ishimuratoshi58

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投稿作品数: 4 コメント数: 51

投稿作品

墓碑銘

2018-12-18

コメント

鮮麗で美しい、好きなタイプの作品です。一、二、四行目は見事。タイトルからの響かせ方もセンスがいいですね。 三行目の「沈黙する夜空」のみ、いささか凡庸に感じました。他の行の詩語が凝縮されている分、そこが浮いて見えるのでしょうが、短い作品ですから、すべての語句にわたって隙のない音韻、イメージを突き詰める必要があると思います。 (三日月に)

2018-11-05

 非常に洗練された、スタイリッシュな現代の名文というのが第一印象でした。このくらい神経の行き届いた散文は、書店に並ぶ単行本や文藝(?)雑誌においてもほぼお目にかかることはありません(大半は私の世代の感覚では「中学生の作文」レベルですからね)。漢字とかなの使い分けのセンス、文の長短やテンポ、リズムの扱いの巧みさなど、作者の筆力は相当なものと感嘆させられます。第二連の「たまに魚を見かけた。」という書き出しなど、思わず「わあ、こりゃ巧いなあ」と唸らされました。描かれている情景も鮮明で魅力的。「彼女」との触れ合いのメルヘンティックな、快い甘さにも非常に心惹かれます。  非常に描ける作者様なので、ただの読み手として(つまり自分のことは棚に上げて)少々贅沢を述べさせてください。  エッセイやスケッチではない、自立した詩作品として本作に対峙してみると、ここに描かれているような「彼女」との美しい親和が、私たちの生きる現実世界とは共存し得ないということへの痛み、哀しみが感じられない点が、読み手として不満といえば不満です。非常によく描けているにもかかわらず読後の印象がいささか「軽い」のは、文体の軽やかさゆえではなく、読み手の真情に痛切に突き刺さってくる「もののあはれ」の乏しさゆえではないかと感じました。詩情が切実なリアリティーに至らず、完成されたスタイリッシュさの裡に自足している観がありました。決してないものねだりではなく、作者様の力量であれば、単なる「感心」を超えた感動をもたらしてくれるのではと期待しています。 (傘泥棒)

2018-11-13

顔を真っ赤にして走っているるる姐の姿が脳裏にまざまざと浮かぶww きっと今も走っているのでしょう。 天才ならではの閃き、気合一発の賭け。成功しているかどうかは何ともいえまへんが、この作者らしいといえばらしい。 (よしっ)

2018-11-05

るる姐御、 このハンドルは、ユーザーネームそのままなんです。別にHNを登録できなくて。やり方わかんなくてww これは単にメールアドレスの前半です。グーグルが付けてくれた名前です。 私は58歳ではありませんが50代です。姐御というのは、何となくそう呼びたい方なのです、私の中でww 内輪雑談にスレを占拠しまして失礼しまっしたぁ~ほなまた。 (よしっ)

2018-11-06

>イヴだった頃に追いかけた蝶の翅 >ピンを打つときふと思い出す  何気なくスクロールしていて、この二行のすばらしさにハッと目が覚める思いでそのまま読んでいきました。短歌を集めたものと気付かず、ひとまとまりの詩であるとばかり思っていたのです、迂闊なことに(笑)  さて、それぞれが完結した一首であることを意識した上で読み直すと、いろいろ物足りないところ、新たに気付いたことが出てきたのは面白いことでした。  第一首、これは実に魅力的です。ポエジーが見事に完結しています。  第二首、短歌と思って読むと「今も似たようなことをしている」の音律のゆるみに抵抗を感じますが、二行の短詩と見て(実際には存在しない)タイトルがその二行の前にあるものと勝手に想像して読むと、尾形亀之助あたりの凝縮されたポエジーをほうふつとさせる、余韻深い詩行と読めます。  第三首も、完結した短歌として読むと「無残に切り刻まれた」の音律がいかにもゆるく、だるく感じられますし「無残に」が説明的にすぎ、いかにもまずい。しかし、詩中の一行として読むとそのようには感じません。形式というものの面白さですね。  第四首。「地続きである我らの原罪」の句は、いい詩に膨らむ可能性を秘めた魅力的な句ですが、全体としてはやや生煮えの憾みあり。「血をあげる」は短歌としては無論、自由詩として読んでも拙く響きます。勿体ない印象。  第五首。発想は豊かなポエジーを内包していますが、「セックスをしたら」の音律のゆるさ、平板さがやはり短歌としてはいただけない。短歌ではなく自由律俳句、一行詩として、たとえば「セックスをしたら野に咲く白百合が私の代わりに死んでしまった。」と頭の中で読み替えると、私にとってはこの一首の着想が生きて響きます。 第六首。これまで述べたことと同じような感想になります。詩の中の一行であればこれで何の抵抗もなく読めますが、短歌として読むと「恋なのに 彼も」のスペース区切りは余計なものに感じました。  第七首のアイロニーは第一首に次いで魅力を感じましたが、詩の中の一行として用いられてこそ、そのポエジーが生きる詩句であるように思います。短歌として単独で自立・完結したポエジーを生み出すには至っていないという感想を持ちました。  結論として、私にとっては、短歌の集成ではなく、一篇の詩作品として読んだ方が面白く思えます。もしかすると、筆者もそのように意図されているのかもしれないのですが(笑) (ばいぶる (短歌))

