藤 一紀

投稿作品数: 11 コメント数: 238プロフィール: 詩を読んだり書いたり。中国武術をしています。現在は子どもや初心者向けの教室で教えながら、中国武術の普及と地域活性化を目的にした企画にも参加しています。

投稿作品

冬の帰り道

2018-02-18

道化唄

2018-05-03

四月選評 

2018-05-16

かえる経

2018-05-18

選評五月分

2018-06-15

七月分選評

2018-08-15

駐車場から

2018-10-30

コメント

一枚の静謐な、抽象度の高い絵を思い浮かべました。イメージに満ちて、静かで、そのなかにも息づかいが聞えてくるようです。 最後の《野生よ》、ここが、余韻を残して、映像を再起させてくれます。 (私に※)

2018-03-01

拝読。 ささいなことですが、時制が一致していないような気がして戸惑いました。 《また手にしたときは》なら《つよく想った》ではないでしょうか。あるいは《つよく想う》なら《手にするたびに》という具合では。 改行に歩くペースではなく、思考のペースの変化を感じました。 (風のつよい日に)

2018-02-07

読みました。 絶対に覗いてはならないのは、最も覗いてみたい。 「青髭」や「鶴の恩返し」など東西問わず、タブーを破る話はたくさんありますが、それほどに、秘密というのは、理性では抑え難い強大な魅力をもっているのだろうと思います。 ところで、破らなければ、外部に発散されない秘密はいつまでも甘く危険な香りを放ちつづけることになるので、暮らしのなかに入りこんできて、その空気で包みこみ、一見何気ない生活をも、不思議と魅力を感じさせるようになるのかもしれない。 この作品から受け取った怖さと魅力の混ざり合った感じ、ハラハラドキドキ、ワクワクヒヤヒヤを探ってみたら、そんな考えに行き着きました。 (薔薇)

2018-01-31

こんばんは。子どもの頃、「悪さをして隠していても、お天道様が見てるからいつかバレるよ」と言われました。そんなことあるか、と思ってたら、不思議とバレるんです。で、こってり叱られる。そんなことを繰り返してるうちに、心のどこかで、見られてるんじゃないかと思うようになる。嫌なものです。神さまがいかどうかは別にして、「神さまがいると考える心」の現象が物語られていて楽しめました。 実際の神話ではきちんと神さまが登場するけれど、この作品では、人間しか出ないし、神さまを見たひとは一人もいません。じゃあ、神話ではないのか、というと、やっぱり神話だと思う。というより、神話ってこんなふうにして作られてきたんじゃないかと思いました。 ところで、あるインディアンの部族は、太陽が昇る時祈りを捧げるそうです。じゃあ太陽が神かというとそうじゃない。「太陽が昇る時」(の現象と体験)が神なのだとか。 なぜこんなに毎日せかせかと、暮らさなければならないのか、なぜ世界はこんなに殺伐としているのか、そんな、誰もが少しは考えたことのある〈Why〉(howではなく)をいっときでも癒やす非論理の語りという意味でも神話的だと思いますし、ストーリーと呼ぶには曖昧なので、ここはやっぱり譚詩がふさわしいと考える次第です。 (光臨)

2018-01-28

こんにちは。 とても悩ませられました。いや、勝手に悩んだのかな。とある状況でなにかを感じる、この作品の場合だと《僕》が茫然と立ち尽くすよう感情に陥ってしまう、ところが、そう感じた途端に《僕》は語り手として背後に下がり、先ほどまでの自分を、そういう状況に置かれた物語の主人公のように対象化してしまう、一瞬の離れ技を見た気がして、フワッとしてしまいました。入り込んだと思いきやビュッと離れて、つい今し方までの《僕》をさえ、対象化してしまう醒めた目の存在といえばいいのか。 で、悩んだのは《語り手》という言葉で、この作品自体の語り手が存在すると仮定しているからこそ、私はその語り手の語りを読もうとするのですが、作品のににも《語り手》が登場してしまう。でも、作品の中に登場する《語り手》は、この作品の語り手ではない。 そして、この登場人物としての《語り手》は、悲壮ぶっていて、そのことを《僕》は見抜いてしまっている。ということを作品自体の語り手が語っている。という風に、ひとつは作品自体の語り手、それから登場人物としての《語り手》、そして《僕》とが頭の中で入れ替わり立ち替わりぐるぐるしたからでした。表にでてきたり、奥に引っ込んだり、そこからさらに距離をおいてひとつの構図をつくりあげていたり。まったくハラハラして、面白いです。 いったい何のコメントだって感じで自分でも思うのですが、この感じもいわく形容しがたいのです。 (社会)

2018-02-23

拝読。 「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という文章をどこかで読んだような気がします。ウィトゲンシュタイン?違うかも。 それはともかく、語り手と聞き手という二者が示唆されているようで、語り手と聞き手が同一のようにも読めました。語り手が自身に語りかけるとき、聞き手(おまえ)もまた自身というように。 《全ての冬を抱いて黴の煙吹く書物》に昔から《語り得ぬこと》があって、そのなかに閉じていくというのは、(きっぱりとした語調も手伝ってか)哀愁をともなった強い決意のように感じました。 それが作品として開かれている点、語り得ぬことが語られているというのが面白いです。 (語り手と聞き手のいる風景)

2018-02-07

三浦様 コメントありがとうございます。 ご指摘の一節、はじけて、散るソーダと酸っぱさ、爽快さと、様子を夏の一コマとして関連させて書こうとしていて、でてきました。感じがでていれば、幸いです。 すすもう、の箇所も、直しているうちに、これかな、というところに落ち着いてくれました。 タイトルは全体を読み直して、なんとかつけてみたのですが、感傷的な心情の吐露という感じがでていれば、あながち的はずれではなかったかな、と思えます。 あらためて感謝します。 (感傷・冬)

2018-01-29

藤井様 コメントありがとうございます。 推敲、と言ってよいのかどうかわかりませんが、打ち直し、打ち直しではありました。 発想の時点では、〈ゆれている火を見ているうちに、その火のなかに、かつてはいろいろな夢を見ていたが現在はあわただしい日常に身をおいている自分を見て(「夢の水死人」という語はここから導き出されたのですが)、ズームインしてその目の内部に様々なものを見る、その後ズームアウトしながら煙草の先の火に戻る〉みたいな感じだったと思います。「リボン」だとか「レースの縁どり」という語もありました。それがどういうわけか(たぶん「ゆれる」だけがあとをひいて)、水面に映る(映らない)ものを見ている出だしになりました。それからその日は空気が冷たく、風も強くで、「虎落笛」も聞えていたので、使えるかもしれないと漠然と思いもしました。形式も、行分けではなく、一字空きの散文形式ではじめて、行分けになり、最終的に行空きの行分けになりました。つまり、幸か不幸か、当初の目論見はほぼ書く過程でおじゃんになったわけです。 ただ、時間的にも距離的にも作中の「ぼく」から遠くなったり近づいたりする感じを頼りに、言葉を繋げたり、切り離したりしたことは覚えています。 そういえば、個人的な話ではありますが、私は広い庭で遊んだ記憶はありませんが、となりの地区まで三十秒くらいの、また田畑ばかりが目立つ狭い土地で育ったので、近辺については自分の庭のような具合で遊んだものでした。さながら、良くも悪くも「庭を駆けまわる犬」のようでした。 コメントに改めて感謝します。 (感傷・冬)

2018-01-30

まりも様 コメントありがとうございます。 俳句は心得がありません。歌集、句集の類もあるにはありますが、嗜むというほど開いてもいません。ですので、指摘をいただいて、驚きました。それで、「自句自解」という語も、Wikipediaで調べてみた次第です。 〈自分が詠んだ句を自分で解釈する〉という意味だそうですね。しかし、そうすると、一句自立が危うくなるので、俳句の世界で自句自解は恥ずべきことともされているとの説もあり、まあ、良い意味ではなさそうでした。(にもかかわらず、自句自解シリーズが刊行されていることの矛盾も書かれていましたが)笑 タイトルの「感傷」なのですが、これは後付けで、自句自解と言われれば、なんとも言いようがありません。出来上がったものが、いかにも感傷っぽかったのでそうしました。 音については意識しています。たぶんですが、「幻」を置いたのも、〈i〉音と無関係ではなかったかと思います。ですが、ご指摘のように映像的にというところでは、踏み込んでみる余地があったように思います。いささか甘かったですね。 「わらい」に関してははじめは「笑い」であったと記憶しています。しかし、結局、「わらい」という収まり方になった。「笑い」も「嗤い」も、この漢字と仮名では、前の行との関係で、どうも気持ちが悪く、形として汚く思えたのです。「わらい」という仮名三文字でようやくおさまった。もともと、「さざなみ」も「ゆれうごくもの」程度のもので、その意味では「笑い」と「嗤い」、どちらでもいけると考えました。 「風」の「吹いていった」は、次行の「吹いてやった」に対応させるためのものでもありました。たしかに風は吹くものですね。そして、風が吹いていくものであるように、吹き過ぎていくものもたしかに吹き過ぎていくもの。 視点を変えて考えてみると、また別の言葉が得られたかもしれません。 勉強になります。 コメントに改めて感謝します。 (感傷・冬)

2018-02-02

拝読。 ポエムしか書いたことがないひとは、こういった作品は書かないだろうし、詩の読者以外の読み手を想定していないひとは試みもしないだろうなと思います。 各連のポエムの行と詩行の噛み合わなさが、読んでいるこちらの感覚を刺激するのかな、と思っていたのですが、噛み合わないというよりも、ヒット&アウェイの技術と思い直せば鮮やかです。 (ワタシのきもち (エルサポエム))

2018-02-14

バランスがよいですね。 かつてリストカットを常習的にしていた、という方の書いたものをいくつか読んだことがありますが、痛み以外に感じられず、コメントに苦しんだことを思い出しました。 事件を、または事件にまつわる色々を、モチーフとして対象化し、作品にするというのは困難な作業かもしれませんが、痛みだけしか残さないのは、読んだ方としては後味の悪さだけが残るものです。 この作品では傷跡が異なった意味に昇華されていて、いまや「私」が生きるための支えにまでなっているようで、素直に「良いな」と感じました。 《蒼穹》は、主体にとっては、空よりも大らかで清々しい気持ちの現れなのかもしれませんね。 (左手の蒼穹)

2018-02-02

せっかくソラで音読できるまで覚えたのに、残念です。でも、まあ、掲示板に残っているので、コメントします。 《水の声が幾つも聴こえたたあ》 この出だしの一行ですが、 この《水の声》、これが何を意味するかはさておき、この一行がどこまでかかっているか、なかなか決めがたいですね。 《もうもう 乳牛に 幸せを楽しもうと言う》までということも十分ありえるし、《俺は逡巡を凌辱されとうたう》この行も入っていい。《たゆたうとうと 尊いというと》も、最後に「と」が付けられているので、ここまでということも考えられる。 《水の声が幾つも聴こえた》わけだから、各々の行に「と(いう声が聴こえた)」が省略されていると考えると、ここまでは引っ張れます。 (この場合《俺》は水の声のひとつになります) 上記のように行ごとに省略があり、また誰が語りの中心なのかが曖昧にぼやかされているので、内容がひとつの脈絡のある像としては結び難く、ただ揺れている水面に影がぼんやり映っている感じがあり、もちろんその「感じ」だけを受け取れば受け取れなくもないのですが、このような捉え難さは読んでいるこちら側にしてみると、言語的な不安を感じてしまう。(ついでに、《水の声》というのも、透明でとらえどころがなく、そのくせ隅々まで行き渡るようで不気味です) 逆に《乳牛》、《逡巡を陵辱された》という部分では、飼うとか管理とか、あるいは支配的、暴力的なイメージを喚起させられ、先の言語的不安と少ないキーワードによって喚起されたイメージから、はっきりとは見えないのに確かにある底知れぬ不安を暗示しているようにも思える。と同時に、それは《幸せを楽しもう》や《尊い》といったイメージ的には明るい(けれどもどこか力のない)言葉との対比によって、不可解さ、不気味さ、不安さを増し、逆にいえば、あたかもこういった何が何とも言えないような不安のなかで、かすかに生きようとする声を聞きとるしかないというのが、実は私たちの置かれている現在なのかもしれません。 以降を後半部にわけるとして、 《キッチンでカリを舐め/ つまりは あんまりだが》は前の《キッチンでは~》を《あんまり》以下で言い換え、 《青酸カリ ではない カリを舐められ/ 脊椎に微量の電気を感じる 》そのくらいの《あんまり》だと結ぶ。それは「死(青酸カリ)」ではなくて、生の側に傾くようにさせられてしまう、ということが、死ですら自ら選ぶことができず、他者によって与えられるもの、支配されるものであると読めば、たしかに、あんまりな話です。ただ、青酸カリよりはカリの方が手近ではあるし、容易に舐めやすいかもしれず、わずかなりとも刺激を感じてしまう、という意味では、なんだかんだ言っても手に入りやすいリビドーの方を選んでしまいやすい(これもまた「ヒドい話」です)ことを示唆しているととることもできる。あっさり言ってしまうと前者はそのような社会の酷さ、後者はそのような私たち人間の酷さであるのですが、そのような社会でそのような生を営むにとどまっている人間、どちらもヒドい。 これはもう、牛も人間も変わりゃしない。ここまで書いて、《乳牛》というのは人間を喩えたものかしらん、とも思え、個人的に、牛に幾らかの哀憐を感じることもできます。笑 それにしても、省略や曖昧化などによる意味の脈絡や像の捉え難さとは、現在の捉え難さや気味悪さと重なるようで、いやはや、もう、あんまりといえばあんまりです。 願わくば、息も絶え絶えになりつつも、かすかに聞こえる《幸せを楽しもう》《尊い》を掬えたらと思うばかり。 (あだらいっぱい)

2018-02-26

つーか、四の五の書いてるうちにすすんでんじゃん! 笑 (あだらいっぱい)

2018-02-26

いいですね。とても面白いです。 この作品は連構成はまだしも、行分けでなければならなかったのでしょうか。そこがちょっとだけですが気になりました。 (秋の牢獄)

2018-02-20

「ひと粒の砂に宇宙を見る」とは誰かが書いた言葉と思いましたが、それを思い出す作品でした。 ただ、読み通して、時間を置いて読み直すと、第一行目の、 《石が息をしていた》 これ、すごいと思います。「石」というものの象徴性の高さ云々もさりながら、それをおいても、《石が息をしていた》という言葉。 この一行を読めただけでいいや、と思えるくらいです。 (陽だまり)

2018-02-20

海外の若者を大量に、そして比較的安く雇用するというのは国内外に対して、政治的経済的メリットがあるということで、取り決められたのでしょうが、家族がたくさん故郷にいて、正月も帰れない(帰ったら怒られる)というひともいました。作業を眺めている目の前で「イー、アール、サン、」と手順を追いながら見せてあげると、「中国語しゃべれるか」と驚きつつ、目を大きくしていた。 一方で、難しい試験を受けて、「ファミリー」と国の支援を受けて、留学していた方は、明るく礼儀もよかった。 そういう人々が暮らしやすい社会であれば、と思いました。その点では、優しい語りの中に社会批判をうかがうことができます。 (陳さん)

2018-02-20

拝読。 ブローティガン、懐かしいです。20年くらい前に読んだ記憶があります。「チャイナタウンからの葉書」だったかな。 親しげに語りかけてくるんだけど、どこか乾いているような、そんな語り口を思い出しました。 それから、ブローティガンもこんなふうに、かっちりと書いていたんだろうな、と今さらながらに思いました。 (トイレット・ペーパーの芯)

2018-02-14

はっは。コメントつけにきたら、書こうとしていたことはもちろん、それ以上のことが書かれているので、うならされました。笑 個人的には、すでに第一連で完成しているような気がしました。では、退散。 (過眠)

2018-02-20

拝読。 ここ何年かは野良犬野良猫の類を見ていないように思います。かわりに毛並みの整った小型犬が飼い主に連れられている。 子どもの時分、いなくなった野良の類の行方を親に聞いても知らないよと返されたものですが、殺処分されていたとはいえなかったのかもしれません。同じように詩が殺詩ょ分されていたとしたら、怖い話ですが、ありえない話でもないですね。 かといって、首輪をかけられてハーネスで縛られた詩を見るのも胸くそ悪いように思います。 自転車に乗った空き缶回収のおっちゃんを見たことがあります。ハンドルを握る両手にゴミ袋を持っていて、ゴミ袋には空き缶がいっぱい。そんなだから腕の筋肉がハンパない。それだけ集めても大してお金にはならないのですが。 あのなかにギッシリ詩が詰め込まれて、塵芥処理施設でプレスされることを想像すると、薄寒ささえ感じます。 (思い出す詩のことなど)

2018-02-14

拝読。 小鉢のなかの物言わぬ鯨の刺身が、存在でそんなふうに語っていたとしたら、手を合わせて「いただきます」と言わないとバチがあたりそうだな、と想像しました。 鯨という視点と、ユーモアたっぷりの語り口で、悲惨なことを語っているところが、非常に斬新に感じました。 (おもてなし妖怪2018)

2018-02-14

拝読。 二行目の「さ」でやられてしまいました。全体を通して言葉の歯切れがよく最後まで運ばれましたが、私にとっては何につけても二行目の「さ」。これです。 (なにもない)

2018-02-14

どうも、「ルー」です。なんつて。 ルー大柴、いま、知っているひとって若い方、どのくらいいるんでしょうね。 そこに「老師」もってくるというあたりが既になつおさんです。 わかりやすいけれど、うまくやる、というのは、剣道でいうと技の妙と思うのだけど、それをやるのは修練の成果として、読むのはプラス経験量に裏打ちされた勘というか察知力ですよね。じゃあ、それを引き出すとしたら何だろうと考えました。そしたら、いままでの修練で得た技術や経験によって無意識下に集積されたバリエーションパターン(の引き出し)にひっかかるか、もしくは、くすぐるかする挙動かな、と思いました。 ということで強引に「くすぐり」につなげてみました。ニンニン。 (忍殺と短歌について書いた散文です。)

2018-02-14

ボカロ曲の歌詞にでてきそうですね。 カタカナを混ぜこむ方法は、うまく行けば作品全体に効果を及ぼすことができるのだけど、失敗すると視覚の刺激にとどまってしまうので、個人的には避けて通りたい道です。 (幻滅の悲哀)

2018-02-20

こんにちは。 《食べるものを変えるべきなのか~》から始まって、そのあとの《食べるなら》で始まる二つの連、ここでの自己対話、ここで、それまでとは明らかに異なってきています。きよらかなものを希求する気持ちが、より具体的な形になろうとして動きはじめている、動きがあります。素晴らしいと思います。 付け加えると、きよらかなだけのものになれない、とか、醜さをもつことの原因を《食べるもの》にあるんじゃないかとするところは、とてもユニークで、そこのユニークさに気づいていないかのように、食べものを通して《きよらかなもの》へ近づこうと考える、この詩作品の主人公の懸命さ、人間ぽさには好感をもちました。 (きよらかなもの)

