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「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む)   

作成日時 2019-06-05
コメント日時 2019-06-16
<批評対象作品>
そらおそろしい


 私の『「文学」って何?』と題する批評文は、今回で第3回目となる。今回取り上げる批評対象作品は、ちょっと前に読者の心に深い印象を残した、るるりら氏の『そらおそろしい』だ。この選択には、私の主観が入っている。単純にビーレビのトップページに最近「人気の作品」として掲げられた作品を取り上げるのではない。  るるりら氏は女性で、ビーレビ上でコメントするとき、自分が女性であるという「立場の表明」をおこなうことがある。私は言うまでもなく男性であるが、るるりら氏が「女性」という語を発するのを聞くとき、私の胸の中で、鈴のようなものがリンと鳴る。そのわけは、次のようなことである。  私は、自分が詩歌に取り組む意欲を、女性からもらったという事実がある。短歌の分野にあっては、富小路禎子(とみのこうじよしこ)、詩の分野にあっては、Adrienne Rich(エイドリエン・リッチ)から、ただならぬやる気をもらった。もちろん、この人たちに出会う前に、もともと私に詩歌を愛する心があって、あれこれと模索していた時間があったとは言えるのだが、この人たちの作品に出会ったことは、私にとって大変に大きな事件であった。  短歌は、富小路禎子の作品を発見する前には、私は作ったことがなかった。この人の作品に出会ったことは、私が作歌するようになった本質的な機縁であると確言できる。しかし富小路禎子の短歌がどのような短歌なのか、私は未だ人に言えるほど思索できていない。だからここに解説できない。ただ、短歌の領域を超越して、私が何かを書くとき、私はいつもこの人の「文学」を意識しているとだけ言っておく。  次に、Adrienne Richについては、知っている方もいるであろうか。この人に出会う前にも私は詩を書いていたが、この人の作品『Diving into the Wreck』の朗読されたものを聞いたとき、私は「よーし、俺もやるぞ」とあらためて奮い立ったのであった。この音源はインターネットで聞くことができる。もしかしたら聞いたことがある方もいるかもしれないが、聞いたことがない人にはぜひ聞いてもらいたいものだから、サイトの探し方を記しておく。検索語を「poets org diving into the wreck」として検索すれば、確実に検索結果のトップに出てくる。それを開けば、詩の題の右にスピーカーのマークがあるからクリックすると音源があらわれる。それを再生しよう。  ここで聞かれる朗読はRich本人による朗読ではないと思われるが、何度聞いても鳥肌が立つ。  このような事情で、私は、るるりら氏が「女性」という語を発するのを聞くとき、私の胸の中で、私の「文学」体験から生まれた鈴のようなものが、リンと鳴るのを感じるのである。  るるりら氏の『そらおそろしい』を読もう。でも、この作品を読むために私はこの批評文を書いているのか、なんのために書いているのか、もう分からなくなってきた。あまりにも偉大な女性詩人を先に紹介してしまった。今、『そらおそろしい』に目をやると、なんか足りない感じがする。なぜ私は、るるりら氏のこの作品を取り上げる気になったのかをもう一度思い直すと、そうだった、るるりら氏がビーレビ上でコメントするとき、時々自分が「女性」であると「立場の表明」をおこなうこと、それを読むと、私の胸の中で鈴のようなものがリンと鳴るからであった。  作品『そらおそろしい』が多くの読者の心に深い印象を刻んだことは確かなことであった。  さかあがりを軸に、日常が回る。巧みな日本語表現によって、詩の形となっている。ただ内容に関しては、もう私も誰も、読み込んで、飽きたのではないだろうか。  何かが足りない。  第二連に登場する「なまくび」も、今となっては消耗品であったと言える。  ここに至って、私は『「文学」って何?』と題した批評文の第1回目、芦野 夕狩氏の作品『神の庭』を批評対象とした拙論において提出した「文学」の条件の一つ、「作品の中に永久に癒えない傷があること」を思い出す。  それが『そらおそろしい』には、ない。  るるりら氏は卓越した日本語表現能力の所有者である。しかしそれだけでは「文学」を生み出せない。るるりら氏が手に入れなければならないもの、それは消耗品に終わらないもっと深い耐久性のある「傷」だと思われる。  今回の『「文学」って何?』はこれで終わりとさせていただきます。ほとんど私の雑談のようになってしまいましたが、それは『「文学」って何?』の第1回目で述べたように、私がおしゃべり調で書く中から、それを読む人が、私が「文学」をどのようなものと考えているかを感じ取っていただければよいと思っているからで、ご了承ください。



コメント数(27)
survof (2019-06-05):

