作品投稿掲示板 - B-REVIEW
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びそあターャジススジャータあそび   

作成日時 2019-09-30
コメント日時 2019-10-06

       OTOKONOKONOKOTO         ONNANOKONANNO          OTOSAGASOTO           OMAKEKAMO            OYOGOYO             UTUTU              AWA               O              UMU             NISIN            ASUAUSA           AKANONAKA          AINAMEMANIA        アニマール眼科 カンガルマニア        ロクブテ       てぶくろ        イチ    (1)    地位        ニ     (2)     に        ミイ    (3)    意味        シ     (4)     詩        イツ    (5)    つい        ムウ    (6)    倦む !?イタイガメ  やさしい ハ 興味ない  めがいたい?! ァタスンモチパ しっかり者 ハ 余裕のなさ ぱちもんすたぁ ヨルイテメツア  かしこい ハ はりぼて  あつめているよ ニトッケポノコ  にこやか ハ おあいそ  このぽけっとに ラカダポッラカ  しあわせ ハ 思い込み  からっぽだから    モドレケ    他意 ハ ない    けれども ダラカダダラカ  詩に他意 ハ ないしね  からだだからだ ダラカポッラカ 生き詩たい ハ 蟻が鯛デス からっぽからだ エウリダヒタシ   ニシン ハ 蜂なり   したひだりうえ タシタヒニタシ    日本 ハ 昔話    したにひたした   ユビライア  ニッポニ ア ニッポン  あいらびゆ    キツソウ    トキ ハ トキ    うそつき            とき ハ 過ぎ         ときどきときめけひらめきひらめ        はひだりでこれみぎつぎしたそれ        うえあかみどりみどりあかみどり        あかいききゅう とぶそらうおの        めがあいたら   ぎがになって        てらになる  皿  にしんかよ        ふかまるふか   ぶかふかしん         ふかんしさお さすながれに          たどりつくうみはどんな           ちきゅうのいろして            みえて ますか             とじてまた              あける               口


項目全期間(2019/10/23現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性44
可読性11
エンタメ5656
技巧5050
音韻11
構成5050
総合ポイント162162
 平均値  中央値 
叙情性00
前衛性0.50.5
可読性0.10
 エンタメ71
技巧6.30.5
音韻0.10
構成6.30.5
総合20.33
閲覧指数:1967.8
2019/10/23 20時24分00秒現在
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コメント数(26)
社町 迅 (2019-09-30):

お久しぶりです。 個人的に色々考え方が変わって以来、初めて感動しました。 形とか構成とか内容それぞれを別に見るよりも、読んで眺めてそれらを同時に見たときの完成度のきわまりが素敵だと思います。 尾から読む時の内容的な展開や、読みながら部位が上っていく中、それぞれでの雰囲気の変化もキャッチーさを生み出してるんだと思いました。

こうだたけみ (2019-10-01):

社町 迅さんへ お久しぶりです。 コメントありがとうございます。完成度きわまってますでしょうか。そのように見えたのならうれしいです。 スジャータのトラックの表記が徐々に「ターャジス」でなくなっているといううわさを聞いてさみしく思っていたら、「便急特ールガンカ」トラックを見かけてときめいたので、前にさわ田マヨネさんがゴルで出したお題「OTOKONOKONOKOTO」に書いたけど不完全燃焼だった詩を引っ張り出してきて目一杯「びそあターャジス」してみました(もう原形をとどめていない)。 時間ばかりかかったけれど、なんとか完成して九月の投稿に間に合ってよかったなあと思っています。よくあそびました自画自賛。

沙一 (2019-10-01):

もう、無邪気な言葉遊び全開で、圧倒されました。眺めても読んでも味わえる、言葉のお魚をいただきました。 一つだけ、「皿」の一字は「目」の方がふさわしかったんじゃないかと思いました。でも、こだわりがあったのかもしれませんし。 とにもかくにも、ごちそうさまです。

stereotype2085 (2019-10-01):

凄いの一言。これはお魚だったんですね。僕は初めて観た時は落下するミサイルだと思っていました。落下するミサイルにこのような言葉遊びと、結構オプティミスティックで時に神妙な言葉が乗るというのは面白くて、逆説的に見て驚異だな、と思ったのです。でもこれをお魚としてとらえるとまた意味合いが違ってくる。お魚のように泳いでスマートに海を、川を生きていく存在に「興味のない」「余裕のなさ」などの胸をズイとついてくるフレーズが乗ると、あなた方そんなに辛辣、深刻に考えなさんなよ。楽に生きな、とでも呼びかけられているような印象がしました。泳ぐ魚にこの言葉。絶妙だと思います。

渡辺八畳@祝儀敷 (2019-10-02):

詩というものをマテリアルとして見る視点は流石頭一つ抜けているなといつも思っています。 ただ同時に、こういったことをする必然性をしっかりと感じさせられたら素晴らしいのにともいつも思っています。

こうだたけみ (2019-10-02):

沙一さんへ コメントありがとうございます。 美味しく召し上がっていただけたようでなによりです。 そして「皿」の一字! 小さな部分にまで目を向けてくださりありがとうございます。こだわりというほどのことではないのですが、気づいていただけてうれしいのでちょいとご説明を。  めがあいたら   ぎがになって  てらになる  皿  にしんかよ  ふかまるふか   ぶかふかしん この部分、「目が開いたら」の「めが」がメガ→ギガ→テラへと単位が大きくなり「さらに進化よ」とつづくのですが、そこに深化とニシンも見つけたので、ニシンが見えるように皿に載せ、ふかまるふかぶか深化していく……というように書いていたりします。 さて、沙一さんはこのサイトをPCでご覧になっていますか? それともスマホですか? もしスマホでご覧になれるのならば、本作の画像部分を表示させたまま、そのスマホを九十度回転させてみてください。じつは、そこに歪な「目」が現れます。お試しあれ〜。

沙一 (2019-10-02):

こうだたけみさん 90度横にすると・・・ あっ、そういう仕組みがあったんですね。まさしく、目を皿のようにして拝見させていただきました。よく作り込まれていて、おどろきです。

こうだたけみ (2019-10-02):

stereotype2085さんへ コメントありがとうございます。 落下するミサイル! なんだか不穏ですねえ。じつは、それはまったく念頭にありませんでした。笑。でも、同じく魚を象った「踏み止まるメザシ(千葉県産)」の時にもいろんな方から魚雷や鉛筆に見えるとコメントをいただいたので、予想くらいはできた、かも?? なんにせよ、想定外の、stereotype2085さんらしい読み方(見方)をしていただけたのがとてもうれしいです!  そして、魚とわかった後も「魚=泳ぐ」と捉えて活きのいい読解をしてくださりありがとうございます(私の解釈ではこの魚は開きなのだけれど。笑。じつは投稿直前に、第三連を第四連が切り割いてしまったので)。 詩の解釈を読むと、その人の考え方や人となりまで見えてくるのでたのしいです。stereotype2085さんは私のことを〈あなた方そんなに辛辣、深刻に考えなさんなよ。楽に生きな〉と呼びかけるような人だと思っているのかな〜とか? たのしいしうれしい! もうどんどん自由に読んでもらいたいです。