2018-11-08

鬱海様 あれこれと勝手な妄言を書き散らしましたが、オオサカダニケさんの仰る通り、素人の独断に過ぎませんので、どうかお気になさらず、素人が何を抜かすかと笑い飛ばされるか、黙殺なさって下さいませ。批評は常に後出しじゃんけんに過ぎず、真の勝者は常に作者です。次作も楽しみにしております。 (ばいぶる (短歌))

2018-11-08

ボードレールの翻譯詩、朔太郎や大手拓次などを彷彿とさせる言語感覚は、古風と言えば古風(私にはそんなことを言う資格はありませんがww)。ですが言葉には十分な鮮度があり、大正・昭和の文学に沈潜した経験の豊かさを感じさせる確かな筆致により、読み手としては安心して詩世界にひたることができ、非常に充実した詩体験が味わえます。読み手の生理的反応に直接に訴える生々しいイメージの多用は、好きな人には堪りまへんやろなww 私がこの作者について感心したのは、ユーモアの感覚です。朔太郎や拓次など、官能性に訴える作風の詩人はともすれば自己耽溺的・陶酔的で、ユーモアに乏しい。年を取ってくるとそういう耽溺性にはいささか食傷させられますが、この作者のユーモアの感覚、たとえば >そも魂とは袋の自己認識に他ならぬ >まずは断腸の思いで >口と肛門を別個に据えたヒモムシの奇跡に >思いを致し激しく感動せよ >ああ私達が一個の袋であるということは >何と悲惨にして心休まることであろうか このあたりのくだりには、筆者の自他を見つめる視線の平明さ、智慧深さが自ずとにじみ出ています。大人向けの詩。そんな感想を持ちました。 (塩の都)

2018-11-06

日常がさりげなく非日常と溶け合ってひとつになる、詩的想像力のやさしい細やかさが素敵な作品です。私がこよなく敬愛する山本沖子さんの作品に通じるような世界。 >翌朝のちぎれ雲は >やさしく整えて日陰に干した この二行はことに素晴らしい。想像が詩的真実になる瞬間、というのはこういうものでしょう。ちぎれ雲の質感が手に取るように感じられます。詩によってしか創造し得ないリアリティです。 ひとつだけ贅沢を言うと、「かえっておいで」と呼びかける対象は、「あの日」であると読めるのですが、対象を示唆せずに読者の想像に任せた方が、「かえって」きてほしいものの実在感が増したように思いました。もちろん「あの日」に籠めた作者の思いがあるのでしょうが。 (かえっておいで)

2018-11-05

まりもさん ご高覧ならびに美しいコメントありがとうございます。私は絵の世界に全く不案内で、谷内六郎の名前を知らなかったのですが、検索して氏の作品の画像を見て「なるほど」とおもいました(笑)私の脳裏にあった風景とよく似ております。 みうらさん ご高覧ありがとうございます。「大層であり大層でないこと、自分語りであり自分語りではないこと、虚構であって現実であること、そんな傑作を書きたい。」とのお言葉に大変、共感しました。私自身も、まさにそのようなものを書きたいと日々念じております。その域には未だ道遠し、ですが(笑) (小さな村で見た)

2018-11-10

stereotype2085さま ご高覧ならびにコメントありがとうございます。ご感想を伺って、もし新仮名遣いでかいたらどうだったろう、と本作を頭の中で仮名遣い変換してみましたら、耐え難いほど貧相なものになってしまいました(笑)仮名遣いを変えたら、自分がかく詩そのものも変わってくるのだろうな――そんなことを思いました。 (小さな村で見た)

2018-11-11

帆場蔵人さま ご高覧ならびに温かいお言葉ありがとうございます。「きざまれた言葉がまた次の言葉を引き出していく」とのご感想は、「少しずつずらしてノリで貼り付けていくように、川や子供たちを重ねて行く」というまりもさんの言葉に通じていますね。当人にはあまり意識がないのですが、そういう技巧を俺は使っていたのか、なるほど、とようやく意識することができました(笑)長いことかいていますが、技巧への意識はちっとも向上しません。 桐ヶ谷忍さま ご高覧ならびに身に余るお言葉に恐縮しきりです。ありがとうございます。私もよく「こういう詩がかけたらなあ」と溜息が出る思いで讃嘆したくなる作品に出合いますが、菲才にしてその念願が叶ったことはありません(笑)ですが、そういう心境でひとのかいた詩を見られるようになってから、むしろ自分の詩をかくことが楽になったような気がしております。 (小さな村で見た)

2018-11-12

仲程さま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。って、なんか、現フォのコメントのレスみたいなお返事で失礼しました。つい、いつもの癖というやつで(笑) >心のひだにふれて、すこしいたみも感じます。 してやったり、じゃないですけど、読んで下さった方がそういう感覚を持っていただけるというのは、作者冥利に尽きます。励みに致します。 (小さな村で見た)

2018-11-13

蔀 県さま ご高覧ならびにまたしても身に余るお言葉有難うございます。そして、今回もまた適格なご指摘を頂いてしまいました。汗顔の至りです。仰る通り「幾千もの」はいかにもまずい。まずすぎです(笑)音律、語調に囚われて語の色調、フォルム、質感への意識がお留守になっておりました。何年もかいているのにお恥ずかしい話です。貴重なご指摘に感謝致します。 (小さな村で見た)