筆者の論点を言い換えるなら ・「私」は「作品の中に永久に癒えない傷がある」ことを「文学」であるための必要条件の一つとしている ・批評対象の「そらおそろしい」という作品はその必要条件にかなっていない ・つまり「そらおそろしい」という作品は「私」にとって「文学」ではない ・るるりらさんが筆者にとっての「文学」を生み出すためには「深い耐久性のある傷」を手に入れる必要がある。 ここからあえて少しだけ論理を飛躍させて論点を要約すると ・つまり、筆者の文学的渇望を満たすために、るるりらさんは容易に癒えないような心の傷を負う必要がある。 (あるいはそうした「深い傷」をわざわざ内面から掘り出してきて、作品にきちんと投影させる必要がある) なかなかの暴挙だと思いました。 「私が「文学」をどのようなものと考えているかを感じ取っていただければよいと思っている」と筆者自ら書いているように、(もしその文面を裏表なく正直に受け取るとするならばですが)、この「批評」文の意図は筆者の文学的嗜好を語ることです。 筆者の文学的嗜好を語るのに、投稿作品の弱点を晒すことに建設的な意味を感じません。もちろん、私としては書き手の文学的な嗜好には興味があるので、この文章の前半部分などは興味深くお読みできた訳ですが・・ (といっても筆者のいう「文学」に私は同意しませんが、それはこの際どうでもいいことです) まあ、そんなことはさておき、この文章の筆者は、性別を偽っているような投稿者が、魅力的な人物を思わせるような魅力的な作品を書き、そしてさらに「女性」としての立場表明をする際、その時もやはり「鈴のようなものが、リンと鳴るのを感じ」られるのだろうか? この文章を読んで一番興味を覚えたのは上記の点である。

survof (2019-06-05):

ちなみに『Diving into the Wreck』のポエトリーリーディングは聞いてみましたが超格好良かったです。意味は全然わからないですが。やはり英語は子音が作り出すエッジのある音韻が非常に魅力的ですね。

るるりら (2019-06-05):

拙詩そらおそろしいを 批評対象作品として お選びいただき ありがとうございます。 本批評文には、女流詩人の優れた作品の紹介もしていただきました。おそらく、わたしだけではなく おおくの方にとって意味のある批評なのかもしれません。 しかし、残念ながら 現在私のパソコンはユーチューブへの接続が不安定であるのと、わたしは英語の語学力には問題があるため、南雲さんが紹介してくださったアドリエンヌ・リッチ氏の 『Diving into the Wreck』を拝読することが 現在の私には難しいです。しょうがないので 彼女の生い立ちを検索しました。 ゛ 引用開始★1951年の最初の詩集『世界の変容』は、形而上詩人の伝統に沿った端正なもので高い評価を得たが、1960年代以後、ウィメンズ・リブ運動に加わり、作品の主題も、ヴェトナム戦争、人種問題、女性解放などになった。1971年、『廃墟への跳躍』で全米図書賞受賞。ニューヨーク大学教授を務めた。少女時代に兄弟から受けた性的虐待を描いた詩は最も衝撃的で、その女性論エッセイの「強制的異性愛とレズビアン存在」で「レズビアン連続体」「強制的異性愛」という概念を示し、フェミニズム批評に影響を与えた(『血、パン、詩』所収)。しかしリッチの概念は、女に育てられた結果、男は自然に愛着の相手を別の女に移行させられるのに対し、女はむしろ女同士の絆に移行するほうが自然で、愛着の対象を男に変えることには無理が伴うと論じている。★引用終わり どうやら 彼女は、女性としての立場から書く著名で優れた詩人であるようですね。そして私は たしかにビーレビ上でコメントするとき、自分が女性であるという「立場の表明」をおこなうことがあります。ですが、わたしは とりたてて女性詩を書いきたという自覚はあまりありません。ご批評してくださっている「拙詩そらおそろしい」は特に、女性詩とカテゴライズできる作品ではないです。理由は、話者にしても女性とも男性ともいえない思春期にも達していない人物を話者として私は選んでおります。   南雲さんの御説では、「文学」の条件の一つ、「作品の中に永久に癒えない傷があること」ださうですが、 あきらかに 小学生ではない書き手が 小学生時代の物語を語るとき、年齢を経た作者には癒えていない傷があるとは、お考えにはならないのですね?  わたしには卓越した日本語表現能力の所有者であると言っていただいて、お恥ずかしいかぎりです。しかし、わたしが手に入れなければならないもの、それは消耗品に終わらないもっと深い耐久性のある「傷」なのですか? まさかアドリエンヌ・リッチ氏が獲得しておられる傷を 私が保有したほうが良いとおっしゃっておられますか?ご指摘の夕狩作品の登場人物が持っている傷を、まさか 私がもったほうが良いと おっしゃってますか? わたしは、女性として名乗って作品を挙げてはいますが、女性特有の詩の数は少ない書き手です。いくら文芸にとって傷が有効であるとしても、わたしは作品づくりのために 癒えない傷を獲得する気は まったくありません。女性としての傷なら なおさら獲得するつもりはありません。ですが、わたしとて人間ですから無傷でもありませんよ。いままで詩として表出していない傷ならばあります。それを出せというのが 本批評なのかもしれませんね。考えててはみますね。  アドリエンヌ・リッチ氏の詩の中でも薦めてくださっている作品を読みもしないで書き込みを行っている失礼をお許しください。 貴重なご意見をありがとうございました。

