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めるふぇん   

作成日時 2019-07-03
コメント日時 2019-07-17

人魚のことばは あぶくです なにを しゃべっていても 語尾はいつも  めるふぇんて わたしたちには きこえます うろこののこる おみあしは めるふぇん です 人魚のゆびさきは 笹船のように水をはじきます かすかにのこる 水かきが めるふぇんです 脱皮したての人魚は 白い靴下を履くのが しきたりです まだ うろこののこる足の指が じゅくじゅくするのも めるふぇんです 大勢の人魚が 真白な靴下だけをはいて 丘にあらわれると しだいに おみあしの めるふぇんが消えてしまいます しだいに きれいなゆびのあいだの めるふぇんなみずかきも消えてしまいます やがて とうめいな光が  全身をつつみ めるふぇんな あぶく言葉を わすれてしまいます 朝日が燦々とあがると  滑舌の良いことばを急に喋れるようになり、変な感じがして みんな笑います 


項目全期間(2019/07/20現在)投稿後10日間
叙情性6751
前衛性3434
可読性2828
エンタメ3029
技巧5151
音韻5150
構成5959
総合ポイント320302
 平均値  中央値 
叙情性5.25
前衛性2.60
可読性2.20
 エンタメ2.30
技巧3.92
音韻3.90
構成4.51
総合24.610
閲覧指数:2389.3
2019/07/20 14時34分59秒現在
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コメント数(32)
蛾兆ボルカ (2019-07-04):

蛾兆ボルカ (2019-07-04):

あっと!空欄でも名前だけ記録されるのですね。 まだ批評を書く用意はできてないのですが、悲劇であるアンデルセンの人魚姫を転換する手際の見事さに感嘆しました。 悲劇という言葉を、私はアリストテレス/ニーチェ/バタイユを踏まえて、惨劇とは区別して使うのですが、この作品へのコメントとしてはどう説明するのが良いのかまだ整理できていません。 でもこれは悲劇を別のものに構造的に変えるにあたり、語ることを=カタルシスを支点として用いていると思います。 そこが素敵だなあ、と。 あと、音素がとても良いです。先行する名作「一つのめるふぇん」の影響により、メルヘンとは、砂であるような感覚を我々は予め持っていると思うのですが、かの名作を凌駕して、とても素敵に泡の印象を上書きされました。

南雲 安晴 (2019-07-04):

 良いリズム。  造語的『めるふぇん』が生き生きしています。 >人魚のゆびさきは 笹船のように水をはじきます 『笹舟』にるるりらさんの想像力を感じます。 >滑舌の良いことばを急に喋れるようになり、変な感じがして みんな笑います  ここに、人魚みんなの心情の力強さを感じます。

羽衣なつの羽衣なつの (2019-07-05):

わたしがこの作品で強く印象を受けたのは "断言" の力、です。さいしょからさいごまで、ほとんどすべての行でなにかが断言されています。「人魚の言葉」が「あぶく」である、とか、「語尾」はいつも「めるふぇん」にきこえる、とか、ふしぎなこと、ふつうには聞いたことも考えたこともないようなことばかりが書かれているのですが、この作品の世界ではすべてが「当たり前」のこととして、断言されています。  人魚のゆびさきは 笹船のように水をはじきます  かすかにのこる 水かきが めるふぇんです  脱皮したての人魚は 白い靴下を履くのが しきたりです  まだ うろこののこる足の指が じゅくじゅくするのも めるふぇんです ここも、すごいです。ただ表現がうつくしいとか、生き生きしているとかいうのではなく、まったく新しい、目にしたことも耳にしたこともない情景なのに、読んでいて、ありありとした実感があるのです。作者の想像力でこしらえたもの、というかんじは、わたしにはしません。わたしが気づいてなかっただけで、ほんとうはずっとそこにあった世界に、新しく出会ったように、作者がわたしをそこに導いてくださったように、わたしには思えるのです。  朝日が燦々とあがると   滑舌の良いことばを急に喋れるようになり、変な感じがして みんな笑います この情景も、わたしが生きているつもりの現実?世界では出会ったことのないふしぎな光景ですが、この作品の世界では、当たり前のこととして "断言" されていて、「変な感じがして みんな笑います」という光景や人魚たちの気分に、どういうわけかすごく実感が持てます。感情としてはあかるく、たのしい光景なのですが、あまりにもふつうに実感できるので、読んでいてちょっとおそろしい気がしたほどです。 わたし自身をふくめ、詩のように見えることばで、作品のようなものがあちこちにいくつも書かれています。でも、こういう力をもったことばに出会うことは、めったにありません。 こういうのがほんとうの詩で、こういう作品を書く方こそ、詩人なのだと思いました。

survof (2019-07-05):

