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テレビジョン
最近ひとんちがそこかしこでぶっ潰れてる。そんなニュースが、うちの薄型テレビの画面にすっぽり収まってて、わたしたちはそれを家族そろって眺めながら、晩ご飯を食べます。きらいな具の入ったお味噌汁、ぐずぐずに潰されたお豆腐の意味が、ミジンも理解できない。父さんは何をしていても深刻な顔をしているし、母さんは何もしていなくても忙しそう。わたしは黙ってスマホを握って、ツイッターを開いたら、やっぱりわりとそこら中からセイサンな状況報告が浮かんできて、そのままわたしのめのまえを流れすぎていく。食事中にスマホを見るのはやめなさい。でも父さん、ぶっ潰れた家のとなりには目撃者たちの住むマンションが建っているから。聞いてるのか? フジサンが見えるくらい巨大なやつが。スマホを置きなさい。お味噌汁なんてぜんぶ流してやりたい。隣のマンションぜんぶがぐずぐずにぶっ潰れたら、うちからもいろいろ見渡せると思うんだけど。 近所のナラセさんとこの娘さん、この後の番組に出るんですって、ご近所じゅうに話してたわよ。そりゃ凄いな、おまえも将来テレビに出られるくらい立派になれよ。そんなこと言われてもね。番組が始まると、ナラセさんとこの名前も知らないお姉さんが、見切れるほどいっぱい集められた水着の女性の中の一人で、際どいポーズで、バランスボール乗ってるのを、父さんも母さんも真面目な顔して見つめてて、わたしなにもかもを横目で見つめながら、なんかもうぐらぐらしてきちゃって、ぎゅっとスマホ握りしめてるのに、祈るみたいに握りしめてるのに、時間がぜんぜん流れなくって、したら父さんが突然、こういうのは空気を少し抜くと乗りやすくなるのかな。って口にしたあと、しまった、みたいな顔して黙っちゃって、母さんは黙ったままで、わたしはぐらぐらで、今すぐきゃーなんて言いながら、笑顔で足開いてすっ転べたほうが、たぶんきっとよかった。 番組が終わっても、わたしたちはずっとテレビを見てる。正確にはずっとテレビのほうを見つめてる。インスタント麺のへんなノリのCMを、家族みんなして黙りこくったままじっと、もうとっくにタイムラインなんか見失っちゃって、画面の中でラーメンが空へぶっ飛んでくのを、見上げることもなく見つめ続けるしかないわたしたち。いつまでもへんな安っぽい枠のなかで、いっつもぐらぐらのくせして、あたりまえに絡みあってて、熱湯イッパツで都合よくフッカツするのを、じっと待ってる。じっと。
テレビジョン ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1289.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-10-31
コメント日時 2018-11-15
項目 | 全期間(2023/09/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
おはようございます。 こどものころに、「新聞に のるような人になりなさい。」と言われて 新聞の上に立ってみたことがあります。「んな意味とは、ちがうわ」と 親につっこみを入れられましたが、新聞には乗るではなく載るという意味なのだと考え直してみたところで、子供のころの私には、新聞に載っている人は悪いことをしたか ただ目立っている人ばかりで たいして立派とは思えず、新聞の上に実際に立ったほうが なにかしら誇らしいと思ったものです。 本作品では、もちろんテレビジョンが題材であり新聞ではありませんが、テレビやネットといった媒体のほうが 顔を実際に合わせている人々よりも強い発言権をもっているかのようなのが今の風潮ですよね。わかるわーと おもいました。 最近ひとんちがそこかしこでぶっ潰れてる。そのようなニュースは 東北で大震災があって以来、とくに今年の場合は、異常な気象でしたので 実際にテレビを通して「最近ひとんちがそこかしこでぶっ潰れてる」ニュースを目の当たりにしました。しかし、豆腐のくずくずのほうが よほどリアルでした。テレビに出ている人をみていた詩中の父さんが突然、「こういうのは空気を少し抜くと乗りやすくなるの」かと作者は言わせておられますが、そりあ.そうです。バランスボールは すこし空気をぬくと安定する、ふあんていに ゆれされているテレビジョンというバランスボールの上に居るかのような心を心のそのままに この詩は書かれている。 テレビだのマスメディアだの スマホだの、これらは他人の視点を編集して映し出されているぶよぶよのバランスボールです。わたしは、新聞紙の上に乗るような素直なアホで居たいなと 思いました。 他人のだれかが つくりだしたバランスボールで ただただ揺らされているではなく、 自分の目で自分の体で風にあたって、立ちたい。そして 走りたい。という気に個人的には なりました。 よしっ。わたしは、走ります!