Um Fantasma (2019-10-02):

これも笑っちゃった。ここまできたらホントにスゴい。なんかとてつもなくデカいコンテンポラリーアートを見る感じ。どんどんやっていってほしい。

こうだたけみ (2019-10-03):

渡辺八畳@祝儀敷さんへ コメントありがとうございます。 「魚と鳥と兎と すクロール〜TOTO-to-TO-to-TO-to すCrawl〜」の時にも同じようなお返事をしたのですが、異なる考えや価値観を持った方に読んでもらえてさらにはコメントまでいただけるのは、コメントを推奨しているビーレビのよいところだと思います。とてもありがたいです。 > 詩というものをマテリアルとして見る視点は流石頭一つ抜けているなといつも思っています。 せっかく褒めてくださったのに恐縮ですが、私は〈 詩というものをマテリアルとして見る視点〉からはなるべく離れたいと思っています。なぜなら、過去に「言葉を道具として扱っている」という批判を受けたために言葉遊びを封印しようとしたせいで、十年近くスランプに陥ったからです。 現在の私は、「言葉で遊ぶ」のではなく「言葉と遊ぶ」という姿勢で、大好きな言葉遊びを中心に据えて詩作をしています。詩の中に自ら入って言葉と飛んだり跳ねたり走り回ったりしたい。それが、私の詩作の原動力です。屁理屈だとかやってることは同じだろとか思われるでしょうか? でも私にとっては〝で〟と〝と〟の違いはとてつもなく大きいのです。ですから私にとって詩は、言葉は、マテリアルでも道具でもありません。 > ただ同時に、こういったことをする必然性をしっかりと感じさせられたら素晴らしいのにともいつも思っています。 渡辺さんは、一般的な改行詩を見て改行することの必然性を問いますか? この渡辺さんのコメントからは、「視覚詩っていう奇抜なことをするんだからそれなりの必然性がないとおかしいよね」という声が聞こえてきます。 私は、視覚詩というものを特別視してはいません。私にとっては、改行詩も散文詩も視覚詩も同列。当たり前に改行詩を書くように、当たり前に散文詩を書くように、当たり前に視覚詩を書いているだけです。だってただの一形式ですもの。ただその形式で書く人が少ないというだけ。作ろうと思えば誰でも作れるのだから奇抜でも何でもない(絵を描けない人のように、そういう発想が湧かない人もいるのでしょうが)。 そして本作について言えば、沙一さんへのコメントで部分的に自作改題をしているように、言葉遊びの成り立ちを事細かに説明することもできますし、製作過程を追ったうえでなぜこの形になったのかを説明することもできます。つまり、作者である私にとっては必然性があるのです。 渡辺さんは二行のコメントの中で「いつも」という言葉を二回も使われましたが、「春が立ちあがる音」でも「こんなにかわいい娘がいるじゃない ここに」でも、私は同じことを説明しています。私は、なんかそれっぽいものをなんとなくで書いているわけではありません。私なりの理由があってこのような詩を書いています。 さてさて、どうして何度も同じ説明をしなければならないのか。考えられる理由を挙げてみます。一つ、渡辺さんは私の返信をまったく読んでいない。一つ、渡辺さんは返信を読んだうえでなおも必然性を要求している、つまり作者にとっての必然性の説明ではなく「俺が納得できる必然性」を要求している。 私は渡辺さんのために詩を書いているわけではないので、ちょっと途方に暮れています。というか自作全般についてぶっちゃけてしまうと、これは短編小説でもショートショートでも私小説でもエッセイでもないなと思った時に、詩じゃね?と思ったからこれは詩ですと差し出している部分が多分にあります。「現代詩」を、現代に書かれている詩という意味ではなく、「戦後詩」の後に登場したある一定の形式などを有する詩と定義するならば、私は「現代詩」を書いてすらいません。私は自由詩を書いています。 〈こういったことをする必然性〉を問うのは、この自由詩の〈自由〉の否定ではないのかなあなどと思っています。いかがでしょうか。

渡辺八畳@祝儀敷 (2019-10-03):

こうださん 返信を読み進めていくときに思ったこととコメントの内容がドンピシャで驚いています。 たとえばそれこそ助詞を使った言葉遊びじゃないか、と思ったところで「屁理屈だとかやってることは同じだろとか思われるでしょうか?」が来ましまし。また、私自身もこんなやりとり前にもしたなと思ってたら丁度書かれまして。近いことばかり書いているのは認めますが、ただそれは毎度同じことを思わせる詩作だからでして。この堂々巡りを止めるには、それこそこうださんへのコメントを止めるしかないかなと。 「渡辺さんのために詩を書いているわけではない」と言われればそれまでで、パーソナルな領域ゆえにもはや外部からどうこう言う余地も何もなくなるわけですが、ただ一つ(たぶん再度)言っておきたいのは、こうださん自身が何を思って書いていたとしても他者には関係なく、ただ目に映る状態のみが真実だと言うこと。パーソナルな領域は作者しか関われないから、他者つまり読者がそれに沿うことはできない。読者は「作者的にどうか」ではなく「外部から見てどうなっているか」で語ります。こうださんが「「改行詩も散文詩も視覚詩も同列」と語ったところで、大部分の人々にはそれぞれ、特に視覚詩は異なるものとして映るわけです。だってこうださんのその論はパーソナルな領域に依存するものですから。 改行詩に関してですが、実はすでに私はビーレビでのコメントにて必然性を問いています。正しくは「その位置で改行する必然性」ですが。私の個人ページからのコメント履歴をctrl+fで検索していただければ見つかるかと。批評という俎上に上げられたものは、一挙手一投足に理由を求められてしまいます。

survof (2019-10-03):

これをいってしまったら元もこうもないのですが、面白い表現スタイルであっても同じものをずっと見ていると飽きてしまうな、ということで、それは必然性あるなしに関わらずだと思います。自己模倣はものを作る人なら誰もが陥りやすい罠だと思いますが、個人的なワガママをいうなら、せっかく投稿するのであれば、どんどん新しい表現を見たいです。どんな好きなミュージシャンでもずっと同じスタイルでやっていたら飽きますし、円熟していくというよりも単純に手垢がついて最初にそのスタイルが持っていた魅力さえ失ってしまいます。こうださんの作品は、もちろん細かいバージョンアップはされているのだと思いますが、そろそろ見飽きて来ているというのが本音です。ただし、これはこうださんに限ったことではないです。 ただ意味を伝えようとしている作品、日常のなかの情緒を描き出そうとしている作品と、こうださんのように、そうした意味から離れて「遊ぶ」作品とで比較した場合、前者はその内容である程度そのスタイルのマンネリをカバーできるところがあるのに対して後者はスタイルがマンネリした時点で読者は飽きてしまいます。スタイルと作品が直結しているからです。こうださんのなかで繰り返し用いられる魚のモチーフの扱い方も、それがオブセッションであると感じさせるためにはありとあらゆるスタイルで書いて、そのテーマから逃れようとしているのに、どうしても出て来てしまう、という漢字でないとオブセッションとしては読者には届かないのではないでしょうか? 遊びだからこそ遊びにバリエーションがないといけないと思っています。しかも一つの枠のなかでのいろいろなバリエーションではなくいろいろな枠を用いることこそが、作者の遊び心をのびのびと読者に伝えるためには不可欠なのではないかと思います。

