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survof


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おそらくここ最近で投稿された3作ってシリーズなんじゃないかな?って思ったんですが、どちらにせよ正直この作品だけでも十分トラウマになりました。なかなか忘れられないんじゃないかな・・・。生理的に受け付けないほどの「暴力」を隠喩に託した圧倒的な筆致で読ませてしまう。言葉にある種の美しさが宿っているから、描かれた「暴力」の不快さは後からじわじわと浸透してきます。筆力では到底及ばないことを、最初に読んだ時に一瞬で思い知らされました。それでもこの作品の持つ暴力的想像力は、私の感性が受容できる限界を遥かに越えています。つまり個人的な話をすれば、僕はこれを読んで引導を渡されたんです。これを読んでトラ丸さんが嬉しいと思えば、これは褒め言葉だし、そうじゃなかったらそうじゃないです。 (┣ぼくらはまだギリ青いから┳おんなのことこいなんてしないでいてよ┫)

2021-07-11

意図して「作った」作品って「できちゃった」作品を絶対越えられないんだと私は思っています。でも普段からいろいろ「意図」して身を削ったり頭をよじらせたり肌を引っ掻き回したり、もしかしたらたまには「嘔吐」しながら「作って」いないと何も「できちゃわない」。そして「できちゃう」タイミングっていうのがまた意識の及ばぬところで、私がたまたま遊びに寄ったこのタイミングで帆場さんの「できちゃった」に遭遇できたのは、私にとっては嬉しい偶然でした。 (白けたものたちのあはいでお前はまだ歩くのか)

2021-07-10

重厚さと泥臭さと奇怪さと非常になめらかな流麗さが奇妙に共存していて非常に印象的でした。息の長い滑らかなフレーズと、細やかに忙しなく踊るフレーズのバランスが良いのでしょうね。しかも、これ見よがしな改行や、安易な反復といった小手先の技巧に頼ることない言葉の自然さがそれらを成立させている印象があります。タイトルや去っていく巨人のイメージが低音の深い呼吸の通奏低音となっているのかもしれません。 そういう意味でいうと「ゆるされない...」の連は、可読性を考慮して読点を(おそらく控えめに)いれたとしても、もしかしたらこのバランスは崩れなかったのかもしれないとも思います。「流 砂 のあ わ いをぬけ て いく列車の繰 り返す」の部分の空行は仮に苦肉の策だったとしても、作品全体の中のこの地点で決定的な変調・変奏が必要だったという作者の感覚の鋭さの裏返しとも言える、と思いました。 いずれにしても、じっくりと楽しませて頂きました。 (白けたものたちのあはいでお前はまだ歩くのか)

2021-07-08

僕の中の君の中の君の中の僕の中の君の中の僕が、あの暑い夏の日に死んでしまったということなのだと思います。そして多分、君の中の僕の中の僕の中の君の中の僕の中の僕も、もう死んでしまったということなのでしょう。だから、ゆるしてほしいのです。 (トッカータ)

2021-07-08

詩的美貌。いい言葉ですね。泣きたい時は泣いたらいいと思います。 (トッカータ)

2021-07-08

実は前作がとても気になってビーレビに投稿されている作品一通りお読みしました。全体的に感じたのは、言葉のリズムの心地よさで、それをどうして心地よく感じるかってうまく言葉にできないんですけど、例えば、聴いている音楽の趣味が実は似ているとか、実は読んできたものがだいぶ被るとか、そいういったことにあるのかもしれなくて、それは別に共通点を探したいということではなくて、ただ単に、言葉のリズムや響きの心地よさの好みって、もしかしたら普遍的では決してあり得ないのかもしれないな、ということを感じたのでした。 それでも、やはり言葉のそれぞれの響きと重さに心を配っているこのような作品は、意味を考えることもなく何回も読んでしまいます。 なので、気になった点が単に個人的な好みの問題なのか、それとも、もう少し普遍的な(つまある程度拡張可能な範囲において)種類の問題なのかはちょっと確信を持ちかねるんですが、個人的には >>たった一度の >>オルタナティブな >>伸長だった の「オルタナティブ」は全然、気にならなくて、すごくしっくりくる一方で >>膨張し続ける宇宙のあの速度を >>ハッブル定数と呼ぶそうです のハッブル定数や「全集合」「補集合」といった数学用語、それから >>夜半に渦上にさんざめくイデアの模写たる >>未踏峰への無断侵入が半透明のベール越しに見えていた といった部分で、言葉が悪目立ちしてしまって、一瞬、注意が言葉の響きや流れにではなく、詩句の意味に気をとられてしまう、というところがあります。 それは、例えばピアノの演奏に心を委ねている最中に、ピアニストの特定の癖が気になってせっかくの音楽が台無しになってしまう、という瞬間に似ている気がしたのでした。 (いななき生きるを置き去りにして)

2021-07-05

む?なにやら奥が深そうなことをおっしゃいますね。 (閉じて)

2021-07-05

たしかに誰かに覗き見られている感覚があったんですよね。みうらさんだったのは知りませんでした・・・ (閉じて)

2021-07-05

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2021-07-01

「堪える」か。。誤字失礼しました。 (●●●●●● ● ●●●● ●●●●)

2021-06-30

>その評者のマウント取りの恥ずかしいことは置いといても、視野狭窄な評はいろんなことを不運にしてしまいますよね。 みうらさん、このコメントは流石に応えました。結構効いてるんで満足していただいて大丈夫です。 (●●●●●● ● ●●●● ●●●●)

2021-06-30

本気で心配したほうがいいのか、本気で笑えばいいのか、ちょっと悩みました。が >海の機関車が血を走る! >海の機関車が血を走る! >海の機関車が血を走り >おれは狂うほど何もしない! の部分がどうにも好きで仕方がないです。 結局、素直に笑うことにしました。 落ち込んだ時にまた読みたいです。 (死ね、ニュートン)

2021-06-29

作品そのものよりもコメント欄における、作者の主張がとても興味深いですね。コメントばかりをかなり前のめりになって読んでしまいました。もっと作者の主張を読んでみたいです。●がすべて作者のコメント欄における主張で埋め尽くされていたなら・・・と思ったほどです。 こういう作品の場合、まず作者が匿名で投稿されていること、それからこのようなネット掲示板に投稿されていることがあわさって、作品は文脈をほとんど持っていません。ここまで文脈がないなかで作品について何を語ることができるだろう・・・というのは、疑問としてはあります。おそらくそれについては自覚的であったと好意的に解釈したとしても、読者からコメントを引き出しつつ、後出しじゃんけんのようにそれらを迎え撃つかのような作者の姿勢には、駆け引きの熟練さが感じられなくもありません。 他の方へ返信を引用して恐縮ですが、例えば >子ども心、遊び心は、どんな作品を書くにおいても重要なものであると私は思っています。遊び心さえ持てないときは、書くのをやめた方がいいとまで思います。どんなに苦しくても、苦しい作品を書くにしても、どこかで遊び心がなければ読めたものにはならないんじゃないかと思っています。 もしこれが本作品において作者の意図したことであるならば(作者はそんなことは一言もいっていないわけですが)この作品はちょっと安易すぎるか、あるいは攻撃的すぎるかのどちらかだと思います。 あるいは、本当に純粋な遊びだったというのであれば、コメント欄でも作者はもっと遊んでいいのではないか?と思うのです。あるいは、作品の意図がどうあれ、コメント欄でいきなり真顔になる作者の姿こそが見るべきものなのかもしれません。 ちなみにですが、何年か前に別の方による似たような見かけの作品があり、この時も、コメント欄における作者の主張にこそ読むべきものがあったのを改めて思い出します。この作品を知っての上での投稿だとしたら相当の手練れだな・・・と思ったのでした。 https://www.breview.org/keijiban/?id=962 (●●●●●● ● ●●●● ●●●●)

2021-06-29

この曲めちゃめちゃいいです!!曲がツボだと詞もなんだかよくわからないですけど、すごく良く思えます。最低5分は聞いていたい。いや10分あってもいけるかもしれない。 (死骸の歌)

2021-06-26

句読点がまったくないせいなのか、なぜかJラップ調で脳内再生されてしまう不思議。 (渡り鳥)

2021-06-26

この作品はクロールでした。クロールでプールを泳ぐのってちょっと苦しいんです。でも泳ぎ切ったらすごく気持ちいいんです。僕はクロールが得意じゃないから、息継ぎのタイミングで少ししか酸素が供給できないんです。だから溺れたような感覚のなかで前へ前へって、もう急ぐしかないみたいに泳ぎ切るしかなくて、でも泳ぎ切ったらきっと気持ちいいんです。酸素が不足しているからもしかしたら気持ちが高揚するのかもしれません。僕はクロールが得意じゃないから、息継ぎのタイミングで少ししか酸素が供給できないんです。でも泳ぎ切ったらすごく気持ちいいんです。そして、この作品はクロールでした。 (縮こまり快楽)

2021-06-26

「愛と大きく笑顔を描く」ってきっとスマイリーマークとそれがかつて象徴していたラブ&ピース的文化とかその後のポップカルチャーでのスマイリーの役割だとか、はたまた絵文字文化にまで発展するスマイリーの文化的背景に暗に触れているのかな、というふうに思いついたのと同時に、やはり隠喩って具体的になればなるほど、逆に読者にとっては想像力の足枷になってしまうこともあるのかもしれない、というようなことを漠然と考えつつ、けれども自分の感情とは思想とかイメージをそのまま文章にしながらかつ読者を惹きつけるのは簡単ではなくて、で、どうするかというと、自分の中のイメージとか思想とか感情とかを自分なりのコードで適当な隠喩に変換したり、あとは適当にそれらしい暗号っぽい謎な言葉を並べたり、主語と述語を交換してみたりして、いろいろ文章を再構築したりして思わせぶりにしておいて、あとは読者が自由に想像力を膨らませるようにする、みたいなことをやって、それでそれを「現代詩」ってことにすれば想像力豊かな人が読んでくれて、あわよくば喜んでくれる、みたいなことがあるのではないかな、、と、思いつつ、いや、でもやっぱり違うな。。なんか自分の中にある感覚を隠喩でもなんでもいいから上手く言葉に置き換えられたときがやっぱり一番面白くて、そういう時は自分のなかで言葉が閉じていないのかもしれなくて、ああ、じゃあこのコメントはなんだったんだ、結局何もいっていないのと一緒ではないか、結局「愛と大きく笑顔を描く」はスマイリーのことなのかもしれない!と気づいた、ということ以外何もいえていないではないのだろうか、何も言えないのではないだろうか、ということに気づいてしまったのでこれ以上書くことがなくなってしまっ文字数。 (十五歳)

2021-06-26

読んだそばから言葉がその意味と一緒に抜け落ちていく感覚があるのと同時に、感情だけは肉声を伴ってその痕跡をしっかり残しながら、お互いに干渉しあってうねりを作り出していく様は、まるでまったく意味が分からない外国語の音のなかになにか痛切なものを感じ取ったような瞬間に似ていて、しばらく何度か読み返してみたりしたのでした。文体においても、意味においても、たどたどしさと流暢さが混ぜこぜになっている感じって無条件に胸に刺さりますね。 前半はどちらかというと視覚に作用するような抽象的な美しさがあるように感じられるのに対し、後半は「神さま」とか善悪とか「愛」とか、なんだろう、そういうはっきりとした意味を持ちやすい言葉が多い分、ちょっとうるさく感じられて個人的にはあまり好きにはなれなかったのですが、それでも前半は本当に綺麗だな、と思いました。 (噛み殺しっ)

2021-06-25

言葉と言葉、文章と文章が本当にスムーズに織り合わされていて、読んでいて非常に心地よいリズムを感じさせますね。あまりにスムーズに、しかも意味が上滑りしながら言葉が流れていくので、割と濃いめの味とイメージを持った言葉が、それもかなりの密度で使われているにもかかわらず、次々と読むスピードすら超えた速度で希釈されていって、読み終わった後には透明な水のようになって何の後味も意味もイメージの残像や感情の余韻すらも残さないように感じられるのがとても不思議だと思いました。この読後感は、かといって朝目覚めた時に見ていた夢の余韻が残っている時のあの感覚とはちょっと違っていて、夢を見なかった(と自分では思っている)時の朝の目覚めに似ています。あるいは、朝起きかけてラジオをかけて、また二度寝している間にかすかに聞こえてくる音楽とか会話とか、全部耳では聞こえているんだけども、二度寝から目覚めた時には何も覚えていないときのような。 そういう意味でいうと「君よりも先に、言葉の概念になった」から始まる幾つかの観念的なフレーズすらも流されて他の言葉たちと一緒に希釈されて、余韻を残さないようになってしまっているように感じられてしまうのがすごく勿体無いようには感じたりします。というのはこの一連の言葉って、この読後感とすごくマッチするように思うからです。 でも、文体としてはすごい好みです。意味を押し流してしまっているところも含めて。 (君は主人公じゃなかった)

2021-06-25

千才森 万葉さん ご返信おそくなりました。なんかわかる気がするみたいなご感想、なんか一番うれしいかもです! >最後、街中に視点を置いていますが、部屋の中から眺めているまま終えるのはどうだろうかと思いました。 おお、なるほどです。閉じたまま終わるみたいな感じでしょうか?もしかしたら閉じたままのほうが世界観がより活きたかもしれないですね。ありがとうございます! (ある夕刻)

2019-12-10

「死の境界線は蠅のようで」のバリエーションから繰り出されるリズム感が最高で一気に読ませるし、リズムが飽和してしまわないで、ちょうどいい具合に緩急があって、実はリズムと速度をコントロールするための非常に細かい調整がされていて、しかもタイトルはどこかで見たことのあるような、ないような、そういうポップさってどうしたって引き寄せられてしまうわけで、「意味」なんてものは置き去りにするくらいがちょうどいい。 >ああ秋!と言っても許されるくらいには涼しくなっただろうか ここが一番好き (それはせかいのような、はかいのような。)

2019-11-21

ふじりゅうさん いやそれほど読み違っていないです。どちらかというとかなり狙い通りに読んでくださっています。なのでとても嬉しいです。 >これです。これが本作の全てな気がします。 そうなんです。たったこの一文のためにこのどうでもよいグダグダを書きました。平行宇宙なんて本当どうでもよくて、なんか小難しそうで、しかも何も分かってない感じで書ければ素材は何でもよかったんです。 >自分は最初シュールなギャグテイストとして読んでいまして、しかしながらそれは本作が本当に伝えたかったものではないように思います。つまりなんらか隠されている。 シュールなギャグテイストで読まれることを前提にはしています。ただ、本当に伝えたかったことと、このギャグ要素がうまくつながらずに水と油が分離するみたいになってしまった感はあるかもしれません。 主な狙いとしては ・夢のなかの出来事のように書くこと。あるいは半覚醒状態のときにみた夢を書くこと。 ・つまり、論理的に書かれていながら、根本的に何かがおかしい状態になっていること。論理的会話が論理的なようでまったく論理的ではない状態になっていること。 ・「彼女」との関係性をその「夢」のなかに埋め込むこと ・夢から醒めたときに感情だけ薄ら残っているような、ちょうどそれと同じ濃度で「彼女」への感情を読後感として読者のなかに呼び起こすこと ・つまり、夢から醒めて、薄ら夢の記憶が残っているような感覚を読者に追体験させること ・残像のようでありながら、夢から覚めてもなお残る「彼女」に対する感情を描くこと でした。ちょっと実験しすぎたかもしれないな、とは思ってます。 (僕たちの失敗 )

2019-11-21

夏野ほたるさん みんなが嘘つきだって思えるかぎり少なくとも自分は誠実なのだ、とそう思える気がして、そんな自己欺瞞さえも、うずく感傷と一緒に正当化して美化してしまいたくなるのかもしれません。コメントありがとうございました! (ある夕刻)

2019-11-19

ふじりゅうさん おおお、読解ありがとうございます!!すごい面白いし、なんかめっちゃ嬉しいです! >飛行機が遠くを進んでいる時はその沢山の「いのち」を感じられる瞬間であり、だからこそ嘘つきじゃない、のではないでしょうか。 ピンポイントで自分が言いたかったことを射抜かれた感じです。 >私が考えるに、主人公は街など出歩いてはいません。そういう空想で体を支配しないと、精神が持たなくなっている描写なのかもしれないと考えます。だからこそ、様々な空想の街をほっつき歩く沢山の「私」も、すれ違った「人」も、すべて存在しない架空の産物であり、だからこそ「嘘つき」なのではないでしょうか。 >すなわち、本作は時間が進むとはどういったことなのか、時計が進める時間は本当に自身にとっての時間なのか、そのような主人公の疑問、また空虚な有様をこれ以上なく迫る形で表したものだと考えられるのです。 こういうこと考え始めるとやっぱり自分の存在から感覚だけが遊離して浮遊する感覚になるんです。そして遊離した自分は自分から離れてバラバラになってどこかに置き去りにされていくんです。別に量子力学の何ちゃら解釈とか、なんちゃらの猫とかにかぶれてるとかそういうことではなく、純粋に感覚的な現象です。この感覚に対しては多分「離人感」っていう日本語が一番適切かもしれません。 四連目は自分にとって一番大事なことがいいたくて、その分、誰にもわからないようにそのいいたいことを箱に大切に仕舞い込んで鍵をかけてしまいました。誰かが鍵を開けてくれたら嬉しいです。 (ある夕刻)

2019-11-19

藤 一紀さん いつもいろいろな方に寄せられる藤さんのコメントがとても的確で興味深く、しかも建設的なので非常に勉強になっています。コメントいただけてとても嬉しく思います。 >「作る」といった意識に支えられた 必ずしも表現に携わる全ての人が「作る」という点を絶対条件とするわけでもなければ、そもそも「作る」ということを美徳としない場合もあるのかもしれません。私はどうやらそういった大切な点をここ数ヶ月すっかり忘れてしまっていたようです。反省です。 (ある夕刻)

2019-11-09

承知致しました。議論に応じてくださったことに深く感謝します。ありがとうございました。 (『ソナチネ』から)

2019-11-05

ご返信ありがとうございます。 >私の理想である自然というものが、どのように自己欺瞞と表裏一体となるのか、分からないのです。もう少し補って書いていただけるとありがたいです。 まずこちらから。最初にいただいたご返信のなかで >つまりこの書くという行為は自然なことではないでしょうか。 と書かれていたので、私はこの際、混乱しました。 まず ・書くということが常に自然であるなら、どうして批評本文のなかで「作者が己を欺いて計算しているからか、もしくは、やらなくてもいい余計なことをやってしま」うことこと(つまりは「不自然であること」だと解釈しました)に言及しているのか? ・私の場合、書くという行為は南雲さんが仰るように自然なものではなく、常にどこかで「計算」したり、あるいは「余計なことを」したりするということが付き纏います。それは読者を常に鋭く意識するからです。この過程で私が私を欺いていないという確証がない。 そもそも「自分を欺いて書く」とはどういうことを念頭において書かれたのか私にはよくわかりませんでした。 ただ、今回のご返信がどうやら答えになっているようですね。 >私は人の各自がその天才に柔順であることを願っています。私は時々厳しい批評をするかもしれませんが、それは批評対象が己の天才に柔順でない場合においてであるのがしばしばです。 「己の天才に柔順で」あり続けるなら、決してその人はその人の「天才」の枠組みを突き破ることはできないと考えます。ここで私がいう天才とは各自が持つ素質のことです。ですので、自分の「天才」を突き破ろうとするときにどうしても、「不自然さ」は発生してしまうものです。「不自然さ」を経なければさらに「天才」を磨くことはできないと考えています。 自己模倣との格闘するならば、必ず南雲さんの「自己欺瞞」と向き合わなければなりません。そして、どんなずばぬけた「天才」、つまり他の人よりも群を抜いて特性がある人であっても自己模倣の危険は常にまとわりついていると思っています。その意味で「書くこと」と「自己欺瞞」は表裏一体であるということです。 >私がこの文を読む方々に思い出していただきたいのは、自分が作品を制作している時の、何かに取り憑かれているような、「あの感覚」なのです。 これは私にも時々ありますのでなんとなく理解できるような気がします。ただ、同時に、南雲さんほどには、内発的で「自然な」作品作成過程というものを信じていません。いや、もしかしたら、もっと「しらふ」な作品制作過程を私は魅力に感じているのかもしれません。 >計算ということは、あるようでないことです。計算があると言う場合は、結果として作品が人工によって生まれたという意味においてだけであり、もっと大切な「作品の生み出される過程」に注意すれば、まったく作者の天才、自然がそれを支配しているはずです。 どこまでその過程の中に外部的、俯瞰的視線を含められるかを私は常に大事にしたいと思っています。どんなに一気呵成に書かれたものでも、書いている間にどこかに醒めた視点が内部になければいけない、と感じているので「何かに取り憑かれているような」自分を同時に抑制する自分を隣におかなければいけないと思っています。 「作品の生み出される過程」に常に「計算」、あるいは「自分の天才に反抗すること」を織り込んでしまうことがある人の「天才」であるならば、「計算」、あるいは「自分の天才に反抗すること」は「自然な行為」ということになりませんか? 私は「作品の生み出される過程」に常に「計算」、あるいは「自分の天才に反抗すること」を織り込んでしまう「天才」に特に魅力を感じています。その最たる例が太宰治だと思っています。 要するにわたしにとってまず「自然さ」とは「計算」の痕跡をどれだけ消せるか、ということであり、「そもそも計算しないこと」が「自然」であるとはまったく思えません。 >私は時々厳しい批評をするかもしれませんが、それは批評対象が己の天才に柔順でない場合においてであるのがしばしばです。 ところで、南雲さんが作者の「天才」を見抜く力をお持ちであるということであれば、私の「天才」とはなんですか? 純粋に南雲さんがどう思われているのか興味があります。 (『ソナチネ』から)

2019-11-05

エイクピアさん 先生の論は平行宇宙論ですね。自分平行宇宙論ってすごい嫌いなんですけど、でも小道具として良さそうなので使ってみました。小道具にすぎないんですけど、どうでもいい小道具をメインに据えて無駄に書き連ね、かつ一番書きたかったことは最小限に留めるっていう実験をしてみました。自分としては書きたいことがはっきりしている分、なかなか客観的に読めないんですよね。なのでコメント嬉しく思いました。 >ただ君は女の子に生まれれば云々は、紫式部のおまえが男の子に生まれていればの逆バージョンでしょうか。 ここのセリフはこの作品で一番鍵にしたかったセリフなんですけど、もしかしたらあまりうまく機能していないのかもしれません。作品のテーマとしては以前に投稿した「ストロボ」や「E# minor」などが系統としては近いです。もう少し会話の流れをわかりやすくするなど、ちょっと工夫が必要だったかもしれません。 (僕たちの失敗 )

2019-11-04

/舜舜さん >木の葉の影という言葉が念頭にあると、この文以降の情景の比喩が入ってきずらいから、カーテンに西日が踊って、まるで~、とした方が、後の比喩で表したイメージが通りやすい。 なるほどです。改良の余地があるかもしれませんね、ちょっと考えてみます。 >誤字か、作者の表現か分かりずらい。 これは誤字ではないです。でも、判別しにくいとなるとちょっと工夫したほうがいいかもしれませんね。 >survofさんの伝えたかったことから剥離しているかもしれないが、俺なりに解釈し、そしてかなりぶっ飛んだ。 おお、ありがとう!ぶっ飛んでくれたなんて、こんな嬉しい感想はないです。伝えたいことなんてあるようでないし、同時にないようであるようなってな感じで、うん、なんか引っかかってくれればそれで十分だったりするのです。 >「存在と時間」など高尚なものに触れられず申し訳ないが、勢いで、送信してしまお。 「存在と時間」なんてものは私にもよくわからないので大丈夫です、笑。コメントありがとうございました! (ある夕刻)

2019-11-04

つつみさん 黄昏時の空みると綺麗ですよね。ちょっと体の調子が悪くてベッドで横になりながら、レースのカーテンに映る西日をみながら書いた詩でした。ちょっと普段使わない言い回しを使ってみたんですが、できるだけ作品は自分の感傷からは遠くの場所に置いておきたいな、という気持ちがありました。 >どんなときでも、いつも正確に刻まれている時刻や時間といった常識が「作り込み」だった、という感覚、とても納得してしまう詩でした。 なんだか、自分のなかで流れている時間だけいつも独立している、みたいな不思議な感覚によく襲われる気がしています。 (ある夕刻)

2019-11-02

ご返信ありがとうございます! 少し難しい内容だったので要点を整理したいのですが >この場合、良くない作品がどうしても良くないのは、作者が己を欺いて計算しているからか、もしくは、やらなくてもいい余計なことをやってしまったからである。 とおっしゃったときの「計算」っていうのはここでいう「書くという(自然な)行為」には含まれないということでしょうか? あるいは「計算」という言葉に囚われることが要点を曖昧にするものだとするなら >作者が己を欺いて(書いて)いる というのが南雲さんにとってどういう状態なのかちょっと知りたいです。 別に喧嘩を売っている訳ではなく、私は「自分を欺いて何かものを作る」っていうことについてもっと深く考えたいと思っているんです。少なくとも私にとっては、自己欺瞞は南雲さんのおっしゃるところの「自然さ」と表裏一体であるような気がしているんです。 急がないので、もしよろしければお時間あるときにご意見お伺いできれば嬉しいです。 (『ソナチネ』から)

2019-10-31

ご返信ありがとうございます。 >しかしそもそも私にとっては何語であっても他人が発した言葉なら(ときには自身が過去に発した言葉さえも)常に距離があるものですから、逆にスペイン語を一切使わずにすべて日本語で書いていればその敷居なるものが下がるのかということをいま自問しています。 私は敷居が高いとは思っていないんです。引用されているすべてのスペイン語には、直後に日本語の意味が書かれていますので意味がわからないということはないです。むしろ文章としては非常に質が高いものだと思っています。 私はスペイン語で思考したときと、日本語で思考したときの感覚の揺らぎについて言及したいと思っていて、つまり原口さんが作品のなかで >We are not all here. 英語でそう書いたとたんに、語り手からジェンダーが欠落する。 と書かれているように、意味を言語をまたいで変換したとしても、それは必ず不完全なもので、情報やニュアンスが少なからず欠けるのが常であって、つまり「Todas」「We」「私たち」と並べてみたときに、それぞれの「私たち」のもつニュアンスの違いから生じる繊細な揺らぎを感知できるのは、3つの言語に通じた人だけではないかということです。逆にいうと、揺らぎが生じるからこそ、主語としての「私たち」に新しい形が与えられる余地が生まれるのではないか、ということを考えます。 そして当たり前のことですがその揺らぎを味わいながら読めたなら、この作品はより味わい深いものになったはずで、もっというと、例えば原口さんの意図した通り「私たち」を新たな形で立ち上がらせるためには、読者がその揺らぎを感知することが不可欠ではないか、とも思うのです。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチII)

2019-10-29

取り上げてくださってありがとうございます! >しかしながらこの作品は、特にその形を論じなければならないほどには形に特徴がない。この作品にあっては、形は、書いた結果こうなったというものだと考えられる。 この次の項目で論じてくださっていますが、計算というものは私は意識的にはあまりしないです。後から人に自分の作品を説明するときに、あたかも計算して書いたかのようにいうことはあっても実際には計算して書くということはあまりなくて、自然と溢れ出てきた言葉を書き留めて、それを自分が美しいと思えるように少しずつ修正、調整を加えていく、という書き方をすることが多いです。ただ、その調整を加える作業を「計算」って呼ぶのではないかな?という気もします。 あと計算できる、ということはすごいことだな、とも思っていて計算して書ける人は尊敬しています。計算して書けるようになりたい、という思いはあって例えば以前に投稿した「葉子」とかそういった作品ではかなり意識して計算しています。それがうまく機能しているかは別の話なのですが・・・ 南雲さんのおっしゃるところの「計算」って具体的にどういうことなのだろうっていうのはちょっと知りたいです。 >なお重要なことは、本作品は、叙景への傾向が強いため、人間というものが見えにくいということである。それで私は寂しく感じたのだ。 実は以前に「遠く、朝は」という作品を投稿したときにもまったく同じような感想をある方からいただいたことがあります。語り手の人間としての存在があまり感じられない、という趣旨のコメントでしたが、おそらくこの手の感覚的な事柄を扱った作品において共通してみられる私の作品の一つの傾向ではないかと思います。 なので、このご指摘はおそらく的を得たもので、それはおそらく、作品を個人的な感傷の掃き溜めにはしたくない、という個人的なこだわりも関係しているのかな、と思ったりもします。なので、どうしても人間としての手触りを消す方へいってしまう傾向があるような気はしています。 個人的な好みの話をすると、小説や随筆を読むとき、私は人間がどれだけ深く、巧みに描かれているかに主に関心を寄せて読みます。やはりそれが文学の一番の面白さだと思っています。どんなに文体が巧みでも、そこに人間としてのリアリティーがないと読んでいてつまらなくなります。逆にどんなに現実離れした設定やストーリーであっても、そこに人間の本質が描かれている作品というのは本当にたくさんあって、私はやはり小説や随筆には人間の体温を求めているような気がします。 でも、詩においては、どちらかというと人間の気配が薄い作品や作者が好きです。つまり、書かれた言葉そのものが作者という人間であるという点で南雲さんの結論にとても近いです。人間がその息遣いを伴って明確な肌触りを与えられたような「生きた」詩に出会うと、私は時々とても当惑するんです。それは詩という行為がより親密な、あるいは非常にプライベートな性質のものだからなのかもしれません。 (『ソナチネ』から)

2019-10-28

沙一 さん ありがとうございます!改行の仕方にはとても気を遣ったのでその部分褒めていただいてとても嬉しいです。 >静か。といった直截的な語は、無くてもよかったのではないかと思います。 なるほど。確かに「静か」っていう言葉でないほうが良かったかもしれないですね。ただ、ここで一度、ピタッと時間を止めたかったんです。もう少し巧みな方法があったかもしれません。ご指摘ありがとうございました。 (ソナチネ)

2019-10-28

藤 一紀 さん おお、なんかすごいコメント貰っちゃいました!正直なことをいうと自分でも何を書いているのかわからないのです。でも、何かを書きたいと思ったのは確かで、その何かは確実に何かなんです。書かなきゃいけない何かだったんですよ。あるいは、その何かは「その何かを探るときの手つき」なのかもしれません。全体的な語感の弾力性の具合はかなり微調整を施した記憶があります。 (ソナチネ)

2019-10-28

緊密でソリッドな質感、ビート、リズム、文体。これはヤバい。 (ツボにはまった作品って大抵いつも感想が言葉にならない) (tokyo syndrome)

2019-10-27

楽子さん 四つの作品読んで下さったんですね、とても嬉しく思います! >こういう瞬間、あるんですよ本当に。 ですよね?!いやあ、感覚的レベルで共感していただけるのはやっぱり書いて投稿した甲斐があるものです。 時間帯でいえばちょうどご飯食べ終わってぐったりしてる昼過ぎあたりの静かな光とレースのカーテン、とても静謐な感じでうっとりしてしまいます。晴れ時々曇りの日が一番美しいです。 レースのカーテン繋がりだったら、ウタ・バース(Uta Barth)さんという方の写真作品がおすすめです。多分気に入ってもらえると思います。是非是非! http://utabarth.net/work/and-to-draw-a-bright-white-line-with-light/ ↓こっちのほうが作品たくさんみれる http://www.andrehn-schiptjenko.com/uta-barth-solo-exhibition-february-16-march-28-2013/ (ソナチネ)

2019-10-27

昔のオノナツメの漫画を読んでいるような印象。NOT SIMPLEなどを思い出した。あるいは宮崎夏次郎とか。 文章だけだとちょっと物足りない気もするけど、あまり説明しすぎていない感じとかにどこか透明な浮遊感があって楽しめた。むしろ、これくらい省略されているほうが想像力に訴えるのかもしれない。設定などもあえて省略されていて、断片的だけれども、はっきりと設定やストーリーがあることがわかる。読者が物語を完成させないといけないけど、完成させたいと思わせるだけのものはあって、頭のなかで作品の世界がどんどん広がっていく感じ。 とても好きなタイプの作品でした。 (「みんな、恋してる、そんな街がいいね」)

2019-10-26

いろいろご指摘がすでにありますが、ちょっと情報が足りていない印象があります。 ‪たとえば >‪上着を忘れた時のような‬ ‪>気持ちにさせるのだ は私もなかなか巧い比喩だと思うのですが、どんな状況で上着を忘れたのかの情報がないので、比喩としてのインパクトが薄まってしまっている印象があります。 寒いのに上着を忘れた、という状況と、スーツを着るべき状況で上着を忘れた、という状況では意味するところがまったく異なるからです。 もちろん文脈から「うすら寒いのに忘れた」のだな、ということは予測できるのですが、想像力がそっちの比喩の読解に奪われる形になるので、作品が表現しようとしている寂寥感から注意が若干そらされてしまいます。 また、助詞の使い方なども指摘されていて、それにも同意ですが、さらに細かいところをいうと >‪閑散とした庭は少しだけ‬ ‪>人恋しさを連れてきて‬ の二行は、例えば >‪閑散とした庭を少しだけ‬ ‪>人恋しさは連れてきて‬ と主語と述語の関係を逆転させるような細工もありだなと思います。そのほうが寂寥感が表現できるような気がします。 こういう細かい部分の細工を重ねることで読み手にとってさらに明確な手触りのある作品になっていくのではないかと思いました。 作者にとって情景はかなり明確に見えているはずなのでそれと同じものを読者に見せるにはやはり細工(それを人々は技術というのかもしれません)が必要なのではないかと思います。 (うつろう)

2019-10-26

追記: よく考えてみたら「春琴抄」はプロットだけでも十分楽しめるから例としてはちょっと違う気がしてきました。日本文学の有名作品だと川端康成の「雪国」のほうが例としてはふさわしいのかもしれません。プロットそのものが割と空っぽなので。 (ソナチネ)

2019-10-26

原口さん >意味内容は文体に左右される、思想は文体にこそ宿る、だから文体の追求こそ作品制作であると考えておられるふしがある 南雲さんへの返信にもお書きしたとおり、まさしくそんなことを考えておりました。 音楽との関連性でいうと、意味内容を伝えることは音楽でも可能だと思います。その点においては文学がより有利な立場にあるように一見思えるのですが、実はそうではないのではないか。確かにストーリーを伝えるという意味では文学はかなりのアドバンテージを持ちます(映画やアニメは遥かに効果的ですが)。加えて論理を伝える点では文章は最強かもしれません。しかし、感情や思想を伝えるということになると、その優位性が揺らぐことがあるのではないか、と思うのです。勿論「思想」をどう捉えるかによっていろいろな意見があるかとは思います。 加えて、私は小学生くらいのときに日本の古くからの和歌や現代短歌にすごく魅了された時期が何度かあって、日本語文学の様式美みたいなものにはかなり影響を受けている気がします。文体ということでいえば、例えば谷崎潤一郎の「春琴抄」からあの文体を除いたら一体どれだけのものが残るんだろうか、と考えたりするんです。「春琴抄」はあの文体だからこそあれだけ深い感慨を残すのであって、それこそ文体に思想と意味内容が宿ったいい例ではないかと考えたりもします。もちろん遠く及びませんが・・・。 と、あまり考えがまとまっていないまま書き連ねたので突っ込みどころ満載ですが、ひとまず返信とさせていただきます。 (ソナチネ)

2019-10-26

南雲さん >文学、これが何なのかを論ずることを今回保留にすることを許されたい。私も作品を書く人なので、文学を実践することでこの問題に向き合いたい。 コメントから南雲さんにとっての「文学」というものがバシバシ伝わってきてものすごくアツいものを感じました。やはりそういうアツさってとても重要だと思っています。私にとっての「文学」はおそらく南雲さんの「文学」とはちょっと違うものですが、違う文学観を持っている方のご意見のなかに非常に大切なヒントが隠れていることもあるのでコメントとても嬉しく思いました。 まずは些末な点から。 >残念なことは、一つは、最後のあたり、具体的に「ソナチネ」という用語が出てくることである。ここは私なら「楽の音」としたいところだ。 「楽の音」としてしまうとその音楽がピアノで奏でられるものであるという情報が欠落してしまうんです。 確かに言葉としては「楽の音」とすることで日本語としての美しさはもしかしたら増すのかもしれない。けれども、私はどうしてもここはピアノのイメージを喚起させたかったという意図があります。ただ、それが意図通りに効果を発揮しているかどうかは別ですね。具体的なイメージが伝わる前に読者が引っ掛かりを覚えるのであればそれは適切ではないということになります。引っ掛かりを覚えられたのはどうやら南雲さんだけではないので、ちょっと再考の余地はあるかな、と思っています。 >もう一つ残念なのは、これも最後、最終行が美しくないことである。ここまで過剰なまでに美しかったのになぜだろう。 最終行はとても大切な一行なんです。なのでそこだけはどうしても強調したかったというのがあります。そこだけ外す必要があったということです。 部分的な強調の際にはいくつか手法があると思うのですが、私がよく使うのはモードを一気に変化させるというものです。作品全体が言葉の美しさに傾倒しているようであれば、強調したい場合はそこだけあえて外す、あるいはその逆、みたいなことはよくやっている気がします。 >優れた音楽や絵画を鑑賞する時、私たちは何か文学を読むような感じもしないだろうか。 話がそれますが、私が大好きな抽象画の作家の中にマーク・ロスコとゲルハルト・リヒターがいます。マーク・ロスコの作品には本当に精神的に深く押し迫ってくるものがあり、彼自身「ベートーベンやモーツァルトが音楽でしたことを自分は絵画でやりたい」というようなことをいっています。 一方のリヒターはロスコの作品があまりに宗教的でエモーショナルであるとして、彼の作品を鋭く批判しているんです。抽象絵画はもっと「絵画についてものであるべき」、つまり「絵画そのもの」を主題とすべきである、と。つまりリヒターにとっての抽象画は本人曰く、感情や個人的思想を表現するためのものというよりも、もっと純粋に絵画的なもの、つまり色彩や構図やマチエール、あるいはもっとメタなテーマである「絵画そのものの存在意義」「写真と絵画」といったことを追求するためのものであると、そういうわけなのです(多分)。そのためリヒターの抽象画はどこか鑑賞者を拒絶するようなところがある。 一方でそこに絶対的な美があることも真実で、彼自身、別のもっと後年のインタビューでは「美は普遍的なもの」であって、それはなければならない、といっています。彼の態度には少し変化があったようで 「ある人々がロスコの絵をみて涙を流すように、あなたの絵をみて人々が涙を流しても構わないのか?」 という(リヒターのロスコへに批判的態度を念頭にいれた)問いに対して「構わない」と答えています。 さて、こうした事例を出したのは南雲さんの「文学にしかできないこと」に関して考えを深める参考になると思ったからです。もちろん、作品が「文学にしかできないこと」をするべきなのかどうか、を問うことは非常に重要なことだと思いますが、そもそも「文学にしかできないこと」とは何なのなのか?をもっとシビアに考えてもよいと思っています。 私はロスコが「音楽を絵画で実現できた」とは一切思いませんし、リヒターの抽象画が本人がいうほど即物的であるとは思いません。逆に「絵画でしかできないこと」をできたかどうか、という点で考えるとリヒターのほうが「絵画でしかできないこと」を追求しているのだな、という印象があります。 こう考えると、例えば「「中身のない」言葉の芸」は「「文学」でしかできないもの」の一つではないかと私には思えるのです。 普通、形式は中身や意味を伝えるための媒体、器として機能しますが、その逆があっても面白いのではないか。つまり中身や意味が形式のもつ美しさ、繊細さなどを伝えるための媒体、器として機能する作品があってもよいのではないか。 私は、そういう意味で、作品の持つストーリー性、言葉の持つ意味、思想性といったいわゆる中身は、なくてもいい、とまでは言わなくても少なくとも副次的なものとして扱っている節があるのかもしれません。 (これは原口さんがコメントのなかで直接言及されている通りです) (ソナチネ)

2019-10-26

よんじゅうさん ありがとうございます!ちょっといろいろな書き方を試していて、最近投稿しているいくつかはこんな感じのちょっとくどい感じのやつを試してみてます。これで表現の幅が広がったらいいのにな、って思ってるんですが、どうしてもスタイルにハマっていく傾向があってなかなか苦戦してます。 題名は「sonatinen」とかにしたらもっと憎たらしくなったかな?笑。ちょっと恥ずかしいタイトルだな、と自分でも思いつつ、やっぱりこのタイトルの作品を一回は書いてみたかったんですよ。 (ソナチネ)

2019-10-25

これはとても好きだな。すれ違う二人の間を埋めるものが「雨」しかない、という感性がなんだかとても新鮮で美しいものに感じられました。 >ハロゥ、指先。 >ハロゥ、爪先。 この二つもとてもいい感じの表現だと思うんですけど、この二言が伏線になっていたり、このフレーズをよく読むと作品がまったく違うものに読めてくるみたいな仕掛けがあるともっと深みがでたと思いました。もしかしたらそういう仕組みがすでにあるのかもしれませんが、ちょっと読解力不足で読み取れなかったのが残念です。でも、この二つのフレーズの響きはとても好きだし、全体を引き締める役割もあって、このフレーズはやっぱり必要なんだな、という気がします。 >今からぼくがさよならっていうから、 >きみは行かないでって言うんだよ。 最後の2行はとても重要なところだと思うので個人的にはもっと毒が欲しかったです。 これだと素直すぎるので例えば 今からぼくが行かないでっていうから、 きみはさよならって言うんだよ。 ってなってたほうがグッとくる気がするし、ねじれた心情がでるんじゃないかな、と思ったりしました。例えばですけど。 (こちら落花生、沈丁花におくる)

2019-10-25

るるりらさん >この詩にある呼吸のような強弱のある波は  >なにがどうしたからという屁理屈を、越させてくれる風みたいに 私には思えました。 嬉しいご感想ありがとうございます! ゆっくり呼吸しているような、あるいは潮の満ち引きのような、空気のような、なんかそんな感じのもの の上に言葉を浮かばせて それからまた 自分の五感が言葉に溶けていってぷかぷかと まどろむ ような もしかしたらこれは眠気なのかもしれない。 自分は寝ていてずっと夢を見ているだけなのかもしれない。本気でそんなことを感じたりすることがとても多かったりします。 (ソナチネ)

2019-10-25

なんだろう、不思議な読後感。ベタベタにセンチメンタルなのに、なんだかすごい無色透明。サランラップみたいだ。全然味がしない。青臭い臭いさえしない。 もう一つ不思議なのは、各連での語り手のいる場所がバラバラなこと。1連目からすると語り手は外にいて、空を眺めている。2連目ではそれを引き継いで、公園にいる語り手が思い浮かぶ。で、3連目でまた空をみて感傷に浸る。ところまでは自然。だが、4連目にいくと今度はいきなりビルの屋上。そして次の5連目ではさくらんぼの入ったメロンソーダを飲んでいる。普通、さくらんぼの入ったメロンソーダは喫茶店の中で飲むもので屋上では飲まない。屋上で飲むのは缶、ペットボトル、あるいは瓶にはいったメロンソーダで普通それらには赤いさくらんぼは入っていない。入っているとしてもそれはコーンポタージュに入っているコーンみたいなものだろう。どちらにせよ、普通に読むとイメージは一気に喫茶店のなかに飛ばされる。 というふうに、場面が繋がっているようでいて見事にバラバラなのだ。だから途中で3回くらい瞬間移動を経験する。ダダ漏れになっているセンチメンタルの青臭さを嗅いでいる暇なく、次から次へとトランスポートされてなんだか目まぐるしい。 となると最終連の >淡い夢の中を漂いながら この想いをただ守りたい は本当に睡眠時の夢のことなのかもしれない。とすると、直前の >あぁ 少しずつ 大切なものがちぎれていく は目覚める過程を指しているとも取れる。あるいは1連目に「自分の行く末」とあるのは語り手が生死の境目をさまよっていて、何か走馬灯のようなものをみているのか。だとするとこのサランラップのような読後感も納得がゆく。要するに意識が朦朧としているのだ。 などと、深読みすると結構面白く読めなくもない。 (青い空(と白い雲))

2019-10-20

流れるような文章の美しさ。意味を超えて浮遊する言葉。身体から切り離された意識。止まったような時間。すごい好み。 ただし、もう少し明度や彩度、つまり色彩の変化が欲しくなる。もっと揺らぎが欲しくなる。作品があまりに綺麗な球体だと、読者を簡単に素通りしてしまうものだ。 (No Title(Peter Spier's Rain ))

2019-10-20

タイトルに「スケッチ」とあるのだから、おそらくこれは本当にスケッチなのだろう。書かねばならないと感じた事柄を、書かねばならないと感じたそのままに、おそらくは自分のために書かれたものなのだろう。つまりスペイン語に通じていない読者にとってはかなり敷居の高い内容であったとしても問題はないわけだ。この作品において作者はスペイン語のフレーズ一つ一つのニュアンスを深く味わうようにしてその感慨を書いたのだろう。独り言にように書いたのだろう。したがって作者が感じたであろう、日本語とスペイン語のニュアンスの差異から生じる微妙な感情の揺らぎが詩情として浮き上がる様を、私のようにスペイン語に馴染みのない読者は、想像として、まるで手話で交わされる会話の「美しさ」を遠くから眺めるような感覚で、漠然と捉えることしかできないのである。「独り言の美しさ」ということについて考えてみたい気がしている。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチII)

2019-10-20

厚みのある散文調の作品できちんと読者を引き留めておくために何より必要なのは、まずは視覚的な可読性だと思う。 例えば >おれはからだに麻薬みたいな誰かの心を充填してこの夜から朝へと移り変わる時間をしのごうとしている。 の最初の一文だけでもかなり平仮名が用いられているが、これを >俺は体に麻薬みたいな誰かの心を充填してこの夜から朝へと移り変わる時間を凌ごうとしている。 とするだけでも随分と読みやすくなるものだ。 全体としてみれば勿論、あえて平仮名を用いている箇所よりも普通に漢字表記になっている箇所のほうが多いのであるが、片仮名、平仮名、漢字と使い分ける際に ・視覚的な読みやすさ(「肺にしたためたい」など、これだけの密度の中では特に読みにくい) ・あえて平仮名を使う場合の目的や必然性 ・あえて難しい漢字を使う場合の目的や必然性 ・あえて平仮名や漢字を用いることによって視覚的な読みやすさが損なわれるような場合に読点、句読点などを用いて可読性を上げる工夫(場合によってはカッコなどを用いても良いのかもしれない) などを意識するだけで大分読み手の注意を引き留めることができると思う。 もう一つは、ひとつひとつの文の関連性が薄いことが気になる。散文調になっている場合、読者はある文とその次の文の何かしらの「自然な」繋がり(意味での繋がりであったり、言葉のリズムや音韻の繋がりであったりするのだけれども、散文調においては特に意味の繋がり)を自然と求めてしまうもので、それが薄いと非常に読みにくく感じてしまう。 勿論、次々と無関係なイメージを繋いでいくという手法は散文形式であってもうまく行えばかなりの混沌とした迫力を作り出すことができるが、その場合でも隣り合った文の流れはかなり細かく意識すべきで、「ここはわりと滑らかに意味を繋ぐ」「ここは全体のバランスからみて一気に跳躍させても大丈夫」などと細部の丁寧な作り込みが混沌としたイメージの生成に不可欠であったりするのだ。 その意味でこの作品を読んでみると、そういった配慮に少し乏しい気がする。つまりなかなか読むのがしんどいので、闇鍋的切迫感が読者には伝わらない。まずは、読者を引き込んで少なくとも字面だけは一気に読ませてしまうだけの仕掛けがないといけなくて、その結果、内容が闇鍋であればカオスを演出できるし、情景描写や心情描写であれば、その結果読者の心に情景や心情を映し出すことができるのではないかと考えている。 (縦糸、の発音)

2019-10-19

「人間失格」は面白いですが、太宰作品の読み始めとしてはあまりおすすめしないかもです(多分、これから読み始めると太宰嫌いになります、笑) デビュー作の「晩年」や「女生徒」「新樹の言葉」「新ハムレット」「パンドラの匣」あたりの中期作品あたりから読むのがおすすめです!! で、いろいろな初期、中期の短編のなかに「人間失格」の種みたいなものがパラパラ撒かれているので、ある程度背景をおさえてから「人間失格」読むと印象が多分全然変わってくるかと思います!! (二人の老人と僕)

2019-10-19

ご返信ありがとうございます。 確かにこれらの表現は自己に対する否定的な表現といえると思います。で、そこから先の印象として、そういった「禍々しい性根を持った自分」をどこかでひどく愛しているようなそんな印象を持ってしまうんです。つまり「「禍々しい性根を持った自分」をどこかでひどく愛している自分」に対しては無自覚であるように読めてしまう、というのが私の個人的な感想でしょうか。もちろん人によって大きく異なった印象をもたれる方もいらっしゃるかもしれません。 (二人の老人と僕)

2019-10-17

ご返信ありがとうございます。 >この『二人の老人と僕』は実話です。実話と言っても、僕の心から見た実話ですが。僕は、二人の老人との間に遠い距離が存在しているのを感じています。劣等感と言ってもいい遠い距離が感じられるのに、二人の老人が親しくも僕をバス旅行に誘ってくれたことに、とまどいを感じています。そしてしかも、そのバス旅行が、忘れられない美しい思い出となっているのです。この言い難い感性の構図を僕は書いたわけです。この構図の中で僕は自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理の状態にあるとsurvof様は読まれたという理解でよろしいでしょうか。 その理解であってます。他の方もコメントで言及されていますが、例えば自分で「でもみんなにはとても親切で明るかったはず」といってしまう、図々しさ。とにかく語り手の関心が徹底的に自己に向けられていると云う点を自己陶酔、自己憐憫、感傷的心理という言葉で表現したのですが、語り手の関心が徹底的に自己に向けられているわりには、そのことに無自覚であるように読めてしまうのです。その自覚に対して客観性という言葉を与えてコメントしました。つまり客観性を織り込むことは必ずしも感傷性や主観性を排除することではないと思います。 南雲さんは嫌い作家であると以前おっしゃっていましたが、太宰治のの自分語りが面白いのはそこに徹底的な自嘲があるからだと思っています。つまり自分語りをしているような作品においては、自分の関心が自己に徹底的に向いていることに自覚的であることが彼の文章からは痛いほど伝わってくる。 そうした自覚の差異が読者にとっては内容が入ってくるか、入ってこないか、に大きく関わってくるのではないか、と感じました。 (二人の老人と僕)

2019-10-15

>僕はあなたたちの現在の消息にはほとんど関心がありません と語り手本人が語っているように、語り手はおそらく心の底ではこの二人の「老人」には本当に興味がないのだろう。自分自身の性格の裏については告白しておきながら、その二人の「老人」たちもまた、自分には見せない顔があるかもしれない、ということには一切目もくれず、ひたすら二人の「老人」との思い出を美しく懐古することによって、物事を心から楽しいと感じられなくなった「悲しい」自分を間接的に美化するこの心理構造は、一種の自己憐憫とも自己陶酔とも読み取れるが、そのような心理構造はこの作者のかつての作品から一貫して見られるものであり、そのことを非常に興味深く思う。普段なら個人的な好みから、そのようなメンタリティーは嫌悪の対象としてしまうのであるが、南雲氏の作品を継続して読んできて、そのように唾棄してしまうのはとても惜しい気がしている。確かにこのような美化された自己憐憫的感傷はどうしても肌にあわないのであるが、この感傷はどうやら作者の奥深くの通奏低音なのではないか。それゆえに例えば「感傷を客観的に提示できていない」などと批判することが非常に憚られるのだ。むしろ南雲氏の作品が、なぜこうも自己憐憫的なのか、作者の生い立ちはどうだったのか、作者はその生い立ちにどう向き合ってきたのか、どうしてそのような向き合い方をするに至ったのか、などなど、純粋に非常な興味をそそるのである(とはいってもそういった自分語りを聞きたい訳ではない。) もしかしたら、このような感傷の断片を「美しく綺麗に」表現しようとするより他に、作者の核を説得力のある仕方で表現する手段があるのではないか、という気がしている。少なくとも、上記で述べたように非常に自分中心の作品として読める(他者でさえ自分を飾るための道具に過ぎないほどの)ということにもっと自覚的であっても良いのではないか。そのほうが断然面白くなるのではないかと感じた。例えばタイトルが「二人の老人と僕」ではなく「僕の正しい透明な思い」に変わるだけでも、読み方は全然変わってきて随分と空恐ろしい寒気のするような作品になったかもしれない。つまりは、やはり「感傷にどこかで客観性を持たせないけない」といっていることになってしまうのであるが、こういうのをおそらく自己矛盾というのである。 (二人の老人と僕)

2019-10-14

クガイの意味が分からなかったので調べたら、この作品の場合「苦界」のことだろうか、わざわざカタカナ表記にした意図がうまく伝わってこなかった。この作品を読んで一番物足りなかったのは、ストレートな直喩レベルの表現に終わってしまっているところだった。つまり「下降する飛行機から見た雲の谷間が地獄の釜のようだった」という表現で多分この作品は要約されてしまう。 「地獄の釜」や「業」といった言葉を排除して情景をより丁寧に、徹底的に描写し、それでもなおかつ読者に「業やしがらみがグツグツと煮込まれた地獄の釜」を連想させる表現であったならば、つまりそれだけの想像力を喚起するような表現であったなら、読み手の読み方にも幅が出るし、作者が伝えようとしたことにもより迫力がでたのではないか。 その点、この作品では情景描写がうまくいかなくて結局観念的な言葉に逃げてしまっているように見えてしまう。それからさらに個人的な好みをいえば「苦界」や「地獄の釜」や「業」といったものはほのめかし程度でとどまっているほうが好きだ。 (クガイ)

