暗喩を繰り返し読者の前に(イメージとして)提示していく。 (無題)

2018-08-14

この世に存在する、詩と名付けられたものの中に、ひとつでも俺を満足させたものがあったろうか。三千歳を過ぎた時点で、メンドーなので、既に自分の年齢を数えるのをやめたんだが、それにしても、この俺を満足させてくれる詩など、ただの1度も、この世に存在したことはなかった。 すべて、くたばっちまえ。自滅しないなら、すべてを俺は焼き尽くす、燃やし尽くす。 その灰だけが分厚く積もった空間で、はじめて俺は詩を書くのだ。己の腕を切り落として、それを筆にして地が見えるまで、灰を掻き分けながら。 おい、みうら、とやら。なぜ、見恨という本名を騙らぬ。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-14

皆さんが書いていらっしゃるので、重ねて言うことはもう無いかな、と思いつつ、「ああ /思い起こすたび /もう僕たちは薄く伸びて」橙色の中に影が長く延びていくのを並んでみている/見ていた日々、への懐古が沁みてくるなぁと思いました。オレンジ色と橙色の質感の違いもありますね。 (橙色)

2018-08-14

鹿威しの音に、宇宙を感じる、と、どこかで誰かが書いていたような・・・私の中でいつのまにか出来上がっている、仮想本の中にある言葉かもしれませんが。 極小のものから、極大へと視点が移る。取り合わせの用い方が、俳句的だと感じました。いないいないばあ、という赤ちゃんや幼児を連想させるフレーズ、なるほどと思いました。ぱっと世界が開けたり視界が変わったりする感覚、幼子のように、はじめて何かを見たり体感したりした時の感覚、その双方を言い当てている。 (季節)

2018-08-14

いやあ、おもしろい。 ぞくぞくしました。 実はわたしは、この作者を良く良く存じ上げているのです。詩誌ではなく、文芸詩でもなく、著名な現代詩想系の(厳密な会員制なので、なかなか店頭には見かけず、なおかつ、ネットでも購入不能なのですが)隔月刊行誌のメイン執筆者です。(これは、ご本人の了承を得ずに、開示している情報です) この文章が虚偽であるのか真実であるのかの判断は、読者各位にお任せしますと共に、すべての文責は「まりも」というハンドルネームを持つ雑文家(65歳男性、独身)にあることを明記しておきます。 (ウォシュレット)

2018-08-14

あ、クラブ、が、グラブ、になっていました・・・しつれい。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

ワンダフル❗というのが、第一印象でした。リフレインするところ、D.J.が、レコード?を、きゅきゅきゅきゅっとやったりする、あの感じだなぁ、と思ったり(正確な呼び方すら知らない、グラブ音痴ながら)全体で意味やストーリーを構成するというよりも、胸にカチッときた、ピタッとはまった、詩行を抜き出してシャッフルして、それを改めてノリと感覚で直感的に並べ直した、という印象があり(自分に都合よく、都合のいい部分だけを抜き出す、みたいなやり方ではなく)・・・実際にはどのように作られたのかは知らないわけですが、読んだときの印象はそんな感じでした。 後半部分、 語り手を故人にしていることだし、いっそのこと、宇宙電波をサンプリングする計画実行舞台の内紛みたいな話にガンガン持っていっても面白かったかもしれないなと思いつつ・・・パロディーというのは、現実(事実)と、うまい具合に付かず離れずだったりするから面白いのかもしれないな、とも思いつつ・・・投稿者への敬意とかリスペクトウンヌンの部分は、フィクションではないわけだから、ここはコメント欄を利用しても良かったのではないか?などなど、思ったりもしました。 熱量が前半と後半で質が違ってしまっていてなおかつ同等くらいの割合で注がれているので、そこが議論の分かれ目かと。 最近、亡くなった親友の話として語りつつ、自分自身が死んだ設定で、架空の詩がいかに編集者に無視され、いかに人心を掌握して、大ブームになったか、的な、架空の顛末をまことしやかに語るという面白い作品を読んだばかりだったので、とことんリアルっぽいけど、とことんウソ、みたいな感じも面白いのかなと思ったりしました。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

夢想を夢想として追い求めるような作風から、自分自身を見つめるような作風へと、変化しているような印象を受けています。 花やガラス器など、自分が見ても、他者が見ても美しい、と思うものを描いていた画家が、自画像を描き始めたような感じ、と言えばいいのか・・・。他者が見ても「美しい」と思うかどうかわからない。でも自分にとって、それは確かに、心を動かすものだ・・・そんな対象をさらに探していく画家になるのではないか、そんな予感も感じつつ。 (笑うギター)

2018-08-13

言葉そのものを物象化して、アクリル板やガラスの柱、モビールで吊るしたり、床の上に散らしたり・・・という展覧会に行った時のことを思い出しました。忍び込んだ一匹の〈鼠〉・・・それは、文字をこっそり消したり書き込んだりする、アートテロリストのようにも見えて、面白かったです。 (a)

2018-08-13

〈あなたさまのなかに わては溶け込んで〉この一行、冷や奴の「単なる」擬人化からだけでは出てこない言葉だと思いました。 ある意味、怖さもある言葉。水底で暮らす方が、と前置きにあるけれども・・・人の心の中の水から浮上して来たなにものか、であるような気もしました。 (冷や奴と申します)

2018-08-13

眠りは死の兄弟、という言葉があるそうです。そんなことを思いながら、冒頭二行で行きつ、戻りつ・・・。 寝ている、のは肉体で、死んでいる、のは、仮死状態になっている心なのではなかろうか・・・それが、読み終わっての感想です。 中沢新一が、私は世界と交接する、自然という女神とまぐわう、というような意味のことを書いていて、世界に欲情する、というのは、どんな感覚なのだろう、と思った記憶があります。男性の場合は、起ちそう、ということになるのか。女性の場合は、包まれている、抱きしめられている、という体感に繋がっていくものであるのかもしれない、と思いつつ・・・「世界」に対して、先端をねじ込むように入り込んでいく、没入していきたい、という感覚と、「世界」に包み込まれるようにのめり込んでいきたい、という感覚に弁別できるかもしれない、と思ったりしました。 〈後藤は人類の総体に欲情してる〉〈人類に射精した僕の精液が〉などの言葉から特に感じるのですが、〈僕〉と〈人類〉との関係性と、中沢新一のいうところの自分と世界の関係性がよく似ていますね。固有名を持っているにも拘らず、河原先輩と須田というワンペアが、アダムとエバというような・・・人類、と総称されてしまうような、〈人類〉へと普遍化されてしまう。それは、〈僕〉と河原先輩、あるいは須田との距離の大きさでもあるように思いました。〈僕〉はこの二人に対峙していて、関わりが無いわけではないはずなのに(声は向こうからかけられているのに)断絶している。〈大地〉と〈小さな方舟〉も、姿を見せぬまま鳴いているクマゼミと語り手との関係も、〈世界〉と〈僕〉との関係が別の位相で現れているものだと読むことができる。 電信柱と犬の尿?で濡れている地面とが、男根と女陰を想起させる物、と見えた、として・・・そのイメージだけで勃起してしまうようなある種の若さへの回顧、という部分もあるのかな、と思いつつ・・・でも、このあたりは、かなり表現が「なま」ですよね。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-13

最初の一行めから感覚がリアルに伝わって来て、引き込まれました。〈くうき〉とひらがなで時間をかけて読ませるあたりも、〈固体化〉という文字から感じられる硬質感とともに、うまく働いていると思いました。ひらがなと漢字の使い分けであったり、無用な説明を省いきつつ、感覚を丁寧に伝えているところなど、とても良い詩だと思いました。 娘が過呼吸で倒れたことがあるのですが、手足がしびれて、どんどん息ができなくなるのだそうで・・・周りの友達が、深呼吸して、だとか、だいじょぶ、だいじょぶ、と声を掛けてくれたそうですが、体験者が何人もいたせいか、大事とは扱われず、死ぬ思いをした、と話していました。 自分の意志や感覚、感情に、まるで体が逆らうように動いて反応してしまう。それも、相手の気持ちを深読みしたり、余計な先読みをしたり、想っていないかもしれないこと、考えていないかもしれないことまで予測して・・・そうした予測や予感が、自分の体を部分ごとに乗っ取って支配していく、ような、そんな・・・自分が侵蝕されていくような感覚、とでも言えばいいでしょうか。自身をキメラ、と客観化して、おぞましい、と突き放しながら、そのおぞましさと闘う自己も現れているような、そんな力強さも感じました。白という色彩も上手く機能していると思います。 (キメラの後ろ姿)

2018-08-13

fiorinaさん 〈詩は行ごとに裏切られていくものとすると〉なるほど、驚きや新鮮な発見がある改行・・・「その先」を知りたくなったり、「不思議」や「謎」が残り続ける魅惑が、詩には不可欠かもしれません。ボードレールの『パリの憂鬱』なども、文章は散文で無理なく読めるのに、なぜ?という「謎」が解けずに残ったりする。詩情と情感の違い、詩と詩情の問題・・・なども、考え続けたいと思います。 右肩ヒサシさん 丁寧で奥行き深い評をありがとうございます。沖縄の場と、その空気の中で強く感じたのが、溢れるような生命力でした。官能的、といってもいいような・・・朽ちていくにおい、腐っていくにおいが鮮明で、そこかしこに滞るように渦を巻いていて、それでいて澄んだ爽やかな息吹のようなものが、吹き通っているのでした。朽ち木を喰い破るように芽吹く緑の迫力など、いのちが色濃く漂っているような感覚があって・・・その中で戦時中の話を聞き、資料館で言葉を失い、高速道路わきの、豪勢な米軍住宅がえんえんと連なるのを見て・・・今もまだ、うまく言えないままでいます。なんども、立ち返ることになるでしょう。 帆場蔵人さん 「旅」を楽しんでいただけたとのこと、何より嬉しいです。ありがとうございます。その土地でしか感じられない質感や空気感のようなものを、うまく捉えていけるようになりたいと思っています。 (うりずん)

2018-08-13

コメント、ありがとうございました! ・・・レスを入れて、でもって、ずっと、ずうっと、書かない方がよかったかな、とか、 でも、変だよね、と思う人がいたらどうなんだろう、とか・・・ 嘘つき野郎、だとか、そういう風には思わないけれど、ちょっとだけ、裏切られ感、みたいなものがあって、書きこんでしまった、かもしれません。 〈まりもさん、ちょっとだけ違うんです。 私がイマラチオさんと本格的に共作したのは5月だけです。 共作とは言っても殆ど、書き直されたわけですが…。 でもこの書き直しは意図でもあります。 基本的に一人、月に2作までの中で 同じに人間が別名義で投稿するのはアウトですよね? だから、私の書いた詩を乗っ取って殆ど新しく作り上げてくれれば それは最早別人だろうという屁理屈の元、そうしました。〉 了解です!お話を聞けて、すっきりして、すごく、嬉しいです。 ひとりで月に四作とか、そういう「ずるさ」は嫌いだけれど、 カオティクルさんの、黙っていればわからない、はずのことを、あえて明かす潔さ、とか、もう、大好き!です。 追記で書きましたが、コメント欄で明かした時点で、運営の方々が良しとされたわけですから、OKということでよいのではないか、と思いました。 こういうやり取りができるのも、双方向性掲示板の良い所、だと、あらためて思いました。 (イマラチオ)

2018-08-12

追記 異議を申し述べたい、などと、強い口調で書いてしまいましたが、一般投稿者としての「意見」です。 共作であることが判明した時点で、運営の方が良しと判断された、という事でありましょう、後から異論を申し述べる形になってしまったことをお詫びします。 後から名前を明かされた時点で、作者名を連名にする、という方法もあるかもしれない、と(勝手ながら)思いました。 以上、追記でした。 (イマラチオ)

2018-08-12

地球さん 確かに、右肩さんのコメントの引用が、少し足りなかったかもですね。 その後の、〈この作品の場合は、〈本当に「つまらない孤独」がそこにある、と感じさせてくれる〉からいいのでは?・・・というのが、右肩さんの意見、ということかな、〉という部分に含めてしまいました。地球さんの読解力というより、先に書くべきことを私が端折って、後の文章に含めてしまった、ということだと思います。追記、ありがとうございました。 (摂氏37℃)

2018-08-12

仲程さん 沖縄で霧雨に触れた時、光を浴びているような、不思議な感覚がありました。たくさん悲惨な話を聞いたけれども、まあ、いいさあ、とゆったり乗り越えていくような、逞しさのようなものがあり・・・生命力の分量というのか、エナジーの総量のようなものが、東京のビル街の中に居る時には感じられないものでした。 杜 琴乃さん 家族で行った沖縄旅行でしたが、不思議にひとりひとりが個としてそこにあるような、そんな感覚を覚える体験でした。詩というよりは、旅行エッセイのような散文にかなり寄っていますが、旅先での情感が伝わったのであればよかったです。 かるべまさひろさん ここのところ、内面を掘り下げていくようなものが書けなくなっていて、外界との接触で感じたものに傾いている気がします。内面が枯渇しているということなのか、外から取り入れる時期なのか、よくわかりませんが・・・以前、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』という作品集の刊行イベントに参加した時、出版社はエッセイ集、と帯文を書こうとし、私は詩集だ、と反対して、結局、どちらの言葉も入れなかった、と聴衆を笑わせていましたが・・・朗読するのを聞いたら、そのうねるようなリズムが、確かに詩、なのでした。これは新鮮な体験でした。エッセイと詩の境界、小説と詩の境界・・・について、考えたりしています。 (うりずん)

2018-08-12

描写が丁寧で、映像が見えるようでした。 (雨)

2018-08-11

5月、6月の投稿作品と、7月の投稿作品、ムードが違っているのはなぜなんだろう、と思っていましたが・・・ 6月分も、今田千代さんが主体となって作った作品をあげている、7月はカオティクルさんが主となって作り、今田千代さんの名前を借りている、という理解でよいでしょうか? 6月19日投稿分の「今田千代」名義の投稿作品が「大賞」に選ばれていますけれども(そして、アンケートでも大賞に選ばれたわけですから、異は唱えませんが)実は共作であった、ということが、後から提示されているわけですよね。共作である、ということを、作品末に註でつけるなり、コメント欄なりに明かすなりしておくべきではなかったか、と思いました。作品を一人で仕上げなくてはいけない、という規定はなかったと思いますが(共作や、複数名による連詩作品なども投稿は可能、と私は考えていました。ただし、参加した作者の名前、いわゆる文責は、明示すべき。)読者は皆、今田千代さん、というお一方の作品だと思って読んだり選んだりしていたわけですから、「大賞作品」の選考が、公平であったのか、という疑問が生じます。 大賞作品は外部サイトに転載してもらうことになっていますが、公平性に疑問の残る状態で選出された作品を、外部サイトに「BREVIEWが推す、その月の代表作品」としてご紹介していいものか、どうか。この点に関して、私は異議を申し述べたいと思います。 大賞に「今田千代」作品(実際にはカオティクルさんも共作)が選出されたこと、に関しては、BREVIEW内部の問題ですから、今現在、BREVIEWに参加している方々から、特に異議などがなければ、大賞のままで良いと思います。 個人的には、私がコメントを付けたもう一つの6月投稿作品の方が、生きるとは何か、というような問いに正面から向き合っていて、好感を持ちました。7月投稿分に関しては、今コメントを付けている組作品、中でも【所詮はこんなもんだぜぃ!】が一番良かったと思います。 「犠牲がなきゃ正しい道を通れないなんて それは本当に正しい道なのかな? なんだか正解にはつくづく絶望するよ」 この三行に深く共感しました。私は、こういうカオティクルさんの作品が読みたい。 マンネリになっていて、作風の刷新がうまくできない、限界を感じる、というような足掻きの中で生まれたものであった、としても。 こっそり共作をしてみた、という事を批判したり非難したりしているわけではありません。他の参加者が「これもまた、面白い試みだったよね」「自分は、そうなんじゃないか?とわかっていたよ」「こういうのも、たまにはいいと思う」という意見が主であれば、次からは、共作の時は、最初からそう言ってね、ということで良いと思っています。 重ねて言いますが、カオティクルさんの作品、いつも楽しく拝読していますし、コメント欄などへの書き込みも元気があっていいなあ、楽しい人なんだろうなあ、と思って拝見しています。 気になっているのは、外部サイトに紹介する、という一点に関して、です。 うまく伝わるでしょうか・・・。 (イマラチオ)

2018-08-11

思いついたまま、言葉を饒舌に並べているようでいて、非常に緻密に計算(というのは、合わないなあ・・・練られている?)されているようでもあり。 非常に惹かれる作品ながら、どこから、どういう切り口で「語ればいいのか」、が、わからない。わからないものは、わからないままに書くしかないのではあるが。 ライフストーリー、ライフステージが、ひとつのエッセイとして括られていく、区切りをつけられていくとして・・・「たけちゃん」を語り手の半身、分身のようにとらえるか、あるいは、語り手の養子、ととらえるか。「ゆるやかな性」の恋人どうし、ととらえるか。生み出された作品、と、あえて、拡大解釈してみると、何が見えて来るか・・・ 現代音楽を聴く(体感する)という体験と、様々なコミュニケーションの記憶を思い出す、という体感、疑似的な死を繰り返す(あるいは忘我の境地を体験する)快感と、生きねばならない、という日常の痛苦を、生きていてもいい、生きるのもまた面白い、に切り替えていく、生きるための刺激、としての快感と・・・が、うまく言語で説明できないながら、なんとなく、感覚として伝わって来る不思議。 「その瞬間、泣くのをこれからもキスをするように続けたい。」生きようとすることが哀しみでもあって、それがまた快感でもあるような感覚、を感じました。 「創造神さん、ありがとうことよろ。これからも生むのは、大変かもしれないけれど、手を離れれば独り立ち。そしたら、貿易しましょうよ。」「その脳を詰まらせるとき、何人死んでしまうの。」 脳内に生まれた一つの人格を持った誰か(小説家の頭の中で生きて動いている登場人物たち、みたいな)を想像し、その人格を持った誰か、が一つの世界、一つの国、でもある、とするならば、その国と語り手(これもまた一つの国)が貿易する、友好関係を築く、交易する、という言葉が出て来るのも、不思議はないな、と思いつつ、やっぱり、どこから出て来る言葉なんだ?と不思議が残る。 他に面白かった言葉は「女詩的マウンティング」(女詩、男詩、という仕分けのようなものが、あるのか、聞いてみたいと思いました。もちろん、ここでいう女/男は、ジェンダー的な区分であって、実際の性別とは異なります。フェミニン、マスキュリン、といった方がよいかもしれない) 「だから社会はもう敵にならなかった。どこかの遠い創作のままでいてくれる、(丁度エッセイのよう)一粒、一粒に、それでも感情をゆっくりと、両手で上に捧げると、消えていくのをぼんやり見た。」このフレーズも印象に残りました。 「人が生まれる前のことを全く知らないのに、死んでからがこわい。だから、定期的に、死にたくないな、とぼくはこれからもたけちゃんに言います。」・・・やっぱり、「たけちゃん」って、誰?が、気になる(笑) (エッセイ飛ぶ)

2018-08-11

ポスト、投函、という言葉とイメージが、気になって気になって・・・ 赤ちゃんポスト、という言葉が、頭の中をぐるぐる。 純白(&聖母マリアの象徴、とも取れる)のカサブランカを、嫌がらせに、という、意味を深読みしていいのか、どうなのか・・・諸事情あることは充分承知しつつも、赤ちゃんを赤ちゃんポストに託していった人へ、カサブランカを捧げる、と読んだのだけれど・・・。(そもそもの前提が異なっていれば、かなり穿った解釈になってしまうので、違っていたら撤回、と、先に書いておきます) 人は、場を選んで生まれて来るわけではない。いつのまにかそこに居て、いつのまにかそこに住み着く。 よりより住処、自分に「ふさわしい」場所、を探してさまよい続けるのもまた、ひとつの人生ならば。 その住み着いた場を、よりよい場所へ、より住みよい場所へ、変えていく方に加担していく、というのもまた、 ひとつの生き方である、という気がしています。 (すいと)

2018-08-11

〈わたしの時間を乗せた電車から〉こういうフレーズが良いなあ、と思いました。一気に畳みかけていくような一連、とぎれとぎれの息遣いは、〈無意識に息、を止めていたこと、に気付いて汗を拭く、〉というような・・・息をのんで”無感動”の所在をたしかめようとしているような、そんな意識が生みだしたリズムのように思いました。 無感動=健康だが病んでいる/病んでいないが不健康 心が疲弊してしまったり、麻痺してしまったりしている大都会の日常で、ふと立ち止まる瞬間に溢れ出す、詩情への餓え。二連目であふれ出す眠りへの渇望は、鬱や精神不安をもたらす不眠への恐怖が反転されてエネルギーになって噴出しているように思いました。 三連目と六連目は対になっているのでしょうか。三連目以降、リズムに合わせてシャウトするような、あるいはラップのような感じで進行するのかな・・・前半とメリハリが聞いていて面白いと思いました。五連の問いかけも切実、ながら・・・最後、あれ、これで終っちゃうの?というあっさり感もありました。この、終わり方でいいの、かな・・・? (革命的レム睡眠)

2018-08-08

浮かぶべき銀河、ゆくべき明日・・・~べき、で始まる言葉が続いて、ほんとうはこうあってほしい、ほんとうはこうあるはず、なのに・・・という思いが現れているように思いました。 お月さま、という甘い言葉が醸し出す(指し示す)志向と、生身の人間をダッチワイフや人形のように扱おうとする暴力性を持った意識との葛藤、「身体壊すまで、言葉を犯す。犯しながら生きてゆく。」「この言葉遣いのせいで喪った信頼を、これから血だらけで模索してゆくつもりだよ。」という決意表明のような言葉の強さが印象に残りました。 性交を繰り返して、果たして”なにか”が生まれるのか・・・そこには、無理やり押し入っていくことによる、流血と痛みしかないのではないか。そんな不毛性の予感と意志による否定が混在しているようにも思いました。パロディー(愛は地球を救う、などという臭いコピーの反転、織田信長的に行くぜ、という謂いか?)が厳しさを和らげているものの、言葉が上滑りしているような印象も同時に生んでいる気がします。インパクトのある題名が、内容とどう関わって来るのか・・・そのあたりにも、課題がありそうです。 (現代詩とは近親の相姦そのものです)

2018-08-08

簡潔な表現ながら、全体に不思議な柔らかさが漂うのはなぜだろうと考えました。 するやか、光スケート、というような、質感や情景はきちんと伝わる(伝達性を保持した)造語、とつり、というユニークな擬音、体言止めといっても、個物の名称ではなく状態の名詞で止めるセンスが印象に残りました。 2連のSの響きが、3連目ではtsuの響きへと変化していく。そうした音の変化も、丁寧に言葉を吟味した結果であるように思いました。 「香木聡くけむり 洗濯物青くそよぐ」文語的な言い回しが、意識的に形を作る技巧性を感じさせるのではないか、という思いもありますが、漢字を頭にまとめ、ひらがなにやわらかくほどいていくような文字の配列がもたらす印象は、背筋を伸ばして丁寧に生きている人の生活感と柔らかな人柄(の印象)を反復しているとも言えます。 職人の手作りの(恐らくは青をべーすに、気泡の少し入った)厚手のガラスのコップの質感や、丁寧に磨きこまれた金属の蛇口からにおいたつ、スタイルを持った生活の感じは、『西の魔女が死んだ』に出てくる英国出身の老婦人の家や、写真で見たことしかないのですが、茨木のり子の家の雰囲気を思い出したりしました。 旧態依然となり勝ちな写生の詩に、独自の擬音や造語的な表現を持ち込んで新鮮な息吹を与えた好例だと思いました。 (スケッチ)

2018-08-07

お疲れ様でした。 実務面でなかなかお力になれず申し訳ありませんでした。 今後とも、この場が存続する限り読者、レッサーとして関わりを保っていこうと思っています。 (退任のご挨拶)

2018-08-05

はっと目を引くフレーズが沢山あって、全体に硬質な強度も漲っていて・・・ 同時に、その強度が一本調子というのか、間合いにスキがないような、全体に塊となって押し寄せて来るような感覚が残りました。強度のあるフレーズで押したら、情景を喚起するフレーズで少し間合いを作る、とか、 言葉の強さや激しさと、意味の流れで引っ張っていく部分という風に波を作る、というのはどうだろう、など・・・ 個人的な好みにも傾いてしまうので、アドバイスというよりは、勝手な提案(なので読み流していただいてけっこう)だと思ってください。 (Cigarette in your bed)

2018-08-03

なかなかコメント欄が活発になっている、ようですが・・・ 渡辺さんと同様、誤字脱字程度の間違いであれば、私も修正に参加できます。 でも、コメント欄に書き込まれているものだと、読むまでにかなりタイムラグが出来てしまうので、 ツイッターのDMでご連絡してもらえれば、賛助可能です。 大幅な自主改変が可能、ということになると、既にレスがついたものに関して、内容を大幅に改変することによって、本文とレスに食い違いが生じる・・・(その場合、レッサーが一方的に見当違いの批判を投じている、という「見た目」になってしまうことによって、レッサーと投稿者との間にトラブルが生じる・・・という例を、なんどか見かけているので、自分で編集できる、という機能は、投稿した後、24時間以内、とか・・・なにか、そういう機能があればよいのかな、と思ったりもしました。) 花緒さんには、その尽力に頭が下がる、という表現しか出来ないのですが・・・花緒さんが書き込んでいる件に関しては、一方は「超多忙なのに、それを知ってか知らずか、やれやれ、と言いつのられて不愉快」だし、他方は「自分があまり出しゃばって色々行ってもいかんしなあ・・・自分の立場としては、報告する、までに留めた方がよいだろうなあ・・・でも、こう言ってきている人がいるんだし、やってあげた方がよいだろうなあ、伝えておこう」という遠慮が、うまく噛み合わなかった、という気がしています。お互いの状況が見えない、という中で、ボランティアを続けることの難しさだと思います。 ながながと(作品と関係ないことまで書いてしまいましたが)作品評としては、たとえば、その月の掲示板の色合いというのか、雰囲気というのか、そういうことが全体の流れの中でわかる、というようなサンプリングになっていると、その月の投稿掲示板の色合いを写生しました、という、ひとつの作品となるのではないか、という気がします。 自分の持って行きたい方向に、たまたま目についた詩句を拾っていく、そこからインスパイアされたアイディアを改変しつつ盛りこんでいく、というやり方だと・・・たしかに、最後のオマージュというのか、「おことわり」の書き方が難しいですよね。 あえて、ネットでしばしば起こっている訴訟問題、あるいは訴訟するぞ、と脅す問題のパロディー的な要素を盛り込んでいるところが、面白いとも思いますが・・・双方向性の強いネット掲示板では、作品内容よりも、その手法とか問題があるかないか、という議論に流れてしまうような気もしました。 (サンプリング)

2018-08-03

海に出て木枯帰るところなし この名句が、実は特攻隊への想いを歌ったものだ、という説があります(本人もそういっているけれども・・・実際にそうなのか、後付け、なのか・・・)いつの時代にも、こうした特攻隊的な自己犠牲への称賛と否定とがないまぜになっていて・・・地球の姿を映して送信して果てた、そこを擬人化して感情移入してしまう、時に、何が起きるのか、というようなことも、少し考えてしまいました。 「  」このカッコに入れたのは小題、なんですね。全体が分断されている、断章の集積なら必要かもしれませんが、螢、という言葉、あるいはイメージで一貫しているので、省いた方がよいと思います。 螢を魂とみる・・・のは、古来から歌われてきたイメージですが・・・イカロスを螢に見立てる。一瞬、人に喜びや美や感慨を与えて、あとははかなく消える、イメージでしょうか。 「イカロス」が流れ星になって地球に落ちて来たとき・・・燃え尽きてしまうのか、水辺に落ちるのか。水の惑星を最後に映して・・・というところも気になります。螢とイカロス、その双方のイメージを、もう少しなんとか・・・あとひとひねり、できないかなあ、とか・・・。 (イカロス)

2018-08-03

命が、途切れるか、と思ったところで・・・ 無事、生まれてよかったな、と思うと共に。 〈この世への/綱を引く〉簡潔な一行ですが、鬼気迫るものがありました。 〈あの奥〉が、宇宙空間の闇のような・・・底知れぬ場所へとつながっているような感覚もあります。 (見えない向こう)

2018-08-03

Hikouは飛行、なのか、非行、なのか・・・ 夜の外出。着替えは持たないのに、アイパッドとスマホ、それから化粧品は持つ。 夜半、出会いを求めるような、求めないような、あいまいな気持ちで出歩く少女を想像しました。 霧吹き・・・心が罅割れないように、心を湿らせるための・・・そう考えてみたくなる。 花もメタファーであればなおさら。とは思いつつ、少女と夜の花は結び付けすぎになってしまうので、 花は花、のままで読みたい(そうあってほしい)・・・という、ちょっと複雑な感情もわきました。 (Hikou)

2018-08-03

息子と娘がある家の前を通るたびに「キーン」という音が聞こえる、といい・・・私には聞こえないのですね。 気になっていたら、猫よけの超音波(高周波?)を出す機械が、玄関先に設置されていた家だったのでした。 息子と娘、は、猫の比喩、ではなく、文字通りの人間の息子と娘、なのですが・・・猫に近いのかもしれない。 私には見えるのに、他の子には見えない色があって、焦ったこともありました。 中学の時の文化祭の準備中、模造紙の上の「黄緑の消しゴム取って」と言ったのに 「どれ?そんな色の、無いよ?」と言われてしまい・・・ 私が這いずって手に取ったのは「それは、オフホワイトだよ」という消しゴムでした。 手に取るとオフホワイトなのに、紙の上に置くと黄緑。 科学の先生に聞いてみたら、蛍光灯の光と、模造紙の中の蛍光増白剤とが、 消しゴムの微妙な黄色みにかぶって黄緑に見せているのだろう、とのこと。 色を、その色に見せる、って、なんだろう。以来、ずっと、考えています。 美術史の「ディスクリプション」という授業で、一枚の絵の枢機卿のガウンの色を説明するのに ある人はワイン色といい、ある人はカーマインレッドといい、ある人は象徴的歴史的色彩性をコンコンと説き始める。 歴史的、物語的意味合いを担う色もある、ということ。 見える/聞こえる/魅せる/効かせる って、なんだろうな、とか。 鼓膜が腫れあがってガンガン頭痛がして、医者に行ったら鼓膜の向こうに腫瘍があるかもしれないからCTスキャンを撮る、と言われて、ガンガン痛む頭を抱えて別の耳鼻科に行ってみたら、首をかしげながらとりあえず試してみよう、と茶色い液体を流し込まれて、これで収まらなかったらまたおいで、と帰されました。その日の夜には痛みが治まり、翌日報告に行ったら、やっぱり、亀の甲より年の功だな、入れたの、イソジンだよ、うがい薬、と言われて絶句。よくよく調査したら、羽虫が耳に入り込んで、鼓膜のそばで死んで腐ってカビていたのでした。それと関係するのかしないのか分かりませんが、今でもストレスがたまると滲出性外耳炎になります。綿棒で副腎皮質ホルモン系の薬をちょびちょびと塗り込みます。 ・・・というような思い出を、想い出しました。(これは、即興詩、なのかな、即興コメント、なのかな) (ちょうりょく)

2018-08-03

即興ラップ(時事問題取り込みながらの)を聞いたことがあるのですが、テーマとしては同質のものを感じました。 語り口はラップ調というよりは、もっとゆるやか、ですよね。肩の力が抜けている、というか。 「緊急速報の~ポチャンと落ちる」まで、非現実なのに緊迫感があり・・・それと同質のタトエというのか、 いかにも現実にありそうで、実際に当事者はわき汗も冷や汗もだらだら、になりそうなリアルなシチュエーションが なんともコミカルで笑いを誘うのは、なんででしょう・・・ 深夜帯でしたか、名前がわからないのだけれど、やたらにおっぱいの大きい女の子の幽霊が出て来る漫画を息子が見ていて、 かたわらでチラ見しながら、オトコの妄想全開、みたいな漫画だな(どさっと倒れ込んできた女の子のおっぱいにムギュウ、とつぶされる、そんでもって、ぶっとばされる、みたいな「偶然」がやたらに連発する)と半ばあきれ、半ば面白がって見ていたのですが・・・そんな感じの笑い、なのかな、とも思ったり(なんかわけわからんこと書いてますね) もっと、コントとか漫才とか、そういうお笑い系番組で、ガンガン政治家(政治やさん)を面白可笑しく、芸達者にディスれるような、そういう話芸を持った人が出てこないかな、と思いつつ・・・そういう笑いを書く芸人は、テレビ出演させてもらえなくて、小屋掛けで頑張っている、と聞いたことがあります。大衆全体が、もっと尖がった笑いを求めようぜ!と、いつもモヤモヤしたものを抱えています(ということを、なんとなく書きたくなったので、書いてみました。) (はーげ・ハーゲ・は〜げ〜)

2018-08-03

物語風の展開が面白いですね。 未来人、それは実は自分自身の姿の反映、だったのでは・・・というような方向に読めるような仕掛けがあったりすると、 もっと奥行きが深くなるような気もしました。 他者には見えて、自分には見えない。 実はそこにあるのは自分自身の亡骸で、それを自分の魂が見ている、なんていうのはどうなんだろう、とか・・・ そんな展開も考えて見たくなりました。 (今日を見つめる未来人)

2018-08-03

切り詰められた表現がとても魅力的でした。 最初は恋の始まりを、2連目は失恋後の心を表しているような気がして・・・いずれにせよ、求めても得られないもの、失うために、その痛みを身に負うために、なぜか必死に求めてしまうもの、なくてはならない熱のようなもの・・・恋だけではなく、情熱を注いで追い求めるなにか、すべてに当てはまりそうです。 最後の連が、鋭く迫ってきますね。この声とは・・・詩を、うたを綴る声なのかも知れず・・・改めて身に負った傷を(はらわた、を焼き尽くすような想いを)言葉で確かめずにはいられない、そんな衝迫を感じました。 (止痛薬)

2018-07-30

1連目の現実界と幻想界を美しく重ねていく入り方と、2連、3連の説明的過ぎるような連とのギャップについて、まずは考えさせられました。歌いたいことと、言いたいことが、そのままあふれでてしまっているようにも思います。 4連目、5連目の比喩と心象が巧みに織り成されていくところが良かったです。そら、が、くう、とも読めることも含めつつ・・・「住み処をなくしたジョーカー」が効いていますね。語り手の拠るべない心境を、自嘲気味に、でも愛惜を持ってとらえている。 6連、「やわらかな喪失感」とまとめてしまうのではなく、そこをこそ、心象に造形していって欲しいと、思います。 7連は、ここも説明的、懐古的ではありますが、もうひとつのテーマの提示と読める部分ですね。 8、9連で感じたのは、カタカナでニュアンスを変えたり、「おでかけ」とおさな言葉を用いることによって生々しさや苦しさを昇華することが出来ているのか・・・それは言葉の上での「たわむれ」に過ぎないのではないか?ということでした。 しかし、10連以降に「風」が登場し、語り手に「言葉遊び」をもたらしたものについての流れが始まる。なるほど、自問自答の中身をそのまま(過程も含めて)文字化していった、といううとなのかもしれない、と、腑に落ちるものがありました。 13連以降は、自分で問に答えてしまっている感もあります。 説明的な部分や、自問自答(特に自分で回答や解答を与えてしまっている部分)を整理して、読者に作品を手渡していくようにすると、より多くの読者の心に響く作品となるのではないかと思いました。 (わたしの風の又三郎)

2018-07-30

「どんな天井を仰いでも構わない」この一行は、「抱かれる行為すら」の一行と呼応しているのでしょうか。 あまりにも警戒心なく、誰にでも心を開いて(ボロボロにされてしまっても)その人を嫌いになれない、そんな・・・あまりにも素直すぎる心を諦めと共に受け入れてしまっている、そんな主人公を思い描きました。 そこから自立していくときの苦悩、 「1秒でも永く 人の姿で居ることを決めたのは 小学生の夏でした」 そこから、24才までの長い道のり・・・そこを乗り越えて、 「這いつくばりながら」も生きているいま、がある。 その自分を受け入れて、静かに立ち上がるとき・・・自らの内からも外からも聞こえてくる拍手、それは、主人公に命を与えた者からのらこれまで生きてきたことへの勲章なのかもしれません。 カーテンコールは、お芝居の終りに鳴り響く拍手。これから、芝居ではなく、本当の生が始まる、ということなのかなとも思いました。 (鳴り止まないカーテンコール)

2018-07-29

ペットボトルのメダカと野生のメダカ・・・の対比は、扶養されている(しかし自由はない、危険もない)立場と、自力で生きていかねばならない立場の対比に重なります。 実際にそのメダカを見ながら感慨(ある種の悟り)を覚えた、という設定かと思いますが、すべてを作者が語ってしまうと、読者の側が想いを馳せる余地がなくなってしまうような、そんな息苦しさを感じるようにも思います。 たとえば・・・ 対比している語り手を、今度はメダカの側から見てみたら・・・とか、メダカを見ている最中に、小川で自在に泳いでいたメダカがザリガニに食われる瞬間を視た時の衝撃を挟み込んで、写生的な描写で両者を描き出してみるとか・・・なにか変化を加える工夫をしてみると、もっと味わいが出るかもしれません。 (ペットボトルのなかのメダカ)

2018-07-29

茨木のり子さんに、「みずうみ」という詩があって、そこでは神秘的なまでに青い水がたたえられているのですが・・・この作品では、さらにその清らかな水の底に、濁った層がある、のですね・・・ 表現が少し直接的で、たとえるものとたとえられるものが一対一対応のような形になってしまっているので、そこが思案のしどころかなと思いました。 面白いのは、最初は眠りと共に自然に(不可抗力で)沈んでいくのに(そして、そこで攻め立てられて逃げ出そうとするのに)清らかな水を飲み干して、今度は意識的に潜っていくところ。 また、あの苦しみを体験したい・・・という、倒錯的な快感、エンドレスに悩みに浸り混んでしまう状態を書きたかったのか、あえてそこに戻り、何が起きているのか、自分は何と出会ったのか知りたい、ということなのか・・・どちらなのだろうとも思いました。 (地下水)

2018-07-29

性の官能、あるいは高揚が、ある極点を越えたら・・・あとは死、しか残されていないのかもしれません。 共に味わうエクスタシーではなく、ひとりで昇りつめて、狂気の域にまで踏み込んでしまった、そんな幻想の極点を想像で体験した、という印象の作品でした。 二人で燃え尽きた後・・・は、灰になる、のではなく、二人とも土に埋まっている、のですね・・・。〈透明 蒸発 した 私が 笑う〉しかし、〈私 は乾いた 土 に 包まって 乾いた 唇 で 思う〉。 〈贖罪 に 彼 ら の 萌芽に 降り 注げ 3月 の 雨 〉 〈 庭 に 埋め た 君 が発芽 する 頃 〉 殺された君、を大地に埋め、〈私〉は〈3月の雨〉になって降り注ぐ・・・震災と結びつけるのは不本意かもしれませんが、荒れ、暴れて、〈君〉の命を奪ってしまった〈私〉とは、大地、あるいは天空そのものではないのか。そんなイメージにも誘われました。 (エクスタシー)

2018-07-27

〈その日暮らしのちっぽけな存在が、ミャンマーそのものだ。〉〈この川の両岸にしずかに佇んでいるテトラポットたちはみんな、ミャンマーだ。〉ミャンマーというのが、個人に対するアダナ、なのだろうと思うのですが、それが、明日への希望や期待を持ちがたいような、都市という重圧に吹き消されてしまうような(その消されそうになるチカラに抗して、詩を読んでいる、のかもしれないけれど)存在へと普遍化される、テトラポットのよな、孤独な在り方(をする存在すべて)に普遍化されていく、そこが良いと思います。 大阪、という都市名と、ミャンマーという国名が結びついて、それが、このような在り方(ひとりで、明日をも知れず、しかし静かに存在を主張する)を示す名前ともなる、というところは、とても面白いと思うのですが、ひとつ、ちょっと心配であるのは、世の中には、国名を呼ぶことで、差別的な意図を込める場合があって、悲しいことに、それがなかなか減らない現実がある、ということでしょうか。この作品の場合は、国名をそのまま「あだな」として用いることに、差別的な意図はないことはわかりますけれども・・・(その意味で、「ミャンマーは日本人であるが、」この説明的な部分が必要になる、と思いました) (大阪のミャンマー)

2018-07-27

〈わたしの抜け殻が夏の真ん中に取り残された〉この書き出しは、とても面白いと思ったのですが、 〈そのようにつまらない孤独です。〉ここは言わずもがな、だったのでは?・・・と思いながら読んでいて、 その理由を記そうと思ったら、右肩さんが〈孤独をつまらない、と判断している文脈〉と既に書いて下さっていました。 自己判断をしてしまわない方がいいのでは?というのが、私の意見で、自己判断しているフレーズだけれど、この作品の場合は、〈本当に「つまらない孤独」がそこにある、と感じさせてくれる〉からいいのでは?・・・というのが、右肩さんの意見、ということかな、と思いました。 〈蝉がきらいだと言ったらあの人のやさしさは、蹴飛ばして退けたアスファルトの上。〉 〈生き死にを見せつけないでと断末魔。〉 この語順というのか、流れが独特。そこに詩があるのだと思います。 散文(説明文)に書き直すと、「私が「蝉がきらいだ」と言ったら、あの人はアスファルトの上から蹴とばして退けてくれた。それが、あの人のやさしさ、なのだ。(でも、蝉の抜け殻が、まるでわたしの抜け殻でもあるかのように思われてきているところだったので)私自身が蹴り飛ばされてしまったような気がして、なんだかもう、胸がいっぱいになった。生きるも死ぬも、なんて軽いんだろう、なんて儚いんだろう。ああ、どうぞ、生死を直に、見せつけないで・・・。」説明(私の解釈でもある)してしまったら、まったくもって、面白くない。私には、そのような感慨が立ち昇って来る。でも、他の人には、また少しだけ、違った景色や想いが立ち昇ってくるかもしれない、という「ゆらぎ」が残されていなかったら、詩にならない。 自身の感慨に忠実に、思ったこと、感じたことをまず言葉にして置いて行く、という方法を取っていること。 〈ただいのちがおそろしい〉素直な表出のようでいて、なかなかこの二語は結びつかない。わかるフレーズ、感じ取ることが出来得る、フレーズなのに、うまく説明が出来ない。(作者が、なぜいのちをおそろしい、と思ったのか、怖ろしい、なのか、畏ろしい、なのか、それも含めて説明を阻むけれども、解釈的説明を加えなくても、恐らく、他者の心に落ちていくフレーズ)そこに、この詩の「キモ」がある、と思うのです。そこに「ゆらぎ」が残される余地があるのだ、と思います。 最終行・・・右肩さんも疑問を投じているけれども・・・語りが「あの人」から「わたし」へと戻って来るのだとしたら、この一行がないと成立しない。語りが「あの人」のものであるとしたら(暑苦しいね、と、あの人、がわたし、に語りかける、というシチュエーション)〈死んで生まれる〉と〈なんど目が覚めても〉がリンクしてくる。蝉しぐれと狂人、が、どう結びついてくるのか・・・そもそも、〈二人はアイスコーヒーを飲んだ。〉この「事実」は、〈わたし〉の中だけの「事実」で、現実ではないかもしれない(幻想、幻影かもしれない) 暑苦しいね を アツクルシイネ アツクルシイネ アツクルシイネ と早口で並べていくと、蝉の声みたいだなあ、とか・・・いろいろ、曖昧である分、いろんな色で見えて来るところが面白いと思いました。 (摂氏37℃)

2018-07-27

つれづれなるままに、を実践してみたら、こうなりました、という事後報告的な感覚があってずうっと眺めるように読んでいて(すっと入って来る言葉があるな、と思ったり、改行のリズムが音楽的な効果を持つ部分があるな、と感じたり、どこまで続くんだ?と、読むほうも「つれづれなるままに」思いつつ)最後で、書き手と読み手が逆転するような仕掛けというのか、勢いに出会って、良かったな、と思いました(という感想も、妙な具合かもしれないけれど) 流れや音感で読ませる部分と、意味や映像イメージのまとまりで読ませる部分のメリハリが、もっとあれば長さが逆に効果的になったのではないか、と思うのだけれど・・・どうでしょうか。 (徒然草)

2018-07-24

まったくもって、蒸し焼きになりそうな暑さだ、と思いながらアスファルトの道を歩いて買い物に行ったりしている体感に、案外近いものがありました。 緑の液体に溶けていく獣たち・・・アメーバのようにとろけていく感じもあって、面白い映像だと思います。 虫系のアニメなんかで体液が緑色に描かれたりするのを見たことがあるけれど・・・そのイメージと関係はありやなしや。 赤の補色としての緑、なのか、癒し系の色としての緑、のイメージなのか・・・ サバンナの光、と来ると、影、あるいは夜、を予測する。そこに液、という、ぱっと見、似た文字が置かれることで全体が流れ出すような始まり方がいい具合に裏切ってくれていて、面白さのタネになっているのかな。 美しい、きれい、という言葉も、出来れば使うのを避けましょう、と(いわゆる初心者に対して)しばしば言われる「お約束」であるわけで・・・それを連呼することで、くどさを通り越して、一つのスタイルに様式化してしまうような流れも出て来るな、とか。 白反射はともかくとして、透き緑とか赤若い、という・・・絵の具の名前を無理やり和訳したみたいな造語が、うまく機能しているかどうか。なんとなく雑音的に、引っ掛かりを作っている気がして、それはそれでアクセントとして面白いけれども、それが一連に集中している、というバランスは、どうなんだろう、とか。 (サバンナの光と液)

2018-07-24

〈だけど、僕は地を這う虫だ〉以降が、個人的には面白かったです。 「歌の翼に」ではないけれど・・・詩神というのか、ミューズ的な天使みたいな女性(に仮託された詩精神みたいなもの)が、ひたすら高く飛翔していく、というような(めちゃくちゃ生真面目な詩青年が、ああ、崇高なる詩精神よ!・・・とか詠嘆しながら夢想したイメージのような)絵柄が、パロディーなのか、素直な提示なのか分からないまま前半に展開されていて・・・後半は適度に”いなし”ながら、実感も込めて書いている、バランスが面白かったです。・・・軽めな作風を意識した、とコメント欄にあるけれども・・・(ジュナイブル、になっているけれど、ジュブナイル、ですよね?)ブログ文体的な、短めの改行で横書き、さくさく読めるようなファンタジー小説的な叙事詩、みたいなものだと、案外いけるかもしれないな、と思う時もあります。 (天と地)

2018-07-24

蔀さんがリズムについて言及されていますが、今までの投稿作品に比べて、格段に口調が良いですね。流れるような、弾むような、それでいて、いわゆる五七調などに固まってしまっていない。緩急もある。 「を/隔てて」という、つまづくような、引っ掛かりを作るリズム。書名捺印する、という責任の伴う行為、曲がり豆と書きますと、電話口で自分の名前を説明する口調を挿入するズラシ具合、間に噛ませる、という当て物の感覚と、自分自身が当て物として間に噛まされている、という奇妙な体感と・・・その隔たりは、時空であり、河が暗示する彼岸であり・・・。 全体に漂う、ひょうひょうとしたユーモアが「奏でる」口調・・・~節(ぶし)と呼ぶようなリズム感が印象に残る作品でした。 (隔てて)

2018-07-20

「パンッ!─── 乾いた破裂音が辺りを満たす。」 まるで、ピストルで撃ち抜くような感覚ですね。ファインダー越しにのぞく、ということ。獲物を狙う、ということ。 前後を読んでいくと、「なだらかな石段」を下った先、「くねくねと細長く続いていく」石段のたもと、「門前の脇に置かれた、真四角の煎餅板の上」に居る眠り猫のような、不思議な存在感のある猫(ぬし?)を「被写体」として捉えようとした、その瞬間、猫は「煎餅板」を(パンッと?)蹴り上げて、消えてしまった・・・ということ、になるのでしょうけれども・・・猫が蹴り開けた、であろう「煎餅板」があったあたり、「地面に接する板の下方は矩形に切り抜かれていた。/覗き見るとどこまでも薄暗い、遮るもののない道が続いていた。」ところが、妙にコワイ。不気味というのか、いきなり異界が開けているような感覚があり・・・その異界の先に、また、同じようにうねうねと続く石段の道が、再び現れる、というエンドレスの感覚。 同じ場所を少し角度を変えて書いているだけなのかもしれませんが、「覗き見ると~」の連が入ることによって、一つの世界に空いた穴から、同じようなもう一つの世界へと入り込んでいくような、奇妙な感覚が生まれるのですね。 くねくね、うねうね、と続く石段、それが「口縄」なのでしょうか。全体が蛇の体であり、「朱に塗り込められた、とある念仏寺の門。」が、蛇の口のように見えて来る感覚もありました。 かるべさんが、猫町(朔太郎の?)を連想していますが、かるべさんもまた、奇妙な(どこか怖いような)酩酊感を感じ取ったのでしょう。不思議な読後感の残る作品でした。 (口縄にて)

2018-07-20

「私」、と「わたし」、の使い分け、は・・・私も時々やるのですが・・・。「私達」もすぐそばにあるので、「私」がごちゃごちゃと集まって見えてしまう、のですが、それも一つの効果、と考えるか、否か・・・。彼岸、此岸という言葉、輪廻という言葉、それぞれ大きな意味を持っている言葉が、具体的な情景に限定的に用いられてしまう、ことによって、観念が固定化されてしまう、ような気がする、のだけれども・・・。小さな意味というのか、局所的な意味を持つ「向こう岸」、というような具体的な言葉を用いて、彼岸、という大きな意味を暗示させる、読んでいる内に、もしかしたら彼岸なのかもしれない・・・と読者に自ずから知られる、というような展開にすると、もっと深みが出るようなきがしました。 繋いでいる手が、次第にひえていく、そのひえた手を惜しむような、うらやむような、愛おしむような気持ちで手放す。手放す手の持ち主は自分の顔(蒼ざめた、血の気の失せたわたし)ということですよね。手放す側(私)の視点が、手放された側(わたし)の視点に移りつつ、叙述しているのは「私」。姿形が異なっていても、両方とも「わたし」なんだ、という方向性なのか、もうひとりの誰か、が、「わたし」だとわかった、という方向性で行くのか。意識が「私」と「わたし」の両方にある、いわば引き裂かれて、自分というものが希薄になっている状態、それを情景として描いている作品だと思います。 過去の私、を死者として葬り・・・本来なら幸せな死者として、彼岸で解放された生を生きてほしいのに、いわば、成仏しきれない私、がいる、そのことに後ろ髪を引かれる・・・というような感覚でしょうか。 (輪廻)

2018-07-19

こうださん かるべさん ありがとうございます・・・誤記が、「語気」になってますね(笑) 失礼しました。 脳内で変換されたものが、ブラウザでもその通りに実現されているとは限らない・・・という当たり前の話ではあるのですが。 パソコンにAI昨日、じゃなくて機能が、入ってほしいような、それも怖いような・・・。 (6月分選評)

2018-07-19

夏生さん 体全体で自然を感じたい、というのか・・・自然に溶け込んでしまいたい(自分を忘れてしまいたい)という感覚が、常にあります。止め方は難しいですね・・・高田敏子さんという詩人が、初心者向けの言葉の中で、どこで終るか、終えるか、そこが大事だという話をしていました。 (梅雨晴れ)

2018-07-19

『ラチとらいおん』という物語(絵本?)があって、それを思い出しました。 自己肯定感を持てない少年の元に、小さいけれど勇敢なライオンがやってくる。少年は、ライオンと一緒だと勇気が湧いてきて、いろんなことを自発的にできるようになる。やがて、少年が自分の力で一歩を踏み出すことができるようになったとき、役目を終えたライオンは、置手紙を残して・・・以下省略。 もう一つ思い出したのは、今読んでいる、日本の精神分析医の歴史の中に出て来た、絶対安静の後、何も考えなくて良いような作業療法から始めて行くという治療法。 この「話」の中では、「どら猫」は友人だけではなく、町内全体の人に見える、存在であるらしい。(ということは、この町内そのものが、「友人」の妄想、というシチュエーションだという見方もできるけれど)あるいは、「友人」にだけ見えていた「どら猫」が、居なくなったときから・・・町内が「どら猫」を殺そうとしている、という新たな妄想が「友人」に取り付いたのか。 いずれにせよ、気になって仕方がない、守りたい、という積極的な気持ちが生まれた、という時点で、「セラピー」は終了したのかもしれません。 最後に「友人」が記憶の底に仕舞い込んでいたトラウマの現況を見いだして・・・自ら言葉にする(外に排出する)ことで健康体を取り戻す、わけだけれども・・・今度は話者の「わたし」と「友人」の関係が、「友人」と「どら猫」の関係に回帰する・・・螺旋状のループというのか。形の上でのループではなく、内容でのループになっているところが、螺旋の一段階、上の段階にのぼった、という事になるのかもしれません。 いずれにせよ、ある種の共依存、ではある、わけですが・・・そこいらじゅうで、こんな「セラピー」が展開されていたら、この世界は、もっと住みよいものになるかもしれないですね。 (どら猫セラピー)

2018-07-19

自由奔放に「ぶっ飛んで」いくスタイル、のようなイメージがあったのですが、この作品は寝入りばなの夢想と現実がせめぎ合っているような感覚があり、話者が居る場所からさまよい出てはまたそこに戻ってくるような、回帰するイメージもあって、すっと胸に入ってきました。 毛・・・という言葉、それだけで不思議とエロティックな響きを醸し出すわけですが・・・那珂太郎の詩を思い出したりもしつつ・・・連れ合いの尻、これはシリと読むのか、ケツと読むのか(毛、を響かせながら)、なんてことも、ちょっと思ったりしつつ・・・ 猫の恋とその啼き交わしが連れ出す夢想の世界と、死(あの世、異界、夢想の現れ出る場所)が思いのほか近接していること、そこに引き込まれそうになるタナトスとエロスとがまた、せめぎ合っていること・・・そんな切り離せないけれども、傾きによって色が変わるような心の両極の在り様を、空で牛が草を食む、という妙にクッキリとイメージの浮かぶ夢幻世界と、現実界(猫が家の外で鳴いている/死んだように眠っている連れ合い/死へと傾きかける気持ちを持て余しているような自分・・・)の気配を並列させて描いているところが面白かったです。 (牛と猫)

2018-07-19

夏生さん、5or6さん、二条千河さん、ありがとうございます。これからも素敵な作品を読ませてください。 〈選評〉に語気がありました。 供物という思い言葉→重い言葉 かるべさんの作品評の部分です。 (6月分選評)

2018-07-17

蔀 県さん、こずAさん、かるべまさひろ さん コメントありがとうございます。 意識的に、ガイア的な視点で書きたい・・・という意図が先に立っている部分もあるかもしれません。 実感している部分と、観念的に(大地のお腹の中、鍾乳洞の中、自身の身体の中、消化器官、肌の内側、といった感覚を追体験する、というような)とらえたものを、感覚に戻そうとしている、というような・・・その意味では、実感したことを、体感の次元に落とし込んで、それをさらに、観念に結び付けようとしている・・・という操作を行っているかもしれません。 葉の上を転がり落ちていく露玉に意識を集中しつつ、内面を考えてみたら・・・ということ、でしょうか。 (梅雨晴れ)

2018-07-14

リンクの貼り方が悪いのか(改行を指示しなかったから?)画面からは飛べないようですが・・・コピペしてみてください。 (6月分選評)

2018-07-14

〈それ以前のものは今頃、世界のどこかの0と1、あるいは、二酸化炭素と水蒸気とわずかな煤になって、それから……。〉 デジタル世界で詩を書いてきた(データを残してきた)人ならではの感覚なのかな、と思いつつ、あるいは、で有機的な流れと繋がるところ、アナログ世界と同居しているところが面白いですね。 詩とはなんぞや、それがわからない、から、書いている、読んでいる、のかもしれませんが・・・ 絵画にも音楽にも映像にも、詩(詩情を喚起するもの)がある。風景にだって、観念にだってある。 ということは、つまり、自分の心と響き合うもの、そこに詩が生まれていて、それを言葉で拾ったら、(文字の)詩になるのかな。そんなことを考えます。 (はじまりのおわり)

2018-07-13

生真面目に始める冒頭、全体の構成、切り返し、そこから他者の痛み、これから「喰らう」ものが蓄積してきたであろう痛み、に想いを馳せる。そして、単に感傷に陥るのではなく、エイクピアさんもコメントしているけれど、〈たとえ血の味がしたって/喰うよ/それが精一杯の供養だからね〉ここですよね・・・。 攻殻機動隊、の中に閉じ込められた若者たち、の意識は。そんなことも考えました。脱皮直前の、膨れ上がった肉体が、締め付けられる痛み、なんて、考えたこともなかった。毛ガニの毛は、触覚なんでしょうか・・・クラゲのかさの縁の毛、これが感覚器だといわれて、びっくりしたことがありますが・・・猫の髭のように、人間の髪の毛、一本一本に、きちんと感覚が伝わるような仕組みがあれば、どれほど鋭敏に生きられるだろう、と思ったり・・・それでも、敏感な人は、自身の体毛のそよぎで、気配を感じ取る様です。 脱皮もしないで、肥大化する人間(幼形成熟した哺乳類、とも)への視線も読み取れて、面白かったです。 (毛蟹×一杯)

2018-07-13

〈すべてを あなたは もっていたけれど/ないようぶつは ない〉それでも、同じ人を想い続けてしまう、そこから抜けられない、ということでしょうか。ひらがなで書く必然性が、いまひとつ感じられないのですが・・・音や言葉を、ゆっくり拾っていく、詩の進行を静かにしみこませていくような効果や、柔らかさを目に与える効果がありますね。 (りんね)

2018-07-13

なんだろう、この感じ・・・ 最後に童貞を捨てた(道程と同じ音ですね。パソコンで打っていて気づきました)というか、童貞を捧げた、女性と共に風俗店をやめて、ラーメン屋を開いた(というストーリー)を、そういえば、そんなことを夢見ていた時もあったな、とどこかで思いながら、ラーメンをすすっている、的な・・・実際にそうであるかどうかはともかくとして、純情とは、なんぞや、というところから生まれた作品でもあるように感じました。 (シンクロニシティ)

2018-07-13

〈そうか俺は変わらないのか/変わっていないのか/変われないのか〉 畳みかけていく、印象に残る「入り」から、〈「お前は変わってんな」〉という本題に移行し・・・ 〈何だか相手の理屈を屁理屈と見破る事は出来るけど/そいつも正しい理屈を捏ねる事が出来ない/一体何を持ってお前らは俺より真面なんだと言ってんだ?〉 普通、そんなこと言わない、そんなことしない、変わってるね、と言われ続けて、普通がわからん、普通ってなんだ?と思い続けてきた私、としては・・・単純に、自分のやりたいことをしているだけ、皆がやっていること、でも、嫌だと思うことはやらなかっただけ、なのにな、とか・・・他人に変人と思われても構わないや、と思いながら生きて来ただけ、なんだけどな・・・と常々思っているので、このあたりは強く共感しました。まっとうに生きるって、なんだろう。真面目に生きるって、なんだろう。 私の場合は、普通の人がやりたがらない「勉強」が好きという変なオタクで、あなたはアカデミックだから、と大学でも一般学生に敬遠されて・・・結局、大学院とか研究室に出入りしている、どこかしら飛びぬけていて、なかなか「一般社会」「普通の生活」に馴染めないような、そこから弾かれてしまうような人たちと一緒に居る方が、居心地が良かった、のではありますが・・・今週のドラマの結末は、どうなる?と皆で盛り上がっているところに、一人だけ、カントがどーたら、とか言っている「空気の読めない」「読まなくても構わない」と思っている、奴でした・・・。 この作品の場合は、たとえば定職につかずにバイトをしながら夢を追いかけているとか、そういう自分に正直な生き方をしている人をイメージしました。親としては、定職について、結婚して家庭を持って・・・そういう生き方が、「まっとう」「真面」なのかな、と思い・・・そういう、世間一般の見方代表、のような両親や友人と、そこからずれてしまう(自分自身のやりたいように、思ったように、その意味では、自分の意志にしごく真面目に)生きている自分とのズレ、どっちがおかしいんだよ、どっちが変なんだよ、という「言いつのり」まではいかないにしても、「まぜっかえし」のような感覚がよかったです。 性にまつわる表現を詩に使う時、タブーを犯す、あまり使われない言葉をあえて使う、という「用いること」そのものの刺激に頼ってしまうのは、既に時代遅れ、だと思っていて・・・となると、用いることに必然性が無ければならない。 〈ほんとはちんこの先から体をバキバキ骨折しながら/お前の汲み取ろうとする膣に身を委ねて/子宮の中に入って転生なり進化なりしたいけど〉このあたりの、いっそ生き直してみたい、という切実なものが基底にある。 そこから・・・〈携帯電話を弄りながら股を開いてる女〉に(知人の話で、途中で寝ちゃうかもしれないけれど、テキトーに入れてていいから、と言われてセックスしていたら、最中に本当に相手が寝てしまい、すげー空しかった、というのを、ちょっと思い出しつつ)ほんとの裸の付き合いってのを、教えてやるよ・・・という流れに入る。 〈記憶にはないけど射精された時~そんな奴らと競争して俺が此処にいるんだ〉精子たちの「生き様」と、自分も含めた「男たち」の生き方のようなものを重ねて、精子ひとりひとり(という言い方も変ですが)のことに想いを致す、という視点の取り方も面白いと思います。 激しい行為を美化することなくリアルに描いているようでいて・・・女の腹が破裂する、というデフォルメに到るまで、スムーズに描写が進行していくところも良かったです。虚実ないまぜ、というか・・・実が虚になる境目が露骨に見えてしまうフィクション(詩も含めて)は面白くない。 ほんとの、まじの付き合いって、魂同士が刺し違えるような、命のやり取りをする覚悟がいるような、そういうもんじゃないのかよ・・・というパッションのようなものを感じました。 いわゆる「脳膜メンマ」などに描かれたデフォルメされた暴力性と、また異なった次元というのか・・・お前も、俺と同じくらいに、真剣に応えてくれよ、という切実な願いが背景にあるような、襟首をつかんでユサユサ揺さぶる、そうして、俺の話を聞いてくれよ、と訴える時のような、そんなエネルギーを感じました。 (イマラチオ)

2018-07-13

最初の二行を外してみたらどうだろう、とか、きっと〇〇だから、〇〇に違いない。というような作者の推測、的な部分が、読者に鮮烈に伝わりかけたイメージを・・・薄いカーテンを引いてしまうような、というのか、少し遮ってしまうような印象を受けました。 こうしたイメージ先行の作品は、徹底して(心の中の)風景を描写していく、(心の中の)対象を写実的に、具体的に描写していく、方が読者に、より迫って来る作品になったのでは?と思います。 (燃える馬)

2018-07-13

ざわざわ・・・とした中から聞こえて来る、無数の「アイミスユー」のささめき、重なりを、文字であらわしてみた、という事でしょうか。記号ではないので、音読は可能・・・だとすると、朗読を聞いてみたいような気もしました。 (雑踏)

2018-07-13

これだけ自由に想念を飛ばしながら、言葉の流れに自然なリズムがある、とぎれめなく読ませる。天性のものなのか、推敲を経て創り出された文体なのか分かりませんが・・・意味の断絶が起きるところ、意味の連なった文章が断ち切られるところを、言葉の力で自然に乗り越えて行ってしまうあたり・・・たとえば、「あの、琵琶湖、見えない海から、通した検眼を用いてよわたし舟でした。  力を抜いて、力を抜いて、軽々しいわたしの生まれ変わりを、鳴いて欲しいうぐいすフロアを駆け抜ける十七歳の。」このあたり、ですね。(「わたし」が「私」でないゆえに、渡し船、私、舟、と重なって溶け合っていくようなところも。)「右腕を、地面に突き刺してバクテリアの思うところ曰く陸奥湾の青とこの青は違うとのことで、わたしは仕方なく肺胞を捧げた。」このあたりも、とても面白い。 検眼、そして「二月堂でオレンジ色を見つけたこの目」と、青の違いを見抜く目が重なっていく。 後半、自由気まま、に進行させる、という自らの意識に、むしろ捕らわれてしまったのではないか。「やさしくない、音が聴こえる、」で始まり、「誰かが、わたしたちをやさしくする。」と受ける流れでいったん構造が生まれているのに、それを壊すために(為に、という意志的なものであるのかどうかは、わからないけれども)冗長な鼻歌を持ち込むところ、これは必要だったのか?とか、「ありがとう、B―REVIEW。」と入れて来るあたり、挨拶歌なのかな、と、なんとなく拍子抜けしてしまうようなところもあり・・・。 (妖精 down)

2018-07-13

夢、とは、憧憬の対象として呼び寄せられたなにか、のことなのか・・・。 慣れていくこと、新鮮さが失われることを、夢に殻や膜がつくからだ、と展開していくところが面白い。 とすると、ここで「夢」と語られているのは、夢見る主体、そのもののことではないのか。 夢見る私、その心の目が曇らされたり、心の手に一枚、膜がかぶさっているような鈍さを感じてしまう、そのもどかしさを脱ぎ捨て痛いから、夢をみよう、と呼びかける(現実の刺激をシャットダウンして、夢見る主体の感受性を研ぎ澄ます、洗練させる)といった感覚なのかな、と思いました。 (幕間の子守歌)

2018-07-13

二つの水晶体、そして、指先の持ち主は・・・ 薪の中から解放された、薪(というか、樹木)の魂、その二つのまなこ、目に見えない、風のように気配だけになった指先・・・というイメージで読みました。他にも様々な読み方があると思いますが・・・。 冒頭の「黒から、紫。/そして、青へと」の部分、題目に薪とあるので、薪が蒸し焼きにされて創り出されていく時の色彩、を想ったのですが・・・朝焼け、という言葉に出逢って、あれ、朝の大気の色彩だったのかな、と読み直し・・・最後は、夜の闇の中で、赤くはじける薪のイメージで終わっていますね・・・薪を作る炭焼きの炉、ではなく、火打石で火をつけるような、かなり昔風の囲炉裏、なのかな、などと情景を捉え直したりしながら、読みました。言葉の切れが鋭くて、音感もいいけれども、もう一息、光景が立ち上がるフレーズがあってもいいかもしれない、と思いました。 (薪)

2018-07-13

心、あるいは脳内の混沌・・・そして、イメージが形を成す前のカオス。表層は個人の無意識であるけれども、底抜けの底の部分は、集合的無意識にもつながっているであろう、暗たんたる湖面・・・を、「記憶の」と最初から限定してしまっていいのかな、「慌てて逃げようともがく記憶の抵抗を感じる。」こういうところも、記憶の・・・ではなく、もっと何かしら、よくわからない何か、にしておいて、読む人が、記憶?イメージ?心象?・・・と、各人の感覚で読み解いていきたくなるような、そんな余地を残しておいてもよいかもしれない、と思いました。 (記憶の鍋)

