作品投稿掲示板 - B-REVIEW

藤 一紀

投稿作品数: 15
総コメント数: 373
今月は2作品にコメントを付与しました。
プロフィール:
詩を読んだり書いたり。中国武術をしています。現在は子どもや初心者向けの教室で教えながら、中国武術の普及と地域活性化を目的にした企画にも参加しています。


七月分選評

2018-08-15

選評五月分

2018-06-15

四月選評 

2018-05-16

長々となるのを避けて手短かに。作者と作中主体との明確な距離から生み出される語り、言葉の運び方、イメージの変化と積み重ね、リズムが単調にならないような語法など「作る」といった意識に支えられた良い作品と感じました。 (ある夕刻)

2019-11-09

るるりら様 読んでくださって、ありがとうございます。四年前に書いたエスキースに手を入れてみました。 元詩はちょうど車を停めて、本を読んでいた時に、フロントガラスから見えた猫の動きを言葉の相に移しただけのものなのですが、本当に「のっのっ……」という音がぴったりくるなあと思うような足取りだったんです。よく思い浮かんだなと我ながら感心しています。 ただ、見返していると単調な印象が拭えなかったので試しに少しばかり変化を入れてみた次第です。()部分や、ご指摘の「いつかの~」の箇所はその際に入れました。コメント、ありがとうございます。 (車の窓から)

2019-11-08

第三連から先に書きます。 閑散とした庭は少しだけ‬ ‪人恋しさを連れてきて‬ ‪上着を忘れた時のような‬ ‪気持ちにさせるのだ  ひっそり静まりかえった庭は、《少しだけ人恋しさを連れてきて》とありますが、ちょっとした人恋しさに触れることで、本当にかつてのようではなくなった事実に気づく、直面するということは十分にあると思います。人恋しいと感じるということ、温もりを求める気持ちというのは、それが「ない」ということを証しているのだから。  で、そういう、自分を温かく満たしていたもの、それが「ない」ということに気付いた途端、差し迫ってくる欠如感、寂(寒)しさがあって、これが《‪上着を忘れた時のような‬/気持ち》なんだと思います。  この寂しさ、寒さは私は、語り手にとってなかなかにきついと思うんですね。ちょうど、自分自身が実も葉も失ってしまった裸の木になったくらいに。  とすると、「閑散とした庭」は、いまそんなふうに──裸の木のように──感じている語り手の心象世界でもあるんじゃないか。そこまで行くと深読みし過ぎかもしれないのだけど、とにかく、この連にしても、上手いとは言えるけど、それより先に、正確に書かれてるなという印象です。 「閑散とした庭」が、現在の心象世界でもあるんじゃないかと書いたのだけど、もう少しそれに沿って見てみると、《真っ赤に熟した木の実》(第一連)も‪《美しく色づいた葉》(第二連)も、なくなったり、さらわれたりで失われてしまったことが語られています。これは、「あった」ということを暗に語っているわけですね。なくなった、さらわれた、と語ることで「あった」という記憶を浮かびあがらせる。で、《真っ赤に熟した木の実》も《美しく色づいた葉》も一朝一夕ではそうならない。そうなるための時間がかかる。季節の移ろいのなかでだんだんと葉が色づいて、ようやく美しくなる。実にしてもようやく真っ赤に熟すわけで、そうは書かれていないのだけど、語り手はそういう季節の推移を見てきた(生きてきた)という自負に似た思いがあるんじゃないかと想像できます。  三連目の部分でも書いたのだけど、語り手にとってはこれは彼の世界(彼自身)を温かく満たしてきたものでもある。いや、それらは比喩であるとかイメージ的表現だ、というのは大した問題ではなくて、景色であろうと関係であろうと、どっちにしろ語り手にはそうとしか言い表せないものだということで、それだけ(自分の世界を温かく満たしてきた)かけがえのないものだったということが汲めると思います。  それで、ようやく「真っ赤に熟した」り、「美しく色づいた」ものが、どういう風の吹き回しかわからないけど、失われてしまって《閑散とした庭》になってしまう。  ついでというわけではないですが、めちゃめちゃ楽しみにしていて最後に食べようと残して取って置いたショートケーキの苺を、ちょっと目を離した隙に取られて食べられたら、腹立つと思うんですね。そんなに食べたかったんなら取られる前に食えよというのは取った側の勝手な理屈で、普通はどう考えても取った方がいけない。自分が誤って落としたというなら自分に非があるから納得するしかないけど。  卑近な例ですが、それでいうと《真っ赤に熟した木の実は/目を離した隙になくなる‬》は「なくなる」であって「なくす」ではないのは正しい。‪《美しく色づいた葉を全て‬/木枯らしにさらわれた日‬》というのも、ことのウェイトは「葉」にかかるのではなく、葉を「さらわれた」方にかかっている。合点がいかないにもかかわらず(故知らず)、そうなってしまったことを表しているのだから、ここを「を」で書いたのは語り手の心情として正確だと思います。「どうしてこうなるの!?」というのが底にある。 (「車が盗まれた」という場合は「車」にウェイトがかかりますが、「車を盗まれた」という場合は「盗まれた」にウェイトがかかるのと同じです) というわけで、 ‪《何故すれ違ったのか‬/‪納得のいく答えはまだない‬》につながります。 私はこの連はいいなあ、特に三行目の《狂おしい》というのはいいなあと思います。繰り返しますが、 1) 《真っ赤に熟した木の実》や‪《美しく色づいた葉》(一、二連)で語られるように、鮮やかさで満たされていた心象(と、そこにいたるまでのすこしずつの時間の推移や深まり)がまずあります。 2) 次に、それが《なくなる》だの《さらわれ》るだの、自分のせいだとは思えないような不意のことによって「失われる」という事態がある。 3) で、《閑散とした庭》で、関係の(恐らくははじまりをも含めた)成熟への過程と、終わりまでを振り返る視線があります。  そして、すれ違いから「終わり」がきた理由には納得できていない。どこか「どうしてこうなるの!?」が燻っている。この記憶は心情としても狂おしいです。正確だなあ、とやっぱり思う。  ただ、言葉としてもそれまではどちらかというと淡々とした印象が強いような語りだったのを、この一語がぶちこわして、大きく乱している。高波ですね。外見上の静かな語りの下に波(揺れ)があって、それがドッと顔を出す。詩だと感じます。  言葉の選択や比喩の的確さ、イメージ的な描写、そういうのも大事なことですが、それは言葉を用いて書いたり語ったりする場合は、大抵の分野で大事なことの要素に含まれているので、詩だけの条件とは限らない。その点でいえば、この作品は《狂おしい》がなければ、もしかしたら「正確だけど淡々と静かなままの味わいのある文」で終わってしまったかもしれない。  言うまでもないことですが、「狂おしい」という語が好きなのでも、良いのでもありません。というか個人的には、むしろ苦手な方だと思います。使おうという気持ちにはなかなかならない。なんというか大げさな印象もあるし、近代的な浪漫主義ぽい感じも拭えない。ただこの作品については全体の構成のなかで適切な位置に置かれていて、仰々しさもなく、作品の印象を転覆させる働きをしている点でとてもいいという意味です。 その記憶をかき消してくれる誰かは、最終連の三日月のようにもはや届かない遠さにある、記憶のなかに見ている誰かであれば、「うつろう」という題にマッチして、うまくまとまるように思うのだけど、別の見方もできなくはないという曖昧さは残ります。語り手の気持ちも変化しないとは限らないので。でも、まあ、作品的には前者であって欲しいかなと思います。 (うつろう)

2019-10-31

何を書いているのかさっぱりわからない。そこがいい。言い直すと、何を書いているのかさっぱりわからないけれど、何かを書こうとしていることがよくわかる。何に触れているのか丹念に注意深く、手探りで確かめようとしているのだけど、はっきりとわからないけれど、その言葉の手つきによって、はっきりとそれとわからないものに触れていて、わからないものがそこにあるのがわかる。そこがいいと思います。 全体的な語感としては柔らかく、且つ弾力もあるおっぱいを連想できました。 (ソナチネ)

2019-10-28

井筒俊彦氏がかつてエラノス叢書の序文に、夕暮れは輪郭が曖昧になっていく境い目で……みたいなことを書いているのを読んだことを思い出しました。夕焼けというのは未だに、たまに鼻の奥がツーンとなって、なんともいえないような気持ちになることがあるのですが、ちょうど昼(一日)の終わりと夜の始まりの境目で、そこに生きた一日の出来事やその記憶が溶けこんでいくような感覚を覚えるからなんだろうと思います。そこに失われた諸々がありありと浮かび上がる、とするとまさに夕焼けの魔法そのままといえそうです。 夕焼けという語は、それだけでノスタルジックなイメージを喚起しますが、始めから終わりまで印象を持続させる一貫性のある作りが素晴らしいと思います。 余談ではありますが、有名なスフィンクスの謎かけによると一生のなかで日暮れは老いの時期。一日を一生と見立てて、作られた言葉もいくつか思い出し「日暮れが近いよ」の一行に重層性を感じました。 (夕焼けのコメットさん)

2019-10-28

 どこでどんなふうに生きづらさを感じるようになるのか。それは人それぞれだけれども、生きづらさを感じながらも、なんとかかんとか折り合いをつけて先に進むという仕方を、これまた人それぞれに身につけて生きているんじゃないかと思います。もちろん生きづらさなど微塵も感じないでスイスイ渡っているような人もいます。どっちがいいとか悪いとかではなくて、これはもうとにかくそういうもんだという話です。  で、この作品の「ぼく」はというと、そのどちらでもなく、なかなか折り合いをつけられない。よく言えば純粋で自分に正直なんでしょう。そして、悪く言えば十分に社会化されていない。だから恐らく、毎晩とは言わなくても朝が来るまで外を眺めて眠れない夜を過ごしているんじゃないかと思います。  なにげに夜と書いたけれど、夜という言葉を朝が来るまでの時間である(A)と同時に、象徴的な死と再生の時間である(B)と考えてみます。  とすると、朝が来ても、再生──とりあえず、折り合いなり踏ん切りなりをつけて生きる方へ一歩踏み出す、ということにしてみる──を遂げられていなければ、時間的(A)には朝だとしても、もう一方(B)では夜がつづいていることになります。  だからなんだってことはないのですが、このまだるっこしい喩えで何が言いたいかというと、〈夜ー朝〉というのは、通過儀礼(イニシエーション=死と再生)のプロセスの謂いであって、これを通過しながら人は個人としても成長をしていくのだけど、うまく通過できない人も少なくないということをちょっと言いたかったんですね。  で、「ぼく」は(何らかの阻害要因があったために)うまく通過できずに、現在大変な生きづらさを抱きつつ生きている感じがとても強いということがまず一つあります。  それから、主に思春期は子どもから大人になるためのイニシエーションがなされる時期でもあって、様々な問題に直面したり無意識的に遭遇したりするのだけど、深刻さが増した場合、象徴的な死ではなく、実際的な死につながることがあるということ。  で、この作品のなかでの「おとこのこ」や「女子中学生」は、どうやら大人になる手前でそれを果たせずに死の側を選んでしまったような印象を受けるのがもう一つあります。  この二つをもって考えてみると、「ぼく」と、白昼夢のなかでの「おとこのこ」「女子中学生」は親和性をもってつながってくるように思います。 (みずうみの いちばんふかいところへ   あおむけでしずんでいった おとこのこや、    紫の首筋がかわいい、白い肌の女子中学生と、     屋上で静かに、静かに話をした)  以上の白昼夢の場面での「静かに、静かに話をした」という箇所の、それまでの語りにはない、温かく穏やかなトーンが、彼らとの親和性をよく表していると思います。    ついでなので、ここで、白昼夢に至るまでの少しの詩行を見てみます。 >そして幼いころ遊んでいたはずだった >瞼の裏の残像を何度もやり直すうちに >いびつな記憶は雨の匂いを連れて >白昼夢の方へと走っていった  まず「幼いころ遊んでいたはずだった」と記憶はあるのだけど不鮮明であることが語られます。  次に、「瞼の裏の残像」について触れられています。けれども記憶が不鮮明なら、残像も曖昧かもしれない。とすると、何度かやり直さなければならない。この「やり直し」を経て、歪められた結果、次行の「いびつな記憶」となるのかもしれません。  しかしここで、私は別の考え方をとってみたいと思います。すなわち「いびつな」と表されるほどに直視したくない、嫌悪する記憶があり、そのために残像としても記憶としても曖昧にぼかされている、という解釈です。だから、何度もやり直さなければならない、と。  さて、このような解釈は解釈として、ここまでのほぼ二行で得られることは、「ぼく」が記憶(のなかの残像)を、繰り返し(何度も)、「やり直す」運動があるということです。「ぼく」が主となって、従であるところの記憶(残像)を動かそうとしている。「そのうちに」それが、 《いびつな記憶は雨の匂いを連れて/白昼夢の方へと走っていった》となる。思い切り縮めると「記憶が走っていった」ということです。  愚かを承知で至極当然のことを言うと「記憶」が走るわけがないのに、ここでは「記憶が走っていった」と書かれている。単に擬人化といえばそれまでですが。  しかし、読み直してみると、それまでの「ぼく」の記憶(のなかの残像)に対する介入があるわけです。そして、そんな「ぼく」の介入を、記憶自らがあたかも意志と体をもったかのように(自律的にとでも言うべきか)、引き離して白昼夢の方へパーッと動く。向かっていく。それが「走っていった」ということです。  この「動き」が言葉によって表されており、言葉でしかない「走っていった」の動きを読み手である私がありありと感じた。ここに詩の成立を見ます。  こうして見てくると、「やり直す」や「目をつぶる」などの動詞も効果的に使われていることがわかる。  ところで、白昼夢の場面では、  眼下には電線がひしめき合って  空を飛ぶことはできなかった) とあるのですが、この二行は「屋上」でされている語らいに引き起こされた死の誘惑から逃れていることを思わせます。但し、それは積極的な拒絶とまではいかない。というのは、これは 《すべての神経はいきり立ち》とあるように体の反応だから。  前後しますが、《果たしてぼくは罰されるべきなのか》というのは、恐らく、白昼夢に釣られて死を選べなかった(飛べなかった)ことに対するものであり、そのあとには「きっとそうなのだ」のような答え──自問自答がある。だから、《そうでなくてもいずれ五感から/崩れ落ちるという予感》がくる。それに抗うために体が全力で反応をしたのでしょう。それで、《他でもないここへと/確かにぼくを連れ戻してきた》と返(還)ってくる。  「ここ」とは生きている現在であり、「ベランダ」です。「五感から崩れ落ち」ればベランダの外に落ちるでしょう。ところが意識がぼんやりしている以上、体(全神経)の方がいきり立つしかない。 それでもなお《下を向いてしまう/それは夜のせいではなくて/ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから》とあるのは、やはり生きづらさの耐え難さから逃れたくもあるし、「屋上の少年少女たち」(=死)との親和が尾を引いているのもあるように思います。  この場合、「下」とはベランダ外の地上でしょう。そして、「ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから」の「思い出してしまった」にかかるのは「いびつな記憶」ではないか。ほとんど朦朧としている意識のなかで、「ひとりぼっち」でいた教室の孤独や周囲から見放された恐怖、その「いびつな記憶」を、はっきりと思い出してしまったとしたら、体が生きる方へ連れ戻したとはいえ、白昼夢の温かさも手伝って、下を向きたくなることはありえると思います。 けれども、死を選べないから《体育座りのままぼくは倒れこむ》しかない。やるせないといえば、やるせないですね。そして《そう 苦しみを分かつことは/昔から得意なんだ》は、「ぼく」が「昔から苦しんできた」ことの形を変えた告白でもあるのでしょう。それは周囲にうまく溶け込むことができず、孤独で、生きづらさを感じつづけてきたことを表しているのかもしれません。 >遠くなる耳で聞きたかったのは >変わりない雨の音じゃなくて >あの話の続きだったのに のに、それは叶わないようだということを「ぼく」は気づいている。そして、《血液の流れがやがて水の音になり/増えも減りもしないアパートの隅で/ぼくはゆっくりと排水される》と結ばれます。「ぼく」の意識も「あの話」も体の感覚も一切合切が雨音のなかで水になって「排水」される。人と「排水」とが結ばれることの気持ち悪さが、ここでは、この世界に要らぬものとして、此処ではない何処かへ排出されていくのに身をまかせたい「ぼく」のリアリティになっているようで、いたたまれない気分になります。  ここで触れておきたいのは、冒頭の、 >かがやく白い棟の群れで >また 誰にも看取られぬ朝が来た です。「ぼく」は、既に「誰にも看取られぬ朝」を過去に見ています(だから「また」なのですが)。そして、「誰にも看取られぬ朝」と「ぼく」が見るのは、これまで書いてきたような、「『ひとりぼっち』でいた教室の孤独や周囲から見放された恐怖、その『いびつな記憶』」に「昔から苦しんできた」ことの反映であるかもしれません。「ぼく」はベランダで夜を見つめ、眠らずに、そのような朝が明るい街(都市)──白い棟の群れ──に訪れるのを見てきたのではないかと想像します。朝は必ず、また誰にとっても、明るいものであるとは限らないのです。このかがやきと暗澹とした苦渋の対比が冷たく痛々しい美しさで現れているように思います。 長々と書いてきましたが、これは多分に誤読があると思います。しかし、構成も使われる言葉もわかりやすく、作者の表したいことがそのままでているような、誤読のしようがない、読みやすい作品に比べれば、誤読ができる作品であることは嬉しく思います。あっさり読めて、誰にも書ける、効率的な作品、ひいては読み返されることもなく忘れられる多くの作品に比べると、誤読可能性の高い作品ほど読み手に参加を要請します。そして、この作品は強制的に参加させる魅力をもっていると考えます。 長文、失礼しました。 (白い棟)

2019-10-17

こんばんは。【芸術とは叩き合い】ということで、刀鍛冶の例が挙げられているので、参考までに。 鍛刀法において「叩く」ことは外せませんが、もととなる鉄の組み合わせや焼き入れ方法など、さまざまな工程があり、これら一連の工程を経て製造されるものであって、叩けばよいというものではないということです。 また、こうした工程は地方や門派によって異なり、その違いが刀剣に現れます。さらに付け加えると、というか当然のことですが、刀剣のあり方も時代や社会状況に影響をうけて変化しています。変化のなかったことといえば、師匠がいて、師匠の教えは絶対であり、その下で弟子が教わるという封建的なシステムではないかと思います。 そして弟子同士の関係でも「叩き合い」ではなく、こちらはむしろ「潰し合い」に近いものがあります。 「例えば、或る弟子が焼入れ鍛錬の際に、最も重要な湯加減を研究すべく、師匠の準備した湯桶の中に右手を入れたところ、これを見ていた兄弟子が、その湯加減を悟られまいとして、その場で一刀のもとに、その湯につけた右手を斬り落したという程のきつい話などは、いくらでもあります。」(『日本刀の研究と鑑賞』古刀編、常石英明、金園社) と、いった感じです。この作品にあるような罵倒すらない。弟子同士は黙々と憎しみのようなものを抱きつつ、自分の技術を高めようと研鑽を積む世界ですね。もしかしたら暴力や苛烈な痛罵もあったかもしれませんが、それは、ショック療法だとか叱咤激励して奮起させるためだということではなく、競争相手を排除する意図の方が多かったのではないか。しかし、刀というものは儀式的にであれ、アクセサリー的にであれ、実践的な武器としてであれ、時々の需要に合わせて、鍛錬法が研究されて作られ、系統的な流れ──どの派の誰(師匠)について修めて受け継いだか──によって箔がつき、一国内での評価が高まれば位もあがるという大きなメリットがあったようですから、封建的な社会背景を考えるとさもありなんと思います。 ところで、日本刀の鑑定については、そのつくりから時代や土地や派が決められるほど、過去の研究があります。ですから、愛好家が鑑定しようと思えば、過去の研究を学び、多くの実物にあたって鑑定眼を鍛えなければなりません。というのはすべての刀が誇り高い名刀ではないからです。戦国時代には注文打ちの他に、需要の増大とともに粗製が濫作されていて、一束いくらで取り引きされていたりする。玉石混交というわけです。そこのところで興味深い文章がありましたので上記『日本刀の研究と鑑賞』から以下に引用します。()内は藤。 「しかし、これらの数打ち物(大量生産品)は、戦国時代という特殊な時期であり、或る程度止むを得ないものですが、平和な今日から見れば、是非この濫作品と美術としての日本刀を判別することの出来る鑑識眼を持つことは大切なことです。」 長文失礼しました。 (ぽえとーく)

2019-10-11

エイクピア さま 読んでくださって、ありがとうございます。歩きながら考えることはしょっちゅうです。ですので、逍遙学派でもないのに、と我ながら可笑しくなることはよくあります。そして、対象に接近する、対象の周囲をめぐる、という思考の特徴は内的な「歩み」と呼べるとも思います。今回は「考える」になっている時は、とまっているのですが、最終的に、上のような内的な「歩み」に変わったのだと考えることもできますね!気づかない視点でした。書かれた作品の言葉は読み手に読まれるよって作者の制作意図や思索を越えると思っていましたが、それを感じているところです。ありがとうございます。 (歩く)

2019-10-09

夏野ほたる 様 読んでくださってありがとうございます。例えば《歩くはとうに歩いておらず》のような言葉の使いようは、学術論文や公文書、商品説明や物語といったさまざまな言語空間においてはもってのほかというもので、強いて言えば詩という空間でのみ許されるのではないかと、いまこの返信を書きながら、考えているところです。また、ご指摘にもありますように、《遠~くから見下ろす》ということも、事実関係に縛られないからできることですね。たしかに《遠くから見下ろす》イメージはあったのですが、そのコメントを読むまでは、それほどまでには高いイメージではなく、もっと漠然としたものでした。なので、やはり今さら、ちょっとだけ地図のようにイメージできています。恥ずかしいやら、ありがたいやら。もしかしたら試してみたことは、思いもよらず、少しばかりは成功していたのかもしれないと、コメントに導かれ、思い直している次第です。ありがとうございます。 (歩く)

2019-10-09

おはようございます。言葉は意味と音とで対象を指し示す名付けの機能をもつと聞いたことがありますが、その次には分節化する機能もあるそうで。この分節化によって、言語による認識が可能になり、相互間の伝達もある程度成立するのでしょう。しかし、これは同時に対象を「分節化する(=切り刻む)」ことでもあるかもしれません。言葉がこのように切り刻む働きをするのであれば、言葉を使用している私はつねに言葉によって私の日常世界を切り刻んでいることになるのだけど、「つねに言葉によって私の日常世界を切り刻んでいる人」というふうに、言葉によって私自身が切り刻まれているとも考えられます。まあ、語によって切り分けつつ、接続もしているからかなり雑な考え方ですが。 それにしても、主体が言葉になり、言葉を使用する側の人間が、家畜同様、市場に売りにだされ、言葉たちによって、捌かれ(裁かれ)、品定めされ(価値づけ)、切り刻まれる様子はなかなかのブラックな光景です。ましてや眠っている間も夢という無意識の言葉で切り分けられているから空恐ろしい。 言葉を使っているつもりで、言葉によって使われていることに気づかないまま、食われ飲み込まれることのないように気をつけたいと思いました。最終連の、《そっ、と指輪が嵌められ》るところは、人と言葉とのつながりや以上のような関係が切りたくても切れない関係のように結びつけられるようで、悲しくもあり、ゾッとさえしました。 (ドナドナを聴きながら。)

2019-10-09

嫌いじゃないです。割りと誰でも一度はやりたくなることかも。損な漢字。 (紺ニャ~の黄泉憎くて叱た⑨四。)

2019-10-09

こんばんは。第1連は主人公の年齢が低いという設定から平仮名表記にしたのかな、と思いました。というか、年齢がすすんでいる設定で少しずつ表記を変えていったという感じなのかな。まあ、それはそれとして、内容的には四連目からは想像がついてしまって、最終的には昔読んだレディコミ雑誌の漫画を思い出しました。 (あいうえおを覚えた時、ままは泣いて喜んだ)

2019-10-09

こんばんは。作品としては無理があるなあと感じます。簡単にいうと、冒頭の1行目から「ゴミ」と結論づけているわけだから、それをめぐる諸々は必要ないと思います。鈴木さんのコメントにもあるようにゴミならばハナから価値はなく、捨てるもの、要らないもので、他と比べる必要もない。 七五調についても音としては読みやすいけど、だからといって、俳句と標語がまったく違うように、音数に言葉をのせたからといってすぐさま作品になるものではありません。廃棄物というのはテーマにしやすいかも一面があるかもしれませんが(私も書いたことはあります)、内容については再考の余地はあると思います。 (廃棄物)

2019-10-09

こんにちは。1行目から11行目までは、リズムは心地よく状況の進行もわかりやすいですが、同じ言葉を繰り返し用いて書かれているので(つまり、読み手としてはすでにイメージできていることを、何度も繰り返しているので、前にすすまないために)くどく感じてしまいます。 簡単にまとめれば、「僕」が(何やら不安な気持ちで)夜の海にいると、月の光やら波音やらがささやきかけてくるようで、それに身を委ねていると心が安らぎ、励まされるようだ、という感じではないかと思います。これは単に状況を一文にしただけなので、詩にはなりませんが、表したいことをまずははっきりさせるとよいかと思います。 12行目以下も、振り返っての後悔や反省、追慕といった傷心の場面ですね。最終的にそこで自覚される「情けない僕」も、いやしてくれる月と津軽の風景がある(傷ついた僕と癒す風景、小さな僕と大きな自然という対比)。単純化してしまうとこのように文章化できることで、もちろん、これで詩になるかどうかは別問題ですが、書くうえではすっきりさせて、取り組めると思います。 (津軽と僕と月夜)

2019-10-08

おはようございます。シンプルな形で、リズムが整っていて、読みやすい作品になっていると思います。 >あまくておいしいアンゼリカ というフレーズは、どこか馴染み深い気がしましたが、思い出しました。焼き芋屋さんの、「甘くておいしい石焼き芋、石焼き芋はいかがですか」でした。軽トラックで、毎年、秋から冬のあいだ毎日回ってくるから、馴染み深気がしたのは、それにひっかかってくるからでした。 一見可愛らしい作品のようですが、「わたし」の「あなた」を中心にした様々な心中が想像できるようになっていて凝縮されていると思います。女心も難しいな、と感じました。そこも可愛らしいと言わなきゃならんのか。笑 作者が自分の心情を「アンゼリカ」に託して書いているだけなら、自己愛感満載でいけ好かない気もしますが、そう感じないのは、作者が「わたし」と離れたところに立って構成しているからだと思います。 (アンゼリカ)

2019-10-06

こんばんは。初見で、またやられた!と思いました。有無を言わせずスコーンと脳みそに入ってくると、「やられた!」と思うのです。衝撃というやつですね。それが嬉しい(前の「丸で四角」もそうでした)。 とにかく、詩は言葉で書くもの(書かれたもの)というのがあって──実際それがほとんどなのですが──ずらっと言葉で書かれた沢山の作品が並んでいるわけで、読むのには感覚に意識を向けたり、イメージをたぐり寄せたり、まあ、なんじゃーかんじゃーとするんですけど(皆さん、それぞれの仕方があるとは思いますが)、そういうのでいっぱいいっぱいになった脳のコリを、一発で吹っ飛ばしてくれるレーザーみたいなのは、視覚詩のもつ魅力のひとつだと思います。悪い言い方かもしれないけど、読まなくても面白いというか、読むことに難渋しているこっち(この場合、私に限ります)を盛大に笑い飛ばしてくれるので、爽快になる。 ただ、以上のような言い方は、全体の中のこの作品、多数の言葉で書かれた詩作品の中の視覚詩作品という点で相対的になってしまう。余計なことですが、私としては、言葉で書かれた作品を難渋しながら読んで得られる喜びも知っているので、視覚詩だらけになるとちょっと困るといいますか。笑 まあ、とにかく相対的なところでの破壊力ということになるので、じゃあ比較抜きで見た場合どうかというと、読んでいく面白さもあって。意味わかんないんですけど、意味わかるとか関係なしに、いや、わかんないところが面白いというか。わけわかんなさの面白さ。そういうね、詩としても意味の伝達とかなにやら深刻めいた告白的な何かとか、そういうとらわれを取っ払うようになっていると思います。私なんかから見たら、よっぽど自由だなって思う。言葉による詩作品に対するカウンターというか、批判意識があるかどうかは別にして。 言葉遊びについては、こうださんご自身の言及があるけど、遊びは全然いいと思います。カイヨワだっけ?忘れたけど、遊びはゲームも含めて、徹底していけば厳格なルールが必要になって、中途半端な真面目では追いつかなくなるとこまで行くことがあるから。今のワールドカップの盛り上がりとかそんな感じ。ゲームの日は交通規制までかかっちゃう。 (┣びそあターャジス┳スジャータあそび┫)

2019-10-05

帆場 さま 読んでくださってありがとうございます。そのありがたいコメントに、私としては鮮やかに一本とられた気分です。いや、マジで。 (歩く)

2019-10-05

仲程 さま 返信遅くなりました。読んでくださってありがとうございます。言葉についてああだこうだと考えながら、試しと思いひとつの形にしてみたものが、いろいろに受け取られて、例えば「琴線にふれる」などということが起こるのだとしたら、そこはもう言葉同士の作用であって、私個人のなせるものではなく、ただ、その一端に関われたことを嬉しく思う次第です。ありがとうございます。 (歩く)

2019-10-05

おはようございます。この間、久しぶりにおはぎを食べました。スーパーで売ってたので。子どもは餅米が得意じゃないのもあり、一人で食べたら胸焼けなりました。(←愚か) 子どもの頃は祖母が作り、その味で母が作りしていました。そういえば子どもの頃、食べてたなぁとか思い出しつつ。コンビニや大型スーパーが増えて、例えば単身赴任とかでも欲しいものはどこでも大抵手に入る世の中になりましたが、本当に欲しいものはそれらを通してその先に思い浮かべるしかない、というのは昔も今も変わりはないのかもしれませんね。 (果て、より)

2019-10-04

おはようございます。とてもとてもとても(ここ、何回も言いたい)よい作品だと感じました。 私たちは皆、自分の置かれている場所で毎日を生きていかないわけにはいかないから、それはもうどうしようもないことなのだけど、どこかに《あやまりながら祈る》気持ちを忘れないでいたいと思いました。できるなら、自分が生きることが、そこにつながるものになっていればいいと。 (光の子)

2019-10-04

こんばんは。なかなか感想の言葉がまとまらないのでうまいこと書けませんが、冒頭の、 >きゆうきゆうしやよんで も、いいなと思いました。普通なら、「救急車呼んで」で済むのだけど、なんかもうヤバい状態だってことが、このひと言(の崩れ具合)だけで表されてるので。 (重力をミルクに漬けて)

2019-10-03

こんにちは。昔、スピッツの「ロビンソン」の《宇宙の風に乗る》というフレーズに、「ありえんだろ」ともらしていた上司を思い出しました。関係ないですが。でも、この作品ではちょっと「宇宙の風」の動きを感じました。 >人の生には無数の縁が織り込まれ という一行は、きっと書きたかったことだと思うのですが、なくてもよかったように思いました。 (縁)

2019-10-03

おはようございます。一行一行の読みを書くのは、長くなり、時間を要するのでしませんが、一行毎に集中を迫られて、読ませる作品として作り込まれていると思います。何か悲痛な出来事が起きているような印象でしたが、それが明確に示されておらず、その欠落が言葉に引きこむ力としても働いているように思います。また、欠落による見え難さ自体が、起こっていることの、容易には言語化しえないことを語っているようでした。最終の二行で「白」になっていく感覚を味わい、濃密な読みの体験になりました。 (白い)

2019-10-03

おはようございます。こうした手法は試してみると割りと手間がかかるのだけど、嫌いではなくて。私が試していた頃は、日本語がめちゃくちゃになって何言ってんだかさっぱり意味がわからん、という具合に、意味がわかる日本語に対する慣れ(日常性)が破壊されるところが快感だった記憶があります。 詩というものに対して、作者が自分の心情や内面を(わかりやすく)言葉で表し、読み手もまたそのように読む、と考えている場合は、こうした日常文法規則というか統辞法の破壊を前にすると???となるのですが、逆にいえばそのぶん、規則に縛られているということに気づき風穴をあける契機にはなると思います。 とはいえ、現在では、みうらさんの指摘にもあるように、翻訳によるヘンな文章が、例えばアプリの説明にも使われていてほぼ日常化しつつありますので、これを方法的に用いるなら、さらに発展させていく方向を吟味する必要はあるかと思います。 (Virus)

2019-10-02

こんばんは。ずいぶん前に琉球オモロをめくってみたことがありますが、ゆっくり読むことができませんでした。こちらの作品は数日前に読みましたが、時間をかけて言葉の音がもつ美しい流れを愉しませていただきました。そこにある意味も読み、文字通り堪能させていただきました。ミクロ的世界とマクロ的世界との交わり、といえばいくらか大袈裟かもしれませんが、大らかで温かみのある作品と感じました。 (流りゆる/照らしょうり)

2019-10-01

stereotype2085 さま ああ、なんかめっちゃかっこいいストーリーですね! でも、たしかに「生き続けてナンボ」というのは大事なことだと思います。読んでくださってありがとうございます。それから、ここで出す言葉としては適切でないかもしれませんが、運営、お疲れさまでした。ペコリ(忍さんのマネ)。 (歩く)

2019-10-01

新染因循 さま 読んでくださってありがとうございます。もったいないコメントまでいただき、なんと言ってよいやらです。精進します。 (歩く)

