B-REVIEW作品投稿掲示板


秋へと落ちていく音階のフアンタジア   

ishimuratoshi58 
作成日時 2018-11-06
コメント日時 2018-11-23

 

 あの子が樂譜を取りにいつたままかへつてこなかつたこの森から村に戻る時気をつけるに越したことはないといふのは風のさやぎに入りまじつて埋められた身體たちが折々にするどくさけぶいきどほりについ耳をかたむけてしまふのでわたしはかの女がのこしたリボンに結ばれたままあざやかな色彩への凋落をはじめた樹々の根方で年老いていくことをえらび苔のなめらかなみどりをすきとほつた昔の骨でなぞつたり提灯袖のブラウスに紺のスカアトの妖精と七ならべをしてあそんでゐたりするとうつかり時をわすれてひとの世がとうにおはつてゐることにきづかなかつたりすることがあるといふいかにもおろかな理由であるがそんなことを知らせておくねうちがあるのは空も水もまだ言葉にけがされることなく淸かに澄んでゐた時代に想ひびとをおもふあまりかなしげなおももちの花になつてしまつた村むすめのことをいまもわすれずにゐる羊だけだらうからわたしのことばは綴ぢ紐の切れた書物の頁(ペエヂ)の隅に走りがきされたままだまつてゐたはうがいいのさ。


コメント欄を隠す
沙一 (2018-11-07):

はじめまして。 旧仮名遣ひが好みです。 こちらでこのやうな作品に出逢へて、稀な喜びを感じてゐます。 どこか昔なつかしい、きれいな世界だと思ひながら読ませていただきました。

帆場蔵人 (2018-11-08):

読めば読むほどに秋が深まっていく、秋が暮れていく心持ちになりました。ひとつひとつの言葉を考えるよりも読みあげながら流れに身をまかせて楽しませていただきました。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-11-08):

読みづれぇって感想が真っ先&全面に出てくる 可読性が低い。それは意図的なものだろうが、しかし演出だとしても苦痛を伴う読書は脱落者を生む。

ishimuratoshi58ishimuratoshi58 (2018-11-10):

沙一さま  ご高覧ありがたうございます。折角正仮名でコメントを頂戴したので、小生も正仮名でお返事するのが当然の礼儀でせうか。日常の書き物において正仮名を使ふのをやめて既に20年以上経ち、今はすつかり鈍つてしまいましたが(笑)  正仮名の作品を楽しんで読んで下さる方がこちらにゐらつしゃるといふのは、小生にとつても望外の喜びでした。絶滅危惧種同士(笑)、今後ともご厚誼を賜れば幸ひです。 帆場蔵人さま  ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。 >ひとつひとつの言葉を考えるよりも読みあげながら流れに身をまかせて  ああ、そのようにお読みいただければ、作者としてまさに本望です。それに勝る喜びはありません。重ねて感謝申し上げます。 渡辺八畳@祝儀敷さま  ご高覧ありがとうございます。「読みづれぇ」ですか、うーん、ごもっとも(笑)一文でどれだけ長くかき、詩作品として完結したものにできるか、という私的実験でしたので、読みやすさはある程度犠牲にしました。そういうご感想をお持ちになるのも無理からぬことでしょう。  「可読性」や「苦痛を伴う読書は脱落者を生む」ということについては、また別の視点もあるかと思います。  私が自分の作品の読み手として想定している読者層の嗜好、感性、読書の傾向や経験などから考えると、この作品を読むことは別にむずかしくも苦痛でもないというのが作者の予想でした。実際に、拙作を読んでくださった何人かの方からご感想をいただきましたが、読みづらい思いをされた方はいないようです。「可読性が低い」というご評価は、個人的な感想ではない一般的な価値判断と読めますが、そのように容易に一般化できるものだろうか、という疑問を正直なところ感じました。  例はあまり的確ではありませんが、たとえばモンテヴェルディやバッハを愛好している音楽ファンにとって、ラップは耐え難い騒音でしかないでしょうし、ハードコアパンクの好きな人がブルックナーの交響曲を80分にわたって聴かされるのは最悪の拷問でしょう。オーディエンスの層の違いというのは、どのような芸術の分野にも存在すると思います。  もちろん、真に優れた天才の作品、パフォーマンスは分野や層の違いを超えて広く人の心を打つでしょうし、万葉集研究一筋に打ち込んできた大学者が最も先鋭的な現代詩に感嘆するということもあり得るでしょう。ですが、私は発信者としても受信者としてもポンコツであり、とうていその域にはありません。あらゆる読者層に訴えかける傑作をかいてやろう、という野心も既にありません。自分のかきたい詩をかき、こういう作品を愉しんで読んでくれるであろう読者に届ける。それ以上のことは望んでいません。詩を長年かいてきて、今はある意味己を知る、という時期にいるのです。