0拝見しました。 テレビを軸にして回り続ける主人公の周囲の人や自身の生活を、リアリティに、冷静に見つめている様が独特です。主人公自身のことはあまり書かれず、主に周囲の人々を通して主人公が思ったことを詩に乗せて語るその状況はまさしく「俯瞰」、いい詩だと思いました。
0俯瞰、のカギカッコはいらなかったですね、訂正します。
0こんにちは。テレビっていいですよね。私はテレビっ子の漫画好きで来たから、いまでもテレビをみます。最近はビデオ、じゃなくてDVDを借りて観ることが増えました。世の中いろんなことが起きているなぁと思います。それに対してアクションできないんだけど、起きてることは観て知っている。知っていて、アクションできないのはちょっと申し訳ないと思うこともあるけど、生活ありますからねー。ていうか、テレビもネットも社会が求めているから普及したわけで、それで申し訳なさ感じるとか自縄自縛ですね。不買運動したって、もはや批判にもならない。この状況はますます進歩するだろうから、この主人公がそれをどう越えていくかに、10月の八畳さんの作品『遺影』を重ねて思いながら、興味をもちました。 テレビを観ている私(たち家族)を見ている私、という感じ、よいですね。
0>るるりら さん ありがとうございます! 細かいところまで汲んでいただいてとっても嬉しいです。ちいさな子が目の前でそんなキュート&ウィットに富んだ行動をみせてくれたらもうこの世の始まりです。はなまる1000個はあげたくなっちゃいますね。新聞に載る人の内容は、一度ほぼ同じような内容で書き加えて消したので、コメントで人から貰えるとやっぱり直接書かなくてよかったなと思えました。僕も、よしっ。したくなります。 >ふじりゅう さん ありがとうございます! 俯瞰、たしかに構造的にもばっちしぴったりでしたね。実のところあまり考えないとこの書き方になってしまうヤローので気付きませんでした。笑。 >藤 一紀 さん ありがとうございます! 僕自身は生活のリズム的に割と見ないほうで、放送時間に縛られない動画の視聴ばかりになっているんですよね。昔ビデオレンタルって結構安かったのに近所にTSUTAYAしかなくなってからめっちゃ高いってのもあります。テレビの時計としての役割が動画にはないのでそこらへん実に感慨深いです。
0全体として一定の完成度に達していることは自明なのですが, 最初の二段落はあまり良いと思いませんでした. 特に二段落目の, ダラダラと怠惰な文体に毎度のことながら辟易します. 例えば二段落目を「たぶんきっとよかった」で締めましたが, この締め方に尋常ではない既視感を覚えるのは私だけでしょうか. 最後の段落を私は, インスタントラーメンと家族の間に似た部分を見出しているのだと読み, (気の利いた褒め言葉が見当たらなくて申し訳ないのですが)新鮮で良いと思いました. そして最後の段落を輝かせるために最初の二段落があったと思えば, その意味では最初の二段落にも一定の価値があるわけですが, 逆に言えば最終段落のためだけに最初の(長い)二段落があったのであれば, やはり分量対効果に問題があると言わざるをえません. 最後に付け加えると, テーマやそのテーマの掘り下げ方という視点に立つと, 率直に言って大したことはやれていないのではないかとも思わされました. 家族について書いてあるのに, 実質的には作中主体の独白でしかないわけです. 家族についての深い問題意識を持って書かれた作品, には少なくとも私には見えません, もちろんそのようなものが詩を書く際に必要かと言われると否ですが, 何と言いますか, この作品に対して私が覚える「物足りなさ」の根源に, 詩としては読めるがテーマの掘り下げが足りない, ということがあるのかもしれません. あまりうまく言語化できず, 申し訳ないです.
