10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か― - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

パパの日曜日

しがない日常に飽きてしまったすべての人へ

ごく平凡な日曜日のパパが、壮大で絢爛豪華な世界へ旅立つ——

沙一

「中央公園より」

わかりあえなくたっていい

人種、国籍、性別、年齢、人間同士のわかりあえないディスタンス、そんなことよりも、おたがいに笑っていよう、ここはみんなの公園だから——

沙一

わたしの髪は生きているのか……

心を亡くしてしまいそうなときに

ささやかなお洒落をたのしむ、それは自分が自分であることをわすれないために、ひつようだったのかもしれない——

沙一

angel coffee?……

一瞬と、永遠

幸せなコーヒーと、降りやまない雨、好きな人といるとき、あなたならどちらを選びたいですか?

沙一

食べ物と死ぬ人

目が付いているうちに読みたまえ諸君

傑作。 目が付いているうちに読みたまえ、諸君。他に言うべきことはない。

石村利勝

別れ

余りにも挑戦的、だがそれがいい

数ある一行詩の中でも、想像力/表現力がとても高い作品。最初は(え、これだけ?)と感じることだろう。しかし、これだけ?からの作中世界の広がり方は、これだけ?発言が恥ずかしくなるほど広すぎるのだ。

ふじりゅう

ママンへ

散り際にも見えるママンの後ろ姿

無駄なくそつなく、それでいて大胆にママンに語りかける。「ママンへ」あなたはこの書き出しで何を思い、連ねますか?

stereotype2085

名残の雪

美しいと思える作品だった

美しい空間を、踏む。踏むことで、汚す。踏むことで汚す、明示のされない寂しさ。本作にとって、雪を踏む行為、それだけが個の存在の証明なのだ。

ふじりゅう

例えば鳥の教え

色が付いたばかりの映画のように

情景の転調あるいは繋がりが「色彩」を基調にして、境界をあいまいにしながら広がる。

鈴木歯車

おかあさん

史上最強のタイトル回収

本文たったの6行、造作もなく読み切れ、詩人よ。 そして再度タイトルを見返し驚愕せよ、詩人よ。

name

空なんか見てんじゃないよ

淘汰

この詩はあるタイプの詩と詩人を淘汰するべく書かれている と言えば言い過ぎか。 要注目。

stereotype2085

はずしわすれた風鈴が鳴る

やさしくせつない短歌集

かたづけられない想い出、それでもめぐりくる季節——

沙一

春風に吹かれてる

だいじょうぶだあ

《なんてこたあ ないんだよ》 天国から呼びかける声が、聴こえる。

stereotype2085

永遠の反射

名作?それともただの習作?

ただの習作なのかもしれない。が、ここには作者当人も気付いていないかもしれない、天才がいる。俺の直観は当たるんだよ。人生で二回くらいは。

石村利勝

こんにちは まっさらな世界

「まっさら」の優れた表現

あなたの世界も「まっさら」ではないかな? 「まっさら」なのに、書けますか?

yasu.na

imagine

パンチング。

今からリーディング界隈を、ノックアウト。

stereotype2085

はっかといちご

詩における視覚要素の決定版

いわゆる視覚詩的なものは作ろうとするとパッと見の奇抜さで満足してしまい、それを行った理由に乏しくなってしまうことが往々にある。しかし「はっかといちご」はその域を超え、結晶の造形だからそこの効果を成せている。

渡辺八畳

独言少女

いつも終電に間に合う人生生きてますか

少女の独言は胸に刺さる。というか萌える。条件があって、少女は本当に少女でなくてはならず独言は本当に独言でなくてはならない。なのでこの詩は刺さるし萌える。

石村利勝

MY 9090 OF NO……

最先端ノスタルジア

なつかしみが 超えてゆく 未来という名のノスタルジイ 

真清水るる

骸骨スフィア

プラトニックな求愛の舞踏

ほろびたゆえに、もうほろびることのない、永遠の愛。それは、幸せか、囚われか——

沙一

人魚性

海、たましいの故郷

素直さゆえに、なじめない人間のせかいにたいする、異邦のかんかく——

沙一

宇宙飛行士の解剖

死因は、孤独

二重の夜に、追い詰められた、かれは、涯のない闇のなか、吊るされた——

沙一

家庭の檄文

悲運

そこには笑顔の絶えない、家庭があった。

stereotype2085

あす

ミのシャープはファ

「ミのシャープ/響かせる笹舟にのせて/送り出してみる」って、やりますねえ。ひねりが利いてて鮮やか軽やか、清新なリリシズム。これぞ令和の”もののあはれ”じゃないですか?

石村利勝

バナナはおやつに入りますか

たもつワールド全開

これはバナナですか いいえ詩です たもつザ・ワールドです

羽田恭

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10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―    