南雲 安晴 (2019-06-06):

survof様、るるりら様、コメントをありがとうございます。  現時点では、お二人からコメントをいただいた限りです。以下には、お二人のコメントに対して私から一個の返信を書くことにします。混成となるわけですが、その方が私にとっても、読む人にとっても、分かりやすいでしょう。  書くということは、宿命的に、なにものかとの対決です。  私が『「文学」って何?』と題して文を書き始めたのは、私みずからが「文学」という語をいろんな場面で多用しながら、それをどうとも定義できないでいたことに、自分で心地悪さを感じたからでした。この文は、まだ始まったばかりで、終わりが全然見えないものです。  私は、この題の文を、ビーレビにおいて批評文として書くことにしたのでした。ビーレビは主として「現代詩」を募るものであることに違いないので、私はビーレビに、「現代詩」が属する「文学」というものが豊富にあると信じ、ビーレビに投稿された作品から「文学」を汲み取るということをおこなうことにしたのでした。この試みは、どうしても、投稿された作品を批評することを伴ってしまうものでしょう。  この題の批評文の第1回目で、私は芦野 夕狩氏の『神の庭』を取り上げ、この作品から「文学」を汲み取ろうとした結果、「文学」の一つの条件として「作品の中に永久に癒えない傷があること」を得たのでした。このことは、「文学」とは何かを追究し始めたばかりの今の時点で語ることができることに過ぎません。  この題の批評文の第2回目では、ふじりゅう氏の『初化粧』という作品を取り上げました。私は、この作品を称賛しましたが、それは芦野 夕狩氏の『神の庭』から汲み取ったものとはまた違ったものを見出したからでした。『初化粧』に私は「永久に癒えない傷」を見出しませんでした。つまり、私の「文学」とは何かという問いは、始まったばかりの途上にあるものであり、私が作品から引き出すものは、多分に変動しやすい、まだ確実性を有することができないものなのです。  そうは言っても、「作品の中に永久に癒えない傷があること」という条件は「文学」の絶対条件ではないとは思いますが、このことを有する場合、その作品は「文学」である可能性が高いと私は感じています。なにごとも、足がかりが要るものです。  この条件により、私は今回、るるりら様の『そらおそろしい』を批評したわけです。  この作品を選択した理由を語ろうとして私は、読者にしてみれば私が自分の文学的嗜好を語っていると受けとめられる書き方をしてしまったのだろうと思います。  しかし私の本当の狙いはやはり「文学」とは何かということを追うことです。その方法として私は、ビーレビに投稿された作品から「文学」を汲み取ろうとするということを採用しているのです。このことには批評を伴わざるを得ません。  途方もないことであることを私は感じているために、論が「おしゃべり調」になることと、それを読む人が私が「文学」をどのようなものであると考えているかを感じ取っていただければよいと思っている、というようなやわらかい言葉を、あらかじめ置いているわけです。  survof様の言われる、性別を偽っているような投稿者のことは私も考えましたが、それは鈴が鳴った後のことだったので、なんとも答えようがありません。  最後に、るるりら様の言われることに返信します。  私の批評文の中に、一部分、修正しなければならない箇所があります。それは『るるりら氏が手に入れなければならないもの』という箇所で、正しく意味が伝わるために『るるりら氏の作品が手に入れなければならないもの』と直したいのです。「傷」のない人間が、いるはずがありません。  私の批評文の成り立ち、狙いは、すでに十分書いたつもりです。  女性、男性、何性、こういった観点は私の今回の批評の眼目ではまったくありません。ただるるりら様が「女性」という語を発するとき、鈴が鳴り、私が自分の「文学」体験を思い起こすということです。そして私は今回るるりら様の人気作を取り上げることになったというわけです。  以上で取り急ぎ返信となりそうな内容を書きました。  不十分なことがありましたら、またご指摘ください。

るるりら (2019-06-06):

おはようございます。 生理的に無理である点がありますので、はっきり申し上げておきます。南雲様にとって 女性、男性、何性、こういった観点は 本作品の批評の眼目ではまったくないにもかかわず、わたしが「女性」という語を発するとき、南雲さんの鈴とやらが鳴るとかいう意味不明な告白は、迷惑であると はっきり申しあげておきます。 わたしが 性別で扱われることを 嫌がっているにもかかわらず、わたしの発する「女性」という語に 南雲様の鈴が鳴っていると思うと、気持ちが悪くてしょうがありません。さらに もうしあげましよう。迷惑です。 ちなみに、わたしが「女性」を名乗るとき 男性の心をゆらしたいなどという考えはありません。むしろ同性の方に もし女性用車両があるならば、わたしも その車両に乗るよというメッセージでしか ありません。 なお 本作品については、本作品欄にて 南雲さんにとっての難点のある作品であることは、すでに頂戴しております。そして、わたしは ご意見を謙虚に受け取り、できるかぎり ご期待にそえることを願っての別作品も すでに 本作品の投稿欄にてアップしています。 こういった私の善処を 無駄にして、善処する前の作品を 本作品が文学ではないと発言しなければならない理由は 何ですか? 鈴がリンとなったからですよね。鈴は煤にしてください。おねがいいたします。最後に あらためてもうしあげます。迷惑です。

survof (2019-06-06):

