白い棟 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

はずしわすれた風鈴が鳴る

やさしくせつない短歌集

かたづけられない想い出、それでもめぐりくる季節——

沙一

春風に吹かれてる

だいじょうぶだあ

《なんてこたあ ないんだよ》 天国から呼びかける声が、聴こえる。

stereotype2085

狂気、ファック、バイ、そし……

自由 暴力 そして 輝き

虹がある。 邂逅と官能、詩。  現場からでした。

湯煙

永遠の反射

名作?それともただの習作?

ただの習作なのかもしれない。が、ここには作者当人も気付いていないかもしれない、天才がいる。俺の直観は当たるんだよ。人生で二回くらいは。

石村利勝

こんにちは まっさらな世界

「まっさら」の優れた表現

あなたの世界も「まっさら」ではないかな? 「まっさら」なのに、書けますか?

南雲 安晴

imagine

パンチング。

今からリーディング界隈を、ノックアウト。

stereotype2085

大人

ただ  納豆  は苦手

生き返る、 笑いながら、 台所で、 さばかれるキミ、さあ、明日から食わず嫌いはやめよう。

湯煙

はっかといちご

詩における視覚要素の決定版

いわゆる視覚詩的なものは作ろうとするとパッと見の奇抜さで満足してしまい、それを行った理由に乏しくなってしまうことが往々にある。しかし「はっかといちご」はその域を超え、結晶の造形だからそこの効果を成せている。

渡辺八畳

独言少女

いつも終電に間に合う人生生きてますか

少女の独言は胸に刺さる。というか萌える。条件があって、少女は本当に少女でなくてはならず独言は本当に独言でなくてはならない。なのでこの詩は刺さるし萌える。

石村利勝

MY 9090 OF NO……

最先端ノスタルジア

なつかしみが 超えてゆく 未来という名のノスタルジイ 

真清水るる

骸骨スフィア

プラトニックな求愛の舞踏

ほろびたゆえに、もうほろびることのない、永遠の愛。それは、幸せか、囚われか——

沙一

人魚性

海、たましいの故郷

素直さゆえに、なじめない人間のせかいにたいする、異邦のかんかく——

沙一

宇宙飛行士の解剖

死因は、孤独

二重の夜に、追い詰められた、かれは、涯のない闇のなか、吊るされた——

沙一

家庭の檄文

悲運

そこには笑顔の絶えない、家庭があった。

stereotype2085

あす

ミのシャープはファ

「ミのシャープ/響かせる笹舟にのせて/送り出してみる」って、やりますねえ。ひねりが利いてて鮮やか軽やか、清新なリリシズム。これぞ令和の”もののあはれ”じゃないですか?

石村利勝

ヘビと戦う

家に蛇は、居つくことがある。

子どもの頃、蛇は家を守るから 粗末にしてはいけないと、聴きました。 なるほど、そういうことか。

真清水るる

バナナはおやつに入りますか

たもつワールド全開

これはバナナですか いいえ詩です たもつザ・ワールドです

羽田恭

TOKYO

不良天使の幻像

広大さと、小さなもの、神聖さと、世俗的なものの、コントラストに富んだミニチュア——

沙一

風景を食む

我々も本作の出来に食まれていく

この良さは読まぬと分からぬが、読むと確実に心が仕留められる。独特の風景の描写は人の記述がないからこそ冷涼な空気を作り出す。

ふじりゅう

失踪

現代詩が現代であることを実感できる

古風な詩作品から一線を画した作風に我々は驚く。

ふじりゅう

お別れの挨拶

&氏による待望の一作

ロシヤ、という響きの不思議さに、貴方はもう逃れられない。。。

ふじりゅう

フィラデルフィアの夜に Ⅻ

フィラデルフィアシリーズ最新作!