stereotype2085 (2018-11-10):

句読点が一切なく、一気に読ませるというある種の試みに今一つ意味を見い出せなかった。だがコメ欄において筆者様のご意見を拝見し、なるほどと納得した。映画「アマデウス」で「何というか…音数が多い(陛下)」「そんな! 不必要な音は一つもありません!(モーツァルト)」というやり取りがあるのですが、そういう域にご自身、筆者様が到達しているのかもしれません。

杜 琴乃 (2018-11-10):

石村さんが仰る「こういう作品を愉しんで読んでくれるであろう読者」の一人です。この文体は私が憧れてやまない、けれど私にはとうてい書けないもの。正仮名遣い、やっぱり美しいです~!「萌え」です。 「リボンに結ばれたままあざやかな色彩への凋落をはじめた樹々の根方」 「苔のなめらかなみどりをすきとほつた昔の骨でなぞつたり」 「空も水もまだ言葉にけがされることなく淸かに澄んでゐた時代に想ひびとをおもふあまりかなしげなおももちの花になつてしまつた村むすめのことをいまもわすれずにゐる羊だけ」 これらの細やかな描写にくどさを全く感じません。素敵。私にとっては憧れがいっぱい詰まった贅沢な作品です。 句読点のないことに関しては、そういう私の嗜好性を掻き立てまるで宝探しをしている気分になりました。 読めて良かったです。有難うございます。

fiorina (2018-11-10):

私はこの詩をヒエログリフのように、秘密が綴(つづ)られ、解き明かされるのを待っている 風の文字、のように読みました。ですから、この文体は作者ではなく、詩によって選ばれたもの。 ヒエログリフは王の永遠性を書き記したとか? この文字は、ごく普通の人(びと)の永遠性を 羊の皮という失われゆくものに綴って、気付かれないまま滅びてしまってもいい、と言うところが、素敵だなと感じました。 それは作者自身の詩への思いに通じるのではないでしょうか。 「風のさやぎに入りまじつて埋められた身體たちが折々にするどくさけぶいきどほりについ耳をかたむけてしまふのでわたしは」 現代に生きる私たちの近い記憶を揺すぶりながら、 遠い日に埋められた身體たちがふいに足首を掴むような心地がしました。

蔀 県蔀 県 (2018-11-10):

題名だけやや不満です。綿々と切れ目なくつづく文章からは、たとえば「妖精と七ならべ」のくだりなど、想像力を掻きたててくれるものを感じますし、そのほか映像的な鮮やかさをもつフレーズがぽんぽんと続いてきて、たいへんおもしろく読みきることができました。旧字旧かなの硬さと、全体のやわらかさがうまく融合されてあって、作者様の相当な力量を感じます。が、題名だけ、やけに軽い調子に見えて、内容から浮いているように思ってしまいました。たぶん、読点がないのにきわめてわかりやすい本文に反して、こっちの短いフレーズのほうは抽象的だからだと思います。題名もばしっと決まってたら最高に恰好よかったなあと惜しんでしまいました。しかし全体としてはかなりの出来栄えであると感じます。

ishimuratoshi58ishimuratoshi58 (2018-11-11):