2019-10-01

黒髪 さま 読んでくださってありがとうございます。考えていたことは現在では当たり前すぎて言葉にするにも恥ずかしく、憚られることなのですが、考えていくとほんの少しでも明確になることがありますね。注意も広がるようになんとなく思います。 楽しい、面白い、はとても好きな言葉です。励みになります。 (歩く)

2019-10-01

yamabito さま 今作は、詩や言葉について一つのことを考え、私なりの追い詰め作業をしている過程で、試しにやってみたことを一つの形として収めた、という体のもので、テクニカルな点を含め作品としての完成度を高めるにはどうするかということに関しては、ほぼ無意識でした。ですので、 >ひとつの小品として完成された作品 という点に関しては、恥ずかしい思いです。思索と試作を深めて、アドバイスを活かしつつ、詩作できるよう精進したいと思います。 物事に対する言葉の受け取り方や言葉による発話の仕方は、人それぞれに違いがあり、その多様性があるからこそスタイルや反応も多様になる、というのは私も大事なことだと思います。 (歩く)

2019-10-01

いすき 様 読んでくださってありがとうございます。喩法やイメージなどをことさら明確に意識したわけではなく、 >地図のような町並み(一応、明喩) という箇所も、喩としては手垢がついて喩としての効力はないに等しいな、と思ったのですが、温かいコメントをいただき、ありがたく思います。 (歩く)

2019-10-01

おはようございます。おおまかに言って、『何か無理をして辛い境遇をこらえている人物なのだろうな』というstereotype2085さんのコメントに同感です。《逆光》に謎も感じませんでした。 なぜなら例えば、 きみは逆光に向かって立っている と書いた場合と、こちらの作品の 逆光に向かい立つきみは とを比べた場合、こちらの作品の書きかたでは、《きみ》が強調されるからです。 しかも、繰り返されていることによって、語り手の視点も『きみ』に寄せられているので、《逆光》の印象は薄らぎます。 それから、《きみ》は《向かい立つ》のですから、《きみ》の向かう意志を感じさせます。また、 《本当は~のに》という場合には、そのあとに、「そうではない」が隠されていると考えますが、 ・本当は明るいのにそうではない ・本当は優しいのにそうではない ・本当は泣いているのにそうではない など、これらを文脈に沿って解釈すると、《本当は》以降のことについて、周囲が気づいていない、理解していない、誤解している、と考えることはできるものの、それでもなおその状況に《向かい立つきみ》の姿勢が強くうかがえるので、状況如何よりも、そのなかに立つ《きみ》に関心が集中します。そして、それをさらにそうさせているのは、語り手が、 《誰か照らしてあげて》 というほどまで、《きみ》を強く照らしているからだと思います。 (逆光に向かい立つきみは)

2019-10-01

相反するものをぶつけて印象を際立たせる手法は現在でも通用すると思うし、「とはいえ」にはじまる各二行は成功しているとも思います。しかしながら、「爆心地」は強すぎるように思えてなりませんでした。「暴力的」というコメントがありますが、苛烈に過ぎ、むしろ破壊的であるように感じました。あるいは、夏の名残りをすべて消滅させる、そうした破壊的なエネルギーの現れを表すものなのかもしれませんが、私としては秋をも消し去るようなもったいなさと戸惑いを拭いきれませんでした。その点でいえばなかなか遭遇することのできない言葉のインパクトを感じたとも言えます。 (秋の爆心地)

2019-09-30

おはようございます。柔らかな水の流れに手を浸しているような感覚でした。流線型の気持ちよさを味わいました。 (うつつ)

2019-09-30

こんにちは。「夜11時の沈黙」と「独りきり」のために大量のノイズの響きがあるのかもしれませんね。 それはともかく、くさいなという印象がとてもあります。でも、問いかけの連発もなく、文字通り「甘ったるい」上等とかなぐり捨てた感もあり、潔さも覚えます。あ、ほばさんとここ、被ってる。 (ラブソング)

2019-09-29

こんばんは。私は「繰り返し」で覚えていて、「くりかえし」で変換をかけていたのですが、「おなじ」でも出るんですね。その方が文字数少なくて早いから便利です。子どもの頃は、「々」を「クマ」と呼んでました。着眼のよさを含め、愉しいです。 (onaji)

2019-09-26

こんにちは。 何度も何度も読んで、難しいなあと思いました。私は嘘をつける側なので、場合によってはついてきたし、嘘わらいもしてきました。そうした私自身の来歴を基準に読むと、単純には「すごい友だちだなー、正直なんだなー」と思うわけですが、考えてみるにそれは「嘘がつけない」とか「嘘をつかない」にあたるのかな、という感じで、ちょっと違うかなと。 「嘘『を』つけない」というのは、周りから見ても本人からしても、「ここは嘘をついていたほうが対応としては(良くはないけど)適当だ」と思える場面でも、つくことができない、ということではないでしょうか。だから、先に「嘘をつこうとする」動きがあって「つけない」が実際にはでてくる。《ぼく》にはそれが見えてるんだと思います。 でも、どんな場合でも「嘘をつけない」というのは、相当生きにくいだろうと思います。小さな例で言うと飲み会に誘われたとして、手帳で確認するフリをしながら「今日は予定が入ってますので残念ですが行けません。また次回誘ってください」てことも言えないわけで、ストレートに「いやです」とか言ったり表情に出るのだから、人間関係がスムーズにつくれない可能性はかなり大きい。そこだけで言うと、嘘というのはある程度は人間関係を円滑にする役目をしている、と考えられます。 これはストレスを感じながらも、嘘でごまかして、うまく人間関係を維持している側からすれば、「馬鹿な奴」になったり、進んで仮面を被ってる人から見たら腹立たしく感じることもあると思います。でもそういう人間関係の形成や維持の仕方というのは社会的な構造からの要請みたいなところもあるんじゃないかと言えば言える(これもまた嘘ではないにしてもつくられたものに過ぎないのだけど)。ともかく、その点では、「嘘をつく」というのは好きでも嫌いでも、生活していく上でのメリットはあるんだから、それを承知で「しない」というならともかく、「つけない」となるとかなり損をしているとも言えるし、生きづらいとも言えます。それでも一緒にいて、それを見ていると、損してるよなあ、と思いながらも、そんなふうにありたいなと感じるかもしれない。そこは錯覚であって、錯覚でないのだけど、ここは微妙で「気には入ってるけど嫌いだ」というのもあるように受け取ることもできる。つまり、「つくならつけよ、臆病者、それだって自分に嘘ついてるのとそんなに変わらないじゃないか」と言っているようにもとれます。 一方、これが「ぼく」「きみ」の関係が他者との関係でなく、自分のなかの「ぼく/きみ」の関係であるならば、そういう相反する性格を認めていて、気に入っているという結びつきがあるというのは、偏りが少なくていいように思います。 (友達)

2019-09-21

こんにちは。やっぱり、編集者が犯人だよなーて思います。鈴木さんの指摘にもありますが「可愛い」て、見た人がもつ主観ですし。激落ちくん消しゴムとかなくてもいい情報だし。でも、私としては、トイレでシテタなら鍵もしてただろうになあ、と。 まあ、それはよいのですが、密室に隠れてパソコンに打ち込んでる編集者の暗い目とか非人間性みたいなものを感じました。 (「有名」のすすめ)

2019-09-20

訂正 深掘りしすぎました?→× 深掘りしすぎました!→〇 (おすわり)

2019-09-20

返信ありがとうございます。あー、これはまた、犬寄りに深掘りしすぎました? ひらにご容赦を<(_ _)> (おすわり)

2019-09-20

こんばんは。トーンの変化とか行毎のテンポとか、上がり下がりなど音楽的な印象でした。《……。》の間から、柔らかくなっていく調子も。そんなふうに、楽しく読んでいたのですが、これはちょっと、なかなか笑えないな、と。 《わしはなぁ//ジョージとよばれとる//メキシコの血いひいとるから//ここらへんで//わしのことしらん奴はおらん》 ここですね。ここ、日本語でしゃべれと言ってるけどオレ実はメキシコの血をひいてるのよ、と笑いにもっていってるようにも読めるけど、メキシコ(異国)の血をひいているから、周りがジロジロ見て、それで《ここらへんで//わしのこと//しらん奴はおらん》と読むこともできるんですね。とすると、差別とか偏見の目に晒されて生きてきたことを暗に語ってるようにも受け取れます。 それから、方言というのは、土地独特のものがあって、異なった土地に行くと一発で余所者だということがわかってしまうから、場合によってはそれだけで偏見の目で見られてしまうことがあると思います。それはかなしいなあ、と。 以上は、方言のもつ親和的側面と閉鎖的側面との両面を表しているのだけど、広げれば新しい土地の言葉や「標準語」という言葉を身につけて生活をすることや、占領された国の人々が占領国の言葉で語ること(抑圧)とも関わってくるんじゃないかと思います。 こうして考えてみると、最終行の、 《なにうえからみとんねん》 も、ツッコミや照れ隠しとは異なった意味合いを帯びてくるように思います。 方言を用いたユーモアのある語り口に抵抗のようなものが含まれているように読みました。 (おすわり)

2019-09-19

こんばんは。筋立てや気持ちの表し方はすっきり通って、読み手に伝わりやすくつくられていると思います。その分、「俺」の登場の唐突さに一旦作中の空気感が破られたように感じました。 しかし、 《きみが望むなら僕も正直でありたい。 そんな受け身で臆病な俺を笑うように》 とあるような、「きみ」に対しては「僕」、通常は「俺」という使い分け(=二重性)を表すために必要だったのではないかと考えます。仮に「僕」を少年的な部分、「俺」を大人の部分とわかりやすく分けた場合、「俺」は引き止める冷静さをもたなければならない役として、「僕」を走らせるわけにはいかない。「少年」のようにありたくても《臆病》を選ばないわけにはいかない、という二つの思いが同居していることになります。そうすると、ピルケースの哀しい音がなおさら哀しい響きをもってくるように感じられ、「俺」の登場は正解だったと思い直しました。 (ピルケース)

2019-09-19

こんばんは! まずは返信が遅くなり申し訳ありません。そして、親切且つ丁寧にお答えいただき本当にありがとうございます。 最初はふつうに >俺はそんな器用な男と違ったわ でした。 とあるように、私もふつうはそうなんじゃないかなあ、と思い、そこに素朴な疑問をもったのですが、答えてくださった内容にあるような「トンボ」との関連を全く見落としていました。いや、情けないかぎりです。たしかに音としても意味としても「俺」が前にでてきて、「トンボ」が薄れますね。しかしながらそれ以上に、語の強弱で詩句の中心をどちらが占めるかが変化することに気を配り、その違いによって言わんとすることを表すという仕方にお腹がしくしくするほど驚き、感激しました。それから、 >そんな器用な俺は男とちがったわ の成り立ちですが、そういうやり方もあるんだなという学びとともに、語順の決定にも裏付けがされていて呻きもでません。ところで、私から質問していながらアレですが、「語順だけでいうと」普段の会話でも、文法的な語順でなく、言葉を使ったりすることがあることに思い当たりました。以上をまとめると、字面に囚われて、その先にあるものを読めていなかったことや細部の読み取りがまだまだ必要だということがわかりました。 詩の読みにくさやわかりやすさは長いこと言われていることですね。でも、私たちが詩を書く上で、言葉ではないものを言葉によって立ち上げようとする時には、作品の言葉が読み手にとって読みにくいもの、わかりやすくないものになるのは決しておかしくはない、と考えてます。もっといえば、わかりやすいと思ったものでさえ、実はわかってないことも十分にありえるように思います。 とはいえ、このコメント欄では合評が認められているので、私なりにもった疑問を(疑問や違和感て大事だと思うので)提示させていただきました。持ち札公開などとしち面倒くさいことに手間ひまをかけてくださり、心から感謝しています。ありがとうございます! (阪田寛夫に捧げる詩)

2019-09-18

そこは私の読み方に関わることなので是非、教えてください。 (阪田寛夫に捧げる詩)

2019-09-17

すいません、追記します。 《きれいな》(冒頭)、《うつくしく》(第二連一行目)は「綺麗な」でも「美しく」でもないので、たぶん平仮名でしか表せないようなものだったのだろうと推測するのですが、そのように発語するにあたって、そのようにしか発語しえないようななにかがあったのではないだろうか、と思いました。 (女の家)

2019-09-17

こんにちは。内容は奇妙なのに奇妙でなく読めるのは、ところどころに生活感のある言葉が置かれているからでしょうね。 《豆から挽いたコーヒーを一人分》、 《お皿に並べてひとつひとつ口に入れる》、という普段の生活で習慣になっているような仕草がある。だから、それが例えば苺だろうとトマトだろうと「人形の首」だろうと語り手にとっては自然のことなんだろうと、違和感なく読むことができます。 《痛いッ//と似たような音を立てる》という箇所ですね、ここは見事だと思いました。「痛いッ」って普通は「声」なのに「似たような『音』」にしている。あ、声じゃなくて音なんだ、と。どんな音なんだろう?とちょっと想像したくなります。どんな音かわからなくてもいいんです、声じゃなくて音だっていうこと。そういう物質的な感覚が際立って、「人形の首」に具体性を与えていると思います。 《生首》から白を連想したので《壺》の赤が引き立ちました。それから《コーヒー豆》の茶色。先に「苺だろうと」と書いたけど、恐らくこれは《摘む》からの連想で、それが《甘酸っぱい》に引き継がれました。何を言いたいかというと感覚に入りこんでくる作品になっているということです。仕草という動きも含めて。 《毎日同じものを食べていると//同じものになっちゃわないかしら》。こういうところも作品に馴染んでいて、気取った感じがしないのが好きです。昔読んだ童話で、同じものを食べ過ぎて似てしまったというものもあったし、実際冗談まじりに言ったりすることもあるので。 鏡に関しては、よくある話ではありますが、映らないから、ない。のかしらんなどと思った次第です。 (女の家)

2019-09-17

おはようございます。阪田寛夫さん、私はだいぶん若い頃に「どじょうだじょ」を読み、ユーモアのある方だな、と思った記憶があります。幼い時分にあった幼児向けの大型本の最後の頁に、童謡が二つ載っていたのですが、それにも阪田氏の作詞したものがあったように思います。児童詩の方かと思っていたのと、小林一三のことを書いた堅めの文庫をめくった時のギャップとがあって、どことなく避けていたのですが、紹介してくださったリンクや、他の作品をググってみて、ユーモアがこの方の姿勢なのだなと推測しました。機会をみて、作品にあたってみたく思います。 こちらの作品について、 《そんな器用な俺は男とちがったわ》という一行が、音読していて、ひっかかったのですが、これはこういう、地方独特の言い方があるのだろうか、と単純に悩みました。目で追うと流れにまかせて、さっと読みとおせますし、意味的に疑問な文もイメージとしてはつかめるので気にならなかったのですが、音読でいった時、つまづきました。なので、これは素朴な疑問と確認の意味です。 《もう早うここから飛び降りて》という一行の「もう」、ここが好きです。もしかしたら、これはなくても意味は伝わるのかもしれない。でも、この「もう」に気持ちがこもってるように感じました。「もうダメだ」、「もう大丈夫」、「もう我慢できない」など挙げて考えてみると、やっぱり「もう」はここでは外せないように思います。 これと同じく、最後から五行目の《でも》について考えてみたのですが(正確には《でも俺》です。)、ここは、《俺》が少し我に返るというか、「よくよく考えてみると」とか「そういえば」という心の動きがあって、酔いにも似た情の流れが弱まって覚める転換点としても働いているように思います。そこがラスト四行の流れをつくっていくとしたら、強ち悪くはないのではないでしょうか。あるいは《でも俺》をラスト四行目の頭にもってくるか……。 やや的外れかもしれませんが、クタクタに疲労困憊してしまって全部うっちゃってしまいたい時、頭に去来する影のようなものを相手になんじゃかんじゃと話しかけたりして、少しずつ気が鎮まっていく、という経験をしたことがありますが、それを思いだしました。冷静に戻ってしまうとなかなかに恥ずかしいものであります。 (阪田寛夫に捧げる詩)

2019-09-17

こんにちは。どなたも触れていないようですので、とりあえず一つだけ。最終行の隠喩を組み合わせた明喩、こんなに作品に即していて、強烈な比喩はめったにないと思います。 (Mはman。そして、Wはwacko。)

2019-09-15

こんにちは。多数の作品とはまるで逆方向を向いていると思う。後ろを向いて、背中を向けて、後頭部にお面をつけて語っているような作品。前後ろ反対に着ぐるみをきて、着ぐるみだけは前を向いているような、と言ってもいい。「正」か「負」かでなら、完全な「負」。ネット詩における「負」の傑作のひとつに数えていいと思います。 (「読み」を書くと相当な長さと時間がかかるので省きます) ((╹◡╹))

2019-09-10

こんにちは。こちらの作品もコメントしておきたいと考えていた作品のなかの一つなのですが、空白の部分をどう受け止めて解釈するか、ちょっと時間をおきました。 鑑賞としては、《何も無いこと》が重々しく伝わってきました。言葉を切れ切れに落とす方が、かえってその心情におしこめられたものを伝える、ということはあります。あるいは《何も無》さが内的に膨張したあまりに、少ないながらにも言葉が外に洩れてしまったのかもしれない。いずれにしても、そのようなものが空白の部分を通して、伝わってくる作品に思います。 翻って、書く立場に立った場合。これは先に書いたことを逆にしてしまうようなものですが、「重々しいくらいのなにかしらがあり、それが《何も無い》という言葉によって現れている」、あるいは「明確にこれと言い表せない多くのことの混合が内的に膨張したがために《何も無い》という言葉によって外部に洩れてしまったのではないか」と考えられるということです。 つまり、《何も無い》は本当に何も無いのではなく、はっきりとは認識することが困難な何かしらが充満しているのではないか、ということです。もし、そうであるなら、その空白を言葉で表していくとstereotype2085さんがコメントしたような「静かな音楽云々」といったものにもなるかもしれないのですが、そこから鈴木さんご自身の、これとは異なった詩がはじまるのではないかと思いました。 (白き空に)

2019-09-07

おはようございます。ひとつは組織のなかでの個人ということを思いました。特に企業の中で働きづめになって、疲労しきって、リタイアした後の空虚感などが、消費されるモノとしてのタイヤと重なりました。 もう一つは、意味は問いかけ、それに対する答えを見つけることも大事だけれど、問いをもちつづける姿勢が重要ではないかと思いました。答えが見つからなくとも、問いをもちつづける姿勢はそれだけで自分を支え前に進める力になると思うので。 最後に、これだけ筋が通っていて、これといった大きな変化もない安定走行であれば、行分けのスタイルをとらなくてもよかったのではないか、と感じました。 (スペアタイヤ)

2019-09-06

おはようございます。単位を間違えていました。訂正ありがとうございます。 というか、私、完ッ璧に誤読していましたよ。いや、申し訳ないです。いま、返信コメントしていて、ん?と思いつつ読み返したら、こりゃもうあからさまに誤読じゃないですか笑(笑ってはいけないのですが) 宇宙のなかに存在している(ひとりの人間としての)「私」じゃなくて、宇宙自体を主体に設定していたんですね。ありゃー、これはとっても面白いじゃないですか。 これはもう、前のコメントは全無視してください。あー、返信がなかったら誤読しっぱなしだったと思うと、あぶない、あぶない。 とんだご愛嬌と思ってくれれば救われます。失礼しましたぁ!  (七色の空間)

2019-09-06

こんにちは。このような作品を読むと、谷川俊太郎の『二百億光年の孤独』とか『芝生』とかを思い浮かべてしまって、つい比較してしまいそうになるのですが。それはともかく詩作品として読むと、問いかけを投げっぱなしにしているところに着地点のなさ、作中の言葉で言うと、どこまでも《ひろがってゆく》感じが残ります。 (七色の空間)

2019-09-05

こんにちは。せっかく《旅人》という「登場人物(主人公)」が登場しているのに、《旅人》の思いや呟き、思い出したことや気づきなどを、「語り手」が奪っていて、《旅人》が遠目に見えてしまいます。《旅人》と「語り手」は同一人物ではない(と思う)のだから、ズレがあっておかしくないと思うのですが。しかし、その分、安定した奥行きで、読みやすい作品になっていると思います。 (仰ぎ見た秋)

2019-09-05

こんばんは。とても妙ちくりんです。私ならいろいろ考える前にカーテンをあけます。カーテンをあけるから闇でも光でも見えるのであって(実際は光や闇は見えなくて、明るさや暗さが見えるのですが)、ともかく考えるより先にカーテンはあけるものです。それなのに、あけるまでに四連分も言葉を費やしてあけたあとのことを書いている。なんて無駄なことをしてるんでしょう。 と、感じなくもないですが、ひとには怖れや不安というものもあり、そのために躊躇して踏み出せないということがあります。そして踏み出すためには踏ん切りも必要な場合がある。とすると、この一連から四連が、《私》が行動を起こすのに必要な“ため”であって、“ため”があるから行動できるのだとしたら、無駄であるどころか、この作品の核になっているとも言えます。したがって“妙ちくりん”は撤回します。 ただ、以上のように読めば、この作品でもっとも味わえるのは四連目までで、それ以降は印象が弱くなる感は否めません。あるいは最初から結末(オチ)ありきの一連~四連ということであれば、些か残念でもあります。ちなみに一連~四連が“ため”でないとしたら、五、六だけで詩は、あくまでほぼですが成立するのではないかと思います。 (カーテンを開けたら)

2019-09-05

こんばんは。「なまぬるい詩」というのがどういう詩を指すのか、わかりませんが、《すこしでも平和にな》るのと等しいくらいの「なまぬるい詩」が書けたらいいなあ、と私も思いました。そして、この作品は全くなまぬるくないと思います。 (Imagine AB63:2)

2019-09-05

おはようございます。トマト、鴉、私と中心が移っていくので、焦点が合わせづらい印象がありました。同時に、わかりやすいリズムに乗ってテンポよい速度で語られている感もあり、内容とリズムが反発しあって、不調和を来しているようにも感じました。しかしながら、分け入ってみると、内容はよく練られているように思います。《熟れ過ぎたトマト》、《熟れ過ぎた夏》、そして、これも十分には生きる実感に満たされないまま心残りのもやもやを抱いているような《私》、を重ねてみることによって、けれどもそんなことなど一切お構いなしに舞い降りる《鴉》に、時間というものの暴力的な姿を見ることもできます。また、それとは逆に、トマトであれ、夏であれ、現在の私であれ、仮に《意味》を失っても、食べるに足りる「価値」はあるのだな、と考えてみました。物事の意味を疑い、問い、無意味へとしていく行為は、それをするだけの価値があることをどこかで知っているからかもしれません。 (夏の階に立ち)

2019-09-04

おはようございます。某国の首相がお腹の調子がよろしくないという記事を読んだことがあって、その人と、その人に影響を与えた人物との関係が仄めかされているのかな、と思って読むと面白いです。既にコメントにでていますが、最後の一行が状況を一枚の絵としてうまく収めていると感じました。 (卒業生)

2019-09-04

survofさんへ まず最初に、私がはじめに書いたコメントは「美しい作品です」ということでした。どこがという部分的なものでなく、総合からそう感じました。あんまり時間がかかったのか、反映されませんでした。苦笑 次にご指摘の件ですが、上に書いた通り、技巧もありますし、例えば、仲程さんや帆場さんのコメントにもある第二連の《木はみな》の「みな」と三連の《その寂しい木》の「その」などの焦点の絞る語や、静的な木を動的な存在にすることで相対的に木の動かざるさまを強調するなどといった技巧、それらを含めて、作中の言葉が、詩を成立させるために機能していると思われたので、あのような書き方をした次第です。普段使っている言葉であっても、同じ「意識」では、このような美しい詩作品にはなりがたいように思います。 (とある湿原にて)

2019-09-03

こんばんは。例えば私がどこかへ旅行に行ったとして、そこでなにか日常的とは異なった物事を発見し、心が揺り動かされたとする。そうするとその物事ばかりか、物事に遭遇した場までがメモリアルな意味を帯びるようになる、ということはあると思います。 これは作品なので、必ずしも行ったとは限らない。にもかかわらず、あたかも行き、且つ発見したかのように書かれており、また、特に、木が木でないもののような姿を表すというふうに、言葉との私的な馴れ合いが漂白され、日常性から逸脱した木として、質的変化をさしめています。とても優れた作品に思います。 (とある湿原にて)

2019-09-03

おはようございます。予めわかっている物事や想定できている内容を言葉として思った通り適切に表現する、という作業も簡単ではないと思いますが、そのように窺えた前作のどれよりも挑戦的であるように思い、新鮮に感じました。 (猫が書いた詩、わたしが運ぶ詩 (おまけ付き))

2019-09-02

こんにちは。タピオカミルクティーかどうかはわからないのですが、とにかくタピオカ入りのドリンクを今年はしょっちゅう見ました。それも、透明なカップに入ってて、蓋のフィルムからストローぶっさして飲むタイプのやつです。あれ、全部飲んでくれりゃあいいんですが、五分の一くらい残してるやつが時々あって、タピオカなるものがビシーッとまとまって浮いてるんです。なので、蓋のフィルムはがして、ストローの先っちょでもいいから掬ってたいらげてほしい!と思ったりします。底の方に滞留したタピオカはぷかぷかふわふわした感じもなく、救われないところがあります。でも、そういうのは、やっている若者の何割かにとっては気にとめるほどのことでもないのかもしれません。と、リアルに滞留したタピオカの残念感とくらげや月のふわふわゆらゆらした感じとの間を私の脳がふわふわゆれました。水や歯茎といった感触もあって体感的な作品に思いました。 ときに「くちくなる」という言葉、どこかで目にした記憶があって、印象的だったから憶えていたのですが、どこで見たのだか、思い出せません。まさかこの作品でまたもや目にするとは思いもしませんでした。 (携帯海月)

2019-08-29

おはようございます。何度目か読みましたが、流暢な言葉運びで喩えもわかりやすく、イメージしやすい文章だとやっぱり思います。いろいろうまいなあと思いますが、それ以上に受け取れるものを感じれなかったのは残念といえば残念です。 イメージ的な言葉遣いや比喩といったレトリックは詩作品でなくても、例えば日常的な会話や中吊り広告のコピーライトのなかにも多く見聞できるので、それらが詩を形成するための絶対条件ではない、と思います。どのような作品であれ、言葉によって作られていて、それらは私たちが日々使っている言葉と何ら変わりはありません。しかし、そのような(日々使っている)言葉によって何かを現しめようとした時に、言葉の位というか次元というかに変化を与えて、日常のなかで慣れ親しんだ読み方からすると「!???」となるような場合に、ある言葉がその詩作品を成り立たせるのに欠かせないレトリックとしての喩やイメージになり、読み手に驚きや時には感動をもたらすのではないでしょうか。 その意味でいうと、読み手によってはわかりにくい印象をあたえ、摩擦をおこすという面もあるのですが、そのような場面において、普段から知っているはすの言葉が、まるで知らないもののように感じられ、作品全体を通して言葉に新鮮さを覚えることがあるのも事実です。それに沿って言えば、流暢で、喩えもわかりやすくイメージしやすいまま流れるように読み終えることができる文章としての長所が詩作品としての問題点になっているようにも思います。 以上のようなことを考えさせてくれる作品でした。 (星を抱き、酒精に口づけ。 )

2019-08-27

おはようございます。yamabitoさんのコメントの中の「若さがびりびりする」という感覚、私もそれは感じたのですが、どちらかというと、さほど意識してはいないけど、現在の日常を生きる人のリアリティを言語化したら、こんなふうになるんじゃないかなと思いました。じめじめと湿っぽく貼りついてくるようなどこか鬱陶しい感覚とか、少しずつ感性を奪われていくような気持ち悪さとか、不完全燃焼のままエネルギーを滞留させてしまっているか、もしくは使われないまま漏らしてしまってるような居心地の悪さとか。そこからどこへ向かおうとするのかはまだ見出せず、生ぬるさのなかにとどまっている不味さが現れているように感じました。 (生ぬるい生活)

2019-08-25

こんばんは。「ハモニカのネ」、一音一音がよく響いて、良いですね。最終行も、引き締まっています。そのため、額から汗を流して歩いていた様子が目に浮かぶようです。一点敢えて付け加えるなら、”美しい詩作品“に傾きかねない危険性を孕んではいないか、ということです。 (炎夏のハモニカ)

2019-08-21

こんばんは。うまくいかない日々を頑張ってなんとかかんとか生きている《僕》の生活感とか歯痒さ、もどかしさが感じられます。 ひとと話していて、時々わかるのは大抵のひとに、過去の苦い経験があるということです。そして、明るさにも陰にもそうした経験への後悔が多少なりとも関わっていることに気づきます。 それが見えた時に、人間らしさを感じて、あー、頑張ってきたんだなぁ、としみじみとし、また爽やかさを感じます。 “うまくいくといいな、今日は。” 《僕》にはそう声をかけてあげたい。 (ペンチメント)

2019-08-21

こんばんは。蜘蛛をそんなに悪く言わないでください。と、言いたくなるのですが、それくらい多くのひとに嫌われているし疎まれてるのは事実なので、敢えて言いません笑。 私は、昔、「指に母の顔が貼りついたように浮き出して、ことあるごとに干渉してくるので爪きりで切る」という内容で「疣(=異母)」というのを書いたことがあるせいか、《切り裂いた》というところで痛みのようなものを感じました。 《青痣》って、きがついたらできている、ということもあるんですよね。色の白い方だと、ちょっとしたことでもできるから、後になって気づくけど、思い当たるフシがないなんてことも珍しくない。でも、気づいたら気になりだす。《鬼の形相》ならなおさらで、青鬼ですね。しかし、外部に対する反応として生まれた《青痣》が、蜘蛛として生まれ、知らないところへ行ってしまうというのは、あずかり知らぬところで何か手に負えないものを《ヒト》が排出したようでたしかに怖いです。 (青痣)

2019-08-21

こんばんは。隙間が多くて、風通しがよくて、開放感があります。海みたいで心地よい作品に感じました。 (oasis)

2019-08-20

おはようございます。何が面白いかって「白」が枠取りをしているように見えてしまうので、それに沿って言うと「中の文字」に意味のある内容を読むより先に、たくさんの語群が埋められていて個別に存在感を現してくることじゃないでしょうか。それって私の眼球の動きにもよるのだろうけど、視覚を刺激してくるという意味では、「言葉」から意味や音を剥奪して図像化しているわけで、言葉というモノをつかったデザインになっている点じゃないでしょうか。そのあとで内容に入ってもいけて、そこでは言葉が言葉として機能しているわけなんですけど。 ついでにいうと言葉遊びも好きなので、面白いです。 (古い月の粉 )

2019-08-20

おはようございます。『古事記』においては、オオクニヌシの国造りの際に、天地の隅々まで遍く知るとされるタニグク(ヒキガエル)をして、彼に訊くとよいよ。と言わしめた、「歩くことはできないが天下をよく知っている」とされるクエビコ(案山子)が、この作品では目の届く範囲しか知らないように扱われていたので、ナヌ~!?と思いましたが、それはそれ、楽しく読ませていただきました。 《駄目、あげられない》 《私はもっと色んな所へ行きたいし、しなきゃいけないの》 《そっか分かった、じゃあ行こう》 《私は案山子を引っこ抜き、腰にきつく紐で巻いた/原付きバイクに乗ってあの海へ》 など、作品の端々に、率直で、行動的な《私》を見ることができて、案山子とのやりとりを含めて、明るい気持ちになります。原付バイクに乗っている案山子なんて、ユーモラスたっぷりで微笑ましい。 それにしても、率直に意見を表明して、積極的に行動するタイプの《私》と、その場から動けない《案山子》の交流というのは興味深く思います。しかも、 《その姿は、全ての時から取り残されているみたいだった だけど私には孤独を感じない、孤高のような物を感じる この田園を、この景色を守る為に居てくれる そんな気がしてならないのは、どうしてだろうか?》とあるように、《案山子》が《私》を惹きつけています。とすると、《案山子》はもしかすると、《私》が積極的且つ行動的な生き方や気軽に話しかけることのできる「外向性」を身につける過程で、磨かれないままになっていた「内向性」を表しているのかもしれません。《色んなところへ行きたいし、しなきゃいけない》と、外へ外へ目を向ける《私》に対して、たとえひとつの土地から動けず、《全ての時から取り残されている》ようであっても、その土地や景色を嫌いでなく、また守っているかのような《案山子》。ふたり(?)の交流の中で、《私》は動けない《案山子》の足になります。《私》が行きたい色んなところに行くとかするというのでなく、《案山子》が望むことの為に彼の足として行動する。それは後に《案山子》が《此処では一生味わえない物だ》と語るように、《私》にとってもそれまでには味わうことのできない、新しい体験だったのではないでしょうか。ここからもう一歩踏み込んで考えてみると、色んなところへ行こうと、あるいはしていようと、それが日常的になっているとしたら、《私》は動いているようで、一歩も動いていない。しかし、それまでは味わうことのできなかった新しい体験をしたことで、《私》の世界がちょっと動いた。とすると、この「ちょっと」は《私》にとっては重大な意味をもつと思います。そして、へのへのもへじも《また見せてくれ》と外部に対して開かれ、動かないはずの表情(感情)が動いている。どんなふうな顔になったのかわからないけど、なんかかわいらしいです。 勝手に想像を膨らませましたが、拡大したり深読みすれば、様々な方面についても繋がってくる気がします。しかし、なんといっても堅苦しくなく、とぼけたようなユーモラスなやりとりと語り口が魅力的です。 (案山子の足)