2018-02-23

渚鳥様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。 仕事上、朝方に帰ることが多いのですが、冬場は陽が昇るのも遅く、気温もなかなか上がらないんですね。要は寒い。で、寒いのは嫌いなのだけど、仕事明けなので、運転しながら天気や風景を見る気持ちの余裕はあるんです。 これはたしか一年かな、前に書いたものですが、お察しの通り、帰り道の天候や風景を見たのを発端に、スケッチ風に書いてみたものでした。 駐車スペースに昔から木瓜(ぼけ)の木があって、車を停めるとちょうど運転席の前にくるのですが、帰りついた時にちょうど木のあいだから昇っていく太陽が見えたのかもしれません。(そのくらい目を塞ぐものが周囲にないことを喜ぶべきか嘆くべきか) 苔桃は響きもよく、使ってみたい言葉でもありましたし、桃の形状、連想される色を太陽に重ね、烏については、太陽にまつわる神話の記憶からとったように思います。 改めてコメントに感謝します。 (冬の帰り道)

2018-02-20

百均様 コメントありがとうございます。 たぶん、これを書いた時期は、下のほうを「足裏」と表すことが、何度かあって飽きてたか、マンネリだなあと思ったかじゃないかと思います。それで、掻くといったらやっぱ尻でしょみたいな感じだったか。で、「雲の尻を掻く」っておもしろいなと思ったんじゃないか。比喩として、隠された意味でなく、その言葉が、ですね。雲に尻があったらなお面白いですけど。(でも考えてみると)「目尻」とか「言葉尻」とか、尻はいろんなものにあるのでした) 子どもの頃、「月がこっちを見てる」と思ったことがある人は多いでしょうが、その時はたぶん二つ目をイメージしていたと勝手に考えています。でも夜の星に百の眼を見たとすると、隻眼ははて?ということです。一つ目の方がおどろおどろしくて、よかったかもしれません。なんかの神話で四頭馬車を駆る馭者として語られていた記憶があります。フロントガラス越しに逆光でさしてくると困ります。 丁寧に読んでいただき、嬉しく思います。改めて、コメントに感謝します。 (冬の帰り道)

2018-02-22

こんにちは。 「#現代詩」の《現代詩にハムとチーズを挟んで》の行、作品全体では具体的なものが《現代詩》に置き換えられているのに、この行の「ハム」「チーズ」はそのままなんですね。あ、でも、ハムとチーズを挟めば現代詩もそこそこ食える、というふうにもとれるから、これはこれで面白いですね。うん。 「#強風ハローワーク」の、 《青い空を/魚が跳ねた》という一行、これ、あるんですよね。魚が空を跳ねるってこと。俗にいう現実ではありえないのだけど、内面的現実としてはそういうことがある。というか、言葉にすると、ああ、そうだ、コレだ、みたいに自分で腑に落ちることが。 「#巣立ち」の、静かに受け入れる感が好きです。深呼吸をしたら、改めてすすみだすこともできるし、希望があります。 (家族八景)

2018-02-25

私の祖母は、私が中学生の時に他界したのですが、実家に行くと遺影があり、娘や甥、姪も行く度に手を合わせます。娘も甥や姪や、将来の彼らの子ももしかしたら、そうするかもしれない。身近なところで言うと、そんなことを思ってみました。 行く生と来る生のすれ違いといってよいのか、繰り返されてきて、これからも繰り返される生命の壮大な交替劇が、一瞬交差したように感じました。 (愛、きえた星・きえゆく星へ)

2018-02-21

各連それぞれハマっていると思います。特に、 《男は女にお金をあげました》(第一連)、《新宿駅まで》(第二連)、《セーラームーンのシール》(第四連)は、いいなあと思います。全体としてはどこかぼんやりした像しか結ばない作品に現実味をださせていると思う。 第六、九、最終連は、語尾や語調が変化するのですが、ここは男性パートなのでしょうか。よくはわかりませんが、そうだとすると《智恵子》の連打も合点がいかなくもない(ちょっとマックの音っぽく感じましたが)。 私の住んでいる地方の、とあるスーパーのコマーシャルで「ちょっとそこまで、ちょっとそこまで、お買い物」という歌詞が流れるのですが、《愛》というかつては(今もか?)お金では買えないと言われていたものの代表が、ここでは売買の対象になっていて、交換可能な流通の上にのっかっていることをズバッと言っていて、衝撃的ではあるのだけどもかえって爽快でもあります。が、結局、そこで消費対象になっているのが《愛》ではなく、「欲望」であることをわかってもいるから、最後は《捨てに行》きたくなるのかもしれませんね。 調子の良さで心持ち単調に流れていくところがあり、もう少し突っ込んでみても良かったのではと思いました。 良くも悪くも綺麗にまとまっていると思います。 (智恵子)

2018-02-20

四連まで心地よいリズムと違和感のない言葉に乗せられて、すんなり読み通すことができたのですが、最終の二行は、破調というか、それまでのリズムと打って変わって、むしろ意味やイメージを含めた流れをぶった斬るかのように、さも棒読み風に置かれているように感じられて、ポカンとしました。そこが面白かったです。 (何方か)

2018-02-20

読みました。 渡辺さんのを読んでいたので、ぽいなあ、と思いながら、どこだっけ、あ、第四連の最終行で、さらにぽいなあ、が深まりました。 ポエムというか、ポエムっぽいというか、たとえばネルヴァルの小説とかのセリフには出てきそうな感じだなあと思いました。まあ、古風というか。 でも、順当な運びで内側から食い破るとか侵蝕といった感じはなかったです。 と思いきや、《いつか~》のところでドッカーンときたので吹きました。卓袱台返し(ノ--)ノ~┻━┻ とても楽しめました。 (月明かりを君に)

2018-02-21

読んでいて気持ちいい。身体にきます。読んでいるというより、ライブの聴衆になっている感覚になれます。 (青信号を渡らない赤子)

2018-03-02

こんにちは。 冒頭から引きこまれました。朝勃ちなのに、賢治を思い出してしまいました。 肩肘を張らなくても楽しく読めますが、書くとなると私にはちょっと難しいなと思いました。何度も読みながら、久しぶりに、楽しさと嫉妬とありがたさを同時に感じることができました。ありがとうございます。 (アサダチ)

2018-02-27

こんばんは。 シマウマにはたくさんの縞模様があるけれど、この作品もたくさん「しま」があって楽しいです。 それにしても、たくさんのものをしまってるんですね。それなのに、何か忘れているようで気になって数えてるなんて、まるで「しまう魔」にとりつかれてるみたい。 と思うとドキッとします。 (現代のしまうま)

2018-02-27

ああ、こりゃあ、いやなやつです。「世にも奇妙な物語」で見たことのあるような、それか、いやな夢にフッとつながりそうなやつ。無限地獄みたいな。加えて、家の鍵が千切れた首輪になっているという不条理の衝撃。この作品の鍵もこのあたりにありそうですが。 帰る家があるということは安らぎではあるけれど、一方で自分をそこに縛り繋ぎとめるものでもある、として、それが千切られたら、行き場なくさまようしかない。家があるという日常に安住して、省みずに暮らしているひとの夢にでてきそう。 《外灯がまたひとつ消えた》というリフレインで終わるということは、まだまだつづくのかもしれません。怖 ときに、実際では、外灯はコントロールされていて、ある時間になるとパッと消えます。初めて見たときは驚いたものです。 (彷徨者)

2018-03-02

最終行はどうにかして「ジッパーを外す」につなげてほしかったです。 (Mr.±0)

2018-03-07

こんばんは。 よいですね。てんとう虫を介して、《きみ》と《ぼく》の関係がみえてくるようです。《ぼく》の視線がほほえましい。 なにげない光景のようでもあるけど、誰の記憶にもとどきそうです。てんとう虫かどうかは別にして、こんな体験や気持ち。 (てんとう虫)

2018-03-03

二人の登場人物のやりとりとか、一人が部屋の外にでて、もう一人が残るのとか、各々の目に映る情景とかはわかりやすく、そういうワンシーンを遠目からカメラで撮影しているような展開でしたが、最後だけ登場人物がひとりになってしまったので、もやもやしました。 (始まらない話)

2018-03-10

え!?そうなんですか? 冒頭というと、《よるにあめ》ですか? (始まらない話)

2018-03-10

わ、わかりませんでした、、、。 フツーに地の文かと思いました。 ええと、最後の部分、《結局》って要らないんじゃないかと思います。展開的にはオチ(結局)にあたりますし、それが説明的な印象を与えているように思う。 それから、落とすならガーンとしっかり落とす、上げるならグーンとはっきり上げる、くらいにしたら、その前までの流れとの落差が生まれて面白くなったような気もします。 (始まらない話)

2018-03-10

すいません。さっき返信レスを上げたのですが、反映されなかったようです(;´Д`) また出直します。 (始まらない話)

2018-03-11

該当箇所は最後の二行です。 それまでの流れはとても自然で、特に 《おちてくるあめのつぶが がいとうのひかりをくぐるとき まるでむかしのえいがみたいに ぱたぱたと 弾かれた鉄の粒が なかなか芯に届かなくて まるで沢山の閃きみたいに パチパチと》 の箇所では、「始まらない話」でありながら、なにかがそれぞれのなかですでに始まっていて、動いているように感じられて、それがどうなっていくのかを期待させられました。 ところが、行間が空いて、最後の二行がくる。それまでの流れがふっつり切れて、この二行が、唐突に、独立して響くんですね。ここに、浮いた感じというか、違和感を感じた。まあ、期待が宙吊りになったまま終わったから、どうせなら、もっとこうはっきりとオチをつけて欲しかった!ということでもあるのでしょう。 あら。となると、これはもう読んでるこちらのわがままになりますね。 (始まらない話)

2018-03-12

いや、微妙に違うんです、ここがわがままなとこで、先のコメントにも書いたのですが、読んでるこっちでは、「あ、ドラマが進行してるな」「ふたりのなかでなにかが動きつつあるな」という風に感じてる。要するに、《始まって》いるんです。なので、「そう感じてるだろ?でも、始まらないんだな、これが!」ってところが、ズバーンと欲しかったというね、「このシメ、マジか!結局、始まってねーし笑、おもしれー!」となれたら良かったな、というやつです。 あ、だから、そういうことです(自分的納得)。この作品の場合、《結局》は、示されることじゃなくて、こっちが思いたかったことなんです。 (始まらない話)

2018-03-12

投稿時一二度読んだのですが、語り口にひっぱられてあまり入っていけなかったのですが、いま読んでみて、内容まで入っていけました。 コンパネ、ユンボ、歌うヘッドライト。土、埃、汗、そういうものを思い起こさせる細かい部分が活きてる。個人的に好きなのは「毛布」の部分。 街(マチ)の賑やかさと、その一方で這い蹲るような生活を懸命に生きている人たちの対比も表れています。 まるで蝉たちが、幹にしがみついて、熱いひと夏を鳴いて落ちるのを見るような作品ですね。主人公は気概だけが頼りだったのか、ひと夏が終わって落ちたあとでも気概だけが残ったのか、どちらだろうとしみじみ考えました。 (空蝉の)

2018-03-29

この(全文の)長さで、一文の呼吸の長さが安定しているのはメリットなのか、デメリットなのか。リズミカルといえばそうだけど、区切りが入ってもほぼ同じ呼吸の長さで繰り返されているようでもあって、単調ともいえば単調。間に改行詩を入れるとか、行間を使うとか、思い切ったリズムの緩急があると、またちょっと変わったかもしれないと思いました。そうすると、モジリの効果が薄れてしまうとか、まあ、いろいろ崩れてしまう可能性もあるのだけど。 ざっと言うと、うまい具合に収まっています。悪く言うと収まりすぎている感がある。特に最後は綺麗に着地しすぎかな。あくまで個人の感想です。 (ケッコンしきますマスの語かつやくをネガってる)

2018-03-09

いま、この作品のなかで、風を眺めている主人公は、何を思っているのだろう。眺めている風のなかをどんなたくさんの一つ一つが流れているんだろう。それは無闇に言葉にはできなくて、ただ風を眺めている主人公の姿を眺めながら、生きることの悲しみと強さをひしひしと感じる。 風の花、風畑、傷跡に散っては咲く花々、不可視ではあるけれども、これらはもう、たしかにあるもので、この主人公にとっては真実として眼前に映っている。そういう、「誰にも見えなくても私にだけは見える」光景が、ある状況においては、あるものです。これが、しかし、幸せかどうかはわからない。そこまで苦しまなければならなかったから、そのあげくに見えてしまったとも思えるから。 ここで私が思い出しているのは、悲しい出来事で我が子を亡くした母親が、月を見る理由を問われて、「子どもがいるんです」と語ったという話です。 これはもう非科学的とか錯覚だというレベルではないし、狂気でもない。ある状況においては、その人にそうであるなら、もうそうなのだという以外にないということがあるし、それはその人にとっての真実と呼んでいいんじゃないかと思います。 ただ、そういう真実というものは言葉には非常にし難い。言葉にできても、作品にはさらにし難い。読み手に見えるようには、です。それを、成功させているから、こちらは口を噤みたくなってしまう。 まあ、いっぱい書いたわけだけど。 (風の花)

2018-03-13

《人間から必要とされなくても生きていける、ロボットのような人間を目指すつもりです。》と考えている《ぼく》は、そのくせ、ロボット先生が好きで、《ぼくの先生》とさえ言っているというところが、絶望的なくらい人間的です。 いつかそんなふうになれたとしても、きっとまた《ぼく》のような子どもに必要とされてしまう。 (ROBOT TEACHER, WHAT CAN I WRITE?)

2018-03-09

アドルノ~。 と、とりあえず。 (夜)

2018-03-10

アウシュビッツ以後、特に21世紀以降は、9.11など想像を超える現実が外部からもたらされて、そうしたものの前に、詩のみならず、多方面で発言力が弱まったことを思い出しました。かつては詩作品が現実と拮抗するとか、詩人は予言するなどという言説を目にしたことがあったけれども、そうした想像が追いつかない現実が世界を覆ってしまった。となると、野蛮を認めつつも、というかむしろ、野蛮であるからこそ、詩を書くというその暴力性こそが、生きていく上で、外部からの力に易々と呑み込まれてしまわないための「抵抗」となりうる。その折れることを拒む強さを感じました。 それから、この作品でハッとして年譜を確認してみて、初めて知ったのですが、多喜二と賢治は、同年の1933年に亡くなっているんですね。文学史的に並べて語られる場面がなかったとはいえ、これには驚きました。多喜二を思想に殉じたと言っていいのかはわからないけれども、単なる思想ではなく行動によって殺されるはめになった。ジョバンニ(賢治)は「すべてひとのさいはひ」を口にしていて、このあたりはもしかしたら多喜二と思想的には通底しているように思えるけれども、多喜二は、拠って立つひとつの思想に身を傾け、賢治はそれぞれの思想がみんなひとつのところからくればいいと考えていて、そうとなれば、賢治の思想は、ひとつの思想に身を寄せない無思想ともいえるもので(宗教的思想ではあるけれども)、体制に対しては多喜二のように身を呈して抵抗するところはなかった。それでもそれだって思想なのさ、とジョバンニが語っているように感じられて、多喜二も救いようがなかったけれども、ジョバンニもまた救いようがなく思いました。 結局のところ、外部に対しては、思想も言葉も詩も救いようのないところまできているのかもしれないけれども、それゆえに《聖母マリアを強姦》するのと同等の暴力性を引き受けつつ書くことには、詩の現代的な意義や価値があるように思います。 (夜)

2018-03-10

拙い感想ですが、この作品が美術館に飾られた絵画なら前に立って足がくたびれるまで眺めていていたいし、本当の霧雨ならやっぱり足がくたびれるまで立っていたいと思いました。でも傘はさします。きっと風邪をひくので。 (霧雨)

2018-03-13

おはようございます。 Chimera。キメラ、キマイラ。フランス語ではシメール。初読からしばらくして、そう読むのかな、と不意に気づきました。 ギリシャ神話に登場するのもたしかですが、個人的にはボードレールやマラルメなどを思い出しました。 しかし、当時のChimeraはもっと凶暴で危険な印象だった。こんなふうにやさしい存在として甦るのもなかなか素敵かなと思いました。 (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-27

こんばんは。ワルツざかにチビで、子犬のワルツをふと思い浮かべました。 《あした ほんとを/おしえてあげます》 この詩行はすごい。 大人の語り口で同じテーマを書いたらどうなんだろうと考えてみました。ここまでグッとくるかどうか。 シブいです。 (ワルツざか)

2018-04-27

こんばんは。ストレートに恋だの好きだの、あー、ダメだ、こんなの書けないわと思うのだけど、よく言うポエムからは頭ちょっと抜け出てるとも思います。それでもやっぱり私には書くのは難しい。 けれども、そこはこの作品が問題なのではなくて、いかにも詩らしい詩に馴れてしまっているこちらに原因があるのでしょう。いかん、いかん。そんなことに気づかされました。従来の(詩への)固定観念を突き崩すところが詩の力のひとつだとしたら、私にとっては十分詩です。 (いつまでも春)

2018-04-29

こんばんは。 イメージに二種類あるとしたら、(1)すでにあるものやわかっているものを心の中で思い浮かべること、(2)ないものを現実にあることのように形象化すること、だと思います。 前者はイメージの言語化として、多くのひとが試みていると思いますが、この作品のように後者の、言語によるイメージの創造はそう多くはないように思います。それほどこの作品では、言葉によってひとつの世界が、現実味をもって作りあげられていると感じました。 それを作りあげるのに、随所に配置されているディテールが活きていて、グロテスクともユーモラスともとれる生々しさが現れ、その奇怪さがかえって美しさとして映る。 例をあげればキリがないけれど、一見全体的にはグロテスクな雰囲気に包まれているけれど、実際なんじゃそらというような面白いところもあって、それがまたグロテスクさを増すように働いていますよね。最も気に入っているのは、《時に果てしなく痙攣し/時に蟹を食いながら》の詩行です。 ひとつひとつの動詞や、現在形の書き方も作品世界に動きを与えるのに一役買っていますね。 ご本人のコメントによる《吉岡実の世界に通じるもの》とありましたが、パッと思い浮かべたのは「僧侶」でした。 (夢見る宝石)

2018-04-25

こんばんは。流木の生涯はまさに様々な事物や事象との関係のなかにあったのですね。そして食い込んだ一粒の団栗は流木と関わり新たな関係(生)に入っていく。語りは穏やかですが、とてもダイナミックでぐわんぐわんなります。 (流木)

