砂場均し - B-REVIEW
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「中央公園より」

わかりあえなくたっていい

人種、国籍、性別、年齢、人間同士のわかりあえないディスタンス、そんなことよりも、おたがいに笑っていよう、ここはみんなの公園だから——

沙一

わたしの髪は生きているのか……

心を亡くしてしまいそうなときに

ささやかなお洒落をたのしむ、それは自分が自分であることをわすれないために、ひつようだったのかもしれない——

沙一

angel coffee?……

一瞬と、永遠

幸せなコーヒーと、降りやまない雨、好きな人といるとき、あなたならどちらを選びたいですか?

沙一

食べ物と死ぬ人

目が付いているうちに読みたまえ諸君

傑作。 目が付いているうちに読みたまえ、諸君。他に言うべきことはない。

石村利勝

別れ

余りにも挑戦的、だがそれがいい

数ある一行詩の中でも、想像力/表現力がとても高い作品。最初は(え、これだけ?)と感じることだろう。しかし、これだけ?からの作中世界の広がり方は、これだけ?発言が恥ずかしくなるほど広すぎるのだ。

ふじりゅう

ママンへ

散り際にも見えるママンの後ろ姿

無駄なくそつなく、それでいて大胆にママンに語りかける。「ママンへ」あなたはこの書き出しで何を思い、連ねますか?

stereotype2085

名残の雪

美しいと思える作品だった

美しい空間を、踏む。踏むことで、汚す。踏むことで汚す、明示のされない寂しさ。本作にとって、雪を踏む行為、それだけが個の存在の証明なのだ。

ふじりゅう

例えば鳥の教え

色が付いたばかりの映画のように

情景の転調あるいは繋がりが「色彩」を基調にして、境界をあいまいにしながら広がる。

鈴木歯車

おかあさん

史上最強のタイトル回収

本文たったの6行、造作もなく読み切れ、詩人よ。 そして再度タイトルを見返し驚愕せよ、詩人よ。

さ、さ、さ、

空なんか見てんじゃないよ

淘汰

この詩はあるタイプの詩と詩人を淘汰するべく書かれている と言えば言い過ぎか。 要注目。

stereotype2085

はずしわすれた風鈴が鳴る

やさしくせつない短歌集

かたづけられない想い出、それでもめぐりくる季節——

沙一

春風に吹かれてる

だいじょうぶだあ

《なんてこたあ ないんだよ》 天国から呼びかける声が、聴こえる。

stereotype2085

永遠の反射

名作?それともただの習作?

ただの習作なのかもしれない。が、ここには作者当人も気付いていないかもしれない、天才がいる。俺の直観は当たるんだよ。人生で二回くらいは。

石村利勝

こんにちは まっさらな世界

「まっさら」の優れた表現

あなたの世界も「まっさら」ではないかな? 「まっさら」なのに、書けますか?

南雲 安晴

imagine

パンチング。

今からリーディング界隈を、ノックアウト。

stereotype2085

はっかといちご

詩における視覚要素の決定版

いわゆる視覚詩的なものは作ろうとするとパッと見の奇抜さで満足してしまい、それを行った理由に乏しくなってしまうことが往々にある。しかし「はっかといちご」はその域を超え、結晶の造形だからそこの効果を成せている。

渡辺八畳

独言少女

いつも終電に間に合う人生生きてますか

少女の独言は胸に刺さる。というか萌える。条件があって、少女は本当に少女でなくてはならず独言は本当に独言でなくてはならない。なのでこの詩は刺さるし萌える。

石村利勝

MY 9090 OF NO……

最先端ノスタルジア

なつかしみが 超えてゆく 未来という名のノスタルジイ 

真清水るる

骸骨スフィア

プラトニックな求愛の舞踏

ほろびたゆえに、もうほろびることのない、永遠の愛。それは、幸せか、囚われか——

沙一

人魚性

海、たましいの故郷

素直さゆえに、なじめない人間のせかいにたいする、異邦のかんかく——

沙一

宇宙飛行士の解剖

死因は、孤独

二重の夜に、追い詰められた、かれは、涯のない闇のなか、吊るされた——

沙一

家庭の檄文

悲運

そこには笑顔の絶えない、家庭があった。

stereotype2085

あす

ミのシャープはファ

「ミのシャープ/響かせる笹舟にのせて/送り出してみる」って、やりますねえ。ひねりが利いてて鮮やか軽やか、清新なリリシズム。これぞ令和の”もののあはれ”じゃないですか?

