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〈安閑夜話〉 さようなら胃袋
〈安閑夜話〉 さようなら胃袋 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 3009.2
お気に入り数: 3
投票数 : 10
ポイント数 : 9
作成日時 2021-03-05
コメント日時 2021-04-24
項目 | 全期間(2024/12/15現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 2 | 2 |
総合ポイント | 9 | 9 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0.5 | 0.5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合 | 4.5 | 4.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
- さようなら胃袋の推薦文 (カオティクルConverge!!貴音さん)
写真いらないですね。詩から逃げてるだけなので
0あぁ…目にしていただき ありがとうございます先生。 たしかにどうしても詩から逃げてしまう自分に 恥じ入るばかりです。 どうすればいいのでしょうか…
0登場人物と「父」との切れそうで切れない絆みたいなものを感じました。詩と画像もよく合っていると思います。
0デパートの大食堂でおなかいっぱいになった思い出と、子供のころの希望にあふれた夢が重なります。 それらすべてがノスタルジーの彼方へと去ってしまう寂しさ?それとも充足感? 詩でなくてもいいと思いますよ。メロディーに乗せるのが歌詞なら、さしづめこれは写詞ですかね? 写真といううつろう現実の切れ端にピン止めされたタグのような言葉たち。 ベンチの写真がいいですね。白黒だったらまた別の趣がありそうです。
0こんな風なものが読みたいなという作品に当てはまっていました。 幼稚園のときわくわくして読んだ教科書のようで温かさを感じました。 楽しく読ませて頂きました。
0僕も一時期写真に凝っていた時期があって、一眼レフカメラやミラーレスカメラを持っているのですが、昨年から出かけることが大幅に減り、その出番も減ったというところです。その中で、こうした写真を見るということ自体も少なくなってしまい、改めて新鮮な気持ちになりました。 さて、作品です。普段はあまり意識しないのですが、写真というのは視覚に訴えるものがあるのですが、それよりもこの写真が撮られた場において、どのような音や声があったのかと思わされました。一枚目からは、スプーンが食器に当たる音やグラスをテーブルに置く音。周りの人たちのしゃべり声。二枚目からは風の音や枝が揺れる音。三枚目からは階段を上り下りする足音や館内の放送。そして、四枚目です。なかったはずの声が「さようなら」「さようなら」と二体のマネキンがあることで二回呼びかけられているのですが、この場所にこれがあったという偶然を上手く切り取って、必然に見せられてしまうという。 記憶という単語は作中でも使われているのですが、記憶もまた視覚だけでなく、聴覚が伴うものであり、ましてやその記憶が正しいかどうか判定する術は読み手にありません。それでも、写真によって聴覚が刺激されたというのは、まさに「さようなら」「さようなら」という言葉がそうさせたのであり、「さようなら」は声に出さなければならない言葉でしょう。そして、その声には現場性というのが重要であり、「さようなら」という言葉は、例えば手紙のような文字で使われたとしても、時間・空間的隔たりを伴ってしまいます。その隔たりを写真と「さようなら」という言葉によって、ないものとしているなあと。 デパートのマネキンが呼びかける「さようなら」は、デパートをあとにする人たちに向けてでしょうが、タイトルは「さようなら胃袋」と。これが父の摘出手術に重なっているもので、「さようなら」が複層的に、上手くかみ合っているなあと、その調和に対して僕は非常に成功しているという感触を覚えました。
0夜道さんのこのシリーズ、見方が変わりましたよ。当初は各作品を単発にみて優劣を見極めていたんですが、連続するところからみえてくる味わいがありますよね。で、それって優劣でもないし、名作か駄作かでもないんですよね。 前作のコメントで宣伝広告に堕していると書きましたが、堕しているのではなくて、広告の機能を純化されてるなあって思えてきたんです。個人的な広告ということ。宣伝広告というものは押し付けてくる嫌な感じってあるじゃないですか。それは広告する側のいやらしいさをみつけてしまうからで。でも個人的な広告っていいですよね。そもそもこの場所は投稿する掲示板なんだから、みんな広告の意図が少なからず見え隠れしちゃいますし。夜道さんのこのシリーズはこの場所にとても似合っているとも思います。作品を出す空間を考慮することって、かなり大事なことにも思います。
0写真の哀愁とそこから透け出てくるような詩がたまらないです。 >父親が胃袋と肝臓と脾臓を切り取られた日 ここからも無常を感じさせますね。
0とてもとても、切ない気持ちになりました。
