ときどき人に話すこと - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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ときどき人に話すこと    

私の記憶が正しければ 高校の学年主任は 「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」 と言ったはずだ いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか しかもよりによって卒業式で 私は真意をはかりかね混乱したまま式を終えた しかし何より驚いたのは 同級生の誰もそのことを問題にしなかったことだ そんなことはどうでもいいと言い放った輩もいたっけな (本当は私の記憶違いだったのだろうか?  だが私のメモでは遅くともその3年後には記録がある  18歳の記憶を21歳がメモしたのだ  間違いということはあるまい) これが前々から何か変だと思っていた学校の最後の日の出来事  ※ ※ ※ あれは一体なんだったのだろうと考えていた2年後のある日 別の高校に行った中学時代の友人が言った 「俺のところでは  『君たちは成績は足りないが人生はいろいろある』 と言われた」と ああなるほどそういうことか こちらの学校は成績が足りているから 学業と部活の文武両道 さあ高学歴の社会へ行きなさい あちらの学校は成績が足りていないから 学業は無理でも 人生にはいろいろあるよ と 私と友人は合わせ鏡だったのだ みな成績のもとできれいに振り分けられた 機械生産のベルトコンベア  ※ ※ ※ 高校の同級生はこの仕組みに乗っていることにも 気づいていなかったのだろうか それとも分かっていて乗っていたのだろうか どちらにせよあのとき 異議申し立てをする人間が誰もいなかった時点で 私の同級生だった彼らは 自分が自分自身であるということを捨てたのだろう まあ、気づいてもいないのだろうが (それともどこかで気づくのか?  そんなことまでは知らないし特に興味もない) せいぜいあっちの世界で生きていけ! と言いたいところなのだが あっちが主流の世の中なんだよなあ  ※ ※ ※ 中学時代、 改革の機運の中で少しでも努力したのは私の民主主義の原点だ 委員長に協力して図書室を綺麗にしたよ 当時の資料は今も丁寧に取ってある 私よりはるかにすごい連中は 形骸化していた校則を改革して全校で動議を通過させた これからの学校はどうあるべきかなんて議論もしたさ これが中学生 すごいもんだね 変えられないものなんて無いんだよ けれど高校で見たのは はるかに大きな社会の仕組みのなかで 順応する羊たちの群れ  ※ ※ ※ 卒業式より少し前、 私が高校に疑問と批判の目を向け始めたとき 同級生は皆で知恵を出し合って私に言った 「君も笑っていたじゃないか!」 彼等は別に悪人じゃないだろう そのことはわざわざ知恵を出し合うあたりよくわかる だが彼等にはあらゆる意味で矛盾を見抜く力がなかったのだ もちろん私と同じように考えろという意味じゃない しかし物事を外側から見る力が 彼等の生活史を通じて一切養われていなかったのだ これにはさすがに参った 道理で言語が通じないはずだ 自分の正しさを押し付けることしかできない人たちなのもよくわかる それ以来私は 世の中の仕組みとそのなかで喜んで踊る人たちに苦笑しながら かといって代案があるわけでもなく ただぽつねんと立ち竦んでいる  ※ ※ ※ この体験で 世界がよりよく見えるようになった気はする でも世の楽しいことに乗り切れないのは困る 背中越しに仕組みが見えて 「ああこいつらも同類か」となってしまう これはこれで疲れる さてどうしたものかな 答えの出ないままもう15年も経ったかな いろいろ勉強はしたけれど どうも納得できる説明には至らないね そうだ、おい読者の君 何か案があれば教えておくれよ 少し参考にしたいから、さ


ときどき人に話すこと ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 12
P V 数 : 714.3
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2017-08-28
コメント日時 2017-09-07
項目全期間(2024/04/19現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性00
可読性00
エンタメ00
技巧00
音韻00
構成00
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叙情性00
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閲覧指数:714.3
2024/04/19 19時25分59秒現在
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    作品に書かれた推薦文

ときどき人に話すこと コメントセクション

コメント数(12)
三浦果実
(2017-08-28)