小学校の頃、詩を書いてみましょう、みたいな授業があって、その時取り上げられたのが、たしか宮沢賢治の「やまなし」でした。作者にしかわからない独特な言語で語られた一つのメルヘンは、今でも私の心の底でゆらゆら揺らぐ光の影として、確かな一つの実体を持っています。思考のための言葉としてそこにあるのではなく、感覚のための言葉として、そっとそこにある様、この「めるふぇん」においても、まさに「やまなし」が持っている人肌に触れるような繊細な温度感を伴って身体に浸透していくような気がしました。常に論理的な言葉たちに支配されている私にとっては、言葉というものは時々非常に苦しいものに思われるのですが、このように論理から自由になった、感覚のための言葉、言葉としての言葉、そしてそのように論理から自由でいる言葉の持つ暖かい身体性、といったようなものに触れる時、非常な安心感を感じると共に言葉に触れることの一つの大きな歓びを知るような気がします。

石村利勝 (2019-07-05):

 溢れるポエジーを抑えかねてしばしば筆が走り過ぎ、滑って転んだりするもこともある作者。その走りっぷりや滑りっぷりさえもが常に詩的輝きに充ち、魅力的であることも事実なのですが――本作はそうした走りや滑りがなく、すべての言葉が見事に所を得ており、真の意味で完成品であるがゆえの簡潔さと純良さに達しています。間然する所のない快作にして名作だと思います。

トビラトビラ (2019-07-06):

絶賛されているので、あえて粗を探してみました。 >朝日が燦々とあがると ここのところなんですけど、「朝日が燦々と上がると」ということか、「朝日が燦々と当たると」という誤字なのか、どっちなのかなとちょっと思いました。 内容を見ていくと、人魚とは子どものことなのかな。 それも1、2歳くらいの歩くことも話すこともままならない、幼い子ども。 陸に上がる、つまり現世に馴染んでいくことで、めるふぇん(=神聖さみたいなもの)を失っていく。 失うことを、一抹の悲しさを抱えながら受け入れる。 そして、それは生き続ける限りずっと続いていく。 大人と言われる齢になった僕らも、日々、めるふぇんを失っていく。 誰にとっても避けようがなく。 そういうことを表現している。 だから、これだけの人に響いてるのではないかと思います。 その上で、僕の意見を書くなら、人はどうしようもなくめるふぇんを失っていくだけの存在なのか、ということです。 あぶく言葉だって、思い出せなくなっているだけで、心の中に眠っていて、水かきだって、もう二度と張らないわけじゃない。 そう思うことこそ、メルヘンチックに思われるかもしれないけど、めるふぇんは人から失われていくものではなく、発揮されなくなっていくだけなのではないか。 そんな風に感じる作品でした。 「大人」になっていくという意味で、普遍的だと思いますけど、個人的にはどこか物足りなさを感じるのも事実で、なんでだろうと考えたとき、この「めるふぇん」という作品にこそめるふぇんさが足りないのかな。 情景的にメルヘンではあるけど、詩情的にめるふぇんではない。 詩情的にはむしろ、悪く言えば、現世の垢にまみれている(まみれていく)。 それを甘受している。 そういう感じがするのが、物足りなさなのかもしれません。 もっとも、これは僕の個人的な好みですが。

仲程 (2019-07-06):

めるへんでもめるひぇんでもなく、 めるふぇんなんだろうな、と勝手に納得しています。 羊水の海の中で僕らの細胞は分裂しながら進化をたどり、やがてえらを無くし、水かきを無くし、尻尾を無くし、その記憶を無くす。それもめるふぇんかとか。

