作品投稿掲示板 - B-REVIEW

yasu.na


投稿作品数: 51
総コメント数: 226
今月は3作品にコメントを付与しました。
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今日(2020/08/31)ツイッターのアカウントを作り直しました。すると、名前が変わりました。もとは南雲です。

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コメントありがとうございます。  この拙作は「僕、醜いものを見ると涙が出てくるんです」という私にとっては自然な動作を表現した一文を基礎にして、論理的に破綻しないようにと願いながら展開させて作った詩文です。なので、この基礎になった一文が揺らぐと全体が揺らぎます。それが現実のことになったようです。つまり「醜いものを見ると涙が出てくる」ことが読者にとって自然なこととは思われず、普通とはかけ離れているようで驚きを感じるということになったのです。しかしながら、このことによって全体が崩れたのではなく、揺らいだだけであったのは幸いでした。  最後のあたりで私は問題を涙一般のことに拡げました。どんな場合の涙でも「僕が流す涙はもはや心からのものなのかどうか疑わしい」として、すべての涙を闇に投げ捨てたのです。だからこの作は、何かを解決して結論づけたものではなく、煩悶そのものを描いたものです。私の力不足からか、どうしてもあのような結び方になってしまったというのが本当のところです。 (涙)

2020-11-06

 ものすごい詩情ですね。そしてありがたみさえ感じます。今、私は全然書けない状態にあるので、詩ってこういうように書くのかと、見失っていたものを読ませていただいた感じがしました。  ちょっと長いので印刷して読んでいるのですが、どこに目をやっても希望というか勇気というか、そういうものをもらえます。こういう効果をもたらす、あるいは狙う詩文というのは、ありふれているかもしれませんが、この作品はどこか違うと感じています。 (Kitty's lullaby/Daybreak)

2020-11-02

 コメントありがとうございます。  本作品を「聴く」というアプローチをおもしろいと思いました。 「書く」ということをすると、どうしても「思考」が入ってしまい、時にその書かれたものは何か汚いものになります。そして「読む」に堪えないという仕儀に至りますね。  本作品には汚い箇所があります。しかし、雨上がりの情景描写や愛をポジティブに書いた箇所があるためか、鑑賞する人に安堵をもたらすことができることに、作者の私も安心の気持ちになれます。 (乾きそめている道)

2020-10-20

 お読み下さりありがとうございます。  今作では、雨が降って、過ぎ去って、乾き始めているという誰もが遭遇する状況を描きながら、そこに愛の性質についての一考を重ねてみました。  愛には方向があるし、必ずしも公平なものではないし、美醜もあります。とても人間的なものです。  終盤はちょっと暗くなってしまいましたが、なんとか読まれる程度には持ちこたえられて良かったです。 (乾きそめている道)

2020-10-18

>罪が同じだと歓びも同じなのかな  おそらくこの詩の核心であると思われるこの一行が私は好きです。  深い考えと感性から出た言葉であるように思われます。  それだけに、他の部分がちょっと軽量かなと思われ、もっと醸成できたのではないかと思いもしましたが、でもこの一行は良いです。タイトルも良いですね。 (一過)

2020-10-10

 身に余るメッセージありがとうございます。  書いている人たちはみんな過敏な感性を持っていることと思います。ビーレビから私は多く学んでいます。仲間でもありライバルでもある投稿者のみなさんの作品を読んで自分も頑張っています。戸ヶ崎さんの作品もとても良かったです。 (牧子の場合)

2020-10-08

 お読み下さりありがとうございます。  良いフレーズが書けて良かったです。  そうですね、人はみんなそれぞれの人生をいろいろな思いを抱えて生きていますね。  今作の舞台はいわゆる夜の街にある小さなラウンジ。  夜の街にいる人々もめいめい様々な事情を抱えてそこにいるのでしょう。 (牧子の場合)

2020-10-07

 私は前進にしろ後進にしろ、歩行や進行が好きです。地面に足のついた人間の当然の、基本的な動作であるから。そして地面に足がついていること自体に好感を覚えます。だからこの詩が好きです。  それに、無駄な言葉を削ぎ落とし、難しい言葉も使わず、簡明です。そこも好きです。  内容的には、確かに人間は「前向きに歩く」しかないように思われるのですが、それをあえて気分的にも実感的にも後ろ向きに歩くように読者に感覚させることに成功していると思います。  最後、辛抱や努力から解放されたい、誰にでもある思いを書いてくれていて、安心させてくれます。気が楽になりました。 (よけいなお世話)

2020-10-07

 コメントありがとうございます。  十八歳、あの強くもあり弱くもある時代、好運にもうまく通過できる人がいる。だけど私はそうではなかった。まだ家族に支えられて生きるべき少年だった。浪人でもして少し成長してから大学入学すればよかったとあとになって思っています。  私たちは自由です。それゆえやはりどう生きるかを考えなければならないのでしょう。偏狭と寛大との間で揺れ動きながら。 (卒業式)

2020-09-28

 この詩、いいですねー! 嫉妬しました。  何がいいか。  リズミカルな進行感、これはすぐ感じ取ることができます。  私が最もいいと思うことは、この詩から感じられる地上感です。  地面から足がまったく離れない人間の臭さが好きです。  夢幻や言葉遊びに安易に流されない態度が好きです。 (履歴書)

2020-09-25

『一定再見』は語らずにはいられない良い詩でした。  でも何でも、書かれたものは書かれた文字そのままに静かに受容されるのが良いとも思います。 「読む」ということは難しいことだと、また、思いました。 (推薦文(『一定再見』五木 國重氏))

2020-09-13

 コメントありがとうございます。滝の換喩のところを読み汲まれていただけたようで良かったです。  今日、本屋に寄って、岩波文庫の『伊東静雄詩集』を立ち読みしてきました。「鶯」の部分だけです。実はこの本をずっと昔、図書館で借りたことがあるのです。一割も読まずに返却してしまったのですが、それはなぜだったかと考えると、なんかページの面がすべすべしている、引っ掛かる感じがない、ということだったと思います。良すぎる、或いは上手すぎるということにもなるかと思います。そしてこの感じは中原中也や萩原朔太郎からもやや受け取られるものなのです。または私が読者として低レベルだったのか……。  杉本という人とはこの本の編者の杉本秀太郎という人だと思われますが、この人の言説までは到達できていません。それにそれを解するには「先行する詩」を全部読まなければならないようです。  帰宅してAmazonで調べますと『わがひとに与ふる哀歌 Kindle版』というのがあって¥0なので、これを読み直そうと思います。最近、本をたくさん買いすぎてしまって……。 「人生はゲームではない」とタイトル付けしましたが、テーゼと言えるほどまでは意識していなかったです(テーゼとは、肯定的な命題のことでしょうか)。むしろ『無題』とでもしておけば良かったかもしれません。しかしながら書き始めてパソコンに保存する時にファイル名を衝動的に『人生はゲームではない』としたのも現実です。私の感性がこの世の中の雰囲気を感じ取って、それで付けたタイトルです。  この詩を書いた後、最近見知ったのですが、自分がゲームをしているその画面と自分の声とをYouTubeでライブ配信する人々がいて、その視聴者数もかなりのものであるようです。私が見たのは「フォートナイト」?というゲームだったかな。生き残ることが目的のゲームらしいです。ゲームと言えばたいていそうか……。 (人生はゲームではない)

2020-08-24

恨みを書いていると思ったら、最後に、 >ニャーニャーニャー >何だか猫みたいで可愛い ときました。 女性の気持ちを書いたものでしょうか。だとして、男性の私から言いたいことは、確かに「そういう時にだけ」連絡することは多々あるのですが、本当にはその女性をすっごく好きなんですよね。 (猫みたい)

2020-08-20

 一目、目で本文全体を見て、出てくる言葉たちに魅力があり、またタイトルも中国語みたいでおもしろそうだと感じました。もしかして本当に中国語?  括弧のある連が三つ続くことなど、技術的です。  最初から最後まで維持される重さ。 >言葉の解像度を極限まで下げて >それ故違法建築の密林に際立つ一言  この最初の導入からして重い。  内容は、直接的には、一個の特色ある街について書いたものと推察されました。  しかしそれはあくまで直接的なことであり、ここには紛れもない言葉の芸術があると思いました。 「言葉の解像度を極限まで下げて」という含蓄のある条件あっての「幻覚の街」「魅惑の街」。それが最後に「一切は空に消える」としてむなしい裸にされます。  これが私の拙い読解です。  票を入れたくなったから、その気持ちに素直に従い、一票。 (一定再見)

2020-08-18

「詩」の模範のようだと思わせながら、実はちょっとそこを超えている、と感じました。 >今日の切符は残らない  と述べることで、何かが残るような気配を醸し出している。  最終連こそ一番良いところ。  固有名詞が今までの模範的な感じを破って気持ちいい。  埼京線の「下り」だから、たぶん埼玉のあの田園の方へ進むのでしょう。  短歌のような終わり方がまた良いですね。    すみません、時間がないのでここまでにします。 (飛行)

2020-08-17

 なんと繊細で、丁寧で、清潔で、リズミカルで、控え目で、大胆な作品でしょう。  よく見ていくと、同じ語句が二回ずつ使われています。 「浴びて」「少しばかりの」「くっつけて」「目を閉じて(めをとじて)」「それから呼吸をして」「塞ぎ」です。 >外の往来を眺めて景色の一部と化してしまう眼が >零れ落ぬよう、抑えて塞ぎ >この眼には見えない宇宙を眺め >淡く虹色に溶けてしまわぬように、 >この眼を塞ぎ  このあたりの「眼」をめぐる記述はすごいです。胸が痛みました。  全体からは、感受性が高すぎて、崩壊しそうなくらいの状態にあるのが伝わってきます。  最終行を読んだ後に、付せられた画像を見るその過程で、感動は最高度に高まります。 「骨」という消滅しないものに対して「あの頃の事ですから」とあきらめると同時に大切にしまっておこうとする気持ちが感じられます。 (memo)

2020-08-16

 全体を一通り見て、人物の思い、ないし行為を直接的に分かりやすく書いてあるのは、 >意味を成すことだけがすべてと思うなかれ  の行と、 >手を触れず、抗わず、この身を任せ >ひとつの絵になるまで待つ  の行であると見て取れました。  私はこういう箇所が好きです。でも、この詩の他の記述、表現も好きです。  作者さんはきっと詩作能力の高い方なのだと推察できました。長い詩ですが、どの部分を見ても楽しいです。それから、この詩を舞台の上で朗読したら良いだろうなと思いました。  意味内容で読ませる詩ではないと思いました。が、言葉である限り、作中の個々の言葉は意味を持っているはずですし、そのために読者の頭の中に感覚とか印象とか映像が生まれるのだと思いました。この詩は、詩にしかできないことをやり遂げていると思いました。純粋に言葉によって読者を揺さぶります。  豊富な語彙と創造力を持っていて、それによって次々と効果的な言葉がリズミカルにきめ細かく繰り出されています。  すばらしいとしか言いようがありません。 (花散らし)

2020-08-15

 一読して何が書いてあるか分からなかったけれども、ひかれるものがあって何度も何度も読みました。「見てもわからないのならもう放っておいて欲しいのだ」と言われても、放っておけない力を感じました。  作者さんは私なんかよりいろいろ知見があるようです。「グリッドリーク」と「コンクリートから人へ」という言葉を調べました。 「グリッドリーク」は推察すると、抵抗を生み出すものでしょうか。一見余計なものに思える抵抗がなければ、回路にならず、動かないと作品の最初に言っているのでしょうか。  また「コンクリートから人へ」のあたりは、建造物ではなく人に投資はしたものの、現実にはダムなどの建造物が人を救っているというようなことを言っているのでしょうか。  そうとらえると、タイトルの『因果は廻る』が分かってくるような気がしました。  私のこんな読みが合っていれば、確かに作者さんはおもしろいことを書いていると思いました。もうちょっと文をスマートにすれば、三文以上で売れると思いました。でも文があらっぽいからこそ何度も読まされたとも言えます。 (因果は┣廻┳めぐ┫る)

2020-08-15

 エイクピアさん、おはようございます。お読み下さりありがとうございます。 「生命の連続」、まさに私はそれを信じています。後に生まれた者は、必ず前に生まれた者のことを記憶し、心の中にその生を持ち続けます。  郵便配達のバイクの描写は、実際に目にしたことを書いたものです。私は言葉に飢えた時、書物を読むこともするのですが、外に飛び出して歩き回ることもします。いろいろな物事を見ます。そして言葉を受け取るのです。たぶんこういうことをしている方は多いと思います。  それにしても人間の心って抱え持つのが重いほどの瀑布のようなものです。 >でもやがてはどこかに浮かび上がって現れる何か  失われるものはなく、終わることはないという私の信念です。 (人生はゲームではない)

2020-08-14

 お読み下さりありがとうございます。  この詩にこめた思いの具体はryinxさんにあてて書いた返信の通りです。 「不変」、このことを感じ取っていただけてうれしいです。  私としては、「東横線が多摩川を渡る」というフレーズをこんなにも繰り返していいものか、いまだ自分の中で問うているのですが、他にどうしようもなかったというのが本当のところです。ラップにはこういうのがありますね。詩でそれをやるのは詩の独立性を破っているとも言えます。詩にしかできないことを追求したいとは思っているのですが……。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-13

 私は昔、東横線沿線の横浜に住んでいました。恋人は、東横線沿線の東京に住んでいました。大学も東京にありました。東横線に乗って多摩川を渡った回数は数え切れず、毎日のことだったと言って過言ではありません。  この詩にはこんな具体的なことは書かずに、表層的感覚だけを書きました。  録音に際しては、手をげんこつにして振りながら朗読しました。  今でも胸を焦がす青春にまつわる私の熱い思いが、効果として伝わることを願ったのがこの詩であるわけです。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-13

 お読み下さりありがとうございます。  この詩は私の前作『東横線が多摩川を渡る』とは見た目が違い、また制作手法も異にしています。前作は歌を口ずさむようにすらすらと書いて推敲もせずに発表したものでしたが、今作は見た目からして内容的であり、また「計算せよ」と内なる声で唱えながら「書いた」或いは「作った」ものです。「計算」とは決して自分にうそをつくことではなく、読者にうそをつくことでもありません。完全に逆であり、私にとって「計算」とは最も自分に正直であるところを追求し(もちろん倫理的に問題があるかどうかも考えて)、それからそのところをどのようにすれば最もよく自然に他者に伝わるかを追求することです。当然のことのようですが……。  今作は内容的な面から言って量が大きく、また複雑であることが最初から明らかだったので「歌う」ことをやめて「計算」して「書く」ことにしました。しかし小説や評論のような散文にするには表現したいことの筋がちょっと繊細すぎ、また頭に思い浮かぶ言葉が文章としては結ばず、フレーズ的に点々としていたため、行分け詩の形をとらざるを得ませんでした。  可読性は高い方だと思います。  ryinxさんが受け取られた印象、とても美しくて、うれしいです。 (人生はゲームではない)

2020-08-13

 わくわくして読み始めました。 >今 >同じ匂いの充満するまちは >爆発寸前  このあたりは最高です。  しかしこの少しあとに祈りが始まりますが、その祈りが「幸せ」「幸福」を願うものに落着しているのはなんか惜しいと思いました。  ルネサンス以前以後のコントラストを出そうとするのか、同質性を書こうとするのか、たぶんその両方を表現したいと作者さんは考えていると感じられました。私のこの受け取り方が正しいとすれば、もっと書く順番を整理し、書き方を計算する必要があったのではないだろうか、と思いました。  タイトルが「唄」となっていますね。「唄う」ことはできていると思いました。ただこの内容を表現するのであれば、私ならもっと「計画」ということを「唄う」前に十分におこなうだろうと思いました。  ちなみに私はかつて或る方と議論になって、書くにあたって「計算」ということをするのを否定的に言ったことがあります。しかし今、私は「計算」はやはり必要なことだという考えに変わってきています。  繰り返しになりますが、コントラストと連続性、この両者の混じり合いを抒情的に表現したことが、この作品の妙味だとは感じられました。 (ルネサンスを想う唄)

2020-08-11

お読み下さりありがとうございます。私はこれを「書いた」のですが、「歌った」と言った方がよりぴったりします。私にしては久しぶりの「制作感覚」でした。指先から言葉が流れ出ました。書き切るまで時間はかかりませんでした。直しを入れる必要も感じませんでした。今にして読み返してみれば、どの行も難しいことは書いておらず、平凡な表現ばかりです。シンプルです。このことは良いことなのか、自分では危惧されることなのですが、かと言って今もどこを直せば良いか分かりません。たぶんこれはこれで良いのでしょう。このまま読まれ、中にこの拙作に引き込まれた方がいらっしゃったことはうれしい限りです。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-09

お読み下さりありがとうございます。ご指摘を受け、自分が多摩川の河川敷で動画を撮りながらこの詩を朗読している姿を想像し直してみました。本当につまらないことですね。詩が内包している、そして同時に放出しているものを小さく限定してしまいます。私は鉄道ファンであるがゆえにこの詩を書いたのではなく、「東横線が多摩川を渡る」という言葉に、端的な意味以上の効果、情感、劇をこめたのですから、もし直接的に、東横線が多摩川を渡る映像にのせてこの詩を読みあげたなら、そういうものを読者が受け取ることができなくなると確実に思われます。安易に「コラボレーション」ということを考えてしまっていたようです。それをするならば、真に表現したかったこと(効果、印象、情感、物語など)を捕捉しなければなりませんね。基本が抜け落ちていました。賢明なご指摘をありがたく思います。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-09

ご視聴ありがとうございます。そうでしたか、音声はなくても伝えられたのですね。友部正人さんのことは知らなかったので、ウィキペディアとYouTubeによって情報と音楽に触れました。ウィキペディアにはそのDVDのことも載っていました。私の動画はとても雑で、またポエトリー・リーディングと呼べるものか自分では分かりません。ただ自作詩を自ら朗読したものではあります。初めての経験でした。本当は実際に多摩川の河川敷に行って、そこで動画を作りたかったのですが……。詩という表現は広々としたものですね。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-08

お読み下さりありがとうございます。ありがたいコメントをいただきました。そうですね、「東横線が多摩川を渡る」ことそのものは単純な一つのセンテンスで、意味することも具体的で単純です。でも私にとっては「東横線が多摩川を渡る」ことはどこかそのままにしておけないもっと大きな意味を持った、思い入れ深いことなのです。どうしたらこういうことを表現して他者に伝えられるかを考えました。結果、「書く」というよりは「歌う」ような仕上がりになりました。しつこいほどに「東横線が多摩川を渡る」と繰り返すことになりました。それで、読まれるよりは聞いてもらえたらと願い、自分で朗読した声を動画に撮って付した次第です。聞いていただければなおうれしいです。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-07

 お読み下さりありがとうございます。  この作は、はじめ、短歌の連作として作るつもりでしたが、詩の形になってしまいました。  死、静、こういうものを気分として書きました。でも人間の心というものはどうしたって動的なものですね。また、ものを言うということも動的ですし、死ぬということも動作の一種です。  伯父の言葉はちょっと激しいけれども、言っている中身は静かであれということです。その伯父はもう死んでいる。口がかたいことは静的であるけれども、仕事に荒波を起こしてしまった。そんなことを土砂降りの雨を前にして一人考えている「僕」。  静かにしていても、心は動くことをやめない。  少年時代に経験した、飼い鳥の死の看取り。その過程はダイナミックなものでした。  最後に「ついておいでよ」と聞こえたけれども「いや、行かないよ」と思う「僕」。「僕」は動かないで静かにとどまることを選びます。 (雨の中の一羽)