2019-10-14

社会問題に関連した語句が乱用されているゆえに詩としての欠点がさらにむき出しになってしまっている感は確かに否めないが、どんな作品だって自分の内面を同じように生のまま調理もしないで提示してしまう危険とは常に隣り合わせな訳で、詩というのはおそらく同じような欠点を抱える可能性とはいつもぎりぎりに隣り合わせなのだ。つまり作品が伝えるメッセージの性質が本質的な問題なのではなくその表現方法が問題だという意味では、すべての詩がこの作品と同じような構造的欠陥の犠牲になって決壊する危険に晒されているのだということを明確にさらけ出していると云う意味において、あるいはこの作品は「詩」をいうものを、あるいは「詩を評価する」ということそのものを結果的にはある意味「批判している」。つまり作者がではなく、作品の有様が、であって、それは堤防の設計者があらかじめ甘い設計をしておきながら(堤防の設計者は何か隠さなければいけない理由がない限りそんなことはしないだろう)自身の設計の甘さを批判するということではなく、むしろ決壊してしまった事実が、さらにはそれをみた人たちがその批判をするというのと同じである。 (いじめ)

2019-10-14

全く意味が分からぬが、好きか嫌いか、と問われれば、好きな部類だ、ちぇっ。 たとえば空間や時間が無限に分割可能なんかではなく、最小単位が必ずあるのだ、と云うような、そんなことならばそれは背理的排他背理法を対角線論法的に組み込むことであるいは証明できるのかもしれないが、しかし君、宇宙の無限性と無数のドッペルゲンガーについては、それはもはや数学が惑わす形而上学的夢幻であって、裏返した缶詰に全宇宙が詰め込まれたとでもいった戯言に過ぎないのかもしれないのだぜ。 (宇宙開闢以前の《世界》は《存在》する)

2019-10-13

太宰作品はまずその内容よりも、液体のようにしなやかな文体が一番に魅力的であり、あそこまで魅力的な文体で語られれば、内容が一人の人間の惨めな独白と徹底的な自嘲であっても読者は読まされてしまうのだ。それでもユーモアを失った晩年の太宰を読むのはやはりとてもしんどい。読むのがしんどいのではなく、読んだ後がしんどいのだ。やはり太宰なら中期のユーモアと人間味に溢れる作品群が何よりも好きだ。あ、しまった、夢うつつさんのコメントに太宰がでてきたのでついて太宰について語ってしまいそうになってしまった。 さて話を戻そう、いやこの作品の話をするとすると、やはり太宰作品の一番の魅力が文体であるように(異論は認めます)この作品の魅力もやはり、流れるような文体と新鮮な言葉の選び方であるように思う。文体や言葉の選択があまりに魅力的なので内容がどんなに青臭い内容だろうが、つい読まされ、あまつさえ魅せられてしまうのだ。そこに描かれているのが例えば本当に >「自分を俯瞰視しているつもりだけれど本当はそれが出来ていないことにすら薄々気付いている自分」 であったとしても、「自分を俯瞰視しているつもりだけれど本当はそれが出来ていないことにすら薄々気付いている自分」を読ませてしまうというのはそれだけですごいことなのだと思う。その先の反応はおそらく二種類に別れるであろう。つまり嫌悪か愛好か、であって、夢うつつさんの場合は「凄い」と認めつつもその反応が「嫌悪」であったのだろう。そして私の場合は間違いなくファン的な「愛好」である。こうしてみると、これでは本当にまるで太宰のようではないか。 太宰との重大な違いをひとつ挙げるとするなら(もちろん比較できるようなものではないのであるが)この作品に「血の通った」人間はでてこないということで、それがこの作品の一番の魅力でもあり、現代的なところでもあるのだと思う。 (思春期、すべてオレンジ)

2019-10-13

語り手の一人称代名詞が「あたい」なのがすごく良い。「あたい」じゃなくて「僕」や「わたし」だったら多分恥ずかしくなって途中で読むのをやめていたかもしれない。ところどころに見られる体言止めや助詞の省略も文章がグダグタにならないちょうど良いバランスでスパイスのように効いているように思う。しかもそういうのをやりすぎていないのでいやらしくなってない。番号があることで、とにかく読みやすくなっている。箇条書きのように一見バラバラに見える文章を読みやすく並べるにはとても良い方法だ。あるいは、連続的に意味が繋がっている文章を強制的に切断する役割もときに果たしていて、それが語り手の感傷に一定の客観性と距離感を与える役割を果たしている。無理やり他者の視点が差し込まれるような、そのような不思議な効果を番号付けが生み出していて、それが非常に巧みになされていると思う。そして何よりタイトルがよい。作品の形としての離散。それぞれの断片はそれでも溶け合って重なって、解像度を落とした時には一つの連続的な像が立ち上がる。それでもその連続性は本当に一時的なもので、すぐに離散した断片に引き戻される。感傷を垂れ流しておきながら、頑なに感傷を拒んでいる。ひとことでいうと素晴らしい。 (常しえのゆめの降るさと)

2019-10-13

黒髪さん 丁寧に読んでくださってとても嬉しいです。境界はずっと前から折に触れてテーマにしてきたことなんですが、なかなか表現したい「境界」をいまだにうまく表現できずにいます。裏を返せば、うまく表現できない間はこのテーマをいつまでも掘り下げられるということなので、逆にうまく表現できてしまうというのは寂しいことなのかもしれませんね。 >全体的に、誰が何を語っているか、ということを、言わずにでも詩が成り立っている このように言っていただけるのがいちばん嬉しいです!抽象的な感覚、自分でもはっきりとは言葉にはできない感覚をなんとか言葉にして伝えたいという気持ちがあります。これもやはりなかなか満足には達成できないテーマではありますが、でもこのように読んでくださる方いるというだけで書いた甲斐があるというものです。 >意識という難しいものを、下に見据え、 つまりご指摘の通り「意識」なんだと思うんですよ。あるいは「無意識」なのかもしれない。ここで言葉の意味をどれくらい浮かび上がらせるかがとても課題で、あまりはっきりさせてしまうと「意識」よりも「言葉」が前に出てきてしまって、それは「意識」ではなくて「思考」や「感情」に接続されてしまうんです。でもあまりに訳のわからない言葉を使っても今度はまったく読めない作品になってしまう。そのさじ加減にいつも苦労しています。もっと精進せねば、と思いました。 (ソナチネ)

2019-10-08

「まどろみにうなだれて」があまりすっと入ってこないのはもしかしたら、言葉の組み合わせの個人的な好みなのかもしれないが、たとえば「まどろみがうなだれて」ならばしっくり来るような気がする。なぜなのかちょっと気になったので自分なりに分析してみると、「まどろむ」のも「うなだれる」のも「自分」であると読めるからで「自分」が「まどろむ」という動作の主体としての「自分」と「うなだれる」という動作の主体としての「自分」というふうに主語がまず二つにまず分裂し、「まどろんだ自分」に「うなだれる自分」という風に動作の対象としての「自分」との関係が複雑になってしまうがゆえに入ってこないのではないか、という気がしたが、一方「まどろみがうなだれて」とすれば「まどろんだ自分」が「まどろみ」という言葉が喚起する様々なイメージと共に「まどろみ」という隠喩に置き換えられ、その述語関係がすっきりするからではないかと、ここまで分析してみると、案外「まどろみにうなだれて」も「まどろみがうなだれて」も大して変わらないし、「まどろみにうなだれて」でもなんだかすっと入って来るような気がしてきたので、やっぱり何か引っかかりを覚えたときはちょっと舌の上で転がして味わってみるのがいいのかもしれない。正直私自身も何を言っているのか分からなくなってきたので、これを読んで訳がわからないと感じた方は多分正しいのだと思う。 全体の雰囲気は好きだし、文体のスタイルや比喩の使い方自体はすごく好きな部類のものなのであるが、この作品ではそれぞれの比喩が内容を邪魔してしまっている印象がある。 >遮断機が降りるほどの速さで瞼は閉じて夢を誘った。 たとえば、この比喩では「遮断機」というのがいまいちイメージしにくくて、それが踏切の遮断機なのかあるいはもっと一般的な遮断するものなのか少々イメージしにくい。というのはまず場面設定として踏切であることを暗示する表現がないことと、踏切の遮断機の降りるスピードは決して速くない、という私の印象から生じるイメージの齟齬が原因だと思われる。 これが例えば「カメラのシャッター」であれば「瞼を閉じる」スピードがかなり速いのだとこの比喩を具体的にイメージできるし、逆に「踏切の遮断機の曖昧な速度で」(思いつきで書いているのであまりうまくない比喩ですが)などとなっていれば「瞼を閉じる」スピードが緩めのものであることがイメージできて、今度はそれがタイトルの「まどろみ」と結びついてイメージの連鎖が発生してずっと読みやすくなるのではないか。 一つ一つの文同士の関係や繋がりにもっと注意が払われたなら、魅力が非常に増すし読める読者も増えるのではないかと思う。 >いつでも簡単に思い出せるようにと飲み込んだひとくちは、いま体のどこを通っているのかわかるくらいに冷たくて苦かった。 こういう表現は大好きだ。 (まどろみにうなだれて)

2019-10-08

非常にリズミカルで緊迫感がある。素早いテンポ。かつ生々しくなりすぎないような情景との一歩引いた距離感が読み手側に自由な解釈を許しており非常にバランスが良いと感じた。終わり方はちょっと取ってつけたような印象もなくはないし、逆に >ずうん しいん ずうん しいん ずうん からはじまってだんだん「しいん」が多くなって >しいん しいん しいん しいん しいん になる過程が興味深いが、ここでテンポが一気に間延びしてしまっている印象もある。思い切って「時間がとまった・・・」と体感させるほどテンポやリズムを一気に伸ばしてしまうのもありかもしれないと思った。ちょうど耳鳴りがずっと続くような感覚で。余韻の中から「絶景」が立ち上がる感じになっていたら最高に好みだったが、終わりが特徴的な切り方なので、景色が眼前に広がるというよりブラックアウトするといったような余韻を感じた。 (絶景)

2019-10-08

読んでいて鳥肌がたったのはクーラーの効きすぎが原因ではないはず。特に好きなのは後半から最後にかけて。読むたびに身体中に鳥肌が広がる。肌の緊張が嗚咽に変わる前に私は読むのをやめなければならない。 一言だけ付け加えるとするならば、この作品はまったく技巧的には見えないとはいえ、言葉一つ一つの扱いが丁寧であり、音韻にも注意深い配慮が施されている。つまりとても技巧的であるのだ。同時にそれは技術のための技術ではなく、手段としての技術として非常に巧みに、かつ自然に、目的の要請に応じて適切に用いられている。 技術というのは高ければ高いほど、その存在を忘れさせるのだ。 (不毛なもの)

2019-10-07

たとえば >体が体でいる感覚が >そうでなくなる時 といった感覚を、せいろんさんが感じたであろうその感覚、「体が体でいる感覚がそうでなくなる」という感覚を読者も追体験できるように言葉をあれこれ工夫するのが文章を書くことのひとつの面白みだと思います。そうするためには、必ずしも言葉や修辞で飾った難しい文体が求められている訳ではなく、あるいは必ずしも説明的な文章であってはいけないということでもない。読者がそれを読んだときに「体が体でいる感覚がそうでなくなる」という感覚を読者なりに感じられればそれでよくて、逆にそれが伝わらない限り「体が体でいる感覚がそうでなくなる」という表現は「自分が自分じゃないみたいだ」と同じくらいのインパクトしか持ち得ないのではないかと思いました。特定の文脈のなかに置かれると「体が体でいる感覚がそうでなくなる」という表現そのものはとてもパワフルになり得るのだと思いますが、この作品においてはそのほかの表現と切り離されて孤立して置かれているように感じられるため、物足りなく感じたのでした。 (走る思想)

2019-10-07

攻撃的な内容の作品の普遍性というのはおそらく、どれだけの読者がその作品の感情の矛先が自分自身に向けられているかと感じるかどうかだ、と仮定してみたくなる。たとえ作者の本当の矛先が作者自身であったとしても、あるいは特定の誰かであったとしても、読者がその感情の矛先が自分自身に向けられていると感じるならば、おそらくその作品は何か普遍的な、少なくともそう感じた人たちの集合においては普遍的な、何事かを鋭く打ち抜いているのだろう。少なくとも私の心は読んだ時に何事かをひどく恥じたのだ。自分が恥じた何事かが何物なのかは私は読解がそこまで得意ではないので分からないけれども、少なくとも一人の読者がこの作品を読んで何かを見抜かれた気がしてひどく恥じたのだ。ある場合、それで十分すぎるほどだ。 (Show Me Your Fact.exe)

2019-10-07

過去にオムニバスで投稿したものから抜粋して改稿したものです。 https://www.breview.org/keijiban/?id=3798 (ソナチネ)

2019-10-07

なんとなく、こんなセンチメンタルなことをいってみたくなるような作品だったなってことでした。 (ありきたりな言葉)

2019-10-05

あえて、ちょっとだけ論点をずらしますね。 例えばですけど「こうださんは自分の作品を対象化できていない」と私が指摘したとします。それに対して、こうださんは「できてるけど?」っていうと思うんですよ。じゃあ、そこでそれでも私がそのように感じている場合、こうださんの一連のレスの背後にある一連の心理を邪推していって私の批判はエスカレートすると思います。現に私は、なんでこうださんが「自己弁護していない」といいはるのか、の部分をツッコミにかかるところでした。でもそれは一旦置いておきます。どちらかというと、これは「議論とは何か?」あるいは「ディベートとは何か?」という問題とは全く別次元の私の負の人格に関する話だからです。私はその部分に蓋をして生きています。蓋を開けたところで周りの人と自分を傷つける結果になって何も生み出さないからです。徹底的な破壊願望が奥底のほうにあるんです。だからその蓋をあけるような行為はしたくない。ただそれだけのことです。私はあえてロジカルな書き方を放棄しています。論理的な問題ではないからです。 >自己模倣については、survofさんがいろんな形式の詩を書こうとされているのを見ていたし、それでも「息継ぎなしの流れるような物言いの散文詩」というsurvofさんが得意とする形式に何度も戻ってきているように見えていたので そうなんですよ。ご指摘の通りで、どうしてもそこに戻ってきてしまう。そこを一旦突破したい、と思っています。 >これは結構大事なことなのですが、自分が成長できているかは今の自分ではなくて未来の自分が決めてくれることだと思っています。 それはそうかもしれませんね。肝に命じます。ありがとうございます。 (┣びそあターャジス┳スジャータあそび┫)

2019-10-05

さようならするには遅すぎるし、さようならするには早すぎる。 (ありきたりな言葉)

2019-10-05

ご丁寧にありがとうございます!作品ができるまでの過程とても興味深いです。 >survofさんとの対話が建設的なものになるかどうかは、主に私にかかっているので。 これはお互い様な部分はあるかと思います。こうださんの自己弁護が続く限り、私はきっと私の価値観でツッコミを入れ続けると思います。そしてそれはだんだん苛烈になり、最後には人格否定的な批判に発展してしまうのがわかっているので今回はやめておきます。自分の持っている物差しと違う物差しを作者が確固として持っている、かつ、作者自身の信念のもとそれを守る覚悟でいる、というのがわかった時点でやはり一旦議論は中止すべきなのでしょう。 さて、自分がなんで今回のように自己模倣について触れたかというと、実は私がなにより自己模倣に陥りやすいからです。なのでこうださんに対して、ひとつひとつ説明を求めたい、細かい論理の矛盾のつつきたい、負かしてやりたいという気持ちはないんです。ただ、詩の掲示板として、「自己模倣」という言葉は参加者全員に対して投げかけておきたいし、自分にも常に問いかけていきたい、という気持ちで書いています。というよりも、自分にとって自己模倣が特別な課題なのでしょうね。それを他の作品に投影させてしまった部分があるのかもしれません。 (┣びそあターャジス┳スジャータあそび┫)

2019-10-05

するすると連続的に繋がる言葉がまるで素麺を食べる時みたいな感じで次々と入っては飲み込まれていく感覚はとても心地よい。が、一方でめんつゆなしで素麺を食べているような感じがあることも否定できず。唯一の味付けがタイトルの「静かなる地獄」で、まさにこの味のない感覚こそが苦しみなんだ、どんなに重たい感情さえも無機質に扱われて流されていくのだ、人生とは伸びきったつゆなし素麺の喉越しなんだ、という無常観、虚無感の表明とも取れるが、結果としてこの作品の素麺感が生まれてしまったのか、それとも自覚的に素麺にしたのか、読者としては判断材料が少なく微妙なところである。もし自覚的に素麺にしたのであれば、タイトルにももっと素麺感が欲しかったりなどするが(「地獄」などということばは素麺にメンチカツが入っているようなものである)、たとえば、大きな画面でみたときに、無機質に直線がズラーズラーと並んでいる感じはまさしく素麺であるのでやはり自覚的に素麺にしたのではないか、と、この素麺感に対してはちょっと好意的な気持ちを持っている。が、やはり若干麺が伸びているので、茹でたあとは一回きちんと冷水でピシッと締めてもらいたい、というのが正直なところである。 (静かなる地獄)

2019-10-05

ご返信ありがとうございます。ではさらにお聞きしたいことあります。 ・あえて魚の形にしたのはなぜか? ・対称性を強調するという意味では魚の形はむしろコンセプトを邪魔するものになっていないか? ・そもそも、一番の作品コンセプトは何か?回文や倒文なのか?魚なのか? 個人的には魚の形をしたものよりも、作品の原型になったという第一連のアルファベットを使った回文単体のほうがよりコンセプトがはっきりしているしインパクトがあると思います。第一連を読んで回文や倒文を使った「遊び」であるということに気づかない人は少ないと思います。それだけ、形に必然性と説得力があります。 アルファベットを使っていることにも同様に必然性と説得力がある。日本語のたとえばひらがなやカタカナは表音文字だけれども母音と子音のセットなので、このような視覚的対称性はアルファベットほどには明確に伝わってきません。それは「2連」目の倒文の試みをみれば明らかです。一方でアルファベットは音素に対応するのでやはり必然性と説得力がある。 では魚の形は読者にはっきり伝わる形での必然性があるでしょうか?作り慣れた形に甘えてしまってはいないだろうか、と邪推してしまうんです。 私は視覚詩をやることの必然性までは問いません。結果としてできあがった視覚詩が必然性をもっていればそれが視覚詩をやることの必然性になるんだと思います。それはどんな形式を選ぶにしても同じことではないでしょうか?つまり渡辺さんは視覚詩をやることの必然性に疑問を投げかけているようにみえて、実際は視覚詩としてのクオリティを問うているだけではないかと思うのです。 (┣びそあターャジス┳スジャータあそび┫)

2019-10-05

自己陶酔を作品に昇華するのはとても難しいことだと感じる。昇華できた場合、読み手もその作品を読んで陶酔できなければならない。というのは私の持論にすぎないが、少なくともこの作品で私は酔うことができなかった。自己陶酔はあまりに簡単に「詩」に入り込んでしまう毒のようなものだ。 (津軽と僕と月夜)

2019-10-05

優れた作品の尺度のひとつに、そこに人間のリアリティーがあるのか、というものをあげる人も多いと思うが、この作品はまさにそんな作品なのではないかと思う。それゆえに、作品を作品として作者から切り取って作品の内容に対して何かしらコメントするということに、どこか一人の人間の良さを言葉に並べ立てるときの白々しさや、その人間の欠点をあげつらう時の傲慢さというのが入り込んできてしまいそうな気がして、なかなか俯瞰してコメントするのが難しい。かといって下手に共感するのも憚られる。ひとがその内奥を何かしらの形で吐露したときに聞き手が「なんか、それわかる気がするよ」といっていいのはわりと限られたケースではないだろうか。 悪く言えば、作品と作者の距離が近すぎる、あるいは近すぎるような印象を与える形で書かれているので、個人的にはそこにもっと俯瞰した距離が欲しくなる。これは私の物語でもある、私の感情でもあるのだ、と多少なりとも読者に感じさせることができてこそ、感情の共有というのは可能だと思うからだ。 あるいはこの作品に対して、非常な共感をもつ読者というのもおそらくいるのだと思う。そうした読者だけに伝わればよい、というのもひとつの創作のあり方で、その場合、私はそこまで深い共感を持たなかったと言う意味でこの作品の適切な読者ではないのだろう。それでもやはりこれだけ緊密で緊張感がある魅力的な言葉が並べられているのだ。自分はこの作品にしてみれば仲間はずれかもしれない、と感じられしまうのはやはりとても歯痒い。 (白い棟)

2019-10-05

>青、赤、黄色 、緑色。 自分にとって世界はモノクロームであると主張していながら、語り手は「青、赤、黄色 、緑色」といった色の名前を知っている。 >僕にとっては同じ色 色の名前を知っているだけでなく、色という概念も知っている。 つまり語り手は色という概念を知っていて、語り手が見ている世界が彩度を持っているのだと読むことができてしまいます。 ここから先の読み方はふた通りあって、ひとつは語り手は色彩を知覚できる(あるいは、できた)ものの、眼前(眼下)の風景が無彩色に見える、ということを書いた、という読み方。もう一つは、本当に彩度を知覚できない語り手が眼前(眼下)の風景を語ったというもの。 私個人としては後者の路線でよりリアリティーをもったモノクロームの世界の描写をみてみたいという思いが残ったが、先ほどあげた部分で、語り手が色の概念を知っていること推測できてしまうことにより、そのリアリティーが一気に削がれてしまっているように感じて、迫力が一気に失われてしまう。 一方前者の路線で読もうとすると >過不足ないけど味気ない という語り手の心情を描写する言葉が多すぎるて、この表現の切実さが迫ってこないように感じてしまう。 これは人それぞれの好みだと思うが、私個人の好みからいえば、本当に色彩という概念を知らない&彩度を知覚できない視点からの風景を写実的に説得力のある仕方で描くことによって、むしろ、色彩という概念を知っているけれども世界が無彩色にしか見えなくなってしまった語り手の心情をより切実に表現できるのではないかと感じた。 そのほうが >過不足ないけど味気ない といった言葉に説得力がでるのではないか。 (カラス)

2019-10-04

お洒落。なんだろう、とても今っぽい感覚。最果タヒの二番煎じだといってしまえばそれまでだけど、二番煎じだと思わせるのは実は結構難しいことだ。というよりも何事も二番煎じから始まるはずなのだ。 >飛び散る破片が、誰かの明日になって、その明日がきみを傷つければいい。 この表現なんかはほとんどタヒだけど >午前10時、最終的に、海。 >飲まれては、浮かび上がるのは、 >ひとびと。 それでも、こういった表現にはユニークな鋭くて瑞々しい感受性を感じる。このラストはとても好きだ。言葉に引き出された情景に音を立てて飲み込まれていく美しい感覚。 (午前9時、最終的に、雨。)

2019-10-04

面白い。この倍あっても多分余裕で読める。というか読み足りない。もっとぶっ飛んで、この3倍以上は書いて欲しかった。内輪ノリだし、とある事件のパロディに過ぎないのかもしれないけど、だから面白い。だからこそ読める。何回も書くけれども面白い。が、短すぎる。さらっと読めるだけの文章力があるだけに短いのが難点である。もっと書いて書いて垂れ流した駄文で読者を、私を楽しませる義務がこの作者にはある。 (ぽえとーく)

2019-10-04

遊びが恰度酔い。菜傘もちょうど宵。無堕は夢美心地で斬棄てなければならない。此れ昏いがいい。 (パステルカラーの剱で以て)

2019-10-03

南雲 安晴さん 確かに指摘されて読み返してみると、最初の二行とそれ以降の繋がりがあまりうまくいっていない感じがありますね。繋ぎ方を失敗したか、あるいは全体構成があまりうまくいっていないか、何か原因があるはずなので、ちょっと自分でも分析してみます。もしかしたら、それぞれのパーツがバラバラになってしまっているのかもしれません。ご指摘ありがとうございました。 (姉よ)

2019-10-03

これをいってしまったら元もこうもないのですが、面白い表現スタイルであっても同じものをずっと見ていると飽きてしまうな、ということで、それは必然性あるなしに関わらずだと思います。自己模倣はものを作る人なら誰もが陥りやすい罠だと思いますが、個人的なワガママをいうなら、せっかく投稿するのであれば、どんどん新しい表現を見たいです。どんな好きなミュージシャンでもずっと同じスタイルでやっていたら飽きますし、円熟していくというよりも単純に手垢がついて最初にそのスタイルが持っていた魅力さえ失ってしまいます。こうださんの作品は、もちろん細かいバージョンアップはされているのだと思いますが、そろそろ見飽きて来ているというのが本音です。ただし、これはこうださんに限ったことではないです。 ただ意味を伝えようとしている作品、日常のなかの情緒を描き出そうとしている作品と、こうださんのように、そうした意味から離れて「遊ぶ」作品とで比較した場合、前者はその内容である程度そのスタイルのマンネリをカバーできるところがあるのに対して後者はスタイルがマンネリした時点で読者は飽きてしまいます。スタイルと作品が直結しているからです。こうださんのなかで繰り返し用いられる魚のモチーフの扱い方も、それがオブセッションであると感じさせるためにはありとあらゆるスタイルで書いて、そのテーマから逃れようとしているのに、どうしても出て来てしまう、という漢字でないとオブセッションとしては読者には届かないのではないでしょうか? 遊びだからこそ遊びにバリエーションがないといけないと思っています。しかも一つの枠のなかでのいろいろなバリエーションではなくいろいろな枠を用いることこそが、作者の遊び心をのびのびと読者に伝えるためには不可欠なのではないかと思います。 (┣びそあターャジス┳スジャータあそび┫)

2019-10-03

そっか、確かに作品全体を離れた位置から読むとそういうふうに読めてしまいますね。指摘されて初めて気づきました。読みは読み手に託しているといいながら、今回に限っては「ラファエロ」からの流れがあるので、その読まれ方はさすがに嫌だな、笑。書く際に細部にとらわれ過ぎていたのだと気づかされました。ありがとうございます。 (姉よ)

2019-10-03

ひらがなにした部分と漢字にした部分、なんだろう、お互いに邪魔しあって、それぞれの効果を消しあっている印象があります。ひらがなで書くことで、言葉に柔らかみが出て、漢字のときよりもイメージが膨らみかけるのですが、膨らみそうになったところで漢字に邪魔されて普通の世界に戻されてしまう、というもどかしさがあります。それが夢とうつつの境界をいったり来たりする感覚を狙ってのことなのかな、、とも思ったりして、それはそれで、おお、面白い!とも思うのですが、まだまだ夢とうつつの継ぎ目が荒過ぎて、滑らかに行き来していかないのが惜しいなと思いました。例えるなら0と1の間でギッコンバッタンしてしまっている印象があります。 漢字とひらがなの書き分けをしない状態でも一定の効果を発揮する状態まで文章を練り上げてから、このギミックを慎重に用いたならものすごく面白い作品になったのではないか、という予感があります。多分、いまの状態だと、記号の多用などを含めたこうした仕掛けを一切無くした時に残るものは割と少ないのではないか、そう感じてしまうのです。 (ゆめうつつ)

2019-10-02

歌詞はどこまで楽曲と切り離して鑑賞しうるかについて考えてみる。例えば極端な例でいうと Sigur Ros の Vaka という曲(そもそも初回リリース時は曲のタイトルも Untitled #1、つまり「無題」だった)の歌詞はホープランド語という彼らの造語で書かれ、ほとんど意味がないものとして書かれた。さてこのような曲の歌詞は楽曲と切り離して鑑賞することが可能だろうか。そもそもこの曲の例においては、ヴォーカルも楽器の一部に過ぎないという彼らのコンセプトがこうした試みの元になっているので、歌詞だけを取り出して鑑賞することはおそらく目的とされていない。何がいいたいかというと音楽というのは歌詞が滅茶滅茶でも十分に成り立つということだ。 逆にいうと、たとえ歌詞として投稿されたものであっても、それが音楽から切り離されて扱われている場合、歌詞としての練度を求められるのではないかということで、その場合は音楽をつけたくなるような魅力を歌詞そのものがもっていなければいけないと、私は考えてしまう。世の中には先ほど私が出した例とは反対に優れた歌詞につけられたメロディーというものが多くあるはずだ。そうした歌詞はおそらく楽曲と切り離したとしても歌詞としての十分な魅力をもっているはずなのである。つまり、ビーレビで度々目にする「歌詞だから云々」という議論にはあまり意味がないように感じられるのだ。歌詞であろうとなかろうと、作品として提示された言葉に力がなければ、それまでなのでないか。 さて、ここまでのコメントは必ずしも作者へ向けたものではない。歌詞云々を巡る議論が度々発生するので、問題提起をしたかったまでだ。 ちなみにこの作品、もとい歌詞がわたしにとって魅力的に感じられたかということになると私はものすごく言葉を濁さなければならない。主観を排除した作品や歌詞は私の好みである。軽い作品や歌詞のなかにも好きなものはたくさんある。しかしこの作品はただただ私を素通りするのみである。それはちょうど休日に旅行に向かう楽しそうな家族を脇目に見ているような、そんな感覚である。 と、ここまで書いておいて、私が好きな曲のうち、この作品に調子が似ていると思われる大貫妙子のメトロポリタン・ミュージアムの歌詞をみてみたが、歌詞単体では正直何も感じなかった。つまり私がひどく鈍いか、もしくはこれまでの私の議論がすべて無駄であるか、あるいはその両方かのどちらかであることが証明されてしまった。諸行無常、ああ無情である。 (バカバカバカンス)

2019-10-02

描かれている情景は非常に魅力的である。ただしこの作品は作品の絵コンテである。どのような情景を描きたいかの説明書きに過ぎない。つもり情感は読者の想像力のなかだ育まれるものであって、作品そのものが誘発するものではない。さて、これは作品のあり方として否定されるべきものだろうか? オノ・ヨーコの作品に「グレープフルーツ 」という作品がある。シュールな命令がシンプルに並べられているだけで、作品は鑑賞者の想像力のなかでのみ完結する。ただしオノ・ヨーコはオノ・ヨーコである。本場のアートシーンの業界人が業界の空気を機敏に読んで制作されたハイコンテクストなコンセプチュアルアートである。つまりこの種のコンセプチュアルな作品が成立するには、成立するための文脈と、その文脈を共有した鑑賞者が前提として必須になるのではないか。 さて、この作品をそのようなコンセプチュアルなものであるとして成立させることがこのビーレビという場において可能なのかどうか。私はこの点に関してはとても否定的である。いまビーレビ読者が共有している文脈は「読者の想像力のなかで完成させる」というコンセプトとは直接は繋がらないように感じるからだ。もし、そのコンセプトで作品を成立させるとするならば、作品自体にオノ・ヨーコをはるかに凌駕するインパクトと鋭さが必要になってくるのではないだろうか。 以上は仮にこの作品がコンセプチュアルなものであるとして、の話であるが、それにしても、この作品の絵コンテはコンテとしては非常に魅力的である。この絵コンテから私も一作書き起こしたくなったほどだ。あるいは、そういう企画があっても面白いかもしれない。 と書きたいこと書きたいように書き連ねてしまったが他の方の全く違う感想やコメントもお読みしてみたいものだ。 (鈍行列車)

2019-10-02

この作品は以前にオムニバスで投稿したもののから抜粋で再投稿したものです。 https://www.breview.org/keijiban/?id=3798 (うつつ)

2019-10-01

stereotype2085さん 冗長で難解に感じられ、しかも途中で眠ってしまわれたのなら、おそらく私の作品の狙いとしては大成功です。そもそもこの作品に意味などなく、そこにあるのは引き伸ばされた一瞬の時間が持つ冗長さだけです。その冗長さのなかにもし揺らぎを感じていただけたなら、その揺らぎの中に私の表現したいことはすべて含まれています。なんならまったく意味をなさない音の羅列でこの作品を構築してもよかった。でもそれでは、そのような揺らぎのある冗長さは生み出せない。あるいは生み出せたとしてもその揺らぎを誰かと共有するのはとても難しくなる。ステレオさんのコメントは全体として非常に的を射ていると思います。ラストの部分の読解、あえて意味を読み解いてくださったことを嬉しく思います。なぜなら間違いなくこれはすでに土に還った死者のための詩であり、またこれから死にゆく生きた死者のための詩でもあるからです。 蛇足: 「バックトゥーザフューチャー」は撮影にお金がかかりますし、芸術芸術言う人はみんなハリウッドをバカにしがちですけどあれって相当技術が必要なわけですよ。とてもじゃないでけど、今の私の技術力で「バックトゥーザフューチャー」なんて書けません、笑。まあ、技術だけっていう見方もありますけど、自分は少なくとも「バックトゥーザフューチャー」は好きですよ。これ告白するの結構恥ずかしいんですけど、正直言うと私はゴダールみたいなフランス映画、わけがわからなくて本当に寝ますからね。おなじミニシアター系でもジム・ジャームッシュみたいなのはすごく好きなんですけど(だって意味がないから)、ゴダールだけは本当無理です(だって意味がありすぎるから)。 (うつつ)

2019-09-30

藤 一紀さん コメントありがとうございます!そうなんです、この詩を形に例えるとするなら私も流線型の何かなんです。「柔らかな水の流れに手を浸している」っていうご感想も嬉しいです。 (うつつ)

2019-09-30

新染因循さん 「老人の独白」というご指摘、なんだかとても鋭いところを突かれた気がします。詩とはもしかしたら、老いながらも生き続けることの気慰みのようなものなのかもしれません。白痴と忘却の間、ずっと見つめて生きていたいと思っています。なんかとても芯の部分、もしかしたら伝わったのかもしれない、とコメントをお読みしてとても嬉しい気持ちになりました。 (うつつ)

2019-09-30

改行がきちんと効いているし、同じ表現パターンの繰り返しが作り出すリズムが非常に心地がよい。中盤まではグイグイ引き込まれた。すでに他の方のご指摘通り中盤以降ダレてしまっている印象がある。ただ、後半で表現されている微妙なすれ違いをこのスタイルでうまく表現するのは難易度が超絶だと思う。あるいはこの文体でなくてもこの内容をその繊細そのままに文章にするのはやはり難易度が超絶だ、私はそう思う。少なくとも私は自信がないし、プロの小説でもこういう表現がうまくいっている作家さんってもしかしたら稀なのかもしれない、とさえ思う。文豪たちでさえ手こずっている印象がある。あまりに説明しすぎると複雑になりすぎて逆に伝わらないが、その詳細を削る過程でどうしても文章が作為的になってしまうようなところがあるような気がする。そう考えると、なるべく作為的な手つきは排除して素直に書くことに徹しているように見える本作は、どちらかというと善戦しているというべきなのかもしれない。 (悔)

2019-09-29

確かに藤さんがおっしゃるようにくさい。でも、例えばブランキー・ジェット・シティーの「悪いひとたち」みたいに、ブルージーなギターに乗せて浅井さんがこの詩を語っているところを脳内再生すると全然悪くない。あとはちょっと違う路線だとたとえば NUMBER GIRLS の向井さんのシャウトみたいな感じとか。「頭の中で風変わりな学者が講釈している」のようなゴチャゴチャした表現もむしろ活きてくる。 私の持論は作者と作品は切り離せないということ。ステレオさんはキャスなどでのキャラが定着してしまっているので私は読むときにそのキャラのイメージで読んでしまう。そうすると、こういう作品の書き方はものすごくダサく思える。だけども、もしステレオさんのネット人格がもっとオルタナティブな感じだったら、それを前提に読むのでむしろ格好良く思えたかもしれない。ステレオさんのネット人格はこの手の表現を読み手に納得させるにはあまりにも「いい人」なのだ。 (ラブソング)

2019-09-29

夏野ほたるさん >読めば読むほど取り残された静寂でいっぱいになる この感想とても嬉しいです!自分が書いた言葉が自分を離れて誰かの中に染み込んでいくっていうのはとても嬉しいことです。確かに伝達という意味では一種のコミュニケーションですが、決して双方向ではない、特殊なコミュニケーション。言葉の持つ本来の意味から乖離したところで、こうした伝達が可能になるのが詩のいいところだと思っています。 もちろん、言葉の意味を大切にされる方からすると、私の作品はほとんど何も言っていないのと同じだと思います。というより、実際何も言っていないんです。何も言えないんです。だから、知覚の限界ギリギリのところで何かしらの感覚の伝達が成立するのが一番嬉しいし、もっとギリギリのところをどんどん攻めていきたいです。 (うつつ)

2019-09-29

私は英語ネイティブではないのであくまで日本人読者としての感想なんですが >The sound of trumpets brings me desolation >and the line of drums seems to refuse me >The color of the forest makes me insane >and the river at the valley is so horrible の sound, color, river などは単数形ではなく複数形にして(あとちょっと細かいところ変えて) The sounds of trumpets make me feel desolate and the lines of drums refuse me The colors of the forests drive me insane and the rivers at the valleys are so horrible のようにしたほうがそれぞれイメージがより芳醇になるような気がします。 ただ、ネイティブが読んだときにどう感じるか?はちょっとわからないです。での外国語で文章や詩を書くのは楽しいですよね。 自分も何か書いてみたくなりました。 この作品に関しては日本語よりも英語の部分のほうが個人的には好みに近いです。もっと直訳っぽくしても面白いかもしれないと思いました。 (Fanfare stomps and landslides will occur)

2019-09-28

訳の分からない作品には二種類ある。分かる作品と分からない作品だ。そして、この作品は私には訳が分からないけれども、それでもなんだかとても分かる。私には分かる気がした。分かる気がしたのだ。所詮「批評」などというものは知識の開陳にすぎない。論理遊びにすぎない。だが、分かる様な気がする作品を読んだときにいえるのは「分かる様な気がする」ということだけであり、それ以外の言葉で何か大事なことが説明できるのかどうか、そんなことは私には分からない。「批評」と「批判」の違いを私は分からない。「批評」とは作品に対して評者が常に上位に立つ行為であるという点において本質的に「批判」となんら変わるものではない、と私は思う。「批評」の意味を問うことの意味が私には分からない。そして、少なくとも私はこの作品の上には絶対に立てない。私には書けない言葉で紡がれ、私が知らない思索を包んでいる。それで十分だ。心の奥底の誰かが深く頷くのだ。分かる気がするのだ。それは切実なのだ。 (歌)

2019-09-27

この作品の言葉が持つ含蓄を前にしては技術的なことを云々するのはすべて無駄なものに思える(もちろん無駄な訳はないのだが、そんなふうにいってしまいたくなる。)言い方を変えれば、技術に頼って書かれていない点に非常に好感を覚える。そして、そうした含蓄のある言葉にアフォリズムやエピグラムといった気取った名前をつけてしまうのも憚れるほど、言葉ひとつひとつが真摯で誠実だ。そのような言葉が丁寧に、謙虚に、そしてささやかにそこに置かれる様が非常に美しいし、やはりひとつひとつの言葉に、生きることの重みが染み込んでいるのを感じる。結局、何年も大切に自分のそばに置いておきたい、何度も読み返したい、と思えるような作品というのはこういう作者の作品なのではないかと真剣に思っている。 (作品単体としての完成度を論じてはいるのではない。私は主に、作者が作品に向き合うときの姿勢に非常に揺さぶられるものを感じているのだ) (悲しみの祈り)

2019-09-25

体言止めが非常に効果的に効いていて、なおかつ作品全体に推進力を与えている。言葉同士のリズムも絡み合って、しかも独特の字余り感が好きだ。切り捨てていくようなリズムが非常に心地よい。が、やはり同じリズムが続きすぎな感は否めないのでどこかで、部分的にきちんと言葉のリズムをかっちりそろえる(たとえば字余り感を無くして五七調にしてみるなど)、あるいは体言止めのスタイルを一連だけ崩すなどあるとよいのかな、と個人的には思った。みうらさんの感想とは逆で私は作品全体は動的に脈打っているように感じられたが、もしかしたら読み手によっては、全体を通しての技法のマンネリ感が作品全体を「静的」と感じさせてしまう原因となっているのかもしれない。 (夢喰いと悪夢)

2019-09-25

>※朝は微分不可だが、夜は全微分可能である この表現が詩情を孕みそうで孕まないギリギリのところで、詩情が孕まなかったっていう印象です。「朝が微分不可」とは「朝」(または「朝」に流れる時間や知覚)の不連続性や離散性についていっているのでしょうか?あるいは「夜」の場合はそれが連続的になるということなのか。 作品のどこかに作者が何を感じたかのヒントが欲しい。 もしこの作品を楕円に例えるとするならこの最初の注釈が一つ目の大事な焦点となっているように感じますが、焦点としての役割を果たしきれていない気がします。ただ「朝は微分不可だが、夜は全微分可能である」という表現自体は全然悪くない気がします。 特に「proof」の部分では詩文が言葉に翻弄されてしまい、焦点が作品全体を画鋲でビシッと留めて置くことができずに、作品のそれぞれの部品が楕円にそった軌道上を疾走する点Pの遠心力でバラバラに瓦解してしまっている感じがします。ちょうどこのコメントのように。 それにしても二つ目の焦点である >※詩のすべてが、注釈である これは、稀にみる名言だと思いました。詩だと思いました。 (Note:)

2019-09-25

文章としてのレベルの高さは花緒さんのご指摘の通りだと思う。ただ、私にとってこの作品は、その読みやすさとは裏腹にハイコンテクスト(つまり文脈依存)すぎて、非常に「読みにくい」作品であると感じる。もし文脈がない作品であるなら、「言葉遊び」ならぬ「物語遊び」ではないか、とそんなことを考える。もし「物語遊び」であるならば「何かしらのテーマ」の臭いがしてしまっている時点で「物語遊び」としては私の好みではない。というよりもそれが臭ってしまっている時点で「物語遊び」として読む選択肢は自然と消滅してしまう。それゆえにやはり文脈依存なハイコンテクストな作品として扱わなければいけなくなるが、私はこの作品の臭いが放つ問題についてあまり深く考えたことがない。つまり非常に敷居が高い。もっとくだけた言い方をするならば、私はバカなので、正直意味がわからない。バカに寄り添った文体でバカを徹底的に拒絶しているという点において、この作品が持つ捩じくれた精神構造は個人的に非常に好みである。 (神様のシュークリームのはなし)

2019-09-25

まずタイトルが最高である。そして理屈抜きに好きな作品だ。作者が男性なのか女性なのか、何歳くらいなのか、私にはわからないけれども、詩というのは25歳以下の「若者」と女性に圧倒的に有利な表現媒体であると勝手に思っている。それは数学が若者に圧倒的に有利な学問であるのと同じだ。この作品は散文の形式を取っているがあまりに詩なので、作者は女性であるかあるいは「若者」であるか、またはその条件の両方を満たしている若い女性なのだ、と断定したくなるほどだ。私はわざと読みにくい長文を垂れ流して、自分の作品の詩情のなさをごまかすのがとにかく得意である。だから逆に、この作品のような小細工の少ない素直な詩情を湛えた散文詩というものには正直、嫉妬を禁じ得ない。すべてが柔軟に感じられるのだ。 (重力をミルクに漬けて)

2019-09-23

改行するところと、散文調にするところを分けてもう少しメリハリをつけたほうが、読者の注意を最後までひきつけることができることができたのかもしれないというのが正直なところだ。改行通りに、一行一行を丁寧に余韻に浸りながらよむには、一行一行が物足りないし、むしろ散文調にしたほうが流れがよくなり読みやすくなっただろうと思う。 しかし、最終連のように一行一行、あるいは一言一言に十分に気持ちと意味が込められているような箇所ではむしろ今回のような改行が施されているほうが読者の心にも響きやすいだろう。 つまり、本当に強調したい箇所だけに改行の技法を用いて、それ以外は流れと可読性を重視した形式を選ぶなどの柔軟性を取り入れば、作者が本当に響かせたかったことが読者にはっきりと伝わるのではないか、と感じた。 (スペアタイヤ)

2019-09-23

>これはどうにも関係ないのですがいまチャンドラーのプレイバックを読んでいてよくわからない英語を清水俊二の早川版であたったらそっくりぬけ落ちていた村上版だとどうなのかしら。 どうでしょう・・・。自分が日本語と英語の両方で読んだ米文学って「怒りの葡萄」くらいで 、しかも日本語と英語を比べたりしないのでよくわからないです。 英語で読書するときは、読んでよくわからない箇所は辞書引いて、何回か読み返してダメだったら平気で飛ばし読みしちゃいますね^^; (Virus)

2019-09-23

本職ですね。phpは基本しかわからないですが。。今仕事がかなり忙しくて運営のヘルプには残念ながら回れない状況で大変心苦しくは思っております。 (巨体不明感情関数)

2019-09-23

個人的には好きなスタイルだし、実は私もよく似たような文体の作品を書く。そしてだらだら書いているようで、かつこの作品のように文章としてのリズムと緊張感を持続させるのは結構細かいところに「細工」が必要なことを知っている。それは必ずしも簡単なことではないので、もしそれが無自覚になされたのなら、それは一つの能力なので、それを最大限に活かしたもっと長い作品も是非お読みしたい。 さて、気になる点がいくつか、文章のそれぞれを「。」で区切ってもなおいまある一定の緊張感が保持されるかという点。もう一点は改行を挟んだときにどれだけそのようなリズムや緊張感が残るかという点。もし「細工」が小細工であるに止まらず、本当に作品の「内容」あるいは作品の核と一体になっているならば「、」yた「。」を挟んだり、あるいは適宜改行を用いるなどして、可読性をあげたとしても本質的な文章のリズムと緊張感は決して崩れないだろうと思う。 果たしてこの作品もっといえば作者の使った手法がその試練に耐えられるか、は考えてみても良いポイントだと思っている。 (Virus)

2019-09-22

あるいは3項演算子を使って console.log(恋 < 愛 ? "苦しい" : "好き"); のようにもかけるかもしれない。が、やはりエクセルのほうが理解できる読者が多いだろうと思う。 (巨体不明感情関数)

2019-09-22

レスレスさせていただくと、エクセル関数を選んだのが表現のシンプルさに繋がっていて実験としてはある程度洗練されたものになっていると感じる。 これが普通のプログラミング言語ということになると、いくらシンプルに書いても if (恋 < 愛) printf("苦しい"); else printf("好き"); などと、簡潔さや明瞭さが失われてしまい、むしろ読み手の注意は内容よりもそのアイディアを使ったことのほうに奪われてしまったのではないかと思う。 (巨体不明感情関数)

2019-09-22

ありふれた言葉で紡がれているからこそ、作者の「世界」を切り取る断面の鋭さが伝わってくるような作品になっていると思う。ただ、そのようにありふれた言葉をつかって感受性の鋭さを読者に伝えるのはなかなか難しいことだとも思っていて、それでもこの作品はある程度そのことに成功しているように思う。 >愛にできることはそろそろなくなった。 >絶望するのは一番簡単な自殺で 特にこの二つの表現が非常に効果的に働いているように感じる。とても好きなフレーズだ。理由はまだない。 (雨傘の詩)

2019-09-22

いや、むしろまったく日和ってないみうらさん、すごいっしょ、ロジック使わずに暴論ふりかざしてビーレビ改革しちゃってるみうらさん、やばいっしょ、笑。俺はそういうの嫌いじゃないっすよ、サーカスナイト。 (はじめてのSEX)

2019-09-22

メ【ロ】ンコリーそしてさりげない縦読み。 (はじめてのSEX)

2019-09-21

>めぐり巡る >果てなき情緒を >僕は試している この表現とても好きです。 (情緒)

2019-09-21

自分自身の感情についての条件式であるなら「恋<愛」ではなく「恋>愛」のほうが私の場合は内容としてしっくりきますね。あくまで私の個人的な経験からですが。 (巨体不明感情関数)

2019-09-21

正確にいうと「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない」(wikipediaから、笑)っていう内容でゲーデルっていう人が不完全性定理という名前で証明しちゃいました。 ちなみに論理全般に適用した私の使い方は実はちょっと間違っていて、もっと数学的の理論(公理系って呼ばれてます)に限定された話なのですが、それでも最初知った時はどんなに論理的の精緻を極めた数学でもこんな限界があるんだ!・・ってびっくりしました。 実はこの定理にはもう一つの定理とセットになっていて「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」(Wikipedaからコピペ、笑)というもので、要するに、きちんと矛盾なく数学の論理の前提を揃えて、そこから論理を展開しても、その理論体系とは矛盾しない、かつ、その理論体系からは証明できない独立の命題が必ずあるよ、って意味で、こちらも数学の限界を示していると共に、裏を返せば、数学のある理論体系はいくらでも拡張可能だよ、っていうちょっと希望のある話でもあります。 このゲーデルっていう方はこんな難しいことを考えすぎて晩年は精神に支障をきたしてしまいました、涙。 今回の私も、あまりに論理的に考えすぎてちょっとコミュニケーションに支障をきたしてしまったようなところがあったかもしれませんが、それでも本当に丁寧にご対応いただいて非常に嬉しく思いました。最終的にはいろいろ考えさせられる機会となり、やはりリクエストに答えてコメントしてよかったな、と思っています。 こちらこそありがとうございました! (ラファエロ)

2019-09-16

修正:つまり論理で証明できるものは世の中に一つもないのではないということになるわけですが ー>つまり論理で証明できるものは世の中に一つもないのではないか?ということになるわけですが (ラファエロ)

2019-09-16

もちろん、ステレオさんや私の論理展開に穴がある、という意味でもあるのですが、そもそもこの世の中にロジックだけで完璧に証明しうるものなど数学の定理くらいなものなんじゃないか、あるいは、数学すらも基礎まで掘っていくと今度は「論理」というものの無矛盾性を論理によって証明するという話になっていくわけで、数学では「論理自身の無矛盾性は論理そのものでは証明できない」ことが証明されています(よく考えれば当たり前の話ですが)。つまり論理で証明できるものは世の中に一つもないのではないということになるわけですが、例えば物理学がある物理理論を論理的に隙なく証明することが不可能であったとしても、それが入手可能なあらゆる実験結果と概ね合致する限りにおいてその理論を「信じ」かつそれを活用して人を月面に送ったり、量子コンピュータを構築したりすることが可能であるように、人間関係において相手の誠実さが信頼できるかどうかというのは実のところロジックによって証明されるものではないし、証明され得ないものだけれども、それでも相手が誠実であると判断したほうが妥当であると判断し場合に、それをお互いに信じることで人間関係というのは何とか成り立っているのだと思っています。それでも、信じたくないと頑なになっていれば、どんなに妥当な証拠を目の前に突きつけられても、それを信じないという選択肢は少なくとも論理的には常に用意されているのです。 と、またもや長くなりそうですが、論理に穴があるということに決してステレオさんをこれ以上責める意図は全くありませんので悲しく思わないでいただきたいです。それは私のことでもあるのですから。 そして、こちらこそ楽しいやりとりでした。私自身の創作にも活かせるようにしていきたいです。 (ラファエロ)

2019-09-16

追記:論理的な穴をつき始めればキリがないです。ですが、こうしたコメントでのやりとりでは特に論理的に穴のない論理展開というのは無理な話です。つまりもうこの段階になると相手を信じるか信じないか、という話にならざるを得ない。そして、信じるか、信じないか、は入手可能な限りの情報を集めた上で、では自分が相手信じたいか、信じたくないかということになるかと思います。で、私は、ステレオさんを信じたいと思ったということです。 (ラファエロ)

2019-09-16

ステレオさん、丁寧なご返信を本当にありがとうございました。あとはステレオさんの誠意を私が信じるかどうかという問題でしょう。そして私はステレオさんの誠意を信じることを進んで選びます。ご返信、改めて本当にありがとうございました。 (ラファエロ)

