『ソナチネ』から - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

パパの日曜日

しがない日常に飽きてしまったすべての人へ

ごく平凡な日曜日のパパが、壮大で絢爛豪華な世界へ旅立つ——

沙一

「中央公園より」

わかりあえなくたっていい

人種、国籍、性別、年齢、人間同士のわかりあえないディスタンス、そんなことよりも、おたがいに笑っていよう、ここはみんなの公園だから——

沙一

わたしの髪は生きているのか……

心を亡くしてしまいそうなときに

ささやかなお洒落をたのしむ、それは自分が自分であることをわすれないために、ひつようだったのかもしれない——

沙一

angel coffee?……

一瞬と、永遠

幸せなコーヒーと、降りやまない雨、好きな人といるとき、あなたならどちらを選びたいですか?

沙一

食べ物と死ぬ人

目が付いているうちに読みたまえ諸君

傑作。 目が付いているうちに読みたまえ、諸君。他に言うべきことはない。

石村利勝

別れ

余りにも挑戦的、だがそれがいい

数ある一行詩の中でも、想像力/表現力がとても高い作品。最初は(え、これだけ?)と感じることだろう。しかし、これだけ?からの作中世界の広がり方は、これだけ?発言が恥ずかしくなるほど広すぎるのだ。

ふじりゅう

ママンへ

散り際にも見えるママンの後ろ姿

無駄なくそつなく、それでいて大胆にママンに語りかける。「ママンへ」あなたはこの書き出しで何を思い、連ねますか?

stereotype2085

名残の雪

美しいと思える作品だった

美しい空間を、踏む。踏むことで、汚す。踏むことで汚す、明示のされない寂しさ。本作にとって、雪を踏む行為、それだけが個の存在の証明なのだ。

ふじりゅう

例えば鳥の教え

色が付いたばかりの映画のように

情景の転調あるいは繋がりが「色彩」を基調にして、境界をあいまいにしながら広がる。

鈴木歯車

おかあさん

史上最強のタイトル回収

本文たったの6行、造作もなく読み切れ、詩人よ。 そして再度タイトルを見返し驚愕せよ、詩人よ。

name

空なんか見てんじゃないよ

淘汰

この詩はあるタイプの詩と詩人を淘汰するべく書かれている と言えば言い過ぎか。 要注目。

stereotype2085

はずしわすれた風鈴が鳴る

やさしくせつない短歌集

かたづけられない想い出、それでもめぐりくる季節——

沙一

春風に吹かれてる

だいじょうぶだあ

《なんてこたあ ないんだよ》 天国から呼びかける声が、聴こえる。

stereotype2085

永遠の反射

名作?それともただの習作?

ただの習作なのかもしれない。が、ここには作者当人も気付いていないかもしれない、天才がいる。俺の直観は当たるんだよ。人生で二回くらいは。

石村利勝

こんにちは まっさらな世界

「まっさら」の優れた表現

あなたの世界も「まっさら」ではないかな? 「まっさら」なのに、書けますか?

yasu.na

imagine

パンチング。

今からリーディング界隈を、ノックアウト。

stereotype2085

はっかといちご

詩における視覚要素の決定版

いわゆる視覚詩的なものは作ろうとするとパッと見の奇抜さで満足してしまい、それを行った理由に乏しくなってしまうことが往々にある。しかし「はっかといちご」はその域を超え、結晶の造形だからそこの効果を成せている。