石村利勝

バナナはおやつに入りますか

たもつワールド全開

これはバナナですか いいえ詩です たもつザ・ワールドです

羽田恭

TOKYO

不良天使の幻像

広大さと、小さなもの、神聖さと、世俗的なものの、コントラストに富んだミニチュア——

沙一

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砂場均し    

駅へ行く途中に、小さな公園がある。川辺の公園である。 仕事の日、晴れた朝ならだいたい私はこの公園に立ち寄る。 目覚めたばかりの遊具たちは黙していて、 少し前日の疲れが残っているように見える。 今では、私の他に同じ時間にこの公園にいる人はいないが、 かつて他に見かける人がたった一人いた。 砂場でいつも同じおばさんが、 熊手を使って静かに砂を均していたのである。 その所作はどこか農作業に似ていた。 また絵画的でもあった。 前の日子どもたちが掘ったり盛ったりして作った国は平和裡に滅んだ。 でも昼になればまたいつも子どもたちがこの砂場に来て小さな国を作り直すのである。 そして私はいつもこの砂場のそばを黙って過ぎて、 細い川の川岸に下りて行ったものだったし、 今もそれは変わらない。 人が憩うことができるように整えられた護岸の階段に腰を下ろし、 一方向に波もなく緩やかに流れる朝の水の面を見つめる。 時々何か沈まなかった無力な物が、 川面に浮かんで流れているのを見る。 電車が走る音が見えない所から聞こえる。 私は立ち上がり、 再び公園に足を向ける。 公園に戻った時には砂場のおばさんはもういなくなっているのが常だった。 そして今ではもちろんいない。 そうして私は公園を去り駅へ行く。 何か月前か、 或る朝、 雨が激しく降っていたけれども、 私はこの公園に寄ったのだった。 他に誰もいなかった、砂場を均すあのおばさんの他には! 遊具たちは濡れそぼって、 今日は休みだと見込んでいる様子だった。 雨のせいで音を立てる傘を差し、 私は砂場に近づいた。 砂場の近くに立ち、 ところどころに茶色く濁った水溜まりのできている砂場を見た。 おばさんは青いレインコートを着、長靴を履いて熊手を持ち、 その砂場の中に立っていた! 子どもたちが作った国をその朝も滅ぼし、 濁った水溜まりの中に踏んでいた。 そしてなんと、私は大きな声でおばさんに話しかけたのである! 「毎朝砂場を均していますね」 おばさんは私に聞こえる声で答えた、 「はい」 「どうしてですか?」 「ゴミを取り除くのと、砂が固まってしまわないようにですよ」 「こんな雨の日にもですか?」 「はい」 そして続けて言った、 「雨が砂を固めてしまわないようにですよ」 「雨が止んでからでもいいんじゃないですか?」 「そうですね。雨が止んでからも均しますよ。 でも私は毎朝この時刻に均すことに決めているんです。 明日またこの時刻に均しに来ます。天気がどうであれ」 「そうなんですね」 私は頷き、 それから、 「では」と言って川の様子を見に行くためにその場を去ろうとすると、 おばさんが訊いてきたのである。 「なぜ毎朝ここに来るのですか?」 私は答えた、 「いえいえ悪い夢を忘れるための、 現実を確かめるための散歩ですよ」 「悪い夢ですか。毎日見るのですか?」 「はい」 「まあ。大変ですね」 「そうなんです」 おばさんも頷いた。 会話は終わり、 私は川の方に向かった。 川は増水し、 護岸の階段は激しい流れの中に没していた。 私は進むことができず、 また公園に戻る気にもなれず、 そのまま近道をして駅へと歩いて行った。 次の日の朝、 私は例の時間に公園に立ち寄った。 雨は上がっていて燦々と日が差し、 木々の葉や草や地面や遊具たちやその他何でもないものたちが光り輝いていた。 しかしあのおばさんの姿はなかったのである。 