なぜだろうか。とても息苦しさを感じた。一読目でコメントを書こうかと思ったのだけれども、何かしっくりこない感があり、今の時間に再び開けてみたところ、花緒さんがコメントしていた。作品へのコメントから読んで自分のコメントを書くのはあまり、やらないことなのだけれども、読んでしまった。花緒さんは、言いたいことを直裁に書きすぎとの評を残されたのだけれども、このコメントで逆のことがわかったのだ。私がしっくりこない感は、今作は言いたいことを言ってるようで、言っていない作品だということが。 せいぜいあっちの世界で生きていけ! 過去の事柄を語るなかで、最も強調されたところ。ところが、その続きが下の通り。 と言いたいところなのだが あっちが主流の世の中なんだよなあ 作品の結末には、 そうだ、おい読者の君 何か案があれば教えておくれよ 少し参考にしたいから、さ これは、ニヒリズムだろう。爽やかな青年の主張ではない。 面白い作品かどうかといえば、なんだろう、言いたいことを取消しながらも、最後は読者へ投げてしまうところが、んんん。粗い作品な感はあるけれども、私は面白かった。少なくとも、ここ最近、掲示板で読んだ作品の中では、ベスト3に入るかもしれない。でも、詩作品かと云えば微妙。ただ申し訳ないけれども、私はかなり辺境から作品を読んでいる人間で、客観的に云えば、主流な読者は喰いつかないかもしれない。失礼。

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ハァモニィベル
(2017-08-28)

はじめまして。よろしくお願いします。 (作中の問い、に)一言で答えるなら、「読者」が感動するものを、書くことでしょうね。 よく整理された文章であるにとどまらないような。 作者が、何かを考察したり思考しているのであれば、読者のほうも、そこから、何か発見なり感銘を得たいと思って読んでいるわけですから、掘ってみたら何も出なかった、というのでは、犬でなくても腑に落ちないわけです。(仮に、問題提起であれば、鋭さが要求されますが、それがべつに鋭くなければ、やはり腑に落ちない、ということになります) 本作は、わたしが読んだカンジでは、 中にどっぶり居るだけではアホだから、外に出られるチセイはいいのだが、 外に出たままで、中でアホになって楽しめないのも困る。 というカンジでしたが、 人間というのは、どこまでも、外には出られないものです。出た処がまた中だからです。 また、人間は、どこまでも外に出て行けます。心がひとつ外に出れば、その外に出て行ける心もあります。 同時に、中にも居るし、外にも居る。こうなれば、悟りを得たひと、なのでしょうねおそらく。 人は、いろいろです。 どう生きるべきか、と道を尋ねるように問える人間というのは、シアワセな人なのであろう。 と、思います。 そうとしか生きようのない枠の中で、自分にしかできない生き様を必死で晒している人間には、 「少し参考に」してもらえるような血反吐は、気前よく吐けそうもないけれど、(作中、読者へ向かって)請われた以上、一読者の読後感として少しだけ、呟いてみました。 *(以上です)

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田高節
(2017-08-29)

皆さまはじめまして。田高節と名乗らせていただいております。 ある方に自作の現代詩をお見せしたところ、こちらを紹介されて参りました。 コメントを拝見しております。コメントがすぐいただけるのは嬉しいことですし、それになるほどそう受け取られるのかと実に興味深いですね。 実は普段は漢詩ばかり(素人の趣味ですが)作っておりまして、あちらは古典にもとづく約束の張り巡らされた世界ですから、やはり漢詩と現代詩とではそれぞれ要領が違うのだななどと感心することしきりです。 【注:以下は内容に関するコメントです】 正直に言えば、これほどまでに伝わらないものかとびっくりしています。 実は私がここに投稿する気になったのは、「どうしようもなく生きていく君の世界の経験が、文体で、個性で、テーマだ」という言葉を見たからでした。ですから今回は自身の体験を直截にぶつけてみようと思ったわけです。他のことならまだしも、この件は身も蓋もない事実ですから、散文調になっても事態に合わせて作るのがよかろうという判断です。 もちろん技量の拙さはありますが、それでもどちらかと言えば過剰に読み取られてこちらが「そこまで考えてはいなかったです」と言うような流れを想像していました。ところが案外そうはならない様子なので「ありゃ…?」となっています。 怒りとか失望とかが先立っているものなので…軽侮とさえ読まれると…解釈は自由ですからそれでも構わないのですが…まあ、多少残念ではありますね。うーん、どうすればいいんだろう。

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まりも
(2017-08-30)

