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雨
四六時中音楽を聴きながら、私は生活していた。 『Billie Jean』 を口ずさんで踊っていると何度も椅子にくるぶしをぶつけた。尾崎豊が『誕生』の最後でうずくまり、かすれた声で囁く「誰も一人にはなりたくないんだ、それが人生だ、わかるか」が好きだった。時々、眠れない夜に真似してつぶやいた。 要するに本来やるべき仕事を後回しにしてでも、快い言葉をただ口に出すだけの時を過ごしたかった。 ある日、仕事が全く捗らないことに気付いた。いつも音楽をかけるのに使っていたスマホを箪笥の奥底にしまった。もう一生取り出さないという意気込みだった。 箪笥を閉めて振り返ると、それまで見たことがなかった部屋がそこにはあった。窓が空いていて、カーテンが少し揺れていた。床の埃がなびいてベッドの下へと潜っていった。家ごと宇宙船であるかのように、音はどこからも入ってこなかった。 机に向かった。本を開き、射影幾何学の章を読み始めた。これは本来やるべき仕事ではなかった。無限遠点という概念に興味をそそられ、つい手を伸ばしてしまった。調和点列と合わせて用いると、強力な武器になり、幾何学の難問が二行で証明できる。だが、そういう学問的な魅力のほかに、もっと強烈な、遠い、私がいるべき土地への郷愁を感じるのだった。 外に目をやった。仄かな夕闇が広がっていた。完全な闇になるまではまだ時間を要した。屋根の連なりに反射する光の照度がしだいに減少していった。いくつかの鳥影が地平線の光を遮った。闇が降り立ってから景色が変換されたのか、逆だったのか、順序は曖昧だった。非常に微妙な間隔だったにちがいない。 一層暗い空間になった。微かな光源があった。それが何だったのか、理解したのは暗順応の段階を踏んでからだった。 発光していたのは、宇宙がいれられた小さな瓶だった。私は手を翳し、眺めた。スマホのように指でズームの動作をすると、拡大でき、スワイプして上下左右に移動できた。検索エンジンはないが、Google mapsと似ていた。 私はいろんな銀河と目を合わせた。どれも似通っていた。出っ張った鼻も、欠けた歯も、ニキビもない。どの銀河も綺麗であることは間違いなかった。だが区別できないと、みなまるで冷徹な独裁者のように、目前に立ちはだかるのだった。 私は帰還を求めて叫んだが、何も起きなかった。反響音も返ってこなかった。エンバーミングされるとこんな状態になるのかなと連想ゲームをしながらも、危機感を覚え始めていた。 きっとなにか罪を犯して、罰を受けているのだろうと思った。自問して、過去を顧みた。 第一、昨日、蚊を殺した。 第二、知り合いに向けた陰口。発話はしていないが、頭のなかで言った記憶がある。しかし何に怒っていたのか、理由は忘れた。大した理由もなく、構造が不条理だと考えただけなのかもしれない。 私の怒りは一瞬にして、目を閉じた隙に蒸発してしまう。精神病ではないと思う。ただ、どんな物事も、いつも客観的立場で、一歩離れて見ていた。三人称視点で常時世界を覗いているかのようだった。細かい特徴を知りたくて、接近することはあっても、決して元の状態は崩さない。プレパラートがおかしくても、時系列における一つの情報だと考え、頭に保存しておく。一つのプレパラートをつついてみても、除外しても、精密に構築された時系列の流れは変わらない。だから最初から諦めて、優秀な観察者として日々を記録していた。思い切ってしまうと肩の荷が下りた気がする。それなりに楽しいことでもあった。 確かに、第三のこれは重大な罪だった。たが、だからといって改心できそうにもなかった。 瓶のなかの宇宙で地球を探そうとしたが、視界の範囲を惑星の規模まで狭めることさえできなかった。どれほど敏捷に指を広げる動きを繰り返しても、同じような華麗で壮大なパノラマが続いた。私はもっと単調な青と、密生した緑と、汚い街の光を求めていた。たとえ、惑星を見られたとしても、生命が宿ったものを見つけるのは、限りなく0に近い可能性だった。 私は失意に沈みきった。ガガーリンの言葉を思い出した。ほとんどの人は一人で永い時間を過ごすと過去を思い返すが、私は未来についてしか考えなかった、と。シミュレーションは得意だったから、私も試してみた。映像を浮かべながら未来を描いた。 明日は休日。本を抱え、公園に向かう。冷たい雨が降ってくる。銭湯に駆け込んで体を温める。熱を帯びた額から汗が滲む。自販機の前で立ちすくむ。 ふと、とある悪戯が脳裏をかすめた。その閃きは未来についての思考を中断させた。 宇宙をいれた瓶にはコルクがあった。深く食い込んでいて固そうだが、開けられないことはないだろう。宇宙を飲んでみたらどうなるのかと考えたのだった。 観察対象を恣意的に変えてしまっていいのだろうかと、頭からはためらいが離れなかった。しばらく沈黙して、実行に移せなかった。あらゆる逡巡を押し殺し、私はコルクを握って、左右に揺らしながら、少しずつ滑らした。コルクが半分ほどを顔を出すと、次の瞬間、一気に抜けた。 すると、宇宙は垂れ始めた。下へ。ここには重力があったのかと呆気にとられている隙に瓶は瞬時に空っぽになった。宇宙はもう一滴残らず流れ出ていた。 同時にどこかへ吸い込まれる感覚が起きた。私の体には以前まで体験したことのない凄まじいgがかかり、息苦しくなった。あと十秒も持たず、失神してしまいそうだった。 かろうじて目を開けていた。無数の宇宙のしずくが周りで、私と同じく落下し、空気抵抗のせいで終端速度に達し、静止しているように見えた。だが、それが誤解であったことはすぐに察せられた。重力も、空気抵抗も関係なかった。時という軸に沿って私たちは混じり合うことなく走っていた。時間は途絶えることなく、理論上最も偏りの小さい等速直線運動をしていた。その無数のパターンの宇宙が形成する雨の、一つの雨粒のなかに紛れもない私の本体があった。どの観点から考えても、観察者の私は私ではなかった。 瞼を上げると、私の人差し指は本の一行を指していた。そこにはこう書いてあった。 二つの平行な直線は無限遠点で交わる。
