作品投稿掲示板 - B-REVIEW

藤 一紀


投稿作品数: 38
総コメント数: 809
今月は6作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録
プロフィール:
詩を読んだり書いたり。中国武術をしています。現在は子どもや初心者向けの教室で教えながら、中国武術の普及と地域活性化を目的にした企画にも参加しています。

藤 一紀の記録 ON_B-REVIEW・・・・

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2022-03-24

丘の上の墓碑

2021-10-19

2021-05-08

出る

2021-03-24

たまゆら

2021-02-22

立春の日に

2021-02-03

明るい朝の歌

2020-10-28

異母

2020-09-02

野道

2020-07-15

みじめな唄

2020-05-08

恋の算数

2020-04-12

2020-02-26

歩行2014

2020-01-23

青空

2019-12-06

車の窓から

2019-11-06

歩く

2019-09-29

アカルイ唄

2019-07-29

駐車場から

2018-10-30

かえる経

2018-05-18

道化唄

2018-05-03

冬の帰り道

2018-02-18

あ、いいですね。語りのテンポに炊事場のせわしさが見えてくるような印象があります。 夫婦で食事処でもやってきたのかな、それで働き手でもある奥さまよりも早く起き出して、朝食も早々と流しこんで仕込みに入る旦那さんと、そういう生活面での落ち度に悪態つきながらも追いかけで仕事をはじめる奥さま、そんな老夫婦の長年にわたる「共同作業」を想像してしまいます。 お互いの応酬が、堪えて大人しいよりも活き活きして感じられるのが微笑ましく印象的ですが、そこには苦い感情を経て得られるものを「わたし」が大事にしているからでしょう。連の展開もめりはりがあって、いい味がでていると思います。 ごちそうさまでした。 (店主のおまかせ定食)

2022-08-07

yamabitoさん、こんにちは。 《平穏な終焉が訪れようとしていた》というからには、「私」はその終わりを受け入れる準備ができていたのだろうと推測しますが、モンシロチョウの登場で再び外の世界に目を向けた時、「私」は世界が在ること、そこに生きてきたことをどこか不思議なこととして発見したのかもしれないですね。そうなると、在った世界が終わってしまうこと、生きていた「私」が消えてしまうこともどこか信じがたく感じるような気がします。それでも「私」が、 >きっとモンシロチョウは、全てが消え >空間だけになったとしても >何もないゼロの世界で >ひらひらと時空の断片で舞い続けていくのだと思う と思うかぎりは、モンシロチョウに終わっていく「私」の生を託して、旅立てるのかもしれず、絶対的な絶望でないところがよいですね。そんなに力強くなさそうなモンシロチョウにも味があります。 ついでにいうとアウシュビッツ収容所の壁には子どもが描いたらしい蝶の落書きがあった、という話があり、真偽は不明ですが僕はその話が好きです。 (モンシロチョウ)

2022-08-07

ちょっといいんじゃないかな。一連目は意味も通ってるし、ああ、わかるよね、って感じ。二連目は、「美しい」とか「必死に」とか、その形容詞いる?って感じではあるけど、まあ、イメージの連結で遠くまで広げていく感覚なのかな。 それはそれとして《雨粒がぴちゃぴちゃと/舞い踊る》という詩句はいいね。おとなしくて可愛らしい「ぴちゃぴちゃ」と激しさを感じさせる「舞い踊る」を繋ぐって不合理でいて、わからなくもない。びちゃびちゃの方が好みだけど。こういう詩句に会えただけでもこの作品を読んでよかったなと思います。 (雨の残像)

2022-08-06

蛾兆さん、こんにちは。結論から言って、語り手さんはもう燃やされてもいいから女神様に告白して下さい。笑 まあ、それは半分冗談ですが、蛾兆さんの作品には時々仮定法が見られて、それがすんなり語りに入りやすくしているように思うのですが、この作品はいきなり場面に入って、そのまま語られる展開に引きこまれてしまいました。まったく油断も隙もありゃしないって感じです。まあ、そういうふうにすーっと読み手を入り込ませて読ませる手腕は見事です。 僕の読んだかぎりだと、それが的外れでなければですが、書かれていない語り手の設定がしっかりしているなと思いました。そこでは当然ながらイソップ寓話の「金の斧」が重なるのだけど、「正直な木こり」の正直さがそれぞれの語りのなかで示されていたと思います。このへんはめちゃめちゃ長く下手な説明をすることになるので省きます。 アンデルセンの人魚姫(上半分、下半分別々の女の代表格)ですが、彼女は足を得る代わりに声を失いますが、心から思う人の前に立てば言葉にならないどころか声もでないということもあるかもしれません。そうであれば思う人の前に立てるなら声などなくてもかまわないという心情は十分にありえます。またその足は歩くたびに痛みますが、それも思う人と同じ世界に生きて、恋することの痛みであり、やはり下半分なしでは得られないものであったと思います。なので、「下半分かな。」に落ち着くのは結局正直なんだなと思います。 あー、だけど泉の女神様はどの語り手からも距離をおかれていて、そりゃまあそういう侵しがたい存在ではあるのだけど、ちょっと不憫な気もするのでやっぱりマジ告白して燃やされてほしい。 と、だらだら書きましたが、いろいろ考えさせられることを含む作品でありながら、楽しく読めたのはつくりのよさと語り口のうまさですね、ということであります。ありがとうございました。 (正直な木こりと泉の女神についての考察)

2022-08-06

>日本人もあのときは騙されただけ こういうとこを差しこんでくる醒めた目、引いた視線が良いと思う。 (四月の風は冷たくないですか)

2022-04-18

こんにちは。いつも飽きずに読み通せるのがうれしいです。 ところで、「二〇一七年十一月十四日」の冒頭一行目が半角スペースになっていたので、チェックの厳しい田中さんにしては珍しく思いました。 (詩の日めくり 二〇一七年十一月一日─三十一日)

2022-04-02

ある程度詩を読み書きしてきた方々からすると、特に間違えたことは言ってないし、割りと普通の話ですよね、という個人的感想です。それでもまあ、詩の評価には違いはでてくるだろうけど、そこは読む人がそれぞれ違うということで。 日常の言葉に対する認識からしたら詩の文法は「裏切り」だけど、詩の言葉の側からしたら「表斬り」。じゃあなぜそれが大事なのかってとこですよね。で、それによってなにが生まれるのかということも。 面白かったです。 (詩の文法)

2022-04-01

おはようございます。いや、いいなあ。よかったです。タイトル忘れて読んでしまったのですが、タイトルと合わせて読むと楽曲を聴きながら、どんなイメージが、どんなたくさんの言葉の活発な動きのなかで結合して組織されていくんだろうと作者の頭のなかを覗いてみたくなりました。 (和太鼓楽曲(そのイメージ詩))

2022-03-29

こんにちは。根拠をあげることができるほどには気持ちの吐露とは遠いところで書いたので、それが「気持ちを吐露する作風」として私詩的に読まれた点を非常に興味深く思いました。またとても参考になりました。先の方のコメントの「共感」という言葉に驚いたのも同じ理由からです。 どうもありがとうございます。 (朝)

2022-03-28

作品上の言葉の無関係そうな関係と、その背後に具体的な何かが描かれてそうでわからないというところが面白いです。むしろ、これこれのこれ、となったらつまらなくなりそうな印象。 大人になるためにはそこそこ汚れなきゃいけない。身につけるの「つける」は「汚れる」と通じるように思います。 「収穫」は成長なのか出産予定日なのか、「くじ引き」と言えば今は親ガチャなんて言葉もあるなとか連想を愉しみました。 >返品を受け付ける窓口もあるが >余りにも遠い について、谷川俊太郎の「かなしみ」という詩の 《透明な過去の駅で/遺失物係の前に立つと》という詩行を思い出しました。 これ、なんだろうなー、と読みながら考えさせてくれる詩は、退屈しなくて好きです。でも赤ちゃんて実際わけわかんないですよね笑 (赤ちゃんの詩)

2022-03-28

いいですね。軽快な語り口のなかで明暗のバランスがとられていて。 げんこつほどの存在ひとつで命がひっくり返ることの 滑稽とバカらしさに という詩行に語り手の哀切に似た愛情を感じます。ユーモア。 (老猫よ)

2022-03-28

かわいい。 >わたしたちは目配せして >すぐさまデッキブラシを手に取った こういうとこ、最高に目が洗われました。デッキブラシだけに。 (夢三夜明け前)

2022-03-28

言葉をもって僕たちはやりとりをしていて、普段でも言葉での理解が十全にできるものだと図らずも思い込んでしまうふしがあるけれども、それを打ち砕く現実ってありますね。この作品の所々にそうした言葉の現実に突き当たった語り手や登場人物を思い浮かべます。 この言葉の現実というのは現在のロシア・ウクライナ情勢とそれをめぐる言説とも重なっているけれど、語り手の深夜から翌日の夜までの時系列上で、個人的な位置を軸に語られているところが良いと思います。恐らくそのために〈現実の時系列の並べ替え〉が必要だったのだろうと推測します。 日常的現実のレベルで言葉が傷ついた時、そこから普段遣いの言葉で語っても通じることは少ないからフィクションという形をまとって、日常的なありようでは語れない言葉で語れなさを語る、という、つくりとしてもしっかりした作品だと思います。 ありがとうございました。 (星の星.)

2022-03-28

おはようございます。そうですね、言ってしまえば朝の通勤風景ですが面白いと言っていただけてホッとしています。 (朝)

2022-03-25

おはようございます。作者としては特に共感する・しないについて意識していなかったので、こういうこともあるのかと戸惑うほどには新鮮な驚きでした。感想ありがとうございます。 (朝)

2022-03-25

「ウルトラマリン」 ウルトラマリン て いいよね 虎と羊駝とマリとリン、 二頭と二人がいっしょに暮らしてる 大変は大変だろうけど いのちのやくどうがある でも それだと ウルトララママリリン、 うると ララ ママ リリン になってしまうから 虎と羊駝、 羊駝とマリ、 マリとリン、 二人と二頭たちの 血湧き肉躍る関係 をあきらめ スキャンダルの匂いも消して ウルトラマリン に戻した 今夜 ウルトラマリンの深い青は ひきはなされた者らそれぞれの 痛みを内包しているようだ 澄んだ大気の奥の きんきんの月明かり 浮かびあがる空の色を眺めては しくしくしみいるうつくしい音いろに ひとしきり 身をひたした (「びーれびしろねこ社賞」 応募スレッド)

2021-12-20

《子牛を拭う》という詩句の繰り返しは何度も何度も拭っている様子なんですね。繰り返しのリズムのなかに懸命に子牛を拭っている語り手の姿が目に浮かびます。語り手の奮闘と子牛の動き、動きをいちいち見つめる眼差しに、作品には書かれていないけれども、生まれた命を尊ぶ語り手の姿勢までが立ち上がってくるようです。 ラストはショッキングですが、行間にはやはり語り手のオス牛への感謝や慈しむ気持ちが向けられているように感じました。一票。 (子牛を拭う)

2021-12-09

不可解なスヌヌくんに惹かれて読まされてしまいました。あたかも見てきたような語りのなかに正体が隠されていると思いきや最後まで謎のままで、奇妙な世界に立ち入ってしまったような感覚を愉しみました。 >私も実物は見た事がないのです というオチはない方が個人的には好みです。 (スヌヌくん)

2021-12-08

補足です。 stereotype2085さんのコメントでの指摘にある、 >遠くに降る雨の無数の糸の音の隙間から の「の」については、読みようはそれぞれということを前提にして言えば、私見ではそこは、 >もっと遠くに降る雨が空気を切り裂く音が響いて に関連していて、語り手が(この連の一行目にありますが)耳を澄ませている方向と距離、想像された具体的な様子とを同時に収めていると読んでいて配慮が行き届いていると思っています。この「の」によって遠くからもっと遠くへ自然に誘われました。 あと、先のコメントで触れた〈騒々しさと静謐さ〉の差について、作品としては全く異なりますが、不思議と黒田三郎の「夕方の三十分」が思い出されました。 (泉)

2021-12-03

嫌いです。この作品は僕の知っている作者の作品の中でも特に嫌いです。ああ、もう、嫌いすぎてしかたがない。 ……と、勢い余って感情的になりました。すいません汗 >ぽつん >と一つ >また、ぽつん >と一つ >ぽつぽつぽつぽつ >アァ、アァ、アー、アーーーーああああああああああ >ぱさぱさぱさぱさぱさぱさぱさぱさぱさ >サアーーーーサアーー、サアーーーーー >きいいいいいいいいいいいん >こぽこぽこぽ >ひうひうひうひうひうひうひう と、いたるところに擬音表現がでてきますが、これらが前後の詩行を効果的に視覚的に修飾していて、立体的な映像になるのに手を貸しています。 そのために雨の降る様子とそのなかでの風景の変化が、視聴覚双方において非常に鮮明で、現在形で語られているのがひと役買っているとはいえ、読むうちに語り手に同化してその場に立たされてしまったかのような錯覚に陥ります。 どれも特別に独創的な擬音表現ではないですが、特徴を捉え、表現が表情を伴っています。さらに詩行と結びついたそれぞれの擬音表現の繋げ方から立ち上がる激しさ。この激しさ、騒々しさが第五連以降の静謐さをより引き立てています。その差は言葉にするのは憚れるけれど、息を呑むほど美しい。 >見えないよ」 >と、私は言う ここで語り手は「何が」見えないのでしょうか。隣にいる死者かもしれません。しかし、 >そこに何も見えない >私には見えないのだ、と私は思う >だが死者は微笑んでくれる と語り手は言います。それは隣に優しくたたずんでいる死者だけでなく、死者といっしょに見ている〈水面の上の虚空〉にいる何者かであるように思えてなりません。二行にわたる「見えない」ことの強調は、見えている(もしくは見えているように感じている)ことの証明であり、〈水面の上の虚空〉にはまた別の死者(失ったものたち)がいるように思います。 逸脱的に言えば、森という異界を思わせる領域のなかの泉という生命をイメージさせる場で、雨に打たれたのち死者と出会う様子は冥界訪問の変奏のようにも読むことができ、隣にたたずむ死者、私、水面の上の虚空に在る者の間で交わされる視線に優しく温かいだけでない感情の往来を感じ、なんとも言い難い深い味わいのある作品で大嫌いです。 (泉)

2021-12-02

>藤さまの評は少し強引に「曙(エオス)のために」に引き付け書かれているようで、違和感を感じました。 とありますが、よく読んでいただければわかるように、「書かれている内容は当然違うけれども」と入澤作品とは異なることを認めた上で、「『~のために』と繰り返される語り口は同じです。」と書いています。 また「それ自体は語り口のパスティーシュと考えれば問題ない」と第一連における語り口もしくは「~ために」を用いた語法の類似については問題ないと断った上で、以下に「~ために」が繰り返されることで強調されて響いてくる一連に対して、二連以降が弱いと書いています。 ですので強引に入澤作品に結びつけていると読めたのであればこちらの不手際ですが、要すると先のコメントの主旨は滝本さんの返信にあるとおり、その後半にあるのであって、ダメだとしたのは似ているからではなく、似ていようとなんだろうとそれを無関係にさせるものが作品の言葉からは届いてこなかったことだとご理解いただければと思います。 (あなたのために)

2021-12-01

僕は同窓会に参加したことがないからわからないのだけど、参加していたらこんな気分になるのかなと考えてみました。 >そのまま僕の呼吸に入り >胸の中をめぐって息となり に違和感を感じました。ここは一行でまとめてもよかったのではないでしょうか。また、それにつづく >また吹く風に帰って飛んで行った の「また」は削った方が第三連の最終行が活きたかもしれません。 >この土地に生まれた人はみんな >この土地を所有して >全部自分のものだと思っている という場合の方が実際には衝突が起きやすいように思うのですがどうでしょう。意地悪な読み方をすれば年をとった語り手が過去のさまざまなごたごたを忘れたか忘れたくてか嘘をついて平穏無事であったと思いたいようにも読めます。言い換えればリアリティに欠けるところがあるように思います。ただ、語り手が時間の経過にどこかリアリティを感じられていないとしたらアリかも。 しみじみとした雰囲気のある作品ですが、表現として見直せばさらに引き締まるように思います。 (坂道の少ない土地)

2021-12-01

?の部分は「しか(叱)られている」です。文字化けしました。失礼しました。 (あなたのために)

2021-11-30

んー。ダメだな、僕はちょっとこれは良い評価はできない。滝本さんの作品は好きなほうだし良い書き手だと思うけど、個人的にこれはいけない。 (以下、一部抜粋)  ぼくの夜を── エオスのために 給仕盆を抱いているエオスのために 中甲板でテープを投げるエオスのために スクリーンに溶けてしまうエオスのために ?られているエオス 制服のエオスのために いつもおどろいているエオスのために 不器用なタイピスト エオスのために お魚の横顔のエオス せかせかと階段を上るエオスのために 〔入澤康夫、「曙(エオス)のために」、第一連〕 (抜粋ここまで) この作品の第一連を一読してすぐに、一部抜粋した入澤康夫の作品を思い出しました。書かれている内容は当然違うけれども「~のために」と繰り返される語り口は同じです。この語り口を使いつつ、踏み台にして以降へジャンプした感があります。それ自体は語り口のパスティーシュと考えれば問題ないのですが、ジャンプに成功しているようには感じられませんでした。 >黒髪は夜へ流れてゆく >風見鶏は見るだろうか >素っ裸の直立した朝 など目を惹く詩句もあるけれど、「~のために」は語り手が語りかける対象に対して(想いも含めて)なにがしかを捧げる構造だとすると、二連以降が弱すぎて「~のために」と繰り返される第一連に負けているように思えてなりません。 >あなたのために >出来ることなら  >ただあなたのために という最終連は〈そのように強く願うけれどもできない悲しみ〉と読めますが、そこにいたるまでの起伏が弱いから残念ながら強く響いてきません。思い切り大ざっぱにいえばバランスが悪い。 ひとつ言えるとすれば僕はこうした強めの書き出しをするのは怖くて尻込みしてしまうけれど、そこをやってのけたということです(皮肉でなく)。 次の作品に期待しています。 (あなたのために)

2021-11-30

サイトの最初に出てくるサムネイル表示でパッと見た時、旧仮名遣いで厳つく上段から語る印象がして流してしまったのですが、面白く読みました。 これは逆に旧仮名遣いと厳つい語り口がベースになっているから愉快なんですね。さも高尚な問答をしているような語り口からの、 ――あっ、しまった。 これ、最高です。厳格さを装っているひとが突風にやられてカツラが外れてしまうような面白さがあって、価値の転倒のような味わいもあります。 読んでみるもんだなあ! (《世界》を握り潰す)

2021-11-30

>軽快なようにも、そら恐ろしいようにも聞こえてきます。 という点、同感です。ただ 僕は「ジャムが感じているかもしれない、食べられることへの恐怖」とは解釈していないんですね。ジャムは動きとしてふるえることがあっても認識はできないから。認識できるのは語り手であって、しかも語り手が社会人であれば社会に飲まれたり食いものにされる恐怖や憂うつさは余計わかると思うんです。そのあたりは《たのしいゆめみて/ゆかいにうたって/……/パンにのるまで》によくでていると思います。 だから「ジャムが感じているかもしれない、食べられることへの恐怖」があるとしてもそれは語り手の恐怖や憂うつさが〔語り手→スプーン→ジャム〕を通して伝わったものだろうと。だけど、それを〔ジャム→スプーン→語り手〕という方向で捉えるのもアリだなと思いました。 で、僕は先のコメントで「対称的」と書いたのですが、前半のジャムの《たのしいゆめみて/ゆかいにうたって》が語り手の反映と考えると、それは後半でぐるっと裏返って重々しいものになり、まさに「ふるえ、ふるふる、ぷるぷる、というリズムがそら恐ろしく」響いてきます。 おかげさまで、この作品のよさがよりわかり、読みとれたことが明文化できたように思います。ありがとうございます。 (ふるえ)

2021-11-30

音韻と文字の形がもつ感触、「ふるえ」という語がもつ多義性が活きています。パッと見た時のインパクトもよいです。 e音というと、 光る地面に竹が生え、 青竹が生え、 地下には竹の根が生え、 根がしだいにほそらみ、 根の先より繊毛が生え、 かすかにけぶる繊毛が生え、 かすかにふるえ。 (萩原朔太郎「竹」、一連) 眠れ 瞼(まぶた)よ おまへの向(むこ)う 靄(もや)に流れる うすら明(あか)り 眠れ 眠れ しづかに眠れ 息をかぞへて 夢をかぞへて きらきら光る朝まで 瞼よ 幾つの夜をこえ 眠れ 眠れ しづかに眠れ (立原道造「子守唄」) などがすぐに思い浮かび、その点から手法としては近代(伝統)的ともいえますが、十行目に出てくる二回目の「いつまでも」は〈ジャムのふるえ〉から〈語り手のふるえ〉への転換点として捉えることができ、以降が暗さや重々しさをもって響いてくる点、前半の〈ジャムのふるえ〉と対称的になっている点で直進的なイメージが強くでている例示作品とは異なっていて面白く感じました。 「火曜日」の選び方もよいですね。日曜日から土曜日まで音が一語なのは「火」と「土」のみで、土曜日は週末、火曜日なら一般的にはまだ当日を含めて最低でも四日は仕事に出たり学校に行ったりしなければならない。語り手の憂うつなふるえが表れているようで、意味的にも「音」をだらけさせないためにも合っているように思います。(←超推測) 細かく見ればよく作られていて感じられる作品ですが、音韻性が目立ってしまうところで評価が分かれそうではあります。 (ふるえ)

2021-11-30

ああ、これはいいなあ。 作中にでてくる >うるるるる は擬音というよりは視覚的でもあって涙の形を連想させます。それが「うるう」を合わせると三回もでてくる。ずっと泣いてたんだろうと想像できます。それは「泣いた」と書くよりもよっぽど鮮明に浮かぶ。 それと「うるるるる」というのはいくらか少女漫画チックな幼さが見えて、「さいてい」とか「きょう」とかの平仮名表記と合わさって語り手の少女っぽさを連想させるのだけど、その効果もあってか「御空」という語に違和感がない。 ふいに誰かを失ってしまって寂しさや言い尽くせないいろいろがあるんだけど、それでも否応なしに前にすすまなければいけないということを語り手は知っていて、その自覚があることこそが悲しさを引き立てているように感じます。 最後の二行のなかの「光とともに」は、人魚姫のラストがこんな感じだったかどうか忘れたけど、浄化されて空に昇っていく様子を思い浮かべさせてくれます。 このラストのおかげで、読んでいるこっちまで、すすまなきゃなあ!と思わされました。 (雨の痕)

2021-11-29

だるまが睨みをきかせているのを感じとると、わかっちゃいるけどなんとなく圧を感じますね。一挙手一投足まで、果ては気持ちのありようまで見られているような気がしてきて、「そんなに見てんなよ」とちょっと言いたくなってしまう。で、「そんなに見てんなよ」っていうのは、がんばってはいるけど、ほんの微かに隙があったことを認めることでもあったりして。そういう見えにくい心の動きが表れていると思います。 ところで、この語り手は、願いを叶えようとがんばっているんだけど、そこには自分の目標を達成しようというのと、親の期待に応えたいという気持ちもあるように感じます。鎮座して睨みをきかせて見守るだるまってお父さんぽいところもあるし。 だからがんばっているんだけど、これで本当にいいのかな?という迷いもどこかにある。期待はわかるし応えたくもある。でも他に向かいたい先はあるんじゃないか。とはいえ期待を裏切るのもしたくないし、心配もできればさせたくない、みたいな。 短く整った行分け構成のなかに、だるまと向き合う私を通して、親と子の表にださない複雑な感情の機微が読み取れる温かみのある作品です。 (片目のだるま)

2021-11-29

身近で目に見えることからはじまって目に見えないことへシフトしていく詩の常套に沿ったつくりで派手な展開こそないものの、三連の >Spotifyで原田知世の >「新しいシャツ」を聴く >このしずかで >うつくしい旋律は >水なのかもしれないと思った という切り替えは絶妙。日常の水への認識が非現実的で発見的な方向に伸びていく中間点として無理なく働いている。 「うつくしい」「くらやみ」など平仮名を選択した点も柔らかさを感じさせ、また他の語よりも目立つことを回避していて選語に細かい配慮を感じる。 「思った」の繰り返しは少し気になったが、思いも水のように流れたり蒸発したりするものだとすれば全体を損なうほどのものではない。 よいですね。 (水)

2021-11-28

>魔物がそこにいて話しているあいだ >俺たちは身動きできず >黙って聞いていなくてはならない >俺たちは決して目覚めることができず >起き上がろうとしても動けず >魔物が話し終えるまで苦しみながら聞かねばならない というからには「俺たち」は寝転がっていて金縛り状態にあると読めるのだけど、まあ、回想というものが現在の意識の外から侵入すると考えても、寝転がる必然性はないように思います。 それから「聞き合わせ」である以上、こちら側(俺たち)からの働きかけが先であって、語るのが「魔物」だとしても呼ばれもしないのに語るというのは論理が破綻しているんじゃないでしょうか。 まあ、それは置くとしても随分古風な語り口で戸惑いました。しかし和訳された西洋「近代詩」の3軍選手みたいなおもしろさがある作品です。 (魔的聞き合わせ)

2021-11-27

面白かったです。序盤から端整な語り口とディテールが効いていて、それが後半の >ほどよく眠くなり からの流れ、転落しながら放尿しつづけて落ちるまでの展開を活かしています。とびきりアホっぽくて楽しい。 >心残りは尿意がまだ残っていたことだった。 というオチも、体はすでに原型をとどめなくなっているのに、生きているものにつきまとう生理はまだ残っているという生に対するしぶとさが表れていてうまい。 (ゆく (二〇一〇年一〇月))

2021-11-27

>夜空は とじている >ちいさく、まるく からのうずくまったような印象から「月」へのつながり、 >たしかなものは >あのポラリスのさみしさか >(あるいは 灯台か) からの広大な暗さのなかでの光の小ささと「か」によって示される疑い探す目、その心細さ、それは、 >のびている >へその緒がある へ繋がり、 >しろく、ほそく 燃えている へ受け継がれていく。この絶え絶えとした印象は、わたし(=彗星のかけら)のいまにも燃え尽きそうな様子を連想させる。 そして、「かけら」からの繋がりとしての「欠けてしまった指先」でたどられる途切れ途切れの星のあいだという頼りなさ、あてどなさ。 さまざまなものをたしかめながら、 >なにもたしかなものはない ことを最後にたしかめたのだろうか。 >ウミガラスはいつ鳴いただろう と、その記憶も薄れていくなかで。 天の北極とされるポラリス、北にすむウミガラスの対応のみならず、作品の言葉のさまざまな部分が無駄なく関係づけられていて、全体からは言葉にし難く体に沁みてくるものがある。ポエジーと呼ぶとすればそれに相応しい。 冷たく暗い死の淵からの絶望の声が聞えてくるようでもあるが、同時に温かみを感じる。それは、こぐま座の神話に拠るとすれば、 >さざ波のあわいから >のびている >へその緒がある と、 >星座のかたちをなぞっていく にあるのかもしれない。静かに味わっていたい非常に素晴らしい作品です。 (夜空のかたち)

2021-11-27

だだっぴろい夜に感じる寂しさという感じでしょうか。機器のボタンもちっぽけながら世界とつながる機能をもっているから愛着がわいてくるように感じられるからむげにはできないですね。中也の「月夜の浜辺」に比べると情緒的な湿っぽさがないのと、引きこもり設定というのも手伝って狭さが感じられ、当世風です。 (ボタン)

2021-11-27

>あなたをわっと襲うとき、 の「わっと」がいい。大人しい語り口のなかで目立って大きく響いて手狭な空間を広げているし、そのくせ語り口に馴染んでもいる。 最終連も2連との落差がある。意地悪な皮肉ともいじらしさともとれてかわいい(これは僕の女性に対する見方のバイアスがかかっているみたいでアレだけど笑)。 それを思うと2連は甘々で大袈裟な感じがあるけど、狙ってのことのように考えると計算して全体が構成されているように思う。 クスッてなっちゃったな。 (恋慕)

2021-11-27

冒頭からホームレスのひとを思い起こさせます。片隅にじっとして徹底的と呼びたいくらい卑屈になっているホームレスか。どうしてそういう見方になるんだろう。 いろいろな事情があってやむなくホームレス生活をせざるをえなくなった人がほとんどだと思うんです。でメンタリストなんちゃらが「ホームレスなんていない方がいいよね」とか言って炎上した時も、ホームレスのひとにも人権があるもんね、って言いながら、実際にホームレスのひとを見ると「いやだわー」とぼやいている人が周りにいました。だから、うわべでは「人権が」と言っていても「嫌だ」と思っている人は一定数いると思います。 で、ホームレス生活をしているひとはそれを知っているから、自分にも事情があるんだけど、そういうのはうっちゃってできるだけ目立たないようにしている部分はあると思うんです。要はホームレス生活をしている人が卑屈なんじゃなくて、ホームレスというものに対する社会の目が彼らに目立たないような態度を強いてるとも言えるんです。 だけど麒麟というお笑いコンビの片方(川島じゃない方)がホームレス生活をしていた時期があって、のちに「ホームレス中学生」という本を書いた。これが結構話題になったこともありました。要はね、ホームレス生活をしている人が必ずしも卑屈な生き方をしているわけではないということです。 で、ここまでホームレスのひとを卑屈に描いているというのは、「社会一般としては迷惑だと思われている、だから大人しくしてなきゃならない」という見方が最初にあるんじゃないかと思えるんです。一見同情的にホームレスのひとの側に立っているように読めるけど、実際は社会一般的な見方に沿って作中主体が設定されているよね、って話です。 もちろんこれは詩であって現実ではないから、こういう作品があってもいいとは思います。だけど逆に言えば作品だからこそ現実ではそうは見えないとしても人間らしいところをもっと出してよかったんじゃないかと思います。 具体的には、 >本当は体が痛くて >地面に横になって眠りたい >本当はお腹が空いて >コンビニのおにぎりを盗みたい >本当は大声で泣き喚き助けを呼びたい に対して、 >でもそれをすると、それをすると >人間ではなくなりますから >私はベンチに座っていたいのです と続くのですが、世間の目を気にしてありきたりなイメージに合わせて生きていた存在が、《それをすると/人間ではなくなる》のではなくて、それをするときにはじめて人間らしさが表れてくるんじゃないかということです。 (20201116)

2021-11-21

「亡くした人へ」というタイトルなので、亡くなった方を思って書かれているのだろうなあ、という〈思い〉を汲んで読む方にとっては何か感じるものがあるかもしれないけど、そういうのをなしに作品の言葉だけ読んだら、 >亡くなった人の言葉を糧に とか >いつか超えていく >良い言葉と共に とか、中高生でも書きそうな(または書かなそうな)、いかにも語感頼りの寒い表現と意思表明があっていっそのこと引用文だけの引用詩にした方がまだマシだと思った。作品としては駄作です。 (亡くした人へ)

2021-11-21

権利は誰かによって与えられるものかというと誰かではなく本来は法によって認められるものだと思う。その法によって認められる権利というものを語り手は「あなた」に与えると言っている。これはどういうことか。一行目の >世界で一番高い塔から飛び降りる権利 というところからは「飛び降り自殺をする権利」というふうにも読める。しかし法は果たして自殺を権利として認めるだろうか。現在において「安楽死」は認められているようだが、限られた条件下のみだ。海外ではスイスで認められている機関があるそうだが、そこでも条件はあるようだ。国内では法的にはまだ一般的には認められていないと言える。 にもかかわらず、その権利を与えるという語り手は法を逸脱していると考えられる。 ところで「都市」とは何だろうか。国際的には統一された定義はない。産業の発達によって人口が集中してライフラインがつながりインフラが整備され、そこに生活する人々が利便性を享受して営めるという機能的側面によって語られるだけだ。けれどもおもしろいのは当初は人々が生活しやすいように作られたはずの都市は、発展することによって人々によって動かされるのではなく、人々を動かすようになるということだ。人々は自分の意思によって生活をすすめているようでありながら、我知らず都市のあり方にしたがって生活を展開する。大都市であればあるほどそういうものかもしれない。まるで都市がひとつの意思をもち、人々がそれに合わせて生活しているかのような感がある。都市生活者として内部で生きているうちはそのことに気づきにくい。それほどに都市とは生活者にとって見えにくく、気持ち悪い側面をもっていると言えるだろう。更に人口が密集しているがゆえの問題もある。例えば、社会的経済的状況のために困窮に立たされ自殺を余儀なくされる構造がそれだ。都市のありようについて行けない人々をはじき出して疎外する構造を都市はもっている。 作品世界の登場人物である「あなた」もはじき出され、自殺を選ぼうとした一人でなかっただろうか。語り手は、都市というものによって外に追いやられたようでもある「あなた」に飛び降りる権利を与えることで、都市のありようを示そうとする。内部にいるために近すぎて見えなかったものは離れてみれば、想像以上に逆さまなのだ。あるいは作品において、その隠されたありようを示すために、都市は通常の見方を逆さまにされねばならず、「あなた」は飛び降りる権利を与えられたとも言えよう。 そこに語られる「逆さま都市」は外観としての具体的な都市らしさは認められず、抽象的観念的であるのはいささか残念に思えるが、具体性を剥奪されたありようこそ都市の不気味さ冷たさを浮かびあがらせてもいる。これは語り手によってとらえらている都市のありようであり、この点語り手は「あなた」に対して同情的である。むしろ「あなた」への同情が、法によっては認められていない自殺をする〈権利を与える〉という法からの逸脱へ語り手を向かわせたと考えれば、ここに作者の、都市の構造によって不遇な位置に立たされた「あなた」(人々)への寄り添いと社会批判が表れているとも言える。そして以上のように読んでみると、 >ずっと黙らなければならない >ずっと永遠に黙っていなければならない という強調に、やるせなさに似た悲痛なトーンが表れているように感じられてくるし、「生きて語れ」と語っているようにも思えてくる。仮に「あなた」が飛び降りていたとしたら死人に口なしなので言うまでもなく黙らざるをえないのだが。 以上、都市のありようとその中での生と死の関係について考えさせられた。関係ないが「世界でいちばん高い」建物は800メートル以上もあるビルでドバイにあるという。「塔」という意味もあるらしい。二位がスカイツリーだとか。こんな高さから飛び降りるなど想像するだけで死にそうなので生きて語ることを選びたいものだ。 (逆さまの都市)

2021-11-20

悪くはないけど良作とは思えなかった。 一、二連についてはイメージの繋げ方は際だった表現はないもののスムーズで視覚的、聴覚的に外界から内界へ移っていくさまが感じられた。 三連について言えば、二連の最終行、 >遠い記憶に明かりが灯る からの流れとしての「振りだした雨」(「振り」は「降り」の誤表記か)と読め、さまざまな記憶によって打たれる語り手の様子を窺い知ることができる。天候的には《幾千もの星々の煌き 》が見えるほど晴れていたところに雨?という違和感もあるが、作品世界内の事実に乗って、語り手がある程度の時間歩いていたととれば呑み込むことができる。 《振りだした雨に私は身を委ねる/知らぬ間に涙溢れる》という二行は、文章のみならずドラマなど映像表現ではありふれていて陳腐とさえいえるが、それだけに比較的誰にでもわかりやすく、それ自体は問題ない。 けれども、このように丁寧にイメージの繋げ見えやすくして作品世界に入りこませながら、最終行で「魂の許され」といういかにも抽象的な〈説明〉を置いてしまったことは解せない。恐らくここが作品が最も語りたかったことだと推測するが、それであれば「魂の許され」をこそ読み手がそうと感じられるように表すべきだったと思う。 シチューをおいしく食べていたら最後になって生煮えのジャガイモがでてきた感じで悔やまれる。 (小夜時雨)

2021-11-16

なにもかも移ろって残らないね。無常を見つめる語り手の虚ろな目を感じます。 とはいっても俗世に生きてる間は煩悩と無縁ではいられないというか、むしろそれにまみれて四苦八苦しなくちゃいけないんだけどね。笑 多くを語らないことによって、語り手の語りたいことの語りがたさ(伝えにくさ)が表れているように感じました。 (結縁)

2021-11-15

こんにちは。冒頭から重々しさを保ったまま五感が変化して最後にパッと開く展開の快い散文詩でした。「十月」もそうですが、最後にきちんとカタルシスが感じられて好きです。溜めがいきているんだろうなあ。 (藤の花)

2021-11-12

エイクピアさんの、 >この詩では悠久の時、石器などの発掘物、磨製石器など、古代への憧憬などがあるのかもしれない という箇所、とりわけ「古代への憧憬」という部分を読み、改めて自作を読み直してみたところ、もうほんとうにそのように読めました。そして他の方々の評や鑑賞、感想も多少の違いこそあれ、エイクピアさんと重なるところがあるように感じました。 それは出来上がった時に僕に見えたひとつの像とはやや異なるところもあるのですが、先に書いた通り、「もうほんとうにそのように読めた」ということは、僕は図らずもそれを書いたのだと思います。自分が何を書いたかをエイクピアさんをはじめ書き込んでくださった皆さんによって教えられた思いで、些かの残念さはあるものの非常に嬉しく感じました。 それは僕が書いたもの/書かれたものは、すでに僕のものではなく手を離れていたことを確かに知れた嬉しさです。貴重な体験になりました。深く感謝申し上げます。 ※秋山俊(駿?)については不勉強で読んだことがありませんでした。教えてくださってありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-11-11

もなかさん、こんにちは。精緻な読みと御批評をありがとうございます。いやー、さすがだなあ、と指摘の鋭さにびっくらこいております(←ふるい)。 提示された作品は書き手の手を離れ、読み手の言語経験の空間に置かれ対象化されるので、作者として特に申し上げることはありません。というより詳らかに読んでいただき、感謝以外の言葉はありません。またcold fishさんへの返信にすでに書いたことではありますが、書かれたものへ感想を越えた批評のありかたは作品に対する評価の枠を広げるものとして開かれるので、その素材にしてくださったことに深く感謝します。 ところで、文中の、 >語り過ぎであり、この作品の助長さを感じさせる要因になっている。 という点については僕も思い当たる節があり、よくぞ指摘してくださったという感があります。また今回は本文が先で、それを補う目的もあってタイトルを決定しましたが、その際の全体的な詰めの甘さが「題名への依存」というところに結びつく一因になっているように思います。 こうした経験を励みに今後の詩作に活かしていければと考えています。とかなんとかいっても僕のことだからどうだかなー笑 本当にありがとうございます! (丘の上の墓碑)

2021-11-10

yamabitoさん、こんにちは。読んでくださってありがとうございます。 「石」ってつねに生活の身近なところにあるわりに、注意して見られることがなかなかないような気がします。もしかしたらふだんの注意力って思っている以上にぼんやりしているものなのかもしれませんね。 石を含めて自然物の言葉を喋らないところが好きです。なんでだろうなー。 yamabitoさんのような書き手から「大変良い」と言っていただけるとは予想だにしていませんでした。とても光栄に思いますし、励みになります。 ありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-11-10

妻咲さん、読んでくださってありがとうございます。 >全ての石は誰かの墓碑であり、それは丸くともそこに横たわり、そうして立っているのでしょう。 ここ、めっちゃかっこいいですね。こんなコメントをしてみたい泣 >全ての石は誰かの墓碑であり ということもあって、誰(もしくは何)をいれませんでした。 >丸くともそこに横たわり、そうして立っているのでしょう。 これも実は考えました。丸くて横たわっているものが立っているのは面白いな、と。妻咲さん、目がいいなあ。 コメント、ありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-11-10

因循さん、こんにちは。ご高評くださりありがとうございます。また丁寧に読みこんでくださったことも深く感謝します。作者冥利に尽きるというのはこういうことを言うのだなと喜びを感じました。 すでに書いたことなので改めて繰り返すのもなんですが、言葉で探り探り書きたいものは何かと追及しつつ、言葉を置きながら最終的に書きたいものに行き着いた形が拙作であり、僕自身ひとりの読み手として、その時点ではまだはっきりとは見えていない言葉に立ち会えたのは幸運でしたが、因循さんがご自身の読みで触れてくださり嬉しいかぎりです。 というか、もうね、これははっきり言って因循さんが良い詩にしてくれているんです。「推し」と書いてくださったけど、それはそういうことです。少なくとも僕にとっては作品よりも因循さんの文章のほうが素晴らしく感じられますから。笑 作品は読み手がいて成立するという説はすでに一般的になっていますが、評価の良し悪しはあれ、いずれにしてもそういうものだなあ、などと改めて襟を正させられる思いでいっぱいです。 本当にありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-11-10

cold fishさん、御批評ありがとうございます。 >自分が中学生の頃だったら少しは何か感じるものがあったかもね。 そうですね、僕はどちらかというと中学生とか高校生の頃だったら見向きもしなかったんじゃないかと思います。「なんだ、これ」とか言って。そういうものをどういうわけだか作っちゃった。変なもんです。 >ネットでも詩雑誌でもこういう抒情はうんざりするほど見てきたし、価値を見出せない。あと、この手の抒情は誰でもその気になれば簡単に「作れる」と思うよ。 おっしゃる通りで、この手の作品はうんざりするほどあって、いわばこの作品には「友達」が多い。詩誌やネット詩だけでなく、詩史的にも似たり寄ったりは多数見受けられるのではないでしょうか。となると多くの言語経験と磨かれた詩意識を持つ方々から見て「価値を見出せない」のはもっともだと頷くことができます。 その意味で成功価値(失敗も含む)としては散々な結果だといえますし、寧ろそこを指摘してくださったことは大変ありがたく思っています。また、僕自身は作る過程で全く意識していなかったことではありますが、抒情として位置づけてくださったことに関しても、詩に抒情というものがまだ生きていたのかというちょっとした驚きとともにありがたく感じます。 >この手の抒情は誰でもその気になれば簡単に「作れる」と思うよ。 この点についても確かですし、今後もこの手の抒情は作る書き手は現れることでしょう。それは認めるところではありますが、ではそこにはどんな理由があるのだろうと考えてみるに、先に成功価値について書きましたが、この手の抒情は成功価値こそ低いけれども「受容価値の面では捨てたものではないのではないか。だからこそ読まれもし、書かれることになるのかもしれない」などということを、cold fishさんをはじめいただいた様々なコメントを読んでいるうちに思いつきました。もしそうなら安易というのもけっこうな曲者で馬鹿にはできないことのように思えてきます。 いずれにしてもプラスとマイナス双方から光をあてられることになり、作品のありよう(姿形)がきちんと晒されたことは作者として幸甚でした。重ねて感謝申し上げます。 ありがとうございました。 (丘の上の墓碑)

2021-11-10

ほばさん、どうもです。過分なお言葉をいただき恐縮です。 樹かあ。そういえば樹って空に向かって手を広げて立っているような感じありますよね。でもなんとなく生きている感じがして、温い気がするんですよね。というのはもちろん後付けで、「石」が素材として浮かんでからはそれ以外の可能性を考えなかったんです。いかんですなあ。 >音楽が続いているというのも宇宙が拡がり続けているみたいな、歴史が時間が過去から未来へと壮大な連なり という点については、悪い癖ですがそういう時間の流れやその中での出来事の堆積(運動)を音楽としてとらえてしまうところがあるんですね。で、必要と思ったから置いたのには違いないけど、そういう癖を許してしまったかなと後になって思いました。よく読んでくださってありがたいやら反省するやらで頭が下がります。 ありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-11-10

きょこちさん、読んでくださってありがとうございます。 「えいえん」も「とわ」もひと言で言ってしまえば失われてしまうものがあるなあ、と思ったりします。そういう言葉の影に隠れてしまったものひっくるめて何か感じてくださったなら嬉しく思います。 コメント、ありがとう。 (丘の上の墓碑)

2021-11-09

エイクピアさん、こんにちは。読んでくださってありがとうございます。 >人類の歴史よりも古く、久遠の時。生物の歴史、悠久の時の暗喩としての石 そうですね。そのように言っていただくと、自分で作っておいて言うのもなんですが、静けさが深く沁みてくるように感じます。これはまだ目配りの余地があったということで反省点でもあります。感謝します。 (丘の上の墓碑)

2021-11-09

かいとさん、どうもです。 僕はゲーテに比べればめっぽう「下手」だし、孔子のような大物に比べても仔牛なみですよ。汗 よく読んでくださってありがとうございます。感謝で涙ちょちょぎれのチョレギサラダです。 正直、あんなふうに僕も読んでみたいと心底思いました。でも無理だろうなあ。こわい、こわい。 ありがとうございます! (丘の上の墓碑)

2021-11-05

かいとさんへ かいとさん、御批評ありがとうございます。感無量という言葉がありますがその一語に尽きると言いたいほどで、まさに筆舌に尽くしがたい思いでいっぱいになりました。 三浦さんへの返信にも書いたことですが、最初は「空」について考えることからはじめました。「空」って何だろうと。その時行き着いたのは空は僕が生まれる前から、というか人や生命が誕生するより前からあるのだなあ、ということでした。それは僕が死んでしまって墓に入り、さらに時が経過して僕というものの存在も薄れてただの石になってしまったとしてもありつづけるというごく当たり前のことでもあります。 そして、空の遠くは宇宙に繋がっていて、宇宙ははじまりもわからないくらい遠い時点からはじまり、そのなかにこの惑星があって地上がある。それもまた当たり前ですが、そんなふうに「空」について言葉で考えながら、うろうろしているうちに石がモチーフになり、辿り着いた形が本作になったと言ってもよいかと思います。 百均さんへの返信にも書いたことですが、結局のところ、何を書いたかはある程度は説明が出来るのです。説明は伝達するという言葉の主たる機能だから。 だけど、書きつつ「空」のあることに感じた遙かさがどれほどであるかという〈どんなにか〉は、説明の言葉で語るのは非常に難しい。これはもう読むという積極的な参入を通して感じてもらう他ないと思います。もちろん書くという、言葉の関係づけや配置によってひとつの形式に達したものと、読むという行為によって達したものが同じになるというのは幻想であって、そこはもう何かを感じて持ち帰ってもらえるだけでもありがたいのだけど。 それだけに、 《確かに墓碑と見上げた星や空は美しかったのだ。 それは雲ひとつない快晴の空。 雲が夕焼けによってあめいろに焦げた空。 人間のわずらわしさを忘れ、自分が北極星を中心にまわる幾万の星のひとつになったように見上げていた。 《そんな風に墓碑の目線となって見上げていくうちにいつしか私は気づいた。 そうか墓碑に眠るは私だったのだ。 正確に言えば、空を見上げていたのは読者であるあなただったのだ。 という数行は正鵠を得ているばかりでなく、「届いたかもしれない」という感覚を得ることができました。作者としてこんなに嬉しいことはありません。もう詩は書かなくていいなあ、とちょっと思いました。笑 読み直してみると粗さも見えますが、これを励みに精進したいと思います。えっ?書かなくていいなあって書いたじゃん、書くの?とか言わないでね。わっはっは! 心より感謝申し上げます。ありがとうございました。 (誰のための墓碑)

2021-11-05

とーこさん、読んでくださってありがとうございます。藤・モアイ・一紀です。笑 言われてみればモアイって石だし人の顔してるし、遠くを見つめているのでイイ感じですね。まったく想定外で驚きましたが楽しい気分になりました。空の下のモアイ、爽やかな感じがします。 コメント、ありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-11-04

地球さん、こんにちは。 一連では「こんな夜」という出だしの唐突さに呆気にとられましたが、ここには語り手が「こんな夜」という夜に〈遭遇し〉、「リンゴを食べなくちゃいけない」と強く〈思い立ち〉(「食べなくちゃいけない」という言葉には、“have to”ではなく“must”の強烈な意志があります)、買い物に行き〈行動〉、「地に足をつけて歩くと気持ちがいい」と〈外部に触れることに気持ちよさを感じる〉という、遭遇から気持ちよさを感じるまでの一連の変化があります。 (二連) 買ったリンゴは「ひとつだけ」。ひとつだけということはひとつで足りたということだと考えると、語り手は「リンゴ」を食べたかったが、量ではなく「リンゴというもの」を食べたかったのだと言えます。 語り手にとって「リンゴ」がどれほどの意味や価値をもつのかはわかりませんが「こんな夜」に「食べなくちゃいけない」と思い立ち、行動に移したにもかかわらずたくさんではなく「ひとつだけ」ということはおそらく、自分にとっての「リンゴというもの」の大切さを知っているということでしょう。だから「ひとつだけ」買ったのであり、「ひとつ分おもたい」というひとつ分の重さを感じることができる。 そのひとつ分の重さは、例えば谷川俊太郎の『おべんとうの歌』にある「手の中の一個のおにぎりは地球のように重い」と同等のものなのかどうかはわからないけれども、語り手にとっては十分意味をもった重さで、そのリンゴの重みをひしひしと感じながら、どこかで浮き浮きしているかもしれません。 我に返れば静かな夜で、「こんなものを持っているのはなんだか可笑しい」という気持ちになってしまう。ここでの「こんなもの」とは「リンゴ」です。けれども、(先ほどまでの)語り手にとって意味をもっている「リンゴ」ではなく、何の変哲もない、どこにでもあるただのリンゴ、もっといえばたかがリンゴです。それは世間一般の目から見た場合それ以上でも以下でもないし、そのようなリンゴひとつ持って歩くなどめったにない。ましてや語り手のように「リンゴひとつ分の重み」を感じながら歩くなどということはなおさらないもの。つまり「こんなもの」には「リンゴというもの」に対して特別には意味も価値も感じない多くの人々と同じ見方の反映があり、それは語り手が自分自身を客観視していることを示しています。 ほとんど多くの人々にとっては特別には価値も意味も感じられない──したがって「ひとつ分の重みを感じること」もない──〈ただのリンゴ〉。けれども自分はその重みを実感しながら歩いていて、そのことが「可笑しく」感じられるのです。ここにちょっとした余裕と視野の広がりが生まれます。それは同時にそんな自分を愛おしく思えた瞬間でもなかったでしょうか。 世間一般にとってはさほど大きな意味も価値ももたないと思われていることを知りながら、しかし自分にとってはそれはやはり重要なのだと対社会との関係のなかで自覚するありようは潔く、愛するに足ると言えます。 三連 「道端」「犬」「街灯(のあかり)」「月」「息(の白さ)」。一、二連と異なり名詞が多く登場するのは、二連において視界が開かれたことに関係して、それまで映らなかったことが目に入ってきたと考えることができます。 「犬」が「吠えない」こと、「街灯」と「月」は夜の暗さと静けさを浮かびあがらせ、さらに「道端」(低いところ)から「月」(高いところ)へと順を追う視線の動きも見てとれます。その視線は、ここにいない「誰か」へと繋がるように向かっていくのでしょう。 「名を呼んだ」のだから「わたし」がその相手を知らないということはまず考えられません。名を呼べる以上「わたし」はその相手を知っています。その相手が語り手にとって何者であるかは隠されていますが、冒頭から「リンゴ」の自分にとっての重要さを語り、対社会的にも誰にとっても特別でなくとも自分には価値や意味があるのだと再確認した夜であるからには、思い浮かべられた「誰か」はやはり「わたし」にとって「大切な誰か」であるでしょう。例えば手にしたリンゴを分け合いたいような。 以上、「こんな夜には」というのっけから虚をつくような出だしで戸惑い、なぜ「リンゴ」なのかという必然性についても語られず、最後に「誰か」とするところにも疑問を感じましたが、言葉のなかでさまざまな変化が感じられ、自分のあり方に対して向けられた潔く澄んだ眼差しが他者へ繋がっていくという開かれかたにとても感銘を受けました。 なんて、こんな読みと鑑賞を長々とつづけましたが、声にだして読む作品として単純に楽しめる作品ですね。 なんてったってA音(12,15,21)、I音(14,12,24)、O音(12,14,15)がメインで構成されていて(U,Eはともに一桁)、子音はK,T,N(そのうち「ん」は7回)がメインになっています。出だしは馴染みのある七音で、以上のように音にも気が配られているように思いました。よき。 (土曜の夜にリンゴを買う)

2021-10-28

ABさん、こんにちは。ABさんが投稿した作品を開いてパッと見た時に、「やや!これは!」と直感しました。こりゃあなんとしてでも読んでコメントせねばと、興奮も手伝って食い入り気味に読みました。でも、テキストに書かれていない方に行ってしまうという悪い癖がムズムズで、急いで戻る始末でした笑。おかげで時間がかかりました。でも楽しい時間でした(なので決して無理はしていません)。僕にはこれをダイアログで書くなんてとてもできないけど汗。こういうことが本当にごくごく稀にあってしまうから面白いなあと実感します。いやあ、やられました。僥倖です。 ありがとうございました! (丘の上の墓碑)

2021-10-27

ご高評ありがとうございます。実のところ、書いた身としては必ずしも美しさを目指したわけではないのでこれが美しいんだかどうだかわからないのですが、そのように言ってくださるのはとてもうれしいです。 作中にある言葉は特に新しさもなく陳腐なものばかりですが、読める程度にはなんとか詩という形式に収まっていたようでホッとしました。コメント、ありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-10-27

百均さん、こんにちは。石や墓碑について言及してくださってありがとうございます。読み返しながらこちらの目の及んでいななかったところに気づかせていただき感謝しています。 何度か返信を試みましたがどれも違うように思い、遅くなりました。申し訳ありません。 作中では何度か「石」という語を用いていますが、実のところこれも他の言葉同様詩をつくるための素材のひとつでした。どういう理由で「石」や「墓碑」や「丘」などなど言葉が選択されたか、またそれが何を意味するかなどは文章で語ることはある程度できます。 しかし、詩というのはそれらの言葉を素材にして関係づけ、その全体の関係性において作品空間にひとつの世界を充満させるものという思いもあり、いかに説明してみてもどうも違ってしまうような気がしてなりません。 ただ百均さんが石や墓碑についての考察から入り、読みを提示してくださったことは非常にありがたく、「丘の上の墓碑」ならたしかに町を見晴らす存在でもありえるよなあ、と行き届かなさに気づくとともに、精進だなあと改めて思いました。(言わなきゃわかんないから「百均さん、その通りそれもあるんですよ!」ということにしてもいいんだけど笑) 押忍!ありがとうございました! (丘の上の墓碑)

2021-10-26

いいですね。目の前のことに気をとられているだけの時はこういう「ついで」はなかなかできないし、目にとまらない。ところが何かの拍子に(不意に)気がつくことがあって、そこにちょっとした間とか余裕とかアソビができて、「ついで」ができる。シンプルだけど、そういうことの大切さに気づかされます。一連~三連にかけては生活に近いのが四連では広々としたところに出て爽快感があります。 >ついで、ついで >ついでのついで には、どこか鼻歌をうたうような調子があります。最終連では、僕も生まれてきたついでに生きてるのかな、と想像して気持ちが軽くなりました。 生活のなかでの着眼がよく活かされた詩だと思いました。 (ついで)

2021-10-24

僕がこちらに投稿して、しばらくもしないうちにABさんの作品があがっていて、タイトルが「空の番人」、読んでみると「丘」「石」という語や《今も続く詩》という一行があって、狙い撃ちされたかのような驚きを感じました。なんとなく重なるところがあるような気がしてびっくりした。すいません、これは個人的な報告です。 さて、 >石門だけが残った丘の門番に出会った は、たった一行なんだけど、いろいろ想像させるのに十分な誘引力があります。 僕は、石門だけになる前には石門をくぐった先にあった建物は寺院だろうか、丘だから町があったんだろうか、どんなことがあって石門だけになったんだろうかなど失われた時間があるのを想像しました。また、門番は職業的役割を指すのだけど、石門だけになってしまってもまだそこに置かれています。その理由はなんだろう?丘にその秘密があるとしたらそれは何だろうとか(のちに「僕」によって門番に仕事があることは明かされるけど、中身は明瞭にはされていません)。以上のように、想像させながら謎を与える一行になっています。 >夜も長いので空の話を聞かせてくれ についても、「夜の長い」のと「空の話」には因果関係はありません。けれども「僕」は >十二番目の石から昇る太陽について >ありったけの知っていることを語ってみた と話してきかせる。「僕」は「空」について知識をもっているようですが、それにしても「十二番目の石から昇る太陽」ってなんだろう?と考えずにいられませんでした。とにかく導入から想像へ導かれながら読みすすむごとに謎が形成される。 「十二番目」について思い浮かべたのは黄道十二宮で調べてみるとシュメール文明あたりまで遡ることができるんですね。現在からはるか遠い古代に思いを馳せましたが、本文にそう書かれているわけではないのでこれも想像に過ぎません。しかし、「十二番目」という数字が置かれていることによって、つまり十二番目があるということは一番目からあるということで、もしかしたら十三番目以降もあるかもしれないということなので、作中世界の「石」の存在にリアリティが生まれる。作中での「僕」と「門番」の会話の中心には「石」があるので、「石」がリアリティをもつことによって作中世界が謎めいたままでありながら不思議とリアリティをもってきます。 「門番」の応答の仕方で「僕」は彼の仕事が何であるか気付き、その後は喋ることよりも古代ギリシャの牧童みたいな行動をとる。 >とぎれとぎれの話を大きなとても大きな声で嘯くと は、星や星座にまとわる神話なのかなとこれまた想像してみました。この間、「番人」は「僕」を黙って見、聞いていたでしょう。ここには親しみのある静けさが感じられます。これが「門番」の次行の行動に繋がっている。「僕」という「現在」に「門番」ははるか古代とが遠い時間を経ながらも繋がっているのを見てとった、と想像しました。「無精髭でにこりとする門番」がシブかわいい。 >今も続く詩を あてもない、長い「夜」の時空に謎に誘われながら読んできた先に、宇宙的とも思われるほどの時間とその履歴、運動が詠われるさま、それが果たして言語であるかは不明だけれど壮大です。「石」は永遠の象徴でもあると聞いたことがありますが、それほど長くないけれど言葉同士の関係は永遠を響かせるのに十分で、想像を楽しみながらも書かれていない方向に行こうとする自分を押しとどめるのが大変でした。おかげで僕の方が長文になってしまった。と、言いたいところですがこれはだいたいいつものことでした笑 ありがとうございました! (空の門番)

2021-10-24

三浦さん、どうもお世話になってます笑。三浦さんにお褒めいただきこんなうれしいことはありません。ですが、残念なことに考えずに書くことはできませんでした。というのも、僕は詩との付き合いは長い方だと思うのですが、いまだに詩というものがよくわかっておらず、書く場合にはそれを考えるところから始めずにはいられないからです。それは言葉を置きながら探っていくのですが、その際にきまって言葉について考えずにいられません。詩というものが何なのかわからなくても、少なくとも言葉で作られていることは知っているからです。そういうわけで言葉について、今回はとりわけ「空」について考えました。すでに多くの人に書かれ、手垢のついた「空」について考えることから始めて、最終的にこの詩に行き着いた次第です。 したがって、せっかくのありがたいお言葉ながら、意に添うことができず反省しております。しかしながら、もしおっしゃるように考えた形跡が微塵も見られず自然になっているとすれば嬉しく思います。今後とも精進しますので温かい見守ってくださったらありがたいです。 コメントありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-10-22

湯煙さん、こんにちは。僕は田舎に住んでいます。で、墓地は大体高台に作られています。ここで「墓碑」にしたのは、墓地ではお墓がたくさんあるからで、そうすると最終行が集団としてイメージされそうだったというのが理由のひとつです。ご指摘の「立っていた/いる」も関連づけました。しかし、これでは墓碑に集中させてしまう欠点もありましたね。勉強になりました。ありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-10-22

こんにちは。 《花瓶に挿した花の/花びらがポトリと落ちる》時の「ポトリ」は花びらが落ちる音としては非常に大きいですね。これは語り手にとってそれほどの大きさで響き、それが語り手に何かを促すきっかけとなった、と読むことができますが、それにしては効果が十分ではないように感じました。 その他諸々雑然としていて、わかることはわかるけれども文としてはともかく詩文としては弱いように思います。 もしかしたら、これは詩の一歩手前であってこれから言葉が詩にむかってひらかれていくのではないかなど考えました。 (思い出)

2021-10-22

読んで下さってありがとうございます。書いた当初は行空きなしだったのですが、縮こまっていて窮屈に感じたので余白をつくりました。括弧についても入れるか入れないか位置をどこにするか、余白と同じく身体感覚に合わせました。うるさくなくてよかったです。石を人に喩えるなんて最初は考えもしなかったのだけど、そうなってしまいました。詩を書くってどうなるか最初からはわからないとこがあって面白いですね。コメントありがとうございます。 (丘の上の墓碑)

2021-10-21

読んで下さってありがとうございます。「人生はアクション、アクション」ですか。なるほどですね。僕は消極的だからなぁ! 勉強になります。 (丘の上の墓碑)

2021-10-21

ほばさん、こんにちは。語り手が二人以上なのに面白く読むことができました。(死んだ)男とポエムおじさんとポエムおじさんの詩と僕で構成されているのかな。 ポエムおじさんの括弧内のいかにも深刻そうなポエムと男の現実的な語り口と内容が対比的で面白く感じました。 > もう擦り切れ、穴が靴下にあいた、あぁ、穴子食いてえ の「穴子食いてえ」とか、 >コンビニで靴下買えばよかった、残金三百一円也 の「残金三百一円也」とか、読んでいて突き放されるようなところ、読み手とのつかず離れずのちょうどよい距離感があるように感じられてよかったです。 こうした距離感が作品内の人物の間でも保たれていて、奥行きのある作品のように思いました。みんな、関係ないのにポエムやジャンプで繋がっているところもよかったです。最後まで退屈せずに読めました。 (暇つぶしによる暇つぶし)

2021-10-21

こんにちは。まず音の置き方がとてもいいですね。いちいち書き出したらキリがないけど、例えば一連の「る」や「て」、「青い」と「仰いで」の〈あおい〉、二連の「u」音、《錆びた咳と/騒ぎ》の「s」音とか。 目まぐるしいほどに状況が動いているように感じるのは、こういう音と短いセンテンスで展開されているからだろうと思うけど、それよりもなによりも使われている動詞の多さにあるようです。動詞がまさに言葉を動かしているという印象で、スピード感はエヴァンゲリオンのオープニングのようでもあります。モンタージュみたいな。 けれどもそれだけでなく、あっさりと読み流せない表現が置かれていて、明確な像までは結ばないけど「なんだらろう?」と思わせてイメージに向かわせるように繋げられています。 >はしる >はしる >はしあ >あしあ >あっあっ にはどこか切迫したような息づかいが感じられましたし、ギアチェンジとしても効果をあげていると思います。 >敵わない吐息は 以降は動詞がぐんと減ってゆっくりになって「です」や「うまれかわった」などで尖りが消えて柔らかくなるので、中盤までの緊張やせわしさが薄れて静かな印象を与えてくれます。全体を通してスピード感や空気感が説明的でない言葉によってうまく調整されているようで、こりゃまた大変なことやってるなと。笑 最終行は綺麗過ぎる着地で、うまくまとめた感がしなくもないかな、とひねくれたことも言わせてください。 とても混乱した陰惨な状況をなんとなくイメージしました。タイトルの「臙脂」は青い髪の子が着ていた服の色なのかなと勝手に思い浮かべました。 (臙脂)

2021-10-21

百均さん、こんにちは。 語り手が日常のとある場面でいろいろな「火」を見る展開の詩ですね。 別にどうということもないことが「火」がでてくることで印象が変わっていくところが面白いです。 >男の怒りがなくなるような出来事が起きないかと >崇め奉る >崇め奉る >崇め奉る >痛みを与えてください >火を与えてください >頼むから俺の事を燃やしてください 僕は火というとオリュンポスの山からたしかトウシングサを盗んで人間に火をもたらしたプロメテウスを思い出します。これによって人間は火を使うようになり文明を生みだすことになって喜びますが、プロメテウスは罪を犯したために山に磔にされ鷲やらに突かれる罰を受けます。神々がもつもの、この場合、トウシングサは権力の象徴であり、プロメテウスはそれを悪いと知りつつこっそり掠めとったわけです。 だから、怒りを恐れたり、祈ったり、逆に罪悪感から罰を望んだりする。 子どもが「こっそり火遊び」して、知らなかったことを知り、大人に近づく過程にも似ていますが、それはまあ置くとして、抜粋した作中の詩文には先述したプロメテウスの話を思い起こさせました。「火」による変化・変容は死や滅亡も連想させるので、そればかりではないけれど。 語っている語り手の内部に状況を観察しながら絶えず揺れ動いている火があるように感じられ面白く読みましたが、 >火は同じなのに >同じ変化をもたらさないのね とあるように★の後半では火の温度が低く、灰だからありはありなんだけどシュンと萎んだ印象で、「火」という言葉のもつ強さに対しては全体としてアンバランスに終わっている感じがしました。 (火)

2021-10-21

タイトルの「話す言葉」から、この詩文の語り手は言葉自身なのかな、と思ってしまいました。 >世界は誰のためにあるの? 世界は世界のためにあるんだよ  と、でてきますが、世界って言葉は抽象的です。わかるけど言葉で具体的に説明しきるのって難しい。「世界」と表すのがぴったり適切なぎりぎりなのかな。ていうか、世界やそれを表そうとする言葉自体が具象を表すための抽象なんだけど。 だからひとはいちどきにいろんなことが起こっていることをパッと知ることができる時があるけど、それだってひとことで伝えたり、認識することは不可能で、分節化しなきゃなんない。便利だけどめんどくさくもあります。 >もし世界が世界のためにあるんだったら 僕も世界だし君も世界だから 僕や君といった個人をつくりあげているそれぞれの認識(世界)も言葉で形成されているとすれば、ひとは互いにひと(世界と世界)のためにあると言えそうだし、言葉は自分という他者も含めて相手のためにあると考えることもできそうです。 本文では(飛行機がゆっくりとレールを滑るように着陸する)とありますが(これはちょっと怖いんだけど)、読みながら離陸できたような気持ちになりました。 (話す言葉)

2021-10-21

「夜な夜な」「むやむや」「ふみふみ」、こういう畳語というのは使いどころを間違うと作品自体を陳腐にすることもあるものですが、この作品では成功していると思います。 それは作品が四行という短さで終わっているからかもしれません。 「むやむや」はどういう様子なのかさっぱりわかりません。点子ちゃんが何者なのかもわからない。タイトルから犬とか猫とかキツネとかかなと想像できるけど、もしかしたら違う生き物かもしれないし、妖精・魔物の類かもしれません。 冒頭からの三行(三度にわたる畳語は点子ちゃんの「ちゃん」と結びついて可愛らしい印象をもたせます)で何者かの存在を示しつつ、その正体点子ちゃんが何であるかははついに明らかにされない。気配はしっかりあったのに読み手が最後に出会うのは“謎”であるということ。新鮮で愉快でぶっとびました。 (しっぽで お月様を 感じながら)

2021-10-17

詩の言葉は批判を含むと聞いたことがありますが、成長した「ぼく」に対する見方や最終連における「大人」に向けられた眼差しは、これに相当するように思います。「みっつのぼく」を最初の年齢として設定して語りはじめているところが、そのキモになっているんじゃないかな。 ただの言葉遊びで終わらず、詩作品の仕上げているところ(見ての通り!)にABさんらしさが出ていると思います。 (子ども王と影)

2021-07-08

目に悪いと思いました。 (●●●●●● ● ●●●● ●●●●)

2021-06-05

こういう作品て音楽ジャンルを含めると既にたくさん書かれているから、ぼんやりとでもモデルのようなものがあると思うんですよね。既定の枠というか。それにはハマっているから、あ~、うまいね~というのは思う。でも特に目を見張るところもないですね。むしろ、作者はこれを書いていて言葉や詩に対してどういう発見があったのかなと疑問を持ちました。 (C)

2021-06-01

「俺は人生において悩みは一個もねえ」だったら悩みがないことを肯定的に捉えてるなと読めなくもないし、実はあるんだけど〈他人に見せてたまるか〉みたいな抵抗の意思があるように感じられて、鉄橋下の橋脚にスプレーなんかで書かれていたら微笑んでしまうよなーと思った。でも「悩みが一個もねえんだ」だとなんかそれが悲しいことのようにも読めてくるから面白いですね。一個くらいあっても良さそうなのに一個もない。考えようによってはこれとかあれとか特定できる悩みがないこと自体が悩みで、とすると、もはや悩みの塊なんじゃないかとさえ思えてきます。特定できる悩みなら言葉にできるけど、できないから語られることのない白い空間だけがある。 でもどうなんだろうな。悩みが一個もないっていうのはちょっと怖いかもしれないですね。中身にもよるけど悩みがあるうちはそれに向き合わなきゃいけないから心が動いてる。一個もなかったら人生って平板で退屈でつまらなさすぎて下手したら人によっては自死を選んでしまいそう。それに悩みがあるのって思い描いている姿があってこそだから、そういう理想像が見当たらないということでもあって、なかなか厳しいよねって思います。辛いなー。 ということで、この作品は自分なりに思い描く理想像がなく、一個の悩みさえもつことのできないひとの悲痛を描いた作品と読みました。 ちなみにタイトルだけあって本文がないというのはブローティガンがとっくの前にやっていて、その点については斬新でも驚きでもないけど、タイトルが違えば内容も異なると思ってぼくなりに読んでみました。 (俺は人生において悩みが一個もねえんだ)