なんだか、辛口のコメントが連続してしまっていますね・・・ 一連目と二連目の対比が、とても面白かったです。記憶というものの曖昧さ・・・自分で「作り上げてしまったかもしれない」記憶、その言葉にとらわれてしまう、それ以降の人生。 さて、しかし、うむむ・・・順番、というのでしょうか。 例えば、冒頭部分、〈私の記憶が正しければ〉と、まっすぐに語り始める。意外性があるのは(読者が、え?と驚かされるのは)「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」という、学年主任の言葉、ですよね。この衝撃的な一言が、前後の文脈なく、どん、と出されて・・・読者が、え?何?どうしたの?と思っていると、次々に、これが実は学年主任の言葉で、しかも卒業式当日に放たれた言葉、だということが分かって来る・・・という展開であれば、この時点で、読者の中における「驚き」の連鎖と、作者の伝えたい驚きや怒り、衝撃の連鎖、が、同じ速度で、同じ順番で進んでいくわけです。〈いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか〉という独白部分は、読者が作者と同様の進行で情景を「体験」していれば、自然に生み出されるものですから、書かなくても伝わる。それをあえて書いてしまうと、なんとなく「あたりまえのこと」を、言われているような、気がしてしまう・・・のではないか、と感じました。 成績、が良いことが、果たして社会的に有用なのか。社会的に有用であること、が、そく、人間の価値、に繋がるのか。 ひとりひとりの「人間」を育てるべき学舎で、お前たちは社会の歯車に成れ、機械になれ、と申し渡される。そのことを自慢げに語る教師。そのことに、怒りや疑問や理不尽を感じる語り手と、当然のように受け入れている(問題にすらしていない)周囲の友人たちとの齟齬。その齟齬が生み出す孤独・・・ この一連目、あるいは二連目を掘り下げて行くことができたら、とても魅力的な作品になるのではないでしょうか。三連め以降の様々なエピソードも、ひとつひとつの事柄の背後に、感情の起伏があるはず。その感情の起伏が、どのように起こったのか、という「進行過程」と、出来事がどのように起きたのか、という事実を叙述する過程は、異なると思います。その意味では、エピソードが盛り込まれ過ぎていて、一連目で言いたかった感情、が、薄れてしまう(そんな風に受け止められてしまう)のではないか、と感じました。 たとえば(荒川洋治が、散文と詩文との差異について、言葉の語順が生み出す効果についても書いていたように思いますが) あの丘の上に見える、白い壁の、赤い屋根の家の窓辺、その家の中に、君は閉じ込められていた。僕とは会わせてもらえなかった。という説明的な文章があった、として・・・その時の「僕」の感情の起伏は、このままでは、なかなか伝わりにくいのではないか。でも、 光が僕を射抜く 痛い! 跳ね返される光 窓だ、君と僕を隔てるガラスが 僕を遮る 近づけない、 白い壁 岡の上の 昇りつめた先の あの、赤い尖った 鋭利に青空を裂く屋根の下の・・・ というような感じに(私なら、ということですが)書き換えていく、かもしれないなあ、そうすると、その時の「僕」の切なさや、どうしようもない、というジレンマのようなものが、より、切実に他者に伝わるのではないか・・・などと、思いました。あくまでも、ひとつの例、なので・・・ほかにも、色々な(説明しすぎない)書き方、感情の起伏が素直に伝わるような(論理的な順番は無視したとしても)書き方、などを、試してみると良いのではないか、と思いました。

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田中修子
(2017-09-02)

