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葉子   

作成日時 2019-06-01
コメント日時 2019-06-04

 流行りのロングコートを着ると背がとても高くなった気がするのに、実際にはまったくそんなことはなくて、電車を降りたショートカットの女の人が、進む方向とは真逆の方向へちょっとだけ振り向いて軽く目を見開いたような振りをしてから、ササっとまた真っすぐ向き直って立ち去っていったとき、乗車口の外側で待っていた私は左下斜め十度くらいの角度から見上げる形で、こっそりと彼女の目線の軌跡を追いかけていた。凛としていて美しかったのだ。    時々どうにも抗い難い磁力を持った人というのがいるもので、「目が釘付けになる」とはまさにこのようなことをいうのだろう。眼球や水晶体には金属の成分でも入っているのかもしれない。それならば、あのように凛として美しい瞳はどういった部品で出来ているのだろうか。まさか本当に磁石で出来たコンタクトレンズなどを装着しているわけでもあるまい。    そもそも、私のいう「美しい」というのには「あはれ」とでもいったような趣を包含させなければ気がすまないところがあって、あれは美しい、これも美しい、などといっては、対象の老若男女や人で有る無しにかかわらず、勝手に何やら悲壮な宿命を背負わせて空想してまわっているといった具合だが、実際のところは、ただ単に自己を憐憫しているだけなのかもしれない。    そういえば、美術館のレンブラントに目を奪われている少女の横顔が、あまりに凛としていて美しく、本当に目が釘付けになったことがある。まじまじと見つめては失礼なので、視界の端でしっかりと捉えて離さないようにするのに多大の努力を要した。いっそのこと、その横顔をカビたように泥臭いレンブラントと交換して欲しいと思った。    制服を着てすらっとした高校生くらいのその少女が、襟足あたりで潔く切りそろえられた黒髪にだらしなく手などを当てて弄りまわすことなどもなく、すっと背筋を伸ばして佇立している姿には、どこか風に吹かれて散り散りに散っていくあの桜吹雪を思い出させるものがあったはずで、心臓の奥深くで雑巾をぎゅっと絞るような感覚、もしかしたら絞った雑巾の汁が間違って両目のどちらか、もしくは両方から涙の雫となって、あるいは鼻から鼻汁となって滴り落ちてくることもあったかもしれないし、もし川端康成がそのときの彼女を見たならば、「悲しいほど美しい」などと形容した上で葉子という名前をつけたに違いない。    母親だろうか祖母だろうか、ふっくらしているとも、しわしわしているともいえる女性が、布に包まれた小さな赤子を大事そうに抱えたそのレンブラントは、高さは一メートル以上もあろうかというほどの大きな油絵で、それも晩年の作なのだろう、色も質感もモヘンジョダロの遺跡から出土したみたいな赤茶けた土の感じだった。    少女の制服の紺色がとても美しく見えたのは、その茶色との色の組み合わせの妙だったのか、あるいはやはり、私の空想が彼女の横顔に「もののあはれ」のような何かを投影したせいで生じた憐憫のせいか、はたまた、単純な造形的な作用なのか、私にはまったく見当がつかなかったけれども、例えば、見かけだけがいい節操なしの男に騙されて孕まされたお腹の中の授かり物を仕方がないから、と処置してしまったのがちょうど半年前のことで、陽の光を見せることもなく殺してしまった小さな命を悼んだその苦しい罪悪の気持ちが彼女の瞳をこんなにも美しくさせているのだろうか、とか、あるいは昨日の夜、父親と母親が喧嘩したりしてしかも、その喧嘩というものが激しくお互いを罵り合うとか、やれ殴った、殴られただとか、そういう類いのものではなくて例えば母親が食事の用意もせずに置いていった千円札を見つけた夕方六時半頃の薄暗い食卓や、「出張だ」といってどこかに出かけたまま数日間帰って来ないような日に父親が着ている皺だらけのスーツが纏ったどこか生ゴミに似たあの感じ、そういった本当に細かいやるせなさがある日突然決壊して、ふと母親が父親に告げる静かな「死にたい」のひとことを立ち聞きしてしまった、というような、そういった日常の堆積が堰を切って溢れてしまう直前で、レンブラントが大きく壁を作ってなんとか必死に引き止めているのかもしれない……と、ここまで考えて、私のいうところの「美しさ」とは、なんと身勝手なものなのだろう、と自分は自分の心の醜さを大いに恥じた。それにひきかえ、彼女のまわりだけは、私のものとは、はっきり違った特別で透明な時間が流れていたような気がして、ひどく嫉妬しては同時に強く憧れてしまった。    せめて背筋だけでも、と思って私はすっと姿勢を正してから、ほとんど真っ黒な画面に老婆の顔だけが浮かんだような背後の肖像画に向き直ると、ああ、これはまた何と美しい、と何の虚栄もなく、心の底から本当にそう思った。しばらくの間、時間を忘れて見とれていたそのときの私は、彼女のように凛としていて美しかっただろうか。    胸がつかえたので振り返って改めてレンブラントを見てみると、絵の中で赤子を抱えているのは女性ではなく、もう死ぬ日も間近と思われる老人の男性で、先ほどの少女は探しても、もうどこにも見つからなかった。