0.はじめに  大して誰にも読まれないだろう選評を書き続けて、早何ヶ月。もちろんひねくれもあるわけだが、読まれないだろうなどと言ってしまう理由については、自分なりにわかっているつもりだ。それでも、なぜ選評を書き続けるのか。それについては、いまだによくわかっていない。  それに伴って、どういう時に詩を読んでいるか、もしくは、読みたくなるか。これもよくわからない。仕事中の昼休みには、毎日のように詩の雑誌を読んでいるが、単なる暇つぶしなのだろうか。  毎度毎度、選評の頭には、このような疑問を読み手に投げているつもりだが、返ってきたためしがない。それでも、投げ続けているのはなぜか。  そのようにして、常に、なぜか、を繰り返し問い続けることで何かわかったことがあるわけではないけれど、きっと意味があるのだろうと信じてしまっているから、問い続けている。  それと同時に、詩を書く/読む意味について、いまだにわからないからこそ、続けているんだろうと思う。読めば読むほどにわからなくなっていく詩。きっとわかりたくて読んでいるはずなのに、遠ざかっていく。  皆さんは、何で詩を書いているんですか?読んでいるんですか?暫定的な答えが返ってきたとしても、僕は問い続けます。  さて、選評を書くにあたっては、単に好きな作品を並べればいいというわけではないと思っている。その都度その都度、ある程度の一貫性を持たせることによって、読み手に届けやすくなるものがあるのではないか。その実践として「他者の視線を借りる」とか、「記憶にまつわるお話」とか、それなりに、注目したポイントについて明記してきたつもりだが、どうだろうか。  今回は「名詞」について、考えたくなった。  以前は「きみ」という代名詞の使われた詩が嫌いであった。その「きみ」という存在は、作者/語り手のみ知る存在であって、読み手がその「きみ」に参与できるわけではないし、作者/語り手以上に知ることができないからだ。それでも、段々と考えは変わってきていて、むしろ僕が「きみ」という代名詞を作品に用いるようになった。閉じた二人称の関係こそ、姿の見える/見えない語り手にとって身近な存在ではあるが、その存在をいかに読み手に届けたらいいかと、これこそ技量や計算が問われるものであると今では思うようになった。それでもやはり、安易に「きみ」という二人称は用いることができない。閉じた世界は、語り手だけの世界であり、読み手という他者を介在させる必要が本来はない。  それと同時に「固有名詞」についても、作品内でどのように用いるかということを常に問い続けている。宇宙、星、光、青、空、など詩に用いられがちな一般名詞は、用いるだけ詩を詩らしく彩ることができるが、固有名詞は作中世界を現実的なものとして感じさせてしまう。その代表例が地名だ。    1.スクランブル交差点にある白線を渡るとき、鳥の気持ちを知りたくなる  2.渋谷の人ごみに紛れていると、空を飛びたくなる この1と2は、意味/内容が異なっているものではあるが、「渋谷」という地名を使うだけで、そのイメージを読み手の中に強く呼び起こさせるものだ。この地名においても、読者の見聞や体験に因るものが大きく、作者は言わばギャンブルのようにして、詩の中で地名を用いることができる。そこから喚起されるものは、読み手次第であるからだ。ましてや、それが行ったことのない地であった時、単に「知らない」とやり過ごしては、せっかくの作品が台無しである。これは、読み手の責任/無責任、作品と向き合う態度にも因ってしまう。  そのようにして、作品内において名詞がどのような働きをもっているのか。これだけに注目して全ての作品を読んだとしても、見えてくるものがあるのではないだろうか。ぜひ、読み方の一つとして用いて欲しい。 1.選評 (1)推薦 完備「ill-defined」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2511  虹彩へ積もる雪は、果たして十分に積もることができるのだろうか。それでも、語り手は、十分に積もるまでは待つつもりだという。もしかしたら、永遠に十分に積もることがないかもしれないけれど、待つつもりだという覚悟。そして、降り積もった後に起きたのは、「それからふたりで」と発語したことによって名前が失われる。この失われた名前は、既に失われた後であったために、きっと具体的な名前が記されていないのだろう。あくまでも一般名詞としての「名前と名前」が失われたという。  次に、語り手は、虹彩に降り積もった雪と涙を区別しようとする。虹彩は眼が持つ機能を支える器官であって、目の前にある風景を視神経に届け、風景を風景として認識するための支えをしている。ここでの「画面」や「電子」というのは、言わば風景として認識された単なる情報としての風景を指しているのだろう。  虹彩に積もった雪をそのまま残そうとしても、虹彩は次の風景を視神経に届けてしまう。風景は常に移り行くもので、虹彩に積もった雪もまた留まることができないために、虹彩が次々と運ぶ風景によって溶かされてしまう。そして、移り行く風景がまた流麗する電子を思わせ、その行く先は(視)神経であり、風景もまた単なる色の点の集合体、つまりは、情報でしかないのだが、その神経が「いびつな線路」となる。その線路を渡るために「ふたりはふたりぶんの切符を買う」のだが、ふたりは、その奥の世界を見たいという欲望ではなく、「切符」という音のうつくしさを理由のすべてとしている。「切符」というのは、線路の奥を見るための道具、そうした意味/内容への興味ではなく、あくまでも、音というこれもまた情報でしかない。風景が色の点の集合体であると同時に、言葉もまた意味/内容ではなく、音の集合体でしかない。  思えば、名前が意味をもつのは何でであろうか。名前、という言葉は一般名詞だが、日常的には、固有名詞としての意味を持つ。無論、同姓同名の方もいるため、名前が個性の全てを表すわけではないが、それでも「名は体を表す」という言葉があるように、名詞=音の集合体とその意味/内容との関連性については、切っても切り離せない関係なのかもしれない。  虹彩は次々に風景を情報として主体に届けてしまう。そのようなあらゆるまぼろしをきっと記録として残すためであろうか、画用紙に描き留めようとするのだが、その記録さえもまぼろしであるという無情/無常。  名前は、固有名詞としての機能を失われてしまったが、それでも、単なる音の集合体=言葉が意味/内容を指示することは放棄されていない。「秋だねと発話した瞬間に今年の雪が見えるから」と、まだ見ていない未来の風景が喚起されることが描かれている。虹彩に降り積もる雪が、「画面」によって溶けてしまうならば、再生すればよい。今見ている風景は移り変わり、かつて見た風景へと成っていくが、かつて見た風景を再生すればよい。そうだ、名詞、強いては、言葉はその再生という機能を持つ。ラブソングを歌おうにも、その歌っている瞬間はすぐに過ぎ去っていく。それならば、繰り返し繰り返し「何度でも/何度でも歌おうと」しているその姿は、言葉による再生の姿を描いている。たとえ、そのラブソングを響かせる喉がまぼろしだったとしても、「まぼろしの喉」という存在が見えなかったとしても、その存在が「まぼろしの喉」という文字/言葉によって、読み手にその存在が再生されるのではないだろうか。「まぼろしの喉」は、まぼろしであるから視覚的に捉えることができないかもしれないが、文字にしたことによって、名辞化されており、少なくとも文字として、確固としてここに存在している。 なつめ「アソート Ⅰ」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2375  アソートと聞いて想起されるのは、お菓子の詰め合わせ。その詰め合わせは種類がいろいろあるがゆえに、どうしても好き嫌いの程度の違いというのが出てしまう。それは単に、好みでしかないのだが、それでも、利点はあって、その好みの違いがあるからこそ、大人数で食するのに適している。そのようにして、この作品を楽しむことができるのではないだろうか。  全ての作品は、縦の運動が基盤となっている。  「青」では、「水面」がどこの水面なのか、「世界」はどの世界のことなのか、「優しさ」とは何であるかなど、描写が不足していると思われる言葉もあるが、その分、読み手は好きに映像を思い浮かべることができる。「放物線」という一般名詞は、言わば淡々とした表現で日常会話としてあまり用いられない言葉だが、この世界観の中だからこそこの「放物線」という言葉が浮き上がって強調されており、この語によって次の作品へと上手く繋がっている。  