羽田氏のフィラデルフィアシリーズ最新作が公開された。その完成度には毎度驚かされるばかりだ。

ふじりゅう

この作品は読んだことがありません。


白い棟    

かがやく白い棟の群れで また 誰にも看取られぬ朝が来た ベランダで座ったあと ぼくはひどく浅く目をつぶる そして幼いころ遊んでいたはずだった 瞼の裏の残像を何度もやり直すうちに いびつな記憶は雨の匂いを連れて 白昼夢の方へと走っていった (みずうみの いちばんふかいところへ   あおむけでしずんでいった おとこのこや、    紫の首筋がかわいい、白い肌の女子中学生と、     屋上で静かに、静かに話をした) (はじめて見る雲の色がやけに気になったが、 眼下には電線がひしめき合って 空を飛ぶことはできなかった) 果たしてぼくは罰されるべきなのか そうでなくてもいずれ五感から 崩れ落ちるという予感 それに何度も立ち向かうため  すべての神経はいきり立ち 他でもないここへと 確かにぼくを連れ戻してきたが 息を止めすぎたみたいだ 下を向いてしまう それは夜のせいではなくて ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから いつの間にか下着までびしょぬれで 体育座りのままぼくは倒れこむ そう 苦しみを分かつことは 昔から得意なんだ もう肌に 何も感じなくなった 頬を穿つはずの雨粒さえも ただ  いつまでも止まないことは知っていた 不感さえも幸せのひとつになりうるのだろうか? 遠くなる耳で聞きたかったのは 変わりない雨の音じゃなくて あの話の続きだったのに 血液の流れがやがて水の音になり 増えも減りもしないアパートの隅で ぼくはゆっくりと排水される


作成日時 2019-10-01
コメント日時 2019-11-07

白い棟 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 13
P V 数 : 2271.8
お気に入り数: 0
ポイント数 : 67
#テキスト #アドバイス募集
項目全期間(2020/04/07現在)投稿後10日間
叙情性2517
前衛性20
可読性55
エンタメ00
技巧1513
音韻88
構成129
総合ポイント6752
 平均値  中央値 
叙情性3.62
前衛性0.30
可読性0.70
 エンタメ00
技巧2.11
音韻1.10
構成1.70
総合9.65
閲覧指数:2271.8
2020/04/07 21時23分13秒現在
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白い棟 コメントセクション


コメント数(13)
survof (2019-10-05):

優れた作品の尺度のひとつに、そこに人間のリアリティーがあるのか、というものをあげる人も多いと思うが、この作品はまさにそんな作品なのではないかと思う。それゆえに、作品を作品として作者から切り取って作品の内容に対して何かしらコメントするということに、どこか一人の人間の良さを言葉に並べ立てるときの白々しさや、その人間の欠点をあげつらう時の傲慢さというのが入り込んできてしまいそうな気がして、なかなか俯瞰してコメントするのが難しい。かといって下手に共感するのも憚られる。ひとがその内奥を何かしらの形で吐露したときに聞き手が「なんか、それわかる気がするよ」といっていいのはわりと限られたケースではないだろうか。 悪く言えば、作品と作者の距離が近すぎる、あるいは近すぎるような印象を与える形で書かれているので、個人的にはそこにもっと俯瞰した距離が欲しくなる。これは私の物語でもある、私の感情でもあるのだ、と多少なりとも読者に感じさせることができてこそ、感情の共有というのは可能だと思うからだ。 あるいはこの作品に対して、非常な共感をもつ読者というのもおそらくいるのだと思う。そうした読者だけに伝わればよい、というのもひとつの創作のあり方で、その場合、私はそこまで深い共感を持たなかったと言う意味でこの作品の適切な読者ではないのだろう。それでもやはりこれだけ緊密で緊張感がある魅力的な言葉が並べられているのだ。自分はこの作品にしてみれば仲間はずれかもしれない、と感じられしまうのはやはりとても歯痒い。

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鈴木歯車 (2019-10-06):

survofさん、「コメントするのが難しい」としているにもかかわらず、批評ありがとうございます。意見には同意です。 >作品と作者の距離が近すぎる >個人的にはそこにもっと俯瞰した距離が欲しくなる というのは、最近の自分が直面している課題です。こういう作品って作者の人間性が見えるから、ただ読んで共感するならいいけれど、そっからもう一歩踏み込んで、作品のみを切り取って批評するとなると、下手すればその人間性までいたずらにひっぺがすことになってしまいますから。 そんな作品を書かないようにする方法は、自我から離れるか、自我そのものを薄めるしか無いわけです。 不思議ですね。言葉でできた詩を、なぜか別の言葉が邪魔をすることがあるわけです。