2018-07-13

銃弾が飛ぶ方向は基本、危険です。絶望的に。 銃弾自身にとっても、きっと。 存在自体が悲しいのが、銃弾かなと。 この、羽田さんのレスを読むまで、「俺ら」が銃弾である、ということに、気づきませんでした・・・兵士の声だと思っていて、どうもうまく噛み合わない詩だな、と思っていたのですが・・・銃弾の声。驚きました。 「こうありたかった夢も見ず」銃弾の見る夢、見ていた夢、とは・・・。 獣を絶命させて、持ち主の飢えを、持ち主の家族の飢えを、しのぐこと、なのか・・・ というような、貧しい、人間中心の思考しか働かない。童話などの形であれば、 もしかすると鉄鉱石の時点から、銃弾に鋳造されるまでの銃弾の意志、を語ることができる、のかもしれませんが。 視点が新鮮でした。 (音速超えて)

2018-07-13

短編であるがゆえに、具体的なエピソードの羅列や回想という手法が取れない・・・がゆえの、観念的なまとめ、という事になっていくのだとは思いますが・・・。三人の複雑な人間関係や、過去の確執、恋人たち(去っていった人たち)との関係性を描き込むには、短編という器は狭すぎるような気がします。むしろ、写実的、具体的な回想を織り込んで、中編小説のような形に膨らませる&短編として繋げていくような形をとり、たとえば薔薇の鉢を壊す一場面を中心に置いて、断片的な(薔薇を巡る)回想を呼び寄せていく、というような書き方もあるかもしれない(ミュージシャンのプロモーションビデオのような、コラージュ的な映像のイメージ)と思いました。 ((後編) 捨てる/捨てられる)

2018-07-13

「飽きているのは、即席の絶望。」 このフレーズが今の心境をスパッと言い当てているようで、素敵だと思いました。 これが「絶望」なのか・・・というような、しかし実際にはそんな深さすら持っていない、気力の落ち込みに、簡単に陥ってしまう・・・のは、希望を徹底的に打ち砕かれた絶望ではなく、そもそも希望が見当たらない、見つからない故の困惑なのか。いっそ、徹底した絶望に陥ってしまいたい・・・と、どこかで望んでいるのかも知れず。 冒頭の、本で読んだ、という知識に、最後まで影響され続けているというのか・・・反発せず、素直に受け入れたまま作品が進行していることが、何となく物足りないように感じました。もっと掘り下げていくと、得た知識にどこかで違和感を感じたり反発を覚えている自己の基盤に、突き当たるのではないか・・・沈黙のゲノムの、その先を見てみたいと思いました。 (私のゲノムは沈黙する。)

2018-07-09

書かれなかった詩が火災と洪水のあとで更地になっている・・・返詩ありがとうございます。 朔太郎へのオマージュから始まり・・・まさしく殺人事件が日本各地で起きていますね。祈る他ないのですが・・・文明を享受しすぎたが故の、温暖化が跳ね返ってきているような気がしてなりません。 (梅雨晴れ)

2018-07-09

ついしん 大文字のAと、小文字のbが並んでいるという字面、印象に残ります。A面B面の、A面を強調するという感覚もあり・・・アベ政権の批評なのか?とも(一瞬)思ったのですが、いかに(笑) (on A bed)

2018-07-08

快を「与える」喜びを得た・・・ように思ったのも束の間、結局は目の前の女・・・を通じて、もっと大きな、自然そのもの、のような大きさに包まれてしまっている・・・僕は未だに、君をしっかりと体感できていない、とらえられていない、そんな感覚なのかな、と思いました。 日常に戻るときに、パンツを履いた、という、ちょっとずっこけるようなユーモアにずらして切り替えているところが、賛否の別れるところでもあるのかなと思いました。 まぐわいを描きながら、陶酔や官能に溺れるでもなく、具体的な描写や湿潤に流れるでもなく・・・対象をとらえる、とらえられるとは何か、という、観念的な位相に踏み込んでいるのに、使っている語彙や用法は徹底的なほどに日常から離れない。そこに注目しつつ・・・イツノマニカ、このカタカナ表記の必然性が、イマヒトツ、伝わってこない。 いまカタカナを使ったのは、読みを区切って、少しだけ強調したかったから、なんですが・・・イツノマニカ、これは、硬質な音感に変容させたかったから、なのか・・・パンツ、のカタカナと呼応させるということでもないのでしょうけれど・・・読みの速度をそこだけ変えたかったからなのか、などなど。 身支度を整える、服を着る。そのあとは、立ち去ることになる。そこまで含む寂しさのようなものが、ユーモアでいったんかき混ぜられる。パンツ、という、幼児期から馴染んだ表現や、何となく可愛らしい言葉の響きがもたらす効果について、もう一度考えたいと思いました。 (on A bed)

2018-07-08

皆様へのご返信で失礼します。 割合に年配の方々から、抽象的過ぎて良くわからないという評を多く頂いた詩だったので、恐らくは若い皆さんから、具体的なイメージや丁寧な描写があるというような感想を頂いて、少し驚きがあり、また、嬉しさもありました。 いわゆる「現代詩」として若い人たちに理解されている作品と、同人誌や詩誌に大量に流通している日常詩というような作品との差異というのか、断絶の深さをも、考えさせられました。 (梅雨晴れ)

2018-07-08

小気味良い転換と凝集度。暴発しそうな感情を持て余している少年期の危うさ(歌詞でよくガラスにたとえられますよね)、対象を絞りきれない、漠然とした反抗心のようなものを、蜃気楼の蜜にはなりたくない、とか、天国なんて信じたこともない、という独白的な視点で、徹底的に主観的にとらえているところが良かったです。(主観的といっても、書いている主体は作品の外にいて、そこから主人公の少年の心を代弁しているようにみえる、その距離の取り方も。) 暴力性や意思の強さを前面に出すものの間に「少年」「カケラ」という甘さをもったパートを持ってくる構成も良く練られていると思いました。 (one day in summer )

2018-07-08

雲に覆われる・・・それは、はっきりと自他共に、気持ちをとらえがたくなる、ということでもあるのでしょうけれども、そうやって自分を隠す、さらけ出さずにいられる、傷つかずにすむと言うことがあるのでしょう。 その状態を是とするか否か。 君の笑顔に誘われて、自らをさらけ出す勇気をもらう・・・自分を隠しておきたいという気持ちから、君に、素顔を見てもらいたいという欲望へと変わる転換が、心地よかったです。 雨とあめが、涙と甘さ(飴)にも見えてきて、文字の上でも気持ちの変化が現れているように思いました。 (あめは きらいじゃない)

2018-07-08

ビサイド、とカタカナで表記されたときのゾワゾワ感はなんだろう・・・ 微細度、そんな言葉があるのかどうかわかりませんが、脳内で自動変換されたのかもしれません。 「ただの横なんてどこにもない 空白の横は想像できないだろ?」 一人で孤独を感じている若者への温かいメッセージを感じました。 (ビサイド)

2018-07-08

相反する感情が、同時にせりあがってくる。それゆえに葛藤が起こり、混乱が起きる。その矛盾に苦しむ人も多いとは思いますが、「精神の拮抗作用」と言われたりもするように、矛盾や相反が同時に生起するのが、むしろ人間の感情の自然な状態であるらしい。その相反が激しい人ほど、物事を深くとらえられるということなのだと思います。 「複数の相反する磁力の間にだけの人間の感情があるように思える。」この表記は、これであっているでしょうか。反発する極同士の間に「だけ」感情があるのか、間に(ある)だけの(分量の)感情があるのか。 私の好きな詩人に、「太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ」という表現で、あることとないこと、あってほしいこととそうではないことが、同時に生起しているという感状の矛盾をとらえた表現があります。 素材として、作者の発見として、「微細な」はとても魅力的なテーマをとらえていると思いますが、表現が丁寧すぎるところ、説明的過ぎるところがあるので、詩というよりは評論や論文風のエッセイに近いような印象も受けてしまう。 この矛盾する感情を、例えば比喩で表すとしたら、どうなるでしょう。自分の「感じ」にピタッと来る表現が見つかるかどうか。そんな試行を試してみるのも1案だと思いました。 (微細な)

2018-07-08

人生の時間が刻まれている方々の顔とは、自分の物語を持っている顔ということなのかもしれません。 最初の真っ白、から、のっぺらぼう・・・までの流れは、疎外を感じる寂しさ、見ず知らずの町で、将来も見えていない状態の不安、双方を色濃く感じたのですが・・・ 生きるとは自分の物語を刻んでいくことなんじゃないか。そう気がついたあたりから、のっぺらぼう的な不気味な白が、真っ白なノート的な、豊かな可能性を持った白に変わる。この、微妙な変化が、とても滑らかで自然で良かったです。 (のっぺらぼうの町)

2018-07-07

詩語というのか、雅語の美しさに気持ちが惹かれすぎていて、言葉が先行してしまっているような印象がありました。 過去の言葉、文語や死語を用いることで、立ち上がって来るものが確かに在るはず、なのだけれども・・・全体に散りばめられてしまうと、神原有明、日夏耿之介などを好きで・・・という人の懐古趣味的な作品に、小さく収まってしまうような危惧も覚えます。 イメージの広がりを歌いたいのであれば、雅語や文語はアクセント的に用いるとか、小題に留める、といった工夫があった方がよいかもしれない(目くらましになってしまう)と思いました。 (水無月綺譚)

2018-07-03

二つ、の作品とコメントを拝読しましたが・・・ 蕪村的、芭蕉的、という詩論的な試みを含めるならば、ひとつの方法として、芸術論のような散文の中に作品を「例」として組み込む、というやり方も面白いと思いました。 個人的には、藤さんのおっしゃる、小題(テーマの提示)と、まったく同一のフレーズ、という組み合わせを併記する、という方法が、読者にとっては分かりやすいというか、作者の意図が伝わりやすいのではないか、と思いました。 他方・・・作品がどのように受け止められても良い、あるいは、どのように受け止められるか、その可能性を知りたい、ということであるならば・・・題名の欄に、たとえば公募中、と書き、コメント欄で「あなたなら、どんな名前を付けますか」と実際に公募してみるのも面白いかな、と感じました。 一つの作品を、他者がどのように読むか。照明の当て方でも、角度でも、全部異なって見える。それが、作者の見せたい意図から大きく外れる、そのことが気になる場合は、読者がその意図を読み取れるように工夫を凝らすのもまた、読者から作者への要求となるでしょうし・・・どのように読まれても構わない、むしろ、その多様性を知りたい、ということであるなら、あなたはどう読みますか、と投げかけてしまう、というのも一手でしょうし・・・ 「お星さま」一篇だけの投稿であれば、このような議論は展開されなかったでしょうから、結果的には有意義な試みであった、と思いますが、作品として、あえて二つの題名を付けて、二回に分けて投稿することが、効果的であったか、ということになると、あまり効果的ではなかったかもしれない、と思います。 芭蕉、蕪村、それぞれの一面を取り出して対称化する、それもまた比較文学の醍醐味でしょうけれども、その行為自体が、芭蕉と蕪村という多面体の芸術家の、それぞれ、今回の議論に最適な一面を取り出しただけ、という事にもなりかねないので・・・ まあ、コメント欄での話ですから、作品から読者にこれだけの背景を読み取ってください、という要求ではないので、作者としては、そこまで読み取れなくても特に構わない、というスタンスだと理解して読みましたが・・・ 芭蕉的、蕪村的、その大きな極を背景において、それを表に出さずに、作品を書いていってほしいなと思いました。 (虚ろ)

2018-07-03

「先の見えない時代だから 幸せなことを探している かわいい、とか あいらしい、とか そんな言葉を探している そのうちに」 その後が、書いていない。ここも、 「あとは、 みなさんが考えてみてね」ということなのかもしれません。 目先の、かわいさ、愛らしさ、ばかりを探している内に、失ってしまうもの。なくしてしまうもの。それらを引き寄せてくれるはずの、小さなちから、それを「大きさの決められたいろがみ」に包んで、亡くさないようにしておきたい、ということ、なのかな・・・と思いつつ・・・一つ一つのイメージは鮮明で、難しい言葉はひとつもないのに、イメージするものは抽象的でとらえがたい。 「大きさの決められたいろがみ」をひとりひとりの人生、あるいはひとりひとりに与えられた器量、と読んでみると・・・そこにあふれるほどに塗る「ふえきのり」の湿潤な感じ、蜜のような感じ、粘り気を持ったなにか、こそが、「グルーオン」で暗喩されているもの、なのかな、とか・・・(グルーって、糊のイメージでもありますね) 出逢うべき時、に、人と人とを引き合わせ、弱く、又強く、結びつける力。人類という大きな粒子の集まり?の中で、個人という、微小な粒子同士のうごめき、そこに働くちから。うーん、やっぱり、難しい。難しい、と言うと、良くない、的な意味にもなりそうなので、謎がある、にしますね。気になる、奥行きの深い、面白い作品です。 存在論に触れていくから、優しさと共に謎を感じるのかもしれないですね。 (グルーオン)

2018-07-03

さうら、さうら・・・のリフレインが、そーら、そーら、という呼び声にも聞こえてきますし、さ浦、あるいは さ裏、にも見えて来る(接頭辞のさ、ですね) 「シルト」「スコリア」これは地学や地質学の術語なのかもしれませんが、響きの美しい言葉ですね。宮沢賢治の「蛋白石」のような独特の質感とアクセントを与えているように思いました。 「なけなしのきぼう」もくれてやった、という捨て鉢な感じもありつつ、それを賽銭箱に入れる、という部分に、かすかに、それでも祈る、祈りたい、祈らせてくれ、というような思いが込められているようにも思いました。 海岸、亡き友を偲ぶ、一人で歩く。すべてはいつか砂に、土になる、巻貝(中身は朽ちて、砂のような泥のような灰色のものが流れ出す)のイメージが醸し出す、堂々巡りの行き止まりの感じ、とかとんとん、の音が醸し出す、復興の槌音・・・と結びつけてしまうのは良くないですね。(震災からは7年経過しているけれど、5100日は経っていないし・・・) 調べというのか、言葉の調子が美しく流れ過ぎてしまうような、そこに少し不安を感じてしまうところもあるのですが、良い作品だと思いました。 (海はひとりに限る)

2018-07-03

(こんなに愛しているのに。)というフレーズが効いていると思いました。 子どもが犬の糞を踏む、という、いかにもリアルな話が素材として提示されているので、最終連の「排泄物」と犬の糞が何となく連動してしまうのではありますが・・・「柔らかなベッド」をまっさらな心、排泄物を言葉と読み替えて読みたくなります。 詩(ことば)の美は、花や鉱石のように自然に生まれて来る、ものなのか。美しいものを噛み砕いて消化して血肉として・・・そこから生まれるものが、吐しゃ物や排泄物のようなものでしかない、としたら。美しいものを、咀嚼してはいけないのではないか。そのまま、受容しなくてはいけないのではないか。 そのために、まるで「可愛い犬」のように四肢を持った生き物に同化した語り手は、「走って走って走って走って、行き止まりまで走って。」行くのですが・・・。語り手がそこで悟ったものとは、汚い、臭い、と思っている排泄物そのものを、美しいと思えるまで、愛おしいと思えるまで、静かに育てていくこと、なのではないか・・・ と読むのは、意訳しすぎかもしれませんが・・・美しいもの、がこの世にあるわけではない、美しいと思う心があるだけだ、彫刻家の舟越安武の、こんな意味合いの言葉を思い出しました。 (シゼンのメカニズム)

2018-07-03

丁寧に書いておられるのですが、もう少し刈り込むことが出来るような気がします。まず冒頭二行目、「飛ぼうとしているのか」という、語り手の推測の部分(心の中の声、の部分)。そのすぐ後に「飛ぼうとしているこの蝶からは」と語り手の判断(推測から発展した、自分にも、他者にも事実と受け止められる部分)が来るので、最初の推測の部分は省略できますね。「ゆらんと翅を動かしていた」という動作の客観的な写生を置いて、読者と共にその情景を見る。そして、飛ぼうとしているのか、という独白の部分を、読者の心の中に響かせるのが良いと思います。そうすると、「飛ぼうとしているのか」という推測が、語りて一人の推測から、読者もまた読みながら共に推測する、共感へと変わる。先に語り手の推測を出してしまうと、読者にとっては押しつけがましくなるというのか・・・読者が情景を語り手と共に見て、自ずから(自分のものとして)推測する、という余地がなくなってしまう。語り手の中だけで完結している世界を、外から見る、事になってしまう。 「そんな気がした/私ならそう思う」この二行も、同様の理由で省けるかな、と思いました。 面白いのは「あるいは/片翅を他に探し、奪い取るか」このフレーズ。腹の中がゆらん、と揺れた・・・外に居た虫が、私の中の虫となる、そして、虫の独白と語り手の独白が重なり合う瞬間ですね。 「私の腹の中が」私の、これも省ける。腹の中が、と始めても、語り手の腹であることは分かるので、わざわざ「私の」と付ける必然性が感じられない、わけです。日本語では、私の、とか、私が、と付ける場合は、その限定が特に意味を持つ場合が多いですよね。それ以外では省略してしまう方が自然なので・・・。「私の片翅と/蝶の片翅は」ここは意味のある、必要な「私の」です。 「ゆらんと/軋んだ、夏の終わり」季節の終りと共に、生き生きと活動する時期も、もう終わったのだ、というメタファーとしての終りも重なり、とてもよいフレーズだと思いました。 (翅いちまい)

2018-07-02

たんたんと描かれていますが、とても完成度の高い作品だと思いました。 リルケが、伏線となっているか、どうか・・・誰もが死を種として持つ、死に向かって実っていく、充実していく、熟れていく・・・という流れかと思って読んでいたのですが、なるほど、ぎこちないピアノを弾くほどの年齢のお子さんがいる若い父でありながら、死を意識してしまうような病を得て、自宅療養中、あるいは、入院先から一時帰宅中、というシチュエーションなのでしょう。 黄色と青の鮮やかな色彩、緑の芝生と白いテーブル(のイメージ)。 少しわかりにくかったのが、最終連の時制。ここだけ、現在で、それまでの連が過去、なのか。あるいは、最終連もそれまでの連も、同じ時間の中にあるのか。 あま夏には、忘れがたい、しかし忘れてしまいたい思い出を喚起させる何かがある、として・・・あま夏を巡る「思い出」の内容が、病は得ていても、幸せに満たされていたあの日、という風に読めてしまう。 最終連も幸福なあの日(あま夏をむきましょうか、と妻が声をかけたり、娘が一緒に遊びにいこうね、と声をかけて来た日)の内にあるとするなら、あま夏が喚起する「忘れたい想い出」は、いつの、どのような思い出、ということになるのか・・・ 時間をゆっくり追っていく、隙のない作品であるからこそ、最後の詰めを大切にしてほしいと思いました。 (甘夏と蟻)

2018-07-02

とても良いと思いました。 「高性能を謳われた自分の身体から 軋む音が聞こえる」この二行が、素晴らしい、インパクトがあるので、ここから始めるのも一案だったかもしれません。 人工知能、というのを、後に持ってくる、ということですね、最初に種明かしをせずに。 四連目の畳みかけるような調子、それまでは語り手が割合に冷静に、外側から語っているのに、ここでは廃棄処分される人工知能の内面からの声になっている。 優秀な人材、として企業に採用され、人間関係などで精神を病み(特に、企業の非人間的なやり方に馴染めずに病気になり)使い物にならない、とリストラされる(廃棄される)かつての「人材」を連想しました。 財務省には、人間コンピューターのような、とんでもない秀才がたくさん集まる、と言う話を聞いたので、なおさら、人工知能=かつての人材、を連想し、切なくなりました。 社会批判的な秀作だと思います。 (高性能の涙)

2018-07-02

伊藤比呂美さんの詩の中で、自分は「うんち」がきれいな言葉で、「うんこ」が汚い言葉だ、と思って生きて来たけれど、結婚した相手は(ポーランド文学の研究者の人、ですね)「うんこ」の方が綺麗な言葉だ、というので驚いてしまった、というようなフレーズが出て来て、なんだか妙に印象に残っています。 私も「うんこ」は汚い言葉だ、「うんち」と言いなさい、と言われてきたので、伊藤さんのびっくり、がわかる、のだけれど・・・伊藤さんの彼、の言うには、うんち、という音が、びちびちの下痢便のようで、なんだか汚い、という、感覚的なものだった、というのが、なおさら印象に残っている理由かもしれない。 百均さんは、文脈からの理解ですが、幼児言葉、もしくはきれいな言葉、のイメージ、丁寧な言葉のイメージで、「うんちみたいなおしっこ」と使っているように思いました。 なんでこんなことを書いたかというと、ストレスや病気で下痢便を繰り返している状態を、なんとなく想像したから。 アネモネ、姉、という言葉が含まれていることがまた、切なさと共に伝わって来る、わけなのだけれど・・・ 「わたしたちは、わっかの中にいるので、とても寒い。地下鉄のキッチンでは。冷凍マグロ達が、数万年ぶりに刺身になって。ほろ苦い地層の味。」このあたりから連想するのは、山手線の中の、ちょっとわびしい、淋しい生活。砕かれた(踏みつぶされた)ダンゴムシと、自分たちの姿も重なってくる、ような・・・。 「誰にもなれない。新しい光の中でファイバーしている。」このあたりも、都市生活者の夜景をタイムラプスで撮った画像の一部に、自分が取り込まれていくような、その他大勢に巻き込まれていくような感覚がありますね。 (ANEMONE)

2018-07-02

今月の他の作品にも感じたこと、なのですが・・・たとえば、Black is beautiful というメッセージは、Blackと「言われること」「呼ばれること」に対する差別意識や偏見を、あえて反転させて、自らの呼称として「負」のイメージから「正」のイメージに反転させる、という、強い反骨、反抗の意識、意欲が背後にあったわけです。 同様の・・・というわけには行きませんが・・・文化的背景も状況も、理不尽さ他、もろもろ含めて、同様、などと、言う事はできない、その不可能性を認識した上で・・・ メンヘラ、という言葉を、むしろ自ら選び取って発信している人にとっては、あるいは、そのような正のエネルギーを持って読み取っている人にとっては、皮肉や批判、と受け止めることも可能、かもしれないけれど・・・メンヘラ、と言う言葉を負のイメージで受け止めてしまう人が、かなり多いのではないか、という(私的な)印象を抱いていて・・・公開掲示板という場所で、こうした用語を用いることの難しさを、改めて思いました。 内容的には、overdose の方のブログを挿入している、それを読んでいる話者の感慨、ということになるでしょうか。 「ぬれながらながれる場所に 埋め込まれた あいされて死んだひとのブログ 死んだひとをあいしていたひとのブログ」 雨のイメージと憂鬱さ、そして、涙のイメージが重なり、そこに・・・ブログを読んで、そこにどうにもならないやるせなさを感じてしまうような、それでいて、人間というものの愛おしさというのか、いじらしさのようなものを感じてしまう話者の視点が入るところ、そして、「全部、ヨブ記に書いてあるよ」という、突き放すようでいて、あなただけではないよ、と寄り添うような言葉が、締めの言葉として置かれるところに惹かれました。 大きさはさまざまだけれど、時空を超えて、場所を越えて、人々の心の中で繰り返されているつぶやきを拾い上げた、というところに魅力を感じました。 (fractal)

2018-07-01

句点を題名に持ってくるのか?と驚きましたが・・・ まる、と平仮名で題名を書いてしまっては伝わらないものがありますね。 会話の中で、ユーモアを含ませながら、ちょっと話を切りたい、区切りを入れたい、気持ちを切り替えたい・・・そんなときに、~まる。という言い方を(ジョーク交じりで)したりしますが・・・。 のびやかなフレーズと、明るさと・・・ じっくり鑑賞したい作品です。 (。)

2018-07-01

これは、「屍の歩行」と「あなたを求める」の二作による組詩、ということなのでしょうか・・・。 背に虹のような色とりどりの傷 水蒸気の中で何も呟かないままに 解れた縫い目で足跡は塞がっていた 傷、そして、ほつれた縫い目。(心の)傷を縫い閉じてもまた開いてしまう、そんな情景をイメージしました。「消えるまで眼孔を落葉のように散らせる」冒頭に屍の眼孔のイメージが黒く開いているので、目玉のない目を掻きむしるように落とし続ける(落ちないものを、落そうとし続ける)様が脳裏に浮かびました。「美の雰囲気に犯され黙っていれば急かされる行方」美の雰囲気、ここで急に焦点がぼける印象がありました。具体的なモチーフが消えて茫漠としたイメージに投げ出されてしまう感覚があるので・・・。「海を覆い尽くす窓ガラス」きらめいた感じと冷たさ、跳ね返されるようなインパクト、実は硝子窓の中に閉じ込められるような状態で海を見ている、というような情景・・・様々な想念を喚起されるフレーズだと思いました。直後に「迷子の子供の泣き叫ぶ声」具体的な音声が入って来るところもいいですね。 (屍と女の心理)

2018-07-01

>頬が痛いな、冷たいとも言えるでしょう この連、風が触れているとも読めるけれども、叩きつけられた頬の感じている冷たさとも読めるように思います。 >この勇気はあの時飛んだ勇気は  讃えられたくて褒められたくて この言いつのっていく形の変形リフレインのようなフレーズが、作品を引き締めていると思いました。 (飛んだ先)

2018-07-01

柴田さんもコメントしているけれども、とりわけ、 >その中に二次元の色が線を引いている このフレーズが印象に残りました。 水が張られていない、この冒頭の一行が、若干、説明過多であるような気がして・・・「水はないのに水面がある」このフレーズを活かすために、「水のないプール/触れば手に付きそうな色をしたプール 」とリズミカルに、さらっと始めても良いかもしれない、と思いました。 実際には水がない(そう感じられる)世界で、目を閉じて想像力で「二次元の色」が線(水平線、境界線)を引いているのを見る。そして、その線を”越えて”、異界へと入っていくわけですよね・・・そこがもっと明確になっていると、実際の水の質感と、メタファーとしての水の多重性が際立ってくるのではないかと思いました。 (うたた寝)

2018-07-01

コメントしました。よろしければご覧ください。 ツイッター連携のやり方が、いまひとつ良くわからないながら・・・今度はどうでしょう、出来ているかな・・・ (誰にも言えない話)

2018-07-01

花壇にバラが百本咲いている 私はその隣で 私を見つめている とある教会の一室で とある学校の教室で 私は言われた 人が幸福を得る時とは それ以上の幸福を望むのを やめた時です だからあなたも・・・ 探していた自分が見つかるのは 自分探しをやめて 鏡に映った自分を見た時だ、 だから自分は・・・ それから私がどうしたかは ここでは言えない そのあとその牧師が その教師が どこへ行ったのかも 私は知らない ただ花壇にバラが百本咲いて 私はその隣で 私を見つめていた あくまでもひとつの案ですが、このような形にまとめると、牧師と教師に分断されてしまっている感じが、少し解消できるように思いました。 (誰にも言えない話)

2018-07-01

ツイッター連携が出来ているのかいないのか、今一つよくわからないながら・・・コメントしましたので、よろしければご覧ください。 (AM3:00)

2018-07-01

五連、六連の畳みかけていく感覚が、気持ちの高まりや孤独の重みを跳ね返そうとする力と連動して働くような印象を与えていて、とてもよいと思いました。 それに比して、序盤の進行に少しもたつきのようなものを感じてしまうのが、少し残念でした。もちろん、なかなか好転しない気持ちの様相と読めば、共感する人はたくさんいる、と思うのですが・・・ キーボードをたたくカタカタ、という擬音のリフレインや、様々に言い換えていく言葉の重ね方に、もう少し緩急があればよかったかな(たとえば、2連の辺りを一気に言いつのるようなリズムで試みるなど)個人の感想ですので、そのような見方もある、という程度にお考え下さい。 午前三時、という時間設定は巧みですね。いわゆる丑三つ時(実際の刻限としては午前二時から二時半くらいの時間帯のようですが、三つ、という語感のゆえに)を連想させます。 現代版、眠れない夜の歌。 (AM3:00)

2018-07-01

それに 飽きて ように そこへ この辺り、ワルツのステップを踏むような感覚もあり・・・全体の流れに音楽的な緩急をつけたいのかな、という意識のようなものを強く感じました。 最後の、(気持ちを)そらしてみたんだよ、このつぶやきが効いていると思う反面、スライドのイメージからレコードのイメージへと移り行くところに、若干、唐突感も感じますね・・・ワンクッション、なにかあってもよいかもしれないと思いました。 (楽園)

2018-06-25

砂浜から海に向かって投げる林檎の数は一億個 この立ち上がりにひかれましたが・・・全体は自由律短歌の連作のようなムードですね。 全体の構成が、気持ちの波立ちや二人の関係性の変化などをもう少し明示する方向に向かっていると、登場人物の姿や、背後の物語をもっと探索したくなるような気もしました。 (蜜の夜)

2018-06-25

頭悪い、という連呼にビックリしますが・・・そう言われ続けているということなのでしょう。 愚者に仏性が顕現する・・・そのひかりを、見つめて手を合わせる眼差しに救われるものがあります。 わが心、このフレーズが、今一つつかみがたかったです。 一心に、繰り返し汚れをぬぐい続けるお坊さんを見て、感化された「私の」心、なのか。私の心にも、こんなお坊さんが住んでいる、ということなのか・・・ 冒頭から、自分をお坊さんになぞらえていると読むことも出来そうな気はしますが・・・朗唱性というのか、リズムや口ずさみのフレーズを重視しているせいか、少し読み取りにくい部分もありました。 (頭悪いお坊さん)

2018-06-25

浜辺に 幾百年の時を経て 打ち寄せられた しろい かけらを 踏みながら 日のぬくみを受けて あたたかく 鋭く あしうらを刺し はなびらのように ほろほろと崩れていく 珊瑚たちの かけらを 踏みながら 今、わたしは「つつまれている」と そう、確かに 感じたのだった 沖から寄せて来る青い波の 縁取るように先取るように 無数の白い手がうねるように舞い 泡に砕けながら押し寄せて来る あそこで手招いているのは 千年前のわたし ここで手招いているのは 百年前のわたし わたしにつながるちちのははのあねのあにの 生きたあかし ちすじのひかり  あふれかえる網の目の ほどかれてひといきに天空に投げられた 星をすなどる投網 束ねるひとは 海のむこうに輝いていて 指先にふるえる球をのせて やさしく 吹く こぼれおちるひかりの ふるえ 手招いている むすうの しろい ゆびさきの 泡となってくずれくだけ わたしに おしよせてくる つつみこむ あたたかい 痛みを踏む 海辺 (服喪)

2018-03-11

海みず?と思いながら読み始めて・・・ あの日、押し寄せた黒い海の水のことを思いつつ  きみ は わたし  わたし の 打ち砕かれた かけら の ひとつ ひとつ  わたしは あなたがたを胸にのせていた  わたしは あなたがたのうみだしたものを 腹にのせていた  わたしは あなたがたのつくりだしたものを 背にのせていた  あのひ 細かく削り取られ奪い取られ  わたしは 打たれ 裂かれ 自らの重みに押しつぶされた  わたしにやわらかく ほほをよせた みず  わたしをきよらかに あらいあげた なみ  日がのぼる時 わたしは りく と呼ばれ  日がかげる時 わたしは うみ と呼ばれ  わたしは みずからの名を 知らない  わたしの内で 掻き乱された無数の声  声があふれ わたしをのりこえ   今もなお 呼び続ける  わたしは だれ  わたしは きみ  わたしは あなた    いまも響き続けている 声   (海のとき)

2018-03-11

ログアウトしなおしてみても、まりも、に戻らないですね・・・ (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-22

ツイッター投稿有効、というのをポチってみたら、なるほど、Twitter名で表示されるのですね。というか・・・まりもアカの方と、連携出来ないのかな・・・いったん、まりも、の方に戻します(これでいいのか?テスト。) (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-22

この雑文のようなものを、必死で芸術に仕立て上げようとする奇怪な勢力と戦うことになるのか という問いかけに、果たして、この・・・書くために無理やり書いている、というような質感を持った文章が、闘い得ているのか、どうか・・・私は、この「作品」を「芸術」とは呼ばない、ですね。だから、「仕立て上げようとする奇怪な」批評めいたものも、書きたい、書かねばならない、とは思わない。思わないけれども・・・〈チョコスプレーを吹きかけたようなテーブルの~〉あたりには、比喩を用いれば即ち駄文が詩作品となるのか?という問いかけがあって、面白い。 書を棄てよ、を、書が好きよ、に書き換えた意味は、どこにあるのか、など含めて、批評性がある、とは思うのですが、さて・・・。 (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-22

今までの何作かを見ていて、勢いで書きなぐった、というような、あふれ出すような勢いで今までは書いてきていた、気がする、のだけれど(姉が語る設定の作品は、少し違っていた印象がありますが)この作品は、すごく丁寧に綴っていった、印象を受けました。改行のタイミングとか、ひらがな、カタカナ、漢字の表記などの細かな調整とか、そういった部分から受ける印象かもしれません。 アラメルモさんの評に私も同感する部分が多いのですが・・・李沙英 さんの疑問(カレーがなぜかシチューになる、という整合性の無さに、必然性が感じられないので、なんとなく流していった感が否めない)にも同意なのですが・・・ 〈肉は牛であった事を/どれくらいおぼえている〉という、原初への思いというのか・・・今、在るもの、が、もともと何であった、という思弁的な思いへ、遡りたいという(出来ないことをしりながら、願わずにはいられない)情熱、というものに触れていく。このあたりが、とても面白いと思いました。 〈透明な泥水をのんでいるみたいだ/蛇口の水はいつのまにか綺麗で/とても綺麗だ〉湧き出した清水は、清らかかもしれない。でも、それがいつのまにか泥水になる。その泥水が、浄水施設をくぐって来るうちに、また透明な水になってしまう・・・汚れを消されてしまう、目から隠されてしまうことへの思い。それを、透明な泥水を飲む、と形容する体感が、とてもよい。そこから 〈君のつくられた肌色絵の具のように〉と飛ぶところ、冒頭のアクリル絵の具に通じる部分もあって面白いのですが、冒頭のアクリル絵の具を伏線とするなら、もう少し粘って、うまく仕組んでおいた方がよかった、と思いました。君、が、生身の人間ではなくて、キャンバスの中に描かれかけた「君」で、その「君」と語り合っている(部屋には、語り手しかいない)設定、とか。 〈僕の言葉もまた/作られた都市のような悩みでベタベタだ〉ここも面白いけれど、悩み、と一言で言ってしまうところが、粘り足りない、ような気がしました。 ペーパームーン、というような安っぽさを歌いたい、わけで・・・。 〈きれいなしちゅー〉が宝石のような味がした、というのも、わかるような、わからないような・・・澄んだボルシチの色味やコンソメスープの色味を宝石と言う、流れでもなく。味が宝石のよう・・・。冒頭の鮮烈な一連の印象にひきずられて、この言葉を選ばされてしまった、という感覚。 このあたりが、すこし中だるみになっているので、もう少し絞った方がよいかなと思いました。 壁を隔てて、軋みや喘ぎが聞こえて来る。暗闇の中に浮ぶ白い裸体を思い描く・・・気を付けないと、とても陳腐になりそうな場面。僕らはこうして生まれて来たんだ、という部分と、水がいつしか泥水になって、それがまた「見た目」だけ透明になって流れて来る、というイメージと、言葉が(言葉になる前は)清らかなものであったのかもしれない、それが汚れて、手垢にまみれて、それがまた「見た目」だけ、形になって・・・という繰り返される思考、観念のバリエーションのようなものを、もっと意識的に描ければよかったかもしれない、と思います。 隣室のセックスに、耳をすませながら、普通のこと、日常のことをしている、というところに、重点を置くのか、そこを飛ばして、僕等はこうして生まれたんだ、というところに行くのか。「薄汚い」セックスが、清らかな生誕へと結びつく、という展開にするのか、隣室の行為に耳をそばだてる自身の行為を「薄汚い」と感じているのか、どちらなのか、などなど。 (らふか)

2017-12-22

世界を席巻している憎悪の連鎖、テロリズムへの不安や恐怖、その背景に渦巻いている負の感情と、いかに対処していくべきか、という寓話として拝読しました。 〈病に限らず、あらゆる負の状態、これらの現象は一つの負の生命体を形成し、それぞれが社会性を保つようになる 呪詛のような負の言葉を摂取し、さらにコロニーを拡大させてゆく そしてこれら負の生命体は空間をつたい、あらゆる無機物をも侵し、やがてこの島全体がそれに侵されることになってしまう 今後、負の言葉を発してはならない。すでに各々に営巣し始めた負の生命体は栄養となる負の言葉を求めている それに少なくとも栄養を与えてはならない〉 不思議な青年が診断した、この島の島民を苦しめている病、それは正に、負の言葉の連鎖(他者の「欠点」をあげつらい、罵倒し、嗤い、貶める。疑い、差別し、排除する。ヘイトスピーチなど。)がもたらした衰退であろう、と思いました。 それでは、いかに「負の言葉を発してはならない」という「戒律」を実践するか。 青年と少年(だけれども、既に老いさらばえてしまっている)との会話、青年の修行僧のような暮らしぶりが、それを寓意的に示しているように思いました。 〈青年は思考しなかった、思考よりも行動した、言葉を発した〉 理念を述べること、思考すること、ではなく、まずは行動すること、言葉を発すること・・・(たとえば、あえて卑近に、このサイトになぞらえて考えれば、詩とはなんぞや、と理念を語ったり、良い詩とは・・・と規範を定義したりするために思考するのではなく、まずは作品を読み、思ったり感じたりしたことを、言葉にして発する、ということになるでしょうね。)そして、 〈青年は起きると大地にキスをした/ありがとう大地よ〉 まずは自らの生きる場に、感謝をすること。 〈歩きながら足もとに伸びた雑草に言葉を投げかける やぁ、おはよう、昨日はよく眠れたかい 大木に手のひらをあて、頬ずりをする〉 特別、難しいことを述べるのではなく、身近なものに目をかけ、声をかけ、気を配り、なにより、相手の存在そのものを愛すること。それが、この青年の行為。 〈ただ、思ったことを口にし、思ったことをしているだけなんだよ〉 それでは、こうした行為を促すような「新しい風」、全てのものを変化させる、新しい風は、いかにすれば吹き起る、のか。 〈風はどこから吹いてくるの〉 〈風はすべてを一掃する、風の根源はあらゆる滞りが蓄積し、次第に熱を帯びてくる でも、うつむきの中から風は生まれない なにかをし、言葉にする そこから気流が発生し、風が生まれる それが風だ、風は吹くべくして吹いているし、風の命を感ずればいい〉 うつむいて、何もしない。そこからは、何も生まれない。まずは、行為をせよ、言葉を発せよ、誰かが風を起こす、のを待っているのではなく、自らが動いて(言葉を発して)、その動きが風に命を与えるのを見よ。(またまた、卑近な例をあげて恐縮ですが・・・BREVIEWも、実際にそういう「風」が、吹き始めているように感じるのですが、どうでしょう。) その風(息吹)に吹かれるうちに、少年の体内は「喜びを感じる感情」で満たされ、 〈喜々とした感情は次第に少年の老いた細胞を死滅させ、新しい細胞が体を満たし始めた〉 新たな再生が起こる。 〈私たちは今生きている、がしかし、魂はしなだれ、生を豊かに感じることがない すべて負という巨大な悪夢に支配されている それを静かに、決別できるように埋葬しようではありませんか〉 そうした「新しい風」を、各々が感じることができるようになったときこそ、負の感情を葬るための墓を作れ。そうすれば、負の感情を葬るばかりでなく、美しく燃え上がらせ、その光景を目に刻みつけるという得難い体験をすることが、出来るだろう・・・。 あえて、ビーレビューに重ねながら読みましたが(笑) もちろん、今、自分が所属している職場に当てはめても、家庭に当てはめてもよい。 自分の所属するコミュニティーにおいて、いかに振る舞うべきか。その行為が、尹いかなる結果をもたらすか。 面白いのは、この青年は、他者をおだてたり、必死になって褒めたり、意識的にポジティブな考え方をしたり、この考え方こそが「正」の感情である、「正」の考え方である、などと押し付けたりはしない、ということですね。 善意の押し付けをしない。ただ、負の言葉を発しない、という戒律を、自らに課しているだけ。 これだけはしない、という、ひとつのことを決める。あとは、自然体で、自らの心の欲するままに任せる。それで、いいのかもしれません。 フロイトが見出したように・・・誰もが、他者に優越したい、他者より大切にされたい、というエゴイズムを持っている。そして、そのエゴイズムは自尊感情でもある。生命保存、自己保存の本能に密接に結びつく、自然に人間に付与された、大切な感情でもある。 それが、他者を貶めたり、攻撃したりするベクトルに働く時、それは負の感情となる、のであって・・・憧れの人を目指して頑張ろうとか、この人に認めてもらえるように努力しよう、というように、自らを発奮させる方向に働けば、正の感情となる。まずは、自らが動くこと、実践すること。エゴイズムを、いかに生の方向に発動させるか。 鮮烈に〈橙色に発光〉しながら、葬られることによって負から正へと変容するエピタフを持つ、ということ。それこそが、作品を書く、と言う事なのかもしれません。 (shima)

2017-12-20

誰かが これなら僕にだってつくれるよ と言うなら それは 僕だって真似してつくれるよ という意味だ でなければ もうとっくにつくっているはずだもの(byブルーノ・ムナーリ) 天才って、ずばぬけた才能とか、特別に秀でた才能、という、意味なのでしょうか・・・天然の才を持っている、ということではないかしらん。と、いつも、思います。そして、才とは、再であり、差異であり、祭である。 再は、過去の「名作」を再現する才を持っている、ということ。差異は、他者との差異を恐れない才を持っている、ということ。祭は、そうした自分の才を、ひとりで祭る、めでたがることができる、ということ。 ・・・という基準に当てはめれば、本作の作者は、バカ、ではなく、天才ですね。 後天的に、後から才を身に着けていくこと、身に着けた才を、常に磨いて、いつでも使えるようにしておくこと、それが、本当のバカ、なのではないでしょうか。○○バカにならなきゃ、何事も極められない。専門バカ、大賛成です。 (バカモノ論)

2017-12-20

シュテルンズィンゲン、という響き・・・オーストリアのお祭りでしょうか。 子供の澄んだソプラノが、星の輝く闇に吸い込まれていく・・・イメージで読み始め、〈爛れた裏切りの序章〉からの転調に首を傾げ・・・幼年期から思春期への変容を、クリスマスの受け止め方の変容に重ねて描こうとしているのかな・・・と思いました。 〈デポジットしたカップ〉、そして5セント。海外での体験なのか、と思いつつ・・・題名と一連目のリズムから、子供たちの唄を連想していたので、二連目でそのリズムに同化して、自らも気持ちが湧き立って行くような様を連想したのですが・・・そう読んでいくと、やはり、中盤の転調が急すぎるような気がしました。 〈ストールのような甘味 透き通る風の黄ばみ〉物質(触感)を味覚で捉えたり、風が黄ばむ、というような色彩(と、それに伴うイメージ)で形のないものを捉えたりする感覚が、とてもいいと思いました。 (「Sternsingen(星哥い)」)

2017-12-20

散文詩は、段落の最初のフレーズに驚きがあると、読者をグイグイ惹きつけます。 この作品で言うなら、〈文字は踊っていた〉〈夜にも光があると〉〈祈りは両目から水となって〉〈私も文字も空間からにょきにょきと〉このあたりの中盤の展開が素晴らしいと思いました。 アラメルモさんが、全体の「長さ」について(あるいは、ながい、と感じさせてしまう、冗漫さを感じさせてしまう点について)コメントされていますが、私も同じような印象を受けました。 作品そのものの冒頭、〈そんな朝は~〉を、たとえば(あくまでも一案、ですが)「芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている、街ごと湖に沈んでいる」とか、「朝の青い空気を羽に含み、白鷺が飛翔する」など、削れる部分を削ってみる、というのも、一つの工夫かもしれない、と思いました。 橋の下に向かっていく白鷺と、語り手の意識は、重なっているのでしょうか。白鷺に意識を乗せて、橋の下で夜を明かす自分の姿を、夢想している、ということか・・・額縁のように、白鷺のイメージが作品を挟み込んでいるのですが、寝袋に入って朝を待つ、という具体性、現実感と、どうリンクしているのか、そこが少し気になりました。 寝袋に入って、骨の髄まで凍てつくような夜を耐え忍ぶ、という具体的な設定のゆえに、緑の光や、その光に染まっていく過程(植物への同化、大地への同化のイメージ?)も無理なく受け入れられる。補色の赤の鮮やかさと、朝日の鮮烈さが重なり、死の緑から生の赤へ、変容が起きる。 〈真っ赤な巨大な目〉あらゆるものを見通す超自我の目、としての朝日。その朝日の色に染まることが、語り手は出来ない。緑に同化し(死んで)大地に還ることも出来ない。では、語り手は、何色に染まる、のか。 〈人は自分の居る時間の色に染まる、あの人が卵色だというのも、あの人が真昼にこそ存在しているからだ・・・また私も元に戻る、夕方の色に、私は戻るのだ〉ユニークな発想だと思いましたが、自分のいる時間、が、年齢に重なってしまう(一般的に。)作品全体を読む限り、〈あの人〉は壮年で、〈私〉は老年、という印象を受けない(ほぼ、同世代、語り手は比較的若い人、のイメージ)ので、少し違和感を覚えるフレーズでした。真昼、という言葉から(この作品では)人生の頂点とか、ときめいて今をキラキラ過ごしている、人生において、スポットライトが当たっている、そんな印象を受けるのですね。夕方、という時間帯も、生命エネルギーが低下している状態、という印象。 さらに、全体が青の時間で挟まれている、わけですが・・・青に同化する、というのは、大地にすら還れない〈私〉が、空中に霧散してしまいたい、というような、消滅してしまいたい願望、とでもいう心の色でしょうか。 まだ未整理の部分が残っているような気がしますが、とても魅力的な作品であると思いました。 (芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている)

2017-12-20

漢語の硬質な語感、色彩が生み出す透明感が印象に残りました。 ガラス細工で生み出された世界を覗き見ているような・・・氷の彫刻が、少し溶けかけたところに日の光が当たっているような印象。 少し溶けかけた・・・というイメージは、球体の持つ柔らかさや滑らかさからの印象だと思います。視覚的な印象が、質感に転換される、というべきか。 〈フットボール型の風吹く夜更け〉形あるものが、形の無い動きに変換される。 〈青そよぐ夜明け〉色彩が動きに変換される。 〈レモン香る白昼の廃墟〉ここも面白いですね。レモン色と白の色彩、味や香りがもたらすイメージ。直接的には、白昼夢として現れるような廃墟を満たす光の比喩なのでしょうけれど・・・一般に「廃墟」から喚起される「儚さ」への感傷というよりは、夢想世界への入口として捉えているようなニュアンスを受け取るのは、レモンが与える爽やかさのゆえだろうと思いました。 (淡蒼球の夢)

2017-12-20

偶然ですが、ビーレビューによく投稿してくださる夏生さん(なつお、とお読みするのだと思います)という投稿者がおられます。 似たようなペンネームを選ぶ人は、感性が似ている、と聞いたこともあります。よかったら、ぜひ、夏生さんの作品も読んでみてください。 (それ)

2017-12-20

黒田三郎の「夕方の三十分」を思い出した、のですが、なぜでしょう・・・ 具体的なことがらを、単純に記述しているようでいて、中盤に盛り上がりを持ってくる(そこに真情の吐露を重ねる)構成や、再び静かな時間に戻る流れから、そう感じたのかもしれません。 〈マサルはおごそかなこどもの目になる ぼくは穏やかな目をした 父親になる〉という比喩によって・・・二人の関係性を象徴的、普遍的な部分で捉え直すところが、特に良いと思いました。ただ一巡して戻る、のではなく、螺旋階段を巡るように、一段上の次元に「もどる」回帰の仕方。 題名と一行めが被っている、のですが・・・ あえて、題名を一行目、として、 本文を〈むろんそれはただ〉から始めても良いかもしれません。 (ある朝にぼくは)

2017-12-20

『楢山節考』冒頭の既述の、あまりにドライというのか、即物的というのか・・・情をむしろ捨て去った後の清々しさのような、奇妙な感覚で始まる叙述が、印象に残っています。 映画は観ていない、のだけれど・・・。okka yukida yukiga futtekita という、撥音、濁音を・・・連打とまではいかないけれども、重ねていく時の響きと、らめ いる ねーじゅ いる ねーじゅ という・・・ひらがなで記したくなるような、甘さを含んだ音韻の違い、これって、結構、イメージに影響するのではないか、と思いました。 テニスンの詩だったと思うのですが(うろ覚えでごめんなさい) died died deid but・・・と連呼する部分が、死に死に死にてなお・・・と翻訳されていて・・・もちろん、意味としてはあっている、のだけれど。 原詩では、ピストルでズドンズドンと撃ち殺されるような衝撃度があるのに、日本語になると、芒原でひとり、風に吹かれながら野ざらしになっていくような、そんな感覚になる。前後の意味も含めて捉えなくてはいけないのですが、それにしても、ひとつのフレーズから立ち上がるイメージの相違には、戸惑いました。 そうした、ニュアンスや質感の違いを超えて、なにかを伝えることができたとき・・・その時が、本当に道の通う一瞬、となるのだろうと思いました。 ( 楢山節考※)

2017-12-20

途中で送ってしまいました 多数の個人(他者)が追体験したり共感したり共有したりすることができる。啓示的な作品だと思いました。 (海に砂糖を、僕には何を?)

2017-12-17

弓けいさんや、くつずりさんの批評、感想に加えることがあるだろうか、と思いつつ・・・。 星条旗が象徴する、現在の世界のアンバランスと不安定感、死を目前にしているような、体感的な予示。たしかに、最後は個人的な領域に収斂していくけれど・・・大きな予感としてとらえた、ディストピアへの恐れや不安が、個人の体感に具体化されつつ、そのリアリティーによって、多数の個人 (海に砂糖を、僕には何を?)

2017-12-17

破天荒なようでいて、要所を押さえている、うまく遊ぶことができている作品だと思いました。 冒頭、死んでいただきます、は、何となく任侠映画の中で、岩下志摩などがいい放つ台詞、のような気がしました。そこからエデン!に飛び、アルレッキーノが登場して、ニノ・ロータの哀愁を帯びた音楽が流れ・・・兄弟の骨肉の争いを背後に潜めつつ、最後はまた、屏風で和の世界に。 太陽、と聞くと、太陽がいっぱい、を思い出すのは、さすがに古すぎますでしょうか(笑) (掌の上には太陽)

2017-12-17

白々しい、という言葉は、嘘をつく、というようなフレーズで用いられることが多いけれど・・・白く神々しく輝くイメージに変換され、さらにその「白い輝き」が、〈真実など/ため息と同じ〉と、あえなく消えていくものとして相対化される。 心の持ちよう、という言い方には、語弊があるかもしれませんが・・・苦しい真実をフィクションという嘘で輝かせて、新たな真実(美や発見の場)として提示する。その営みが行われる、夜の時間、夜の鼓動を聞く時間。 少し観念的な把握とも言えますが、実感がこもっていると思いました。 (白々しく輝く)

2017-12-17

ニモ、は、固有名のようでありながら、アニメの中での「名前」であり、それもまた、ひとつのブランド、ひとつの社会的な記号であり・・・ベンツもまた、車種名という一般名詞であると同時に、ステータスシンボル的な、社会的なブランドであり・・・ わざわざ、ファインディング・ニモ、と言い直す男の、著名なもの、有名なものを所有していないと気がすまないような寂しさと、真顔、という切り取り方(その感覚に対する、語り手の違和感の表明)が、面白かったです。 しかし、短歌の形式をとる必然性が、今一つ、腑に落ちない、感覚もありますね・・・ (短歌~無題)

2017-12-17

声、歌声・・・ が喚起する陶酔、没入の瞬間を、冷静に見つめ、解説しよう、とすると、このような流れになっていくのだろうと思いました。 冒頭三行め、単語を畳み掛けながら「読み」のリズムを作っていく文体になっていくのだろうと思いかけたところで、語りの文体に切り替わっていく。 うたう、歌われる、誘われる、誘われる・・・ことへの憧れを、やはり歌い上げてしまうと甘さ×甘さ、という感じになってしまうので、語りの文体を用いて正解だったと思います。 他方、優しい狂気です、というような言い直しの部分は、感覚的な把握を、説明的な文脈に引き戻してしまうので、少し見直した方がいいかもしれません。 語り手の推測部分も、たくさん入ると過剰感が生まれるので、そうした部分を見直す形で絞り混んでいくと、もっとうねるような抑揚や、ドラマティックな音楽的な流れが生まれるのではないかと思いました。 (歌声へ(螺子と種子))

2017-12-17

三浦さんのコメントを拝読して、きる、の語に、切ると、やりきる、のきる、が重なっていることを、改めて感じました。 見えている人たちは、迷いのない人たち。あるいは・・・花緒さんの かみさま にも通じるのかもしれないけれど、ある、いる、と信じるほかない(自分をそう、騙す他のない)なにごとか、なのかもしれないですね。 新次元 の時評で取り上げた、和田さんの作品にも、共通テーマがあったと思います。 徐々にでいいから さんは、遠慮深い方なのでしょうか、作者の気持ち、をコメント欄で拝読できないのが、少しさびしい、気はします。 白、霧、で掴む体感。共感する作品でした。 (朝、階段で。)

2017-12-17

アラメルモさん 何と申しましょうか、さらり、と書いた、というわけではなく・・・ここ数か月の、様々な思いが、層のように重なっている、という感覚です。様々な出来事の層が、「わかれ」「拒絶」「思いが届かない」「断ち切る」といった・・・遮断のイメージで、真ん中を針で突き通されて、一つの塊に束ねられている、ような、そこから(たぶん)生まれた詩です。作者としては、たぶん、としか言いようがないというのが、自作に対する言葉でもある、のですが・・・。 survofさん 〈言葉が本来の重たい意味を失って感情の残骸や感覚の渦としてただそこにある有様〉ありがとうございます。具体的な意味、その濁りとか重さから・・・なんというか、澱を沈めるように、その上澄みの部分を取り出したかった、というか・・・きっと、「きれいなもの」にしてしまいたかった、のかもしれません。「美化」ということ、ですね。自分の中での、昇華/消化、のための。 花緒さん 詩語への傾斜、あるいは「美化」する、ということについて、考えさせられました。たしかに、その傾向がある、かもしれません。「とうめいな痛み」は・・・硫酸で肌を焼かれる、ようなイメージが元にありました。それを「できるだけ生々しく、他者に痛みを突きつけるように、剥き出しになるように」提示するか、あるいは、美化して、「きれいな」世界に回収する、ある種の人工的なイメージ、想像力で作り上げた世界に昇華してしまう(してしまいたい)という選択がある、ように思います。 硫酸のイメージから硫酸銅を連想し、あの透き通った青、に包まれるイメージを連想し・・・とうめいな痛み、というところに収めたのですが、果たして、それでよかったのかどうか。 赤剥けになった肌が、漿液を垂れ流しながら痙攣し・・・というような「具体的」で、生々しいイメージを繰り出していく方が、より「迫真性」は強まるのかもしれませんが・・・痛みそのものを強調したかった、わけではない。でも、伝えたかった「いたみ」はある、という・・・自作に関しては、なかなか「外に出て」語る、ことはできないですね。この辺で、やめておきます。 (沈黙)

2017-12-16

一行めのインパクトがかなり大きいので、くさかさんが提出している違和感、というかとまどい〈つまりこの語り手は「君」が死んでしまった割には、どこか冷静的すぎるように感じます。〉が生まれるのも、自然なことのように思います。作者としては、こうした読み方が生まれる「構成」でよいのかどうか、組み替えていく方がよいのか、そこが思案のしどころ、ということになるでしょうか。 一行目、火葬という言葉の強さのゆえに、実際の死を連想しますが、すぐに〈提案します〉という言葉が置かれて、まだ起きていない死、起きていない火葬に対する準備を「提案」している、ということがわかる。そして、そのシチュエーションを受けて次行が置かれる。宝石、ドレス、というドリーミーな世界へ誘うイメージ、〈白絶る体に火〉という不思議なフレーズ・・・白い裸体が火に包まれているイメージ(たとえばワーグナーの楽劇『二―ベルングの指輪』「ワルキューレ」の中で、炎に包まれて眠るブリュンヒルデのイメージ)を、私は連想しました。 〈君の温度が発火点をこえて〉というフレーズなども、恋愛の白熱、象徴的な「火葬」をイメージする、のですが・・・君、が発火するのか、君への想い、が発火するのか。君を「火葬」してしまいたいのか、君への想い、を火葬してしまおう、ということなのか・・・というような、君と僕との関係性が、なんとなくつかみがたい。 それは、国民、ぼくたち、というように対象が拡張される2連、3連の読み方にも関係してくると思います。2連、3連は、社会的な葬送、政治的な状況へのメタファーを含んでいるようにも見えて、何度か読み直したのですが・・・この国を「ましろ」にするために、誰かを犠牲とする、というような・・・。もちろん、この国が真白ではない、「黒い」方向に進んでいる、という、社会批判的な意味を重ねて読むべきなのか、とも思った、のですが・・・ 僕と君との個人的な葛藤が、国民のレベルまで拡張されている、と見る方が自然なのかもしれない。 パレード、白夜、白虎。白のイメージ、祝祭のイメージが、ディズニーランドのエレクトリカルパレードのようなドリーミーな世界への連想も誘う、のではあるけれども・・・〈命は系列的にしか広がっていけない〉というような、生真面目で重みをもったフレーズとのバランスが、私の中では、どうもうまく取れない、つかめない。ウイットを利かせた、ある種、omnibus的な作品、と見るべきなのかもしれないけれど・・・ (白絶の火)

2017-12-16

夏生さん ありがとうございます。葬るほど・・・そうですね、気持ちを、埋めていくというか、そうしたくなる時が、ありますね。 fiorinaさん 野生の知恵、ですか、なるほど。いい言葉をいただきました。なんだろう、姿勢も低くして、上目遣いで、あたりを伺いながら、狙って進んでいく、ようなイメージかもしれないですね・・・。 (沈黙)

2017-12-15

〈新憶の潰えたる肴の味したる新大久保〉新憶、を、記憶、と「空目」しました。なぜでしょう・・・懐かしい記憶の奥にある場所、という前提で読んだのか・・・。 しんおおくぼ、と、しんおく(記憶、の新しいバージョン、的なイメージ?)の音韻。味したる、も、味したたる、と「空目」したのですが、これも「ついえたる」との音の引き合いから引き出された言葉、でしょうか。 「カメレオン戦争、人はそう呼びます。」 「ガラスの薫風が人の心を引き裂くのです。」 この会話(対話)が、洒落ていて多義的で(現代社会を批判的に映しているようでいて、同時に、かっこいい、言い方をしてみただけ、というような表層的な美しさにもなっていて)気に入りました。 〈かがみこみ、力むと、過去が見えてきます。そこから先は、記憶へと続く長い道のりとなっていて、〉この流れも、とても素敵だと思いました。冒頭の「新憶」が、新しく刻まれていく記憶、であるなら、ここからは過去の記憶に繋がっていく。それも、身体的に「排泄」するように生まれる記憶を、自らも統御不能のまま、眺めている、感覚。眺めていること自体が、果たして快感であるのか、不快であるのか・・・〈不思議な痛覚の底を辿り〉辛い程ではないけれど、やはりピリリと痛むような、刺激のある体験である、ということでしょう。 私が記憶を排泄するのを眺めているイメージを持つ後半と、世相を言葉に変換していく、それが表層的に流れていくのを見ているような前半との幅の大きさ・・・ 場所というか、空間を切り替えることで、うまく架橋していると思いますが、〈ケーブルを引き抜き~〉の前に一行アケを作っても良かったかもしれない、と思いました。 (砂)

2017-12-15

上げます。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-12-13

〈大きなシャボン玉を作ろうと〉していた子供時代の想い出が、いつのまにか 〈シャボン液は吐き尽くした/布団を取り込んで/夕飯の支度をしなければ〉と、現在の大人の視点に変わっている。不思議な時空を旅した感覚がありました。 泡、でつながれていく連想・・・強権的な父のイメージも垣間見え・・・夢の代名詞であるかのようなシャボン玉、隣家のお姉さんの泡風呂・・・サイダーの泡を吹いているのは、大人になった語り手の子供、で、隣家のお姉さんへのイメージは、子供時代の語り手のもの、なのか・・・このあたりが、なんとなく錯綜している感もあります(もっとも、ここを整然と整理してしまうと、直線的な流れになり過ぎて、ふくらみが出ないかもしれないですね) シャボン玉(夢)の行方は、こっそり出かけた遊園地。観覧車が回るイメージは、人生が回る(終焉を迎える)イメージに重なっているのでしょう。 過去の思い出と今の風景とを重ねながら、当時の想いに浸っている、そこで留まってしまっている、という物足りなさ、のようなものも、少し感じる作品ではありました。全体に淡い思い出をコラージュしたような印象があります。つなぎ目がとてもスムーズで・・・和紙のちぎり絵とか、水彩のぼかしのように、輪郭がぼかされているので、曖昧さの中に心地よく取り込まれていく余韻が残りました。 (シャボン玉のゆくえ)

2017-12-13

朗読で聴きたいな、と思いつつ・・・ああ、大阪ネイティブの方ではないのか、と再認。 これはぜひ、大阪ネイティブの方に、朗読してほしい、と思いました。 辻征夫さんに、「船出」という作品があります。 たとえば医師のリブシー先生 郷士のトレローニさん スモレット船長 立派な人はほらこんなにいたのに どうしてぼくたち あの無頼漢たち 海賊の方にあこがれたのだろう (中略) ぼくも従兄弟もあこがれて 海賊になろうねと誓ったのだったが もう何年になるだろう 病院のベッドで眼を見開いたままの従兄弟に ぼくはささやいた ぼくたち海賊にもならず 妻を娶り 家庭を作り 働いたね 高く吊るされることはなかったけれど いつのまにかぼろぼろになっちゃった じゃ ひとあし先に 船出するんだね 船長 月も明るく 海は静かだよ なんとなく思い出したので、ここに貼ります。哀悼詩。ミシシッピ・ブルーも、また。 (ミシシッピ・ブルー)

2017-12-13

逃げ出さないように、風切り羽を切る。それは、語り手による、「ピーコ」への執着であったのかもしれません。花緒さんが「ダーク」と評したのは、〈もがれた翼をばたつかせるのは/見ていて不憫だった、いや、不愉快だった/私にではなく、窓の外に向かって啼くのも〉このあたりなのではないか、と思いました。 〈私〉は、自分では「飛べない」ことを自覚していて、「飛べるもの」に憧れている。なおかつ、その「飛べるもの」が自由に飛び立つ(飛び去る)ことを許さない。許さない自分に、「飛べるのに、飛べなくされたもの」がいっそ反抗しれくれればいい、と願っているのに、その「願い」は果たされない。「飛べるはずだったもの」が、ひたすら空に憧れているのを、胸騒ぎと共に見つめている・・・。 「籠の中の鳥」が、単なる愛玩動物やペット、家族、を越えて、自分自身の魂の象徴のようにとらえられているから、なのではないか、と思いました。自分の魂が、自由に羽ばたくのを、自らの意志が阻止している、というジレンマを抱えていて・・・自らの魂が、自らの意志に徹底的に抗弁してくれる、そんな強さを持つことを、実は願っているのではないか。 それなのに、魂は肉体から抜け出して、空へ還ることばかりを願っている。意志(と肉体)は、そのことに対してついて行く事ができない。 〈一緒にいる為に、だから翼をもいだ〉魂を、自らの内につなぎとめておくためには、魂の翼をもがなければならなかった・・・生きて行くために、誰もが経験するはずのこと。その痛みを、いつまでも覚えている(それゆえに、魂が、肉体の中に、なかなか居場所を見いだせない)人と、すぐに忘れて(折り合いをつけて)、魂が肉体の内に居場所を見つける人、とが、居るような気がします。 (「籠の外」)

2017-12-13

〈幸福な夜の軒先に 何かを伝えようとすることが 静かな言葉では難しい〉 という印象的なフレーズの後、鉄、錫、と冷たく硬質な物への希求が語られる。 起承転結の、起と承、の部分ですよね。 そこから、色彩へ「転」じ、さらに〈蛾のような姿にかわって/あの電灯にたかっている〉 という「結」に到る。 静かな言葉、ではなく・・・速水御舟が描いた、篝火の中に飛び込んでいく色とりどりの蛾のような・・・そんな、自らを燃焼させてしまいたい、そんな衝動が背後にある、という事なのかもしれませんが・・・鉄、錫、のような、確固たる言葉がほしい、という欲求と、自らを燃焼させてしまいたい、という欲求とが、短いスパンで結び付けられてしまっている、そんな強引さを感じてしまいました。夜に金属を探す。このユニークな詩情を、もっと突き詰めても面白かったのではないか、と。 (幸福な一日の終わり)

2017-12-13

〈そんな私が人様の想いを言語化するのを手伝っているのですから笑ってしまいます 本当に役立っているのでしょうか でしたらどうか、どうか名前をください〉 ・・・そういう「仕事」をしている人の事を、詩人、と呼ぶのではないでしょうか。 (声だけの無名、酷い酷いにおい)

2017-12-13

追伸。後半、ついていけなくなった、というコメントや、花緒さん自身の〈オチがしょうもない〉という”反省”の由来は、資本主義・・・というかアメリカンドリーム的な成功者のスタイルを、ひとつの「型」として描いているから、なんだろうと思います。(日本人離れした主人公設定、ということでもありそうです)そこに、本人の願望とか希望というものが、どこまでリンクしているのか、そうした意味での「肉声」が埋もれていて、なかなか見えてこない、それゆえの消化不良感が生じている、と言えばいいのか。 なんのために、「経済活動」を行うのか。ホワイトアングロサクソン的な勤勉と、その結果としての蓄財を得た主人公。食事や肉欲と言った身体的な快楽を満たし、使用人をたくさん置いた別荘に暮らし、第三世界の「貧者」への寄付という社会貢献を行い、社会的な地位と名誉も確保している。アメリカ型消費文化における成功者が、その先、のビジョンを持てない社会であるがゆえに、主人公もまた、停滞せざるを得ないのではないか。 他方、この物語の主人公は、自らの魂の涵養というのか、精神的充足に値するような文化的活動、文化的社会貢献は何も行っていない。信仰という魂の充足の手段も、とうの昔に放棄している。 そして、この「他方~」の部分に、主人公の抱え持つ空虚と、語りの主体である作者の抱え持つ空虚(というか渇望)とが、重なり合う部分があるだろう、と思うわけです。 アメリカンドリーム、とひと口に言っても、たとえばシリコンバレーの若者たちの見ていた夢は、歴史を作っていくということにあったのではないか。単なる蓄財、ではなく。歴史(物語、人類史)の1ページを、自分たちは今、作りだしている、先陣を切って書き記している、という充足感。 その「先陣」ではなく、経済活動のど真ん中にいる主人公は、ど真ん中にいるがゆえに、社会のひとつの歯車、ひとつの部品以上の存在にはなり得ない。自分は今、歴史を作っているんだ、というような高揚感、充足感がない(歴史、が大袈裟であれば、流行とかモード、と言い換えてもいい)。 この主人公は、社会的な貢献として寄付を行っているけれども、それだけでは充足を得られていない。かといって、個人的に自らの精神を充足させるための「なにか」を見いだせているわけでもない。流行の先端を作りだしているわけでもない。かろうじて、〈再びまた、誰のものでもない紙に文章を書きはじめる〉ことに、ひとつの予感というのか、方向性を見出してはいる、ものの・・・。 欧州型成功者の「型」は、美術品の収集や作家の支援といった、芸術活動への貢献に向かうことが多いような気がしますが、果たしてこの作品の主人公は、そうした方向に舵を切るのか、どうか・・・。 いずれにせよ、自らの魂(の渇望)を、いかに満たすのか、という切実な問いが、宙づりにされている。それは、個人の問題ではなく、現代人が抱える問題、でもあるわけです。そして、そのことを主人公は「よし」としているわけではなく、空虚としてとらえている。書きたいのに書けない、書くことがない、という渇望(と絶望)として、自覚している。そこに(逆説的ですが)私は希望を見る。 アメリカ留学時代のことを自伝的に書いた作品、ケレケレの話、そして本作、一貫して、その渇望に触れている。〈アホなジャンルの創設〉〈フライヤーの裏に書き散らされる雑文〉なぞと嘯いていても始まらない。これは詩ではない、と守りに入るのではなく・・・主人公を設定するかどうか(語り手=作者、とするか否か)というような、表現スタイルや手法の問題を越えて、自分にとっての「詩情」「詩想」「主題」はこれだ、と、もっと本質的なところで主張すべきなのではないか。と、そんなことを思いました。 (かみさまのはなし)