2021-05-26

こんにちは。ひらがな遣いと赤ちゃんはやわらかさで合っていると感じました。かわいいし。短いなかで、語られている像と展開が見えるのも好印象です。 他方、直線的で平面的な感じもあり、その点もったいないように思いました。 (たいようのあかちゃん)

2021-05-24

読んで下さってありがとうございます。 ご指摘の一行については、いろいろ削っているうちに中央寄りになってきて、行の長さも変わりました。でもまあ、内容的にも折り返しになるし視覚的にもいいかな、と最終的にこの形にまとまりました。 ぼくの場合は最初に何か書きたい(表現したい)ことが明確にあって、それを表すために言葉を使うということはなく、書くことでそれを見つけるというやり方をすることのほうが多いので、結果的に見出せたことを、コレはこうだと散文的に文章化することがうまくできないのです。ですので、いろいろと考えをめぐらせて何かしら感じてくださったことを嬉しく思います。ありがとうございます。 (旅)

2021-05-20

とても楽しめました。 「池の水濁りて清し」とか「胃の腑縮縮縮して鳴動/鼠も出ないからっけつ」とか細かく挟んでくるところにも機知を感じます。「また死に死にてcorpse」て似たようなタイトルの映画あったよなあ、とか。 (玉抜かれてcorpse)

2021-05-13

おはようございます。こちらの作品、ちょっとおもしろいですね。あぶなっかしいというか、ぎりぎり持ち堪えている揺れがあって。ぼくなんかは弱っちいからすぐ行っちまいそうだけど、どうかな、チラチラそっち眺めながら、なにかにしがみついて堪えるかも。でもやっぱ無理かも。 (ショートショート)

2021-05-13

読んで下さってありがとうございます。返詩までいただけて、いや、もう想定外のラッキーです。 想定外というと、これはこの形に定まるまで少なくとも三転四転はしているのですが、そのなかには「でたらめ節のでたらめ唄」の歌詞のようなものもあり、そこに蟻が出てきていたのでした。削った蟻に返詩のなかで帰ってきたようで不思議。 《そうあるようにとの願いとか、祈りのある眺め》っていいですね。旅なら始まりも終わり(新しい始まり)も、そのようなものであってほしいと願います。コメント+返詩、ありがとうございます。 (旅)

2021-05-10

読んで下さってありがとうございます、橙子さん。 >過ぎた日々に別れを告げている気も>します。 >それからはまっすぐに歩いていく。 >でたらめ節をでたらめな唄をうたい>ながら。 >なにかがふっきれて自由にいきていく。 >そんな清々しさを私は感じました。 作中の主な文は「ぼくは歩いた」で、それ以外の、およそ読み手にわかりよいことは省いたのですが、おかげで、入って汲み取ってくださったようで、感じてくださり嬉しいです。ご感想、ありがとうございます。 (旅)

2021-05-10

読んで下さってありがとうございます。 ご指摘の一行、気になってくれてありがとうございます。他の方への返信にも書きましたが、削った大半はその一行にまとわる情報のようなもので、読みやすいけれど謎もひっかかりもなくメリハリもないように思い、要らないと判断しました。気になってくれたようで、削ってよかったと思っています。 ところで、「田舎道」を思い浮かべてくださったのですね。冒頭二行の、 >透きとおるシャーベットのような >清々しい空の野原の一本道を ここは、 透きとおるシャーベットのように清々しい 空の野原の一本道をぼくは歩いた にした方がよかったかもしれません。 でもなあ、そしたら形と音が変わってしまうんだよなあ。 コメント、ありがとうございます。 (旅)

2021-05-10

読んで下さってありがとうございます。 もとは一行の長さも異なる二十二行のものでしたが、語りすぎるきらいもあったので、削りました。なので、この量が最適なボリュームということでご理解ください。 ぼく自身は一生に一つのことも修められる自信はありませんが、気に入っていただけたようで嬉しく思います。コメント、ありがとうございます。 (旅)

2021-05-10

いいですね。ミスマッチの美しさといえばいいのか、ありきたりな言い方をすると「きれいは汚い、汚いはきれい」という感じで、暴力や破壊や死とスイーツの組み合わせは官能的でさえあります。いただきますとナムアミダブツが重なってくるところもよい着地だと思います。 (天のはからい【企画「食べる」】)

2021-05-01

(豆大福の日)

2021-04-30

入れ忘れました。一票。 (豆大福の日)

2021-04-30

こんにちは。 第四連の《そのとき急に/もっとも大事なことを思い出して駆けだす》というラストの、まるで突然床が抜けたような急展開にも目を見張ったのですが、その前の二行、 >とてもよい >空が青くて豆大福は白い は、本当に素晴らしいと思います。何度読んでも素晴らしいし、驚きます。 《とてもよい》という言葉を置けることがまずすごい。というのは、一つはどこででも当たり前に使われていそうで、それだけに聴きなれてインパクトを感じないいわゆる日常文は、詩を書くひとは避けて通りそうだから。もう一つは、《とてもよい》の「とてもよさ」が説得力をもって響いていて、聴きなれたはずの言葉が作品のなかで新鮮に甦っているのを感じるから。 《空が青くて豆大福は白い》のは当然といえば当然のことだけど、「空が青いこと」と「豆大福が白いこと」は、普通の文章として読めばまったく関係ない。そのまったく関係ない二つの文を「て」で結びつけて、意味あるものにしている。言い方を換えると、〈当然のことだからたいしたことはない〉と思われがちなことを、〈当然のことだけどとっても素敵だ〉と肯定的に、再確認している心の動きがあります。 それは慌ただしく過ぎていく日々のなかで《空を見ていない》(第一連)ことや、《豆大福を食べたい》(第二連)と数日間考えていたことが叶うことによって導きだされている。 ぼくの考えでは、忙しいあまりに空を見ていなかったら、久々に空を見て青空だったら眩しくて爽快で嬉しくなるし、いろいろある生活のなかでようやく食べたいものを口に入れることができたら、感動するあまり、「まあ、いろいろあるけど、毎日コレを食べたいて考えていたんだから、平和といえばぼちぼち平和だったよな」とちょっと許せる気持ちになるんじゃないかと思います。逆にいうと、そのくらい生きるというのは楽ではないんだけど、見たいものが見れて、食べたいものが食べられるというシンプルなことが叶うと、複雑に考えていたけどオレってこういうのが好きなんだな、と肩の力が抜ける気がします。生きるっていろいろあるけどそういうことかも。 で、ラストの二行に戻るわけですが、 >そのとき急に >もっとも大事なことを思い出して駆けだす の《もっとも大事なこと》というのは何だろうと考えると、《空が青くて豆大福は白い》から引き出された、いま生きていること、いまここに在ることじゃないかな、と思います。 今日は豆大福を二つ食べました。おいしかったです。 (豆大福の日)

2021-04-30

訂正します。 ・カイロスティック→誤 ・アクロスティック→正 です。失礼しました。汗 (貉)

2021-04-28

一連から三連を前半部として、四連から六連を後半部として分けて読むと、転換が効いていると感じました。前半部の「らいごうらいごう」は「来迎」を思い浮かべました。いまこの世にはない場所、なのかな。遠くを見つめる視線と心持ちが感じられます。まさに〈心ここに在らず〉。 後半部では、(おそらくは「らいごう」の)終わってしまったがゆえに終わらない話とその光、また風を自由と捉える語り手がいます。そのなかに、 《あの日の/なおざりのものたちが/野に放たれる》のを見る。 そのなかには語り手自身も含まれているのかもしれません。それもまた他の多くのものとともに束縛から放たれて自分自身になって踊っているかのようです。なおざりのものたちも自分も同じ穴の貉であったという感慨が伝わってくるようです。 カイロスティックは言葉遊びとされがちですが、ABさんのこれまでのカイロスティックを使った作品を読むにつけ、作品全体と呼応していて、言葉遊びというよりはABさんの詩作の方法の一つになっているように思います。もしそうであれば、方法とする意図を「こっそり」聞いてみたいところです。 (貉)

2021-04-28

こんにちは。タイトルだけ見て読んでいなかったのですが、読んでみたら良かったので反省してます。ごめんなさい。 まずタイトルですが「〈ひらがな〉の降る朝」ってなんだそりゃと思いました。普通に考えて、降らないし。でも、作中では、 >雨降りの 次の日の >〈ひらがな〉の降る朝の >微かな鼓動のように。 って書かれていて、天気とか連続した時間の流れとか身体の間に挟まれてるからか、〈ひらがな〉が降るというのも、違和感なく入ってきました。語り手にとっては割りと自然なことなのかな、と。で、〈ひらがな〉が降るってちょっといいな、と思った。実際にはあり得ないと思うし、しかじかの理屈からこういう表現は成り立つとかじゃなくて、あり得ないことでも言葉のなかに置くことで、違和感なく、いいなと感じられるのは詩の魅力のひとつだと思います。 三連の二行目の《いてくれたの》が三行と四行に同時にかかっているのもニクい。相手への問いかけと自分に言い聞かせる二つの《いてくれたの》。 で、四連はもう。個人的にはここが一番いい。言葉が語り手の動きをしっかり見せてくれてる。動詞をいくら置いたところで動かないものは動かないのだけど、ここでは見事に動きが見える。端折ったりしない端正な手つきを感じます。いやあ、いいものを見せてもらいました。 (〈ひらがな〉の降る朝)

2021-04-27

こんにちは。作品全体を通して、「ような」が多用されていて、この語り手が語る内容が曖昧に暈かされている印象を受けましたが、《日記が届いた》ことだけはたしかなようです。でも、日記という一般的にはプライベートなものを多く含んだものを多くの目に触れさせようとすることはないんじゃないかな。とすると《あの人》というのは現実に生きている人間という感じがしない。じゃあ何者なんだって思うんだけど超自然的な存在なのかな、と考えてみました。それだとなにが書かれているかはっきりわからないけれど、なにかが語られているような気がする、という意味で日記と呼ぶこともできるし。その読みとり難さ、もどかしさのようなものが「ような」に反映しているのかもしれません。というか、いかに「ような」であっても、語り手が受け取ったものは日記であるのでしょう。さくらがさくらであるように。 何が記されているのかもぼかされていますが、とても大切(だった?)なことなのでしょう。そこに向けられた視線がじわじわきます。 (さくらはさくら、で)

2021-04-26

イイですね。特に二連目はリズムを受けて言葉が活き活きと動いているのを体で感じることができますし、ウキウキします。体にチョクで伝わってくるのは考えるより先に反応を呼び起こすので好きです。 (窓際の胸像)

2021-04-25

読んで下さってありがとうございます。ぼくも自分から別の人間が出たら嫌だなあ。まともな人間ならいいけど、ヤバいのとかいそうだし。楽しんでいただけたみたいで嬉しいです(^^) (出る)

2021-04-12

読んで下さってありがとうございます。返信遅くなり申し訳ありません。自分で書いてて、我ながら変態ぽいな~と思いました。笑 なので嬉しいです( ´∀`) (出る)

2021-04-12

あ、言われてみればそうですね! 草間さんの水玉、あれも草間さん独特のcolorですね。そして全然キモくない。コメント、ありがとうございます(^^) (出る)

2021-04-02

ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです。 (たまゆら)

2021-03-02

やっていた頃は「前衛」という明確な企みはまったくなく、どちらかというと、おおよそ不可能と思われる妄想に掻き立てられていたというべきかもしれません。一つ音を発すればその音にまとわる語を重層的に複数響かせることができるのではないかというような。 痛ましい頃の痕跡ではありますが、こちらの掲示板ではルビが可能ということもあり、投稿しました。ネクストタイムの保証がないたまゆらのゆらゆらの一面、言われて気づくこともありますね。ありがとうございます。 (たまゆら)

2021-03-01

語り手は「雪の子」の存在を知っていて、冬の間、雪の降る日にはひそかに見守っていたのかもしれないですね。ぼくなんかは鈍感なのできっと気づかない。そういう、ぼくのような鈍感な人には気づかないような細かい気配や存在に目を向けることができる人なんだろうと思います。物心つく前の子どもみたいな感性をもってるのかな。春が嫌いってわけじゃないけど冬も好きだったのかもしれない。 だけど、季節の移り変わりの時には、不思議と感じ取れないものが感じ取れてしまうこともあるのも確かなことで、そうした交代劇を短い作品のなかで鮮明に描いているなあと思いました。 二連目の四行目の「あの」は「空」がいま現に見ているところの空なのか、そうでないのかで解釈が変わってくるように思いました。前者ならなくてもよいように思います。 また、末尾の「よ」についても第三連の最終行の「閉じていく」の「ていく」や他のE音及び「て」との響きあいを考えると、ぼくなら付けなかったと思いました。とはいえ連の文字数を考えると形としてはあった方が揃うので、どちらが妥当であるかは判断しがたいところであります。 (雪の子)

2021-02-28

蝶ってどうしてつかまえたくなるんでしょうね。ヒラヒラ飛んでてなんとなく優雅だからかな。私は標本の蝶も嫌いじゃないし、種類によってはきれいだなと思う方ですが、そうだな、やっぱり飛んでる時が好きだし、それをつかまえようと追いかけてる時の方が楽しいですね。つかまえて籠にいれたり、標本箱にピン留めした時よりは。 そんなふうに心を駆り立てるものってあるなあ、と思います。夢とか憧れとか理想の人とかいろいろ。 所有してしまったら色褪せてしまうこともあるとわかってるのに手に入れたがる。人の心は不思議だなあ。 >それくらいのことは >ちゃんとわかっている この締め方、好きです。「のに」を入れて引きずらないところ。 (蝶)

2021-02-27

韻を踏みながら短いテンポですすんでいくのはリズムが生じて気持ちいいですね。読んでいても気持ちがいい。そのまま加速して繰り出す言葉に乗せて感情の底にあるものを洗いぶちまけたくなる。詩の常套かもしれません。 けれども実際のところ、その核にあるものは意味をもつ言葉ではなんとも言い表し難い。その噴出が四連というところでしょうか。 しかし、五連目はよろしくない。というのはリズムの心地よさで読んでいたところに、 >世界が護ってくれるから >お前は何も心配いらない と来たから、キョトンとしてしまいました。つまり距離が離れてしまった感じです。別の方法でぶっちぎってみてもよかったように思います。 (俺を探せ)

2021-02-27

面白いです。「私」は展示物をガラスの外から見ていると思うのだけど、 >私の目も耳もわるくなったのかしら と思うあたり。人間だから、 《羊皮紙の脳》がうたうのや《アンモナイトの瞳》が語るのがわからないのは普通なのだけど、その普通を逆転させる見方があります。 もしかしたら進化の過程や進歩の途中で、そういうものらと通じ合う感性を隔てる《防弾ガラス》のような壁も築いたのかもしれません。 (博物館)

2021-02-26

読んで下さってありがとうございます。感じ取って下さったようで安心しました。 「擬人化」または「擬人法」などの技術的なことは書く段ではほぼ考えておらず、結果的にそうなっていた、ということの方が自分の場合は多いです。皮膚感覚と言葉が噛み合っているというか。 《この詩の中だけでは本当に太陽に長い長い腕が有ると言うのが首肯できて、常識的な内容を少し離れられる快楽が有る》 とても有難い言葉をいただけて、書いた甲斐がありました。深謝。 (立春の日に)

2021-02-26

感想ありがとうございます。「勾玉」と「まばゆい」ってなんか似てますね。「ま」しか合ってないのですけど。 今よりずっと若い時分にやっていた無謀とも言える試みでしたが、過分なお言葉をいただき、ありがたいやら申し訳ないやら、身の縮む思いです。 (たまゆら)

2021-02-26

こんばんは。 >島によくある御嶽、ウグヮンジュ >あるいは内地によくある日和見山 >のようなものだったのかもしれません と語り手にとっては判然とはしない語り口になっているのですが、 >途中 岩を抱くように歩き >また 四つん這いでしか通れない >そんなところもありましたが >子供でも歩ける小さな道が上まで通じていたので という箇所は、そうは書かれていないのだけれども、実は召集された「少年兵」たちが行き来するために作られたのでは、と考えました。ところが語り手にとっては昔のことだからそれを知らない。となるとコメント冒頭に引用した詩行のようになるかもしれないな、と。 しかしもしかしたら「先生」は知っていて、時々見ていたかもしれないですね。だから見つけたのかも。もちろんこれもそうとは書かれていない私の想像です。 けれどもそうした想像を引き起こすのに十分な叙述(語り)になっていると思います。そして想像ついでに続けると「人骨」も子どものものだったかもしれない。 しかし、想像はひとまずこのへんにしておきます。 時間が経っても時間から取り残されたように《そのまま》になっている場所での >かん高い機械音に見上げた空に >超音速の飛行機雲 は、まるで傷跡や悲鳴でもあるかのようです。冒頭での高さの体験とここでの高さの体験は同じそれであっても全く異なるものになっています。この対比は全く秀逸です。 しかしそれを証すモノや場所は失われてしまった、という語りこそがすべてを残している。語りのもつ力というものを見たように思います。 ありがとうございます。 (ムイグヮー)

2021-02-25

>いし、という言葉が >手の中の小石を離れて >水の中を落下してゆく とあるように事物存在である「小石」とそれを指す語である「こいし」とが離れていく時(この場合「いし」なのだけど)、「私」という実在から「わたし」が離れて、いっしょに「落下」していっているようでした。 だから、三連の >蒼く光る >美しい水のなかを >どこまでも深く >嬉々として >落ちてゆく が、まさに見ているようなリアリティをもって美しく感じられてきます。 それを私も見ながら感じている、という《私》の二重性があるのでしょう。 作品全体を通じて響きあう音や配置もさることながら、以上の点について非常に素晴らしいと思いました。静けさのなかに鮮明な映像と動きが浮かんで美しいです。 (石)

2021-02-24

全く問題ないと思いますし、ぼくも好きなのでたまにやりますよ。 前に以下のようなことをやりました。 錠剤三錠、カプセル一錠。 とんだ惨状。否、浄罪? それ一条の光。 (成敗、テーバイ神聖隊)

2021-02-24

感想ありがとうございます。「踏切」と「踏み切る」、音も文字もほとんど同じですが全く違うんだから言葉っておもしろいものですな。 (たまゆら)

2021-02-24

出だしからシャレてるなあと思いました。ぶふっ、ってなった。 (成敗、テーバイ神聖隊)

2021-02-24

読んで下さってありがとうございます。そうなのです。春がちかづくと笑いたくなるのは太陽がくすぐってるからなのです。アッハッハー。 (立春の日に)

2021-02-22

読んで下さってありがとうございます。詩は楽しくて苦しくてやっぱり楽しいです。タノクルシイ。笑 春が広がってうれしいです。ありがとうございます。 (立春の日に)

2021-02-21

読んで下さってありがとうございます。 まだまだ気温の変動が激しくて、寒がりな自分としては「ヤニナッチャウ!」といいたくなりますが、自然は着々と準備をしているようで、それに触れる機会があるとうれしくなります。早く来ないかなぁ! (立春の日に)

2021-02-21

読んで下さってありがとうございます。声をあげて笑ってくださってよかったのになぁ!それができてたら最高だったのに笑 《にやけるのを堪えるのがたいへんだ》 と書いた本人は実はこの時うれしくてにやけたのでした。でも「にやけた」と書くと、読み手としては、そうなんだーと受けとめられて終わりそうな感じがしたので、「堪えた」ことにしました。その方が「にやけ」たくなるかなあ、という誘いでした。 コメント、ありがとうございます。 (立春の日に)

2021-02-20

形態と語りが一致していると感じました。一連はつきだしてるし、二連は目を覆うものに囲まれてる。そのなかで星が光っているよう。 泣いているようにも見えます。 (無名の詩)

2021-02-17

かわいいとかなしいが混ざり合って、明るくて切ない。エモいです。 (ピーティクル・パーティクル)

2021-02-17

こんにちは。こちらの作品はたしか匿名投稿でしたね。ぼくだけでなく修子さんの作品だと気づいた人はいると思います。言葉の選び方、繰り出し方、つなげ方が修子さんでした。即興朗読の際の語り口を思いだしました。 (夜、そして)

2021-02-15

再びコメント失礼します。 だだっ広い空き地の真ん中に置かれたままの小さな雪平鍋。雨の日も、春の晴れた日、ペンペン草が風にゆられてにぎやかになっても、同じ場所にあって動かない、かあ。 だだっ広い中にひとりというのは、広い世界にひとりぼっちな感じで、淋しくて心細い感じがします。語り手はだから雪平鍋なんてものに目が向いたのかな。自分を見つけたように。 でも、そうじゃないような気がする。そんな状況にあっても動かないでそこにいる健気さや強さに気づいて目を見張ったんだと思うな。 (鍋とペンペン草)

2021-02-14

読んでいて、私が語り手に同化してしまったかのように、この現場に立っているような錯覚に陥るのは、立体的な風景のなかに時間が流れているからでしょうか。雪平鍋のこの先をもっと見ていたい、そんな気持ちにさせられます。 (鍋とペンペン草)

2021-02-14

読んで下さってありがとうございます。 《寒さが緩んで悴んでいた、枝や草に川がようやくその身を広げようとしている風に思えました。》 感覚の行き届いた表現ですね。開かれていく様子が見えてくるようです。そんなふうに開かれていく姿も思い浮かべていたように思います。 コメント、ありがとうございます。 (立春の日に)

2021-02-14

読んで下さってありがとうございます。 ウーン、ズバッと的を当ててきましたねー。書き手としてうれしい限りです。 今回意識したのは、 ・できるだけ短いセンテンスで書くこと。 ・うるさく(書き過ぎ)しないこと。 ・「光」という語を使わないこと。 ・あ、いいな!とつかまえた一瞬の総体を語り手が語り、その語りが読み手に回った私に、手に取るように入ってくること。 でした。《くすぐられて身体をくねらせているその印象に生命の活力を見いだしている》というのがピシャリとハマる感じです。 コメント、ありがとうございます。 (立春の日に)

2021-02-14

あらためまして。私も最初は煽りかしらんと思ったのですが、投稿作品としてよくよく読み返して先のコメントをしました。 で、落語では「皿屋敷」が好きで思い出すだけでニヤニヤしてしまいそうになります。それで考えるのだけど皿屋敷の本家が落語の皿屋敷を見たら怒ったり煽られたと思うかというと思わないんじゃないかと思うんです。歓びながら「チクショーめ、やりやがったな」とか言うんじゃないかと。 なので、元ネタが霞むくらいのものであればよかったと思っています。 それから詩人でも落語を愛好している方がいるので、詩作に通じるか益するものがあるように思います。次回は腹を捩れさせて下さい。 (インチキ落語「クロソイド曲線」)

2021-02-09

そうですね。このタイミングでこのタイトルかいな!?という衝撃はありましたね。 まあ、私も他人様が作った料理食って文句言ったりする口をもってるうちの一人なんで、これも同じ口の持ち主なんなのかなって思って、でもタイトルの衝撃もあるし、「投稿作品」だし、なんにしても落語って書いているものですからね、読んでみました。 これは落語の構成を知らないと書けないですね。それでいうとやんちゃやってるけど勉強してます、って感じで微笑ましさすら湧いてくるから妙なもんです。なにやってんだ、コラ!!ってのが言いにくくなるわけです。 それとね、スジがきちんとできてるな、と思いました。ただね、スジはいいんだけど、肉がちょっと。笑いどころをもう少し多めに、というか、メリハリをつけてくれたらよかったんじゃないか。そう思うんです。 これだとそうだな、羊頭狗肉とまではいかないけど、ショッキングな看板に釣られて入ってみたら、もてなし慣れてないお嬢ちゃんたちがテーブルに来たみたいな感じです。 まあ、勘定踏み倒しても恐いお兄さん方がでてこないからいいけど。あ、でもアレか。インチキ落語だからこれでいいのか! これはまた失礼しました。 (インチキ落語「クロソイド曲線」)

2021-02-09

読んで下さってありがとうございます。 なるほど、そういう読み方も可能ですね。読む方によって受け取られ方もさまざまで勉強になります。 「水鳥=春」は神話的でとてもイイ感じですね。(こっそりいただきます) コメント、ありがとうございます。 (立春の日に)

2021-02-08

読んで下さってありがとうございます。私は川を見るのが好きなのですが、あれはなんでしょうね。ほんとうに上手い具合に飛んでいきます。写真とろうとして逃したことが何度あったことか。 うららか。いい響きですね。そういうことなのかもしれません。 (立春の日に)

2021-02-08

読んで下さってありがとうございます。そうですね、なにごとにつけ、あ、いいな、と思える瞬間というのがありますね。そう思える時というのは幸運でもあるし、やはり幸福でもあるのかもしれません。この詩に対してそのような感想を抱いてくださったこと、嬉しく思います。 技術や技巧に関しては、書くときにはほとんど意識していませんが、あとあとになって、ここはしかじかの技術になっているな、と気づかされることがあります。 (立春の日に)

2021-02-06

読んで下さってありがとうございます。率直な感想、嬉しいです。 だいたいはその時々に浮かんだことを頭のなかで持ち運んで、言葉の上に立ち上げようとするんですが、やはり二転三転か、七転くらいはしたように思います。そんでもう倒れ込むような感じでした。でも、そこがまた詩作の愉しみでもありますね。 (立春の日に)

2021-02-05

読んで下さってありがとうございます。まとめて返信しますね。 まず「なにを表現したかったのか」ということは説明できなくはないのだけど、説明の言葉にするとどうも違ってくるんですね。説明の言葉(文章)からははみだしてしまうものがある。なので〈表現したかったものは表現されたもの〉という他ないように思います。あるいは、言葉を用いてはそのような仕方でしか表わしようがなかったものというか。 だから使っている言葉について、これはこうで、これはどうでと私から言えることもあるにはあるのだけど、詩の言葉はその部分だけで成り立っているものではないので、言っちゃうとどうもおかしくなってしまう。なので、そこはもう読んでもらうしかないってところがあります。 ボルカさんの『犬のしっぽ』、良かったですよね! ピキーンとなりましたよ、ピキーンと。 いろいろ考えて下さってありがとうございます。好評にも感謝を。 (立春の日に)

2021-02-05

読んで下さってありがとうございます。サムネイル表示のことは書き終わったあたりで少し意識しました。そんなふうに読むかもしれないな、と。まあ、書き終わったあたりでなのであらかじめ計算していたわけでなく、書いているうちにそうなったのですが。 ご指摘の()の部分は、水鳥は笑っていないのと、あまりうるさくしたくなかったので()で閉じました。他はまあ、いろいろですが、確かにそのようにも読めるので、ここはもう少し精緻にいってもよかったかもしれません。ちょっと早まったかな。ご指摘、ありがとうございます。 (立春の日に)

2021-02-05

読んで下さってありがとうございます。書いているうちにそうそうふうになってしまいました。楽しんでいただけたようでうれしいです。 (立春の日に)

2021-02-04

読んで下さってありがとうございます。情景が浮かんでよかったです。もうすぐ春ですね。 (立春の日に)

2021-02-04

あ、投票忘れた。 (私達の川に帰ってくる魚)

2021-02-03

こんにちは。ABさんはこちらの作品だけでなく、方言を用いた作品を屢々書いていて、今回はまた違う地方の方言みたいなんだけど、やあ、また響いてくるなあと感じました。 で、なんで方言は響いてくるんだろうとここ何日か頭の隅っこに置いていました。 でも考えてみると、面と向かって方言ばりばりで話されたら、「何言ってんだかさっぱりわからん」みたいな気持ちで、耳を傾けるどころではないと思うんですね。知らない方言だとなおさらやりにくくて対応に困るだけだと思う。日常会話としての方言というのはそんなふうに、同じ土地に暮らす人々にとっては気にすることもないくらいのことだから、意識して耳を傾けずにすむし、知らない土地の人々からすると戸惑うので手一杯なとこがあって、耳を傾ける余裕がないものなんだろうな、と思いました。それが作品を作り出している書かれた言葉だから、その言葉の語りに耳を傾けることができるし、汲み取ろうとすることもできるんだろうな、と。 というのは標準語が一般的な書き言葉の空間では、方言は異質の言語であるという面もあるかと思います。 それから、なかたつさんも「土着の言葉」と書いているけど、書き言葉の時空間では失われた響きを方言の言葉が持っているんじゃないかと考えました。このあたりはクレオール語とかピジン語とかを連想するのだけどそれは置いても、標準語で語る言葉には方言の言葉に含まれる感情が漂泊されているんじゃないかということですね。意味を標準語に置き換えることはできても、音に含まれる感情までは置き換えられない。或いは置き換えることはできても、どうも座りが悪いと感じるのはそういうことなんじゃないか。 そういう標準語の書き言葉に慣れてしまった私に、方言の言葉が、標準語の世界では失われた音と音が持つ感情を立ち上げてくるから、それが私たちのなかの失われたというかいつのまにか置き忘れてきた音、それでしかぴったりこないような感情を呼び覚まして、それでこんなに響いてくるんじゃないかなと考えた次第です。 ついでにいうとそこのあたりで賢治と繫がってくるようにも思いました。 (私達の川に帰ってくる魚)

2021-02-03

書かれていることもそうなんですが、改行や行間の余白が渡辺さんの詩にしては多くて、これは「のんのんびより」ののんびりした時間の流れを感じさせるのに合っているな、と思います。私は「のんのんびより」はまだ1期の途中までしか観ていないけど、その空気感がでてるし、観てなくても味わえる作品だと思う。 (ひとつ、ふたつ  ~「のんのんびより のんすとっぷ」 第1話から~)

2021-02-03

返信どうもです。読む限り、語り手はとどのつまりは「子どもも大人もみんなかわいそう」と語っているのであって、そういう社会を作ってたり加担しているのは(語り手も含めた)大人なんですけど、それもかわいそうというのはあまりに無批判に過ぎるのではないか?という疑問をもっただけです。思いはどうあれ、こちらの詩の語り手の言葉からは、そのような社会を作ってきた(加担してきた)大人のひとりとしての当事者性が感じられなかったということです。 (子ども)

2021-02-02

当事者性が感じられませんでした。 (子ども)

2021-02-01

不覚にも笑ってしまった。怖いけど、面白いです。面白いのは、多分、生活の中に妖怪が入るシーンが現在ではコントに多用されていて、そういう種類の映像と重なったからです。だから面白いのだけど、コント方面に引っ張られて、衝撃が弱まるという弱みはあるかな。 でもそのあたりもわかって書いてるような気もします。物凄く奇妙で恐怖するべき現実なのに、語り手は何も変わらず生活をする、みたいな逆の意味での怖さがあります。 「くだん」はちょっとマニアックでわかりにくいかもですね。 (現実の重み)

2021-01-29

こんにちは。賑わっていて、まずまずですね。 私は小林さんとはちょっと読み方が違っていて、この作品は、すでに思い出しているところから始まってるんじゃないかな、と思ったんですね。車を運転している、それはクロソイド曲線といわれるカーブかもしれないんだけど、とりあえず既に運転していて、思い出しているという設定がある。だから作品内で語られているのは、単純には思い出された内容で、それに対して今の心境が挟まれるという構成ではないかと。そういう設定と構成のなかで語り手の父親に対する見方、受け止め方が変化していくのね。そういうことが語られているんだと思う。運転しながら現在の位置から父親や過去の自分を思い出してる。言ってみれば追憶でそこには距離があるわけなんだけど、最後の一行でその距離がもう追憶とは呼べないあたりのところまでうんと遠くなってる。そこのところはもう言葉にしようがない。 そういうね、もう言葉にしようがないところまで作品の言葉が伸びて言っているのを感じるんです。逐一の言葉がどうとかじゃなくて、言葉の繋がりの総合として、その向こうに伸びていく動きがある。来し方を遥かに望むっていうかね。個人的な記憶という閉じたところからはじまって遠さと広がりへ伸びていく。そこが詩って感じでたまらないんだな。大まかにはそんなところです。 (人にやさしい曲線)

2021-01-29

読んでくださってありがとうございます。選評文として書いたものの、これはコメントの続きみたいなつもりでした。こちらの本文にも書きましたが、自分が書いたコメントと作品タイトルにズレがあるように感じたからでした。最初のコメントが作品に沿っていたとしたら、恐らくタイトルは『女』ではなく、『女へ』とか『女に』となったのではないかと思ったのがまず一つ。 それから作品の最終行でだけ《女》に動きがあったのが一つ。これらからやはり『女』を書いたのだろうと思いました。それは例えば男性画家が女性の肖像画を描いたとしても、彼から見た(彼にとっての)女性として描きだされることがあるように、《僕》が作中での語りの中心になっていても《僕》から見た(僕にとっての)《女》が書かれたのだと思い当たったのです。それで、ああ、これは書き直したいな、と。 これが批評と呼べるものかどうかはわかりませんが、仮に批評的な散文であったとしても、作品ありきで、汲み取れたもの、読みながら自分のなかで構成されたものを、言語化できたところで、作品を作り上げている言葉(もしくは言葉によって作り上げられた作品空間)を語り尽くすことはできず、必ず取り零してしまうものと知りつつも、やはり残せるものは残しておきたい。というのも、こういう読みができるのも今だけかもしれないので。 最後に二つほど、この拙文を書いている中でボードレールの作品に、タイトルは忘れましたが、「巨大女」を書いたものがあったことを思い出したこと、また「性衝動」というものが肉体的のみならず精神的なものと関わっている意味において人間の生にとって他の欲求よりも最も本質的な欲求であるという説を思い出していたことを書き加えておきたく思います。 コメント一つ一つ頷きながら拝読しました。書いてよかったです。ありがとうございます。 (恥ずかしいったらありゃしない)

2021-01-28

先にコメントしてても後から投票できると思ってたらできないシステムだったんですね(汗 ついでに他の方のコメント読んで、なるほどなあ!と思いました。特に渡辺さんの《下手するとほんとに悪い意味で道徳的な、お涙頂戴になってしまいそうな題材でありつつもそうなっていないのは、やはり端々の表現が丁寧だからだろう。急ハンドルをきっていないんだよね。それこそクロソイド曲線のように、無理のない道筋を描きつつ最終行へと向かっている。》ってのは大きく頷けるし、語り過ぎてないのがいいですね。 (クロソイド曲線)

2021-01-25

こんにちは。ロウソクの長さが人の寿命を表していて、燃え尽きる時が人の死ぬ時という昔話を思い出しました。それでいうと燃えているロウソクはその人の命の表象なのでしょう。彼が人生を生きている時の。 個人的な話で、私はロウソクを「燃えながら溶ける」と喩えたことがあって、そこにはエロティックな含みをもたせていたのですが、それから考えるとこの作品のロウソクもそういうものととれなくもありません。しかし、そうではないというところに行き着きました。 ロウソクの炎は「燃える」ものですが、 >女の部屋で光っていたい とあるように、「燃えていたい」ではない。 >女の吐息の混じった空気を >黄色く青く白く燃やして と、ここでは「燃やす」のだけど、それは《空気を》であって、部屋の空気に変化を与えることです。その部屋の空気を《女》は吸って生活していて、時には溜めこんだ《吐息》も吐くのだけど、吸い込む空気は変化したそれになります。このことは直接的に《女》に対して働きかけるのでなく、間接的に、それと気づかれないよう、自然なこととして働きかけたいということを示しているように思います。単純には「《空気》を変えたい」ということになるでしょうか。 そうしながら、 >だんだん小さくなってゆき >最後は女の指で果てたい ということ。《燃やし》ながら、《小さくなって》、《果てる》、それが《僕》の願望であるとすれば、それをすること、そのために生きることが、《僕》が光るということになるのではないでしょうか。 >女の部屋で光っていたい が、なぜ「燃えていたい」ではなく、《光っていたい》なのか、その理由がここにあるように思います。雑に言うとすれば、《女》を動かす主人公としてではなく、《女》を主人公とした脇役的な位置に立つことに自分の人生を費やしたいということになるかもしれません。静かですが決して弱くはない、それこそ蝋燭の炎に似た愛情を感じます。 それは自己犠牲からくる愛情かと言うとそうではない。なぜなら、《女》は指に火傷の跡を残すかもしれないのだから。 そのようなあり方ができたら素晴らしいのかもしれないけど、そうはなかなかできないのが自我をもって生きている人間の哀しい性であって、でも、だからこそ願うことの美しさがあるのかもしれません。 最後に、《女》視点に立てば、火傷を顧みず消すことに隠された思いはどんなものなのか、想像したくなりました。 (女)

2021-01-25

こんにちは。 「斯様」とか「彼の人」といった語を始め、語られている内容と語っている言葉とがアンバランスで気負った印象を受けました。しかしエネルギーがあるように思います。エネルギーに溢れた時期にある人にしか書けないものというのがあると思うので、作品としてどうかということよりも、そちらの方に惹かれます。 (ハッピーエンドを望んでいる)

2021-01-24

こんにちは。背中で語ることしかできない口下手な父親の声なき声に耳を澄ませていたのかな。 家のなかでは父―子という関係についつい縛られていても、旅行のような非日常のなかでは相好を崩すこともある。ドライブインでの出来事は幼い語り手にとって、父の違う一面として驚きを伴って映ったことでしょう。あれはなんだったんだろう?と。 そんなことを思い出しながら雪道を車で走る現在の語り手の姿を目に浮かべることができます。言われるままにカーブの数を数えることで、ほぐれていく息づまるような空気。「緩和曲線」とはよく言ったものです。 だけど、そういうふうでなく、そういうふうにしかできなかったのだとしても、もっとちゃんと下手でもいいから、言葉で言ってくれればよかったのにね。 けれども同い年になるまで生きて経験してきた語り手も、そううまくはいかないことを知ったことでしょう。 在りし日の父の姿を思い出しながらいつしか自分の現在の姿と重なっていくとすれば、昔抱いていたわだかまりもほぐれて、父―子の愛情はここでようやく、遅ればせながらの交差をしたのかもしれません。まさに「緩和曲線」ですね。 当時と同じ道を車で辿りつつ、語り手のなかで変容する父―子の関係性が遠近感をもって表れているように感じます。 多くを流暢に器用に話すだけがいいとは限らない。父が言葉少なくともなんとか言葉にならないものを伝えようとしたことを語り手も継いでいこうとするかもしれません。この作品のように。 (クロソイド曲線)

2021-01-23

こんにちは。タイトルからRCだなと推察しましたが、 《BGM トランジスタ ラジオ        by RCサクセション》 というのを付け足したのは、この作品の進行のバックにはこの曲が流れている設定なんでしょうね。作者がこの曲に耳を澄ませたりリズムを感じながら(実際には流れていなくても)書いている様子と、作品世界が思い浮かびました。 (1987 トランジスタ ラジオ)

2021-01-21

現代版「イエス・キリストと〈マグダラのマリア〉」といった感じでしょうか。マグダラのマリアがデリヘル嬢なのはすんなり入ってきましたが、キリストさんがヤバいおっさんという価値の転倒と今風の語りが合っています。 (ノリ・メ・タンゲレ)

2021-01-18

(続き) ここで「チャップリンの映画」について触れると、私がそれを観たのは中学生の時ではっきりと記憶にないのですが、作品中で《揶揄されていた》という点について、それは決して《揶揄》というものではなく、彼特有のユーモアではなかったでしょうか。要するに近代社会がもたらした人間の悲哀や社会への怒りというものを批判としてそのままぶつけるのでなく笑いに転化したのではないかと考えることもできます。ユーモアというのはどこか悲哀や怒りに触れているように私は思うのです。 話を戻します。先に私は〈四連目以降に変化が出てきます〉と書き、〈均一化され交換も使い捨ても可能な「労働力」でしかない者が《世に出て/人々を救え》、《恵比寿となって帰って来い》などという人間的な声を発しているところに見るべきところもある〉と書きました。さらに〈いかに構造上、「労働力」として均一化され交換可能な数の一つと《人格を否定》されようと、モノと人の違いのひとつは、自ら思い且つ声をもつところにある〉とし、〈それすら強い力を持ちえないにせよ〉とも書きました。ここから言えることは一旦は声を発しはじめながら、にもかかわらず最終連で《機械の一部となる》こと──この部分こそ、まさに私が《埋没》と書いたところです──のどこが〈祈り〉に結びつくだろうかということです。〈祈り〉さえ確固たる力を発揮しえない現実に対して、モノや機械ではない人の思いや声を消してしまうのであれば、なんのために顔をだした人格(人間性)であったのか。小林さんは《一つの使命感のもと、誰かの救いになると信じて、一所懸命に業務に取り組む。その迷いを振り払った姿は、涙を誘われるような気がする。》と書き、それを《自己犠牲の精神》として《美しい》と言うけれど、それならば作品の語り手にとって労働は信仰で、この作品は信仰告白、そして信仰である以上「労働力」として殉じるしかない。それを美しいとは私は思いません。むしろ、自己犠牲も祈りも通用しないと知りつつなお《機械の一部》にならずに、現在地から声を発するべきではなかったかと考えます。いずれにせよ、《機械の一部》になったところで作品として昇華する力が失われてしまったように感じます。以上です。 長々と失礼しました。 (この詩を奴らに渡すな)

2021-01-17

こんにちは。興味深く読みました。その上でコメントさせていただきます。多少長めなので(これはいつものことか笑)二回に分けますね。 >自分はもう スイッチ押して >材料を入れて 製品を出すだけの >機会の一部として作動をし続けている >あと数百 同じ動作をし続ける 小林さんの文章によると《第二連のこの四行は、繰り返される修行の中でトランス状態に入るさまの喩えとも読み取れる。その労働の姿に「個の埋没」と、「世界への無責任」を見て取ることもできるだろう。》とあります。しかし残念ながら《繰り返される修行の中でトランス状態に入るさまの喩え》とは受け取れなかったし、《その労働の姿に「個の埋没」と、「世界への無責任」を見て取ること》もできませんでした。私には、少なくとも第三連までは、日々の単純作業に勤しみながらもモノが出来上がっていく過程を虚ろな目で淡々と確認する、倦怠感に包まれた作業者の様子が汲み取れただけです。したがって先の四行で《「労働」に一つの希望を見出している》とは全く感じることができません。 また《絶望》は《達成感の欠如した》状況にあるのではなく、現代の巨大な資本主義経済の構造のなかでは、個人の達成感などというものすら「労働力」のもとに回収されてしまうところにあるのではないでしょうか。 ところで、単純作業によって製造され検品され市場に出された《均一》な製品は物質的な豊かさを消費者にもたらします。しかし、そのようなモノを作るための労働者はそのことによって「労働力」として均一化されてしまう。そこでは生産過程を円滑に機能することが優先され、労働者個人が感じる達成感や苦渋(人格や人間性)は問題にされません。そして「労働力」として均一化(モノ化)されるということは当然交換(代替)も使い捨ても可能であるということです。このようなことによっても三連目までの流れは、先に書いた「倦怠感に包まれた作業者の様子」として読めるのです。(ただし、作者が「現代社会によってそのような状況に陥った人物像」として、つまり、ある種の社会批判として彼を登場させたというのであれば話は別です) そして、そのように読んだからこそ、四連目以降に変化がでてきます。すなわち、均一化され交換も使い捨ても可能な「労働力」でしかない者が《世に出て/人々を救え》、《恵比寿となって帰って来い》などという人間的な声を発しているところに見るべきところもあるのです。けれども表現としては〈祈り〉というにはまだ弱いように私は思います。これだけの表現で〈祈り〉とするにはまだ悲痛さが足りないように思う。「叶うなら」というひと言があればまた違っていたかもしれませんがそれもわかりません。表現としての弱さについて言えば、六連目の《人々の為に/苦痛を除く製品を作る事に/誰が人格を否定しうるだろうか》の《しうるだろうか》も弱い。「労働力」ではなく一人格をもった労働者として、この現在にモノを造ることを肯定し、それに従事することを肯定するならば、《しうるだろうか》では昇華する力に欠けているように感じます。ここはもっと強く出てほしかった。その方が後に続く三行にも力が乗っただろうと思います。それというのも、いかに構造上、「労働力」として均一化され交換可能な数の一つと《人格を否定》されようと、モノと人の違いのひとつは、自ら思い且つ声をもつところにあるのだから。それすら強い力を持ちえないにせよ、です。 (続く) (この詩を奴らに渡すな)

2021-01-17

返信ありがとうございます。私のコメントは羽田さんの仕事やモノに対する考え方に向けたものではなくて、あくまでも提出された詩作品に対して向けたものなのです。 かなり大雑把に書いたのですが、近代の科学をもとにした諸学問の発達によって得られた知見と技術は、さまざまなモノの開発と流通を可能にして経済を大いに発展させたわけで、先も書いたように私もその利益を受けているのですが、一方で核兵器まで造り上げたんですよね。資本主義経済の筆頭といわれたアメリカがグローバル化を推進するなかでは中東地域に持たざる者が増えて、抑圧からの解放とされテロル(殺戮)につながったという面もあります。小林さんへの返信に《上手く作動しない銃器ほど絶望的な物体もなく》とありますが、「上手く作動する銃器であるがために絶望的な物体」を生み出してきたのもこの社会であるのです。すでにそのような状況である現在において、この「作品の語り手」も羽田さんのように《好きでやってます。単純労働が性にあうのです。》というのであれば、他はどうだろうと知ったことじゃないよ、と言っているようなものではないかということです。生活している現実としては元に戻ることはできないにしろ、作品として読んだ場合、語り手自身による批判が含まれていてもよかったのではないかと考えた次第です。 (ナウ タイムス)

2021-01-15

《そんなあなたは誰ですか?》から流れが切り替わってスピード感がでてきています。ぐいぐい問いで攻めていくのも気持ちいい。こういう転調は好きです。ラストの切り替えもいいですね。うまく締めた感じです。 (あなたは誰ですか?)

2021-01-15

うーん。どうなんだろう。労働によって作り出された製品は社会に流通することで、利用する消費者の生活を助けることにはなるけれど、それって近代的・合理的な経済システムと生活者とをより強固に結びつけてきたわけですよね。 そういうシステムの中では労働者もシステムを機能させる部分として見做されるというのが、それこそフォード式の頃からあったわけで、人は人格をもった個人というよりも労働力として考えられてきたと思うんです。その結果として豊かになったモノ社会というものを私も享受している一人ですが、その延長で持てる者・持てない者の格差を拡大させた面もあると思うんです。そういう点では語り手の考えていないところで、人々を助けることはできていないように思う。というか、そういう部分に目を向けないで、システムの一部になることを自ら選んで自足しているようにも読めるんですよね。そういう自らのうちに埋没していく感じってどうなのかなあ、というモヤモヤがあります。 (ナウ タイムス)

2021-01-15

「公園の木は都市計画課の指示で植えられるので、陽当たりなどの違いによって育ちが変わってしまい醜い」と知人から聞されたことを思い出しました。また、かつて詩人の佐々木幹郎が、山を保つためには間引きや伐採をしなければ、荒れ放題になってしまうみたいな話をしていたことを思い出しました。 そうした現場の視線や息遣いが感じられるばかりでなく、無駄や乱れを排する「伐採」が施され見事に整えられた詩文になっていると感じます。 (伐採)

2021-01-15

ことばでしか言えないこと、ことばだけが言えること、ことばでは言えないこともことばで表すということ、ことばはことばでないものに触れているのだけど、ことばが触れていることばでないもの(またはそれがあること)はやっぱりことばでないと表れないということ、それは表されてみればことばであること。そういうことをめぐっての思考の過程、つまづきや反転や立ち止まりが行間から感じられますが、その〈行間のことば〉を生み出しているのも語られたことばだな、と思いました。最後行き着いたんじゃないかな。ことばとことばでないものをめぐる逡巡(ということばでないもの)を語る〈これ〉はことばだってところに。 (ことば)

2021-01-15

>磔にされたイエスの今際の言葉も >残念だけれど >それは私が信じているものじゃなかった とありますが、磔刑にかけられたキリストが言ったという『神よ、あなたはどうして私をお見捨てになるのか』という痛みに満ちた言葉は、彼が神の子でなく人間であることの告白であったと私は思いますし、ここにおいて、彼を好ましく思います。そしてこの作品からはそうした痛みに満ちた肉声を感じます。〈赤い花〉がその結晶かもしれないと思えるほどでした。 (「My Religion」stereotype2085さんとの共作)

2021-01-11

《誤解をしている可能性》という点について私なりに言えば、読み手は書かれた作品に対峙していかようにも読むことができるということです。 書き手には書き手の意図なり狙いなりがあるかもしれない。または書くことによって立ち現れてくるものを目指そうとするかもしれない、しかし、それとは別に〈書かれた言葉〉に読み手は向き合い、自分の読みを進めていくのです。その体験においてどのように読んでも──つまり、誤解や誤読があったとしてもということですが──いいということです。おっしゃる通り、〈書かれたもの〉に正しく接近したいという気持ちは、読む過程で自分の読みを疑うことを余儀なくさせることもありますが、それは読み手としての自分の変容を体験することでもあります。その上でやはり誤読は起こり得る。けれどもそこに読み手としての自由があると私は考えているし、言葉は読み手の読みのなかで変化する自由もあると考えています。まあ、そのせいで作者の意図とは斜め後ろの読みを呈することもあるわけだけど。そんな下手くそな読みでもね、読む自由がないんなら、というか自分の読むという言葉の身体で作品の言葉のなかに参入していく楽しみがないんなら、読むなんて面白味もないと思うんだな。ということで解題を求めたことに対して批判をしました。あなたは《残念に思います。》で終わらせるか、でないならば、他の読みの可能性を探って自分なりの読みを見出すべきではなかったかと思いますよ。自由になれるんだしね。 以上です。 小林さん、作品欄をお借りしての長文失礼しました。 (セックスしたことないよ)

2021-01-10

すべて「ないよ調」で進行していくのが単調でしたが微妙に変化があるのも感じました。どこで面白く展開するのか楽しみにしていましたが、最後までこれといったピークもなく終わってしまったな、というのが正直なところです。 コメント欄の解題も読みましたが、そっちの方が興味深く思いましたが、作品としては昇華されていないように思います。さながら立派な厨房から出されたごく普通の料理、もしくは大言壮語のモテ男の下手なセックスのようです。同じ否定法を用いるでも単調さを避ける使い方はあったと思いますし、「否定」という個人の意思が強く働く語を連呼することは断言や告白を印象づける効果はあっても、問題を提起するには弱いと思います。 (セックスしたことないよ)

2021-01-10

あそこまで書いて解題を求めるくらいなら、作品として否定すればいいだけの話でしょ。つか、ほぼほぼ否定的なコメントつけたあとに解題求めるとか違うんじゃないの?あなたは満足かもしれないけど、作品と向き合う前に解題されたら読む気も失せるというもので迷惑もなにもあったもんじゃない。以上。 (セックスしたことないよ)

2021-01-10

ツッコミどころはいちいち書いてとりあげるのがめんどくさいくらいありますが、「レプリカ」という一語だけは、stereotypeさんらしい選語だと思いました。 (祖父の痕跡)

2021-01-08

こんばんは。バラッドという形式に照らして読んでみると、 〈(補遺)以降に書かれた詩句〉 いかにも詩情を孕んでいるように読めるものの独白めいており単調な作りである。 〈(補遺)より前の四連からなる詩〉 それぞれに、 ・一行目が反復されている。 ・登場人物が現れて会話や行為が行われるといった体で「物語」が嵌め込まれている(内容は世俗的)。 ・文体にかなりくだけた口語が用いられている。 ・最後にまとめ(オチ)がある。 また各連が直列的な関係をもっているというよりも並列的に並べられている。 以上のことから(補遺)以降の、いかにも詩情を醸しているかのように見える詩行より、詩としては失敗していると思われかねない(補遺)以前の詩の方が、実際はバラッドのありかたに非常に近いといえます。 あまりに露骨な(普段遣いの)口語体であるた(補遺)以前の詩は、詩情を感じさせず、結果的に対比として(補遺)以降の詩行があたかも詩的であるように思えてしまうのですが。 しかし、(補遺)以降の詩行は畏まっていて、すでにどこかで読み慣れた、経験済みで、ゆえに感じにくい詩行になっているともいえます。なんとなく読み慣れていてなんとなく共感できたような気持ちになれる、安心して読める詩。 そんなものに閉じこもっていたくない。という気持ちが、書きかけていたものを自ら損ねさせ、中途で終わらせずにいられなかった。そして最初の一行を用いてバラッドを作った。そんな印象を受けます。あるいは次のようにも読めます。雪が降るのは冬であれば当然という土地に暮らしている人々からすれば、降ったところで大して驚きもしないだろうし、あえて確かめることもしないでしょう。日常に馴れるというのはそういうものです。でも、その「雪」に美しさを感じる人はいるかもしれないし、日常のなかで慣れてしまった「雪」というものや語に、言葉によって新しい感触を与えようと試みる詩人がいるかもしれない。ところがそれをしようとして彼は気づく。どうせ誰も雪が積もってるかどうかなんて気にもしてない。外なんて見ちゃいないんだ。自分の生活のことしか。畏まって詩を書こうとしていたことが突然馬鹿馬鹿しくなって、塗り潰してしまう。ええい、そんなら……ということで開き直って書きはじめられたのが(補遺)以前だ、と。まあ、ほぼ個人的妄想的読みです。 そうして考えていくと、バラッドの中の「僕」も、語り手ではなく、語りの中にひとりの登場人物として嵌め込まれて、他の登場人物と話していることになり、(補遺)以前と以降を合わせた全体としては入れ子の入れ子という構造といったやや込み入った作りになってきます。 ここに生まれる距離感と対比とが(補遺)以降の詩行ではでてこない味をつくりだしているように感じるのです。 分けて考えると(補遺)以降はバラッドとしては下手くそが書きそうな詩行でしょう。そしてバラッドであると断っているにもかかわらず、そちらに詩情を受け取ろうとするのも下手くそな読みになります。詩として失敗だと思っている(補遺)以前こそバラッドなのだということかもしれません。 とはいえ、全体としては(補遺)を付けなければこの作品の面白味が薄らいだことを思えば、やはりこの作品はタイトル通り『下手くそが書いたバラッド』に違いなく、そして、『下手くそが書いたバラッド』をこれだけ上手く書けるということは、上手いバラッドも書けるに違いありません。次回はそれを期待します。新年早々長々と失礼しました。駄文初めということで寛容のほど宜しくお願いします。 (下手くそが書くバラッド)

2021-01-05

科学が発達して動物の生態研究も多くの知見をもたらしてくれるようになったようですね。しかしながら、特に近代の科学の方法は対象に接近する際に観察者の主観を排除することによって普遍性を獲得してきたという経緯をもっています。したがってそこで得られた知見は広範囲にわたって通用するものの、性格上「私」がない。〈あんた〉の言葉は正しいかもしれませんが、いかに血の通った人間らしい体温を感じさせないものかが伝わってきます。だからタイトルこそ《あんた猫なのかい》ではあるけれど、また各連の最終行に《あんた~なのかい》とは置かれているけれど、大事なのはそこではなく作品の最終連の《あんた/人間だろ》であり、《あんた~なのかい》のあとに省略されている「そうじゃないだろう?」というところにあるのでしょう。言い換えれば「おれは(一人の生きた人間である)あんたの考えを訊いているんだ」ということです。通り一遍の当たり障りない正解ではなく、間違っていようが口下手だろうがなんだろうが〈あんた〉という人間の内から発せられる言葉を求めている。また、それほどに語り手も一般論や情報、知識などに覆われて疲弊し、生き生きとした感情を忘失しつつある状況に置かれているのではないでしょうか。ところが〈あんた〉の人間味のない言葉に苛立ちを覚える。〈あんた〉の機械的な答えによって苛立ちという感情が息を吹き返す。第五連の連呼はその噴出であり、この時、人間味を感じさせない物言いの〈あんた〉はまさに語り手自身であったという逆転が生じている。そうなると「おれよ、一般論は横において、きみ(おれ)はきみ(おれ)の言葉で語れ」というところに行き当たったんじゃないか。そんなことを思いました。 (あんた猫なのかい)

2020-12-25

こんにちは。読みました。まず、《最近、綺麗な星空を見たよ。》から《名前を聞かれた。》までの一連から。 《民泊のスマフォアプリを使って、白馬の宿に泊まった》ことから、たぶん「僕」は旅行に慣れているのでしょう。 ところが思いがけないことが起こる。予定では《外観が素敵なロッジで、友人と3人だけで泊まるはずだった》のに、 《英語で書いてあった宿の説明文をよく読んでなくて、要はシェアハウスだった。一泊だけとは言え、十数人と一晩を共に過ごすことになった。》と、ちょっとした不注意から、予定が狂ってしまう。 しかも《半分以上は外国人で、緊張感を覚えた。英語で会話するのは数年ぶりで、うまくコミュニケーションが取れなかった。》と、当初の計画から大きく外れ戸惑うことになってしまう。 けれど《夜、宴会の時に、嗜んでいるギターを少し弾いた。》ことで、 《何が好きか?と外国人に聞かれ、「LED ZEPPELIN」と答えたら、俺も好きだ、と言われた。》と交流が生まれ、 《だから、「Stairway to Heaven」を少しだけ弾いたら、喜ばれた。》と相手を喜ばせて、 《その外国人はオーストラリアから来ていた。彼は僕を気に入ってくれて、名前を聞かれた。》などと結局のところ、うまくいっています。 先にちょっとした不注意と書いたのだけど、こうした些細なミス、例えば読み間違いや見間違いなどは無意識の働きとして語られることがありますね。また、久しぶりの英会話のためにコミュニケーションがとれなかったのは困っただろうけど、ギターを弾いたことが交流の糸口になったことは思いもよらないことだったでしょう。さらにオーストラリア人の彼も「僕」と同じくレッドツェッペリンが好きだったということは「僕」にとって不意の驚きだったと思います。 このような思いもよらないことや意図せぬところにも無意識の動きが見られます。「僕」の当初の予定とは別に、無意識が何かしらの目的をもって「僕(の自我)」に働きかけていると考えると、まさに無意識はそれを実現するために諸々の事柄を通してアレンジメントしている。言い換えれば、不注意や思いもよらないことなど、それぞれに個別であり因果関係によっては結ばれない事柄が、全体を見た場合、何かしらの目的を実現(realize)するために関連しているようであり、constellationにあるような星座的パターンを形成していると思いました。 以上のようなあたかも「偶々(たまたま)」であるような予定外、想定外の事柄の連続があったからこそ、その後の展開もあり、《こんな星空を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。》から《就寝の準備をしていた。》の一連につながっていくのでしょう。それにしても《優に百個は超える星空》とはどんなに綺麗だったことか。《生まれて初めて》という今までの日常とは異なる非日常的星空体験。想像するだけでくらくらしそうです。それは「僕」にとっては、予定通り進んでいたら恐らく確実に起こりえなかったことであり、だからこそ想像だにしていなかった体験だったでしょう。外人たちと寝転んで星空を見たことも、友人と野ションしたことも、「クルッテル」と言われたことも、一夜の奇妙で豊かな時間を表していると思います。《(最近、)綺麗な星空を見たよ。》が星空だけではなくて、この時の「僕」の体験ひとつひとつのように響いてきます。 《最近、綺麗な星空を見たよ。》から《名前を聞かれた。》までの一連と、《こんな星空を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。》から《就寝の準備をしていた。》までの一連はいかにも自然で、淡々と語られているように感じられます。実際、普段の些細なミスや思いがけない出来事というのは、よくあるちょっとした〈偶然〉として処理されてしまうので、特段印象を残さないトーンで語られるものだと思います。しかし、語りのなかで振り返っているうちに徐々に気づいていくことがある。それが以降の《(そういえば》に続いている。最近あったちょっとした珍事を現在から振り返って、ちょっとした珍事でしかないように思われた一連の出来事のなかに、自分なりの意味を見出そうとする動きを感じます。それはひとつずつ星を探して星座(konstellation)をつなごうとするようでもある。ああ、あれはこういうことだったのかと。ちょうど渦中では見えないことが遠目になって見晴らせることがあるように。constellationが生じる際にはその中に自分も巻き込まれているので見えにくくなっていたとしても無理はないですね。 けれども振り返られた一連の体験は現在を照射していて、それを意味のある体験として落としこもうとする視線は〈ただの珍事〉を明るくするものだと思います。 自分がいまここにいること、それは無数の人々や出来事があるなかで、それでも点と点をつないでつながれる星座のように、誰とも異なるユニークな関係のなかに置かれている。《いつでもどこでも同じだったはず》なのだけど、それが見える時と見えない時とではこの先の進むあり方も変わることでしょう。 ふとしたことから振り返られ、確かめられるなかで深いところで気づく動きと向けられる視線の広がりに感動を覚えました。 余談ですが、小さい頃、星空を仰ぐと吸い込まれそうな感覚になりました。その時、たぶん月もでていたはずなのだろうけど不思議と覚えていません。星よりは大きく明るいはずなのに。長文、失礼しました。 (Konstellation)

2020-12-15

いつもの散歩であるはずだったのに、ひょんなことからいつもとは全く違う散歩になってしまうことってありますね。カエルといえば水と陸地を生きる両生類の代表格、あの世とこの世、自我と無意識などの境界を行き来するものなので、こういうことがあっても不思議ではないかもです。あ、ひょんなことからというよりピョンなことからでした。 (来訪者)

2020-12-10

《次の満月も その次の満月も こうして見上げられたら》どんなによいかと思うことがありますね。でも、思うとおりにはいかないことがあって、そこに喜びだけでなく悲哀もあるように思います。最後の一行の「、」が効いています。 (帰り道)

2020-12-10

ひとは大抵仮面を被っていると思いますが、仮面もいろいろあって不気味なものばかりではないと思います。「私」は仮面を不気味といい、うつむいて歩く。そこに仮面でない「私」がいそうですが、それも別の仮面かもしれません。なんちゃって。 (仮面)

2020-12-09

タイトルと同じ言葉のリフレインがよく効いていると思います。語られている個々の事柄が、最後の一語でひとつにまとまって遠くへ放たれているような感覚をおぼえました。あるいは最後の一語に溶けていくような解放感があります。 戻るところ(元の生活)と帰るべき場所は同じではないのですね。考えてみると、生まれた場所、自分を育んでくれた土地を出て、異なる場所でのふるまいや生活に慣れるというのは「帰るべき場所」をなくした漂流者のようでもあるかもしれません。この時、父母は両親であり、育ててくれた島であり、島で過ごした仲間たちといった、我が身を支えてくれる「故郷」として呼ばれるのかもしれない。 《僕の帰るべき場所はどこなんだろう》という問いかけが、不思議と重苦しく響いてこないのはそのためかもしれません。 (アンシェー マタヤー サイ)

2020-12-09

ひとの心情というのは複雑だなと感じ入りました。短いけれど見えるように書かれている作品だと思います。 (voltiger)

2020-12-08

こんにちは。作品がボクに与えてくれたことをどのくらい言葉にすることができたかと思うと苦笑いすら出ません。笑って収めていただければ幸いです。 (『詩の日めくり』讃──在りえそうにないもの)

2020-12-08

うーん。勝手に要約しちゃうと、一粒くらいの大きさしかなくても見過ごされていたり、零れ落ちてしまうような小さなものに光をあてられるようなそういうものにずっとなりなかった、でやっとそのために今いる場所から外へ出る、という感じなのかな。そういう熱というか意思の働きみたいなものは感じます。 が、それと余白(スペース)や行換えがいまいち一致していなくて身体的に気持ち悪さを覚えました。仮に語り手の表立った語りと内心の揺れの不一致とかぎこちなさをこのスペースや行換えが示しているのならわからなくはないけど、どうなんだろう。 あとはやっぱり「一粒だけの星」にしては照らすものが多くて、バランスが悪く違和感があるように感じた。 ただ、バランスが悪かろうと「一粒だけ」という小ささに賭けようとする語り手はロマンチックだし、この詩のなかにポエジーを見出せるとしたら、この一粒だけというところだなと思います。 (* ひと粒だけ*の星)

2020-12-04

小洒落た映画のワンシーンのようでした。 (ピアニシモ)

2020-12-04

こういういたたまれないことってあるよなあ、と言えばいくらか感傷になるけれども、そのくらい、特異な例であるというよりは、身近にありながらなかなか解決されない部分を題材にとっているなあ、という感じで、なんとか生きてほしいと思いました。 東西ドイツは統合されて、一時はよかったようでもありますが、職業や生活の方で格差や差別も生じてしまって、簡単には安らげないようなので、苦労が救われるのは長い道のりでしょうけど、それでも。 しかし、眠剤がわりにポエムに手をだしたところで、その場しのぎにしかならなくて虚しいと思うけど、他に手がないなら、それも止むなしなのかな。個人的には状況すら題材にして詩のための口実にしてほしいけど。 (覚えられなかったこと)

2020-12-04

面白くてつい笑ってしまいましたが、ほろ苦くもありました。 (燕雀いずくんぞ)

2020-12-04

だれなのだ、と問うところにかろうじて「わたし」が見え隠れしているようです。 (からっぽ)

2020-12-04

《水とパンで膨らむ命》って面白いです。 (タイトル)

2020-12-04

二連目後半部《誰がどうなろうが》から声が強くなって真に迫ってくるように感じました。 (白日夢)

2020-12-03

こんにちは。淡々と、細かいところまで描く語り口のなかに、語り手の感じている寒いまでの心細さを感じました。 (名前のない夜)

2020-11-25

こんにちは。 《そのためやっ     っちゅうねん》 や、 《なんでわしらの何倍も貰てんねんっ               っちゅうことをな》 の末尾の「っ」と行換えのところに、ネジを力いっぱい締め込む時の筋肉の動きを感じました。長年現場で働いてきて危険なこともあったし、周囲には恐らく事故にあった方々も見てきた。しかし、新卒で入ってきたひとたちが収入面でも仕事環境でも良くなっていることもちゃんとわかっていて、期待もしている。そういう語り手が目に浮かぶようです。口うるさく皮肉っぽい言い方がクセになってはいるけど、愛情をもっている現場のおっちゃんという印象で好感をもちました。 (ネジ締めたろか)

2020-11-25

空洞は何も無い空間ではなくて、空が充満している状態だと書いたのは誰だったか。そこに命なりなんらかの存在を見出すヒトの想像力はかぐや姫といわず刀の鞘に宿る魂や虚ろ舟といわず古代からつづくものだなと思わされました。生命感を感じます。 (竹林にて)

2020-11-25

タイトル通りだなと思いました。 (日記にでも書いておけ)

2020-11-25

こんにちは。読んでくださってありがとうございます。「他者への暖かい眼差し」というのを持てる時がごくごく稀にあります。もしかしたらこの時はそんな状態だったのかなと思ってみました。その程度にはほぼ気紛れでいい加減なやつでございます(^^) コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-25

こんにちは。読んでくださってありがとうございます。結局薬局、日常の外には出られないので、日常ってやつをもっときちんと愛せたらいいのになあ。なかなかうまくはできないもんです笑 頑張ります。コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-25

かっこいいですね。高名な作家の日記の序文みたいなテイスト。でも、こういう出だしで始めた日記は始終この格調を保たなければ狂っちゃいそうで大変そうだから、ぼくが日記を書くとしたらもっと肩肘張らない文章にすると思いました。 (日記序)

2020-11-25

こんにちは。日記を書くのは全くの苦手で長続きしないのですが、珍Qさんは五日も続いているので三日坊主になっていなくてがんばったなあと思いました。〇に同じ数字が入っていればの話だけど。 (珍Qの修行日記)

2020-11-25

こんにちは。 《きょうあめがふらなければいいのにね》と《きのうあめがふらなければいいのにね》では後者の方が、日ごろ当たり前に使う言葉としては気持ち悪くてムズムズします。そこが《きのうときょうのちがい》ですよね。ちょっと違っただけで体感として全然違うというか前後ろ逆に袖を通したような違和感がある。 というのは屁理屈で、この《きのうあめがふらなければいいのにね》という言葉の意味の通らなさに、意味の通った言葉では伝えようのないものを抱えている「わたし」を感じました。 (きのうにさらさら)

2020-11-17

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。書いた言葉が、優しい気持ちを持ったものみたいにつながっちゃったのかな。直球勝負ってコワイものありますね。 コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-15

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。ああ、そうか。「よく生きているなあ」というのはすぐ出てくる感慨ではないですね。なかなかうまいこと生きられなくてヒイヒイやってる期間があって、それを抜けたところでようやくポロンと出てくるものかもしれない。 >外をみつめることが、内をみつめること なるほどです。勉強になります。 コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-15

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。考えてみたらおかしな感じですよね、「よく生きている」って。なんなんだろ。ぼくはとりあえずうまいこと解説ができません笑。コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-15

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。「心に響く言葉」と言ってくださって嬉しいです。ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-15

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。書いた本人としては特に共感を狙って書いたものではないのですが、そう言っていただけるのは嬉しく思います。共感されることって滅多にないと思っているので。 > 一日の始まりにこんな詩に出会えたら、その日はきっと素敵な日になるでしょう。 作者冥利に尽きる言葉と言う他ありません。そのような詩に運良くめぐり会ったことはありますが、言われるだろうとは思ったこともないので。苦笑 とても励みになります。コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-13

