某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉 - B-REVIEW
新規登録
ログイン
PICK UP - REVIEW

十月

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

真清水るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

死んだベテルギウス

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

七月の雨

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow

桃太郎の神殿

幻想的な具体、具体的な幻想

時刻、刻々、刻むということは生きるということである。生きる、生まれる、死を予感する全ての事象が望む新たな幻想、書かれるべき詩、読まれるべき詩がここにある。

狂詩人

優しい人が好き

淡くうかびあがる差異のせつなさ

自分にとって「優しい人」と他者にとって「優しい人」は同じ「優しい人」だろうか。同じ言葉を使っていながら思いうかべるものは同じだといえるだろうか——

沙一

死ね、ニュートン

こいつはいい

こいつはいいよ。文体とイメージは翻訳ランボーの剽窃だが詩の勢いはホンモノ。

豆大福の日

ひとつ私に くださいな。

仮に、お伽噺のような平和があるとしても 敵は、存在するする。人には 雉、猿、そして犬のようなタイプの人のように個性が色々であっても、共通する敵が いる。敵に勝つために、もっとも大事なことは、共通する喜びに きがつくこと

真清水るる

ひらいて、とがって

ひらひらとひらかれひかれて

ひざこぞう、に出逢ってください。そして手をのばして作品の言葉にためすすがめつ、触れてほしい。

ほば

薬売り

胡散臭さがたまらない

怪しいものや不思議なものが好きな方におすすめしたい、世にも奇妙な掌編——

沙一

書かざる言わざる、雄弁に水銀を

黙って笑ってろ、沈黙は金

これを見ているあなた、恥ずかしくはないんですか? 答えられないのですか。 なんでですか。 理由があるという訳でもないのですか? ああ、そうか。 全部、冗談だというのですね。

鳴海幸子

夏は夜。月のころはさらなり

田舎の夜道は暗くとも、恋は華やかで明るい——

沙一

あなたとどんぐりとハナミズ……

悪意のないホローポイント弾

ここには○○の残酷さが描かれている。 ○○が何なのかは、読めばわかる… …かもしれないし、わからないかもしれない。 感じ方は「人それぞれ」だから。

R

祖父の痕跡

黙想を貫いた彼が最後にみたものは…

祖父の遺物が並んだ「私」だけの世界… 彼の深層に踏み込むべく「私」は宝物箱に触れてしまうのか…祖父とは一体何なのか…

つつみ

直列つなぎ-うんこ!!(……

青春の現代詩

青春はいつも、エロくて汗臭い。そして切ないけど優しいところもあり、美しい瞬間もあるけど、昆虫たちも僕らも命を捨てて夫婦になることを受け入れる。それが生きるということだから。個人的には、僕は飯田華子さんの紙芝居を観に行きたい。