2017-12-13

『ご相談があります。』が、ダイレクトヒット、でした。不安神経症とか、パニック症にとらわれている女性の独白、のような・・・。 統合失調症の女性が、自分の見ている光景を語った言葉を、精神科医が編集した本を読んで、衝撃を受けたことがあるのですが(他者が、藁人形のようにしか見えない、世界が、うすっぺらな張りぼてのようにしか感じられない、といった状況。病者と健常者との境目が、これほどに頼りなく、あらゆる人が病んでいるとも、健常である、とも言いうるものなのだ、ということを感じた時の衝撃、etc.) 四部作、なのか、どうなのか、組み物としての構成は、どうなのか・・・うむむ。 一部?は、どうも私には肌が合わず、うまく読めませんでした。 二部のテーテーテー以降、明日美さん、が生まれるに至るまでの概説、のようでありましたが・・・理科の教科書の楊でもあり・・・。 三部は、アラビア語?ペルシャ語?と思いかけたものの、ほぼ、模様としか思えず、これも肌に合わず・・・ 五部の『世紀末ポア(カバー)』は、オウム真理教事件の時に話題?になった「ポア」という文言が、まさに連呼されているわけですが、ブラックユーモアになり切れているのか、どうか。子どもが、やたらに「うんこ」やら「ちんこ」やら、そんなこと言っちゃダメ!と言われるようなワードを連呼して楽しんでいるような、そんな悪意のない楽しさ、を感じる部分ではありましたが・・・ 切実さとか、重みとして伝わって来る部分があるのは、どこか。他者のリアリティーが響いてくるのは、どこか、と言えば、四部の女性の独白の部分だった、ということになります。 コーリャさんへの返信の中で、〈二月から始まっているこのサイトでは出遅れていると思っております。/なので遅れを取り戻すべく〉とあるのですが・・・焦る必要、あるのかなあ・・・。 ひとりひとりのスレッド、この一面全体を用いて、ひとつの作品を構成する、という勝負でもある、と思うので・・・相互の効果というのか、五部どうしの関係性が今一つ掴めないような、詰めこみ感満載、これはどう?こっちはどう?と並べた感満載の構成、これはどうなんだろう。リミックスミュージックにもコンセプトがあり、全体の流れがあり、そうした作者の意図というか、意欲が、もっとうまく伝わるような構成を考えてみるのも大事なんじゃないかなあ、と思いました。 (お子さん、SUNgです。)

2017-12-11

〈舌足らずの玩具〉というフレーズから、悲しき玩具、を連想しました。 〈長い長いうわごとの/公衆の設備に寄りかかって/君は果つるまで汲みつづける/自分という光景〉 うわごと、は、譫言、なのでしょうけれども・・・続く公衆、と結びついて、なんとなく、うわごとのように公衆電話に向かって何かを話し続けるイメージ、が湧いたのですが、その前にある〈水の一部〉という言葉から、水の表面、上ごと(そんな言葉はないかもしれないけれど)というような連想も浮かびました。 〈自分という光景〉語り手にとって、これは重要なワードなのだろうと思うのですが、自分、が観念化され過ぎていて、なんとなく空回りしているというのか、うまく響いてこない感覚がありました。〈果つるまで〉という、官能の極限のようなシーンや、道の果つるまで、といったような情景の際に、詩語として用いられるような文語的な言葉があるせいでしょうか。 水の面に浮ぶ幻影としての自己、を、飽くことなく、水の果てるまで、汲み続ける(でも、汲み上げることが、つかみとることができない)といった心情を伝えたかったのだろう、と思いつつ・・・ここまで、込み入った表現にする必然性があるだろうか、という疑問を覚えた、と言えばよいでしょうか。 〈其処にはいない白い山羊〉・・・う~ん、何のメタファーだろう・・・山羊、というと、「僧侶」の中の〈洗濯物は山羊の陰嚢〉という、インパクト大のフレーズが、まず浮かんでしまう、のですが・・・あれは、白山羊だったか。イメージの中では、むしろ黒山羊、なのですが・・・。河原の石、耽美的な正体、と続くと、タナトスに彩られた、賽の河原の石、のようでもあり・・・ 〈頬に湾曲される水、つたう〉これは、頬に涙が流れる様子の描写、でしょうか。 コートを肩にかけている、のだから、外に居るイメージなのですが、〈果つるまで〉〈クライマックスを迎える君の〉という流れから、室内で愛し合っている景とも読める。愛、を「いとしい」のいと、と読ませているあたりからも、睦みあっている際の・・・と読みたくなる、のですが、いささか隠喩を多用しすぎているような印象が残りました。 (光景)

2017-12-11

皆さんに訴えて来るものがある、そして(花緒さんが指摘されているように)荒削りな印象も受ける、のは、おそらく・・・ 自分自身に言い聞かせる、刻み込む、ような形で綴られているからではないか、と思いました。 題名の〈渚へ〉は、具体的な人名なのか、あるいは、理性と感性の波打ち際、のような・・・現実と非現実とのあわい、のような、そんな(心象風景としての)渚、なのか。 自分自身に対しての「宣言」とも取れる作品ですが、その文言が他者にも向けられている。ある種のアジテーション、とも受け取れる。コメント欄と作品とを読み比べながら、そうか、若い人達には、こうしたストレートな「意志の刻み込み」のような作品が、インパクトを与えるのか・・・心象風景への歩み入りとか、幻想の景への侵入とか、探索、といった、非現実の場への移行ではなく、今、この場に生きている自分自身への言葉が意味を持つのか、という「発見」を得た作品でした。 最後の一行が、自分自身、から、〈俺たちにとって〉と拡大されている、ここが、もしかしたら先走り感を与えてしまう部分なのかもしれません。つまり・・・読者が、語り手の「自分自身への刻み込み」を、自らのもの、として受け止めよう、とする前に、この言葉は、俺たちみんなにも、向けたものであるんだよ、と語り手によって明かされてしまう。その性急さが・・・たとえば花緒さんのコメントの、〈最終行の、希望なのだから、は多分違う〉という違和感、ある種の抵抗感として現れている、のではなかろうか・・・という気がしました。 (渚へ)

2017-12-11

指先に走る痛み、に焦点が当てられているのではなく、〈撫でる〉という言葉に含まれる愛おしむようなニュアンスが印象に残りました。 指先に刃をすべらせ、うっすら滲む血液、その血が〈誰かの/同じ血〉へと混ざっていく、とけこんでいく、のを夢想しながら・・・実際には、血が乾いて、痛みだけがそこに残されるのを、一人で見つめて居なければならない。 わたし、であることを離れて、大きな一群、誰でもない群、の中に溶け込んで、消えてしまいたい、という願望が、満たされないまま、孤独だけが切々と・・・指先にこびりついて乾いた血が目の前に突きつけられるように、そんなリアルさで迫って来る。 そんな心情が描かれているように感じました。 二連目の、〈誰か〉という、漠然とした対象設定が、全体をなんとなく曖昧にしている感もあります。耽美的な心象風景への傾きが前面に出ている、というべきか。 命のエネルギー、あふれ出す心情・・・その熱の象徴ともいえる流れる血が、乾いてしまう、というイメージと、心が冷えて、凍り付いてしまう、液体が固体になってしまう、というイメージと〈凍える指先〉〈溶けはしない〉〈霜が訪れ〉という冬の寒さのイメージとが重なっているように思いました。 〈深い底〉とは、集合的無意識が心象映像として描き出した、群青色の湖、ということになるでしょうか。 茨木のり子の「みずうみ」という作品に、〈人間は誰でも心の底に/しいんと静かな湖を持つべきなのだ〉 〈田沢湖のように深く青い湖を/かくし持っているひとは〉という印象的なフレーズがありますが、そんな心の奥底の湖を連想しました。 (冷たい夜明けの湖畔にて)

2017-12-11

最後のキメ台詞?の部分が、〈奪いたまふ〉なんだ、〈奪いたまへ〉ではないんだ、と・・・驚く、というのか、意外、と感じた、というのか・・・。ここで、作者としては悩んだのか、悩まなかったのか、伺ってみたいと思いました。 冒頭の流れるような二行、詩への入り方が、美しい。〈とき〉と〈時〉の使い分けも、ゆるやかに訪れる時間と、一瞬にして過ぎ去る記憶の対比、という印象が生まれて、とても良いと思いました。水仙のつぼみ、という具象的な映像が冒頭に置かれるのですが、〈そのひとりの少女・・・健やかに伸びている〉という進行により、水仙のつぼみのような少女、そして、その少女が早春(人生の早春)の冷気の中、ゆるやかに花開いていく、その予感を漂わせた〈とき〉に自然に変換されていく。 〈湿り気をほんの少し奪うので・・・ことができた〉構文だけみると、実に理屈っぽい文体なのですが、内容は論理を越えていて、語り手にとっての確信を提示しているに過ぎない。読者にとっては謎の「論理」なのに、語り手にとっては自明のものとして進んでいく、この意外性にも魅力を覚えました。 〈湿り気〉という言葉は、湿っぽい関係、という慣用的な言い方に通じます。 ドライな関係、というような言い方からも分かるように、人間関係の親密さを、乾燥の具合、水気があるかどうか、という「感覚」に喩えるのは、わりと一般的な理解の範疇なのに、新鮮さを感じるのは、なぜなのでしょう。 きっと、〈地下鉄の通路を吹く風〉が奪うものは、肌の湿り気、目の表面の湿り気、といった具体的な、手で触ることのできるような現実感を持ったもの、であるはずなのに、二人の関係性というような見えない湿り気を奪う風、となり、その結果として〈涙〉が零れる、という・・・見えるものから見えないものへとスライドしていく流れの鮮やかさに理由があるような気がします。 〈夕陽が切り裂き魔のように/中央線の走る街から光を奪ってゆく〉このフレーズも面白いですね。夕陽が切り裂き/切り裂き魔のように中央線の・・・と、二重にかかっているように読めます。ストレートに読むと〈夕陽が~光を奪ってゆく〉となりますが、光が光を奪う、という意外性が、心地よい違和感になっている。 解説するなら、夕陽が一瞬の閃光を残して、その後、昼の光が失われていく景を描写した、ということになりますが、「2人の会話」のように自然に置かれた〈ビックバン以降/無から有は一度も生まれてないのだよ〉という文言と光が響きあい、なにやら宇宙的な広がりを感じさせる行間になっています。 〈少しずつ奪い/少しずつ与える〉何を、奪い、何を、与える、のでしょう。愛?信頼?無から有は生まれない、それは、気持ち、に関しても当てはまるのでしょうか。 〈ホットミルクは熱っぽく傾く〉〈きみ〉へと熱っぽく注がれる〈ぼく〉の視線を背後に潜めつつ、グラスを傾けてミルクを飲む〈きみ〉の様子、その喉の動きまでもが浮かんで来る。 〈いつか神は奪う〉今の、この一瞬も、失われてしまう、ということか、二人の関係性も、いつか奪われてしまう、ということなのか・・・ビッグバン、月と海、といった、大きな広がりや重層的な意味を含んだワードが複数出て来るところに、さらに〈神〉という大きな意味を秘めたワードを持ち込むことが、果たして成功なのか、どうか。 ぼくらが、奪う、風が、奪う、きみが、奪う・・・という、ぼくら、に直結している関係性の内で奪われたり奪ったりする、なにか、がテーマであるはずなのに、さらに〈神は奪う〉まで広げてしまわない方がいいように思いました。 (奪われる)

2017-12-11

〈悲しみひとつが執着を生むと知った地の底にて 涙すら音楽に変わるじかんを生きて 誰にも聴こえない朝に立ち上がる〉 〈小さくなった分に比例して、命もいっそ、縮小されれば良かった そうもいかず、ぎゅうぎゅうに詰まったその子が絶叫するとき、心臓の在処を知った〉 〈はじめの一滴が 朝靄で隠したみずうみの秘密を露わにするように その人の声は、静かに針先ほどの穴を産みつけた〉 〈それから幾つもの言葉が涙として〉 〈誰にも見つからない朝に、たった一滴がみずうみを揺らす〉 〈もう居ないあの人は 今日もどこかで生きていて〉 特にいいなあ、と思うフレーズを抜き出してみました。 声は、音楽なのかもしれない。声は、涙となってこぼれるのかもしれない。 言葉にならない思いが、声の記憶が・・・一滴に凝縮されて、心の湖にポツリ、と落ちる。 そこに生まれる波紋・・・その余韻を、味わいたいと思います。 (夏草が撫でる鼻に泣いただけ)

2017-12-10

・・・既に、ビーレビに投稿しておりました(笑) http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=236 夢魔、です! (Stars)

2017-12-10

一連目、二連目が、なんとなく・・・説明的に聞こえてしまう、のは、なぜなんでしょう・・・人は、という、漠然とした他者、がテーマとして置かれているから、かもしれないですね。 三連目の「わたくしは~」からの連が、とても好きでした。宮沢賢治の、青い交流電燈、という、鮮烈なイメージや、貝の火(ガラス玉のような石の中で、色とりどりの火が燃えているイメージ)が、鮮明に刻印されていて・・・生命エネルギーが灯のように燃えている、イメージ。そこに通じるものが、あります。 繰り返し見る夢があります。真っ暗な、塗り籠めたような闇に、かけ渡された細い、銀色の投網のような網。その網目の交点が、線香花火のように(赤ではなく、白く)燃えては、燃え落ちようとする。すると、周囲の交点から・・・脳内のシナプスが情報伝達する時のCG画像、のように・・・光の線が伸びて、燃え落ちようとする火を、つなぎとめる。そうして、網目が編まれていく・・・というもの。網目の交点で燃えている光、あの光一つ一つが、魂の発光なのだ、と、確信的に「思い込んでいる」のですが、なぜ、そう思うのか、感じるのか、が、わからない。 そのイメージを描いた詩があるので、投稿してみますね。 (Stars)

2017-12-10

ケレケレの話に通じる、重要なテーマだと思います。 原始共産制の時代のような・・・ある種の原点とも言える「生活」の中には、見えないけれども「かみさま」がいて、「物語」もまた、ある種の真・・・アナザーディメンションリアリティー、を物語るものでもあった、その「記憶」から始まり・・・所有、私有、の世界に入り込んでいく。 4連の、脇目も振らない真っ直ぐさ、直情さに・・・私自身の持つ(あるいは後天的に身に付けてしまった)「まっすぐ」ぶつかることを出来るだけ回避して、時には「方便」も用いて、迂回しながら目的地に至ろうとする性向に、本当にそれで良いのですか?と、鏡を突きつけられているような感覚も覚えつつ・・・(すみません、少し脱線しました)作品に戻ります。 いるはずの「かみさま」あるはずの「理想」あるいは、確かではなくとも、そこにあることにしよう、と自らに思い込ませることが出来た間は、無我夢中で「働く」ことが可能だったのに・・・その結果として、(この場合は寓意としての、ですが)豊かさを蓄財することも出来たのに・・・その豊かさを、自分自身の「為に」他者の「為に」消費し、分配し、「寄付」により「感謝」すら得ている、この段階における満たされなさは、一体なんなのだ?渇望すら起きない、欲しいものすらがわからない、この空虚は一体、なんなんだ・・・という問い。 資本主義の行き着く果てに、待ち受ける空虚や欠落感について、寓意的に示したとも読めるし、個人が、何のために働くのか、という問いかけとしても読めますし・・・蓄財だけではなく、知識や経験の蓄積、独占的所有の虚しさにも繋がる話ですね。 蓄積されたものを、分配ではなく、寄与でもなく・・・シェア出来るならば、どうなのだろう、と、漠然と考えます。 そして、そこに、見えないものを在ると感じられる、そんな共有感覚が漂っていて、その感覚を、再び感受することが出来るならば、どうなのだろう。そこには、きっと、見えないものが真にあると語る物語が、存在するはずです。 私は、そうした、魂が白熱しているような物語を、読みたいのかもしれません。 そんなことを思いました。 (かみさまのはなし)

2017-12-09

表記に関して、〈あなたのを見目〉と、〈やはらかな〉という、文語体の使用部分が、少し気になりました。 切実に、〈あなた〉を信じたいのに信じられない心情が綴られていく。〈あなた〉を、愛しい人(片思い、あるいは、不実な恋人)として読むのか、もっと大きな・・・神とか信念、未来といった観念的、精神的な存在と読むのか、両者が重なっていると読むのか・・・ 新宿、という場所というか、トポスの持つエネルギー、地霊のようなものを、もっと徹底的に新宿らしい細部や情景を「取り出す」「ちりばめる」ことによって活用するか、あえて内面にだけ目を注いで、心情の波や、不安がいかなる形象(心象風景)を伴って現れるのか・・・  どちらかに明確に舵を切った方が、より読者にインパクトを以て伝わるのではないかと思いました。 信じる、信じない、信じたいのにそれが出来ない、という切実さは、言葉を重ねていくよりも、その不安な心情に映る外景や、不安な心眼の見つめる内景に、より如実に現れるのではないか、という気がします。 信じる、ということの不能性そのものに触れる作品として、ドイツの廃墟文学と呼ばれる一群を思い出しました。 ハインリッヒ・ベルの、蝋燭を聖母に(だったかな、うろ覚え)等が印象に残っています。 (帰らないものたち)

2017-12-09

律動感と申しましょうか、言葉の流れていく速度やリズムに、動きを感じました。時計を刻んでいくような、アンダンテの速度で、語尾に軽めのスタッカートを置いて、着実に進んでいくような印象。 音感や音楽性にも心を配った作品だと思いました。 (黙々と)

2017-12-09

印象に残ったフレーズを引用しようとして・・・既に三浦さんも硝子さんも、同じところを引いておられました。 朝のグラスに、たたえられた水、透過する朝陽。とらえどころのない液体は、語り手の心そのもののメタファーともなっている。何色にも染まっていない、様々な景を歪めたり拡大したりしながら写しこむ、レンズのようなグラスと、揺れる水。 その水を見つめる自分の目が、他者の目と重なっているところ、自分を内部で感じつつ、外部からとらえているところにひかれました。 (細部)

2017-12-09

指先にぎりぎり届かない、日向・・・産毛をかすかに揺らさない、風・・・届きそうで届かない。触れられそうで、触れられない。 賢治は、あめゆじゅ、と、美しい言葉で名付けられたものを呼ぶことが出来たけれども(エスペラントで、アイラブユーと、読解できるとも聞いたことがあります)語り手が名付けようとすると、水道水を凍らせた、その融けかかりのような、なんとも味気ないものとなってしまう。 つかめそうでつかめないポエジー、陳腐な名付けしか出来ない、それゆえに呼び出すことが出来ない、しかし確かにそこにあるはずのポエジーを、切なく求めているような、その情景を描いているような作品だと思いました。 (「産毛」)

2017-12-08

仲程さんのコメントに、電車のなかで思わず吹いてしまいました・・・ 洗罪、は、無罪なのか・・・ ならば、詩罪は、いかに処すべきや? 何度でも洗い直して、また始めたいですね。 (最終判決)

2017-12-08

誘う作品でした。 (冷たい青)

2017-12-08

途中で送ってしまいました・・・ 美と殉じてしまいたい、という衝動なのか、君、を独占していたい、という感情を極度にみなぎらせたゆえなのか・・・ 君を、君のすべてを愛しているよ、と呼びかけるけれども、語り手は君との性愛の時間を愛している、と呼びかけているようにも読める。 君、は、エロスの化身なのかもしれない。自意識を忘れ、自らを離れさせてくれるもの、意識を陶酔に導いて、生きる痛みを麻痺させてくれるもの。そんな境地をもたらしてくれる、エロスへの、切ない告白、片想いに近いような独白なのではないか。 少女であり少年であるかのような中性的存在であることも、後に天使として描かれることになるエロース=アモールへの連想に誘われました。 (冷たい青)

2017-12-08

映画を見るような、それも、かなり長回しの映像が流れるような前半と、かなり急速に、強引に、映像を遮断しては挿入していく後半。 顔を塗り潰された少年のイメージが、そこに深い黒い穴のように迫ってくる感覚がありますが (冷たい青)

2017-12-08

熱量は→熱量も (赤い川)

2017-12-08

リーディングを意識されているのでしょうか、流れとまとまりがいいですね。 湧水は、いのち(の流れ)が最初にほとばしる始点でもある。 35億年の命の流れの始点、さらにその先・・・46億年を越える、命の素、の始点・・・は、果たして混沌なる無(なづけえないものの集合)なのか、整然と緊密にバランスを保ち、それゆえに動きを失った完全なる世界、なのか・・・ 脱線しました。 川床をうごめく魚は、私たち一人一人の姿でもある。完全無欠の精緻なる完璧さに彩られた世界は、雪の女王が作り上げた孤独な宮殿のような美しさだろう、そこには、熱く流れるものも、予想外にに溢れて汚したり乱したりする熱量はない。 赤い川の水面が膨れ上がり氾濫し、あたりを透明な赤で飲み尽くすとき、正気も狂気も源を同じくすることを、人は知るのだ・・・そんな気がします。 (赤い川)

2017-12-08

花緒さんが谷川俊太郎さんの印象的なフレーズに触れていますが、遺失物、夕焼け、そこに溺れる(忘我の)感傷ではなく、自身もまた、いつか消えていく存在として・・・自分自身を客体として見つめる目差しにおいても、谷川さんの世界に深くシンパシーを感じている印象を受けました。 鈴木志郎康さんや吉野弘さんなどの名作も、余韻として響いているのを感じる作品。 網棚に置かれたままの先人たちの名詩のフレーズ(新聞を、とか、夕焼けも見ないで、など)、そんな、一生携えていきたい言葉をすら、いつか置き忘れていくのかもしれないけれど・・・その言葉から生まれる何かを胸に抱いて、新たにホームに立つ人がいる。そうして、続いていくのだと思います。 (回送)

2017-12-08

たしかに、スケッチで留まっている、というもどかしさがあるようにも思うのですが・・・ 乾いている、というイメージは、飢えている、餓えている、渇望している、満たされない、という欠落や欠乏に基づくものであるわけですが、この少女たちは、「すでに」乾いてしまっている。〈皆乾き切ってしまっていた〉状態にある。 何かに飢え、何かを激しく求めたり希求したりする、その目の輝きすら失われてしまっている状態、それは生きる実感が失われている状態と言い換えてもいいのかもしれませんが、そんなさなかに垣間見えた〈見えない虫の魂がボウと浮かび上がり/それはまるでカゲロウのように切ない〉その光、そのぼんやりとした明るさは、いったい、なんだったのか。 乾いていた、というキーワードをつかんだことが作品の要であると同時に・・・乾いていた、というWordを何度も繰り返して用いることで、その単語によりかかり過ぎてしまったのかもしれない。乾いていた、という状態を、よりよく表象する比喩・・・モノクロームのチラシ、という具体的なイメージとして捉えられていますが、もっと他には?という貪欲さがあれば、作品の持つ〈淡泊さ〉に、より一層の味わいが増したのではないか、という気がしました。 (乾いた少女たち)

2017-12-07

鮮明に映像が立ち上がる冒頭から、思弁詩へと移行していく中盤。作品に関する指摘については、花緒さんの批評に尽くされているので特に申し上げることはありませんが・・・ 虚空に突き立っている鉛筆そのものが、語り手自身と重ねられている。自身の本領を発揮すべき機会は、どこにあるのか、いつ訪れるのか。自身で動くことが出来ないまま、じっと、何か、を待っている・・・「わたし」を用いて、本領を発揮させる「存在」は、どこにいるのか。その不在に対して、問いかけている、そんな問いかけの詩であると思います。 「ゴドーを待ちながら」の、まさにゴドーにあたる「なにか」を、待つ、という行為の切実さを、キリリと垂直に立つ鉛筆の姿に託している。鉛筆というものの「書く」という機能に即して、なおかつ垂直性、削り痕や芯の黒光りといったイメージをうまく活かした作品だと思いました。 (Bの鉛筆)

2017-12-07

空に向かって、大きく両手を差し伸べ、左右に押し開いていくようなイメージですね。 冒頭で〈さわれはしない〉と認識しているにも関わらず、空、という得体のしれない、大きなものに向かって、能動的に関わりたい、そうせざるを得ない、そんな衝動が能動性となって表れているように思います。 体言止めで言い切り、改行の冒頭に助詞を置く。文体に不自然さを与えかねない技法ですが、この場合は、~く、と脚韻を踏むように続く文体に、適度なアクセントを与える効果があると思いました。 トートロジーとは、何か・・・言葉を重ねていくことによって、麻痺していく感覚と、畳みかけていく強調や心理的切迫感とのバランスの問題なのかもしれない、とも思うのですが・・・ ひらいていく、ものは、「そら」なのか、あるいは「くう」なのか。二人の間の空白、空間、そのものがテーマなのか。水に写る鏡像、イマージュだけはそこに揺らめいているのに、〈君〉は、そこにいない。〈空の隙間に、喪われたから、〉その喪失の切実さと、君、の存在感の稀薄さ。 〈空に、水に、何度も爪立てて/何か刻んだだろうか/何か傷つけただろうか〉 無意識のうちに、あるいは未必の故意的に、誰かを、何かを傷つけているのではないか。その問いかけが、〈空〉を開いてでも、何かを確かめたい、という衝動に繋がっている、ような気がしますが、全体に心象や映像どうしの映り合い、映り込み・・・いわば、反映の連続のような曖昧さも残ります。 トートロジーとは、創作に対して、あるいは詩に対して、どのような意味を持つのか、という観念的な問いかけが、背後にあるからでしょうか。 〈あの時のあの水、みず〉に含まれる自ら、あるいは、見ず、のイメージ。空が内包する、上の空、そらごと、のイメージ・・・分解していけば、穴、が現れる「空」。だからといって、文字を分解したところで、何かを掴めるわけでは無い。言葉を綴っていく上での焦燥感に、〈きみ〉(具体的な人物というよりは、なにかの象徴としての対手であるような気がします)の像を捉えられそうで捉えられない焦燥感が重ねられているようにも思いました。 (空をひらく)

2017-12-07

〈長い泥酔と落胆 失意のあと僕は真っ白な拘禁室に収容されていた〉 この前半の‟混乱”が、苛まれていた悪夢、ということになるのでしょうけれども・・・ 冒頭のエロティックで暴力的な(被虐的な)女体のイメージは、劉邦の妻、呂雉が側室の戚夫人への暴虐を想起しました。 戚夫人が被った悲惨や苦悩と、現実社会で語り手の〈僕〉が被った悲惨とがオーバーラップされている、ということになるのでしょうけれども・・・若干、勢いで詰め込み過ぎたのでは?という印象も受けました。 幻聴や幻覚のイメージを、乱雑さを保ちながら、ある程度取捨選択して、しかもインパクトのある描写にしていくには、どうすればいいのか・・・私自身の課題としても、考えてみたいと思います。推敲の仕方の問題、と言えばよいかもしれません。 (四肢なき体)

2017-12-06

あくまでも、ひとつの「意見」として、コメントは読んでいただければと思います。 〈鉄パイプの/骨組だけを晒す・・・露出した・・・ビニールハウス〉〈妖しいプラスチックの面〉 その景が、幼児期の語り手に残した鮮烈な印象、それこそが主題であったのだろう、と思い(あるいは、そう読みたい、という思いがあり)無限、という得体のしれないものと、つながる瞬間に立ち会ってしまった、そんな幼児期のおののき、そこを、もっと読みたい、と、個人的に思ったのでした。 (物質と記憶)

2017-12-06

マッカーサー、はそのまま「使用」していて、毛沢東は〈毛宅東〉、〈周音来〉も〈鄧翔平〉も〈蒋貝石〉も、徹底的にパロディーにしている、のですね・・・ここまでやるなら、「真っ赤ーサー」なんていう遊び方でもいいかもしれない。 おもしろおかしい、スタイルに仕上げている、けれども・・・かなりブラックユーモアをきかせている。台東区・・・台湾と、ひとつ、文字が被っているけれども・・・政治的な風刺に偏り過ぎているような印象もありました。 資本主義社会の、悪しき象徴ともいえるような、フライドポテトにコカ・コーラ、そしてハンバーガー(資本主義というより、大量消費主義、というべきか) プルーチェ(フルーチェ)は、簡便で簡易式の食事のイメージ?・・・中盤というのか、このあたりが、少し筆が滑っているような感覚もあり、少女たちとの関連性が、いまひとつ(私には)読み取れず、もどかしいような思いが残りました。新鮮でぷるぷるしている、というあたりの連想なのか・・・。 〈そうやって毛は己の闇と戦ったのだ。〉賢治の「ほんとうのさいわい」は、何処にあるのでしょう。そんな問いかけを、背後に感じつつ、現状の中国や台湾への政治風刺も感じつつ。 (毛)

2017-12-06

東風 に 瑞雨 ・・・ですから、春の景、と読みたいのですが、晩秋に投稿された意味を、考えるべきなのか、どうか・・・ 全体に、やわらかで風が吹き通うような自由さが溢れていますね。たっぷりとられた余白。 言葉が、優しい輪郭をもって・・・色彩は鮮やかなのに、具体的な関係性は曖昧なまま置かれていく感覚は、なんとなく、岩崎ちひろの絵に似ているかもしれません。 〈タイムリミットを着替えたまま/いってしまった〉ひらがなの優しさ。「逝って」しまったのかもしれない、でも、既に芽吹きの、再生の予感が秘められている。それが、春先のこと、として・・・ 〈小春日和〉ここで、今の時空に戻る、ということか・・・(春、つながりで導き出された言葉、かもしれませんが) 43時間前、という、微妙な設定。具体的なようでいて、中途半端な、宙づり感に誘われる時間。 おねえさん、ではなく、絵本の文字を指で追いながら読むような「おねいさん」・・・幼子に戻ったひとの、甘えるような呼びかけを思いました。 意味を追う、詩ではないのかもしれませんが。〈わたしたちは 順次ゆく〉〈あなたが/おばあさんでも/わたしは あなたの/おねいさん〉鶏をつぶして食す、という自給自足的な田園地帯(あるいは、語り手が幼児の頃に脳裡に刻まれた、「おばあちゃんの家」での風景)が織り交ぜられ、〈鳥に自由を着せて/川に永遠を履かせて〉美しい詩語で彩られた、永遠への憧れが中途に置かれ・・・。 祖母への哀悼詩、と思いながら拝読したのですが、もっと大きなものを迎え入れるかのような詩想を背後に感じました。死、そして再生の予感(というより、願い、と呼んだ方がよいのかもしれませんが) 〈愛も恋も知らないボタンが/小さな口を二つづつあけて/囁き合うように〉愛も恋も知らないまま逝ったひと、への想い、と読むのは・・・さすがに読み込み過ぎか、と自制しつつ、あえて「愛」「恋」という甘い言葉を持ち込んで、それを否定するあたりが、気になります。ボタンホールを彷彿とさせつつ、ボタンが外れた後の空虚が〈囁き合う〉ような不思議。 具体的な関係性や時系列を読み取ることは出来ませんでしたが、あえて「させないように」曖昧に置かれた言葉を、そのまま、宇受け取った方がよい作品だとも思うので、無理に「物語」を読み取ることはしないでおこうと思います。 〈あなたの居ない空間〉を、このようにささやかなものに凝縮して、なおかつ軽やかに〈ただよい/はじめる〉と手放すように扱う、繊細な手つきに惹かれました。 前半の、光がきらめくような明るさと、ふわりと「なにか」が再訪してくるような予感・・・それこそが、東風、なのかもしれませんが。あるいは、梅の香りと共に、祖母のイメージに重ねているのかもしれない。思い起こせよ、と・・・後半の、首を切られた鶏の鮮烈な映像・・・時間感覚が上手くつかめないのですが、ここは、先に書いたように、過去に強烈に刻み込まれた「死」のイメージの挿入として読みました・・・この転調。 幼子に戻る「おばあさん」の景を経て、鶏の羽のイメージに換気扇の羽根が言葉で呼び寄せられていく。鶏に象徴されるような「死」のイメージを排出していく、そんな意識が終連に込められているように感じたのですが・・・もし、そうであるなら、若干、意図が先行しているのではないか、という感覚も覚えました。 〈帰る場所を探〉すという文言はあるものの、「本来、還るべき場所」を探している、という切実さよりも、死後、永遠という場所に放たれていく、というような、不思議な開放感を感じる作品でした。 (東風)

2017-12-06

あえて、硬い文体で、所々に説明口調を入れながら書いたということなのでしょうけれども・・・句読点がつけられていますし、行分けにする必然性(文章の進行のリズムや、読みの呼吸など。あるいは、余白のレイアウトや文字の並びが生む視覚的効果など)が、あまり感じられない。きっちり詰めた散文詩にしてみたら、印象はどのように変わるだろう、そんなことを、まず最初に感じました。 印象は、と主語的に始まりますが、これは「春はあけぼの」と同様の、テーマの提示ですね。主語として、私は、が隠れている。その「私」(想像力の主体)が、蝉の幼虫の内部に意識を内在させ、そこから「伐採された木々」に思いを馳せる、という、人間くささ、とでも言うような落差が面白いですね。 自分の価値であった、と、あえて説明してしまうのが、何となく蛇足のような気がしてしまうのですが、ビニールハウスの骨組み、幼児の目に不気味に迫るプラスティックのお面、と、具体的な景と、その「物」が、無限に連なるこわさをもつものであったこと、それゆえに好奇心を惹き付けてやまないものであった(らしい)ことが語られていく。 幼児期に感じた怖れや感動を、もっと、当時の新鮮さで呼び戻していく・・・そんな描き方をしてみるのも、ひとつのアイディアだと思いました。 (物質と記憶)

2017-12-05

「手の平の上で小さな太陽系が さらさらと微かな音を立てている」 「雨降る惑星の青を口の中に放り込めば」 創造力が、ごくありきたりのものだらけの、ありふれた日常を、一瞬で輝くものに変える。 クリスマスツリーのライトアップのような、スイッチの入る瞬間が、この比喩の部分にあると思いました。 (宇宙の底で)

2017-12-05

冒頭の、透明な幾何学、で思い出したのは、目を酷使したあとの痛みで腫れぼったい目玉を、ぐうっとまぶたの上から圧迫したときに見える、バザルリが描き出したような、歪んでいてしかも整然と並ぶ市松紋様が球体状に浮遊する、蒼い光の点滅する暗闇。 自己の内部に沈潜しようとキーボードを叩き続けて、体が浮き上がったまま幻想が脳裏を流れていく景に気持ちが巻き上げられていくのを感じている、徹夜明けの朝の感覚。 あのとき、こうしていたら、あのとき、ああしていれば、平行宇宙が陽に焼けた本の背表紙のようにめくれあがる、その裏側の肉色の空白を、触れるのを恐れながら手を差し出さずにはいられない、その衝動に駆られた視界の端を、あなたの眼差しが鋭い視線を刺して行き過ぎる、その棘は悲しみなのか怒りなのか絶望なのか軽蔑なのか、思いばかりが渦巻いて、ノートパソコンを閉じる朝の感覚。 感想を書こうと思ったら、詩のようになってしまいました、ご容赦。 (明るい部屋)

2017-12-05

やさしい流れのさくひんですね。 語りかける、その意識が前面に出ているからでしょうね。 前に、進み続けなくてはいけないものなのだろうか・・・進歩って、なんだろう。そんなことを考えます。 先生も、痛かったんだろうな・・・と、心の痛みを感じとることが出来るようになったとき、人には果たして、それ以上「先」何てものがあるのだろうか。大きな車輪が回転するように、痛みが薄れていく(忘れていく)そしてまた、痛みを覚える。そんな、回転運動があるだけなのではないか・・・そんな気がしてなりません。 (連音/ほうげんふだ)

2017-12-04

どんどんサイクルが短くなっていくあたりに、切実さがありますね・・・ 毒々しい、とか、赤黒い、とあっさり形容されているがゆえに、さらりと読めるのか・・・それぞれ、具体的で、より生々しい比喩で描き出されていたらどうたろう、破壊的な迫力となるのではないか・・・と思ったり。エンドレスであるだけではなく、どんどんスパンが短くなるところに、めまいというのか、高速で回転する歯車に飲み込まれるような酩酊感があるように思いました。 (「啼き虫の種」)

2017-12-04

クリーチャーと、クリエーター・・・詩のクリエーターが、自ら〈巨大なクリーチャーになり〉たい、とつぶやき、即座に〈そんなつまらない夢だから/台所で洗われるんだろうな〉と、自らツッコミを入れる。ショートコントのような面白さがあります。 冒頭、交わり、という言葉と胡瓜の形状から、男女の交合の隠喩でもあろうか、とも考えたのですが、同時に、軽やかな筆致のゆえに、カッパが語っているようでもあり・・・。 中盤で登場する〈君〉と、(智慧の)リンゴの、皮を全て剥きとった、はだかの気持ちの付き合い、というようなニュアンスと・・・ まだまだ頼りない、情けない僕、だけど、君を守れるような、そんな存在になりたいんだ、そんな僕の〈つまらない夢〉を、頬を染めながら聞いている〈君〉、そんな二人が見えるような気がしました。 (小さなクリーチャー)

2017-12-03

ごみ、埖とも書くのですね。塵芥のごみ、しか知らず・・・土偏に花。 意味を漢和辞典で調べたわけでは無いですが、満開の花が地に落ちたあとはゴミになる、そんな無常観のようなものが含まれた文字でもあるような気がしました。 花緒さんの指摘も、なるほど、と納得させられますね。 ゴミでできた(大量消費社会の生み出した、不要物だらけの)オートバイVS骨組みだけの、しかし余計な不要物は付けていない、必要十分な乗り物である自転車。ガソリンとエンジンで動くオートバイに対し、人力で動く自転車。 検索エンジンで動くネット社会と、自ら辞書を調べてノートをとるアナログ手法との対比であるような、そんな読み方もできそうです。 (埖)

2017-12-03

露台、という言葉(というより文字)で思い出すのは、ぎっしり文字の詰まった、茶色く縁が日に焼けた、岩波文庫などの一頁、でした。そのイメージの向こうに、うっすらとバルコニーが見え、どこか遠い夢の国の、緑の芝生が広がり、そこにパラソルをさして、ドレスをまとった婦人たちが散策している。はるか昔に夢見た、外国のイメージ。 〈南国産の果樹が数本〉このあたりから、イギリスやフランスの庭園のイメージが、インドシナなどコロニアルのイメージにスライドし、指、そしてあめふらし、という言葉から、紫の汁のしたたる生っぽい塊が脳裏に浮かび、すぐにその塊を黒く海鼠のように干からびさせていく日差しの日照りの強さが、南国の木々のイメージと共に迫って来る。 コメント欄で多かった、難しい漢字とは、たとえば「艸龜」でしょうか。旧漢字?になるのかな、クサガメですよね。 露台、もそうですが、昔の文庫本などでは、台所の台が「臺」になっていたり、芸術が藝、会は會、と、やたらに画数が多かったりする。そして、その「もぞもぞする感じ」が、妙に心地よかったりした、ものですが・・・昭和初期の古本とか、読む人も少なくなっているのかもしれません。 読んでいて、ぞわぞわっと来り、もぞもぞ、と来る感じ・・・躑躅とか、蟷螂とか、そのたぐい、ですね・・・掲示板の文字スタイルにもよるのでしょうけれど、このあたりのざらつき感とか、読んだぞ、という心地よさのようなものは、なかなか伝えるのが難しいのですが(なんか、わかるなあ、みたいな言い方しかできないけれど) 蝶になり切って書いた詩の中で、蟻に噛まれて蟻酸を首に注入される、みたいなシーンを想像して書いたことがあるのですが、蟻酸がたつ、と記されると、霧がたつ、というような動詞のイメージが呼び込まれ、四隅から黒々と魔術的な瘴気が立ち昇るような、不穏さを感じるのが面白かったです。 能管、いわゆる横笛でよいのでしょうか。音の響きが納棺、脳幹と重なるのが面白い。 きいろ、から、こあきない、の「き」にイメージがつながるのか、どうか、この連は、私にはうまくつかめませんでしたが、次の鶏小屋が出て来る連、注連縄の「しめ」のイメージと縄のイメージが重なって、首を絞められる鶏のイメージが浮かびました。 鶏の連想が浮んだせいか、〈やがてはずれる身〉の部分、なんとなく骨から肉がほろりとはずれる、そんな鍋物のイメージが浮かんだりもしました。はずれる、とは、一族から外れる、のが本来の読み方なのでしょうけれど。 身、から「みず飴」が引き出されたのか。みず飴から連想するのは、子育て幽霊の話。これもまた、かなりはずれた読み方になってしまうのかも。膠を食う、とは・・・ゼラチン?〈畠鼠を追う〉なぜか「叔父」が猫やフクロウといった、人間以外のもの、にも思われて来るのですが・・・ 鶏、のイメージが、私の中ではまだ続いていて、レタスを毟る、この文字が、羽を毟る、というイメージにスライドし、戸籍を染める、の「染める」の文字が、真っ赤に色づいているように感じられた、のではありますが。 洋蘭、という音からは、むしろ揺籃、を思い出すのだけれども・・・洋蘭は漢字なのに、レタスは萵苣、ではないのだなあ、と思ったり・・・let us という響きでもあるなあ(レタスを半分に切ったものを、塩だけで食べるサラダを、レタスウィザウトドレッシング、と呼ぶ、と聞いたことがあって・・・以来、レタス、のイメージは、ヌードにエプロン、みたいなイメージと結びついている部分もあります)と思ったり・・・そんな感じで、脱線しながら読みました。 意味、としては、いまひとつよくわからない。線路、用水路、追憶、と・・・ノスタルジーや幼年期を彷彿とさせる単語や、運ぶもの、運ばれるもの、といった意味合いが文字の上から重なって来るようには思うのですが。 題名に影響されているかもしれませんが、大きな物語への「補遺」として綴られた、イメージの断片の集積のような印象も受けました。 (補遺)

2017-12-03

一連目の、「おーい、雲よ」みたいな、絵に描いたような「入り方」だなあ、と気が緩んだところに、 二連目のパンチがくる。「生産性無いのお」これはオモロイ、というべきか、キッツいなあ、というべきか。 大阪弁?を使うことで、ストレートなのに、柔らかい感じになっていますね。 三連目で、ドン・キホーテの話に飛ぶ。「俺の息で回したる!」その意気で行け!と応援したくなりますね。 落ちも、イイ感じに気が抜けていて、笑ってしまいました。 へっこき女房、のオチは、へこき部屋を作ってもらう、だったでしょうか。 飛ばしたたんぽぽ、どこかで芽吹いて、春にはたくさん、咲くでしょう。 風車は吹き飛ばすばっかりで、種をまくことはしない、でしょうから。 (昼の足掻きに草臥れて)

2017-12-02

なにもないところから かわいた風が吹き起り たったひとりの頬に触れる つぶやいたひとこと すきだよ ごめんね いつもありがとう (詩のつくりかた)

2017-12-02

騙すのも騙されるのも そこに期待があるからだろうね 未来を夢見ることさえなければ こんなに空っぽの心をぶら下げて 暗い星の裏側を 見つめて見つめて見つめ続けて それでもなにも見えない暗さに 痛みを覚えることなんてなかったろうに 「じっと凝視(みつ)めるな わかい友  自然が与へる暗示は いかにそれが光輝にみちていようとも  凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ・・・ 手にふるる野花はそれを摘み  花とみづからをささへつつ歩みを運べ  問ひはそのままに答へであり  堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ」伊東静雄は静かに決然と 答えを求めることを棄てた 問いに出会うそのときの心のおののきをこそ 携えて歩めよと 不眠と神経症と極度の不安に苛まれる夜を抜けて 詩人は痛みを受け入れた そんなに凝視めるな その先に行け (暗い星のために)

2017-12-01

血まみれの自由! 静かなのに激しい。 ずっと夜の藍色のイメージが全体を覆っているからかも知れないですね。 狼男に象徴されるように、誰もが多かれ少なかれ抱え持っている二面性・・・「君」の都会的で美しく整った、知性的な面・・・に、牽かれたのかもしれないけれど、あえてそれを断ち切って、野性的な「君」の側面に溺れたい(共に野に埋もれるとしても)そんな読み方をしてみたくなりました。 (fool on the moon)

2017-12-01

地獄のような現世と、甘く蜜を滴らせるような天上世界・・・ 豊かな色彩と殺伐とした世界とが、二重写しになっているのが鮮烈でした。 死後の幸福を信じて自爆テロで命を落としていった魂を、カラスに重ねて読んでいました・・・そんな、具体的な意味付けは、しない方がよいのでしょうけれど、この作品は、映像作品を見ているように、景が具体的に展開されたので、そんな読み方を選んだのかもしれません。 (彷徨う羊と水蜜桃の空)

2017-11-30

拍動に乗り流れ行くままに たどりついた島にうずもれ 私は静かに根をのばした 喉の奥を洗われるたび、苦さに嗚咽し腹を震わせ 軋みながら爪を剥がしながら 根を伸ばすことだけはやめなかった 岩盤を突き抜けたとき 地上の私は崩れ去った 既に朽ちて肌はささくれ 粘菌と地衣類がぬめりを抱き込む ひた、ひた、ひた・・・ 大地の底から近づいてくる足音がする したたる水の迎え入れる速度で 穿ち抜いた空洞に潮の苦味を覚え思いだし想い返し 喉の奥を洗った渋く辛い粘質のうしおの 細かくひび割れた根の先に焼いた針の鋭さで染みてくる苦さを それは私が呼び込んだものに相違ないのではあったが・・・ ひた、ひた、ひた、 空虚が塩の味で押し寄せる 朽ちてなお 私は根を伸ばし続ける (古代そして意識の地層は)

2017-11-30

生活、せいかつ と読むのでしょうけれど、なりわい、と読ませたくなりました。 情熱が失われていく・・・この一行目に、ドキリとさせられます。 雨に現れたように、まっさらに輝いている瞬間が、子供の時は沢山あったはずなのに・・・窓ガラスから差し込んだ光が、細かな埃を光らせている、その景に息がつまるほどドキドキしながら、みいっていたときがあるはずなのに・・・あらゆるものが、埃を被って、濁っているように見えるのは、なぜなのでしょうね。 昭和初期の小説のような、懐かしさを感じる語り口調に、すうっと最後まで読んでしまいましたが、2連目の想像力の世界への逃避の部分が、後半の日常生活の中に取り込まれていったら、体が病んでいるような、世界が病んでいるような感覚が、少し異なったものとして見えてくるかもしれないと思いました。 (生活)

2017-11-30

鈍重、という言葉の響きと、重さ。 明けない夜 止まない雨 使い古された言葉 決まりきった言葉でしか言えないけれど、口に出したとたんに、違うとわかる。わかるのに、それが言葉にならない・・・ 新しい言い方や新しい言葉、新しい名前を見つけ出すことが出来たら。きっと、そこには別の視界が広がる、はずなのだけれど、それが見つからないもどかしさのようなものが、伝わってくる気がしました。 (延命救命)

2017-11-30

冒頭から直喩が続きますが、実体験に即した、非常に体感的に伝わって来る比喩であるがゆえに、切実な感覚を伝えることに成功していると思いました。〈伝わらないということは、決裂に似ていた。〉言葉は、何のために生まれたのか。自らの身を守るという切実さが、生み出したものであるのかもしれない。そんな、個人を越えて(大袈裟ですが)人類の原体験を肌身で感じているような感覚が伝わってきます。テロの根源にあるものは、不信、疑惑、憎悪、警戒・・・といった感情だと思いますが、野生動物が人に怯え、牙を剥き、たとえば傷ついた獣を助けようとしているのに、暴れたり噛みついたりする必死さ、その必死さを恐れて、異質なものを排除しよう、不信を払いのけようとする感情・・・言葉が伝わらない、介在しない、という情況と、それは似ているのかもしれない、と思いました。 言葉を知らない赤ん坊が、他者に無心に笑いかけるのは、恐怖や憎悪を知らないから、でしょうか。あまりにも周囲が異質なものだらけで、何を警戒していいのか、それすら、わからないから、でしょうか。 生れたばかりの赤ん坊が、ひたすら泣き続ける。それは、やはり恐怖や混乱から生じている叫びなのでしょう。その叫びが、産着に包まれ、あたたかく胸に抱かれると、今度は快感と安心に替わる。にっこり微笑む。その不思議と、フィオリーナさんが記した〈全身のうぶ毛を抜かれた赤裸の皮膚を晒して生きるようなもの〉との間について、考えています。母語は、あるいは産着であり、母の胸の安心でもある、のか・・・。 心細さを抱えている時の心情は、赤ん坊の叫びと似ているのかもしれません。驚くほど安易に知らない人の車に乗ってしまった、その驚きの体験記を読みつつ・・・車に乗せてくれたアフリカ人は、フランスにもともといる人ではなく、移民なのかもしれない、フランスを訪れたばかりの頃の、心細さを知る人だったのかもしれない、と思いました。 ( 出口まで39キロ~南仏紀行)

2017-11-27

電車の中、病院の待合室・・・他者が来て、座る。立つ。立ち去る。こうした「動き」をリズミカルに刻んでいく「滑走」部分があり、〈私もいつか/呼ばれるだろう〉ここに離陸ポイントがある。いつ、どこで想念の世界、自らの詩の世界に到るか。外界を感性で捉えていく場面から、世界観なども含めた自身の詩の世界へと移る地点に、どこで踏み切るか。そこから、さらに大きく詩の空間に踏み込んで行ってほしい、と思ったところで、この作品ではまた、「外界を感性で捉えていく場面」に戻ってしまうのですね。もちろん、帰還して良いのですが(最近、あちら、に行ったっきり、の詩が多いですよね、と、親しい詩人と最近、話したばかりでした)帰還するまでに、もう少し「作者自身」の世界を彷徨うなり、堪能するなり、したかった、そんな、若干の物足りなさも残りました。 (待合室)

2017-11-27

地下への下降は、無意識世界への沈降へのアナロジーでもありますね。 のぼりくだりという水平方向の運動が、砂時計の上下運動に変換される。 外界の事物が、立体から平面に変換され、内界にホログラムが出現して、存在感を増していく。ここにも、平面から立体への変換があります。 花緒さんの評を読んで、うまいこと言い当てたな、と、若干、くやしさのようなものがありますが(笑) 地下鉄に乗り込むところから、砂時計の幻視、外界の後退、そしてホログラムの現出まで、一気にスピーディーに進行させても良かったかもしれない。 その方が、垂直的下降、水平運動へのまなざし、再び、時間経過も含んだ上下運動、さらには立体から平面に、平面から立体への領域移動といった、身体感覚的な思考の流れが、より明確に現れるような気がしました。 (地下鉄)

2017-11-25

暗さから灰色へ。 香・・・というよりは、匂い、臭いが喚起する官能、身体的な表現を多用することによる迫真性。 意欲的な作品だと思いました。 純白のものを汚していくというイメージ、靴が醸し出すフェティッシュなエロスをかなぐり捨てつつとらわれている(とらわれにいく)ような能動性。 作者が男性か女性か不明なのですが、男性視点で、女性に顕著と言われる身体感覚や生理感覚を縦横に駆使して、死(あるいは死に至る官能)に犯される母、未だ死に侵入されていない自身を、あえて死にさらしていくような能動性。 実際の死を望むということではない、死に匹敵するような官能を激しく望みながら、どこか醒めた視点で見つめている(見定めている)精神の有り様を感じました。 陶酔と混乱の世界に「行ったっきり」にならず、現世に帰還してくる筆力にバイタリティーを感じます。 (雨に溶ける)

2017-11-25

藍を愛、と、読み替えたくなりますね。 どことなく甘えたような、妖艶な、死への誘い。きっちり四角にまとめた三行と、ふっとゆるめながら、鋭く置かれた一行のコントラストも、水槽と兎の関係性を視覚化しているようで面白いです。 (よる)

2017-11-25

あやとりのように! なるほど・・・右手から左手、左手から右手に投げ渡すお手玉のように、と、以前、別の方のレスとして書いたら、いや、お手玉は上に投げあげるんじゃないの?とツッコミが入って、そっか~とわらいだしてしまったことも。 うまくとらえる表現が見あたらなかったのですが、(二人で糸を掬いあう)あやとりのよう。ぴったりですね。 (田園に夕暮れ)

2017-11-25

夕暮れのひとときの不協和音 不協和音というワードで瞬時にとらえる立ち上がり、 センター試験まで ループ、ループ 明日に向かってスキップ、スキップ というようなリズム感、 コップに浮かんだエクボが笑って というようなユニークで自由なイメージの展開にひかれました。 なんにせよ、若さ全開、という感じですね! (15秒の青春)

2017-11-25

作品と共に、レスの往還も興味深く拝見。 詩は、作者が(心中で)真と想うもの、真と感じるものについて歌ったり語ったりするのだから、~かもしれない・・・というような憶測ではなく、~だ、~である、と断定した方がよい、と言われますが・・・ 批評の場合は、どうなのでしょうね・・・作者に寄り添って、作者に(自分の考える)代案を提示するなら、断定よりも~の方がよい、的な言い方の方がいいのかもしれないけれど・・・ 批評、というスタイルの、自身の詩論の提示であるなら・・・つまり、批評スタイルの作品であるなら、断定する方が面白いかもしれない。 庵真さんの、作者への提案の部分と、ご自身の詩論の提示の部分を、より明確に文体を変えると、返信レスが、よりユニークな批評スタイルの作品となるようにも思いました。 (ときには花となって)

2017-11-25

作品も素晴らしいけれど、黒髪さんのレスにも感動。 作品に戻ると、冒頭から一気にファンタジーの世界に引き込む。そして、ファンタジーの世界こそが真である、という作者の思いが伝わって来るような気がします。 これだけ優しい、易しい言葉で、深い思いを綴れることがすばらしい。 隠れたテーマとして、人は「泣き方」を知っている、という思いがあるのでしょう。そして、人が再び海に抱かれるとき、人の悲しみは潮騒や桜など、より普遍的なものに変容し、歌い続ける存在となるだろう・・・そうあってほしい、という作者の願いも含めて、綴られた作品のように思いました。 海の縞模様、という不思議な生き物(光に煌めく広大な海の姿を想う人も、ウミウシのようなかわいらしい生き物を想う人も、砂浜に残されていく、波打ち際の潮の跡を想う人もいるでしょう)について、客観的な第三者が語っているような冒頭から、いつのまにか、その生き物の目線に視点が移動する。最後は、その生き物の姿も溶け込むように消えて、私、という、作者と同一人物であるかのような位置にたどり着く。 この視点は、作者のものであると同時に、作者が思いを馳せる、死者の視点でもあるでしょう。 この世の人間である作者が、想像の世界でしか出会えない死者たちと、いつのまにか2重の存在となって、その厚みを通して語っているような気がしました。 (砂の中の海)

2017-11-25

セピア色のフランス映画を観ているような感覚がありますね。パリのアパルトマンの屋根裏、絵描き志望の日本人留学生と、フランスの大人びた少女・・・ あえて、なのだと思いますが、枯れすすき、廃線、日本海、と、思いっきり演歌的な、記号といってもいいワードが入っているがゆえに、日本を感じる一方で・・・乾いた恋愛というのか、女性があっさりと別れを受け入れてしまうドライな感覚や、ポートレート、マグカップ、ベッドライトといった小物使いが、上に述べたような印象を作り出しているのかもしれません。 映画的な作品だと思いました。 (マリア)

2017-11-25

夏生さんへ ありがとうございます。感想、感じて、そして想うこと、想像すること、思いを馳せること・・・それが、すべての鑑賞の基本であり、たどり着く到達点でもあると思っています。 かっこ内、まったく、絶対に、ぜんぜん、すっかり、気にすることも、謝ることも、ないですからね (海)

2017-11-25

【俺にくれよ】の、ロックな感じ(ちょっと、ラップ風のところも)、ぐわーっと押し寄せて来ますね。 全体の構成や、クライマックスに持って行く盛り上げ方、音楽的な構成力を感じました。快楽を求めながら、常に醒め続けている精神の叫び、刺激を求めながら、冷静に事態を見詰めている精神、を感じました。 【逃げない光】、【ベーション・ルーパー】、【筆の糸】、この関連が、いまひとつ・・・ 連作とするなら、それなりの関連性が必要なのかな、とも思いました。一度に投稿してしまったら、もったいない!・・・という、感じ? (BABY NEAPOLITANS)

2017-11-23

湯煙さんへ お名前は、「_ 」アンダーバー、さんだと思います。ユニークなハンドルネームですね。 ある、いる、と記されるのと、アル、イル、と記される強さ、表記の工夫が生み出す印象について、考えさせられる作品でした。 (watashi)

2017-11-23

獅子が子を谷に落とす(もちろん、愛情ゆえ、ですが、鍛えるため、でもあり) その前の「宣言」であるような、厳かで、かつ、決然とした意志の強さを感じさせる作品でした。 〈今生の朝を死に切る〉この一語の強度について、考えます。人生を朝昼夕、そして死を夜にたとえる、普遍的なイメージがありますが・・・人の一生、それは、常に朝だ、そのことを、ゆめ忘れるな、と釘を刺しているようにも聞こえる。 ローリングストーンの意味合いが、国によって、あるいは時代によって異なっている、と聞いたことがありますが、人生は常に稚魚として放たれた、まさにその瞬間なのだ、常に転がり続けている、その過程なのだ、その過程をこそ「生き切る」ことが、尊いのだ、そんな「宣言」を感じました。 (宣告)

2017-11-23

るるりらさんへ 貴重なお話し、ありがとうございました。 魂、という「もの」について語ろうとすると、科学者はすぐに眉を顰める、しかし、人間にとってもっともたいせつなものが、そこにあるのではないか・・・0から1までの間に、心と体、がある、として・・・どこかで両者を切り離そうとすれば、必ず何かを取りこぼしてしまう、何かが抜けてしまう、逃げて行ってしまう。そんな、カミソリの刃一枚くらいのところに、魂はあるのではないか・・・正確な言葉ではありませんが、河合隼雄さんが、そんなことを(よしもとばななさんとの対談であったか・・・)記していた記憶があります。そうした不可分の領域に触れていくことのできるものが、宗教(本来の意味においての。既成宗教として、系統立てられたもの、組織だてられたもの、ではなく)や芸術なのではないか。そんな気がしています。 (海)

2017-11-23

それでも、本当に大事で大切で、かけがえがなくて、それなのに現実のどうしようもなさと、板挟みになってしまうほか、ないのですよね・・・ついしんです。 (国語の授業)

2017-11-22

なんとコメントしてよいのか、返信しかねているうちに、日が経ってしまいました。文部省的、には・・・おかあさん、と言いながら散華していった特攻兵のことも、念頭にあったのかもしれません。 子育てをしていて、トイレに行く時まで「おかあさん」とまとわりつかれる、追いかけられる、幼稚園に連れて行けば「おかあさん」と泣き叫んで塀にしがみついて泣く・・・うっとうしい時も、嬉しさで飛び上がる時もあり・・・とにかく、悲喜こもごも、としかいいようのない時期、その期間は、いったいこれが何年続くのか?と、そんな想いが胸をかすめたりすることもあったわけですが、今思えば、文字通り一瞬にして過ぎ去ってしまいました。 人間が、あれほど無条件に慕われたり追いすがられたりする時期は、幼児期をおいて他にない、と、今では思う、わけですが・・・ 重度の知的障碍(その他、複数の身体的障碍)を負った息子さんを持つ知人が、息子さんが癲癇の発作を起こした後、「おかあさん」と叫ぶのだ、という話を聞いた時に、胸を締め付けられるような思いになったことがありました。彼女が老いて死んだ後にも、「おかあさん」と彼は求め続けるでしょう。呼び続けるでしょう。彼女の作品に、しばしば心中を願うようなフレーズが出て来るのですが、どうしようもないことが、世の中にはある。それがなぜか、ということを、常に問い続ける、突きつけられる、そんなことがある。詩が、はたしてそこに、コミットしていけるのか、どうか・・・まるでまとまりのない、思い付きを綴っています。返信ご無用。 (国語の授業)

2017-11-22

掲示板の不具合の方は、現在、改善されているようです。 自作への返信含め、どうぞ気楽に、コメント返しやレスをお願いします。 新たな作者の一面と出会えるかもしれません。 (運営からのお願い (11月版))

2017-11-22

一連め、二連めは、対句的な用法や、リズミカルな文体、体言止めや語尾をリフレイン的に繰り返すなど、神話的な語り物といった印象を受けました。 三連目で急に〈果てなきデッドスペース〉と横文字が入ると、なぜか急に現代の世相を表しているような感覚を覚えるのが面白いと思いました。デッドスペースは、使われていない空き空間、というのが本来の用法なのでしょうけれども、この作品では文字通りの意味、死が充満している空間、と読みたくなる。弱肉強食の世界から一歩抜け出すための「文明」であったはずなのに、結局、資本主義という、金銭による弱肉強食の世界にたどり着いて、強者はあいかわらずのさばり、弱者は疲弊しているように思われる、わけですが・・・〈無数の命がただ生きて死んでいくだけ〉まさに、そうした空間として、現代は存在しているようにすら思われます。 競争の果て、全てが不毛に帰した後にも、そのスペースを「有効利用」しようとする抜け目ない不動産屋がやって来る。四連目はそんな文明批評的なイメージで読みました。先行御三方の批評に、ほぼ同意、ということですね。 まるで別の話になる、のかもしれませんが・・・口語自由詩の100年の歴史、について、なんとなく思い起こしていました。 不毛の大地を開拓し、拡大し、広げていく「フロントランナー」たち。彼らが去った後の地が放置されていれば、また荒地に戻ってしまう。たくさんの人が住みついて、耕し、肥料を施し、繰り返し耕作して・・・ようやく肥えた土が生まれ、豊穣の地となる。 しかし、フロントランナーの名は碑銘に記されても、その後に耕作を続けた無数の者たちの名は、記されることはない。この地の豊穣を生み出したのは、外ならぬ、こうした無名の多数者たち、であるのに・・・ というイメージと共に。アメーバのように進行していく詩の総体についてもイメージします。四方八方に触手を伸ばし、どこか一方に向かって本体が動いていく。向かう方向に伸びた触手は本体に吸収され、他方に伸びた職種は切り離され、取り残されて離れ小島となる。離れ小島となって、そのまま干からびて不毛の地となる触手の先端もあれば、そこから芽吹いて、別種の花を咲かせる離れ小島もある。本体がまた戻って来て、離れ小島を吸収していくこともある・・・ 先端の動き、伸ばされた触手の先端だけが、詩史上の出来事として記されることが多いのですが・・・大切なのは本体の動きであり、本体内部で、先鋭が去った後に、その地を耕作し続け、豊かに保って行く人々なのではないか、と思うこともたびたびです。 かなり話が脱線してしまいましたが、そんなことも考えたりしました。 (不毛の神)

2017-11-21

何善→何千、です! (頬)

2017-11-21

〈その涙が僕の  名だと〉 この一節にドキリとさせられました。 ほんとうの名、を取り戻すことができたら、自由になる。 普遍的な、誰もが抱くであろう真の望み・・・。 『雪の女王』の最終章を思い出しました。 悪魔が作りだした、批判点ばかりを増幅させる鏡の欠片・・・その欠片が人の目に入ると、美しいものが醜く歪んで見え、些細な欠点が全てを覆いつくすほどに巨大化して見える、そんな鏡、自分が利口になったと人を錯覚させる鏡の欠片・・・が眼に入ってしまった少年カイは、雪の女王の口づけによって「人間らしさ」を奪われ、心臓を凍りつかせたまま、雪の女王の雪の広間の中にある「理性の鏡」と呼ばれる、何善という氷の欠片に覆われた湖で、ひとり、氷の欠片を組み合わせる「遊び」に興じている。雪の女王に、もし「永遠」を表す言葉、その形に欠片を並べることができたら、「おまえを自由な身にしてあげよう。それに、おまえに全世界と、新しいスケート靴を一足、贈ってあげるよ」と言われているのに、目に入っている悪魔の鏡の欠片のために、どうしても「永遠」という形を見つけ出すことができずにいる。 そこに、カイを助けに来た少女ゲルダが訪れ、カイをだきしめて「熱い涙」をこぼすと、その涙がカイの心臓まで沁み込んで氷を溶かしていく。ゲルダが歌う賛美歌に思わず泣きだしたカイは、自分の目から溢れる涙によって、目に入った悪魔の鏡の欠片を押し出し、カイもゲルダに抱きついて・・・気づくと、氷の欠片たちが2人の嬉しさにつられて踊り出し、いつのまにか「永遠」の形に並んでいて・・・晴れて二人は自由の身となって、雪の女王の城を去る。 〈ゲルダは、カイのほおにキスをしました。すると、ほおは、花咲くように生き生きしてきました。ゲルダは目にキスしました。するとそれは、ゲルダの目のように輝きました。手と足にキスしました。するとカイは元気できびきびしてきました。こうなればもう、雪の女王が帰ってきたってかまいません。カイの自由の保証書が、きらきら輝く氷のかけらで、ちゃんと書かれているのですから〉(『雪の女王』大塚勇三訳 福音館書店) ユング風に言えば、ゲルダはアニマで、カイはアニムス、なのでしょう。ゲルダは感性、カイは理性とも読むことができる。知性を習得する際に身につけねばならない、批判精神・・・時には、長所としてみなされるべき部分まで、突出している、という理由で短所と見なしたり、自身の批評家精神を誇示するかのように荒探しに興じたりする、そんな歪んだ批判精神、も含めて・・・カイが身に着けた知識は、感性との再会を阻害するものであったに相違ない。そして、感性の熱い思いによって、知識や批判精神にがんじがらめにされた「理性」は救済され、幸福な魂の全一感を得る・・・私は『雪の女王』の最終連を、そのような物語として読んでいるのですが(そんなアンデルセンの想いが現れた部分、として、という意味です)フィオリーナさんの今回の投稿作品に、同様の香りを感じました。 評というよりは、別の作品の引用ばかりになってしまいましたが・・・。 (頬)