こうだたけみ (2019-10-03):

沙一さんへ わざわざ確認していただきありがとうございます。 仕掛けのある部分にはちょっとした違和感を作り、「なんでこうなの?」という疑問が湧くように作っているつもりです。その疑問をきっかけに、しかけ絵本のようにもたのしめる詩であればいいなと思っています。まあ、仕掛けがわからないとたのしめないのはつまらないので、仕掛けなんて気にしなくてもおもしろくありたいとも思っています。

こうだたけみ (2019-10-03):

Um Fantasmaさんへ はじめまして。コメントありがとうございます。おもしろがっていただけたようでなによりです。 私はこういった言葉遊びや視覚詩ばかり作っている人間でして、望まれなくてもどんどんやっているどころか、だいぶ飽きられているようです(この後の渡辺さんやsurvofさんのコメントを見ていただくとわかります)。 ただ、私自身がまだまだ飽きていないので、当分はこんな感じでいくような気がします。次に見かけたら、こいつまたやってるよーって笑っていただけたら幸いです。

こうだたけみ (2019-10-04):

渡辺八畳@祝儀敷さんへ ご返信いただきありがとうございます。二行のコメントでは真意を汲み取れなくて困っていたので、丁寧なコメントをいただけてほっとしました。 > 返信を読み進めていくときに思ったこととコメントの内容がドンピシャで驚いています。たとえばそれこそ助詞を使った言葉遊びじゃないか、と思ったところで「屁理屈だとかやってることは同じだろとか思われるでしょうか?」が来ましまし。 ええと、これまでに三回くらいいただいた「これをやる必然性が感じられない」という内容の短いコメントからは、渡辺さんが私に何を求めているのかがわからなかったんですね。だから毎回、あなたにはなくとも私にとっては必然性がある旨を説明するのですが、それに対してはなんの反応もない。では、コメント以外に真意を読み取るためのヒントを集めようというわけで、渡辺さんのいろんな発言を見ては、こんな考えの持ち主なんじゃないかなあと勝手に想像していた人となり。それが正解に近かったようで、逆に私が驚いています。まあ、主なソースはいつも流し読みしているTwitterなんだけども。笑。 〈助詞を使った言葉遊びじゃないか〉と渡辺さんはおっしゃいますが、言葉遊びではたった一文字変えるだけで意味が逆転するようなこともざらです。言葉遊びの基本精神は、一文字を笑うものは一文字に泣くの精神です(今テケトーにつくった格言)。 では本題に。 今回なぜTwitterを使ってまで返信を求めたのかと言いますと、〝ついに離婚を切り出す古女房〟の気分になったからです。ちゃんとすてきなお相手のいる人物にこういう例え話はよろしくないとは思うのですが。 「必然性を感じられない」 「私にとってはこのように必然性があります」 「これも必然性を感じられない」 「いや、私にとっては必然性があって……」 「だからさ、いつも必然性を感じられないんだよね、いつも」 「あの、私の話きいてますか?」 というやりとりを渡辺さんとしてきたと思っているのですが、これ、 「おい、あれ持ってこい」 「あれってどれですか?」 「あれだよあれ」 「あれってこれのことですか?」 「だからあれだって言ってるだろ!」 「もう離婚してください」 「……」←なぜ離婚を切り出されたか理解できていない という、熟年離婚する夫婦みたいじゃないですか? じつはsurvofさんとも以前、これに似たやりとりをしました。その時の私は、なんとか関係修復を図りたいと言葉を尽くしました。なぜなら、survofさんの作品のファンだからです。好きな作品を書く人に、話の通じないやつだと思われたままでは悲しいので。 ところが今回は、残念ながら渡辺さんと私の間には保ちたいと思えるような関係性は見当たりませんでした。ですから、Twitterでの「返信くれるかしら?」に反応がなければ、もうコメントはいりません(心の声:だって毎回一方的に同じ発言しかしないし私の話は聞いてなさそうだし)と申し上げるところでした。 そんなわけで、とても丁寧な返信をいただけてほっとしています(大事なことなので二回言いました)。 > ただ一つ(たぶん再度)言っておきたいのは、こうださん自身が何を思って書いていたとしても他者には関係なく、ただ目に映る状態のみが真実だと言うこと。パーソナルな領域は作者しか関われないから、他者つまり読者がそれに沿うことはできない。読者は「作者的にどうか」ではなく「外部から見てどうなっているか」で語ります。こうださんが「「改行詩も散文詩も視覚詩も同列」と語ったところで、大部分の人々にはそれぞれ、特に視覚詩は異なるものとして映るわけです。だってこうださんのその論はパーソナルな領域に依存するものですから。 「あなたは人と違うことをしている。なぜそんなことをするのか、私が納得できる理由を述べよ」 このようにAさんへ言ったとき、Aさん自身に「人と違う」という自覚がない場合、Aさんからは、〈私〉が納得できるような理由が語られる確率は低いように思います。おそらくAさんは「え? これが当たり前だからやってるだけだよ。なんでそんなこと聞くの?」と言うのではないでしょうか。 今回の場合、この例えとはだいぶ違うのはわかっています。私は、一般的に視覚詩や言葉遊び詩がメジャーでないことを知っていますし、それらがどちらかというと避けるべきこと、侮る対象のように扱われていることも知っています。あるいは、奇を衒った表現だと蔑まれたり、遊び心のないごく一部の人からやっかむように絡まれる対象だということも知っています。私は無名なので被害はほとんどないけれど、私の大好きな言葉遊び詩人である阿ト理恵さんは、昔ユリイカの新人になったために嫌な体験をたくさんしたそうです。 それらをわかったうえで私は思うのです。なぜ、視覚詩や言葉遊び詩は異端視されなければならないのでしょうか。私にはわからないのですが、渡辺さんにはわかりますか。 > 改行詩に関してですが、実はすでに私はビーレビでのコメントにて必然性を問いています。正しくは「その位置で改行する必然性」ですが。私の個人ページからのコメント履歴をctrl+fで検索していただければ見つかるかと。 私はネット環境がiPhoneしかないため、〈ctrl+fで検索〉することが簡単にはできません。いつ頃の、どなたに対してのコメントかもわからない状況で、渡辺さんのおっしゃるコメントを探すことはむずかしいです。できれば、そのコメントのURLを貼っていただけると助かります。 けれど、〈正しくは「その位置で改行する必然性」ですが。〉と書いていらっしゃるので、私のいう「一般的な改行詩」への言及ではないのだろうと推測します。 渡辺さんから返信が来た うれしい 体が宙に浮かんだみたいだ 上記が私の言う「一般的な改行詩」です。 渡辺さ んから返信 が 来た う れしい 体が宙に浮 かんだみたいだ 上記が、「その位置で改行する必然性」を問いたくなるような、一般的でない改行詩です。 「一般的な改行詩」に対して「その位置で改行する必然性」を問うた例があるのならば、ぜひご紹介ください。どうして問いたくなったのか、とても興味があります。