渡辺八畳

独言少女

いつも終電に間に合う人生生きてますか

少女の独言は胸に刺さる。というか萌える。条件があって、少女は本当に少女でなくてはならず独言は本当に独言でなくてはならない。なのでこの詩は刺さるし萌える。

石村利勝

MY 9090 OF NO……

最先端ノスタルジア

なつかしみが 超えてゆく 未来という名のノスタルジイ 

真清水るる

骸骨スフィア

プラトニックな求愛の舞踏

ほろびたゆえに、もうほろびることのない、永遠の愛。それは、幸せか、囚われか——

沙一

人魚性

海、たましいの故郷

素直さゆえに、なじめない人間のせかいにたいする、異邦のかんかく——

沙一

宇宙飛行士の解剖

死因は、孤独

二重の夜に、追い詰められた、かれは、涯のない闇のなか、吊るされた——

沙一

家庭の檄文

悲運

そこには笑顔の絶えない、家庭があった。

stereotype2085

あす

ミのシャープはファ

「ミのシャープ/響かせる笹舟にのせて/送り出してみる」って、やりますねえ。ひねりが利いてて鮮やか軽やか、清新なリリシズム。これぞ令和の”もののあはれ”じゃないですか?

石村利勝

バナナはおやつに入りますか

たもつワールド全開

これはバナナですか いいえ詩です たもつザ・ワールドです

羽田恭

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批評対象
作品を読む

『ソナチネ』から    

<批評対象作品>
ソナチネ


〈はじめに〉  この文は、survof氏の作品『ソナチネ』についての批評文かつ選評文である。  この作品『ソナチネ』はとても美しい。見過ごすことのできない美しさを持っている。  私はこの作品のコメント欄に次のように書いた。  これは手強い作品である。もし「言葉で音楽をやれ」とか「言葉で絵画をやれ」というコンテストに出された作品であるなら、準優勝するであろう。優勝作品にはやはり文学的要素が要ると思う。優れた音楽や絵画を鑑賞する時、私たちは何か文学を読むような感じもしないだろうか。  つまりここで私が思うのは、この作品は文学にしかできないことをしていない、ということである。  というのが私がおこなった評価であった。これについて少しだけ深く考えて書いてみたいと思う。 〈本作品の形〉  作品は形を持つものである。しかしながらこの作品は、特にその形を論じなければならないほどには形に特徴がない。この作品にあっては、形は、書いた結果こうなったというものだと考えられる。  ここで形という語を文体という語に変えてみたとしても同じことである。  文学というものについての私の考えを、文体というものと絡めてここに書き記しておくと、文体であるということと文学であるということとは違う。  たとえば骨組みだけでも建築作品は単に成立するが、私はここに、人間の居住が欲しいのである。 〈本作品の表現〉  私はsurvof氏が計算をもってこの作品を書いていったとは思っていない。すべて芸術作品というものは、自然に生まれると思っているから、この作品もそうなのだと思っている。作品は、それを作った人の精神のあらわれである。才能のある人でも、良くない作品を作ることがある。この場合、良くない作品がどうしても良くないのは、作者が己を欺いて計算しているからか、もしくは、やらなくてもいい余計なことをやってしまったからである。  ところで本作品は、叙景で埋められていると言ってよい。が、読んだところ、私の目には映像的なものはほとんど浮かばなかった。それよりも音楽の方が聴こえてきた。が、さらにそれよりも、言葉そのものが目に飛び込んで来た。  各単語の美しさ、洗練された擬人的表現、日本語文の曖昧さをうまく活用したフレーズなどに目を奪われた。  なお重要なことは、本作品は、叙景への傾向が強いため、人間というものが見えにくいということである。それで私は寂しく感じたのだ。 〈本作品の物語〉  もう読者は気づいていることと思われるが、私はここまで書いてきて、人間というものを強調してきた。そして私はこの人間というものこそ物語だと考えているのだ。  この意味でのみ、私にとって文学は物語を必要とするものなのである。  さて、この『ソナチネ』という作品において物語は何なのだろうか。それはこの作品を書いた作者である。この作品の一字一句が作者である。それがどんなに美しいかはもう言わなくてもよいであろう。 〈おわりに〉  だから私はこの小文の〈はじめに〉の部分で引用した私の以前のコメント内容を修正しなければならない。  この作品は言葉による音楽ではなく、言葉による絵画でもなく、言葉による建築でもない。ひたすらに、言葉による文学、作者という物語を持った文学、そして、文学にしかできないことをしている文学であるのだ。  以上のことは、読者によっては当然ではないかと思われるかもしれない。だが、私にとっては大切にしたい考察の過程であったし、以前のコメントを修正しなければならないこともあるので、ここに批評文兼選評文として提出する次第である。


