なかたつ

投稿作品数: 26 コメント数: 200プロフィール: 詩 バンド 天然パーマ 飯島耕一 西脇順三郎

投稿作品

証明書

2017-03-18

道なり

2017-04-09

ということ

2017-05-28

大宮公園

2017-06-29

2017-07-17

星の誕生日

2017-08-20

青の断章

2017-08-30

夢の償い

2017-10-22

語り、手

2018-08-31

募集中

2018-10-15

俯瞰

2018-10-31

コメント

 人形に感情はありません。だから、「わずかな共通点でも、あれば良い」「私に似た人形を探す」を探す作業は私の見た目を元に探すしかないのです。それでも、この私は「私と同じように髪の毛を切りそろえ」て、人形をより私へと近付ける作業をします。そこまでして、私に似せる必要性はどこにあるのでしょうか、そんな疑問が湧きます。  そして、もう一つ湧き立つ疑問として、どうして私は人形をめった刺しにして、私自身を傷つけることができないのでしょうか。それは、「死にはしないと約束してしまったの/私と、あの人に約束してしまったの」という約束があるからです。それがどんな約束であるのか、あの人は一体誰であるのか、それは私のみ知るものですが、ただわかるのは、その約束が私にとって到底破りえない約束であり、無残な姿になった人形を見て「なんと、うらやましい」と抱く感情から、その約束に対して後悔していることがわかります。  最後の連は、果たして誰の声によるものでしょうか。私でしょうか、それとも、人形が私に対して語りかけているのでしょうか。「お前に似た、同じ名の人形が」というのは、私が人形に対して語りかけているだけでなく、人形が私にかけて語りかけても成立するものです。だからこそ、この作品に対して「ホラー」という批評が成り立つのではないでしょうか。  同じような人形を何度も買って、何度も繰り返されるこの作業は、私の「約束に対する後悔」という無意識的な感情がそう動かしているわけですが、それでも、私を傷つけずに人形に執着するあたりが、私の冷静さというものが垣間見えるように思えます。そう思うと、勝手に位置付けたものではありますが、「約束に対する後悔」が昇華され、そこに目的はなく、「人形を傷つけること」そのものが私にとっての目的化(惰性化、習慣化された行為)されているようにも思えます。私は私を傷つけることができず、いくら人形を私に近づけようとも人形を傷つけることしかできない。約束を破ってしまいたいなら、人形を私に近づけるのではなく、私が少しでも人形に近づくことによって、ようやく私は私でなくなり、私が人形になることによって、この私が繰り返される行為から脱却できるのだと思います。 (「弔い人形」)

2017-03-12

 「午前五時」について皆様もご意見を寄せておりますが、この時間に対する意味合いはこの詩の中で表されているので、説明してしまうとその意味合いが色褪せてしまうことがあることを承知で、僕なりに読み解きます。  この詩における「午前五時」は、夜と朝の狭間です。夜でも朝でもなく、「立ち尽くす僕の影に/群青は消えた」時間でしかありません。夜の時間帯は、日の光がなく、僕に影はできませんが、朝、日が昇ると僕の影が現れると同時に、「闇の中躍る街」が照らされて、その闇は消え行きます。つまり、街は闇の中で踊っていたと同時に、闇は街の中を覆っており、現れゆく僕の影にその闇が集約されるように消えてゆく、その瞬間が午前五時なのでしょう。  僕の影も街を覆う闇も僕の意思で動かせるものではありません。午前五時以前は、ひたすら闇に覆われているわけですが、その闇を照らすものが唯一「星屑」なのでしょう。ただ、その星屑は闇を振り払うほどの力はなく、また、僕にとっては決してよいものではありません。闇が僕の意思で動かせるものではないと同時に、それを振り払うためにも僕の意思とは関係なく訪れる午前五時を待つことで、その闇=群青が消えたのでしょう。  また、この僕は闇を振り払う希望を見捨ててはいません。「空を仰ぐ瞳の中に/最後の明星が見える」のですから、おそらく僕を照らすことによって、僕の影が現れ、群青が消える。僕の影があるということは、同時に、僕を照らす何かがあるということ。  必死にもがきながらも何かを諦めきれないでいる僕。確かに必死にもがいているのですが、時には僕の意思とは関係ないものに希望を託すことで、状況は好転するのかもしれないですね、そんなことを感じさせられました。 (午前五時の群青)

2017-03-12

 いきなり結末部分について触れるのですが、「誰か教えて始まりを」の連は一体誰の声なのだろうかと考えました。そして、「望まれなかった神話の」の連も同様に誰の視点から見た世界なのだろうかと。特定はできないのですが、「誰か教えて始まりを」というのは、アタシの声でありながらも、もとこさんの声でもあるように思えるのです。最後の連における「期待されない女神様」は「アタシ」であって、それまでは、アタシ視点で詩行が展開されていたのに、そのアタシが女神様という三人称になって俯瞰された世界へと展開されている印象を持ちました。  「アタシが目覚めたら/世界が弾けてしまう」のは、きっとアタシが神様の一種、もしくは自意識によって神様だと思い込んでいる存在なのでしょう。そのアタシと対比されている「伏せ目がちの神様」や「ひからびた胎児」の行ったことや言ったことに、アタシは納得がいきません。ただ、このアタシに問いたいのは、目覚めたら世界が弾けてしまうということを本当に知っているのでしょうか。世界が弾けたらアタシもそこに存在できないのではないでしょうか。それとも、世界が弾けてもアタシは神様だから世界の外に存在するものとして存在し続けられるのでしょうか。  「惨い現実も残酷な真実も/お腹いっぱい食べ飽きた」のは、やっぱりこのアタシは神様としていろいろなことを見てきたという自負を表しているのでしょう。食べ飽きた=見飽きたからこそ、現実や真実を見るのではなく、目を閉じて夢を見るのでしょう。 そんなアタシは見飽きた現実や真実をそれでも見続けないといけない宿命にあるから「誰か教えて始まりを」という連の欲望を抱くのでしょう。神様はいつまでも生き続けなければならないから、始まりも終わりもなく、ただ有るのであって、無になることもありません。  このように考えると、やはり最終連の女神さまが「バトンタッチを待っている」のもこの宿命から逃れたいアタシがそこにいるように見えるのです。 (Tangerine Dream)

2017-03-15

 実際に多く食べられているかは置いといて、ベーコンエッグは朝食の象徴として用いられているのでしょう。ただ、この詩においてテーマとなっているのは「朝」と「生」であり、直接的には語られていませんが、ベーコンエッグが「今日も生きるんだね」と責められながらも、ベーコンエッグ自体はそれこそ朝の象徴でありつつも、死の象徴でもあります。卵と肉は、それこそ生命の死そのものです。それも有機物の死。食べるということは、何かの死を抱いて生を続けるということ。逆に、反吐を吐くということは、何かの死を一度は抱きながらも、それを拒むということ。つまり、無理やりではありますが、死に近づくことだとも言え、同時に、生きることでもある。  マネキンもブリキもくるみ割り人形も、何かを食べずとも存在できるものたち。彼らがいつまでたっても生きることができないのは、食べるということを知らないから。タイトルや本題から逸れている気もしますが、そんなことを考えてみました。 (常識的に安定した殺人ウイルス)

2017-03-13

 このぼくは実に好奇心旺盛であり、それがぼくをぼくたらしめているのでしょう。ぼくはおそらくいろんな街を見てきており、それだけでなく、森のおくの森までいったことがあります。それも一人で。ただ、ひとりぼっちの孤独を洗いながそうとしているので、ひとりぼっちであることをいろいろなこと=未知に出会うことで紛らわしています。  その好奇心が、七色のカタツムリの殻=未知との出会いを引き寄せたのでしょう。そして、つい宇宙について考えてしまうのも、その未知への期待から考えてしまうように思えます。宇宙に行くことや見ることはできません。だから、考えるしかないのです。  たとえ、目の前に耳鼻眼科があったとしても、ぼくは未知を期待してついつい足を運んでしまいます。受付の看護婦が述べていることは、いろいろな事象が散りばめられています。カタツムリの殻が、歌手=遠い存在が使い始めたこと、若いおんなのこたちから憧れのものであること、道徳的な教えを受ける女学生には禁止されていること。ただ単に興味を惹かれて数え始めたカタツムリの殻にそんなエピソードがあったとは、もちろん想定していなかったぼくはつい身じろいでしまいます。  期待を越えたであろう未知との出会いにいざ遭遇してしまうと、ぼくは委縮してしまったわけです。「まなざしはこころからのささやかなプレゼントである。」という冒頭は、初見だと、何だか温かい言葉であるように思えたのですが、結末まで読んでからまた冒頭に戻ると、この言葉の意味合いが違って思えてきます。このぼくに問いかけてみたいです。  「今となっては、まなざしがあなたにとってささやかなプレゼントですか?プレゼントには有難迷惑もあるかもしれませんね」なんて。 (まいまいつむりのまいこちゃん)

2017-03-13

 不思議だなあと思ったのは、「校庭でふざけあう子供たちのなかに/ひとつだけ人形が混じっていた」人形が、最終連になると「顔のない人形たち」と複数になることです。この私が見える世界に変化が訪れたのでしょう。というのも、新聞紙で目にした「銃撃 という記号」をもとに、校庭での様子を「命がけの銃撃戦」と意味づけしていることからも、この私にとって、この世界の見え方に変化が訪れたのがわかります。  新聞紙に書かれていることは事実かもしれません。ただ、この私に限らず、僕だって、新聞紙に書かれているのはあくまでも文字であって、本当に起きているかどうかは、そこに行ってみないと確証は得られません。逆に言えば、この私は読んだり聞いたりした物語よりも、いまここで見ている世界に対してより信頼感を抱いているのでしょう。  その見え方に変化が訪れる契機はどこにあったのでしょうか。この私にとっては、 「いつも日没は反覆だった」はずです。その繰り返しをただの繰り返しとやり過ごすのではなく、人形が増え、物事を銃撃戦と捉えられるようになったのは何故なのか。  そう考えると、この私は常に物事をなにかに喩えることを求めて続けている姿が見えてきます。「西日が差す教室も/窓の外の景色もすべてモノクロで/なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい」と述べながらも、目に映る景色をなにかに喩えてやりすごすことがこの私にとっての生きる術となっているのでしょう。そこから、改めて最初から作品を読み直すと、この私の世界の見方が自然なものと思えてきます。  ただ繰り返される=反覆されるものは、ついついやり過ごしてしまうものです。その景色をなにかに喩えること、つまり、ついつい私なりの意味づけをしてしまうことで、世界の見え方に変化が訪れます。 それは作中から離れ、今を生きる僕たちは、景色はそこにあるはずなのについついやり過ごしてしまう。そこに意味づけを出来ていない無責任さのようなものを思い直しました。 (セパレータ)

2017-03-15

 君のことを理解できていないでいる僕は、君を理解できないのか、それとも、理解していようとしていないのか。というのも、「たくさんのこと」が「たくさんのこと」と一括りにされてしまっていることから、先ずそのようなことを考えました。この「たくさんのこと」は様々な要素から成り立っているはずであり、君にとってはその一つ一つがきっと意味のあるものだと思うのですが、僕にとってはそれが「たくさんのこと」でしかなく、解きほぐそうとしていない。だから「美味く救えない」のだけれど、「容易く別のものを求める」のは、きっと君のことを理解できないのではなく、理解していようとしていない、もしくは、理解から逃げているように思えます。  ただ、君はひたすら僕もしくは僕の何かを求めている。「なにか大切な何かを零しゆく」のは、自然な現象ではなく、君の動作によって「零れさせられている」のではないでしょうか。ただ、ここでも「なにか大切な何か」と、僕から零れているはずのその何かの正体を僕ですら理解していない。  この詩は、「意味づけ」が鍵となっているように思えます。というのも、「たくさんのこと」や「大切な何か」もそうなのですが、きっと意味づけされていないから括弧内の言葉がひらがなになっているのでしょう。ただ、意味づけされていなくても、何となく口ずさみたくなるような言葉は確かに存在するような気がします。ただ、これらのひらがなは、実際には口に出されていない言葉なのでしょう。「けれどそれが生まれずにいるものですから」ね。  僕と君は付かず離れずいるのでしょうが、「唇が約束印で絆され」ています。この言葉はタイトルであり、作品の中盤にも何気なく用いられていますが、実は最終行にかかっているのだと思えます。「おんなじごはんを今夜は食べよう」というのは、付かず離れずいる僕と君との約束だとも言えるのではないでしょうか。  この僕と君とに限らず、誰かと誰かはわかりあいたくてもわかりあえないということは日常茶飯事です。ただ、その繋がりを担保にしてくれるのが、きっと約束するという行為なのでしょう。約束が二人を結び付ける。 (約束印の絆)

2017-03-14

 語り手が「女」であるのか、それとも「ヒール」なのか、「足裏のいもり」なのか、ついつい混乱してしまいます。  これだけの過剰な欲望を抱かせるほど、女にとっておまえという存在が大きいことがよくわかります。あくまでも僕の場合、自分の人生をある程度犠牲にしてまで咬み裂きたいと思える人はいません。誰かを傷つけることは、自らもまた代償を負うものだと思っております。無意識的に人を傷つけてしまっている場合はまた別ですが…。  最も狂気を感じさせたのは、「黄濁した粘性の液体を/おまえの喉元深く/突き刺してやる」という部分で、粘性の液体が突き刺すほど鋭利なのかと。それとも、量は質を上回るということで、えげつないほどの量の液体を喉元にふっかけるのかと。  この作品が読者の想像力を掻き立てるのは、この女の視点しかなく、作中の「おまえ」が一体女の何であって、一体何をしたのかということが一切描かれていないからです。ただ、この女が一方的に「おまえ」を想っていること、女と「おまえ」とに距離があることは間違いなさそうです。「おまえを けっして/のがしはしない」と言いながらも、「待っていよ そこで」と、おまえがいる場所を「そこ」としか言えないでいるこの女はもうすでにおまえをのがしてしまっているわけです。何となくですが、この女にはどうも「おまえ」を捕らえることができないように思えます。「待っていよ」と願うのは、おまえを見つけて、咬み裂き飲み尽くしたいからです。ただ、その「そこ」をきっと知らないでいる女。それに、「おまえ」は女の気持ちが届いていないわけですから、もちろん待っているわけがないでしょう。むしろ、この女が「おまえ」を引き付ける何かを持っていたらなあ、と想像してしまう僕もまたこの女のように暴力的なのだと思います。 (Heel improvisation)

2017-03-15

 この「あたらしい夜」に希望はありません。「あたらしい夜だ、わるくない」はずですが、「突然の寂寞」によって、「夜よ、また明けてしまえと、強く祈る」わけですから、「あたらしい夜」が訪れることに多少の期待はしながらも、それが明けないこと=続くことを祈るのではなく、また訪れるであろう次の「あたらしい夜」に期待をしているのでしょうか。  ただ、訪れるであろう、そして、繰り返されるだろう「あたらしい夜」には、きっと「幾度とない繰り返しの間違い」が伴っていますから、この語り手は、「あたらしい夜」に何かを期待しつつも、その夜もまた期待を裏切る夜であることをわかっているのかもしれないですね。  「曖昧な感傷の引き出し」には、どれだけ曖昧な感傷が収められているのでしょうか。そして、その引き出しに閉まったものはいつか外に引き出されるのでしょうか。曖昧な感傷とは、なにか悲しみのようなものが言語化できないでいるような、そんなふわふわしたものを思い起こされますが、それは曖昧なものを言語化=一つの答えとして、明言できないのではなく、明言を避けているのではないか、明言しようと思っていないのではないか。だからこそ、踊り続けるという行為で考えることを避けようとしている気がします。  冒頭、好きです。「ストイックな魂も眠りに落ちる」のですから、「ストイックでない魂」もきっと眠りに落ちるはずです。つまり、誰しもが眠りに落ちるはずなのですが、ただ、この詩の世界で「女の子」は眠りに落ちておらず、ストイックな魂の眠りを見ているのです。ストイックな魂と女の子の間には距離がある。だからこそ、女の子はストイックな魂を見ることができる。そんな女の子の存在がなんだか尊く思えました。 (あたらしい夜のポリシー)

2017-03-12

 一読魅かれました。コメントがいらないくらいによい詩だと思いますし、うまくコメントができないですね。それでも、なんとか頑張ってコメントを。  双子葉植物は生まれた時から双子葉であることを運命づけられていますが、この語り手は他者との交流=侵食を拒んでいます。  途中の片鍵の部分は、「グライドする視界」=移りゆく記憶の断章を表しているのでしょう。侵食を拒みながらも、侵食されてしまった記憶=「傷口に張り付いていた/棘の群れ」は、語り手にとってもはや吐き出すことのできないものです。前半で「せめて、唾を吐く、抵抗」をしているのですが、「これ以上身体が千切れないように/長く息を吐く」のも、きっと抵抗の表れなのでしょう。  様々なモチーフが語り手と「Dicotyledon」を交わらせていて、それがまた魅力的です。「血の透ける腕」は植物の維管束を思わせ、「羽根」はそれこそ「Dicotyledon」そのものです。ただ、一行目が魅力的でありつつ、ここがこの詩のミソになっているのでしょう。それは、①隠そうと思っても隠せないものがあるということ。それと同時に②隠しているつもりでも隠れていないものがあるということ、また、③見えているものを他者が勝手に評価すること、もしくは、隠しているものを他者が勝手に見えていると思ってしまうこと。特にこの3つ目が、この語り手の侵食を拒む理由になっているような気がします。  ここまで書いといて、見当違いな気がしてきましたが、それでも少しだけ続けて終わりにします。  と言うのも、あまり語るべきではないですが、僕自身、汚されたくて煙草を吸っています。少しでも死に近づけるように煙草を吸っています。肺はまるで、「Dicotyledon」のような形だなあ、とふと思いました。この詩には、見当違いかもしれないですが、読み取ろうと思えば、煙草のモチーフがいくつも隠されているように思えました。隠してはいないかもしれませんが、このように勝手に見えているものだと見られてしまうことを「こんなので繋がりたくない」と拒否されてもしかたありません。 (Dicotyledon)

2017-03-12

 適した言い方ではないかもしれませんが、このように力を抜いて書かれた詩がいいですね。  みんな特別だったら、それは普通ですから、特別ではないですね。つまり、特別であるということは、普通からの逸脱・普通との比較によって成り立つものであって、綺麗・汚いも比較の問題なのでしょう。それが、「綺麗でいるためには汚くいないといけない」となってしまうのが、ちょっとわからない部分でもありました。  個々のフレーズが簡単に書かれているようでいて、魅力的で、かつ、不思議な部分でもあります。「教科書を馬鹿にしてる」のに、「恋愛論下さい」というのも、何だか矛盾しているようで面白いですね。 (プレパラートフレーズ)

2017-03-13

コメントいただきありがとうございます。 「イメージを結び付けながら読む」ということがありましたが、文字そのものの連環と声に出した時の語感を重視した作品でありまして、イメージ=映像としての連環もあるといえばあるのですが、まさに歩くようにお読みいただければ幸いです。 (あの夜の街で)

2017-03-13

kolyaさん 作品をリメイクしてお返事をいただきありがとうございます。 今になって、詩を書いた時の心境を思い出しましたね。 今は明かしませんが、これの続編ではないですけれども、着想を頂いたので、気が向いたら作品を書きます。 もとこさん 朗読については常に考えています、元々Ustで自作の詩を読んでいたりしていました。 言葉の連関をイメージだけに頼らず、音の連鎖で繋がりを持たせるということも大事だと思っています。 というのも、僕は詩を「声」「語り」によるものだと考えているからです。 「誰に向けて、何のために」というお言葉がありますが、きっと目的などないのでしょう。トートロジーのようで申し訳ないのですが、そうなったからそうなったのでしょう。 好き勝手に想像しながらお読みいただけたのなら幸いです。 (あの夜の街で)

2017-03-14

まりもさん 「都会というスタイリッシュでドライな場所」という表現はしていないつもりで、場所を想定して書いたわけではないのですが、おそらく何かがまりもさんにそのような場所を思わせたのでしょう。 「自分自身を確認できない、したくもない、させられたくもない」というのは核心をつかれたような思いでいます、多くは語りませんがあまり僕から述べる必要がないように読んでいただけて幸いです。 三浦果実さん 結果的に嘘をついてしまったのか、故意に嘘をついているのかで、嘘の捉え方も異なるように思えます。 どちらにしても、「じゃあ、本当は何?」という疑問が湧くわけですが、嘘が嘘であるためには、その本当を知っている必要があります。 つまり、嘘だとわからない嘘は、聞いた人にとっては、本当でしかないのではないでしょうか。 事象そのものを描き、それを受け入れるしかないとは思いながらも、この詩には欲望が出てしまっているのかと考えさせられました。 (あの夜の街で)

2017-03-15

繰原秀平さん 僕にとっては、歩くことと息をすることの二つの無意識的な行動を意識的な言語に置き換えただけなような気がします。皆様の感想とも重なる部分があるのですが、死との兼ね合いで捉えられることが自分では驚きでした。 ただ、無名の存在の強さを認めていただけることは、僕に限らず日常においてとても喜ばしいことだと思います。 まりもさん おそらく何も考えていなかったような気がしていて申し訳ないです。 これはあまり関係ないですが、僕は町と街の使い分けについてはかなり意識的に用いているつもりです。 (あの夜の街で)

2017-03-18

黒髪さん ご助言いただきありがとうございます。 ただ、ショーウインドウの中身も流出していく血液の流れも、無責任を承知で言えば、皆様にお委ねしたいと思います。 強いて言うならば、街が血管であって、そこを歩く人そのものが血であるような。 僕は朔太郎でないので、「竹」なみの作品をつくることはできないですが、「竹」のどのような部分が必要なのでしょうか。 葛西佑也さん コメントいただきありがとうございます。 僕は詩に対してストーリーが伴うことを全くもって否定していないのですが、この作品に限って言えば、内容的にも形式的にも躓かせてはいけないような気もしていて、無意識的に歩くように。あと、同じ道でも躓くか躓かないかは歩く人次第だと思います。 (あの夜の街で)

2017-03-18

黒髪さん 実はちょいと昔ですが、朔太郎研究をやっておりました…。 処女詩集『月に吠える』に収録されたこの作品は無論代表作で、伝説的な作品ではありますが、そのよさを語るのはなかなか難しいです。 ありふれた批評で言えば、文語定型詩→口語自由詩に移り変わる中で、竹の生命力をその自由詩の語感(音の連鎖)によって言い表しているのが当時斬新だったのでしょう。 (余談で、読んだこともないのにこんなことを言ってはいけないですが、口語自由詩の先駆=朔太郎と言われますが、川路柳虹の方が時代的に先だったのに、あまり注目されないのは、形式的な問題だけではなく、朔太郎の詩に人を引き付けるものがあったからでしょう) これだけ「生え」とくどいぐらいに繰り返されると、確かにあの鬱蒼とした竹林のイメージ、止まった時間=点的な時間ではなく、成長していく変化=線的な時間を想わされます。 あと、朔太郎は一つの事物に対しての執念が人一倍強いように思えます。この竹に対する執念。それはまるでぬめっとした執念であって、僕の作品は逆にからっとしたものであり、また、事物が交差している点が朔太郎の竹と異なっているのだろうと思います。 街が血管で、歩く人が血というのは、書いている時には思ってもおらず、今読者となって読み返した時に思いついた後付けです、申し訳ありません。 (あの夜の街で)

2017-03-19

 「いくら悲しい君でも血の色は派手」というセリフを逆説的に捉えると、悲しくない誰で出会っても血の色は派手なのでしょう。そして、感情や内面がどうあろうと、血の色は常に派手であるということが自然の摂理として成り立っていることを想わされます。  洋服は肌を纏うものです。「肌に二色のボールペンが浮き出る」というのは画像的にみると、二色のボールペンが本体であって、纏われる側の肌が纏う側へと役割が異動させられているのでしょう。さらに言えば、「悲しい君」の悲しさもまた、君の内面にあるので、それもまた肌や服や、ましてやこの作品で言えば、表に出てくる血によって覆い隠されてしまうのでしょう。  他の方も言及されているとおり、二色のボールペン=動脈(赤、闘争)・静脈(青、哀愁)を表現しているのだと感じましたが、そこに新たに解釈を付け加えます。リストカットしたことによって、いずれかの脈から結果としては「ちいろ」=赤=闘争しか表に出てくるのでしかないのです。だが、動脈と静脈は役割が別であって、決して交わることはないとわかりながらも、誰にだってその二つを肌の中に纏っているものです。静脈も動脈も肌の下にあることを知っていながらも、実際にそれがどのようになって存在しているのかを確認することは難しいでしょう。ここで、想像力を働かせるならば、動脈と静脈が繋がっている心臓や肺はその二つが混ざっている地点であり、そこでは赤と青が混ざっている、つまり、紫の状態になっているのではないでしょうか。  手首ももちろん大事な体の一部ですが、決して目で見ることのできない体の最も大事な部分である心臓や肺には紫、つまり、悲しみが存在しているように思えます。ただ、その悲しみだって、目で見ることはできませんが、それが冒頭の「悲しい君でも」というところに繋がってくるのではないでしょうか。 (今日も、ちいろはめでたく赤)

2017-03-25

 この接吻の絵には、誰が描かれているのでしょうか。あたしと誰か、なのか、誰かと誰かなのか。つまり、あたしがあたしを直接見ることができないために、あたしが接吻するのを夢見るということは、あたしを客観化した事物=絵に落とし込むことが必要になったのでしょう。見るためには、見るものと見られるものの間に距離が必要です。  話は変わりますが、誰かと握手する時、それは誰かの手を握っているのと同時に誰かに自らの手を握られているという能動と受動が同時に起きています。それは、接吻についても言えることでしょう。接吻するということは、接吻されるということ。  「いつもあるのに接吻を忘れた唇」は、接吻することを忘れたのでしょうか、それとも、接吻されることを忘れたのでしょうか。いや、することもされることも忘れてしまったのでしょう。たとえ、「母さんの乳を飲んで」いたとしても、おそらく接吻そのものの魅力としては何かにかけているはずです。そこに、「愛が流れ込んで来」るのかもしれないですが、唇が乳を求めようとも、乳は唇を求めないでしょう。  唇が求めているのは、唇。他人がいくら隣で「痛い!」と言っても、その痛みを代わりに引き受けること、実際の痛みを感じることはできません。それでも、他人の痛みを痛いものとして思えるのは、私自身の経験から痛みの推測をするしかないのです。唇と唇が触れ合う接吻は、することとされることが同時に成り立つからこそ、他者に対して入り込む感覚があると同時に、他者が入り込んでくる感覚が味わえるので、私と他者の境い目がなくなるような感覚に包み込まれる麻薬なようなもの。 (なんだか、接吻論みたいなものになってしまい、申し訳ありません) (唇の皮に色が着くよう)

2017-03-14

 語り手が語り手に徹している、というより、観察者としての立場を全うしているからこそ、不思議なことが当たり前に起こっているかのように淡々と語られています。そのため、描かれた主体は何の疑問もなく、すらすらと登場してきて、それと同時にすらすらと読めるのですが、やはり、そこにあえて疑問を投げかけることで、この作品がより拡がっていきます。  招かれざる客という言葉がありますが、このお宅に招いた客は、自らが避難させた鉢植えであって、招いてもいないであろう客は、お日様です。ただ、実はそれだけでなく、クジラの死骸もなぜか外からこのお宅の脱衣所に避難してきたわけです。雨が降っているという外から、あえてお日様がいるところに避難してきたクジラの気持ちはわかりません。この疑問は、僕らの日常でも同様で、海岸にクジラの死骸が打ち上げられる時に抱く疑問とほぼ同義であると言えるでしょう。  そして、急に咲くマリーゴールドは必然的に咲いたのか、偶然的に咲いたのか。もし、このお宅にお日様やクジラの死骸が避難してこなかったらマリーゴールドは咲かなかったのでしょうか。結果論でしかありませんが、鉢植えを避難していなかったら=雨から逃れることをしていなかったら、きっと咲かなかった気がしますし、お日様やクジラの死骸がなかったら咲かなかった気がします。それこそ、この詩の作品の淡々とした語りがもたらす効果であって、重なる偶然が必然として語られているように思えます。  この作品は実に奇妙な終わり方をしています。雨が止むというのに、お日様はなぜ傘を借りて外に出たのか。それがお日様ではなく人であったなら、一つの疑問=雨が止んでいるのに傘を持つ不思議しか湧かないのですが、主体がお日様であるからこそ二つ目の疑問が湧きます。それは、このお日様は自らの役割について理解していないのだろうか、ということです。きっと、お日様がこのお宅に避難しているから外に雨が降っているのですが、お日様が外に出れば雨が止むはずなのに、もしかしたら雨が降るのかもしれないと思っているのか、傘を借りていってしまうのです。僕の家にお日様に来たことはないのですが、もし来たとしたら、出ていく間際に肩を叩いて「周りは誰も傘を持っていないから、多分恥ずかしい思いをしてしまいますよ」と声をかけようと思います。 (雨ということで)

2017-03-18

 冒頭の「私は傘になりたい。」という言葉がこの作品の鍵であるわけですが、いきなりこの言葉を読むと「ははっ、何を言っているのか」と最初はやり過ごしてしまいます。それがむしろよくて、作品を読み進めていくにあたって、この言葉に意味づけがされていきます。  この私は家族の中にいながらも、その家族とは距離をとっているだけでなく、私自身からも距離をとっています。「私は私の食事をしていた。」という語りは、通常であれば「私は食事をしていた」と表記すればよいと思いますが、あえて「私の食事をしていた」とあるのは、私が私から距離をとって俯瞰してみているような印象を受けます。そのことによって終盤の「そこにあるのは私の知らない家族でした。十数年過ごしてきて、初めてその存在に気づいたのです。」ということが言えるのでしょう。目の前で起きていたであろうことを客観化できているのは、ここにある「そこ」という表記からも伺えます。  あと、この詩全体というより、特に段を下げて私が語っている部分について、私は誰に向けて語っているのでしょうか。きっと、家族に向けて語っているのではなく、私が私に向けて言い聞かせているような気がします。そうすることによって、整理のつかなかった家族の状況に対して私なりの意味づけを完了すること=私が私に向けて語りかけることで、さきほどの「初めてその存在に気づ」くことができたのだと思います。それはきっと、タイトルになっている「明日も、雨なのですか。」というのも私が私に向けて言い聞かせて納得させているように思えます。  話は戻りますが、私とその家族との距離というのを一番感じさせたのが、やはり「私は傘になりたい」のリフレインです。私が傘になることで一体何が可能になるのか。それは、外では雨が降っており、誰かが外に出る時に傘になった私を使えば、外に出られるのです。ただ、それはきっと叶わない夢であります。傘は自らで外に出られることはできません。誰かに使われることによって外に出られるのです。それに、この家族には雨が降っていても傘を使うであろう家族はいません。  「外では、雨が ぽつり ぽつり と、降り始め。」というのは、家の中から外を見ており、おそらくこの私は家の中にいることが多い気がします。タイトルの「明日も、雨なのですか。」というのは、一見ネガティブな言葉に思えてしまいますが、それをチャンスだととらえて、「私は傘になりたい」と思えたのではないでしょうか。 (明日も、雨なのですか。)

2017-03-18

奏熊とととさん 十分すぎる賛辞です、ありがとうございます。 大変おこがましいことを承知したうえで申し上げますと、気に入った部分やフレーズなどを提示していただけたら、今後の参考にさせていただきます。 (証明書)

2017-03-19

花緒さん コンパクトにまとめていただいて、ありがとうございます。 この作品は勢いのままに書いてしまい、私の中で書こうと思ったことと書こうと思っていなかったことが交錯して、結果的にこの形になりました。 分岐点によって選択されなかった言葉たちもいずれは何かしら書こうと思いますが、「勉強」というより、何かしらひっかかるものがあったなららば幸いです。 (証明書)

2017-03-19

どしゃぶりさん 風俗ネタに限らず、すべての人の生には、その人なりの歴史が必ずあるはずで、そういったところを探るのが僕は好きです。 そういった意味で、たとえ風俗嬢であろうと、むしろ風俗嬢だからこそ、なぜあなたがそこにいるのか、ということが気になってしまうわけです。 詩にできそうで、なかなかできないイメージがあるかもしれませんが、それは風俗に限らず、あらゆるものが詩になりうるものだと信じて、それを感受する側の問題として、僕は挑戦し続けたいですが、やはり、僕は風俗ネタが好きですので、僕は僕なりに自然な行為だったと言えるでしょう。 (証明書)

2017-03-21

もとこさん 詩にリアリティを求める、求めないは人それぞれであり、これが実話かどうかも議論すべきかどうかはわかりませんが、リアルで面白いという評価はうれしいものです。 後半部については、僕から特に申し上げることはありません。 ただ、風俗というのは、お金と行為による明確な利害関係が存在するのですが、その関係性を幾層にも重ね、また、風俗嬢という存在の層をたずね、それと同時に、「私」自身にある幾層の「私」を表したかった結果が、「きみ」へのこだわりが必要だったのかもしれないです。 (証明書)

2017-03-22

奏熊とととさん 僕が想定した以上に、詳細に書いていただき、誠にありがとうございます。 表現の生々しさ、というところは、確かにこの詩の持ち味かもしれません。 背景を語ってしまうと、作品が色褪せてしまいそうで、正直語りたい気持ちがあるのですが、そこは我慢して、ただ、生々しさを感じていただけたのは幸いです。 溶接に出っ張りがないというのもいい表現ですね。 詩は声であると僕なりに定義づけているのですが、それは呼吸であって、また、転調・変調も起こりうるものだと思っています。 そうした、転調の境い目を意識して書くこと・読むことはおそらくどんな詩にもあてはまることで、一行と一行の間のスピード感というのは、まさにその人なりの呼吸のスピードだと思います。 重ねて御礼申し上げます。 まりもさん 肌感覚や感情にかかわることを書いていないというのが少し驚きました。 というのは、僕が書いたから僕はわかってしまうのかもしれないですが、この詩は僕の弱さが滲みでてしまっていると思っているからです。それをごまかしているのかもしれないですね。 まさに「風俗」は、日常と地続きにある世界だと思っております。そこにいる人、来る人、場所だって、見落としているに過ぎなく、どんなものにも僕と同じような生もあれば、僕と違う生があるのだと信じています。 (証明書)

2017-03-23

紅月さん 「書かれるべくして書かれた」というのは、僕にとってもそうかもしれません。 風俗嬢にとっての視点は正直抜け落ちてましたね。確かに僕は一方的に記憶している出来事が多くて、相手側からしたら何もない記憶、でも、そういったことがこの詩のテーマになっているのだと思います。 実際の証明書というのは、名前と印鑑が重要になる気がしますが、この作品においては、そういったものではない「しょうめい」を求めていたんだと思います。 僕は、作品を推敲するのが苦手で、書いている途中は細部をちょくちょく直しますが、書き上げてしまうと一気に投稿してしまいます。そういった意味で完成度、見直す余地はあると思っています。(冒頭の「印籠」のくだりはいらないと思ってます) ただ、他の方のコメントと似たような「この作品を読めてよかったな」という賛辞をいただき、ありがたく思います。 (証明書)

2017-03-26

 結論から述べてしまうのですが、この「わたし」は自己肯定をすることで愚かさを受け入れようとしているのだと思いました。  冒頭三つにある「わたしの知り得ないところで」の産物を見ている「わたし」は、それぞれの産物の背景を想うことができる人です。ただ、4つ目は急に転調して、「劣等感の中の生臭さ」という抽象物を「わたし」が見つめることになります。この「劣等感の中の生臭さ」は、他人のものなのか、「わたし」のものなのか、そのどちらを見つめているのでしょうか。  次の列挙は「話すこと」についての言い換えです。確かに、「話すこと」には、その背景として話す主体の感情や歴史が含まれているのであり、それによって話し方というのは一様にならないのだということを改めて認識させられました。  「宇宙で一番うるさい星」というのは、本当にそうなのか?という疑問が湧くフレーズでありますが、この「わたし」がなぜ地球をそのように定義づけることができるのか。それは、冒頭の「わたしの知りえないところ」が鍵となっており、おそらくこの「わたし」は自らが見た世界に対して、大いなる信頼を抱いているのでしょう。宇宙の中に多くある星は想像の世界にあるに過ぎないのですが、この地球に生きている以上は、この地球で起きていることをこの「わたし」は見ている、つまり、この地球以外の星で起きていることは見られないので、おそらくそのように言い切れたのでしょう。  「物が捨てられないんです」「癖になっているんです」というのは、きっと「わたし」の愚かさ=名前の中の個性を話しているのでしょう。また、最終連の「名前の中の個性は、わたしの知り得ないところでたくさんの分裂が繰り広げられた閃光だ。」というのは、名前のないものが飽和している都会に対する逆説の見方です。冒頭及び途中では、「わたし」は「わたしの知り得ないところ」で起きたことに対して信頼をしないように思えたのですが、最後のフレーズは、わたし自身=わたしの個性が「わたしの知り得ないところ」での閃光によって生まれたことを受け入れたことを表しているのではないでしょうか。  つまり、わたし自身がわたしの知り得ないところでの結果としての産物であって、わたしの個性=愚かさ=「物が捨てられないんです」「癖になっているんです」というのを、言わばわたしから手放すことによって、自己肯定をしようとしているように思えました。 (潔癖症)