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。ぼくが暮らしている土地は盆地なので湿度も高く夏場はかなり蒸し暑くなります。そういった気候のなかでの生活が言葉を選ぶ際に知らず現れたのかもしれないですね。濁りや汚れと感じるものがあるからこそ対比として美しいと感じることもあると思います。この世は限りなく美しいかどうかはわかりませんが、限りなく美しいと「感じられる時」はごくまれにあります(^^) コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-13

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。挙げていただいた箇所、リンクスさんへの返信にもなんとなく思い浮かぶ理由を書きましたが、実際のところ、自分でもよくわかりません。でも「よく生きているひとは」でないといけなかったのだと思います。その後に「ぼくは」ときて、「は」が続くので一般的な日本語表現としてはおかしなところもあるような気がしますが、そこは「他の誰がなんと言おうと」という意をもたせるために、多少妙ちくりんでもそれを選んだように思います。コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-13

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。 青臭いですよね笑 いや、スコーンと突き抜けたように青臭いものを書いてしまったのです。たぶん、それまでのどこか「ぶったような書き方」や「どこかしらにつきまとう上から目線的な書き方」に飽き飽きしていたんじゃないかと思います。肩の力抜いて素直でストレートなものをやりたかった時にたまたま出てきたのかな。読み直してみて、今なお小っ恥ずかしいのですが。笑 ときにABさんの『ネジ 締めたろか』は10月の月別表示に隠れたんですね。もうしばらく前から、たしかもっと以前に投稿されていたはずだと思い、比べてみようと遡っていたのですが見つけきれませんでした。「あっれれー、おかしいぞー」というコナン君的なつぶやきを繰り返していたのですが、結局見つからなかったので後日コメントさせていただきたく思います(^ ^) (明るい朝の歌)

2020-11-09

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。「なんかいいなあ」と感じた事実を皮切りにして、「よく生きているひとは ぼくは好きだ」という言葉がでてきて繫がった。あとはそれを響かせるためにどうするかで言葉を選んでいったと思います。引用していただいた箇所は恐らく、老婆、老爺とつづいてきて、老婆が朝で老爺は昼という流れから夜の子どもが浮かんだのだろうと推測します。で、書いた当人は、響かせるための言葉選びや流れの側になんとなく耳を傾けて素直に書いていたから、引用していただいた箇所がいいのかどうか、まったくもってわからないのです。コメントを拝読して「ああ、そうなのか」と感じているくらいです。 >「ぼく」という人物が、いまどういう状況で、どんな人生を送ってきたか、いま悲しいのか悔しいのか嬉しいのか、そういうことは一切書かれていなくて、ただ目に映る景色を肯定するやさしい眼差しだけが描かれています。 この点については「ぼく」が世界に向けて(また恐らく自分に向けても)「よく生きているひとは好きだ」(そういうひとは好きなんだなあ)と得心しながら発話することがメインになっているので、「ぼく」の個人的事情などは混ざっていないのだと思います。そこに《肯定するやさしい眼差し》を見て取ってくださって、これも非常に嬉しく思います。 もういったいぜんたい、なんとお返ししてよいやらで色々書きましたが、コメントに感謝します。ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-09

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。ぼく個人としては悩みを漏らすひとが周りにいて、苦境に立たされながらもなんとか凌いで頑張っているのを見ていたので、書きながらやっぱりどこかでそういう人たちを思い浮かべていたように思います。しかし、自分で読み返している時になんだか自分に言い聞かせているような気もしてきて、無意識に「そういう人々」のなかに自分も入っていたのではないかしらんと思いました。まあ、自分もなんとかかんとかという感じでしたので。ただ、書いている時はそこまで明確な意図はなかったですね。言われてみればそのようにも読めるなあと頷かされました。参考になります(^^) コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-11-02

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。これを書いた10年前はコロナウィルスはもちろん東日本大震災も発生していませんでしたが、金融危機が起こり、多くの工場が稼働しなくなったり派遣切りが横行したくらいの時期だったように思います。小林多喜二の「蟹工船」が読まれたり、共産党に入党する若者が増えたといわれたのもこの時期ではなかったかと記憶します。そういう意味ではなかなかにしんどい時代ではあったと。そのような状況を傍目に社会は前に進み、それでも踏ん張って毎日を生きている人たちがいると思った。もしかしたらこれを書くきっかけになった近所のおじさんの、長年いろいろあった中で生きてきてそこにある姿と、大変な状況のなかでへこたれながらも生きている様子とが重なって「よく生きているひと」という言葉が出てきたのかもしれません。いま、つつみさんのコメントから振り返って考えてそのように思い至りました。細部まで入って読んで下さって、書いたものととして有難い限りです。ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-10-30

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。「よく生きているひとは」の「は」、ホントなんで出てきたんでしょうね。自分でもよくわかりません。でも、いま思うに「よく生きているひとが」とした場合、やはり御指摘にあるように、「よく生きているひと」はどんなひとかという特定が必要になるからではないかと思います。けれども、どんなひとが「よく生きているひと」なのかわからないわけで、言えばみんな「よく生きている」かもしれない。そういうところから「は」にしたのだろうと思います。そこはぼくもよく出てきたものだと思うので、目をつけて下さって嬉しく思います。夏の終わりは鼻がむずがゆくなりますね(^^) コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-10-30

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。また過分な言葉をいただき幸甚です。先に書いたようにこれは10年前に他の場所に書いたものでした。当時はどちらかというと、「自分にも書けそうだ」と読み手が思うような書き方をしておらず、もう読みにくいものを書いていました(ありふれた、と思うような書き方を忌避するのはある程度共通したあり方なのかもしれませんね)。ところが近所のおじさんが畑で野菜だかの出来を眺めているのを見て、その光景を「なんかいいなあ」と思った。初めて見た光景でもないのにその時どうしてそう思ったのかはわからないけど。そのうちに「よく生きているひと」という言葉が出てきたというわけです。あとは割りとパパッと出来たように思います。告白体で平明で読みやすい、なんというか当時としては小っ恥ずかく避けていたスタイルですが、「書いたものはしようがないな、えい」という感じでアップしたように思います。今回投稿するにあたって粗さや甘さを残しつつ、若干手を入れました。また10年を経過した現在の考え方に変化がない(嘘がない)と読み直してみて思ったので、投稿に踏み切った次第です。泣いている子どもでも酔っ払っているおじさんでも、よく生きてるなあ、と思う時嬉しくなり、気持ちがほぐされるのを感じることがあります。 コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-10-30

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。これを書いたきっかけは朝に見た光景にたまたま目がとまったことでした。それで割りとパパッと書いた。10年前になります。少し手を入れましたが当時は別のタイトルでした。今回投稿するにあたって、「好きだ」と肯定的に言う時はやはり明るいものだろうということでタイトルを変えています。コメント、ありがとうございます。 (明るい朝の歌)

2020-10-29

こんにちは。行分けで二行を四つに分けて書いている箇所ですが、この四つが「すべて本心」だとすると、どれが「蜜の味」につながっていくのか、わかりづらく感じました。そして一つ目の二行と三つ目の二行は「優等生ぶ」っているようには読めない。ということで、もしかしたら一つ目と二つ目、三つ目と四つ目はそれぞれ1セットになっているのかなと思いました。それなら「優等生」ぶってる感じがでてきます。だとしたら、ぼくなら同じ書き方をしたとしたら、一つ目と二つ目、三つ目と四つ目は行間を入れなかったと思います。あとはもっと「蜜の味」をしっかり書いてほしかったかな。その方が「嫌だな」とのギャップが大きくなって嫌さが見えるので。 (みんな本心)

2020-10-28

こんにちは。行分けで二行を四つに分けて書いている箇所ですが、この四つが「すべて本心」だとすると、どれが「蜜の味」につながっていくのか、わかりづらく感じました。そして一つ目の二行と三つ目の二行は「優等生ぶ」っているようには読めない。ということで、もしかしたら一つ目と二つ目、三つ目と四つ目はそれぞれ1セットになっているのかなと思いました。それなら「優等生」ぶってる感じがでてきます。だとしたら、ぼくなら同じ書き方をしたとしたら、一つ目と二つ目、三つ目と四つ目は行間を入れなかったと思います。あとはもっと「蜜の味」をしっかり書いてほしかったかな。その方が「嫌だな」とのギャップが大きくなって嫌さが見えるので。 (みんな本心)

2020-10-28

こんにちは。 >カリブ界面にUganda(鉛風に) クスッとしました。「浮かんだ」(の訛り風に)と重なって。 >渡り蝶のように季節を横断したいね ここは安西冬衛の短詩を思い浮かべました。 全体としては気持ち悪かったです。像がつかめないでフワフワした浮遊感があって。そういう気持ち悪さ。あの、遊園地のバイキングとか絶叫マシーンで感じる胃が竦むような、何かに掴まりたい感じ。だから掴まり所を適宜置いてくれたらよかったなあ。でも、それがイイという人もいるかもしれないし、繰り返して読んでいるうちに逆にクセになる人もいるかもしれません。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-10-27

すごく面白い。いろんな動きがあって、五感をびしびし刺激してきて気持ちがいいです。出だしの部分、「面白そうだな」と思っていたけど最後まで読んでみてよかった。 (月を喰らう)

2020-10-27

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。最終連の着想は下書きの二回目くらいで出てきていたのですが(というのもそれまでの流れでいくと単調になるというのもありまして)、この形に落ち着くまでにもう三回くらい書き直しました。卓袱台返すみたいに思い切りひっくり返したくなって目いっぱいアクセル踏み込んだ感じです。気に入っていただけたようで冥利に尽きます。ぼくにとってはこのコメントが「もう最高」です(^^) 改めて、コメントに感謝します。 (自転車に乗って)

2020-10-27

こんにちは。対象作品へのコメントでは書くのを避けたのですが、読む過程で思い浮かんだことと通じる部分がありましたので、以下に書かせていただきますね(^^) 「オーブンの熱」では「歓喜や悲哀はすこしも減らない」に違いない。だが、人の体温ではどうだろう。他者の体温ではもしかしたら変化があるかもしれない。他者の体温/肉体/いのちと触れ合う時、自分の体温/肉体/いのちにも変化があるのではないか。そうしてその時には「歓喜や悲哀」は増えたり減ったりするように思う。 以上です。 (どうしようもなく生きていくということ)

2020-10-26

こんにちは。ぼくはパイを焼いたことがないので焼くことを想像したらなんだか大変だなあ!という気持ちになったのですが、作中の「女」にとっては「なんとなく」でも作れるから、手順も熟知している手慣れたことなんだろうな、と思いました。 「ネコの死体」というかつて肉体も体温もあった「いのち」が、まるで決められた手順通りに手慣れた感じで処理されていることにショックと違和感を覚えたのかな。その「女」の視線に、こちらの目も集中させられた。 けれども「歓喜や悲哀」など生きているあいだに起こる感情までは、仮に人生が一般論では短かろうと設定通りにパイが出来上がるというふうに思った通りにはいかない(されてたまるか←個人的意見)。それが生きることだと発見したとしたら、もう黙る以外できないなと感じました。 冒頭に動きがあって引きこまれました。また語り手による語りから「女」が前にでてきたような語り手と主人公の入れ替わる構成に奥行きを感じます。 (生きるためにパイを焼く)

2020-10-26

こんばんは。二度にもわたる返信をいただきありがとうございました。 コメント中の「この犬は小型から中型ぐらいの犬なんですが、この時、描こうとした場面では、犬はカッパにすっぽり包まれて、しっぽしか見えてないんですね。背中も足も顔も後ろ上方からは見えません。」というのは、一連、二連で想像がつきました。三連は最初は「かわいいなぁ」くらいに感じていたのですが、読み返してみるに三連の「しっぽ」が四連に繫がっているんだな、ということに気づきました。そりゃあ「僕」は後ろから見ているんだし、犬はカッパですっぽり包まれていますもんね。つまり、 >すてきでしょ! >黄色いのよ! というのは「しっぽ」が動きで言っているのであって、「!」付きであるとすれば、もうすごく動いているんだなというのが像として、はっきり見えました。そこで思わず顔が綻んだわけです。顔文字で表すと「しっぽ」の動きは(≧▽≦)みたいな感じではないかと思います(^^) 普段はカッパは着ない。服は着ているかもですが、着ていないかもしれない。どっちにしても普段とは違っていて、それは最終連とも繫がってくる。 で、「僕」が(すてきだね!)と返したのでなく、(すてきだね)と返したのはすごくいいですね。もし「しっぽ」の「すてきでしょ!……」に対して「僕」まで「すてきだね!」と返していたら、犬の嬉しさが半減していたと思います。犬の嬉しさに焦点を当てるなら「僕」は「すてきだね」になるのがベストだと思いました。 それから、「駅につく頃」からはじまる最終連が、〈そういうのをさっき見た〉という風に、通過したことを語っているかのようになっているので、「僕」のとある日常の一場面というフレームにうまく収まっているように感じます。 以上、再コメントでした。 (犬のしっぽ)

2020-10-16

こんばんは。なんべん読んでも良いです。三連と最終連の関係とか、きっと犬の尻尾が元気よく動いてるんだろうなぁと想像できるところとか、それでいてきちんと抑えが効いているところとか。不覚にもほほえみを引き出されます。 (犬のしっぽ)

2020-10-12

こんにちは。冒頭から流れができているように感じました。一方で語調に呑まれて語の選択や詩文構成が粗くなっていたり、へんに間延びしているようにも感じました。雰囲気や情緒の流れに影響をうけて乱れるのもロマンチストといえば間違いないかもですが。 ただどうかな、ぼくが主人公にロマンチストを設定して書いたとしたら、 >僕は辛うじて君を信じることが出来て良かったと 思っている の箇所はこんなふうにまだるっこしい表現は選ばなかったと思うなぁ。 (ロマンティストの遊歩)

2020-10-12

すいません、間違って「作品への返信」になってしまいました汗   (自転車に乗って)

2020-10-12

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。ぼくは「懐かしい思い出の記録」ではなく、詩を書きたかったんです。それが自転車で薄膜を突き破らせることになっていったのだろうと今になって思います。ですので、突き破った先に見えているのは「今」と言えるかもしれません。このコメントをいただけなければ気づかなかったことです。なんだかへんちくりんな返信で申し訳ありませんが感謝しています。コメント、ありがとうございます。 (自転車に乗って)

2020-10-12

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。区切った箇所ですが、ここもともとはめちゃくちゃ長かったのです。といっても各四行とか五行だけど。どうにも邪魔なので全部スパッと削りました。結果こうなったのですが、風通しがよくなってスッキリしました。楽しんでいただけたようでもあり、嬉しいです。コメント、ありがとうございます。 (自転車に乗って)

2020-10-12

こんにちは。読んで下さってありがとうございます。つか、そういう角度から来たか!という感じで、自作を新しい視点から捉えることができました。もうエロ詩に読めてしまう。いや、もしかしたら書きたかったのはそれだったのかもしれない……などと思いはじめております。笑 コメント、ありがとうございます。 (自転車に乗って)

2020-10-11

こんにちは。ヒトの記憶というのははっきりのこっている部分と曖昧な部分とあると、この詩を読みながら我が身を振り返って思いました。そんで、はっきりしていると思っていることでもよくよく思い直してみると、ちょっとぼやけてしまうようなこともある。それから、過去に起こったことについて、あれからどうなったか想像してみると、一応の予想はつくけれども確実にわかるわけではない。そういう点で一連、二連を読むにつけ、リアリティがあって、「僕」の存在感や書かれていないはずの生きてきた時間の層まで感じました。 だから「僕と息子」がボートで漕ぎ出す場面でも奇妙な現実感があります。ここでぼくは会田綱雄の『伝説』を思い出して、哀しいものを感じたのだけど(その後、この父子はどうなったんだろうと思わずにはいられませんでした)。 最終連で少女の瞳の緑はすべての湖(うみ)の緑と重なって──あるいはすべての湖の緑へと広がっていく様は幻想的で美しいです。深く印象に刻まれたことは世界を色づけることがある。そんなことも実感として思いました。語りすぎず抑制のきいた語り口と断定からくる余韻なども生きていると思います。 最後になりますが、ワンス・ア・デイは「一日一度」などといった意味をもつイディオムですが、ひとまずぼくは「エミリー」という名を当てて読みました。瞳の色はブルーでなく、やはり緑ではなかったかと思います。 (ワンス・ア・ディ)

2020-10-10

こんにちは。ぼくはチョウチンアンコウではないのでチョウチンアンコウの世界はわからないのだけど、夜に歩いていると深海魚になったような気分になることがあります。車なんてヘッドライトをつけていて、まさにチョウチンアンコウ。特に今の時期はひんやりとしていて静かだから、チョウチンアンコウが進んでいる世界の空気感が伝わって気持ちがいいです。 それとは別に、心の深い層ではなにかを求めて小さな光で進んでいるところもあるかもしれないな、と考えました。ゆったりとして、ユーモアを感じられる心地よい作品です。 (チョウチンアンコウの道端)

2020-10-07

古い詩ですが谷川俊太郎の『朝のリレー』は読んだことがありますか? 視野をさらに広げればネット時代の朝のリレーにもなり得たかもしれません。もう少し読んでみたかったです。 (グーグルマップ)

2020-10-05

伊良子清白を思い出しました。どうしてだろうと思うとリズムかもしれません。明治の詩人です。そういう匂いがしたということです。そしてぼくは伊良子清白が嫌いではありません。今後に期待します。 (野原叙情)

2020-10-05

詩的な雰囲気は醸せていると思います。語り手の心情はなんとはなしに伝わってきます。でも内容を考えるに長い。その先へ行ってほしい。 (僕は30歳。)

2020-10-05

形容詞が言葉の直接性に歯止めをかけていてもったいないというのが個人的な感想です。あとは正直に書くべきことを書いていると思いました。 (剥奪)

2020-10-05

こんにちは。 >「残念に思う」 >言葉がこぼれ落ちる この二行は冒頭に来ても最後に来ても、この作品の核であるように思いました。あたかも涙が「こぼれ落ちる」ようにこぼれ落ちてきた《言葉》のように感じました。 (目を開けた)

2020-10-05

最後の二行をどう受け止めるか。ぼくはない方がいいようにかんじました。それでも十分成立しているのではないでしょうか。 (西日の部屋で想うこと)

2020-10-05

もっと長く書いて欲しかったな。もったいない。 (レンタル)

2020-10-05

語り手の生活感や状況が見えてよいと思います。すでにコメントにありますが、後半、そのような語り手が一番星を見つけた時に何を見たのか、何が手を伸ばさせたのか、そのあたりを読みたいと思いました。 (ベランダ)

2020-09-22

こんばんは。《ひび割れたチャーハンの上でスプーンだけがなまめかしく生きてる。》っていいですね。ぼくはチャーハン割りと好きなんです。まあ、個人的な話なんだけど。でも、ぼくならチャーハンとスプーンなら、チャーハンの方に気持ちが行く。ところが、この作品の語り手はスプーンの方に目が行っていて、それも《なまめかしく生きている》なんて肉感を伴ったものとして捉えている。そのくらい自分には生きている実感が欠けていると感じている語り手の存在感がよく現れていると思います。だから「わたし」でも「あたし」でもなく《アタシ》になっちゃうんじゃないかな。実感の不在。 かといって、人魚姫みたいに泡と消えることはできないってことは血を流す身体があることが証明している。不幸といえばたしかに不幸です。 読むことを通して語りの奥に、たしかな語り手の存在感が感じられます。 (不在)

2020-09-20

ぼくはABさんと逆だな。最後の三行は語り過ぎだと感じました。 (とうめいなみず)

2020-09-13

こんにちわ。 >酒臭い呼気を >わたしの顔に吹き付けながら >升の中のあまり上等じゃないグラスに >一升瓶から安酒をついでやりながら >ぐびりぐびりとあおってしまって >一文無しのかみさまはポケットを裏返して見せた >目の前にあるぬるくなったビールを喉をみせつつ 赤ら顔のかみさまと一杯やるとか影も姿もない店主とか非現実的な内容がなんとなくありそうな気がしてしまうのは、抜粋したように具体的に書かれているからですね。苦々しいことがユーモラスに語られていて、押しつけがましくないのもよいと思います。個人的には「喉をみせつつ」に最も動きを感じます。 (Alleluja)

2020-09-12

「たり」で作られるリズムをどうとるかで評価が分かれそうではあります。ぼくは、割りとシリアスな内容がユーモラスな印象になって、最後の一行と相俟って悪くない感じだと思います。 (いつものこと)

2020-09-11

アクロスティックに“尻取り”かあ。縛るなあ。最初は全く気づきませんでした。ABさんのアクロスティックは初めてではないのに(しかも先に“尻取り”の方に気づくという)笑。「ウルトラマリン」が動きに見えて、「らいせ」がオールを漕いだり、籠を担いで走ったりする時の声に聞こえてきて、縛り(型)を気にさせないところがいいです。 (ウルトラマリン)

2020-09-11

おはようございます。大島渚と野坂昭如のバトルを彷彿させる激論が交わされている中恐縮ですが、再コメント失礼します。 この作品の冒頭と終わりに置かれている歌について、原口さんがコメント欄の始めの方で述べられています。  はるか遠くの 風の向こうに 汽笛の音の その向こうから もうすぐ春が やってくるやもしやも知れません 「ゆうおじさん」の歌にでてくるこの「風」について、ぼくはABさんの『ハンチャンの神様』(2020.5月投稿作品)に出てくる《あえの風》を思い出します。《あえ(あゆ、あい)の風》は『万葉集』で大伴家持などが詠んだ歌に出てくる春先に吹く東風で、豊漁や豊作といった幸せをもたらすものだそうです。それでいうと「ゆうおじさん」ははるか遠くのそのまた向こう、まあ、そのくらい遠くですね、そこに春が、幸せかな、それがあるのを見つめているんじゃないかな、と思うんです。で、「はるか遠く」が何を指すかはわからないけど、もしかしたら未来かもしれないし、自分が身を置いていない豪奢で満ち足りた生活圏であるかもしれない。そのどちらでもないかもしれないけど、とにかくそういう遠いところから自分にも幸せがやってくることを歌のなかで見つめているようにも考えられるんですね。このあたりは「ゆうおじさん」がどのような職業に就いているかとか、社会集団でどのような層に属しているかということに関わらず、読み手が自分の経験からアクセス可能で、普遍性とまではいかないまでも通俗性をもっているようには思います。 で、「ゆうおじさん」がリアカー引いて屑集めしたり、缶集めしたりというのは、ぼくはホームレス生活者だとは思わなくて、そういう職業なんだろうなと思った程度です。子どもの頃、そういう職業に就いていた人が周りにいたかどうかまで記憶にはないけど、銅線や釘が金になったという話は聞いたことがあるし、友だちと瓶を集めて店に持っていって小遣い稼ぎしたこともあるので、生業にしていた人もいるだろうと。ただ、背広着て出社するというのが社会を構成する職業の一般的イメージだとすると、その中心からは離れた外側に近い位置にはあると言える。そこを民俗学的に〈辺境〉と呼んだり文化人類学的に〈周縁〉と呼んでみたとしてわからないではない。その外と内を行き来する存在として、あるいは象徴として「ゆうおじさん」を読むのも面白いと思います。しかし、そういった場合の辺境・周縁というのは、社会構造が固定化してしまって閉塞している状況において、それとは異なった生活形態や文化をもちこむ(というか流動的にはいりこむ)ことで活性化させる要素として取り上げられるところもあるのではないでしょうか。その点でいえば、おじさんがこの作品を通してそのような役割をもって登場しているとは読み難いというのが実感です。 一方で、同じように社会集団の中心から遠くに置かれている存在としての〈子ども〉とは親和性が高い。だから「僕ら」が「ゆうおじさん」の噂を共有したり、リアカーに書きつけたりするのもなんとなくわかるんですね。そういう、〈子ども〉の目には何やってるんだかさっぱりわからない、歌いながらリアカー引っ張って屑集めしたりしているおじさんて、妙な魅力として映るんじゃないかな。逆にいうと、ここで、なんとなくわかるんですね、と言った時点でぼくは「辺境的存在に対する温かな目線」という通俗的イメージ、という花緒さんの批評は認めざるをえない。ここは的を得ている(よし、作中の《友達には言えずじまいだった》という箇所に、いくらかの後ろめたさを認めたとしても)。 しかしながら、この作品は、 ・昔おじさんがいた ・おじさんは(リアカーを引きながら)歌をうたっていた ・おじさんと僕らは云々のように交わった ・おじさんは(亡くなった今でも)まだ歌っている。あるいは、おじさんの歌や姿や当時の僕らを今でもありありと思い出す という骨子で成り立っているのであって、辺境性だとか、対社会的にどうかといった批判的視点は持ち込まれていないと考えます。むしろ、〈かつて〉を作中に呼び込むことによって行われる〈魂鎮め〉であるようにぼくは思う。だから、通俗的になるのは必然的であるようにも思うし、同時に〈魂鎮め〉として読むことで〈うた〉になっていく印象にも合点がいきます。〈うた〉は通俗的ですが大衆的でもあり、読み手につながっていくものではないでしょうか。 歌には、 もうすぐ春が やってくるやもしやも知れません とあり、これは恐らく現在の作中主体のなかでかつての様子とともに響いているものであり、彼を今後も影で支えるものになるかもしれない。つまり、単なる過去でなく、未来へ向かわせるものでもあり、もはや手の届かない遠いところから遠く(前方)へ進ませるものになっているように思います。継承とまでは言わないけれども、ともかく、遠くへ遠くへ、言葉を通して望ませてくれる(これはABさんの作品の特徴だと思いますが)、この作品に強い魅力を覚えます。現場からは以上です。 長文、失礼しました。 (夜を歩く)

2020-09-09

こんにちは。おじさんがリアカーを引きながら歌っている様子と、リアカーを引いていたおじさんを思い出す「僕」のなかで現在聞えている歌と、両方の歌が聞えてくるように感じました。そうした奥行きと、広々とした空気感のある作品で気持ちよいです。 (夜を歩く)

2020-09-07

ふじりゅう様 読んで下さってありがとうございます。「愛というものは複雑怪奇」というのはおっしゃる通りですね。好ましい部分ばかりでなく疎ましかったり嫌悪したり、まさに様々な感情が絡まり合ってひと言では言い切れぬものがあると思います。むしろ、そのような「複雑怪奇」な有り様をひと言で言い表したものが愛であるのかもしれません。そのような「愛情」を気味悪さの中に忍ばせてみたのですが、光を当てて下さって嬉しく思います。コメント、ありがとうございます。 (異母)

2020-09-07

ネン様 読んで下さってありがとうございます。ご指摘のように「異母」は「疣」にかかっています。というかもともと同音異義語であることに着想を得て書き始めました。 自分の身体に身内が疣としてくっついていたとしたら気持ち悪いでしょう? でもぼくはこうも思うのです。育つ過程で親の影響を意識的無意識的に受けている、つまり「身につけている」んじゃないかと。それは「疣」のようには目には見えないけれど、心のなかに良くも悪くもくっついていると。どっちみち、かないそうにないのですが笑 コメント、ありがとうございます。 (異母)

2020-09-07

AB様 読んで下さってありがとうございます。お察しの通り、腫れ物はありませんです、はい。 日本語には「目の上のたん瘤」などと人との関係を身体的に表す表現があったり、家族を「身内」と表現したりするので、異物感やそれに対する感じが多少奇妙であれリアリティをもって表れればいいなあ、と書きながら考えていました。ですのでありがたい感想をいただけてとても嬉しく思います。ありがとうございます。 (異母)

2020-09-07

エイクピア様 読んで下さってありがとうございます。 “痕跡”というとぼくが思い出すのはエディプスの釘の疵(エディプスというのは「疵」という意味でしたね)です。あれは父王が赤子の王子を流す時につけたものであり、後には神託が叶えられたことを証しするものでもあった。“痕跡”が語るものの中には窺い知ることのできない恐ろしい物語があるようです。無論、今作はそうした大それたものでは全くないですが。ともかく、エイクピアさんが読みつつ記憶につなげてくださったこと、深く読んでくださったこと、嬉しく思います。コメント、ありがとうございます。 (異母)

2020-09-04

「なにもない」ことがなにもないこととしてきちんと在る、というなにもなさの手触りが言葉を通して明確になっていると思います。掌を描くためには掌の周りの空間を描くということを聞いたことがありますが、周囲の具体的に知覚できるものを書くことで捉えにくいものを浮かび上がらせるのに成功している。やるなあ。 (隅中の実存)

2020-07-28

こんばんは。ツイキャスで強引に読んでくれだの、なんかコメントしてだの勝手な注文つけたにもかかわらず、面倒くさがらずに読んでいただきコメントまで本当につけてくださって有り難いやら申し訳ないやらでいっぱいです。そのうえお褒めの言葉までいただいてなんと言ってよいやら。でもぼくは星野源ではないけれど褒め言葉は断らない主義ですのでバンバン褒めてください。笑 それは冗談ですが、埋もれていたものを上げてくださって救われた思いです。心より感謝申し上げます。 (野道)

2020-07-26

グロカワ、キモカワ、カッコカワという流行り言葉があるけれど、「さみかなくる」はさみしい、かなしい、くるしいを一つにした造語と読みました。どれもいっしょくたに混ざり合っていてどれか一つには分けられない、すべてが含まれた状態ではないかと。それが繰り返されることで呪文のように作品の通底音になって響いてきます。リフレーン以外の箇所と反発なく絡み合っているのではないでしょうか。最後の二行はわからないけど、リフレーンによって作られた作品世界の空気を破るものではなく、「さみかなくる」につながるひっそりとした静かさにつながるように思いました。 (#LIVES)

2020-07-26

行毎の飛躍の仕方や行末の語の用い方が非常に素晴らしいです。意味的解釈を飛び越えて言葉が奥底に言葉でないもの、言葉にすることを抑えられたものが直接入ってくるありように絶句しました。この言葉体験を言語化することは困難で、まさに言葉にし難いものに遭遇した時に似た感情を呼び起こします。不覚にも鼻がつーんとなるものに出くわしたような「言葉体験」をさせられました。素晴らしいの一言です。 (頭の炭でだけ)

2020-07-26

「土偶」という太古のモノと対面することによって、語り手の内部で古代と現在が合流する。その奥行きと広がりへの驚きと呼び起こされる思考の動きが伝わってきます。よいです。 (偶像)

2020-07-21

大丈夫と大丈夫じゃないの間を行ったり来たり不安定に揺れている危うさが表れていますね。ハラハラします。 (隣の家に興味がある)

2020-07-21

>なんか生きてるね >今日だけ生きて行こう この二つの詩行が伝わってきました。言葉にしなくても生きている時は生きているのだけど、それが確認できた時、生きていることはうわべの言葉としてでなく体を伴った現実として受け止められ、「なんか生きてるね」という言葉が実体をもつかのように立ち上がる。ここでは隣りに眠っている他者を感じることを通して、それが確認されており、秘かながらいまここに在ることへの肯定的な受容になっている。 こうした肯定的な受容はしかし日常のなかに埋もれやすい。ゆえに、 《今日だけ生きて行こう》がリアリティをもち、作中主体の意志を感じさせます。 グッときました。Goodです。 (君と梅雨)

2020-07-20

うーん。いまいち、響いてこないですね。なんとなく映像が浮かぶことは浮かぶのだけど明らかになる手前で止まってる。なんでだろうなあ。種を蒔くというところから始まって中心的モチーフかと思っていたら海に重点が置かれているように読めるからかしら。 (約束)

2020-07-20

独歩の『山林に自由存す』(だっけ?)みたいな雰囲気が語り口にはありますね。望郷の念は伝わってきましたが、「美の帰結」は抽象的すぎるように思います。 (望郷詩)

2020-07-19

おお、キモい。気持ち悪くて引いてしまうくらいヒトの情の微妙な揺れや震えが表にでている。かなしいけど爽やかな結末もいい。 (きいて)

2020-07-19

もっとストレートに書いてもいいんじゃないかな。私なら、 平易な言葉で書きたい 平易な言葉で 伝わるように と書いたと思います。「書いてみたい」という「~してみたい」というのは「したことがないけどできることならやってみたい」くらいのやや消極的な印象がある。それが作者の思っていることであろうと作中主体の思っていることであろうと、全体を読むかぎり伝えたいという意思の強さがあるように感じられます。であるとしたら、そこを前面に押し出してきっぱり言い切る語法を選んでもよかったと全体を通して思いました。 (語るなと語るな)

2020-07-18

そうですね、私も主語を「ぼく」や「私」にして読み換えてみてそこを指摘させてもらいました。あるいは「俺」にしてもどこに配置するかということはあると思います。この作品では一貫して「は」という助詞が用いられていて、主語が響くように置かれているように思います。 例えば >俺は死骸を一つ見つけた は 死骸を一つ俺は見つけた の方が「俺」は薄まって「死骸」の方を強めることができるんじゃないかと思う。それとも「見つけた」ことを語りたいのなら「見つけた、俺は」という感じになるでしょうか。語りの中心に何を置きたいかによって語の配置も変わってくるというのはあると思います。 こういったやり方は操作的な一面もあるのだけど、詩作品が「作られるもの」である以上必要な手続きではないかと。すでに書いたように翻訳詩も古風なものも嫌いではないし、そこから汲み取ったものを持ち帰ってどう用いるかというのは私自身も追いかけているところです。 (詩を作るということについての一省察)

2020-07-18

こんにちは。まずはどんだけ生首書きたいんだ、忍さんはと。笑 一連では「頭」と書いてはいるけどそれは「生首」頻出すると二連での生首インパクトが薄れるから敢えて外して「頭」にしたんじゃないかと意地悪に勘ぐりたくなったくらいです。 米は田植えから収穫までだいたい三ヶ月強かな。人の一生に比べたら非常に短いのだけど、赤ん坊から老人までというふうに表されたら「米」というより「生命」という感じがグッと強くなってきます。ははあ、たまに聞いたことがあるけれども、私たちの食べるという行為は「命をいただく」ことなんだなということが腑に落ちます。というのは勝手なこじつけなのですが。 語りの時系列展開としてはちょっと狂わされる感じがするけどどうなんだろう。立体的な映像として言葉を体験できるだけにかえって気になった点でした。 最後の二行がいいですね。作中主体のペダルを踏み込む筋肉の動きまで感じられるし、自転車に勢いが加わって風景が動いているのも感じられることで作中主体が実像化して、「大きくおなりよ」という言葉に作中主体の血が通っているように思います。 (田園)

2020-07-17

作風としては嫌いじゃないけど、言葉の使い方が古風に感じるのは否めないですね。近代の海外の詩の翻訳にあるような言葉遣いというか。嫌いじゃない理由もそこにあるといえばあるのだけど。 冒頭の《全く無感覚な人間どもの遠吠えが/臆面もなく響き渡る世の中で》 は上段から言葉を放っているようでひっかかるところではあるし、それが主語として選ばれている「俺」や多用されている形容詞と濃厚に結びついて全体を自己陶酔的な印象にしてしまっている感じがあります。描かれている像が想像しやすいだけに詩の外部での言語感覚とのかけ離れが大きいと魅力は半減するように思います。 (詩を作るということについての一省察)

2020-07-17

二連目の無関心であるかのような停滞から三連目での高い飛躍が非常に鮮やかです。「し」の命の生き生きとした躍動がみずみずしさとともに体に入ってきました。とてもいい。 (し)

2020-07-16

(続き) ところで、この作品には大まかに三つの語りがあります。 (1)話者による語り (2)〈動画〉における女性による語り (3)〈動画〉内で語られる詩作品 (1)話者による語り 作者によって設定を与えられた上で、サイトの運営はじめ参加者に向かって、散文体で語られている。 (2)〈動画〉における女性による語り 動画という映像によって表されているので、彼女の〈話している内容〉のみを「語り」とするのではない。そこに表れる表情、うごき、話し方全てを〈映像の言葉〉(映像という語り)として捉えることができる。  この動画は脚本にもとづいて「演じ」られている。したがって、彼女は設定された役を演じる演じ手であって、あたかもありがちな一人の女性の普段の様子であるかのように「振る舞われる」フィクションである。  それはフィクションでありながら、演じ手によっていかにも一人の女性の普段の姿であるかのように演じられているため、観る側は、「テキストの語り」と相俟って、話者の受けたショックを擬似的に体験することができる。  それにしても演技とはいえ、表情といい、動きや言葉づかいといい、話者によるテキストの語りと比べていかに直接性をもって伝わってくることか。この部分を言葉で叙述したとしても、この直接性を体現することは難しい。 (3)〈動画〉のなかで演じ手によって語られる詩作品の言葉と、演じられている登場人物の日常の乖離が明確に表れている。 以上を総合的に見て、テキストの語りを映像の語りは補強しています。話者の味わった「立ち直れないほどの衝撃と汚辱」を可視化し、作品の読み手が擬似的に体験できるようになっているので、テキストの語りにリアリティを与えており、さらにテキストの語り=叙述の言葉と(表情やうごきを含む)映像の言葉と、かけ離れた「詩作品の言葉」が露わになった結果、話者の語りにリアリティを付け加えています。詩に無関心な人々の生活の日常に詩作品の言葉が置かれた時、いかに詩作品の言葉が現実から浮遊しているか、この作品によって否が応でも目の当たりにするでしょう。  しかし、それを浮き彫りにするのも、叙述の言葉、映像の言葉、詩作品の言葉という言葉によって語られ構成された「作品」であることは明記しておきたく思います。  また、散文的日常からかけ離れ、逸脱ともいえる詩作品の言葉も、ひとたび日常的現実に裂け目を見出してしまった時、すなわち日常にひそむ非日常に迷いこんだ時、すぐ近くにあるものとして接点をもちうるものであることを私は想像します。配信を終えたあと、誰にも見えないところで「あの牛さん、この牛さん……」と読んでいることもありえない話ではないのです。 実際サイトや参加者たちが「詩がもっと読まれるものになってほしい」と思いながらも周囲に読ませることをしない、見せかけ的な存在として語られるのと同じように、「ポエムなんて送りつけられても、どうリアクションとっていいか困る」と、不意の驚きを隠して周囲に対して見せかけ的に語ることは可能です。虚実は入れ替わるものだし、奇特といえば詩人のみならず大抵の人々がそういう部分をもっている。演者が詩を読む時の、一語一語に注意を払い、しっかり読もうとする態度は詩的ではないでしょうか。私は自らを奇特な輩の一人とすることに躊躇いはありませんが、あの一転切り替わるところに演技の良さを見、「実」を見る思いがしてなりません。それは絶望的でありながら希望でもあるように思います。 ((動画投稿)Maximum_Fucking_Poets #1)

2020-06-12

こんにちは。先に内容を整理するために話者の語りを時系列的に並べかえたことをお断りしておきます。 (0)話者は詩投稿サイトに参加している者である。(サイトにはマニフェストが謳われており、したがって参加者はそれに同意を示すものであることが、話者によって前提にされている) (1)話者は自分が書いた詩を合コンで知り合った女性に読んでもらう。散々な結果になり、立ち直れないほどの衝撃と汚辱を味わう。 (2)しかし、その中で、なぜネット掲示板サイトの皆が、「読まれたい」と公言する一方で、「実際には読ませない」理由を明確に知る。 (3)それは話者が、すでに薄々感じとり疑いつつあったことだったが、体験することによって改めて確認したことでもあった。 (4)その体験の上に立って、話者は批判的に語る。すなわち《①サイトのトップページ(顔)で語られている文言が、体裁のよいお題目または見せかけのポーズであり》、《②運営を含む参加者は現実的な想像力を働かせることから目を背け、都合の良い空想で読まれたがっている》と。 (5)だが同時に話者は「表現者たらんとする者のあるべき姿」を訴えかけ、また一同を鞭撻しようとする。 以上のように読みました。しかし、それだけでしょうか。 というのは《理念やコンセプトを馬鹿正直に完遂せんとするが為、時としてモラハラ野郎と後ろ指を差されるが程に融通の効かない精神の持ち主》、《具体性を伴わない思弁的思考に止まることを是としない類の人間》という断りを見る時、もし、自分の詩が相手に好意的に受け入れられていたならば、ここまで自分について語る必要はないように思われるからです。そこで次のような疑問が湧いてきます。話者には、詩を読ませるにあたって、「もしかしたら好意的に受け入れられるかもしれない」という多少の期待があったのではないか。 であるならば、現実的な想像力を働かせることなく、都合の良い空想と期待をもっていたのは他でもない話者自身であります。そして結果として完膚なきまでに潰されるという一つの現実を学んだのです。 好意的に受け入れられることを期待した結果真逆だった、などとは言いたくない。しかし、ズタボロにされた(なった)ことを黙って収めることもできない。だからこそ、自分を《理念やコンセプトを馬鹿正直に完遂せんとするが為、時としてモラハラ野郎と後ろ指を差されるが程に融通の効かない精神の持ち主》、《具体性を伴わない思弁的思考に止まることを是としない類の人間》と断りを置くことで、サイトのトップページに謳われている文言を、《本気で、心の底から、百パーセントの純度でもって》受け止め、「詩がもっと読まれるものになってほしい」と願う者として相応しい行動をとった結果なのだ、と自己弁護をしているようにも読めます。つまりは自分はサイトの参加者として取るべき相応しい行動をしただけであって、間違ってなどいない、ともすれば、サイトに参加さえしていなければ周囲に自分の詩を読ませるなどしなかったという、多少であれ抱いた都合の良い期待などなかったかのように、あるいはサイトのせいにしているともとられかねない口ぶりとして読めるということです。そもそも《本気で、心の底から、百パーセントの純度でもって「詩がもっと読まれるものになってほしい」などと真にお考えなのでしょうか。》などというのが客観的には確かめようのないことであり、誘導的且つ反語的です。 それでいて次には、自分は見せかけだけのポーズではなく、実際に行動を起こした側であるから、批判される立場にないという別のポーズを取り、サイトやサイト参加者を批判する「格好」で間自らの体裁を整えて終わっています。 つまり一見、サイトのトップページに掲げられた文言に対して「看板に偽りあり」と申し立て、参加者の表現者としての感性が死んでいると批判且つ鞭撻を加えているようでありながら、自ら味わった悲惨をサイトの問題にすり替えて語っているようにも読めるのです。 動画によく表れているように、詩作品の言葉と日常生活における言葉の隔たりは、詩を読み、また詩のサイトに参加している者であればわかりきっている話(のはず)です。日常において詩作品と関わりのない生活をしている者にとって、詩作品の言葉は〈さっぱりわけのわからないもの〉であっても何ら不思議はない。さらに詩作品などになんの関心も抱かない生活をしている人々にとってみれば、詩など奇特な世界と言っても過言ではありません。そのような見方さえあれば、そろそろ婚活をと考えて、エリートがくるかもと期待を寄せて合コンに現れる、ごく普通の生活をしている女子に詩を送りつけるなど考えられようもない。向こうに言われたから送ったのだというのは、社交辞令を解さない野暮であり、かわいいといえばかわいいが社会性については鈍いように思います。そして、作者は予め、話者にそのような設定を与えて、〈勘違い詩人〉を演じさせているようにも思われるのです。 ((動画投稿)Maximum_Fucking_Poets #1)

2020-06-12

対象が言葉のなかでつよくなっていくところ、膨らんでいく感覚を感じました。「君」の影を濃くしながら、願いもつよくなっていく。肯定否定両面をもちながら、それでもつよさはあるのだなとしみじみ思いました。 (つよさ予報)

2020-06-07

こんにちわ。エイクピアさんの作品が出ると安心します。エドワード・リアだったかな、ナンセンス詩を書く詩人がいて、名前違うかもですが、いつもその人を思い出すのでした。マザーグースもそうだけど、一見ナンセンスでユーモアあるようなものでも出来事をもとにして出来あがっている。それはわからないけど読んでいて面白い。エイクピアさんの作品にはそういう匂いがします。前はググッて読み解こうと試したこともありますが、いまは作品の言葉の下にある情報量をぼんやり想像しながら書かれた言葉を楽しんでいます。それが出来る作品だから。作品へのコメントではないみたいなのでなんか申し訳ありません。 (羊と私)

2020-06-06

解釈なんてものにもならない勝手な想像なのですが、身近な人がいなくなったあとのがらんとしたさみしさの中にいるひとを思い浮かべました。どこをとっても良いのだけど、特に挙げるとすると《ひと ひとり》が、音でもあり意味でもあるように置かれていたところで見事だなあと思いました。もっとコメントついてほしい作品のひとつです。 (Ī)

2020-06-05

よかった。今頃になってはじめて読んだけど、もっと早くに読んでいれば良かったとちょっと反省。 (速さについて)

2020-06-05

もしかしたら作者としては特に注意を払わずにひょいと置いた語かもしれませんが、 >「これからあなたは大人です」と宣告された。 にある〈宣告された〉は語り手の状況をビシッと言い表していてよいと思いました。 (お弁当箱には貰ったおかずだけが輝いていた)

2020-06-05

>体があつくなる >肌を撫でる風も美しい の《肌を撫でる風も美しい》にある「美しい」ってあんまり見ない気がする。ありそうで割りとないんじゃないかな。でも、たしかに「美しい」が見える気がします。つまり、言葉で飾ってみただけという感じじゃない、ということなんだけど。 語り手の心情が色濃く表に出ているようでおされてしまうのだけど、《君を待つ》と《ずっと君を待っていた》の「待つ」は同じじゃなくて、その違いのあいだに、言葉にされていない思いがあるようで、言葉に詰まるものを感じました。 (内省)

2020-06-05

>ボリビア産の >岩塩の >砂の という「の」で行を運ぶところ、また、 >サラッとした >ものだった >からでしょうか >半分ほど >こぼれてしまいました と「た」もしくは「a音」で歩いていくところ、それがとても自然で技巧を感じさせないところにうまさを感じます。で、『年を取る』というと大抵は若い時から老いへ向かって順にすすむものだろうと思うのだけど、こちらではだんだん若い方へ遡っている。《スフィンクスの謎》を逆回しに見ているようで面白い。かと思えば、何事もなかったようにぬけぬけと締めてしまう。語り手の悪戯っぽい笑いが見えてきそうです。 (年を取る)

2020-06-04

これ、コメントつかないのかなあ。すごく面白いのに。意味はよくわからないけど、読んでいるうちにクックッて笑いが歯の間から漏れてきてしまう。かと思ったら最終連でバーンと像が膨らんでスペクタクル!て感じなんだけどなあ! (サクラスカイ)

2020-06-04

これ、直接そのまま言われたらキツいだろうなあ。状況にもよるけど。自分自身にはこういう北風でもいいけど、できるなら子どもには太陽でいいんじゃないかと思います。それも状況によるけど。 (娘)

2020-06-04

綺麗にきっちりまとめられているので、どうコメントしたらいいかさっぱりなのだけど、綺麗すぎるという感じはちょっとします。全体として手の内で収まってしまった感じ。とはいえ、連作でひとつのテーマで書いていくのって大変だろうから、それをこんなに綺麗に整えてしまえるってやっぱりすごい。 (死にまつわる七つの憧憬)

2020-06-04

>僕は出来るだけゆっくりと優しく >彼女の形をなぞった >見ているよりもずっとずっと小さく柔らかい >彼女の曲線を >抱きあう二人を暗闇が抱きしめる >彼女は泣いていた、気がした ここの連、ほんとうに暗い中で《なぞっ》ている感じ(動き)がわかって、よく描けてるなあと思いました。 初読の時に感じたけど、いま読み直してやっぱり感じたので書いておきます。 (暗闇)

2020-06-04

こういうの好き。面白いのが悲哀感じさせて、ヒューマンコメディみたいで。だから読んでてじわじわ恥ずかしくなってくる。それはたぶん「わかるんだけどわかりたくない部分」に触れてくるからだと思います。 (犬死に)

2020-06-04

うーん、こういう書き方はなるたけならしたくないけど、上っ面を撫でた演説ふうの書き方をするんじゃなくて、最後の二行を「もとにして」書いてみたらどうかなと思いました。 そしたら「ライン工」のくだりだって、模倣で同じモノをつくっているから創作なんじゃなくて、眠い目を擦りながらモノをつくっている、それ自体が彼自身の生を造る“創造的行為”のひとつになるわけで、そこに寄せて創作行為について書くこともできるんじゃないかな。でなければ、最後の二行が思いついたから、そこに持っていくために前をつなげてきた、みたいになりかねない。ま、そんな感じです。 (創作)

2020-06-04

画像の効果もさることながら、文字の配列も感じるものがありますね。力尽きていく感覚と行が下がっていくのが一致しているように感じるし、ちょうど文字と画像の重なりで沈んでいく太陽が作られているようにも見えます。死ぬぎりぎり前までよそ者で、最後は自然に──“I am the mountain, I am the sea.”とあるように──重なっていく感じかな。しみじみしてしまいます。 (ママンへ)

2020-06-04

んー、二連目を読むに、泣き出したら速攻忘れちゃうところ、なかなか飛んでるなと思ったのだけど、それはいいとして、最後の行、なんで「たんだ」にしたのかなあ。それまで遠くのことを淡々と語る言葉だったのに最後の最後で「たんだ」ってなるの、ちょっと違和感あるなあ。ここは同じ語り口で終わらせた方が詩情が残ると思います。ま、人によりけりかもだけど。 (顔)

2020-06-04

二句目、味がありますね。たしか、昔に谷川俊太郎が書いた本に海外の俳句の紹介があったはずだけど、あれも和訳では五七五ではなかったような気がする。でも、 《My mother died yesterday》という文章にこういう和訳をつけられるってちょっと悔しうらやましいなと思いました。 (アメリカの俳句)

2020-06-04

くはー。長い。長かった。これで終わりと思うと終わっていなくて、が続いて、でも微妙な起伏があって結局最後まで「読まされて」しまいました。もうほんと弱音吐きつづけているんだけど、強弱あって、垂れ流しではなく、うっかり引き込まれたり突き放されたりしました。しめがピシッとなって言葉の背筋が伸びていると思います。 (弱者の詩)

2020-06-04

素直に痛い。体に緊張が走って強張る。こんなふうに直接的な言葉で体に作用させるのって、何事も間接的な手続きが常態化している社会では大事なんじゃないかなあ。 (激流)

2020-06-04

あれれ、コメント入れてなかったんだ、この作品。と、ちょっと驚いたうっかり八兵衛。 よいですね。「薄ら寒い」という語り手の心が動きだすところ、それまで淡々としていた言葉が、ここから動きはじめる、それを感じます。その先に《ひっそりと静まり返って》いるもの。そこは現在はなにもないのだけど、現在はなにもないものが〈ある〉ということを語っている。虚ろであることを書くことがそこに充満するものを(幻想として)露わにする時、そこには遺構が現前するように思う。良いです。 (遺構の見せる夢)

2020-06-04

短くて、ハッキリしていて、振り幅大きくて面白い。後ろ三行はもうちょっと推敲にかけてもよかったかも。 (ありがとうございます)

2020-06-04

こんにちは。死を見つめることは生きているうちにしかできないから、見つめた上でどう生きるか、そういうことではないかなと思います。死者のみならず、誰にとっても私は彼らにとって他者の生を生きるしかないし、私の死も誰にとっても他者の死だから、そこを引き受けつつ、生きる側を向くというのは大事じゃないかな。つまり、この詩は、語り手を含むとはいえ、問いかけの形で終わっている以上、語り手の生きる側への姿勢をまだ見出せていないと思います。 (011-020)

2020-06-04

麻雀に詳しくないけど楽しませてもらいました。キルクルがイタズラ好きな精霊みたいでユーモアがあってかわいい。もう忘れちゃえ!と思ってスッパリ切ったつもりでも、いつの間にか思い出してしまっている時に「ほらな、大事だろ」とドヤ顔してるようなキルクルを思います。忘れてしまいたいくらいの激しい思い(東風)もなかなか味わえない豊かな恵み(東風)ではありますよね。 (ハンチャンの神様)

2020-06-04

出だし、面白いです。インパクトがあって、わかりやすい。 >逆再生の世界でさばかれた魚が生き返った というのも、前の行との関連で、命が吹き返したみずみずしいイメージになっていて印象的。私ならついでに跳ねさせたかな。 そこまで元旦=新年の流れで読んでいたのだけど、そこからガラッと流れが変わったので、ううん。て気持ち。地球と話したいのは私なら元旦に限らないから。でも、なんか面白いです。 (元旦)

2020-06-04

最後の一行にすべてが集中しているようですね。隙間に、巣喰う、夜、に目を凝らしている息づかいが感じられます。それを伝えるためにどうしたらと考える精神が働いている。それを通して、伝えられないけれども、そのような夜の存在することが伝わってくる。 「弱者」が語り手を含むのか、語り手によってそうと決めつけられたそれなのか、そこが曖昧になっている気がします。 (ソコハカトナクタモレ)

2020-06-04

ちょこちょこ感じさせる言葉がありました。 「拍動する夜」(一連)、「照らし出す」(二連)、「結晶化する体の中心」(四連)などです。動きを感じられて、これらをもとに読むと、他の詩行に動きがあるのをなんとか見出すことができます。全体としてぼんやりしているのはなんだろうな。綺麗に整い過ぎて、パターン的になっているのかも。 (叫ぶように、ボヤく)

2020-06-04

いやいや、ACのコマーシャルじゃないんだから。というのは半分冗談ですが、書くだけ書いて最後は読み手に投げっぱなしで終わるというのはなしにしましょうよ。語りというのは終わりまで語られるものです。 (神様)

2020-06-04

こちらの詩、なんでコメント入れていなかったかというと率直には冒頭から気に入らなかったから自分のなかで寝かせておきたかった。気に入らなかった理由は、「かよわき者」から始まって大上段から語っているところ。「私の言葉は正しくない」といった正しさを求める風な、〈あたかも内省的〉な装いをもちながら語り手はそうではない側に立っているように感じられました。しかし、 >私の言葉は正しくない >暗い部屋の中でいつも思う >圧倒的な迫力の言葉で人を黙らせたい >言葉のナイフで心に傷跡をつけたい >拙い言葉を新しい言葉で塗り替えたい >自分だけの言葉で人を振り向かせたい で、「私」の場所まで降りてきたように感じることができました。「正しくないかもしれない、それでも」という私という身の丈からの言葉がでてきているように思います。よい。 (正しい言葉)

2020-06-04

こんにちは。タイトル、私も好きだなあ。 >チューリップのなかにかくされた >合鍵をさがしあてるように に代表されるような、っていうか、勝手に代表させてるんだけど、そこはかとなく漂うエロスの匂いが好きです。 (きのうとあしたのおどり場で)

2020-06-04

すごくいいですね。初読からずいぶん経ったけど、時間をおいて読んでもやっぱりいいです。音が気持ちいい。そんで音の気持ちよさのうちに言葉からゆらゆらした像みたいなものが立ち上がってくる。ちょうどまどろんでぼんやりしている時の意識と無意識が混ざり合ったような、なんとも言い表しがたいそういう、淡い像のゆれがある。そんで、最後は爽やか。短い午後睡とその後みたいに気持ちいい作品。 ついでに書くと「めかりどき」という言葉を知らなかったので調べてみたら、これまた味のある言葉でした。 (めかりどき)

2020-06-03

さまになってますね!賞賛ではありません。詩っぽい枠にはめようとしている嘘くささがある。詩は嘘くさくてかまわないけど、ちょっとどぎつい印象を受けます。でも、羞じらいがあってかわいい。わざわざ「波打ち際」に「というやつ」をつけるとこ、クラスの「〇〇ちゃん」に「〇〇ちゃんというやつ」ってくっつけてしまう照れ屋さんみたいで。 (海へ行こうか)

2020-06-03

頭の中が真っ白になるくらいの生の実感を求める欲動はタナトスに結びつくのではないかと思います。そういう意味で生と死をつなぐエロスの言葉という印象を強く受けました。「八つ裂きになるくらい生きたい!」という言葉の全力疾走。 (動画「ぶち切られるために生きてる」)

2020-06-03

猫に対する眼差し、語り方に愛情を感じる。ほのぼの詩。 (青い桜)

2020-06-03

蝶の微弱な羽ばたきが遠く離れた場所でハリケーンを起こすか、というのは興味深い話です。 ちょっとわかりにくかったのは《それが僕にとってはどうでもよいことなのかもしれない》という箇所で、バタフライエフェクトがどうでもいいのか、どうでもいいことがバタフライエフェクトにつながっているのか、語り手の考えはどちらなのかです。 全体としては、語られたひとつひとつが蝶の微弱な羽ばたきであるとしたら、《日々を生きていく》なかでも予測不可能な変化に対して目が向けられているのかな、ということです。 (バタフライエフェクト)

2020-06-03

んー。三連までは好きなんだけどなあ。そこから先が毒もユーモアも抜けて、真面目なんだけど窮屈になっている気がします。音が強いだけに、それに相当する面白さがないと、音に負けてしまうんじゃないかなあ。 (げろりげろげろ)

2020-06-02

何が起こるか期待しているうちに、結局何も起こらないまま終わりまで読んでしまうというトリックにひっかかった感じです笑。と思いきや、下の方にもう一行あったという二段仕掛け笑笑。 (トリッキーなことを思うが結局早めに考えることをやめてしまおうか)

2020-06-02

「目覚め」って感じなのかな。若々しさを感じます。そしてなにより短くていい。ちょうどいいところで切り上げていると思います。 (僕もやさしくなれた)

2020-06-02

こんばんは。 >いちど確からしく瞬いても この一行、いいですね。「確からしく」というはっきりしていないところが、語り手の「瞬き」を見たという経験に確かさ(リアリティ)を与えていると思います。細かい点ですが、光る一行です。 (秘密)

2020-06-02

こんばんは。読んでくださって、ありがとうございます。印象的でしたか。なんでこうなったのか、うまく言えないのだけど、自分の思いつきで書いたことを次々に裏切りたかったのが一番だったように記憶します。そうだなあ、クラシカルといっても、私はおっさんなので、若い頃に読んだものがクラシカルなので、なかなかそこから抜け出れていないだけなのです。それでも、『出会えて良かった』は非常に嬉しく、また有り難く思います。こちらのサイトではいろんな作品が投稿され、コメント欄でも刺激や学ぶところも多くあります。是非、楽しんでくださいね。 コメント、ありがとうございます。 (みじめな唄)

2020-06-01

こんにちは。 >薄い布が張り付く のところで、言葉にしっかりと体を感じました。それまではまだぼんやり何かが進行していて、それを見ようとしている目の動き(「のぞく」が効いているのが一因でしょう)があったのだけど、ここに来て体になった。よいです。 (輪郭)

2020-06-01

読み直しました。個人的には旧式のラジオから最新式のラジオへ、旧式のラジオの最新式のラジオのさらに最新式の、さらにまた最新鋭の……とつづいていくあたりが好きで、お父さんのお父さんのお父さんのお父さんのお父さんのお父さん……みたいどんどんわけわかんなくなっていくところを推し進めていってほしかったです。「旧式のラジオとそれに対する私」という構図からどんどん離れて、もっと「狂い」を鋭くしてほしかった。まあ、わがままだし、クリエイティブライティングからは外れるかもしれないのだけど。 (田舎のラジオたち)

2020-06-01

軽めにいっても言葉運びが乱雑だと思うな。せめてもうすこし整理してくれると内容に入ってコメントできると思うのだけど。 (死中得活)

2020-06-01

針金シリーズはビーレビ内でもシリーズ化してしまっているから面白くてもコメントつかないのかなあ。不思議。汚れたもの醜いものを中心に据えつつ、その清さが動きのなかで描かれていてよいです。 (フィラデルフィアの夜に XⅣ)

2020-06-01

嘘はいつかバレてしまう可能性があるんだけど、嘘をつくことでしか守れない大切なものもある、またはそう思う一時期がある、そんなものなのかもしれませんね。それは秘密とも言い換えられそうですが、秘密の開示は他者と繫がる(まさに開かれる)チャンスでありながら、最も怖い瞬間でもあります。そこの境目にいるみたいな詩だなあ、と思いました。が、しかし、いつバレてしまうかはわからないから、パンツは履いたほうがいいかもです。 (ときどき嘘をついてみたり)

2020-06-01

ブラウニングってイギリスでしたよね。タイトルや登場人物からしてフランスでの出来事を題材にとったのかな。訳詩で読んだのは相当前のことで覚えていないけど劇詩で有名だったんですね。 揚雲雀なのりいで、 蝸牛枝に這ひ、 神、そらに知ろしめす。 すべて世は事も無し。 (ギスモンド伯爵、またはプロヴァンスのエクス Count Gismond: Aix in Provence)

2020-06-01

こんにちは。風にはじまり風に終わる、という感じですね。だから、ありふれているはずの冒頭二行が死んでない。じわじわ味がしみてくるサンドイッチみたい。 (ブルーロータス)

2020-06-01

こんにちは。こちらの詩はぼくはよくないなと思いました。「静夜」「冷空」って、悲しい生き様を「哀生」と書くくらいまずいと思う。とにかく作品の言葉が〈ぶっている〉自覚がないまま、〈ぶっている〉感じが強いです。だから笑い要素としても受け取れない。まあ、そこは好き好きなのかもしれないのけど。 (静想夜)

2020-06-01

こんにちは。ボタン、最初は服のボタンの方と考えていたのだけど、スイッチの方のボタンなんですね。かゆみスイッチ、みたいな。私は二連と三連の応答のような箇所が好きで、「そこのボタン」への語り手の思い入れを感じました。大事なんだなあ。でも、それでは進めないから、押す。だけどもぼやける程度に残す。矛盾した感じもあるけど、心情としては矛盾していなくて、それに静かに支えられて前に進めるということはあるなあ、と思う。そういう細かい襞が表れているように感じました。 (ボタン)

2020-06-01

この三つに分けられた小節は、関係しているのでしょうか。だとしたら一貫性に乏しく、語り手の語らんとする内容が読み取れませんでした。別々に独立したものだとして、彼女が主人公のものはそこそこながら面白くて、もうちょっと掘り下げてほしかった。残りの二つは、演説やテンプレートに言葉を乗っけた印象で文章としても面白くなかったです。次に期待します。 (虚無と孤独、嗚呼ただマイクを空に上ぐ。)

2020-06-01

おはようございます。眩しい記憶というのは時々自分を、なすすべもなく傷つけることがありますね。そのあたりの明暗の対比がくっきりしていて、味わいのある詩になっていると思います。 (夏)

2020-06-01

おはようございます。三首目が像を浮かべやすく、想像を膨らませることができて、歌音痴なぼくにも愉しめました。「みにちゆあだくすふんど」て字面をパッと見て、一瞬どういう日本語かと思いましたが、ミニチュアダックスフントなんでしょうね。異質なものに触った感触を覚えました。 (4(短歌))

2020-06-01

こんにちは。コメント、ありがとうございます。エスキース、そうですね、スケッチとか習作とかいうやつです。沙一さんへの返信にも書きましたが、漠然としたイメージみたいなのがあったのだけど、どうもしゃんと見えてこなかったので、中心にあるイメージにつながることをそれぞれに散文として書き散らしたものです。なので、同一イメージの反復というのは見えやすいですね。見直してみると、五年前に書いたもので、それぞれ一篇を一日ずつブログにアップしていました。そういう仕方で呼び出すみたいなことは少ないし、五年前というほど時間の経過を感じていなかったので、それなりに力を注いでいたのかもしれません。ありがとうございます。 (四つの散文詩のためのエスキスとそこからこぼれ落ちた一篇の詩)

2020-06-01

こんにちは。コメント、ありがとうございます。長々と書いたものにお付き合いしてくださって嬉しいです。詩の方の漠然としたイメージはあったのだけど、なかなか見えてこなかったので、呼び出すみたいなつもりで書いたのが四つのエスキース部分になっています。それをやっているうちに少しずつ見えてきたのが詩篇になりました。だから、「ほのめかし」に映るのはもっともだと思います。 《古代文明的な供犠と、近代的な都会の光景が、融和しているような世界観》はまさにそうなればと願っていたところなので、嬉しい限りです。ありがとうございます。 (四つの散文詩のためのエスキスとそこからこぼれ落ちた一篇の詩)

2020-06-01

特に何かが変わった事ということはなく、なにも持たないままだったけれど、心が軽くなるような体験というのはありますね。結びとしては私奈良「もうすぐ明日がやってくる」で締めた方がいいと思います。「そんなある日のお話」で閉じるのはもったいない。 (散歩)

2020-05-30

おはようございます。それぞれの立場が明解な図のように示されると頭のなかで絵が描きやすいですね。それだけに内容は考えさせられますが。見方によっては存在することが既に暴力でありうる、と思うので、拡大すれば暴力を振るわないことなど相対的には完全にはない、と言えなくはないですね。逆に言えば暴力を振るわないことが暴力になることもあるわけで。などなど考えつつ、この作品においては狭義の暴力を振るう振るわないから入って、「暴力とは何か」ということを、各方面から光を当てることによって、その解釈の多様性を浮き彫りにし、読み手に問いかけるもののように思いました。 (GROUP Bの暴力)

2020-05-30

読んでくださってありがとうございます。そうですね。「いやがった」を繰り返すことで感情を前面に押し出すこと、それと同時にそれまでの語りは後ろに押しやることは、当初からの計算ではないけれど、意図したように記憶しています。コメント、ありがとうございます。 (みじめな唄)

2020-05-27

淡々とした語り口のようですが、景色に対して感覚を澄ましている様子がそこここに窺われます。ニオイが郷愁を誘うという経験には記憶がありますが、それを郷愁と思うことが出来るのは「今この時」と立ち戻る往復の動きを感じました。短編小説の出だしのようでもあります。 (夜の帳)

2020-05-27

自分と物事とが関わるそのすべての時々で思い出される「あなた」や「あなた」を想う語り手の姿が、読んでいるうちに焼き付けられます。一人で想う姿はじわじわと感じ入りました。「流れ星みつけた」に「を」がないのが直接的でいいです。ひときわ「あなた」がくっきり浮かぶようで。 (わたしのどうぶつの森)

2020-05-26

読んでいてとても気持ちのいい作品でした。例えばと、どこかの詩行を取り出したいけど、そうすると気持ちいい言葉の流れをぶつ切りにしそうでこわいので頑張ってしません。 言葉が想像させるものや、その動きが、気持ちいい方へ連れていってくれるのだけど、想像へと向かっていく言葉の向こうにある静かな息遣いまでが届いてくるような気がしました。 (Crazy chou cream)

2020-05-26

読んでくださってありがとうございます。返信ずいぶん遅くなってしまいました。 そうですね。目に映ったものがきらきらして見えた時ほど、ふと気づいた暗さに足をとめるということはあるように思います。コメント、ありがとうございます。 (みじめな唄)

2020-05-26

うーん。なんというか、何度読んでもわからない。というか、わからなくてもいいんじゃないかとさえ思えてくる。そうですね、若くて粗さも多分に残してるのに、それが魅力なモデルがその人用に作られたトップデザイナーの服を纏ってショーにでているのを観ているようです。わざとらしさもなく、どんなパフォーマンスにも嫌みがない。のっけから目を奪われる。見とれているうちに終わってしまいます。こういう人気モデルは追随者をつくりそうですが、追いつけない位置に立っていてほしいかな。 (食べ物と死ぬ人)

2020-05-25

おはようございます。イイ感じの作品ですね。引き込む力があります。勝手に名付けると、言葉の体にダンスに誘いこまれて、ついいっしょにダンスしてしまう、という感じかな。ステップがしっかりしていて、リードがとても上手な文体だから、気持ちいい解放感があります。 コメント欄も興味深く読みました。特に最後のは、ちょうど考えていたところだったから頷けるところが大いにありました。孤独とかって他者との関係なしにありえないわけで断ち切るのとは違いますね。個人的には孤独ってのは生まれも価値観も全く異なる他者を受け入れることだと思います。まあ、これは作品外のことなので、私も運営の方々には謝っておきます。すいません。 (Qg3!!)