「えびせん」における「弓形にしなった背」とさきほどの「放物線」は、指示している対象が別のものであろうが、それでも、イメージが共有されており、導入として読み手は苦戦することがない。「えびせん」そのものを描いているのではなく、何かの暗喩(メタファー)として一般的にイメージを喚起しやすい「えびせん」という語が選ばれたのだろう。「滲んだ太陽は/塩辛そうで/なんだかぱりっ、と/していた」ので、ぱりっ、としていた主語は、太陽である。この、太陽がぱりっとしているというものの見方が新鮮で、太陽も物質である以上、薄さがあるはずなのだが、その薄さについて想像したことなどなかった。  「▼」は、暗喩(メタファー)として捉えようとすると、きっとドツボにはまる。これは何かの代替ではなく、▼は▼でしかなく、暗喩ではない。だからこそ、▼がどういうものであるか、ということを、どのように使われるか、どのように見られているか、ということを描くことによって定義づけている。▼は、人々に喜ばれ、演技がよく、ブームになったという性質を持っている。このことは確かなのだ。  そして、▼と違う▲も降るのだが、それは図形の違いだけでなく、使われ方の違いによって、その違いを露わにしている。がっかりしてしまうもの。それでも、「私」は▲とうまく付き合おうとする姿。これは比喩でもなんでもなく、確かなことなのだ。  「寝坊助」では、画家が登場する。この画家がどこで生まれて、どうして画家になったのかはわからないが、確かなのは、羊の群れが虹のカケラになるのを数百年描き続けた画家であるということだ。「それはまだ君が/眠いだけ、ってこと」と、何だかやり過ごされる感が否めないが、こうした理由付けによって許されてしまうこともあるのだろう。あの画家が幻想的な風景を描き続けるということも、「眠いだけ」だからと言われてしまえば、そうなのかもしれない。  「雨」では、綺麗な種、という存在がもたらす、言わば惨劇が滑稽である。私たちが日常的に目にする雨が、笑顔のオッサンの涙だったとしたら、何とも言えない気持ちになるのだが、それを否定することはできない。雨が降り始めるその起源を見たことがないからだ。それでも、そんな些細なことに頭を悩まさずに、自らは自らで太平洋へと行こうと次を見据える健気さが滑稽なものを滑稽なものとして活かしている。  「ギフト」では、まるで蜘蛛が犠牲者になってしまったかのように描かれている。ここで、全篇を通して思うことは、空にまつわる物質が様々に描かれていたのだが、空は遠いからこそわからないこともあり、それと同時に、憧憬を抱くことができる。それは希望だと安易には言えないのだが、空を目で認識することはできても、そこに何があるかは本当に知ることができない。だからこそ、そこに様々なこと/ものを想像で描くことができる。そうすることによって、遠い存在であったはずの空があたかも近い存在であるかのように感じることができるようになり、蜘蛛が「空の彼方に行ってしまった」というのも、物理的には不可能であるはずのことが、むしろ、まるで空が地上と一体化したかのようなことが起き得るからこそ、想像できる風景なのだろうと。   北村灰色「804号室の酸素室」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2462  北村作品における、現在に対して過信をしないという態度については先月の選評でもふれたとおり(https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2396)だが、その態度はこの作品でも貫かれているだろう。  「何時か」や「何処か」という、「いま・ここ」にいるはずの「私」の立ち位置に対する疑いから始まりつつも、「Am5:00」や「804号室」と、疑いながらも語り手にとって明確になっていることを語っている。「奇数の道化師」と「偶数の変死体」が対比するように並んでおり、あくまで私見であるが、奇数はきりのわるい数字、偶数はきりのいい数字という印象があり、それでも、奇数に対しては生者、偶数に対しては死者が置かれている。語り手のいる世界というのは、作者が設定した舞台であり、作者はいかようにも作者及び作中の登場人物を配置することができるのであり、「何時か」や「何処か」を明確にすることができるはずだが、それでも、わからないものをわからないままに描くという作者の姿勢が、先述した現在に対する過信をしないという態度につながってくる。また、「罅割れた鏡」や「刃毀れしたダガーナイフ」など、完成された物ではないものが列挙されており、言わば変死体もまた人として欠けた存在であることに気づく。  「私」は「ワタシ」と共にいることで、私にとって一番身近な存在であるはずの「私」という存在への疑い。また、「目が覚めたような気がした」に続く「モーニングを食べたようなきがした」というのは、感覚として朝の訪れを感じてはいるものの、それが朝であるかの確信は得られないままに、朝するべきであろう行為/振る舞いを保とうとしている。「祈りは内臓と思考に悪循環に齎す」の祈りが指すのは、「スコッチ・スコッチ/Vodka」という前行につながっている。その後「WCに駆け込んで」作り笑いを浮かべている、その様子が前段の「道化師」につながっている。  北村作品におけるモチーフというのは、非日常的なモチーフが使われることが多く、読み手がその指示する意味や内容を捉え難い部分があるが、乱暴に作中で使われているだけでなく、詩行と詩行をつなぎあわせ、先を読むことによって前段の行の意味や内容を思い浮かべることができる。  そして、鏡を見ることによって「私」は「私/ワタシ」を見て、気づいたことがある。「そう、右目から流れるインクも/左目から流れる動脈血も変色していない!」と。なぜ、右目と左目から流れるものが異なるのかと考えても、その答えを導くことはできないが、改めて考えてみると、人間の体はそもそも線対称になっていない。鏡で「私」をよく見ると、目の開き具合や角度、肩の位置、腕の太さなど、歪なものである。そもそも体が左右対称ではなく、一説によると右脳と左脳が持つ働きも違うというのだから、右目と左目から流れ出てくるのが違うものであったとしても、起こりうることではないかと思わされる。  「誰も気づかない803号室」というのは、本当に誰も気づかない存在というのは、本来描くことはできない。その対象を認識しなければ、その対象について描くことができないからだ。「誰も気づかない」というのは、反語になっており、実はこの作品を書いた作者がこの「803号室」という存在に気づいており、そして、このように書いて作品にすることで、読み手もまた「803号室」の存在に気づくことができる。そして、なぜ誰も気づかない空間を描きたかったのかと言えば、「悲鳴とジェシカを隠してくれればいいな」と、誰も気づかないように隠したかったものがあるからだ。ただ、「ジェシカが誰なのかを僕は知らない」でいるけれども、その存在について誰であるかを確信しないままに、ただ隠してしまいたい存在があるということは伝わってくる。  続いて視点が変わり、「未来を糾弾する異教徒」は赤に溺れても、その赤と対比するように「蒼白な表情」を浮かべており、目で見ている対象と見ている存在が対照的になっている。蒼白な表情になっているのは、「クレープの端を冷凍することに/苦心に苦行を重ねていた」からであり、なぜ、その些細なことにとらわれていたのかの理由はわからないが、とにかくそのような行為にとらわれていたことはわかる。そして、クレープの端が冷凍されることで鋭利さを得ることで、冒頭のダガーナイフの代わりを担おうとさせているのだろうか。だが、きっと赤が飛び散るであろう「あの子の心臓が切開される」という場面よりも、グッピーが捌かれる瞬間の方が美しいという「僕」の想いは、プリンアラモードだけを一心不乱に食べるという行為でやり過ごそうとしているのか。  行為や存在の理由は、ことごとく説明されることが拒まれているのだが、ただただ結果としての行為やそこに何かが存在しているということだけが描かれている。  北村作品を読み解く術は、現在に対する過信をしないこと、また、記憶という問題と結びついているように思われ、「ダブルベットの下のクレイモアの記憶」というように明示もされているが、それはまた語り手だけにおける記憶ではなく、この詩行を読んだ読み手もまた冒頭にあった「ダブルベッドの下を這いまわる/化粧と髪と刃毀れしたダガーナイフ」という詩行を読んだ記憶を呼び起こさせる。紅いハイヒールの「痕」やWHISKEYの「残り香」など、やはり、今現在目の前にあるものではなく、その痕跡を描くということ。それは、実物を提示することができない以上、それが存在していたことを証明はできないが、それでも、描かざるをえなかった契機があるのだろう。