2018-04-27

つい先日、ボロボロになった「現代詩作マニュアル」(野村喜和夫、詩の森文庫、思潮社)をめくっていたら、第一部の1に、この一節を発見しました。アドルノの名前も覚えていたし、どこかで見た記憶があったので、ああ、これだったかと思った次第。 現代詩を戦争の反省から生まれた戦後詩からと位置付けるために、一文だけ引用していました。アドルノやその思想を大まかにでも知っていれば、まあまあ辻褄が合うように書かれていなくもないと言えるのですが、その引用、どうなんですか~とつっこみ入れくなるとこもある。まあ、読者層を広く設定していたからとか、戦後詩を印象づけるためのインパクトを与えたかったとかあるのかもしれませんけど。ポストモダンに詳しそうな氏が、アドルノの言わんとしたことを知らなかったわけではないと思いますが、当時誤解した読者はいるんじゃないかと思います。「エクリチュールは一人歩きする」と言っていいのかどうか。苦笑 (【選評】3月投稿作品)

2018-04-17

こんばんは。語数も含めて、音に気を配って言葉を置いているなあと思いました。 それから、 《彼らは ここらじゃお客さま いずれ群れて飛び立つよそ者 わたしもよそ者 ただし気儘な一人旅》 の部分なのですが、《わたしも》のところに、旅する者同士の親近感のようなものを感じました。 それぞれの生きる場所ですれ違う短い時、心のなかで(じゃあな)とつぶやきかけるような。 島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の(一)、第二連に、 《旅人の群はいくつか/畠中の道を急ぎぬ》という詩句があります。ここには悲しみや寂しさのようなものもありながら、同時に、やはり同じ旅の途中にある者に対しての親しみに似た視線もあったのではと、この作品を読んで思いました。 同じ生のなかでつかの間すれ違う者に感じる幾らかの寂しさをともなった親しみととれば(拡大し過ぎかもしれませんが)、種を超えた連帯感のようにも読めますね。 (HOME)

2018-04-19

(付け足し) 我々が生きている現代を形成する社会的枠組みを根本からとらえ直す観点ももたずに《詩》を書くこと、また疑いもなく生きることは《呑み込まれ》に対して従順であり《野蛮》にとどまることで、この現代に呑み込まれずに主体として生き、《野蛮》から抜け出して《詩》を書こうとすれば、少なくとも枠組みを壊すくらいの意識的態度はもたざるをえない。 それとも《野蛮》にとどまらないでいるんなら、たとえばテロルのような反社会的行動にーー《聖母マリアを強姦しに》ーー向かうかい?とここは暴力的な言葉を用いた反語表現と読むことができ、前との関係から平和への希求として聞きとれたのでした。 (【選評】「夜」)

2018-04-17

ありがとうございます。こちらの確認ミスで、あげたあと、もしかして!と思ってしまったのでした。どうもすみません。 私のミスなので無効になるのが当然の道理なのですが、有効として扱ってくださるということ、恥ずかしいかぎりではありますが、お言葉に甘えさせていただきます。 ありがとうございます。 (【選評】「夜」)

2018-04-19

こんにちは。誰かと思えば黒髪さんでした。困ったことにいい詩を書く。 今日、こちらは晴れています。空が青くて、爽快。そんな空を見ているのだけど、この作品はその向こうまでも響いていると感じます。遠くから来て遠くまで届いて響く。 詩は言葉で書かれるけど、言葉じゃないって思い出させてくれます。言葉を伝ってポエジーとしか呼びようのないものが立ち上がるのを感受できると、爽快になります。 (笹竹)

2018-04-26

こんばんは。ネオンと躑躅。最後の二行が個人的には惜しまるものの、少ない材料で、人工物(に囲まれて暮らしている私たち)と自然(まあ、これもところによっては都市計画の一端で植えられるという点で、完全な自然とは言い難いですが、充満する匂いまでは計画外でしょうから、まさに《五月の意地》)との対比が明確になっていて、空気が感じられます。 (夜のにおい)

2018-04-29

こんばんは。雲一つない空に限らないですが、空というのは心の時々の状況で清々しくもあったり、腹立たしくもあったり、また恐ろしくもあったりします。あの漠とした際限のない深さや広さは足元から吸い込まれてしまいそうになって頭が白くなることも。というのは個人的な話なので置いておくとして、空へ向けられた視線が終わりの方で個人に落ち着いてしまうあたり、もったいないように感じました。 (空を仰いで)

2018-04-29

こんばんは。最初の一行と最後の一行が同じということは、最後が最初になってエンドレスに繰り返しつづけるのでしょうか。(仮にそうだとすると、想像するに)呪詛のようでなかなかに恐ろしいです。 (リフレイン)

2018-05-02

こんばんは。川島誠という作家がいて、最初に出した作品集のタイトルが「幸福とは撃ちおわったばかりの熱い銃」だったことを思い出しました。あれ?間違ってないよな。 まあ、児童書枠でしたけど。表題作は、誕生会に呼ばれた男の子がテーブルの上にのって、小便をぶちまけるやつです。ビートルズの曲からとったタイトルだろうけど、性を意識する年齢にさしかかった少年少女の話につなげるとはまさかという感じで。 こちらの作品はホットガンではなくて、コールドガンなんですね。タイトルと表現とが離れてるように感じました。 (ハピネス・イズ・ア・コールド・ガトリング・ガン)

2018-05-29

おはようございます。ううん、これはよく書かれていますね。とてもうまいと思います。感心させられる箇所はいくつもあるのですが、特に骨の「数」を確認するくだりは唸ります。握っている「手」や「指」から入って、骨の構造、そして「数」。この現実的、具体的な叙述が、《僕》の心理的な空虚感、《彼女》への距離感を表しているばかりか、その非現実感をも表しているように思います。内面という抽象的なものの動きを「骨」「数」という具体的なものによって喩える。見事。 そして、《水死体》のように揺れている《ボート》。終わってしまっているなあ。こうした非現実性を仄めかす個所が所々に配置されていて、表現上としては一見《嫌悪》や《醜さ》について語っているようで、全体としてはとても美しい作品になっていると思います。 (E# minor)

2018-05-30

〉まりもさん 《水は「女性性」の象徴ともいえるわけですが・・・肉欲、野生の本能になんの疑いもなく身を任せていくアベックたちの営みを「美しい」と思う一方で、性行為もしくは行為を終えた後の揺らぎを象徴するような水上のボートの動きを、まるで「水死体」のようで醜い、と感じる》というところなんですが、この「美しい」は「醜い」とほぼ同義というか表裏のようにも解釈は可能に思います。水は女性性の象徴ですから、呑み込む面と産み出す面と両義的です。しかし産まれるためには一旦は水の中に入る、浸されることが必要になるし、場合によっては溺れることもある。「僕」はそれを恐れているために防衛規制として「美しい」と捉えてしまう、と考えることが可能だし、同じように恐れていることを無意識的に正当化しているために「醜い」と言っていると考えることもできます。とすれば、「僕」は現時点から次の状況へと進むことを躊躇っている段階にあり、「岸に繋がれているボート」の揺れとは、「僕」自身の揺れであり、不安であるように読めますがいかがなものでしょう。 (E# minor)

2018-06-01

こんばんは。最後の二行で、清涼感がひろがりました。重く湿っぽい灰色をはじきとばす爽やかなサイダー。おいしそうです。 (夏待ち、曇天)

2018-05-28

こんにちは。最後の一行に至るまでの逡巡、いいですね。これが活きているから、最後の一行への切り替わりというか、それまでの逡巡をスパッと切り離しての立ち上がり方が快いです。 さんざん文句言っておきながら、時間になると、キリッと事に向かう時の切り替えのギャップってあります。結局やるんじゃん! て、ツッコミいれたくなるんだけど、ひとってそういうとこ、あります。と、考えると、細かいところに目を向けてるな、と感心するし、詩も隠れてるなと思いました。 (内情)

2018-05-30

こんばんは。もうちょっと整理した方がよかったかな、という感じでした。なにせ、長い。長いのが問題ではなくて、冗長になっていやしないか、ということです。 ちなみに初読の際に、気になった「あるは」という書き方。見覚えがあったので、その記憶から、ずいぶん古いな、と思っていたのですが、思い返してみたら、北原白秋の『邪宗門秘曲』で使われていたんですね。明治よん (慟哭、今流れゆき)

2018-05-31

失礼しました。途中で送信してしまいました。明治四十二年に『邪宗門』は出てるから、古いはずです。 ここに古語を用いる必要性があったのかな、というのが疑問でした。 (慟哭、今流れゆき)

2018-05-31

こんにちは。そういえば何年か前に「すきま仕事」という言葉を使う人がいたのを思い出しました。手空きの時間でできる仕事、みたいな意味だったように思います。それってでも、余裕とかゆとりとはまた違うものだと思います。 それと、個人的には芸術は隙間とは逆のところにあるように思います。隙間も隙間じゃないところも芸術にかかわることでぎゅうぎゅうに埋め尽くして苦しいくらいじゃないかなあ。作品は素晴らしいけれど、そのために生活者としては敗北者だった芸術家は少なくないと思います。 ニュートンが不勉強で、おまけに何も考えず、なんの気なしの暇つぶしに木の前に座っていたら引力の法則は発見がもっと遅かったように思います。 (隙間)

2018-05-28

こんばんは。《尻尾》が《くるりと笑う》という言葉、おもしろいです。 ほんの束の間の出会い。そのとき《私》の内面でどんな感情が動いたのか、想像したくなります。 ともすれば、そんな短い出会いも《私》のことも、とっとと忘れてしまう《猫》のそっけなさに沿う形式にしたのかな、と思いたくなりました。 (この道の先)

2018-06-11

こんにちは。この作品、とてもいいです。良さを言葉にするより早く、いい!と感じました。いい!というより、おお!です。 (夕焼けが足りない)

2018-05-02

こんにちは。最後救われたな、と感じました。いやあ、よかった。ずっと自分の念に縛られていたから。 生きているといろいろあるけど、自分の念に執着して、縛られている間は、なかなか外に対して開くことができないということもあるな、と思いました。そんで、ことによっては案外時間がかかる。 それが、でも、よいかどうかはわからないというのが難しいところですね。なにせ、精神は頂上を目指すけれど、魂は谷へ下る。深みで見いだすものの価値もあるわけで。 〉るるりら様 皿屋敷はお菊さんですね。 (地縛霊<後編>)

2018-05-30

こんばんは。渦巻くものは激しいですね。それがよく表れていると思います。しかし《暴れる猛獣》という部分、わからないではないけど、全体のなかで突出しているように感じました。  (欲望の邂逅地点)

2018-05-31

かるべまさひろ様 コメント、ありがとうございます。遅くなってしまいました。 言葉の音とか、音のつながりや切れから生じるリズムとか、好きなんです。日本語は母音と子音を一語で表せるから、母音同士を絡ませたり、子音同士を絡ませたりが英文よりも少ない文字数でできるから楽しいです。擬音やモジリもあって。 かなりめちゃくちゃなことをやっていた時期もありますが、だいぶんと落ち着いてきたなあ笑 コメント、改めて感謝します。 (道化唄)

2018-05-30

こんにちは。《いまは静かに眠っている》の行で、完成しているように感じ、もしかしたら、そのあとで、二行を思いつき付け加えたのかと考え ました。しかし、だとしても蛇足かどうかは難しいところで、この二行で、ふっと微笑ましく思えました。あ、なんかわかる、という感じでした。 (靴)

2018-05-12

こんにちは。前の私のコメントは失礼でした。すみません。初読ではただに良いなあと感じたのですが、読み直しているうちに、ふと《いまは~》の詩行で成立しているのではないかと思ったのでした。というのは、私が書くとしたら、最終の二行はやはりどうしても書いておきたいことなのですが(微笑ましく思えたのも、ここに尽きます)、最も書きたいことを書かずに留めておいた方が、靴の存在感が読み手にしみたかもしれないな、とも思えたからです。 それはそれとしても「蛇足かどうか~」という言い方はないですね。平にご容赦を。 (靴)

2018-05-14

こんにちは。世の中は音に溢れていて、煩く感じることがあります。音というのは音だけではなくて、視覚によってとらえられるもの、動きもそのリズムによって音のように煩く感じるし、ひとたびそっちに意識が向くと、脳内に音と形が溢れて、目も耳も塞ぎたくなることさえあります。 ああ、だからカタツムリは片方だけ目を瞑っているのか。なんつて。 (おやすみ、カタツムリ)

2018-05-30

この作品の最終連の一行目、ふと立原道造の詩を思い出しました。 だからというわけではないですが、夜想曲が聞こえてくるような小品に感じます。 (夢想)

2018-06-16

こんばんは。だいぶん前になりますが、手島圭三郎氏の版画による絵本が好きで、図書館で借りて読んだのですが……二年か三年ほど前に手に入れていながら積んだままになっていた「アイヌの碑」(萱野茂、朝日文庫)を、この作品にふれた機会にようやく読むことができました(そして、これもかなり前に読んだ川崎洋氏の詩作品「しかられた神さま」に通じる文章を見つけることもできました)。 しゃも(和人)による特に明治以降の侵略、支配のために余儀なくされた生活や奪われた(言葉を含めた)文化は痛ましく、その復興のための長い年月にわたる努力も大変なものであったことだろうと感じ入りました。 この本では、アイヌ語を話せる古老が少なくなり、著者たちがテープレコーダーで録音したのを書き起こし遺すようにする過程が書かれていましたが、そのような形で遺すことができるのはやはり有り難いことながら、日常の生活のなかで話し、また聞く風景が失われていくのは悲しいことですね。その言葉でなければ変わってしまうニュアンスや深みというものが、生活のなかで伝えられ、覚えてきた言葉にはあるから。 詩作品を皮きりに歴史や文化などを知るだけでなく、言葉についても考えさせられる良い機会になりました。ありがとうございます。 (Elegy)

2018-06-09

この作品なんですが、花緒さんの指摘にあるように、二連まではとてもいいと思います。 で、三連なんですが、余計なことですが、三行目を頭にもってきて、《光でできている》を前に、《生きてる物(もの)はみな》を後にする、で、一行目~二行目を「草・馬・人間(にんげん)そして太陽」みたいに並び替えてみる(ありがちではありますが)と、ちょっとは違うのかな、と思いました。 作者が、いや、それじゃあだめなんだ、と言えばそれまでなのですが。 (阿蘇にて)

2018-06-16

補足:上の場合、四連目は省く。 (阿蘇にて)

2018-06-16

こんばんは。いきなりですが「キャンプにて」が一番好きです。 「ちくわ」を「ちくわでないもの」にすること。「これはちくわ」だと思っていることを、もっといえば既成の概念で凝り固まっている日常の意識を壊す爽快感があります。しかも理屈っぽくなく、一息に跳躍する運動が一行のなかに感じられます。そして、次の行は現実味がある。非現実と現実がたった二行で現れていて、名人の手品を見るようです。 (ちくわ詩編①)

2018-05-14

こんにちは。愉快でした。迂闊にも一人の部屋で笑ってしまった。いや、楽しい。 「前編」の冒頭からの運びは、特撮モノの変身シーンや“前回までのまとめ”にさしはさまれるナレーションのような感じで、頭のなかで音声として入ってきて楽しめました。主人公としてはショックな出来事なのだろうけど、読んでる側としては同情しながらもユーモラスに感じました。《!》を含めた語り口の効果でしょう。 「後編」は、昔、ねじめ正一がやっていたお茶の間劇のような喧しい印象でしたが、前編・後編合わせて読むと、これは派手は派手な展開ながら、哀しいイキモノね、と思うところもあり、表現上の派手さと内容のギャップとで、余計ユーモラスに感じました。さしずめヒューマン(?)コメディといった感じとでもいうか。 全体の展開としても、アクセントがはっきりあって、総じて痛快エンターテイメント詩だと感じました。 (ラブ・ラプソディ 【後編】)

2018-05-14

すいません! 原口良平ではなく、昇平です! 原口昇平さん、すいません! (四月選評 )

2018-05-16

地( )球さま コメントありがとうございます。私は選評では「ヘンテコリン」と書きましたが、詩の言葉がヘンテコリンであることは、全くヘンテコリンなことではないと思っています。といって、ヘンテコリン推奨というわけではありませんし、ヘンテコリンなものが詩であると断定してもいません。笑 詩を書こうとするとヘンテコリンにならざるをえない場合が往々にしてあるということです。けれどもそれを書く「核」までもヘンテコリンではなく、むしろ、かっかと燃えているんじゃないか。 詩の側から見たら、日常文法に則って規則正しく並んでいる言葉こそ、強引に繋がれた歪な姿であるかもしれないですね。 (四月選評 )

2018-05-26

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。詩の旨味のひとつは、気づかなかったことに気づかせてくれるところにあると思います。わかりきっていると思いこんでいることでも、改めて焦点をあてられると、ああ、たしかにそうだった、と思ってしまう。いや、異なった角度から光をあてられると、といったほうがいいのかもしれません。それくらい、日常の見方考え方というのは、同じ角度から光をあてるように習慣づいている。 だからこそ気づけなかったことに気づかされるのは驚きです。作品の言葉が驚きに出会わせる。現代は以前にまして刺激の強いものが増えていく様相を見せていますが、そのためにかえって驚くことは少なくなっている。にもかかわらず、詩の言葉がしばしば読み手を驚きに出会わさせてくれるのは失われていない。これは嬉しいことです。 ありがたいお説教ではなかなか驚かないし、染みたりしないんですけどね笑 語る詩によるカタルシス、のなせる技ですね。 コメント、改めて感謝します。 (四月選評 )

2018-05-26

こんばんは。 さまよったあげくにようやく見つけた真理が、割と単純で、ひとに話したら「うん、そうだね」みたいに、特に感動もない返事で済まされてしまうこと、稀ではないと思います。とは思うものの、見つけた本人にしかわからない重さというのがあるんじゃないかと思います。多さにまぎれるとそれすら流されてしまうこともあるだろうけど。 というのはおいておくとして、超高度な情報社会と大衆消費が結びついた現代とあっては、欲望も病理もカルチャーセンターの講義内容になったり書店に平積みされて娯楽になってしまってしまう、そのくせ、「平成○○年に流行した云々」のように、過去のこととして切り捨てられる嫌みなところが大いにありますね。 企業はモノよりも価値観やステイタスなどといった欲求を駆り立てることを先んじて流通させようとするので、なんでも揃っているので、その飽和によってつねに渇いていて退屈してしまう。朝からウンザリすることはよくあります。その疲弊を現わせていると思います。私も怠けていたいものです。 (始発に乗って)

2018-05-24

こんばんは。ウルトラマンは遥か彼方のM87星雲(だったかな)から地球を守るためにやってきたそうですが、当の「私たち」が願った社会は《星よりも遠く消え去った》わけですから、こりゃまた皮肉なものですね。 (故郷)