2020-05-24

こんにちわ。内容を追って、頭の中でどっちがどっちかこんがらがっているうちに終わってしまった。答えが出ずに宙ぶらりんな感じなんだけど、それが気になって「いったいなんだったんだろう」と後をひく印象を残す作品になっているように思います。 (手の平の孤独)

2020-05-22

最後の一行のために最初の一行が用意されているのかなあ。 松島ってロケーションはいいような気がする。もう20年以上前で震災前のことだけど。でも、これはロケーションさえよければ松島じゃなくてもいいんじゃないかとちょっと思いました。よし松島であるからといって芭蕉をだす必要もなかったんじゃないかと。まあ、雰囲気は出ていると思いますが。 (松島にて)

2020-05-21

面白いですね。個人的には唐突に出てきて、用だけ済ませて、さっさと引きあげたぽっぽーに「いったい何だったんだ???」と唖然としていたい感も強いので、《帰っていった》で締めてほしかったですが、最終三行を考えてみるに、語り手はもう覚えていないほど以前から、ぽっぽーとつきあっているようで、そうすると、やや「狂い」がでてきているのかもしれませんね。仮に時計自体がないにもかかわらず、語り手にはあるように捉えられており、語り手自身を慰めるものとして映っているのだとすると、笑い事ではない深刻な世界に入りこんだような気持ちになり、「よく見ると怖い作品世界」に思えてきます。 (ぽっぽー)

2020-05-20

いい作品ですね。「わたし」が「いと子さん」をいかに見ているかが、「いと子さん」の姿を通して目に浮かんできます。裁縫なんてね、たぶん普段ではあんまり目立たなさ過ぎて気にも留まらないことなんだけど、「いと子さん」は「裁縫が上手」だし、放課後に裁縫をしている、ってところを「わたし」はちゃんと見ているし、裁縫の様子もよく見ている。こういう細かいところをきちんと書けているというのは素晴らしいと思います。作品に動きを与えてリアリティを作っていると思う。良いです。 (チャイム)

2020-05-20

馴染んできた世界が変貌してしまったことに対する受け容れがたさが感覚知覚の変化を通して描かれていると思います。ただ、語り手が失意に落ち込んでいくありようを示すものであれ、「ない」の繰り返しは、前半の「よ」で結ばれる〈語りかけ〉との差が急過ぎて、読みの自然な流れが途切れるように感じました。 (20200519°)

2020-05-20

八首目は漠然として見えにくいけど、最初から七首目までは具体的で、見えるように詠まれていると思います。 (さまざまな世界で鴉が鳴いている)

2020-05-14

読んでくださってありがとうございます。これを書いた頃は私も車が足でした。それがなんで電車になったのか覚えていません。スピード感かな、線路の近くの道路を走ることが多いから。でも、それは口実でバカっぽいことを書きたかっただけなのかも。いずれにしても、どんなふうに読んでくださってもありがたいですよ。コメントまでくださって感謝しています。 (恋の算数)

2020-05-11

私はこの作品は一曲の音楽だと感じました。といって音楽に関する教養はないに等しいので恥ずかしいのだけど。 それでも特に〈おしえてくれないか〉からはテンポが速くなったように感じました。で、〈それはまあ〉で緩やかになって、〈それから俺は〉で速くなっている、というような緩急や連毎の起伏があるように感じます。語りは決して明るいとは言えないものの、奏でられるとしたら、力強くテンポよくというところもあるんじゃないか。ここを音楽的にどういうのか、わからないのがもどかしいのですが数人での演奏形式ならありそう。そして、最後はだんだんゆっくり静かになって閉じている。音楽だなあ。そう考えると、語りの内省的とも思える内容に対して、語りと共に展開していく緩急や起伏の流れは、そのまま語りの下にある感情のダイナミックな動きであるのかもしれません。 このようなコメントをするのもひと言のうちにすべてを含めることができたらいいのになあ! (ダ・カーポ)

2020-05-11

昔、野島伸司が脚本書いたドラマを楽しみに観ていたことを思い出しました。必ず誰か死ぬか悲惨な出来事が起こるから。暗いものに興味を抱く心性はあるように思います。 (人が死にそうな詩は味わい深いなぁ!!!!)

2020-05-11

人間がいるなあ、というひと言に尽きます。そりゃそうだよと言えばそれまでですが、人間がいる、ということを表現するというのではなく、感じさせるのは容易ではないと私は思います。日常ではそういうところは知らず知らず表面的に過ぎてしまうことが多いので。生きている人間がいるなあ。 (バラの浴室)

2020-05-11

 」←こんな格好なのかなあ、とか連想しました。両手を地面について足を前に投げ出しているような。そうだとしたら、すすり泣きというより号泣ぽいな、男の子かな。みたいに想像を膨らませて楽しむことができます。 短詩でバシッと決めるのは、語が想起させる状況を含めて情報が多くなる分、なかなか難しいですね。 (別れ)

2020-05-08

拝読。思い浮かべたのは「成果」という語でした。植物としての果実がなるのは嬉しいものですが、成果や成功といった大人たちが好み、また求めるものは、求められた側にとってはじつに苦いものです。そのようにして求める側もその「旨み」に降って踊らされているのかもしれません。そうやって成功神話の類は社会を席巻している。穿った読みではありますが、味覚という身体性として書かれることで、言葉がその苦々しさを経験させてくれる作品です。 (果実)

2020-05-08

読んでくださってありがとうございます。また好意的な評までいただき励みになります。今から60年前というとちょうど1960年ですね。その時代の詩作品は好きなので、その一端がでているとしたら、そこは過去の素晴らしい作品の影が、拙作を通路にして響いたということでもあり(影ー響、ですね)、非常に嬉しく思います。今後とも精進します。 (みじめな唄)

2020-05-08

おはようございます。こちらの「作品」に使われている文章は、Twitterでtweetしたものを使用しているものなので、各々の内容は、ああ、読んだなと思い返せます。なので、文章内容についてはできるだけ触れません。 一つ言うと、Twitterで呟かれる「言葉」は時系列的なものであって、その日その日の集団や社会、政治などの出来事に関連していることが多いということです。したがってネットであれなんであれ、言葉の日常性のなかで行われている。また、Twitterでは呟いた時間が残るだけでなく、呟きに反応してのハートマークやRTや返信がついたりします。それは個人の言葉がそれ以外の他者とつながっているということで、ここでも社会や集団との関係の中に位置づけられていると言えます。 こちらの作品では、それら呟いた文章を使用しているわけですが、これは、上に書いた日常性や社会、集団との関係に置かれている「言葉」を、それらとの関係から一旦切り離し、詩の相へ位置を変える行為だと思いました。ですから、ここで使用されている文章は、Twitterには残ってはいるけれど、その呟きではない。同じ言葉であっても同じではない、ということが詩作品の言葉であるとしたら、たとえそれぞれの文章に日付が振られていても、それは実際の日付ではありません。この点でいうと田中宏輔氏の『詩の日めくり』という試みがあったと思いますが、この作品では、それを更に「某月某日」として、時間性を不定にしてしまっています。まあ、「20200年」の某月某日なんですけど笑。詩の空間に置かれた言葉は、同じ語彙や文であっても詩空間に属する言葉であって、私たちの日常的な時間に属するものではない。ここに書く側が明確な意識をもっていないと詩の言葉は日常性に縛られたままの個人の日常的な感情の表現になってしまうし、読む側もそのわかりやすさにひっかかって日常的な文章のまとめとして読んでしまう可能性が大いにあります。読み手の側から逆にいうと、Twitterで呟いた文章を、そこから引っこ抜いて、それまで日常的な時間性や集団との関係に縛られていた「言葉」を詩空間に立たせ、「某月某日」という時間のなかで語ること(引用)で、言葉自体はすでに日常的な関係に限定されないものになっているにもかかわらず、見かけの日常の言葉っぽさという仕掛けにはまってしまうのです。とすると、これは言葉というよりも仕掛け(=構造)をメインにおいた作品と言えるかもしれません。石村さんの作品は大抵、言葉を異(詩)空間にずらし、日常性から開かれた世界を立ち上げるということを考えると、他の作品と全く違うものは目指していないことがわかりますが、しかし、この作品は方法としてこれまでの石村作品とは違う提示のされ方をしていて、非常に新鮮な驚きを感じます。 長々とおしゃべりしてしまいました。失礼します。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-08

>艶めいて 夜の香りを染めていく の「艶めいて」とか、 >林檎がひとつ砕け散る 悲鳴の音いろを の「砕け散る」「悲鳴」といった語が、流れに対して強くて、浮いているように感じました。わからないではないけど、読み手の中で生起された詩情が壊されているような気がする。狙ってやっているにしてはその後の展開で十分には補われていない。 >朝陽に紛れ延びた手が林檎を高く放り投げ で解放感を感じて救われました。五感を総動員させて味わえる作品なだけに調和が取れてないのはもったいないように思います。 (夜香)

2020-05-06

言葉にできない、描くことができないと語ることで、言葉(抽象)ではないものの存在(たとえば目の前の相手の微笑み)を想像させるように描けていると思う。 シンプルだけど、よくまとまっている作品だと思います。 (会話)

2020-05-06

母親にとってそのバッグが大切だったことや母親がバッグを「バック」と言っていたことを語り手は知っていたのかもしれないですね。でもGoogle翻訳という世界的基準には通用しないことも知っている。国際的には英語が覇権を握っているわけだけど、母親はそれは違うと激しく抗議して向かって行っているわけだから、同情を寄せつつもたじろぐのは無理もないよね。正しさの衝突から戦争が起こるとしたら、世界平和を祈りたくなるのも不思議ではない。それがよくでている作品だと思う。 (私の盗まれたバックあ赤かった)

2020-05-05

《ぐづぶぶしゃしゅり/ぐぐしゃりづぶぶ》という音が、語り手の感情も自問自答も、後から後からかき消してしまうところが気持ちいい。踏み進むという行為についてくる体や動き、そして音はずっと確かだからね。 (名残の雪)

2020-05-04

おはようございます。 >私に見えないものはない >見えるものもない >ふたつ それとも三つ あるいは >時の始点にひとつ >それはもういい などに見られる反復運動は、音楽でいうところのまさしく《フーガ》の技法というものではないでしょうか。 語り手には見えているものがあり、それを追うように、または応答するように語りが展開しているように感じます。最終行は素晴らしいです。《私は曲を終へよう》という語りによって、これまで曲が流れてきていたことがわかり、ここから音楽が立ち上がってくる。そして、最初の行に戻って読み始めるとたしかに音楽が流れているような心地です。 繰り返し聴いていたくなる、深い味わいのある作品です。 (結尾)

2020-05-04

おはようございます。三連目は二連目において想像できるように語られていると思うので、追加する必要があるか、やや考えどころです。また最後の「暗号文」で読みの流れが途切れたように感じました。「暗号文」としたところに味があるとも考えられますが、微妙なところで全体としては浮いているようにも感じます。語り手の主情が伝わってくるように語られているので、言葉との距離感をさらに調節すると、もっとよい作品になると思います。 (blink)

2020-05-04

影山くんがそんなにラノベを愛していて、文学としてもこれ以上にないと心底思っているのなら、こんなふうに食ってかかったりしないで堂々と好きなことに打ち込めばいいのにな、と思いました。影山くん自身のなかに出来上がっている階層性バイアスが取っ払われて、純文学は純文学でいいよ、でもオレはこれで行く、という自由さが出てくることを望みます。まあ、食ってかからずにいられないくらい、その分野の存在やありようが気になっているわけだから、不寛容さをうっちゃって飛び込んでみるのも悪くないよ、と思うけど。SNSで晒すとかオイタをするよりは健康的です。 (メッセージ)

2020-05-01

行分け詩において改行というのは詩的レトリックの一つに数えられるというのは今さらの感じがしないでもないけど、久しぶりにそういうことを言ってみたくなるくらい、改行が明確な詩的レトリックになりえていると思える作品だと思う。 詩行を読みながら書かれている内容が読み手のなかでひとつの像を結ぶ手前で遮ったり、結んだと思った直後に裏切ることで生じる不快と快の繰り返し、さながら躓いては建てなおすの繰り返しを経て、最終三行でそうした縛りから解放される気持ちよさはよいものであります。 こうした明確な、というのは見えやすいということでもあって、知らない読み手や書き手にとっては参考になると思いますが、そうでない読み手や書き手にとっては見え透いたように受け止める可能性もあり、そこをどう受け止めるかで評価も変わるかもしれません。 個人的には好きな作品。 (マイヤーズラム オリジナルダーク)

2020-05-01

こんばんは。まあ、スタンドピアノではなくて、グランドピアノなんだろうな、と思ったり思わなかったり。どっちにしても作中の「私」は、物の形を、それを知らない人に伝えることができる人=詩人と考えているんでしょうね。はたして詩人てそんな存在ですかね?というか言葉を尽くしても映像としては伝わらないんじゃないかな。言葉で伝えることの難しさを知っていて、言葉が万能ではないことも知っているものじゃないかと思うけど。それでもピアノの形を伝えたければサリバン先生みたいにやるしかないよね。そんなことを考えました。 (盲目の詩)

2020-04-26

ご高覧並びにご批評ありがとうございます。丁寧に読んでくださったことが伝わってくる文章で、大変にありがたく思います。改めて読み直してみると頷ける点もありますね。参考になります。「内省」という点も言われてみれぱそうとも読めるもので、ひとつの言葉や文章はさまざまな方向からのアプローチが可能なのだな、と再確認している次第です。精進します。コメント、ありがとうございます。 (恋の算数)

2020-04-25

だいたい書きたいことは先に書かれていたので、どうしたものやら。笑 構成がいいですね。冒頭からの流れが急に変わって、いましも始まったと思いきや終わる。最後から二行目、「おやじのとき」のあとに「も」が入れてないのもいい。語り手の脆さというか、きみに会いたいって気持ちが洩れてくる気がします。 (君に会いたい それだけなんだ)

2020-04-22

音好きな私としては、もう好きだとひと言だけで終わらせて、後は黙ってたいところなんですよね。舌を噛みそうな音の流れがリズムになって、そのうち意味はあるのだろうけど意味から離れて、音だけになってぐるぐる回る気持ちよさがある。調べというか。意味的なことも重ねて読むと、これは悲しい調べかな。そうですね、悲しい調べだと感じました。「胸隠し」とか久しぶりに聞いた。 (赤隠し)

2020-04-19

これまたすごいことやりましたね、って気持ちです。もしかしたら現在詩を書くひとの半分くらいは、書く時に避けようとする語、詩のなかでは手垢のつきすぎた語が散りばめられているのに、それから同じく詩を書く多くの人が使わないだろう言葉遣いなどもあるのに、その両方がバランスを取り合って妙な甘ったるさを壊してる。私なんかにゃ発想すら及ばなかったけど、口語でこれをやって味をしっかり感じさせるのって難しいと思う。 (花の夢)

2020-04-19

いい。一発一発が腰の入ったパンチみたいで効いてくる。そして、なにより勇気づけられる。 (救済の日)

2020-04-19

この作品世界の人々は私たちの知らない世界に生きているんですね。そして彼らもまた私たちの世界を伝聞や作られた映像でしか知らない。けれども、私たちが生きている世界よりはずっと悪い状況みたいだ。そういう世界を日常として生きていると、伝え聞いたり作られたりした過去の映像世界、「いま・ここ」でない世界に強く引き寄せられることは人情として当然なのかもしれません。それだけに最後の一行が重く逃れれようのないものとして響いてくる。でもね、そういう世界であるにもかかわらず、寄り添い合っている夫婦、美しいなって感じますよ。終わってしまった事後的世界のディストピア感満載ですが、絶望一色ではないのが垣間見えて救われました。 (赤い雨)

2020-04-18

僕、あなたたち、僕たち、君、人間と人称が入れ替わりで出てきて、直線的に訴えかけてくるような作品の割に読みづらいなと感じていたのですが、今朝ようやく入ってきました。結局答えはないまま問いかけで終わってしまってるんですね。まあ、ナイーブな問題ではあるんだろうけど。古い英米詩みたいな印象もありますが、個人的には真っすぐなら真っすぐの方が気持ちいいかな。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-18

けだるい。とにかくけだるさが作品全体の空気を覆っているように感じました。中盤からはずっと眠っているみたいで。それにしても、うーん。なんだろう、《君の/知らない場所がとても懐かしい/辿り着くはずだった未来はノスタルジーの中にしかなくて》という箇所はたしかに生きている現実に対する哀しさや空しさのような感情を感じるのだけど、タイトルの「シャーデンフロイデ」が何に向けられているのかが今ひとつ読みきれない。世の中に向けてなのか、そのような世の中に生きている語り手自身に向けられているのか。というか、読みきれていない私自身に向かってきているようにも思えて苦笑いしています。それはともかくけだるさが後をひいて、いっしょになって眠ってしまいたくなる作品です。 (シャーデンフロイデ)

2020-04-17

この作品のピークは《詩人は何を書いても詩人だ/それなら自分は鳥だ》というところにあるように響くのですが、あとに来る行が説明的に(必ずしもそうでないにせよ、というのは心情としても感じるものがあるからですが)、やや長く続くために、印象が薄れてしまうようでもったいないようにも思います。それにしても《詩人は何を書いても詩人だ/それなら自分は鳥だ》とビシッとした二つの断定と斬り返しの素早さは鮮やかで気持ちがいいです。 (烏)

2020-04-17

「芝草をかむ」というのは面白いなあ。いま、久しぶりにかっぱえびせんを食べているんですけど、かじるとポリポリって音がして味が広がって、「ああ、かっぱえびせんだなぁ」って思うんですね。緑の「芝草」を踏んでもあんまり音はしないかもしれない。でも噛んだら音はするかっていうと「芝草」自体の音はやっぱりしないかもしれない。でもそこに「新しい月」の現れを感じることができるってことはあるかも。噛んだ時に鳴る音、泡のようになにかが弾けて破裂したあとぷつぷつ現れるもの、見えてくるもの、それが「新しい月」なんだろうな。それはコップン、コップンだからタプン、タプンほど柔らかくなくて、もっと硬くてはっきりしている。だから、普通は「芝草」を踏むことでなんとなく新しい月の訪れを知ることになるんだろうけど、そうじゃなくて、「新しい月」の訪れをもっとはっきりした実感あるものとして、言葉で掴みにいった結果、こういうへんちくりんで面白くて新鮮な、それこそ「詩行」が生まれたんじゃないかな。だからここでの言葉は解釈というよりも言葉で掴まれたイメージそのものとして読むと「糸のような雪」も見えてくるし、「さざなむ夢」も浮かんでくると思う。でもファンタジーとか幻想という言葉では括りたくないな。読み手を遠くへ連れて行ってくれる、そうですね、やっぱりポエジーって呼びたいです。 (遠い風習)

2020-04-16

ご高覧ありがとうございます。あざといってヒドイなぁ笑。でも、なんとなくわかります。 どストレートなことがテーマになっているので構成は気をつけました。そこのあたりに触れてくれて嬉しいです。ありがとうございます。 (恋の算数)

2020-04-15

ご高覧並びにご指摘ありがとうございます。えーとご指摘の件、とてもありがたいのですが、前半部については指摘内容がよく理解できないので、なんとお返しすればいいかわかりません。作品に書かれている内容がすべてですので、不足があるという意味であれば以後精進しますね。 後半部についての『トキメートル、ナゾメートル、が何やら言葉遊びの域を脱していないように思います。』という点ですが、ご指摘の通り、言葉遊びの結果そのような二つの造語めいた言葉が生まれたわけで、それを一応のヤマにして作っているので、域を越えていないとすればさもありなんというところです。てへ。 それから、『トキ、が何故後半ナゾになったのか、そもそもトキを何故ここに持ってきたのか』という点なんですが、ここは指摘されるまで全くの盲点だったので感謝しています。というのは「~ている」が語尾になる語を発する時に、ぼくの住んでいる地域では「~とる」という語尾で発することがあるんです。 (例)走っている→走っとる、泣いている→泣いとる、寝ている→寝とる 以上をもって、「ときめいている」は「ときめいとる」、「謎めいている」は「謎めいとる」になります。ここからメートルとかぶせて文脈に添うようにしています。ところが調べてみたら、「~ている」を「~とる」と発しない地域もあるとのことで、全くの盲点でした!いやー、恥ずかしい。もし、ふじりゅうさんが「~ている/~とる」を知っていたら文脈から「何故そうなったのか?」などという疑問は起こらなかったことでしょう。猛省しました。ダジャレの解説ほど寒いものはありませんが、これはしかたがないです。赤面。 以上、長々となりましたがコメントありがとうございます。    (恋の算数)

2020-04-15

ご高覧ありがとうございます。感情が高ぶるあまり体が反応を起こす、それを飛び越えて、有頂天までも突き抜けてついに大気圏突入。なんて、かなり漫画チックなんですが、体の言葉としてはあるかなあって感じです。楽しんでもらえて光栄です。加減乗除でアプローチしてみるというのも面白そうですね。難しそうだなあ。コメント、ありがとうございます。 (恋の算数)

2020-04-15

面白かった。タイトルが効いていると思います。詩に関しても、書くにも読むにも、このようにコメントを入れるにも、実質的に利益になるわけではなく非効率であり、合理性且つ効率性を目指して発展する社会と逆行していて、〈語り手〉はそれをもとに不満を訴えているけれども、実は社会と同化した〈近代病〉にかかっていることを〈作者〉は仄めかしているように思います。でも、ワクチンで手っ取り早く治ろうなんて即効性を求めるのもどうかと思うよ。なんちゃって。 (はやくワクチンをください。)

2020-04-15

数学苦手なので関数という言葉を見るだけで「難しい~」と思ってしまうのですが、「中絶された言葉たち」「語り得ぬもの」というのが〈微分できないもの〉を意味していて、それをグラフにして音声化した時に生まれる聞き心地の(やや〈病的な〉ともとれる)変化が語り口の変化として表されているのかな、と考えました。であるとしたら、そのような試みは私にとってはできなかろうと思い、新鮮さを覚えると同時に感心しました。 (ワイエルシュトラス関数)

2020-04-15

作中の「わたし」の心情がよく表れるように描かれていると思います。「明日のわたし」が突き飛ばすのは、ぐじぐじしてないで前に出なさいよ!という鞭撻でもあるのかもしれません。強く押されて吹っ切れることもあるとすれば。そのような未来から見れば今日とは過去となるべきまだ見ぬ「あたらしい昨日」なわけで、さてどのような過去にするべきか。せっかく「私」が突き飛ばしてくれたのなら、悔いなく明るいものにしたいものですね。 (夜明け)

2020-04-14

面白かったです。調理の流れからどうなるかと思いきや思わない方向に飛びましたね。玉葱(オニオン)と鬼。音のつながりをうまくつないだなあ、と感心しましたが、一番面白かったのは変身?シーンとボッでした。 (おにおん)

2020-04-14

こんにちは。最終の三行、菜の花がこちらからあちらまでにかけてぶわっと咲き広がる光景が目に浮かぶようです。勢いよく絨毯が広がるようにぱーっと広がっていく明るさ。冒頭からの傷ついた感じ、いつもと違う感じ、それらから印象づけられる狭苦しさがほどかれて開かれる気持ちよさを感じます。 (春という、春の詩)

2020-04-14

ご高覧ありがとうございます。このような作品に疾走感という言葉を当てはめていいものかわかりませんが、褒め言葉大好物なので遠慮なくいただきます。勘違いして伸びる子です。「走る」という言葉、動きが感じられて好きです。ありがとうございます。 (恋の算数)

2020-04-14

ご高覧ありがとうございます。まさに強引ですよね。でも、笑っていただけたのであればそれだけでアップしたのは成功だった! ご指摘の通り、算数って!!ってツッコミ入りそうなのですが、「走る」→「駆ける」→「×」というダジャレを今思いついてしまいました。なので、ここはやはり算数でお願いします。こういう時期は特にユーモアって大事ですね。 (恋の算数)

2020-04-14

ご高覧ありがとうございます。「少女が初恋にときめいた詩」という観点、書いた時のぼくには全くなかったので言われて初めてなるほどと思いました。トキメートルやナゾメートルを含めておバカみたいな内容なんですが、おバカ上等、全然へっちゃら!みたいに勢いづいた気持ちって、恋した時が最も顕著になるような気がします。拙い作品に二度にわたって言葉を尽くしてくれて、感謝しかありません。ありがとうございました。 (恋の算数)

2020-04-14

こんにちは。声の響きが後を引く幻想的な作品ですね。誰によって何が語られているかが見えそうで見えない、その見えなさが魅力になっているようにも思います。 (水のような 詩人のような)

2020-04-13

とてもいい作品じゃないかな。音の響きと文字(形)が一致していて文字で書かれた作品として美しさを感じるし、それが語られる語り手の心象世界とも重なっています。 冒頭からたくさんの色が移り変わり、やがて音と景色のなかに消えて過ぎ去ってしまうのは、語り手自身がそのような移り変わりと変化をもった「現象」であることを見つめているからではないでしょうか。そのうえでなお進まねばならない「行方のなさ」がでていると思う。賢治のような異次元空間的な感じはないけれど、それをより今日の現実を生きる個人の側に引き寄せて、「生きる」を捉えようとする語り手の心のうごめきを感じます。 (行方のない散歩)

2020-04-13

こんにちは。疾走感もそうなんだけど、スイッチが綺麗だし、エッジが効いているところが好きです。言葉の足首が柔らかくて脚力がある。ダダダダ、キュッ、ザッ、ダダダダダって感じ。 (じゅうなな)

2020-04-11

不思議だ。 >わたしは深く、海のように >大きな愛を持っている っていうのに、 「あなた」の愛を「ちっぽけ」と計量して言い放つなんて。 でも、ちっぽけで「羽のように軽い」愛を求めてしまうということは、それきりの愛が「わたし」を満たすということは、「あなた」の愛は「わたし」にとってそれくらい重大なことだということじゃないだろうか。 そこはかとくツンデレだ。 (愛の質量)

2020-04-11

おはようございます。初めて読みました。茨木のり子の有名な詩に「自分の感受性くらい」という作品がありますが、あれをちょっと思い出したのですが(あちらの作品は自分自身に対して書かれたそうですが)、比較してスケールが大きいなあと思いました。大らかでユーモアさえ感じます。 >説教だよ >何が悪いってんだよ というぶっちぎり方がとてもいいですね。説教くささを弾き飛ばしてる。 私がアンソロジーを編むとして、この作品をそのなかの一篇に選んだら、タイトルは〈人間愛に溢れた励ます詩〉にすると思います。 (空なんか見てんじゃないよ)

2020-04-11

悲しみは暴力的なエネルギーをもっている。それが「憂い」であるとわかる以上、そのエネルギーもやがて潰えることがわかる。だから「あなた」を留め置く努力も空しく消えるだろうな。その儚さがなおのこと悲しい。表面的には静かな言葉づかいですが、荒々しさが底部にあるのを感じました。イラストの娘の表情や色づかいも言葉と合っていると思います。 (春の嵐)

2020-04-10

読んでくださってありがとうございます。物言わぬ物が意思をもったり語ったりするところは童話と詩の言葉とがもつ親和性のひとつかもしれないと思う今日この頃であります。短いのしか書けない。汗 つか、短いのもやっとこさなので、長いのなんて無理!笑  コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-10

読んでくださってありがとうございます。大人の絵本と聞くとすぐにやらしいイマジネーションが働いてしまう残念な大人ですいません。苦笑 絵本や童話の類いが子どもの時分から多くあったので、気づかないところで影響を多く受けているのではないかとコメントを読んで考えています。できることなら笑いたくなるような絵本ががいいです。コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-10

読んでくださってありがとうございます。そうですね。実際には「新聞配達のバイクが近づいてまた走り去る」というのは一文で成立する、散文的な出来事で(モチーフにはなっても)物語にも詩にもならないし、時間的にもとても短いことなので構成しています。もともとエスキースとして書いていたものの一つですが、作品の言葉にそれなりのリアルさがでているとしたらうれしいことです。励みになります。コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-10

読んでくださってありがとうございます。タイトルに三点リーダーを用いたのは、タイトルの語感を大きくさせないためでした。 「朝の新聞配達員は」 って歯切れが良すぎし、なんだか声が大きいので語感が強くなって、作品内の言葉と反発するように思えたのです。もぞもぞが残るのはうれしいです。コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-10

度々ありがとうございます。何かにつけ「悪いことばかりじゃないな」と感じるひとときに出くわすと、多少なりとも一旦リセットできますね。現実はそれほど甘くないことが多いからなおさらです。などといただいたコメントを読みつつ感じている次第です。  (朝の新聞配達員は……)

2020-04-10

読んでくださってありがとうございます。新聞配達員さんて、みんなが眠っている時にもう仕事していて、冬場なんて特に大変そうなんですね。いつだったかホットの缶コーヒーを買って渡したことがあります笑 新聞配達員に限らず、目立たないところで大切な仕事をしてくれている方々がたくさんいると思いますが、そういうところに気を配れる優しい世界だったらいいなあと思います。コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-09

読んでくださってありがとうございます。むずむずしてくれましたか。体に反応を起こすことができていたらうれしいです。また、「一人じゃないというやさしい世界」がでていて良かったです。それを新聞配達員さんにも教えてあげたい! コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-09

読んでくださってありがとうございます。そうですね。新聞配達少なくなりました。いまは夕刊を配達しているのも見かけなくなりました。 「静寂だけが見つめる」とありますが、ひそかに見つめている感じがでていればよかったです。コメント、ありがとうございます。 (朝の新聞配達員は……)

2020-04-09

コメント、ありがとうございます。武蔵の絵を見た時に、電信柱の上のカラスと下の語り手が立体的になりました。この三行なしでは違ったものになっただろうな、と思った。それで、武蔵の絵を軸に書こうと試みたのですが……いやはやなんとも難しいですね。それでもやっぱり武蔵の絵については触れておきたかったし、残しておきたかった。半分以上は意地みたいなもんです。 「うそぶく」の解釈は、どうも最終連でそっぽを向いているカラスが、悲しくて目を逸らしたような気がした、そこから始まったように思います。まあ、なんにしろ、書きたいことを漏らさず文章にまとめるというのは、書きながら読みが二転三転することも加わって、なかなかうまくいかないものです。冒頭の《翼をたたんだカラス》というのも、その前の動きがあることを暗示していなければ《カラス》で済んだだろうなあ、と思いながら踏み込めていないし。精進、精進だなあ。とまれ、どうしても書いておきたかったこと(武蔵の絵)は書けたのでヨシとします! ありがとうございました! 押忍! (たいしたことである)

2020-04-08

最後の四行の静謐さと画像の涼やかさとぴったり協調していると思います。好いです。 (裏庭に居ます)

2020-03-31

こんばんは。昔、 「短い希望と長い平和」みたいなことを書いたことがあって、無論ショートホープ、ロングピースのことだったのですが、その記憶があったのでどこかしら「希望」につながってくるのかな、という予想はありました。しかし、話の展開が高額セミナーや新興宗教の勧誘などの常套話法に似ていて、主人公の崩れ方もそれに近く、型にはまっているように思っていたのですが、……まさか、かじりつくとは笑 予想外の展開で笑えました。そこそこ満足しているとはいえどこか中途半端でもやもやを抱えている前半に比べるとラストの明るさは晴れ晴れしていてよいですね。 (ショートホープ)

2020-03-31

こんばんは。読み進めながら、いつまでト書きのような文章がつづくんだろう、と思って退屈しかけたところ、最後の三行にさしかかり、用意、どん!で落とされて一瞬面くらいました。タイミングがいいです。 (菜穂は激しく脱糞した)

2020-03-31

おはようございます。私はimagineというとベトナム戦争をもとにした映画『キリング・フィールド』を思い出すのです。エンディングで流れていたから。ショックだったので未だに覚えています。 コロナウィルスに対する発言では戦争と絡めたものがありますね。昨日も「長期戦」という言葉を聞きました。戦争と絡めることで非常時であることや自粛統制といった戦時下のイメージを作り出しているかのようで違和感を覚えます。その点では《imagineを歌いながら、大好きな人と夜の道を歩いた。》という二行とは方向が真逆で、この二行の哀しみや重みが伝わってきます。ひとつわがままを言うと、この二行が機会的には作品を感傷で終わらせてしまいかねないところでしょうか。その記憶を支えに前に出るという「わたし」の選択も見えたらな、と思いました。 (愛とウイルス)

2020-03-31

おはようございます。まずステイトメントについてですが、「詩人が表現すれば、それは詩です。」とありますが、私はそういう考えをもっていないので不意の驚きでした。しかし、作者はそのような立場として作り、投稿したのだろうということで拝見したところではインパクトを感じるほどのものではありませんでした。 話をステイトメントに戻しますが、私は「詩作品を書くことで人は詩人になったりなりそこなったりする。」と考えています。その上で言うとポエトリーリーディングにおいても詩人になったり、なりそこなったりしている人がいて、そこはさまざまです。そして、私のとっている立場ではこちらの作品は詩人になりそこなった作品だと思います。ただ、なにかをやろうとしていることは伝わってきます。ですので、何十回何百回と作りつづけてみるといいと思います。まあ、私はハイセンスの側ではないと思っているし、そのくせテキストしか打つ気がありませんので、死んだ感性をもつ一読者の妄言としてでも受け取っていただければと思います。 (imagine)

2020-03-31

こんにちは。タイトルが『ヘビと戦う』で、「ヘビと戦った」という文も出てくるのだけど、戦いの具体的な内容まではわからなくて、一般的にいう〈語り〉が成立していないところ、というか、一般的な〈語り〉の既成の枠組みを食い破ることで成立している語りのフォルムが気持ちいいです。こうなるともう、「ヘビ」も「ヘビ」じゃなくなって、「戦い」もなんなのかということがさっぱりで意味を問うこと自体が無意味に思えてきます。言葉が日常的な空間から離れて夢の空間で動き回っているような気持ちよさを感じます。 (ヘビと戦う)

2020-03-30

おはようございます。音の流れがとても気持ちいいです。もうそれだけで突っ走って、意味なんかは放り出すくらい突き抜けてもいいんじゃないかと私なんかは思うクチなのですが、内容が掴めるようにというか、読み手に優しいという感じがあって、走っている音が意味に引っ張られて言葉が窮屈になっているように思いました。 (メメント・モリ2020)

2020-03-29

単に虐げられる生き物の側に立って、虐げる側である人間を糾弾する(そこに描かれたエネルギーは凄まじい!)というのでなく、「おれ」もまたその人間のひとりであるという自己批判と、そのようにしなければ生きられない哀しみがしっかり描かれている点がエレジーになっていてよいと感じます。 (哀歌)

2020-03-24

こんにちは。何日も眺めているのですが、美しすぎて、何を書いていいんだかわかりません(実は何度かチャレンジはしてみた笑)。しかし、やっぱり何かしらコメント欄に残しておきたいので頑張ってみますね。 まず《空の歌はきこえず/さくら花閑かなり》について。この冒頭からつかまれました。「空の歌」というのはほとんどの読み手に、なんとなく感覚的にはわかると思うんですね。たとえば村上春樹の『風の歌を聴け』の「風の歌」とか、風ではないけれども「木々のざわめき」とか「波のつぶやき」のように自然物が歌ったり語ったりしているかのような表現は珍しくないので。だから、人によってはさらっと読めると思います。ところがそこがにくいところで、「きこえず」と否定することによって、「空の歌」があること、語り手には「空の歌」が(もしかしたら当たり前のことのように)聞こえることを語っています。だから語り手の世界においては「空の歌」はきこえる。それがいまはきこえないのです。読み手である私は「きこえず」によって、作中の「空」に「歌」(音・音楽)があるのを感じる。または「きこえず」によって「空」に「歌」(音・音楽)が生まれるのを見る。ああ、空には歌があるんだな、と。ところがそれがきこえなくなる。「きこえず」でパッと消えてなくなる。聞こえていたはずの音が聞こえない。この深閑とした静けさ、果てしない寂寥感のようなものが拡がるのを感じます。それと「さくら花」の「閑かなり」が重なってくる。さくらが満開になった時の花の色の、外部に溢れだす華やかさ、視覚的でありながら同時にこれも「歌」(音・音楽)です。しかし、「閑かなり」と打ち消される。「さくら花」が目に浮かんだかと思えば、消えてしまう。「僕」の寂寥感たるやいかほどかと感じ入らざるをえません。  技法としては目新しいものはなく、むしろいまとなっては技法とすら意識されないほど伝統的な、否定のレトリックです。島崎藤村の『千曲川旅情の歌』にも現れます。《緑なす繁縷は萌えず/籍くによしなし》など(「繁縷」の字がちがう汗)。ですから、技法としてはこういうことが挙げられるのだけれども、そういうことじゃなくて、たった短い二行で(語り手の)世界が、視覚的にも聴覚的にも、心情としても、明暗の対比を明確にしつつ、鮮やかに提示しているところに芸術性を感じます。この鮮やかさのために漢文的な語り口や「ず」、「なり」といった断定的文語表現がひと役も二役も買っていることは明らかで、言えばこれが口語であった場合、ここまで鮮明な像を立ち上げることがどこまでできるだろうかということです。  さて、どこをとっても切り離せないくらい美しいのですが、《新緑の服の少女は通る》からの三行も、私にはいままさに〈春〉が通るのを見るような心地がして言葉を飲みます。  あー、ダメだ。まだまだ時間がかかりそうです泣。というわけで、尻尾を巻いて退散しますが、文語表現を用いることに対して、また「童子」「牧神」といった〈語としては〉古風ともとられかねない言葉を用いることについて、文字通り古風と受け取る方もいるだろうなあ、と──使われる語が語でありながら甘いところ(隙)がないにもかかわらず──思いながら読んでいたのですが、折よく面白い文章を見つけたので、それを引用して終わりたいと思います。 「文語であろうと口語であろうと、それ自体はどうでもよいことだ。おもしろければよい、というのが一般的ないい方だが、ときとして詩は、肺腑を衝き魂をえぐる。それは人間の精神が避けがたくそういう経験に遭遇するということであり、また人間の精神が悲傷を悲傷のままに存在せしめる言葉の構造体を作りうるということである。そうであるならば、定型であろうとなかろうと、口語であろうとなかろうと、どうでもいいことだ」(『殉情詩集』を読む・辻征夫) (麗日)

2020-03-24

おはようございます。個人的には省いた方がいいと思う語や詩行、疑問が残る箇所などがありました。たとえば《もう他に何も見えない/何も聞こえない》という箇所はそれ以前に何が見え何が聞こえていたかがわかった方が世界の対比が明確になるのではないでしょうか。推敲の余地があるように思います。 (雲梯)

2020-03-20

年々周期的に移り変わりつつ繰り返される季節というもの、あるいは移り変わりつつも運行を止めない「時」と比べると、私たち個々人の内的自然(=寿命/時)とはなんと短いものでしょうか。それは《泡がはじけて消える/その一刹那に》さえ満たないかもしれません。そして誰もが内的自然という時の進行とともに成長し老いていくように、私たちは外的にも内的にも、また望むと望まないとにかかわらず〈時〉と関わらざるをえない。そのなかでああでもないこうでもないと逡巡したとしても、結局それ以上のことではありません。しかしながら、それ以上のことではないにせよ、いや、そうであればこそ、長くも感じるその限られた短さのなかでいかに自らの生を刻むか、それが反=自然でもある人間の証であるのかもしれません。そして、どれだけ《愚か》であれ、虚しい所業であろうとも、言葉こそは人間が作りだしたもの。自らをわらいつつもなお言葉を発することは大切なことのように思います。 この作品のなかの《俺》はそのような宿命を負った人間である《俺》が、個人として生きる《俺》と距離を置きつつ、同行二人の相方として愚かしくも憎めない視線を保って歩んでいるようで、『行く年くる年』における《お前さん》を想起させます。また前作、前々作と並べて読むにそれらへの一つのアンサーとしてもありえるように感じました。 季節、時間、命に対する視線が《空》へ向かわせてくれ、広がりを感じさせてくれる作品でした。 (レモンサワー)

2020-03-16

こんばんは。日々の暮らしというのは、すべてに対して注意深くあることはできなくて、自分にとって重要であるものに優先的に注意を払うもののように思います。そのために零れ落ちるもの、見逃してしまうことは多々ある。人との関係についても同じことはあると思います。この作品では、そのような見逃してしまっていたこと、あるいは意識に留めておけなかったことに気がつくところから始まっていて、そのために語り手の細部への注意深い観察力が表れていて、それは語り手にとって既に知っているはずのことの新鮮な再確認にもなっている。そのことが言葉として定着されている点でよいと思います。部屋にあるものが〈ぼく〉の好きな〈君〉のもので占められつつあることを言葉で数えあげ確かめていくことは、〈ぼく〉に幸せをより実感させるものでしょう。言葉がぼくの幸せを確かなものに感じさせている。 《バルコニーのおっきな金魚の風船》 《情け無い眉毛》 とても良いです。ことに《情け無い眉毛》は、描きこんでいる〈君〉の表情や動きが想像できます。このような細部が抽象である言葉にリアリティをもたせるのだと改めて思います。 最後の《うつらうつら……》の《……》は眠りに落ちていったことを暗示していると読んだのですが、表現の仕方は若干異なりますが、仏詩人のエリュアールを思い出しました。 (うつらうつら)

2020-03-14

こんばんは。鳥の群れだと思ったものは煙だったのだから、煙を鳥の群れだと見誤ってしまうほど「鳥」についての感情的なイメージ体験が語り手にはある、と受け取れるのですが、内容は煙→夜とシフトしていって、最終的に曖昧に、それこそ「透明」に溶けてしまっているので、鳥はどこへ言ったんだろうとトリ残された感じがあります。 しかし、書き出しの二行は好きです。何かしらの間違いは、それまでの日常のぐらつきを思わせ、どうなるんだろうと期待させてくれるので。 (正しい変化)

2020-03-14

こんばんは。〈指〉や〈てんとう虫〉を〈君〉や〈僕〉の「心」と言い換えて読んでみると、物理的な現実の拘束を超えて通いあう優しさを感じ、心が洗われるようです。とても好きな作品です。 (ナナホシテントウ)

2020-03-10

こんばんは。明るさを感じる作品でした。しかしながら、それは喪失の哀しみを裏にもつような透明な明るさのように思えました。そこからの旅立ちのように。 西脇順三郎の『天気』の冒頭、 《(覆された宝石)のような朝》に感じる眩しさが、こちらではたちまち翳ってしまうという強い対比のためにそう感じたかもしれません。 (北に向かつて歩く一日)

2020-03-04

南雲さん、こんにちは。《まっとうと見なされる女性の生き方》とか《たとえば男性経営者の愛人になったり、本業のかたわらで水商売や風俗業に身を投じたりする女性》といった偏見に溢れた文章ですが、ariel氏の作品に登場する《「私」の理想とする「おばちゃん」》に魅力があるとすれば、上に引いた偏見なども一切合切豪快に跳ね飛ばして大股で歩いていきそうなところですね。そこを付け加えてほしかったなあ。 (あなたは「おばちゃん」になれるか)

2020-02-29

こんにちは。「リンネル」だったんですね! そのまま「リニエール」と読んでなんだろう?と思っていました。全体としてしっとりとした語り口が語り手の心情に合っているように感じました。シメもしっかり響いてよかったです。 (•)

2020-02-29

stereotype2085さま 読んでくださって、ありがとうございます。力強いというか、勢いあまっている感がありますね。笑 しかし、それも仕方ありません。勢いあまって書いたものですので、それが出たのでしょうし、そうであるならばそれでよかったのだと思います。  語の選択についてですが、ご指摘、ありがたく受け止めます。ですが、これを書いた状況周辺を思うと、「幾何学」「音符」でなければならなかったのです。あるいは当時の私の限界であった、とも言えるでしょう。「勝負だ」という気持ちで詩作を行なう習慣がなく、自分にとって最もベストであると思えるものを、という姿勢で書いてきたので、勝負の意気込みが感じられない点については返す言葉がありません。  しかし、「技術で補った」という箇所は意外です。というのも補えるほど技術について知識も腕もなかった頃のものですので。それも含めて、今回投稿するにあたって必要ならば手直しをと思ったのですが、一切手を加えませんでした。技術的には現在のほうがあるかもしれませんが、技術では補いようのない勢いまでは現在の私にはどうすることもできないと思ったので。コメント、ありがとうございます。 (鳥)

2020-02-29

帆場さま 読んでくださってありがとうございます。日常の言葉にすればごくわずかなことをその時のさまざまな感情に忠実に、言葉として定着させたかったことを覚えています。コメント、ありがとうございます。 (鳥)

2020-02-29

すいません。筆者ではなく石村利勝氏への返信です。操作を誤ったみたいです。 (鳥)

2020-02-27

読んでくださってありがとうございます。ネット上に書き始めた頃のかなり古いものですが、当時の個人的な事情も手伝って思い入れのあった作品ですので、非常に嬉しく思います。 (鳥)

2020-02-27

おはようございます。初めて読んだ時、衝撃的でした。一行のうちに作品内の世界が立ち上がっています。それと、作中主体からするとこれは一瞬の同時把握ではないかと思うのですが、言葉で表す場合には順序的・時系列的になってしまうことが多い。それが同時性としてバシッと表現されています。内容としては自分=世界の存在に亀裂を発見してしまったかのような驚き、揺らぎの瞬間として読みました。 (池)

2020-02-25

ユニコーン、グリフィン、ドラゴン。幻想上の生き物も哀れな姿になりますね。ショックだなあ。氷でつくられたからだといえばそれまでだけど、銅像だって時間という太陽に晒されるうちに溶けたり崩れたりはなくとも変化してしまうわけで、作られたものというのは残念です。「家族」もまた幻想の一つと考えてみると〈幻想像〉を現実にしようと汗水垂らしてこしらえようとする私たち人間もひとりずつの彫刻家なのかもしれません。それさえも崩れる時には崩れてしまうという点ではとても儚く、人間の悲哀を感じます。それでもなお幻想を抱き、作るだろうということに考えがいくのですが、それは作品の範疇を出る気がするのでやめておきます。 華美な表現こそありませんが、磨きがかけられ整っていて、氷の彫像のような作品に感じました。 (溶けた氷像)

2020-02-25

おはようございます。疲れを処理しようとすればするほど疲れがあるかないかが意識されてしまうので、その行為自体が疲れを呼び込むというのはまさに「自傷」だなあと頷くものがありました。けれども行為の主体である自分までは処理できないという皮肉がいちばん痛い。空白になれたところで一時的でしかないし。私ならここまでなる前に脳みそを煙に巻くために煙草吸ってしまうだろうなあ。それもまた自傷かもしれないけれど。ときに、煙草を吸いながらぼんやり考え事をしている時のような倦怠感に似た雰囲気を感じました。 《逃避先を放棄する》ところに「意地」の強さが出ていて「生きている」感じが表れていると感じました。 (‪たばこを吸いたいがそれだけは最後の維持としてなんとか我慢している‬)

2020-02-25

おはようございます。風景から心理へ。方法としてはオーソドックスですが、平易な言葉を用いながら語りの中心に読み手を導く展開のさせ方、または詩情を構築する言葉の運び方は、安定した力量を感じます。 〈影〉の位置によって、よかった時とそうではなくなってしまった時を表しているところも対比が明確になっていてよいと思います。 しかし、この作品は〈荒野〉という語を省いても内容としては成立するのではないかとも思いました。〈荒野〉が頻出するわりには〈荒野さ〉が弱いように感じました。 (荒野のひまわり)

2020-02-23

こんにちは。いいですね。言葉の音とリズムから、温かい陽のさす村の、明るい一日が立ち上がってきます。 (茅葺き屋根と春の詩)

2020-02-21

石川さゆりの『津軽海峡冬景色』の歌詞(作詞・阿久悠)を思い出して、いっそう冷寒さを感じました。  風の音が胸をゆする  泣けとばかりに (2コーラス) 最初の「風」と「~とばかりに」から、自然にこの曲の記憶につながったのだと思います。夜中の電線は冬は本当に寒さのために震えていそうです。 (余寒)

2020-02-21

こんばんは。語り(の奥)に流れがあります。「あなた」を前に思う想いはやがて流れ、沼狸のいた中州の記憶も流れていきます。それらの流れがもう、ひとつの川で、または川であるかのような音楽のようです。 (それぞれに川は流れている)

2020-02-14

こんばんは。読んでくださってありがとうございます。なんというか勢いだけで書いていた時期を過ぎて、停滞気味だった頃に書いたと記憶しています。だから強引に抜け出すための勢いがついたのかもですね。笑 コメント、ありがとうございます。 (歩行2014)

2020-02-09

こんばんは。いくつかコメントにもありますが洒落てるな、というのが第一印象でした。洒落てるというかうまい具合に漂白されている感じで、下品さは感じませんでした。軽みとテンポがいいのも合わせて抵抗なくサクサク読めます。但し「抵抗なく」読めてしまう作品というのは読み手の印象に残る期間を考えると短い場合もあるので危うさも含むかなと考えます。 (.357マグナム弾(ワォ))

2020-02-05

おはようございます。調理して食べることと詩作とが味わえるように作られていると感じました。4連目と5連目は特に旨くできていると思います。3連目から「メタ詩」かな?と予想はついたのですが、食欲という本能的欲求と繋がっているところがよくて、身体で迫る勢いが理屈を押しのけています。 (風景を食む)

2020-02-05

おはようございます。蛆や蠅が登場するところは良かったと思います。どんな美しいものも死の前ではひれ伏す以外になく、一般には忌み嫌われている蛆や蠅などによって食い散らされ解体されて、最終的に〈自然ー宇宙〉の運動に回収されます。その意味では蛆や蠅は〈死〉への媒介役を果たしている。死体は見る限り醜く悍ましいものですが、それは私たちの存在というものが〈死〉という抗いようのない〈自然ー宇宙〉の運動の内部にあるということを認めざるを得ないことへのショックも含んでいるでしょう。逆に言えば、だからこそ見る影もない醜さは世に生きて在ったことの証であり美しい。死体の醜さにもう少しこだわってほしかったなという印象でした。 (恋歌)

2020-02-05

おはようございます。「言葉」は「行き場をなくし」ており、伝えたかった「想い」は形にならないまま、しかし消え去ることなく川底の土砂のように、苦く重く堆積しています(2連目)。「砂取船」は川底から浚った重い土砂と、浄化を願い待つひとの思いを積んで引き返してきますが、それを見る「ぼく」には異なった意味をもっていて、「引き返してくる船」に積まれた「川砂」は、「ぼく」の心の川底に堆積していた、土砂や塵芥の類として表さないでいられないほどに苦さを伴った「想い」、「浄化を待つひとの思い」とは他ならぬ「ぼく」自身の思い(願い)です。  それらを積んだ船が引き返してくるとき、「ぼく」は自分が内部に抱えている苦く重いものが浄化され晴れていくさまを見ているのではないでしょうか。「ぼく」の瞼の裏に浮かびあがる(とは書かれていないが)この光景は幻であったとしても(というのも現実にはまだ「浄化」されていないから)美しく感じます。  恐らく「ぼく」は相当の時間、苦く重い気持ちを抱きつつ、またそれに対処しながら生きてきたのでしょう。一方では〈川底に汚れた土砂や塵芥を溜めた川〉として、他方ではそれを往復する〈砂取船〉として。そして、いつかその日々が洗われるであろうことが微かに思い浮かべられるようになったのだと思います。  乱暴に言うと「罪」と名づけられた否定的な感情によって色づけられた経験の記憶を、ある程度離れた距離からながめることができるほどには時間が経過している。その間には自責の念や「あなた」を責める気持ちや悔恨などを抱きつつ生きねばならない辛い〈贖い〉があり、その期間をようやく通過して、未だに浄化しきれたとは言えないまでも、そのようになっていくだろうとどことなく思えるようなところまで来た。そういう内容であると読みました。またそう読むことによって、1~3連と4連のアンバランスさを解消することができました。恐らく「終わり」が指すのは、「罪」に苛まれてきた(贖いの)時間の終わりであり、それに向かってそれまで心の一部分を占めていた否定的な感情の堆積が剥がれ落ちる、ということなのでしょう。さらさらという音には(感情を連想させる湿っぽさがなく)乾いた響きがあります。暗澹とした苦しい期間を(振り返られるまでに)通過したからこそ思い浮かべられる円錐は語り手の瞼に美しいのでしょう。  しかし、この「罪」には単に否定的な感情によって色づけられた経験とひと言に言い切れないところがあります。なぜなら、強い感情によって点火され燃え上がる肯定的で親密な関係としての「恋」もまた罪であり、それがままならぬものである時には想いが強けれぱ強いほど打ち消すことなしには持ちこたえることが難しいだろうから。いずれにせよ、〈贖い〉もしくはそのような〈喪〉の過程の終わりがかすかにも見えはじめるとき、否定的な感情の堆積が剥がれ落ちるばかりでなく、それに重なるようにけっして苦くはなかった美しい記憶が甦りもするように思います。「円錐」が美しく浮かぶのはその両方が集約されたものとしてモニュメントを築いているからかもしれません。 (メメント・モリ)

2020-02-02

こんにちは。付けられている実験No.とその都度の失敗に、実験している感がよくでていると思います。  何度試してもどこかで失敗して、なかなか望む結果を得られない。それがどうにも悔しい。それでまた試す。傍から見ると、最初は失敗ぶりが面白いのだけど、だんだん「いつまでそんなことやってんだ」とか、「できたからってなんになるんだ」というような不毛なチャレンジに見えてくる。そんで、呆れてついに見ることもやめちゃうんだけど、これって実はそういうなかなか結果のでにくいこと(出るかどうかもわからないこと)に対して延々取り組む執念というか情熱に常軌を逸した印象を覚えて、文字通り「見ていられなくなる」からなんじゃないかと思います。それと、やってる本人も若干はアホらしさを感じているんだけど、やめるにもやめられない気がして、不毛と知りつつ続けてしまうということもあると思います。周りを呆れさせ理解不能に思わせる、また当の本人の意思でもおいそれとは止められないなにかに私たちは時折駆り立てられてしまうことがあって、そうなるともう行くとこまで行くしかないんだろうな、と思います。そういうのって滑稽で愉快でもありどこか哀しくもあって人間的だなあ。ところが、そうしたいつ成果が得られるかもわからない不毛な取り組みの果てに成し遂げられるということが時々あって、それが周囲を驚かせることがあるのも事実で、それを思うとまさに「実験的」であるように思いました。 (目をつむって右手の人差し指でキーボードを叩き、シェイクスピアを打ち出すまでの実験詩 実験No.4873)

2020-01-27

 そんなこと言ったっけ? 言ってないよね? 言ってたかも。言ってたな。でも、そこまで酷くはなかったよね。と思いつつ、ニヤニヤしながら読みました。  たしかに三人ともそれぞれに、自作品を、 「暗く毒に満ちたページの荒涼たる沼地」「この書物から発散する致命的な瘴気」(ロートレアモン、『マルドロールの歌』)、 「呪われた書物」(ボードレール、『悪の華』序文草稿)、 「おれの堕地獄の手帖から見るも無残な二、三枚」(ランボー、『地獄の季節』)、 などと言ってはいるし、罵倒に関しても、大胆な誇張がかかっているとはいえ、おおむねハズレではないんですよね(ステートメントのランボーについて。“昔いかにもかわいい罌粟の花でおれの頭を飾ってくれた悪魔のやつ”は、通説ではヴェルレーヌとはされていはするものの、「あんたは物書きには描写や教訓の才などない方がお好きなんだから」と言っており、この詩文はヴェルレーヌが当時の高踏派の代表格であったことや、『地獄の季節』が有名な銃撃事件のあとに書かれたことを併せて考えると、あんた(=サタン=ヴェルレーヌ)への罵倒を通して、当時の主流であった(「やりきれぬ代物」をつくった数々の)詩人たちやそれを支える読者たちを罵倒したと言えば言えるわけです)。  ただ、ニヤニヤの理由の一つは、この二連が、《悪辣愚劣》とあたかも自虐するかのように語っておきながら、それを読む読者を罵倒するところが、まるで「アンタも好きねぇ、この変態!」というネタを披露するコメディアンを思い起こさせるからで、後世にまで名を残した(大きな)詩人であるからこそ、かえってパロディになっているようにも感じられる点にあります。  ついでに言うと「アンタも好きねぇ、この変態!」は《袋とじ》にも連想のなかでつながってしまう。それにしても、冒頭から「臆病な魂の持ち主は踵を返せ」(ロートレアモン ※要約)だの、「どんな悪徳よりももっとヤバいアンニュイのお友だちをもってる、(俺同様)この偽善者どもめ!」(ボードレール ※要約)だの、そういうことをいきなり言い放った日本の詩人はちょっと思い出せない。裏表というか、ホンネとタテマエというのがあってホンネを隠したがる、と同時に隠されているものを知りたがる傾向を思えば、そこでもまた《袋とじ》はうまいこといってるように思います。 けれども、 >何かそんなことを書くかも知れない? >書かないよ書くわけない >いや、どうかな? という、ここの揺らしかたというのかな。ここが、作者も悪戯っぽく笑っているような感じがして、とても楽しそうで、ニヤニヤしてしまいます(ここもはっきりさせていないところは「袋とじ」な感じがしますが)。で、「袋とじ」にしない彼らと、嫌われそうなことは「袋とじ」にしたがる(フランスではなく)日本の詩人の傾向をやんわり罵倒しているふうにも読めて、やっぱりニヤニヤしてしまいます。かなわんなあ。 (フランス文学に関する俺の見解)

2020-01-04

初めて読んだ時と同じく、なんとなく「アモール(エロス)とプシュケー」の物語を思い浮かべました。しかし、しるしだけつけつづけて、帰らなかったら、痛みでしかないのは辛いですね。幸せのもとが一転不幸のもとになる。不幸と言えるだけ幸せの記憶があるにせよですが。じわじわしみてくる作品です。 (私のしるし)

2020-01-03

帆場さんの詩って土臭いって印象が強かったのだけど(もちろん良い意味でも)、今回変えてきたなと感じて、正直新鮮で、驚いています。行間を空けるにも活きてて、帆場さんなりの明確な意味を与えているように思う。《しゃなりしゃなり》はこの音が何を表すかという意味でなく、音感としてちょっとひっかかってしまいましたが、全体として夢幻のなかに引き込む誘引力のある作品に感じました。 (天球儀)

2019-12-30

うーん。なんというんだろう、ギャップというか、繋がりの細さと言えばいいのか。心もとなさに満ちているな、と。  知覚された外部と内部で感じられていることとの間の差、食い違いのようなものが明確にあって、これは私には、今生きて在ることに対する違和感であるように感じます。生きている外的現実と内的現実の繋がりの希薄さ、というのかな。そういうなかで耐えて生きている心もとなさ、心細さみたいなもの。それは《瞬いている》という語につながってくる。  タイトルから想像するに、それが変わる、変化の到来を待ちつつ生きてきたのかな、と思うのだけど、うん、弱々しい光り方ではあるんだけど、弱々しくとも消えない光り方の強さでもあって、ハラハラする。この時期ははっきり何をとはいえなくても期待が膨らむ感じが意識的無意識的にあるものなのかもしれないんだけど、それがこの作品の語り手にとっては先に書いた変化の到来なのかもしれないのだけど、最後の一行はそれが達成されなかった失意を感じさせて、ああ、でも、これってあるよなぁと思う。そういうところ(これってあるよなぁ)に触れてくる。  ストレートな言葉で書かれていないけど、ストレートに心を打ってくる作品だなと感じます。 (待降節)

2019-12-30

すいません。開いたまま寝てました。前のはそのせいです。 全体として言葉遣いに気負ってる印象を受けます。そこが最後まで気にかかる。「荒地」派の作品は当時の書き手の時代背景を考えて読んだ場合、真に迫るものがあるけど、今、現代という立場で読めばいくらか濃すぎる感じで胃もたれしそうに感じる、それとつながる印象です。 だから、絵画的にはリアリズムに対するマニエリスム的な作品のように感じました。別の新しい作品も読んでみたいと思います。 (実在の声)

2019-12-29

(実在の声)

2019-12-29

スピード感があり、無駄なく、明快な像を提示しつつ、変容を語るスライドショーのようです。恐ろしいものを見せられたように感じました。よくまとまっていると思います。 (林檎と心)

2019-12-26

>しかたないよね、と私は文明を許す >空が >空であることを諦めないのだから この三行(とりわけ《空が》からの二行)は、「空」が見られる対象としての「空」、そして言葉の日常としては「私」という主語のもとに従属させられる「空」から分離して、主体性をもった実在として「私」に捉えられていて、あたかも表に現れないレベルでの語りかけと受け止めが行われているようにも想像でき、非常に美しいと思います。詩を感じる。テイク1、2では見られなかった(異なる作品ということをわかってはいても)ところで、「空」が「私」から離陸することに成功していると思います。 この離陸を前提にして、地にある「私」と空の「空」とが、互いに抱えている「死者」が、飛行機の「着陸」に合わせて私のなかで重なっていくと読むとより一層味わい深さが増しました。 (飛行機 / テイク3)

2019-12-26

うずくまる形というのは中心に向かってかぎりなく凝集していく運動を連想させます。これは地表から空を眺めてビッグバン以前を見晴るかし遡るような思考の運動や、見方を変えると、逆さまの円錐状に落ち込んだ地下へえんえん堕ちていくような──この点に関してはみうらさんのコメントに「深遠なところに降りていく」という表現がありますが──地獄下りを思い起こさせます。これはどこまで(いつまで)つづくのかわからない彷徨と不安におかれるという点で迷宮的です。また迷宮という点でいえば、外部に対して閉じられた世界であり内部をその出口が見えないまでも歩き回らなければならないという意味で、図らずも「蛹」と呼ばれることもある思春期(少年の包茎)の深層や、マス目が黒く伏せられ解かれるまでは答えが隠されている(閉じられている)こととも繋がります。作品の言葉としては一見静止状態にあるこれらうずくまるものは、2において開放への予感として逆方向の動きを見せます。それはうずくまるものたちがすでにもっている潜在的な表象可能性(あくまでも可能性である)への視線のはたらきでしょう。もっと単純にいえば身体的な構造でさえ、小さく丸く縮み(閉じ)、内部に溜め込まれた力は反作用によって伸び開くようにできています(この閉じることによって内部に溜め込まれた力とは1における《世界という全体に抗い》抑圧に堪えている力であるように思います)。つぼみは花を咲かせ、花弁はほどかれて地まで旅をする。少年の包茎は剥けてやがて種を付けるかもしれない(避妊具推奨)。外部からの力に堪えつつ、一見静的状態にあるようで、内部では活発な変化への動きがあるそれら(《うずくまる私の、うずくまる願い》も含めて)は、ちょうどよい時に終わると同時に開かれるのではないでしょうか。しかし、それはどのようにであるかは保証されない。潜在的な表象可能性は表象したとして必ずしも望ましいとは限らないから。それでも明るい印象で結ばれているのは、外部に対する視線とそこからくる外圧に堪えてうずくまっているもののうちにある、開く可能性への信頼が感じられるからだと思います。 古典的なテーマとの共通性もうかがえながら、現代的につくられた作品に思いました。また、背後に(音韻ではなく)音楽性の感じられると同時に、体の内側で収縮と開放(解放)とを感じる良い作品でした。 (うずくまるもの)

2019-12-19

幻みたいだなぁと思ってタイトル見直したら「幻」だった。  一連目は「なにやら」や「めいた」とあってはっきりしないし、様子自体も今ではめったにないような光景で印象が薄い。  二連目では《マフラー》が(あるけど見えない)《香りのように揺れている》で視覚的な像が薄まっている。  そして最終連の二行ではひびきだけがあって、しかも、この二行の語り手の声が強い。そりゃあ幻みたいだなぁ、と思いました。 (幻)

2019-12-14

読んでいて「一粒の麦」と「わたし」が混ざったり離れたりという感覚になりました。語り手は「わたし」なんだけど。 でも、「埋もれた一粒の麦」について考え、想像を伸ばすことが、「埋もれた記憶」にも触れて、幼少期やその頃の風景が呼び起こされる仕掛けは面白いと思います。ここで「一粒の麦」の郷愁と「わたし」の駈けた風景(それぞれの「黄金」と「希望の歌」。「わたし」の場合は「子ども時代」というところでしょうか)とが言葉のうえで重なるんですね。 《言葉のなかで一粒の麦をさがして/酔いつぶれていくのだ》とあるように、農夫が耳を傾けるようにするならば、言葉の地面(表面)を通してそこから隠れた深いところに意識を傾けるか、さもなくば潜るしかないのだけど、酔いつぶれるかのように酔いのなかに埋もれていくところも好きです。 呼びかけや言葉の用い方に酔った感じがするのは否めないけど、ビール飲んで酔ってる(設定)のだから、アリだと思います。 (一粒の麦よ)

2019-12-13

こんばんは。 >薄い灰色の中で~ からの流れがよいです。まどろみに合わせて、灰色とオレンジが混じり合い、夜(眠り)の黒に溶けこむ様子が目に浮かびます。それは同時に三四行目を、やわらかくあたたかく慰めるような眠りへの動きと調和しているように感じます。 (夕暮れ時に目を覚ますと)

2019-12-12

はじめまして。こちらの作品にやはりコメントしておかなくては、と二三日取っ組み合い、いろいろと書き連ねてみはしたのですが、書けば書くほどに現に感じたそれと、少しずつズレてしまっていくようでどうにも無残さを感じるばかりでした。言葉で書くことや語ることによる伝達の不可能性を思い知らされます。しかし同時に、この作品を読むことによって、言葉では伝達することが不可能なものが、あるいは伝達の言葉によっては表層をすべり、到達しえないものが“確実に存在する”ということ──言葉だけど言葉じゃないということ──が、私のなかで実感されたということ、無残でありながら幸福ともいえる体験をしたことは書いておきたいと思います。それ以外のことを並べれば、 《違う/本当に大切なのはそんなことじゃない》と自分に言い聞かせ、 《足りないものを埋めようとして/自分が埋まっていく》やもしれませんので。 あ、これじゃあんまり味気ないので、ひとつだけメモの中から。  私は札幌に数ヶ月だけ住んでいたことがあるが、稚内には行ったことがないので二連目で語られているのが稚内であるかどうかワカラナイし、かといって稚内がどういうところかという想像もワカナイ。(以下略) よい作品でした。ありがとうございます。 (稚内)

2019-12-11

こんばんは。 >お湯をかけて3分で地球は正常にならない >そこにはきっと過払い金もない、自己破産もない >ひねるのは蛇口だけでいい 内容が生真面目で熱のこもったものであるだけに、以上に引いた箇所は、単調さを崩していて魅力を感じました。もっともっとぶっ飛んでもいいかなとは思いますが、その場合メッセージ性をどうするかということとの兼ね合いもでてくるので難しいですね。 (君の詩は)

2019-12-08

個人的にはオチは、ブラッディマリーを選ぶとかがよかったかなあ。XYZは意味を割りと知られているから意味通りの結末になって、全体的に安定した着地になっちゃう気がする。 (虚像への愛を語る。)

2019-12-08

おはようございます。すでに指摘もありますがオノマトペというと擬声・擬音なのでしょうが、詩や文学のなかでは独特のオノマトペがあり、それをいかに作るかに面白さがあると思います。現代では漫画や映画やテレビなどで様々な効果音が使われているので難しいかもしれませんが。各連の冒頭の語からその(想像できる)状況を表す音としては合っているとは思いますが、オノマトペとしての面白さは感じられませんでした。 (おのまとぺ)

2019-12-08

つつみ 様 読んでくださってありがとうございます。10年ほど前に他のSNSにあげたものを手直ししたものです。引いてくださった連の箇所は、 息を吸いこむと 鼻孔をくぐって 体の深みに空がひろがる 厚い大気が軽々と 重い精神を持ち上げて いま私は沖合いに揺れる浮標 秋の下で夏の海が光っている でした。タイトルが「青空」なのですが、当時のものを読み返してみるに、「空」という語を多用していてクドいと感じたのと、像が曖昧で(つまり「空」という語がもつイメージに委ね過ぎていると思ったので)、「空」を省いて、主体が感覚している実感に合わせてみました。その際、形容詞ばかりでこれまたぼんやりとしていて表面的になってしまったので改め、その過程で(他の行との関連も考えて)「水」という語がでてきました。当時はこれでよしとできたものが時間が経過すると書ききれていない気持ちになるというのは、私の考え方が変化したからかもしれませんし、書くにも読むにもその時々の限界があるからだろうと思います。よくも悪くも過去のものは漠然としているように思え、また今回のものはここまでです。 同時性のなかで、知らないところで知らないことが様々に起こっていて、知らないことの方が圧倒的に多く、知っているとしても自分をしか生きることができないということは昔も今も変わらないようです。それはわかっていても、現実はやはり厳しいですね。中村医師の事件も中村氏が行ってきたことと生きてきた時間を思うと言葉がでてきません。コメント、感謝します。 (青空)

2019-12-08

taishi ohira さま なるほど、そうでしたか。私はてっきり無明の闇に朝を告げる鳥の名とばかり思っていました。ありがとうございます。 (青空)

2019-12-08

おむすび 健太郎 様 そんな音がぴったりだなぁと思った、というのがほんとのところですが、たとえば11月のsurvofさんの『ある夕刻』という作品には、 《みずうみの表面のあぶくの伸び縮みの……》 と「の」を使った詩行が何度かでてきます。https://www.breview.org/keijiban/?id=4345 「の」は言葉を次に運ぶ働きがあるのか、「の」につられてこちらが次へ読みすすめていくところがあって、そういえば西脇順三郎にも「の」ですすむ作品があったのを思い出し、それなら(猫が足を)運ぶ音としてはあながちハズレではないかな、とかなりの後付けですが思っています。コメント、ありがとうございます。 (車の窓から)

2019-12-07

みうら? 様 読んでくださってありがとうございます。「内なる言葉」の中身はなんということもない言葉なのですが、それを入れることで、「見ている感」を(ひいては主体の存在感を)強めて、場や見られている側の猫の影をよりくっきりさせられるのではないかと考えました。おかげさまで単なる事実の報告からは多少なりとも免れたような気がします。コメント、ありがとうございます。 (車の窓から)