項目全期間(2020/01/23現在)投稿後10日間
叙情性2424
前衛性55
可読性33
エンタメ44
技巧1414
音韻00
構成2020
総合ポイント7070
 平均値  中央値 
叙情性62
前衛性1.30
可読性0.80.5
 エンタメ11
技巧3.52
音韻00
構成50
総合17.57
閲覧指数:811.7
2020/01/23 21時26分39秒現在
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コメント数(5)
AB (2019-06-01):

堪能しました。光と蔭の芸術、いくつも見えました。

なかたつ (2019-06-01):

この詩に無理やりジャンル付けをするとしたら「へんたい」になるが、それは決して貶める意はなく、こうした観察及び洞察、そして、その表現というのは、なかなか難しいものである。 語り手が注目するのは、「横顔」であって、正面から向き合った顔ではない。つまり、正面から向き合う関係性にはない相手との対峙ということを示している。正面から向き合うことのできる関係性というのは、既に構築された関係性であり、この一瞬の場面の切り取りというところで「横顔」を描くというのは、必然性がある。 気になったのは「もし川端康成がそのときの彼女を見たならば、「悲しいほど美しい」などと形容した上で葉子という名前をつけたに違いない。」というフレーズである。仮定での上だが、川端康成ならそう名付けただろう、と。ここで重要なのは、この名付ける行為である。僕は川端康成も葉子も知らない。その関係性を読み解くことはしないが、名も知らぬ、その場で出会った人物に名付けるということは、それと同時に、その場面を切り取って、まるで額縁にかざるようにタイトル付けをするようなものである。この作品自体が「葉子」となっているのも、この一瞬一瞬の場面の切り取りへの名付けであり、まさに、葉子と名付けることこそが、レンブラントが絵を描いて美術館で飾られているということとほぼ同義だと考えられる。 そして、「美しい」とは何であるか。これについて僕は常々考えているのだが、万人が万人「美しい」と感じるものにそうそう出会うことはない。そして、その「美しさ」というのを論理的に説明することも不可能に近い。ましてや、人の顔というのは、厳密に言えば均衡がとれているわけでなく、横顔というのも、文字通り一面でしかなく、左から見たのか、右から見たのかによっても印象が変わってくるのではないか。それでも、言わば不完全なものに対して「美しさ」を感じるということ。これこそが、この作品が作品たる所以であるのではないだろうか。「美しさ」は、物そのものに宿るのか、それとも「美しい」と感じた主体に宿るのか。少なくとも、この作品では、後者であると思えるが、きっと、前者でもあると言える。いや、そう言える権利を持っているのは、この語り手しかいないのだが、きっと、この両者であると言うような気がしている。

survof (2019-06-02):