2018-05-27

こんにちは。 “Arent you more suck?” こういうの、けっこうやっていました。なんというか、ついついやってみたくなりますね。言葉のもつ音の誘惑にはまってしまうのかな、とこの頃は思います。 (青を探せ)

2018-05-24

黒髪様 コメントありがとうございます。我ながら思わぬところに着想がいってしまったので、思わぬところにきた以上は思い切りという具合です。笑 蛙の鳴き声、これからが本番ですね。季節は『蛙鳴く池のほうへ』向かいつつあります。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-18

湯煙さま コメントありがとうございます。そういえば、数年前に蛙についての神話や伝説を調べてみたら、けっこうありました。そのときはヒキガエルでしたが。水と陸の両方を行き来できる生態というのも神秘的ですね。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-22

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。アマガエルの写真集買ったんですね。たしかに見た目もかわいいですね。たまに変色して驚かせてくれますが。 これ、書いてて口をついて出たのは「ゲゲゲの鬼太郎」の歌でしたよ、まったく。 9999回唱えた時解脱に至るとか言ってみたい笑 解脱とは「解得る」の謂いである、とか。 (かえる経)

2018-05-22

かるべまさひろ様 コメントありがとうございます。「胡散臭さ」でていましたか。よかったです。詩は胡散臭くてもいいと考える派です。つくりものなので。世間様はこうした胡散臭さを毛嫌いする向きがありますが、いかにももっともらしい素振りで、いかにも真実味のあるようなことを宣っては衆目を欺く輩がいて、痛い目に合わせてくれます。そのくせ、彼らの理や利益に結びつかないもの、反したものを胡散臭いまやかし、流言として退けるいやらしさをもっている。いやはやですね。 マーサナカムラさんですね。名前は以前から聞いていましたが作品を読んだことはありません。「手帖」はあるんですがね、時間がないんです笑 (かえる経)

2018-05-26

花緒@B-REVIEさま コメントありがとうございます。パソコンやスマホの画面て、文字がパッと目に入るんですよね。紙媒体だと順に読んでいくから、かつての立体詩とか未来派とか視覚的なものは読むより先に図像として訴える効果を発揮できるかもしれません。文字の組み方も形としてパッと入る。 逆に、順を追って読むのには他の行がいつも目について気になるというか急かされる気になって、言葉がうまく入らないことがあるのです。きちんと向き合って読めるまでに時間がかかる。 これはもう、頑張って読まなくてもいい笑。やらかすならめいっぱいやらかしたれ、です。 ゲは外であり、下であり、そういえば南無妙法蓮華経の華でもあると、いただいたコメントを読みながら思いました。もっと広げられたかもしれませんね。 (かえる経)

2018-05-26

るるりら様 コメント、ありがとうございます。私も子どもの頃はしょっちゅう蛙の鳴き声を聞きました。今でも聞きますし、田んぼも多いですが、子どもの時分はもっと多かった。夜、田んぼと田んぼの間の細い道をいくとよく聞こえていたものです。賑やかなんですよねえ。夜道がちょっと楽しかったような気がします。蛙といえば後鳥羽院の話がありますね。あんまり鳴くのでたしなめたら、それ以降鳴かなくなった、だったかな。 ところで、ウシガエルは本当に牛のようにモーモーと聞こえるんです。これにはびっくりしました。地の底、あ、水の底から響いてきてドキドキしたことがあります。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-28

なつお様 コメント、ありがとうございます。ですよねー、蛙といったら草野心平です。私も思いついた時、あー、やばいなー、先にやられてるなーと思いました。しかも、ハンパないやり方を見せられてるわけで、かないっこない。 でも、カテゴリーが違うんですよね。あちらは叫びだったり大合唱だったりするから、そりゃあもうすごいんです。声がいろいろに混じりあって。それに比べて、こっちは単音。敢えて言えば響き方が変わるくらいです。だから、草野さんも草葉の陰から小癪な奴とも思わないでしょう。むしろ豪胆な方だったらしいから、やらせとけ、やらせとけ、と言ってくれるんじゃないか笑 一緒に酒を飲みたかったなあ。こっちがとっとと酔いつぶれてしまっただろうけど。 「偈」! これがありましたね。ああ、「ゲ」も一筋縄ではいきませんね。げにおそろしや! コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-05-31

渚鳥さま コメント、ありがとうございます。雑念が吹っ飛ぶ。残念ながら、そんなありがたいものではありません。ただ、書いているあいだは、私の雑念が消えてくれました。そんで、心なしか元気がでてくるように感じました。かえるだけに、ガマの油も気の持ちよう、というところでしょうか笑。 コメント、改めて感謝します。 (かえる経)

2018-06-08

こんばんは。 すいません、とてもとても気になっている箇所がひとつだけあります。私が読みきれていないのかもしれませんので、それをすっきりさせたくて、書きこみました。 第二連で、「枯れ葉が舞いあがってきた」のは「昨日」と示されているのですが、最終連では「それがいま」となっています。この「それがいま」(もしくは「昨日」?)は意図的なものなのでしょうか。 (葉脈)

2018-05-21

こんにちは。お答えありがとうございました。 こちらが十分に読みきれていませんでした。それほど第二連における「枯葉」の様子が鮮明だった、という言い訳くらいはさせてください。「昨日」でありながら、いままさに見ているかのようにありありと私の目にも映ったのでした。 さて、結論だけ言いますと、世界が生命力に溢れたものとして感じ取れるとき、そればかりでなく、自らのうちにもそのようなエネルギーの充溢を感じることがあります。それを、「作品を通して」感じさせてくれるものでした。 (葉脈)

2018-05-25

おはようございます。「ワロン人」って本当にいたのですね。知らなかった。初めて見たのでウィキで調べてしまいました。 「マッサンオッサン」という音、おもしろいです。音としてもおもしろいというか。夢追い人とも言われるマッサンと、ただのオッサン。どちらになるかを選ばなければならないとしたら、まさに分岐点だな、なんて思いながら、意味でありながら音を兼ねているところ好きです。いつだったか「テッペンコッペン」と書いているひとを見たことがあるけれど、それよりずっといい。 《宝島は遠ざかり/ルイ14世も黄昏/すき屋の牛丼を食べる》の箇所、ちょっとした哀愁を感じました。ここは一日の時間というよりは、人生としての時期と読んだら、なかなかに切ないな、と。 ルイ14世が「太陽王」と呼ばれていたのは知っていたのですが、出生のところでアレクサンドル・デュマの作品につながって、デュマといえばネルヴァルの友人じゃないか、と思って、この作品とは別のところでときめいてしまったことは言わずに起きます笑。 なんにせよ、そそられる作品です。 (分岐点)

2018-06-09

おはようございます。 「えー、あー、と、」の「と、」と次の語との間に気持ちのいい間があって、その繰り返しがよいリズムをつくるのにいい仕事をしているように思います。ここちよい呼吸を感じました。 (In Blue)

2018-05-23

こんばんは。これは、もう最初の一行で決まっていますね。でも、その場合タイトルに悩むかもしれない。 デュシャンが便器に「泉」とタイトルをつけて驚かせたように、花瓶にマヨネーズを活けて「生け花」というタイトルはありえるし、「薔薇」といってもいい。 マヨネーズにとっては花瓶とからすとどっちがよかったのか、花瓶には新しいマヨネーズが活けられたのか。 そして空の花瓶の恨めしい佇まい。これは恐ろしい。こんな女性の立ち姿は恐ろしい。 (マヨネーズをめぐる愛憎劇)

2018-05-21

こんばんは。とてもリアリティがあります。リアリティといっても、夢(悪夢)のそれです。詳細は省くとして、二十年ほど前に、自分を殺そうと迫ってきた相手が自分だったという夢を体験したことがありました。あの時の驚愕と恐怖ときたら! きっと天守閣から狙っている自分を見た瞬間はそうだったんじゃないかと思いました。 「君」という距離をおいた視点からの語り、よいですね。 (天守閣)

2018-05-27

こんにちは。しまった!昨晩読みながら、カポエラみたいだと思っていたのです。先に書かれていました。 カポエラは両手を繋がれた奴隷たちが、密かに編み出した格闘技ですね。ぐるぐる回って、足がダイナミックに動くし、為政者の目を隠すために舞踏を装ったと読んだことがあります。リズミカルで、ステップもダンスみたいだし。その様子が言葉でくっきり現れています。昔、NHKで深夜に流れていたなあ。 舞踏といえば、舞いというのカポエラがいつか立ち上がる日のための対抗手段であったように、為政者の暗殺手段として物語に使われますね。踊り手はもっとも狙う相手に接近できるし、いかに勇壮でも舞いと思って見る限り、警戒は薄れてしまう。そう考えると、舞踏というものは華美な外見で偽装して周囲を欺くところがある。 ときに、偽装された外見が主流になって、本来こめられていた意味が忘れられつつある状況においては、影を相手に舞いながら見つけられる日を待つしかないのだから孤独ですね。 私たちは何かを忘れてきているのではないか、などと考えてしまいます。 (フィラデルフィアの夜に Ⅵ)

2018-05-24

こんばんは。 どこかしらメルヘンチックというか甘い香りのただよう作品ですね。(あくまでも香りです。) しかし、そのようなメルヘンチックな雰囲気を醸すことを意図したかどうかはやや疑わしく思います。むしろ、そうした雰囲気に陥るのを慎重に避けた印象です。 例えば第一連の「美少女」。書かないなあ。というか、書けない。だって美少女ですからねえ。「少女」ならわかります。「娘」「乙女」(まあ、古いですが)でもわからないではない。でも「美少女」はちょっと書けない。 第二連の「海苔をまいたおにぎり」、第三連の「入試前」、最終連の「料理番組」、これらも書けないまではいかなくとも、連から立ち上がる甘い雰囲気に対して、そのバランスを壊すような現実味があります。で、その現実味が他の行とギャップを生んで、総じてメルヘンチックな甘さをより現実の側へ引き寄せているように感じます。いかにもありえそうな光景へと。 (春のうちがわ)

2018-05-24

こんばんは。 なんだ、この寂しさは。なんなんだ。呼びかけていながら、呼びかける対象がそこにいないような、ひとりで歩きながら心に浮かぶ相手に、人知れず話しかけているような、幼くして世を去った子どもが在りし日を偲びつつ、家の中を歩きながら語っているような。 (象の玉乗り)

2018-05-26

こんにちは。こんなナレーションが入った後でエンジンが入る…、ラジオの車のCMに似合いそうですね。言葉の選び方使い方が、そんな型にはまっていて、読みやすいけど、ズシンとこなかったのが残念です。 (お気に入りの孤独)

2018-05-27

こんにちは。インターネットが普及しはじめて、20年くらいは経つのだけど、携帯電話を持つのが当たり前になってからもすでに長いですね。昔は携帯電話もっているのはヤクザ屋さんか社長とか言って持つのに否定的だったけど、いっしょになって言っていた連中も気づけば携帯電話、そんでスマホを持っていて、そんなこんなの間にSNSは凄まじく広がった。一時は依存症という言葉まで言われていたなあ。誰もが自分の意志で自由に参加できて、しかも匿名でいられることの利便性。Twitterなどでの炎上。発した内容がネット空間に浮遊しつづけるという面倒臭さ。はてさて、この船はどこまでいくのか。 そんなことをなんとなーく考えながら読みました。 (学習 learning)

2018-05-29

こんにちは。読みながら、北原白秋の詩の一部を思い出しました。多分私だけではないはずと思うので、先に書くことにします笑。 《薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク ナニゴトノ不思議ナケレド》 (「白金ノ独楽」、『薔薇二曲』から) もうこれを下敷きにしたんじゃないかと思いたくなるくらい、ピッタリきます。    《ナニゴトノ不思議ナケレド》 きっととても不思議だったというか、非常に驚いたというか、ハッとしたんでしょうね。どうしてそうなったのか、どういう状態だったのか、なにがあったのか、というのはとりあえず置くとして、とにかくそういうふうに見えてしまう、感じてしまうことがある。それは隠された《大切な秘密》を覗いてしまったような感覚であるかもしれません。そして、この作品では、それは《いつか誰かが/そこに植えたから》にちがいないにせよ、その誰かや、《私》の想い、状況などとは関係なく、本来咲くものとして咲くわけで、こうなると驚かないではいられない。自然というものにーーうんにゃ、そうじゃないですね。自然現象や人びとの生活、もっと言えば時の移ろい、惑星の運行までもが、自分の想いや状況にかかわらず、動く・動いていることに直面した驚きや奇妙な感覚、になるのかなあ。やばい、広げすぎた。 ですが、こういう感覚は大なり小なり普遍性をもつと思います。出だしから最終行までの振り幅も大きくて、ぐうの音もでませんや。 (バラの花が咲く)

2018-05-28

おはようございます。早く寝てしまうと起きるのも早いってことがあるみたいです。まいったなあ。 15センチは完璧な銃刀法違反ですね。逮捕されてほしい。つか、ちょっとうらやましい。まあ、実際そんなもんぶら下げていたら歩きにくいこと、ひとしおですが。 しかし、持て余しているからといって薮から棒に振り回さないのが《オレ》の倫理的な部分でね、ナイフにせよ刀にせよ危険なものをもった場合、ものが理性を覆うことはあって、自制心がゆるんでしまうこともある。きちんと相手の《痛み》を思いやる優しさみたいなもので抑えて、《とぼけた顔で》、敢えて持て余したままでいるなんてのは、いささかキザな気がしないでもないくらいの男前。 というか、使い手というのは、ちょっと使うだけでも相手を容易に傷つける技術とモノを持っていることに自覚的なので、滅多に抜かない。それが、いくらか抜きたい衝動を抑えるための正当化であっても。だからやっぱり内面的には《持て余す》ところが残ってしまうのだろうけど。 《ナイフ》と《傷》にしたところがよいですね。 ああ、そういえば、「るろうに剣心」のなんちゃら編で、人斬り時代の剣心が、巴という女性に出会うのだけど、桂小五郎はこっそり思うんです。「いまのあいつには鞘が必要だ」みたいに。 この作品では、《ナイフ》と《傷》だからね、そこがいい。 フロイト先生なら、どう言うかわからないけど笑 (春の夜)

2018-05-31

こんにちは。ダメだ、吹いた。最後めっちゃずるい。狂おしいくらい、かなしくておもしろいです。 (ロデオ天使)

2018-05-30

こんにちは。「牧師」「教師」とでてきますが、どちらかというわけにはいかなかったのかなあ、と思いました。 または第五連の「牧師」「教師」は「彼ら」などで括ることはできなかったのかな、と。 しかし、第五連の《それから~ない、そのあと~ない》については、私にはとても魅力に感じる方法です。 (誰にも言えない話)

2018-06-04

こんにちは。こんなふうに「わたし」は何かにつけて架空の「菅田将暉くん」を登場させて、思いを馳せながら、それをダシにしつつ、「あなた」や「あなた」と「わたし」の関係のありかたを思い返して、前にすすんでいくのだろう、と考えてみました。そういうことってあります。 (菅田将暉くんへのファンレター)

2018-07-17

おはようございます。この作品の「ゆらんと」という音、とても好きだし、良いと思いました。この「ゆらんと」はずっと気にかかっていました。仕事しながら時々「あれはどういう音なんだろう」と思い返していました。翅の揺れを表している「ゆらん」。でも、力がこもってない、ひどく緩慢な「ゆらん」。ああ、片翅だからか、だから力がないんだ、でも飛ぼうとしてなんとか動かしている、かなしい「ゆらん」なんだな、と。 でも《私の腹の中が/ゆらんと/ふるえた》の「ゆらんと」は前のとは違う「ゆらんと」で、これはふるえているのだけど、ぐらつくというかずれるという感覚に近いように感じます。「私」が保っている日常意識の分離なのか、無意識的なものの侵入によって暗いものが意識されるのか、どちらともいえるのだけど、そのときの不意の「意識の揺らぎ」としての「ゆらん」かな、と。 《ゆらんと/軋んだ、夏の終わり》は読み流せばなんともないけど、「ゆらんと」軋んだりはしないですよね。軋むときはもっと違う音をたてる(はず)。こんなの、私にゃ思いつきません。この「ゆらんと」は失望や諦めを離れて眺めているように感じます。でも、心理的には軋んでいる。軋む痛みの強度に耐えきれず、それをどこか他人ごとのように見てしまう、したがって「私」がどこか外部に浮きだしてしまったかのような「ゆらんと」のように思います。 最後の「ゆらんと」は「また」とはあるのだけど「また」ではない。それは「と」で締めくくられるために、より強調されてしまうのも手伝って、トーンがいっそう暗さの質を強めているように感じられます。しかし、もはや緩慢ですらなく、命が尽きるように力ない弱々しさとして目を伏せるような。 同じ「ゆらんと」という語が、その置かれる箇所によって異なった意味合いを帯びて感じられる点が全体を非常に味わい深くしていると感じました。 (翅いちまい)

2018-07-17

こんにちは。天気予報はたくさんのひとに影響しますからね、罪なやつです。それに比べたらね、と言い訳というかなんというか、そんなことをして、じっとしていないと堪えきれない状況というのがあります。誰にでもは言えないことだから、ギリギリの線上で起きるしかない。世の中がもっとゆっくりゆったりしたものだったらいいんですけどね。 (双子座)

2018-06-07

すいません、反映されませんでした。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-10

こんばんは。しばしば沖縄を舞台において作品を書いている仲程さんが、Rさんの作品をとりあげられたのは、私にとっては嬉しいことです。 6月10日に長々と書いたものは反映されなかったので、それだけ置かせていただきます。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-16

そうでしたか。それは興味深いですね。 あ、そうそう、アイヌ語で神に語りかける時の言葉を読んでいて、「オモロ」と重なるように感じたのでした。 歴史的には明治以降「琉球処分」などがあって、近代日本の横暴による受難という点で、共通しています。沖縄に対する「本土」の人間の差別的な目については、山之口貘が書いていたように思う、とも書いたのでした。 私が暮らしている土地の県南地域は海に面していて、これは柳田國男の作品にも出てくる地域なのですが、現在では船に乗って島巡りができるのです。海にでて船から陸地を見ると、この国はまさしく「島-国」であって、「列島」であることが腑に落ちたものでした。そういう観点、及び《柳田國男ー折口信夫》という研究者に引っ張られて沖縄への関心が高まったのですが、アイヌについては金田一京助・春彦などの学者が保存のために尽力しています。どちらも文学・日本語に関わる方が書き残そうとしてきたことを考えると感慨深いものがあるとともに、もしかしたら、彼らの活動には、土地土地の文化や歴史や言葉を破壊する体制への批判が暗に含まれていたのではないかとさえ思ったのでした。 (選評: こころがふって持ってかれた)