るるりら (2019-07-08):

●蛾兆ボルカ さんへ あっと!蛾兆ボルカ さんのコメントをとてもひさびさにいただけしまた。とりあえず、とても嬉しいです。人魚といえば アンデルセンの人魚姫をまず思い浮かべるものですよね。あれは、悲劇でした。そして、悲劇といえば ギリシアの三大悲劇の条件は 失敗から始まると、どこかのだれかが言ってました。蛾兆さんは おもいがけず、コメントを書いたほうが良いとお思いになったのですね。嬉しいなあ。ああ私のは、ええそうですとも悲劇ではないです。そうです 喜びの詩ですとも。 あと、音素がとても良いです。だなんて、きゃあ。嬉しい。しかも先行する名作「一つのメルヘン」あれを読んだのはたしか学生時代の教科書でした。なにやらとても しずかですずやかな心境になったものです。 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、 今迄流れてもいなかった川床に、水は さらさらと、さらさらと流れているのでありました…… すばらしすぎて、評することなんて 私にはできないほどの うつくしい変化です。ちいさな小川が私の胸のうちに生じた気がします。ありがとうございます。批評の準備ができてないとおっしゃっていたので、もし よろしければ、またコメントをくださいませ。ありがとうございます。

るるりら (2019-07-08):

●南雲 安晴 さんへ  >人魚のゆびさきは 笹船のように水をはじきます 『笹舟』にるるりらさんの想像力を感じます。 昨日は、七夕でした。『笹舟』は おもむきのある舟ですよね。七月七日のうちにありがとうございますが、いいたかったな。そこに 着目してくださって嬉しかったですよ。 >滑舌の良いことばを急に喋れるようになり、変な感じがして みんな笑います  ここに、人魚みんなの心情の力強さを感じます。 ↑ おおらかな感じに書いたつもりでしたので、力強さという評は 嬉しいです。ありがとうございます。

るるりら (2019-07-08):

●羽衣なつの さんへ 過分なお褒めをいただき恐縮です。この詩を投稿した直後に、道を歩いているときに なんとなく、小学校のときの友達同士で相談をして 私が代表になって教師に嘘をつこうという話になったのを思い出していました。なぜ 突然ウソをついたことを思い出したのかコメントを拝読して、理由が分かりました。日頃は、断言めいた詩文をあまり書いたことなんてなかった私なのに、この詩文ではなぜか迷いのない断言的な詩文を書いているのです。 なぜ この書き方を選択したのかは、自分でもよくわかりません。けれど、よい効果が得られたようですね。コメントをいただいた おかげで羽衣なつのさんの心に届く詩が書けたことがよく分かりました。とても嬉しいです。ちょっとした奇跡を感じます。ありがとうございます。 ただ最後の行だけは、どうなのでしょうか? たまたま書けただけですよ。でもとても嬉しいです。投稿してよかったです。ほんとうにほんとうに、ありがとうございます。

るるりら (2019-07-08):

●survof さんへ 身体感覚を感じさせる文章に わたしは憧れてきました。だから、人肌に触れるような繊細な温度感を伴って身体に浸透していくようだという評は、夢ではないかしらと おもえるほどです。 宮沢賢治の「やまなし」は、細部をわすれかけていたので 読み直してみました。水と光の揺らぐ感触が伝わる世界は 人魚の故郷と通じるものがあり興味深く読みました。検索で朗読を検索したら 知り合いが朗読をしていました。わたしは その方がなんとかぷかぷの蟹座であることを知っていました。わたしも蟹座でして。わたしは今、おもいがけず宮沢賢治の「やまなし」の二匹の蟹の子供のようにはしゃいでいるところです。 それから おかげ様で、私は自身の最大の弱点に きがつくことができました。それは、わたしはロジカルに物事を考えるのが苦手であるという点です。 論理は苦手なのです。論理から自由になったというより、論理的に考えるのは得意ではありません。しかし 論理的でないことで、ときには安心感をあたえる文にもなることを知りました。これは、わたしには希望です。ありがとうございます。

るるりら (2019-07-08):