2019-09-16

stereotype2085さん 今回の謎は解くのにとても時間がかかりました。が、私のなかでは解けました。以下に私の推理を書きます。 ミステリーもののフィクションとしてお楽しみください。形式としてはクリエイティブ・ライティングの形式を取らせていただきます。 ■まず「炎上要素」について >炎上要素とは、まさに私怨をこのレベルで披露したことへの言及です。ほらお前天使なのかよ、ほらお前の敵はラファエロなのかよ。幼稚だな、稚拙だな、という点です。 しかし、私とのやりとりにおいてstereotype2085さんは「表面的にスケールの大きな詩を書こうとして宇宙や天使が使用されているのではない」とはっきりと言明されました。つまり私へのこの反論の時点でのstereotype2085さんの主張はこれらの「メタファー」が「表面的ではない」ということです。 ところが、この「炎上要素」でのstereotype2085さんの発言からは、みうらさんに作品に対するコメントを求める前の段階で、すでにstereotype2085さんがこれらの「メタファー」の「幼稚さ」を自覚していたことになります。 このことから導き出される「事実」は可能性として ・stereotype2085さんは本当に作品作成当初に「作品の幼稚さ」に自覚的であり、私への反論の際にはその自覚とは反対のことを論じた ・あるいは、その逆に当初は「表面的なものではない」と「作品の幼稚さ」を自覚していなかったものの、コメントのやりとりを通してそれを少なくとも表面上は認めざるを得ない形となった(もしくは本気で認められた)が、どういうわけか「炎上要素」について突っ込まれた時に「作品の幼稚さ」に言及した もし一つ目が真実であるなら、私とのコメントのやりとりは茶番だった、ということになりもし二つ目が真実であるなら「炎上要素」についてstereotype2085さんは何かしらごまかさなければならないことがあった、ということになります。 stereotype2085さんが誠意を持って対応してくださったことを信じているので私とのやりとりが茶番だったとは思いません。 となると「炎上要素」についてstereotype2085さんは何かしらごまかさなければならないことがあった。これが真実です。 ■さて次に「政治家的である」ことについて 私が「政治家的である」ことについて言及した際、私は上記の「炎上要素」についてのやりとりの流れでそのような発言をしました。 作品の「炎上要素」についてのstereotype2085さんの返答にたいする私の返答としてです。 ですから、私はその際「事実を覆い隠して、はぐらかす」類のことについては一切触れていなかったわけです。 しかし私の >改めてステレオさんの返信は全体として「政治家的である」との感想を述べさせていただきます。 に対する返信 >政治家的とは、事実を覆い隠して、はぐらかすといった印象でしょうか。 >実際事実を述べたのに、覆い隠したと思われるのは残念です。 のなかで、stereotype2085さんはなぜまず事実の隠蔽に言及したのでしょうか? 可能性がいくつかあります ・私が「ステレオさんの返信全体」を対象にして述べていたので、それを早合点して、直前の花緒さんとのやりとりでのstereotype2085さんの返信に対する言及ととらえられた(私がコメントしたタイミングもその早合点を促進した) ・実際に事実を隠蔽していたのでそのことを後ろめたく思った さて、私は「政治的発言」といった際、まさしくstereotype2085さんの返信すべてに対してその表現を使いました。なのになぜいきなり事実の隠蔽に話がでてきたか。 まず「炎上要素」についての推理で「炎上要素」についてstereotype2085さんは何かしらごまかさなければならないことがあった、ことが私の推理(笑)によって判明しています。 そのことを踏まえると2番目のオプションである、実際に事実を隠蔽していたのでそのことを後ろめたく思った、可能性がより信憑性が高いものとして浮上してくるように思われるのです ■ラファエロだ誰か? これもstereotype2085さん自身のコメントから推理することしましょう。 >私は私怨というキーワードがネット上の誰かを標的にしたと誤解される恐れがある、という点をも「炎上要素」としたのです。 さて、なぜこれが「炎上要素」になりえるのでしょうか?それは読者の中にラファエロにかぶさって読める人物がいたから、ではないでしょうか? もしラファエロが誰にも被らないならそもそも炎上のしようがないからです。 さて、本作品をきちんと読むとわかることですがビーレビユーザー(つまり反応して炎上する可能性のある人たち)の中にラファエロがかぶる可能性のある人物は本当に限られた数しかいません。花緒さんもその一人ですが、そのほかにいるとしても本当に限られた人数でしょう。少なくとも私ではない。しかも権威として象徴される存在。現運営の方々、旧運営の方々。そのうち今の作品を読む可能性のある人物。しかも「私怨」の対象になりうる人物。 前述の結論である、stereotype2085さんが事実を隠蔽していた、ということが真実であるならば、話の流れからいって「花緒さんを対象にして書いたものではない」ことを隠蔽した、というのが真実であるということになります。 そして花緒さんを念頭に読むと確かにぴったりと当てはまる。 つまり、コメントの一連の流れのなかでstereotype2085さんはラファエロが実は花緒さんであることを間接的に証明してしまったのです。 ラファエロはやはり花緒さんなのではないでしょうか? ■結論 上述の私の推理(笑)にはいくつかの論理的弱点があります。ですからこれは「推理(笑)」なのであって、あくまで可能性としての結論です。 さて、私はstereotype2085さんをどこまで信用すべきでしょうか? stereotype2085さんの発言を、作品をどこまで信用すべきでしょうか? 私はstereotype2085さんが私の作品に対するコメントに対しては非常に辛抱しながら丁寧に、かつ誠実さの限りを尽くして対応してくださったことを確信しています。 しかし、この作品は「私怨」がテーマであると公言されています。少なくとも花緒さんはラファエロはこれは自分のことではないかと勘ぐった。そして第三者の私からしてもそう考えるだけの十分の証拠が私の推理(笑)によって得られた。 では本当に花緒さんでないならば、「私怨」がテーマです。stereotype2085さんは少なくとも花緒さんとのさらなるやりとりを拒否するような対応をすべきではなかったと思います。「私怨」の当事者だと思ってしまった読者に対しては最大限誠実に対応すべきではないでしょうか? それこそ私の作品に対する批判などは極論をいえば、こいつわかってねーな、と軽くあしらっても何も問題はないでしょう。しかし私怨を向けられたと感じた当人に対しては本当に誠意を尽くすべきである。とくに「作品のテーマが私怨である」と公言している以上ななおさらです。 これが私の意見です。 以上、最後までおつきあいいただきありがとうございました。 (ラファエロ)

2019-09-15

「です、ます」調で書かれていることが、描かれている出来事との距離を作り出していて、その距離感ゆえに、語り手の感情がむしろ痛切なものとして強く迫ってくるのを感じました。そして親が猫を間違って殺してしまった、自分が猫を埋める、というエピソードがさらに、もっと大きな人間どうしの話を連想させ、例えば、ちょっとしたすれ違いから親しい人を深く傷つけてしまって、本当に大切だった関係を失ってしまった、あるいは場合によっては相手を死に追い込むこともあるかもしれない、そうした本当にやるせない自分の過去の心の傷にまで深く響いてくるのは、やはりこの距離感のゆえではないかと思います。雨の降る夜に自殺未遂のような大きな交通事故で重傷を負った私の大切な友人のことを思い出しました。もはやここにあるのは語り手の感情ではない、私の感情である、と、そう感じるのです。 (梅雨の夜(つゆのよ))

2019-09-15

これはメタファーですので「政治家的である」ことの意味は残念ながらここで詳細に述べることはできません。これ以上の返信にはお答えしかねますし、これ以上ここにはコメント致しません。長々と失礼しました。それでは。 (ラファエロ)

2019-09-15

いかなる色のカードも覚悟の上でいいますが、改めてステレオさんの返信は全体として「政治家的である」との感想を述べさせていただきます。 (ラファエロ)

2019-09-15

単純に疑問なのですが、ステレオさんはすでに削除されたツイートのなかでこの作品には「炎上要素がある」という趣旨のことをいっておられましたよね? 読者が「種明かしが出来ない作品」のどこに「炎上要素」があるのですか? (別の仕方で炎上したわけですが、このツイートはたしかステレオさんがみうらさんのキャスにてコメント欲しい旨表明する前のものです) (ラファエロ)

2019-09-15

北さん 京都なんですね。私にとっては森見登美彦作品の京都はどこか夢幻的で魅力的ですし、川端康成の世界の京都は美しいと思いますが、彼らはそもそも京都人ではないのでそれが本当に京都なのかどうかは甚だ疑問ではありますが、実は私は一度だけ京都にいったことがあり、しかも修学旅行ではなく、友人に連れられての嵐山観光とその後市内にはいってパフェを食べるというもので、京都に行ったといえるのかどうかさえ怪しいようなものなですが、嵐山からの保津川下りは本当によかったです。でも京都はもう多分絶対行かないです、笑。私は実は生まれだけは西で、生後数ヶ月以降ずっと東育ちなのですが、時々親の実家に帰った時に触れ合う西の(あ、個人情報的観点ゆえのぼかしです)方言の音韻にはめちゃくちゃ憧れるものがあり、時々真似しようとしては親戚とかから散々にバカにされたりしたのでした。何回おうむ返ししても、それ違う、っていわれるので向こうの方言とかイントネーションは本当に難しい。で、たまに自分では明らかにこれ違うな、ていうイントネーションでおうむ返しすると「あ、さっきの!それそれ!」って、笑。もしかしたら日本語の音韻に関して私が見えている世界ってモノクロームなのかもしれない、と思うのでした。 (うつつ)

2019-09-15

追記:ミケランジェリは残っている演奏が少ないのでブラームスの間奏曲はあるかどうかちょっと分からないです。どちらかというと彼のブラームスのバラードの演奏を念頭に置いて書きました。 (うつつ)

2019-09-15

北さん こんにちは!コメントありがとうございます。 >ただ、一言一言が大事にされすぎていて、力んでガッチガッチになってしまってる感が否めません。 やっぱりそうですか?個人的にはもう少し柔らかみのある部分があればメリハリがきいて緊張感がもう少しうまく出てきたのかな、という反省点があって、でも、どこをどうしたらいいんだろう、ってとこでなかなか難しいところがありました。 特にそれが出てしまっているのが、それぞれの練の終わり方の宙ぶらりんで、柔らかさを演出しようとして、でもそれしか能がないというか、いろんなところでこの小細工を使いすぎて、むしろ硬さを悪化させている感が否めないんですよ。 なのでご指摘の通り風通しが悪いとことがあると思います。そこはなんとかしたいです。 北さんのリライトバージョン、いくつかヒントになりそうな点があって超絶ありがたいです。 たとえば >トクン音をたてささやかつぶやき声 で「トクンと」の「と」を外す >振動だけ残し のように「を」を省く など、一部の箇所でこの方法を取ると確かに風通しは少しよくなり、なにより文章からくどさが抜けて、すっきりするところがあります。ただ、これはすごく悩めるところなのですが、一つ一つの言葉の情動の繊細さをシャープに強調したい、と思った場合、この方法でむしろ、言葉どうしが混じり合いすぎてしまって独立性が悪くなる、言い換えると粒立ちが悪くなってしまうのが悩みなんです。 例えば、もしかしたら >トクン音をたてささやかつぶやき声 のかわりに私の感性であれば 「トクン。音をたて、ささやか、つぶやき声」 としたい、ところなんです。 ただそうすると今度はもう一つの私の表現の意図としてあった、息の長いフレーズを紡いで滑らかな緊張感を持続させる(つまりくどい旋律をやりたい)という意図を手放さなくてはならなくなり、そこはどうしても両立したい。ただそうするとやはり風通しが悪くなりがちなんですよ。 なので 「トクン。音をたて、ささやか、つぶやき声」 ではなくさらに 「トクン。音をたてて、ささやか。つぶやき声は」 としたい、というような感じです。 音楽を引き合いに出すと、例えばブラームスの交響曲3番や彼の間奏曲のようなイメージが私のなかにはあって、それをどうしても言葉でやりたい、と同時に言葉一つ一つの粒立ちというか輪郭はガラスのように透明にしたい、というワガママがあり、でもそれが非常に両立が難しく今も悩んでいるところです。 でも演奏家でこれをできてるのって例えばグレン・グールドで、ミケランジェリは音の透明感に関して言えばこれ以上磨きがかけられないんじゃないかっていうくらいの極地ですが、旋律の息の長いリズムはどこか損なわれてしまっているようにも感じます。 やはり両立は難しいのでしょうか?悩んでたくさん書くのが一番だとは分かっているのですが、とくに北さんは音楽家でいらっしゃっるので(音楽といってもクラシックではないのかもしれませんが)、この観点からさらにアドバイスがあれば是非お聞きしたいです。 (うつつ)

2019-09-15

こうだたけみさん いやぁ聞きましたよ!なんかすごいプロっぽくてびっくりしました。めちゃくちゃ嬉しかったです。最初の畳み掛け、あれすごく練習してくださったんだろうな、まさにあの畳み掛けは私が書きながら脳内再生したときの畳み掛けとほぼ同じでした。後半の視点が切り替わるところ以降は私の脳内再生とはイメージが違かったのですが、それがまたとても刺激的でした。あとは最後の緩み具合が特に最高ですね。あれはやっぱり朗読(音読)ならではの芸当で、あの「超どうでもいいけど眠いんだよ〜」って感じ、ああ、それそれそれ!!!という感じでした。なんども聞かせていただくと思います。ありがとうございました!! (うつつ)

2019-09-15

トビラさん コメントありがとうございます!「個人的な社」。確かにそうかもしれません、それよりも >あくまで個人的にですが、この情景、頭を銃で撃ち抜いて自殺する前という印象を受けてしまって こちらのコメント、ドキッとしました!というのは、実はこれを書いた時、仕事のストレスの影響なのか寒暖差の激しさの影響なのか、悲しいニュースを立て続けに見聞きした結果なのか、ちょっと自分でもよく分からないんですけど、死にたいくらいの憂鬱状態に陥ってしまい、しかもこの作品を書くことでさらにメンタルに負担がかかったのかさらにメンタルが不安定になり(なんか格好いいことのように書いてますけど、ただにメンタル弱いだけですからね、笑)その抑うつ状態を脱出するのに1週間くらいかかったんですよ。 なのでトビラさんの印象はあながち間違っていないです。というよりも、自分の奥深くではご指摘のような風景が実はあるんだと思うんです。自分の大好きな美術や音楽とか小説とか作った人たち、そういう死に方した人がすごく多い気がします。別に憧れはしませんけど、そういうの。全然憧れません。でも時々、包丁持って料理している瞬間にこれは危ないな、って感じの衝動を感じることがあります。別に悩みがあるとか苦しいとかじゃないんですよ。あまりに境界線が曖昧だなってことに戦慄するんです。あとは電車がプラットフォームにブゴーって入ってくるあの瞬間とか、時々危険な衝動を感じてぞっとしますね。しかも、そういいう衝動を感じるときの自分ってすごく幸せな気分だったりすることもあって謎ですが、最近はホームドアを設置するところが増えてきて、あれはすごく助かりますね。そういう理由のない衝動にも蓋をしてくれるので、笑。 敬称の件はホント全然気にしないでください。自分も他のコメントで同じミスしたばかりなのでー (うつつ)

2019-09-15

丁寧にご返信ありがとうございます。最後にひとつだけ、夏目漱石の引用部分ですが、ぜひ「吾輩は猫である」をできれば全体を通して読んで見てください。あの引用部分はかなりきつめのブラックジョークですよ、笑。つまりバカにしてるんです(あの本はかなり自虐入っていますのでそれがさらに面白い) ステレオさんには本当にこの本をおすすめしたいです。 最後に今回のやりとり、お付き合いいただき、こちらこそありがとうございました! (ラファエロ)

2019-09-14

長くなりましたが、ひとまずは以上です。 (ラファエロ)

2019-09-14

(続き) >ラファエロの人生について深く思索し、調べた結果かとの指摘については。では逆にsurvofさんにお聞きしますが、誰か人名を使う時にあなたは、その人物の全生涯をつぶさに調べる義務があると考えておられますか。もしそうだとしたら詩を一つ書くよりも評伝を幾冊も書くことで人生が終わってしまうでしょう。私たちの人生は短いのです。 これも例えの要点を思いっきり外しています。私は選択の安直さを指摘しているのです。美術に限って語るならなぜ権威の象徴としてたとえばブグローではなくラファエロだったのでしょうか? 印象派を蹴落とした権威としてラファエロは印象派以降の美術詩において、ブグローや彼が属していたいわゆるアカデミーの評価は地に落ちました。サロンアートは20世紀中盤まで悪趣味な作品群として揶揄の対象だったのです。では、印象派の反抗によって何が生じたか。そもそも印象派に属してたアーティストの大半がもともとはアカデミックな美術教育を受けていたいわゆるエリートであったわけですが、それはさておき今度は「現代美術」というものが一つの権威になりました。印象派からキュビズム、フォービズム、表現主義やデュシャンのダダイズムに現代の精神は受け継がれて戦後アメリカの抽象表現主義に至るわけですが、今度は彼らが、つまり「現代美術」の権威となったわけです。ですから抽象表現が終わって、ポップアート以降へと美術が発展してそれが「コンテンポラリーアート」と呼ばれるようになった過程でデュシャンと抽象表現主義への批評的、批判的言及が高く評価されるようになりました。こんどはポロックのような抽象画が「白人のアートの権威」として批判の対象になったのです。同時にかつてのブグローのようなサロンアートのようなアカデミックアートの再評価が20世紀後期に進みます。それは音楽でいえば、例えばラフマニノフやマーラーの再評価が同時期に進んだのと少し似ているかもしれません。 さて、ここまでの私の知識の開陳は対して意味はありません。重要なのは、例えば私よりももっと美術に詳しい読者が、例えばラファエロと同時代の美術に非常に詳しい人がこの作品を読んだとき何を感じるか、という点です。 ここで論点は先ほどの「客観性」に戻ります。つまり「読者が作品をどう捉えるかに対する鋭い意識」の必要性です。 そうした美術に詳しい読者にとってラファエロや天使といったキーワードは適切に扱われない限り作品を楽しむうえでの障害にならないでしょうか?こうした些細な綻びがある読者にとっては致命的なものとなり得るのですが、そのことに対する無自覚を私は批判したのです。 >ソフトバレエというバンドに「VIETNAM」という楽曲がありますが、そのタイトリングをした藤井麻輝さんは「特に意味はありません。最後楽曲が出来た時『VIETNAM』だったから『VIETNAM』にしただけで」と仰っています。私はそのような感覚、センスを尊びます。 ですので、この直感で何かを選ぶ、ということは特にラファエロというメタファーの導入に関していうならばかなり危険な行為であると感じます。なぜならこの作品においてラファエロはしっかりとした役割を与えられているからです。「VIETNAM」という曲を私は存じ上げませんが、「VIETNAM」という単語はその曲においてしっかりとした意味を与えられていますか?Rage Against the Machine がベトナム戦争に関連したイメージ(焼死自殺の僧侶の写真)をアルバムジャケットに使うのと「VIETNAM」というタイトルを感覚で選ぶことには大きな違いがあるわけですが、ステレオさんの「ラファエロ」のタイトルの選択はどちらかというとRage Against the Machineの選択に近いです。なぜなら明確にメッセージ性をそこに込めているからです。ステレオさんはあえて「ラファエロ」にしたわけですよね?権威の象徴として。 あるいは本当に軽い気持ちで「ラファエロ」を権威の象徴として選んだのであれば、作品自身も軽いもの、ということになりませんか? そうなるとやはり「ラファエロ」は「厨二病的な」小道具にしかならないのではないでしょうか? >そういうことも含めて考えるとインスピレーションというのはあながち軽蔑出来ないと個人的には思っています。 安易な選択をインスピレーションと混同してはいけないと思います。そもそもインスピレーションってステレオさんにとってはなんですか? 夏目漱石は「吾輩は猫である」のなかで次のように書いています 「職業によると逆上は余程大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中で尤も逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なることは汽船に石炭が欠くべ可らざる様な者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱いて飯を食うより外に何等の能もない凡人になってしまう。尤も逆上は気違の異名で、気違にならないと家業が立ち行かんとあっては世間体が悪いから、彼らの仲間では逆上を呼ぶに逆上の名を以ってしない。申し合わせてインスピレーション、インスピレーションとあも勿体そうに称えている。 これは彼等が世間を瞞着(まんちゃく)する為に製造した名でその実は正に逆上である。プレートー(プラトンのこと)は彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと云う新発明の売薬の様な名を付けて置く方が彼等の為によかろうと思う」 (ラファエロ)

2019-09-14

(続き) 次に移ります。 >また客観性の欠如云々については。先のコメントにて客観性を示しているつもりですが、伝わっていないようですね。 はい、つたわっておりません。先ほどの論点をまた引き合いに出さねばなりませんが、「下手くそなオーケストラ」という例えに例えに対してのステレオさんの反応はまったく感情的であり、客観的なものではないと感じます。文脈に照らして論理的に整理すれば要点が容易にはっきりする点においていとも簡単に要点を外しています。同じように、私の批判に対するステレオさんの反論は全体として感情的なのです。 一つお聞きしますが、ステレオさんにとっての「客観性」とはなんですか? 私はここでちょっとずるい論理展開をしますが、是非ついてきてください。そもそも「客観性」なんてあるんでしょうか?本当に「客観的」に何かを論じることなど可能なのでしょうか?「客観性」を持ち出したのは私なので最悪の論理展開だと自負しておりますが、私はそんな「客観性」など実は1ミリも信じていないのです。どんなに「客観」を意識したとしても「主観」とその「客観」を隔てるものはなんでしょうか? >この作品には私情や私怨が深く込められた抒情詩であるがため、表層的に宇宙とか天使とかを安直に使っているのではない。 さて私にとって「客観を意識する」とは「読者が作品をどう捉えるかに対する鋭い意識」のことです。つまりそれは自分自身の思考に属するもので決してその外に出ることはできないという意味でそれはあくまで「主観」にすぎないというわけなのですが、「読者が作品をどう捉えるかに対する鋭い意識」が欠如しているのではないか?という点を「客観性の欠如」として私は指摘しました。 ですから、作者がどんなに作品に託した私情や私怨を託したと主張しても、あるいは作者どんなにそれが「表層的に宇宙とか天使とかを安直に使っているのではない」と論じたところで読者にそう感じさせてしまったのであれば、作品としてはそれまでなおではないでしょうか? 作品は発表した時点で作者の手を離れるものではないでしょうか?であれば「自分はこうこうこういうつもりで書いた、だから・・・」というのは反論にも何にもならないんです。 この点でいえば「この作品は花緒さん批判である」との可能性をあえて否定しないでおけば、作品として非常に面白いものになったと私は感じます。花緒さんが「これは自分のことだ」といっているのを聞いて、そしてその路線で読んではじめてこの作品はもしかしたら面白いかもしれないと思いました。 しかし、今ステレオさんはこれはもっと日常的な権力に対する批判である、花緒さんは全く無関係であると断言されている。断言してしまうことでステレオさんは読者の想像力を狭めたしまったわけです。ただでさえ想像力喚起力に乏しい作品に対してさらに読者の選択肢を狭めてしまった。であれば、作品は読者にとってステレオさんが規定した範囲でしか想像力を許されない。もしかしたら読者に関係のあることを扱っているのかもしれない。ただ、一連のステレオさんの発言から読者にとってはどちらかというと「よく分からないけどステレオのプライベートで起こった出来事をメタファーで置き換えて語っている作品」なんだな、ということになってしまう。 では、読者にとってそういった漠然としたメタファーによって暗号化されてしまった場合、どうやって作品を楽しめばよいのでしょうか?(これは、ステレオさんの作品に限らず現代詩、あるいは詩というものが抱える重大な問題の一つだと思います)読者に残された選択肢は純粋に言葉のもつ響き、言葉の組み合わせの響き、あるいはメタファーによって喚起されるイメージやそれらの組み合わせ、そういったものが孕む面白さ美しさに身を委ねる、あるいはストーリー性を楽しむということなのかもしれない。 そうなると、純粋に技巧的な部分の不調和が大きな問題として再び大きく首をもたげるわけです。そして、私の「下手くそなオーケストラ」へと論点は再び戻っていきわけです。 (続く) (ラファエロ)

2019-09-14

改めて、せっかく反論いただいたのでさらにコメントさせていただきますね。できるだけ作品論に徹するつもりですが、作家を語ることなしには語り得ない部分もあるかもしれません。できるだけ人格批判にならないように注意をしますが、やはり本気で書きたいので少し言葉が過ぎることはあるかもしれません。あらかじめご了承ください。 >「下手くそなオーケストラ」という批評はまあ上滑りでとらえてしまえばどうでもいいことなので、いちいち拾いたくないけれど拾うならば なぜ私があえて「オーケストラ」の例えを用いたのか考えていただきたいです。つまり「いちいち拾って」欲しい例えです。私は音楽について語っていたのではなくオーケストラについて語っていたからです。ゆえに Van Helen を使った返しは全くの的外れです。 >たまたまsurvofさんにとって合わなかったであろう音楽を「下手くそなオーケストラ」と紋切型で批判するのはいかがなものかと 繰り返しますが、私はステレオさんの作品を音楽としての「オーケストラ」に例えたのではありません。ですから「下手くそなオーケストラ」という例えは必ずしも「下手くそな作品」という意味ではないのです。ましてや作品が好みにあるかあわないかについて論じていたのではないです。 私の先のコメントを丁寧に読んでいただければお分かりいただけると思いますが、私は、言葉同士、あるいはメタファー同士の関係を語る文脈で「下手くそなオーケストラ」という例えを用いました。私は言葉通しの調和、メタファー同士の調和について論じていたのであり、しかもそれは好み以前に技術的な類の問題として提起したつもりです。 つまり「下手くそなオーケストラ」という例えにおいて私が意図したものは(「下手くそ」が言葉として強すぎて、扇情的出会ったかもしれない点はあったとしても)まさしく調和が乱れているという点であり、調和が乱れている以上、「下手くそなオーケストラ」がどんな音楽を演奏しているのだとしても、聞き手は調和がとれていないことに気を取られて、音楽には全く入っていけない、ということです。 例えば、オーケストラにおいて楽器のチューニングがバラバラならどうなるでしょうか?誰も指揮者をみずに各パートのリズムがズレズレだったらどうでしょうか?演奏されている曲が私の大好きな曲であろうとなかとうと、それ以前の問題ではないでしょうか? つまり要約すると、ステレオさんのこの部分の反論はそもそも私の批判の要点を完全に外しております。 (続く) (ラファエロ)

2019-09-14

渡辺さん あ、そうです!おそらくいっていることがほぼ同じです。 (ラファエロ)

2019-09-14

了解しました!それでは、昨日いただいた反論に対する私の反論含めて作品についてのコメントを後ほど書きますね。今回のコメントするに到るまでの経緯は忘れることにします。午後以降になるかと思いますので、ステレオさんの返信も明日以降で全然大丈夫です。むしろゆっくりとしたテンポのほうが建設的かもしれません。 (ラファエロ)

2019-09-14

おはようございます! まず前置きとして、今回の件に対する雑感を述べさせていただきますね。ツイキャスもお聞きしました。まずステレオさんは率直なご意見を求めていたはずです。それに対して、私は勇気をだして否定的なコメントをした。が、ステレオさんはそのコメントのいわんとしていることを汲み取ろうとはしてくださっていないように感じられた。それに私のコメントは決してステレオさんがキャスでおっしゃっていたような「作品のいわんとしていることを深読みした上での過敏な反応」では決してないんです(そこまで深く読ませるものがなかったのが正直なところです)。ステレオさんはいってみれば「なんでもいってね、怒らないですよ」というスタンスを取りながら、いざ正直なところをコメントしてみたら「怒って」しまったということだと思います。みうらさん、鈴木歯車さんの言葉も同様に受け止められることなくステレオさんは感情的になってしまった。ここにみうらさんが当初おっしゃっていた「ステレオさん作品へのコメントのしにくさ」というのを感じます。つまり、ステレオさんはやはり「プライドが高い」ので、今回の展開は予想されたものなのです。でも先回みうらさんとのキャスでステレオさんは「それでもコメントが欲しい、自分は受け止める所存である」的なニュアンスのことをおっしゃいましたよね?でも今回は結局「プライドが高い」ゆえにどの意見も受け止めずに自己弁護に終始しているような結果になってしまっているように思えます。「自己評価の高さ」と「矜持を持つ」とはまったく別のことである、というと私は思っていて、いまのステレオさんは「自己評価だけがとても高すぎて」(つまり「プライドが高い」)これ以上生産的な議論ができるかどうか、ちょっと心配なところです。私はさらにステレオさんの反論に対してさらなる反論を試みることはできますが、ステレオさんは本当に否定的な意見を受け止められますか?ご自分の都合のよいように、相手の言葉を捻じ曲げるのではなく、まずその言葉の真意を汲み取る心のゆとりはありますか?みうらさん、鈴木歯車さんも言葉は足りなかったかもしれませんが本当に感想としてツボをついていらっしゃいます。もし本当にステレオさんにその心のゆとり、自分の高すぎる自己評価と向き合う準備があるというのなら私はこの先さらに議論を進めたいです。私は、今回掲示板が荒れたとは思っておりません。荒れたのはステレオさんです。一度私が今回書いたことを深く考えて欲しいです。もしかしたら朝からまた気分を害されたかもしれない。しかも意味不明かもしれない。ですが、ここをクリアしない限り私は議論において前に進めないのであえて書かせていただきました。私からすれば掲示板が荒れたのではないではなく、ステレオさんが荒れたのです。 この点について、もしよろしければご意見お聞かせください。そのあともし建設的な話ができるようでしたら、作品について話し合いたいです。もしやはりお互い感情的になるようでしたら、宙ぶらりんで気持ちが悪いところはありますが、議論は打ち切ったほうがよいでしょう。 もう一度お聞きします。今回の件、本当に「掲示板が荒れた」と認識されていますか?あるいは荒らしたのはみうらさんや鈴木歯車さん、あるいは私のいずれかであると認識されていますか? 朝から偉そうにつらつらと書いてしまいました。私のいわんとしていることが伝わることを願います。 (ラファエロ)

2019-09-14

ありがとうございます!ですね。一旦寝かせますか。 (ラファエロ)

2019-09-13

えっと、何も伝わっていない・・・という虚脱感を覚えると同時にタカンタさんと長々とやりとりしたときのエンドレス感を思い出しました、汗。本当にとてもよく似ています。 >誰か人名を使う時にあなたは、その人物の全生涯をつぶさに調べる義務があると考えておられますか。 例えば、これ。どうしてそうなるの?って感じです。私がいいたいのはそういうことじゃない。でも私が先ほどのコメントで書いた書き方でこれが要点じゃないってことが伝わらなかったのであれば、おそらくこの先どんなに論理的に意見交換しても不毛でしょう。私はタカンタさんとのやりとりでそのことを学びました。 そして、みうらさんの2回目のレスにすべては要約・集約されています。私は全く同感なので、みうらさんのこの発言を根拠がないと切り捨てられるにはとても残念です。あまりに勿体無い。暗示を汲み取れないのに優れた暗喩を書けるとは到底思えません。みうらさんの先ほどの暗示は結構な情報量ですよ? (ラファエロ)

2019-09-13

追記: 途中で「ハリボテ」の意味が肥大していますね。失礼しました。私の言葉も所詮ハリボテなのです (ラファエロ)

2019-09-13

今朝コメントしたときからまたいろいろ考えたので先ほどのコメントとは矛盾する点もあるかもしれませんが、再レスさせていただきます。 >ハリボテ感。それは思索も思想性も何もないといった意味でしょうか。 いえ、違います。言葉同士がきちんと組み合わさった関係性を構築できていないという意味です。ですので私の感想は鈴木歯車さんの感想ともとても近いのです。言葉一つ一つ、あるいはメタファーであるとおっしゃるのであればメタファーの一つ一つが悪目立ちしすぎていて、お互いに自分以外の言葉やメタファーがもつリズムや豊富な連想など無頓着なままそこにあるように思えるということです。この部分は思想性の問題というよりも技術的な問題かと思います。つまり凄く下手くそなオーケストラを聞いている気分だということなのですが、これが私の言おうとしていた「ハリボテ感」であり「コラージュ感」であるわけなのですが、では意図的にそれがなされたのか、というところ、作者がそういった言葉それぞれの不調和に自覚的であるようには感じられなかった、つまり「わざと」下手くそなオーケストラを意図的に演奏しているようには感じられない。なぜなら、そうした場合には作者は過去の作品からの自身がもつ作者としての文脈において、あるいは作品そのもののなかにおいて、それが自覚的また意図的になされたことを暗示するのが常であるからで、私が読む限りの作品においては、ステレオさんというコンテキストにおいてそうした暗示は感じられないし(たとえばサンプリングの作品においては、かつて指摘させていただいたように「作者が運営であることに伴って自然発生的に生じてしまう権力勾配的なものへの無自覚」を私は感じて、それゆえに、そしてただその一点のみにおいてあの作品は私にとってとても不愉快なものでした)この作品においてもそうした技術面での意図的な綻びをあるいは破綻を暗示させるものが、私にとってはですが、全くなかった、ので、そこからステレオさんはもしかしたらそうしたことをあまり深く考えてはおられないのではないか、少なくともステレオさんにとっての主な興味の対象ではないのではないかと帰納するに至った次第です。 そして鈴木歯車さんが暗示した「厨二っぽい」という印象は実は私も全く同感で、「厨二っぽい」とはどういうことかを私なりに定義すると、それは「客観性の欠如」なのですが、鈴木歯車さんのコメントに対して、ではなぜ鈴木歯車さんが「厨二っぽい」と感じたかについて思索をめぐらすことはなく(あるいはめぐらしたもののコメントには書かなかっただけかもしれない)むしろ「似て非なるもの」であると断言することによって、ステレオさんは客観性が欠けていること、少なくとも、その点について客観的に考えようとしていることを示さなかったという点において、逆説的ではありますが、暗にご自身の「客観性の欠如」を証明してしまったようなものだと思いました。つまりこの「客観性の欠如」こそが私が指摘している「思索の欠如」です。 「この作品はメタファーである」といって自己弁護してしまうのは容易いです。しかしそれすらも私のとっては「厨二っぽい」ハリボテな自己弁護にしか聞こえないのです。この作品のタイトルはラファエロです。そしてステレオさんは「ラファエロが形骸化した思想、権威主義」の「象徴」であるとおっしゃる。それはステレオさんご自身がラファエロの人生や作品を深く研究して至った結論でしょうか?それに現代日本に生きる私たちにとって果たしてそれは適切なメタファーでしょうか? 私はラファエロの人生についてはよく知りません。ただ、私は画家や彫刻家や作家、科学者の評伝を読むのが大好きです。レンブラント、ロダン、ヘミングウェイ、アインシュタイン、グレン・グールド。彼らの評伝を詳しく読めばいかに彼らのパブリック・イメージが彼らの「本当の」姿とかけ離れたものである場合が少なくないかを知ることができます。あるいはいかにそれを裏書きするかを。そして広くは知られていない苦悩、矛盾、葛藤に溢れています。ですからそうした著名人の名前は彼らの複雑で常にアンビバレントな思想、人間としての苦悩、時代との葛藤、あるいは成功の喜び、深い挫折(わたしのこれらの言葉がすでにハリボテなのは自覚しています)、そうしたものすべてを背負っている。つまりラファエロは何かの象徴であるとしてしまうこと、それをメタファーにしてしまう安易さ。それを私は改めてハリボテと指摘させていただきます。 ステレオさんは、ツイキャスで是非コメントが欲しい、とおっしゃった。なので私は自分をむき出しにしてコメントを書きました。多少きつい物言いがあったかもしれませんがご容赦願います。 (ラファエロ)

2019-09-13

ふじりゅうさん >我々読者ですら侵入することが拒まれているような、そんな捨ててしまったからこそ生まれる特殊な美 >読もうとしても、読めない、近づけない 帆場さんへのコメントにも書いたのですが、普段は自分でも立ち入らない自分のなかの風景に立ち入ってそれをデッサンするようなそんな過程からこの作品はできました。つまり私自身もこの風景にある意味拒絶されていたともいえますし、あるいは立場を変えるなら私が拒絶して見ないようにしていた内面の景色をあえて描き出そうとしたのかもしれません。それでも私にとってはとても大事で折に触れてきちんと向き合わなければいけないそんな景色なんです。なのでこの感想をいただけたことはとても嬉しいです。 >読んだときに感じる現実との乖離 ときどき、私は離人感的な感覚を覚えるんですよ。自分の目のなかにもう一人の自分がいて、自分の目という窓から景色をのぞいているというような感覚だったり、あるいはそれと同時にもう一人の、あるいはもう数人の自分が俯瞰して自分を見ているというようなまさに私の現実が私の知覚から乖離し分散していくような感覚です。そしてこの感覚はこの作品において私がもっとも描きたかったもののひとつです。ふじりゅうさんの読者としての感性の鋭さにまたもや驚かされました。 (うつつ)

2019-09-13

帆場蔵人さん やっと帆場さんにコメントもらえた、笑!!嬉しいですね。この作品は書くのが本当に苦しかったです。いつもはわりとサラっと言葉が出てきて、また同時に視覚的イメージも言葉と連動してインタラクティブに発生し、それがまた言葉に還元され・・・という過程がとても滑らかに進んで、それなりに作品としてすっとまとまることが多いのですが、今回は書く前に自分のなかで描きたい視覚的イメージがものすごいはっきりしていた分、それと向き合って一つ一つ正確に写生するような過程が必要でした。それはデッサンするときに正確に形を捉えるまでに何回も何回も修正するようなそんな苦しさでした。同時に非常に深く自分の中に潜って書いたので作品完成後ちょっと精神的にダウンしましたね、汗。でも、ずっと描きたいと思っていた自分のなかの心象風景がある程度納得のいく形で一つ形にできました。 (うつつ)

2019-09-13

なかなか強靭ですね。なんども読んでしまう上に読むのが止まらないのでループ感が発生してすごく不思議な感覚になります。 ご指摘がすでにありますが >彼は。彼は の部分のタメ、引き締まっていて格好いいです。 (ロックバンド)

2019-09-13

何回も読んでしまいますね。そしてその度ごとにゆっくりと言葉が身体に浸透していくのを感じます。慎ましやかなのだけれども非常にはっきりとした強い(それでもやはり謙虚な)意志の通奏低音が緩やかに、それでも確実に心の奥底にある水たまりのようなものに波紋を生じさせて、私の感情の非常に奥深い潜在的なところと共鳴し干渉し、やがて同化していくような不思議な心地よさがありました。 (一つ)

2019-09-13

ステレオさんの作品ってあえて形容詞をつけるならフィクショナルな詩って感じだと思うんですど、フィクションってとにかく細部の作り込みの甘さが如実に作品全体のリアリティを損なってしまうところがあると思います。以前の作品でも古い言葉をどう使うべきか、についてコメントしたときも似たようなことを考えていたんですが、ステレオさんのフィクションって世界観の構築が正直なところかなり甘いように感じてしまうのでした。SFの形式でもなんでもフィクションって深い思索(あえて思想とは呼びません)の上の結果でない限りただのハリボテになってしまいがちだと思っていて、ステレオさんの作品はハリボテ感が毎回結構半端ないです。で、そのハリボテ感こそが作品のテーマだといえるほどハリボテについての思索の跡が見られないように感じてしまうので、「これはハリボテですよ」というステレオさんのレスすらハリボテ感があるように思うんです。 この作品に限って言及すれば、それぞれの「小道具」が本当に小道具としての役割しか果たしていないように思います。 冒頭を例にあげれば >軌道から外れた惑星の旅が、終わっていく夜。 正直、この一行を掘り下げれば十分長い作品が一つや二つできるレベルです。一つのフレーズで作品がいくつもできてしまうようなフレーズが思索の跡もなく(もしかしたら実際にはすごい思索があるのかもしれませんが、少なくとも私は感じ取れなかったです)ただひたすらコラージュされていく。繰り返しになりますが、コラージュ的手法に対する自己批評性もあまりないのでやはり「小道具」の羅列というか、毎回ステレオさんのアイディア帳を読んでいる気分になるんです。 私はいま「俺ガイル」読んでいるんですが、あのラノベはすごいなって思えるところがすごくたくさんあって、深い思索を随所に感じます。ラノベなのに、何回も立ち止まってこちらも深く考えざるをえないフレーズで溢れています(異論は認めます、笑)。エンターテイメントとしてももちろんめちゃくちゃ面白いんですが、なんだろう、フィクションの奥深さを考えさせられました。ラノベって確かに普通の小説と同じ手法では細部のリアリティを追求していません。例えば、登場人物の造形については自分で想像することよりもイラストを想像することが前提になっています(多分)。で、優れたラノベというのはそうしたラノベ自信がもつテンプレート性みたいなものにすごく自覚的であるように感じます。つまり、「純文学」と同じ方法で細部のリアリティーを詰めてはいけなくてラノベの作法で詰めないと読者がついてこないってことを分かっているんだと思うんです。じゃあ、何が「リアル」なものとして残るかっていうと主人公の思考だったりだと思うんですが、そうしたものもテンプレ化したなかで進められます。ですのでいかにテンプレをうまく使いこなすか、がリアリティに繋がるというような側面があるように思うのです。 ちょっと論理としてうまくまとまっていないところがあり、ツッコミどころ満載だと、自分でも思うのですが、まあ、そんな感じのことを考えさせられました。 (ラファエロ)

2019-09-13

場末のネット詩って私にとってサイバーパンクの残骸みたいなものなんです、多分。ここは取り壊し直前の九龍城の屋上みたいなところで、頭上すれすれを飛ぶ飛行機の音を聴きながら最後まで鳩を一匹一匹丁寧に育てるみたいな、なんか自分でも何言っているかよくわからなくなってきましたが、要するにそんな感じなんです。 (うつつ)

2019-09-11

ミスタイプかもですが「微動」ではなく「衝動」(しょうどう)っすね。「詩情」とは何か?っていうのをいま思いついたまま書くとすると「言葉にしたいという衝動」だと思います。であるとすると「詩」とは「衝動の残骸」で、「残骸整理」がうまくいくと「衝動」が読み手に伝わるんだと思います。これが私の今この瞬間における「詩論」です。 (えかきうた)

2019-09-11

楽子 さん >頭を空っぽにした状態でも強制的に安らぎが得られる文章鎮痛剤的なすさまじさがありました。 まじですか!?なんか、もし自分にも効くようなそんな文章があったら大量に処方してもらいたいです、笑!(あるいは書くことそのものが鎮痛剤みたいな働きをすることはあるのかもしれません) ヒーリングミュージックへの言及は嬉しいですね。私はアンビエント系、ノイズ系すごい聴くので、ああいう微妙な情緒の揺らぎみたいなのは今回結構意識したと思います。細部表現の磨き上げは突き詰めていくと本当にキリがなくて、不満な点はたくさん残っているのですが、今後も課題として少しずつ磨いていきたいです。 似たようなスタイルの作品を4つまとめてオムニバス形式で先月投稿して、結果、自分でタイトル訂正したコメント以外コメントゼロで流れたやつがあるんですが、感想とかコメントとかいらないんで、もしよかったらそちらも是非読んで見てください(そのうちの一つを取り出してまた再投稿とかするかもしれません) もしかしたら効くやつあるかもしれません、笑(あるいは逆方向に・・・汗) 私はずっとビーレビ参加者が楽しんで読める作品というのを意識して投稿してきて、冗談で書いたような散文みたいなものを多めに投稿していたんですが、なんか、もうそういうのいいかな、って思って、本当に自分が書きたいようなもの、笑われてもいいし、バカにされてもいいし、臭いとか言われてもいいし、なんでもいいんだけど、それでもどうしても書かざるを得ないものを書こうっていうのが最近の気分で、意外にもこの作品はいろいろな方からコメントいただけて嬉しい限りです。 >「お前の脊柱はバラバラになったりしないから」が強烈な頑張れワード この感想は嬉しいです!そうなんですよ、カラスの「脊柱」は自分への頑張れなんです。カラスって無慈悲じゃないですか?だからことさら力強さを感じるんです。カラス嫌われ者で、不穏な生き物ですけど、だからこそ私はカラスのその問答無用の力強さに憧れるんです。だからカラスの死体とか見るとやたらと悲しくなりますね、「お前、無敵の癖に、この野郎・・・!」って思います。 >ばたついた足音を落ち着いた歩行に変えてくれるような強さと優しさ 実はこれはすごく構成面で意識した点でした。前半は本当にげんなりした気分で書いていたんです。で、なんかこれじゃダメだ!と思って一晩寝かせて、後半を書きました。どうやったら前半の自分の心の「ばたつき」を作品のなかで解決できるだろう、って感じで書きました。なんだかピンポイントなご感想とても嬉しく思いました。ありがとうございます! (逃げ水)

2019-09-11

修正:密によりあってひとつの意図を紡いでいて欲しい --> 「意図」ではなく「糸」でした (えかきうた)

2019-09-10

みうらさんと同様、技巧的には結構うまいというのが初読の印象でした。そして同じく、その先を求めてしまいます。つまり、なぜこの形式を選んだのか、という問いに説得力のある答えを作品から読み取りにくいように感じるという点です。それはこの作品が選んだそのスタイルにおいて、技術的問題がそれなりにスマートに解決されているからこそ発生する問題でもあるのですが、スタイルにおける実験というものを通り越した、スタイルの必然性が欲しいというのが正直なところでした。 別の書き方をすると、この作品を書かせたはずの初期衝動と作品における言葉やスタイルといったものが、密によりあってひとつの意図を紡いでいて欲しい。そう感じました。 (えかきうた)

2019-09-10

「〜る」の多用が独特の波のような心地良いリズムを作っているとも言えると思うし、あるいは読む時の気分によっては非常に単調に感じられるかもしれないとも思いました。「〜る」終わり含め基本「u音」締めの行の連続の特に後半部分で >環境に適応できなくて死んでしまうマンモスのように >バカでかい音を立てて倒れるくせに >反響はすぐに止んで のたれ死にしそう と、この3行は、すこしリズムを横に流すような感覚、もしくはここだけリズムを引っ張っている感覚があり、単調になりすぎないような効果があるように感じられます。 あと、ひとつの行にスペースを挟んで二つの文(というかフレーズ)を連ね手法、例えば >首や頭から消えたと思ったら 背中にできているじゃないか >テレビのショッピング番組の 胡散臭い化粧水のCMなんかを思い出して >歩み寄りたい世界なのに 距離を感じてしまう >潰そうとすればするほど 膿が絶え間なく流れて など、かなりたくさん使われていますが、個人的な感想としては、このスペース部分で言葉の流れが毎回もたついているような印象があるのがちょっと気になりました。それぞれのスペースにそれぞれ違ったニュアンスの「間」が感じられれば、もしかしたら非常に繊細な緊張感を紡ぎだすことができる手法なのかもしれませんが、なんだろう、この作品を読んでいると私の場合これらのスペースの箇所でだらっとしてしまうんです。 つまり、どのリズムで読ませたいのか、というのがあまり明確に伝わってこないので言葉がリズムに乗って入ってこないところがあり、感傷だけが言葉の表面で上滑りしてしまっているような感覚があるます。 一方で >胃がヒンヤリとして重い >ビー玉くらいの冷気が 平気で僕の胃の中を >コロコロコロコロ 転がってる >いつになったら消化されるんだろう といった非常に冴えた表現もあり、とても気になった作品でもありました。 (殻の音)

2019-09-10

ふじりゅうさん ものすごい丁寧に読んでくださって滅茶苦茶嬉しいです!とにかく、いかに感傷と決別するか、なんかそんなことをものすごく意識して書いたような気がします。 そして、儚く美しいものへの憧れと、現実を支配する重たい灰色のざらついた空気の鉄のような味。落差。空虚。「海」って私にとってものすごい憧れの対象で、それは幼少期のとても幸せな時間をとても綺麗な海の景色と共に過ごしたからなんですが、それを求めて一人で見に行った「この時」の海は「海」とは呼びたくないくらいに灰色で、もう本当に虚無の果てという感じでした。でも、そういう過去の幻にとらわれていないでもっと前を見て歩けよ、って教えてくれた人がいて、まあ、なんだかそんなことを思い出しながら書いたりしました。そして自分の考えたこと感じたことを全部伝わるように書かなければいけないわけではないというのが(そんなふうに自分は思っているのですが)、いわゆる詩のよいところなのだと思っていて、それはふじりゅうさんの冴えた読解がいい例なのですが、他の方に読んでもらうことで、自分でも見えなかった自分を自分の作品のなかに発見することがたくさんある、ということで、これはやはり掲示板でのこうしたやりとりの一番の醍醐味の一つだと感じています。 (逃げ水)

2019-09-09

言葉のリズムが非常に特徴的だと感じました。ただ、個人的には「くどい感じ」が先に来てしまい、すっと入ってこない感じがあります。特に前半と後半の繋ぎ方がちょっと強引すぎる感じがしてしまうところ、や最後の2連の俳句や短歌でいうところの「字余り」的な感覚が立て続けに続いているような歯切れの悪さが気になりました。特に気になったのは >熟れ過ぎた夏がたらたら落ちてゆく >名前など意味もなく嚥下されてゆく で、「〜ゆく」が繰り返されているところで、本来ならリズムが整うはずのところでなぜか不整脈のような感覚があります。「名前など」の「など」と「嚥下」の二つの言葉が非常に強い言葉であるにも関わらず、この狭い空間にぎゅっと押し込められているからかもしれません。「意味もなく」の部分も「意味は」ではなくあえて「意味も」となっています。これも少し強めの感触があります。自分だったら「意味は」としてしまいたくなります。 あるいは「意味も」を使うのであれば、その二つ前で「赤い、飛沫が」と「〜が」が用いられているのに対してその次の行を「熟れ過ぎた夏が」のように「〜が」ではなく「熟れ過ぎた夏は」と「〜は」にしたい、と思ったりもするのですが、でもよく読み直して見ると、「〜が、〜」「〜が、〜ゆく」「〜、〜ゆく」あるいは最終連で再び「たらたらと」を使うことによって全体として強めの音韻を意識されているんだろうな、ということはすごく伝わって来ました。 もしかしたら好みの問題にすぎないのかもしれませんが、作品全体を通して「鳴けども」「〜あれど」といったちょっと古めかしい表現が多めに使われているので細部の造形が気になるところでした。それでも、新しい文体への模索を感じられる作品でもあり、そうした挑戦は自分もどんどんしていきたいな、と思う次第でありました。 (夏の階に立ち)

2019-09-09

>女子Bは ... 消しゴムは激落ちくんを採用していた。 不謹慎だと思いながらも、ここで超爆笑しました、笑。 さて、作品自体は何回きあ読んで作品の意図を探ろう、と思ったんですが、なんだかすごく猟奇的な「事件」で、個人的にグロいのかなり苦手なので諦めました。タイトルが一番大きなヒントなのかな、、とか事件の詳細自体はもしかしたらほとんど作品の意図にとって意味を持たないのかもしれないな、、などとちょっと考えては見たんですが、やっぱり事件がエグすぎてなかなか読解が厳しかったです、汗。 >「カチャ」 >「カチャ」 >「カチ」「・・・送信。   !」 あと、ひょっとしてこれってふじりゅうさん本人の動作のことなんじゃないかな、とかちょっと思いました。 「「有名」のすすめ」っていうタイトルはもしかしたら、「作品を投稿する」ということに対する自己批評的な何かなのかなのかもしれない、ということで「「有名」のすすめ」捜査本部、一旦解散します。 (「有名」のすすめ)

2019-09-09

こういう架空の話を延々と語るみたいなのは基本的に大好物です。Wikipedia方式なのが結構凝っているな、と思いました。実際この体裁で書くの大変ですよね? 映画そのもののストーリーもなんだかよく分からない感じで、なんだろう、なんか作品全体が統合を失調している感じで、構造が入れ子になっているような感じがしたのがちょっと興味深かったです。この内容なら個人的には Android Paranoid 使って欲しかったです、笑。でもあえて Last Flowers なところがとても失調していると思いました。あと美術監督がすごいメンツですね・・・ (チャイムを止めるな!(発表済み))

2019-09-09

これを書いたらみうらさんが嫌がるかもしれないな、というのは承知で書くのですが、みうらさんが詩を書く時の精神構造と私が詩を書く時の精神構造ってものすごく似ている部分があるように昔から思っています。なので、私はみうらさんの作品をみるとものすごい同族嫌悪を感じるんです。何もかも滅茶苦茶に否定したくなる。でも、それは多分理屈ではなくって鏡に映った醜い自分の姿こそが破壊の対象なのであって、それは必ずしもみうらさんが私の姿を映し出しているという意味ですらなく、当然、みうらさんの作品に映し出されたように見える自分の姿というのは私のなかの虚像にすぎないのですが、なぜかみうらさんの作品にはそういった自己嫌悪感をひどく煽るものが絶対あるんです。なのでやはり精神構造がとても似ているところがあるに違いないと思ったりします。ただそれと同じくらい、私とはかけ離れている部分もあって、その部分は正直なところまったく理解の範疇を越えている、それはみうらさんの表現力が云々ではもちろんなく、感受性として共通項がまったくない部分が結構あると感じるのです。となると、どういうことになるかというと、みうらさんの作品に接した時に自分のなかにある醜さとひどく似ている精神構造を見出したというような錯覚のようなもの生じるひどく身勝手な同族嫌悪的感情と、同時に生じるまったく理解できないという感情の間で全くもって宙ぶらりんの状態になってしまい、もはやどうやって読んだら良いのか分からない、という状態、つまり深読みしった結果、そこにはまったく理解不能な世界が待っていたという感じで、しかもその理解不能な世界というのは理解したいと思わせるものもないくらいに理解不能なんです。そのことがみうらさんの作品が私にとって非常に難しく感られる理由の一つだと思います。ただ、こうしたことは「詩を読むとはどういうことなのか?」あるいは「ある詩をいいって思うってどういうことか?」っていうことを考えるときに何か大きな鍵を与えてくれそうな気も同時にしていて、それは結局「いい詩ってなんなのか?」ってところに繋がると思うんですが、そうしたことをぼんやり考えながら、やはりこの作品を前にして私は激しい2つの感情の間でどうすることもできずにまさに「(╹◡╹)」といった表情を浮かべながらこんな駄文を書き連ねているのでした。 でもみうらさんのキャスとか聞いてると人間としてはやっぱり自分とは多分全然似ていなくて、そういう感情を抱くことはなくものすごく素直に楽しんでいつも聞かせていただいているんです。なのでみうらさんの作品を読むたびに生じること強烈な宙ぶらりんは私にとって非常に不思議なんです。と、あまり作品とは関係ないことを長々と失礼しました。 (でも確実にいえるのは私の中のイケボランキングでは、花緒さん、夕狩さん>>>みうらさん、であるということであり、かつ、みうらさんは結構イケメンであるということです) ((╹◡╹))

2019-09-08

水上 耀さん コメントありがとうございます!「風景は作るもの。空の色もまた」この作品のなかで一番目立たせたかった部分で、その部分鋭く反応していただけたことや風景を実際に想像していただけたというのはとても嬉しいです。 >私は日暮れの空を想像しましたが なるほど!私は書きながらなんだかどんよりした灰色の曇り空のイメージして書き始めて、で、この作品のなかでは語り手はまだ空の色を確かめていないんです。もしかしたら語り手がその瞬間に思い描いた空の色を私も知らないのかもしれません。 (逃げ水)

2019-09-08

るるりらさん カラスって、そう、なんか実際に迷惑だしこわいしなんですが、実はカラスの造形美って惚れ惚れするものがあって、ワシやタカよりもカラスのほうがカッコいい!っていうのが昔からあるんです。子供の頃から猛禽類の鳥はすごい好きだったんですが、鳥がすごい好きになり始めた頃に住んでいた場所にはああいう黒いカラスってほとんどいなくて、ちょっと近くの山にいったりするとめちゃめちゃ格好いいタカとか結構みることができたんです。でもそのあと、今度はそういうタカみたいな鳥は全然いない、だけどカラスばかりがたくさんいる場所に引っ越してきて、で、カラスってなんかしらんけどめちゃめちゃカッコいいよな、って思ったのをよく覚えています。一時期はカラスの絵ばかり描いていました。 と、前置きが長くなりましたが、カラスってだからすごく特別な存在なんですよ。感傷をはねつける強さを持っているというか、まあ、言い換えると感傷的になる前にずる賢さと荒らされたゴミをみて一気に気分が醒めるっていうほうが正しいかもしれないですが、でもやっぱりどこか神々しい。強い。私はあの強さにとても憧れます。 >音楽性を可視化させたかのような表現が 随所にあるのも不思議で美しいと感じました。 これはどのスタイルで書く時もいつもとても意識というか努力している点でした。ありがとうございます。もっと頑張ります。 >風の色 雲の影すら 俯瞰できる 神々しい視座だと、感じました。 俯瞰!そうなんですよ、俯瞰。自分でも書いていてどんどん言葉に引きずられて何かに耽溺してしまうようなところがあるんですけど、やっぱりこの作品に関して言えばどこかで俯瞰したかったんだと思います。 (逃げ水)