2019-08-20

改めまして。おはようございます。いまレコード針を落とす、ってことをわかるひとがどのくらいいるのか、わからないんですけど、《すっと、/レコード針を落とす》という、この慣れた、自然な手つき、とてもきれいですね。そこから、この作品がスタートしているからか、言葉の背後に音楽の存在を感じます。また《薄いはねを細かくふるわせた、/虫の音の朝が》で《薄いはねを細かくふるわせた、》のは《虫》なのだけど、この《はね》の細かいふるえと、《レコード針を落とす》動きが、指揮者がタクトを振るイメージと重なりました。レコード針がレコードに落ちて音楽ははじまるし、虫ははねを振動させて「声」をだすというところで音楽的なのだけど、同じように、指揮者がすっとタクトを振ることで演奏ははじまる。というわけで、作品が冒頭から(他の方が「出だし」と書かれているように)音楽が流れるようにはじまっている、と感じたのです。 「指揮者」のような映像を思い浮かべた点では視覚にも訴えてくる作品と言えます。また、作品世界に《すっと、》、構えるより先に予備動作なしで入っているので、私は気づいたら作品世界にとりこまれてしまっている。 さらに、《亀》の目や動き、また最終行の《苦いコーヒー》にあるように、とてもゆっくりと《朝》はきつつある、その時間の経過と進み具合を感じることができる。細かいところで言うと、最終行の《やってきていた》、これは絶品だと思います。これによって、第一連を通して、時間の経過だけでなく、近づきつつあるものの気配を感じとる主体の静けさのなかでの澄まされた感覚をも感じることができます。 そして拡大解釈になるかもしれませんが、夜が過ぎて朝がくるという、ただただ時間が経過するというよりは、様々な事象がそれぞれに地球の自転といった法則のなかにあって、うごめきながら、ひとつの音楽を構成している、そういう大きな世界へのつながりを感じることができます。 まさに《小心者の僕は、/ちいさなちいさな一コマが/凝縮された劇場のような朝》である、その通りだと思います。 勝手な推測ですが、《僕》は夜通し起きているんじゃないか。たとえば何か心配事があるために眠れないとか不眠症とかの理由で。 第三連は、意識が別の方へ流れはじめたと読んだのですが、《凶悪な虫が/ 肉の中で発火する/夏が大好きな虫たちの/発狂の季節だから》の《虫》は様々なイメージを喚起させてくれます。それは文字通りの「虫」であり、また「(凶悪な)欲望」であり、それを心中に飼っている私たち、熱に浮かれて我を忘れ、箍を外して行動に走る「人間」でもある。 このような暑さや、暑さに取り込まれて、自制を失うことに、もしかしたら《僕》は強い抵抗(逆に言えば「憧れ」)があるんじゃないでしょうか。 第三連での意識の流れが、次の連で切断されたのはそのためでもあるように推測しました。もっと読みたい気持ちはやまやまだけど。《神さま》(自分ではない)の仕業なら仕方がないです。 ときに《スイッチ》は何のスイッチなんだろう、と考えてみました。ちょうど明け方を過ぎて、陽が当たりだすとじわじわ蝉が盛んに鳴きはじめて、ざんざか降りそそいで、暑い一日が動きだしたことを否が応でも意識させられますが、そういう一日を動かすための《スイッチ》なのかもしれません。とすれば《僕》の《小心者》ぶり(受動性、消極性)がよく語られていると思います。 そこからの飛躍に最終連では呆気にとられながら、なんとなくアントニオ猪木の「元気ですかっっ!」を思い出して、笑ってしまいました。それにしても《夏のよだれ》という、、、この締まりのなさというか、だらしなさというか、放心のなかで現れる生理的反応を持ち出してくるとは。《解体》については、ついに眠りに落ちたのかと考えましたが、ともすると、《小心者》であるはずの《僕》が、やはり夏にやられて、《小心者》の繊細な注意力や自制を失ってしまうことを意味しているのかもしれません。 全体として、背後に曲調をかえながら音楽の流れを感じさせ、映像としても体感としても、様々なイメージの複合を味わえる作品で、細かいところまで気を配られた作品ですが、是非とも加えておきたいのは、そのような作品でありながら、上段から振りかざしたような言葉遣いがされていない、ということ、詩的な(詩の言葉とはこういうものだと「ぶった」)言葉を運用せずに作られているということ、こんな難しいことを収めているというところです。 長々と書きましたが、一言でいうと悶絶ものです。 (小心者の朝)

2019-08-19

遅ればせながら今初めて読みました。いまは時間がないのでひとまず一言だけ。 もうダメ。悶絶する。 (小心者の朝)

2019-08-18

ダメですね、なんか自分のコメントの方が朦朧としていて、コメントしたいかったことが書けてない気がするので再コメントします。すいません。 まず「朦朧とした雰囲気」というのは、「空間的」という意味です。私は先のコメントで「入っていけました」と書きましたが、そのくらい作品の言葉が空間的に感じました。いえば作品の中の主人公に重ねてしまっていたということです。 《藍染のよる うかびあがりし花模様 月あかりにゆらめく緋鯉 なやましく 風は涼しくなりたれど さめやらぬ風鈴の音 解せぬフアンタスマゴリアに迷ひても 不言の途はきゆることなし 沙羅双樹に文をむすび 香に愁ひをかくす》 上の、たとえば《うかびあがり》や《ゆらめく》に代表される縦の動きと、《緋鯉》や《風》のような横の動き、そしてそのゆれが空間性を作り出しているように思います。しかし、最もそれを感じるのは《香りに》です。これが不思議なんですけど、色も形もない香りが立ちこめて、靄のように包まれている感覚に陥ってしまうんです。ですから「夢かうつつか」の世界に迷いこむ込んだ気になる。日常から少しずれて、あれ?という感じです。幻想的と言っても、非日常と言ってもいいのかもしれないけど、そういう一言で表しきれない感じが私にはあるので、長々と書いてしまったのですが、言葉で書かれながら言葉ではなく、その影によって作り出された作品世界がここにあるなあ、と。だからこそ、動かざる点として《鬼灯》が存在感をもって鮮明に見えてくるのかもしれない、と考えている次第です。 (鬼灯フアンタスマゴリア)

2019-08-16

おはようございます。導入から夢とも幻ともつかない朦朧とした雰囲気を想起させるように言葉が用いられて、無理なく入っていけました。タイトルと内容が相俟ってコレスポンデンスを思い浮かべたのですが、これは今さら感がある読みですね。笑 全体として朦朧とした中に《鬼灯》が鮮やかに映し出されているところに惹かれます。 (鬼灯フアンタスマゴリア)

2019-08-16

おはようございます。主人公の、世界をどこか遠くから見ているような虚ろな視線や足取りが一貫した、まとまりのある作品になっていると思います。ただ、救いようのなさでいうとこれでよかったのかな、という読後感はありました。私としては終始心情的には立ち尽くしたままでいる主人公の姿を見てしまうから、こうした読後感になってしまっているのだけど、やっぱり何かしら答えなり明るさにつながるものを見いだしてほしかったな、と思います。 “little girl”と《炸裂》が、それまでの主人公の世界に対する感受のあり方を壊す役割として登場していると読めば、主人公のそれまでとは異なった新しい視座の獲得可能性へ開かれた作品だと考えることもできるけれど、流れとしてそう読むのが適当かどうかは判断が難しいところです。我が儘なだけですが笑。 (気まぐれな茜)

2019-08-16

おはようございます。こちらの方が格段好きです。比べてみると、位置が下がって、「おっぱい」がちょうどいい位置にきたように感じます。前のは肩のあたりかな。これはグラデーションが「おっぱい」のすぐ下からはっきり変化をしているからかもしれないけど。 グラデーションの縁取りと波模様が言葉と重なって、流線的な形や柔らかさ、たぷたぷした質量も感じます。 なお、海の薄い背景色と白い文字の部分と、そこから下の濃くなっていく部分を見ていると砂浜も浮かんでくることを付け加えて、「ただのおっぱい好き」でないことを断っておきたく思います。 (ヌーディスト・ビーチにあこがれて (version2.1))

2019-08-15

こんにちは。エイクピアさんの作品に触れると、これは何だろう?と思ってしまいます。これは何だろう?と思うのはエイクピアさんの作品に限らずたびたびなのだけど。笑 どのような内容が書かれているのかを解釈すると、今作品は千才森さんのコメントとほぼ同じようなところに、私としても落ち着いたのですが、それならば散文としてでも、もっと読みやすい文体としてでも書けるはずなのに、どうしてまた次から次へと意味の流れを断ち切るような、こっちの石からあっちの石へ飛び移っていくような言葉の置き方を選ぶんだろう、と思います。 逆の言い方をすると、「物事を筋道立てて(時にはイメージや喩えを使いながら)わかるように語る」ために言葉がある、といった馴れきった通念を揺さぶられます(この通念は、いかんな、とわかってはいても気がつくと頭をもたげてやっかいなのですが)。そういう意味でとても刺激的でもあります。で、刺激的という面でいうと、語調が緩やかなのでじわじわ侵入してきて、なんというか、フェザータッチのような、はっきり言葉に固定できない刺激に味があるな、と思います。 仮に解釈されたような内容がテーマとして存在していたとしても、またはしつつも、それを散文として、あるいはわかりやすい詩的な形式を与えたところでどうするの?という詩意識が介在している。のかはどうかは憶測ですが、そうしたテーマを底に沈めつつ、表現上では方々に、次から次へ跳躍しては消え、現れてはまた跳躍する感覚を味わえるのは新鮮です。 (羅針盤)

2019-08-14

こんにちは。いやあ、ハラハラしました。ついつい持っていかれそうになってしまう。 この作品が作品投稿板に投稿されている以上、「作品として」書かれているのだから、「作品として」読むというのがふさわしい、とはわかっているのだけど、生々しい。名前挙げてカスだのなんだの連発で罵るという……。ただこれが《もっと不自由なものであったらいいのにと願う感受性がある。》とつながってくるところは、巧いなと感じます。 事実も出てきた名前も、そして自分をも「素材」にした作品だから、リアリティがあって生々しく感じたのだと思います。 ときに与謝野寛が大逆事件で処刑された「大石誠之助の死」という作品を書きましたが、あれも作品上では、(よんどころない事情があったとはいえ)大石を馬鹿呼ばわりしていました。その裏に失った友人への深い哀惜があったのだけど。それと重ねるわけではありませんが、なんとなく花緒さんの「表現をすること」に対する愛情を感じます。 (表現の自由展・その後)

2019-08-12

タカンタさま 私も自分の詩を書く才能というものを考えるとかなり疑わしく思います。詩と関わってきた中で出会った、作品の数々や作品を仕上げるに至るまでの書き手の、言葉との格闘の様子に触れるたびに、それを思い知らされてきました。そして、それは苦くも嬉しい体験の連続で、いわば、優れたボクサーの連打を受けて、顔もボコボコに腫れあがって、今にも倒れそうなのに、にやにやしているという、自分でいうのもアレですが、いささかキモチワルイ感じです。だったら早々と手を退けばいいのだけど、それをしないのは、その都度言葉というものの面白さ(インタレスト)に打たれてきたからです。ことによっては脳みそが真っ白になって、ぶっとび、体から一気に汗が噴き出ることもあります。なぜそういうことが起こるのでしょう?それは私たちも意識的無意識的に言葉で認識したり考えたりしているからだと考えています。私の日常は規則的な散文みたいなもので、弾みも少ない。それに対して優れた詩作品の言葉は風穴を開けてくれたり、塗り替えてくれたりする。そういうことを知ってしまっているから未だに詩と関わっています。ですから、現在の私にとって才能というのは別次元の話です。むしろ、詩作品の言葉に対する信頼といえばいいかもしれません。もちろん注意深くはあらねばならないでしょうけど。これは付け足しになりますが、芸術については関心は尽きませんが、芸術家の看板を掲げる気持ちは毛頭ありません。 岩田宏の有名な作品に「いやな唄」というのがあります。 あさ八時 ゆうべの夢が 電車のドアにすべりこみ ぼくらに歌ういやな唄 (以下省略。「岩田宏詩集成 書肆山田」) かつて鈴木志郎康が、この作品を紹介するに際して、励まし元気づける作品、というようなことを書いていました。なるほど、目鱈矢鱈意味のわからないことを吐き散らして、負けそうな自分を励ますことってあるな、と思ったものです。今作品を手直ししている時に思い出したことでした。 埋もれていた作品が思わぬ形で上がってきていたので驚きました。笑 コメントありがとうございます。 (アカルイ唄)

2019-08-12

おはようございます。この作品、一度読んだ時に浮かんだ印象だけ、ひとまず置いておきます。「お経」。お寺さんがお経を読むなかで似たようなフシの箇所があるんですけど、特にお経の最後に読みあげるやつ。「あなかしこ、あなかしこ」で結ぶんだけど。それを模したパロディなのかな、と感じました。内容についてはまた改めて。 (心しずかに)

2019-08-12

こんにちは。何度か読んで、コメントしたくて、気づいたら数日経ってしまっていたのですが、まだまとまっていません。(個人的によくある話。) ひとまず、今日また読んで、感じたことだけ書きます。言葉の使い方がとてもきれいで、魅せられます。やわらかい波に揺られている気持ちになります。それは音からくるものであり、文字からくるものでもあります。ここでいう文字というのは意味やイメージなどではなく文字の形のことで、漢字とひらがなの視覚からはいる波立ちが感じられます。 以上です。もっと多くのコメントがついてよい作品だと思います。 ※《園芸のほん》で、あれは誰だっけ、チャペックだったかな、「園芸家12カ月」を想い出しました。 (呼吸癖)

2019-08-10

こんにちは。スピード感があり、且つ、メリハリがあって気持ちよいです。《魂》《王女》《言霊》《老いたる》《魔術》といった語が使われていても、浮いた感じがしないのは、作品全体としてバランスが取れているからでしょう。 こうした心地よいスピード感のなかで、《走り去る馬車から、一瞬だけ顔を覗かせたその女性》、この一行は非常に映像的。その女性と目が合った気がして、しかももはや遅すぎることを理解した気がして唐突に悲しくなりました。こういうのはズルイ。嫉妬するくらいやってくれて嬉しい。笑  で、スピード感の良さについて書いたのですが、この速度こそ、時間の過ぎ去る速度であるとすると、それを心地よく感じた私も、現在の過ぎ去る速度に呑み込まれ、慣らされた一人であるのかもしれません。そして、過ぎ去ったものやことを、事後的に(思い返すことによって)、《忘れ得ぬ人》へと、記憶をつくり直しつつ、自分を見失わないようにしている部分があるのかもしれない。そう考えてみると現代の孤独が作品化されていると感じます。深読みかもしれませんが。 それにしても、日常生活において、気づかなければそのまま見過ごしてしまうようなところをイメージとして拾い上げ、うまく配置していると思います。ああ、なんか腹立つ~。 (忘れ得ぬ人)

2019-08-10

こんばんは。アクロスティックですね。ひとり語り調で、中身もおざなりにせず、しかも、こんなに長くできるものなんですね。お見事です。 (かきさらし)

2019-08-09

こんにちは。かっこいいな、と思いました。かっこいいです。私がもっともっと若かったら、すごい詩の書き手発見!と小躍りしたかもしれません。「そんなふうなかっこよさ」です。なので、ずいぶんオッサンになった身としては、既にコメントにもでていますが、観念的のように感じるし、強い言葉や勢いに頼り過ぎているように感じます。それが持続されて、かえって単調に終わっているように感じました。 (不可逆)

2019-08-08

こんにちは。いろいろな記憶が明るく浮かんで、薄くなって、残像を漂わせて、消えてゆくイメージが目に浮かびました。この作品は「わたし」と「きおく」の関係を主題にしているようで、無駄な修飾をほどこすことなく、素朴ですがわかりやすく表現されていると思います。ああ(オー、マイガー)!と思ったのは最終連。「わたし」の色がかなり強めにでてしまい、「きおく」の影が薄れてしまったように感じられました。 (きおく)

2019-08-08

おはようございます。 《あせるな 一歩つづ腰をかがめて歩け たちあがることだってできる 》 ここの箇所、意気地というのか、生きようとする者の泥くさく、懸命な声を聞くようです。起きている状況に対する焦りや抵抗とも取れるところから、自己確認に転じるところがあるから、この《男》が、「言葉として」動くのが窺える。こうした細部って大事だな、と改めて思いました。 細部について言うと、なんと言ってもすごいのが「ハヤ」です。これは本当に素晴らしい。《椅子の足の間にハヤが泳いでいたという。》 この連だけでもいいからもう一度でも読み返して欲しいのは、「ハヤ」によって、かすかに動きが生まれているのを感じられるだろうから。だからこそ、机の上に置かれた《河骨の花》も立体感をもってくる。視線誘導も含めて、ここはもう絶讃したい。 余談になりますが、かつて年配の方が、河童の話なんかするから足をつったりした子どもが河童と思って緊張して溺れるんだから、あんなくだらない話はするものじゃない。と言っていました。私が思うに、昔、不幸にも川で溺れてしまった子どもや水死体であがった子どもがいて、あれは川遊びをしていて溺れてしまったんだよ、とみんなが言うとする。ところが、それがたとえ事実だとしても親は納得できずに塞ぎこんだり、悲嘆に暮れることは大いにありうる。そんな悲しみが、川には河童がいてね……という物語を生み出したのではないかしらん、だから、深い悲しみを慰めるためにモノガタリとして自然発生して定着したのだとしたら、くだらなくはないし、叡智の一つだよね。ということなんです。私は大分県に住んでいますが、県南には海があり、島もある。すると、昔はそういう地方では海難に遭って亡くなった方々も少なくないらしく、ある時期に鳥が飛来してくると誰々さんが帰ってきたといって喜ぶことがあったそうです。河童も鳥も、それってただの空想でしょ、って言えばそれまでなんです。でも、生きているひとの心の奥底に由来していて、そのひとを支えている物語というのは、外から見ればどこか実際とかけ離れていて、リアリティを欠いて見えるものでありながら、同時に、誰にとっても存在するリアルなファンタジーではないだろか。そんなことを考えました。 時に、前作と今作、第一稿と決定稿を読めて得した気持ちです。ありがとうございます。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

こんばんは。最後の二行は、きついというか、バッサリ切ったなあ、という感じで、硬くなってしまいました。断ち切るといえばいいのか。何を延ばして、何を絶つのか。知るのが怖い気がしますが、それが何であるかよりも怖さを感じさせるところが巧みです。 (夏草のうた)

2019-08-08

おはようございます。 《ミナミトビハゼ 何見て跳ねる Knock me please》 ここ、調子は変わるのに、かすかに音が重なるんです、きれいだなあ。 8月って暑いけど、夏と秋の変わり目みたいなところがあって、ちょっと中間的なところがあります。なんとなく気が抜けてボンヤリしてしまうこととか。あれってなんなんだろう。 語り口が、そんな8月にぴったりだな、と思いました。ボンヤリのなかにいろいろな風景が見えているんだろうなあ。 (八月の汽水域)

2019-08-06

〉仲程さん それ、私です。音読だと楽しくて。 《足し巣を待って愛で馬は うむ!》 とか、 《背撫で頸撫で ぬだでば》 とか、特に。 (三つの朝の歌)

2019-08-06

こんばんは。全然意味がわかりません。なんじゃ、こりゃー!?です。でも、何度も読んでしまいます。音も使われてる文字も知らないものではないのに、組み合わさるとなんのこっちゃで理解に窮してしまうから、言葉ってとても面白いです。 でも、意味のわかる筋の通る話もいいけど、特にこれといった意味もないことを言ってる方が愉しいってこと、割りとあるし、それでひと息入れて、気持ち入れ換えられることも度々あるな、とも思いました。歌というのもそういう役割をすることもあるし。 そんなふうにおさめてしまっていいのかどうかはまだ悩ましいところですが、この作品が面白くて好きな作風であることにはちがいありません。 (三つの朝の歌)

2019-08-05

こんにちは。詩人だからなにやってもかまわん、てことはないでしょうけど(笑)、とにかく彼女は自分が気に入らなくて我慢ならないことは認めることも放置することもできずに、彼女自身のやりかたで解消していて、それは打算的で演技的でもあるのだけど、良かれ悪しかれ周囲の目を引きつけて、影響を与えています。 ところが、それ自体が、《観客》のいる劇場で、お気に召す演技をやっているから起こる拍手喝采なわけで、逆にいうと《観客》の存在が彼女をそういうふうにしている。つっこんだ読み方をすれば、背後に脚本家がいて、彼女は脚本どおりの役を演じていて、それは観客が望んでるであろう内容なので、彼女のやや無茶苦茶な娘という演技に拍手している《観客》は、自分たちの隠れた無茶苦茶ぶりに拍手をして、熱狂しているのだ、というふうにも読める。笑うものは笑われる、という具合に。 そこで幕が下りて、本当の本人登場、こみあげる嫌悪感からかどうか、緞帳を裂いて、すっとぼけたような一言で終わる。それとも寝ぼけながらに見ていた夢の劇場だったのかな。《観客拍手》から最後までのくだりが好きな箇所です。 (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-05

こんばんは。少し前からちょっと気になっていたのですが、ゲーム音楽をお聴きになることがあるのでしょうか。私としては、あさきさんの楽曲を思い浮かべたので。これまでの作品の雰囲気傾向からなんとなくそんなことを思いました。違っていたらすいません。また、もしそうなら、それはそれでよいとは思いますが、どっちにしても作品としてはいささか表面的で、中途半端な気がします。一応、リンクを貼っておきます。 http://m.kget.jp/lyric.php?song=159570 (少女狂歪詩 「首無し人形 アリス」)

2019-08-02

こんにちは。とても素敵な作品です。《わたし》が語る言葉の下にある心情の動きや時間への視線を感じとることができて、《ことばにならない》ものの存在と深みをくっきり表し得ていると思います。それも、ちっとも難解でなく、誰にでもわかる平易な言葉で。 特に私が好きなのは第二連の「、」にいたるまでの最終行です。 (あなたへ)

2019-08-02

おはようございます。全く関係ないかもしれないことから書きます。ギリシャ神話に「パンドラの箱」という有名な話がありますが、エピメーテウスが好奇心に打ち勝てず箱を開けてしまう、それを見た兄のプロメーテウスは慌てて蓋を閉めたけれど、その時は既に遅く世界に悪いものが放たれてしまい、箱の底にわずかに「希望」が残された、というやつです。私はこの話が好きなのですが、たまに聞く解釈では、「どんなに不幸でも希望が残っている」みたいな感じなんですね。多分、それで正しいのかもしれない。でも、私はちょっと違う解釈もしていて、「最後は希望しかない」なんです。たくさんの不幸の種が広がってしまっても、「希望が残っているから大丈夫、まだ終わってない」みたいなのではなく、「世界中に不幸は広がってしまった、もう終わりだ」みたいな感じ。で、終わってしまった世界に残されてなお生きようとすると「希望をもつ以外ない」という考えが出てくる。ハナから希望というものがあって、それが残るのではなく、世界に対する明るい期待や幻想が暗いものに覆われてしまった、そのあとに、遅れて出てくるのが希望なんじゃないかと。でなければ、最初に蓋を開けた時に、希望も外に出るよねって話で。笑 この作品ではいきなりキリコの絵が出てくるので、不穏や不安を掻き立てられるのですが、カオスといえばカオスで、ディストピア感に満たされています。でも、その中で「あなた」を見出す。「前へ」出ようとする。あー、これは「希望」だなぁ、と思った次第です。 (「残響」。)

2019-08-02

こんにちは。 心情が伝わるように、わかりやすく構成されていると思います。 一連から三連にかけて一行目行頭の《ある》や四連目の《ふと》などは、ない方がより直接性が増したようにも思いました。 (独白)

2019-08-01

こんにちは。明暗がはっきりでてて、愉しく読みました。フェスは行きませんがライブは年1くらいで行くので、もしかしたら、知らず知らずキモくなっていたり、キモッと自分ツッコミさせてたりしているかもしれません。気をつけます。 (Creep)

2019-08-01

こんにちは。くすぐったくなるくらい、純だなあ、と思いました。皮肉でなく、微笑ましいです。 私なんか《次の満月の日》あたりで、これは狼男になってケダモノ化するんじゃないか、と予想を立てたほどだから、どれだけ汚れてしまったことか。反省すること頻りです。 (月と、きみと)

2019-08-01

こんにちは。とても柔らかくて、とても勁(つよ)い作品。ちょっとこれはヤバい。 (きいろ)

2019-08-01

おはようございます。何度もコメントを試みたのですが、なかなかまとまらず8月になってしまいました。未だにうまくまとまっていないのですが、下手なりに書きます。 まず図柄としては、はじめプランクトンのようだと思いました。今日読み直していてみると、泡のようでもありました。前者は《発酵(発光)》、後者は《溺れる》からの連想かもしれません。浮遊のような上方への動きとして見えたのは「黒を背景にした白い文字」というのが関係しているようにも思いますが、上から下に視線を動かすせいかもしれません。なので、堆積という印象ははじめの方はしませんでした。 内容の方では、どうしても音につられてしまうので、「積み」と「罪」、「発光」と「発酵」、「なれない」と「慣れない」などは好きだなあ、と感じます。ただ、同音異義語たけでなく、音の連なりから派生する言葉へ広げていきたくなる傾向、たとえば、ツミなら「摘み」や「つつみ」や「つめ」云々(まだまだつづくので省略)と広げていきたくなる誘惑にかられる私としては、もどかしさも感じつつ、抑制のきいた、まとまりのある作品になっているとほとほと感心するばかりです。 最後の《落書かれた葉》はなんだろうと考えたのですが、「落書き」と「落ち葉」、「枯れ葉」の合成語でしょうか。というか、そう読むことにしました。そして、そこまで読んでしまって、上に目を戻すときに堆積を感じたのでした。 (病葉堆積)

2019-08-01

おはようございます。率直に書きますね。バカバカし過ぎて、とても好きです。個人的には最後が微妙で、これがなければもっと良かったのに!という気持ちです。 (真イカと真ダコ)

2019-08-01

おはようございます。いま読み直していて何気に思ったのですが、非常にというか、とてもとてもというのか、哀れでしかたなくて結果的にこんな大仰な言い方になってしまってるのかな、という感じもします。昔、授業中にふざけてたら教科書でスパーンと頭をはたかれた。小1くらいだったかな。とてもびっくりして、泣きそうになったわけです。でも周りにみんないるし、視線も集中してたから泣きたくない。で、どうしたかっていうとめちゃくちゃな顔をしたんですね。どんな顔かは自分では見てないけど、とにかく変な顔をたくさんしたと思います。みんな笑ってたので。個人的な昔話を引き合いに出して申し訳ないですが、なんかそんなふうにね、ある感情が強くなり過ぎて、でもそれを知られたくないのか、それか振り切ってしまったのかで、こういった言い回しになってしまってるんじゃないかという気がしました。 表向きでは、いい顔したり、褒めたりしてるんだけど、心は裏腹に嘲笑ってたり妬んだり、小馬鹿にしてる関係が想像できます。たとえば、いままで化粧っ気のなかった女の子が好きなひとができて、化粧をする。そんで、かわいい、とか、きれいとか、まあ、褒めそやすんだけど、心の中では「気持ち悪ー」とか「下手くそー」とか思ってる。それを「私」の直観は見抜いてしまった、せっかく、化粧に手をつけた(目覚めた)女の子がかわいそうでしかたがない、と哀れさからなのか、憤りがこみ上げて、いや、憤りに哀れさがこみ上げたのか、しまいにわけのわからぬ唄になってしまう、なんかそんな構図です。 へんちくりんな例えですが、そんなふうに読むと面白かったです。 (歪熟れ面)

2019-07-31

こんにちは。コメント、ありがとうございます。 《鬱憤晴らし》という御指摘、ありがとうございます。2017年に書いたものですが(少しだけ手を入れて)、駄洒落好きの言葉遊びが高じて、という感じが強いですが、まさに鬱憤晴らし、もしくは景気づけのようにしたかったので嬉しく思います。 (アカルイ唄)

2019-07-30

こんにちは。これはずるいです笑。謎も気になるし、筋も気になるし、作りも気になる。楽しすぎです。まだ案山子しか思いついていません(田んぼのなかにあるし、回回×4だし、山の神さまの依り代だと前に読んだことあったし。でも自信ない)。 (ぬくい)

2019-07-25

こんにちは。最後の一連でそれまでの作品イメージが明から暗へ一挙に覆されました。「オルゴール」という言葉が普段とは全く異質のものとして響いてきました。 (半島の青)

2019-07-25

こんにちは。リズムの変化も含めて《光が眩しすぎるから》の置きどころがよいなあと感じました。《猫たちは脱ぎ散らかした服のあいだを華麗に歩く》という一行、やや古風な印象ですが好きです。 (無題)

2019-07-25

おはようございます。昨日も暑く、コンビニでアイスを買って娘と食べたのですが。娘はアイスを持ったまま、私が開封するまで食べないで待っているようでしたので、言ったのです。「あちいけん、溶けるのがはええで。溶けるまで待っちょかんでもいいけん、早よ食べよ(暑いから溶けるのが早いよ、溶けるまで待っていなくてもいいから早く食べなさい)。」 その時この作品を思い出しました。《アイスクリームがとけるまで待てなかったのです。》てどういうことだろう、と思っていたのですが、実際には言うものなんですね。 それはともかく不思議な作品だなと思います。もはや解釈は必要なく、書かれた世界を、ちょうど目にした光景につい立ちどまるように、そのまま受け取って立ちどまっていればいいのだろうと思える詩だと思いました。 (かげ)

2019-07-25

こんばんは。言葉を継ぎつつも、既にある理解に足る意味の連なりや結びやすいイメージを拒否するかのように差異を与えて、その破れ目に詩を見いだそうとしているような印象をもちました。建設と破壊の繰り返しというか。 《金に 夕映え》からはじまる一連は音が文字になることで持たざるを得ない意味やイメージをもすっかり投げ出してゼロにしていくような感覚を覚えました。詩を見いだす内的運動の痕跡としての言葉、という印象です。 (蠅)

2019-07-25

こんばんは。最後の三行、保健所で保護されて、引き取られるか、それとも引き取られず殺処分にされるのかわからない(選ぶことができない)犬をイメージしました。それをもとに読み直してみると、さまざまに選べる立場にある側とそうでない側とのコントラストが表れていると感じました。 選ぶ側も何を選ぶかによって自らの社会的位置を知らずに「選別」しているかもしれませんが、また様々な選択肢とそれにまといつく情報が多い中で選ぶのはストレスのかかることかもしれませんが、選ぶ余地のない側からしたら贅沢な悩みかもしれませんね。 (選別)

2019-07-24

おはようございます。最後の二行は懐かしむのも(貝殻でなく)鯨の耳だけにメランコリックな感じより、時間的にもずっと遠く、空間的に広範囲にまで及んでいるように感じます。《ベランダから//身を乗り出して》とのギャップがよいですね。 鯨の正体が未だに判明していないのですが、いろいろ見てみたらザトウクジラは知っていましたが、セミクジラというのがいたのですね。ひげクジラ、歯クジラなんてのもありました。知らなかった。ついでに前庭器官や耳石もあって聴覚、平衡感覚に関係しているのだとか。耳石はヒトの場合聴砂と呼ぶそうで。 私はなんとなくあのテレビの砂嵐みたいな音とか耳を机に当てた時にきこえる血液の音(ゴーという)や、耳鳴りのようなものを思い浮かべていたのですが、なんだかわからないけど鯨みたいななにかしらが平衡感覚に関わるところに打ち上げられたらグワングワンもするだろうて、と思ったのでした。これはまたはげしい眩暈だろうと。 聴砂を蝶や黄砂に見立てて、遠方を望ませるというのも良いなあと感じました。 調べなかったら、ここまで読むこともできたかどうか。言葉を知ることの面白さを再確認できた作品でもありますが、それは調査というほどではありません。 (前庭で砂が踊る日に)

2019-07-23

おはようございます。最初に坊主が出てきますが、語り口と語られる内容が、まさに坊主の昔語りのようで、それも私的には暗いうっすらとした蝋燭の炎だけがともるお堂のなかでほとんど無表情に、抑揚を抑えた声のためにかえって情念的な雰囲気を滲ませながら、目はこっちをずっと見据えて語っている、というイメージが湧いてしまって、どうにも馴染めない雰囲気だなあ、と思いながら何度か読み直しているうちに、ようやく慣れることができました(なので、上に書いたイメージも今になって言葉にできたのですが)。 試験管とフラスコ。やっぱりこの二点は現実に引き戻されて「あれえ?」と思っていたのですが、今となっては、これがとても良いなあと思います。試験管とフラスコを扱っているこの人は、これまた私的には色が白くて表情が乏しい、やや厭世的でなぜか眼鏡をかけた人なんですが(笑)、その人が実験室みたいなところでなにやらやっている時に、試験管なりフラスコなりの先に、やたら現実(現在の外的日常世界)とは離れた世界が見えている、という風に読んだのですが、試験管やフラスコが、絵画でいうとあれは遠近法の第一消失点というのかな、作品に奥行きを出す役割を果たしていて、しっかり構造ができあがっていると思いました。 で、さらに私的にいうとその人は、やってることからして実験者であり、観察者であるのだけども、ひょんなことから自分が感じてはきたけれども表面にはださなかったことを、その時見ているわけです。情念的で血生臭く、狂騒じみた世界を。 個人的に生物学や物理学のような自然科学の世界は、生命現象や物理現象の法則、その存在の謎や驚きや感動にとらわれた人がやってるんじゃないかと思っています。でも「生命、すげえ!」では何も伝わらないので、論理でもって話さざるを得ないと。だから文章では長いし、話はとかく難しく退屈にさえ感じてしまうこともあるわけですが、そんな個人的な考えにしたがうと、この人が試験管やフラスコを通して見ている世界は、人間社会がつくりだしている、相も変わらぬ《この世の美醜》という「普遍的」なものであって、しかもそのような情欲、情念をもっている自分自身でもある、ということが示されていると読めました。 そのような世界を見ている彼自身、をさらにその背後から見ているような、そしてあたかも戯画化するかのような語り手の語りが、彼が見ている世界の様相と、見ることによって表れる彼自身の情欲や憎悪、興奮や冷徹さを、近づけたり離したりするというダイナミクスを感じることができました。 (皇居正門の真下で)