私は緑色のネットでカバーされた砂場の縁に立ち、 ネットの下のなだらかな黒い砂の荒地を見つめた。 そしてあのおばさんはどうしたのだろう、 今日また来ると言っていたのに、 と首を傾げた。 ちょっと不審に思う気持ちを抱えたまま、 私は川岸へと下りて行った。 川の流れは茶色く濁り、まだ深く重々しく速かった。 私は護岸の高い所に立ち、 その流れを見つめた。 日の光はぎらぎらと川の面に降り注いでそのまま水流に乗って流されて行くようで、 水底を照らすことはなかった。 私はなぜか、水にかつえ、雨を愛する国を流れる川のことを思った。 公園に戻ろうと思って一歩踏み出したが、 おばさんがいないのなら戻っても意味がないというような今までになかった考えが浮かんで、 前日のようにその足で近道をして駅に向かった。 それから次の日の朝まで、私はおばさんのことを考えなかった。 その朝、いつものように公園に向かって歩いている最中に、やっと思い出したのである、 あのおばさんは来ているだろうか、と。 しかし公園に着くと、またあのおばさんの姿はなかった。 私は、世界が少し変わったな、と感じた。 そして、またか、と思った。 あの雨の日以後、私はあのおばさんを見かけていない。 私はこういうことにそれほど怪奇を感じる人間ではないから、 あのおばさんが死んでしまったのだとか、 事故や事件に遭ったのだとか、 あのおばさんの姿はもともと亡霊だったのだ、などと想像したりはしない。 ただ私は、あのおばさんと言葉を交わした。 だから現実的に何かしら物語は始まりそうだったのだ、 私の実人生の一部を支配するであろう少なくとも一幕の物語が。 なのにその可能性は突如消えてしまった。 物語は一幕に満たなかった。 いつもそうだ、私は! 英語教室を辞めたことを思い出した。 スイミングクラブを辞めたことを思い出した。 陸上部を辞めたことを思い出した。 美術部を辞めたことを思い出した。 高校を辞めたことを思い出した。 会社を辞めたことを思い出した。 急に終わった古い恋や友好を思い出した。 私は何についても続かない人間なのだ。 そうして得るものはいつも孤独というもので、これだけが続くわけだ。 私には物語が欠けている。 物語が欲しい。 成し遂げることのできなかった数々の事柄を、もう一度やり直して最後まで行きたい。 私が毎夜見る悪夢は、たいていこういうやり直しをする夢である。 そして常に失敗して目が覚める。 こんな悪夢を忘れるために、今朝も私は公園に寄った。 砂場は変わらずそこに存在し、 あのおばさんのいない今も正常に役目を果たしている、 つまりそこに毎日子どもたちが思い思いの世界を作っている。 緑色のネットでカバーされたでこぼこの砂場のそばを通り過ぎて、 川の流れを見に行く。 「天気がどうであれ」と言ったあのおばさんの言葉が蘇る。 水の豊かな国、水にかつえた国、様々であろう。 私たち人間は、土を分かち合い、空を分かち合い、海を分かち合い、言語を、心を、性を分かち合っている。 何がどうであれ、それが定めなのだろう。 目の前の細い川の澱みない流れに、定めというものを見て取る。 そしてあの白い漂流物は何だ? 永久というものに乗ってどこまでも行ける幸福なものだと思う。 あのおばさんもあのように私の視界に入り、やがて見えなくなった。 続くものと続かないもの、 永久であるものと滅ぶもの、 物語と私。 私は物語が欲しい。 見えない所から電車の走る音が聞こえ、 私は川岸を去り、 公園に戻ってから駅へと向かう。 私は私の砂場に出発するのである、 子どもたちが毎日飽かず砂場に行くように。 そんな毎日を、私は、今度こそ自分の完成する物語になるのだと信じ、 同時に私自身川の面を流れて時に誰かに見られては行ってしまう漂流物なのだと、 考えながら、孤独な生を、生きる。