2017-03-19

 題名からしてそうですが、中身=実を伴うことに対するイメージが連鎖しているように思えます。実を結ぶというのは、一つの形をまとうことと同時にその場に留まることを表しますが、水子や影というのは定まった形を持っておらず、また、特定の場に留まっているわけではありません。  声というのは、発する主体があるからこそ存在できるのですが、それは声という形をまとっています。つまり、声以前の歴史、声が声になる前は主体の想いや何かが形になっていない状態にある気がします。ただ、「声のみの声」というのは、声という形を持ちながらも、その中身のない、まるで種のない果実のようなものでしょう。思えば、「無実」というのは実が無いと書きますね。中身の伴わない形だけのものということでしょうか。  そして、言葉にとっての実は、この詩で言えば意味にあたるのでしょうか。この詩の「私」もしくは「我」は実の伴った言葉に期待を抱いているのでしょう。そして、私は私なりの中身=「私の春」を持ってはいるものの、それはきっと誰かに捧げられた実ではなく、誰かに開けられることのない私の中身であり、また、その実が豊かなものであるようには思えません。つまり、この「私」そのものはおそらく中身のない実として描かれているのではないでしょうか。「私が私であるがゆえにゆえにがゆえにであるが故に無実の果実にあなたを捧げますか」というのが、そういったことを思わせます。  最初に、形のないものは特定の場所に留まることがないと書きましたが、最後の徘徊する様は「私」自身が形を持たずに徘徊しているように思えます。実を結ぶということは、植物が定住する地を定め、根を張り、その場所に留まる必要があります。特定の場所に留まることをしない限り、あらゆるものは実を結ぶことがないのではないでしょうか。 (声のみの声――起草)

2017-03-22

 作中に出てくる「水晶体」のように、洗練された表現が印象的です。  詩の冒頭では、おそらく太陽が雲に隠れていて、その雲が次第に消えゆく過程を独特の言い回しで表現しているのだと思います。地上から見た空は、雲がなければそのまま表側として見えますが、雲=「白いように思えた水」があると、地上からはその雲の表側のみが見え、その裏側にあるはずであろう空が見えてきます。「辺りは両端から這うように消えてい」くことで、光が地上に走ってくる。  思えば、雲が白く見えるのも、雲が水で出きているのではなく、飛散している粒子と水が結びつき、その粒子が光を屈折させて、地上の人間の眼に感知されるので、白く見えるような気がします(間違っているかもしれません)。それと同時に、空がいわゆる空色として色があるのも、光の屈折が大いにかかわっているはずでした。  空は空色、雲は雲色、ただ、雲は水でできているはずなのに、地上にある水はいわゆる水色とは違います。いわゆる水色は空色とでも言うべきな気がしますが、混じり気のない水は透明です。  二連目は場面が転換して、前後の文脈を無視したワンシーンが映し出されますが、その前後の文脈も「あなた」も「私」も何があったのかは知る由がありません。ただ、そこにある事実は、目をつむったあなた・言葉を失っていた私・白いように見えたシャツでありますが、第一連を受け、「私が見ている世界は確証を得られない世界である」ということが表されているのだと思います。  自分が見ている色を他人が同じように見ているとは限らないですし、また、自分が何かの色を言い表す時、その色の名前を知らなければ表現することができません。色を特定することと同様に、自分が見ている世界を言語化するという行為は、自分が見ている世界を言葉という枠組みに当てはめて、たとえ暫定的=一時的であろうと、見ている世界に確証を持つということだと思います。それができないでいる「私」は、やはり自分が見ている世界に確証を持てないのだ、という姿勢が作中で表れているのだと感じました。 (屈折率)

2017-03-19

 一般論=当たり前であるかのように、淡々と語り手の見ている世界の成り立ちが表現されていますが、この語り手とは無関係な世界は確かに淡々と変化するのみですが、語り手と関係のある事物、つまり、「君」に関する事項については、躓きが表現されている気がしました。  「終わっていないすべてが/彼らになってそこを行き交う」「空にも地上にも/いい生き物たちがいる」といった表現は、おそらく語り手がいなくても成り立つ世界=一般論ですが、「君を涙するすべだけを知らない」というのは、語り手と君との関係性がないと成り立たない世界です。この詩において重要なテーマは、全体と部分であると捉えました。「物語に汚染された道の上を/小さな生き物が歩いてくる」というのもまさにそうです。  この詩において、その全体がどのように描かれているのか、語りにとってきっとよいものではないのでしょう。特に人々が生活を送る地上=道というものがそこに生きてきた人々の歴史に覆われていることがあり、人々の歴史に染まらないであろう空の世界に希望を見出しているように思えます。ただ、その空も結局は人々=「いい生き物たち」の住処であることは、「地上で木になった/微笑たちはやがて/そこに引っ越すのだろう」という表現からわかります。  様々なモチーフが交差しているのですが、でたらめなわけではなく、きちんと使い分けられており、人=木・森・植物であり、地上や道がそれらの人が住み着く場所であり、人が枯れてゆくといったモチーフもきちんと徹底されていて、この世界の見方というのはとても魅力的でした。  話は戻りますが、この詩における大きなテーマは全体と部分であると思いますが、全体の中における部分ではなく、部分と部分の交わり合いというのが重要なのだと考えられます。冒頭から何回か「行き交う」という言葉が出てきますが、これは交わることのない無責任な交差でしかないのでしょう。終わりに向かっていくまでの展開は実に見事です。風がみなもと交わりはじめ、緑がそよぎ、そして、君がみなもの時間と交わるのです。ただ、池の時間を笑い合っている人たちと君は、語り手にとって交わらないように見えていいます。  この語り手は、カメラアイ=眼差す人です。そして、フェードインやフェードアウトを繰り返しつつ、その焦点には君がいるのでしょう。すべての物事はフェードアウトして遠くから見ることで同じように見えてしまいますが、フェードインすることで、事物の違いを見極めることができるのでしょう。「透んでまた、映じていった/その小々波/海の時間」というのは見事なフェードアウトです。部分でしかない小々波の映像から見事に海全体の光景へと読者を運びます。そうしてまた、語り手も君もいい生き物たちの区別がない世界へと導かれていくのです。 (待つこと)

2017-03-22

 自分にとって恥ずかしい行為とはどんなものがあるのでしょうか。  裸であることは恥ずかしいことです。そこで、「私は恥ずかしいから胸を隠す」のでしょう。でも、それは見る対象と見られる対象との関係性によって、同じ行為でも恥ずかしいかどうかはかわりません。僕はそうですが、家の中での様子と外での様子は全く違いますし、家の中での様子は恥ずかしいから外では見られたくないです。  タイトルの「迷子のお知らせ」というのは、言い換えれば、私と他者との関係性のリセットを表現しているように思えました。「友達、家族だと認識している人の顔は見知らぬ他人」となることで、裸であることが当初は恥ずかしかったものの、そうなった世界に対して受け入れることで、結末の「裸で笑う」ことを導くことができたのでしょう。  この作品で出てくる登場人物をいくつか挙げると、「監視している老人」「研修中みたいな若い住職」「幟をかける体格のいい人」など、何となく権威のようなものを感じさせる人がいくつか登場します。こうした人たちは、関係性を持っていなくとも何となく私との距離感を感じさせるものであり、それと同時に勝手な価値を付与することができます。逆に、私は迷子になったことで、今まで関係性を持っていた友達や家族との関係性をリセットしております。  一般的に言えば、大人は迷子になりません。そして、生まれたての赤ん坊は服を着ていません、裸です。「私」は迷子になったことで、関係性をリセットするだけでなく、幼稚性を纏ったのではないのでしょうか。その幼稚性を纏うことで、感情も理由もなく、ただ最後に残ったのが笑うという行為に繋がったのではないでしょうか。 (迷子のお知らせ)

2017-03-25

 ずるい読み方をしてしまいますが、いきなり結末に触れますと「あたしは それで/未だきえることをゆるされず」というのは、ひらがなで書かれているので柔らかく見えますが、「ゆるされず」という強い使命感=責任感が伴われています。なぜ、この「あたし」がそういった使命感を持っているのでしょうか。それは無論あなたの存在があるからです。  ここで気になるのが、あたしにとってのあなたがどういう存在であるのか、ということです。その文脈を探るには、ここにあるだけの表現で伺いしることができません。ただ、作中には用いられていないのですが、「きつねび」のように浮かび上がってくるあなたの存在をあたしには見えるということでしょう。この見えるというのが、実在しているあなたを見ているのか、それとも、実在していたあなたを呼び起こして見ているのか、さらには、実在していないあなたを想像して見ているのか。これらすらも確証をもって判断することはできません。  あくまでも、直感的なものとしては、実在していたあなたを呼び起こしてみているのだろうと思います。というのも、「あなたは飽きるほど/この頬を/撫ぜてゆきます」や「あなたの手首から/離れなくなるのでしょう」という身体的な距離感の近さをあたしが感じているからです。  あなたがあたしをどう思っているのかは皆目わかりませんが、あたしがあなたをどう思っているかは描かれている以上でも以下でもないとしか言えません。きっと、あなたのためにあたしはきえることをゆるされていないという強い使命感を抱いており、「夕闇を閉じる役目を今日は/果たせずとも構わないでしょうか」というところにも繋がっていたんだと思います。ただ、この読み方をすると矛盾してしまっていて、夕闇を閉じる=夕闇が始まる=夕に灯りがない状態であるはずであり、さらに、「またちろちろと/夜半を越える」のだから「今日は」ではなく、「今日も」果たせない気がしていて、最後に、きつねびであるのはあなたではなく、実はあたしなのではないかとよくわからない状態になりましたが、無理やり終わりとさせていただきます、申し訳ございません。 (きつねび)

2017-03-24

 冒頭の表現に細かく注目すれば、「長い黒髪 風にゆらめかせ」というのは、髪が自然の力によってゆらめかされているのであって、風がなければ、女子高生に限らず人は自らの力=意志で髪をゆらめかせることはできません。そうした、自然の外部的な力の働きによって始まったこの作品は、そうした無意識的な作用によって展開されているのだと思います。  そのため、女子高生の顔面が落ちるのも、きっと自然な現象として受け入られる気がします。それも「何枚も落ちる」のであって、「落ちて入れ替わ」るのですから、いくつの顔面を持っているのかと気になります。また、顔面はあくまでも顔面であって、顔の表面でしかありません。「静止した胴体と反して次々変わる顔面」は、風で髪がゆらめくように自然なことであって、周りの風景も激しく変わりだすのも自然なことと思うしかありません。  全体として、諸行無常、つまり、何事も変わり続けていくことを描いているのだと思うのですが、女子高生の胴体は静止して動かないというのが何を意味しているのでしょうか。この世界では、顔面という一つのものから始まるのですが、結果的に世界そのものが激しく入れ替わっています。その自然の摂理=ルールを無視してしまう、言い換えれば、世界に流されない女子高生の胴体は強固なものと言えるでしょう。  動くことのない女子高生の胴体は、意志を持たず、また、世界についていくことのできないはぐれものというネガティブな見方ができますが、同時に、世界に流されない強いものというポジティブな見方もでき、両義的などっちつかずのものとして感じられました。 (夕陽に顔面)

2017-03-24

 星座というのは神話に基づいて人間が作り上げた勝手なルールでしかなく、本来は生まれた星々が偶々そこにあるだけです。そうした人間が作り上げたルールである星座と同様に、「わたし」は容疑にかけられるわけです。容疑というのも、人間が人間に対して適応するルールのもとで生まれるものです。そうしたルールはおそらく誰かが生み出したものですが、長らく使われることによってルールがルールとして習慣化され、それが「いったい誰が判断を下し線引きは行われているのか」という表現が生まれたように思えます。  途中気になった表現が「ことばを吐くのか聴きたいか」という部分です。この表現は、わたしの迷いを表しているように思えますが、「わたしは無実であり最新を請求する」ということで、選択したのはことばを吐くことです。習慣化されたルールに抗うわたしの姿が見てとれます。  それでも、真正面から抗うのでなく、習慣化されたルールから逃げるように走り出し、海辺の町にたどりつき、自然であることを謳歌するのですが、終には「屈強な中年男二人」によって捕らわれてしまいます。彼らは習慣化されたルールの象徴のようであり、「わたしは何も言わずおとなしく連行されて」しまいます。結果的に、ことばを吐けなかったのです。  金平糖は冒頭の星々のイメージを思わせます。相手の要求を飲む(正しい表現かはさておき)という言葉があるように、金平糖を飲み込んだわたしは、わずかながらに原型をとどめている金平糖に原物としての希望を抱いているのか、それとも、もはや別物となりつつあることに受け入れの決意をしているのか、その答えはわたしのみ知り得るのでしょう。 (X)

2017-03-26

 絶えず移り行くものと変わらないものとのコントラストが描かれています。  冒頭の「はりつめたもの」の正体は決してわかることはありませんが、色を変え、緊張し、緩むことで、常に流れ続けるものです。「まるく調和した響きをめざす」の「めざす」からわかるように、現在はまるく調和していないからこそめざすことができます。  語り手が見ているのは「雪解け水がとおる細い道」であって、足元の方向を見ているのですが、「空が青いことは、なぜか わかる」のです。空が青いということは、自明の理であって、見なくてもわかることなのでしょう。  ホログラムという物体=映像を映し出す装置がありますが、この世界の成り立ちがまるで何かの装置で映し出されているように語り手には見えるのでしょうが、きっと語り手は空がホログラムでは映し出されていないと思っているような気がします。注目すべきは、「まるく調和した響き」ではないでしょうか。語り手は「まるく調和した響き」を持ったものを求めていて、流れ続けるものを眺めているのですが、眺めずとも認識している「空が青いこと」というのは、語り手にとって「まるく調和した響き」をもった完成品であるように思えます。 (ホログラムのアリア)

2017-03-25

 「俺はしなびた葱」という見方は、俺自身が俺に対して位置づけて始まっているのですが、「あなたから見れば/あの小男はひじきで/俺は葱」と、その見方をあなたに託しています。つまり、俺は葱として生きることを甘受しており、俺の中のあなたからそう見られたいという欲望が少しはあるように思えます。  というのも、しなびた葱もひじきもこの作品の中ではおそらく同類のものとして扱われているからです。俺は葱であることを甘受しながらも、「おまえ」のことをひじきだと馬鹿にしたい、俺とおまえとは違うんだ、ということを俺は主張しているのですが、その俺もあなたもあなたか見れば、結局同類=弁当の添え物でしかないのでしょう。  ただ、これらは、俺から見た=推測したあなたの世界観でしかありません。俺の中ではあなたが優位なのであって、俺はきっとあなたのことをまるでお姫様かのように扱いたいのだと思えます。  終わり方は面白いです。これは僕自身のことになりますが、いろいろな買い物をする時に、ついついその金額によって他の選択肢に投資をしたら何ができるのか考えてしまいます。風俗に二万円使うのだったら、そのお金で飲み会4回は行けるな、とか、ドラムの機材が買えるな、とか。この作品において、「あなたの誕生会に/二万円もつっこんで」いるわけですが、それで得られたのは、あなたの喜びでもなく、俺の満足感でもなく、「揚げ物くさ」くなった俺の体という確かな結果でしかありません。揚げ物くさくなるために、二万円も使ったのかという消失感のようなものを勝手に感じとってしまいました。  それこそ、しなびた葱にだって、ひじきにだって、ましてや、噛み切れないローストビーフや冷めたポテトフライには、誰だって二万円を使いたいとは思わないでしょう。結果としては残念だったかもしれないですが、誕生会に二万円を使わせるほどの何かしらの魅力が一時的にでも「あなた」にあったのでしょう。 (消費期限)

2017-03-25

 この詩を読んだ人は冒頭からあることに気づかされます。ああ、夜とか朝には強度があるのか、ということを。屈強な夜と脆弱な朝、脆弱な夜と屈強な朝では決してなく、夜の方が強くなくてはならないのは、なぜでしょう。  フラスコには底があり、降り注ぐ液体は溜まりゆくのみです。そして、注ぎ口へと近づくにつれて許容量が少なくなっていきます。最初は余裕があるかもしれないフラスコという容器は、液体が注ぐにつれて、一気に余裕がなくなっていくものです。その反面、底のない容器も存在するのであって、それが落とし穴で、それにとても大きな落とし穴です。  この詩の魅力は、語り手の想いや経験したことが確かなものであって、それに強度を感じられることです。「生きるものは今でも生きている、死ぬものは死んでしまった。」という当たり前すぎることをあえて書かざるをえなかったのも、語り手にとって確かなものを再認識するためでしょうか。「僕ら」を「僕」に言い換えたのも、誰にとっても自明なことではなく、自らが信じているということを強調したかったのでしょう。そして、「脳、が/ねつ造できないあの東京」というのは、語り手にとって確かすぎるものだと思えます。それを「薄明」と命名すること。それは屈強な夜に浮かぶ光なのかもしれないですが、脆弱な朝の言い換えとも言える気がします。 (薄明)

2017-04-03

 鶏が先か、卵が先か。その答えを知る術がないが、どちらにしても仮の答えを出すことはできる。では、雲が先か、雨が先か、川が先か、海が先か、つまり、水の出自は一体どこから始まったのか。  仮に雲が先だとしよう。雲はやがて雨を降らすと同時に、自らの存在を消してしまう。つまり、雲自らが雨になって地上に舞い降りてくる。それは、全体であり、部分でもあるのだから、人称をつけるとしたら「きみ」になるのか、「きみたち」になるのか。いずれにしても、降りてくる間は雨という名前を持っているが、地上に降り注ぐとそれは一体何と呼べばいいのだろうか。湖や海に降り注げば、その全体の一部となって名前が消えてしまう。植物に降り注げば、吸収されて、その体の一部となる。雲は白かったはずなのに、雨となることで色をなくし、地上に降りることで何かの一部となってしまう。  だが、いずれまた、元の場所に戻る機会が訪れる。湖や海の水は蒸発すれば雲に成り得る。植物が孕む水分も人に吸収されようが、誰かに踏みつぶされようが、いずれ姿を変えて、天に昇る。  天から降り注いだ水は、誰かの一部となり、また天に戻る、その循環。地上にいる「ぼく」は、それを見送るのだが、また同じような姿で訪れる「きみ」に挨拶をする。 (one)

2017-04-01

詩とは全く関係ないことを承知で三つほど話をさせてください。そして、読んで気分を害される方がいたらごめんなさい。 1.お山の向こう 僕は標準体型で、小便をする時に全く難がないのですが、ある時太った先輩と連れションをした時に「小便をする時に、この山(お腹)の向こうに男性器があって、見えないんだよね」と言われ、衝撃を受けました。僕の人生において、小便する時にそんな困難が起こり得るということを全く想像できなかったのですが、言われてみれば物凄く納得できることで勉強になりました。  女性の場合、おっぱいが大きい方は、自分のおっぱいの裏側を見ることはできないんでしょうか。鏡を見ればわかるかもしれないですが、自分の目で直接見ることは一生できないのかと新しい疑問が今日生まれました。 2.女性になりたい理由  僕は女性になりたいと思うことがあります。その理由は、男性器を女性器に入れる感覚はわかりますが、女性器に男性器を入れられる感覚はわからないので、それを知りたい、ただそれだけの理由です。 3.誰でもいいのか  「あー、モテたいなー」という言葉が嫌いです。じゃあ、自分の好みではない人が100人ぐらい来て告白してきたら、その人は受け入れるのでしょうか。もちろん人それぞれかもしれないですが、なぜ上記の言葉が嫌いかと言えば、「あー、(○○に)モテたいなー」と「○○」の存在が隠されていると思っているからです。  この詩に「刺されたい」という言葉がありますが、刺してくる相手は誰でもいいのでしょうか、と問いかけたいです。「子供が胸を刺されて死んだ事件」という言葉もありますが、それが子供にとって望まれたことなのか、望まれなかったことなのか。刺した方は誰でもよかったのか、それとも、子供じゃないといけなかったのか、それとも、その子供じゃないといけなかったのか、そのように想像が膨らみます。 (dark star)

2017-04-01

 デブリという言葉を辞書で引けば、その意味はわかるかもしれませんが、なぜこの作中でその言葉が選ばれて使われているのかを考えなくてはいけません。デブリが撒き散らされるためには、その主体が必要です。言い換えれば、デブリはいわばその主体から生まれた従物、つまり、その主体が生み出した部分であるということ。僕らが生み出した僕らの一部。  嘘だって、僕らのデブリ。そのデブリが生まれるためには、僕らの生産活動があるわけで、それが「脳の奥底の星」がもたらしたことなのでしょう。思考は沼に沈んで表に出ないけれど、嘘は表に出てくることができる。デブリとは表に出てくる必要があるもの。  デトックスではないけれど、デブリを撒き散らすことは生産活動だから、僕らは僕らの一部を手放して、何かを吸収して、新たな僕らの一部をまた手放す。その繰り返しが死んで産まれるということ。  でも、結末の言葉は何を示しているのでしょうか。否定の言葉が連続しているので言い換えて考えてみます。見つけられてしまうと死ぬことができなくなってしまう。見つからなければ死ぬことができる。更に言えば、産まれることを繰り返すためには死ぬ必要がある。僕らが僕らの一部を手放すためには、見つかってしまってはいけないのでしょうか。変わるということは、見つかる必要があるように思えるのですが、見つめられ続けるとむしろその変化には気づけない。それに、隠しておきたい僕らの一部というのを誰だって持っているような気がします。 (Answer song)

2017-04-02

 冒頭の「春よりも青の愛しかた、/教えて欲しかった。」に想いが全て集約されており、作品を読み終えてから冒頭を読み返すと、ここで言われている青は比喩でも何でもなく、それこそ青そのものを愛したかったのだと思えます。  「青い春」を愛するためには、二つの手段があるのでしょう。青を愛するか、春を愛するか。別のもので考えると、「赤い服」を愛するためには、赤を愛する必要があるのか、服を愛する必要があるのか、それともその両者を愛する必要があるのか。この詩で考えるならば、「青い春」を愛するため、春の愛し方を教えて欲しいのではなく、青の愛し方に重きを置いているのでしょう。だから、その「青」を中心としてモチーフ・イメージが展開されているのだと思います。  青臭い、青二才という言葉があります。これは、幼さを表現する言葉であり、青には幼稚性・生まれたてのイメージが伴っています。また、作中には刃物の比喩が用いられています。出来立ての刃物は鋭いですが、時間が経つとともにその鋭さが鈍化され、研ぐ必要が生じます。それと同時に刃物のイメージが重ねられた生まれたての愛というのは、鋭さがあるもので傷つきやすいものなのでしょう。つまり、愛の萌芽を描いた作品なのではないか、と思いました。  最終連の表現が魅力的です。というのも、チャイムは同じ音が繰り返されますが、それが聞こえ始めてから聞こえ終わるまで、チャイムの音が遠ざかっていく様子を文字数で表しているのだと思います。ただ、チャイムの役割はその音によって何かを告げるためにあるということです。その何かが何であるのか。おそらく誕生を告げたのでしょう。しかし、何が誕生したのかはわかりません。ただ、その誕生、つまり、幼さ=青さを纏った何かであることは間違いありません。その誕生を受け入れるためにも、「青」を愛する術を教えて欲しいのでしょう。 (ぼくたちの青色廃園)

2017-04-05

 星々の光を借りて、街の明かりを対照化させているのですが、その両者の違いは、街の明かりは身近にあって当たり前のもので見逃しがちであり、星の光も身近と言えば身近と言えるのかもしれないですが、距離は遠いものです。  「天の星/競うごとくに/地に星」とあるように、その優劣はつけられていません。ただ、街の明かりは闇をほっと和ますものだと描かれています。  この作品の山場は「今ひととき/光見とれる/兵士たち/横目で愛でる/街々光」という部分でしょう。ここ見とれている光は、天にある星の光です。兵士たちは目線をあげて星の光に見とれて、その横目で街の光を愛でているのです。  その街の光が誘惑してくる、身近な光だからこそできる行為ですが、僕たちはその誘惑を断り、暗闇を目指していきます。さきほど街の明かりが闇をほっと和ますと書いたとおり、街の明かりが届かない闇に向かうのです。ただ、なぜそれができるのかと考えると、街の明かりがなければ星の光を頼ればいいのでしょう。さきほど星と街の光に優劣はないと述べましたが、僕たちにとって魅力的だったのは星の光だったのでしょう。 (街星々)

2017-04-09

 一つの読み方として、この作品を読んで一つの写真もしくは映像作品を作りなさいと言われたら、一体どのようなものが生まれるだろうか。  そのためには、場所と人物が必要になる。僕の場合だったら、場所はベッドの上、浴室、洗面台の鏡の前のいずれかになる。人物は二人。彼と語り手の私。でも、それを移すためのカメラは誰が持っているのか。それは語り手の私とこの作品を作った作者の二人になる。つまり、前半部分が語り手の私による描写で、後半部分が作者による私の描写になりそうだから。  前半部分、私が見ている彼は「染み付いた痣を/全部溶かして/消そうとする」が、私にはそう見えているだけで、彼にとっては違う意味を持っているのかもしれない。単なる癖で痣をなぞっているのかもしれない。というのも、「彼は/いつも/こんなふうに」と繰り返された動作であることを示唆されているからだ。それが語り手の私にとって「全部溶かして/消そうとする」ように見えるのは、(強引な読みになるが)語り手の私が何か消したいものがあって、それを投影しているのではないかと思えた。この部分の映像では、音声は流れない。語り手の私がただ彼を眺めているだけだ。  後半部分、浴室の中でひとり、何も洗わずにただただシャワーに打たれているだけの私がそこにはいるように見える。僕は除光液なんぞ使ったことはないが、それは爪の塗料を消すための道具なのだろう。それも風呂場に置いておくものなのだろう。  彼は消せない痣を何度もなぞるが、私は爪の塗料を消すことができる、その対比。ただ、この作品の世界は語り手の私を中心に回っている。私にとって意味をもたらすのは、消せない痣とそれを消そうとする動作であって、それがこの作品で描かれているということは、語り手の私にとって、また、作者にとって消せない映像であったことは間違いない。  ふと思ったのは、彼が消せない痣を消そうとしている、その痣は彼の痣なのか、語り手の私の痣なのか。外れてもいいので意見を表明しておけば、それは語り手の私の持つ痣ではないのか。全く関係ないけれど、僕は背中に蒙古斑がある、らしい。僕はそれを見ることができない。彼が彼の痣をいつもなぞるのも不思議だが、私にとってより意味をもたらすのは、彼が私の痣をいつもなぞることではないだろうか。だから僕は、この作品を映像にした時に選ぶ場所として、ベッドの上という選択肢を捨てられないでいる。 (log)

2017-04-09

満席にならないので、予約なしでいつでもお越しください。お待ちしております。 (道なり)

2017-04-09

白犬さん 愛のある詩と読み取っていただけたのなら、白犬さんには十分愛が宿っているように思えました。 何より、灰色の雪が二人を包み込んでいる、というのが、僕の詩を拡げてくださるコメントで、作品に一味添えてくださいました、ありがとうございます。 桐ケ谷さん 作中における「きみ」問題は大きな問題です。 というのも、僕自身が「きみ」を用いず、「きみ」を用いた作品が大嫌いだったからです。 それが今となっては逆転、「きみ」を用いている、というより、用いらざるを得なくなりました。 「父と歩んできた道が「きみ」と歩むようになった」という読みがどこから生まれたのか気になりました。 きっと「きみ」は唐突に登場せざるを得なかったのですが、「残念」と捉えられてしまったことが「残念」で失敗だったと言わざるを得ないです、精進いたします。 ぶたみみさん よろしくお願いいたします。 詩の感想に初心者も何もないと思っております。 今まで自らが重ねてきた生を作品にぶつけて、何が返ってくるかの勝負だと思っています。 つまり、いくら詩や言葉に詳しいかではなく、いくら生きてきたか、いくら生を受け入れてきたか、なんて、関係ない話ですいません。 灰色の意味合いですね、僕自身灰色は好きでも嫌いでもないですが、灰色の洋服は嫌いです。 そして、灰があるから灰色があると同時に、灰色があるから灰があるんだとも思います。 「都会的なスタイリッシュな色」というのが意外ですね、なぜこのような印象をお持ちなのか気になります。 (道なり)

2017-04-10

migikataさん 読解は答え合わせではないので、内容についてコメントを差し控えますが、詩句のリズムが違うというのは、意図的だという言い訳ができるかもしれないですが、ちょっとその配慮が足りなかったのは事実だと思いました。 もとこさん 書かれているとおりなので、細部に関する考察をするより、確かにこのまま味わっていただければ幸いです。 引用は僕がよく用いる大事な手法ですが、配慮が足りなかったですね、申し訳ありません。 ただ、引用元を示す必要があるならば、引用は用いないようにします。 まりもさん 最初の連で「歩く」をそんなに用いていたのかと無意識的でした、自分でも気づきです。 イメージをコラージュで繋げているので、おそらく読者がその速度から置いていかれる部分が多くあるのだと思います。 あとは、固有名詞を使う葛藤というのは常にあります、難しいです。 (道なり)

2017-04-11

ひいらぎさん この作品、全般的に連から連への「飛距離」が結構大きい(と思う)けど、バラバラにならずゆるーく繋がってる、その屋台骨はこういうところにあるのかなぁと感じる という部分だけでも満足ですが、敢えて言わせてくれ、「ただただありがとう」と。 葛西佑也さん 思いっきり個人的な体験・固有名詞の連鎖が「重ねて読む」というところに繋がる不思議さがあります。 無論、僕も読者の立場として作品に重ねる行為をするわけで、同じ体験をしているわけでもないのに、何がそうさせるのかはいまだにわかりません。 理由はわからなくとも、それを感じていただけたのなら幸いです。 (道なり)

2017-04-12

百均ちゃん お疲れ様です。 逆に、最終連だけでこの作品が成り立つのか、と問われれば、成り立たないと言いたいところですが、何かその場面だけでも成り立つような気もしていて、何か悔しいですね。 ちなみにですが、書いた者として、皆さんのコメントにある読みは読みで多少のズレがあったりして、途中の部分の読みに対する解説は抜きにして、そのむずがゆさを感じています。 何より順番にコメントをつけている行為に賛辞を送ります。 朝顔さん 多分、ここ最近で書いている僕の作品の特徴だと思います、いろいろな違う場面を何となくで繋げていって、つかずはなれずに仕上げるのは。 「父の子に生まれたことの喜び、讃歌」を感じたのが何とも。 多分、詩は結論だけでは成り立たないという信念があって、この作品も結論を隠し隠しにしながら書いたんだと思います、多分。 (道なり)

2017-05-04

 空というのはどこからどこまでを空というのか、実は曖昧なものであったりしますが、通常は地上から上部を見上げた時に見えるものです。ただ、海に行くと、その空が地上の延長上に見えるという不思議、空が地上に見える場所であるというだけで海の存在価値はあるように思えます。その隣り合わせになった空と海は曇りの日で同じ灰色を纏っているのですが、あくまでも空は空であり、海は海であり、混じり合うことはありません。ただ、それは見る人によってものの見え方が違うように、空は空、海は海という境い目を持っていたいのでしょう。  第二連は意識が見ている景色から変わり、「ここで見える景色」から「ここにいること」の描写に切り替わります。書かれているとおりなので説明を省きますが、第三連とセットになっていますね。ここで不意にアタシの感情が浮き彫りになってしまいます。「アタシは恐ろしくて」と。何が恐ろしいのかと言えば、「アナタの実存を確認できない」ことです。さらに言えば、「見ること」に徹していたアタシは「見ること」を拒み、「触れること」によってアナタの実存を確認しようとするのですが、触れることができずに答えが出てしまいます。  でも、それがアナタの実存を確認することの終わりではなく、おそらくアナタの肩に辿りつけるまで凭れ続けるのでしょう。それがアタシの姿勢であり、決意なのか、それとも、「ひたすらに/倒れていくだけ」なので、私の意識とは無関係に起こる動作なのか。  いや、「アタシは永遠に傾き続ける」と、傾き続けることを受け入れているのです。それはアナタの肩に凭れるまで天国か地獄かわからないので、ここでアタシは想像します、生誕の眩暈の味を。その想像が確信できるというのはよっぽどの自信ですが、アナタの肩が見つかるまで傾き続けることと、生まれる前に母のお腹の中で傾き続けていたことという二つがここで不意に結びついているわけですね。まだ起きていないことに対して確信を持つためには、既に起きたことからの類推によって導くしかありません。  「見ること」や「触れること」によって、アナタの肩に凭れることはできないでその不安が描かれているのですが、「想うこと」によって、アタシはアナタという存在に凭れているのではないでしょうか。 (Lean On)

2017-04-16

 説明がいらない作品であるため、私なりの気づきを書いてみます。  終盤「たった一つ解ったのは」「俺に/開けて欲しかった/ということだけだった」とありますが、この一連の展開を読んだ読者が解ったのは、この箱を開けたいと思ったのは俺だけだったということでしょう。親ですらこの箱の中身を知ろうとしなかったのであり、箱の中身を知りたくてもがいているのは、作中における俺だけです。この切実さに読者が気づけるかどうか。  あと、タイトルは「鍵のない箱」ですが、一見何でもなく見えるタイトルも不思議さがあるものです。「鍵のない箱」と言葉だけで見た時に、「鍵がついていない箱」として何でもない箱のように読むこともできますが、この作品においては「鍵が無くなった箱」を「鍵のない箱」と言い表しています。だからなんだということになりますが、先ほどの「箱を開けたいと思ったのは俺だけ」だったということを合わせると、この箱の鍵そのものが俺であったということだと言えるのではないでしょうか。  つまり、この箱は俺がいないと開かないということを親友はわかっており、いつか俺が開けるであろうこの箱に「希望」を入れておいたのは、親友にとって俺が希望であったことを表していると思えます。この作品を読んだ時のありきたりの読解(親友にとっての俺=希望)になってしまったかもしれないですが、その理由こそ最初に記した、この箱を開けたいと思ったのが俺だけであるということが重要であるということを考えました。 (『鍵のない箱』)

2017-04-29

 ところどころに見られる言い訳のようなもの=理由付けに目がいきました。「そういう日がきたから、そうしただけで」という投げやりな言い方は、自らの行動を型にはめることで納得を示そうとしているように思えます。  冷蔵庫の中には「やっぱり」ご飯はないので、いつものことなのでしょう。「瓶に入れられたミルク」というのは、何気ない表現ですが、気になりました。「瓶に入った」ミルクと普通なら表現するかもしれないですが、「瓶に入れられた」と表現されると、誰かの手があったからこそ瓶にミルクが入ったのだということが強調されて見えてきます。それと同時に、冷蔵庫の中にミルクがあるのも、誰かの手によって冷蔵庫の中に入れられたわけですね。  私が芽吹くのは「どうしようもないから」と、また理由付けがされています。こういった行為と理由付けがこの詩の鍵となっていて、でも、その理由が自分の力ではどうしようもできないところにあるというのが「わたし」が強く思っていることなのでしょう。  ハッシュタグとは一体何なのか。僕としては、「副題」という意味ではないかと思っています。乙女たちは手首にその「副題」を示していて、言わば、その内容を一言でまとめた題であり、象徴であり、印であるような何かではないかと。  ホワイトデーのお返しはいらないというのは欲望の裏返しであり、お返しはいらないという欲ではなく、「あたしを食べちゃえば」と語りかけるのは、食べてほしいという欲が垣間見られます。最後の「そういうものでしょ。そうでしょう。」という声かけは一体誰に対してしているのでしょうか。おそらく、自分に対する声かけで納得させようとしているのでしょう。  「そうしただけで」「どうしようもないから」「どうでもいいね」と投げやりな言葉があって、様々な行為に対して投げやりな理由づけを重ねることによって、納得できないことを納得できないながらも、納得しようとするのではなく、納得せざるを得ない、そんな「わたし」の心情を想いました。 (乙女たちはハッシュタグを忍ばせて)

2017-04-16

 一行目が「県道沿いの店に転がる死骸」ではなく、「県道沿いに転がる店の死骸」なので、死骸になっているのは、人ではなく、店です。建物があるということは、それを建てた人がいて、住むなり、商売をするなりといった目的があり、さらに言えば思いがあって建てたいと思った人がいて、それを建てた人がいるということ。  僕はその店が死骸になっているにも関わらず、その店が持つ目的を全うするために手を貸しています。ただ、それは死骸を呼び覚ますことで、自然の摂理に反することをしてしまうことなので、つい「手汗がじわっと滲む」のでしょう。  最後の行がとってつけたようにあるのですが、これが効果的です。外から中を見るのではなく、中にいるからこそわかる外の日常を描けるのです。死骸の中にいるという緊張感とは別に、外では日常が動いているという対比がより中にいることの不気味さを際立たせているのではないでしょうか。  それにしても僕は何故この死骸に足を運んでしまったのでしょう。ただの興味本位なのか、それとも、何かこの死骸との間に関係性があったのでしょうか。その関係性が見えてこないことがこの作品の見えないテーマとして浮いていることが、この作品の緊張感を生んでいる原因でしょう。 (つぶれたカラオケボックス)