蛾兆ボルカ

ちがう星

ピッチャーとキャッチャーみたいだね

それから時々 おなじ星

三浦果実

いつまでもあいさつをしてゆ……

伝説の流行語はここから始まった

「かきかきたぶんしない」は伝説になった。わからない人には永遠にミューズは来ない。

三浦果実

粘土

こんにゃろっというやり場のない怒れる者よ

ほの暗い系男子がたどり着いた極北のモノローグがきみにはわかるまい

三浦果実

菊の花

2020年10月の裏番長/裏大賞

これの良さがわかるまで詩を書くんじゃない

三浦果実

死んだベテルギウス

地球は退屈な諦念に埋め尽くされてる

重力に支配された地球人にはわかるまい

三浦果実

風吹き抜ける青

残酷なロマンティズムがきみにはわかるまい

そのまま生き地獄で野垂れ死にするといいという孤高の美

三浦果実

ぢんせぃ

その喪失感は夢かうつつか

ネットとリアルがボーダーレスな、デジタルネイティブ世代の感性──

沙一

潮風

潮の香りにのまれるように

不思議な気配が手招きをしている

ほば

空の下

大自然という舞台への出奔

二人が走り出す。広大な大自然という舞台へ。

羽田恭

明るい朝の歌

明るい朝のうらには、暗い夜があった

外をみつめることが、内をみつめることにつながっている──

沙一

この作品は読んだことがありません。


作品を
別枠表示

某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉    

某月某日  20200年4月1日ですね。 某月某日  どいつもこいつもマスクマスクうれせえや。俺はしてないぞ。タバコも吸ってるぞ。低収入だが給付金は断る。飲み屋のおっちゃんにでも回してくれ。「アーティスト」には回すな。仕事がないなら技能研修性来なくて困ってる農家の手伝いにでも行け。贅沢抜かしてんじゃねえ。 某月某日  『和泉式部私抄』読みながら寝る。    はかなくて    煙となりし    人により    雲居の空の    むつまじきかな 某月某日  いい天気だな。桜見に行くかな。ビール片手に桜並木を歩くのも乙だろう。すみませんね都会の皆さん。うちらは田舎なんで、花見は宴会自粛のみなんですよ。 某月某日  平和公園の脇、爆心地に近い川沿いの桜並木をビール片手に歩く。人通りはぼちぼち。宴会はしていないがシート広げて寝そべるカップル。記念写真に興じる家族連れ。川面を流れる花びら。静かでのどかな午後。桜は美しい。来年もこういう花見がしたいものだが、まあ今年だけか。 某月某日  手応えのあった作品ほど反響が鈍く、どうってこともない出来に終わった作品のほうがかえって反響を集めたりするもんだが、そういうときに作者の側では「へへ、気付いてないな、やっぱり」とひとりほくそ笑んだりしてるわけさ。 某月某日  心配すんな。一か月も続きやしないよ。 某月某日  「社会正義」をかさに来て個人を抑圧し屈従させようとする連中をファシストという。健康ファシスト、ポリコレファシスト、環境ファシスト、グローバリズムファシスト、自由よりも「正義」の支配を望むファシストだらけの世界。何で禁煙しないかって?「正しい」ってのが大嫌いだからだよ。 某月某日  ここんとこ、コロナとかウイルスとかをお題にして書かれた詩をちょいちょい見かけるけど、よく書けるな。感心するよ。いや、皮肉じゃなくて、純粋に俺には真似できないから。肚ん中に入ってない概念や思想なんて、ほんものの感情を伝える言葉にはなりっこないんでね。  公論に見せかけた私情。私情を装った公論。どちらもソフィストの政治的雄弁術であり、知でもなければ文学でもない。宣長さんはそれを「からごころ」と言った。からごころから詩は生まれない。無論、人は何について詩を書いてもいい、それが本当に詩であるなら。 某月某日  やっていることはろくに認識されず、やっていないことばかり論われて文句ばかり言われる。困難な仕事に立ち向かっている人間と何もしていない外野の関係はいつもそうだ。誰にも一日は24時間しか与えられていないが、1分さえ貢献していない人間ほど働いている人間に一日240時間の仕事を要求するもんだ。  「自分がそこにいたら果たして何ができるか」という、ごく当たり前な想像力を働かせてみろ。大したことはできない、と気付いたなら、被害者でもないくせに被害者の代弁者みたいな口を利いて偽善者面を晒すのではなく、自分にできることを粛々とやれ。それが危機下にある無名の市民の取るべき態度だ。 某月某日  今日もまた、TL上ではバカが金の話ばかりしている。  「マスクに466億円~~そんな金があるなら〇〇〇~」  国民一人当たり360円。それも元は自分が払った金だ。  で、少なくとも俺は、その〇〇〇とかには一銭も使ってほしくないね。 某月某日  空気や風潮、時流は止められない。正気さなど無力だ。  だからと言って、正気を保つことを止めてはならない。 某月某日  さ、もうコロナはいいや。俺は文学と酒と煙草に戻るのだ。阿呆ばかり見ていると阿呆になる。