2019-09-06

stereotype2085 さん コメントありがとうございます!実はこの作品と同じようなスタイルで書いた作品を4つ集めたものを先月投稿したのですが、コメント数ゼロのまま流れてしまったので正直この作品も投稿するかしないか悩みました。とりあえず、コメントいただけただけでもすごく嬉しいです。「ストロボ」とはどちらかというと方向性が違うかもしれません。前半から中盤にかけて頭にあったのは「ストロボ」で書いたのと同じ時期の自分なのですが、「ストロボ」は時間を巻き戻してその時の感覚、感情に身をゆだねるようにして書いたのに対して、今回はその同じものを振り返って書いているんです。つまり「ストロボ」が微分的感性とでも呼べそうなもので書かれたとするなら今回は積分的感性で書いたという感じです。そのことにとても意識的になって書きました。ですのでステレオさんのおっしゃる「刹那の耽美」をいかに俯瞰して最後にはそれを突き放せるか、というのが根底にあったような気がします。その意味で読後感がとてもよかったと言っていただけたのは非常にうれしいものがありました。 (逃げ水)

2019-09-06

こうだたけみさん おおお、朗読楽しみにしてます!!!! >緞帳の部分、あまり調べず勢いで書かれたのですね。やはり。 そうなんですよ、汗。 そういえば荒木飛呂彦さんの本にも、似たようなことが書いてあって、どの分野でも読者の中にものすごい詳しい人がいるので、やっぱりこういう細かいところで事実と違う表現があると、気になる人が読んだ時に一気に世界観が壊れてしまうから、細部に到るまで徹底的に取材するし調べるって書いてありました。大事ですね。勉強になりました。 >ラストの描写は、観客と役者の仕切りをなくしたというよりは、“虚構の終わりを否定した”ように私には受け取れました。 緞帳の役割に関しては舞台鑑賞の経験が豊富なこうだたけみさんのおっしゃる捉え方が圧倒的に説得力がありますね! ただ、私が意図したところは必ずしもこうださんの解釈とそれほど大きく違う訳でもなく、というよりもむしろ非常に近いような気もしています。「虚構の終わりを否定した」という言い方もできますし、「観客も(つまり日常も)舞台と同じく虚構だよね?」みたいなこととか「もはや虚構と現実の境目って定義できなくない?」的なことを考えていて、それを形にしたという感じがあります。 >まず娘のモノローグという虚構が提示され、それを覆す語り手のモノローグという虚構が提示され、さらにそれらはト書きによって実は演劇(虚構)でしたと提示されておしまいとなるかと思いきや、その終わりをも娘によって否定される。そのすべてが、タイトルに対する答えなのだろうと思いました。 そうなんですよ。つまりエンドレスに直前の記述が全部「虚構」として処理されていくみたいな構造です。でも虚構として否定しているのはその語りを語っている人物であったり、緞帳を裂いている彼女だったりする。なのでその「否定」という行為がどれほど信頼できるかどうかわからない。だとすると、もしかしたら「虚構の否定」の連続は実は「肯定」の連続かもしれないし「部分的肯定」や「部分的否定」が入り混じったものかもしれません。そういう意味ではもう「虚構」という概念が成立しない、みたいなことを考えていて、なんでこんなことを考えたかというと、SNSとかメディアとか映画とかみてて、もう人間社会ってこんな感じだよな・・・ってちょっと思ったんですよ。多分たくさんの人が感じていることだと思うんですけど、でもよく考えたらそれってなんかスゴイことだな・・・っていうのがあります。 >というわけで、私は本作を上記のように解釈しましたので、朗読はそれに基づいて行なわれると思います。 是非是非!こうださんの解釈でお聞きしたいです。楽しみにしておりますね。 (Twitterなど一切やっていないのとサンクラも詩関連でのアカウントを持っていないので、どうやって感想をお伝えしようか、ちょっと悩んでいますが、もしまだコメントできる状態でしたら、このコメント欄にリンク貼っていただければ、助かるかもです) (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-18

汽水 さん >句読点の少ないまま進む、息継ぎだけをして滔々と語りかけるような文章に引っ張られるように読み進めてしまいます。 文体はすごくいつも気を使っていて、今回は内容が割とカオスなので、できるだけ読みやすく、しかもどんどん次から次へと読んでしまえるように注意しました。 まだまだ課題ありなのですが、このように言っていただけてちょっと嬉しいです! >心情のことを、それもかなり危うく、とげとげしい感情を扱っているように感じられるのですが、視点がブレること、単語の羅列、めまぐるしい展開や開き直った語り口のすべてが読者を「それを傍観するもの」にしてくれるため、いい意味で彼女に没入することなく、一つの詩人の在り方として、なにか共感を抱くような気がします。それは感情移入ではなくて。 >締め方のいっそ清々しいまでの無責任さが、彼女の中に渦巻く”役者”としての感情は、この劇場全体から見れば些事でしかないような、そんな虚脱感も感じられました。 私がこの手の作品を書くときの基本的なスタンスって、この感覚に非常に近くて、自分の中にあるカオスな感情とか、思考とかそういうのをドバーっと吐き出したあとに、ポンと突き放して自分でいかにそれを嗤えるか、みたいなところなんです。なんか私の意図に対してとても的確に読んでいただけたな、とコメントをお読みして非常に嬉しい気分でした!なんかめちゃめちゃ嬉しいかもしれません、笑 (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-17

蛾兆ボルカ さん >真実とフィクションの間に生き、語ることすべてがフィクションであると(客観的には)思われつつも、語る本人は真実の何かしら重要なことを語っているひと。 なるほど!上述1、2、3がなんとか繋がりました!これはとても素敵な詩人の定義ですね(そして、そのまま詩のひとつの定義にもつながるような気がします) 他の方が「詩」をどう定義されるかってものすごく興味があるので非常に興味深かったです。再レスありがとうございました! (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-17

蛾兆ボルカさん コメントありがとうございます! >1彼女が語ることはぜんぶ真実 >2彼女が語ることはぜんぶ事実とは真逆 >3彼女が語る彼女はとても醜い >これらを満たしているので、この人は詩人ということでも別に良いのでもなかろうか、 なるほど!!??つまりどういうことだろう?うーん、ちょっと難しくなってきました。なんだか自分が書いておいて自分が一番混乱してきた気分です、笑。 というか何が本当なのかもはや書いた私ですら混乱してきたのですが(汗)、とにかくタイトルに関しては「まあ、そういうふうに思う詩人さんは多いかもしれないし、それは素敵なことだな」という気持ちがある一方で「いや、流石にそんな訳ねーだろ!」的な気持ちがさらにあって、なんかその感情のまま突き進んで書いた記憶があります。 >面白かったのは、スリルですね。 めっちゃ嬉しいです!!ありがとうございます! >彼女は信用できない。彼女について語るひともどこまで信用できるのか少し怪しい。いや、後半では確実に嘘をついている。言葉なんて調べれば良いだけですから。この人は父親か。いや、ストーカーなのか。 そうなんですよ、危うく私も騙されてしまいまして、ただ、後半に関しては私はちょっと個人的に身に覚えがあるんですよ。小学校のときの国語の企画でみんなで読書したページ数だけシールを貼って読書量を競うみたいな企画があって、友達の超読書家の女の子がぶっちぎりでダントツだったんです(小学生で大人向けの三国志演義とか読破するような子でした)で、自分はその子にすごい憧れて父親の書棚にあるなんか難しい本とか(なんか難しい言葉がたくさんでてくるマジで読めなかったやつ)取り出して読みもせず、パラパラめくっただけで、先生に「読みましたー」って偽の申告してそれでページ数稼いでいたんですよ、笑。先生は「おお、これはいい本だな!!」とか褒めたりしてくれたりして、汗。それでもその子には到底及ばずで、なんか超悔しかった記憶があります。なので、ここで書いたエキセントリック少女のことをあまり笑えないというか、あまり他人事ではないというか、どちらかというと自分がモデルだったりするというか、なんかそんなところがあったりします(本を破いて捨てるってのも自分の体験からきてます) だいぶ勢いで書いたのでいろいろ破綻してるところありなのですが、自分のなかでは語り手は純粋にナレーターですね。一応舞台っていう設定なので(それすらも怪しい気がしてきました、汗)、あと主人公の記述の部分はあえて二人称と一人称を混ぜて書いたので余計ぐちゃぐちゃなことになっています・・・。 でも楽しんでいただけて何よりです!ありがとうございます。 (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-16

こうだたけみさん >これ朗読したーい!って思いました。 嬉しい!!こうだたけみさんの朗読で是非聞いてみたいです!なんかあの正確無比な朗読とすごくあっている気がしてきました、笑。 >娘にはチェルフィッチュめいたダンスの振り付けっぽい動きをしてもらいたいな チェルフィッチュ、知らなくてちょっと検索してみてみました!がいくつか上がっている動画みてみて、そうそう、こんな感じこんな感じっていう感じでした〜! >一つ気になったのは、「腐ったワインの色に似ている」のは舞台の際にある緞帳ではなくて内側にある絞り緞帳だということ なるほど、そうなんですね。普段ほとんど舞台とかみないので、ちょっと不正確だったかもしれません。舞台とかのイメージは動画でみたヨーロッパのバレエとかオペラの感じですね。観てると舞台によって緞帳もいろいろある感じですけど、やっぱりあのビロード色のイメージで書きました。調べて観たら確かに上から降りてくるのは機械仕掛けの絞り緞帳ですね。で、自分がイメージしていたのは、まあとにかく舞台と観客席を隔てるやつです。 で、かなり一気に書き上げたのであまりきちんと調べませんでした、汗。ご指摘ありがとうございます。 >この娘は何を引き裂いたのかなあ、と ちょっとここは表現の正確さが足を引っ張っていますが(汗)、緞帳って観客と演者を明確に仕切るものの一つじゃないですか?それを引き裂いたってことを書きたかった感じですね。なので、本当は緞帳を思いっきり引っ張って天井から引き抜いたみたいなほうが物理的にはあり得るかな(いや、女の子の力じゃ無理か(いや男でも無理かな・・・))って感じなのですが、はい。なんとなく何かをバギっと破ってやりたかった気分だったのでございます。 (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-16

沙一 さん >矛盾しているフレーズをみつけてしまったのですが、主人公の倒錯的な様子が巧く表現されているなぁと感じました。 そうなんです!気づいてもらえてかなり嬉しいです! >ごく一般人でも(アイロニカルな意味で)役者になってしまいかねない、昨今の世相を象徴しているかのようでした。 「世界は舞台 男も女も皆役者にすぎない」と書いたのはシェイクスピアですが、彼が現在のSNS社会を目の当たりにしたとしたら何というのでしょうね? (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-10

仲程さん >油断して読んでると、ちょっとやれらたと感じる、好きな作品です。 めちゃくちゃ嬉しいコメントでした!ほぼ勢いで一気に書いたものなので最初はこういうトリック(?)的な構造はほとんど意識していなかったんですが、なんだか最終的にそんな感じを少しだせたのかなと思うとちょっと嬉しいです。 >世代的に親のほうに感情移入します 同じくですね、笑 (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-09

ずらっと読んだときになんか独特の格好よさがある。うねうねしないですぱっすぱっと線を引いていくような直線的なこのリズムの独特の格好よさはどこからくるんだろうと思って、それぞれの行が何音で終わっているか調べてみました。一番最初の三行の連と6連目以外の連にはかならず、終わりの音に同じ音の連続がある。たとえば2連目 >森のざわめき >視線は痛みを伴い はどちらもイ音で終わっています。 そして6連目ですが、最後の音は同じ音の連続ではないものの >忌まわしき風により(イ音) >縄が眩暈を起こしたのなら(ア音) >草臥れた己の影を吊るしたまえ(エ音) >つま先から燃え上がり(イ音) >孤独を訴える焼身は(ア音) >群衆のなかにまじえ(エ音) >嘲る太陽の光を浴びせよ(オ音) と(イ音、ア音、エ音)のセットが2回繰り返されています。 こんな感じでみていくと 1 ... o, i, u (リズムに乗る前の助走という感じでとてものびのびしている。) 2 ... u, a, i, i, o, a, i, u (行も短く音数が3つで引き締まった感じ) 3 ... a, u, u, u, i, u, i, u, i (u音の3連続、u,iの組み合わせの3連続でかなり引き締まった感じ) 4 ... i, a, i, u, u, a, a, i, o (uの連続とaに連続だが、ここは「〜ぬ」が2回きてぐっと結び目ができたあとのア音の2連続に開放感があって、そのコントラストが連全体を引き締めてる感じ) 5 ... u, u, i, i, u, a, e, u (前半が特に引き締まっている感じ、だが後半からすこし解放される感触) 6 ... i, a, e, i, a, e, o (i a e の連続が間隔の広いちょっと深呼吸するようなリズム感を作っている感じ) 7 ... i, u, a, a, u, o, e, i, u (aからoまでのすべての音を含んでいて自由な感じ) 8 ... o, a, a, u, o, i, e, a, u, i, u (行も長く、前の連と同じくaからoまでのすべての音を含んでいてさらに自由な感じ) 9 ... a, a, a, i, u, a, i, u (a音の連続で畳み掛けてかつ「〜る」と言い切る行が二つあって作品全体を引き締めている感じ) 個人的には上に書いたみたいな感触でした。ずらずらっと思いついたままに言葉が並べられているようで、実はきちんと言葉のリズムの起承転結があるように感じられました。決して全体は短い訳ではないし、言葉の意味を拾っていくと迷子になってしまいそうにもなりますが、音として読んでいけば一気に最後まで読まされてしまう、そんな疾走感がありました。 こういう音韻設計ってあまり意識しすぎると全体がガチガチになって言葉からしなやかさが失われてしまったりしがちですが、それもあまり感じさせないので、もしかしたら感覚的にされたのかもしれませんが、試しに分析してみてとても興味深かったです。 (不可逆)

2019-08-08

自分の中にある言葉のリズムやイメージの連想の流れと全く別種類のリズム、流れのなかで書かれたもの、自分のなかにはない感性で書かれたものってなかなかどう読めばいいのかわからず当惑しますが、何回も読んでいるうちに少しずつ作者の感性が見えてきたりすることもあり、まったくダメな場合もあります。そういう意味では、作品そのものや「どう読むべきか」ということよりも「作品そのものをどう読みたいか」という読者の姿勢がもしかしたらとても大事なのかもしれなくて、そこには作品を書くことと同じ以上の、あるいはそれ以上の想像力なんだな、と感じます。私が今は本当に大好きで何回も聞くような音楽も最初はまったく意味不明だったようなことを思い出したりもします。変拍子が多用されている、とあるアルバムを好きになるまでに私は30回くらい聞いた覚えがあります。そういう意味では自分にとって理解できないものを理解しようとするほうがより自分を広くするのかもしれない、と感じるのですが、やはり体力のいるものです。 そしてふじりゅうさんのこの作品は私にとっておそらくそういった種類の作品です。今の段階では何回読んでもうまくそれぞれのパーツが繋がらないところがある、でもそれは作品そのものが技術的にどう、ということよりもまず先に私のなかにふじりゅうさんが持っている視点や感性、もしくは言葉のリズムがまだないということなんだと思うんです。でもいくつかとてもいいな、と思った表現がありました。 >この世に遺しようのない身体が >スマホを帰る場所にしたがっていた >同じ風を掬って飲む >ぺこぺこ音をたてるペットボトルの >中身も真っ赤な液体 >を 飲み干す 「炸裂」の直前の連は「〜た」と体言止めの連続が緊迫感をだしていてとても好きです。そして特に上記の表現、とても生々しいですが、いろいろな形で安易に消費されていく命を想いました。最後は手榴弾でしょうか。littlegirlはlittleboyにかけてるのかな?とか、彼らはなにと戦っているのだろう?とか少しずつ想像を膨らませてみると戦場のシーンと都会の日常がコラージュされていくようですこしずつ景色が見えてくるのでした。 (気まぐれな茜)

2019-08-08

藤 一紀さん おおお、なんかすごく丁寧に読んでくださりありがとうございます!「舞台」という装置持ち込んだ意味をちゃんと読んでくださっていてすごく嬉しいです。 確かにその拍手が本当の賞賛であるなら、結局は観客も主人公とおなじような精神構造をしているということになるのかもしれません。 なんか逆にすごい考えさせられるコメントでした! (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-07

ふじりゅうさん 毎回コメント嬉しいです!誰も読んでくれなくても、この手の作品なら必ずふじりゅうさんが読んでくださる、っていう確信があって、だから投稿しているっていう部分があります。あと時々ツイキャスの録画もみるのですが、マメに私の作品の作品を取り上げてくださって本当にありがとうございます。 >前半読んで、あーこんな感じの展開だろうなと予想しながら読むと、完全に裏切られるタイプの作品です。きっちり真逆になってやがる、という驚き。 そうそう、きっちり逆にしましたー。中盤まで書いて続きを書くのにちょっと筆がとまって、そして今度はああ、じゃあ真逆にしようって思って書いたんです。 もし機会があれば次回は後半が虚像に近くて前半は真実に近いと思って読んでみて下さい! >メガネのパートが好きです。メガネはダサいからとか言っておきながら、主人公自ら買ってるし、類まれなる似合い方をしてるし、裏切りの真骨頂ですね。 ここは自分もかなりお気に入りのパートです! (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-07

トビラさん コメントありがとうございます! 別に困らせたい訳ではないのですが、作品自体が嘘をついているのでタイトルも嘘かもしれないし、このコメントも嘘かもしれないですね、笑。というよりもこの「なにもかも嘘かもしれない」というスタンスはどちらかというと私がネットに接するときのスタンスなんです。 >これだけ自己承認欲求の強い主人公が、説得力を持って描かれる現代日本に失望してしまいました。 面白いっていう感想と、説得力をもって描けているっていう感想は素直にめちゃくちゃ嬉しいです! (詩人が語る言葉は、すべて詩でなければならない)

2019-08-07

投稿被りました。投稿後にコメント拝読いたしました。大変申し訳ありません。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-06

タカンタさんへ >集団心理によるもののように見え、気持ちのいいものではないですね。 ものすごく雑な言い方になりますが、私は集団心理から離れた「芸術」の「評価」がもはや成立しない(しにくい)ということがいいたいんですよ。 時代が変わる変わらないもこの小さな文脈で言っています。タカンタさんのおっしゃるような大きなスコープの話ではなく。 つまり、集団心理を離れた「芸術」の「評価」はそれ単体ではもう成立しえないのに(これは私の私感です)、あくまでそうした「芸術的評価」が成立しえることを前提に話をしていることに私は違和感を感じるのです。 なんかまた長くなりそうなので、このあたりにしておきます。 >上記以外の時代についての視点として、映画はDVDとなった時点で映画とは別物です。 グレン・グールドのことを考えると(私は彼の大ファンなのですが)、こうした議論は非常に虚しいものに感じられます。 るるりらさん つい、魔が差しました。長々と大変失礼しました。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-06

タカンタさん >芸術においては遠慮せず忌憚のない意見交換をすべきです。 かならずしも同じ「芸術観」を共有していないもの同士で果たしてそのような有意義な意見交換ができるでしょうか?ビーレビはそのことに挑戦しようとしてきて、結局失敗してきたように思います。結局、「面白くないと感じる作品」に対しては「どう読めば面白いと感じられるか」というアプローチを取るしかない。まあ、そのアプローチ自体は読み手としての技術向上には繋がるとは思いますが、つまりこのようなアプローチに収束したということで、ビーレビはこの問いに対してある意味で一つの現実的な答えをもう出してしまっています。そして、現在もはや当初の理念さえ失ってしまいました。 私とタカンタさんの対話が先日少しばかり成立したのはあくまで「「文学論」」についての云々であって、作品については一ミリほどしか触れていない。なぜなら、それは不可能だからです。結局同じ基盤を共有しないもの同士の意見交換など不毛ではないでしょうか?「「文学論」」について云々しあうことですら不毛なのであれば作品においてはなおさらです。 それよりも、どうしてある人の作品が特に好意的なコメントを集めるのか静かに考察したほうが面白いですよ。そして必ずそこに噛み付くひとが現れるのがなぜなのか、もです。 それに「芸術」というのはいまどき本当に成立しえるんでしょうか?「芸術」の役割ってもはやなんですか?詩の役割ってもはやなんですかか?Twitterのいわゆるポエムがすでに大半の需要を満たしてみます。 空気を読めとは思いません。でも「時代」は読もうよって思います。タカンタさんの文学論には根本的に「いま」という時代に対する洞察の根本的な欠落があるように感じられます。あるいは「時代」を変えられるとお考えなのでしょうか?時代を変えるのはインフルエンサーでもカリスマでも、政治家でもない、もはや。 それにお世辞コメントが見苦しいと思うなら、マナーの範囲で否定的コメントをすればいい、ただそれだけのことです。 (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-06

詩は毎回ちょっと私には難しすぎて、よくわからないんですけど、音楽が毎回めちゃくちゃかっこいいですね。 (走馬灯なる愛)

2019-08-05

個人的にはこちらのバージョンのほうが断然好きです。あちらはあちらで物語という面白さがありますが、こちらはさらに謎めいていて緊張感があって引き込まれます。「ぬくい」はさらに言葉の気持ち良さと独特の自虐的ユーモア(?)がパワーアップしてさらに最高になってます。暗唱したいくらいです。 (でも、コメントしやすいのは多分無印バージョンですね) (ぬくい ≪令和元年八月版≫ )

2019-08-05

>しかし、この和歌はチェコ語に翻訳されて、新しい価値を生み出しているそうです。 >そこが文学の良さですね。 そうですね。翻訳されることで新たな感性が作品に付け加えられる訳ですから、翻訳という過程を通して作品がより豊かになっていくという側面はかなり大きいと思います。 >「言葉の感覚的側面への鈍感さ」は、現代詩を書く方たちに感じることが私は多いです。 これはもしかしたら的を射たご指摘かもしれません。だた、ときどきこの感覚に非常に鋭敏な書き手もいらっしゃるのでそれが面白いところだな、と感じます。 ただし近代的な書き手がこの点で劣っているかというと全くそんなことはなく、全体的な傾向としては、ご指摘のようにむしろこの点で現代人はどんどん鈍化していっている側面はあるかもしれませんね。 あるいはすごく意識的な作品であっても、実験的になりすぎて、頭でっかちになって逆に感性の乏しい結果になる、というのは往々にしてあることだと思います。 >文学ではなく科学になりますが、例えば、私たちはガリレオより知識豊富ですが、ガリレオより賢いだろうか。 >ガリレオについて語ることは文明批判ではないだろうか。 >科学だけの問題ではないですね。 まず定義すべきはそれぞれの時代において、賢いとは何か?ですね。たとえばガリレオやコペルニクス、ニュートン、アインシュタインはそれぞれ科学の世界(つまり人々が世界をみる見方の枠組み)を変えたからこそ名前が残っているのであって、賢さ以外に「ちょうどいい時代にちょうどいい環境に恵まれ、ちょうどいい仕事ができた」運というのは決して無視できません。つまり賢さに関して語ることには一種のナンセンスさが伴うように感じられます。 文明批判は文明批判でとても面白いと思います。文明批判から生まれた優れた作品ってとても多いですよね。私が大好きな「吾輩は猫である」は立派な風刺ですし。私が言いたかったのは実質文明批判であるならば、それは作品または批評に消化して提示したほうが面白いのではないか?ということです。 たとえ平行線であってもきちんと熟考した上で提示された「文明批判」であれば、そこから生産的な対話なり思考喚起が可能かもしれないからです。 でもタカンタさんのフォーラムでの攻撃的ともいえる細かい一連発言を通してでは、読み手にタカンタさんと同じところまで深く掘り下げて考えてもらうことはできないと思うのです(何か気に入らないことがあったんだな、、くらいにしか受け止めません) せっかく文章力もお持ちであり、しかも深い思考をされているのに、それが参加者に場合によっては不快な感情を抱かせるような安易なアジテーションで終わってしまっているのがとても勿体無いです。 作品に落とし込んでこそ、その批判が迫力をもって読み手に迫るのではないでしょうか? どちらにせよ、先回も含めこうしていろいろやりとりができて私としても考えさせられることが多々あり、有意義なやりとりであったことは間違いありません。 ありがとうございます。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

つまり「東西冷戦」って不毛だよね、、ってことです。 (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

ご返信ありがとうございます!なるほど、興味深く拝読しました。 >画家が主題を意図して一本の線を描いたとしても、やはりそれは一本の線ですね。 これは美術そのものが昔から抱えているテーマの一つかもしれませんね。 あるいはタカンタさんが説明しておられることはそのまま写真にもあてはまる。タカンタさんの議論を適用すれば「花を写した写真」は「花」を主題としているように私たちが錯覚しているだけということになる。なぜならカメラは水晶体と網膜の代替物にすぎないのだから、やはりそれは即物的な意味しか持ち得ない。 そこに人間が何かしらの意味を付与するときのみ意味が成立すると。 では果たして、人間の網膜にうつされた像を、脳が解釈することと、写真に映し出された像を目が取り入れてその像を脳が解釈することにどれほどの違いがあるのか、ということは一考の価値があるかと思います。 >絵画においては、根本において対象、主題をを持つことは出来ないのではないかと思います >しかしながら、主題は絵画においては不純物とも見えます 美術の成立において、人間は対象物を記号化するところから始めています。つまりそれは一種の言語化ではないでしょうか? そういう意味では写実的に写し取るという意味での「絵画」というのは、つまり一本の線の即物性が議論できるようになるようになったのはずっと後代のことであって、そう考えると、絵画に置ける一本の線はものとしての「線」ではなく言葉に近い。と考えることもできます。 であるとするならば、一本の線と言語との間にそれほど大きな隔たりはないようにも思われるのです。 >文学においてストーリー、プロットの無い作品を創造できたとしても、おそらくそれは私たちに何らの感銘を与えないであろう。 >それは言葉の役割を放棄しているからで、伝えるものが何も無い文学から私たちが美を感じることは難しいですね。 文学の構成要素はストーリー、プロットだけではないと思います。言葉のリズム、音韻、視覚的構成、技法、語彙などなどはときにストーリー、プロット以上に重要であると考えます。そうした言語特有の特徴と作品は不可分の関係にあるゆえに文学の翻訳の難しさが生じるのではないでしょうか?日本の短歌の良さはやはり日本語のリズムに慣れ親しんだ人でないとわからないと私は考えています。 古い和歌は意味を知らずとも心を深く動かすものが多々あります。私はそれを和歌のもつ意味からある程度切り離された現象だと感じています(どの程度人間の感情が音韻に影響を及ぼすのかは一考の価値があるでしょう) つまり現代抽象絵画が古典的主題から離れて、構図や色彩、テクスチャーをモチーフにするようになったのと同じように、言葉の感覚的側面を中心に構築された文学は不可能な訳でない。ただそうした文学的試みは往往にして一時的な、実験的な価値しか持ち得ないことが多いのもある意味確かだと思いますが、ただし「伝えるもの」をストーリー、プロットに絞ってしまうことは、そうした言葉の感覚的側面への鈍感さに繋がりかねないのではないでしょうか? 特に詩においては、そうした側面にしぼった試みが私はとても好きですし、そこに美しさを感じることも多いです。 まあ、私のような考え方もあるということです。 >どちらかと言うと、私は海外の19世紀から20世紀初頭の作品(小説以外のものも含めて)が好きなので、「現代」(つまりコンテンポラリー)アレルギーは有ると思います。 ということはタカンタさんが批判されているのはタカンタさんが批判されているような作品を産んだ価値観や感受性や時代性であって、もしそうであればタカンタさんの批判は文学的批判というよりも文明批判に近くはないでしょうか? (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

Creep感でてて好きです。カラオケでCreep歌うと「She's running out again ... 」のところからが特に辛いですよね、汗、とかタイトルにつられてこんなコメントしてしまった私は完全にcreepです。 (Creep)

2019-08-03

>私は全ての文学作品にストーリー、プロットがあると考えています。 これは「すべての絵画は明確な構図や描かれる対象、主題を持つべきである」という主張に似ていませんか?つまり「絵画のための絵画」としての抽象画の否定です。マーク・ロスコの抽象画は確かに「ストーリー、プロット」がないようで「人間的な感情」あるいは何かしら「文学的あるいは音楽的な主題」という中身を持っているように思いますが、ロバート・ライマンは明らかにそれを排除しています。 あるいは一時期ピカソとブラックはまったく同じようなキュビズム絵画を描いていますが、ブラックは図と地の構図の破壊を行うことによって古典的枠組みを超越することができたのに対して、ピカソのそれはあくまで「図と地」の古典的枠組みの中にあります。つまりキュビズムという「ストーリー、プロットのなさ」という見かけを持ちながらピカソはあくまで「ストーリー、プロット」を維持し続けたのに対しブラックはそれを放棄したとも言える。その点においてブラックはキュビズムに関してはピカソよりも高く評価されているのではないでしょうか? 私は「ストーリー、プロット」が本当にない作品は、「ストーリー、プロット」以外の何かの明確なコンセプトの元に構築されたのであればそのコンセプトの強度に応じて評価されるべきであると思います(そんなことが日本の文芸において可能かどうか疑わしいですが)。たとえばポロックの絵画の「無構図」をどう評価するのか?といった問題です。 ただ最終的にはすべての理屈を超えた「美」が生き残ると信じているのでその時点ではこうしたすべての議論は無に帰する、そんな世界に生きていたいです(その意味でポロックやリヒターの抽象は美しい。どんな美術評論家の理屈をも通り抜けてただただ美しい) なのでタカンタさんってもしかしたら「現代」(つまりコンテンポラリー)アレルギーなのかな?ってちょっと思いました。 というか、こんな風にコメント欄に文学論書いてあるとせっかくいい感じの作品本体から話がどうしてもそれてしまいますね、汗 >私が作品を書くうえでよりどころにしているスタンスは、理論は自分で考えるべきであって、それが稚拙なものであっても他の本からの受け売りよりは遥かにいいということです。 これはそうかもしれませんが、理論というのは作品を通して感じられるのが一番ではないでしょうか? それともコンセプトがわからないと作品そのものの理解が難しいような何か「コンテンポラリー」な作品を目指しておられるのでしょうか?であれば、ステートメントとしてもっときちんとまとまっていたほうがよくないですか? (散文詩「杉谷家から幸恵さんへの手紙」、詩「冬の街」)

2019-08-03

奇をてらってところのほとんどない自然な、そして引き締まった文体は魅力的ですね。断片なので、ここから物語を想像するという楽しみ方しかできないですが、完成したものを読んだらきっと面白いだろうな、という予感がします。 逆さまに絵を見る下りはとても好きですね。ゲルハルト・リヒターが私は大好きなのですが、彼を扱ったドキュメンタリー動画のなかで、彼が有名な娘のポートレート(「Betty」)を自分のアトリエだったか部屋だったかで逆さまに飾っていたのを思い出しました。あとモネの睡蓮も、こっちは意図的ではなく間違って、、ですが、どこかの美術館で上下逆さまに展示されていたそうですね。 (散文詩「優香里と佑之輔」)

2019-08-03

I am not what you would think I am (I am not what you would think what I am)

2019-08-02

出だしの >ぬかったわ >ふるぼこではないか >ぼっこぼこではないか >荒廃した この さもしい自分は >一体どうしたら いいんだ。 は最高です!思わず舌を巻きました。 この一連目の緊張感が最後まで持続してくれたら本当に最高だったんですけど、終盤にむけてちょっとだらりとしてしまっている感がもったいないように個人的には感じられたりもします。でも「回田」の塊がナゾいですね。ぐごごって引き込まれました。 (ぬくい)

2019-07-31

誤字失礼しました:Moon Shaped Pool --> A Moon Shaped Pool (radio head)

2019-07-31

関係ないのかもしれませんが、radioheadといえば、たしかにこの作品、「OK Computer」の「Fitter Happier」みたいな感じあるかもしれませんね。「what happeing」が「what's happening」でないのは誤字なのか狙いなのか、ちょっと悩めるところではありますが、「Ideoteque」のフレーズ「This is really happening」とか「How to Disappear Completely」の「This ins't happening」を思い出してみたりとか(「KID A」は「happening」の出現頻度が高い気がする)。 >トンネル抜けるとそこは未来がある の一節からはなぜか「Moon Shaped Pool」の「Glass Eyes」を思い出して思わず改めて聞いてしまった次第です。すみません「radio head」というタイトルから私のradiohead症候群が発症しかけて思わずradiohead語りを始めてしまいました。「金持ち批判した歌っている自分たちが一番金持ちじゃないか」って突っ込みたくもなりますけど、とにかく好きですね、radiohead。あ、本当に関係なかったら本当にすみません。 (radio head)

2019-07-31

今は懐かしのカオスラウンジ感満載のイラストに押されてテキストが全然頭に入ってこないのが正直なところですが、マウス使ってひたすらこういう「「アブストラクトアート」」作りまくっていた昔の自分をちょっと思い出しました。あるいは、言葉と画像がひたすら切り刻まれてギザギザにコラージュされて行く感じが旧劇場版エヴァみたいな感じもします(補完されちゃうところ)。「甘き死よ、来たれ」がいま頭の中に流れ始めて、なんかやっぱり昔のことを思い出すのはむず痒いですね、笑。 (無考)

2019-07-31

やっぱりこのサイバーパンク感は魅力的だなぁ。こんな世界観の散文とか掌編小説をすごく読みたい気分です。 (「残響」。)

2019-07-31

ご検討いただきありがとうございます! 実はあの後、公式キャスの件、ものすごくいろいろ考えて、引き受けるべきかどうか悩んでいたのですが、やはり代替案の形であっても今回は辞退させていただけないでしょうか?(もし、理由がどうしても気なるようでしたら、ステレオさんから個人的にメールくださいませ。返信致します) もしかしたら、いろいろ準備してくださっている中だったかもしれず、大変恐縮です。 何卒、よろしくお願いします m(_ _)m (皇居正門の真下で)

2019-07-27

あまりにもたくさんの言葉たちが、しかもそのどれもが痛みに怯えた身体の吐き出す吐瀉物かもしれないのに、蛍の光ほどの儚さも許されないまま、少しばかりの明と滅を繰り返して、深く深く沈殿して行く様は本当にまるで有機物の腐敗のようで、あるいは自分が書いた言葉たちも何かの拍子にぽろっと落ちるようにして欠けて壊死してしまった自分の生身の身体の一部なのかもしれなくて、それはたった今この瞬間にも次々と置き去りにされていく「現在」という錯覚が私の身体を盾にして背後に隠れ込んで行くその狡猾さにもとてもよく似ていて、笑って過ごしているどんな瞬間も置き去りにされた私の身体はいつもたった一人で、嫌いな深緑色の影の不穏なささくれから逃れることはできないはずで、まるで次々と自分の身体がその度ごとに埋葬されて落ち葉のように次々と積み重なって行くのを、朝の紅茶を飲みながらぼうっと眺めているような、そんな私の感覚とどこか共鳴するものがあるような感じがしました。 あと、黒い背景と、各連の導入の崩しが、「堆積」とか「沈殿」みたいな感覚を生み出しているように感じられて効果的だな、と思いました。 >死とは暗い緑色をしている これはなぜか自分も結構共感できるところがあって、深い緑色はなんだかとても不穏な色で、私を凄まじく不安にさせる色です。他の色とセットになっていない限り単体ではなかなか好きになれないので、おお、やっぱそうか、とちょっと嬉しく思ったりもしたのでした。 (病葉堆積)

2019-07-25

公式ゲストとはまたなんと魅力的な!でも直接出演は今はちょっと難しいかもですねー。例えばなんか質問一式をメールしていただいて、私がそれにズバーっと返答してそれを記事にしていただくとか、キャスで取り上げていただくとか(で、もし時間があえば聞き手としてチャチャをいれる、笑)みたいな感じだったら大丈夫ですけど。でも、お申し出大変嬉しく思いました。ありがとうございます。 (皇居正門の真下で)

2019-07-23

なるほどです。せっかくの掲示板なのでもっとインタラクティブに作品作っていったほうが確実に面白い、とは思いますが(私はそうしています)、タカンタさんのようなやり方もありかもしれないですね。私は非常に気まぐれなので、また気が向いたらコメントさせてくださいませ。いろいろご意見お聞かせいただきありがとうございました。 (カフェ)

2019-07-22

やっぱりタカンタさんの文学論、詩論は面白そうです!何が面白そうかっていうと、文学に関する一式の公理系のようなものを(既存の概念に対して反旗を翻すかたちで)打ち立てている点で、そこから演繹的に作品を構築しようとしておられる(ように見える)という点です。先日、音楽は演繹的で文芸は帰納的であるというご指摘をうけて非常に興味深く感じて、なるほど、と思ったのですが、その主張とは裏腹にタカンタさんの試みは非常に「演繹的」であると感じるのです。先日の文芸は帰納的であるというご指摘には、それなりの説得力があった分、逆に演繹的な文学ってもしその試みが成功したら、ひょっとして非常に面白いものになるのではないか、という気がするのです。例えばロラン・バルトなどの著作は非常に演繹的で(というよりも一種の論理的ゲームのような趣があるような気がいたしますが)それを詩で行うとどうなるのだろう、しかも「詩とは」というところから始めるとはなかなかに壮大です。おまけにその詩論が目指しているものはどうやら「詩を読みなれていない読者」でも容易に理解できる、しかも時には「日常的な出来事を非日常的な表現」で表現を意図していたりする。その詩論自体が抱えるいくつかの矛盾をどう処理されるのかを含め、非常に楽しみなところであります。まずはタカンタさんの作品において、タカンタさんの詩論が十分説得力のある実を結ぶのを何よりも楽しみにしています。でなければ、その詩論に基づくいかなる作品批判も批評も、一切説得力も持たないのではないでしょうか。 (カフェ)

2019-07-21

自己レスに関していうと、この種の自己レスはガイドラインに明記されてはいないものの、コメントしたものは必ず上がるというこの掲示板の特質上、どちらかというとマナー違反ではないかと思います。ただ、書かれておられる内容はやはり非常に興味深いです。作品投稿は必ずしも詩作品である必要はなく、しかもそれなりの分量の文章を投稿することができる以上、批評や文学論などを投稿しても問題はないどころかむしろそれは歓迎されるべきもので、もちろんその分投稿枠は減る訳ですが、タカンタさんがあちらこちらで展開されている文学論、詩論をきちんと一つの文章にまとめて投稿してくださったなら私は必ず読むと思いますよ。明らかに面白そうですから。特に実際の作例を交えた文学論なり詩論は是非お読みしたいです! さて、書き出しについての論考ですが、タカンタさんの作品においての書き出しについて考える場合 >木立が夕暮れを見捨てるころ の一行を論じてそれで本当に事足りるのだろうか、という点、非常に疑問でなりません。 まず一つの点として、この表現は決して稚拙な表現ではないにもかかわらず、詩を読み慣れた読者にとっては、おそらく何の意外性ももたらさないであろう、という点で、正直なところこの一行が作品への入り口として十分な求心力を持つとは感じません。 二つ目に、詩の出だしとして考慮されるべきははたして冒頭の一行だけなのか、という点です。小説であれば、重要なのはまさしく冒頭の一文であるわけですが、タカンタさんが選択した改行詩の形式においては、文章は一行目で終わるのではなく、一連目で終わります。小説において、あるいは詩において、冒頭の求心力を作り出すものが、最初の「主張」あるいは「意味の塊」もしくは「ひとつの描写」であるとするなら(私は冒頭においてはなんの求心力も持たない詩の可能性、そしてそれは私のなかで十分に魅力的な可能性ではあるのですが、そうしたものを一旦除外します)、タカンタのさんの最初のひとまとまりの「主張」または「表現」にあたるのは最初の一行ではなく、明らかに最初の一連です。そのように仮定した場合 >木立が夕暮れを見捨てるころ >小さなカフェに入る扉の向こうで >忙しく働くきみが見える という冒頭の一連の描写に何か読者を魅惑するような、特別な引力があるでしょうか。よくも悪くもありふれているのです。そして続くその後の表現がその「ありふれた」状態をうまく調理できているとも思いません。 タカンタさんの詩文を再構築が許されるとして、もし冒頭の一連が仮に >木立が夕暮れを見捨てるころ >記憶の流れが時間に逆らう >束の間の戯れ であったなら、その一連の描写はより引きの強い隠喩的表現となり得たのではないでしょうか。 (カフェ)

2019-07-21

追記: あ、あとちょっとキャスお聞きしたんですが、いまトゥイッターはやってないです。ついこの間アカウント消しました。なんかSNSやってると情緒不安定になるので、笑。 (皇居正門の真下で)

2019-07-21

コメントしたあと、いろいろ考えて、それから「清濁併せ呑む」もお読みして、やっぱり言葉遣いはいまのままのほうがハイブリッド感でていいのかな、、と思ったりもしてます。たしかに「清濁併せ呑む」みたいにゴリゴリにしてしまうとおそらくこのポップハイブリッドマシーンな感じ(ってなんやねん、笑)がでないような気がしてきました、なんか勝手なことばかり書いて申し訳ないです、汗。 >そういう意味ではちょっと半端な感じですが狙いはあたったのかなとも思います。 多分ステレオさんの狙いは結構いい線で当たってると思います。でも、やっぱりなんかちょっと物足りない。「欧米人から見た、ところどころ不正確な日本像」というのも多分路線としては間違っていないかもしれないんです。でも、じゃあどうしたらもっと作品が引き締まるの?って自問自答してもなかなか答えがでなくてちょっと自分でももどかしいところがあります。 アルバムジャケットの話でいけば、あとはビョークの「ポスト」のアートワークなんかもこの作品のイメージにすごく近いです。「清濁併せ呑む」よりはこのハイブリッドな感じのほうが好みですね。なんかそのうち、ものすごくビシッときまった感じの作品を書いてくれそうな予感がします。その時に今のもやもやの原因が分かるのかもしれません。 (皇居正門の真下で)

2019-07-21

千才森 万葉さん コメントありがとうございます!小説書きの方に読んでいただけて嬉しいです。 >うん、すごくコメディ(笑)  でしょ、でしょ?笑。やっぱり投稿してよかった! >こころは、心じゃなくて小説の方だったんですね。 文章書き始めたときは小説の「こころ」ではなくて心のことを書こうとしたんですけど、最初の文章を書いたあとに小説の「こころ」を思い出して一気にそちらに寄せました。自分の書き方ってものすごく気まぐれなところがあって、この作品はほぼ書きなぐりのような勢いで書いたのですが、書きなぐれる時のほうが作品としてまとまりがいいような気もします。 それにしても文豪の作品は本当に文章がうまいですよね。個人的に最近すごくはまっているのは太宰治です。なんだろう、多分現代的な感性で読んでも面白いです。しかも結構笑えるんです。なんか陰気臭いナルシストなイメージしかなかったので敬遠していたのですが、中期の作品などは本当に文章も伸びやかで人間味溢れる感じで、特に言葉のリズムの紡ぎ方も、もしかしたらラノベ方面にも活かせるかもしれない、と思うほど、読み手を捉えて離しません。ちなみに後期の「人間失格」とか「斜陽」とかから読み始めると嫌いになる人が多いと思うので、ああいうのはどちらかというとコアなファン向けだと思います。 夏目漱石の「こころ」は最初に読んだのは自分も中学生くらいのころで、その時読んだ印象で「こころ」の舞台となる家の間取りみたいなものが勝手に出来上がっていて、そのイメージを描写するところから始めました。ステンドグラスのある階段とか、引用していただいた部分などがちょうどそれにあたります。でも、最近また読み直して見たら、間取りも何もかも全然違くて、その記憶は捏造だってことが判明したんですけどね、汗 >こころという作品の呪いに囚われて、どこか不思議な世界へと引き込まれていった私が、お嬢さんの手で呪いが解かれ元の世界へと戻ってくるお話、そのようにも読めました。 おお、なるほど。そういえば自分は自分で書いていて、ちょうどこれと同じような感覚でした。書いてて途中どうやって落とし前をつけようか、って感じだったんですけど、千円札の夏目漱石を破り捨てるあたりから出口が見えてきて、最後は無事?、正常な(多分、笑)なところに戻って来れたのでちょっと安心しました。ときどき異常なまま戻って来れないときがあって、そういうときは無理やり戻すしかないので終わり方が唐突になってしまうんですけど、今回はわりとスムーズに軟着陸できた感じがします。 >個人的に気に入ったところは、障子を破ると転がり落ちてしまう部屋でした。障子って不思議な物で、向こう側のシルエットは見えるものの、姿を見ることは絶対に叶わない。障子を挟んだ反対側には、何があるのかわかる気になるんですけど、実際のところは知らない。 >隣のことがシルエットでしかわからない(わかってしまう)狭い部屋。頭が変になりそうですね~。この感覚を味わえる舞台が良かったです。 自分で書いておいてなんですけど、この部屋変ですよね・・・。なんでしか知らないんですが、自分のなかで「こころ」の舞台ってこんな風になっていて、Kはここに住んでいて、ここで自殺しちゃうんです。やっぱりプライバシーがあるようで、本当はほとんどないっていうこの狭い三畳部屋が原因でメンタルやられてしまったのかもしれません。やはり、メンタルを守るためには住環境、結構大切です。 「こころ」はそうですねー、私にとっては毎回読むの結構しんどかったです。というかなんか読んでてちょっとイライラするので、本当、旧紙幣の千円札大量に用意してビリビリ破いてやりたくなります、笑。でも、ツッコミいれながら読みとそれなりに面白いかもです。先生の遺書の分量、途中で増えてない?とか、そもそもその分量の原稿用紙、懐に入らなくない?とか・・・。でも本当にいろいろと解釈できる作品だと思いますし、そういう解釈とかを読むのも面白いのでぜひ一度読んで見て欲しいかもです! >何だか凄くもったいないお言葉をもらってしまったぞと恐縮すると同時に、ハードルが物凄く上がっているので、次は何を持ってくれば良いのだろうかと恐々しているところです(笑) >昔の有名作品も読んでいかないとな~。子供の頃は推理小説なんかも読んでいたんですけどね、成長するにつれてライトノベルだけになってしまったのです。 なんだろう、いろいろ実験のための場所にするってのはどうでしょう?で、それをラノベのほうに活かす的な。 ラノベは自分もいくつか好きな作品あります。どれも有名どころですけど「人類は衰退しました」が一番好きです。あと最近は他の本と並行して「俺ガイル」読んでます。「俺ガイル」の主人公のグダグダした思考ってときどきものすごく考えさせられるものがあったりするので、そういうときに立ち止まって深く考えてしまいますね(あの作者って実は教養がすごいと気がします)。 どちらにしてもコメントありがとうございました! (小さくも大きくもない、只の恋のうた)

2019-07-21

ずっと気にはなっていて、ポップな魅力があるので惹かれるもがあり結構何回も読んでいるんですが、個人的にはどういう訳かイマイチしっくり来ない感があります。なんでだろう?ってずっと考えていたんですけど、おそらく時代設定と言葉が微妙にかけ違っているのかもしれないな、と思いました。言葉遣いや舞台装置は古めかしい感じなのに、それぞれの言葉はどれも現代的な言葉が選ばれている。もちろんそのハイブリッド感が面白くて、うまくいけばそれこそ椎名林檎の「逆輸入 〜港湾局〜」のアルバムジャケットのようなものすごく面白いところで世界観がハマりそうな予感はあるんですけど、細部がどうしても気になってしまいます。例えば「寝所」は「閨」のほうが雰囲気がでるな、とか時代設定はもっと特定の時代に固定したほうがもしかしたらフラスコなどの現代的なアイテムとの対比が際立ったのではないかな・・・など。言葉も思い切って古い言い回しをがっしり使った方が、あえて現代的表現を使ったときとのコントラストが際立って面白い気がします。でもこれを歌詞にしてじゃかじゃか曲をつけたらそのまま結構いい感じになる気もします。 (皇居正門の真下で)

2019-07-20

返信ありがとうございます!ちょっと考えさせられたので、もう少しだけコメントさせてください。 >ちなみに、私は文章を書くにおいては隠喩に重きを置いており、例えば書き出しのところがそれで、そこを「非日常」と認識していたのですが、詩全体としてみればそうではなくエッジも効いていないとは思いました。 例えば冒頭の >木立が夕暮れを見捨てるころ といった表現はじめ、それぞれの比喩はなかなか巧みで、単体でみると一定の洗練を感じなくはないです。 >まず、この作品は、都会的で洗練された詩として書きましたから、お読み頂いた方はそうではないと感じられておられるようで、少なからす考え込んでいます。 「都会的洗練」が何を意味するのかは人によってばらつくとは思うのですが、私の場合、それは一種の無関心さ、自分の外側にあるものに対しても、そして自分の内面にあるものに対しても一定の距離を取るといったような、例えばちょっと気になる人が信号の向こう側にいたとして、いざ、横断歩道ですれ違うときに、決してその人を直視することはせず、それでも視野の本当に片隅のほうで実は注意深く観察しているといったような、同時に対象と自分との距離を高いところから俯瞰するといったような、一種の気取り、あるいはプライド、もしかしたら防衛、または自己批評といったような姿勢に「都会的洗練」の片鱗を感じることがあります。 つまりこの作品において、それぞれの言葉は非常に丁寧に選ばれているのに対して、語り手とその関心の対象との関係で見たときに、「洗練」というよりはもっと素直で愚直なものを感じます。例えば「きみ」への関心や感情がダダ漏れになっているといった、そうした語り手の「きみ」への視線はこの作品を読む限り、プライドや気取り、もしくは透徹した俯瞰によって磨き上げられているようには思えない。例えば、そこに「きみ」に対する徹底した無関心を装ったポーズが示されるといったような、そのようにして感情に蓋をして重石を乗せてもやはり「きみ」への感情がどうしても垣間見得てしまう、といった表現で示されたならば、あるいはそれを「都会的気取り」または「都会的洗練」として受け止めることができたかもしれません。 「洗練」された表現、私もとても憧れるのですが、いざ書くとなるとなかなか難しいもので、タカンタさんのコメントでちょっと考えさせられました。 (カフェ)

2019-07-20

夏は特別で不思議な季節ですね。夏が深くなればなるほど、日常の膜が一枚一枚、皮膚の呼吸を裏切りながら時間を窒息させていくようで、私の場合、自分の存在までもが陽炎になったような感覚の襲われたりするものですが、この作品においても「語り手」の存在は暑さで蒸発してしまったかのようにやはり希薄で、夏の湿度がそのまま語りかけてくるような、そうした錯覚を覚えます。そしてこの作品のもつ感触は、私が夏という季節において日々覚える感覚、つまり自分自身の存在の希薄さ、曖昧さ、もしかしたら蜃気楼なのではないか、という浮遊するような感覚にとても近く、この作品の一つ一つの巧みな表現が私のなかの様々な夏を記憶の断片として丁寧に映写し始めるような気がいたします。 (夏の記し(三編))

2019-07-20

タカンタさんのフォーラムや作品へのコメントなどを拝見する限り、おそらくかなり広範な読書体験をお持ちで、さらに深くまでご自身の思索を深めておられるものと推測致します。人それぞれ、思索の結果は違うもので、その大きな違いこそがそれぞれの作品の、そして作品に対するそれぞれのスタンスの大きな違いとなって多様性を生み出し、それらの多様な光の点滅の交錯がこうした掲示板においては魅力的な喧騒(つまりノイズ)を生み出すのだと、私は常々感じているのですが、この作品はタカンタさんの一連の言動ほどにはエッジが効いておらず、またフォーラムでのご提言で見られたような興味深い思索の痕跡もあまり見出すことができなかったのが非常に残念です。 >私は、この日常的な出来事を非日常的な表現で表しました。 私にとっては「日常的な出来事をごく日常的な表現」で表現されているようにしか思われないんです。ノイズのないすごく平穏な日常です。平易な言葉が選ばれているという点はむしろ私の「好み」に合致するのですが、フォーラムなどでタカンタさんが生み出されていた激しいノイズみたいなものを作品の端々から垣間見たかったな、という個人的な我儘が満たされないまま宙吊りになっているような、そんな休日の朝なのでした。あるいはすべてがだらけた休日のせいで私の感受性まで、履き古した靴下のゴムのように伸びきってしまっているのかもしれません。 (カフェ)

2019-07-20

田中修子さん コメントありがとうございます!光栄の至りです。 >「帰宅遊泳」を拝見して、あの評を書ける人がこの作品は甘いだろう、というのが本音でした。 >もっと透き通った文章をかける人だと。 ぬぬ、、鋭いです、汗。やっぱり甘いし、ぬるいですよね・・・。こういうご指摘は素直にありがたいです! いやあ、透き通った文章ってものすごい憧れるんですけど、なかなか難しくて、いつも書いては失敗してます。 話がいきなり変わってしまってアレなんですが、好きな服と似合う服って違うじゃないですか? 例えば、真っ白なオックスフォードシャツってすごく憧れるんですけど、自分が着るとなんか怪しい人になっちゃうんです。でも襟なしの黒いコットンシャツだといけたりする。 私は須賀敦子さんの作品がとても好きで、そこから始めていろんな日本文学をきちんと読むようになったのですが、須賀敦子さんはじめ、あのような研ぎ澄まされた透明な日本語の文章って本当に憧れますし、できれば自分も「身につけてみたい」んです。でも、もしかしたらそれは好きだけども似合わない服なのかもしれない。どちらかというと、今回みたいな作品が「似合う」文章なのかもしれないのかな・・・なんて思ったりします。 >とんがったギャクのような、あるいはほんとの狂気のような。笑いと狂気ってスレスレだと思うんだけども、面白い文章になってる。 今回のような文章を書いた時は、面白いとか、笑えたって言われるのが何より一番嬉しいです! 笑いと狂気は本当にスレスレ、というか私の場合、多分その境界をすでにだいぶ越えてしまっている気もするんですが、割と素で書いてるんです。なんかこういう文章ならもう本当にいくらでも書けそうな気がするんですけど(というか止まらなくなって何だかやばいことになるかもしれませんが)、どこかでそういうのに甘えちゃいけないな、っていう気持ちもあって、憧れも憧れで大切にしながら、たとえ自分にとっては難しいことであるにしても、継続的に挑戦していきたいな、という気持ちもあったりします。でも今回のような作品を書いているときって素直に楽しくて、リラックスしていて、しかも自分で自分が書いたものを読んではクスクス笑っているので端から見たら確実にヤバい人になっていると思います、笑。 はっきりいえるのは、自分のなかにある「狂気」みたいなものを自分なりの「笑い」に昇華する作業というのが(それは意識的だったり、無意識的だったりするのですが)自分にとっては非常に大切で、おそらく自分が死なずに生きていく上で一番大事なスキルの一つなのかもしれない、ということです。 一方で「帰宅遊泳」みたいな文章は、たとえば憧れの白シャツを着れるようになるために日々筋トレに励んでみたりとか、同じ白でも似合う白の色合いを一生懸命探したりとか、いろんな生地やパターンの白シャツを試してみたりだとか、あるいはちょっと細かいストライプが入った白を試してみたりとか、もしかしたらそういう系統の作業の一環なのかもしれません。ただ、感受性を鋭いままにしておくことって私の場合かなり自滅的で、日常生活に相当響くので、そのあたりの加減が本当に難しいです。むしろ普段はなるべく鈍感でいられるように努めている気がします。 研ぎ澄まされた感性で透き通った文章を書ける方って本当に尊敬します。 また機会がありましたらアドバイスやご感想などいただけるととても嬉しいです。ありがとうございました! (小さくも大きくもない、只の恋のうた)