そして、最後の「愛と憎しみに充ちたブラッディ・マリーをオレンジ・ブロッサム邸に仕掛けたい」と書き込むのは、「私」という存在の痕跡を残すということにつながる。  白磁の11月は奇数、12ダースのチョコレートは偶数であるが、11月にしても過ぎ去っていくものであり、溶けたチョコレートはその原型を留めていない。いずれにしても、かつてあったものであり、だからこそ、「作品」という形に留めておくことによって、その存在を読み手は認識することができるようになるのだ。 ふじりゅう「『藤井龍平の肉迫』より。」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2481  作品内においては、3層に分かれている。  冒頭から終盤までの に括られた部分は、「彼」の長い長い話であり、中盤の「 」に括られた部分は「彼」のとある作品そのものであり、 以降の地の文は、その「彼」の話を聞いていた語り手による語りである。つまりは、 内の「私」は「彼」のことであり、まるで漱石の『こころ』にある「先生」の過去を語るパートのようなものだ。  認められたい、名誉が欲しいという欲に溺れてしまった「彼」の独白を語り手は聞かされ、それによってコメントしたのもまた「私の作品を認めさせるため」であるという。詩が単なるツールになってしまっていることは明示されているとおりであるが、では、そのきっかけは何であったのか。それは、ある投稿掲示板において「優良」という破格の扱いを受けてしまったことである。この「優良」という評価に対して、「彼」は「破格の扱い」ととらえていたため、それが身の丈に合わない評価であったことと多少なりとも自覚していたことを伺わせるのだが、その「破格の扱い」を目的としたために、詩が手段(ツール)になってしまったのだろう。  そして、更に遡れば、詩が手段と成り下がる以前において、「彼」は一体何を目的として詩を書いていたのかも明示されている。それは「ある一葉の詩を見て、初めて憧れに似た感覚を忘れられず、ただ純粋に、ただ執拗に近づくことを願ったあの頃の私は誰がなんと言おうと確かに詩人であった。//忘れられない、詩があった。」と、先述してある。  おそらく多くの読み手は、後述される名誉とか、認められたいとかのパートにおける印象が強いため、この作品の主眼がそこにあると思ってしまうかもしれないが、何気なく書かれたこの部分こそ、主眼に置かなくてはならないのではないだろうか。このような「原体験」は、この「彼」だけに通じず、形は違えどおそらく多くの読み手にもある体験であろう。そのフィールドがどこであろうと、「忘れられない、詩があった」という体験によって、「彼」は詩を追い求めていた姿を「彼」と同様に、読み手自身も忘れてはならないと思わされた。そして、私見だが、その詩が何であるかが非常に気になってしまった。  このような独白を聞かされた「私」が何を思ったか。それが結末に書かれてあるとおり、「私に、認めて欲しいだけ。/私に肉迫して欲しいだけ。」という想いに至っている。「彼」は、おそらく、ようやく「彼」の行いについて客観視できたことで、何をしてきたのかを独白したのだが、私は突き放している、ように見えるが、実はこれこそ、「彼」がしてきたことをそのままに受け止めている。「彼」は、詩をツールとして「認めて欲しい」と願っていたのだから、その話を聞いた「私」はその話に寄り添って「ああ、認めて欲しいんだな」と彼の欲望についての理解を示している。内容だけで見れば、冷淡であると思われるが、彼の欲望をそのままに受け止めている。その上で認めるかどうかについては、「私」または読み手自身に委ねられている。答えは留保であったとしても、先ずは一度相手が何を願っているのか、ということをとらえるために、話を聞くということ。聞いた話を、語るということ。「彼」の話が本当にどうでもよければ、語り手である「私」はわざわざこのように語らなかったのだろう。そして、この「私」もまた、「彼」が「私に肉迫して欲しいだけ」というように「彼」の話を受け取ったんだということを読み手に肉迫してきている。 (2)優良 カオティクルConverge!!貴音「仲直りの嵐」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2412  カオティクルさんと言えば、名前のとおり、カオティクルな作風が特徴的だが、(失礼な言い方になるが)意外にもおセンチものを書くのが上手い。かつて投稿された「名を変える鳥」に代表されるのだが、たとえ、これが創作だろうと偽物だったとしても、その創造主がいなければ生まれ得なかった作品である。そういう点で、おセンチものというのもカオティクルさんの本質の一面として忘れてはならない。  冒頭「雨傘」の擬人化から始まる。何気ない技術として、「マリリン・モンロー」という比喩が用いられているが、こういうありきたりな比喩というのは、意外と思いつかないもので、「マリリン・モンロー」と言えば、あのまくれ上がったスカートのイメージという読み手に与える情報がきちんと考えられている。起きていることは、傘が折れて、傘を投げ棄てて、独りで踊って、すぐ止めた、だけである。それに伴う、思考の流れへと語りは続く。「世界の汚れを吸った雲」という何気ない表現もまた、情報が凝縮されているのだが、その意を読み手が想像するのは難しい話ではない。地上で撒かれた大気ガスなどが空へと浮かび上がり、それが雲とまざり、雨となって汚れをそのまま地上にかえしていくようなイメージ。一連の流れには、押しつけがましい主張はなく、淡々と風景が伝わってくる。こうした何気ない表現は、カオティクル節より強烈なインパクトを残さないのだが、こうした表現こそ、技術が問われるのではないかと思える。アイロンで伸ばした髪がクルンと巻いてしまうのが嫌いだという。関係ないが、僕は軽い天パーなので状況がわかる。湿気がある日だと、髪のまとまりがわるいことわるいこと。雨が降ることで髪がクルンとなること、物事が因果関係をもってつながっている。  傘が壊れたことによって、語り手はきっと雨に濡れてしまっている。だからこそ、その冷たさを感じることができるし、「指先から体温が手離されてい」き、濡れた靴下は温いままになっている。それは確かに「気持ち悪い感じ」がするものだ。そして、嵐が来たからこそ、「蛙の唄」「カタツムリの轍」「鈴虫の鳴き声」もまた搔き消されてしまうのだが、きっとそこにあったはずだろう今はなき存在を想うこと。嵐によって傘も上記の痕も消えてしまったのだが、それでも、確固たる存在として「命が1つだけ野晒し」になっている語り手の存在がある。  ずぶ濡れになりながらも家を目指す語り手。「行けると思った勇気」というのは、嵐の状態を見て、これなら帰れると思った勇気のことだろうか。ただ、「張り巡らされた排水路」という眼に見えてくるものと語り手の感情を重ね合わせている。排水路は許容範囲を超え、水を溢れ出しているが、「私」は「多くの感情を前に、一体どれだけ受け止めて/どれだけ溢れさせて来てしまった事だろうか」という問いを自らに課す。この2行がこの詩におけるキーポイントと言えるだろう。「分からない、考えたけど考えられない」のは、嵐でずぶ濡れになっているからであり、先ずは家に辿り着くことが優先すべきことであるのだ。それでも、このような問いが生まれたのは、嵐が来たこと、そして、その嵐の中「行けると思った勇気」を持ったこと、さらに、排水路を目にしたからこそ、生まれた問いであり、この巡り合わせに必然性が感じられる。  家に辿り着く直前で、嵐は去り、晴れてしまう。それが「何だか損したような気持ち」になりながらも、「瑞瑞しい夕陽を見れたから良いのかも知れない」という前向きな感情。最後、「気のせい」と言いながらも、これまで書かれていなかったこと、つまり、読み手に与えていなかった情報を語り手は語りだす。「何だか、ちょっと喧嘩してしまった友達と会って喋りたいと思った」という素直な語り手の感情。「気のせい」と言いながらも、きっとおそらく大事な素直な感情なのだろう。なぜならば、この感情は嵐によって排水路に流れ、海へと流れ出なかった感情だからだ。語り手が嵐の中、雨に流されまいと持ち続けた感情である。「きっと嵐が持ち去って、海に流しただろうか」と語っているが、本当に海に流れていたら、「気のせい」だとしても、きっと思い出すことができなかった感情だ。この最終4行に関わる情報は、これ以外にわかることはなく、この前/後に何が起きた/起こるのかは、それこそ「ヨミテニタクス」ものである。  ぜひ、the pillowsの「Fool on the planet」をBGMにしながら、この詩を読み直して欲しい。 