2017-04-16

 acid=酸ということで、この作品でも「酸化」という言葉が用いられており、では、作中において酸化しているのは一体何であるのか。 「じゅくじゅくの傷」…一度作品を読み終えてからだとよりわかるのですが、僕が傷を抱えたものであることが示されており、その傷は外部に晒されています。 「君の面影」…僕の中に翳っている君の面影ですが、これは錆びていっており、記憶としてその輪郭を失いつつあるものです。ただ、外部には晒されておらず、僕の内部にあるものです。 「僕の影・目」…終盤で僕が僕から剥離した際に、地上に残された僕は冷静で「冷たい目」をしているのですが、傷を持って空へと向かいつつある僕の影は「おかしくなってく」のです。そして、「おかしくなってく」僕の影を見ている目も次第に「酸化してく瞳抱え」ています。 「血」…地上にいる僕は傷を抱えており、僕から僕の影が剥離して、僕の影は空へと向かうのですが、その僕の影も傷を持っており、血が「ちたちたちた、いつまでも零れ続け」てしまうのでしょう。  一見この詩の構図が見えにくいのですが、モチーフを読み解くことで作品の中で起きていることがよく見えてきました。傷を持った僕は、記憶にある君の面影によって、僕から僕の影を空へと帰されてしまうのです。  強烈な印象を抱いた詩行が「空に帰るその間際に/消えないようにと願ってた/傷を開いて/血が空に昇ってく/痕跡が残るようにと/何度も抉った」の部分です。血が空に昇ってくの「血」は「傷を抱えた僕の影」の暗喩であり、一気に凝縮されているのでしょう。ただ、意味合いとして、通常ならば、傷というのは一刻でも早く塞がって欲しいものですが、この僕は地上に痕跡を残したいがためにその傷をより開くよう何度も抉るのですね。自傷の極みですが、それだけせざるを得ない強い契機がこの僕にあるのだと、その切実さを感じました。  細かい考察は割くとして、この作品は言わば夢オチだと思っているのですが、そのオチ方が陳腐になっていないと思います。「なき交わす魂たちの目覚め」という「なき」は、「泣き」なのか、「鳴き」なのか、どちらでもよいでしょう。それか、どちらでもないか。交わすためには一つでは不可能で、「魂たち」と複数形である必要があり、一体どの魂たちなのか。安易に読めば、僕と君の魂となってしまうのかもしれないですし、それでもいいのかもしれないですが、この僕と同じ境遇にあるような人たちも僕以外にいるのでしょう。そういった魂たちが集う場所がきっとあるのだろうと思わされました。と言うのも、「なき交わす影たち」となっていたら、僕と君との交わしと読めるのですが、「魂たち」という変換がされていることによって、空間が一気に拡がったからです。  何より、陳腐でないと思わされたのが最後の「目覚め」です。この作品は、「傷を持った僕は、記憶にある君の面影によって、僕から僕の影を空へと帰されてしまうのです」と途中でまとめましたが、そのような夢物語や欲望に託して終わっているのではなく、いくら思い描こうとも、最終的には地上にいる僕が傷を持っているということから逃れることはできず、そのありのままを受け入れるという不条理なのか、それとも、決意の表れなのか。作中の僕の影は空へ帰すのですが、傷を持っているということを受け入れざるを得ないのだというその現実=地上へと読者を帰すような気がするのです。 (acid & spring)

2017-04-22

どうしても どうしても、悲報を届けたくて ここに来ました 居酒屋のトイレに貼ってあるような ピースボート世界一周の旅!とかいうのには 全く興味がありません が、それに行ったことがあると言った 婚活パーティで知り合った女性には興味があります (好きではないけどね ぼくは旅行が好きですが 文字で読めば終わってしまう旅行ではなく そこを歩きたいと思える旅行がしたいので どうしても どうしても、悲報を届けたくて ここに来ました から ここに来たいと思わされてしまったわけですね (世界構造プール)

2017-04-16

 海に行く人に問いたいことがあります。それは、あなたはなぜ海へ行くのでしょうか、もしくは、あなたはなぜ海に導かれるのでしょうか。海とは理由なく人を惹きつけるものだと重々承知しているのですが、それでも敢えてこれを問い続けたいのです。  「あたらしい海だ!」という嘘は、おそらく語り手の罪の意識を表している詩行です。その罪は表に出すわけにはいかないので、表面上はずっと笑うようにしているのでしょう。  一度行ったことある海だって、時間や一緒に行く人が変われば、そこにある「いま・ここ」にある海は常に新しいもので、その記憶を塗り替えることができます。語り手だけにしか知らない語り手だけの数多の記憶=物語。罪の意識があるせいで、広い海のできるだけ深いところという誰も知り得ない世界へとその記憶を捧げたいのでしょう。  「ふたりのあたらしい海を見るんだ」というのは、語り手にとってのあたらしい海ではありますが、果たして相手にとってもあたらしい海だと言えるのでしょうか。きっと、そう言えるでしょう。なぜなら相手にとっても語り手と海に来るということが、たとえ一度来たことがある海だったとしても、新しい相手と新しい時間であるということで、新しい海に来ていると言わざるを得ません。語り手がこのように考えている時、相手は記憶によって呼び覚まされる罪の意識を抱いていないかもしれませんが、同じようなことを考えているのかもしれないとその可能性を抱くことが大事なんじゃないかと思えます。  このコメントで罪の意識と繰り返し述べているのは、タイトルと最終連から導かれています。内容にそぐわない印象的な題名は、最終連の「何度でも赦されるんだ」ということからその不自然さが解消されます。この作品における罪の意識は、この海に別の誰かと来たことがあるということでしょう。ただ、「あたらしい海」というのは、新しい相手と来たことによって海が塗り替えられて生まれたものですから、「あたらしい海」お神様にもなれるのです。  十戒というのは、誰しもが守るべき倫理観のようなものですが、この作品における十戒とは、誰しもが誰かとの記憶を塗り替えることに対する罪の意識への赦しを得るための道具でしょう。ただ、それは十戒として存在しているだけで機能するのではなく、自戒として自らの心へ錨をおろすように留めておく必要があるのだと思わされました。 (十戒)

2017-04-22

作品に対するコメントを書く時、極力作品外のことを持ち込まずに書いていますが、こうなれば関係ないですね、話を発展させます。 僕も考えながら書いているので、気まぐれな論を展開しますが、 僕は海が好きですし、歩くことが好きというより義務感で大事だと思っています。 海に行く理由がわからないから山へ行くという、その行動力がまず尊いですね。 それに、海は歩みを止める場所であり、山は歩みを進める場所であるという違いがあるように思えます。 だから、祈りの質も変わるんだと思います。 海=万物の母というのは、ありきたりな表現だと言えるかもしれないですが、おそらく、りさんは、そのような型にはめることで、一時的に答えを出し、安心感を得たかったのだと、その表現をするに至るまでの過程が伺えます。 答えのないものを抱えたままでは不安ですが、暫定的にでも言葉に置き換えるということで、自らを納得させることができます。 海に導かれるのは何なんでしょうね。 僕は海が大好きですが、めったに行く機会がありません。 それに、海の何が好きなんでしょうか。 僕は、幼少期に家族と沖縄の海で泳ぎまくった経験があり、海とは中に入ってその風景を眺めてなんぼだと信じています。その世界が見たくて、海に行きますが、海に入ることができずに、何となく、遠くをぼんやりと眺めるだけですね。思えば、水平線が見える、というのは素敵ですね。日常の中では、建物で見えないものが見える。海がある場所は、日常より目に見える景色・物体が明らかに少ないですが、日常見えないものが見えてくる場所である、ただそれだけで魅力があるかもしれません。 この作品の核は記憶を塗り替えることであり、それを作中のわたしが罪の意識を持っているのだろうということは、読んでわかります。そして、十戒というタイトルが名付けられた理由もわかります。(わかるという表現が正しいのか、僕が勝手に読み取っただけですが…) 僕は常に非日常を求めており、旅をしたいです、山でも、海でも。GWにぷらっと行こうかと。 りさんは、海を避けて、山に向かうわけですが、僕が敢えて言ってみたいのは、りさん、これからも何度でも海に出向いてください。 (十戒)

2017-04-27

 金がないことと空間認識能力が有り余ることという予想外な結びつきから始まる冒頭、そこにどういった因果関係があるのかはわからないながらも、確かなパーソナリティが示されています。  その空間認識能力という少しとっつきにくい言葉は第二連によって説明されます。ふたりきりであるということ、そして、それが素敵な空白であるという空間認識がなされ、君は麦茶を注いでくれたという空間がその能力によって補われています。また、その豊かな能力が導くのはそこにいないはずの三人目の存在。ただ、その存在は僕ら=ふたりきりで分けあっている確かな存在。  記憶は自らの行為ではなく、弛緩した強制であるので、外部から強いられて生まれるものであるという認識。そして、怠惰=何もしない=不作為ではあるものの、何もしないという、それはそれで選択した行為であって、何もしないという行為を外部からの強制によって舞い散らされてしまっています。  (希死念慮=死にたい気持ち)を(抱けず=理解できず)にいながらも、このふたりきりの空間、補えば、ふたりきりの時間によって得られたことは「短命は徳なんだ」という箴言なのでしょう。そして、ふたりきりの時間を終えて、ひとりきりの時間へと帰っていきます。  かくめいとひらがなで表現せざるを得ないのは、この名詞の意味=核心を掴み切れないながらもその意味づけの萌芽を表しているからでしょう。そして、どの生命線よりも長いものである、つまり、どの人間よりも長い時間在ることができる、どのような時間をも超えて存在し得るのがかくめいだと言えるのでしょう。それか作品の意を越えて付け加えるならば、ひとつの掌にある生命線ではかくめいという生命線の長さを超えることはできないのですが、ふたりの掌にある生命線を繋ぎ合わせること、ふたりきりの時間を共有することによって、ひとつの掌にある生命線の長さを超えることができるのではないでしょうか。 (かくめい)

2017-04-22

もとこさん 人が人を好きになるのは、「好きになった」という結果が先にあり、その理由は後付けになるものだと思います。この当たり前で見過ごされることが、意外と大事で、その人をその人らしくしているものなんだと。 もとこさんの過去を掘り起こすことができて幸いです。 不明点はある意味ジャーゴンとなって、文脈の不提示という作者の暴力でもありますが、それでも、それを承知で書かざるを得ませんでした。ありがとう、ペニーレイン。 (めでたしの始まり)

2017-04-25

まりもさん モチーフが幾層か重なっているので、平易な言葉ではありますが、読者を惑わすことがあるかもしれません…。 ハニートーストにしても、杏仁豆腐にしても、比喩でもなんでもなく、ただそこにある物体であって、むしろ、まりもさんによってその味付けがされたという点で、まりもという香辛料をかけていただきありがとうございます。 杏仁豆腐はちょっと安易だったと思いますが、文字通りの杏仁豆腐に感謝をしています。お酒飲みすぎた後の杏仁豆腐は優しいです。 (めでたしの始まり)

2017-04-26

三浦果実さん 気づいた時にコメント返し。 独自の目線での切り口は参考になりましたし、根拠はないですが、何となくそんな気がします。 多分、僕の作品は受ける人には受けるけれど、受けない人には全く受けない、読者を選ぶ作品かもしれません。 言葉は表面上の物でしかなく、その奥底を掘りたいと思わせる、そんなんがいいと思ってます。 僕は硬派すぎる、真面目すぎるので、三浦さんのような存在も必要だと思います。 (めでたしの始まり)

2017-04-26

百均ちゃん 多分、僕の詩って、読者を選ぶんですかね、難しい言葉も難しい概念も使わないようにしてはいるのですが…。 というのも、なぜ読者がとらえきれないのか、自分なりには何となくわかったのですが、的外れな気もするので、沈黙を。 本当に書いてあるとおりで、何となく哀愁的なものを感じていただければそれだけで幸いです。 あくまでも客観的になったうえでならば、いつでも自作を語ります。 (めでたしの始まり)

2017-05-09

 最初の三行は何でもない言い換えに見えますが、一つの現象に対して一人称・二人称・三人称と見る立場による違いが表されているのでしょう。どうしてこの表現をせざるを得なかったのか。  続きは何でもない風景描写から始まりますが、不意に「間違って受け取っていたってことに気が付いた」というフレーズがあります。この気づきが核になっていて、言わば反省的に「もう見失わないって いまはそう思っている」といまになったからこそわかっているのでしょう。つまり、いま以前は見失うことがしばしばあったのだと示唆されています。それに「間違って受け取っていた」というのは、一つの現象に対する見方の変遷が表されており、冒頭のフレーズはいまの反省があるからこそ生まれた表現なのでしょう。  そして、「なんについて言っているのか/知らない人にまで聞かす話じゃない」と、見失っていたエピソードの詳細を語り手は読者に語ることをしません。この反省は自省であり、読者に提示されるのは、語り手の過去に何かがあり、今は気づきが得られているということだけです。  ただ、間違って受け取っていたことに対する気づきがあろうとも、物の見方が変わっただけで、過去そのものが変わることはありません。その過去は映像として「通り過ぎたあの日 彼方の海 遠い世界 まぼろしの意識」と蘇らせることはできるかもしれませんが、その時の私は現在にはいないので、その時の感情そのものは似たような形で再現することしかできません。  そして、やり切れない現在の思いをはぐらかすために、語り手はおどけ始めます。おそらくいくらおどけようとも、やり切れない思いは無くならないと知りながらも、とにかくおどけることでやり過ごそうとしているのでしょう。ここでの感情は何かに対する怒りを感じます。他者へ向けた怒りは、架空の怒りとなって、きっと語り手の感情に留まるだけです。  怒りの感情から不愉快さを得ながらも、何にもならないことに気づき、「もうおかげで今があってよかったと思うしかないって」と、現在に対する受け入れをするしかなくなります。ただ、何にもならないからこそ、現在をそのまま受け入れるのではなく、改めて物の見方を変え、おどける姿勢が終盤まで続きます。  終盤における語りのスピード感や語句の選び方が冒頭の苦悩や思い出と全く異なっており、何がここまで語り手を変化させたのかは驚くばかりですが、言わばその開き直りが必要であったとしか言いようがありません。もう少し内容やモチーフの変遷に触れるべきですが、語句の並びだけを楽しみたいと思います。  そして、結末、作中のカメラが一気にズームアウトして、開き直った語り手を見守っていた唯一の存在が姿を現し、語り手のやり切れない思いを理解しているのだという姿勢が表れているのでしょうか。 (20170425)

2017-04-30

 答えを尋ねるということは、答えがない状態でないと成り立ちません。何の答えを何故探しているのか。それに、この作品においては、どうやったら答えが見つかるかもわからない、その方法すら模索している気がします。意味のわからない言葉は「辞書を開けばいい」というその方法を知っていますが、この作品の言葉はその方法がわかっていないのでしょう。だから、「行動すればうまくいくかなどうかな」とあり、「集合を求め得」るために、ひとまずの行動を起こします。  小さく言われた「ただ気が立ってただけさ」というのは、垣間見える語り手の本音でしょう。  あと、核になっているのが「断裂」という言葉だと思いました。作中にも用いられていますが、空間=「私がいるここ=内側/私以外がいるそこ=外側・外部」との断裂がこの作品の根底にあるのでしょう。断裂はきっと境界線とも言い換えることができ、暗がりはその境界線を目に映すことがなく、その断裂を一時的にも語り手から忘れさせた時にいるカナリアに「私が答えられないようなことも言って見せてね」と淡い希望を抱いています。  最終連は畳みかけるように語り手の独白が続きます。それも「秘密ないかまたはある」「真夜中に太陽は上らない考えること」と一行の中に、相反する言葉が並べられ、語り手自身が語りながら確認作業=答え尋ねをしているのでしょう。そして、さきほどの空間の断裂ではなく、相反する言葉の繰り返し=言葉の断裂が一行の中で起きつつも融和しつつあります。  語り手の欲望は答え尋ねをしているので、一見答えを見つけたいという欲望を抱いているのかと思いきや、「答える責任を逃れたい」ので、答えを見つけてしまうこと、もしくは、答えが見つかったとしても他者に開示することをきっと恐れています。ただ、それでも「そしてやがて人生は実」り、「私の全ての光を歌」うことを決心します。その理由は「生きることと終えることとは同じように不安なのだから」とあります。  終盤は相反する言葉が語られます。それは、答えを見つけることではなく、答えを尋ねる=答えを探そうとすることへの優位性を示している気がします。結果ではなく、その過程が大切なんだと。そして、相反する言葉そのものが「幾つの表現が断絶」されていることであり、答えを尋ねる行為を示しており、そのことによって言葉=答えは育てられているということなのでしょうか。  責任は確かにすべてのものが担っているかもしれませんが、その責任を全うするのか、逃れるのか、その答えが語り手から示されていない以上、読者はこの答えを尋ねることが必要になるのでしょう。 (答え尋ね)

2017-04-30

 物騒な作品でありますが、それでも読んでからの気づきを書きます。  冒頭は主語がありませんが、それが誰の行為なのかはおそらく後に描かれた父と母と弟の行為だとわかります。  中盤は鶏のエピソードが挿入されており、ここでのテーマとなり得るのが子と大人の対比でしょうか。子はかわいいもので、言わば観賞用、見るものとして可愛がられますが、大人になるとかわいさを失い、言わば他者との利害関係でしか結ばれない関係が描かれています。でも、それは同一の存在であるはずです。  その鶏のエピソードから類推すると、この私は大人です。そして、そんな私の体の一部を食す家族は、父→母→弟の順番で食しているので、これもまた家族における権力の順番が示されている気がします。  食されて残った私は、骨でしかなく、おそらく家族にとって私の骨は必要なかったのでしょう。骨が残ったことで、「私の骨」と私と言う存在を失うことから逃れることができます。そして、その「私の骨」がキッチンを照らすのです。逆説的に言えば、「私の骨」が存在しなかったら、キッチンは普段通りにLEDライトで照らされるだけです。  家族が私の体の一部を食す残酷な作品であるかと思いきや、ポジティブに捉えるならば、家族が私を食したからこそ、私(の骨)という存在が家族の団欒の場をより明るく照らすことができたのでしょう。言わば、私は家族の引き立て役に徹しているのでしょうか。 (聖家族団欒)

2017-04-30

 何かを信じるということは、世の中に対する反逆であり、何よりその人をその人たらしめるものだとこの作品を読んで感じました。作中の言葉で言えば、「すなおな心のままで/そのままで生きていればいい」ということです。  出だしから、世の中の一般的な物の見方に対して一石を投じています。UFOなんていないという一般論=先入観に対しての抵抗。続く話はまるで大人が子どもに語り掛けるように、物の見方が説明されています。その中でも核になっているのが「冷たい人工物のほうが明るいの」という繰り返されるフレーズ。  次の連も、世の中における一般論に対する抵抗です。二酸化炭素が地球温暖化の原因である、という言説を信じる人と信じない人。この語り手は少なくとも信じない人であって、信じる人に対して「洗脳」というように見ています。それでも、その抵抗が無力であることを承知であるのは、最後の「なのに…」というボヤキから見受けられます。  一般論に対しての抵抗が無力でありながらも、語り手は絶望していません。だから、「すなおな心のままで/そのままで生きていればいいと思うよ/洗脳されてもそれが、幸せなら」というフレーズが生まれるのでしょう。一般論に洗脳されていたとしても幸せであって、「地球にやさしく生きていけばいい」というのが、語り手の希望です。  こうした希望を持てるのも地球=自然に対する気遣いを持っているだけでなく、この語り手は「冷たい人工物」の美しさを知っている存在です。つまり、語り手は人工物に対してさえ気遣いができる存在です。  何かを信じるということは、一般論に対する抵抗です。周りがどうあろうと、「私」だけはこれを信じていたいという欲望でもあります。この語り手は、UFOや二酸化炭素の存在に対する一般論に対して抵抗をしているわけですが、「冷たい人工物」が「きれいにきれいに光る」ことを知っており、その美しさを信じています。その物の見方こそ、この語り手を語り手たらしめる要素であり、気遣いのある存在だと読者である僕は信じています。 (やさしい無機質)

2017-04-30

 この詩を読み通した前提で先ず述べますが、語り手の視点を3つに分けて考えてみました。それは、「らりる寸前の私」「らりった私」「らりる寸前の私を見ている客観的な私」の3つです。  冒頭は「らりる寸前の私」が「結局」という言葉を用いて、結論を述べています。季節が巡るということとそれに併せて何度でも胸溢れること。それでも、その結論を「?」により、一度保留にするのです。なぜ、保留にするのかと言えば、胸に溢れた何かが流れて花になったり、痛みを伴ったりするからでしょう。  そして、「らりる寸前の私の見ている客観的な私」が「らりる寸前の私」を眺めるために一度視点を変えるべく、電波塔の上にいる必要があり、世界を眺めているのでしょう。  「らりる寸前の私」は、一度冷静になり、淡々と欲望を語ります。最初に抱いた疑問、季節が巡るにつれて痛みを伴うこと、それに対して新たな結論を付け加えます。「結局は傷んでいたい/悼んでもみたい」と。この悼む行為は、誰に対しての行為なのか。僕から君に対する行為ではなく、冷静な僕が傷んでいる僕に対して起こす行為なのではないかと思いました。  君という存在が僕にとって一体どういう存在であるのか。ただ単に恋心抱いている君に見てしまうのではなく、鍵となっているのが「なんかごめんね/夢ん中で、触れて」という箇所でしょう。僕は君に対して触れてはいけないというまるで禁忌であるかのような、何か神聖的な恋心を感じました。  恋心を抱くのが非理性であり、ただ「もうやめとけ」という理性の中で葛藤する僕はついに燃えていきます。この理性と非理性の境界にあって、葛藤しているということが「らりる」ということなのでしょう。「燃えてく僕の体が、綺麗」というのがらりっているはずなのに、冷静に僕そのものを捉えている描写であり、これが最初に書いた3つの視点の分離を感じさせる大きな要因でした。「流れてく意識/車窓の外で 雨」というのもまだ冷静さを保っているのですが、らりった僕はその見ている世界を語り始めます。  その世界では「意識」が「花」に喩えられ、そして、それは同時に「光」でもあるのでしょうか、らりっている人が見ている世界はどうもよくわかりません。それでも、「火花散る」というフレーズから読者に歓喜されるのは、火花が散るということは、火の中心から光が散らばっていくその姿がまるで花が咲いているようであるということ。それこそ、「火花」という言葉が持つ意味に改めて気づかされます。そして、この作品に置いて散っている「光」=「花」はきっと僕の意識(思い)です。  「君にもあげるよ」という印象的なフレーズがありますが、何をあげるのかと言えば「僕の感情の花」です。その花がどこから生まれたのかと言えば、燃える僕から発生した火花です。僕は燃えることによって、その花を君にあげることができるようになったのですが、「君にもあげるよ」という思いは、「もうやめとけ」という理性を通り越し、その理性と非理性とぶつかって僕が燃えたことによって生まれたものです。  果たして、僕の火花を君は受け取るのでしょうか。そして、僕は燃え続けることができるのでしょうか、僕は火花をうみ続けることができるのでしょうか。さらに、もし君が僕の火花を受け取れば、僕は一体燃え続けているのか、そして、傷み続けているのか、そんなようなことをさらに想像させられました。また、「君にもあげるよ」という言葉は、読者である僕も受け取ったのですが、僕はその火花を受け取る資格がないように思いました。それは、読者である僕は、作中の「僕」に対して理性と非理性のせめぎ合いを起こさせることがきっとできないからです。 (ル・カ)

2017-05-14

朝顔さん コメントありがとうございます。 今のうちに返しをさせていただきます。 「詩の中の少女が可哀相」になるというのが、なんというか新鮮で驚きました。 おそらく、この作品はぼくから見たきみに焦点があたりがちで、読者もきみに注目をしてしまうんだと思います。 ぼくから見たきみがどうであるかと同時に、きみから見たぼくの印象も成り立たせたかったのですが、これはいわゆるセカイ系作品になってしまい、ぼくから見たきみに注目が行き過ぎてしまい、ぼくの全能感がにじみ出てしまっているのだと思われます。 もしその全能感があるとしたら、ぼくは全く優しくなく、むしろ暴力的なのだと思いましたが、表現されている「ぼく」はそうであって、「なかたつ」は表現されていない何かを孕んでいるかもしれないです。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-07

かじっちゃん様 その台詞は、決まりすぎている気もしているのですが、気に入っていただけて嬉しいです。 ぼくらしさ、ですかね。でも、力が入っていない作品という捉え方が僕なりになるほどと思いました。そして、それが共鳴しやすいというのもなるほどと。 あれですね、正直に言えば、僕は凝ったタイトルをつけるのが嫌いで、タイトルはできるだけシンプルにしたいのですが、このタイトルはダサいですね。 それに、三浦さんの考えたタイトルは決まってますね、いいですね。ただ、多分ですが、海を主役にするつもりなかったのに、多分、映像的に海が主役になるように筆が進んでしまったんですね。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-09

poppociderさん コメントありがとうございます。 (卑屈だと思われるかもしれないですが…)おそらく、僕の詩がなかったとしても、ネモフィラはネモフィラでその映像の美しさを持っているのだと思われます。 断片的な台詞というのは、ここ最近の戦略的スタイルです。 本当におそらくですが、「うぉんと えんげいじ」という題に騙されているかもしれません。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-13

まりもさん B-REVIEWにおいてまりもさんの読みを一番に信用しているのですが、どうもそれでも僕の作品と言うのは捉え難い何かがあるのですね…。 僕としては、語り手・語り・場面・声を幾層にも重ねながらも「一人の作者によって生み出された世界」という、一つの主体・世界にそれを帰するのだと勝手に信じているのですが、おそらく、この信仰がまずいのでしょうか、最近の連作において感じました。 確かにネモフィラは綺麗で魅力的ですが、それはネモフィラが物として持つ美しさで、たとえ僕が死んでもその美しさはそこに在りますが、それを見る人間によってその美しさや映像が異なるのだと考えています。 僕は自作解説を無性にしたい欲望がありながらも、それは野暮だと避けます。 何より作品において精進いたします、ありがとうございました。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-14

霜田明さん そう言っていただける方が一人でもいれば幸いです。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-15

 「あまりにお粗末な終奏に 行き止まりを告げられたから」と、何かを終わりが最初にあって、そこから詩が展開されていることを前提として読む必要があるのでしょう。そして、その終わりによって、僕は立ち止まっており、その終わりとは一体何であるのか。 そこで、僕は終わり以前の様子を眺めるのですが、終わり以前を眺める時制は終わってしまった今であるので、振り帰り、そこに足跡があるわけです。それでも、僕は「重たい足取りで 交互に踏み出す」のですが、どこに向かって歩き出しているのか、それはきっと終わり以前の過去に向かってです。ただ、「感じていたはずの音が 感じられなくて/確かめたくて」と今は姿を変えてしまった過去の様子が示されています。 そして、辿り着く「置き去りにしてきた約束の場所」が「蛍火の河」なのでしょう。一見、「蛍火の河」の正体が何であるか、読者が辿り着けるかはわかりませんが、きっと、僕にとって過去の大事な場所あるように思えます。  「見捨てずに待っていてくれた」ので、僕は無事に辿り着くのですが、そこにある箱の中の「人気者の石」が「僕にはもう 冷めた蛍火」になってしまっています。  「そんなはず無いのに」と僕の強い欲望が表れていますが、それを否定するだけの力はなく、「そう感じてしまって 悔しくて 悔しくて」というのが僕の思いを非常に強く感じさせられるフレーズです。  そして、そう思った僕が起こした行動は「握ったまま」であった何かを蛍火の河に向かって「思い切り手放し」て、それが「威勢良く 水を切って」いきます。では、この蛍火の河に何を投げ入れたのか、それは冒頭にあった「濁った石」でしょう。その「濁った石」を河に水切りをするように投げ入れたことで、最後の行が生まれるわけです。つまり、「濁った石」とは「初恋の感覚」であるということ。そして、何より大事なのは、その「初恋の感覚」を「思い切り手放した」ということでしょう。それと同時に、それが今や色褪せてしまった「人気者の石」でもあったのでしょうか。  きっと蛍火の河と言うのは、僕が過去に抱いていた大事にしてきた思いの集積場なのでしょう。大事な物であっても、手放さなければならないものはあり、その大事さが僅かな火を灯す蛍火となっていて、いつでも僕を待っている。そして、手放さずに過去から現在まで握ったままでいた「濁った石」は、なかなか手放せなかった本当に大事なものであって、それを終に手放す勇気を持てたこの僕の行為に感銘を受けました。 (蛍火の河)

2017-05-14

 最初の一行に惹かれて読み進めました。これが結論でもあると思うのですが、ここに引っ張られすぎてはいけないとも同時に思いました。二行目は突き放しているのではなく、あなたの死を受け入れる決意を表しているのでしょう。  「政治は腐敗して(後略)」の行は、私達とあなたの徹底的な違いを表しています。おそらくあなたは政治や国のことについて、熱心な活動家(?)であり、そういったことへの興味が強く、そういった話を私が聞いていたと思われます。ただ、私達はそういったことに対して「なんと言うこともなく」生きていける存在です。そういった政治や国のことに対して「悲しみと怒りの境界に項垂れた」のはあなたであって、あなたが死んだ以上はそういった過去は無に帰するのでしょう。そこで、草木とあなたとの対比に移り、草木は死が訪れても循環しますが、あなたは循環せず、あなたの行為が一回性を持つことしかできないことを表しています。  「あなたが私を包み込んで、私にあなたが満ち満ちる」というのは、例えるならば、まるで私の中にあなたを孕んでいるようです。「あなたの価値はたったそれだけ」というのは、「あなたに体温のあること」だけが価値を持っていることです。私は「どうか自分の価値を見誤らないで」とまるで叱責するかのようですが、むしろ、それだけしか価値がないと貶めているのではなく、それだけでも価値があってよいと捉えているのでしょう。  あなたが死んだことによって、あなたは体温を失うはずですが、逆に、あなたが死んだことで私の中にあなたを孕んだことで、私を夜な夜な温める存在であるからこそ、「あなたに体温のあることが好き」なのでしょう。つまり、「布団の中であなたの体温が膨張する。あなたが私を包み込んで、私にあなたが満ち満ちる」というフレーズと「あなたに体温のあることが好きだった」という箇所を切り離して考えてはいけないのですね。  あなたの死後、あなたの存在は居場所がありません。「桜は、周囲を見定めたように花を落とし」ているので、これは居場所ということに対するあなたと桜の対比をしているのでしょう。ただ、あなたの居場所は私の中に在る。だから、「満開の桜を、今年も私は見なかった」ので、「あなたもきっと、満開の桜を見」ることができなかったはずです。 (death)

2017-05-13

 いや、はっきり言ってしまえば、このお姉さんについていきたいというか、恋をしてしまいますね。僕は自称Mで、「困らせてあげる」なんて言われたら、「困らせてください、そして、振り回してください」と頭を下げてみたくなります。そして、一体どのような世界に連れて行ってくれるのか、そんなことを期待してしまいます。ただ、最初にこのようなことを書いてしまったのはいけないことで、この作品の結末しか鑑賞していないことになってしまいますね。ただ、それだけインパクトがあって、僕はもう恋をしてしまったわけです、このいけないお姉さんに。どういけないのかって、本当かどうかしらないですけれど、主導権を握っているということ。「さよなら」をするタイミングを知っているのもお姉さんで、それも綺麗な「さよなら」じゃなくて、困ってしまうような後味の悪い「さよなら」なんですね、やっぱりいけないお姉さんですね。  でも、僕は意地悪をしたくなります。こういったお姉さんははったりなんじゃないかって、表面上のいけなさなんじゃないかって。だから、「僕をどれくらい困らせられますか?」と挑発したくなります。こう思うと、僕はやっぱり自称Mでしかないんですね。  「さよなら」を告げるということは、主導権を握るだけでなく、何かから逃げることでもあると表裏一体なんじゃないでしょうか。作品をよーく読むと、ああ、実はこのお姉さん、弱いんじゃないかって思いました。他者との交流を拒んで、薄暗い部屋で自死してしまうんじゃないかなって。だから、「本当にさよならするのは、ずっと先」って、本当のさよならが来ることを知りながらも、それを「ずっと先」って言ってるのは、どれくらい先のことか知らないんじゃないかって。で、多分なんですけど、誰かに向けたこのメッセージは、お姉さんしか知らない自意識の話で、相手は知らなければ何も困らないかもしれない。  繰り返しになっちゃうんですけど、最後の行があるとないと全く違っていて、なければちょっとひ弱なお姉さんだけど、あることによってはったりをかましているよりひ弱なお姉さんなんじゃないかなって、本当に直感ですが、思いました。だから、むしろ、守りたいと思わされました。墓守になってやるぞー、って。でも、多分それは誰でもいいわけじゃないですよね。 (Swan song)

2017-05-16

 一行目から何だこれ!と引き込まれます。でも、自己紹介しようとわたしは、自己紹介の内容ではなく、自己紹介をするための手段であるはずの声にコンプレックスを持っています。そのコンプレックスは強大なもので、「かわいい」って言われても、「うそつき」と相手への信用を持っていません。そして、わたしにとっては、声>かお、であって、かおは手術すればなんとかなるかもしれないけれど、この声は手術しようにも何ともならないと思い込んでいるほどのコンプレックスをもっています。  わたしにとっては、重要な悩みが他人とっては「小バカ」にされる対象であって、生きている限り、その声を変えることもできずに苦しみ続けるしかないことから、「いきるだけ しかばね」であるしかないのでしょう。  ところで、コンプレックスは何故生まれるのでしょうか。そのきっかけとなったのが、「雑すぎ、ひく、きもっ、しねっ」という他者からの評価が種となって、そのことによって生まれたコンプレックスは、自らで水を注ぎ続け、自らが醸成させてしまったことで大きな花を咲かせてしまったのでしょう。そして、その声は「うまれついたもの」だから、「わるかったのは、わたしじゃないのに、」という開き直りの姿勢も見受けられます。  そうした声を持って生まれてしまったと、言わば運命づけられたことに対して、「かみさまは、さいしょから、あたしを、みていないことにきがついた」と述べているのでしょう。  多分、このわたしは、このコンプレックスに立ち向かおうとしていると思うんです。運命づけられたことに抗うことは難しいですが、世界の捉え方を変えようとしています。「たのしい所で かなしいこえを(後略)」の箇所によって、「生き方を真逆に」することへ挑戦するわけです。それでも、コンプレックスによって声を失いつつあったわたしは、一度屍=ゼロの地点に立って、リセットをします。だから、髪を切り刻みます。それは、自らで自らに変化をもたらすということ。他者からの勧めでもなく、他者からの評価でもなく、そういったものとは無縁のところであって、髪の毛に手を加えること。  醸成されたコンプレックスは、きっと自らが自らに対して評価を下すことで生まれるのでしょう。そのコンプレックスを克服するために、自らの意志によって自らに対して変化をもたらすこと=髪を切るということ。それでも、「くさりかけの声」と声は付き物ですが、「せいたい」は声帯であるかもしれないし、わたしという存在そのものである生体でもあって、自らに変化をもたらしたかったというその行為が何か勇ましく思えました。 (屍)

2017-05-28

 ふと思ったのが、「ラスト」とは「最後」を示す言葉ですが、世の中には余りにも「ラスト」という言葉が有り触れている気がしました。最後とは、本当だったら重たい言葉であるような気がするのですが、その意味が言葉から剥離しているような。  この作品におけるのは、「ラストダンス」そのものではなく、おそらく「ラストダンス」の後の情景が描かれているのでしょう。それが「さっきまで、かみさまの慰める声がしていた」と表現されています。そうであれば、「ラストダンス」であるはずが、その後があるという厳密に言えば矛盾かもしれませんが、それが本当の「ラスト」の度合いを高めているのでしょう。  「さいきんブラックコーヒーが飲めるようになったんだったと/どうでもいいこと、ポツリとした」のポツリ感がよく出ています。どうでもいいことをポツリとするのは、おそらく口でぼそっと呟いたのでしょうが、出てきた言葉は誰かに向けられたわけではなく、自分に向けられたわけでもなく、ただその空間に落ちていった言葉であるのでしょう。そして、どうでもいいことは、メッセージではないから誰かに向ける必要もないのでしょう。  ただ、この作品の世界は、実は「綺麗なものたち」が「はじめから死んでいた」のですね。そして、「何もかも死んで」おり、「わたしですら、はじめから死んでいた」のです。でも、希望と言っていいかわかりませんが、「いまだ生まれていなかっただけかもしれない」と発想の転換がされています。  何かも死んでいる世界では、音楽も死んでいます。でも、音楽は命を持っていないものであるのに、死ぬことができるというのが不思議で。それが「どこか」と、場所を特定されていないのがよくて、誰にも知られていない場所に確かに在るのでしょう。  そして、「切り離されていくラストダンス」とは、この語り手からラストダンスが剥離している状態を思わされます。語り手からにゅるっとラストダンスという物体が生まれるような、そんな状態。それは語り手の意識そのものが遠のいているのか、それとも、ラストダンスが死に場を求めて彷徨っているのか。最後の「わるくないね」というのは、この状況を見ている語り手の肯定の表れでしょうか。その肯定が現れた瞬間に「魂も死んだ」というのは、安らかな眠り(死を意味するのではなく)が訪れるようなそんな感覚を味わいました。宴の後に訪れるぼーっとする瞬間、そのような情景を描いた作品だと捉えました。 (ラストダンス)

2017-05-24

 夢で起きていることは、夢の中で反芻することなく、目が覚めてから思い起こすことしかできません。そして、それは100%の再生は難しいもので、多少歪曲されているものです。「歯の間のわずかなねばり」や「小さな透明の、いくつもの破片」は、夢の中で食べたものを現実に手渡された痕跡でしょうか。それとも、単に現実世界で口の中に食べ物を残したままに眠りについただけでしょうか。ただ、「同じ夢を見ている」はずなのに、夢の中で食べたものを思い出せないのは、現実と夢との間に越えられない壁があることを示唆しています。  話は結論めいてしまいますが、この詩における食べ物や食事の役割は、夢と現実を媒介するものだと捉えました。魚や牛肉は、ただの生物であって、それを体内に取り込むためには咀嚼する必要があります。それは食べ物に限らず、目で見た景色や耳で聞いた音もただの色や音の組み合わせでしかないですが、それらを捉えた主体はそれらに対して意味を付与したり、記憶したりすることで、一つの型を見出し、腑に落とすのでしょう。  現実で咀嚼し、飲み込んだ生物だけでなく、景色や音などはただの素材でしかなく、それを捉える主体があって、主体の中に姿を変えて残り続けます。「かつて食べたものは/やがて食べるものは/どこまでも透き通っていって/夢と、ここの間に/風のように座っている」と、「ここ」というのはおそらく目が覚めた語り手がいる場所であって、言わば現実でしょう。夢と現実の間に、食べたものだけでなく、これから食べるものも居座り続ける、やはり、食べ物や食事が夢と現実の橋渡しをする役割を担っているのだと思います。  話が戻り、最後に三連目のイメージをどう捉えたかを記します。土に刺さった根っこや光と風をはらんだ葉からは、根っこが枝分かれしている画像・葉の葉脈の画像が想起され、そこから魚の骨の画像と結びつくことで、そのイメージの飛躍がすんなりと通過できます。そして、魚自身が枝葉のイメージを内包しているわけではなく、海水のひだをかき分けていく時の水の流れがまたそのイメージと結びつき、魚の外部へと視点が映り、僕が登場することができるのでしょう。ここでの牛肉の登場も「静かな筋肉の、繊維を」とあるように、当初の枝葉のイメージが通底しています。肝心なのは最後の一行「解いていくのか」でありますが、この点については上記のとおり、食べ物・素材を咀嚼することに繋がるのだと思います。 (食事)