2019-07-19

タカンタさん レスありがとうございます! なぜ過去の踏襲であってはならないのでしょうか?つまり、すべての文学は(というよりほとんどの創作は)一部の例外をのぞいて大概過去の踏襲です。 そして踏襲した上でのカスタマイズにすぎません。そのカスタマイズを私たちは楽しんでいる訳ですし、またその過程で少しずつ枠組みが変化していくのではないかと思っています。 逆に今、現代詩のフォーマットから何かを選び出して作品を書くこと、つまり近代詩型の詩、散文詩、あるいは脱構築型の詩などであったりするわけですが、そうしたフォーマットを選ぶことそのものがコンクリート詩におけると同様にまた過去の踏襲にならないでしょうか? >ちなみに、前衛文学においても、その記述の仕方の多くは正統的なものです。 正統はだれが決めるものでしょうか? 少なくとも戦後現代詩の文脈でいえば、コンクリート詩のフォーマットを取り入れるのは「正統」な表現手段かと思いますがいかがでしょうか? >文体の為に作品を書いたわけではありません。 なぜ文体の為に作品を書いてはいけないのでしょうか? (今回の投稿作のような習作的作品においてはなおさら) 文体のために作品を書くという行為も、場合によってはメタ的な意味合いにおいて有意義な問題提起となりえますし、文体そのものが芸術性を持つということもあるでしょう。 ポリフォニーという言葉が出てたのでついでですが、例えばバッハの作品が主に対位法による音楽的要素の数学的な構築であったとするならば、それは「スタイルのための音楽」であって、何かを表現する手段としての対位法ではなく、「対位法のための対位法」といえるのではないでしょうか? ベートーベンが自分の思想を表現するために対位法を必要としていたのとは別のベクトルを持っていると思うんですよね。純粋に数学的探求的な側面が強いような(かといって、人間的感情の発露を禁じたわけではない)。 不勉強なので、見当違いな返信になっているかもしれませんが、タカンタさんのご意見はとても勉強になりそうなので、もし可能なら教えていただきたいです。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-17

追記: 音になる以前の純粋な視覚の問題として扱われて然るべき要素を多分に含んでいると思います ---> と同時に、視覚的要素が言葉そのものへ与える非常に強い影響を考慮すべき ということがいいたかったです。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-17

視覚詩といえば、(といってもこれが視覚詩なのかどうかはおいておいて)草野心平の「冬眠」を小学校の授業で習った時の衝撃は今でも忘れられません。「●」とだけ書かれたこの作品ほどシンプルでかつ想像力を喚起する表現はなかなかないのではないでしょうか?もちろん「冬眠」というタイトルが非常に重要なのは言うまでもないことですが、詩においての視覚的表現は、適切に用いられた時には非常に大きな効果を発揮すると思います。そして現代詩における数々のコンクリート詩の試みの歴史を引き合いに出さずとも、古典的な詩の形式においてシンプルな改行が生み出す視覚的リズムは、音になる以前の純粋な視覚の問題として扱われて然るべき要素を多分に含んでいると思います(例えば、石川啄木が短歌において用いた3行書きが持つ、視覚的要素は無視できないものではないかと)。 言葉に与えられた形、その形が言葉に与える影響に無感覚であるべきではないと思っています。本を作る人、グラフィックデザインに携わる人が、どれだけ苦労してフォントや配置を決めるかを考慮するだけで、その関係の密接性と重要性は容易に導き出されるのではないでしょうか? この作品においても、作品の持つ四角いフォルムが実際に読む時の言葉のリズムに非常に大きな影響を与えているように感じます。心の緊張と弛緩がおかげで読み手にきちんと伝わっているのです。「.」の使い方なども非常に巧みに感じます。また行の頭、末尾への細かい配慮も指摘されるべき点かと思います。 もちろんこの作品単体だけではパンチがかけるのは否めませんが、それは作者も承知のうえではないかと。言葉を読む時にその言葉が、フォルムに縛られていく感覚は不思議なものですが、一種の快感です。 (詰めさせたがる彼)

2019-07-17

ある日、自分が小さな蠅になってしまって、羽根や手足をひとつずつ切り落とされていくのを直に私の感覚が知覚しているというような幻覚の、ひどく陰惨で神経症的な四肢の細やかな痙攣を、若くて健康的な(しかも西洋的な)肉体が大きく包み込んで束の間の休息を与えてくれたと思えば、今度は体の内側から虫が湧いて脈打つ臓腑を食いちぎられていることに気づいてはっと目を醒ましたときにひどく取り乱し、海の波に静かに揺られる小舟の中で横たわっている自分を想像しながら、やっとのことで少しばかりの心の平穏を得る、といったような感覚。悪夢と平穏が何のためらいもなく同居しているような不思議な感覚。かといって、「耽美」と表現するにはあまりに突き放された、ちょうど酷い交通事故現場の淡白な証拠写真のような、そしてその写真の背景に映る青空や雪山が非常に美しくて見惚れてしまうといったような、何回も読んで見たんですが、そんな感覚が自分の知覚する現実の肌触りと次々にリンクしていくようで、惹き込まれるものがありました。そこまで陰惨な表現が続く訳でもないと思うのですが、作品全体のどこかざらっとした舌触りと、一方でとても涼しげな、透明感のある清涼な感覚が同居しているのを私は強く感じて、それがとても現実味のあるものとして感じられました。 >トパアズ色の香気はしなくともせめて明るい色で刺青すればそれくらいは萎びた皮膚のうえに この表現、とくに好きです。 (蠅)

2019-07-17

ふじりゅうさん コメントありがとうございます!これはですね、コメディーです、笑 >これは恋なのか? 笑 もちです!実はこの作品の下敷きになっているのは「小さな恋のうた」ではなくて、というか「小さな恋のうた」はもうほとんど無関係で、実は元ネタは夏目漱石のかの有名な「こころ」で、私は過去に何回か読んでいるんですけど、毎回思うんです、お嬢さんかわいそうすぎない?あと夏目漱石ってちょっと女性不審っていうか、ミソジニー入っているところありますよね。もちろん彼の小説に出てくる女主人公って魅力的な人が多いんですけど。「こころ」のお嬢さんだって、別に変にあっちこっちの男の気をひこうとか(まあ、そういう気持ちもあったのかもしれないですけど)そんなんじゃなくて、若い男の人が同じ屋根の下に二人もいたから単純に仲良くやりたかっただけなんじゃないでしょうか?(ってやっぱり、二人から好かれたかったのかな、ちょっとわからなくなってきました)。男性って異性からの行為をシンプルに恋愛感情と結びつけますけど、女性って意外とそうでもなかったりして、恋愛感情と友情の間くらいの感覚なのかもしれません。っていうか、そういう感覚がいわゆるサークルクラッシャーなるものを生み出してしまうのではないかと、そう思った夏目漱石は「無意識の偽善者」という言葉を使ってそうした女性のなかにある無自覚な破廉恥を糾弾しようと、三四郎の美禰子なる人物を作り出したのだとか、いやそれちょっとわからなくなりました、この話を続けるとユングとかフロイトとか出てきて面倒臭くなる系の何かしらから激しく突っ込まれて玉砕する気がするので、知ったかぶりはこの辺にしておきますけれども、とにかく「こころ」ってもうとにかく変な小説なんです。明治の精神に殉死とか、もうなんか昔のインテリの考えることは難しすぎて、私はどうしても好きになれなくて、じゃあなんで何回も読んでるんだってことになるんですけど、まあとにかくKが自殺したのは失恋が原因じゃないっぽいです、でもやっぱりお嬢さん美人だったと思うんですよ、だからやっぱり失恋だと思います。とにかく、「こころ」においてはとかく不遇な陰の主人公「お嬢さん」。私はそのお嬢さんに恋をしたのであります。あまりに不遇だから、せめて私なりのハッピーエンドを用意してあげたいと、そう思ったのでありますが、実はここまで全部嘘でございます。本当は適当に、面白い文章が書きたくなって、ただ自分のためだけに自分が笑える自分のための文章を書いてたら途中から「こころ」のオマージュみたいになって、いつのまにか恋愛ネタになったので、最後に「小さな恋のうた」っていうたしかどこかのフランス映画のタイトルを拝借して、それをベースにこのタイトルにしたわけなのでありますが、ググったところ、最近「小さな恋のうた」っていう歌が流行っているということを初めて知った次第であります。といってもその映画も最近流行ってるその曲も全然知らないんですけどね、ようつべで動画をみたのですが、途中で飽きてしまいました、笑 ちなみに夏目漱石は全部は読んでいないんですけど「猫」と「三四郎」「彼岸過迄」が好きです! (小さくも大きくもない、只の恋のうた)

2019-07-14

>詩で飾った小説の欠片を書いてみたい なるほどー、面白そうですね。なんだろう、今回の作品をお読みする限りだと、いろいろな試みをこれからもどんどんしていったら、とても新鮮で美しい何かが出来上がるのではないかな、という予感がしています。そしてそれを是非読んで見たいと、ちょうどこの作品の「ボク」が「自分の未来の作品」を読みたいと願っているときに抱いているに違いないのと同じ期待感やもどかしさを、感じていたりもします。 話がそれますが、詩と小説の狭間的なことで思い出したのは、川端康成です。私は個人的にものすごい好きなんですけど、例えば彼の作品のうちで一番有名な「雪国」の冒頭の章だったり随所随所に見られる自然描写だったり、あるいは彼が残した大量の掌編だったり、彼の作品のあるものには「物語を読ませるための文章」とも「言葉を読ませるための文章」とも、どちらとも言えないような、まさに「詩としての小説」もしくは「小説としての詩」とでも表現したくなるようなものを感じます。本人曰く「自分が詩が書けなかったので、そのかわりに掌編を大量に書いた」的なことをいったとかいわなかったとか。 ちょっと思いついたのでリプしましたけど、さらなる返信はお気になさらず。あと、コメントの度にあがるのは気にしなくてもいいと思いますよ。 (白い迷い家/黒い夢。 (詩のように書いた小説のそれっぽい詩?))

2019-07-14

>わたしは描写が出来るんですから、詩情を直接描写してしまえばいいのか。 うーん、どうでしょう。個人的にはそれをせずに詩情を醸し出しているところが面白い点だと思っています。つまり言及されているように形式としてはとても小説に近いので「言葉を読ませる」というより「物語を読ませる」文章ではあると思うんです。それでも詩情を感じさせるのはやはり細かい部分の描写にそうしたものが宿っているからではないでしょうか? 記号化に関して言えば、プロットなんかも記号化されていますよね?つまりどこか呼んだことがあるような話。でも、そういうものなんだ、って思ってしまえば(つまりアニメにおいて人物の描き方がその時代の流行に合わせて記号化されるのと同じで)本来なら気恥ずかしさを覚えたかもしれないような表現でも、難なく受け入れてしまえて、素直に楽しめるという側面があると思うんです。 >小説での描写や表現は、大抵、正しい答えがあるんですよ。わたしのもそうですね。 なので、ここでいう「正しい答え」から大きく逸脱してなおかつ、読者を惹きつけておくにはかなりの力量が必要だと思います。「詩」の場合、そもそも「答え」的なものないぶん、そうした「新しい答え」を見つけ出す方向性っておそらく小説より「詩」を書く人にその傾向が強いのかと思いますし、言葉の自由度が高いぶん、ご指摘のように読み方の多様性を産むものだと思いますが、最近感じるのは「自由」ってやっぱり「制約」のなかでしか生まれないのではないか?ということです。この点はちょっと自分のなかでまだ答えが出ていないんですが。 >多様性の消失。 >この点、わたしの作品は詩としてはどうなのか、と考えてしまいます。 書いたものが本当に自分のなかから出てきたものであれば、それは必ずその作品の個性として残ると思っています。それはたとえどんな記号化された枠組みをつかっていたとしてもです。「詩」はたしかに言葉の解釈において多様に見えますが、逆にいうとみんなが同じような「言葉のずらし方」をしているケースもあると思うんですよね。結局は書き手のエッセンスがどれだけ色濃く作品に残っているか、ということではないかな、、と思ったりします。 (白い迷い家/黒い夢。 (詩のように書いた小説のそれっぽい詩?))

2019-07-14

すごく読みやすいし、文章から喚起される映像がとても美しくてとても好きです。 ベタといってしまえば、それまでなんでしょうけど、一つ一つに描写の丁寧さが宿す繊細さと瑞々しさには、大きな森の中で大きく深呼吸したときのような柔らかい爽やかさが感じられました。あるいはベタだからこそ、つまり表現がある程度記号化されているがゆえに、書き手と読み手の間でのイメージのスムーズな共有が可能になっているようにも感じられます。 私は最近、文芸における表現形式といったものについて考えることがあるんですが、例えばこの作品にみられるように、一種ライトノベル的な様式美的基準を充たしながらも、細部において作者独特の感性や表現の個性が見え隠れする、といった特徴は、もしかしたら古くから伝わる日本の詩歌やあるいは、みんなが同じような格好をしながらも、細部において個性を主張する(たとえばそれはスマホのケースなのかもしれないし、カバンにつける小さな付けものかもしれない)といったような日本人独特のファッション感覚にも通底する「何かとても日本人的なもの」を感じたりもしています。 いわゆる「詩」(つまり海外の詩の形式を模したものとしての詩、そしてそれ以降の詩)よりも、こうした様式美的な表現こそが(ちょうど漫画表現にしばしばみられるように)読み手の「誌情」を呼び醒ますという点においてはるかに有効なのではないかな、と感じます。読み手の「誌情」を呼び醒ますものが「詩」である、と仮に定義するならば、その意味において、こうした作品も十分に「詩」であると思いますし、あるいは人々が「詩」と呼んでいるものよりもずっと「詩的」であり得るのかもしれないとも思います。 能書きが長くなって失礼しました。もっと他の作品もぜひ読んで見たいな、と思いました。 (白い迷い家/黒い夢。 (詩のように書いた小説のそれっぽい詩?))

2019-07-13

花緒さん コメントありがとうございます! >まさしくズレを起こしていくという手法 >すなわち説明を文の中に含む手法により 最近、こういう感じでちょっとずつズレていく文章を書くのが好きかもしれません。なんというか自分の知覚がそもそも時々ひどくズレを起こすんです。ある朝、目を醒ますと私はグレゴール・ザムザになっていました。 >絶妙に良くわからない感じが心地よい。 実は自分でもなにが言いたいのかちょっとよくわかりません、笑。「よくわからない感じ」に逃げたり安住したりしてはいけないな、という気持ちもあるんですが、やっぱり言葉にしようとしてもうまく言葉にできないことを言葉にしようとするとどうしてもうまく言葉にできないんですよね。なんかそういう感じのなかで、いかに文章の緊張感を保てるか、とか、どうしたらその中でも読者フレンドリーなものにできるか、とかそういったところ、もっと突き詰めていきたいな、とかんじている今日この頃、梅雨の頃でございます。 (帰宅遊泳)

2019-07-11

るるりらさん コメントありがとうございます!子供の頃、高速道路の上からみた東京の街に沈む大きな夕陽を思い出しながら書き始めたらなにやら不思議な作品になってしまいました。あと電車に乗るのがすごい好きです。昔はよく電車の連結部のところに乗ってたりした記憶があります。あそこだけ激しく空間が歪んでいる感じで、それがなぜか心地よく感じられたのを思い出します。それと、息を呑むときはやっぱりどっかに逝っちゃってますよね。以前にいつも使っていた駅が何かの映画の撮影現場になっていたことがあって、そこでとある女優さんをお見かけしたことがあるんですが、本当に綺麗でした。窒息してしまったのを覚えています。 (帰宅遊泳)

2019-07-11

不祥事に際しての形式的な記者会見への揶揄であるかのように描かれながら、責任だなんだと騒ぎ立てる側に焦点を合わせた視点が非常に新鮮で鋭く感じられました。フラッシュで照らされる張本人は案山子にすぎない。むしろ案山子に怯えて騒ぎ立てる小鳥たちに社会が抱える不安や焦燥を見出す、という構図の新鮮さもさることながら、フラッシュをたく側にとっては非常に大事なものかもしれない記者会見のその場において、張本人が巡らせる雑念の数々みられる一種の「どうでもよさ」が辛すぎないウィットとなって、フラッシュの嵐とのちょうどよいバランスを保っており、絶妙なユーモアを提供すると共に、作品全体としての緊張感ある構図の拮抗をもたらしているように感じます。 もう1点、この長所を挙げるとすれば、作品の情景を視覚的、聴覚的に捉えた場合の構成の良さです。語り手のモノローグはどちらかというと落ち着いた、モノクロの(あるいは低露出の写真の)ような色彩と音の静寂を宿しつつも、止むことのないシャッター音と記者による詰問は目も眩むようなフラッシュの連続と気違い沙汰じみた喧騒の情景で、その二つが交互に対比されることで両者のイメージが非常に鮮烈なものとして、読後も確かな残像として残るのです。 (謝罪会見)

2019-07-06

面白くて好きです。笑いました! (夏の健康法)

2019-07-05

小学校の頃、詩を書いてみましょう、みたいな授業があって、その時取り上げられたのが、たしか宮沢賢治の「やまなし」でした。作者にしかわからない独特な言語で語られた一つのメルヘンは、今でも私の心の底でゆらゆら揺らぐ光の影として、確かな一つの実体を持っています。思考のための言葉としてそこにあるのではなく、感覚のための言葉として、そっとそこにある様、この「めるふぇん」においても、まさに「やまなし」が持っている人肌に触れるような繊細な温度感を伴って身体に浸透していくような気がしました。常に論理的な言葉たちに支配されている私にとっては、言葉というものは時々非常に苦しいものに思われるのですが、このように論理から自由になった、感覚のための言葉、言葉としての言葉、そしてそのように論理から自由でいる言葉の持つ暖かい身体性、といったようなものに触れる時、非常な安心感を感じると共に言葉に触れることの一つの大きな歓びを知るような気がします。 (めるふぇん)

2019-07-05

(言い方をかえるなら「神話」という日本語が非常に多義的であるのと同様、たとえばmythという単語も非常に多義的である。その他の言葉も同様。そうした言葉の多層性に対して、筆者が与えた一種主観的な断面こそがが魅力的である) (『Diving into the Wreck』との対決)

2019-07-03

南雲さんの設定された読解にあったっての前提にはちょっと首を傾げつつも、興味深く拝読させていただきました。 外国語で書かれた作品を日本語に置き換えるということは、言語の差異が持つ独特の性質上、作品の自分なりの解釈を作り上げることに他ならないと私は思っています。南雲さんがこの論考を通して悪戦苦闘しながらも、作品と対峙し、そして筆者なりの部分的読解、つまり部分的解釈を構築していく様子には非常に興奮を覚えました。 指摘すべき点があるとすれば、辞書の定義ですら、英語のある単語に対する、辞書作成者のひとつの解釈にすぎないのではないか?という点です。 >mythの語を引くと「神話」「作り話」「たとえ話」「誤った(社会)通念」「想像上の人」「想像上のもの」という意味を得ることができる。 つまり、辞書に上記のような定義がある場合、辞書編纂者はおそらく、mythという単語が使われているあらゆる文献を調査し、それがどのような文脈においてどのようなニュアンスで用いられているかを鑑みて上記のような定義を与えているのであり、逆に作中の単語に対してこれら複数の意味のどれを適用すべきであるかは作品の文脈に大きく依存するべきです。ですが、その作業が特に詩の読解においては非常に難しいことがあると感じます。 つまり辞書にある複数の定義から一つの定義を選んで、作品中の単語の意味として抽出する、という行為そのものが非常に主観的な性質を帯びるように思えるのです。ですから、調査道具を辞書に限定するというスタンス自体はなんの客観性も保証していないと感じるのです。 (そもそも客観性など念頭にはないということであれば、すみません) ここでこの論考の非常に興味深い性質が明らかになります。筆者は細部に渡り非常に客観的であろうと努めながらも、実際には非常に主観的な分析になっており、論理的であろうと努めながら、肝心なところでは非常に感覚的であるという点です。極めて論理的に展開されているようで、導きだされた結論は論理的根拠によって裏付けられてはいない。 そのせめぎ合いに、詩の読解の面白さの真髄を垣間見る気がします。 もっというと読解にあたっての制限をすべて取っ払って読めたならもっと楽しく深い読み方ができたのではないか?(そして、この論考に限って言えば、制限をのぞいたところで論考の性質はほとんど変わらないのではないか)という点を思います。 などなど、読解のための素材を限定した場合の読解の難しさを実感させられる論考でもあり、ノンネイティブが原文で文学を味わうことがどの程度まで可能なのか、という点についても興味深い示唆を与えている論考だと感じました。 (『Diving into the Wreck』との対決)

2019-07-03

>ついこの間、私は凄すぎるお三方のタイプの違う詩人と比べて劣っているとの指摘を私が受けていることはご存知でしょ? いや、全然知りませんでした。 何をもって優劣を指摘されているのかはわかりませんが、「Diving into the wreck」は本当にすごい詩だな、と思います。あんな作品を前にして、読み手の優劣云々など、それが語学力云々なのか読解力云々なのか知識云々なのか、ちょっと分からないんですが、そういう諸々は全部とてもつまらないことだと思います。 >ですがこの詩は、底が見えたと思うやいなや、さらに、この詩は もっと深みに(幻想の海に)潜っていくのです そうなんですよね。それがなんとも魅力的で、またるるりらさんのお言葉をお借りすることになりますけど潜在意識の深みのなかでぷかぷかと浮かんでいるような一種の浮遊感があって、私にはそれがなんとも心地よく感じられます。 >確かな筆致でかかれたファンタジーは、人を傷つけません。 たしかに。最初読んだ時はうちにも外にももっと攻撃的な作品なのかと思いましたが、読めば読むほど、攻撃的というよりもっと複雑な力学に支配されているように感じます。ご指摘の「現実との距離感」もとても不思議ですよね。この距離感が作品の魅力の鍵なのかもしれないな、と思ったりしました。 あとコメントされている点ですが、本当はチームを組んで探索するはずのところを一人でやっているっていうのがまた不思議です。実際の状況を描いているようでいて、実際虚構な部分が多い気がするんです。こういう細かいところに作者の「現実との距離感」を演出する手つきを感じさせます。作品自体が読者にとっての深い水槽のようになっている、つまり「読者が泳ぐための...仕組み」。 >ですが、わたしの作品は違います。自身の中に潜っただけです。わたしの心の中になんて、だれも もぐれはしないと書いてあるだけです。 これが「白い神話」の一番の魅力ではないでしょうか。 南雲さんの論考は個人的に非常に楽しみにしているんです。なにより、ひとつの詩をめぐっていろいろな方のいろいろな読み方、感じ方を共有できるのが何より面白いです。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-07-01

勝ち負けだ、なんてとんでもないです。そういう印象を与えてしまったようで、申し訳ありません。 私の訳詩の投稿が削除予定になってしまったので、せっかくの議論が消えてしまうのももったいな、と思い、つい長々とコメントを書いてしまいました。 読むときのアプローチも手元に日本語訳のものなかったので、どうしても原文に頼らざるを得ず、また英語は私の母国語でないためどうしても分析的になってしまいました。(日本語訳の本はアマゾンで探しましたが絶版でしかも中古本にまあまあのプレミアがついていて手がでませんでした、汗) 英語圏ではこの作品、かなり人気あるようで、検索するといろいろな人がいろいろ解釈を書いてたりするんですが、やっぱりハイカルチャーな(ようするにインテリな)読み方が多くて、それこそ最初に、るるりらさんがウィキペディアから引用してくださったような作者の背景や作者の他の著作との比較などからこの作品を読み解こうとする人が多いような印象があります。そうすることで、作品が書かれた時代やその時代の思想について、あるいは作者の人間像を知ることができて、それはそれでとても面白いのですが、結局、作品を解明するなんてことはインテリの人たちにだってできなくて、結局作品の謎は謎のままで、読者に託されていて、逆にそのことが作品としての強い魅力に繋がっていると思います。 (そういえば余談になりますが、ボブ・ディランってちょっと不思議な歌詞が多くて、インテリの人たちはああいうのを解釈したがったりするっぽいですが、本人の「そういうのはすごく嫌だ」みたいな発言を、CDのライナーノーツかなんかで読んだことがあります。心のどこかでは嬉しいのが半分だったりして、と意地悪な私は思ったりしますが) 日本語に訳された詩を読むことの何よりの良さは、訳された言葉から自由に想像を羽ばたかせることができることだと思います。イメージや連想の豊かさでいうと母国語にかなうものはないと思うからです。 私の場合、訳す作業からしばらく時間をおいたことで、やっと、るるりらさんが本文やコメントで書かれている感覚が体感として感じられるようになった気がします(普段の日常生活で考えたり会話したりするためには使わないものなので、結局外国語は読めたところで「情報」に過ぎないんです) >この詩は、私達の深層心理にある共通項に いかに触れるか。死臭のするような歴史の繰り返しが私達の歴史です。しかし >この詩は、そのような人間の >業の深さを さらにかいくぐり、深く深く潜ったその先に、到達せんとする詩だと思いました。 私も似たような印象を持ちました。「真実そのもの」を求めて潜っていったのに、やっぱり船の瓦礫だけでは飽き足らなくて、そこから先は内面的な描写が続くので、読んでいてそれこそ深層心理のなかでぷかぷかしているような感覚に陥りました。しかも船の瓦礫を前にしてのことですから、どこか「死臭」が漂っているんですよね。この作品の最後で「旅の続き」(もしくは「続きとしての旅」)がほのめかされているので、「死臭のするような歴史の繰り返し」に言及されたコメントにはなるほどな、と思うと同時に新鮮なイメージが立ち上がって私のなかでの作品の持つ世界が一気に広がったようにも感じられました。 また本文のなかで言及されていますが >作者は読者を催眠術にかけているのではないだろうかと、わたしは感じた。 この感覚が自分としては一番ピシャリときました。最初は明晰だった風景がだんだんぼやけていって、溶けていくような感覚です。そして最後には境界がなくなっていくような感覚です。 >死が立ち込めている場所では もはや 人と人を隔てる境界が なくなっている共有感覚 そして、過去と現在と未来の時間感覚さえも数直線がぐるっと輪になって渦まいていくような不思議な感覚があります。もしかしたら、詩とは無縁のはずの日常生活にもこの境界がなくなっている感覚は潜んでいるんじゃないか、って感じることがあります。 それから、るるりらさんの「白い神話」は「Diving into the wreck」からのインスピレーションを一番強く感じました。しかも原文を一番最初に読んだときに感じた、厳しくストレートなリズム感をそのまま取り入れたような感じだったので、特に響くものがありました。自分もああいうドライブ感のある文章書きたいモードになっています。 またもや長文失礼しました。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-19

まりもさん お久しぶりです、コメントありがとうございます! >論理の明快さとグルグル具合が絶妙で、面白かったです。 ありがとうございます!書いているときも本当に論理がグルグルとしていて自分でも何考えてるんだか、、、という感じで、まったくの迷子状態で、一つ一つの論理は明快なはずなのに、論理構築はどんどん暴走しつづけ、結果、論理的に破綻しつつも結局何かしら大きな論理的帰結が次々と導かれては論点は次々とスライドしていって、次々と論理は構築されては崩壊し、結局は大量の燃えかすが風に吹かれてパラパラとあちらこちらに散らばっているだけの寂しい夕暮れ時なのでした。 詩壇と詩集のお話は、まりもさんだからこそのお話でとても興味深くお読み致しました。 >紙媒体・・・は、実際のところ、発信してもほとんど反応はない、のれんに腕押し、というあやふやな「かんじ」しかなくて、合評等で作品を前にガチでやりあったりしたときの充実感の方が、いかにも「たしか」な時間を過ごしたなぁ、という実感として残るのですね。 なるほどです。確かにそうしたところにネット詩掲示板の意義というものが存在するのかもしれませんね。 ネットの隆盛により音楽の消費は、作品の消費がモノから体験の消費に移行した、CDを買って聞くことよりもライブ体験のような、よりフィジカルな側面が消費されるようになった、などとよく言われますが、詩に関しても同様のことがいえるのかもしれないな、と思いました。つまり、多くの人にとってもはや詩の作品そのものは目的ではなくなってきているのではないか、むしろ、作品を公にすることで発生する反応、そこから発展する人間関係、そうしたことに詩を書く人たちは意味や楽しみを見出し始めているのかもしれないと感じるのです。そう考えた時に「詩」の定義も自然と変化していくべきなのかもしれません。 >詩・・・なんなんでしょうね。語り得ない、でも、たしかに思ったり感じたりしたことを、ありとあらゆる手段と工夫を通じて書き表そうとして、結局、その途中経過報告や、問いを読者に投げるところで中断しているもの(特にそれを文字媒体で行う行為)とでも、言う他なさそうです。 これは綺麗事ではない「詩」の定義のひとつとして、私個人としてはとても好きですね。水とは何か?それはH2Oのことである、といったような元も子もないような即物的なこの定義、皮肉ではなく、とても気に入りました。特にこの定義で好きなのは「ありとあらゆる手段と工夫を通じて書き表そうとして」という部分です。「ありとあらゆる手段と工夫を」したくなるような衝動、それは感情なのかもしれないし、思考なのかもしれないし思想なのかもしれない、あるいは、おもいっきり言葉で遊びたいということなのかもしれないし、誰かと繋がりたいということなのかもしれない。それを「詩情」と呼ぶのかもしれません。 (ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット)

2019-06-17

沙一さん コメントありがとうございます!面白いといっていただけると、やっぱり書いてよかったな、と心から思うのです。詩とは何か、などは実はどうでもいいのかもしれません。とにかく、読む人に笑ってほしい、って思って筆をとりつつ、やっぱり詩とは何か、実はどうでもよくなんかないのかもしれなくて、私の脳みそは渦になるのでありますが、やはり面白いといっていただけると、私は有頂天になって私の脳みそはさらに渦になるのでございます。 >先日、書店で、ボルヘスの「詩という仕事について」という本をみかけました。詩については答えを出すのではなく、謎を提示することしかできないという、著者の謙虚な姿勢に惹かれたのですが、survofさんの本批評もどこか通じるようです。 なるほど。なんか深いですね。「詩とは何か」について何かそれらしいことを書けば書くほど、空々しく何か嘘っぽくなってしまうような気も致します。しかも、もはや今となっては詩誌のもと某選者が「詩集をだせばもっと詩人らしくなる」とかなんとか訳のわからないことをのたまわっているような嘆かわしいともおめでたいともいえる現状ですので、もうその問い自体が普遍性などとっくに失った、「君たちはどう生きるか」とおなじくらいぞっとするような、深いような白々しいような、お金の匂いしかしないような、それでいてどこか切実で、人間臭く、鋭い根源的な問いかけなのかもしれません。 >語り得ないことについては、やはり語ることができず、示すことしかできないのかもしれません。 なので、結局は私もこの沙一さんと同じ結論に到るんです。つまり謎をひとつ提示することでしか語り得ないのではないか、という、これもまたなんという空々しさ、と自分でも思うのですが、やはり作品に詰め込むしかないですね。また気が向いたらこのテーマで何か書いてみたいと思います! (ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット)

2019-06-17

花緒さん 恥の多い、ネット詩人生活を送ってきました。私には、人間の詩というものが、見当つかないのです。 そして私は、私の書いている詩のようなものが、詩ではなくて、詩のようなものでさえきっとなくて、詩とはつながっていない、本当は、詩と似ているとさえ考えてはいけない、詩とは全く違う、何か詩とは別のものでしかないことに最近気づかされることが多く、批評ではなく、批評のようなものでさえきっとなくて、批評とはつながっていない、本当は、批評と似ているとさえ考えてはいけない、批評とは全く違う、何か批評とはべつものものでしかない何かを書くことで、花緒さんの作品に対する何かしらの私なりの返答としたかったのです。前置きが大変長くなりました。何よりコメントいただけて本当に嬉しいです、ありがとうございます! >現在、フォーラムにおいて、酷評問題が取りざたされていますが、この場において必要なことはライトレスでも無く、ラフな酷評でも無く、元の作品を喰う勢いで書かれる批評文なのか、批評文のようなものなのか、批評文のように見えてそういうわけでもない、なんなのか分からない散文による通交のようなものなのではないかということに思いが及びますね。 ずっと前から一度やってみたかったんです。作品に対して作品で返すっていうのを今回初めてなんとか形にできた気がします。ブラックジョークに対してジョークで返すというちょっとリスキーな行為ではあるので正直いうと半分ヒヤヒヤしましたが、権威者として好意的に評価してくださり光栄です。これで私も晴れてネット詩人になることができたので胸をはっていきたい所存です。 花緒さんのコメントのなかにある「詩とは」に関するお話も興味深いですね。この辺りを掘り下げた花緒さんの「どこか詩のような作品」をまたいつか読んでみたいです。ネット詩なんてものは、恥ずかしいことだ、不潔なことだ、などと思いながら結局私も時々こうして書いてしまって困ってしまっているわけですが、やはり私の場合は、とにかくその場で思いっきり遊びたいっていうのが本心なのかもしれません。久しぶりに戻ってきて、なんだか楽しくないな、と思っていたのですが、また思いっきり遊ぶことができて楽しかったです。お付き合いいただきありがとうございました! (ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット)

2019-06-17

こうだたけみさん やった!!嬉しい限りです。 (ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット)

2019-06-15

哀愁亭さん 無駄に長いのに最後まで読んでくださってありがとうございます!「くだらない(笑)」って言ってもらえるのが一番嬉しいです!! (ネット詩の読解の不可能性についてのディレッタント・カット)

2019-06-15

突然何を、って感じだと思うんですが、実は私、欅坂46好きなんですよ。所詮、特定のターゲットの心を鷲掴みにするための虚構なんだ、ってわかった上でも、やっぱり、ああいうふうに「ストレートに」若者の鬱憤をアイドルがなんだか蠢きながら叫んでいる図っていうのがものすごい迫力あって、パフォーマンスみてて鳥肌たって思わず涙が出そうになることがあります。歌詞では大人たちを批判しながら、結局自分たちが一番立派な「大人たち」じゃないの?っていうツッコミもしたくなるんですけど、それでもやはり彼女たちのパフォーマンスは胸に刺さります。ちょっと悔しいです。 で、なんであれだけグサッとくるんだろうってちょっと考えたんですけど、やっぱり流石は世間擦れした「大人」が書いた歌詞なんですよ。だから青臭いこと歌っているんだけどもどこか含蓄があるように思うんです。つまり若者たちの「ありのままの叫び」なんかじゃないんです、本当は多分。(こう考えると彼女たちのパフォーマンスって構造がかなり複雑で興味深いです) もうひとつは彼女たちが歌う歌詞のもつ視点の繊細さがあると思います。やっぱり作り込みが細かいから「作り物」なのにリアリティーを感じさせるんです。 この「黒い鎧」もどこかにそういった含蓄のあるアフォリズム的な何かだったり、若者特有の鋭い感性や観察眼を盛り込むことができたなら「青臭い」からこそでる迫力みたいなものを表現できたのかもしれないな、と思いました。 ただ、欅坂46のパフォーマンスって歌詞を読むものでなくて、聞くだけのものでもなくてやっぱり観るもので、平手さんのあの迫真の演技力がなかったらもしかしたらほとんど感動しないかもしれないなと思ったりもすると(アンチの方、敏感に反応しないでくださいね、笑)こういうストレートな表現の言葉だけで読者を魅せるのはかなり難易度の高いことなのかもしれません。 (黒い鎧)

2019-06-14

南雲さん この場所では、もう諍いのことはいったん置いておいて、詩の話をしませんか?「Diving into the wreck」が自分にとって特別な作品であるとせっかく紹介してくださって、私はそれではじめてこの作品を知ったのですから、南雲さんがこの作品を具体的にどう読まれたのか、どういう感想を持たれたのかを私は知りたいです。 るるりらさん 南雲さんが「Diving into the wreck」をどう読まれたのか、知りたくないですか?るるりらさんがこの「おひょー」を書いた目的の半分は南雲さんの批評に対するカウンターアクションだとしても、私は我儘を承知で申し上げるのですが、私はこの場においては詩の話、とくに「Diving into the wreck」の話をしたいし、読みたい気がします。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-14

私の場合は言葉の意味より、言葉の響きが先行するので、やろうとしていることがなんとなく分かるような気もします。非常に感覚的な予想にすぎないですけど。 音響的な効果というか、音楽でいうとノイズとかアンビエントとかドローンとかそういった系の感性なのかな?とか、そんな感じのことを思いました。そもそもそれを言葉だけで表現するのって難しいという一面もあると思うのですが、ただ例えば「ASA-CHANG&巡礼」とかって音だけじゃなくて歌詞を読むと、言葉や音の繰り返しの構成も、言葉ひとつひとつも、非常に練られていて練度が高いからこそのあの効果なんだと思います。 でも、こうした平易な言葉の繰り返しが、言葉だけでどこかヒプノティックな感覚を生み出せたらやっぱり読んでみたいな、とも思います。個人的にはその感覚、すでに発生しかけているようにも感じます。あと3倍長かったらだいぶ違っただろうな、とか。同時に、やっぱり言葉をよく読む、と誰でもなんとなく分かる上に青臭いって思われかねない「ある意味ベタな意味」を持ってしまっているのが、ネックなような気がしました。もし音先行のコンセプトで読ませたいのであれば、なるべく言葉の意味からは意識をそらせたほうが、とくに意味先行型の読み手にとってはより効果的な気がします。 「ベタな意味」でミスリードでしつつ、音的にはめちゃめちゃ面白いことになっている、ってところが一番格好良さそうですけど、難易度かなり高いですよね。 (日常)

2019-06-13

追記: 冒頭の「First having read the book of myths」 ずっとこの部分のニュアンスに悩んでいるんですが、ただ単に物事の前後関係をはっきりするために「having」を使っているにすぎず、本を読んだのを「理由にして」その後の行動が続く、というのは私の深読みのしすぎかもしれません。冒頭の出だしの立て続けにカメラ、ナイフと続くリズム感を考えると、どちらかというと「最初に本を読んだので」というよりも「最初に本を読んでから」というニュアンスのほうがやはりしっくりくるような気がしてきました。 ただ作品全体を読むと行動のきっかけとして読めなくもないかな・・・くらいの感じです。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-12

私がこの作品を読んで連想した神話というのは「オデュッセイア」にでてくるワンシーンです。 私が好きなウォーターハウスさん含めたくさんの絵描きさんが作品にしています。 https://artsandculture.google.com/asset/ulysses-and-the-sirens/qQH6ni1OHjyz9A 私は「オデュッセイア」など読んだことがありませんし、美術が好きだからちょっと思い出した程度のものです。 で、欧米の芸術ってこういうギリシャ時代からの綿々たる文脈があって、それぞれの引用や言葉におそらくかなりの隠喩や寓意が含まれています。ですので、この作品を本気で読み解こうと思えば、作者が持つ詩人としての文脈もさることながら、それぞれの表現がもつ西欧文明の長い歴史と文脈を紐解かないといけないのではないかと思います。ですので、こうしたハイブローな作品は読むのが難しい、というより前提として必要な知識があまりに多いように感じます。それを人々は「教養」と読んでいます。芸術の世界って「教養」ある人たちが偉そうにしているイメージありますが、実際のところ、「教養」がないとやりとりできない言語で話し合っているのだと思います。でもそんな「教養」なんて、っていう気持ち、ローブローで行こうじゃないか、っていう気持ちもありますが、ハイブローなローブローっていうスタンスもあって、人間のプライド意識ってなかなか一筋縄ではいかないですね。 とはいえ、作者の意図を完全に把握できずとも、この作品はなぜだかとても胸に刺さりますね。 私はうまく表現できないところも多いですが、ご指摘のように催眠術的な魅力もあって、眩惑されます。イメージが強力なので深くまで染み込んでいくような感じがするんです。 >でもさあ 刃こぼれしないの?大丈夫?だつてさ、作品は 拙ければ拙いほど 永遠に癒えない傷も深い。という言い方だって可能だよね。やめたほうが良い気もするね。ただせっかく手にした【剣】なので しっかり鞘におさめて 道中の懐刀にしたいと思う。 この、るるりらさんのコメントには深い共感を覚えました。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-12

誤字訂正 先頭モード --> 戦闘モード (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-12

せっかくなので、まずは原文へのリンクを改めて貼っておきます。 https://poets.org/poem/diving-wreck/ この作品の魅力は何より多層的であることです。いろいろな角度から光を当てて、読んでいけることだと思いました。 この機会に私が個人的にこの詩をどう読んだかコメントさせてください。先日のやりとりをまとめながらになるので、ちょっと長くなるかもしれません。 ------ はじめに語り手は、ある神話の本を読んできたのがきっかけとなって、その神話の中にでてくる難船の物語、その現場を探索することにします。これは特定の神話を指すと読むことができると思います。 まず冒頭の「First having read the book of myths」という表現ですが、時制の取り扱いがちょっと難しい表現です。「First I have read the book, …」であれば、「最初に私はその本を読んだ」ですが「have」ではなく「having」が使われているので、これは続く動作、つまりカメラ、ナイフの準備、あるいは潜水道具一式を装備する動作よりも前に行われていることを示唆しています。ですから意味合いとしては「はじめにその神話の本を読んだので、・・・」という感じになるかと思います。おまけに「read a book」のように「神話に関するある本」とではなく「the」を使って「read the book」、つまり「神話に関するその本」と述べています。つまり神話に関する特定の本が一連の行動のきっかけになっているのでしょう。 もう一つのヒントは6連目の「The words are purpose / The words are maps」という表現です。「The words」ではなく「Words」であったならば抽象的概念としての「言葉」だったりもっと広い意味での「言葉」を指しますが、ここも「The」によって「言葉」は特定されています。つまりここでいう「The words」とは特定の言葉と読めます。ある特定の神話の本(のなかのおそらく特定の神話)に動かされて潜水行為をしているので、この特定の言葉たちは「その本のなかで読んだ言葉」つまり「その本の神話の物語」、語り手を突き動かした特定の物語を指すと読みました。であれば「The words are purpose / The words are maps」つまり直訳すると「それらの言葉は目的である」「それらの言葉は地図である」という表現も「自分の行動の目的は(直前の連で描写したような海中の生物の観察ではなく)あくまで神話を追うこと」であり「その探索にあたり、読んだ物語の文章が地図のような役割を果たした」というふうに読めそうです。 もう一つの手がかりは8連目の冒頭「This is the place」です。直訳すると「ここがその場所である」。つまり語り手は沈んだ船の瓦礫を発見し、たしかにこれが自分が読んだ難船んの神話の現場に違いないと確信している、と読むことができます。 であればこそ、この作品の一つの核心部ともいえる6連目の表現が作者の思想・意志が力強く迫ってくるように思えます。 the thing I came for:
the wreck and not the story of the wreck
the thing itself and not the myth 自分は神話の物語のためにここにきたわけではなく、船の瓦礫そのものを見にきたんだという意思表明として読むこともできます。 これは「神話を読んだだけでは事件の凄惨さは知ることはできない。だから私は直接この目で見てその傷跡を確かめたいのだ」ということなのでしょうか?そうだとすると難船した船の瓦礫は、自分が抱える何か大きな傷、あるいは時代、システム、イデオロギー、などなど、などもっと大きな何かが抱える大きな問題点、傷の隠喩であると捉えて読み、自分はあくまでもそれから目を逸らさない、決然として向き合って生きていくのだ、神話のように甘い物語では語らせない、という決意表明として読むこともできるのです。 そうやって読めば、作者がカメラとナイフを持参していることの意味が分かるよう気がしますし、ボディースーツを「body-armor」(armorは甲冑や鎧のこと)と表現している意味も分かるような気がします。つまり完全に先頭モードなんです。この読みでいくと、相手はそうした大きな傷、難破した船の瓦礫が象徴する特定の何か、です。 ところが、この作品はそこまで単純ではないと私は感じました。なぜならこの6連目のこの意思表明の直後から、作品は一気に幻想的な表現に様変わりし、ビタースイートなどこか眩惑的なムードに支配され始めるように感じられたからです。 瓦礫の船に寄せる、作者の暗い幻想は描写こそ暗いですが「the drowned face always staring / toward the sun」の表現(直訳すると「溺れた顔がいつも太陽を凝視している」)や破船の中の宝に触れる描写など、西洋的な神話の世界への憧れがダダ漏れではないか?と突っ込みたくなります。 さらにビックリするのが、先ほどまでは「I came for … the thing itself and not the myth」と息巻いていた作者が本当に幻想の世界に没入していくところです。 And I am here, the mermaid whose dark hair
streams black, the merman in his armored body. で、「私」は 「mermaid」 と「merman」 に分裂します。「mermaid」は女性の人魚、「merman」も人魚ですが、男性です。画家のウォーターハウスなどが男性の人魚を描いた習作などがあるので、西洋では男性の人魚というのもそれほどおかしな概念ではないようです。実際「merman」という言葉があるわけですし。この 「mermaid」 と「merman」 は「私」が二つの主体に分裂するという以上に、性別までもが二つに分裂するという意味においていっそうシュールな幻想といえます。「mermaid」 と「merman」という言葉の対比は「女と男」と同じくらいコントラストが強いものです。 そして続く表現は以下の通り。 We circle silently
about the wreck
we dive into the hold. ここでいう「We」つまり「私たち」は誰でしょうか?作者は読み手を含めて「私たち」といっているのでしょうか? 自分はそうでないと感じました。ここは「mermaid」 と「merman」 に分裂した二人の「私」そして「語り手の私」を合わせての「私たち」だと思います。私たちは船の瓦礫のまわりを静かに泳ぎ回って、そしてその中に潜り込んだことを描写する続く表現は、ですから、読者を自分の幻想に引き込むためのレトリックであると読むよりは、分裂した「私たち」が実際に泳ぎ回っているという作者の幻想の表現であると読んだほうがしっくる来るように思われました。 きわめつけは「I am she: I am he」です。つまり「mermaid」 と「merman」 ははっきり「語り手本人」である、しかも不可思議なことに「私はmermaidであると同時にmerman」である、というのです。「:」で結ばれているのはこの同時性を強調するためではないでしょうか?ここでこの作品は一気に神秘主義的なムードを強めます。まるで象徴派絵画の世界です。 先ほどまでに「神話」をきっぱり拒絶していた作者がその神話の現場を目の前にして、今度は自分の「神話」を自分で夢想しているかのようです。 ですから最終連の「We are, I am, you are」という呼びかけにおける「We」「you」も、もしかしたら、読者を包含しているのかもしれないし、あるいは、先ほどの幻想の延長なのかもしれない。あるいは作品を締めるにあたって、あえて、読者に呼びかけ、作品は幻想から目を覚まそうとしているのかもしれません。 この複雑な構成ゆえにこの作品は非常に多層的だな、と思うんです。 まずはダイビングの写実的な表現で始まり、船の瓦礫の遭遇して一気に夢想的な記述に突入していくこの構造そのものが、幻想の深みのなかにさながらダイブしていくかのようです。 (Adrienne Rich作『Diving into the Wreck』を読んで)

2019-06-12

おそらく吐き出すような滑らかさで言葉を紡ぐことがこの作品の意図の一つではないかと推測したのですが、そういう意味ではかなり成功しているのではないかな?と思いました。ただ、次から次へと嘔吐が止まらない、といったような「滑らかさ」ではなく、もっと上品で清潔な「滑らかさ」を感じさせます。「ラブ・ソング」や「ROCK」など特に強調されているフレーズや、みなさん指摘されているような「予定調和」なストーリー性と、そうした一種の文体の「上品さ」との不整合というかバランスの悪さが一番大きな弱点なのかな、という気がしました。文体としてはむしろ優雅だと思うんです。そうした上品さや優雅さにもっと自覚的であってもよいのかな、という気がいたしました。 (オウト・ロック!!)