2018-06-16

おはようございます。「さうら」という音のひびき、とても良いです。まりもさんも書かれていましたが、私も「そおら、そおら」とも聞こえるなと思いました。いずれにしても、響きとしても良いのですが、なんらかの映像を想起させる語のように感じました。いつも感じることなのですが、言葉のもつ音の魅力を引きだしているなあ、と。《ペルハムブルーな唇/海はひとりに限る》とか、あ、いや、あげればきりがないのでアレなので、やめておきます。とにかく響きだけでなく歯切れだとか、語と語の間に発生する呼吸とかも絶妙で、だからこそそれを装置として映像を膨らませたりするのかな、と思いました。《ぱ/しゃんと》の箇所、フリーフォールのような感じで(というのは、ガクンとなった瞬間「ぱ」みたいに口をあけてしまうので)、しかし、海面に跳ね上がった魚の翻りのようでもありました。そして、極々個人的なところでいえば、この一瞬に途方もない長さの時間の広がりを垣間見ることもあり、時としては自分がそのどこかにあったのではないかと錯覚することもある点で、時間感覚の伸縮(それに即して空間の広がりと戻り)を感じました。なんとも言いづらい切ない爽快感を覚えました。 (海はひとりに限る)

2018-07-17

おはようございます。フル選評、お疲れさまでした。読み方は異なりますが、いくつか被りましたね。5or6(ゴロちゃん)さん、こうだたけみさん、峰さんも、それぞれに印象に残りました。こうだたけみさんはみんな『名づく』でしたが、私は『遠路、あるいは遠雷』でした。 とりあげたかったものはたくさんあるので、絞りこむにつれて難しくなるのがホント悩ましいのだけど、それだけ豊富で多彩なことを証ししているのかもしれないですね。 それにしても、「ずるい」って笑。 (【フル】かるべまさひろの選評<2018年5月分> )

2018-06-16

こんにちは。難しい言葉を使わずに、しん、と染み込んできて広がる作品だなあ、これは逆に書くのは難しいなあ、と思いました。ただ、後半の「グルーオン」が音としても、強い。フォルテッシモのようにそれまでの印象をかき消しているように感じました。 (グルーオン)

2018-07-17

こんにちは。「いつ、どこで、どのような状況で、詩にぶつかったか」や「詩というものをいかに考えているか」という詩意識の問題については、それぞれの書き手また読み手によって異なるし、問いつづけていくものだと考えますので、そこには触れませんが、今作に触れて、思い浮かんだ作品がありますので、参考まで。 「誕生」へ        入沢康夫  1 競争原理 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  2 泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  3 触媒(自己正当化) まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  4 放棄の道徳 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  5 盗奪的牧歌 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  6 「実践」といふ名の欺罔 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  7 メスメリズム まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。 (以下12まで異なる小題と《まつくらな~》が続く)  13 真の泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭さへも見えぬ。 (「続・入沢康夫詩集」、思潮社より抜粋 *カッコ内は藤) 詩作品は句読点の有無や一字空きの有無などによっても、全く異なるものになってしまう、という入沢氏の作品をこのように一部省略して抜き書きするのもいかがなものかとは思いますが、ひとつの、そして同一のテキストが、複数のタイトルの各々と並べられた状況において、異なった意味合いやイメージを読み手に喚起することはありますし、そもそも言葉が、それ自体としては独立していて、語られる文脈によって異なるものですので、書かれた角度が違うのだろうと思ったのですが、先の入沢作品のように「小題とテキスト」という方法もあったかもしれないと考えた次第です。その方がそれぞれの同一テキストが独立していることを示すこともできるし、それ以上のこともできると思います。各々の作品を別々のものとして、つまり、関連性のないものとして、独立させて読んだ場合、「ああ、わかるよね」「まあ、そうだよね」くらいの印象にとどまりました。あとは、「うーん、もったいないな」とか。ひと作品のなかに小題として二つのせてみてもアリだったのでは、ということです。それでは何かしら違うと思うのであれば、違う仕方を突き詰めることもできたのではないかと。 ではでは。 (虚ろ)

2018-06-08

おはようございます。季節感、色彩、音が浮かびました。燕と三叉路、なんとなく形が似ていますね。それからリボンも。あっという間に過ぎ去ってしまう「時」だけど、たしかにある一瞬。そんなことを思いました。 (すりぬける、今ここ)

2018-06-09

おはようございます。選評ありがとうございました。コメント欄でいろんな「ゲ」がでてきて、そっちのほうが楽しかったし、頭のなかでいろんな「ゲ」の大交響でした。書いたものがコメントを通じて新たな解を得るというのは嬉しいかぎりです。 ん? 解を得る? かいをえる? かいえる…かいぇる……かえる……カエル!? 誰もツッコミを入れてくれなかったのがさみしかったですww  (花緒の選評<2018年5月分>)

2018-06-16

こんにちは。これは好きだなあ。日常にいるのだけど、語りが日常から徐々に浮かんでいる感じ、ちょうど「あわい」に漂っている感じ。 四連目は《私》が語りかけているのか、それとも語りかけられているのか、ちょっと判別しづらい気もするのですが、《つくりましょうよ》っていいと思います。三連目までの浮かんだ感じが想像から行動の側へ一歩前進していて。 最終連で現実に引き戻される感じがする点は否めず、そこはどうにも悔しいのですが、ここは作者がバランスとろうとしたかな?とちょっと思ってみました。この全体の運びのなかに《ちょうど予定もないのでー》という言葉をもってくるのは、うまいと思うんです。乱暴にまとめちゃうと「映画に行くわ。ちょうど予定もないので。」とかで使う言葉を「竜をこしらえて街をぶっこわしちゃおうよ、ちょうど予定もないので。」という感じにしてしまうわけだから、明らかに普通に使うレベルから逸脱している。なので、最終連は一、二行目を《つくりましょうよ》を肯定的に引き継ぐような言葉で、《ちょうど予定もないのでー》にしてほしかったなと思います。 (みとのまぐわい)

2018-06-20

おはようございます。四連目についてですが、各行を一字落として書かれていたのと、直接的な語りかけになっていたので、この連は他の連とは違うんだなということは分かったのですが、語り口は語尾が「しょうよ」と他の連と重なることもあり、《私》が誰かに(何かに)語りかけているのか、あるいは当の誰か(何か)から語りかけられているのか、どちらにもとれて判別しづらかったのですが、そこはいただけないということでは全くないです。むしろ、そこのどこか不思議な感じがこの作品の浮かんだ語りにしっくりきて、効果を高めていると感じました。言葉足らずでした。それと「ドラゴンを生み出して街を破壊する」のは冗談だったとしても、語られる内容は面白くなっていて語りを貫いている情緒としては自然な流れに思います。だから、説明が少ないということはないんじゃないでしょうか。《ちょうど予定もないのでー》の部分、ここもこちらの書き方がよくなかったですね。日常会話でもしばしば使う慣れた言葉が、日常から浮かんでゆくような語りに混ぜられることで、日常の言葉から詩の言葉のほうへシフトしている、と言いたかったのです。いちいちわかりにくくてすいません。 また、これはコメントには書きませんでしたが、タイトルが『みとのまぐわい』だったので、やや官能的なニュアンスも含まれているのかな、と思った次第です。 追伸の部分ですが、そういうこと、あります。 (みとのまぐわい)

2018-06-21

こんにちは。選評ありがとうございました。ご指摘の行、ちょっと遊んだ感を出しすぎたかと思っていました(前行の「悔恨」=開梱と同音)が、お褒めいただきうれしいです。今後ともよろしくお願いします。 (百均 2018年5月)

2018-06-19

こんにちは。選評お疲れさまでした。鈴木海飛さんの作品、よいですよね。最後まで残った作品のひとつで、さんざん悩まされました。 二条さん、Rさん、survofさんの作品を私もとりあげましたが、毎度ながらまりもさんのアプローチには目をみはります。 ユング派の分析的観点から作品を捉えるコメントをしばしばお見受けしますが、読みを深めるにあたっていまなお参考になると思っています。個人的にはA・ヤッフェによる「美術における象徴」やフランツ女史による物語分析等。 ところで、拙作「道化唄」にコメントを下さってありがとうございました。問題の最終連なのですが、《気だるさ》は書く必要はなかったですね。書くのであれば、そう感じるように書くべきだった。《鶯》の諳んじる《クーキョ、ココカシコ》を作中風景に響かせようとして、結果説明的にもなり、萎めてしまったようです。自分のものとなるとなかなか見えないから感謝です。遅くなり失礼ですが、いただいたコメントへの返信とさせていただきます。 選評、ありがとうございました。 (BREVIEW5月選評)

2018-06-16

こんばんは。「踊り」、好きな作品のひとつです。私の場合は、行がすすむにつれて、じわじわと無意識にというか身の内に浸透してくるところに惹かれました。 (大賞推薦作その他)

2018-06-16

こんにちは。エイクピアさんのご指摘と同感で、《立ち去るとき~》の三行、とてもいいと思います。ただ最終連はもやもやしました。歌詞に近づいたような、なんかそんな感じ。桐ケ谷さんは文にしても、詩にしても安定したうまさを出せる方だと思っています。なので、うーん、悩ましい! それから《また会える前提》の「~前提」という日常会話でもかつては使われていなかった言葉が作品中に持ち込まれていたので、おっ!と思いました。 (約束をしないで会えたら僥倖)

2018-06-19

こんばんは。「おっ」についてですが、「~前提」という言葉は、現在では日常でもしばしば聞くし、私自身使うこともあるのですが、十年前でも使われていたかというとちょっとわかりません。そして今から十年後も使われているかどうかというとそれもわからない。日常の言葉というのはまあそんなもので、時代とともに消え去ってしまったものも消え去るものもある。そんで、また新しい言葉遣いも現れる。そういう意味では永続性は必ずしも約束されていないのだけど、詩作品はどこかしら時代的制約を越える性質ももっているし、刹那的なものであることを拒むところがあると思うんですね。ところが、そのようにいつ使われなくなるかもわからない現代の日常語のひとつである言葉を作品に持ち込んで溶け込ませているなあ、と思った次第です。長いスパンで見ると、けっこう思い切ったな、と思ったわけであります。 (約束をしないで会えたら僥倖)

2018-07-16

こんばんは。目の錯覚か、タイトルのせいかはわかりませんが、不思議ですね、書かれた文字列を行毎に眺めていると、人波が動いているように見えます。 (雑踏)

2018-06-19

こんばんは。《豚》のくだり、宮沢賢治の作品に『フランドン農学校の豚』という童話(?)がありますが、あれを思い出しました。とても悲痛でした。 (beautiful people )

2018-06-19

こんばんは。《心を揺らしすぎることはできない》《もう心は柔らかくなくなってしまった》とありますが、黒髪さんの作品は使われている言葉の音が柔らかくて、読んでいると静かな揺れを感じます。その揺れが痛みを感じさせます。 (心のブレーキ)

2018-06-19

こんばんは。作品が語らんとすることは伝わってきます。《まずい水と飲み込んだ》はうまいと思います。四連、五連はやや説明的で、形にはまりすぎているように感じました。 (再会)

2018-06-19

こんにちは。私も最初、レーモンクノー(だったかな)の「文体練習」を思い出しました。あれは文体ですが、こちらは表記ですね。どちらもに共通する点を挙げると、テーマがわかっているから、何通りもの書き方で「それ」をやっていることが読み手にわかる分、内容によってひきつけないと、飽きて投げ出す読み手もあるということで、すすむにつれてい工夫を凝らさないといけないことでしょうか。 かく言う私も似たようなことをしたことがあるので、やはり同じことを考えたり、試したりという方もいると思います。ただ私の場合はここまで熱心にこだわらなかったし、視点も狭かった。このバリエーションの多さには驚きましたし、ネット時代ならではの書法だと思います。 書かれた文章は文字(形)として目で認識されるので、通常の文章に対する(文字の連なりという)認識と異なる現れ方で入ってくると、当初の認識をつつかれて面白く感じます。わかりやすい文章だから、なおさらそう感じる。少なくとも、文章というものはこのように表記されるのだ、という暗黙の了解を壊そうとしていることには違いない。この点でいえば、根本的なところを押さえているように思います。目に見える形としての表記をさまざまに狂わせてみる、というところからはじめて、ひとつずつ点検と実験をつづけていくと、かなり面白いところに行き着く気がします。 ちなみに、 《オナジことデモ、イイかたがカワルとインしょうがカワルことがあります。》 という箇所、ここは幾通りも置き換えが可能です。「オナジ→同じ」「デモ→でも」「イイ→言い」「カワル→変わる」「インしょう→印象」ということで、読みやすさまではひとまず崩さないように配慮されたのだと想像します。 ともあれ、音や意味だけでなく文章の見た目という「形」に徹底してライトを当てていることは興味深く感じます。 (同じことを繰り返すただそれだけ。)

2018-06-26

おはようございます。はっきり言ってしまいますが、嫌な気分です。投稿作品は全部読んできたけど、「気分的に」おもしろくない。…のだけど、こんな書き手がでてきたかという、やっぱりどこか楽しみに思うところがあります。複雑~。笑 細かいところで言うと、谷川俊太郎だって、「みんなおまんこ」だったか「なんでもおまんこ」だったか忘れたけど書いてるわけですよ。ここまで畳みかけるような書き方はしてないけど、書いているには変わりなくて、じゃああっちはよくてこっちがいけない理由はない。語調の強さがこっちに入ってくる要素のひとつではあるだろうけど、生理的嫌悪感を抱くというのは、生理的な部分や身体感覚的な部分に侵入してくる力をもっているからに違いない。これは易々と放置したり、看過してはいけないんじゃないかと考えます。やっぱりね、タブーに踏み込んでいるというか、みんな書かないことを書いているわけだから。下劣で低俗な言葉を連発している印象が強いけど、もはやほとんど誰でも知っている言葉だし、卑近な例でいえば、加藤鷹のゴールドフィンガーなんて主婦だって知っているわけです、実際。いわば現代の言葉として一般的になっている。けれども、詩作品でそれを提出する書き手はどれだけいるか。そこはかとないエロチシズムをほのめかして、そういうものに対しては受け入れるけど、この作品群のように露骨なものは受け入れない、という傾向が強まったら詩の世界は空恐ろしいと思います。映画の世界でもかつてこんなムーブメントはあったし、とにかく画一的な方向に定まっていくのを壊す力を十分にもっていると思う。おかまいなしに書き殴っているわけでなく、しっかり組み立てられているし。 あとは倫理的な問題でしょうか。詩はフィクションだから倫理なんて必要ない、なんてことはない。社会的な倫理観を適用しなくてはならないという意味ではなく、詩作品としてのそれです。やっぱり言葉で作られている以上、いろんなひとが読む可能性はあるから、意図せず傷つけることもありうる。そこを引き受けようとするかどうか。なので、方向性としては悪くないし、詩に対する考え方の狭い枠を壊してくれる点でも良いですが、バランスについては一考の余地があると考えます。この中では「ハッピーセット」がいちばん良いです。 それにしても難しいことをやっていますね。次回作、楽しみにしています。 (イマラチオ)

2018-06-27

おはようございます。私は好きな作品だな、これは。どこがどうと言語化するのはちょっと難しいのだけど、何度も読みました。想像するに、さまざまな声で語られている状況が像を結んでいないために、誰が何について語っているのか読みとりにくいということなのかな、とは思うのですが、見えないところでなにがしかの事件というかドラマが展開していることを感じさせてくれます。それは「具体的にはこういうドラマなんですよ」というような明示はなくて、交わされたり発せられる「声」の背後に隠れていて、時々仄めかすように影をちらつかせる。奥行きを感じさせてくれます。その表面で「声」による展開があるのだけど、その「声」にも浮き沈みというのか、響き方の変化があって、「混線」にも似たはっきりとは聞きとりがたい声もある(個人的にはこの部分が最も好きです)。表面で聞こえる「声」と場面場面での声色の変化、そして、そこで何が、どんなことが起こっているのかが、だんだんと見えてくるようでありながら、それはやっぱりうっすらと想像するにとどまって、つまるところ、表面ですすむ展開とそうさせている何事かの見えなさは解決されない。けれども、最終部分では既に起こってしまったことになっていて、声の主たちは消え、何があったのかという謎はー読みながら「起こっていることを突き止めよう」と追いかけていた意識はー宙吊りになってしまう。この、なにかは明確にはわからないけれど、けれども重大な、痛ましいことが起こったにはちがいない、という印象はあとをひきます。複数の声と奥行きからなる立体的な作品に思いました。 (散り散りに。)

2018-07-17

こんにちは。「鬼」、「女神」、きっちりシバかれるところがとても面白いです。 ちくわ詩編、好きなのですが、個人的にはこの作品は短さのなかでどれだけ遠くへ行けてるかがミソだと思っているのですが、植草さんもそれをどこか自覚しているように勘ぐっています。だからこの並べ方をしたんじゃないかなあ、と。しかし、ちくわ詩編、これはちょっとした「ちく話芸」です。 (ちくわ詩編②)

2018-07-17

おはようございます。導入といい、展開といい見事でした。なかでも、 《森の外はきっと真夜中だろう 翌日の雨を知らせるぶあつい雲が 満月を隠しているのだ それで月の光も地上に降りてこないのだ》の箇所は、《そうでなければ》につづく後の部分にリアリティを与えていて、燃える馬の存在感をありありと感じさせてくれます。感嘆しかない。 幻想的でありながら、現実的でもある読後感は、各連の展開にうまく乗せられたからで、こうして書きながら目をみはる思いです。6月の作品のなかで最も推したい作品のひとつでした。 この作品に接することができてよかったです。 (燃える馬)

2018-07-16

こんにちは。モデルがいたんですね。私はなんとなく「レレレのおじさん」を思い浮かべていました。それからW・サローヤンの短編に「笑うサム」というのがあって、そのサムという少年を。前者はつねに掃除しているし、後者はいつも笑っている(死んだ時さえ笑顔)。そして両者ともに社会的には不遇。しかし、それを笑うものこそ笑われるものである、ということがあります。賢人はしばしば愚か者の姿で現れるとも。 わかりやすく、また歯切れもよく、モデルを知らなくても読める作品ですね。 (頭悪いお坊さん)

2018-06-27

こんばんは。こりゃあいいです。何がいいかって、酸欠なりそうなくらい息継ぎできないところ。先月の「遠路~」も息が長かったけど、これはもっともっと長くて息苦しい。絶対意識してますよね、絶対。なにげに読み始めてまんまとやられました。 (後ろの席でくしゃみする)

2018-06-26

こんにちは。直接聴いたことはないですが、そういうのがあるのはつい最近知りました。専門学校の声優コースなどでもやるそうですね。 (後ろの席でくしゃみする)