●トビラさんへ なかなか刺激的なコメントをありがとうございます。誤表記を教えてくださり、まずは ありがとうございます。 >朝日が燦々とあがると 「朝日が燦々と上ると(のぼる)」という意味です。 辞書と照らし合わせた結果。のぼる。と読むのが、正しいです。 ご指摘ありがとうございした。 誤表記の指摘は嬉しかったです。簡単にお礼が申せて安心だったからです。しかし、トビラさんと私が描きたかった世界とは、おおくの箇所で齟齬が生じていると感じています。そのせいで、トビラさんが言っておられることが 私には あまり良くわかりませんでした。 まず、わたしは人魚を描こうとしています。しかし、トビラさんは人魚とは一歳から二歳くらいの人間の比喩が人魚だと解釈をしておられます。むろん、詩作品を発表した後は、作品は作者の手を離れて読者のモノとなりますから、一歳から二歳くらいの人間の比喩が人魚でもかまわないはずなのです。  しかし、人間の比喩として捉えていただくにしても、詩文にある事柄をクリアーできる人物群像にしていただきたかったです。具体的に言うと、私のこの詩の人魚たちは 白い靴下を履くという【しきたり】をクリアできないといけません。気分次第で脱いでしまう年齢の子には難しいです。そして、海辺にある丘にのぼらないといけないのです。しきたりが守れるという集団行動が行える程度の知恵と、海辺の丘はのぼれるという筋力もないと この詩の群像のうちの ひとりにはなれません。それさえできれば、ステレオタイプな人魚のイメージである大人の女性の姿を想像していただいても わたしとしては かまわないし、お相撲さんのような方々が マワシではなく、白い靴下という【しきたり】を守っているという図だとしても、わたしとしてはかまいませんでした。  なぜ、靴下が必要かというと 魚から人の変化する際の程度が 人魚の個人で現れそうだと思いました。人魚たちが変化の度合いを競って 喧嘩とかをしてほしくなかったんです。それと、人のなりかけの人魚の群れに 人間として生まれ育った生粋の人間が もし、まじっていたとしも なんとなく その場に なじんでほしかったんです。  トビラさんのご意見で、私が首を傾げた箇所は、もうすこしあります。トビラさんは「大人と言われる齢になった僕らも、日々、めるふぇんを失っていく。誰にとっても避けようがなく。そういうことを表現している。」と書いておられるのですが、わたし自身は年齢のことを一切 書いておりません。わたし自身は、年齢を重ねるとメルヘンが減ると思ったことがないからです。    また私の造語である「めるふぇん」という表現のニュアンスも、どうも私の意図したことと違うことをトビラさんはとらえておられる気がします。  私の言う「めるふぇん」というのは、私の造語です。人魚たちの声が人間には そのように聞こえると書きました。たとえば、ウグイスは「ホーホケキョ」と鳴きます。人間には「ホーホケキョ」を連呼しているようにしか聞こえないのですが、ウグイス同志では違う意味があるはずです。たとえば「ねぇ、君。デートしない」とか「天敵がくるよ。急いで逃げよう」とか 様々なことを伝達している可能性があるのですが、人間の耳には「ホ~法華経(仏教の経典のことを鳥が叫んでいる)」と、聞こえるのと 私の「めるふぇん」という音の響きは似たところがあるのです。 トビラさんのお考えに共感できた箇所もありました。 「あぶく言葉だって、思い出せなくなっているだけで、心の中に眠っていて、水かきだって、もう二度と張らないわけじゃない。 」という箇所です。わたしは、この詩を書いた直後にプールに泳ぎに行ってみました。水に触れたくなったのです。水の中に入ってみると、すべての音は 響き方が実際に変わります。水の影響で くぐもった響きになります。耳に水がはいったので、結構長い間 通常ではない聞こえ方が実際になりました。 水からあがってすぐの人間の耳にとっては、あらゆる物音が いがいと ほんとうに あぶくのような響きのように実際に聞こえるものだなと思いました。海や川を知らない方だって、胎児の頃には水分に包まれていました。 わたしたちは、ほんとうに海から来たので母体は似非海だという説があります。地球上の動物といわれる種の生き物のすべてが胎生の時期は 魚の形状をしています。ヒレだってエラだって、すべての生き物の胎生の時期にはあります。けれど、ほかの生き物は忘れてしまってます。人間だけが、昔を懐かしんだり。様々な分析から昔の状態を構築する能力を獲得していると私は感じます。イメージの力こそが人の力です。イメージ力が、老いても衰えないことは よくあることです。  わたしの本作品で、魚から人に変化する様子に共感してくださったのは、人間にだけは魚だったころという途方のない時間のことすら、懐かしむ能力があるせいだと、わたし自身は感じています。 わたしは、本作品で 一番したかったのは、人魚が魚から人になる瞬間を描くことでした ですが、トビラさんには私が「現世の垢にまみれている(まみれていく)。それを甘受している。」ということを描いていると感じられたようですね。残念です。私は、そのようなことを読者の方々に想わせるような表記を、していません。 人になった人魚が やっぱ魚のほうがいいや。と、海に帰っていくという別の物語もアリです。それはそれでとても魅力的な物語だと思います。わたしは、この詩を投稿した直後に 私が実際に水に触れたくなったので、プールに行きました。つまり、私だって海に帰りたくなったんです。鯨やイルカは、実際に 一度は陸にあがったが、海の生活を選んだといわれています。人間だって、帰りたければ帰れば良いのです。空想の力で帰るのも素敵ですね。 ただ、わたしが本作品で、一番 やりたかったのは。新しい知らない環境を体験して、しかも自身の体が大きく変化するのは きっと妙な気分だろうなということと。それは、結構 笑けるに違いない。ってことを、読者の方々と共有したかったのです。