2019-12-07

私がバレエ好きで、このドラム缶詰めにプリマが保存されているのがわかっているとしたら、開ける時はどきどきすると思います。ドラム缶にプリマのデザインが描かれていて。そのどきどきはドラムロールの音を想像するかのように。いつか人間も冷凍保存できるようになり、最も美しい時の姿で棺桶ならぬ缶詰めに収められるようになったら、こういうこともあるかもしれません。その時にはCMで「あなたのために用意しました」という言葉が使われるかも。 (Human in the drum)

2019-12-07

関係というのはあればあったで悩ましくもあり、なければないで味気なくもありで不思議なものですね。 (公転)

2019-12-04

>さみしかっただけの君 >思い出ばかりを語る君は >新しい愛を求めていたのだろう >君は普通の感性を持っていた >二人とも分かっていた などなど「君」を登場させているのに、「君」のことがほぼほぼ「僕」視点で書かれているので、「君」の影が薄く、一貫して自分語りに終始しているように感じました。 内容は伝わったので、伝達文としては成り立っていると思います。 (愛の試験)

2019-12-04

全体を通して言葉の意味が前に出ていて、肝心の「狂い」が抑えられている印象がします。 本当に狂っている時は詩を書くことは難しい(詩を書くことに限らずですが)。だから書く時は書ける程度には狂っていないと思うのですが、そういう時に「狂っている」詩を書くということは、間違えば「狂っていない言葉」で書いてしまいがちになる、ということではないでしょうか。 (狂った私の狂想曲)

2019-12-04

大根役者という語は悪い印象が現代では定着していますが、元々の意味が転じてしまったという話を聞いたことがずいぶん前ですがあります。なんだっけ?なにに使ってもいい味をだす、だったかな。 アニメのアンパンマンのCDに、登場するキャラにつけられた歌があるのだけど(ヤキソバパンマンとかハンバーガーキッドとかetc.)、あれを思い出しました。大根役者というキャラがいたら、こんな歌がつくかもしれません。 (秘伝の口上レシピ『大根の誰うま煮』)

2019-12-03

エイクピア様 コメントありがとうございます。返信が遅くなり申し訳ありません。ほぼほぼ猫に視線が注がれている=語り手が猫に親しみを抱いているという点を汲み取っていただき嬉しく思います。 読んでくださってありがとうございます。 (車の窓から)

2019-11-30

言葉が体験を、体験以上に体験させてくれました。ほんとはこんな言い方でなく「おおっ!」てひと言で済ませたいところですが。読めてよかったです。 (細める目)

2019-11-19

初読からかなり時間をおいて読み直しましたが、良いですね。言葉に動きを感じました。いきいきしています。 >秘密には出来ない囁きを >口を抑え話し合っている の「口を抑え」なんて細かいけど具体性を作り出してる。(あるとないとでは大違い) その動きは語り手の動きにつられて、なんだろうけど。 どんな話をしてるんだろうなぁ。 (小銭のことば)

2019-11-18

二連目、三連目の「らしい」、四連目の「だろうか」はもったいない。語り手の心の動きの表れとしてはわかりますが、言い切ったほうが全体が引き締まると思います。 導入のしかたが良いです。一人語りから具体的に移行していくところ。落語の枕から内容みたいに違和感なく語りのなかに入れました。 語り口が淡々としていて、湿っぽさも感傷もかんじさせないところが好きです。孫兵衛のマチの人間ぽさがでていて。 (孫兵衛の顔)

2019-11-18

理屈っぽくて退屈、という印象でしたが、《花が、わっと、》の、わっと、からおもしろくなりました。最後の二行は言葉が全く理屈っぽさを突き抜けていてとても良かったです。 (ひとのかたち)

2019-11-18

おはようございます。いずれも安定感があり、安心して味わえる小品でした。一つ目から通して読むとやはり五つ目の作品が印象に残りますね。それまでの安定感をひっくり返すちゃぶ台返しみたいなところがいい。単体としては三つ目の作品が好きです。。 (小さな五つの詩篇)

2019-11-16

あー、すいません。性急に過ぎました。もう少しゆっくり読むべきでした。作中に「諦め」とあったので、しまった!かぶった!と急いでしまいました。 同じ作品として読むには印象が大きく違いますね。映像としてはこちらの方が狭い。都市的というか。作中時間も長いように思います。重厚感があるし、主体の声も重々しさを感じます。 それでも三連目から少し肩の抜けた感じがあるように感じるのは気のせいかな。ためいきをつきながらも「しかたねえや」と思い直している感じがする。その上で「私は」という明るさがあるように思う。他はどうでも。雲の白さがその反映でもあるように感じます。 (飛行機(テイク2))

2019-11-14

あ、テイク1のコメントとこちらの作品ちょっとかぶったみたい(汗 個人的な意見ではテイク1の方が好きです。読み込む余地が多くて。(おかげでかぶったという……) (飛行機(テイク2))

2019-11-14

私の住んでいるところは空港からかなり離れているので飛行機は高くに見えるのですが、鹿児島や福岡に行った時、空港に向かって高度を下げていくところを見たことがあります。音がやたら大きいので見上げたら飛行機の腹が見えました。 レールの上を滑るように、とあるので全体が見えるくらいの距離はあるんだろうと思います。 >あれが文明 て、いいですね。私なんかは先に書いた状況で「おお!飛行機!近っ! あー、空港が近いからな」みたいにしか思わなかったものですが、そのもっと根底のあたりにはもしかしたら(あれが文明)というのがあったかもしれない。意識できない気づきみたいなものが。それが自覚された気づきのように前面に押し出されているところがいいと思います。 その「自覚された」気づきは「飛行機=文明」というのでなくて、個人的な生活や、知識・体験とは直接的な関係がないところでもそこにあって、勝手にすすんでいくのが文明ってやつなんだな、という、確認にも近い気づきなのかもしれない。そこに多少の戸惑いや諦めなども含んでいるような。 それが自分の記憶や体験(おおざっぱにいえば「生」)と深い結びつきのある風景をも我が物顔で通っていくのは《のうのうと》にあるように、(わかっちゃいるけど)苦々しさも覚える。それはあると思う。 だから、最終連の >せめて空を諦めるまい >この空も頑なに明るい には説得力があるし、主体に折れない意志があるのを感じさせます。ズバッと転換させるのもいい。巧さについて言及がありますが、やっぱり巧いし、勁いと思います。 余談ですが、《私が知らない飛行機》には光太郎の『あどけない話』にでてくる「東京には空がない」の「空」を思い出しました。 (飛行機(テイク1))

2019-11-14

長々となるのを避けて手短かに。作者と作中主体との明確な距離から生み出される語り、言葉の運び方、イメージの変化と積み重ね、リズムが単調にならないような語法など「作る」といった意識に支えられた良い作品と感じました。 (ある夕刻)

2019-11-09

るるりら様 読んでくださって、ありがとうございます。四年前に書いたエスキースに手を入れてみました。 元詩はちょうど車を停めて、本を読んでいた時に、フロントガラスから見えた猫の動きを言葉の相に移しただけのものなのですが、本当に「のっのっ……」という音がぴったりくるなあと思うような足取りだったんです。よく思い浮かんだなと我ながら感心しています。 ただ、見返していると単調な印象が拭えなかったので試しに少しばかり変化を入れてみた次第です。()部分や、ご指摘の「いつかの~」の箇所はその際に入れました。コメント、ありがとうございます。 (車の窓から)

2019-11-08

第三連から先に書きます。 閑散とした庭は少しだけ‬ ‪人恋しさを連れてきて‬ ‪上着を忘れた時のような‬ ‪気持ちにさせるのだ  ひっそり静まりかえった庭は、《少しだけ人恋しさを連れてきて》とありますが、ちょっとした人恋しさに触れることで、本当にかつてのようではなくなった事実に気づく、直面するということは十分にあると思います。人恋しいと感じるということ、温もりを求める気持ちというのは、それが「ない」ということを証しているのだから。  で、そういう、自分を温かく満たしていたもの、それが「ない」ということに気付いた途端、差し迫ってくる欠如感、寂(寒)しさがあって、これが《‪上着を忘れた時のような‬/気持ち》なんだと思います。  この寂しさ、寒さは私は、語り手にとってなかなかにきついと思うんですね。ちょうど、自分自身が実も葉も失ってしまった裸の木になったくらいに。  とすると、「閑散とした庭」は、いまそんなふうに──裸の木のように──感じている語り手の心象世界でもあるんじゃないか。そこまで行くと深読みし過ぎかもしれないのだけど、とにかく、この連にしても、上手いとは言えるけど、それより先に、正確に書かれてるなという印象です。 「閑散とした庭」が、現在の心象世界でもあるんじゃないかと書いたのだけど、もう少しそれに沿って見てみると、《真っ赤に熟した木の実》(第一連)も‪《美しく色づいた葉》(第二連)も、なくなったり、さらわれたりで失われてしまったことが語られています。これは、「あった」ということを暗に語っているわけですね。なくなった、さらわれた、と語ることで「あった」という記憶を浮かびあがらせる。で、《真っ赤に熟した木の実》も《美しく色づいた葉》も一朝一夕ではそうならない。そうなるための時間がかかる。季節の移ろいのなかでだんだんと葉が色づいて、ようやく美しくなる。実にしてもようやく真っ赤に熟すわけで、そうは書かれていないのだけど、語り手はそういう季節の推移を見てきた(生きてきた)という自負に似た思いがあるんじゃないかと想像できます。  三連目の部分でも書いたのだけど、語り手にとってはこれは彼の世界(彼自身)を温かく満たしてきたものでもある。いや、それらは比喩であるとかイメージ的表現だ、というのは大した問題ではなくて、景色であろうと関係であろうと、どっちにしろ語り手にはそうとしか言い表せないものだということで、それだけ(自分の世界を温かく満たしてきた)かけがえのないものだったということが汲めると思います。  それで、ようやく「真っ赤に熟した」り、「美しく色づいた」ものが、どういう風の吹き回しかわからないけど、失われてしまって《閑散とした庭》になってしまう。  ついでというわけではないですが、めちゃめちゃ楽しみにしていて最後に食べようと残して取って置いたショートケーキの苺を、ちょっと目を離した隙に取られて食べられたら、腹立つと思うんですね。そんなに食べたかったんなら取られる前に食えよというのは取った側の勝手な理屈で、普通はどう考えても取った方がいけない。自分が誤って落としたというなら自分に非があるから納得するしかないけど。  卑近な例ですが、それでいうと《真っ赤に熟した木の実は/目を離した隙になくなる‬》は「なくなる」であって「なくす」ではないのは正しい。‪《美しく色づいた葉を全て‬/木枯らしにさらわれた日‬》というのも、ことのウェイトは「葉」にかかるのではなく、葉を「さらわれた」方にかかっている。合点がいかないにもかかわらず(故知らず)、そうなってしまったことを表しているのだから、ここを「を」で書いたのは語り手の心情として正確だと思います。「どうしてこうなるの!?」というのが底にある。 (「車が盗まれた」という場合は「車」にウェイトがかかりますが、「車を盗まれた」という場合は「盗まれた」にウェイトがかかるのと同じです) というわけで、 ‪《何故すれ違ったのか‬/‪納得のいく答えはまだない‬》につながります。 私はこの連はいいなあ、特に三行目の《狂おしい》というのはいいなあと思います。繰り返しますが、 1) 《真っ赤に熟した木の実》や‪《美しく色づいた葉》(一、二連)で語られるように、鮮やかさで満たされていた心象(と、そこにいたるまでのすこしずつの時間の推移や深まり)がまずあります。 2) 次に、それが《なくなる》だの《さらわれ》るだの、自分のせいだとは思えないような不意のことによって「失われる」という事態がある。 3) で、《閑散とした庭》で、関係の(恐らくははじまりをも含めた)成熟への過程と、終わりまでを振り返る視線があります。  そして、すれ違いから「終わり」がきた理由には納得できていない。どこか「どうしてこうなるの!?」が燻っている。この記憶は心情としても狂おしいです。正確だなあ、とやっぱり思う。  ただ、言葉としてもそれまではどちらかというと淡々とした印象が強いような語りだったのを、この一語がぶちこわして、大きく乱している。高波ですね。外見上の静かな語りの下に波(揺れ)があって、それがドッと顔を出す。詩だと感じます。  言葉の選択や比喩の的確さ、イメージ的な描写、そういうのも大事なことですが、それは言葉を用いて書いたり語ったりする場合は、大抵の分野で大事なことの要素に含まれているので、詩だけの条件とは限らない。その点でいえば、この作品は《狂おしい》がなければ、もしかしたら「正確だけど淡々と静かなままの味わいのある文」で終わってしまったかもしれない。  言うまでもないことですが、「狂おしい」という語が好きなのでも、良いのでもありません。というか個人的には、むしろ苦手な方だと思います。使おうという気持ちにはなかなかならない。なんというか大げさな印象もあるし、近代的な浪漫主義ぽい感じも拭えない。ただこの作品については全体の構成のなかで適切な位置に置かれていて、仰々しさもなく、作品の印象を転覆させる働きをしている点でとてもいいという意味です。 その記憶をかき消してくれる誰かは、最終連の三日月のようにもはや届かない遠さにある、記憶のなかに見ている誰かであれば、「うつろう」という題にマッチして、うまくまとまるように思うのだけど、別の見方もできなくはないという曖昧さは残ります。語り手の気持ちも変化しないとは限らないので。でも、まあ、作品的には前者であって欲しいかなと思います。 (うつろう)

2019-10-31

何を書いているのかさっぱりわからない。そこがいい。言い直すと、何を書いているのかさっぱりわからないけれど、何かを書こうとしていることがよくわかる。何に触れているのか丹念に注意深く、手探りで確かめようとしているのだけど、はっきりとわからないけれど、その言葉の手つきによって、はっきりとそれとわからないものに触れていて、わからないものがそこにあるのがわかる。そこがいいと思います。 全体的な語感としては柔らかく、且つ弾力もあるおっぱいを連想できました。 (ソナチネ)

2019-10-28

井筒俊彦氏がかつてエラノス叢書の序文に、夕暮れは輪郭が曖昧になっていく境い目で……みたいなことを書いているのを読んだことを思い出しました。夕焼けというのは未だに、たまに鼻の奥がツーンとなって、なんともいえないような気持ちになることがあるのですが、ちょうど昼(一日)の終わりと夜の始まりの境目で、そこに生きた一日の出来事やその記憶が溶けこんでいくような感覚を覚えるからなんだろうと思います。そこに失われた諸々がありありと浮かび上がる、とするとまさに夕焼けの魔法そのままといえそうです。 夕焼けという語は、それだけでノスタルジックなイメージを喚起しますが、始めから終わりまで印象を持続させる一貫性のある作りが素晴らしいと思います。 余談ではありますが、有名なスフィンクスの謎かけによると一生のなかで日暮れは老いの時期。一日を一生と見立てて、作られた言葉もいくつか思い出し「日暮れが近いよ」の一行に重層性を感じました。 (夕焼けのコメットさん)

2019-10-28

 どこでどんなふうに生きづらさを感じるようになるのか。それは人それぞれだけれども、生きづらさを感じながらも、なんとかかんとか折り合いをつけて先に進むという仕方を、これまた人それぞれに身につけて生きているんじゃないかと思います。もちろん生きづらさなど微塵も感じないでスイスイ渡っているような人もいます。どっちがいいとか悪いとかではなくて、これはもうとにかくそういうもんだという話です。  で、この作品の「ぼく」はというと、そのどちらでもなく、なかなか折り合いをつけられない。よく言えば純粋で自分に正直なんでしょう。そして、悪く言えば十分に社会化されていない。だから恐らく、毎晩とは言わなくても朝が来るまで外を眺めて眠れない夜を過ごしているんじゃないかと思います。  なにげに夜と書いたけれど、夜という言葉を朝が来るまでの時間である(A)と同時に、象徴的な死と再生の時間である(B)と考えてみます。  とすると、朝が来ても、再生──とりあえず、折り合いなり踏ん切りなりをつけて生きる方へ一歩踏み出す、ということにしてみる──を遂げられていなければ、時間的(A)には朝だとしても、もう一方(B)では夜がつづいていることになります。  だからなんだってことはないのですが、このまだるっこしい喩えで何が言いたいかというと、〈夜ー朝〉というのは、通過儀礼(イニシエーション=死と再生)のプロセスの謂いであって、これを通過しながら人は個人としても成長をしていくのだけど、うまく通過できない人も少なくないということをちょっと言いたかったんですね。  で、「ぼく」は(何らかの阻害要因があったために)うまく通過できずに、現在大変な生きづらさを抱きつつ生きている感じがとても強いということがまず一つあります。  それから、主に思春期は子どもから大人になるためのイニシエーションがなされる時期でもあって、様々な問題に直面したり無意識的に遭遇したりするのだけど、深刻さが増した場合、象徴的な死ではなく、実際的な死につながることがあるということ。  で、この作品のなかでの「おとこのこ」や「女子中学生」は、どうやら大人になる手前でそれを果たせずに死の側を選んでしまったような印象を受けるのがもう一つあります。  この二つをもって考えてみると、「ぼく」と、白昼夢のなかでの「おとこのこ」「女子中学生」は親和性をもってつながってくるように思います。 (みずうみの いちばんふかいところへ   あおむけでしずんでいった おとこのこや、    紫の首筋がかわいい、白い肌の女子中学生と、     屋上で静かに、静かに話をした)  以上の白昼夢の場面での「静かに、静かに話をした」という箇所の、それまでの語りにはない、温かく穏やかなトーンが、彼らとの親和性をよく表していると思います。    ついでなので、ここで、白昼夢に至るまでの少しの詩行を見てみます。 >そして幼いころ遊んでいたはずだった >瞼の裏の残像を何度もやり直すうちに >いびつな記憶は雨の匂いを連れて >白昼夢の方へと走っていった  まず「幼いころ遊んでいたはずだった」と記憶はあるのだけど不鮮明であることが語られます。  次に、「瞼の裏の残像」について触れられています。けれども記憶が不鮮明なら、残像も曖昧かもしれない。とすると、何度かやり直さなければならない。この「やり直し」を経て、歪められた結果、次行の「いびつな記憶」となるのかもしれません。  しかしここで、私は別の考え方をとってみたいと思います。すなわち「いびつな」と表されるほどに直視したくない、嫌悪する記憶があり、そのために残像としても記憶としても曖昧にぼかされている、という解釈です。だから、何度もやり直さなければならない、と。  さて、このような解釈は解釈として、ここまでのほぼ二行で得られることは、「ぼく」が記憶(のなかの残像)を、繰り返し(何度も)、「やり直す」運動があるということです。「ぼく」が主となって、従であるところの記憶(残像)を動かそうとしている。「そのうちに」それが、 《いびつな記憶は雨の匂いを連れて/白昼夢の方へと走っていった》となる。思い切り縮めると「記憶が走っていった」ということです。  愚かを承知で至極当然のことを言うと「記憶」が走るわけがないのに、ここでは「記憶が走っていった」と書かれている。単に擬人化といえばそれまでですが。  しかし、読み直してみると、それまでの「ぼく」の記憶(のなかの残像)に対する介入があるわけです。そして、そんな「ぼく」の介入を、記憶自らがあたかも意志と体をもったかのように(自律的にとでも言うべきか)、引き離して白昼夢の方へパーッと動く。向かっていく。それが「走っていった」ということです。  この「動き」が言葉によって表されており、言葉でしかない「走っていった」の動きを読み手である私がありありと感じた。ここに詩の成立を見ます。  こうして見てくると、「やり直す」や「目をつぶる」などの動詞も効果的に使われていることがわかる。  ところで、白昼夢の場面では、  眼下には電線がひしめき合って  空を飛ぶことはできなかった) とあるのですが、この二行は「屋上」でされている語らいに引き起こされた死の誘惑から逃れていることを思わせます。但し、それは積極的な拒絶とまではいかない。というのは、これは 《すべての神経はいきり立ち》とあるように体の反応だから。  前後しますが、《果たしてぼくは罰されるべきなのか》というのは、恐らく、白昼夢に釣られて死を選べなかった(飛べなかった)ことに対するものであり、そのあとには「きっとそうなのだ」のような答え──自問自答がある。だから、《そうでなくてもいずれ五感から/崩れ落ちるという予感》がくる。それに抗うために体が全力で反応をしたのでしょう。それで、《他でもないここへと/確かにぼくを連れ戻してきた》と返(還)ってくる。  「ここ」とは生きている現在であり、「ベランダ」です。「五感から崩れ落ち」ればベランダの外に落ちるでしょう。ところが意識がぼんやりしている以上、体(全神経)の方がいきり立つしかない。 それでもなお《下を向いてしまう/それは夜のせいではなくて/ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから》とあるのは、やはり生きづらさの耐え難さから逃れたくもあるし、「屋上の少年少女たち」(=死)との親和が尾を引いているのもあるように思います。  この場合、「下」とはベランダ外の地上でしょう。そして、「ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから」の「思い出してしまった」にかかるのは「いびつな記憶」ではないか。ほとんど朦朧としている意識のなかで、「ひとりぼっち」でいた教室の孤独や周囲から見放された恐怖、その「いびつな記憶」を、はっきりと思い出してしまったとしたら、体が生きる方へ連れ戻したとはいえ、白昼夢の温かさも手伝って、下を向きたくなることはありえると思います。 けれども、死を選べないから《体育座りのままぼくは倒れこむ》しかない。やるせないといえば、やるせないですね。そして《そう 苦しみを分かつことは/昔から得意なんだ》は、「ぼく」が「昔から苦しんできた」ことの形を変えた告白でもあるのでしょう。それは周囲にうまく溶け込むことができず、孤独で、生きづらさを感じつづけてきたことを表しているのかもしれません。 >遠くなる耳で聞きたかったのは >変わりない雨の音じゃなくて >あの話の続きだったのに のに、それは叶わないようだということを「ぼく」は気づいている。そして、《血液の流れがやがて水の音になり/増えも減りもしないアパートの隅で/ぼくはゆっくりと排水される》と結ばれます。「ぼく」の意識も「あの話」も体の感覚も一切合切が雨音のなかで水になって「排水」される。人と「排水」とが結ばれることの気持ち悪さが、ここでは、この世界に要らぬものとして、此処ではない何処かへ排出されていくのに身をまかせたい「ぼく」のリアリティになっているようで、いたたまれない気分になります。  ここで触れておきたいのは、冒頭の、 >かがやく白い棟の群れで >また 誰にも看取られぬ朝が来た です。「ぼく」は、既に「誰にも看取られぬ朝」を過去に見ています(だから「また」なのですが)。そして、「誰にも看取られぬ朝」と「ぼく」が見るのは、これまで書いてきたような、「『ひとりぼっち』でいた教室の孤独や周囲から見放された恐怖、その『いびつな記憶』」に「昔から苦しんできた」ことの反映であるかもしれません。「ぼく」はベランダで夜を見つめ、眠らずに、そのような朝が明るい街(都市)──白い棟の群れ──に訪れるのを見てきたのではないかと想像します。朝は必ず、また誰にとっても、明るいものであるとは限らないのです。このかがやきと暗澹とした苦渋の対比が冷たく痛々しい美しさで現れているように思います。 長々と書いてきましたが、これは多分に誤読があると思います。しかし、構成も使われる言葉もわかりやすく、作者の表したいことがそのままでているような、誤読のしようがない、読みやすい作品に比べれば、誤読ができる作品であることは嬉しく思います。あっさり読めて、誰にも書ける、効率的な作品、ひいては読み返されることもなく忘れられる多くの作品に比べると、誤読可能性の高い作品ほど読み手に参加を要請します。そして、この作品は強制的に参加させる魅力をもっていると考えます。 長文、失礼しました。 (白い棟)

2019-10-17

こんばんは。【芸術とは叩き合い】ということで、刀鍛冶の例が挙げられているので、参考までに。 鍛刀法において「叩く」ことは外せませんが、もととなる鉄の組み合わせや焼き入れ方法など、さまざまな工程があり、これら一連の工程を経て製造されるものであって、叩けばよいというものではないということです。 また、こうした工程は地方や門派によって異なり、その違いが刀剣に現れます。さらに付け加えると、というか当然のことですが、刀剣のあり方も時代や社会状況に影響をうけて変化しています。変化のなかったことといえば、師匠がいて、師匠の教えは絶対であり、その下で弟子が教わるという封建的なシステムではないかと思います。 そして弟子同士の関係でも「叩き合い」ではなく、こちらはむしろ「潰し合い」に近いものがあります。 「例えば、或る弟子が焼入れ鍛錬の際に、最も重要な湯加減を研究すべく、師匠の準備した湯桶の中に右手を入れたところ、これを見ていた兄弟子が、その湯加減を悟られまいとして、その場で一刀のもとに、その湯につけた右手を斬り落したという程のきつい話などは、いくらでもあります。」(『日本刀の研究と鑑賞』古刀編、常石英明、金園社) と、いった感じです。この作品にあるような罵倒すらない。弟子同士は黙々と憎しみのようなものを抱きつつ、自分の技術を高めようと研鑽を積む世界ですね。もしかしたら暴力や苛烈な痛罵もあったかもしれませんが、それは、ショック療法だとか叱咤激励して奮起させるためだということではなく、競争相手を排除する意図の方が多かったのではないか。しかし、刀というものは儀式的にであれ、アクセサリー的にであれ、実践的な武器としてであれ、時々の需要に合わせて、鍛錬法が研究されて作られ、系統的な流れ──どの派の誰(師匠)について修めて受け継いだか──によって箔がつき、一国内での評価が高まれば位もあがるという大きなメリットがあったようですから、封建的な社会背景を考えるとさもありなんと思います。 ところで、日本刀の鑑定については、そのつくりから時代や土地や派が決められるほど、過去の研究があります。ですから、愛好家が鑑定しようと思えば、過去の研究を学び、多くの実物にあたって鑑定眼を鍛えなければなりません。というのはすべての刀が誇り高い名刀ではないからです。戦国時代には注文打ちの他に、需要の増大とともに粗製が濫作されていて、一束いくらで取り引きされていたりする。玉石混交というわけです。そこのところで興味深い文章がありましたので上記『日本刀の研究と鑑賞』から以下に引用します。()内は藤。 「しかし、これらの数打ち物(大量生産品)は、戦国時代という特殊な時期であり、或る程度止むを得ないものですが、平和な今日から見れば、是非この濫作品と美術としての日本刀を判別することの出来る鑑識眼を持つことは大切なことです。」 長文失礼しました。 (ぽえとーく)

2019-10-11

エイクピア さま 読んでくださって、ありがとうございます。歩きながら考えることはしょっちゅうです。ですので、逍遙学派でもないのに、と我ながら可笑しくなることはよくあります。そして、対象に接近する、対象の周囲をめぐる、という思考の特徴は内的な「歩み」と呼べるとも思います。今回は「考える」になっている時は、とまっているのですが、最終的に、上のような内的な「歩み」に変わったのだと考えることもできますね!気づかない視点でした。書かれた作品の言葉は読み手に読まれるよって作者の制作意図や思索を越えると思っていましたが、それを感じているところです。ありがとうございます。 (歩く)

2019-10-09

夏野ほたる 様 読んでくださってありがとうございます。例えば《歩くはとうに歩いておらず》のような言葉の使いようは、学術論文や公文書、商品説明や物語といったさまざまな言語空間においてはもってのほかというもので、強いて言えば詩という空間でのみ許されるのではないかと、いまこの返信を書きながら、考えているところです。また、ご指摘にもありますように、《遠~くから見下ろす》ということも、事実関係に縛られないからできることですね。たしかに《遠くから見下ろす》イメージはあったのですが、そのコメントを読むまでは、それほどまでには高いイメージではなく、もっと漠然としたものでした。なので、やはり今さら、ちょっとだけ地図のようにイメージできています。恥ずかしいやら、ありがたいやら。もしかしたら試してみたことは、思いもよらず、少しばかりは成功していたのかもしれないと、コメントに導かれ、思い直している次第です。ありがとうございます。 (歩く)

2019-10-09

おはようございます。言葉は意味と音とで対象を指し示す名付けの機能をもつと聞いたことがありますが、その次には分節化する機能もあるそうで。この分節化によって、言語による認識が可能になり、相互間の伝達もある程度成立するのでしょう。しかし、これは同時に対象を「分節化する(=切り刻む)」ことでもあるかもしれません。言葉がこのように切り刻む働きをするのであれば、言葉を使用している私はつねに言葉によって私の日常世界を切り刻んでいることになるのだけど、「つねに言葉によって私の日常世界を切り刻んでいる人」というふうに、言葉によって私自身が切り刻まれているとも考えられます。まあ、語によって切り分けつつ、接続もしているからかなり雑な考え方ですが。 それにしても、主体が言葉になり、言葉を使用する側の人間が、家畜同様、市場に売りにだされ、言葉たちによって、捌かれ(裁かれ)、品定めされ(価値づけ)、切り刻まれる様子はなかなかのブラックな光景です。ましてや眠っている間も夢という無意識の言葉で切り分けられているから空恐ろしい。 言葉を使っているつもりで、言葉によって使われていることに気づかないまま、食われ飲み込まれることのないように気をつけたいと思いました。最終連の、《そっ、と指輪が嵌められ》るところは、人と言葉とのつながりや以上のような関係が切りたくても切れない関係のように結びつけられるようで、悲しくもあり、ゾッとさえしました。 (ドナドナを聴きながら。)

2019-10-09

嫌いじゃないです。割りと誰でも一度はやりたくなることかも。損な漢字。 (紺ニャ~の黄泉憎くて叱た⑨四。)

2019-10-09

こんばんは。第1連は主人公の年齢が低いという設定から平仮名表記にしたのかな、と思いました。というか、年齢がすすんでいる設定で少しずつ表記を変えていったという感じなのかな。まあ、それはそれとして、内容的には四連目からは想像がついてしまって、最終的には昔読んだレディコミ雑誌の漫画を思い出しました。 (あいうえおを覚えた時、ままは泣いて喜んだ)

2019-10-09

こんばんは。作品としては無理があるなあと感じます。簡単にいうと、冒頭の1行目から「ゴミ」と結論づけているわけだから、それをめぐる諸々は必要ないと思います。鈴木さんのコメントにもあるようにゴミならばハナから価値はなく、捨てるもの、要らないもので、他と比べる必要もない。 七五調についても音としては読みやすいけど、だからといって、俳句と標語がまったく違うように、音数に言葉をのせたからといってすぐさま作品になるものではありません。廃棄物というのはテーマにしやすいかも一面があるかもしれませんが(私も書いたことはあります)、内容については再考の余地はあると思います。 (廃棄物)

2019-10-09

こんにちは。1行目から11行目までは、リズムは心地よく状況の進行もわかりやすいですが、同じ言葉を繰り返し用いて書かれているので(つまり、読み手としてはすでにイメージできていることを、何度も繰り返しているので、前にすすまないために)くどく感じてしまいます。 簡単にまとめれば、「僕」が(何やら不安な気持ちで)夜の海にいると、月の光やら波音やらがささやきかけてくるようで、それに身を委ねていると心が安らぎ、励まされるようだ、という感じではないかと思います。これは単に状況を一文にしただけなので、詩にはなりませんが、表したいことをまずははっきりさせるとよいかと思います。 12行目以下も、振り返っての後悔や反省、追慕といった傷心の場面ですね。最終的にそこで自覚される「情けない僕」も、いやしてくれる月と津軽の風景がある(傷ついた僕と癒す風景、小さな僕と大きな自然という対比)。単純化してしまうとこのように文章化できることで、もちろん、これで詩になるかどうかは別問題ですが、書くうえではすっきりさせて、取り組めると思います。 (津軽と僕と月夜)

2019-10-08

おはようございます。シンプルな形で、リズムが整っていて、読みやすい作品になっていると思います。 >あまくておいしいアンゼリカ というフレーズは、どこか馴染み深い気がしましたが、思い出しました。焼き芋屋さんの、「甘くておいしい石焼き芋、石焼き芋はいかがですか」でした。軽トラックで、毎年、秋から冬のあいだ毎日回ってくるから、馴染み深気がしたのは、それにひっかかってくるからでした。 一見可愛らしい作品のようですが、「わたし」の「あなた」を中心にした様々な心中が想像できるようになっていて凝縮されていると思います。女心も難しいな、と感じました。そこも可愛らしいと言わなきゃならんのか。笑 作者が自分の心情を「アンゼリカ」に託して書いているだけなら、自己愛感満載でいけ好かない気もしますが、そう感じないのは、作者が「わたし」と離れたところに立って構成しているからだと思います。 (アンゼリカ)

2019-10-06

こんばんは。初見で、またやられた!と思いました。有無を言わせずスコーンと脳みそに入ってくると、「やられた!」と思うのです。衝撃というやつですね。それが嬉しい(前の「丸で四角」もそうでした)。 とにかく、詩は言葉で書くもの(書かれたもの)というのがあって──実際それがほとんどなのですが──ずらっと言葉で書かれた沢山の作品が並んでいるわけで、読むのには感覚に意識を向けたり、イメージをたぐり寄せたり、まあ、なんじゃーかんじゃーとするんですけど(皆さん、それぞれの仕方があるとは思いますが)、そういうのでいっぱいいっぱいになった脳のコリを、一発で吹っ飛ばしてくれるレーザーみたいなのは、視覚詩のもつ魅力のひとつだと思います。悪い言い方かもしれないけど、読まなくても面白いというか、読むことに難渋しているこっち(この場合、私に限ります)を盛大に笑い飛ばしてくれるので、爽快になる。 ただ、以上のような言い方は、全体の中のこの作品、多数の言葉で書かれた詩作品の中の視覚詩作品という点で相対的になってしまう。余計なことですが、私としては、言葉で書かれた作品を難渋しながら読んで得られる喜びも知っているので、視覚詩だらけになるとちょっと困るといいますか。笑 まあ、とにかく相対的なところでの破壊力ということになるので、じゃあ比較抜きで見た場合どうかというと、読んでいく面白さもあって。意味わかんないんですけど、意味わかるとか関係なしに、いや、わかんないところが面白いというか。わけわかんなさの面白さ。そういうね、詩としても意味の伝達とかなにやら深刻めいた告白的な何かとか、そういうとらわれを取っ払うようになっていると思います。私なんかから見たら、よっぽど自由だなって思う。言葉による詩作品に対するカウンターというか、批判意識があるかどうかは別にして。 言葉遊びについては、こうださんご自身の言及があるけど、遊びは全然いいと思います。カイヨワだっけ?忘れたけど、遊びはゲームも含めて、徹底していけば厳格なルールが必要になって、中途半端な真面目では追いつかなくなるとこまで行くことがあるから。今のワールドカップの盛り上がりとかそんな感じ。ゲームの日は交通規制までかかっちゃう。 (┣びそあターャジス┳スジャータあそび┫)

2019-10-05

帆場 さま 読んでくださってありがとうございます。そのありがたいコメントに、私としては鮮やかに一本とられた気分です。いや、マジで。 (歩く)

2019-10-05

仲程 さま 返信遅くなりました。読んでくださってありがとうございます。言葉についてああだこうだと考えながら、試しと思いひとつの形にしてみたものが、いろいろに受け取られて、例えば「琴線にふれる」などということが起こるのだとしたら、そこはもう言葉同士の作用であって、私個人のなせるものではなく、ただ、その一端に関われたことを嬉しく思う次第です。ありがとうございます。 (歩く)

2019-10-05

おはようございます。この間、久しぶりにおはぎを食べました。スーパーで売ってたので。子どもは餅米が得意じゃないのもあり、一人で食べたら胸焼けなりました。(←愚か) 子どもの頃は祖母が作り、その味で母が作りしていました。そういえば子どもの頃、食べてたなぁとか思い出しつつ。コンビニや大型スーパーが増えて、例えば単身赴任とかでも欲しいものはどこでも大抵手に入る世の中になりましたが、本当に欲しいものはそれらを通してその先に思い浮かべるしかない、というのは昔も今も変わりはないのかもしれませんね。 (果て、より)

2019-10-04

おはようございます。とてもとてもとても(ここ、何回も言いたい)よい作品だと感じました。 私たちは皆、自分の置かれている場所で毎日を生きていかないわけにはいかないから、それはもうどうしようもないことなのだけど、どこかに《あやまりながら祈る》気持ちを忘れないでいたいと思いました。できるなら、自分が生きることが、そこにつながるものになっていればいいと。 (光の子)

2019-10-04

こんばんは。なかなか感想の言葉がまとまらないのでうまいこと書けませんが、冒頭の、 >きゆうきゆうしやよんで も、いいなと思いました。普通なら、「救急車呼んで」で済むのだけど、なんかもうヤバい状態だってことが、このひと言(の崩れ具合)だけで表されてるので。 (重力をミルクに漬けて)

2019-10-03

こんにちは。昔、スピッツの「ロビンソン」の《宇宙の風に乗る》というフレーズに、「ありえんだろ」ともらしていた上司を思い出しました。関係ないですが。でも、この作品ではちょっと「宇宙の風」の動きを感じました。 >人の生には無数の縁が織り込まれ という一行は、きっと書きたかったことだと思うのですが、なくてもよかったように思いました。 (縁)

2019-10-03

おはようございます。一行一行の読みを書くのは、長くなり、時間を要するのでしませんが、一行毎に集中を迫られて、読ませる作品として作り込まれていると思います。何か悲痛な出来事が起きているような印象でしたが、それが明確に示されておらず、その欠落が言葉に引きこむ力としても働いているように思います。また、欠落による見え難さ自体が、起こっていることの、容易には言語化しえないことを語っているようでした。最終の二行で「白」になっていく感覚を味わい、濃密な読みの体験になりました。 (白い)

2019-10-03

おはようございます。こうした手法は試してみると割りと手間がかかるのだけど、嫌いではなくて。私が試していた頃は、日本語がめちゃくちゃになって何言ってんだかさっぱり意味がわからん、という具合に、意味がわかる日本語に対する慣れ(日常性)が破壊されるところが快感だった記憶があります。 詩というものに対して、作者が自分の心情や内面を(わかりやすく)言葉で表し、読み手もまたそのように読む、と考えている場合は、こうした日常文法規則というか統辞法の破壊を前にすると???となるのですが、逆にいえばそのぶん、規則に縛られているということに気づき風穴をあける契機にはなると思います。 とはいえ、現在では、みうらさんの指摘にもあるように、翻訳によるヘンな文章が、例えばアプリの説明にも使われていてほぼ日常化しつつありますので、これを方法的に用いるなら、さらに発展させていく方向を吟味する必要はあるかと思います。 (Virus)

2019-10-02

こんばんは。ずいぶん前に琉球オモロをめくってみたことがありますが、ゆっくり読むことができませんでした。こちらの作品は数日前に読みましたが、時間をかけて言葉の音がもつ美しい流れを愉しませていただきました。そこにある意味も読み、文字通り堪能させていただきました。ミクロ的世界とマクロ的世界との交わり、といえばいくらか大袈裟かもしれませんが、大らかで温かみのある作品と感じました。 (流りゆる/照らしょうり)

2019-10-01

stereotype2085 さま ああ、なんかめっちゃかっこいいストーリーですね! でも、たしかに「生き続けてナンボ」というのは大事なことだと思います。読んでくださってありがとうございます。それから、ここで出す言葉としては適切でないかもしれませんが、運営、お疲れさまでした。ペコリ(忍さんのマネ)。 (歩く)

2019-10-01

新染因循 さま 読んでくださってありがとうございます。もったいないコメントまでいただき、なんと言ってよいやらです。精進します。 (歩く)

2019-10-01

黒髪 さま 読んでくださってありがとうございます。考えていたことは現在では当たり前すぎて言葉にするにも恥ずかしく、憚られることなのですが、考えていくとほんの少しでも明確になることがありますね。注意も広がるようになんとなく思います。 楽しい、面白い、はとても好きな言葉です。励みになります。 (歩く)

2019-10-01

yamabito さま 今作は、詩や言葉について一つのことを考え、私なりの追い詰め作業をしている過程で、試しにやってみたことを一つの形として収めた、という体のもので、テクニカルな点を含め作品としての完成度を高めるにはどうするかということに関しては、ほぼ無意識でした。ですので、 >ひとつの小品として完成された作品 という点に関しては、恥ずかしい思いです。思索と試作を深めて、アドバイスを活かしつつ、詩作できるよう精進したいと思います。 物事に対する言葉の受け取り方や言葉による発話の仕方は、人それぞれに違いがあり、その多様性があるからこそスタイルや反応も多様になる、というのは私も大事なことだと思います。 (歩く)

2019-10-01

いすき 様 読んでくださってありがとうございます。喩法やイメージなどをことさら明確に意識したわけではなく、 >地図のような町並み(一応、明喩) という箇所も、喩としては手垢がついて喩としての効力はないに等しいな、と思ったのですが、温かいコメントをいただき、ありがたく思います。 (歩く)

2019-10-01

おはようございます。おおまかに言って、『何か無理をして辛い境遇をこらえている人物なのだろうな』というstereotype2085さんのコメントに同感です。《逆光》に謎も感じませんでした。 なぜなら例えば、 きみは逆光に向かって立っている と書いた場合と、こちらの作品の 逆光に向かい立つきみは とを比べた場合、こちらの作品の書きかたでは、《きみ》が強調されるからです。 しかも、繰り返されていることによって、語り手の視点も『きみ』に寄せられているので、《逆光》の印象は薄らぎます。 それから、《きみ》は《向かい立つ》のですから、《きみ》の向かう意志を感じさせます。また、 《本当は~のに》という場合には、そのあとに、「そうではない」が隠されていると考えますが、 ・本当は明るいのにそうではない ・本当は優しいのにそうではない ・本当は泣いているのにそうではない など、これらを文脈に沿って解釈すると、《本当は》以降のことについて、周囲が気づいていない、理解していない、誤解している、と考えることはできるものの、それでもなおその状況に《向かい立つきみ》の姿勢が強くうかがえるので、状況如何よりも、そのなかに立つ《きみ》に関心が集中します。そして、それをさらにそうさせているのは、語り手が、 《誰か照らしてあげて》 というほどまで、《きみ》を強く照らしているからだと思います。 (逆光に向かい立つきみは)

2019-10-01

相反するものをぶつけて印象を際立たせる手法は現在でも通用すると思うし、「とはいえ」にはじまる各二行は成功しているとも思います。しかしながら、「爆心地」は強すぎるように思えてなりませんでした。「暴力的」というコメントがありますが、苛烈に過ぎ、むしろ破壊的であるように感じました。あるいは、夏の名残りをすべて消滅させる、そうした破壊的なエネルギーの現れを表すものなのかもしれませんが、私としては秋をも消し去るようなもったいなさと戸惑いを拭いきれませんでした。その点でいえばなかなか遭遇することのできない言葉のインパクトを感じたとも言えます。 (秋の爆心地)

2019-09-30

おはようございます。柔らかな水の流れに手を浸しているような感覚でした。流線型の気持ちよさを味わいました。 (うつつ)

2019-09-30

こんにちは。「夜11時の沈黙」と「独りきり」のために大量のノイズの響きがあるのかもしれませんね。 それはともかく、くさいなという印象がとてもあります。でも、問いかけの連発もなく、文字通り「甘ったるい」上等とかなぐり捨てた感もあり、潔さも覚えます。あ、ほばさんとここ、被ってる。 (ラブソング)

2019-09-29

こんばんは。私は「繰り返し」で覚えていて、「くりかえし」で変換をかけていたのですが、「おなじ」でも出るんですね。その方が文字数少なくて早いから便利です。子どもの頃は、「々」を「クマ」と呼んでました。着眼のよさを含め、愉しいです。 (onaji)

2019-09-26

こんにちは。 何度も何度も読んで、難しいなあと思いました。私は嘘をつける側なので、場合によってはついてきたし、嘘わらいもしてきました。そうした私自身の来歴を基準に読むと、単純には「すごい友だちだなー、正直なんだなー」と思うわけですが、考えてみるにそれは「嘘がつけない」とか「嘘をつかない」にあたるのかな、という感じで、ちょっと違うかなと。 「嘘『を』つけない」というのは、周りから見ても本人からしても、「ここは嘘をついていたほうが対応としては(良くはないけど)適当だ」と思える場面でも、つくことができない、ということではないでしょうか。だから、先に「嘘をつこうとする」動きがあって「つけない」が実際にはでてくる。《ぼく》にはそれが見えてるんだと思います。 でも、どんな場合でも「嘘をつけない」というのは、相当生きにくいだろうと思います。小さな例で言うと飲み会に誘われたとして、手帳で確認するフリをしながら「今日は予定が入ってますので残念ですが行けません。また次回誘ってください」てことも言えないわけで、ストレートに「いやです」とか言ったり表情に出るのだから、人間関係がスムーズにつくれない可能性はかなり大きい。そこだけで言うと、嘘というのはある程度は人間関係を円滑にする役目をしている、と考えられます。 これはストレスを感じながらも、嘘でごまかして、うまく人間関係を維持している側からすれば、「馬鹿な奴」になったり、進んで仮面を被ってる人から見たら腹立たしく感じることもあると思います。でもそういう人間関係の形成や維持の仕方というのは社会的な構造からの要請みたいなところもあるんじゃないかと言えば言える(これもまた嘘ではないにしてもつくられたものに過ぎないのだけど)。ともかく、その点では、「嘘をつく」というのは好きでも嫌いでも、生活していく上でのメリットはあるんだから、それを承知で「しない」というならともかく、「つけない」となるとかなり損をしているとも言えるし、生きづらいとも言えます。それでも一緒にいて、それを見ていると、損してるよなあ、と思いながらも、そんなふうにありたいなと感じるかもしれない。そこは錯覚であって、錯覚でないのだけど、ここは微妙で「気には入ってるけど嫌いだ」というのもあるように受け取ることもできる。つまり、「つくならつけよ、臆病者、それだって自分に嘘ついてるのとそんなに変わらないじゃないか」と言っているようにもとれます。 一方、これが「ぼく」「きみ」の関係が他者との関係でなく、自分のなかの「ぼく/きみ」の関係であるならば、そういう相反する性格を認めていて、気に入っているという結びつきがあるというのは、偏りが少なくていいように思います。 (友達)

2019-09-21

こんにちは。やっぱり、編集者が犯人だよなーて思います。鈴木さんの指摘にもありますが「可愛い」て、見た人がもつ主観ですし。激落ちくん消しゴムとかなくてもいい情報だし。でも、私としては、トイレでシテタなら鍵もしてただろうになあ、と。 まあ、それはよいのですが、密室に隠れてパソコンに打ち込んでる編集者の暗い目とか非人間性みたいなものを感じました。 (「有名」のすすめ)

2019-09-20

訂正 深掘りしすぎました?→× 深掘りしすぎました!→〇 (おすわり)

2019-09-20

返信ありがとうございます。あー、これはまた、犬寄りに深掘りしすぎました? ひらにご容赦を<(_ _)> (おすわり)

2019-09-20

こんばんは。トーンの変化とか行毎のテンポとか、上がり下がりなど音楽的な印象でした。《……。》の間から、柔らかくなっていく調子も。そんなふうに、楽しく読んでいたのですが、これはちょっと、なかなか笑えないな、と。 《わしはなぁ//ジョージとよばれとる//メキシコの血いひいとるから//ここらへんで//わしのことしらん奴はおらん》 ここですね。ここ、日本語でしゃべれと言ってるけどオレ実はメキシコの血をひいてるのよ、と笑いにもっていってるようにも読めるけど、メキシコ(異国)の血をひいているから、周りがジロジロ見て、それで《ここらへんで//わしのこと//しらん奴はおらん》と読むこともできるんですね。とすると、差別とか偏見の目に晒されて生きてきたことを暗に語ってるようにも受け取れます。 それから、方言というのは、土地独特のものがあって、異なった土地に行くと一発で余所者だということがわかってしまうから、場合によってはそれだけで偏見の目で見られてしまうことがあると思います。それはかなしいなあ、と。 以上は、方言のもつ親和的側面と閉鎖的側面との両面を表しているのだけど、広げれば新しい土地の言葉や「標準語」という言葉を身につけて生活をすることや、占領された国の人々が占領国の言葉で語ること(抑圧)とも関わってくるんじゃないかと思います。 こうして考えてみると、最終行の、 《なにうえからみとんねん》 も、ツッコミや照れ隠しとは異なった意味合いを帯びてくるように思います。 方言を用いたユーモアのある語り口に抵抗のようなものが含まれているように読みました。 (おすわり)

2019-09-19

こんばんは。筋立てや気持ちの表し方はすっきり通って、読み手に伝わりやすくつくられていると思います。その分、「俺」の登場の唐突さに一旦作中の空気感が破られたように感じました。 しかし、 《きみが望むなら僕も正直でありたい。 そんな受け身で臆病な俺を笑うように》 とあるような、「きみ」に対しては「僕」、通常は「俺」という使い分け(=二重性)を表すために必要だったのではないかと考えます。仮に「僕」を少年的な部分、「俺」を大人の部分とわかりやすく分けた場合、「俺」は引き止める冷静さをもたなければならない役として、「僕」を走らせるわけにはいかない。「少年」のようにありたくても《臆病》を選ばないわけにはいかない、という二つの思いが同居していることになります。そうすると、ピルケースの哀しい音がなおさら哀しい響きをもってくるように感じられ、「俺」の登場は正解だったと思い直しました。 (ピルケース)

2019-09-19

こんばんは! まずは返信が遅くなり申し訳ありません。そして、親切且つ丁寧にお答えいただき本当にありがとうございます。 最初はふつうに >俺はそんな器用な男と違ったわ でした。 とあるように、私もふつうはそうなんじゃないかなあ、と思い、そこに素朴な疑問をもったのですが、答えてくださった内容にあるような「トンボ」との関連を全く見落としていました。いや、情けないかぎりです。たしかに音としても意味としても「俺」が前にでてきて、「トンボ」が薄れますね。しかしながらそれ以上に、語の強弱で詩句の中心をどちらが占めるかが変化することに気を配り、その違いによって言わんとすることを表すという仕方にお腹がしくしくするほど驚き、感激しました。それから、 >そんな器用な俺は男とちがったわ の成り立ちですが、そういうやり方もあるんだなという学びとともに、語順の決定にも裏付けがされていて呻きもでません。ところで、私から質問していながらアレですが、「語順だけでいうと」普段の会話でも、文法的な語順でなく、言葉を使ったりすることがあることに思い当たりました。以上をまとめると、字面に囚われて、その先にあるものを読めていなかったことや細部の読み取りがまだまだ必要だということがわかりました。 詩の読みにくさやわかりやすさは長いこと言われていることですね。でも、私たちが詩を書く上で、言葉ではないものを言葉によって立ち上げようとする時には、作品の言葉が読み手にとって読みにくいもの、わかりやすくないものになるのは決しておかしくはない、と考えてます。もっといえば、わかりやすいと思ったものでさえ、実はわかってないことも十分にありえるように思います。 とはいえ、このコメント欄では合評が認められているので、私なりにもった疑問を(疑問や違和感て大事だと思うので)提示させていただきました。持ち札公開などとしち面倒くさいことに手間ひまをかけてくださり、心から感謝しています。ありがとうございます! (阪田寛夫に捧げる詩)

2019-09-18

そこは私の読み方に関わることなので是非、教えてください。 (阪田寛夫に捧げる詩)

2019-09-17

すいません、追記します。 《きれいな》(冒頭)、《うつくしく》(第二連一行目)は「綺麗な」でも「美しく」でもないので、たぶん平仮名でしか表せないようなものだったのだろうと推測するのですが、そのように発語するにあたって、そのようにしか発語しえないようななにかがあったのではないだろうか、と思いました。 (女の家)

2019-09-17

こんにちは。内容は奇妙なのに奇妙でなく読めるのは、ところどころに生活感のある言葉が置かれているからでしょうね。 《豆から挽いたコーヒーを一人分》、 《お皿に並べてひとつひとつ口に入れる》、という普段の生活で習慣になっているような仕草がある。だから、それが例えば苺だろうとトマトだろうと「人形の首」だろうと語り手にとっては自然のことなんだろうと、違和感なく読むことができます。 《痛いッ//と似たような音を立てる》という箇所ですね、ここは見事だと思いました。「痛いッ」って普通は「声」なのに「似たような『音』」にしている。あ、声じゃなくて音なんだ、と。どんな音なんだろう?とちょっと想像したくなります。どんな音かわからなくてもいいんです、声じゃなくて音だっていうこと。そういう物質的な感覚が際立って、「人形の首」に具体性を与えていると思います。 《生首》から白を連想したので《壺》の赤が引き立ちました。それから《コーヒー豆》の茶色。先に「苺だろうと」と書いたけど、恐らくこれは《摘む》からの連想で、それが《甘酸っぱい》に引き継がれました。何を言いたいかというと感覚に入りこんでくる作品になっているということです。仕草という動きも含めて。 《毎日同じものを食べていると//同じものになっちゃわないかしら》。こういうところも作品に馴染んでいて、気取った感じがしないのが好きです。昔読んだ童話で、同じものを食べ過ぎて似てしまったというものもあったし、実際冗談まじりに言ったりすることもあるので。 鏡に関しては、よくある話ではありますが、映らないから、ない。のかしらんなどと思った次第です。 (女の家)

2019-09-17

おはようございます。阪田寛夫さん、私はだいぶん若い頃に「どじょうだじょ」を読み、ユーモアのある方だな、と思った記憶があります。幼い時分にあった幼児向けの大型本の最後の頁に、童謡が二つ載っていたのですが、それにも阪田氏の作詞したものがあったように思います。児童詩の方かと思っていたのと、小林一三のことを書いた堅めの文庫をめくった時のギャップとがあって、どことなく避けていたのですが、紹介してくださったリンクや、他の作品をググってみて、ユーモアがこの方の姿勢なのだなと推測しました。機会をみて、作品にあたってみたく思います。 こちらの作品について、 《そんな器用な俺は男とちがったわ》という一行が、音読していて、ひっかかったのですが、これはこういう、地方独特の言い方があるのだろうか、と単純に悩みました。目で追うと流れにまかせて、さっと読みとおせますし、意味的に疑問な文もイメージとしてはつかめるので気にならなかったのですが、音読でいった時、つまづきました。なので、これは素朴な疑問と確認の意味です。 《もう早うここから飛び降りて》という一行の「もう」、ここが好きです。もしかしたら、これはなくても意味は伝わるのかもしれない。でも、この「もう」に気持ちがこもってるように感じました。「もうダメだ」、「もう大丈夫」、「もう我慢できない」など挙げて考えてみると、やっぱり「もう」はここでは外せないように思います。 これと同じく、最後から五行目の《でも》について考えてみたのですが(正確には《でも俺》です。)、ここは、《俺》が少し我に返るというか、「よくよく考えてみると」とか「そういえば」という心の動きがあって、酔いにも似た情の流れが弱まって覚める転換点としても働いているように思います。そこがラスト四行の流れをつくっていくとしたら、強ち悪くはないのではないでしょうか。あるいは《でも俺》をラスト四行目の頭にもってくるか……。 やや的外れかもしれませんが、クタクタに疲労困憊してしまって全部うっちゃってしまいたい時、頭に去来する影のようなものを相手になんじゃかんじゃと話しかけたりして、少しずつ気が鎮まっていく、という経験をしたことがありますが、それを思いだしました。冷静に戻ってしまうとなかなかに恥ずかしいものであります。 (阪田寛夫に捧げる詩)

2019-09-17

こんにちは。どなたも触れていないようですので、とりあえず一つだけ。最終行の隠喩を組み合わせた明喩、こんなに作品に即していて、強烈な比喩はめったにないと思います。 (Mはman。そして、Wはwacko。)

2019-09-15

こんにちは。多数の作品とはまるで逆方向を向いていると思う。後ろを向いて、背中を向けて、後頭部にお面をつけて語っているような作品。前後ろ反対に着ぐるみをきて、着ぐるみだけは前を向いているような、と言ってもいい。「正」か「負」かでなら、完全な「負」。ネット詩における「負」の傑作のひとつに数えていいと思います。 (「読み」を書くと相当な長さと時間がかかるので省きます) ((╹◡╹))

2019-09-10

こんにちは。こちらの作品もコメントしておきたいと考えていた作品のなかの一つなのですが、空白の部分をどう受け止めて解釈するか、ちょっと時間をおきました。 鑑賞としては、《何も無いこと》が重々しく伝わってきました。言葉を切れ切れに落とす方が、かえってその心情におしこめられたものを伝える、ということはあります。あるいは《何も無》さが内的に膨張したあまりに、少ないながらにも言葉が外に洩れてしまったのかもしれない。いずれにしても、そのようなものが空白の部分を通して、伝わってくる作品に思います。 翻って、書く立場に立った場合。これは先に書いたことを逆にしてしまうようなものですが、「重々しいくらいのなにかしらがあり、それが《何も無い》という言葉によって現れている」、あるいは「明確にこれと言い表せない多くのことの混合が内的に膨張したがために《何も無い》という言葉によって外部に洩れてしまったのではないか」と考えられるということです。 つまり、《何も無い》は本当に何も無いのではなく、はっきりとは認識することが困難な何かしらが充満しているのではないか、ということです。もし、そうであるなら、その空白を言葉で表していくとstereotype2085さんがコメントしたような「静かな音楽云々」といったものにもなるかもしれないのですが、そこから鈴木さんご自身の、これとは異なった詩がはじまるのではないかと思いました。 (白き空に)

2019-09-07

おはようございます。ひとつは組織のなかでの個人ということを思いました。特に企業の中で働きづめになって、疲労しきって、リタイアした後の空虚感などが、消費されるモノとしてのタイヤと重なりました。 もう一つは、意味は問いかけ、それに対する答えを見つけることも大事だけれど、問いをもちつづける姿勢が重要ではないかと思いました。答えが見つからなくとも、問いをもちつづける姿勢はそれだけで自分を支え前に進める力になると思うので。 最後に、これだけ筋が通っていて、これといった大きな変化もない安定走行であれば、行分けのスタイルをとらなくてもよかったのではないか、と感じました。 (スペアタイヤ)

2019-09-06

おはようございます。単位を間違えていました。訂正ありがとうございます。 というか、私、完ッ璧に誤読していましたよ。いや、申し訳ないです。いま、返信コメントしていて、ん?と思いつつ読み返したら、こりゃもうあからさまに誤読じゃないですか笑(笑ってはいけないのですが) 宇宙のなかに存在している(ひとりの人間としての)「私」じゃなくて、宇宙自体を主体に設定していたんですね。ありゃー、これはとっても面白いじゃないですか。 これはもう、前のコメントは全無視してください。あー、返信がなかったら誤読しっぱなしだったと思うと、あぶない、あぶない。 とんだご愛嬌と思ってくれれば救われます。失礼しましたぁ!  (七色の空間)

2019-09-06

こんにちは。このような作品を読むと、谷川俊太郎の『二百億光年の孤独』とか『芝生』とかを思い浮かべてしまって、つい比較してしまいそうになるのですが。それはともかく詩作品として読むと、問いかけを投げっぱなしにしているところに着地点のなさ、作中の言葉で言うと、どこまでも《ひろがってゆく》感じが残ります。 (七色の空間)

2019-09-05

こんにちは。せっかく《旅人》という「登場人物(主人公)」が登場しているのに、《旅人》の思いや呟き、思い出したことや気づきなどを、「語り手」が奪っていて、《旅人》が遠目に見えてしまいます。《旅人》と「語り手」は同一人物ではない(と思う)のだから、ズレがあっておかしくないと思うのですが。しかし、その分、安定した奥行きで、読みやすい作品になっていると思います。 (仰ぎ見た秋)

2019-09-05

こんばんは。とても妙ちくりんです。私ならいろいろ考える前にカーテンをあけます。カーテンをあけるから闇でも光でも見えるのであって(実際は光や闇は見えなくて、明るさや暗さが見えるのですが)、ともかく考えるより先にカーテンはあけるものです。それなのに、あけるまでに四連分も言葉を費やしてあけたあとのことを書いている。なんて無駄なことをしてるんでしょう。 と、感じなくもないですが、ひとには怖れや不安というものもあり、そのために躊躇して踏み出せないということがあります。そして踏み出すためには踏ん切りも必要な場合がある。とすると、この一連から四連が、《私》が行動を起こすのに必要な“ため”であって、“ため”があるから行動できるのだとしたら、無駄であるどころか、この作品の核になっているとも言えます。したがって“妙ちくりん”は撤回します。 ただ、以上のように読めば、この作品でもっとも味わえるのは四連目までで、それ以降は印象が弱くなる感は否めません。あるいは最初から結末(オチ)ありきの一連~四連ということであれば、些か残念でもあります。ちなみに一連~四連が“ため”でないとしたら、五、六だけで詩は、あくまでほぼですが成立するのではないかと思います。 (カーテンを開けたら)

2019-09-05

こんばんは。「なまぬるい詩」というのがどういう詩を指すのか、わかりませんが、《すこしでも平和にな》るのと等しいくらいの「なまぬるい詩」が書けたらいいなあ、と私も思いました。そして、この作品は全くなまぬるくないと思います。 (Imagine AB63:2)

2019-09-05

おはようございます。トマト、鴉、私と中心が移っていくので、焦点が合わせづらい印象がありました。同時に、わかりやすいリズムに乗ってテンポよい速度で語られている感もあり、内容とリズムが反発しあって、不調和を来しているようにも感じました。しかしながら、分け入ってみると、内容はよく練られているように思います。《熟れ過ぎたトマト》、《熟れ過ぎた夏》、そして、これも十分には生きる実感に満たされないまま心残りのもやもやを抱いているような《私》、を重ねてみることによって、けれどもそんなことなど一切お構いなしに舞い降りる《鴉》に、時間というものの暴力的な姿を見ることもできます。また、それとは逆に、トマトであれ、夏であれ、現在の私であれ、仮に《意味》を失っても、食べるに足りる「価値」はあるのだな、と考えてみました。物事の意味を疑い、問い、無意味へとしていく行為は、それをするだけの価値があることをどこかで知っているからかもしれません。 (夏の階に立ち)

2019-09-04

おはようございます。某国の首相がお腹の調子がよろしくないという記事を読んだことがあって、その人と、その人に影響を与えた人物との関係が仄めかされているのかな、と思って読むと面白いです。既にコメントにでていますが、最後の一行が状況を一枚の絵としてうまく収めていると感じました。 (卒業生)

2019-09-04

survofさんへ まず最初に、私がはじめに書いたコメントは「美しい作品です」ということでした。どこがという部分的なものでなく、総合からそう感じました。あんまり時間がかかったのか、反映されませんでした。苦笑 次にご指摘の件ですが、上に書いた通り、技巧もありますし、例えば、仲程さんや帆場さんのコメントにもある第二連の《木はみな》の「みな」と三連の《その寂しい木》の「その」などの焦点の絞る語や、静的な木を動的な存在にすることで相対的に木の動かざるさまを強調するなどといった技巧、それらを含めて、作中の言葉が、詩を成立させるために機能していると思われたので、あのような書き方をした次第です。普段使っている言葉であっても、同じ「意識」では、このような美しい詩作品にはなりがたいように思います。 (とある湿原にて)

2019-09-03

こんばんは。例えば私がどこかへ旅行に行ったとして、そこでなにか日常的とは異なった物事を発見し、心が揺り動かされたとする。そうするとその物事ばかりか、物事に遭遇した場までがメモリアルな意味を帯びるようになる、ということはあると思います。 これは作品なので、必ずしも行ったとは限らない。にもかかわらず、あたかも行き、且つ発見したかのように書かれており、また、特に、木が木でないもののような姿を表すというふうに、言葉との私的な馴れ合いが漂白され、日常性から逸脱した木として、質的変化をさしめています。とても優れた作品に思います。 (とある湿原にて)

2019-09-03

おはようございます。予めわかっている物事や想定できている内容を言葉として思った通り適切に表現する、という作業も簡単ではないと思いますが、そのように窺えた前作のどれよりも挑戦的であるように思い、新鮮に感じました。 (猫が書いた詩、わたしが運ぶ詩 (おまけ付き))

2019-09-02

こんにちは。タピオカミルクティーかどうかはわからないのですが、とにかくタピオカ入りのドリンクを今年はしょっちゅう見ました。それも、透明なカップに入ってて、蓋のフィルムからストローぶっさして飲むタイプのやつです。あれ、全部飲んでくれりゃあいいんですが、五分の一くらい残してるやつが時々あって、タピオカなるものがビシーッとまとまって浮いてるんです。なので、蓋のフィルムはがして、ストローの先っちょでもいいから掬ってたいらげてほしい!と思ったりします。底の方に滞留したタピオカはぷかぷかふわふわした感じもなく、救われないところがあります。でも、そういうのは、やっている若者の何割かにとっては気にとめるほどのことでもないのかもしれません。と、リアルに滞留したタピオカの残念感とくらげや月のふわふわゆらゆらした感じとの間を私の脳がふわふわゆれました。水や歯茎といった感触もあって体感的な作品に思いました。 ときに「くちくなる」という言葉、どこかで目にした記憶があって、印象的だったから憶えていたのですが、どこで見たのだか、思い出せません。まさかこの作品でまたもや目にするとは思いもしませんでした。 (携帯海月)

2019-08-29

おはようございます。何度目か読みましたが、流暢な言葉運びで喩えもわかりやすく、イメージしやすい文章だとやっぱり思います。いろいろうまいなあと思いますが、それ以上に受け取れるものを感じれなかったのは残念といえば残念です。 イメージ的な言葉遣いや比喩といったレトリックは詩作品でなくても、例えば日常的な会話や中吊り広告のコピーライトのなかにも多く見聞できるので、それらが詩を形成するための絶対条件ではない、と思います。どのような作品であれ、言葉によって作られていて、それらは私たちが日々使っている言葉と何ら変わりはありません。しかし、そのような(日々使っている)言葉によって何かを現しめようとした時に、言葉の位というか次元というかに変化を与えて、日常のなかで慣れ親しんだ読み方からすると「!???」となるような場合に、ある言葉がその詩作品を成り立たせるのに欠かせないレトリックとしての喩やイメージになり、読み手に驚きや時には感動をもたらすのではないでしょうか。 その意味でいうと、読み手によってはわかりにくい印象をあたえ、摩擦をおこすという面もあるのですが、そのような場面において、普段から知っているはすの言葉が、まるで知らないもののように感じられ、作品全体を通して言葉に新鮮さを覚えることがあるのも事実です。それに沿って言えば、流暢で、喩えもわかりやすくイメージしやすいまま流れるように読み終えることができる文章としての長所が詩作品としての問題点になっているようにも思います。 以上のようなことを考えさせてくれる作品でした。 (星を抱き、酒精に口づけ。 )

2019-08-27

おはようございます。yamabitoさんのコメントの中の「若さがびりびりする」という感覚、私もそれは感じたのですが、どちらかというと、さほど意識してはいないけど、現在の日常を生きる人のリアリティを言語化したら、こんなふうになるんじゃないかなと思いました。じめじめと湿っぽく貼りついてくるようなどこか鬱陶しい感覚とか、少しずつ感性を奪われていくような気持ち悪さとか、不完全燃焼のままエネルギーを滞留させてしまっているか、もしくは使われないまま漏らしてしまってるような居心地の悪さとか。そこからどこへ向かおうとするのかはまだ見出せず、生ぬるさのなかにとどまっている不味さが現れているように感じました。 (生ぬるい生活)

2019-08-25

こんばんは。「ハモニカのネ」、一音一音がよく響いて、良いですね。最終行も、引き締まっています。そのため、額から汗を流して歩いていた様子が目に浮かぶようです。一点敢えて付け加えるなら、”美しい詩作品“に傾きかねない危険性を孕んではいないか、ということです。 (炎夏のハモニカ)

2019-08-21

こんばんは。うまくいかない日々を頑張ってなんとかかんとか生きている《僕》の生活感とか歯痒さ、もどかしさが感じられます。 ひとと話していて、時々わかるのは大抵のひとに、過去の苦い経験があるということです。そして、明るさにも陰にもそうした経験への後悔が多少なりとも関わっていることに気づきます。 それが見えた時に、人間らしさを感じて、あー、頑張ってきたんだなぁ、としみじみとし、また爽やかさを感じます。 “うまくいくといいな、今日は。” 《僕》にはそう声をかけてあげたい。 (ペンチメント)

2019-08-21

こんばんは。蜘蛛をそんなに悪く言わないでください。と、言いたくなるのですが、それくらい多くのひとに嫌われているし疎まれてるのは事実なので、敢えて言いません笑。 私は、昔、「指に母の顔が貼りついたように浮き出して、ことあるごとに干渉してくるので爪きりで切る」という内容で「疣(=異母)」というのを書いたことがあるせいか、《切り裂いた》というところで痛みのようなものを感じました。 《青痣》って、きがついたらできている、ということもあるんですよね。色の白い方だと、ちょっとしたことでもできるから、後になって気づくけど、思い当たるフシがないなんてことも珍しくない。でも、気づいたら気になりだす。《鬼の形相》ならなおさらで、青鬼ですね。しかし、外部に対する反応として生まれた《青痣》が、蜘蛛として生まれ、知らないところへ行ってしまうというのは、あずかり知らぬところで何か手に負えないものを《ヒト》が排出したようでたしかに怖いです。 (青痣)