2020-07-28

みんなが考え続けてきたこと、考え続けていることを、最後まで味わい深く書けている詩だと思いました。誰にでもできるわけではないし、中には書こうとも思わない人もいるので、そういう点から言って、この詩は良いと思います。ただ、 >いやその答えを知る者は人類上に一人しかいない >その一人とはまさに自分という人間である >幸せの概念は自分が決めるのである >もし自分が不幸と思うのであれば >幸せという宝物をまだ自分自身で発見できていないだけである このあたりの孤独がちょっとつらいですね。 でも、終わりの三行にある祈りには救われました。 (しあわせというもの)

2020-07-27

静かな、美しい掌篇映画?のようですね。無理に長くしたり、より具体的にしたりする必要はないと思います。私の感覚としては、暑さ、熱さと冷たい雪とのコントラストは弱く感じられました。暑さ、熱さ、それに金色、飽きることなく見つめていたという静かな感じ、こういうものから十分な抒情を受け取りました。 (雪が降る)

2020-07-24

 とても好きです。  詩を書くとは、こういうことを言うのだと感じました。  最近、私の胸は、もう書くことなんかないような気持ちに占拠されていて、とても悩んでいます。  話は飛びますが、この作品は私にはセザンヌの絵画の透明な緑色を思い浮かべさせるものでした。さわやかで、詩中に風が吹いています。  たぶん作者さんは何か喪失したものを惜しみ、また、未来への希望も抱えているのでしょう。  それでも鬱屈感はなく、光彩陸離、涼しくて、読む人の心に広々とした感覚をもたらしてくれます。 (はるのこと)

2020-07-21

 コメントありがとうございます。 『指標の受動性』……、宝石のような言葉ですね。難しい言葉ですが。  今作も、私自身が考えることをするために他者に相談を持ちかけるように作成した文です。解答は記していません。 『指標』って何だろうか、未だ考え続けています。  それの『受動性』。これはまた何だろうか。  貴重なコメントをいただいたのですが、今すぐには答えを書くことができません。  もしエイクピアさんと実際に対面しているのならば、私はソクラテスに向かって考えを述べるように、ぽつりぽつりと何か言って、思考を深めることができるのに、と思います。 (虚無と孤独、嗚呼ただマイクを空に上ぐ。)

2020-05-01

 空なんかのことは私も書きがちで、まっすぐ叱られてしまいましたね。定着したポピュラーすぎるものを笑う、あるいは批判する詩と思いました。 「二十億光年……」あたりでは谷川俊太郎のことを思わせますね。ブックオフに行ったとき見たのですが、『自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)』がずらりと棚に並んで余ってました。  他の箇所でも有名な詩人のことを思わせます。世に溢れている近代詩・現代詩や音楽が吹き飛ぶような作品ですね。良いんじゃないでしょうか。ビーレビの面目躍如。 (空なんか見てんじゃないよ)

2020-04-27

 全部で九行、絞られていて緊密です。私にはできません。  内容的には、こういうのを形而上詩と言うのでしょうか、使い慣れない言葉ではありますが。間違っていたら教えて下さい。私は勉強中です。  一行目が最も分かりやすいですね。あとはちょっとよく読まないといけません。 「非日常」というのが手がかりになりそうです。非日常と日常、遠いものと近いもの、それらのあわいにある「誰も見たことがない」ものを「私」「が」「見たい」のですね。  すると一行目の「複雑な泥の粒」を捕らえられないもどかしさが伝わってくる感じがします。 (誰も見たことのない)

2020-04-27

 たとえば、 >感傷なんて君には似合わないけれど、輪郭がぼやけた患いごとなんてザラにある。  という箇所。  詩というものは飛躍を孕みながら不思議と密接にくっついて離れない語の一続きを持つものだと私には思われます。それを好表現と言ってしまえば簡単ですが、なかなか書けない、作れない。  この作品の魅力はこの引用箇所に代表させるとします。私はこの箇所を目にして最後まで読もうと決めました。  作者さんの言葉を紡ぐ才能には脱帽します。言ったことのあることですが、内容的に二で割りきれない奇数的な作品です。  また、詩を画像等と合わせるということは私は一度他の場でしたことがありますが、それは自発的なことではありませんでした。私の書いた詩を他の人が撮った写真と合わせるという企画だったので。  ここに合わせられた画像も瑞々しくて良いと思います。  私がやったらすべるだろうと思われますが、それをキメているのはまたすごいことです。  なにせ、たとえるなら、装幀も自分でするということですから。多才です。 (BUMP OF CHICKENを嫌いになる日)

2020-04-26

 この作品に二度目を通して私の頭には村上龍氏の『トパーズ』という作品の文が呼び起こされました。『トパーズ』は読まれた方もいるかもしれません。『トパーズ』は小説ということになっていますが、私には「詩」のようだと思われたものです。この『戦場のカメラマン』の作者さんは作品に「現代詩」タグを付けています。「現代」のところは私はいつも神経質になる部分で、ここでもまだ私には何も言えないので触れないことにしますが、ただこの『戦場のカメラマン』が「詩」としては受け容れられると私は思いました。つまり「小説」的な作品ではあるが「詩」として受け容れることができるということです。  また、『トパーズ』もそうでしたが、同じように『戦場のカメラマン』も表に主義主張を打ち出していません。確かにたとえば『戦場のカメラマン』の最終行には、 >お前達に影響もない、関心のない世界では、多くの人が今だけを見詰めて死んでいったっていうのに。  というようにあって、これはメッセージのように思われるかもしれませんが、どこか物事を描写しただけであるような感じがあります。少なからずところどころ主人公のカメラマンが自分の考えや思いを述べる部分がありますが、そういう箇所も同じです。 『戦場のカメラマン』は全体的にカメラマンである「私」の精神の中にあるものや入ってきたものを描写することに徹しながら一個のストーリーを成しているものであるように私には思われます。  書かれている内容はあまり新しいことではないと思いますが、それをここにまた書き起こしたということが新しいことだと私は思います。描写力は優れていて、作品と成すにはかなり労力を要するものであると思います。描写力の確かさは出版にも耐えられるくらいのものだと思いました。 (戦場のカメラマン)

2020-04-25

 超かっこいい詩ですね。稀な詩だと思いました。  緊密な言葉どうしのつながり、びっくりしました。本気度が違うと言えば良いのか、この作品は抜きん出ています。  まず措辞が凄い。引用するのは控えますが。多すぎて。  作品の解釈ですが、正直難しいです。でもそれをしないと読者失格ですから、解釈してみます。 「田舎」とは、田園のことではなく、端的に言えば「郷里」ですね。  そしてそれは「私」の個人的な「郷里」のことではないと思われます。 >見知らぬ望郷 先天性のホームシック  の箇所からそう思うわけです。 「全人の郷里」「未踏の郷里」という語が、普遍的な「郷里」をこの詩が問題にしていると考えさせます。  そういう郷里を溢れんばかりの深みのある言葉で表現したのがこの詩だと思いました。 「1999年風邪」……、これは(20)世紀末、或る時代の最後の眩しくも暗い光芒を言っているのでしょうか。これがもしかしたら「望郷」の対象ではないかと思いました。  そうだとしたらこの詩はかなり壮大なものですね。最初は身辺の「柱」とか「天井」とか「スチールバケツ」が出てきて狭い小さな世界を思わせるのですが、その後から日常的ではないものが出てきます。 >ありし日の如き 十万画素の郷愁は >青い幽霊だろうか 悪霊だろうか  とういうところなどは、そうですね。  私も「見知らぬ望郷 先天性のホームシック」を抱いていて、この詩を読むことによってそのことに気づかされ、胸を掻きむしられるような感じがしました。  というのが簡潔ではありますが私の勝手な解釈です。 (田舎の夢)

2020-04-24

各語の意味はもちろん単独では分かるが、全体として書いてあることの意味はおよそ分からない。短い言葉の羅列である。でもこれを書く意義はあったと思う。個々の言葉はなぜこの言葉なのかと考えさせるけれど、それぞれ生きているように感じられるし、互いに有機的に結びついているように感じられる。よく書けているのではないか…… (Twitter)

2020-04-24

 具体的な時と場と物は、放課後の高校の美術室の油絵でしょうか。  かつて私もそこにいて油絵を描いたものです。絵具の筆跡で凸凹ができていくキャンバスの表面に、熱情をもって。 『未熟な半身』というのは「未だ半ば未熟であること」のたとえであると捉えました。それを馬鹿にされる。すると、分かります。  考えすぎにならずして、考えている。そうして自然なタッチで書いていく。『真摯な、絵』を描けていますね。 (熱情)

2020-04-23

 バックとバッグ、それは、ベットとベッド、みたいな……  Google翻訳って、それくらいの程度のものにとどまっているのですね。  ユーモラスで良いけれど、読んだ感じ、軽い情報が長く記述された記事を読んでいるような感じがしました。最後まで「バック」を「カバン」と言って伏せておかなければならなかった作者さんの苦心も見られます。  我々はどうしたらこの作品をもっと奥行きのあるものにできるかを考えないといけないと思う。  同じ内容で、もっときびきびとした詩文にする案は、読者の頭に浮かぶのではないかと思う。  もっとも、作者さんはこの作品を、掌編小説的なものとして出したのかもしれませんね。英語学習と犯罪が一緒になった物語。 「わたしの・ぬすまれた・バックは・あかかった」が繰り返されて、音量も大きくなっていくし、物語の進行感もある。終わりの方、母が書いたメモのところからは、引き締まっている感じがしました。 (私の盗まれたバックあ赤かった)

2020-04-23

恋愛の終わりへの移行を書いた詩なのでしょう。 前半、 >君の息遣いだって私の心臓の鼓動に同期してたよ までの科学的な書き方で、それ以降も最後まで書き切れば良かったのではないかと思いました。 「カタチ」とか「関係性」など、なかなかおもしろいと感じたので、後半の薄味の抒情的な表現が、なんでこう書いてしまったのかと、残念に感じたわけです。でも難しいんですよね。 (i崩壊:金は鉛に)

2020-04-22

変わったテーマの詩だと思いました。 書くということをするときに生じる神経的な険しさを表現しているのでしょうか。 詩を書くとき、音楽は聴こえているべきかもしれない。書体は定まらなくてはならない。語彙からは自然に適切なものが出てこなくてはならない。言葉の意味は二面性を持つことから免れていなくてはならない。 でもそういうことは簡単ではない。 (世界が平和で満ちている時)

2020-04-21

 量が多いのでまずは目で眺めてみました。言葉が凄いし、おもしろいと感じました。『現代詩手帖』なんか読むよりこっちじゃないかとさえ思いました。半分冗談ですが、半分は本気なのです。  私は部分を楽しんで読む性格もあるので、そういう面から作品を見ると、 >そういう信仰のもとで >跪くかわりに走っていた  とか >原っぱの住所が知りたいか? >なんとなく覚えて愛着を持たされるポスタルコードも?  とか >一度引いたら戻っては来ないかもしれない漣。  とか >誰も見てないことが勇気を出す理由だったんだろうか。  というところ、とても味わい深かったです。  道具立てとしては、「交差点」「海」「踏み切り」というものがちょっと陳腐に思えましたが、出さざるを得なかったのでしょう。  流れ的、意味的な面から作品をとらえると、これは一読者である私の勝手な読みですが、Ⅰの部の「美しい名前だけ」、Ⅲの部の「省みられない詞だけ」、Ⅳの部の「でも心は確かに」のフレーズが互いに呼応しているように感じました。言葉と心は在り、反面、言葉ではないものと肉体は、存在しなさそうだということでしょうか。難しいですね。 (線が夏が返送が不信が)

2020-04-21

 このように偶数的ではない、割り切れない奇数的な作品を書ける感性が羨ましいです。  ところどころに少なからず空白が差し挟まれていることで、慎重に読もうとする態度を持たせます。  花野は「こころのなかに ある」のですね。  そして >それは葬列かも しれないし >遊ぶ子どもらの列かも しれない  と続き、あとに両方の内容を融合的に書けるように仕掛けています。つまり死と遊び。  今は春ですが、読者を「秋」に連れて行ってくれますね。  花野は秋の季語。  咲きみちる草花もありますが、基本的にはさみしい暗い秋という季節。  私にとっては詩型融合という方法的なことはあまり気にならず、基調は自由詩と受けとめられました。  内容が良いです。  誰にとってもある秋という季節の感覚が、胸に押し迫ってきます。  それだけでなく、あたかも生と死が秋のみにあり、春や夏や冬の存在がないかのように感じさせます。 (詩型(自由詩・短歌・俳句)融合作品 「花野」)

2020-04-21

第三連が突出して良いですね。 潰した羽虫、死んでいるはずです。 >あなたの肉厚な掌にこびりついて この行は潰された羽虫の肉体的物質的な悲惨さを読者に体感させるようです。 そのあとの三行は羽虫の魂のことを言っているのでしょうか。そのように読み取られます。 この視点の急転が特に良いと思ったのです。 急に幻想的になりますね。 (生きもの)

2020-04-20

 コメントありがとうございます。  そうですね、問いかけで終わってしまっています。注意喚起までできれば良いかと、そこまでで終わりにしました。私も本当にはどうすれば良いのか分からない難しい事柄です。  まっすぐ書くことを何度もしてきた私ですので、他のことができないことに自分でがっかりしているところです。投稿の際、「現代詩」タグを表示することを選べない自分に、悔しさを感じます。ちょっと時間をかけて次の作品を書きたいと思います。考えすぎても良いものは作れないとは思いますが。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-18

 コメントありがとうございます。  私にも聖書を熱心に読んでいた時代があり、それで、書いてから時間が経った今、自分で読み返して、確かに「あなたたちは」という呼び方は聖書を思い出させると思いました。 何度も読んでくださっているとのことで、うれしいことです。  著者名はやがて明らかになるシステムになっているはずなので、私としては当面は著者名無しで読んでいただければ良いと思っている感じです。  私の願望を言わせていただくと、この作のように感情や考えをまっすぐにそのまま書いていくのはもうやめて、何か他の表現方法、表現様式にチャレンジしたいと思っているところです。まだ読書不足、勉強不足、思索不足だと思いますし、才能があるかどうか不審ですが、できるところまでがんばりたいと思います。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-18

 私も幼少期を白い団地に暮らしました。なので第一連の前半部について、情景を具象的に見ることができます。また、白い団地については、詩のモチーフになり得るほどに、悩ましい美を持っていることも、理解できます。白い、無垢、白棟、まっしろ、といった語がまずこの詩の片隅に場を占めているように感じました。一方で、影、地べた、地面、王、手、死の床、といった語が地上的なことを象徴するように思われ、一方で、頂上、十字架、最上階、天井、教会、桜、祈り、といった語が天上的なことを象徴しているように思われました。とりあえずはこのように恣意的に区分できるように思われましたが、詩というものは安易な区分によっては読み切れないものだと思います。  この詩の中の地上的なものと天上的なものとの両者は、白の色によって同じように塗り貫かれているように思いました。白い団地は影を持ち、「彼」を地べたにしばりつけていますが、また、白い団地には頂上があり最上階があります。この白の色がこの詩全体を美しく塗っています。  この詩は、地と天との間を往復しながら進行しているように感じられます。そういうように構築されていることは、作者さんの計算によることではなく、作者さんの抒情的心情から自然になされたことであると思われます。このような進行は、この詩においてはなかなかに複雑であり、肉体的なものと精神的なものとが不自然さなく絡み合っていて、計算によっては生み出せないと思うからです。  たとえば最終連で、手に手を取り死の床に横たわる、このことは肉体的地上的ではありますが、次に来る、波音だけは彼の居場所を知らせてくれる、という詩句がとても味わい深く、天上的なことへと見事に自然に変換しています。  詩に一緒に付された画像から、生だけではなく、死の強さをも感じるのは、私だけではないと思います。  コメントとしては長く書かせていただきましたが、まだ書き足りない、不十分だと感じるほどです。 (頂きへ)

2020-04-09

 コメントありがとうございます。  はちこさんのお兄さまは間違いなく心の中に重い悩みを隠し持っていたと考えられます。  私は0点を取ったことがあります。何も書かずに出したのです。  テストが終わってから数日後、放課後に、担任の先生に呼び出されました。  先生は言ったのでした、私の答案は何かを訴えているように思った、と。  私の問題は、潔癖症的な虚無感と闘っていたことでした。  先生は、考えすぎではないかと言いました。  理解されたとは言えないけれども、面談をしてくれたことには感謝の気持ちを持っています。  虚無感との闘いは長く続きました。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-05

 お読みくださりありがとうございます。  なんと、分かってしまうものなのですね! 邪推ではなく、本当のところを見破られてしまいました。 >蓄積された夢! >仄暗い夢! >それは未来から来る光線に照らされて恥じている  この三行は、作成の過程の最後の方で書いた箇所です。次に「夢」を登場させるのが突然であるように思われたのと、このままだと愚直な勢いの解説文になってしまうのではないかと案じられたのが理由でした。  差し挟んだ結果、どうもここだけ調子が違ってしまったようです。難しいものです。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-05

 お読みくださりありがとうございます。  書いてもしかたないことを書いてしまったかもしれないと不安でした。  もっと言葉を信頼しないといけませんね。  共鳴できる歌が見つかったとしてもそれは表面的なこと、でも、こう言い切ってしまうのも、なんだかうそを言っているような感じがしないでもないのです。  ただ、言葉への信頼は揺らぎやすく、そういう時、人間の心は危ない状態にあるとは言えると思います。  私たち書き手は、そういう人間の心を助けることができれば良いと、願いながら書き続けるのが本当の姿勢の一つなのだろうと、小さな書き手ながら考えているところです。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-04

 ご自身のスタンスを崩してコメントをくださったこと、ありがとうございます。  この短くない詩を書いて、私は不安にとりつかれました。怖くなったとも言えるかもしれません。それでも放出しないではいられませんでした。そのため「著者名を表示させない」にチェックしたものです。良くないことですが、投稿後も怯えは消えていません。でも読まれたい、青春に材を取ったメッセージ詩です。 (僕たちが高校をやめると言う時)

2020-04-04

 トビラさん、美しい選評文をありがとうございます。  私の一つの小品によってまた一つの詩文を生んでくださったことは、私の小品をよく読んでくださった証しであり、そうでなければ不可能なので、大きな喜びです。そしてトビラさんの言葉の束からは私の作とはまた別の抒情がたちのぼっていて、私に新しくメルヘンを感じさせもしたのでした。  選評文の書き方については、エイクピアさんの受けとめ方も、ふじりゅうさんの言われることも、両方分かりますし、トビラさんの言われることも分かるのです。 (笹舟のメモリー)

2020-03-31

「まっさらな世界」を主題としてこれだけの量を書いたことに賛辞をおくりたい。「まっさら」なのに、書くことができたのが、私には驚かれるのである。私たちは、目や耳があるだけでは不十分なのだろうか。私たちは、なぜ書きあらわしたりするのだろうか。しかもここでは「まっさらな世界」について表現しているのである。「まっさら」なら、書くことなど何もないようには思えないだろうか。  世界が「まっさら」に感じられることがあるのは、誰にとってもしばしばのことだと思われる。私たちの意識は、ふだん、もっぱら個人的体験に向いており、個人的体験以外のどこにも居合わせておらず、情報なくしては外的なことを考えることができない。それで、時として、個人的体験は孤独で、自身にとってむなしく感じられるものである。作品の一行目から「私だけの世界」と宣言されている。 「まっさら」という語の運用がすばらしい。とても音楽的だ。そしてどこまで行っても、何が起ころうとも、世界が「まっさら」であることを貫いている。 「まっさら」であることへの、絶望はなく、肯定的だ。「キラリ」がいい。 (こんにちは まっさらな世界)