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つつみつつみ(2019-10-09):

個人的な感想です。感じたままにコメントしますね。 かがやく白い棟、とは、学校、団地、病院などを想像させました。最後まで読むとアパートのことだったのか、わからないのですが、「かがやく」と最初にかかれていることが、私にとって魅力的でした。 殺人とか自殺をテーマにしているのか、そうだとしたら、死というワードが1つもないのに、私の心の中にここまで死の風景しか浮かばないのは、とても不思議です。 >(みずうみの いちばんふかいところへ   >あおむけでしずんでいった おとこのこや、    >紫の首筋がかわいい、白い肌の女子中学生と、     >屋上で静かに、静かに話をした) おとこのこや女子中学生を殺してしまった「ぼく」はとても孤独を感じている。 >それに何度も立ち向かうため  >すべての神経はいきり立ち >他でもないここへと >確かにぼくを連れ戻してきたが 殺人現場を離れ、なんとかこのアパートに帰ってきたけど、体育座りのまま倒れたのは、何かしら自殺を図ったのか。ドクドクと流れる血が雨と共にアパートの隅で排水されていくイメージ。 死ぬ死ぬいってすみません!違ったら申し訳ないです。 このような風景を想像しました。

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夢うつつ (2019-10-09):

すごく、何だろう、逃げ場の無さと、ひりつくような冷たさを感じて、良い詩だと思います。 ただ、自分にはそこまでしか感じられませんでした。「この先にも何かありそうなのに〜!」としばらく読んでいるのですが、中々感じられません。夜の冷たさに押し潰されるようで、胸苦しくなりました。 私は、「ぼく」の変化に、ついていけなかったのかなあと思います。例えば、( )で綴られている部分と、その後の文の上手い噛み合いをあまり感じることができませんでした。( )の部分は、空白などの使い方がすごくお上手で、 > 眼下には電線がひしめき合って  空を飛ぶことはできなかった) で、上手く着地の準備もできているように思ったのですが、そこから、 > 果たしてぼくは罰されるべきなのか という、自閉的で、かなりセンチメンタルな言葉が出てきて、少し違和感を覚えてしまいました。分かりません。ただ単に、私に合わなかっただけで、そこから「ぼく」の心情にグッと引き込まれる方もいるのかもしれません。ただ、私にはそれをうまく感じることはできませんでした。好きな詩です。

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鈴木歯車 (2019-10-10):

つつみさん、ありがとうございます。 風景が違っててもいいのです。 夢うつつさん、ありがとうございます。 自閉的というのは、やはり作者と作品の距離が近すぎるということでもあるでしょう。

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つむぎ (2019-10-12):

ことり、と、どこまでも落ちていってしまいそうな儚さとともに、自閉的なところでの、なにかしらの目覚めまでかんじてしまうような、こころをえがいた詩なのでしょう。こころのすみっこで、耐えぬいてきたうぶな感情がみえます。この詩の生きづらさを知っているとは、はっきりといえないのですが、どこか、わたしもみたことのある風景だとかんじ、なぜだか、泪がでそうです。

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鈴木歯車 (2019-10-13):

つむぎさん、コメントありがとうございます。

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果凜果凜(2019-10-13):

美しい死の情景を思い描きました 白昼夢の中の寡黙な死体たちの唄のようだと感じました

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鈴木歯車 (2019-10-14):

果凛さん、コメントありがとうございます。

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藤 一紀 (2019-10-17):