2019-07-23

おはようございます。 《世界から少しだけ華やかさが減った朝》 この行、「僕」の「君」に対する思い(「僕」の世界に「君」がどんな存在であるのか)が表れていて好感がもてます。「無駄に祈る」もいいです。 (花弁)

2019-07-22

再レス(補足)になりますが。 私が「甦る」と書いたのには理由があって、実際に経験している夏っていうのは、かなり散文的で、まったくもって平々凡々なんだけども、ここに書かれた「言葉の夏」に触れて、ああ、きちんと意識したことがないけど、夏ってもしかしたらこんな感じなんじゃないかな、と感じたんです。そんなふうに潜在的には感じてはいたかもしれないけれど意識化(言語化)されていない部分に、この作品の言葉が触れてきたように思う。だから、言い直せば、経験していない夏を経験させてくれるような「言葉の夏」であって、初めてなのに甦ってくる感覚、ということです。その意味で、多くの人の内部に「共通」してある未だ言語化されていない感覚にひっかかってくるのでは、と書いたのでした。 (夏の記し(三編))

2019-07-21

こんにちは。 めたくそ疲弊感におおわれている時に読んだら、ピタッとはまって笑顔を取り戻せそうな作品だな、と思いました。 三連目の最終行に《ハイヒールのリズム》を置いて、四連目の《ニヒリズム》、そのあとの《カフェ/地下鉄/待合室》の音の運びは本当に《心地良》く感じました。 今年はアイスクリームを例年よりもよく食べています。ちょっとした甘さ、冷たさでも、少し穏やかさを回復できた気持ちになります。作品中は《食べたいな》で、食べてないから、そんなんじゃどうにもなんないのはわかってるけど、という気持ちが含まれてるのかもしれないけれど。 (メトロ)

2019-07-21

おはようございます。 なかなか思っているようにはいかないものですよね。笑 雨に濡れて走ってみたいと思って、暗い空に期待して走りだすのは、投資少なくてもかかる確率の台で勝ち試合をあてこむのとどこか似ているかもしれません。ところがかからないという。それでも雨にはあたる笑。しかも想定外の土砂降りだから、小降りになるまで待つ(流されてしまえばいい、なんて言ってたのに!)。それも、雲の流れを追って計算しているとこなんか、1000円でやめるセコさにつながっているようで面白いです。 期待をしながらも期待どおりでないとすぐに手を退いたり、予想を上回ると足踏みしたりしてしまう都合の良さを省みることのないまま、いわゆる現実的な生活にも入ろうとせず、「諦めるのは早すぎる」と繰り返すのは間抜けた話のようですが、案外こういう人は少なくないかもしれません。そうした典型をサラッと描いているように読みました。面白かったです。 (雨に打たれたい)

2019-07-21

こんにちは。私には発想からして思いつかない作品でしたが、愉しく読ませていただきました。混ぜこみながらの組み立ても面白かったです。 書けと言われても書けっこないのですが、改めて読み直してみるに、最後の〔ご想像にお任せします〕のくだりは、もしかしたら私なら途中から〔〕を外してしまったかもしれないなと想像しました。 (謝罪会見)

2019-07-19

帆場さま おはようございます。コメント、ありがとうございます。 そうなんです。《淡々とした雲を眺める日というのは誰でもある》のです。とくに私は田舎暮らしなので、毎日いやでも目に入ります。笑 そんで、「今さら『雲』~?」と最初は突っ込み入れたり、呆れたりしたんですけどね、書いてるうちに書きたいことが見えてきた。日常的にも雲を眺めたところで、滅多に心が動いたりしないのだけど、書きながら「あ、いまちょっと動いたな」って。言葉ってほんと興味深いです。 で、個人的には誰が読んでもそこそこどういうことを書いたかわかるように、やや恥ずかしいことも辞さずという、なかなかに勇気をだしてみた思いも強いんですが、やはり人それぞれですので、違いがでてくるかもしれないですね。 (昼下がりのソネット)

2019-07-19

【】様 おはようございます。そうなんですよねぇ。 《幾度となく分かれ道を選び その結果が今の自分》なんですよね。だから、そっか、おれだって(むしろおれの方が?)自由だったし、自由やん、て、まあ、ちょっと動く。そこのところを書いてみたくなった。といっても、成り行き上、そうなってしまいました。くみ取っていただき、ありがとうございます。 (昼下がりのソネット)

2019-07-19

こんばんは。 夏の匂いや温度や眩しさが(そこはかとない寂しさも含めて)甦るように感じます。もしかしたら、これからもこんなふうに体験しちゃうんじゃないかなあ、と。そのくらい共通の感覚にかかってくる作品だと思いました。 (夏の記し(三編))

2019-07-18

こんにちは。ペースというか、行をわたる間(ま)のとり方が相変わらず好きです。といっても一定なわけではなくて、ときどきずらされる。呼吸なのかなあ。 多分一対一の格闘技の試合とかだと、やりにくい相手だ。笑 《溶かした》のところでパンとはじけて滲み(溢れ?)出た感じがしました。リフレインのコメント多いし、私も好きですけど、そこまでの運びがあってこそなお、という気がします。 最後のフェードアウトしていく感じもタイトルとマッチしているように感じました。 (カフェ・ミラージュ)

2019-07-18

こんにちは。だいぶん以前になりますが神話学者のカール・ケレニーが書いた「ギリシャ神話」の中にエロスに関する解説があったのを思い出しました。詳しくは忘れましたが、別の名前では「宇宙の卵」と呼ばれていたのだとか。なんとなく思い出しただけですが。 こちらでは今日も雲が太陽を覆っています。雲を透かして太陽の白く輝くのが見えます。 昨日は夕立ち気味の雨が降りましたが、すぐに止み、雲間に青空を見ることもできました。「抱卵」とはそうした様子をも表しているのかな、と思い重ねてみた次第です。 それと同時になにかしらを期待しつつ待機しているような明るい印象も受けました。それは卵や(朝顔の)蕾という、可能性をもったものに由来しているのかもしれません。 ふと、もうすぐ夏だなぁ、と思ってしまいました。 (抱卵する空)

2019-07-18

こんにちは。とても素敵な作品だと感じました。特に最終連は、きらきらとみずみずしく、健康的で、つられて笑顔になってしまいました。 (めるふぇん)

2019-07-13

こんばんは。「嫁ない」(「読めない」)に一本。『菅田将暉くんへのファンレター』という過去作品をさらっともってくるところも好きです。 (YOMENAI)

2018-11-25

おはようございます。書かれていることは理解できます。詩というよりは考えていることの言語化という印象ですが。 《その中の一人が私でも何もおかしくない/何も変わらない》というところで、「私」を無名化させているようですが、どんなもんでしょうね。どれも命である点では違いないのだけど、一人の人間である「私」と一本の「草」、一匹の「虫」は現象としてはやっぱり違うわけで、いっしょくたにはできないんじゃないか。一人の人間である「私」が生きていて、その中で一本の「草」なり、一匹の「虫」なりの命について考え、その過程を通して、命の価値について考えるひとりの「私」という構図で生きることの価値を見つめてみれば、それを核に別の表現が可能になってくるように思います。 (崖っぷち)

2018-11-25

こんばんは。かつてWTCの爆破テロがあった時、救援にかけつけた消防士は選りすぐりの精鋭だったそうです。亡くなったあとも子どもたちのヒーローなんだとか。あんな人たちが亡くなって、役にも立たない害ばかりの連中がのうのうと生きてるのはおかしい、とかつての仕事仲間が言っていました。まあ、言い過ぎではあるけれど、勤務態度は怠慢で言いたいことだけは言う、それ以外は指示も他人ごと、そんな連中が多いのはたしかでした。そういう連中といっしょにいると、どんどん疲れちゃうんですよね。自分を落としたくないから頑張ってモチベーション保とうとするのだけど、それもアホらしく思えてきて、だんだん、はいはい、まあ、いいですよ、みたいになって。いっしょになって仕事してた仲間だったから気持ちがなんとなくわかった。冷めていく過程がよく書かれているように思いました。 (嗚咽 *)

2018-11-22

こんにちは。良い意味で読みづらかったです笑。旧かなで(私は新かな、旧かなという呼び方に慣れているので敢えてそのように書いています。)句読点がないというのは、ずるずると水分を吸って重たくなったものをひきずる感じがあって、歩行でいえば歩きにくいです。しかし、言葉の物質感というのかな、それをたしかに感じられるのでちょっとした発見でした。 近代詩のなかに句読点をはずした散文詩形の作品はないかとちょっと探してみたのですが行分けか、句読点つきがほとんどでした。頑張って草野心平の作品の、これも句点はあるのだけど、比較的長い詩文を拾ってみました。 《(冒頭略) そのまんなかを黄色いパステルのやうな道がのび向ふ側までつづいてゐるらしくそらが天末で消えてゐる。》(「音のない風景」部分、草野心平) すると、今作品ほどひきずる感じがしない。ネット媒体と紙媒体の違いかと思って書き出したのだけど、どうもそれとも違うみたいで。とすれば、長さと接続の処理以外にもひと工夫あるんじゃないかと思った次第です。 ともあれ、近代詩によくあるような湿気った感じがしないのは「リボン」「ブラウス」「スカアト」「妖精」といったような語がどこか西欧風のイメージを醸しているからかもしれないですね。私はなにげにリップ・ヴァン・ウィンクルの物語を想起しました。 余談ではありますが、かつて詩人の那珂太郎が「旧かなを遣わないのは日本語を愛していないからだ」と言ったという話を思い出しました。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-22

おはようございます。まず最初に思い浮かんだのはオルフェウスのことでした。で、よく作られているように思います。初見から気になったけど、改めて見直してもそれは変わらないです。内容に沿って、言葉のもっている音と意味とがそれぞれに振動して、ずれたり、分かれたりしながら大きく波紋を描いて拡散しているような感覚があります。それに、(非在)とするより(非ー在)のほうが「非」も「存在」もくっきり意味を露わにするというところも含めて、全体に言葉と記号とが効果的に機能しています。総じて視覚的にも聴覚的にも皮膚感覚としてもぞわぞわする。 関係ないことですが、一つの音にはたくさんの意味を持つ語があります。ある一つの語を発した時、それと同じ音で且つ異なる多くの語が同時に表出されたらいいのになぁ!と考えていた時期があることを思い出しました。 (あらかじめ喪われた、《角》へ。)

2018-11-22

こんにちは。最終連、まとめにかかった印象があります。詩が小さくなっているように。あるいは、三~五連のあいだで広げすぎたか。《大胆に言ってしま》うなら、《私は誰でもないのかもしれない》というより「誰でもない」としたほうが適当だと思います。後半から詩の言葉の生き生きとした動きが弱まって、意思表明の表現に収まるのはもったいなく思います。 ちなみにスランプであれ書く機会をなくすのはもったいないですよ。発表とはまた別なわけだから。発表は「月に一編」だってかまやしないんだし笑。 (私の輪郭)

2018-11-20

おはようございます。ちょうど夜の終わりと朝の訪れの様子が、視覚的にも聴覚的にも思い浮かぶようです。《朝日だ》がそれをより明確にするように働いていて、言葉にも光をあてているように思います。 《もうすぐで》って、日常語としてはたまに使うけど、あれれ?そういえば文章としては見かけないですね。 (寒露)

2018-11-20

おはようございます。たぶんですけど、飲み屋のカウンターを挟んでお客が話すのをバーテンが聞いているという設定ならアリです。日常会話としては要点に欠けるし表情に変化がないのできつい。文字として読むには乱雑でとりとめがない。 ただ、書き手の意識にいっぱいになった思考なり感情なりがあって、それ自体が乱雑でとりとめのないものであるとしたら、それは問題ではないと私は思うんですね。むしろ、その乱雑さ、とりとめのなさをもっと見つめる必要があるというか、テーマをそこにあてると言語表現としても構成としても変わってくるんじゃないかと思います。ここに書かれているものはナマな感じがするのです。たまにナマな姿、裸の心をさらけ出せばいい、ということを聞くことがあるけれども、すべての裸が美しいわけではないものなので、そこそこには練り鍛えられた裸であってほしい。笑。 ともかく、これがほんとうに書きたかったのか、まだ書き足りていないことが残っていないか、が気になってしかたがない。実は、この後にこそ書き始められる詩があるんじゃないか。そんなふうに考えています。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-20

こんばんは。最初は雪が毒素かなんかを含んでしまって触れるとヤバいみたいなことになってしまった近未来的な設定かと思っていたら、全然違いました。むしろ悪夢ですね。 家からは追い出され、誰もいない、シャッターがおろされて入れない。これはもうはっきりと生活世界から閉め出されてしまった感があります。たしかに「拒絶」です。 これが仮に夢だと考えてみると、語り手自身が家庭生活や生活世界を拒絶しつつ、そこそこ満足に暮らしていることの反映ともとれるし、ほんとうに閉め出されてしまったら逃げ場所を(行き場を)失うことになるとして、意識生活で見えていない家庭や生活世界の、というか生きている場の大切さに気づかせようとしているともとれる。家庭や生活世界がアイデンティティを形成する一部であると考えるなら、つまり、「私が私であること」を根拠づける要素の一つであるとしたら、そこへ戻れないのはなかなかの危機的状況と考えられます。とはいえ、そのような状況において「祝福」を思い浮かべる、というのは興味深いです。仮に「祝福」であるならば、語り手にとって、いままで生きてきた場所はあなたに合わなくなった、ということでもある。違うところ、新しいところへあなたは向かわなければならない、と夢が語っていると考えることもできます。そして語り手のなかでせめぎあう「帰りたい/どこへ」と偶然にも一致している。「行かなければ。でも、どこへ」。とすると、古い世界に逡巡している語り手を、ほら、早くと雪が煽っているようにも思えてきます。夢の解釈はそれぞれですが、悪夢的でありながら、一方でまだ開かれていない未来へ背中を押す明るい一面も持っている、という風に双方向から捉えることができます。まあ、まったく異なるところへ踏み出すのも、気づいていない現在の生きる場のよさを見いだすのも、結果的には新しいことだから、あながち「祝福」を感じるのは間違ってないように思います。 あー、でも、そうなると「空襲」のもつイメージとまったくかけ離れてしまいますね(;^_^A とにかく、こんな感じでいろいろと想像させられる作品でした。 (空襲)

2018-11-19

こんにちは。《洗濯機の中で絡み合う私たち》というところ、面白いなと思いました。 ときに、今ではあまり使われなくなったようですが、二槽式洗濯機というのがありまして、洗濯槽と脱水槽が別々になっているんです。全自動は一度に全行程をやってしまうのですが、二槽式の場合は洗濯やすすぎと、脱水を分けないといけない。その点やや面倒といえば面倒なのですが、洗濯槽に蓋をしなくてもよい(というかそもそも蓋がない)ので、汚れの落ち具合や洗剤の落ち具合を見て、洗濯を止めることができるんです。あー、水がきれいになったからもうすすぎもできたなー、脱水しよ。みたいな感じ。だから、洗濯中もその様子を見れるということです。全自動だと蓋にロックがかかるから終わるまでは一度停止をかけないと中が見れない。そういうふうにしない限り、中を見るのは脱水までの行程が終わってしまってからになりますね。ここをどう考えるか、です。二槽式であれば、洗濯中は泡の溶けた汚水のせいで中は見えにくいものの、さほど絡み合うまではない。洗濯槽が脱水槽に比べて大きいからかな。しかし、脱水後はひどい絡まりようをしています。もつれあってほどくのが大変なくらい(量にもよりますが)。全自動は同じひとつの槽でやるから、それも量によるとは思いますが、二槽式の脱水後ほどはひどくないんじゃないか。で、二槽式の洗濯槽の場合で考えると、ある一定の広さのなかで、汚れ(汚水)にまみれて交わりながら揉み合っている状態と読むことができます。まあ、「絡み合う」のだから恐らく脱水後のことと推測するのですが、そうすると、全自動の場合ではある一定の広さのなかで互いに交わり絡み合う、二槽式の場合だと極端に限られた狭いところで救いようのないくらい、もつれ合い絡み合う、いわばぐちゃぐちゃ状態という感じになる。だから、《洗濯機の中で絡み合う私たち》も表現として面白いのだけど、「私」が思っていた《真実》の解釈に差が生じてくるように思います。マニアックで細かなところではあるけれど、「こそ」と強調され「思ってた」と告白がなされている唯一の箇所、そんで作品のなかの結節点でもある大事なところと思ったので、しちくじいことを書かせていただきました。 (つまさきまで)

2018-11-19

すいません。私の読み違いかも。《空に溶けていつた》あとの余韻というか、名残のようなものが、すっかり取り払われたあとの、ほんとうに一切が抜け落ちて遠くなった感覚(それこそ《がらんとして高い》)のための最終行かもしれない。そうすると、その遠さはまぶしさとしても感じられます。 《溶けていつた。》の印象が強くて、そっちに引っ張られたのだと思います。「いった」ではなく「いつた」。「つ」で詰まって「た」で一気に開かれるところ。旧かなならではですね。 (小さな村で見た)

2018-11-19

こんばんは。旧かながよく作用していると思います。新かなだとたぶん「現在」が「太古の記憶」につらなる時空間の味わいが消えたんじゃないかと。丁寧な配慮が見えて好ましくも感じます。 ただ最終行は迷うところです。詩というよりも詩的雰囲気として収束させている感じともとれます。《空に溶けていつた。》で、その広がりの方へ向かったものが、それ以上に飛ばされず、はぐらかされたような感が多からずありました。「高い」のあとに「。」で切ることで、雰囲気に流れるのをぎりぎり抑えた、というふうにも読めますが、せっかくだから、もっと飛ばしてほしかった感は否めません。終結部の難しさは重々承知のうえですが、好きな向きの作品だけに敢えて。 (小さな村で見た)

2018-11-18

面白かったです。ついでに、こういった話は読み物として読むのがいちばんだな、と思いました笑 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

おはようございます。諸感覚でとらえた描写が丁寧に配置されていて、良いなあと思いました。語りかける語り口も、関係の親密さを感じさせます。夢をスープに、眠りを絹に喩えるのも新鮮ですし、この部分が描写を詩作品へ高めているように思いました。(ただ、私だったら《熱い一杯の~/夢のなかで》は一行にしたなあ。あー、でもそうしたら「なみなみに」が弱くなるから、ウーン、悩む) 《春風の礫は鼻先で弾けろ》なんてのもね、ゆっくりとしたリズム、なにげない言葉のなかに急に差し挟んで破調しつつ、「なにげなくない」イメージを想起させるのも見事です。 犬と生活している方は沢山いるでしょうけど、こんなふうに愛情や祈りにも似た「想い」を「詩作品」として成立させるのは難しいと思う。しばしば味わう「幸福な読者」感を堪能しました。 (ピピ(十二歳の犬へ))

2018-11-16

おはようございます。自由の女神は他国から贈られたもので、足に鎖がついているという話を聞いたことがあるのですが、本当なのか作り話なのかはわかりません。ともあれ、冒頭と「いや、ちょっと待て」からつづく探索に、そのことを思い出しました。自由にはなっているけど、まだ縛られているというところで。 最終連の「そして」が、文と文を繋いだり経過を表すような単なる接続詞としてではなく、前段からのリズムの転換、躍動へむかう機能をはたしているように感じられ、実に見事に思いました。 (よしっ。いや、ちょっと マテ。 *)

2018-11-16

こんにちは。(たとえばそれは、一九七四年のアミティビルハウス的です、)という箇所に、賢治のとある詩を思い出しました。 《眼の中で世界の波が砕け散るようなこんな夜は、 (夜は、冷たい心臓が空き缶のような音を鳴らしてる) 街灯が道や建物を仄かに青く照らし魚になってゆく。》の一連は特に好きです。 かもめさんの試みの一端を知っている者としては、フォントの大小や色が使用できていたらどんな具合にしただろうということを思い浮かべもしました。 ともかく、いつももう少しで触れることができそうなのに、触れることができなくて、やきもきするというかなんというか、うまいこと言えませんが、それだからこそまた触れようとして近づいてしまうようなところがあります。 例えば、 《でも、そうやって感じた何かを、違和感を、 いまもずっと追いかけてい―――る・・。》という感じで。 (プライヴェートな【 接 触 】)

2018-11-09

完備さま コメント、ありがとうございます。納得しましたし、とても爽快です。これぞ合評形式の投稿サイトの醍醐味。とはいえ、反省がすぐに活かせるかどうかは別の話で。勉強になるなあ! コメント、改めて感謝します、全力で! (駐車場から)

2018-11-03

オオサカダニケさま 文学のジャンルのなかに詩という形式があるのは知っていましたが、詩にもジャンルがあるんですね。それは厄介だ。まあ、競争相手だのなんだのと言わず楽しく遊べればいいと思っています。遊びもつっこめば楽ではないけど、その分日常の生活や言葉の交換とは別の楽しみが得られるというもので、それがいばらの道なら贅沢ないばらか、さもなくば妄想にすぎないというところでしょう。 詩を書いている人間の99%が私と同じタイプの詩を書こうとしているかどうかはしりませんが、詩を書いている人間の100%が死にます。そして、100%のうちのわずかな作品を残して埋もれてしまう。でも、それでいいんじゃないでしょうか。そうした土塊もつくりながら詩という山がつくられてきたし、これからもそうでしょうから。そうやって望まれる山ができるのは嬉しく楽しいことです。見上げられるのが頂上付近であるにせよ、ままに山登りしたいという物好きもでてくる。そうした人々は知らず土塊であり山の一部である、頂上を支える埋もれた詩作品を足場にしていくのです。 あ、私は「先生」と呼ばれる仕事もしていないし、嫌いなので、今後このような呼び方はご遠慮ください。 (駐車場から)

2018-11-03

内容としてわかるし、感じられるものがありますが、幻想の側をもっと強調してもよかったかな、と思います。表現としては推敲の余地はあるもののスマートさを感じます。 (ピアノ)

2018-11-02

おはようございます。この作品、聴覚的表現が重なるのが気になりますが、そこをうまくクリアしていれば(もしかしたらそうでなくても)三連目だけでもいけたように思います。 (冬の音楽)

2018-11-02

読んだとき、彼はどこかへ行きたいとして、彼女もどこかへ行きたいんじゃないかなーと思いました。たぶん、通行禁止でも大丈夫なんじゃないか。そういう旅行(トリップ)。 (目的地)

2018-11-02

こんばんは。息継ぎしないでどこまで読めるかに挑戦!みたいで、ニヤニヤしながら読みました。起伏も緩急もあって面白いです。 それに(個人的なことですが)この語り口でこの長さでこの切り方、最近は滅法やらなくなりましたが、好きでやっていた頃を思い出しました。笑。 (ゲロ)

2018-11-01

こんばんは。これ、ちょっとわかるような気がします。言葉がボディをもつ瞬間というか、その感覚というか(違ったらすいません)。だから、改めて置く 《“ブレーキ”》のとこ、とても好きです。 (一人合点)

2018-11-01

こんばんは。《水母の夢想》を水母ではない〈私〉が見ていた、と読んだのですが、そうすると、それはそれで種を超えたシンパシーを感じさせてくれます。ただ、ここは〈私〉に帰着させなくても面白いんじゃないかなとちょっと思いました。 (水母)

2018-11-01

こんにちは。私みたいなオッサンから見るとずいぶんお若い方なのだろうな、とまず思いました。語尾を「ーんだ」で締められると、そこで抵抗を感じてしまうわけです。もちろん全てのそのような作品についてではないから、「ーんだ」も使いようかなとは思うのですが、もしかすると、この「ーんだ」が、意図せず、この作品を詩たらしめようと「している」のかもしれない、と思いました。つまり、作品の言葉が若さ、新鮮さを感じさせるということです。「分かち合う」などという1980年代ポップシーンで頻繁に聴いて嫌気がさした言葉を、その通りの文脈のなかに置けること。これも、やっぱり私には難しい。この作品の主人公と小杉さんが同一の関係にあるとしたら、その「いま」に溢れているように感じます。そう考えると、ありがちな詩句も雰囲気に流れているようなあたりも、抵抗なく入ってきます。 以上は考えたことです。で、この作品中、目をひいた箇所が一カ所だけあります。 《君のよく通るその声!》。前の行から、いきなりこの一行が入ってくる。ここはとても鮮やかに感じました。語順・音のつながりもピタリでした。 (未来へ)

2018-11-01

こんにちは。テレビっていいですよね。私はテレビっ子の漫画好きで来たから、いまでもテレビをみます。最近はビデオ、じゃなくてDVDを借りて観ることが増えました。世の中いろんなことが起きているなぁと思います。それに対してアクションできないんだけど、起きてることは観て知っている。知っていて、アクションできないのはちょっと申し訳ないと思うこともあるけど、生活ありますからねー。ていうか、テレビもネットも社会が求めているから普及したわけで、それで申し訳なさ感じるとか自縄自縛ですね。不買運動したって、もはや批判にもならない。この状況はますます進歩するだろうから、この主人公がそれをどう越えていくかに、10月の八畳さんの作品『遺影』を重ねて思いながら、興味をもちました。 テレビを観ている私(たち家族)を見ている私、という感じ、よいですね。 (テレビジョン)

2018-11-01

おはようございます。 《切符という音の/うつくしさを理由のすべてとして》という詩行、美しいと私も感じましたが、その前の一行があるからなおさらそう感じることができます。だから《ふたりはふたりぶんの切符を買う》という一行は、さりげないけど素晴らしいです。 それから目立たないけれど《荒れた手》《切れた指》《近眼》という語が、まぼろしにリアリティを与えている。技巧ですね。 言葉の映像美を感じます。 (ill-defined)

2018-11-01

とにかくもうがんばってください。 (エール)

2018-11-01

詩というよりは表明とか演説ですね。 (自己紹介)

2018-11-01

《この愛憎で満ちた世界》(という言葉もどうかと思うけど)=《失意の楽園》というのは、すでにわかりきった話で、二度までも繰り返して書く必要があるのかどうか、甚だ疑問ではあります。むしろ、《悪魔の笑い》をどうやって笑い返すか、そこを読みたかった。 (「濁」)

2018-11-01

一行空きが気になりました。 (詩 第十五)

2018-11-01

リズムありきというか、一、二行(七五)、三~六行(八五)のリズムが強すぎて、内容がかすみます。 (不法投棄)

2018-11-01

こんばんは。最後の二行に優しさを感じたのはわたしだけでしょうかね。「ったくもう、おまえというやつは。笑」みたいな。かわいさ余って憎さ百倍なんていうけれど、愛情の裏返しというか、めでたさが高じて意地悪言ってる感があって、実際は、「胸焼け」してしまうくらいスウィートな気持ちなんだよ、コノヤロー、みたいな。そういうところで考えれば、言葉を発するひとの心の機微がでているともとれます。で、ユーモアを感じます。 ( アップルパイ屋の独り言)

2018-10-31

おはようございます。ボートに乗って川を渡り、無事に岸にたどり着いた感じ。揺れのペースが心地よく感じられました。 (狭い)

2018-10-31

まりも様 こんばんは。コメントありがとうございます。もう付け足したり削ったり、また付け足して削ってでした。一時はたった一行だったりして汗。無駄は極力省いたつもりです。 結果、全体像をつかむのにつかみづらいことになったのは、力のなさですね。 ともあれ、久しく書いていなかったので、エスキースとしてはまずまずに落ち着いたかな、という感じで、今後も精進します。 コメント、改めて感謝します。 (駐車場から)

2018-10-30

こんばんは。なんというか、チャレンジ精神旺盛というか、難しいことやってるな、という印象ですね。これはこれでやっぱりすごいことなんですよ、「現代性」を感じることができる。 現代の言葉を詩に用いることの重要性は、鮎川信夫もそれより若い詩人の(誰だったかは忘れた)作品を挙げて語っているから、さほど目新しいことではないのだけど、それで詩として成功させるのは腕がいる。だから、用いてもわりかし控えめになる。それでいえば、これだけの量を持ち込んだから構成の面で気を遣ったんじゃないかと想像します。 そこに「イイネ」をつけたい気分。 (遺影)

2018-10-30

こんばんは。すでに書かれているコメントに似ていますが、この作品をたたき台にして書いてみるテもアリかと思います。 (Sunday Afternoon)

2018-10-30

こんばんは。個人的に語尾が気になった箇所がありましたが、詩句の繋がりや構成のよさを感じました。一番好きな箇所は「弱っちく」の「っちく」です。 (癒ゆ)

2018-10-30

こんにちは。小学生の頃に、父親に「なんでお父さんのことをお父さんて言うの?」と訊ねたら「お父さんだからお父さんなんでしょ」と母親に言われて、「そうじゃなくて云々」とがんばってたら、母親にひっぱたかれたことを思い出しました笑。やな子どもだ。 切り換えがはっきりしていて、且つ自然で快いです。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-30

こんにちは。全てが白一色で統一されているのに物の形が判然とするのか、まあ、目が慣れたら大丈夫なのかもしれませんが、わたしはそんな部屋に「はじめから居たら」、音を気にするよりもまず、部屋の出口を探しただろうと思います。この主人公は神経質ではあっても、案外タフな精神の持ち主なのかもしれませんね。 ときに時計は見つかったんだろうか、と気になりましたが、見つからない時計の、「音」だけが聞こえるところがミソなのでしょうか。せっかくなら秒針の音も白くしてよかったかもしれません。 (白い部屋の秒針)

2018-10-30

こんにちは。《散りばめられたビー玉》はどこかしら小さくはないような気がしました。幾ばくかの重みを感じるからでしょうか。 後半四行は安易に過ぎる感が否めませんが、若さが感じられます。 (おはよう)

2018-10-30

こんにちは。将棋の対局で、次の一手を考えているのに似た密度のようなものを、行間の空白に感じました。言葉と空白の比率に詩があるように思います。 (秋の赤)

2018-10-22

こんにちは。 「カフェーミュージック」の「ー」が面白いです。 (声よ届け)

2018-10-22

こんばんは。羽田さんのこれまでの作品から読みながら、仏教的なテーマであると推測しました。ひとの生死にかかわる悲痛な状況が書かれているのですが、他方で、死者に集る蝿、蛆に注目しました。死体とそれに集り貪る無数の蛆や蝿の蠢きは、ひとの生死の外側に厳として存在する自然の働きであり、餌場とし解体させることによって、ひともまた自然の秩序のうちにあることを証する。この蛆や蝿といったミクロな存在が浮かびあがらせるマクロ(自然の秩序)な働きを宇宙的なものと見るのは些か拡大解釈になるかもしれませんが、そう考えてみたくなります。そして、それゆえにこそ、ひとにとっては無情であり、悲痛さはいや増すのではありますが、それにとどまらない広がりと奥行きのある作品に感じます。 (蠅)

2018-10-18

こんばんは。「そのひと」の素姓は不明のまま、「わたし」によって捉えられた様子だけで語りが進行する。それが「そのひと」の存在にリアリティを与えている。明らかにされないまま、作品が終わってしまうので、「結局そのひと」は何(者)だったのか?という謎が読み手に残される。とても優れた作品と思う。 (家)

2018-10-15

こんばんは。四行目の「そして」以降と一~三行目は、「そして」で結ばれる関係ではないですよね。でも、「わけではない」という二度の否定があって否定が強調されているように思えてしまう。こうしたレトリックは村上春樹の小説とかで使われているような気がして、有効ではあるけれど詩的レトリックというほどではないかな、と思います。むしろ、短さと言い切り。これに尽きると思いました。あ、いいですね、と言っております。 (母よ)

2018-10-15

こんばんは。「呼びかけ」のある作品は苦手です。もう、それでもっていかれてしまう。語り手に同化しやすくなるのかな、なんて振り返ったりします。(余談ですが、菅原克己の『マクシム』だったか、あれもヤバかった) 作品のリズムの使い方、これがやはり絶妙ですね。 (きみが、そらにだけみちているから)

2018-10-15

こんばんは。「バリアフリー」とか「タンニン」という語を詩作品のなかに違和感なく持ち込めるところが素晴らしいです。私にゃ無理。笑。叙述のありようがそれを成功させているとは思うのですが、そうなると、この作品で行分けの必要性があったのか、少し気になりました。行分けなしの方がよかったのでは、と。 しかし、「8の字ダンス」と無限大、文字で表されると、なにげに頭ではわかっていることでも、改めて「おお!たしかに!」と再発見の喜びがありますね。 (蜂蜜紅茶)

2018-10-15

「意義」はそのまま読んでよいですか。「異議」と読んだほうがよいですか?私は後者じゃないかなと思うんですが。その方が《リアリティに~》の意味がすんなり通るし、また、こういう「あたし」であるがゆえに、両方の耳をあまがみしたいという謂いも、「あたしらしく」思えます。だって、だって、口はひとつなのに耳はふたつ。現実を認めれば、無理なんですから。そこをあえての両耳。 ところで「あたし」がきいている音楽は音楽という語でたとえられる何かでもある、というふうに受け取りました。なにに触れているんだろうと興味をもった。 詩行にあるように、なかなか、つかまえがたい良品に思います。 (あまがみ)