作成日時 2019-04-19
コメント日時 2019-04-26

砂場均し ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 11
P V 数 : 1744.4
お気に入り数: 0
ポイント数 : 9
#テキスト #酷評OK
項目全期間(2020/07/05現在)投稿後10日間
叙情性11
前衛性00
可読性11
エンタメ00
技巧33
音韻00
構成44
総合ポイント99
 平均値  中央値 
叙情性0.30
前衛性00
可読性0.30
 エンタメ00
技巧0.80.5
音韻00
構成11
総合2.32
閲覧指数:1744.4
2020/07/05 03時25分32秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
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    作品に書かれた推薦文

砂場均し コメントセクション


コメント数(11)
なゆた創a.k.a.NORANEKO (2019-04-19):

寸評ながら雑感を。 美文によるフレーズの快楽を極力抑制しながら詩文全体の構成で面白く読ませているところが良いと思いました。 詩人さんでこの方を参考にされる方がいらっしゃるなら、とくに構成力に着目して読むとかなり得るところのある作品だと思います。 ありがとうございます。

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南雲 安晴 (2019-04-20):

なゆた創a.k.a.NORANEKO様、コメントありがとうございます。 この拙作の構成は、結果的にできあがったものでして、初め、私は、写生文として書き始めたのでした。そのうちに日頃思っていたこと、考えていたことが入り込んできて、筆を進めていったところ、このようにまとまりました。 書くということは、自然、なんらかの構成を書き手に求めてくるものなのでしょう。 また「美文によるフレーズの快楽を極力抑制しながら」と指摘されました。 私は他の方々がしていることを避けて書こうとした結果、作中に見られるように、平明な表現をすることになりました。 ありがとうございました。

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せいろん (2019-04-21):

とても楽しんで読ませて頂きました。 話の展開や奥深さも効いていて、読みやすいのがいいですね。 「!」の使い方が上手いなあ、と思いました。

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南雲 安晴 (2019-04-22):

せいろん様、コメントありがとうございます。  楽しんでいただいて、うれしいです。この作品を書いている時、私の胸には、「自由に書けばいいんだ!」という思いと、「はたして受け入れられるだろうか?」という心配の気持ちの両方がありましたので。まあ、誰でもこれは同じで、当たり前のことかもしれませんが。  書くということは大変なことですね。疲れましたよ。 「!」の記号を何か所かに使いましたが、これも、「これでいいのか?」と心配でした。「詩文を力強いものにするのに、この記号に安易に頼っていいのだろうか?」と。余計には使用しなかったつもりです。  ともかくも、読んでいただけたこと、これだけで非常な喜びを感じます。酷評も待っています。ありがとうございました。

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るるりら (2019-04-23):

こんにちは。 この長文詩を たった一言で、表現するなら「浮生」という言葉だと思いました。 浮いているモノのように儚いのが人の生というものだという考え方があると聞いていたからです。 中年の女性が砂場を毎日整えている様子から、話し手は なにかしら心が救われるかもしけないと思い、彼女に また会いたいと思うが 彼女は来なかった。孤独だ。という思いを読み取りました。 私は女性ですので、話し手よりも 中年の女性に惹かれました。私はむかし、知らない土地で生活していたころに 親切に家でのランチなどに誘ってくれていた女性が、砂場を整えていたのを思い出しました。彼女の場合は、腰が痛くなったので、公園での砂場の掃除は辞めたと言ってました。 本題に戻ります。話し手は、中年の女性が 公園に来なかったことをきっかけに、過去のに継続できなかった事柄を思い出して、自分を悔います。!英語教室、スイミングクラブ 陸上部、美術部。高校。会社。恋。友人。 わからなかったのは、公園の掃除を毎日するといっていた 中年女性が それを止めたことで、あらたなストーリーが始まらなかったといって、なぜ そんなに後悔の事柄を連想できるのかが、私には分かりませんでした。 その中年女性は その女性の理由があって、来なくなったのであって、話し手は公園に来ているから 行動は継続している。なのに、なぜ 継続できなかった事柄を列挙して後悔を再燃できるのかが、私には分かりませんでした。 最初に言いましたが、私は この長文詩を たった一言で、表現するなら「浮生」という言葉だと思いました。主人公が主導権をにぎって決断した事柄と、出会って日が浅い見ず知らずの女性が主導権をもって選択した事柄とを いっしょにして後悔しているのは、よくわかりませんでした。 しかし。文章に対する並々ならぬ熱量を感じさせていただけた点は、すばらしかったです。