こんにちは! 感想を言いに来ました! 聖書ふうにいうと、 「はっきり言っておく。この文章の恐ろしさが分からないものは、幸いである」というところでしょうか。 (怒られそう~) 淡々と高校の学年主任が 「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」 と言ったはずだ でゾゾゾゾ、というか、恐ろしかった自分の成育史を思い出してヒャアアア、といいますか。 それ以来私は 世の中の仕組みとそのなかで喜んで踊る人たちに苦笑しながら かといって代案があるわけでもなく ただぽつねんと立ち竦んでいる 背中越しに仕組みが見えて 「ああこいつらも同類か」となってしまう これはこれで疲れる 類を見ない、笑顔である頭のイイそして行動しているがゆえの孤独だなぁ、と思うわけです。 まぁ、これは私自身の成育史と思想史とでもいうところと、 高田さんの成育史と思想的なことろがすこしかぶっている(Twitterで見ていればよくわかる) から異様に私が拾ってしまう、というところもあるわけですけれども。 高田さんが欲されている批評というか、感想は、非常に高度な政治的内容を含むものかと。その内容は、人類としての社会を構築していく在り方すら問われているんでしょう。壊れた理想論であるとはいえ。 この作品は、詩の形式をとった散文詩になりそこねたモノ、というよりも、非常に難解な思想本を読み解き、理屈に埋もれるだけでなく自身も誰よりも最先端の暗部を見つめて活動し、逆に淡々として書かざるを得なくなった、いっけん平凡であるが作者の人生が投影された解体すれば解体するほどに孤独が出てくるものすごい化け物のようなもの、というわけで、ですからどうしようもなく生きていく君の世界の経験が、文体で、個性で、テーマだというこちらのサイトに投稿されたわけですが、ここでもああこいつらも同類かと思ってしょんぼりされたのかなァ、とか。 おそらく、おおくの読者は、ああいう世界のなかで陥る孤独というものを知らないわけですし、ふつうは知らないものだそうです。 ですから「思春期の誰もが通る普遍的な悩み」として読み取るしかできない方もいるのかな、と思いました。自分の持っている知識だけからしか、作品に対しての評が出ないのならば、私は普遍的な文学の解体の仕方に対しては非常に低能ですが、心理的な孤立は異様によくわかるわけですから、「文学としてうまいなぁ」というよりは「おっこのいっけんふつうの人の、心理状態素敵にグチャグチャそう」というふうに異様に反応します。 そうだ、おい読者の君 何か案があれば教えておくれよ 少し参考にしたいから、さというのは、 「思春期の誰もが通る悩みからガチであっちやそっちの知識を読み漁り活動をしてみたものの、あっちでもそっちでもなんだあいつらも対して高校の教師や同級生と変わんねぇじゃないかと分かって立ち竦むしかない、俺どうしたらいいんだよ」みたいな病気寸前の叫び、に聞こえました。私には。 しかし、私にはお答えできません。というか私も誰かに答えてほしいです。笑 私も長らく叫んできましたが、普通の人はその孤独を知らないから答えられない。また、ほんとうに没頭して信じて動いている人に叫んでも、なぜかあの人たちの耳は命をかけてすら泣き叫んでも、とても上手に素通りするようにできるようです。 ここからは完全に妄想ですが、「立ち竦んでいる人」だけを集めて政治グループを作って第一党にでもなって思うがままに世の中を動かしてでもみれば、非常に愉快かもしれませんね。 そしてなーんだ〇〇の国家じゃん、としょんぼりするのもまた、目に見えていたりして。

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田中修子
(2017-09-02)

高田さんやほかの方の文の引用をした「」が私のこのパソコンからは表示されず、読みづらくなっているかも。申し訳ないです。

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田高節
(2017-09-04)

こんにちは。ご意見拝読しております。 嬉しいかな私の言いたいことは田中修子さんのコメントでほぼ尽きております。 強いて言えば私の名乗りは田 高節だということでしょうか笑。秦末の斉王、田横の事績から取ったものです。でもそんなことは大したことじゃありません。むしろ高田節という名乗りもなかなか良いですね。これからそっちにしようかな。 さて前回は控えたのですけれどやはり少し言うべきかと思いましたので批評に対するコメントをさせていただきます。 花緒さん 一件まずは質問させていただきたいです。 >本作、<社会からの圧力に飲み込まれず如何に生きるべきか難しいよね>という一行に要約可能のように思います そのような側面のある作品であることは全く否定しません。しかし私には、花緒さんご自身の視点において言葉と実質とが乖離しているように見受けられました。花緒さんご自身は、そのような点について、観念上の思考は結構です、実際にご自身の問題としてお考えになったことがあるのでしょうか。それによってその先お話しすべきことも変わってくるかと思いますので、まずはお伺いします。 三浦果実さん >言いたいことを取消しながらも、最後は読者へ投げてしまうところが、んんん。 楽しんでいただき嬉しいです。 ただ私が目指したのは青年の主張でもニヒリズムでもなかったです。私がもはや読者に投げざるを得ないと感じている理由が、私としてはもっとも汲んでほしいところでした。 中学時代云々の聯、とくに民主主義と社会の仕組みという言葉で対比的に表現したつもりだったのですが、通じにくかったでしょうか。 ハァモニィベルさん >そうとしか生きようのない枠の中で、自分にしかできない生き様を必死で晒している人間 この部分が大変引っかかりました。三浦果実さんへのコメントとも重なりますが、私としては作品中の言葉で言えば「変えられないものなんて無いんだよ」という体験を持った上で出発していますから、どのような「枠」とて、もし誤っているならば手段を尽くしてうちこわし、新たな秩序を打ち立てようとします。 そういう過程で何度も訴えては失望を繰り返しつつなお良案はないかと問いかけているのですが、伝わりませんでしたか。それとも何事かを変えた経験が一切おありではなく根本的に理解できないというようなことでしょうか。 まりもさん ご助言ありがとうございます。ただ今回は感情は交えないことにしていたのです。偶然ですが以前感情的なものは作ったことがありますし、何よりこういう話題ですから単純に嘆いたり感情を伝えたところで何一つ変わるわけではありません。 >〈いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか〉という独白部分は、…書かなくても伝わる。 まりもさんの感性はまともだと思いますが、私の体験からすれば大多数は何も思わなかったのでした。私はまりもさんのような読者が大多数であると想定できるほど人間の精神を信頼していません。大多数はどうあれ少なくとも私は幸か不幸かそう感じ得たということを確定しておきたかったのです。それが本文を加えた事情でした。 さてここからは詩とは何かというような話に立ち入るのですが、例示された表現を拝見しますに、現代詩というのは直接的な体験を一義的排他的に尊ぶのでしょうか。私は普段実証研究に関係しており、そのせいもあって時間を反省の積み重ねとして重層的に考えており、作品中にもそれが反映されていると思うのですが、それは詩作品としては不十分と観念される材料になるのでしょうか。 田中修子さん >「…俺どうしたらいいんだよ」みたいな病気寸前の叫び、に聞こえました。私には。 活動というほどの活動をしたわけではなく、目の前の問題を可能な限り片付けてきたにすぎませんが、はい、その通りです。答えがあれば良いのですが、なかなかどうにもなりませんね、お互い。 >おそらく、おおくの読者は、ああいう世界のなかで陥る孤独というものを知らないわけですし、ふつうは知らないものだそうです。 そうなのですね。詩をやっておられるほどの方で、しかも「どうしようもなく生きていく君の世界の経験が」云々、ますます多少の出会いがある可能性はあるかと思ったのですが、もし大多数は結局そうだということであれば、残念なことです。 >「立ち竦んでいる人」だけを集めて政治グループを作って…非常に愉快かもしれませんね。 まあおそらく、途中でお互いに冷めてきてしまってどうしようもなくなるでしょうね笑。因業なものです。