2018-11-18

藤 一紀さま ご高覧ならびに懇切なコメント有難うございます。ご指摘の通りだと思いますが、現状では「それ以上に飛ばす」ことを私ごときの力量で試みれば、詩が理屈に堕す結果に終わっていたでしょう(まあ、それを才能のなさというのですがww) 理屈に終わらず、技巧に逃げず、詩を「もっと飛ばせる」ようになりたいものですが、才は足りず、努力でどうにかなるほど甘いものでもなし。さあ、どうしたものでしょうね(笑) (小さな村で見た)

2018-11-18

fiorinaさま この度も美しい御評有難うございます。すぐれた読み手の言葉に照らされて、自作の宇宙に生彩が増すのを見るのは、作者としてこの上ない喜びです。「喪われた夏」…終わろうとしている夏を永遠化したい、というのは私の詩作の原風景であり、大切な動機のひとつです。何度かいてもかき切れたとは思えないのですが、これは死ぬまで試み続けるでしょう。 藤 一紀さま 貧しい作に再度の懇切なご感想を頂き恐れ入ります。真摯な読みはどのようなものであれ「読み違い」というようなものはない、と思っております。かかれて世に出された瞬間から、作品は読み手のものです。作者もひとりの読み手にすぎません。が、さまざまな読み手に作品がどのように映じたかを見る楽しみは、幸運なことに作者のみ享受できる特権です。その意味でも、貴重なお言葉を下さったことに感謝致します。 (小さな村で見た)

2018-11-19

じゅう様 ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。「ハーメルンの笛吹き」…言われてみればその趣が無意識に入っていますね。以前に何篇か意識してモチーフにしたことがあるのですが、本作をかいている時には頭にありませんでした。どうも、あの野郎、自分の中に広がっている詩的風景の一画を占有してやがるな、と気付かされました(笑) (小さな村で見た)

2018-11-21

悠久の時間性と、存在そのものへの本源的な悲しみを、今、生きているこの日常的な瞬間のリアルな知覚、真情として表現する作者の手腕は見事なものです。世界観、リリシズムの質にも大変共感します。 >それが悲しくて、今日はケーキも食べたくない。 とくにこの一節には唸らされました。単なるセンスの良さではない、人間の真情をこのようなやり方で新鮮に提示できる智慧深さ。詩行はこうでなくては、と思います。 それだけに、第一連の入りがどういうわけか、ひらめきに欠けた、いささか凡庸な理屈語りに聞こえるのは残念でした。書き出しはどんな作品でも難しいものですが、二連以降の見事さからして、この作者であればもっともっと魅力的な導入ができるのでは、と。本当にいい詩なので、かなり悔しい。 (十億年)

2018-11-07

沙一さま  ご高覧ありがたうございます。折角正仮名でコメントを頂戴したので、小生も正仮名でお返事するのが当然の礼儀でせうか。日常の書き物において正仮名を使ふのをやめて既に20年以上経ち、今はすつかり鈍つてしまいましたが(笑)  正仮名の作品を楽しんで読んで下さる方がこちらにゐらつしゃるといふのは、小生にとつても望外の喜びでした。絶滅危惧種同士(笑)、今後ともご厚誼を賜れば幸ひです。 帆場蔵人さま  ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。 >ひとつひとつの言葉を考えるよりも読みあげながら流れに身をまかせて  ああ、そのようにお読みいただければ、作者としてまさに本望です。それに勝る喜びはありません。重ねて感謝申し上げます。 渡辺八畳@祝儀敷さま  ご高覧ありがとうございます。「読みづれぇ」ですか、うーん、ごもっとも(笑)一文でどれだけ長くかき、詩作品として完結したものにできるか、という私的実験でしたので、読みやすさはある程度犠牲にしました。そういうご感想をお持ちになるのも無理からぬことでしょう。  「可読性」や「苦痛を伴う読書は脱落者を生む」ということについては、また別の視点もあるかと思います。  私が自分の作品の読み手として想定している読者層の嗜好、感性、読書の傾向や経験などから考えると、この作品を読むことは別にむずかしくも苦痛でもないというのが作者の予想でした。実際に、拙作を読んでくださった何人かの方からご感想をいただきましたが、読みづらい思いをされた方はいないようです。「可読性が低い」というご評価は、個人的な感想ではない一般的な価値判断と読めますが、そのように容易に一般化できるものだろうか、という疑問を正直なところ感じました。  例はあまり的確ではありませんが、たとえばモンテヴェルディやバッハを愛好している音楽ファンにとって、ラップは耐え難い騒音でしかないでしょうし、ハードコアパンクの好きな人がブルックナーの交響曲を80分にわたって聴かされるのは最悪の拷問でしょう。オーディエンスの層の違いというのは、どのような芸術の分野にも存在すると思います。  もちろん、真に優れた天才の作品、パフォーマンスは分野や層の違いを超えて広く人の心を打つでしょうし、万葉集研究一筋に打ち込んできた大学者が最も先鋭的な現代詩に感嘆するということもあり得るでしょう。ですが、私は発信者としても受信者としてもポンコツであり、とうていその域にはありません。あらゆる読者層に訴えかける傑作をかいてやろう、という野心も既にありません。自分のかきたい詩をかき、こういう作品を愉しんで読んでくれるであろう読者に届ける。それ以上のことは望んでいません。詩を長年かいてきて、今はある意味己を知る、という時期にいるのです。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-10