作成日時 2019-10-28
コメント日時 2019-11-05

『ソナチネ』から ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 7
P V 数 : 1161.3
お気に入り数: 0

『ソナチネ』から コメントセクション


コメント数(7)
survof (2019-10-28):

取り上げてくださってありがとうございます! >しかしながらこの作品は、特にその形を論じなければならないほどには形に特徴がない。この作品にあっては、形は、書いた結果こうなったというものだと考えられる。 この次の項目で論じてくださっていますが、計算というものは私は意識的にはあまりしないです。後から人に自分の作品を説明するときに、あたかも計算して書いたかのようにいうことはあっても実際には計算して書くということはあまりなくて、自然と溢れ出てきた言葉を書き留めて、それを自分が美しいと思えるように少しずつ修正、調整を加えていく、という書き方をすることが多いです。ただ、その調整を加える作業を「計算」って呼ぶのではないかな?という気もします。 あと計算できる、ということはすごいことだな、とも思っていて計算して書ける人は尊敬しています。計算して書けるようになりたい、という思いはあって例えば以前に投稿した「葉子」とかそういった作品ではかなり意識して計算しています。それがうまく機能しているかは別の話なのですが・・・ 南雲さんのおっしゃるところの「計算」って具体的にどういうことなのだろうっていうのはちょっと知りたいです。 >なお重要なことは、本作品は、叙景への傾向が強いため、人間というものが見えにくいということである。それで私は寂しく感じたのだ。 実は以前に「遠く、朝は」という作品を投稿したときにもまったく同じような感想をある方からいただいたことがあります。語り手の人間としての存在があまり感じられない、という趣旨のコメントでしたが、おそらくこの手の感覚的な事柄を扱った作品において共通してみられる私の作品の一つの傾向ではないかと思います。 なので、このご指摘はおそらく的を得たもので、それはおそらく、作品を個人的な感傷の掃き溜めにはしたくない、という個人的なこだわりも関係しているのかな、と思ったりもします。なので、どうしても人間としての手触りを消す方へいってしまう傾向があるような気はしています。 個人的な好みの話をすると、小説や随筆を読むとき、私は人間がどれだけ深く、巧みに描かれているかに主に関心を寄せて読みます。やはりそれが文学の一番の面白さだと思っています。どんなに文体が巧みでも、そこに人間としてのリアリティーがないと読んでいてつまらなくなります。逆にどんなに現実離れした設定やストーリーであっても、そこに人間の本質が描かれている作品というのは本当にたくさんあって、私はやはり小説や随筆には人間の体温を求めているような気がします。 でも、詩においては、どちらかというと人間の気配が薄い作品や作者が好きです。つまり、書かれた言葉そのものが作者という人間であるという点で南雲さんの結論にとても近いです。人間がその息遣いを伴って明確な肌触りを与えられたような「生きた」詩に出会うと、私は時々とても当惑するんです。それは詩という行為がより親密な、あるいは非常にプライベートな性質のものだからなのかもしれません。

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yasu.na (2019-10-31):

〈計算ということ〉 作品は人の手によって作られるという点で自然ではなく人工の生み出すものであり計算の生み出すものであると言えます。しかし作品制作の過程について考えてみると、作品の発生から完了までが作者の自然な営みによるものだと私には思われるのです。ここで私は自然に対するものとして人工を、そして計算をおいています。これも私の考えです。何かを作るとき、あるいはもっと事の範囲を広げて何かを為すとき、私たち人間は事の発生から完了までを計算によって為しているとは私には思えない、というか感じられないのです。ここは主に書くということをする場ですので、書くということに話を集中させてみますが、書くということを為している間、私たちは上述の意味での計算ということをしているでしょうか。つまりこの書くという行為は自然なことではないでしょうか。私たちはなぜ着想したり、書こうと思ったり、言葉を選択したりするのでしょう。私にはこういう過程が自然である、つまり計算ではない、と思われるのです。