2019-08-21

こんばんは。隙間が多くて、風通しがよくて、開放感があります。海みたいで心地よい作品に感じました。 (oasis)

2019-08-20

おはようございます。何が面白いかって「白」が枠取りをしているように見えてしまうので、それに沿って言うと「中の文字」に意味のある内容を読むより先に、たくさんの語群が埋められていて個別に存在感を現してくることじゃないでしょうか。それって私の眼球の動きにもよるのだろうけど、視覚を刺激してくるという意味では、「言葉」から意味や音を剥奪して図像化しているわけで、言葉というモノをつかったデザインになっている点じゃないでしょうか。そのあとで内容に入ってもいけて、そこでは言葉が言葉として機能しているわけなんですけど。 ついでにいうと言葉遊びも好きなので、面白いです。 (古い月の粉 )

2019-08-20

おはようございます。『古事記』においては、オオクニヌシの国造りの際に、天地の隅々まで遍く知るとされるタニグク(ヒキガエル)をして、彼に訊くとよいよ。と言わしめた、「歩くことはできないが天下をよく知っている」とされるクエビコ(案山子)が、この作品では目の届く範囲しか知らないように扱われていたので、ナヌ~!?と思いましたが、それはそれ、楽しく読ませていただきました。 《駄目、あげられない》 《私はもっと色んな所へ行きたいし、しなきゃいけないの》 《そっか分かった、じゃあ行こう》 《私は案山子を引っこ抜き、腰にきつく紐で巻いた/原付きバイクに乗ってあの海へ》 など、作品の端々に、率直で、行動的な《私》を見ることができて、案山子とのやりとりを含めて、明るい気持ちになります。原付バイクに乗っている案山子なんて、ユーモラスたっぷりで微笑ましい。 それにしても、率直に意見を表明して、積極的に行動するタイプの《私》と、その場から動けない《案山子》の交流というのは興味深く思います。しかも、 《その姿は、全ての時から取り残されているみたいだった だけど私には孤独を感じない、孤高のような物を感じる この田園を、この景色を守る為に居てくれる そんな気がしてならないのは、どうしてだろうか?》とあるように、《案山子》が《私》を惹きつけています。とすると、《案山子》はもしかすると、《私》が積極的且つ行動的な生き方や気軽に話しかけることのできる「外向性」を身につける過程で、磨かれないままになっていた「内向性」を表しているのかもしれません。《色んなところへ行きたいし、しなきゃいけない》と、外へ外へ目を向ける《私》に対して、たとえひとつの土地から動けず、《全ての時から取り残されている》ようであっても、その土地や景色を嫌いでなく、また守っているかのような《案山子》。ふたり(?)の交流の中で、《私》は動けない《案山子》の足になります。《私》が行きたい色んなところに行くとかするというのでなく、《案山子》が望むことの為に彼の足として行動する。それは後に《案山子》が《此処では一生味わえない物だ》と語るように、《私》にとってもそれまでには味わうことのできない、新しい体験だったのではないでしょうか。ここからもう一歩踏み込んで考えてみると、色んなところへ行こうと、あるいはしていようと、それが日常的になっているとしたら、《私》は動いているようで、一歩も動いていない。しかし、それまでは味わうことのできなかった新しい体験をしたことで、《私》の世界がちょっと動いた。とすると、この「ちょっと」は《私》にとっては重大な意味をもつと思います。そして、へのへのもへじも《また見せてくれ》と外部に対して開かれ、動かないはずの表情(感情)が動いている。どんなふうな顔になったのかわからないけど、なんかかわいらしいです。 勝手に想像を膨らませましたが、拡大したり深読みすれば、様々な方面についても繋がってくる気がします。しかし、なんといっても堅苦しくなく、とぼけたようなユーモラスなやりとりと語り口が魅力的です。 (案山子の足)

2019-08-20

改めまして。おはようございます。いまレコード針を落とす、ってことをわかるひとがどのくらいいるのか、わからないんですけど、《すっと、/レコード針を落とす》という、この慣れた、自然な手つき、とてもきれいですね。そこから、この作品がスタートしているからか、言葉の背後に音楽の存在を感じます。また《薄いはねを細かくふるわせた、/虫の音の朝が》で《薄いはねを細かくふるわせた、》のは《虫》なのだけど、この《はね》の細かいふるえと、《レコード針を落とす》動きが、指揮者がタクトを振るイメージと重なりました。レコード針がレコードに落ちて音楽ははじまるし、虫ははねを振動させて「声」をだすというところで音楽的なのだけど、同じように、指揮者がすっとタクトを振ることで演奏ははじまる。というわけで、作品が冒頭から(他の方が「出だし」と書かれているように)音楽が流れるようにはじまっている、と感じたのです。 「指揮者」のような映像を思い浮かべた点では視覚にも訴えてくる作品と言えます。また、作品世界に《すっと、》、構えるより先に予備動作なしで入っているので、私は気づいたら作品世界にとりこまれてしまっている。 さらに、《亀》の目や動き、また最終行の《苦いコーヒー》にあるように、とてもゆっくりと《朝》はきつつある、その時間の経過と進み具合を感じることができる。細かいところで言うと、最終行の《やってきていた》、これは絶品だと思います。これによって、第一連を通して、時間の経過だけでなく、近づきつつあるものの気配を感じとる主体の静けさのなかでの澄まされた感覚をも感じることができます。 そして拡大解釈になるかもしれませんが、夜が過ぎて朝がくるという、ただただ時間が経過するというよりは、様々な事象がそれぞれに地球の自転といった法則のなかにあって、うごめきながら、ひとつの音楽を構成している、そういう大きな世界へのつながりを感じることができます。 まさに《小心者の僕は、/ちいさなちいさな一コマが/凝縮された劇場のような朝》である、その通りだと思います。 勝手な推測ですが、《僕》は夜通し起きているんじゃないか。たとえば何か心配事があるために眠れないとか不眠症とかの理由で。 第三連は、意識が別の方へ流れはじめたと読んだのですが、《凶悪な虫が/ 肉の中で発火する/夏が大好きな虫たちの/発狂の季節だから》の《虫》は様々なイメージを喚起させてくれます。それは文字通りの「虫」であり、また「(凶悪な)欲望」であり、それを心中に飼っている私たち、熱に浮かれて我を忘れ、箍を外して行動に走る「人間」でもある。 このような暑さや、暑さに取り込まれて、自制を失うことに、もしかしたら《僕》は強い抵抗(逆に言えば「憧れ」)があるんじゃないでしょうか。 第三連での意識の流れが、次の連で切断されたのはそのためでもあるように推測しました。もっと読みたい気持ちはやまやまだけど。《神さま》(自分ではない)の仕業なら仕方がないです。 ときに《スイッチ》は何のスイッチなんだろう、と考えてみました。ちょうど明け方を過ぎて、陽が当たりだすとじわじわ蝉が盛んに鳴きはじめて、ざんざか降りそそいで、暑い一日が動きだしたことを否が応でも意識させられますが、そういう一日を動かすための《スイッチ》なのかもしれません。とすれば《僕》の《小心者》ぶり(受動性、消極性)がよく語られていると思います。 そこからの飛躍に最終連では呆気にとられながら、なんとなくアントニオ猪木の「元気ですかっっ!」を思い出して、笑ってしまいました。それにしても《夏のよだれ》という、、、この締まりのなさというか、だらしなさというか、放心のなかで現れる生理的反応を持ち出してくるとは。《解体》については、ついに眠りに落ちたのかと考えましたが、ともすると、《小心者》であるはずの《僕》が、やはり夏にやられて、《小心者》の繊細な注意力や自制を失ってしまうことを意味しているのかもしれません。 全体として、背後に曲調をかえながら音楽の流れを感じさせ、映像としても体感としても、様々なイメージの複合を味わえる作品で、細かいところまで気を配られた作品ですが、是非とも加えておきたいのは、そのような作品でありながら、上段から振りかざしたような言葉遣いがされていない、ということ、詩的な(詩の言葉とはこういうものだと「ぶった」)言葉を運用せずに作られているということ、こんな難しいことを収めているというところです。 長々と書きましたが、一言でいうと悶絶ものです。 (小心者の朝)

2019-08-19

遅ればせながら今初めて読みました。いまは時間がないのでひとまず一言だけ。 もうダメ。悶絶する。 (小心者の朝)

2019-08-18

ダメですね、なんか自分のコメントの方が朦朧としていて、コメントしたいかったことが書けてない気がするので再コメントします。すいません。 まず「朦朧とした雰囲気」というのは、「空間的」という意味です。私は先のコメントで「入っていけました」と書きましたが、そのくらい作品の言葉が空間的に感じました。いえば作品の中の主人公に重ねてしまっていたということです。 《藍染のよる うかびあがりし花模様 月あかりにゆらめく緋鯉 なやましく 風は涼しくなりたれど さめやらぬ風鈴の音 解せぬフアンタスマゴリアに迷ひても 不言の途はきゆることなし 沙羅双樹に文をむすび 香に愁ひをかくす》 上の、たとえば《うかびあがり》や《ゆらめく》に代表される縦の動きと、《緋鯉》や《風》のような横の動き、そしてそのゆれが空間性を作り出しているように思います。しかし、最もそれを感じるのは《香りに》です。これが不思議なんですけど、色も形もない香りが立ちこめて、靄のように包まれている感覚に陥ってしまうんです。ですから「夢かうつつか」の世界に迷いこむ込んだ気になる。日常から少しずれて、あれ?という感じです。幻想的と言っても、非日常と言ってもいいのかもしれないけど、そういう一言で表しきれない感じが私にはあるので、長々と書いてしまったのですが、言葉で書かれながら言葉ではなく、その影によって作り出された作品世界がここにあるなあ、と。だからこそ、動かざる点として《鬼灯》が存在感をもって鮮明に見えてくるのかもしれない、と考えている次第です。 (鬼灯フアンタスマゴリア)

2019-08-16

おはようございます。導入から夢とも幻ともつかない朦朧とした雰囲気を想起させるように言葉が用いられて、無理なく入っていけました。タイトルと内容が相俟ってコレスポンデンスを思い浮かべたのですが、これは今さら感がある読みですね。笑 全体として朦朧とした中に《鬼灯》が鮮やかに映し出されているところに惹かれます。 (鬼灯フアンタスマゴリア)

2019-08-16

おはようございます。主人公の、世界をどこか遠くから見ているような虚ろな視線や足取りが一貫した、まとまりのある作品になっていると思います。ただ、救いようのなさでいうとこれでよかったのかな、という読後感はありました。私としては終始心情的には立ち尽くしたままでいる主人公の姿を見てしまうから、こうした読後感になってしまっているのだけど、やっぱり何かしら答えなり明るさにつながるものを見いだしてほしかったな、と思います。 “little girl”と《炸裂》が、それまでの主人公の世界に対する感受のあり方を壊す役割として登場していると読めば、主人公のそれまでとは異なった新しい視座の獲得可能性へ開かれた作品だと考えることもできるけれど、流れとしてそう読むのが適当かどうかは判断が難しいところです。我が儘なだけですが笑。 (気まぐれな茜)

2019-08-16

おはようございます。こちらの方が格段好きです。比べてみると、位置が下がって、「おっぱい」がちょうどいい位置にきたように感じます。前のは肩のあたりかな。これはグラデーションが「おっぱい」のすぐ下からはっきり変化をしているからかもしれないけど。 グラデーションの縁取りと波模様が言葉と重なって、流線的な形や柔らかさ、たぷたぷした質量も感じます。 なお、海の薄い背景色と白い文字の部分と、そこから下の濃くなっていく部分を見ていると砂浜も浮かんでくることを付け加えて、「ただのおっぱい好き」でないことを断っておきたく思います。 (ヌーディスト・ビーチにあこがれて (version2.1))

2019-08-15

こんにちは。エイクピアさんの作品に触れると、これは何だろう?と思ってしまいます。これは何だろう?と思うのはエイクピアさんの作品に限らずたびたびなのだけど。笑 どのような内容が書かれているのかを解釈すると、今作品は千才森さんのコメントとほぼ同じようなところに、私としても落ち着いたのですが、それならば散文としてでも、もっと読みやすい文体としてでも書けるはずなのに、どうしてまた次から次へと意味の流れを断ち切るような、こっちの石からあっちの石へ飛び移っていくような言葉の置き方を選ぶんだろう、と思います。 逆の言い方をすると、「物事を筋道立てて(時にはイメージや喩えを使いながら)わかるように語る」ために言葉がある、といった馴れきった通念を揺さぶられます(この通念は、いかんな、とわかってはいても気がつくと頭をもたげてやっかいなのですが)。そういう意味でとても刺激的でもあります。で、刺激的という面でいうと、語調が緩やかなのでじわじわ侵入してきて、なんというか、フェザータッチのような、はっきり言葉に固定できない刺激に味があるな、と思います。 仮に解釈されたような内容がテーマとして存在していたとしても、またはしつつも、それを散文として、あるいはわかりやすい詩的な形式を与えたところでどうするの?という詩意識が介在している。のかはどうかは憶測ですが、そうしたテーマを底に沈めつつ、表現上では方々に、次から次へ跳躍しては消え、現れてはまた跳躍する感覚を味わえるのは新鮮です。 (羅針盤)

2019-08-14

こんにちは。いやあ、ハラハラしました。ついつい持っていかれそうになってしまう。 この作品が作品投稿板に投稿されている以上、「作品として」書かれているのだから、「作品として」読むというのがふさわしい、とはわかっているのだけど、生々しい。名前挙げてカスだのなんだの連発で罵るという……。ただこれが《もっと不自由なものであったらいいのにと願う感受性がある。》とつながってくるところは、巧いなと感じます。 事実も出てきた名前も、そして自分をも「素材」にした作品だから、リアリティがあって生々しく感じたのだと思います。 ときに与謝野寛が大逆事件で処刑された「大石誠之助の死」という作品を書きましたが、あれも作品上では、(よんどころない事情があったとはいえ)大石を馬鹿呼ばわりしていました。その裏に失った友人への深い哀惜があったのだけど。それと重ねるわけではありませんが、なんとなく花緒さんの「表現をすること」に対する愛情を感じます。 (表現の自由展・その後)

2019-08-12

タカンタさま 私も自分の詩を書く才能というものを考えるとかなり疑わしく思います。詩と関わってきた中で出会った、作品の数々や作品を仕上げるに至るまでの書き手の、言葉との格闘の様子に触れるたびに、それを思い知らされてきました。そして、それは苦くも嬉しい体験の連続で、いわば、優れたボクサーの連打を受けて、顔もボコボコに腫れあがって、今にも倒れそうなのに、にやにやしているという、自分でいうのもアレですが、いささかキモチワルイ感じです。だったら早々と手を退けばいいのだけど、それをしないのは、その都度言葉というものの面白さ(インタレスト)に打たれてきたからです。ことによっては脳みそが真っ白になって、ぶっとび、体から一気に汗が噴き出ることもあります。なぜそういうことが起こるのでしょう?それは私たちも意識的無意識的に言葉で認識したり考えたりしているからだと考えています。私の日常は規則的な散文みたいなもので、弾みも少ない。それに対して優れた詩作品の言葉は風穴を開けてくれたり、塗り替えてくれたりする。そういうことを知ってしまっているから未だに詩と関わっています。ですから、現在の私にとって才能というのは別次元の話です。むしろ、詩作品の言葉に対する信頼といえばいいかもしれません。もちろん注意深くはあらねばならないでしょうけど。これは付け足しになりますが、芸術については関心は尽きませんが、芸術家の看板を掲げる気持ちは毛頭ありません。 岩田宏の有名な作品に「いやな唄」というのがあります。 あさ八時 ゆうべの夢が 電車のドアにすべりこみ ぼくらに歌ういやな唄 (以下省略。「岩田宏詩集成 書肆山田」) かつて鈴木志郎康が、この作品を紹介するに際して、励まし元気づける作品、というようなことを書いていました。なるほど、目鱈矢鱈意味のわからないことを吐き散らして、負けそうな自分を励ますことってあるな、と思ったものです。今作品を手直ししている時に思い出したことでした。 埋もれていた作品が思わぬ形で上がってきていたので驚きました。笑 コメントありがとうございます。 (アカルイ唄)

2019-08-12

おはようございます。この作品、一度読んだ時に浮かんだ印象だけ、ひとまず置いておきます。「お経」。お寺さんがお経を読むなかで似たようなフシの箇所があるんですけど、特にお経の最後に読みあげるやつ。「あなかしこ、あなかしこ」で結ぶんだけど。それを模したパロディなのかな、と感じました。内容についてはまた改めて。 (心しずかに)

2019-08-12

こんにちは。何度か読んで、コメントしたくて、気づいたら数日経ってしまっていたのですが、まだまとまっていません。(個人的によくある話。) ひとまず、今日また読んで、感じたことだけ書きます。言葉の使い方がとてもきれいで、魅せられます。やわらかい波に揺られている気持ちになります。それは音からくるものであり、文字からくるものでもあります。ここでいう文字というのは意味やイメージなどではなく文字の形のことで、漢字とひらがなの視覚からはいる波立ちが感じられます。 以上です。もっと多くのコメントがついてよい作品だと思います。 ※《園芸のほん》で、あれは誰だっけ、チャペックだったかな、「園芸家12カ月」を想い出しました。 (呼吸癖)

2019-08-10

こんにちは。スピード感があり、且つ、メリハリがあって気持ちよいです。《魂》《王女》《言霊》《老いたる》《魔術》といった語が使われていても、浮いた感じがしないのは、作品全体としてバランスが取れているからでしょう。 こうした心地よいスピード感のなかで、《走り去る馬車から、一瞬だけ顔を覗かせたその女性》、この一行は非常に映像的。その女性と目が合った気がして、しかももはや遅すぎることを理解した気がして唐突に悲しくなりました。こういうのはズルイ。嫉妬するくらいやってくれて嬉しい。笑  で、スピード感の良さについて書いたのですが、この速度こそ、時間の過ぎ去る速度であるとすると、それを心地よく感じた私も、現在の過ぎ去る速度に呑み込まれ、慣らされた一人であるのかもしれません。そして、過ぎ去ったものやことを、事後的に(思い返すことによって)、《忘れ得ぬ人》へと、記憶をつくり直しつつ、自分を見失わないようにしている部分があるのかもしれない。そう考えてみると現代の孤独が作品化されていると感じます。深読みかもしれませんが。 それにしても、日常生活において、気づかなければそのまま見過ごしてしまうようなところをイメージとして拾い上げ、うまく配置していると思います。ああ、なんか腹立つ~。 (忘れ得ぬ人)

2019-08-10

こんばんは。アクロスティックですね。ひとり語り調で、中身もおざなりにせず、しかも、こんなに長くできるものなんですね。お見事です。 (かきさらし)

2019-08-09

こんにちは。かっこいいな、と思いました。かっこいいです。私がもっともっと若かったら、すごい詩の書き手発見!と小躍りしたかもしれません。「そんなふうなかっこよさ」です。なので、ずいぶんオッサンになった身としては、既にコメントにもでていますが、観念的のように感じるし、強い言葉や勢いに頼り過ぎているように感じます。それが持続されて、かえって単調に終わっているように感じました。 (不可逆)

2019-08-08

こんにちは。いろいろな記憶が明るく浮かんで、薄くなって、残像を漂わせて、消えてゆくイメージが目に浮かびました。この作品は「わたし」と「きおく」の関係を主題にしているようで、無駄な修飾をほどこすことなく、素朴ですがわかりやすく表現されていると思います。ああ(オー、マイガー)!と思ったのは最終連。「わたし」の色がかなり強めにでてしまい、「きおく」の影が薄れてしまったように感じられました。 (きおく)

2019-08-08

おはようございます。 《あせるな 一歩つづ腰をかがめて歩け たちあがることだってできる 》 ここの箇所、意気地というのか、生きようとする者の泥くさく、懸命な声を聞くようです。起きている状況に対する焦りや抵抗とも取れるところから、自己確認に転じるところがあるから、この《男》が、「言葉として」動くのが窺える。こうした細部って大事だな、と改めて思いました。 細部について言うと、なんと言ってもすごいのが「ハヤ」です。これは本当に素晴らしい。《椅子の足の間にハヤが泳いでいたという。》 この連だけでもいいからもう一度でも読み返して欲しいのは、「ハヤ」によって、かすかに動きが生まれているのを感じられるだろうから。だからこそ、机の上に置かれた《河骨の花》も立体感をもってくる。視線誘導も含めて、ここはもう絶讃したい。 余談になりますが、かつて年配の方が、河童の話なんかするから足をつったりした子どもが河童と思って緊張して溺れるんだから、あんなくだらない話はするものじゃない。と言っていました。私が思うに、昔、不幸にも川で溺れてしまった子どもや水死体であがった子どもがいて、あれは川遊びをしていて溺れてしまったんだよ、とみんなが言うとする。ところが、それがたとえ事実だとしても親は納得できずに塞ぎこんだり、悲嘆に暮れることは大いにありうる。そんな悲しみが、川には河童がいてね……という物語を生み出したのではないかしらん、だから、深い悲しみを慰めるためにモノガタリとして自然発生して定着したのだとしたら、くだらなくはないし、叡智の一つだよね。ということなんです。私は大分県に住んでいますが、県南には海があり、島もある。すると、昔はそういう地方では海難に遭って亡くなった方々も少なくないらしく、ある時期に鳥が飛来してくると誰々さんが帰ってきたといって喜ぶことがあったそうです。河童も鳥も、それってただの空想でしょ、って言えばそれまでなんです。でも、生きているひとの心の奥底に由来していて、そのひとを支えている物語というのは、外から見ればどこか実際とかけ離れていて、リアリティを欠いて見えるものでありながら、同時に、誰にとっても存在するリアルなファンタジーではないだろか。そんなことを考えました。 時に、前作と今作、第一稿と決定稿を読めて得した気持ちです。ありがとうございます。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-08

こんばんは。最後の二行は、きついというか、バッサリ切ったなあ、という感じで、硬くなってしまいました。断ち切るといえばいいのか。何を延ばして、何を絶つのか。知るのが怖い気がしますが、それが何であるかよりも怖さを感じさせるところが巧みです。 (夏草のうた)

2019-08-08

おはようございます。 《ミナミトビハゼ 何見て跳ねる Knock me please》 ここ、調子は変わるのに、かすかに音が重なるんです、きれいだなあ。 8月って暑いけど、夏と秋の変わり目みたいなところがあって、ちょっと中間的なところがあります。なんとなく気が抜けてボンヤリしてしまうこととか。あれってなんなんだろう。 語り口が、そんな8月にぴったりだな、と思いました。ボンヤリのなかにいろいろな風景が見えているんだろうなあ。 (八月の汽水域)

2019-08-06

〉仲程さん それ、私です。音読だと楽しくて。 《足し巣を待って愛で馬は うむ!》 とか、 《背撫で頸撫で ぬだでば》 とか、特に。 (三つの朝の歌)

2019-08-06

こんばんは。全然意味がわかりません。なんじゃ、こりゃー!?です。でも、何度も読んでしまいます。音も使われてる文字も知らないものではないのに、組み合わさるとなんのこっちゃで理解に窮してしまうから、言葉ってとても面白いです。 でも、意味のわかる筋の通る話もいいけど、特にこれといった意味もないことを言ってる方が愉しいってこと、割りとあるし、それでひと息入れて、気持ち入れ換えられることも度々あるな、とも思いました。歌というのもそういう役割をすることもあるし。 そんなふうにおさめてしまっていいのかどうかはまだ悩ましいところですが、この作品が面白くて好きな作風であることにはちがいありません。 (三つの朝の歌)

2019-08-05

こんにちは。詩人だからなにやってもかまわん、てことはないでしょうけど(笑)、とにかく彼女は自分が気に入らなくて我慢ならないことは認めることも放置することもできずに、彼女自身のやりかたで解消していて、それは打算的で演技的でもあるのだけど、良かれ悪しかれ周囲の目を引きつけて、影響を与えています。 ところが、それ自体が、《観客》のいる劇場で、お気に召す演技をやっているから起こる拍手喝采なわけで、逆にいうと《観客》の存在が彼女をそういうふうにしている。つっこんだ読み方をすれば、背後に脚本家がいて、彼女は脚本どおりの役を演じていて、それは観客が望んでるであろう内容なので、彼女のやや無茶苦茶な娘という演技に拍手している《観客》は、自分たちの隠れた無茶苦茶ぶりに拍手をして、熱狂しているのだ、というふうにも読める。笑うものは笑われる、という具合に。 そこで幕が下りて、本当の本人登場、こみあげる嫌悪感からかどうか、緞帳を裂いて、すっとぼけたような一言で終わる。それとも寝ぼけながらに見ていた夢の劇場だったのかな。《観客拍手》から最後までのくだりが好きな箇所です。 (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-05

こんばんは。少し前からちょっと気になっていたのですが、ゲーム音楽をお聴きになることがあるのでしょうか。私としては、あさきさんの楽曲を思い浮かべたので。これまでの作品の雰囲気傾向からなんとなくそんなことを思いました。違っていたらすいません。また、もしそうなら、それはそれでよいとは思いますが、どっちにしても作品としてはいささか表面的で、中途半端な気がします。一応、リンクを貼っておきます。 http://m.kget.jp/lyric.php?song=159570 (少女狂歪詩 「首無し人形 アリス」)

2019-08-02

こんにちは。とても素敵な作品です。《わたし》が語る言葉の下にある心情の動きや時間への視線を感じとることができて、《ことばにならない》ものの存在と深みをくっきり表し得ていると思います。それも、ちっとも難解でなく、誰にでもわかる平易な言葉で。 特に私が好きなのは第二連の「、」にいたるまでの最終行です。 (あなたへ)

2019-08-02

おはようございます。全く関係ないかもしれないことから書きます。ギリシャ神話に「パンドラの箱」という有名な話がありますが、エピメーテウスが好奇心に打ち勝てず箱を開けてしまう、それを見た兄のプロメーテウスは慌てて蓋を閉めたけれど、その時は既に遅く世界に悪いものが放たれてしまい、箱の底にわずかに「希望」が残された、というやつです。私はこの話が好きなのですが、たまに聞く解釈では、「どんなに不幸でも希望が残っている」みたいな感じなんですね。多分、それで正しいのかもしれない。でも、私はちょっと違う解釈もしていて、「最後は希望しかない」なんです。たくさんの不幸の種が広がってしまっても、「希望が残っているから大丈夫、まだ終わってない」みたいなのではなく、「世界中に不幸は広がってしまった、もう終わりだ」みたいな感じ。で、終わってしまった世界に残されてなお生きようとすると「希望をもつ以外ない」という考えが出てくる。ハナから希望というものがあって、それが残るのではなく、世界に対する明るい期待や幻想が暗いものに覆われてしまった、そのあとに、遅れて出てくるのが希望なんじゃないかと。でなければ、最初に蓋を開けた時に、希望も外に出るよねって話で。笑 この作品ではいきなりキリコの絵が出てくるので、不穏や不安を掻き立てられるのですが、カオスといえばカオスで、ディストピア感に満たされています。でも、その中で「あなた」を見出す。「前へ」出ようとする。あー、これは「希望」だなぁ、と思った次第です。 (「残響」。)

2019-08-02

こんにちは。 心情が伝わるように、わかりやすく構成されていると思います。 一連から三連にかけて一行目行頭の《ある》や四連目の《ふと》などは、ない方がより直接性が増したようにも思いました。 (独白)

2019-08-01

こんにちは。明暗がはっきりでてて、愉しく読みました。フェスは行きませんがライブは年1くらいで行くので、もしかしたら、知らず知らずキモくなっていたり、キモッと自分ツッコミさせてたりしているかもしれません。気をつけます。 (Creep)

2019-08-01

こんにちは。くすぐったくなるくらい、純だなあ、と思いました。皮肉でなく、微笑ましいです。 私なんか《次の満月の日》あたりで、これは狼男になってケダモノ化するんじゃないか、と予想を立てたほどだから、どれだけ汚れてしまったことか。反省すること頻りです。 (月と、きみと)

2019-08-01

こんにちは。とても柔らかくて、とても勁(つよ)い作品。ちょっとこれはヤバい。 (きいろ)

2019-08-01

おはようございます。何度もコメントを試みたのですが、なかなかまとまらず8月になってしまいました。未だにうまくまとまっていないのですが、下手なりに書きます。 まず図柄としては、はじめプランクトンのようだと思いました。今日読み直していてみると、泡のようでもありました。前者は《発酵(発光)》、後者は《溺れる》からの連想かもしれません。浮遊のような上方への動きとして見えたのは「黒を背景にした白い文字」というのが関係しているようにも思いますが、上から下に視線を動かすせいかもしれません。なので、堆積という印象ははじめの方はしませんでした。 内容の方では、どうしても音につられてしまうので、「積み」と「罪」、「発光」と「発酵」、「なれない」と「慣れない」などは好きだなあ、と感じます。ただ、同音異義語たけでなく、音の連なりから派生する言葉へ広げていきたくなる傾向、たとえば、ツミなら「摘み」や「つつみ」や「つめ」云々(まだまだつづくので省略)と広げていきたくなる誘惑にかられる私としては、もどかしさも感じつつ、抑制のきいた、まとまりのある作品になっているとほとほと感心するばかりです。 最後の《落書かれた葉》はなんだろうと考えたのですが、「落書き」と「落ち葉」、「枯れ葉」の合成語でしょうか。というか、そう読むことにしました。そして、そこまで読んでしまって、上に目を戻すときに堆積を感じたのでした。 (病葉堆積)

2019-08-01

おはようございます。率直に書きますね。バカバカし過ぎて、とても好きです。個人的には最後が微妙で、これがなければもっと良かったのに!という気持ちです。 (真イカと真ダコ)

2019-08-01

おはようございます。いま読み直していて何気に思ったのですが、非常にというか、とてもとてもというのか、哀れでしかたなくて結果的にこんな大仰な言い方になってしまってるのかな、という感じもします。昔、授業中にふざけてたら教科書でスパーンと頭をはたかれた。小1くらいだったかな。とてもびっくりして、泣きそうになったわけです。でも周りにみんないるし、視線も集中してたから泣きたくない。で、どうしたかっていうとめちゃくちゃな顔をしたんですね。どんな顔かは自分では見てないけど、とにかく変な顔をたくさんしたと思います。みんな笑ってたので。個人的な昔話を引き合いに出して申し訳ないですが、なんかそんなふうにね、ある感情が強くなり過ぎて、でもそれを知られたくないのか、それか振り切ってしまったのかで、こういった言い回しになってしまってるんじゃないかという気がしました。 表向きでは、いい顔したり、褒めたりしてるんだけど、心は裏腹に嘲笑ってたり妬んだり、小馬鹿にしてる関係が想像できます。たとえば、いままで化粧っ気のなかった女の子が好きなひとができて、化粧をする。そんで、かわいい、とか、きれいとか、まあ、褒めそやすんだけど、心の中では「気持ち悪ー」とか「下手くそー」とか思ってる。それを「私」の直観は見抜いてしまった、せっかく、化粧に手をつけた(目覚めた)女の子がかわいそうでしかたがない、と哀れさからなのか、憤りがこみ上げて、いや、憤りに哀れさがこみ上げたのか、しまいにわけのわからぬ唄になってしまう、なんかそんな構図です。 へんちくりんな例えですが、そんなふうに読むと面白かったです。 (歪熟れ面)

2019-07-31

こんにちは。コメント、ありがとうございます。 《鬱憤晴らし》という御指摘、ありがとうございます。2017年に書いたものですが(少しだけ手を入れて)、駄洒落好きの言葉遊びが高じて、という感じが強いですが、まさに鬱憤晴らし、もしくは景気づけのようにしたかったので嬉しく思います。 (アカルイ唄)

2019-07-30

こんにちは。これはずるいです笑。謎も気になるし、筋も気になるし、作りも気になる。楽しすぎです。まだ案山子しか思いついていません(田んぼのなかにあるし、回回×4だし、山の神さまの依り代だと前に読んだことあったし。でも自信ない)。 (ぬくい)

2019-07-25

こんにちは。最後の一連でそれまでの作品イメージが明から暗へ一挙に覆されました。「オルゴール」という言葉が普段とは全く異質のものとして響いてきました。 (半島の青)

2019-07-25

こんにちは。リズムの変化も含めて《光が眩しすぎるから》の置きどころがよいなあと感じました。《猫たちは脱ぎ散らかした服のあいだを華麗に歩く》という一行、やや古風な印象ですが好きです。 (無題)

2019-07-25

おはようございます。昨日も暑く、コンビニでアイスを買って娘と食べたのですが。娘はアイスを持ったまま、私が開封するまで食べないで待っているようでしたので、言ったのです。「あちいけん、溶けるのがはええで。溶けるまで待っちょかんでもいいけん、早よ食べよ(暑いから溶けるのが早いよ、溶けるまで待っていなくてもいいから早く食べなさい)。」 その時この作品を思い出しました。《アイスクリームがとけるまで待てなかったのです。》てどういうことだろう、と思っていたのですが、実際には言うものなんですね。 それはともかく不思議な作品だなと思います。もはや解釈は必要なく、書かれた世界を、ちょうど目にした光景につい立ちどまるように、そのまま受け取って立ちどまっていればいいのだろうと思える詩だと思いました。 (かげ)

2019-07-25

こんばんは。言葉を継ぎつつも、既にある理解に足る意味の連なりや結びやすいイメージを拒否するかのように差異を与えて、その破れ目に詩を見いだそうとしているような印象をもちました。建設と破壊の繰り返しというか。 《金に 夕映え》からはじまる一連は音が文字になることで持たざるを得ない意味やイメージをもすっかり投げ出してゼロにしていくような感覚を覚えました。詩を見いだす内的運動の痕跡としての言葉、という印象です。 (蠅)

2019-07-25

こんばんは。最後の三行、保健所で保護されて、引き取られるか、それとも引き取られず殺処分にされるのかわからない(選ぶことができない)犬をイメージしました。それをもとに読み直してみると、さまざまに選べる立場にある側とそうでない側とのコントラストが表れていると感じました。 選ぶ側も何を選ぶかによって自らの社会的位置を知らずに「選別」しているかもしれませんが、また様々な選択肢とそれにまといつく情報が多い中で選ぶのはストレスのかかることかもしれませんが、選ぶ余地のない側からしたら贅沢な悩みかもしれませんね。 (選別)

2019-07-24

おはようございます。最後の二行は懐かしむのも(貝殻でなく)鯨の耳だけにメランコリックな感じより、時間的にもずっと遠く、空間的に広範囲にまで及んでいるように感じます。《ベランダから//身を乗り出して》とのギャップがよいですね。 鯨の正体が未だに判明していないのですが、いろいろ見てみたらザトウクジラは知っていましたが、セミクジラというのがいたのですね。ひげクジラ、歯クジラなんてのもありました。知らなかった。ついでに前庭器官や耳石もあって聴覚、平衡感覚に関係しているのだとか。耳石はヒトの場合聴砂と呼ぶそうで。 私はなんとなくあのテレビの砂嵐みたいな音とか耳を机に当てた時にきこえる血液の音(ゴーという)や、耳鳴りのようなものを思い浮かべていたのですが、なんだかわからないけど鯨みたいななにかしらが平衡感覚に関わるところに打ち上げられたらグワングワンもするだろうて、と思ったのでした。これはまたはげしい眩暈だろうと。 聴砂を蝶や黄砂に見立てて、遠方を望ませるというのも良いなあと感じました。 調べなかったら、ここまで読むこともできたかどうか。言葉を知ることの面白さを再確認できた作品でもありますが、それは調査というほどではありません。 (前庭で砂が踊る日に)

2019-07-23

おはようございます。最初に坊主が出てきますが、語り口と語られる内容が、まさに坊主の昔語りのようで、それも私的には暗いうっすらとした蝋燭の炎だけがともるお堂のなかでほとんど無表情に、抑揚を抑えた声のためにかえって情念的な雰囲気を滲ませながら、目はこっちをずっと見据えて語っている、というイメージが湧いてしまって、どうにも馴染めない雰囲気だなあ、と思いながら何度か読み直しているうちに、ようやく慣れることができました(なので、上に書いたイメージも今になって言葉にできたのですが)。 試験管とフラスコ。やっぱりこの二点は現実に引き戻されて「あれえ?」と思っていたのですが、今となっては、これがとても良いなあと思います。試験管とフラスコを扱っているこの人は、これまた私的には色が白くて表情が乏しい、やや厭世的でなぜか眼鏡をかけた人なんですが(笑)、その人が実験室みたいなところでなにやらやっている時に、試験管なりフラスコなりの先に、やたら現実(現在の外的日常世界)とは離れた世界が見えている、という風に読んだのですが、試験管やフラスコが、絵画でいうとあれは遠近法の第一消失点というのかな、作品に奥行きを出す役割を果たしていて、しっかり構造ができあがっていると思いました。 で、さらに私的にいうとその人は、やってることからして実験者であり、観察者であるのだけども、ひょんなことから自分が感じてはきたけれども表面にはださなかったことを、その時見ているわけです。情念的で血生臭く、狂騒じみた世界を。 個人的に生物学や物理学のような自然科学の世界は、生命現象や物理現象の法則、その存在の謎や驚きや感動にとらわれた人がやってるんじゃないかと思っています。でも「生命、すげえ!」では何も伝わらないので、論理でもって話さざるを得ないと。だから文章では長いし、話はとかく難しく退屈にさえ感じてしまうこともあるわけですが、そんな個人的な考えにしたがうと、この人が試験管やフラスコを通して見ている世界は、人間社会がつくりだしている、相も変わらぬ《この世の美醜》という「普遍的」なものであって、しかもそのような情欲、情念をもっている自分自身でもある、ということが示されていると読めました。 そのような世界を見ている彼自身、をさらにその背後から見ているような、そしてあたかも戯画化するかのような語り手の語りが、彼が見ている世界の様相と、見ることによって表れる彼自身の情欲や憎悪、興奮や冷徹さを、近づけたり離したりするというダイナミクスを感じることができました。 (皇居正門の真下で)

2019-07-23

おはようございます。 《世界から少しだけ華やかさが減った朝》 この行、「僕」の「君」に対する思い(「僕」の世界に「君」がどんな存在であるのか)が表れていて好感がもてます。「無駄に祈る」もいいです。 (花弁)

2019-07-22

再レス(補足)になりますが。 私が「甦る」と書いたのには理由があって、実際に経験している夏っていうのは、かなり散文的で、まったくもって平々凡々なんだけども、ここに書かれた「言葉の夏」に触れて、ああ、きちんと意識したことがないけど、夏ってもしかしたらこんな感じなんじゃないかな、と感じたんです。そんなふうに潜在的には感じてはいたかもしれないけれど意識化(言語化)されていない部分に、この作品の言葉が触れてきたように思う。だから、言い直せば、経験していない夏を経験させてくれるような「言葉の夏」であって、初めてなのに甦ってくる感覚、ということです。その意味で、多くの人の内部に「共通」してある未だ言語化されていない感覚にひっかかってくるのでは、と書いたのでした。 (夏の記し(三編))

2019-07-21

こんにちは。 めたくそ疲弊感におおわれている時に読んだら、ピタッとはまって笑顔を取り戻せそうな作品だな、と思いました。 三連目の最終行に《ハイヒールのリズム》を置いて、四連目の《ニヒリズム》、そのあとの《カフェ/地下鉄/待合室》の音の運びは本当に《心地良》く感じました。 今年はアイスクリームを例年よりもよく食べています。ちょっとした甘さ、冷たさでも、少し穏やかさを回復できた気持ちになります。作品中は《食べたいな》で、食べてないから、そんなんじゃどうにもなんないのはわかってるけど、という気持ちが含まれてるのかもしれないけれど。 (メトロ)

2019-07-21

おはようございます。 なかなか思っているようにはいかないものですよね。笑 雨に濡れて走ってみたいと思って、暗い空に期待して走りだすのは、投資少なくてもかかる確率の台で勝ち試合をあてこむのとどこか似ているかもしれません。ところがかからないという。それでも雨にはあたる笑。しかも想定外の土砂降りだから、小降りになるまで待つ(流されてしまえばいい、なんて言ってたのに!)。それも、雲の流れを追って計算しているとこなんか、1000円でやめるセコさにつながっているようで面白いです。 期待をしながらも期待どおりでないとすぐに手を退いたり、予想を上回ると足踏みしたりしてしまう都合の良さを省みることのないまま、いわゆる現実的な生活にも入ろうとせず、「諦めるのは早すぎる」と繰り返すのは間抜けた話のようですが、案外こういう人は少なくないかもしれません。そうした典型をサラッと描いているように読みました。面白かったです。 (雨に打たれたい)

2019-07-21

こんにちは。私には発想からして思いつかない作品でしたが、愉しく読ませていただきました。混ぜこみながらの組み立ても面白かったです。 書けと言われても書けっこないのですが、改めて読み直してみるに、最後の〔ご想像にお任せします〕のくだりは、もしかしたら私なら途中から〔〕を外してしまったかもしれないなと想像しました。 (謝罪会見)

2019-07-19

帆場さま おはようございます。コメント、ありがとうございます。 そうなんです。《淡々とした雲を眺める日というのは誰でもある》のです。とくに私は田舎暮らしなので、毎日いやでも目に入ります。笑 そんで、「今さら『雲』~?」と最初は突っ込み入れたり、呆れたりしたんですけどね、書いてるうちに書きたいことが見えてきた。日常的にも雲を眺めたところで、滅多に心が動いたりしないのだけど、書きながら「あ、いまちょっと動いたな」って。言葉ってほんと興味深いです。 で、個人的には誰が読んでもそこそこどういうことを書いたかわかるように、やや恥ずかしいことも辞さずという、なかなかに勇気をだしてみた思いも強いんですが、やはり人それぞれですので、違いがでてくるかもしれないですね。 (昼下がりのソネット)

2019-07-19

【】様 おはようございます。そうなんですよねぇ。 《幾度となく分かれ道を選び その結果が今の自分》なんですよね。だから、そっか、おれだって(むしろおれの方が?)自由だったし、自由やん、て、まあ、ちょっと動く。そこのところを書いてみたくなった。といっても、成り行き上、そうなってしまいました。くみ取っていただき、ありがとうございます。 (昼下がりのソネット)

2019-07-19

こんばんは。 夏の匂いや温度や眩しさが(そこはかとない寂しさも含めて)甦るように感じます。もしかしたら、これからもこんなふうに体験しちゃうんじゃないかなあ、と。そのくらい共通の感覚にかかってくる作品だと思いました。 (夏の記し(三編))

2019-07-18

こんにちは。ペースというか、行をわたる間(ま)のとり方が相変わらず好きです。といっても一定なわけではなくて、ときどきずらされる。呼吸なのかなあ。 多分一対一の格闘技の試合とかだと、やりにくい相手だ。笑 《溶かした》のところでパンとはじけて滲み(溢れ?)出た感じがしました。リフレインのコメント多いし、私も好きですけど、そこまでの運びがあってこそなお、という気がします。 最後のフェードアウトしていく感じもタイトルとマッチしているように感じました。 (カフェ・ミラージュ)

2019-07-18

こんにちは。だいぶん以前になりますが神話学者のカール・ケレニーが書いた「ギリシャ神話」の中にエロスに関する解説があったのを思い出しました。詳しくは忘れましたが、別の名前では「宇宙の卵」と呼ばれていたのだとか。なんとなく思い出しただけですが。 こちらでは今日も雲が太陽を覆っています。雲を透かして太陽の白く輝くのが見えます。 昨日は夕立ち気味の雨が降りましたが、すぐに止み、雲間に青空を見ることもできました。「抱卵」とはそうした様子をも表しているのかな、と思い重ねてみた次第です。 それと同時になにかしらを期待しつつ待機しているような明るい印象も受けました。それは卵や(朝顔の)蕾という、可能性をもったものに由来しているのかもしれません。 ふと、もうすぐ夏だなぁ、と思ってしまいました。 (抱卵する空)

2019-07-18

こんにちは。とても素敵な作品だと感じました。特に最終連は、きらきらとみずみずしく、健康的で、つられて笑顔になってしまいました。 (めるふぇん)

2019-07-13

こんばんは。「嫁ない」(「読めない」)に一本。『菅田将暉くんへのファンレター』という過去作品をさらっともってくるところも好きです。 (YOMENAI)

2018-11-25

おはようございます。書かれていることは理解できます。詩というよりは考えていることの言語化という印象ですが。 《その中の一人が私でも何もおかしくない/何も変わらない》というところで、「私」を無名化させているようですが、どんなもんでしょうね。どれも命である点では違いないのだけど、一人の人間である「私」と一本の「草」、一匹の「虫」は現象としてはやっぱり違うわけで、いっしょくたにはできないんじゃないか。一人の人間である「私」が生きていて、その中で一本の「草」なり、一匹の「虫」なりの命について考え、その過程を通して、命の価値について考えるひとりの「私」という構図で生きることの価値を見つめてみれば、それを核に別の表現が可能になってくるように思います。 (崖っぷち)

2018-11-25

こんばんは。かつてWTCの爆破テロがあった時、救援にかけつけた消防士は選りすぐりの精鋭だったそうです。亡くなったあとも子どもたちのヒーローなんだとか。あんな人たちが亡くなって、役にも立たない害ばかりの連中がのうのうと生きてるのはおかしい、とかつての仕事仲間が言っていました。まあ、言い過ぎではあるけれど、勤務態度は怠慢で言いたいことだけは言う、それ以外は指示も他人ごと、そんな連中が多いのはたしかでした。そういう連中といっしょにいると、どんどん疲れちゃうんですよね。自分を落としたくないから頑張ってモチベーション保とうとするのだけど、それもアホらしく思えてきて、だんだん、はいはい、まあ、いいですよ、みたいになって。いっしょになって仕事してた仲間だったから気持ちがなんとなくわかった。冷めていく過程がよく書かれているように思いました。 (嗚咽 *)

2018-11-22

こんにちは。良い意味で読みづらかったです笑。旧かなで(私は新かな、旧かなという呼び方に慣れているので敢えてそのように書いています。)句読点がないというのは、ずるずると水分を吸って重たくなったものをひきずる感じがあって、歩行でいえば歩きにくいです。しかし、言葉の物質感というのかな、それをたしかに感じられるのでちょっとした発見でした。 近代詩のなかに句読点をはずした散文詩形の作品はないかとちょっと探してみたのですが行分けか、句読点つきがほとんどでした。頑張って草野心平の作品の、これも句点はあるのだけど、比較的長い詩文を拾ってみました。 《(冒頭略) そのまんなかを黄色いパステルのやうな道がのび向ふ側までつづいてゐるらしくそらが天末で消えてゐる。》(「音のない風景」部分、草野心平) すると、今作品ほどひきずる感じがしない。ネット媒体と紙媒体の違いかと思って書き出したのだけど、どうもそれとも違うみたいで。とすれば、長さと接続の処理以外にもひと工夫あるんじゃないかと思った次第です。 ともあれ、近代詩によくあるような湿気った感じがしないのは「リボン」「ブラウス」「スカアト」「妖精」といったような語がどこか西欧風のイメージを醸しているからかもしれないですね。私はなにげにリップ・ヴァン・ウィンクルの物語を想起しました。 余談ではありますが、かつて詩人の那珂太郎が「旧かなを遣わないのは日本語を愛していないからだ」と言ったという話を思い出しました。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-22

おはようございます。まず最初に思い浮かんだのはオルフェウスのことでした。で、よく作られているように思います。初見から気になったけど、改めて見直してもそれは変わらないです。内容に沿って、言葉のもっている音と意味とがそれぞれに振動して、ずれたり、分かれたりしながら大きく波紋を描いて拡散しているような感覚があります。それに、(非在)とするより(非ー在)のほうが「非」も「存在」もくっきり意味を露わにするというところも含めて、全体に言葉と記号とが効果的に機能しています。総じて視覚的にも聴覚的にも皮膚感覚としてもぞわぞわする。 関係ないことですが、一つの音にはたくさんの意味を持つ語があります。ある一つの語を発した時、それと同じ音で且つ異なる多くの語が同時に表出されたらいいのになぁ!と考えていた時期があることを思い出しました。 (あらかじめ喪われた、《角》へ。)

2018-11-22

こんにちは。最終連、まとめにかかった印象があります。詩が小さくなっているように。あるいは、三~五連のあいだで広げすぎたか。《大胆に言ってしま》うなら、《私は誰でもないのかもしれない》というより「誰でもない」としたほうが適当だと思います。後半から詩の言葉の生き生きとした動きが弱まって、意思表明の表現に収まるのはもったいなく思います。 ちなみにスランプであれ書く機会をなくすのはもったいないですよ。発表とはまた別なわけだから。発表は「月に一編」だってかまやしないんだし笑。 (私の輪郭)

2018-11-20

おはようございます。ちょうど夜の終わりと朝の訪れの様子が、視覚的にも聴覚的にも思い浮かぶようです。《朝日だ》がそれをより明確にするように働いていて、言葉にも光をあてているように思います。 《もうすぐで》って、日常語としてはたまに使うけど、あれれ?そういえば文章としては見かけないですね。 (寒露)

2018-11-20

おはようございます。たぶんですけど、飲み屋のカウンターを挟んでお客が話すのをバーテンが聞いているという設定ならアリです。日常会話としては要点に欠けるし表情に変化がないのできつい。文字として読むには乱雑でとりとめがない。 ただ、書き手の意識にいっぱいになった思考なり感情なりがあって、それ自体が乱雑でとりとめのないものであるとしたら、それは問題ではないと私は思うんですね。むしろ、その乱雑さ、とりとめのなさをもっと見つめる必要があるというか、テーマをそこにあてると言語表現としても構成としても変わってくるんじゃないかと思います。ここに書かれているものはナマな感じがするのです。たまにナマな姿、裸の心をさらけ出せばいい、ということを聞くことがあるけれども、すべての裸が美しいわけではないものなので、そこそこには練り鍛えられた裸であってほしい。笑。 ともかく、これがほんとうに書きたかったのか、まだ書き足りていないことが残っていないか、が気になってしかたがない。実は、この後にこそ書き始められる詩があるんじゃないか。そんなふうに考えています。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-20

こんばんは。最初は雪が毒素かなんかを含んでしまって触れるとヤバいみたいなことになってしまった近未来的な設定かと思っていたら、全然違いました。むしろ悪夢ですね。 家からは追い出され、誰もいない、シャッターがおろされて入れない。これはもうはっきりと生活世界から閉め出されてしまった感があります。たしかに「拒絶」です。 これが仮に夢だと考えてみると、語り手自身が家庭生活や生活世界を拒絶しつつ、そこそこ満足に暮らしていることの反映ともとれるし、ほんとうに閉め出されてしまったら逃げ場所を(行き場を)失うことになるとして、意識生活で見えていない家庭や生活世界の、というか生きている場の大切さに気づかせようとしているともとれる。家庭や生活世界がアイデンティティを形成する一部であると考えるなら、つまり、「私が私であること」を根拠づける要素の一つであるとしたら、そこへ戻れないのはなかなかの危機的状況と考えられます。とはいえ、そのような状況において「祝福」を思い浮かべる、というのは興味深いです。仮に「祝福」であるならば、語り手にとって、いままで生きてきた場所はあなたに合わなくなった、ということでもある。違うところ、新しいところへあなたは向かわなければならない、と夢が語っていると考えることもできます。そして語り手のなかでせめぎあう「帰りたい/どこへ」と偶然にも一致している。「行かなければ。でも、どこへ」。とすると、古い世界に逡巡している語り手を、ほら、早くと雪が煽っているようにも思えてきます。夢の解釈はそれぞれですが、悪夢的でありながら、一方でまだ開かれていない未来へ背中を押す明るい一面も持っている、という風に双方向から捉えることができます。まあ、まったく異なるところへ踏み出すのも、気づいていない現在の生きる場のよさを見いだすのも、結果的には新しいことだから、あながち「祝福」を感じるのは間違ってないように思います。 あー、でも、そうなると「空襲」のもつイメージとまったくかけ離れてしまいますね(;^_^A とにかく、こんな感じでいろいろと想像させられる作品でした。 (空襲)

2018-11-19

こんにちは。《洗濯機の中で絡み合う私たち》というところ、面白いなと思いました。 ときに、今ではあまり使われなくなったようですが、二槽式洗濯機というのがありまして、洗濯槽と脱水槽が別々になっているんです。全自動は一度に全行程をやってしまうのですが、二槽式の場合は洗濯やすすぎと、脱水を分けないといけない。その点やや面倒といえば面倒なのですが、洗濯槽に蓋をしなくてもよい(というかそもそも蓋がない)ので、汚れの落ち具合や洗剤の落ち具合を見て、洗濯を止めることができるんです。あー、水がきれいになったからもうすすぎもできたなー、脱水しよ。みたいな感じ。だから、洗濯中もその様子を見れるということです。全自動だと蓋にロックがかかるから終わるまでは一度停止をかけないと中が見れない。そういうふうにしない限り、中を見るのは脱水までの行程が終わってしまってからになりますね。ここをどう考えるか、です。二槽式であれば、洗濯中は泡の溶けた汚水のせいで中は見えにくいものの、さほど絡み合うまではない。洗濯槽が脱水槽に比べて大きいからかな。しかし、脱水後はひどい絡まりようをしています。もつれあってほどくのが大変なくらい(量にもよりますが)。全自動は同じひとつの槽でやるから、それも量によるとは思いますが、二槽式の脱水後ほどはひどくないんじゃないか。で、二槽式の洗濯槽の場合で考えると、ある一定の広さのなかで、汚れ(汚水)にまみれて交わりながら揉み合っている状態と読むことができます。まあ、「絡み合う」のだから恐らく脱水後のことと推測するのですが、そうすると、全自動の場合ではある一定の広さのなかで互いに交わり絡み合う、二槽式の場合だと極端に限られた狭いところで救いようのないくらい、もつれ合い絡み合う、いわばぐちゃぐちゃ状態という感じになる。だから、《洗濯機の中で絡み合う私たち》も表現として面白いのだけど、「私」が思っていた《真実》の解釈に差が生じてくるように思います。マニアックで細かなところではあるけれど、「こそ」と強調され「思ってた」と告白がなされている唯一の箇所、そんで作品のなかの結節点でもある大事なところと思ったので、しちくじいことを書かせていただきました。 (つまさきまで)

2018-11-19

すいません。私の読み違いかも。《空に溶けていつた》あとの余韻というか、名残のようなものが、すっかり取り払われたあとの、ほんとうに一切が抜け落ちて遠くなった感覚(それこそ《がらんとして高い》)のための最終行かもしれない。そうすると、その遠さはまぶしさとしても感じられます。 《溶けていつた。》の印象が強くて、そっちに引っ張られたのだと思います。「いった」ではなく「いつた」。「つ」で詰まって「た」で一気に開かれるところ。旧かなならではですね。 (小さな村で見た)

2018-11-19

こんばんは。旧かながよく作用していると思います。新かなだとたぶん「現在」が「太古の記憶」につらなる時空間の味わいが消えたんじゃないかと。丁寧な配慮が見えて好ましくも感じます。 ただ最終行は迷うところです。詩というよりも詩的雰囲気として収束させている感じともとれます。《空に溶けていつた。》で、その広がりの方へ向かったものが、それ以上に飛ばされず、はぐらかされたような感が多からずありました。「高い」のあとに「。」で切ることで、雰囲気に流れるのをぎりぎり抑えた、というふうにも読めますが、せっかくだから、もっと飛ばしてほしかった感は否めません。終結部の難しさは重々承知のうえですが、好きな向きの作品だけに敢えて。 (小さな村で見た)

2018-11-18

面白かったです。ついでに、こういった話は読み物として読むのがいちばんだな、と思いました笑 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

おはようございます。諸感覚でとらえた描写が丁寧に配置されていて、良いなあと思いました。語りかける語り口も、関係の親密さを感じさせます。夢をスープに、眠りを絹に喩えるのも新鮮ですし、この部分が描写を詩作品へ高めているように思いました。(ただ、私だったら《熱い一杯の~/夢のなかで》は一行にしたなあ。あー、でもそうしたら「なみなみに」が弱くなるから、ウーン、悩む) 《春風の礫は鼻先で弾けろ》なんてのもね、ゆっくりとしたリズム、なにげない言葉のなかに急に差し挟んで破調しつつ、「なにげなくない」イメージを想起させるのも見事です。 犬と生活している方は沢山いるでしょうけど、こんなふうに愛情や祈りにも似た「想い」を「詩作品」として成立させるのは難しいと思う。しばしば味わう「幸福な読者」感を堪能しました。 (ピピ(十二歳の犬へ))

2018-11-16

おはようございます。自由の女神は他国から贈られたもので、足に鎖がついているという話を聞いたことがあるのですが、本当なのか作り話なのかはわかりません。ともあれ、冒頭と「いや、ちょっと待て」からつづく探索に、そのことを思い出しました。自由にはなっているけど、まだ縛られているというところで。 最終連の「そして」が、文と文を繋いだり経過を表すような単なる接続詞としてではなく、前段からのリズムの転換、躍動へむかう機能をはたしているように感じられ、実に見事に思いました。 (よしっ。いや、ちょっと マテ。 *)

2018-11-16

こんにちは。(たとえばそれは、一九七四年のアミティビルハウス的です、)という箇所に、賢治のとある詩を思い出しました。 《眼の中で世界の波が砕け散るようなこんな夜は、 (夜は、冷たい心臓が空き缶のような音を鳴らしてる) 街灯が道や建物を仄かに青く照らし魚になってゆく。》の一連は特に好きです。 かもめさんの試みの一端を知っている者としては、フォントの大小や色が使用できていたらどんな具合にしただろうということを思い浮かべもしました。 ともかく、いつももう少しで触れることができそうなのに、触れることができなくて、やきもきするというかなんというか、うまいこと言えませんが、それだからこそまた触れようとして近づいてしまうようなところがあります。 例えば、 《でも、そうやって感じた何かを、違和感を、 いまもずっと追いかけてい―――る・・。》という感じで。 (プライヴェートな【 接 触 】)

2018-11-09

完備さま コメント、ありがとうございます。納得しましたし、とても爽快です。これぞ合評形式の投稿サイトの醍醐味。とはいえ、反省がすぐに活かせるかどうかは別の話で。勉強になるなあ! コメント、改めて感謝します、全力で! (駐車場から)

2018-11-03

オオサカダニケさま 文学のジャンルのなかに詩という形式があるのは知っていましたが、詩にもジャンルがあるんですね。それは厄介だ。まあ、競争相手だのなんだのと言わず楽しく遊べればいいと思っています。遊びもつっこめば楽ではないけど、その分日常の生活や言葉の交換とは別の楽しみが得られるというもので、それがいばらの道なら贅沢ないばらか、さもなくば妄想にすぎないというところでしょう。 詩を書いている人間の99%が私と同じタイプの詩を書こうとしているかどうかはしりませんが、詩を書いている人間の100%が死にます。そして、100%のうちのわずかな作品を残して埋もれてしまう。でも、それでいいんじゃないでしょうか。そうした土塊もつくりながら詩という山がつくられてきたし、これからもそうでしょうから。そうやって望まれる山ができるのは嬉しく楽しいことです。見上げられるのが頂上付近であるにせよ、ままに山登りしたいという物好きもでてくる。そうした人々は知らず土塊であり山の一部である、頂上を支える埋もれた詩作品を足場にしていくのです。 あ、私は「先生」と呼ばれる仕事もしていないし、嫌いなので、今後このような呼び方はご遠慮ください。 (駐車場から)

2018-11-03

内容としてわかるし、感じられるものがありますが、幻想の側をもっと強調してもよかったかな、と思います。表現としては推敲の余地はあるもののスマートさを感じます。 (ピアノ)

2018-11-02

おはようございます。この作品、聴覚的表現が重なるのが気になりますが、そこをうまくクリアしていれば(もしかしたらそうでなくても)三連目だけでもいけたように思います。 (冬の音楽)

2018-11-02

読んだとき、彼はどこかへ行きたいとして、彼女もどこかへ行きたいんじゃないかなーと思いました。たぶん、通行禁止でも大丈夫なんじゃないか。そういう旅行(トリップ)。 (目的地)

2018-11-02

こんばんは。息継ぎしないでどこまで読めるかに挑戦!みたいで、ニヤニヤしながら読みました。起伏も緩急もあって面白いです。 それに(個人的なことですが)この語り口でこの長さでこの切り方、最近は滅法やらなくなりましたが、好きでやっていた頃を思い出しました。笑。 (ゲロ)

2018-11-01

こんばんは。これ、ちょっとわかるような気がします。言葉がボディをもつ瞬間というか、その感覚というか(違ったらすいません)。だから、改めて置く 《“ブレーキ”》のとこ、とても好きです。 (一人合点)

2018-11-01

こんばんは。《水母の夢想》を水母ではない〈私〉が見ていた、と読んだのですが、そうすると、それはそれで種を超えたシンパシーを感じさせてくれます。ただ、ここは〈私〉に帰着させなくても面白いんじゃないかなとちょっと思いました。 (水母)

2018-11-01

こんにちは。私みたいなオッサンから見るとずいぶんお若い方なのだろうな、とまず思いました。語尾を「ーんだ」で締められると、そこで抵抗を感じてしまうわけです。もちろん全てのそのような作品についてではないから、「ーんだ」も使いようかなとは思うのですが、もしかすると、この「ーんだ」が、意図せず、この作品を詩たらしめようと「している」のかもしれない、と思いました。つまり、作品の言葉が若さ、新鮮さを感じさせるということです。「分かち合う」などという1980年代ポップシーンで頻繁に聴いて嫌気がさした言葉を、その通りの文脈のなかに置けること。これも、やっぱり私には難しい。この作品の主人公と小杉さんが同一の関係にあるとしたら、その「いま」に溢れているように感じます。そう考えると、ありがちな詩句も雰囲気に流れているようなあたりも、抵抗なく入ってきます。 以上は考えたことです。で、この作品中、目をひいた箇所が一カ所だけあります。 《君のよく通るその声!》。前の行から、いきなりこの一行が入ってくる。ここはとても鮮やかに感じました。語順・音のつながりもピタリでした。 (未来へ)

2018-11-01

こんにちは。テレビっていいですよね。私はテレビっ子の漫画好きで来たから、いまでもテレビをみます。最近はビデオ、じゃなくてDVDを借りて観ることが増えました。世の中いろんなことが起きているなぁと思います。それに対してアクションできないんだけど、起きてることは観て知っている。知っていて、アクションできないのはちょっと申し訳ないと思うこともあるけど、生活ありますからねー。ていうか、テレビもネットも社会が求めているから普及したわけで、それで申し訳なさ感じるとか自縄自縛ですね。不買運動したって、もはや批判にもならない。この状況はますます進歩するだろうから、この主人公がそれをどう越えていくかに、10月の八畳さんの作品『遺影』を重ねて思いながら、興味をもちました。 テレビを観ている私(たち家族)を見ている私、という感じ、よいですね。 (テレビジョン)

2018-11-01

おはようございます。 《切符という音の/うつくしさを理由のすべてとして》という詩行、美しいと私も感じましたが、その前の一行があるからなおさらそう感じることができます。だから《ふたりはふたりぶんの切符を買う》という一行は、さりげないけど素晴らしいです。 それから目立たないけれど《荒れた手》《切れた指》《近眼》という語が、まぼろしにリアリティを与えている。技巧ですね。 言葉の映像美を感じます。 (ill-defined)

2018-11-01

とにかくもうがんばってください。 (エール)

2018-11-01

詩というよりは表明とか演説ですね。 (自己紹介)

2018-11-01

《この愛憎で満ちた世界》(という言葉もどうかと思うけど)=《失意の楽園》というのは、すでにわかりきった話で、二度までも繰り返して書く必要があるのかどうか、甚だ疑問ではあります。むしろ、《悪魔の笑い》をどうやって笑い返すか、そこを読みたかった。 (「濁」)

2018-11-01

一行空きが気になりました。 (詩 第十五)

2018-11-01

リズムありきというか、一、二行(七五)、三~六行(八五)のリズムが強すぎて、内容がかすみます。 (不法投棄)

2018-11-01

こんばんは。最後の二行に優しさを感じたのはわたしだけでしょうかね。「ったくもう、おまえというやつは。笑」みたいな。かわいさ余って憎さ百倍なんていうけれど、愛情の裏返しというか、めでたさが高じて意地悪言ってる感があって、実際は、「胸焼け」してしまうくらいスウィートな気持ちなんだよ、コノヤロー、みたいな。そういうところで考えれば、言葉を発するひとの心の機微がでているともとれます。で、ユーモアを感じます。 ( アップルパイ屋の独り言)

2018-10-31

おはようございます。ボートに乗って川を渡り、無事に岸にたどり着いた感じ。揺れのペースが心地よく感じられました。 (狭い)

2018-10-31

まりも様 こんばんは。コメントありがとうございます。もう付け足したり削ったり、また付け足して削ってでした。一時はたった一行だったりして汗。無駄は極力省いたつもりです。 結果、全体像をつかむのにつかみづらいことになったのは、力のなさですね。 ともあれ、久しく書いていなかったので、エスキースとしてはまずまずに落ち着いたかな、という感じで、今後も精進します。 コメント、改めて感謝します。 (駐車場から)

2018-10-30

こんばんは。なんというか、チャレンジ精神旺盛というか、難しいことやってるな、という印象ですね。これはこれでやっぱりすごいことなんですよ、「現代性」を感じることができる。 現代の言葉を詩に用いることの重要性は、鮎川信夫もそれより若い詩人の(誰だったかは忘れた)作品を挙げて語っているから、さほど目新しいことではないのだけど、それで詩として成功させるのは腕がいる。だから、用いてもわりかし控えめになる。それでいえば、これだけの量を持ち込んだから構成の面で気を遣ったんじゃないかと想像します。 そこに「イイネ」をつけたい気分。 (遺影)

2018-10-30

こんばんは。すでに書かれているコメントに似ていますが、この作品をたたき台にして書いてみるテもアリかと思います。 (Sunday Afternoon)

2018-10-30

こんばんは。個人的に語尾が気になった箇所がありましたが、詩句の繋がりや構成のよさを感じました。一番好きな箇所は「弱っちく」の「っちく」です。 (癒ゆ)

2018-10-30

こんにちは。小学生の頃に、父親に「なんでお父さんのことをお父さんて言うの?」と訊ねたら「お父さんだからお父さんなんでしょ」と母親に言われて、「そうじゃなくて云々」とがんばってたら、母親にひっぱたかれたことを思い出しました笑。やな子どもだ。 切り換えがはっきりしていて、且つ自然で快いです。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-30

こんにちは。全てが白一色で統一されているのに物の形が判然とするのか、まあ、目が慣れたら大丈夫なのかもしれませんが、わたしはそんな部屋に「はじめから居たら」、音を気にするよりもまず、部屋の出口を探しただろうと思います。この主人公は神経質ではあっても、案外タフな精神の持ち主なのかもしれませんね。 ときに時計は見つかったんだろうか、と気になりましたが、見つからない時計の、「音」だけが聞こえるところがミソなのでしょうか。せっかくなら秒針の音も白くしてよかったかもしれません。 (白い部屋の秒針)

2018-10-30

こんにちは。《散りばめられたビー玉》はどこかしら小さくはないような気がしました。幾ばくかの重みを感じるからでしょうか。 後半四行は安易に過ぎる感が否めませんが、若さが感じられます。 (おはよう)

2018-10-30

こんにちは。将棋の対局で、次の一手を考えているのに似た密度のようなものを、行間の空白に感じました。言葉と空白の比率に詩があるように思います。 (秋の赤)

2018-10-22

こんにちは。 「カフェーミュージック」の「ー」が面白いです。 (声よ届け)

2018-10-22

こんばんは。羽田さんのこれまでの作品から読みながら、仏教的なテーマであると推測しました。ひとの生死にかかわる悲痛な状況が書かれているのですが、他方で、死者に集る蝿、蛆に注目しました。死体とそれに集り貪る無数の蛆や蝿の蠢きは、ひとの生死の外側に厳として存在する自然の働きであり、餌場とし解体させることによって、ひともまた自然の秩序のうちにあることを証する。この蛆や蝿といったミクロな存在が浮かびあがらせるマクロ(自然の秩序)な働きを宇宙的なものと見るのは些か拡大解釈になるかもしれませんが、そう考えてみたくなります。そして、それゆえにこそ、ひとにとっては無情であり、悲痛さはいや増すのではありますが、それにとどまらない広がりと奥行きのある作品に感じます。 (蠅)

2018-10-18

こんばんは。「そのひと」の素姓は不明のまま、「わたし」によって捉えられた様子だけで語りが進行する。それが「そのひと」の存在にリアリティを与えている。明らかにされないまま、作品が終わってしまうので、「結局そのひと」は何(者)だったのか?という謎が読み手に残される。とても優れた作品と思う。 (家)

2018-10-15

こんばんは。四行目の「そして」以降と一~三行目は、「そして」で結ばれる関係ではないですよね。でも、「わけではない」という二度の否定があって否定が強調されているように思えてしまう。こうしたレトリックは村上春樹の小説とかで使われているような気がして、有効ではあるけれど詩的レトリックというほどではないかな、と思います。むしろ、短さと言い切り。これに尽きると思いました。あ、いいですね、と言っております。 (母よ)