stereotype2085さま ご高覧ならびにコメントありがとうございます。「音数が多い」…ありましたねえ、そんな逸話が。モーツァルトの逸話に擬えられるのは、光栄を通り越して滅相もない、恐れ多い!というのが正直な気持ちですが、何ひとつ付け足しも削りもなく一気にかき通し、推敲もほとんどしなかったのは確かです。何か憑き物でも憑いていたのでしょう。 杜 琴乃さま 身に余るコメントありがとうございます。嬉しいやら恥ずかしいやら(笑)これ以上何か書くとバカなことを言ってしまいそうなので、やめにしておきます。これからも「萌え」な方々に喜んでいただける作品がかけるよう、お言葉を励みに致します。 fiorinaさま そうか、私がこの作品をかいた時に何が「憑いて」いたのか、いま判りました(笑) それ自体がすぐれた詩であるような美しい批評を頂き、光栄です。「作者自身の詩への思い」を酌み取って下さった細やかなお心遣いにも感謝致します。 蔀 県さま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。題名は、そういえばどうしてこうしたのかなあ、と思い返してみました。ものに憑かれたように一気にかき上げた後、はたと我に返って題名をどうしようと考えてみましたが、どのように気の利いたタイトルを付けても浅はかな嘘になるような気がしてどうにも思い付かず、なかばやけくそで「これでいいや」と書きなぐったものであった、と思い出しました(笑)やはり、注意深い読み手には伝わるものですね。とはいえ、「最高に恰好よく」決まらない方が自分の作品には相応しいとも思います。柄でもない、というやつです(笑) (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-11

芦野 夕狩さま ご高覧ならびに懇切なご批評、ありがとうございます。すぐれた読み手に自作を読み解いてもらえるのは、愉しいものですね。「自分が何をかいたのか」を改めて教えてもらえるような気がします。 >境目のはっきりしない黄昏のような文章 そういえば、私自身の好きな作品も、リアルでありながら異世界と地続きのようなものが多いな、と気付きました。詩に限らず小説も音楽も。現実だって幻想のひとつにすぎないじゃないか、そんなに威張るな、という反現実主義の賜物でしょうか(笑) みうらさま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。真摯な読み込みから生まれる言葉は、作者にとっては常に新しい自己発見の愉しみを与えてくれる、貴重な言葉です。参加して数日にしかなりませんが、拙作にそうした貴重なお言葉を何人もの方が下さったことは望外の喜びでした。「読めない、解らないでスルーしたい作品を敢えて読んで自分の言葉でコメント付けたい」という困難な課題に熱心に取り組んでおられる方々がおられることにも敬意を表したいです。小生は物ぐさで「スルー」がほとんどなのですが、出来得る限り、レッサーとしても貢献できればと念じております。不束者ですが今後ともどうぞ宜しく。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-12

藤 一紀さま  ご高覧ならびに懇切な御評に感謝致します。いろいろと興味深いご指摘を頂きました。自作自解は厳に慎むべきですが、ひとつ思ったのは、引用してくださった草野心平の一節との相違について。草野さんの一節は、小説やエッセイの文中にそのまま置かれても違和感のない叙述文ですね。読点がありませんが、入れたとしても表現の質、効果はほとんど変わらない。拙作はこの一文が一個の抒情であって、切り離すことができません。「読みやすく」する分かち書きにすることも試みましたが、そうすると表現されるものが全く変わってしまう。この一連の詩句があくまでも一体なのです。その意味で、読点で区切ることもやはりできない。その結果です。この一文全体がひと息に述べられている抒情であることが「ひきずる感じ」というご印象に関係しているのかもしれません。  那珂太郎さんの言葉は、心情的には極めて同感ですが、無用の反発を招くので小生でしたらこのようには申しません(笑)「旧仮名を使うのは、日本語が好きだからです。」と言い換えておきましょう。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-23

人間同士の関係にとどまらず、物質宇宙はなべて「やって-やられる」「行って-来い」「作用-反作用」の連鎖にはまっておりますな。目には目、歯には歯のこの地上世界こそまさに無間地獄。なればこそ「右の頬はたかれたら、左の頬差し出したったらええやんか」というのはキリストの天才的な飛躍だったわけです。 悲しき人間の性をしっかりと自覚しつつ、それを超越する力を(神か仏か分りませんが何者かから)与えられている人間の良識への信頼が、ユーモアただよう実直な語り口から自ずとにじみ出してきます。薄っぺらなヒューマニズムでもなく苛立たしく傲慢な社会批判でもない、人間性への平明な視線と愛情が静かな感動を呼ぶ作品でした。 (触れ合う *)