るるりら (2019-07-08):

●石村利勝 さんへ そうです。たいていの場合は、わたしは はしりすぎて すってんころんと転んでいることが普通なのです。誉められすぎて、こわくなっていたところです。 でも、石村さんがおっしゃるのだから けっこう 成功しているのですね。そうなのですか。  とくに「簡潔さと純良さに達しています。」とは、びっくりしています。わたしは純良なのか! あ。あれ?。もう滑りこけはじめてます。どうしましょうか?じつは、もうやらかしてしまった感があります。 今後とも ご指導ご鞭撻のほど よろしくおねがいします。

るるりら (2019-07-08):

●仲程さんへ めるはぁん  めるひぇん めるふぇん めるへん めるほぉん 羊水の中の物語の本は もっていまして 写真付きだったりします。 けれど、いろんないきものは どこかにていているというミラクルのことを最初に教えてくれたのは、わたしの場合は めるもちゃんでした。

あん (2019-07-09):

先のコメントにもありましたが、言い切りの形がリズムとなって、音としてもぐいぐいと引き込まれます。 第3連まで来て、第1連から読み直しました。 その構成力も凄いと思いました。

st (2019-07-09):

>人魚のことばは あぶくです この発想が、素晴らしいですね。私もメルヘンを2作ほど書いていますが、あとは 魔法や魔法使いが登場すれば、子供たちも喜ぶと思います。もしかして、この作品 が、アンデルセン童話賞(?)などに投稿されたという作品の一部でしょうか。だと すれば、これはほんの一部分で、続きがあるように思います。

左部右人 (2019-07-11):

多くの方に言及されていますが「めるふぇん」という言葉の求心力が尋常でないですね。 先行する文献を存じないので、こちらのテクストだけを読んでの感想となりますが、本当「めるふぇん」が素晴らしい。「人形」「真っ白な靴下」から想起される造形と「めるふぇん」という言葉が見事にマッチしていてほっこりとした気持になります。言葉を尽くせば尽くすほど感じたままを伝えることの難しい詩であると感じました。愛らしい、素敵な詩だと思いました。どつぼです。

るるりら (2019-07-12):

●あん さんへ 読み直してくださったのですね。ありがとうございます。 気にいってくださって 嬉しいです。あんさんは どんな声で読んでくださったのだろう。夢をみるような気持ちで コメントを拝見しました。ありがとうございます。

るるりら (2019-07-12):

