シブくてニクい - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



批評対象
作品を読む

シブくてニクい    

<批評対象作品>


僕はこの作品に感想を長々と書いたんだけど、最初は「んー?」という感じでした。というのは、この作品の語り手(作中主体)は、何か内容のあることを語っているふうには感じなかったから。ためしに第一連を挙げてみますね。 真夜中の公園では ブランコは白い 歩き疲れた道の突き当りでは そこに何が書いてあるにせよ 看板は黄色い 「へ?」って感じなんですよね。それに、 真夜中の公園ではブランコは白い でもないんです。「では」で切って、行換えをしている。 井上陽水の「傘がない」という古い曲の歌詞に 都会では 自殺する若者が増えている という箇所があるけど(とりあえず「では」で切ってみた)、これなら意味が通って、何かの記事みたいではあるけど、「へ?」とはならない。ところがこの作品は、 真夜中の公園では で始まって、行が換わって、次につづく言葉を待っていたら、 ブランコは白い で止まる。これはなんというか、空を掴まされた感じがして、言葉としてちょっと気持ち悪い。これが、 ブランコは動かない とかなら、まあ、当たり前のことではあるけど、そんなに違和感はない。というのは、イメージとして公園にはブランコは付き物だし、ブランコは人がそれに座って動かすものだから、反対に、人がいなければ動かないとしてもおかしくないよねって話になる。それが、 ブランコは白い と、色の話になる。 仮に白いブランコがあったとして、それで「ブランコは白い」と言うなら全く変ではないけど、それなら「真夜中の公園では」という前行はいらない。 要すると、「真夜中の公園では」と「ブランコは白い」が結ばれて語られることの因果的関連が見出せなかったんですね。この作品ではこういう語りかたがつづくから、作者は意図的にこういう外しかたをしてるのかな、いったいなんだろなと思ってました。 でも、考えてみるに、「真夜中の公園のブランコが白い」って変ですよね。《歩き疲れた道の突き当りでは/そこに何が書いてあるにせよ/看板は黄色い》というのもなんか変。で、これは作中の主体にとってそう見えた(捉えられた)色なのかしら、と考えると、「真夜中の公園」も「歩き疲れた道の突き当り」も、特定性を示していると思った。なるほど、だから「では」だし、行換えしてるんだなと。 何が言いたいかというと、ある特定の時・場所・状況では作中主体にとって、Aという色がBという色として捉えられるとするなら、《真夜中の公園では/ブランコは白い/歩き疲れた道の突き当りでは/そこに何が書いてあるにせよ/看板は黄色い》というのは必然性があるよね、ということなんです。そしてそれを示すために作者による行換えがあったんじゃないかということ。 そう思うと、この作品コメント欄の田中恭平さんへの返信に、澤さんが書いているけど、作中主体は訥弁だけど、それもやっぱり必然性があってそうなっているのであって、奇をてらってとか肩すかしをしているというのではない。 実際、ほぐすように読んでいくと広がりも奥行きもあって、感想はコメント欄に書いたものの、とても完全に読めたとは言い難いし、読んだことすべてを書けたわけでもないと感じています。 にしても、のっけから「へ?」って気がかりにさせて、違和を感じさせて、そのくせちゃんと必然性に則って書かれて、読みに誘いこむ作品て、ちょっとシブいし、ニクいと思うので推薦します。



シブくてニクい ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 2
P V 数 : 651.7
お気に入り数: 0
投票数   : 1


作成日時 2023-04-26
コメント日時 2023-04-28

シブくてニクい コメントセクション

コメント数(2)
澤あづさ
作品へ
(2023-04-27)

コメ欄の重厚な批評と打って変わって、推薦文は批評裏話とは心憎いですね。あんな濃い批評をコメ欄に出してしまわれて、推薦文をどうなさるおつもりなのかと杞憂していた(すなわち推薦文投稿は当然の前提である)ので、なんだか虚をつかれました。考えたら推薦文の最重要は、なにをおいても広告なのですよね。 文中でのご言及ありがとうございます。あのコメ欄ではわたしも、新天地が開闢した気分になりました。田中恭平さんのおかげで、予定のなかった拙劣技術論を開陳する機会に恵まれ、こうして藤さんの鑑賞裏話を拝見して、自分の無自覚な読解傾向を、いよいよ自覚したところです。 >最初は「んー?」という感じでした。というのは、この作品の語り手(作中主体)は、何か内容のあることを語っているふうには感じなかったから。 逆にわたしは初見一発目から、一切の不可解なく詩境に没入したあげく、父の自殺の現場を思い出すなどの聯想過多で泣いたのですよね。いまよくよく考えると、なぜ突然没入できたのかわからない。 >「真夜中の公園では」と「ブランコは白い」が結ばれて語られることの因果的関連が見出せなかったんですね。 この初行の飛躍が大胆すぎて、読者がしょっぱなからつまづく蓋然性が高い、というのが、あえて挙げるならこの詩の構造的な弱点なんだろうと、いまさら思いました。逆に言えばその弱点を忌避している限り、つまり読者の無理解を恐れている限りはですね、よい文章は書けないのだろうと、改めてつくづく思いましたね。