こうだたけみ (2019-10-04):

survofさんへ コメントありがとうございます。 返事は長文になります。 survofさんも渡辺さんも、今回は私の作品に対して否定的な発言をされていますが、お二人には決定的な違いがあると私は思っています。それは、行動の否定か人格の否定か、という点においてです。 survofさんは「たとえおもしろいものでも何度も見せられると飽きちゃうんだよね、もっと違うもの読ませてよ」とおっしゃっていると思います。これは「何度も同じことをしていることに対する否定」であり、たった今の行動の否定です。 一方、渡辺さんは「だからさ、いつも必然性を感じられないんだよね、いつも」とおっしゃっていると思うのですが、ご本人も視覚詩を書かれるので、視覚詩そのものを否定しているわけではない(と、じつはわかっていましたが渡辺さんへのコメントにはそこまで書きませんでした)。だのに、こうだの書く視覚詩はだめだとおっしゃる。渡辺さんの短いコメントに〈いつも〉が二回も登場するように、こうだが視覚詩や言葉遊び詩ばかり書いている人間であるとご存知なのは明白。ならば、そこになんらかのこだわりを持って臨んでいることくらいはわかるはず。そういう書き手に対し、どこがだめなのか説明することもなく「視覚詩である必然性がない」とだけ(だけに傍点)述べることは、視覚詩を書くという行為に対する否定を通り越して、「こうだへの詩人としての人格の否定」のように感じるのです。 というわけで、survofさんのコメントはアドバイスとしてありがたく受け取りますが、渡辺さんのコメントは保留中です(断っておきますが、私は別に渡辺さんが嫌いというわけではありません。関係性を保ちたい理由は見当たらなかったけれど。笑)。 ところで今回、私がなぜこのような言葉遊びだらけの視覚詩を投稿したかというと、芦野夕狩さんに批評してもらいたかったからです。おそらく芦屋さんは私のことなどまったくご存知ない。だったら、私の個性を全開にしたものを書いて、それを批評していただきたいと思ったのです。 ただ残念なことに、私が9/30の23時頃に投稿を完了してからフォーラムを見に行くと、批評の申し込みを書き込む記事が見当たりませんでした。悲しい。昨日、改めてフォーラムを見たら該当記事があったので、だめもとで申し込んできました。芦屋さんの批評がもらえるような奇跡が起きてほしいと願ってやみません。 そして、〈スタイルのマンネリ〉や〈遊びにバリエーションがない〉というご指摘に対する回答です。 survofさんが〈もちろん細かいバージョンアップはされているのだと思いますが、〉というクッション言葉を入れてくださったように、自分としては今回、新しい試みをしています。私が多用する言葉遊びの形式は、「前の文章の単語をもじって次の文章へつなぐ」という方法。要するに駄洒落です。魚の頭に該当する最終連がそれです。常に、もじる際にはぎなた読みやアナグラム、二文字以上使ったしりとりなども併せて用いるので、いかにもなオヤジギャグにはならないようにしているつもりなのですが。 今回挑戦したのは「びそあターャジス」というタイトルからもわかるように倒語(パリンドローム)です。代表的な倒語は、子供の遊び「てぶくろの反対は?」ですね。「ろくぶて」と答えたら「一二、三四、五六」と叩くアレ。第二連に援用しています。最近、スジャータとカンガルー特急便のトラックに書かれた逆さ文字を見かけたので挑戦しようと思い立ちました。ちなみに、魚の尻尾側から読むようになっている構造自体が、この倒語を表しています。ついでに言うと、左右対称なフォルムはもう一つの挑戦である回文を表しています。 第一連のアルファベットを使った回文は、ずいぶん前に即興ゴルコンダ(仮)でさわ田マヨネさんが出した「OTOKONOKONOKOTO」というお題に書いた詩が元になっています。短いので全文を転載します。 OTOKONOKONOKOTO  ONNANOKONANNO   OTOSAGASOTO    OKURERUKO     ONAKANO      EDADE       IMI        O       UTU       ASA こんな完成度の低いものでも書くのにすごく時間がかかったので、私の脳みそには回文をつくる回路がないのだなと思ってずっと避けてきました。でも、倒語に挑戦するなら回文にも再挑戦したい……ということで、かなりがんばりました。 このように、無駄に気合を入れて書いた作品なので、言葉遊びやフォルムの成り立ちを説明しだすといくらでもしゃべれます。笑。けれども、言葉遊びに親しくないタイプの読者なら本作を見ても、「なんか怒涛の勢いで言葉遊びしてるわー」と思うだけだということも自覚はしています。 話が逸れるのですが、survofさんは野田秀樹という劇作家・演出家をご存知ですか。野田さんの芝居は、言葉遊びをふんだんに用いた台詞をまくし立てるのが特徴です。最初のうちは「駄洒落かよ、ウケる〜」と笑って観ているのですが、物語が進むにつれ、どうでもいいと思っていた駄洒落こそが物語の核心につながっていたことに気づき感動します。私は、この感動を詩で構築できないかと考えているのです。 言葉遊び詩や視覚詩は、たしかに一般的な形式ではありません。みんなやってないし低レベルに見られるみたいだからやめておこう。そんなふうに右に倣うのは簡単です。けれど私は、やってる人が少ないからこそ、突き詰めたら新しいものに化ける可能性があるんじゃないの?と考えます。そんなわけで、私は当分このスタンスをやめません。突き詰めて何かにたどり着くか、どこにも辿り着けずに途方に暮れるまでは。 最後に、survofさんのコメントを読んで、「そうか、飽きるほどの数、私の詩を読んでくれているのか」とうれしくなりました。もし私の詩が何かに化けたら、ぜひ見てやってください。

survof (2019-10-05):

ご返信ありがとうございます。ではさらにお聞きしたいことあります。 ・あえて魚の形にしたのはなぜか? ・対称性を強調するという意味では魚の形はむしろコンセプトを邪魔するものになっていないか? ・そもそも、一番の作品コンセプトは何か?回文や倒文なのか?魚なのか? 個人的には魚の形をしたものよりも、作品の原型になったという第一連のアルファベットを使った回文単体のほうがよりコンセプトがはっきりしているしインパクトがあると思います。第一連を読んで回文や倒文を使った「遊び」であるということに気づかない人は少ないと思います。それだけ、形に必然性と説得力があります。 アルファベットを使っていることにも同様に必然性と説得力がある。日本語のたとえばひらがなやカタカナは表音文字だけれども母音と子音のセットなので、このような視覚的対称性はアルファベットほどには明確に伝わってきません。それは「2連」目の倒文の試みをみれば明らかです。一方でアルファベットは音素に対応するのでやはり必然性と説得力がある。 では魚の形は読者にはっきり伝わる形での必然性があるでしょうか?作り慣れた形に甘えてしまってはいないだろうか、と邪推してしまうんです。 私は視覚詩をやることの必然性までは問いません。結果としてできあがった視覚詩が必然性をもっていればそれが視覚詩をやることの必然性になるんだと思います。それはどんな形式を選ぶにしても同じことではないでしょうか?つまり渡辺さんは視覚詩をやることの必然性に疑問を投げかけているようにみえて、実際は視覚詩としてのクオリティを問うているだけではないかと思うのです。