2019-06-10

「白い神話」がとても気になりました。特に冒頭の連の非常に練られた強度のある表現、そして「三人は」で始まる6連以降の直線的リズムに支えられた歯をくいしばるような強靭さが印象的でした。6連目、7連目は短いフレーズが畳み掛けるように連なっていますが、工夫された音韻に緊張感があって効果的に効いているように思います。しかも冒頭から2連目にかけてまず一度畳み掛け、そのあと若干リズムが柔らかくなり、そこから後半また徐々に引き締まっていくような印象があり、そのために読んでいてがっつりと掴まれる感じがします。欲をいえば中間部分、三人の思い出が語られる部分は言葉の緊張感が緩み過ぎている感じもします。 >白から生じ白へ消えてしまうなどというのは >どう考えても神話的ではないか 「白から生じ白へ消える」というイメージはパソコンの画面の中の世界に慣れ過ぎた自分にはむしろ自然すぎるぐらいのことで、毎日膨大な数の文字や画像が白いディスプレイから現れてそしてまた同じ白い画面のなかに消えていく。人の生まれて死に至ることもそれと同じくらい自然なはずで、本当に自然なくらいさりげなくこともなげに時間は人に命を与えたと思えば、同じくらいの気まぐれで奪っていく、そのあまりの自然さはあまりに非情で、理不尽です。生から死を「白から生じ白へ消える」に喩える巧みさはの一つはその言葉が喚起するイメージがもつ一種の「自然さ」であるような気がしました。「白から生じたものが白に消える」というのは分かりきったこと。だから「どう考えても神話的ではないか」に込められた悔しさが実感として迫ってくるように感じられるんです。 ただ、イメージはイメージとして、それとは別に、実際に「白から生じたものが白に消える」ものってどれくらいあるのだろうと考えると、大抵のものは腐敗して汚くなって朽ちていく。やはりそう考えた時にも「どう考えても神話的ではないか」が非常に痛切に訴えかけてくるように感じます。生から死までなかばシステマチックに処理されていくが病院だとして、現代の病院というものは生も死も何もかも清潔に消毒でもしてくれるかのように感じられるけど、そんな訳はないだろう、と。 (白い神話に寄せて 二編)

2019-06-10

渡辺八畳さん ご指摘のとおり意図的ミスリードです。この批評が容易に誤読されうる書き方になってしまっていることに対する批判です。 >つまりそれは詩作上のレトリックであって、現実のものでは決してない。痛々しい作品を作る人が現実でも傷ついている人かどうかは別であることと同じだ。中島みゆきとかさ。 これが筆者の意図であったかどうかですね。私はこうしたはっきりとした反論を筆者本人から期待していたのですが、筆者は「自分は誠実に書いたから文句があるなら運営にいってくれ」という姿勢でもって具体的な議論から逃げてしまった。 もし渡辺さんのおっしゃる上記の意図がこの批評の趣旨であったとするならば、それこそ、その部分を掘り下げて論じないとただの暴論になってしまう。 読み手のなかに「なるほど要するにこれはレトリックについての話なんだ・・・」と納得できるような土台作りすらこの評論は放棄しているので、渡辺さんがそのように読解すること自体、読みの可能性を広げるという一種の優しさに過ぎないと思うんです。 「おそらく悪気がない」と私が書いたのは渡辺さんと同じことを私も思ったのですが、この批評にそう読める要素があまりない、むしろ読み手のほうで必死にフォローしなければそう読めない。それは書かれた内容の性質上当然、指摘されて当然のことかと思いますし、るるりらさんの誤読も仕方がないと言えると思います。 つまりこの場合、(まあ、これも私のミスリード的レトリックなのですが)るるりらさんが派手に誤読して感情を害されたこと自体がこの「批評」に対する最大の「酷評」であるともいえるわけで、しかも筆者が反論を一切拒否している以上「見当違いな読解で話」が進んでしまうのはまあ必然ではないでしょうか? たとえ、筆者そのものの「批評」が致命的な弱点を抱えていたとはいえ、もし筆者が自分の主張を補強するために丁寧に反駁を重ねていたなら、むしろ、このテーマは深く意義深い議論に発展する可能性もあった訳です。初回の対応において筆者自身がわたしやるるりらさんのコメントを派手に誤読している、つまりその真意を掴み損ねているともいえます。そういう意味ではわたしのコメントの書き方がまずまずかったのかもしれない。 そういう意味においては非常に残念です。ただ、本投稿を通してまったく別のところで「詩」をめぶった議論が多少なりとも発展したのはとても有意義なことでした。ビーレビにおいては、やはり全員が投稿者ということもあり、酷評されれば多かれ少なかれ傷つきます。文学論も方法論もまちまちのなかで健全な議論というのはなかなか発展しにくい。やはり第三者の作品というのはそうしたしがらみから解放されるので、議論しやすいのではないでしょうか? それでも、やはり十分には発展しなかったのには私自身多少物足りなさを感じています。第三者の作品に対する議論もあの程度で終わってしまってのであれば、投稿者どうしの議論は馴れ合いに終わるか、もしくは感情的な物別れになってしまうかのどちらかで、仕方なく思うと同時になんというか、投稿掲示板における建設的な議論に限界を感じてしまったりもするのでした。 権威、権威といわれますが文壇、詩壇が機能するのはこうした一種の客観性を担保できている側面があるのではないかと最近は思っています。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-10

Diving into the wreckは丁寧に読み直して見ましたが、上記のコメントにある感想は一回撤回します。 ポエトリー・リーディングの雰囲気に一気に持って行かれて、あまりきちんと読めていませんでした。 原文を丁寧に読んでみると、上記のように単純に語ることはできない、非常に深みのある作品でした。 訳あってここに再度コメントさせていただきます。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-09

追記: 「the wreck」 と定冠詞付きなので「wreck」は特定の何かの隠喩 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-07

この「批評」文に関して言いたいことは上記二つのコメントでもう言いつくしました。私が批評対象であったなら、もっと怒っていたと思いますし、謝罪しろと粘着したかもしれません。でも筆者にはおそらく悪意はないんだと思います。私はその無意識(であると信じたい)の結果生じた「悪意」をこの「批評」の弱点として「酷評」したにすぎません。 私としても言いすぎた点がありました。それについては謝罪いたします。こんなことでやりとりが終わってしまうのはなんだか寂しいですので最後にDiving into the wreck を読んだ私の感想を書いて私はこれで終わりにします。 ---- Diving into the wreck wreckはおそらく"ship wreck"つまり難船のwreckで、「瓦礫」というより、海底に沈んだ破船に向かって潜るという詩で、また英語の"wreck"には船だけでなく人生などが大きく挫折すること、破滅することに対しても用いられる言葉かと思います。 Adrienne Richは"Diving into the wreck"のなかで、海に潜って破船を探索するという文字通りの"Diving into the wreck"(破船にむかって潜っていくこと)と、おそらく自分の人生が破滅に向かって突き進んでいること、もしくは忘れたいような過去の自分の辛い経験へと深く潜っていくこと、そういった比喩的な"Diving into the wreck"を重ねて書いています。 この作品はただ単にダイビングをするという詩ではない。作品全体に非常に痛切で不穏な緊張感に満ちており、同時に強い水圧(つまり自分を潰そうとする強い力)に抗おうとする力強い情感がこもっていて、それが読み人を震え上がらせるんです。海の色が青から緑に変わってそして最後に黒になり、そして作者はblack outして、そして作者は残骸と対面するんです。作中になんども登場する"damage"という単語が本当に辛い響きです。 "I came for: the wreck and not the story of the wreck"と何度か繰り返されています。「難船の物語を知るためにここに来たのではない。残骸のためだ」と語る作者は過去の自分の傷に向き合ってそれに対する闘いを宣言しているかのようです。おそらくこの"wreck"つまり破船の残骸は、癒えない心の傷が実体化したものです。作者が武装したような表現もそうした攻撃的な決意表明を暗示しているように思います。つまり過去のどうしようもない心の傷に向き合うために深く自身に沈潜し、目を背けたいような深い傷とあくまでも対峙していくんだ、喧嘩上等だ、私は絶対に押しつぶされない。という作品なんだと私は読みました。 なのでこの作品がこの「批評」に登場するのはこの「筆者」の文学論に照らせば必然です。 私はこのDiving into the wreck、完全に意味を把握できたとは思っていないですが、それでも、深く突き動かされます。なかなかこういう作品に出会うことはないです。 命を削って芸術に向き合った人、向き合わざるを得なかった人の作品っていうのは良くも悪くもとんでもないパワーを持っています。それは間違いないです。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-07

私は婉曲的な書き方をしました。伝わっていないようなのではっきり書きます。 ・あくまで「文学とは何か?」を本気で語りたいならば(そんな問いにいまさら意味があるとは私は思いませんが)、「私が「文学」をどのようなものと考えているかを感じ取っていただければよいと思っている」などと逃げ道を用意するべきではない。そんな逃げ道を用意しなければならないほどそのテーマが筆者にとって大きすぎるなら、あくまでこの「批評」は本人の「文学的嗜好を語るもの」にとどまることになるのではないでしょうか?文学的嗜好なら大いに語っていただきたいですし、読みたいです。筆者がどんな言い訳芸を展開したところで、やはり今回のような形で投稿作を取り上げることに何の必然性も感じられません。これ以上は水掛け論になるでしょうから反論はいりません。 ・筆者が第一回で取り上げ、殊更に評価した作品は近親相姦を連想させるものであり、またこの「批評」の前半部分において、筆者が特にお気に入りの詩人として紹介された詩人もそうしたものの被害者でそうした体験からくる傷に深く根ざした詩人である以上(そのことはるるりらさんのコメントから初めて知った訳ですが)、この流れで「批評」対象作品と書き手の「女性性」をあえて論じ(「女性性」を論じているというより作者が「女性」であるということに対する感傷を垂れ流し)、しかも作者が近親相姦を連想させるような作品や、そうした体験に苦しんだ詩人の作品がもっているのと同じような(必ずしも同じ種類とはいっていないが、しかしおそらく同じ程度の深さの)癒えない心の傷を作品において表現することが作者がいわゆる「文学」を得るために必要である、という一連の論理展開はおそらく無意識なのでしょうが、ほとんどセクハラです。その行為の是非については私は論じません。 ・相手が女性でないとしても「癒し得ない深い傷」が作品に足りないとして、それゆえにそれは「文学」ではないと論じるのは、いってみれば筆者のえげつない文学観でもって、その文学観を必ずしも共有していないかもしれない赤の他人をその「文学」観でもってぶん殴るようなものです。その行為の是非については私は論じません。 ・筆者の文学論に私はまったく賛成しませんが、おそらく議論したところ水掛け論になるでしょうから、あえてそこには反論しません。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-06

ちなみに『Diving into the Wreck』のポエトリーリーディングは聞いてみましたが超格好良かったです。意味は全然わからないですが。やはり英語は子音が作り出すエッジのある音韻が非常に魅力的ですね。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-05

筆者の論点を言い換えるなら ・「私」は「作品の中に永久に癒えない傷がある」ことを「文学」であるための必要条件の一つとしている ・批評対象の「そらおそろしい」という作品はその必要条件にかなっていない ・つまり「そらおそろしい」という作品は「私」にとって「文学」ではない ・るるりらさんが筆者にとっての「文学」を生み出すためには「深い耐久性のある傷」を手に入れる必要がある。 ここからあえて少しだけ論理を飛躍させて論点を要約すると ・つまり、筆者の文学的渇望を満たすために、るるりらさんは容易に癒えないような心の傷を負う必要がある。 (あるいはそうした「深い傷」をわざわざ内面から掘り出してきて、作品にきちんと投影させる必要がある) なかなかの暴挙だと思いました。 「私が「文学」をどのようなものと考えているかを感じ取っていただければよいと思っている」と筆者自ら書いているように、(もしその文面を裏表なく正直に受け取るとするならばですが)、この「批評」文の意図は筆者の文学的嗜好を語ることです。 筆者の文学的嗜好を語るのに、投稿作品の弱点を晒すことに建設的な意味を感じません。もちろん、私としては書き手の文学的な嗜好には興味があるので、この文章の前半部分などは興味深くお読みできた訳ですが・・ (といっても筆者のいう「文学」に私は同意しませんが、それはこの際どうでもいいことです) まあ、そんなことはさておき、この文章の筆者は、性別を偽っているような投稿者が、魅力的な人物を思わせるような魅力的な作品を書き、そしてさらに「女性」としての立場表明をする際、その時もやはり「鈴のようなものが、リンと鳴るのを感じ」られるのだろうか? この文章を読んで一番興味を覚えたのは上記の点である。 (「文学」って何?(第3回)(るるりら氏『そらおそろしい』を読む))

2019-06-05

ふじりゅうさん コメントありがとうございます! >その視点の移り変わりが極めてテクニカルに感じました。 この部分はちょっとわざとらしいかな、、と思ってなんども書き直したのですが、結局つぎはぎ感をうまく消すことができず、今後の課題としたいな、と感じていた部分でした。以前からこの種の強引な転換の手法はほとんど手癖になってしまっているので、要改善なんです。 >少女への、主人公が(勝手に)考えたストーリーがいかにも妄想らしく、情報を大して与えられていないのに主人公像が浮かび上がるところが素晴らしいです。 このコメントは滅茶うれしいです!語り手は少女のことを語っているようで実は自分のことしか語っていない、見る対象がことごとく語り手の鏡になっているっていう構造にしたかったので、少しでもその意図が伝わったのかな、、という気がします。 (葉子)

2019-06-04

仲程さん コメントありがとうございます!感想嬉しいです。本当は、語り手が目を奪われた対象の少女自身の「陰」も書きたかったのですが、なかなかそこまで手が回らず、、、でした。もう少しいろいろ書いて見て、また同じテーマに戻ってきたいな、と思っています。 なかたつさん いつも丁寧な読解ありがとうございます!いつも書き手の私が気づかなかった視点で読んでくださるので、なかたつさんのコメントは非常に新鮮ですし、貴重で、とても嬉しく思います。 >つまり、正面から向き合う関係性にはない相手との対峙ということを示している。正面から向き合うことのできる関係性というのは、既に構築された関係性であり、この一瞬の場面の切り取りというところで「横顔」を描くというのは、必然性がある。 これはなるほど!と思いました。であれば、最後に書いた、正面から老婆をとらえた肖像画にもそうした関係性を持ち込むことでもう少し掘って書くことができたかもしれないですね。 >名も知らぬ、その場で出会った人物に名付けるということは、それと同時に、その場面を切り取って、まるで額縁にかざるようにタイトル付けをするようなものである これもなかなか考えさせられるコメントでした。ご指摘いただいたように実際に私はこの文章でそれと同じことをやっているわけなので、とても鋭いご指摘だな、と思いました。 >「美しい」とは何であるか これは本当に考えさせられます。美しさ、醜さについて書くのは本当に難しいですね。でもこの作品を書いた直後に川端康成の「みずうみ」読んだんですけど(同じジャンルかもしれませんね)、とてもかなわないな、って思いました。自分が感じてたこと、書きたかったこと、全部表現されているんです。およびもつかないほど鋭く掘った上に自分の性癖まるだしのエグさ、感性の異常な鋭さ。 私が書こうとしていることが何かあったとてして、大抵そういうのって誰かがものすごく深く思索した上で、優れた作品に昇華させているな、と感じます。今の私に何か書いたり読んだりすることに楽しみや普遍性があるとすれば、それはもしかしたら「美しさ」のようないわゆる大きな「普遍的」テーマに取り組みことじゃなくて、もっとありふれた日常のささいな心の動き、あるいは些細なユーモアを描くことによって生じる自分のあるいは他人の呼吸を感じることなのではないかな、と感じたりもします。 鼻歌みたいなものを目指していきたいな、などとおもっております。 (葉子)

2019-06-02

丁寧にご返信ありがとうございます! 〈諸作家のこと〉 村上春樹はひとつも読みきっていないのでそれを愛読しているひとたちについては一言もコメントできません。谷崎は「細雪」「春琴抄」だけですが読みました。太宰は最近すごくはまってたくさんよんでます。どちらも好きです。たしかに空っぽかもしれません。でもだからいいんです。あと川端康成の空っぽさも好きです。昔から残っている俳句や短歌も同じ意味でみんな空っぽです。空っぽを脱却しようとしている現代の短歌や俳句はとてもじゃないですが読めません。日本人でよかったな、、と思えるのはうまいおにぎりと味噌汁とうどんを食っているときと、こういう「空っぽな」日本文学を読んでいる時です。現代の作家の空っぽ加減とは違うと思うのですが、そこはもしかしたら私自身の感性にどこかアナクロなところがあって、こうした日本文学の大家の作品に見られる古き日本の雰囲気にほだされているだけなのかもしれません。というかおそらく文学に対する基本的な感受性に私とは大きな隔たりがあるように感じました。私はおそらく南雲さんが愛読されるようなもの(実例がないのでわかりませんが)はとても読めないんじゃないか、という気がしてきました。その点認識できたのでこの話題は意味があったと思います。 ついでにいうと私は町田康の初期作品が大好きです。ああダメだこいつ、っておもったら私の感想はすべてスルーしてください、笑 〈『砂場均し』の文体について〉 >冗長という言葉は、批評文の中によく登場する言葉で、私はいつも他人の作品を批評する時、使用を避けています。嫌いなのです。冗長だと言ってみたところで、何か言った気になれないのです。 とても便利な言葉なので私は大好きな言葉です。要するにどうとでもその意味するところを変えられる便利な言葉です。そういう空っぽな日本語が私は大好きです。 >長ったらしいものや説明的なものの中に一つ二つ輝く語句や内容的なものや感性的な色合いがあれば、私はそれで喜ぶことができます。 私はさらにそこに視点や感性の鋭さを求めます。日本のスカスカな大家の小説家はこの点で稀有のものをもっていると感じます。 せっかく輝く語句や感性的な色合いがあっても長ったらしい説明がそれを殺していては文章として失敗だと私は思うのです。あるいは長ったらしい説明自体がそうした感性の表現である場合は面白いと感じます。自分を晒して傷を舐め合う場所なら必ずしもそうではないかもしれませんが・・・ >私は会話部分の制作にあたっては、リズムよりは内容を、契約書でも作るように漏れなく記述することに努めました それがうまく機能すれば面白いと思います! 〈孤独と物語〉 この点に関しては正直にいうと私は南雲のおっしゃるところの孤独というものをおそらく知りません。これについては私がこれ以上何かを述べたところで、南雲さんと同じように孤独を感じている方々を深く傷つけるだけのような気がするのでやめておきます。 私も急ぎで書いたので、もろもろ酌量していただければ幸いです。 (砂場均し)

2019-04-25

村上春樹がとにかく読みにくくて、話の導入で読むのをやめてしまうような私の感想なので、もしかしたらずいぶん的はずれかもしれませんが・・・ とても冗長な作品なのに冗長さを活かしきれてないように感じました。おばさんとの会話のエピソードをもっと磨けばかなり深みがでたはずなのに勿体無い使い方に感じます。その会話部分もどこか不自然というか、会話としてはもちろん不自然なところはどこもないのですけど、会話部分のリズムが文章としてはあまりよくはないのに、そのぎこちなさがあまり効いてこないばかりか、語り手があまりにいろいろと観念的なことを説明しすぎるせいで読み手の想像力も次々に奪われていくので、文章が続けば続くほど作品の情景がどんどん死んでいくのがとても勿体無いな、というのが率直な感想です。 あと内容について突っ込むとすると >私には物語が欠けている。 >物語が欲しい。 いやいや、「何を初めてもまったく続かなかったっていう物語がきちんとあるじゃん!」って思わず激しく突っ込んでしまいました。それを「私には物語がない」と感傷にふける感受性を私は個人的にはあまり好きにはなれないっていうのは勿論あるんですが、「自分が欲しい物語」が手に入らなかっただけで物語がないわけではないと思うんですよ。だってこうやって長々と「物語が欲しい」って語っているこれ自体が一つの物語じゃないですか?なんか満たされない気持ちを抱えて、詩とか書いちゃうセンチメンタルな人生の物語がいままさにこの掲示板上にあるじゃないですか?そこに切り込んで欲しかったなあ、、というのは個人的なわがままですが、あるいはあえてその多重構造を用意したというのであれば、もっとこの「皮肉」に自覚的であることを鋭く示した表現が欲しかったです。 例えば >続くものと続かないもの、 の対比が一つ作品の軸になっているように思えます。 何を初めても続かなかったと嘆く語り手は自分には「物語がない」といい、つまり、「続くもの」を「物語」と暗に定義しているとするなら >そうして得るものはいつも孤独というもので、これだけが続くわけだ。 これは自分には「孤独」という「物語」があるとも読めますし、実際作者はこれを一つの物語としてここに提示しているわけで「物語」という言葉を巡る面白い循環が発生しかけていて、そういったある種のロジックの自己矛盾や「意味」の自己言及的循環にさらに言及すれば観念的思索に深みも増したかもしれないと思うのですが、そこのところでただ「孤独」という言葉に酔って終わってしまっているように感じられるところが非常に勿体無いと思いました。 あとこの作品においては改行はむしろ読みにくさを増長させているように思います。改行させてひとつひとつ味わうほどのものを感じることはできなかったし、改行によって特別効果的なリズムが生まれているわけでもないように感じるので、いっそ改行なしの散文の形式にしたほうがむしろ可読性も高まる上に、もしかしたらこの冗長さもいきてくるのではないかな、という気もしなくはないです。 もしかしたら書き手と読み手の感受性が違いすぎるのが原因で酷評しすぎたかもしれません。私の読解力不足によるところも多々あるかとは思いますが、結構長い分量のものをせっかく読んだのでコメントさせていただくことにしました。 (砂場均し)

2019-04-24

だいぶ様式が確立されていて、これはこれでとても面白いですし少しずつ磨きがかかっているようにも感じますが、違う枠組みや様式の作品も読んで見たいです。 (Anemone coronaria)

2019-04-24

ふじりゅうさん コメントありがとうございます! 最近、ずっと食わず嫌いだった太宰治を立て続けに読んだせいで、すごく影響を受けて書きました。特に淀みなく流れるような文体や「晩年」での実験的な手法などとても魅力的に感じていて、おまけに「女生徒」など女性の一人称の物語を語らせると絶品なので、自分も一つ書いてみようかな、、と思ったのがきっかけでした。が、だいぶ難しいことが判明しました。 個人的な課題としては本来は主人公の少女(一応そういう設定)の妄想の産物にすぎない「ミハイル」の存在感が大きくなりすぎて、主人公の人物像とか感慨が薄くなってしまった感があることが反省点です(ミハイルに対する主人公の想いをなるべくベタベタな表現にすることであくまで妄想上の存在であることを強調しようとしたのですが、地の文章のほうも結構ベタなのでその対比がうまく機能していないかもしれません)。 特に最後の >そろそろどこかに捨ててこようかな。そもそもそんな人いない訳だし、そんな小春日和。 の部分に一番伝えたいことを詰め込んだつもりなのですが、この辺りの「逆転の構図」みたいなものが十分機能しなかったかもしれないのがちょっと悔しい気もします。 ミハイルという名前も、北ヨーロッパっぽい名前だったらなんでもよかったんですが、いざ名前を探してみるとなんだかヨーロッパの名前は宗教的な由来のあるものが多くてニュートラルなものはなかなか難しく、結局あまり深く考えず一番響き自分の好みにあうもの(というより主人公の少女の人物像に近いと感じた響のもの)を選んでます。それをそのままタイトルにしてしまうのはどうなの?って感じもしますが、もっとタイトルだけでも工夫があればだいぶ違ったかもしれません。 >ねじ曲がったものをねじ曲がったまま、一気に突っ走らせるように読めてしまう構成 これは、とても嬉しい感想ありがとうございます!これは意識して結構凝って書いた部分だったのでそれだけでも伝わったのは嬉しいです。 (ミハイル)

2019-04-24

これ好きです。なんかこうださんと全く同じ感想になってしまいますが、ときどきあるんです、これ以上の言葉がでてこない作品。 > 授業中なんて、私の頭の上にだけ豪雨が降り続けてほしい。 とくにこの表現、情景を思い浮かべるだけでものすごく絵になるというか、しかも全体の構成もコンパクトにまとまっていて、これ好きなやつです。なんか分析するのも勿体無いくらいです。 (ポップコーン)

2019-04-18

まず何より、「ユリイカ佳作」などといった肩書き付きの作品ほどコメントしづらいものはない。持ち上げれば権威に媚びていると思われ、下げれば分かってないやつだと卑下され、などと自意識過剰な私のような読者にとっては、の話として、それはさておき、豊富な語彙を織り込みつつ、言葉のリズムを上手に構成して、文章の巧さはことさらに強調しながらも、通俗性をできる限り排除する、というのは、果たしてそれが作者の意図であるかは別としても非常に難易度の高い技であり、さらには、「特に意味がありそうで、なさそうで、ありそうな絶妙な雰囲気」に落とし込めれば(そして、この作品はこれらの条件をかなりの程度満たしていると感じさせられたわけであるが)おそらくある基準からすれば満点であろう。 通俗性を排除しようというこの感じがなんだかとても通俗的に感じられるのはおそらく私が偏屈な人間だからであるし、さらには「とはいってもまったく面白くはない」などという但し書きをつけてしまえばもはや負け犬の遠吠えといわれても言い訳できないのでやめておくが、こういった作品にほとんどコメントがつかなくなったのをみて、やはりビーレビの参加層が大きく変わってしまったんだな・・・と半年ぶりに参加してみた正直な感想なのでした(まあ、ポイント制度もあって下手にコメントして自爆するよりはポチポチしてたほうが安全だし、と思いつつ結局コメントしてしまったのでした、笑) (┣百┳もも┫┣色┳いろ┫┣打┳だー┫┣嗝┳ぐぁ┫)

2019-04-14

>夢と明言するか濁すかで全く別物になりますね。ただ、この主人公は目覚めてから自分の目鼻口の数を確かめることをせずに、ぼんやりと火災報知器を見て真実について考えています。つまり、さっきまでのは夢だったのだとはっきり認識していて、その上で夢の中に"真実"を見ています。わたしの技量の問題もありますが、この詩に関しては夢であることが重要でした。 なるほどです。だとすると私の感想は大きな誤読で、私の読解力を大きく超える作品になってしまいます。大変失礼しました。 作者の作品の意図は大事にしたいので、感想とポイントをひとまず全部撤回致します。 (真実)

2019-04-09

完備さんの短詩はいつもとても美しいな、と思います。月並みな表現ですが、何か美しいです。滑らかですらっとした肌触りが蠱惑的ですらあります。なにを表現しているんだろうとか、そういうことは私にとってはどうでも良いような気分にさせられて、その美しさをなんども味わいたいという気持ちになるのですが、かといってそれは「耽美」というのとはまた別の感覚で、どちらかというとアルプの彫刻のような。「間」の美学的な何か。 細かく見てみると、音韻に対する細やかな配慮を感じさせられ、たとえば1連目は末尾をi音揃え、2連目u音揃え、3連目と4連目はあえて揃えずにi音とu音、i音とa音、最後の5連目がe音揃えで、構成としては (i, i) - (u, u) - (i, u) - (i, a) - (e, e) となっており、非常に丁寧な数学的ともいえる設計が伺えるように感じます。すべての連で韻を踏んでしまうとくどくなりますし、かといって出鱈目に崩したらもしかしたら全体の統一感が失われてしまうのかもしれません。 また仮にこの次にo音揃いの連があってそれでしまっていたら、もしかしたら、この作品のような余韻はでないのかもしれません。 つまり 「い、う、(あ)、え」 ときて、読み手に潜在的「あいうえお」の流れを感じさせておきながら、あえて「え」で切ることで流れが宙吊りになってそれが深い余韻として残っているのかもしれないな、、と分析することもできると思いました。 さらに見てみると1連目は >さくらばなは火照り >わたくしは海へ種蒔き 「〜は、〜i音」 でダブルで韻を踏んでおいて 2連目は >肘から小指が痺れる >ような受粉に恍惚 ここでもきちんと 「〜a音、〜u音」 とダブルで韻を踏んでいるのですが、文を途中で改行することによる変則的なリズムで迎えて、全体の音韻を非常に柔らかいものにしているように感じます。 この改行が非常に効果的に感じられるのは、何気ないようでいてしっかりと音韻の設計がなされているからなのかな、と感じました。 などなど細かく見ていくとさらに注目したい点がたくさんあって、しかもこうしたものをセオリーとしてまとめたところで果たして真似して同じような美しさはだせないのではないだろうかと思ったりしますが、ここまですべて私の妄想的分析結果なので、この辺にしておきます。 (no)

2019-04-07

こうだたけみさん どうもお久しぶりです!なにやらシステムが変わって面白そうなことになっていたのでまた投稿して見ました。ご感想いただけてとても嬉しいです。言葉遊びはオヤジギャクっぽくてちょっとベタだな、、と自分でも思いつつ、なんだか歯がゆく思いながら書いたのですが楽しんでいただけて何よりです。ありがとうございます。 (おとしもの)

2019-04-06

このオチはまったく予想できませんでした。面白かったですし、何より作品の強度を感じさせられます。 シュールな設定がただの装飾にならずに、むしろ多様な読解や解釈、さらには叙情性や細やかな感情の機微までをも引き出す、不可欠な作品の骨子となっているように思われ、迫るものがあります。これだけシュールなのに人間の体温の温もりが伝わってくるようなところがとても好きです。 個人的な好みをいくつか申し上げるとすると、”真実”に至るまでの導入が少し説明しすぎていて全体の構成バランスを大きく崩しているようにも思いますし、出だしとしての引力が不足しているようにも感じられるのが残念でした。 > 彼女の顔には、パーツがひとつとして付いていなかった。 を書き出しに持ってきた方が作品の始まりとしてはずっとインパクトがありますし、読者も一気に引き込まれるかもしれないな、と思います。それから夢から醒めないほうが(つまりは、これが夢であることを明らかにしてしまわないほうが)作品としての強度がより増したのではないかとも感じられます。 「夢であること」が作品としてもどうしても重要であるならばもうひとひねりほしいかもしれない、と個人的な感想でした。 いろいろ勝手に感想を書いてしまいましたが、自分が同じレベルのものを書けっていわれても多分書けないです。 (真実)

2019-04-06

病的なテンション「で」文章を書くのということは、人によっては割と易しい場合もあるのかと思いますが、病的なテンション「を」書くのってプロのような文章が非常に達者な方にとってもとても難しいことなのかもしれない、と個人的に感じることがよくあります。逆説的ですが「病的なテンション」を伝えるためには「健康な」つまり「冷静で自己批評的な」テンション、というか視点のようなものが欠かせないのではないか?と考えています。この作品が「病的なテンションで書いたことを伝えるもの」なのか、あるいは「病的なテンションを伝えるために書いたもの」なのか、作者の意図によってその意図が達成されているかどうかは大きく変わってくるかと思いますが、前者であれば大いに成功している作品だと思いますし、もし後者であれば、やはりその意図を達成することの難しさについて深く考えさざるを得ません。 (病的テンション)

2019-04-06

そもそも、全員参加型キュレーションを提案したのは私だった気がしますし、今回の大賞についても候補が多数ある場合についての扱いに関して意見をはじめに述べたのはおそらく私なので、私なりの意見を書いておきます。 そもそも全員参加型キュレーションを提案した真意。「選考する」「評価する」ということの意味を鋭く問いたかったからです。運営側が一方的に選ぶというシステムでは必然的に運営に携わっている方々の詩観、価値観、美学、好みによって選ばれる作品が偏るのは当然のことで、それが詩誌なりほかの掲示板なりにおける選考の「個性」となってある場合には投稿者を惹きつけるわけですが、そもそも「選ぶ」という行為の本質ってなんなんだろう、ということです。その点において運営者と投稿者の関係をフラットにすることで見えてくるものがあるに違いないと思いました。そして、この提案を快く採用してくださった旧運営陣にはとても感謝していると同時に、この「実験」に踏み込むだけの先進性と旧運営陣の思考の深さ、鋭さに私は深い敬意と憧れを持っていました。それだけの問題意識と自己批評が旧運営陣の何よりの魅力であったと私は感じています。 その延長線上に多数決による大賞決定に対する私の疑問提起というものはありました。つまり、そこに運営側の問題意識や自己批評を私は見たかったのだと思います。私の意見の直後に方針の変更があったことから、何かしらの形で私の意見を汲んでくださったのかもしれないと思えばそこには感謝しかありませんが、なりゆきをみていてとても残念な気持ちになっています。とはいっても運営陣が変わった以上、運用哲学が変わるのは当然のことなので、残念に感じるということがそもそも筋違いなのかもしれません。運営哲学が変わったのであれば何事も同じ文脈では語り得ないからです。 たとえば先月の大賞選挙が最終的に決選投票になってしまったことはやむを得ないとしても、まだ投票していない人に絞るという謎のシステム。そして、作品の「降格」という謎の概念。さらに降格させるための条件がコメント数である謎、など。 これらの運用ポリシーには「選考」という投稿者にとって非常にセンシティブな問題に対する鋭い洞察力が激しく欠落しているように感じられてなりません。鋭い自己批評の哲学を失ったビーレビはもはや私を惹きつけてやまなかったかつてのビーレビではありません。もちろん「私にとって」ですが。 逆いうと、ビーレビは旧運営陣とはまったく違う哲学のもとに運営されはじめているということで(それが何なのかは私にはわかりません)、それに対して私はほとんど魅力を感じていないというだけのことです。前述の通り、これは運営陣が交代した以上当然のことです。それはまた、運営陣の投稿者に対する対応にもはっきりと現れているように感じます。私は一連の対応をみていて新運営陣の対応にあまり好意的な気持ちは持っていませんが、だから何だと言うのでしょう。 ビーレビという看板だけは同じでも、中身は変わったのですから、投稿者も旧運営陣の方々もビーレビはもはや全く別の掲示板なのだ、という認識を持つべきなのかもしれません。運用哲学が違うのならいっそのこと全員参加のキュレーションもやめてみてもいいのかもしれませんし、名前も新しく一新されても面白いかもしれませんね。せっかく生まれ変わった訳なので。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

ふじりゅうさん 好意的なコメントありがとうございます!「普通の論理的な文章をユーモアチックなテイストに置き換えて書いている、とすら言いきれない独特のセンスを伴った文体は一見訳が分からなくて読みにくく感じるのですが、読むとこれが不思議なことにさらさらとスープを流し込むように読めてしまう。」とのご指摘はとても嬉しく思いました。 この作品の弱点は、あえて自分からバラしてしまうと、まずは「うほうほ」という作品が「多層的な暗喩や隠喩によってより古典的な読みを求める実に古典的な作品である」として、まったく何の意味もないただのガラクタ作品の「うおほうほ」に何かしらの意味づけを与えることによって、そうした「読解」そのものを皮肉るつもりで書いたところが、作者の側にまったくその力量がなく、結局メタな読解に終始してしまう。「うほうほ」はメタな読解へミスリードする作品であると明言しつつも結局はメタな視点からしか論じることができない。「読解」を皮肉るほどの読解力も教養もないのだということをさらけ出してしまっているこの「ブーメラン性」に「自覚的」なんだぜ、という作者のポーズのみでなりたったコンセプトの軟弱さ。このあたりです、笑。 でも面白かった、っていってもらえるのが一番嬉しいです!ありがとうございます。 (選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章)

2018-09-26

ふじりゅうさん いえいえ、特に謝ることは全然ないと思います。コメント本当に嬉しかったです!それからいつだかTwitterで私の作品紹介してくださっていましたよね?個人的に気に入っていた作品だったので嬉しかったです。 ヤエさん コメントありがとうございます!「消え行く刹那的な爆発力を持った花火と刹那的で爆発力を持った若者の恋は、映像として見事に重なり思い起こされるから」とのご指摘がとくに嬉しく思いました。そしてご指摘のように自分が当事者であったその時もし同じ内容を書いたならば、このような比喩としてなんとかまとめることもできず、もっとダイレクトな感情の吐露としてもっと剥き出しのものになってしまっていたと思います。「少し大きくなってから手のひらに収まる」という表現に大きく共感します。 (ストロボ)

2018-09-04

かるべまさひろさん こういうひねくれた作品を作ってしまったことがまずは最大の失敗ですね。。汗。もう一つはかるべさんが私がいっているところのこの作品の弱点にすぐさま気づかなかったという時点で私の作品作りは大失敗しているということです。それがかるべさんを読者とした場合のこの作品の最大のそしてかなりクリティカルな弱点です。 (選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章)

2018-09-04

藤 一紀さん コメントありがとうございます!あまり好きっていわれてしまうと困る作品ではあるのですが、それでもそう言っていただけて嬉しいです。 (うほうほ)

2018-09-03

三浦END果実さん 嫌悪感というか一種の同族嫌悪だと思いますよ、汗。作品読んだり、言動見聞きしてたりすると、なんとなく分かっちゃう気がするんですよ、三浦さんのなかにあるコンプレックスとかそういうのが。なので、半分は自己嫌悪なんじゃないかなあと......。あと、そんな嫌いじゃないですよ。言動が他人の影響受けやすくてことごとくパクりになっちゃうところとか、笑。嫌いな人のTwitterわざわざ覗きにいきませんから。 (0. my world.)

2018-09-03

ふじりゅうさん コメントありがとうございます!詩は多面体ですし、作者と読者が同一人物でない以上、完璧な読解というものはないと思っていますが、なかたつさんの読解は一つの方角からその多面体を鋭く貫いてくださっていてとても嬉しかったです。だからといって他の方の読解の入る余地がないということはないかと思います。というのもふじりゅうさんがコメントしてくださった「主人公の自傷癖と言いますか、破裂を願う感情」もまた的確なご指摘であり、私が花火に込めたメタファーの一つだからです。しかもそれが本物の破滅欲のかたまりというよりも、若さに伴う青臭さであるとのご指摘も非常に鋭く嬉しく思いました。ありがとうございます。 (ストロボ)

2018-09-03

かるべまさひろさん 何を期待してくださってお読みになられたのかはわかりませんが、うほうほしていないことや印象が弱いことは私にとって本当にどうでもいいことです。この作品には一読してはっきりと分かるもっとクリティカルな弱点があるのです。否定的なライトレスに私が期待するものは鋭いキレですが、かるべさんの一連のライトレスをみていると、それがまったく感じられずとても残念です。 (選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章)

2018-09-03

なかたつさん とても嬉しいコメントと丁寧な読解、とても嬉しく思いました、ありがとうございます!創作かどうかに関しては、私としては過去の自分の話を書いていますが、一連の出来事を時系列で書いているというよりも記憶の断片のコラージュのようなもので、しかもだいぶ昔の記憶なのでほとんど創作といってもよいかもしれません。創作であると感じさせたという時点で、この体験は私のなかで完全に過去のものとして消化できているということなのかもしれません。「誰かとの思い出や記憶というのは、地続きの映像であり、何時間も一緒にお出かけとかしようとも、実際に思い出せるのはせいぜい10秒ずつぐらいなもの 」とのご指摘、まさに私にとってもその通りで、それがだいぶ過去のものとなれば、それらの断片をどう構築して自分が表現したいと思った感覚を浮かび上がらせることができるかが今回のおおきな課題だったのですが、なかたつさんの読解は私の狙いのかなりをほぼ正確に射抜いてくださっています。書き手にとってこんなに嬉しいことがあるでしょうか?いろいろな解釈で読まれることはある意味では作品としての成功なのかもしれませんし、それも悪くないですが、やはり自分が作品にこめた感情・感覚・思考を正確に掘り起こしてもらうことに勝る歓びはないのだと思います。 (ストロボ)

2018-09-03

取り上げてくださってありがとうございます!一気に書きあげたのは確かで、その間ものすごく時間が短く感じられたので本当は30-40分ではなく、推敲をいれると1-2時間だったかもしれません(書き終えたあとすぐ投稿したわけではなく、何回か読み返したり、別のことをしたりで投稿したのは書き始めから2Hくらいたっていました)。そのあたりちょっと曖昧ですみません。楽しんで読んでいただけたのが何よりとても嬉しいです。今回の作品は普段考えていることがものすごく反映されていると思うので選評でのご指摘もとても嬉しいです。 (8月分の選考。stereotype2085がタイを取りスーツを捨てた。《選評》)

2018-09-01

Twitterアカウントは閉鎖してしまいましたがそれでもときどき三浦さんのアカウントのぞいてます、笑。なんで、この間いきなり名指しで語りかけられてた時は正直ビビりました、汗。あええここであれに返信するとすると「お気持ちわかる気がします」。で、この作品はTwitterで先にお読みしましたが個人的にはこれまでの三浦さんの作品のなかでは一番好きかもしれないな、と思いました。花緒さんのご指摘にも同意するところはあるのですが、自分の感想としてはこうしたいわゆる「方言」を書き連ねざるをえないほどの承認欲求の切実さがこの作品からは生々しく感じられるところがあって、もしかしたらこれは作品単体ではなく「三浦さん」というコンテンツの文脈があるからそう感じるだけのかもしれませんが(そしてその可能性は高いかもしれません)、ただその感触の生々しさだけは「方言」の羅列の一言で片付けられないな、、と感じるわけです。その切実さにおいて、私はこの作品に好感を持ちました。 (0. my world.)

2018-09-01

ビーレビで選評を作品としてはじめて投稿されたのはたしかkaz.さんだったと思いますが、同じことをずっとやってみたくて、今回思い切って書いてみました。でも先月分の作品に関してはこれとは別にきちんとした選評を書きたいな、、と思っています(間に合えば)。 (選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章)

2018-09-01

私はなかたつさんのように作品にある言葉を丁寧に読み解いてその作品の核心に迫ろうとするようなそのような感想は書きたくてもどうしても書けないのですが、そういう感想を書きたいなと思わされました。詩の言葉ひとつひとつが実体と強さをもって深く心を貫くような感覚にとらわれて何度も何度も読んでしまいます。私はひねくれものですが、この作品の前では自分に対しても作品に対しても、そして作者に対しても心の底から誠実でなければいけない、という気持ちになります(「どうしようもなく、虚無僧になって」も同じような気持ちにさせられますね )。そして、本当に心に深く触れた作品を前にするとやはり言葉を失うのだな、、と改めて感じさせられました。 (語り、手)

2018-08-31

いや深読みは楽しみ方のひとつです。そういう意味では発表すると、作者の意図とは関係なく読み手が好きなように楽しみますね。それが投稿の醍醐味かと思います。 (ぼくの飼っている猫)

2018-08-28

この語り手は、猫に名前をつけてからしばらく経つまでその名前が自分の名前とか姉の名前と一緒だということに気づかなかった。良く考えるとそこがなんか凄いですね。。そこを深読みしていくとすでに結構シリアスな作品なのかもしれない、、と思ったりしました。だとするとこのユーモラスな語り口がより凄みをもって感じられます。これが単なる深読みのしすぎだとしてもこういうユーモアは好物です。 (ぼくの飼っている猫)

2018-08-28

あ、そうですね。今月はこのままのほうが良いかと思います。返信ありがとうございました! (【要読】大賞作品投票のお知らせ(2018年7月B-REVIEW杯))

2018-08-20

追記: あるいは候補数が一定数を超えた段階で重複があってもなくても投票にする、というほうが面白そうです。 いずれにしても「大賞」に関してはハードルが高ければ高いほど「大賞」の意味がある気がします。 (【要読】大賞作品投票のお知らせ(2018年7月B-REVIEW杯))

2018-08-20

大賞に関して思ったんですけど、これだけ乱立していて、しかも投票もものすごいばらけている状況ってつまりは、だれもが共通してよいと思っている作品がないってことだと思うんです。つまり「大賞該当なし」が本来は適切なのかなと思います。キュレーターの大賞候補が被った場合の「大賞」と候補乱立のなかの投票結果の「大賞」ではまるで重みが違うきがします。で、ご提案なのですが投票になった場合 ・投票数が会員数の一定の割合を超えていること(ふさわしい作品がないと棄権する方も多いはず) ・得票率が一定の割合を超えていること(たとえば5割とか) を満たす場合にのみ「大賞」とし、それ以外の場合は「大賞なし」とするのはいかがでしょうか(候補作品は準大賞)? まただれでもキュレーションできることから、大賞候補は乱立しやすくなりますので、単純に重複があれば「大賞」とするのではなく、あがった大賞候補の総数に応じて重複すべき回数を定めるのも面白そうだな、と思いました。たとえば候補が10あれば3人が重複していないと「大賞」ではないなど。 「大賞」が「大賞」ではなくなっている気がしていて、「大賞」というからにはやっぱりそれなりにシビアな条件を通過していて欲しいなという思いもあります。 みなさんのご意見もお聞きしたいところです。 (【要読】大賞作品投票のお知らせ(2018年7月B-REVIEW杯))

2018-08-20

三浦さん コメントありがとうございます!「大阪のミャンマー」も人気ですよね。個人的には「〜ている」など同じ語尾の多用や、いとつひとつのフレーズがぶつ切りになることで生じる全体的なリズムの硬直が気になって(これはこれで大きな波のようなリズムがあるにはあるのです)今回論じたような吸引力が足りないように感じたぶん、作品の世界観に入り込むのに個人的にちょっとだけ苦労した、という点で私にとっては「摂氏37℃」のほうが好きです。構図の優れた絵画というのは視線誘導が優れていてなかなか目が離せません。地球さんは詩における「構図」にとても優れていると感じます。そして「構図」の優れた作品は「心理誘導」(?)がとても優れていて目がなかなか離せない、何回も読んでしまう。「大阪のミャンマー」ではそれが弱かった、と感じて、おまけに私の場合、書かれている内容はほとんど、まずその作品に釘付けにされてはじめて入ってくるので、言葉の意味から読解していくタイプの読者の方とは「よかった、、」と思う作品が大きく異なるかもしれません。 一作品選には一作品選ならではの良さがあってとても好きですが、特に今月はいろいろな方がフルキュレーションされていて、色々な作品を紹介する場合、選者のポリシーのようなものがはっきりと浮かび上がるという点でとても面白いと感じました。フルキュレーションもとても魅力的ですね。 (7月分選評)

2018-08-16

取り上げてくださってありがとうございます!とても嬉しいです。 <この語り手を、そうは言っても語ってるよねって笑い飛ばしていいのかどうか。作者を、そうは言っても書いてるよねって笑い飛ばしていいのかどうか。> ここ鋭いです!当然この部分はそういうツッコミ待ちの部分であり、タイトルを「カタルシス」としたのも、結局あの作品そのものが一種のカタルシスだからです。「カタルシスなんていらない」って吐き捨てること自体がカタルシスになっちゃってるんじゃんって、まさにこうださんのご指摘の通りの効果を狙ったのですが<この終わり方では迷ってしまうなあと思いました。>というご指摘、真摯に受け止めます。ありがとうございました! (【選評】もどきのEある算数(フル))

2018-08-16

この選評はとても読み応えがありました。こんな読み方があったのかという新しい発見をもらえる上に文章としても非常に魅力的です。また、作品の内容だけでなく詩作における技術的な側面にも丁寧に触れているので非常に興味をそそられる上に、ゼンメツさんのポリシー的なものが明確に伝わってくる。アツいです。エモいです。 (【選評】ゼンメツ選、2018年7月分)

2018-08-15

楽しむのが一番です! (7月分選評)

2018-08-15

地球さん おお、そうだったんですね!地球さんの作品のきっかけになれたというのはとても嬉しいです! 私の経験からすると詩が「うまい」人って最初からそれなりにうまくて、それは運動できる人って別に部活入ってなくても、なんなら普段まったく運動していないのにやらせると普通にスポーツ全般すごいみたいな感覚に近くて、地球さんにはそういう感じがあります。なのでとても羨ましいです。また作品楽しみにしておりますね(プレッシャーにならないことを願いつつ)。 (7月分選評)

2018-08-15

右肩ヒサシさん 著しく品位に欠けるHNでしかも作品が全くセンスなしのお粗末でありながら、だれもが気にせざるを得ない存在。ある意味すごいですよね。。しかも爵位購入者とは!初めて知りましたが驚きを隠しきれません。「前衛詩で名を馳せた著名なネット詩人M氏」といえば、ほかにもう一人覚えがある人がいないでもないですが、おそらく男爵氏でしょうね。ある時から彼は「丸煙管公爵」っていう変名でも投稿するようになったので、おそらく間違いないです。偽造パスポートで思い出しましたが、彼はその手のことは詩を書くよりずっと得意だったらしく、ある時などは他人になり済ますために、他人のサインをプロジェクターに大きく映し出して、それをなぞる練習を重ねることで完全にその人のサインを書けるようにしたとか。。まあ、その時は彼の友人の遺体が彼が乗っていたボートから発見されたことでパスポート偽造がバレて逮捕されているんですが、いやはやそれにしても犯罪歴と逃亡率の高さはやばいですよ。そっか、今回も仮釈放中に火星に逃亡したかもしれないのか。。なんか生命力がゴキブリなみだ、汗。 (ウォシュレット)

2018-08-15

「アーライユーミー?」は確かに嫉妬するレベルですね!確かにうらやましい。。 (カタルシス)

2018-08-14

うれしいです!切腹だけはどうしても外せなかったんです、笑 (ウォシュレット)

2018-08-14

あれ?服役中だと書いてしまいましたが、宇宙旅行中だったのですね!?やはりただでは転びませんね。。笑 (ウォシュレット)

2018-08-14

こうだたけみさん Dance of the Line Riders!!実はめっちゃ好きです!でもやっぱりひやっとしますね。。汗。それはさておき「軽々しさ上等」に激しく同意!意味の全くわからない外国語を使って語感とリズムだけを頼りに詩を書いてみたいものです。 (カタルシス)

2018-08-14

stereotypeさんのおっしゃっていることと私のいいたかったこと、結構ニュアンスがちがくて、作品への作者の姿勢がどうあろうと、この手法を用いる限り意味の違いが立場によって必然的に不可抗力的に生まれてしまうということです。その違いは今は至極ミクロなものですが、その事実(だと私が思っていること)に作者自身が自覚的であることが作品から感じ取れるか否か、ということでした。なんだか泥仕合になりそうなのでこの辺りで引き上げます。リプありがとうございました! (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

私がいいたかったのは、立場がかわると同じ引用やパロディでも意味合いが変わってしまうということです。一投稿者が他の作品を引用してサンプリングするのと、運営に携わっている方が同じことをするのでは大きく意味が違う。売れたミュージシャン(あるいは世界的にしられた作品)が売れていないミュージシャンの曲(マイナーな作品)を引用した場合と、その逆ではまったく意味が変わってくる。その点にstereoさんがどれほど敏感であったかということが私にとっての一番の関心でした。もちろん小さな投稿掲示板の運営と一般投稿者ではそれほど大きな違いはないかもしれない。でもそこにはやはり微妙な違いがあるはずなんです。その微妙な変化への敏感さ、鋭さがあまり感じられないのがとても残念だったということで、逆にそれが鋭く伝わってくる作品がかけるとするならば、前回のサンプリングと今回のサンプリングでその立場の変化を経験したstereoさんに他ならないはずです。それがすごく勿体無く感じられました。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

まりもさん やはりこの方と面識があったのですね!例の隔月刊行誌、本当に手に入らないんですよ。一度だけ友人が実物をみせてくださったのですが、まず鉄格子にいれられて監禁された状態で、檻の外で1ページずつ友人がめくってくれるという何とも厳重な警戒体制でした。。。汗。しかも誰も手放さないからネットオークションや古本でも手に入れることができず、噂によるとバックナンバーの中古販売さえも密やかになされている模様。ディーラーに接触するだけで紹介料がウン十万、おまけにバックナンバー1冊にあまりにプレミアがついて家が建つほどだとか、そんな話も聞いたことがあります。どうりで、かの友人は風呂なしアパートに住んでいたわけだ。。 (ウォシュレット)

2018-08-14

と同時に、現在stereotype2085さんは運営される側に回られました。その立場への作者の鋭い自覚や自己批評がこの作品からはあまり感じられません。おそらく私がこの作品に対してあまり好意的な感情を抱けないの一番の理由はその部分かと思います。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

「サンプリング」という概念に対するもっと鋭い切り込みと洞察が欲しかったな。。というのが正直な印象です。特に後半部分。折角、とある作品の形式を模して(しかもいくつかの作品をネタとして取り込みつつ)これだけの分量を確保しているにもかかわらず、内輪ネタとしても、純粋なコメディとしても不十分で物足りないです。サンプリングやパロディのネタにされることに対してはまったく何の否定的感情もありませんが、せっかくネタにされるんだったらカッコよくネタにされたいもんだな、、という私のわがままでございます。 (サンプリング(REFRAIN))

2018-08-14

fiorinaさん コメントありがとうございます!fiorinaさんのコメントには深く共感します。書くことに限らず「表現」と呼ばれるものは他者の評価を求めた瞬間にひどく虚しいものになるような気がしています。ビーレビでは純粋に楽しみのために書いて、楽しみのために読んで、そしてだれかが読んでくれて「評価」云々とは別の軸であるいは共感だったり伝達であったり共有であったり、それは非常に刺激的で、評価されることよりも何よりも深い歓びがそこにはあって、それがこの空間を何よりも魅力的な場所にしていると思います。それからfiorinaさんに筆力を褒めていただけるのは大変な光栄でございます! (ウォシュレット)

2018-08-14

三浦さん 三浦さんのコメント、はじめて本気で嬉しいと思いました。たしかに三浦さんと私はかなりの部分、同じものを共有していたと思いますよ。そしてそれを言語化する点において、やはり三浦さんのコメントのほうが私の作品なんかよりも数倍雄弁だ。「せめて嘘でもいい」。三浦さんが繰り返し使ってきたこの言葉、大っ嫌いですけど、今この瞬間だけはちょっとだけ同意してもいいかもしれない、なんてそんなくだらないセンチメンタルに汚されちまった哀しみはたった今、ウォシュレットの汚水と一緒に下水に流してまいりました。 (ウォシュレット)

2018-08-13

うなされました。(タイプミス) (うほうほ)

2018-08-13

stereotype2085さん コメントありがとうございます!「ウォシュレット」第二弾ということで、以前に書いた(けど投稿していない)作品を「ウォシュレット」の流れでリビルドしたものなんですが、非常に疲れてた時に書いたのでだいぶ崩壊してますね、汗。夢で若干なされました、笑。 (うほうほ)

2018-08-13

なつめさん コメントありがとうございます!これ投稿したときすごい疲れていてそのあとすごい睡魔に襲われたんですけど。夢にでてきました、、笑。今月ひとつめに投稿した「ウォシュレット」第二弾です。 かるべまさひろさん てコメン!僕ざいま・・)すもはロの『顔ト「あり「((。。「がれ)))ごほです。べさマンチ』」(ストでか肯定否嬉しくんのとうてうほう定がと!!! (うほうほ)

2018-08-13

いえいえ、好きなように読んでいただけるのが一番ですし、というか、私も自分の好きなようにしか読めませんし、というかそもそも掲示板の作品は大抵あまり真面目に読んでないので、こんなかっこいい評は書けないのでこういう評もらって嬉しいですし、もろもろ遠慮なくよろです。 (【選評】澤あづさ選2018年7月分)

2018-08-12

取り上げてくださってありがとうございます。いや、皮肉とはまったく思いませんし、「笑えた」という感想がなによりとても嬉しかったです。なんだったら前半をもっと陳腐にしてよりストレスフルにしてもよかったかな、、と思うくらいです。 <表現も読解もストレスだ。いつ来るとも逆にデストロイとも知れないカタルシスが欲しいがための。> うーん。。どうなんでしょう。。自分はそこまで必死に表現も読解もしていない、ただの冷やかし者なのかもしれないな、と感じないでもないです。書いたら楽しいし、辛い時は自分で自分のために自分が笑える文章が書きたいし、そういう意味ではこの作品はなんだか中途半端でどこか作品として完成させようという意図でてしまっているという意味では自分のなかでは全然「不純なもの」で、かといってこうして評していただけるものは大抵「不純なもの」ばかりで、「不純度」が高ければ高いほど誰かが真面目に語ってくれるので、なんというかとても拗らせた心情になります。皮肉ではなくある意味での「不純さ」こそが「表現」と呼ばれているものの核なのかもしれないな、と思う今日この頃です。といいつつ、本当に凹んだときはなんか暗い曲とか悲しい曲聞いて癒されている自分がいるので私の行っていることはやっぱり全部嘘です。 (【選評】澤あづさ選2018年7月分)

2018-08-11

stereotype2085さん コメントありがとうございます!多分ネタばらしをしてしまったほうが面白いと思うのでネタばらししてしまいますが、マルセル・デュシャンの「泉」っていう便器作品をネタにして書きました(ご存知かもですが。。。)。運営のみなさん退陣されるということなので、何かしらビーレビそのものをネタにしたものを書いてはなむけとしたいという思いがあり、一斉退陣される前に急いで書いた次第でございます。書いててとても楽しかったのでいろいろ褒めていただいてとても嬉しいです。「サンプリング」の次作、楽しみにしてますね。 (ウォシュレット)

2018-08-05

花緒さん コメントありがとうございます!そうですね、推敲含めて30-40分くらいで一気に書き上げました。ビーレビ運営のみなさんが退陣される前に是非1作こういう詩そのものをテーマにしたものをアップしておきたいな、との思いで書き上げたのでコメント本当に嬉しいです。これまで運営本当にお疲れ様&ありがとうございました!2代目ウォシュレットもまた気が向いたら書いて見ますね。 (ウォシュレット)

2018-08-05

鷹枕可 さん コメントありがとうございます!「スラップスティックな実験詩」とのお言葉とても嬉しいです。おそらくこうした表現手法には多くの先人がいるものと思われますが、今回は単純に私の個人的快楽のために書いた側面が強く、「コンセプトも揺るがない」とのお言葉、大変もったいない限りではございますが、「社会事象をグルグル腕に捲いて、急行電車をゼイゼイと追い抜いて行く様な」という形容には、おお、確かにそうかもしれない、と妙に納得させられるものがありました。 筒井康隆さんは恥ずかしながら、実は作品を直接お読みしたことはなくアニメ化されている「時をかける少女」と「パプリカ」を映画でみたくらいですが、「パプリカ」などは大好きで本当に何回も見ています。「パプリカ」はどちらかというと今敏が好き、といった感じなのですが、あのカオス感、いつ見てもワクワクさせられるものがあり、今回書く時もあの世界観は頭のどこかにあったのはおそらく確実です。 (K)

2018-07-28

ふじりゅうさん これは反応いただけてとても嬉しいです!全スルー覚悟で投稿したので、、汗。自分でも一体何を書いているんだ、って感じだったので、いやあ本当にじゃんじゃん突っ込んでくれて嬉しいです。とても疲れていたので自分でなんか笑える文章書きたいな、って思って自分で書いて自分で笑ってました(気持ち悪くてすみません)。「素晴らしい作品」とは勿体無いお言葉ですが、何かしら楽しんでいただけたのなら、投稿して本当によかったな、と思います。コメントありがとうございました! (K)