2018-06-28

こんにちは。Twitter見てたらツイート詩ってたくさん流れてますね。そのほかにもいろんな呟きやらなんやらかんやら流れてきて、かなりカオスです。で、Twitterのなかに置かれた言葉のなかの、つまり生活のなかのあれこれのつぶやきの一つとしてツイート詩も見てしまうことが多いのですが、こうしてフレームを変えてみると、日常性から切り離された詩群として際立ってくるところが興味深いです。 (1bit、6月、ツイート詩、#、)

2018-07-17

こんにちは。前のコメント読みましたが、私は渡辺さんのコメント、さほど的外れではないと思います。で、ダメな作品でもないと考えます。もしかしたら、湯煙さんが狙った以上のことを作品の言葉が表しているのではないでしょうか。そう思えるくらい、いろんなことをイメージさせていて、そのいろんなことを挙げるのが難しいところがあります。 詩行の運びが心地いいです。特に《わたしたちの》以降はすごくいい。ほんの一語二語を変えるだけで伝わり方を変えているところ。でも冒頭からの流れがあってこそと思います。 (今日も、どこかで。)

2018-07-17

こんにちは。蟹を食べている時にそんなこと考えるもんか。というのは私自身のことです、すいません。けれども読んでいて、なるほど、ウンウンと思ってしまうのは、言葉による思考の構築が成功しているからだ、と思い至り、またしてもウンウン頷いている次第です。 (毛蟹×一杯)

2018-07-17

おばんです。 《私は人間の一個体、回る石っころの表面に寄生する細胞のひと欠片。 私はR、Rはアール、Rはエル、Rはエレ、Rは……》の箇所が強く印象に残りました。《私》というものの複数性をひとつずつ確かめるようでありながら、同時に真実何者であるのか問いかけるようでもある《私の》心の動きを感じました。 (はじまりのおわり)

2018-07-16

おはようございます。そういう夢ということなのか、それとも大往生の間際に見ているそれなのかわかりませんが、もうちょっと踏み込んで表現にこだわってみてもよかったように思います。表面的に過ぎて、読みやすいだけのものになっている気がします。もったいない。 (しめやかに)

2018-07-11

こんばんは。無視していたわけではありません笑。一読して、面白いなと思っていたのですが、忙しさにかまけているうちにコメントを入れることを忘れてしまっていたのでした。最後の逆ギレぽい開き直りの辺り、とても痛快でした。それまでの長いあれこれがあってこそ、それをぶち壊す面白さが活きるのですね。 「本当のこと」を語ろうとすれば「嘘」を言わざるをえない、とは詩人・清水哲男が書いていたことですが、たしかにそうだとも思うし、本当のことはどこか矛盾しているものだと思います。 まあ、「本当」というのが本当にあるのかどうか、そこも私には疑わしく思えるし、本当というものの胡散臭さもあるのですが、そこはまた別の話で。とはいえ、嘘のなかにも本当らしさがあるとしたら、それを指摘してあげつらっては身も蓋もないですね。 (どら猫セラピー)

2018-07-11

おはようございます。とても緻密というか、語の選び方や配列の行き届いている作品なのに、それを感じさせないところに舌を巻きました(特に第一連)。また、第一連から()への切り替わりが鮮やかです。第一連では《素敵だね、この言葉》が最終連では《素敵な言葉》と明言されていて、前の行をうけて、「とにかくそうなんだ」感が爽快です。besideもbelovedもアルファベットだと読み流してしまうけれど、カタカナだと一語一語の繋がりを気にして、知らない言葉のように感じてしまう。表記の使い分けが絶妙。つねに(何者かの)存在の横に私たちがあるのなら、不安はなく、死んでも愛されし者になるなら、生きるのも悪くないなと思いました。 (ビサイド)

2018-07-21

蛾兆ボルカ様 「とにかくそうなんだ」についてですが、これは“just so-ness”という意味として書きました。現実をただ受け取り受け入れる「とにかくそう」ではなく、ある事柄を直覚したような時の、周りもそれを理解できないし、論理的に示せといわれても説明しようがない、けれども誰がなんといおうと「そうなんだ」のそれです。賢治流にいうと、《ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山や風のなかに、ふるへながら立つたりしますと、「もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです」》(「」は藤)の、より強められたそれ、そして、ご存知かどうかはわかりませんが、丹波哲郎が霊界の存在について訊ねられたときに、放っていた名言「あるんだからしかたがない」というやつです。したがって最終連の《Besideは素敵な言葉》という明言は、誰にも訊ねないし、同意を必要としないほど強い。この確信を思わせる強さが連全体に響いているように思います。ということで、「とにかくそうなんだ」についての補足でした。 まどみちおの「りんご」、有名ですね。私も好きです。 (ビサイド)

2018-07-22

こんばんは。にほんごというのもなかなか悪くないなあ、と感じました。 「はむ」。食べる、とはちょっと違う感触でもあるし、なんかおいしそうに食べている感じもする「はむ」。噛みついたり食いついたりする擬音語の「はむっ」とか「はむはむ」が連想されて。どうしてか「ハム」まで浮かんでしまった。 牛の草をはむ様子と言葉の運びが一致していて、のどかな風景と青空、緑まで書かれていないのに立ち上がります。「肚」はお腹というより、「はらのそこ」にも感じられます。 (牛)

2018-07-11

おはようございます。平穏な日常に潜む不穏、というふうに読みました。対比を用いた暗示的な語法が、背後に物語があると感じさせるのに効果を発揮しているように思います。また、部分部分を写して切り替える方法によって視覚的にも聴覚的にもなっていると感じました。 (ナツ)

2018-07-11

ああ、これは怖い。そして、どんどん怖さが増す気がします。ちょっとずれているかもしれませんが、諸星大二郎的世界のような怖さを思い浮かべました。 (Y)

2018-07-12

こんにちは。父、影うすっ! というか、母の様子とそれを見る「私」が語りの中心になっているから、そうなりますね。でも、「私」が実家に帰る理由は、父の相談?があったからで、きっかけをつくっているんですよね。そして、それ以降は出ないという。 「私」は最後、現在の家に帰る。そこでは「夫」(=ただしく愛してくれる人)が待っている。いいなあ。と思います。いいです。そういう風に思えるひとが「私」にはいて、それが「私=妻」を「夫」と繋いでいる。じゃあ、もし「ただしく愛してくれる人」であるという像が著しく崩壊してしまったとしたらどうなんだろう?と、意地悪にも思ってしまうんですよね。そうであっても、やっぱり「私」は「夫」のいる家へ帰ろうと思うのか。 「母(=妻)」はおかしくなったと「父(夫)」がいい、その「父」はやつれている。いろいろとチャレンジしてみて、どれもよい結果にならなかった、まあ、がんばったのかもしれないし、そうでないかもしれないけど、おかしくなったと気づく前に既に「母(=妻)」のなかで「父(=夫)」に抱いていた像が崩れていたとしたら、どうがんばったって遅いこともあるわけで、としたら、「母」が「私(=娘)」を育てるのを心理的には一手に負って心血を注ぐ、親子の関係に生き甲斐を傾けるということが起こってもなんらおかしくはないように考えることもできます。してみると、「母」がおかしくなったのは「私(=娘)」が結婚して家をでたあと、というのは実態としてということであって、傾向・可能性としてはもっともっと前から潜在的にあったといえなくもない。ひょっとしてそれは夫婦間でも隠された問題として「私」が生まれる前からとか。そのくらい、この作品のなかでは「私」と「母」の関係の濃さが語られているし、何よりも「父」との関係が除外されているかのように薄い。私には、この薄さこそが実はこの「私」と「母」との関係の核にあるように思えました。 しかし、理想の結婚生活が破綻して、理想の親子像も壊れて(なぜなら子どもは成長しますし、自我をもちますからね)、とあれば、人形に託すのは堅実でしょう。すべてを受け入れてくれて、満足させてくれる、かっこうのシェルターでもあるかもしれません。 (ままごと)

2018-07-23

こんばんは。とある夏の眩しい記憶に意図せずアクセスしてしまったような幻惑を感じる作品ですね。じりんじりん、かんかん、音も効果的に思います。ひとつ言えば私なら「佇む」なら「ひとつ」のほうが佇む感が出ると思うのですが、《ひとおつ》になっていて、この「お」に心情が宿っているように感じました。 (夏の木陰)

2018-07-22

なつめ様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。未成年でしたか。いい響きだなあ、「未成年」。関心のない話をえんえん聞かされていると、些細なことが気になってくることがあります。そんなとき、頭の中で晩御飯のおかずとか週末の予定とか好きな曲とかめぐらたりする。そんなふうに格好だけは聞いていながら、煙草の先を見つめていたのかもしれませんね。もちろんこれは後付けですが。 ヤエ様 こんにちは。コメントありがとうございます。読み物って、知らずそういうところありますよね。関係性のあるタイトルにしてしまうと、そういう場面に限定されそうですし、一方で「きみ、さっき、なんて言った?」という文章は状況によっては意味がかわるので、後者の方を優先させました。なんて、これも後付けです。 四畳半学生様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。本当に、何を見ていたのでしょうか。緊張がとけて、ひと息ついている時、いろんなことがうっすらぼんやりよぎりますね。 湯煙様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。私の身の回りでも電子たばこやアイコスに変わるひとが増えてきました。電子たばこはケムリがすごいし、本体が隠し武器になりそうですね。私は依然紙タバコです。ちなみに最初のタイトルは単純に「煙草」でした。実際の煙草の方が味があります。 二条千河(NIJO Cenka)様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。なるほど。小説だと会話のやりとりに溶けこみそうな気もしますね。煙草は映画でも小説でもうまく使われてきたし、モノとしても親しんできたものですが、言葉としても肩身が狭くなりつつありますね。かなしいなあ。 かるべまさひろ様 こんにちは。コメント、ありがとうございます。かなり前に書いたやつなんで、もう覚えていないんです、実は。でも、そんなに悩んでないような気がする。というか、書き始めるまでは逡巡していたけど、なんとなーく書き始めたら最終行はパッとでてきたんじゃないかと。その分、やっぱり詰めなかったといえば詰めてないですね。でも、きっと、切り込みたくなかったんですよ。軽ーくいきたかったんです。投稿するにあたって、ちょこーっとだけいじったけど。笑 (心ここにあらずな詩)

2018-07-22

こんばんは。ジェットコースターのようなスピード感や激しい動きを感じました。 (カタルシス)

2018-07-22

こんにちは。第一連(?)のスペースを使った形式と書かれているテーマは一致しているように感じました。語の同音から異なった意味の次の語を呼び込んだり、ひとつの語を分断して強調をつくりだしたり、リズムを狂わせているあたりは成功しているように思います。この「狂い」が底流としてあるのかな、とちょっと思いました。それだけに余白と それ以降の改行への変化をどうとるか、ここが個人的には微妙な問題です。 (エクスタシー)

2018-07-27

こんにちは。詩人は卑怯だなーと思います。詩作品のうちに読み手は書き手の人柄をイメージしてしまうから。作品を書くという行為は、作品に集約されない人格と生をもつその人を詩人にするけれど、同じように、今もいろいろな感じ方や考え方をしているひとを、読むという行為のなかで詩の読み手にしてしまう。はあ。仕事の時間だとか、すずしくなったとかツクツクホーシの声とか、ちょっと忘れて読んでいました。 (こころ はんぶん/ブルーノ/そらの)

2018-08-20

くうきが固体化する》と自分も動けなくなる、ので、《むせる》ことができるかどうかはわからないが、いきなり固体化して、包まれている自分も動けなくなるのが怖いことは間違いない、そして《深呼吸》にしろ当然できたものじゃない、だから、《慎重に、丁重に、》だ。この連がもう《慎重に、丁重に、吸って、吐いて》いるようだ、そんな注意と呼吸をしている、ように感じる。 それにしても《キメラ》。ライオンの頭と山羊の体、蛇の尾の噴火獣(シュメール)。はおぞましい、が、それは姿もありようも、であって、《私》は、それにもましておぞましいのか?と、《私》をそんなふうに見ている〈もうひとりの私〉にたずねてみたくもある。あっちこっちで相手に合わせてうまく対応する、他者との関係に心を砕く努力をすることは、〈もうひとりの私〉にとっては「キメラ」よりキメーこと、おぞましいことなのかもしれない、〈もうひとりの私〉は《私》がそんなふうにふるまうことに脅かされるのかもしれない、そう思う。 白い服は死に装束みたいだし、白い服しか着ていない人々の集団はこわいので、近寄り難いので拒絶には適している、そのくらい〈もうひとりの私〉は《私》が上手に環境とやっていこうとすることを怖がる、遠ざけたがる、それで《無視だ無視》というのは焔じゃないかと、キメラの仕業じゃないかと、少し疑う。環境や他者との関係に心を砕くこと、対応力をつけることを、それほどまでに拒み、遠ざけようとする、「変化の否定」の強烈なありようは、むしろおぞましい、ような気がする、足をつかむ渦巻き、呑み込む太母のような、怖さがある、ので、白い服は、《私》を外から遠ざけ、内側につなぎとめるにぴったりだ、そのぴったりさ、浮き世離れした似合い方、《私》を《キメラよりもおぞましい》と見る〈もうひとりの私〉の、〈否定〉に見合う《白い服》を思う。さらに、さらに、白い服以外着ないとしたら、いつでも誰にも同じ装いというのは、変化に富む人間としては融通の効かなさ、硬化にも見えはしないか、《固体化》を思い出す。相手との関係によって対応や見せ方は変わる、呼び方が変わるように、それは生きていく上で社会的に要請されるふるまいに適応するものであって、ペルソナを獲得することであって、いわゆるパーソナリティはそこで形成されていくものであるとすれば、それをシャットアウトすることは有意義といえるのか、考えなければならないし、〈私〉というものに対する見方が、〈私〉自身にとって都合の良い理想として作られてはいないか、吟味の必要がありそうだ、でなければ、窮屈で、呼吸しづらい、そうだ、のびのび生きづらい気がする。 しかし、自身にとって都合の良い理想像に固執して頑なに守ろうとする〈もうひとりの私〉であるならば、《白い袖で頭を抱え込む》のは当然の成り行きといえる。《素顔がわからない》のでなく、それも素顔のひとつひとつと認められないならば。というのは、常に他者との関係につながれ、それらの関係において私があり、変化する、そのような動的なものこそ私たちなのだから、などと思ってみる。最終連、咳きこむという排除の反応は受け入れがたさを暗示しているように思われる、《鏡の私》が振り向かないのは、〈私〉が背中をむけているからだ、現実の《私》を認めることに背を向けているからだろう、そのくらい怖いのかもしれない、否定する私の姿を、私自身がそれをありのままの姿と認めるのは怖いし、脅威に感じる、それほどに私を自由な、だろうか、開かれた側へ向かうことを阻止する《おぞましい》ものを、私たちも内部に抱えている、ような気がする、と思わされた、そういうもの「とも」内部で関わりながらも、開かれた側へすすみたいし、《私》もそうであってほしい、そんなところにようやく今行き着いた作品です。 ※だいたい書きながら読むので、めちゃくちゃ長く、わかりづらいコメントになりましたが、ざっくりまとめず、そのまま載せました。御寛容を。 (キメラの後ろ姿)

2018-09-12

こんばんは。生前、後世に影響を与えたり、偉業を成した人々はたくさんいて、彼らは名を残しているのですが、市井の人々の多くはそのように語られることはありません。しかしながら、そのように名をとどめない人々にも生きられた確かな生がある、と親しみをもって感じることができます。結局のところ、私は遠景に見えるスターよりも身近なひとの方をより大切に思うだろうし。 (死去ノート)

2018-09-07

こんにちは。言葉使いが抽象的で、もうすこし追いつめ作業をした方がよいように思いました。全体的に雰囲気寄りのような印象が強いです。 (果てしない夜の装いに)

2018-09-06

こんにちは。味わい深い作品です。ついでに私自身も《吹けば飛ぶ》塵や埃のような生のなかにありますが、問いだらけです。 ([])

2018-09-03

確認ですが、15日までというのは15日も期限内ということでよかったですか? (今月のおしらせ(おもにキュレーションに関して)※必読)

2018-08-15

こんにちは。《確かな流しに箸と皿》。この一行はとても良いですね。「確かな」の一語が決定的で、「流し」に、「箸と皿」に、実在感を与えています。 (スケッチ)

2018-09-03

こんにちは。《覚醒》ではじまる連で終わってもいいように思いました。第一連の《透明なビニール傘》のなかにある《カンナ》を神話的に捉える目は良いな、と思いますが、後半に使われた時は、その効果がすでに薄れているように感じます。 (八月の檻)

2018-09-06

こんばんは。「なごしおおはらえ」は夏越しの大祓、6月30日に行われる厄払いをかねた豊年行事のことでしょうか。《かんぬしまち》が富山県、そこから《べっくうさんや》の方へとんでいったわけだから、〈ここ〉からなかなか遠いところへ離れていったんですね。そういう〈感覚〉、親しんできたものがどこか大きく変わってしまったように感じる時に覚える遠さの感覚が現れているように思います。 『茶店』の舞台は富山の隣の石川県。雨が降っているのでやはり梅雨時期ということになるでしょうか。 《しらやまさんに降った雨は/百年後の加賀平野を潤す》のくだり、《べっくうさんや》の〈棚田〉の風景と重なるように思いました。ゆっくりと岩魚をかじる動き、雨音とともに、思いが噛みしめられているようでもあります。でも、次の季節には消えてしまう。時の移り変わりと、環境の変化のなんと無情なことか。 「虫送り」の行事としては〈横江の虫送り〉なるものが古いそうです。虫送りと書かれた火の文字が燃え盛る。あの燃え上がる火のなかに浄化を見るのでしょうか。ひと夏の終わり、と言わず、自分の記憶のなかの通り過ぎた夏が火のなかに見えるようで、残念ながら「どれひとつとして誰の竹ざおにもぶらさがったままではない」のですね。 それら遠くなっていくものらを見送る眼差し、というか眼差しの向こうへどんどん遠くなっていくものを追うところにポエジーを感じました。 ついでながら、単体では私も「茶店」が好きです。 (しらやまさんのこと 夏)

2018-09-03

仲程さま そうでしたか。石川県にも神主町があるんですね。なんつて、ググってみたら「神主町公民館」なるものがでてきました。いや、お恥ずかしい。検索かけたくせに間違えるなんて完全なる自爆じゃないですか。ぐわー。 しかしですね、「別宮の棚田」を画像で見た時は絶景だなあと思ったのですよ。ここまで《こころ》はとんできたんだなあ、と。そして、山村暮鳥の『雲』を思い出したのです。 うーむ、読んでいるうちに勝手に物語をつくっていたんですねえ。こわいこわい。 でも、それもこの作品に刺激されてのことには違いありません。うれしはずかし、とは実にこのことです。返信ありがとうございました。 (しらやまさんのこと 夏)