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ハァモニィベル
(2017-09-04)

田高節さん わたしのコメントの主旨は(もう一度書きますが)   《一言で答えるなら、「読者」が感動するものを、書くことでしょうね。》 これだけです。 あなたが言いたかったことや伝えたかったことが、読み落とされていると感じる場合は、作者コメントで説明なり補足すれば、あるいは、自身が一読者となったつもりで読みを披露すれば、それでもう十分ではありませんか。ましてや、 >嬉しいかな私の言いたいことは田中修子さんのコメントでほぼ尽きております。 ということであるなら、とくに、私に質問なさることは全然ないと思いますよ。 あれでほぼ尽きているなら、わたしも、特に貴方や貴方の作品について誤解していなかったことが確認できたので、特にコメントを修正する必要をぜんぜん感じません。 因みに、ですが、 わたしのコメントにあった「そうとしか生きようのない枠」 という文言を読んで、  >どのような「枠」とて というようでは、わたしのコメントが貴方には読めないわけですから、 わたしから貴方に何をお答えしても無駄だと思いました。 たとえば、ひとつの解りやすい例として どんな、善人にせよ、悪人にせよ、知者にせよ、愚者にせよ、 あるいは、君子にせよ、壮士にせよ  心臓が鼓動していることは変わらない。  そして、それがやがて止まることも。 しかし、貴方は、  >どのような「枠」とて  >もし誤っているならば手段を尽くしてうちこわし、  >新たな秩序を打ち立てようとします。 というように、ご自分の発想の(枠)内でしか受け取ることができていません。 一たび去りて復た来てくれたのに 今回もまた、   風蕭蕭として易水寒し  といった感じで申し訳ありませんが、 結局、  >失望を繰り返しつつなお良案はないかと ご自身に問われるのが最良ではないか、と思うほかありません。 (今回もまた俺の真意が通じなかったか、  と感じられたなら尚更、そういうことです) *以上です

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田中修子
(2017-09-05)

田高さん、すっごく失礼しました。 でも高田の方が平凡な感じがしていいかもしれません(言い訳?)。 あと、私から、ハァモニィベルさんにもお詫びがあります。 私は田高さんとある場でお会いして別系統の作品を購入したことがあり、そっちはやはり非常に感動したから購入に至ったのでした。全体的に安いものを販売している場所のなか、プロの単行本と同じ価格設定でしたが、購入せずにはいられませんでした。 その後やりとりをしていて、ほかの作品でも「読者」が感動するものを書ける人であるという先入観? があって、ともかくこの作品に対する私の感想文は、トコトン「田高さんのこのときの気持ちになって考えてみましょう。田高さんのの気持ちになって、叫びに答えてみましょう」という感じ、おそらくこの一作のみ知っている方より相当な思い入れを書いてしまったので、田高さんとのなれ合いになってしまっていますね。 ってわけで、田高さんも、他の作品を投稿なさるといいのかな、と。そうしたらハァモニィベルさんもまた、面白いかもしれません。 花緒さんへ こんにちは。 私は学芸員さんというのは、全般的な知識があって自分としては好きではないものでも展示し評価することをする職業の方かと思っていましが、このサイトの、花緒さんは、どうも私の思っていたと学芸員さんとは違うようである、ということを理解いたしました。 ところで「でわ」というのは、私がよくやるうちまつがいでありましょうか? ただ、もちろん、無料で労力を払ってサイトを存続させており、無料で利用させていただけていること、とても感謝しております。