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南雲 安晴 (2019-04-24):

るるりら様、コメントありがとうございます。  今、こんなに早くに目が覚めてしまいました(4:30)。『砂場均し』の話し手と同じように、『悪い夢』を見ました。  まずは、るるりら様が分からなかったことを私が理解し、そしてもう一度私の思いを言ってみようと思います。  るるりら様は、あの中年女性が現れなくなったことが話し手が過去を悔いるきっかけであると解していると思われます。  しかし私は話し手が自分の過去を気にしているのは日常のことであるように書いたつもりです。 >「悪い夢ですか。毎日見るのですか?」 >「はい」  このあたりです。あらかじめ、話し手には自分の過去に負い目があったのです。その上に、 >しかし公園に着くと、またあのおばさんの姿はなかった。 >私は、世界が少し変わったな、と感じた。 >そして、またか、と思った。  という事態がかぶさってくるわけです。ちょっと話し手の神経は鋭敏過ぎると思われるかもしれませんが、これは私自身の本当の神経を描きました。  また、るるりら様が『主導権』という語で言い表していること、これは己の『意思』というものだと思われます。私は次のように書きました。 >時々何か沈まなかった無力なものが、  という箇所です。  人の『意思』は『永久』『定め』の中にあってなんと頼りない、無力なものであろうかという私の感想を書いてみました。  ただ、あの『辞めた』ことを列挙した箇所は強く己の『主導権』を読み手に感受させる書き方であったと私も今、思っています。ここは、『恋』のことを主に想定して読んでいただきたい。己の『意思』がうまく通らない事柄としてです。他の事柄にしても、己の『意思』だけで決定付けられるものだけではなく、『定め』が大いに働いている場合があるものです。  この私の作『砂場均し』は長いです。忍耐強く読んでくださったことに感謝申し上げます。  るるりら様は、私の文章に対する熱情について言っておられます。  雑談を少し。  私はかつて特にJoseph Conradの文章に学んだところが多く、この作家を敬愛しています。この人の文章は、小説というより詩であるように読めます。  青春時代に岩波文庫の中野好夫訳『闇の奥』を読み、今もこの作家の文章へのあこがれは一通りのものではないです。『闇の奥』『青春』は原文で読み通し、『ノストローモ』も原文で半分まで読みました。中野好夫の本も持っています。素人にしてはけっこうがんばっていると言えるのではないでしょうか。  もちろんあまりこの人だけというふうに強調するのも誤るもとでしょう。他にもあれこれ読んでいます。そして、あれこれ読んで勉強したからといって何かが書けるわけでもないのが創作の世界です。大変ですね。雑談の方が長くなりそうです。るるりら様のコメントに対する返信として不足があったとしたらまたご指摘ください。ありがとうございました。 

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真清水るる (2019-04-24):

丁寧な返信。ありがとうございました。

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survof (2019-04-24):