2017-05-28

 僕としては、とても好きな作品であるとともに、完成度が高いと思いました。ただ、どのように鑑賞してよいか、感想を述べればよいか、これが難しいですね。  「天国の残りは青かった」という字面だけ見れば、そのまま意味を飲み込めるような表現ですが、意味を考えてしまおうとするとドツボにはまってしまいます。というのも、天国は概念的な場所であって、その見えないものに対して残り物があるという発想は思いつきもしないことですし、それが青く見えているということ。つまりは、天国は目に見えないけれど、天国の残りは青く目に見えるものであるということがわかります。そして、この作品において、青く見えているものが二つあり、「空は群青色」と「青い海」です。この両者のいずれかが「天国の残り」になるのか、それともいずれでもないのか。ただ、空にしても海にしても、目には見えるけれども、掴みどころのないような概念的な要素も孕んでいるように思えます。天国の残り=空・海ではないかもしれませんが、倒置的に捉えて、青く見えるものの中に天国の残りという表現を託すことができるのではないかと考えました。  さてさて、一度ドツボにはまったところで、この作品で素敵だと思った箇所は「今まで出会った人たちとの距離について考えてみる」ところです。それまでは語り手が見ていた物と物との距離について、観察する者として事物を捉えていたのが、この箇所からは、語り手が事物として対象化されます。相手によって、相手への印象や関心が異なるのですが、そういった思いに関わらず、距離は存在するということ。語り手を対象化するために、語り手とその世界にある事物の距離を示せばいいのかと、そして、そのために舞台の上にぽつんと語り手が置かれている様子。しかし、その舞台の幕が閉じた後、対象化された語り手は自らの意識とは無関係に、机の上に落ちた一粒の雨と事物化されることで、「何もかにもに気づいてしまう」のです。でも、語り手はある一つのことだけはわからなかったのです。机の上に落ちた一粒の雨=語り手を産み落とした存在が一体誰であるのかということが。  改めて「天国の残りは青かった」ことに思いを寄せてみると、きっとこの世界に生きる者は語り手に限らず、机の上に落ちた一粒の雨のような存在であり、そして、誰しもが誰かに涙によって産み落とされているのではないでしょうか。そうした、一粒の雨は、まるで空と海で循環する水のように、人もまた、涙として産み落とされ、産み落としていく存在であるということ。つまり、天国とはかつて産み落とした者達がいく世界であり、天国残りは産み落とされた者達が集う世界であり、一粒の涙が集う世界でもあり、そこには空も海もあって、水が循環する世界であるということを示しているのではないかと考えました。 (距離)

2017-05-28

 こう言ってはつまらないですが、この作品を一言でまとめるならば、雨後の動きを示したのだと捉えました。ただ、例えるならば、それがシュールレアリスムの絵画のようになっています。  冒頭、ミクロな空間で起こる晴天から、マクロな世界へと映像が切り替わります。スタート地点のカメラが喉の中にあって、口の外へと拡がる空間へと飛び立つように。そして、そこでは、「鳥類図鑑」の中から鳥が羽ばたいています。そして、映像は改めて身体の中へ、胸の中へと移り、おそらく今入ってきたのではなく、元から内包されていたコルク球が蠢いています。再び、映像は身体の外、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、雲から釣針が垂れてきて、気づけばもぐらがいる地上へとたどり着きます。おそらく、これはしとしとと降り続けていた雨のことを指しているように思えますが、この表現方法が単純に面白かったです。そして、終には、地上を歩いているだろう人の左腕に視点がフォーカスされ、蠢く左腕を「さざ波」と表されているのでしょう。それはきっと、「雨垂れ」によって、地上が水で満たされており、その地上より高く、灌木より低くある人の左腕が地上の水の表面となっているから、左腕がさざ波に見えるのでしょう。(萩原朔太郎の作品にも、人ごみ、人のあたまだったかを波に喩える作品がありますね)  この作品の語り手は心情を語るのではなく、カメラとしての役割を徹底しています。意味を伝える作品ではなく、イメージを伝える作品として、純粋に楽しめました。特に釣針がもぐらの鼻先に落ちるところですね。 (鼓と 雨垂れのつづき)

2017-05-27

 まずはじめに、この作品をちょっとどきっとしました。というのも、僕自身が選ばれることを望んでいる人間であるからです。  それはさておき、この作品で用いられている「/」は言わば呼吸であって、手紙でも文章でもなく、声や独白のように自ら確かめながら言葉を紡いでいるという印象をもたらしました。  選ばれないことを気にしている君、と、その君を優しく諭す役割を担った僕、による作品になっていて、ただ、この作品は僕が見た・思った世界で構成されています。最初の二行で不思議だったのが、優しく諭してあげるべき僕が「君/君は今日もまた選ばれなかった」とダメ押しをするように、繰り返して確認していることです。これは君に直接述べているのか定かではありませんが、選ばれなかった君を選ばれなかった君として僕はラベリングをしています。そして、「何も変わらないよ」というおそらく咄嗟に言った言葉は、僕の中で後ほど反芻されるのです。  次には、選ぶ人と選ばれる人との関係性についての僕の考察がされています。選ぶ人には罪はないけれど、選ばれなかった人は選ぶ人を恨む、そう僕が思えるのは、選ぶ人でもなく、選ばれる人でもない第三者であるからでしょう。でも、僕は選ばれなかった君に対しての思いやりとして「何度も何度も選ばれない(中略)ことに耐えられるくらい君のこころは強くなかったみたい」と気にかけている様子が伺えます。そして、選ばれないことは即否定であるという定義があります。  「君は今日もまた選ばれないし明日も明後日もきっと選ばれない否定され続ける」と、ここでもやはり、僕は君を気遣いながらも、君が選ばれない人であるという思いが強くあることが表されています。そして、「書き続けている着飾り続けている」ことがどういった意味をなしているのか。それは、「もう自分じゃなくなっていること」「自分を殺して他の選ばれる誰かになるしかなかったこと」と同義なのでしょう。つまり、君は嫌いなお化粧によって着飾って頑張っているということは、選ばれるための行為であり、同時に、君が君でなくなってしまうことが示されています。 君が選ばれるために頑張れば頑張るほど、君は君ではなくなってしまうこと、それが僕にとって一番気にかけていることなのでしょう。そして、君は選ばれないことに慣れていないから、選ばれるように努力を続けているのであって、選ばれないことに慣れて選ばれるための努力をしなくなったら、君が「何も変わらない」ものになるという冒頭に繋がります。  ああ、そうか、選ばれるための努力をすることは、自分を多少でも変えることであるのか、とこういった部分にはっとさせられました。この作品における僕は君が書き続けることで「知らない誰か」になってしまうと捉えていますが、それでも、この僕は変わり続ける君を追いかけていくのではないでしょうか。(だってそれが僕の役割だったはずだから)という役割は、単に君を優しく諭す役割を担っているだけでなく、もしかしたら君を変わらないように留めておくという役割も担っているのでしょうか。それとも、それは変わらないでいて欲しいという願望があるのでしょうか。それはもう想像の域なのでわかりません。  あと、この作品の面白いところであり、歯がゆいところは、この君は一体いつまで選ばれることに執着するのでしょうか。この文章を書いている僕も「選ばれる」ことばかり考える人間なので、むずがゆさもあるのですが、自戒を込めて、「選ぶ」側にまわることだって、いつだってできると思うんです。僕がこの作品を気になって、コメントを書くことを選んだように。あと、この僕は君=選ばれる人と選ぶ人を考察する第三者ですが、もしかしたら、この僕と君の関係は、君に選ばれたいけれど選ばれない僕の立場も隠れているのではないかと思いました。 (今日の競争)

2017-05-27

花緒さん 分かりやすさを意識して作っておらず、むしろわかりづらいかと思っていたので、意外な感想でした。 最初3行に対して特にいうことはありません。 あたし言葉はその通りだと思います、もう少し推敲が必要だったかと。 「なんとなく、クリスタル」は知りませんし、オリジナリティとはなんぞやというところで、各作品におけるオリジナリティの差異がわかりません。 というのも読者の判断に因るものが大きく、オリジナリティは作品にではなく、読者の知識に内包されているからです。いや、嘘です、作者にも内包されていますね。 それでも、好意的に捉えていただけたことが伝わり、満足しております、ありがとうございます。 (ということ)

2017-05-30

 雑感として思ったことをつらつらと。  思えば人はみずから生まれたものであって、生きていく中で水分を補給したり、失ったりしながら生きていながら、さいごにはみずを失った物へとなっていく。それを「かえる」と言った表現で喩えることもありますが、みずから生まれたことに注目すれば、「かえる」のではなく、みずを発散しつつ、吸収しつつも、生まれた場所に「かえる」ことなどできません。  「なつかしい みずにぬれた/髪の毛にくるまれて。」という表現が上記のことを思わせました。肌理というのも、人が持つ水分量によってその表層を変化させるものです。その水分量が物をふやけさせたり、ひびわれさせたりもします。  語り手は「いま・ここ」にいることで何かに恐れているのでしょうか、こころと足がわずかにふるえています。「いま・ここ」ではないどこかを求め、歩み進めることで、こころと足が互いによろこぶ場所へ「気をつけて、/いってらっしゃい。」と呼び掛けられています。  単に、モチーフが好みでした。星空、輪郭、血、水、髪の毛などなど。私がここに置いた作品(あの夜の街で)を思い起こさせました。 (足)

2017-06-24

(二次創作として) あの人が来れば、雑貨店で働く私の中にもう一つ虹がかかる。つい手を施したくなるのだが、要望がなければ私は動けない。どこから来て、どこへと帰っていくのか。あの人が来る一時、店内は雨上がりの様相に浸る。灯りは雑貨の輪郭を照らし、虹を生む。時よ、止まれ。そして、誰も来るな。虹よ、消えるな。消える、な。ああ、あの人はどこかへと帰っていく。そして、あの人はきっと、ベランダの植物を枯らしてばかりいるんだろう。今日もまた菓子を買っていった。誰かと食べるんだろうか。灯りは雑貨の輪郭を曖昧にし、あの人が開けた扉の外では雨が降り続けていた。 (Grimm the grocer)

2017-06-24

 語り手が望むのはじわじわと感じる日焼けですが、その欲望とは裏腹に、日差しは白さを浅黒さへと変えます。日焼け止めを塗ったあとの肌が嫌いなのは、あの独特な匂いがもたらす謎の成分への不信感ではなく、じわじわ痛むような肌感覚を伴わない日焼けを人にもたらすからなのでしょう。  二連目は書いてあるとおりそのままで、あなたの汗と私の汗が同じ汗でありながらも、何か違うと感じてしまうネガティブな自意識の表れでしょう。それをきっかけとして、「夏が嫌いだ」という一つの結論が導き出されています。そして、そのことを元に、夏から派生する様々な物象も嫌いに見えてしまいます。  最終連は身体感覚の乖離を表しているのでしょう。痛い、熱い、冷たいといった身体感覚はダイレクトに人が感じるものですが、その感覚を「他人事のように感じている」のは、まさに心ここにあらずと言えます。では、一体何に想いを寄せているのでしょうか。  語り手は激情を孕んでいます。その激情は、夏が嫌いだ、という想いであったり、目から全身へ伝わった嫌悪などです。化学反応が起こりそう、とはぐらかした表現によって、実は語り手が見ている世界に化学反応がもたらされています。透明感を失った緑と青が何を指しているのか具体的にはわかりませんが、そういった綺麗な風景が語り手にとって嫌悪をもたらすものになったという変化が化学反応です。そして、そのことで夏が嫌いになっています。  実はこの緑と青がとても重要で、グラウンドの芝生と空の色だと想像しました。部活に打ち込むあなたを教室から眺めている私。その両者が流す汗は同じ汗だけれど、でも、語り手にとっては何か違うと思わされている。自堕落という自意識によって隔たりを感じたこと、それがこの作品の核なのではないかと捉えました。 (最高気温36度)

2017-06-24

 作中でも触れられていますが、ハサミは髪を切るだけの道具ではなく、紙を切ることもするのですが、語り手はハサミ=髪を切る為の道具だと思い込んでいることに、髪を切ることへの決意を感じさせます。  自分を変える行為として、髪をいじるということ。性格を変えるのはなかなか難しいですが、見た目を変えるのは簡単で、それも体の一部で、手放しやすく、変えやすいのが髪ですね。  「髪は人生のようだった」という一行が核になっていて、髪は私の一部でありながらも、私=人生そのものであるという比喩。そこから行が展開されていき、髪の起伏に恋や失恋を読み取る着想に魅力を感じます。  そして、私は髪=人生を切る。「女」は失恋をすると髪を切るというのは、失恋した部分だけ、髪の一部だけしか切りませんが、この語り手は「人生を捨てる為」に、失恋した部分だけ切るという目先の目的ではなく、人生=髪を全て切り落としていきます。そして、下には切り落とされた私の人生=髪達が散らばり、さらに髪達はどこかへと歩みだしていく。  「落ちていった少女はだあれ?」というのは、語り手の開き直りを感じさせました。「私の人生さようなら」と決意して切り落とした髪=人生は、私から手放された私の一部であり、切り落としてからはもはや私の一部ではないのでしょう。つまり、もはやそれらは他人であって、きっぱりと私の過去=人生との決別ができた証拠としてのセリフだと捉えました。 (髪を切る)

2017-06-24

 核となる比喩=表現は、風船が割れた音=フィニッシュを告げるピストルの音としていることです。日常生活においてピストルの音に対して馴染みはありません。強いて言うなら、徒競走の開始を告げるピストルですが、すぐに想像させられるのが、ピストルの音=何かを開始する音という構図であり、この作品の冒頭ではフィニッシュを告げる音となっています。  そのフィニッシュを告げられてから語り手は君を想い始めます。率直に読めば、君を失ったことへの想いですが、失うためには既に手に入れている必要があります。語り手は本当に君を手に入れていたのか、そんな疑問が浮かびます。  君を想い、風船が割れる音が今度はスタートを告げる音に変わります。これこそまさに徒競走の開始を告げるように語り手を駆り立てますが、最終連で語り手は走れないのです。なぜ走れないのかを「スニーカーを履き間違えたから」だと言い訳をするのですが、では、スニーカーを正しく履いていたら走れるのでしょうか。きっと、正しく履いていても走れないのでしょう。失意の念にあることをスニーカーのせいにすることで、語り手は何とかやり過ごそうとしている、そんな姿が目に浮かびます。何気ないオチですが、このオチには語り手のやりきれない想いを何かのせいにするしかないという、やり場のない想いが隠れながらも現れている表現だと捉えました。 (ハートブレイク)

2017-06-24

花緒さん 不思議なのは、「なかたつさんらしい一文」をそこに感じたことです。 何でもない一行ですが、どのあたりに僕らしさを感じられたのか…。 それと、あくまでも僕にとっての話ですが、スピッツは普通の女の子が好むものではなく、サブカル好きな女の子が好むものだと位置づけています。今時スピッツを好んで聞く女の子はそうそう多くはないと思っています。 胎内回帰願望もなく、母親から見た僕を描き、かろうじて孤独を受け入れるわけでもなく、単にきみへの応援歌だったのですが、その辺は失敗だったと言わざるを得ないですね。 他者としての女性は根源的なテーマであることは間違いないです。それに悶々とすることで作品が書けています。 まりもさん 後半部分だけだったら、この作品が成り立っていたでしょうか。 僕は前半があったからこそ成り立ったと勝手に信じていたいですが…。 最終行で書いていただいたとおりですね、僕が感じている世界をきみに重ねるというアナロジーによって、言うなれば、身勝手な妄想によって、きみを救いたいのだと思います。 あとは単純に意味としても、映像としても想像していただけたのなら幸いです。 (きみを思い出すうた)

2017-06-29

 じんわりとした鈍い痛みが私をゆっくりと撫でるのは、愛にも似ているのでしょうか。つまり、語り手にとって愛とは、じんわりとした痛みが伴うものであることがわかります。そして、赤い血が私が出ることは、一カ月かけて私を更新することで、私は私でなくなるということ。赤い血=私の産物であり、私の一部であり、私そのものでもあるとも言えるでしょうか。仮に赤い血を私の一部だとして、私は私の一部を失うことで、私を更新し、私でなくなっていくことになります。  続くお風呂上りの様子が(その時が一日のうちで一番美しい。)というのが、惹かれる表現でした。そして、唐突に現れる「彼」は一体誰なのか。それが誰かわからなくても、私にないものを持っている存在であり、私は彼に対して「頂戴」「欲しいの」と私にないものを強請ります。そうすることで、失くしたものを確かめるのです。  「それは、恋にも似て。/それは、愛にも似て」と、その「それ」が一体何であるのか、きっと、「失くしたものを確かめる」ということが恋や愛の原初であると推測しました。そして、失くしたものを取り返すためにも少女たちは世界を食べるのでしょう。それも砂糖水に浸して、甘くした世界を。  ここで作品の展開は、「私が失ったもの」から「世界」へと展開されるのです。私が失った私の血は繰り返されて吐き出されるものであり、直接的に言えば、一カ月のサイクルで生まれる卵子と吐き出される卵子であって、それこそが私が孕んでいる生と死のサイクルです。私が孕んでいる生と死のサイクルをジャンプ台にして、世界の生と死のサイクルへ移行されます。  「世界は明日亡くなる」のは、四十億の少女たちが食べ過ぎてしまったから。  「世界は明日生まれる」のは、四十億の少女たちが吐いてしまうから。  少女たちは(世界を)ついつい食べ過ぎてしまうから、胃袋の許容範囲を超えて、(世界を)吐き出してしまいます。既にある世界は、少女の胃袋を通って新たに生まれるのですから、全く同じ形で再生されるわけではないのでしょう。明日の世界があるのは、少女たちが世界を飲み込み、吐き出すことによってあるという世界観。吐き出してくれる少女たちに、何か感謝をしないといけないような、そんな気持ちになりました。  最後に、雑感なのですが、女性は生理の前後だか何だかに、やたらと物を食べたくなるという話を聞いたことがありますが、あれは本当なのでしょうか。作品とは関係ないかもしれませんが、そんなことを思い出しました。 (砂糖水に浸して)

2017-06-29

 名前をめぐる作品。ここに固有名詞が出ることはなく、街中に在りがちな物が乾いて動く世界。それを描写するために、特別な名前を必要としない。  この作品の主題が名前にあると思わされてしまうが、実は違っている。言うならば、ある物とある物らしい物との対比であろう。  「私であった人の/私へ曳かれる眼差し」というのは、今の私を眺めているかつての私の眼差しであり、「かれの身体が裏返り、/まぼろしを/告ぐるはやさしい同型射。」というのは、まぼろしの正体が裏返ったかれの身体であるということ。かれの身体はどこかにあるはずだが、おそらく私は、その身体が裏返った結果としてのまぼろししか見ることしかできない。  視覚や聴覚には名前が必要ない。それらは原初の感覚として語り手に感じられるものであり、それをわざわざ名前に還元する必要がない。そのために「畸形の花/びらに似た、包装紙」があり、「ふつうの、雑草のにおい」がただそこに在る。それらはやはり、ありふれた世界の一部であるから、特別に命名する必要がない物として作品を彩っている。  果たして、私は「それ」を呼ぶためにあった名前を取り戻したいのだろうか。その手掛かりとして、お前が意味するまぼろしを求める。まぼろしとは、裏返ったかれの身体である。細部に注目すれば、「それ」を、呼ぶためにあった名前よ、と、過去形になっている。かつて名前が与えられていたであろう「それ」が今となっては「それ」になってしまっている。それを取り戻すために、「お前」が必要であり、それとも、名前などもはや必要ではなく、ただただ「お前」が明示してくれる世界=まぼろしを、名前ではなく、その中身=意味だけが必要なのではないだろうか。畸形の花や雑草のにおいに名前が必要ではないように、「それ」が意味する内容だけを欲しているのではないかと。  ある物とある物らしい物との対比とは、私であった人と私の対比やかれと裏返ったかれの対比もあれば、その物が指し示す内容=意味=感覚とその名称との対比も含まれうるだろう。 (names)

2017-06-29

 誰しもが誰しもなりに、他人には譲れない宝石(のようなもの)を自分の中に孕んでおり、それは大切なものです。その宝石は大切なものでありながらも、イメージとして、角ばっています。宝石は大抵眺めるものとして在るのですが、ぎゅっと握りしめることで、その角で人を痛めつける道具にもなりうるのです。  なぜ、その宝石を握りしめる必要があったのか。それは、立ち尽くしている人に対しての罪悪感をごまかすためです。「黒目を震わす」「球面をきらめかす」と、目が潤んでいる様子がわかります。それは、心が作用させたことですが、内的な要因で生じた目の潤みを、外的な要因=宝石を握りしめることによる痛みに変換することで、やり場のない罪悪感をごまかそうとしているのではないかと捉えました。  最終行は、神様がそんなごまかしに気づいているからこそ、指をさして笑うことができるのではないでしょうか。  そもそもこんな罪悪感が生まれたのは、「わたくし」と「立ち尽くしている人」との関係性が重要になるのでしょう。その関係性を解きほぐすことはできませんが、立ち尽くしているのは、街中で通りすがりの知らない人なのか、大学のキャンパスで見かけた知り合いなのか、何かを喪失した恋人なのか。そのいずれかはわかりませんが、「わたくし」は、その立ち尽くしている人の立ち尽くしている理由を思うことができる存在であることは間違いありません。そして、それに痛みを感じられる人であり、勝手な推測がそこにはあるかもしれませんが、人の気持ちを読み取ろうとする意思を感じられました。 (手のひらの宝石)

2017-06-29

 少女を少女たらしめるものは一体何でしょうか。年齢によるものが大きいと思われますが、それだけでしょうか。  「停止線で止まれなかったから」と、止まれなかったのは何か理由があるはずです。それが外部にある不可抗力だったのかどうか。それにしても、止まれなかったからという理由づけはいわゆる言い訳でもあります。  「安っぽく光る茶色」は、茶髪に染めるという行為を揶揄した表現でしょう。キャンドルサービスという祝い事と対比して、まるでその光に髪色が照らされているかのように忌むべき出来事として染髪が描かれています。  終わりは微妙に表現が異なっています。「止まれなかった」から「止まらなかった」に。この「れ」と「ら」の違いに注目すべきであって、さきほど「止まれなかった」ことを言い訳だと評したのですが、「ら」への言い換えによって、そのことが自らの意志によって選択したことだったのだと思わされました。  最後に「終わりの無い色遊び」というのが主題になっていると思うのですが、染髪やら朽ちていく記憶やら愛の真似事やらという色遊びがあり、これらの出来事をまとめて色遊びと表現しているこの作者こそが実は最も色遊びに長けているのではないかと思いました。 (少女至上主義)

2017-07-09

 冒頭に俗物が置かれているだけなのですが、むしろ詩の世界がぐっと拡がりを感じさせます。一人暮らししている小さな部屋に二人で一息ついている世界、これは僕の勝手なイメージですが、そのイメージがこの二行だけで呼び起こされました。  僕から見た君がどうであるかが書かれているのですが、そこには君の内面と外面が交差しています。「君は白痴」という内面、「胸はまぶしく/指先は枝のようにほそり」という外面。いずれにしても、僕は君を弱弱しいものとして想っているのでしょうか。  「僕は今日さえ穏やかに住む」ことから、これらの前段が当たり前かであるような日常の風景であることがわかります。無邪気な笑みもきっといつもの風景だけれども、そういったものも吐息によって攪拌し、部屋の水温に溶け込んで、その形は消えてゆくものです。  そして、君は白痴であるだけでなく、「怠惰だった」と。その怠惰を自らに課すのではなく、君に課すということが、どのような意味を持つのか。自らに対する価値判断であれば、僕は何となくわかるのですが、他者に向かって「怠惰だった」というのは何だか残念、もしくは無念の情があるように感じました。  笑い、浮かれて、泣くというのが「泣きたくなり」とあるので、そうはできないからこその欲望なのでしょう。つまり、語り手は「こころ」からの感情表現を望んでいるのでしょう。君はこころからの感情表現を出さない、つまり、表情に出さない=表に出さないことがきっと語り手にとって不服だから、そのことを「怠惰」だと述べているのだと捉えました。 (怠惰)

2017-07-16

 一行一行の意味を捉えようとして、一行ずつ分割しながら理解しようとすると理解が難しいのですが、読み進めていくと連関性があることに気づき、きちんと構成されていることがわかります。  腕がぎちぎちいう、という日常的な語句から始まり、なぜだろうかという率直な疑問を解決しないままに「それがどうした」とやり過ごされます。ただわかるのは、自らの身体を自ら切り離して対象化し、「あなた」と呼びかけて労っているということ。  そして、場面がいきなり展開され、目には見えない脳内の作用が語られます。それが「劇薬」のおかげであり、それが現在する薬なのか、比喩としての薬なのか、いずれでも構わないと思うのですが、ラッキーマンという象徴を用いて、外部を取り込んで自らの身体の拡張を図る様子が描かれているのでしょう。それは薬を服用することと同義でしょう。  薬は外部を取り込んで身体を拡張すること、それはつまり自らの身体を自らによって変えるということであり、それを自傷という目に見やすい行為として、いわゆる根性焼きをする様子に置き換えられています。当初は北斗七星だなんて冗談によってやり過ごせたであろうが、今となってはただの混沌となっています。  そして、そんなことをしてしまった自分を二人称化した「おまえ」がいるということが告白されています。「おれ」が壊せるものは「おれの身体」であり、その方法が薬・自傷行為であるということ。その「おれの身体」は父母から確かに生まれたものですが、その父母からの血脈を感じられないでいるのでしょう。「おれ」は「おれの身体」しか壊せるものしかないことから、「おれの身体」に対する全能感=支配を表していると同時に、たとえば「父母の身体」を壊すことができないですし、それは「おれ」の外部にある人間との関わりを持つことができないことを意味するのではないでしょうか。  最後にまたトロツキーという象徴を用いて、「おれ」を対照化しています。「悲しい色」が何色であるかわかりませんが、きっと「おれの身体」を弄ることができる「おれ」だけがその色を知っているのでしょう。 (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-08

 切断された性器はもはや用なしです。食卓できみに噛み千切られてしまったのでしょうか。  食卓は小さな世界のメタファー。そこから空間が拡がり、人を乗せることのない貨物列車が走る情景。もし貨物列車に窓があればそれこそ用なしです。その気づきが新鮮でした。  この作品が語る主題は「計測」なのでしょうか。それがおそらくタイトルにも表われているような。用なしになったものはその存在感を失い、ただ物質としてそこに存在します。物質として存在する以上は、形だけがそこにあります。その形を保つための神経をかろうじて持つという切迫感があるように思えました。 (mapping)

2017-07-08

 とても好きな作品で全てを語れば、時間と文字数が尽きないので(という言い訳)、二つのテーマを定めて出発したいと思います。 ① 名付け ② 過去をみる現在の「私」 ①  聖書に基づけば、神が土から人の形を模した後で息吹を行いました。そして、人は与えられた自然物に対して名付けを行い、それらは人が名付けたとおりの名を持つ運命を背負いました。それと同時に、この作品における2の場面で、土偶に「ミヨちゃん」と名付けることが大きな意味があると思っています。この作品に限らず、人形に名前を付ける少年少女やペットに名前を付ける飼い主にしても、それがただの一般名詞としての人形や犬・猫などではなく、その持ち主・所有者として効力を発揮するのが「名付け」があるからです。また、それを名付ける人間ですら親(=創造主)がいて、誰しもが名付けられ、そこから生きていきます。  一般名詞が固有性を孕む=固有名詞化するために必要なのが名前であり、名付けを行うのは人です。そして、そのことによってそれらの事物に対しての所有を示すことができ、文字通り愛着が湧くのではないでしょうか。 ②  この作品における過去は、レリックスという形を見ることで想わされています。ただ、もう一つ別の形の過去があり、それは記憶です。形として残される過去がレリックスであり、形として残らない過去が記憶だと対置されています。  そして、レリックスは誰かが作ったからこそ形が残るものですが、記憶は僕の胸の中にあるもので、作中にある粘土細工のような作業を伴うことができません。つまり、記憶は何かによって象られますが、象る感触を味わうことができない不可抗力によって生まれた過去です。だから「誰かの記憶にしがみつきたがっているのだろう」と一つの形を纏うために、誰かの記憶に錨をかけてほしいのでしょう。  そうした不確かな過去=記憶によって不安に苛まれるのではなく、「ふりかえるな」と自らに呼びかけ、それを打破するための手段として「今日が明日のレリックスになるように」という一行が前向きで至高の一行でした。形のない過去によって苛まれるぐらいなら、明日にとって今日が確かな形ある過去として残されるようにどうするかを考えようという前向きさがこの作品の主題となるのではないでしょうか。  最後の現実的な描写が何のために置かれているのか。ただの何でもない風景ですが、さきほどの気づきがあったからこそ、目の前の風景が新鮮に映えるものとなり、きっと語り手が語らざるをえない=まさにレリックスとして残すべき風景だと捉えたからこそ、描かれた風景なのではないでしょうか。 (ミシガン・レリックス)

2017-07-16

 自分の周り=小さな世界で起きていることと自分の知らない場所=大きな世界で起きていることが交差しています。日傘を差していること、扇風機を回していること、人混みの街を歩くこと、これらはいずれも身の回りの小さな出来事ですが、それらが、水のないプール、小さな波(海)と結びつくことで空間が拡げられています。特に、扇風機を回すことが「小さな波が立つのを待って」と捉える視座が新鮮に思えました。  そして、織り姫と彦星の約束という大きな世界を日傘の中という限りなく小さな世界と重ね合わせ、そこが「狭くて広い惑星」となる拡がり。タイトルだけ見れば、壮大な世界を思い描くのですが、むしろ描かれているのは小さな世界の壮大化した様子なのでしょう。  そして、語り手とあなたは平行線で交わらないのではなく、いつかどこか遠い遠い先で交わるであろうという願いを込めることで、「二人は光になった方が良い」と「傘の中でなら素直に言える」という帰結に至るのでしょう。このイメージがあるから、小さな世界が壮大な世界と結びつける必然性を成り立たせています。 (惑星の涙)

2017-07-16

5or6さん なんていうか、限りなく身近な出来事をいかに読み物として成立させるか、と考えますが、でも、この作品に至った結果として多分どストレートに書くしかなかったんだと思います。そういう点で毎回挑戦ではありますが、ある意味読者を信頼して投げるしかないですね、生きてて良かったです。 仲程さん ありがとうございます。最終のメッセージは当初なく、その前で投稿しようと思ったのですが、それだと何かフックがないような気がして、蛇足になるかならないかと葛藤しながら付け加えてしまいました。この作品を好き勝手にお持ち帰りいただき、好きなところだけつまんでいただければと。 完備さん 「良い」以外に出ないというのは、それだけでしかない作品でもあるということで、ただ、ポジティブに捉えたいと思います。チャラチャラした文体というのがこういうものなのか、と、ただ自然に出た言葉なので、僕がチャラチャラしているということでしょう、生き方を変えなければ文体も変わらない気がします。ご感想は、誉め言葉として受け取ります、ありがとうございます。 (縁)

2017-07-17

祝儀敷さん すらすらと読めたのは形式的なことで、内容面では何も残らなかったのでしょうか、とちょっとした猜疑心を持ってしまいましたが、ポジティブに捉えたいと思います、ありがとうございます。 淵木さん てんでばらばらなことをつらつらと書いてても多分意味がないんだと思います。それとなく、なんとなーくつながりがあって、それを繋ぎ合わせることで、なにかしら生めればいいといつも思っています。それも僕がどう感じたかだけでなく、誰かとの場面や誰かのセリフによって感じる何かですね。 蛾兆ボルカさん 難しいことをやっているように見えましたか…、起きた出来事を単純にどストレートに並べただけですね。何かを思い出すきっかけはふとした瞬間であって、そのふとした瞬間が何であったかを後になってねつ造するにあたり、できるだけ自然にねつ造できればと思いました。記憶もねつ造だと思います。それにしても、この作品にコメントを書いていただいたのも、この作品の前髪を掴んでいただけたということですね。 (縁)

2017-07-19

花緒さん いやいや、発見をいただきました。人物が不在であるということ。それは導かれるべくしての結果なのです。というのも、僕は、「ということ」という作品でも書いただけでなく、身の回りの人たちも総じて、自分と一緒にいる時間より、むしろ、自分といない時間もどこかで生きていることを想像するのが好きなのです。ということは、必ず不在である時に相手を想うことが僕の詩、僕の生の根源にあるということに気づかされました。 そこに合わせて、ホタル族の話は単に1~2日前に母から偶々聞いた話を用いたのですが、「結果的に、他人に何かを伝えてしまう」というのがなるほどで、僕にとってのずるぷかる君がそうなんですね。 そして、深く深く潜ると気付く他者のメッセージというのは、言われて自画自賛、偶然の産物ではありますが、こういった手法はあまり用いられていないのではないでしょうか。 この2つについては、僕自身が僕の作品への気づきを得られました、ありがとうございます。 (縁)

2017-07-22

まりもさん 作品を拡げた読みがしっくりくるような、こないような感じです。 「兄、は、きっと、煙草を吸う(なにかに依存しないと生きていけない)こと無しに生きていける存在なのでしょう。弟は、その兄に憧れている。」 きっと、弟は兄に憧れていますが、その辺の描写は全くなく、ましてや兄が煙草を吸うかどうかの描写も全くありません。おそらく、ここに描かれている兄弟は兄は弟に、弟は兄に依存しているのではないでしょうか。それもお互い遠回りの意思表示でしか通じ合っていないのですが、煙草を吸うことがこの作品において何かへの依存の象徴として使われているわけではなく、我ながら意味のわからない「煙草を吸い始めたのは少女との約束を守るためだったこと」に使われているように思えます。家族の前で吸う必要がなかったのは、それが少女との約束を守るためであったからだったと述べるのはずるいでしょうか。 「ずるぷかる君、がいない、見当たらない、そのことが、煙草を買わない、煙草を辞める、きかっけになるのか?」 なので、上記のことで、ずるぷかる君が見当たらなくても、少女との約束が煙草を吸う吸わないに影響を与えたのだと書いてあるとおりだと思っています。その約束=過去によって導かれた、現在にいるのがずるぷかる君でしょうか。 (語り手の)過去=約束→(語り手の)現在=ずるぷかる君→(ずるぷかる君の)過去を想うことができる。つまり、少女との約束は煙草を吸う目的であり、それが同時にずるぷかる君に会う手段でもあって、ずるぷかる君に見当たらなくても、少女との約束が破られない限りは煙草を吸う気がします。 「生きてて良かった」の解釈については、「僕はあなたにこの歌を聞かせたいのです。どっかの歌手が歌っているのではなく、精一杯僕があなたに歌いたいと思います。「生きてて良かった」と。」の通りですね。自分で言うのもあれですが、この「生きてて良かった」の主語が弟なのか、兄なのかによって全然意味合いが違うんだと思います。そこを隠してしまったので、皆様にお委ねした次第です。 (縁)

2017-07-22

天才詩人さん 「ずるぶかくんの目線をギミックとすることで日常をポリフォニックに再掲示し直す、秀作として読みました。。」 「手垢のついたものを、新規なものとして「繋ぎ直す」という。自分が現在巻き込まれている関係性を一旦緩めることが必須である。」 という二つの部分は、僕の読みがあまいのか、矛盾しているように思えました。 多分、ずるぷかる君の目線は語り手が推測するしかなくて、語り手が見たずるぷかる君が全てであって、読み手も語り手でさえ、きっとずるぷかる君の目線に立てないのです。ただ、想うことはできることが提示されています。 「繋ぎ直し」というのは、適格だと思いました。一見無関係に思えるばらばらの出来事を一人の主体によって結びなおす。無論、一人の主体が経験したことを改めて並べているだけなのですが、それでも、「繋ぎ直す」という作業によって、多層が多層でありながらもその僅かな重なりが見えてくる瞬間が僕にとっては快感ですね。 方法論として意識しているわけではないのですが、西脇の言う「超現実主義詩論」に通じるものがあるでしょうか。 (縁)

2017-07-23

夏生さん 様々に入れ替わる登場人物に読者が置いてけぼりにならないかと心配ではありました。 兄の真似をするしかできないとは、多分何かに書いただけであって、作中では兄の真似をする行為は全く描かれていないので、「脱皮」したわけではなく、今になって気づいたのですが、「弟より.txt」というものを書いてしまうこと自体、兄が「兄より.txt」を残した行為の真似であるので、実は脱皮できていないんじゃないかと気づいてしまいました。 (縁)