2018-10-15

おはようございます。 《何気なく通り過ぎた言葉と/何気なく通り過ぎた風がつついて/忘れていたような景色を思い出すとき》 この三行はなかなか書けないと思いました。特に前の二行とのつながりを使って《忘れていたような~》と書くのは。素晴らしい三行だと思います。内容としては特別なことを語っているわけではないと推測しますが、表現としては、この作品中、特別に素晴らしく感じました。 (飼い主のない猫)

2018-10-15

こんばんは。 《枯れ木の連なりから/あ、と言った後の、 /街》 《反射した微かな風が舞う》 とてもよいと思います。 (陰)

2018-10-15

こんにちは。意味を考えなくても読める、というか、読む時の音だけで十分味わえる作品に感じました。 (午睡の刻)

2018-10-09

こんにちは。最終的にオルガンだけが残されたかのように思えるほど、オルガンの存在感がすごいです。というか、何をコメントすりゃいいのか、考えつかないくらい完璧で腹立つし、うれしい笑。 個人的に、第一連の《路地の奥の小さな家で/オルガンが息をひきとる》の語数とその語数が作り出すリズム、ここは「最も」シビレるし、第三連の《ゆくのだろう》の「の」に感服しました。 (オルガンの死)

2018-10-09

こんばんは(おはようございます)。数年前に他界した叔母は、長崎の出身でした。それを本人から聞いたのは亡くなる数年前のことでしたが。彼女の話では、長崎では原爆投下の前にビラが撒かれたそうです。大阪大空襲の前にビラが撒かれる場面が、故・今江祥智の児童文学作品(たしか『ぼんぼん』)にあったと思うので、撒いたのは米軍でしょう。非常に大きな爆弾を落とすので逃げるように、というような内容のビラだったそうです。彼女はそれで歩いて山を越えていったと。そして翌日山の上から来た方を見下ろすと……ということでした。幸か不幸か、私は親戚からそうした話を聞くことができたし、子どもの時分には戦争や空襲の話を聞くことができましたが、いまは少なくなっているかもしれません。「語り」は目の前で声や表情、身振り手振りとともに聞き手に伝わって想像を促す力をもっているから、そういった体験を通して知ることができないのは大事なことを失っているように思えて、薄寒さを感じます。些かずれましたが、そのような時代にあって必要な作品だと思いました。 (ラ・ラ・ラ族)

2018-09-20

あー!ということは、最終連は、 《よく聴けば‥‥ JYAMJYAMJYAM‥‥MPALAJYAMPAL‥‥‥JYAMPALAJYAMPALAJYAMPALA‥‥MPALAJYAMPAL‥‥‥JYAMJYAMJYAM‥‥ 》から、語り手自身が徐々に変容していくということですか!? だとしたら、読みが浅かったです!惜しい! この箇所が何かしらキーになっている気はしてたのになあ! 読む→立ち会う、という〈作品〉と〈読み手〉の関係の変化、という構造に「おお!」と思っていたのですが、そこで止まってしまいました。まさか語り手の変容にまでも立ち会わされる造りだったとは! いやいや、そうするとますます面白いですね。 (じゃんぱら)

2018-09-20

こんばんは。いまさらですが、10月になったらコメントできないので、遅ればせながら、コメントを残します。 《と言ったら河原弥生先輩が/後藤君、君さ、勃ってるよね/と言ってきて/須田克敏が/お前、確実に勃ってる/と言って/後藤は人類の総体に欲情してるんだぁ/と笑った》の箇所、こういう会話が日常のどこかで行われているかもしれない。行われていても不思議ではない。と、思うくらい、馬鹿げていてどうでもよくて、そこが面白いのですが(というのは、だいたい私はふだん馬鹿げていてどうでもいいことを好んで話すので)、「馬鹿げていてどうでもいいこと」は本当に馬鹿げていることなのか、あるいは価値がないのか、そんなことを考えました。個人的にはふだんの〈わりとどーでもいい〉と片づけられることは大事で、それによって日常生活が支えられているんじゃないかくらいにも思っているのですが、にもかかわらず、〈どーでもいい〉なんて言ってしまったりしているわけです。「そんなどうでもいいことをしてないで~しなさい。」とか「いつまでもつまらないこと言ってないで云々」とか言われてきたからかもしれません。一面では、たしかに〈どーでもいい〉ことで〈馬鹿げて〉いるにせよ、他の一面では欠かせないことのように思う、損得や何かの為という側から見れば価値があるとは思えなくとも、それらに属さない価値があるのと違うか。そして、そのような、所謂〈どーでもいい〉と言われる様々なことどもは、それに興じていた時の心の動きといっしょに、一つ一つの細部を曖昧にしていき、忘れられて、無意識内に蓄積されていく。無意識内ということは意識できないという点で、有るのに遠い。それが、 《今、頭上で欅並木の葉が/光りつつ揺れ/音が/走っている/そこに/鳴いている熊蝉。姿は見えない》という、諸器官を通して入ってくる混ざり合った感覚的刺激と重なるようにして、眩しく甦ることがある。これはなんと言えばよいのかわからないけど、〈確かにある、ただ見えない〉という、〈いま、ここ〉でありながら、〈遠さ〉を同時に感じることで、《それだ》としか言いようのないことだと思います。ということで、どーでもいいことのただごとではない価値を感じさせてくれる作品でした。 ※コメント欄の自解は読みましたが、敢えて勝手に感想を書かせていただきました。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-09-20

こんばんは。残念ながら今月は間に合いませんでした。が、澤さんの選評と優良まではほぼ似ていますね。右肩さんの作品は、澤さんとは逆でした。最後、時間ない!と思った時も《もうだめだ。》と言わずにおれなかった。まあ、各コメント欄に細々残していくつもりです。笑 それにしても、一旦絞りこんでから選んでいくのはかなりハードでしたね。おかげさまで選評コメント書く暇が足りなくなるという不始末ですわ。そのくらい良品が揃っていました。 (【選評】澤あづさ選2018年08月分)

2018-09-16

こんばんは。さっき、読み直していて、いきなり、あれ?面白いんじゃないか!? と、思って何度目かわかりませんが、読み直してみたら、やっぱり面白かったです。調子が悪くなったり、他の理由があったりで、交換していく、ということ(の「繰り返し」は昔話などに見られますが)、と、そのいちいちを記述していく、ということ、そして、記述していたらまたもやぶっ壊れてしまう、というオチ(というふうに読めました)。そこのところで、それまで読んできた内容が、文字通り「過去に起こったこと」であり、それを「いま、順を追って記述している」ことで、その繰り返されてきたことを読んでいると思いきや、まさにここで起きるのにこちらが立ち会わされる、という構造。いやー、何度でも読んでみるものですね。 (じゃんぱら)

2018-09-14

くうきが固体化する》と自分も動けなくなる、ので、《むせる》ことができるかどうかはわからないが、いきなり固体化して、包まれている自分も動けなくなるのが怖いことは間違いない、そして《深呼吸》にしろ当然できたものじゃない、だから、《慎重に、丁重に、》だ。この連がもう《慎重に、丁重に、吸って、吐いて》いるようだ、そんな注意と呼吸をしている、ように感じる。 それにしても《キメラ》。ライオンの頭と山羊の体、蛇の尾の噴火獣(シュメール)。はおぞましい、が、それは姿もありようも、であって、《私》は、それにもましておぞましいのか?と、《私》をそんなふうに見ている〈もうひとりの私〉にたずねてみたくもある。あっちこっちで相手に合わせてうまく対応する、他者との関係に心を砕く努力をすることは、〈もうひとりの私〉にとっては「キメラ」よりキメーこと、おぞましいことなのかもしれない、〈もうひとりの私〉は《私》がそんなふうにふるまうことに脅かされるのかもしれない、そう思う。 白い服は死に装束みたいだし、白い服しか着ていない人々の集団はこわいので、近寄り難いので拒絶には適している、そのくらい〈もうひとりの私〉は《私》が上手に環境とやっていこうとすることを怖がる、遠ざけたがる、それで《無視だ無視》というのは焔じゃないかと、キメラの仕業じゃないかと、少し疑う。環境や他者との関係に心を砕くこと、対応力をつけることを、それほどまでに拒み、遠ざけようとする、「変化の否定」の強烈なありようは、むしろおぞましい、ような気がする、足をつかむ渦巻き、呑み込む太母のような、怖さがある、ので、白い服は、《私》を外から遠ざけ、内側につなぎとめるにぴったりだ、そのぴったりさ、浮き世離れした似合い方、《私》を《キメラよりもおぞましい》と見る〈もうひとりの私〉の、〈否定〉に見合う《白い服》を思う。さらに、さらに、白い服以外着ないとしたら、いつでも誰にも同じ装いというのは、変化に富む人間としては融通の効かなさ、硬化にも見えはしないか、《固体化》を思い出す。相手との関係によって対応や見せ方は変わる、呼び方が変わるように、それは生きていく上で社会的に要請されるふるまいに適応するものであって、ペルソナを獲得することであって、いわゆるパーソナリティはそこで形成されていくものであるとすれば、それをシャットアウトすることは有意義といえるのか、考えなければならないし、〈私〉というものに対する見方が、〈私〉自身にとって都合の良い理想として作られてはいないか、吟味の必要がありそうだ、でなければ、窮屈で、呼吸しづらい、そうだ、のびのび生きづらい気がする。 しかし、自身にとって都合の良い理想像に固執して頑なに守ろうとする〈もうひとりの私〉であるならば、《白い袖で頭を抱え込む》のは当然の成り行きといえる。《素顔がわからない》のでなく、それも素顔のひとつひとつと認められないならば。というのは、常に他者との関係につながれ、それらの関係において私があり、変化する、そのような動的なものこそ私たちなのだから、などと思ってみる。最終連、咳きこむという排除の反応は受け入れがたさを暗示しているように思われる、《鏡の私》が振り向かないのは、〈私〉が背中をむけているからだ、現実の《私》を認めることに背を向けているからだろう、そのくらい怖いのかもしれない、否定する私の姿を、私自身がそれをありのままの姿と認めるのは怖いし、脅威に感じる、それほどに私を自由な、だろうか、開かれた側へ向かうことを阻止する《おぞましい》ものを、私たちも内部に抱えている、ような気がする、と思わされた、そういうもの「とも」内部で関わりながらも、開かれた側へすすみたいし、《私》もそうであってほしい、そんなところにようやく今行き着いた作品です。 ※だいたい書きながら読むので、めちゃくちゃ長く、わかりづらいコメントになりましたが、ざっくりまとめず、そのまま載せました。御寛容を。 (キメラの後ろ姿)

2018-09-12

こんにちは。最後の一行にいたるまで、悲しみとも怒りともいいかねるような(この場合は混濁していて言いかねるわけですが)、惨めな感情に貫かれているように感じました。流れている「川」でしたし、軸の「ある」作品だと思います。 (Tender)

2018-09-10

こんばんは。生前、後世に影響を与えたり、偉業を成した人々はたくさんいて、彼らは名を残しているのですが、市井の人々の多くはそのように語られることはありません。しかしながら、そのように名をとどめない人々にも生きられた確かな生がある、と親しみをもって感じることができます。結局のところ、私は遠景に見えるスターよりも身近なひとの方をより大切に思うだろうし。 (死去ノート)

2018-09-07

こんばんは。すでにコメントされていますが、懐かしい印象をうけました。実際には体験していないのに懐かしく感じるのは、語り口がそういう部分、内部にある類型的な部分にリンクするものをもっているからなのでしょう。 ふと「逢魔時」という言葉を思い出しました。昼夜の境目には不思議とそんな気持ちになることが、かつてあったように思います。 (生垣)

2018-09-07

こんばんは。結局のところ、語り手の『革命』は何を、どんなことを指すんだろう、という疑問が残りました。 (革命的レム睡眠)

2018-09-06

こんにちは。《覚醒》ではじまる連で終わってもいいように思いました。第一連の《透明なビニール傘》のなかにある《カンナ》を神話的に捉える目は良いな、と思いますが、後半に使われた時は、その効果がすでに薄れているように感じます。 (八月の檻)

2018-09-06

こんにちは。言葉使いが抽象的で、もうすこし追いつめ作業をした方がよいように思いました。全体的に雰囲気寄りのような印象が強いです。 (果てしない夜の装いに)

2018-09-06

こんにちは。顔といわず、手も指もつっこんだらいけませんね。逮捕されます。 (よけいなことに)

2018-09-06

仲程さま そうでしたか。石川県にも神主町があるんですね。なんつて、ググってみたら「神主町公民館」なるものがでてきました。いや、お恥ずかしい。検索かけたくせに間違えるなんて完全なる自爆じゃないですか。ぐわー。 しかしですね、「別宮の棚田」を画像で見た時は絶景だなあと思ったのですよ。ここまで《こころ》はとんできたんだなあ、と。そして、山村暮鳥の『雲』を思い出したのです。 うーむ、読んでいるうちに勝手に物語をつくっていたんですねえ。こわいこわい。 でも、それもこの作品に刺激されてのことには違いありません。うれしはずかし、とは実にこのことです。返信ありがとうございました。 (しらやまさんのこと 夏)

2018-09-04

こんにちは。引用された作品の言葉には、その作品をつくる際の書き手の思考の流れや、作品自体の語りの流れがあると思います。作品の言葉はどれひとつとっても作品全体を成す構成要素でないものはなく、それゆえにそれら諸々の作品群から言葉を引用するのであれば、ひとつひとつの作品群の言葉たちがいかなる役割を果たしていたかをよくよく汲み取る必要があると思います。その上で、新しい作品の言葉のなかで全く異なった意味やイメージを与えて、尚且つ一つの作品の構成要素として違和感なく定着させる。少なくとも私は引用という方法にはそのような対話と組み込みの苦心があってこそ成立しうるものだと考えていますが、残念ながらこの作品にはそういった跡が見られません。ですので、面白さもないし、面白いというコメントも盛り上がりも理解できません。頑張ってください。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-09-04

おはようございます。コメント欄にて鮎川信夫を好きな詩書きでないと書かれていたので、またも心外な気持ちにさせるのは申し訳ないのですが、彼が書いていた文章に『歌う詩から考える詩へ』というのがあったように思います。私はこの作品を読んで考えさせられました。 それにしてもデッサン用のギリシャの英雄のフォルムをイメージさせますね。無駄なく磨きあげられていて、美しいです。 (向日葵)

2018-09-04

こんばんは。「なごしおおはらえ」は夏越しの大祓、6月30日に行われる厄払いをかねた豊年行事のことでしょうか。《かんぬしまち》が富山県、そこから《べっくうさんや》の方へとんでいったわけだから、〈ここ〉からなかなか遠いところへ離れていったんですね。そういう〈感覚〉、親しんできたものがどこか大きく変わってしまったように感じる時に覚える遠さの感覚が現れているように思います。 『茶店』の舞台は富山の隣の石川県。雨が降っているのでやはり梅雨時期ということになるでしょうか。 《しらやまさんに降った雨は/百年後の加賀平野を潤す》のくだり、《べっくうさんや》の〈棚田〉の風景と重なるように思いました。ゆっくりと岩魚をかじる動き、雨音とともに、思いが噛みしめられているようでもあります。でも、次の季節には消えてしまう。時の移り変わりと、環境の変化のなんと無情なことか。 「虫送り」の行事としては〈横江の虫送り〉なるものが古いそうです。虫送りと書かれた火の文字が燃え盛る。あの燃え上がる火のなかに浄化を見るのでしょうか。ひと夏の終わり、と言わず、自分の記憶のなかの通り過ぎた夏が火のなかに見えるようで、残念ながら「どれひとつとして誰の竹ざおにもぶらさがったままではない」のですね。 それら遠くなっていくものらを見送る眼差し、というか眼差しの向こうへどんどん遠くなっていくものを追うところにポエジーを感じました。 ついでながら、単体では私も「茶店」が好きです。 (しらやまさんのこと 夏)

2018-09-03

こんにちは。超えていく感じ、超えようとする動き、気配を感じます。好きな作品です。 (うほうほ)

2018-09-03

こんにちは。味わい深い作品です。ついでに私自身も《吹けば飛ぶ》塵や埃のような生のなかにありますが、問いだらけです。 ([])

2018-09-03

こんにちは。《確かな流しに箸と皿》。この一行はとても良いですね。「確かな」の一語が決定的で、「流し」に、「箸と皿」に、実在感を与えています。 (スケッチ)

2018-09-03

stereotype2085さま コメント、ありがとうございます。読み直してみて、書いた本人が言うのもなんですが、というか、書いた本人の私としては珍しいくらい、どんなことを目指していたかが明快だったことを思い出しました。あー、なるほどー、そうだった、そうだったと。おかげをもって摩擦もひっかかりもないものになっています。お読みいただきありがとうございます。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-30

まりもさま コメント、ありがとうございます。本文(?)の方は、こりゃ如何、いや、こりゃイカン、くらいのひねりもなんもないようなうすーいものになった感丸出しですが、これでもなんと創作というね。まあ、私自身と全く無関係というわけではないけど、遠いところで書いてます。 『メモ』に書いた個人的ないくつかは事実ですが、これを付け加えたことで、ただのポエミーな詩文になるのをかろうじて逃れているような気がします。精進します。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-30

こんにちは。最初の《月》と最後の《空》、三角にしようとすると、こうなりやすいのですが、詩を壊していると思います。 (月)

2018-08-23

こんにちは。書かれている内容はさっぱりで、ところどころからなんとなくしかイメージできないのですが、それはそれ、たくさんの漢字の並びを見ているだけで楽しめます。漢字ってこうしてみるときれいだなあと。まあ、かなとの比較ができるからなのですが。そして、なんとなく、のなかに混じってくる《ウラジミール・タトリン氏》というカタカナの名前が際立って現実的で、面白さを感じました。こうした作品をこれからもどんどん追究して書いていってほしいし、そうしたらどういうところに行き着くのか楽しみだな、と思います。 (11月、転落する幌附乳母車)

2018-08-23

こんにちは。 《水槽》《土の中》《枝先》《空》 最後に見上げる語り手の視線は雲にそそがれているのかな。夕暮れ時の空や雲を見るといまだにしみじみとした感慨をおぼえることがありますが、空間的な広がりと、そのなんともいいがたいような心持ちにつながるものを感じます。 (朱肉の空)

2018-08-21

こんにちは。Twitterで以前に三角定規詩というイベントがあって参加したことがあります。いろんな三角がありました。三角と三角の組み合わせもあった。でも、三角をつくることに意識が行き過ぎて無理な言葉の置き方なっていたり、もはや詩情そっちのけやな、というのも多かった。それに比べるとまとまってはいるかなという感じはします。上りと下りと情緒の変化が合致していて、その辺も行き届いている感がします。ただ、上手ですね、で終わってしまいかねないところはもったいないかな。 (段)

2018-08-21

こんばんは。最近は朝晩いくらか涼しくなって、日中はまだまだ暑さが残るものの、そろそろ夏も終わりかなーなんて思うことがあります。 言葉のリズムもさることながら、それにつれて像が喚起されて、さながらごった返した祭りの様相が目に浮かびます。それとともに、いわゆる「熱い夏」を彩った事柄たちが、熱気のうちに過ぎ去っていくように感じました。 (コンカラ様が通る)

2018-08-20

こんにちは。詩人は卑怯だなーと思います。詩作品のうちに読み手は書き手の人柄をイメージしてしまうから。作品を書くという行為は、作品に集約されない人格と生をもつその人を詩人にするけれど、同じように、今もいろいろな感じ方や考え方をしているひとを、読むという行為のなかで詩の読み手にしてしまう。はあ。仕事の時間だとか、すずしくなったとかツクツクホーシの声とか、ちょっと忘れて読んでいました。 (こころ はんぶん/ブルーノ/そらの)

2018-08-20

こんばんは。私なりの気持ちいいの根拠、伝わったなら何よりです。 事細かに書きましたが、それとは別に好きな詩行はあります。そこは既に書かれていたので重複を避けました。 実話でしたか。小説より奇なり、とはこのことですね。そしてよくある実話に比べ、味のある実話で、よい作品です。 (七月分選評)

2018-08-19

仲程さま コメント、ありがとうございます。言葉でつくられた空間のなかで動きを実現させるのはそう簡単ではないと思います。田中恭平さんの『徒然草』から引用させてもらうと、 《言葉が 文字にされて 死んでいる》 ことも時にはあるし、死んでいなくとも動いていないことはまったく稀ではないように思います。無論、私自身のものも含めて。「動いた」と書いてもなかなか動いてくれないのが言葉です。動かざること言葉の如しと言いたくなる。 だから、動きがはっきり見えた時にはドキン!とします。ドキンちゃんです。解釈よりもそちらの方が私にとっては大きい。ひとつの作品がいろいろな読み手によって膨らんで豊かさを増していくと嬉しいですね。詩作品が共有されるというのはそういうことなのかなぁと考えています。 (七月分選評)

2018-08-19

澤あづささま コメント、ありがとうございます。まさか「選評いつですか」と来るとは思っていなかったから、シテヤラレタ!とばかり笑ってしまいました。私の場合、澤さんのように的を得た読解というのはできなくて、「どうかすれば海に飛び込んで揉みくちゃにされながら、なんとかかんとか手に触れたものを掴んで陸にあがり、ゼーゼーしながら、持ち帰れたものを恥ずかしながらお見せする」みたいな感じです。さしずめ出来の悪い「素もぐり」てやつでしょう。 「ちょうりょく」への選評コメントは、読みの過程そのままです。引っかかりながら何度も読んでいく中で、ようやく「手に触れた」もので、そこから強引に引き寄せたものです。もうイッパイイッパイ。 「ビサイド」の「とにかくそうなんだ感」(just so-ness !)についてですが、冒頭からの「語りかけ」と行空けののちの一行《わからなくても/伝わらなくても》といういくらか諦めをも含んだような詩行、そして、一行の間(ま)を溜めにした明言へのジャンプが、私にそれがあると気づかせた、ということですね。気づきという経験は主観的なので、それがどんなに情動を伴うものであれ、その発話自体は「そのような経験をした」という〈事実の報告〉にしかならない。それを【読み手である私が「これは“Just So-ness!”だ」と気づく】には、技術が必要になるんじゃないかということで、そのためにはそれを活かしうる言葉の構造の追求がいるだろう、ということでした。 「命名」のご指摘の箇所について。先日、エミリ・ディキンソンを描いた映画を観ました。《私は誰でもない、あなたは誰?》《誰かになるなんてごめんだわ》と語るシーンがあった。あれはあれですごいのですが、それほど「誰かであること」には重さがあるということではないでしょうか。田中宏輔さんにも「君の名前は」という問いかけがつづく作品がある。しかも田中さんはそれを集めることを続けています。単純にいえば、やっぱり名前によって皆、「誰かである」ことを理解するのだと思います。その重さに対してこの作品の語り手は悦びも感じつつ、罪深さにも自覚的で、だから《暴力》という。優しいと思うなあ。 《突きつける》くだりでは、赤ちゃんがオギャーと「天上天下唯我独尊」と叫ぶとき、「我が子ここにあり」と出生届が吠えるようでもあります。それを仮の名として、やがて真の名を得る(『ゲド戦記』)日がくるとしても。 ついでだから十年ほど前に書いたやつを。 「きみの名前を囁くと」  朝焼けの光に飛びこむように  いま一匹の  魚が空に跳ねた  鱗は金色  世界が割れる  まるで卵そっくりに  私は耳を澄ます  まっさらに塗り替えられた血液が早鐘のように  清らかな声で号外を告げている 巻き込んでくれてありがとうございました。へとへとなったけど楽しかったです。 (七月分選評)

2018-08-19

地()球さま コメント、ありがとうございます。 さて、 《大阪のミャンマーはやたらに生真面目な青年で、直立不動がよくにあう。まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている(という。)》※()は藤 いま、一連目を抜き出してみましたが、この一連目だけでも、不思議な浮遊感があります。で、どうしてそう感じるのか考えてみました。例えばですが、《やたらに生真面目》ではあるけれども、どんなところがそうなのかという具体的なことが書かれていません。そして《やたらと生真面目な青年》であることと次の《直立不動がよくにあう》ということとは、叙述においては一連の繋がりをもっているものの、内容としては直接関係がない。そこで以下のように書き直してみました。 ①大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である。 ②大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う。 ③大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している。 ④大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである。 ⑤大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている。 このように①~⑤を分けてみると、それぞれが独立した文として読めますが、残念ながら詩情らしきものは特別感じません。ところがこれら独立した文を読点や接続詞で繋げると、 《……まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている》と、さも《大阪のミャンマー》について語っているかのような文体ができあがります。しかし③と④とが「から」で結びつけられる必然的な因果関係は省かれていて、さらに④と⑤も「しかも」で追加されなければならない決定的な理由がない。つまり《大阪のミャンマー》について語ってはいるものの、一連目全体を通して私たち読み手が彼を知るための詳細についてはどうも述べられていないように思います。私はこれほど《大阪のミャンマー》に関する情報を与えられながら、彼のことが少しもわかった気持ちになれない。不思議です。たいていの場合、語りがすすむにつれて、実像が少しずつ近づくはずなのに、この作品では、どんなに進んでも距離が縮まらないままなのだから。いえば幻か蜃気楼でも見ているような印象でしょうか。そして()に入れた「という。」 これは誰がそういったのでしょう? 実は、書かれたしかじかのことを、誰かがいったのかもしれない。あるいは噂のように入ってきたのかもしれません。そのように聞き及んだことを語り手が語っているのかもしれない。 すなわち、 ①(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である、という。 ②(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う、という。 ③(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している、という。 ④(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである、という。 ⑤(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている、という。 こういった断片を、あたかも私が知っているかのように連ね、しかも最後に、「という。」として、「私ではないよ」とはぐらかしているために、読み手としては「ん?」となってしまうのではないか。 いずれにしても、《ミャンマー》について語りながら、知りたいと思っていることについてはまるで巧妙に回避しているかのように、知らされないのです。私が知ることができるのは常に断片的な情報であり、「なぜ」や「なんのために」などといったことは伏せられています。先に第一連をあげてみましたが、こういった特徴は作品全体を通して見いだすことができます。というか、それによって作られていると言ってもいいのではないでしょうか。 それで、です。 通常の文章に関して言えば、大抵の場合、 「なぜ」や「いかにして」などを書くのは意味内容の伝達のために必要とされていて、省かれることなく、また論理は一貫性をもっていて、あっちこっちに飛び回ることはありません。そのため、読み手は知りたいことを知ることができる。ところが、この作品においては、省かれてしまっているばかりか、論理的な一貫性もない。つまり、読み手である私が知りたいと思っていること、通常の文章であれば明かされるだろうと無意識的に思っているあり方(日常的な言語理解のあり方へのとらわれ)に反しているため、その都度「ん?」とか「あれ?」といった空白感をもたらし、読めば読むほど空白感が増えてしまう。結果として、読み終えれば空白の総量が意識の底を占めているということになり、それが不思議な浮遊感につながっているのではないか、と思い至ったわけです。これは言い換えれば、日常的な言葉のあり方へのとらわれからこっそり解放されていることであり、そうであれば気持ちよく感じるのも確かなように思います。 長々と書いてしまいましたが、それとは別に「ミャンマー」という語感、いいですね。知人に「プードル」という語感はいい、といわれたことがありますが、「ミャンマー」も負けず劣らずいい。選評に書いたコメントの、非礼へのお詫びもかねて、大盛りにて返させていただきます。何卒、ご寛容を。 (七月分選評)

2018-08-18

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。『創世記』に「光あれ」と神が言うと「光」が生まれるでしょ。そんなふうに「言葉」によって「それ」を呼ぶことで呼ばれたものが生まれる。そんなわけで「名付け」は言葉の第一機能だというんですね。その次に第二機能としての区別があるらしい。いかにも西洋風ではありますが、まあ、意識が不分明な状態ではAもBも「それ」であって明確ではないのが「言葉」を得ることで事物存在として認知され、AとBとは違うことがわかるようになる、その作業の繰り返しで外界に対する認識が形成されていくと考えれば、頷けるところもあります。なので、事物存在が先か、言葉が先かというと少なくとも人間にとっては同時らしいんですね。 それはそれとして、名は付けられるものであり、刻まれるものであり、記されるものという点でいえば、「傷」であり、「印」でもある。そういう意味では、《刺青》《烙印》というのは正しいし、名付け行為のもつ力の強大さを示していると思います。また、その名によって存在を縛る意味では「呪い(シュ)」とも言えます。しかし、その名をもって我が子とする喜びもあるから、思えばなかなか罪深いことです。ただ、深く痕跡を残す「傷」を与える者と与えられる者とが、それによって以降「絆」で結びつくと考えれば、やはり哀しみばかりではないと言えるでしょう。とはいえ、「登録」することによって、当人の思いも及ばないうちに体制に組み込まれてしまうと思うと、名付けに伴う喜びや哀しみとは別に、怒りのようなものまで湧いてくる。だからこそ、《出生届》はやんわり差し出すよりも、堂々《突きつける》べきなのかもしれませんね。 名前といえば、思うところはいくつかありますが、長くなるので一つだけ。「傷」であるはずの「名」が、宇宙の誕生から歴史を貫いて、未来永劫にいたるまで、一回きりしかない存在のかけがえなさを表す「証書」のように輝く時があるのではないか。ということを映画『君の名は』を観た時に思いました。 (七月分選評)

2018-08-17

三浦⌘∂admin∂⌘果実さま おはようございます。コメント、ありがとうございます。文章を書くのが上手な方っていますよね。いったい何を食ったらそんなうまい文章書けるんでしょうね、と思いながら、午前5時にカップ麺は食っています。彼らはもっと違うものを脳みそに食わせているにちがいありません。 私は文章を書くのが苦手だし、真面目なことを言うのも柄じゃないと思ってきたし、思っているので、例えば今回辣腕を振るわれた澤さんの文章などは、私から見れば批評というより「ウヒョー」だし、アプローチは「意表」と言いたくなる。そのくらいの意匠を感じさせてくれます。今回は忙しさもあり、また選評の冒頭に書いた通り、作品を前にしても読める時と読めない時とがあるのを理由に見送ろうかと考えていたところ、澤さんの手招きにつられて、意匠どころか「どうしよう!?」という感じでした。しかし、どんなものでしょうね。私のような文章でも選評に加われるということなら、これを読んだ方々も自信をもって選評に踏み込めるように思います。そうやって作品の豊かさが膨らんでいくことは楽しいことのように思います。 コメント、改めて感謝します。 (七月分選評)

2018-08-16

確認ですが、15日までというのは15日も期限内ということでよかったですか? (今月のおしらせ(おもにキュレーションに関して)※必読)

2018-08-15

こんにちは。子どもの頃、よくやりました。蝉だのカブトムシだのクワガタだのの死骸を見つけたら、埋めてアイスの平たい棒を墓がわりにたてました。そのくらいあの棒はそこらにあった。と、ここまでは経験の範疇なのですが、「アタリ」が戒名になるのは、よくある経験からトンボを切るようで斬新でした。この言葉の「軽業」を見る快感、嬉しいものです。 (戒名)

2018-08-13

読解も表現もストレス。まさに。 (【選評】澤あづさ選2018年7月分)

2018-08-12

こんにちは。なんだかつれない感じがいいですね。「四角四面は豆腐屋の娘。色は白いが水くさい」という口上を思い出させます。 (冷や奴と申します)

2018-08-09

こんにちは。第一連(?)のスペースを使った形式と書かれているテーマは一致しているように感じました。語の同音から異なった意味の次の語を呼び込んだり、ひとつの語を分断して強調をつくりだしたり、リズムを狂わせているあたりは成功しているように思います。この「狂い」が底流としてあるのかな、とちょっと思いました。それだけに余白と それ以降の改行への変化をどうとるか、ここが個人的には微妙な問題です。 (エクスタシー)

2018-07-27

こんにちは。父、影うすっ! というか、母の様子とそれを見る「私」が語りの中心になっているから、そうなりますね。でも、「私」が実家に帰る理由は、父の相談?があったからで、きっかけをつくっているんですよね。そして、それ以降は出ないという。 「私」は最後、現在の家に帰る。そこでは「夫」(=ただしく愛してくれる人)が待っている。いいなあ。と思います。いいです。そういう風に思えるひとが「私」にはいて、それが「私=妻」を「夫」と繋いでいる。じゃあ、もし「ただしく愛してくれる人」であるという像が著しく崩壊してしまったとしたらどうなんだろう?と、意地悪にも思ってしまうんですよね。そうであっても、やっぱり「私」は「夫」のいる家へ帰ろうと思うのか。 「母(=妻)」はおかしくなったと「父(夫)」がいい、その「父」はやつれている。いろいろとチャレンジしてみて、どれもよい結果にならなかった、まあ、がんばったのかもしれないし、そうでないかもしれないけど、おかしくなったと気づく前に既に「母(=妻)」のなかで「父(=夫)」に抱いていた像が崩れていたとしたら、どうがんばったって遅いこともあるわけで、としたら、「母」が「私(=娘)」を育てるのを心理的には一手に負って心血を注ぐ、親子の関係に生き甲斐を傾けるということが起こってもなんらおかしくはないように考えることもできます。してみると、「母」がおかしくなったのは「私(=娘)」が結婚して家をでたあと、というのは実態としてということであって、傾向・可能性としてはもっともっと前から潜在的にあったといえなくもない。ひょっとしてそれは夫婦間でも隠された問題として「私」が生まれる前からとか。そのくらい、この作品のなかでは「私」と「母」の関係の濃さが語られているし、何よりも「父」との関係が除外されているかのように薄い。私には、この薄さこそが実はこの「私」と「母」との関係の核にあるように思えました。 しかし、理想の結婚生活が破綻して、理想の親子像も壊れて(なぜなら子どもは成長しますし、自我をもちますからね)、とあれば、人形に託すのは堅実でしょう。すべてを受け入れてくれて、満足させてくれる、かっこうのシェルターでもあるかもしれません。 (ままごと)