私は婉曲的な書き方をしました。伝わっていないようなのではっきり書きます。 ・あくまで「文学とは何か?」を本気で語りたいならば(そんな問いにいまさら意味があるとは私は思いませんが)、「私が「文学」をどのようなものと考えているかを感じ取っていただければよいと思っている」などと逃げ道を用意するべきではない。そんな逃げ道を用意しなければならないほどそのテーマが筆者にとって大きすぎるなら、あくまでこの「批評」は本人の「文学的嗜好を語るもの」にとどまることになるのではないでしょうか?文学的嗜好なら大いに語っていただきたいですし、読みたいです。筆者がどんな言い訳芸を展開したところで、やはり今回のような形で投稿作を取り上げることに何の必然性も感じられません。これ以上は水掛け論になるでしょうから反論はいりません。 ・筆者が第一回で取り上げ、殊更に評価した作品は近親相姦を連想させるものであり、またこの「批評」の前半部分において、筆者が特にお気に入りの詩人として紹介された詩人もそうしたものの被害者でそうした体験からくる傷に深く根ざした詩人である以上(そのことはるるりらさんのコメントから初めて知った訳ですが)、この流れで「批評」対象作品と書き手の「女性性」をあえて論じ(「女性性」を論じているというより作者が「女性」であるということに対する感傷を垂れ流し)、しかも作者が近親相姦を連想させるような作品や、そうした体験に苦しんだ詩人の作品がもっているのと同じような(必ずしも同じ種類とはいっていないが、しかしおそらく同じ程度の深さの)癒えない心の傷を作品において表現することが作者がいわゆる「文学」を得るために必要である、という一連の論理展開はおそらく無意識なのでしょうが、ほとんどセクハラです。その行為の是非については私は論じません。 ・相手が女性でないとしても「癒し得ない深い傷」が作品に足りないとして、それゆえにそれは「文学」ではないと論じるのは、いってみれば筆者のえげつない文学観でもって、その文学観を必ずしも共有していないかもしれない赤の他人をその「文学」観でもってぶん殴るようなものです。その行為の是非については私は論じません。 ・筆者の文学論に私はまったく賛成しませんが、おそらく議論したところ水掛け論になるでしょうから、あえてそこには反論しません。

るるりら (2019-06-06):

筆者の文学論は、賛成しません。 ただし、恒久的傷を描いた作品を わたしの過去作品には あります。 おとこだ おんなだと いうことは、 恒久的傷ではありません。 死んでも 亡くならないものが、わたしに とっての 恒久だからです。 お邪魔いたしました。つかれましたので、いご 書きこみを、遠慮いたします。

鈴木 海飛 (2019-06-06):

たこすけ通信兵より あらゆる傷に対して 消毒とモルヒネを打ち、縫合する そんな詩をるるりらさんにみたきがします。自分の傷も他人の傷も喜ぶ人間ではないのでしょうね。 血で睡蓮の花を描くことは苦手としているわけです。 南雲少尉 発言を許されるなら その言い方ではるるりら衛生兵に向かって強襲部隊に入れといっているようなものですよ。犬っころみたいに死ぬのは見たくありませんね。 ただ、衛生兵にしてはまるで戦争好きのような態度が俺の鈴を鳴らしたけどね。すこし言い過ぎだな。 るーるー、 南雲さんは文学の途中にあると書いてある。 ただ、南雲さんに当てたドストレートような言葉だけで書く詩もたまにはいいかもね。 ただ、傷が開いた瞬時に縫合してしまうのは長年の性(サガ)というわけでして あっはっは‼️

南雲 安晴 (2019-06-07):

鈴木 海飛様、コメントをありがとうございます。  しかしながら、返信コメントを書くことは勝手ですがもうやめたいと思います。下記のことを参照してください。 読者諸氏へ  私は本批評文とコメントを、ビーレビのマナーガイドライン&ルールに従い、また文芸的な範囲の中で、そして誠実さをもって、書きました。  もし読者諸氏がそれを確認できず、また、本批評文や私のコメントの中に悪質な要素があるとお考えになる場合には、その旨を、運営者に伝達してください。  この投稿においての私からのコメントは、これをもって、最後のものとさせていただきます。

るるりら (2019-06-07):