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田高節
(2017-09-05)

拝見しております。 花緒さん >逡巡する俺と、ただ従順に従うだけのアホの大衆 さすがにそんなたわけた内容で詩を書こうなどとは思いません。 私としては、一主体が何らかの思想を持つ過程(それはもちろん私に限りません)に関して花緒さんの物の見方に大きな限界があることを感じますが、ともあれどう受け取られる場合があるかがよくわかりましたので、おおいに勉強になりました。ありがとうございます。 ハァモニィベルさん 枠という言葉を私が使ったために却って紛らわしくなってしまったようです。すみません。 ともあれ発想の出発点に違いを感じます。たぶんハァモニィベルさんは「枠」として生老病死のようものを、またそうした枠に規定された存在としての人間をお考えなのだと思いますが、私が考えているのは歴史社会の規定を受けて生きる人間なのでした。 どちらが正しいという議論をしても当面始まらないと思いますので、この辺でいったん打ち切っておきます。 次回は工夫しますね。それではまた。 田中修子さん 田でん高節こうせつ、です、はい。すみませんなんだか。 私のほうでも馴れ合いをしてしまったかもしれませんね。反省します。 せっかくのご縁ですから、よりよい良い作品を作りたいと思っています。

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まりも
(2017-09-06)

田さん、とお呼びすればよいでしょうか・・・貴重な返信レス、ありがとうございます。 まず・・・「現代詩というのは直接的な体験を一義的排他的に尊ぶのでしょうか。」というご質問について。 そう考える方もいらっしゃるでしょうし、そうでない方もいらっしゃるでしょう。ひとりひとりが、これが自分の詩だ、というものを、探していく、それが、「現代詩」であろうと思っています。 私の場合は、新奇さを目指して言語実験を繰り返す作品の、技巧的な到達度に驚嘆したり感動したりすることもありますが・・・言わずにおれない、そんな心情が切々と伝わってきたり、一気にその人の内面世界に引きこんでくれたり、言わずにおれない、その切実さを、どうにか他者に伝わるように、と腐心している・・・そんな作品に心惹かれるところがあります。 半ば冗談で言うのですが、現代詩、には、「ゲンダイシ」と「現代の詩」がある、と思っているんですね。たとえば吉増剛造さんは(私の中では)「ゲンダイシ」で、たとえば石垣りんさんは「現代の詩」・・・というような、ゆるい区分けがあります。いわゆる、前衛的実験詩・・・詩史に照らして、言語領域や文学の可能性を極限まで広げよう、と果敢に挑戦しているような作品群・・・を中心に「現代詩」と呼ぶのであるとして・・・伝えたい事、が、まず、その根底にあってほしい。その切実な、言わざるを得ないこと、が、旧来の表現技法の中では言い得ない、場合に・・・言葉が、旧来の用語法や語順や文節などを「逸脱」してしまう。その「逸脱」の中に、心あまりて言葉足らず・・・というような、切実さ、が伝わって来るかどうか、ということが、大切なのではないか、と(個人的に)思っています。 そして、詩、全体をアメーバのような有機体、として考えた時、実は「ゲンダイシ」は、その辺縁に当たるものであろう、とも思います。有機体全体が、ある一つの方向に進んでいく時(それは、ある程度時間が経ってから、振り返る時に見えて来るもの、でもあるでしょう)その方向に突起を伸ばしていた辺縁が、後に詩史におけるトップランナー、時代のエポックとなる作品、と呼ばれる(評価される)ことになる。しかし、全体が進んでいく方向、ではない方向に伸びていた突起は、ちぎれて、取り残されていく。しかし、取り残されたものを後で振り返ってみた時、非常に優れた作品である、ということが再評価されて・・・今度は、有機体全体が、その「とりのこされた」島のような部分に向かって動いていく、というようなことも起きる。 そうした「辺縁」の動きばかりに(つまり、変化ばかりに)目が行きがちですが・・・有機体全体を動かしている根幹、その部分も、とても大切だと思っています。表現としては、旧来の技法(既に、多くの人に受け容れられている文法、話法、技法)に立脚していて・・・つまり、表現技法によって読者を瞠目させたり、新奇な表現によって驚かせたり、するのではなく・・・その時の心情や、事実の積み重ねや、その時の体験、想い、思想・・・といったものを大切にする、という、作風。 それとても、千年の歴史の中で見たら・・・平安時代や江戸時代の文法や話法と比較するなら、口語自由詩は、それだけでどれほど驚嘆させられる「変化」であるか、ということは言えるでしょう。