●st さん まあ童話ですか?この作品は 童話の一部ではないのですよ。正直いうと、これで完結のつもりではありました。しかし、もうすこし ながい文章量にしたら 紙芝居とか絵本とか、おっしゃっている賞に応募することもできなくはないのかもしれないですね。 子供たちが喜ぶようなものを是非書いてみたいです。こどもたちが実際に わたしの作品で笑うときの気持ちって、どんな感じなのかと思うと わくわくします。 アンデルセン童話賞(?)は、たぶん 今年も開催されるはずだと思っています。 人魚といえば、アンデルセンなのに この作品を提出できたら、わたしは私のハートの強さを 友人に自慢できそうです。ハードルが高いのですが やってみようかなあ。 予定は未定にして決定ではありませんが、もうすこし この世界観を広げて童話作品といえる分量にしてみようと思います。やる気をいただきました。ありがとうございます。

るるりら (2019-07-12):

●左部右人 さんへ 「めるふぇん」という言葉には求心力があったみたいで、嬉しいです。 先行する文献がでてきても オリジナルだと言い張るつもりです。でもまあ、そうはいうものの、この語感は だれがどうみても オリジナル性はあまり感じさせてないですよね。でもね。どなたかが先行しておられたら、その方は 実は人魚なんですよ。(キッパリ) 「真っ白な靴下」は、わたしのお気に入り箇所です。その部分も踏まえたうえで、どつぼと、いってくださって 嬉しいです。泳ぎだしたいほどです。ありがとうございます。

タカンタタカンタ (2019-07-12):

るるりらさんの作品を拝読させて頂きましたが、発想から見ると、この作品が最もいいのではないかと感じました。 また、人魚は、どうしてもアンデルセンを思い浮かべる人が多いので、それを連想させるべきか、否か、難しい主題です。 こうした点から考えますと、まず、この作品に必要なものは技巧ですね。 書く前に多面的に検討し、精緻に工夫を凝らせば、もっとるるりらさんの独創性を活かすことが出来たのではないかと思います。

藤 一紀 (2019-07-13):

こんにちは。とても素敵な作品だと感じました。特に最終連は、きらきらとみずみずしく、健康的で、つられて笑顔になってしまいました。

蛾兆ボルカ (2019-07-13):

すみません。この作品は、とても素敵なんだけど、きちんと批評することは僕の能力を超えます。 でも、素敵なので、中途半端な語りになるかもだけど試みてみますね。 曖昧な引用で申し訳ないけど、以下のレポートの一枚目と2枚目に、僕が(出来るなら)語りたいことの枠組みがありました。大野一雄というダンサーについての批評です。 https://www.google.com/url?q=http://www.kazuoohnodancestudio.com/japanese/archives/analysis/pdf/ana-002-mutohwithout.pdf&sa=U&ved=2ahUKEwiVupaArrHjAhWPwosBHelVAdEQFjABegQIBBAB&usg=AOvVaw14F-wXlQvN958tbQWu83Hx (一度送信して続けます)

蛾兆ボルカ (2019-07-13):

大野一雄は、後にテレビ番組の中で、自分のダンスを説明し、進化について語っています。正確に引用できませんが……… 例えばヒラメという生き物は不思議である。あんなふうに海底にべったりくっついて、それがしやすい身体に目が寄って進化した。でもそのヒラメがある時、サメとかマグロとかになる、そういう生き方をしてそういう体になることを決心して、海底からグワッとたちあがつて泳ぎだす。そうだとすれば、それは生命の歴史何十億年を背負い、その果で、はるか未来の何億年かの起点になるグワッなのだ。でもそれはその一匹のしか見てない、密かなグワッなのだ。 私が舞台で着るフリルの動きは、そういう動きだ。 と、大野一雄が言ったのではないけど、正確な言葉は記憶してません。でも、私がそう解釈したことを大野は語りました。 (送信して続けます。)

蛾兆ボルカ (2019-07-13):

しかし大野のダンスは進化とも、海底とも、ましてやヒラメとも無縁なんですね。ダンスを見ていてそうは解釈できません。のみならず、大野のダンスはそうした抽象的な動きではなく、具体的です。老いたお母さんが、ちゃぶ台でご飯食べて美味しいと思ったりする。全く別の文脈、具体的に解釈できる可読性があります。 引用したレポートでは、日本のダンスという文脈を逸脱することに躊躇いがない大野が、どれほどビックリされたがコレクションされ、冒頭でまとめられてると思うのですが、るるりらさんのこの作品にも、そうした文脈からの自由、デ・コードが愉しく起きている、と思います。合わせて、進化や生命の力も(進化とは(両性類の変態も)、それ自体がデ・コードです)現れてる。 (送信して続けます)