おしまいおしまい。 某月某日  リーディングと朗読って何がどうちがうのか、知ってる人は教えてけろ。 某月某日 出発点:「朗読 or リーディング」という区分をひとまず保留。 〇仮説:  リーディングA=《作者》がテキストに記した意図に沿った表現・再創造の行為。  リーディングB=《言葉という生き物》の表出衝動の媒体となる。自己の肉体を媒介として言葉の創造本能を実現させる行為。  Aは近・現代詩(テキストの詩)の朗読・朗誦  Bは古代詩・神話(日本では和歌や祝詞)→《言霊》と人間の交信・交流 ・中世の《詩》は、舞踊、歌謡、演劇。これはBからAへの過渡期にあるものか。 ・現代ポエトリーリーディングの源流は黒人牧師のプリーチングやラップなどにあると見られるが、これは当然Bに属する。言葉の力を借りて感情を引き出し、高揚させ、浄化させる行為。 ・漢詩は古代からすでにテキスト詩であった。むろん朗誦される詩でもあり、音声の調子・抑揚が重要なファクターだが、他言語にはない、シンボル文字である漢字の表現性が詩的効果の構成要素になっている。 視覚的シンボルの表現性は、音声表現であるリーディングでは再現し難い。 ・西欧言語はそもそも音声が詩的効果の主要素であるため、Bへの回帰は容易。  黒人たちが聖書の説教をプリーチング(リーディングB)に変容させたのは、英語が容易に《楽器》化できる言語だったから。 ・《楽器》としての日本語は、音の種類の少なさゆえに、西欧語のように抑揚強弱の組み合わせによって多彩な「調子」を生み出すのが苦手で、古来「調子」を生み出す役割は主に「音数」(五・七調)と母音の長音に付けられる《節》が担っていた。  囃子言葉は、こうした表現性の単調さを補完するものとして自然発生したのだろう。 ◎現在、日本語の《言霊》は、西欧語の語彙だけでなく音声の多彩さをも取り込んで、その表現性を進化させようとしているのかもしれない。この進化は、テキスト詩とそのリーディング(A)では表出し難い。むしろ日本語のロック、ポップスがそうした進化の媒体となった(はっぴいえんど、桑田佳祐、佐野元春らに始まる)ように見える。日本語ラップはむろん。  その意味で、現代日本に「ポエトリーリーディング」という表現ジャンルが場を形成しようとしているのは、《日本語という生き物》の表現意志・創造意欲の現れなのではあるまいか。 某月某日  集団からお墨付きが出さえすればいくらでも悪意や憎悪を発揮する連中ほど、ヘイトだの差別だのいじめだのをしたり顔で非難する。罪業コンプレックスかアリバイ作りか。  己を見つめたら最後この世が終わるというほど嘘を重ねた末に、偽善を一切自覚できなくなった奴を善人という。親鸞さんは正しいよ。 某月某日  道徳心なんか死んでも持つかあほ。 某月某日 #アカウント名の最初をぽにすると可愛くなる  ぽ村利勝  .......そう? 某月某日  煙草吸って、  福田恆存「一匹と九十九匹と」読みながら、  寝る。 某月某日  切腹しろ。さもなければいつか俺が天誅に行く。 某月某日  誉め言葉しか受け入れられないやつは、遠からず消える。 某月某日  君らの目利きが本物かどうか試してやるよ。 某月某日  深夜部活のない、静かな夜。 某月某日  詩を書くという行為はどのみち己が言葉の世界に独り対峙しながら行う作業である外ない。この自由な行為は第三者や社会性が介入しない聖域で行われる限りにおいてその純粋さと無償性を保つ。詩とは要するに無私な言葉の謂だが、己が自意識なく言葉と対峙する時間と空間のみがそのような無私を保証する。  人間は社会的動物である以上何らかの社会性の制約下に常に置かれる。社会的自己に自由はない。それは常に関係性における自己を意識せざるを得ず、そこで交わされる言葉は常にそうした自意識を反映するものだ。「無私な言葉」が社会的自己から発せられることはなく、広義の政治的言葉のみが交わされる。  社会が個人の欲望と利害の相克、あるいはそれらの調和の場である以上、こうした広義の「政治」は誰にも避け得ぬ。勝つ負ける、支配し支配される関係性のどこかに我々は何らかの位置を占める。一方で個人は社会的関係性の秩序からひとり離れ、魂が神に対峙するように言葉の世界に対峙することもできる。    詩の言葉がこうした極めて個人的な営みから生まれながら、他者の自己に届くのはなぜか。  それは、その他者もまた社会的関係性の秩序から独り離れて世界に対峙し、言葉に対峙し、神に対峙する自己であるからで、彼が詩を読んで発見するのは、そうしているのが己だけではないという単純な真実である。 某月某日  いろいろうるさい。  静かにしてくれ。俺は寝る。 某月某日  すぐに答えを求めるな。答えは意味ではない。物事の意味はそれと十分に付合わなければ分らない。  今日は強い風が吹いている。なぜ風が強いのか、気圧配置のせいである、そこに答えはあるが、意味はない。  詩を読むというのは意味を味わう経験である。なぜ答えを求めるのか、答えを得て良しとするのか。 某月某日  本日も、某月某日。