ただ、一般の読者に、より受け入れられてきている、その時代にとって「馴染みのある」技法である、ということが言えると思います。 田さんの今回の投稿作品は、一般的な読者に馴染みのある技法を用いて、創作されている、と思いました。特に新奇さを狙ったり、読者に文学的な驚きをもたらそう、という文学的な意欲に基づいて生み出された技法を用いている、わけではない。だからといって、「それは詩作品としては不十分と観念される材料になるのでしょうか。」ということでもない、のですが・・・ 何と言えばいいのかな、ええと・・・ 田さんの、今回の投稿作品について・・・私がお伝えしたかったのは(他の方のレスなども含めて、考えるに)田さんが〈「ここで社会に役立つ機械を生産したと思っている」〉この一言を聞かされた時の、田さんの衝撃、感情的な波立ち、怒り、悲しみ、絶望・・・それが、充分に伝わっているのか、ということ、です。 その言葉によって(もちろん、それまでの教師との関係性であったり、社会との関係性であったり・・・教師の「熱心さ」を誤解していたのか、私は裏切られたのか、という衝撃であったり・・・もろもろの、言葉にし得ない感情が、そこには渦巻いているはず、なのですが・・・)田さんが、あれほどの衝撃を受けたのに、他者は特に意識していないようだった、という孤立感であったり疎外感であったり・・・そうした感情を覚えた、そこに「詩情」があるのであろう、と思うのですね。 さらに、社会に出た後、俺たちは社会を動かす重要なモチーフだ、お前たちは歯車に成れ、社会を円滑に動かすための部品に成れ、というような排他的な圧力であったり、形の見えない優越感や特権意識に出会ったりする・・・そのたびに、自分の中にざわざわと蠢く感情があり、それを「相手側」はまるで感じていないように見える、その違和感や齟齬・・・それを感じた、そこにもまた、「詩情」がある、と思うわけです。 その「詩情」を、たとえば「いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか」と思った、と説明してしまう、のではなく・・・その時の感情の強度や感情の波立ち、衝撃を伝えるような、同等の比喩はないか、と模索してみたり、その時の真情が、よりよく伝わる、よりインパクトを持って伝わる、語順はないか・・・と(読者の側として、自分の作品を読みながら)模索してみたり・・・そうした探索や模索の中に、たとえば詩の「うまさ」とか、技巧的な向上、といったものが、あるのではないか、と思っています。 単純に、他者を驚かしたり、新奇な目新しさで「すごいだろう」というようなこと、ではなくて・・・その時の感情の強度や、切なさや怒り、悲しみ、といった心情が・・・もちろん、感情的な言葉を直接書く、ということではなく、抑制された表現の中に、その心情がにじみ出す場合もある、でしょうけれど・・・ダイレクトに読者の心に伝わってくるようであれば、これは本当に、心ふるえるだろう、と思うのです。 われわれの人生を、なんだと思っているのだ! この気持に、そうだそうだ、と頷く人もいるでしょうし、あなたはそう思ったかもしれないけれど、気持ち的に、ピンとこないな・・・というように、単純にひとつの話題として聞く人もひる、でしょう。 それでも・・・いや、だからこそ、その時に語り手が受けた衝撃を、匹敵するような比喩で伝えたり、衝撃がそのまま追体験できるような語順で伝えたり、そうした工夫をしてみる価値が、あるのではないか。あるいは、その言葉を使わずに、事実を端的に(取捨選択しながら)積み重ねていく、写実的な表現によって、その言葉を思い浮かべた時の心の憤りを、他者の心の内に表現できないか・・・というような探求もある、と思います。(たとえば、悲しい、と説明せずに、悲しい心情を、情景描写に託して歌う、といいうような。子規の写生論などにもつながる問題であろうと思います。) そうした・・・その人が感じ取った「詩情」を、その人の独自の表現で表そうとする、その試行錯誤や紆余曲折の中に、詩を産む楽しみも苦しみもある、のかな・・・と思っています。 その時の思考を正確に伝える、ということであるなら、エッセイやノンフィクションスタイルの小説、論文などの方が、より適しているかもしれません。 でも、これが私の「詩」である、という作品によって、その時の真情や心情、イメージ、言葉にならない心の波立ち、それらを、伝えよう、とするとき・・・言葉、という不自由なものを使って、他者の心の中に再現する、喚起させる、そんな試みを、試そう、試みよう、とする、とき・・・そこに「詩」が生まれるのではないか。そう、思っています。 長文、失礼。ご質問に、うまく応えられているかどうか、心もとない、のですが・・・。

