B-REVIEW作品投稿掲示板


<選評フル>  大賞は「薄明」   

fiorina 
作成日時 2018-10-15
コメント日時 2018-10-25

 

【大賞】 ~命~ 薄明 斉藤木馬  作成日時 2018-09-11 →https://www.breview.org/keijiban/?id=2307 【優良】 ~好きなんです、としか!~ ☆唯一の友だち 帆場蔵人  作成日時 2018-09-03  →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2271 ☆氷菓 沙一  作成日時 2018-09-29  →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2360 ~圧倒的な表現力に~ ☆選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章 survof  作成日時 2018-09-01 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2244 ☆ヨミテニ・タクス4 カオティクルConverge!!貴音さん  作成日時 2018-09-01 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2255 ☆マフィンが美味しいと評判のレストランでマクガフィンの重要性を語る亡霊マルチーズ 湯煙 作成日時 2018-09-09 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2299 【推薦】 ~安定した表現、次回作に限りなく期待~             ☆陰  紺 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2298 ☆0. my world. 三浦天才詩人果実 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2237 ☆どうぶつ図鑑 穴秋一 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2251 ☆蝉の死骸 蛭子子 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2256 ☆嵐の前の 杜 琴乃 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2275


コメント欄を表示する (25)
渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-15):

すいません、現行のキュレーションルールでは大賞1作優良3作推薦4作を目処にとありまして準大賞をキュレーション時点から定めるのは想定してないんですよね。 間違えてならコメントにて訂正版を書いてほしい(のちほどそれをもとに運営が編集します)のですが、確信犯的に行われたのならその理由・ステートメントを提示してもらいたいです。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-15):

とりあえず「薄明」はそのまま大賞候補として扱わせていただきます

fiorina (2018-10-16):

確信犯的ではありませんが、間違いですとも・・。 大賞と準大賞は最後まで三作品で争いました。 優良三作品は選評を超えて圧倒された特筆すべき才能です。 大賞1作優良3作推薦4作と言う風に変更すると、私の中で何かが崩壊しそうですが、 失格になりますか?

fiorina (2018-10-16):

では、大賞推挙が受け付けていただけるなら、このままでお願いしたいです。 次の機会には、従うようにしたいと思います。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-16):

ギリギリのなかでどれを選ぶかという悩みはキュレーションを書く皆さんが抱きながらも乗り越えてきたものでしょうし、推薦作を多数選出はまだしもキュレーション時点での準大賞を認めてしまうと、悩みの末に大賞に推され、されど入賞はできなかった作品たちが落ち着く地位の意味が無くなってしまうのではと個人的には思います。とりあえず、ここでの決定は避けて運営チャットに持ち帰ります。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-16):

大賞候補に関しては一作なので、そうですね従来のキュレーションと同じように扱わせていただきます。

fiorina (2018-10-16):

そうですね・・。 では、運営チャットでのお返事をお待ちして、改めてコメント欄に変更を記したいと思います。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-16):

いま気づきました。「上記の全作品について、各コメント欄に近日中に感想を書かせていただきます。」と書かれていますが、9/15以前に投稿された作品は10/16以降コメントできなくなります。

fiorina (2018-10-16):

今もう16日ですが、以降というと16日も入りますか? もし16日中で大丈夫でしたらそうしますし、もうすでにコメントできなくなっているようでしたら、 どういう形かで不可能になった作品のみご本人にお伝えするようにします。 それもだめでしたら、今回はコメントなしと言うことに。 いろいろお手数をかけすみません。

fiorina (2018-10-16):

今はまだできるようですので、今日中に、と言うことで。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-16):

そういったシステム面はかるべさんに任せていて私は何日の何時までと深くはわからないのですが、まだ書けるのならば今日中にお願いします。 まぁただやはりこういったことが起こるので、キュレーション発表時に選評文も公表してもらいたいなと私は思っております。最悪、ブログとかのURL貼っておいてそっちで更新していくとか。

fiorina (2018-10-16):

了解です!

stereotype2085 (2018-10-16):

fiorineさん、おはようございます。運営のステレオです。今回の件について、運営チャット欄にて話し合いをした結果、今回は特例にて準大賞に推された作品を優良として扱い、またこちらの方は申し訳ないのですが、推薦の価値を維持するという面において、推薦作品を五作品に絞っていただくという結論に達しました。折角フル選評をしていただいたのに申し訳ないのですが、また折角のフル選評をしていただけたからこそ、fiorinaさんの意向をくみ取り、運営の方針も加味していただいて、コメ欄にて今一度大賞一作、優良五作、推薦五作と分けて書き記していただけたらと存じます。フル選評に参加してくださったのは感謝の極みです。それでは、よろしくお願いします。

fiorina (2018-10-16):

ステレオさん、ありがとうございます! 反則でしたが、最初に表明できたことで満足しています。 運営の方にお手数をかけ、又他の選評の方に不快な思いをさせたかもしれないことをお詫びします。 では、コメント欄に改めまして結果を投稿します。

fiorina (2018-10-16):

<選評フル>  大賞は「薄明」 【大賞】 ~命~ 薄明 斉藤木馬  作成日時 2018-09-11 →https://www.breview.org/keijiban/?id=2307 【優良】 ~好きなんです、としか!~ ☆唯一の友だち 帆場蔵人  作成日時 2018-09-03  →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2271 ☆氷菓 沙一  作成日時 2018-09-29  →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2360 ~圧倒的な表現力に~ ☆選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章 survof  作成日時 2018-09-01 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2244 ☆ヨミテニ・タクス4 カオティクルConverge!!貴音さん  作成日時 2018-09-01 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2255 ☆マフィンが美味しいと評判のレストランでマクガフィンの重要性を語る亡霊マルチーズ 湯煙 作成日時 2018-09-09 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2299 【推薦】 ~安定した表現、次回作に限りなく期待~             ☆陰  紺 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2298 ☆0. my world. 三浦天才詩人果実 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2237 ☆どうぶつ図鑑 穴秋一 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2251 ☆蝉の死骸 蛭子子 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2256 ☆嵐の前の 杜 琴乃 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2275 (初期投稿において、「マフィンが美味しいと評判のレストランでマクガフィンの重要性を語る亡霊マルチーズ」の 作者 湯煙さんのお名前を記していませんでした。お詫びし本欄にて加筆修正します。)

帆場蔵人 (2018-10-16):

fiorinaさま 優良作への選出ありがとうございます。 好きとしか言えない、というお言葉は描き手としては凄く嬉しいですね。もちろん、作品を深く考察される事も嬉しいのですが、こういう一言でまた描こうという原動力になります。改めてありがとうございます。

fiorina (2018-10-16):

前夜酒場で、女性を巡ってのトラブルでもあったのだろうか。 未明に起こされてキッチンにぬかづき嘔吐する。 ない記憶ごと吐き出されるモノから立ち上る臭気と「酸っぱい思慕」 キッチンの窓から見える朝日に白々とした現実が射しこむ。 女の細首への思いを断ち切るように。 積み重ねた過去が 今は一本のはらわたとして独りの部屋にのたうっている 脂汗にまみれ苦痛に耐えても、死は遠い。 遠いのにまるで我が物顔にそこにいる。 お前にはできはしない、と言っているかのように。 この現実は、誰にも訪れる。 かつて母の死の傍らにいたとき、私は母にそれがやりおおせるとは思えなかった。 死はただ訪れるのではなく、こちらからも飛び越えてゆかねばならないものだとかんじた。 死に直面した人が、ろうそくが消える最後の一瞬に赤く燃え立つのと同じように、 奇跡的に元気になるのは、その飛び越え、死と抱き合う力を与えられるからではないか。 終連に、死にきることの困難さと、主人公(イコール作者ではありません。)がどのような人生を送ってきたかが発揮されている。 生きたようにおそらく誰もが死んでいくのだ。 初読から含めて十度以上読みました。 少しも色あせることなく私に生と死を教えてくれました。

fiorina (2018-10-16):

やはり15日を過ぎると、先月15日までのコメントはできないようですね。 大賞推挙作についてのみ、こちらに掲載させていただきました。 (これも反則かもしれませんが。) 残りについては、ブログに掲載しURLを張ることにさせていただきます。

fiorina (2018-10-16):

帆場蔵人さん、コメントありがとうございました。 なぜこの詩がこんなに好きなのかを語るのも又楽しいものです。 少し後になりますが、ブログの方に今は他人と思えないポストのことを書きますね。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-10-16):

選評差し替えました ねんのため旧版のログ ↓ https://archive.li/zvgsf#selection-561.18-603.50

fiorina (2018-10-16):

渡辺さん、ありがとうございました!