2020-03-26

ありがとうございます。 まだまだ努力不足。示唆に富むコメントでありました。がんばります。 (湧水のメモリー)

2020-03-20

渡辺八畳さん、どうもありがとうございます。YouTube見ました。そしてimgurにも登録しました。いつか画像を取り入れて表現してみようと思います。 (主観を想う存在だけ残っていれば世界は安泰)

2020-03-20

帆場蔵人さん、コメントありがとうございます。  単純なことではありますが、帆場さんの「それぞれに川は流れている」という言葉は私の頭から離れず、ずっと響いていました。  私の今回の拙作についてはもう説明しないこととして、ただ次のように言いたいと思います。文学は衰退しておらず、終わってもいないのだ、と。「それぞれに川は流れている」という一見昔っぽい言葉が、私の耳から離れなかったという事実、このことがそれを証していると思います。 (湧水のメモリー)

2020-03-19

鳴海幸子さん、返信ありがとうございます。  いえいえ、鳴海さんの読み、興味深く読ませていただきました。どんな読みも読む方の自由です。読みが多様であることは、作品の言葉の圏域が大きかったということですから、私はうれしいのです。このことはたぶん作品が曖昧であったということとは違うことだと信じます。  特にうれしかったのは「でしたか」を見ていただけたこと。また、「飲む」「指」「海」に着目していただけたこと。  実は私はこれらの言葉によって詩がより豊かなイメージをはらむようにと願っていたのです。 「でしたか」は、そこまでの「だろうか」とは違います。  と、まあ、私からの説明はここまでとさせていただき、あとは読む方の自由にまかせたいと思います。 (湧水のメモリー)

2020-03-19

 お読み下さりありがとうございます。湧水は愛おしく、なるべくたくさん掬いたいものです。でも、かなわない。くやしいです。  湧水は「昨日あった出来事」「昨日私が話した言葉」「昨日会った人たち」。どれも大切にしたい。でも漏れて流れていってしまう。  それでもいつか「みんなの海」に集まる。そんなことを書いてみました。 (湧水のメモリー)

2020-03-18

 お読み下さりありがとうございます。その上、お願いまで。  今作はあんまり読まれないかなぁと思っていました。  難しい課題をいただいたようです。令和の抒情。  私はいつも現代に存命中の人間として全力で書いていますが、その過程には、何かを狙うという性格はあまりなくて、ふだん思っていること、感じていること、考えていることが膨らんでくると吐き出すというような態度です。  今回は結果的に昔っぽい抒情を感じさせる詩になりました。  理想としてはやはり現代の空気を反映していたり現代的問題を含んでいたりする詩ができれば良いと思っています。  今回の拙作の中では、本来透明でやわらかいものであるはずではない「昨日あった出来事」「昨日私が話した言葉」「昨日会った人たち」が出てきます。これらが透明でやわらかいものとして感じられるところに現代の感性を映し出してみました。そういう事情にもかかわらず、各自のこういうものものは、やはり流れて淵に入り、やがてはみんなが共有する遠い海に集まるだろうという一種の希望を打ち出してみました。  説明になってしまいました。  この作はちょっと薄味だったかと思います。もっとパンチのある作品ができればと思います。もっと令和の抒情ということに意識的になろうと思います。挑戦はやめません。  ご指摘ありがとうございます。 (湧水のメモリー)

2020-03-18

アハハ、良いですね。 題名だけでひかれて、何がどう書かれているのかすごく気になりました。 題名が多くを語っていて、他にどう書くか難しいと思いました。題名があとからついたのかもしれませんが。 鉄の塊、肉の板、など全部。この詩は私が渡辺八畳さんから聞いた言葉として一生忘れないでしょう。 第三連でさらに畳み掛けるあたり、さすがです。 しかし画像、私もトライしてみようかな。 (主観を想う存在だけ残っていれば世界は安泰)

2020-03-17

どんな物事も、時間をかけて良い方向へ向かうものだと信じています。人間の歴史一般を見ても、残虐であることから自らを解き放つことに人間は途方もない時間をかけています。現在は、昔よりも良い、でも気を抜いてはいけませんね。女性にかんする問題は、男性にかんする問題であるとも言えます。みんな、個別に自存しているのではないから、何事も多方面から見るということをしないといけませんね。 (あなたは「おばちゃん」になれるか)

2020-03-12

 コメントありがとうございます。  確かに、ものは自由に読んで良いけれども、それにコメントする段になると、なんか制約されるような感じがしますね。コメントは二次的創作とでも言えることなので、僕も疲れます(笑)  幻想は、それだけで自存するものではなく、いろいろなものと同じように、何か他のものに頼りながら存在するものですね。ここでは幻想は現実にもたれながら存在しているように書きました。 >幻想という割には、なかなか現実的なところを書かれている。現実の中の幻想を見ていると言いますか。  言われてみて、本当だなと、考えるところがありました。    お金の観念を持っていない子どもたち、青い空、襤褸を着た男、池の水際で遊ぶ鳩の群れ、行き詰まりを感じているユニオンの人、こういうものものは現実的です。これらに対して「僕」は作り物のことを思い、またそれをもって闘おうとします。現実あって幻想あり、またその逆もあり。  最後の段落では、夢幻が持つ現実的なパワーについて書いてみました。 >お金を求める→仕事→他者の成功例とも取れる構成  なるほどー、これも言われて僕自身が頭の中でパチッと音がしたような感じがしました。 (幻想離れⅢ)

2020-03-04

「現代詩」というと、このような作品がそれに近いのではないかなと思ったのが、目を通した後の初印象でした。解釈するには難解であるけれども、文字から立ちのぼる「感じ」には確かな存在感を感じるし、不思議な「進行感」もあるし、部分部分の表現は常人の手になるものではないと感じました。 >喪失は在り続ける >記憶でも記録でもなく  こんなあたり、とても好きです。  他にも良いなと思う箇所は多くありますが。  全体として何を表現しているのかと考えてみると、「全体として表現していること」などなくてもいいのかなと思ったりもします。全体は全体のまま、受けとめればいいのかなと思ったりします。  いろいろな名詞やいろいろなシーンが書かれていますが、散らばらないで、しっかりとくっつき合って、一個の生き物のようになっているのがすばらしいと思いました。 (静かな底と天井)

2020-03-03

 蓮って、おもしろい植物ですよね。なんか静止した動物みたい。  見ていると、いろんな想念が湧くの、分かります。  泥の中にあって奇跡的に純粋。この作品からも濁りない純粋さが伝わってきます。  青白くふつくらはちす蕾みをり池のおもてに唯夏を待つ  短歌を贈ります。 (開花)

2020-03-02

 お読み下さりありがとうございます。  スクロールできませんでしたか……  でもお読み下さった九首の中に、一首でもまあまあ良いと思われるものがあったなら、私はうれしいです。  古語と現代語をミックスするのに苦心しました。  こういうものを今さら書くことは、現代詩を目指すという趣旨には遠いとは私も思いますが、考えるよりも先に手が出てしまいました。あんまり新しいものではないかなと思います。でも、日本語の奥深さを忘れないためにも、このような形で伝えていくことには意味はあるかと思います。 (静の嘆き(短歌十二首) 他二篇)

2020-03-02

 作者さんからの直接のコメントをありがたく思います。  私にとって「おばちゃん」像は結んではほどける不思議なものでした。定まったかと思うと、すぐに曖昧なものになってしまうものだったのです。「人間」でもなく「おじちゃん」でもなく「おばちゃん」となっていることが一因だったでしょう。この時点で性の違いがあります。人間は分化をやめないと同時につながり合おうとすることもやめません。作品が、「おばちゃん」が女性でありながら、多様性を越えてつながり合おうとする趣旨を持っていたことが、私が批評的推薦文を書いた理由の一つであったでしょう。作品『おばちゃん』は、少なくとも私にとっては混乱に抗いながらもこれについて考えるべき、あるいは論じるべき傑作であり問題作だったのです。隘路にあるときにも、人は事態を打開するために何かを言わなければなりません。言うということは論争を引き起こすと同時に、つながり合う機縁となる大切なことだと思います。私の小文に対しては二方より考え深いコメントをいただき、さらに作者であるarielさんからも何にも偏しないステイトメントをいただきました。このことは、作品『おばちゃん』が多方面から検証されるべきだということを示しているのだと思います。そうであったことは、当該作品に重い価値があることの証左であると思います。 (あなたは「おばちゃん」になれるか)

2020-03-02

 私も自分が狭量ではないかと疑い続けてはいるのですが、私の分類が何の基準もない偏見に基づいているわけでもないのです。私が一箇所で依拠したのは、現在普通に機能しているコーポレートガバナンスなんです。なのでどうなんでしょうね、「おばちゃん」はどんなふうに対処していくだろうかと、私もしばらくもの思うことから解放されそうにありません。 (あなたは「おばちゃん」になれるか)

2020-02-29

 arielさんの作品『おばちゃん』は、反実仮想の構造を持ったおもしろい作品です。  読者はこの作品を読んで、「実」は何で「仮想」は何かを考えます。  つまり、「事実はこうであるけれども、もし仮にああであるならば、あるいはああであって欲しい」という構造の中の「こう」「ああ」の部分を突きとめようとします。  このような読者の行為は自由で自然だと思うので、これに対する真清水さんの反論は、反論というよりは私の読みへの批判的付加であると感じるのです。  私の『おばちゃん』への賛嘆は、作品への直接コメントで伝わっていると思いますので、ここでは推薦文として若干批評的ではありますが記述をおこなったわけです。  テクストから「おばちゃん」の原初的意味を引き出し、そしてそれが何のメタファーとして作用しているのか、考えた跡です。  テクストに書かれていないからといって、そこで想像することをやめてしまっては、読みにはならないと思います。  また、私は人の生き方をあらわす言葉をなるべく多く例示し、人の生き方を広範にカバーしようとしました。  それらのうち、何がまっとうで何がまっとうでないか、それは確かに人によって判別はさまざまでしょう。  私はここでは自分の実体験の蓄積から判別をおこない、書きました。私という個人の判別ですので偏りがあるかもしれませんが、現実に世間から受けた侮蔑を基礎にしています。まるで偏見というわけでもないのです。 「まっとうでない」という形容は、どんな名詞にも付き得るものです。夫とか父という語にも付き得ます。このような場合は、「まっとうでない」ものの集合の内に含めるのが適当です。 (あなたは「おばちゃん」になれるか)

2020-02-27

おおお、またコメントいただいてしまいました。 ありがとうございます。 こんな私もけっこう「Let it be」の精神をもって生きています。 (幻想離れⅢ)

2020-02-26

良いテーマ、誠実であるとのコメント、ありがとうございます。 幻想に「期待」する、これは私の思い浮かばない言い方でした。 幻想を捨てれば現実が見えてくる、と人は考えがちですが、幻想の中にあってこそ人は現実を見て現実を受け容れているのかもしれませんね。 (幻想離れⅡ)

2020-02-26

arielさんへ、 先ほどフォーラムに投稿したことですが、私の五七五コメントには「ババ」という不適切な語が含まれているため、抹消の願いを出しました。「ばば」という語は年配女性に対する蔑称ともなるものでありますし、ワープロで変換すると「糞」ともなりました。あのようなコメントを書いたことを恥ずかしく思っております。お詫び申し上げます。 (おばちゃん)

2020-02-13

(ね) 年功の ブーツの底に ババの面 (雛祭りイベントで、五七五調でコメントしています) https://www.breview.org/forum_blog/archives/668#comment-1191 (おばちゃん)

2020-02-13

爽快。私のようにいつも憂いにとらわれている人間に『馬鹿!』というジョセフの言葉がぴったりきました。 (馬が逃げた)

2020-02-13

arielさん、お読みくださりありがとうございます。この拙作は幻想というものをめぐる私の思索の跡です。幻想というものについて語ることは一筋縄ではいかないことなので、そしてたぶん多方面から語らざるを得ないと思われるので、この拙作は互いに続かない三つの段落から成っています。作中に批判的な突っ込みを入れたいところが作者である私にもあります。たとえば、第一段落に出てくる『浸透』の語はよく分からない、第二段落では実務的文書と文学的文書とを混同している、第三段落では「では雰囲気というものは何から出来するのか?」と問われても仕方ない、ということなどです。このような欠陥には徐々に思考を補ったり付け加えたりしていこうと思います。それにしても「ありのままを見据え表現できること」が詩の執筆において強みとなるとの明確なコメントには目が覚めるような感じがしました。またコメントの最終部、言葉を発することで雰囲気、そして文化を変えることができるかもしれないという言明もまたうれしく思いました。 (幻想離れⅢ)

2020-02-09

「その二枚か三枚かの舌が造る世界」「その二枚か三枚かの舌が造る言葉」への疑いを、好ましく思いました。 (鏡(回折格子、格子))

2020-02-07

僕はこの作品、好きです。根本的に、好きです。何と言うか、作者さんは、プロってます。僕もおばちゃんになりたいところに、この作品が来ました。現実を直視して、その現実からこんな文芸的表現を編み上げるなんて! 批評眼が光っています。文芸的表現技術も光っています。作品全文を引用したいくらいです。 二行目、 >小さなプライドのせめぎ合いをまるっと包み からもう僕は虜になりました。 >なぜか年功序列ヒエラルキーの外にいて ここは痛快にして真実。 そしてブーツのたとえ。 >床に転がって初めて見えた >相手の目 >この目線の高さを保つことを >皆でゴールとしよう こんなことを、よく書けましたね。 おばちゃんが作る、目と目が繋がった先にある、地平線が見える世界! 信じて生き(行き)ましょう。 すばらしい作品をどうもありがとうございました。 (おばちゃん)

2020-02-07

つつみさん、お読み下さりありがとうございます。 またも五七五のコメントをいただきました。 >棲んでいる 僕の神様 衣食住 ですか。うーむ、なるほど。 思い出すことがあるのです。私は大学は実学を重んじる大学の文学部だったのですが、実学を重んじる大学になぜ文学部があるのか、という議論を耳にすることがしばしばあったのを思い出すのです。 衣食住をだいたい実学であるととらえてこんなことを思い出しました。 しかし、五七五コメントという方法はおもしろいですね。雛祭イベントが終わっても、一つのコメント方法として存続していいのではないかと思っています。 (幻想離れⅡ)

2020-02-05

羽田恭さん、お読み下さりありがとうございます。 そして、文芸的、文芸批評的コメントをありがとうございます。 思わず笑ってしまいました。苦い笑いですが。 芝居、ひとり芝居を、人に見てもらうということは、実に恐ろしいことです。 雛祭イベント、おもしろいですね。 私の作へのコメントがこのイベントでの最初のコメントとなるとは…… (幻想離れⅡ)

2020-02-04

ミリウェイズさん、お読み下さりありがとうございます。  この作は少なからぬ方々の胸を痛めさせたようです。書いた私自身も読み返せば胸に痛みを覚えます。読まれる方々と書いた者とが同じような体験ができたのは、書いた者としてとても喜ばしいことです。この作を書いたという経験、事実、それからこの作そのものを、私は今後大切に保管して、次なる作品作りに向かいたいと思います。コメントありがとうございました。 (火がついたのは一度だけであった、サンキュー)

2020-01-25

るるりらさん、うれしいです。 気難しい私にもこんな作品が書けるらしいです笑。 コメントありがとうございました。 (火がついたのは一度だけであった、サンキュー)

2020-01-24

帆場 蔵人さん、コメントありがとうございます。  この作については、ふじりゅうさんは日記であるとおっしゃっており、沙一さんは文章とおっしゃっており、帆場さんは散文、随筆であろうかとおっしゃっています。私自身もこの作をそのようなものであると考えており、それゆえに、文学極道にではなく、現代詩に限らず散文作品、広くはクリエイティブライティングの投稿も可能なビーレビに投稿した次第です。  さて、この作についての帆場さんの感触は、内容的には部分的に共感する、散文としてはリズムに欠けて冗長に感じるとのことでした。ふじりゅうさんは抑揚に欠けている印象を受けるとおっしゃっていました。  私としてはこのような評価を残念に思うのですが、受けとめるよりほかありません。私はこの作を書くに当たり、効果のことはほとんど考えず、内容的に充実させたかった。もちろんいったん書き上げた後、何度も読み返しては直すということをしました。それは主として読む人が読みやすいようにという考えからしたことでした。そして効果というものは、後から自然についてくるだろうと、言ってみれば楽観していたのです。  抑揚やリズムを欠いていること、冗長であるということについては、私は他の方々の作品を読む場合でも、かなり寛大です。自分の作に対しても、そういう性質を許す傾向があります。  私がふじりゅうさんへの返信コメントで用いた詩的表現という語について書きます。  私が本当に文学に傾倒し始めたのは中学三年の時からでした。あの頃、私は現実的世界を生きるのがとてもつらく、現実逃避として本を読み始めたのでした。本の中に逃げたのです。そこに私は、夢見させてくれるもの、この世ならぬものを見ました。はじめ私は童話作家になりたいと思い、童話や児童文学を読んでいました。それらから出発してさまざまな本を読むようになりました。詩も読むようになり、たとえばポオの『鴉』には衝撃を受けました。  ところが高校二年の頃、私は突然のように現実的世界を受け容れることができるようになりました。それに伴い、私の読書態度も変わりました。もう現実逃避という性格はなくなりました。ただ、読書するということは続けたのでした。  このような青春から時間がとてつもなく経っている現在ですが、青春の経験はまったく消えず、現在も生々しく体感できます。  そこで、私が言う詩的表現という語についてですが、それは端的に言えば、すでに上述した、夢見させてくれるもの、この世ならぬもののことなのです。  文学の中に甘い夢を見た時期と、文学の中に現実を見ている時期を、両方経験した私から出た用語法です。 (むこうやま)

2020-01-23

ふじりゅうさん、お読み下さりありがとうございます。  この作も私らしく長々しいものになってしまいました。たくさんのことを盛り込み過ぎたようでもあります。それに加えてご指摘のとおり抑揚を欠いているものであるように自分でも感じます。私の問題意識は特に新しいものではないと思うのですが最近次のようなことです。特に詩において、詩文がリアルなことをあらわすために詩文そのものがリアルなことをそのままに書かれるのが良いのか、それともリアルなことがうまく伝達されるために何らかの効果的工夫があるのが良いのか。もちろんここでは詩がリアルなことを書く場合においてという条件が最前面にあるのですが。しかしながら本当には詩などの文芸作品がリアルなことから隔絶しているということがあり得るのか疑わしいことでもあります。私は最近、詩的な表現というものに何か物足りなさを感じます。詩的な表現ではカバーできないことが感じ取られるのです。詩的な表現により私はどこか甘く、くすぐったい感じにとらえられ、それを払いのけたいという反射的な願望を持つことがしばしばあります。ですがまた、何もかもカバーできている詩的表現というものを狙いたいという願望も持っています。そういうわけで、いまだ道半ばということになるのでしょう。 沙一さん、お読み下さりありがとうございます。  この作を書くに当たっては、最初から、長いものになるだろうと予測していました。そして、詩的なものとなすことよりは内容的な面で破綻のないようにと、より気を配っていました。淡々とした、そして寂寥感の滲む文章になったこと、「俺」の鬱屈感があらわれた文章になったことは結果的なことですが、そのように読まれたことは私にとってうれしいことです。しかしちょっと意外なことでもあります。文章の感じよりも内容的な面を問題視されると思っていたので。 (むこうやま)