仲程さん コメントありがとうございます!感想嬉しいです。本当は、語り手が目を奪われた対象の少女自身の「陰」も書きたかったのですが、なかなかそこまで手が回らず、、、でした。もう少しいろいろ書いて見て、また同じテーマに戻ってきたいな、と思っています。 なかたつさん いつも丁寧な読解ありがとうございます!いつも書き手の私が気づかなかった視点で読んでくださるので、なかたつさんのコメントは非常に新鮮ですし、貴重で、とても嬉しく思います。 >つまり、正面から向き合う関係性にはない相手との対峙ということを示している。正面から向き合うことのできる関係性というのは、既に構築された関係性であり、この一瞬の場面の切り取りというところで「横顔」を描くというのは、必然性がある。 これはなるほど!と思いました。であれば、最後に書いた、正面から老婆をとらえた肖像画にもそうした関係性を持ち込むことでもう少し掘って書くことができたかもしれないですね。 >名も知らぬ、その場で出会った人物に名付けるということは、それと同時に、その場面を切り取って、まるで額縁にかざるようにタイトル付けをするようなものである これもなかなか考えさせられるコメントでした。ご指摘いただいたように実際に私はこの文章でそれと同じことをやっているわけなので、とても鋭いご指摘だな、と思いました。 >「美しい」とは何であるか これは本当に考えさせられます。美しさ、醜さについて書くのは本当に難しいですね。でもこの作品を書いた直後に川端康成の「みずうみ」読んだんですけど(同じジャンルかもしれませんね)、とてもかなわないな、って思いました。自分が感じてたこと、書きたかったこと、全部表現されているんです。およびもつかないほど鋭く掘った上に自分の性癖まるだしのエグさ、感性の異常な鋭さ。 私が書こうとしていることが何かあったとてして、大抵そういうのって誰かがものすごく深く思索した上で、優れた作品に昇華させているな、と感じます。今の私に何か書いたり読んだりすることに楽しみや普遍性があるとすれば、それはもしかしたら「美しさ」のようないわゆる大きな「普遍的」テーマに取り組みことじゃなくて、もっとありふれた日常のささいな心の動き、あるいは些細なユーモアを描くことによって生じる自分のあるいは他人の呼吸を感じることなのではないかな、と感じたりもします。 鼻歌みたいなものを目指していきたいな、などとおもっております。

ふじりゅう (2019-06-04):

拝見しました。 少女の横顔に釘付けになった主人公は、少女が何故美しいかの理論を組み立て始めます。主人公は恐らく一人で考えに耽っているので、だんだんそれは理論でなく少女への妄想となっていきます。 少女のストーリーがつらつらと書かれたあと、結果はたと主人公が自身に嫌悪を抱く。その視点の移り変わりが極めてテクニカルに感じました。 少女への、主人公が(勝手に)考えたストーリーがいかにも妄想らしく、情報を大して与えられていないのに主人公像が浮かび上がるところが素晴らしいです。面白く読ませて頂きました。

survof (2019-06-04):

ふじりゅうさん コメントありがとうございます! >その視点の移り変わりが極めてテクニカルに感じました。 この部分はちょっとわざとらしいかな、、と思ってなんども書き直したのですが、結局つぎはぎ感をうまく消すことができず、今後の課題としたいな、と感じていた部分でした。以前からこの種の強引な転換の手法はほとんど手癖になってしまっているので、要改善なんです。 >少女への、主人公が(勝手に)考えたストーリーがいかにも妄想らしく、情報を大して与えられていないのに主人公像が浮かび上がるところが素晴らしいです。 このコメントは滅茶うれしいです!語り手は少女のことを語っているようで実は自分のことしか語っていない、見る対象がことごとく語り手の鏡になっているっていう構造にしたかったので、少しでもその意図が伝わったのかな、、という気がします。

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