2017-11-21

題名が、なんともストレートで・・・なんとなく「説教くさい」文章だったら、どうしよう、とおそるおそる、という感じで本文を拝読したのですが・・・ 〈気持ちを突っつく 信頼の入口に明かりがついている〉 この二行、とても素敵だと思いました。 それも、求められて、〈おそるおそる〉やってみる、すると・・・という流れ。 この一言を言ってしまったら、関係が壊れるのではないか・・・そんなことを恐れて、表層的にすり抜けよう、上手くかわそう、として・・・繰り返すうちに〈信頼の入口〉そのものを見失ってしまう。そんなことが、人生にはきっと、何度も繰り返し訪れるのだと思います。 信頼の在り処、ではなく、入口。そこに入るか入らないか、それは訪れた人に任されているのかもしれませんが、明かりをともして〈こんな場所〉で待っている人も、扉に鍵はかけていない、ということでしょう。 明かりの色は、きっと菜の花色。そんな気がしました。 (信頼を築く幸せ)

2017-11-21

斉藤木馬さん コメントありがとうございます。自分が「体験」したこと・・・現実世界で、ということだけではなく、他者にはうかがい知れない、非現実世界、での「体験」も含めて・・・を文字に書き起こして、伝える事、それをやりたいのかもしれない、最近、そう思うようになりました。 恐らく前半から〈あの明るみの中に居る〉という、自己中心的な了解まで含めて、そうした「体験」を描こうとしているのだとは思いますが、〈まだ温かい肉体は~〉の部分は特に、自分自身が、父は死んでいないのだ、と死を拒否しようとしている、そのための「言い聞かせ」だったのかもしれない、と、考えたりしています。結局、なんだかよくわからない、でも「たしかにあった」出来事を描こうと腐心しているわけですが・・・おそらく、まだこれから、何年も、書き直し続けることになる、そんな気がしています。 (海)

2017-11-21

「一人の男」、「その男」、を「わたし」と言い換え、さらに「俺」に言い換えていく、という意識の外から自身の意識の中心に向かっていく距離感と方向性が前半部分には感じられるのですが、既に一連の中で「その男」と「俺」が混在している、2連でも「俺」と「わたし」が混在している。 ひとりの人間の自意識が年輪状に重ねられた球体からなる、そんなイメージを持っているのですが、その表層から深層まで、揺れ動きながら〈ラップトップに向かって原稿を書いている〉自分を捉えようと試み、その自分がサイバー空間の中に取り込まれていることを意識しつつ、そのサイバー空間に向けて原稿を打ち込んでいく。そんな入れ子構造が面白いと思いました。 サイバー空間の繭の中にいるような印象ですね。果たして、「道」は、本当にひとつ、なのでしょうか。 無数の「ローマ」があり、放射状に道が張り巡らされ、それぞれの「ローマ」に、一個の表現者がいる。そんな気がしてなりません。 (ROME)

2017-11-21

くつずり ゆうさん 沼尾奎介さん 田中修子さん コメントありがとうございます。事実を書こうとしたとき、結局書き手の一面的な見方でしか、書くことができない。過去の出来事を「思い出して」今の時点に引き寄せて書こうとすると、知らず知らずのうちに、それまでの経験や体験が加わって、意図したものでなくても「脚色」してしまう。息子が交通事故にあった時も(軽傷でしたが)証言者、運転手、息子の証言が、当事者であるにも関わらず、すべて食い違ったのでした。断片をひとつの「物語」として繋げてしまう、そうしないと「理解」ができない。人間には、そういう性向があるのかもしれません。だったら、フィクションにまで拡げてしまっていいじゃないか、という思いにもなるのですが(ノンフィクションで描いたとしても、虚構や脚色が入り込むのであるから) くつずりさんのあげて下さった〈まだ温かい肉体は 物質であって父ではない〉は、もしかしたら、自分でそう言い聞かせたかった、自分で自分を納得させたかっただけなのかもしれない、そして、他者に同意を求めたかったのかもしれない、そんな気がしてきました。 沼尾さんの〈冷静で俯瞰的な眼差し〉、ありがとうございます。当事者でありつつ、第三者的な視点で書こうとしていたかもしれません。事実をドキュメンタリータッチで、抑制して記す。徹底的に写生的技法にこだわる・・・私の知る範囲では、苗村吉昭さんなどが、こうした技法で優れた作品を残しておられるわけですが・・・他者を自分ひとりの空想空間に引きこむのに必要な迫真性と、事実として肉体が体験したこととの間の乖離について、改めて考えたいと思いました。 田中さんがおっしゃるように、〈現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為〉が、果たして成功しているのか、どうか・・・海の女性性と父の男性性、これは考えていませんでした。なるほど・・・太陽は、父の暗喩に良く用いられますよね。アポロンが男性だから、かもしれない。天照やケルト神話ではたしか女性だった、などなど、文化によっても色々あって面白いです。大日如来は男性なのでしょうけれど、仏像を拝見する限り、ほとんど中性。天使は中性であるらしい。田中さんの案を拝見して、「蝶墜ちて大音響の結氷期」という俳句を思い出しました。 (海)

2017-11-20

花緒さん、クヮン・アイ・ユウさん、survofさんへ 重なる部分も多いので、御三方への返信としつつ、多くの方にも議論に参加していただきたいと思います。 詩や創作文芸はフィクション、虚構である、ので、この作品の中で亡くなった父と、現実の私の父、が同一人物であるかどうかわからない。つまり、いかに「現実に起こった事件」のように描かれていたとしても、それが、事実であるとは、限らない。作品中の「わたし」も、作者その人であるかどうか、わからない。花緒さんと、この点を、まず、共有したいと思います。その上で・・・ 死の悲しみとか、死をめぐる観念とか、死後の世界というものに対する死生観のようなものが、他者に伝わる表現となっているかどうか。なっているとして、それが効奏しているか、ということになるかと思います。 花緒さんの「現実に詩が勝てないだろう」「技巧が優れていればいるほど、いずれにせよ現実を決定的に矮小化せざるを得ないことを受け入れている」そしてsurvofさんの「具体的な描写が多いことで逆に表現としては作り物っぽさが増してしまう」「日常の「死」と思想としての「死」が同時に語られていて、それをうまく交差させて読めない」という指摘は、非常に的確で、ありがたい、大切なご指摘だと思いました。 本作は、実際に父が亡くなった時のことを書いています。いわゆるドキュメンタリーとして描いている部分と(言葉のリズムなどで、詩、に引き寄せようとはしているけれども、フィクションというよりはノンフィクションに近い部分)人は死んだら、どうなるのだろう、どこに行くのだろう、死後の世界を見てみたい、想像で作り上げた世界であったとしても、その中を冒険してみたい、という日頃の願望を満たすために描き出したフィクションの部分とを、組み合わせる形で書いています。 死、という絶対的な現実を、ドラマティックに演出するためには、どうすればいいか、と頭を巡らして「創作」している部分と・・・実際に父の死の際に聞いた、「ごぼごぼ」という水音、ああ、この人はもう戻ってこない、という感慨、自動的に(クヮンさんが「半ば自動的なからだの動きを感じさせる表現」と指摘してくれた部分)体が動いて、人工呼吸の真似事をしていた時のこと、それから、恐らくは慣れない人工呼吸で酸欠になり、目の前がぼーっと白く霞んで見えたこと。その後、父が死んで、そこに横たわっているのに、まるで「悲しみ」が湧いてこなかった不思議(嫁に行って以来、父とは離れて暮らしているわけですが、そうした日常的な別離の感覚と、まったく同じ感情しかわかなかった、という事実)をどう、自分の中で解釈したらいいのか・・・葬儀の時も、柩を火葬場へ送りだす時には、少しは涙が出たような気もしますが、ぜんぜん、「かなしい」という気持ちにも「さびしい」という気持ちにもならなかったこと、その不思議を、どう解釈したらいいのか・・・ということを、17年間、考え続けている、のだけれど・・・父が、肉体としては死んだけれど、離れたところで、別に生活している、という感覚が抜けない。ならば、その「感覚」こそが、「自分にとっての真実」だと思うことにしよう。父、は、この世から、少し違う場所に移っただけで、死んではいない、肉体が滅びたに過ぎない、そういう自己解釈を、自らを納得させるための「仮の結論」として用意して、この作品を「創作」した、ということになるでしょうか。 まだ存命の「母」が亡くなったことに替え、私、を「僕」に替え(異性間での人工呼吸という行為に、タブーに触れていく快感を喚起されるだろう、という前提のもとに)性別を変えてみると、どうなるか。(もちろん、同性間でも恋愛感情がわくこともある、ので、あくまでも一般的なエロス、への働きかけ、ということになります)・・・特に、花緒さんの問いに対して、ということになりますが、 そのように、「死」という現実を「利用」して、なんらかの思想や詩想を創作することは、「死」に対する、冒涜ではないのか・・・という問いかけであるなら、まさにその通りなのですが、「死」を、いかにも現実らしく、徹底したドキュメンタリーとして「誠実」に描くことで読者の感情を動かそう、とすること、それ自体に「強い疑義を覚える」のであるとすれば、それは違うのではないか、と思います。 作者にとっても、読者にとっても、感情を強く揺さぶられる出来事、として、「死」は動かしがたく存在していますし、万葉集の時代から、哀悼、追悼という形で、死は歌われてきている。 問題は、「他者の死」を哀悼する、事実として述べて、その際の作者の裡に起きる情動と同様の強度を持った感情を、他者の裡にも喚起する、それを言葉の力で行おうとする、という欲動と、「死後の世界」を体験してみたい、というような作者の好奇心、読者の好奇心を満たしたい、という欲動、その両者を、現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為が、成功しているのか、どうか。 成功していないから、つくりもの、のような感情や、あえてドラマティックに盛り上げていくことで、作品を「創作」しようとする手つきの方が目立ってしまって、作者の心情に添っていくことが難しくなっている、ということ、ではないのか・・・というのが、花緒さんやsurvof さんのコメントを読みながら、考えたこと、でした。実を言うと、伊東静雄賞に提出して、佳作は得たものの、本賞の受賞は逃がした作品です。おそらく、審査員の方も、こうした「死」という現実を描く際のわざとらしさや、現実の死と、創作の死後の世界とを結びつける手つきといった部分に、違和感を感じられたがゆえの落選ではないか、という気がしました。 たとえば、白血病で余命いくばくもない恋人との残された日々、という物語を設定したとして、それをいかにも現実らしく書いて、他者の「涙を誘う」作品に仕上げた、として・・・死とはなにかとか、哀しみとは何か、といった、大げさな言い方ですが、実存的な問いを問う作品なのか(俗に言う、純文学を目指しているのか)泣きたい、感動したい、刺激を得たい、他者の人生を、ある一定の時間、仮に生きてみたい・・・という読者の欲求を満たすために書かれた、エンターテインメント作品、であるのか。 作者側の制作意欲を主とするのか、享受する側、読者の側の体験意欲を主とするのか、と言い換えてもいいのかもしれないけれど・・・もちろん、分離不可能な問いですが・・・ 死、は、生者にとっては未体験の出来事ですから、想像力を駆使して体験してみたい、と思うし、それを興味本位に文学作品として描き出すことは、別に不遜でも冒涜でもない、と思っています。問題は・・・現実に他者の死(それも、身近な、大切な人の死)と出会い、打ちのめされたり、喪失感から立ち直れなくなったりしたときに、死後の世界を夢想することで少しでも救われたり、立ち直るきっかけになったり・・・生きて行く意欲が得られたりする、のであれば、そのためにこの作品を役立てたい、と思ったりする(実際には、自分がいかに、死を消化し、死を了承するのか、その自問自答を、作品として提出しているわけですが)心性なのかな、と考えたりもしました。 クヮンさんが、映像を見ているようだ、とコメントしてくれていますが、そこは意図した通りです。うまくいっているようで良かったな、と思います。他方、現実の死、という題材で、死後の世界を夢想する、その空間世界に無理やり結びつける、そこは、成功しているのか、どうか・・・現実の死、とは別個に、自分が死後の世界を探訪する(ダンテみたいに)好奇心に満ちた旅行のような書き方であれば、違和感なく、楽しんでもらえる作品になるのか。徹底してドキュメンタリーの手法、写実の手法にこだわり、寡黙で感情を抑制した筆致で、他者の裡に、自身が感じ取ったと同様の強度の感情を喚起する、その手法が、もっとも妥当、なのか・・・問いは尽きませんが、長くなったので、ひとまず、このあたりで。 (海)

2017-11-18

いいなあ、という、まずは第一印象を。 ひらがなと漢字のバランス、視覚的な情景から始まり、音、あるいは音が喚起する質感へとスライドしていくときの自然な(意図したものではないでしょうけれど、計算された)そぶり。 〈わたしの誕生日をわすれて  割れてしまった果実のような気持ちを  接着しました〉 男の人は、わりあい簡単に記念日や誕生日を忘れますね(私も忘れる方なので、男っぽいのかもしれません)女の人は、そのことに、かなりショックを受けたりする、ようですが・・・。 〈あなたは きっと 自由で苛酷な 馬になれるでしょう わたしは きっと どこかの土になれるでしょう〉 読者が、自由に〈あなた〉と〈わたし〉の関係性を「物語」として思い浮かべればよい、のでしょうけれど(恋人同士とか、先生と生徒、とか、あるいは、離れて暮らす母と息子、とか・・・)私は、父と娘の切なさ、いとおしさを重ねながら読みました。それぞれの読者が、それぞれの関係性を思いながら読むことができる。そうした奥行きというのか、余白が残されているところに惹かれます。 〈あなたが生きている 手をつないで あったかい、つめたい 毛布をかけて あったかい、さむくない 口の動きで 心が色づく それだけで〉 最後に、心の高まりのままに歌い上げる部分も、声高に叫ぶわけでは無く、あくまでも控えめに畳みかけていく。素敵な作品でした。 (蹄の音)

2017-11-18

ニーチェの言葉を想い返しつつ、奴隷、という言葉の持つ強度(と頻出)にためらいつつ・・・ 奴隷、という言葉の強さだけではなく、奴隷、という状態を、もっと異なった言葉で表現したらどうなるのか、とか、そういうバリエーションで展開させていくと、すごく膨らみの出て来る作品であるように思いました。 (奴隷)

2017-11-18

インスタント焼きそばの「作り方」を(文豪の誰それが)書いてみたら・・・という「たられば」が、Twitterに流れていたことがあったのを思い出しました。特に、一連目。簡便なもの、安易に済ませられてしまうもの・・・の扱いや、そうした「ささいなもの」への思い入れの在り方などに、各人の個性が出たりもしますね。 個人的に興味を惹かれたのが、2連目。私の生まれ年は、浅間山荘事件の年なのですね。2度にわたる安保闘争が、学生側、あるいは日本側の敗北、として、意識に決定づけられた時代の、終焉となった事件。 ウルトラマンの3分は、カップ麺からの連想なのか、逆にウルトラマンから「3分」が導かれたのか、よくわかりませんが(最近は、4分の麺とかもありますね) 南極の昭和基地で、温かいものを食べたい(食べさせたい)という思いから即席めんが生まれた、と聞いたことがあります(袋に入った、四角く固めてある方) そのうち、カップ麺にあらゆる栄養素が搭載され、これひとつでOKなんて時代、がくる、のかも・・・。 (カップ麺)

2017-11-18

壁、実際の壁ではなくて、心理的な障壁、であるような気がしますね・・・ 発想もとは、壁のポスターかもしれませんが。 1連、2連のリズムが作りだす緊張感、実景であるように見せつつ、暗喩的な重層的世界に読者を引き入れていくような言葉の選択、語尾の重ね方、きびきびした進行などに惹かれました。 3連目に、少し口語調に傾いた、肉声というのか、日常思考に引き戻した発話があり、 また4連、5連と、詩的思考の域に戻って、実景のようなメタファーでもあるような、危ういところで緊張感を保ちながら詩を閉じる。 〈女〉が、魅力的な笑みを称えながら、私を読み解いてみなさい、私の中に入っておいでなさい、と妖艶に誘う「詩文」であり・・・実際に読み解いていこう、行間に入り込んで行こう、とすると、壁にぶち当たって拒絶されてしまう。そんな作品に出合った時の困惑、そう読んでみると(作者の想いから、飛躍してしまっているかもしれないけれど)すごく面白い一作だと思います。 そういえば、長田弘が、エミリー・ディキンソンの家に住み着いたネズミに成り切って、詩人の心の内を描く、という児童文学がありました。 読みを拒否する作品、その壁を齧ってすり抜ける、歯が欲しい。ネズミ年なので、なおさら。 (表層)

2017-11-18

びょうびょう、むびゅう、と響きが連なっていく。字形の固さや古語の奏でるクラシックなイメージ。 業によりかたどられた、という設定が、重厚な印象を残します。 夜光虫の光を印象に残す一連目。夜光虫の光の質感を〈寂寥に震へる〉と喩え、それは〈魂を言祝ぐもの〉と転換し、そこから〈古の貝〉に眠る旋律、に想念を滑らせていく・・・までの流れは、とても繊細に描かれていると思いました。三連目、急に天や大洋といった大きな景に場面転換したり、煉獄という大きな空間が〈波間〉に置かれたりする。 手元の小景から遠くの大きな景への転換、これは俳句や漢詩の短詩などで用いられる手法ではありますが、1、2連で粘り強く夜光虫の光や海辺の景を辿ってきているので、飛躍の幅に差があり過ぎるような気もします。 (夜光虫)

2017-11-16

そこは海ではなく 台所だったかも知れない そこは台所ではなく 非常階段の踊り場だったかも知れない そこは やはり 海であらねばならない この転換が、ユニークですね。飛躍するのに、違和感がない。青い魚、頭に藻が生えているあたり、なかなか面白い。緑の髪の毛を生やした、人面魚を想像してしまいました。自分自身を外側から見た時の、感情の断片というのか、自分の分身、のような・・・。 しろながす・・・聞き流す、読み流す、にも通じそうです。詩集の上を泳ぐ魚とは、語り手の胸の内から抜け出した詩情を体現したもののように思われました。 〈水平線といのちの垂直軸が交わるあたり〉世界、に屹立する個々の時間。いのち、とひらがなに開かれて、やわらかな感覚がありますが、一人一人の個々の時間が突き刺さっていくような鋭さもありますね。そんな「いのち」の姿を描きとったあとに、自分自身のユーモラスな分身を、バリバリ、頭から「喰って」いく、しろながすクジラ、とは、なにものなんだろう。時間そのもの(死にいたるまでの)でもあるかのようです。 積み重ねられた詩集の「海」、大型不燃物、白骨化した生き物・・・不要なもの、ですよね、一般的には。 詩集もまた、不要なもの、であるのかもしれない。でも、絵画のモチーフになるような存在感を持つ、置換不可能、そのものが意味を持つ、そんな存在でもある、ような・・・・。 ぶっ飛んでいるようでいて、冒頭の青い魚がロンドのようにまた戻って来たり、二行ごとに抑えていく詩行で形を整えたりしているので、整然とした落ち着きもありますね。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-16

空の髪が死んで、雨となって抜け落ちる なかなか不気味な表現ながら、木版浮世絵の雨の表現を思い出しました。 線描で雨を表す、これは意外に難しい発見というのか、発明であるようです。 しとしとふる雨、詩都市と死と・・・こんな言葉遊びのようなことを試して見ながら、予想外の詩面(しづら)に驚いたりする。これは絵を描くときに、実際に描きながら確かめていく感覚に似ているでしょうね。 ひらがなとカタカナの使い分けは、計算したものなのか、感覚的なものなのか・・・ 〈雨の雫として空に、止まるために 目に、他のヒトは固定され結晶していく〉ために、の め を受けての、音のつながりが、 目、という意味を持ち、その目に映る人々の像が〈固定され結晶していく〉不思議な空間。 しとしと、ではなく、ひと、と聞いた時から・・・ 冒頭の、髪が降る(神とも紙とも同じ音なのがおもしろいです)も含め、 自然現象が生身の肉体を持ち、自らの内外を流れるなにか、のようなイメージにも変容する。 水が流れ落ちているのを見ている内に、自分が流れ去っていくような、感覚の移動というのか、転化が生まれていく(感覚が外在化していく過程、のような)経過が面白いと思いました。 (ひとひと)

2017-11-16

煙草を吸わないので、初めて吸った時、の感覚というのか、印象の描写が面白かったです。 タブーを犯すような、思い切って「一線」を越えた後の、なんとなく間が抜けたような、味気ない感じ。 もっと刺激的な何か、を、期待していたのでしょうね。 父が昔、煙草を吸っていて・・・普段はその煙がいやで仕方なかったのに、風邪を引いた時は、なぜかその匂いが香ばしくて好きでした。いつのまにか煙草を辞めていたのに、母も私も気づかず・・・お正月に祖母の家で灰皿を出された時、いや、もうやめたので、と父が答え母が「いつやめたの?」と聞き返したとたんに、祖母(母方の祖母でしたが)に「なにやってんだい、気づかなかったのかい!」といきなり怒鳴られた時には、かなり驚きました。  朝。  白い陶器の灰皿に死を見る。  海に沈静すると燻る蒼白の焔があらわれる。  新たな一本から天を昇って漂う。  一日が始まる。  公園の片隅でよくたばこを吸った  青白く冷ややかな石膏の空に紫煙をくゆらせて 思い思いにたわいもない話をくりかえした   交わす言葉の行方など気にせず灰を叩き落としちぢこまる身を寄せた   靴底に素早く擦りつけると赤色に塗り込められた灰皿代わりの一斗缶のなかへ放り   かじかむ両手にながい息を吹きかけて 背を丸めて公園を後にした   からからと音を立ててころがる落葉 川面に漂い散り散りになって  吸い込む。そして、吐き出す。  紫煙をくゆらせながら燃焼する。  灰を見つめる。 今、抜き出した「詩」の部分を、散文が繋いでいる。その間に、コラージュのように煙草の脇に添えられた文言が貼りつけられている、という構成が面白いと思いました。 こんなに文面が異なるとは知りませんでした。タールやニコチンの分量も。 (たばこをめぐる断章)

2017-11-16

はげしさに驚きつつ・・・Tの音の連続で突発的に、弾かれるように始まるプロローグ。 いつの間にか~空っぽになった、の流れるような一連は、スターダムをのし上がっていく〈僕〉の夢想と、その夢が弾けた後の虚しさが、一挙に訪れたような勢いがありました。 飽和していくような過剰感、台風が来る、という嵐の予告、そこにあえて飛び込んでいく・・・自らを引きちぎってしまいたい、めちゃくちゃにしてしまいたい、という破壊衝動。 龍の巣は、ラピュタで出て来たような記憶が。巨大な真っ黒な竜巻、だったでしょうか。 すべて引きちぎられて、心臓だけで事後を思う・・・ところでエンディングかと思ったら、さらにエンドロールがあるのですね。 急に〈貧乏で辛い〉と連呼する部分、妙に現実感が入ってくるところは、笑ってよい部分、なのかな・・・ユーモアを込めた部分なのかな、と、とまどいつつ・・・全体がピーンと張りつめたような、生真面目な緊張感で貫かれているので、笑ってはいけないのかもしれない、と思うのですが、作者としては、どうなのでしょう。聞き手が、ふっと気を緩めて、クスリ、と笑うような場面があってもいいですよね。 〈バラバラにぶち切られたのに夢のにおいも味もする 夢が、こんなにやらかいって知らなかった〉この行が、とても新鮮でした。 〈やらかい〉は、やわらかい、の地元の言葉、なのでしょうね。 最終行の〈知れなかった〉は、知ることができなかった、の意味でしょうか? ら抜き言葉、になるのかもしれないけれど、音感的には知ることが~とすると、なんとなくもたつく。 勢いで進行させていく場合は、ら抜き言葉や口語的な短縮も効果的なのかもしれない、と思いました。 (ぶち切られるために生きてる)

2017-11-16

かもめ、という題名と、無数の点と線から、私は大海原を思い描きました。 たとえば、ビジュアルポエム展などに、銀板に刻んで掲示されていたら、はっと息をのむような衝撃度を持って迫って来る作品、かもしれません。 ・・・ひらがなでつづられた「抒情詩」の部分、音の流れも言葉の響きも、とても美しい、のですが・・・イメージの展開も、いいなあ、という思いがあったのですが・・・モールス信号の部分を、「翻訳」すると、この詩に成る、ということ、でよいのでしょうか。 海原をイメージしながら読んだので、翻訳作品、を読んだ時のイメージというのか、読後感と、実はあまり変わらなかった。その理由を考えているのですが、どうも言葉になりません。 激しく突き刺さって来るような「情動」ではなく、たゆたうような言葉の流れで、胸の内に去来する歌の由来、そして、エコーのように聞こえて来るカモメの声、砂浜に寄せる波の音・・・を想起しながら読んだから、かもしれません。 点字の詩集を「ながめ」ながら、それともまた異なる。言葉って、なんでしょう。外国語であっても、同じコードを理解する人であれば「意味」を交換可能、であるわけですが・・・質感とか、イメージを伝える、その力も、文字にはある、はずなのだけれど・・・行間にも、詩形にも。 戦後詩が、書になじまない、という批評家の言葉を読みながら(近代詩は書として上手く収まる)メディアと書法について、考えている所です。 (かもめ)

2017-11-14

とうとう、○○してしまった、の「とうとう」かと思いきや、滔々と流れる豊かな水を想起させつつ・・・ 夜中の台所でしょうか。老いた蛇口、少しサビの出た蛇口。家と共に歴史を重ね、家族を見守り・・・時には、蛇口から水を流しながら、皿を洗いつつ泣いたりしたことも、あったかもしれない。(お皿を洗う時って、正々堂々と泣けますよね(笑) 素敵だなと思ったのは、〈出会いが呼び水となり〉から、夢想の中ではるかかなたの水源地に意識を向けていくところ、そして、〈夢の支流に沿って〉から、さらに異国の街並みへと、自由に夢想を羽ばたかせていくところ。 そこから、手元の暗がりに戻り(現実の生活に戻り)〈排水溝へ流すしかない夜の溜まりが/酷く惜しくて〉夜の溜まり、は、暗くて黒くて捨ててしまいたいイメージ、を予期するのですが・・・流してしまう他ないものが、惜しくて、という、そこの驚き。 夜の溜まり、これは、夜の間に少しずつ溜まっていった自由連想や夢想、そうしたイメージの堆積、なのかもしれません。実生活には、特に何かの役に立つ、というものではないけれど。そうしたイメージの堆積こそが、詩、になっていく、そんな・・・あるかないか、わからないような、でも、虹色に輝いているような、なにか。 胸の中を去来する思い。その想いが湧きおこるたびに、涙腺が緩む。それを、感傷と呼ぶのはたやすいですが、感傷そのものに浸るのではなく、軽やかにそこから自分の身を引き離して、遥かな水源や遥かな異国の街並みに夢想を馳せる、その心の動きに惹かれました。 連ごとに位相を変えていくところが、上手いと思います。 (とうとう)

2017-11-14

詩書、史書となる。 秘書は既に秘密の書を抱え ひっかきまわしたあげくに消えて その痕跡を歴史と名付ける。 他者を冒涜する者を 許容する己を許容することを その弱さをこそ ・・・にゃんとかすべえ poesy、ここんところ、すっかり湧いてきませんです、はい。 (猫田議員の猫詩データー、完全版。)

2017-11-14

〈自分の中の正義が悪に変わったとき わたしが死んでいった〉 そのとき、手をさしのべてくれた〈あなた〉になりたい・・・ 〈乾ききった心に/水分を与えてくれた〉このフレーズ、実によく伝わってくるのですが、私は泉である、とか、私を飲みなさい、といった、聖書や仏典で用いられる喩えや、心を潤す、といった、日常生活でもよく使われる表現で、あっさりと通り過ぎられてしまっているので、そのときの、本当の嬉しさ。のようなものが、なんとなく伝わりにくくなっているのかな、という気がしました。 あなた、が、イエス様や観音様のような、観念的な存在なのか。あるいは、詩歌、なのか。人、ではない存在であるかもしれない。そんな読み方をしてみたくなります。あともう、ひとおし、粘ってほしい、ご自身の五感でとらえた、独自の比喩を見いだしてほしい、そんなことを、思いました。 (あなたへ)

2017-11-12

たのもしいなぁ(笑) (寂しくて辛い)

2017-11-12

不眠と神経症で苦しんでいたときに「名作」をものし、その後は(当時の鮮烈さが緩んだ故に)生活詩に退行した、と評されてきた伊東静雄という詩人がいるのですが、彼が、不眠の夜をあらしめよ、と呼び掛けるように終わる詩があります。その中に(七転八倒で苦しんでいた当時を思い起こしているであろう、時に)光の繭、という言葉が出てくる。 苦悩の中で、光の繭に包まれた❗・・・と感じる一瞬が、創作の一瞬なのかも・・・と考えると、創作の「業(ごう)」のようなものを感じてしまいますが・・・後年の穏やかな詩の中にも、しっかり当時の芯のようなものが息づいている。そこを見いだして、照明を当てることも、批評の大切さだと、最近思うようになりました。 (「三途川」 下)

2017-11-12

スパッと短く切っていく呼吸と、流れるのを抑えるように、中途で少し前のめりになりながら止めるような文体が交互に織り成す「物語」・・・ ひといきに時間を巻き戻して、原初のエネルギーを解放するかのような・・・カーニヴァル等で火を放たれる巨大な紙人形のような胎児の炎上が、鮮烈に印象に残りました。 (フィラデルフィアの夜に Ⅲ)

2017-11-12

題名で黄昏と記して、すぐに本文の方でも黄昏が出てきてしまうのは、もったいないような気がしました。 絶望が沈んでいく・・・血の滴るように真っ赤な太陽が沈んでいく、誰もいない砂漠を想起したのですが・・・あるいは雪原に、あたりを凍りつかせながら沈んでいく満月・・・ 読者の自由に任されている半面、絶望・黄昏・果てしない・罪深い・・・と、同質の世界観、意味的に近い内容が続くと、行間の余白が乏しくなって息苦しくなるかもしれないですね。俳句などなら、付きすぎ、というところでしょうか。 紙の世界に産み出される詩の空間、果てしない空間と、かみ、という音から引き出される神、のイメージ・・・創造神から引き出される、創造者としての自分。そんな重厚な世界を想像しうる豊かさを持つ人間と、その人間が産み出したもの、言葉の芸術の、吹けば飛ぶような軽さ。 抽象語や観念語を、五感でとらえ直すと、どのような比喩がふさわしいのか・・・その選択の仕方に、その作者の個性が出るように感じていて・・・そこを知りたいと思いました。 (黄昏)

2017-11-12

なるほど・・・コンセプトが勝ると、コンセプト倒れになる、いわば空中分解することも多いのですが、エモーションの流れに乗っていくことで、その危険を回避し得ているのかもしれませんね。 先鋭的、もしくは実験的な、言語領域の可能性や意味領域の拡大、もしくは無化・・・を意図する「果敢な挑戦」もたくさんなされていますが、少なくとも私の手元に送られてくる詩誌は、比較的リーダブルな、日常や自然の閃きの中に詩想を得たものも多いですね・・・もっとも、平易な表現の中に多義的な重層性を込めるとか、余情に想いを含めるといったことに成功している作品は少なく、説明的な叙述の日記のようなところでとどまっているものも多いように感じて、もっと・・・偏光顕微鏡でひとつのものを見るように、様々なフィルターで見てほしいなぁ、と思うことも多いです。 言葉を意味から解放していくと、霧散してしまうこともある・・・それをまとめる新たなシンタックスは、何か。エモーションや音楽性や、そこに生じる異空間の奥行き、等なのかもしれません。 (カップリング)

2017-11-12

作者からリプライがあることが、嬉しくもあり、怖くもあり、楽しみでもあり・・・ぜんぜん違う、そこは、がっかりすべきか、いや、それほどに多義的に読めるのである❗と喜ぶべきか・・・ご返信、ありがとうございました (宇宙)

2017-11-12

~ように、という直喩が続くのですが、見慣れた感じではなく、なぜか新鮮に読める。それは、〈固まり掛けの石粉粘土〉とか〈樹海に置かれた死体を演じる役者のような色〉といった具体的な、独自の感覚でとらえた比喩が続くから、なのでしょう。 〈着色された瑪瑙のような瞳をしていた。〉ここから〈私の正体はこの女に限りなく近いと思った。〉この飛躍に惹かれます。それこそ、私の正体だ、というように、断定しても良いのかもしれませんが、散文性の強い文体なので、~と思った、の方が自然に受け取れるような気もします。 花緒さんの感じた不思議さは、〈復讐するかのようにじっくりと見つめれば見つめる程〉の話者は、舞台上で化粧を落とした役者を見ている観客の視点、であり、〈周囲を警戒しつつ、~〉の話者は、実は舞台上の役者の視点に移動しているのではないか、というギミックが施されているから、ではないのか、という気がしました。 観客こそが〈愉快なピエロ〉〈寡黙な船頭〉〈ステージに向かってカンペを差しだしている〉子連れの女性・・・なのではないか。 〈あるいは銀紙を放り投げてもドレスを着た銀粘土を放り投げることはしない、〉銀紙つながりで銀粘土が引き出されたのか、と思いつつ、ここは脈絡がうまく捉えられませんでした。 石粉粘土で作り上げるビスクドール、粘土、という言葉から詩の内部でつながっているイメージと、粘土が結びつく、のか・・・。 〈団長〉に追い出された〈私〉こそ、〈ぱさぱさの髪を靡かせる滑稽な女〉なのかもしれない。その滑稽な女が〈道化師〉にスライドしているのかもしれない。 〈唯一分かるのは、悪魔の皮を被った子どもには、大人の皮を被った大人がついてくるということだ。〉この断定部分も、語り手にとっては自明のこと、読者にとっては謎として提示されている。面白い試みだと思います。 少しずつずらされていく語り手や話者の視点に翻弄されつつ、楽しんで読むことができました。一貫して道化やビスクドールのイメージが流れ、不思議なまとまりを持った世界を作りだしていると思いました。 (交差でぼろぼろになった、後)

2017-11-10

〈急いでる人は/感情を失って〉ここの部分と〈一人消えて〉、 〈笑ってる人は/でたらめに生きて〉ここの部分と〈一人生まれ〉が、 対応しているような気がしました。 (都会)

2017-11-10

〈~ほんとなの水が、〉とか、〈~きよらかであれ永遠の、愛が~〉〈~その手を、離さないで離れないで~〉という区切りの呼吸感、こういう節回し的な部分に、ニュアンスが宿るんだろうなあ、と思いました。詩を書くときは、最初の一行目というのか、一連目あたりがぽわっと浮んだら、あとはガーッと書いて、一呼吸おいてパソコンに打ち込み直しながら推敲する・・・最近は、そんな感じが多いのですけれど、即興的な勢いは、まるで出てきません。(まあ、即興とは言い難いですね・・・溜まって来たものを、ずるずる引っ張り出す感じ、なのかもしれない)瞬発力。短距離走と長距離走の向き不向きもある、かもしれないです。そんなことを思いました。 (曇天サーカス)

2017-11-10

たんたんと異次元に突入する冒頭。素敵です。 行間を飛ばし気味に、寡黙に、余白を残しながら綴られた詩行。 咎める、復讐、鍵がかかる音、鳥籠・・・小さなマンションの一室に「とらえられた」女性、をイメージしつつ(もちろん、私の勝手な妄想ですが) 〈葬った、私の小さな身体で寂しさを紛らわしながら きっと涙でも流しているんだろう、ほら〉 この予知的な詩行が、語り手の〈私〉が〈あなた〉に用意する復讐、なのではないか・・・ そのことを既に見通しながら〈あなた〉に抱きすくめられている〈私〉の醒めた視線の鋭利さを感じました。都会的な、二人の密室で展開されるドラマ、そこを埋め尽くす、〈息もできないほどの宇宙〉。 鮮烈な作品でした。 (宇宙)

2017-11-10

すごい迫力ですね。ひと息に「読まされて」しまいました・・・意味を追うよりも先に、勢いとか、盛り上がってハイテンションで突っ走る部分と、抑制されて力をこめて低音、低速で進行する部分と・・・ カップリング、これだけだとよくわからないのですが、シングル、と重ねられることによって、音楽のレコードやCDのイメージが呼び込まれる。〈彼女〉に、あなたの詩は、あなたの人生の添物、付随物みたいね、そうではなくて、あなた自身の、本当の物語を聞かせて、と呼びかけられ、荒み切った人生を再生させる、までの「物語」というのか・・・物語性を持ったひとつの楽曲、のような。 ふたつのクライマックスの間、が、ちょっと間延びしているような印象も受けてしまったのですが・・・三行ずつの構成で、気持ちを抑制させつつ語る、この部分の進行は、とても魅力的なのですが(整然とした印象もありますし)次につなげていく、~り、とか~て、といった語尾が、改行されてはいるけれども、完全に切れてはいない、継続して進行していく流れを作っている。部分的に行詰めしたり、もう少し絞れるところを削ったりして、ここをもっと、スピーディーに乗せていけたら、もっと面白かったのではないか、と感じました。(希望さえ朽ち果てた荒れ地というような、常套句的な用法とか、巡り会えた幸せに喜び打ち震えながら、あるいは、愛を信じあえる奇跡の器、といった抽象的な表現などは、なにかもっと、鋭い表現にできそうな気もします。) 〈跪き 俯いて うなだれた昨夜の鼓動よ 僕らの影をくるめとって 草原のそばに葬って欲しい その時世界は輝いたままで美しくなるのだろう〉こうした表現、とても新鮮でした。 〈風の吹き抜ける草原で虚無から開放され 僕は澄み切った眼差しでただただ遠方にある未来を見つめていた〉この部分につながっていく伏線ともなっている部分。こうしたところを、大切にしてほしいと思います。 (カップリング)

2017-11-10

高校生・・・!!!流れるような筆致。前半は現世の話なのに、いつのまにか三途の川を越えて、あの世になっている不思議。岩井志麻子作品をはじめて読んだ時の衝撃と、ある種の陶酔感覚を思い出しつつ。 南総里見八犬伝のノベライズ版などを中学生くらいの時に読んで、ひええ、、、と思いながら惹かれ、高校生の時にはラヴクラフトに耽溺し・・・いやまあ、それはひとまず置く、として。 原罪を負った人間、という発想は西洋だけのもののようにも思いますが・・・東洋には、それはない、ように思っている、のですが・・・生まれながらに「罪」を負わされた子供、を、人は愛せるのか、という問であったり、不運や暴力、業(ごう)の連鎖、といった重さ、であったり・・・こうした思想的なものが、いろいろ、エンターテインメント的な物語性の中に埋め込まれているのを感じました。 (「三途川」 下)

2017-11-09

大きな ばってん 、過剰防衛であったり、過剰な忖度であったりする、自然な思いやりや自然な違和感が、なかなかうまく表明できない、そんな時代・・・。 正義、というのも厄介ですね。妊婦さんがマタニティーの札を下げていたのに、気づかなかった初老の男性が、つかみかからんばかりの勢いで、そばに経っているご婦人に席を譲れ、と迫り、白髪のそのご婦人が恐縮(を通り越して、おろおろ)していたり・・・ 障碍の碍も、当用漢字に無かった、それで「害」の字が応急措置的に充てられた、と聞いたことがあります。 ポリティカルコレクトネス、をもじって、あえて大量にしつこく「言い換え」をしたパロディー作品を読んで、そのあまりのバカバカしさに捧腹絶倒しながら、多様性が絶対善なのか?と考えさせられたりしたこともありますが・・・〈私が時代の本流から~〉以降の文体の勢い、前半の愚直なまでの文体の対比(それゆえにとまどい、逡巡しているイメージが出ますね)が印象に残りました。 (半身の体の雨降りの午後)

2017-11-09

助詞をあえて行頭に持ってくることによって作り出される、少しだけ突っかかるような、摩擦を持ったリズム。それは、砂浜に打ち上げられた命の残骸、命の形骸を避けながら歩く、歩みそのもののリズム、なのかもしれません。 〈命をたらふく 食んで まだ足りない〉海、で思い出すのは・・・大震災の時の映像でもあるのですが。 最終連の〈押し寄せる波が/大きな手に見えた日を/思いだした〉につながっていきますね。 中間部、風の吐息とか、海の唄、といった文言は、甘さに傾いた印象を与えるかもしれない(ロマンチックな気分、に浸っている、ような・・・)という感想も持ちましたが、遠い記憶の、と記され、〈海の唄〉羊水のゆらぎ、胎内で聴いた波の音の記憶、にまで重なっている、と読むと、一段と深みを増しますね。 胎内を連想させるような文言を、どこかに忍ばせてもよいような気もしました。 (海の唄)

2017-11-09

ひらがなで、やわらかく、じっくり、反芻するようにつづられた部分と・・・いわば、感情そのものが物語っている部分と、意志や反省、理性といった思考が物語る部分が、絶妙に組み合わせられていると思いました。 〈愛情の 元来の使い方〉〈愛情というものへの  不信〉こうした理智で捉えていく、まるで解答があるかのような部分と、それは幻想にすぎない、というような・・・ふしぎ、としかいいようのない感情の部分。あのとき、いっしょだった、あの時間は、あの時の気持ちの一体感は、いったいぜんたい、なんだったんだろう・・・私も、ここにいること、が、ふしぎです。いま、そんな気分です。 (まちあわせ)

2017-11-09

前作と参照はしていないのですが、詩行がきっちりと締まっている、そんな印象を受けました。 なぜでしょう・・・一行、もしくは二行で一文が完結しているところが多いから? いや、前回もそうだったのかな・・・ 飛ぶ、上下がない、魂は金属質、硬質の塊として実在する、この緊密な連関、その連関をひとまとまりとして、一方、と対比していく構成・・・語彙、崖、解釈、注がれ・・・ここから、ネット空間を飛び回る魂と、降り注ぐ圧とのめくるめくような混沌へと想念が弾け、〈快楽の糸引く混濁、瑠璃色の眠り〉というような、ある種のエクスタシーに到る。それは〈複眼で微分すると物語ではなく時間経過となるこの冒険〉この断定に、なるほど、と首肯させるものがありました。魂(の込められた言葉)がネット空間で浴びる解釈の乱舞、のような・・・。 そこに屹立するもの、このイメージも、唐突な出現ですが、納得させられてしまいました。去年今年貫く棒のごときもの、この句の棒に似た、抽象的ながら実在感のあるイメージ。 〈どこもかしこも尖った摩耗のない破片の集合体として/一本に見える柱〉めくるめく冒険へと魂を旅立たせる、意志の総体、のような。 〈 かつてゴムの塊のような思考形式をもったため  私でないものに音を見いだせないという主体が 飛ぶ〉金属の、硬質な魂、ではなく、ゴムの塊のような・・・かたまり、とたましい、なんでこんなに字形が似ている、と改めて思いつつ・・・ 〈走るよ走る 硫黄の臭いたばしる痺れる新生が  中心もない隙間もないホンモノの空間から  同時に複数の複数蜂起する〉このあたりから、一気にラストへと向かっていくわけですが。 〈複眼で微分すると物語ではなく時間経過となるこの冒険〉ここに複眼が響いている。 ひとつの、一個の魂の飛翔が、一つの視点、単眼で捉えた冒険、ではなく、複眼で捉えた冒険・・・が、いつのまにか複数の視点に分裂しながら飛び交っている、ような。 ネット空間に無数に張り巡らされた他者の視線が行き交っている、そこに飛び込んでいった一個の魂の、複数の視点の、複数の時間、視点に寄ってずれたり異なったりする物語が同時に生起する、状態の酩酊感・・・を連想しました。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-09

空蝉は、うつしみ、現身から来た言葉でもあると教わったことがあります。 『源氏物語』の空蝉・・・からっぽ、のからだ、のイメージ。 中央部分の、かっちり矩形にまとめられた、それでいて情動溢れる部分、一気に迸るような筆致、ここに強く惹かれました。突然、痙攣しながらバッと起き上がって、こちらの感傷を吹き飛ばしていく蟬の勢い、強さ・・・たじろぎますね。 細かいことで恐縮ですが、題名、これでよいでしょうか・・・先に書いたように、うつせみ、は、うつしみ、でもある、けれど・・・蝉そのものに関していうと、蝉の抜け殻のことを指してしまう。 ベタですが、飛翔、とか・・・そういった題名の方が良いかもしれません。他の読者は、どんな題名を思いつく、でしょう。 (「空蝉」)

2017-11-09

身につまされながら拝読。お爺さんの芝刈り、詩ばかり、志ばかり、詩測り、思諮り・・・が、果たしてどこに到るのか・・・。ユーモア、イロニー、カリカチュア・・・お爺さんは、独り立ちしてしまうんでしょうか。 (芝刈レビュー 〜あなたの芝刈り見せてください〜)

2017-11-09

方言札・・・方言を用いたら、罰として掛けさせられた札、大変な屈辱だった・・・と、沖縄の方から伺いました。 共通語(東京弁というべきか)を使わない、使えない祖父母に育てられている子供達は、特に、大きな傷を負ったそうです。学校から子供たちを締めだしてしまう、そんな「方言札」が、正しいこと、当然のこととして用いられていた時代。 ゆるやかにまとまりを持って配置されることで生れる空間、自然に挿入される沖縄の言葉、 また、6月23日   ことしも   まだなんとかひととして   いきてます   あなたのとなえも   こころからであれと   てをあわせました これもまた、見た目もやわらかい文字でつづられた・・・しかし、重く芯を持った一連。 沖縄の防風林(琉球松)の、やわらかでしなやかな葉の手ざわりを思い出しました。 (フラグメンツ/連音)

2017-11-08

家、その他、とありますが・・・四章構成の楽曲のようなイメージで拝読。 全体を覆うミルク色のイメージ、明確な壁に「守られている」空間ではなく、漠然とした脳内のどこかにある場所、子供時代のイメージを喚起させる場所・・・そして、そいつ、あなた、きみ、と「他者」の気配がありつつ、ひとりの孤独が際立つ空間。読んだ時の余韻が重なっていくような語尾や言葉の選択、繰り返し挿入される祈りの文言が印象に残りました。 俺、は一章と四章、二章はわたくし、が、語り手、になるのか・・・三章には明確な語り手が現れないのですが、〈闇夜激しく/愛しあった/夜と曙は。〉夜と曙の擬人化された空間をイメージしながら読みました。眠れない夜のあわいに現れた、幻想。 四章の〈祈りは聞き入れられ 俺は路傍に一人じゃなかった あたたかいのか、つめたいのか 確かに手が触れた 誰かが俺の背中に触れていた。〉 この最終連がたどりつくべき「家」なのかもしれない、と思いました。 壁を持った家、家族という明確な安全圏が見当たらないような、朧に霞むミルク色の空間の中で触れた、誰か、の気配。背中に触れていてくれる、見えざる気配。 (家 その他三編)

2017-11-08

一行目の視覚的な鮮烈さと、マチネー、の不思議な違和感。なんとなくガーデンウェディングの光景を思い浮かべつつ(そんな真昼の光景を思い浮かべつつ)〈みんなで行った海の思い出に私はいない〉私、も居たはず、なのに、存在感が希薄(あるいは希薄にさせられている)切なさ。〈出席者名簿の最初の5人に名前を書かれた人は将来有望〉この部分もそうですね。きっと、語り手は最初の5人の中には、名を記されていない。 〈居心地の悪い世界にロードされても ベルが鳴るまでやり続ける 子ども部屋の地球儀の速度で〉 この世に生まれさせられてしまった悲しみ、を思いました。 生れたからには、演者として誕生させられたからには、演じ切らねばならない・・・。 子ども部屋の地球儀の速度で 素敵な比喩ですね。演じ切らねば、という悲壮感にどっぷり浸かっているという感じではなく、その外側から、自分の意志で世界と関りながら見ている、ような感覚。その光景を包んでいるのは、子供部屋、という空間。全体が物語の中に包み込まれていく、ような・・・。 向日葵で始まり、冬で終わる、季節の転換がずいぶん早いな、という読後感ですが(夏の海のイメージが、中央に挟まれているのでなおさら、) ソワレが幕を開ける時は、既に冬、なのでしょうか・・・。 それらがすべてエチュードだ、という、全体を少し離れて見ているような・・・悲壮感の中にどっぷりつかり込むのではなく、その外に立って見ている感覚が良かったです。 (それもetude)

2017-11-07

〈ピルケースの中の銀河で起きたビックバン/ときめきが歩きまわった交差点の衝突事故〉 ピルケースの色とりどりの薬のイメージと、スクランブル交差点のような、色とりどりの都市風景を重ねました。そこで二人が出会った瞬間の・・・俗な言い方ですが、ビビッと来た、二人で見つめ合った、そんな遭遇、を連想しました。 〈この地球でたったひとりの君と〉〈この宇宙でたったひとりの君と〉そこまで思いつめた君との出会い、それから〈太陽はいつのまにか地面に落ちて粉々に〉ある種の痛みを持って、一日が終わるイメージと、恋が弾けて終わる、イメージ・・・あるいは、恋の始まりの瞬間の激しさ、ときめきのようなものが、粉々になって砕けていくイメージ。指輪にしてしまおう、という、身近で小さくてかわいいものにしてしまう流れは、激しく炸裂する衝動を、ポップで軽快なものに置き換えていく印象がありますね。 〈夜の視線に刺されながらベットで踊る/あちこちが痛いや 嬉しい痛み このために生まれた〉 夜の視線とは、他者の(眼に見えない)視線でしょうか。この一行が際立っていると思いました。その視線に刺される、そのことが痛いけれども、嬉しい、という逆説・・・。 〈宇宙の真理〉と大上段に構えられてしまうと、なんと大袈裟な・・・という印象をうけてしまうのですが、全篇に散りばめられた地球や宇宙という言葉が、単語一つ一つのイメージを軽くしていると思いました。もっとも、言葉の意味を軽く記号的に、装飾的に用いているゆえに、きらびやかではありますが、表層に留まっているような読後感が残りました。 (光)

2017-11-07

大統領とあってトランプ来日を想起し、そういった社会事象に感化されての作品か、と思いきや・・・言葉の勢いがスゴイですね。ねじめ正一の朗読を、なんとなく思い出しました。 冒頭は吉祥寺の街中を歩きながら、ある種の写生的情景なのかな、とも思ったのですが。〈ネコの怨念が飛ぶしなま首がにゃ~にゃ~言って浮浪者を起こすありさまでして ぎゅう乳をやると首が増えるんのですが むしろくびの無いイヌも走っては腹を見せて〉このあたりから、幻想の力がぐいぐい増してくる。〈ばつぐんにすだれ髪のオヤジの性癖SEX, SEX, アウシュビッツの女所長の重金属塊から漏れる血飛沫ギガガググァーンゴギュギュビュプニュボゴそのままに〉このあたりは、意味を問うということよりも、劇画漫画の一場面を見ているような疾走感を感じました。強度のある言葉が連続しているけれども、言葉が近い場所に集められて居るからでしょうか、それぞれの強さが相殺して、意味が軽減されているような印象がありました。 最後は吉祥寺に戻って来るのですね。全体に散りばめられた車(擬人化されて、存在感を増した車)のイメージもあり、都市を(レンズの効果で)まるでおもちゃの街のように撮影する写真家(名前を失念)を連想したりもしました。 セルロイド、という言葉の昭和感、チープシックなイメージ、そのイメージとハイヒールの組み合わせの意外性が効奏しているのか、どうか・・・大量のモチーフに埋もれてしまって、セルロイドのインパクトが薄まっている気もするのですが、どうでしょう。 ハイテンションで続く詩行の数というのか、濃度が濃い、分量的に多い、ような気がしますが・・・ THE都市、といった読後感が残りました。 (セルロイド)

2017-11-07

〈草は、乾ききった葉の産毛をゆらめかせ、雨を乞い/重い空はすでに欲情していた〉 草、が、植物ではなく、まるで生き物として揺らめているような・・・その生き物と、まるで空の体液のような雨、自身の汗が混ざり合う混沌の感覚。そこから、どこに向かうのか、と思ったら・・・ 〈私は無機質に草を刈る〉この一字下げの部分、はっとさせられますね。もう一か所の一字下げ、 〈雨、その水滴に溶け込んだ念仏〉生き物として目の前にある草を、刈り取るという行為。生を断つことへの想いが、雨の烈しさの中で際立っている。 〈まるで別の濡れた皮膚を纏っているかのようだ〉カッパを着ているのでしょうか。あるいは・・・防護服。単なる草刈りではなく、除染のための、草刈り、であるのかもしれない(これは、私の勝手な空想ですが。) 〈脳内のどこか片隅から放たれる小声に従い、動いていた〉この一節に、本当はやりたくないけれど、やらねばならない、そうした想いが現れているように感じました。除染を想起したのは、その故かもしれません。 あえて丁寧にロジックを重ねていくことで、衝撃が伝わって来ることもあるのだ、と唸らされたのが、次の三行。 〈水滴が引力に引かれ落下し アスファルトという固形物に撃ち当たり 球体が破壊される炸裂音〉 その音は、心的に受ける衝撃の強度でもある。 さらに言えば、外界に広がっている農場、ではなく、〈脳内の広大な農場に張出した棘の先端を〉 今度は〈おだやかに覆うように流れていく〉という衝撃度の落差も印象に残りました。 状況は正確にわからぬながら、土砂降りの雨の中で、雨音に激しく打たれながら、命を絶つ、ということについて考えている、考えながら無機的に腕を動かし、仕事を遂行していく。その過程で感じ取る、ある種のさとり、のようなもの・・・それがきっと、〈ひとりひとりが孤独な生き物となり〉という、在り方、なのでしょう。 (amaoto)

2017-11-07

題名から既に、ひらがな、カタカナ混交ですね。 指をすべらせていく手つき・・・指で文字を辿りながら、その世界に入り込んでいく景を想起しました。 言葉を、意味として辿る、音として辿る・・・さらには、質感、語感、触感のようなものとして辿る。そういう読み方をするしかない文字列もある、わけですが・・・そのようにして(意味を解体され、音の連鎖や質感の連鎖となって浮遊している文字列を追っていくと)見えて来る景が 〈ある渓谷には秋がおりていた/葉葉は黄や赤にぬれ、緑は弱り/あらゆるものの背中に/枯れの清流がうつりこんで〉と一瞬立ち上がる。言の葉の森、と読み替えてしまったらつまらないのかもしれないけれど、その森で、「意味」が解体されていく快感に、むしろ身を任せているような「読み方」をする作品を読んでいる(辿っている)時の感覚を思い起こしました。 そうした作品を読んで(辿って)いる時、作者はどこにいるんだ、という思いに駆られることもあるのですが・・・〈ヒカリ、君は/ここで、どこにいたりする〉まさに、そう問い掛けたくなる時があるのですね。そんな共感もあったので、なおさら・・・意味、としてではなく、テクストとして辿る他はないような、そんな作品を読んでいる時の印象を作品化したような読後感があって、新鮮でした。 (なガれ)

2017-11-07

誕生石の色やアイコンのモチーフといった、本人の付随物のようなもの、が似ている。それだけでも嬉しい、と述べた後に、〈少しも似てない2人の狭間で〉〈似やしない2人の間で〉と繰り返される落差の切なさ。 〈冷たい夜にわざと窓を開けて眠る僕を〉どうして〈僕〉は、自分に厳しく、辛く接してしまうのでしょうね・・・それは、〈君〉を傷つけたくないから、汚したくないから、ということ、なのか・・・。 エメラルドの色の深さと、〈僕〉の心の深さ、〈エメラルドは深い闇を通って来た〉闇を見て来た自分と、その闇を〈君〉には見せたくない、そんな想いをさせたくない、という〈僕〉の思いと。 〈エメラルドのジャム〉と〈ペリドットのマーマレイド〉鮮やかなイメージ。ぐちゃぐちゃ、に潰れているジャム(のような自分)と、澄んだ色の中にスライスされた果物の形が残っているマーマレイドの対比。 畳みかけていく調子や、嬉しかった、と述べた後の落差のリフレイン、鮮明なイメージなど、リーディングの際に非常に効果的(訴えかける力、印象に残る力)が強い作品ではないか、と思いました。 アクを取りながらじっくり炊いたジャムの、澄んだ色合いと濃厚な触感、これもまた美味ですよ。 (peridot marmalade)

2017-11-07

題名は、これでいいのか?と(題をつけるのが超絶苦手な自分のことを振り返りつつ)疑問を抱きつつ。 おもろかなしい、とでも言えばいいでしょうか、〈濁流〉に投げ込まれ続ける心、その心が〈いったい心は固く閉じていて/その形のまますこしも欠けずに下流で貯まる〉その不毛性・・・気持ちや想いを言葉にして、〈濁流〉に投げ込み続ける行為と、その〈心〉(文字として綴られた想い)が読み解かれることなく、過去ログとして堆積していく情景を重ねながら読みました。 鼻歌を歌うような軽さと、呼びかける調子、寓話としての面白さ。心を流す、という景を視覚化したらどうなるか・・・‟どこまで景として見ることができるか”という興味の行く先、詩的ロジックの展開の面白さと軽妙な仕上げ具合・・・土俗性の強い、重厚な(濃度の高い)作風から、じゃっかん方向転換しているのかな、という印象。 (寂しくて辛い)

2017-11-07

祝儀さんへ。パソコンで「だいなり」と打ち込むと、>と表示されますが、スマホからだと、表示されないでしょうか? (2017年の秋祭り)

2017-11-03

雨粒はスタッカート、で切り、落とした羽根は濡れた雨、でも切る・・・花や蝶のイメージ(ある種の質感、物質性を持った像)と、そこに入って来る雨や風のイメージ(動き、触感)が、すべて等質に均されているような、不思議な感覚がありました。気高さや優しさ、といった抽象的な語彙のせいかもしれません。 「その言葉の意味をあなたは知ることができない」「浮かんで揺れてその行く先、あなたを置き去りにする」言葉になりかけたまますり抜けていったイメージ、そのとらえどころのなさ、肌をかすめていった感覚を、あえて捉えようとするような印象でした。言葉の流れの美しさや、響きの心地よさに「流されて」いないか、という部分(それは、好みの問題にもなってきますが)が、少し気になるところでした。 (蝶々)

2017-11-03

「それ自体はややもたつき感もある一文からの転調」という花緒さんのコメントがありますが、やはりそこに眼が止まりますね。 〈かつて花が降っていた隙間〉春の花吹雪、大学の図書館、そこには〈かれ〉の残像がある、のか。 花が降っていた、卒業の時期の大学、を連想しました。 もうすでに、大学を卒業して何年にもなるのに、そっと大学図書館に戻って来る、というシチュエーションでしょうか。〈神輿〉晴れてるけれど低気圧、とあるから、秋祭りの頃か・・・。 感慨を軽めに歌った唄、という印象を受けました。 (song)

2017-11-03

あれ、結局、遠足の日、は、水曜日、ではなかったのかな?と思いながら・・・お父さん、が息子の弁当を作る、設定だったのか?母子家庭なのかな?いや、違うな、と読み直して・・・ ああ、水曜は休みだから、起こさないでね、と妻に頼んだことすら忘れて眠りこけていた「お父さん」の唄、なのか、と・・・。 いや、早く着替えないと!初の遅刻だぞ! 奥さん、なんで起こしてくれなかった? ああ。そうだ、今日は遠足の日だったな 自分の妻に、「奥さん」と呼びかける夫、なんですね(笑) 自分の弁当は冷凍食品で「済まされて」しまうのに、文句も言わず。息子の遠足弁当に夢中になっている奥さんを、温かく見ている旦那さん。朝からロッキーのテーマで自分を鼓舞して、会社に出かける、旦那さん。 息子に夢中になるくらいに、いつも手をかけてあげられなくてごめんね、という、妻から夫への思い、も、内包されているや否や・・・。 ホームドラマ的な面は否めませんが、書き方で次第に景や関係性が見えてくるように、丁寧に描かれた作品ですね。 いかに「泥のように」夫が眠りこけているか。その夫の疲れ具合を、書き手は察知して描いている(家計を助けるための共働きで、日々疲れ切っている自身の疲れ、を、妻の疲れ、としてではなく、夫の疲れ、に反転して書いている、可能性もありますが)そこが面白いと思いました。 (おぼえている)

2017-11-03

遠藤周作が、自分にとっての「キリスト教」あるいは、日本人である自分、にとっての「キリスト教」を、徹底して考え続けたことを、思い出しました。全体に、ずいぶん「固い」印象がある、のですが(全身の筋肉をこわばらせて、ひとことひとことを発声しているような、息詰まるような緊張感)返詩でもある、とのことですので、いったん、ここで・・・。 (MARIAへ)

2017-11-03

おかしみ、と一行目に置く。え、誤字?と思いつつ、独特のリズムや「かろみ」の中で読んでいって・・・可笑しみ、面白み、を美味しく楽しんでもらいたい、という作者の詩への思いを感じました。 「醤油だけで食らってもらいたい」飾ったり気取ったり、詮索したりせず、変に手を加えず、そのままかぶりついてもらえるような詩行を書きたい、と読み替えていくと、なかなか面白いですね。 刺身に「すじ」があったら、これはどちらかというと食べにくい刺身、気骨のある刺身、ということになるのかもしれませんが(いわゆる高級品ではなく、普段の生活で頂く刺身、のような・・・)新鮮さも含め、「刺身でなら/多少/僕の/筋を感じでもらえる」あえて、その「すじ」を感じてもらいたい、という意識も含め・・・自ら釣りに行って手に入れた「サカナ」を捌いて、読者に供する。そんな気取らない素材主義、のようなものと、同時に、やはり「美しい綺麗な」お造り、を造りたい、という思いと、だからといって、澄ましておちょぼ口で上品に‶いただく″のではなく、「食らって」もらいたい、という思いと・・・単純そうにみえて、なかなか複雑な、微妙なところを丁寧に「おかしみ」を持って描いていると思いました。 (お造り)

2017-11-03

自身を打擲していくような、重い、ぶれない詩行が続きますね。痛めつける「打擲」ではなく、粘土の塑像を叩き固めていくような、そんな「やわい思考」を打ち固めていく手つきを感じました。 感情が突出するところ・・・〈なんという事を私は〉この一行を入れるか、いれないか、入れるとしたら、一行アケにして、独立させる、という入れ方もあるかもしれない、などなど、この一行を巡って、しばし考えました。 花緒さんの思考回路、ひねり過ぎでは?と思いますね・・・花なんか咲かせなくていい、生き返ってくれ、という願いと読むのか・・・間に合わない、でも、自分の気が済まないから、と「諦めつつ」水をやる、のか・・・私は、本来の匂いを馥郁と漂わせる、くちなしらしい咲き方で再生してくれますように、という願いであり、自身への「水遣り」であるのかな、という気持ちで読みました。 (「ネグレクト」)

2017-11-03

桐ヶ谷忍さん 実は、パソコン音痴というか、デジタル音痴で・・・自分のパソコンの方では、28文字35行、縦書きのフォーマットにしています。そのままコピペすると、こう、読みにくくなってしまう・・・今度、どなたかに、やり方を教わります。ひらがなの効果を活かす・・・そうですね、もう少し、全体の詩形というか詩面を考えた方がよかったかもしれません。フォルムも含めて。 >「いやに生々しく感じます」ありがとうございます。フィクション、の物語ではありますが、父や祖母、恩師や知人、友人の死・・・を重ねて、その時々に受けた想いをもとにして書いています。その意味では、事実の再構成によるフィクション、と呼べばよいでしょうか。ことばに「遺していく」とは、なんだろう。そんなことを、日々、考えています。 夏生さん 四苦八苦、なんていう言葉がありますが、苦しみや悲しみが「通常」で、喜びや楽しみが「非通常」なのではないか、と思う時があります(さすがに、日常/非日常、とは言いませんけれども・・・)特に、老いた人と接していると、その思いが深くなります。忘却は幸福なのではないか、と思うこともたびたびです。「無視という言葉で自分を突き刺し、責めることが応急処置のよう」それが正しいことだ、と言い聞かせねば耐えられないことが、必ずあるように思います。その「正しさ」を、自身が信じ切れぬ、その自己欺瞞が、またブーメランのように戻って来るわけでもありますが。誰もが、幸福に「生き切る」ことが、できますように、と、願うばかりです。 (私は耳からすべりいり・・・)

2017-11-03

もなかさん、ご返信ありがとうございます。 >「文体そのものが生み出す叙情性」に関してわたしは肯定的な観点を持っています。 (まりもさんが危惧されているのは、様式然とした陳腐化による内容の消滅なのではないかと思われますが、齟齬がありましたら申し訳ありません。) まさしく、その通りですね。語り口そのものが奏でる情動、色彩感や質感のようなもの、言葉にできない、その部分を楽しむのもまた、詩歌であろう、と思い・・・おそらく、翻訳で伝える時に、もっとも苦労するのが、その部分であろう、とも思い・・・またいずれ、ゆっくりお話しできたら嬉しいです。とりいそぎ、御礼まで。 (be)

2017-11-02

気持ちの「き」が見えて来る、ような・・・不思議な感覚を持った寓話として拝読。 「き」の生え方や育ち方、様子などが、その人の性格や人となりを表している・・・敏感な人が感じ取る、その人の「ひととなり」を感じさせる「オーラ」のようなものを、わかりやすい「き」として表したら、こんな感じになるのかもしれない。見えないものをユーモラスに「見える化」してもらったような感覚がありました。 同世代の人たちの「き」は、あくまでも生命力であったり、性格をあらわすもの、であったりするようですが・・・ おじいちゃんの背中の木の「角度」は、生命時計の針の角度でもあるようで・・・残りの命を示してしまう、そんな不思議さを感じさせます。 「き」の様子や育ち方に着目する前半と、残りの命の長さに気づかせる後半、その双方を「き」が持っている、という部分、なかなかユニークな作品だと思いました。 (背中の樹)

2017-11-02

冒頭は、姿勢を正しくして読み上げる、ような硬質な文体で、〈みんな失敗してしまったんだね〉ここから、急に語り掛けるような文体に替わる。最初が音楽無しの「語り」の部分で、〈みんな~〉から、ギターをかきならしながらフォークソング風に歌い出す、そんな「呼びかけ」を感じました。 間違いを許してもらえるくらいに 一生懸命願って もしかしたら言葉がきれいになって 生きるべきものとしていられて 手をつないで 街の中の沢山の明かりの下に あるもの全てが想像できたり ここが、よかったです。何といえばいいのか・・・〈あらゆる人ははきっと答えを与えられている/それを発見していくのだ〉という、黒髪さんの「発見」というのか、様々な事象から、そのように結論付けた、その「答え」の部分、について、よりも、なぜ、その「答え」に至ったのか・・・黒髪さんが、誰の、どこに、どんなところに、注目して、そう、考える、気づく、に至ったのか・・・という部分を、より、知りたいかもしれない、という気がしました。 つまり・・・皆が最終的に辿り着く答えは、〈あらゆる人ははきっと答えを与えられている〉という、同じところにたどり着く、のだろう、と思うのですね。ただ、人によって、その過程が異なる、道程が異なる。 私もあなたも、同じ結論に達した、でも、ある人は花が咲いて散る姿からそれを見出し、ある人は運動会で自分の子供が転ぶところを見て、それを見出し、ある人は、言葉同士の響き合いからそれを見出し、というように、過程が異なっていて、そこが多様で、面白いのではないか。同じ結論に、きっと辿り着くにしても。そんなことを思いました。 (良く考える)