2017-07-23

花緒さん、天才詩人さん、まりもさん コメントいただきありがとうございます。 僕が予期しない方向にまで話が発展していったような気もします。 天才詩人さんの 「この作品はまとまりを欠いていて、それが豊かさになっている。ずるぷかるくんの話かと思えば母が出てて、次の兄の話、将来の結婚相手の夢想。まったくまとまりがない。で何がこのまとまりのなさを束ねているかといえば、作者が自分をとりまく人々に対してうまく言いたいことが表現できない。関係性を器用にこなせないという「葛藤」なわけです。作者の逡巡がメインシャフトとなって、ばらばらなナラティブをまとめている。」 ということ、これはポイントだと思います。 まとまりがない、というより、器用にこなせない、というよりも、これがむしろ日常であると僕は考えています。 仕事をしていても、日常で生活していても、自分が見聞きするものというのは、元来まとまりがないものばかりではないでしょうか。 それを自分の興味によって掬いたいものだけ掬うことで、記憶に残りますが、いかにその記憶に残せるか、自分の興味、何でもないことに目を向けられるかが、大事だと僕は信じています。 だからこそ、日常で拾い集めた何でもないことを繋ぎ合わせて、それとなく作品に仕上げます。 器用にこなせないのではなく、そうした何でもないことを人よりも多く集めて、明確なテーマとして一義的に落とし込むのではなく、そうした日常を作者(author)という権威(authority)によって、わざとそれっぽく仕上げたにすぎません。 その日常に興味を持つ読者もいれば、何も感じない読者がいることを承知で、僕は読者に投げかけています。 どこかひっかかればいいと、なにか想像がふくらんだり、なにか感じてくれることがあればいいと。 ただ、それではただの日記にすぎませんから、無意識的にそれが結びついたのは、まりもさんの言う「煙草」のおかげでしょうか。 僕が花緒さんのコメントで気に入ったのが、「不在」と「結果的に何かを伝えてしまっている」ということです。 僕が書く上で「不在」がしっくり来ただけであり、読む上でしっくりくるかは別問題だったのでしょう。 ただ、僕は「不在」を書きたいのでしょう、前作「ということ」で書いた最終連の引退後の様子があるように、自分たちが見聞きした世界のその後や共時的に何をしているか、そういったことが気になるのです。 ごくありふれた感情で言うならば、「好きな人は今頃何をしているんだろうか」ということ。 この作品で言えば、働いていない時のずるぷかる君が何をしているのか、「兄より.txt」を書いた時の兄は何を思っていたのか、これらは語り手が見ていない世界を思うということ。 つまり、「不在」であることは自明であるかもしれませんが、「不在」を思うことを作品にする、それが今までの僕の作品でも言えることであったので、それを指摘した花緒さんのコメントにしっくり来たのです。 蛇足かもしれませんが、作品の読みというのも作者や他の読者にとって、言わば「不在」です。 それをコメントという形で表明することによって、作品の読みは存在できるわけであって、それをわざわざ書かなくてもいいというわけではなく、書くことによってこそ意味があると言えるのではないでしょうか。 他に感じた人もいるかもしれませんが、花緒さんが最初に書いてしまった以上は、この作品に「不在」が適用できるかどうかという不在していた問題を提起した花緒さんのコメントが結果的によかったのではないでしょうか。 (縁)

2017-08-01

田中修子さん 僕はWord(一行40字、横書き)で作品を書いてから、それをコピペしているだけです。 本音を言えば、縦書きの方が読みやすいですし、このサイトのレイアウト上、一行がもっと短い文字数であると嬉しかったりしますが、投稿先によって、そのWordの設定も縦書きにしたり、横書きにしたり、一行あたりの字数も変えています。 場に合わせて変えています。 だから、ここのレイアウトが変わったり、投稿先によって、僕の書く作品も全く異なると思います。 レイアウトによって作品が縛られるのです。 (縁)

2017-08-01

黒髪さん ありがとうございます。 作中の少女は恋人ではなく、あくまでも約束をしたという関係を持った少女でしかありません。 僕の他の作品でもたまにあるのですが、「自分を振り返ってしまうような」というのが、書いた自分でも不思議です。 あまりにも個人的な作品ばかり書いていながら、読者に何かを喚起させる、その理由はわかりませんが、それでもそういう結果をもたらすことができたのならば、僕も書いたかいがあったと思えます。 (縁)

2017-08-12

りさん ありがとうございます。 想いを伝えるために詩はあるのか、それに、その想いは誰に伝えたいのか。 いや、その前に、自分は誰かの想いをきちんと受け取れているのか、そんなことを考えました。 コメントも出尽くした感があるので、正直に言ってしまいますと、最後の 「生きてて良かった」と。 という終わり方はお気づきかもしれませんが、主語がありません。 僕自身、生きてて良かったのは当たり前であって、それ以上に、この作品には書かれていないいろいろなことを経た上で、「あなた=兄が生きてて良かった」と伝えたかったんですね。 (縁)

2017-08-23

survofさん そのネーミングに関しては、僕が名付けたわけではなく、そのお母さんかもしくは先祖様です。 ずるぷかる君に会いたいという気持ちですが、いつでも会えるわけでも、僕を待っているわけでもないので、偶然出会うしかありません。いずれも偶然の産物です。 語呂はあまり意識せず、本当にそのまんま書きました。これもまた偶然の産物です。 (縁)

2017-08-24

VIP KIDさん 冗長的と言えばそうかもしれません。ただ、これらのことを表現するためにおそらく結論はなく、生まれたままに書き上げました。 Coccoという、どうしても固有名詞の持つ引力にひかれてしまうのは計算違いでした。 希望というのは、語り手にとってなのか、少女にとってなのか、Coccoにとってなのかで印象が随分と違うように思われます。 花緒さん Coccoの歌を聴いた時、どうしても祈るということを考えざるを得なかったのです。 それを何とか表現したく、また僕自身がかつて祈る人として熱心であったことを盛り込んでみました。 田中修子さん 僕としては、知らない人にも楽しんでいただけるようにしたつもりでしたが、それでも、知っている人だとどうしてもより楽しんでいただけると思います、ありがとうございます。 (Cocco/少女、の祈り)

2017-08-04

黒髪さん さっそくありがとうございます。 自分で自分の作品を見返すいいきっかけになりました。 全体として、的を射ているように思いました。 一つ一つの出来事は点として、偶然の出来事として記憶に残るものですが、それらの点はきっと歴史や過去をはらんでいて、点と点が時間的にも空間的にも結びつくようなことを意識して書いています。 ついでに、祈りとは、自らの何かが変わることへの願いもありますが、この作品ではきっと、自己犠牲、と言ったら言い過ぎですが、誰かの何かが変わることを願っているのでしょう。 (Cocco/少女、の祈り)

2017-08-12

渚鳥sさん 「はえた」がひらがななのは、もちろんわざとです。 どちらでもとっていただけるようにと。 僕がそれを現実のものとして、見ていたかはさておき、少女が雨の中泣いているのを見て、即座に、こういった映像・言葉が頭に浮かびました。 (Cocco/少女、の祈り)

2017-08-23

 この作品、好きです。正直よくわかりませんが、好きですね。  何がわからないかと言えば、大きな星空・小さな星空・きみ・わたし・あれ・波が何を明示しているのかと言うこと。それはつまり、僕がこれらの名詞を比喩だと捉えてしまっているのだと。そんな必要はなくて、あくまでもこれらのものは比喩ではなく、これらのものとして存在していると思わなくてはいけないのでしょう。  というのも、「波が/波の まま 漏れ」ているように、これらの名詞もその名詞のままに作中に存在しているのでしょう。  ただ、三つの星空がなぜ三つなのか、そこに必然性があるのかと考えたくなってしまいます。その時から謎解きが始まってしまい、終いには捉えきれずに作品が終わってしまいます。そして、わたしはこの作品の世界において、一体どんな役割を担っているのか。  だから、これらの名詞を名詞のままとして捉え、それらの物体が映像として、動きとして捉えることに難はなく、その動きが面白く、それをただ楽しめたのでよしとします。 (units)

2017-08-12

 着想が面白いと思いました。人の顔はもちろんのこと、人の髪の毛もまた個性が出るはずものですが、そこに着目するだけでは凡庸ですが、髪の毛と日付を組み合わせ、また、「みくろんのろんど」というつい声に出したくなるような造語によって彩られているのが独創的です。それに、みくろん、ですから、とても微細な踊りなのでしょう。目で見てもわからないような踊り。  そして、「わたしは昨日に掴まったまま」とあります。日々が髪の毛に絡まるだけでなく、髪の毛の所有者であるわたしですら、日々に絡まっているのです。  僕自身、寝ぐせがひどいのですが、その寝ぐせが昨日が今日に残した産物であるという着想を得たことがなかったので、これは一つの気づきとなりました。  髪の毛に絡みついた日々を櫛で梳かすことによって、振りほどく、そして、その髪の毛が白くなっても無くなっても、みくろんのろんどを踊り続けるということ。つまり、日々が髪の毛に絡みつくことは無常であることで、それと同時に髪の毛が無くなっても、みくろんのろんどを踊り続けるということは、日々がわたし自身に絡みつくということもまた無常であるということでしょう。  思えば、今日とか昨日とか明日とかは、時間の単位でもあって、みくろんは長さの単位でありますが、いずれにしても、目で捉えられるものではありません。ただ、わたし自身が感じるものとして存在することができるものなのでしょう。その存在を確かなものとしてするために、「みくろんのろんど」という言葉が必要になったのでしょう。 (みくろんのろんど)

2017-08-11

 いくつか鍵になりそうな行をかいつまんでみます。  「傷跡を治せ」  何によって生まれた傷跡なのでしょうか。そして、傷跡というのは、痕跡であり、過去の何かが現在にも存在しているという証であります。その跡を治すということは、その過去を現在から消すということとほぼ同義であり、何かの決別を決意したのでしょう。  「幻想的な攻撃」  空を切る、という表現がありますが、この幻想的な攻撃は行動として実行されたのでしょうか。それとも、想像において実行しているだけなのでしょうか。どちらかと言えば、実行されておらず、想像におけるものだと捉えました。  「覚悟の瞳/陰鬱な眼ばかり」  この辺りが一番鍵になるのだと思います。というのも、結論を急いでしまいますが、この語り手は見る存在であるかのように振る舞っていますが、見られる存在であることへの打破を願っていることが終盤でわかります。自身は覚悟の瞳を持っているのですが、周りは陰鬱な眼を持っており、その祖語への葛藤がこの作品の軸になっているのでしょう。だからこそ、「信念をもう一度持ち始める」必要があり、自分自身へ言い聞かせながら、何かを行動しようと言い聞かせている様子が目に浮かびます。  それらが一気に集約したのが「透明な水槽の中で/観察された私の心の中」であり、水槽の枠で内部と外部の隔たりが示され、見られる存在であることがわかります。  「そして嬉しかった」  張り詰めた空気の中に雪が降り始めるという緊張感の中で、率直に結びつく感情が悲しみでありますが、その逆である嬉しさを感じたのは何故でしょうか。それは、「人に笑われる人格から/変わった」ことによって得られたのでしょう。  上記の葛藤や決意を経て、他者によってあたかもレッテル張りをされた自身の生き方を自身の思いによって変えること。   この作品の大まかなところはこれで捉えられたと思うのですが、実は何気ない気になる一行が垣間見られます。  「あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ」  この行の前には「幻覚」ともあります。傷跡=過去との決別とは、①人に笑われる人格への決別、が主であるとも思ったのですが、②あなたと過ごした時間=過去との決別、も含まれているのでしょう。この作品には、まるで群衆のような不特定多数=陰鬱な眼ばかりという他者しか出てこず、自分本位な語り手の思いしかないように一見みえてしまうのですが、この一瞬出てくる「あなた」が特別な他者であるかのように思えました。 (不在)

2017-08-12

 語り手の視線の動きがよくわかります。  一連目では海全体を眺めており、空へと視線を移す余裕が見られます。気になったのは、タイトルの「よごした海」や「海がおかされて」といった表現で、「よごした海」は「誰が」という主語が付けられますが、「海がおかされて」というのはまるで受動的に、自然とそうなったような印象を受けました。油にまみれた掌は汗か何かで湿っているのでしょうか。先走りになりますが、この「数多の宝石」の比喩が鮮やかですね。  二連目になると、海全体を見ていた語り手の視線は、掌や自身の存在へと向けられます。さきほどの海は「おかした健やかな海」となっているので、海をよごしたのは語り手だったのだろうとここでわかります。「景観を損ねないようにするだけだった」というのは、語り手自身の卑小感がよく伝わってきます。  三連目は海全体ではなく、海の一部である波に視線が移ります。思えば、寄せる波と返す波というのは、浜辺にいる人間側が見た価値付けなのでしょう。浜辺の人間に寄ってくる波=寄せる波、人間から離れて海に帰っていく波=返す波。その海に帰っていく波に語り手は寂しさを覚えますが、その寄せてと返すが繰り返される波の運動に、人間の挨拶を重ね合わせています。そういった当たり前の波の運動=自然の繰り返しを語り手は望んでいるのでしょう。  さきほど、寄せてと返すが人間が見た価値付けだと述べましたが、ここでこの作品の意を損なわないように注意が必要です。「それでいて必ず返す波の/返す波の夢を見せて」と、波の運動と人間の挨拶を重ね合わせた時に、語り手が一体どの立場にいたいのか。おかえりを言いたい立場なのか、言われたい立場なのか。 海 →波→ 浜辺 寄せる波 海 ←波← 浜辺 返す波  海の波は絶えず動き、浜辺は動きません。ということは、浜辺が「おかえり」を言う立場であり、実は、寄せる波に対して「おかえり」を言うべきであり、返す波に対して「いってらっしゃい」とでも言うべきなのでしょうか。 語り手自身は浜辺にいるので、上記の点で「おかえり」を言いたい立場なのではないかと推測できます。ただ、「おかえり」という語と「返す波」という語のイメージを一致させるならば、語り手の精神は海の中におり、浜辺から帰ってきた何か=返す波に対して、「おかえり」と言う方がより幻想的だと思いました。  もし、語り手が「おかえり」を言われたい立場ならば、浜辺に誰か別の存在を想定しないといけないのと、海に誰か別の存在を想定しないといけないのですが、この点はちょっと想像が追いつかなかったので、考察を止めます。  最終連は、こうした内省を終え、また空へと視線が移ります。そして、最初に用いられた比喩がいきてきます。宝石は価値あるものですが、それが数多あるものだとその価値は和らいで見えるような気がします。それが、ひとつの宝石=光を帯びた水しぶきとなって描かれ、また、語り手の涙がまた新たな宝石であるかのような印象を受けました。 (よごした海、しぶきあげて海)

2017-08-12

 まずタイトルですが、この-に何を入れるのかわかりませんが、なぜこう表現せざるを得なかったのか、想像するに、結論を出したくなかったという思いがあるような、それか、二人だけの世界で終わらせたかったということでしょうか。ただ、作中は「-し合うことができるかもしれないのに」と、まだ可能性であったのであり、まだ実行できていない行動であることが示唆されています。それかもしくは、タイトルと作中の-には違う表現が入るかもしれない、そんなことを考えました。  作品は、わたしによる君への一方的な視線で描かれています。つまり、君がわたしをどう思っているのかはわからない。それでも、一度だけ、君のくちびるの形を賞賛して、君に触れようとすると、おそらくはたかれてしまっています。これが君がわたしに対しての思いが読み取れる唯一のヒントです。(ちなみに、冒頭のわたしだけがひらがななのは、何か理由があるのでしょうか)  そして、最初に書いた「-し合う」の意味。私は君を「-す」ことはできているけれど、それが「-し合う」ことができないのは、君が私を「-して」いないから、「-し合う」と合うことができなかったのですね。  地上にいるままでは「-し合う」ことができないから、天に昇ることで希望を抱いていますが、結論を急げば、私は「地に埋まる骨」であるから、天に昇ることができずに「-し合う」ことができないのでしょう。  「がらすの国の王子様」という表現。あくまでも僕のイメージですが、何かをがらすに喩えるのは便利ですが、僕は綺麗なものだとは思っていません。それは、形を変えることも色を変えることもなく、また、動くこともなく、何も変わることのないままにただ壊れる・無くなる瞬間を待つだけの存在だからです。ただ、君は「がらすの王子様」ではなく、「がらすの国の王子様」であって、ただのがらすではなく、がらす界の王子様なのです。それはそれは、言うならば、がらすの中のがらすであって、よっぽど特別なのだと感じました。  最後は温度差のある食べ物によって、君と私のいる世界の違いを描いているのですが、それこそ、食べ物を用いて、天に在るがらすと地上に埋まる骨が感じるであろう、気温・地温の身体感覚の違いが鮮やかに描かれていると思いました。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-11

 まず、Powdery Blueというフレーズに惹かれました。粉状の青、とでもいえるのでしょうか、それよりは、映像として、青い紙吹雪がちらちらと宙を舞うような、そんなイメージが浮かびました。  最初の二行、ふと不思議なつくりになっています。というのも、君の傷から出てきた彼を見ているのは、語り手の私ではなく、君であって、語り手は君の観察者であることがわかります。  YukiGa, Mitaiと言ったのは誰で、Mata, Raisede.と言ったのは誰なのか。前者は君で、後者は彼であると捉えました。というのも、一章はとにかく、君と彼との関係を語り手の立場が観察した結果を描いているだけに過ぎないのだと。例えるならば、好きな人の恋愛相談を受けている私の話、のような。  「君の歩かされた道」というのは、はっとする表現でした。君は自ら道を選んで歩いていたのではなく、誰かによって歩かされていたという、それもおそらく彼によってでしょう。ただ、それが「君を/生かしているということの本質なら」、毒を飲むという、三者関係。  傷がある限り、目に見える形として、君に何かを訴え続けますが、それがなぜ「俺たちを見ろ」と、「たち」という複数形となったのかがわかりませんでした。  そして、二章では「青が暮れてゆく」と、一見夕焼けを描いているような始まり方をするのですが、外部にある青が焼ける姿を体の内部へと、奥深くへと語り手は受容していきます。それは、ただの風景の変遷ではなく、むしろ語り手の内部にもともとあった原型が共鳴し始めたような感覚を覚えました。  「きみが置いていった形見の色」が青色であるという断定はできないですが、ただ、「生まれ変わる青」として存在しつつも、それは「錯覚」であるという。それでも、語り手の中には確かな存在として知覚しているのでしょう。そして、それが錯覚だったとしても、その色が比類ない輝きを纏い、君がいる/いたであろう「そこ」に連れて行ってほしい、という君に対する語り手の欲望が一番表れているように思いました。(ちなみに、この辺でわたしときみがひらがなになっているのは、故意でしょうか)  それでも、生まれ変わる青はおそらく未完成でしか在り得なかったので、「ひとかけらの青」であり、「もうここには居ない」ものです。裾を掴みたかったけれど、掴めなかったのは、私が君を想うことより、君が何かを想う気持ちを思いやっての結果だったのでしょう。それでも、私は君が傷ついていたのを見ることしかできなったのは、何とも言えないやるせなさが伝わります。  最終連は前向きな決意が現れています。 「私はそこへ戻れないことに気がついていた」  「空は眩しい水色で/君が本当にそこへ還ったような気がしてた」  水色がここで初めて出てきます。おそらく生まれ変わった青なのでしょう。そして、その青はまだ世界に触れられていない、生まれたての純粋な青として、純度が高く、透明に近いものとして、水色で在るのでしょう。  それにしても、Powdery Blueというフレーズがとても気に入りました。 (Connected - Powdery Blue )

2017-08-12

 一行目から何か惹かれました。双子少女の欠けら、まるで、双子のうちの一人が欠品であるかのような。むしろ、人は誰しもが何かが欠けており、完璧な人間はいないわけです。多少目が悪かったり、耳が悪かったり、では、この欠けらは何が欠けてしまっているのかと。そして、鳴く。泣くのではなく、鳴くのは、まるで動物だか、物です。もう一人は、それを憐れむのではなく、離れています。そして、一枚の窓硝子の表と裏からそれぞれを見ているような、そんな風景を描きました。ただ、それが夜であったら、窓ガラスの向こうにいる相手を見ているのではなく、ガラスに反射してしまっている自分を見ているんではないか、と映像的にはこの方が面白いと思いました。  そして、その二人を生んだであろう母親もまた欠点があり、腹が腫れています。鳥羽を毟ったので、煮詰めているのは、鳥の身でしょう。いずれにしても、母親像として、食事の用意という役割を全うしています。  そして、それを煮詰めるための鍋は鳥を煮詰めているのですが、鍋もしくは鍋の文様から砂粒というイメージへ飛躍します。傷口は誰の傷口か、双子処女の欠けらか母親か。  双つある顔は、同じ時を流れ、お互い見合っていた窓硝子の境界線が取り払われ、一体化していくイメージで、最後には腸が同時にくすぐったくなる。これは、双子少女の腸が同時にくすぐったくなっているだけでなく、腫れた腹を持っている母親のくすぐったさが双子少女に届いたかのような気がします。  映像作品として、何か撮ってみたいような衝動にかられました。 (がらす)

2017-08-11

 高架線の下を歩く男。高架線が在る目的は、電車を走らせるためであり、それも踏み切りをつくらずにして、人間の通り道の邪魔をしないように、利便性があるものです。その目的を果たすための高架線は、何故か詩情をもたらすのでしょう。  「軒先で家族が何かしている/じっと見つめている 誰が…」という二行が、いつもの景色が違って見えることを示唆しており、それが不気味な雰囲気を醸し出しています。というのも、家族であれば、それが誰であるかは一目瞭然であるはずですが、その視線の持ち主が「誰が…」とわからなくなっているからです。  雨の比喩を援用して「電車の音が降って」きて、そして、「落ちてきた神様の声」は電車の音にかき消されており、神様の声は言葉として存在できるかもしれないですが、男の耳に届かなければ、最初からないものと同然です。そして、男にとっては、神様の声より電車の音が身体感覚として知覚できるもの、言い換えれば、身近なものであるということでしょう。  そして、「男は高架下の音を/家路の一つとして愛していたのだ」という思いが明かされます。  繰り返しになりますが、高架線は電車が走るための道具です。そういった当たり前の日常は淡々と繰り返されます。だからこそ、「彼の足音」は電車の音にかき消されるのであり、絶対的な存在だと思われる「神様の声」ですら電車の音が書き消すのですから、「彼の足音」は消えざるを得ないのでしょう。 (高架下)

2017-08-11

 一読して、考えなければならないと思ったのは、この語り手がどこにいるのか、ということ、空間と時間の拡がりです。  「沖縄の島を連想させ」ているのですから、沖縄とは違う場所にいて、沖縄のことを想っているのでしょう。天井とブルーハワイという構図からヘリコプターと青い海という飛躍は鮮やかです。  「迷彩模様」のくだりは、語り手の一方的な視線や想いであり、兵士当事者は何を考えているのか、その想像はなされていません。ただ、語り手と兵士が同じであるのが「指で数えた分だけ年を取る」ということ。だからこそ、誰しもがするであろう「誕生日にケーキを食べましたか?/好きな唄は歌いましたか?」ということを確認したくなってしまったのでしょう。  沖縄の音楽を聴いている時に吹いた風を膨よかだと感じているのも、沖縄とは違う場所にいながらでしょう。そういった当たり前の風がいつもとは違って感じる時、たんぽぽが綿毛を飛ばすのもいつも吹いているような当たり前の風でありながらも、その意味合いが違って見えてくる、この表現もまた鮮やかです。  想いを巡らしている最中、その思考の旅の終わりを告げる合図が「プロペラは泊まりかき氷は溶けた」ことであり、その展開がわかりやすいです。  「手拍子で閉める海の家の鍵/来年まで誰が預かるだろう?」とありますが、勝手ながら僕のエゴをぶつけてさせてください。この語り手はおそらく、海の家の天井にあるプロペラやそこで食べているかき氷を見て、沖縄のヘリコプターや青い海を想像できる人です。では、夏の間だけ開店している海の家は、秋・冬・春になると何をしているのでしょう。そこに存在し続けて、来年になればまた開店するはずでしょう。だからこそ、「来年まで誰が預かるだろう?」という想像が働き、この想像をすることが僕は好きです。ただ、もっと想像して描いて欲しかった、というのは僕のエゴであり、そうすると全く違った作品になってしまいますから、これはこれで、こういった想像ができる人がいるということで安心しました。  もしかしたら、この海の家のオーナーが沖縄出身であったり、というより、この場所が一体どこであるのかだったり、他のお客はどこから来て、何を食べているのだろうか、この語り手だってどこからか来ているのか、それともご近所さんなのか、沖縄は異郷でしょうが、海の家もまた特別な異郷であるような気がしました。  最後の最後になって、いや、語り手はどこかの海の家にいるわけではなく、沖縄本島のどこかライブ付き居酒屋にいるのではないか、とも思ってしまいました。 (みゅーじっくはうす)

2017-08-11

 自らの「弱さ」を主題とした作品であって、弱さを見つめ、その形・行方をとらえようとした作品なのでしょう。それでも、そこだけに焦点が当てられているのではなく、「道端」から草草、留まった水といった転換もあります。これらのモチーフが一体どのような彩を与えているのかと言えば、自らの死後の世界を考えるヒントとして使っています。  弱さは僕の所有物でありますが、自らの内に秘めているものという当たり前を越えて、僕の死後、僕から離れていって、「植物になって/ありつづけるだろうか」という発想が挿入されています。つまり、弱さというのは僕が所有している種であると同時に、僕の内に秘めたものであって、僕が死なない限りは表に出ないものであるということなのでしょう。  僕が生きているうちは、僕の弱さは誰にも見られることがないが、僕の死後は植物となって、誰かの目に晒されてしまいます。そうやって一つの形を纏ってしまうことに対して、最後の三行が語られているのではないでしょうか。 「どんなに寂しいだろうか」  行くあてもなく、ただその地に根差すことしかできない植物への悲嘆。 「どんなに僕は無意味だろうか」  僕から離れて、僕とは無関係に育っていく植物=弱さ。 「どんなに世界はいいだろうか」  この一行だけ逆説的になっていて、僕とは無関係になった世界と植物=弱さがただただ自然に育っていくという摂理への希望なのでしょうか。 (センサイ)

2017-09-02

 人間っぽく振る舞うこと、それがこの私の礼儀であると同時に汚点であるという。そうした汚点が文字通り点々とノートに連なっていくように、記録されつつも、抱かれてしまえば、確信犯、言わばそれも振る舞いでしかなく、表面上と内心は違うのだろうか。そんな時、ふいに汚点が記録されたノートのページが捲られ、新たな記録が生まれてしまう。終わりのないワルツを踊り始め、人間らしい振る舞いが崩れる。そのことによって、その振る舞い=自作自演に別れを告げることができる。  ドキュメンタリー、実況という状況が成り立つのは、自らを自らで俯瞰=客観視する必要がある。つまり、自らの観察者が自らの外部にいる必要があって、その観察者が映像を撮ったり、語ることができるのである。  この作品では、抱かれて確信犯となったことがきっかけとなり、上書きされたページが生まれ、自作自演に別れを告げる。それ以前と以後の違いと言えば、人間らしい振る舞いを演じていたかどうかであり、また、そうしていたことによって、ドキュメンタリーこそ台本があるものとして、演じていたのではないかと。そうした、演じるような作品に生きて、観察されるものとして対象化されるのではなく、崩れた人間味=本能のままに生きて、観察するものとして生きることを選択した、それが本来の礼儀だということだととらえました。 (しばらく麻痺)

2017-08-27

花緒さん 「社会は<僕>が居なくても回る。システムは巨大で個人が介入できるものでもなく、影響を与えられるものでもないという諦念」 とありますが、前段はその通りだと思います。ただ、それは社会に還元するわけで書いたつもりではないんですね。 確かに書かれたことは一般論として通用すると思うのですが、書いた後でふと思ったのが、お金を使うということは、大きな社会の枠組みの中でも、それぞれ個人が選択するものです。 何にお金をかけるか、趣味や嗜好によって、お金の使い道は変わります。 教授は、僕なんかにおごってくれたわけで、それはそれで教授の選択なんだと思います。 そういう意味で、無意識的・日常的な浪費だって、個人の選択の結果であり、その一つ一つが尊いことなのではないかと。 (星の誕生日)

2017-08-23

まりもさん 「話を聞く、という行為に、本来は行き交うはずのないお金の音が聞こえる。労働対価としてのお金ではなく、誰かの話を聞いた時に、何かがキラキラ輝きながら、お互いの耳の奥にだけ響く音で、ちゃりーんと響く、ような・・・そのきらめきが、地上に流れる天の川として、幻視されている、ような」 話を聞くために本来は行き交うはずのないお金の音とありますが、話を聞くためにお金をかけてもいい、また、お金がかかるものだと僕は思っています。 雑誌のインタビュー記事しかり、読書全般だって、自分ではない誰かの話を聞く行為だと考えています。また、友達と喫茶店で過ごす時間も然り。 「お金で体を買う、買われる、という関係性の中にも、その人の心の声を聞く、というような、そんな「ちゃりーん」に匹敵する気持ちの交感のようなものが、あった、あるいはあってほしい、ということなのかな・・・。」 というように読んでいただけたのは、大変うれしかったです、自分の予想を越えていました。 そして、スナフキンをあまり知りませんが、そのように言って頂けたことも嬉しかったですね。そうなりたいですね。 (星の誕生日)

2017-08-23

渚鳥sさん 整然とした思考を持って書いていないです、というのも変ですが、ばらばらの出来事を何となく自分の頭の中で組み合わせて書いています。何か通底するものがあるはずだ、と。 最初と最後の行をどう読んだかは僕も気になるところです。「きみたち」が指す対象が何であるのか。最初と最後で同一人物なのか。作中の人物なのか、作外の人物なのか。 多分ですが、最後の行、僕が読んでも、ちょっとむかつくような気がします。 (仙台に行ったのは、4年前、某学会に行くために泊まりで行きました。歩くことが大事だと教わっていたので、旅先では基本的に歩き続けます。定禅寺通、広瀬通、青葉通をひたすら何往復もし、青葉城、あと松島も瑞巌寺も1日で10kmぐらい歩いたかもしれません。松島で食べたずんだもちがおいしかった思い出です。) (星の誕生日)

2017-08-23

三浦果実さん 変化したんですかね。それよりも書くことを続けたことで、勘が戻ってきたような。 それにしても、いずれも本性で、いずれも思い入れのある作品です。 「あなた」に呼びかけていると同時に、自分への呼びかけで確かめているんだと思います。 (星の誕生日)

2017-08-24

1番線に到着し、9番線から出るということは、入り口と出口が違うということ。そして、待つ人=どこかへ出発する人、降りる人=どこかからやって来た人であり、出発する人よりやって来た人の方が多いということ。そんな駅で、「きみ」という存在を待つ俺。 きみはどこかを出発して、無人駅=ここにやってくることを俺は待っている。けれど、どこかを出発したことは知りながらも、ここで降りるか、ここを通過してしまうかはきみ次第である。待つことしかできない俺は、きみとの新たな物語=エピソードが生まれるわけではないから、過去のエピソードを思い出す。ベンチの温度について。  切符を買うというのは目的ではなく、手段であって、どこかへ行くための手段である。そして、どこかへ行くために座る椅子もまた目的ではなく手段である。そうした、ただの通過点にしかない手段は冷たいものであり、公園というのは、目的地にあるものであるから温かいのだろうか。 きみはどこかを出発して、どこで降りるかはわからない。だから、どの辺りを走っているのか、つい心配になってしまう。俺はただ待つばかりの人であり、ここへやって来るものをひたすら通過させる。つまり、それは感情を持たないから哀しみでも何でもない。冒頭に戻れば、哀しみは1番線に到着して、9番線から出るのだから、乗り換え=寄り道が必要になるのだろう。そして、きみがこの駅に到着したら、切符を買ってまたどこかへ行くという。それはつまり、きみにとってのこの無人駅はただの通過点でしかないということなのだろうか。 この作品では、きみが到着するだろうという俺の予測しか描かれておらず、本当にきみがこの駅に来たのかは定かでない。「日に何本も到着する1番線の列車を背中に見ている」ということは、ここ=きみを待っている場所はきっと1番線ではない。1番線に来る列車より少ない9番線に来る列車を待っていて、背中越しに1番線に来る列車をやり過ごしているのだろうか。この「背中に見ている」という表現が重要ではないかと感じた。 それにしても不思議なのは、無人駅に1番線と9番線があるのだろうかということ。この世界が全体として比喩であったとしても、俺が待つホームというのは、1番線なのか9番線なのか、そして、きみが乗って来るのは1番線なのか9番線なのか。その捉え方が非常に重要ではないかと思いながらも、考察を終える。ただわかるのは、哀しみは1番線に来て、9番線から出ていくということ。その間には、寄り道なり、乗り換えなりがあって、同じ場所へ向かって/帰っていくわけではないということ。同じ姿でかえっていかないということである。 (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-27

 何となく、僕の作品と似ているところがあると思って読んだのですが、構成は似ているものの、本質的な何かが違うように感じてしまいました。それはさておき…。 冒頭にある「今更わかったこと」というのは何のことでしょうか。タイトルのことでしょうか。それとも、彼が秘密主義だったことでしょうか。彼のことを結局知らないままであったことでしょうか。これらを総じてのことでしょうか。いずれにしても、彼のことに対して今更わかったことがあるということでしょう。  久々にあった同級生とその中にいる彼。付き合った時のことだけでなく、今の彼もかっこよく、言い方・仕草が好きだったことが思い起こされ、もやもやする。この感覚が非常にわかります。  公園に行ってから、展開が変わります。彼の決定的な特徴、それがわたしにとっていいところであり、いやなところでもある。それが人の話ばかりきいている秘密主義者だということ。そのことによって、わたしは彼のことを結局何も知ることができずにいた。それは今だってそう。そのこともまた昔と今も変わらずにいて、私はそのことに嫌悪を抱く、というよりも、「どうしてなのかわからない」という感情を抱く。この感情が発展して「私のことどうでもいいならいっそのこと嫌いだと言ってほしい」というタイトルが導かれていく。  最後にとってつけたかのような一行があるのは、まだもやもやしている私の感情を整理するための言い訳なのでしょう。もう昔/今の彼との決別を告げたいというわたしの意思表示なのでしょう。でも、気になるのは、やはり彼がわたしをどう思っていたのかということ。それはまた、どういうきっかけで付き合って、どういうきっかけで別れたのかという理由を読者が何となく知りたくなってしまうと同時に、彼の感情を知りたくもなってしまうのです。ただ、基本的には、わたしから見た彼しか描かれていないので、わたしの感情が爆発されており、わたしの欲望が描かれているのみです。  彼もまた人間であって、何か楽しいこと、苦しいことは他の人間と変わらないように何かしらあるはずなのです。そういったところを何も覚えていなかったというわたしに対して、読者である僕は何だか悲しくもありました。彼はわたしの話を聞いてくれたから、多分わたしのことを忘れていないんだと思います。それで、僕が敢えて問いたいのは、わたしは彼の話をどれだけ聞いていたのか、ということです。途中にある「肝心なことは全部そっと包んでそのへんのゴミ箱に捨てる」というのは誰の行為なのでしょうか。この作品に描かれた部分に限れば、最終連を読むに、ゴミ箱に捨てようとしている、もしくは積極的に捨てられたがっているのは、わたしなのだと感じました。 (好きだった人にいっそ嫌いと言ってもらいたい)

2017-08-27

 神話を生きる、主人公の目線で描かれた作品だと言うことを前提にして読みました。それはつまり、神話という定められた運命を辿るしかない主人公であり、神話そのものは語り継がれるものでありながらも、読者は物語の終わりに辿り着けばそれ以降のことは考えません。神話そのものが語り継がれる以上は、その世界に生き続けなければならない主人公。「何が起きているのだろう/話が違うようだ」とは、運命づけられた主人公の嘆きでありながらも、運命から少し外れようとする姿勢が感じられます。それすらもまた運命なのかもしれません。  「西の方角を頻りに示唆して/点在しているコスモスの花」とは、ヒマワリだったら何となく想像ができました。西は、陽が沈む方向であり、少しでも陽にあたろうと顔を向ける植物たちの姿を感じました。  「わざわざしつられられたような、/黄色い小蝶が遊んでいる」からの「寓意が立ち込める」という展開は、神話を神話たらしめる要素、わざとらしい場面配置が存在するということを感じました。そのために、やはり神話という運命づけられた主人公の「私の役目は正しく綴じられ」という行に繋がります。  物語というのは、語られた内容が全てであり、言わば語られなかったことは描く必要のなかったものとして切り捨てられています。「私の役目」とは、戦士として戦うだけでよかったのでしょう。それゆえのまた「ここで良い。」という自分自身への語りかけは味があります。  「美しい巨鳥のような銀色の機体が私を回収した」のは、果たして運命づけられた神話なのでしょうか。おそらく、神話としては描かれなかった世界として、戦士の希望なのでしょう。つまり、神話を生きるものと神話を語るものという絶対的な区別は越えられるものではない中で、せめてもの戦士の抵抗です。終盤の神話を語るのは、神話を語り継いだものではなく、神話を生きる戦士が語っているのでしょう。  ただ戦うことだけが役目であった戦士は、語り継がれることでただただ戦うことしかできませんが、その世界でいつか死にゆくことを願っているという、神話が無常かつ無情な物語であるということを考えさせられました。 (神話の果て)

2017-09-02

 たぶん、作為的にやられていると思うのですが、詩行の終わりにすべて名詞を持ってきています。その狙い・意図はわかりませんが、読み手に与える効果としては、一行一行がひとつひとつの物質の表れに通じるということで、物質がぽんぽんと読者が描く作中世界に並べられていくかのような印象を受けます。  それはさておき、舞台は、まるでドローンで撮影されたかのように、遠景から始まり、次に母(の言葉)、右足首・左手首と焦点がフォーカスされていきます。鬼は「赤い旗の外」にいるという。  そして、痣や傷というのは、何かの跡であって、語り手は、母の語るエピソードによって、その跡から過去に起きたであろうことを想像するしかないのです。ここで、冒頭に戻るのですが、「生まれた町 小さな町」に生まれたのは、語り手であると同時にその母でもあって、それは同じ町でありながらも時間の経過があり、場所としては同じでありながらも、語り手/語り手の母にとっては違って見えるはずです。その違いが痣や傷に対する見方・想いでもあるのではないでしょうか。  そして、おそらく語り手はこの町を出て、生活をしているのでしょう。 二連目の状況 語り手と母 → 赤い旗 → 外:鬼 「赤い旗の外には鬼がいる」 五連目の状況 無責任な家族・彼ら ← 赤い旗 ← 語り手 「彼らは今頃赤い旗の向こうで生活でもしているのか愚問」 愚問ということは、聞かずもがな、答えがわかっていることであり、赤い旗の向こうでいまだ生活し続けているのでしょう。 何か理由があって、生まれた町を出た語り手にとって、生まれた町に住み続ける母・家族は無責任なものであるという価値付けがされており、町を出たからには不要となった母の存在が、今となっては無効であるということが最後に示されているのではないでしょうか。それがまた、タイトルの「手を振る」=別れ・決別を示す行為として示されているのではないでしょうか。 (手を振る)