作成日時 2020-05-06
コメント日時 2020-05-08

某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 12
P V 数 : 1251.2
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 21
項目全期間(2021/10/28現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性44
可読性11
エンタメ88
技巧88
音韻00
構成00
総合ポイント2121
 平均値  中央値 
叙情性00
前衛性1.31
可読性0.30
 エンタメ2.72
技巧2.73
音韻00
構成00
総合75
閲覧指数:1251.2
2021/10/28 04時54分37秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
※自作品にはポイントを入れられません。

    作品に書かれた推薦文

某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉 コメントセクション

コメント数(12)
Um Fantasma
作品へ
(2020-05-07)

「某月某日」で文字検索すると「某月某日」は29個ヒットし題名の「某月某日」と最後の日記の内容の「某月某日」のふたつを引くと27日分の日記があるということになる。そして最初の「某月某日」では4月1日ですね、とすごくなんか嘘くさく言われてることから、とか言う批評をするやつはからごころにおかされたもので論ずるに値しないんだろうか。詩ってなんだろうって昨日から考えさせられてるんだけど、めんどくさいからすべてクリエイティブライティングということにした。なのでナイスクリエイティブライティング!PS. 俺は未だに孔子が好きだし古事記はそのまま信じることができない。パイドロスのソクラテスの物語を信じることができない。どうしたらいいでしょうか。

1
石村利勝
Um Fantasmaさんへ
(2020-05-07)

Um Fantasmaさん、素敵なコメントありがとうございます。愉しく拝読しました。人が誰もからごころに侵されていなければ批評は不要になるでしょうから、この駄文が如何なるからごころから発しているのかを作者が突き止めていないとすればそこには批評がないので、読み手の批評がそのいかさまを突き止めるという余分な手間が必要になるのでしょう。「孔子はよき人」と宣長さんも宣っておられます。小生も古事記をそのまま信じることができませんが、宣長さんの1億分の1も古事記を読んでいない私が古事記をそのまま信じると言ったらただのいかさまでしょう。

1
舟虫/GAMAKATSU
作品へ
(2020-05-07)

コメント失礼いたします。 昨今の世情が伺えておりいろいろな思考が張り巡らせられていると伺えます。 私自体はいろいろな方向性へ飛び火しており、その中で石村さんの考え方の流れをみれて学ぶことが多いです。 朗読とポエトリーリーディングという点にも深く考えさせられることになりました。 つたないコメントですがよろしくお願いいたします。

1
石村利勝
舟虫/GAMAKATSUさんへ
(2020-05-07)