田中恭平「秋思」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2432  「聞きなれた歌が/懐かしい歌に変わるころ」というのは、現在を過去へと追いやることであり、それと同時に「明確に/きみと変わっていきたいと想った」と、変化を求める姿勢が提示されている。「マンネリズム」というのもまた、停滞した現在を思わされる言葉である。とにかく何かを変えたいと「動機すらなく走り出してみたい」ともある。  読み手には、語り手と「きみ」との関係性は提示されていない。そのため、例えば、夫婦なのか、恋人なのか、兄弟姉妹なのか、友達なのか、その関係性がわからないままに読み進めるしかないのだが、それでも、語り手は「いま・ここ」という状況を変えたいと願っている。ただ、「きみ」が果たしてどう思っているかはわからない。  「それは隠されている/のか/隠れているのか」の「それ」が指すのは、「かわいそうな小さなものたちの声」のことでよいのだろうか。それでも、「かわいそうな小さなものたち」が何を指しているのかもまた明示されていない。それでも「それ」はきっと、いつでも見られるものではなく、その存在があるということを知ってはいながらも、とらえることがなかなかできないものであろう。その後の詩行と組み合わせることにより、この「かわいそうな小さなものたちの声」がインターネット上に落とされているものではないかと思わされた。そのようにして、絶えず「かわいそうな小さなものたちの声」は更新され、日々生まれ続けるも、その生まれ続ける勢いに対して、「俺のダッシュは遅すぎる」のであり、何か変わっているだろう未来に向かえることができず、息を切らして「いま・ここ」に居続けることしかできない。  最後の散文パートは、語り手の気づき及び思索が語られている。ここにはもはや「きみ」も「かわいそうな小さなものたち」もいない。庭の茸が毒キノコではなかったこと、本は借りるもので買うものではなということ、カツサンドとホットコーヒーを昼食にして悪くない秋の一日を過ごしたこと、いつもの散歩コースを少しせいたスピードで歩いたこと、あたらしい自販機ができていたこと、お菓子が100円で買えること、グレープ・グミを噛んだことetc…、何でもない日常というのは、それに適した速さがある。きっと全速力で走り続けていると、このような日常は、風景として切り取ることが難しい。言葉遊びに気づき、それを自由律俳句にどう反映させるか思案しつつも、最後は「あなた」にメールを送っている。この「あなた」は冒頭の「きみ」と同一人物なのであろうか。その答えは読み手に明示されていないが、それでも、冒頭に描かれていた語り手の焦燥感というのは、もはや薄れており、読み手はきっと、終盤のゆったりとした速さを持った情景描写に安心感を覚えるだろう。  「いま・ここ」は絶えず、語り手に限らず、生きている人につきまとうものであり、そこから逃れることはできない。それならばと「いま・ここ」に何があるのかを、生きている人それぞれに適した速さで生きることによって、日常をとらえるということ。当たり前すぎることなのかもしれないが、これは、語り手が生きている速さを変えようとしたという試行があったからこそ、終盤のゆったりとした日常が安心感を覚えるものとして描かれているのではないだろうか。 ゼンメツ「傘泥棒」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2473  こんな体験してみたいなと思った、それだけ。  嘘です、きちんと書きます。(コメント欄にある改稿を読みました)  冒頭で示されているのは、この作品が回想によって書かれているという構造だ。「ほんの二日前のはなしだ」という前置きは、今は二日後であることを示している。  たまたま「湖畔のキャンプ地」で出会った二人。相手の出自などわからず、ただ単に同じ時間に、同じ場所にいたということだけで、二人は話をする。その中で彼女が「子供のころ傘泥棒と呼ばれていた」ことを告白する。だが、このことを深く追求する前に、彼女は「月のあかるい夜にはうちの浴槽にも小さな波ができるんだよ」と、湖に飛び込む。それに合わせて、「ぼく」も飛び込む。この時点で、「ぼく」は「彼女」にリード権を許している。それにしても彼女が言った「うちの浴槽」というのは、湖を指しているのだろうか。それならば、やはりこの場所自体が彼女のテリトリーであり、リード権は「彼女」にある。書き換えがあった「月暈をとりどりに染めあげた。」の部分については、「湖面越しの月を指さし」た「彼女」の行為をより活かすための書き換えであって、この「月暈」は無論、湖に反射している月のことを指しているのだろう。  表面に着目していた一連目から、視点は湖の中に移っていく。湖を泳ぐ魚。「ぼく」が気にしているのは、その魚の存在そのものよりも、その魚の存在についてどのように「彼女」に語ればいいのかということ。「ぼく」にとっての主眼は、魚にあるのではなく、魚を手段として「彼女」とどのようにコミュニケートすればよいのかということだ。彼女が持つコンテクストにも気遣い、「彼女が知っている魚とはサンマのことだと思う」という想いが生まれている。彼女が湖面にうつる月を指さしたように、「ぼく」はそれを真似るようにして「星のなまえ」を湖を使って解説してみるが、彼女は眠ってしまう。確かに、「星はだいたいみな同じかたちをしてい」るものだ。それでも、なぜあれらは、違う名前がつけられているのだろう、と読み手として勝手な問いが生まれてしまった。そのような問いに彼女は至ることもなく、眠ってしまったのだ。やることがなくなってしまった「ぼく」は、さっきまで現在目に見えているものと向き合っていたのだが、現在を鮮やかに見せてくれた「彼女」が眠ったことで、「彼女」が起きていた頃の時間、つまり、彼女と共に過ごしていた時間を思い出すかのように「さかなの味を思い出し」ている。  いつのまにか寝てしまっていたと同時に、いつのまにか雨が降っていた。その雨が降っていたという当たり前の出来事と「彼女」と過ごしたということを結び付けることで、雨にまつわる記憶に「彼女」との時間が加わる。そのことで「雨は少しだけ特別なものになる」ことができる。もともと傘を持ってきていなかっただけなのだが、雨が降っているのに傘がないというシチュエーションによって、「彼女」が「傘泥棒」と呼ばれていたことを思い出す。傘を泥棒した「彼女」は、その傘を近所の河原に捨てていたという。盗んだ傘が見つかってしまえば、怒られるだろうし、知らない傘を持つのがいやであるという「彼女」なりの言い訳。そこでふいに、彼女から一つの問いが投げかけられる。「ねえきみは自分の家に帰ったらどうするの?」という問い。この問いは、「ぼく」にとって「彼女」がいなくなってしまった時間についての問いであり、「彼女」といるというのに、「彼女」がいない時間について考えなくてはならなくなってしまった。「ぼく」はその問いに対して、思考停止しており、ただひたすらに、「いま・ここ」で見えている、雨の様子や葉の音を感じることしかできなくなってしまっている。月はないけれど、湖面に小さな波が立っているのは、無論雨のせいなのだが、これもまた、湖面には傘が指せないこと、つまり、「彼女」が湖面の傘を泥棒したと言っても過言ではないように思える。 (3)大賞候補 仲程「街の潮目」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2371  固有名詞の代表例として挙げられるのが、地名である。地名はその由来や語源を知ることなしに、その名前だけで、読み手に強く印象を与えるものだ。それは地名という名詞に孕む歴史やイメージというものが付き物で、ましてや、読み手の個的な体験によっても、いかようにもそのイメージは変えられる。それだけ、地名を使うということは、読み手の体験次第によっていかようにも作品の印象が変わるということであって、言わばギャンブルみたいなものである。それでも、仲程さんは、土地にまつわる作品を書き続けており、固有名詞・地名を使うことをいとわない。それは読み手にとってだけでなく、語り手や作者にとっても個的な体験を伴うものであり、その個的になりがちな固有名詞・地名というものをどのように描くべきか、という一つの答えを仲程さんは示し続けていた。読み手は、その土地を知らなければ、もしかしたら作品に全く興味を持たないかもしれない。それでも、書き続けるということは、それだけ、その土地に対して語り手や作者が想いを抱いているということがあるのだろう。