こうだたけみ (2019-10-05):

survofさんへ ご質問をいただきありがとうございます。 以前の長いやりとりでも思ったのですが、survofさんは返信がとても早くてすごいですね。対する私は思考が散漫になりがちで、論理的に意味が通るであろう文章に仕上げるまでにものすごく時間と労力がかかります。気を抜くとすぐ横道に逸れたまま戻れなくなるし、端々で「ここは書かなくてもわかるだろ」という怠慢さや手抜き感が出てしまって、対話の相手を不快な気持ちにさせてしまいます。ですので、今日が休みでよかったなあと心から思っています。前回の時はたしか病気の治療で二週間置きに五日間くらい吐きつづけるような状態でなんとか返信を書いていたので、〝健康ではないけれども元気〟というよいコンディションの今、survofさんと改めてやりとりできることをうれしく思います。元気であるってありがたいことだ。survofさんとの対話が建設的なものになるかどうかは、主に私にかかっているので。 では、ご質問にお答えしたいと思います。 再び長文です。 > ・あえて魚の形にしたのはなぜか? > ・対称性を強調するという意味では魚の形はむしろコンセプトを邪魔するものになっていないか? この魚の形は、結果的に出来上がったものです。あえて魚の形にした理由というのはありません。思い返してみると、私はなんとなく人間の形にならないかなあと期待していたのですがそうはなりませんでしたね。〈作り慣れた形に甘えてしまってはいないだろうか〉というご指摘には、うーんどうなんだろう。魚に見えてきたから魚にしただけ、ですね。制作過程は以下のような感じです。 尻尾の第一連、お尻の第二連、鰭の第三連くらいまで書いて「なんかの形に見える……魚!」と気づき、骨の第四連、頭の第五連を書きました。 じつは最初に仕上がったと思った時、第三連は鰭ではなく胴でした。つまり、全体のフォルムはうなぎのような縦長でした。 仕事終わりの22時、投稿にあたり全体像を画像にしようと思ったらうまく画面に収まらなくて、Wordに貼り付けた縮小うなぎを見ながら困ってしまいました。そして職場の最寄駅から二駅分ふらふら歩きながらiPhoneとにらめっこしていたのですが、気づいてしまったんですね「あ、鰭あるじゃん」と。 そんなわけで、胴の部分だった第三連を割くようにして、骨の第四連が中央に収まりました。魚の開きの誕生です。夜道で立ち止まって必死にiPhoneをいじっていた私は完全に不審者。通報されなくてよかった〜。 > 個人的には魚の形をしたものよりも、作品の原型になったという第一連のアルファベットを使った回文単体のほうがよりコンセプトがはっきりしているしインパクトがあると思います。第一連を読んで回文や倒文を使った「遊び」であるということに気づかない人は少ないと思います。それだけ、形に必然性と説得力があります。 おっしゃるように、第一連だけのほうがインパクトがあるのはその通りです。けれども、私は私の詩を受け取る人にインパクトを与えたくて視覚的効果や言葉遊びを用いているわけではないんです。より読者にインパクトがあるのはどちらか、ということを試作において考える必要性を私は感じません。 それと、これは揚げ足を取るようで大変申し訳ないのですが、倒語が出てくるのは第二連目からだったりします。倒語とアルファベット回文の両方に挑戦しようと思った段階で、このように左右対称性がぼやけることは決まっていました。 コンセプトについては次に書きます。 > ・そもそも、一番の作品コンセプトは何か?回文や倒文なのか?魚なのか? 私は詩にコンセプトが必要だとは思っていません。私にあるのはテーマや目的だけ。 と、さっきまで思っていたのですが、本作を改めて見ていたら、本作のというよりも、私の詩作全体を通してのコンセプトと言えるようなものがあることに気づきました。それは骨を見るとわかります。  やさしい ハ 興味ない しっかり者 ハ 余裕のなさ  かしこい ハ はりぼて  にこやか ハ おあいそ  しあわせ ハ 思い込み    他意 ハ ない  詩に他意 ハ ないしね 生き詩たい ハ 蟻が鯛デス   ニシン ハ 蜂なり    日本 ハ 昔話  ニッポニ ア ニッポン    トキ ハ トキ    とき ハ 過ぎ ここまで自作解題する必要があるのかちょっとわからないのですが、賽は投げられた感があるのでもう書いてしまいます。 第四連の五行目までが、左が他人からよく言われる私の印象、右が私の本心です。 私がやさしそうなのは他人に興味がないからだし、しっかり者に見えるのは単に余裕がないだけだし、かしこそうなのも眼鏡をかけた見た目だけだし、いつもにこやかなのは愛想笑いだし、なんかしあわせそうだよね〜もそう思い込んでいる結果だし。 六行目から。でも(これを詩に書くことに)他意はありません。死にたいみたいなのもないしね。生きて詩を書きたいと思えるのはありがたいこと。蟻が鯛ならニシンが蜂。それはまんが日本昔ばなしで見たお話(ぼうや〜♪と脳内BGMがカットイン)。にっぽんと言ったらニッポニアニッポンを思い出すけど、トキはトキだよ(どこで生まれたとしても)。と、考えている間に時は過ぎ。 これ、日頃の私の思考回路です。笑。最初は少々深刻めいたことを考えていたはずなのに途中から駄洒落になったり音楽が流れ出したりして別の話に成り代わっていく。このような思考回路のおかげで私はしかつめらしい顔をせずに済んでいます。 まあそれで何が言いたかったかというと、たぶん私の詩作のコンセプトは「はりぼて」です。 私が日頃から考えたいのは、おそらくこの、第四連の一行目から五行目までのことなんです。だからこの骨は胴を割いて中央に収まった。おそらく形はなんでもよかったのだけれど、着ぐるみのように魚のフォルムをまとったことで、この詩ははりぼてとして完成したんだと思います。 要は、中身がないってことです。 空洞です。 軽々しさ上等。 (あ、もしかしたら渡辺さんは、この中身がないことを批判しているのかしら?) それから、survofさんに謝ります。 survofさんと渡辺さんのお二人が批判的なコメントをくださったので、若干切れ気味な渡辺さんへの私の返信を補足するために、survofさんへの返信を利用してしまいました。ごめんなさい。 渡辺さんがどのような意味でコメントされたのかは渡辺さんにしかわからないことですので、私は、ご本人が説明してくださるのを待ちます。 > こうださん自身が何を思って書いていたとしても他者には関係なく、ただ目に映る状態のみが真実だと言うこと。 と、渡辺さんはおっしゃっています。 > 詩というものをマテリアルとして見る視点は流石頭一つ抜けているなといつも思っています。 > ただ同時に、こういったことをする必然性をしっかりと感じさせられたら素晴らしいのにともいつも思っています。 私の目に映っているのは本作には対する渡辺さんからのこのコメントと、「必然性が感じられない」という同じようなコメントだけを何度か一方的に投げてくるだけで私に何を求めているのか説明してくれない渡辺さんの態度だけです。 survofさんの憶測は、survofさんの憶測としてだけ受け取ります。ありがとうございます。

survof (2019-10-05):