2020-01-22

味わい深い音とリズムを備えた作品だと思います。また、大きさと小ささを行き来する感覚を読者にもたらします。幻惑、ですね。日常的なことにしっかり足をつけていながら、詩的な飛躍をも果たしている秀作だと思いました。 (幻惑)

2020-01-16

 作者さんは優れた想像力、記述力、描写力、構成力の持ち主であると思われます。読者にまざまざと、難しい、幻想的で一定量の内容を持った世界を見せています。もっと読まれてもいいのでは。  すべての表現が良いのですが、たとえば作品の最後の部分を以下に引用しますが、私が感銘を受けた部分をカッコ「」でくくりました。 >  様々な物、または針金同士で間違いなく誰かが執念深く複雑に時間をかけて作り上げただろうと思わせる、「芸術でした。」  「まだその存在に気付かれることなく。」 「守り神のように、あちこちで佇む。」 焼却炉から身を乗り出し天へそれらを撃ち出した彼女の、あの晩の出来事を「知られることもなく。」 あの晩、彼女が空高く生み出した、「それらは人々を見守るかのようでした。」  非常に動的で、騒がしく、いかにも熱い前半から、このように静的で冷えた感じを導き出しています。 (フィラデルフィアの夜に Ⅻ)

2020-01-15

この作品は、確かに詩的ですが、何らかの物語か劇の前置きだけを書いてあるような、そんな感じがしました。あるべき肝腎な部分が、この作品の後にこそ書かれるものであろうと思わせます。せっかく「私」がいろいろなことを感じ取ったり、眠りと目覚め、静と動、死と生などを扱っている作品です。もっと濃い、もっと深い、もっと問題のあることを、勇気を出して書くと良いのではないかと思いました。 (まどろみと死体ごっこ)

2020-01-13

楽子さん、コメントありがとうございます。  この作は、概ね、ひといきに、最後まで、指が文字通り疾走するようになってワープロで書いたものです。掌から言葉が湧出するような感覚がありました。そのような勢いのある成り立ち方が、この作に疾走感を備えさせているのだと思います。それが結果としてこの作の詩的工夫となったかもしれません。読まれる方に自身の経験を再び胸の中に深く経験し直していただけることは、書いた者としてとてもうれしいことです。「静かに食べた中華料理はおいしかったね。」の箇所、場面の機微をとらえていただけて良かったです。一度別れた彼女と再会して食事をしている場面ですので、ワイワイではなく静かに食べることになっています。事実を描写しました。 Mar-toさん、コメントありがとうございます。  この作は衒い無い私の素直な気持ちの表出となっています。思いもかけず、読まれる方にグッとくる部分があったということ、とてもうれしいことです。本格的な詩などが発表される場ともなっているビーレビのような媒体に、この作を投稿することには少し躊躇いがありました。あまりに愚直ではないかと。ありきたりな言葉が多いです。同じ内容でもっと、たとえば象徴を駆使したりして、詩的な表現を目指してもよかったかもしれませんが、そういう余裕がこの作を書く過程において無かったというのが正直なところです。 めぐるさん、コメントありがとうございます。  この作を書いた結果、そしてコメントをいただいたことによって何度か自身でこの作を読み返した結果、私も、胸が痛みました。運命的な人と出会って、結ばれるということは、必ずしも当たり前ではありませんね。時や環境は、時として、いや、しょっちゅう残酷なものです。女性側の立場は男性である私には想像するよりほかないものなのですが、この作に、女性の心にもほぼ抵抗なく染み入ってくる感じがあったことは良かったです。 大井美弥子さん、コメントありがとうございます。  疾走感があると同時に、えぐみをも読まれる方に感じていただけたことは喜ばしいことです。作品には、そういった重いものが要ると思うので。個々人は己のエゴから去ることは通常できませんから、表現は必然的にそれを基盤に持つことになるでしょう。読まれる方の胸に迫るものがあったということは、書いた者としては、こう言って良ければ、成功したということになるでしょう。 (火がついたのは一度だけであった、サンキュー)

2020-01-11

エイクピアさん、お読み下さりありがとうございます。  ほとんど詩的な工夫のない作です。読み返すとかなり恥ずかしい、昔の彼女への思いを書いた作です。詩としてよりは、ライティングという範囲で受け取られればと思っています。 (火がついたのは一度だけであった、サンキュー)

2020-01-08

読んで、私と心情を同じくするような感じがしました。通過した過去の意味の充実と虚無とを同時に表現しているように感じました。 (越境)

2019-12-22

st様、お読み下さりありがとうございます。  本作には実体験を書きました。家出の経験があるのは私だけでしょうか。  st様には内容がかなり深刻に伝わったようですが、事実の流れは次のようになっています。 高校生の時家出をした→ 失敗して家に帰った→ 高校を卒業して都会の大学に入るために上京した→ 或る夕方に高校生時代の家出のことを思い出している  失敗したとは言え、家出は家出。あの時私は一度死んだようなものです。自分で作った深い傷です。 (駅裏へ)

2019-12-20

語彙に難しいものはなく、行数は多いものの文字数は少ない。一見技巧的に凝っていないように思われるけれども、実際はその逆で、繊細な感性に裏打ちされた一筋の直線的でシンプルなストーリーが、全く端整に、リズミカルに書かれています。読んで、心が洗われるような感じがしました。 (続・月と夜)

2019-12-20

 この詩、気に入りました。私は完敗だ。  この長い詩には、すぐれた詩句、表現が数知れず埋め込まれていて、息が切れそうになったちょうどそういう時に、詩を盛り上げていて、何が書かれているのかという、内容を問うよりも先に、詩句、表現を味わうことができます。  私は物事からキーワードを取り出したり物事を要約することが嫌いな人なので、この詩についてもそういうことはしません。すべての字が大切です。 (エキゾチカ)

2019-12-15

>言葉を体液に均す作業 良い詩句ですね。 部分部分は良いのですが、全体としてこの詩をつらぬいているものが何なのか考えさせます。 部分と部分との接着力が弱いような気もしないでもないです。が、求め過ぎかもしれません。 (ラベル)

2019-12-15

藤 一紀様、コメントありがとうございます。 厳しい見解ですが。 私の作にはすでにして『自分語り』という看板がついてしまっているようです。これをどうにかしなければならない。 内容が伝わったことは良いのですが。 しばらくトレーニングの時間をもって、自分の作があまりに自分中心であることからの脱却をはかりたいと思います。 (愛の試験)

2019-12-05

たくさんのコメントありがとうございます。こんな作品にコメントをいただけたことに少々驚いています。 /舜舜様、 『思いやりの試験』、本当はその方が良いと私も思うのです。『愛の試験』なんてちょっとかっこつけ過ぎだったかもしれません。 エイクピア様、 たぶん好きなのだろう、でも確信できない、口に出して言うこともできない、そんな状況にあるままデートが深く進行してしまうという体験は多くの人にあると思います。こんな体験も人生の一部を彩るものであろうと思います。望むものが互いに異なっている場合でも男性と女性はいっとき結ばれるかのようなシーンを描いてみました。 千才森 万葉様、 そうですね、私の投稿作はあまり読まれないものとよく読まれるものとに明瞭に分かれるようです。そしてそのわけは、千才森様がお考えになるように、読者の肌に合うかどうか、感情移入できるかどうか、好きか嫌いか、ということであると思います。また、こういうことに加えて単純に作品の巧拙にかかっている場合もあると思います。私は駄作の多い人です。この『愛の試験』は自分では、失敗したかな、なんか恥ずかしいものを投稿してしまったかな、などと思っていました。「上手」との感想をいただき、照れくさい感じがします。男性である私が、女性をどれだけ思いやって書けるか、それも一つの『試験』でした。結果、やはり男性の身勝手さが伝わってしまうものになってしまいました。/舜舜様のおっしゃっている『思いやりの試験』がまだ足りていないようです。私の作風については、最近は伝えようとすることをやり過ぎているようで、表現するということについてもっと沈潜して考えてみたいと思っています。 (愛の試験)

2019-12-03

 良いタイトルですね。良い意味で、商業的に成功していると思いました。 >呼びかけた声から影が >音を反映する  の箇所は「から」が邪魔して文としてもリズムとしても成り立っていないように思えるので、 >呼びかけた声 >影が音を反映する  とでもした方が良いのではないかと思いました。  全体は、申し分なく抒情的で、心に刺激がありました。 (割れない海を抱えて)

2019-11-28

帆場蔵人様、コメントありがとうございます。  最近、自分の作品作りについて思うのは、語ること、述べること、論ずることに、傾き過ぎているということです。言葉そのものを彫琢することをなおざりにしていると思っています。語ること、語り終えることも大切なことですが、言葉そのもののたたずまいとでも言うべきものによって表現することを、もっと追うべきではないかと思っています。  この拙作『隣駅物語』も、そういう向きから作っていけたかもしれません。 (隣駅物語)

2019-11-27

つつみ様、コメントありがとうございます。  今この拙作を自分で読み返してみて、恥ずかしい感覚に襲われます。よくあることについて『隣駅物語』などとたいそうなタイトルをつけたものです。内容が釣り合ってませんね。或る人は私の自分語りは聞きたくないとおっしゃっていましたが、この拙作はそれをやって見事に失敗したもののようです。「君」と知り合ったのは十八歳の時でした。友人にはなれなかったこの「君」のことを社会人になっている今、私は思い出すわけです。そういう類いの「君」を、誰しも脳裡に持っていることと思います。私はこういう「君」について感傷的に思い出し、青春時代と現在との対比も扱って一つの作品を書いてみようと思ったわけでした。結果、ご指摘のように「あっさり」まとまってしまいました。あれこれ長く書いたのに、今読み返してみると、空疎だなと、自分で思います。的確なコメント、ありがとうございました。 (隣駅物語)

2019-11-24

IHクッキングヒーター(2.5kW)様、コメントありがとうございます。  私もまた、つながったり、つながらなかったりで、人生上コミュ障気味な場面は多かった。縁について語りたいこともたくさんあるわけで、ここにちょっと真面目に一つ書きとめておいたわけです。まあなんとかここまで生き延びています。 (隣駅物語)

2019-11-16

survofさんへ  まず、survofさんが私の投稿作にコメントする際に使用する言葉、たとえば、 >普段なら個人的な好みから、そのようなメンタリティーは嫌悪の対象としてしまうのであるが、南雲氏の作品を継続して読んできて、そのように唾棄してしまうのはとても惜しい気がしている。  の『唾棄』とか、 >別に喧嘩を売っている訳ではなく  というような言葉は、ビーレビ上でのコメントおよびアドバイスに使用されるものとしては異様で奇怪で不快です。厳しい批評にわりに耐えられる私でも恐怖を感じます。  私が書き綴る議論に破綻があったり、survofさんにとって認めがたいものがあったりしても、ビーレビのコメント欄は、書いたり読んだりする能力をお互いに真摯さをもって高め合うためにあるものであるはずです。それを壊すようなものの言い方が見られ、私は怖いです。熱さは感じられないこともありませんが、熱さを通り越しています。自分の議論に欠陥があれば私は通常喜んで修正しますが、そんな気も現在削がれています。  私はsurvofさんの作品『ソナチネ』を良いと思い、私の読みを選評文にまで書いて投票しました。今もこの作品を良いと思っています。  一言添えますが、私にとって「自然」は無窮の包容力を持っているものです。  が、こう述べるにとどめ、これ以上この選評文のコメント欄において議論することを、私は拒絶します。 (『ソナチネ』から)

2019-11-05

〈計算ということⅡ〉  人はめいめい何らかの天才を持っているものです。私は人の各自がその天才に柔順であることを願っています。私は時々厳しい批評をするかもしれませんが、それは批評対象が己の天才に柔順でない場合においてであるのがしばしばです。こう言う時、この天才という語を自然という語に置き換えていただいて意味に変わりはありません。  作品の作者がこの天才、すなわち自然に柔順でないことを私は己を欺いて制作していると言うのです。私はこの行為を計算と言っているつもりです。このことでsurvofさんの一つ目の疑問に答えることができたのではないかと思います。つまり、作者が己を欺いて計算しているというのは、「自然な書くという行為」ではなく、「不自然な書くという行為」であると考えています。  survofさんの二つ目の疑問は、ちょっと私に分かりづらいのです。私の理想である自然というものが、どのように自己欺瞞と表裏一体となるのか、分からないのです。もう少し補って書いていただけるとありがたいです。  私がこの文を読む方々に思い出していただきたいのは、自分が作品を制作している時の、何かに取り憑かれているような、「あの感覚」なのです。  計算ということは、あるようでないことです。計算があると言う場合は、結果として作品が人工によって生まれたという意味においてだけであり、もっと大切な「作品の生み出される過程」に注意すれば、まったく作者の天才、自然がそれを支配しているはずです。 (『ソナチネ』から)

2019-11-05

〈計算ということ〉 作品は人の手によって作られるという点で自然ではなく人工の生み出すものであり計算の生み出すものであると言えます。しかし作品制作の過程について考えてみると、作品の発生から完了までが作者の自然な営みによるものだと私には思われるのです。ここで私は自然に対するものとして人工を、そして計算をおいています。これも私の考えです。何かを作るとき、あるいはもっと事の範囲を広げて何かを為すとき、私たち人間は事の発生から完了までを計算によって為しているとは私には思えない、というか感じられないのです。ここは主に書くということをする場ですので、書くということに話を集中させてみますが、書くということを為している間、私たちは上述の意味での計算ということをしているでしょうか。つまりこの書くという行為は自然なことではないでしょうか。私たちはなぜ着想したり、書こうと思ったり、言葉を選択したりするのでしょう。私にはこういう過程が自然である、つまり計算ではない、と思われるのです。 (『ソナチネ』から)

2019-10-31

 これは手強い作品である。もし「言葉で音楽をやれ」とか「言葉で絵画をやれ」というコンテストに出された作品であるなら、準優勝するであろう。優勝作品にはやはり文学的要素が要ると思う。優れた音楽や絵画を鑑賞する時、私たちは何か文学を読むような感じもしないだろうか。  つまりここで私が思うのは、この作品は文学にしかできないことをしていない、ということである。このことについて論ずることは今の私には無理だ。大きな、難しい問題である。この私の思いを分かってくれる読者がいるだろうか。  確かに言葉の芸としてはすばらしい。  残念なことは、一つは、最後のあたり、具体的に「ソナチネ」という用語が出てくることである。ここは私なら「楽の音」としたいところだ。  もう一つ残念なのは、これも最後、最終行が美しくないことである。ここまで過剰なまでに美しかったのになぜだろう。  文学、これが何なのかを論ずることを今回保留にすることを許されたい。私も作品を書く人なので、文学を実践することでこの問題に向き合いたい。 (ソナチネ)

2019-10-26

 落花生と沈丁花を事典で調べました。詩歌が好きな私ですが、植物に関することに疎いので、勉強になりました。  アドバイス募集にはなっていないのでアドバイスはしませんが、私の希望として聞いてください。『こちら落花生、沈丁花におくる』という題の、もっと長い詩が読みたかったです。 >もう少し戸惑いを楽しめたら良かったのかな  の箇所にはシンプルに共感して、自分の過去の恋を思い出させてくれました。 (こちら落花生、沈丁花におくる)

2019-10-25

 確かに今のところ選評文を書かれた方は他にいらっしゃらないようです。が、まだ期限は先です。コメント活動は活発であるように見えます。評をするのにコメント欄を使用することで不足はないと感じている方もいるかもしれません。 (うそのようなほんとうとじんせい)

2019-10-23

福まる様、コメントありがとうございます。  温かみがある、優しい気持ちになれるとの感想、とてもうれしいです。  ちょっと複雑な性格の主人公です。もしかしたら薄情さを、読む方に伝えてしまうかもしれないと心配していたのですが、優しい面をくみ取っていただけてよかったです。 (二人の老人と僕)

2019-10-22

survof様、今日、新潮文庫の『晩年』を買いましたよ。おもしろそう。これから読み始めます。とても楽しみです。食わず嫌いだったかもしれません。が、読みたいという強い動機も今までなかったので、後押ししてくださり、ありがとうございます。 (二人の老人と僕)

2019-10-19

survof様、要らぬ報告かもしれませんが、Kindle版『人間失格』を買いました。これを少しずつ読んでいこうと思います。 (二人の老人と僕)

2019-10-19

 詩など、作品は、かっこいいのが良いと思っています。それで、この作品にはタイトルの『「ラーメン道」』からして、あまりかっこよくないなという印象を受けて、長いこと読まなかったのですが、せっかく印刷してあったので、今日読んでみました。すると、私のこの印象は砕かれました。  読み始めて数秒、 >洋食がテーマパークなら、ラーメンは自分で作り上げる私小説である。  あたりから、断定的表現にぐっと引き寄せられ、また、頷かざるを得なくなりました。  最後まで途切れない気の利いた表現、意想外な語の使用、それから断定的調子に心を奪われました。  yamabitoさんはどんなものもこのように芸術作品に落とし込むことができるのではないかと感じました。 (「ラーメン道」)

2019-10-18

 一読、掌編小説のようなものを故意に崩した作品のように読めました。崩されているので書かれていることを理解するのが困難なのかと思いました。書かれている言葉は美しいです。途中で止まらない進行感覚もありました。 (蜘蛛の巣)

2019-10-18

 悪い作品ではないと思いましたが、良いとも言えない、何か、惜しいというような感じがしました。豊饒な想像力を持っていて、かつそれが産出するところのものを言語化する才能も持っていると感じましたが、たぶん他の誰かがすでに書けているもののように感じたのです。でも、この作品のようなものを書けるということは、成長というか飛躍というか、そういうものの芽があるということでもあり、次の作品を読みたいと思いました。 (縦糸、の発音)

2019-10-18

再びsurvof様へ  議論を整理すること、深化することをやってみたいと思うのですが。  まずは作中で、単に僕が自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理にとどまらない、「自嘲」的部分、自己の恥ずかしい性質、負い目を述べるところを引用列挙します。 >気難しくて 勉強家で 遊び人で >思い出せば胸が締めつけられるよう >なぜって僕はあなたたちみたいな謙虚で素直な人間ではないと思うから >なんだかあなたたちをだましていたみたいで >本当の僕を知っていますか >傲慢で だらしがなく 好色で 浪費家 >生来僕が持つ禍々しい性根は消えて  これらの箇所は、僕の関心が主観的に自己に向けられているのと同時に、自己のマイナスの性質に客観的に自覚的であることを示してはいないでしょうか。どうでしょう。 (二人の老人と僕)

2019-10-16

st様、コメントありがとうございます。 >気難しくて 勉強家で 遊び人で  この箇所での「勉強家」は、「気難しさ」につなげて、あまり好ましくない意味で使った語なのですが、私自身でも、読む人に分かりづらいかもしれないと思ってはいました。 >本当の僕を知っていますか >あの時僕が心からは楽しいとは感じていなかったことを知っていますか >僕は感情を表に出せない人間で >お二人に無礼があったのではないかとやや不安なのです  この箇所も、混乱が感じられる部分です。欠陥かなと自分で思っています。 「本当の僕」の感情は「楽しいと感じていない」、あるいはここに付け足すのですが、「楽しいのか楽しくないのか自分でも分からない」という感情ですので、それを「表に出す」と、余計「無礼」です。  ここは「僕」が内に感情を秘めがちで、「良い感情」も「悪い感情」も「表に出せない」不器用な人間であることを記した部分です。 (二人の老人と僕)