このB-REVIEWという場所においては、固有名詞・地名を効果的に使われた作品が少ないように見受けられる。そういう点で、ぜひ、仲程さんの詩を取り上げたいと思った。  冒頭「県庁跡」というのは、どこにでもあるような地名なのだが、「香林坊」と聞けば、分かる人は一瞬でそこが金沢であることがわかる(私は何度か行ったことがある)。「そこはほんのひとにぎりの銀座で、渋谷で、新宿でもあり、池袋の匂いを探して片町に流れる」と続く。「香林坊」は、金沢における栄えた商業的な街であり、地方都市における栄えた場所を東京にたとえるということ。このこと自体は、私たちの日常にも潜んでいる事実であり、「〇〇銀座」や「〇〇銀座通り」など、銀座の名を冠したまちは地方都市に多く見受けられる。「金劇の地下のかつて茶屋から流れてきたお母さんたち」へ馳せられた想いと冒頭にあった「県庁跡」が重ねられる。私たちが「いま・ここ」で生きている/過ごしているまちというのは、「かつて・あった」時間や場所、それにまつわる人や物が必ず含まれているもので、そうした痕跡を想うということ。「橋を渡るともうここは歓楽街ではあありませんよ」という感覚も、地方都市においては、川がそのまちの中心地を流れていることが多く、むしろ、川は物流に用いられていたため、自然と商業街が栄えてきた歴史を思わせる。川を越えると、まちの様相が一変するように感じられるという体験も、多くの読み手にも起きてきたことではないだろうか。かつてのお母さんたちが、どこかへ流れていったように、語り手もまた流れ続けて「身を委ねる場所」を見つけられないでいる。(ちなみに、犀川を越えると、室生犀星記念館がありますね)  掌編が変わり、「雨細工」。土の匂いが呼び起こす「どこか懐かしい気持ち」。ただ、その気持ちに浸るのではなく、「石の階段を上って帰」っていく。雨は単に世界を湿らすものとして視覚的にとらえられていたが、次第に聴覚的な「音」としてとらえられていく。土の匂いは、嗅覚的に「懐かしさ」という過去を呼び起こしたが、雨は聴覚的に「胸が痛くなること」を呼び起こし、ついには、語り手は「いたたまれなくなって走る」のだ。雨はこの街に似合って、相性がいいものだが、語り手にとっては自らの「不器用さ」を呼び起こすものとなる。  「千切れても」では、花火について書かれているのだが、花火というのは、文字通り、花(のような)火のことである。「千切れてこそ見える花もあれん」と呼んで、花火の形を作り上げているのは、小さな火の点の集合体であることに気づかされた。あれは、小さな火と火が集まって、花のように見せているだけであって、その火と火の間には空間がある。そうか、元々千切れていた存在であったのかと。そして、「かつてのお母さん」の存在をここで思い出されてしまう。語り手が願っていたのは、「金劇の地下のかつて茶屋から流れてきたお母さんたちは、またどこかでどこかの花を咲かせているのだろうか」ということ。このお母さんたちは、かつては茶屋にいた存在であって、きっといまはいない存在である。かつての茶屋といまのどこか、との間は千切れている。千切れて咲いている花火とお母さんの姿がここで重なっていく。  最後「ぶらっくぼっくす」では、「金沢」というまち全体に想いがめぐらされている。金沢は「中途半端に古い街」として、どっちつかずのまちとして位置づけている。それは金沢に限らないことかもしれないが、「どこがまん中でどこが端っこで、なんて遅々とではあるが変わり続けていて」と。まちが変わり続けている、というのは、言葉としては理解できるが、それは具体的にどういうことであるか。昔あった人がいなくなること、昔あったお店がつぶれていること、新しいビルが建っていることなどなど。それでも、変わり続けないものもあり、「最後の文化住宅」は「未だに壊されずに」存在している。こうした存在こそが、実はそのまちをそのまちたらしめるものなのかもしれない。それにしても、住人のいない住宅など、ただの建物でしかない。その用途・目的を果たせていない。それでも、「せめてもと願う気持ちが、部屋の中に未だ消えないままで、消えないままでいるのだろう」と、建物にまつわるかつての住人の気持ちがそこに存在し続けていることを語り手はとらえている。未来や夢という先を見据える気持ちがありながらも、「昨日の幸せ」を忘れて、そんなものが手に入るはずがないのかもしれない。「平成から昭和への思いにうねる道」という表現は、惹かれるものがある。現在ここにいる「私」が見通す、過去のこのまち。  ここは、僕の街ですか  未来ですか  帰る場所ですか 土地にまつわる記憶、それは固有名詞・地名という、言わば言葉の箱がある限りは保存することができる。それと同時に「あの日の僕」も、地名という言葉の箱に保存されている。しかし、保存されない「捨て鉢のタンポポ」は「バイバイ」と「あの日の僕」及び「いまの僕」に対して別れを告げた。  次の住人を待っている住宅の部屋は、そこに人をおさめる箱である。「あの日の僕」はそこを出てしまったが、その箱にあの時の気持ちがきっと残っているだろうと信じてしまっている。そのような、「あの日の僕」やあの時の気持ちは、残され続けている「最後の文化住宅」の部屋という箱だけでなく、きっと「金沢」という固有名詞・地名の箱に保存され続けている。語り手の「僕」は、「あの日の僕」にはなれないが、保存されていると信じている「あの日の僕」の気持ちを再び見ようと、部屋という箱を開けようとしているのだが、この作品を読んだ読み手もまた、(「金沢」という箱にまつわるこの作品)という箱を開けてしまっているのだ。 2.おわりに  冒頭に、名詞とか、なんだとか書いておきながら、そのことを一つの軸として、終始保てていなかった気がします、すいません。それでも、これを軸にして、ある程度はあらゆる作品を読み解くヒントにはなるのかなあ、と。  固有名詞を作品に使うのは、勇気がいることだと思っています。それと同時に、「名前」というのもまた人に与えられた固有名詞であって、それは「傘泥棒」というあだ名も同じことが言えるのかなあ、って。  僕もまた「なかたつ」という仮初めの名前を使っているわけですが、「なかたつ」という4文字の向こう側には、きっと読み手の皆様には見えないものが見えているのかもしれません。それはまた皆様が使っている仮初めの名前にも言えることでしょう。いや、もはや、現実とネットという区分けをする必要もなく、ネットはネットとして一つの現実であり、「なかたつ」はもはや仮初めでなく、ネット上の人格が形成されていることと思います。それもまた固有名詞にまつわる不思議ですね。  書いている途中で気づいたんですが、なぜだか雨にまつわる詩を多く選んでました。最近、雨が降った時に思うことは、仕事のお客さんがいつもより少ないなあ、ということぐらいで、雨が降ったことによって何かが変わる世界というのは、僕にとってそんなものでしかないのですが、それでも、雨によって様々な世界の変化があるんだなあ、ということをこれらの作品を読んで知らされました。  長く長く長くなってしまったのですが、お読みいただいた方々に感謝します。それに、作品を生んでくださった方々にも感謝します。  僕が選評を書く上で基準にしていることはいくつかあるのですが、その中の一つに、読解に挑戦したくなるような作品という評価軸があることは事実です。北村さんの作品とか、他の方がどう読んでいるか非常に気になることだし、外してもいいから、深読みした読解を読んでみたい。僕が優良や対象に推しきれないのは、僕の非力さのせいで、確信をもった読解ができないからです。  あと、ふじりゅうさんの作品にしても、承認欲求とか名誉とかの言葉がインパクトあるのはわかるのですが、詩を読んで、憧れと言える詩を追い求めていたという部分について触れたコメントがなくて、少し寂しさを覚えたのは事実です。  無論、コメント欄で作品の全てを拾えるわけではなく、読み手によって注目すべきところは違うので、否定はしないのですが、先ず「作品を読む」ということ自体がそれぞれの読み手の中でどのようになっているのかを知りたくなりました。  僕はできるだけ、曖昧な言葉や賛辞をおくらず、作品の中に書かれていることだけをできるだけ拡げて、気づいたことを指摘しているだけですが、脱線話とかの方が選評として面白いのかなあ、とこの選評を書くこと自体も常に問い続けています。それでも、今回は、事前にTwitterでアンケートとって、いつもの選評というお答えが多かったために、このようにしました。  本来は全ての作品にも同じように読解していきたいのですが、なにせ、時間的制約によって無理です、ご容赦ください。  それでは、皆様、またお会いしましょう。僕も、頑張って、いい作品書けるようになりたい!