2018-11-07

すぐれた詩は常にロジック(何かが理に適う、適わないという合意の体系)を超え、その小宇宙内の独自のロジックを提示するものですが、この作品はそのみごとな一例です。むろん、結尾の一行「ここ最近の夜はほんとうに冷えこむ」の意表を突く飛躍のこと。 虫を叩きつぶすというふとした行為から発して、その瞬間への想像が展開する部分の簡潔、正確な叙述も魅力的ですが、想像が「……」で締めくくられ、あまりにも自然に洩らされる末尾の「冷えこみ」という感慨が、実に動かしがたい実感をもって読み手に沁みこんできます。 無駄なものは一切なく、語られていないことも一切ない。小さな詩宇宙ですが、すべてが所を得た、したたかで完璧な小宇宙がここには存在しています。名品です。 (眠気)

2018-11-07

淡々と柔らかいが強靭な語り口による、鮮明な美しさの詩的情景。結尾のポエジーはことに鮮やか。安易な読み解きなど入り込む隙のない、自立した詩世界の時空をそのまま味わい、残るのはいい詩を読んだ、という感想のみです。 (箱庭)

2018-11-09

大変面白く拝読しました。引用されている詩句の扱いが、おふざけのパロディーであれば不愉快なものですが、それぞれの詩句への愛着、敬意がにじみ出るオマージュとなっていることが、気持ちの良い笑いをもたらしてくれています。パロディーの対象を笑いものにするのではなく、パロディーを行う自分自身を笑いものにする潔さが、共感できる良質のユーモアを生み出している、そのように感じました。 (ポエムでチクショー)

2018-11-10

仲程さんの作品は他のサイトで何度も拝見しており、練達のかき手であることは承知しています。掲示板を漫然とスクロールしていて、ぱっと目に飛び込んでくる存在感を放っていたのが本作品。自立した世界を確立している詩作品は、読む以前に「眺める」だけで感知できる、新鮮な「気」を発しているものです。その「気」は読み手にとってはフェロモンのようなものでしょうか。この作者が、言葉の「物理」と「化学」という、詩の基礎科学の修練を十分に積んでいる書き手であることは一目瞭然です。言葉遊びといえば言葉遊び、テーマやメッセージはあるのやらないのやら、ですがそんなことはどちらでも宜しい。詩であることばを味わう愉しみがそこにあれば、私には気にもなりません。どの投稿サイトでもよく見かける、基礎科学をおろそかにしたまま新奇な主題や着想、斬新な形式といった「応用科学」にばかり熱心な作品にうんざりさせられている一読書人にとって、本作は気分爽快な読み物でした。 (あいわず)

2018-11-13

あざといモチーフだなあと思いながらも、イメージの鮮烈さに引き入れられ、「でもいつか/君になら見せるかもね」の行で思わず心がざわめいてしまった(笑)時点で、作者の術中にはまった感じがします。生々しい感覚を喚起する結尾もいい。ただ、短詩としては完結感に乏しいようにも思えました。有無を言わさない鮮やかな「決め」にまで結晶させることができるのではないでしょうか。もしくは、この一節からさらに展開させるか、です。今のままだと、続きがないのが物足りなく感じます。 (みもりの日記 2)

2018-11-13

>めざめると同時に 自由の女神になっていた >すっくと立ち 右手を挙げ 情熱の象徴を高らかに天に示し >頭の中に声が響いていた「走れ!」  もう、この書き出しからして、参りました。このいきなりの飛躍に呆然としながらも「そうだ、その通り、正しい!」と納得させられる言葉の力技。  「なぎたおしたヨモギがうなだれて悲しそうだから何もせずに帰るわけにはいかない」という不思議なロジックも、当然のごとく「そうだよね」と納得させられてしまう。あたかも、夢の中でしか成り立たない奇妙なロジックが現実界を電撃作戦で制圧するかの如きパワフルさです。まさにるるりら宇宙。いつもの誤植女王振りも含め(笑)  「走れ!」というモチーフが図らずも象徴しているように、この作者から溢れ出る言葉は、ことばそのものがアクションなのです。アクションの叙述ではなく、ことばそのものが立ち上がり、腕を振り、地を踏み鳴らし、砂埃を上げて突進する。荒れ野に立つリア王の独白がそれ自体まさにアクションであるのと同じく、るるりら詩の抗し難い魅力は、常にその言葉たちが真の意味で「劇」の力強い「役者」であること。一愛読者として、本作を通じてそのことに初めて思い当たることができました。 (よしっ。いや、ちょっと マテ。 *)

2018-11-15

不思議な一文です。措辞はしばしば不器用で生硬、時に浅薄だったり青臭く感傷的だったり。いわゆる名文とは言えませんし、冴えたポエジーも機知もない。なのに、文全体をうっすらとした光が底から照らしているような不思議な生彩があり、その光に引き入れられ、最後まで読み通しました。言葉にし難い、読後の感銘。自己告白にはたいてい一種の不潔感が纏わりついているものですが、この一文にはむしろ「清潔さ」を感じました。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-18

 本サイトに投稿するようになったばかりの身ですので、差し出たことは言いたくありませんし、さまざまなご意見もあるでしょうが、一人の詩人、読書人の端くれとして、これは詩の投稿サイト上で目にしたい文章とは到底言いかねる、という感想を持ったことはお伝えしておきたく思います。小生ポリティカル・コレクトネスなる偽善には与しませんしフェミニズムの徒でもありませんが、読んでいて実に索漠とした失望感、虚しさに襲われました。不快さではありません。失望です。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