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survof (2019-10-31):

ご返信ありがとうございます! 少し難しい内容だったので要点を整理したいのですが >この場合、良くない作品がどうしても良くないのは、作者が己を欺いて計算しているからか、もしくは、やらなくてもいい余計なことをやってしまったからである。 とおっしゃったときの「計算」っていうのはここでいう「書くという(自然な)行為」には含まれないということでしょうか? あるいは「計算」という言葉に囚われることが要点を曖昧にするものだとするなら >作者が己を欺いて(書いて)いる というのが南雲さんにとってどういう状態なのかちょっと知りたいです。 別に喧嘩を売っている訳ではなく、私は「自分を欺いて何かものを作る」っていうことについてもっと深く考えたいと思っているんです。少なくとも私にとっては、自己欺瞞は南雲さんのおっしゃるところの「自然さ」と表裏一体であるような気がしているんです。 急がないので、もしよろしければお時間あるときにご意見お伺いできれば嬉しいです。

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yasu.na (2019-11-05):

〈計算ということⅡ〉  人はめいめい何らかの天才を持っているものです。私は人の各自がその天才に柔順であることを願っています。私は時々厳しい批評をするかもしれませんが、それは批評対象が己の天才に柔順でない場合においてであるのがしばしばです。こう言う時、この天才という語を自然という語に置き換えていただいて意味に変わりはありません。  作品の作者がこの天才、すなわち自然に柔順でないことを私は己を欺いて制作していると言うのです。私はこの行為を計算と言っているつもりです。このことでsurvofさんの一つ目の疑問に答えることができたのではないかと思います。つまり、作者が己を欺いて計算しているというのは、「自然な書くという行為」ではなく、「不自然な書くという行為」であると考えています。  survofさんの二つ目の疑問は、ちょっと私に分かりづらいのです。私の理想である自然というものが、どのように自己欺瞞と表裏一体となるのか、分からないのです。もう少し補って書いていただけるとありがたいです。  私がこの文を読む方々に思い出していただきたいのは、自分が作品を制作している時の、何かに取り憑かれているような、「あの感覚」なのです。  計算ということは、あるようでないことです。計算があると言う場合は、結果として作品が人工によって生まれたという意味においてだけであり、もっと大切な「作品の生み出される過程」に注意すれば、まったく作者の天才、自然がそれを支配しているはずです。

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survof (2019-11-05):