2018-07-28

夏生さん こめんとありがとうございます!たしかに「うんざり」という気分があったのかもです。ハマるときはとことんハマる性格なのですが、そのせいで飽きた時の反動がものすぎて「食傷」というよりも「嘔吐」に近い感覚になることがあります。エンターテイメントもほどほどにしないと楽しめるものも楽しめなくなりますね。。 (カタルシス)

2018-07-28

ゼンメツさん おお、過去投稿作読んでくださったのですね。ありがとうございます!才能云々についてはあまり議論する意味がないと感じているので具体的なご指摘とても嬉しく思いました。<正直「細かい文脈を掬えない」方々からはただ口語で好き勝手書いてるようにしか見えないんですけど、でも僕、それって逆に、全然読解されなくても楽しんでもらえるってことだと思っていて>あたりのご指摘はまさにその通りだと思っていて、感性の合わない人にでも何かしら楽しんで読んでいただけるもの&感性のあう人にはさらにその先何かしら感じ取っていただけるもの、というのが理想っちゃ理想です。 <強いフレーズを作る力がかなりの弱点だと感じます>というご指摘は、そうですね、やはりそうだと思います。言葉ひとつでぐわっと景色や感情が広がるようなそういう詩作はものすごい弱点で、そこらへん克服できたらかなり濃い作品になるのかもしれませんね。 <そこが行分けの詩を書いているときには顕著に表れていて、きっと短文に詩情を作るのはだいぶ苦手なんじゃないかな。>いやあ、めっちゃ鋭いです。いわゆる「詩」を作るの下手くそだから途中から散文作品が増えてるんですよ、、正直なことをいうと。いわゆる詩の形式のものからうまく詩情を表現する技術がほとんどないですね。本当はそういうのに憧れているんですけど。。リルケとかやばいなって思います。まあただ、弱点とがっぷりよつで格闘するほど、その形式の詩に対して執着があるわけでもなく、イージーな方向に流れているというのが現状かと。ましてや、そこに何かしらの尖ったポリシーがあるわけでもなく。。でも文章を書くというのは楽しいものです。さらに上達できればもっと楽しいでしょうね。 言葉のリフレインに関するご指摘も確かに言われてみると「ABAB」形式が多いかも。この辺のテクニックは手持ちが少ないのでもっと精進せねばという感じです。 こんな具体的にアドバイスいただけるとは思わなかったのでおもがけずとても嬉しく思いました!馴れ合いに終わっても否定のしあいに終わっても不毛中の不毛ですが、こうした建設的な議論はとても有意義ですね。また機会がありましたら是非よろしくお願いします。 (カタルシス)

2018-07-27

ゼンメツさん コメントありがとうございます!確かに似てるようで似ていない文体かもですね。「この詩は表面のキャッチーさに対して、イメージの連なりや奥行きに関してはだいぶ物足りなく見えてしまう」とのご指摘はごもっともかと思います。この作品もそうですが、私の作品の多くは表面的な音感や言葉のリズムの扱いに主な意識が集中しており、言葉から喚起されるイメージに対しては十分配慮が行き届いてない場合が多く、未熟な部分だな、、と課題点となっているかと思います。「加速する自動筆記のような勢い」は保ちつつ、イメージ豊かなで多層的な読みができる内容にできれば理想ですね。過去投稿作品でもこのあたりのバランスをいろいろと試してみてはいるのでよかったら是非ご感想お聞かせください。 (カタルシス)

2018-07-27

地球さん ありがとうございます!「それでもすこし不協和音みたいにかんじるところがあったり、ざらざらとした感じ」とのご感想、とても嬉しいです。実はこれ書いたころは書いたものを音読するようにしてた頃で、これも書いた後に何回か音読してその時の五感をかなり大切にした記憶があります。 (カタルシス)

2018-07-26

藤 一紀さん コメントありがとうございます!文章そのものがもつ動静をなにより意識して書くことが多いので嬉しい感想でした。個人的にジェットコースターは本当に苦手です。乗り物酔いがひどいんですよね。。汗 (カタルシス)

2018-07-22

蛾兆ボルカさん コメントありがとうございます!なるほど、ミミズは音が聞こえるんですね?初めて知りました。鳥の鳴き声は私は非常に好きで人間の作るどんな音楽も及ばないと思うことがあります。突き抜ける、突き抜けないでいうと、自分は突き抜けないタイプかもしれません。離散的なものに惹かれる傾向があるというか、正確にいうと集中力が足りないというか、そんな気がいたします。それから、ご指摘くださった「アンチ・クライマックス」という言葉が自分の最近の気分にとてもしっくりきます。「アンチ・クライマックス」、いい言葉ですね。以前ははカタルシスを感じないものには一切魅力をおぼえなかったのですが、いまはカタルシス過剰だと拒絶反応がおきるので不思議なものです。 (カタルシス)

2018-07-22

かるべまさひろさん コメントありがとうございます!実は去年の九月くらいに書いたもので、ここに投稿し始めた頃に書いたものなんです。なのでここ最近書いたものとは少しタッチが違うのかもしれません。ポップとご指摘いただいた通り、これを書いたときはポップな気分だったような記憶があります。みどりっていうバンドのなんとかっていう曲でみどりさんが「Destrrrooooy!!!」って叫んでるやつをたまたま聞いた直後だった記憶に書いた記憶があります。自分でも改めて読んでみて、確かに引っかかる部分あまりないかも。。。ただノリで書いているだけというか。。。 (カタルシス)

2018-07-22

面白いです。運営が許すのであれば一回限りで終わらせずにこの手法をどんどん掘り下げていってコンセプトによりエッジがかかっていくのを期待したいです。 (サンプリング)

2018-07-21

文体の方向性としてはとても好きな作品だな、と感じました。ただ散らかりきれていないし、まとまりきれていない、という印象がありました。もっとうまくまとめて散らかってたら古くなったコンバースのスニーカーが醸し出すゴミきれのような、かといって愛着を捨てきれないようなあの独特の「汚さ」と「ほんとね、さっさと死にたいです。」に言い表されたなんとも投げやりな人生観がうまくマッチしてよりリアリティーのある形で迫ってきたのではないかな。。。と感じました。古くなったコンバースが作品のひとつの鍵になっているところはめちゃくちゃ好きです。「数えるほどしか履かずに褪せたコンバース」という言葉だけで伝わってくるものが多々あります。 (無題)

2018-07-21

美しいコードっていうのがあると思うんです。それはアルゴリズムが非常に美しかったり、インデントや改行に非常に美しいリズムがあったり。コードは例えばコメントの付け方といった細部に到るまで、書くその人を映し出します。コードは詩そのものです。。。というようなありきたりな指摘はさておいて、個人的なわがままをいうと you == living の部分、その前段階で例えば you がクラスインスタンスとして定義されていて、そのクラス定義の中に書いた人の「人」あるいは「あなた」もしくは「人間関係」に対する深い洞察がふくまれていたり、同様にlivingの定義のなかに深い人生観が垣間見えるコードだったらすごい面白いのにな、、と思いました。もちろんJavascriptがわかる人にしかわからない作品にはなってしまいますが、安易にjsをつかって文字列をループされるよりは純粋なプログラムコードとしてのjsコードのなかに文学性を探る試みのほうがずっと面白そうだな、、、と個人的には思います。といいつつ、自分もやろうとして結局やらなかったんですけど。。汗。 あるいはループ性を強調するとするならたとえば while(true) {   live(); if (negative > positive) break; } くらいシンプルなほうが、インパクトでた気がします。 (life.js)

2018-06-24

取り上げてくださり、ありがとうございます!実はタイトルの「E#」って、つまりは「F」なんですが、誰も触れてくださらなかったのがちょっと残念でした。「どこか艶やかな短調の醸し出す雰囲気」というご指摘はとても嬉しいのですが、「E#minor」という調は「ない」です。 (BREVIEW5月選評)

2018-06-15

鬱海さん 嬉しいコメントありがとうございます!<愛してるはずの人のことをなぜだか醜く思う苦々しさみたい>なもの。確かにそんな感じの感情に近いかもしれません。 (E# minor)

2018-06-14

まりもさん 丁寧に読んでくださり本当にありがとうございます!とくに<肉欲、野生の本能になんの疑いもなく身を任せていくアベックたちの営みを「美しい」と思う一方で、性行為もしくは行為を終えた後の揺らぎを象徴するような水上のボートの動きを、まるで「水死体」のようで醜い、と感じる、このズレの度合い>とのご指摘は非常に嬉しく思いました。読んでくださった方が自分の作品から思い描いてくださる手触りが自分のそれに非常に近いとき、ああ書いて本当によかったな、と思います。「伝えること伝わる」ことが文章や詩のすべてではないというのが持論なのですが、それでも伝わることの歓びも決して無視できないものですね。 (E# minor)

2018-05-31

藤一紀 さん コメントありがとうございます!ご指摘の通り「嫌悪」や「醜さ」について書いてはいるのですが、全体的にグロテスクな印象にならないようバランスを取ることに気をつけました(矛盾しているようですが...)。ですので「全体としてはとても美しい作品」というご感想はとても嬉しく思いました。骨の数を数える部分は特に思い入れのある箇所です。 (E# minor)

2018-05-31

改行を意識して読むと途中で息切れしてしまって読み続けるのがしんどくなるのですが、改行を無視してつなげて読むと一つ一つの文がとても流暢に感じられ、全体の流れもとても心地よく感じられましたし、内容もすっと入ってくるような印象がありました。改行が逆効果になってしまっているように感じました。 (欲望の邂逅地点)

2018-05-03

「隙間のない人生を送って来ました。」という導入は太宰治のあのあまりに有名な書き出しを連想させてとても魅力的に感じました。この出だしから思いっきりシュールな展開が続いていたらとても面白そうですね。自分でも一本書いてみたい誘惑にかられました。ただ「隙間のない人生を送って来ました。」という最初の一文だけがやたらとウィットに富んでいて想像力を非常に掻き立てる一方、続く作品本体があまりに説明的で残念に感じました。 (隙間)

2018-05-02

日下ゆうみ コメントとそしてとても鋭い読解ありがとうございます!文章のテクニカルな側面のおいて私がやろうとしていたことはほとんど日下さんのご指摘くださった通りで、その読解の鋭さに舌を巻きました。 <しかし私が一方で疑問を覚えたのは、ここでの「僕」のやや受動的な(と形容すべきか少し怪しいのですが)傾向にある姿勢です。> そうですね。これは私の他の散文作品に共通していえることなんですが、他者との関係においてとにかく受動的な姿勢のものがとても多いです。それは私自身が特に人間関係(特に男女関係においては)わりと受動的な性格だからなのかもしれません。 <「僕」はただこのような醜さを感じさせている「彼女」に対しての苛立ちを全体において反復していて、その感情の原因をすぐに解決しようというような意欲は表象されていないように思います。> まったくその通りで、それは先ほどご指摘いただいた受動的な姿勢にそのまま繋がると思います。つまりこの作品の主人公は、自分勝手の極みなんです。 <私はこの詩において、このようなやや否定的な傾向にある感情を描写することによって何を目的としたのかということが気になりました> 特に目的というものはないです。「一つの可能性としては鑑賞者がただ増幅された相手への嫌悪感ばかりを受け取ってしまい、厭世的な感情へと陥らせてしまうこともある」とご指摘頂いた通りで、読者は主人公である「僕」とそして作者のあまりに自分勝手で自己陶酔的な感情の発露に付き合うしかありません。逆に肯定的な要素を作品にどうしても残さないといけないとお考えであるなら、その理由をぜひ知りたいなと感じます。例えば世の中には救いようがないほど暗い曲がたくさんありますが、それに対して私は「そこに肯定的な要素がなく、ただひたすら暗くて厭世観を煽る」ということに疑問を感じませんし、ときにはそのことがとても救いに感じられます。 この部分はむしろ、読者がこの作品のひたすらネガティブな感情描写に対して何を思うか、ではないかと思います。自分にも似た感情があったと共感するのか、理解不能で気持ちが悪いと嫌忌するのか、未知なものとしてこの感情を新しく発見するのか、あるいはこの作品を読んだ上でさらにポジティブに思考を重ねるのか、またはこの続きのあるいはこれに先立つ物語に思いを馳せるのか。それらはすべて読者に委ねられています。 少なくとも読者に後味の悪さを味あわせてやりたいといった悪意はないです。ただすたすら書きたいことを書きたいように書いたという点において、私自身も作品の「僕」と同様にどうしようもなく自分勝手な人間なのだな、という自覚はあるつもりでいます。 とても深いコメントありがとうございました!! (E# minor)

2018-05-02

花緒さん コメントありがとうございます!<美しい、醜い、という直裁なワードを使わないで同じことができたらもっと作品の高級感が高まったとは思う>とのご指摘、確かにそうかもしれないですね。こちらこそ勉強になりました! (E# minor)

2018-05-02

あ、あと28個じゃなくて27個の間違いです。 (E# minor)

2018-05-01

修正です。 修正前: 手首に8個の手根骨。掌の部分は肉の中に中手骨が手首から指にむけてバラバラに4本。その先の5本の指はそれぞれ3本ずつ指骨が間接で繋がっている。その28個の骨のうちのどれを探っても空っぽな手触りしかなかった。 修正後: 手首に8個の手根骨。掌の部分は肉の中に中手骨が手首から指にむけてバラバラに4本。その先の4本の指はそれぞれ3本ずつ指骨が間接で繋がっている。親指の根元の指骨は手首の手根骨の一つから大きく反り出すように付いていて、その先にさらに指骨が2本。全部で28個の骨のうちのどれを探っても空っぽな手触りしかなかった。 --- 以上読み替えてください。 (E# minor)

2018-05-01

ささん コメントありがとうございます!今回は短い中にとにかく詰め込みました。もう少し詰め込んでも面白かったかもしれません。プロフ写真ってその人の人格がなんとなくにじみ出る気がします。いろいろなプロフ写真があるので面白いですよね。しかもプロフ写真によって、同じ言葉でも受ける印象が全く違くなるのがとても面白いな、と感じます。写真が変わった途端その人に対する印象が変わったり。 (鮮やかな店長の転調)

2018-04-30

ギター1本じゃかじゃかとコードを掻き流しながら、パティー・スミスみたいにポエトリー・リーディングしたら格好良くなりそうですね。日本語だと英語と違ってパティ・スミスのような子音の連続のあの格好よさがどうしても出ないのが残念ですが。。 (終わりと始まりを納棺する日々)

2018-04-17

まりもさん 最後のパートの詩はもともとは「シュールレアリズムな感じで書き始めたんだけど、明らかに失敗している詩」あるいは「明らかに何かが間違っている詩」にしたかったんですが、なかなかうまくいきませんでした。と同時に4連目書いているときに自分が書いている物語世界からもう既に醒め始めてしまったんですよね。その感覚をそのまま出したいというのもありつつ、、なのですが、やっぱり着地としてイマイチ決まらないというか、決まらないなら決まらないでもっときちんとコケている感じが出て欲しかったですね。オチの部分は毎回大きな課題です。コメントありがとうございました! (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-17

まりもさん コメントありがとうございます!2連目、どうしても言いたくて書きたくて、でもなかなか言えなかったこと、書けなかったことをやっと書いたという感じです。反応いただけて嬉しいです。 タイトルについてですが、そもそも作品全体が遊びなのが前提なのと、例えばモーツァルトの音楽みたいに気まぐれにしかも激しく転調するようにして、あるいはシューベルトみたいにスタイリッシュに、しかもあらゆる境界を巧みに跨ぎ続けるようにして、そんな転調し続ける文章を書いてみたいというのが最初の動機としてあって、そのときの思いつきのままに勢いでつけたタイトルですが個人的にはとても気に入っています。 虚空のスキャットマンのくだりの一節はピンク・フロイドの「狂気」(原題:the dark side of the moon)からの引用です。 (鮮やかな店長の転調)

2018-04-17

いや、こちらこそ虫のいどころが悪かったようで攻撃的なコメントになってしまいました、、なんだかすみません。挑発的な選評にイラっとしたのは事実ですが、やはり花緒さんのコメントがすべてですね。礼儀というか人に対するしかるべき敬意というか、なんかとても大事なものを忘れてしまったことに猛省しております。 (【選評】なかたつ氏ー3月投稿作品)

2018-04-16

ここに直接書かない(普通にコピペすればいいじゃんって思います)のは本人の意思なのでしょうか?だとしたら、「ああ、なんか分かる」って感じがします(笑)。そして、基本削除することができないこの掲示板に正々堂々とあの内容を書かないことを、ある意味とても「卑怯」だな、と感じます。(仮に、もし、三浦さんの判断でリンクだけをコピーしたというのなら、それはとんでもない怠慢だと思います)。 (【選評】なかたつ氏ー3月投稿作品)

2018-04-16

こちらこそ率直にいろいろな意見を聞かせてくださり、とても嬉しく思いました。特に私にはなかった視点で作品を読んでくださっていたのがとても勉強になりました。ありがとうございました! (【選評】もどいてひもといて意図)

2018-04-16

密度の強さのご指摘嬉しくおもいました!ただやはり、終わり方、難しいですね。。精進します! (鮮やかな店長の転調)

2018-04-12

いや、カオティクルさんはそんなこと言ってないんですけど、カオティクルさんの詩をよんで、なんかアグレッシブなパワーにぐわっと圧倒されて、ちょっと思いついたんで書いてみました。 (BABY NEAPOLITANS 3)

2018-04-11

攻撃的な言葉というのは攻撃的だというだけで一定の説得力をもつ。感情的な言葉というのは感情的だというだけで一定の感動をもたらす。あいつは嘘つきだと吐き捨てた人は、嘘つきだと吐き捨てたという事実だけで少しだけ免罪される。私は傷つきましたと叫べば、傷つきましたと叫んだという事実だけで無罪になる。ってほんの少しだけ本当にそうかもしれないって思っちゃいました、笑。 (BABY NEAPOLITANS 3)

2018-04-10

こうだたけみさんへ こうださんと私の考えていることは視点としては違うところに立っているようにみえるし、実際考えと言語化してしまうと、やはり全然違う意見をもっているようにみえるのですが、そうみえて根本的なところでは、実は考えていることはほとんど変わらないのかもしれないな、あるいは少なくとも半分くらいは同じことを感じたり考えているのか、、と感じました。思考の体系が違うと同じ考えを文章化するにしても、ものすごく異なった論理展開になることもあるのかな、、と。 <でもやっぱり私は、私が書いた、というその事実に意味を見出せたらいいなと、そんなふうに思っています。> この部分にはまったく同感なので。あとルーズソックスをはいた女子高生の例え、いいですね。いろいろと考えるヒントをいただいた気がします。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-06

こうだたけみさん なかなか奥が深い話になりそうですね。自分はそこまで文学史、思想史に明るくないので、そのあたりあまり詳しく語れないのが残念ですが、ポストモダンといえば、自分のなかではデザインや建築の世界の直線的・無機質なモダニズム(形態は機能の具現化である)に対抗してのより装飾的で「無駄の多い」デザイン運動としてのポストモダンを思い浮かべます。どちらにしてもまだそういったポストモダンが「大きな物語」を終わらせたとは個人的には思えなくて、そのような大きな潮流と文脈があったこと自体、今の時代からすれば作られるものすべてが「大きな物語」の中に位置付けられるものだったのではないかなと感じています。それでも不思議に感じるのはネットが発達して、あらゆる分野において文脈の細分化が進んで「物語」の細分化が進んで、大きな文脈という意味での「大きな物語」の喪失がすすんでいるはずのこの21世紀が生み出しているものが、どういうわけかどれもこれも幾つかの雛形から生み出されたように似たものばかりの大量発生、つまり、こうだたけみさんのおっしゃるところの「大きな物語」に吸収されうるものばかりである、よりユニークな「個人の物語」として生み出されたものが非常に少なくなっているという印象をもつのですが、そのことがとても興味深く思えます。 つまり大きな文脈を持っていた時代のほうがよりユニークな作品が多かったのではないか、という見立てなのですが、私個人の意見では単純にものを作る人の人数が現代に比べて極端に少なかったからではないかと思っています。そして、作品の絶対数が少なかったぶん、一つ一つが求められるクオリティーが違っていたというシンプルな問題ではないかと。 何がいいたいかというと創作物が飽和しすぎて、消費する側が食傷気味になる、さらにそれぞれの作者が一つの作品にかけることができるエネルギーや時間やお金が圧倒的に少なくなっている(一つのパイを大量の人で奪い合っているから)状況のなかで、作品を熟成させ、よりユニークな個人の物語のものにしていくことが難しい、さらには情報量が多過ぎて消費する側も表面的な鑑賞にとどまってしまうのでわかりやすいものが求められる、こういった諸々が重なっているからこそうちらがなにかに接したときに「これは〇〇っぽい」「〜系」だよねというこうださんのいうところの「大きな物語」への吸収、つまり分類が生じてしまう。あるいはそうした形での作品、もとい商品作りに傾いていってしまう。これは時代の必然だと思っていて、だからこそ私のなかではそうした「大きな物語」や「個人の物語」へのこだわりがほとんどないのかもしれません。 たいていのものはやり尽くされて、その中で、純粋にものを作ることを楽しむこと、お金になることや有名になることからは離れて、あるいはユニークであることすら放棄してただ楽しみのために、あるいは人間の正常な営みの一部として創作活動を行うこと、これが私にとっての創作活動の理想なのかもしれません。その中で「大きな物語」に吸収されてしまうかどうかというのはほとんど意味を持たないように感じられます。 という私個人の持論はこの辺にしておいて、こういった意見をその部長さんに聞かせたらなんとお答えになるのかとても興味がありますね。それにしてもダイナミックな方だったのですね。その方の作品を読んでみたいような気もしますが、これだけ印象の強い方ですと、自分の頭のなかで空想を膨らませて私なりの「部長さん」の物語を作ってみたい気もします。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-05

花緒さん コメントありがとうございます!<つい最近、>あたりからの破綻ぶりは意図したものでもあり、また話をきちんと着地させるのが面倒になったということでもあり、また着地させたくないという心理の表れでもあり、宙ぶらりんなものへの愛着でもあります。最後の詩、いかにも凡庸な感じ、伝わって何よりでした!最後の詩がうまい作品になってしまうとちょっと狙いと違くなってしまうので。。。(といいつつ、うまい詩が書けるのか?といえば、書けないですので、そんな自分への自虐も含めて) (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-05

こうだたけみさん いえいえ、こちらこそ私にはなかった視点で作品を読んでくださり、本当に感謝です。 お亡くなりになられた文芸サークルの部長さんの言葉だったんですね。なるほどです。こだわりというのは必ず背後に潜在意識的な大きな何かが潜んでいると個人的に考えているので、その部長さんの心の中に何があったのかとても興味がありますね。それを想像するのも、あるいは自分もまたそのこだわりを引き継ぐことも、その部長さんを忘れないで覚えておく方法のひとつなのかもしれません。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-05

内容に関しては激しく突っ込みを入れたいというか、なんだか大人げなくも厳しく説教してやりたくなってしまいそうな、そんなもどかしさを覚えつつ、文体のさらさらとした流れには非常に心地よいものを感じました。ただ、終わりを「16歳の春」で終えてしまうのはちょっともったいなすぎる気がします。ここをちょっと捻るだけで作品全体の詩情が何倍にも膨らむのでは??と感じます。 (新学期)

2018-04-05

追記:長いので3つに分けました。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-05

「自分勝手なロマンチスト」のほうも本当に鋭く読んでくださっているなと感じてとても嬉しかったです。 確かに自分もそこまでヘッセを全面に持ってくる意図はまったくなくて、ほんの小道具に過ぎなかったのですが、意外にたくさんの方が反応してくださって驚きました。やっぱりヘッセはファンが多いんですね。(といいつつ、「春の嵐」の主人公は身体障碍を持っておられるのですが、とにかく女性の母性の対象になることが多い。それで主人公はあるとき「多くの女性は私のようなかたわの人間もまた普通の人と同じように女性に思いを寄せるのだということを忘れているようだ」みたいなことを語るんです。正確なセリフは忘れてしまいましたが。。でこのセリフはこの作品のなかの「僕」の心情そのものであったりもして、ヘッセというよりも「春の嵐」という作品は結構思い入れがあったりはします)。 で、どちらかというと、ご指摘くださった本棚にずっとはさまっているエピソードとかを面白がって欲しかったな、、というのがあったのでこうださんの読みと分析はとても嬉しかったです。 大きな物語に回収されるか否かに関してはいまだに自分自身、まったくピンときていないというか、いまだにその視点で考えることができないでいます。何かのきっかけでそのことについて深く考えるときが将来くるかもしれません。そのときは今回のこうださんとの貴重なやりとりを必ず思い出すはずです。 私のほうもとても長くなってしまいましたが、深い意見交換ができてとても有意義でした。本当にありがとうございました! (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-05

で、作品の話に戻ります。 まず「僕の顔」について。 こうださんが改めて書いてくださった分析や読み、とても深くてびっくりしました。こうださんは<はい、残念なくらい、survofさんの意図が読み取れていないですね。 >と書かれていますが、実はそんなことはなくて、内容に関してはかなり鋭い読みをしていただけていると感じました。いや、なんだか鋭すぎてかなりドキッとしました。私は作品を書くときに常に一つの意図やコンセプトで書く訳ではなく、いろいろやりたいことがあってそれらを同時に盛り込もうとしていることがとても多いです。「僕の顔」に関して言えば、一つは以前お書きしたような「感覚や自分自身の存在の不確かさ、曖昧さみたいなものを曖昧な文体でなんとか形にしてみたい」という意図があり、でもこれは「よし、このコンセプトで書いてやる」というようなものではなく、自分が文章を書くときに意識せずともどこかで必ず意識しているものです。 で、もう一つの楽しみとして、物語性をもった短い文章として作品をまとめるということがあります。とにかく文章を書くのが好きなんです。題材は本当になんでもよくて、ただ自分が体験したことを文章にするのはたとえばフィクションを書くよりも自分にとってはずっと楽なことなので、身近な題材としてプルオーバーシャツを素材に「プルオーバー」を書いたり、自分の思春期の体験を素材にして「僕の顔」や「自分勝手なロマンチスト」を書いたりしてます。 こうださんの読みのなかで非常に鋭いな、と思ったのは <話者が最後まで顔を気にしつづけていることから、作品に描かれた執着心と作者の距離が非常に近い感じがする。これが作者の実体験ならば、作者は、もしかしたらこの感情を手放せていないのかもしれない。手放せたから書いた、というより、手放すために書いた、という印象。> の部分ですね。いわれてみれば確かにそうなのかもしれないな、と感じます。あるいは手放そうとさえしていないかもしれないです。結局自分のことは自分が一番よくわかっていないものです。 そして <文体の、思考を一定の間途切らさず、一定時間息継ぎしないで書くような感じが個人的に好みで、それが極まった最終連の一文の長さがとてもよいと思う> というご指摘は、私自身そうした文体が好きで、その理由のひとつはこの手法を用いて文章を書くことに一種の快楽があるからです。書いていて「気持ちがいい」んです、単純に。 そして、もしかしたら「感覚や自分自身の存在の不確かさ、曖昧さみたいなもの」を感じている自分が無意識のうちにこうした文体を選ばせているのかもしれません。 で、その先のこうださんの感想をお読みして、これまでの行違いの原因のようなものがよりはっきりしたな、と感じたのは、こうださんがご自分の作品について論じているなかで <でも、読んで心を動かされない読み手は、こう思うのではないでしょうか。 「これってよくある恋愛詩だよね。わかる、わかる」 この瞬間、私が書いた詩は、〈よくある恋愛詩〉という大きな物語に回収されてしまう。結婚できない三十代女の恋愛、という詩の内容すらなくなる。私は、それがどうしても嫌です> というこうださんの感想です。 というのは自分のなかにこの感覚は全くないんです。自分の文章がどんなテンプレに回収されようとも、私は一切気にならないというか、全くそうしたことを考えたことがありません。つまり、私の文章や作品と自分との関係はもしかしたら「僕の顔」で表現されている「僕」と「僕の顔」の関係そのものなのかもしれないです。 これはこうださんとのやりとりがあって初めて気づいた点で、おそらく私のこの予想はあたっています。「他校の女子生徒に盗撮されるほどモテる」ことなどほとんど気にもかけないのに(あるいは内心とても嬉しく思いながらも)「「お前不細工になったな」「なんか可愛くなくなったね」という友人の言葉」には非常に繊細に反応する。自分の作品に対する読み手の反応に対するときの自分と「僕の顔」のなかの「僕」、つまり昔の私なわけですが、不思議なほど同じなのかもしれない。というか人間ってそう変わらないんだな、、とつくづく。結局「イヤホンで音楽を聴きながら深夜までずっと鏡越しに自分の顔を見つめ」ているんですよ、笑。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-05

こうだたけみさんへ コメント本当にありがとうございます!ものすごく丁寧にそして深く私の作品を読んでくださっていることが伝わってきてとても嬉しかったのと同時に、普段自分は他の方の作品をここまで深く読めているだろうか、と深く反省させらたりもしました。 まず先に大賞受賞について、ですが、私なりの感想があるので書いてみますね。というのは、おそらくキュレーターに花緒さんがいなかったら「僕の顔」は大賞に推薦されることはもしかしたらなかったのかもしれない、ということを思います。花緒さんと私はもちろん違う人間なので違う価値観、感受性、詩観を持っているわけで、十人いればそれぞれが異なっていていて、で、人それぞれの感受性や詩観あるいは価値観あるいは好みにおいて、まず近い遠い、共通部分が多い少ない、ベクトルの方向が近い遠い、などがあると思います。花緒さんと私に関して言えば、ある事柄についてはとても遠いんだけど、ある事柄に関してはとても近い部分があって、それこそ作品を通して、そうした部分を共有できているな、と感じることがあります(もちろん、私の側の錯覚なのかもしれませんが。。) 以前、花緒さんとの間で音楽が私の作品のコメント欄で話題になったことがありました。花緒さんはなによりテクノに対する造詣が深く、実験的なタイプの電子音楽にもとても詳しい方です。もちろん、他のジャンルに関しても幅広く聞いておられるだろうと予測しています。私も音楽はかなり幅広く聴くほうですが、やはり電子音楽、日本ではエレクトロニカと呼ばれるジャンルは私がかなりの量と時間、聴くジャンルの一つで、例えばドローンアンビエントといってほとんど同じ音が10分くらい流れているようなものや、わざとCDを音飛びさせたようなグリッジといった手法を用いたもの、そういうタイプのノイズ系やアンビエント系と呼ばれているエレクトロニカがとても好きなんです。最近は色々ネットで漁りまくって聴いているので自分が聴いているものがなんというジャンルに属しているのか良くわからないですしあまり気にもしていないですが。。まあ、そんなわけで、好きな音楽のジャンルに関していうととても共通部分が多いと思うんです。 なぜ、音楽の話をしたか、というと、私の作品、主にその文体やコンセプトにおいて、あるいは世界観においてかなりそうした普段聴いている音楽の影響を受けているからです。つまり、自分が何か作品に意図を込めたときに、それを例えば音になぞらえて、あるいはそうした音楽の作品をイメージとして共有するということが可能であるとするならば、花緒さんと私はわりと共有しやすいほうではないかな、と感じます。とくにそうした雑音みたいな「音楽」って自分も最初はそうだったんですが、とにかく最初は何をやりたいのか分からなかったり、そもそもうるさく感じたり、文字通り「ノイズ」つまり雑音として感じられたりしますが、癖になり始めると非常に些細な音の変化やバランスの変化に非常な美しさや格好良さみたいなものを感じるようになります。なので、あまりそういう音楽が好きでない人とは滅多にその系統の音楽の話をしません。 自分の作品にはそういった部分があるのではないかと思っています。つまりあえて天邪鬼な方向性をもった部分です。逆に「僕の顔」やそれよりちょっと前に書いた「プルオーバー」といった作品は、そういった天邪鬼な部分はありつつも(というよりも自分が作品を書くとどうしてもそれが付いて回ります、良くも悪くも)、もっと文章として読みやすい作品を書いてみたいな、ということで書いた作品で、しかも個人的にはいわゆる「詩」のような作品をかくより散文のようなものを書く方が得意ですし楽しいです。作家さんでいうと、町田康、川端康成、綿矢りさ、須賀敦子あたりがとても好きで、無意識のうちにとても影響を受けていると思います。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-04-05

るるりらさん ありがとうございます!「三月」は本当に心に残った作品だった(おそらくこの先忘れることはない)のでぜひいろんな方にじっくり味わってもらいたくて選評を書きました。 (選評)

2018-04-04

三浦さん あちこちでやられてません、笑? (選評)

2018-04-03

カオティクルConverge!!貴音さん♪ ビーレビのコーネリアス!なるほど!個人的にはコーネリアスよりももっと粒度が細かくよりセンシティブな印象がありました。どちらかというとカオティクルさんの作品のほうがコーネリアスっぽいなと思います。結構きつい冗談も織りまぜるあたりもすごく似てるなとよく思います。 (選評)

2018-04-03

原口昇平さん コメントめちゃくちゃ面白かったです!ありがとうございました。ロールシャッハテストで何がわかるんじゃい?って感じありますよね。テスト受ける側が作為的に病的な答えをするというのは想定できるんですが、原口さんのエピソードみたいに糖質っぽい答えを求められるとなると、もう何がなんだか、まるで悪質なテレビ番組みたいです、笑。そんなことがあるんですね?まあ、この作品の主人公はひどい不眠が続く上にそれなりの陽性反応が出はじめているんで、ロールシャッハテストしないお医者さんでもきちんとした薬だしたと思います、汗。 (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-03

おおいしさん とても嬉しいコメントありがとうございます。特に冒頭の入りから一気に読者を引き込みたいという部分はかなり気を使って書いたつもりです。文章は導入が命だと思っているので、とても嬉しく思いました。 それから「語り手の視野の外にいる他者を強く意識させられました。」というコメントもとても嬉しく思いました。これまで少しボリュームのある作品を立て続けに投稿しているんですが、文章の視点として例えば「僕の顔」なんかは完全に自分が自分に向けた視線なんですけど、今回はもっと客観的な視点で語り手を意識できたらな、、という感じだったんです。 後半のパートの代名詞の多用はなんなんでしょうね、笑。個人的にはあえて「安直に」書いた「詩」として最後に書いたつもりで、その安直さで文章全体を引き締めようと思ったんおですが、割と普通の現代詩っぽくなってしまったのかな、、という反省点があります。いかにも安直に書いた、、って感じがもっとだせれば狙い通りだったんだけどな、、と、今後の課題にしたい部分でした。コメントありがとうございました! (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-02

ささん ブログのときからチェックしてくださったんですね!とてもうれしです。ありがとうございます!後半の詩の部分はちょっと自分でも十分に納得いっていないところなんです。改めて読んでみると確かに最後の2行の部分、もう少し違う方法もあったのかもしれないな、と感じています。 (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-02

カオティクルConverge!!貴音さん♪ コメントありがとうございます!気に入っていただけてとても嬉しいです。リアル感がだせているというのはとても嬉しいです。後半のパートはテクノチックというのも嬉しいですね。実は、本当に機械的に言葉を入れ替えることで作った部分なんです。ほとんど言葉遊びです。もう少しドライというか、シュールにかければよかったんですが、個人的にはあと一歩という感じで、なかなかうまく行かなかった悔しいパートでもあります。 (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-02

花緒さん コメントありがとうございます!「作品の意味は読者が、読者自身の無意識を投射したかたちで見出すことになるのだと思います。」というご指摘、とても嬉しいです。(1)の評は私がやりたいことを半分くらい代弁してくださっている気がします。 こうだたけみさんへ 待ちに待った花緒さんのコメントいただきました!さらなるコメントも大歓迎ですので遠慮なく〜! (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-30

まりもさん コメントありがとうございます!今コメントに対してレスすることの難しさについて考えています。読んでくださった上での感想というのはもうすでにその方のもので、その方のなかで作品が生き始めた時点でもうすでに作品は作者の手元を離れているんだな、、ということを今回のまりもさんのコメントはじめ、たくさんいただいたいろいろな方のコメントのやりとりをしながら痛切に感じています。「読んでくださってありがとうございます」という言葉以上のレスが必要なのか、、とても悩ましいところですね。例えば、ここで自分の作品の意図について自分で語ってしまうのは何か違う気がします。語りたいことは本当は文章のなかに全部込めている訳ですから。。逆に例えば文章の技術的な事柄についてのご指摘があれば、作者がなぜその文体を選んだのかについての議論がありえるかもしれませんし、作者の意図を汲んだうえで、例えばこうしたらもっとその意図をうまく表現できるかもしれない、という議論は成り立つと思うのです。ただ、内容についてどう感じたか、ということになるとそれはもうすでに作品自体が読み手の人生の一部に組み込まれていってる訳ですから、作者の入り込む余地はすでにあまりないのではないかな、、といったことを考えています。今回の「文章にまとまりがない」というご指摘についても、「まとまりがないスタイルで書いた」あるいは「まとまりがないスタイルにどうしてもなってしまう」または「それが作者の個性である」ということもできるでしょうし、あるいはかっちりまとまった文章にすることでまた違う表現が可能になるのかもしれません。あるいは文体に関してはかなりのところ好みの問題であるということもできます。といったことを延々と考えていると、要するに自分が書いたものを通して読者との間で何かしらのやりとりがあるということが、書き手にとっては一つの喜びであって、掲示板はそうしたもののを媒介するメディアにすぎないのかもしれない。あるいは文章や詩作の技術を向上させるための研鑽の場になりえる可能性もあるかもしれない。では、それはどういった場合か。ただ単に感想を述べあっているだけで果たしてそうした研鑽の場になりうるのか。。。内容に終始しがちな掲示板コメントに疑問を覚えつつも書き手としてはそれを何よりも喜びとしつつ、しかも同時に技術的な事柄に関する具体的なコメントが非常に少ないことへの落胆と、同時にではいざ自分がそうした有用なコメントが書けるのか?と問われた場合には否と答えるしかないこのもどかしさと、もろもろ整理できない感情がビーレビというとても魅力的な場所に対するなんともアンビバレントな感情を生み出し、延々とこんな文章を書いてしまったそんな今日の夜です。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-28

るるりらさん 再レスありがとうございます!なかなか甘酸っぱい思い出ですね。自分はその逆パターンで相手が読んでたから読むようになったという経緯です。 タイトルに関しては、相手の言葉からの引用でもあるのですが、「僕」が「彼女」に対して抱いている感情そのものでもあるんです。ですので「自分勝手なロマンチスト」とは「僕」のことだけをさすのではなく「ヘッセ」そして「彼女」のことをさしています。あえて解題してしまいますが、たとえば「彼女」の果物が「あまりに量が多かった」というのは、つまり、「僕」の「彼女」に対する感情に対する「彼女」の鈍さ(おそらくわざと気づかないふりでもしているのでしょうが。。)と、そしてなんだかんだで世話を焼いてしまう自分勝手さ、そして何よりそうした優しさや一種の愛情を嬉しいと感じながらも「量が多すぎて」重たいと感じてしまっている、相手が大人すぎて相手の感情を受け止められないでいる「僕」の姿を一度に重ね合せるために使いました。が、そのあたりのそれぞれの感情の機微を十分に表現できなかったのが今回のなによりの反省点でしょうか。コメントありがとうございました! (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-27

こうだたけみさん いや、社交辞令とかではないですよ!ぜひまたお話しましょう! 私の作品のうち「僕の顔」と今回の作品は特にですが、私が書いた諸々の意図とは別に、それに共感できない人でも楽しんでもらえるように書いたつもりです。エンターテイメント性みたいなものと両立できたら理想だな、、ってのがありました。ですので、こうださんのような読み方をしてくださっても全然問題ないですし、むしろ嬉しく思いました。私が書いた意図に関しては読解力云々ではなく分かる人には説明しなくても伝わるけど、分からない人には何度読んでもピンと来ない種類のことだと思います(分かる人がえらいというわけでもないし)。女性特有の物事について男性は決して本当の意味では理解できないことが多々あり、その逆もまた同様ですが、それと同じレベルのことだと思います。どんなに技術があったとしても、自分のすべての感覚や感情を共有できる訳ではないです。その点でもう少し、門戸を広げた書き方が私のほうにも求められているのかもしれません。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-27

fiorinaさん 暖かいコメントありがとうございます!確かに作品について多角的な議論が深まるのは掲示板での理想ですね。なかなか作品を読むのは難しいですが、いろいろな方のコメントを通して読み方が広がったり、自分では気づかなかった魅力に気付いたりするのでコメントが活性化するのはとても良いことだと思います!! (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-27

こうだたけみさん すみません。おっしゃることの意味はなんとなくわかりますが、私がいいたいのはまったく別のことです。「評価」というのは作者と読み手の間に「作品」の「意図」に関して一定の共有があってこそ成り立つものと考えますが、こうださんのコメントをお読みする限り「僕の顔」に関しては作品の意図に関して十分な共有ができていないな、と感じます。その上で下される「評価」というのは、こうださんの考える「こうあるべき」にどれだけ近いかという価値基準の押し付けにならないでしょうか?私はおそらくこうださんが考えているのとは全く別のことを考えて(つまり別の意図をもって)作品を書きました。ですので、私は作品の意図をお伝えしたわけですが、それに対してあくまでこうださんの評価基準を提示されていらっしゃる。これではいつまでたっても平行線です。私の作品の意図がうまく伝わらないのは私の表現力が乏しいからです。なので、その作品の「意図」に対して「評価」が与えられるならば、私はどんな罵声でも甘んじて受けるつもりです。その点、花緒さんの選評は完全とまではいかないまでも私の作品の意図の核心に触れたものでした。そのことを私は何より嬉しく思いましたし、「僕の顔」にコメントしてくださった方の中にもその作品の意図に近いところでなにかしら返信してくださった方が数人でもいたことをとても嬉しく思いました。そして私にとっては大賞など取らなくてもそれがあれば十分です。つまり何がいいたいかというと、作品の意図を共有しない限り「評価」というものは成立しえないということです。(掘り下げていくとネット詩掲示板において「評価」というものはその性質上どうしても成り立たないといのが持論ですが...) 「僕の顔」は<「思春期ってこういう悩み持ったりするよね、わかる!」という読者の共感が得られるのを少しだけ想定して書かれている>ものではまったくないです。意図がまったく違います。先ほども述べた通り、自分自身の存在や感覚の頼りなさ、寄る辺なさ、自分自身の感覚や感情の曖昧さ、自分自身の存在のリアリティーの薄さ、頼りなさ、離人感に近い感覚、自分の内面と外面、内側と外側、それらの境界の曖昧さ、いろいろなものの境界の曖昧さ、それに対する不安と同時に感じる一種の恍惚。そうしたものの集積をまるで頼りない主体性のない文体で具現化することです。もちろん、私自身自分の意図を実現するのにいまのところ全くの技術不足であることは百も承知です。だからといってまったく違う「意図」のもとに「評価」されるのは不本意です。音楽に例えるならシューゲイザー狙って作ったのにギターソロがきちんと弾けてないからダメだ。。と、言われている気分です。笑。 と同時にそうした意図とは無関係であっても私の作品を読んでくださって、何かしら楽しんでいただけたことは何よりの感謝ですし、そのことはとても嬉しく思います。コメントありがとうございました! 今回の作品に関しては<「これはないわー」と全否定される可能性もあるのに投稿された>というご指摘はかなり的を得ています。ので素直にコメント嬉しく思います。なんだか面倒臭いレスで非常に申し訳ないです。 という訳でこの辺にしませんか?あとは花緒さんのご意見なりお聞きすることにして。。笑 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-25

こうだたけみさん 〈作者の生を通して借り物でない言葉で書かれた、小さくても作者自身の物語のある作品〉の部分で大きな価値観の行き違いがあるように感じます。おそらく伝わる、伝わらない以前私とこうださんの間にある感受性の大きな違い、あるいは何を作品に求めるかが大きく違う部分があるのではないかと思います。ですので、こちらもこれから書くことが伝わる自信がないのですが、わかるやつだけわかればいい、、というのもアレだと思うのであえて書くとすれば、作者自身の物語であるかどうか、もっといえば作者自身の人間としての存在は「僕の顔」においてまったく重要ではないんです。いぜん「遠く、朝は」という詩を書いたときにある方から作者の「実存」がまったく見えないというご指摘を受けましたが、それもそのはずで作品が逆の方向を向いているからです。あの作品においても「僕の顔」においても主語は作者でも話者でもなく、「感覚」であり書かれた「ことば」であり「文体」であり、決して人間の「実存」的な何かではないです。その意味で今回の作品ではより「話者」が主語になっているという意味で根本的に性質の違う作品だと思っています。意味不明だったらすみません。。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-25

こうだたけみさんへ 追記: 花緒さんとしては、その「捻り」の部分がこの作品においてはよくわからないから評価しずらい、、ということなのではないかと思います。確かに自分でもその部分がうまく昨日仕切れていないかな、、という反省点があります。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-25

こうだたけみさん 再レスありがとうございます! 実体験という意味では両作ともほぼ自分の実話なんですよ、実は...(細部の脚色はもちろんありますが大筋において)。ですので「作者の生を通して借り物でない言葉で書かれた、小さくても作者自身の物語のある作品」という意味では紛れ間もなく両者とも私自身の物語であり、借り物でもなんでもない等身大の自分の人生の記憶の断片にすぎません。それを「借り物」と感じられたのであれば、私の当時の人生や感受性が、まさしく「借り物」にすぎなかったということであり、特に「僕の顔」においてはそうした自分の感受性の寄る辺なさ、あるいは自分の人生自体にリアリティーを感じられない頼りなさや心許なさを含めて作品に込めたつもりです。ですので、ある読者の方が、文体における主体の曖昧さや時系列の曖昧さについて触れてくださったときには非常に嬉しく思いましたし、花緒さんが推薦してくださったときにこうした作者の主体性の曖昧さ的なものに触れてくださっていたことがなにより嬉しく思いました。「僕の顔」においてなにより大事なのはあの文体であり、曖昧さでした。そのために最初に書いたときにははっきりとしていたいくつかの言葉をあえて曖昧にする作業をかなり丁寧に行いました。どちらにしてもずっと鏡を覗き込んでいるような「キモさ」のある作品であることは認めざるをえないです、笑。 こちらの「自分勝手なロマンチスト」はもう少し物語性に重点をおいて書きました。ですので「僕の顔」に比べると、読みやすさや物語としてのわかりやすさ、といったものを意識して書いたような気がしますし、視点としても前作に比べるとずっと引いた視点で書いています。もちろんこちらの私としてはいろいろ捻りをいれてあるのですが、捻り方が「僕の顔」とは全然方向性が違います。その捻りがなくても読めるように心を配ったつもりなので、こうださんなりにいろいろと読んでいただけてとても嬉しいです。 どちらにしても自分のことしか書いてないのは間違いないです、笑。 花緒さんのさらなる意見も聞いてみたいところですね。いずれにしてもコメントありがとうございました! (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-25

自分は「最終兵器彼女」を思い出しました。それはさておき、闘う彼女に関する描写のなかで紋切り型の表現が目立っているのが気になります。そうした紋切り型な表現がアニメや漫画におけるサブカルな様式美的なものとうまく繋がれば作品としての深みが増したのかな、、と感じます。この部分の表現の仕方次第で、作品のバックグランドにあるサブカルへの造詣の深さを作品に投影させることにもなったのではないかと思いますが、そこがいまいち失敗してしまっている印象があるのが残念です。 (兵器少女とシティロマンス)

2018-03-23

花緒さん ご指摘の通りで、おそらくこれで短編の小説が一個書けると思いますし、もし時間があれば是非書きたいな、と思っている内容で、試し書きの要素も結構強いかと思います。「僕の顔」のようにこの分量で完結しているというよりも、この分量でとりあえず書いたという部分もあり、作品の完成度の低さは自分自身認めざるをえないところです。ただ、ひとつ確実にいえるのは書いていてとても楽しかったということと、この分量に抑えるため本来であれば直接表現するであろう事柄や感情を登場するいろいろなものに隠したということです。心情をそのまま吐き出すようでいて、実はかなり丁寧に感情を文章に隠す作業をしました。それが読み手に伝わるほどうまくできたかどうかは別として、自分のなかのとても大切な感情は全部見えないところに隠す、というその作業が何より一番楽しかったです。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-22

さしみさん 「感性が鋭い人が恋をするとき特有の拗らせ感」という感想とても嬉しいです!かなり重度に拗じらせている話を書いたつもりだったので伝わってよかったです。コメントありがとうございました! (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-21

こうだたけみさん ありがとうございます!うれしいです。タイトルは実はこれ以外考えられないくらい自分のなかではこのタイトルであることが大事で、自分で解説してしまうのもあれなんですが、「自分勝手なロマンチスト」は「僕」のことでもあるし「ヘッセ」のことでもあるし「彼女」のことでもあるんです。彼女側視点から読んでみてもらえると納得していただけるんじゃないかな、、と思います。 本棚に挟まるっていうのは実は自分の過去の実体験から拾ってます、笑。かなり頻繁にやってた気がします。。最後は結構苦労して、全体的なスイートな感じをなんとかベタベタすぎない感じのところで着地させたくて、結局この形に落ち着いたんですが、「僕」の心情をぎゅっと凝縮できた最後にできたので自分でもお気に入りです。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-21

あまり喪失感を感じることができないのは、たとえば「蜜蜂だけが居なかった」というのを読んだ時に、では以前は「蜜蜂」がいたのか、というのをあまりリアルに想像できないからではないかな、と感じました。もしかしたら現地の蜜蜂農家さんから蜜蜂は大量に消えたのかもしれない。ただ、以前はあって今はないものの一つの喩えとして「蜜蜂」は私にとってはあまりに遠すぎるように感じます。それだけ自然と触れ合う機会が減ってしまったということでもあるのですが、「蜜蜂がいない」ということがどれほど異常なことなのかほとんどピンとこないんです。その部分の作り物感が邪魔をしてなかなか入っていけないという印象がありました。あるいは技術的にうますぎて整いすぎているという側面があるのかもしれません。 (写生)

2018-03-14

「あと3回読むと泣きそう」というコメント非常にわかります。作品全体を覆い尽くすユーモアの嵐が逆に鋭く刺してくる感じがしますね。最後まで読んでからタイトル読んで安心しました。 (踏み止まるメザシ(千葉県産))

2018-03-14

(i)の息の長いフレージングがとても魅力的に感じられます。「かぼそい」の繰り返しでたくみに導入のリズムを作り出し、「〜ような」と「〜て」が対となってゆっくりと正確に安定した「低音」を刻むことで息の長い文章を息切れさせることなく、そして全体を重くならせない絶妙なバランスで非常に魅力的な旋律を作り出していると感じました。 (iii)では「声がする」にはじまって「〜する」がいささか奇妙な使われ方で反復されることによって刃物の上を歩いているような緊張感を感じました。文章としては意味を失って錯綜したような状態になっているのに、あまりわざとらしさを感じさせず、むしろ明確なイメージを想起させられるのが非常に不思議です。「窓」や「青」「終わっている」といった言葉の使われ方、言葉の配置や構図の作り方が非常に効果的なのかもしれません。 (殺戮の時代)

2018-03-14

なんというか底知れぬ孤独感を感じました。とても気になる作品です。 (三月)

2018-03-12

三浦さん 鋭い嗅覚ですね。。汗 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-08

るるりらさん ヘッセ、自分は新潮文庫のあの水色の表紙がなんともかっこよく、何冊か読みました。「郷愁」「春の嵐」「ダミアン」の3冊だけだったと思います。独特の中毒性がありますよね!読み始めた経緯はこの作品に書いた通りですが、自分もるるりらさんと同じく内容はほとんど覚えていません。ただ、「春の嵐」のなかの一文が正確には思い出せないのですが、非常に印象に残っており、当時の自分が激しく共感した記憶があります。コメントありがとうございました! (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-08

kazさん コメントありがとうございます!タイトルといえば、夏目漱石が「彼岸過迄」のタイトルについて「『彼岸過迄』というのは元日から始めて、彼岸過まで書くつもりだから単にそう名付けたまでに過ぎない実は空しい標題である。」と書いたのは有名な話ですが、夏目漱石のこのタイトルは個人的にはセンス抜群で大好きです。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-08

新鮮なこともあり【変わってくれないユニの為に】が一番好きです。随所随所かなり笑いました。面白いです! (ヨミテニ・タクス3)

2018-03-07

三浦さんの魅力って大量の矛盾と欲求を抱えたまま、その巨大な姿で突進しているところだと個人的には思っているんですが、詩になった瞬間に綺麗にまとめようとしすぎてしまってその魅力が全部損なわれてしまっているように感じてしまいます。三浦さんのことはリムーブしながらもちょくしょく三浦さんのTwitterをのぞいたりしている私こそ矛盾だらけの人間なのですが、ビーレビのコメント欄やTwitterで三浦さんが時々見せるほとばしる咆哮からくるわけのわからない感動に比べてしまうととても物足りなく感じてしまいます。もっとさらけ出してかけば面白いのにな、、と感じてしまいます。 (SΦNSかみさま断絶をください)

2018-03-07

文体のもつ独特のフックがかかったリズムが特に魅力的な作品だと思いました。読み手の心理に激しく揺さぶりをかける芯のあるリズム感を持っていると感じます。 (金魚ばち)

2018-03-07

文章がことごとく「u」音で終わっているのが興味深いですね。他の方も指摘されていますが、構成に対する丁寧なこだわりを感じさせます。個人的には少しくどく感じたのですが、最後の一文がそのくどさを一手に背負って全体を引き締めている気がします。 (Mr.±0)