2018-10-15

こんばんは。「呼びかけ」のある作品は苦手です。もう、それでもっていかれてしまう。語り手に同化しやすくなるのかな、なんて振り返ったりします。(余談ですが、菅原克己の『マクシム』だったか、あれもヤバかった) 作品のリズムの使い方、これがやはり絶妙ですね。 (きみが、そらにだけみちているから)

2018-10-15

こんばんは。「バリアフリー」とか「タンニン」という語を詩作品のなかに違和感なく持ち込めるところが素晴らしいです。私にゃ無理。笑。叙述のありようがそれを成功させているとは思うのですが、そうなると、この作品で行分けの必要性があったのか、少し気になりました。行分けなしの方がよかったのでは、と。 しかし、「8の字ダンス」と無限大、文字で表されると、なにげに頭ではわかっていることでも、改めて「おお!たしかに!」と再発見の喜びがありますね。 (蜂蜜紅茶)

2018-10-15

「意義」はそのまま読んでよいですか。「異議」と読んだほうがよいですか?私は後者じゃないかなと思うんですが。その方が《リアリティに~》の意味がすんなり通るし、また、こういう「あたし」であるがゆえに、両方の耳をあまがみしたいという謂いも、「あたしらしく」思えます。だって、だって、口はひとつなのに耳はふたつ。現実を認めれば、無理なんですから。そこをあえての両耳。 ところで「あたし」がきいている音楽は音楽という語でたとえられる何かでもある、というふうに受け取りました。なにに触れているんだろうと興味をもった。 詩行にあるように、なかなか、つかまえがたい良品に思います。 (あまがみ)

2018-10-15

おはようございます。 《何気なく通り過ぎた言葉と/何気なく通り過ぎた風がつついて/忘れていたような景色を思い出すとき》 この三行はなかなか書けないと思いました。特に前の二行とのつながりを使って《忘れていたような~》と書くのは。素晴らしい三行だと思います。内容としては特別なことを語っているわけではないと推測しますが、表現としては、この作品中、特別に素晴らしく感じました。 (飼い主のない猫)

2018-10-15

こんばんは。 《枯れ木の連なりから/あ、と言った後の、 /街》 《反射した微かな風が舞う》 とてもよいと思います。 (陰)

2018-10-15

こんにちは。意味を考えなくても読める、というか、読む時の音だけで十分味わえる作品に感じました。 (午睡の刻)

2018-10-09

こんにちは。最終的にオルガンだけが残されたかのように思えるほど、オルガンの存在感がすごいです。というか、何をコメントすりゃいいのか、考えつかないくらい完璧で腹立つし、うれしい笑。 個人的に、第一連の《路地の奥の小さな家で/オルガンが息をひきとる》の語数とその語数が作り出すリズム、ここは「最も」シビレるし、第三連の《ゆくのだろう》の「の」に感服しました。 (オルガンの死)

2018-10-09

こんばんは(おはようございます)。数年前に他界した叔母は、長崎の出身でした。それを本人から聞いたのは亡くなる数年前のことでしたが。彼女の話では、長崎では原爆投下の前にビラが撒かれたそうです。大阪大空襲の前にビラが撒かれる場面が、故・今江祥智の児童文学作品(たしか『ぼんぼん』)にあったと思うので、撒いたのは米軍でしょう。非常に大きな爆弾を落とすので逃げるように、というような内容のビラだったそうです。彼女はそれで歩いて山を越えていったと。そして翌日山の上から来た方を見下ろすと……ということでした。幸か不幸か、私は親戚からそうした話を聞くことができたし、子どもの時分には戦争や空襲の話を聞くことができましたが、いまは少なくなっているかもしれません。「語り」は目の前で声や表情、身振り手振りとともに聞き手に伝わって想像を促す力をもっているから、そういった体験を通して知ることができないのは大事なことを失っているように思えて、薄寒さを感じます。些かずれましたが、そのような時代にあって必要な作品だと思いました。 (ラ・ラ・ラ族)

2018-09-20

あー!ということは、最終連は、 《よく聴けば‥‥ JYAMJYAMJYAM‥‥MPALAJYAMPAL‥‥‥JYAMPALAJYAMPALAJYAMPALA‥‥MPALAJYAMPAL‥‥‥JYAMJYAMJYAM‥‥ 》から、語り手自身が徐々に変容していくということですか!? だとしたら、読みが浅かったです!惜しい! この箇所が何かしらキーになっている気はしてたのになあ! 読む→立ち会う、という〈作品〉と〈読み手〉の関係の変化、という構造に「おお!」と思っていたのですが、そこで止まってしまいました。まさか語り手の変容にまでも立ち会わされる造りだったとは! いやいや、そうするとますます面白いですね。 (じゃんぱら)

2018-09-20

こんばんは。いまさらですが、10月になったらコメントできないので、遅ればせながら、コメントを残します。 《と言ったら河原弥生先輩が/後藤君、君さ、勃ってるよね/と言ってきて/須田克敏が/お前、確実に勃ってる/と言って/後藤は人類の総体に欲情してるんだぁ/と笑った》の箇所、こういう会話が日常のどこかで行われているかもしれない。行われていても不思議ではない。と、思うくらい、馬鹿げていてどうでもよくて、そこが面白いのですが(というのは、だいたい私はふだん馬鹿げていてどうでもいいことを好んで話すので)、「馬鹿げていてどうでもいいこと」は本当に馬鹿げていることなのか、あるいは価値がないのか、そんなことを考えました。個人的にはふだんの〈わりとどーでもいい〉と片づけられることは大事で、それによって日常生活が支えられているんじゃないかくらいにも思っているのですが、にもかかわらず、〈どーでもいい〉なんて言ってしまったりしているわけです。「そんなどうでもいいことをしてないで~しなさい。」とか「いつまでもつまらないこと言ってないで云々」とか言われてきたからかもしれません。一面では、たしかに〈どーでもいい〉ことで〈馬鹿げて〉いるにせよ、他の一面では欠かせないことのように思う、損得や何かの為という側から見れば価値があるとは思えなくとも、それらに属さない価値があるのと違うか。そして、そのような、所謂〈どーでもいい〉と言われる様々なことどもは、それに興じていた時の心の動きといっしょに、一つ一つの細部を曖昧にしていき、忘れられて、無意識内に蓄積されていく。無意識内ということは意識できないという点で、有るのに遠い。それが、 《今、頭上で欅並木の葉が/光りつつ揺れ/音が/走っている/そこに/鳴いている熊蝉。姿は見えない》という、諸器官を通して入ってくる混ざり合った感覚的刺激と重なるようにして、眩しく甦ることがある。これはなんと言えばよいのかわからないけど、〈確かにある、ただ見えない〉という、〈いま、ここ〉でありながら、〈遠さ〉を同時に感じることで、《それだ》としか言いようのないことだと思います。ということで、どーでもいいことのただごとではない価値を感じさせてくれる作品でした。 ※コメント欄の自解は読みましたが、敢えて勝手に感想を書かせていただきました。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-09-20

こんばんは。残念ながら今月は間に合いませんでした。が、澤さんの選評と優良まではほぼ似ていますね。右肩さんの作品は、澤さんとは逆でした。最後、時間ない!と思った時も《もうだめだ。》と言わずにおれなかった。まあ、各コメント欄に細々残していくつもりです。笑 それにしても、一旦絞りこんでから選んでいくのはかなりハードでしたね。おかげさまで選評コメント書く暇が足りなくなるという不始末ですわ。そのくらい良品が揃っていました。 (【選評】澤あづさ選2018年08月分)

2018-09-16

こんばんは。さっき、読み直していて、いきなり、あれ?面白いんじゃないか!? と、思って何度目かわかりませんが、読み直してみたら、やっぱり面白かったです。調子が悪くなったり、他の理由があったりで、交換していく、ということ(の「繰り返し」は昔話などに見られますが)、と、そのいちいちを記述していく、ということ、そして、記述していたらまたもやぶっ壊れてしまう、というオチ(というふうに読めました)。そこのところで、それまで読んできた内容が、文字通り「過去に起こったこと」であり、それを「いま、順を追って記述している」ことで、その繰り返されてきたことを読んでいると思いきや、まさにここで起きるのにこちらが立ち会わされる、という構造。いやー、何度でも読んでみるものですね。 (じゃんぱら)

2018-09-14

くうきが固体化する》と自分も動けなくなる、ので、《むせる》ことができるかどうかはわからないが、いきなり固体化して、包まれている自分も動けなくなるのが怖いことは間違いない、そして《深呼吸》にしろ当然できたものじゃない、だから、《慎重に、丁重に、》だ。この連がもう《慎重に、丁重に、吸って、吐いて》いるようだ、そんな注意と呼吸をしている、ように感じる。 それにしても《キメラ》。ライオンの頭と山羊の体、蛇の尾の噴火獣(シュメール)。はおぞましい、が、それは姿もありようも、であって、《私》は、それにもましておぞましいのか?と、《私》をそんなふうに見ている〈もうひとりの私〉にたずねてみたくもある。あっちこっちで相手に合わせてうまく対応する、他者との関係に心を砕く努力をすることは、〈もうひとりの私〉にとっては「キメラ」よりキメーこと、おぞましいことなのかもしれない、〈もうひとりの私〉は《私》がそんなふうにふるまうことに脅かされるのかもしれない、そう思う。 白い服は死に装束みたいだし、白い服しか着ていない人々の集団はこわいので、近寄り難いので拒絶には適している、そのくらい〈もうひとりの私〉は《私》が上手に環境とやっていこうとすることを怖がる、遠ざけたがる、それで《無視だ無視》というのは焔じゃないかと、キメラの仕業じゃないかと、少し疑う。環境や他者との関係に心を砕くこと、対応力をつけることを、それほどまでに拒み、遠ざけようとする、「変化の否定」の強烈なありようは、むしろおぞましい、ような気がする、足をつかむ渦巻き、呑み込む太母のような、怖さがある、ので、白い服は、《私》を外から遠ざけ、内側につなぎとめるにぴったりだ、そのぴったりさ、浮き世離れした似合い方、《私》を《キメラよりもおぞましい》と見る〈もうひとりの私〉の、〈否定〉に見合う《白い服》を思う。さらに、さらに、白い服以外着ないとしたら、いつでも誰にも同じ装いというのは、変化に富む人間としては融通の効かなさ、硬化にも見えはしないか、《固体化》を思い出す。相手との関係によって対応や見せ方は変わる、呼び方が変わるように、それは生きていく上で社会的に要請されるふるまいに適応するものであって、ペルソナを獲得することであって、いわゆるパーソナリティはそこで形成されていくものであるとすれば、それをシャットアウトすることは有意義といえるのか、考えなければならないし、〈私〉というものに対する見方が、〈私〉自身にとって都合の良い理想として作られてはいないか、吟味の必要がありそうだ、でなければ、窮屈で、呼吸しづらい、そうだ、のびのび生きづらい気がする。 しかし、自身にとって都合の良い理想像に固執して頑なに守ろうとする〈もうひとりの私〉であるならば、《白い袖で頭を抱え込む》のは当然の成り行きといえる。《素顔がわからない》のでなく、それも素顔のひとつひとつと認められないならば。というのは、常に他者との関係につながれ、それらの関係において私があり、変化する、そのような動的なものこそ私たちなのだから、などと思ってみる。最終連、咳きこむという排除の反応は受け入れがたさを暗示しているように思われる、《鏡の私》が振り向かないのは、〈私〉が背中をむけているからだ、現実の《私》を認めることに背を向けているからだろう、そのくらい怖いのかもしれない、否定する私の姿を、私自身がそれをありのままの姿と認めるのは怖いし、脅威に感じる、それほどに私を自由な、だろうか、開かれた側へ向かうことを阻止する《おぞましい》ものを、私たちも内部に抱えている、ような気がする、と思わされた、そういうもの「とも」内部で関わりながらも、開かれた側へすすみたいし、《私》もそうであってほしい、そんなところにようやく今行き着いた作品です。 ※だいたい書きながら読むので、めちゃくちゃ長く、わかりづらいコメントになりましたが、ざっくりまとめず、そのまま載せました。御寛容を。 (キメラの後ろ姿)

2018-09-12

こんにちは。最後の一行にいたるまで、悲しみとも怒りともいいかねるような(この場合は混濁していて言いかねるわけですが)、惨めな感情に貫かれているように感じました。流れている「川」でしたし、軸の「ある」作品だと思います。 (Tender)

2018-09-10

こんばんは。生前、後世に影響を与えたり、偉業を成した人々はたくさんいて、彼らは名を残しているのですが、市井の人々の多くはそのように語られることはありません。しかしながら、そのように名をとどめない人々にも生きられた確かな生がある、と親しみをもって感じることができます。結局のところ、私は遠景に見えるスターよりも身近なひとの方をより大切に思うだろうし。 (死去ノート)

2018-09-07

こんばんは。すでにコメントされていますが、懐かしい印象をうけました。実際には体験していないのに懐かしく感じるのは、語り口がそういう部分、内部にある類型的な部分にリンクするものをもっているからなのでしょう。 ふと「逢魔時」という言葉を思い出しました。昼夜の境目には不思議とそんな気持ちになることが、かつてあったように思います。 (生垣)

2018-09-07

こんばんは。結局のところ、語り手の『革命』は何を、どんなことを指すんだろう、という疑問が残りました。 (革命的レム睡眠)

2018-09-06

こんにちは。《覚醒》ではじまる連で終わってもいいように思いました。第一連の《透明なビニール傘》のなかにある《カンナ》を神話的に捉える目は良いな、と思いますが、後半に使われた時は、その効果がすでに薄れているように感じます。 (八月の檻)

2018-09-06

こんにちは。言葉使いが抽象的で、もうすこし追いつめ作業をした方がよいように思いました。全体的に雰囲気寄りのような印象が強いです。 (果てしない夜の装いに)

2018-09-06

こんにちは。顔といわず、手も指もつっこんだらいけませんね。逮捕されます。 (よけいなことに)

2018-09-06

仲程さま そうでしたか。石川県にも神主町があるんですね。なんつて、ググってみたら「神主町公民館」なるものがでてきました。いや、お恥ずかしい。検索かけたくせに間違えるなんて完全なる自爆じゃないですか。ぐわー。 しかしですね、「別宮の棚田」を画像で見た時は絶景だなあと思ったのですよ。ここまで《こころ》はとんできたんだなあ、と。そして、山村暮鳥の『雲』を思い出したのです。 うーむ、読んでいるうちに勝手に物語をつくっていたんですねえ。こわいこわい。 でも、それもこの作品に刺激されてのことには違いありません。うれしはずかし、とは実にこのことです。返信ありがとうございました。 (しらやまさんのこと 夏)

2018-09-04

こんにちは。引用された作品の言葉には、その作品をつくる際の書き手の思考の流れや、作品自体の語りの流れがあると思います。作品の言葉はどれひとつとっても作品全体を成す構成要素でないものはなく、それゆえにそれら諸々の作品群から言葉を引用するのであれば、ひとつひとつの作品群の言葉たちがいかなる役割を果たしていたかをよくよく汲み取る必要があると思います。その上で、新しい作品の言葉のなかで全く異なった意味やイメージを与えて、尚且つ一つの作品の構成要素として違和感なく定着させる。少なくとも私は引用という方法にはそのような対話と組み込みの苦心があってこそ成立しうるものだと考えていますが、残念ながらこの作品にはそういった跡が見られません。ですので、面白さもないし、面白いというコメントも盛り上がりも理解できません。頑張ってください。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-09-04

おはようございます。コメント欄にて鮎川信夫を好きな詩書きでないと書かれていたので、またも心外な気持ちにさせるのは申し訳ないのですが、彼が書いていた文章に『歌う詩から考える詩へ』というのがあったように思います。私はこの作品を読んで考えさせられました。 それにしてもデッサン用のギリシャの英雄のフォルムをイメージさせますね。無駄なく磨きあげられていて、美しいです。 (向日葵)

2018-09-04

こんばんは。「なごしおおはらえ」は夏越しの大祓、6月30日に行われる厄払いをかねた豊年行事のことでしょうか。《かんぬしまち》が富山県、そこから《べっくうさんや》の方へとんでいったわけだから、〈ここ〉からなかなか遠いところへ離れていったんですね。そういう〈感覚〉、親しんできたものがどこか大きく変わってしまったように感じる時に覚える遠さの感覚が現れているように思います。 『茶店』の舞台は富山の隣の石川県。雨が降っているのでやはり梅雨時期ということになるでしょうか。 《しらやまさんに降った雨は/百年後の加賀平野を潤す》のくだり、《べっくうさんや》の〈棚田〉の風景と重なるように思いました。ゆっくりと岩魚をかじる動き、雨音とともに、思いが噛みしめられているようでもあります。でも、次の季節には消えてしまう。時の移り変わりと、環境の変化のなんと無情なことか。 「虫送り」の行事としては〈横江の虫送り〉なるものが古いそうです。虫送りと書かれた火の文字が燃え盛る。あの燃え上がる火のなかに浄化を見るのでしょうか。ひと夏の終わり、と言わず、自分の記憶のなかの通り過ぎた夏が火のなかに見えるようで、残念ながら「どれひとつとして誰の竹ざおにもぶらさがったままではない」のですね。 それら遠くなっていくものらを見送る眼差し、というか眼差しの向こうへどんどん遠くなっていくものを追うところにポエジーを感じました。 ついでながら、単体では私も「茶店」が好きです。 (しらやまさんのこと 夏)

2018-09-03

こんにちは。超えていく感じ、超えようとする動き、気配を感じます。好きな作品です。 (うほうほ)

2018-09-03

こんにちは。味わい深い作品です。ついでに私自身も《吹けば飛ぶ》塵や埃のような生のなかにありますが、問いだらけです。 ([])

2018-09-03

こんにちは。《確かな流しに箸と皿》。この一行はとても良いですね。「確かな」の一語が決定的で、「流し」に、「箸と皿」に、実在感を与えています。 (スケッチ)

2018-09-03

stereotype2085さま コメント、ありがとうございます。読み直してみて、書いた本人が言うのもなんですが、というか、書いた本人の私としては珍しいくらい、どんなことを目指していたかが明快だったことを思い出しました。あー、なるほどー、そうだった、そうだったと。おかげをもって摩擦もひっかかりもないものになっています。お読みいただきありがとうございます。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-30

まりもさま コメント、ありがとうございます。本文(?)の方は、こりゃ如何、いや、こりゃイカン、くらいのひねりもなんもないようなうすーいものになった感丸出しですが、これでもなんと創作というね。まあ、私自身と全く無関係というわけではないけど、遠いところで書いてます。 『メモ』に書いた個人的ないくつかは事実ですが、これを付け加えたことで、ただのポエミーな詩文になるのをかろうじて逃れているような気がします。精進します。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-30

こんにちは。最初の《月》と最後の《空》、三角にしようとすると、こうなりやすいのですが、詩を壊していると思います。 (月)

2018-08-23

こんにちは。書かれている内容はさっぱりで、ところどころからなんとなくしかイメージできないのですが、それはそれ、たくさんの漢字の並びを見ているだけで楽しめます。漢字ってこうしてみるときれいだなあと。まあ、かなとの比較ができるからなのですが。そして、なんとなく、のなかに混じってくる《ウラジミール・タトリン氏》というカタカナの名前が際立って現実的で、面白さを感じました。こうした作品をこれからもどんどん追究して書いていってほしいし、そうしたらどういうところに行き着くのか楽しみだな、と思います。 (11月、転落する幌附乳母車)

2018-08-23

こんにちは。 《水槽》《土の中》《枝先》《空》 最後に見上げる語り手の視線は雲にそそがれているのかな。夕暮れ時の空や雲を見るといまだにしみじみとした感慨をおぼえることがありますが、空間的な広がりと、そのなんともいいがたいような心持ちにつながるものを感じます。 (朱肉の空)

2018-08-21

こんにちは。Twitterで以前に三角定規詩というイベントがあって参加したことがあります。いろんな三角がありました。三角と三角の組み合わせもあった。でも、三角をつくることに意識が行き過ぎて無理な言葉の置き方なっていたり、もはや詩情そっちのけやな、というのも多かった。それに比べるとまとまってはいるかなという感じはします。上りと下りと情緒の変化が合致していて、その辺も行き届いている感がします。ただ、上手ですね、で終わってしまいかねないところはもったいないかな。 (段)

2018-08-21

こんばんは。最近は朝晩いくらか涼しくなって、日中はまだまだ暑さが残るものの、そろそろ夏も終わりかなーなんて思うことがあります。 言葉のリズムもさることながら、それにつれて像が喚起されて、さながらごった返した祭りの様相が目に浮かびます。それとともに、いわゆる「熱い夏」を彩った事柄たちが、熱気のうちに過ぎ去っていくように感じました。 (コンカラ様が通る)

2018-08-20

こんにちは。詩人は卑怯だなーと思います。詩作品のうちに読み手は書き手の人柄をイメージしてしまうから。作品を書くという行為は、作品に集約されない人格と生をもつその人を詩人にするけれど、同じように、今もいろいろな感じ方や考え方をしているひとを、読むという行為のなかで詩の読み手にしてしまう。はあ。仕事の時間だとか、すずしくなったとかツクツクホーシの声とか、ちょっと忘れて読んでいました。 (こころ はんぶん/ブルーノ/そらの)

2018-08-20

こんばんは。私なりの気持ちいいの根拠、伝わったなら何よりです。 事細かに書きましたが、それとは別に好きな詩行はあります。そこは既に書かれていたので重複を避けました。 実話でしたか。小説より奇なり、とはこのことですね。そしてよくある実話に比べ、味のある実話で、よい作品です。 (七月分選評)

2018-08-19

仲程さま コメント、ありがとうございます。言葉でつくられた空間のなかで動きを実現させるのはそう簡単ではないと思います。田中恭平さんの『徒然草』から引用させてもらうと、 《言葉が 文字にされて 死んでいる》 ことも時にはあるし、死んでいなくとも動いていないことはまったく稀ではないように思います。無論、私自身のものも含めて。「動いた」と書いてもなかなか動いてくれないのが言葉です。動かざること言葉の如しと言いたくなる。 だから、動きがはっきり見えた時にはドキン!とします。ドキンちゃんです。解釈よりもそちらの方が私にとっては大きい。ひとつの作品がいろいろな読み手によって膨らんで豊かさを増していくと嬉しいですね。詩作品が共有されるというのはそういうことなのかなぁと考えています。 (七月分選評)

2018-08-19

澤あづささま コメント、ありがとうございます。まさか「選評いつですか」と来るとは思っていなかったから、シテヤラレタ!とばかり笑ってしまいました。私の場合、澤さんのように的を得た読解というのはできなくて、「どうかすれば海に飛び込んで揉みくちゃにされながら、なんとかかんとか手に触れたものを掴んで陸にあがり、ゼーゼーしながら、持ち帰れたものを恥ずかしながらお見せする」みたいな感じです。さしずめ出来の悪い「素もぐり」てやつでしょう。 「ちょうりょく」への選評コメントは、読みの過程そのままです。引っかかりながら何度も読んでいく中で、ようやく「手に触れた」もので、そこから強引に引き寄せたものです。もうイッパイイッパイ。 「ビサイド」の「とにかくそうなんだ感」(just so-ness !)についてですが、冒頭からの「語りかけ」と行空けののちの一行《わからなくても/伝わらなくても》といういくらか諦めをも含んだような詩行、そして、一行の間(ま)を溜めにした明言へのジャンプが、私にそれがあると気づかせた、ということですね。気づきという経験は主観的なので、それがどんなに情動を伴うものであれ、その発話自体は「そのような経験をした」という〈事実の報告〉にしかならない。それを【読み手である私が「これは“Just So-ness!”だ」と気づく】には、技術が必要になるんじゃないかということで、そのためにはそれを活かしうる言葉の構造の追求がいるだろう、ということでした。 「命名」のご指摘の箇所について。先日、エミリ・ディキンソンを描いた映画を観ました。《私は誰でもない、あなたは誰?》《誰かになるなんてごめんだわ》と語るシーンがあった。あれはあれですごいのですが、それほど「誰かであること」には重さがあるということではないでしょうか。田中宏輔さんにも「君の名前は」という問いかけがつづく作品がある。しかも田中さんはそれを集めることを続けています。単純にいえば、やっぱり名前によって皆、「誰かである」ことを理解するのだと思います。その重さに対してこの作品の語り手は悦びも感じつつ、罪深さにも自覚的で、だから《暴力》という。優しいと思うなあ。 《突きつける》くだりでは、赤ちゃんがオギャーと「天上天下唯我独尊」と叫ぶとき、「我が子ここにあり」と出生届が吠えるようでもあります。それを仮の名として、やがて真の名を得る(『ゲド戦記』)日がくるとしても。 ついでだから十年ほど前に書いたやつを。 「きみの名前を囁くと」  朝焼けの光に飛びこむように  いま一匹の  魚が空に跳ねた  鱗は金色  世界が割れる  まるで卵そっくりに  私は耳を澄ます  まっさらに塗り替えられた血液が早鐘のように  清らかな声で号外を告げている 巻き込んでくれてありがとうございました。へとへとなったけど楽しかったです。 (七月分選評)

2018-08-19

地()球さま コメント、ありがとうございます。 さて、 《大阪のミャンマーはやたらに生真面目な青年で、直立不動がよくにあう。まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている(という。)》※()は藤 いま、一連目を抜き出してみましたが、この一連目だけでも、不思議な浮遊感があります。で、どうしてそう感じるのか考えてみました。例えばですが、《やたらに生真面目》ではあるけれども、どんなところがそうなのかという具体的なことが書かれていません。そして《やたらと生真面目な青年》であることと次の《直立不動がよくにあう》ということとは、叙述においては一連の繋がりをもっているものの、内容としては直接関係がない。そこで以下のように書き直してみました。 ①大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である。 ②大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う。 ③大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している。 ④大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである。 ⑤大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている。 このように①~⑤を分けてみると、それぞれが独立した文として読めますが、残念ながら詩情らしきものは特別感じません。ところがこれら独立した文を読点や接続詞で繋げると、 《……まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている》と、さも《大阪のミャンマー》について語っているかのような文体ができあがります。しかし③と④とが「から」で結びつけられる必然的な因果関係は省かれていて、さらに④と⑤も「しかも」で追加されなければならない決定的な理由がない。つまり《大阪のミャンマー》について語ってはいるものの、一連目全体を通して私たち読み手が彼を知るための詳細についてはどうも述べられていないように思います。私はこれほど《大阪のミャンマー》に関する情報を与えられながら、彼のことが少しもわかった気持ちになれない。不思議です。たいていの場合、語りがすすむにつれて、実像が少しずつ近づくはずなのに、この作品では、どんなに進んでも距離が縮まらないままなのだから。いえば幻か蜃気楼でも見ているような印象でしょうか。そして()に入れた「という。」 これは誰がそういったのでしょう? 実は、書かれたしかじかのことを、誰かがいったのかもしれない。あるいは噂のように入ってきたのかもしれません。そのように聞き及んだことを語り手が語っているのかもしれない。 すなわち、 ①(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である、という。 ②(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う、という。 ③(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している、という。 ④(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである、という。 ⑤(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている、という。 こういった断片を、あたかも私が知っているかのように連ね、しかも最後に、「という。」として、「私ではないよ」とはぐらかしているために、読み手としては「ん?」となってしまうのではないか。 いずれにしても、《ミャンマー》について語りながら、知りたいと思っていることについてはまるで巧妙に回避しているかのように、知らされないのです。私が知ることができるのは常に断片的な情報であり、「なぜ」や「なんのために」などといったことは伏せられています。先に第一連をあげてみましたが、こういった特徴は作品全体を通して見いだすことができます。というか、それによって作られていると言ってもいいのではないでしょうか。 それで、です。 通常の文章に関して言えば、大抵の場合、 「なぜ」や「いかにして」などを書くのは意味内容の伝達のために必要とされていて、省かれることなく、また論理は一貫性をもっていて、あっちこっちに飛び回ることはありません。そのため、読み手は知りたいことを知ることができる。ところが、この作品においては、省かれてしまっているばかりか、論理的な一貫性もない。つまり、読み手である私が知りたいと思っていること、通常の文章であれば明かされるだろうと無意識的に思っているあり方(日常的な言語理解のあり方へのとらわれ)に反しているため、その都度「ん?」とか「あれ?」といった空白感をもたらし、読めば読むほど空白感が増えてしまう。結果として、読み終えれば空白の総量が意識の底を占めているということになり、それが不思議な浮遊感につながっているのではないか、と思い至ったわけです。これは言い換えれば、日常的な言葉のあり方へのとらわれからこっそり解放されていることであり、そうであれば気持ちよく感じるのも確かなように思います。 長々と書いてしまいましたが、それとは別に「ミャンマー」という語感、いいですね。知人に「プードル」という語感はいい、といわれたことがありますが、「ミャンマー」も負けず劣らずいい。選評に書いたコメントの、非礼へのお詫びもかねて、大盛りにて返させていただきます。何卒、ご寛容を。 (七月分選評)

2018-08-18

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。『創世記』に「光あれ」と神が言うと「光」が生まれるでしょ。そんなふうに「言葉」によって「それ」を呼ぶことで呼ばれたものが生まれる。そんなわけで「名付け」は言葉の第一機能だというんですね。その次に第二機能としての区別があるらしい。いかにも西洋風ではありますが、まあ、意識が不分明な状態ではAもBも「それ」であって明確ではないのが「言葉」を得ることで事物存在として認知され、AとBとは違うことがわかるようになる、その作業の繰り返しで外界に対する認識が形成されていくと考えれば、頷けるところもあります。なので、事物存在が先か、言葉が先かというと少なくとも人間にとっては同時らしいんですね。 それはそれとして、名は付けられるものであり、刻まれるものであり、記されるものという点でいえば、「傷」であり、「印」でもある。そういう意味では、《刺青》《烙印》というのは正しいし、名付け行為のもつ力の強大さを示していると思います。また、その名によって存在を縛る意味では「呪い(シュ)」とも言えます。しかし、その名をもって我が子とする喜びもあるから、思えばなかなか罪深いことです。ただ、深く痕跡を残す「傷」を与える者と与えられる者とが、それによって以降「絆」で結びつくと考えれば、やはり哀しみばかりではないと言えるでしょう。とはいえ、「登録」することによって、当人の思いも及ばないうちに体制に組み込まれてしまうと思うと、名付けに伴う喜びや哀しみとは別に、怒りのようなものまで湧いてくる。だからこそ、《出生届》はやんわり差し出すよりも、堂々《突きつける》べきなのかもしれませんね。 名前といえば、思うところはいくつかありますが、長くなるので一つだけ。「傷」であるはずの「名」が、宇宙の誕生から歴史を貫いて、未来永劫にいたるまで、一回きりしかない存在のかけがえなさを表す「証書」のように輝く時があるのではないか。ということを映画『君の名は』を観た時に思いました。 (七月分選評)

2018-08-17

三浦⌘∂admin∂⌘果実さま おはようございます。コメント、ありがとうございます。文章を書くのが上手な方っていますよね。いったい何を食ったらそんなうまい文章書けるんでしょうね、と思いながら、午前5時にカップ麺は食っています。彼らはもっと違うものを脳みそに食わせているにちがいありません。 私は文章を書くのが苦手だし、真面目なことを言うのも柄じゃないと思ってきたし、思っているので、例えば今回辣腕を振るわれた澤さんの文章などは、私から見れば批評というより「ウヒョー」だし、アプローチは「意表」と言いたくなる。そのくらいの意匠を感じさせてくれます。今回は忙しさもあり、また選評の冒頭に書いた通り、作品を前にしても読める時と読めない時とがあるのを理由に見送ろうかと考えていたところ、澤さんの手招きにつられて、意匠どころか「どうしよう!?」という感じでした。しかし、どんなものでしょうね。私のような文章でも選評に加われるということなら、これを読んだ方々も自信をもって選評に踏み込めるように思います。そうやって作品の豊かさが膨らんでいくことは楽しいことのように思います。 コメント、改めて感謝します。 (七月分選評)

2018-08-16

確認ですが、15日までというのは15日も期限内ということでよかったですか? (今月のおしらせ(おもにキュレーションに関して)※必読)

2018-08-15

こんにちは。子どもの頃、よくやりました。蝉だのカブトムシだのクワガタだのの死骸を見つけたら、埋めてアイスの平たい棒を墓がわりにたてました。そのくらいあの棒はそこらにあった。と、ここまでは経験の範疇なのですが、「アタリ」が戒名になるのは、よくある経験からトンボを切るようで斬新でした。この言葉の「軽業」を見る快感、嬉しいものです。 (戒名)

2018-08-13

読解も表現もストレス。まさに。 (【選評】澤あづさ選2018年7月分)

2018-08-12

こんにちは。なんだかつれない感じがいいですね。「四角四面は豆腐屋の娘。色は白いが水くさい」という口上を思い出させます。 (冷や奴と申します)

2018-08-09

こんにちは。第一連(?)のスペースを使った形式と書かれているテーマは一致しているように感じました。語の同音から異なった意味の次の語を呼び込んだり、ひとつの語を分断して強調をつくりだしたり、リズムを狂わせているあたりは成功しているように思います。この「狂い」が底流としてあるのかな、とちょっと思いました。それだけに余白と それ以降の改行への変化をどうとるか、ここが個人的には微妙な問題です。 (エクスタシー)

2018-07-27

こんにちは。父、影うすっ! というか、母の様子とそれを見る「私」が語りの中心になっているから、そうなりますね。でも、「私」が実家に帰る理由は、父の相談?があったからで、きっかけをつくっているんですよね。そして、それ以降は出ないという。 「私」は最後、現在の家に帰る。そこでは「夫」(=ただしく愛してくれる人)が待っている。いいなあ。と思います。いいです。そういう風に思えるひとが「私」にはいて、それが「私=妻」を「夫」と繋いでいる。じゃあ、もし「ただしく愛してくれる人」であるという像が著しく崩壊してしまったとしたらどうなんだろう?と、意地悪にも思ってしまうんですよね。そうであっても、やっぱり「私」は「夫」のいる家へ帰ろうと思うのか。 「母(=妻)」はおかしくなったと「父(夫)」がいい、その「父」はやつれている。いろいろとチャレンジしてみて、どれもよい結果にならなかった、まあ、がんばったのかもしれないし、そうでないかもしれないけど、おかしくなったと気づく前に既に「母(=妻)」のなかで「父(=夫)」に抱いていた像が崩れていたとしたら、どうがんばったって遅いこともあるわけで、としたら、「母」が「私(=娘)」を育てるのを心理的には一手に負って心血を注ぐ、親子の関係に生き甲斐を傾けるということが起こってもなんらおかしくはないように考えることもできます。してみると、「母」がおかしくなったのは「私(=娘)」が結婚して家をでたあと、というのは実態としてということであって、傾向・可能性としてはもっともっと前から潜在的にあったといえなくもない。ひょっとしてそれは夫婦間でも隠された問題として「私」が生まれる前からとか。そのくらい、この作品のなかでは「私」と「母」の関係の濃さが語られているし、何よりも「父」との関係が除外されているかのように薄い。私には、この薄さこそが実はこの「私」と「母」との関係の核にあるように思えました。 しかし、理想の結婚生活が破綻して、理想の親子像も壊れて(なぜなら子どもは成長しますし、自我をもちますからね)、とあれば、人形に託すのは堅実でしょう。すべてを受け入れてくれて、満足させてくれる、かっこうのシェルターでもあるかもしれません。 (ままごと)

2018-07-23

こんばんは。ジェットコースターのようなスピード感や激しい動きを感じました。 (カタルシス)

2018-07-22

こんばんは。とある夏の眩しい記憶に意図せずアクセスしてしまったような幻惑を感じる作品ですね。じりんじりん、かんかん、音も効果的に思います。ひとつ言えば私なら「佇む」なら「ひとつ」のほうが佇む感が出ると思うのですが、《ひとおつ》になっていて、この「お」に心情が宿っているように感じました。 (夏の木陰)

2018-07-22

蛾兆ボルカ様 「とにかくそうなんだ」についてですが、これは“just so-ness”という意味として書きました。現実をただ受け取り受け入れる「とにかくそう」ではなく、ある事柄を直覚したような時の、周りもそれを理解できないし、論理的に示せといわれても説明しようがない、けれども誰がなんといおうと「そうなんだ」のそれです。賢治流にいうと、《ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山や風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、「もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです」》(「」は藤)の、より強められたそれ、そして、ご存知かどうかはわかりませんが、丹波哲郎が霊界の存在について訊ねられたときに、放っていた名言「あるんだからしかたがない」というやつです。したがって最終連の《Besideは素敵な言葉》という明言は、誰にも訊ねないし、同意を必要としないほど強い。この確信を思わせる強さが連全体に響いているように思います。ということで、「とにかくそうなんだ」についての補足でした。 まどみちおの「りんご」、有名ですね。私も好きです。 (ビサイド)

2018-07-22

なつめ様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。未成年でしたか。いい響きだなあ、「未成年」。関心のない話をえんえん聞かされていると、些細なことが気になってくることがあります。そんなとき、頭の中で晩御飯のおかずとか週末の予定とか好きな曲とかめぐらたりする。そんなふうに格好だけは聞いていながら、煙草の先を見つめていたのかもしれませんね。もちろんこれは後付けですが。 ヤエ様 こんにちは。コメントありがとうございます。読み物って、知らずそういうところありますよね。関係性のあるタイトルにしてしまうと、そういう場面に限定されそうですし、一方で「きみ、さっき、なんて言った?」という文章は状況によっては意味がかわるので、後者の方を優先させました。なんて、これも後付けです。 四畳半学生様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。本当に、何を見ていたのでしょうか。緊張がとけて、ひと息ついている時、いろんなことがうっすらぼんやりよぎりますね。 湯煙様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。私の身の回りでも電子たばこやアイコスに変わるひとが増えてきました。電子たばこはケムリがすごいし、本体が隠し武器になりそうですね。私は依然紙タバコです。ちなみに最初のタイトルは単純に「煙草」でした。実際の煙草の方が味があります。 二条千河(NIJO Cenka)様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。なるほど。小説だと会話のやりとりに溶けこみそうな気もしますね。煙草は映画でも小説でもうまく使われてきたし、モノとしても親しんできたものですが、言葉としても肩身が狭くなりつつありますね。かなしいなあ。 かるべまさひろ様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。かなり前に書いたやつなんで、もう覚えていないんです、実は。でも、そんなに悩んでないような気がする。というか、書き始めるまでは逡巡していたけど、なんとなーく書き始めたら最終行はパッとでてきたんじゃないかと。その分、やっぱり詰めなかったといえば詰めてないですね。でも、きっと、切り込みたくなかったんですよ。軽ーくいきたかったんです。投稿するにあたって、ちょこーっとだけいじったけど。笑 (心ここにあらずな詩)

2018-07-22

おはようございます。とても緻密というか、語の選び方や配列の行き届いている作品なのに、それを感じさせないところに舌を巻きました(特に第一連)。また、第一連から()への切り替わりが鮮やかです。第一連では《素敵だね、この言葉》が最終連では《素敵な言葉》と明言されていて、前の行をうけて、「とにかくそうなんだ」感が爽快です。besideもbelovedもアルファベットだと読み流してしまうけれど、カタカナだと一語一語の繋がりを気にして、知らない言葉のように感じてしまう。表記の使い分けが絶妙。つねに(何者かの)存在の横に私たちがあるのなら、不安はなく、死んでも愛されし者になるなら、生きるのも悪くないなと思いました。 (ビサイド)

2018-07-21

こんにちは。前のコメント読みましたが、私は渡辺さんのコメント、さほど的外れではないと思います。で、ダメな作品でもないと考えます。もしかしたら、湯煙さんが狙った以上のことを作品の言葉が表しているのではないでしょうか。そう思えるくらい、いろんなことをイメージさせていて、そのいろんなことを挙げるのが難しいところがあります。 詩行の運びが心地いいです。特に《わたしたちの》以降はすごくいい。ほんの一語二語を変えるだけで伝わり方を変えているところ。でも冒頭からの流れがあってこそと思います。 (今日も、どこかで。)

2018-07-17

こんにちは。蟹を食べている時にそんなこと考えるもんか。というのは私自身のことです、すいません。けれども読んでいて、なるほど、ウンウンと思ってしまうのは、言葉による思考の構築が成功しているからだ、と思い至り、またしてもウンウン頷いている次第です。 (毛蟹×一杯)

2018-07-17

こんにちは。難しい言葉を使わずに、しん、と染み込んできて広がる作品だなあ、これは逆に書くのは難しいなあ、と思いました。ただ、後半の「グルーオン」が音としても、強い。フォルテッシモのようにそれまでの印象をかき消しているように感じました。 (グルーオン)

2018-07-17

こんにちは。こんなふうに「わたし」は何かにつけて架空の「菅田将暉くん」を登場させて、思いを馳せながら、それをダシにしつつ、「あなた」や「あなた」と「わたし」の関係のありかたを思い返して、前にすすんでいくのだろう、と考えてみました。そういうことってあります。 (菅田将暉くんへのファンレター)

2018-07-17

こんにちは。Twitter見てたらツイート詩ってたくさん流れてますね。そのほかにもいろんな呟きやらなんやらかんやら流れてきて、かなりカオスです。で、Twitterのなかに置かれた言葉のなかの、つまり生活のなかのあれこれのつぶやきの一つとしてツイート詩も見てしまうことが多いのですが、こうしてフレームを変えてみると、日常性から切り離された詩群として際立ってくるところが興味深いです。 (1bit、6月、ツイート詩、#、)

2018-07-17

こんにちは。「鬼」、「女神」、きっちりシバかれるところがとても面白いです。 ちくわ詩編、好きなのですが、個人的にはこの作品は短さのなかでどれだけ遠くへ行けてるかがミソだと思っているのですが、植草さんもそれをどこか自覚しているように勘ぐっています。だからこの並べ方をしたんじゃないかなあ、と。しかし、ちくわ詩編、これはちょっとした「ちく話芸」です。 (ちくわ詩編②)

2018-07-17

おはようございます。この作品の「ゆらんと」という音、とても好きだし、良いと思いました。この「ゆらんと」はずっと気にかかっていました。仕事しながら時々「あれはどういう音なんだろう」と思い返していました。翅の揺れを表している「ゆらん」。でも、力がこもってない、ひどく緩慢な「ゆらん」。ああ、片翅だからか、だから力がないんだ、でも飛ぼうとしてなんとか動かしている、かなしい「ゆらん」なんだな、と。 でも《私の腹の中が/ゆらんと/ふるえた》の「ゆらんと」は前のとは違う「ゆらんと」で、これはふるえているのだけど、ぐらつくというかずれるという感覚に近いように感じます。「私」が保っている日常意識の分離なのか、無意識的なものの侵入によって暗いものが意識されるのか、どちらともいえるのだけど、そのときの不意の「意識の揺らぎ」としての「ゆらん」かな、と。 《ゆらんと/軋んだ、夏の終わり》は読み流せばなんともないけど、「ゆらんと」軋んだりはしないですよね。軋むときはもっと違う音をたてる(はず)。こんなの、私にゃ思いつきません。この「ゆらんと」は失望や諦めを離れて眺めているように感じます。でも、心理的には軋んでいる。軋む痛みの強度に耐えきれず、それをどこか他人ごとのように見てしまう、したがって「私」がどこか外部に浮きだしてしまったかのような「ゆらんと」のように思います。 最後の「ゆらんと」は「また」とはあるのだけど「また」ではない。それは「と」で締めくくられるために、より強調されてしまうのも手伝って、トーンがいっそう暗さの質を強めているように感じられます。しかし、もはや緩慢ですらなく、命が尽きるように力ない弱々しさとして目を伏せるような。 同じ「ゆらんと」という語が、その置かれる箇所によって異なった意味合いを帯びて感じられる点が全体を非常に味わい深くしていると感じました。 (翅いちまい)

2018-07-17

おはようございます。「さうら」という音のひびき、とても良いです。まりもさんも書かれていましたが、私も「そおら、そおら」とも聞こえるなと思いました。いずれにしても、響きとしても良いのですが、なんらかの映像を想起させる語のように感じました。いつも感じることなのですが、言葉のもつ音の魅力を引きだしているなあ、と。《ペルハムブルーな唇/海はひとりに限る》とか、あ、いや、あげればきりがないのでアレなので、やめておきます。とにかく響きだけでなく歯切れだとか、語と語の間に発生する呼吸とかも絶妙で、だからこそそれを装置として映像を膨らませたりするのかな、と思いました。《ぱ/しゃんと》の箇所、フリーフォールのような感じで(というのは、ガクンとなった瞬間「ぱ」みたいに口をあけてしまうので)、しかし、海面に跳ね上がった魚の翻りのようでもありました。そして、極々個人的なところでいえば、この一瞬に途方もない長さの時間の広がりを垣間見ることもあり、時としては自分がそのどこかにあったのではないかと錯覚することもある点で、時間感覚の伸縮(それに即して空間の広がりと戻り)を感じました。なんとも言いづらい切ない爽快感を覚えました。 (海はひとりに限る)

2018-07-17

おはようございます。私は好きな作品だな、これは。どこがどうと言語化するのはちょっと難しいのだけど、何度も読みました。想像するに、さまざまな声で語られている状況が像を結んでいないために、誰が何について語っているのか読みとりにくいということなのかな、とは思うのですが、見えないところでなにがしかの事件というかドラマが展開していることを感じさせてくれます。それは「具体的にはこういうドラマなんですよ」というような明示はなくて、交わされたり発せられる「声」の背後に隠れていて、時々仄めかすように影をちらつかせる。奥行きを感じさせてくれます。その表面で「声」による展開があるのだけど、その「声」にも浮き沈みというのか、響き方の変化があって、「混線」にも似たはっきりとは聞きとりがたい声もある(個人的にはこの部分が最も好きです)。表面で聞こえる「声」と場面場面での声色の変化、そして、そこで何が、どんなことが起こっているのかが、だんだんと見えてくるようでありながら、それはやっぱりうっすらと想像するにとどまって、つまるところ、表面ですすむ展開とそうさせている何事かの見えなさは解決されない。けれども、最終部分では既に起こってしまったことになっていて、声の主たちは消え、何があったのかという謎はー読みながら「起こっていることを突き止めよう」と追いかけていた意識はー宙吊りになってしまう。この、なにかは明確にはわからないけれど、けれども重大な、痛ましいことが起こったにはちがいない、という印象はあとをひきます。複数の声と奥行きからなる立体的な作品に思いました。 (散り散りに。)

2018-07-17

こんばんは。「おっ」についてですが、「~前提」という言葉は、現在では日常でもしばしば聞くし、私自身使うこともあるのですが、十年前でも使われていたかというとちょっとわかりません。そして今から十年後も使われているかどうかというとそれもわからない。日常の言葉というのはまあそんなもので、時代とともに消え去ってしまったものも消え去るものもある。そんで、また新しい言葉遣いも現れる。そういう意味では永続性は必ずしも約束されていないのだけど、詩作品はどこかしら時代的制約を越える性質ももっているし、刹那的なものであることを拒むところがあると思うんですね。ところが、そのようにいつ使われなくなるかもわからない現代の日常語のひとつである言葉を作品に持ち込んで溶け込ませているなあ、と思った次第です。長いスパンで見ると、けっこう思い切ったな、と思ったわけであります。 (約束をしないで会えたら僥倖)

2018-07-16

おばんです。 《私は人間の一個体、回る石っころの表面に寄生する細胞のひと欠片。 私はR、Rはアール、Rはエル、Rはエレ、Rは……》の箇所が強く印象に残りました。《私》というものの複数性をひとつずつ確かめるようでありながら、同時に真実何者であるのか問いかけるようでもある《私の》心の動きを感じました。 (はじまりのおわり)

2018-07-16

おはようございます。導入といい、展開といい見事でした。なかでも、 《森の外はきっと真夜中だろう 翌日の雨を知らせるぶあつい雲が 満月を隠しているのだ それで月の光も地上に降りてこないのだ》の箇所は、《そうでなければ》につづく後の部分にリアリティを与えていて、燃える馬の存在感をありありと感じさせてくれます。感嘆しかない。 幻想的でありながら、現実的でもある読後感は、各連の展開にうまく乗せられたからで、こうして書きながら目をみはる思いです。6月の作品のなかで最も推したい作品のひとつでした。 この作品に接することができてよかったです。 (燃える馬)

2018-07-16

ああ、これは怖い。そして、どんどん怖さが増す気がします。ちょっとずれているかもしれませんが、諸星大二郎的世界のような怖さを思い浮かべました。 (Y)

2018-07-12

こんばんは。無視していたわけではありません笑。一読して、面白いなと思っていたのですが、忙しさにかまけているうちにコメントを入れることを忘れてしまっていたのでした。最後の逆ギレぽい開き直りの辺り、とても痛快でした。それまでの長いあれこれがあってこそ、それをぶち壊す面白さが活きるのですね。 「本当のこと」を語ろうとすれば「嘘」を言わざるをえない、とは詩人・清水哲男が書いていたことですが、たしかにそうだとも思うし、本当のことはどこか矛盾しているものだと思います。 まあ、「本当」というのが本当にあるのかどうか、そこも私には疑わしく思えるし、本当というものの胡散臭さもあるのですが、そこはまた別の話で。とはいえ、嘘のなかにも本当らしさがあるとしたら、それを指摘してあげつらっては身も蓋もないですね。 (どら猫セラピー)

2018-07-11

おはようございます。そういう夢ということなのか、それとも大往生の間際に見ているそれなのかわかりませんが、もうちょっと踏み込んで表現にこだわってみてもよかったように思います。表面的に過ぎて、読みやすいだけのものになっている気がします。もったいない。 (しめやかに)

2018-07-11

おはようございます。平穏な日常に潜む不穏、というふうに読みました。対比を用いた暗示的な語法が、背後に物語があると感じさせるのに効果を発揮しているように思います。また、部分部分を写して切り替える方法によって視覚的にも聴覚的にもなっていると感じました。 (ナツ)

2018-07-11

こんばんは。にほんごというのもなかなか悪くないなあ、と感じました。 「はむ」。食べる、とはちょっと違う感触でもあるし、なんかおいしそうに食べている感じもする「はむ」。噛みついたり食いついたりする擬音語の「はむっ」とか「はむはむ」が連想されて。どうしてか「ハム」まで浮かんでしまった。 牛の草をはむ様子と言葉の運びが一致していて、のどかな風景と青空、緑まで書かれていないのに立ち上がります。「肚」はお腹というより、「はらのそこ」にも感じられます。 (牛)

2018-07-11

こんにちは。直接聴いたことはないですが、そういうのがあるのはつい最近知りました。専門学校の声優コースなどでもやるそうですね。 (後ろの席でくしゃみする)

2018-06-28

こんにちは。モデルがいたんですね。私はなんとなく「レレレのおじさん」を思い浮かべていました。それからW・サローヤンの短編に「笑うサム」というのがあって、そのサムという少年を。前者はつねに掃除しているし、後者はいつも笑っている(死んだ時さえ笑顔)。そして両者ともに社会的には不遇。しかし、それを笑うものこそ笑われるものである、ということがあります。賢人はしばしば愚か者の姿で現れるとも。 わかりやすく、また歯切れもよく、モデルを知らなくても読める作品ですね。 (頭悪いお坊さん)

2018-06-27

おはようございます。はっきり言ってしまいますが、嫌な気分です。投稿作品は全部読んできたけど、「気分的に」おもしろくない。…のだけど、こんな書き手がでてきたかという、やっぱりどこか楽しみに思うところがあります。複雑~。笑 細かいところで言うと、谷川俊太郎だって、「みんなおまんこ」だったか「なんでもおまんこ」だったか忘れたけど書いてるわけですよ。ここまで畳みかけるような書き方はしてないけど、書いているには変わりなくて、じゃああっちはよくてこっちがいけない理由はない。語調の強さがこっちに入ってくる要素のひとつではあるだろうけど、生理的嫌悪感を抱くというのは、生理的な部分や身体感覚的な部分に侵入してくる力をもっているからに違いない。これは易々と放置したり、看過してはいけないんじゃないかと考えます。やっぱりね、タブーに踏み込んでいるというか、みんな書かないことを書いているわけだから。下劣で低俗な言葉を連発している印象が強いけど、もはやほとんど誰でも知っている言葉だし、卑近な例でいえば、加藤鷹のゴールドフィンガーなんて主婦だって知っているわけです、実際。いわば現代の言葉として一般的になっている。けれども、詩作品でそれを提出する書き手はどれだけいるか。そこはかとないエロチシズムをほのめかして、そういうものに対しては受け入れるけど、この作品群のように露骨なものは受け入れない、という傾向が強まったら詩の世界は空恐ろしいと思います。映画の世界でもかつてこんなムーブメントはあったし、とにかく画一的な方向に定まっていくのを壊す力を十分にもっていると思う。おかまいなしに書き殴っているわけでなく、しっかり組み立てられているし。 あとは倫理的な問題でしょうか。詩はフィクションだから倫理なんて必要ない、なんてことはない。社会的な倫理観を適用しなくてはならないという意味ではなく、詩作品としてのそれです。やっぱり言葉で作られている以上、いろんなひとが読む可能性はあるから、意図せず傷つけることもありうる。そこを引き受けようとするかどうか。なので、方向性としては悪くないし、詩に対する考え方の狭い枠を壊してくれる点でも良いですが、バランスについては一考の余地があると考えます。この中では「ハッピーセット」がいちばん良いです。 それにしても難しいことをやっていますね。次回作、楽しみにしています。 (イマラチオ)

2018-06-27

こんばんは。こりゃあいいです。何がいいかって、酸欠なりそうなくらい息継ぎできないところ。先月の「遠路~」も息が長かったけど、これはもっともっと長くて息苦しい。絶対意識してますよね、絶対。なにげに読み始めてまんまとやられました。 (後ろの席でくしゃみする)

2018-06-26

こんにちは。私も最初、レーモンクノー(だったかな)の「文体練習」を思い出しました。あれは文体ですが、こちらは表記ですね。どちらもに共通する点を挙げると、テーマがわかっているから、何通りもの書き方で「それ」をやっていることが読み手にわかる分、内容によってひきつけないと、飽きて投げ出す読み手もあるということで、すすむにつれてい工夫を凝らさないといけないことでしょうか。 かく言う私も似たようなことをしたことがあるので、やはり同じことを考えたり、試したりという方もいると思います。ただ私の場合はここまで熱心にこだわらなかったし、視点も狭かった。このバリエーションの多さには驚きましたし、ネット時代ならではの書法だと思います。 書かれた文章は文字(形)として目で認識されるので、通常の文章に対する(文字の連なりという)認識と異なる現れ方で入ってくると、当初の認識をつつかれて面白く感じます。わかりやすい文章だから、なおさらそう感じる。少なくとも、文章というものはこのように表記されるのだ、という暗黙の了解を壊そうとしていることには違いない。この点でいえば、根本的なところを押さえているように思います。目に見える形としての表記をさまざまに狂わせてみる、というところからはじめて、ひとつずつ点検と実験をつづけていくと、かなり面白いところに行き着く気がします。 ちなみに、 《オナジことデモ、イイかたがカワルとインしょうがカワルことがあります。》 という箇所、ここは幾通りも置き換えが可能です。「オナジ→同じ」「デモ→でも」「イイ→言い」「カワル→変わる」「インしょう→印象」ということで、読みやすさまではひとまず崩さないように配慮されたのだと想像します。 ともあれ、音や意味だけでなく文章の見た目という「形」に徹底してライトを当てていることは興味深く感じます。 (同じことを繰り返すただそれだけ。)

2018-06-26

おはようございます。四連目についてですが、各行を一字落として書かれていたのと、直接的な語りかけになっていたので、この連は他の連とは違うんだなということは分かったのですが、語り口は語尾が「しょうよ」と他の連と重なることもあり、《私》が誰かに(何かに)語りかけているのか、あるいは当の誰か(何か)から語りかけられているのか、どちらにもとれて判別しづらかったのですが、そこはいただけないということでは全くないです。むしろ、そこのどこか不思議な感じがこの作品の浮かんだ語りにしっくりきて、効果を高めていると感じました。言葉足らずでした。それと「ドラゴンを生み出して街を破壊する」のは冗談だったとしても、語られる内容は面白くなっていて語りを貫いている情緒としては自然な流れに思います。だから、説明が少ないということはないんじゃないでしょうか。《ちょうど予定もないのでー》の部分、ここもこちらの書き方がよくなかったですね。日常会話でもしばしば使う慣れた言葉が、日常から浮かんでゆくような語りに混ぜられることで、日常の言葉から詩の言葉のほうへシフトしている、と言いたかったのです。いちいちわかりにくくてすいません。 また、これはコメントには書きませんでしたが、タイトルが『みとのまぐわい』だったので、やや官能的なニュアンスも含まれているのかな、と思った次第です。 追伸の部分ですが、そういうこと、あります。 (みとのまぐわい)

2018-06-21

こんにちは。これは好きだなあ。日常にいるのだけど、語りが日常から徐々に浮かんでいる感じ、ちょうど「あわい」に漂っている感じ。 四連目は《私》が語りかけているのか、それとも語りかけられているのか、ちょっと判別しづらい気もするのですが、《つくりましょうよ》っていいと思います。三連目までの浮かんだ感じが想像から行動の側へ一歩前進していて。 最終連で現実に引き戻される感じがする点は否めず、そこはどうにも悔しいのですが、ここは作者がバランスとろうとしたかな?とちょっと思ってみました。この全体の運びのなかに《ちょうど予定もないのでー》という言葉をもってくるのは、うまいと思うんです。乱暴にまとめちゃうと「映画に行くわ。ちょうど予定もないので。」とかで使う言葉を「竜をこしらえて街をぶっこわしちゃおうよ、ちょうど予定もないので。」という感じにしてしまうわけだから、明らかに普通に使うレベルから逸脱している。なので、最終連は一、二行目を《つくりましょうよ》を肯定的に引き継ぐような言葉で、《ちょうど予定もないのでー》にしてほしかったなと思います。 (みとのまぐわい)

2018-06-20

こんにちは。選評ありがとうございました。ご指摘の行、ちょっと遊んだ感を出しすぎたかと思っていました(前行の「悔恨」=開梱と同音)が、お褒めいただきうれしいです。今後ともよろしくお願いします。 (百均 2018年5月)

2018-06-19

こんにちは。エイクピアさんのご指摘と同感で、《立ち去るとき~》の三行、とてもいいと思います。ただ最終連はもやもやしました。歌詞に近づいたような、なんかそんな感じ。桐ケ谷さんは文にしても、詩にしても安定したうまさを出せる方だと思っています。なので、うーん、悩ましい! それから《また会える前提》の「~前提」という日常会話でもかつては使われていなかった言葉が作品中に持ち込まれていたので、おっ!と思いました。 (約束をしないで会えたら僥倖)

2018-06-19

こんばんは。作品が語らんとすることは伝わってきます。《まずい水と飲み込んだ》はうまいと思います。四連、五連はやや説明的で、形にはまりすぎているように感じました。 (再会)

2018-06-19

こんばんは。《豚》のくだり、宮沢賢治の作品に『フランドン農学校の豚』という童話(?)がありますが、あれを思い出しました。とても悲痛でした。 (beautiful people )

2018-06-19

こんばんは。《心を揺らしすぎることはできない》《もう心は柔らかくなくなってしまった》とありますが、黒髪さんの作品は使われている言葉の音が柔らかくて、読んでいると静かな揺れを感じます。その揺れが痛みを感じさせます。 (心のブレーキ)

2018-06-19

こんばんは。目の錯覚か、タイトルのせいかはわかりませんが、不思議ですね、書かれた文字列を行毎に眺めていると、人波が動いているように見えます。 (雑踏)

2018-06-19

そうでしたか。それは興味深いですね。 あ、そうそう、アイヌ語で神に語りかける時の言葉を読んでいて、「オモロ」と重なるように感じたのでした。 歴史的には明治以降「琉球処分」などがあって、近代日本の横暴による受難という点で、共通しています。沖縄に対する「本土」の人間の差別的な目については、山之口貘が書いていたように思う、とも書いたのでした。 私が暮らしている土地の県南地域は海に面していて、これは柳田國男の作品にも出てくる地域なのですが、現在では船に乗って島巡りができるのです。海にでて船から陸地を見ると、この国はまさしく「島-国」であって、「列島」であることが腑に落ちたものでした。そういう観点、及び《柳田國男ー折口信夫》という研究者に引っ張られて沖縄への関心が高まったのですが、アイヌについては金田一京助・春彦などの学者が保存のために尽力しています。どちらも文学・日本語に関わる方が書き残そうとしてきたことを考えると感慨深いものがあるとともに、もしかしたら、彼らの活動には、土地土地の文化や歴史や言葉を破壊する体制への批判が暗に含まれていたのではないかとさえ思ったのでした。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-16

こんばんは。しばしば沖縄を舞台において作品を書いている仲程さんが、Rさんの作品をとりあげられたのは、私にとっては嬉しいことです。 6月10日に長々と書いたものは反映されなかったので、それだけ置かせていただきます。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-16

こんにちは。選評お疲れさまでした。鈴木海飛さんの作品、よいですよね。最後まで残った作品のひとつで、さんざん悩まされました。 二条さん、Rさん、survofさんの作品を私もとりあげましたが、毎度ながらまりもさんのアプローチには目をみはります。 ユング派の分析的観点から作品を捉えるコメントをしばしばお見受けしますが、読みを深めるにあたっていまなお参考になると思っています。個人的にはA・ヤッフェによる「美術における象徴」やフランツ女史による物語分析等。 ところで、拙作「道化唄」にコメントを下さってありがとうございました。問題の最終連なのですが、《気だるさ》は書く必要はなかったですね。書くのであれば、そう感じるように書くべきだった。《鶯》の諳んじる《クーキョ、ココカシコ》を作中風景に響かせようとして、結果説明的にもなり、萎めてしまったようです。自分のものとなるとなかなか見えないから感謝です。遅くなり失礼ですが、いただいたコメントへの返信とさせていただきます。 選評、ありがとうございました。 (BREVIEW5月選評)

2018-06-16

おはようございます。選評ありがとうございました。コメント欄でいろんな「ゲ」がでてきて、そっちのほうが楽しかったし、頭のなかでいろんな「ゲ」の大交響でした。書いたものがコメントを通じて新たな解を得るというのは嬉しいかぎりです。 ん? 解を得る? かいをえる? かいえる…かいぇる……かえる……カエル!? 誰もツッコミを入れてくれなかったのがさみしかったですww  (花緒の選評<2018年5月分>)

2018-06-16

おはようございます。フル選評、お疲れさまでした。読み方は異なりますが、いくつか被りましたね。5or6(ゴロちゃん)さん、こうだたけみさん、峰さんも、それぞれに印象に残りました。こうだたけみさんはみんな『名づく』でしたが、私は『遠路、あるいは遠雷』でした。 とりあげたかったものはたくさんあるので、絞りこむにつれて難しくなるのがホント悩ましいのだけど、それだけ豊富で多彩なことを証ししているのかもしれないですね。 それにしても、「ずるい」って笑。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年5月分> )

2018-06-16

この作品の最終連の一行目、ふと立原道造の詩を思い出しました。 だからというわけではないですが、夜想曲が聞こえてくるような小品に感じます。 (夢想)

2018-06-16

補足:上の場合、四連目は省く。 (阿蘇にて)

2018-06-16

この作品なんですが、花緒さんの指摘にあるように、二連まではとてもいいと思います。 で、三連なんですが、余計なことですが、三行目を頭にもってきて、《光でできている》を前に、《生きてる物(もの)はみな》を後にする、で、一行目~二行目を「草・馬・人間(にんげん)そして太陽」みたいに並び替えてみる(ありがちではありますが)と、ちょっとは違うのかな、と思いました。 作者が、いや、それじゃあだめなんだ、と言えばそれまでなのですが。 (阿蘇にて)

2018-06-16

こんばんは。「踊り」、好きな作品のひとつです。私の場合は、行がすすむにつれて、じわじわと無意識にというか身の内に浸透してくるところに惹かれました。 (大賞推薦作その他)

2018-06-16

こんばんは。《尻尾》が《くるりと笑う》という言葉、おもしろいです。 ほんの束の間の出会い。そのとき《私》の内面でどんな感情が動いたのか、想像したくなります。 ともすれば、そんな短い出会いも《私》のことも、とっとと忘れてしまう《猫》のそっけなさに沿う形式にしたのかな、と思いたくなりました。 (この道の先)

2018-06-11

すいません、反映されませんでした。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-10

こんばんは。だいぶん前になりますが、手島圭三郎氏の版画による絵本が好きで、図書館で借りて読んだのですが……二年か三年ほど前に手に入れていながら積んだままになっていた「アイヌの碑」(萱野茂、朝日文庫)を、この作品にふれた機会にようやく読むことができました(そして、これもかなり前に読んだ川崎洋氏の詩作品「しかられた神さま」に通じる文章を見つけることもできました)。 しゃも(和人)による特に明治以降の侵略、支配のために余儀なくされた生活や奪われた(言葉を含めた)文化は痛ましく、その復興のための長い年月にわたる努力も大変なものであったことだろうと感じ入りました。 この本では、アイヌ語を話せる古老が少なくなり、著者たちがテープレコーダーで録音したのを書き起こし遺すようにする過程が書かれていましたが、そのような形で遺すことができるのはやはり有り難いことながら、日常の生活のなかで話し、また聞く風景が失われていくのは悲しいことですね。その言葉でなければ変わってしまうニュアンスや深みというものが、生活のなかで伝えられ、覚えてきた言葉にはあるから。 詩作品を皮きりに歴史や文化などを知るだけでなく、言葉についても考えさせられる良い機会になりました。ありがとうございます。 (Elegy)

2018-06-09

おはようございます。季節感、色彩、音が浮かびました。燕と三叉路、なんとなく形が似ていますね。それからリボンも。あっという間に過ぎ去ってしまう「時」だけど、たしかにある一瞬。そんなことを思いました。 (すりぬける、今ここ)

2018-06-09

おはようございます。「ワロン人」って本当にいたのですね。知らなかった。初めて見たのでウィキで調べてしまいました。 「マッサンオッサン」という音、おもしろいです。音としてもおもしろいというか。夢追い人とも言われるマッサンと、ただのオッサン。どちらになるかを選ばなければならないとしたら、まさに分岐点だな、なんて思いながら、意味でありながら音を兼ねているところ好きです。いつだったか「テッペンコッペン」と書いているひとを見たことがあるけれど、それよりずっといい。 《宝島は遠ざかり/ルイ14世も黄昏/すき屋の牛丼を食べる》の箇所、ちょっとした哀愁を感じました。ここは一日の時間というよりは、人生としての時期と読んだら、なかなかに切ないな、と。 ルイ14世が「太陽王」と呼ばれていたのは知っていたのですが、出生のところでアレクサンドル・デュマの作品につながって、デュマといえばネルヴァルの友人じゃないか、と思って、この作品とは別のところでときめいてしまったことは言わずに起きます笑。 なんにせよ、そそられる作品です。 (分岐点)

2018-06-09

こんにちは。「いつ、どこで、どのような状況で、詩にぶつかったか」や「詩というものをいかに考えているか」という詩意識の問題については、それぞれの書き手また読み手によって異なるし、問いつづけていくものだと考えますので、そこには触れませんが、今作に触れて、思い浮かんだ作品がありますので、参考まで。 「誕生」へ        入沢康夫  1 競争原理 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  2 泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  3 触媒(自己正当化) まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  4 放棄の道徳 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  5 盗奪的牧歌 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  6 「実践」といふ名の欺罔 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  7 メスメリズム まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。 (以下12まで異なる小題と《まつくらな~》が続く)  13 真の泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭さへも見えぬ。 (「続・入沢康夫詩集」、思潮社より抜粋 *カッコ内は藤) 詩作品は句読点の有無や一字空きの有無などによっても、全く異なるものになってしまう、という入沢氏の作品をこのように一部省略して抜き書きするのもいかがなものかとは思いますが、ひとつの、そして同一のテキストが、複数のタイトルの各々と並べられた状況において、異なった意味合いやイメージを読み手に喚起することはありますし、そもそも言葉が、それ自体としては独立していて、語られる文脈によって異なるものですので、書かれた角度が違うのだろうと思ったのですが、先の入沢作品のように「小題とテキスト」という方法もあったかもしれないと考えた次第です。その方がそれぞれの同一テキストが独立していることを示すこともできるし、それ以上のこともできると思います。各々の作品を別々のものとして、つまり、関連性のないものとして、独立させて読んだ場合、「ああ、わかるよね」「まあ、そうだよね」くらいの印象にとどまりました。あとは、「うーん、もったいないな」とか。ひと作品のなかに小題として二つのせてみてもアリだったのでは、ということです。それでは何かしら違うと思うのであれば、違う仕方を突き詰めることもできたのではないかと。 ではでは。 (虚ろ)