蛾兆ボルカ (2019-07-13):

同じレポートの8枚目で、映画監督のゴダールの大野批評が2つ引用されてます。 「我々はナンシーでフリルをひらめかせる死を見た。その永遠の顔と、その奇妙な眼差し、その笑みの健やかさを見た。」 「一雄は自然の源の中に最高の基礎を見出した。ーーー即ち、歓びである。」 (送信して続けます)

蛾兆ボルカ (2019-07-13):

私はこのゴダールの批評のカケラを、るるりらさんの詩について語ろうとして、今回初めて読んだのだけど、とてもわかり味が深い。これはまさに我々の根本的な理念であり、僕が詩を書くときにしばしば憧れる地点でもあります。 そして、このるるりら詩にもぴったりだと思うのです。 るるりらさんの詩は抽象的な場合もあるけど、この人魚の詩を含む多くで、具象を手放さない。可読性を手放さないまま、軽々と伝説を、情景を、主題を、科学と文学史を含む文化や文脈を、そして言葉を脱構築する。そしていい笑顔で微笑む。その裏には死があり、逆らえない運命や悲しみがあるのでしょうけど、るるりら詩はそこから自由になるテクニックをしっかり持ってる。 ・・・やはり僕は批評が下手なのだけど、そんなふうに思いました。 この作品は、とても良い詩だと思います。

るるりら (2019-07-16):

●タカンタさんへ この詩に必要なのは、技巧とのことでしたね。私は、技巧についての本を読んだり考えたりすることが苦手です。論理思考が苦手だからです。ですが、ご指摘を受けたので、レトリックの本を手にとってみました。たまたま開いたページには、人を傷つけるために発せられた言葉のレトリックの豊富さに驚く。と、説かれていました。そういえば詐欺犯罪者も言葉の技術という意味では、凄いものがあります。こんなことを踏まえると、技巧という意味で自身を改めるまえに、忘れてはならないことがあることに気が付きます。それは、自分はどんな人でありたいかです。  私は「純」でありたいです。技巧を追求しすぎると、「純」からは 離れてしまうことがあります。だから、注意がです。  さて、本題の本作品についてですが、技巧や独創性が伸ばせるとお考えのご様子ですね。言うのは簡単です。しかし、もっともっとを追求しても、物事が良くなるとは限りません。すくなくとも私の場合は、私にとっての技巧を 駆使することで失敗したケースや、より独創的であろうと目指した結果に 失敗したケースが、多々あるのです。  そうかと思うと、私自身にとっては独創性などといったものを、まったく追求したつもりがないにも関わらず「なんて独創的なんだ」と喜んでいただいたりすることも 稀にあるのです。  ひとつ独創性を追及し失敗した例を紹介させていただきましょう。人魚ネタです。独創性を追求して、失敗した例です。わたしは 上半身が魚で下半身が人の人魚という作品を書いたことがあります。自分では斬新であると思いました。ところが、世界は広いのです。んなことを考えていた人は他にもいることを知ることとなりました。しかも、エロい表現を苦手とする私だからかでしょうか?その自作詩を自分で読み返そうとすると、あまりにも辛いのです。私はその作品を自分の手で抹殺しました。わたしの場合は、私にとってはノーマルな発想の程度にしておかないと 私は詩を書きたくなくなる日が来てしまう嫌な予感がします。ごめんない。私は、超絶技巧を感じさせる詩よりも ふつうを目指します。独創性や技術性の高みをめざしても、わたしは成功しないんです。 それから「どうしてもアンデルセンを思い浮かべる人が多いので、それを連想させるべきか、否か、難しい主題です。」についてですが、なんだか、ハムレットの「to To be or not to be」みたいですね。堂々めぐりな詰問で なかなか劇場チックなイカスご意見でした。しかし、ごめんなさい。当の私は あんまり悩んでないんです。  なぜなら、私が どのような作品を書いたとしても かならず一定数の方が、人魚という語からアンデルセンを連想をされるはずだからです。たとえ、上半身が魚で下半身が人という人魚という妙な人魚を書いたとしても、「アンデルセンの人魚とは違うのね。」と、アンデルセンを想う人は 必ずいらっしゃることでしょう。それほど アンデルセンの人魚姫はスタンダードな作品です。 私はアンデルセン作品も好きです。なので、どなたかが私の作品のことをアンデルセンに似ているね。と言う方がいらしたら光栄に思います。ですが、やっぱり アンデルセンはアンデルセン。わたしのは わたしの人魚です。読者のみなさんには、比較する自由があります。しかし、わたしに とっては 比較されようがされまいが、どちらでも 良いです。そうでも おもわないことには、人魚なんて そもそもが、書けないのです。ご意見、ありがとうございました。