まず 最初に このスレッドに来ないと言い放ったことについて お詫びするとともに、本批評で紹介していただいたアドリエンヌ リッチの【瓦礫の中へ飛び込む】という作品を 英語力のない私も読むことができました。 白石かずこ氏の翻訳を 心ある詩友が見せてくれたのと、わざわざ わたしのために 御自身で翻訳を手がけてくださった黒髪氏に心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。 さて、アドリエンヌ リッチの【瓦礫の中へ飛び込む】という詩編は、素晴らしいものでした。私は、夏に子供らと無人島で生活してみようという企画物の体験をしたことが何度かあり 海に潜ることで得られる体現経験があることもあり わたしにとって記憶を喚起させてくれる作品でした。 ざっくり内容を紹介させていただくと、神話とカメラとナイフをもった話者が、たったひとりで沈没した船の中に入り 様々なものを持ち帰るドラマが描かれている作品でしたが、描写の美しさ正確さ詩情。心が洗われるとは このことをいうのだと思います。 しかしながら、南雲氏が なぜ わたしの批評を行うにあたって、詩編にわたしの詩編とは一切の類似点のない アドリエンヌ リッチの【瓦礫の中へ飛び込む】を紹介する気になったのか いまも不思議です。ですが、もう追及は いたしません。 とても素晴らしい詩編を 紹介していただきました。わたしの宝が増えました。ありがとうございます。 本題である私の詩作品への批評についてですが、そこは やはり受け入れられません。 芦野 夕狩氏の作品『神の庭』を批評対象とした拙論において提出した「文学」の条件の一つ、「作品の中に永久に癒えない傷があること」は 私にとって 良い作品の条件ではないことは、前に言ったとおりです。 芦野 夕狩氏の作品『神の庭』にたいするわたしの感想を書き添えさせていただくなら、あの作品は 女性の話者という形をとりながらも 男性目線の詩であると私は感じました。 わたしの感覚では女性が もし書いたのであれば、あのような表現にはならないという点がいくつかあるため。あの作品のようであれという批評態度そのものが 私には受け入れがたかったのでございます。 ですが、南雲様に たいへん失礼な物言いがあったことを こころから謝罪します。 もうしわけありませんでした。とても素晴らしい詩編を教えてくださり ありがとうございます。

るるりら (2019-06-07):

survof 様 論理的に物事を話きることのできにくい私のために 心をくだいてくださり とても感謝しています。 正直、ほんとうに 心おれそうなが心境でございました。ありがとうございます。

るるりら (2019-06-07):

鈴木 海飛 様 わたしらしからぬ発言をしてしまいました。 あなたにはいつも「喧嘩よえーな」と言われてきましたね。 すげえ弱いのですが、めずらしく馬頭の言葉を探しました。 男性がいちばん 傷つく言葉だと聞いたことのある言葉を吐いたものの 使いなれてなくて、一晩中 胸が痛くなりました。衛生兵とは、言い得て妙だと思います。 この批評文には 神の庭との比較が書かれていますよね。 「神の庭」については、あなたがお書きになった批評のほうに私の意見を書きこみをしているので、アドレスをここに 貼らせてもらいますね。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=3409 ありがとうございました。

るるりら (2019-06-07):

×馬頭 〇罵倒 誤字でした。失礼しました。

survof (2019-06-07):

この「批評」文に関して言いたいことは上記二つのコメントでもう言いつくしました。私が批評対象であったなら、もっと怒っていたと思いますし、謝罪しろと粘着したかもしれません。でも筆者にはおそらく悪意はないんだと思います。私はその無意識(であると信じたい)の結果生じた「悪意」をこの「批評」の弱点として「酷評」したにすぎません。 私としても言いすぎた点がありました。それについては謝罪いたします。こんなことでやりとりが終わってしまうのはなんだか寂しいですので最後にDiving into the wreck を読んだ私の感想を書いて私はこれで終わりにします。 ---- Diving into the wreck wreckはおそらく"ship wreck"つまり難船のwreckで、「瓦礫」というより、海底に沈んだ破船に向かって潜るという詩で、また英語の"wreck"には船だけでなく人生などが大きく挫折すること、破滅することに対しても用いられる言葉かと思います。 Adrienne Richは"Diving into the wreck"のなかで、海に潜って破船を探索するという文字通りの"Diving into the wreck"(破船にむかって潜っていくこと)と、おそらく自分の人生が破滅に向かって突き進んでいること、もしくは忘れたいような過去の自分の辛い経験へと深く潜っていくこと、そういった比喩的な"Diving into the wreck"を重ねて書いています。 この作品はただ単にダイビングをするという詩ではない。作品全体に非常に痛切で不穏な緊張感に満ちており、同時に強い水圧(つまり自分を潰そうとする強い力)に抗おうとする力強い情感がこもっていて、それが読み人を震え上がらせるんです。海の色が青から緑に変わってそして最後に黒になり、そして作者はblack outして、そして作者は残骸と対面するんです。作中になんども登場する"damage"という単語が本当に辛い響きです。 "I came for: the wreck and not the story of the wreck"と何度か繰り返されています。「難船の物語を知るためにここに来たのではない。残骸のためだ」と語る作者は過去の自分の傷に向き合ってそれに対する闘いを宣言しているかのようです。おそらくこの"wreck"つまり破船の残骸は、癒えない心の傷が実体化したものです。作者が武装したような表現もそうした攻撃的な決意表明を暗示しているように思います。つまり過去のどうしようもない心の傷に向き合うために深く自身に沈潜し、目を背けたいような深い傷とあくまでも対峙していくんだ、喧嘩上等だ、私は絶対に押しつぶされない。という作品なんだと私は読みました。 なのでこの作品がこの「批評」に登場するのはこの「筆者」の文学論に照らせば必然です。 私はこのDiving into the wreck、完全に意味を把握できたとは思っていないですが、それでも、深く突き動かされます。なかなかこういう作品に出会うことはないです。 命を削って芸術に向き合った人、向き合わざるを得なかった人の作品っていうのは良くも悪くもとんでもないパワーを持っています。それは間違いないです。