 どこでどんなふうに生きづらさを感じるようになるのか。それは人それぞれだけれども、生きづらさを感じながらも、なんとかかんとか折り合いをつけて先に進むという仕方を、これまた人それぞれに身につけて生きているんじゃないかと思います。もちろん生きづらさなど微塵も感じないでスイスイ渡っているような人もいます。どっちがいいとか悪いとかではなくて、これはもうとにかくそういうもんだという話です。  で、この作品の「ぼく」はというと、そのどちらでもなく、なかなか折り合いをつけられない。よく言えば純粋で自分に正直なんでしょう。そして、悪く言えば十分に社会化されていない。だから恐らく、毎晩とは言わなくても朝が来るまで外を眺めて眠れない夜を過ごしているんじゃないかと思います。  なにげに夜と書いたけれど、夜という言葉を朝が来るまでの時間である(A)と同時に、象徴的な死と再生の時間である(B)と考えてみます。  とすると、朝が来ても、再生──とりあえず、折り合いなり踏ん切りなりをつけて生きる方へ一歩踏み出す、ということにしてみる──を遂げられていなければ、時間的(A)には朝だとしても、もう一方(B)では夜がつづいていることになります。  だからなんだってことはないのですが、このまだるっこしい喩えで何が言いたいかというと、〈夜ー朝〉というのは、通過儀礼(イニシエーション=死と再生)のプロセスの謂いであって、これを通過しながら人は個人としても成長をしていくのだけど、うまく通過できない人も少なくないということをちょっと言いたかったんですね。  で、「ぼく」は(何らかの阻害要因があったために)うまく通過できずに、現在大変な生きづらさを抱きつつ生きている感じがとても強いということがまず一つあります。  それから、主に思春期は子どもから大人になるためのイニシエーションがなされる時期でもあって、様々な問題に直面したり無意識的に遭遇したりするのだけど、深刻さが増した場合、象徴的な死ではなく、実際的な死につながることがあるということ。  で、この作品のなかでの「おとこのこ」や「女子中学生」は、どうやら大人になる手前でそれを果たせずに死の側を選んでしまったような印象を受けるのがもう一つあります。  この二つをもって考えてみると、「ぼく」と、白昼夢のなかでの「おとこのこ」「女子中学生」は親和性をもってつながってくるように思います。 (みずうみの いちばんふかいところへ   あおむけでしずんでいった おとこのこや、    紫の首筋がかわいい、白い肌の女子中学生と、     屋上で静かに、静かに話をした)  以上の白昼夢の場面での「静かに、静かに話をした」という箇所の、それまでの語りにはない、温かく穏やかなトーンが、彼らとの親和性をよく表していると思います。    ついでなので、ここで、白昼夢に至るまでの少しの詩行を見てみます。 >そして幼いころ遊んでいたはずだった >瞼の裏の残像を何度もやり直すうちに >いびつな記憶は雨の匂いを連れて >白昼夢の方へと走っていった  まず「幼いころ遊んでいたはずだった」と記憶はあるのだけど不鮮明であることが語られます。  次に、「瞼の裏の残像」について触れられています。けれども記憶が不鮮明なら、残像も曖昧かもしれない。とすると、何度かやり直さなければならない。この「やり直し」を経て、歪められた結果、次行の「いびつな記憶」となるのかもしれません。  しかしここで、私は別の考え方をとってみたいと思います。すなわち「いびつな」と表されるほどに直視したくない、嫌悪する記憶があり、そのために残像としても記憶としても曖昧にぼかされている、という解釈です。だから、何度もやり直さなければならない、と。  さて、このような解釈は解釈として、ここまでのほぼ二行で得られることは、「ぼく」が記憶(のなかの残像)を、繰り返し(何度も)、「やり直す」運動があるということです。「ぼく」が主となって、従であるところの記憶(残像)を動かそうとしている。「そのうちに」それが、 《いびつな記憶は雨の匂いを連れて/白昼夢の方へと走っていった》となる。思い切り縮めると「記憶が走っていった」ということです。  愚かを承知で至極当然のことを言うと「記憶」が走るわけがないのに、ここでは「記憶が走っていった」と書かれている。単に擬人化といえばそれまでですが。  しかし、読み直してみると、それまでの「ぼく」の記憶(のなかの残像)に対する介入があるわけです。そして、そんな「ぼく」の介入を、記憶自らがあたかも意志と体をもったかのように(自律的にとでも言うべきか)、引き離して白昼夢の方へパーッと動く。向かっていく。それが「走っていった」ということです。  