舟虫様、ご高覧ありがとうございます。ポエトリーリーディングについてあれこれ考えてみたのは、このジャンルに携わる気のない私にとっても有益な経験でした。粗雑なメモですがリーディングの活動をされている舟虫さんに何がしか益するものがあったのであれば幸いです。

0
蛭子子
蛭子子
作品へ
(2020-05-08)

面白いと思いました。ただ作品内での語り部の思想というか言いたいことというか、「我」が強くで過ぎていて、少し高慢ちきで押し付けがましく言葉が純粋に言葉として入ってこない印象を受けます。あとテーマとしては日々の雑多な思考をそのまま言語化したものなのだと思うのですが、詩歌や最近の世相に話題が偏っていることや、いかにも自由人っぽい物言いなんかが少し人工的に感じられます

1
真清水るる
作品へ
(2020-05-08)

Twitterで拝見したことのあるのですが、#アカウント名の最初をぽにすると可愛くなるの【ぽ村利勝】は、ここで 読むと、あいらしいです。 〇ぽ村さん仮説:  リーディングA=《作者》がテキストに記した意図に沿った表現・再創造の行為。  リーディングB=《言葉という生き物》の表出衝動の媒体となる。自己の肉体を媒介として言葉の創造本能を実現させる行為。  Aは近・現代詩(テキストの詩)の朗読・朗誦  Bは古代詩・神話(日本では和歌や祝詞)→《言霊》と人間の交信・交流 〇ぽるりら仮設  リーディングA=人間同志のコミュニケーション  リーディングB=人としての種を超えた行為 若しくは、人として以前の雄たけび ぽるりら(私のこと)は、人間と人との違いについて思うのです。人間って 字面が三密ぽいな、と 思うのであります。   Aが足りてないと コロナさわぎで人々は感じているところではありますけども  もしかしたら、コロナはBを取り戻すために発生したのかもしれない。ふと、そんな気がいたしました。  

1
石村利勝
蛭子子さんへ
(2020-05-08)

蛭子子様、ご高覧ありがとうございます。「我」が強く、高慢ちきで押し付けがましく、話題が偏っており、物言いが人工的との作者評はまさに言い得て妙ですね。我が意を得たり、でありました。

0
石村利勝
真清水るるさんへ
(2020-05-08)

ぽるりらさん、その仮説でのAとは関係性の中で生きる言葉、Bは天(あるいは神/宇宙)に向けて発せられる言葉、ということになるでしょうか。コロナ幻想は関係性を断ち切る方向に人間を向かわせていますが、そういう時こそBの言葉は阻害された個人に(意図せずして)届く言葉となるのかもしれません。つまり、我々は、詩を書きましょう(笑)。

0
沙一
作品へ
(2020-05-08)

副題の〈詩ではなく、批評でもない、ただの言葉〉が、ひっかかっていました。なぜなら、誰にあてるわけでもないツイートのようなただの言葉であることは、読めばわかるのですから。しかし、あえてこの副題をつけたことに、固定観念へのアイロニーがあるように思います。こういう前置きでもしなければ、ここに投稿した文章は、どいつもこいつも詩としてみるんだろう、とでもいうような。 これはこういうものだからみなさんこうしましょう、とメディアが云えばそれを鵜呑みにしてしまうような、安易な固定観念への批判意識が本作にはあらわれているのではないでしょうか。思えば本文も、のっけからして反骨精神のかたまりですね。

2
藤 一紀
作品へ
(2020-05-08)