2019-10-16

survof様、コメントありがとうございます。  コメントとは言っても、拙作に対するかなり細かい批評をいただいたという理解でいます。あるいは対話となっても良いと思うので、確認を交ぜつつ返信を書きたいと思います。  この『二人の老人と僕』は実話です。実話と言っても、僕の心から見た実話ですが。僕は、二人の老人との間に遠い距離が存在しているのを感じています。劣等感と言ってもいい遠い距離が感じられるのに、二人の老人が親しくも僕をバス旅行に誘ってくれたことに、とまどいを感じています。そしてしかも、そのバス旅行が、忘れられない美しい思い出となっているのです。この言い難い感性の構図を僕は書いたわけです。この構図の中で僕は自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理の状態にあるとsurvof様は読まれたという理解でよろしいでしょうか。  このように理解されたとしたならば、僕としては、残念ではありますが、survof様の好みに合わなくとも、その通りであると言うだけです。そして、survof様のコメントの要点は、コメントの別の部分にあると見えます。 >南雲氏の作品が、なぜこうも自己憐憫的なのか  と書かれています。  しかしながら、僕の自分語りは不要とも言われていますし、僕自身でも、自分で作品化しない事柄を語ろうとは思いません。 >もしかしたら、このような感傷の断片を「美しく綺麗に」表現しようとするより他に、作者の核を説得力のある仕方で表現する手段があるのではないか、という気がしている。  survof様はコメントの後半でこのように提案を開始しておられます。  その内容は僕にとって難しいものです。これだけ感傷的に表現をおこないながら、客観性というものをどう織り込むのか。徹底的に主観的な表現をおこないながら、感傷を排することができるのか。  このようなことを考察するのは、しかしながら、悩ましいことでありながらも、制作する上で、通過してみたいことではありますが。  慌てて書いたので、変な部分があるかもしれませんが、寛容な心で読んでいただければと思います。 (二人の老人と僕)

2019-10-15

夏野ほたる様、コメントありがとうございます。  いわゆる詩的なもの、比喩とか象徴、これらだけではありませんが、こういったものは、私には向いていないのかなと思います。こういったものを積極的には書き込まないように、半ば自然に、意識して書いていく態度が私には身についているようです。それは私がランボーとかマラルメとかトラークルを卒業してしまっているからと言えばよいのか。もちろん私は彼らが好きです。でも、彼らと同じことをしても仕方ない。また、他にたくさんの詩人によってさまざまな詩が書かれています。そういった人たちとも同じことをしたくない。それで私はできる限り多くの詩に触れようと努力しています(ビーレビにはオリジナリティが溢れています)。 『二人の老人と僕』は、夏野様がおっしゃるとおりで、比喩を抑えています。「こういうのが書きたかったんですよ」と、私はツイッターに言い添えました。  これを書くのはそれほど難しいとは思いませんが、まあ、私だから書けたものだと思ってはいます。書き手はめいめい個性を発揮するものです。 >でもみんなにはとても親切で明るかったはず  のくだり、ここは現実に、 「あなたって、分け隔てなく人とつき合うのね」  と、女性上司から言われたことがあるので、自負して書き込みました。客観的に見れば、ちょっと図々しく思われもするでしょう。 (二人の老人と僕)

2019-10-14

 私はこの作品を繰り返し黙読しているうちに音読に近くなっていきました。あまり詳しくない分野なのですが、ラップかスポークン・ワードの種にふさわしいのではないかと感じられてきました。 (常しえのゆめの降るさと)

2019-10-14

yamabito様、コメントありがとうございます。  多くの人々と同じように、私も、過去の思い出に美を見出し、しばらくの間それで胸がいっぱいになることがあります。そして私はこれを作品化したいと思ったりするのです。着想から完成まで時間はかかりませんでした。今回は、私にとって、美はこれからさらに作り出すものではなく、すでに十分にあるものでした。あたかも二人の老人によって洗われたような心で、力まずに、静かに素直に書いていきました。レトリックという語は、思えば簡単な語ではありませんが、この拙作の、このような成り立ちが、レトリックの色合いを薄くしているのでしょう。 (二人の老人と僕)

2019-10-14

キモくても品格なくてもうざくても信じて築け殺さぬ社会  これは、少し昔に私が詠んだ短歌です。  私はいじめを「知っています」。なので、このような作品から受け取るものは、衝撃ではなく、共感でもなく、同朋感覚です。いじめの具体的なところは各々異なると思います。  詩作品、もしくは文芸作品としては、生々しく無骨な感じが良いと思います。 >今日初めて相手に正直な気持ちを伝えた  いじめで最も悪い場合は、『伝える』ことを許されない場合でしょう。「無視」が最も悪い要素だと思います。 (いじめ)

2019-10-12

「僕」は何も持たない。そんな状況で、好き同士であることだけで十分に幸せを感じ合うことができるかどうか「僕」は訝っている。 >ただいまって言ってもらうための >さようならじゃないって >君に分かって貰えるだろうか  何も持たない無力な「僕」の愛は意識的にか自然にか無に向かう。引用箇所は、ひとひねりある表現で、印象的。  私にとっては、自分の貧しい学生時代を思い出させてくれる詩。 (さようなら)

2019-10-11

 この作品の言葉は、上京してきて間もない頃、まだ生き方が全然見えず、一人で、痛みを抱えながらも日々を迎えざるを得なかった体験をした人間に、深く食い入り、また、よく見えるものではないだろうか。私はそういう人間の一人である。tokyoは溶け込まなければならない社会そのものであった。でもうまくいかなかった。この作品ができているようにその気持ちを表現することも、できなかった。  タイトルが『tokyo』と、小文字ローマ字になっていることで、私には或る映画を思い出させた。『tokyo.sora』という映画である。tokyoでうまくいかない若い女性が何人か、うつされている。  作中の、手と携帯が登場するあたりを読んだ時には、nowiseeというアーティストの『掌の戦争』というアルバムの画像を思い浮かべた。  今も私は、手に握っているスマホが熱くなると、なぜか、上京してきて間もない頃を、思い出したりする。 (tokyo)

2019-10-07

 泣かせてくれますね。ここに日本語の見事な音と表記によって語られている物語には泣きそうになります。 >うそのようなほんとうとじんせい  私はここにアンダーラインを引きました。 (あいうえおを覚えた時、ままは泣いて喜んだ)

2019-10-07

 巻き戻す、帰る、回る、という輪や円を思わせる語と、過去、明日、という直線を思わせる語が作品中に対照的です。前者への憧憬が、伝わってきます。青白い灯台はきっと、綺麗に回るバレリーナと同じであり、これも輪や円のようなものを思わせてくれますね。 (青白い灯台)

2019-10-07

 これを書くのは難しいと感じました。愛すべき優れた小品といった感じの詩、というか、歌ですね。全体は、ほころびも無駄もなく、引き締まっていて、音楽的です。お見事。 (アンゼリカ)

2019-10-05

 話者は、自身が抱いてしまった愛のことで苦しんでいます。  私は、その苦しみを書いた作中で、特に、下に引用する箇所を好ましく感じました。すなわち、 >真実が知りたいのに、誰も知りはしない >そんなものは1000通りもあるのだから。 >選ぶのはあなただと言われても >自分自身を失った私が何を軸にして選択できようか。  という箇所です。  ここは、愛に苦しむ者が抱く思いにとどまらない、もっと広い、人間が一般に抱く悩みをあらわしているように思いました。  このようなストレートに進行するような作品は、どう結末を作るか難しいと思いますが、最後の五行は良いのではないかと思いました。 (静かなる地獄)

2019-10-05

stereotype2085様、コメントありがとうございます。  何より、拙作を内容的に楽しんでいただけてうれしい限りです。  また、けっこう精読してくださらなければ書けないコメントであると思いました。ありがとうございます。  この場ですが、運営のほうでは、お疲れ様でした。お世話になりました! (スペアタイヤ)

2019-10-03

 この作品は、まるで楽譜のようです。  言葉によって見事に、リズムとメロディーが書き記されていると感じました。  作者の思考内容は分からなかったのですが、このように最後まで統一感のある言語の連続を提示することができている以上、作者の内部には、或るまとまりのある動機があるのでしょう。  私の方でも、もうちょっと頑張って、読み込もうと思います。今言えるのはこれくらいです。すみません。 (夜景にて)

2019-10-03

Um Fantasma様、コメントありがとうございます。  カットアップという語を初めて聞きました。勉強を始めました。教えてくださりありがとうございます。  手始めにウィキペディアの記事を見たのですが、ツァラ、コルタサル、T・S・エリオット、ジョン・ドス・パソスなどの知っている名前が見られました。  現在、私のこの作品のポイント欄においては「技巧」の項目に7ポイント投じられておりますが、私としましてはまったく自信のないことです。  ただ単に改行をおこなって「詩」らしく仕上げている、と言われても仕方がないです。  量的には、この作品は何らかの技巧を受け容れることができるほどのものではないかと思われます。 (スペアタイヤ)

2019-10-03

 はじめの二行が秀逸だと思いました。  そう思っただけでなく、この部分から私は有島武郎の『或る女』の中に書かれていた次のような文を思い出しました。記憶が正確かどうか、案じられるのですが、 >こんなでもなかなか心ははたらいていらっしゃるんですからねえ。  というような文です。老婆が幼い女児について言っている言葉です。  この『姉よ』という作品は、はじめの二行の完成度が高いため、あとの部分が読めないような感じがしました。  ただ、「手」という語が作中に4箇所出てきて、それが作品を縦に貫く柱のように感じられ、たくましく思いました。 (姉よ)

2019-10-03

夏野ほたる様、コメントありがとうございます。  投稿から約一か月が経とうとしている拙作でございます。今、私自身で読み返して、「虚しさ」を少し濃く表現してしまったかなと感じます。働きの成果は必ずあるもので、それは私たちが生きる意味でありますし、弱めに言っても「救い」となるものだと思います。私たちが生きた跡が、彫像的な力強さをもって存在し続けるように、私は願います。 (スペアタイヤ)

2019-10-02

 私の読解力では、この作品から読み取ることができたのは、たった一文ですが、その一文がとても良いと思いました。すなわち、 >いいかい、人が、わけもなく生きていることを、許せなかったら悪だよ。  この一文です。  そして、『わけもなく』という語句が、作中に3箇所ありますね。  私は『わけ』というものにこだわりがちな人間だからなのか、この語句に引かれました。 (歌)

2019-09-26

 この可読性の欠如がすばらしい。  また、随所に見られる秀逸な詩的文句がすばらしい。たとえば、 >あの子はアイスクリームの残骸が発光する空に行ってしまうのだろうか。  とか、 >キッチンペーパーが吸い取るのは木漏れ日に拡がる柔らかなささやきだっていいわけだ。  とか、 >夕陽を懸命に吸い込む水平線をねぎらってみたことがあるか。うまく光れずに落ち込んでいる星を探してみたことがあるか。  とかである。 (重力をミルクに漬けて)

2019-09-25

エイクピア様、コメントありがとうございます。  私は或る日バスに乗っていたところ、バスが停車している時、窓の外に、古い中型トラックの車体の下部に取り付けられた一本のスペアタイヤを見ました。これまた古い、トレッドの溝がほとんど消えた、土埃にまみれた、なんの役にもたたなそうなものでした。私はすぐにそれに人間を重ねて考えにふけりました。長いこと、このスペアタイヤの姿が頭から離れず、この作品を書くに至りました。  さまざまな人間があるもので、作中の主人公のタイヤの生き方は、私の生き方をだいたい反映させたものです。自分のことを書くのは多くの場合苦しいことですが、このタイヤにそれを託して、突きはなして書いたので、苦しみは少なく、逆にちょっと楽しかったです。  成功との感想、ありがたく思います。 (スペアタイヤ)

2019-09-25

survof様、コメントありがとうございます。  ご指摘のことについて、なるほどと思います。  形の面では拙作には派手さ(効果的な、良い意味の)がない。また、わざわざ改行しなければならなかったという意味が疑わしい部分が多い。  藤 一紀様からも、行分けのスタイルをとらなくてもよかったのではないかとのご指摘をいただきました。  私は「詩」を書きたいと思ってこのスタイルで書き起こしました。私の頭の中にはまだ小学生の時に習った一行一行の頭をそろえる技法しかないのです(笑)。表現したいことに基づく、文字の配置の視覚的、韻律的な工夫には、まだ挑戦したことがありません。ビーレビで他の方々の作品を見ると、私には、とても進歩的だと思えます。  私にはこういう点で、もっと学び、取り入れていかなければならないものがあると自覚してはいますが、それがなかなか飛翔できないでいるのです。 『スペアタイヤ』の中に、改行がふさわしい箇所と、散文的な流れをもって綴った方が良い箇所があるのを、私は確かに認めます。  私は少し制作において怠慢であったかもしれません。今後、いろいろな作品を参考にして、徐々に自らの表現欲求に沿った柔軟な詩形態をあらわすことができるように努力したいと思います。アドバイスをありがとうございました。 (スペアタイヤ)

2019-09-24

 この作品を読んでとりあえず私が言いたいことは、作品中使用されている語と語との結び付きが、強い独自性を持っているということです。一言の感想で申し訳ないのですが、第一行から最終行まで、使用されている語に、語と語との結び付きに、魅了され、それだけで楽しむことができました。 (約束)

2019-09-23

ふじりゅう様、コメントありがとうございます。ご指摘の中で特に、タイヤ同士の不和の描写がいまひとつ物足りないような感触があるということは、時間が経った今、私も読み返して、受け取られる感触です。そして、全体的にどこか平板な感じのする作です。インパクトが弱く、何か新しいことを表現した作ではないようです。ふじりゅう様がおっしゃるような、トラックが破壊されてタイヤが散らばるとか、タイヤの精神的な若さに注視するなど、そういうことが私には思いつきませんでした。ちょっと現在の私の限界を感じます。白い紙に何事かを書き刻むことのなんと難しいことか。拙作を丁寧にお読みくださり、意義あるアドバイスをくださり、ありがとうございました。 (スペアタイヤ)

2019-09-23

せいろん様、ありがとうございます。タイヤは個々の人間のたとえです。 いすき様、ありがとうございます。 動く(回る)ものは、なぜ動くのでしょうね。何のために。それを見出しているときもあれば、まったく分かっていないときもあるでしょう。この限界のない時空の中にあって。 藤 一紀様、ありがとうございます。 確実に、私の頭は、組織や企業の中にある人間のことを考えていました。 行分けのスタイルについてですが、私は自分の思考をあらわすのに、散文の形で書く勇気がなかったと、言えなくもないです。 散文の形で書き始めたなら、もっと事を論ずるような感じの作品になっていたでしょう。 (スペアタイヤ)

2019-09-07

 日本語表現にぎこちなさを(陳腐さも?)感じるけれども、旅人が思ったり考えたりしていることが私は好きである。 >旅人は思い出す >旅の始まりを >その目的を >そこに欲などなかったことを >そうして旅人は気付く >いつの間にか >求めすぎていたと >要らないものまで手にしていたと  こういう箇所は良いですね。自省させてくれます。 (仰ぎ見た秋)

2019-09-05

 私はこういう、疑いを要として成立している作品が好きである。もちろん疑いに終始している場合は良くないと思うのだが。 >あの親子は >何位で、 >私は、 >何位だろうか。 >(カップ麺は身体に悪いらしい > 電子レンジも身体に悪いらしい > 受験をする小学生がいるらしい > ランドセルを買う子もいるらしい > お酒を毎日飲む必要はないらしい > 大人になって知ることの、なんと多いことだろう)  この部分から感じられる、作者の細かい心配が好きである。  また、他の随所に書きあらわされている作者の鋭敏な感性が、この詩を、単に疑いを論ずることから回避させている。 (選別)

2019-07-21

 良いリズム。  造語的『めるふぇん』が生き生きしています。 >人魚のゆびさきは 笹船のように水をはじきます 『笹舟』にるるりらさんの想像力を感じます。 >滑舌の良いことばを急に喋れるようになり、変な感じがして みんな笑います  ここに、人魚みんなの心情の力強さを感じます。 (めるふぇん)

2019-07-04

 survofさん、早速のコメントありがとうございます。  survofさんとるるりらさんからの言葉がなかったなら、私はこのような「文章」を書きあらわさなかったでしょう。依然として個人的な楽しみの範囲を超えることなく詩を読んでいたでしょう。  今回は、「前提」について少し。  私はこの「文章」の作成過程をフォーラムにおいて報告していましたが、そこで左部右人さんから意義深いコメントをいただきました。 「論文」は、先達の研究を無視することを断じて許さないものである、という意味のご指摘を受けたのです。  左部さんのご指摘は、まったく正しいものです。ですから、私が投稿したこの「文章」は、「論文」ではありません。「学術論文」ではありません。「小論」と言うのもいけないことかもしれません。左部さんは、「評論」「批評」の類いであるとおっしゃっています。  とりあえずは、こういうことを最初に読者の皆様に伝えておかなければならないでしょう。 (『Diving into the Wreck』との対決)

2019-07-04

南雲より皆様へ。  私が書いたこの批評文が長い期間であれ短い期間であれビーレビのトップページに「人気の作品」として掲げられる資格を持つためには、一つの事が欠けています。  それは、私からの、るるりら氏への謝罪です。  それを私はここに書きます。  本批評文の中に、るるりら氏の気持ちや考えへの配慮を欠いた表現があり、それがるるりら氏を深く傷つけたことは消えない事実であり、このことについて、私はここにお詫び申し上げます。  なお、私には、少なくとも二つの課題が課されていることを、自身で認識しています。  一つは、「作品の中に永久に癒えない傷があること」という事とはいったい何なのかを明らかにすること、もう一つは、『Diving into the Wreck』を私がどう読んでいるのかを提出すること、です。  私は現在、後者の課題に全力で取り組んでいます。具体的に言えば、『『Diving into the Wreck』との対決』というタイトルの論文を書いています。大詩人の代表作との対決です。  できるだけ早くこの論文をビーレビに投稿できるように力を尽くしています。そのため、日々ビーレビに投稿される作品や批評文の数々を精読できない状態にあります。このことについて、どうかご理解ください。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-15

南雲より、るるりら様、survof様、その他読者諸氏へ。  私が書いて投稿した批評文『「文学」って何?(第3回)』は、諍いとも呼べるものを引き起こしてしまいました。私がコメント欄でコメントを断ったのも、すでに「荒れた」と判断したからです。あのような場合は、運営者に審判の役目をしてもらうしかないと思いました。  もう読まれたかもしれませんが、私は『「文学」って何?(第4回)』を書いて投稿しました。「文学」とは何かを問うことは、いつまでか分かりませんが、続けることにしました。ただし、批評態度を変え、「なになにを有しているからこれは文学であるらしい」という結論になるように書くことにし、そうできない場合は投稿しない、つまり公開しないことにします。ですので、批評対象作品の作者は、安心して読めるものとなることでしょう。  いつか再び、私は、「作品の中に永久に癒えない傷があること」という事を含有する投稿作品に出会いそうな予感がしています。そのときにはもう一段深くこの事について解説しなければならないでしょう。  諍いとも呼べるものを通過しました。そして今Adrienne Rich氏の『Diving into the Wreck』という詩作品を読む、あるいはこの作品の朗読を聞くという場面に事態はたどり着いたと見えます。この作品を「読め」「聞け」というような調子で私は皆様に迫っているのではもちろんありません。ただ、おすすめですよ、と言うだけです。  あのサイトにアクセスしてみた方、『Diving into the Wreck』を読んでみた方、あの朗読を聞いてみた方、すでに知っていた方、何の感動もしなかった方、さまざまでしょう。中に、今回の体験はまあまあ有益だった、と思われている方が三割くらい(?)いらっしゃれば、私としても良かったと思えることです。  私の、配慮に欠けた表現を含む批評文が、るるりら様を傷つけたことは消えない事実であり、そのことについてお詫び申し上げます。  今後は、上述した通り、批評対象作品の作者が安心して読める批評文を書くことを確約します。  では皆様、今日もこのビーレビから何かしら良きものを汲み取ることができるようにと願いながら、私はいったん筆を置かせていただきます。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-14