0家庭の崩壊という難しいテーマですが、引きこまれながらもするする読めました。バランスボールは家族関係の微妙なバランスの比喩とかなんでしょうか。そこで父親の少し空気を抜くという提案、なんだか意味深に思えました。私自身自分の家庭に思うところがたくさんあるので、沸騰を待つという表現にある、他人任せなハッピーエンドやいっそ崩壊のようなものをどこかで望んでしまう人間の弱さみたいなのはよく伝わってきました。私はとても好きです。
0沸騰を待つという表現ではなかったです 意訳です すみません
0>完備 さん ありがとうございます! 具体的に批評、ダメ出しを貰えてめちゃくちゃ嬉しいです。正直なところぼくもこの詩はガワのテーマの選択があまりにも強すぎ、その裏でやりたかったことは霞みきってしまったような気かしていました。というか成功していたとしてもかなり僕得でしかないものだったと思います。そういう意味ではちょっと扱いきれなかったことを実感させていただき、本当に大変すっきりしました。 鬱海 さん >ありがとうございます! とても軽薄で狭い視野や思考を持つ主人公を描くのが好きです。もしかすると僕は、こういったものを描いて、詩作品に閉じ込めて、そして置き去りにし、他者に読んでいただくことで、「トカゲの尻尾切り」のように、僕自身はさらに軽薄に逃げているのかもしれないな。なんて思います。
0語られているはずの対象が少しずつずれて違うものにすり替わっていく感じがとても好きだなと思いました。ただ、この書き方でこの分量ならばもう少しどこか予測のつかない着地点に〈ぶっ飛んでく〉のを期待してしまうなあと、最終連のCMってどんなかなと想像しながら考えていました(10年テレビなし生活の人)。そして、それがどうしてもできないんだよなーってなことを言いたい詩なんじゃないかなあと、勝手に思ってみたりしました。〈笑顔で足開いてすっ転〉ぶのって、できる人には簡単にできるけど、できない人には相当な思い切りが必要なんですよねえ(遠い目)。
0>こうだたけみ さん ありがとうございます! 作中の「わたし」も本当の本当はもっとぶっ飛んでいきたいのだと思います。しかしザンネンなことに彼女はここ止まりでした。僕は幸せな嘘がつけないイタコなのです。そして実のところ僕もそこまでテレビを観ないほうですので、書いたあとになんだか観たような気がするな程度だったのですが、よく考えたらヤキソバンだって宇宙人でしたので、きっと僕の愛するラーメンたちならやってくれてます。
0<…> 枠、という観点からみたら、面白いと思うのですよね、この話。 ということで、ゼンメツさんこんにちは。ビーレビのみなさんお久しぶりです。 さて。 この作品にはいろいろな枠が登場します。 テレビジョン、テレビ、味噌汁、スマホ、あ、あとインスタント麺(の器のふち) どうでもいいんですけどね。あ、カタカナが多いってのは、みなさんにまかせます。って、そういう指摘されていらっしゃる方がいないっていうもの興味深いですね。世代かしらん。 わたしは詩は恥の発見によって生まれる、と考えています。 異論反論もちろん認めますし、これはかなり暴論なんで、スルーしてくださっても構いません。 で。 恥、とは社会規範から外れること。 社会規範はたとえば枠、といってもいいかもしれません。 認識の枠と枠をすり合わせて社会は成り立っていて、その枠を外れないように外れないように私達は生きているわけですが、他者の枠がずれている、もしかしたら自分の枠もずれているんじゃないか、という幻想を持つわけです。 もちろん、枠、というのも幻想なんですが、コンプレックスっていうのも、もしかするとそこから生まれてくるのかもしれませんね。社会病理の原点は恥にある、というのはさらに暴論ですが。 