この「動き」が言葉によって表されており、言葉でしかない「走っていった」の動きを読み手である私がありありと感じた。ここに詩の成立を見ます。  こうして見てくると、「やり直す」や「目をつぶる」などの動詞も効果的に使われていることがわかる。  ところで、白昼夢の場面では、  眼下には電線がひしめき合って  空を飛ぶことはできなかった) とあるのですが、この二行は「屋上」でされている語らいに引き起こされた死の誘惑から逃れていることを思わせます。但し、それは積極的な拒絶とまではいかない。というのは、これは 《すべての神経はいきり立ち》とあるように体の反応だから。  前後しますが、《果たしてぼくは罰されるべきなのか》というのは、恐らく、白昼夢に釣られて死を選べなかった(飛べなかった)ことに対するものであり、そのあとには「きっとそうなのだ」のような答え──自問自答がある。だから、《そうでなくてもいずれ五感から/崩れ落ちるという予感》がくる。それに抗うために体が全力で反応をしたのでしょう。それで、《他でもないここへと/確かにぼくを連れ戻してきた》と返(還)ってくる。  「ここ」とは生きている現在であり、「ベランダ」です。「五感から崩れ落ち」ればベランダの外に落ちるでしょう。ところが意識がぼんやりしている以上、体(全神経)の方がいきり立つしかない。 それでもなお《下を向いてしまう/それは夜のせいではなくて/ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから》とあるのは、やはり生きづらさの耐え難さから逃れたくもあるし、「屋上の少年少女たち」(=死)との親和が尾を引いているのもあるように思います。  この場合、「下」とはベランダ外の地上でしょう。そして、「ひとりぼっちの教室を思い出してしまったから」の「思い出してしまった」にかかるのは「いびつな記憶」ではないか。ほとんど朦朧としている意識のなかで、「ひとりぼっち」でいた教室の孤独や周囲から見放された恐怖、その「いびつな記憶」を、はっきりと思い出してしまったとしたら、体が生きる方へ連れ戻したとはいえ、白昼夢の温かさも手伝って、下を向きたくなることはありえると思います。 けれども、死を選べないから《体育座りのままぼくは倒れこむ》しかない。やるせないといえば、やるせないですね。そして《そう 苦しみを分かつことは/昔から得意なんだ》は、「ぼく」が「昔から苦しんできた」ことの形を変えた告白でもあるのでしょう。それは周囲にうまく溶け込むことができず、孤独で、生きづらさを感じつづけてきたことを表しているのかもしれません。 >遠くなる耳で聞きたかったのは >変わりない雨の音じゃなくて >あの話の続きだったのに のに、それは叶わないようだということを「ぼく」は気づいている。そして、《血液の流れがやがて水の音になり/増えも減りもしないアパートの隅で/ぼくはゆっくりと排水される》と結ばれます。「ぼく」の意識も「あの話」も体の感覚も一切合切が雨音のなかで水になって「排水」される。人と「排水」とが結ばれることの気持ち悪さが、ここでは、この世界に要らぬものとして、此処ではない何処かへ排出されていくのに身をまかせたい「ぼく」のリアリティになっているようで、いたたまれない気分になります。  ここで触れておきたいのは、冒頭の、 >かがやく白い棟の群れで >また 誰にも看取られぬ朝が来た です。「ぼく」は、既に「誰にも看取られぬ朝」を過去に見ています(だから「また」なのですが)。そして、「誰にも看取られぬ朝」と「ぼく」が見るのは、これまで書いてきたような、「『ひとりぼっち』でいた教室の孤独や周囲から見放された恐怖、その『いびつな記憶』」に「昔から苦しんできた」ことの反映であるかもしれません。「ぼく」はベランダで夜を見つめ、眠らずに、そのような朝が明るい街(都市)──白い棟の群れ──に訪れるのを見てきたのではないかと想像します。朝は必ず、また誰にとっても、明るいものであるとは限らないのです。このかがやきと暗澹とした苦渋の対比が冷たく痛々しい美しさで現れているように思います。 長々と書いてきましたが、これは多分に誤読があると思います。しかし、構成も使われる言葉もわかりやすく、作者の表したいことがそのままでているような、誤読のしようがない、読みやすい作品に比べれば、誤読ができる作品であることは嬉しく思います。あっさり読めて、誰にも書ける、効率的な作品、ひいては読み返されることもなく忘れられる多くの作品に比べると、誤読可能性の高い作品ほど読み手に参加を要請します。そして、この作品は強制的に参加させる魅力をもっていると考えます。 長文、失礼しました。