作成日時 2018-11-10
コメント日時 2018-11-14

10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か― ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 7
P V 数 : 416.3
お気に入り数: 0

10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か― コメントセクション


コメント数(7)
みうら (2018-11-11):

「はじめに」で言及されている「きみ」について、また「地名」についてが興味深かったです。固有名詞を使うレトリック、、このレトリックと断定してしまうことによって読む方が受けるであろう詩情が削がれてしまうところのこと。これが詩作品に対しての合理的な詩論が、誰もが望まない負の作用をもたらす。作者が意図せずところで「渋谷」と云い、読者が「渋谷」をそのままに受けることをよしとすべきであれと。一方で、(私はこちらの観点を良くも悪くも用いるのですが)優れた暗喩を含有すべく優れたレトリックを作品に見出してこそ批評ではないのかということ。そこには作品を読むに用いる為の詩論の有無が問われる。 二つの両極に迷いながら私は詩を読んできました。なかたつさんが最近の選評記事において追究されていらっしゃるテーマの一つとして持たれていると私は推察しております。ハズレでありましらすみません。二項対立なのか、或いは二項はその奥底では重なっているものなのか。私の個人的な学びのテキストの一つとしてこれからもなかたつさんの選評記事を楽しみに拝見させていただきます。

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ゼンメツ (2018-11-12):

まずはじめに、自分の作品を選んで頂けたうえで口にするのもなんなんですけど、僕は隠れてなかたつさんのファンであり、もちろん氏の選評の熱心な読者だ。なので選ばれる選ばれないに関わらず毎月この時期になると日々心待ちにしている一人であるということを、ここでいっぱつ伝えておきたいのです。 たしかに、詩を何のために書き何のために読むのだろう。これを「詩が好きだから」で済ますには、そもそも詩の話をしているんだから前提みたいなものだ、すると自然に「なぜ詩を選ぶのか」と続くのだけれど、僕は音楽だって聞くし、漫画だって読む。しかしそれは自分の手で作ることは難しい。小説はどうだろう。書けないことはないけれど、いずれにせよなかなか時間がかかる。ぶっちゃけ僕は今すぐ消費し合って快感を得たいのかもしれない。その点において詩はお手軽なのだ。しかし、お手軽に快感を得る方法なんて、この世にはそれなりにいっぱいあるじゃないか。 『傘泥棒』については「共感」も「理解」もされにくい「狭い作品」だと思っている。そういう意味では僕もまた「大して誰にも読まれない」という自覚を持ちながら投稿したのだ。じゃあなんでそんなんをわざわざ投稿するのか。狭い作品を書くことは快感を得ようとすることと矛盾しているのだろうか。もちろんそうじゃあない。狭ければ狭いほど他人との絵合わせが成功したときの喜びは大きくなる。始めて会った人に対して「オイラ音楽聴くことが好きなんだ」と告げ「アタイも好きだよ」と返ってきたくらいじゃ、まだたいして繋がった感はない、そこから更に「○○ってバンドが好き」まで共有できたらオオッとなり、「特に○○って曲が好き」まで一致したらちょっと変にテンションがあがっちゃうかもしれない。そのままBメロの歌詞なんかについて語り合って意見が合いでもしたらなんかもうオゥイェーイだ。ところでこれは余談になるのだけど、選評内でピロウズの「Fool on the planet」が紹介されているのだが、僕がむかし詩誌に投稿していたころ、佳作になるたびにべそべそでカラ館に駆け込んで、おもいっきしこの曲を熱唱していたことを思い出した。この曲の歌詞は自分で歌っていて自分に刺さるので、めっちゃ気持ちがいい。 脱線した。ここまで書いたが僕も一切の算段なしで、運命的に誰かと出会えるようきらきらの星空に祈りながら投稿している。というわけではない。ぶっちゃけて言ってしまえば、なかたつさんをはじめとした、特定個人がこの場に居る。という安心感は本当に大きい。もちろん書く前から狙っているというわけではないが、狭い作品を投稿する際、精神的な安心感を頂いているということは事実だ。本当に感謝しきれない。 メインの「名詞」の話に乗っかるまでに随分と遠回りしてしまった。ちなみに僕も固有名詞大好きマンなのでなかなか結構多用しまくっている。名詞は「情報」だ。例えば連想するときにただの『彼女』ではなく『傘泥棒』とすることで、長々しい説明を省き、直でそれ以外の情報と「連なるもの」にしたいのだ。散文で詩を書くということは案外プログラムソースコードの簡略化作業に近いと思っている。(僕自身プログラムに詳しくはないので本当に勝手な想像だけれど)すまない。何を言ってるのかよくわからんかもしれない。簡単にいえば、固有名詞に置き換えることで、散文のただでさえ長くなる前提の文字数を、可能な限り減らしながら、その分情報の「密度」を上げることができるのだ。 あとはなんだろう。普通名詞、固有名詞の選択は、僕も基本は読み手との距離感を操作するために選んでいる。近づけるだけではなく、もちろん意図的に遠ざけることもよくする。効果的に扱えているのかどうか、というはなしはまた別だけれど笑。たとえばえーと、よしパリだ。いいかよく聞けここはフランスがパリの街である。キミの住んでるみみっちい町なんかを想像して作中に書かれたものに疑問符を浮かべるんじゃないゾ。的な。そういう「遠いこと」に対する違和感を取り除くための使い方も有りだ。あ、みみっちくない町に住んでいるひとや、実際みみっちい町に住んでいるひとへ、申し訳ない。あくまで例だ。めっちゃ近づける例としてはどうだろう。普段の生活にうんと近づけて近づけて、そのまま描ききれば共感の「いいね」がこれでもかと降り注ぐかもしれない。逆に、近づけまくったうえで一点異質なものを紛れ込ませたりでもすれば「気付き」がそこに集中し、それはそれで良い効果を生みだして面白い。 固有名詞の扱いは本当にむずかしい。僕自身しょっちゅう滑ってる。詩人はけっきょく孤独なのだ、いとも簡単に拗らせてしまう。たとえば精緻な描写こそ至上と考え作者以外誰もついてこれなくなるほど固有名詞を羅列しまくる詩的厨二病や、逆にすべてを普通名詞に置き換えなければ気のすまない詩的高二病に陥ったりしがちだ。勿論これはこれで書いていて楽しいので拗らせていない方々もあえて挑戦してみてほしい。なんのこっちゃ。 好き勝手に色々話したくなる素敵な選評でした。 めっちゃながくてごめんなさい。