2017-11-02

スケットダンスって、なんだろう、と調べて(漫画音痴です)ウィキペディアまで作成されているのですね・・・ 言葉の響きからも助っ人、を連想しましたが、中途採用もまた、助っ人として採用され、文字通り踊らされる、存在なのかもしれません。〈死んでいる我々〉を蘇らせてくれた、それも〈審査買え審査買えと鼓舞し〉審査を、買う?偶然ですが、cow、と表示が出て、牧場とつながりそうな・・・気もしつつ(それはまあ、偶然でしょうけれど)漫然と日々を過ごしていくよりも、買ってでも審査を受けろ、そこに何らかの実入りがあるだろう、というような、鼓舞、のメッセージを感じました・・・バターで汚れる川、に、グルグル回っているうちに溶けてバターになってしまった虎のお話し、をちょっと思い出しました。 (中途採用)

2017-11-02

剥奪、散乱、膠着・・・と戦闘や暴力をイメージする、郷土のある言葉と、霧雨、というやわらかなものとの取り合わせ。再受肉した亡霊、透明な眼球の化身、といった、ゴシックホラー的なイメージ・・・ 濡れた視線、痙攣し続ける椎骨の鎖といった、エロティックなイメージも、ゴシックホラー的な世界に結びつくような印象を受けました。 詐称する弾性、座礁する菌床、と硬質な言葉のイメージと、音が引き出す言葉の連鎖のあとに、流れるように綴られるひらがなの波・・・。きりさめ、げすい、くうかん、と、前半がここで、やわらかく再現されている、と見ればよいのか。 意味を辿る、というよりも、感覚や質感を辿る、作品なのだと思いつつ・・・いささか実験性が強すぎないか、という思いもあるのですが。 硬質の観念どうしがぶつかり合うような空間を濡らしていく霧雨のイメージ、そこに拡散する白、明確なイメージを取ろうとする、その意識を寸断していくような、/を多用した行替え部分。 灰染めの空間で崩壊していく(溶けていく)硬度。ひらがなでやわらかに馴染んでいく言葉の流れ、その中から夢の中のつぶやきのように取り出される 白という白/溝という溝/罅という罅・・・捉え難い感覚はありましたが、硬質な世界から柔らかな世界に解かれていく感覚に身を任せながら、やわらかい雨に濡れるような感覚を味わう詩だなあ、と思いました。 (霧雨)

2017-11-01

ダビデ像になりたかった少年、なのか・・・ゴリアテ、を倒したかった、少年。 〈女のように/石壁に抛物線を投げるという〉投げたものが、放物線を描く、のではなく、放物線そのものを投げる・・・? この地では、真っ直ぐ投げる、のが男投げで、放物線を描いて投げる、のが女投げ、なのか・・・と最初から悩みつつ、悩まないで感覚で流しながら読みなさい、という詩なのかな、とも、思いつつ・・・ 〈醜い人間の集合離散への嫌悪の/生命線〉女たちの井戸端会議、のような、そんな嫌な群れ方を、放擲する、ということ、なのかな・・・ なんというか、冒頭から、私には難解です。 〈肌がその土地土地になじみ/故郷を忘れる。〉〈呪詛を唱えながら/各国を旅してきた少年〉 なんどもなんども生まれ変わりながら、ダビデ・・・デイヴィッド、が遍歴する・・・物語、なのか。うーむ。 〈ヒガンバナの曲線〉〈ユリの曲線〉はなびらの曲線と、茎の直線。死(を象徴する、和の)花と、聖(を象徴する、洋の)花・・・? 〈繰り返されたおまじまい〉おまじない、を、おまじまい、と聞き間違えた幼児期の記憶。その記憶のままに、おまじまい、をつぶやく少年・・・ 教室で、切られる髪。「いじめ」の記憶、でしょうか。「らーる、ぷー、らーる」芸術の為の芸術、芸術至上性・・・ LArt pour lart・・・芸術への憧憬によって、少年は痛みや苦しみを堪えたのか。 〈抛物線を投げては/曲線に見惚れている/それは誰の生命線だったか。〉生命線が、象徴するもの・・・ 少年は、ゴリアテを、倒さないまま、地上を遍歴しているのでしょうか。 他の方は、どう読むのでしょう・・・。 (デイヴィッド)

2017-11-01

まさに極彩色の世界、ですね・・・ 赤々と燃え盛るような水面に、匿名のシルエットとして並ぶ〈影絵と化した僕ら/匿名に浸る彼ら〉 鮮明に立ち上がるイメージ。〈在るはずのない病室が視えた〉あたりから始まる幻視、〈空っぽの生気 充満する邪気〉といった脚韻的な音の響き、リズムで進行していく詩行。〈錆びたメスがもたらす破傷風〉このフレーズからは、野戦病院のようなイメージも浮かびますが、チェーンソー、ブラックボックス、ミサイルと投げ込まれる言葉の強さが鮮烈で・・・(最近刊行された『ブラックボックス』も連想しました)ネットサーフィンしながら、高揚感の中に取り込まれていく心境を重ねながら読みました。 イメージの立ち上がりから、ノンストップでハイテンションのまま最後まで突っ走るような感じの作品、なのですが、リーディングをイメージして書かれている、のでしょうか。 黙読で読む、時には、少し余白を用意した方がよい、ような気もしました。冒頭のように、鮮やかな映像が「見える」部分と、言葉のイメージや強度、勢いで押していく部分、そのメリハリが、もっとあった方がよい、ような・・・途中に、イメージが明白に「見える」ような部分をつくると、階段の踊り場で小休止をするような感じになって、いいかもしれないな、という(個人的好み、でもあるので、スルーしていただいて構いませんが)そんな印象を受けました。 (Out Of This World)

2017-11-01

人間ヶ池、という、どこかにありそうな固有名を思わせて、人間が、池、と掛けているのかな、そんなユーモアを感じました。 人間の内部が水、で満たされているなら・・・ニュートリノが人間を通り抜けていく時、人間は発光しているのではないか?そんなことを、考えたことがあります。骨を折った時、皮膚の内側にブヨブヨ水が溜まって、ああ、皮膚って革袋なんだなあ、と、しみじみ感心したこともあります。 びしょびしょに濡らしたスポンジを、うすいゴムで包んでいる、ような・・・人体。ちょっと押しつぶすと、すぐに敗れて、水が溢れ出すかもしれない。そんな危うさを、〈淵からこぼれ出し、周りを水浸しにする〉〈せっかくただの水たまりじゃないのに人間は〉とユーモラスに表現するところ、そのことに「気づかされる」のが、月光に照らされた池のイメージである、というところ。人が月に照らされた池、なら、そばに〈東山慈照寺、いわゆる銀閣寺の観音殿みたいな建物〉があったっていいじゃないか、というハズシカタ、とても面白いですね。 人間の水分が70パーセントなら、残りの30パーセントはいったい何なんだ、という問にも、つながって来そうです。〈わからいのかな〉は、お里言葉、なのでしょうか・・・〈木やら苔やら、自然と共存〉ここが、30パーセント部分、なのかもしれない。 最終連、ユーモラスに終わる面白さがある一方、自然が引っ越さないと、というのは、木やら苔やら・・・を受けての言葉、なのだとしても、若干、唐突な印象がありました。 全体のリズムが楽しいですね。 (人間ヶ池)

2017-11-01

崖のきりかぶ、かぶのうえ、とやわらかなひらがなに「油断」していると、翠黛、澗底、山壑、と漢詩の中の言葉のような漢語に遭遇する。ババロアの中に散りばめられたアーモンドキャラメルのプラリネのような(変な比喩ですみません)卓抜なアクセントになっていると思いました。 崖の上の切り株、かなり不安定な場所で、深い谷を見下ろしながら、「みどりやみ」の山容を眺める・・・〈み凝らす〉、は目をじっと凝らす、イメージでしょうか。視凝らす? 気持ちがくらがりに向かう時は、谷底(澗底)の闇を思い、気持ちが新たな方向に向かう時は、遠くの山並みの「みどりやみ」(翠黛)に眼を向ける。森の中へと意識を彷徨わせ、奥へ奥へと向かっているのかもしれません。それは新たな生への志向であり・・・谷底への意識は、投身への欲望でもあるのかもしれません。 漢詩の読み下しを、より口語詩に引き寄せたような試みが印象に残りました。 (崖のきりかぶ)

2017-11-01

遭遇、という言葉の選択に、ドキッとさせられますね。実は、出会いたくなかった、それなのに出会ってしまった一句、のような・・・。 〈譲って欲しい〉という一言は、本心からのものだったのか・・・他の人に、この書を見られたくない、見せたくない、そんな気持ちも働いたのかもしれない・・・そんな想像に誘われました。 哀しみ、の表し方は、人によって異なる。自身があまりにも深く傷ついてしまっている時には、むしろ何事もなかったかのように、記憶の底に深く仕舞われてしまう、ということもある。自死した娘の葬儀で、半ばはしゃぎながら親族に食事や酒をふるまっていた、伯母のように。その後何十年も、伯母は月命日にお坊さんを家に読んで、経をあげてもらい、娘が倣っていた書道を極める、と、傍目にも異常なほどにのめり込み、書道の師範となりましたが・・・はたして、彼女の裡には、白い花は咲いているのか。まだ、何色ともわからない花が、泥沼のなかからようやく、蕾をもたげているだけかもしれません。 自身の悲しみの表現に引き寄せて、それを物差しとして他者を計る、そんな自己中心性をもった書家なのかもしれませんが、それゆえに、山頭火の自己中心性・・・自己中心から逃れられない悲しみ、を、身をもって知ることのできる書家なのかもしれません。 (個展)

2017-11-01

くり返される、〈広くて静かで誰もいない〉という、空白の空間。 〈人びとが川のように〉という直喩が、〈人の川が絶えず流れている〉という「時」や「時代」の喩にズレ、最後はレーテーの河、彼岸と此岸とを隔てる川へと変容していく。おそらく海辺の墓地、なのでしょうけれど、〈潮の匂いがする〉と置かれることによって、人の河、時の河が、やがて流れ入る海、へとイメージが広がりますね。 登場人物の関係性を、あえて明示しないことで、読者が様々な物語を読み取ることができるような気がしました。恋人を失った後、新しい人を迎えた夫、からの「型通りの絵葉書」なのかもしれないし、娘を失った夫妻が、悲しみを抑えて、いかにも幸せに暮らしています、と伝えるための「型通りの絵葉書」なのかもしれない。語り手と、もう一人の男性の関係性も、よくわからないながら・・・墓地に眠る女性に、いずれにせよ深い想いを残している二人、であることだけが、静かに伝わってきました。 (広くて静かで誰もいない)

2017-11-01

過去の事件が記憶の欠損、記憶の封印を呼び起こしている娘、それゆえに(その欠を埋めるために)創作に没頭する娘と、その娘の「夢想」あるいは、夢想世界への逃避、を、受け入れられない母。 前編の母子の会話は、ごく平凡な家庭の一風景、といった趣で・・・読者に、ごく自然な感じで、隣人の生活を垣間見せるような、そんな自然さを感じさせるとは思いますが・・・事件、のある種の凄惨さ、非日常、との落差を生じさせたい、という試みかもしれませんが・・・いささか、冗漫には過ぎないでしょうか。 〈腹に突き立てられた剣は蛇〉蛇をペニスと読むのが、一般的な読み方でしょう。幼児期に繰り返された虐待、その虐待を痛苦と受け止めつつ、快楽を(もしかしたら)開眼させられ、そのことに関しても「欠損」を生じざるを得ない、そんな複雑な少女の心身、それがテーマ、であるのか。 あるいは、母子の葛藤そのものが、テーマであるのか。 形式的には、内的独白の部分と会話体の部分が、双方、「   」に収められているので、会話体の部分に限定使用した方がよいでしょう。 ゴシックホラー的な(少女が逃避する為の)少女が生み出しつつある「物語」「小説」と、現実の会話をクロスオーバーさせながら構成する、といった手法の方が、より緊迫感などが増したのではないか・・・そして、そのゴシックホラーの世界で、少女が怪物に襲われる/救済される/苦痛と快楽を与えられる、といった、相反する(引き裂かれの)感情が表明されることによって、少女の内面の傷の深さが、よりいっそう、際立つのではないか。そんなことを考えました。あくまでも一案、ですが。 (ゴースト(後編))

2017-10-28

林檎、という象徴性。 佐倉と真里亞、アダムとイブ、その再現のイメージ。佐倉の「故郷」から送られてきた林檎・・・エデンの園が、人間の故郷であるなら。原風景への帰還を望む心理と、あえてその林檎を口にしない、拒否する、捨てる、という行為に秘められた、楽園帰還を拒否する心理・・・そこに、人間の自由意志は存在するか、という自由意志論も絡んでくる(ここは、哲学を専攻している、という佐倉が登場する所以でもある) 風呂を、羊水への帰還、胎内回帰願望と、神、という「幻影」から逃れた再生を促す場、と見たいですね。となると、その産婆役を務めるのが、佐倉、という狂言回しの存在になるわけです。 後半、かなり面白く読みましたが・・・今あげたような象徴性を深めていく、重層化していくために、前半を思い切って削って、後半に真里亞の過去を断片的に織り込んでいく、佐倉の家族観なども、あえて削る、というようなカットを施すと、短編として深まるような気がします。 逆に、描写を殖やし、丁寧に叙述を重ねていくことによって、今あげたような象徴性を検証していく、中篇や長編にして行く事も可能であるように思います。 最終連にもっていくために、若干、駆け込んで結論を急いでいる印象があり、もったいないような気がしました。 (MARIA2 短編)

2017-10-26

神との関係を、端的に書こうとすると、かなり難しくなってしまいますね。長編小説であるなら、ともかく・・・短編であるからこそ、あえて謎を残すような形で、叙述部分を削っていく、という方法があるかもしれません。断片的に、洗礼を受けた時の記憶や、神学校受験を準備していた時の記憶などを交錯させながら挿入してみる・・・ううん、難しい。 たとえば、の案、ですが。冒頭、英文科うんぬんの叙述を、あえて隠して、いきなりナゾの女性、真里亞を登場させる。うつむきながら歩いている真里亞の目に映る陽炎の中に、神に祈る父の姿が「観え」、お前を生んで、お前のお母さんは死んだ、という声が反響し・・・父は今は、どこにいるか定かではない、というような端的な説明を入れて、あとはカット、喫茶店でテキパキ働いている景に移る。〈バックヤードで社員と鉢合わせ〉した時に、授業、ついていけてるの?みたいな問い掛けを入れ、黙って無視する、あるいは話を逸らす、というような「会話」を入れると、そこでだいたいの状況が見えてきますね。読者に「わかりやすく」説明する、のではなく、読者が探偵のように、なぜ、ここにこの会話が出て来るのだろう、と入り込んで、知りたくなる、そんな形に持って行く&第三者(神の目)としての語りの視点と、真里亞の体感的な視点とを自在に行き来しながら、幻想風景や夢想といった、真里亞にしか「観えない」「感じられない」景を描くようにすると、もっと読者を引きこむ者になるような気がしました。 吉野弘の「I was born」が持つ、母への筆舌に尽くしがたい想いに通じるものがある、そこを、いかに、神という観念的なものや、信仰する/しない、といった、かなり重いテーマと結びつけていくか。(切り結ぶ、という方が適切かもしれないですね)なかなか意欲的な作品だと思いました。 (MARIA1 短編)

2017-10-26

いまはもう、ゆとり世代、なる言葉は、使われなくなっているのでしょうか・・・ ひとつぶ、空から落ちて来る滴に、自身を重ねている、そんなイメージで読みました。 雨、が、地球、に跳ね飛ばされる。そのまま一直線に❝ふっとばされていく❞体感と、〈とりあえず大きく見えるようにって・・・ぺらぺらな意思〉観念の融合。いきなり地球が連想される時点で、読者の好みは分かれると思いますが(デフォルメの面白さを受容できるか否か、など)リーディングの要素も含めて受容されるべき作品ではないのか、という気がします。(音読を聞いてみたいです) お・か・し、は、をかし、とお菓子を掛けているのか・・・〈雀の瞬きで飛ばされるレベル〉tの音の連続や比喩のユニークさで、このフレーズはとても良いと思いました。〈お・か・し・の~〉のフレーズを抜いて、いきなり〈雀の~〉につなげてもいいのかな、と思いかけたのですが、指で隠して読んでみると、お・か・しの中黒点が、いい具合に流れていく詩行の軽いストッパーとなっているのですね。なぜここに〈お・か・し・の~〉が出て来るのか、理解は出来ぬまま、音の流れとしては納得させられるものがありました。 タンポポの綿毛を飛ばすように、軽々と〈ため息〉を飛ばした女の子、これは、語り手が出会った第三者なのか、語り手自身、なのか・・・〈できるかなって空見上げ〉るのが、この作品の語り手、なのでしょうね。通りすがりに見かけた、女の子、というイメージでしょうか。 濡れる、ことを否定的にとらえるのではなく〈空の憂鬱も受け止めてあげるから〉とむしろ肯定的にとらえていくあたりに(古いですが「雨に唄えば」などを連想しつつ)最初に❝ふっとばされた❞〈小さき魂〉と、〈ひとつぶぽつん〉の雨粒と、〈ツイートボタンはおさなかった〉〈空の憂鬱も受け止めてあげるから〉と綴る語り手(歌い手)との関係性は、どうなっているのかな・・・と考えました。 こんなことをゴチャゴチャ考えていると、〈そんな難しい顔しないで 〉と言われてしまいそうですが(笑) (ゆとりブルース)

2017-10-26

原稿用紙百枚分以上の分量で、物語性ではなく思想性や音楽性で読者を惹きつけたまま進行させる、というのは、かなりの力量が必要でしょうね。松本秀文さんの作品など、なんらかの参考になる部分があるかもしれません。 (なぞる  (B-REVIEW EDITION))

2017-10-26

胃を唱えて→異を唱えて 失礼しました (なぞる  (B-REVIEW EDITION))

2017-10-24

一時期、集中してアルヴォ・ペルトを聞いていたことがあるのですが・・・そして、「ループ」という語感から予期するものは、ある種のミニマリスムやアンビエント音楽がもたらすような、酩酊感へと誘うイメージがあるのですが・・・花緒さんの「ループ詩」は、酩酊感に至ろうとする、そこに楔を打ち込んでいくような(不協和音をあえて持ち込んでいく、というような)ところどころに、虫ピンで止めていくようなところがありますね。 率直な感想として、この「詩」はどこまで続くのだろう、と思いながら読んでいたのですが、前半4連の、いわゆるアンビエント音楽的な酩酊感、麻痺に誘うような感覚が、〈書きながら変わる。〉のあたりで転調し、〈わたしは止まる。〉のあたりから、先に書いたように、虫ピンで止めていくような、強制的な力学が加わっていく。前半の、比較的整った詩形が、後半になって乱れていく(乱されていく)ように見えることも含めつつ、全体を8連で構成するという枠構造を設定しているところ、〈わたしは誰ですか〉という、画中の人物が、いきなり鑑賞者の側に視線を向けてくるような突き刺さる問いを、最初と最後に置いて、全体を型枠に抑え込んでいるところ・・・硝子(夜の窓ガラス)に映る自分自身の姿という映像も二重写しになっている、わけですが・・・そうしたことも含めて、ずいぶん構築的に練られた作品だと思いました。そうであるならばなおさらですが・・・わたし、という言葉の持つニュアンスの変化、前半の「わたし」の指示代名詞的な質感から、後半の言葉そのもの、ナマの単語として、不協和音的な響きを伴いながら、物質的に迫って来る「わたし」への変化、が強く印象に残りました。 まあ、端的に言えば、「わたし」があまりにも多すぎる、という、その違和感なのですが・・・頻度、置かれる位置によって、「置かれた場所の視覚的効果という物理的な影響」や、「スムーズに意味が連なっていく平叙文の中に置かれる時と、アンビバレントな、文脈をあえて切断していくような流れの中に置かれる時の作用」が異なった印象を生む。そのことについて、体感的に考えさせられるものがありました。 昭和初期の「近代詩」を個人的に研究対象としているのですが、海外詩の影響を受けた詩人が詩の中に持ち込む「わたし」「私」とは何か、ということを、どうしても考えざるを得ない。日本語が「主語」を明示しなくてもよい、ということと、たとえばイタリア語(ラテン語)で主語を省略することができる、ということとの、根本的な違い・・・つまり、話し始めた、書き始めた時点で、自身の「結論」「意志の表明」としての「動詞」が選択される言語と、話の流れ、語りの流れの経過によって、いかようにでも「動詞」を変え得る言語、における「わたし」、あるいは発話者とは、何か、ということ、ですね・・・。 日本の詩歌は伝統的に、わたし、の主観をベースとしている。わたし、からの発語であることを、詩歌を享受する人たちも、前提として共有している。そこに胃を唱えているのが「現代短歌」であったり(現代短歌で、私性とは何か、ということが、しばしば議論の俎上に上るのは、そのせいなのかもしれません、あまり詳しくはないのですが)虚構の人物設定をした、としても、その「登場人物の主観」から語られる、ということが前提となっている「俳句」においても・・・ 日本語は、何を書くか、何を言うか、を事前に定めなくても、その時の「感じ」や「ムード」を、時系列に添って(クロノス的な時間、ということよりも、カイロス的な時間、ではありますが)語っていくことができる、言語なのかもしれません。なんだか、うまくまとまりませんが、とりあえず、このあたりで。 (なぞる  (B-REVIEW EDITION))

2017-10-24

〈彼女の時間を間借りしているだけ〉〈日陰でオブジェと化す/がんばれ/誰かに小さく呟く/誰も見ていない〉〈投影する虚しい今という過去〉〈爽やかな朝に引きこもる〉〈小難しい本を枕元に並べよう/アマゾンで買う/届くころには忘れている〉 自らの小ささ、を意識する、自覚している男のつぶやき、そう感じる部分を抜き出してみました。夜から朝、にかけての時間でしょうか。その間に脳裡というのか、心の裡に去来したイメージのような・・・。 目が覚める、以降は、〈忘れてるのが先か/思い出すのが先か/どっちみち/当たり前となり/初動の感覚はない〉というように、気持ちも冷めている(醒めている)感じですね。 (恐ろしく小さな男)

2017-10-23

流れ落ちる水柱、チューリップのしなびた葉といった有機的で流麗なイメージと、〈意識の沈澱物〉〈照射されぬ電磁場の蛍光〉といった無機的で重厚なイメージとが絡まり合って、ひとつの構築物になっているような印象がありました。その唐草紋様のような構築物をつないでいくリフレイン。誤答、贈答、正答といったバリエーションも含め、この「つなぎ」の部分が主知的な感じになっていて、理が先に立つような印象を与えるように思いました。 激しく流れ落ちる水、その水が巻き上げ、掻き立てる水底の砂・・・その映像はまた、心中に沈殿している記憶、意識の澱を巻き上げるように落ちて来る(外部からやってくる)水柱を映してもいる。 隠蔽される進路/岐路/帰路・・・自身の行き先が定まらない、そんな状況が、激しく意識(の底の砂、過去の堆積した記憶)を巻き上げる水柱、として捉えられているように思いました。電磁波や感染、監察官の模倣性といった言葉が、うまく響きあっているか、どうか・・・掻き立てられた記憶(水底の砂)が見せた幻影、のように感じるのですが、ひらひらと舞い上がっては消えていくというような、飛翔感、浮遊感のある書き方ではなく、がっちりと文章の中に組み込まれているので、そこに意味を求めよう、意味を見よう、としてしまう。浮遊するイメージは、文脈から切り離して、自由に置いて行く、という方法もありそうです。 水柱が落ちて、掻き上げているのは、いま、進行していること、というイメージで読んだのですが、最終行で〈一つの潰瘍となってしまった〉と(傷痕として)固定されてしまうと、全体が既に過去のこと、になってしまうような気がします。この最後の一行は、伏せておいた方が良いかもしれません。 (水柱の重さに)

2017-10-23

〈原色。 部屋が、開いた一冊だけで輝き出す。  そして、本の上で踊りだす。 針金が。人の形をした、不格好な針金が。 樹脂を塗られ、鮮やかな人間が、そこに。 現実には無い世界で、踊る。〉 この、凝縮された一節、暗い部屋で、テレビだけが光を放っているような映像が立ち上がる一節が、静かな語り口調の間に埋め込まれている。この緩急のリズムに惹かれました。 〈机の上に、さらに一冊。 それは落ち着いた色合いでした。 人形は酷くくすんだ赤色で、灰色の中に。 じっと、座っていました。 細い、隙間だらけの姿で。  きっと、それが男の実際の姿だったのでしょう。〉 前作では、そのような事件があった、と「報告」するような印象がありましたが、 この作品では、部屋に入っていく数人と共に、読者もまた入っていくような感覚がありますね。 そして、男の遺したものを「発見」する。 部屋の中に造形物としてある、のではなく、書物の中にあって・・・開くと、その場に空間を伴って現出するようなイメージが新鮮でした。物語を作りだす事、物語ることは、その人の人となりを描き出すこと、登場人物を、その人に見合った時空間で躍らせること、なのかもしれません。その物語を読むたびに、その人物は再び立って踊り出す。 実際にあった「事件」が発想源であったとしても、このように自由に、自身のイマジネーションで展開していくならば、それは事件をもとにした、ということではなく、(インスパイアされた)本人の作品になっている、と思いました。 (フィラデルフィアの夜に Ⅱ)

2017-10-23

二行目の「話」と、三行目の「話」・・・音の話と、文字の話、と言えばいいのか・・・この不思議なずれが引きこんでいく、夢と現実のあわい。 〈キック力だけがあって褒められたけど、俺は知らなかった。オフサイドを知らなかった。だから、何の力にもなれなかった。〉 〈私立の中学に通ってから 地元の知り合いが全くいなくなった〉 〈地元に残ることを選んだ俺〉 ・・・私自身は埼玉の片田舎で(通学路から秩父連山が見え、通学途上に白鷺が飛んでいるようなところでした)私学といえば、全寮制の学校しかない。数年に一度、私学に進学する子がいるかどうか、というくらいの地域だったので、東京にお嫁に来て・・・小学校に子供が行き始めたら、私学への進学率が8割程度だったので驚きました。 私が住んでいたような場所で(つまり、めったに私学に進学しない地域で)私学へと「ぬけだしていく」ことは・・・いわばエリートコースに乗ることであり、あいつは俺たちとは違うんだ、という目で見られることにもなるのだろうなあ、と思いながら読みました(そういう地域ではなかったかもしれませんが。) 逆に、公立の中学、高校を経て、やがて「都会」に「出ていく」人が多い中で、地元に残る、という選択をすることもまた、あいつは変っているね、という目で見られることになるのかもしれません。 能力を認められて、その場で期待に応えようとして、うまくいかなかった、という過去の記憶と、眠りの中で再現的に見る「夢」と・・・そういうときにうまくいけばいいな、という期待、希望としての「夢」。 話の二重性もそうですが、「夢」の二重性。償い、という言葉の重さと、夢の軽さ、曖昧さというのか、希薄さが釣り合うのだろうか、という疑問を持ちつつ、そのズレ(他者が感じる、どうってことなさ、と、語り手にとっての、大事さの度合いというのか、温度差のようなもの)が、この作品の中では重要なのだと思いました。ぱらぱら、という言葉の二重性もまた。 足が、重い・・・の、突出した一行。歩みの心理的な重さと、水に濡れたからだ、と何度も自身に言い聞かせる(しかし心は納得していないから、しつこく言い重ねることになる)部分、詩形的にも音の流れとしても、想いを畳みかけていく、重ねていく強さがあって、アクセントになっていますね。まるかっこの中の、溢れる思いを抑え込みつつ、抑えきれずに語る、ような語り口の部分も。 (夢の償い)

2017-10-23

言います→います (笑) ちなみに、解読といっても、答えがある、という前提ではなく、各人各様の読み、がある、という解読、です。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-22

なかたつさん ありがとうございます。入沢さんの『詩の構造~』は、まさに名著ですね。私にとっても大切な本です。作者が、登場人物を通じて伝えたかったことは、と、記した方が正確だったかもしれません。 作者が、自分と全く異なる(時には正反対の)人物を造型して、その人物を通じてなにがしかを語る、そうした虚構を通じて、作者の思想や世界観、伝えたいことを反映していく(そのままをストレートに語る、ということではなく。論文やエッセイではないので)そうした構造そのものが、詩というフィクションの魅力でもあります。他方、日本では、私小説的に「詩」を読む読み方が、未だに根強いこともあり(近代の私小説や日記文学のみならず、伝統短歌、伝統俳句も、まさにそうですね)そこを、修正したり、誤解があれば払拭していくのが、本来の批評の役割であるのかもしれません。 少し話がずれますが・・・もともと美術史を学んでいたのですが、美術史でも 物自体/物自体が歴史的にいかに語られてきたか/物自体が、現在の私、にいかに作用するか/ といった三層の視点があり、また、 物自体が鑑賞者に生理的に与える効果、影響/物自体を生み出した作者の制作意欲や制作意図/作者に物自体を生ましめた社会的要請、製作上の環境、他作品や他者からの影響/ といった考察の視点があります。 聖書の一場面を描いた作品であっても、色相やマチエール、モチーフの様式化や逸脱、主題の解釈の仕方、それらが生み出す効果が、同時代の作者にどのような影響を与えたか、与えられたか、というような相互関係/登場人物の仕草や表情、服装などを通じて、作者が何を伝えたかったか、という制作意図の探索/その作品を制作させるに至った社会的要請、時代精神、作品の社会的意義/などの、多くの視点がある。 詩の批評でも、作品自体、ということが強く主張された時もありましたが、やはり、人間が生み出すもの、である以上、作者の人間性や思想がいかに反映されているか、という部分についても知りたい、という思いが湧く。作者からの応答が得られない場では、作品自体に言及したり、周辺事情を調べた上で、可能な限り、作者の発想源に近づいていく、という手法を取る他ないわけですが・・・相互に返信が飛び交う掲示板では、作品意図を問うたり、作者の思いを推測して、返答を待ったリ・・・ということを、したくなってしまいます。 作品自体が、どのように読まれるか、ということを知りたい投稿者も多いでしょうし・・・他方、自身の創作意図を汲み取ってもらいたい、という投稿者もいるでしょう。本作の場合は、どのように読まれるか、ということの方に過重がかかっているように感じられたので、上述もろもろのコメントとなったわけですが・・・ なかたつさんのコメントに戻ると、〈登場人物=仲見さんの言動に注目すべきだ〉という、その部分が、より鮮明に伝わるためには、仲見さんのワークショップの情景を先に出して、その後、仲見さんの生い立ちを記す、という形の方が良かったのではないか、というのが、今日、書き込んだ私のコメントですね。 作品自体がどう描かれているか、という客観的な側面よりも、作品自体が、読者にどのように作用するか(個々の読者の側からの発言になりますから、主観的、と言えるでしょう)という鑑賞者と作品との「あいだ」に関して、あるいは、作者と作品との「あいだ」に関して、私の興味が集中しているのかもしれません。 なかたつさんの返信を拝読して、そのようなことを思いました。 ただ・・・作品が、どのように書かれているか、ということを突き詰めていけば、それは単なる作品の解説になってしまって、作品をどのように読者が鑑賞したか、という部分が、希薄になっていくのではないか、という思いもあります。(もちろん、なかたつさんの評は、単なる解説ではない、ことは自明の上で、一般論として書いています。)作品の解説ではなく、解読。個々人の読者が、様々な層や手法、視点で、一つの作品を多角的に解読していく、そこに、作者も思いもよらない、豊かな空間が開けていくのではないか、と考えて言います。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-22

なかたつさんのコメントを拝読しながら、反省することしきり、でもあるのですが・・・ 社会的に「タブー」とされる(であろう)事柄や、「触れてはいけない」と暗黙の圧力があるような事柄について触れようとする時、インパクトのある設定や強度のあるワードを用いる時、その部分が、たとえ、その作品の本質的な部分でなくとも、全体の色を規定してしまう、全体に(残像的に)影響を及ぼしてしまうことがある、ということを、お伝えしたかった、という面もあります。 花緒さんの本作に関していえば、なかたつさんがおっしゃるように〈「既存の社会的コードを身につけないと他者と交われないという固定観念」という前提のもとに、それでも、そんなことはできない仲見さんは諦めるわけではなく、「それならばいっそのこと、徹底的に奔放な自分なりの応用自由表現を追求してみたいと思い」ダンスを始める〉ここが重要な箇所でしょうし、もっとも作者が伝えたかったことは、 〈誰かに勝ちたいとか、誰かに認められたいとか そういったせせこましい気持ちは本来、ダンスとは無縁のものです 大切なことは、心身を解き放ち、自由に表現することを楽しもうとする鷹揚な心のあり様〉 ではないか、と思っています。この〈鷹揚な心のあり様〉があって、はじめて詩を楽しむことも、人生を楽しむこともできるのではないですか、という問いかけ、の部分であろうと思います。 詩、に引き付けていうなら、見為さんのワークショップは、金と時間に余裕のある人にしか参加できない場所である。他方、仲見さんのワークショップは、様々な制約を抱えていても、充分に楽しむことができる、あるいは、その楽しみ方を教えてくれる、極めて良心的な場所である、ということになるでしょう。 見為さんのワークショップが、現行詩壇のシステムを痛烈に批判していると見ることもできる。 そう読むなら、当然、仲見さんのワークショップは、この掲示板ということになります。 そうした批判的見地に加え、詩論的なもの・・・自身の「向上」に、他者との比較が必要なのか? 必死に鞭撻するような、苦行が必要なのか?いや、楽しむこと、それに尽きるのではないか・・・ そして、その楽しむ姿勢こそが、他者にも良い影響を及ぼしていくのではないか、というメッセージでもある、と思っています。 それでは、なぜ、あれだけ否定的なコメントを重ねたのか、と反論されそうですが・・・ 先にも述べたように、社会的な「タブー」に触れていくときの、反発をどこまで予測しているか、という問題とも絡んでくる、わけです。 発起人作品に対する批判を誘発する為の、スタンドプレー的な意識はなかったか。 KIHON THE BASICを、単純にひっくり返したら、面白いんじゃないか。そんな安易さはなかったか。 ということを、聞いてみたかった、というのと・・・ 「障碍者」に関して触れてはいけない、そんな自己制約自体そのものが、おかしいのではないですか、という反論を予期していた(期待していた)、という部分もあります。 「かわいそうな人」「不幸な人」に関して、書いてはいけない、と自制すること自体、そうした人々を「かわいそうな人」「不幸な人」と決めつける、差別する側からの視点になっていないか。自分自身が社会的な差別構造の裡にいる、差別される側、ではなく、差別する側、に自身がいる、そのことに対して、鏡のように突きつけて来る作品ともなっている。その鋭さを、自覚していますか、という、問いかけでもあった、のかもしれません(今になって思えば。) なかたつさんの、〈仲見さんの一人称語りではなく、仲見さんを見ている語り手が存在しており、その語り手のバックグラウンドが全く見えてこないことに発しているように思いました。〉というコメント、重要だと思います。詩は虚構の産物で、虚構であるがゆえに「真」を写す、ものでもある、と言えるのですが・・・あまりにも「実際に」在り得る、想定の範囲内で仲見さんの「不幸」が設定されているがゆえに・・・そして、その色彩が強すぎるがゆえに・・・そのことを、本人は「不幸」と思っていない、思っているのは、外部の眼でしょう、という、虚構の設定を用いた、「真」の部分が、うまく伝わらないのではないか、という思いがありました。 KIHON THE BASICを、単純に裏返すのではなくて、前後の語り方の順番そのものも、ひっくり返した方がよかったかもしれません。まず、そのワークショップの「参加者」の体験談なり、ワークショップを「取材した」記者の取材記なりを提示して、それから仲見さんが、こうした鷹揚さを獲得するに至った経緯を明かしていく、形。 実際に体験していないことを書いてはいけない、ことはないわけで・・・(殺人を犯した人しか推理小説を書いてはいけない、というのと同様の、ナンセンスな論理になってしまう)いかに、設定にリアリティーを持たせるか、読者を納得させるだけの強度を持っているか、ということにもなるでしょう。もっとも、「詩」は(私の個人的な考えですが)小説のように詳細な人物造形ができる器ではないので・・・紋切型の、履歴書的な設定説明にならざるを得ない。それであるからこそ、その置き方というのか、読者に提示していく際の順番が、大切であるような気がしました。 なかたつさんのコメントをきっかけに、言い足りない部分を補記することができました。ありがとうございました。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-22

おはようございます、すみません、大変な誤読をしておりました(笑) 語り手が変わるのではなく、三連とも一貫していて、語りの次元が異なる、のですね。 男について書き、野良犬について書き、どちらもいなくなった世界について描く・・・とも言えますが、 はじめは過去の男の行為、続いては現在の男(野良犬)の行為、そして最終連で、これからのことについて、予言的に描く・・・そんな読み方をしてもよいかもしれない。そう、思ったのでした・・・ (蒐集家)

2017-10-22

コレクター、でもなく、収集家、でもなく。蒐集、その文字の密集度。魑魅魍魎、といった文字を見た時のニュアンスに近いものを感じました。 三連の緊密な構成。形容詞、副詞を極限まで削った緊密な構成、力強い語尾の連打。ストイックな文体に惹かれます。 対句的な表現は、しばしば型に陥りがちですが、死体を集める男と、墓を漁る野良犬、両者がずれながら重なっていくがゆえに、ひとりの男の行為を、両面から照らし出していく。それを、一連、二連、と言い換えていく。そんな新鮮なバリエーションのように感じました。 魂に光がある、そう信じて(あるいはそう願って)集めた〈死んだ人間〉(の生み出した産物、過去の物語)は流れ去り、埋められた過去をほじくり返してみても、〈集めたものには魂の光などなかった〉と自嘲する他はない。 銀盤とは、なんでしょう・・・超自我の眼、のようでもあり。太陽に擬せられた鏡、のようでもあり。 〈時の華やかな音色を告げる〉という次行から、大きな時計もイメージしました。華やかな、という言葉がトランペットのような、あるいはカリヨンのような金属的な響きを呼び覚まし・・・終末へのカウントダウンを想起。大きな、華やかな、という形容が、ここに集中しているせいか、インパクトがあります。 三連目、〈窪みに溜まった潮の塊よ〉という呼びかけの部分、唐突感がありました。伏線的に、海や涙といったイメージを、一連、二連に潜ませておいても良かったかもしれません。 私がイメージしたのは、白く光を照り返す塩田でした。涙の干上がった海、という読み方をしたくなります。塊、という文字と、魂という文字も、似ていますね。 ここでの語り手は誰なのでしょう。過去の物語を集めていた男は、既に行方不明、埋もれている過去をほじくり返していた野良犬も、既に骨になっている。その景を明確に見据えながら(嫋々と歌い上げたり、喪失を嘆いたりするのではなく、断固とした現状把握、現状報告、といった文体で)三連に登場した語り手は、銀盤の欠片と野良犬の骨を拾っていく。 〈熱い光〉とはなんだろう・・・すべてを焼き尽くす、神の火か?魂も消え失せる、のですから、三連目の語り手こそ、全てを目撃していた「魂」なのかもしれません。 (蒐集家)

2017-10-21

以前、夢の解放区、という試みがありました。 www.renga.com/rengeiza/dream/coco/kaihouku.htm 集合的無意識との、夢の関連性、共有財産、というイメージでしょうか。 一色真理さんの『夢千一夜』という電子ブックも出ています。ワード検索などが可能なので、紙媒体ではなく、電子媒体を選んだ、ということのようです。 「著作権フリーの映像」という発想、面白いです。 (夢覚めて)

2017-10-21

おお、冬を「秋が」孕んでいる、と・・・。なんで誤読したのでしょうね・・・ 〈たおやかにのびた細指〉が、たくましい夏、のイメージから、竜田姫の秋の指先、と感じてしまう、ところなのかな、とか、最後の二行、かもしれないですね・・・ 夏、の季節の中に、細指の気配を感じた瞬間を思い起こして、夏の指と感じ取れるようにする、とか、〈ひたりひたりと なでていた〉のを、秋の腹と分るように(でも直接的に書くと、興ざめですし、難しいですね・・・) 秋が抱えている、白い殻を被った冬、その中に、氷雪のイメージ、霜で凍てついた息が巡っているようなイメージを取り込む、など・・・してみると、イメージがより、鮮明に伝わるかもしれない、と思いました。 (たたきわる)

2017-10-21

〈夢の水面が ひとりと揺れた〉一人、という意味が薄れて、不思議な擬態語のような音感に聞こえてくるのが面白いと思いました。色彩が鮮やかですね。 夜と朝の境目、夏と秋の境目。めいっぱい秋を「孕んで」いる、夏。すやすや眠る、胎児の秋。〈薄い胎を喰い破り/白い殻をばきりと割って〉現れ出るもの・・・それが秋、であるのなら・・・「秋の涙」は、いったい、誰が、どこで流すものなのか。作品の内部におけるロジックを徹底させることによって、特異な感覚で捉えられた季節の変わり目の斬新な変化のイメージ(たとえば、季語の「今朝の秋」のような)が、より鮮明に伝わるような気がしました。 (たたきわる)

2017-10-20

完備さん、「まあまあ良い」と思われたのはなぜなのでしょう、そこを書いていただけると、そこから新たな展開があるような気がします。 偏と旁、「へん」と「つくり」・・・偏に例えられてしまう、喩えられる、の方が意味としては相応しいかもしれないですね。構えていて、そのカテゴリーをしめしたり、ジャンルを示したり、そんな指示的な役割を果たす、それなのに、脇役的な扱い・・・というようなニュアンスかな、と思いながら読みました。 一連目、よくわからないながら、〈もっと大きくて姿すら分からぬものたちに見られている/元の大きさのものたちにも見られている〉このイメージが印象に残りました。〈体を大きくさせられた〉と〈体を成すことだけが存在である〉この響き合いも気になります。〈水を飲んだだけ〉水を向ける、水を差す、様々に用いられる言葉ですね・・・う~ん、やっぱりよく、わからない。 二連目に描かれた、さわやかな「日常」のイメージと、最終連のちょっとおしゃれで美味しそうな「日常」。その間に挟まれた部分。〈アホみたいに柔らかな体が欲しい〉の一節と、一連目の一行との連関が、作者の中ではあるのだろう、猫は、いったいどのような「存在」なのか・・・知りたいことが、たくさん湧いてくるような作品でした。 (偏に、例えられたとて)

2017-10-20

なかなか複雑な作品ですね。人民、キャタピラーで踏み潰す頭蓋骨、知識人を殺戮せよ・・・という言葉で思い出すのは、まずはポル・ポト政権ですね。文化大革命や光州事件や天安門事件も連想の裡に浮んで来ます。 日本の保守/は儒教精神/武士道/が  このぎくしゃくした区切り方は、人間ではなく、機械音声が発語しているような印象を受けました。今もなお、日本の(日本人、と呼ばれている人々の)モラルに影響を与えているかどうか、私にはよくわかりませんが、正義と仁義の違い・・・正しさ、それは、絶対的善、が存在する。他方、仁は、人と人との関係性において成立する。絶対的善の主張がレイシズムに繋がることを考えれば、大切にしていくべきは仁義なのかもしれません。しかし、その「思想」を徹底させよう、押し付けようとしたとき、いったい、何が起きるのか。 自分さえよければよい、というエゴイズムを否定するためにエゴイストを抹殺する。そのエゴイズムは、皆の為に、正義の為に、という「大義」を掲げているがゆえに、個人さえよければ、という自分勝手のエゴイズムより、より悲惨で荒廃した世界を生み出すかもしれない。そんなことを考えました。 「保守」も「革新」も・・・本来は、現状の悲惨、問題、課題を解決する為の思想、施策であるはず。どちらも極端に先鋭化すれば、異質の思想を排除する方向に働く。現状を破壊して作り直す、その動きが支配される側から起こったコミュニズムと、支配する側から起きたファシズム・・・いずれも「インターナショナル」を目指していたのではなかったか。 人民のために、という「大義」が先鋭化し、多様性を排除する方向に働く時。私たちに、何ができるのか。 この作品が、反語的に突きつけて来るメッセージが、現実のものとならないことを祈りたいです。 (理由)

2017-10-20

漢語を多用することによるインパクト、黄泉、常世と言った単語が醸し出す「境界領域」のイメージ。 塹壕戦、空中戦といった言葉が作り上げていく詩の空間と、〈無軌道 無慈悲 無数の銃弾/透明な機銃には薬莢も硝煙も無い〉といった、非現実の、しかし激しい戦闘のイメージ。 〈泣き濡れた風〉はクリシェですし、〈黄泉の睡蓮〉といった言い回しも、言葉のカッコよさから選択されているような印象を受け、冒頭部分に重々しさをもたらす為に置かれた言葉のように感じました。 〈蜘蛛の巣巡る網戸が破れる〉から、〈刹那、降りしきる秋雨/雑音 雑談 雑踏〉に飛んでも良かったように思いますが、どうでしょう。鴉、鳩、この暗喩は何を、誰を差しているのか。 〈曇天の下 腐った奴の石榴を割った〉脳天を割った、イメージ。他者を言葉で抹殺してしまった。ビジネスで相手を叩き潰してしまった。その時の心理的イメージを映像化したら、こんな姿をとるのではないか。 〈赤色がおちない両手とシャツ〉マクベス婦人が見る幻影のようです。洗っても洗っても、自ら手を下してしまった、その記憶、罪悪感は消えない、そんなイメージのショッキングな形象化。 題名は、これでよいのでしょうか。少し漠然とし過ぎている気もしますが・・・ (秋雨に映る世界と私)

2017-10-20

青、ではなく、蒼。心理的にそう感じられた、ということなのか、観念世界の空、なのか。 〈ふりかえると二つの痕〉砂浜に刻まれた、自らの足跡、その足跡のイメージと、人生の足跡のイメージ。 〈海鳥の尾にしがみつく秋〉行き過ぎようとするものを捉えようとするなにか、を伝えたい、ということなのかと思いましたが、海鳥という個物かつ具体的な存在に、秋、という抽象的で大きな・・・その場を包み込む気配のようなものを採り合わせていくのは、若干無理があるように感じました。秋が擬人化されるに十分な前後があればよいのですが。 〈君の髪のにおいとともに 新しい息をむねに充満させる〉 今まで、ひとりの淋しい海岸のイメージで読んでいたのですが、〈君〉が、傍らにいた、ということでしょうか。終わって行こうとする季節の中で、君、という生命力に触れて(恋も含めて)生きる喜びが再び萌え出ようとしている、そんなイメージで受け止めましたが・・・君、の現れ方が、唐突な印象を受けます。 二連目は、スタイリッシュな都会の風景の中で、秋を感じた瞬間、でしょうか。三連目は、田園風景の残る田舎道をドライブしているイメージ。二連目、三連目とも情景描写としては良く伝わってくるのですが、どこに「秋」を感じたのか、「秋」を感じることが、語り手にとってどんな意味があるのか・・・意味というと、ちょっと大げさですが、二連目で感じ取った空虚感、三連目で感じ取った懐かしさや安心感(金木犀の匂いが媒介するような)その辺りにもっと食い下がっても良かったかもしれない、と思います。 (秋の詩)

2017-10-20

政見放送という、今、現在進行形のモチーフと、病で入院していて、窓の外の向日葵のように、命が尽きていくのを予感している語り手・・・未来へ希望を託す時間は、もはや残されていない、という設定でしょうか。 その状況で、選挙という手段しか持たない私たちに、いったい何ができるのか・・・一人一人の命を生き切ること、しかないのかもしれませんが。それでもやはり、自分が居なくなった後の未来を信じて、一票を投じたいですね。 (枯れた向日葵)

2017-10-20

ぬけだせない悪夢のようなイメージを、意識的に構築しているのかと思いきや、レスを拝見して、そのまま、とあり・・・鮮明さ、具体性に驚きました。この夢を実際に見たとしたら、そうとう身体的にストレスがかかりそうです。 〈燃えている人はみな爆破テロに巻き込まれその火が引火したのだそうだ 芝を焦がしながら犯行国への憎悪を露わにしている〉 この二行は、意識的に跡付けて入れたのかと思ったのですが、これも夢の中で聴いたフレーズ、ということになるのでしょうか。燃えながら漕ぎ続ける自転車の不気味さ。自転車でエネルギーを発生する装置がありましたが、その連想も含め、社会のエネルギーを発生させる歯車の一部としてこき使われ、餌食となって消費されていく「人間たち」のようでもあり・・・世界崩壊の予知夢のようでもあり。 具体的な「テロ」という文言や、反抗国への憎悪、といった、定型的な文言のようなものは、実際に夢で見た、としても・・・ナマすぎるともいえるので・・・もう少し工夫して取り込むと良いように思いました。 (夢覚めて)

2017-10-20

もなかさんへ ありがとうございます。もともと、ある人への感想文、といった趣の文章の一部を切り出して、手を加えて、最終二文を足して「詩」にしたものです。見抜かれた時点で、ひええ~!!!という反応しか、出来ないのですが(笑) 「行替詩よりもこういった散文詩、あるいは随想の方が読みやすい」考えさせられました。なんだろう、行替詩で、情感や感覚を伝えたい、と思いながら、思想とか世界観といった観念的なものを伝えたい、という意識の方が勝っていて、それで行替詩が、伝わりにくくなっているのかもしれない、そんな印象も持ちました。 行替詩では、多重露光の写真のような、そんなイメージの重層性を持たせたい、という思いもあるのですが(と書いている時点で、コンセプトを文字で添えないと成立しない、コンセプチュアルアートのようになっていますね)可読性について、考えていきたいと思っています。 (縫い針)

2017-10-20

不思議な作品ですね。僕ら、と連呼しているのに、なぜか気配が漂っている感覚で、一人の人間の身体の各部がせめぎ合っているようなテクスチャーでした。 意図的に用いているのだと思いますが、あまりにも美しすぎるフレーズや(黄昏というエリクテュールが喉元を通過して、など・・・エクリテュール?)綺麗に決まっているフレーズ(僕らが僕らと呼ばれた時代の歌声が聞こえてきて/消費されるべきクリシェ)情景描写や、詩の空間が生み出す抒情ということよりも、文体そのものが生み出す抒情性に傾いてしまわないか、そんな危惧を持ちました。 〈背骨を渡って名残の秋を惜しんでいた〉ところから、〈黄昏〉を経て〈血液の落葉〉のざわめきへと体感が移り、〈僕らは僕らの髄液から僕らを解き放つ〉ここまで、観念的ともいえる世界を、粘り強く秋のイメージの中で捉え直し、なおかつ背骨、神経、髄液といった精神の集中する場所へと意識を集めて、ひといきに開放する。この流れがとても美しいと思いました。 神とか世界、といった言葉は、扱いがとても難しいと言われますが、〈神話の日常に満たされる水〉このフレーズの「神話」も、神話という言葉が醸し出すイメージというのかニュアンスのようなものに、寄り過ぎているかもしれない、そんな甘さを作品に加えてしまうかもしれない、という気がします。 〈ReとReのやりとりの隙間を埋めていく〉この一行が、とても繊細だと思いました。ネット空間でのやりとり、その「現実感」がありながら、非現実の手ごたえの曖昧さも同時に持っている。そんな浮遊感を、丁寧に埋めていこうとする意識、願いのようなものを感じます。 この一行を経ているせいか、〈高速に過ぎゆくそれらは偽りではないかと/歯型をつけながら彷徨する〉このあたり、詩の空間を彷徨うイメージと共に、いわゆるサイバー空間で、確かなものを求めながら彷徨い歩くイメージが伝わってくるような気がしました。 〈観測して初めて存在するという僕らの存在を 感触なしに確かめるように 言葉は僕らを傷つけ 僕らは言葉を傷つけ〉 このあたりも、とても面白いですね。観測不能性を持った存在、ではない。気づくことで、そこにある、ことを知る、気配、音、響き、詩情といった曖昧なもの・・・が、言葉になっていく、あるいは言葉を纏おうとするときのズレのようなもの。 〈僕らの祝祭は僕ら自身のうたごえによってもたらされる〉 体の深部で沸き起こり、身体的な悦楽のように背筋を抜けて、血を沸き立たせるもの。そうして、消えていくもの・・・。そうした、一人の人間の内部で沸き起こる、詩情の出現と消滅のドラマのようなもの、それが音や響きを経て、言葉へと形を成しては消えていく経過・・・が、〈ReとReのやりとりの隙間を埋めていく〉この一行によって、一人の身体感覚を越えて、サイバー空間にまで感覚が拡張される。 感覚領域が拡大されていく、拡散していく、と言えばいいのか・・・うまく言葉に出来ないのですが。そんな、ひとり、の枠組みを超えて行き交う「僕ら」とはなにものなのか。そんなことを、体感的に感じさせ、考えさせる作品だと思いました。 (be)

2017-10-20

最初は、かるい感じで読み始めて・・・なんで「カテーテル」という題名と、「カーテンで遮るような社会」カーテンって、音が似ているな、なんて軽さで読んでいて・・・4連目のきっちり綺麗にそろった部分、なんでこんなに丁寧に、心をこめて刻み込むように、それでいて、なんというか、「あたりまえ」のこと、「ふつう」のことを、ずいぶんと丁寧に書いているな、なんでだろう・・・と思いながら読み進めて・・・5連で、喉が詰まりました。 児童館でも、詩の仲間のお子さんでも・・・様々な個性、境涯を持った子供たちに出会ってきたけれど・・・みんな、お母さん大好き、お父さん大好き、なのでした。 〈悪意の無い世界で 笑顔と泣き顔が交差して 理解しながら受け入れる〉 驚いたリ、不思議に思ったり・・・時には嫌悪や優越感や、嬉しさや悔しさや・・・自分の内に沸き起こる感情、外から避けようもなく押し寄せてくる感情、様々な渦巻く感情に出会ったとしても・・・理解、ということと、情解、ということ、その双方が満たされる世界であってほしい。 理解、という言葉の意味、大切さを、改めて思いました。完全な共感なんてできないとしても。きっと、限りなく、想像力によって、追体験したりする、自分に置き換えて考える、ことは出来るんじゃないか。その、自分に置き換えて考える、それが、理解、なんじゃないか。他者の眼に自分の眼を置いてみること。他者の心に、自分の心を添わせてみること。 〈カテーテルの意味を 理解出来るよう 真っ直ぐな瞳で伝えたい それは謝るだけじゃなく お前をどんなに 愛しているかという事〉 言葉を通さずに、伝わるものがあるでしょう。 言葉では伝わらない、でも、瞳を通して、触れあうことを通して、伝わる、こと。 それを、言葉にしてみたら。そんなことを、思いました。 (カテーテル)

2017-10-17

象形と、書こうとして、情景にしてしまいました(笑) (魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜)

2017-10-16

アポリネールの雨とか噴水とか鳩・・・漢字の情景性や、東洋の書、アラビアの書(装飾紋様のような、それ自体が植物のように命を持っているような)などのインパクトも影響しているのではないか、と思いますね。文字の形や、文字列そのもの、詩形そのものが、感覚に直接訴えてくるもの、そこに後から、文字情報に秘められた意味が重なっていく。 (魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜)

2017-10-16

詩とは何か、ポエジーとは何か・・・そんなとらえどころのないものを、自分の身体(あるいは身体圏内)から離れた、夢想世界、精神世界、詩の空間と呼びたくなるような異次元で探索している・・・そんな作品を、以前は投稿されていましたね。そこから、心の叫びをダイレクトに投げ出すような作品、寓喩と描写のバランスの取れた作品というように変化していく様子を拝見していたのですが、今回の作品は、自身の身体圏内からとらえた感覚と、ゲームをしている(サイバー空間に入り込んでいる)もうひとつの身体の感覚圏内、その双方から、詩をとらえようとしている印象がありました。 心底好き、というわけでもない(たぶん、相手からは好かれているにしても)異性とのひとときを、嘘の時を過ごしてしまった、というようなある種の後悔を抱いて思い返している、そんな「物語」を感じました。 いやでも思い返してしまう、そんな自分自身を消してしまいたい、という願い、のようなもの。自らを罰すること、自らを(ゲームの中であっても)抹消してしまいたいと願いながら、一方で「ほんとう」を求め続けている。そんな若々しい心象も感じます。 全体に、比喩が後退して、直情的な表現が増えているのですが(それゆえに、耳で聞いて素直に理解できるような、1回性のリーダビリティーが、増していると思います。ただ、この方向に進みすぎると、(花緒さんもポエム感、という言い方をしていますが)心情の吐露、という、いわば詩の素材のところでとどまってしまうのではないか?という懸念も覚えました。 何度も戻って、多層の意味を確かめていく、という、黙読でしかできない多義性の探求ではなく、頭から素直に読んでいって、そこで意味が取れるという可読性、でもあるわけですが・・・ 「意味なく」自分自身を撃ち殺す、その意味をやはり深めていってほしい、と思いました。 (次の日の嘘つき)

2017-10-16

もなかさんの詳細かつ鋭敏な批評感想に、さらに何か付け加えることはあるのか?と読み直しつつ・・・ 一連目を、そいつが運の・・・とすると語数やリズムが揃うけれど、ここは文字数を揃えたかったのかな、とか・・・まあ、85のリズムも出てくるし、イレギュラーに揺れたりもしているから、厳密に音数を揃えようということではなく、もっと感覚的な(身体的な)心地よさを目指したのかな、と思います。57のリズムとは違って、86や75は歌謡や舞踊の、弾むような音感が、全体に生き生きとした情感を与えているように感じました。 二連目、題名の層雲が響いたのか、空から衣をひいて野を行く人影(空すべてを覆ってしまうほど大きな)を思いました。西日を照り返す、水を張った田んぼのきらめき。牛蛙の声、それを「踏む」白い足のイメージ・・・実際に踏んだというより、雲間から差す光が人のように野を駆けていく、その足取りに同化しているような、そんな歌い手の心象を感じました。 昨日できていたことが、今日も出来ているか?という問いかけ、軽く記されているけれど、重い問いだなと思いました。昨日の私と今日の私の連続性が、途切れている感覚。 鳥にも、けものにも区分しきれない曖昧な生き物ばかりを目でおってしまうのは、その時の「私」のどっちつかずの心象を反映しているように思われました。憶えているか?と(月に)問いかけても、答えはない(口がない、でも見ているコワサ) 昔っていつだろう。煙突で月まで登れた(夢想を自在に働かせることができた)頃のことかなあ? 過去の私と、今の私が、家路を急ぐ一瞬に邂逅した感じ。夜をもたらして去っていく夕焼け色の裾をひく空(天、あるいは時間)と出会ったとき、その「目」に、見られていると感じるときの感覚。 何か大きなものに出会った時間を感じました。 (層雲)

2017-10-15

魚のヒレとか鳥のくちばしとか・・・ここまで芸が細かいと、まさに職人芸ですね。言葉遊びや、パロディーがあちこちに仕込まれていて(いま、スマホで見ているのですが)美しい形が保たれている。ビックリです。言霊ならぬ、詩形だま、型だま、が宿りそうな・・・。 タイポグラフィーを活かした作品に、アニメーションが加わったら面白いですね。(現行掲示板では無理ですが、土曜美術社のepubとか、そんな電子書籍なら可能かもしれないな・・・なんてことも思いました。) (魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜)

2017-10-15

貴重なコメント、ありがとうございました。〈イメージが定着されるよりまえに容易にひるがえってまったく別のそれへと反転しつづけてしまうような光景〉イメージが呼び出されては消えていくような作品全体の情景が、すうっと腑に落ちるような気がしました。survofさんなどの鑑賞にも、音楽が響いていますね。 〈それが散文ではない限り、あるひとつのイメージにこだわる、描出したり、その主題をもとに感情を吐露させたり、ということはほとんどしません。詩は散文とは違って、絵画や音楽のようにして読むものであって、読解するものではない、と考えます。もはや詩は喩ではない。〉この部分も、詩論、詩観と申し上げてもよいでしょうか。 私は、絵画でいえば具象画(あるいは心象風景画)を目指したいと思う側であり、詩とは喩を用いて、その折々の(自身の、あるいは、語り手として設定した主人公の)感情を吐露したり、思索を展開させたりするもの、というスタンスなので、非常に新鮮な思いで拝読しました。(もちろん、それは私個人のものであって、様々なスタンスがあること、その多様性を大切にしたいと思っています) 〈「一般読者」という、架空の、存在しない多数の読者に届くかどうか、という発想は現実的ではない、と考えています。〉おっしゃる通りです。架空の集団を意識して、忖度して、自身に制限をかけて、果たして、自由な創作が可能か?ということは、常に考えます。その時代の多数の「一般読者」には「難解」であるとか、「実験性が強い」として受け入れられなかった美が、実は次世代の美を予見したり、予兆となっていたりする。その予兆こそが、先んじて次代の美を牽引したりする。(もちろん、その美を生み出そうとする人、は、牽引しようなどという意識は微塵も持っていなかった、としても。) 〈現代音楽も、あるいは「現代」とつくジャンルがみなそうですが、一見、とっつきにくそうな雰囲気ではあっても、しっかりそれとむきあえば、その味も感じとることは可能〉そこに、恐らく「批評」の介在する意味がある、と思うのですが、果たして、私が行おうとしていることが、その介在になっているかどうか。目指していたとしても。その問いは、常に自身に投げかけています。 抽象絵画が置かれていて、大多数の鑑賞者が、「なんだかわけわからない」と素通りしたとして・・・その中に、絵画の色彩やマチエール、蠢いているイメージのようなもの、に激しく心を揺さぶられる人、がいた、ならば。そして、その人が、自身の感動を、その場にいる人たちに「わかる言葉」で、うまく伝えることができた、ならば。 今まで、それを「美」として認識できていなかった、そのような扉を開けていなかった人たち、そのようなアンテナのスイッチを入れていなかった人たちに、扉を開けたり、スイッチを入れたりする、きっかけを提供する、ことになるのではないか。〈いつかそれぞれの読み手にとって、いってみればピンとくるような状況〉が、自然に訪れるのを待つ、ばかりではなく、批評や感想によって、その状況が訪れやすくする、そんなきっかけを、用意することになる、のではないか。 私がコメント欄に書いた、〈一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう〉という言葉は、そうした意味合いも含んでいます。自戒を込めて、ということですね。言葉の連鎖の中から、人はどうしても「意味」を見出そうとしてしまう。ならば、いっそ、独自の物語を、それぞれが紡ぎ出していってもいい。抽象絵画の中から、様々な物語をひろいあげ、作者も気づかなかったような、多様な「具体的な」物語を、創り上げていってもいい・・・そんなことも、考えます。 陶酔感がある、イメージのゆらぎの中に導き入れられるような気がする・・・こんな印象批評で、どれだけ「伝わる」んだ、と思ったり唸ったり、するわけですが・・・白島さん始め、複数の方が独自の「読解」を提供してくださっていますね。こうして、様々な人の心に、様々な形で響いたものを、それぞれが言葉にしていく試みの場である・・・そんな掲示板を目指したいと思っています。 (Sept Papillons)

2017-10-13

〈わかるものを呼び止めて これ大丈夫ですかね? と 聴いたら 大丈夫大丈夫 ほとんど変わんないからって言われて ひとまず安堵する〉 このあたりのユーモアと、 〈ほとんど変わらないのに なぜ 更新する必要があるんだろう〉 この感慨による「受け」の部分が、とてもいいと思いました。 その後、少し冗漫な感じになる、印象があるのですが・・・ 更新する必要があるんだろう、この後、一気に〈全ての更新が終われば〉にスピーディーに持って行ってもいいかもしれない、と思いました。 変わりたい、という願望と、変わりたくない、という願望。変化への憧れと、不安。 そうした揺れを、「自動更新」のアナロジーとして「発見」したことが、きっとこの詩の種なのだと思います。 変ってしまう自分、変わらない自分、その差ってなんだろう・・・どこが変わって、どこが変わらないんだろう。 カチカチ動きながら、その終了を待っている時の不安のような、期待のような、焦燥のようなもの・・・ それと同じような「感じ」を、ご自身の身体、に感じた瞬間って、今までにありましたか?あったら、その時のことを(具体的な事例として、書いて下さい、ということではないですが)聞きたい、と思いました。 (自動更新)

2017-10-13

ガラスを透過して、外に降る「雪」・・・のように、もろもろの記憶が降る、イメージ。関わり合い、離れていった人の面影が、雪のように降る、そんなイメージにまず、とらわれました(私の、あくまでも個人的な読みですが。) その中で口をつぐむ魂、凍り付いている心・・・尾ひれは金魚のような魚のイメージ、命の自由な遊泳・・・を喚起しますが・・・同時に、話に尾ひれがついて・・・というような、人間関係の澱みに追い込まれていくイメージも重なってきます。 〈おおきくなりました おもくなりました 自分の足ではあるかないので 空を飛んでいるようです ふたりからさんにんへ さんにんからたくさんへ〉 ひらがなの用い方、やわらかな言葉の並び。若い夫婦に赤ん坊が生まれ、いつのまにか家族、という日々に「私自身」がふわふわと持ち去られていくような感覚を(自身に引き付けながら)覚えつつ。 〈羽化されるように よるよりもあかるく〉このあたりも、浮かされる、とイメージが重なりますね。凍蝶から深い所でつながっているのかもしれませんが、蝶の羽化、誕生のイメージ。ひらがなに開くことによって、夜という暗いもの、のイメージがいったん後退して、yoという明るい音が心に落ちていく。(代、世、無意識のうちにこうした「響き」も呼ばれているのかもしれません) 〈かげおくり のような ひかりおくり〉この行も美しいですね。冒頭の〈ひかり〉が呼び寄せられる。影、去っていった人、亡くなった人、そんな命の送りのイメージが、ひかりおくり、に転換される。 〈ひかり 開いたページの上に落ちる 読み上げることもない 文字の形に 舌を這わせ みつめている ずっと〉 〈おまえのなまえがきざまれた 本の表紙を なぜる 闇に同化した文字のゆくさきを だれかに託しながら ひかりを 閉じ込めて とじる〉 始まりと終り、この〈ひかり〉が印象に残りました。 現実の(物質としての)本、というよりも、ひとりの命、その道行き、ゆくえを記された(あるいは、これから記されていく、であろう)白紙の本、ひとりの人の物語。生きることは、時を経ること、時を経ることは、命が何かを体験していくこと。そんないのちの物語が記される本。 〈闇に同化した文字のゆくさきを〉ゆくえ、と記さず、あえて「ゆくさき」と強く方向性を指示するような言葉を選ぶところに惹かれました。闇も漢字の重さと固さを持って記される。 まだ幼い命の「ゆくさき」にひかりあれ、と願う、そんな若い母のくちずさむうた。いささか自分の思いに惹きつけすぎているかもしれませんが、そんな詩の世界を(私の中に思い描いて)読ませていただきました。 (ゆくえ)