2018-06-08

渚鳥さま コメント、ありがとうございます。雑念が吹っ飛ぶ。残念ながら、そんなありがたいものではありません。ただ、書いているあいだは、私の雑念が消えてくれました。そんで、心なしか元気がでてくるように感じました。かえるだけに、ガマの油も気の持ちよう、というところでしょうか笑。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-06-08

こんにちは。天気予報はたくさんのひとに影響しますからね、罪なやつです。それに比べたらね、と言い訳というかなんというか、そんなことをして、じっとしていないと堪えきれない状況というのがあります。誰にでもは言えないことだから、ギリギリの線上で起きるしかない。世の中がもっとゆっくりゆったりしたものだったらいいんですけどね。 (双子座)

2018-06-07

こんにちは。「牧師」「教師」とでてきますが、どちらかというわけにはいかなかったのかなあ、と思いました。 または第五連の「牧師」「教師」は「彼ら」などで括ることはできなかったのかな、と。 しかし、第五連の《それから~ない、そのあと~ない》については、私にはとても魅力に感じる方法です。 (誰にも言えない話)

2018-06-04

〉まりもさん 《水は「女性性」の象徴ともいえるわけですが・・・肉欲、野生の本能になんの疑いもなく身を任せていくアベックたちの営みを「美しい」と思う一方で、性行為もしくは行為を終えた後の揺らぎを象徴するような水上のボートの動きを、まるで「水死体」のようで醜い、と感じる》というところなんですが、この「美しい」は「醜い」とほぼ同義というか表裏のようにも解釈は可能に思います。水は女性性の象徴ですから、呑み込む面と産み出す面と両義的です。しかし産まれるためには一旦は水の中に入る、浸されることが必要になるし、場合によっては溺れることもある。「僕」はそれを恐れているために防衛規制として「美しい」と捉えてしまう、と考えることが可能だし、同じように恐れていることを無意識的に正当化しているために「醜い」と言っていると考えることもできます。とすれば、「僕」は現時点から次の状況へと進むことを躊躇っている段階にあり、「岸に繋がれているボート」の揺れとは、「僕」自身の揺れであり、不安であるように読めますがいかがなものでしょう。 (E# minor)

2018-06-01

こんばんは。渦巻くものは激しいですね。それがよく表れていると思います。しかし《暴れる猛獣》という部分、わからないではないけど、全体のなかで突出しているように感じました。  (欲望の邂逅地点)

2018-05-31

失礼しました。途中で送信してしまいました。明治四十二年に『邪宗門』は出てるから、古いはずです。 ここに古語を用いる必要性があったのかな、というのが疑問でした。 (慟哭、今流れゆき)

2018-05-31

こんばんは。もうちょっと整理した方がよかったかな、という感じでした。なにせ、長い。長いのが問題ではなくて、冗長になっていやしないか、ということです。 ちなみに初読の際に、気になった「あるは」という書き方。見覚えがあったので、その記憶から、ずいぶん古いな、と思っていたのですが、思い返してみたら、北原白秋の『邪宗門秘曲』で使われていたんですね。明治よん (慟哭、今流れゆき)

2018-05-31

なつお様 コメント、ありがとうございます。ですよねー、蛙といったら草野心平です。私も思いついた時、あー、やばいなー、先にやられてるなーと思いました。しかも、ハンパないやり方を見せられてるわけで、かないっこない。 でも、カテゴリーが違うんですよね。あちらは叫びだったり大合唱だったりするから、そりゃあもうすごいんです。声がいろいろに混じりあって。それに比べて、こっちは単音。敢えて言えば響き方が変わるくらいです。だから、草野さんも草葉の陰から小癪な奴とも思わないでしょう。むしろ豪胆な方だったらしいから、やらせとけ、やらせとけ、と言ってくれるんじゃないか笑 一緒に酒を飲みたかったなあ。こっちがとっとと酔いつぶれてしまっただろうけど。 「偈」! これがありましたね。ああ、「ゲ」も一筋縄ではいきませんね。げにおそろしや! コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-31

おはようございます。早く寝てしまうと起きるのも早いってことがあるみたいです。まいったなあ。 15センチは完璧な銃刀法違反ですね。逮捕されてほしい。つか、ちょっとうらやましい。まあ、実際そんなもんぶら下げていたら歩きにくいこと、ひとしおですが。 しかし、持て余しているからといって薮から棒に振り回さないのが《オレ》の倫理的な部分でね、ナイフにせよ刀にせよ危険なものをもった場合、ものが理性を覆うことはあって、自制心がゆるんでしまうこともある。きちんと相手の《痛み》を思いやる優しさみたいなもので抑えて、《とぼけた顔で》、敢えて持て余したままでいるなんてのは、いささかキザな気がしないでもないくらいの男前。 というか、使い手というのは、ちょっと使うだけでも相手を容易に傷つける技術とモノを持っていることに自覚的なので、滅多に抜かない。それが、いくらか抜きたい衝動を抑えるための正当化であっても。だからやっぱり内面的には《持て余す》ところが残ってしまうのだろうけど。 《ナイフ》と《傷》にしたところがよいですね。 ああ、そういえば、「るろうに剣心」のなんちゃら編で、人斬り時代の剣心が、巴という女性に出会うのだけど、桂小五郎はこっそり思うんです。「いまのあいつには鞘が必要だ」みたいに。 この作品では、《ナイフ》と《傷》だからね、そこがいい。 フロイト先生なら、どう言うかわからないけど笑 (春の夜)

2018-05-31

こんにちは。世の中は音に溢れていて、煩く感じることがあります。音というのは音だけではなくて、視覚によってとらえられるもの、動きもそのリズムによって音のように煩く感じるし、ひとたびそっちに意識が向くと、脳内に音と形が溢れて、目も耳も塞ぎたくなることさえあります。 ああ、だからカタツムリは片方だけ目を瞑っているのか。なんつて。 (おやすみ、カタツムリ)

2018-05-30

こんにちは。ダメだ、吹いた。最後めっちゃずるい。狂おしいくらい、かなしくておもしろいです。 (ロデオ天使)

2018-05-30

こんにちは。最後救われたな、と感じました。いやあ、よかった。ずっと自分の念に縛られていたから。 生きているといろいろあるけど、自分の念に執着して、縛られている間は、なかなか外に対して開くことができないということもあるな、と思いました。そんで、ことによっては案外時間がかかる。 それが、でも、よいかどうかはわからないというのが難しいところですね。なにせ、精神は頂上を目指すけれど、魂は谷へ下る。深みで見いだすものの価値もあるわけで。 〉るるりら様 皿屋敷はお菊さんですね。 (地縛霊<後編>)

2018-05-30

かるべまさひろ様 コメント、ありがとうございます。遅くなってしまいました。 言葉の音とか、音のつながりや切れから生じるリズムとか、好きなんです。日本語は母音と子音を一語で表せるから、母音同士を絡ませたり、子音同士を絡ませたりが英文よりも少ない文字数でできるから楽しいです。擬音やモジリもあって。 かなりめちゃくちゃなことをやっていた時期もありますが、だいぶんと落ち着いてきたなあ笑 コメント、改めて感謝します。 (道化唄)

2018-05-30

こんにちは。最後の一行に至るまでの逡巡、いいですね。これが活きているから、最後の一行への切り替わりというか、それまでの逡巡をスパッと切り離しての立ち上がり方が快いです。 さんざん文句言っておきながら、時間になると、キリッと事に向かう時の切り替えのギャップってあります。結局やるんじゃん! て、ツッコミいれたくなるんだけど、ひとってそういうとこ、あります。と、考えると、細かいところに目を向けてるな、と感心するし、詩も隠れてるなと思いました。 (内情)

2018-05-30

おはようございます。ううん、これはよく書かれていますね。とてもうまいと思います。感心させられる箇所はいくつもあるのですが、特に骨の「数」を確認するくだりは唸ります。握っている「手」や「指」から入って、骨の構造、そして「数」。この現実的、具体的な叙述が、《僕》の心理的な空虚感、《彼女》への距離感を表しているばかりか、その非現実感をも表しているように思います。内面という抽象的なものの動きを「骨」「数」という具体的なものによって喩える。見事。 そして、《水死体》のように揺れている《ボート》。終わってしまっているなあ。こうした非現実性を仄めかす個所が所々に配置されていて、表現上としては一見《嫌悪》や《醜さ》について語っているようで、全体としてはとても美しい作品になっていると思います。 (E# minor)

2018-05-30

こんばんは。川島誠という作家がいて、最初に出した作品集のタイトルが「幸福とは撃ちおわったばかりの熱い銃」だったことを思い出しました。あれ?間違ってないよな。 まあ、児童書枠でしたけど。表題作は、誕生会に呼ばれた男の子がテーブルの上にのって、小便をぶちまけるやつです。ビートルズの曲からとったタイトルだろうけど、性を意識する年齢にさしかかった少年少女の話につなげるとはまさかという感じで。 こちらの作品はホットガンではなくて、コールドガンなんですね。タイトルと表現とが離れてるように感じました。 (ハピネス・イズ・ア・コールド・ガトリング・ガン)

2018-05-29

こんにちは。インターネットが普及しはじめて、20年くらいは経つのだけど、携帯電話を持つのが当たり前になってからもすでに長いですね。昔は携帯電話もっているのはヤクザ屋さんか社長とか言って持つのに否定的だったけど、いっしょになって言っていた連中も気づけば携帯電話、そんでスマホを持っていて、そんなこんなの間にSNSは凄まじく広がった。一時は依存症という言葉まで言われていたなあ。誰もが自分の意志で自由に参加できて、しかも匿名でいられることの利便性。Twitterなどでの炎上。発した内容がネット空間に浮遊しつづけるという面倒臭さ。はてさて、この船はどこまでいくのか。 そんなことをなんとなーく考えながら読みました。 (学習 learning)

2018-05-29

こんばんは。最後の二行で、清涼感がひろがりました。重く湿っぽい灰色をはじきとばす爽やかなサイダー。おいしそうです。 (夏待ち、曇天)

2018-05-28

るるりら様 コメント、ありがとうございます。私も子どもの頃はしょっちゅう蛙の鳴き声を聞きました。今でも聞きますし、田んぼも多いですが、子どもの時分はもっと多かった。夜、田んぼと田んぼの間の細い道をいくとよく聞こえていたものです。賑やかなんですよねえ。夜道がちょっと楽しかったような気がします。蛙といえば後鳥羽院の話がありますね。あんまり鳴くのでたしなめたら、それ以降鳴かなくなった、だったかな。 ところで、ウシガエルは本当に牛のようにモーモーと聞こえるんです。これにはびっくりしました。地の底、あ、水の底から響いてきてドキドキしたことがあります。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-28

こんにちは。読みながら、北原白秋の詩の一部を思い出しました。多分私だけではないはずと思うので、先に書くことにします笑。 《薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク ナニゴトノ不思議ナケレド》 (「白金ノ独楽」、『薔薇二曲』から) もうこれを下敷きにしたんじゃないかと思いたくなるくらい、ピッタリきます。    《ナニゴトノ不思議ナケレド》 きっととても不思議だったというか、非常に驚いたというか、ハッとしたんでしょうね。どうしてそうなったのか、どういう状態だったのか、なにがあったのか、というのはとりあえず置くとして、とにかくそういうふうに見えてしまう、感じてしまうことがある。それは隠された《大切な秘密》を覗いてしまったような感覚であるかもしれません。そして、この作品では、それは《いつか誰かが/そこに植えたから》にちがいないにせよ、その誰かや、《私》の想い、状況などとは関係なく、本来咲くものとして咲くわけで、こうなると驚かないではいられない。自然というものにーーうんにゃ、そうじゃないですね。自然現象や人びとの生活、もっと言えば時の移ろい、惑星の運行までもが、自分の想いや状況にかかわらず、動く・動いていることに直面した驚きや奇妙な感覚、になるのかなあ。やばい、広げすぎた。 ですが、こういう感覚は大なり小なり普遍性をもつと思います。出だしから最終行までの振り幅も大きくて、ぐうの音もでませんや。 (バラの花が咲く)

2018-05-28

こんにちは。そういえば何年か前に「すきま仕事」という言葉を使う人がいたのを思い出しました。手空きの時間でできる仕事、みたいな意味だったように思います。それってでも、余裕とかゆとりとはまた違うものだと思います。 それと、個人的には芸術は隙間とは逆のところにあるように思います。隙間も隙間じゃないところも芸術にかかわることでぎゅうぎゅうに埋め尽くして苦しいくらいじゃないかなあ。作品は素晴らしいけれど、そのために生活者としては敗北者だった芸術家は少なくないと思います。 ニュートンが不勉強で、おまけに何も考えず、なんの気なしの暇つぶしに木の前に座っていたら引力の法則は発見がもっと遅かったように思います。 (隙間)

2018-05-28

こんにちは。こんなナレーションが入った後でエンジンが入る…、ラジオの車のCMに似合いそうですね。言葉の選び方使い方が、そんな型にはまっていて、読みやすいけど、ズシンとこなかったのが残念です。 (お気に入りの孤独)

2018-05-27

こんばんは。とてもリアリティがあります。リアリティといっても、夢(悪夢)のそれです。詳細は省くとして、二十年ほど前に、自分を殺そうと迫ってきた相手が自分だったという夢を体験したことがありました。あの時の驚愕と恐怖ときたら! きっと天守閣から狙っている自分を見た瞬間はそうだったんじゃないかと思いました。 「君」という距離をおいた視点からの語り、よいですね。 (天守閣)

2018-05-27

こんばんは。ウルトラマンは遥か彼方のM87星雲(だったかな)から地球を守るためにやってきたそうですが、当の「私たち」が願った社会は《星よりも遠く消え去った》わけですから、こりゃまた皮肉なものですね。 (故郷)

2018-05-27

こんばんは。 なんだ、この寂しさは。なんなんだ。呼びかけていながら、呼びかける対象がそこにいないような、ひとりで歩きながら心に浮かぶ相手に、人知れず話しかけているような、幼くして世を去った子どもが在りし日を偲びつつ、家の中を歩きながら語っているような。 (象の玉乗り)

2018-05-26

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。詩の旨味のひとつは、気づかなかったことに気づかせてくれるところにあると思います。わかりきっていると思いこんでいることでも、改めて焦点をあてられると、ああ、たしかにそうだった、と思ってしまう。いや、異なった角度から光をあてられると、といったほうがいいのかもしれません。それくらい、日常の見方考え方というのは、同じ角度から光をあてるように習慣づいている。 だからこそ気づけなかったことに気づかされるのは驚きです。作品の言葉が驚きに出会わせる。現代は以前にまして刺激の強いものが増えていく様相を見せていますが、そのためにかえって驚くことは少なくなっている。にもかかわらず、詩の言葉がしばしば読み手を驚きに出会わさせてくれるのは失われていない。これは嬉しいことです。 ありがたいお説教ではなかなか驚かないし、染みたりしないんですけどね笑 語る詩によるカタルシス、のなせる技ですね。 コメント、改めて感謝します。 (四月選評 )

2018-05-26

花緒@B-REVIEさま コメントありがとうございます。パソコンやスマホの画面て、文字がパッと目に入るんですよね。紙媒体だと順に読んでいくから、かつての立体詩とか未来派とか視覚的なものは読むより先に図像として訴える効果を発揮できるかもしれません。文字の組み方も形としてパッと入る。 逆に、順を追って読むのには他の行がいつも目について気になるというか急かされる気になって、言葉がうまく入らないことがあるのです。きちんと向き合って読めるまでに時間がかかる。 これはもう、頑張って読まなくてもいい笑。やらかすならめいっぱいやらかしたれ、です。 ゲは外であり、下であり、そういえば南無妙法蓮華経の華でもあると、いただいたコメントを読みながら思いました。もっと広げられたかもしれませんね。 (かえる経)

2018-05-26

かるべまさひろ様 コメントありがとうございます。「胡散臭さ」でていましたか。よかったです。詩は胡散臭くてもいいと考える派です。つくりものなので。世間様はこうした胡散臭さを毛嫌いする向きがありますが、いかにももっともらしい素振りで、いかにも真実味のあるようなことを宣っては衆目を欺く輩がいて、痛い目に合わせてくれます。そのくせ、彼らの理や利益に結びつかないもの、反したものを胡散臭いまやかし、流言として退けるいやらしさをもっている。いやはやですね。 マーサナカムラさんですね。名前は以前から聞いていましたが作品を読んだことはありません。「手帖」はあるんですがね、時間がないんです笑 (かえる経)

2018-05-26

地( )球さま コメントありがとうございます。私は選評では「ヘンテコリン」と書きましたが、詩の言葉がヘンテコリンであることは、全くヘンテコリンなことではないと思っています。といって、ヘンテコリン推奨というわけではありませんし、ヘンテコリンなものが詩であると断定してもいません。笑 詩を書こうとするとヘンテコリンにならざるをえない場合が往々にしてあるということです。けれどもそれを書く「核」までもヘンテコリンではなく、むしろ、かっかと燃えているんじゃないか。 詩の側から見たら、日常文法に則って規則正しく並んでいる言葉こそ、強引に繋がれた歪な姿であるかもしれないですね。 (四月選評 )

2018-05-26

こんにちは。お答えありがとうございました。 こちらが十分に読みきれていませんでした。それほど第二連における「枯葉」の様子が鮮明だった、という言い訳くらいはさせてください。「昨日」でありながら、いままさに見ているかのようにありありと私の目にも映ったのでした。 さて、結論だけ言いますと、世界が生命力に溢れたものとして感じ取れるとき、そればかりでなく、自らのうちにもそのようなエネルギーの充溢を感じることがあります。それを、「作品を通して」感じさせてくれるものでした。 (葉脈)

2018-05-25

こんばんは。 どこかしらメルヘンチックというか甘い香りのただよう作品ですね。(あくまでも香りです。) しかし、そのようなメルヘンチックな雰囲気を醸すことを意図したかどうかはやや疑わしく思います。むしろ、そうした雰囲気に陥るのを慎重に避けた印象です。 例えば第一連の「美少女」。書かないなあ。というか、書けない。だって美少女ですからねえ。「少女」ならわかります。「娘」「乙女」(まあ、古いですが)でもわからないではない。でも「美少女」はちょっと書けない。 第二連の「海苔をまいたおにぎり」、第三連の「入試前」、最終連の「料理番組」、これらも書けないまではいかなくとも、連から立ち上がる甘い雰囲気に対して、そのバランスを壊すような現実味があります。で、その現実味が他の行とギャップを生んで、総じてメルヘンチックな甘さをより現実の側へ引き寄せているように感じます。いかにもありえそうな光景へと。 (春のうちがわ)

2018-05-24

こんばんは。 さまよったあげくにようやく見つけた真理が、割と単純で、ひとに話したら「うん、そうだね」みたいに、特に感動もない返事で済まされてしまうこと、稀ではないと思います。とは思うものの、見つけた本人にしかわからない重さというのがあるんじゃないかと思います。多さにまぎれるとそれすら流されてしまうこともあるだろうけど。 というのはおいておくとして、超高度な情報社会と大衆消費が結びついた現代とあっては、欲望も病理もカルチャーセンターの講義内容になったり書店に平積みされて娯楽になってしまってしまう、そのくせ、「平成○○年に流行した云々」のように、過去のこととして切り捨てられる嫌みなところが大いにありますね。 企業はモノよりも価値観やステイタスなどといった欲求を駆り立てることを先んじて流通させようとするので、なんでも揃っているので、その飽和によってつねに渇いていて退屈してしまう。朝からウンザリすることはよくあります。その疲弊を現わせていると思います。私も怠けていたいものです。 (始発に乗って)

2018-05-24

こんにちは。 “Arent you more suck?” こういうの、けっこうやっていました。なんというか、ついついやってみたくなりますね。言葉のもつ音の誘惑にはまってしまうのかな、とこの頃は思います。 (青を探せ)

2018-05-24

こんにちは。しまった!昨晩読みながら、カポエラみたいだと思っていたのです。先に書かれていました。 カポエラは両手を繋がれた奴隷たちが、密かに編み出した格闘技ですね。ぐるぐる回って、足がダイナミックに動くし、為政者の目を隠すために舞踏を装ったと読んだことがあります。リズミカルで、ステップもダンスみたいだし。その様子が言葉でくっきり現れています。昔、NHKで深夜に流れていたなあ。 舞踏といえば、舞いというのカポエラがいつか立ち上がる日のための対抗手段であったように、為政者の暗殺手段として物語に使われますね。踊り手はもっとも狙う相手に接近できるし、いかに勇壮でも舞いと思って見る限り、警戒は薄れてしまう。そう考えると、舞踏というものは華美な外見で偽装して周囲を欺くところがある。 ときに、偽装された外見が主流になって、本来こめられていた意味が忘れられつつある状況においては、影を相手に舞いながら見つけられる日を待つしかないのだから孤独ですね。 私たちは何かを忘れてきているのではないか、などと考えてしまいます。 (フィラデルフィアの夜に Ⅵ)

2018-05-24

おはようございます。 「えー、あー、と、」の「と、」と次の語との間に気持ちのいい間があって、その繰り返しがよいリズムをつくるのにいい仕事をしているように思います。ここちよい呼吸を感じました。 (In Blue)

2018-05-23

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。アマガエルの写真集買ったんですね。たしかに見た目もかわいいですね。たまに変色して驚かせてくれますが。 これ、書いてて口をついて出たのは「ゲゲゲの鬼太郎」の歌でしたよ、まったく。 9999回唱えた時解脱に至るとか言ってみたい笑 解脱とは「解得る」の謂いである、とか。 (かえる経)

2018-05-22

湯煙さま コメントありがとうございます。そういえば、数年前に蛙についての神話や伝説を調べてみたら、けっこうありました。そのときはヒキガエルでしたが。水と陸の両方を行き来できる生態というのも神秘的ですね。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-22

こんばんは。これは、もう最初の一行で決まっていますね。でも、その場合タイトルに悩むかもしれない。 デュシャンが便器に「泉」とタイトルをつけて驚かせたように、花瓶にマヨネーズを活けて「生け花」というタイトルはありえるし、「薔薇」といってもいい。 マヨネーズにとっては花瓶とからすとどっちがよかったのか、花瓶には新しいマヨネーズが活けられたのか。 そして空の花瓶の恨めしい佇まい。これは恐ろしい。こんな女性の立ち姿は恐ろしい。 (マヨネーズをめぐる愛憎劇)

2018-05-21

こんばんは。 すいません、とてもとても気になっている箇所がひとつだけあります。私が読みきれていないのかもしれませんので、それをすっきりさせたくて、書きこみました。 第二連で、「枯れ葉が舞いあがってきた」のは「昨日」と示されているのですが、最終連では「それがいま」となっています。この「それがいま」(もしくは「昨日」?)は意図的なものなのでしょうか。 (葉脈)

2018-05-21

黒髪様 コメントありがとうございます。我ながら思わぬところに着想がいってしまったので、思わぬところにきた以上は思い切りという具合です。笑 蛙の鳴き声、これからが本番ですね。季節は『蛙鳴く池のほうへ』向かいつつあります。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-18

すいません! 原口良平ではなく、昇平です! 原口昇平さん、すいません! (四月選評 )

2018-05-16

こんばんは。いきなりですが「キャンプにて」が一番好きです。 「ちくわ」を「ちくわでないもの」にすること。「これはちくわ」だと思っていることを、もっといえば既成の概念で凝り固まっている日常の意識を壊す爽快感があります。しかも理屈っぽくなく、一息に跳躍する運動が一行のなかに感じられます。そして、次の行は現実味がある。非現実と現実がたった二行で現れていて、名人の手品を見るようです。 (ちくわ詩編①)

2018-05-14

こんにちは。愉快でした。迂闊にも一人の部屋で笑ってしまった。いや、楽しい。 「前編」の冒頭からの運びは、特撮モノの変身シーンや“前回までのまとめ”にさしはさまれるナレーションのような感じで、頭のなかで音声として入ってきて楽しめました。主人公としてはショックな出来事なのだろうけど、読んでる側としては同情しながらもユーモラスに感じました。《!》を含めた語り口の効果でしょう。 「後編」は、昔、ねじめ正一がやっていたお茶の間劇のような喧しい印象でしたが、前編・後編合わせて読むと、これは派手は派手な展開ながら、哀しいイキモノね、と思うところもあり、表現上の派手さと内容のギャップとで、余計ユーモラスに感じました。さしずめヒューマン(?)コメディといった感じとでもいうか。 全体の展開としても、アクセントがはっきりあって、総じて痛快エンターテイメント詩だと感じました。 (ラブ・ラプソディ 【後編】)

2018-05-14

こんにちは。前の私のコメントは失礼でした。すみません。初読ではただに良いなあと感じたのですが、読み直しているうちに、ふと《いまは~》の詩行で成立しているのではないかと思ったのでした。というのは、私が書くとしたら、最終の二行はやはりどうしても書いておきたいことなのですが(微笑ましく思えたのも、ここに尽きます)、最も書きたいことを書かずに留めておいた方が、靴の存在感が読み手にしみたかもしれないな、とも思えたからです。 それはそれとしても「蛇足かどうか~」という言い方はないですね。平にご容赦を。 (靴)

2018-05-14

こんにちは。《いまは静かに眠っている》の行で、完成しているように感じ、もしかしたら、そのあとで、二行を思いつき付け加えたのかと考え ました。しかし、だとしても蛇足かどうかは難しいところで、この二行で、ふっと微笑ましく思えました。あ、なんかわかる、という感じでした。 (靴)

2018-05-12

こんばんは。最初の一行と最後の一行が同じということは、最後が最初になってエンドレスに繰り返しつづけるのでしょうか。(仮にそうだとすると、想像するに)呪詛のようでなかなかに恐ろしいです。 (リフレイン)

2018-05-02

こんにちは。この作品、とてもいいです。良さを言葉にするより早く、いい!と感じました。いい!というより、おお!です。 (夕焼けが足りない)

2018-05-02

こんばんは。ストレートに恋だの好きだの、あー、ダメだ、こんなの書けないわと思うのだけど、よく言うポエムからは頭ちょっと抜け出てるとも思います。それでもやっぱり私には書くのは難しい。 けれども、そこはこの作品が問題なのではなくて、いかにも詩らしい詩に馴れてしまっているこちらに原因があるのでしょう。いかん、いかん。そんなことに気づかされました。従来の(詩への)固定観念を突き崩すところが詩の力のひとつだとしたら、私にとっては十分詩です。 (いつまでも春)

2018-04-29

こんばんは。雲一つない空に限らないですが、空というのは心の時々の状況で清々しくもあったり、腹立たしくもあったり、また恐ろしくもあったりします。あの漠とした際限のない深さや広さは足元から吸い込まれてしまいそうになって頭が白くなることも。というのは個人的な話なので置いておくとして、空へ向けられた視線が終わりの方で個人に落ち着いてしまうあたり、もったいないように感じました。 (空を仰いで)

2018-04-29

こんばんは。ネオンと躑躅。最後の二行が個人的には惜しまるものの、少ない材料で、人工物(に囲まれて暮らしている私たち)と自然(まあ、これもところによっては都市計画の一端で植えられるという点で、完全な自然とは言い難いですが、充満する匂いまでは計画外でしょうから、まさに《五月の意地》)との対比が明確になっていて、空気が感じられます。 (夜のにおい)

2018-04-29

こんばんは。ワルツざかにチビで、子犬のワルツをふと思い浮かべました。 《あした ほんとを/おしえてあげます》 この詩行はすごい。 大人の語り口で同じテーマを書いたらどうなんだろうと考えてみました。ここまでグッとくるかどうか。 シブいです。 (ワルツざか)

2018-04-27

こんばんは。流木の生涯はまさに様々な事物や事象との関係のなかにあったのですね。そして食い込んだ一粒の団栗は流木と関わり新たな関係(生)に入っていく。語りは穏やかですが、とてもダイナミックでぐわんぐわんなります。 (流木)

2018-04-27

こんにちは。誰かと思えば黒髪さんでした。困ったことにいい詩を書く。 今日、こちらは晴れています。空が青くて、爽快。そんな空を見ているのだけど、この作品はその向こうまでも響いていると感じます。遠くから来て遠くまで届いて響く。 詩は言葉で書かれるけど、言葉じゃないって思い出させてくれます。言葉を伝ってポエジーとしか呼びようのないものが立ち上がるのを感受できると、爽快になります。 (笹竹)

2018-04-26

こんばんは。 イメージに二種類あるとしたら、(1)すでにあるものやわかっているものを心の中で思い浮かべること、(2)ないものを現実にあることのように形象化すること、だと思います。 前者はイメージの言語化として、多くのひとが試みていると思いますが、この作品のように後者の、言語によるイメージの創造はそう多くはないように思います。それほどこの作品では、言葉によってひとつの世界が、現実味をもって作りあげられていると感じました。 それを作りあげるのに、随所に配置されているディテールが活きていて、グロテスクともユーモラスともとれる生々しさが現れ、その奇怪さがかえって美しさとして映る。 例をあげればキリがないけれど、一見全体的にはグロテスクな雰囲気に包まれているけれど、実際なんじゃそらというような面白いところもあって、それがまたグロテスクさを増すように働いていますよね。最も気に入っているのは、《時に果てしなく痙攣し/時に蟹を食いながら》の詩行です。 ひとつひとつの動詞や、現在形の書き方も作品世界に動きを与えるのに一役買っていますね。 ご本人のコメントによる《吉岡実の世界に通じるもの》とありましたが、パッと思い浮かべたのは「僧侶」でした。 (夢見る宝石)

2018-04-25

こんばんは。語数も含めて、音に気を配って言葉を置いているなあと思いました。 それから、 《彼らは ここらじゃお客さま いずれ群れて飛び立つよそ者 わたしもよそ者 ただし気儘な一人旅》 の部分なのですが、《わたしも》のところに、旅する者同士の親近感のようなものを感じました。 それぞれの生きる場所ですれ違う短い時、心のなかで(じゃあな)とつぶやきかけるような。 島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の(一)、第二連に、 《旅人の群はいくつか/畠中の道を急ぎぬ》という詩句があります。ここには悲しみや寂しさのようなものもありながら、同時に、やはり同じ旅の途中にある者に対しての親しみに似た視線もあったのではと、この作品を読んで思いました。 同じ生のなかでつかの間すれ違う者に感じる幾らかの寂しさをともなった親しみととれば(拡大し過ぎかもしれませんが)、種を超えた連帯感のようにも読めますね。 (HOME)

2018-04-19

ありがとうございます。こちらの確認ミスで、あげたあと、もしかして!と思ってしまったのでした。どうもすみません。 私のミスなので無効になるのが当然の道理なのですが、有効として扱ってくださるということ、恥ずかしいかぎりではありますが、お言葉に甘えさせていただきます。 ありがとうございます。 (【選評】「夜」)

2018-04-19

つい先日、ボロボロになった「現代詩作マニュアル」(野村喜和夫、詩の森文庫、思潮社)をめくっていたら、第一部の1に、この一節を発見しました。アドルノの名前も覚えていたし、どこかで見た記憶があったので、ああ、これだったかと思った次第。 現代詩を戦争の反省から生まれた戦後詩からと位置付けるために、一文だけ引用していました。アドルノやその思想を大まかにでも知っていれば、まあまあ辻褄が合うように書かれていなくもないと言えるのですが、その引用、どうなんですか~とつっこみ入れくなるとこもある。まあ、読者層を広く設定していたからとか、戦後詩を印象づけるためのインパクトを与えたかったとかあるのかもしれませんけど。ポストモダンに詳しそうな氏が、アドルノの言わんとしたことを知らなかったわけではないと思いますが、当時誤解した読者はいるんじゃないかと思います。「エクリチュールは一人歩きする」と言っていいのかどうか。苦笑 (【選評】3月投稿作品)

2018-04-17

(付け足し) 我々が生きている現代を形成する社会的枠組みを根本からとらえ直す観点ももたずに《詩》を書くこと、また疑いもなく生きることは《呑み込まれ》に対して従順であり《野蛮》にとどまることで、この現代に呑み込まれずに主体として生き、《野蛮》から抜け出して《詩》を書こうとすれば、少なくとも枠組みを壊すくらいの意識的態度はもたざるをえない。 それとも《野蛮》にとどまらないでいるんなら、たとえばテロルのような反社会的行動にーー《聖母マリアを強姦しに》ーー向かうかい?とここは暴力的な言葉を用いた反語表現と読むことができ、前との関係から平和への希求として聞きとれたのでした。 (【選評】「夜」)

2018-04-17

投稿時一二度読んだのですが、語り口にひっぱられてあまり入っていけなかったのですが、いま読んでみて、内容まで入っていけました。 コンパネ、ユンボ、歌うヘッドライト。土、埃、汗、そういうものを思い起こさせる細かい部分が活きてる。個人的に好きなのは「毛布」の部分。 街(マチ)の賑やかさと、その一方で這い蹲るような生活を懸命に生きている人たちの対比も表れています。 まるで蝉たちが、幹にしがみついて、熱いひと夏を鳴いて落ちるのを見るような作品ですね。主人公は気概だけが頼りだったのか、ひと夏が終わって落ちたあとでも気概だけが残ったのか、どちらだろうとしみじみ考えました。 (空蝉の)

2018-03-29

おはようございます。 Chimera。キメラ、キマイラ。フランス語ではシメール。初読からしばらくして、そう読むのかな、と不意に気づきました。 ギリシャ神話に登場するのもたしかですが、個人的にはボードレールやマラルメなどを思い出しました。 しかし、当時のChimeraはもっと凶暴で危険な印象だった。こんなふうにやさしい存在として甦るのもなかなか素敵かなと思いました。 (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-27

いま、この作品のなかで、風を眺めている主人公は、何を思っているのだろう。眺めている風のなかをどんなたくさんの一つ一つが流れているんだろう。それは無闇に言葉にはできなくて、ただ風を眺めている主人公の姿を眺めながら、生きることの悲しみと強さをひしひしと感じる。 風の花、風畑、傷跡に散っては咲く花々、不可視ではあるけれども、これらはもう、たしかにあるもので、この主人公にとっては真実として眼前に映っている。そういう、「誰にも見えなくても私にだけは見える」光景が、ある状況においては、あるものです。これが、しかし、幸せかどうかはわからない。そこまで苦しまなければならなかったから、そのあげくに見えてしまったとも思えるから。 ここで私が思い出しているのは、悲しい出来事で我が子を亡くした母親が、月を見る理由を問われて、「子どもがいるんです」と語ったという話です。 これはもう非科学的とか錯覚だというレベルではないし、狂気でもない。ある状況においては、その人にそうであるなら、もうそうなのだという以外にないということがあるし、それはその人にとっての真実と呼んでいいんじゃないかと思います。 ただ、そういう真実というものは言葉には非常にし難い。言葉にできても、作品にはさらにし難い。読み手に見えるようには、です。それを、成功させているから、こちらは口を噤みたくなってしまう。 まあ、いっぱい書いたわけだけど。 (風の花)

2018-03-13

拙い感想ですが、この作品が美術館に飾られた絵画なら前に立って足がくたびれるまで眺めていていたいし、本当の霧雨ならやっぱり足がくたびれるまで立っていたいと思いました。でも傘はさします。きっと風邪をひくので。 (霧雨)

2018-03-13

いや、微妙に違うんです、ここがわがままなとこで、先のコメントにも書いたのですが、読んでるこっちでは、「あ、ドラマが進行してるな」「ふたりのなかでなにかが動きつつあるな」という風に感じてる。要するに、《始まって》いるんです。なので、「そう感じてるだろ?でも、始まらないんだな、これが!」ってところが、ズバーンと欲しかったというね、「このシメ、マジか!結局、始まってねーし笑、おもしれー!」となれたら良かったな、というやつです。 あ、だから、そういうことです(自分的納得)。この作品の場合、《結局》は、示されることじゃなくて、こっちが思いたかったことなんです。 (始まらない話)

2018-03-12

該当箇所は最後の二行です。 それまでの流れはとても自然で、特に 《おちてくるあめのつぶが がいとうのひかりをくぐるとき まるでむかしのえいがみたいに ぱたぱたと 弾かれた鉄の粒が なかなか芯に届かなくて まるで沢山の閃きみたいに パチパチと》 の箇所では、「始まらない話」でありながら、なにかがそれぞれのなかですでに始まっていて、動いているように感じられて、それがどうなっていくのかを期待させられました。 ところが、行間が空いて、最後の二行がくる。それまでの流れがふっつり切れて、この二行が、唐突に、独立して響くんですね。ここに、浮いた感じというか、違和感を感じた。まあ、期待が宙吊りになったまま終わったから、どうせなら、もっとこうはっきりとオチをつけて欲しかった!ということでもあるのでしょう。 あら。となると、これはもう読んでるこちらのわがままになりますね。 (始まらない話)

2018-03-12

すいません。さっき返信レスを上げたのですが、反映されなかったようです(;´Д`) また出直します。 (始まらない話)

2018-03-11

わ、わかりませんでした、、、。 フツーに地の文かと思いました。 ええと、最後の部分、《結局》って要らないんじゃないかと思います。展開的にはオチ(結局)にあたりますし、それが説明的な印象を与えているように思う。 それから、落とすならガーンとしっかり落とす、上げるならグーンとはっきり上げる、くらいにしたら、その前までの流れとの落差が生まれて面白くなったような気もします。 (始まらない話)

2018-03-10

え!?そうなんですか? 冒頭というと、《よるにあめ》ですか? (始まらない話)

2018-03-10

二人の登場人物のやりとりとか、一人が部屋の外にでて、もう一人が残るのとか、各々の目に映る情景とかはわかりやすく、そういうワンシーンを遠目からカメラで撮影しているような展開でしたが、最後だけ登場人物がひとりになってしまったので、もやもやしました。 (始まらない話)

2018-03-10

アウシュビッツ以後、特に21世紀以降は、9.11など想像を超える現実が外部からもたらされて、そうしたものの前に、詩のみならず、多方面で発言力が弱まったことを思い出しました。かつては詩作品が現実と拮抗するとか、詩人は予言するなどという言説を目にしたことがあったけれども、そうした想像が追いつかない現実が世界を覆ってしまった。となると、野蛮を認めつつも、というかむしろ、野蛮であるからこそ、詩を書くというその暴力性こそが、生きていく上で、外部からの力に易々と呑み込まれてしまわないための「抵抗」となりうる。その折れることを拒む強さを感じました。 それから、この作品でハッとして年譜を確認してみて、初めて知ったのですが、多喜二と賢治は、同年の1933年に亡くなっているんですね。文学史的に並べて語られる場面がなかったとはいえ、これには驚きました。多喜二を思想に殉じたと言っていいのかはわからないけれども、単なる思想ではなく行動によって殺されるはめになった。ジョバンニ(賢治)は「すべてひとのさいはひ」を口にしていて、このあたりはもしかしたら多喜二と思想的には通底しているように思えるけれども、多喜二は、拠って立つひとつの思想に身を傾け、賢治はそれぞれの思想がみんなひとつのところからくればいいと考えていて、そうとなれば、賢治の思想は、ひとつの思想に身を寄せない無思想ともいえるもので(宗教的思想ではあるけれども)、体制に対しては多喜二のように身を呈して抵抗するところはなかった。それでもそれだって思想なのさ、とジョバンニが語っているように感じられて、多喜二も救いようがなかったけれども、ジョバンニもまた救いようがなく思いました。 結局のところ、外部に対しては、思想も言葉も詩も救いようのないところまできているのかもしれないけれども、それゆえに《聖母マリアを強姦》するのと同等の暴力性を引き受けつつ書くことには、詩の現代的な意義や価値があるように思います。 (夜)

2018-03-10

アドルノ~。 と、とりあえず。 (夜)

2018-03-10

この(全文の)長さで、一文の呼吸の長さが安定しているのはメリットなのか、デメリットなのか。リズミカルといえばそうだけど、区切りが入ってもほぼ同じ呼吸の長さで繰り返されているようでもあって、単調ともいえば単調。間に改行詩を入れるとか、行間を使うとか、思い切ったリズムの緩急があると、またちょっと変わったかもしれないと思いました。そうすると、モジリの効果が薄れてしまうとか、まあ、いろいろ崩れてしまう可能性もあるのだけど。 ざっと言うと、うまい具合に収まっています。悪く言うと収まりすぎている感がある。特に最後は綺麗に着地しすぎかな。あくまで個人の感想です。 (ケッコンしきますマスの語かつやくをネガってる)

2018-03-09

《人間から必要とされなくても生きていける、ロボットのような人間を目指すつもりです。》と考えている《ぼく》は、そのくせ、ロボット先生が好きで、《ぼくの先生》とさえ言っているというところが、絶望的なくらい人間的です。 いつかそんなふうになれたとしても、きっとまた《ぼく》のような子どもに必要とされてしまう。 (ROBOT TEACHER, WHAT CAN I WRITE?)

2018-03-09

最終行はどうにかして「ジッパーを外す」につなげてほしかったです。 (Mr.±0)

2018-03-07

こんばんは。 よいですね。てんとう虫を介して、《きみ》と《ぼく》の関係がみえてくるようです。《ぼく》の視線がほほえましい。 なにげない光景のようでもあるけど、誰の記憶にもとどきそうです。てんとう虫かどうかは別にして、こんな体験や気持ち。 (てんとう虫)

2018-03-03

読んでいて気持ちいい。身体にきます。読んでいるというより、ライブの聴衆になっている感覚になれます。 (青信号を渡らない赤子)

2018-03-02

ああ、こりゃあ、いやなやつです。「世にも奇妙な物語」で見たことのあるような、それか、いやな夢にフッとつながりそうなやつ。無限地獄みたいな。加えて、家の鍵が千切れた首輪になっているという不条理の衝撃。この作品の鍵もこのあたりにありそうですが。 帰る家があるということは安らぎではあるけれど、一方で自分をそこに縛り繋ぎとめるものでもある、として、それが千切られたら、行き場なくさまようしかない。家があるという日常に安住して、省みずに暮らしているひとの夢にでてきそう。 《外灯がまたひとつ消えた》というリフレインで終わるということは、まだまだつづくのかもしれません。怖 ときに、実際では、外灯はコントロールされていて、ある時間になるとパッと消えます。初めて見たときは驚いたものです。 (彷徨者)

2018-03-02

一枚の静謐な、抽象度の高い絵を思い浮かべました。イメージに満ちて、静かで、そのなかにも息づかいが聞えてくるようです。 最後の《野生よ》、ここが、余韻を残して、映像を再起させてくれます。 (私に※)

2018-03-01

こんばんは。 シマウマにはたくさんの縞模様があるけれど、この作品もたくさん「しま」があって楽しいです。 それにしても、たくさんのものをしまってるんですね。それなのに、何か忘れているようで気になって数えてるなんて、まるで「しまう魔」にとりつかれてるみたい。 と思うとドキッとします。 (現代のしまうま)

2018-02-27

こんにちは。 冒頭から引きこまれました。朝勃ちなのに、賢治を思い出してしまいました。 肩肘を張らなくても楽しく読めますが、書くとなると私にはちょっと難しいなと思いました。何度も読みながら、久しぶりに、楽しさと嫉妬とありがたさを同時に感じることができました。ありがとうございます。 (アサダチ)

2018-02-27

つーか、四の五の書いてるうちにすすんでんじゃん! 笑 (あだらいっぱい)

2018-02-26

せっかくソラで音読できるまで覚えたのに、残念です。でも、まあ、掲示板に残っているので、コメントします。 《水の声が幾つも聴こえたたあ》 この出だしの一行ですが、 この《水の声》、これが何を意味するかはさておき、この一行がどこまでかかっているか、なかなか決めがたいですね。 《もうもう 乳牛に 幸せを楽しもうと言う》までということも十分ありえるし、《俺は逡巡を凌辱されとうたう》この行も入っていい。《たゆたうとうと 尊いというと》も、最後に「と」が付けられているので、ここまでということも考えられる。 《水の声が幾つも聴こえた》わけだから、各々の行に「と(いう声が聴こえた)」が省略されていると考えると、ここまでは引っ張れます。 (この場合《俺》は水の声のひとつになります) 上記のように行ごとに省略があり、また誰が語りの中心なのかが曖昧にぼやかされているので、内容がひとつの脈絡のある像としては結び難く、ただ揺れている水面に影がぼんやり映っている感じがあり、もちろんその「感じ」だけを受け取れば受け取れなくもないのですが、このような捉え難さは読んでいるこちら側にしてみると、言語的な不安を感じてしまう。(ついでに、《水の声》というのも、透明でとらえどころがなく、そのくせ隅々まで行き渡るようで不気味です) 逆に《乳牛》、《逡巡を陵辱された》という部分では、飼うとか管理とか、あるいは支配的、暴力的なイメージを喚起させられ、先の言語的不安と少ないキーワードによって喚起されたイメージから、はっきりとは見えないのに確かにある底知れぬ不安を暗示しているようにも思える。と同時に、それは《幸せを楽しもう》や《尊い》といったイメージ的には明るい(けれどもどこか力のない)言葉との対比によって、不可解さ、不気味さ、不安さを増し、逆にいえば、あたかもこういった何が何とも言えないような不安のなかで、かすかに生きようとする声を聞きとるしかないというのが、実は私たちの置かれている現在なのかもしれません。 以降を後半部にわけるとして、 《キッチンでカリを舐め/ つまりは あんまりだが》は前の《キッチンでは~》を《あんまり》以下で言い換え、 《青酸カリ ではない カリを舐められ/ 脊椎に微量の電気を感じる 》そのくらいの《あんまり》だと結ぶ。それは「死(青酸カリ)」ではなくて、生の側に傾くようにさせられてしまう、ということが、死ですら自ら選ぶことができず、他者によって与えられるもの、支配されるものであると読めば、たしかに、あんまりな話です。ただ、青酸カリよりはカリの方が手近ではあるし、容易に舐めやすいかもしれず、わずかなりとも刺激を感じてしまう、という意味では、なんだかんだ言っても手に入りやすいリビドーの方を選んでしまいやすい(これもまた「ヒドい話」です)ことを示唆しているととることもできる。あっさり言ってしまうと前者はそのような社会の酷さ、後者はそのような私たち人間の酷さであるのですが、そのような社会でそのような生を営むにとどまっている人間、どちらもヒドい。 これはもう、牛も人間も変わりゃしない。ここまで書いて、《乳牛》というのは人間を喩えたものかしらん、とも思え、個人的に、牛に幾らかの哀憐を感じることもできます。笑 それにしても、省略や曖昧化などによる意味の脈絡や像の捉え難さとは、現在の捉え難さや気味悪さと重なるようで、いやはや、もう、あんまりといえばあんまりです。 願わくば、息も絶え絶えになりつつも、かすかに聞こえる《幸せを楽しもう》《尊い》を掬えたらと思うばかり。 (あだらいっぱい)

2018-02-26

こんにちは。 「#現代詩」の《現代詩にハムとチーズを挟んで》の行、作品全体では具体的なものが《現代詩》に置き換えられているのに、この行の「ハム」「チーズ」はそのままなんですね。あ、でも、ハムとチーズを挟めば現代詩もそこそこ食える、というふうにもとれるから、これはこれで面白いですね。うん。 「#強風ハローワーク」の、 《青い空を/魚が跳ねた》という一行、これ、あるんですよね。魚が空を跳ねるってこと。俗にいう現実ではありえないのだけど、内面的現実としてはそういうことがある。というか、言葉にすると、ああ、そうだ、コレだ、みたいに自分で腑に落ちることが。 「#巣立ち」の、静かに受け入れる感が好きです。深呼吸をしたら、改めてすすみだすこともできるし、希望があります。 (家族八景)

2018-02-25

こんにちは。 とても悩ませられました。いや、勝手に悩んだのかな。とある状況でなにかを感じる、この作品の場合だと《僕》が茫然と立ち尽くすよう感情に陥ってしまう、ところが、そう感じた途端に《僕》は語り手として背後に下がり、先ほどまでの自分を、そういう状況に置かれた物語の主人公のように対象化してしまう、一瞬の離れ技を見た気がして、フワッとしてしまいました。入り込んだと思いきやビュッと離れて、つい今し方までの《僕》をさえ、対象化してしまう醒めた目の存在といえばいいのか。 で、悩んだのは《語り手》という言葉で、この作品自体の語り手が存在すると仮定しているからこそ、私はその語り手の語りを読もうとするのですが、作品のににも《語り手》が登場してしまう。でも、作品の中に登場する《語り手》は、この作品の語り手ではない。 そして、この登場人物としての《語り手》は、悲壮ぶっていて、そのことを《僕》は見抜いてしまっている。ということを作品自体の語り手が語っている。という風に、ひとつは作品自体の語り手、それから登場人物としての《語り手》、そして《僕》とが頭の中で入れ替わり立ち替わりぐるぐるしたからでした。表にでてきたり、奥に引っ込んだり、そこからさらに距離をおいてひとつの構図をつくりあげていたり。まったくハラハラして、面白いです。 いったい何のコメントだって感じで自分でも思うのですが、この感じもいわく形容しがたいのです。 (社会)

2018-02-23

こんにちは。 《食べるものを変えるべきなのか~》から始まって、そのあとの《食べるなら》で始まる二つの連、ここでの自己対話、ここで、それまでとは明らかに異なってきています。きよらかなものを希求する気持ちが、より具体的な形になろうとして動きはじめている、動きがあります。素晴らしいと思います。 付け加えると、きよらかなだけのものになれない、とか、醜さをもつことの原因を《食べるもの》にあるんじゃないかとするところは、とてもユニークで、そこのユニークさに気づいていないかのように、食べものを通して《きよらかなもの》へ近づこうと考える、この詩作品の主人公の懸命さ、人間ぽさには好感をもちました。 (きよらかなもの)

2018-02-23

百均様 コメントありがとうございます。 たぶん、これを書いた時期は、下のほうを「足裏」と表すことが、何度かあって飽きてたか、マンネリだなあと思ったかじゃないかと思います。それで、掻くといったらやっぱ尻でしょみたいな感じだったか。で、「雲の尻を掻く」っておもしろいなと思ったんじゃないか。比喩として、隠された意味でなく、その言葉が、ですね。雲に尻があったらなお面白いですけど。(でも考えてみると)「目尻」とか「言葉尻」とか、尻はいろんなものにあるのでした) 子どもの頃、「月がこっちを見てる」と思ったことがある人は多いでしょうが、その時はたぶん二つ目をイメージしていたと勝手に考えています。でも夜の星に百の眼を見たとすると、隻眼ははて?ということです。一つ目の方がおどろおどろしくて、よかったかもしれません。なんかの神話で四頭馬車を駆る馭者として語られていた記憶があります。フロントガラス越しに逆光でさしてくると困ります。 丁寧に読んでいただき、嬉しく思います。改めて、コメントに感謝します。 (冬の帰り道)

2018-02-22

私の祖母は、私が中学生の時に他界したのですが、実家に行くと遺影があり、娘や甥、姪も行く度に手を合わせます。娘も甥や姪や、将来の彼らの子ももしかしたら、そうするかもしれない。身近なところで言うと、そんなことを思ってみました。 行く生と来る生のすれ違いといってよいのか、繰り返されてきて、これからも繰り返される生命の壮大な交替劇が、一瞬交差したように感じました。 (愛、きえた星・きえゆく星へ)

2018-02-21

読みました。 渡辺さんのを読んでいたので、ぽいなあ、と思いながら、どこだっけ、あ、第四連の最終行で、さらにぽいなあ、が深まりました。 ポエムというか、ポエムっぽいというか、たとえばネルヴァルの小説とかのセリフには出てきそうな感じだなあと思いました。まあ、古風というか。 でも、順当な運びで内側から食い破るとか侵蝕といった感じはなかったです。 と思いきや、《いつか~》のところでドッカーンときたので吹きました。卓袱台返し(ノ--)ノ~┻━┻ とても楽しめました。 (月明かりを君に)

2018-02-21

渚鳥様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。 仕事上、朝方に帰ることが多いのですが、冬場は陽が昇るのも遅く、気温もなかなか上がらないんですね。要は寒い。で、寒いのは嫌いなのだけど、仕事明けなので、運転しながら天気や風景を見る気持ちの余裕はあるんです。 これはたしか一年かな、前に書いたものですが、お察しの通り、帰り道の天候や風景を見たのを発端に、スケッチ風に書いてみたものでした。 駐車スペースに昔から木瓜(ぼけ)の木があって、車を停めるとちょうど運転席の前にくるのですが、帰りついた時にちょうど木のあいだから昇っていく太陽が見えたのかもしれません。(そのくらい目を塞ぐものが周囲にないことを喜ぶべきか嘆くべきか) 苔桃は響きもよく、使ってみたい言葉でもありましたし、桃の形状、連想される色を太陽に重ね、烏については、太陽にまつわる神話の記憶からとったように思います。 改めてコメントに感謝します。 (冬の帰り道)

2018-02-20

いいですね。とても面白いです。 この作品は連構成はまだしも、行分けでなければならなかったのでしょうか。そこがちょっとだけですが気になりました。 (秋の牢獄)

2018-02-20

海外の若者を大量に、そして比較的安く雇用するというのは国内外に対して、政治的経済的メリットがあるということで、取り決められたのでしょうが、家族がたくさん故郷にいて、正月も帰れない(帰ったら怒られる)というひともいました。作業を眺めている目の前で「イー、アール、サン、」と手順を追いながら見せてあげると、「中国語しゃべれるか」と驚きつつ、目を大きくしていた。 一方で、難しい試験を受けて、「ファミリー」と国の支援を受けて、留学していた方は、明るく礼儀もよかった。 そういう人々が暮らしやすい社会であれば、と思いました。その点では、優しい語りの中に社会批判をうかがうことができます。 (陳さん)

2018-02-20

「ひと粒の砂に宇宙を見る」とは誰かが書いた言葉と思いましたが、それを思い出す作品でした。 ただ、読み通して、時間を置いて読み直すと、第一行目の、 《石が息をしていた》 これ、すごいと思います。「石」というものの象徴性の高さ云々もさりながら、それをおいても、《石が息をしていた》という言葉。 この一行を読めただけでいいや、と思えるくらいです。 (陽だまり)

2018-02-20

はっは。コメントつけにきたら、書こうとしていたことはもちろん、それ以上のことが書かれているので、うならされました。笑 個人的には、すでに第一連で完成しているような気がしました。では、退散。 (過眠)

2018-02-20

ボカロ曲の歌詞にでてきそうですね。 カタカナを混ぜこむ方法は、うまく行けば作品全体に効果を及ぼすことができるのだけど、失敗すると視覚の刺激にとどまってしまうので、個人的には避けて通りたい道です。 (幻滅の悲哀)

2018-02-20

各連それぞれハマっていると思います。特に、 《男は女にお金をあげました》(第一連)、《新宿駅まで》(第二連)、《セーラームーンのシール》(第四連)は、いいなあと思います。全体としてはどこかぼんやりした像しか結ばない作品に現実味をださせていると思う。 第六、九、最終連は、語尾や語調が変化するのですが、ここは男性パートなのでしょうか。よくはわかりませんが、そうだとすると《智恵子》の連打も合点がいかなくもない(ちょっとマックの音っぽく感じましたが)。 私の住んでいる地方の、とあるスーパーのコマーシャルで「ちょっとそこまで、ちょっとそこまで、お買い物」という歌詞が流れるのですが、《愛》というかつては(今もか?)お金では買えないと言われていたものの代表が、ここでは売買の対象になっていて、交換可能な流通の上にのっかっていることをズバッと言っていて、衝撃的ではあるのだけどもかえって爽快でもあります。が、結局、そこで消費対象になっているのが《愛》ではなく、「欲望」であることをわかってもいるから、最後は《捨てに行》きたくなるのかもしれませんね。 調子の良さで心持ち単調に流れていくところがあり、もう少し突っ込んでみても良かったのではと思いました。 良くも悪くも綺麗にまとまっていると思います。 (智恵子)

2018-02-20

四連まで心地よいリズムと違和感のない言葉に乗せられて、すんなり読み通すことができたのですが、最終の二行は、破調というか、それまでのリズムと打って変わって、むしろ意味やイメージを含めた流れをぶった斬るかのように、さも棒読み風に置かれているように感じられて、ポカンとしました。そこが面白かったです。 (何方か)

2018-02-20

拝読。 二行目の「さ」でやられてしまいました。全体を通して言葉の歯切れがよく最後まで運ばれましたが、私にとっては何につけても二行目の「さ」。これです。 (なにもない)

2018-02-14

拝読。 ここ何年かは野良犬野良猫の類を見ていないように思います。かわりに毛並みの整った小型犬が飼い主に連れられている。 子どもの時分、いなくなった野良の類の行方を親に聞いても知らないよと返されたものですが、殺処分されていたとはいえなかったのかもしれません。同じように詩が殺詩ょ分されていたとしたら、怖い話ですが、ありえない話でもないですね。 かといって、首輪をかけられてハーネスで縛られた詩を見るのも胸くそ悪いように思います。 自転車に乗った空き缶回収のおっちゃんを見たことがあります。ハンドルを握る両手にゴミ袋を持っていて、ゴミ袋には空き缶がいっぱい。そんなだから腕の筋肉がハンパない。それだけ集めても大してお金にはならないのですが。 あのなかにギッシリ詩が詰め込まれて、塵芥処理施設でプレスされることを想像すると、薄寒ささえ感じます。 (思い出す詩のことなど)

2018-02-14

拝読。 ポエムしか書いたことがないひとは、こういった作品は書かないだろうし、詩の読者以外の読み手を想定していないひとは試みもしないだろうなと思います。 各連のポエムの行と詩行の噛み合わなさが、読んでいるこちらの感覚を刺激するのかな、と思っていたのですが、噛み合わないというよりも、ヒット&アウェイの技術と思い直せば鮮やかです。 (ワタシのきもち (エルサポエム))

2018-02-14

拝読。 小鉢のなかの物言わぬ鯨の刺身が、存在でそんなふうに語っていたとしたら、手を合わせて「いただきます」と言わないとバチがあたりそうだな、と想像しました。 鯨という視点と、ユーモアたっぷりの語り口で、悲惨なことを語っているところが、非常に斬新に感じました。 (おもてなし妖怪2018)

2018-02-14

どうも、「ルー」です。なんつて。 ルー大柴、いま、知っているひとって若い方、どのくらいいるんでしょうね。 そこに「老師」もってくるというあたりが既になつおさんです。 わかりやすいけれど、うまくやる、というのは、剣道でいうと技の妙と思うのだけど、それをやるのは修練の成果として、読むのはプラス経験量に裏打ちされた勘というか察知力ですよね。じゃあ、それを引き出すとしたら何だろうと考えました。そしたら、いままでの修練で得た技術や経験によって無意識下に集積されたバリエーションパターン(の引き出し)にひっかかるか、もしくは、くすぐるかする挙動かな、と思いました。 ということで強引に「くすぐり」につなげてみました。ニンニン。 (忍殺と短歌について書いた散文です。)

2018-02-14

拝読。 ブローティガン、懐かしいです。20年くらい前に読んだ記憶があります。「チャイナタウンからの葉書」だったかな。 親しげに語りかけてくるんだけど、どこか乾いているような、そんな語り口を思い出しました。 それから、ブローティガンもこんなふうに、かっちりと書いていたんだろうな、と今さらながらに思いました。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-14

拝読。 ささいなことですが、時制が一致していないような気がして戸惑いました。 《また手にしたときは》なら《つよく想った》ではないでしょうか。あるいは《つよく想う》なら《手にするたびに》という具合では。 改行に歩くペースではなく、思考のペースの変化を感じました。 (風のつよい日に)

2018-02-07

拝読。 「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という文章をどこかで読んだような気がします。ウィトゲンシュタイン?違うかも。 それはともかく、語り手と聞き手という二者が示唆されているようで、語り手と聞き手が同一のようにも読めました。語り手が自身に語りかけるとき、聞き手(おまえ)もまた自身というように。 《全ての冬を抱いて黴の煙吹く書物》に昔から《語り得ぬこと》があって、そのなかに閉じていくというのは、(きっぱりとした語調も手伝ってか)哀愁をともなった強い決意のように感じました。 それが作品として開かれている点、語り得ぬことが語られているというのが面白いです。 (語り手と聞き手のいる風景)

2018-02-07

まりも様 コメントありがとうございます。 俳句は心得がありません。歌集、句集の類もあるにはありますが、嗜むというほど開いてもいません。ですので、指摘をいただいて、驚きました。それで、「自句自解」という語も、Wikipediaで調べてみた次第です。 〈自分が詠んだ句を自分で解釈する〉という意味だそうですね。しかし、そうすると、一句自立が危うくなるので、俳句の世界で自句自解は恥ずべきことともされているとの説もあり、まあ、良い意味ではなさそうでした。(にもかかわらず、自句自解シリーズが刊行されていることの矛盾も書かれていましたが)笑 タイトルの「感傷」なのですが、これは後付けで、自句自解と言われれば、なんとも言いようがありません。出来上がったものが、いかにも感傷っぽかったのでそうしました。 音については意識しています。たぶんですが、「幻」を置いたのも、〈i〉音と無関係ではなかったかと思います。ですが、ご指摘のように映像的にというところでは、踏み込んでみる余地があったように思います。いささか甘かったですね。 「わらい」に関してははじめは「笑い」であったと記憶しています。しかし、結局、「わらい」という収まり方になった。「笑い」も「嗤い」も、この漢字と仮名では、前の行との関係で、どうも気持ちが悪く、形として汚く思えたのです。「わらい」という仮名三文字でようやくおさまった。もともと、「さざなみ」も「ゆれうごくもの」程度のもので、その意味では「笑い」と「嗤い」、どちらでもいけると考えました。 「風」の「吹いていった」は、次行の「吹いてやった」に対応させるためのものでもありました。たしかに風は吹くものですね。そして、風が吹いていくものであるように、吹き過ぎていくものもたしかに吹き過ぎていくもの。 視点を変えて考えてみると、また別の言葉が得られたかもしれません。 勉強になります。 コメントに改めて感謝します。 (感傷・冬)

2018-02-02

バランスがよいですね。 かつてリストカットを常習的にしていた、という方の書いたものをいくつか読んだことがありますが、痛み以外に感じられず、コメントに苦しんだことを思い出しました。 事件を、または事件にまつわる色々を、モチーフとして対象化し、作品にするというのは困難な作業かもしれませんが、痛みだけしか残さないのは、読んだ方としては後味の悪さだけが残るものです。 この作品では傷跡が異なった意味に昇華されていて、いまや「私」が生きるための支えにまでなっているようで、素直に「良いな」と感じました。 《蒼穹》は、主体にとっては、空よりも大らかで清々しい気持ちの現れなのかもしれませんね。 (左手の蒼穹)

2018-02-02

読みました。 絶対に覗いてはならないのは、最も覗いてみたい。 「青髭」や「鶴の恩返し」など東西問わず、タブーを破る話はたくさんありますが、それほどに、秘密というのは、理性では抑え難い強大な魅力をもっているのだろうと思います。 ところで、破らなければ、外部に発散されない秘密はいつまでも甘く危険な香りを放ちつづけることになるので、暮らしのなかに入りこんできて、その空気で包みこみ、一見何気ない生活をも、不思議と魅力を感じさせるようになるのかもしれない。 この作品から受け取った怖さと魅力の混ざり合った感じ、ハラハラドキドキ、ワクワクヒヤヒヤを探ってみたら、そんな考えに行き着きました。 (薔薇)

2018-01-31

藤井様 コメントありがとうございます。 推敲、と言ってよいのかどうかわかりませんが、打ち直し、打ち直しではありました。 発想の時点では、〈ゆれている火を見ているうちに、その火のなかに、かつてはいろいろな夢を見ていたが現在はあわただしい日常に身をおいている自分を見て(「夢の水死人」という語はここから導き出されたのですが)、ズームインしてその目の内部に様々なものを見る、その後ズームアウトしながら煙草の先の火に戻る〉みたいな感じだったと思います。「リボン」だとか「レースの縁どり」という語もありました。それがどういうわけか(たぶん「ゆれる」だけがあとをひいて)、水面に映る(映らない)ものを見ている出だしになりました。それからその日は空気が冷たく、風も強くで、「虎落笛」も聞えていたので、使えるかもしれないと漠然と思いもしました。形式も、行分けではなく、一字空きの散文形式ではじめて、行分けになり、最終的に行空きの行分けになりました。つまり、幸か不幸か、当初の目論見はほぼ書く過程でおじゃんになったわけです。 ただ、時間的にも距離的にも作中の「ぼく」から遠くなったり近づいたりする感じを頼りに、言葉を繋げたり、切り離したりしたことは覚えています。 そういえば、個人的な話ではありますが、私は広い庭で遊んだ記憶はありませんが、となりの地区まで三十秒くらいの、また田畑ばかりが目立つ狭い土地で育ったので、近辺については自分の庭のような具合で遊んだものでした。さながら、良くも悪くも「庭を駆けまわる犬」のようでした。 コメントに改めて感謝します。 (感傷・冬)

2018-01-30

三浦様 コメントありがとうございます。 ご指摘の一節、はじけて、散るソーダと酸っぱさ、爽快さと、様子を夏の一コマとして関連させて書こうとしていて、でてきました。感じがでていれば、幸いです。 すすもう、の箇所も、直しているうちに、これかな、というところに落ち着いてくれました。 タイトルは全体を読み直して、なんとかつけてみたのですが、感傷的な心情の吐露という感じがでていれば、あながち的はずれではなかったかな、と思えます。 あらためて感謝します。 (感傷・冬)

2018-01-29

こんばんは。子どもの頃、「悪さをして隠していても、お天道様が見てるからいつかバレるよ」と言われました。そんなことあるか、と思ってたら、不思議とバレるんです。で、こってり叱られる。そんなことを繰り返してるうちに、心のどこかで、見られてるんじゃないかと思うようになる。嫌なものです。神さまがいかどうかは別にして、「神さまがいると考える心」の現象が物語られていて楽しめました。 実際の神話ではきちんと神さまが登場するけれど、この作品では、人間しか出ないし、神さまを見たひとは一人もいません。じゃあ、神話ではないのか、というと、やっぱり神話だと思う。というより、神話ってこんなふうにして作られてきたんじゃないかと思いました。 ところで、あるインディアンの部族は、太陽が昇る時祈りを捧げるそうです。じゃあ太陽が神かというとそうじゃない。「太陽が昇る時」(の現象と体験)が神なのだとか。 なぜこんなに毎日せかせかと、暮らさなければならないのか、なぜ世界はこんなに殺伐としているのか、そんな、誰もが少しは考えたことのある〈Why〉(howではなく)をいっときでも癒やす非論理の語りという意味でも神話的だと思いますし、ストーリーと呼ぶには曖昧なので、ここはやっぱり譚詩がふさわしいと考える次第です。 (光臨)

2018-01-28

「弔い人形」

2017-02-09

2020-01-30

屁が出るまで

2020-02-28

レモンサワー

2020-03-03

早春

2020-02-29

ある春

2020-02-28

青の飲み物

2020-02-26

forest

2020-02-21

麗日

2020-03-16

哀歌

2020-03-23

ヘビと戦う

2020-03-07

分有

2020-03-30

裏庭に居ます

2020-03-28

遠い風習

2020-03-19

救済の日

2020-04-19

花の夢

2020-04-18

結尾

2020-04-09

Crazy chou cream

2020-05-17

Ī

2020-05-21

ユダのように

2020-05-04

頭の炭でだけ

2020-07-03

#LIVES

2020-07-26

隅中の実存

2020-07-05

さよなら

2020-07-27

貝化石

2020-07-27

終始点

2020-07-28

Alleluja

2020-09-02

夜を歩く

2020-09-05

記憶をつくる

2020-09-11

無乳病

2020-09-08

いちにく

2020-09-13

犬のしっぽ

2020-10-09

嘘の石

2020-09-30

微睡む薔薇

2020-11-12

竹林にて

2020-11-03

開幕その後に

2020-11-22

Konstellation

2020-12-05

打刻

2020-12-26

〈妻に〉

2021-01-09

伐採

2021-01-13

海で

2021-01-15

死について

2021-01-16

2021-01-24

天文潮 Ⅴ

2021-02-01

2021-02-24

ムイグヮー

2021-02-06

ガンバッテネ

2021-03-01

窓際の胸像

2021-04-23

2021-04-02

豆大福の日

2021-04-27

ROAST

2021-05-07

301

2021-05-08

寝台車

2021-06-02

子ども王と影

2021-07-07

親が茶

2021-10-12

狐つき

2021-10-03

空の門番

2021-10-19

臙脂

2021-10-16

話す言葉

2021-09-24

2021-10-19

無明列車より

2021-10-04

プレゼント

2021-10-22

十月

2021-10-02

啓蒙

2021-10-30

裸青

2021-10-31

いける

2021-11-04

ヒーロー

2021-11-04

ふるえ

2021-11-09

藤の花

2021-11-09

モノローグ

2021-11-21

片目のだるま

2021-11-24

僥倖SKY

2021-11-16

2021-12-01

晩夏

2021-12-01

脚本の死

2021-12-13

獣のソネット

2021-12-16

星の星.

2022-03-27

夢三夜明け前

2022-03-27