斉藤木馬 (2018-10-19):

fiorinaさま このたびは大賞に推してくださりありがとうございました。また頂戴致しました選評に身が引き締まる思いです。自作が自身に作用するのは当然ですが、同時に他者へと託されているのだと実感しています。死に切るとはどういうことか。私自身のテーマでもあります。

fiorina (2018-10-19):

斉藤木馬さま >とりあえず、一回それを信じましょう。 >作品では起きているのですから。 bれびフォーラムで展開してます、なかたつさんの詩論喫茶というところで、 上記のようなお言葉がありました。 「いっかい鵜呑みする」が目下の私のテーマとなっています。 「薄明」は鵜呑みにするには、ゴツンとした塊ですが、大丈夫ゆっくりと溶けています。 いい詩をありがとうございました。

沙一 (2018-10-20):

florinaさんへ 拙作を優良に選んでくださり、ありがとうございます。当初は準大賞に挙げていただいたお気持ちも、ありがたく受けとめています。 やはり心をこめた作品、好きだと言っていただいて、うれしいです。投稿してよかったと思います。読んでいただいて、ありがとうございます。

fiorina (2018-10-25):

沙一さん、 鮮烈な白のイメージ、憧憬、作中詩は沙一さんのオリジナルか否かを考えながら、読ませていただきました。こちらこそ、ありがとうございます。三日月を見あげるたびに、あそこに水滴があるのを思います。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

秋の赤   

白犬 
作成日時 2018-10-12
コメント日時 2018-10-25

 

血の雨の幻視 降りしきる 中を 微笑みながら歩いていく それは気持ちの良いこと ずっと 曇天 裸足 地上 瞳 血の雨に 濡れ そして 血の雨の中に 君を見つけるだろう 酷く優しい魂 あまりに純粋で あまりに傷ついた 薄い眠りが君の瞼を静かに撫でている (青空を映す刃で) (尖った犬歯で) (震える指先で) 抱くように 冷え切り出されていく私の胸を 血が満たして 私に熱を与える 何度でも 君が 熱を与える 血の雨の幻視の中 私は刃を抱く 笑みを深めて 赤い瞳から落ちる 覚えているよ


コメント欄を表示する (5)
まりも (2018-10-13):

切り裂かれ 抉り出されて 流れ尽くして後はもう 澄んだ透明な液体しか滲み出さなくなった 僕の胸の空洞 鳩が住めるくらいには 空いているよ 誰も 来ないけど からっぽの体で 夏を吸い付くした 秋の落ち葉を踏んでいく 行く宛なんて ない 君がいた場所を たどる 地雷を踏むように 垂直に君が 君の影が 僕を突き上げる 粉々に吹き飛ばされ そのまま地に降るものとなる いいんだ、それで 僕にはもう 後がないから

みうら (2018-10-22):

たしかに血の雨はリアルに語り手の実感として持っているのかもしれないが、現実として血の雨が降ることはない。ということは、読者はそれを想像するしかない。読者には血の雨を実感として持っている人がいるだろう。その人であれば、共感を覚えるだろう。私は想像する方の読者だ。残念ながら血の雨を想像することが出来ない。ただ作者が血の雨と表現したいエネルギーは受け取れた。でも白犬さんはそんなことを望んではいないだろう。血の雨を想像して共鳴して欲しいのではなかろうか。もしそうであれば私にはまだ伝わって来ない作品だ。

藤 一紀 (2018-10-22):

こんにちは。将棋の対局で、次の一手を考えているのに似た密度のようなものを、行間の空白に感じました。言葉と空白の比率に詩があるように思います。

社町 迅 (2018-10-22):

秋の赤、と言うタイトルから風景的なイメージがあったので、血の雨といっても凄惨な場所にいるわけでは無いのかと思いきや、血の雨という言葉が繰り返されている。 真っ赤な場所、赤い色が塗り重ねれた背景のなかに幻想的な君が現れて、その後の刃のイメージで君が切り出され、自分の心が切り出され、君を通じて赤い熱が自分の中にこもっていく。 最後の >覚えているよ に、とてもありありとした語気を感じました。幻想的でした。

かるべまさひろ (2018-10-25):

この詩、好きです。 僕が基本的に、荒れ地の果てにやさしさを持たざるを得ない系のとんがりなので、この詩はつらいけど、やさしくてつらいタイプだなと感じました。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

時よ、たすけ────   

サヨルリ 
作成日時 2018-10-24
コメント日時 2018-10-25

 

夜空の果てには杏仁豆腐のようなお月さまが浮かんでいらっしゃる。傍若無人なヒトの波。うやうやと時は果てて、あどけないぼくらの日常が殺伐の外套を羽織るころ。ヒトビトは真夜中のスクランブル交差点をゆき狂い。狂うように降る雪と足並みの重さの果てに、果てしなき血まみれの過去を想像しながら夜空を見あげて嘆くのだ。 ────時よ、たすけて──── 生まれたことは永遠にきえない事実なんだ。ぼくは生まれたことで自殺しか自由にできない自分の姿に痛みと傷をかんじている。抉ぐるほど産まれてくる命をまえに大人たちは私生活をえぐりながら息をしている。 いつからだろう。どこまでもの生活という蓋のしたでぼくたちは、ぺちゃんこになるほどのセクスを好むしか息の仕方を知らなくなってしまうのは。 時こそ誠の夢なのだ。 ぼくらのいない未来には、いまという過去だけが遺跡のように残ってゆく。ぼくらのいない桃源郷。欲望の肉片が山ほどの喘ぎを喪って、白く淫らな風来坊の体裁となる日も近い。つまり、骨だよ。かたかたかた。 ────時よ、たすけ──── だけど、ぼくは想うのです。死の呪文は数字だと。愛らしき数字だと。数字のなれ果てが、ぼくらの未来の解法だと。ねぇ、そこまでいってみませんか。まさに死ぬ気でいってみませんか。 輪廻の果てには神さまがいる。ぼくは生まれたときから胸の鼓動のことを<おかあさん>と呼んでいる。実際の母とはじめてお会いするまえから、ぼくらは胸の鼓動により生かされている。 真実のぼくを知っていてくれるのは鼓動という数字だけなのさ。だから、だからね。ぼくは、いまこそはっきりといえるのだ、数字こそが神さまだとね。 もっと自由になるといい。 それから、自由などないと悟るといい。 命がけの祈りなら、すでにあなたはもっているよ。胸のなかを抱いてよ。自らの宇宙を顧みてよ。あなたはひとりぢゃない。生かされている、胸の鼓動により生かされている。 そういう風に孤独と向きあえるといいね。いうなれば、あなたの身体はひとつの宇宙船なのだ。細胞ひしめく未来へと向かいつづける<死>の宇宙船なのだ。 だからこそ、自分の命を大切にね。 お願いだよ。 生まれたことは、 永遠にきえない真実なんだ。 ねぇ、お願いだよ。


コメント欄を表示する (7)
サヨルリサヨルリ (2018-10-24):

拝啓;B-REVIEWさんへ コメント外のことなので、以下の文章は無視していただいてもかまいません。ただし、どうしても書かざるを得ないことでした。すべてにおいて感謝しています。 ビーレビューさん。ふたたび詩を投稿させていただきました。ひととおりガイドラインへと目を通しましたが、以前のメールアドレスのパスワード等の紛失により、現在の名前での再開および投稿とさせていただきます。申しわけございません。なお、この場をお借りしまして、かつてのわたし、東川原いずみ、るびによる、すべての誤解と罪悪をきわめて謝罪いたします。どうか、これからもよろしくお願いいたします。 また、ビーレビューさん、ビーレビューさん関連の詩人さん、すべてのかたへと敬意を表します。今後ともコミュニティの一員として、ぜひ、レビュー等してゆきたい所存です。ありがとうございます。いま、わたしは、まさに感謝しています。 サヨルリ

沙一 (2018-10-24):

去年のおわりに、下弦物語にふれたときから、ファンでした。 また作品を読ませていただけて、うれしいです。 どうか、無理なく書いてゆけますように。 胸の奥から響いてくる、祈りがきこえてくる詩だと思いました。

サヨルリサヨルリ (2018-10-24):

沙一さん やさしいお言葉、どうもありがとうございます。なんだか泪がでそうです。ずいぶんと憂うつな期間をのり越え、真実を見極めることを恐れないチカラがわたしのなかで芽生えました。わたし、詩がすきです。それだけは、この命をはって守りとおせる祈りだったのです。もう、なにも偽りません。 沙一さん、ありがとうございます。あなたに祈り、届きました。

オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-24):

無教養で粗末な意見で申しわけないのですが、長いと感じました。短ければ私のような素人もファン層としてとりこめる気がします。プロから評価されつつ一般人にもウケれば、本が売れるような気がします。 いかにも「詩」という印象を受けました。サヨルリさんが書いた短くて明るい詩も読みたいと思いました。 私は谷川俊太郎や中原中也、最果タヒさんなどの作品を読んでもほとんど何も読み取ることができない人間ですので、あしからず。 おこがましいのですが、こんな私にも好きな表現があります。サヨルリさんの書いた詩も読みたいですので例を挙げます。堀辰雄の「x氏の手帳」のなかの「夜ひとりで部屋にいると僕はあんまり僕になりすぎる」それからサリンジャーの小説のなかに出てくる「僕を見ようと 人形の首を回した 飛行機の少女」という詩です。こういった短く、かつ「いい詩だな」と思える詩をみなさんやサヨルリさんに書いていただきたいです。

サヨルリサヨルリ (2018-10-24):

オオサカダニケさん 正直なご感想、どうもありがとうございます。オオサカダニケさんのようなウラオモテのすくなそうな文章も、まっすぐな印象をお受けして、なかなか好みですね。 おすすめの小説家の作品なども、できうる限り拝読いたします。そうですね、堀辰雄でしたなら「萌ゆる頬」もどうでしょうか。あの作品もかなり詩的ですよ。サリンジャーはまだ一冊もよめておりません。今後ともよろしく、です。

オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-24):

燃ゆる頬を読みました。何度もドキッとさせられる描写があり詩的な文章に彩られている短編なんですね。 私は3,4行の詩しか書けない程度の人間ですので時よ、たすけ―――のような構成のしっかりした長い詩を構築できる構成力と文章力に憧れます!