2018-07-23

こんばんは。ジェットコースターのようなスピード感や激しい動きを感じました。 (カタルシス)

2018-07-22

こんばんは。とある夏の眩しい記憶に意図せずアクセスしてしまったような幻惑を感じる作品ですね。じりんじりん、かんかん、音も効果的に思います。ひとつ言えば私なら「佇む」なら「ひとつ」のほうが佇む感が出ると思うのですが、《ひとおつ》になっていて、この「お」に心情が宿っているように感じました。 (夏の木陰)

2018-07-22

蛾兆ボルカ様 「とにかくそうなんだ」についてですが、これは“just so-ness”という意味として書きました。現実をただ受け取り受け入れる「とにかくそう」ではなく、ある事柄を直覚したような時の、周りもそれを理解できないし、論理的に示せといわれても説明しようがない、けれども誰がなんといおうと「そうなんだ」のそれです。賢治流にいうと、《ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山や風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、「もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです」》(「」は藤)の、より強められたそれ、そして、ご存知かどうかはわかりませんが、丹波哲郎が霊界の存在について訊ねられたときに、放っていた名言「あるんだからしかたがない」というやつです。したがって最終連の《Besideは素敵な言葉》という明言は、誰にも訊ねないし、同意を必要としないほど強い。この確信を思わせる強さが連全体に響いているように思います。ということで、「とにかくそうなんだ」についての補足でした。 まどみちおの「りんご」、有名ですね。私も好きです。 (ビサイド)

2018-07-22

なつめ様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。未成年でしたか。いい響きだなあ、「未成年」。関心のない話をえんえん聞かされていると、些細なことが気になってくることがあります。そんなとき、頭の中で晩御飯のおかずとか週末の予定とか好きな曲とかめぐらたりする。そんなふうに格好だけは聞いていながら、煙草の先を見つめていたのかもしれませんね。もちろんこれは後付けですが。 ヤエ様 こんにちは。コメントありがとうございます。読み物って、知らずそういうところありますよね。関係性のあるタイトルにしてしまうと、そういう場面に限定されそうですし、一方で「きみ、さっき、なんて言った?」という文章は状況によっては意味がかわるので、後者の方を優先させました。なんて、これも後付けです。 四畳半学生様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。本当に、何を見ていたのでしょうか。緊張がとけて、ひと息ついている時、いろんなことがうっすらぼんやりよぎりますね。 湯煙様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。私の身の回りでも電子たばこやアイコスに変わるひとが増えてきました。電子たばこはケムリがすごいし、本体が隠し武器になりそうですね。私は依然紙タバコです。ちなみに最初のタイトルは単純に「煙草」でした。実際の煙草の方が味があります。 二条千河(NIJO Cenka)様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。なるほど。小説だと会話のやりとりに溶けこみそうな気もしますね。煙草は映画でも小説でもうまく使われてきたし、モノとしても親しんできたものですが、言葉としても肩身が狭くなりつつありますね。かなしいなあ。 かるべまさひろ様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。かなり前に書いたやつなんで、もう覚えていないんです、実は。でも、そんなに悩んでないような気がする。というか、書き始めるまでは逡巡していたけど、なんとなーく書き始めたら最終行はパッとでてきたんじゃないかと。その分、やっぱり詰めなかったといえば詰めてないですね。でも、きっと、切り込みたくなかったんですよ。軽ーくいきたかったんです。投稿するにあたって、ちょこーっとだけいじったけど。笑 (心ここにあらずな詩)

2018-07-22

おはようございます。とても緻密というか、語の選び方や配列の行き届いている作品なのに、それを感じさせないところに舌を巻きました(特に第一連)。また、第一連から()への切り替わりが鮮やかです。第一連では《素敵だね、この言葉》が最終連では《素敵な言葉》と明言されていて、前の行をうけて、「とにかくそうなんだ」感が爽快です。besideもbelovedもアルファベットだと読み流してしまうけれど、カタカナだと一語一語の繋がりを気にして、知らない言葉のように感じてしまう。表記の使い分けが絶妙。つねに(何者かの)存在の横に私たちがあるのなら、不安はなく、死んでも愛されし者になるなら、生きるのも悪くないなと思いました。 (ビサイド)

2018-07-21

こんにちは。前のコメント読みましたが、私は渡辺さんのコメント、さほど的外れではないと思います。で、ダメな作品でもないと考えます。もしかしたら、湯煙さんが狙った以上のことを作品の言葉が表しているのではないでしょうか。そう思えるくらい、いろんなことをイメージさせていて、そのいろんなことを挙げるのが難しいところがあります。 詩行の運びが心地いいです。特に《わたしたちの》以降はすごくいい。ほんの一語二語を変えるだけで伝わり方を変えているところ。でも冒頭からの流れがあってこそと思います。 (今日も、どこかで。)

2018-07-17

こんにちは。蟹を食べている時にそんなこと考えるもんか。というのは私自身のことです、すいません。けれども読んでいて、なるほど、ウンウンと思ってしまうのは、言葉による思考の構築が成功しているからだ、と思い至り、またしてもウンウン頷いている次第です。 (毛蟹×一杯)

2018-07-17

こんにちは。難しい言葉を使わずに、しん、と染み込んできて広がる作品だなあ、これは逆に書くのは難しいなあ、と思いました。ただ、後半の「グルーオン」が音としても、強い。フォルテッシモのようにそれまでの印象をかき消しているように感じました。 (グルーオン)

2018-07-17

こんにちは。こんなふうに「わたし」は何かにつけて架空の「菅田将暉くん」を登場させて、思いを馳せながら、それをダシにしつつ、「あなた」や「あなた」と「わたし」の関係のありかたを思い返して、前にすすんでいくのだろう、と考えてみました。そういうことってあります。 (菅田将暉くんへのファンレター)

2018-07-17

こんにちは。Twitter見てたらツイート詩ってたくさん流れてますね。そのほかにもいろんな呟きやらなんやらかんやら流れてきて、かなりカオスです。で、Twitterのなかに置かれた言葉のなかの、つまり生活のなかのあれこれのつぶやきの一つとしてツイート詩も見てしまうことが多いのですが、こうしてフレームを変えてみると、日常性から切り離された詩群として際立ってくるところが興味深いです。 (1bit、6月、ツイート詩、#、)

2018-07-17

こんにちは。「鬼」、「女神」、きっちりシバかれるところがとても面白いです。 ちくわ詩編、好きなのですが、個人的にはこの作品は短さのなかでどれだけ遠くへ行けてるかがミソだと思っているのですが、植草さんもそれをどこか自覚しているように勘ぐっています。だからこの並べ方をしたんじゃないかなあ、と。しかし、ちくわ詩編、これはちょっとした「ちく話芸」です。 (ちくわ詩編②)

2018-07-17

おはようございます。この作品の「ゆらんと」という音、とても好きだし、良いと思いました。この「ゆらんと」はずっと気にかかっていました。仕事しながら時々「あれはどういう音なんだろう」と思い返していました。翅の揺れを表している「ゆらん」。でも、力がこもってない、ひどく緩慢な「ゆらん」。ああ、片翅だからか、だから力がないんだ、でも飛ぼうとしてなんとか動かしている、かなしい「ゆらん」なんだな、と。 でも《私の腹の中が/ゆらんと/ふるえた》の「ゆらんと」は前のとは違う「ゆらんと」で、これはふるえているのだけど、ぐらつくというかずれるという感覚に近いように感じます。「私」が保っている日常意識の分離なのか、無意識的なものの侵入によって暗いものが意識されるのか、どちらともいえるのだけど、そのときの不意の「意識の揺らぎ」としての「ゆらん」かな、と。 《ゆらんと/軋んだ、夏の終わり》は読み流せばなんともないけど、「ゆらんと」軋んだりはしないですよね。軋むときはもっと違う音をたてる(はず)。こんなの、私にゃ思いつきません。この「ゆらんと」は失望や諦めを離れて眺めているように感じます。でも、心理的には軋んでいる。軋む痛みの強度に耐えきれず、それをどこか他人ごとのように見てしまう、したがって「私」がどこか外部に浮きだしてしまったかのような「ゆらんと」のように思います。 最後の「ゆらんと」は「また」とはあるのだけど「また」ではない。それは「と」で締めくくられるために、より強調されてしまうのも手伝って、トーンがいっそう暗さの質を強めているように感じられます。しかし、もはや緩慢ですらなく、命が尽きるように力ない弱々しさとして目を伏せるような。 同じ「ゆらんと」という語が、その置かれる箇所によって異なった意味合いを帯びて感じられる点が全体を非常に味わい深くしていると感じました。 (翅いちまい)

2018-07-17

おはようございます。「さうら」という音のひびき、とても良いです。まりもさんも書かれていましたが、私も「そおら、そおら」とも聞こえるなと思いました。いずれにしても、響きとしても良いのですが、なんらかの映像を想起させる語のように感じました。いつも感じることなのですが、言葉のもつ音の魅力を引きだしているなあ、と。《ペルハムブルーな唇/海はひとりに限る》とか、あ、いや、あげればきりがないのでアレなので、やめておきます。とにかく響きだけでなく歯切れだとか、語と語の間に発生する呼吸とかも絶妙で、だからこそそれを装置として映像を膨らませたりするのかな、と思いました。《ぱ/しゃんと》の箇所、フリーフォールのような感じで(というのは、ガクンとなった瞬間「ぱ」みたいに口をあけてしまうので)、しかし、海面に跳ね上がった魚の翻りのようでもありました。そして、極々個人的なところでいえば、この一瞬に途方もない長さの時間の広がりを垣間見ることもあり、時としては自分がそのどこかにあったのではないかと錯覚することもある点で、時間感覚の伸縮(それに即して空間の広がりと戻り)を感じました。なんとも言いづらい切ない爽快感を覚えました。 (海はひとりに限る)

2018-07-17

おはようございます。私は好きな作品だな、これは。どこがどうと言語化するのはちょっと難しいのだけど、何度も読みました。想像するに、さまざまな声で語られている状況が像を結んでいないために、誰が何について語っているのか読みとりにくいということなのかな、とは思うのですが、見えないところでなにがしかの事件というかドラマが展開していることを感じさせてくれます。それは「具体的にはこういうドラマなんですよ」というような明示はなくて、交わされたり発せられる「声」の背後に隠れていて、時々仄めかすように影をちらつかせる。奥行きを感じさせてくれます。その表面で「声」による展開があるのだけど、その「声」にも浮き沈みというのか、響き方の変化があって、「混線」にも似たはっきりとは聞きとりがたい声もある(個人的にはこの部分が最も好きです)。表面で聞こえる「声」と場面場面での声色の変化、そして、そこで何が、どんなことが起こっているのかが、だんだんと見えてくるようでありながら、それはやっぱりうっすらと想像するにとどまって、つまるところ、表面ですすむ展開とそうさせている何事かの見えなさは解決されない。けれども、最終部分では既に起こってしまったことになっていて、声の主たちは消え、何があったのかという謎はー読みながら「起こっていることを突き止めよう」と追いかけていた意識はー宙吊りになってしまう。この、なにかは明確にはわからないけれど、けれども重大な、痛ましいことが起こったにはちがいない、という印象はあとをひきます。複数の声と奥行きからなる立体的な作品に思いました。 (散り散りに。)

2018-07-17

こんばんは。「おっ」についてですが、「~前提」という言葉は、現在では日常でもしばしば聞くし、私自身使うこともあるのですが、十年前でも使われていたかというとちょっとわかりません。そして今から十年後も使われているかどうかというとそれもわからない。日常の言葉というのはまあそんなもので、時代とともに消え去ってしまったものも消え去るものもある。そんで、また新しい言葉遣いも現れる。そういう意味では永続性は必ずしも約束されていないのだけど、詩作品はどこかしら時代的制約を越える性質ももっているし、刹那的なものであることを拒むところがあると思うんですね。ところが、そのようにいつ使われなくなるかもわからない現代の日常語のひとつである言葉を作品に持ち込んで溶け込ませているなあ、と思った次第です。長いスパンで見ると、けっこう思い切ったな、と思ったわけであります。 (約束をしないで会えたら僥倖)

2018-07-16

おばんです。 《私は人間の一個体、回る石っころの表面に寄生する細胞のひと欠片。 私はR、Rはアール、Rはエル、Rはエレ、Rは……》の箇所が強く印象に残りました。《私》というものの複数性をひとつずつ確かめるようでありながら、同時に真実何者であるのか問いかけるようでもある《私の》心の動きを感じました。 (はじまりのおわり)

2018-07-16

おはようございます。導入といい、展開といい見事でした。なかでも、 《森の外はきっと真夜中だろう 翌日の雨を知らせるぶあつい雲が 満月を隠しているのだ それで月の光も地上に降りてこないのだ》の箇所は、《そうでなければ》につづく後の部分にリアリティを与えていて、燃える馬の存在感をありありと感じさせてくれます。感嘆しかない。 幻想的でありながら、現実的でもある読後感は、各連の展開にうまく乗せられたからで、こうして書きながら目をみはる思いです。6月の作品のなかで最も推したい作品のひとつでした。 この作品に接することができてよかったです。 (燃える馬)

2018-07-16

ああ、これは怖い。そして、どんどん怖さが増す気がします。ちょっとずれているかもしれませんが、諸星大二郎的世界のような怖さを思い浮かべました。 (Y)

2018-07-12

こんばんは。無視していたわけではありません笑。一読して、面白いなと思っていたのですが、忙しさにかまけているうちにコメントを入れることを忘れてしまっていたのでした。最後の逆ギレぽい開き直りの辺り、とても痛快でした。それまでの長いあれこれがあってこそ、それをぶち壊す面白さが活きるのですね。 「本当のこと」を語ろうとすれば「嘘」を言わざるをえない、とは詩人・清水哲男が書いていたことですが、たしかにそうだとも思うし、本当のことはどこか矛盾しているものだと思います。 まあ、「本当」というのが本当にあるのかどうか、そこも私には疑わしく思えるし、本当というものの胡散臭さもあるのですが、そこはまた別の話で。とはいえ、嘘のなかにも本当らしさがあるとしたら、それを指摘してあげつらっては身も蓋もないですね。 (どら猫セラピー)

2018-07-11

おはようございます。そういう夢ということなのか、それとも大往生の間際に見ているそれなのかわかりませんが、もうちょっと踏み込んで表現にこだわってみてもよかったように思います。表面的に過ぎて、読みやすいだけのものになっている気がします。もったいない。 (しめやかに)

2018-07-11

おはようございます。平穏な日常に潜む不穏、というふうに読みました。対比を用いた暗示的な語法が、背後に物語があると感じさせるのに効果を発揮しているように思います。また、部分部分を写して切り替える方法によって視覚的にも聴覚的にもなっていると感じました。 (ナツ)

2018-07-11

こんばんは。にほんごというのもなかなか悪くないなあ、と感じました。 「はむ」。食べる、とはちょっと違う感触でもあるし、なんかおいしそうに食べている感じもする「はむ」。噛みついたり食いついたりする擬音語の「はむっ」とか「はむはむ」が連想されて。どうしてか「ハム」まで浮かんでしまった。 牛の草をはむ様子と言葉の運びが一致していて、のどかな風景と青空、緑まで書かれていないのに立ち上がります。「肚」はお腹というより、「はらのそこ」にも感じられます。 (牛)

2018-07-11

こんにちは。直接聴いたことはないですが、そういうのがあるのはつい最近知りました。専門学校の声優コースなどでもやるそうですね。 (後ろの席でくしゃみする)

2018-06-28

こんにちは。モデルがいたんですね。私はなんとなく「レレレのおじさん」を思い浮かべていました。それからW・サローヤンの短編に「笑うサム」というのがあって、そのサムという少年を。前者はつねに掃除しているし、後者はいつも笑っている(死んだ時さえ笑顔)。そして両者ともに社会的には不遇。しかし、それを笑うものこそ笑われるものである、ということがあります。賢人はしばしば愚か者の姿で現れるとも。 わかりやすく、また歯切れもよく、モデルを知らなくても読める作品ですね。 (頭悪いお坊さん)

2018-06-27

おはようございます。はっきり言ってしまいますが、嫌な気分です。投稿作品は全部読んできたけど、「気分的に」おもしろくない。…のだけど、こんな書き手がでてきたかという、やっぱりどこか楽しみに思うところがあります。複雑~。笑 細かいところで言うと、谷川俊太郎だって、「みんなおまんこ」だったか「なんでもおまんこ」だったか忘れたけど書いてるわけですよ。ここまで畳みかけるような書き方はしてないけど、書いているには変わりなくて、じゃああっちはよくてこっちがいけない理由はない。語調の強さがこっちに入ってくる要素のひとつではあるだろうけど、生理的嫌悪感を抱くというのは、生理的な部分や身体感覚的な部分に侵入してくる力をもっているからに違いない。これは易々と放置したり、看過してはいけないんじゃないかと考えます。やっぱりね、タブーに踏み込んでいるというか、みんな書かないことを書いているわけだから。下劣で低俗な言葉を連発している印象が強いけど、もはやほとんど誰でも知っている言葉だし、卑近な例でいえば、加藤鷹のゴールドフィンガーなんて主婦だって知っているわけです、実際。いわば現代の言葉として一般的になっている。けれども、詩作品でそれを提出する書き手はどれだけいるか。そこはかとないエロチシズムをほのめかして、そういうものに対しては受け入れるけど、この作品群のように露骨なものは受け入れない、という傾向が強まったら詩の世界は空恐ろしいと思います。映画の世界でもかつてこんなムーブメントはあったし、とにかく画一的な方向に定まっていくのを壊す力を十分にもっていると思う。おかまいなしに書き殴っているわけでなく、しっかり組み立てられているし。 あとは倫理的な問題でしょうか。詩はフィクションだから倫理なんて必要ない、なんてことはない。社会的な倫理観を適用しなくてはならないという意味ではなく、詩作品としてのそれです。やっぱり言葉で作られている以上、いろんなひとが読む可能性はあるから、意図せず傷つけることもありうる。そこを引き受けようとするかどうか。なので、方向性としては悪くないし、詩に対する考え方の狭い枠を壊してくれる点でも良いですが、バランスについては一考の余地があると考えます。この中では「ハッピーセット」がいちばん良いです。 それにしても難しいことをやっていますね。次回作、楽しみにしています。 (イマラチオ)

2018-06-27

こんばんは。こりゃあいいです。何がいいかって、酸欠なりそうなくらい息継ぎできないところ。先月の「遠路~」も息が長かったけど、これはもっともっと長くて息苦しい。絶対意識してますよね、絶対。なにげに読み始めてまんまとやられました。 (後ろの席でくしゃみする)

2018-06-26

こんにちは。私も最初、レーモンクノー(だったかな)の「文体練習」を思い出しました。あれは文体ですが、こちらは表記ですね。どちらもに共通する点を挙げると、テーマがわかっているから、何通りもの書き方で「それ」をやっていることが読み手にわかる分、内容によってひきつけないと、飽きて投げ出す読み手もあるということで、すすむにつれてい工夫を凝らさないといけないことでしょうか。 かく言う私も似たようなことをしたことがあるので、やはり同じことを考えたり、試したりという方もいると思います。ただ私の場合はここまで熱心にこだわらなかったし、視点も狭かった。このバリエーションの多さには驚きましたし、ネット時代ならではの書法だと思います。 書かれた文章は文字(形)として目で認識されるので、通常の文章に対する(文字の連なりという)認識と異なる現れ方で入ってくると、当初の認識をつつかれて面白く感じます。わかりやすい文章だから、なおさらそう感じる。少なくとも、文章というものはこのように表記されるのだ、という暗黙の了解を壊そうとしていることには違いない。この点でいえば、根本的なところを押さえているように思います。目に見える形としての表記をさまざまに狂わせてみる、というところからはじめて、ひとつずつ点検と実験をつづけていくと、かなり面白いところに行き着く気がします。 ちなみに、 《オナジことデモ、イイかたがカワルとインしょうがカワルことがあります。》 という箇所、ここは幾通りも置き換えが可能です。「オナジ→同じ」「デモ→でも」「イイ→言い」「カワル→変わる」「インしょう→印象」ということで、読みやすさまではひとまず崩さないように配慮されたのだと想像します。 ともあれ、音や意味だけでなく文章の見た目という「形」に徹底してライトを当てていることは興味深く感じます。 (同じことを繰り返すただそれだけ。)

2018-06-26

おはようございます。四連目についてですが、各行を一字落として書かれていたのと、直接的な語りかけになっていたので、この連は他の連とは違うんだなということは分かったのですが、語り口は語尾が「しょうよ」と他の連と重なることもあり、《私》が誰かに(何かに)語りかけているのか、あるいは当の誰か(何か)から語りかけられているのか、どちらにもとれて判別しづらかったのですが、そこはいただけないということでは全くないです。むしろ、そこのどこか不思議な感じがこの作品の浮かんだ語りにしっくりきて、効果を高めていると感じました。言葉足らずでした。それと「ドラゴンを生み出して街を破壊する」のは冗談だったとしても、語られる内容は面白くなっていて語りを貫いている情緒としては自然な流れに思います。だから、説明が少ないということはないんじゃないでしょうか。《ちょうど予定もないのでー》の部分、ここもこちらの書き方がよくなかったですね。日常会話でもしばしば使う慣れた言葉が、日常から浮かんでゆくような語りに混ぜられることで、日常の言葉から詩の言葉のほうへシフトしている、と言いたかったのです。いちいちわかりにくくてすいません。 また、これはコメントには書きませんでしたが、タイトルが『みとのまぐわい』だったので、やや官能的なニュアンスも含まれているのかな、と思った次第です。 追伸の部分ですが、そういうこと、あります。 (みとのまぐわい)

2018-06-21

こんにちは。これは好きだなあ。日常にいるのだけど、語りが日常から徐々に浮かんでいる感じ、ちょうど「あわい」に漂っている感じ。 四連目は《私》が語りかけているのか、それとも語りかけられているのか、ちょっと判別しづらい気もするのですが、《つくりましょうよ》っていいと思います。三連目までの浮かんだ感じが想像から行動の側へ一歩前進していて。 最終連で現実に引き戻される感じがする点は否めず、そこはどうにも悔しいのですが、ここは作者がバランスとろうとしたかな?とちょっと思ってみました。この全体の運びのなかに《ちょうど予定もないのでー》という言葉をもってくるのは、うまいと思うんです。乱暴にまとめちゃうと「映画に行くわ。ちょうど予定もないので。」とかで使う言葉を「竜をこしらえて街をぶっこわしちゃおうよ、ちょうど予定もないので。」という感じにしてしまうわけだから、明らかに普通に使うレベルから逸脱している。なので、最終連は一、二行目を《つくりましょうよ》を肯定的に引き継ぐような言葉で、《ちょうど予定もないのでー》にしてほしかったなと思います。 (みとのまぐわい)

2018-06-20

こんにちは。選評ありがとうございました。ご指摘の行、ちょっと遊んだ感を出しすぎたかと思っていました(前行の「悔恨」=開梱と同音)が、お褒めいただきうれしいです。今後ともよろしくお願いします。 (百均 2018年5月)

2018-06-19

こんにちは。エイクピアさんのご指摘と同感で、《立ち去るとき~》の三行、とてもいいと思います。ただ最終連はもやもやしました。歌詞に近づいたような、なんかそんな感じ。桐ケ谷さんは文にしても、詩にしても安定したうまさを出せる方だと思っています。なので、うーん、悩ましい! それから《また会える前提》の「~前提」という日常会話でもかつては使われていなかった言葉が作品中に持ち込まれていたので、おっ!と思いました。 (約束をしないで会えたら僥倖)

2018-06-19

こんばんは。作品が語らんとすることは伝わってきます。《まずい水と飲み込んだ》はうまいと思います。四連、五連はやや説明的で、形にはまりすぎているように感じました。 (再会)

2018-06-19

こんばんは。《豚》のくだり、宮沢賢治の作品に『フランドン農学校の豚』という童話(?)がありますが、あれを思い出しました。とても悲痛でした。 (beautiful people )

2018-06-19

こんばんは。《心を揺らしすぎることはできない》《もう心は柔らかくなくなってしまった》とありますが、黒髪さんの作品は使われている言葉の音が柔らかくて、読んでいると静かな揺れを感じます。その揺れが痛みを感じさせます。 (心のブレーキ)

2018-06-19

こんばんは。目の錯覚か、タイトルのせいかはわかりませんが、不思議ですね、書かれた文字列を行毎に眺めていると、人波が動いているように見えます。 (雑踏)

2018-06-19

そうでしたか。それは興味深いですね。 あ、そうそう、アイヌ語で神に語りかける時の言葉を読んでいて、「オモロ」と重なるように感じたのでした。 歴史的には明治以降「琉球処分」などがあって、近代日本の横暴による受難という点で、共通しています。沖縄に対する「本土」の人間の差別的な目については、山之口貘が書いていたように思う、とも書いたのでした。 私が暮らしている土地の県南地域は海に面していて、これは柳田國男の作品にも出てくる地域なのですが、現在では船に乗って島巡りができるのです。海にでて船から陸地を見ると、この国はまさしく「島-国」であって、「列島」であることが腑に落ちたものでした。そういう観点、及び《柳田國男ー折口信夫》という研究者に引っ張られて沖縄への関心が高まったのですが、アイヌについては金田一京助・春彦などの学者が保存のために尽力しています。どちらも文学・日本語に関わる方が書き残そうとしてきたことを考えると感慨深いものがあるとともに、もしかしたら、彼らの活動には、土地土地の文化や歴史や言葉を破壊する体制への批判が暗に含まれていたのではないかとさえ思ったのでした。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-16

こんばんは。しばしば沖縄を舞台において作品を書いている仲程さんが、Rさんの作品をとりあげられたのは、私にとっては嬉しいことです。 6月10日に長々と書いたものは反映されなかったので、それだけ置かせていただきます。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-16

こんにちは。選評お疲れさまでした。鈴木海飛さんの作品、よいですよね。最後まで残った作品のひとつで、さんざん悩まされました。 二条さん、Rさん、survofさんの作品を私もとりあげましたが、毎度ながらまりもさんのアプローチには目をみはります。 ユング派の分析的観点から作品を捉えるコメントをしばしばお見受けしますが、読みを深めるにあたっていまなお参考になると思っています。個人的にはA・ヤッフェによる「美術における象徴」やフランツ女史による物語分析等。 ところで、拙作「道化唄」にコメントを下さってありがとうございました。問題の最終連なのですが、《気だるさ》は書く必要はなかったですね。書くのであれば、そう感じるように書くべきだった。《鶯》の諳んじる《クーキョ、ココカシコ》を作中風景に響かせようとして、結果説明的にもなり、萎めてしまったようです。自分のものとなるとなかなか見えないから感謝です。遅くなり失礼ですが、いただいたコメントへの返信とさせていただきます。 選評、ありがとうございました。 (BREVIEW5月選評)

2018-06-16

おはようございます。選評ありがとうございました。コメント欄でいろんな「ゲ」がでてきて、そっちのほうが楽しかったし、頭のなかでいろんな「ゲ」の大交響でした。書いたものがコメントを通じて新たな解を得るというのは嬉しいかぎりです。 ん? 解を得る? かいをえる? かいえる…かいぇる……かえる……カエル!? 誰もツッコミを入れてくれなかったのがさみしかったですww  (花緒の選評<2018年5月分>)

2018-06-16

おはようございます。フル選評、お疲れさまでした。読み方は異なりますが、いくつか被りましたね。5or6(ゴロちゃん)さん、こうだたけみさん、峰さんも、それぞれに印象に残りました。こうだたけみさんはみんな『名づく』でしたが、私は『遠路、あるいは遠雷』でした。 とりあげたかったものはたくさんあるので、絞りこむにつれて難しくなるのがホント悩ましいのだけど、それだけ豊富で多彩なことを証ししているのかもしれないですね。 それにしても、「ずるい」って笑。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年5月分> )

2018-06-16

この作品の最終連の一行目、ふと立原道造の詩を思い出しました。 だからというわけではないですが、夜想曲が聞こえてくるような小品に感じます。 (夢想)

2018-06-16

補足:上の場合、四連目は省く。 (阿蘇にて)

2018-06-16

この作品なんですが、花緒さんの指摘にあるように、二連まではとてもいいと思います。 で、三連なんですが、余計なことですが、三行目を頭にもってきて、《光でできている》を前に、《生きてる物(もの)はみな》を後にする、で、一行目~二行目を「草・馬・人間(にんげん)そして太陽」みたいに並び替えてみる(ありがちではありますが)と、ちょっとは違うのかな、と思いました。 作者が、いや、それじゃあだめなんだ、と言えばそれまでなのですが。 (阿蘇にて)

2018-06-16

こんばんは。「踊り」、好きな作品のひとつです。私の場合は、行がすすむにつれて、じわじわと無意識にというか身の内に浸透してくるところに惹かれました。 (大賞推薦作その他)

2018-06-16

こんばんは。《尻尾》が《くるりと笑う》という言葉、おもしろいです。 ほんの束の間の出会い。そのとき《私》の内面でどんな感情が動いたのか、想像したくなります。 ともすれば、そんな短い出会いも《私》のことも、とっとと忘れてしまう《猫》のそっけなさに沿う形式にしたのかな、と思いたくなりました。 (この道の先)

2018-06-11

すいません、反映されませんでした。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-10

こんばんは。だいぶん前になりますが、手島圭三郎氏の版画による絵本が好きで、図書館で借りて読んだのですが……二年か三年ほど前に手に入れていながら積んだままになっていた「アイヌの碑」(萱野茂、朝日文庫)を、この作品にふれた機会にようやく読むことができました(そして、これもかなり前に読んだ川崎洋氏の詩作品「しかられた神さま」に通じる文章を見つけることもできました)。 しゃも(和人)による特に明治以降の侵略、支配のために余儀なくされた生活や奪われた(言葉を含めた)文化は痛ましく、その復興のための長い年月にわたる努力も大変なものであったことだろうと感じ入りました。 この本では、アイヌ語を話せる古老が少なくなり、著者たちがテープレコーダーで録音したのを書き起こし遺すようにする過程が書かれていましたが、そのような形で遺すことができるのはやはり有り難いことながら、日常の生活のなかで話し、また聞く風景が失われていくのは悲しいことですね。その言葉でなければ変わってしまうニュアンスや深みというものが、生活のなかで伝えられ、覚えてきた言葉にはあるから。 詩作品を皮きりに歴史や文化などを知るだけでなく、言葉についても考えさせられる良い機会になりました。ありがとうございます。 (Elegy)

2018-06-09

おはようございます。季節感、色彩、音が浮かびました。燕と三叉路、なんとなく形が似ていますね。それからリボンも。あっという間に過ぎ去ってしまう「時」だけど、たしかにある一瞬。そんなことを思いました。 (すりぬける、今ここ)

2018-06-09

おはようございます。「ワロン人」って本当にいたのですね。知らなかった。初めて見たのでウィキで調べてしまいました。 「マッサンオッサン」という音、おもしろいです。音としてもおもしろいというか。夢追い人とも言われるマッサンと、ただのオッサン。どちらになるかを選ばなければならないとしたら、まさに分岐点だな、なんて思いながら、意味でありながら音を兼ねているところ好きです。いつだったか「テッペンコッペン」と書いているひとを見たことがあるけれど、それよりずっといい。 《宝島は遠ざかり/ルイ14世も黄昏/すき屋の牛丼を食べる》の箇所、ちょっとした哀愁を感じました。ここは一日の時間というよりは、人生としての時期と読んだら、なかなかに切ないな、と。 ルイ14世が「太陽王」と呼ばれていたのは知っていたのですが、出生のところでアレクサンドル・デュマの作品につながって、デュマといえばネルヴァルの友人じゃないか、と思って、この作品とは別のところでときめいてしまったことは言わずに起きます笑。 なんにせよ、そそられる作品です。 (分岐点)

2018-06-09

こんにちは。「いつ、どこで、どのような状況で、詩にぶつかったか」や「詩というものをいかに考えているか」という詩意識の問題については、それぞれの書き手また読み手によって異なるし、問いつづけていくものだと考えますので、そこには触れませんが、今作に触れて、思い浮かんだ作品がありますので、参考まで。 「誕生」へ        入沢康夫  1 競争原理 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  2 泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  3 触媒(自己正当化) まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  4 放棄の道徳 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  5 盗奪的牧歌 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  6 「実践」といふ名の欺罔 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  7 メスメリズム まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。 (以下12まで異なる小題と《まつくらな~》が続く)  13 真の泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭さへも見えぬ。 (「続・入沢康夫詩集」、思潮社より抜粋 *カッコ内は藤) 詩作品は句読点の有無や一字空きの有無などによっても、全く異なるものになってしまう、という入沢氏の作品をこのように一部省略して抜き書きするのもいかがなものかとは思いますが、ひとつの、そして同一のテキストが、複数のタイトルの各々と並べられた状況において、異なった意味合いやイメージを読み手に喚起することはありますし、そもそも言葉が、それ自体としては独立していて、語られる文脈によって異なるものですので、書かれた角度が違うのだろうと思ったのですが、先の入沢作品のように「小題とテキスト」という方法もあったかもしれないと考えた次第です。その方がそれぞれの同一テキストが独立していることを示すこともできるし、それ以上のこともできると思います。各々の作品を別々のものとして、つまり、関連性のないものとして、独立させて読んだ場合、「ああ、わかるよね」「まあ、そうだよね」くらいの印象にとどまりました。あとは、「うーん、もったいないな」とか。ひと作品のなかに小題として二つのせてみてもアリだったのでは、ということです。それでは何かしら違うと思うのであれば、違う仕方を突き詰めることもできたのではないかと。 ではでは。 (虚ろ)