おはようございます。こちらの「作品」に使われている文章は、Twitterでtweetしたものを使用しているものなので、各々の内容は、ああ、読んだなと思い返せます。なので、文章内容についてはできるだけ触れません。 一つ言うと、Twitterで呟かれる「言葉」は時系列的なものであって、その日その日の集団や社会、政治などの出来事に関連していることが多いということです。したがってネットであれなんであれ、言葉の日常性のなかで行われている。また、Twitterでは呟いた時間が残るだけでなく、呟きに反応してのハートマークやRTや返信がついたりします。それは個人の言葉がそれ以外の他者とつながっているということで、ここでも社会や集団との関係の中に位置づけられていると言えます。 こちらの作品では、それら呟いた文章を使用しているわけですが、これは、上に書いた日常性や社会、集団との関係に置かれている「言葉」を、それらとの関係から一旦切り離し、詩の相へ位置を変える行為だと思いました。ですから、ここで使用されている文章は、Twitterには残ってはいるけれど、その呟きではない。同じ言葉であっても同じではない、ということが詩作品の言葉であるとしたら、たとえそれぞれの文章に日付が振られていても、それは実際の日付ではありません。この点でいうと田中宏輔氏の『詩の日めくり』という試みがあったと思いますが、この作品では、それを更に「某月某日」として、時間性を不定にしてしまっています。まあ、「20200年」の某月某日なんですけど笑。詩の空間に置かれた言葉は、同じ語彙や文であっても詩空間に属する言葉であって、私たちの日常的な時間に属するものではない。ここに書く側が明確な意識をもっていないと詩の言葉は日常性に縛られたままの個人の日常的な感情の表現になってしまうし、読む側もそのわかりやすさにひっかかって日常的な文章のまとめとして読んでしまう可能性が大いにあります。読み手の側から逆にいうと、Twitterで呟いた文章を、そこから引っこ抜いて、それまで日常的な時間性や集団との関係に縛られていた「言葉」を詩空間に立たせ、「某月某日」という時間のなかで語ること(引用)で、言葉自体はすでに日常的な関係に限定されないものになっているにもかかわらず、見かけの日常の言葉っぽさという仕掛けにはまってしまうのです。とすると、これは言葉というよりも仕掛け(=構造)をメインにおいた作品と言えるかもしれません。石村さんの作品は大抵、言葉を異(詩)空間にずらし、日常性から開かれた世界を立ち上げるということを考えると、他の作品と全く違うものは目指していないことがわかりますが、しかし、この作品は方法としてこれまでの石村作品とは違う提示のされ方をしていて、非常に新鮮な驚きを感じます。 長々とおしゃべりしてしまいました。失礼します。

2
石村利勝
沙一さんへ
(2020-05-08)

沙一様、ご批評有難うございます。興深く拝読しました。  優れた批評は、作品からどれだけ優れた問いを発見できるかに懸かっていると思います。答えの優れた批評などというものの大半は、凡庸な問いに正しい答えを出しているだけのものです。優れた作品は多くの場合問いの形を全くしていません。そこに優れた問いを発見するのが批評の仕事でしょう。  この書き物は誰の目にも明らかな、多くの凡庸な問いを含んでおり、当然優れた作品ではありません。それらの凡庸な問いに正しい答えを出して何か物を言った気になっているおバカさんがいたら陰で笑ってやろうと思っていたのですが、これまでのところ、沙一さんをはじめ評者の大半が非凡な問いを発見しておられますね。そういう問いを拝読できるのは、作者の特権的な愉しみなのです。

1
石村利勝
藤 一紀さんへ
(2020-05-08)

藤様、克明なご批評有難うございます。沙一さんへの返信で記した感想がそのまま藤さんの評にも相応しい(「そうおうしい」©みうらくん)と思われますので、無礼ながら同じ言葉の繰り返しを省かせていただきますが、藤さんの非凡な「問い」は作者にも大いに気付きとなるものでした。  このような書き物は一種の投機で、「何になるのかわからないが、何ものかに必ずなる」という事前の確信だけに基づいてエイヤっと書かれるものです。書き終えた作者の方では振り返ってもみない、「で、結局何ものになったのか」が藤さんの御評で精確に記されていくのを見るのは愉しい経験でした。

1

B-REVIEWに参加しよう!

新規登録
ログイン

作品をSNSで紹介しよう→

投稿作品数: 1