村上春樹がとにかく読みにくくて、話の導入で読むのをやめてしまうような私の感想なので、もしかしたらずいぶん的はずれかもしれませんが・・・ とても冗長な作品なのに冗長さを活かしきれてないように感じました。おばさんとの会話のエピソードをもっと磨けばかなり深みがでたはずなのに勿体無い使い方に感じます。その会話部分もどこか不自然というか、会話としてはもちろん不自然なところはどこもないのですけど、会話部分のリズムが文章としてはあまりよくはないのに、そのぎこちなさがあまり効いてこないばかりか、語り手があまりにいろいろと観念的なことを説明しすぎるせいで読み手の想像力も次々に奪われていくので、文章が続けば続くほど作品の情景がどんどん死んでいくのがとても勿体無いな、というのが率直な感想です。 あと内容について突っ込むとすると >私には物語が欠けている。 >物語が欲しい。 いやいや、「何を初めてもまったく続かなかったっていう物語がきちんとあるじゃん!」って思わず激しく突っ込んでしまいました。それを「私には物語がない」と感傷にふける感受性を私は個人的にはあまり好きにはなれないっていうのは勿論あるんですが、「自分が欲しい物語」が手に入らなかっただけで物語がないわけではないと思うんですよ。だってこうやって長々と「物語が欲しい」って語っているこれ自体が一つの物語じゃないですか?なんか満たされない気持ちを抱えて、詩とか書いちゃうセンチメンタルな人生の物語がいままさにこの掲示板上にあるじゃないですか?そこに切り込んで欲しかったなあ、、というのは個人的なわがままですが、あるいはあえてその多重構造を用意したというのであれば、もっとこの「皮肉」に自覚的であることを鋭く示した表現が欲しかったです。 例えば >続くものと続かないもの、 の対比が一つ作品の軸になっているように思えます。 何を初めても続かなかったと嘆く語り手は自分には「物語がない」といい、つまり、「続くもの」を「物語」と暗に定義しているとするなら >そうして得るものはいつも孤独というもので、これだけが続くわけだ。 これは自分には「孤独」という「物語」があるとも読めますし、実際作者はこれを一つの物語としてここに提示しているわけで「物語」という言葉を巡る面白い循環が発生しかけていて、そういったある種のロジックの自己矛盾や「意味」の自己言及的循環にさらに言及すれば観念的思索に深みも増したかもしれないと思うのですが、そこのところでただ「孤独」という言葉に酔って終わってしまっているように感じられるところが非常に勿体無いと思いました。 あとこの作品においては改行はむしろ読みにくさを増長させているように思います。改行させてひとつひとつ味わうほどのものを感じることはできなかったし、改行によって特別効果的なリズムが生まれているわけでもないように感じるので、いっそ改行なしの散文の形式にしたほうがむしろ可読性も高まる上に、もしかしたらこの冗長さもいきてくるのではないかな、という気もしなくはないです。 もしかしたら書き手と読み手の感受性が違いすぎるのが原因で酷評しすぎたかもしれません。私の読解力不足によるところも多々あるかとは思いますが、結構長い分量のものをせっかく読んだのでコメントさせていただくことにしました。

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南雲 安晴 (2019-04-25):