survof (2019-06-07):

追記: 「the wreck」 と定冠詞付きなので「wreck」は特定の何かの隠喩

survof (2019-06-09):

Diving into the wreckは丁寧に読み直して見ましたが、上記のコメントにある感想は一回撤回します。 ポエトリー・リーディングの雰囲気に一気に持って行かれて、あまりきちんと読めていませんでした。 原文を丁寧に読んでみると、上記のように単純に語ることはできない、非常に深みのある作品でした。 訳あってここに再度コメントさせていただきます。

るるりら (2019-06-09):

了解させていただいて おります。 該当作品に出会えて よかったです。ほんとうに

渡辺八畳@祝儀敷 (2019-06-10):

作品を対象にした批評でなく、作者が持つ問いを紐解くための手段として他者の作品を使っている批評というのはビーレビにて珍しく、その点に関しては評価できるなと ただやはり、「永久に癒えない傷」なんちゅう抽象すぎる表現に逃げているのが致命的。なによそれ? ってなる。批評ならば具体的に示さねば。

るるりら (2019-06-10):

渡辺さん「永久に癒えない傷」て、謎ですね。なんでしょうね。 永遠に癒えないならば、とうぜん わたしの致命傷になり得る傷のはずですよね。まじ死なんと、嘘なんじやあないのかな? それを 晒せと、書いてあると 私は読めるなと 思いました。 むかしの話ですが、人様に見せもせず「永遠を凝視する眼球」と題して、なん年も同じテーマで書いてた時期が、私にはあります。親しい人に、きちがいじみてるって言われました。だから、そこそこの傷が、わたしにも ないわけでは、ないです。 でも 私は、そんな傷は癒えちゃいました。 永遠に癒えない傷を人間が得た場合は、ふつうは死にますよ。そんな あたりまえが おわかりにならないほどに、文学への憧れで思考が沸騰しておられたんじやあないかしらと私は感じています。 いま、じつは【永遠に癒えない傷】を モチーフにした自作詩を 書きあげました。でも 投稿するかしないかで 迷ってる段階です。 いまは、投稿をせずに とりあえず ほかのかたがたへのコメントなどを するつもりです。 このスレへコメントしてくださり ありがとうございます。

るるりら (2019-06-10):

できたら もう このスレは、サゲ方向の反応に なると いいなあと、個人的には おもっているところです。

渡辺八畳@祝儀敷 (2019-06-10):

しかしるるりらさんにも引っかかるところがありまして。 「永久に癒えない傷」が具体的に指すところはあえて問わずに話をすすめると、文章読む限り南雲氏がるるりら氏に求めているのは「『永久に癒えない傷』を作品に施せる能力」であると読める。つまりそれは詩作上のレトリックであって、現実のものでは決してない。痛々しい作品を作る人が現実でも傷ついている人かどうかは別であることと同じだ。中島みゆきとかさ。 まずsurvof氏がミスリードをしている。 >ここからあえて少しだけ論理を飛躍させて論点を要約すると と前置き入れつつも、 >・つまり、筆者の文学的渇望を満たすために、るるりらさんは容易に癒えないような心の傷を負う必要がある。 (あるいはそうした「深い傷」をわざわざ内面から掘り出してきて、作品にきちんと投影させる必要がある) と、南雲氏が意図していない「作者自身が負っている傷」という意味で話を進めてしまし、それに乗っかる形でるるりらさんは >あきらかに 小学生ではない書き手が 小学生時代の物語を語るとき、年齢を経た作者には癒えていない傷があるとは、お考えにはならないのですね? と書いてしまっている。そのせいで以降「永久に癒えない傷」は「作者の心的外傷」の意味で固定されてしまった。 そこはね、誤読だと思うんですよ。発端は南雲氏が抽象的に書いたのがまずかっただけですが、しかしだからといって見当違いな読解で話を進めてしまうのも咎めなけれいけない。

survof (2019-06-10):