サヨルリサヨルリ (2018-10-25):

オオサカダニケさん さきほど青空文庫アプリにて、堀辰雄「X氏の手帳」をお借りしました。主人公について、狂人というよりも高度な精神性のもち主のように思えてなりません。世間では生きづらさの囚人として認識されていながら、ゆめのような幻想を言葉にかえている────まさに、わたしたち、詩をかくものの姿のようでもあります。興味ぶかい作品でした。オオサカダニケさんの詩へ、後日、コメントを寄せたくおもいます。どうもありがとうございます。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

目的地   

根崎 
作成日時 2018-10-16
コメント日時 2018-10-24

 

好きな音楽が体いっぱいに流れる 自分の身体から周囲に音漏れしていないか心配になる 身体が横に揺さぶられながら、眩い光を一心に浴びて、漸く頭がおはようと私に手を振った 目を擦るサラリーマンのスーツにはシラミが浮き、僅かに口が開いたまま宙に視線を泳がせる 私は何となくその人を見ていたが、そのうちすぐに降車していった 自分の降りる駅にはあとどのくらいで着くかなと、路線図を見る。 いくつも並ぶ見慣れた駅名を眺めながら、私は自分に目的がないことに気が付いた そもそも私はどこに行こうとして電車に乗ったのか、何かあったはずなのに何も思い出せない 目的地があったのかもわからない それでも私は止まる駅一つ一つを見ては、ここは自分の降りる駅ではないと思った この先に私が降りなければいけない駅があると思った そんなものどこにもないということは自分が一番わかっているはずなのに、そう思わずにはいられなかった 私と一緒に乗ってきた人たちが、私に付き合いきれないとでもいうように一人、また一人とそれぞれの目的地へ消えていく さっきまであんなに騒がしかった音楽は聞こえない 電車の揺れに抗う力はなく、強い朝日は責め立てるように私を刺した ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい これは誰かのせいなどではない みんな私を支えてくれた 応援してくれた 励ましてくれた それなのに私は全て台無しにした 皆が与えてくれた目的地にすら降りられなかった もう私がいていいところなどない 自分でぶち壊してしまったのだから このまま電車が霊柩車となってはくれないだろうか 誰もいない世界へ連れてっていってはくれないだろうか それでも降りろというなら 皆を目的地へと導くレールの一部にしてください


コメント欄を表示する (6)
ふじりゅう (2018-10-16):

拝見しました。 目的地とはそもそも自らが決めて自らの意思で進むものなのに「目的地」などないといい、しかし認めたくないからとこの先に進むべき道があるのだと思い込み、自己嫌悪に陥りレールの一部になりにいく。そんな主人公の心の弱さが多分に盛り込まれた詩だと思います。また、特に私が良いと思ったのは最終行です。レールの一部になりたい、私はそれも立派な目標であり目的地だと思います。しかしあまりに悲観的な主人公はそのことすら気付けない。そんな皮肉めいたメッセージが、この文にあるような気がしました。

༺❦柿原 凛☂༻ (2018-10-16):

電車が霊柩車にとか、レールの一部にして下さいっていうのが自殺する人のリアルな心情なのでしょうね。こういうふうな言葉で描写しているのが良いなぁと思いました。

根崎根崎 (2018-10-16):

ご感想ありがとうございます。 詩を書くのは初めてでして本当にこれでいいのかと思っていましたが、内容を汲み取っていただけたようで本当によかったです。 これは実体験に沿って書いたのですが、そうですね。周囲の期待もあったからか、目的地がここでなければならないという思いと、ここじゃないんだという思いが混ざり合ったせいで、結局それ成し遂げることも、開き直ることもできなかったのだと思います。 最後の一行はどうしようかと最後まで悩んでいたので、そのように言ってもらえてよかったです。 自分的にはかなり悲観的に描いたのですが、それも立派な目標、目的地だと言っていただき、そんな見方もあるのかと思いました。本当にありがとうございます。

エイクピアエイクピア (2018-10-16):

「自分でぶち壊してしまったのだから このまま電車が霊柩車となってはくれないだろうか」 やはりここが印象的です。自分の乗って居る電車が霊柩車になってほしいという願望。三行も謝って居る詩行も印象的で、 「それでも降りろというなら 皆を目的地へと導くレールの一部にしてください」 こんな最後の二行も、自分をレールの一部に変えてまで、皆の役に立ちたいという尊い願望が出て来てさらに印象的です。最初の願望は、電車は自分以外も乗って居るのだから、手前勝手な願望とも言い得るわけですが、最後の二行の願望は、自分だけに限定した、他を巻き込まない、潔い願望だと思いました。

かるべまさひろ (2018-10-20):

統合失調症の症状を思い出させられました。 「それなのに私は全て台無しにした」がキーなのかなと感じました。

オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-24):

自責の念と情景描写の見事な旋律に魅了されました!私は読者の心をつかむ殺し文句が入った4行程度の詩しか書くことができない文章力ですので、これだけ長い詩の全体統一をできるその手腕に圧倒されました!!

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

断片   

はさみ 
作成日時 2018-10-22
コメント日時 2018-10-24

 

僕をなじったあとの猫を可愛がる声 夏の公園の光と影 まじまじと眺めた指のすきま それが今やスマートホンをいじる指先か 目に見えるものしか映らない上に 触れられない光を操作する へえ、 なんとなくいつでもある電波 無性にラジオが聞きたかった頃があり きちんと話題があることに気づいてから というものもはや用が無い 石を投げて 割れると面白かった 今は 音楽を聴くと何も言えなくなる 友達が欲しかった ただ友達が 笑顔が好きだった もう何も見えない 複雑な皺 あ、あと 神様みたいなものが欲しかったな 神様お願いです 信じられる神様をくださいね


コメント欄を表示する (8)
༺❦柿原 凛☂༻ (2018-10-22):

最後の段落が好きです。神様に神様をねだる発想はなかった。僕は一神教信者じゃないはずなのに。

みうら (2018-10-22):

実存描写がいいなあと読んだ。感傷さがあって内情を語るまでの流れにやや唐突感があった。意図された急流にも読めるし衝動的な表現として受けた。

社町 迅 (2018-10-22):

どことなく人間不信で、ノリが軽い性格の人間。この詩の中に若者がいるなあ、と感じました。

stereotype2085 (2018-10-24):

いいですね。とても楽な気持ちで読めました。欲しいものに「『信じられる』神様」が来る。既存の宗教を疑ってかかる、宗教リテラシーのようなものを感じました。全体としてはポップですね。

じゅう (2018-10-24):

拝読しました。笑顔を認識出来なくなって「複雑な皺」にしか見えなくなるという表現が好きです。 タイトルの「断片」は、思考の断片のことなのかなあと思いながら読みました。

はさみはさみ (2018-10-24):

みなさん、感想ありがとうございます。 投稿は三回目ですが、いつも的確なコメントをくださるのでとても嬉しく思いながら返信させていただいています。 ༺❦柿原 凛☂༻さん 神様を信じていなければ神様に文句を言う機会もあまりないものかも知れませんね。私も無宗教ですが、母方の家系が一神教で度々会話に神様が登場しました。かつて神様のことがものすごく嫌いでした。これは家庭的な事情であって宗教を否定する気持ちとは本質的にまったく別物だと言うことを書き添えておきます。嫌な思いをされた方がいたら、ごめんなさい。 みうらさん よく観察してくださったんだなあと感服しております。私は、いつも衝動的にしか詩を書かない上、何日後に見直すといったことも滅多にないためこういうコメント返しのときが絶好のチャンスです。この時は幼少時代に思いを馳せたようです。明確な狙いはこの時点ではありませんでしたが、飛躍していても投稿ボタンを押したのはその部分の空白感が好きだったからだと思います。 社町 迅さん お世話になっております。 素直に受け取ってくださり感謝します。 この詩は要約すると「あーあ、人間も信じられないし神様も信じられないよー困ったなあ」という意味ですが、深刻そうに言うと誰かに踏み込まれてしまうかもしれないので、語尾を操作してしまった感があります。どのようなお方か、詳しくは存じ上げませんが、社町 迅さんからすればそこが「若い!」と言わざるを得ないのかも知れませんね。 stereotype2085さん 楽な気持ちで読めたということで、何よりです。最近は自分の書くものに、どんどん、ポップさとかキャッチーさとかが加わってきています。「伝える」「伝わるようにする」ということに意識が向いているせいで編集的になっているのだと考えています。しかし肝心なところでくいっと踵を返してしまうのが子供っぽく、そこがなおさらポップなのかもしれません。 じゅうさん 時々、笑顔って複雑な皺ですよね。好きといっていただけて、よかったです。ちょっとは共感を得られたようで、安心しました。 断片、というタイトルは仰る通りの意味です。よくわからないけれど何か書きたくなって、サイトに来てみてそのまま打ち込んで投稿、だったので(毎回そんな感じですが)タイトルは一番先に書いたような気がします。 毎回、投稿した後に「やってしまった」という感じのささやかな不安を抱えているのですが、コメントがつくと癒されます。ただのコメントほしさに投稿しています。皆様、重ねてありがとうございました。

オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-24):

殺し文句が見受けられと感じました

オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-24):

殺し文句が見受けられなかったです。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

ビニール傘   

rura 
作成日時 2018-10-23
コメント日時 2018-10-24

 