stereotype2085さま ご高覧ならびにコメントありがとうございます。「音数が多い」…ありましたねえ、そんな逸話が。モーツァルトの逸話に擬えられるのは、光栄を通り越して滅相もない、恐れ多い!というのが正直な気持ちですが、何ひとつ付け足しも削りもなく一気にかき通し、推敲もほとんどしなかったのは確かです。何か憑き物でも憑いていたのでしょう。 杜 琴乃さま 身に余るコメントありがとうございます。嬉しいやら恥ずかしいやら(笑)これ以上何か書くとバカなことを言ってしまいそうなので、やめにしておきます。これからも「萌え」な方々に喜んでいただける作品がかけるよう、お言葉を励みに致します。 fiorinaさま そうか、私がこの作品をかいた時に何が「憑いて」いたのか、いま判りました(笑) それ自体がすぐれた詩であるような美しい批評を頂き、光栄です。「作者自身の詩への思い」を酌み取って下さった細やかなお心遣いにも感謝致します。 蔀 県さま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。題名は、そういえばどうしてこうしたのかなあ、と思い返してみました。ものに憑かれたように一気にかき上げた後、はたと我に返って題名をどうしようと考えてみましたが、どのように気の利いたタイトルを付けても浅はかな嘘になるような気がしてどうにも思い付かず、なかばやけくそで「これでいいや」と書きなぐったものであった、と思い出しました(笑)やはり、注意深い読み手には伝わるものですね。とはいえ、「最高に恰好よく」決まらない方が自分の作品には相応しいとも思います。柄でもない、というやつです(笑)

芦野 夕狩芦野 夕狩 (2018-11-11):

はじめまして。 黄昏のような文章だな、と思って読んでいました。 耽美というのはこういうことを言うのだな、と。 >樂譜を取りにいつたまま という詩句で、いきなり掴まれるような気も致しますが、そういう空想をどうつなげていくのだろうか、とワクワクしながら読んでいますと、 「埋められた身體たち」、「するどくさけぶいきどほり」などの徐々に肉感の湧いてくるような、おそれというものに近いであろう感覚を受け取り、 見事に物語の独自性の中に取り込まれました。 「ひとの世がとうにおはつてゐることにきづかなかつたり」 と突然の転調を知らされますが、ここまで読まされるとただ心地が良いですね。 「空も水も…」からの詩文は、ギリシャ神話のパンと追いかけられたニンフの話(うろ覚え)にシフトしているようで、いつのまにか二重奏になっている心地よさを感じ、最後の「走りがきされたままだまつてゐたはうがいいのさ。」という締めくくりがより鮮やかに映ります。 空想的なお話って大体とんねるをくぐったり、深い穴に落ちたり、その契機がはっきりしているものが多いと思うのですが、私はどちらかというと泉鏡花のかく幻想小説の境目のはっきりしない黄昏のような文章が好きなので、とても面白く読みました。

みうら (2018-11-11):

幼な子が持つ表現の役割としての言語とは、動物性が宿る直裁な発し方ではなかろうか。自然を前にしてその森や風を表わそうとする時、大人である私には用いれる言語が無い。巧妙なレトリックが思い付けてもそれはあざとい。本作にある魅力は、その大人が不思議を語るに用いるであろうあざとさを消しているところにあるのだと思う。言うまでもなくそれは句読点を排除し韻読みを誘う作用によって動物性を語り手にもたらしている。自然が持つ神話性を表わす動物性の言語への回帰を難なくやれているところの筆力を思った。 また、話が逸れてしまいますが、ビーレビの楽しみ方の一つに「読めない、解らないでスルーしたい作品を敢えて読んで自分の言葉でコメント付けたい」というのがあります。最近、久しぶりに小林秀雄の本を読んでいるのですが、そのなかに「〜的な〜主義のという他人の言葉を借りての物言いは批評ではない」という趣旨の話がありました。私は無知無学なもので読解が難しいと思ってしまう作品がたくさんあります。自分がコメントしてしまうと作者を怒らせてしまうのではなかろうかといつも考えます。いや、現実に怒らせることがありました。また、ビーレビに本格的な批評を求められ参加された幾人かの作家の方が望まれたような批評が得られずに残念な気持ちを表され去られました。正直に申し上げますと悔しさが今もあります。そんな気持ちもあり、、何をコメントしたいのかわからなくなってしまいましたが笑、これからも当掲示板への参加を楽しんでもらえますと嬉しいです。私も現在は運営の立場ではありませんが。

ishimuratoshi58ishimuratoshi58 (2018-11-12):