ご返信ありがとうございます。 >私の理想である自然というものが、どのように自己欺瞞と表裏一体となるのか、分からないのです。もう少し補って書いていただけるとありがたいです。 まずこちらから。最初にいただいたご返信のなかで >つまりこの書くという行為は自然なことではないでしょうか。 と書かれていたので、私はこの際、混乱しました。 まず ・書くということが常に自然であるなら、どうして批評本文のなかで「作者が己を欺いて計算しているからか、もしくは、やらなくてもいい余計なことをやってしま」うことこと(つまりは「不自然であること」だと解釈しました)に言及しているのか? ・私の場合、書くという行為は南雲さんが仰るように自然なものではなく、常にどこかで「計算」したり、あるいは「余計なことを」したりするということが付き纏います。それは読者を常に鋭く意識するからです。この過程で私が私を欺いていないという確証がない。 そもそも「自分を欺いて書く」とはどういうことを念頭において書かれたのか私にはよくわかりませんでした。 ただ、今回のご返信がどうやら答えになっているようですね。 >私は人の各自がその天才に柔順であることを願っています。私は時々厳しい批評をするかもしれませんが、それは批評対象が己の天才に柔順でない場合においてであるのがしばしばです。 「己の天才に柔順で」あり続けるなら、決してその人はその人の「天才」の枠組みを突き破ることはできないと考えます。ここで私がいう天才とは各自が持つ素質のことです。ですので、自分の「天才」を突き破ろうとするときにどうしても、「不自然さ」は発生してしまうものです。「不自然さ」を経なければさらに「天才」を磨くことはできないと考えています。 自己模倣との格闘するならば、必ず南雲さんの「自己欺瞞」と向き合わなければなりません。そして、どんなずばぬけた「天才」、つまり他の人よりも群を抜いて特性がある人であっても自己模倣の危険は常にまとわりついていると思っています。その意味で「書くこと」と「自己欺瞞」は表裏一体であるということです。 >私がこの文を読む方々に思い出していただきたいのは、自分が作品を制作している時の、何かに取り憑かれているような、「あの感覚」なのです。 これは私にも時々ありますのでなんとなく理解できるような気がします。ただ、同時に、南雲さんほどには、内発的で「自然な」作品作成過程というものを信じていません。いや、もしかしたら、もっと「しらふ」な作品制作過程を私は魅力に感じているのかもしれません。 >計算ということは、あるようでないことです。計算があると言う場合は、結果として作品が人工によって生まれたという意味においてだけであり、もっと大切な「作品の生み出される過程」に注意すれば、まったく作者の天才、自然がそれを支配しているはずです。 どこまでその過程の中に外部的、俯瞰的視線を含められるかを私は常に大事にしたいと思っています。どんなに一気呵成に書かれたものでも、書いている間にどこかに醒めた視点が内部になければいけない、と感じているので「何かに取り憑かれているような」自分を同時に抑制する自分を隣におかなければいけないと思っています。 「作品の生み出される過程」に常に「計算」、あるいは「自分の天才に反抗すること」を織り込んでしまうことがある人の「天才」であるならば、「計算」、あるいは「自分の天才に反抗すること」は「自然な行為」ということになりませんか? 私は「作品の生み出される過程」に常に「計算」、あるいは「自分の天才に反抗すること」を織り込んでしまう「天才」に特に魅力を感じています。その最たる例が太宰治だと思っています。 要するにわたしにとってまず「自然さ」とは「計算」の痕跡をどれだけ消せるか、ということであり、「そもそも計算しないこと」が「自然」であるとはまったく思えません。 >私は時々厳しい批評をするかもしれませんが、それは批評対象が己の天才に柔順でない場合においてであるのがしばしばです。 ところで、南雲さんが作者の「天才」を見抜く力をお持ちであるということであれば、私の「天才」とはなんですか? 純粋に南雲さんがどう思われているのか興味があります。

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yasu.na (2019-11-05):

survofさんへ  まず、survofさんが私の投稿作にコメントする際に使用する言葉、たとえば、 >普段なら個人的な好みから、そのようなメンタリティーは嫌悪の対象としてしまうのであるが、南雲氏の作品を継続して読んできて、そのように唾棄してしまうのはとても惜しい気がしている。  の『唾棄』とか、 >別に喧嘩を売っている訳ではなく  というような言葉は、ビーレビ上でのコメントおよびアドバイスに使用されるものとしては異様で奇怪で不快です。厳しい批評にわりに耐えられる私でも恐怖を感じます。  私が書き綴る議論に破綻があったり、survofさんにとって認めがたいものがあったりしても、ビーレビのコメント欄は、書いたり読んだりする能力をお互いに真摯さをもって高め合うためにあるものであるはずです。それを壊すようなものの言い方が見られ、私は怖いです。熱さは感じられないこともありませんが、熱さを通り越しています。自分の議論に欠陥があれば私は通常喜んで修正しますが、そんな気も現在削がれています。  私はsurvofさんの作品『ソナチネ』を良いと思い、私の読みを選評文にまで書いて投票しました。今もこの作品を良いと思っています。  一言添えますが、私にとって「自然」は無窮の包容力を持っているものです。  が、こう述べるにとどめ、これ以上この選評文のコメント欄において議論することを、私は拒絶します。

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survof (2019-11-05):

承知致しました。議論に応じてくださったことに深く感謝します。ありがとうございました。

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