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田高節
(2017-09-07)

まりもさん 詳しくお教えいただき、ありがとうございます。 アメーバのような有機体というお言葉を拝見しまして、おそらく、現代詩には固定的な定義があるというよりも、詩の本質を探求する過程そのものであり、別角度から言えば詩史の流れに参加するかどうかが、個々の詩が詩であるかどうかを、また作者が詩人であるかどうかを決めるものなのだろうと感じました。定型がありませんから、定型詩以上にその側面が強まるのであろうと思います。外れていたら申し訳ないのですけれども、当たっているとすれば哲学の「哲学することを学ぶだけだ」というのに似ていますね。 >そうした・・・その人が感じ取った「詩情」を、その人の独自の表現で表そうとする、その試行錯誤や紆余曲折の中に、詩を産む楽しみも苦しみもある、のかな・・・と思っています。 ありがとうございます。なるほど、なんだかちょっとピンときた気がします。 例えばですけど、 いったいわれわれの人生をなんだと思っているのか しかもよりによって卒業式で 私は真意をはかりかね混乱したまま式を終えた これを、 ワレワレハ機械ナノダ 型番ハサンノサンノニジュウナノダ 隣ノ男ハサンノサンノニジュウイチダ マエノ女ハサンノニノニジュウナノダ 右手ヲアゲヨト指示ガアレバ 右手ヲアゲルノガワレワレノシゴトダ ソノヨウニシコマレテキタノダ ーー今初めて知ったよ! アッデモカラダハソノヨウニナッテイルナ ソウワレワレハ機械トシテシコマレタノダ ここで黙って心を捨てれば ワレワレハ真ニ機械トナレルノダ お断りだよそんなもの けれどもとっさに何ができるということもなく そのまま卒業式は終わってしまった 椅子を蹴って出て行けなかったという事実だけが残った とすると、、、もう少し伝わりやすいかもしれませんね。 たぶんそういう工夫の過程だとおっしゃっておられるのだと思いましたがいかがでしょうか。 ちなみに上段の話の続きで詩史に対する態度なのですけれど、技量はいったん棚に上げると、私自身はあまり言語の極北のようなものを目指す詩は、人はともかく自分ではあまり書きたくないなと思っていて、むしろなるべく平易な方がいいんじゃないかなと感じています。 理由はいくつかあるのですが…主として自衛かもしれません。実は極めて体調が悪い時期に書いた詩らしいものでは、ひらがな文とカタカナ文とを交錯させたり、文字の大小を入れ替えたりということを含め、今回よりよほど表現を工夫していたのですが、それで自家中毒を起こして余計体調を損ねてしまったのでした。なので身体に触る以上根本的に書きたくない、書けないというのがひとつ。 もう一点、あまり方法的な理論から詩を書きたくないというのがあります。脱構築とか云々とか、まあちょっと前の流行思想としてそれなりに勉強はしたんですけど、これは違うなと思いまして。理由を細々書くと長ったらしくなるのでやめておきますが、要するに人間が存在との関係で存在者のひとつに抽象化されてしまって、歴史のなかで生きる人間が事実上捨象されてしまうなと思ったのです。それで、よそ様がする分には好きになさったらと思いますけれど、少なくとも私のしたいことではないなと。 というわけで私の中では難解な詩を作りたいという意欲が個人的な動機からも理論面からも消えてしまうのですが、より積極的には、私がふと気づく点がたいていの場合、時代状況が産出する矛盾についてなので、内面から語るにせよ、あまり難しい表現は似合わない主題だと思うからです。 ですので、今後はなるべく平易に、かつ詩情が伝わるような工夫をやっていくというのが目標になるのかなと思いました。もちろん、そのなかでもしかするともっと複雑な表現をくふうしていくことになるのかもしれません。 ということで、お答えになっているのかどうかちょっとわからないのですけれど、ひとまずお伝えいたします。

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