あなたに会う日は、いつも雨が降っている コンビニで買った安っぽいビニール傘を差して海。 憂うつな涙が傘の頬を伝うのを私は下から見ていて、いつだってそこにいけたらいいのにって思って、傘を、折った。 あなたは雨みたいね、目鼻口、血、声、睫毛、指先、人は体の7割が水だそうです、たくさんの水、たくさんの足、あなたは、いったい、雨なのか、人なのか。 雨だよ、寒さに耐えるだけの、強かな雨だ。凍える洞窟で白をみんなで食べよう。今夜はご馳走だよ(もちろん生きていない) あなたは、人なのか、雨なのか。 人は、雨なのか、あなたなのか。 雨なのか、人は、あなたなのか。 電車の中に傘を忘れてきてしまった。 あの傘は、きっと雨になって、あなたの空に、降り注いでいる。


コメント欄を表示する (3)
オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-24):

物と物が溶けて混じったり入れ替わったり不思議な感覚にとらわれました。小説でも俳句でもなくまさに「詩」というかんじがしました

ふじりゅう (2018-10-24):

拝見しました。 水と人を近似なものとするアイデアが良いと思います。「あの傘」が「雨」になる、「洞窟」で「白」を食べるなど不思議な世界が展開されていますが、「あなたに会う日」なのに憂鬱な主人公の図だけが人間味を感じる所もまた詩としての魅力だと思いました。

架月杏奈 (2018-10-24):

雨の日の白く濁った空に、色々なものが柔らかく溶けていくような感覚を感じました。 読んでいて自然と 頭の中に透明水彩で描かれた絵を思い浮かんできました。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

9月投稿作品選評―記憶にまつわるお話たち―   

なかたつ 
作成日時 2018-10-05
コメント日時 2018-10-24

 