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ふじりゅう (2019-10-18):

良い作品です。 最後の描写や全体に漂うムードから、やはり「死」を思わせられはしますが、どうも本作においてそこは重要ではない気がしてなりません。最後主人公がどうなったのかは隠喩によってぼかされている。その時点で、主題がそこではないのではないか、という所からスタートしました。 本作で引っ掛かったのは「記憶」です。冒頭から主人公は記憶をやり直している。後半、教室で一人の光景が登場しますがこれも「記憶」。これらはいわば両極端であり、過去の出来事が主人公の、心ここにあらずといったような心情を生み出していると考えられます。 >果たしてぼくは罰されるべきなのか 要は、主人公は少なくとも罪悪感があるということだろうと考えられます。そして、さりげなく書かれてありますが「紫の首筋」てなんかおかしい。首筋って紫では決してないですよね。 1.初めて見る雲の色が映っている、もしくは夕焼けに染まった描写。 2.病気や痣的な何か。 まあ、このどちらかかと思われます。 さて、ここまで書いておきながら、これ以上は進めないのです。本作に書かれている重要な情報を拾っていっても、結局それがなんなのかつかめない。ということは、断片的な主人公の記憶を頼りに、そこからの創造を読者にゆだねられた作品であるのだと考えました。 これが本作の最大の魅力かと思うのですが、他方、それこそが弱点という見方も出来る気がします。作品から読み取れる情報が非常に緻密に隠されているからこそ、一読して先に進めないかもという感覚がしました。

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渡辺八畳 (2019-11-05):

まず、前半は「白い棟」「浅く目をつぶる」「瞼の裏の残像」「紫の首筋」「白い肌」「雲の色」と、視覚や目に関係してくる描写がいくつも見られる。 そうやって舞台設定をしっかり示した後、 >果たしてぼくは罰されるべきなのか からは詩中主体の内面へ一気にフォーカスが当たる。また以降現れる表現も前半のように視覚ではなく、「もう肌に 何も感じなくなった」「変わりない雨の音」のよう触覚や聴覚である。 この詩は上記のような構造が上手だ。 survof氏は「作品と作者の距離が近すぎる」と述べているが、私は前半の視覚部分によってその距離がむしろ遠ざけられていると感じた。 この詩が主体の内面描写、言ってしまえば主体の自分が語りである「果たしてぼくは罰されるべきなのか」からはじまっていたら、使われている語句がいくらか高尚なだけで蔑称としての「ポエム」になっていたかもしれない。 舞台設定、視覚的描写はいわば作品からの自己紹介。この詩はこういう場にて語られる作品ですよ~、って。作品と読者は常に初対面だからこそ、はじめに丁寧に外堀(=詩の設定・世界観)を埋めていき、読者をかっちりと捉えてから核心部分へと至らせる必要がある。「ポエム」はそれができておらず、いきなり核心をそのまんまに語ってしまうから、「いやお前の独白なんて知らねぇよ」って読者に逃げられてしまう。その点この作品は外堀の埋め方が上手だ。じわじわと描写していき、読者に読み進めさせ、後戻りできないところまで追いつめてから詩中主体の内面描写へと突き落としている。

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エイクピア (2019-11-07):

構造的な均衡など、詩の建物が鉄筋コンクリートであるような、ぼくの下着がびしょぬれなのは詩が発情しているほどに、何かとインターコースしていると確信しました。

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