夢野メチタ様、作者からのお言葉、ありがたく思います。  そうですね、作品の読まれ方については、作者は沈黙に近い態度でいた方がいいかもしれませんね。でも評文を書いた者としては、ひとかけら、作者からお言葉をいただけたことは、うれしいことです。『営巣』は味わい深い文芸作品だと思います。私の読み方に縛られず、たくさんの読者によって多様な読み方をして欲しいですね。 (「文学」って何?(第4回)(夢野メチタ氏『営巣』を読む))

2019-06-14

この作品に、私は良い意味で、ひかれます。今はまだその理由を書けません。これから精査することにします。その結果、やはり良い意味で、この作品が良いと考えられる場合には、その精査と結果について書くことにします。 (営巣)

2019-06-10

かるべまさひろ様、コメントをありがとうございます。詩のようなコメント文で、読むのにもちょっと苦労しました。  惜しいと感じさせてしまったことは、おそらく、私の想像力の浅さ、それによる描写の不足から来たものだと思われます。  この作品は、私の想像による、虚構です。どれほどまで読者の心に真実味を注ぐことができるか、私は心配していましたが、やはりそれが問題として浮かび上がったようです。  まだまだ私の虚構を表現する能力は弱いと自覚しています。  この『時計』の意図は、本当は、次に、仲程様への返信コメントに書くことです。 仲程様、コメントありがとうございます。  息子が帰ったところまで良いとのこと、うれしく思います。  しかしながら、私がこの『時計』を書いた本当のモチーフは、最後の部分にあるのです。もう閲覧数もだいぶ多くなった今、このことを明かしても良いかと思いますので、書くことにします。私は、最後の部分を書きたかったために、この『時計』を書き起こしました。ですが、伝わらなかったようで、私は自分の力不足を思い、課題を負いました。  この作品の最後の部分は、「私」が死ぬ瞬間を描いたものです。  私はこの作品を書き終えたとき、気分が悪くなりました。読み直してみても、やはり気分が悪くなりました。本当に死んでいくような体感を覚えたのです。  しかし、読者はこの体感をしなかったようなので、この作品は、失敗作であったと言えます。  私の実体験として、絶食により、死にそうな体感を覚えたことがあります。そのとき、私は時計を見ようとしました。そしてなぜか、もう夢の中には戻りたくないという思いを抱きました。このことを、今回私はそのままこの作品に書いたのです。  私は、表現力不足でした。読者に「死ぬ体感」を感じさせることができませんでした。どうしたら読者に死んでもらえるか、今後も考えていきたいと思います。 (時計)

2019-06-08

静かな視界様、コメントありがとうございます。  私の作品へのコメント、2回目であるとのこと、どなたか分かりませんが、ありがとうございます。忌憚なくコメントしていただければ、よっぽど恐ろしいものでない限り、私は受けとめることができると思います。  私は最近になって、イギリスの詩人、ロバート・ブラウニング(1812-1889)の詩集を手に入れました。この詩人から「劇的独白」という表現のしかたを学び、私も試してみようと思って作ったのがこの『時計』です。  作品中の「私」は、必ずしも実際の私ではなくてよく、私は「私」を創造し、「私」に作品中にあるようにさまざまな思いを語らせたのでした。  成功しているとも不成功であるとも、また、この表現形式が現代において特段新しいものではないではないか、または、うそを書いたのかとか、いろんな感想を持たれる向きがあるとは思いますが、作品中に実際の私の心が入り込むことは避けられなかったことでもあり、また当然全力で作った作品でもあり、読まれただけで、私はうれしいと感じています。 (時計)

2019-06-08

鈴木 海飛様、コメントをありがとうございます。  しかしながら、返信コメントを書くことは勝手ですがもうやめたいと思います。下記のことを参照してください。 読者諸氏へ  私は本批評文とコメントを、ビーレビのマナーガイドライン&ルールに従い、また文芸的な範囲の中で、そして誠実さをもって、書きました。  もし読者諸氏がそれを確認できず、また、本批評文や私のコメントの中に悪質な要素があるとお考えになる場合には、その旨を、運営者に伝達してください。  この投稿においての私からのコメントは、これをもって、最後のものとさせていただきます。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-07

survof様、るるりら様、コメントをありがとうございます。  現時点では、お二人からコメントをいただいた限りです。以下には、お二人のコメントに対して私から一個の返信を書くことにします。混成となるわけですが、その方が私にとっても、読む人にとっても、分かりやすいでしょう。  書くということは、宿命的に、なにものかとの対決です。  私が『「文学」って何?』と題して文を書き始めたのは、私みずからが「文学」という語をいろんな場面で多用しながら、それをどうとも定義できないでいたことに、自分で心地悪さを感じたからでした。この文は、まだ始まったばかりで、終わりが全然見えないものです。  私は、この題の文を、ビーレビにおいて批評文として書くことにしたのでした。ビーレビは主として「現代詩」を募るものであることに違いないので、私はビーレビに、「現代詩」が属する「文学」というものが豊富にあると信じ、ビーレビに投稿された作品から「文学」を汲み取るということをおこなうことにしたのでした。この試みは、どうしても、投稿された作品を批評することを伴ってしまうものでしょう。  この題の批評文の第1回目で、私は芦野 夕狩氏の『神の庭』を取り上げ、この作品から「文学」を汲み取ろうとした結果、「文学」の一つの条件として「作品の中に永久に癒えない傷があること」を得たのでした。このことは、「文学」とは何かを追究し始めたばかりの今の時点で語ることができることに過ぎません。  この題の批評文の第2回目では、ふじりゅう氏の『初化粧』という作品を取り上げました。私は、この作品を称賛しましたが、それは芦野 夕狩氏の『神の庭』から汲み取ったものとはまた違ったものを見出したからでした。『初化粧』に私は「永久に癒えない傷」を見出しませんでした。つまり、私の「文学」とは何かという問いは、始まったばかりの途上にあるものであり、私が作品から引き出すものは、多分に変動しやすい、まだ確実性を有することができないものなのです。  そうは言っても、「作品の中に永久に癒えない傷があること」という条件は「文学」の絶対条件ではないとは思いますが、このことを有する場合、その作品は「文学」である可能性が高いと私は感じています。なにごとも、足がかりが要るものです。  この条件により、私は今回、るるりら様の『そらおそろしい』を批評したわけです。  この作品を選択した理由を語ろうとして私は、読者にしてみれば私が自分の文学的嗜好を語っていると受けとめられる書き方をしてしまったのだろうと思います。  しかし私の本当の狙いはやはり「文学」とは何かということを追うことです。その方法として私は、ビーレビに投稿された作品から「文学」を汲み取ろうとするということを採用しているのです。このことには批評を伴わざるを得ません。  途方もないことであることを私は感じているために、論が「おしゃべり調」になることと、それを読む人が私が「文学」をどのようなものであると考えているかを感じ取っていただければよいと思っている、というようなやわらかい言葉を、あらかじめ置いているわけです。  survof様の言われる、性別を偽っているような投稿者のことは私も考えましたが、それは鈴が鳴った後のことだったので、なんとも答えようがありません。  最後に、るるりら様の言われることに返信します。  私の批評文の中に、一部分、修正しなければならない箇所があります。それは『るるりら氏が手に入れなければならないもの』という箇所で、正しく意味が伝わるために『るるりら氏の作品が手に入れなければならないもの』と直したいのです。「傷」のない人間が、いるはずがありません。  私の批評文の成り立ち、狙いは、すでに十分書いたつもりです。  女性、男性、何性、こういった観点は私の今回の批評の眼目ではまったくありません。ただるるりら様が「女性」という語を発するとき、鈴が鳴り、私が自分の「文学」体験を思い起こすということです。そして私は今回るるりら様の人気作を取り上げることになったというわけです。  以上で取り急ぎ返信となりそうな内容を書きました。  不十分なことがありましたら、またご指摘ください。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-06

ふじりゅう様、コメント返信が超絶に遅れてしまい、すみません!  実は、この数日間、タバコとコーヒーをやめようと頑張っていました。そのため、活動停止、思考停止の状態に陥っていました。なんにもできませんでした。今、喫煙を再開しました。まだ調子が悪いのですが、なんとか書けそうです。河島英五さんの『時代おくれ』は好きな歌ですが、タバコなんかは本当に時代おくれの物で、こんな物に依存しているとは、なんともダメなことです。  批評文の中で、私は勝手に『初化粧』の詩文を分解しました。作品の表面よりもっと奥に分け入りたかったからです。いったいどんな言葉たちからこの作品は成っているのだろうかと思いました。「見える」もの、「聞こえる」ものは確かにありました。しかし、なにゆえにそうなのだろうかと思ったわけです。また、日本語って、すごいですね、『初化粧』を外国語に翻訳するとどうなるのでしょうね。私はこんなことも意識して、詩文の分解をしたわけでした。そうして浮かび上がってきた言葉たちは、どれも活発で、気持ち良く、新鮮で、美しいものでした。  ビーレビの勢い、すごいですよね。  書くということをするときには、「著者の自由」と「読者の心」の両方を気にかけているのが好ましいと思います。それが普通で自然なことかもしれませんが。  読まれたい、こう願うのも自然なことです。  私は、「既視感のなさ」は、もちろん自然にそうなるのが一番良いとは思いますが、思い切って狙っていってもいいことであるとも思います。  著者みずからが、既視感の有無を判別できることは、大切です。  また、読まれるかどうかよりも、書いたものがこの現代において新しく提出されるに値するかどうかを著者みずからが判別できる能力、これはものを書く者に具わっていて欲しい能力だと思います。  ふじりゅう様を右脳派と断定してしまうのはもったいない感じがしてきました。イメージの操り手としてもすぐれているようですし、言語の使い手としてもすぐれていると思われるからです。  今後の作品、楽しみにしています! (「文学」って何?(第二回)(ふじりゅう氏『初化粧』を読んで))

2019-06-01

せいろん様、ありがとうございます。  いやぁ、私の批評なんて、形になっていますかねぇ(笑)  詩の書き手としても、全然だめです。  でも、とにかく全力で書くことが前進です。  これからも、怪物級の作品を相手にしながら、「文学」って何?と問い続けていくとともに、詩作の方もがんばりたいと思います。  こんな私の書く文の中に、一つでも宝石があったならと、願っています。 (「文学」って何?(第二回)(ふじりゅう氏『初化粧』を読んで))

2019-05-25

tOiLeT様、コメントありがとうございます。  そうですね、私は左脳寄りだと思います。でも、時々、「お前は感覚派だ」と言われたりします。「文学」なんかに取り組んでいるからかなぁ……。  今回のふじりゅう様の『初化粧』は、間違いなく、右脳寄りの作品だと思います。良い作品だと思いました。私は、右脳寄り、中間型、左脳寄り、どれも好きですよ。良いものは、どうしたって良い、って感じです。  右脳寄り、中間型、左脳寄り、こういうことを考えながら詩を読むのも、良いアプローチだと思いました。初めて聞きました。今後、取り入れていくかもしれません。ありがとうございました。 (「文学」って何?(第二回)(ふじりゅう氏『初化粧』を読んで))

2019-05-25

芦野 夕狩様、コメントありがとうございます。 批評対象作品の作者から直接のコメントをいただいた上に、共感とまで言っていただいて、私は非常な喜びを感じています。 自分の書いた批評文を読み返してみると、ずいぶんに言葉の足りない批評文を書いたなと、反省されるのですが、射た矢が、せめて的のはしっこには当たったようなので、これで良しとして、次に書くときには少しは進歩が見られるものを書きたいと思います。まだ私の「文学って何?」という問いは、やっと始まったばかりですし、ビーレビには読むのが追いつかないペースで作品が投稿されているのです。きっとそれらの集合は「文学」の宝庫でしょう。 『神の庭』は本当に良い作品でした。一生忘れられない読体験になったと思います。ありがとうございました! (「文学」って何?(芦野 夕狩氏『神の庭』を読んで))

2019-05-23

ふじりゅう様、コメントありがとうございます。  不倫のことを書いて、読者に受け入れられるかどうかかなり不安だったのですが、なんとか文学のレベルで読まれたようで、良かったです。何を文学とするかは、ここでは共通了解があるものとしておきます。日本国民などは、このようなことを書くことが許されているようですが、国民によってはこういうものは危険とされる場合があるので、手に汗です。  好評となった細かな表現ですが、実際頑張ったところです。やはり書くということをするときには、表現やその他いろいろな点で怠慢であってはいけません。それに、自身を客観的に検討することも怠ってはいけませんね。どんなに神経が疲労しようとも。  ところで、このビーレビという媒体が、最近とても元気がよく、盛り上がっているように感じられるのは、私だけの錯覚だろうか……。  これからも頑張って書いていきたいと思います。それから他の方々の書いた作品を読むことも。よろしくお願いいたします。 (黎明)

2019-05-15

 タイトルだけで読者が満足できるすばらしいタイトルですね! すごい。 >永遠の命はいらないというのに >若さには固執してしまう歪さ  この箇所には胸が痛みました。 >、繋げなくても私は私のままに  この終わり方もなぜか説明できないけれども、ジーンときました。  急ぎ印象コメントです。  ポイントは、〈叙情性〉〈前衛性〉〈エンタメ〉〈技巧〉〈音韻〉〈構成〉に1ポイントずつ。 (壊死する夕暮れ)

2019-05-13

 あまり考えすぎずに読んだ。 『羨望』なんて言葉、良いではないか。 『落つ』は『落つる』と連体形を用いるべきだったと思うが……。  ポイントは、〈叙情性〉〈前衛性〉〈構成〉に1ポイントずつ。 〉 (きるという時)

2019-05-13

 最後に言うべきことを最初に言うと、これはすばらしい作品である。  空隙なく最後まで続く重みのある言葉の流れ。  良い詩句、言い回しを挙げようとしても、多すぎる。  私は疑うことを忘れていない文が好きだが、この作品にはところどころ適度な回数、疑いが差し挟まれている。  全体を精査して意味内容を考えようとする読み方は、私の能力では即時には無理である。それに作者もそういうことを期待しているようには思えない。もちろん、作者の内部には意味内容があったから書くことをしたのだろうけれど、私は黙って見るように読むしかない。可読性がないと言い切ることが、私は悔しい。  どうやったら読んでいる最中このように息をすることも読み手に許さない言葉の集合を生み出すことができたのか。驚異である。  制作が、一息に簡単におこなわれたとは考えられないが、私はこの詩に作為的な、断絶を感じさせる箇所を見出せない。  具象が描写されているのではないし、何かメッセージを伝えようとしているようには感じられない。ただ内面のことが書かれているが、それがこんなにも豊富であることに驚く。  これ以上、この作者は書けるだろうか。一応、限界まで書けることを書いてしまったような感じを受ける。早くも、次に生まれるであろう作品に私は関心がある。  急いで印象を書いてみた。  ポイントは、〈叙情性〉〈前衛性〉〈技巧〉に1ポイントずつ。 (黙って話そう)

2019-05-06

技を身につけるためには馬鹿になっていなければならない、というような趣旨のことを確か宮城道雄が随筆で書いていたと思い出される。 論理的に整理したいと思って、一連と二連を私はちょっと次のように変えてみた。   正解を追い求めるのはやめた方がいいんじゃないの?   だってさほら、また何もできないでいるんでしょう?   馬鹿になれったって、既にもう駄目なのかもね。   でもいちいち考えて生きてる人なんていない。   滑稽な思考が僕の息を止める。   ただ生きてる。いや、死んでる。 どうだろうか。 原文六連、七連あたりはちょっと急にツァラが書いたようなダダっぽい文字列になっている。 前半とのバランスがどうかなと思ったけれど、書いているうちにそうならざるを得なかったのかな。 ポイントは、人生論的なことを評価したいのに、当てはまるポイント項目がないから、入れにくいのだけれども、強いて入れるとして、〈エンタメ〉に1ポイント。 (ミルク)

2019-05-06

 不倫はいけません。  が、この短い物語を楽しんでいただけたようですね。  書くということは、何を書くにしても、誰でも苦労するものです。私もこの短い物語を書くのに、苦労しました。文学らしさを衒うことは、基本的にはしなかったのですが、しっかりした描写をすること、そういう描写に考えや思いを暗示させたり象徴させたりすること、全体に情趣を持たせることは心がけました。また、『倫理』という言葉を登場させることによって、ふだん考えないことに読者がひっかかりを覚えるように、作ったつもりです。  最近は、私は小さな筋を含むものを書く傾向にあるようです。意識してそうなっているわけではありません。でも、そういうのもいいかなと自分では思っています。いつ変わるか分かりませんが。  文学はこれからどういうものになっていくのか、書き手はどうしたらいいのか、いつの時代でも考えられてきました。いつの時点から見ても、過去に偉大な先人たちがいました。そういった先人たちに憧れたり、傾倒したりしながら、私たちは書き続けてきました。  私はと言えば、先人たちがしたことはもうしないということを、いつも考えていますが、今のところ、失敗しているようで、せいぜいここに提出したような個別的な、そして、いつの時代にもあるような作品を書くにとどまっています。 (黎明)

2019-05-04

 私は今、『恋の走馬灯』という詩らしきものに付けられた音楽を聞きながら、このコメントを書いている。詩らしきものは、さきほど、読んだ。それで問いたいのだが、あの詩らしきものを私たち読者に提出したわけは何なのか?  私のどんな感覚も、考える力も、ものを思う力も、何も受け取らなかった。  私はあれを読んで、『俺』という人の『告白』も受け取らなかった。  私はあれを読んで、『胸をえぐ』られなかった。  私はあれを読んで、『生の体験』をしなかった。  内容的なものも、感性も、なかった。  今聞こえる音楽も、何を新しく伝えたいのか。  前の作品『黄昏の告別』は、『告白』や『胸をえぐるもの』や『生の体験』や文学的表現を持っていた。しかし、今回の作品は、いったい何を持っているのか。 (恋の走馬灯)

2019-05-03

別にタヒにちなまなくても良い詩だと思いますよ。 言葉というものに諦念を抱きながら(『決して牙を向かぬ』とは私は思わないが)後半部へ入っていく。 あれこれ言葉で伝えようと私も努力していますが、他者には伝わっていない『私の言葉』が無際限にあるのを感じることがあります。 時にはそれらが言葉ではなく「感じ」の段階にとどまっているものである場合もありますね。というか、そういう場合が多い。 表現は私たち個々人の自由。でもそれはやっぱり誰かに拾われたいものです。 望みを捨てきれず、この作品は終わっています。 表現者の胸を時折よぎる何か不安な、そして静かな思いを繊細にとらえた詩。 (タヒにちなんで)

2019-05-02

survof様、返信への返信ありがとうございました。  スカスカ、空っぽということがどういうことを意味するのかについてもsurvof様と私とは思いの一致ができていないように感じました。  川端は、私も、単に読めると言うのを超えて、好きです。  町田康ですか。読んでみようかな。  過去に私が読んだ中では、日本のものでは、武田泰淳の短篇群、大岡昇平の戦争体験から出た文、石川淳の短篇群、古今和歌集、うつほ物語の一部などがインパクトありました。  今は日本永代蔵の現代語訳をちびりちびり読んで楽しんでいます。 『砂場均し』の文体と孤独についてはどうなんでしょうね。  この作品は私に大なる疲労と苦痛をもたらしました。今もそれは消えません。  早く次の制作に移りたいと感じています。    返信への返信への返信となってしまいました。これで終わりとしましょう。次の制作へと前進するために、ちょっと書き加えたかっただけです。 (砂場均し)