2
藤 一紀
澤あづささんへ
(2023-04-28)

詩を読むことの厄介なひとつは、読み始めるや「この作品は何を語ろうとしているか」という考えが、つい働いてしまうってところですよね。書かれていること以外に作品の言葉が語っていることはない、と思っているのに、気づくと何かしらの意味内容を伝えるためのものとして読んでしまっている時がある。その読み方のなかにあるのは、「意味内容を伝えるためのものなら、内容がそのまま理解できるように書かれているはずだ」という、日常生活での言語使用の意識ですね。習慣的に慣れ親しんだ言葉への考え方というか、堅い言い方をすると与えられた言語規範に染まった言語意識というか。 で、僕はつい無防備にそういう態度で作品の言葉と関わってしまっていたんだと思います。それで「ん?」となった。 推薦文では第一連を例にあげて、「では」とその前後、行換えについて書いたけど、先のような言葉への態度で関わっていたので、全体を通して「?」が続きました。いや、違うなー。「?」が重なっていったという方が近いかもしれません。 真夜中の公園では ブランコは白い (ん? どういうこと?) 歩き疲れた道の突き当りでは そこに何が書いてあるにせよ 看板は黄色い (あれ? ブランコの話は?) 女の子の白いパンティの真ん中には …… (ブランコの話は? 看板のことは?) (以下続く) 作品の言葉に違和感や疑問が生じる。ところが、次に来る言葉はこちらの疑問を解消することは語らず、またも違和感や疑問を生じさせる。読みすすめるごとに違和感・疑問が積み重なっていく。浮かんだ違和感や疑問が解消されずに、違うことが語られるから、読み手としては、当初のそれはいったん白紙にして、次にすすむけど、そこでも同様のことが起こるんです。「んー? どうなってんだー?」ってね、そりゃあ、なります。先に書いた言葉への意識で関わっていたわけだから、置いていかれた気持ちにもなる。 作品内で次々に積み上げられていく言葉、読んでいるこちらではそれを追うごとに積み上がっていく疑問や違和感。言葉が組み立てられては消え、また組み立てられては消えるっていうは、まさにツムツム的であり、テトリス的であるのだけど、こちらとしては素の状態で読んでいるから、たとえ最後の「や」で積み上がった違和感が「クリアー」されてカタルシスに立ち会うとしても、そこがわからないんです。敢えて言えば、その時はツムツム的テトリス的言語空間の中にいて体験している状態なんです。 ところが、全く何もわからないというのでもない。やっぱり何か言わんとするものがあるのは感じるんですね。よくはわからないけど、何か届いてくるものがあるのは感じたんです。それが最終行の 夜になるとブランコはみんな白いや で、とりわけ「や」の響きです。いま思えば、18音の中に置かれた5回のA音の5回目なので、その積み重ねの結果として大きく広がる効果があったのかもしれないけど、ともかく「や」には何か届いてくるものがあると感じました。 でも、当たり前だけど「や」だけでこの作品が作られているのではない。そういうところから見ていくうちに、色に関することがたくさん出てくるなとか、ここで初めて主語がでてくるなとか、言えば詩の言葉に向き合う態度が整ってきたんですね。慣れた言語意識の位置を作品の言葉の方へ近づける、みたいな。 だから、推薦文はこの後から始まるんですが、それはコメント欄に書いたのでここで繰り返すまでもないですね笑 ひとつ付け加えると、読むという行為は、疑問だとか違和感だとか、わからないとか、もやもやとか、逆に小さな発見とかを含めた言葉の体験を含むものだと思うので、こうした体験をさせてくれる作品に出会えたのは有難いことだし、それだけをもっても推薦に足るのではないかと思っています。 澤さんのおかげで今回のいちいちを考え直し、なんとか言語化することができたように思います。感謝申し上げます。加えて、当該作品の作者にも。ありがとうございます。

2

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