そんなわけで、ゼンメツさんのこの詩は社会の最小単位である家族における枠の軋みを表現しているのではないか、と読みました。 とても現代的な主題で、興味深く読ませていただきました。 文体に関しては、好き嫌いがありますのでなんとも言えませんが(わたしは大好きです)、もっと最後、軽薄になっても良かったのではないか、と思います。 ゼンメツさんの作品はレトリックに満ちていて楽しいのですが、感傷の塊という甘い蜜菓子のようでもあります。そこをもう少し突き放すことができたら、あるいは違う地平が見えてくるのかもしれません。けっして悪いことではありませんが。 というわけで、以下に拙い読書ノートを晒しておきます。 お目汚し、失礼しました。 ************** 【一連】 ・「わたしたちはそれを家族そろって眺めながら、晩ご飯を食べます。」ここの句読点が面白い。「眺める」という行為と「晩ご飯を食べ」るという行為が「、」の一呼吸を置くことによって対照的あるいは決意を伴った行為として読める。 ・「ミジンも理解できない」は「ひとんちがそこかしこでぶっ壊れている」のを「ぐずぐずに潰されたお豆腐」に連結する素敵なイメージ。ミジン=微塵の語意を通して、テレビとお味噌汁(家庭)の共通点の発見を行っている。この詩的発見により、物語(?)が進行していくという宣言として読める。 ・「お味噌汁なんてぜんぶ流してやりたい。」崩壊していく家庭という社会のありかたの象徴。流したあとは空っぽになる。なることをうっすら考えているが、現実的には捉えていない。 ・「隣のマンションぜんぶがぐずぐずにぶっ潰れたら、うちからもいろいろ見渡せると思うんだけど。」事象をライトに捉える、現代的思考の発露。上記と合わせて、いろいろ阻害している各個人の持つ枠の崩壊を望む。お味噌汁のイメージと重複させての連続的打撃。 ・他者性に囲まれた社会。家庭もその縮図として提示する。 【2連】 ・「おまえも将来テレビに出られるくらい立派になれよ。そんなこと言われてもね。」社会認識のギャップ ・「なんかもうぐらぐらしてきちゃって、」の起因要素は「父さんも母さんも真面目な顔して見つめてて」であり、齟齬による社会認識は「ぐらぐら」と潰れる起因にもつながる。二重の示唆。 ・「ぎゅっとスマホ握りしめてるのに、祈るみたいに握りしめてるのに、」外的要員=社会との連続性を伝えるものを神格化している様子。 【3連】 ・「正確にはずっとテレビのほうを見つめてる。」同じ方向を見ているが同じものを見ていない。 ・味噌汁という手製の家族的要素の象徴から、インスタント麺、即席のものに救いを求めるのは興味深い。叶わないことをしって願う、あるいは願うことすら様式的に繰り返されているのかもしれない。 ・「、じっと待ってる。じっと。」の句読点は文頭の句読点と同じ役割を果たす。叶わないことを知っていながら、もしかしたら、というファンタジーに現実を委ねているのだ。 【タイトルについて及び総括】 ・「テレビ」ではなく「テレビジョン」とすることにより、普段遣いしない言葉として距離を置くことができる。(テレ自体が距離を表す冠詞であることと無縁ではない?→枠目線ではなく、距離感目線で読んだ方が面白かったかもしれない笑) ・一枚のフィルターを挟むような現実認識のうち、互いが互いの世界を独自に行きているその軋轢を感じることはできるのだが、そこにに確かに息づく実存性をもう少し露出して欲しかった。そこにもう一歩踏み込むことで、作中話者を通じたこの文章全体のシステムが機能し、共感することができたのではないか。 →報告文、観察日記のようで、詩的感興に乏しく感じた。 →散文的なレトリックが鼻につく感じがする。量を減らすか、もう少し埋没させたほうが、この文量にとっては良いのではないか
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