survof様、コメントありがとうございます。  survof様への返信は、三つ題目を立てて、それらの中でものを語るというやり方でおこないたいと思います。 〈諸作家のこと〉  survof様はコメントを村上春樹という言葉で開始しておられます。私はこの作家の作品をいくつか途中で投げ出さずに最後まで読みました。いいな、とか、おもしろい、とか、そんな感想は持ちませんでした。ただみんなが読んでいるから、知っておくべきかなと思い、読んだに過ぎません。そうして読後、読みましたよ、という自己満足にひたっただけでした。  私は大学入学のために上京してきて、新しく知り合った人たちがだいたい熱っぽく村上春樹のことを好きだと言って語ることに驚きました。私はあの18歳の時点ではこの作家のものを読んでいなかったし、読むべき大作家だとも思っていなかったし、私の故郷では誰も読んでいる様子はありませんでした。なのに、東京、神奈川、千葉、埼玉の人たちがまるで古典のことを言うように村上春樹の名を出して語ったのでした。本当に驚きました。  今のところ、私が読めないのは、触れた限りでは、そして世間的にメジャーと思われる限りの作家では、森鴎外、太宰治、谷崎潤一郎、三島由紀夫などです。こんなことを言っては、ファンにまた突っ込まれるでしょうけれど、あえて言います。この人たちの作品はスカスカです。多くの現代作家の作品と同じように。  作家たちについて会話して楽しもうと思えばきりがないし、survof様のコメントに対する返信としては眼目とならないと思いますので、この辺でやめます。挿話として聞き流してください。 〈『砂場均し』の文体について〉  冗長という言葉は、批評文の中によく登場する言葉で、私はいつも他人の作品を批評する時、使用を避けています。嫌いなのです。冗長だと言ってみたところで、何か言った気になれないのです。  長ったらしいものや説明的なものの中に一つ二つ輝く語句や内容的なものや感性的な色合いがあれば、私はそれで喜ぶことができます。  拙作『砂場均し』の中にそういうものがなかったでしょうか。survof様にこのように多く、長くコメントを書いていただけたことは、私にとっては一つ良いポイントをいただいたことになり、うれしいのですが。  ちょっと逸れそうになりました。形の話をしましょう。  驚かれるかと思いますが、私はこれでも短く書いたつもりです。そしてその限られた長さの作中で読む人が飽きないように次々と情景や感情を変化させたつもりです。このことは一部的にはsurvof様にも了解されているようです。ですがそれを『文章が続けば続くほど作品の情景がどんどん死んでいく』と言われています。展開が生み出す効果に対する私の考えとsurvof様の考えが違うことをあらわしているようです。  もし、あれ以上、会話の部分が長くなっていたら、それこそ読もうとしてくれていた人は先を読むことをやめていただろうと私には思われます。  もっと違う場面を次々に見せて欲しいと願う人に向けて私は創造したつもりなのですが。  それから、リズムという問題を取り上げましょう。私は会話部分の制作にあたっては、リズムよりは内容を、契約書でも作るように漏れなく記述することに努めました。なので、リズムがよくないと言われても仕方ないです。そしてこの契約書作成的な態度は、作品全体に通じているように私自身にも思われます。  ならば改行はなぜおこなったのか、と問われるでしょう。私はここに至っても、やはりまだ、歌うように読んでいただけたらいいな、という望みを捨てきれなかったのです。散文小説のような書き方をすれば、視覚的に煩わしいでしょう。読む人の視界を文字でいっぱいにしたくなかった、そんな思いを汲み取っていただければいいのですが。 〈孤独と物語〉  ここに立てた問題は、私も自問に尽きることがありません。  作中の語り手は、確かに語ることができています。  書いた文字にも明らかに矛盾があらわれています。  曰く、 >私は何についても続かない人間なのだ。 >そうして得るものはいつも孤独というもので、これだけが続くわけだ。  孤独が続いているのだから、それは物語ではないのか、と。  書き方におかしなものが見られることを私は認めます。それはここまででお許しください。もう修正できません。  しかし考えることはやめるべきではないので論を続けましょう。  孤独とはどんなものだろうか。私は永久の「点」のように延長の可能性を持たないものだと考えます。物語は延長するものですが、孤独は延長しないものであると考えます。  孤独は恐ろしいものです。誰とも言葉を交わすことなく、自分に話しかけているうちに言葉すら忘れてしまうような境地です。  私は孤独をここに示したように詩文に取り上げることで、本当に孤独に陥っている寂し過ぎるたくさんの人たちに復活しようとする気概を注ぎたかった。  中には孤独の体験者となれない幸せな人もいます。そういう人たちには孤独は決して分からない。想像では決して分からない。  この『砂場均し』は、孤独の体験者、孤独から脱却している過程にある者、そういう者としての私からの、真に孤独に苦しんでいる人への主観的なメッセージの詩でもあるのです。  朝の短い時間を使ってここまで書きました。急ぎすぎた論の運びが見られるかもしれません。survof様のコメントを誤読している可能性もあります。が、今はここまででお許しください。手間でなければこの返信への返信をしてくださってもよいです。  なかなか長い『砂場均し』をお読みいただき、さらにあんなに細かく論評してくださりありがとうございました。