2018-09-04

こんばんは。いまさらですが、10月になったらコメントできないので、遅ればせながら、コメントを残します。 《と言ったら河原弥生先輩が/後藤君、君さ、勃ってるよね/と言ってきて/須田克敏が/お前、確実に勃ってる/と言って/後藤は人類の総体に欲情してるんだぁ/と笑った》の箇所、こういう会話が日常のどこかで行われているかもしれない。行われていても不思議ではない。と、思うくらい、馬鹿げていてどうでもよくて、そこが面白いのですが(というのは、だいたい私はふだん馬鹿げていてどうでもいいことを好んで話すので)、「馬鹿げていてどうでもいいこと」は本当に馬鹿げていることなのか、あるいは価値がないのか、そんなことを考えました。個人的にはふだんの〈わりとどーでもいい〉と片づけられることは大事で、それによって日常生活が支えられているんじゃないかくらいにも思っているのですが、にもかかわらず、〈どーでもいい〉なんて言ってしまったりしているわけです。「そんなどうでもいいことをしてないで~しなさい。」とか「いつまでもつまらないこと言ってないで云々」とか言われてきたからかもしれません。一面では、たしかに〈どーでもいい〉ことで〈馬鹿げて〉いるにせよ、他の一面では欠かせないことのように思う、損得や何かの為という側から見れば価値があるとは思えなくとも、それらに属さない価値があるのと違うか。そして、そのような、所謂〈どーでもいい〉と言われる様々なことどもは、それに興じていた時の心の動きといっしょに、一つ一つの細部を曖昧にしていき、忘れられて、無意識内に蓄積されていく。無意識内ということは意識できないという点で、有るのに遠い。それが、 《今、頭上で欅並木の葉が/光りつつ揺れ/音が/走っている/そこに/鳴いている熊蝉。姿は見えない》という、諸器官を通して入ってくる混ざり合った感覚的刺激と重なるようにして、眩しく甦ることがある。これはなんと言えばよいのかわからないけど、〈確かにある、ただ見えない〉という、〈いま、ここ〉でありながら、〈遠さ〉を同時に感じることで、《それだ》としか言いようのないことだと思います。ということで、どーでもいいことのただごとではない価値を感じさせてくれる作品でした。 ※コメント欄の自解は読みましたが、敢えて勝手に感想を書かせていただきました。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-09-20

こんばんは。結局のところ、語り手の『革命』は何を、どんなことを指すんだろう、という疑問が残りました。 (革命的レム睡眠)

2018-09-06

こんにちは。なんだかつれない感じがいいですね。「四角四面は豆腐屋の娘。色は白いが水くさい」という口上を思い出させます。 (冷や奴と申します)

2018-08-09

おはようございます。コメント欄にて鮎川信夫を好きな詩書きでないと書かれていたので、またも心外な気持ちにさせるのは申し訳ないのですが、彼が書いていた文章に『歌う詩から考える詩へ』というのがあったように思います。私はこの作品を読んで考えさせられました。 それにしてもデッサン用のギリシャの英雄のフォルムをイメージさせますね。無駄なく磨きあげられていて、美しいです。 (向日葵)

2018-09-04

読解も表現もストレス。まさに。 (【選評】澤あづさ選2018年7月分)

2018-08-12

こんにちは。超えていく感じ、超えようとする動き、気配を感じます。好きな作品です。 (うほうほ)

2018-09-03

こんにちは。子どもの頃、よくやりました。蝉だのカブトムシだのクワガタだのの死骸を見つけたら、埋めてアイスの平たい棒を墓がわりにたてました。そのくらいあの棒はそこらにあった。と、ここまでは経験の範疇なのですが、「アタリ」が戒名になるのは、よくある経験からトンボを切るようで斬新でした。この言葉の「軽業」を見る快感、嬉しいものです。 (戒名)

2018-08-13

こんばんは。すでにコメントされていますが、懐かしい印象をうけました。実際には体験していないのに懐かしく感じるのは、語り口がそういう部分、内部にある類型的な部分にリンクするものをもっているからなのでしょう。 ふと「逢魔時」という言葉を思い出しました。昼夜の境目には不思議とそんな気持ちになることが、かつてあったように思います。 (生垣)

2018-09-07

こんにちは。引用された作品の言葉には、その作品をつくる際の書き手の思考の流れや、作品自体の語りの流れがあると思います。作品の言葉はどれひとつとっても作品全体を成す構成要素でないものはなく、それゆえにそれら諸々の作品群から言葉を引用するのであれば、ひとつひとつの作品群の言葉たちがいかなる役割を果たしていたかをよくよく汲み取る必要があると思います。その上で、新しい作品の言葉のなかで全く異なった意味やイメージを与えて、尚且つ一つの作品の構成要素として違和感なく定着させる。少なくとも私は引用という方法にはそのような対話と組み込みの苦心があってこそ成立しうるものだと考えていますが、残念ながらこの作品にはそういった跡が見られません。ですので、面白さもないし、面白いというコメントも盛り上がりも理解できません。頑張ってください。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-09-04

こんばんは。さっき、読み直していて、いきなり、あれ?面白いんじゃないか!? と、思って何度目かわかりませんが、読み直してみたら、やっぱり面白かったです。調子が悪くなったり、他の理由があったりで、交換していく、ということ(の「繰り返し」は昔話などに見られますが)、と、そのいちいちを記述していく、ということ、そして、記述していたらまたもやぶっ壊れてしまう、というオチ(というふうに読めました)。そこのところで、それまで読んできた内容が、文字通り「過去に起こったこと」であり、それを「いま、順を追って記述している」ことで、その繰り返されてきたことを読んでいると思いきや、まさにここで起きるのにこちらが立ち会わされる、という構造。いやー、何度でも読んでみるものですね。 (じゃんぱら)

2018-09-14

あー!ということは、最終連は、 《よく聴けば‥‥ JYAMJYAMJYAM‥‥MPALAJYAMPAL‥‥‥JYAMPALAJYAMPALAJYAMPALA‥‥MPALAJYAMPAL‥‥‥JYAMJYAMJYAM‥‥ 》から、語り手自身が徐々に変容していくということですか!? だとしたら、読みが浅かったです!惜しい! この箇所が何かしらキーになっている気はしてたのになあ! 読む→立ち会う、という〈作品〉と〈読み手〉の関係の変化、という構造に「おお!」と思っていたのですが、そこで止まってしまいました。まさか語り手の変容にまでも立ち会わされる造りだったとは! いやいや、そうするとますます面白いですね。 (じゃんぱら)

2018-09-20

三浦⌘∂admin∂⌘果実さま おはようございます。コメント、ありがとうございます。文章を書くのが上手な方っていますよね。いったい何を食ったらそんなうまい文章書けるんでしょうね、と思いながら、午前5時にカップ麺は食っています。彼らはもっと違うものを脳みそに食わせているにちがいありません。 私は文章を書くのが苦手だし、真面目なことを言うのも柄じゃないと思ってきたし、思っているので、例えば今回辣腕を振るわれた澤さんの文章などは、私から見れば批評というより「ウヒョー」だし、アプローチは「意表」と言いたくなる。そのくらいの意匠を感じさせてくれます。今回は忙しさもあり、また選評の冒頭に書いた通り、作品を前にしても読める時と読めない時とがあるのを理由に見送ろうかと考えていたところ、澤さんの手招きにつられて、意匠どころか「どうしよう!?」という感じでした。しかし、どんなものでしょうね。私のような文章でも選評に加われるということなら、これを読んだ方々も自信をもって選評に踏み込めるように思います。そうやって作品の豊かさが膨らんでいくことは楽しいことのように思います。 コメント、改めて感謝します。 (七月分選評)

2018-08-16

二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。『創世記』に「光あれ」と神が言うと「光」が生まれるでしょ。そんなふうに「言葉」によって「それ」を呼ぶことで呼ばれたものが生まれる。そんなわけで「名付け」は言葉の第一機能だというんですね。その次に第二機能としての区別があるらしい。いかにも西洋風ではありますが、まあ、意識が不分明な状態ではAもBも「それ」であって明確ではないのが「言葉」を得ることで事物存在として認知され、AとBとは違うことがわかるようになる、その作業の繰り返しで外界に対する認識が形成されていくと考えれば、頷けるところもあります。なので、事物存在が先か、言葉が先かというと少なくとも人間にとっては同時らしいんですね。 それはそれとして、名は付けられるものであり、刻まれるものであり、記されるものという点でいえば、「傷」であり、「印」でもある。そういう意味では、《刺青》《烙印》というのは正しいし、名付け行為のもつ力の強大さを示していると思います。また、その名によって存在を縛る意味では「呪い(シュ)」とも言えます。しかし、その名をもって我が子とする喜びもあるから、思えばなかなか罪深いことです。ただ、深く痕跡を残す「傷」を与える者と与えられる者とが、それによって以降「絆」で結びつくと考えれば、やはり哀しみばかりではないと言えるでしょう。とはいえ、「登録」することによって、当人の思いも及ばないうちに体制に組み込まれてしまうと思うと、名付けに伴う喜びや哀しみとは別に、怒りのようなものまで湧いてくる。だからこそ、《出生届》はやんわり差し出すよりも、堂々《突きつける》べきなのかもしれませんね。 名前といえば、思うところはいくつかありますが、長くなるので一つだけ。「傷」であるはずの「名」が、宇宙の誕生から歴史を貫いて、未来永劫にいたるまで、一回きりしかない存在のかけがえなさを表す「証書」のように輝く時があるのではないか。ということを映画『君の名は』を観た時に思いました。 (七月分選評)

2018-08-17

地()球さま コメント、ありがとうございます。 さて、 《大阪のミャンマーはやたらに生真面目な青年で、直立不動がよくにあう。まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている(という。)》※()は藤 いま、一連目を抜き出してみましたが、この一連目だけでも、不思議な浮遊感があります。で、どうしてそう感じるのか考えてみました。例えばですが、《やたらに生真面目》ではあるけれども、どんなところがそうなのかという具体的なことが書かれていません。そして《やたらと生真面目な青年》であることと次の《直立不動がよくにあう》ということとは、叙述においては一連の繋がりをもっているものの、内容としては直接関係がない。そこで以下のように書き直してみました。 ①大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である。 ②大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う。 ③大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している。 ④大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである。 ⑤大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている。 このように①~⑤を分けてみると、それぞれが独立した文として読めますが、残念ながら詩情らしきものは特別感じません。ところがこれら独立した文を読点や接続詞で繋げると、 《……まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている》と、さも《大阪のミャンマー》について語っているかのような文体ができあがります。しかし③と④とが「から」で結びつけられる必然的な因果関係は省かれていて、さらに④と⑤も「しかも」で追加されなければならない決定的な理由がない。つまり《大阪のミャンマー》について語ってはいるものの、一連目全体を通して私たち読み手が彼を知るための詳細についてはどうも述べられていないように思います。私はこれほど《大阪のミャンマー》に関する情報を与えられながら、彼のことが少しもわかった気持ちになれない。不思議です。たいていの場合、語りがすすむにつれて、実像が少しずつ近づくはずなのに、この作品では、どんなに進んでも距離が縮まらないままなのだから。いえば幻か蜃気楼でも見ているような印象でしょうか。そして()に入れた「という。」 これは誰がそういったのでしょう? 実は、書かれたしかじかのことを、誰かがいったのかもしれない。あるいは噂のように入ってきたのかもしれません。そのように聞き及んだことを語り手が語っているのかもしれない。 すなわち、 ①(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である、という。 ②(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う、という。 ③(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している、という。 ④(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである、という。 ⑤(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている、という。 こういった断片を、あたかも私が知っているかのように連ね、しかも最後に、「という。」として、「私ではないよ」とはぐらかしているために、読み手としては「ん?」となってしまうのではないか。 いずれにしても、《ミャンマー》について語りながら、知りたいと思っていることについてはまるで巧妙に回避しているかのように、知らされないのです。私が知ることができるのは常に断片的な情報であり、「なぜ」や「なんのために」などといったことは伏せられています。先に第一連をあげてみましたが、こういった特徴は作品全体を通して見いだすことができます。というか、それによって作られていると言ってもいいのではないでしょうか。 それで、です。 通常の文章に関して言えば、大抵の場合、 「なぜ」や「いかにして」などを書くのは意味内容の伝達のために必要とされていて、省かれることなく、また論理は一貫性をもっていて、あっちこっちに飛び回ることはありません。そのため、読み手は知りたいことを知ることができる。ところが、この作品においては、省かれてしまっているばかりか、論理的な一貫性もない。つまり、読み手である私が知りたいと思っていること、通常の文章であれば明かされるだろうと無意識的に思っているあり方(日常的な言語理解のあり方へのとらわれ)に反しているため、その都度「ん?」とか「あれ?」といった空白感をもたらし、読めば読むほど空白感が増えてしまう。結果として、読み終えれば空白の総量が意識の底を占めているということになり、それが不思議な浮遊感につながっているのではないか、と思い至ったわけです。これは言い換えれば、日常的な言葉のあり方へのとらわれからこっそり解放されていることであり、そうであれば気持ちよく感じるのも確かなように思います。 長々と書いてしまいましたが、それとは別に「ミャンマー」という語感、いいですね。知人に「プードル」という語感はいい、といわれたことがありますが、「ミャンマー」も負けず劣らずいい。選評に書いたコメントの、非礼へのお詫びもかねて、大盛りにて返させていただきます。何卒、ご寛容を。 (七月分選評)

2018-08-18

澤あづささま コメント、ありがとうございます。まさか「選評いつですか」と来るとは思っていなかったから、シテヤラレタ!とばかり笑ってしまいました。私の場合、澤さんのように的を得た読解というのはできなくて、「どうかすれば海に飛び込んで揉みくちゃにされながら、なんとかかんとか手に触れたものを掴んで陸にあがり、ゼーゼーしながら、持ち帰れたものを恥ずかしながらお見せする」みたいな感じです。さしずめ出来の悪い「素もぐり」てやつでしょう。 「ちょうりょく」への選評コメントは、読みの過程そのままです。引っかかりながら何度も読んでいく中で、ようやく「手に触れた」もので、そこから強引に引き寄せたものです。もうイッパイイッパイ。 「ビサイド」の「とにかくそうなんだ感」(just so-ness !)についてですが、冒頭からの「語りかけ」と行空けののちの一行《わからなくても/伝わらなくても》といういくらか諦めをも含んだような詩行、そして、一行の間(ま)を溜めにした明言へのジャンプが、私にそれがあると気づかせた、ということですね。気づきという経験は主観的なので、それがどんなに情動を伴うものであれ、その発話自体は「そのような経験をした」という〈事実の報告〉にしかならない。それを【読み手である私が「これは“Just So-ness!”だ」と気づく】には、技術が必要になるんじゃないかということで、そのためにはそれを活かしうる言葉の構造の追求がいるだろう、ということでした。 「命名」のご指摘の箇所について。先日、エミリ・ディキンソンを描いた映画を観ました。《私は誰でもない、あなたは誰?》《誰かになるなんてごめんだわ》と語るシーンがあった。あれはあれですごいのですが、それほど「誰かであること」には重さがあるということではないでしょうか。田中宏輔さんにも「君の名前は」という問いかけがつづく作品がある。しかも田中さんはそれを集めることを続けています。単純にいえば、やっぱり名前によって皆、「誰かである」ことを理解するのだと思います。その重さに対してこの作品の語り手は悦びも感じつつ、罪深さにも自覚的で、だから《暴力》という。優しいと思うなあ。 《突きつける》くだりでは、赤ちゃんがオギャーと「天上天下唯我独尊」と叫ぶとき、「我が子ここにあり」と出生届が吠えるようでもあります。それを仮の名として、やがて真の名を得る(『ゲド戦記』)日がくるとしても。 ついでだから十年ほど前に書いたやつを。 「きみの名前を囁くと」  朝焼けの光に飛びこむように  いま一匹の  魚が空に跳ねた  鱗は金色  世界が割れる  まるで卵そっくりに  私は耳を澄ます  まっさらに塗り替えられた血液が早鐘のように  清らかな声で号外を告げている 巻き込んでくれてありがとうございました。へとへとなったけど楽しかったです。 (七月分選評)

2018-08-19

仲程さま コメント、ありがとうございます。言葉でつくられた空間のなかで動きを実現させるのはそう簡単ではないと思います。田中恭平さんの『徒然草』から引用させてもらうと、 《言葉が 文字にされて 死んでいる》 ことも時にはあるし、死んでいなくとも動いていないことはまったく稀ではないように思います。無論、私自身のものも含めて。「動いた」と書いてもなかなか動いてくれないのが言葉です。動かざること言葉の如しと言いたくなる。 だから、動きがはっきり見えた時にはドキン!とします。ドキンちゃんです。解釈よりもそちらの方が私にとっては大きい。ひとつの作品がいろいろな読み手によって膨らんで豊かさを増していくと嬉しいですね。詩作品が共有されるというのはそういうことなのかなぁと考えています。 (七月分選評)

2018-08-19

こんばんは。私なりの気持ちいいの根拠、伝わったなら何よりです。 事細かに書きましたが、それとは別に好きな詩行はあります。そこは既に書かれていたので重複を避けました。 実話でしたか。小説より奇なり、とはこのことですね。そしてよくある実話に比べ、味のある実話で、よい作品です。 (七月分選評)

2018-08-19

こんにちは。 《水槽》《土の中》《枝先》《空》 最後に見上げる語り手の視線は雲にそそがれているのかな。夕暮れ時の空や雲を見るといまだにしみじみとした感慨をおぼえることがありますが、空間的な広がりと、そのなんともいいがたいような心持ちにつながるものを感じます。 (朱肉の空)

2018-08-21

こんばんは。最近は朝晩いくらか涼しくなって、日中はまだまだ暑さが残るものの、そろそろ夏も終わりかなーなんて思うことがあります。 言葉のリズムもさることながら、それにつれて像が喚起されて、さながらごった返した祭りの様相が目に浮かびます。それとともに、いわゆる「熱い夏」を彩った事柄たちが、熱気のうちに過ぎ去っていくように感じました。 (コンカラ様が通る)

2018-08-20

こんにちは。Twitterで以前に三角定規詩というイベントがあって参加したことがあります。いろんな三角がありました。三角と三角の組み合わせもあった。でも、三角をつくることに意識が行き過ぎて無理な言葉の置き方なっていたり、もはや詩情そっちのけやな、というのも多かった。それに比べるとまとまってはいるかなという感じはします。上りと下りと情緒の変化が合致していて、その辺も行き届いている感がします。ただ、上手ですね、で終わってしまいかねないところはもったいないかな。 (段)