2017-10-13

〈筆力が卓抜しておられることはもはや私ごときが〉そのままお返ししましょう。花緒さんの筆力には掛け値なしに感嘆しています。それゆえに、その筆力をもって何を書くのか、ということに、興味があります。それゆえに、疑問を感じたり異論を唱えたりもしたくなるわけですが。 〈無駄と無為と無意味の集積によって成り立つ世界〉補足するなら、「世界」の前に、わたしの、という言葉が入ります。さらに言えば、「わたし」という枠内からしか、外界を知ることはできない、そのような制約を人は負っている、と思っています。〈意味のある逡巡〉〈有意味な逡巡〉とは、一見、「意味」がありそうな・・・しかし、社会的に何らの実行力を持たない、つまり、言葉として、書き物として表明したところで、単なる無駄と無為と無意味にしか成り得ない、そうした逡巡である、と書き直してもよいでしょう。 その、意味がありそうな(意味のあることを、「わたし」は真剣に考えている、「社会」に対して、「世界」に対して、誠実に向き合おうとしている、そんな素振りを見せている、そんな素振りを「生きる」ということに、自らの存在意義を見出そうとしている)自己語りを、「作品」として提出することに、「意味」があるのか。〈日記の一編だったら十分〉であろうけれども・・・という問いでもあろう、と考えます。 おそらく、花緒さんが問い掛けたかったこと、は、上記の如き内容であろう、と勝手に措定した上で・・・ 「おもしろいか」どうか、ということを、聞いてみたかったですね。生真面目に眉間に皺を寄せて、考えたところでどうにかなるものでもない、そんな個人を大きく超えた問題のことで「頭」を悩ましている暇があったら(そんな自分に密かに自己満足している暇があったら)もっとエピキュリアン的に、個人としての生活を楽しむことが先決なのではないか。(と花緒さんが言っている、というわけではなく、これは、私の考えです。) 埒もあかないことを、ゴチャゴチャ繰り返している、その「わたし」という空間の中で散漫に浮遊しているもろもろを突き通し、脈絡あるものに綴り合せていく、そんな力を持ちたい、という、ある種の「決意表明」のようなものに過ぎない。その意味では、ご指摘の通り、〈完成しきったものにはなってない〉わけです。その行為の痕跡が、なんらかの共感につながればいい、という希望、願望を示してもいるけれども。同じような悩みにとらわれて、なかなか抜け出せないような人がいた、として、その悩みを共有することはできないか。同じ問いかけを持つことはできないか。微力が集積することによって、なんらかの波及効果が及ぶのではないか。個人としては無力である「世界」に対して、なんらかの働きかけのようなものが、動き出すのではないか。 個人と「世界」との関わり方、それを、大げさな言い方ですが「実存的な問い」と呼ぶとして・・・そうした問いかけを(意味がなくとも)持ち続けること、そこに、「意味」が生まれるのではないか。一人では完結できない「意味」ですね。 悩んでも仕方ないことがらを悩む、そんな(聞かされるだけ、うんざりしてしまうような)一瞬と、猫ちゃん写真を見て、かわい~とウケている、今日のごはんは、何にしようかな、とワクワクしながらスーパーの売り場を巡っている。今度はあんなことをしよう、こんなことをしよう、と楽しいこと、面白いこと、そんな計画を練っている。それらがすべて同居している状況。 あるいは・・・世界の「悲惨」社会の「無残」を知り、心を痛める、という行為自体が・・・平坦な日常に刺激をもたらそうとする本能的な行為に過ぎないのかもしれない。「おもしろい」こと、新奇な刺激や興奮を与えてくれる何か、を求める行為に過ぎないのかもしれない。そういう問を「問うている」状態に、自分を追い込むことで、意義のある人生を生きているような錯覚を得たいのかもしれない。まあ、そういう自分語り、の一瞬のドキュメント、そんなところでしょうか。 (縫い針)

2017-10-13

返詩を続けて行けば、連詩になりそうですね(笑) 夕景をイメージしたので、夜につなげたのですが、 〈やがて塞がれて炎に横たわる〉そこに行きますか! 登り窯から白く道が伸びる 夜陰に刻まれた神の爪痕 顔を灼く火照りの向こうで きしみながら生れ出ずる (17:58)

2017-10-13

追伸。先天的四肢欠損の女性が、セルフポートレート(ヌード)で作品を創作していて、賛否両論がある、ことを思い出したりもしました。 いわゆる、障碍は不自由ではない、個性である、という言い方の、妥当性について。(共生のためには)どうやっても「補って」行かなくてはいけない部分があり、そこに「してあげる」「してもらう」という心理的な優劣が生じたりする問題について。 感動ポルノの一番の問題は、感動を他者に与えること、それが社会的有用性に変換される、ということで・・・その変換に存在意義を見出す、というプラスの側面と、それでは、感動を与えられない場合、「社会的有用性」がないのか、という・・・私が何十回生き返っても、きっと生きている間には答えを出せない、そんな問題・・・であろう、と思うのだけれども。そのへんについても、さらっと一言、書きこんどきました、的な安易さ、これは、一体全体、なんなんだ、というところ、ですよね・・・どういうつもりなんだ、という。 つまり、遊びとして許容される範囲は、どこまでなのか、という、答えの出ない問題でもあるように思います。いったい、誰が、何の権限があって、「許容」「許可」するのか、という問題にも通じる、わけですが。 誰かの、生死に直接かかわるような部分とか、大げさな言い方ですが、人間の尊厳に直接かかわって来る部分、であるとか・・・そういう、深刻にとらえざるを得ないテーマというものがあって、それをどこまで、軽く風刺的に扱うことが可能か、という実験、と見るにしても・・・本論部分の「まっとうすぎる」「正論」と、その前提として設定された舞台装置のあざとさ、そこに違和感を覚えてしまう。 こうした決めつけ――こういう条件にある場合、人は、一般的に、社会的な評価を得られず、社会的に見放される状態に置かれるだろう、という類推――をあざといと感じる、それは、私自身が容易に推量できてしまう「条件」でもあるから、でしょう。その、誰もが見たくないと思っている部分を、正々堂々と「さらしている」、あるいは、記号的に利用している、やり方にも、抵抗がある、のかもしれない。 人には・・・たとえば、子どもが、あの人、どうしたの?と身障者を指さしたり、おかしい、といって笑ったり、気持ち悪い、といって怖がったり避けたりする、そんな本能的な部分がある。本能的に、差異を見出し、自身を優位に置いて満足しようとする、傾向がある。その本能的な部分を、理性によって(知識を得たり、他者の身になって考える、というロールプレイを繰り返したり)抑制したり、別の建設的な行為に転換したりする、それこそが文化であろう、と思うのですが・・・近年、とみに、その「文化」に逆行する傾向が現れている。思ったことを、思った通りに言って、何が悪いんだよ、という。心をカルティベートするのではなく、たまたまそこに現れ出たものを、採って食って腹を満たす、その行為の方が、ずっと楽である。楽だけれども、それを行うようになったら、後は不毛な大地しか残らないだろう・・・そうした理性的な抑制が表現にとっての足かせである、ともいえる、けれども・・・。 本作の、本論の部分は、様々な制約や不自由から自由になって、比較したり優劣を争ったりすることからも解放されて、楽しむ、ということを根幹に置きましょうよ、という詩論、である、わけですが・・・他者との比較だけではなく、いわゆる克己心で乗り越えたり、ということも含めて、比較から自由になる、ということでもあろうと思いつつ・・・その前段というか、シチュエーション設定に、これだけ問題多発の条件を用意する、そこに、気持ちがぐらぐらする、要因があるんだろうな、たぶん・・・。 語り手の「障碍者」を、露悪的に描いたリ、自虐的に描いたりせず、あきれかえるほど「まっとうな」正論で本論を述べさせている、そこは、評価したい。 冒頭の「社会的認識」であろうという「条件」を羅列する部分・・・そういう「条件」を示された場合、一般的に(自分も含めて)「憐憫」の情を喚起されるだろう。それは、どれほどきれいごとを並べても、結局は偽善的に、自身の優越感を確かめている、ということを、鏡で示すように照らされる、ということでもあるのだろう。そして、そうではないはずだ、そうではない条件だって、多々あるはずだ、という「カルティベイト」された心が、それまでに蓄えて来た知識とか倫理感とか性格とか・・・そういう全人格を持って(つまり、良心によって)自身の鏡像に反発する。そういう「効果」を持った冒頭部分のシチュエーションを、こんなに軽々しく書いていいのか?いや、まあ、重けりゃいいってもんでもないが・・・とまあ、まとまりがなくなってきたところで、いったん、手を止めます。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-12

1→10(ワントゥーテン)の代表(オートバイで事故に遭い、身体不自由)の方のインタビューを視聴する機会があって・・・彼が、パラリンピックなどの報道の際、「身体不自由者」が、こんなに頑張ったんだよ、努力したんだよ、というところに焦点が当たる、そうではなくて、競技そのものの面白さが注目されるべきだ、そのように演出をしたい、と語っていたことが、非情に印象に残っているわけです。 ということを、まず、前提として置きつつ・・・正直、疑問符だらけの作品でした。 議論を巻き起こす、ただそれだけの為に「作品」を利用した、とするならば、邪道、そもそも、受け入れがたい。 他方、「感動ポルノ」などへの批判を込めて、ということであるなら、もっとその部分が前面に出るようにすべき。 ・・・と言い出すと、「詩」や「作品」は、社会的弱者の代弁者で「あらねばならない」のか(むろん、そんなことはない)、とか、倫理的な整合性を備えて居なくてはいけないのか(むろん、そんなことはない)作品は、常に社会への批評性、批判性を持っていなくてはいけない(むろん、そんなことはない)という、ループに陥る、けれども・・・。 KIHON THE BASICの単なる「応用」であり、パロディーなんだから、「鷹揚」に見てくれよ、という話、なのか? 形を丸写しでなぞるという、自ら作りだした「不自由」「制約」も、形式面から言えば、単なる陰画にしかならない。陰陽、社会における光と影、口を慎むべき、という暗黙の制約に対するタブー破り(をやってみた/やってみたかった)ということ、に過ぎないのか? そもそも、風刺ってなんぞや、というところから行くと、「社会的弱者」が表現の力によって「社会的強者」を笑う、その反転の強さと方向性こそが、風刺であるはず。「社会的に」地位や名誉を得るであろう、という記号としてのもろもろが、前作の「見為」氏には付与されている、わけですが。そして、名前で「見た目だけじゃん」とおちょくっている、わけでもある、のですが。(おちょくっている、だけなので、批評性としての強度は弱い、単に名前で遊んでいる、レベルにしか達していない、そこはいったん、置くとして、)実際の「中身」は、社会的な地位や名誉、富ばかりでなく、才能も有している、なんでも持っている、わけですね。衣食足りて礼節を知る、ではないけれども・・・芸術の探求には、ある種、こうした、一切社会的不自由を感じない、自在に生きることのできる背景が必要だ、という主張とも取れる。 それもまた、ひとつの「真」ではある、と思うわけです。金銭的不自由や、名誉欲や承認欲求、などに惑わされることなく、純粋に芸術を探求する、という前提が整う条件とは、どのような場合か。そして、その前提のもとに、「芸術」を探求していった時、その基本とはなんぞや・・・そこに、食習慣や、非言語表現、というものが置かれる。KIHON THE BASICの、この部分は、いわば詩論、ですよね。思考実験を突き詰めた場合の、一つの結論、というべきか。その部分は、面白いと、思いました。批評性は強くはなく、遊び程度に社会的地位を笑い飛ばしながら、詩論をそこに持ち込んでいる、というところ。 本作、単純にそれらを「裏返した」「反転させた」だけ、と、言えるのかどうか。 冒頭の、社会一般、世間一般に、「不幸」と思われる境遇を、記号のように並べ立てるところ。KIHON THE BASICでは、通常の風刺のベクトルが働いているけれども、OYO THE FREEDOM の方では、弱者の側、虐げられている側からのベクトルではなく、強者からのベクトルを、そのまま押しかぶせる形になっている。名前の「おちょくり」も、逆に世間一般でいうところの、見た目は良くなくても中身はいいよ、という「正論」になってしまっていて、記号的に社会の「不幸」「不幸せ」の条件を並べ立てたところを、言葉だけで(うわっつらだけで)補おうとしている、ように読めてしまう。 「本論」の方で、それを、軽やかに反転させていく、わけですが・・・ 〈誰しもが何らかの障害や不運を抱えながら 人生を生きているのだと思います 制約条件があるから何も出来ないなどと言っていたら 誰もが自由を謳歌できないことになってしまいます〉 この、まっとうすぎる「正論」を述べるために、これだけの舞台装置というのか、役者の設定が、本当に必要なのか? 「障碍」を、道具として、「利用」していないか?そこまで、本当に突き詰めて、考えて考えて、考え抜いて、その上で、これを出している、のか? あえて、世間の暗黙のタブーとか、「かわいそうな人、のことを、かわいそうだと書いたらいけないよ」的な善人ぶった(実は、自分はそういう不幸を負っていなくてよかった)という、人間心理のダークな側面を突いていく、ものでもある。(私にも、そうした面は少なからずある)だからといって、ここまで「社会的記号」のように「不幸の条件」を羅列する必要があるのか。しかも、実際に個別の例を見て行けば(重度の知的障碍や身障者を介護している友人がいるので)社会的には不幸の条件のように思われる諸々の事象が、実際の「不幸」と対応していない、比例していない、例は(あたりまえながら)山ほどある、わけで・・・それにもかかわらず、〈私のようにありとあらゆる社会的評価から見放されていると〉と軽く語り手に語らせてしまうところに、非情に違和感を覚えました。 ほんとうに「社会的評価」から見放されている人が、こんな軽々しい調子で、書くかどうか。語るかどうか。どれほど空想を働かせても、本作の語り手が感じている実感を、私たち「健常者」が、追体験できるわけがない。その、出来るはずがないことを、なんとか想像力を働かせて、近づこう、という方向性、であれば・・・きっと、強く私は共感しただろう、と思います。 語り手が感じているであろうリアリティーが、感じられない、迫ってこない、という、そこですね、違和感を特に覚えるのは。前作の「見為」さんの境涯は、一般人にも(私のような読者にも)予測可能なもの、ではあるわけですが・・・自分の手足が動かなかったら。自分の経済が立ち行かなかったら。自分の・・・そうした思考をいくら積み重ねたとしても、もしかしたら被っているかもしれない、社会的な侮蔑や差別の眼差しを、どこまで追体験し得るか。もしかしたら、被っている、と考えること自体が、不遜なのかもしれない、ということも含めて・・・軽々しく書けるわけがない、その重さについてまで、本当に真剣に、考えた上で、これを提出しているのか・・・という、もろもろの疑問。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-12

私も、祝儀さんやsurvof さんと、同様の読後感、でした・・・どうすればいいのかな・・・。 骨子の二行、が、実はよく、わからなくて・・・ 〈君が百本の小説を乗り越え眠るころ 僕は一握の詩の前で童貞のままで〉 ここで、合っていますか? 冒頭三行で、下町のアパートの掲示板や壁、ブロック塀、狭い通りに子供が遊んでいて・・・というような風景が、見えるような気がしました。そういう、長屋風の、隣近所の交流が盛んでありそうなところ、であるのに、隣の人の顔を見たことがない、というような、都会風の孤立を、語り手は感じている。 そんな昼下がり。 自分には関係ないところで鳴る、遠花火。 〈君〉は、どんどん先へと進んでいるのに、自分はここで、ぐじぐじしている・・・ という流れで読みましたが・・・〈国際色の喧騒〉、どんな喧騒だろう。〈君〉と〈僕〉は、同じ月(同じ夢)を見ているのに、顔を知らない隣人、のように遠い。姿の見えない、音だけが響く、河川敷の遠花火、のように、遠い・・・という読み方、でいいのかなあ・・・と、尻すぼみの鑑賞になってしまいましたが。 (花火の夜(江戸川))

2017-10-12

〈大事な物達からの視線が いつも痛くなかったろうか 息詰まらせるだけの、大事な物達 物を失ったら思い出まで消える気がして〉 そして、 〈母の葬儀後の遺品整理を思い出す 何が大事だったのかさっぱり分からない物達 形見分けすら出来ずに棄てた膨大な、あの、 水のない部屋で溺れそうになった〉 この、体感が来る。 読者に対して、とても丁寧な展開、だと思います。 思うけれども・・・ 溺れそうになった、という実感というか、体感、が、まずあって・・・それは「母にとって」大切なもの、その「もの」の持つ魂のようなもの、その「もの」の放つ「気」のようなもの、「もの」の視線に搦め捕られていくような圧迫感・・・なのだろうなあ、と思い・・・その同じ体感や息苦しさを、遺される旦那さんに負わせてはいけない、という、なんというか・・・自制心のようなものが、〈私は大事な物を一つ一つ撮っていった/それからゴミ袋に、猛然と物を詰め込んだ〉という決断につながるのでしょうし・・・それゆえに、〈帰宅した夫が、やっと捨てる気になったか、/と優しく微笑んだ〉(ああ、やっぱり、これでよかったんだ)というオチにつながっているのかな、とも、思うのですが・・・という流れで読むと、旦那さんへのラブレターのようにも、読めるわけ、なのですが(あなたに、こんな苦しみを、私は負わせたくないのよ、それが通じて嬉しいわ、という・・・) 溺れてしまう、くるしい、その「体感」をまず、先に持ってきて・・・あるいは、「物」に囲まれた自分の生活の中で、実際にその体感を感じるシーンを先に持ってきて・・・写真に撮る、という行為の意味を、考えてもよかったかもしれない、と思いました。 (物、という物質性を無くして)軽くしてあげる、記憶の中に浮かべてあげる、地上の重力から「物」たちを解放して、自分の中の宇宙に自由に飛び回らせてあげる・・・というような、側面もあるのではないか、と感じつつ。 (「溺れる前に」)

2017-10-12

まるい、プチトマト、ではなく、四角いプチトマト・・・。型枠にはめて、あえてその形に育てる、という育て方がありますが・・・(四角い西瓜を、見たことがあります)母として、子どもを「型枠」に嵌め込もうとしていないか、という自問自答・・・というわけでもなさそうですし・・・意外性のある部分なのですが、他の方はどう、読むのでしょう。 (柔い種)

2017-10-12

落とし込まれる藍の深さに ともしびの紐をたぐる 現れる影が息を引き継ぎ 体に命じて闇を奏する (17:58)

2017-10-12

白島さんの鑑賞に、また新たな発見を得つつ。・・・Septは、フランス語の7、と思っていたのですが、9月と掛けているのかもしれないですね!? ・・・とにかく、分厚いというのか、層の厚い作品ですよね。一般読者へ、どう手渡すか?というところで、実は躊躇してしまう、わけですが。 (Sept Papillons)

2017-10-12

もなかさん コメントありがとうございます。どちらかというと、お年寄りには不評でした・・・よくわからん、という。確かに、こねくり回して、「作って」いるところが大きいと思います。〈言葉がもたらすイメージの速度感がいちいち殺されていく選語はきっと意図されたものなのでしょう〉ご指摘いただいて再読。動きの大きな動詞と、静止した空間、形態観察的なイメージとが、たしかに互い違いに出てきますね・・・どちらかというと、無意識の選択でした。進みたい、疾走したい、気持ちと、とどまりたい、そのままでありたい、気持ちのアンビバレントが、自然に滲み出ているのかもしれません。 〈上から目線〉という感想は、予想外でした。どのあたりで、それを感じられたのでしょう・・・たとえば同じ床面で、輪読するように朗読する、そんなイメージの作品ではないかもしれないですね。聴衆がいて、舞台にいちいち立って行って、そこで朗読する、どちらかというと声を立てて、真っ直ぐに前を向いて、固い言葉で(かっこつけて)そんな読み方、になるような語感や詩行かな、と思いました。身近で寄り添うような感じの言葉ではないですね。 いろいろな発見を頂くコメントでした、ありがとうございました。 (焼成)

2017-10-09

題名の持つ批評性というべきか・・・公民権運動の時期のアメリカの、吊るされたフルーツ、として描かれた悲惨・・・黒人への凄惨なリンチの取材であったり・・・現在のアメリカへの状況を思い合わせたりしながら読み始めて、二連目でナチが出て来る。いささか唐突感がありました。アメリカのネオナチ的な動きへの想いもあるのでしょうか・・・完備さんの鑑賞にも一理ありますが、ころす、の連呼を、そのままストレートに受け取るかどうか、という問題でもあるでしょう。殺せ、という強い文言が、果たして反転する意味を備えているのか、題名との連関も含めて(批評性を加味できているかどうか、という点も含めて)いまひとつ、つかみきれないような思いが残る作品でした。 (pulitzer)

2017-10-09

朗読を意識された作品なのかもしれませんが、繰り返しというのか、同内容のリフレインが、少し冗長な印象を受けてしまいました。 でも、すうっと胸に入って来る。ある種の潔癖症である語り手・・・自分だけは、せめて「正しく」あろう、と思う純粋さ、自分は汚れていない、無垢な者として生まれて来たはず、という信頼・・・が、〈自分にも裏があると/分かってしまった今では〉という誠実さに、いわば、身内から裏切られる、その悲しみ。 〈汚れながらも/穢れながらも/生きていればこそ〉、〈わたしはまだ諦めきれずにいるから〉と呟く強さは、世界はきっと、美しい、という、強い信念があるから、かもしれません。そうあってほしい、と思います。 (『もう、手は洗わない』)

2017-10-09

〈汗だくになりながら息を止め、ひたすら時を待ちます〉この行を二行連ねる、ここの部分の「ため」と言いましょうか、朗読することを考えた時の緊張感、迫力のこもった作品だと思いました。 冒頭のシリアスな描写、それは夢だ、と、ほっとさせられる中盤、しかし、実はそれは日常の反映であった、と語られる後半。コーリャさんが記しているように「一貫した論理」がありますね。フィクションであれ、ノンフィクションであれ、この迫力で書ききることの強さを感じる作品でした。ただ黙っている、のではなく。諦めて悟っている、のでもなく。最後の一行で、むしろ爽快感を感じました。 (逆光)

2017-10-09

前半は、いわゆるチェーンメールを送ろうとしている主人公の心理・・・といった印象を受けました。 後半、〈点線と実線〉に、つながりの濃さや薄さ、信頼度や不安感などが反映されているように思うのですが・・・このあたりを、もう少し踏み込んでいくと、より面白くなるのではないか、と思いました。 (返信全員に返信転送)

2017-10-09

コメントを拝読しながら、音楽でいう速度表示、たとえば「レント」など記すという方法もあるかもしれない、と思いました。 (舞踏)

2017-10-09

戦時中に、ある種の「戦争詩」として書かれた短歌に、満月に照らされた病馬を捨てていく、という歌がありました。 戦場の非情さを描くことによって、体制側に対しては「情を切り捨てて、我らは戦いに行くのだ」という姿勢をアピールしつつ(そうせざるを得ない状況があった、わけでもありますが)実際には、戦場の悲惨を訴える詩として読んだ記憶があります。万が一、に備えて装備したり訓練したりしつつ、その万が一は絶対的に避けたい、避けてほしい、と願いつつ・・・ (行軍の名月)

2017-10-09

言葉でしかできないこと、をやっている、という面白さと・・・面白さを追求しすぎたのかな、という思いと・・・。 空が、地面の底のように、あるいは水底のように、思われる時がありますよね(と感覚を押し付けるのも変ですが)草原に寝ると、自分が空の底に落ちていくように感じる。そんな時の感覚を思い出しました。 前半は身体感覚に添っているように思うのですが、「詩を書き始めた」から後は、面白い図柄を描き出そう、という意識の方が先行しているようにも感じました。 (シュール Real)

2017-10-09

〈手折った夏草をぶんぶん振り回しながら ひるまずに突き進んでいった丘の道 尖った葉はきらきらと光の乱反射 不意に幾度もあなたに斬りつけた〉 若さゆえの勢い、若さゆえの憤り、若さゆえの・・・と記しながら、若さって、なんだろう、と考えます。 恐れを知らない事、だろうか。ジークフリートは、恐れを知らない若者、という設定だった。 恐れげもなく、まっすぐに進んでいく、そのまなざしへの羨望が、冒頭の一言になったのではないか・・・ そんな思いで読みました。たぶん、「純粋って 残酷よね」と、聞かされる側、ではなく、言う側に、私が近い場所にいるから、かもしれません。 硬質な思惟の言葉が織り込まれているのに、全体にとても柔らかい。詩行の飛躍が適度で心地よかったです。 恥ずかしさ、に自ら気づきながら、なおもそれを〈小さい生き物のように手の中に匿おうとして〉生きている、生きて行く、ということ。遠い過去の出来事であるように描かれているけれども、すぐ身近にあること、なのかもしれません。打ち寄せる波音が、時間の波のように思われました。 (望郷)

2017-10-09

〈東急ハンズにもあるかもしれない ぽぇじぃ〉という身近さ、〈うまれくる森の種が銀色〉というファンタジー、〈ぷらちながピチカートを刻みピンヒールは飛沫する〉〈 ゆれるるるる螺旋のるるる〉という音の面白さ。ある意味で弾けまくっていて、どこに行くんだ?と思っていたら・・・これまた、ある種「はじけて」いる、〈「もう一回いうと がうでぃなんだよ」/おさないわたしのために 風呂場に 魚や蟹の形のタイルを入れて〉ここに続くのか、とほっこりしました。 なんでも「ぴかそだなあ、うん」と孫をほめちぎっていた「おじいちゃん」が知人におりますけれども(笑) おじいちゃんの憧れ、孫への期待、それががうでぃでぃ、という楽しい音の中から響いてくるような気がしました。 (がうでぃでぃ)

2017-10-09

勝手気ままにカッコよく 書いて拡散掻き乱し 隔靴掻痒拡大解釈 かくなる上は過去を解消 感謝感激覚悟歓迎 活舌よろしい快活朗読 果報は寝て待て佳日好日 寒暖差激しい折から おkaらだどうぞご自愛ください (きっとカジュアル)

2017-10-09

飛影、かと思って調べたら、花びらが散ること、と出て来て、なるほど、と思いました。 改竄、配列、あるいは螺旋する、といった漢語の用法が生み出す硬さがアクセントになっていると思う一方、全体がブツブツと途切れがちのようなイメージになるのは、まりにゃんさんが指摘されているように、語尾の処理の問題などもあるのかな、と思いました。題名も、No title で「空白」。白という色彩の持つイメージや、〈白い、と形容された/影〉という表記に顕著な、白そのものの持つ意味を追いかけようとした作品なのかな、とも思いました。 〈白い少女は線の上を歩きながら/踏み外さぬように正確に〉〈正確に/一定の周期で旋回する/白い、と形容された/影は〉〈影は/少女を追いかけながら/垂直に螺旋する〉というように、少しずつ重なりながらずれて行っている(ずらされている)ようにも読めますね。モダニズム期の白、「白い少女」とか「白のアルバム」、「白い夏野」などについて、もろもろ考えているところだったので、考えさせられました。 (No title)

2017-10-09

孤独と疎外は違う。自ら選び取った孤独と、一人の状況にいやおうなく追い込まれる(あるいは集団の中に居て、孤立させられる)疎外との違いについて、考えさせられました。『うたげと孤心』が再注目されていますが、自ら選び取った孤独、その性質を〈それは 対話であり黙考である〉と「解説」し、〈後悔であり希望である〉と置換し、〈安らかで苛烈な閉じられた部屋だ〉と比喩でたとえる。この三連が面白かったです。 (独り)

2017-10-09

意味って、なんだろうなあ、という・・・意の味。異の味?意の身。 かいたない という連呼、(幼稚園に)いきたくない、を言えなくて、いたくない、いたくない、と泣いていた子どものことを思い出しました。た、という音はごく自然に口にのぼる。解体&再構築の「作業」をしながら、音読を繰り替えした、というコメントを読んで、なるほど、と思いました。 意味、が、目的を持った場所へと読者を導いていく行為を助けるもの、である、として・・・この言葉はこの内容を意味する、という決まりというか汎用を学んで、「知らない」場所から「知っている」場所へと移動する、と言えばいいのか・・・その移動そのものが意図されていない。あるいは、ひとつのストーリーを伝える、という目的が、意図されていない。音楽性、というものとも異なる、単語そのものが持つイメージの集積がもたらすなにものか、とも異なる。意図しない、為にあえて意図された作品、という・・・(何書いているのか、それこそ意味がない(笑) アナグラムのように組み替えていくと、別の言葉や別の意味が現れる(書いたって、の書をはずすと、「いたって」という副詞が現れる、居たって、と漢字を当てると、また別の意味が現れる、というような)そんな予想外の発見を楽しむ作品なのかな、と思いました。 (意味はない)

2017-10-09

おそらく、通常なら「~楽しくなれたあの頃 」で改行するのでしょうけれど・・・一気にいいつのるような、勢いのある一行。ちょうど、湯のみのヒビがパキッと割れて・・・そこから先の「未来」に不穏な感じ、がつきまとうような感覚・・・の詩を投稿したばかりなので(夏野さんの方が、先に投稿されていたのですね。真似っこしたみたいになっています(笑) 共感しながら拝読しました。 〈滑り落ちていく 宝石散りばめられた地獄の坂道〉この行の重ね方が面白いですね。滑り落ちていく宝石、宝石散りばめられた地獄の坂道、と両方にかかっているように読める。短歌などではよく使われる手法ですが、ひと息に読み通すような一行を用意されるところなどを見ても、短歌に親しんでおられる方なのかな、という気もします。 〈夢から醒めれない〉醒められない、が文法的には正しいのかな、と思いますが、「ら抜き」言葉の持つ若々しさや疾走感は、あえて用いる価値のある「誤報」だと思っています。「もうどうにもとまらない」なんて歌詞もありましたね(すみません、古くて) 〈もう少し控えめでいいから私を照らして光〉この行も面白いですね。控えめでいいから、私を照らして・・・という願いを、ひかり、と体言止めで君に向かって呼びかけている、ようにも見えるし、ひかれ、と命令形で呼びかけている、そんな強さを持った一行とも読める。 「ぬるま湯」のような世界で戯れていた語り手が、厳しい表現の道、に踏み出し、〈針を隠し持った〉ような鋭さを持った君、光り輝いている君、に出会った、のではなかろうか。そして(君、が実在の友人であれ、詩とか小説、といった非実在の対象、であれ)その光に自分も照らされたい、自分もいつか発光したい、そんな「夢」をミルクバスのようなぬるま湯、のような沼、に隠して(冒頭のぬるま湯と、うまく響きあっていますね)「夢」にむしろ浸り込むことを望んでいる・・・そんなイメージで読みました。 地獄に堕ちていくとか、内容的には重くなるはずのテーマなのに、言葉の振り切って進むような勢い(つまり文体)と、夢にむしろ浸っていたい、抜け出したくない、というような、ちょっと甘めの夢想、歌詞的な軽めのリフレインが、全体を瑞々しい軽さに仕上げていると思いました。 (ミルキーデザイア)

2017-10-07

自主勉強会、が、自主勉協会、という、奇妙なアソシエーションになっておりました(笑)  立ち上げますかね、自主勉 協会。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-07

再レスです。少しお作品から離れますが・・・以前、自主勉協会のワークショップで、面白いテキストを用意して来たメンターがいました。散文詩、のような断片がたくさん集めてあるのですが、辞書の一節であったり、小説の一節、新聞や雑誌の記事の一節、改行詩をひとマスあけの散文詩のような形に改変したもの、などなど・・・と、いわゆる散文詩が混ぜてあって、さあ、どれがどれでしょう、という・・・。あらゆるジャンルの文章に、「詩情」を感じさせる部分、というものはあるのだ、と、あらためて再確認しました。 現代詩、とか、口語自由詩、の定義そのものが、人によって違う、という、なんとも奇妙なジャンルが「現代詩」なのかもしれません。私の立ち位置は、ひとりひとりが自らの文体を探していく行為、そのものが詩作である。自分自身の内面のミクロコスモス、その空間で体験したり経験したりしたことを、他者に伝える・・・というより、イメージとしては、言葉という手段を用いて、シェアしていく、それが表現、ということなのかな、という「感じ」を持っています。個々人のミクロコスモスは、人智の及ばない、どこか遠くで、ひとつにつながっている、のかもしれず・・・(集合的無意識、のような)そうではなく、永遠に個として分断されている、のかもしれず・・・。いずれにせよ、隔靴掻痒ではありますが、自身の体感を何らかの表現で伝えたい、と思うのが「ひと」であって、だからこそ、「ひと」は言葉を生み出したり、絵や記号、音楽を生み出したのだろうなあ、というのが、はるかな古代への想いです。 言葉は、既知のものと対応しているわけで・・・未知の体験を既知の言葉を用いて表現する、という、そもそも矛盾だろう、無理でしょう、という状態から、なんとか近いところにもっていく、という「もがき」や「あがき」があるのでしょう。そして、既知の物を類推、例として用いることによって、近づけていく。そこに、比喩の面白さがある、と思うのですが・・・表しえないこと、とりこぼしてしまうこと、どうしても類例を見いだせないもの、に関しては、沈黙を選ぶほかはない。 もっというなら・・・深い沈黙の海の中で、島のように個々人の「言葉」が点在していて・・・その個々人の「言葉」の多島海を渡りながら、様々な木の実や草の実を運んでいる鳥たち・・・その「鳥」にあたるものが、表現された様々な作品、ということなのだろうなあ、と(なんでクジラから、鳥に話が飛ぶのか、自分でもよくわかりませんが)そんなことを、湯煙さんの作品を読みながら、考えていました。 思いっきり脱線しまくってますが(笑) (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-07

何度か拝読しているのですが連が進んで行けば行くほど、イメージの森に迷い込んでいくような酩酊感、ある種の麻痺のような感覚にとらわれますね・・・18世紀グランドツアー時代の貴族の館、床から天井まで、びっしりと絵や剥製などが飾ってある、ひんやりと空気が溜まって、薄暗い空間に日が細く帯状に差している・・・そんないくつもの部屋を彷徨っているような感覚、と言えば伝わるでしょうか。 死骸となった蝶、壁に塗りこめられ、あるいは痣として肌に痕跡を残して浮かび上がり、桃のエロス、涙の中に現れては消える蝶・・・一連一連に盛り込まれたイメージの重量を思いながら、少し全体として、盛り込み過ぎなのかもしれない、そんな印象も覚えました。 一連、一連を独立させて、ある種の物語とか、詩の空間(七つの連作)として展開する、という、そんな試みがなされたら、どんなことになるだろう、読んでみたい、と思いました。 (Sept Papillons)

2017-10-07

句読点を多用した、ぼつぼつと切るような、力強いリズム、冒頭の丁寧な自然描写、そして、その後の飛躍。ユニークな作品だと思いました。 「お母さん」と書いている所を見ると、語り手はまだ少年の設定でしょうか。その母が、無造作にトンボの薄羽をつまんで、息子の鼻先に突きつける。オニヤンマの胸の筋肉、クローズアップされる牙、そして〈森の静寂さを気づかせる。〉獲物を取る肉食の昆虫の持つ迫力、動の美とでもいうのでしょうか、豹が獲物を狙う前の静けさとか、獲物に狙い定める猛禽の静けさ、とか・・・単純な静けさではなく、たわめた鋼を抑え込んでいるような、そんな緊迫した力を秘めている静けさ、を感じます。 高い空、大きな視野から始まって、トンボが落ちる、という、まだ距離のある情景、そこから一気にクローズアップしていくところ(母親が、オニヤンマをつかまえる無造作な動きの中に潜む残酷さのようなものに、敏感に反応する息子の視点も現れているかもしれません) 〈免疫細胞のように虹は 水銀や、コバルトブルーを食べる。〉ここからの飛躍が素晴らしいですね。 〈ピンク色をした、バスタブの排水口のイメージ、 ステンレス製のぎらぎらと光る縁取りから、深淵が覗けた。〉 喰うものと喰われるもの、その間に存在する緊張感。〈オニヤンマの複眼に残る、/うねりを帯びた敏捷さ 〉が 色を喰らって炎となって燃える虹の中にも、どこか肉感的な不気味さもある〈バスタブの排水口〉の中にも、見出される〈うねりを帯びた敏捷さ〉と同質のなにか。 〈シャボン玉の内側に、この世はあって、〉壊れやすいシャボン玉の内側にある、この世・・・という認識。シャボン玉の虹色と、先ほどの虹が響きあっていることを、この時点で知る、わけですが・・・樹液を手に付けて持ち帰ろう、という少年の思いと、樹液を吸うコガネムシに自己同化していく眼差し、そのまま虫になって〈ぶーうぅーん。〉と飛ぶ群れの中に、自分自身も混ざっていくような、混然とした感覚、最後まで響く〈羽音〉・・・ 幾層にも折り込まれながら、オニヤンマの複眼に宿るある種の力、喰うものと喰われるもの(死に喰われる人間、も含めて)の関係性、自在に虫の気持ちになって空を飛び回るような少年期の想い・・・夕刻の〈アメジスト色〉に照らされている、記憶。 映つる、など、表記の疑問がありますが、よく練り上げられた秀作だと思いました。 (記憶)

2017-10-07

るるりらさん ありがとうございます、私が伝えたかったように伝わって嬉しいです。 私の好きな伊東静雄という詩人が、初期の頃は、ドイツの観念的な詩をそのまま直訳したみたいな詩とか、哲学書の一節抜き出し、みたいなものを書いていて、同人たちに「詩人ぶってる」「高みで笑ってないで降りてこい」みたいなことを、ガンガン書かれていました(笑) 当時の詩誌はすごいです。お互い、ボロクソに言い合っている・・・もちろん、伊東は他の人を馬鹿にするつもりで高踏的なものを書いていたわけではなく、本人が、そうした世界に限りなく憧れていた、からですが・・・ よくわからないけれど、すごいのを書いてるぞ❗という人や作品に出会うと、それこそ脳髄がぴきっとなるような感じで、うおぉ、あそこに行きたい~みたいになるのですが。行ってみたら更地だったとか、そもそもたどり着く手段がなかった、とか、対岸で指くわえて見てる、とか・・・ そんな感じにもなるのですが・・・レトリックみたいなものは、たとえば川を渡るためのロープみたいな役割を果たしたりするので、使いこなせるようにするのは、悪いことではないと思っています。もっとも、手持ち道具の品評会のようになってしまっても、喜ぶのは同業者だけ、なので(笑)やっぱり、その道具を使ってどこに行くか?何をするか?どう仕上げるか?ということなんだろうなぁ、と思いました。 (焼成)

2017-10-06

survofさん 湯呑みが割れた、という事実から、何か日常にぴきっとヒビが入ったような感覚があり、そこから何かが漏れ出していくような・・・自分自身の体も殻のようにぴきっとヒビが入って、溜め込んでいたものが漏れ出ていくような感覚があった、と思います。 最初の方は「勢い」でどんどん書いて・・・その後はロジックが繋がるか?ということを意識しながら書いていたので、前半は自然湧出、後半はひねり出しています。ぜんぶバレバレなので(笑) ヌード写真出すより、詩を出す方が・・・いや、まあ、これは冗談ですが。 (焼成)

2017-10-06

kaz. さん そうですね、すっと入ってくる詩と、くんずほぐれつ、になる詩と、ありますね・・・他の方の感想などとも含めて、この詩は、いかにレトリックを活用するか、というところに、かなり比重がかかっていたと思います。詩を学ぶ学生たちが読者の詩誌だと伺い、ちょっと肩肘はる、というか、しゃちこばって書いていたかもしれません。その分、勢いとか柔らかさが削がれていて、そこに皆さん、不満を感じる、ということなのだと思いました。夜は、もちろん時間的な夜と精神的な夜のイメージですが・・・夜中の窯の火の美しさとか、むしろそういう方向に向かった方が良かったかもしれません。 (焼成)

2017-10-06

Migikataさん 湯呑みが割れた、というところから、どんどん別方向に(内面に)進んでしまったので、物質性というのか、手触りからは、離れてしまったようです。Migikataさんの作品の、飛躍の幅が大きすぎて、ついていけない、なんて泣き言を言いながら、自分もやっているじゃないか、と苦笑しつつ。素敵な俳句をご紹介頂き、ありがとうございました。 (焼成)

2017-10-06

完備さん いやはや、お見通しですね(笑)ありがとうございます。使い慣れていた湯呑みが、ぱきっというか、ぺきっという感じで割れた・・・のは事実なのですが、これって何かの予兆?と思いながら、様々な事象と重ね合わせつつ、自身の内部の空洞と、自身が器になる、イメージを重ねつつ・・・と構造化して書いたものです。実はあまり推敲はしていないのですが、イメージトレーニングみたいに、何度も頭の中で湯呑みを割り直したので(笑) 当初のイメージが、何度も下絵を写し直して整えた絵のような固さになったのかもしれません。 (焼成)

2017-10-06

夜の航路、燃える星のイメージ、蟹のイメージ・・・ 賢治の銀河鉄道の蠍座の赤く燃える星のイメージや、会田綱雄の「伝説」などを思い浮かべつつ拝読しました。 ひとつ気になったのが、のりしろを重ねながら紙を貼り重ねていくように、前後の行で同じ言葉を幾度も繰り返しながら、少しずつ重ねるように先に進めていく進行方法。「やぐら」が登場するあたりから顕著ですね。 やぐらから、唄を歌いかける、祭りのような光景。その唄に反応する歌い手、そのまま(情熱の炎?)に燃え上がる脳。鮮烈なイメージですが、さらに、そこでは「選別」という行為が行われている。 燃え上がり、〈ひかりを持つ〉者となった人、あるいは、〈ひかりを持つ〉ことが明らかになった者は、やぐらに上げられ、島全体を明るませる存在となる。しかし、そうでないものは、いくら脳を燃やしたとしても櫓には上げられず、そのまま燃え尽きて死んでいく・・・。 燃え上がり、光を発している間はやぐらに上がり、燃え尽きて黒い煤になった者はやぐらから降ろされるのか、とも思ったのですが・・・全員が一度はやぐらに上がる、ということではなく、最初から「選別」があるようです。そこがなんとも切ない。切ないけれども・・・たとえば、何かの才能を持つ人々が集まり、情熱の炎を燃やし、コンテストなどで引き上げられる人々に脚光が当たる・・・そんな光景を重ねながら読みました。 (燃える島)

2017-10-05

鉱物が好きで、よく、科学実験材料のお店や、鉱石ショップなどに立ち寄ります。ミネラルショップ、という言い方があるのですね。ミネラルときくと、なんとなく栄養素のような気もしてきて・・・心の栄養素を置いている店、そんな印象を持ちました。 〈悠久の時〉という言い方は、なんとなくコマーシャルコピーのような印象もあって、使うのに抵抗がある言葉なのですが、化石とか鉱石には、本当にしっくりくる言葉だと思いました。 それにしても、〈鯨の耳石〉とは。いや、正確ではないですね。〈鯨の耳石と名付けられた商品〉・・・語り手が、え?クジラの耳石?そんなもの、本当にあるの?と半信半疑で手に取り、じっくり観察して、質感や外見から様々な連想、想像に誘われ・・・最後に〈静謐がひんやり染み込んでくる。〉という感動に至るまでの過程が、実に丁寧に、かつ無駄なく描かれていて、とても美しい文章だと思いました。 二連目も、学術的な解説(必要最低限の、絞り込まれた文章)から、一転して〈想像の川をくだり〉〈思考の網はゆるやかにひもとかれて流氷のささやきのままに誘われていく。〉思考が「わたし」という狭い枠から流れ出していく、その流出の感覚と、想像を働かせて川を下り、大洋に到り、最後はクジラが棲む南氷洋まで到る。地球を半周しているわけです。壮大な想像力の旅。 三連目で、また大きく転換して・・・なぜ〈わたし〉が〈耳石〉に惹かれたのか、その理由が明かされる。クジラの〈耳の穴はふさがり耳殻も持たない〉という「説明文」に、なぜ目が留まったのか。〈音の受動と伝達は骨伝導による〉クジラのコミュニケーション方法、音の「聴き方」が、なぜ強く印象に残ったのか・・・ 語り手自身が、片耳の聴力を失っていて、通常の空気の振動からは、音を聞き取ることができない、そうした来歴を持つ人物であるからこそ、クジラの音の「聴き方」、通常とは異なるコミュニケーション、その証しでもあるような耳石の質感に心が留まったのだ、ということが、寡黙な語りの中から明かされていく。 最終連で作者はさらに飛躍します。言葉、という空気の振動によって伝えられたり、文字、という表記によって伝えられたりする方法「ではない」方法で伝わっていくなにか・・・〈意味の裏側〉言葉が含意するもの。表に現れたものの背後に潜む思い。 クジラの泳ぐ南氷洋にちなんで言うなら、氷山のように空中に出ている部分が言葉、その海中に没している部分が想いや感情の部分であり、その海中に没している見えない部分、音、として聞こえない部分、〈はりついたままの沈黙〉、それを〈止むことを知らない喧騒のなか〉で、聞き取ること・・・それは、空中を伝わる振動ではなく、骨伝導で伝わっていくなにか、のようなものであるのかもしれません。わたしたちの「聴く」という行為の中にも、クジラの耳石のような、美しい石/意志が、生まれているのでしょうか。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-05

くじらが打ち上げられる。壮大な風景と共に、どこか神話的な世界が引き寄せられるような気がします。陸地が身を震わせる、という比喩が、すぐ続いて語られるから、であり・・・最終連で、またその「語り」がくりかえされるから、でもありましょう。 二連目で、〈わたしはまだココノツで セカイは、おろし立てのシーツのようで〉といきなり転換するわけですが・・・なぜかここで、授業中の子供の姿がイメージに浮びました。 国語の授業で、「くじらぐも」、という不思議な作品がありました。7歳から8歳くらいの子供達が学ぶ教材であった、と思いますが・・・ 〈言葉の溶接面にふれて その〈ねちねち〉を愉しんでいたりした。〉独特の感性。文字と文字が接続する。そこに、意味が立ち上がる。その質感に違和感を覚えたり、通常の意味ではない意味で捉えてしまったり(私は、たとえば咽喉から手が出る、と聞くと、実際にぬめぬめと濡れた白い腕が、喉から伸びて来る姿を思い描いてしまいます・・・こどもの頃は、それで息が苦しくなったりしました)そんな、異常なほどに「言葉」の喚起する「意味」に敏感な子供の心理を、大人になった「今」の時点で振り返っているような、そんな感覚の作品だと思いました。 〈言葉はとてもうれしそうで、〉この連から先、覚えたばかりの言葉が嬉しくて仕方がない、そんな気持ちで「手紙」を回しているような、そんな感覚もありますね。 〈雲が降りてきた…… 帰るころにはきっとまたドシャ降り〉このあたりは、授業中の「くじらぐも」の夢想と、現実の風景が重なっているような感覚もありました。 意味の飛躍を意図的に大きく取っている感もあり、解釈が難しい作品でもあるような気がしますが、意欲的な作品だと思います。 (潮音)

2017-10-04

二連目、〈蝶の死骸で埋めつくされたしろい部屋、〉白の連想からつながる雪原のイメージ、蝶と耳の形の相似、声を聞くということ、魂の飛翔のイメージ・・・そこに、雨燕、星蜂雀や蝦殻天蛾といった、文字のインパクトを持った「飛翔するもの」のイメージが幾重にも重ねられて・・・『邪宗門』を読んだ時の後味と、どこか同質のものを感じたりもしたのですが・・・〈苦い茎にうちつけられた海流の霊魂〉この飛躍には、置いてきぼりを喰うような感覚もありました。全体を流れる海のようなイメージが、伏線として置かれていれば、違和感なく入って行けたのかもしれませんが。さざめく声、から〈植物学のヴォカリーズ〉へと連なる部分は、違和感なく乗っていけました。博物館のように多様な蝶や蛾のイメージがあり、続いて、多彩な植物の標本のイメージに移っていく、そんな感覚。トロンボーン、いささか唐突ですが、音質と、途切れ目なく音程が変化していく滑らかさのイメージ、布、テクスチャーのイメージ・・・薄く覆うもの、のイメージ。その向こうに透ける〈ヴィシュヌの横貌〉には驚かされましたが、ギリシアから(同じ東洋の)インドにまで想念が至った、ということでしょうか。ひとつひとつの連が、無数の絵画で壁を埋め尽くした部屋を巡っているような濃度で描き出されているように思い、その豊かさや多様性に感嘆しつつ・・・盛り込み過ぎではないか、という印象も覚えます。 毎日一連ずつ読んで、一週間かけて読むことにしましょう。 (Sept Papillons)

2017-10-02

丁寧な詩行だな、ということを、最初に感じました。丁寧なのは、読者に正確に伝えたいから、でもあるのでしょうけれど・・・その分、説明的な感じ、文章量をもっと絞れるのではないか、という気持ちが、沸き起こります・・・。冒頭二連の、歌謡的な心地よいリズム。たとえば一連目の〈近場にも景色があったりする〉の行は、続く詩行で明かされていく部分なので、省けるかもしれないなあ、そうすると、すぐに二連に入れるなあ、とか・・・。 ゴーストタウン、ではなく、生活感はあるのに、人気のない昼下がり、でしょうか。古い家並み。そこに見つける〈無意味な傷〉そこに、物語を見出そうとする語り手。 その中に入っていく、ということ。怖いけれど・・・という部分、もっと掘り下げるなら、街の内部に入る、ということではなく、街の有している記憶、その物語の中に入る、ということでもあるのでしょう。 果たして〈僕を読んでくれたね〉という、僕の内面の物語を読む、イメージが重なって来る。 生活感はない、でも人気のない、寂しさや怖さもあって、無意味な傷がそこかしこにある・・・そんな街並みと、自分自身の内面世界(心象風景)とを、もっと重ねて描くことができたら、ガラス絵を重ねるように、より重層的な作品になったのではないか、そんな気がしました。 コンビニという場所、そこでは〈最適な構造は予測されてしまう〉。対して、古い町並み(あるいは自分自身の内部の街並み)では、答えが見つからない。この対比を鮮烈に打ち出す、のであれば・・・〈ふと視界は開けて〉の連を、もっと絞ってみる、とか・・・強調するところと、省略するところ。全体にメリハリがつくと、もっと鮮明な作品になると思いました。 (遠回りアフターウィーク)

2017-10-02

一連目、せっかくユニークなリズムで始まったのだから、二連目も 〈の事や物のほうが多い〉を 〈の  事や物  のほうが多い〉 なんて形に改行しても面白かったかもしれない、と思いました。リズムの反復。 〈見解もいて誘惑してくる〉いて、というのが楽しいですね。無数の「見解」が心の中の会議室に集まっていて、ああでもない、こうでもない、と円卓を叩いて議論している感じ。 〈ないより まし〉から始まる連、改行の仕方もあって、詩行の進行がゆっくりになるわけですが、それゆえに、この二連で同様の言葉を重ねていくのは、少し冗漫な印象を受けてしまうような気もします。 〈ないより まし~鍵であるのは間違いない〉ここの、自己断定というのか、自己判断の部分を隠して、次の〈ないより まし~その見解と添い寝する〉というユーモアあふれる比喩の連を続けるのはどうだろう、と思いました。 〈どんどん たくさん 日が暮れる〉この部分のリズムも、いかにも秋の日は釣瓶落し、そのスピーディーな感じが出ていて、いいですね。 (見解たち)

2017-10-02

古典的といってもいいような整った詩形。 正統派の抒情詩であると感じました。非常に洗練されていると思います。 〈うらやましかったよ/あがける羽を持つアゲハが〉 〈君はやがて、その空の中に沈むだろう〉 水面に映った、もう一つの空。空の反映、空の虚像・・・その虚である世界でなら、静かに「浮き上がっていくように」沈んでいくことができる。ジタバタ暴れることなく、静かに「天上に持ち上げられていく」ように、水底に沈んでいくことができる。それは、錯覚なのか?生きていること、それ自体が実は夢や虚像で、死後の世界こそが本当の生、そんな考え方も、古来から根強い。 苦悩にジタバタ足掻くこと。足掻く翅を持っている、ということ。持っているがゆえに苦しまねばならない、としても・・・と連想を広げれば、翅とは才能のことでもあるでしょう。もう、苦しまなくていい、そう蝶に呼びかける語り手の想いは、自身に反照する。静かに水底に沈んでいく蝶の余韻が、美しい映像となって残りました。 (「アゲハの水葬」)

2017-10-02

変更、した方がよいですか?〈僕は〉が、ない方が良いような気もしますが・・・。 〈それさえもできない それが描かれているのは美しい漫画の中の夜である〉それ、と二度繰り返す意味は・・・と問いかけて、漫画の中、という場の転換に、なるほど、と膝を打ちました。 〈落ち目〉とは、自身の落ち目、であるのか、政治活動に盛り上がる人々からの〈落ち目〉であるのか・・・活動に情熱を燃やすことのできる(自身の正義を信じたり、目標を明確に定めたりすることのできる)人々、その人々のいる「空間」から、カーブし、滑り落ちていく・・・そんな語り手の感じている想いが伝わって来るような気がしました。 スマホ画面に、文字(詩のもとになるもの)を打ち込みながら、消して、削って・・・そんな行為を繰り返す。そこから抜け出すことのできない感覚をうまく捉えているように思うのですが、〈文献〉・・・書物の山を思い浮かべつつ、スマホに文字を打ち込んでいる書き手と、文献の中でうごめく?イメージとの関係性が、私にはうまくつかめませんでした。 〈あれは魂削って書いているという感じではない〉魂を削って書く、という行為・・・ペンをガリガリ言わせながら書いているイメージが浮かびますが、削る、という物質的な言葉と、スマホ画面の言葉を消去するデジタルな感覚の齟齬。そこに面白さがあるように思います。〈あれは〉が、何を差しているのか(前段落の、政治活動にいそしむ人たちが生み出している言葉、のことなのか、あるいは、自分自身の行為を回想している、のか・・・)そこに解釈の幅が生まれる。 〈僕〉と〈私〉の不統一は、意図的なものなのかどうか。そこも気になりました。 他の方は、〈あれ〉を、どのように読むのでしょう。 (単調な旋律)

2017-10-02

〈外国人が巨大な電気と人のぐちゃぐちゃに入乱れる交差点をを動画におさめ、私は外国人が日本人とは違う笑顔を浮かべるのを見る。〉この一行で、渋谷のスクランブル交差点を想起しました。 Migikataさんの〈着想に文章力が追いつかないでいる〉というご指摘にも、うなづくところがあります。 冒頭、いわばプロローグの部分、本文の「語り手」がそのままプロローグを語っているので、若干、口話的というのか・・・擬音を繰り返したり、感覚的な表現が多くなったりする、のかな、と思いました。冒頭は、わりと淡々と事実だけを語る(脚本のト書きのように)ナレーターが事務的に状況を語り、外国人が~のところから、一気に語り手が(自身の見ている)幻想風景に読者を引きこんでいく。そんな流れを試みても良いかもしれない、と思いました。(あくまでも提案、ですが) (「おくわ団子」)

2017-10-01

上履きと画びょう・・・学校、そしてイジメ、そんな辛いシチュエーションを想像してしまいますが、そのシチュエーションそのものを吹き飛ばしていくような、破壊、崩壊・・・の鮮烈なイメージ。墜落、沈没船、と下降のイメージが続くのに、どこか祭りのような、吹き上げて行くエネルギーを感じるのは、文体のゆえでしょうか。〈汚れた足跡は私だけのモノ/他人のスニーカーを蹴散らせば/靴ひもの白蛇が呻く〉毅然として、猛々しく蹴散らしていくイメージ、〈鋼鉄の熱病〉、〈生地に刻まれた流星も爆ぜて〉〈爆ぜた情熱と這い回る電流〉といった、浮かされるような高揚感。内向していく感情を、むしろ外部に噴出させる、そんなエネルギーを感じました。 (トースターの夢、おしまいが来ない朝)

2017-10-01

三部構成、その一部が劇画のように突拍子もない設定になっている、その勢いに驚きながら読みました。アニメ風の赤い目の白ウサギがスタンプのように画像に貼り込まれていくような画面をイメージしながら読んでいたのですが・・・二部、そして三部のところを、そのままつなげていかないで、いったん明確に切って切り替えた方がいいような気がしました。二部の説明的な「語り」の部分を読むと、一部の「ぶっ飛んだ」感じが、その時の実感であるようなリアリティーを増してくる。読み進めていく過程での「見え方」「感じ方」の変化が面白かったです。 (回想タクシー)

2017-10-01

奇妙に「ごつごつ」したテクスチャーは、いったいどこから来るのだろう、と思いつつ拝読したのですが・・・ 意図的なものでしょうか、あえて同じ単語を、一見すると不器用なつまづきのような形で重ねていく。体言止め、動詞の終止形の頻用。さみどり、たばしる、この部分だけ、滑らかにすべり行くような、後はつっかえたり止まったりするようなギクシャクした文体・・・批評ではなく、感想に過ぎないコメントになってしまいましたが・・・。 蠅になって飛び回っているような、奇妙な浮遊感と共に読みました。サイバー空間のようでもあるし、解釈の川、という言葉に引きずられて、詩の空間に取り込まれているようにも思えますし。 多義的な空間は、複眼で捉えた空間に似ているのかもしれません。 (人でないもの総てがつながる勢い)

2017-10-01

森田拓也さん いろいろと思う事の多い八月でした。街の中に、突然生まれた空白、更地・・・何があったかすら思い出せない、記憶力の乏しさ。なぜかそこに、私が会いに行きたい人が住んでいた、そんな気がしてならないのでした(そう思いたかっただけかもしれません) はねひつじさん ありがとうございます。どちらかというと、文字を揃える、その型の力を使わないと、情景が描けない・・・単語の音が引き出してくれないと、その次に行けない・・・時に、書いた詩です。いろんな思いを、引きちぎってしまいたい、そんな時が、あります。 (夕立)

2017-10-01

survofさんのコメントを拝読して、いろいろ思う所がありました。 おそらく、この作品は、意味を語るものでもなく、物語を紡ごうとするものでもない。 その過程や経過を報告するものでもない。言葉が、存在を立ち上げていく、それは、いったい、どのようなことなのだろう、その問いを問わざるを得ない、魂の彷徨、その最中で出会った無数の想念を、丁寧にとらえようとしている、そんな作品であるように感じています。 初読して、オルフェウスの竪琴は、なにを呼び覚ましたのか、何を立ち上げるのか、と作者に問いたいと思いました。思いながら、何度か拝読しています。 他の方のコメントを、ぜひ読んでみたいです。 (Sept Papillons)

2017-09-30

フィオリーナさんへ 好意的に受け止めて下さって、ありがとうございました。ご返信を拝読しながら、いろいろ思い出したり、考えさせられたりしています。 〈「滅び行くという美」〉〈歴史的美〉について。思い出したのは、たしかベトナムのアーティストだと記憶しているのですが(名前を失念しました)描いた作品を、野ざらしにするのですね。そして、紫外線に焼かれ、雨に打たれて、朽ちていく、その経過そのものを、美として提示する。写真を撮って、その瞬間を固定することはせず、ただ、自然にまかせていく。獣が破いたりする、その偶発的な行為も含めて。 非永続的な美を、一瞬の美として固定し(殺してしまい)それをレプリカのように博物館や美術館に展示すること。そのアーティストは、そうした「変化する美」を「不変の美」として固定し、殺してしまうことを畏れ、避けたのだと思うのです。それは、最も美しい瞬間の愛する人を、その瞬間を永遠に保存するために、殺して剥製にして保管することと、どう違うのか。それこそ、比喩による極論ですが、そんな問いも喚起されますね。そして、フィオリーナさんは、そうした保存の仕方に、違和感を覚えておられるのでしょう。 美を感じる瞬間、その一瞬性と、非永続性・・・変化し続けるということへの想いがあるのでしょう。あえて、写真で「固定」しないことも含めて。その変化を見守り続ける心の中に、フィオリーナさんのおっしゃる、滅びゆく美へのヒントがある、と思うのです。 あるいは、茶器の美。芸術作品として作られたわけではない、庶民の飯椀として作られたものに、ある日、ある時、一人の粋人が「美」や「おもしろみ」を見出す。その器を用いて行われた茶会、その時と場が、その器の「記憶」として加えられていく。記憶は、物語ること、でもある。器の来歴は、歴史であり、ストーリア、物語、でもある。「器」の言葉は・・・たとえば、貫入にしみこんだ茶渋の色や、金継ぎの痕、時には、火災の煤痕・・・など、外見が無言で語るものは別として・・・受け継いできた人々の記憶、その人達の集合的な物語でもある。その集合的な物語が、ある日、ある時、一人の詩人の心を動かし、器そのものの記憶、として物語られ始める・・・それは、器の魂の言葉を、詩人が代弁した、と言えるのではないでしょうか。 歴史遺産が内包する、その歴史遺産に様々な形で携わってきた人々の集合的物語、記憶の集積を、物語ること。それこそが、〈歴史的美をふまえた新たな歴史遺産の創造に積極的に取り組むべきだと思う。〉というフィオリーナさんの結論につながる言葉、なのではないでしょうか。そして、フィオリーナさんが、作品創作を通じて試みようとしておられること、それこそ、物語る、という行為を通じて生み出される、新たな歴史遺産、なのではありませんか?・・・そんなことを、お伝えしたい、と思いました。 ( <歴史遺産>)

2017-09-30

アラメルモさんへ 大変重要な補足をありがとうございます。〈論文的記述が詩にならないという考え方は誤りだと思う。〉まさしく、おっしゃる通りだと思います。この点に関する言及が不足していました。 まず、成立した作品としての詩(poem)と詩情(poesy)とを、ゆるく分けておきたい、と思います。そして、アラメルモさんがおっしゃる「詩」は、この場合、詩情を強く感じさせる作品、という、大きな枠でとらえておられるように感じました。 実は、私もまだ、明確に定義できていないのですが、ビーレビューで言う「クリエイティブライティング」と、旧来の(口語自由詩100年の歴史の中で、漠然と形を成してきた)詩とは、重なるけれども、一致はしていない、と思っています。大きなクリエイティブライティングの円の一部にかかるように、「詩」(時に現代詩、とくくられる)小円がある。そして、クリエイティブライティングの大きな円の境界線は、まだ曖昧ではっきりとは見えない。いずれ、その領域が、ビーレビューという場の中から生まれていくのではないか。だとしたら、その領域が成立していく様子を見たい。そんな予感や期待を持って、このサイトに参加しています。 前置きが長くなりましたが、たとえば、リルケのロダン論は「詩」なのか。谷崎の陰影礼賛は「詩」なのか・・・形式だけを問うとしたら、まったくナンセンスな問いですが、私たちがこうした文章から刺激を受けたり、感動を覚えたりするとするなら、そこには詩情があるに違いない。それは広い意味での詩、であるだろう、ここで呼ぶなら、クリエイティブライティングであるだろう、と思っています。 そして、私たちが受ける感動の由来は、もちろん内容(思想、想像力、物語られる記憶、心象映像etc.)にもよると思いますが、同時に、文体であるとか、言葉の強度、音韻が生み出す情感、詩形(詩面)といった、視覚的、聴覚的要素にも多くを負っているだろう、と思っています。 アラメルモさんの〈あなたの色、あなただけの言語色をもう少し意識してみたら如何だろう。〉というコメントに、強く共感致しました。同時に、それは形式面での話にも通じるのではないか(文体や言葉の強度といった)部分に寄ったアドバイスでもあるように感じました。 そうした、文体そのものが醸し出す詩情が、抑制され過ぎているのではないか、ということが、フィオリーナさんの今回の作品に感じた、もどかしさの要因であろう、と思うと同時に・・・仄めかされている、フィオリーナさんの「詩情」の由来が、より強く表明されていれば・・・と、僭越な言葉を使うなら、不満を感じたのでした。 それは、詩情を装った、装飾過多な形容詞や修飾語を用いるとか、気取った言い回しや、気障なレトリックを用いる、というようなことではないはず、なのだけれども・・・。 ここから先は、フィオリーナさんへのコメントに引き継ぎます。 ( <歴史遺産>)

2017-09-30

小論文の模範解答の一例、のような印象を受けてしまうのですが・・・それは、意図的に、選択されたものなのかどうか・・・ 宇宙船地球号が、人類、のために作られたもの・・・そんな産業革命以来の人間の振る舞いが、少しずつ、共生の方向へ変化しつつあると思っています。 その、共生に至るためには、人間が欲望を抑える必要がある。理性による抑制が効果的だとは思いますが・・・そして、それは教育や学習によって可能なのかもしれませんが・・・他者への驚嘆やリスペクト、美への感動、未知への畏怖、そんな、非理性的な感情の方が、より強く、共生へと人を促すのではないか・・・ とはいえ、感情は片寄りがちですから、理性による制御も欠かせないわけですが。 開発、にあたり・・・ただただ、手を加えず、人が入り込まないようにして、保存する、という発想を取るのか? 保存されるべき対象の持つ、美や感動を与える資質が周知され、自ずから人間が欲望を制御して、自然保護や環境保護に踏み出す筋道をつけるのか・・・ と言った、もろもろの問題を孕んでいるとは思いますが・・・ あまりにも正論を淡々と抑制的に論理的に記しているので、語り手の感動の所在や、こうした発想に至る必然が見えない。 歴史的美や、美の思想の欠落、それこそが、話者が問題として投げ掛けたいものではないのか?そこを突いていく、抉っていくような鋭さがほしい、そう思いました。 ( <歴史遺産>)

2017-09-29

追伸。完備さんの評の、最後をきれいにまとめようとしている、そこに意識が行きすぎている、ということだと思います。この点に関しては、確かに、おっしゃる通りだと思います。 それまでは、どちらかというとひょうきんな言い回しで、腰抜け、馬鹿者、と自身を揶揄する、言わばピエロ的な形で描いているけれど・・・涙鳥まで行くと、いささか常套句過ぎるのではないか、という印象を受けます。 その涙を流したあとは、鳥は大きく育つ、と力強く締めている。その後に、虫の歌声が急に出てくるのが唐突な感じがあるのと、調べ、という雅語に持っていくところが、少し無理矢理な感じに見えてしまう、ということなのかな、と思いました。 (鳥×鳥)

2017-09-29

短歌調、の詩文と読むのか、短歌の連作と読むのか・・・駄目でしょう、まで言うのは、駄目でしょう(笑) だって、どこがどう「駄目』なのか知りたくなりますもの。 この作品で面白いなと思ったのは、様々な鳥に託した変奏になっている、というところと、諧謔。 俳諧ではしばしば重視されるけれど、伝統短歌ではむしろ避けられてきたおもしろみ、そこに、自分自身の姿を重ねているところでしょうか。 飛んで火に入る夏の虫・・・ならぬ、焼き鳥、それもこんがり炭火焼き(笑) 花の蜜あたりから、少し集中が途切れている印象もありました。リズムがまったく同じで、破格というのか、崩しがないので、長さが上手く機能していないのではないか?と思います。 (鳥×鳥)

2017-09-29

龍に乗って空を舞う。その「あいつ」への複雑な感情が、〈強張った表情の自分〉に集約されているように思いました。 リズミカルな繰り返しと、寓話的な設定。投稿欄などで競い合っていた「ライバル」が、俗にいう詩壇デビュー、を果たした時に・・・それを素直に喜べない自分が悔しい、と涙をこぼす人と、一時間くらい、無言で喫茶店に坐っていたことがあります。その時の気持を、思い出しました。 (龍の鱗粉を浴びる)