ご丁寧にありがとうございます!作品ができるまでの過程とても興味深いです。 >survofさんとの対話が建設的なものになるかどうかは、主に私にかかっているので。 これはお互い様な部分はあるかと思います。こうださんの自己弁護が続く限り、私はきっと私の価値観でツッコミを入れ続けると思います。そしてそれはだんだん苛烈になり、最後には人格否定的な批判に発展してしまうのがわかっているので今回はやめておきます。自分の持っている物差しと違う物差しを作者が確固として持っている、かつ、作者自身の信念のもとそれを守る覚悟でいる、というのがわかった時点でやはり一旦議論は中止すべきなのでしょう。 さて、自分がなんで今回のように自己模倣について触れたかというと、実は私がなにより自己模倣に陥りやすいからです。なのでこうださんに対して、ひとつひとつ説明を求めたい、細かい論理の矛盾のつつきたい、負かしてやりたいという気持ちはないんです。ただ、詩の掲示板として、「自己模倣」という言葉は参加者全員に対して投げかけておきたいし、自分にも常に問いかけていきたい、という気持ちで書いています。というよりも、自分にとって自己模倣が特別な課題なのでしょうね。それを他の作品に投影させてしまった部分があるのかもしれません。

こうだたけみ (2019-10-05):

survofさんへ 返信ありがとうございます。 本当に早いですねえ。すごい。私は四時間かかったのに。笑! > こうださんの自己弁護が続く限り、私はきっと私の価値観でツッコミを入れ続けると思います。そしてそれはだんだん苛烈になり、最後には人格否定的な批判に発展してしまうのがわかっているので今回はやめておきます。 単純に疑問なのですが、作者がどのように考えて詩作をしているか説明することは〈自己弁護〉なのでしょうか。 それと、価値観は人それぞれなので〈私の価値観でツッコミを入れ続ける〉ことは誰に対してもできるし、誰でもできることだと思うのですが、それがどうして〈最後には人格否定的な批判に発展してしまう〉のでしょうか。 > 自分の持っている物差しと違う物差しを作者が確固として持っている、かつ、作者自身の信念のもとそれを守る覚悟でいる、というのがわかった時点でやはり一旦議論は中止すべきなのでしょう。 これも単純な疑問です。もしsurvofさんの思う議論を続けたとして、survofさんは何をゴールとするのでしょうか。私はこの文面から、「もしかしてsurvofさんの物差しにこうだの物差しを合わせられたら勝ちと思っているのかなあ」と想像してしまいました。 私は、価値観は人それぞれでまったく同じ人などいないし、むしろ同じである必要もないと思っています。ですから、私と価値観の異なる人が私から見て不思議な行動をした場合、なんでそうしたの?とは訊ねるけれど、そんなことしてはだめだと自分の価値観を押しつけることはしないようにしています。それが生死に関わるような危険な行為であれば全力で止めるけれど。 私はこういう理由であなたのこの行為はおかしいと思うけれど、あなたはそういう理由でこういう行為をしたのね。それがわかれば満足だし、いろんな価値観があっておもしろいなーすげぇなーと思います。そして、そんな人と話せてよかったなーと思います。 議論って、ディベートとは違うと思うんです。ディベートはなんらかの形で勝ち負けをつけるところまでがセットだと思うのですが、議論は、より相手のことを理解するためにする意見交換だと思うのです。いかがですか? 自己模倣については、survofさんがいろんな形式の詩を書こうとされているのを見ていたし、それでも「息継ぎなしの流れるような物言いの散文詩」というsurvofさんが得意とする形式に何度も戻ってきているように見えていたので、ご自身のことも含めておっしゃっているのは薄々感じていました。 そうですね。自己模倣は思考停止に近いですから、私は私の物差しで、少しでも成長できるように精進したいと思います。 それと、これは結構大事なことなのですが、自分が成長できているかは今の自分ではなくて未来の自分が決めてくれることだと思っています。今は停滞しているように見えても、じつは大転換への助走期間かもしれない。自分の詩がいつか化けることに希望を持って、お互いに書いていきましょう。私は、survofさんの作品がとても好きです。 追伸 survofさんとお話ができてとても満足したので、もう渡辺さんからの返信などどうでもいいような気分です。笑。

survof (2019-10-05):

あえて、ちょっとだけ論点をずらしますね。 例えばですけど「こうださんは自分の作品を対象化できていない」と私が指摘したとします。それに対して、こうださんは「できてるけど?」っていうと思うんですよ。じゃあ、そこでそれでも私がそのように感じている場合、こうださんの一連のレスの背後にある一連の心理を邪推していって私の批判はエスカレートすると思います。現に私は、なんでこうださんが「自己弁護していない」といいはるのか、の部分をツッコミにかかるところでした。でもそれは一旦置いておきます。どちらかというと、これは「議論とは何か?」あるいは「ディベートとは何か?」という問題とは全く別次元の私の負の人格に関する話だからです。私はその部分に蓋をして生きています。蓋を開けたところで周りの人と自分を傷つける結果になって何も生み出さないからです。徹底的な破壊願望が奥底のほうにあるんです。だからその蓋をあけるような行為はしたくない。ただそれだけのことです。私はあえてロジカルな書き方を放棄しています。論理的な問題ではないからです。 >自己模倣については、survofさんがいろんな形式の詩を書こうとされているのを見ていたし、それでも「息継ぎなしの流れるような物言いの散文詩」というsurvofさんが得意とする形式に何度も戻ってきているように見えていたので そうなんですよ。ご指摘の通りで、どうしてもそこに戻ってきてしまう。そこを一旦突破したい、と思っています。 >これは結構大事なことなのですが、自分が成長できているかは今の自分ではなくて未来の自分が決めてくれることだと思っています。 それはそうかもしれませんね。肝に命じます。ありがとうございます。

こうだたけみ (2019-10-05):

survofさんへ 若干、怒られるかなーと思いながら先ほどの返信を書いたのですが、そんなことはなかったのでほっとしています。 返信ありがとうございます。 あくまで例え話として出された「こうださんは自分の作品を対象化できていない」という指摘については、私はまったくその通りだと思います。どんなにがんばって距離を取ろうとしても、自作を客観視するなんてできないです。どうしたって書いたときのことを思い出すもの。 ただ、作者ですからどのように書いたのかを説明することだけはできます。その説明を聞いたうえでなお、それは批判に対する自己弁護だろうと判断するのは批判を投げかけた側の自由です。けれど、自作の説明=自己弁護ではないんじゃないかな?と言いたかったのです。言い方が悪かったですね。 私はsurvofさんと話すととても勉強になるのでありがたいと思っています。この、ときどきしっかりとした対話を試みられる関係性を大事にしたいです。徹底的な破壊願望とやらに顔を出されない程度に距離を保ったうえでね。 survofさんが詩作の上で何らかの突破をする、その姿を見られたらいいなと思っています。もちろん、突破できなかったとしても問題はないです。挑戦することそのものが重要だと思うので。 ありがとうございました。