0.はじめに  いや、実は「はじめに」というのは嘘である。選評を全て書き終えた上で書いている。  結果として、今回は「記憶」というものを中心に作品を選んだ気がする。「記憶」というものは、僕にとって大事なものであって、僕が書く作品についても「記憶」について書かれたものが多い。  なぜ、「記憶」について書く人がこれまで多いのだろう。僕らは無論哲学者ではないから、『物質と記憶』などという著書を書く必要もない。それでも、「記憶」というのは生きている以上、つきまとうものだ。「記憶」についてついつい書きたくなってしまう理由について、今回選評を書いてから見えてきたことが1つある。それは、「記憶」は共有できる/できないからだ。  同じ時間/空間をともにして、同じ出来事を目にした時に、その瞬間は「記憶」を共有できる。だが、「記憶」は形に残るものではない。それぞれ、個々の生の中で残るものであり、時間や空間が変わることによって、その「記憶」もまた形を変えることがある。だからこそ、その時その場所で「記憶」を書き記すことで、「記憶」を「記録」にするのだ。  形に残らないからこそ、「記憶」は共有できない。むしろ、共有できることより、共有できないことの方が「記憶」の持つ魅力ではないだろうか。だからこそ、言葉/声/文字などにすることによって、共有化する/語ることができるようになる。だが、読み手はその語りを見る/読むことによって、追体験することしかできない。その現場に立つことはできない。  「記憶」の魅力とは、共有できないからこそであり、共有できないからこそ、共有できるように書く必要がある。つまり、「記憶」について書くということは、出来事や時間/空間を共有するこということへの想いを秘めており、それこそが読み手に開かれた作品であると同義であると言うのは言い過ぎであろうか。 1.選評 (1)大賞候補 「ストロボ」survof https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2264  読解については、コメント欄に記したのでそれを再掲。 僕は実体験から書くのですが、これはどうも創作話っぽさを感じさせます。その根拠を示すことはうまくできないのですが、場面の切り取り方が絶妙です。誰かとの思い出や記憶というのは、地続きの映像であり、何時間も一緒にお出かけとかしようとも、実際に思い出せるのはせいぜい10秒ずつぐらいなもので、そうした中で、いわゆる「大事な思い出」を語るということは、その小さな映像を繋ぎ合わせること、そして、どの映像を選択するのか、というその選択が大事になってくるのでしょう。 花火を映像として捉えるのではなく、音の記憶として捉えてあります。「愛情と母性の落穂拾い」という何でもない表現が実に巧みで、「花火」という言葉自体が比喩で、花のような火が散った後で、残るものは何もないのですが、その火がいずれは地面に落ちていて、花火が散った後の空間や時間について想いを馳せるという着想がこの「愛情と母性の落穂拾い」という表現に凝縮されていると思うと、とても惹かれました。ただ、花火の音によって、記憶されてしまったその映像に伴っているのは「僕の絶叫」であって、この絶叫がどうして生まれたかの詳細はわかりません。 そして、「お姉さん」が誰なのかも読み手にはわかりませんが、僕がお姉さんと呼んでいた人物がいたという過去があったのは確かなのでしょう。そして、単に「僕はお姉さんが好きだった」という短絡的な表現ではなく、「僕のことを呼ぶ『君』というその呼び方が僕は本当に好き」というのは、映像でありつつも、やはり、音の記憶なのです。花火の音、僕の絶叫が語り手の記憶である映像に付き物であるように、お姉さんとの記憶も僕への呼びかけという音が付き物なのです。 彼女はある本を貸してくれたのですが、僕はその本の物語を蔑みながらも、その物語のプロットを借りて、彼女に打ち抜いて欲しかったと願っています。それは「撃ち抜く」という音と同時に、読み手に花火の音を想起させます。思えば、花火は音だけでなく、その響きによって、体の振動を生んでおり、それが「内臓の粘膜を低音で揺さぶる」と描かれています。その響きによる振動がまるで、語り手の体が裂けてしまう衝動を感じさせており、花火の音/記憶というのは、語り手にとって振動で避けてしまうような痛みを伴うものであるからこそ、これが「自傷」であるのだと納得させられます。 一見ばらばらのような映像というのが、必然的に結び付けられていき、作品内における場面の選択の必然性というものを感じられ、そういう点で全く無駄がない完成度を感じました。それに、何とも言えない、この切なさが、読み手である僕はとてつもなく愛おしく感じました。  無論、具体的な場面や人物に描かれている以上、一般論に置き換えて論じるのは、作品に対して失礼な行為であるのだが、それでも、記憶というものについて考えざるを得ない。下記の選評においても記しているのだが、記憶というのはいつでも思い出せる記憶もあれば、ふとした時に思い出される記憶もある。それについては、W・ベンヤミンにおける「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」で論じられているプルーストの「失われた時を求めて」におけるマドレーヌについての考察がより詳しい。簡潔に述べれば、マドレーヌを食べる時の匂いが幼い時に食べた匂いと結びつき、故郷を思い出すというもの。  この作品においては、そのような仕掛けがあるわけではない。それでも冒頭から「その夏のあの花火」という一つの出来事についての想起がされている。その花火の音/振動が体に刻まれて、その感覚から導き出される銃についての描写。本来であれば、花火と銃が結びつくことはなかったのかもしれないが、それが結びつく契機として、彼女が本を貸してくれたことがある。花火を見ること、と、彼女が本を貸してくれたこと、一見無関係な出来事を語り手が結びつけるという行為。 それだけ、彼女がした行為に意味を見出したかったという語り手の切実な想いがひしひしと伝わってきて、その巧さというよりは、やはり、切実な想いに胸を打たれてしまった。これが人を想うということなのだと、改めて気づかされた。 (2)優良 「交差点のリリィ」 https://www.breview.org/keijiban/?id=2301  約束についての詩かと思って読むと、急に「こおろぎの事を思い出し」たりして、場面が展開されていく。何かに関する記憶を思い出す時、このように、とりとめもなくばらばらに思い出されることが多い。いつでも思い出せる記憶ではなく、ふとした時に思い出されてしまう記憶の方がなんとなく意味ありげに感じさせられるが、そのメカニズムや意味についてはわからないことが多い。  君は「糸切りを持っ」ていて、糸/約束を切ろうとしているが、ふと、親父が毎年述べていた「今年の鮎う、ちっこおてえ」という声の記憶に移り変わる。そして、語りは、この親父を中心に展開されていき、君の存在を遠くに追いやる。「親父/の秋を告げる声」と「庭の虫の音」が対照的に置かれてあり、いまだ謎である「こおろぎ」の存在を読み手に思い起こさせる。  毎年ある時期に決まって聞こえてくる声に応えるようにして、僕は「ああ、あじずし、なつかしい」「この山椒の葉、やっぱり辛い」と毎年言っている。これらもまた過去/記憶にあることだ。  「廃線に 祭の灯 潮の風」という詩行の後に置かれた「辛い」が漢字で書かれているからこそ、さきほどの「山椒の葉」が「からい」から、「つらい」へと自然に読み替えてしまう。  「この春に廃線になった鉄道の無人駅」という移り変わってしまう景色に対する想いが述べられて、その「道」のイメージだけが引き継がれて「三日月1号線」の場面へと展開される。無論、読み手はこの「三日月1号線」について予備知識があるわけではない。だからこそ、「全ての痛みを解いてくれる/ここではないどこかへ行ける」という説明は必要不可欠な詩行として存在し得る。  「三日月1号線」に対比されているのが「日常57号線」であり、読み手の勝手な解釈であるが、「三日月」へと続く道はそう簡単に生まれるものではない。おそらく念願の、ようやく生まれた道であって、その希少性が「1号線」という表現によって強調されるが、「57号線」は「行ったり来たりしている」とあるように、日常における道は複数あるものであり、その日常感/身近さを強めるものとして、「57号線」という数字に意味を感じさせられる。そして、日常57号線と三日月1号線は繋がっているものであり、時に1号線に差し掛かると「あの娘」を見かけることができる。つまり、語り手の僕は日常57号線沿いに生きていて、冒頭の君及びあの娘は三日月1号線沿いに生きているのだろう。  そして、冒頭の「今日はしゃがみ込んだ君の足もとの/こおろぎの事を思い出していた」について描写されていく。彼女が走り出すこと、と、こおろぎが鳴き出すことが同じ時間/空間における記憶として、僕の中に刻まれている。そして、彼女が「道のまん中に崩れてしまう」こともまた同様だ。そして、その彼女に対して僕は何をするかと「崩れた彼女の横を/真直ぐに進むしかなかった」のだ。手を差し伸べるとか、体を起こすとかではなく、何もせずに進むという、それは選択である。  「ある日/彼女の姿が見えな」くなってしまう。そこで僕がとった行動とは、かつて彼女が走り出していたように、「裸足になって/全速力で走ろう」とするのだ。ただ、ここでもまたこおろぎが鳴き出すのだが、前述した場面との違いは、走り出す主体が違うということだ。こおろぎが鳴き出すのは、彼女が持っていた能力ではなく、僕が走り出したとしても鳴き出すのだ。ただ、ここで考えておきたいのは、そのこおろぎは、語り手の記憶が呼び覚まされて、頭の中で鳴き出していたのではないかと。  そして、日常57号線にはいなかったはずの彼女の姿が再び現れるが、その姿は喜ばしいものではない。それでも、「僕は嬉しくなり/涙でボロボロになってしま」うのだが、かつて僕が彼女にしたように、泣いている僕の「その横を彼女が通り過ぎた」のだ。  かつて彼女が走り出したように僕は走り出そうとし、かつて僕が彼女の横を通り過ぎたように彼女もまた僕の横を通り過ぎていく。行為の反復。同じことを相手にすることによって、ようやく相手の立場がわかるというものである。 その立場に立ってみて、ようやく見えてきたものが「こおろぎが一晩中鳴き続けた」ことである。このこおろぎの横に、果たして彼女の姿はあるのだろうか。いや、きっとない。なぜなら、彼女は僕の横を通り過ぎてしまったからだ。きっと、このこおろぎの声は僕の記憶の中で、残り続けてしまうものだ。忘れたい/忘れたくない、そのどちらであるかは示されていないが、いずれにしても、残り続け、きっと、親父の声の記憶のように、何でもない時にふと思い出されてしまう記憶として残り続けるのだろう。 「蜂蜜紅茶」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2361  冒頭二行で、語りの丁寧さ/巧さが伺える。  「死者の町に行き着いたことがある」という表現を口にするならば、容易にいくらでもできるが、それが果たしてどういう意図をもっているかが追い付かず、ただ言葉だけが浮いてしまう恐れがある。それを忌避して、「もちろんそれはただの比喩」だと、自らの表現に対してきちんと向き合っている姿勢が伺える。  そのような前置きがあり、あくまでも「地図にも載っている実在の土地だ」と宣言しながらも、その町がまるで「死者の町」であるかのようにとらわれてしまう表現が続く。一言で言えば、寂れた町であることがわかる。あくまでも実在の土地だと宣言することによって、反語的に、まるで「死者の町」であるかのようなその性質が強められる。  この作品では場所に応じてきちんと場面展開がされている。他の作品においては、場所も時間も不明瞭になっていることが多いが、読み手にわかりやすく、「いま・ここ」がどこであるかが提示されている。  ドライブの途上からの景色から喫茶店へ変わった場面。語り手は「死者の町」を否定しながらも、その想いにとらわれており、つい喫茶店の主に「あなたも死者ですか」と尋ねてしまう。ここで「もちろんそれはただの比喩だ」という表現が、あたかも強がりであったような印象を受ける。  視線は「養蜂場」にうつり、花と蜂に想いを寄せていく。無論、そこに墓の存在も関与されており、墓に手向けられた花、というごくごく当たり前のイメージもまた読み手に優しい結びつきである。「蜜源によって味も香りも違うらしいが、それはヒトの勝手、蜂たちには関係の無い話だ」という想いからは、この語り手の視野の拡がりに感銘を受ける。それでもやはり、乱暴に散らかっているわけではなく、一つのまとまりがきちんと保たれている。  場面は喫茶店に戻るのだが、この蜂への想いが伏線となって、一見とりとめのない話がまた一つのまとまりに集約されている。喫茶店で出された紅茶に蜂蜜を入れるということ。ただ単に目の前に置かれているものを描くだけでは、視野、言わば、世界の拡がりを感じさせない。目の前にある紅茶と蜂蜜、まるで静物画のように置かれてあるだけなのではなく、眼には見えない時間を含んでいるということ。  つい長居をして、喫茶店の主が「ここじゃ生きている方が肩身が狭くて」とつぶやくのも、何だかぞっとしてしまうし、やはり、冒頭の「もちろんそれはただの比喩で」という表現がここでも活きてくるのだ。より、それが反語的/強がりとして聞こえてくる。  語り手は、比喩としての「死者の町」を後にする。生者も蜜蜂も静まりかえった町を「見届けることはでき」ず、その理由は「宿泊施設もなかった」からである。語り手は、眺めるものとして、その町を訪れ、その町に暮らすことはなかった。宿泊施設がなかったから帰ることしかできなかった、という当たり前の理由から導き出された当たり前の帰結があり、ただ、この帰結があったからこそ「生きている間は、留まることができないのだ」という最終行へと昇華することができるのだ。  これらの詩行に、疑問は持たず、一見ばらばらに切り取られた場面は、「死者の町」の話であるにも関わらず、どこをとっても連関があり、詩行自体が死んでいない。こうした切り取り方の巧さが読み手に優しく、何でもなく読み進めることができるのだが、こうした作品こそ書くのが難しいだろう。 「氷菓」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2360  なんてことない出会いについて語られた作品である。語り手にとっては、大事な出会いであったことは伺えるが、このような出会いというのは一つの物語として、読み手にありがちなものとして印象を与えるものだ。「文学部で知り合った」ということは、大学で知り合ったのであろうということから、共に過ごした時間の過ごし方について説明されている。  転機は「ある初夏の日」にあり、「静かな公園で詩を朗読」することになった。僕らを結ぶ共通点として「詩」があるのだ。その道中にある会話が想起され、抜き取られている。その時、その場所に何があったのか、というのは必ずしも事物だけでなく、形として残らない声もまた記憶に残ることがある。記憶に残った声というのがこの作品における重要な主題であることは後からわかる。  