2019-04-26

survof様、コメントありがとうございます。  survof様への返信は、三つ題目を立てて、それらの中でものを語るというやり方でおこないたいと思います。 〈諸作家のこと〉  survof様はコメントを村上春樹という言葉で開始しておられます。私はこの作家の作品をいくつか途中で投げ出さずに最後まで読みました。いいな、とか、おもしろい、とか、そんな感想は持ちませんでした。ただみんなが読んでいるから、知っておくべきかなと思い、読んだに過ぎません。そうして読後、読みましたよ、という自己満足にひたっただけでした。  私は大学入学のために上京してきて、新しく知り合った人たちがだいたい熱っぽく村上春樹のことを好きだと言って語ることに驚きました。私はあの18歳の時点ではこの作家のものを読んでいなかったし、読むべき大作家だとも思っていなかったし、私の故郷では誰も読んでいる様子はありませんでした。なのに、東京、神奈川、千葉、埼玉の人たちがまるで古典のことを言うように村上春樹の名を出して語ったのでした。本当に驚きました。  今のところ、私が読めないのは、触れた限りでは、そして世間的にメジャーと思われる限りの作家では、森鴎外、太宰治、谷崎潤一郎、三島由紀夫などです。こんなことを言っては、ファンにまた突っ込まれるでしょうけれど、あえて言います。この人たちの作品はスカスカです。多くの現代作家の作品と同じように。  作家たちについて会話して楽しもうと思えばきりがないし、survof様のコメントに対する返信としては眼目とならないと思いますので、この辺でやめます。挿話として聞き流してください。 〈『砂場均し』の文体について〉  冗長という言葉は、批評文の中によく登場する言葉で、私はいつも他人の作品を批評する時、使用を避けています。嫌いなのです。冗長だと言ってみたところで、何か言った気になれないのです。  長ったらしいものや説明的なものの中に一つ二つ輝く語句や内容的なものや感性的な色合いがあれば、私はそれで喜ぶことができます。  拙作『砂場均し』の中にそういうものがなかったでしょうか。survof様にこのように多く、長くコメントを書いていただけたことは、私にとっては一つ良いポイントをいただいたことになり、うれしいのですが。  ちょっと逸れそうになりました。形の話をしましょう。  驚かれるかと思いますが、私はこれでも短く書いたつもりです。そしてその限られた長さの作中で読む人が飽きないように次々と情景や感情を変化させたつもりです。このことは一部的にはsurvof様にも了解されているようです。ですがそれを『文章が続けば続くほど作品の情景がどんどん死んでいく』と言われています。展開が生み出す効果に対する私の考えとsurvof様の考えが違うことをあらわしているようです。  もし、あれ以上、会話の部分が長くなっていたら、それこそ読もうとしてくれていた人は先を読むことをやめていただろうと私には思われます。  もっと違う場面を次々に見せて欲しいと願う人に向けて私は創造したつもりなのですが。  それから、リズムという問題を取り上げましょう。私は会話部分の制作にあたっては、リズムよりは内容を、契約書でも作るように漏れなく記述することに努めました。なので、リズムがよくないと言われても仕方ないです。そしてこの契約書作成的な態度は、作品全体に通じているように私自身にも思われます。  ならば改行はなぜおこなったのか、と問われるでしょう。私はここに至っても、やはりまだ、歌うように読んでいただけたらいいな、という望みを捨てきれなかったのです。散文小説のような書き方をすれば、視覚的に煩わしいでしょう。読む人の視界を文字でいっぱいにしたくなかった、そんな思いを汲み取っていただければいいのですが。 〈孤独と物語〉  ここに立てた問題は、私も自問に尽きることがありません。  作中の語り手は、確かに語ることができています。  書いた文字にも明らかに矛盾があらわれています。  曰く、 >私は何についても続かない人間なのだ。 >そうして得るものはいつも孤独というもので、これだけが続くわけだ。  孤独が続いているのだから、それは物語ではないのか、と。  書き方におかしなものが見られることを私は認めます。それはここまででお許しください。もう修正できません。  しかし考えることはやめるべきではないので論を続けましょう。  孤独とはどんなものだろうか。私は永久の「点」のように延長の可能性を持たないものだと考えます。物語は延長するものですが、孤独は延長しないものであると考えます。  孤独は恐ろしいものです。誰とも言葉を交わすことなく、自分に話しかけているうちに言葉すら忘れてしまうような境地です。  私は孤独をここに示したように詩文に取り上げることで、本当に孤独に陥っている寂し過ぎるたくさんの人たちに復活しようとする気概を注ぎたかった。  中には孤独の体験者となれない幸せな人もいます。そういう人たちには孤独は決して分からない。想像では決して分からない。  この『砂場均し』は、孤独の体験者、孤独から脱却している過程にある者、そういう者としての私からの、真に孤独に苦しんでいる人への主観的なメッセージの詩でもあるのです。  朝の短い時間を使ってここまで書きました。急ぎすぎた論の運びが見られるかもしれません。survof様のコメントを誤読している可能性もあります。が、今はここまででお許しください。手間でなければこの返信への返信をしてくださってもよいです。  なかなか長い『砂場均し』をお読みいただき、さらにあんなに細かく論評してくださりありがとうございました。 (砂場均し)

2019-04-25

ふじりゅう様、コメントありがとうございます。  投稿からだいぶ時間が経ってしまったこの拙作を自分で読み返すことになりました。  けっこう入り組んだ構図を言葉で表現したものです。  その構図がどうやら正しく伝わったようで良かったです。  文字列は私らしく、理屈っぽいですね。  ここには依然として、『孤独』というものを楽観視していないか、という問題が残されているように思われます。  なにやら私たちみんなが仲良しで、結ばれているような感じが詩文からたちのぼっているようです。  現実を見れば、とてもそうとは言えませんね。  私たちの間には、分断があります。あるいはこの詩から簡単に孤独死というものを連想することができ、それはどうなのかと問わざるを得ません。  こういう点でこの作はまだ甘い、そして問題提起していると、私自身で思います。 (教え子たちの星)

2019-04-24

るるりら様、コメントありがとうございます。  今、こんなに早くに目が覚めてしまいました(4:30)。『砂場均し』の話し手と同じように、『悪い夢』を見ました。  まずは、るるりら様が分からなかったことを私が理解し、そしてもう一度私の思いを言ってみようと思います。  るるりら様は、あの中年女性が現れなくなったことが話し手が過去を悔いるきっかけであると解していると思われます。  しかし私は話し手が自分の過去を気にしているのは日常のことであるように書いたつもりです。 >「悪い夢ですか。毎日見るのですか?」 >「はい」  このあたりです。あらかじめ、話し手には自分の過去に負い目があったのです。その上に、 >しかし公園に着くと、またあのおばさんの姿はなかった。 >私は、世界が少し変わったな、と感じた。 >そして、またか、と思った。  という事態がかぶさってくるわけです。ちょっと話し手の神経は鋭敏過ぎると思われるかもしれませんが、これは私自身の本当の神経を描きました。  また、るるりら様が『主導権』という語で言い表していること、これは己の『意思』というものだと思われます。私は次のように書きました。 >時々何か沈まなかった無力なものが、  という箇所です。  人の『意思』は『永久』『定め』の中にあってなんと頼りない、無力なものであろうかという私の感想を書いてみました。  ただ、あの『辞めた』ことを列挙した箇所は強く己の『主導権』を読み手に感受させる書き方であったと私も今、思っています。ここは、『恋』のことを主に想定して読んでいただきたい。己の『意思』がうまく通らない事柄としてです。他の事柄にしても、己の『意思』だけで決定付けられるものだけではなく、『定め』が大いに働いている場合があるものです。  この私の作『砂場均し』は長いです。忍耐強く読んでくださったことに感謝申し上げます。  るるりら様は、私の文章に対する熱情について言っておられます。  雑談を少し。  私はかつて特にJoseph Conradの文章に学んだところが多く、この作家を敬愛しています。この人の文章は、小説というより詩であるように読めます。  青春時代に岩波文庫の中野好夫訳『闇の奥』を読み、今もこの作家の文章へのあこがれは一通りのものではないです。『闇の奥』『青春』は原文で読み通し、『ノストローモ』も原文で半分まで読みました。中野好夫の本も持っています。素人にしてはけっこうがんばっていると言えるのではないでしょうか。  もちろんあまりこの人だけというふうに強調するのも誤るもとでしょう。他にもあれこれ読んでいます。そして、あれこれ読んで勉強したからといって何かが書けるわけでもないのが創作の世界です。大変ですね。雑談の方が長くなりそうです。るるりら様のコメントに対する返信として不足があったとしたらまたご指摘ください。ありがとうございました。  (砂場均し)

2019-04-24

 これぐらいの文字数が、作者にとっても読者にとっても、作品を一望することのできる量であろうし、人に、読んでみようかな、という意欲を催させる量でもあるか。  それで読んだところ、意味を取れなかった。でも、ここには確かに日本語で表現されたものが一定量あったのだし、せっかく目を通し、黙読もしたのだから、評を残そうと思う。  意味が取れなかったけれども、作品が意味の取れる文や語句で創造されなければならないというわけでもないから、意味を取ろうとするのではなくて、触るように、あるいは見るようにとか聞くようにとかして鑑賞する手もあるだろう。  この『微熱』という作品は、見たところ、六つの連に分かれている。  まずは言っておこう、第三連の『飴玉』の後、『虫たち』の後、それから第四連の『メロディー』の後で助詞を省いたのは、失敗だったと思う。  全体を触るようにして読んでみると、第四連までの感触と、その後第五連、第六連の感触が異なっているように感じる。前者は良い、後者はダメ、という感じである。  ものを書くためには、何か異変を感じる必要があると思う。不良になる必要があると言ってもあまり違わないと思う。そして私がこの作品の第四連までは良いと言ったのは、そこまでは何か異変を感じている、不良になっている、そういうような感触を受けるからである。それに対し第五連、第六連は、そこまで持ちこたえてきた不良的な基調を壊していて、優等生が書いたようである。『暫くここにいていいんだよ』とか『さだめ』とか『夕暮れ』とかいった言葉は、作品によっては生きる言葉かもしれないが、この作品では生きない。  でも、この甘さが、『微熱』をあらわしているのかな。  良い詩句もいくつかあった。  ポイントは、〈エンタメ〉〈技巧〉〈音韻〉〈構成〉のそれぞれに1ポイントずつ入れる。 (微熱)

2019-04-23

せいろん様、コメントありがとうございます。  楽しんでいただいて、うれしいです。この作品を書いている時、私の胸には、「自由に書けばいいんだ!」という思いと、「はたして受け入れられるだろうか?」という心配の気持ちの両方がありましたので。まあ、誰でもこれは同じで、当たり前のことかもしれませんが。  書くということは大変なことですね。疲れましたよ。 「!」の記号を何か所かに使いましたが、これも、「これでいいのか?」と心配でした。「詩文を力強いものにするのに、この記号に安易に頼っていいのだろうか?」と。余計には使用しなかったつもりです。  ともかくも、読んでいただけたこと、これだけで非常な喜びを感じます。酷評も待っています。ありがとうございました。 (砂場均し)

2019-04-22

 作品をどのように鑑賞するかは人それぞれの自由だと思うが、また一方で、正しい鑑賞を目指すということもなければならないと思う。その目的もあってこのようなコメント欄やポイント欄が設けられているのだろうと思う。  それでちょっと私が気になったのが、この作品について投じられたポイントの数を見るに、現在『エンタメ』に11ポイントとなっており、『前衛性』と並んで、他の項目よりも二倍ほど高いということである。  『前衛性』は分かる気がする。しかし『エンタメ』が私には分かりにくい。『エンタメ』という語の意味を広く取れば、まあ分かるかな、といった感じである。  この作品については私も未だ「分かった」と言えるほどではないが、どうもかなり深刻で、暗くて、重い内容を持った作品だと思う。『エンタメ』にポイントを入れる気になれない。  もし『思想性』『精神性』『人間性』といった類いのポイント項目があれば、私はそこにポイントを入れたい。そしてこういうポイント項目に合う作品はけっこうあるのではないだろうか。 (黄昏の告別)

2019-04-20

なゆた創a.k.a.NORANEKO様、コメントありがとうございます。 この拙作の構成は、結果的にできあがったものでして、初め、私は、写生文として書き始めたのでした。そのうちに日頃思っていたこと、考えていたことが入り込んできて、筆を進めていったところ、このようにまとまりました。 書くということは、自然、なんらかの構成を書き手に求めてくるものなのでしょう。 また「美文によるフレーズの快楽を極力抑制しながら」と指摘されました。 私は他の方々がしていることを避けて書こうとした結果、作中に見られるように、平明な表現をすることになりました。 ありがとうございました。 (砂場均し)

2019-04-20

 私は帆場蔵人様の作品に『文学極道』というサイトで初めて出会いました。『養蜂箱』が登場する作品でした。そして私はその作品について「良いと思う」と発信したのでした。それ以来、気になる書き手だと思っていましたが、他の作品を読まずにいました。今回、この作品を読んでみました。  タイトルだけ見れば、魅力は感じません。  『ミイラ男』というような夢幻的でゲームにでも出てくるような言葉を私は好みません。  また、詩の中身も『養蜂箱』の詩に比して密度が落ちているような気がするのです。  どこか帆場様らしくないものがこの詩に入り込んでしまった感じがします。  よくある発想、よくある詩句、ありがちな技術、そういうものを感じます。  本当に帆場様の詩なのだろうかと、ちょっと、あれれ? といった驚きを感じました。  これがこの作品についての私の率直な印象と感想です。酷評にはならないと思いますが、本当に、あれれ? と思ったのでした。 (わたしがミイラ男だったころ)

2019-04-15

 不調和感を読者にもたらすことを成功と見ることもまた良いでしょう。でもやはり私は作品に一貫した美をとりたいです。  どんな陰惨なことを書いても、美が立ち現れるものです。   『さかくだり』。  抒情の中に例のセリフを埋め込みましたね。滋味豊かな作品になっています。一見平板ですが、記憶、孤独、不満、不和といったものが美しく書かれていて、こういうものを私は受け入れたいのでした。うるさい私も言うことがありません。  詩人、詩の実作者という者とはどんな者かを私はるるりら様に認めました。そのスピリットには頭が上がりません。いや本当に。 (そらおそろしい)

2019-04-12

>フィリポの十字架 >地面と垂直に勃起したペニス。 >騎乗位のときのペニスは、天をむいた聖ペトロ十字であり、創造主ブラフマーである「女」に最も喜ばれる体位のひとつである。  この部分は、性を扱った表現という一面的な観点からすると、私の狭い読書体験から感じることだが、ヘンリー・ミラーや村上春樹がおこなった表現に並ぶか、それらよりもすぐれているのではないだろうか。 (黄昏の告別)

2019-04-12

補って書かせていただきます。 私も現実的なこと、社会的なこと、体験的なことから目をそむけることは不可能なのですが、この作品では、第二連以外のところの美しい詩の面と第二連の現実的な面との間に段差があり、第二連だけがちょっと(ちょっとです)調和していないように思ったのです。 第二連のなまくびは、また別の詩の中にあってこそ、調和して生きるのではないかなと…… 実際私は第二連をとばしてこの作品を読んでみたが、良かった! (そらおそろしい)

2019-04-11

 かなり知見に差があるようで、私は自分の勉強不足を認めざるを得ません。それにもかかわらず私は、自分の持っている限りの力で、ソクラテスの前で自分の考えを言う者のように、コメントを続けたいと思います。  この『黄昏の告別』という作品は、大きな改行を二回おこない、三つの連に分けて書かれています。急ですが、最後の連について言わせていただきます。なぜならこの連に、一応は(一応はです!)、『黄昏の告別』というタイトルの由来をうかがうことができるからです。 >闇は今日も豊穣であった。  と、完了形になっていることで『告別』であることを察することができ、また、次行(最終行)に『夕日』が出てくることから『黄昏』であることを知ることができます。明確には第二連に多く『告別』を読み取ることができるのですが……。  そしてここの『闇』という字は、この作品中で八度目で最後の使用ですね。  単純ですが、私はこの連から、以前読んだ『真昼の暗黒』という小説のタイトルを思い出しました(アーサー・ケストラー著 中島賢二訳 岩波文庫)。『闇』が『今日』の昼にあったと言うのですから。  最終行は穏やかならぬ、現実的な(リアルな)描写をしていますね。この『リアルな』という語は、第一連の中に出てきます。 >俺はリアルなものをもとめているんだ!  今回のコメントでは、とりあえず上に書いたような確認をしたかったのみです。 (黄昏の告別)

2019-04-11

初めの三行についての所感。 >人間の愛は実に複雑だ。 >しかし、私は、物事を単純に見て解決するすべを覚えつつある。 >魔術師と儀式主義者は、最も地に足をつけた種族である。 私はこの部分を読んで、自分がかつて「機械になりたい」と表明したことがあるのを思い出しました。 機械はこの複雑な世界で、何をしても誤ることのないものです。 そして私は『魔術師と儀式主義者』の次に『機械』を並べてもよいと思いました。 『Let it be』『Let it go』などの教訓的な言葉も慰めとなったり良い結果につながることもありますが、私はこういう軽い教訓に従った結果、誤った帰結に至ったことがあります。 多くの場合、魔術や儀式は計り知れない経験の賜物です。 それらには誤りや迷いを避けるための機能が備わっていることが多いです。 肯ける三行でした。 (黄昏の告別)

2019-04-09

何回かに分けてコメントを送ることになると思います。 今回は、この作品の長さ、多さに、単純に感激したことを伝えます。 短い作品が多く、またそれらがけっこう好評を得る中、そして私もそれらの中に良いものがあることを認めてきているのですが、少し物足りなさを、時には「またこの手の詩か」というような困惑の気持ちを持つこともある中、この『黄昏の告別』という作品のように、長く、多く書かれたものを発見して、私はとてもうれしいです。 (黄昏の告別)

2019-04-09

>静物を壊した 私にはこの詩句だけで十分感動的です。 画像はあまり…… (「頑張れ」という刄)

2019-04-08

叙情としてまとまっていると思った。 『虚無感』とか『永遠』という語は私も好きで、それこそ永遠の題だと思っているので、それだけにここにはまだ長く説明的でもいいから掘り下げて書く余地があったのではないかと惜しむ気持ちを抱いた。 (永遠)

2019-04-08

私の読む力が足りないのか、肝腎な『おれ』が出てくる二連目の意味が分からなくて苦しかったけれども、全体としては一息に最後まで歌うように読ませてくれました。 一字一字が音楽の音符のようだと思いました。 (俺)

2019-04-08

taishi ohira様、コメントありがとうございます。 お言葉が頭から離れません。宿題をいただきました。しばらく考えさせてください。 (教え子たちの星)

2019-04-05

良い詩ですね。久々にしっかりした日本語と構成で書かれた詩を読みました。想像力もすごい。 『日本語にないことに驚く』『人類はこれでいいのか』というような疑いも私は大好きです。 (揉む)

2019-04-04

多読ではない私も、古今和歌集はざっと読みました。それで『袖をまくしあげた少年とすれ違う』というところの含意もなんとなく分かるのですが、他にも古今和歌集を連想させる箇所があったらもっとおもしろい詩になったのではないかなと思いました。 あと、走っている割には走っている感じが伝わってこなかったです。 ちなみに、こんなところですみません、引用の書き方(>の記号と文字列を斜体にし、文字色を変えるやり方)が分からないので私はいつも『』を使っています。引用の書き方を教えていただけませんか。すみません。 (走る)