渡辺八畳さん ご指摘のとおり意図的ミスリードです。この批評が容易に誤読されうる書き方になってしまっていることに対する批判です。 >つまりそれは詩作上のレトリックであって、現実のものでは決してない。痛々しい作品を作る人が現実でも傷ついている人かどうかは別であることと同じだ。中島みゆきとかさ。 これが筆者の意図であったかどうかですね。私はこうしたはっきりとした反論を筆者本人から期待していたのですが、筆者は「自分は誠実に書いたから文句があるなら運営にいってくれ」という姿勢でもって具体的な議論から逃げてしまった。 もし渡辺さんのおっしゃる上記の意図がこの批評の趣旨であったとするならば、それこそ、その部分を掘り下げて論じないとただの暴論になってしまう。 読み手のなかに「なるほど要するにこれはレトリックについての話なんだ・・・」と納得できるような土台作りすらこの評論は放棄しているので、渡辺さんがそのように読解すること自体、読みの可能性を広げるという一種の優しさに過ぎないと思うんです。 「おそらく悪気がない」と私が書いたのは渡辺さんと同じことを私も思ったのですが、この批評にそう読める要素があまりない、むしろ読み手のほうで必死にフォローしなければそう読めない。それは書かれた内容の性質上当然、指摘されて当然のことかと思いますし、るるりらさんの誤読も仕方がないと言えると思います。 つまりこの場合、(まあ、これも私のミスリード的レトリックなのですが)るるりらさんが派手に誤読して感情を害されたこと自体がこの「批評」に対する最大の「酷評」であるともいえるわけで、しかも筆者が反論を一切拒否している以上「見当違いな読解で話」が進んでしまうのはまあ必然ではないでしょうか? たとえ、筆者そのものの「批評」が致命的な弱点を抱えていたとはいえ、もし筆者が自分の主張を補強するために丁寧に反駁を重ねていたなら、むしろ、このテーマは深く意義深い議論に発展する可能性もあった訳です。初回の対応において筆者自身がわたしやるるりらさんのコメントを派手に誤読している、つまりその真意を掴み損ねているともいえます。そういう意味ではわたしのコメントの書き方がまずまずかったのかもしれない。 そういう意味においては非常に残念です。ただ、本投稿を通してまったく別のところで「詩」をめぶった議論が多少なりとも発展したのはとても有意義なことでした。ビーレビにおいては、やはり全員が投稿者ということもあり、酷評されれば多かれ少なかれ傷つきます。文学論も方法論もまちまちのなかで健全な議論というのはなかなか発展しにくい。やはり第三者の作品というのはそうしたしがらみから解放されるので、議論しやすいのではないでしょうか? それでも、やはり十分には発展しなかったのには私自身多少物足りなさを感じています。第三者の作品に対する議論もあの程度で終わってしまってのであれば、投稿者どうしの議論は馴れ合いに終わるか、もしくは感情的な物別れになってしまうかのどちらかで、仕方なく思うと同時になんというか、投稿掲示板における建設的な議論に限界を感じてしまったりもするのでした。 権威、権威といわれますが文壇、詩壇が機能するのはこうした一種の客観性を担保できている側面があるのではないかと最近は思っています。

るるりら (2019-06-10):

渡辺さん 誤読でも なんでも 良いでは? 彼自身は、このスレに書きこみをしないと言ったっきりです。 書きたければ、書けば 良いのですが、誤解があるとしても 誤解のままで 良いというのが、彼の判断であるならば、ここに 最終的に対処するのは、常に わたしって ことになります。しょうがありませんでしょ。 わたしたちは自身のいたらなさを 詫びつつ 議論をしてきました。 彼は、ご自分のいたらなさが きにくわないなら、カードを出せば良いと 私に言ってます。 わたしは、そんなこと いちども いうつもりは ありませんでした。 だから、問題は なにもないです。

南雲 安晴 (2019-06-15):

南雲より皆様へ。  私が書いたこの批評文が長い期間であれ短い期間であれビーレビのトップページに「人気の作品」として掲げられる資格を持つためには、一つの事が欠けています。  それは、私からの、るるりら氏への謝罪です。  それを私はここに書きます。  本批評文の中に、るるりら氏の気持ちや考えへの配慮を欠いた表現があり、それがるるりら氏を深く傷つけたことは消えない事実であり、このことについて、私はここにお詫び申し上げます。  なお、私には、少なくとも二つの課題が課されていることを、自身で認識しています。  一つは、「作品の中に永久に癒えない傷があること」という事とはいったい何なのかを明らかにすること、もう一つは、『Diving into the Wreck』を私がどう読んでいるのかを提出すること、です。  私は現在、後者の課題に全力で取り組んでいます。具体的に言えば、『『Diving into the Wreck』との対決』というタイトルの論文を書いています。大詩人の代表作との対決です。  できるだけ早くこの論文をビーレビに投稿できるように力を尽くしています。そのため、日々ビーレビに投稿される作品や批評文の数々を精読できない状態にあります。このことについて、どうかご理解ください。

鈴木 海飛 (2019-06-15):