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なかたつ (2018-11-12):

みうらさん 何かしら考えるきっかけになったらば、よかったです。 「作品を読むに用いる為の詩論の有無が問われる」と書いては頂いたのですが、詩論を勉強しておきながらも、詩論なんてなくてもいいと思っています。 その実践として、ある意味あの選評があって、あの選評は詩論を使っておらず(使っていないという基準は、批評用語に還元していないという意)、作品の言葉だけを繋ぎ合わせています。 そこで喚起されたのが「名詞」の持つ働きについてであって、「名詞」は詩論でも何でもなく、日常にありふれたものです。 たとえば、一つの作品について、いろいろな批評用語、というか、主題を取り出すことができると思うんですね。今回は「名詞」でしたが、「記憶」「フェミニズム」「時間」「家族」「数学」「インターネット」「外国」「故郷」などなど。無論、一つの作品について、これらのどれが適しているのかと、吟味する余地はあるのですが、要は、批評用語というのは、単なる光源でしかなくて、主役はそれぞれの「作品」にあり、選評という光をどの角度からどのように照らすのか、ということにあると思っています。 「名詞」については、詩を書き始めてから何年間も問題意識として持っています。単に好き嫌いで選評を書くのもいいと思うのですが、あなたは、どうやって光をあてているのか、と、他の選評を書いた人に問いたいですね。

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なかたつ (2018-11-12):

ゼンメツさん 僕もまたゼンメツさんの作品の熱心な読者であります。それを示すために選評を書いているようなもので。 書いてあることは、僕宛に書かれたものですが、ぜひ、他の方にも読んでもらいたいようなことで、この駄文をきちんと読んでいただいたんだなあ、と感じました。僕が特に補足とかする必要もないですね。音楽話の例えとか、まさにその通りで。 固有名詞が「情報の「密度」を上げることができるのだ」とか、そのとおりで。 「普通名詞、固有名詞の選択は、僕も基本は読み手との距離感を操作するために選んでいる。近づけるだけではなく、もちろん意図的に遠ざけることもよくする」というのも、ほんとうに、そのとおりで。 この2点は、ありとあらゆる書き手/読み手の方に知っていただきたい。 僕はゼンメツさんの歴史を知らないし、ネットで読む作品以外のゼンメツさんについて何も知らない。それに、ゼンメツさんの作品に登場することもできない。それでも、ゼンメツさんの作品を知ることで、ゼンメツさんという人物を知ることができる。 パウル・ツェランが講演会で「詩は投壜通信だ」と述べた話を、僕はあちらこちらで紹介し続けているんですが、これに100%同意しながらも、この意味をずっと問い続けています。ゼンメツさんが述べた「狭い作品」と繋がる気がして。僕も個人的な実体験をそのまま作品に書いていることが多くて、同じ経験をした人って僕以外にいないと思っています。それでも、それを作品にして、投稿し続けているのも、どこか、この生きている世界で、偶然、興味本位で瓶/作品を拾ってくれた人が、何か思って/考えてくれたらいいなあ、と。瓶を拾ってくれるってだけで幸せだし、もしかしたら、その後はまたすぐに海に投げたり、捨てたりするかもしれないけれど、瓶の中身に入れといた作品を持ち帰ってくれたらいいなあ、と思うけれど、僕ができるのは、瓶を投げるだけで、その後、中に入っていた作品がどうなるかは、投げるまでわからない。 でも、瓶を投げるだけじゃなくて、どこか、偶然にして、僕が流れてきた瓶を拾うことはできる。その中に入っていた手紙、誰が書いたかもしれないその手紙を、誰にも知らず持ち帰って、ふとした時に家で読み返すことはできるなあ、と。それで、たまたま拾ったその手紙が僕宛ではなかったとしても、その手紙にこんなことが書かれていて、ここがよかったんだよ、って、広めることはできると思うんです。 つまり、まとめますと、僕は瓶/作品を投げても世界が変わるとは思っちゃいないけど、誰かが投げた瓶を僕が拾って僕の世界が変わることはあるし、それを広めることはできる。それが選評なんだと思います。

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AB (2018-11-12):

なかたつさんの選評はすごい、といつも感心して読んでいます。 その作品を何倍も魅力的なものにしてゆく。今回はさらに前文でまいってしまいました。 なんで書くんだろう。読むんだろう。考えないようにしていましたが、んんん、 拙作、おとりあげいただきありがとうございます。 以前、ミシガン・レリックスにコメントいただいた際に、「名づけ」という意味というか息吹というか、命みたいなものを加えていただきました。今回の選評、みうらさん、ゼンメツさんとのやりとりを拝読して、ようやく何かわかってきたような気がしてきました。

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なかたつ (2018-11-14):

仲程さん ありがとうございます、おそれおおいです。 率直に言えば、僕は仲程さんの作品のファンです。というのも、僕は、生まれてから引っ越したことが全くないですが、旅行する経験が多くあり、旅行する度に、その土地に住んでいる人の暮らしというものが気になってしょうがなくなってしまいます。それが、金沢だったり、沖縄だったり、僕にとって、遠い土地であるものの、身近な土地が多く登場してきます。今は、沖縄の風俗街のルポルタージュ本を夜な夜な読んでおり、沖縄という土地について深く考えています。(20回ぐらいだけ、行ったことあります…) それはさておき、僕も見直したら、ミシガン・レリックスに確かに書いていましたね…、失念していました。これらの問いだったり、キーワードというのは、僕が普段から考えていることではありますが、詩を書きながら、大袈裟に言えば、生きていながらも、ずっと考えてきていることです。 ぜひ、僕は皆様の意見も賜りたく、勝手にキーワードを用いました。 これからも作品を楽しみにしております。

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ふじりゅう (2018-11-14):

なかたつさん、私の作品をお選び頂き感激です。 なぜ、詩、を書くのか。前文ではそのように我々に問いかけています。推挙頂いた「『藤井龍平の肉薄』より」では、文中でも触れられているように、ある憧れの詩、に近づきたく、その境地に辿り着きたい欲求から、始めた、と書きました。本作のコメントでも述べたように、これは私が詩を書く理由の一面に当てはまります。 しかし、詩が例えるなら面の多すぎる多面体だとすると、なぜ、詩を書くのか、というテーマもまた多面体のように様々な理由があり、それが重なって〈詩を書く〉という形に落ち着いていると考えています。 私は昔、「男の地下道の中心音」という作品で推薦を頂いた覚えがあります。その選評を書いてくださった方が、(違っていたら大変申し訳ありません)確か私の記憶だとなかたつさんだったことも記憶にあります。あの選評を拝見した時、私の作品をここまで深く、究極に追究してくださったことに感動しました。あの時から私は、ビーレビューという場所で、もう一度なかたつさんに選評を書いて頂く為、投稿し続けた、という事は一面としてある事は間違いございません。 今回は私の悲願が叶った形となり、これ以上なく嬉しく思っています。やはりここまで、私の作品を、最早研究と称しても良いくらいの勢いで書かれた選評は他にありません。ビーレビュー続けて良かったです。 他の方に対しての選評も、私がコメントでは捉えられなかった箇所をズバズバと捉えられていて気持ちが良いです。素晴らしい選評だと思いました。

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