2018-06-08

渚鳥さま コメント、ありがとうございます。雑念が吹っ飛ぶ。残念ながら、そんなありがたいものではありません。ただ、書いているあいだは、私の雑念が消えてくれました。そんで、心なしか元気がでてくるように感じました。かえるだけに、ガマの油も気の持ちよう、というところでしょうか笑。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-06-08

こんにちは。天気予報はたくさんのひとに影響しますからね、罪なやつです。それに比べたらね、と言い訳というかなんというか、そんなことをして、じっとしていないと堪えきれない状況というのがあります。誰にでもは言えないことだから、ギリギリの線上で起きるしかない。世の中がもっとゆっくりゆったりしたものだったらいいんですけどね。 (双子座)

2018-06-07

こんにちは。「牧師」「教師」とでてきますが、どちらかというわけにはいかなかったのかなあ、と思いました。 または第五連の「牧師」「教師」は「彼ら」などで括ることはできなかったのかな、と。 しかし、第五連の《それから~ない、そのあと~ない》については、私にはとても魅力に感じる方法です。 (誰にも言えない話)

2018-06-04

〉まりもさん 《水は「女性性」の象徴ともいえるわけですが・・・肉欲、野生の本能になんの疑いもなく身を任せていくアベックたちの営みを「美しい」と思う一方で、性行為もしくは行為を終えた後の揺らぎを象徴するような水上のボートの動きを、まるで「水死体」のようで醜い、と感じる》というところなんですが、この「美しい」は「醜い」とほぼ同義というか表裏のようにも解釈は可能に思います。水は女性性の象徴ですから、呑み込む面と産み出す面と両義的です。しかし産まれるためには一旦は水の中に入る、浸されることが必要になるし、場合によっては溺れることもある。「僕」はそれを恐れているために防衛規制として「美しい」と捉えてしまう、と考えることが可能だし、同じように恐れていることを無意識的に正当化しているために「醜い」と言っていると考えることもできます。とすれば、「僕」は現時点から次の状況へと進むことを躊躇っている段階にあり、「岸に繋がれているボート」の揺れとは、「僕」自身の揺れであり、不安であるように読めますがいかがなものでしょう。 (E# minor)

2018-06-01

こんばんは。渦巻くものは激しいですね。それがよく表れていると思います。しかし《暴れる猛獣》という部分、わからないではないけど、全体のなかで突出しているように感じました。  (欲望の邂逅地点)

2018-05-31

失礼しました。途中で送信してしまいました。明治四十二年に『邪宗門』は出てるから、古いはずです。 ここに古語を用いる必要性があったのかな、というのが疑問でした。 (慟哭、今流れゆき)

2018-05-31

こんばんは。もうちょっと整理した方がよかったかな、という感じでした。なにせ、長い。長いのが問題ではなくて、冗長になっていやしないか、ということです。 ちなみに初読の際に、気になった「あるは」という書き方。見覚えがあったので、その記憶から、ずいぶん古いな、と思っていたのですが、思い返してみたら、北原白秋の『邪宗門秘曲』で使われていたんですね。明治よん (慟哭、今流れゆき)

2018-05-31

なつお様 コメント、ありがとうございます。ですよねー、蛙といったら草野心平です。私も思いついた時、あー、やばいなー、先にやられてるなーと思いました。しかも、ハンパないやり方を見せられてるわけで、かないっこない。 でも、カテゴリーが違うんですよね。あちらは叫びだったり大合唱だったりするから、そりゃあもうすごいんです。声がいろいろに混じりあって。それに比べて、こっちは単音。敢えて言えば響き方が変わるくらいです。だから、草野さんも草葉の陰から小癪な奴とも思わないでしょう。むしろ豪胆な方だったらしいから、やらせとけ、やらせとけ、と言ってくれるんじゃないか笑 一緒に酒を飲みたかったなあ。こっちがとっとと酔いつぶれてしまっただろうけど。 「偈」! これがありましたね。ああ、「ゲ」も一筋縄ではいきませんね。げにおそろしや! コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-31

おはようございます。早く寝てしまうと起きるのも早いってことがあるみたいです。まいったなあ。 15センチは完璧な銃刀法違反ですね。逮捕されてほしい。つか、ちょっとうらやましい。まあ、実際そんなもんぶら下げていたら歩きにくいこと、ひとしおですが。 しかし、持て余しているからといって薮から棒に振り回さないのが《オレ》の倫理的な部分でね、ナイフにせよ刀にせよ危険なものをもった場合、ものが理性を覆うことはあって、自制心がゆるんでしまうこともある。きちんと相手の《痛み》を思いやる優しさみたいなもので抑えて、《とぼけた顔で》、敢えて持て余したままでいるなんてのは、いささかキザな気がしないでもないくらいの男前。 というか、使い手というのは、ちょっと使うだけでも相手を容易に傷つける技術とモノを持っていることに自覚的なので、滅多に抜かない。それが、いくらか抜きたい衝動を抑えるための正当化であっても。だからやっぱり内面的には《持て余す》ところが残ってしまうのだろうけど。 《ナイフ》と《傷》にしたところがよいですね。 ああ、そういえば、「るろうに剣心」のなんちゃら編で、人斬り時代の剣心が、巴という女性に出会うのだけど、桂小五郎はこっそり思うんです。「いまのあいつには鞘が必要だ」みたいに。 この作品では、《ナイフ》と《傷》だからね、そこがいい。 フロイト先生なら、どう言うかわからないけど笑 (春の夜)

2018-05-31

こんにちは。世の中は音に溢れていて、煩く感じることがあります。音というのは音だけではなくて、視覚によってとらえられるもの、動きもそのリズムによって音のように煩く感じるし、ひとたびそっちに意識が向くと、脳内に音と形が溢れて、目も耳も塞ぎたくなることさえあります。 ああ、だからカタツムリは片方だけ目を瞑っているのか。なんつて。 (おやすみ、カタツムリ)

2018-05-30

こんにちは。ダメだ、吹いた。最後めっちゃずるい。狂おしいくらい、かなしくておもしろいです。 (ロデオ天使)

2018-05-30

こんにちは。最後救われたな、と感じました。いやあ、よかった。ずっと自分の念に縛られていたから。 生きているといろいろあるけど、自分の念に執着して、縛られている間は、なかなか外に対して開くことができないということもあるな、と思いました。そんで、ことによっては案外時間がかかる。 それが、でも、よいかどうかはわからないというのが難しいところですね。なにせ、精神は頂上を目指すけれど、魂は谷へ下る。深みで見いだすものの価値もあるわけで。 〉るるりら様 皿屋敷はお菊さんですね。 (地縛霊<後編>)

2018-05-30

かるべまさひろ様 コメント、ありがとうございます。遅くなってしまいました。 言葉の音とか、音のつながりや切れから生じるリズムとか、好きなんです。日本語は母音と子音を一語で表せるから、母音同士を絡ませたり、子音同士を絡ませたりが英文よりも少ない文字数でできるから楽しいです。擬音やモジリもあって。 かなりめちゃくちゃなことをやっていた時期もありますが、だいぶんと落ち着いてきたなあ笑 コメント、改めて感謝します。 (道化唄)

2018-05-30

こんにちは。最後の一行に至るまでの逡巡、いいですね。これが活きているから、最後の一行への切り替わりというか、それまでの逡巡をスパッと切り離しての立ち上がり方が快いです。 さんざん文句言っておきながら、時間になると、キリッと事に向かう時の切り替えのギャップってあります。結局やるんじゃん! て、ツッコミいれたくなるんだけど、ひとってそういうとこ、あります。と、考えると、細かいところに目を向けてるな、と感心するし、詩も隠れてるなと思いました。 (内情)

2018-05-30

おはようございます。ううん、これはよく書かれていますね。とてもうまいと思います。感心させられる箇所はいくつもあるのですが、特に骨の「数」を確認するくだりは唸ります。握っている「手」や「指」から入って、骨の構造、そして「数」。この現実的、具体的な叙述が、《僕》の心理的な空虚感、《彼女》への距離感を表しているばかりか、その非現実感をも表しているように思います。内面という抽象的なものの動きを「骨」「数」という具体的なものによって喩える。見事。 そして、《水死体》のように揺れている《ボート》。終わってしまっているなあ。こうした非現実性を仄めかす個所が所々に配置されていて、表現上としては一見《嫌悪》や《醜さ》について語っているようで、全体としてはとても美しい作品になっていると思います。 (E# minor)

2018-05-30

こんばんは。川島誠という作家がいて、最初に出した作品集のタイトルが「幸福とは撃ちおわったばかりの熱い銃」だったことを思い出しました。あれ?間違ってないよな。 まあ、児童書枠でしたけど。表題作は、誕生会に呼ばれた男の子がテーブルの上にのって、小便をぶちまけるやつです。ビートルズの曲からとったタイトルだろうけど、性を意識する年齢にさしかかった少年少女の話につなげるとはまさかという感じで。 こちらの作品はホットガンではなくて、コールドガンなんですね。タイトルと表現とが離れてるように感じました。 (ハピネス・イズ・ア・コールド・ガトリング・ガン)

2018-05-29

こんにちは。インターネットが普及しはじめて、20年くらいは経つのだけど、携帯電話を持つのが当たり前になってからもすでに長いですね。昔は携帯電話もっているのはヤクザ屋さんか社長とか言って持つのに否定的だったけど、いっしょになって言っていた連中も気づけば携帯電話、そんでスマホを持っていて、そんなこんなの間にSNSは凄まじく広がった。一時は依存症という言葉まで言われていたなあ。誰もが自分の意志で自由に参加できて、しかも匿名でいられることの利便性。Twitterなどでの炎上。発した内容がネット空間に浮遊しつづけるという面倒臭さ。はてさて、この船はどこまでいくのか。 そんなことをなんとなーく考えながら読みました。 (学習 learning)

2018-05-29

こんばんは。最後の二行で、清涼感がひろがりました。重く湿っぽい灰色をはじきとばす爽やかなサイダー。おいしそうです。 (夏待ち、曇天)

2018-05-28

るるりら様 コメント、ありがとうございます。私も子どもの頃はしょっちゅう蛙の鳴き声を聞きました。今でも聞きますし、田んぼも多いですが、子どもの時分はもっと多かった。夜、田んぼと田んぼの間の細い道をいくとよく聞こえていたものです。賑やかなんですよねえ。夜道がちょっと楽しかったような気がします。蛙といえば後鳥羽院の話がありますね。あんまり鳴くのでたしなめたら、それ以降鳴かなくなった、だったかな。 ところで、ウシガエルは本当に牛のようにモーモーと聞こえるんです。これにはびっくりしました。地の底、あ、水の底から響いてきてドキドキしたことがあります。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-28

こんにちは。読みながら、北原白秋の詩の一部を思い出しました。多分私だけではないはずと思うので、先に書くことにします笑。 《薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク ナニゴトノ不思議ナケレド》 (「白金ノ独楽」、『薔薇二曲』から) もうこれを下敷きにしたんじゃないかと思いたくなるくらい、ピッタリきます。    《ナニゴトノ不思議ナケレド》 きっととても不思議だったというか、非常に驚いたというか、ハッとしたんでしょうね。どうしてそうなったのか、どういう状態だったのか、なにがあったのか、というのはとりあえず置くとして、とにかくそういうふうに見えてしまう、感じてしまうことがある。それは隠された《大切な秘密》を覗いてしまったような感覚であるかもしれません。そして、この作品では、それは《いつか誰かが/そこに植えたから》にちがいないにせよ、その誰かや、《私》の想い、状況などとは関係なく、本来咲くものとして咲くわけで、こうなると驚かないではいられない。自然というものにーーうんにゃ、そうじゃないですね。自然現象や人びとの生活、もっと言えば時の移ろい、惑星の運行までもが、自分の想いや状況にかかわらず、動く・動いていることに直面した驚きや奇妙な感覚、になるのかなあ。やばい、広げすぎた。 ですが、こういう感覚は大なり小なり普遍性をもつと思います。出だしから最終行までの振り幅も大きくて、ぐうの音もでませんや。 (バラの花が咲く)

2018-05-28

こんにちは。そういえば何年か前に「すきま仕事」という言葉を使う人がいたのを思い出しました。手空きの時間でできる仕事、みたいな意味だったように思います。それってでも、余裕とかゆとりとはまた違うものだと思います。 それと、個人的には芸術は隙間とは逆のところにあるように思います。隙間も隙間じゃないところも芸術にかかわることでぎゅうぎゅうに埋め尽くして苦しいくらいじゃないかなあ。作品は素晴らしいけれど、そのために生活者としては敗北者だった芸術家は少なくないと思います。 ニュートンが不勉強で、おまけに何も考えず、なんの気なしの暇つぶしに木の前に座っていたら引力の法則は発見がもっと遅かったように思います。 (隙間)

2018-05-28

こんにちは。こんなナレーションが入った後でエンジンが入る…、ラジオの車のCMに似合いそうですね。言葉の選び方使い方が、そんな型にはまっていて、読みやすいけど、ズシンとこなかったのが残念です。 (お気に入りの孤独)

2018-05-27

こんばんは。とてもリアリティがあります。リアリティといっても、夢(悪夢)のそれです。詳細は省くとして、二十年ほど前に、自分を殺そうと迫ってきた相手が自分だったという夢を体験したことがありました。あの時の驚愕と恐怖ときたら! きっと天守閣から狙っている自分を見た瞬間はそうだったんじゃないかと思いました。 「君」という距離をおいた視点からの語り、よいですね。 (天守閣)

2018-05-27

こんばんは。ウルトラマンは遥か彼方のM87星雲(だったかな)から地球を守るためにやってきたそうですが、当の「私たち」が願った社会は《星よりも遠く消え去った》わけですから、こりゃまた皮肉なものですね。 (故郷)

2018-05-27

こんばんは。 なんだ、この寂しさは。なんなんだ。呼びかけていながら、呼びかける対象がそこにいないような、ひとりで歩きながら心に浮かぶ相手に、人知れず話しかけているような、幼くして世を去った子どもが在りし日を偲びつつ、家の中を歩きながら語っているような。 (象の玉乗り)

2018-05-26

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。詩の旨味のひとつは、気づかなかったことに気づかせてくれるところにあると思います。わかりきっていると思いこんでいることでも、改めて焦点をあてられると、ああ、たしかにそうだった、と思ってしまう。いや、異なった角度から光をあてられると、といったほうがいいのかもしれません。それくらい、日常の見方考え方というのは、同じ角度から光をあてるように習慣づいている。 だからこそ気づけなかったことに気づかされるのは驚きです。作品の言葉が驚きに出会わせる。現代は以前にまして刺激の強いものが増えていく様相を見せていますが、そのためにかえって驚くことは少なくなっている。にもかかわらず、詩の言葉がしばしば読み手を驚きに出会わさせてくれるのは失われていない。これは嬉しいことです。 ありがたいお説教ではなかなか驚かないし、染みたりしないんですけどね笑 語る詩によるカタルシス、のなせる技ですね。 コメント、改めて感謝します。 (四月選評 )

2018-05-26

花緒@B-REVIEさま コメントありがとうございます。パソコンやスマホの画面て、文字がパッと目に入るんですよね。紙媒体だと順に読んでいくから、かつての立体詩とか未来派とか視覚的なものは読むより先に図像として訴える効果を発揮できるかもしれません。文字の組み方も形としてパッと入る。 逆に、順を追って読むのには他の行がいつも目について気になるというか急かされる気になって、言葉がうまく入らないことがあるのです。きちんと向き合って読めるまでに時間がかかる。 これはもう、頑張って読まなくてもいい笑。やらかすならめいっぱいやらかしたれ、です。 ゲは外であり、下であり、そういえば南無妙法蓮華経の華でもあると、いただいたコメントを読みながら思いました。もっと広げられたかもしれませんね。 (かえる経)

2018-05-26

かるべまさひろ様 コメントありがとうございます。「胡散臭さ」でていましたか。よかったです。詩は胡散臭くてもいいと考える派です。つくりものなので。世間様はこうした胡散臭さを毛嫌いする向きがありますが、いかにももっともらしい素振りで、いかにも真実味のあるようなことを宣っては衆目を欺く輩がいて、痛い目に合わせてくれます。そのくせ、彼らの理や利益に結びつかないもの、反したものを胡散臭いまやかし、流言として退けるいやらしさをもっている。いやはやですね。 マーサナカムラさんですね。名前は以前から聞いていましたが作品を読んだことはありません。「手帖」はあるんですがね、時間がないんです笑 (かえる経)

2018-05-26

地( )球さま コメントありがとうございます。私は選評では「ヘンテコリン」と書きましたが、詩の言葉がヘンテコリンであることは、全くヘンテコリンなことではないと思っています。といって、ヘンテコリン推奨というわけではありませんし、ヘンテコリンなものが詩であると断定してもいません。笑 詩を書こうとするとヘンテコリンにならざるをえない場合が往々にしてあるということです。けれどもそれを書く「核」までもヘンテコリンではなく、むしろ、かっかと燃えているんじゃないか。 詩の側から見たら、日常文法に則って規則正しく並んでいる言葉こそ、強引に繋がれた歪な姿であるかもしれないですね。 (四月選評 )

2018-05-26

こんにちは。お答えありがとうございました。 こちらが十分に読みきれていませんでした。それほど第二連における「枯葉」の様子が鮮明だった、という言い訳くらいはさせてください。「昨日」でありながら、いままさに見ているかのようにありありと私の目にも映ったのでした。 さて、結論だけ言いますと、世界が生命力に溢れたものとして感じ取れるとき、そればかりでなく、自らのうちにもそのようなエネルギーの充溢を感じることがあります。それを、「作品を通して」感じさせてくれるものでした。 (葉脈)

2018-05-25

こんばんは。 どこかしらメルヘンチックというか甘い香りのただよう作品ですね。(あくまでも香りです。) しかし、そのようなメルヘンチックな雰囲気を醸すことを意図したかどうかはやや疑わしく思います。むしろ、そうした雰囲気に陥るのを慎重に避けた印象です。 例えば第一連の「美少女」。書かないなあ。というか、書けない。だって美少女ですからねえ。「少女」ならわかります。「娘」「乙女」(まあ、古いですが)でもわからないではない。でも「美少女」はちょっと書けない。 第二連の「海苔をまいたおにぎり」、第三連の「入試前」、最終連の「料理番組」、これらも書けないまではいかなくとも、連から立ち上がる甘い雰囲気に対して、そのバランスを壊すような現実味があります。で、その現実味が他の行とギャップを生んで、総じてメルヘンチックな甘さをより現実の側へ引き寄せているように感じます。いかにもありえそうな光景へと。 (春のうちがわ)

2018-05-24

こんばんは。 さまよったあげくにようやく見つけた真理が、割と単純で、ひとに話したら「うん、そうだね」みたいに、特に感動もない返事で済まされてしまうこと、稀ではないと思います。とは思うものの、見つけた本人にしかわからない重さというのがあるんじゃないかと思います。多さにまぎれるとそれすら流されてしまうこともあるだろうけど。 というのはおいておくとして、超高度な情報社会と大衆消費が結びついた現代とあっては、欲望も病理もカルチャーセンターの講義内容になったり書店に平積みされて娯楽になってしまってしまう、そのくせ、「平成○○年に流行した云々」のように、過去のこととして切り捨てられる嫌みなところが大いにありますね。 企業はモノよりも価値観やステイタスなどといった欲求を駆り立てることを先んじて流通させようとするので、なんでも揃っているので、その飽和によってつねに渇いていて退屈してしまう。朝からウンザリすることはよくあります。その疲弊を現わせていると思います。私も怠けていたいものです。 (始発に乗って)

2018-05-24

こんにちは。 “Arent you more suck?” こういうの、けっこうやっていました。なんというか、ついついやってみたくなりますね。言葉のもつ音の誘惑にはまってしまうのかな、とこの頃は思います。 (青を探せ)

2018-05-24

こんにちは。しまった!昨晩読みながら、カポエラみたいだと思っていたのです。先に書かれていました。 カポエラは両手を繋がれた奴隷たちが、密かに編み出した格闘技ですね。ぐるぐる回って、足がダイナミックに動くし、為政者の目を隠すために舞踏を装ったと読んだことがあります。リズミカルで、ステップもダンスみたいだし。その様子が言葉でくっきり現れています。昔、NHKで深夜に流れていたなあ。 舞踏といえば、舞いというのカポエラがいつか立ち上がる日のための対抗手段であったように、為政者の暗殺手段として物語に使われますね。踊り手はもっとも狙う相手に接近できるし、いかに勇壮でも舞いと思って見る限り、警戒は薄れてしまう。そう考えると、舞踏というものは華美な外見で偽装して周囲を欺くところがある。 ときに、偽装された外見が主流になって、本来こめられていた意味が忘れられつつある状況においては、影を相手に舞いながら見つけられる日を待つしかないのだから孤独ですね。 私たちは何かを忘れてきているのではないか、などと考えてしまいます。 (フィラデルフィアの夜に Ⅵ)

2018-05-24

おはようございます。 「えー、あー、と、」の「と、」と次の語との間に気持ちのいい間があって、その繰り返しがよいリズムをつくるのにいい仕事をしているように思います。ここちよい呼吸を感じました。 (In Blue)

2018-05-23

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。アマガエルの写真集買ったんですね。たしかに見た目もかわいいですね。たまに変色して驚かせてくれますが。 これ、書いてて口をついて出たのは「ゲゲゲの鬼太郎」の歌でしたよ、まったく。 9999回唱えた時解脱に至るとか言ってみたい笑 解脱とは「解得る」の謂いである、とか。 (かえる経)

2018-05-22

湯煙さま コメントありがとうございます。そういえば、数年前に蛙についての神話や伝説を調べてみたら、けっこうありました。そのときはヒキガエルでしたが。水と陸の両方を行き来できる生態というのも神秘的ですね。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-22

こんばんは。これは、もう最初の一行で決まっていますね。でも、その場合タイトルに悩むかもしれない。 デュシャンが便器に「泉」とタイトルをつけて驚かせたように、花瓶にマヨネーズを活けて「生け花」というタイトルはありえるし、「薔薇」といってもいい。 マヨネーズにとっては花瓶とからすとどっちがよかったのか、花瓶には新しいマヨネーズが活けられたのか。 そして空の花瓶の恨めしい佇まい。これは恐ろしい。こんな女性の立ち姿は恐ろしい。 (マヨネーズをめぐる愛憎劇)

2018-05-21

こんばんは。 すいません、とてもとても気になっている箇所がひとつだけあります。私が読みきれていないのかもしれませんので、それをすっきりさせたくて、書きこみました。 第二連で、「枯れ葉が舞いあがってきた」のは「昨日」と示されているのですが、最終連では「それがいま」となっています。この「それがいま」(もしくは「昨日」?)は意図的なものなのでしょうか。 (葉脈)

2018-05-21

黒髪様 コメントありがとうございます。我ながら思わぬところに着想がいってしまったので、思わぬところにきた以上は思い切りという具合です。笑 蛙の鳴き声、これからが本番ですね。季節は『蛙鳴く池のほうへ』向かいつつあります。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-18

すいません! 原口良平ではなく、昇平です! 原口昇平さん、すいません! (四月選評 )

2018-05-16

こんばんは。いきなりですが「キャンプにて」が一番好きです。 「ちくわ」を「ちくわでないもの」にすること。「これはちくわ」だと思っていることを、もっといえば既成の概念で凝り固まっている日常の意識を壊す爽快感があります。しかも理屈っぽくなく、一息に跳躍する運動が一行のなかに感じられます。そして、次の行は現実味がある。非現実と現実がたった二行で現れていて、名人の手品を見るようです。 (ちくわ詩編①)

2018-05-14

こんにちは。愉快でした。迂闊にも一人の部屋で笑ってしまった。いや、楽しい。 「前編」の冒頭からの運びは、特撮モノの変身シーンや“前回までのまとめ”にさしはさまれるナレーションのような感じで、頭のなかで音声として入ってきて楽しめました。主人公としてはショックな出来事なのだろうけど、読んでる側としては同情しながらもユーモラスに感じました。《!》を含めた語り口の効果でしょう。 「後編」は、昔、ねじめ正一がやっていたお茶の間劇のような喧しい印象でしたが、前編・後編合わせて読むと、これは派手は派手な展開ながら、哀しいイキモノね、と思うところもあり、表現上の派手さと内容のギャップとで、余計ユーモラスに感じました。さしずめヒューマン(?)コメディといった感じとでもいうか。 全体の展開としても、アクセントがはっきりあって、総じて痛快エンターテイメント詩だと感じました。 (ラブ・ラプソディ 【後編】)

2018-05-14

こんにちは。前の私のコメントは失礼でした。すみません。初読ではただに良いなあと感じたのですが、読み直しているうちに、ふと《いまは~》の詩行で成立しているのではないかと思ったのでした。というのは、私が書くとしたら、最終の二行はやはりどうしても書いておきたいことなのですが(微笑ましく思えたのも、ここに尽きます)、最も書きたいことを書かずに留めておいた方が、靴の存在感が読み手にしみたかもしれないな、とも思えたからです。 それはそれとしても「蛇足かどうか~」という言い方はないですね。平にご容赦を。 (靴)

2018-05-14

こんにちは。《いまは静かに眠っている》の行で、完成しているように感じ、もしかしたら、そのあとで、二行を思いつき付け加えたのかと考え ました。しかし、だとしても蛇足かどうかは難しいところで、この二行で、ふっと微笑ましく思えました。あ、なんかわかる、という感じでした。 (靴)

2018-05-12

こんばんは。最初の一行と最後の一行が同じということは、最後が最初になってエンドレスに繰り返しつづけるのでしょうか。(仮にそうだとすると、想像するに)呪詛のようでなかなかに恐ろしいです。 (リフレイン)

2018-05-02

こんにちは。この作品、とてもいいです。良さを言葉にするより早く、いい!と感じました。いい!というより、おお!です。 (夕焼けが足りない)

2018-05-02

こんばんは。ストレートに恋だの好きだの、あー、ダメだ、こんなの書けないわと思うのだけど、よく言うポエムからは頭ちょっと抜け出てるとも思います。それでもやっぱり私には書くのは難しい。 けれども、そこはこの作品が問題なのではなくて、いかにも詩らしい詩に馴れてしまっているこちらに原因があるのでしょう。いかん、いかん。そんなことに気づかされました。従来の(詩への)固定観念を突き崩すところが詩の力のひとつだとしたら、私にとっては十分詩です。 (いつまでも春)

2018-04-29

こんばんは。雲一つない空に限らないですが、空というのは心の時々の状況で清々しくもあったり、腹立たしくもあったり、また恐ろしくもあったりします。あの漠とした際限のない深さや広さは足元から吸い込まれてしまいそうになって頭が白くなることも。というのは個人的な話なので置いておくとして、空へ向けられた視線が終わりの方で個人に落ち着いてしまうあたり、もったいないように感じました。 (空を仰いで)

2018-04-29

こんばんは。ネオンと躑躅。最後の二行が個人的には惜しまるものの、少ない材料で、人工物(に囲まれて暮らしている私たち)と自然(まあ、これもところによっては都市計画の一端で植えられるという点で、完全な自然とは言い難いですが、充満する匂いまでは計画外でしょうから、まさに《五月の意地》)との対比が明確になっていて、空気が感じられます。 (夜のにおい)

2018-04-29

こんばんは。ワルツざかにチビで、子犬のワルツをふと思い浮かべました。 《あした ほんとを/おしえてあげます》 この詩行はすごい。 大人の語り口で同じテーマを書いたらどうなんだろうと考えてみました。ここまでグッとくるかどうか。 シブいです。 (ワルツざか)

2018-04-27

こんばんは。流木の生涯はまさに様々な事物や事象との関係のなかにあったのですね。そして食い込んだ一粒の団栗は流木と関わり新たな関係(生)に入っていく。語りは穏やかですが、とてもダイナミックでぐわんぐわんなります。 (流木)

2018-04-27

こんにちは。誰かと思えば黒髪さんでした。困ったことにいい詩を書く。 今日、こちらは晴れています。空が青くて、爽快。そんな空を見ているのだけど、この作品はその向こうまでも響いていると感じます。遠くから来て遠くまで届いて響く。 詩は言葉で書かれるけど、言葉じゃないって思い出させてくれます。言葉を伝ってポエジーとしか呼びようのないものが立ち上がるのを感受できると、爽快になります。 (笹竹)

2018-04-26

こんばんは。 イメージに二種類あるとしたら、(1)すでにあるものやわかっているものを心の中で思い浮かべること、(2)ないものを現実にあることのように形象化すること、だと思います。 前者はイメージの言語化として、多くのひとが試みていると思いますが、この作品のように後者の、言語によるイメージの創造はそう多くはないように思います。それほどこの作品では、言葉によってひとつの世界が、現実味をもって作りあげられていると感じました。 それを作りあげるのに、随所に配置されているディテールが活きていて、グロテスクともユーモラスともとれる生々しさが現れ、その奇怪さがかえって美しさとして映る。 例をあげればキリがないけれど、一見全体的にはグロテスクな雰囲気に包まれているけれど、実際なんじゃそらというような面白いところもあって、それがまたグロテスクさを増すように働いていますよね。最も気に入っているのは、《時に果てしなく痙攣し/時に蟹を食いながら》の詩行です。 ひとつひとつの動詞や、現在形の書き方も作品世界に動きを与えるのに一役買っていますね。 ご本人のコメントによる《吉岡実の世界に通じるもの》とありましたが、パッと思い浮かべたのは「僧侶」でした。 (夢見る宝石)

2018-04-25

こんばんは。語数も含めて、音に気を配って言葉を置いているなあと思いました。 それから、 《彼らは ここらじゃお客さま いずれ群れて飛び立つよそ者 わたしもよそ者 ただし気儘な一人旅》 の部分なのですが、《わたしも》のところに、旅する者同士の親近感のようなものを感じました。 それぞれの生きる場所ですれ違う短い時、心のなかで(じゃあな)とつぶやきかけるような。 島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の(一)、第二連に、 《旅人の群はいくつか/畠中の道を急ぎぬ》という詩句があります。ここには悲しみや寂しさのようなものもありながら、同時に、やはり同じ旅の途中にある者に対しての親しみに似た視線もあったのではと、この作品を読んで思いました。 同じ生のなかでつかの間すれ違う者に感じる幾らかの寂しさをともなった親しみととれば(拡大し過ぎかもしれませんが)、種を超えた連帯感のようにも読めますね。 (HOME)

2018-04-19

ありがとうございます。こちらの確認ミスで、あげたあと、もしかして!と思ってしまったのでした。どうもすみません。 私のミスなので無効になるのが当然の道理なのですが、有効として扱ってくださるということ、恥ずかしいかぎりではありますが、お言葉に甘えさせていただきます。 ありがとうございます。 (【選評】「夜」)

2018-04-19

つい先日、ボロボロになった「現代詩作マニュアル」(野村喜和夫、詩の森文庫、思潮社)をめくっていたら、第一部の1に、この一節を発見しました。アドルノの名前も覚えていたし、どこかで見た記憶があったので、ああ、これだったかと思った次第。 現代詩を戦争の反省から生まれた戦後詩からと位置付けるために、一文だけ引用していました。アドルノやその思想を大まかにでも知っていれば、まあまあ辻褄が合うように書かれていなくもないと言えるのですが、その引用、どうなんですか~とつっこみ入れくなるとこもある。まあ、読者層を広く設定していたからとか、戦後詩を印象づけるためのインパクトを与えたかったとかあるのかもしれませんけど。ポストモダンに詳しそうな氏が、アドルノの言わんとしたことを知らなかったわけではないと思いますが、当時誤解した読者はいるんじゃないかと思います。「エクリチュールは一人歩きする」と言っていいのかどうか。苦笑 (【選評】3月投稿作品)

2018-04-17

(付け足し) 我々が生きている現代を形成する社会的枠組みを根本からとらえ直す観点ももたずに《詩》を書くこと、また疑いもなく生きることは《呑み込まれ》に対して従順であり《野蛮》にとどまることで、この現代に呑み込まれずに主体として生き、《野蛮》から抜け出して《詩》を書こうとすれば、少なくとも枠組みを壊すくらいの意識的態度はもたざるをえない。 それとも《野蛮》にとどまらないでいるんなら、たとえばテロルのような反社会的行動にーー《聖母マリアを強姦しに》ーー向かうかい?とここは暴力的な言葉を用いた反語表現と読むことができ、前との関係から平和への希求として聞きとれたのでした。 (【選評】「夜」)

2018-04-17

投稿時一二度読んだのですが、語り口にひっぱられてあまり入っていけなかったのですが、いま読んでみて、内容まで入っていけました。 コンパネ、ユンボ、歌うヘッドライト。土、埃、汗、そういうものを思い起こさせる細かい部分が活きてる。個人的に好きなのは「毛布」の部分。 街(マチ)の賑やかさと、その一方で這い蹲るような生活を懸命に生きている人たちの対比も表れています。 まるで蝉たちが、幹にしがみついて、熱いひと夏を鳴いて落ちるのを見るような作品ですね。主人公は気概だけが頼りだったのか、ひと夏が終わって落ちたあとでも気概だけが残ったのか、どちらだろうとしみじみ考えました。 (空蝉の)