カオティクルConverge!!貴音さん >詩に対して失望したいのならどうぞ >この詩をご覧ください 別に何度読んでも構いませんが、詩に失望はしませんよ。あなたのこの作品が詩を代表しているわけでもないでしょうに(笑)面白いことを仰る方だ。まあ、これ以上の問答は双方にとって何の益もないと思われますので、これ切りに致します。ご健筆を。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

 鮮麗な詩的イメージの宝石箱、万華鏡といった風情の、たいへんな力作だと思います。言葉が溢れ出て止まらない、饒舌とさえ感じられる豊饒さですが、こうしたスタイルに付き纏うトゥーマッチさ、「飽食」感がないのは、音律、調子のコントロールが絶妙なためでしょう。要するに、言葉の運び方が実に快適なのです。リズムのこさえ方、崩し方も絶妙。  観念語と漢字熟語が一杯の難解な散文詩、というと悪名高い「所謂現代詩」の専売特許みたいなもので、そうした作品はこのサイトに限らずどこでも見かけますが、その大半は(名の知れた詩書きによるものも含め)作文の基本がなっていない、退屈で冗長な代物です。そうした凡庸な「所謂現代詩」と本作品が一線を画しているのは、上述したような作者の「耳の良さ」でしょう。一見して「読みやすい」「わかりやすい」作品ではありませんが、実際には非常に読みやすく、豊かな読詩体験を味わうことができます。優れた作品です。 (それは素粒子よりも細やかそれはあやとりそれは贈り物)

2018-11-26

 言葉の取り扱いがデリカシー豊かで、しみじみと「もののあはれ」が染みてくるような、素敵な御作です。非常に好きです。  擬音を漢字にする、という手法は、扱いを間違えればあざとい、あるいは見え透いた「異化」の試みに終わるだけですが、この作品では、こうでなくては表現できない何ものかがしっかりと伝わり、必然性を感じさせてくれます。「私が生まれたあの家が/この雪の重みに潰れてしまっていればいい」が詩情のクライマックスだと思いますが、この感慨に至るまでの抑制された語り口、透明感漂う結尾が、そのクライマックスに身に染みる切実さをもたらしていると感じました。 (影を送る)

2018-12-07

 言葉にしづらいが良い詩、とふじりゅうさんが仰る通りの感想を持ちました。ただ読むことが快く、何度でも読み返したくなる。それでいて何度読んでも「ああ、こういうことが言いたいのか」という感覚は全く起こらない。ことばの連なり全体が、メタファーでもサンボルでもなく、ただ「詩である」こと以外何もしていない。ゆえにそのまま、言葉通りに読むしかない。読み手にそういう種類の「沈黙」をさせるのは、詩に限らずどんな芸術分野においても、真にすぐれた作品だけがなせる業です。  すぐれた詩には、どのような読み解きや解釈を以ても達しえない「聖域」がある、というのが小生の持論ですが、この作品は、そのような「聖域」そのものが静かに端坐し、賢しらな「読み」を美しく峻拒している、といった感があります。メッセージや表題を持たない「純音楽」があるように、これも「純粋詩」――純粋に詩情のみで存在することばのつらなり、と言っていいかもしれません。  とはいえ、こういう詩をこそ読み解いてやろう、という批評者の意欲を掻き立てる作品でもあるでしょう。小生にはその気力はありませんが、読み巧者の皆様が本作をどのように読むのか、楽しみに見てみたい気もします。 (狭さより)

2018-12-07

 まりもさん、ふじりゅうさん、つきみさん、蛾兆ボルカさん、stereotype2085さん、みうらさん、fiorinaさん、ご高覧有難うございます。いずれもすぐれた書き手である方々からこんなにコメントをいただいたことに、作者自身ちょっと驚いています。というのも、本作は普段私が読みたい、書きたい種類の詩ではなく、抑え切れないインスピレーションに駆られてなかば已むに已まれず「かけてしまった」作品であり、読み手はもちろん書き手本人のことさえほとんど顧慮していないシロモノですから(笑)  その上で、皆様の御評を非常に興味深く拝見しました。ことに、空白の連を補作するというまりもさんの試みには虚を突かれました。「そうきたか」と(笑)  皆様さすがに練達の書き手であるだけあって、それぞれに核心を突いた鋭いご指摘があり、結構ひやっとしましたww 具体的にどなたのどのご指摘が、とは申し上げられません。答えを明かすことになってしまいますのでね。何しろ「秘法」ですから(笑)  みうらさんからは直接のご質問がありましたので、これには別にお答えしたいと思います。 (秘法(第一巻))