きっと彼女が読み上げたであろう詩に以下のような言葉がある。  僕たちは 降ることのない雪だ  これを読み上げた彼女の声は、「氷菓のようにあまく、僕の胸に玲瓏と響」くものであった。氷菓とは、あまい反面つめたく、何より、その形を留めることはない。語り手はその特徴をあえて語らず、「声」における形として残らないという特徴をも氷菓にたとえたのではないだろうか。  僕たちは降ることない雪であったが、雪は雪として降ったのだ。やはり、雪もまたアスファルトに溶けて、形を残すことはない。ただ、その上を歩いた足跡を形として残す。それはつまり、人がそこを歩いたという記録だけを残すのみであって、その全体像を描くことはしない。雪は無情にも、形を残さないだけでなく、人の歩みを邪魔するものとして存在し、さらには、薄汚れていく。  氷菓も雪も形に残らず、彼女の声も形として残らないはずであったのだが、語り手の中にだけ確かな形を持って残っているのだ。  誰かが発した言葉や声が形を変えずに残りつづけるということ。それを確かにあったのだと、外部に証明はできないのだが、形に残らないものだからこそ、より意識して残し続けようという語り手の想いが強く感じられた。 (3)推薦 「遺書」エイクピア https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2323  エイクピアさんの作品を読むと、いつも西脇順三郎を思い出す。西脇の詩が憧れでありつつも、遠い遠い存在であって近付けない、その感覚をも思い出される。どういった点が西脇を思い出させるかと言えば、行間の連関である。行と行の間の展開における飛躍が読み手の想定を超えてくるのだ。  「蚊が輪を作って悠々と」という出だしは、読み手の経験を活かすことで容易にイメージとして思い浮かべることができるが、その後が「歴史に参画する」と続く。蚊の飛行と歴史への参画が結びつくという。西脇の「超現実主義詩論」には、詩作の手法として「遠きにあるものを近づけ、近くあるものを遠ざける」といった意が記されている。平易に言うならば、思いもしない組み合わせを持ってくることだが、それは乱暴/適当/闇雲に持ってきたとしても読み手に何も喚起されない恐れもあることだ。  それでも、読み手の疑問を入れ込む隙がなく、あたかも当たり前であるかのように詩行/語りは続いていく。「涙の香りはどんな悪さをしたのか」「色が抱える苦しみは何であるか」といった疑問すら「放って置いて/行こうとするから」、「悪阻に鈍感な男が死んで」しまう。ただ、その男にも役割があり、「蚊の塚だけは作」るのだ。ここでようやく、詩行の連関が繋がってくる。唐突に現れた一行目も、この男が蚊の塚を作ったからなのだろうか、と。  語り手は、男を「悪阻に鈍感」という価値付けをしているが、男は自らを「コマが飛んで来て痛いのを隠して/雑巾でサッカーをやるから死んでしまった」と語り手の思いとの行き違いを述べている。雑巾でサッカーをやる、とは、一体どんな状況であったのかと。その理由はわからずとも、その映像を読み手は思い浮かべることができる。  そして、更に登場してくる「大量の天使」は、「歴史に参画する蚊の大軍」に対等して存在するものだ。国防軍は理由がないと動けないが、果たして、歴史に参画する蚊の大軍は理由があって存在しているのか。やはり、理由はわからないが、ただそこに存在しているということはわかる。  蚊の大軍というのは、一匹一匹の蚊が一つの単位/集まりとしてまとめられた存在であり、歴史に参画する資格を有しているのは、冒頭にあった「輪を作」る必要があるだろう。さらに言えば、輪を作るためには、動いている必要がある。「死んで居る蚊と死んで居ない蚊」の違いというのは、歴史に参画するために「輪を作って悠々と」することができるかできないかという違いがあるのではないかと。  そして、「雑巾でサッカーをやるから死んでしまった」と喝破していた男は、口ではそういいながらも、自らが作った蚊の塚によってそこに存在することになってしまった「蚊の大軍」に対する想いを遺書に残しているのだ。それはつまり、蚊は歴史に参画してくるとあるのだが、逆説的に、蚊の塚を作り、雑巾でサッカーをやるから死んでしまった男は、蚊の歴史に参画したのだったと言えるのではないだろうか。 「壺中天」社町迅 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2289  「壺中天」という言葉について詳しく知らない。調べたが、それでもその言葉について理解ができたとは今のところ言えない。それでも、考えることはできる。  壺というのは、その輪郭の内に文字通りの空間を持っている。その空間は狭い空間でしかなく、その限界が小さいものであることを思わされる。そもそも壺の中に何を入れるものなのだろうか。すぐに思い浮かぶのは、水、であるが、実際に水が入った壺などあまり見たことないし、壺の中に何かが入っていることに出会った記憶がない。だからこそ、壺の中には、空間がある、というのがふさわしい。  壺の中は暗い。壺の中に、本当は何が入っているのかを確かめたことはないし、それを本当に確かめる/証明することはできるのだろうか。  壺中天というのは、壺の中に天がある、という発想でいいのだろうか。仮の定義としてそのように捉えると、それを否定することはできない。なぜなら、壺の中に本当は何が入っているかなんて見たことないし、見ることもできないからだ。壺の中はやはり暗い。そういった前提を踏まえれば、壺の中に何が入っていようと、それを疑うことはできても、否定の証明をすることはできないのだ。  この作品では、大きな世界が壺として捉えられていて、身の回りにある小さな世界がその底にあり、大きな世界という壺に満たされた「夜に浸る自分」という立脚点が先ず示されている。「星空」と「自分」は、分け隔てられた存在ではなく、大きな世界という壺の中で同一の空間に存在するものであって、まるで壺の中で「夜」という液体に浸っている自分がいるという表現/視点が魅力的である。壺の中が暗いからこそ、大きな世界という壺に、暗い空間の言い換えとしての「夜」があるというのも納得ができる。  それでも、身の回りの小さな世界に生きる自分は自分で「携帯している水筒」という小さな壺を手にしており、「お砂糖とスパイスが詰まっている」のだ。  壺の中はいつだって暗く、それがまるで「夜」の中にいるようであるが、「夜」という存在はいつまでも「夜」であることができず、いつかは明けなくてはならないため、「早く遠く霞んでいってしまう。」のだろう。夜は霞んでしまうが、人は大きな世界という壺の中に居続けなければならない。  「薄明の頃、水筒の中で眠る女の子が生まれた。」という唐突な出来事について、読み手は多くを語ることはできない。それは作品の世界の中では起こってしまったこととして語られている。壺の中の空間について、何かが在る/無いことを証明できないように、「水筒の中で眠る女の子」が在る/無いことを読み手は証明できない。この一行をそのままに読み手は受け取るしかない。  この後に、読み手に想起されることとして「水筒」という存在について先ずは考える必要がある。壺を持ち歩く人はいないが、今となっては水筒を持ち歩く人は少なくない。つまり、壺、しいては、大きな世界や夜や星空などは、浸ることなどができたとしても、持ち歩くことはできず、また移り変わるものだが、水筒は身近なものとして持ち歩くことができる。語り手は、身近な存在として「水筒の中で眠る女の子」を持ち歩く権利を有したのだ、と、最終行を言い換えることができるだろう。そのことによって、読み手はその後の成長物語などを自由に想像できる権利を有するのだ。 「Borderline Marmalade」北村灰色 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2363  過去や記憶や思い出というのは、その人にしか持ちえないものであり、記録の証明はできても、記憶の証明はできない。それでも、現在という時間に対する過信というものは生きている以上つきものであって、「過去よりも今が大事なんだよ」という言説を耳にすることがある。  冒頭が1999年という、おそらく語り手にとっての過去が描かれており、「有刺鉄線を一心不乱に掴んでいた」ということが語られる。語り手はいかようにも語ることができるが、それが事実/本当であるか証明できない。ただ、それと同時に読み手にとっても、「そんなことは起きていない!」という否定を証明することもできない。一見起こり得ないだろうことを目/耳にしても、先ずは受け入れる必要がある。そして、「醒めきった今を僕らは嘘だと否定できるから!」という、現在に対する疑問が投げかけられる。現在は現在にあるのだから、一番身近な時間であるはずなのだが、現在に対する過信は全くなく、むしろ、証明できないはずの過去について語られているという構造に気づかされる。  「首のない人形に充たされたクレーンゲーム」など、在り得ないだろうと一見否定することができるかもしれないが、作品内では「ゲームセンターの端でワンコインの首吊り」というように、それが起こり得る根拠が提示されており、「あ、ゲームセンター内でお金を浪費していることが、死に近づく行為として捉えられていて、ゲームセンター内で量産される死に近づく人々がクレーンゲームの商品になっているのか」と、単なるホラー映像としてではなく、ユーモアとして捉えることができる。  「僕の網膜を包んだ橙色だけが唯美しくて」という表現も、何気ない表現なのだが、後に出てくる「夕景」を見て、「僕は夕景の橙色に包まれていた」というありきたりな表現ではなく、その表現に至るまでの工夫が見受けられる。「夕景」が印象的であったことは伝わるのだが、それをどのようにして読者に届けるのかということ。単に「夕景はキレイだった」とか「夕景が街を包んでいた」とかではなく、夕景が網膜を包むという構図は、書いたもの勝ちというか、驚きである。  コインランドリーについても、ゲームセンターのように、機械に硬貨を入れ込むものとして共通点がある。一見無関係な存在は、導かれるようにして導かれているのだ。ゲームセンター内では、ゲームセンターで遊ぶ人々が「首のない人形」としてクレーンゲームに並べられるという循環している/流れていることを想わされるが、コインランドリーではいまや止まってしまった時を感じさせ、そこには循環ではなく、滞留を思わされる。  「マーマレードの夕暮れに浸されたパンが、フレンチトーストになれないってことにいつの間にか気づいていたのに。」という一行は、何を示しているのだろうか。単なる語り手の気づきでしかなく、その気づきを読者が共有することはできない。ただ、「マーマレードの夕暮れに浸されたパン」がより価値の高い「フレンチトースト」に昇華することができないのだ、と示されており、ここには誠実な姿勢が感じられる。個の存在はあくまでも個の存在であって、目の前にあるものを幻想的に捉え、違うものに昇華してしまうのではなく、あくまでも別物なのだと、自戒を込めているように感じられる。このことを思えば、語り手は過去や記憶や思い出というのを、別の物に置き換えて昇華しようとしているのではなく、あくまでも、見ているままに描いているのだと言うのは、言い過ぎであろうか。いや、そんなことはないだろう。「首のない人形に充たされたクレーンゲーム」は「羨望されるキ〇ィちゃんが置かれたクレーンゲーム」に昇華されるはずはなく、現実をより現実のものとして捉えた結果として見えたものなのだろう。 「わたし。」なつめ https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2280  「わたし」について語られた作品は既に多くある。その中で、いかにその違いをうむことができるか。そもそも「わたし」という存在について考える必要などあるのだろうか。幸か不幸か、人の眼は他者を見ることはできても、他者を見るようにして自らを見ることができないようになっている。そういった点で、「わたし」と「他者」を分け隔てるのは、その眼差され方にある。しかし、他者が「痛い」と述べる時、その痛みを自らのものとして痛むことはできなくとも、自らの痛みの経験によって他者の痛みを推測はできる。そのようにして、他者を眼差すことが第一にあって、それを敷衍して、他者を眼差すようにして、「わたし」を眼差すことができるだろう。あくまでも、「わたし」を眼差すようにして、他者を眼差すわけではない。他者がいるからこそ、「わたし」を眼差すことができるのだ。  だからこそ、この詩の題名は「わたし。」となっていながらも、初めに他者の言葉/存在が示されていることが効果的であると言える。誰かの言葉を鵜呑みにするということ。誰かの言葉に対して、反論や反発も無論できるのだが、相手を「ペテン師」と疑いながらも、鵜呑みにするという行為をもって、「わたし」を「純粋」「一生女の子」と定義づけられている。  自らに対する定義づけは続く。「私、臆病だから、」と。そして、「死にたい」と口に発することに対しても「気晴らし」だという定義づけがされる。このようにして、この少女は世界に定義づけをしていくことによって、世界との関係を保っている。  「わたし」について語られた詩では、ついつい「わたし」だけが描かれていると思わされてしまうが、この作品では、他者への眼差しが絶えることはない。「大人ぶってる君が、紛れもない君ってこと/私が1番知ってます。」と、やはり、「君」もまた「わたし」によって定義づけられる存在である。  最終連では、悩みを吹き飛ばして、欲望のままに生きていきたい様子が示されている。「わたし」を描くということは、それこそ「自分語り」なのかもしれないが、「わたし」はこのように世界を見ている/定義づけている、ということを示すこと。単に、I am ~~というbe動詞による定義づけではなく、眼差し/定義づけを示すことが「わたし」を語ることと同義なのだと気づかされた。 2.おわりに  選評を書いてから「はじめに」を書いたから、「おわりに」で書くことがなくなりましたあ。今月分も今日書き始めて、選評書くだけで大体5時間ぐらいかかりました。  僕は9月に投稿していないので、選ばれることがないのですが、選評書く方が楽しいかもしれないです。議論スペースで選評や投票について議論されてますが、僕が皆様に伝えたいことを率直に述べます。  皆さんもぜひ選評やってみましょう。選評結果に納得がいかないこともあるかもしれませんが、それなら、なおさら書いてみましょう。投票しましょう。ここに集まっている方は、もちろん詩を書く人です。それと同様にして、もちろん詩を読む人でもあって欲しいというのが僕の願いです。  あと「僕の選評を嫌いになっても、僕が推した作品のことは嫌いにならないでください!」これが切なる願いです。僕の選評は長いし、読みづらいでしょう。わかってます。だけど、輝くべきはその作品であり、その作品を生んだ作者です。この選評における主人公は、僕ではありません。ここにある作品たちです。  あ、最後に、もし、選評について語り合いたいとか、詩論について語り合いたいという人がいたら、声かけてください。そういったことについて語り合える場所があればいいなあと思っています。 以上!あでぃおーす!またお会いしましょう!