2018-08-21

こんばんは(おはようございます)。数年前に他界した叔母は、長崎の出身でした。それを本人から聞いたのは亡くなる数年前のことでしたが。彼女の話では、長崎では原爆投下の前にビラが撒かれたそうです。大阪大空襲の前にビラが撒かれる場面が、故・今江祥智の児童文学作品(たしか『ぼんぼん』)にあったと思うので、撒いたのは米軍でしょう。非常に大きな爆弾を落とすので逃げるように、というような内容のビラだったそうです。彼女はそれで歩いて山を越えていったと。そして翌日山の上から来た方を見下ろすと……ということでした。幸か不幸か、私は親戚からそうした話を聞くことができたし、子どもの時分には戦争や空襲の話を聞くことができましたが、いまは少なくなっているかもしれません。「語り」は目の前で声や表情、身振り手振りとともに聞き手に伝わって想像を促す力をもっているから、そういった体験を通して知ることができないのは大事なことを失っているように思えて、薄寒さを感じます。些かずれましたが、そのような時代にあって必要な作品だと思いました。 (ラ・ラ・ラ族)

2018-09-20

こんにちは。最初の《月》と最後の《空》、三角にしようとすると、こうなりやすいのですが、詩を壊していると思います。 (月)

2018-08-23

こんにちは。書かれている内容はさっぱりで、ところどころからなんとなくしかイメージできないのですが、それはそれ、たくさんの漢字の並びを見ているだけで楽しめます。漢字ってこうしてみるときれいだなあと。まあ、かなとの比較ができるからなのですが。そして、なんとなく、のなかに混じってくる《ウラジミール・タトリン氏》というカタカナの名前が際立って現実的で、面白さを感じました。こうした作品をこれからもどんどん追究して書いていってほしいし、そうしたらどういうところに行き着くのか楽しみだな、と思います。 (11月、転落する幌附乳母車)

2018-08-23

まりもさま コメント、ありがとうございます。本文(?)の方は、こりゃ如何、いや、こりゃイカン、くらいのひねりもなんもないようなうすーいものになった感丸出しですが、これでもなんと創作というね。まあ、私自身と全く無関係というわけではないけど、遠いところで書いてます。 『メモ』に書いた個人的ないくつかは事実ですが、これを付け加えたことで、ただのポエミーな詩文になるのをかろうじて逃れているような気がします。精進します。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-30

stereotype2085さま コメント、ありがとうございます。読み直してみて、書いた本人が言うのもなんですが、というか、書いた本人の私としては珍しいくらい、どんなことを目指していたかが明快だったことを思い出しました。あー、なるほどー、そうだった、そうだったと。おかげをもって摩擦もひっかかりもないものになっています。お読みいただきありがとうございます。 (晴れた日の唄(および唄に関するメモ))

2018-08-30

こんにちは。顔といわず、手も指もつっこんだらいけませんね。逮捕されます。 (よけいなことに)

2018-09-06

こんにちは。最後の一行にいたるまで、悲しみとも怒りともいいかねるような(この場合は混濁していて言いかねるわけですが)、惨めな感情に貫かれているように感じました。流れている「川」でしたし、軸の「ある」作品だと思います。 (Tender)

2018-09-10

おはようございます。 《何気なく通り過ぎた言葉と/何気なく通り過ぎた風がつついて/忘れていたような景色を思い出すとき》 この三行はなかなか書けないと思いました。特に前の二行とのつながりを使って《忘れていたような~》と書くのは。素晴らしい三行だと思います。内容としては特別なことを語っているわけではないと推測しますが、表現としては、この作品中、特別に素晴らしく感じました。 (飼い主のない猫)

2018-10-15

こんばんは。「そのひと」の素姓は不明のまま、「わたし」によって捉えられた様子だけで語りが進行する。それが「そのひと」の存在にリアリティを与えている。明らかにされないまま、作品が終わってしまうので、「結局そのひと」は何(者)だったのか?という謎が読み手に残される。とても優れた作品と思う。 (家)

2018-10-15

こんばんは。 《枯れ木の連なりから/あ、と言った後の、 /街》 《反射した微かな風が舞う》 とてもよいと思います。 (陰)

2018-10-15

こんばんは。残念ながら今月は間に合いませんでした。が、澤さんの選評と優良まではほぼ似ていますね。右肩さんの作品は、澤さんとは逆でした。最後、時間ない!と思った時も《もうだめだ。》と言わずにおれなかった。まあ、各コメント欄に細々残していくつもりです。笑 それにしても、一旦絞りこんでから選んでいくのはかなりハードでしたね。おかげさまで選評コメント書く暇が足りなくなるという不始末ですわ。そのくらい良品が揃っていました。 (【選評】澤あづさ選2018年08月分)

2018-09-16

「意義」はそのまま読んでよいですか。「異議」と読んだほうがよいですか?私は後者じゃないかなと思うんですが。その方が《リアリティに~》の意味がすんなり通るし、また、こういう「あたし」であるがゆえに、両方の耳をあまがみしたいという謂いも、「あたしらしく」思えます。だって、だって、口はひとつなのに耳はふたつ。現実を認めれば、無理なんですから。そこをあえての両耳。 ところで「あたし」がきいている音楽は音楽という語でたとえられる何かでもある、というふうに受け取りました。なにに触れているんだろうと興味をもった。 詩行にあるように、なかなか、つかまえがたい良品に思います。 (あまがみ)

2018-10-15

こんばんは。四行目の「そして」以降と一~三行目は、「そして」で結ばれる関係ではないですよね。でも、「わけではない」という二度の否定があって否定が強調されているように思えてしまう。こうしたレトリックは村上春樹の小説とかで使われているような気がして、有効ではあるけれど詩的レトリックというほどではないかな、と思います。むしろ、短さと言い切り。これに尽きると思いました。あ、いいですね、と言っております。 (母よ)

2018-10-15

こんばんは。「呼びかけ」のある作品は苦手です。もう、それでもっていかれてしまう。語り手に同化しやすくなるのかな、なんて振り返ったりします。(余談ですが、菅原克己の『マクシム』だったか、あれもヤバかった) 作品のリズムの使い方、これがやはり絶妙ですね。 (きみが、そらにだけみちているから)

2018-10-15

こんばんは。「バリアフリー」とか「タンニン」という語を詩作品のなかに違和感なく持ち込めるところが素晴らしいです。私にゃ無理。笑。叙述のありようがそれを成功させているとは思うのですが、そうなると、この作品で行分けの必要性があったのか、少し気になりました。行分けなしの方がよかったのでは、と。 しかし、「8の字ダンス」と無限大、文字で表されると、なにげに頭ではわかっていることでも、改めて「おお!たしかに!」と再発見の喜びがありますね。 (蜂蜜紅茶)

2018-10-15

こんばんは。最後の二行に優しさを感じたのはわたしだけでしょうかね。「ったくもう、おまえというやつは。笑」みたいな。かわいさ余って憎さ百倍なんていうけれど、愛情の裏返しというか、めでたさが高じて意地悪言ってる感があって、実際は、「胸焼け」してしまうくらいスウィートな気持ちなんだよ、コノヤロー、みたいな。そういうところで考えれば、言葉を発するひとの心の機微がでているともとれます。で、ユーモアを感じます。 ( アップルパイ屋の独り言)

2018-10-31

こんにちは。私みたいなオッサンから見るとずいぶんお若い方なのだろうな、とまず思いました。語尾を「ーんだ」で締められると、そこで抵抗を感じてしまうわけです。もちろん全てのそのような作品についてではないから、「ーんだ」も使いようかなとは思うのですが、もしかすると、この「ーんだ」が、意図せず、この作品を詩たらしめようと「している」のかもしれない、と思いました。つまり、作品の言葉が若さ、新鮮さを感じさせるということです。「分かち合う」などという1980年代ポップシーンで頻繁に聴いて嫌気がさした言葉を、その通りの文脈のなかに置けること。これも、やっぱり私には難しい。この作品の主人公と小杉さんが同一の関係にあるとしたら、その「いま」に溢れているように感じます。そう考えると、ありがちな詩句も雰囲気に流れているようなあたりも、抵抗なく入ってきます。 以上は考えたことです。で、この作品中、目をひいた箇所が一カ所だけあります。 《君のよく通るその声!》。前の行から、いきなりこの一行が入ってくる。ここはとても鮮やかに感じました。語順・音のつながりもピタリでした。 (未来へ)

2018-11-01

こんばんは。《水母の夢想》を水母ではない〈私〉が見ていた、と読んだのですが、そうすると、それはそれで種を超えたシンパシーを感じさせてくれます。ただ、ここは〈私〉に帰着させなくても面白いんじゃないかなとちょっと思いました。 (水母)

2018-11-01

こんばんは。これ、ちょっとわかるような気がします。言葉がボディをもつ瞬間というか、その感覚というか(違ったらすいません)。だから、改めて置く 《“ブレーキ”》のとこ、とても好きです。 (一人合点)

2018-11-01

内容としてわかるし、感じられるものがありますが、幻想の側をもっと強調してもよかったかな、と思います。表現としては推敲の余地はあるもののスマートさを感じます。 (ピアノ)

2018-11-02

こんにちは。最終的にオルガンだけが残されたかのように思えるほど、オルガンの存在感がすごいです。というか、何をコメントすりゃいいのか、考えつかないくらい完璧で腹立つし、うれしい笑。 個人的に、第一連の《路地の奥の小さな家で/オルガンが息をひきとる》の語数とその語数が作り出すリズム、ここは「最も」シビレるし、第三連の《ゆくのだろう》の「の」に感服しました。 (オルガンの死)

2018-10-09

こんばんは。息継ぎしないでどこまで読めるかに挑戦!みたいで、ニヤニヤしながら読みました。起伏も緩急もあって面白いです。 それに(個人的なことですが)この語り口でこの長さでこの切り方、最近は滅法やらなくなりましたが、好きでやっていた頃を思い出しました。笑。 (ゲロ)

2018-11-01

こんにちは。意味を考えなくても読める、というか、読む時の音だけで十分味わえる作品に感じました。 (午睡の刻)

2018-10-09

こんにちは。将棋の対局で、次の一手を考えているのに似た密度のようなものを、行間の空白に感じました。言葉と空白の比率に詩があるように思います。 (秋の赤)

2018-10-22

こんにちは。《散りばめられたビー玉》はどこかしら小さくはないような気がしました。幾ばくかの重みを感じるからでしょうか。 後半四行は安易に過ぎる感が否めませんが、若さが感じられます。 (おはよう)

2018-10-30

こんにちは。全てが白一色で統一されているのに物の形が判然とするのか、まあ、目が慣れたら大丈夫なのかもしれませんが、わたしはそんな部屋に「はじめから居たら」、音を気にするよりもまず、部屋の出口を探しただろうと思います。この主人公は神経質ではあっても、案外タフな精神の持ち主なのかもしれませんね。 ときに時計は見つかったんだろうか、と気になりましたが、見つからない時計の、「音」だけが聞こえるところがミソなのでしょうか。せっかくなら秒針の音も白くしてよかったかもしれません。 (白い部屋の秒針)

2018-10-30

こんばんは。羽田さんのこれまでの作品から読みながら、仏教的なテーマであると推測しました。ひとの生死にかかわる悲痛な状況が書かれているのですが、他方で、死者に集る蝿、蛆に注目しました。死体とそれに集り貪る無数の蛆や蝿の蠢きは、ひとの生死の外側に厳として存在する自然の働きであり、餌場とし解体させることによって、ひともまた自然の秩序のうちにあることを証する。この蛆や蝿といったミクロな存在が浮かびあがらせるマクロ(自然の秩序)な働きを宇宙的なものと見るのは些か拡大解釈になるかもしれませんが、そう考えてみたくなります。そして、それゆえにこそ、ひとにとっては無情であり、悲痛さはいや増すのではありますが、それにとどまらない広がりと奥行きのある作品に感じます。 (蠅)

2018-10-18

こんにちは。小学生の頃に、父親に「なんでお父さんのことをお父さんて言うの?」と訊ねたら「お父さんだからお父さんなんでしょ」と母親に言われて、「そうじゃなくて云々」とがんばってたら、母親にひっぱたかれたことを思い出しました笑。やな子どもだ。 切り換えがはっきりしていて、且つ自然で快いです。 (雑談と「ままならぬ恋の詩」)

2018-10-30

こんばんは。個人的に語尾が気になった箇所がありましたが、詩句の繋がりや構成のよさを感じました。一番好きな箇所は「弱っちく」の「っちく」です。 (癒ゆ)

2018-10-30

こんばんは。すでに書かれているコメントに似ていますが、この作品をたたき台にして書いてみるテもアリかと思います。 (Sunday Afternoon)

2018-10-30

こんにちは。 「カフェーミュージック」の「ー」が面白いです。 (声よ届け)

2018-10-22

こんばんは。なんというか、チャレンジ精神旺盛というか、難しいことやってるな、という印象ですね。これはこれでやっぱりすごいことなんですよ、「現代性」を感じることができる。 現代の言葉を詩に用いることの重要性は、鮎川信夫もそれより若い詩人の(誰だったかは忘れた)作品を挙げて語っているから、さほど目新しいことではないのだけど、それで詩として成功させるのは腕がいる。だから、用いてもわりかし控えめになる。それでいえば、これだけの量を持ち込んだから構成の面で気を遣ったんじゃないかと想像します。 そこに「イイネ」をつけたい気分。 (遺影)

2018-10-30

おはようございます。ボートに乗って川を渡り、無事に岸にたどり着いた感じ。揺れのペースが心地よく感じられました。 (狭い)

2018-10-31

詩というよりは表明とか演説ですね。 (自己紹介)

2018-11-01

とにかくもうがんばってください。 (エール)

2018-11-01

おはようございます。この作品、聴覚的表現が重なるのが気になりますが、そこをうまくクリアしていれば(もしかしたらそうでなくても)三連目だけでもいけたように思います。 (冬の音楽)

2018-11-02

おはようございます。 《切符という音の/うつくしさを理由のすべてとして》という詩行、美しいと私も感じましたが、その前の一行があるからなおさらそう感じることができます。だから《ふたりはふたりぶんの切符を買う》という一行は、さりげないけど素晴らしいです。 それから目立たないけれど《荒れた手》《切れた指》《近眼》という語が、まぼろしにリアリティを与えている。技巧ですね。 言葉の映像美を感じます。 (ill-defined)

2018-11-01

まりも様 こんばんは。コメントありがとうございます。もう付け足したり削ったり、また付け足して削ってでした。一時はたった一行だったりして汗。無駄は極力省いたつもりです。 結果、全体像をつかむのにつかみづらいことになったのは、力のなさですね。 ともあれ、久しく書いていなかったので、エスキースとしてはまずまずに落ち着いたかな、という感じで、今後も精進します。 コメント、改めて感謝します。 (駐車場から)

2018-10-30

オオサカダニケさま 文学のジャンルのなかに詩という形式があるのは知っていましたが、詩にもジャンルがあるんですね。それは厄介だ。まあ、競争相手だのなんだのと言わず楽しく遊べればいいと思っています。遊びもつっこめば楽ではないけど、その分日常の生活や言葉の交換とは別の楽しみが得られるというもので、それがいばらの道なら贅沢ないばらか、さもなくば妄想にすぎないというところでしょう。 詩を書いている人間の99%が私と同じタイプの詩を書こうとしているかどうかはしりませんが、詩を書いている人間の100%が死にます。そして、100%のうちのわずかな作品を残して埋もれてしまう。でも、それでいいんじゃないでしょうか。そうした土塊もつくりながら詩という山がつくられてきたし、これからもそうでしょうから。そうやって望まれる山ができるのは嬉しく楽しいことです。見上げられるのが頂上付近であるにせよ、ままに山登りしたいという物好きもでてくる。そうした人々は知らず土塊であり山の一部である、頂上を支える埋もれた詩作品を足場にしていくのです。 あ、私は「先生」と呼ばれる仕事もしていないし、嫌いなので、今後このような呼び方はご遠慮ください。 (駐車場から)

2018-11-03

完備さま コメント、ありがとうございます。納得しましたし、とても爽快です。これぞ合評形式の投稿サイトの醍醐味。とはいえ、反省がすぐに活かせるかどうかは別の話で。勉強になるなあ! コメント、改めて感謝します、全力で! (駐車場から)

2018-11-03

リズムありきというか、一、二行(七五)、三~六行(八五)のリズムが強すぎて、内容がかすみます。 (不法投棄)

2018-11-01

こんにちは。テレビっていいですよね。私はテレビっ子の漫画好きで来たから、いまでもテレビをみます。最近はビデオ、じゃなくてDVDを借りて観ることが増えました。世の中いろんなことが起きているなぁと思います。それに対してアクションできないんだけど、起きてることは観て知っている。知っていて、アクションできないのはちょっと申し訳ないと思うこともあるけど、生活ありますからねー。ていうか、テレビもネットも社会が求めているから普及したわけで、それで申し訳なさ感じるとか自縄自縛ですね。不買運動したって、もはや批判にもならない。この状況はますます進歩するだろうから、この主人公がそれをどう越えていくかに、10月の八畳さんの作品『遺影』を重ねて思いながら、興味をもちました。 テレビを観ている私(たち家族)を見ている私、という感じ、よいですね。 (テレビジョン)

2018-11-01

一行空きが気になりました。 (詩 第十五)

2018-11-01

《この愛憎で満ちた世界》(という言葉もどうかと思うけど)=《失意の楽園》というのは、すでにわかりきった話で、二度までも繰り返して書く必要があるのかどうか、甚だ疑問ではあります。むしろ、《悪魔の笑い》をどうやって笑い返すか、そこを読みたかった。 (「濁」)

2018-11-01

読んだとき、彼はどこかへ行きたいとして、彼女もどこかへ行きたいんじゃないかなーと思いました。たぶん、通行禁止でも大丈夫なんじゃないか。そういう旅行(トリップ)。 (目的地)

2018-11-02

こんにちは。(たとえばそれは、一九七四年のアミティビルハウス的です、)という箇所に、賢治のとある詩を思い出しました。 《眼の中で世界の波が砕け散るようなこんな夜は、 (夜は、冷たい心臓が空き缶のような音を鳴らしてる) 街灯が道や建物を仄かに青く照らし魚になってゆく。》の一連は特に好きです。 かもめさんの試みの一端を知っている者としては、フォントの大小や色が使用できていたらどんな具合にしただろうということを思い浮かべもしました。 ともかく、いつももう少しで触れることができそうなのに、触れることができなくて、やきもきするというかなんというか、うまいこと言えませんが、それだからこそまた触れようとして近づいてしまうようなところがあります。 例えば、 《でも、そうやって感じた何かを、違和感を、 いまもずっと追いかけてい―――る・・。》という感じで。 (プライヴェートな【 接 触 】)

2018-11-09

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