2017-08-27

 冒頭、目に見える世界を目に見えない世界へと細分化して描きながらも、挿入される言わば雑念のようなもの。そうしたものが語り手の思いとして、細分化した世界を超えて実感となるわけですが、「そんな甘い朝」も手放しているんですね。一読すると、この甘い朝はまるで過去のことであり、「手放す」という言葉とセットになるのは、過去の時間であるように思えます。  ただ、次の連は「ときどきそんな未来のことを思い出す」という矛盾した表現で、さきほどの予想が裏切られます。展開される詩行は「未来」について語られたものですが、その「未来」を「過去」と置き換えても違和感がないようになっています。これは、これから起きるはずであることを先取りしたものなのか、それとも、過去に起きたことが未来に繰り返されることを予測しているのか。そうした混乱に陥りながらも、「だってお化粧が濃いよね」という誰かが誰かに呼びかける二者関係がここで浮かび上がります。  そして、至るのは、美しい花=「未来」≒過去を手放すということ。それもできるだけ無残に、原型を留めないように、散り散りに破き、燃やし、結果として真っ白な砂となります。砂は軽いはずですが、語り手の想いがあるせいか重たく感じてしまうのでしょうか。ただ、その入れ物が重たいという、その入れ物とは、その真っ白な砂を持っている語り手のことでしょう。  海に撒こうが三回繰り返されているのは、おそらく葛藤の表れです。まだ決意しきれていない語り手の想いを自ら確かめるかのように、行動へと仕向けるように、自らへと呼びかけているのでしょう。 (未来の)

2017-08-27

 僕が最初に詩らしい詩を書いたもので、丸が少しでも書けたら丸でなくなって…、というようなフレーズを使っており、つまり、図形というのは概念上のものでしかなく、現実や「私」というのは、そんな完璧なものなどないのだ、というものを書いたことを思い出しました。それがタイトルの「正方形の生活」に結びつくのだろう、と。  四角いアパートや正方形の生活は、きっちりとしたルールを思わされ、それに対比するものとしてタバコの煙が生まれ、というより、「私」から生み出されていく、不完全なものとして現れています。  そのタバコの煙からイメージは飛躍し、気持ちや魂が白くて丸い煙として何個も生み出され、それが「私」自身を吐き出しているということ。そして、それは空に溜まっていくというイメージ。  「向こう」とは、私が今いるここからは遠い世界のことであり、そこには「テンポ正しく/正方形の生活が保温され」があると。ここで、保温という言葉が使われているのがミソなのでしょう。生み出されたものを少しでも長く、その形を維持しようとする行為。  「生まれた隙間に冷たさだけが写るんです」というのも何気ない表現で、隙間があるからこそ、吐き出された「私」の魂が外気の中に入る余地があるのでしょう。正方形の生活=保温、「私」の魂=冷たい、という対比もされています。  その後の詩行は風刺であるかのような。「そんなあたしから/たしからしさを」という「たしから」の音で鮮やかに展開されています。光があるからこそ、わたしのたましいとからだが写るのであり、その光の源は、向こうにあるというアパートの窓=正方形の生活にあります。「インスタばえ」なんていう言葉が流行っているように、また、「共有することは/むずかしいから」スマホか何かに食事の写真が増えていくという、逆説。  「ただいまおかえり/おなかがへったねおいしいね」という何気ない二行は少しパンチがありました。おそらく、これは正方形の生活の中にある言葉なのでしょう。当たり前の会話こそが、正方形というきっちりした形を保つための生活に必要な言葉だととらえました。  最後、「夜をむかえる温かさを教えてくれよ」と終わるのは、「私」の魂は外気に触れて冷たくなっているわけですから、暖を求めているのでしょう。そして、その暖があるのは、保温されている正方形の生活の中にあると、この語り手は気づいているのであり、正方形の生活を少々揶揄しながらも、その温かい生活に入れない「私」の魂、しいては、「私」の体もまた、正方形の生活にある温かさを知りたいのではないかととらえました。 (正方形の生活)

2017-08-27

 冒頭の「口にするもの」は二重の意味があるように思えます。 1 何かを食べること 2 何かを発声すること いずれも、「口にする」という表現を用いて表すことができますし、この作品においても、この2つの意味が通底しているのではないでしょうか。  「あなた」はまるで犬であるかのように、蝙蝠をくわえたり、牙がのびつづけたり、遠吠えをしたり、という行動をおこしています。その「あなた」を見ている語り手の私という構図、もしくは帰ってくるのを待ちわびているのでしょうか。  ただ、「口にするものはおさめていた」という一行目をどういう意味でとらえるべきなのでしょうか。1の意味では、事後のこととして、何かを食べて、体内におさめているということ。2の意味では、これから発声されるであろう何かを外に出さずに、体内におさめたままにしているということ。いずれにしても、何かを体内に孕んでいるような印象を受けました。  「音符は走る空白の痕」からの血痕へのイメージの転換。五線譜に置かれた音符は規則性があるように見えながらも、まるで五線譜の上へ気まぐれに置かれたただの染みであり、それがまるで、どこかへ無造作に滴り落ちた血痕と重なります。  「枯れゆくのも 残して」とは、「芽が伸びつづけるのをそのままに」という冒頭からの流れで、「あなた」は帰ってこず、水が不足して、枯れていっても誰も手を施さないという状態です。この植物と血痕のモチーフから、水というモチーフが引き出されているのでしょう。そして、水は何かを潤すためにあるのではなく、何かを流すためにあるという。  そして、はみ出した弾けたものはわたしの尻尾によって拭き取られるので、「あなた」がまるで犬であるのではなく、実は「わたし」が犬であることがわかり、つまり、「あなた」を待つ「わたし」が犬としてここにいるという構図なのでしょう。  「口にする」というのが、何かを食べること・発声することという仮説は、「くわえた声」という表現によって、ひとまとまりになっています。「水もいつしか引いている」という乾いた世界。それは、何かを潤すため、何かを流すためだけにあったのではなく、水の役割というのは何かを運ぶ伝達手段として、媒体として、重要な立ち位置があったのではないかと最後に思わされました。 (変調)

2017-09-02

ハァモニィベルさん 変調というか、いきなり寓話的になるから、それが飛躍しすぎだったのでしょうか。 成功・失敗というのも基準がよくわかりませんが、一感想として受け止めます。 まりもさん 上記にあるとおり、飛躍が読者を置いてけぼりにしたんだと思います。多分、世界との関係における距離の違いが一気に変わってしまったからでしょう。 内容に合わせて、語り口を変えるべきなのではないか、とそう受け止めましたが、多分その方法はとらないような気もします。この作品において、語り手は一として、様々な青の世界を語るものとして在ればいい、と多分書いたんだと思います。 最終行のことは、当たり前の日常の捉えなおしなんだと思います。光は「波」説があり、音もまた「波」でありながらも、光そのものは媒介がないと知覚することができないという。 (青の断章)

2017-09-02

 説明はいらないですね、めちゃくちゃいいですね。  強いて言うならば、物や人などは目的や利害関係が在ったりして、そういう見えない偏見と共に生きていて、目的外のことを自然と見落とすように生きてしまわざるを得ないのですが、文学やら芸術やらは、そんな目的外のことへの着目への美しさを見出すものではないかと思いますね、よかよかです。 (contour)

2017-09-09

 作品を読んで思い出された、作品とは全く関係のない僕自身の話をさせてください、申し訳ありません。  小学生の時に仲良くしていた友達がいまして、家によく遊びに行きました。いつも母親が家におらず、家もちらかっていて、何かしらの匂いがいつも立ち込めていたのですが、そんなことはおかまいなしに、よくゲームしたり、公園に行ったりして二人で遊んでいました。  彼の苗字は、カタカナ名で、名前は日本語名で、名前を見れば明らかに親が外国籍であることがわかりました。それをネタにする同級生もいたりしましたが、そんなことは関係なく一緒に遊んでいました。  ある時、ふと、僕が彼に「普段何食べてるの?」と聞いたら、「昨日は母親がパチンコの景品でカレーを」と答えました。その時、ものすごいカルチャーショックを受けました。いまだに僕はパチンコ未経験ではありますが、パチンコの景品で食事を摂って育つ子どもがいるということを本当に信じられなかったのです。慈愛や軽蔑など、そういった感情をその時抱いたかも定かではないですが、とにかく、驚嘆しかありませんでした。  だからと言って、僕自身の何かが変わるわけではなく、彼自身の何かが変わるわけでもなく、ただただ驚いただけです。  中学が別々になり、その後は全く会わなくなりましたが、そのエピソードは今でも強く心に残っています。終には、100回ぐらいは一緒に遊んだであろう彼の母親にも父親にも会うことはありませんでした。 ごめんなさい、とりとめのない自己語りですが、どうかご容赦ください。 (7stars)

2017-09-09

散文にしてみました。  深海で語り合うため、場が用意される。カプチーノより、そのままの形としてのコーヒーを用意する。夢は浮かぶものであるということだが、それを語り合うのであれば、新海であったっていい。目を閉じる動作で、夢を深海へと招待する。深海で喋るにも、声は音にならず、口からはただ泡が生まれるばかり。彩を与えてくれるのはクラゲで、これもまた場を演出してくれる。だけど、深海ではどうも息苦しい、限界が来てしまう。それでも、一人で深海魚と語り合うのではなく、誰かを招待するために、カップを用意して欲しい、と誰かに訴えかける。 (一人称多数)

2017-09-09

 「深刻な戯言」とは、一体どんな戯言なのでしょう。これはあくまでも総称であって、おそらく具体的な言葉がそこに伴っているはずです。それにしても、戯言という単語に「深刻な」を付ける表現が独特です。  場面は展開し、鏡に映る私を眺める私がそこにいるのですが、描かれているのは、鏡に映っている私です。それが「青く映り変わる他人以上のわたし」に見えるのです。「信号の色が規則正しく部屋に届く」のに対して、部屋は赤く、わたしは青く見えています。  そして、考えなければならないのが、繰り返される「ハンプティダンプティ」です。よく見なくても、この言葉が欠けていることに気づきます。何故、言葉が欠けている必要があるのか。 1.鏡に映っているわたしという存在が欠けている 2.卵の殻が割れるイメージ この2つが合わさっているのではないでしょうか。  この作品においては、1の意味合いが強く、その後も展開されていますが、その背景にはどうしても2のイメージが伴っていて、この2つがないと成り立たないように思えます。  「私が壊れたら/誰も私を修復できない」は、1の意味合いを喚起させますが、同時に私自身が欠ける=卵が割れるイメージにも直結しています。  もう一つ、この作品において通底しているのが冒頭にあった「深刻な戯言」です。「常に/うめき声が響く」と、わたし自身を流れる「声」に焦点があてられています。「声」というのは、鏡に映るわたしと違って、目に見えません。それはつまり、わたし自身が欠ける要因・理由・原因として、この声が無ければならなかったのではないでしょうか。  この声によってわたし自身が欠けていく。それでも、結末で「わたし」は強い決意を抱くのです。「私以外のわたしは私ではない」と。鏡に映るわたしは、本来であればわたし自身を確かに映すはずですが、それを見ているわたしがそれを「わたし」だと認識しなければ、それはわたしではないということです。  鏡を見ることによって、言わばアイデンティティクライシスが訪れるのですが、そこで今一度立ち返ることで、それはわたしではないと、私以外のわたしだと認識し、手放したのでしょう。  それにしても、信号のイメージ、赤は部屋、青は鏡に映るわたしですが、黄色はどこへ行ったのかと、それは、ハンプティダンプティ=卵から、黄色のイメージを読み手は勝手に補完するのではないでしょうか。 (「ハンプティダンプティ」)

2017-09-09

 何だか言葉に表せない良さを感じました。そうした、言葉に表せない感情というものがこの作品でも扱われています。  ミネラルショップという一つの舞台で感じた語り手の感情が、語り手という名のとおり、読者へ語り掛けるように、声として届いてきます。第二連では、自らの思考の中へと意識を移し、それでも、語りは続いていきます。鯨の耳石を見ている語り手は、ミネラルショップにいるはずですが、思いをゆっくりと巡らすその様子が、それこそ静謐なミネラルショップの雰囲気を読者に想像させます。  そして、幼少時へと舞台が移り、語り手の秘密が明かされるのです。それは、選択した道ではなく、語り手が背負わざるを得なかった運命。  「慰めや同情」に、言葉は伴うのでしょうか。むしろ、言葉にすると安易になる感情になってしまうのではないでしょうか。「君の気持ち、わかるよ」などと、日常会話では使われるかもしれないですが、この語り手は、そういった「慰めや同情」ではない、深い感情を味あわせてくださいます。それこそが、「言いあらわすことの、言いつくすことのできない」という表現に集約されています。  鯨の機能を自らになぞらえて導かれた最終行は見事としか言いようがありません。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-21

 distanceと言えば、空間的な世界を想像させるが、この作品で描かれているのは、時間的な隔たり、距離。それでも、第一連はおそらく現在から始まっており、その現在が中心にあって、ところどころ挿入される回想。現在と回想とのdistance  「かれ」は、小説を悪く言い、詩のことはもっと悪く罵るのに、「わたし」に対して「自殺するくらいなら詩でも書いたら」と決定的なことを述べている。「もー/ねえわたしを/どこに連れていくの、」と聞きながらも、現在から回想してみて気づくのは、「かれ」が悪く罵っていた詩を書くというところへ連れてこられてしまったのだろう。  ヒカルの碁を読んだ話もおそらく現在における会話。その中で「当時の感情はもう思い出せなくて」という「かれ」の言葉。現在と当時のdistance  そこで挿入される回想で、「かれ」がJ-POPの歌詞を良いと思えるようになって生きやすくなったという他愛のない会話。それでも、語り手がこの会話を回想したということは、現在における語り手にとって、価値があるとまでは言わないが、何かしら心に引っかかるフレーズだったのだろう。  「かれ」が当時の感情を思い出せないように、「わたし」もまた「10年前の自分はもう見えない」でいる。「結局どこ行くの?」と聞きながらも、「わたし」は当時「かれ」が罵っていた詩の世界を生きようとする。詩の世界を想像している。いわば「かれ」によって運命づけられてしまった詩を書くということがあり、このことが当時も現在も「わたし」にとって変わらないこと、つまり、「わたし」と「かれ」の関係性に他ならないのではないだろうか。それが「わたし」と「かれ」のdistance (distance)

2017-10-22

 冒頭二行、これはただの空想的なフレーズかと思ったのですが、読み進めるとそれが空想ではなく、現実として在ることを知ります。なるほど、そうやって空をあげるのかと。  おそらく小さな水たまりであるだろう場所に、アゲハ蝶を移動させるということ。この語り手の行為がとても大事なのです、きっと。語り手は、ただそのアゲハ蝶を眺めているだけでもよかったかもしれない、通り過ぎてもよかったのかもしれない。ただ、この行為によって、世界をがらっと変遷させたのです、この些細な行為が。それはつまり、アゲハ蝶にとって、語り手は神様の役割を担っているとも言えるでしょう。  湖面が空となり、その空を泳ぐアゲハ蝶の羽。語り手はもう一つ行為をします。聖書の1ページを破いて、それを手向けること。この言葉はアゲハ蝶に手向けたと同時に、きっと湖面が鏡の役割を果たして、語り手にも語り掛けている言葉となっているのでしょうか、この後で語り手が少々狼狽する様子が描かれています。「見ていて歯がゆくて可哀想で/うあらやましかったよ」という欲望、言わば、語り手の隙が垣間見られます。  それでも、その後はアゲハ蝶の描写に徹する語り手。遠くにあるはずの空が、些細な行為で身近になり得るのだと。語り手がそんな蝶をうらやましがるのは、語り手もまた誰かによって遠い空を身近なものにしてほしいと願っているからでしょうか。 (「アゲハの水葬」)

2017-10-21

 描かれている世界観が好きでした。まるで導かれていくような世界で、そこで見える世界を語り手が代表して、語っているような雰囲気。  動機も経緯はわかりませんが、語り手は島を目指し、舟を漕いでいます。「おだやかな潮の香りがおびただしい生を封じ込めている」という、何かが潜んでいる空気感。  そして、オレンジ色のひかりを放つ島を眼前にする語り手。静かに、静かに、動くのは語り手とひかりと、そして、蟹。「いつのまにか蟹の上を私は歩き」と、「私」の意志とは無関係に気づけば歩かされているような。  次に見えてくるのは島民。彼らの脳もまた燃えだしており、死んでしまった人もいるという。それでも、唄が島を包んでおり、きっと、燃えだした脳が放つ光にも包まれているのでしょう。やぐらに上がっている人は、言わば勝者であり、上がれなかった人は次々に焦げていきます。端役のように、蟹は与えられた義務、つまり、焦げた人を海に沈めていきます。語り手はそんな島の世界とは無関係に、蟹の絨毯をあとにして、そこに在り続ける島もまた語り手とは無関係に、燃え上がっていくという。  ただただ、島に起こる出来事が描かれているだけですが、そんな世界観が好きでした。 (燃える島)

2017-10-22

 「足のかたちを記憶する」という表現に惹かれました。というのも、海辺を歩くのは、足のかたちを記憶させるためではないものの、そうか、砂浜に記憶されてしまうのかと。つまり、歩くたびに受動的にならざるを得ないという発想。  この作品には様々な運動が散りばめられており、足のかたち、波紋の改竄、ひとつの飛英、少女の旋回、追いかける影など。語り手の意志とは無関係に描かれるその運動が自然な動画として、語り手がカメラアイとして徹底しており、そこには見えないガラスがあるという暗黙の了解のもとで、描かれている世界とは無関係であるという徹底した姿勢があります。  「影は少女を追いながら」という運動もなるほどと。少女の旋回に伴って、影もまた垂直に螺旋するのでしょう。  それでもやはり、この世界で特別な権利(?)を与えられているのは、海鳥たちであって、様々な運動が一つの世界の中で起きているのですが、それらはあくまでも別々の個体が生み出した運動であり、そこに関連性はないのでしょう。それでもただ、海鳥たちはひとつの飛英を共有しているから、鳥言語なるものをも共有しているが、他の運動を持つ主体は海鳥たちと共有物がないために、鳥言語を理解できないのでいるのではないでしょうか。 (No title)

2017-10-22

 「でかけよう わたしの異郷へ」という冒頭一行目から目を引きました。「わたしの」という所有物であるのに、「異郷」というわたしから離れたものへ出かけるということ。それは「わたし」という存在に違う場所を取り込むということ。その手段が「じぶん以外のひととおなじ ゆめをみる」ことなのでしょう。  そうして、「わたし」に異郷を取り込むことによって、「わたし」の体に変化をもたらしています。「わたしの胸板から うまれくる森の種が銀色」と。ついには、「わたし」は地中海にいるおじぃちゃんによって、「がうでぃ」になってしまいます。そんなおじぃちゃんのポエジィ、最初の連でも言われているようなどこにでもあるようなポエジィを拾い集め、「わたし」のうちへ取り込んでいくということ。それが、わたしの異郷へでかけるということなのでしょう。  「がうでぃでぃ」という造語は、がうでぃの形容詞化なのでしょうか。そんな使い方もひらがなで書かれると心地よく、発声したくなる思いに駆られました。 (がうでぃでぃ)

2017-10-21

 「純粋って 残酷よね」という言葉は、誰に向けて投げかけたのでしょうか。ここは部屋でしょうか。何となく部屋の中を想像します。そして、さきほどの言葉は、ふと口から漏れ出た独り言というか、文字通り空を切るような言葉だったのではないかと思いました。いや、目の前に相手がいたのかもしれないですが、それでも、相手に届かない言葉であるように思えました。  というのも、読み進めると、「ガラス戸に跳ね返った私の声が届いたとき」とあるので、どこか空に飛ばした言葉が、最終的には自らに「かえってきて」いるのです。そして、かなしみは怒りへと変容する。  「純粋」という言葉と、幼い頃の私の映像が結びつきます。おそらく、故郷でのお話。尖った葉をあなたに斬りつけていたあの日々。それに伴う、恥ずかしいという若いからこその感情。そうしたものを手の中に収めることで、自らの所有物として抱き続けるのでしょう。  そして、かなしさでも怒りでもなく、海を隔てた、誰かの、いや、誰かのものであったのか、やさしさが打ち寄せてくるという。これもまた、やさしさが「かえって」くるということ。  私の声がかえってきて、やさしさがかえってきて、そして何より、幼い頃の記憶にかえっていくとうことがタイトルにある望郷という意を示しているのでしょう。 (望郷)

2017-10-21

 希望や理想を抱きながら生きることは、楽しいことなのでしょうか。いや、きっとそれは苦しさを伴うものだとこの作品を読んで思いました。  展開は、いわゆる「正しく生きること」「善いとされること」を律儀にこなす語り手がいて、周りに迷惑をかけないようにと、縮こまって生きるその苦しさが描かれています。「身体中に力が入って/ちっとも楽じゃなかった」と。  そこからふと故郷の話が挿入されます。故郷の5月が好きだと。そこから、「自分にも裏があると」気づいてしまって、この挿入が見事に起承転結の転の役割を担っています。(思えば、ユーカラさんは沖縄出身でしたよね。梯梧(でいご)に、惹かれました)  でも、裏があるのは気づいてしまった今からではなく、「今に始まった事でもないし」と、最初から裏があるのだと、開き直りをします。それでも、「何を見て/心を震わせるのだろう?」という疑問符を投げかけているのは、正しく生きること・善いとされることをするという理想を白紙にしたからこそ、代替物としてすがりたいものを改めて探しているのでしょう。  空を見上げ、手をかざす。そして、ふと第二の気づきがある。「汚れた空だからこそ浮き上がる/青」の展開は、見事です。自らの生き方そのもの、と、空と手のイメージを重ねて対比させるということ。  正しく生きることは息苦しいことであり、自らにも裏があることを知り、一度白紙になった理想でも「本物の美」や「本物の青」があると、新たな理想を追い続けるというのは、まるで求道者であるような、そんな泥臭い語り手の生き方に惹かれました。 (『もう、手は洗わない』)

2017-10-21

 主題は「仲見さんのダンス」であり、そのことについて、ここまでの設定をして語り尽くす徹底ぶりは、純粋にそのパワーを感じました。  僕の詩の書き方の違いを述べれば、多分、僕は仲見さんに関わる人物を周りに用意することで、仲見さんが抱えたハンディキャップが先天的であるのか、後天的であるのか、環境のせいにするのか、人物のせいにするのか、特に、家族は何をしているのかを描くことによって、仲見さんの人物像を描くんだと思います。こういった点で言えば、仲見さんが持つハンディキャップというのは、先天的で忌避できないものであり、それを克服しようと自らの意志で自ら乗り越えようとしていることがわかります。「既存の社会的コードを身につけないと他者と交われないという固定観念」という前提のもとに、それでも、そんなことはできない仲見さんは諦めるわけではなく、「それならばいっそのこと、徹底的に奔放な自分なりの応用自由表現を追求してみたいと思い」ダンスを始めるのです。これだけの長さで見落とされるかもしれないですが、仲見さんの思いはここに集約されているのです。ここが仲見さんがキラリと光っている瞬間であるのに、この詩が「障がい」がどうのこうのという観点だけで語られてしまうのは、仲見さんのこの思いを無碍にしてしまっているように思えました。 (というのも、僕の「星の誕生日」という作品が選評で、「体を売る」という表現がいいかよくないかで語られがちで、そんなことは正直どうでもよくて、そこだけにしか目がいかないのはどうかと思った次第で…)  そんな仲見さんの頑張りに惹かれたのです。  全然関係ないですが、僕は毎日のように生活保護受給者と接していますが、その観点に立つとこのような思考を言葉で整理できているかと言えば疑問である、というのが率直な感想です。つまり、この作品が問題になってしまうのが、仲見さんの一人称語りではなく、仲見さんを見ている語り手が存在しており、その語り手のバックグラウンドが全く見えてこないことに発しているように思いました。でも、この構造があるからこそ、仲見さんの人物像を客観的に描けているというのも事実なのでしょう。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-21

まりもさん Twitterでも述べたのですが、僕の詩の読みは入沢さんの『詩の構造~』が大元にあります。 それを踏まえれば、作者・語り手・登場人物を分けて考えるべきだと。 無論、この読みを強いるわけではないですが、これにもとづけば、 作者=花緒さん 語り手=仲見さんのワークショップに参加した人 登場人物=仲見さん(etc) となり、仲見さんの障害を設定したのは、無論、作品における権威(authority)を持つ作者(author)です。 でも、その層で語るのは、作品を語るのではなく、作者を語るわけであって、選考会議でも、どうも作者層での語りが多いことに違和感を持っていたのは事実です。(この作者はこう書いたのだ(wrote)という語り、と、この作品はこう書かれている(was written)) 作家論と作者論のどちらに優劣があるのか、ということも、それもまた人それぞれのスタンスではありますが、僕の考えでは、その両者が混じればいいと思いつつも、あまりにも作品自体について語られないことが、そもそもの読みがなされていないのでは、と思う次第で、いや、でも、まりもさんは、あくまでも基本に忠実な読み手で、信頼できる読者だと思っています。 「もっとも作者が伝えたかったことは」という作者層での語りより、登場人物=仲見さんの言動に注目すべきだと、さきほどの3層の前提を顕在化せずに、問題提起した私が失礼だったのかもしれません。 (OYO THE FREEDOM)

2017-10-22

 細かい部分でいろいろと気になって、惹かれたことがあるのですが、この作品にまつわる一つだけをコメントいたします。  最初にページから落ちてきたひかりはただの演出ではないのでしょう。何となく綺麗な世界を描きたかったから用意した演出ではないのでしょう。最後に語り手が誰かに託してひかりを閉じ込めたように、語り手が最初にページを開いた時に落ちた光もまた誰かが託した光であったのではないでしょうか。  あっ、あとは、本で読んだ世界はあくまでも作中世界であって、あくまでも読むことで再生される疑似的な世界でしかなく、登場人物の仕草だけは真似できようとも、そこに溢れている五感に訴えるものを再生することはできないという読むことの限界もまた描かれているのでしょう。  それでも、この語り手は、そうした仕草にとらわれているといいますか、最終連もまた、内容よりも形式重視の、本の表紙をなぜるという行為、それもまた、おまえのなまえがきざまれた表紙をなぜるという行為、何だかわかるようなわからないような、それでも、そういう仕草をしたくなるような感じ、いや、そうせざるを得なかった語り手の思いが、秘められているのだと、読んだなりに思いました。 (ゆくえ)

2017-10-22

 この更新がどういうペースで、そして、何より何が更新されるのかという疑問が置きます。いや、それは「僕が」更新されているのです。  面白いのは、「わかるものを呼び止めて」この更新される様を確認する描写です。この誰かは、あたかも更新のことを自明の理として、大丈夫大丈夫と答えるのですが、更新を気にする僕と更新を当たり前だと思うわかるものとの対比。わかるものは、一体何者なのだろうか。  でも、僕が抱く疑問というのは、何が更新するのかということではなく、更新がなぜ必要であるのかということ。そんな時代が来たものだと、ひとまず受け入れるのですが、抗えない更新は、なにかの完了、得体のしれない方向へと向かっていきます。  それでも、何が変わったのかという自覚は訪れることはありません。それでも、更新され続けていく。「僕は/まだまだ/変われると信じているのに」と語っているのは、僕の微かな欲望が垣間見られるような気がします。変わりたいと思う欲望、もしくは、何か目標に向かって変わろうとしている姿勢。  それでも、時代のせいにしつつ、抗えず、僕とは無関係に訪れる自動更新は、ただひたすらにマイペースに更新され続け、「とても/明るく胸に響いてくる」という僕の思いとは無関係な機械仕掛けの作用が不気味でありつつ、この詩を読んだ読者もまた得体のしれない自動更新が訪れてしまうのでしょうか。 (自動更新)

2017-10-21

 いやな感応というのは、いやな予感と読み替えてもいいのでしょうか。それでも、「ぶどう畑の看板」にわざわざ向かって泣くその姿は、自ら望んで泣きに行っているのか、それとも抗えずに泣かされてしまっているのか。つまりは、そこに自らの意識があって、選択してそのようになってしまったのでしょうか。  そうして導かれる運命というようなものを喜ばしいものと思えずに、「この先」という矢印がにくく思えてしまうのでしょう。そして、いやな感応によって、当たり前の景色が恐ろしいものへと変遷していきます。  それでも、何かに導かれるようにして、歩かざるを得ない、ひたすらに歩かざるを得ない。どこへ向かっているかはわからない、この先何があるかはわからない。そうした将来への不安が根源的に描かれているからこそ、「朝8時15分」と示すことで、同時に今現在ここに語り手がきちんと存在しているんだという表明をしているのだと感じました。つまりは、いやな感応が見知らぬおそろしい世界に導かれるようでありながらも、導かれている今確かに存在しているのだという、ただ確かにわかっている現在の時間が示されているのでしょう。 (行き先不明、朝8時15分)

2017-10-21

 まず、唇は何のために存在するのか、そんなことを考えました。物を食べるのは歯があればいいし、喋るのも声帯があればいいし、なんだか、口を通る門番の役割を果たしつつも、唇自体に機能はありません。それでも、唇には何だか惹かれるものがあり、強いて言うならば、口づけをする機能はあるかもしれないですね。  というのも、グロスを塗る、という行為がどういう意味を持つのかを考えたのです。それは、唇をより魅力的にひきたてることです。そして、さらに魅力を増すためには、そのグロスを引き立たせるために、唇を閉じることです。すると、自然と物を食べたり、喋ったりすることができなくなります。  途中の「すきを受け止めたい」というのは、好き、でも、隙でも、どちらでも成り立つように思いました。  そして、「あなたの口に/苦いものはいらない」と相手の口を想うこと。  「無垢なままの少女」とは、グロスを塗る行為とは相反するように思いました。そして、そうか、口は呼吸をする機能をも持つと再認識し、結末は、なんだか、相手の口から吐かれた空気を取り込んで生きる「私」の存在を思わされました。 (辰砂、くちびるに)

2017-10-21

 第一連と第二連が対になっており、「過去を集める男」と「野良犬」との対比になっております。両者の決定的な違いは、生きる術を知っているか、忘れているかということ。過去を集める男は死んだ人間ばかり集める、手元に置いておくが、野良犬は墓をほじくり返して晒し者にする、言わばオープンにして手放すということの違い。  この男は生きる術を忘れてしまったのだから、きっと死んだのでしょう。その魂もまた野良犬によってほじくり返され、晒し者にされてしまうのでしょう。  どうしても第一連の初めから夜の世界を思い浮かべていたので、最終二行は、朝の訪れによって、行き場を失くした男の魂のことを描いているのではないかと思いました。    全く関係ない連想をしました。  というのは、野良犬は創作者というか評論家に喩えられるなあ、と。男は過去を集めるばかりで、古本でもなんでも、先人たちの書物やらなんでも、遺物や遺言などを集めては満足しているだけであるが、野良犬は、埋もれた先人たちに「墓をほじくり返す」というひと手間を加えて、晒し者にするという。言わば、光を浴びる場所に死者たちを再び置くということ。眠った遺志は、集めるだけでは何にもならず、敢えて晒し者にすることで、多くの人に見られる可能性を持つのだという。そうして熱い光がふりそそいだ意志の魂自身は消え果て、誰かの身体へと取り込まれ、魂の器を手に入れたのではないかと妄想してみました。 (蒐集家)

2017-10-22

(一回長文で書いたのですが、消えたので、思い出しながら箇条書きで書かせていただきます、申し訳ございません) まりもさん ・私学に通うという意味が、地方によって異なることを再認識しました。 ・「夢」にも二重性があるという指摘。ただ、僕は夢の材料として「現実」があるということを思っています。 ・まるかっこ語りは、多用しているので、はまっているのかもしれないですが、使い過ぎに気を付けます。 エルクさん ・読者が票集めの手伝いをする担い手という指摘はなるほどです。 ・ただ、「罪」を共有していない以上、票集めによって、その手伝いができるのかということで、読者が「世界観を完成させる」のが不可能なのかもしれません。 ・数字に関しては、あくまでも私性を担保するために必要であり、かつ、代替可能な数字として読者は読者なりに数字を置き換えできるかもしれません。 花緒さん ・アクチュアリティ、その時の僕にしか書けないものを書こうとしているので、そういう効果があったのだと思います。 ・前進したというより、書き方自体は30分一本勝負で書き続けていたので、たまたまはまっただけかもしれません。 祝儀敷さん ・ネット詩への帰属意識は全くないですが、賛辞をいただきありがとうございます。 ・小学校に通うという経験は誰しもがしていますが、そこで見ているもの、経験したものは違うので、絶対に共有できる部分とできない部分があるのだと思います。 ・選挙ぐらいしか、僕には母校に帰るきっかけがなく、それがたまたまいい契機になりました。 (夢の償い)

2017-11-08

 何でもない書き出しで、どこかで読んだことあるような小説のような書き出しで、それでもやっぱりこの作品は好き。なんで好きかって、好きなフレーズがいっぱいあって、何でもない風景からふと思い出すことがあり、いや、実はこの作品の語り手は、「あなた」の墓に行って、「あなた」を弔うという目的があるのに、その目的を明かさないままに、長々と長々と電車に乗って、バスに乗って、そこで見えたものを丁寧に丁寧に、冷静な目線で書かれているから、中盤までは何でもない作品に見えてしまう。  でも、はっきり言って、そこで見過ごしてしまう読者は、正直どうかと思う。時折見られる思わせぶりなフレーズを見落としている。電車を待っている時の「人びとは一様に、同じ方向を向いて立ち、何かを待っている。」という表現。いや、「何か」って、電車でしょ、ってツッコミたくなるけど、いやいや、あくまでも「何か」を待っているという思わせぶり。  バスの中で山の風景とかを見て「ただ、景色を眺めていると、さまざなことをとりとめもなく思い出す。思い出は、俺だけのもののはずなのに、俺はそれが俺の体のどこから湧き上がるかを知らない。」と。もう我慢汁出ちゃいますね。ふと何かを思い出す瞬間って誰しもがあるけれど、思い出すと言うことに対する思考がこれまた丁寧に描かれているわけで。で、後になってわかるけれど、この語り手は、目的もなく電車やバスに乗っているわけではなくて、これらはすべて「花束を買ったあと」に乗っているのだから、やっぱり、目的地が決まっていて、その秘めた強い思いとは裏腹に、電車やバスの風景なんかを描いたりしていて、上手い伏線になっている。  それで、ようやく花束を置くわけですが、「こんなことになんの意味があるんだろう。」という自問。え、花束置くために、長い道のりをやってきたんじゃないのかと。いやいや、大事なのは、その行為・儀礼ではないと。そして、終盤へと入るのです。  これはまさに祈りです。周りはあなたのことをこう言うけれど、俺はあなたをこう思っているんだぜ、という祈り。思い出というのは、既に失ったものに対して持てるという点で、「あなた」がこの世界から失われていれば思い出として俺の中に孕むことができますが、「あなた」はこの世界の中で生きているという俺の思い。これが祈り。  最終連の呼吸の使い方、これ、僕も最近手法として使うので、すごくわかってしまうんですよね。自問自答するように、誰かへ語り掛けると同時に自らへも語り掛け、確認するということ。結論が導き出せていれば、こんなの一行で済むんです。でも、答えを出したいけれど出したくなかったり、現実はこうだけど認めたくなかったり、そんな葛藤があったり、確かめたかったりする時に、こういった手法を用いる、はい、これ、ミソです。残念ながら、「あなた」が墓で眠っているという事実に抗うことはできません。ただ、俺は、「あなた」が俺の中で生きており、俺は人びとの中に帰る。でも、あなたや思い出や世界はどこに帰るのか知らない。ただ運ばれるだけ、あなたは俺によって運ばれていく。世界によっても運ばれていく。これはつまり、俺について、もしくは、あなたについて、誰かが語るということ、語られるということ。「あなたが永遠になってしまったと人は言うよ」という事実。人はこうして、あなたや世界、ましてや俺をも語ることで、その姿を変えさせてしまう。まさに「語る」という行為によって、「運ばれる」ということ。どこぞの誰とも知らない人があなたを語るが、俺は俺なりにあなたを語ることはできる。それでもやっぱり、最後は「みんなと同じように、運ばれて、運ばれて、いくしかないんだ。」という一つの結論に至ってしまう。 じゃあ、俺があなたを語るという行為は全て無駄になってしまうのか。その答えは、この作品に感動した僕が語るほどでもないでしょう。それでも人は、やはり、その人なりの「あなた」についてどうしても語らざるを得ない、その営みを止めることはできないでしょう。僕もそんな風に詩を書いているつもりではございますです。 (広くて静かで誰もいない)

2017-11-14

まりもさん さすが、まりもさんです。いくつか潜めていた読みのコードを拾っていただきありがとうございます。 単純に、映像作品として楽しんでいただけたらと、西脇を真似たものにすぎません。 私自身にも解説できません、申し訳ありません。 ただ、皆さんがどう読むかは私も気になるところで、果敢に挑戦していただいたまりもさんに感謝しています。 僕にしかわからない読みのコードを潜める、というのは、西脇もやっていたことでしょう。 密かな引用がぱらぱらと詩の中に紛れているという。 単純に、1人の少年の旅物語として皆さんには楽しんでいただけたらと。 (デイヴィッド)