コメント欄を表示する (4)
沙一 (2018-10-06):

なかたつさまへ 拙作を深く読んで下さり、また、ご丁寧な選評を書いて下さり、誠に感謝しております。 今作は掌編小説という位置付けで書きましたが、内容的に詩と関わりもあり、ビーレビの多様性を尊重する風土もあって、投稿させていただく気になれました。 とくに想い入れのある作品でしたが、自らの内にしまっておくのではなく、この場に公開してよかったと思っています。 ありがとうございます。

二条千河 (2018-10-06):

拙作「蜂蜜紅茶」にたくさんの文字数を割いていただきまして、大変光栄です! 作者自身よりも、作品を精密にご理解いただいているように感じました。 殊に冒頭の「もちろんそれはただの比喩」についての分析があまりにも鮮やかで、自分が書いた時にそこまで意識できていたかどうかはともかく、まさしくそうに違いないと激しく納得しました。 選評って素晴らしいですね。 >「死者の町」の話であるにも関わらず、どこをとっても連関があり、詩行自体が死んでいない。 >何でもなく読み進めることができるのだが、こうした作品こそ書くのが難しいだろう。 とても嬉しいです。ありがとうございました。

なつめなつめ (2018-10-14):

なかたつ様、ありがとうございますm(_ _)mすごく嬉しいです。 私は普段から「他者からみた私」を意識して生きてます。もちろん、私しか知らない私もすっごく大事だけど、他者からみた私は私の知らない私なんだろうな、って。それを受容して自分を磨いてもっと素敵な私になれば、もっと私を好きになれるって思います。自論だからあてにならないけど…。実は意図してはないのですけど、生活が作品に現れっちゃったのかなぁと…恥ずかしいような、嬉しいような。思いを全て汲み取って下さり、感謝で胸がいっぱいです。 本当にありがとうございました!!

仲程仲程 (2018-10-24):

よりそって読んでいただき、ありがとうございます。 いろんな場面をつないでいただいたことも嬉しいです。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

   

羽田恭 
作成日時 2018-10-18
コメント日時 2018-10-24

 

蠅がたかる 我が子を 河に流した 体の温もりが消えゆく我が子を抱きかかえ 私は街中をさまよい歩いた 薬を薬を、と いつしか蠅は我が子の周りを飛び交い ひっきりなしに我が子の体を舐め回した それは私の体までも蠅で真っ黒になるほどだった それでも私は叫んだのだ 薬を薬を、と この子に、と そんな折、芥子の種がこの子に聞くと耳にした 誰一人死者を出したことのない家の芥子ならばその呪力でもって この子は治る、と だがこの世は死で満ちていた 我が子は死んだのだ 蠅はそれを教えていた ずっと 周りを飛び 舐め回し 蛆虫を這わせて 私に伝えていた 助けを求める叫びをかき消す羽音をもって 私に ずっと 蠅がたかる 我が子を 河に流した もはや腐り 蛆虫が這いつくばり 蠅や蟲たちの糧にしかならない 我が子を 私はこれから家を出 髪を剃り上げる 我が子には芥子が効くと声をかけた彼の下で 蠅よ 我が子を送れ 共に流れる死者たちを送れ そしていずれ せめていずれ 仏となれ


コメント欄を表示する (12)
まりも (2018-10-18):

なかなか強烈な作品ですね。 情景描写がリアルな分、これは現代なのか?ということが気になりました。 あまり設定やシチュエーションを書き込んでいくと小説になってしまいますが、現代であれば難民キャンプや疫病や飢饉に教われている、「後進国」のイメージ。 江戸時代の天然痘やコレラが大発生した景も思い浮かべました。

羽田恭 (2018-10-18):

まりもさん、こんにちは。 クリシャー・ガウダミーの話を元にしました。 釈迦の下で出家した、実在の人物の話です。「私はこれから家を出/髪を剃り上げる」とあるのはそのため。 釈迦の時代の尼僧の詩をまとめたテーリーガーターという経典にもこの人の詩が残っています。 この話自体は、仏教説話としては有名だったりするので、”クリシャー・ガウダミー 仏教”で検索すれば元になった話が出てくると思います。

藤 一紀 (2018-10-18):

こんばんは。羽田さんのこれまでの作品から読みながら、仏教的なテーマであると推測しました。ひとの生死にかかわる悲痛な状況が書かれているのですが、他方で、死者に集る蝿、蛆に注目しました。死体とそれに集り貪る無数の蛆や蝿の蠢きは、ひとの生死の外側に厳として存在する自然の働きであり、餌場とし解体させることによって、ひともまた自然の秩序のうちにあることを証する。この蛆や蝿といったミクロな存在が浮かびあがらせるマクロ(自然の秩序)な働きを宇宙的なものと見るのは些か拡大解釈になるかもしれませんが、そう考えてみたくなります。そして、それゆえにこそ、ひとにとっては無情であり、悲痛さはいや増すのではありますが、それにとどまらない広がりと奥行きのある作品に感じます。

羽田恭 (2018-10-19):

藤 一紀さんこんにちは。 蠅や蛆に関してはそのような事を考えて出してはいなかったのですが、そう考える余地はありますね。 確かに自然にのシステムの中に循環させて、転生させるみたいな。 いずれそういった意味でも仏となる、とは言えるかもしれません。 結果として、いい作用があったようです。

かるべまさひろ (2018-10-20):

仏教の話を、ミスチルのライブのMCで知ったのですが、そのお話だったので、個人的に印象深いタイミングでした。 描写は焼き付きますが、 人の慈しみ方とはどんなものだろうか、これは慈しみとも言えるとも思うが、この言葉で表しきれてないこの感情はなんなんだろうか、と考えさせられました。

二条千河 (2018-10-20):

我が子が死んだという事実を否応なく突き付けてくる蠅、人情としては憎んでしまいそうなところなのに、死を教えその亡骸を送ってくれる存在としてとらえる、その視点に惹かれました。 仏教的な世界観ですが、それを意識しなくても、十分に響くものがあるように思います。

羽田恭 (2018-10-20):

かるべまさひろさん、こんにちは。 この元になった話を、偶然にも聞いていたとは。 自分にとっては印象深く、とても好きな話です。 仏教的な感覚としては、人が死に、別れてしまう苦しみを認識し、それに正しく対処するのが慈しみになると思います。 ただそれでも悲しみを感じてしまう、という事かもしれませんね。 二条千河さん、こんにちは。 釈迦の場合(ここでは芥子の種が効くと声をかけた人です)その子は死んだのだ、と認識させる対応を取っているので、蠅をそのような存在として書きました。 劇的な描写がうまくいったようで、よかったです。

るるりら (2018-10-21):

こんばんは。元になったお話というのは、 わが子の死をどうしても受け入れられない母親が、お釈迦様に  「わが子を生き返らしてほしい」と懇願したところ お釈迦様は 「よろしい生き返らせよう。ただし、誰一人死人を出したことのない家の芥子をもって くることができたなら生き返らせよう」と おっしゃったので、母親は 一所懸命に死人をだしたことのない家を探した。けれど、人が死んだことのない家は 一軒もなかった。 なん日もかけて家々を巡ることで、その母親は ようやく 自分の子供も しょうがないのだということを やっと理解した。という風な あらすじの話を聞いたことがあります。 この詩と 私の知っている話との違いは 病の子を治す妙薬を探す話ではなく、死人を再生させようとしている母親の話だということが 違います。 また、この詩ではハエがすでに死をおしえてくれていたことになっているのですが、 ハエは生きている人間にも たかることがあります。 日本でも 戦中戦後に多くの生きている人々の体に ウジがわきました。それでアメリカが大量に殺虫剤を噴霧したりしたようです。死人のほうが生きている人よりウジがおおくわくことはあるとはおもいますが、ウジは直接的には死を意味しないのではないでしょうか? そんなかんだの理由で どうも ふにおちませんでした。 わたしが不勉強のせいなのかもしれません。 失礼がありましたら、すみません。