藤 一紀 (2019-10-05):

こんばんは。初見で、またやられた!と思いました。有無を言わせずスコーンと脳みそに入ってくると、「やられた!」と思うのです。衝撃というやつですね。それが嬉しい(前の「丸で四角」もそうでした)。 とにかく、詩は言葉で書くもの(書かれたもの)というのがあって──実際それがほとんどなのですが──ずらっと言葉で書かれた沢山の作品が並んでいるわけで、読むのには感覚に意識を向けたり、イメージをたぐり寄せたり、まあ、なんじゃーかんじゃーとするんですけど(皆さん、それぞれの仕方があるとは思いますが)、そういうのでいっぱいいっぱいになった脳のコリを、一発で吹っ飛ばしてくれるレーザーみたいなのは、視覚詩のもつ魅力のひとつだと思います。悪い言い方かもしれないけど、読まなくても面白いというか、読むことに難渋しているこっち(この場合、私に限ります)を盛大に笑い飛ばしてくれるので、爽快になる。 ただ、以上のような言い方は、全体の中のこの作品、多数の言葉で書かれた詩作品の中の視覚詩作品という点で相対的になってしまう。余計なことですが、私としては、言葉で書かれた作品を難渋しながら読んで得られる喜びも知っているので、視覚詩だらけになるとちょっと困るといいますか。笑 まあ、とにかく相対的なところでの破壊力ということになるので、じゃあ比較抜きで見た場合どうかというと、読んでいく面白さもあって。意味わかんないんですけど、意味わかるとか関係なしに、いや、わかんないところが面白いというか。わけわかんなさの面白さ。そういうね、詩としても意味の伝達とかなにやら深刻めいた告白的な何かとか、そういうとらわれを取っ払うようになっていると思います。私なんかから見たら、よっぽど自由だなって思う。言葉による詩作品に対するカウンターというか、批判意識があるかどうかは別にして。 言葉遊びについては、こうださんご自身の言及があるけど、遊びは全然いいと思います。カイヨワだっけ?忘れたけど、遊びはゲームも含めて、徹底していけば厳格なルールが必要になって、中途半端な真面目では追いつかなくなるとこまで行くことがあるから。今のワールドカップの盛り上がりとかそんな感じ。ゲームの日は交通規制までかかっちゃう。

こうだたけみ (2019-10-05):

藤 一紀さんへ コメントありがとうございます。 コメント欄が無駄に長くなっているのは私のせいです。ごめんなさい。きちんと相手に伝わるように書きたいと思うとどうしても長くなっちゃうんです。簡潔に書くことも学ばないとですね。 やられた!と思っていただけて光栄です。 私としては、視覚詩も言葉遊び詩もただの一形式に過ぎないと言われるくらいに誰もが作ればいいのに、と思っていたりするので視覚詩だらけのビーレビも見てみたいです。たぶん世界の見え方も変わる気がします。笑。 藤さんは〈わけわかんなさの面白さ〉と表現してくれましたが、この「なんかよくわからんけどおもしろい」みたいな感覚は私の目指す最大の、ある意味では最低限の目標です。沙一さんへのお返事にも書いたのですが、言葉遊びを読み解くことでしかけ絵本のようにたのしめる詩であればいいなと思うと同時に、そんなの気にしなくても「なんかわからんけどおもしろい」と思ってもらえる詩でありたいです。仕掛けがわからないとたのしめないのはつまらないので。 ロジェ・カイヨワ。たぶん初めて聞きました。遊びの研究っておもしろいですね(wiki調べ)。そういえばベルクソンの「笑い」についても読まないといけないんだった。二十年くらい積読になってる……。 そして、「まるでシカク」への言及もありがとうございます。あまりコメントがつかなかったので、読んでもらえていたことがうれしいです。それで気がついたんですが、「まるでシカク」だけは渡辺さんに褒められてるんですよね。 おそらく渡辺さんは、視覚詩=コンクリートポエムという考えなんじゃないかと。私は、ギョーム・アポリネールのカリグラムなども含めて視覚詩だと思っているんです。藤さんのおかげで、また一つ考え方の違いを発見できました。なるほどなー。違うっておもしろい。

渡辺八畳@祝儀敷 (2019-10-06):

こうださん まず改行についての言及ですが、https://www.breview.org/keijiban/?id=3779  ですね。読んでいただければ分かるよう、「上記が私の言う『一般的な改行詩』」にあてはまる詩への改行です。 言及こそこの作品にだけですが、漫然と行われている改行については毎度同じ事を思っています。実は私が10月に投稿した詩は漫然改行への批判を込め、各連ごとに改行へ意味をつけた作品です。 こうださんのコメントでちょっと辛いなぁと思ったのは、私の批判は人格の否定だと言われてしまったところでして。むしろ私は作者の人格を徹底的に勘定から省いているわけでして。「そこになんらかのこだわりを持って臨んでいる」ことが詩文から感じられなかったら、それは無いものと判断しています。勝手に作者の人格を推測するのは不誠実でしょう。 >つまり渡辺さんは視覚詩をやることの必然性に疑問を投げかけているようにみえて、実際は視覚詩としてのクオリティを問うているだけではないかと思うのです。 というsurvofさんの指摘はかなり的を得ていますね。「まるでシカク」 https://www.breview.org/keijiban/?id=3866 を賞賛したのは詩の意図がわかり、その実践方法として適切だったからです。「作者の意図をはるかに超えた高尚な解釈」とおっしゃられましたが、そんなのは関係ないのです。テキストから読み取れる情報だけがすべてですから。 つまり私は、目的に合わせた手段であるかどうかを重視しています。別に手段はコンクリートポエムでもカリグラムでも良くて、それが目的に合っていたら良いでしょうというスタンスです。手段が適切でなかったり、手段が目的化しているものは大抵高くは評価しません。 「視覚詩である必要が無い」って言うのも、この目的を遂行する手段として視覚詩は合ってないんじゃないか、という意味なのです。そこは言葉足らずだったなと感じています。 目的と手段の関係性の崩壊にこうださんが陥らないかという心配が私にはありまして。目的=手段となってしまうと変化が無くなります。そこはsurvof氏が言及している自己模倣に繋がってくるかなと。文学極道で長年投稿している田中宏輔氏が行っている全文引用詩 http://bungoku.jp/monthly/?name=%93c%92%86%8dG%95%e3 なんてまさにそれじゃないかなと。引用詩を作るということが目的になってしまい、結果として似たような作品だけが世の中に溢れる。 もしかすると、マンネリにマンネリを重ねるとそのマンネリこそが手段となるかもしれませんが。芸術家の河原温氏が行っていた日付絵画みたいな感じで。ただ私はそれに魅力は感じないんですよ。テキスト主義なので。 こうださんが「視覚詩」という手段を自在に操れて、さまざまな目的へカチッと活用できるような詩人になったら、それは非常に強いでしょう。ご期待申し上げます。