2017-09-29

誰もが一冊の分厚いノートを心の中にもっていて、そこに日々の想いを書きつけていく、わけですが・・・ その中のエピソードや一文を拾い出して、(他者から見て)自分に都合のいいように物語を綴り直す。 あるいは、自分の望んでいるように(過去の事象を)改変して捉え直す(自分自身が、それを受容する為に、受容し得るものとするために)そんな、目に見えない心の働きがある、ように思うのですが・・・ 黒髪さんの作品は、その折々にノートに記した一行を、そのまま(いじらずに)並べていく、そんな印象を受けます。実際にそのように書いておられるのかどうかは、わかりませんが。 共感したり沁みてきたりする一行がそこかしこにある、のですが・・・全体として、どうしても散漫な印象を受けてしまう。もしかしたら、あえて散漫なまま、断片の集積という印象のまま、提出しているのかもしれない。だとすれば・・・この詩を読んだ人の中に、この一行、この部分を読めてよかった、嬉しかった、ありがたかった、考えさせられた・・・そんな反応を掻き立てる、引き起こす。そのように「読まれる」ことを、詩が自ら望む、そんな在り方をしている詩なのかな、と思いました。 (変わる)

2017-09-29

まっすぐな思い・・・。そこに鮮烈に挿入される、赤と緑のイメージ。 このイメージを大切に守っていてください。 いつか、思いがけない形で、まったく別の(魂が叫ぶような)詩へと生まれ変わるかもしれません。 題名、涙に溺れる、は、そのまま内容を事前に示してしまっているので・・・〈ありったけの雨で〉溺れた、ここを題名にしてはいかがでしょうか。 雨に溺れて え?どういうこと?という導入につながるような気がしました。 (涙に溺れて)

2017-09-29

ツイッターで「三角定規詩」なんていう試みを見かけますが・・・ きっちり行末に一行を修めず、ただ形に嵌め込んでいるものもありますね。 やはり、この「かたち」に押し込める、そのインパクトですよね。 そのために費やした時間や工夫、その技術的な重積と、そのパズルのような試みに駆り立てさせた、表現したい、でもうまくまとまらない、でも伝えたい・・・という思いの強さであったり、「創作」への純粋な好奇心や楽しさであったり・・・それを共有する(気がする)面白さが生み出す感動や感心。 ひとつの「型」を設定することによって、必然的に生まれる制約が生み出す「思いがけない発想」を得られたり、「抑制した印象」「安定感」といったものを与えたりすることができると思います。 内容によっては、型にはめる「つまらなさ」「広がりのなさ」が全面に出てしまうこともある・・・ 「型」にはめるのであれば、その「型」の制約をジャンピングボードとして、自分でも思って見ないような予想外の言葉、が飛び出してくる・・・そこまで突き詰めていっても面白いかもしれない。そんなことを思いました。 (一生愛したい)

2017-09-29

まる、さんかく、しかく、ばつ・・・いったいこの作品は、どのように「朗読」されるものなのだろう、と興味津々です。記号が「表意文字」になったり「表音文字」になったりする、変幻自在ぶりが楽しいですね。 言葉は、意味を伝えるもの、なのか。記号、なのか、道具、なのか・・・もしかして、遊び道具なんじゃないか。 音を記号で表そう、この発明が、いったい、いつ頃、なぜ、どうして、生まれたのか・・・音が言葉となった、その時も含めて・・・答えの出ない問い。 「共通言語」でしか語れない、非共通の感覚。それを〈自らに問えよ〉と告げる、おまえたちにも問うよ、と告げる。 それが詩、なのさ。詩って、知ってる?(失礼、しました。) (マル:サンカク:シカク;バツ)

2017-09-29

三浦さんの〈現代詩のトレンドを知る前に、ホンモノの詩情を感じとる感性がなければならない〉に抗弁しますが(笑) この流れるような筆致の作品、思い出したように入る「かたりかけ」や「つぶやき」の絶妙なバランスと共に、書き慣れた手つきと自由な崩しが上手く響きあっていると思いました。 新鮮な息吹を感じる作品でした。〈なることも出来なければ吹くこともなく/そういえば散ったのでした〉こうした飛躍、植物や水といった自然のエレメントに還元されていく思考。 〈含まれた頬の膨らみ〉fの音の響きあい、そして、冒頭の〈奏法〉とも相まって、オーボエやクラリネットを思い出させる具体的な実感。〈道の上に舗装された道があって/その上には舗装された空気があって/たとえば/そこを幽霊が歩くのです〉観念的、イメージとしての道(人生とか、将来の道、というような)の上に舗装という抑圧。その上の空気ですら舗装されている、という、言葉のロジックが生み出す斬新なイメージと、空気ですら型にはめられていくような感覚。肉体という実感を伴わないまま、ふらふらとそこを歩き続ける幽霊は、わたしたちの分身でもあるのでしょうか。〈その歩調を音階で表してください/かごめかごめのなるような/後ろの正面の語彙は欠損して/それでもあるき続けるような〉語彙の欠損! 表現の不能、空白のイメージと、詩、うた、音楽・・・のイメージ、音階の持つ階段のイメージ。いくつものイメージが軽やかに重なりますね。 この連が、音楽でいうところのクライマックスで・・・〈秋と名づけられた季節が/風に吹き飛ばされて/花が降りますもうすぐ〉ここでまた、冒頭の〈そういえば散ったのでした〉が呼び戻される。 膝まで花に埋もれる・・・まるで死後の花野を行くようなイメージが、最後のコーダへと引き継がれる。 〈無重力から程遠い くるぶしからひじにかけての 道筋を旅人が歩いていきます〉 ひとりの肉体の中を歩む旅人のイメージもあり・・・全体に響く音が呼び出す音楽の女神、ムーサの〈くるぶしからひじ」へと歩みを進める・・・と読むと、たおやかな官能性をもたらすものでもあり・・・そこに 〈それを見送るしかない季節に 振動をください あたらしい指使いを 吹いて 新しい名を 息継ぎして〉 見事なエンディングです。新たな振動、刺激、そして新しい名(それは、新しい命、ということでもあるでしょう)彰から冬へ、そしてまためぐる春へ。命のさやぎが、奏でられていきます。 (そのつぎ)

2017-09-29

一連目のインパクトがズシンときました。アカツメクサの語感が生む、赤い爪・・・血塗られた爪、傷を掻きむしる指先、のイメージでしょうか。〈あしもとのアカツメクサの つぶらな露が 〉あ、と、つ、の音の連鎖。改めて音を聞くと、つ、という音の持つ引っ掛かり・・・鋭さが印象に残ります。 四行三連という形の整え方が、整理されたものというよりは、自然に生み出されたもののように馴染んでいるのは、行脚を揃えず、自然な呼吸で切って改行しているからかもしれない、と思いました。 へくそかずら・・・たしかに、独特の(カメムシみたいな)臭いがしますが・・・あんな可愛い花に、なんであんな名前が(笑) そういえば、シクラメンを「豚の饅頭」とも呼ぶそうですが、牧野博士が、あまりにそれは気の毒だから、と篝火草、という名前をあてていた・・・気がします(記憶違いかもしれません)。 〈海軍兵学校の島じゃったけど /こんどはオリーブの島になるそうな 〉オリーブは、ノアの箱舟が漂流した後、最初に届けられた希望のしるし。平和と平安の予感、災厄が終わる約束。兵学校からオリーブの島へ・・・今の時代だからこそ、静かに味わいたい一行。 こうだたけみさんも上げておられますが、〈毒と言う名 どくというな 〉ここが面白い。毒と言うな!という禁止にも読めますね。薬にもなるからこその、毒。葉はハート、花は十字型のドクダミ。 〈植物のようにやさしくなりたいけれど 結局 人は人でしか 癒されないから〉そう、ほんとうに、そのとおりです。 (三大へんな植物名の花(三篇からなるオムニバス))

2017-09-29

環状道路、環状線・・・ならばもちろん、始まりも終わりもない、わけですが・・・ 感情線と音が重なっていきますね。5or6さんがあげておられますが、 〈はじまりだと、思う は思っていないのかもしれない、夜 地面を掘りながら 汚い熱に絡め取られていくぼく〉韻を踏むような歌い出し。思わず体から出てきたようなフレーズだと思いました。 〈たぶんだが参考までに/参考までに/冷え切った空白〉とか 〈まだ世界を知らないのに、/空気を知らないのに、/窓と窓は知らずに〉このあたりは、少しずつのりしろを重ねながら貼り合わせていく、そんな「つなぎめ」をつないでいくような感覚もありました。 窓と窓がすれ違う、このイメージは、車と車がすれ違うところに由来するのでしょうか。目は心の窓、なんて言い方をすることがありますが、人と人とのすれ違いをも暗示させます。 最後は〈ぼくの背後にはまたぼくがいるから〉と連続して押し寄せる自分自身のイメージに追い込まれていく。始まりがない、終わりもない、環状の感情の堂々巡り・・・。 死(実際の死というよりは、観念的な、終わりをもたらすものとしての死)だけが、この無限ループを抜け出させてくれるもの・・・なのかもしれないけれど。その時には〈世界にもう環状はない〉世界にはもう、感情はない、のかもしれないけれど。せっかくですから、死/詩の無限ループの中に、身を投じてみませんか。 (環状道路)

2017-09-29

批評ではなく感想で申し訳ないのですが、思い出したのは、伊藤比呂美さんの『木霊草霊』の刊行記念イベントに訪れた時のことでした。出版社がエッセイ集、と帯文を付けようとしたのに対して、伊藤さんが、これは絶対に「詩」なのだ、と。そして、朗読するのを聞いた時、たしかにこれは詩なのだ、と実感したのでした。なぜ、ということが、未だにうまく説明できないのですが、内的な律動に添った、うねりのようなものが、詩文に現れていた、それが声にのって、こちらにまで届いた、そういうことだったのだろうと思います。 そのとき、伊藤さんが熟読していたのが「お経」でした。法華経、般若心経、その他・・・。 イヌって、一度死んだら、生き返りませんよね、と聴衆を笑わせつつ・・・木や草は違う。死んだ、と思っても、また生き返る、その不思議に惹かれている、そんなところから、命の巡りについての話に展開していったことを、鮮やかに覚えています。 なぜ、蝶ではなく、バタフライでもなく、パピヨンなのか・・・語感の持つ質感に加えて、その言葉が背後に負うイメージ、歴史性といったものからも選択されているようにも思います。続いて響く、ギリシア語の語感。その背後(借景)のようなものが捉え難い、そんなもどかしさと、明るい霧の中に迷い込むような心地よさを感じます。魂と結びつけるのはあまりにも短絡かもしれませんが、クリシェであるということを越えて、ひらひらと「中有」をさまようもののイメージ、音感、そして冒頭の立ち上がりが(いささか強引に立ち上げる)魂の遍歴、いのちのオデュッセイア、のような予感。 一連目、〈冬の睡り〉、永遠の眠り、あるいは平安を欲する魂と、〈水蛇の首〉〈水菜のそよぎ〉〈湿った襞に舌をはわせ〉・・・と言葉が連なって生みだしていく官能の予感が、〈書かれはしまい、幾度も幾度も書かれては消されていった曖昧な光景〉と否定される。あるいは記憶を辺巡る旅であるのかもしれない。言葉によって呼び出される、自身の、そして他者を経由して、体内に蓄積されていく記憶、そこから立ち上がる、曖昧な光景を、ひらひらと訪ねていく。次々に映像を結びかけては消えていく(消されていく)言葉(が立ち上げる、幻影としての存在)の間をさまよう、声。 ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に現れる、ウユララの声、を、いつも心の隅に思っています。いま、二連目以降を読み進める(ともにさまよう)時間がないので、また後で読みに来ますが、そんな声そのものが像を結びかけては消えていく(消していく)詩的空間の広がりを感じています。 (Sept Papillons)

2017-09-28

ボルカさんへ 更なる返信、ありがとうございます。(ヤコブソンでしたか・・・)レファレンス不足、ということ、ではなく・・・ 入沢康夫のように、註そのものもオリジナル、という手法もある、かもしれませんし・・・ 谷川俊太郎の「定義」のように、自明のものを既知の言葉で定義しようとすればするほど、曖昧に拡散していく面白さ・・・これは、一般的に了解されている範囲から、逸脱させよう、というベクトルがかかっているから、面白いのだろう、と思うわけです。その方向性が「詩」に向かっていくベクトルだとするなら、自説を通説として「偽装」し、一般的に了解されている範囲に、言葉の差す意味内容を収めよう、着地させよう、としている方向性(提喩とはなんぞや、というような部分ですね)は、どんなベクトルになるのか。「詩」とは何ぞや、と語るための手法を入手する、そうした批評、論文、と言うことができると思います。レファレンスが正確であるかどうか、詳細であるかどうか、ということを問題にしたかった、のではなく・・・ これから用いる手法に対して、読者にあらかじめレクチャーし、一般的な了解の範囲に読者を誘導した上で・・・いわば、気球のゴンドラに読者を乗せた、上で・・・その気球を空に飛ばして、この角度から見た場合、あの角度から見た場合・・・と対象を「観光」「観察」する。その体験をさせる。そうした行為そのものを主として描こう、としている、ところに・・・ああ、こんな「見せ方」もあったか、と驚いた、のだろう、と思います。(今、振り返ると。) 余談になりますが・・・私が美術史を学んでいた頃、既に「自身の感動から出発し、その感動の由来を他者に語る」ディレッタント的な手法は、アナクロニズムと扱われていました。主観的過ぎる、というわけです。そして、客観的な実証主義や、社会学や記号論を持ち込んだ、領域横断的な分析や解析を用いる手法が導入されていた、わけですが・・・実証主義的な手法では(わたしの場合)、「わたし」の「好き」の理由を語る、ことが、出来なかったのでした。これは空洞の周りをぐるぐる回っていて、いつまでたっても芯/真に届かないようなもどかしさが残る。 まだ、社会学などの方が「人の気持の出所」「思いの由来」といったことを問うことができそうな気がして、 作品が鑑賞されてきた折の社会学的考察、なんていう・・・時代の積層を重ねて、作品と人との関係の厚みを探る、なんていうことをやろうとしていたのですが・・・時代的な問題だけではなく、人それぞれの鑑賞を重ねていったときに生まれる厚みもあるわけです。 美術史ではアナクロニズム、といわれてしまう・・・(少なくとも、当時の私の指導教官には、そう批判されてしまった)ディレッタント的な手法・・・なぜ、私はこの作品に惹かれるのか、なぜ、私はこの作品を好きなのか。この作品はこんなに素晴らしいのだから、その良さをもっと他者に知らしめたい、それを可能とする言葉は、どこにあるか・・・というようなアプローチの仕方・・・この手法が、詩の世界では、堅実な批評、オーソドックスな評論、と言われて、否定されなかった。そのことが新鮮で、嬉しかったので、そのまま詩の方に居ついてしまった、わけですが(笑) 今回のボルカさんの作品では、「結果」のところに、特に「好き」の理由を語る、というアプローチを明確に感じたので、それを、単純に先に読みたかったな、という読後感想、であるような気がしてきました。掲示板の特性上、スクロールしながら読んでいくわけですが・・・「結果」に至るまでの道のりが、この分量だと多すぎて(すみません)読者の興味を引っ張っていく、集中力を途切れさせずに先へと運んでいく、ためには・・・註に追い込むとか、「目的」を補記のように後に回す、そんな方法もあるかもしれないですね、と思って記したコメント、だったように思います。 コメント欄で、いろいろお話しできてよかったです。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-24

survofさんへ 〈脱線していく有様、さらにいえば脱線することによって全体の意味が不明瞭になっていく有様そのものにこの作品が表現したかったかもしれない「感覚」が宿っている〉そこなのですよね。意味を解体していく、それを外から眺める、これは、観念的な思考が先に立った・・・いわば、文芸の可能性を極限まで広げる、というような、理念が先に立った手法、であるわけですが・・・それをやってみたい、あるいは、日々、感じている、という「感覚」を、表現しようとした場合にも、同様の手法を取ることになるだろう。理念が先行した手法と、結果的に同様の手法を取るに至った場合、の差異、について。 言葉を言葉で説明すること、これは、既知の言葉を組み合わせて行けばなんとかなる、わけですが、未知のものを語ろうとするとき、既知の言葉でしか語り得ない、という矛盾。自明の言葉で、自明のことを語る、その反復が繰り返される日常を描き出している、とも見える前半部、それに対して、実際に水槽の中で、魚が泳いでいるような視覚効果を持たせた、夢の叙述の部分・・・既知のものを既知の言葉で語る、それが標準化している世界を描いた前半部と、未知のもの(いわく言い難い感情)を、語ろうと苦悩する後半部、どちらに詩へ至る道があるのか、という、問いかけでもあるような気がしてきました。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-24

森田拓也さん あえて型にはめる、というのは、パズルを楽しんでいるような感覚でもあります。その楽しさも伝われば面白いな、と思っています。よく、この語尾で収めたな、自分だったら、ここはこの言葉を入れるな、というような読み方をしてもらってもいいかな、などなど。 (奏楽)

2017-09-24

浴槽で、様々なことを「考察」している、わけですが・・・ 〈その生命のわたあめを 地軸の回転が産み出していて 廻りながら眠る私〉 このユニークな三行が、この実験から発見された、発案された、そんなイメージで読みました。 前半部分、語り口に流れがあり、呼吸を伴った文体となっているように思います。 旧式の湯沸かし特有の温度差をかき混ぜる、という体験と、地球上の熱運動、という知識とのアナロジー(急にあまりにも大きな世界へ想念が飛ぶので、知識の上だけでの整合という印象にもなってしまいます)、そこから最後の三行への飛躍・・・飛躍部分を、もっと膨らませることができたら、より面白くなった、ように思いました。 (お風呂をかき回しているうちに、入道雲が沸き起こる幻影の中に自身が取り込まれて、自分自身がわたあめのようにかき回されている体感を得る、というような・・・) (小さな実験)

2017-09-24

〈ご婦人のふくらはぎ〉に見入る視線と、〈焦がしにんにく〉が醸し出す欲情・・・西日が、ふくらはぎにあたる。それを、西日が食んでいる、と感じる語り手の視線。強い性の欲望というよりは、犬が遊びで噛むような、戯れに似たかるい欲情の生起を一連に感じました。 〈群がる蟻んこの隊列 ピューラックスに希釈されるせいかつ 隠したままの表札〉 この脚韻的な軽さが面白いですね。消毒液で消毒されていく生活、それは、ふと浮かんだ欲情や、個人の名前、個性、そうした諸々を希釈していくような生活、ということでもあるのでしょうか。 その、希釈され、消毒された日常、を、突き破りたい(破壊したい、ということではなく)そんな意志を込めたようなげんこつ、その強さを感じました。 (餌やり)

2017-09-24

硬質なメタファーが、ほぼ一行ごとに連続していて・・・これはいったい、何を伝えたいのだろう、難しい、と思いながら三浦さんの評と、ウエキさんのレスを見て、はあ、そういうことか、と了解しました・・・理解した、とは、言えないですが。 (青年空間・瞬間少年・愛撫)

2017-09-24

結婚が半年で破綻した、語り手、という設定、でしょうか・・・姪っ子の結婚が上手くいかなかった、というシチュエーションを想像しかけたのですが、途中で〈誘拐沙汰になる前にマミーに電話した〉と出て来るので、小学校高学年くらいの、しっかりとした少女を想起しました。精神科医と会う、という「日常」と、結婚生活が破たんした、という「日常」とが、いささか未整理なまま詰め込まれている印象もあります。 覚えていない詩とドローイング どいつかが勝手に売った プライベートな日記と変わらない それを買った人間が自分の価値を正すために値踏みした 馬鹿げた話だ こうした批評的な目線と、〈今度は芸術家をやればいいだけ〉という、ある種、捨て鉢な言い方で詩を書く自分を肯定するような視線との絡み合いが面白かったです。 (ヘドロ)

2017-09-24

一度抱いたことのある女は、群衆の中ですれ違ったとしても判る・・・と洲之内徹が書いていたことを思い出しました。 ギリギリの緊張感の中で「そばにいる」状態と、一度肌を合わせた後の、両者を隔てている透明な幕、あるいは薄いガラスの壁、のようなものが失われた、共有空間のようなものが生まれている状態と・・・。 すれ違った際にも、そんなある種の親密さというものが、ふたりの間にはきっと、漂うようになるのだろう、と思います。 その感覚、質感のようなものは、あるいは親子の間に通う感じ・・・肌がふれあうほどにそばにいても、いわゆる「ドキドキ」や「ときめき」はなくて、馴染む感じ、懐かしい感じ、に近いかもしれない。そんな空気感の中で、ふっと感じる淋しさ、うとましさ、のようなもの。 家族的な親密さで、「心配してるんだからね」と入り込んでくる、傍若無人さ。迷える羊である自分を導く存在(希望)は失われている、そんなぽっかりと空間の開いてしまった、日曜日。 特に好きでもない、のに、引かれるように(自身の洋服を引きずりながら)その女のところに行ってしまう語り手、「たすけてあげる」と平然と言う事のできる、女の生命力、ある種の図太さ。 学校での陰湿な虐めを発端とする、心理的な病を得ている、それゆえに生命感や生存エネルギーが希薄になっている語り手と、健康そのもの、のような女性(村山槐多が描く、逞しい女性像、のような)が、対比的にではなく、並列するように描かれている、そんなイメージがありました。 図書館で記している日記、というシチュエーションの暗示、なのか・・・〈於:/田切町立図書館〉の効果が、いまひとつ、腑に落ちませんでした。最後に記すなり、最初に記すなりした方が、シチュエーション設定(であるならば)としてはよかったのではないか、と思います。 ボルカさんも記しておられますが、最後の一行、むりに伏字にしたことが、うまく機能していないように思います。女の生命力、日常力のようなものがくっきりと出ている〈マーガリンとジャムを塗った/しょくぱんなんかを/たべたりしてるんだ〉この行で詩を締めてもよかったかもしれません。 (日記)

2017-09-24

こんな良い作品に、なぜ、コメントがついていない! まず、いいこ、という題名。あなたは「いいこ」ね、と誘導されていく。あるいは、「いいこ」でいれば愛してもらえる。周囲に馴染める。そんな「いいこ」になろう、「いいこ」でいよう、という意志と、その意志に抗う感情の葛藤を予感させる題名でした。 裏切らない冒頭一行目。驚きがあります。 飲み込んでいく数字とは、なにか。点数?偏差値?ポイント?感情を数値に換算していくような不気味さ。 〈たくさんの花が根を生やして たくさんの毒をあずけていて けれど数字は浮き上った〉その数字が、体内に流れ込んできたあとに芽吹く不気味さ・・・。その不気味さを実感している語り手。〈亡くしたものだけが美しく見えたりも/した〉無くしたもの、ではない。もっと強い言葉。永遠に不在とさせられたもの、愛する者を失う、その喪失感に匹敵する「亡くした」。 僕、と、君、との関係性が曖昧ですが・・・僕、がもう一人の僕(君)に「数字」を飲ませる、口から泡を吹くように吐き戻されているのにも関わらず、それでもなお、毒となって花開く数字、を、飲ませ続ける・・・僕。 僕、と男性のイメージで語られているけれども、御受験期の(父性的な権力を持った)母と、その息子、娘、との関係性。 企業であれば、ノルマ、という数字に人間性を蝕まれていく同僚や部下と、それを強いる自分、である僕。 最後の〈数字に触れる手が/樹々の透明になるといい〉ここに、浄化への切ない願いが、美しく歌われていると思いました。 (いいこ)

2017-09-24

〈私が言いつのったのはそのときが最初だった。それからしばらくして、風景が不意にやさしくなった。〉この部分に、詩がある、と感じました。それまでの散文部分は、この一行に到るための助走であろう、という気がします。 助走部分を、もう少し内的リズムに乗せて(もちろん、~た、~た、という、脚韻的なリズムや、否定の繰り返し、畳みかけによる心理的効果はありますが)物語るようにすると、もっと凝縮された作品になったような気がします。 たとえば、〈当時私は記憶力に障害があった。〉というような部分、飯島耕一の『ゴヤのファースト・ネームは』(心理的危機にあったときに綴られた詩です)  外国に半年いたあいだ  詩を書きたいと  一度も思わなかった  わたしはわたしを忘れて  歩きまわっていた  なぜ詩を書かないのかとたずねられて  わたしはいつも答えることができなかった。 わたしはわたしを忘れて・・・音韻的な美しさや、意味の濃度、など・・・が、あるいは参考になるのではないか、と思いました。 〈初めての海外旅行で、パスポート、ヴィザの取得をはじめとする様々な手続きを、〉というような部分も、徹底的に叙述的に語る、のではなく・・・初めて、の事柄であれば、それはクッキリと記憶に刻印されるはずなのに、それがぼんやりとすり抜けて行ってしまう。他者が行っている行為のように、行為を行う自分を見ている私、がいる。 そんな状態を、簡潔に記すことができれば・・・その時の心理的インパクトが、散文的叙述の中からも伝わって来るでしょうし、そうなると、冒頭の散文部分が、単なる叙述的な説明ではなく、冒頭から「詩」である、ということになっていく、のではなかろうか・・・と思いました。あくまでも、私の個人的な詩観であって、ひとつの提案に過ぎませんが・・・。 (【赤いコート】)

2017-09-24

〈この街の朝焼けはもう二度とみたくない アスファルトに根っこが生えたまんま立ってたら ぎゅうぎゅう詰めのビルの悲鳴がきこえてきて シティポップで上書きしようって〉 この四行が、とても際立っていると思いました。「根が生えたように立ち尽くす」というような言い方がありますが、それを文字通りの実感で捉えている感覚。もともと、感覚をベースに比喩を生み出す、のに・・・その比喩が感覚を呼び戻すようなところが、とても面白いと思います。ビルの悲鳴が聞こえる、という感性。それを、上書きしてしまおう、という「軽さ」・・・ ここまで書いて、なるほど、前半の歌詞のようなフレーズは、「シティポップ」なのだ、と思いました。 思いつつ・・・いささか、歌詞に寄り過ぎている、という印象もあり・・・そのときの感情を、解き明かすように歌うと、やはり、歌詞のように聞こえるのだと思います(もちろん、歌詞が詩ではない、ということではないのですが) 先にあげた四行のような、鋭く自身の感覚を掘り下げて行く、突き詰めていく、その過程で生れる言葉に、その人のオリジナリティーが際立ってくるのではないだろうか、と、考えています。 (中央特快)

2017-09-24

ボルカさん ご返信ありがとうございます。対話の始まる場所になって来ていることが、本当に嬉しいです。 私のコメントを読み直していて、「これは、批評というよりは、感想、ですね」ここの部分なのですが、これは私の発言に対してのコメントでした。 ボルカさんの作品は批評ではない、ということではなく(それは、文脈から理解していただけると思いますが)私が書き込んだ返信が、批評というよりは感想で申し訳ない、という意味でした(笑) 言わずもがなの補足です。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-23

作品を批評するとは、どんなこと?という問題・・・批評とは、いかにして生じ、いかにして解析され、いかにして展開されるか、という・・・批評の思考手順の腑分け、として拝読させていただきました。いわゆる、メタ論に当たる、のでしょうけれども。 自分は、これが好きだ!・・・という直観を、説明しようとすればするほど、迷路にはまっていく。色々な人の、説得力のある「説明」「解釈」「定義」を渉猟し、再構成し、なるほど、自分はそれゆえにこの作品が「好き」なんだ、と納得する。こうしたプロセスを文字化する行為は貴重である、と考えます。 同時に・・・ボルカさんの誠実さであろうとは思いますが・・・他者の意見、考察の引用、参照が、いささか多いのではないか、という印象も持ちました。 学術論文的な・・・他者を論破する為に収集された他者の言葉(それもまた、別の引用典拠、各々別個の、体験的背景、経験値を持つ)が、緒言に置かれる、ということ・・・その構成の問題というか・・・結果、の部分を「作品」として提出し、その他の部分は註や補記に追い込む、という手法もあるのではないか、と感じました。それは、パソコン画面をスクロールしながら読む、という、デジタル媒体をアナログに変換していく際の、興味の持続時間、集中力の持続時間、ということも含めて・・・ 私が考えていた(他のビーレビュー運営メンバーは、どう考えるか、わかりませんけれども)批評、というものは、具体的、個別的作品と読者が接した時に生じるスパークのようなもの・・・内部に起こるざわめきのようなもの、あるいは、作品と自己との間に生じるさざなみ、そこから外部へと広がっていく波動、のようなもの・・・を、他者に伝わる(そして、自分の腑に落ちる)言葉に変換して、提示する、というものだと、漠然と考えていたので・・・ボルカさんのこの作品には、いわば虚を突かれた、と言っても過言ではありません。 ここまで、「批評」空間を拡大していく、そういう・・・想定外の作品と出会うことができる。その驚きに感謝しつつ・・・やはり、「結果」の部分を、まず、冒頭に出す、という提示の仕方もあるのではないか、ということと、他者の思考回路をそのまま例証、傍証として前面に出すのではなく、そこをご自身の言葉で(もちろん、私が用いている言葉や思考、それとて、ほとんど他者や過去の歴史から学んで得た、引用に過ぎませんが)展開していく、という手法を、試してみても良いのではないか・・・という印象を持ちました。 これは、批評というよりは、感想、ですね・・・繰り返しますが、虚を突かれた、という「思い」が、拝読した際に最初に感じたこと、でした。ありがとうございました。 (歌詞「TOKIO」について(批評))

2017-09-22

言葉を「自分にとって」正しく、明確に定義する、ということと、その定義を一般的に流通している意味(平均化された意味、時間的、歴史的に淘汰されてきた意味)に近づけていくこと・・・その差異について、考えています。 いわゆる標準化された意味、に、できるだけ近づけていくことによって、言葉の汎用性を高めていく・・・ことは、言葉を「意味」を伝える手段、として用いることである、と考えます。 詩とは・・・あくまでも、わたしの考える、詩とは、ですが・・・自分にとっての真実、自分にとっての明確さ、を、ありとあらゆる手段を講じ、ありとあらゆる工夫を尽くして、「他者」に伝わるものとして提示する、ものではないのか。他者にカッコをつけたのは、具体的な読者(あの人に読んでもらいたい)ということもあれば、未来の自分や過去の自分に伝えたい、という場合もあろうし、不特定多数の、いつの日にか出会う(はずの)読者を想定している可能性もあるし・・・もっと極端な例としては、神、あるいは詩神、と呼び為されてきたような、そんな抽象的な存在を想定している場合もあるだろうから、ですが・・・ 自分の個別体験をできるだけ標準化した言葉によって定義しようとする中盤部分を、どうとらえるのか・・・。ここで、私は立ちどまっています。水槽に閉じ込められ、鑑賞/干渉/感傷されるために購入される日を待つ(その運命を永遠に知ることのないまま)熱帯魚たち。その「目的」(勝手に人間が措定した目的)を果たさないまま、死んで排水口に流されていく魚たち。その色とりどりの色彩、その魚たちを消去/廃棄する時に、心の中に生じた、得体のしれない、言葉にし得ない、なにか。 それが、冒頭の「生活」を巡る連呼であり、〈感世界の中の襞〉から続く一連・・・めまぐるしく脳裡を過ぎていく、外部からの情報および、内発的な思考、解釈不能ながら、自分の「気にかかった」「意識にひっかかった」手がかり、のような言葉やフレーズを、解釈をせぬまま並列してみた、という一連・・・なのであろう、と思いました。 その後の、まみず、さみず、〈GNP拡大のために寄与する部分を俗に言う語〉を巡る「解説」部分は、冒頭の「詩」が思い浮かんだ背景を自ら探り、定義する部分、なのでしょうけれども・・・その先、一般的に了解されているはずの単語を、一般的に了解されている意味で使用していることを、わざわざ反復的に解説する、この・・・一見すると脱線部分が、作品を膨らませている、豊かにしている、と考えるのか、どうか(私には、その脱線によって、淡水、熱帯魚を巡る思考という本来のテーマが、真綿でくるまれるように曖昧にぼかされていく印象があり、その真綿の質感の方に意識が削がれてしまう、そんな不満を感じたのでした) わざわざマルカッコに入れたのは、いや、むしろこの部分こそが、主眼なのだ、と言われた場合のことを考えたのですが・・・もし、この部分が「主」であるなら、私が考えている、個別的体験から「詩」を取り出していく、生み出していく、方向性と、真逆のベクトルを取っているように思われてならない。つまり、個人的に感じ取った「詩」を、一般的、標準化された言葉へと解体していく行為、であろう、という・・・その軌跡を見せられている、感覚になります。 詩の解体作業、というべきか。 うまく評としてまとまりません、他の方の意見も聞きたいです。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-22

おしろいばな、と、白粉をはたいた女性、のイメージを重ねている、のでしょうか・・・。 べにかたつむり、まんだら・・・一昔前の下町浅草、着物の女性、そんなイメージが浮かぶ作品でした。 (寂光)

2017-09-21

シンデレラシンドローム、という「病名」が話題になっていた時がありましたが・・・ ひとりの人を追いかけ続けて、見果てぬ夢を見続けて・・・そんなロマンチックなイメージで読んでいたのですけれど、〈何人の幸せを祈ったとしても〉ここで立ち止まりました。なんぴと、と読むのか、あるいは、なんにん、と読むのか。ひとりの人、の幸せを願い続けた、ということではないのか・・・う~ん。言葉の軽やかさのわりあいに、イメージするのが難しい作品でした。 ぴったりの硝子の靴、のイメージと、何足も穿きつぶす靴のイメージ、その落差に切なさを思いました。 (シンデレラストーリー)

2017-09-21

〈アーク溶接の激烈な閃光〉この立ち上がりのインパクト。溶接作業の合間の、缶コーヒー。そんな情景が一行目から立ち上がります。面白いなと思ったのは、二行目・・・〈胸の膨らみ〉だけでは、女性とは限りませんが・・・女性の溶接工?という、なんだかカッコイイお姉さんを思い描きました。 燃料タンク、高速回転するドリル、〈穴から螺旋状に生まれてくる/アルミニュウム片〉汗くさいような、男の職場、のはず、なのに、なぜか艶やかなイメージを伴うのは、やはりそこに〈秋風が穏やかな匂いを運んできた。〉以降の抒情のゆえでしょうか。 (午後)

2017-09-21

詩歌、という言葉がありますが、詩だけではなく、短歌も楽しんでおられる方かな、と思いながら、楽しく拝読しました。〈知識のワイン〉面白いけれど、ちょっと観念的かな、とか・・・万能感、と一言で締めてしまうのではなく、その万能感って、たとえばどんな感じ?この広い海は、全部わたしのものよ、みたいな感じなのかな、とか・・・歩いている道で、すべての道端の花が、笑いかけてくれる、ような感じなのかな、とか・・・腕を振るうとモクモク入道雲が沸き起こる、そんな感覚なのかな、などなど・・・「おばあちゃんがくれたおまんじゅう」このあたりに、『ラチとらいおん』という絵本を、ふと思い出しました。守り神のように、そばにいてくれる、相棒。そんな、おまんじゅう。 (18)

2017-09-21

ひたひたと押し寄せて来る気配・・・部屋が水で満たされる、のはともかく、〈水が部屋で満たされる〉言葉が先に生まれたのか、感覚が先に生まれたのか・・・ここで肌が感じている質感は、部屋が感じる質感でもあり・・・部屋は個体の境界、cell(細胞壁)の感じる境界を暗示するものでもある、のでしょう。胎内回帰願望、そこで人ならぬもの、にまで還元され、そこからまた新しく生まれ出る肉体を幻視(幻覚)しているのでしょうか。言葉の陶酔的な連なりが印象に残る作品でした。 (夜に狭い部屋の中で)

2017-09-21

カタカナのホンモノ、は、まだ得られていない理想、のようなもので、漢字の「本物」は、ホンモノ、を手にした、と「確信」した後、の実感なのかな、と思いました。 本物、もしくはホンモノ、が連呼されていて・・・それだけ、切実さが伝わってきますが、たとえば繰り返しの面白さや心地よさといった音感を目指した連呼ではなく、意味を提示する、提示し直す、提出し直す・・・ための連呼、ですよね・・・まだ得られていない「ホンモノ」は、なんだろう、どんなものだろう。 それを手にした、と思ったとたん、「俺は本物だ」と発言権を得てしまう。その姿こそ、偽りなのではないか。思い違い、勘違い、なのではないか。その、贋物のホンモノを入手した、と喜んでいる者たちにくらべて、真摯にホンモノを問い続け、そのことに疲れて倦んで、カッターを手にしてしまう語り手の真情に共感します。 共感するけれども・・・探し続けるからこそ、同じところに留まらないで、言い換えていく、読み替えていく、ずらしていく。そうすることで、「投獄」されている、と思っていたけれど、実は扉に鍵はかかっていなかった、なんてことに、気づいたりするのではないか、と思いました。言い換えていくのって、すごく新鮮ですよ。 (供述)

2017-09-20

今更ながら、ですが・・・ 花緒さん 〈グルを否定したり、グルの範囲を逸脱することから、表現が始まるのではないか〉ガツンとくる一発、ありがとう。最近、とみに思うのです。物差しを、他者に頼り過ぎてはいないか、と。 Migikata さん 〈自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています〉平田俊子さんという詩人とお話しした折・・・自分が辿りつけそうな、そのさらに先を見てみたい、とおっしゃっていたのが、印象に残っています。映像が先に浮びますか、言葉が先に浮びますか、と問い掛けたら、どちらでもない、一本の木の中から仏像を彫り出すように、彫刻のように、言葉/イメージを掘り出すのだ、と。その、先へ、という、詩論。手ごたえのあるものを、という、詩論。 三浦果実さん あなたもまた、直感/直観の人だと、常々思います。〈破壊してはならぬ、あるいは、失くしてはならぬよう、最低限の批評とする為の努力なように思う。詩を前にして、本当は黙っていたいのだ。きっと。〉よいものを前にして、黙る他ない時の方が、人には多いのではないでしょうか。でも、じーん、と痺れている。そのしびれを味わいたくて、詩を探しているのかもしれません。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-09-20

〈でも 私が読み終わり 遠く 水平線に眼を逸らすまで 新聞記事は いつまでも 数字の視線の高さで 影のように  血のように 私をみている〉 このくだりから、数字、ではなく、名前、を刻む、という行為へ至る流れ、そこに・・・数字、という無機物の背後に、血肉を持ったひとりひとりの人間の姿を切々と感じている、見られている、と感じる、鋭い感性を感じました。 二連目の「アサガオ」の部分は、若干、観念的かな、という印象も受けましたが・・・名付けることによって、そのものとなる、名付け、という行為の神秘。 三連目、〈私の眼のなかで 笑っている/一組の家族 稲を刈る農夫たち〉と、〈私の耳のなかで/熱気をあげて 海の魚を待つ人たち〉・・・踏みつけられても逞しく繁茂する西洋タンポポの繁る大地と、〈だれもいない街〉・・・目について離れない、耳からあの声が・・・というような言い方はしますが、この作品では、語り手の眼の中に、耳の中に、まるで住んでいるよう。こうした、理屈ではあり得ないけれど、言葉の論理ではあり得る断定、こうした作者の「独断」こそが面白いのですよね。面白い、と書きましたが・・・眼、耳の中に、くっきりと住まう存在である、数字、ではない、血肉を持った存在に還元された死者。〈番号を付けられた 木棺のなかの/きみたちは いつも 熱狂的だった〉と急転する部分ですね。それから、死者たちが、本来座るべきだった席・・・を思わせる、〈片づけそこなった 椅子が/山積み〉のフレーズ。 四連の、渡り鳥のイメージと、死の国へ旅立っていく死者たちのイメージ。 五連、が無くて(ここにも、大きな空白、透明、がありますね・・・)六連、語り手の眼には、くっきりと見えているのに、スマホで撮ると、写らない。他の人たちの眼には見えない少女、語り手にだけ、見えている少女。その少女に、知り合いの名を付ける・・・つけると、付けられた者は、その者となる。語り手には、その知り合いの女性、として立ち現れて来る、のかもしれません。 〈私は 知っている在郷の詩人の名前を 紙に書いて 海鳥の足に結び付けた〉ここは、詩人の想いを、死者の元に届けてほしい、ということ、なのか・・・誰もが、いつ、死者となるか、わからない、ということ、なのか・・・他の方の評をぜひ伺いたいと思った部分でした。 全体に、分断されたイメージが連なっているように見えるのに、語り手にだけ、くっきりと見えて来る死者、あるいは、語り手によって、名付けられ、そこに「在る者」「いる者」として確認され直す死者たち・・・という首尾一貫したイメージで統合されている。分断と統合、その飛躍の具合とか、読者に手渡すときの可読性の問題、そこが難しい作品でもある、と思うのですが(特に、二連の観念論的な部分)コメンテーターが既に軒並み、良い、と評していますし・・・読むのが難しい作品であるとは思いますが、読者にしっかり、手渡されていく作品である、と思いました。 (透明な統計表)

2017-09-20

『はくちょう』という絵本があって・・・なぜか、それを思い出しました。 内田麟太郎が文を、いせひでこが絵を担当。 傷ついた白鳥を、池が守って、傷を癒しているうちに・・・池は白鳥に恋してしまうんですね。 仲間を追って飛び去っていく白鳥を、思わず池は追いかけようとする。 最後は、実はハッピーエンド、なのですが・・・その手前の、切なさマックス、という部分の映像と、本作の中で描かれる鳥(のいなくなった後の空白)が、重なりました。 (リトル・ムーヴメント)

2017-09-20

女性の語り手、という設定なんでしょうか。実際に作者がフィジーに行ったことがあるのかどうか、ホームステイ先で、このような体験をしたことがあるのかどうか、そこは聞いてみたい気もしますが・・・ 第一連目の、「ケレケレ」を拡大していくと、論理的には〈わたしはあなたのカバンを勝手に開けて、あなたのハンカチで鼻をかんでもいい〉し、〈わたしの財布を勝手に開けて、わたしのクレジットカードであなたの好きなマウンテンバイクを、15回払いだかリボ払いだかで買ってみたところで、わたしには怒る権利なんかない〉はずなのに、カバンからハンカチ、ここには違和感を覚えないのに、クレジットカードのくだりには、非常な違和感を感じる。それはなぜなんだろう、という、そこからまず、問いを突き付けられる感覚がありました。物、のやり取り、気持ち、のやり取りで間に合っている範囲と、金銭、という抽象的なものが介在した時の相違。 言葉同士のやりとりだって、等価交換なんてありえない、わけだけれど・・・気持をもらって、気持ちを返して、というやりとりが成立するのは、なぜなんだろう、とか・・・それを、金銭に換算されてしまった時の、虚しさとか哀しみの由来は、どこにあるのか。逆に、働く、という行為が金銭に換算されることの喜び、その由来は、どこにあるのか・・・ 〈サンタ・マリア・ノヴェッラ〉の〈オーデパルファム〉この小道具が、なんとも効いていますね。 私はセレブの好むブランドなどには疎いので、イタリア美術を専攻していなかったら、このブランドの持つ意味合いが、よくわからなかったかもしれないです(笑) 急成長したブランドや、成金ブランドが作り上げた「高級品」ではなく、歴史ある老舗の、いわゆる「ほんもの」の香水。それゆえの金額の高さ。つまり、金額に内容が釣り合っていることを、本人が納得していて、それゆえに、高価であるにも関わらず、語り手はバイトしてようやく手に入れた・・・と考えると、語り手は「香水」や、「高級品」が欲しかった、のではなくて、「ほんもの」を手に入れたかった、ということなのだろうなあ、と思いました。 他者のものだから、乱暴に使ったり、余分に使ったり、無駄に使ったりする。逆に、自分のものは、大事に、倹約して使う。これこそ、資本主義先進国、の「文明」に毒された者の意識、なのかもしれない。他者のものであっても、自分のもの、であっても・・・そもそも、みんなのもの、であって、私有、の明確な概念がないからこそ・・・すべてのものを、大事に使う。 香水を、個人の為に使う、のではなく、みんなのため、に使う・・・〈おばあちゃんの家に撒いたら、みんなすごく喜んだ〉このフレーズですね。皆を喜ばせる、そこに価値がある。一人で楽しんでいて、どうするんだ、あるいは、ごく少数の人たちだけで独占していて、何が楽しいんだ、皆で楽しんでこそ、そのものには価値がある・・・語り手が、最後に綴る悲しみは、恐らくそのカルチャーショックにあるのだろう、と感じました。 大地は、神様のもの、人間たちのもの、ではない。そう考えていたがゆえに、土地は私有できる、と考えた入植者に負われたネイティブの論理を、今、考えています。 突き詰めていけば・・・知、は、誰のものなのか(知的所有権含め)とか・・・魂は、個人の所有物なのか?命は?という問にも辿り着きますね。(わたしは、肉体は自然からの借り物で、魂はどこかからの預かり物、借り物の肉体の中で涵養して、またどこかに還す、そんなイメージを持っています。変な宗教とかに入っているわけでは無いですよ(笑) 真ん中部分、語り手とティキとの会話が、ゴシックと明朝とか、色が異なるとか、なにか、パッと見で分かるような感じになっていると、もっと読みやすかったかな、などと思いました。 (ケレケレのはなし (B-REVIEW EDITION))

2017-09-20

エルクさんへ 失礼しました!「ぐぐって」みたら(最近、若い人に、この言い方を教わりました・・・)出てきました。生物学的な言葉だけではなく、刺繡糸の名前などにも用いられているんですね。しかし、そうすると、尾長とハミングの組み合わせから浮かぶ鳥のイメージと、花の先端部分・・・花鳥画?を描こうとしていた、わけでもない、でしょうけれど・・・おっしゃる通り、「コメントし辛かった」です(笑) 音がイメージを呼び寄せ、音が音を生んでいく。そんな、言葉の並びで進行していくのを楽しむ作品なのだろうなあ、と、あらためて。 (りぃん)

2017-09-20

秋らしいイメージが、散りばめられた作品ですね。 水に写る月、その月影に手を差し入れる。影が壊れる・・・その欠片を探す、という行為に、古来から月の姿に想い人を重ねる伝承を思いました。 〈寄る辺を探す夜光虫の仕草/それは恋〉こうした断定こそが詩なのだ、とも言えますが・・・細かいさざなみに、きらめく月の光を夜光虫に重ねた、のでしょうけれども・・・若干、唐突かな、という印象を持ちました。 前半に、切実に人を恋う、その内発があまり感じられず、むしろ、月影を壊す、その欠片を探す、という行為に焦点が当たっているから、だと思います。 なぜ、語り手は月影の欠片を、探そうとしたのか。そんな疑問が残る作品でした。 (秋の月時計)

2017-09-19

小説的な、丁寧な始まり方が、とても印象に残りました。〈私が寝たと思うと、彼女はときどき泣いた。〉このあたりまで、実に丁寧に、繊細に展開されていて、好感を持ったのですが・・・〈その日も〉から後、いささか、展開が乱暴ではないか、という印象を持ちました。事実を述べていく、というスタイルですが、前半の「小説」的な部分の「事実」の述べ方は(ここでいう事実、とは、実際にあったこと、ではなく、そのようなシチュエーション設定がなされている、という意味です)後半の伏線となる写実であって、即物的に、そのものを描くことが目的、ではないはず・・・終盤の両者の関係性に、中盤に挿入された詩や、後輩が先輩である語り手に求めているものとの、より緊密な関係性が感じられるような、陰影や抑制や、気持ちの推し量り・・・あるいは、その時の「事実」ではなく、「感覚」、喜びや悲しみ、といったことに触れていく作品であればよかった、と思いました。 (mirage)

2017-09-19

僕の、君の、彼らの・・・という単語に、人、を思いながら・・・すぐ次の行に現れる〈葉脈の血〉そして、フレッシュなフルーツの羅列・・・果物の実りをもぎ取る瞬間の、ある種、ワクワクした感じと、ドキッとする感覚。そんな微妙な感覚を思い出しつつ・・・切り裂かれた/首、そこまでデフォルメして強調しなくてはいけない、内的な切実さが、伝わって来るか、と問われると・・・果物の爽やかさや、たとえば切り裂かれた茎の奥からふつふつと湧きだす樹液のようなイメージとか、そうした「いのち」や「湧き出す」イメージ、みずみずしいイメージの方が先に立つ気がします。なんというか・・・読者にインパクトを与えよう、その意識が先に立ちすぎて、あえて生々しい映像を盛って来たけれど、実際に伝えたかったことは、もう少し違うのではないか。そんな、ずれを感じる作品でした。 読後感の爽やかさは心地よかったです。 (lemon juice lemon eye )

2017-09-19

フランツカフカ、という固有名のインパクトと、リズミカルと呼ぶべきか、かろみ、とでも評すべき軽快さ。 収容、迫害、窒息、独裁、殺害・・・アクセントのように置かれていく言葉の持つ重さと、歴史的な重層性。 くり返される〈紙の上で〉というトポスの設定と、〈遊んでる〉という行為がもたらすイメージ。 紙の上に記されていく物語世界、詩の世界、あるいは歴史そのものも含めた・・・書かれたもの、を、普段私たちは「読んで」いるわけですが。「書く主体」側に立って、ある種の生殺与奪の全権を持って、世界を立ち上げては〈御破算〉にしてしまう、遊び・・・紙の上で、文字による世界を創作する、そのことの意味。軽い筆致ながら、そんなモロモロを考えさせられる作品でした。 (フランツカフカと遊んでる)

2017-09-18

はじめて、ですか・・・と驚きつつ。 語られない言語、と、語り得ない言葉、は、似ているようで異なる。語り得ない言葉で、どうしても言いたいことを言いたいのに、伝えられない・・・という情況ではなく、むしろ、非言語、異言語、私が「わかる」言語ではない言語で、君は「別れ」を話す。そのことへの違和感が、原点にあるのだろうと思いました。着眼点が、とても面白い。 〈また明日にひらく朝顔ではないので僕たちは永遠に取り込まれなくてはならない〉この、説明調というのか、理屈っぽいような一行、流れの中ではもたもたした感じになってしまうので、流れを整えるなら、僕たちは永遠に取り込まれてしまう・・・というような感じになるのかもしれませんが・・・この、四角張った言い方、というのか、かしこまったような、ねばならない、という切実さが、アクセントとして機能しているようにも思います。 そのあと、つながる、というWordが四回出てきます。それだけ、切実な問題なのだろう、ということを感じつつ、意図的に言い重ねているのか、偶然、同じ言葉が出て来てしまったのか、そこを考えていくとよいのではないか、と思いました。リフレイン的に、他の言葉を言い換えながら、「つながる」ことへの切なる欲求と、それを阻む透明な壁の切なさを出していく、という方法もあるでしょうし・・・別の言い方で(バリエーションのように)作中の二人、にとって、つながる、ということの意味を探っていく、という方法もあるでしょうし・・・ ハンドルネームと、作品中のキーワードが一緒。これも面白かったです。 (語られない言語)

2017-09-18

三連目からの「いきおい」がついてくるあたり、面白いと思いました。てててて・・・という擬音と、手という文字が生み出す齟齬の面白さ。「びび  び  びぃ」ここも擬音、なのか・・・尾長が出てきますね。灰色と空色の、美しい鳥。鳴き声はなかなか、シャガれて存在感がありますが。もし、擬音であるなら、〈 Ω,,   び ``Ω、〉ここは、び、の音がひっくりかえったような、裏返ったようなイメージなのかな・・・表記の実験。最初、オメガ、かと思ったのですが・・・アルファからオメガまで、という言葉もあるくらいですから、Ω 一文字にも深い意味があるとおもいますが、この流れの中では、表記の工夫、に留まるのだろうなあ、と思います。 〈尾長の花糸〉かし、と読むのでしょうか。歌詞、瑕疵と引き寄せていくための、造語であるようにも思います。結婚飛行と結びつけるなら、花糸ではなく、かしん、花芯でもよかったかな、と思ったり(まあ、鳥に花芯は、無理がありますが・・・)最終連、かなり実験性が強いのですが、この連の手前で止めてもよかったかな、とも、思います。 (りぃん)

2017-09-18

作品そのもの、も興味深く拝読させていただいたのですが・・・コメント欄のレスの往還、これが実に・・・。 「奏楽」を例にあげて下さって、恐縮です。あれはもともと(コメントにも書きましたが)ある種のアンビエント音楽、とも言える(宗教音楽でもあるのですが)メシアンのピアノ曲を聴いていた時に浮んだイメージから、書き始めました。ガラスの鍵盤の前に少年が座っていて・・・白い指が音楽を奏で始めると、周囲の森(ガラスの森のように透き通った、イマージュの森、のような)が生成していく、そこに空間が現れる、というような・・・その「生成」というイメージが、ひとつの観念として私の中に戻ってきて・・・詩を産むという行為であったり、子を生む、個を生む、という行為へと転換されていった・・・のが、あれかなあ、という・・・。 〈水晶体が合わせ鏡になって〉薄闇の中で鏡を覗き込んだ時のイメージが浮かびました。自分で自分を見出した瞬間の恐れ、のような・・・。振り返った瞬間、開いていた三面鏡に写り込んだ自分の姿に、見つめられている、と感じた瞬間のおののき、のような。シューベルトの持つ質感・・・湿り気があって、内向的に心を鎮めていくような(高まっていく部分があっても)そんなイメージを重ねつつ。 〈古い時計の鐘が昔私に零を教えてくれました〉この印象的な出だしに、誰かが弾くショパン・・・これは、マズルカやスケルツォではなく、雨だれ、のようなプレリュードか、ワルツ系でしょうね・・・。ぴったり140字に収める、という目的が先に立っての、語尾の不統一、なのでしょうけれど・・・これが思考過程をそのまま取り出したような、中途感としてとらえるのか、不統一のもたらす不安感と読むのか・・・一連目の緊密な印象に比べて、二連目は特に後半が散漫になる印象があり、語尾の不統一が、この短さの中ではうまく機能していないようにも感じられました。 〈硝子のような深緑色〉三連目。ここは、三面鏡を直角に立てて覗き込んだ時の、永遠の回廊に迷い込んだような心細さと酩酊感を思い出す部分でした。深緑色に沈んでいく空間に、私、が映るのではなく、両親、が映る。それも、男と女、女と男、という極限にまで象徴化された、二人。最後の〈出鱈目な永遠という事になるらしい〉ここが、なんとなく緩いなあ、という印象を受けてしまいます。連続した一瞬、この硬質な質感を持続したまま、もっと何か、別の言葉で、言い重ねられなかったか・・・と、欲張った注文を出したくなりました。 〈ぞろ目の時計と目があったきっと/切符を買い忘れたのだ〉冷蔵庫の中にそれを探す、という無茶ぶりが、逆に面白いと思いました。きっと、きっぷ、という、音が引き出していく軽さに加えて・・・切符=移動するためのもの、というイメージ、冷蔵庫=冷たく保存する場所、という停滞のイメージ。そこから、今度はボートに揺られているイメージ(水、という冷たい場所で、揺られている)流れが、突拍子もないものを無理やりにひねり出しているように思われるのですが、深い所でつながっている、そう納得させるものがあります。〈花葬〉はしばしば用いられる、美しい造語ですが・・・人によって、かなりイメージも異なる言葉ではないか、という気もします。夢のはざかいに漂う自分を、ボートに浮べ、花で埋めて、霧の向こう側へ押しやる・・・そんな眠りへの導入のイメージでしょうか。 (不眠症のポエム)

2017-09-18

未来光年、という題名のカッコよさと、解釈の難しさに、しばし逡巡。はるかな未来に、いつか実現してほしい、というような、そんなイメージ、なのか・・・ 観念の中で、濃密な肉体関係を持っている、想像している・・・その妄想(というと語弊があるかもしれませんが)の中で、満たされぬ思い、届かない思いが引き出す涙が溢れていく。〈その水溜まりが命を潤し存在させても〉その涙の中で、自分はまた、再生する、生きている、と実感できる・・・そんな「愛」なのかな、と思いながら・・・身体感覚が弱いので、具体的な像をなかなか結ばない。 〈あなたがそこで人を選らばなかったとしても〉〈こんなにも穏やかなのはこの星を抱きしめてくれているからだと〉いうフレーズを読むと、ここでの愛の対象は、人間、ではなく、もっと大きな存在・・・たとえば、神、というような名辞で古来呼ばれてきた、なにものか・・・への愛、でもあるのかな、そんなことを考えました。 (未来光年)

2017-09-18

競馬をやったことがないので、なんとなく「実感」として捉え難いものがあるにはあるのですが・・・ 〈人気薄の追い込み馬が、木村を屋根に乗せて3着内に入線する姿〉というフレーズなどから、自分自身の人生を馬に重ね、騎手に重ね・・・その馬と騎手に「賭ける」一瞬、人生の決断を自分の裡で下したりしているのかもしれない、そんなことを思いました。 木村騎手が木村調教師、として、新たな人生のスタートを切る。〈会社員を辞めて、やることがなくなった〉〈やることがわからなくなった〉〈私〉が、〈とりあえず職業訓練を受けていた〉時・・・〈長年、腰椎ヘルニアと闘いながらの騎手生活であった〉木村騎手が、今度は調教師の試験に挑戦する、という話を聞く。常に挑戦を続ける木村の姿に、励まされたり、闘志を奮い立たせられたりする、そんな熱い想いを感じました。 前半部分(エッセイ部分)を導入として、「砂」という作品の背景、基盤を整える、厚みを与える・・・と読めばよいのか・・・ 「砂」は、前半部分が、安部公房の「砂の女」のような、不穏な・・・抜け出せない場所に追い詰められていくような感覚もあり・・・それが、エッセイ部分と重ねながら読むと、もう、後には引けない、というような、覚悟へと繋がっていく面もあるように思われて来るのが新鮮でした。 〈一瞬、馬と馬の/見分け/がつかなくなる〉その通りですね、と納得してしまう部分のすぐ後に、 〈友人は/あなたとあなたとの/見分け/がつかなかった〉この、そら恐ろしいような行が続く。アンソールが描く仮面の群れの中の自画像のような・・・他者はすべて同じ顔、をしているような・・・不気味さ。かといって、作者はむしろ、そのことを心地よい、とさえ思っているように感じる終行がまた、新鮮でした。 〈わたしは/すべての他人が/違う顔を持つことを/すこし、恐れる〉この部分ですね。 砂埃の中を抜けて、群れの中から一頭だけ、頭角を現す。一頭がゴールへと駆け抜ける。その時、ひとりの旗手と一頭の馬が耀き、脚光を浴びる。その時はじめて、その騎手の顔が映し出される・・・馬の名前と共に。馬の顔は、区別がつくものかどうか、わかり難いのですが・・・〈兵庫の貴公子〉だけが、他者と違う顔を持つ、そんな特別な存在なのだ、という、賛歌ということになりそうですね(誤読しているかもしれませんが。) みんな違って、みんないい、ではなく・・・なにか一点において、秀でた者だけが脚光を浴びることへの肯定を感じました。一対他、ひとりと、あとは見分けのつかない群、という対照。その群の中から、ひとり、を熱く見つめる、応援する、仮託する、重ねる、という行為。 (園田の屋根)

2017-09-18

0909・・・これは、なんと読むのでしょう。ぜろきゅーぜろきゅー? 作品全体を読み終えてから戻ると、れいきゅうれいきゅう・・・霊柩、にも聞こえるような気がしました。 湯煙さんも述べておられるけれども・・・4時(予示?)から、青、ではなく蒼(と感じられる空の色)、哀、愛、藍・・・の空色から、赤、茜の夕焼のイメージを経て、黒、のイメージへの変化が印象に残りました。(といっても、皆既日食のように反転された、黒い太陽、のイメージですが) 〈壊れた柱時計の針に絡みつく仮名の髪〉など鮮烈なイメージは、それだけで一枚の絵になりそうです。 他方、〈救いのない報道 救いようのない人生〉〈SNSそれともSOS /匿名の叫びに救急車は来ない〉〈ガキは餓鬼に変換される〉などの表現からは、SNS画像やテキストが無数の・・・空飛ぶ盾のような・・・壁に阻まれて、個人がなまの交流をシャットアウトされているような、そんな閉塞感に満ちた現代の世相、ムードを描き出しているようにも思いました。 〈狂ってもいない電波に喚く 狂っている制服と自転車 群れる羊 血塗れの牧場〉 このあたりは、先に制服が出てくることもあり、牧場=生徒を閉じ込めておく場所、というニュアンスが沸き起こる。おとなしく先生の言う事を聴き、規律に従う〈羊〉と、従わない者が血まみれになる、牧場・・・学校、という場所。〈ほら皆17歳で消費期限切れだ〉このあたりの焦燥感と疾走感は、まさに高校生ならでは、といった年齢層を感じさせます(作者がその年齢かどうかはわかりませんが、その当時の心境で書いている、という気がしました) 〈君の指先は虚無に溺れる〉 〈問う君を硝子越しに凝視する鴉の群れと暗い黒い太陽〉 いずれも、君、で締める終行。カッコよく、バシッと決めたい、そんな意欲を感じると共に、虚無、黒い太陽、といった言葉の強さに倚りかかると、作品が「食われてしまう」のではないか、という懸念も感じます。 勢いやリズムが、面白い作品でした。 (0909)

2017-09-18

切断されながら なお断続する 時の雫を凍結させて のような、硬質な表現と、 黒い夜のコロイド のような、流体のイメージが印象に残りました。したたる時、の感覚。若干、言い直しが多いこともあり・・・もちろん、言いえないものをいいあてようとするがゆえの苦心なのでしょうけれども・・・少しもったいないような気がしました。 (暗夜の白花)

2017-09-15

白い息、汚れた体を舐める母牛、そして、群がり出すカラス(の黒。)墨絵のような濃淡の中に、くっきりと描かれる生と死。 〈突き刺し食す〉のは、カラスでしょうか。厳しい動詞の連鎖が放つインパクト。人もまた、肉を突き刺し、食す生き物でもあるのでした。 〈見つめるために/立ち去っていく〉論理矛盾を含むがゆえに立ち止まらされ、言葉の流れの美しさのゆえに読まされる一行。死を、見届けるためには、生はその場を立ち去る、距離をとる他はないのか。 死せる者が、見つめる生の世界。〈吊り上げられ/世界を見る〉死者。その死が、〈見えないように/運ばれた〉生者から隠蔽され、隠されたまま運び去られる、死。その死を、たじろがずに〈それを見ていた〉語り手。秀作と思いました。 (同じ日に)

2017-09-15

かげひかり、と読ませるのですね・・・えいこう、と読みながら、教会のミサに出席した時のことを思い出していました。天に栄光、地には平和、という、繰り返される力強いフレーズ。 切り詰められた表現が、ひとつの型を作り上げる。その東洋的な感覚を、石庭に重ねる花緒さんの評に、なるほどと首肯させられました。 なればこそ・・・最後の一行、空即是色、色即是空・・・に通じる一行は、省略したほうが、余韻が深まったように思いました。 (影光)

2017-09-15

花はどこにいった・・・そんな歌詞を詩として読むときの感覚に近いかもしれないですね。と、今思いました。 (花)

2017-09-15

タサキさんと重なりますが・・・ 〈テレビが壊れてしまったと リモコンを手に立ち尽くす〉 離れた場所から、ふるさとを見ている語り手。想像を働かせれば、宇宙ステーションから、君、が生きていた痕跡を見守り続ける・・・そんな飛躍。 文体を切り詰め、リズムを整えていくことによって得られる心地よさ、潮騒のような懐かしさ・・・その音楽的な余韻が、歌詞のように優しく心に入ってくる。他方、君、が、いのち全般まで拡張されているような曖昧さ、悲しみを鞄に詰めて・・・とか、風にこぼれた種、といった、常套句的な甘さに寄りすぎてはいないだろうか・・・そんなことが、少し気になりました。 (花)

2017-09-15

面白いなぁ、と、何度も立ち止まりながら読みました。 〈物陰にはどこにもいない〉物陰はどこにもない、ではない。何を、誰を探しているのか。 〈冷たい物陰が来るとうせる〉物陰、が、やって来る、という不穏。ぽっかり開いた更地に、日が射したときに訪れる賑やかさ。何者かの気配の充満。雲が覆い、陰が訪れると、その賑やかな気配たち、とでも呼びたいなにかが、消えてしまう。そんな、繊細な観察眼を感じました。 夜になると、サボテンの針は獣の毛のように和らいで、サボテンたちは地面から足を抜き出し、腕をからめてダンスを踊る・・・そんな奇妙で面白い気配の記憶が、日差しを浴びた瓦に染み込んでいる。そんなイメージで楽しませていただきました。 (椅子と沈黙)

2017-09-15

白紙で出す、潔さ、覚悟。 私が高校生の頃、国語は全校で7番、数学は0点で、ビリ、ということがありました。 その時、途中式を書いたのに、何で部分点をくれないんですか?と職員室に聞きにいって・・・ものすごく気の毒そうに、一行目からね、間違えているんだよ。考え方そのものが違うんだ、と言われたことがあったのを思い出しました。もうひとり、幸いに0点が居たので、私は勝手に、自分はビリじゃない、最後から2番目だ、とにかく、書く努力はしたんだから・・・と、自分に言い聞かせつつ、理系進学を泣く泣く諦めたのですが(動物行動学、中でも猿学をやりたかった)今思えば、未練がましくゴチャゴチャ書かずに、白紙で出せば良かったなあ、なんて思いました。わからないから書かない、のではなく、書けないから、でもなく、自ら選んで、書かないことを選択する。 詩の余白には、そんな空白の白紙が広がっているのかもしれません。 (白紙)

2017-09-15

やっぱり、今、ここで死んだら、死ねたら・・・の思いでもあったんですね。 スポンジのことを、よく考えます。ぎゅうっと絞られるような、感動から遠ざかっていると、含んでいる水が淀んでくる、腐ってくる。でも、無理矢理絞ると、その場に溜まっている汚れ水を吸い込んでしまう。 ぎゅうっと、なる体験。心地よいときもあれば、身をちぎられるように辛かったりしんどかったりするときもあるだろうけれど・・・その体験を経たあとに、吸い込んだ水によって、なにかが変わるように思うんです。その、体験を与えてくれるような詩(詩情、私的世界)や、吸い込むとなにかが変わるような、そんな水をたっぷり湛えている詩に、出会いたいなぁ、と、いつも思っています。 一歩前へ、で、すっからかんになるまでの強さではありませんが、きゅっと、よごれた水がポタポタ垂れるくらいの強さで、絞られた気がします。 (一歩前へ(未完))

2017-09-15

完備さんの、美しいこと、を、ずっと考えていて・・・彫刻家の舟越保武の言葉を思い出しました。 美しいものがあるのではない、美しいと感じる心があるのだ、というような、言葉。不正確かもしれませんが・・・ 雑草、と、呼ばれる草花にも、美しさもたくましさもある。その美に目を止めた人には、それが見える。この作品の中の語り手にも、それが見えている。なおかつ、その「雑草」に自らを重ねて、静かに感動している。 私が驚いたのは、南天の生育を助けるために、抜かなくては行けない、と、この語り手が自身に負荷をかけているように見えること、でした。 難を転ずる、南天。どんなに「炎上」しても、燃えない、火に強い草。 そこまで、意味を意識的に重ねているわけではないでしょうけれども・・・南天(強靭な作品)を育てるためには、私(私性)を抜き取っていかなくてはいけない・・・私、が、背後に沈み、作品が前面に立ち上がってこなくてはいけない、そんな詩論的なイメージでも読めるな、と思い・・・そうすると、このように生きなければいけないのに、私は自分にこだわり続けて、それができない、怠惰な日々を送っている・・・という、反省的なラストにも読めるかな、と思い・・・いや、ここでぜひ、おおいぬのふぐりの持つ美に、心震えて抜くのをやめよう、になればいいな、と思い・・・しかしそれでは、いわゆる予定調和、に、終わってしまうかな、等々、色々考えさせられました。 (「消耗戦」)