2018-12-13

みうらさん、  拙作を何度もご高覧くださったとのこと、恐縮するとともに深く感謝申し上げます。 >読解するためには必要な何か、読む為に必要な知識 >本作を読むにあたって、持っておかなければならない知識  それは、ありません。作者は読み手に「期待」することはできても、「要求」することはできない、というのが小生のスタンスです。  以前に別の所で、自分の作品の受け手をある程度想定している、という趣旨のことをかきました。読書経験の量・質・種類、趣味嗜好、リテラシーの程度などなど、漠然としたものではありますが、仮想している読者のイメージは常に念頭に置いています。  ですが、それはあくまで仮の想定であって、実際の読者への要求ではありません。いったん作品を世に出せば、作品は読者のものであり、筆者の意図やメッセージが何であれ、読者の自由な読みを拘束することはできないという、しごく平凡な結論になります。 「詩には前提知識が必要であるのか」  難しい問いですね。あるといえばあるし、ないといえばない(笑)前提知識があることが読みを豊かにしてくれることもあれば、邪魔になる場合もあると思います。「前提知識」のレベルや範囲をどう設定するか、にもよるでしょう。端的に、まず「日本語の知識」は必要ですわな(笑)古語を知らないと読むことさえできない作品もあるでしょう。また、拙作のように衒学的な術語を使用する作品は、近・現代詩にいくつもあります。たとえば宮澤賢治の作品なんて、科学術語のオンパレードです。じゃあ、そうした術語を知っていれば賢治の詩が「わかり」、知らなければ「わからない」のか?私は、「詩っているからわかる」という人がいたら、その人は詩のことなんか何もわからない阿呆だと思いますね。  一方で、そうした個々の言葉が何を意味するのか知らなくても、やはり賢治の詩は読み手に「響き」、感動させてくれます。詩の力、ことばの力は「教養」よりも上位にある、というのが私の(いささか理想的な)信念です。詩の営みがペダンティズムに陥ることは厳に避けるべきであり、ことばの原初的な力、ものとしての実在性、存在感をいかに扱うかという工夫こそが、私たちの仕事なのではないか、と思うのです。お答えになっているでしょうか? (秘法(第一巻))

2018-12-13

上記の書き込み、誤植を訂正します。 「詩っているからわかる」(誤) →「知っているからわかる」(正) 失礼致しました。 (秘法(第一巻))

2018-12-13

るる姐さん 白虎隊への選出、ありがとうございます!! これから、若松城死守のために薩長軍に突撃かけてきます。出陣。 (【フル】るるりらの選評 11月)

2018-12-15

「EVELISING IS  OK!」は、「EVERYTHING IS OK」のミスタイピングでしょうか。それとも、何か意図があってのことなのでしょうか。無論、意図は読者が読み取るべきものでしょうが、私にはその意図は酌み取れませんでしたので、敢えてお聞きする次第です。 (静寂と死の詩というウソツキ)

2018-12-17

つきみ様、 ご高覧有難うございます。 >続きがあるなら見たい  この作品世界では、この後人間の世界は終わっており、ゆえに詩もない世界なので、続きはありません(笑)  どうということもない筆のすさびみたいな作ですが前回投稿の「秘法」より作者自身は遥かに気に入り、満足しています。「秘法」には思いがけず多くの方の感想を頂きましたがこちらは殆どなし。親友の文藝批評家からも「生で厳しい」との評を貰いました。そういうものですね。 (墓碑銘)

2018-12-26

つきみ様 再度の御評並びに懇切なご助言有難うございます。ま、精進しますわ。 (墓碑銘)

2018-12-30

みうら様、 ご高覧有難うございます。ご質問ですが、「古語」というのは旧仮名遣い(正仮名遣ひ)のことと受け取って、お答えします。  何故使うか、というのは、一言で云うなら「その方が好きだから」で、それに尽きます。折角なので?もう少し付言すれば、詩を書く上での仕事道具でもあり、素材でもある言葉は、自分に馴染み、親しみがあり、落ち着くものを使いたいという理由によります。ギタリストがアンプを選ぶのにトランジスタではなく真空管を選ぶ、珈琲を入れるのにペーパーフィルターではなくネルを選ぶ、というのとさほど変わりません。  もちろん、日常の用を足すのには、用が足りればそれでよいので小生も現代仮名遣いを使います。正仮名を使えればその方が気分は良いのですが、無用の困惑を招いて面倒でもあり、却って居心地の良くないことになるので使用しません。詩をかく際にはそうした「用」から解放されて自由に言葉を用いることができるので、正仮名を使います。詩をかく時にまで馴染めない、親しめない言葉を我慢する理由はないからです。  もうひとつ、言葉というのは伝統に連なり、連続する持続の中で変容していくものだと思いますが、人々の間で用いられていく中で様相を変える「自然」を、制度によって人為的に改変してしまった、現代仮名遣い導入時の経緯に対するささやかな反抗でもあります。詩人なら言葉を大切に思うのが当然ですから、我々が日々用いている言葉を言葉にしてきた伝統を大切にしないわけには行きません。正仮名遣いを使うのは、それが使用されてきた言葉の伝統に自身を結び付けるよすがのようなものです。  とはいえ、現代仮名遣いが使用されるようになって七十年、人々がこれに馴染み、慣れ親しんで新しい伝統がつくられていることも事実であり、それに応じた言葉、詩がつくられていて、それを楽しむ人々がいるというのを否定する積りも拒絶する積りもありません。ただ、私自身のかく詩はそこに属するものではない、というだけの話です。私としては唾棄すべきこの時代と文化にもう十分に譲歩しているのですから、こういう言葉が現代において棲息する場所くらい許してもらいたいものだ(笑)と思います。ご質問へのお答えになっていれば幸いです。 (墓碑銘)