るるりら (2018-10-21):

しつれいしました。生きている人々にわいたのは しらみでした。 詩作品を汚すようなコメントをつけてしまい もうしわけありませんでした。心よりお詫びいたします。

羽田恭 (2018-10-21):

るるりらさん、こんにちは。 そういえば昔聞いた話で、インドのマザー・テレサが開いた施設に行ったことのある人の話だったと思うのですが、生きている人の足が壊死しかけていて、そこに蛆が湧いていて消毒薬を浸していた、というのを聞いた覚えがあります。 となると、間違ってはいないのでは。  まあ、この作品の母親は、蠅に対してそう感じた、ということで。  それと、元の話とは自分がやりやすいよう好きに変えています。元の話に蠅うんぬんは一切ないですし。 出典によっても微妙に変わってきたりもしますし、あまり気にしないでいてくれたらなと。 自分のアレンジということで。

るるりら (2018-10-21):

つい よなかに ねぼけておりました。良い詩だと思います。しつれいしました。

羽田恭 (2018-10-24):

るるりらさん、再びこんにちは。 良い詩とはありがとうございます! 励みになります!

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

選評 2018年9月分〈初めてフルキュレーションをやってみた〉   

ふじりゅう 
作成日時 2018-10-13
コメント日時 2018-10-24

 

《挨拶》 こんにちはこの文章を読まれている少数の方々、藤井でございます。初めてフルキュレーションをやってみたく思いますので温かい目で見守ってくだされば幸いです。 《はじめに》 フルキュレーションをしていると、皆様の素晴らしい詩にぐんぐん嫉妬心が芽生えてきます。 それはさておき、一応選考基準を記しておきます。 ①文章としての魅力 当たり前の事を書いているようですが、文章としてどこまで魅力があるかは重要な要素であると考えています。なぜあらためてこのような事を申し上げるかと言いますと、B=REVIEWというコミュニティは詩のみを募集している訳ではなく、様々な文章スタイルを含め広く受け入れるというスタンスであるとTwitterに書いていたからであります。であるならば、より広く選定する際に最も重要なことは何か、と考えた時、私としては文章の魅力があるかが大きいだろうということです。 ②〈心〉の描写 特に詩においてではありますが、心の描写が巧みな作品を選考基準のもうひとつとして挙げました。詩は心理描写において優れた表現方法だというのが私の自論でありまして、それを皆様に押し付けるつもりはありませんが(心理描写がダメだからこの詩は駄作だ、といった事はないし口にも出さない)、私が選考する立場であるならば、私の好きな詩を選びたいというある種独裁的な立場も、過度でないならば許容されたい、もっとくだけて言うならば許して欲しいと存じます。 なんかグダグダと書きましたが、要するに私の好きな詩を選びました、ということでございます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 以下、大賞候補、優良、推薦作を記す ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 《大賞候補》 「唯一の友だち」帆場蔵人 ポストという無感情の存在に対してここまで心理を表現された技術もさることながら、 切なくも美しい文体から語られる主人公の孤独がポストの悲壮感と混ざり、心が締め付けられるような素晴らしい世界を作り上げています。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2271 《優良》 「ラスト・アイス」夏野ほたる 夏野さんの作品は、何か不穏な空気を読み解けば読み解くほどビリビリと感じつつも、しかしその確信に辿り着けないもどかしさにあるように思います。然るに本作もかなり不穏ではありつつも、「宇宙人と知って」などの不思議な言葉で極めて自然にカモフラージュされている。この様な芸当は夏野さんならではですし、私にとっては憧れであります。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2260 「ストロボ」survof 基本、私は詩の中に〈作者の言葉〉あるいは〈叫び〉〈意見〉の様なものがあるのはあまり好きではありません。作品は作品として自己完結してこそ美しいと(今は)考えます。啓発的な文章は、それこそ自己啓発の本に任せておけばいいという自論も持っています。 かなり脱線しましたが、本作は主人公の目線で、主人公の青臭さが作品内で自己完結している、私の好きな作品だと感じました。その青臭さは今作者自身が抱えているものではないという事が作品内で伝わってくる、いい意味での創作物としての理想がそこにはありました。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2264 「私は良心」せいろん 良心という言葉を巧みに使い、崩壊した良心を退廃的に表現するこの詩は、どちらかというと技巧派な印象を受けました。 作品の評価とは別になりますが、「せいろん」というペンネームが素晴らしいと思います。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2348 《推薦》 「星」唯代終 星という神秘的な、しかし食傷気味なモチーフをテーマに据えながらも、いい意味で基本に忠実と言いますか、青春の甘酸っぱいイメージをきめ細かく表現されていると感じました。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2282 「Wheel of F F F FFFF For tune」ゼンメツ 詳しく読み解いても一体何をテーマとしているのか分からなかった読解力の無い私ですが、兎に角魅力ある表現、節が多くて好きです。「幾重にも突っ伏したパンのうえにまた新しいパンの名前を重ねる」は忘れられません。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2309 「飼い主のない猫」仲程 やるせない心を浮かぶ様々な世の風景に重ね、何気ない日常に(風景に)君がいたことを思い返すという技術の光る詩です。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2247 「あまがみ」るるりら まったりとねっとりと相手への愛情表現に溺れつつも、その行く先がいわゆる前戯とも言える「あまがみ」である、というテーマ自体が非常に面白いです。独特の文体から発せられるねっとりとした雰囲気も魅力の一つです。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2328 「0. my world.」三浦天才詩人果実 非常に失礼な話になりますが、選考した時点ではこの作品は選んでいませんでした。しかしどうにも引っかかる。どうにも忘れられない。それはやはり、この作品が素晴らしいからでしょう。 娼婦ともとれる主人公の目線で語られる冷めた世界で、大きな経済(マクロ経済)の一端に自分がいるのかも知れないけどそんなものは知らないと。淡々と語られる世界への冷酷な目線も「ものかなしい」作品です。 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2237 ーーーーーーーーーーーーーーーーー おわりに 今までフルキュレーションは怖くてやっていませんでした。何故かと言うと、私のような非才が才能ある方々の優良な詩を選考するという行為に疑問を感じたからであります。 しかし、やりたい衝動に駆られて抑えられませんでした。 転じて、フルキュレーションをすることで自らの作品を客観視出来たということは思わぬ収穫であったと思います。つまり自分の作品がどれだけ駄作なのかと。しかしそれは全くもって悲観的なものではなく、むしろ向上心がぐんぐん上がってくる今日この頃です。 最後になりましたが、このような駄文をお読みくださった方々ありがとうございました。また、素晴らしい作品を読むことが出来て幸せでした。自分は自分の幸せの為がんばります。 藤井龍平


コメント欄を表示する (5)
ふじりゅう (2018-10-13):

《訂正とお詫び》 三浦さんのペンネームに誤りがありました。正しくは『三浦天才詩人果実』になります。訂正してお詫び申し上げます。

帆場蔵人 (2018-10-13):

ふじりゅう さま 今朝、起きてこちらを覗いて目が点に。まさかぼくの作品を大賞候補に押して頂けるなんて感激ました。 ありがとうございます。

ふじりゅう (2018-10-13):

帆場さん、こんにちは。すばらしい作品でした!

るるりら (2018-10-24):

拙詩を 《推薦》していただきありがとうございます。はげみになります。

ふじりゅう (2018-10-24):

るるりらさん、こんにちは!次作も楽しみにしてます!

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

   

シ可 
作成日時 2018-10-05
コメント日時 2018-10-23

 

シャリ、と噛み付いた時の心地よさ 水気が多くみずみずしい 決して主張しすぎない味だが 味わい深く、すっきりとしている それから香りも品がいい 表の皮の色合い、模様のきめ細やかさ ほおずりをしたくなる 手触りと、手にした時のほどよい重み これが夏の終わりからしか味わえないとは 全く人生のうちの大部分の損失である 梨、 その一文字からして なんといとおしい 凛とし、芳しい、気持ちのよい果実 秋に出逢い秋に別れた 恋人たちのように また今年も出逢う どの様に剥くか、食すか そればかりを思いつめて


コメント欄を表示する (3)
༺❦柿原 凛☂༻ (2018-10-05):

梨おいしいですよね。しゃりっとしているから20世紀梨でしょうか。僕はどちらかと言うとラ・フランスのしっとり感も好きだったりします。 梨の紹介文のような作品だなと思いました。

stereotype2085 (2018-10-06):

梨の描写、梨への愛着から「秋に出逢い秋に別れた」恋人たちへと言及する流れ。とても意外性があって良いです。一瞬梨への想いを執拗に描く実験的な作品かと思いましたが違いましたね。上手くまとまっていると思います。

オオサカダニケオオサカダニケ (2018-10-23):

「これが夏の終わりからしか味わえないとは」という殺し文句に完全にやられました。「9月から」や「秋に」味わえるでは普通に果物の旬を説明しただけになります。特に、夏の終わり「からしか」という言葉のセンスに打たれました。

コメントを書く
コメントを書くにはここから登録してください。またはログインしてください

投稿作品数: 261

© B-REVIEW 2018