2019-04-04

『跳ね』の語が三か所あるが、それぞれ、誰かに跳ねられ、私(?)が跳ね、『奴』に跳ねられていて、読みほぐしにくいと感じた。もしかしてそれが狙い? 『明日を祈ってる僕』は『運命』という語で蹴られる。 それでも『未来はそんなもん』だと言い切らずに『今日生き』て明日もあさっても生きて未来を築こうではありませんか。 まあ、このように詩を書く以上、本当には未来はあると信じていることを証しているようには感じるのですが。 (跳ねた先の未来)

2019-04-03

次々と生み出されてつながってゆく感嘆すべき詩句の数々。 タイトルをどうするか難しい詩だと思う。 最後に、それまで動きの激しかった調子から転調するようにして『ところで君/ただ花を握って 歩いてきたんだね』とあり、こう話しかけられた読者はとても癒される。 (熱っぽい夜の終わり)

2019-04-03

すぐれた想像力、記述力ですね。書かれていることを読者が体験できます。 目が覚めた時、こういう感覚ありますよね。身近なものの真実を思いながら、たった今見ていた不思議な、しかし現実に表現できるような夢を重ねる。消えてしまったけれども真実味のある夢を。その夢を、真実化された夢と言ってよいでしょう。 そして私は真実化という過程を嘔吐の場面に読み取ったのですが。 「気分はどう」と彼女が言った場面は痛快でした。 最後、『わたし』がなにも答えなかったのが残念で、なにか答えて欲しかったです。 (真実)

2019-04-02

季節や自然の状態や時代といったものの変化はあらかじめ永久の中にのまれている。その中に私たちも存在し、きっと、一瞬一瞬において、無作為であるかのように誰かと出会っているのだろう。 ぎこちなく綴られているようにも感じるが、ものごとのはかなさと確かさの両方を詠み込んだ詩だと思った。 (春のかほり)

2019-04-02

静かな視界 様、コメントありがとうございます。 この私の拙作に説明調があることは確かです。 私は書くということをする時、結果が小説になるかとか詩になるかとか論文になるかとかいうことは考えず、言いたいことをとにかく作品内に定着させることを狙います。 しかし本当は私は詩を書きたいと思っており、私にとっても或る定まった形式或いは音楽的な構造の中に言いたいことをうたいあげることは理想でもあります。 今度、またはいつか、そういう作品を書きたいと思います。 沙一様、コメントありがとうございます。 実は本当に私はあの自由に、開放的に幻想をふくらませることのできた幼少期の自分に憧憬の念を抱いています。 しかし大人である現在、幻想には制約が必要であろうと思います。 望ましくない幻想にとらわれて悪を犯す場合があります。 幻想という語は様々に議論されるべきです。 どんな幻想も個人の勝手であるという段階にはもはやなく、やはり正しさというものが求められるのではないかと思います。 (幻想離れ)

2019-04-01

これは何だろう? 私には意味が取れない。が、イメージが頭に出来る。土地と人間の営為の密着である。忌日、測量、記帳といった言葉の使用に新味がある。 (決定した)

2019-04-01

一回読んで、短くて横着で無内容だなと思ったけれど、二回三回と読み直しているうちに背筋が冷たくなりました。 (仮の住まい)

2019-04-01

さかあがりがとても良いのだけれども、なまくびはちょっとゆきすぎたノイズでは? なまくび以外のところは好きです。 (そらおそろしい)

2019-04-01

わたくしは海へ種蒔き、この詩句好きです。 けれども一作品としてはなんか未完であるような感じを受けます。 (no)

2019-04-01

エイクピア様、コメントありがとうございます。 幻想は人間の頭脳に宿るものですが、それは健全な生を生み出す大切なものです。 最近私には幻想が欠けているのでこのような文を書きました。 (幻想離れ)

2019-04-01

かるべまさひろ様、コメントありがとうございます。 文学というものに足がついていないで泳いでいるような状況にある私ですが、まだ何か書き続けていきたいと思います。 完備様、コメントありがとうございます。 まだどう答えるか考えている最中なのですが、あまり時間が経っても良くないと思うので、少し書きます。 自己完結という指摘には言いたいことがあります。 あまりにも多く感じ取ってしまって粉々になりそうな時が誰にもあると思うのです。 そういう時、あえて下を向き、暗く、小さく、意識の灯を弱くして生き抜こうと私はこれを読む人に話したかったのです。 (ネガティブ)

2019-03-31

こういうふうにイメージを連ねてまとめるのは難しいことだと思います。 ちょっと羨ましいです。 (古い友人に書いた手紙からのお返詩)

2019-03-24

歌か文の原型のようだと感じました。 作品としてはまだ粗いかなと思いましたが、こうなる理由はなんとなく感覚的に私には分かります。 レトロな場景が見えるようで心地良いです。 (雨)

2019-03-24

いろいろな音が書かれています。 書かれがちなありきたりの音も多いように思うのですが、中に、 『木々が枝を伸ばす音』『飛行機が青空を切り裂く音』『建物が崩れる音』『最後の呻き』があり、これらの音にはハッとさせられました。 新しい、書かれるべき、聞くべき音だと思いました。 (音)

2019-03-24

コメントありがとうございます。 情けないことですが、オブジェクト指向論を知らないので、調べようと思います。 (豊饒な世界)

2019-02-11

かるべまさひろ様、コメントありがとうございます。 この文は、行き詰まった僕自身を慰めるために素直に書いた独白のようなものです。 丁寧に読んでいただいてうれしいです。 これを書いたことによって少し初心に立ち返ることができたような感じがします。 このような文も受け容れていただけるビーレビという場に感謝しています。 (純粋な雑念への短い敵意)

2019-02-07

いい詩ですね。 女性の語り方で書かれていますが、それは越えて、男性の僕も心、それから身体を直接的に強くつかまれる体感がありました。 身体に感じられる感覚を通して情景を描き出しているのはいいですね。 表現されている気持ちや情景がさわやかで偽りがなく簡明で美しいです。 (春になれば)

2019-02-06

たとえば、青信号が、渡ってもよいという意味だと誰かが教えなければ、青信号にはまだ意味が無いということになります。こういう場合の青信号を何という語で呼べばよいのか。また、たとえば、遠方へ何か意味を伝えるために火をおこすといった場合、この火そのもののみを、何という語で呼べばよいのか。 悩んだ末、私の思いつく限りで、合う語は『符号』でした。 (符号)

2018-11-27

『人類愛』と『傍観者』、『おまえだけの人生じゃない』と『おまえの人生だろ』と、しょっちゅう人が片方だけに寄りかかるアイディアが、パワフルな調子で書きとめられていて気になる詩だと思いました。悲しいことですが、私の能力では、今のところ、二連と三連の意味は取れていません。でも、死にたがり、伝統、マニュアル、といった道具の登場は、良いと感じます。 (リコール17)

2018-11-23

この作品では、目の前のこと、日常というもの、とりあえず近くにあることにつながれている人間の、もう一つの側面が、すなわち、想像力や推察、気づきによって、遠い事実を知って苦しんでしまうという人間の側面が、書かれています。私も高校時代、自分がこうやって受験勉強をしている間にも、幼い頃遊んだ自然、川や林が失われているという事実を思いやって苦しんだ経験があります。この作品の中には、社会の事実を細かく書いた箇所があって、見どころになっているのは確かです。が、読者は、この作品をしばらく眺めているといつしか、もっと広く、人間の内面の物語として読んでいる、あるいは感受している自分に気づくことでしょう。 (嗚咽 *)

2018-11-23

帆場蔵人様、コメントありがとうございます。 私はこの自作品について、今時虚無云云とはなんだ、と批判されるのではないかと案じていました。たぶん、そう批判したい人はいると思われます。ちょっとまっすぐに言ってしまったかなという反省が私の胸にあります。が、何かを作ったり見たりする時、やはり私たちの頭には、虚無や充足の類いが霞のようにあって拭い難いのは確かだと思うのです。その向こうにあるものをつかむためにも、また、私の実体験を記録するためにも、一度、書きたかった詩です。 なお、取り上げていただいた箇所の一部は、 鳩のように群れて飛ぶ ことはできない と改行した方が良かったと考えています。 (お前は独り、)

2018-11-22

好意的なコメントありがとうございます。私としては、こういう作品も良しとして投稿したわけですが、もっとまとまりのない作品を作りたいと願ってもいます。 (お前は独り、)

2018-11-22

仲程さん、コメントへのコメントありがとうございます。 実作者の感覚としては、こういう書き方も自然なものなのでしょうね。 読者が引っ掛かりを覚えるということは、とても大切なこと、文学の命みたいなことだと思います。 B-REVIEWは勉強になります。 (彼女のrの発音/魔法使いじゃないので)

2018-11-06

読ませていただきました。 良いですね。「クリエイティブライティング」です。 掲示板をなんとなく見てはめくっていたらこの作品に目がとまりました。 まずlu, lu,……という箇所、それから1r、2r……という特殊な箇条書き、それから食材の部分が目についたのです。 なので最初に戻って一字一字読んでいきました。 確かな日本語の使い手でした。彼女と交換しているやわらかい感覚が伝わってきました。 ちなみに私は第55回ロシア語能力検定試験3級に合格しました。でもすでに上に書いた通り、このことがこの作品を読ませていただいた理由ではありません。 (彼女のrの発音/魔法使いじゃないので)

2018-11-05

読ませていただきました。 良いですね。使用し尽くされた表現が、ないです。新鮮です。音も良いです。 ただ、描かれたことを、具体的に、論理的に、あるいは感覚的にも頭の中に構成しようとすると、うまく出来ない感じがします。そんな感じは『指先』以降の部分に由来するようです。音的には破綻していないと思います。が、タイトルをこの部分から取ってくるのはちょっと傷かなと思います。 でも、何度も読みたい詩です。 (ほどける)

2018-10-30

読ませていただきました。 『……教えてあげる』までとても良いと思いました。 『一日中』から後は、無くてよかったのではないかと感じました。 音も意味もここを境に切れて、何と言うか、軽くなっているように感じました。 (おやすみ)

2018-10-28

ふじりゅう様、オオサカダニケ様、コメントありがとうございます。 自分が書いたものについて何か書くということは簡単ではありません。誰にとってよりも近いところに厳然と自分で書いたテキストが存在するからです。 しかし黙っているのも良くないので、刑について書き始めることから、この自作について解説したいと思います。 通常、刑は、人の精神的な前進を停滞させるものだと思われます。行動を制限されるわけですから。そして私たちは、意識していても意識していなくても、そういう刑のもとに生きていて、それを意識している時には特に、精神は前進しているのではなく、後退しているように感じるものです。しかし実際には、人生に後退などというものはありません。常にそれは新しい状態にあるのです。 刑に服していることが意識されなくなった時、私たちは前進を再開したように感じます。その時の心境は、何か懐かしさを伴っていることでしょう。意識がありつつ刑に服していた期間、自分は後ろ向きに変わってしまったのだと思い返すのですが、同時に、自分は自分であることを一時もやめなかったのだと思いもします。 現在とは何でしょう。それは自分が思い描いていたものとは違っている場合がほとんどだと思われますが、あるいは現在自分は成功したのだという感覚に襲われることもあります。この時、人は思い上がります。現在とは、時間と成長の流れの最も新しい部分であるだけなのに。しかしほどなく、ここで賢明な人は、顧みるということをします。そして、私たちの傲慢を待ち受けているものは、意識であるということになります。私たちは、再び意識下の刑のもとに戻るのです。 未来という遠大なものは、夢です。人は一生出会うことができないでしょう。出会うことができるのは、時間と成長の流れの最も新しい部分です。前進が何かの障害によって制限されたことを悔しく思ったり、現在の成功した状態を自ら手に入れたのだと思い上がったりしつつ、時間と成長の流れを見つめた時、そのような流れにかつて休止はなかったことと、決して変化しなかった自分の存在がそこに映っているのを確認するのです。 (新しい現在)

2018-10-27

コメントありがとうございます。 私たちの頭や心の中にある思いや考えは昼夜を問わずすべて夢で、それを現実化しようとしたり、ただ見つめたりすることで、私たちは生きています。 夢にもさまざまな種類があるもので、中に、現実から遊離してしまった夢があります。 そういう夢は、現実逃避や慰めにはちょうどいいかもしれませんが、現実を認識するという私たちの作業を誤ったものにしてしまう可能性があります。 私はそれが恐ろしいので、そういう思いを、この詩の中に書き込んだわけでした。 文体について。確かに、一種の語りかけの調子で書き起こしてしまったため、それを最後まで貫こうと腐心しました。 丁寧に読んでくださり、ありがとうございます。 (幕間の子守歌)

2018-06-19

コメントありがとうございます。 ずっとどなたからもコメントをいただけなかったのでうれしいです。 何か、バシッとこないものを書いてしまったという感じが自分にもあります。 (幕間の子守歌)

2018-06-18

この作品、気になります。良い意味で。 「わたし」という語だけは陳腐で狭く、できれば使わずに書ければよかったですね。 「わたし」とか「あなた」という語はもう使わない方が良いでしょう。飽きました。 さて、悪い意味で気になるのはこういうことだけで、他の点では、完璧で傑作です。 まず、他の人が使ってしまいそうな語を(「わたし」という語は使っているけどそれ以外で)全然使わずに避けて通している。 また、この作品の意味をとるのは難しいので私はあまり頑張ろうとは思わないけれど、何回も繰り返し読みたい詩なので、いつか分かる時が来るでしょう。 なんだかパウル・ツェラーンの詩みたいだなぁ。 (薪)

2018-06-14

コメントありがとうございます。 私は最近は詩はあまり書かず、短歌ばかり作っています。原稿用紙を言葉でどんなに多量に埋めてみても、だいたい最後は短歌になってしまいます。 詩作は難しいと感じます。今の私にとって詩作は、水のような素材で石像のような確かな物を表し立てるような感触の作業です。 何によらず創作における私の心がけとしては、一つにはやはり既視感を感じさせるものは作らないようにすることです。詩も、歴史が長く、豊かな成果があるので、同じことをしないように注意し実行することはとても難しいですね。 (歌)

2018-06-10

丁寧な評文ありがとうございます。私の詩作品についての評文だとは分かりながら、単独で読んでもまるで一篇の散文詩のように感じられる文章ですね。 この現代において、何か言語を書きつけてみて、それが詩であると言えるようになる所以となるものは何なのだろうかといつも考えつつ私は書くという行為をしています。 また、この世界、悩ましいことですが、どんなに美しいことであっても、どんなに気になることであっても、何でも詩になるわけではなく、詩にならないことがあるのは確かで、何故そういうことになるのか、考えてもいます。 (《選評》2018年5月分・ワンポイント)

2018-06-10

湯煙様、コメントありがとうございます。 私は最近、厄介な事態ですが、自分の作品に自分で何か語を加えることは、テキストを改変してしまうような感じがして、ためらいがあり 、テキストを読んでいただき、思われるままに受け取っていただきたいと感じています。 ただ私自身も、自分でこの詩のテキストを読み、感じるところがあるのですが、湯煙様のコメントにあることと重なる部分があるような感 じはしています。 本当に申し訳ないのですが、この詩のみについては、というか詩一般についても、今あまり語れそうにありません。 なので無理はせず、何も言わないことにします。 時間が経てば、事態は変わるかもしれませんが。 どうか御容赦ください。 しかし曖昧ながら、一言。 或る虚しさ、或る疑いに、私はとりつかれているようです。 (歌)

2018-06-04

かるべまさひろ様、コメントありがとうございます。 本当に、さまざまな詩がB-REVIEWには投稿されていますね。 どんなものであれ、何かを真摯に書き上げるということに、私は敬意を持っています。 ですので、批評批判をおこなうことはとても難しいと感じます。 私は詩作における自分の目標を表明しましたが、それに合わないものでも良いものはどうしても良いです。 最近私は自分の理想に合う詩を生み出そうと苦心しています。 書く上で、起承転結、ストーリー、オチなどから脱するには、どうしたらいいのか、試験しています。 どうやって書き起こせばいいのでしょう? どうやって書き終えればいいのでしょう? 筋や論理から解き放たれることができるのでしょうか? 私は一方では意味の無いことを書きたくはありません。 意味や言いたいことはしっかり織り込まれているものを書きたいです。 B-REVIEWに投稿できるのは月に二回までなのですね。 今月はあと一回の機会がありますが、間に合うかどうか。 私の努力の過程を見ることのできる詩を投稿できればいいと思いますが、必ずしも私の理想に捕らわれているものを書くとも限りません。 ただ怠惰ではありたくないです。 (四角い光の板)

2018-05-29

コメントありがとうございます。私は前言において自分の詩『四角い光の板』がまだずいぶんと割る余地を持っていることを挙げて自己批判しました。私は詩が今なお、起承転結、ストーリー、オチ、こういったものを多くの場合持つということに疑問を持っています。こういったものにはもう十分出会いました。こういったものから脱したいのです。私としてはこのような態度で詩作に臨んでいきたいと思っています。 (四角い光の板)

2018-05-23

コメントありがとうございます。私が自分の詩にコメントをいただくのは、人生で今回が初めてです。私は自分で、この詩はそもそも書かれるべきではなかったのではないかと投稿後すぐに考えました。何を言いたいのかが分からない詩です。また、拙い小説か何かから一部取り外してきたかのような単なる散文的描写に過ぎません。その点から批評されることは予測しておりましたが、そうではありませんでした。私は、詩の条件として指示代名詞の多寡は問題ではないと考えます。また詩は必ずしも切り詰めなければならないものでもないと考えます。冗長で、読みづらいものであってよいのです。そして演出しなければならないくらいなら、書かない方がいいと思われます。詩は言葉で遊ぶものでもなく、言葉の飾りでもなく、調べも要らないものです。詩は、私にとっては、それ以上割れない一つの言語的個物です。この点で、私の今回の詩は、駄作と言えます。 (四角い光の板)

2018-05-22

「個」的な「えー、あー、」が「連続」的な水中、海中に発せられて、しかもその「えー、あー、」によって「ひとりぼっちの世界」に「つながりはある」世界構造。よく考え、とらえられた世界観だと思う。最後の「あなた」の語が、突然過ぎて少し気になるか。「わたくし」もしくは「わたくしたち」として止めておいた方が良かったように感じた。 (In Blue)

2018-05-20

詩の言語的な側面から言うと、良い音、良いリズム。内容の面から言うと、奇想的で楽しく、平和な感じがして、癒される。 (マヨネーズをめぐる愛憎劇)

2018-05-20

ありきたりの「枯葉」というものを語って「この星の内部の充溢したエネルギーを感じる」と締めくくったところが秀逸。タイトルが『枯葉』とはなっておらず『葉脈』となっていることに納得。 (葉脈)

2018-05-19

「卵を産む生物」とそうではない生物の一種である私という対比の着想がまれに見るおもしろさ。そして「あなた」の存在が重い。 (さえずり)

2018-05-19

「詩を求めてる人しかいないですねぇ」とは、よく表明できたものだと感心しました。 (問答)

2018-05-19

「誰もが魔法を信じている」という詩句だけは、詩歌に持ち込むには甘く、軽いと感じたが、通読して、全体としては迫力のある、勝れた作品だと思いました。 (エゴ)

2018-05-19

頂きへ

2020-04-09

はるのこと

2020-07-21

memo

2020-08-16

一定再見

2020-08-18