2018-12-30

エイクピア様  ご高覧有難うございます。  大人のための、という意識はないのですが、童話の世界が作品の中に入り込んでしまうことがよくあります。特にファンタジーや神話の類が好きなわけでもないのに、どうしてなのだろうなと自分でもよく不思議に思います。言葉を探っているうちに自然とそうなりますので、幼少時に童話や少年少女文學から得た豊かな経験が自分の言葉の世界の核心にあるのかもしれませんね。 (墓碑銘)

2019-01-01

仲程様、ご高覧有難うございます。  読み手に情景が浮かぶというのはそこでは言葉が曲がりなりにも有効に働いたということでしょうから、どうやら詩にはなっていたようですね、安堵致しました(笑)  語法、文法というのは後付け、後追いですわな。当たり前の話ですが。言葉を有効に働かせる、言葉を生かす、という無数の例があって、そこに法則性を見出す、或は整理するというのが文法・語法であって、文法・語法が言葉の用い方を規定するわけではない。無数の言葉の海の中に、まだ見出されていない、あるいは見失われている有効な言葉の働かせ方はいくらでもあり、それを掬い上げるのも詩人の仕事のうちだと思います。「とある方々」を具体的には存じ上げませんが(笑)現に生きた言葉の働きを感じることができず、(後追いの索引体系に過ぎない)文法・語法上の適否の判断しかできない方というのは、ときどきいますわな(「文字通り君」と私は読んでいますが)。そういう方々は言葉に触れるという営みにおいて、そもそも不感症、不能者なのです。なのに詩に関わっていたりする。世にも不思議なことですなあ。 (墓碑銘)

2019-01-06

>別れのようであり >招きのようであり >溢れるのは、温度をもつ >朝と夕に焼けた飴色。 ここは実に見事だなあと。精確で洗練された、優雅とさえ言いたい鮮やかな印象を受け取りました。 冒頭から前半部はモダニズム詩の筆致を連想しましたが、古風に響くのはスタイルよりも選語の生硬さによるものでしょう。読んでいて結ばれるイメージが獏として明瞭さを欠きます。結尾の投げ出し方は素晴らしい。気持ちよく空間が拡がる思いがします。(印象評のみのライトレスで申し訳ありません。) (泳ぐ器)

2018-12-28

精神が自在に動いて、その動きの精妙さがやがて言葉の形を得て、眼前に広がる世界が同じく精妙な姿でそこに現れることに目の覚めるような思いがします。新鮮な空気を吸い、自分というものが世界に広がっていくような感覚を味わうことができました。こういう作品を拝読すると、詩を味わう時間の鮮やかさとそれ故の豊かさというものを改めて実感します。 (フィラデルフィアの夜に Ⅸ)

2018-12-25

 紛うことなき作者自身の声、語り口がはっきりと現れていて、その語り口と不可分に結び付いた心象や感情の推移に気持ちよく身を任せることができ、快い読詩の時間を味わえました。  ただ、空白後の締め括りの部分がどういう訳かイージーに響き、物足りない思いがしました。この箇所にかぎっては作者独特の「声調」が影をひそめ、どこの誰が言っていてもいいような、ゆえに響きもせず心にも残らない行に留まっているように感じ、そこが残念でした。 (ヒューマノイド)

2018-12-26

 それが作者自身のものであるかないかに関係なく、一人の人間の独特な声調が読み手に明瞭に感じられ、心惹かれます。この語り口で四十行、五十行続いていてもただ気持ち良く耳を傾けていられそうにも思いますし、これで終わりかという気分にもなりますが、「はい、これで終わりですよ」という素っ気なさも語り手の声調に含まれるものと感じられ、不満はありません。死というモチーフが「軽み」に達している、余韻深い詩情を味わいました。 (わたしは死ねばいい)

2018-12-29

新しいお名前に変えられたことは先日気が付いたのですが何とお読みすれば良いのかが分からず困っておりました(笑)たまきほのみさん、ですね。ひらがなの方が可愛いように思うのですが、如何でしょうww それはともかく、拙作を優良作品に選んで頂き有難うございます。求める基準の非常に厳しい選者に選んで頂いたことは、詩書きとして大変励みになります。御眼鏡に適うような作は中々かけるものではありませんが、ともあれ巧拙を省みずかき続けて行く中で、いくらか増しなものをお目に掛けることが出来ればと思っております。 (十二月分フル選評。)

2019-01-16

 拙作に過分のご評価を頂き、有難うございました。自分は何であれ「賞」の対象になるような作品をかいている詩書きではない――と思って参りましたので、候補に挙げて下さったことを嬉しく思う(人間が幼稚に出来ています故、褒められることは好きです)反面、意外にも感じております。仰る通り、普段の自分がかかないものをかいてしまったことが、自分では予想し得ぬ反響を生んだのでしょうか。  このところ周期性のスランプ中で詩をかくことは愚か読むことさえ全く気が進まない状態で、詩書きらしいことを何ひとつしていないのですが、これを励みにまた活動に復帰出来ればと思います。その意味でも重ねて感謝を申し上げます。 (2018年12月分選評【フル】 stereotype2085からの鼓舞「汝、冒険せよ」 )

2019-01-16

素晴らしい。柔軟絶妙のポエジー。思考の展開がいちいち新鮮で快く、胸がすくようです。さいきんこの界隈で読んだ中では白眉です。 (失われていく、)

2019-01-21

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