こうだたけみ (2019-10-06):

渡辺八畳@祝儀敷さんへ わー、めちゃめちゃ親切なコメントをありがとうございます! いくつかの短いコメントの少ない情報からどうにか想像するしかなくて、勝手にどんどんネガティブな方向へ陥っていたところをいやそうじゃねえだろと引き揚げてもらえた気分です。ありがたい! うれしすぎて返信が長くなりそうです。 まず、一般的な改行詩への言及例について。 リンク先で渡辺さんが指摘されたこと、なるほどなーと思いました。私がどのように納得したのかご説明すると、「これは改行によって生み出されるリズムの作り方への言及だな」と理解し、納得しました。 私は五年ほど前まで小規模無名出版社で取材原稿を書いていました。一年半しかいなかったので今も素人です。まあ、ビーレビでコメントを書くのに四苦八苦している様子を晒しているので言わなくてもわかるとは思いますが。笑。 原稿書きを許された時に編集長から言われたのは、「文末でリズムを作れ」です。例えば、とある経営者に人材育成について語ってもらい作成した、以下のような取材原稿があるとします。  独特な人材育成で多くの逸材を生み出すことで有名な東京都練馬区のA社を取材した。晴天の中、B社長がにこやかに出迎えてくれた。とてもさわやかな人物だった。B社長は「たとえ完全に理解することはできなくても、互いに相手の心情を考えて理解を深めようとする努力が大切です」と語った。それがA社の人材育成の要だった。  同社では…… これだと「〜た。」という過去形の文末がつづいて、ただの報告を聞かされているみたいですよね。リズムもない。これを私なりに書き直してみます。  見事な秋晴れの某日、爽快な気候に勝るとも劣らないほどさわやかな笑顔で我々を出迎えてくれた人物。それがB社長だ。彼が代表を務める東京都練馬区のA社は、その独特な人材育成で業界に名を轟かせる。 「たとえ完全に理解することはできなくても、互いに相手の心情を考えて理解を深めようとする努力が大切です」と熱く語るB社長。  それこそがA社の、〝逸材を生み出しつづける人材育成〟の要なのだ。  同社では…… だいぶ大袈裟に書いたので胡散臭いですが。笑。文章の入れ替えや表現の変更などで文末に変化を起こし、そこに改行を入れたことでリズムが生まれて印象が変わったんじゃないかなと思います(上手いかどうかは別にして)。 散文の改行には、特殊な文体の小説を除いて、文庫本の一行あたりの文字数換算でだいたい五行までに改行を入れて読みやすくする、みたいな大まかなルールがあります。文意の切れるところで改行を入れるのではなくて、読みやすい改行のために文意を合わせていくような感覚さえあります。 けれど詩にルールはありません。むしろ、どこに入れるのも自由であり、改行一つで様々な効果(とくにリズム)を作り出すことができる。その効果を知ろうともせずに、ただなんとなくで改行するのはどうなの? ってことを渡辺さんは指摘しているのかなと思いました。たしかにそうだよなー。 そもそもの私の例題が悪かったですね。ごめんなさい。後ほど、ご紹介のあった渡辺さんの10月の投稿作も読ませていただきます。 > こうださんのコメントでちょっと辛いなぁと思ったのは、私の批判は人格の否定だと言われてしまったところでして。むしろ私は作者の人格を徹底的に勘定から省いているわけでして。「そこになんらかのこだわりを持って臨んでいる」ことが詩文から感じられなかったら、それは無いものと判断しています。勝手に作者の人格を推測するのは不誠実でしょう。 たしかに、作者像を勝手にでっち上げて、どうしてそう判断したのか理由も言わずに意見することは、批判でも称賛でも的外れですよね。 ところで私には、本作へ最初に渡辺さんからいただいた二行のコメントから〈私は作者の人格を徹底的に勘定から省いている〉という渡辺さんの信条を読み取ることができませんでした。そんなことはどこにも書かれていなかったので。 そして「いつも」という言葉が二回も出てきたことから、この人は私の書く視覚詩を全否定しているのだと考えたのです(「まるでシカク」への褒め言葉はこの時すっかり頭から抜けていました。ごめんなさい。藤さん、思い出させてくれてありがとうございます)。 これまでに何度か、渡辺さんから「視覚詩である必然性を感じない」という批判をいただきましたが、そこには〝なぜ必然性を感じないのか〟が書かれていませんでした。私はこの批判を「なんでわざわざこんな形にするのかわからない」という意味で捉えました。そして、私なりにこういう理由でこの形にしたのだと説明して納得してもらえれば、作品に対する判断が変わるかもしれないと思ったのです。 改めていただいたコメントから、それは的外れであったことがわかりました。けれどもこのコメントをいただくまで、私は渡辺さんのことを「理由を述べずに一方的に批判をして反論には耳を傾けない人」だと思っていました。そんな人から「〝いつも〟視覚詩である必然性が感じられない」と言われたら、「お前の視覚詩なんか視覚詩じゃねえよ」と全否定されたと感じませんか? ある作者の視覚詩を全否定することは、「私は視覚詩を書いている」という作者の認識をも否定することです。ですから、私は人格を否定されたように感じました。 渡辺さんから改めて丁寧なコメントをいただけたので、私の疑念は晴れました。そして、〈目的と手段〉という新たな課題をいただきました。 私のやっていることは、「ここで改行したいから改行する」ということとたいして変わらないのかもしれません。〈目的と手段の関係性の崩壊〉どころか、〈目的と手段〉についてまともに考えたこともなかったです。 私は、言葉遊びや視覚的効果を生み出すことが好きだからやっている、という部分も多分にあるのですが、言葉遊びにどういう形式があるのか、視覚的効果を生む方法にはどんなものがあるのか、というのを実践によって学んで吸収したいと思っています。まず、あらゆる方法を体に覚え込ませる。そこから初めて新たなものが生み出せるようになるんじゃないかなと思うのです。それは、絵筆の使い分けを知っているかどうか、みたいなことです。生まれ持っての才能があれば、学ばなくても感覚的にこの絵筆はこう使えばいいとわかるかもしれないけれど、私にはそんな生まれ持っての才能はありません。 ですから、マンネリに見えるかもしれないけれど、本人的には何かを学び取ろうと必死だったりします。さらっと簡単に書いているようでいて、ものすごく時間をかけて書いているし。 > こうださんが「視覚詩」という手段を自在に操れて、さまざまな目的へカチッと活用できるような詩人になったら、それは非常に強いでしょう。 はい、そんなふうになれたらいいですね。日々精進します。 長々とお付き合いいただきありがとうございました。渡辺さんとお話できてよかったです。このコメントの最初のほうは渡辺さんのコメントを見てすぐに書いたのだけど、後半は今日の仕事が終わってから書いたのでテンションが全然違くてすみせん。今テンションは低いですが、冒頭と変わらずとてもとてもうれしく思っています。 ありがとうございます。

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