僕はるるりらさんを可哀想と思うことがこのままでは可哀想なのでちょっと続けてみようかな。 批評ってのは花を大きくするために 余計な葉を切ることであれば、 今回は茎ごときっちゃった感じがあったで、まぁ、南雲さん‼️ドンマイ‼️あっはっは‼️ Breview全体で詩が未熟なのに、 批評だけは一流品であれ‼️なんておかしな話はありませんね。 ともに途上けっこうなことじゃありませんか。 だからるーるー、悲しんでばかりではなく、一度忘れて、他人の作品でも読むようにやってみたら? すこしだけ好意的な解釈があれば、 南雲さんの書いてあることは るるりらさんの批評というより るるりらさんの作品んを経たあとの 南雲さんの悩みという面が強い気がしますね。私にはそんな感じだよ。 私は渡辺さんの意見に近くって、一般的な目で見ると渡辺さんの意見が正鵠を得てるなぁと読んでて思いました。 「傷」というイメージにとらわれなければ 別の解釈をすればを「大人の読者に寄せた読み方」と読むことができるような気がします。 そらおそろしいは小学生の目線でも読めるけど ちょっと意味がわかんないと思う。 大人にも読めるけど、大人はこどもの見方に味方ではないからちょっと薄味って感じも気もする。そこは南雲さんも指摘していた。今回のそらおそろしいにはなんか塩が足らない。でもそこにるるりらさんの瞳があるような気もします。 いつもいつも濃いめの塩味じゃぁ、からだ壊しちゃうもんね。あはは。 濃い目のるるりらさんの作品を知っているので、そんな風におもいます。 ふふふ。濃い目のるるりらさんの作品を知りたいならみんな紹介するぜ‼️

鈴木 海飛 (2019-06-15):

あ、でもね。るるりらさん 大人の意味をもたせるだけに限定なんてことじゃありませんよ。 もちろん、それを含むこと+子供が読んで意味はわからなくとも口ずさみそうな詩がかけちゃったら、あなた‼️あっはっは‼️それってね。 スーパー凄詩人だと思うんだなぁ。

るるりら (2019-06-16):

●南雲 安晴 さんへ  謝罪を受け取りました。お書きになっていること すべて承知しました。   ●鈴木 海飛 さんへ 「るるりらさんの作品んを経たあとの 南雲さんの悩みという面が強い気がしますね。私にはそんな感じだよ。」 そうでしょうね。南雲さんには気の毒なことをしました。南雲さん、ごめんなさいね。出血大サービスをイタイ意味で おこないました。  鈴木 海飛 さんのコメントで有難かったのは、 「そらおそろしい」自体に むきあってくれたことです。 私自身もそうだから自業自得なのですが、この批評スレで 「そらおそろしい」に語られている割合は とても少ないので、貴重です。本編では好意的な評もあるのにお礼も言えていないので、嬉しいついでに お礼を書いておきます。本編で誉めてくださった みなさま ありがとうございます。 この詩について発言できて嬉しいです。海飛 さん、塩味がうすすぎましたか?塩味は人によって好みが分かれるだけでなく その人の体調にもよりますし、難しいですね。 わたしは人様にいわれて自身の詩を改訂することが たまに あります。この詩も変えたものも提出しています。しかし↓の箇所は変える気の全くない箇所です。この文言は わたしの脳内でいつでも生の状態でとりだせる貴重な声なんです。 >おまえんちの家の前の空き地に >むかし なまくびが ならべられとったんど >じゃけえ おまえんち のろわれとるんじゃ けけけ この箇所のことを、南雲 安晴さんによって本編で二度の指摘を受けました。 二度目は お気に召すような形に書き換えを行いました。そして、でもやっぱり 「なまくび」という不快な語はあるのでした。南雲さんからしたら お嫌いな語をなんども読むはめとなりました。そして「なまくび」という語のことを「もはや消耗品。」という批判を 受けたのかもしれません。  わたしは、身内の死をたてつづけに 経験したことがあります。気が狂いそうでした。でも、私の脳には 私に自身に危機がきたら危機を脱出する機構があるのです。機構がオンになると、 >むかし なまくびが ならべられとったんど >じゃけえ おまえんち のろわれとるんじゃ けけけ というフレーズがオートマチックに脳内で再生されるのです。そしてミラクルがおきるのです。私の脳内が瞬時に とても若くなるのです。そして、いつも危機を脱出する私がいるのでした。 今回はどうやら、脳内で 若返りスイッチの連打が起きました。 こどもになりました。すると、泣くもんです。悲しがるのはしょうがないことです。 みなさまを大人と見込んで お願いします。わたしのことを、ゆるしてやってくださいませ。おぎゃあと るるりらが うまれちまったねぇくらいのハピネスだと どうぞ受け止めてやってください。 わたしは、フォーラムで 私をかわいそうに思うなら このスレ以外のスレに 善を投入してほしいという みっともない呼びかけをしているところです。 だからもう このスレは、当分  南雲さん以外は書かないでほしいです。このスレは彼のスレですから わたしは彼にスレの主導権をお返しします。(深々と礼)

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