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survof (2019-04-25):

丁寧にご返信ありがとうございます! 〈諸作家のこと〉 村上春樹はひとつも読みきっていないのでそれを愛読しているひとたちについては一言もコメントできません。谷崎は「細雪」「春琴抄」だけですが読みました。太宰は最近すごくはまってたくさんよんでます。どちらも好きです。たしかに空っぽかもしれません。でもだからいいんです。あと川端康成の空っぽさも好きです。昔から残っている俳句や短歌も同じ意味でみんな空っぽです。空っぽを脱却しようとしている現代の短歌や俳句はとてもじゃないですが読めません。日本人でよかったな、、と思えるのはうまいおにぎりと味噌汁とうどんを食っているときと、こういう「空っぽな」日本文学を読んでいる時です。現代の作家の空っぽ加減とは違うと思うのですが、そこはもしかしたら私自身の感性にどこかアナクロなところがあって、こうした日本文学の大家の作品に見られる古き日本の雰囲気にほだされているだけなのかもしれません。というかおそらく文学に対する基本的な感受性に私とは大きな隔たりがあるように感じました。私はおそらく南雲さんが愛読されるようなもの(実例がないのでわかりませんが)はとても読めないんじゃないか、という気がしてきました。その点認識できたのでこの話題は意味があったと思います。 ついでにいうと私は町田康の初期作品が大好きです。ああダメだこいつ、っておもったら私の感想はすべてスルーしてください、笑 〈『砂場均し』の文体について〉 >冗長という言葉は、批評文の中によく登場する言葉で、私はいつも他人の作品を批評する時、使用を避けています。嫌いなのです。冗長だと言ってみたところで、何か言った気になれないのです。 とても便利な言葉なので私は大好きな言葉です。要するにどうとでもその意味するところを変えられる便利な言葉です。そういう空っぽな日本語が私は大好きです。 >長ったらしいものや説明的なものの中に一つ二つ輝く語句や内容的なものや感性的な色合いがあれば、私はそれで喜ぶことができます。 私はさらにそこに視点や感性の鋭さを求めます。日本のスカスカな大家の小説家はこの点で稀有のものをもっていると感じます。 せっかく輝く語句や感性的な色合いがあっても長ったらしい説明がそれを殺していては文章として失敗だと私は思うのです。あるいは長ったらしい説明自体がそうした感性の表現である場合は面白いと感じます。自分を晒して傷を舐め合う場所なら必ずしもそうではないかもしれませんが・・・ >私は会話部分の制作にあたっては、リズムよりは内容を、契約書でも作るように漏れなく記述することに努めました それがうまく機能すれば面白いと思います! 〈孤独と物語〉 この点に関しては正直にいうと私は南雲のおっしゃるところの孤独というものをおそらく知りません。これについては私がこれ以上何かを述べたところで、南雲さんと同じように孤独を感じている方々を深く傷つけるだけのような気がするのでやめておきます。 私も急ぎで書いたので、もろもろ酌量していただければ幸いです。

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南雲 安晴 (2019-04-26):

survof様、返信への返信ありがとうございました。  スカスカ、空っぽということがどういうことを意味するのかについてもsurvof様と私とは思いの一致ができていないように感じました。  川端は、私も、単に読めると言うのを超えて、好きです。  町田康ですか。読んでみようかな。  過去に私が読んだ中では、日本のものでは、武田泰淳の短篇群、大岡昇平の戦争体験から出た文、石川淳の短篇群、古今和歌集、うつほ物語の一部などがインパクトありました。  今は日本永代蔵の現代語訳をちびりちびり読んで楽しんでいます。 『砂場均し』の文体と孤独についてはどうなんでしょうね。  この作品は私に大なる疲労と苦痛をもたらしました。今もそれは消えません。  早く次の制作に移りたいと感じています。    返信への返信への返信となってしまいました。これで終わりとしましょう。次の制作へと前進するために、ちょっと書き加えたかっただけです。

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