0AB さま お言葉いただけまして ありがとうございます。 たわいのない一杯の茶に 塩むすびのひとつに おもわぬ動揺などして 息が詰まるようなとき 歳を重ねてきたことは 無駄じゃあなかったと 思えますよね。 沙一 さま この一枚に 立ち止まっていただけましたこと うれしく思います。 人けのない踊り場に まるでしつらえたように 並んで立っていた「彼」らの あまりにもセツセツと訴えるその気配に 中判フィルムを入れた 60年も前のマミヤ6を構えながら 戦慄すらおぼえたのでした。 ペロッと一枚物としてあっても わずかばかりのメランコリーをふくめた 写真ではありましたが 無作法ではあっても 彼らの声を直に貼りつけたいがために 前段の行数を使ったとさえ言えます。 福まる さま ありがとうございます。 「もっと生きてるうちにオヤジと いろいろ話しとけばよかった…」 とうそぶきながら 存命中はけっして話しなどはずまない 父子ばかりという世のならいにもれず わたしも泉下の人となってようやく 父と語り合えるようになりました。 komochi さま 幼き自分のこころ踊らせた 古びれたデパート 大食堂、カレーライスなど そんな絵にかいたような舞台設定に 自分が出くわすとは 思いもしなかったのですが まみれてしまえば さながら「時の旅人」を気取って 詠嘆してもしつくせないたかぶりようが 恥ずかしくもあります。 〽︎ 写真では伝わらない〜 言葉でも伝えられない〜 と誰かが唄っていたようないないような そんな息急いた感情のままに作った 「写真絵本」のようなものでした。 ありがとうございます。 てんま鱗子 さま すこしでも お楽しみいただけたら幸いです。 削り出したきらびやかな言葉たちを 高度で精緻で巧妙なバランスで 組み上げるような 文芸の域など望むべくもない 凡夫でありますから ささやかな虫のねのようなメッセージが そのお耳に届きますよう。 なかたつ さま ていねいな詳述いただけまして ありがとうございます。 実を言いますと 詩作のまねごとをしはじめる前に 写真表現への興味が先にありまして その難解さ不可解さ曖昧さや 含みもったテクストの支持体としての ふところの深さなど 詩歌と並ぶような表現だと思っていました。 しかし、撮れども写せども 無意識に写真に含まれた様々なテクストに 着目して感応してもらうには どうにも「言葉足らず」な 表現にとどまってしまい 隘路に行き詰るようになりました。 詩句だけで、写真だけで表現せねば…と 六畳間のような中途半端な視界から オモテに出てみようとしました。 世界は思った以上に広くて大きくて つかみきれないほどの 事象にあふれていました。 neue Ära records さま 毎度のごひいきにあずかりまして ありがとうございます。 その個人の氏素性や 来歴を隠すものはやましく 匿名の本来の無名人でいることが難しくなり 個人性を細大漏らさず社会に広く布告でき 他者との円滑で効率的に コミュニケートできてこそ 正しき社会人のありかたのようですから 人は何らかの「個人広告」を掲げて 生きていかざるをえないようですよね。 ならば少しはキャッチーで のみこみやすい広告を おずおずとでも掲げてみたいものです。 ただ、さして良い売り文句 セールスポイントも載せられない 来歴の自分には広告は広告でも “自分で自分の行方を 見失ってしまった男”の 行方不明者捜索ポスターを 自分で持って立ち尽くしてるようです。 誰かが私という実存を 見つけてくれる日まで。 羽田恭 さま お言葉いただけまして ありがとうございます。 幸いにも いまだ肉体を臓物を切り裂いても 命をつなぐ局面にはいたっておりませんが 生き物はこんなにも精密で 多機能な「機械」を 身のうちにかかえて生きているのだと 日に日に感じてきております。 「機械」であるかぎり かならず目詰まりして壊れて 動かなくなる時の 「異音」が鳴りだしてきました。 ryinx さま わかりやすい「切なさ」のコード進行にも 耳を傾けていただき感謝いたします。 「切なさ」には ある種の快楽性を含んでいますよね。 余談ですが 産まれてから3歳すぎまで暮らした マンションから 引っ越し作業を終えた部屋から退出して 2階のその部屋を見上げながら 「じゃあ最後にお部屋にバイバイして」と 娘にうながすと手を振りながら言いました。 「なんだかね、涙でそうになっちゃった…」 おそらく産まれて初めて嗅いだ 「切なさ」の匂いを吸い込む 子供を見て生じた 珍味な「切なさ」を狂楽して喜ぶオレは だめな父親だなと思ったものでした。
0深刻さが伝わって来ると同時に、抒情もあると思いました。写真の効果もあると思いました。
0エイクピア さま ご賢察のお言葉くださいまして ありがとうございます。 このような作りにつきましての ある文章があります。 我は ──序にかえて 我はかつて詩人たりしか ひそかに今も尚 我は詩人なりと思へるなり 詩人は常に文字以て詩を書かざるべからざるか 我は今 詩情を絵画に託す あな哀れ 我が詩情は詩とならずして 絵画となるなり 川上澄生『我が詩篇』より 川上澄生は 幼少から詩歌にしたしみ 青年期は俳句・短歌・詩・散文などに 旺盛な創作にはげみつつ 木版画による表現にもつとめ 同時代に生きる 萩原朔太郎や北原白秋とも交歓した 詩人・版画家であります。 詩歌の作品自体は お世辞にも傑出したものでなく 新奇さや高雅さや巧緻さに欠けるような 凡庸な作風のようですが 詩歌の天才にかこまれた我がみを 知ってか知らずか この序文の詩に感じる 「哀れにも詩だけでは詩たり得ない我が詩情は 絵画に託してしか振り向いてはもらえまい…」 と嘆くようなその心持ちは いまありありと胸に去来し 同感してやまないのであります。 ことほどさように 詩歌、俳句に絵画や写真を添える手法は 大正・昭和初期にも流行するほど 日本人の詩ごころによくなじむ 表現だったようであります
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