雨 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 752.2
お気に入り数: 0
投票数 : 3
ポイント数 : 0
作成日時 2024-02-01
コメント日時 2024-02-03
項目 | 全期間(2024/12/10現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
他者に対する陰口を実際に言わなくても頭の中で言っただけで厳格に考える。キリスト教の聖書を思い出しました。姦淫についてですが、頭の中で考えただけでも、その罪を犯しているとイエスは言う。それと宇宙論っぽいところはポーのユリイカを想起させられます。内容的には、多分、交わらないと思うので、あくまで大雑把に考えてですが。最初の音楽のくだりでリラックスできたので、一気にこの詩を読み下すことができました。
1二つの平行な直線は無限遠点で交わる。 非ユークリッド幾何学ですね。
1ありがとうございます。 ユリイカは未読ですが、宇宙についての科学的な考えを交えた文学作品だと聞いたことがあります。私はどちらかというと宇宙よりも、宇宙の数理モデルのようなものを表現しようとしました。そのため、厳密には時間も特殊相対性理論の考えでは流れが変わるので、詳しい人はあら捜しはいくらでもできると思います。 物理(特に宇宙)には、ロマンを感じる人は多少なりともいますが、数学に魅力を感じ、ただ無機質なものではなく、カタルシスを与えてくれるものだと考える人は少ないでしょう。知られていたとしても自然に応用され、説明しやすい数学、例えば黄金比やπといったものしかありません。それさえかなり美化され、虚偽であることが多いです。恐らく文学作品として厳密な数学を伝えようとしても、読む側がすぐに退屈になってしまいます。だがら、私は逃げ道として、レトリックに数学の概念を使ったのです。それでも読み返すとやはり退屈なので、その試みも失敗した気がします。 聖書の話は大変興味深かったです。オナンの罪といった半下ネタとして語られるものは有名で、そういうもっと価値のある話は忘れられる。皮肉ですね。
0ありがとうございます。 射影幾何学では角が定義できないのでユークリッド幾何学とは言えませんが、非ユークリッド幾何学と聞くと、私はどうしても双曲幾何学を想像するので、そう呼ぶのもなー?!?とアマチュアなので自分でも正解が分かりません。
0直前の過去の文の拾い方、補足の仕方がすごいうまいと思いました。(作品の四行目) 創造的で、一瞬あっけにとられました。クリエイティビティの宝石箱や~。 プレパラートという言葉が巧みな比喩だと思います。 無限遠点という考え方から演繹的にこの詩を導かれたのでしょうか、そうではないとしても、 そう考えた方がスマートな気がします。
1こんばんは。 うわーめちゃくちゃ面白いです!!眼福でした!!なんかそれ以外言葉出ないです。
1ありがとうございます。 演繹的。確かに私はスラスラと思考の分岐もせず書けました。最初の夕日のところまでは、私の実体験といいますか、私そのものなので、そこから発想を続けるというのは、意外と容易で、話の筋も必然的でした。
1ありがとうございます。 私は、最初からオチを知っているせいか、自分で読み返すとすごい退屈だったので、そういう評価は嬉しいです。
1無限遠点は調べたけど理解できなかったので悔しいがこの作品なんかよいぞ~よいぞ~
3僕は割りと気にしていて、でも他の方からすればどうもいいことなのかもしれませんが、この作品はほとんどの語尾が「た」になっていて、そのことが文章を読むときの呼吸を統一していると感じました。つまり音読のリズムが一定なため、すらすらと読むことができる(これは文章の上手さからきているともいえますが)、反面、リズムに引っかかりが少なく、読み終えたあと印象が残りにくいという反作用も出てきてしまう(初めに投稿された「或る人」においても同様なことがいえる)と思います。作品に関しては僕の及びもつかない仕上がりだと思いますので、そういったところを少し気にかけてみられると、作品にまた違った魅力が加わるのではないかと思いました。
1貴重なご意見ありがとうございます。 おっしゃるとおり語尾に対して私は苦手意識を持っています。改善しなければならないと常々思いながらも、下手に変えると、どうしてもしっくりきません。現段階では諦めて全部統一したほうが、少なくとも一貫した文体が得られて、下手ではなくなる。かといって上手でもない。腕を磨かない私の怠惰のあらわれでしょう。
1スマホを仕舞うと起こった、家の宇宙船化と言うか宇宙空間化と言うのか、蒸発してしまう私の怒り。無限遠点と言う私の興味をそそるもの。最後に出て来る無限遠点で交わる、平行線。垂れ始めた宇宙や、無数の宇宙のしずくなど、興味をそそられる内容が詩を構成していると思いました。
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