芦野 夕狩さま ご高覧ならびに懇切なご批評、ありがとうございます。すぐれた読み手に自作を読み解いてもらえるのは、愉しいものですね。「自分が何をかいたのか」を改めて教えてもらえるような気がします。 >境目のはっきりしない黄昏のような文章 そういえば、私自身の好きな作品も、リアルでありながら異世界と地続きのようなものが多いな、と気付きました。詩に限らず小説も音楽も。現実だって幻想のひとつにすぎないじゃないか、そんなに威張るな、という反現実主義の賜物でしょうか(笑) みうらさま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。真摯な読み込みから生まれる言葉は、作者にとっては常に新しい自己発見の愉しみを与えてくれる、貴重な言葉です。参加して数日にしかなりませんが、拙作にそうした貴重なお言葉を何人もの方が下さったことは望外の喜びでした。「読めない、解らないでスルーしたい作品を敢えて読んで自分の言葉でコメント付けたい」という困難な課題に熱心に取り組んでおられる方々がおられることにも敬意を表したいです。小生は物ぐさで「スルー」がほとんどなのですが、出来得る限り、レッサーとしても貢献できればと念じております。不束者ですが今後ともどうぞ宜しく。

藤 一紀 (2018-11-22):

こんにちは。良い意味で読みづらかったです笑。旧かなで(私は新かな、旧かなという呼び方に慣れているので敢えてそのように書いています。)句読点がないというのは、ずるずると水分を吸って重たくなったものをひきずる感じがあって、歩行でいえば歩きにくいです。しかし、言葉の物質感というのかな、それをたしかに感じられるのでちょっとした発見でした。 近代詩のなかに句読点をはずした散文詩形の作品はないかとちょっと探してみたのですが行分けか、句読点つきがほとんどでした。頑張って草野心平の作品の、これも句点はあるのだけど、比較的長い詩文を拾ってみました。 《(冒頭略) そのまんなかを黄色いパステルのやうな道がのび向ふ側までつづいてゐるらしくそらが天末で消えてゐる。》(「音のない風景」部分、草野心平) すると、今作品ほどひきずる感じがしない。ネット媒体と紙媒体の違いかと思って書き出したのだけど、どうもそれとも違うみたいで。とすれば、長さと接続の処理以外にもひと工夫あるんじゃないかと思った次第です。 ともあれ、近代詩によくあるような湿気った感じがしないのは「リボン」「ブラウス」「スカアト」「妖精」といったような語がどこか西欧風のイメージを醸しているからかもしれないですね。私はなにげにリップ・ヴァン・ウィンクルの物語を想起しました。 余談ではありますが、かつて詩人の那珂太郎が「旧かなを遣わないのは日本語を愛していないからだ」と言ったという話を思い出しました。

ishimuratoshi58ishimuratoshi58 (2018-11-23):

藤 一紀さま  ご高覧ならびに懇切な御評に感謝致します。いろいろと興味深いご指摘を頂きました。自作自解は厳に慎むべきですが、ひとつ思ったのは、引用してくださった草野心平の一節との相違について。草野さんの一節は、小説やエッセイの文中にそのまま置かれても違和感のない叙述文ですね。読点がありませんが、入れたとしても表現の質、効果はほとんど変わらない。拙作はこの一文が一個の抒情であって、切り離すことができません。「読みやすく」する分かち書きにすることも試みましたが、そうすると表現されるものが全く変わってしまう。この一連の詩句があくまでも一体なのです。その意味で、読点で区切ることもやはりできない。その結果です。この一文全体がひと息に述べられている抒情であることが「ひきずる感じ」というご印象に関係しているのかもしれません。  那珂太郎さんの言葉は、心情的には極めて同感ですが、無用の反発を招くので小生でしたらこのようには申しません(笑)「旧仮名を使うのは、日本語が好きだからです。」と言い換えておきましょう。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

投稿作品数: 1

© B-REVIEW 2018