2017-09-15

二個優さん 素敵な感想ありがとうございます (奏楽)

2017-09-15

m.tasakiさん オリヴィエ・メシアンの、なんとも不思議な、荘厳な、不安を掻き立てるのに懐かしいような、そんな音楽を聞いたときの、不思議な気持ちが発想のもとにあるので、その、うまく言えない気持ちのようなものが伝わって良かったです (奏楽)

2017-09-15

私は、すべてを読む、隅々まで読む、読めなくても言葉を拾う、辿る・・・これを信条としているのですが・・・今回の作品は・・・最初の4分の1くらい読んだところで、いったん、離れて全体をスクロールして、眺めました・・・フォルムとして見たというか。読むのを放棄した、というか。その上で、最後の方、行分け詩の頭にハッシュタグが、ついているみたいな部分に関しては、再び、文字として読みました。 情報が大量に流れてきて、既に文字としての機能を失い、壁紙のようになっている世界を重ねつつ。冒頭の言葉遊びのような、言葉が言葉を生んでいく様子を見るに、これは、実際に流れている文言をコレクションしてコラージュした、ということではなく、ご自身で全てを作った、ということですよね?違ったら失礼。 既に先行例はありますが、その場、その時の、言葉収集者の目を通じて集められた、実際の言葉を、コラージュした方が・・・ひとつの時代性というのか、その時の時代精神のようなものに触れていく文言が、ちりばめられることになったのではないか・・・というような、感想を持ちました。 (紙の本という文化は、地球上で最も奇妙なビジネスの一つである。(未完成))

2017-09-15

文章のなかで、なぜか気になった二点。ひとつは、一段落目の、「いくつか」ここは、いくつも、ではないのか。もうひとつは、これも一段落目なのですが、「たぶんできる」ではなくて、可能だ、の方が、文体からいっても良いだろう(そう書いてもらいたい)というところ。 自ら自在に動ける、自動車という手段ではなく、ルートに乗る、移動手段に肉体を乗せる。そして移動する目的から意識を解放して、その間に体が感受するものを体感する。そこに、土地の空気や場のムードを感じとる人の紀行文だと思いました。 詩の地平、ということをよく考えます。砂漠なのか荒れ地なのか。うっそうと繁った密林なのか。いずれにせよ、既にルートがある、しかし、その行方に何があるのか、人々の記憶からは失われている。そんな「道」を辿りながら、「未知」に至る行為が、既成の文法や単語を用いながら、詩を探していく行為に似ている、と、常々思っています。 もちろん、道そのものを開拓する猛者もいますが・・・独自の文法過ぎて、たいてい、ついては行けない。その、開拓された道は、特別仕様の乗り物や、手法でなければ踏破できないものであったりすれば、なおさら。 自動車であっても、誰かが運転してくれていれば、目的地へ至る、ということに意識を削がれることはないでしょうけれど、自分で運転するときの不自由は、途中経過や途中の風景を体感できないことにあるのでしょうね。 漠然とした雑感ですが、そんなことを感じた次第。 (アメリカ論)

2017-09-15

視覚敵→視覚的 しつれいしました。 (距離)

2017-09-12

同型のリズムを繰り返していく、古典的な安定感、美しさと、その展開に含まれる発見や驚きの意外性を、どう調和させるか、というような問題を感じました。これは、この作品に関するもの、であると同時に、他の作品の場合にも問題になることだと思います。 闇、なのに、夜、ではない。その断定の不思議に、作者の「詩情」というのか、発見がある。 そして、視覚敵に「闇」であっても「夜」ではない、「靴音」の〈乾いた響き〉、〈灰色〉の靴音を聞いた時に、初めてそこに「夜」が生まれる。自分にとっての「夜」が始まる・・・つまりは、ひとりの靴音が闇に響く、その空間を意識した時に、初めて「夜」の実感を得る、ということなのだと思いました。〈蹲るようなわたし〉の影には、〈しずかさ〉はない。それは、言葉にならない叫び、声にならない叫びを、その影が発しているから、に他ならない。 ・・・と、そこまでは寄り添って読み進めていくことができたのですが・・・ わたしが影のなかに 街路灯のひかりを見つけたとき その距離の間に やがて しずかさは生まれる 一番、大事な部分、だと思うのですが、この部分が、なんとも把握しにくかったです。それまでの連と形を揃えよう、リズムを揃えよう、としたからではないのか?という気もするのですが・・・ 影、を照らす街路灯、影、を見守る灯の存在に気が付いて・・・蹲る私(の影)が静かに立ち上がったのではないか(もちろん、観ている私、が、そこから立ち上がる、わけですが)そして、光に見守られている、包まれている、という実感を伴いながら(そのことに静けさと安堵を感じながら)ぶらんこの方に歩んで行って(影を静かに引き連れて行って)ひとりで(光に優しく包まれながら)ブランコをゆすっている。背後に、都市の息吹を感じ、威圧されそうな(集団vs孤の関係性ですね)気配も感じつつ、その威圧に対抗するように、耐えるように、街路灯に照らされながら、ひとり、ぶらんこを漕いでいる。 そんな情景を思い描きました。 夜が生まれる、その断定は腑に落ちたのですが、〈しずかさは生まれる〉この部分に関しては、形のリフレイン的な要素に引きずられる感もあり・・・情景の中で感じたことを、もう少し文章の形を崩して歌うことで(情景描写というのか、心情描写によって)表しえたのではないか、そんな気がしました。 宣井 さんの感じられたこと・・・「しずかさ」や「距離」という言葉の難しさ・・・と、同じところに疑問を感じた、ということでしょうか。 (距離)

2017-09-12

鬣(たてがみ)猫、という奇妙な存在。飼いならしているはずが、気まぐれに食い殺す、そんな凶暴性を発揮するのに、誰一人として対応しない。異常さに気が付くのは「新入社員」一人だけ。でも、恒常性バイアスが働くのか、この「新入社員」も、組織の一員として❝異常さ❞を〈撮影〉という虚構や〈日本を守る仕事〉という大義に回収して、異常と受け止めなくなっていく・・・ 語り手は中嶋さん、であるらしい。鬣猫が獰猛であることを十分に警戒していて、うっかり触れると〈鋭い牙とツメでバラバラにされてしまう〉ことも理解していて、眠っている鬣猫のしっぽに、そっと触れる・・・それ以上のことはしなかった慎重な〈中嶋さん〉が、なぜ、新入社員の前ではサーカスのパフォーマンスのような芸当を始めるのか。新入社員を、安心させるため? 中嶋さんの背後で、〈所長〉が食い殺されたというのに・・・おそらく現場責任者である中嶋さんは、一顧だにしない。 吉田所長を失った後の原発を重ねました。もちろん、ストレートな社会批判や原発批判、ではなく・・・ユーモアや諧謔の力によって・・・あるいは、劇画風にデフォルメすることによって、辛辣さを軽減した風刺、と読みました。 中盤の、〈新入社員〉の軽口部分、分量が多すぎないか、と思いつつ・・・削れないですね・・・とはいえ、地の文から、ここだけ浮いてしまう感覚もありました。 この会話部分だけ、矩形に追い込んでみてもいいのかな(言葉の塊として出してしまう)そんな表記法の工夫があれば、よりインパクトが効いた作品になったような気もします。 (原発内はフィクションですが真面目に災害対策工事やってます。と一応断っておいての猫詩。)

2017-09-12

ファミリーヒストリー(虚構であるのか、実話であるのかは問わないとして、ファミリーストーリーでもある)を繋いでいくものは、記憶なのか、血脈なのか。 血/地、~から、だ/からだ・・・の掛詞。 汚れた塀を洗浄する、ということ。それは、汚れた歴史を洗い流す、ということでもあるのか・・・〈ただただ汚かった〉としか表現されない〈汚れ〉ですが、たとえば落書きであるとか、洪水の痕であるとか、卵を投げつけられた痕、とか・・・そうした具体性が必要だ、という事ではないのですが・・・高圧洗浄機で洗い流さずにはいられない何か、があるはず。息子を精神的に追い詰めるような、何か、である、とか・・・耐え難いなにか・・・その辺りが、もう少し伝わるように描かれていると、後半の伏線となったかな、と思いました。 (父の、からだ)

2017-09-12

〈直立するBLDG.〉・・・なんかカッコイイ表現だけど、なんだろう?とググって(この言葉も最近覚えた)みたら、ビルディング・・・そうか、そうなのか。 ちょっとした言い換え、なのに、不思議なほどスタイリッシュになったり、ムードが変わったりすることがありますよね・・・あめ、あたま、のひらがな表記がうみだす柔らかさ。〈都市の寝息〉なんていう、そのやわらかさを体感しているように受け止める比喩。〈絶え間なくそっと/そっと絶え間なく〉こうしたリフレインは、うるさくなりがちですが・・・この場合は、右から、左から、というような、柔らかくタオルを畳んでいく動作のような質感につながっているような気がしました。 〈要約された心をほどけよう〉ここを、初読では、とどけよう、と誤読したのですが・・・ほどこう、ではなく、ほどけるだろう、でもなく、ほどけよう・・・文語的な表現とも言えますが、心も、ではなく、心を、なのですね。心を、なら、ほどこう、なのではないか、でもそれでは、推量や可能の意味が込められない・・・難しいところです。 〈万雷してる〉とか〈波紋してゆく〉などの造語的な用法(意味はもちろん伝わりますので、表現の工夫の範囲に収まるイレギュラーですね)されど、水打する、というような文語的な表現、〈くれろう〉などの表現がアクセントになっていますね。調子の良さや語呂、リズムの良さで流れて行ってしまいそうな詩文を、釘打ちするというのか、ちょっとひっかけて止める、そんな役割を果たしているような印象がありました。 所で・・・作品名は、れんせいの映る海、でしょうか?さざなみぼし?連星、をイメージしつつ、どちらかというと水際や水面、さざなみ・・・を全体から感じました。連星のイメージなら、引き合う力、引き合いながら、決して一体化しない、重なり合わない二人、のイメージも重なります。でも、作品から感じるのは「ひとり」。ひとり、と、まだ現れていない、あなた、きみ、への呼びかけ、という印象もありました。 都市の路上に現れた水たまり。そこに写り込む、ビル街の景色。そのゆらめく美しさと、すぐに壊れる幻影としてのはかなさ。そして、吐き出された(願われ続ける)祈りを暗示するような、幻影のビル街の間を飛んでいく、折り鶴のイメージ。 (漣星の映る海)

2017-09-12

あまり深刻さは感じられないけれども・・・たとえば、今日、僕が死んでしまったら。たとえば、今日、君が死んでしまったら。そんな思考実験をしている印象を受ける作品でした。 毒蛇にかかとを咬ませて、砂漠の中に消えていく星の王子様。彼は、おそらく生まれ故郷に帰ったのだろう・・・と読者に思わせつつ、死によって、永遠に地上では巡り合えない存在となったことも暗示される。その彼が残した言葉。 ネット上で、姿を消してしまう人のことを考えました。それもまた、ひとつの死、であることには変わりない。しかし、あえて「未完」と書くのって(^_^;) (一歩前へ(未完))

2017-09-12

刻んでいくリズムが心地よかったです。 戯言・・・たわごと、ざれごと・・・を、なぜか「箴言」しんげん、と誤読したのですが・・・深刻、という言葉の響きに引きずられたのかもしれません。そういえば、なんで深刻、深い刻、と書くのでしょうね。字のイメージからは、深く刻まれる何か・・・そんな気がします。 ところで〈突然事切れた電球の暗い部屋 〉ここから始まる連。擬人化によって、心の色まで映し出されるような印象的なフレーズですが・・・部屋、が、毎行、三回連続していますね。 一行目は、暗い部屋、をメーンにしたかったのか、事切れた・・・死んでしまった電球、をメーンにしたかったのか?電球に、その瞬間の心の途切れ、意欲の途切れを重ねていくとして・・・電球、で体言止めにすると、電球の方に読者の意識が残りますよね。部屋の方を印象づけたいのであれば、一行目を部屋で止めて、二行目の「部屋」をどうするか・・・あえて重ねて印象を深める、という方法がひとつ。重ねることで、かえって薄まってしまうこともあるので・・・奥に、とか、暗い白壁、とか、闇に沈んだ柱時計、など、より景が浮かぶ言葉を探しつつ、〈信号の色が規則正しく〉届く、 というユニークな表現を活かす、という方法がひとつ。 四連目の〈私〉の連呼は、リズミカルに刻まれていくせいか、あまり気になりませんでした。 私以外/私以上/私が/私を/私の・・・そして、最後にひらがなの〈わたし〉。でもやっぱり、少し多い、ような気も(^_^;) うめき声、から始まって、うめき続ける声、と中締めする連は、その前の連の、私、の中身から始まって、私、の輪郭に到る意識を反復しているようにも思われました。 私、から逃れたいのに、逃れられない、わたし。一度壊れたら、誰も直せないハンプティダンプティ。 室内に入り込んでくる信号の色彩、その色彩に照らされる私(の肉体)を、わたし(私の意識)が少し離れたところから見守っている、そんな情景が印象に残る作品でした。 (「ハンプティダンプティ」)

2017-09-12

〈私の体は煙草で炙られている。〉ここは、焦燥感なのか、満足感なのか、どちらなのだろう、と思ったのですが、 〈神様の宿る新米で、それらに手をつけられない危機がつづく。〉この一行から、ジリジリとした焦燥感に、居ても立ってもいられない、そんな心情を思いました。 〈瞑想を終えて迷走する日常に還ろう~二人手首細くあって補足〉このあたりから、急に言葉遊びのような、軽快さが出てきますね。〈ハハッ、雨の中回りつづけるメリーゴーラン、思い出せるまで深夜のラン〉このあたりからは、少し言葉が上滑りしている印象がありました。 〈私の体は煙草で炙られている。〉ここから先は、いわゆるロンド形式の終連部分、ということになりますね。真ん中で、浮薄というくらいのところ、ギリギリにまで広げて薄めた言葉を、回収していく部分。 ありがとう、の音のつながりから引き出された言葉でもありますが・・・ガトー・ショコラの、重苦しい甘さを持った存在感が、最後に作品を締めている、と思いました。 (ラヴレター(とおいあなたへ))

2017-09-10

美しい言葉に、身を預ける心地よさ、全肯定して受け入れる心地よさと、夏の終りの壮大な夕焼けを思いました。 前田さんの評を読みながら・・・そうですね、たとえば、今回の作品では、あえて〈鳥の柔らかなはばたきが/明日が近づいてくるのを/知らせている〉で、止めてみる。気づきは、余韻として、風の中に置いておく・・・という方法もあるかな、と思ったり・・・〈今日の美〉という美について、もっと詳しく魅せて/見せてほしい、と思ったりしました。昨日の美と違うのか。違うのであれば、それはなぜか。 葛藤を通りぬけた後の、爽快感を描いているようにも思われ・・・その葛藤をあえて書いて下さい、ということではないものの・・・語り手が、その美を感じる、その心の地模様と言いましょうか、そういった部分に、触れていきたい、と思いました。 (光、ほどけて)

2017-09-10

印象に残る行を、抜き出してみました。 感情は少し遅れてやってきます 線が心の裏と今日明日の課題を青くつなぐように 丸や四角と子供の気持ちはまだつながったままです 雨が槍の様に心を打ちつけるとき 悔しくて怖くてしょうがなかったのでした あてもない不完全さを繰り返しても 何も変えられないのです 豆電球のような小さい明かりが僕だけの何かを示します くたびれた靴をひっくり返して悪いことについて考えています 今日の靴の裏側はそれほど汚くはありません 一度微笑んだ後は何もなかったのです 尖ったままの心をなだめる方法が見つからなくて 限りなく続く時は本体だけを見れば最も美しいものです 星の間を進む船 窓から明かりがきらきら光ります 歌に 暗いところはなかったですか 知らない歌を教わることも 力の誇示も同じ人が行為することです 僕には呪いの歌を歌わない自由があります 昔のしるしの中でも形となれたものは 個別の時間を失い 誰かが興味を持ち拾い上げるまで 砂漠の砂のなかや森の下草の陰や海の海溝の底などに 古く置かれたままになっています 物語が終わるとき僕はそれらと同じものになると知っています 暇な占い師が練習をしていました 王土が球に映っていました 周りの空間が歪んで 今という現実が見逃しているもの その有様は変わっても 僕自身は頑固に保ち続けるほうがいいのです きらめく一行、が、たくさんありますね。骨組みともいえるのかもしれません・・・これもまた、一篇の詩、になっているような気がしました(勝手な抜き出し、失礼!さすがに、これでは骨骨、なので・・・) その間をつないでいく行、これは、黒髪さんにとっては、必然の一行であり、思考過程であり、感情の記憶なのだと思いますが・・・もう少し、凝縮してみると、訴求力がいっそう強まって、インパクトが増すような気もしました。 じっくり、たゆったっていくような思考の流れ、自ら言葉や感情を確かめていく感じ・・・が、黒髪さんの持ち味でもあろうと思います。先にあげた引用部は、このように省略してみたら、という提案ではなくて、あくまでも、私の心に残った部分を並列してみた、そう、ご理解ください。 (戸惑い)

2017-09-10

り さん 形に整えると、儀式的な感じ、荘厳な感じが強まりますが、それだけ、息苦しさや堅苦しさも増してきますね。その息詰まる中で、凛と背筋を伸ばして・・・というようなイメージを持とうとすると、なるほど、〈「私」の決意や意志の自己犠牲的な強さと悲壮さ〉が生じるのかもしれません。なんというか・・・手放すこと、への覚悟、というのか・・・自己献身への覚悟、というような、ことではなくて・・・親が、子離れしなきゃな、的なことは、日々思うのです。自らを、執着から引き離す、という感じ。執着や干渉は、たぶん、愛、の姿をした、我欲なので。 掲示板君、勝手に歩んで行ってくれ!(そのためには、皆さんの、がんがんコメントつけて行こうぜ~!という気合も、エールも、たくさんほしい、という気持ちも、あります、たぶん。)コメントありがとうございました。 (奏楽)

2017-09-10

あさぎさんへ ご投稿ありがとうございます。教会のような、大きな、音の響き渡る、森の中のようにうす暗い・・・そして、明り取りの窓から、光がすうっと差している・・・そんな空間をイメージしながら書きました。そこから、いきなり浴槽に飛んだり、浴槽からさらに海へと飛んだりするので、連の間の飛躍が、大きすぎるかな、ギリギリかな、という懸念を抱きつつ・・・なるほど、洗礼の浴槽。全体に森のような教会のようなイメージを名残として残しながら読んで下さったのですね。白島さんの、浴槽にいるのは、赤ちゃん?という疑問も、洗礼盤のイメージが浮かんだから、かもしれません。新たな視点をありがとうございました。 (奏楽)

2017-09-10

白島さん ご批評、多謝。他の方へのレスでも書きましたが、形を決める、ということに、あえてこだわっていた時期の作品が、ベースになっています。無理やり、言葉の引き出しを広げよう、とジタバタしていた時期です。 「奏楽」は・・・高校時代、入学式の式辞の一番最初に「奏楽」とあり、なんだろう、と思っていたら、いきなりヘンデルの「ハレルヤコーラス」が降り注いできた(体育館の、二階回廊部分に、在校生の有志が並んで、そこから)あの時の衝撃が、そのまま刷り込まれている、かもしれません(・・・指摘されて、ああ、これはかなり、個人的な体験だったなあ、と反省しつつ・・・ある種の儀礼的なイメージ、ではありました)公立校で、ミッション系ではないのにも関わらず(笑) 〈冒頭「ガラスの鍵盤」から始まる一連〉ここは、注記を付けるか迷ったのですが・・・直接的なイメージとしては、オリヴィエ・メシアンのピアノ曲を聞いた時の衝撃があります。ピアノで、鳥の声を模していく。そこに、旧来の音型に従うでもなく、逸脱するでもない、不安と安心を同時に与えてくれるような・・・生まれたての赤ん坊が、初めて風の音や草木のさやぎを聞いた時、そんな気がするのではないか、というような・・・音が重ねられていく。その時の衝撃体験をイメージすると、こんな感じ、という・・・メシアンへのオマージュ、という言葉を添えたとして、それに意味があるかどうか、迷って、註は付けませんでした。 〈すると浴槽に身を横たえているのは、作中主体ではなく〉いえ、作中主体、です!自分もまた、赤んぼの気持になっている、というのか、戻っている、というのか・・・戻る、感覚ではないですね。同一化している、一体となっている、感覚・・・は、男性には、ないのでしょうか?自分も生まれ直す、ような感じ。 〈「あとはもはや何もいらぬ」はどうしても流れから「おまえ」を主語として読んでしまいます。 でも、おそらくこの主語は「母」。〉そうですね、おまえ(子)が、母を求めてくれる、包んでくれる、温めてくれる・・・あとはもはや、何もいらない、と(母は)思うけれども、おまえは、あっさりと母の元から、旅立ってしまう、という感じ、でしょうか。あたりまえのことを、当たり前に書いている、とも言えます・・・「あとは~いらぬ」とかぎかっこを付ければいいのかもしれませんが、詩面(しづら)を尊重しました。 〈70年代に皆が新宿歌声喫茶で歌った「きみの~ゆく道は~♪〉形に追い込むことで、新鮮な表現が出て来る、という保証はない、その証明、と言いましょうか(笑) 人生行路は、碧く険しい お寺のお坊さんとか、神父さんの説教に出てきそうな、クリシェな表現。それが、形の中に嵌め込まれることで、なんとなく常套から免れている、という印象を与えているのかもしれません。 いろいろ、ありがとうございました! (奏楽)

2017-09-10

光のはしご・・・陽矢、と呼ぶのだ、と教わり、詩を書いたことがあります。 ないものをつかむ、そんな・・・存在、に関わる詩になりました。 思わず、つかもうとしてしまう手。塵が、光の中でだけ「在る」ものとなる不思議。 〈「おにいちゃんは病院にお泊まり」〉という声の挿入が、隣家やご近所の声、であるとして(ここは、少しわかりにくいですが、自由に読むことにします。語り手の家の玄関かもしれません。)・・・病気の友人を思いながら、語り手は、思わず光のはしごに、手を伸ばしたのかな、と思いました。 父と観た光のはしご、の思い出。映画そのものではなく、上映途中の事故や、映写機からスクリーンに到るまでの光が気になっている。光が気になる、というよりも、その中に浮ぶ塵が、気になっているのかもしれません。それまで、在ることがわからなかった(ということは、存在していないも同じ)塵が、光によって、その存在を示されるから、です。一連目と三連目で、塵への意識が語られているのに、二連目でそれが省かれているのは、なぜなのでしょう。三回繰り返すと、うるさいから?映写機の光、と言われた時点で、光の中に浮遊する塵の姿も、私には浮んで来たので・・・仲程さんも、あえて書かなくても伝わる、と判断されたのだろう、と思いました。 人生そのものは夢、である、という考え方もあるし・・・さらに言えば、神様の見た夢、に過ぎない、という考え方もできるでしょうし・・・(今、ここにいる自分は、神様の夢の中の、登場人物に過ぎない、というような)映写機の喩が示すもの、についても、考えさせられました。 三連目では、〈左手で光を浴びた塵を /掴んだり離したりしていたこと〉と、再び、塵に焦点が当てられる。 〈それは君のノートが /白く見えているのと同じことなんだよ 〉という意味深な老婆の言葉が印象に残りました。白く見える、それは、幻なのか、実在なのか。白いノートは、未来がまだ白紙で、自由、ということを暗示しているようにも見えます。〈君が大切にしてきたこと〉とは、なんだろう。ノートに、書き込まないこと、なのか・・・自分の未来を、自ら規定してしまわないようにしよう、ということ、なのか・・・すぐに消えてしまう、一瞬の光のはしごの方が、よほど語り手にとっては確実だ、ということ、なのか・・・未来を白紙のままに残しておくこと、それが〈君が大切にしてきたこと〉である、という私の読み方ですが、他にもあるかもしれない。他の方に聞いてみたいです。 (チンダルのはしご)

2017-09-10

survof さんの「自己分析」感心しながら拝読しました。他者の眼で、自作を見るということは、とても難しいことでもあるので。 私が、面白いと思ったところは、ラジオから流れて来る曲が〈何だかとても凄惨〉ということを、二人は共有している、ということ、です。でも、〈君〉は、凄惨だ、という気持ちには共感するけれど、それが嫌だからチャンネルを変えてくれ、とは言っていない。〈君〉もきっと、聴きたくないだろう(凄惨、ということを、僕と同じように感じてくれているのだから)と、〈僕〉はチャンネルを変えるけれども・・・凄惨だけれども(だからこそ)興味をそそられて、聴いてみたい、と、〈君〉が思うことはないのか。そんな、ちょっとひねくれたことを考えたりもします。 絵の怖さ、に対する、二人のずれ。写真の怖さ、に対する、二人のずれ。〈僕〉の絵は、どんな絵なのか示されていないけれど・・・写真の方に人がいないのであれば、絵の方は人を描いているのかもしれない。二人が怖い、と感じるシチュエーションやムードが、真逆だったら・・・二人の関係は、〈もうとっくに手遅れだった〉のも、当然の成り行きでしょう。 ・・・とするなら・・・凄惨、という感覚を共有している二人が、その凄惨さに対して、どのようなたいおうを取るか、その対応の違いが、二人の関係の将来に関わって来るのだろう、と思います。 チャンネルを変えた時の、〈君〉の態度が、さりげなく示されていたら。また、〈僕〉の絵に、何が描かれているのか(ここは、読者の想像に任せる、という方法もあるでしょう)そんな案が浮かびました。 (君の写真)

2017-09-10

週末青空わんにゃん通り・・・までは、面白い言葉の流れだな、と思ったのですが、食堂、ではなく、食道!呑み下す、大きな都市(という生き物)を思い浮かべました。 道、のイメージもありますね。商店街を貫く道の両側から、漂ってくる匂い、活気ある掛け声、蠕動する人々の欲望・・・。 食品名が並ぶところ、これは音声で聴きたいですね。♪これっくら~いの おべんとば~こに ・・・にんじんさん(二本指、三本指)ごぼーうさん(五本指、三本指)れんこんさん(親指、人差し指でわっか作る・・・)♪ なんて手遊びをしていた頃、を思い出したりしました。 ちくわ そば ふき べーぐる・・・の辺りから、なにやら不穏な雰囲気。 人を掻き分けていく感覚と、先の「食堂」ならぬ「食道」に飲み込まれていく感覚と。 都市の欲望に飲み込まれていくような・・・煽られていくような感覚もありました。 〈ごった煮青空食道 料理人も詩人も〉このあたりの、さりげなく批評性を含んだ比喩も面白い。 私は詩をスープでイメージすることが多いので(上質の材料を手間ひまかけて煮込んだコンソメスープと、インスタントのコンソメスープ、ことこと煮込んだポタージュスープ、だしのきいたおすまし、おばあちゃん手作りの具沢山のごった煮スープ、滋養強壮に良さそうな薬膳スープ、伝統にこだわったボルシチ、風邪を引いたときのチキンスープ、療養中のおかゆ、世界三大スープと言われながら、好みが烈しくわかれる刺激に富んだトムヤムクン、特殊な材料を体を張って(あるいは、他人様が体を張って)集めて来た、燕の巣スープ、などなど・・・たまに、桃のデザートスープ、なんていうものもありますね) 最後の「いただきました」は、人々を見守り続ける「かみさま」のような存在のつぶやく、ごちそうさま、でもあるような気がしました。 正しく腹が減る、という表現が、いきること、にそのまま直結しているような気もしました。 (週末青空わんにゃん通り食道)

2017-09-08

最初、私、が男性で、あなた、が女性、なのかと思いながら読んでいて・・・最後まで来て、あれ、逆だったの、と読み直しました。 草いきれと曇天、このシチュエーションから、すでにたちこめてくるものがありますね。つながれている手をふりほどきたくなる、でも離れたくない。そんな感覚も、ビビッドに伝わてきます。緑が豊かに残る郊外の住宅地、その中の道路・・・車の往来がほとんどない、そんな場所にお嫁に来た若い女性を想像してみました。すぐに走り出したくなるような、はつらつとした若さを持った女性。律儀に(車が来なくても)信号を守る、男性。手首のひんやりした感じと相まって・・・まだまだ、ふわふわと飛んで行ってしまいそうな、家庭、という環境に根付かないような女性と、「家庭」や、その安定に憧れる男性、を思い描いたリしました。 そうやって読んでいくと、二連目は・・・あなたのことは、好き、だけれど、一緒にもいたい、けれど・・・熱い手に繋がれているような息苦しさからは逃れたい・・・でも、つかまえられていたい、つかんでいたい。安心したい、自分がどこかに飛んで行ってしまわない、ために・・・そんな、ゆれるような心の内を、テンポのよい語り口で歌った作品のように思いました。 (八月の不確かさ)

2017-09-08

とても丁寧で、やわらかい語り口で・・・たしかに、絵本を読んでいるような感覚があっていいな、と思うと同時に・・・やや冗漫ではないか、という気もしてしまいますね。 〈どうやって来たのか知りませんが〉これは、語りの合いの手、のように考えることもできますが・・・この一行を隠して、一連目を4行にしてみたら、より引き締まったのではないか、とか・・・〈知りたがり虫が騒いだので/ちょっと調べてみました〉ユーモラスな諧謔味を持った、これも「合いの手」的な、つなぎのフレーズだけれども・・・でも、ここを省いてしまうと、次の「調べた事」が上手くつながらなくなる。調べたこと、を、その本文のままに抜き出してしまう、という方法もあるけれど、そうすると、子どもに語り聞かせているような優しさや易しさが消えてしまう。 〈可愛そうな1セント銅貨/それでどうなったか…〉このあたりも、「合いの手」的感覚。歌の掛け合いなどで(古来からの、即興の歌合わせ、のような・・・歌垣とか、南西諸島のもーあしび(毛遊び)のような)それから、どうなった?と声をかける合いの手があるのですが、そんなことを思い出しつつ・・・ 「合いの手」部分を、そして、それから、どうなった?というような、リフレイン的なフレーズにして、繰り返しのリズムで全体を締める、なんていう方法もあるかな、などと思いつつ。 花緒さんの、「ほんの少しいじるだけで、大化けしそうなポテンシャルを感じる作でもあるのですけれど、例のごとく、話を纏めるのが、上手いなと思います。下手にいじると夏生さんの良さが消えてしまう懸念も感じます。」という評に、まったく同意ですね・・・。これはこれで、ゆったりムードのリズムを楽しむ、ということで、よいのかな、と(ここまで色々書いてきて、結局、そこ?と言われそうですが)思いました。 (1セント銅貨が居りまして)

2017-09-08

〈ひとつの海の駅名〉ひとつの海、という言葉の持つイメージと、海の名、という予測を裏切る駅名。なんとなく『千と千尋の神隠し』に出て来る、海の中の駅・・・賢治の銀河鉄道を、海の中に引いたような、そんな駅を連想しました。 〈永遠と惑星という言葉の隙間〉永遠、という、あまりに大きすぎて扱いにくい言葉を最初に持ってきて・・・惑星という、ある種の具体物を持ってきて、そこに〈隙間〉を見出す。イメージを扱いながら、言葉を探っている。この感覚から思い出したのは、『雪の女王』の中に出て来る、氷の池のイメージ。たくさんの「言葉」が氷で作られていて、その言葉をパズルのように組み合わせたり、積み木のように遊んだりしているシーン。ほんとうの言葉を見つけ出すまでは、その場から逃れられない、という宿命を負っていて・・・そんな知性の凍てついた荒野に閉じ込められた少年を、少女は、共に「ほんとうの言葉」を探し出すことによって解放します。(手元に本がないので、うろ覚え、ですが)〈星の履歴書〉とは、いのちを遡行する、というような感覚なのかな、と思いました。 三連が、いちばん、タヒさんっぽい、かもしれない(笑) 文体的には、ここは「白島」さんっぽくない、ような気はしました。死、という文字の、一本棒の下を読むと、タヒ・・・ご本人は否定している、とのことですが。徹底的に「死」とは何か、と考え続けている、最果さん、なのかもしれない、と思う時はあります。 最後の二連からも、やはり、雪の女王の氷の池で、言葉を探し続ける少年・・・心に悪魔の作りだした鏡の欠片が刺さってしまったまま、少女を(ひそかに)待ち続けている少年、を思いました。 聖書と結びつける必要性があるのか、ないのか・・・意味を知らなくても、調べなくても、なんとなくイメージのわく言葉ではありますよね・・・。 人柱とか、神様をひと柱、と呼ぶのを思い出しつつ、日本的な感性では、塩の柱は、真っ白に結晶化した人の姿、のようなものを想起するのではなかろうか、と、思いました。 言葉を探し続ける行為の、ある種の不毛性と、それでもなお、その行為に憑かれた者のイメージ世界。飛び降りた先には、「死」ではなく、新たな誕生があるような気がします。 (塩の柱)

2017-09-08

田さん、とお呼びすればよいでしょうか・・・貴重な返信レス、ありがとうございます。 まず・・・「現代詩というのは直接的な体験を一義的排他的に尊ぶのでしょうか。」というご質問について。 そう考える方もいらっしゃるでしょうし、そうでない方もいらっしゃるでしょう。ひとりひとりが、これが自分の詩だ、というものを、探していく、それが、「現代詩」であろうと思っています。 私の場合は、新奇さを目指して言語実験を繰り返す作品の、技巧的な到達度に驚嘆したり感動したりすることもありますが・・・言わずにおれない、そんな心情が切々と伝わってきたり、一気にその人の内面世界に引きこんでくれたり、言わずにおれない、その切実さを、どうにか他者に伝わるように、と腐心している・・・そんな作品に心惹かれるところがあります。 半ば冗談で言うのですが、現代詩、には、「ゲンダイシ」と「現代の詩」がある、と思っているんですね。たとえば吉増剛造さんは(私の中では)「ゲンダイシ」で、たとえば石垣りんさんは「現代の詩」・・・というような、ゆるい区分けがあります。いわゆる、前衛的実験詩・・・詩史に照らして、言語領域や文学の可能性を極限まで広げよう、と果敢に挑戦しているような作品群・・・を中心に「現代詩」と呼ぶのであるとして・・・伝えたい事、が、まず、その根底にあってほしい。その切実な、言わざるを得ないこと、が、旧来の表現技法の中では言い得ない、場合に・・・言葉が、旧来の用語法や語順や文節などを「逸脱」してしまう。その「逸脱」の中に、心あまりて言葉足らず・・・というような、切実さ、が伝わって来るかどうか、ということが、大切なのではないか、と(個人的に)思っています。 そして、詩、全体をアメーバのような有機体、として考えた時、実は「ゲンダイシ」は、その辺縁に当たるものであろう、とも思います。有機体全体が、ある一つの方向に進んでいく時(それは、ある程度時間が経ってから、振り返る時に見えて来るもの、でもあるでしょう)その方向に突起を伸ばしていた辺縁が、後に詩史におけるトップランナー、時代のエポックとなる作品、と呼ばれる(評価される)ことになる。しかし、全体が進んでいく方向、ではない方向に伸びていた突起は、ちぎれて、取り残されていく。しかし、取り残されたものを後で振り返ってみた時、非常に優れた作品である、ということが再評価されて・・・今度は、有機体全体が、その「とりのこされた」島のような部分に向かって動いていく、というようなことも起きる。 そうした「辺縁」の動きばかりに(つまり、変化ばかりに)目が行きがちですが・・・有機体全体を動かしている根幹、その部分も、とても大切だと思っています。表現としては、旧来の技法(既に、多くの人に受け容れられている文法、話法、技法)に立脚していて・・・つまり、表現技法によって読者を瞠目させたり、新奇な表現によって驚かせたり、するのではなく・・・その時の心情や、事実の積み重ねや、その時の体験、想い、思想・・・といったものを大切にする、という、作風。 それとても、千年の歴史の中で見たら・・・平安時代や江戸時代の文法や話法と比較するなら、口語自由詩は、それだけでどれほど驚嘆させられる「変化」であるか、ということは言えるでしょう。ただ、一般の読者に、より受け入れられてきている、その時代にとって「馴染みのある」技法である、ということが言えると思います。 田さんの今回の投稿作品は、一般的な読者に馴染みのある技法を用いて、創作されている、と思いました。特に新奇さを狙ったり、読者に文学的な驚きをもたらそう、という文学的な意欲に基づいて生み出された技法を用いている、わけではない。だからといって、「それは詩作品としては不十分と観念される材料になるのでしょうか。」ということでもない、のですが・・・ 何と言えばいいのかな、ええと・・・ 田さんの、今回の投稿作品について・・・私がお伝えしたかったのは(他の方のレスなども含めて、考えるに)田さんが〈「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」〉この一言を聞かされた時の、田さんの衝撃、感情的な波立ち、怒り、悲しみ、絶望・・・それが、充分に伝わっているのか、ということ、です。 その言葉によって(もちろん、それまでの教師との関係性であったり、社会との関係性であったり・・・教師の「熱心さ」を誤解していたのか、私は裏切られたのか、という衝撃であったり・・・もろもろの、言葉にし得ない感情が、そこには渦巻いているはず、なのですが・・・)田さんが、あれほどの衝撃を受けたのに、他者は特に意識していないようだった、という孤立感であったり疎外感であったり・・・そうした感情を覚えた、そこに「詩情」があるのであろう、と思うのですね。 さらに、社会に出た後、俺たちは社会を動かす重要なモチーフだ、お前たちは歯車に成れ、社会を円滑に動かすための部品に成れ、というような排他的な圧力であったり、形の見えない優越感や特権意識に出会ったりする・・・そのたびに、自分の中にざわざわと蠢く感情があり、それを「相手側」はまるで感じていないように見える、その違和感や齟齬・・・それを感じた、そこにもまた、「詩情」がある、と思うわけです。 その「詩情」を、たとえば「いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか」と思った、と説明してしまう、のではなく・・・その時の感情の強度や感情の波立ち、衝撃を伝えるような、同等の比喩はないか、と模索してみたり、その時の真情が、よりよく伝わる、よりインパクトを持って伝わる、語順はないか・・・と(読者の側として、自分の作品を読みながら)模索してみたり・・・そうした探索や模索の中に、たとえば詩の「うまさ」とか、技巧的な向上、といったものが、あるのではないか、と思っています。 単純に、他者を驚かしたり、新奇な目新しさで「すごいだろう」というようなこと、ではなくて・・・その時の感情の強度や、切なさや怒り、悲しみ、といった心情が・・・もちろん、感情的な言葉を直接書く、ということではなく、抑制された表現の中に、その心情がにじみ出す場合もある、でしょうけれど・・・ダイレクトに読者の心に伝わってくるようであれば、これは本当に、心ふるえるだろう、と思うのです。 われわれの人生を、なんだと思っているのだ! この気持に、そうだそうだ、と頷く人もいるでしょうし、あなたはそう思ったかもしれないけれど、気持ち的に、ピンとこないな・・・というように、単純にひとつの話題として聞く人もひる、でしょう。 それでも・・・いや、だからこそ、その時に語り手が受けた衝撃を、匹敵するような比喩で伝えたり、衝撃がそのまま追体験できるような語順で伝えたり、そうした工夫をしてみる価値が、あるのではないか。あるいは、その言葉を使わずに、事実を端的に(取捨選択しながら)積み重ねていく、写実的な表現によって、その言葉を思い浮かべた時の心の憤りを、他者の心の内に表現できないか・・・というような探求もある、と思います。(たとえば、悲しい、と説明せずに、悲しい心情を、情景描写に託して歌う、といいうような。子規の写生論などにもつながる問題であろうと思います。) そうした・・・その人が感じ取った「詩情」を、その人の独自の表現で表そうとする、その試行錯誤や紆余曲折の中に、詩を産む楽しみも苦しみもある、のかな・・・と思っています。 その時の思考を正確に伝える、ということであるなら、エッセイやノンフィクションスタイルの小説、論文などの方が、より適しているかもしれません。 でも、これが私の「詩」である、という作品によって、その時の真情や心情、イメージ、言葉にならない心の波立ち、それらを、伝えよう、とするとき・・・言葉、という不自由なものを使って、他者の心の中に再現する、喚起させる、そんな試みを、試そう、試みよう、とする、とき・・・そこに「詩」が生まれるのではないか。そう、思っています。 長文、失礼。ご質問に、うまく応えられているかどうか、心もとない、のですが・・・。 (ときどき人に話すこと)

2017-09-06

咲きの→先の 何度も、失礼(笑) (門)

2017-09-05

途中で、送ってしまった(笑)  ~過去には無かった「道具」を持っていて、しかもそれを使いこなす技量があれば、その探求者は、対岸に滑空して、未知の領域を訪ね歩くことが出来るかもしれない。 だからこそ、大いに実験してほしい、と思うと同時に(中略)示唆されているような・・・そんな行き止まりの予感の前で、抗っているように見えると、もっと他の道を試してみたらどう?と、口出ししたくなってしまったり、もします・・・ 今回の作品、前半部分は「意味」と形を連動させようとしているように思われたけれど、後半は、形を作る面白さや困難さに夢中になってしまっているようにも見え・・・確かに、言葉からあえて「意味」を剥奪して、その形体や語感やインパクトを、美的要素のひとつとして構成する・・・という試みもある、とは思うけれど・・・まあ、まりにゃんさんが、もしかして、言葉の引出しの乏しさを誤魔化そうとしてる?なんて見方を(たぶん、あえて)提出している、けれども(私はそうは思わないけれども)意味と形を連動させつつ、言葉(音声)によって駆動していくものと、形態を構成する、という欲望を添わせる(幸福な婚姻に持ち込む)という「意図」が伺われる前半部が、途中から、息切れしてしまって、形態構成欲求、に、負けてしまっている、ような気がするんですよね・・・どうでしょうね。 せっかく、前半部分でギリギリの可能性を試したのに・・・そこから、形を作る、という、安易な方向にずれてしまった、そんな、もったいなさ、を、すごく感じるのだけれど・・・ これが、さらに次世代掲示板で、アニメーションや音声と同時に、言葉が形態に整っていったり、また崩れていったりするのが「見える」そんな新しい技術(咲きのたとえで言えば、グライダー)を手にしていたら。また、ゼンゼン違った面白さと共に、見えてくるのかな、という期待は抱いています。 なんか、ワケわからん長文になって、失礼。 (門)

2017-09-05

まりにゃんさんの返信を拝読した流れで、こちらのスレッドも拝見。 新しい言語領域や、文体の可能性を探る、という「実験」は、道なき道を切り開いて、それを地図として残す行為に似ている・・・と思うんですよね。 これこそ、誰も切り開いたことのない道だ❗と思って、山刀を振るっていたら・・・藪の中に、かつての探求者のキャンプの跡を見つけてしまったりする。もしや、この先は行き止まりか?と、不穏な予感を持ちながら、更に進んでいくと・・・野晒しになったしゃれこうべに遭遇したり、崖に出てしまって、にっちもさっちも行かなくなって、途方にくれたりする。 でも、もし・・・その崖から、対岸に滑空する事の出来るグライダー等の新たな道具を持っていて、 大いに実験してほしい、と思うと同時に・・・それが、既に為されていて、行き止まりかもしれない・・・という可能性が示唆されているような・・・ (門)

2017-09-05

三行、足りない、ということ、でしょうか?三行足す、ということで良ければ、今回は、うっかりミス、ということで、修正しておきましょうか。 (1/1)

2017-09-05

ゆったりとした、バラード。 読みの呼吸というのか・・・息づかいで改行しているのであろう、と思いつつ、 さすがにこれだけ長い作品であるなら・・・散文形式で、読み方は句読点や空白マスで示す、という方法も試してみるとよいかもしれない、と思いました。 個人的な思い入れ無しには、読めない作品でした。・・・池上線沿線住人なのです。 子どもたちとよく洗足池に遊びにいったなあ、とか、千鳥町の「観月」のあたりで(斜めの道が多いので)お嫁に来たすぐの頃、迷子になって泣きそうになったなあ、とか・・・戸越銀座商店街。あそこの唐揚げ、魚屋さん。蒲田の投球屋上の、チューリップ型のミニ観覧車・・・とまあ、「想い出のアルバム」をめくっていくようで、とりわけ前半は、焦りながら読んでいました(笑) 固有名や地名を活かした、ドキュメンタリータッチの作品とも言えますね。 ドキュメンタリー、と書いたものの・・・ 一連目の〈君〉と〈僕〉の関係は、幼い娘と若い父親、のような印象がありました。二連目の〈君〉と〈僕〉は、今度は今から10年、20年くらい前の、学生時代の恋人との思い出、のよう・・・とすると、一連目の〈君〉とは、別人なのだろうか?という気持ちも、ふわりと浮かんできます。 三連目は、20代後半の、2人の思い出?〈雨もあがったから国文研に行かないか/と君がなにげにいいだしたので〉この、少しぞんざいな言い方、からして、もしかして、この連の〈君〉は、同性の友人、だろうか・・・と、またまた、迷ったり、いや、しかし・・・と考え込んだり。 最終連で〈おとなの字じゃないから/と口をとがらせたとき〉というフレーズを読んで・・・ここでまた、冒頭の「親子」の関係をふっと想起しました。そう読んでいくと・・・真ん中の連は、成長した娘(君)と、まるで恋人のように歩き回った記憶、のようにも読めたり・・・〈君〉を様々な過去の時点における、ひとりの人の姿、と読むのか。それぞれ、異なった姿を持った〈君〉と読むのか、によって、映像が異なって見えてきますね。 他の人の読み方を、ぜひ知りたいと思いました。 (帰る)

2017-09-05

良く使い込まれた、清潔なガラスのコップ、そんな「なにげない」ものに焦点が絞られて・・・〈うつくしいひとの 魂のよう〉と飛躍する。飛躍するのに、この作中人物は、魂をなにかの入れ物、のようにとらえているのだな・・・壊れやすく、透き通っている、玻璃のような輪郭を持った、これから満たしていくもの、人の心を潤してくれるもの、あるは、熱く滾った心を冷たく癒してくれるもの・・・と、とらえているのだろうな、ということが、体感的に伝わってきました。水の嵩が減る、すると店員が金属の(注ぎ口の細い)水差しから、冷えた水を注ぐ。既にコップにはたくさんの露がついていて、店員の指を濡らす。そんな暑い夏の、喫茶店・・・あるいは、トラットリアのような、気さくなレストランを想起させます。 その、ガラスのコップの向こう側にいる人の瞳に、日が差して、きらめく。そのひと(うつくしいひと)ではなく、その手前にあるコップを見つめていたのは・・・うつくしいひと、に魅入られて愛してしまわないように、という自制心だったのか・・・うっかり見てしまった君の瞳のきらめきに、僕の心を潤してくれる水をたたえた魂を持った人・・・君のことを、そんな〈軽率さで、/ぼくはきみを/愛してしまっている〉 勝手な「物語」を読んでしまいましたが、そんな自由な解釈を働かせてみたくなるような、行間の余白の豊かな作品だと思いました。序破急の展開が巧みですね。 (contour)

2017-09-05

まりにゃんさんへ ハンドルネームが似ていて(笑) 拝読する前から親近感を覚えてしまいました。 25字揃えだった、とのこと・・・ワードでインデントをかけて行末をそろえる方が多いと思いますが(まりにゃんさんのやり方については判りませんが)ちょっと面倒ですが、「改行」で人為的に文字数を揃えれば、うまく貼り込めるのではないか・・・と思います。 (星々の獣道)は、どなたの詩篇からの引用句でしょうか・・・(不勉強ですみません)星が、哺乳動物のように葉陰をかすめて行き過ぎるようなイメージがありますね。 〈草木の靡く〉という触覚に〈耳をすませ〉る。触れて来る気配を、聴く。〈蜜蜂や蝶の描くおぼつかない風の起こり〉を、肌で感じ取るものを、嗅ぐ。ある種の共感覚、と言えばよいのでしょうか。音のイメージ、触覚のイメージ、匂いのイメージを、セロファンを重ねるように重ね合わせていくような、不思議な空間が立ち上がって来る気がしました。 〈はじける泡〉という、何かがふつふつと沸き立って、生まれて来るようなイメージ。 〈こまかな粒〉という、卵や種のような、原初的なイメージ。 その粒の〈その内側へ、封じられた声を辿って虹はたなびき〉 この部分は、たしかに観念的、抽象的とも言えそうですが・・・原初的な粒子から何かが生まれ出て来る、その瞬間を映した動画を、逆再生しているような、不思議な感覚がありました。そのすぐ後に〈蛹や繭〉という、具体的になにかが生まれて来る、その直前の姿が描かれる。この〈蛹や繭〉は、その直前に記された〈蜜蜂や蝶〉の生まれる直前の、姿でもある・・・ここでも、想像力によって映像が逆回しされているような、時間を遡行していくような感覚を覚えます。 それから一行アケがあって、葉桜の季節が過ぎ、蝉が命の限りに鳴き交わした夏を経て、桃や枇杷の実が、種(リルケ風に言えば、死の種でもある、わけですが)を胚胎しつつ、官能的な実りの季節を迎える。ここは、実際の時間軸に添って時間が流れていきますね。 反転していた時間、ゼロに向かって流れていた時間が、〈はじまり〉を迎えて、今度は折り返していく。 鶯の早春、遠花火の晩夏・・・〈幻想は波のうえでだけ舞う〉この幻想は、過去の景を、今の夢想の中に呼び覚ます、そんな幻想、なのでしょう。時の流れの中に戯れる、想像力が呼び覚ます記憶。〈波〉は、時(の記憶)の揺らぎでもあるように思われました。 〈乾いた土が濡れるのはただ、紙片がめくられつづけるからだ〉この一行も、不思議な質感を残していきますね。一人一人、読む人によって、受け止め方は異なるような気がしますが・・・私は、いささか感傷的に読ませていただきました。一人一人の記憶(が綴られていく、いのちの書物)そのページが風に煽られるたびに、過去の記憶がランダムに現れ、涙を誘う・・・というような。そんな甘ったるい、センチメンタリズムからは離れたところで記された一行のようにも思われるのですが・・・濡れる、紙片(詩篇と音が同じ)という言葉が喚起するのは、たとえば「落葉松」を濡らす雨、心を濡らす雨、余白が既に残り少なくなった、『わたしの一生の物語』をめくって過去を次々、幻燈のように映し出す風の気配・・・といったイメージに繋がっていく。これは、私の勝手な「誤読」かもしれません。(レスを拝見して、これからを生きる子供たちのために、その未来を言祝ぐために綴られた作品、であることを知りました。)でも、暗喩的な多義性を背後に蓄えた一行であるがゆえに、自由に解釈することが許されるだろう、と思う次第です。 最後の連、なんとなく唐突感があって、でも、里山の風情があって・・・5or6さんが「ジブリ」をあげていますけれども・・・まさにトトロの世界ですね。瞳が走る、という躍動感、笹笛・・・レスで拝読して、なるほど、と納得したのですが・・・イメージだけ、謎めいた形で、このように示されるのもまた、面白いと思いました。 (道へ)

2017-09-05

〈セブンスターを一箱買って帰る〉と、パチンコを勝って帰る。 勝てずに、お金を「すって」しまう。マッチを擦ってしまう、煙草を吸ってしまう、にもかけているのか・・・ダジャレ的な要素が強いのかな、という印象はありますが・・・冒頭一連目のリズムとか、kの音、撥音の入り方、などの音感含め、心地よい、独自の「節回し」があると思いました。 〈一週間の永遠のうちに巡るのも 渋々ここにいるも〉1週間(7日)と7starsの7もつながっていく面白さがありますね。 退屈な1週間は永遠にも思えるし、過ぎて見れば一瞬でもある。今、自分が居る場所、居る時間こそが、すべて・・・ ところで、語り手はパチンコで「勝った」のでしょうか?〈一円違わずツケを済ませる〉のだから、きっと多少は勝った、のだろう、と思いつつ、流れで見る限り、まだパチンコに行っていないような、あるいは行ったけれども、負けて一杯飲み屋でヤケ酒をあおっている、ような・・・。立ち上がりの〈一円違わず受け取るコインの正確〉に再帰するためのフレーズであるなら、ちょっと、展開に無理があるかな、と言う気もします・・・。 (7stars)

2017-09-05

〈角が立つから〉と言われたら、場を収めるために我を抑えよ、と言われるかと思いきや・・・ 〈君も立ちなさい/と/注意される〉ちゃんと自分を表現しなきゃダメだよ、と、引っ込み思案の人に注意する先生、を思い浮かべました。 かどがたつ、という読み方ではなく、頭角を現す、という読み方、をしています。そのためには、自分もきちんと立たなきゃだめだ、自分自身に立脚せよ、という注意、を受けてしまう。日本人は引っ込み思案だから、なおさら。 すると、〈隣の逆鱗に触れる〉ことにもなる、わけですが・・・。 三角定規なら、斜めになって当たり前、なのですが・・・しゃに構える、という慣用句を、うまく物にずらしてあてはめている。 目の玉が飛び出るくらい高い、というような「慣用表現」を、リアルにイメージすると、なんとも不気味な映像になりますが・・・そうした誇張表現を、あえて生真面目に「物」に当てはめた時に見えて来る、くすっと笑いたくなるようなユーモアが楽しい。 実際に、人間関係のトラブルに巻き込まれて、深刻に落ち込んでいる時に、ふっと、こんな風に情景をずらして見ることができたら、どんなに気持ちが楽になるでしょう。 完備さんが提案されているように、杓子定規は、慣用的な使用に傾き過ぎていますね。せっかく、定規や物差しが「やってくる」という擬人化の面白さが、あいつは杓子定規だから・・・というような慣用句に飲み込まれてしまうように感じました。 立つ、のではなく、座る、のでもなく。斜めになる。角が立たないように、逆鱗に触れないように、斜めという中間をとる、というようにも読め、面白かったです。 そういえば、杓子定規の杓子って、なんだろう、と思って調べてみたら、杓子(おたま)のように曲がっているものを、定規として使うと正しく測れない、ということ、であるようなんですが・・・なんとなく、融通の利かない、型通りの対応しかしないような時に使う言葉、というイメージがありました。 (斜になる)

2017-09-05

なんとなく、うっすらと、うまく言えないけれど、恐ろしい・・・という「そらおそろしい」が、読み終わったとたんに「空、恐ろしい」に変換されてしまう。 嫌、なことが、好き、なことに反転する。大地が、空に、反転する。殺風景、という語感、意味、文字の迫力が、〈ころすふうけい〉にゆるんでしまう。放たれてしまう。恐ろしさを削がれてしまう、と言ってもいいかもしれない。そんな反転の起こる「さかあがり」という不思議。 〈いまでも わたしは あんなふうに まわしたい〉 この1行が効いていますね。何かを反転させたい、ネガティブをポジティブに、嫌い、を好き、に、苦手、を得意、に・・・反転させたいことばかり。 言葉で、逆上がりができないか。言葉で、世界をひっくり返せないか。そんな言葉の「さかあがり」が未完成であるからこそ、言葉を探し続けるのかもしれませんね。 (そらおそろしい)

2017-09-05

トドメを売っている→トドメを打っている です。 (KIHON THE BASIC)

2017-09-05

冒頭の一連は、私の「親世代」が好みそうな、お見合いの釣り書きみたいですね・・・。昭和10年世代にとっての、「石原裕次郎」。 インタビュー形式詩論。ループ、の部分は、一部に限定、という、これまた新たな試み、と呼ぶべきか。 重箱の隅をつつくみたいなツッコミ入れます。〈ドルチェアンドガッパーナ〉は、ドルチェ&ガッバーナのパロディーなのか、凡ミスなのか。〈ゴールドマンサックス社を経て現在マッキンゼー・アンド・カンパニー〉ここはあえて固有名詞を「一般名詞」のように・・・社会的地位や尊敬、経済的安定を示す、ある種の記号として・・・正確に用いているので、間違いなら、もったいない。 非  言   語 とか、〈見為岳夫の〉の□は、うっかり入ってしまったものなのか、あえて入れたもの、なのか・・・あえて入れたとすれば、あまり効果はないように思いました。 面白い、と思ったのは、とりわけ最後に〈ダンサーとしての基盤をつくる言語表現の改善<美味しい現代詩の作り方編>〉とトドメを売っているところ。 ヴァレリーでしたか、しばしば言われる「韻文は舞踏、散文は歩行」の関係性と、古典舞踊やクラシックダンスとモダンダンスとの関係性を思い起こしたり、『風姿花伝』が、能の指南書としてよりも、人生論や世界観を知るための哲学書のように読まれていること、を思い出したりしました。文化人類学的に遡っていけば、「表現」は舞踊から始まった、という説もありましたね。 からだ(食物によってつくられる肉体)が楽しさを求めて「踊り出す」のが、きっと、ダンス、なのでしょう。ダンスを神に捧げたりする場合(神楽など)は、神の怒りを避けたり凶事を避けるために、「楽しさ」からではなく(つまり、自らを楽しませる、のではなく)、必然から、ある種義務的に行われる場合もあるようですが・・・神(人智を超えた存在)が、人間のダンスを見て楽しい、と思うであろう、という類推から発している。 志村ふくみや浜田庄司など、染色家や陶芸家のエッセイが好きで、よく読みます。 ひとつのこと(それも、身体全体を使う、特に手を使う仕事に秀でた人)は、生き方の芯を掴んでいる、ような気がする。ひとつの事にのめり込み、突き抜けた人は、他の事に関しても常人より、頭ひとつ抜きんでていることも多い。あらゆることに手を出して、すべて器用にやりこなしてしまう、という人は、逆に「ひとつのこと」を愚直に突き詰めることが、出来ないのではないか。 〈見為岳夫〉は、器用になんでもやりこなせてしまうからこそ・・・身体表現という、ひとつのことを徹底して突き詰めて見たかったのかもしれない。コンテンポラリーダンスが、古典から「逸脱」して生み出されてきた、ものであるとして、どこが、どのように「逸脱」しているのか、それは規範を知るまで分からない。「規範」を知ったとして・・・その「規範」もまた、日常的な行為、から逸脱することによって生み出されたもの。そうやって考えて行けば、当然、日常的な行為を為す肉体にまで到る、はずだし・・・そこまで想いや行為が至らないのであれば、それは付け焼刃的に、既に「出来上がった」ものを模倣するに過ぎないだろう・・・ 狭いウィンドウで、考えながら打ち込んでいると、いったい自分が何を書いているのか、わからなく泣てきますが(笑) 以上のような、色々なことを考えさせられる作品であった、ということなのだと思います。 〈収入とか世間的評価とか、基本的なライフラインを得られていない人間が 一種の代償的行為としてコンテンポラリーダンスに取り組む場合 権威に認められたいがために、既存のテクニックを学ぶことばかりに拘泥して 何のための前衛表現なのか分からなくなってしまう〉 承認欲求が、社会的に既に満たされている人であれば・・・つまり、リア充、であれば・・・「表現」による自己顕示や社会的承認を求めようという余計な思惑なしに、純粋に「表現」を追求できる、とも読めますね。それもまた、一つの真であろう、と思います。本当に好きなことは、仕事ではなく趣味にしなさい、とよく言われますし・・・そんな「趣味」に没頭できるのは、ある種の高等遊民だけだ、という批判も受けそうですが、〈見為〉氏は、高等遊民や有閑マダムのように「暇」を持て余して、余暇に「芸術」を遊んでいる、わけではなく、「仕事」も「趣味(アート)」も、とことん、のめり込んでいる、らしい。名前と違って、中身のぎっちり詰まった人で、全ての人に平等に与えられている時間を、実に有効に、濃厚に用いている、濃い人生を送っている人であるらしい。 そうした人物であるからこそ、〈これを非言語的に表現する基礎を持たぬ人間に/言語表現を目指す基盤などない〉と言う言葉が出て来る。 そもそも、言葉にし得ないものを言葉にしようとした時点で、取りこぼすものが溢れてしまう、わけですね。それをなんとか拾おうとして・・・あるいは出来得る限り、その核心に近づこうとして・・・言葉を重ね続けるのではないか。そのたびに、すり抜けていく、としても。その、行為を行う、もっとも基盤となるものが、肉体。全身でつかみ取ったものを、言葉という枠で切り取る、あるいは、言葉に逸脱させる。そうした(体ぜんたいから立ち上る)呼吸とか、律動とか、間合いといったものが、もっとも色濃く表れている言語芸術が、詩、なのかもしれません。(なんだかよくわからなくなっていますが、とりあえず、このあたりで。) (KIHON THE BASIC)

2017-09-05

〈人も緑も息切れして でも止められない営み〉 生える、という行為が「止められない」のか、「抜く」という行為が「止められない」のか・・・。 二連目で〈格別に名付ける日でなかった証拠〉普通の一日、特別に記憶に残らず、消えて行ってしまう一日、記憶されないがゆえに、なかったこと、になってしまう一日、なのか・・・それとも、何をやってもうまくいかない、そんな小さなストレスが積み重なっているような、消してしまいたい一日、なのか。 思い出した詩があります。工藤直子の「鏡」。 きょうのわたしは きげんのよい 風です できたての 綿雲です 世界中のひとを 愛せそうです けさ鏡をみたら 髪のかたちが うまくいってた ・・・だけなのですが 桐ケ谷さんの二連と、まるで正反対、だけれど・・・実は、同じことを描いている、のではないか。そんな気がしました。反転された真実。 (「消耗戦」)

2017-09-03

survofさんへ これはもともと、縦書きの四連構成だったのですが、ビーレビューの新たな門出、ということで、全面的に手直しして、さらに二連、加えました。 縦書きで、連が横に並ぶ形だと、それほど威圧感はないのですが・・・なんだろう、この形だと、なんだかトーテムポールのような(笑) 掲示板に、縦書き仕様があればいいな(ワードでできるようなことが、できるようになるといいな)と、おもったり、は、しています。 祝儀敷 さんへ 一時期、あえて形を決めて、そこに入れ込むことで、新たな言葉を開拓する・・・無理やり引っ張り出す、みたいなことを、集中してやっていました。結局、いかに「言い換えて」いくか、ということの訓練にはなるけれど・・・技巧的な隠喩や換喩にずれ続ける、ということになり・・・果たして、それが「いいたいこと」に近づくことになるのか。言いたい事、の周りを、自由詩であれば単にぐるぐる回っている、だけだけれど・・・型に嵌め込むことで、装飾的な周回に終わってしまうのではないか、という気がすることもあります。偶然、面白い表現が見つかることもありますが。もともと四連だったのですが、それだと妙に息苦しい。6連に、いわば「起承転結」を崩すことで、少し開放感が出たかな、という気もします。 そう考えると、やはり、型に嵌め込むことで失われてしまうもの、息苦しくなること、それと引き換えに得るものが、どれほど効果があるか・・・という、天秤になっていくのでしょう。 sizuku000さんへ 旅立ちを見送る、側に立つのか、旅立つ側に立つのか・・・想像力を働かせれば、どちらにも立つことができますが、私は定一に居て、見送る方が好きかもしれません。ありがとうございました。 (奏楽)

2017-09-03

~である、と畳みかけられていくリズムの中に挿入される、〈バスを待つことに似ている〉の一文。『永遠に来ないバス』という名詩集を、借景として思い描きつつ・・・より普遍的な(他にも、生きることとバスに乗り込むこと、運ばれていくことを重ねる詩人が沢山いるように)生き方のイメージを描こうとしているように思いました。 〈バスはまだ来ない。未来はそこに行くまで来ない。それは身体を伴うことである。それは出来事である。冬は寒くてみんな震えている。でももうすぐ春が来る。〉 その「とき」を待つ、ということ。身体を伴うことである、という部分に、観念的に頭の中でイメージを巡らせるのではなく、実際に書く、という行為がその「とき」を引き寄せるのだ・・・そんな、ある種の詩論のようなものを感じました。 (バスが来る文体)

2017-09-01

日常生活で、ふと気づかされたこと、のスケッチ、のような作品だと思いました。 吉野弘が、電車の中で泣きだした子と若い母親の姿を描きながら、そこに聖母子の姿を重ねる(そして、今日は素敵な情景を見た、と「しあわせ」を感じる)作品がありましたが・・・(題名は失念しました) いたいの、いたいの、とんでけ~と、〈手かざしでサラリとかわす〉情景描写の部分、さらりとひらめくお母さんの手の下から、まるで魔法にかかったように、にこやかな笑顔が現れていたら。そんな情景が描かれていたら・・・もっと臨場感が増したのではないか、と思いました。 実際の光景を、実際の時間軸に添って描いた、ものかもしれませんが・・・みやちゃん、の「いたいの」が「とんでけ~」と飛ばされた途端に、その外国の方がその「いたいの」をもらった、というような関係性に圧縮してみたら、どうだったろう。 他者の痛みを、知らぬ間に他の人が分かち合い、受け止め、軽くして逃がしていく。そんな不思議な「しくみ」に気付いた・・・そんな発見について触れて行こうとする作品である、という気がするのですが・・・もしそうであるなら、もう少し、そこに踏み込んでみても良かったかもしれない、と思いました。 (みやちゃん)

2017-09-01

薔薇、花弁、朽ちる・・・といった、文語に近いような言葉が続いた後に、「ぼてっぼてっと」という、俗っぽい口語を持ってくるセンスが面白いと思いました。 〈僕が君に見惚れていて、〉薔薇族なんて言葉は、今は死語なのかもしれませんが・・・BL的な匂いも漂っていますね。 朽ちた薔薇の花弁まで想像できる、予感できるかどうか、ということは・・・二人がこれから重ねていくであろう時間を想像できるか、可能性を信じることができるか、ということでもあるでしょう。 その時間を予測できない。美しい間、盛りの間だけの付き合いで終わってしまいそうな予感を、君との関係性の中に感じている〈僕〉は、外見の美しさに〈見惚れている〉わけではない。 対して〈君〉は、若く美しい間に散りたい、という、美意識を持っている人、なのかもしれないなあ、などと思いました。 頽廃の美を、外見的にとらえるのか、内面(積み重ねていく時間、堆積されていく記憶)から内面的にとらえるのか。朽ちた姿が、観えるかどうか。考えさせられました。 (薔薇の花弁)

2017-09-01

〈瞳の奥が宇宙に繋がっていて〉一気に、この奥行きに引きこんでいくところが、素敵です。 円の隅、という不思議な題名。円・・・まるいもの。円らな瞳。題名含め、冒頭部分で、あなたの瞳(が垣間見せる、あなた、という内奥に広がる宇宙)に引きこまれて、雨の日でも風の日でも私の夜空(あなたの瞳の中に住む私)の世界は素敵な夜空・・・そんな、見つめ、見つめられる濃厚な愛の時間を想います。 だからこそ・・・あなたの瞳の隅に生きる、それでよい、それだけでよい、と思う恋だからこそ・・・取り込まれてしまったら、〈その中で生きるのが/少し息苦しい〉〈天井も壁も無くて/果てなんて無い〉〈強く締め付けられて/やがて小さくなり/何も残さず消えてしまう〉そんな予感がする。 あなた、に取り込まれ、飲み込まれ、自分、が消えてしまうような・・・そんな恋になっていくような気がする。だからこそ、〈やっぱり私は眺めているだけにしておきます〉と、冷めた目でこの詩を閉じる。もちろん、私の勝手な読み、ですが(笑) 熱烈な恋愛に引きこまれそうな、黒い瞳の魅