2017-11-08

天才詩人さん ありがとうございます。 僕は、天才さんと相性が悪いものだと思ってたので、意外でした。 (デイヴィッド)

2017-11-29

エイクピアさん ありがとうございます。 新たな叙事詩をつくろうという野心はこれっぽっちもなかったりしますが、それでも、このテイストの作品は続けてみようと思います。 私自身、映像として思い浮かんだもの、私自身の中にあるばらばらのイメージを無作為に並べてみた、そんな映像や絵画として楽しんでいただけたらと。 (デイヴィッド)

2017-12-03

 遠くから見たら小さな穴でしかないけれど、その小さな穴を近くから覗いてみたら、その奥に別の世界が広がっていた、そんな出だしだと感じました。  その「距離感」≒「遠近法」ということが、この作品を通底しているテーマで、5階からグラウンドを眺めるという具体的な描写によって導かれた「子どもの頃からスポーツは/遠くから眺めるもの」という語り手なりの定義。祭りでの神輿もまた同様に。  そうした一つ一つの出来事を眺めているだけの存在として語り手があり、「ほとんどすべてがそうだった。」という。  それでも、この作品はその定義が導き出されて終わるのではなく、「かれに秘密でここに来た。/近くにいるために。」と自らの意志によって、きみという対象に近づこうとしているのです。近づきたいという欲望によって、そうした行動を起こしながらも、いつもいつも遠まきで眺めてしまう。  最後の二行はただの甘い表現ではなく、やはりこの作品を通底していると思われる「距離感」「遠近法」という点において、語り手が「近づきたいけれど、眺めてしまう」という逃れられない性分を持ちながらも、「目の裏」という視覚を司る器官に最も近い場所にいつもその人がいるということ。「目の裏」を目で見ることはできないですが、「その人の残像」は目に最も近い場所で保たれてしまうという、ああ、なるほどなあ、と思わされました。 (song)

2017-11-16

 いつもの白犬節とはうってかわって、一読驚きました。丁寧に、まるで説明文のような作りになっているのですが、それが内容と一致して心地よさを覚えます。  ペリドットとエメラルドという、色だけは多少似ている宝石。そのイメージを援用して、おそらく2人の人物が似ている部分がありつつも、やはり違っているという語りかけ。それでも素直な気持ちとして「2人の誕生石の色が似ている/それだけのことが/嬉しかった」とあるのが、効果的です。好きな人ができると、何とか共通点を探そうとして、親近感を覚えるのは、決して僕だけではないでしょう。それでも、語り手は冷静に「似やしない2人の間で」という事実を忘れないようにと、自覚があることも示されています。  場面は変わり、語り手の視線はエメラルドにうつります。「エメラルドは深い闇を通って来たんだよ」という事実は、そのエメラルドをウインドウショッピングのように一見した人にはわからない、語り手だけが知り得る情報でしょう。語り手がエメラルドに近い存在であることが示唆されています。  所々挿入される声「まさかね」「君にはもっと似合う人が居るよね」というのは、眠りにつく「僕」が布団の中で聴いている声、もしくは思い出している声です。夜の闇が訪れたとしても、エメラルドやペリドットが持っている色彩が見えなくなってしまうのではなく、それらの色彩は宝石そのものが所有しており、失われる色彩として思いを馳せているのでしょう。  さきほどと違うのは、共通点を探して喜んでいたのではなく、ペリドットの淡さを孕むことで、「僕」がエメラルドのジャムを吐いてしまうということ。つまり、受け入れることを拒否し始めたのです。ジャムという、見た目としては、しっかりとした形は持たないふよふよとした、まさに吐瀉物らしい吐瀉物。僕はマーマレイドが好きなのですが、エメラルドが闇を通って来ていたものの、マーマレイドの橙色が陽の光に浴びた色として、対比しているのでしょうか。それでも、月の光の下で、同じように光ることを望む語り手の思いは、真摯に伝わってきます。  最後は、何が起きたか全くわかりませんが、ペリドットもエメラルドも砕かれてしまったということ。望んでいた月の光が地上に降り注ぐのではなく、砕かれたペリドットとエメラルドが地上に降り注ぐ。それが、語り手にとって綺麗なものではなく、痛いものとして降り注ぐ。中盤では、語り手の何気ない率直な思いが示されていたのですが、最後はやはり白犬節で、淡々と移り変わる風景を描いており、語り手の思いが一気に読めなくなります。ただ、何も考えずにそうした風景の中に読者を導いているというのは、巧いと思います。  砕かれてしまって全てが終わってしまったのかどうか。その続きは、読者の数だけ答えがあるような気がします。 (peridot marmalade)

2017-11-16

 こうださん、ご無沙汰です。いじられキャラのなかたつです。  それはさておき、一見ではありますが、こうださんの人柄を知っているせいか、この「曇天サーカス」というタイトルが合っているような、合っていないような。こうださんの作風はいつも、言葉で遊んでいる、まさにサーカスのような詩を書かれているので、ぴったりだなと。しかし、「曇天」という接頭辞がいいのか、わるいのか。ただ、曇天模様だったとしても、サーカスがあるといううきうき感はきっと変わらないような気がします。  そんな前置きはさておき、「木馬」だって、役割があり、作られたからにはその役割を全うするしかありません。そして、人を乗せるための役割を担っており、そういう意味で「迷子」のイメージと木馬に突き刺さる掴まる棒に人が掴まるイメージが重なります。閉園するというのも、あくまでもマイクのテストでしかなく、本当に閉園するかはわかりません。そして、閉園後も木馬はそこに在り続けるのです。「生活が暗転して私が不在」の「私」は木馬なのでしょうか。閉園すれば見向きもされない木馬の悲哀が描かれているのでしょうか。  そして、場はカオスに。ブランコは分解し、テントは破壊されます。それでも、やはり木馬はその場を保つ存在としてそこに在り続ける。見向きもされず、置いてけぼりになった木馬。それでも、その場を守り続ける木馬がそこに在り続けるということだけで、見向きもされなかった木馬に希望を与えたのは、何よりこの木馬を描いたこうださんの功績でしょう、この作品からにじみ出るその遊び心と人柄が素敵でした。 (曇天サーカス)

2017-11-13

 場所にまつわる記憶、思い出。同じ場所を通り過ぎる時に、その時間が変われば、いま・そこにいる語り手の思いというのは様々に変わるものです。  「まちあわせ」というのは、今している待ち合わせではなく、かつてしていた待ち合わせのことであり、「まちあわせ」という約束をすることで、「きみ」はかつてそこにいたのでしょう。  括弧書き内は、語り手の独白。一緒にいる間は、それが当たり前のものとして、わざわざ愛情などというものを試すことはしません。そして、それがそういうものであると自らへ言い聞かせています。ただ、それを確かめるだけに、時間を使ってしまっているということも忘れないようにしています。  いまとなっては、「ひとり」でかえっており、かつて「まちあわせ」した場所を通り過ぎています。かつてあって、今となっては失われたしまったその約束、今だからこそわかる愛情というもの、それが「時間」というものによって、今となってわかる後悔なのか、悲哀なのか、ここでは淡々とその事実が語られているということだけで、語り手の気持ちを推し量るのみです。 (まちあわせ)

2017-11-16

 旅先にあるような風景から始まる作品。それでも、不思議な点があり、田が三色パステルに染まるという。田と言えば、稲の緑や稲穂の黄色ぐらいしか思い浮かばないですが、三色パステルという少々自然色から離れた色が拡がるということ。そんな風景に見惚れていると、どうしても視覚が優先されますが、気づけば遅れて風の音という聴覚が刺激されています。  第二連で、そんな風景に出会えたことを誰かに知らせたいという思いがあります。この思い、旅に出ると僕も抱きますね。「あの人に見せたい」なんて思いながら、旅先を歩き、伝える人もいないのに、将来誰かにここをすすめたいなあ、なんていう思い。そんな思いとは裏腹に、あの人は、語り手の「僕」と無関係に生き、あの人は、「僕」の知らない風景を見ているだろうという思い。  ゆうなんぎいにしても、ブーゲンビリアにしても、語り手にとっての住む場所というのが沖縄であり、観音山が旅先での風景だったのでしょうか。関東に住む僕にとって、沖縄が旅先の風景としてあるのですが、この作品では沖縄が住まいであり、観音山が旅先であるという。そして、「あの人に見せたい」という思いが、少しでも「あの人」に届けばよいという思い。  「僕」の思いが少しでも「あの人」に絡まることができるようにという思い。それがゆうなんぎいが垂らす糸のようになれば、と思いをゆうなんぎいのイメージに重ねてあります。そして、今まで通底していた風のイメージによって、その糸が「そよ」という音によって、揺らいでいる、そんなイメージも喚起されます。  書かれてあること自体は、率直な思いではありますが、特に第2連の核となる思いが、僕自身の思いにも共感できる部分があり、惹かれました。僕自身は、いろいろな風景を見て、感動して、それに留めておくだけではもったいない。世界には、こんな風景があるのだぞと誰かに伝えたいという思い。そして、それをゆうなんぎいの垂らす糸に重ねるイメージが巧みだと思いました。 (ゆうなんぎい)

2017-11-14

 タイトルのスリーカウントが何を示しているかは一見わからずとも、一行目のアボカドの話がどうもありそうで、一気に惹かれました。ありそうな、いや、実際にそんな話をしていたのかと、現実感がこみ上げています。ただ、その現実感に反して、語り手の思い=独白は、そんな他愛もない会話とは無関係に続けられています。  女の子が好きなアボカドはメインではなく、あくまでもサブだと、何だか、はっと、しました。でも、それを言っては、この場が崩れてしまうと思いとどまり、まさに溜飲をのむといったところでしょうか。ただ、そんなあふれ出た思いは語り手の中から去ってくれるわけでもなく、メインの海老は優雅に語り手の食道を踊っています。  そして、「出来ればしまって、いたかった。」ということは、しまっていることができなかったのでしょう、言ってしまったのでしょう、メインは海老だって。いやいや、「女の子って甲殻類が好きだよねえ」という、言わばこの場を崩してしまうことを。  そして、事態は最悪なことに。場を崩してしまっただけでなく、帰れなくなってしまったということ。  作者の配慮によって、何がスリーカウントであったのかは一目瞭然です。僕だったらきっと、「」で囲わずに、しまったの前に読点を置いて、一呼吸置く・唾を飲み込む感じで、~~~~、しまったと書くでしょう。あくまでも僕の話です。  そして、この「しまった」と、「しまって、いたかった」というのは、対比なのでしょうか。英語で言えば、「oops!」という「しまった」と物を置いておく「しまった」という二つの意味が「しまった」にはあります。その二つの意味が交錯していることで、この作品が全体に不和をもたらします。そのことによって、この語り手は「甲殻類が好きだよねえ」なんて言って「しまった」わけですが、実は、もっともっと奥に秘めた何かを「しまった」、というか「しまっている」のではないかと、この作品には書かれていない何かがしまわれているのではないかと思わされました。 (スリーカウント)

2017-11-13

 最初は視覚的イメージから始まります。ただ、そのイメージ「波濤を頭から被っている」と身体的感触「濡れていない」という不一致が伴っています。ここは現実か否か。  次の連で読者は語り手に裏切られます。「波濤」という言葉が当たり前のように、読者に海を想起させるのですが、「そこは(…)台所だったかも知れない」と。ちなみに、この「そこ」というのは、波濤を頭から被りうる「岩の上」のことでしょう。このようにして、場面の展開ができるのも、「考えごとをしている」からであり、想像するならば、目をつむり何かに想いを寄せる、その行為によって、自らの意識を他の場所へ移すことができるのでしょう。  台所における主体は「青い魚」です。積み重ねられた詩集の上を泳ぎつつも、時折頭についた藻を食べているという。そして、ふるい釣り針を吐き出しているという。なぜ、このような行為が成立するのか、それは、青い魚が泳いでいる=生きている場所が「詩集の上」であり、つまり、詩集の表面に藻や釣り針が置かれているから、青い魚が泳ぐとそれらが引っ付いてしまうのでしょう。  そして、またしても裏切られてしまう。この作品全体の語り手の「考えごと」によって、いや、波濤を被りうるのは、非常階段の踊り場だったのかもしれないと。  どこにも回収されえない大型不燃物は、文字通り邪魔者として、行く手=通り道をふさいでいるという。それがきっと冷蔵庫であり、その中に「白骨化した生き物の/すべての裏側」があるという。ここに、二段階の裏側があります。 一つ目が、冷蔵庫の表=大型不燃物であり、人はそれを見た目で判断し、ただの邪魔者としか扱わないが、それを開けて中を覗くということ。中を覗くことによって、冷蔵庫の中=裏がようやく見えます。  二つ目が、白骨化した生き物の裏側です。そこに在るのは、生き物が白骨化しているという現在しかありません。きっとこの生き物も白骨化する前は皮を被って、地上だか海中だかを彷徨っていたのだろうと想像はできるが、それは目に見えていない。現在から過去は想像でしか補えません。それと同様に、過去から現在も想像でしか補えません。つまり、過去には皮を被って生きていた生き物の中身がどうなっているかを知る術はなく、現在になって白骨化しているからこそ、その生き物の中身を見ることができるということ。  いずれにしても、見えている部分がいわゆる表であり、見えていない部分を裏側とすると、冷蔵庫の表=大型不燃物、冷蔵庫の裏=中に何かが収まっているということ、生き物の表=生きている姿、生き物の裏=白骨化した姿、という二重構造の裏側がここには存在しています。見えていなかったもの=裏を見るということ。(もしかしたら、白骨化した生き物というのは、現在では絶滅しており、それが保存されていたのであるならば、それはそれで、現在では見ることのできない(=裏)生き物の姿とも言えるのでしょう)  そして、読者はまたしても裏切られます。「やはり/海であらねばならない」と。「考えごと」によって紆余曲折を経た上での結論なので、それはそれで仕方がないかと思わされます。決めつけではなく、思考した道のりがあるからこその結論です。  最終連は輪郭を失った世界観。「巨獣」「深海魚」という一般名詞によって、漠然と、珍しい生き物たちの存在を思わせ、人もまた水の中から生まれ出た存在であることを思わされます。そうして、水平に、水の表面が保たれている均衡に向かって、生まれ出るいのちの運動が波濤をもたらすのでしょう。いやいや、波濤をもたらしてのは、「しろながすクジラ」であって、詩集の上を泳いで、藻を引っ掛けてきた青い魚をゆうゆうと「飲み込んでいる」という当たり前の想像で締めくくられるのではなく、やはり最後も当たり前の想像が裏切られるのです。ダイナミックなくじらが、魚の頭を齧っているという、なんだかクジラの矮小さというかなんというかを思わされます。  それにしても、どうして「シロナガスクジラ」ではなく、「しろながすクジラ」なのでしょう。それは、勝手な想像ですが、「白を流すクジラ」なのではないかと思わされました。これもまた、「シロナガスクジラ」という当たり前をひらがな表記にすることで生まれた裏切りの表現であると言えます。「しろながす」「クジラ」は「白を流すクジラ」として、自らが白骨化して、絶滅はしないぞと、そんな白の世界を波濤の中へ流し込むような、そんなクジラなのだと邪推しました。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-13

 弓巠さんの作品を読んでいると、水のモチーフが多く使われていることに気づきます。  冒頭の「ひと、ヒト、ひとつ」というのは、「人」という読み替えができながらも、やはり、これらの音が修飾しているのは「雨が降る」のだから、「しとしと」降る雨の言葉足らずな感じだと捉えました。  雨が降る、のは、空の髪が死んだから、ので、クウキは埃をあずけて、くろぐろと澄んでいく、と、行間が論理的に「原因と結果」そして、その結果がまた原因となって別の結果をもたらすというように進行していきます。  雨が地上に降り、埃が舞い上がり、空気が黒ずむ、その様子を空の髪の毛が抜け落ちた様子だと言い換えており、ただ、「目の前に落ちてある髪の毛」が「空のものか自分のものか」という疑問の投げかけ。この疑問に答えは出ませんが、どこまでも鈍く、その内側へと落ち続けてあるという事実だけは淡々と在るのです。  第二連では、雨から人へと視点を変えるのですが、ここで弓巠さんが水にこだわる理由が何となくわかるような気がするのです。  人が地下へと降っていくのですが、「雨の雫として空に、止まるために/目に、他のヒトは固定され結晶していく」と。目に映る他者が、その人となりとして、堅い姿を纏っていますが、水はその姿を固定させることができません。  そして、冒頭の「ひと、ヒト」という音による仕掛けが必要だったのは、「ひととみずは/クベツがつかなくなって/ウチがワへと/降ちていく」というフレーズを導きだすためです。だからこそ、「人」という感じではなく、「ヒト」という音から導き出される雨とまさに「人」とを一体化させるために、こうした音が冒頭に用いられたのでしょう。人もまたその姿を止めないでいる存在であるということ。  時には「水にのまれ」、時には「みずをのんでいる」という、水と人の主従関係が流動的に入れ替わるということ。それこそが、「クベツがつかなくなって」ということなのでしょう。そのことにより、最終2行は、人が発する声でありながらも、自然がもたらす音が合わさった表現として捉えました。   (余談です。「万物は流転する」とか「行く川の水の流れは、絶えずして元の水にあらず」とか、「水と水が出会うところ」とか、そういう水に纏わるようなフレーズが僕は好きだったり) (ひとひと)

2017-11-16

白島真さん ありがとうございます。 箸のくだりは、まさに偶然の産物です。 しらけたところは残念ですね。ここの部分は、言い換えるとしたら、あなたは引退したアイドルやAV女優のその後まで興味を持てますか、とほぼ同義であり、結局人はある人のことを最後まで見届けることなどしないものだ、という皮肉です。 コーリャさん どもどもです、あざます。 ポエム上手、てへぺろ。 僕もこの娘のエンディングはわかりませんから、見続けたいと思っています。そんなエンディングが来るかわかりませんが、この娘自身も誰かに布を差し出す存在であって欲しいと思いました。 仲程さん ありがとうございます。 二文字区切りのところは、見た目も大事だとは思っているのです。 息絶え絶えに何とか言葉を紡ぎ出そうとしている、二文字吐くたびに呼吸をしなければならない、そんな様子を描きたかったのですが、選択した言葉が悪かったのだと思います。 (パッチワークライフ)

2017-11-29

カオティクルConverge!!貴音さん♪��さん ありがとうございます。 何気にファンですよ。 多分いろいろな言及ができる作品だと思うんです。 普段はこんなものは書きませんが、アイディア先行のものを偶々書きたくなっただけです。 こんなものは、と言ってはなんですが、アイディアさえあれば誰でもかけるような。 cotonoさん ありがとうございます。 なんというか、多分、最後の部分の結論だけ言ってしまってもよかった気がするのですが、それを活かすためにも、前半部分は必要だったのか、否か。 何かしら考えるきっかけになったなら、幸いです。 コーリャさん あざまーす。 そう、まさにメタポエムなわけで、詩を書くことについての詩なわけで、オブジェクトレベル=「僕」「よしこ」がいる世界、メタレベル=「その二人を書く作者」、さらに言えばメタメタレベル=「なかたつ」なわけです。どこの階層で読み解くか、その読みを試したかったのもあると思うんですね。 (詩のつくりかた)

2017-12-03

ふじりゅうさん ありがとうございます。 新しい詩と言っても、詩を書くことについての詩は、西脇順三郎「旅人かへらず」や谷川俊太郎「旅」などでもある既存のアイディアではあります。 それをもっとラフにやってみました。 最後の結論だけあれば、この作品はよかったのでしょうか、そんなことを投げかけてみたいです。 仲程さん ありがとうございます。 本気であり、皮肉でもありますが、そこに「やさしさ」を見出した仲程さんの読みが非常に気になりました。 「やさしさ」を導き出せるのは、仲程さんだからこそだと思います。 御作、何気にファンです、作品を楽しみにしています。 まりもさん マラカスしゃかしゃかして リンボーダンスを踊ろうよ モンキーダンスはだめだ 素晴らしい!素晴らしい! 五時に成ったら何かが始まる 一緒に乗り越えましょう (詩のつくりかた)

2017-12-03

 自らが抱いた疑問は自らにとって重要な意味をもっています。そういう点で冒頭の一行が非常に効果的です。それに、内容としても誰しもが抱く疑問ではありません。それこそがその人にとって重要な意味があるのだと思わされます。  読み進めると、この疑問は作者が抱いた疑問ではなく、作中の彼女が作中の僕に向かって呟いたことだとわかるのですが、きっと作者が抱いた疑問をこの彼女の呟きに託したのでしょう。そして、上に記したように、僕はその疑問を半ば冗談だと思うのですが、彼女の顔に笑みはなく、本気であることがわかります。    もし、花に骨があれば  こんな風に切り売りされることもなかったでしょうに  なるほどと思わせる2行です。彼女が抱いた疑問を単なる摩訶不思議な根拠のない疑問として提示しているのではなく、その説明に説得力を感じます。  そして、僕は彼女を見舞う関係であり、「彼女のしずかな声」は、その疑問を口にする恥ずかしさからしずかになっていたのではなく、体調によるものであることがわかります。  もし私が次に生まれ変わることができたら  骨のある花になりたい  この2行を言い換えるならば、「私は切り売りされる存在にはなりたくない」という想いになるのでしょう。と思ったのですが、そういうネガティブな想いではないことがわかります。    花は  花というだけで愛されるでしょう  これは彼女が花に対して抱く嫉みだとも思えますが、これもまたそんなネガティブな想いではないでしょう。  彼女はどんなに頑張っても花になることはできない。そのことを僕も彼女もまた理解している。だからこそ、僕は彼女に向かって「君だって、充分に愛されているよ」と、花でなくても、君は愛されているよ、と僕は言えるのでしょう。  彼女はそれでも、うーん、やはりネガティブになってしまっているのかもしれません。繰り返される2行の重さが読み手にもひしひしと伝わってきます。  もし、現実として、私たちの目の前にこのような彼女がいた時、きちんと言葉を返してあげられるかどうか。言葉だけじゃなく、行動や気持ちを相手に返してあげられるかどうか。正直、私には自信がありません。それでも、作中の僕は、彼女の言葉に真摯に向かい合って、答え/応えようとするのです。その姿勢に、心が打たれます。    違う、と言いたかった  (…)  僕には、何も、言えなくて    何とか言いたいが、彼女の真剣さに答え/応えられない悔しさが滲み出ています。最初は半ば冗談だと思っていた僕も、ようやく彼女が本気であることに気づいたのでしょう。  そして、ふと、百合の花びらが落ちます。外に出られない現実を抱えた彼女は誰かの手によって支えられたとしても、やはり外に出られないのでしょう。  百合の花びらに、自らを託して/同化して、窓の外へと旅立つ。そこに拡がっていたのは、それこそ広く広く花々が拡がっている世界。窓の外に行けたからこそ見える景色がそこにあり、読み手もまたそこに導かれるのです。窓の外に一枚の花びらを放した僕によって。 (花の骨)

2018-01-15

 たった6行でも、何かしらが読み手に伝わるということ。  この6行を分けるならば、最初の2行と次の4行に分けられるでしょう。何故なら、舞台が違うからです。2行は路地、4行は病院の一室となっています。  2行にあるのは、「夜と朝がすれちがう路地」であり、それは夜でも朝でもない、言わば名付けようのない瞬間を表しています。その瞬間をまるで写真を撮るように、鴉を切り取ると、色を喪うのでしょう。それに、一般的に路地には、街灯や建物なども周りにあるはずですが、一羽の鴉に目を向けているのです。周りにある情報はなくともよいのでしょう。  そのようにして、病院の一室においても「生後四ヶ月の乳児がひとり」いるのです。おそらく病院にしても、ベッドや棚などがあるはずですが、目に入るのはあくまでも乳児なのです。  ここで不思議なのが、どうして「生後四ヶ月」ということを判断できるのかということです。語り手が知っているからだとしか言えないのですが、語り手は、その母親なのか、それとも病院に勤める看護師なのか、それは定かではありません。確かにわかるのは、生後四ヶ月の乳児がそこにいること、それを眺めている存在がいること、そして、その乳児が「花にむかい/笑いかけている」ことです。  では、この病院の一室における時間は一体いつなのか。これもまた定かではありません。それでも、この「笑いかけている」この瞬間は、確かに笑ったのではなく、笑う一歩手前の瞬間です。これもまた、まるで写真を撮るようにして切り取られた風景です。  鴉が色を喪ったように、乳児が笑いかけているという風景はおそらくどんな色で描かれようとも、笑いかけているという事実だけがそこに残るのでしょう。鴉の色は黒として当たり前すぎることですが、その色を喪ったとしても鴉は鴉であるように、乳児の色が喪われたとしても、笑いかけていることは間違いないのでしょう。 (未明)

2018-01-17

 光は時間を知らせる存在であるということ。確かに、朝・昼・夜といった単位であったり、朝焼け・夕暮れだって、光の加減で時間を知らせるものです。  そうした時間というのもつかの間だけ顕在化させるのですが、すぐに時間の単位は入れ替わるもので、隅に置かれます。この置かれるということがこの作品の後でも出てきます。  逆に、「いらなかった/痛み」は隅に置いてあったはずのもので、それらが隅に置かれた時間の代わりに光を浴びて、表に出てきたのかもしれません。表に出てきて、その中身を取り出すのですが、痛みもまた隅に置かれ、明日へと向かっていきます。  「臆病者の記録」にある「記録」というのもまた、過去に置かれたものを再生して現在に持ってくるためにあるものです。過去を現在に持ってくるという考えではなく、現在から過去に戻るという点で「遡る」のでしょう。  「ハリボテの嘘」もまた中身を取り出されるのです。「本当」という中身が出てきます。  「まぶたの裏」もまた普段は目に見えない箇所であり、そこから中身が滲み出てきます。  そのような、「過去」を代表として、現在目に見えていない時間/空間から、中身が飛び出してくるという連鎖。その連鎖の中でドラマのセリフもまた飛んできたのでしょう。  「正しくはないけれど  間違っていない」  正しいわけでもなく、間違っているわけでもないということ。それでも、確かにそこに存在しているもの。嘘に秘められた本当やまぶたの裏にあって普段は目に見えない悔いも目に見えない以上、あるのかないのかわからないようなものですが、確かにそこにあるのです。  そこにある、ということが一本の道となります。そのことをかたどって、いつでも引き出せる場所に置くのでしょう。置いた以上、その存在を忘れることもあるかもしれません。当たり前すぎて通り過ぎてしまうことがあるかもしれません。それでも、肝心なのは、自らがその場所に置いたということです。誰かが置いてくれたわけでも、自然に置かれるわけでもありません。そして、「いつでも」引き出せるのです。引き出しの中にしまってしまい、普段は目に見えないかもしれませんが、その気になれば「いつでも」引き出せるということ。そして、自らがしまったからこそ「いつでも」引き出せるのでしょう。 (未明)

2018-01-16

 「永い永い雨だ」という大きな大きな世界/視野から、「草の先」という小さな小さな世界/視野へとカメラアイが移る出だしになっています。その後の展開も、この小さな世界を中心に語られていきます。そこでは、語り手がカメラに徹していて、現実であろうと虚構であろうと、目に映るものをそのままに描こうとする姿勢が感じられます。  「細い草の陰」にいる「細く細くしている蝶」と、世界をより小さく小さくとらえようとしています。それでも、語り手は僅かな想いを垣間見せます。「飛ぶことをやめるだろうか」という一行は、その小さな小さな世界を見ている存在だけが語れる一行であり、想い/主観です。  飛び立つと、地に磔にされるという矛盾。一般的なイメージとして、飛び立つことは自由になることだという考えがありますが、飛び立つことがむしろ磔=縛られることに繋がるという意外性があります。だからこそ、身を潜めている蝶。動けないということがむしろ蝶の自由を担保しているのです。飛び立つと、「永い永い雨」によって地上に打ち付けられているのでしょう。直接は描かれていないですが、雨によって地上に打ち付けられるほどやはり「細く細くしている蝶」だということがわかります。  蝶はこの雨が「永い永い雨」であることを知らないのでしょう。そして、語り手はそのことを知っているからこそ、蝶にその想いをぶつけるのです。  このまま永遠に雨が止まないと知ったとき  蝶は飛ぶことをやめるだろうか  もし、僕がこの作品の帯文をつくるとしたら、この2行を使うでしょう。これが疑問となって、作品が展開されると誰もが思うからです。そして、人間にとって蝶というのは自然の一部として見過ごされてしまうこともあります。しかし、人間にとって雨が煩わしいと感じるように、蝶もまた雨が煩わしいのではないかと想うこと。この想いがあるからこそ、「蝶は飛ぶことをやめるだろうか」という疑問が生じ得るのです。  飛ばない蝶は  生きているのだろうか  という別の疑問によって再び作品が展開されます。この2行によって、読み手にも「標本箱の蝶」が自然とイメージしやすくなっています。「美しい羽を広げたまま永遠に語り続ける」という1行は、まさになるほどと思わされました。「飛ばない蝶」≒「標本箱の蝶」にとって、「永い永い雨」が降っていようと降っていなかろうと、その羽の姿を変えることはありません。飛ぶ必要もありません。雨に打たれる必要もありません。雨に怯える必要もありません。ただただそこに居続けるということ。それこそがその美しさを担保するものです。飛ばないからこそ美しさが存在し得るのであり、「標本箱の蝶」が飛び立つとその蝶もまた雨に打ち付けられ、地に磔にされ、羽がぼろぼろになってしまうかもしれません。  つまり、この作品の醍醐味は、多くの人は、蝶は飛ぶものであるという前提をもとに飛ぶ蝶を見て美しいと感じるばかりですが、飛ばないからこそ美しい蝶もいるのだという世界を読み手に示しているのです。  蝶が飛び立つ時、その音はいつも静かだということ。そして、作中世界は「永い永い雨」が降り続けています。蝶の体が雨に打ち付けられてしまうほど細いように、その体が飛び立つ時の音もまたとても細いものなのでしょう。だからこそ、草の陰に蝶からいなくなったことに気づけなかったのでしょう。それでも、本当に飛んだかどうかはその姿を目視していないので、確かなこととして書けないものです。残された結果は、蝶がいなくなったということ。音も立てずに、いなくなったということ。  「飛ばない蝶」として美しかったであろう細い細い蝶は、その美しさと引き換えに、何を求め、どこにいったのでしょうか。その続きは、それぞれの読み手の現実にあるのではないでしょうか。 (Butterfly)

2018-01-16

 3パートに分けて考えてみます。「カボチャ」「エッグマン」「リンゴ」です。  「カボチャ」では、カボチャを切る大変さから飛躍して、大変だった頃のことが回想されて、濁る湖、袋小路の不安などが描かれ、ひたすら旋回していた僕らがいます。それは終わりのない、何の救いもない繰り返しであって、何のためにそれをするのかもわからないままに、動いているのではなく、動かされているからこそ、いい想いをしていないのでしょう。  「エッグマン」では、自らのことではなく、他人を眺めて、描写しています。どの点がハンプティダンプティみたいだという思わされたのかと言えば、その見た目といい、話し方といい、性格といい、あらゆる点で限りなくハンプティダンプティなのでしょう。ジョン・レノンには成れないということを知ったエッグマンは、塀の上から落ちてしまうという。ジョン・レノンは塀の上から落ちることはないのでしょう。そして、グシャっと割れてしまうこともないのでしょう。  「カボチャ」にしても「エッグマン」にしても、嫌な夢・悪い夢だという。  では、「リンゴ」ではどうか。そもそも、今まで出てきた食べ物は、中身があってそのまわりを皮や殻で包まれたものばかりです。「リンゴ」も無論同様で。  カボチャを5分チンするのは、その大変さを多少和らげるためですが、リンゴを5分チンするのは、その美味しさをより美味しくさせるためです。この違いだけでも、気分がうきうきするもので、さらにさらに、その美味しさをよりよくしようとリンゴと相性のいい調味料が並べられるわけです。カボチャの大変さ・深緑色から自然と濁った湖が想起されたのとは違い、リンゴの美味しさ・赤色からはただただその嬉しさで涙が溢れるという。  甘いはずのリンゴが最後、塩味となったのは、涙が混ざってしまったからだ。  ここで、ふと思うのが、食べるまでの過程が違えど、嬉しい涙にしろ、カボチャから想起されて湖を旋回して、もし悲しい涙が出て、一緒にカボチャを食べたら、それもまた塩味になってしまうのではないかと。  あれだけ、リンゴの美味しさを引き立たせていたのに、結果は涙によって塩味になってしまったというのは、それだけ涙の味が強かったということです。それは、湖を旋回した時には流れなかった涙が体内の中に留まり続け、リンゴを食べる時に、体の奥底から湧き出てしまったのでしょうか。 (嫌な夢)

2018-01-17

 まるでカフカの「変身」を思わせるようなタイトルです。  そもそも「花子」とは一体誰なのか。作者なのか、語り手なのか、それとも全く知らない誰かなのか、友達なのか、母なのか。何も情報がない中で、作中にもその「花子」は出てこないのです。そうすると、固有名詞としての「花子」ではなく、一般名詞としての「花子」、つまり、ありがちな名前を持った女性という像が立ち上がります。  それはさておき、作品全体に語り口調に特徴があります。ただ、その語り方に変化があるのです。「〇〇とは〇〇である」と言うのは、まるで辞書的な定義づけをする時に使う表現です。そのため「地平線とは崖の比喩であり」という一行は、あたかも自然の摂理としてあるかのような印象を受けます。その勢いのまま、「花とは」と次の単語に映るのですが、その語りの中で、自意識が入り込むのです。書きかえると、  「花とは、(いや、待て、まだ話は始まってすらいない…、いや、花について語らなければ…)は、花とは年輪の開花であり」  というように。僕自身も昔は何かについて熱く語っている時、語っている自分と語っている自分を上から見ている自分が同時に存在していて、自分が喋っている姿や喋っている内容がおかしければ、喋りながら即座に否定して喋っていました。それと同じような感覚を覚えます。でも、これはおかしいことではなく、自己批判ができるということです。自己を外から見ることで、自己が自己を見ているのです。 それでもやはり、花についてもまたそれらしく聞こえるように語られていきます。  カバンにティシュを以下略とまるして革靴履き散らす  という行には、二つの時間軸が含まれているのです。喋りながら、喋っている内容を略することはできません。現在の自分が喋りながらも近未来の自分も喋っていて、喋っている内容そのものを近未来から略しているのです。  そのようにして、少し先を行ってしまう自分からなのか、誰からなのか定かではないですが、「早くしてよ」と言われてしまうのでしょう。でも、ここから語り手自身の想いが前面に出てきます。「息してる暇なんてない」と、何をそんなに急ぐ必要があるのでしょうか。その理由がわからずとも、急がなくてはいけない、という事実/想いだけはあるのでしょう。  「こんな言葉誰にも届かにゃいよ」というのもまた自己批判の現れです。けれど、届かないって言いながらも、それは結果として届かないかもしれないですが、届けようとする努力をしています。「ポストに投函1日300軒」届けようと、それすらもしなかったら、本当に届くか届かないかの判断はつきません。  そして、最終行には何故か老人。今になってようやくわかるのです。この作品が「時間」というものをテーマにしていることを。  花子は出てきませんが、花は出てきます。花は「年輪の開花」です。それならば、花子は「年輪の未開花」、つまり、年輪として姿を表せない存在です。その年月を経たという姿が年輪であり、それが、花という一つの姿をまとった結果が老人なのでしょう。花子というのは、まだ年輪として未熟で、開花に至らない状態の存在。その花子が生き急いでしまっている、そういう姿を描いてるのではないかと思いました。地平線そのものは、年輪の皮の部分として在るのでしょう。では、地平線の下に見えるものはなんなのか。映像として想像してみると、語り手にとって地平線より手前にある人や家や木々などが想像できます。それらが年輪そのものを構成しているのではないでしょうか。花子もまた、その地平線の下で年輪を構成している一存在として確かにそこに生きている、そのように思いました。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-16

 真珠がビニール傘に降るからこそ「ぱらぱら」という音が導かれます。これが、地面や人の頭であれば、違う音が導かれるはずです。  ビニール傘に真珠が降ることと「僕たちは/裕福だね」と想うことの因果関係はわかりやすいようでいて、実はわかりにくいものです。必ずしも、真珠が降ってくることが裕福であるとは限りません。僕なんかは、真珠を身につける機会などないですから、むしろ、もしかしたら雨より鬱陶しいものかもしれません。  ただ、最後の2行で読み手は気づかされるのです。真珠が降ってきたことに「裕福」を感じていたわけではないと。「だってこんなに/感じる心をもっている」の「だって」に大きな役割があるのです。「裕福だね」と感じたのは、前2行が原因ではなく、後2行が原因となって、後から説明されています。  言い換えると、「僕たちは裕福だ。なんでかって、こんなに/感じる心をもっている、からさ」と。感じる心をもっていることに「裕福さ」を覚えるということ。これまた、感じる心をもつことと「裕福さ」を覚えることの因果関係というのも、誰しもがそういう風に感じるわけではないのです。感じる心をもつこと、時には忘れてしまうことなのかもしれません。そのような当たり前すぎることへの気づき/感謝が「裕福だね」という言葉に結びついたのでしょう。 (真珠)

2018-01-15

昔、悲しみについて考察したことがあります。 https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=273834 理由のない悲しみはあります。 感情が先立つ経験と一緒です。 理由や原因があって経験がある、というのが一般論ですが、人間の感情はそれに限りません。 悲しいという結果が先立ち、それに対して、理由や原因をその人なりに位置付ける、つまり、一つの物語化をするという作業をすることが大事なのだと結論づけています。 (昨日私は悲しみについての詩を書いた)