るるりら (2019-07-16):

●藤 一紀 さんへ ありがとうございます。とくに、 特に最終連を、きらきらとみずみずしく、健康的で、つられて笑顔になってしまうといっていただけて嬉しいです。 この詩を書いたあと、肉体改造を本気で行いたくなっています。 泳ぎつかれたあとの 笑いみたいなものを体で体験したくなったんです。 いつも最後の行みたいな心境でいたいです。 ほんとうに この詩をきっかけに私の人生が変わります。ガハハハッ ほんとうに、ありがとうございます。

るるりら (2019-07-16):

●蛾兆ボルカさんへ 過分なお言葉をいただき 恐縮しています。大野一雄で検索をかけ いくつかの動画をみました。 なかでも、もっとも印象に残ったのは、車椅子になってからの彼の踊りでした。車椅子でおどっておられるということは、もっとも年齢を重ねられた時点での踊りだと思われます。私は彼の精神に心を奪われ 感が極まり涙がでました。 そして、目を閉じても彼のしぐさや表情が、わたしの胸に宿ってくるのを ずっと感じつづけています。彼の踊りは、命の礼讃が死のぎりぎりのところで 瞬いているようで 眩しいです。人の心を隔てるさまざなもの(国のよる文化や思考の違い、男女の別。年齢など)を超越した踊りをまえに文字通り「絶句」するしかない。 添付しておられるリンク先も もちろん、拝読したのですが、まだ 胸がつまっています。私の感じたものを、うまく言語化できません。また、言葉なんて超えている方のことを、なんとか言語化しようとする方のいとなみが これまた 美しいです。   私としては、蛾兆ボルカさんが 私に かけてくださつた言葉や情報に なんとか こたえようとはしているのです。  たとえば、たまたま「能」の考え方に触れていて、能の有名な本の中に ごく稀に老の花が咲くことがあると能の考え方が記されていることなども踏まえて、お礼を言わせていただこうとか 考えてははいたのです。ですが、こうやって そのまま言葉にしています。ですが、なんか違う。言葉にしきれないと感じている私が居るばかりなのです。  しかも このわたしが、この素晴らしい方々の言葉に例えられているということが、なんとも もったいなく どうしたら良いか分からなくなるのです。もったいないにもほどがあるのです。ですが、得難い目標となる方と出会わせていただきました。大野一雄。凄い方です。 感謝のあまり、蛾兆さんにお礼すらいいそびれてしまいそうな勢いです。 それでは、あんまりです。もうしわけがたちません。言わせてください。 言葉にできない大きなものを いただきました。ありがとうございます。

田中修子 (2019-07-17):

この作品から漂ってくるもの、「おおらか」「ふくいくとしている」なあ、って。 ふくいく、という言葉の響きだけが好きで、どういう意味か知らなかったけれど、いい香りがするさま、だそうですね。ふくいく、なんとなく、はひふへほの、ふふふ、という笑いごえを思いだす。福が行くぞ! みたいな。かおりであれば、ぬくもりのある匂い。お日様に干したおふとんの匂い。 自分の作った絵本で自分の子どもに読み聞かせをする、そんな穏やかな声が聞こえてきそうな作品でした。 ごちそうさまでした。

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