2018-03-29

おはようございます。 Chimera。キメラ、キマイラ。フランス語ではシメール。初読からしばらくして、そう読むのかな、と不意に気づきました。 ギリシャ神話に登場するのもたしかですが、個人的にはボードレールやマラルメなどを思い出しました。 しかし、当時のChimeraはもっと凶暴で危険な印象だった。こんなふうにやさしい存在として甦るのもなかなか素敵かなと思いました。 (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-27

いま、この作品のなかで、風を眺めている主人公は、何を思っているのだろう。眺めている風のなかをどんなたくさんの一つ一つが流れているんだろう。それは無闇に言葉にはできなくて、ただ風を眺めている主人公の姿を眺めながら、生きることの悲しみと強さをひしひしと感じる。 風の花、風畑、傷跡に散っては咲く花々、不可視ではあるけれども、これらはもう、たしかにあるもので、この主人公にとっては真実として眼前に映っている。そういう、「誰にも見えなくても私にだけは見える」光景が、ある状況においては、あるものです。これが、しかし、幸せかどうかはわからない。そこまで苦しまなければならなかったから、そのあげくに見えてしまったとも思えるから。 ここで私が思い出しているのは、悲しい出来事で我が子を亡くした母親が、月を見る理由を問われて、「子どもがいるんです」と語ったという話です。 これはもう非科学的とか錯覚だというレベルではないし、狂気でもない。ある状況においては、その人にそうであるなら、もうそうなのだという以外にないということがあるし、それはその人にとっての真実と呼んでいいんじゃないかと思います。 ただ、そういう真実というものは言葉には非常にし難い。言葉にできても、作品にはさらにし難い。読み手に見えるようには、です。それを、成功させているから、こちらは口を噤みたくなってしまう。 まあ、いっぱい書いたわけだけど。 (風の花)

2018-03-13

拙い感想ですが、この作品が美術館に飾られた絵画なら前に立って足がくたびれるまで眺めていていたいし、本当の霧雨ならやっぱり足がくたびれるまで立っていたいと思いました。でも傘はさします。きっと風邪をひくので。 (霧雨)

2018-03-13

いや、微妙に違うんです、ここがわがままなとこで、先のコメントにも書いたのですが、読んでるこっちでは、「あ、ドラマが進行してるな」「ふたりのなかでなにかが動きつつあるな」という風に感じてる。要するに、《始まって》いるんです。なので、「そう感じてるだろ?でも、始まらないんだな、これが!」ってところが、ズバーンと欲しかったというね、「このシメ、マジか!結局、始まってねーし笑、おもしれー!」となれたら良かったな、というやつです。 あ、だから、そういうことです(自分的納得)。この作品の場合、《結局》は、示されることじゃなくて、こっちが思いたかったことなんです。 (始まらない話)

2018-03-12

該当箇所は最後の二行です。 それまでの流れはとても自然で、特に 《おちてくるあめのつぶが がいとうのひかりをくぐるとき まるでむかしのえいがみたいに ぱたぱたと 弾かれた鉄の粒が なかなか芯に届かなくて まるで沢山の閃きみたいに パチパチと》 の箇所では、「始まらない話」でありながら、なにかがそれぞれのなかですでに始まっていて、動いているように感じられて、それがどうなっていくのかを期待させられました。 ところが、行間が空いて、最後の二行がくる。それまでの流れがふっつり切れて、この二行が、唐突に、独立して響くんですね。ここに、浮いた感じというか、違和感を感じた。まあ、期待が宙吊りになったまま終わったから、どうせなら、もっとこうはっきりとオチをつけて欲しかった!ということでもあるのでしょう。 あら。となると、これはもう読んでるこちらのわがままになりますね。 (始まらない話)

2018-03-12

すいません。さっき返信レスを上げたのですが、反映されなかったようです(;´Д`) また出直します。 (始まらない話)

2018-03-11

わ、わかりませんでした、、、。 フツーに地の文かと思いました。 ええと、最後の部分、《結局》って要らないんじゃないかと思います。展開的にはオチ(結局)にあたりますし、それが説明的な印象を与えているように思う。 それから、落とすならガーンとしっかり落とす、上げるならグーンとはっきり上げる、くらいにしたら、その前までの流れとの落差が生まれて面白くなったような気もします。 (始まらない話)

2018-03-10

え!?そうなんですか? 冒頭というと、《よるにあめ》ですか? (始まらない話)

2018-03-10

二人の登場人物のやりとりとか、一人が部屋の外にでて、もう一人が残るのとか、各々の目に映る情景とかはわかりやすく、そういうワンシーンを遠目からカメラで撮影しているような展開でしたが、最後だけ登場人物がひとりになってしまったので、もやもやしました。 (始まらない話)

2018-03-10

アウシュビッツ以後、特に21世紀以降は、9.11など想像を超える現実が外部からもたらされて、そうしたものの前に、詩のみならず、多方面で発言力が弱まったことを思い出しました。かつては詩作品が現実と拮抗するとか、詩人は予言するなどという言説を目にしたことがあったけれども、そうした想像が追いつかない現実が世界を覆ってしまった。となると、野蛮を認めつつも、というかむしろ、野蛮であるからこそ、詩を書くというその暴力性こそが、生きていく上で、外部からの力に易々と呑み込まれてしまわないための「抵抗」となりうる。その折れることを拒む強さを感じました。 それから、この作品でハッとして年譜を確認してみて、初めて知ったのですが、多喜二と賢治は、同年の1933年に亡くなっているんですね。文学史的に並べて語られる場面がなかったとはいえ、これには驚きました。多喜二を思想に殉じたと言っていいのかはわからないけれども、単なる思想ではなく行動によって殺されるはめになった。ジョバンニ(賢治)は「すべてひとのさいはひ」を口にしていて、このあたりはもしかしたら多喜二と思想的には通底しているように思えるけれども、多喜二は、拠って立つひとつの思想に身を傾け、賢治はそれぞれの思想がみんなひとつのところからくればいいと考えていて、そうとなれば、賢治の思想は、ひとつの思想に身を寄せない無思想ともいえるもので(宗教的思想ではあるけれども)、体制に対しては多喜二のように身を呈して抵抗するところはなかった。それでもそれだって思想なのさ、とジョバンニが語っているように感じられて、多喜二も救いようがなかったけれども、ジョバンニもまた救いようがなく思いました。 結局のところ、外部に対しては、思想も言葉も詩も救いようのないところまできているのかもしれないけれども、それゆえに《聖母マリアを強姦》するのと同等の暴力性を引き受けつつ書くことには、詩の現代的な意義や価値があるように思います。 (夜)

2018-03-10

アドルノ~。 と、とりあえず。 (夜)

2018-03-10

この(全文の)長さで、一文の呼吸の長さが安定しているのはメリットなのか、デメリットなのか。リズミカルといえばそうだけど、区切りが入ってもほぼ同じ呼吸の長さで繰り返されているようでもあって、単調ともいえば単調。間に改行詩を入れるとか、行間を使うとか、思い切ったリズムの緩急があると、またちょっと変わったかもしれないと思いました。そうすると、モジリの効果が薄れてしまうとか、まあ、いろいろ崩れてしまう可能性もあるのだけど。 ざっと言うと、うまい具合に収まっています。悪く言うと収まりすぎている感がある。特に最後は綺麗に着地しすぎかな。あくまで個人の感想です。 (ケッコンしきますマスの語かつやくをネガってる)

2018-03-09

《人間から必要とされなくても生きていける、ロボットのような人間を目指すつもりです。》と考えている《ぼく》は、そのくせ、ロボット先生が好きで、《ぼくの先生》とさえ言っているというところが、絶望的なくらい人間的です。 いつかそんなふうになれたとしても、きっとまた《ぼく》のような子どもに必要とされてしまう。 (ROBOT TEACHER, WHAT CAN I WRITE?)

2018-03-09

最終行はどうにかして「ジッパーを外す」につなげてほしかったです。 (Mr.±0)

2018-03-07

こんばんは。 よいですね。てんとう虫を介して、《きみ》と《ぼく》の関係がみえてくるようです。《ぼく》の視線がほほえましい。 なにげない光景のようでもあるけど、誰の記憶にもとどきそうです。てんとう虫かどうかは別にして、こんな体験や気持ち。 (てんとう虫)

2018-03-03

読んでいて気持ちいい。身体にきます。読んでいるというより、ライブの聴衆になっている感覚になれます。 (青信号を渡らない赤子)

2018-03-02

ああ、こりゃあ、いやなやつです。「世にも奇妙な物語」で見たことのあるような、それか、いやな夢にフッとつながりそうなやつ。無限地獄みたいな。加えて、家の鍵が千切れた首輪になっているという不条理の衝撃。この作品の鍵もこのあたりにありそうですが。 帰る家があるということは安らぎではあるけれど、一方で自分をそこに縛り繋ぎとめるものでもある、として、それが千切られたら、行き場なくさまようしかない。家があるという日常に安住して、省みずに暮らしているひとの夢にでてきそう。 《外灯がまたひとつ消えた》というリフレインで終わるということは、まだまだつづくのかもしれません。怖 ときに、実際では、外灯はコントロールされていて、ある時間になるとパッと消えます。初めて見たときは驚いたものです。 (彷徨者)

2018-03-02

一枚の静謐な、抽象度の高い絵を思い浮かべました。イメージに満ちて、静かで、そのなかにも息づかいが聞えてくるようです。 最後の《野生よ》、ここが、余韻を残して、映像を再起させてくれます。 (私に※)

2018-03-01

こんばんは。 シマウマにはたくさんの縞模様があるけれど、この作品もたくさん「しま」があって楽しいです。 それにしても、たくさんのものをしまってるんですね。それなのに、何か忘れているようで気になって数えてるなんて、まるで「しまう魔」にとりつかれてるみたい。 と思うとドキッとします。 (現代のしまうま)

2018-02-27

こんにちは。 冒頭から引きこまれました。朝勃ちなのに、賢治を思い出してしまいました。 肩肘を張らなくても楽しく読めますが、書くとなると私にはちょっと難しいなと思いました。何度も読みながら、久しぶりに、楽しさと嫉妬とありがたさを同時に感じることができました。ありがとうございます。 (アサダチ)

2018-02-27

つーか、四の五の書いてるうちにすすんでんじゃん! 笑 (あだらいっぱい)

2018-02-26

せっかくソラで音読できるまで覚えたのに、残念です。でも、まあ、掲示板に残っているので、コメントします。 《水の声が幾つも聴こえたたあ》 この出だしの一行ですが、 この《水の声》、これが何を意味するかはさておき、この一行がどこまでかかっているか、なかなか決めがたいですね。 《もうもう 乳牛に 幸せを楽しもうと言う》までということも十分ありえるし、《俺は逡巡を凌辱されとうたう》この行も入っていい。《たゆたうとうと 尊いというと》も、最後に「と」が付けられているので、ここまでということも考えられる。 《水の声が幾つも聴こえた》わけだから、各々の行に「と(いう声が聴こえた)」が省略されていると考えると、ここまでは引っ張れます。 (この場合《俺》は水の声のひとつになります) 上記のように行ごとに省略があり、また誰が語りの中心なのかが曖昧にぼやかされているので、内容がひとつの脈絡のある像としては結び難く、ただ揺れている水面に影がぼんやり映っている感じがあり、もちろんその「感じ」だけを受け取れば受け取れなくもないのですが、このような捉え難さは読んでいるこちら側にしてみると、言語的な不安を感じてしまう。(ついでに、《水の声》というのも、透明でとらえどころがなく、そのくせ隅々まで行き渡るようで不気味です) 逆に《乳牛》、《逡巡を陵辱された》という部分では、飼うとか管理とか、あるいは支配的、暴力的なイメージを喚起させられ、先の言語的不安と少ないキーワードによって喚起されたイメージから、はっきりとは見えないのに確かにある底知れぬ不安を暗示しているようにも思える。と同時に、それは《幸せを楽しもう》や《尊い》といったイメージ的には明るい(けれどもどこか力のない)言葉との対比によって、不可解さ、不気味さ、不安さを増し、逆にいえば、あたかもこういった何が何とも言えないような不安のなかで、かすかに生きようとする声を聞きとるしかないというのが、実は私たちの置かれている現在なのかもしれません。 以降を後半部にわけるとして、 《キッチンでカリを舐め/ つまりは あんまりだが》は前の《キッチンでは~》を《あんまり》以下で言い換え、 《青酸カリ ではない カリを舐められ/ 脊椎に微量の電気を感じる 》そのくらいの《あんまり》だと結ぶ。それは「死(青酸カリ)」ではなくて、生の側に傾くようにさせられてしまう、ということが、死ですら自ら選ぶことができず、他者によって与えられるもの、支配されるものであると読めば、たしかに、あんまりな話です。ただ、青酸カリよりはカリの方が手近ではあるし、容易に舐めやすいかもしれず、わずかなりとも刺激を感じてしまう、という意味では、なんだかんだ言っても手に入りやすいリビドーの方を選んでしまいやすい(これもまた「ヒドい話」です)ことを示唆しているととることもできる。あっさり言ってしまうと前者はそのような社会の酷さ、後者はそのような私たち人間の酷さであるのですが、そのような社会でそのような生を営むにとどまっている人間、どちらもヒドい。 これはもう、牛も人間も変わりゃしない。ここまで書いて、《乳牛》というのは人間を喩えたものかしらん、とも思え、個人的に、牛に幾らかの哀憐を感じることもできます。笑 それにしても、省略や曖昧化などによる意味の脈絡や像の捉え難さとは、現在の捉え難さや気味悪さと重なるようで、いやはや、もう、あんまりといえばあんまりです。 願わくば、息も絶え絶えになりつつも、かすかに聞こえる《幸せを楽しもう》《尊い》を掬えたらと思うばかり。 (あだらいっぱい)

2018-02-26

こんにちは。 「#現代詩」の《現代詩にハムとチーズを挟んで》の行、作品全体では具体的なものが《現代詩》に置き換えられているのに、この行の「ハム」「チーズ」はそのままなんですね。あ、でも、ハムとチーズを挟めば現代詩もそこそこ食える、というふうにもとれるから、これはこれで面白いですね。うん。 「#強風ハローワーク」の、 《青い空を/魚が跳ねた》という一行、これ、あるんですよね。魚が空を跳ねるってこと。俗にいう現実ではありえないのだけど、内面的現実としてはそういうことがある。というか、言葉にすると、ああ、そうだ、コレだ、みたいに自分で腑に落ちることが。 「#巣立ち」の、静かに受け入れる感が好きです。深呼吸をしたら、改めてすすみだすこともできるし、希望があります。 (家族八景)

2018-02-25

こんにちは。 とても悩ませられました。いや、勝手に悩んだのかな。とある状況でなにかを感じる、この作品の場合だと《僕》が茫然と立ち尽くすよう感情に陥ってしまう、ところが、そう感じた途端に《僕》は語り手として背後に下がり、先ほどまでの自分を、そういう状況に置かれた物語の主人公のように対象化してしまう、一瞬の離れ技を見た気がして、フワッとしてしまいました。入り込んだと思いきやビュッと離れて、つい今し方までの《僕》をさえ、対象化してしまう醒めた目の存在といえばいいのか。 で、悩んだのは《語り手》という言葉で、この作品自体の語り手が存在すると仮定しているからこそ、私はその語り手の語りを読もうとするのですが、作品のににも《語り手》が登場してしまう。でも、作品の中に登場する《語り手》は、この作品の語り手ではない。 そして、この登場人物としての《語り手》は、悲壮ぶっていて、そのことを《僕》は見抜いてしまっている。ということを作品自体の語り手が語っている。という風に、ひとつは作品自体の語り手、それから登場人物としての《語り手》、そして《僕》とが頭の中で入れ替わり立ち替わりぐるぐるしたからでした。表にでてきたり、奥に引っ込んだり、そこからさらに距離をおいてひとつの構図をつくりあげていたり。まったくハラハラして、面白いです。 いったい何のコメントだって感じで自分でも思うのですが、この感じもいわく形容しがたいのです。 (社会)

2018-02-23

こんにちは。 《食べるものを変えるべきなのか~》から始まって、そのあとの《食べるなら》で始まる二つの連、ここでの自己対話、ここで、それまでとは明らかに異なってきています。きよらかなものを希求する気持ちが、より具体的な形になろうとして動きはじめている、動きがあります。素晴らしいと思います。 付け加えると、きよらかなだけのものになれない、とか、醜さをもつことの原因を《食べるもの》にあるんじゃないかとするところは、とてもユニークで、そこのユニークさに気づいていないかのように、食べものを通して《きよらかなもの》へ近づこうと考える、この詩作品の主人公の懸命さ、人間ぽさには好感をもちました。 (きよらかなもの)

2018-02-23

百均様 コメントありがとうございます。 たぶん、これを書いた時期は、下のほうを「足裏」と表すことが、何度かあって飽きてたか、マンネリだなあと思ったかじゃないかと思います。それで、掻くといったらやっぱ尻でしょみたいな感じだったか。で、「雲の尻を掻く」っておもしろいなと思ったんじゃないか。比喩として、隠された意味でなく、その言葉が、ですね。雲に尻があったらなお面白いですけど。(でも考えてみると)「目尻」とか「言葉尻」とか、尻はいろんなものにあるのでした) 子どもの頃、「月がこっちを見てる」と思ったことがある人は多いでしょうが、その時はたぶん二つ目をイメージしていたと勝手に考えています。でも夜の星に百の眼を見たとすると、隻眼ははて?ということです。一つ目の方がおどろおどろしくて、よかったかもしれません。なんかの神話で四頭馬車を駆る馭者として語られていた記憶があります。フロントガラス越しに逆光でさしてくると困ります。 丁寧に読んでいただき、嬉しく思います。改めて、コメントに感謝します。 (冬の帰り道)

2018-02-22

私の祖母は、私が中学生の時に他界したのですが、実家に行くと遺影があり、娘や甥、姪も行く度に手を合わせます。娘も甥や姪や、将来の彼らの子ももしかしたら、そうするかもしれない。身近なところで言うと、そんなことを思ってみました。 行く生と来る生のすれ違いといってよいのか、繰り返されてきて、これからも繰り返される生命の壮大な交替劇が、一瞬交差したように感じました。 (愛、きえた星・きえゆく星へ)

2018-02-21

読みました。 渡辺さんのを読んでいたので、ぽいなあ、と思いながら、どこだっけ、あ、第四連の最終行で、さらにぽいなあ、が深まりました。 ポエムというか、ポエムっぽいというか、たとえばネルヴァルの小説とかのセリフには出てきそうな感じだなあと思いました。まあ、古風というか。 でも、順当な運びで内側から食い破るとか侵蝕といった感じはなかったです。 と思いきや、《いつか~》のところでドッカーンときたので吹きました。卓袱台返し(ノ--)ノ~┻━┻ とても楽しめました。 (月明かりを君に)

2018-02-21

渚鳥様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。 仕事上、朝方に帰ることが多いのですが、冬場は陽が昇るのも遅く、気温もなかなか上がらないんですね。要は寒い。で、寒いのは嫌いなのだけど、仕事明けなので、運転しながら天気や風景を見る気持ちの余裕はあるんです。 これはたしか一年かな、前に書いたものですが、お察しの通り、帰り道の天候や風景を見たのを発端に、スケッチ風に書いてみたものでした。 駐車スペースに昔から木瓜(ぼけ)の木があって、車を停めるとちょうど運転席の前にくるのですが、帰りついた時にちょうど木のあいだから昇っていく太陽が見えたのかもしれません。(そのくらい目を塞ぐものが周囲にないことを喜ぶべきか嘆くべきか) 苔桃は響きもよく、使ってみたい言葉でもありましたし、桃の形状、連想される色を太陽に重ね、烏については、太陽にまつわる神話の記憶からとったように思います。 改めてコメントに感謝します。 (冬の帰り道)

2018-02-20

いいですね。とても面白いです。 この作品は連構成はまだしも、行分けでなければならなかったのでしょうか。そこがちょっとだけですが気になりました。 (秋の牢獄)

2018-02-20

海外の若者を大量に、そして比較的安く雇用するというのは国内外に対して、政治的経済的メリットがあるということで、取り決められたのでしょうが、家族がたくさん故郷にいて、正月も帰れない(帰ったら怒られる)というひともいました。作業を眺めている目の前で「イー、アール、サン、」と手順を追いながら見せてあげると、「中国語しゃべれるか」と驚きつつ、目を大きくしていた。 一方で、難しい試験を受けて、「ファミリー」と国の支援を受けて、留学していた方は、明るく礼儀もよかった。 そういう人々が暮らしやすい社会であれば、と思いました。その点では、優しい語りの中に社会批判をうかがうことができます。 (陳さん)

2018-02-20

「ひと粒の砂に宇宙を見る」とは誰かが書いた言葉と思いましたが、それを思い出す作品でした。 ただ、読み通して、時間を置いて読み直すと、第一行目の、 《石が息をしていた》 これ、すごいと思います。「石」というものの象徴性の高さ云々もさりながら、それをおいても、《石が息をしていた》という言葉。 この一行を読めただけでいいや、と思えるくらいです。 (陽だまり)

2018-02-20

はっは。コメントつけにきたら、書こうとしていたことはもちろん、それ以上のことが書かれているので、うならされました。笑 個人的には、すでに第一連で完成しているような気がしました。では、退散。 (過眠)

2018-02-20

ボカロ曲の歌詞にでてきそうですね。 カタカナを混ぜこむ方法は、うまく行けば作品全体に効果を及ぼすことができるのだけど、失敗すると視覚の刺激にとどまってしまうので、個人的には避けて通りたい道です。 (幻滅の悲哀)

2018-02-20

各連それぞれハマっていると思います。特に、 《男は女にお金をあげました》(第一連)、《新宿駅まで》(第二連)、《セーラームーンのシール》(第四連)は、いいなあと思います。全体としてはどこかぼんやりした像しか結ばない作品に現実味をださせていると思う。 第六、九、最終連は、語尾や語調が変化するのですが、ここは男性パートなのでしょうか。よくはわかりませんが、そうだとすると《智恵子》の連打も合点がいかなくもない(ちょっとマックの音っぽく感じましたが)。 私の住んでいる地方の、とあるスーパーのコマーシャルで「ちょっとそこまで、ちょっとそこまで、お買い物」という歌詞が流れるのですが、《愛》というかつては(今もか?)お金では買えないと言われていたものの代表が、ここでは売買の対象になっていて、交換可能な流通の上にのっかっていることをズバッと言っていて、衝撃的ではあるのだけどもかえって爽快でもあります。が、結局、そこで消費対象になっているのが《愛》ではなく、「欲望」であることをわかってもいるから、最後は《捨てに行》きたくなるのかもしれませんね。 調子の良さで心持ち単調に流れていくところがあり、もう少し突っ込んでみても良かったのではと思いました。 良くも悪くも綺麗にまとまっていると思います。 (智恵子)

2018-02-20

四連まで心地よいリズムと違和感のない言葉に乗せられて、すんなり読み通すことができたのですが、最終の二行は、破調というか、それまでのリズムと打って変わって、むしろ意味やイメージを含めた流れをぶった斬るかのように、さも棒読み風に置かれているように感じられて、ポカンとしました。そこが面白かったです。 (何方か)

2018-02-20

拝読。 二行目の「さ」でやられてしまいました。全体を通して言葉の歯切れがよく最後まで運ばれましたが、私にとっては何につけても二行目の「さ」。これです。 (なにもない)

2018-02-14

拝読。 ここ何年かは野良犬野良猫の類を見ていないように思います。かわりに毛並みの整った小型犬が飼い主に連れられている。 子どもの時分、いなくなった野良の類の行方を親に聞いても知らないよと返されたものですが、殺処分されていたとはいえなかったのかもしれません。同じように詩が殺詩ょ分されていたとしたら、怖い話ですが、ありえない話でもないですね。 かといって、首輪をかけられてハーネスで縛られた詩を見るのも胸くそ悪いように思います。 自転車に乗った空き缶回収のおっちゃんを見たことがあります。ハンドルを握る両手にゴミ袋を持っていて、ゴミ袋には空き缶がいっぱい。そんなだから腕の筋肉がハンパない。それだけ集めても大してお金にはならないのですが。 あのなかにギッシリ詩が詰め込まれて、塵芥処理施設でプレスされることを想像すると、薄寒ささえ感じます。 (思い出す詩のことなど)

2018-02-14

拝読。 ポエムしか書いたことがないひとは、こういった作品は書かないだろうし、詩の読者以外の読み手を想定していないひとは試みもしないだろうなと思います。 各連のポエムの行と詩行の噛み合わなさが、読んでいるこちらの感覚を刺激するのかな、と思っていたのですが、噛み合わないというよりも、ヒット&アウェイの技術と思い直せば鮮やかです。 (ワタシのきもち (エルサポエム))

2018-02-14

拝読。 小鉢のなかの物言わぬ鯨の刺身が、存在でそんなふうに語っていたとしたら、手を合わせて「いただきます」と言わないとバチがあたりそうだな、と想像しました。 鯨という視点と、ユーモアたっぷりの語り口で、悲惨なことを語っているところが、非常に斬新に感じました。 (おもてなし妖怪2018)

2018-02-14

どうも、「ルー」です。なんつて。 ルー大柴、いま、知っているひとって若い方、どのくらいいるんでしょうね。 そこに「老師」もってくるというあたりが既になつおさんです。 わかりやすいけれど、うまくやる、というのは、剣道でいうと技の妙と思うのだけど、それをやるのは修練の成果として、読むのはプラス経験量に裏打ちされた勘というか察知力ですよね。じゃあ、それを引き出すとしたら何だろうと考えました。そしたら、いままでの修練で得た技術や経験によって無意識下に集積されたバリエーションパターン(の引き出し)にひっかかるか、もしくは、くすぐるかする挙動かな、と思いました。 ということで強引に「くすぐり」につなげてみました。ニンニン。 (忍殺と短歌について書いた散文です。)

2018-02-14

拝読。 ブローティガン、懐かしいです。20年くらい前に読んだ記憶があります。「チャイナタウンからの葉書」だったかな。 親しげに語りかけてくるんだけど、どこか乾いているような、そんな語り口を思い出しました。 それから、ブローティガンもこんなふうに、かっちりと書いていたんだろうな、と今さらながらに思いました。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-14

拝読。 ささいなことですが、時制が一致していないような気がして戸惑いました。 《また手にしたときは》なら《つよく想った》ではないでしょうか。あるいは《つよく想う》なら《手にするたびに》という具合では。 改行に歩くペースではなく、思考のペースの変化を感じました。 (風のつよい日に)

2018-02-07

拝読。 「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という文章をどこかで読んだような気がします。ウィトゲンシュタイン?違うかも。 それはともかく、語り手と聞き手という二者が示唆されているようで、語り手と聞き手が同一のようにも読めました。語り手が自身に語りかけるとき、聞き手(おまえ)もまた自身というように。 《全ての冬を抱いて黴の煙吹く書物》に昔から《語り得ぬこと》があって、そのなかに閉じていくというのは、(きっぱりとした語調も手伝ってか)哀愁をともなった強い決意のように感じました。 それが作品として開かれている点、語り得ぬことが語られているというのが面白いです。 (語り手と聞き手のいる風景)

2018-02-07

まりも様 コメントありがとうございます。 俳句は心得がありません。歌集、句集の類もあるにはありますが、嗜むというほど開いてもいません。ですので、指摘をいただいて、驚きました。それで、「自句自解」という語も、Wikipediaで調べてみた次第です。 〈自分が詠んだ句を自分で解釈する〉という意味だそうですね。しかし、そうすると、一句自立が危うくなるので、俳句の世界で自句自解は恥ずべきことともされているとの説もあり、まあ、良い意味ではなさそうでした。(にもかかわらず、自句自解シリーズが刊行されていることの矛盾も書かれていましたが)笑 タイトルの「感傷」なのですが、これは後付けで、自句自解と言われれば、なんとも言いようがありません。出来上がったものが、いかにも感傷っぽかったのでそうしました。 音については意識しています。たぶんですが、「幻」を置いたのも、〈i〉音と無関係ではなかったかと思います。ですが、ご指摘のように映像的にというところでは、踏み込んでみる余地があったように思います。いささか甘かったですね。 「わらい」に関してははじめは「笑い」であったと記憶しています。しかし、結局、「わらい」という収まり方になった。「笑い」も「嗤い」も、この漢字と仮名では、前の行との関係で、どうも気持ちが悪く、形として汚く思えたのです。「わらい」という仮名三文字でようやくおさまった。もともと、「さざなみ」も「ゆれうごくもの」程度のもので、その意味では「笑い」と「嗤い」、どちらでもいけると考えました。 「風」の「吹いていった」は、次行の「吹いてやった」に対応させるためのものでもありました。たしかに風は吹くものですね。そして、風が吹いていくものであるように、吹き過ぎていくものもたしかに吹き過ぎていくもの。 視点を変えて考えてみると、また別の言葉が得られたかもしれません。 勉強になります。 コメントに改めて感謝します。 (感傷・冬)

2018-02-02

バランスがよいですね。 かつてリストカットを常習的にしていた、という方の書いたものをいくつか読んだことがありますが、痛み以外に感じられず、コメントに苦しんだことを思い出しました。 事件を、または事件にまつわる色々を、モチーフとして対象化し、作品にするというのは困難な作業かもしれませんが、痛みだけしか残さないのは、読んだ方としては後味の悪さだけが残るものです。 この作品では傷跡が異なった意味に昇華されていて、いまや「私」が生きるための支えにまでなっているようで、素直に「良いな」と感じました。 《蒼穹》は、主体にとっては、空よりも大らかで清々しい気持ちの現れなのかもしれませんね。 (左手の蒼穹)

2018-02-02

読みました。 絶対に覗いてはならないのは、最も覗いてみたい。 「青髭」や「鶴の恩返し」など東西問わず、タブーを破る話はたくさんありますが、それほどに、秘密というのは、理性では抑え難い強大な魅力をもっているのだろうと思います。 ところで、破らなければ、外部に発散されない秘密はいつまでも甘く危険な香りを放ちつづけることになるので、暮らしのなかに入りこんできて、その空気で包みこみ、一見何気ない生活をも、不思議と魅力を感じさせるようになるのかもしれない。 この作品から受け取った怖さと魅力の混ざり合った感じ、ハラハラドキドキ、ワクワクヒヤヒヤを探ってみたら、そんな考えに行き着きました。 (薔薇)

2018-01-31

藤井様 コメントありがとうございます。 推敲、と言ってよいのかどうかわかりませんが、打ち直し、打ち直しではありました。 発想の時点では、〈ゆれている火を見ているうちに、その火のなかに、かつてはいろいろな夢を見ていたが現在はあわただしい日常に身をおいている自分を見て(「夢の水死人」という語はここから導き出されたのですが)、ズームインしてその目の内部に様々なものを見る、その後ズームアウトしながら煙草の先の火に戻る〉みたいな感じだったと思います。「リボン」だとか「レースの縁どり」という語もありました。それがどういうわけか(たぶん「ゆれる」だけがあとをひいて)、水面に映る(映らない)ものを見ている出だしになりました。それからその日は空気が冷たく、風も強くで、「虎落笛」も聞えていたので、使えるかもしれないと漠然と思いもしました。形式も、行分けではなく、一字空きの散文形式ではじめて、行分けになり、最終的に行空きの行分けになりました。つまり、幸か不幸か、当初の目論見はほぼ書く過程でおじゃんになったわけです。 ただ、時間的にも距離的にも作中の「ぼく」から遠くなったり近づいたりする感じを頼りに、言葉を繋げたり、切り離したりしたことは覚えています。 そういえば、個人的な話ではありますが、私は広い庭で遊んだ記憶はありませんが、となりの地区まで三十秒くらいの、また田畑ばかりが目立つ狭い土地で育ったので、近辺については自分の庭のような具合で遊んだものでした。さながら、良くも悪くも「庭を駆けまわる犬」のようでした。 コメントに改めて感謝します。 (感傷・冬)

2018-01-30

三浦様 コメントありがとうございます。 ご指摘の一節、はじけて、散るソーダと酸っぱさ、爽快さと、様子を夏の一コマとして関連させて書こうとしていて、でてきました。感じがでていれば、幸いです。 すすもう、の箇所も、直しているうちに、これかな、というところに落ち着いてくれました。 タイトルは全体を読み直して、なんとかつけてみたのですが、感傷的な心情の吐露という感じがでていれば、あながち的はずれではなかったかな、と思えます。 あらためて感謝します。 (感傷・冬)

2018-01-29

こんばんは。子どもの頃、「悪さをして隠していても、お天道様が見てるからいつかバレるよ」と言われました。そんなことあるか、と思ってたら、不思議とバレるんです。で、こってり叱られる。そんなことを繰り返してるうちに、心のどこかで、見られてるんじゃないかと思うようになる。嫌なものです。神さまがいかどうかは別にして、「神さまがいると考える心」の現象が物語られていて楽しめました。 実際の神話ではきちんと神さまが登場するけれど、この作品では、人間しか出ないし、神さまを見たひとは一人もいません。じゃあ、神話ではないのか、というと、やっぱり神話だと思う。というより、神話ってこんなふうにして作られてきたんじゃないかと思いました。 ところで、あるインディアンの部族は、太陽が昇る時祈りを捧げるそうです。じゃあ太陽が神かというとそうじゃない。「太陽が昇る時」(の現象と体験)が神なのだとか。 なぜこんなに毎日せかせかと、暮らさなければならないのか、なぜ世界はこんなに殺伐としているのか、そんな、誰もが少しは考えたことのある〈Why〉(howではなく)をいっときでも癒やす非論理の語りという意味でも神話的だと思いますし、ストーリーと呼ぶには曖昧なので、ここはやっぱり譚詩がふさわしいと考える次第です。 (光臨)

2018-01-28