2018-02-03

 声には色がある。それは、人によって声の音色や音程が違うということ。その違いを示すために比喩としての「声色」という言葉がある。では、その声の存在意義とは何であるか。何のために、人は声を生む必要があるのか。その一つの答えとして「どこから逃げるのか」と示されている。逃げるための手段としての声。  「きれいに磨きあげたものが/歯でよかった」という安堵。磨きあげるのは、宝石や思い出でもいいのかもしれないが、あくまでも日常生活に根差した安堵が必要だったのだろう。そうした繰り返される動作で、思い出そうとせずとも思い出せる記憶とは違い、色褪せてしまう空の記憶は、視覚でとらえたものであったが、空を「きおくするための道具が耳ならいいのに」という願いがある。  「大きすぎる目を抱いて眠れない」のは、視覚に頼りすぎてしまう人間の性への嘆きか。  「首筋にそった形状を朝なぞる」のも、昨日までの記憶/存在を確かめるための手段である。  そして、「虹をみていないひとから手紙が届」く。冒頭2行で示された声が何処へ届くかはわからないが、手紙が届いたことは確かである。「上司の声の先にあったひかり」は、おそらく虹をもたらしたのだろう。ただ、その記憶は曖昧で、それが確かであったかを確認しようと尋ねることすら覚束なくなってしまった。  虹の色というのは、本来地続きになっているが、その境い目を人間の眼によってわかりやすく表現するために「曖昧な色みのままで七色と」便宜的に呼ぶことにしている。その色みの曖昧さと記憶の曖昧さが混ざり合う。  「橋というには色素が多すぎる」というのも、虹がアーチ(橋)状のものとして描写されることが多いが、橋の存在意義/目的というのは、繋がっていない地と地を結ぶものであり、その形に色みを必要としない。その目的だけが達成されればいいので、虹を「橋というには色素が多すぎる」のだろう。ただ、この対比がされることで、虹に橋の存在意義/目的をもたらすことができる。声や手紙が、隔てた地と地(人と人)を結ぶ手段であるように、虹(の記憶)もまた地と地(人と人)を結ぶものであったのかと。だからこそ、語り手は虹(空)にまつわる記憶を探しているのではないか。  それでは、虹はどこにかかっていたのか。それは、「君の口」と「語り手の耳」である。そして、虹は声である。最終連にある「虹のくちばしをした君」から発せられた声が私の耳に届く。その声は「上司の声の先にあったひかり」を生むものでもあるだろう。また、語り手は「きおくするための道具が耳ならいいのに」という願いを持っている。声の逃げ場は、語り手の耳である。ただ、これらのこと(記憶)が曖昧になって、確かなものかどうか不安であるという焦燥感が描かれた作品である。  語り手の身長に縛られた手から足元への高さ(約1mちょっと)で触れる「足の指の間によれた埃」。その高さもまた歯を磨く動作と同じように、身近な感覚であるが、その高さが「そらよりも高い場所」となるのは、この動作の過程に君の声が関与しているのだろう。ミクロな世界からマクロな世界へと昇華して作品は閉じられる。 (ナナイロ)

2018-03-10

 これ、最後、逆転する作品ですかね。つまり、最初から途中までの「あなた」は語り手が読み手に呼びかけているように見せかけて、最後、実はこの「あなた」が語り手が能動的に語っているんじゃなくて、語り手が受動的に語りかけられていた「あなた」だったんだなあ、と。  僕もありますよ、母から「お前が生まれた日は、とても暑かったから大変だった。昼前だったし、なおさら」みたいな。そういう話をしたがるのって、子を産んだ人にしかわからない感情な気がして。だって、生まれた当人は、知覚できないわけだし、「あなた」にとって通時的な出来事は後から理解し得るけれど、生まれたばかりの「あなた」にとって通時的な出来事って絶対的に知覚できないじゃないですか。この赤子が通時的な出来事を知覚できない、っていう当たり前のことを気づかされたので、よかったです。だからこそ、起こり得ない出来事が語りかけられたとしても、それを否定することはできないんですね。ここに書かれているようなことも、赤子は実証できません。  内容自体は、うーん、正直「色んな事が色んな場所で起きていたのよ?」に集約されている気がして、物語性としての物足りなさを感じましたが、物語性など詩には必要ないとよく言われてきたので、それもそれでいいかと思いました、まる。 (あなたの生まれた日にね…)

2018-05-03

 コメントを読めば、これがどういった作品であるかがわかってしまうが、それを抜きにしても、フレーズに惹かれ、いい作品だと思った。  引用/参照元を明記すべきである、というコメントもあるが、私は不要だと思う。何故なら、引用した場合は「(…)」と括弧付けでそのまま引用し、典拠元を記すのが引用の際のルールであるが、先ず、フレーズそのものが作者によって新たにつくられたものであるからである。また、そもそも、私たちが普段使っている言葉など、そういった引用/参照している言葉ばかりではないだろうか。言葉を知らない私たちが言葉を使えるようになったのは、周りの人の発した言葉を用いたに過ぎず、見知らぬ/聞いたことがない言葉を発する/用いることが果たしてできるだろうか。  かの吉岡実の「楽園」という作品の冒頭3行はこうある。  私はそれを引用する  他人の言葉でも引用されたものは  すでに黄金化す  と。この意味合いも容易に読み取れるものではないが、引用された言葉は使い古されて錆びついたものではなく、また新たな命が宿るかのような印象を受ける。  この「参照点」は、単なる引用を組み合わせたパズルではない。作者による加工がされており、また、選択が伴っている。その選択とは、どの作品を参照するか、どの作品のどの部分を参照するか、という選択である。選択された作品、選択されなかった作品があり、同じ手法を用いて、他者が同様の作品をつくろうとした場合、先ず、絶対的に作者に起因する選択によって、結果としての作品は異なるものとして生まれるだろう。  それに、異なる主題/作者によって生まれたはずである別の作品が、一人の作者の一人の作品によって、一つの線で繋がれている。これは、間違いなく「参照点」という新たな一つの作品としてこの作品を読まなければならない理由となり得るのではないだろうか。 (余談:昔、勉強会で、T.S.エリオット→西脇順三郎→吉岡実を系譜として、引用を詩作に用いた彼らを論じたことを思い出した…)    さて、作品の内容であるが、「太陽」「草原」「青空」と自己の外部にある風景から、「ニヒリズム」「液体の精神の底」と自己の内部へと視線が移っていく。ただ、「病いは相変わらず彼の周りを浮遊しているようだった」と、内部に在り得る「病い」は自己のものではなく、自己の外部にあるものとして描かれている。あくまでも、視線は外部へと注がれている。  「夢の味」を夢想する様子は、まるで幼い時の記憶に立ち返っているような風景。この連は独立して一つの作品として成り立つような、だからこそ、映像として挿入される記憶として効果的である。  その記憶の風景の世界観をそのままに、展開は続いていく。その風景は一体誰のものであったのか。この視線は、語り手にあるはずのものであるが、「引用」がもたらす効果とは、他者を自己に取り込むことであったのかとここで気づかされた。  母と父のいない子どもたちにとって  「振り払うことなど思いもよらない あたたかな枷」  というのは、自己の価値観ではない。他者の価値観を取り込んで、風景を描くということ。「私たちではなく、幸せと呼んだのはきみで」と言うのも、他者がどのように世界を見ているかという視線を取り込んでいる。    語り得ぬことが言葉を持ち始めてやがて  きみの中で語り始める  は、キラーフレーズ。この2行に出会えただけでもよかった。  「参照点」とは、作者にとっての誰かの作品であった、というのはメタ的読みであるが、この「参照点」はそうした具体物だけではなく、作中の最終連にいる「彼女」にとっての「輝いている星」でもある。ここでも、他者の視線を忘れないでいる。「そして彼はそれを彼の世界において存在しないものと考えていたから」という、他者が同じ「それ」を見た時にどういう価値判断を下しているのかという視線。  それでも、「彼にとっても彼女にとっても内なる美であり、互いに通じはしない二点だ。」と、自己の他者との隔たりを明確化する。その互いの内なる美を知っている彼女は、彼に干渉しない。そして、干渉しないということが彼にとっての「美」なのだろう、だからこそ、彼女から離れないでいる彼。  引用/参照をするということ、それは他者の視線を借りることである。それは、単に作者というメタレベルにおいて語るべきものではなく、作中世界というオブジェクトレベルにおいても、この作品では実践されている。この語り手は、絶えず、他者が世界をどのように見ているのかという視線を取り込もうとしている。ここにこそ、この作品の魅力/議論の余地があるのではないだろうか。 (参照点)

2018-05-04

Rさんへ 確かに、私の読み違えがありました、大変失礼いたしました。 「如何なものか?」については、作者が表明したとおりで、私が口を出す術もなく、もし議論するならば、掲示板上のルールに発展するので、なおさら、口をはさむつもりはありません。 ちなみにですが、掟破りとは言え、この作品には私の作品も参照されておりますが、元作品より優れたものになっているとして、この点については作者を讃えるのみです。 これが「本人はどう感じるか」の一言であり、内容面において優れていると記したのは以上に付したとおりです。 (参照点)

2018-05-04

先ず、笑った。面白い。みんなも読んで欲しい。 次に、音感がいいし、自然な喋り言葉を文字として書くのは、意外と難しく、それでもわざとらしくない、本当に普通の会話として書かれているのが、何気に凄い。 あと、漫画というか、映像作品というか、そういう視覚的にも浮かびやすい。 言わば、言葉は過剰で、内容/主張があるわけではないけれど、例えるならば、居酒屋でたまたま隣の席にいた酔っ払いがこれを会話(朗読)していたら、絶対笑って、もしかしたら声をかけちゃうぐらいには、惹かれた。 (鉄コンに壁ドン、カツ丼で合コンより親父の乱闘か?)

2018-05-03

 流れ星は「流れ星」という見た目/性質を持っているから、流れ星と呼ぶことができます。それは当然のことで、流れ星が流れなかったら、それは流れ星ではなく、星です。その純度100%、疑いようのない流れ星こそ「潔く流れ星」なのでしょう。  そうした疑いようのない存在とそうではない存在との隔たり。  「体育祭」「空き教室」など、幼少時を思わせる単語が使われており、前半部は言わば語り手の<心象風景>≒記憶を「いつも今ここ」にいる現在の私が思い描いているのでしょう。そして、「息を殺して世界一か細いパンを食べたこと絶対に忘れない」という決意/断言。果たして、そのパンが本当に世界一か細いのであるのかどうか、それを確かめる術は読み手にはありません。なぜなら、その記憶を持っていないからです。ただ、確かなことは、語り手にとってはそれこそ疑いようのない記憶/感覚なのでしょう。  「詩が書ける場所を探して歩いた」と主題は、現在の語り手に引き寄せられていきます。そして、「いつも今ここ」がその場所であるという気づき。不思議なのは、「詩はいつも血を運んだ」という表現です。血は人間の根源的なものですから、「血はいつも詩を運んだ」という表現であれば、読み手にもすんなりと読めるのですが、それが逆であるということ。詩が先にあって、血がそれに付随しているということ。つまりは、詩があるからこそ、血が運ばれるのであって、詩がなければ、血が運ばれない≒概念的な「死」を迎えるのでしょう。  タイトルにもつながる「公園内の四つ角には四人の孤独が陣取っている」という表現。この表現は、具体的表現を避けており、言葉としては理解できるのですが、どういう情景がここにあるのか、それが概念的な言語レベルとして表現されています。これも語り手なりの気付きなのでしょう。  この詩の肝は、「チェーン店が競い合って(…)」からの連にあります。「さんざ歩いて」きた語り手だからこそ描ける情景です。そこにまた「祖母の命が消えた病院」という、語り手の記憶が風景と混ざり合う、だからこそ、情景になり得るのです。  ただ、最終連。おそらく語り手の想いが詰められた部分であるのですが、様々な疑問を投げかけることができます。詩を「僕とあなたの、曖昧な境界を切り裂く為にこそ使われたい」とあり、先ず、この「あなた」が一体誰を指すのか。おそらく、それは、この作品で出てきた唯一の具体的な他者である祖母ではありません。おそらく、不特定多数の中の誰かであって、特定の誰かであるかどうかは読み手に判断がつきません。また、「曖昧な境界」を打破したいという想いは伝わるのですが、曖昧な境界が果たして「悪」であるのか。そして、それを切り裂くということ。例えば、応募用紙に<キリトリ線>がありますが、それを切り裂けば、一つの存在が二つの存在へとはっきり分かれます。曖昧な境界を「切り裂く」のは、他者との断絶を欲しているという意味合いとして捉えてよいものなのでしょうか。いや、最終行が「その過程あなたと居たい」とあるので、そういう意味合いではないのでしょう。では、「切り裂く」という表現が適当であったのかどうか、そして、「曖昧な境界」というものが一体どういう境界であるのか。さらに、「あなた」とは一体誰に向けて呼びかけているのか。それは、この作品の読み手/聴衆であると推測はできるのですが、実はこれら自身が曖昧になっている印象を受けました。  それでも、想いは真直ぐに、率直に、言わば宣言されております。  「何度も死んで生きるを繰り返すこの容れ物(=「いつも今ここ」「この町」)に、必ず帰ってくるものの為にこそ/私は死にたい/その最後まで生きたい/その過程あなたと居たい」と。これは、語り手の欲望です。その上で、またどのように暮らしていくのでしょうか。その答えは、この作品を逆算していくことによって見えていきます。生きるためには、体内に血が運ばれる必要があります。血が運ばれるためには、詩が必要です。詩を見つけるためには、さんざ歩く必要があります。この途中の過程を全て繋げて、語り手の想いを言い換えるならば、「何度も死んで生きるを繰り返すこの容れ物に、必ず帰ってくるものの為にこそ、私は(生きたい→血が運ばれる→詩を探すため→)さんざ歩く」となるのではないでしょうか。歩くからこそ、見えてくる情景、描ける景色。詩の中に置かれた、日常的なスケッチこそ、語り手を生かすものなのでしょう。 (四つ角に孤独)

2018-05-03

花緒さん 詩の批評に、「文章」という語が適しているのか、それについて疑問を呈したいです。 おそらく、これは耳と声≒語りを意識というか、それを主題にした作品であって、僕らの日常会話ですら、不要な音(えーっと・あ・あー等)が入っているはずであり、人により、呼吸≒息が合間合間に入るはずです。 それは花緒さんの御作と大きく違う「語り」そのものではなく、「語りの表象」とでもいうのでしょうか、詩は常に整然とされた文章である必要があるのか、という疑問から発して、そもそも詩に「文章」という語が適しているのか、という疑問に繋がります。 かと言って、詩は「声」である必要はあるのかと言えば、それはそれで必ずしもそうではない、ということではありますが、最近の僕のテーマだったり、何よりこの作品の主題と併せて、「声」に対してのこだわりがあります。 コミュニケーションの問題と言えば、それっぽいですが、クオリアというか、感覚、簡単に言えば、痛みは共有できるのか、ということになります。 それと同様に、至極簡単な疑問として、僕の耳が悪いということは他人と比べて判明できるものであるのか、何を基準にして悪いと言えるのか、というものがありました。 かるべまさひろさん 「心の声」とありますが、現場/声が発せられる場所、言わば、日常会話というのは、その時その場所でしかなく、それを文字にするという行為は記憶と同様、ほぼ歪曲させられて描かれるので、「計算された」というのは、声を文字にした時点で必ず起こり得ることなのでしょう。 それでも、より声が発せられる現場に近づけたく、意識して書いたのは間違いありません。 「自分の思考」というのは、原因と結果が結びつけられたものとして保管されますが、むしろ、そこに行くまでのプロセスが人によって異なるということが、自然科学/人文科学の違いなのではないでしょうか。だからこそ、そのプロセスを描くべきなのだと、ディルタイの思想を学んでからはそう思えるようになりました。 グーグルグル夫さん 聴力って不思議ではないですか?と、本当に単純な疑問であり、かつ、僕にとって重要なテーマを扱ったものになります。 新幹線や標高があがった時のあの感覚はおそらく誰しもが体験し得る身近な出来事であるはずなのに、僕もそのことは忘れていました。 全ては疑問から始まり、その疑問に対する答えはいまだにわからないのですが、答えがなくとも、その疑問に付き合っていくと見えてくるものがある、とそれっぽくまとめましたが、このことが大事なんだと気づかされました、ありがとうございます。 (ちょうりょく)

2018-08-01

まりもさん お話、って、自ら作り出すのは難しくて、聴いたことで、喚起されるものがあったりしますよね。 職場でも雑談が多く、誰かの話を皮切りに、次々と連鎖していって、最終的に「何でこの話になったんだっけ」と最近ではよくあります。 今はもっぱら、僕がちょっとしたミスをすると「千疋屋のサトウニシキ、バナナ、桃、マンゴーをプレゼントする」というネタがあるのですが、このネタが出ると上司とともに「何で千疋屋の話が出たんだっけ」と確認しても、遡れなくなっています。 そのようにして、僕の作品を読んで、喚起されたまりもさんの話というのは、作品の効力として僕は嬉しくなったりしています。 色の話は小難しく言えば、クオリアの話になりますが、そのような概念的なものではなく、具体的な消しゴムの色の話は、なんだか温かみのある話でした。 人それぞれ、どこかしら体に異常を感じた時、日常的に付き合っているものは意識しないですが、その日常が崩れる瞬間、それこそがまさに詩的、というか、発見というか、生きることを考えさせられる瞬間だったりします。 僕は、母親から「お前はわたしと似て、耳の構造が少しおかしい」と過去に言われたことがずっと耳にへばりついていて、それでも、僕にとっての日常だから、あまり意識はしないのですが、そのように言われた意味をいまだに考え続けています。 (ちょうりょく)

2018-08-05

仲程さん 大変ありがたく思います。 理由等は具体的ではないですが、やばかったかもしれないということは十二分に伝わりました。 書いたかいがありました。これからも精進します。 エイクピアさん 祈り、という言葉は、僕にとって常にキータームです。背景については語りません。 それを「虚無僧」という姿を借りたら、どうなるか、ある意味思考実験があったかもしれないですが、つい、自分にとって書きがちな大事なことへと繋がってしまいました。 寝る前やお風呂、ぼーっとしている時など、思考や記憶が夢のようにばらばらに思い出されながらも、時が経つと何も思い出せないことが誰しもにあるように思います。 そのような状態のように、ぼーっとしている時に、ばばばっと思い出される風景の様子を描いたのかと、今になって思いました。 (どうしようもなく、虚無僧になって)

2018-09-01

survofさん 僕は、ありがちなお涙頂戴ものに弱いです。 かと言って、それを作れる/書ける才能はないので、僕が目/耳にしたもので、大事だと思ったものを書こうとしています。 それは単に僕にとってしか大事なものではないかもしれないですが、それが僕に開かれた以上、他の誰かにも開かれることじゃないかと信じて、誰かも受け取ってくれるのではないかと信じて、敢えて個的なことを書いています。 この作品で言えば、電車の中で学位記を広げた振袖の女性とその両親が電車の席に並んで座って微笑んでいた光景を目にしたことがその1つです。 言葉にできないけれど、言葉にしてみたかったという想いを抱いていただき、この作品に誠実に向き合ってくださったと信じています、ありがとうございます。 (語り、手)

2018-09-01

「私がこの作品を真に理解できたというのはあり得ないことであるが、私が確実に知ってる数々の感情の痛みが、光が、温かさが、その繊細さそのままにここにはあって私は確実にそれらを知っていると言いたくなる。これは自分の物語だと、そう言いたくなる。こうした気持ちにさせられる作品はあまり多くない」 僕は個的なことを書くのですが、その結果として目指していることについて、まさに表現していただいて、大変ありがたい次第でございます。本当にそれ以上でもそれ以下でもありません。 (選評8月分)

2018-09-02

なつめさん 7月作品についても取り上げようと思ったのですが、怠けですいません。 拙いものですが、お力になれたなら幸い也、です、ます。 ゼンメツさん 一気書きだったので、文章としては粗雑でうんこで申し訳ないです。 ただ、何が書いてあるかということを僕なりどう捉えたかを表したくなった、という引力をもった作品であることは間違いないです。 もっともっともっと精進いたします。 (選評:8月投稿作品)

2018-09-02

 理ってなんだろうと思ったのですが、「ことわり」ですね。「生まれた事」「死ぬ事」という、人間ならば必ずしも持つ共通点を持って、私と他者を結ぶのですが、その中でも差異があるということに気づきます。  その差異の中でも、語り手は自らの性格を自覚しており、2連目を読んだ時、すごく惹かれました。自らがどういう人物であるかを、きちんと距離を持って眺めて自覚しており、それを記すということは、なかなかできることではありません。「空っぽというものを知っている人」をついつい探してしまうという癖があるということは、求めてしまうということでしたが、結果的に選んだのは、その空っぽというものを解しない人であります。それを自らに言い聞かせるように「正しい選択だった」と。読み手に言い聞かせながらも、自らに言い聞かせている様子が浮かびます。  「生き物は全て半円の世界しか見れない」とは、いわゆる視野について述べているのですが、この語り手は語り手自身を俯瞰して捉えることができているでしょう。「一定の確立した見え方」というのは、何となく正しいことであるように思えてしまうのですが、むしろそうであっていいのだと。何故なら、私以外の他者もそうであるからと。  「人身事故」と四字熟語にしてしまえば、片付けられてしまう出来事に想いが馳せられています。それすらも故意であれば、それが願いだったのかもしれないと。この発想はなかなかできません。  「私はこの境遇を幸せだと感じなければならないのに」とあるのは、一体誰が決めたことなのでしょうか。世間的に、そう思わせてしまうことがあるのかもしれないですが、このように規定しているのは、おそらく語り手自身です。誰かに「お前は今を幸せだと思いなさい!」と求められたのでしょうか。いや、ちがうでしょう。人身事故者を羨ましいと思うことが本音であると。つまり、人間であることの性である冒頭の「生まれた事」を通過した後で、皆に共通である「死ぬ事」への羨望があるわけです。語り手にはそんな現在がある。  そんな現在とは違い、「写真の私」は過去の私であり、「いつでも笑っている」のです。これまた当たり前のことで、写真の私の笑顔がいつの間にか苦しい表情をしていたら、それはとても恐ろしいことで。「人身事故者」に想いを馳せた語り手のように、読み手が語り手に想いを馳せるとしたら、どのように馳せるべきか。  僕だったら、なぜその写真をとある場所に置いたのか、ということです。その写真がそこにあるということは、そこに置いた存在がいるということで、それは語り手です。どんな瞬間の写真であったかは、読み手にはわかりません。ただわかるのは、その写真にうつる「私」が笑っているということで、なおかつ、その写真を捨てずにいて、眺められる場所に置いてあるということです。それは、語り手がそのようになるように自ら選択したことなのです。それは、「笑ってる私」という存在を残したいという欲望が少なからずあるのではないかと思います。現在の私は、現在を幸せだと思うことができないかもしれないですが、過去の私はその過去という現在を幸せだと思っていたのではないでしょうか。そのような経験があるからこそ、「現在を幸せだと感じなければならないのに」という責務に追われてしまう気がします。 (自明と理外)

2018-09-02

 僕は実体験から書くのですが、これはどうも創作話っぽさを感じさせます。その根拠を示すことはうまくできないのですが、場面の切り取り方が絶妙です。誰かとの思い出や記憶というのは、地続きの映像であり、何時間も一緒にお出かけとかしようとも、実際に思い出せるのはせいぜい10秒ずつぐらいなもので、そうした中で、いわゆる「大事な思い出」を語るということは、その小さな映像を繋ぎ合わせること、そして、どの映像を選択するのか、というその選択が大事になってくるのでしょう。  花火を映像として捉えるのではなく、音の記憶として捉えてあります。「愛情と母性の落穂拾い」という何でもない表現が実に巧みで、「花火」という言葉自体が比喩で、花のような火が散った後で、残るものは何もないのですが、その火がいずれは地面に落ちていて、花火が散った後の空間や時間について想いを馳せるという着想がこの「愛情と母性の落穂拾い」という表現に凝縮されていると思うと、とても惹かれました。ただ、花火の音によって、記憶されてしまったその映像に伴っているのは「僕の絶叫」であって、この絶叫がどうして生まれたかの詳細はわかりません。  そして、「お姉さん」が誰なのかも読み手にはわかりませんが、僕がお姉さんと呼んでいた人物がいたという過去があったのは確かなのでしょう。そして、単に「僕はお姉さんが好きだった」という短絡的な表現ではなく、「僕のことを呼ぶ『君』というその呼び方が僕は本当に好き」というのは、映像でありつつも、やはり、音の記憶なのです。花火の音、僕の絶叫が語り手の記憶である映像に付き物であるように、お姉さんとの記憶も僕への呼びかけという音が付き物なのです。  彼女はある本を貸してくれたのですが、僕はその本の物語を蔑みながらも、その物語のプロットを借りて、彼女に打ち抜いて欲しかったと願っています。それは「撃ち抜く」という音と同時に、読み手に花火の音を想起させます。思えば、花火は音だけでなく、その響きによって、体の振動を生んでおり、それが「内臓の粘膜を低音で揺さぶる」と描かれています。その響きによる振動がまるで、語り手の体が裂けてしまう衝動を感じさせており、花火の音/記憶というのは、語り手にとって振動で避けてしまうような痛みを伴うものであるからこそ、これが「自傷」であるのだと納得させられます。  一見ばらばらのような映像というのが、必然的に結び付けられていき、作品内における場面の選択の必然性というものを感じられ、そういう点で全く無駄がない完成度を感じました。それに、何とも言えない、この切なさが、読み手である僕はとてつもなく愛おしく感じました。 (ストロボ)

2018-09-02

 「目前」という言葉を日常でも使うことがありますが、きちんとその字面を目にすると、「目の前」という距離感を表す言葉になっています。けれど、この作品では、「その目を前に」しているので、「(自らの)目の前」ではなく、「(相手の)目を前に」しているのであって、その些細な言い換えが何とも面白いものです。その空間的近さ/短さというものと、時間的な遠さ/長さを表す「数時間過ごしてもいい」というギャップへの戸惑いが示されているのでしょう。気にしなくても生きていけることをついつい気にしてしまうと、それにとらわれてしまうような、そんな感覚を覚えます。  「得心したい心」という、まるで「頭痛が痛い」のようなダブった表現もとらえどころが鋭いような気がします。血液の中では赤血球が酸素を運んでいる、という知識としては何となく知っていることを背景として、語り手の血には、言葉が流れています。酸素≒「空気」は、誰かに呼吸されることで血をめぐることができるのですが、「血が変わった夜」というのは、その流れる「空気」が誰かのもとを離れ、また新たな誰かの血の中を流れているような転換が示されています。この循環への目のつけどころも鋭いでしょう。  「目前」「数時間」という時間的/空間的キーワードから「再び振り返るとき」に語り手に見えるものはなんであったのでしょうか。それは、「空気」が流れる/従う体を変えるように、影が入れ替わっているような情景です。影は主に従うものであり、まさに従としての存在でしかなく、その空間的イメージから「後ろめたさ」という言葉/感情を導きだされたことに必然性を感じます。  作品外に話を敷衍すると、街灯に群れる羽虫を想起させられました。その羽虫のイメージと「弱虫」というキーワードが結びついて、不自然さを感じさせず、まさにあの羽虫もまた街灯という主にまとわりつく従の存在であるのではないかと。ただ、「後ろめたさ」という従が「ついにはじけて」しまったことが、影を弱虫という存在へと変換させるのであって、本来、主に光があたることで従である影が存在しうるのですが、この作品における展開は、影に光をあてるという矛盾した行為をすることによって「弱虫」という存在が浮かび上がるのです。  個人的な感想ですが、最終行は「ただの弱虫」と終わってしまってよかったのかと思います。それはなぜかと言えば、一つの結論が導き出されているからです。それは仮の結論なのかもしれないですが、このように一つの答え/形を示してしまうことで、イメージの像が収斂してしまい、作品が閉じてしまうからです。この最終行に至るまでの過程は無論目の付け所が鋭いものであるのですが、余白を持たせるという意味で、この弱虫が行く先を明示ではなく、暗示させる何かが欲しいと、読み手の勝手な傲慢であります。 (お話)

2018-09-03

澤さん、渡辺さん 澤さんの疑問に対する渡辺さんの回答が正直よくわからなかった。 簡潔に言えば、澤さんは現状維持でよいという理由を述べ、 渡辺さんは違う手段を持ち出してまで、制度を変えようと。 制度を変えることの理由として 「自作品の上位入賞を得よう/自推薦作品を上位入賞させようという向上心を詩人にも持ち、それを成す為に行動してほしい。」などなどと理由がいろいろとあるのですが、 そもそもフルキュレーション書いている人は、全ての作品に目を通したうえで、そのキュレーターなりの判断及び執筆という作業を経ているので、そういう向上心を多少なりとも持っている人たちであると僕は思っています。無論、内容や分量に差があり、それすらに優劣をつけたい人もいるかもしれないですが、そもそもその作業をしただけであっても、賞賛に値するのではないかと。そのため、その上で順位とか優劣だとかつける意味が僕にはわからない。 選評の中でたまに「この作品は他の人が推すだろうから、私は推さなかった」という言説を目にすることがありますが、僕は逆で「この作品は他の人が推さないだろうが、僕は推したいんだ」という気持ちがあります。どうでもいいですね。 言い方は悪いですが、大賞候補に順位付けする意味を感じませんでした。フルキュレーションという作業を経た上で選ばれた以上、フルキュレーションというキュレーターの行為がどういったものであるかが軽んじられていると感じました。 落とすとか順位付けよりも、いかにフルキュレーションする人を増やすか、しいては、読む/読める人を増やすかとか、大賞候補の投票数を増やせるか、とか、そっちを考える方が有意義だなあ、とか。 行動案がどうとかって言われそうですが、「読む/読める人を増やすか」については、近いうちに動くので。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

ふじりゅうさん 「子であることをやめる方法」はない、という結論はわかりきっているのですが、わかりきっているからこそ、聞いてみたかったのでしょう。それよりも僕は、正直にベッドから落ちずに寝る方法を本気で知りたいです。 僕の作品はどれも背景にあることを全て語らないので、絶対に伝わらない部分があるという無責任さが伴っていて、申し訳ないのですが、それでも、なんとなくでも伝わるものがあったのなら万々歳です。 エイクピアさん 僕は当たり前すぎることだけど、忘れがちなことを書きたいんですね。 大層な思想は僕になく、僕の記憶の中で確実に出会ったはずである者に対して、相手が忘れようとも常に覚えていたい、その記録として作品を書いている気がします。正直、生きること自体何不自由ないのですが、僕にとっての苦しみとは、会いたい人に会えないことですね。 (募集中)

2018-10-17

杜 琴乃さん ベビーベッドの話も納得ですが、それが明かされなかったとしても、このコメント自体が一つの作品としてすごい好きでした。 この作品、文体も僕に似ているような気がして、久々に、理由なき好きなものと出会えた感覚です、ありがとうございます。 確かに、柵をつくれば落ちないのかもしれないですね。最近、落ちることはなくなりましたが、夢をいっぱい見るようになりました。 鬱海さん ありがとうございます。 なんだろう、視点とか場所を一定にせずにぶらしているので、混乱/分裂と言った感覚を呼び起こすのかもしれません。 僕を構成するのは、あくまでも他者であって、そのような他者の言葉が僕の中で生きているような、そんなことを日々考えています。 あくまでも、個人的な体験ばかり書いているのですが、それでも、読者が入り込む余地があるようにするにはどうしたらいいかは考えていますが、いまだに答えは出ず、これからも考え続けます。 (募集中)

2018-10-28

じゅうさん 正直なところ、僕自身も難解で言わんとするところがよくわかりませんが、こういう風な詩を書こうと思って書こうとしたんだと思います。ありがとうございます。 (俯瞰)

2018-11-03

こうだたけみさん イラレ、僕も遊びで弄ったことある程度で、なるほどなあ、ということで「視点の切り替えがおもしろい」と言っていただけましたが、こうださんもこの作品の「ぐるぐる」のように、ぐるぐるしていただいて、イラレの話からうまくアウトラインの話へとぐるぐるしていただいたなあ、と思っています。 というよりも、「話者の生活のアウトライン」が浮かび上がる、という指摘が、すごくよくて、僕たちの日常でも、目の前にいる相手と四六時中時間を共にしているわけではないので、会話とかから、その人そのものを想像する時、会話もまたアウトラインでしかないんだなあ、と思うんです。それが悪いってことじゃなくて、むしろ、それって、日常的なことなんだなあ、って。で、この作品、僕も読解できないですし、いろんな出来事が散りばめられて書かれてあるので、まさに、アウトラインというか、本質は掴めない。その掴めない感じがぐるぐるぐるぐるってものに昇華されてるのかなあ、と。 どっちかと言うと、僕がぐるぐるしているというより、誰かに書かれてしまったぐるぐるを見てしまったという感じな気がしますが、やっぱり、ぐるぐるしていまありがとうぐるぐござるぐるいまぐるぐしたる。 (俯瞰)

2018-11-14

みうらさん 何かしら考えるきっかけになったらば、よかったです。 「作品を読むに用いる為の詩論の有無が問われる」と書いては頂いたのですが、詩論を勉強しておきながらも、詩論なんてなくてもいいと思っています。 その実践として、ある意味あの選評があって、あの選評は詩論を使っておらず(使っていないという基準は、批評用語に還元していないという意)、作品の言葉だけを繋ぎ合わせています。 そこで喚起されたのが「名詞」の持つ働きについてであって、「名詞」は詩論でも何でもなく、日常にありふれたものです。 たとえば、一つの作品について、いろいろな批評用語、というか、主題を取り出すことができると思うんですね。今回は「名詞」でしたが、「記憶」「フェミニズム」「時間」「家族」「数学」「インターネット」「外国」「故郷」などなど。無論、一つの作品について、これらのどれが適しているのかと、吟味する余地はあるのですが、要は、批評用語というのは、単なる光源でしかなくて、主役はそれぞれの「作品」にあり、選評という光をどの角度からどのように照らすのか、ということにあると思っています。 「名詞」については、詩を書き始めてから何年間も問題意識として持っています。単に好き嫌いで選評を書くのもいいと思うのですが、あなたは、どうやって光をあてているのか、と、他の選評を書いた人に問いたいですね。 (10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―)

2018-11-12

ゼンメツさん 僕もまたゼンメツさんの作品の熱心な読者であります。それを示すために選評を書いているようなもので。 書いてあることは、僕宛に書かれたものですが、ぜひ、他の方にも読んでもらいたいようなことで、この駄文をきちんと読んでいただいたんだなあ、と感じました。僕が特に補足とかする必要もないですね。音楽話の例えとか、まさにその通りで。 固有名詞が「情報の「密度」を上げることができるのだ」とか、そのとおりで。 「普通名詞、固有名詞の選択は、僕も基本は読み手との距離感を操作するために選んでいる。近づけるだけではなく、もちろん意図的に遠ざけることもよくする」というのも、ほんとうに、そのとおりで。 この2点は、ありとあらゆる書き手/読み手の方に知っていただきたい。 僕はゼンメツさんの歴史を知らないし、ネットで読む作品以外のゼンメツさんについて何も知らない。それに、ゼンメツさんの作品に登場することもできない。それでも、ゼンメツさんの作品を知ることで、ゼンメツさんという人物を知ることができる。 パウル・ツェランが講演会で「詩は投壜通信だ」と述べた話を、僕はあちらこちらで紹介し続けているんですが、これに100%同意しながらも、この意味をずっと問い続けています。ゼンメツさんが述べた「狭い作品」と繋がる気がして。僕も個人的な実体験をそのまま作品に書いていることが多くて、同じ経験をした人って僕以外にいないと思っています。それでも、それを作品にして、投稿し続けているのも、どこか、この生きている世界で、偶然、興味本位で瓶/作品を拾ってくれた人が、何か思って/考えてくれたらいいなあ、と。瓶を拾ってくれるってだけで幸せだし、もしかしたら、その後はまたすぐに海に投げたり、捨てたりするかもしれないけれど、瓶の中身に入れといた作品を持ち帰ってくれたらいいなあ、と思うけれど、僕ができるのは、瓶を投げるだけで、その後、中に入っていた作品がどうなるかは、投げるまでわからない。 でも、瓶を投げるだけじゃなくて、どこか、偶然にして、僕が流れてきた瓶を拾うことはできる。その中に入っていた手紙、誰が書いたかもしれないその手紙を、誰にも知らず持ち帰って、ふとした時に家で読み返すことはできるなあ、と。それで、たまたま拾ったその手紙が僕宛ではなかったとしても、その手紙にこんなことが書かれていて、ここがよかったんだよ、って、広めることはできると思うんです。 つまり、まとめますと、僕は瓶/作品を投げても世界が変わるとは思っちゃいないけど、誰かが投げた瓶を僕が拾って僕の世界が変わることはあるし、それを広めることはできる。それが選評なんだと思います。 (10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―)

2018-11-12

仲程さん ありがとうございます、おそれおおいです。 率直に言えば、僕は仲程さんの作品のファンです。というのも、僕は、生まれてから引っ越したことが全くないですが、旅行する経験が多くあり、旅行する度に、その土地に住んでいる人の暮らしというものが気になってしょうがなくなってしまいます。それが、金沢だったり、沖縄だったり、僕にとって、遠い土地であるものの、身近な土地が多く登場してきます。今は、沖縄の風俗街のルポルタージュ本を夜な夜な読んでおり、沖縄という土地について深く考えています。(20回ぐらいだけ、行ったことあります…) それはさておき、僕も見直したら、ミシガン・レリックスに確かに書いていましたね…、失念していました。これらの問いだったり、キーワードというのは、僕が普段から考えていることではありますが、詩を書きながら、大袈裟に言えば、生きていながらも、ずっと考えてきていることです。 ぜひ、僕は皆様の意見も賜りたく、勝手にキーワードを用いました。 これからも作品を楽しみにしております。 (10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―)

2018-11-14

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