2018-03-07

三浦さん 実は私も投稿する前に何度か音読してみたんですよ。で、三浦さんと同じような感覚に陥りました。つまり、文章を「意味あるもの」にしようとして無意識に読点の箇所を何かの音で補足しようとしてしまうんです。 もっと正確にいうと、この作品の作り方として、まったく「意味のない」語感の良さだけから選んだいくつかの音のつならりをスマホ上でコピペ&カットペーストしてシャッフルしたのち、その中から浮かび上がってきたより具体的な風景や感覚というものがあって、それに「花」や「撃て」という言葉をあてました(そして文章や意味としてきちんと成立する直前でなんとか言葉を宙ぶらりんにさせたいという意図もありました)。 結局、心の中に確かにある感情や感覚を投影する結果になるのですが、潜在意識を汲み取っているようで不思議な感覚がありました。こんな感じで三浦さんがされた音読とほぼ似た過程を経て作品になったという感じなので、今回のコメントとても驚きましたし、嬉しく思いました!ありがとうございます。 (はな、うてと)

2018-03-04

追記: 「Gum」はSENSUOUSに入ってましたね。いつも曲名みないで聞いていることが多いのでうっかりしてしまいました。 (はな、うてと)

2018-03-04

カオティクルConverge!!貴音さん♪� Cornelius大好きです!アルバムでいうと特に「SENSUOUS」あたりが好きですが「Gum」は初めて知りました。調べたら海外限定のシングルだったんですね。リンクありがとうございます。聞きましたが、いや、ドンピシャでした。しかも、あれきちんとした歌詞がついていてその詩がまたよかったです。 読点の打ち所はニュアンスが全然変わってしまうし、読み方に関わるので私も毎回相当悩みます。が、今回はわりとのびのびと使って見ました。やってみて読点が持つ効果に改めて気づかされた部分が多々ありました。 Corneliusの音楽のような詩が書けたら最高ですね。目指したいところです!コメントとても嬉しく思いました。ありがとうございます。 (はな、うてと)

2018-03-03

渡辺八畳@祝儀敷さん コメントありがとうございます!小笠原鳥類さんの作品を一切読んだことがないのでなんとお返ししたらよいのやら、という感じですが、折があれば読んで見ますね。普段、現代詩含めあまり詩は読まないんです。詩人の作品よりも新聞の片隅の小さな投稿欄にある小学生の詩に深く心を動かされることのほうが多いかもしれません。ネットの詩にはときどき似たような感動があります。プロではない方の作品にとても興味を持っています。 (はな、うてと)

2018-03-03

原口昇平さん 返詩ありがとうございます!原口さんが描き出してくださった風景や感覚、感情と、私の作品には切実に通底するものがあるような気がしてなりません。もしあえてこの返詩にさらに返詩を書くとするならば、私はこの作品をやはり差し出すことになるかと思います。ありがとうございました。 (はな、うてと)

2018-03-01

こうだたけみさん ああ、なるほど。外見というか人の魅力に関するこうだたけみさんの意見にはまったく同感です!とはいえ、この作品のベースになっている私の思春期にはそんなゆとりなどまったくありませんでしたね。。他の人の顔が羨ましくて仕方なかったです。 (僕の顔)

2018-02-24

社町 迅さん 楽しんでいただけて嬉しいです。「詩を読み進めるほどにダメージが重なってく様」、実は結構意識したので嬉しいです!自分の思考は連想に歯止めが効かないタイプなのでいろいろと鋭いご指摘だなと思いました。ありがとうございます! (僕の顔)

2018-02-23

蔀 県 さん コメントありがとうございます!「思考はまとまりなく動いていて、それは言い換えればいろんなことに知覚が及んでいるということで、つまり皮膚感覚が鋭い」というご感想、おそらくいままでビーレビでいただいた感想のなかで一番嬉しいです!まさにその感覚こそが自分がいろいろな形で表現しようとしてきたもの一つなのですが、それをこのように直接感想でご指摘いただけるのは非常に嬉しく思いました。 (僕の顔)

2018-02-22

朗読も聞きました。真ん中の部分(朗読で一気にテンポアップする部分)が特に好きです。こういうスタイルのだーっとリズムにのって言葉を紡ぐ系の作品、自分も時々試そうとするんですが、なかなかうまくいかないのでちょっと嫉妬しました。「の心中は察しなくてもいいさまたげないでサマーまたげないで」のフレーズとか特にやられたな、、と思いました。同時に朗読は特にどこかお坊さんのお経のようで、毎週生ゴミを出さないといけないような温度感の日常にピタッと死の影が寄り添っているような感覚がなんだかとても鮮烈で、亡くなったお父様に捧げられたという最後の注意書きがたとえば、台所の三角コーナーのなかの生ゴミの臭いと同じくらいに生々しく感じられたりもしました(さっきまでゴミの整理をしていたのでこんな例えでスミマセン)。 (四駆スカンクラップアドロッカー)

2018-02-22

こうだたけみさん こめんとありがとうございます!いや、嬉しいです!この書き方、自分でもかなり気に入っているので。書いている側の意識としては私としても「思考を一定の間途切らさずに書く、とか、一定時間息継ぎしないで書く」のほうが感覚として近いです。が、「だらだら」という感覚にもかなり近いんです。息継ぎしないで書いているのに、実際はものすごく無駄な動作をだらだらと延々と続けている文章ではないかな、、と自分でも思います。内容的にも。 顔に関しては「他人からどう見えているかなんてどうでもいい」と思えているうちはブサイクだろうが何だろうが全然いいんだと思うんですよ。でも人って結構外見で人の扱いを変えてしまう生き物なんだと思います。残酷なくらい正直に扱いを変えてしまうと自分でも自分ことをそう思います。大きな容姿の変化を人生で度々経験してもなお「顔なんてどうでもいい」、そう言えるのであればその人はよっぽど強い人だと思います。人間について語るとき顔だけを取り出していい悪いをいうものではない、という意味では顔はそれほど大切ではない。「外見は内面の一番外側」という言葉には結構同意するところがあるものの「外見の印象でその人の何が分かるのか?」という気持ちもあり、そう意味では「顔はそれほど大切ではないな」と思います。でも、人は人を特に最初は外見でしか判断できない。そういう意味では「顔はとても大事だな」と思います。なんか、長くなってしまいました。とてもいいコメントいただいたので嬉しくなってつい色々書いてしまいました、笑。 (僕の顔)

2018-02-21

渚鳥 さん 確かに勉強した記述があまりないですね...いわれて初めて気づきました、笑。作中の「僕」は確かに人がいいところがありますが、裏を返せば、自分以外どうでもいいという極度に自己中なところもあるのかもしれませんね(想像ですけど)。逆にそういうタイプの人って人を差別したりせずにものすごく人あたりもよく、接し方もフラットだし基本親切だったりして不思議だな、と思うことがあります。 (僕の顔)

2018-02-12

なんという詩情、なんというノスタルジー。短いながら語られるべきことはすべて語り尽くされている気がします。強烈に胸に迫るセピア色の美しいおとぎ話。しかも「子供の自分」のことが必ずしも「古き良き時代」として語られるのではなく、かといってもう過去のようなことがなくなってしまった現在がよりいい時代として語られることもなく、どちらかというと深い喪失感と古い時代への憧憬をいくらか含んでいるようなニュアンスの語り口がこの物語に寓意と感情が何層にも重なり合った厚みと深みを与えていると感じました。 (思い出す詩のことなど)

2018-02-12

花緒さん おそらく今回は「だらだら書いていたら次第にコンセプトが浮かび上がることになった」のほうが正解だと思います。それから花緒さんのご指摘もとても的を得て射たもので嬉しく思いました。「外界からの視線への意識」の変化は特に意識して書いた点だったように思いますし、それがとても「内省的」であるというのは鋭いご指摘だな、と感じました。過去の自分を色濃く投影した部分も多々あり、だらだらと書いた割にはかなり思い入れの強い作品でもあります。私の作品のなかではだいぶ「意味」を含ませた作品なのではないかと。。とてもうれしいコメントでした。ありがとうございました! (僕の顔)

2018-02-12

まりもさん 「〜て」あるいは「て〜」という使われ方の中での「て」ということば自体、日本語として多彩なニュアンスを包含していて文脈によって様々に表情をかえるところがとても魅力的だと感じています。「〈てばなして風が〉ここは、手放して風、とは切らないのですね。」とのことですが、ここを「手放して風、」と切ってしまうと同じリズムの反復になってしまい文章が一気に硬くなってしまう気がします。「が」をいれるだけで言葉の抑揚がまったく別物になってしまうのが不思議です。 「一人で自らを弔う、そんな哀悼詩」や「事後感」といったキーワードも感想としてとても嬉しいものでした。私自身は死後の魂云々信じていませんが、私の感覚によって生み出したものが読み手の死生観といった深いところにまで響いたのだとしたらそれはとても嬉しいことです。私の詩に隠喩はほとんどありません。ですので文章に意味が「ある」のか「ない」のか問われれば、おそらく「意味はない」。だけれどもそれは決して中身がないわけではなく、確かに私の中のイメージや感覚をなんとか具現化させたものではあると思います。私の中の感覚・感情をことばを使って表現するというその行為と、私のてもとから離れて完全に読み手のものとなる読み手の方のイメージや感覚あるいは感情、あるいは解釈。そのギリギリのせめぎ合いにとても興味がありますし面白さを感じます。ありがとうございました! (おわって、風)

2018-02-12

原口昇平さん とても嬉しいコメントありがとうございます!どんな作品を書かれる方なのだろうとお読みしましたが、短い方の詩、とても美しい作品でした。あのような作品を書かれる方から「音の流れと微細なニュアンスに対する類まれな配慮」を感じるといっていただけるのは最高に嬉しいです。どちらも作品を書く際に特に注意を払っている点です。ありがとうございます! (おわって、風)

2018-02-12

いきなり話が変わってしまって恐縮なのですが、無調性バリバリのいわゆる現代音楽を聞くととても個人的にとても古臭く感じます。そのときの感覚と隠喩ばりばりの詩を読んだ時に感じる「なんか古臭くてださい」という私の個人的な感覚はとても似ているんです。あえてバリバリの隠喩を使うその感受性そのものがとても古臭いと感じてしまう、というところがあって、もしかしたらポエム派の方々が隠喩を嫌う理由もただ理解できないから、というよりも隠喩自体がまとっている一種のカビ臭さを感じ取ってしまうからではないか、ということをこの作品を読んで感じさせられました。そういう意味ではライトな部分とベタは隠喩パートの対比は一定の効果を奏していると感じます。ただ、コンセプトを読まなければコンセプトがわからない、というのにも同意で、コンセプトしてはうまく機能していない気がします。コンセプトなしで深読みするならば、隠喩のレベルをあえて低いものにとどめておくころや有名な隠喩の一説をこれ見よがしに引用することで「隠喩」そのものを揶揄している作品と取ることもできる。かといってポエムパートもやはりポエムになきれておらず(あるいはあえてポエム風にとどめておいて)、良質なポエムがもつ含蓄もない。そういった表層にあえてとどまることで「ポエム」そのものを揶揄しているようにも読み取れる。あるいは作品のなかにおいてはポエムの対義語を「隠喩」として安易に定義することで、ポエムを嫌って難解な隠喩を使うことに酔いしれる現代詩愛好家に対する皮肉とも取れなくはない。何が言いたいかというと、コンセプトなしで読んだ方が深読みの幅が広がり作品としてより面白い読解が可能になるところを、コンセプトを解題してしまうことでその面白みがほとんどなくなってしまったことがとても勿体無いな、、ということでした。 (ワタシのきもち (エルサポエム))

2018-02-12

原口昇平さん 自分が意識しているものも、していないものも含めて的確にコメントくださりとても嬉しいです。なんだか作品にとってとても良い読み手に良いタイミングで出会えている気がしてとても嬉しく感じました。特に「まさにだらだらしゃべりながら時系列も性別も超えてうろうろしっぱなし」というご指摘とても嬉しい感想です。ありがとうございます! (僕の顔)

2018-02-11

この作品は読めば読むほど美しいです。言葉一つ一つがもつ響き、そしてその言葉が作り出す力学をとても大切にされていて、丁寧に文章を紡ぎ出されていると感じるので読めば読むほど味わいが深まる。詩句から立ち上がるイメージが非常に立体的で広大ですらあるのに、非常に引き締まっていてコンパクトに収束する美しさがあります。そして読み手自ら「語り得ぬことへの沈黙」へと誘われていくようです。 (語り手と聞き手のいる風景)

2018-02-07

なんだか文章が全部格好いいですね。面白かったです。音読はレベル高くて挫折しました。。 (言葉の体操 ― 創作早口言葉)

2018-02-06

アラメルモさん 「動きのあるイメージだけに趣きを読ませた作品」を意図したわけではないのですが、ご指摘どおり確かに形式的にもう少し遊びがあってもよいかもしれません。その辺りの引き出しは多くはないのでコメントとても勉強になりました。ありがとうございます! (おわって、風)

2018-02-06

グーグルグル夫さん コメントありがとうございます。「漂白感」という言葉とても嬉しいです。何かしら具体的なイメージを思い浮かべてもらえてとても嬉しく思いました。 (おわって、風)

2018-02-06

三浦さん いえ、こちらこそ過剰反応してしまいまして大変失礼いたしました。嬉しいコメントありがとうございます! (おわって、風)

2018-02-02

三浦さん 返詩ありがとうございます。いかようにも読める返詩で、穿った読み方をすれば「お前の作品はくだらん技術の集積にすぎないのだから誰でも真似して同じものが簡単に作れてしまうんだよ、ほれ作ってやったから」というメッセージにも取れますし、あるいは単純に私の作品に被せて何かしら書きたい気持ちになっただけなのかもしれませんが、いずれにせよ、大切なことは何一つ伝わっていないし、感じ取っていただけなかったということだけは明白なので、非常に忸怩たる気持ちでおります。私も三浦さんの作品からはほとんど何も感じないので感受性や詩観に大きな隔たりがあるのかもしれませんね。いずれにしてもありがとうございました。 (おわって、風)

2018-02-02

「...のです」「...のですよ」という語尾の繰り返しが非常に魅力的なリズムを作り出していて、ことば一つ一つが丁寧に自分の心の中に入ってくるような感覚がありました。最後の2行がリズムを崩しているようで個人的にはないほうが好きですが、何度も読んでしまうような不思議な吸引力がある作品ですね。「わけのわからないことでまた心が安らぐのですよ」の一文が特に好きです。 (つばさ)

2018-01-30

獣なのかなんなのか、未確認生物なのか、もじゃもじゃと蠢く濃い生命の気配を文字の集積から感じさせられます。「へのへのもへじ」は文字通り、文字を顔のパーツになぞらえたものですが、この作品も文字一つ一つが形としての強い力というか生命感を持っているように感じられ、視覚を強烈に刺激するという点で非常に面白い作品だと思いました。しかも時間軸をともなった形として実際にうごめいているように見えるという点がとても不思議です。おまけに、読んでみてもも面白い。音読して見ると口のなかに蛆虫がぐわーっと湧くような不気味な感覚があります。 (もぬけの穴のけもの)

2018-01-30

映画の予告編のナレーションみたい興味深いな、と思いました。自分のなかでナレーションの声とか効果音とか映像とか音楽とかを勝手に想像したりしながら読むと結構面白いですね。最後の締めもビシっときまってる感じでいい感じだと思いました。 (Singularity)

2018-01-28

コメントありがとうございます!私にとって夢をみるとは時には心地よい経験ですが、多くの場合、迷子になったときのようなどこか落ち着かない、不安定な感覚を伴います。「嫌」と「棄」という漢字の効果によって読者を「迷子」にならせることを意図した訳ではないのですが、その部分からどこか腑に落ちない感覚や文章としての不安定さ、あるいは「迷子」になったような感覚、そういったものを感じていただけたということでしたら、それはとても嬉しいことです。私の夢ってライトだけどどこか不条理なんです。あと、エッグマンに存在のリアリティを感じていただけて嬉しいです。思い入れのあるキャラなので、笑 (嫌な夢)

2018-01-27

「夏の標本作り」とは果たしてなんであろうか?例えばそれが一種感傷的な夏の心象風景を読者に伝わる形で表現することであるとするならば、確かに完備さんのご指摘のとおり、この作品は「心象風景の言語化に失敗している」のかもしれない。が、しかし「夏の標本作り」が「心象風景の言語化」そのものであると仮定するならば、この作品はまさしくその失敗について言及しているのであって、作品として成立していないどころか、感覚や心象をうまく言語化できないことのもどかしさについて、自己言及的に論理を循環させるような奇妙な魅力を持って非常に巧みに描いていると読むこともできるのかもしれない。確かにねらった比喩であるならもっと洗練された比喩が欲しいと感じる点では確かにそうなのかもしれないのだが、いや、果たしてどうだろう。比喩の失敗をあえてそのままに放置することによって、この作品そのものを「瓶の中で腐った」夏にすることに成功しているとも取れるのではないか。と、読んでみると、なかなか感覚が言葉にならないときに自分が感じる激しいもどかしさや、自分が書きかけたの詩の断片のあまりの陳腐さを思い出して、なかなかに共感できる作品なのかもしれないと感じたりもしました。深読みだったらすみません。 (夏の標本づくりの失敗について)

2018-01-21

なかたつさん コメントありがとうございます!夢分析のようなコメントでとても楽しませていただきました。夢分析の面白さはどこか無理やりといういうか、こじつけっぽいところだと私は思っていて、理屈で分解しなくてもいいものをあえて理屈で分解しないと気が済まないような無理やり感が時にとても魅力的な論理的飛躍を生み出すところだと思います。書き手にとって特に意味がないものに意味を付与し解析し、書き手にとって意味があるものをさらりと流す。結果、書き手の意図とは全く関係のない解釈が生まれる。とても面白いな、と思いますし、意外なものが意図しない形で繋がっていて自分の意図しない意味が発生している。たとえば、カボチャと卵とりんごの共通点。まったく意識していなかったので、とても新鮮でした。作品を読むということにもそれぞれの人の強烈な個性が反映されるものだと感じていて、そのことに非常に興味をそそられますし、その多様性を非常に魅力的だと思っています。また是非コメントください! (嫌な夢)

2018-01-17

<だって地面に落ちた花びらはまるで びっしりと魚の鱗みたいだから> この感性、とても好きです。 (春とバナナとシーラカンスの速さ)

2018-01-15

<わたしはいつも首を傾げているので、この前独逸語の先生に首がおかしいのかと聞かれた。その独逸語の先生はもう一人の独逸語の先生とうりふたつで、独逸語の先生になるには資格がいるなと思った>の部分、秀逸だな、と思いました。描かれている情景は徹頭徹尾とてもシュールで、まるでシュールレアリズム絵画のようなのに、どこかものすごい現実感というか日常感というか。違うな、正確にはデジャヴかな。この景色知ってる気がする、見たことある気がするという気持ちにさせられるのがとても不思議です。冒頭の連の最後の<捨てっちまいなさい>に始まり、随所随所、細かいところで独特の言い回しが魅力的なリズムを産み出していて、しかもそれが内容にしてはグロテスクでもなく、どこか爽やかさのある軽快でコミカルなリズムがとても洒落ているなと思いました。大好物なスタイルであることもあいまってか、非常に印象的で刺激的・魅力的な作品でした。 (魚とバナナとラクダの話)

2018-01-15

まりもさん 今回自分のなかでは過去投稿作の中では一番「適当に」書いた作品で、それにも関わらず沢山の方にコメント頂いて嬉しくもあり、同時に複雑な気持ちでもあります、が基本コメントいただけるのはとても嬉しいものですね。もしかしたら肩の力を抜ききったときに何かしらいいものができるのかもしれません。味についてのコメントは、ああ、なるほどー、と思いました。この作品を書く時に自分の過去の経験をいくつか思い出しながら書いたのですが、その時の気持ちを考えると確かに一理あるな、と妙に納得したのでした。 <嫌な夢を見ても、それを棄てられる間はいい。嫌な夢の中に生きてしまっている、としたら。 そんなときこそ、あまい、予定調和的な味わいに戻って、そこからまた、歩き始めるのかもしれない。> この作品の本質を鋭くついているコメントで非常に嬉しく思いました。この作品全体を貫くテーマがまさしくこれに近い何かで、少しでも私の心の奥底に澱のように溜まってっているぼんやりとした感覚が伝わったのかな、、と、書いた甲斐があったなと思いました。「適当に」書いたとはいいつつ、今まで書いた作品のなかで一番本音に近い、嘘の少ない作品かな、と思います。 (嫌な夢)

2018-01-15

花緒さん 好意的なコメントとても嬉しくお読みしました、ありがとうございます!おっしゃる通り単体としてはちょっと弱さがあるかな、と自分でも思います。こういうのはシリーズで書いてみたいですね。ビーレビ杯不参加は作品の性質云々というよりも、不参加にしたほうが自分はもっとこの場を楽しめると思ったから、というのが大きいです。そこまで作品作りに時間を割けない事情もあり、評価を気にするのではなく自分の文章ときちんと丁寧に向き合いたいです。いろいろな方のアドバイスも頂きたいですし、いろいろな作品をお読みして自分の技を磨いていきたいな、という気分でいます。また気分が変わったら是非参加させてください! (プルオーバー)

2018-01-15

三浦果実さん 嬉しいコメントありがとうございます!今回はプルオーバーに全部持って行ってもらいました、笑。プルオーバー本当に好きなので。『遠く、朝は』のような作品はよっぽど感受性が研ぎ澄まされている時でないとでてこないです。なかなかそうした時間というのは稀です。と同時に同じようなスタイルで書くのはどうしても飽きてしまうんです。 (プルオーバー)

2018-01-15

この作品はビーレビ杯不参加でよろしくお願いします (嫌な夢)

2018-01-15

この作品はビーレビ杯不参加でよろしくお願いします (プルオーバー)

2018-01-15

花緒さんが書いておられますが、普段の会話って本当にこんな感じだと思います。そのぶん、この作品を読んだとき、いろんな状況でのありとあらゆるコミュニケーションが巨大な複合体となってぐわっと押し寄せてくるような感覚を覚えました。会話が、音が、表情が、笑いが、怒号が、スマホ画面が、光が...今まで自分が見てみたすべてのコミュニケーションの音像・映像がお互いにオーバーラップして巨大に膨れ上がって脳をブルブルにする感じです。で、最後の「な。」で一気に現実に引き戻される。痺れました。読む日によって感想が異なる作品でもありそうで、とにかく初読の印象としてはとてもゾクゾクしました。 (な)

2018-01-14

変数を適当にぶち込むと作品ができあがるみたいな詩を作る関数みたいなのがあって、それは現代詩自動生成プログラムみたいなものとは違ってもっとはっきりとした構造を持った何かで、どちらかというと公式に近い何かで、おそらく何か新しい関数でも作ってみたのでそれに適当に変数ぶち込んでみたらこの作品ができた、みたいなそんなことを延々と続けている詩人の人生自体が作品に近い何かで、で、その作品の風景はとても砂漠に似ていて(以下略)という映画を今勝手に妄想しました。 (……からの、)

2018-01-14

kazさんの作品は毎回とても読んでいて心地よく、文章としてとても面白いと感じるのですが、惰性で延々とビールを飲み続けているようなそんな感覚もあります。呑んでいる時みたいに「これ美味ぇな」とか「やっぱビール最高だな」と酔いが深まれば深まるほど、貧弱な語彙でしか相槌ちを打てなくなる感覚にどこか似ていて、コメントする際にも「これ上手ぇな」とか「やっぱkazさんの文章最高だな」としか返せないでいる自分がいます。 (瞼の彩り)

2018-01-14

これものすごく好きです。タイトルも最高です。ライトなレスですみません。。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-14

fiorinaさん コメントありがとうございます!雪国のくだり楽しんでいただけてとても嬉しいです。プルオーバーのあの魅力はなんなんでしょうね、笑。不便とわかりつつついつい買ってしまう。プルオーバーニットも何着か持っているんですが、さすがに温度調整に難あり、でほとんど着ておりませぬ。文頭の部分は確かに除いてみると、随分導入としてスッキリしますし、全体が引き締まりますね。なるほどです。貴重なアドバイスありがとうございます! 白井草介さん 楽しんでいただけて何よりです!<だからこそ自分が普段、見ていないものが文章になっているおもしろさをかんじました>とのことですが、なるほど、そのような楽しみ方があるのですね。コメントありがとうございました。 kaz. さん 私も生粋のMacユーザーなのでkazさんのハンドルネームにアップルマークがついたのがとても嬉しいです。コメントありがとうございます!コルタサルさんってどこぞの誰ぞ?という感じなのですが、日常的なことをコミカルでライトな文体で書かれるそういう名前の作家さんがおられるのですね?もし笑って読めそうであれば読んでみたいと思います。 (プルオーバー)

2018-01-14

花緒さん コメントありがとうございます!<この作品自体が、嫌なことを書いているのか、そうでないのか、浮遊感が漂っているようにみえます>とのご感想、とても嬉しく思いました。「嫌な」も「綺麗」も本来の「嫌な」とか「綺麗」とは違うかもしれないな、と読み返してみて思います。この詩のなかでは「嫌な」も「綺麗な」もほとんど同じ意味をもっているのかもしれません。そうした曖昧さ、境界線のなさ、みたいなものが伝わったとすればとても嬉しいです。 (嫌な夢)

2018-01-08

こうだたけみさん こうださんの夢もなかなかインパクトありますね。「シンドラーのリスト」という映画にそういう演出があったのを思い出しました。自分のみたキャスティングが表示される夢というのは、実際に夢にでてきた人たちが表示されるというより、何かの映画の映像がそのまま流れている感じでした。だからキャスティングの文字までは読めないんですが、道路が映し出されていて、バイクとか車が通りすぎていって、そこに静かにキャスティングの文字らしきものがが次々と表示されていくという。。映画の夢をみた、、という感じでしょうか。。涙の味に関しては涙を流すたびに(といってもそんなに泣かないですけど、笑)いつも今日はしょっぱいな、、とか今日はなんかおいしいな、とかそんなことを考えている気がします。 (嫌な夢)

2018-01-08

完備さん コメントありがとうございます!完備さんの作品をいつもお読みして細部に神経が行き届いた方だなと感じることが多いので、このように細かい部分に目をとめて下さってとても嬉しいです。後半の部分は惰性で書いてしまいましたね。ご指摘の通りかと思います。 (嫌な夢)

2018-01-07

アラメルモさん コメントありがとうございます!おそらくこの作品には明確な「嫌」という感情はないんです。もっと漠然としたボンヤリとした何かなんです。それを「嫌な」という形容詞でしか表現できなかったところに私の表現力の限界があるのかもしれませんね。 エイクピアさん ありがとうございます!最初に漠然としたイメージがいくつかあって、料理との関連付けはそれとは別になんだかふっと湧いてきたもので、どうしてだか自分でもよく分からないんですがとてもしっくり来たので、面白くてこの作品ができました。特に自分が見た夢について書いたものではないんですが、でも表現しようとしている感覚に対して一番しっくりきた言葉が「夢」でした。自分も時々本当に嫌な夢を見ます。嫌な夢ほど現実に近いものだったりします。 こうだたけみさん 最後の終わり方、自分も気に入っているのでとても嬉しいです。時々本当に綺麗な夢をみます。しばらく余韻に浸りたくなるような…。綺麗な夢とは別なんですっが、一番印象に残ってる夢は、エンドロールというか、映像の上にキャスティングが表示される夢ですね。なんかとても不思議な気分でした。 蛾兆ボルカさん コメントありがとうございます!とても嬉しくお読みしました。私も言葉の流れや切れに関しては上手くいく時と全くダメな時があって、上手くいくときは殆どそのままでも気に入った感じになるんですが、ダメなとき、というか中途半端な時が一番厄介で、何回も推敲してるうちにどんどん言葉が硬くなっていって、削られていって最後には俳句くらいの短い言葉しか残らない、ということがよくあります。本当にダメな時は逆に推敲していくことで凄くいいものになったりで、なかなか難しいものですね。しかも思い入れのあるものを書こうとするとだいたいうまくいかなくて、息を抜いて書くとなんかいい感じになったりもします。自分にとって本当に大切な感情や感覚は、未だにきちんと言葉にできていないのではないかと思います。何度かトライはしているんですが、ことごとく玉砕しています。まだ早いのかもしれません。それから涙って純粋に美味しいですよね。心は辛いのに味覚だけ楽しんでる状態になっていつも不思議な気持ちになります。 (嫌な夢)

2018-01-07

締めの<あの草の陰にもう蝶はいない/蝶は飛んだだろうか>がとても好きです。全体を引き締めると同時に深い余韻を残してくれる2行だな、と感じました。それからその直前の<永い永い雨だ/空に向けて傘をさせば/雨音は足音のようでもあり/羽ばたきのようでもある>から始まる最後から二番目の連、リズム感があって言葉は跳ねるような印象がありながらも<いつも静かだった>に着地する。イメージがすっと躍動したかと思うとまたすっと何事もなかったように静かになる。そして「蝶はいない」。視覚や聴覚に訴えることばを並べてリズムを作ってから「静か」という観念的な言葉、さらにこれまで述べられてきた思索に暗に言及した最後の2文に繋ぐ。とても巧みな表現だなと感じました。思索にふけっていてふと気づいたら一瞬物音が聞こえてきてはっと我に返る、そんな瞬間に似ています。 (Butterfly)

2018-01-05

「肌のにおいが若さそのもの」という表現にはっとさせられました。年齢によって自分の肌のにおい、汗のにおい、変わってきたな、というのを思い出します。実は自分にも若い頃はそれこそ「膝小僧」のにおいを嗅ぐという変な癖がありました。最近やってなかったので久しぶりにやってみましたけど、もうその当時のにおいは思い出せません(笑)。 (まりちゃん)

2018-01-05

この話知ってる気がする。いや自分の記憶の中に似た光景がある。そんな風に思わせられる文章でした。読み手がこれは自分の話だ、と思わせることができるかどうか...というような話をある作家さんがしていたようなことを思い出しました。毎回上質で味わい深い文章で、とても楽しみにしております。<辞書ほどのフランス語の知識を持ったやさしい少年の顔を、私はテレビのニュースの画面につい探してしまう。>のラストは特に好きです。一読者にすぎない自分の心さえも見透かされてしまっているような、そんな鋭さを感じさせる一文でした。 (アメリカの少年※)

2018-01-05

アラメルモさん あるものを「読み取って欲しいかどうか」を問われれば、「そんなことはどうでもいい」と答えるほかないです。傲慢かもしれませんが伝わる人にだけ伝わればいい。「実存」がどうのと持ち出す人にはわかってもらわなくていい、というのが正直なところです。おそらくアラメルモさんが詩に求めているものを私は詩から努めて排除しているように思います。この先は平行線ではないかと思います。いずれにしてもコメントありがとうございました! (遠く、朝は)

2017-12-22

追記 この作品の主語は「感覚」そして書かれた「言葉」ですね、おそらく。 (遠く、朝は)

2017-12-21

アラメルモさん うーん、そこは何を作品に求めるかでしょうね。私としてはあまり実存としての語り手の存在は出したくありません。そこは努めて曖昧にしています。主語は語り手ではなく、あくまで語り手の感覚と潜在意識なので。いや、語り手という言葉さえいらないかもしれませんね。主語は「感覚」であると。あるいはその感覚の表現に物足りなさを感じられるということなのかもしれませんね。いずれにしても参考になるコメントありがとうございます! (遠く、朝は)

2017-12-21

アラメルモさん コメントありがとうございます!「誰かが言ったのだから、対比的に語り手の様態がどうしてもほしくなる。」とご指摘いただきましたが、実は設定としてはこの誰かというのは第三者ではないんです。「誰かが言った」とは書いていますが、内発的な声と表現すべきかもしれません。ですのでニュアンスとしては「聞こえた気がした」が正確なのですがそこをあえて誰かにそう呼びかけられているように表現してみました。その部分が伝わりきらなかったのはやはり改善の余地があるということだと思います。ご指摘いただいた「リアルに伝わる空間」の手触り的なもの、表現できるように次回作以降で工夫してみたいと思います。貴重なご感想ありがとうございました! (遠く、朝は)

2017-12-21

百均さん そうなんです、超繰り返しています。どれだけ少ない構成要素でどれだけ自然に変奏を繰り返せるかということのひとつの実験であるというのがひとつと、今月のもう一作では連続的にイメージの断片を流れるように紡ぐことを意識したのに対して、こちらの作品では一つのイメージを分断されたいくつかの言葉の響きに託してみるということを意識しています。ひとつの言葉であっても文脈によって微妙にその滲み方、響き方が変わってくるので、そのあたりを味わえるような作品にしてみたかったという思いがありました。手法としては真逆ですが、やろうとしていることの根本はどちらも同じようなことだと思っています。古語っぽい和語を使ったのはクラムボンというグループに「たゆたう」という曲があるのですが、その詩が古語を使っていて、とても美しいんです。とても短くて美しいんだけども意味は全然分からない。曲自体はタイトルのまま音がひたすらたゆたっているような曲ですが、その歌詞だけ取り出して読んだ時に非常に衝撃を覚えました。その体験がベースとなっていますし、アイディアもかなり拝借しております。 (遠く、朝は)

2017-12-20

百均さん コメントありがとうございます!がっつり読んでくださって本当に嬉しいです。樋口一葉さんほど洗練された言葉をつかえているかどうかは自信が全くないですが、ひとつ本質的な違いをあげるとするとこの作品では物語性を排除しているということだと思います。詩にはいろいろな形があると思いますが、あえて詩という形式でしかできないこと、その形式でしか伝えられないことを伝えたいという思いが強くあり、論理的な文章という形では捉えきれなかったもの あるいは捉えられないものを捉えたいという気持ちが強くあります。ですので「この文章が掴み所のない」ものであるというご指摘はまさに的を射たもので、逆に掴みどころのないものを言葉やイメージの断片を紡ぐようにしてなんとかして掴むことはできないものか、という私なりの試行錯誤の結果でもあるのかな、と感じます。そして私が捉えたいと思っているものの中核にはいつでも何かしらの「美しさ」があるのだと思います。ですので「何をやってるのか分からない」けれども、「それでも最後の「美しい朝」という帰結に嫉妬を覚えるくらいに読んでそう思う感覚が脳内で暴れている。」とうご感想はそれこそ暴れたくなるほど嬉しいものです。非常に感覚的で意識の潜在的なところに訴えかけるもの、理屈では解体できないものを創りたいと願っているからです。そして、私はこの世のすべての美しさ(あるいは醜さ)はそのようなものだと思っています。コメント本当に嬉しく思いました!ありがとうございます。 (明るい部屋)

2017-12-20

この場合、「天才」と「バカ」はベクトルが違うだけで、凡庸ではない(「フツーではない」)という意味においてはほぼ同じ価値を持っているように思います。凡庸であることの苦しさや危機感がこの作品を生み出したのだとすれば、その凡庸にこそ切り込みを鋭く入れていただきたかったな、、というのが正直な感想です。あるいはこういう発想こそが凡庸なのだ、ということをメタ的に示していると読むべきなのかもしれません。花緒さんが言及されているように文脈の影響を受けやすいと私も感じます。普段の三浦さんの言動をご存知の方が読めば面白く読めるかもしれません。 (バカモノ論)

2017-12-18

理屈抜きでささりました。最終連「過去を引き伸ばしたおかげでまだら模様になった光が突き刺さってます」という表現、特にすきです。 (高橋先生)

2017-12-16

面白いです!《食罪》《洗罪》が特に好きです。しかも最後「終心刑」って結局死んでます? (最終判決)

2017-12-16

私にはこの文章を読んでそこから何かを読み取るって深く考えるほどの教養もなければ読解力もないしそれをしたいとも思わない。そういう意味で私にとってはただの駄文だ。とても心地のよい読む歓びに満ちた最高の駄文だ。しかもどこか既視感があるゆえに生じる匿名性のようなもの。つまりこれは落書きである。めちゃくちゃ文章力のある最高の落書きである。ときにはこんな文章ばかりをひたすら読んで一日を過ごしてみたいものだ。 (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-16

この圧倒的な情報量の多さと無意味さがとにかくものすごいインパクトあるというか、時代性を感じさせるというか、前にも他の作品で似たような感想を書いた気もしますが、で、あとは実際に細かく読んでみるととても面白いです。全体的に読むことの快楽があります。『世紀末ポア(カバー)』も凄まじいです。これを書くメンタルまで持っていけてしまえるってのが何よりすごいというかやばいです。 (お子さん、SUNgです。)

2017-12-15

やっぱりkazさんが書く文章はかっこいいですね。それからナンセンスさもずば抜けてセンスがいいと思います。なんか矛盾するようですが、ここまでナンセンスだと本当に読みやすいです。中毒性ありです。これはすごい好きです。 (砂)

2017-12-14

素敵な随想です。するめのように読めば読むほど深い味がでるとはまさにこのことですね。コミカルな内容なのになんだか懐かしいような切ないような胸が焦げるような締め付けられるような感覚、そしてなぜかまるで自分の過去を振り返っているような不思議な感覚がありました。 ( 楢山節考※)

2017-12-14

なんかめちゃくちゃかっこいいです。タイトルも始まり方も終わり方も、それぞれの連の締め方もどれもこれもかっこいい。文章そのものが渦をまいているようでそれがまたかっこいい。 (それ)

2017-12-14

さりげなく踏まれた韻が心地よい流れを作り出すなかで「・・・ことはわかる」でぐっとリズムを引っ掛ける。あえてひらがなを多く用いることで生まれる「均質性」。描かれているものはグロテスクでさえあるのに、なぜかすっと透明な風景が目の前にひろがっていくようなそんな軽やかな感覚。そのギャップ。言葉が本来の重たい意味を失って感情の残骸や感覚の渦としてただそこにある有様。くせになって何度も読み返したくなるような作品でした。 (沈黙)

2017-12-14

りさん コメント本当に嬉しいです。詩を書くとは私にとってはっきりとした言葉や論理や思考になりえなかったものの残骸を拾い集める作業に似ていて、りさんのおっしゃるところの「精神の中に詩が湧くところがある」というお言葉には深い共感を覚えます。そうしたものを拾いきれない「哀しさ」、もどかしさは私にとっての「詩の根っこ」です。その「詩の根っこ」の部分は私自身ものすごく大切にしたいと感じております。「読む日によって内容がかわりそうな」作品は私のなかの理想の一つなので非常に嬉しい感想でした!ありがとうございます! (蝶々)

2017-12-14

夏野ほたるさん ありがとうございます!「まどろみから醒めれずにいるまま夢と現実の間をさ迷っているような」感覚。まさにそれです!朝目が覚めてからしばらく布団の中にいることが多く、そのときよく詩を書きます。 (遠く、朝は)

2017-12-11

うたもちさん その感覚を味わっていただいただけで私は大満足です。嬉しいコメントありがとうございます! (遠く、朝は)

2017-12-10

三浦果実さん 「美しい詩」というご感想は素直にとても嬉しいです。なによりも美しさを愛しています。「小説でなくなぜ詩で表現するのか」という問いはとても大切なものだなと私自身鋭く感じています。「詩」だからこそ表現できることに敏感でありたいと思っております。コメントありがとうございました! ふじりゅうさん 「詩の流れと相まってふわふわした印象を抱く作品」とのご感想、とても嬉しいです。浮遊感といっていいのかちょっとわからないのですが、光のなかを埃がふわふわとたゆたっているような、あの感じがこの作品を支配していてほしい、という思いで書きました。細部には非常に気を配って苦労した作品でもあるので「詩としての練り込みが細部に渡っていると感じました。」というご感想も本当に嬉しいです。さらに細部への磨き込みの技術磨いていきたいです。コメントありがとうございました! (遠く、朝は)

2017-12-10

花緒さん 好意的なコメント嬉しいです、ありがとうございます!そうなんですよ、ギリギリのところを攻めようと思って書いたんですが、結構難しくて苦労しました。儚い感じも伝わって嬉しいです。言葉の選択に関しては私のポリシーとして、できるだけ平易な言葉で詩を書いていたいな、という思いがあるのですが、陳腐にならないようにするのがなかなか難しいですね。今回はちょっとわざとらしさが残ってしまったかな、、というのが個人的な反省点ではあるんですが、これはこれでとても気に入っています。 (遠く、朝は)

2017-12-10

cotonoさん とても嬉しい感想ありがとうございます!何かを書こうとするとき、何かを考えている時、仕事で問題を解決しないといけない時、思考の扉がバタンバタン。cotonoさんのおっしゃる通り「この現象の名前が分からなくて上手く言い表せない、いまもまたバタン、バタンとだけ聞こえます」。なんだか感覚が共有できた気がしてとても嬉しいです!頑張って書いた甲斐がありました。 (明るい部屋)

2017-12-06

まりもさん ほとんどリライトしてくださったといってもいい感じ詩のような素敵なご感想ありがとうございます! (明るい部屋)

2017-12-05

沙一さん 「指先や思考は忙しなく動くけど、詩のなかの当人は、部屋から動くことはないんですね。」と書いてくださいましたがまさしくその通りなんです。「空想の氾濫」と「経験」。確かに私の日常や意識はこの狭間でいつもいったりきたりしているような気がします。とても嬉しい言葉いただきました。コメントありがとうございました! (明るい部屋)

2017-12-01

花緒さんと同様の感想を持ちました。つまり作者自身は自分が「奴隷として生きている」ということを自覚しているのか、あるいは「自分は奴隷ではない」と思っているのか、という作者自身にむけられた視線が作品の中に欠けているように感じられるのがこの作品の弱点だと思います。ただ、このような作品を書かれたということ自体が、作者がそれだけ鋭くそういった自問自答を普段されている、ということの何よりの証拠だと感じるので「奴隷と知らずに 知ろうともせずに/奴隷として生きている生よ/お前らは生きているのか?」という最後の問いかけが上から目線に感じられてしまうのが少し残念でした(という上から目線のコメントでスミマセン。。汗) (奴隷)

2017-11-19

ちょっと難解ですが、それでも知的な雰囲気のあるとても洗練された印象のある一作ですね。雰囲気の向こう側をあまり感じられないという感覚もあるのですが、それが作品中の「むこう側には興味はない/正体とかそんなものには動かされない/大事なのは表層だ」というステートメントと被さりあって作品が入れ子構造のようになっているようにも感じられるのがとても興味深いと思いました。であればこそ(欲を言えば)もっとこの作品の「美しい表にのみ」自分の「内部」が「揺さぶられる」感覚を味わってみたかったな、というのが正直な感想です。 (表層)

2017-11-19

実際の歴史と被せて書かれているところが本当は作者としても大事なところなのかもしれないしそうではないかもしれないしなどと考えつつ、個人的にはそこがちょっと残念でした。実際の歴史に絡めた話しから始まって最後には話がぶっ飛んだフィクションにまで飛躍する超絶な超展開だったらもっと面白かったかもしれないな、、と思いました。。が、純粋に読み物としては非常に面白かったです!そしてカップ麺食べたくなりました。今家にストックがないので買いにいこうかな...。 (カップ麺)

2017-11-18

後半は自分にはちょっと難しく感じましたが、前半の一連の流れとても綺麗だな、いいな、と思いました。特に2連目と3連目の「(あらわれる 姿)」までは特に好きです。2回出てくる「あしたの約束など/どうでもよいと思うのです」という着地点、とても詩的ですね。 (蹄の音)

2017-11-18

具体的な描写が多いことで逆に表現としては作り物っぽさが増してしまう、深く迫ってくるものが薄まってしまう、そういうこともあるのかもしれません。あるいは表現しようとしていたことが幅広く、このボリュームでは納まらない(もしかしたら少なくとも短編の小説とかエッセーくらいのボリュームが必要なのかもしれない)ということなのかもしれません。それぞれのパーツが繊細で深みを持つ感情や感覚、もしくは思考を扱っているにも関わらず、そうした繊細さが具体的な描写によって損なわれてしまっているような印象を受けました。日常の「死」と思想としての「死」が同時に語られていて、それをうまく交差させて読めないもどかしさがあります。おそらくまりもさんの思想のなかでの「死」の観念(例えば5連目に垣間見えるような死生観)と私の死生観が大きく違うせいもあるのかな、とも思います。ただ、人が呼吸をやめてからやがて朽ちていくまでの宙吊りの状態に鋭く反応するまりもさんの感性には大いに共感するところがあります。 (海)

2017-11-18

まりもさん 再レスありがとうございます!書き手としては自分が描いていたイメージとは全く違うイメージを持っていただけることはとても嬉しいです。むしろ、同じイメージしか共有できないとしたら私はそれをとても寂しく感じると思います。せっかくの詩なので(これは個人的な詩観なのですが)、そういった余地をできるだけ残しておきたいと常々考えております。そしてそういった自分が想像もしていなかった解釈が実は、自分の奥底にある感情や景色、欲求と深く繋がっていてハっとさせられることがままあるんです。そういった意味では読者さんのコメントというのは時に鏡のように本当の自分を映し出すことがあるので、それこそコメントをいただくというのは「嬉しくもあり、怖くもあり、楽しみでもあ」ることです。 仲程 さん 最終連、最初は冒頭と全く同じ内容だったのですが、どうもしっくりこなくてなかなか纏まらず苦労した部分なんです。とても嬉しく思います。実は「電車かもしれない」ですね。何かしら情景をイメージして頂けたのだとしたら、書いてそして投稿してよかったな...と思います。コメントありがとうございました! (宇宙)

2017-11-12

なるほど<小さなマンションの一室に「とらえられた」女性>のイメージ。私が書いた時に思い描いていたイメージとは全然違うのですが、まりもさんのコメントをお読みしてからもう一度読み直すと、なんだかその路線のイメージもぴったりですね。<〈私〉の醒めた視線の鋭利さ>に触れてくださったのはとても嬉しいです。コメントありがとうございました! (宇宙)

2017-11-12

<言語を解体し、言語の物質性に差し迫るようなものを求めている>あるいは <コミュニケーション性そのものに対するアンチテーゼとして、こういう作品を打ち出しているわけです> これはそういうことなんだろうな、とは思いますが、私はこの方向性には限界を感じますし、この種の問いかけなら別に誰も知らない言語に翻訳してそれを載せてもいい訳です。あるいは自分で言語を作ってしまうとか。例えばですが。なぜそれをせずにあえてモールス信号を選んだのか?そこにコンセプトとしての必然性や強度は果たしてあるのか?そこを問いたいです。それを感じとることができなかった以上、記号としての美しさでしか読み得ないと感じました。 飽和状態に対してはそれに対して個人的に何かしら訴えることはできても、それで何かを変えられるとは思っていませんし、こうした挑戦そのものが逆説的にむしろ飽和状態をさらに飽和させる気もしています。ネットとはそういうものではないかと、一種の諦めしかないです。その飽和状態とコミュニケーション過剰、そういったネット特有の諸々、それが私にとっては都会の美しい夜景のごとくに感じられます。たとえそれがどんな闇を隠しているとしても、その中でどれほどの人がどれほど苦しんでいようと、明滅する夜の光の美しさのまえでは「美しい」というほかないのと同じように、この作品の前では「美しい」という言葉しかありません。その裏にどんな挑戦が隠れていようともです。つまり私にとってこの作品は一種の都会の夜景なんです。 (かもめ)

2017-11-11

ミニマルでアンビエント。非常に美しいと感じました。あえてもとの詩はお読みしていませんが、「・」と「ー」が作り出すリズムがとても美しいなと思いました。コンセプト的に、もしかしたら同じアイディアで複数作品を作るのは難しい(2回目以降はまったく新鮮味を失ってしまう)という点では一発勝負的な作品でもあるかな、とは思いますが、いつまでも眺めていたい、そして気が向いたら一部を「読んで」、というふうに作品全体の持つ大きな波と、細部に宿る繊細なノイズ両方に耳をすませていたくなるようなとても美しい作品だと思います。 (かもめ)

2017-11-10

『理想の詩とは心で読む物なのかも…』の直前のアスキーアートみたいなやつとても美しいですね。砂漠なのか浜辺なのか、はっと心を奪われました。「ディキトゥーヤ」で始まる1連目(?)も最高です。全体を通してドーパピン大放出な感じで大好きです。この圧倒的な無意味さ。。しかも全く意味不明ですが、私はなぜかなんども読んでしまいます。もちろん通して再読はなかなか厳しいですが、気になったところ何度も気になって読み返してしまいます。そしてやっぱりアスキーアートで描かれた風景が美しいんです。そこだけ静かな別世界のようで、なんだかとても不思議なものをお読みしました。 (ヨミテニ・タクス)

2017-11-09

リズムが心地よくて最後まで一気に読ませますね。大好きなスタイルです。流れるイメージが残像になり、次々と音が声が生じては残響となってオーバラップしていく感覚。鮮烈でとても素敵だな、と思いました。 (曇天サーカス)

2017-11-09

ノートの上にそれぞれバラバラにただ思いついたまま書かれた落書きが、どういうわけか全体として構図として成立してしまってどこか心地よい、みたいなそんな印象を受けます(作品に一貫して通底する感情がおそらくあるからだとと思いますが...)。Cy Twombly の絵画に近いものを感じたりもしました。最後の唐突な「soiree」の一言はなぜか、とてもびびっときました。この謎なラストがあるおかげで全体がぎりぎりバラバラにならないで済んでいる、という感じさえあります。それからタイトルは文句なしに格好いいです! (それもetude)

2017-11-03

まりもさん いつも丁寧に読んでくださり、ありがとうございます。ご指摘、とても鋭く、ああ、なるほど、そういうことか、といろいろ気づかされました。<言葉の流れの美しさや、響きの心地よさに「流されて」いないか、という部分(それは、好みの問題にもなってきますが)が、少し気になるところでした。>とのことですが、これは正直に書きますが完全に流されて書いています。自分でも言葉や意味を取りこぼしながら、ただただ感覚のおもむくまま、そして最後には自分さえ「置き去り」にされながら書いた感があり、ただ、その即興性はどうしてもダメにしたくないという強い想いがありました。 音楽において、奏者が自ら奏でる音楽によって操られるかのようなときがあって、そのような時にこそ素晴らしい演奏は生まれるのではないか。同様に詩においても、作者よりも詩そのものが主体性を持ち得たときに詩は詩としてより生き生きとしたものになるのではないのか。という思いがあり、同時にまた、言葉の意味や物語性からは一歩引いた目線と感性で詩を書いていたいし読んでいたい、という強い想いも持っています。そう意味では一種の均質性を感じてくださったという感想はとても嬉しいものです。 ただ、はたして今回の作品が詩そのものとして主体性を持つほどの強度をもっているのか、あるいはただ表面的な美しさや心地よさに「流されている」だけなのか、そのあたりは自分に鋭く問いかけていきたい点でもあり、課題として意識すべき点だなと感じています。 (蝶々)

2017-11-03

なんだか悪夢ですね。心がざわっとします。短いがゆえに、イメージの断片と「確かに気味が悪かった」という感触だけが残っている、というような悪夢を見た後のあの独特でゆめうつつな感覚が再現されているような印象を受けました。 (2017年の秋祭り)

2017-11-03

特に最終連が面白いな、と感じました。例えば「あのとき渢(みなも)をアルく」では「アル」というカタカナから「アル中」を連想します。同じような感じで「滑てが目耳にナッたからだ」の「ナッた」の部分からは「ナッツ」をするなど、カタカナが用いられることで、描かれている情景とは全く無関係なイメージが唐突に差し込まれているような印象があり、それが非常に面白いです。ときどき例えば電車の中の中吊り広告(あるいは新聞でもいいかもしれません)に、実際には書かれていない文言が書かれているように見えて、よく見ると、それはあちこちに散らばった言葉を脳が勝手に合成して、あたかもそこに書かれているかのように錯覚するみたいなことがあるんですが、そのときの体験と似たものを感じます。最後の2行「ひトツぶヒとつブ/カエらズにめグっテいる」など、すべてひらがなとカタカナで書かれていることもあり、もはやイメージの闇鍋状態といった感ありです。とても興味深く拝読させて頂いました。 (なガれ)

2017-11-03

祝儀敷さん ご指摘の通りですね。鋭いコメントありがとうございます! (蝶々)

2017-11-03

ひとりごとですが、そういえばリズムって五感でいうとどれなんだろうな、と自分でコメント書きながら考えました。音楽におけるリズムも、グレン・グールドが主張していた「パルス」とかっていわゆる「音楽的なリズム」とは別物の何かを彼自身が感じ表現していて、だからこそ「リズム」とは別の言葉を選んだのではないかとか、あるいか「詩」におけるリズムは果たして「音楽的」なものなのだろうか?ということを考えています。もちろん音楽的な側面が強いリズムもあるのかもしれないですが、言葉のリズムにはそれとは別のもっと何かがあるのではないか、と自分でも「音楽性」という言葉を使いながら、何かもっと別の感触を感じたりもしているのでした。言葉とは不思議なものだな、と感じます。 (蝶々)

2017-11-02

花緒さん 「回転しながら流れていくような」感覚が伝わってとても嬉しく思います。また前作、脱構築性よりも一種の「音楽性」(あるいは音響性もしくは聴覚的な何か)を軸に置いて書いたつもりだったので「音楽性」で捉えてくださっていることもとても嬉しいです。 桐ヶ谷忍さん 非常に嬉しいコメントありがとうございます!私の記憶の多くはまさに「動画に近い静止画」(あるいは静止画に近い動画)の集まりのような感じなので、この感想は特に嬉しく思いました。 (蝶々)

2017-11-02

追記: 「意味をなくしてしまったらまずい」と書きましたが、「意味」とはなんぞや?ということになり、そこに深く切り込むつもりの作品でもないのでちょっと表現が難しいです。「文章として何かを伝える」という「内容」としての意味はもしかしたら、ほとんど無いに等しいのかもしれませんが、感覚に訴えかけたいという強い動機付けはあるので、それをこの作品における「意味」として捉えていただければよいのかもしれないな、と...なかなかすっとうまくまとめられません。というより、もしかしたら今伝えようとしていることそのもの、かもしれませんね。私がこの詩に託したのは。。 (意味はない)

2017-10-25

エルクさん コメントありがとうございます!辛口コメント大歓迎ですよ。いくつか自己弁護させていただくとするなら、この作品は「壊す」ことを目的とはしていないということと、「無意味さ」を作り出すことを意図してはいないということです。もしそれらを目的としたのならば、それこそエルクさんのお知り合いの方のようなパズル的アプローチを試みるかもしれません。つまり、この作品に関しては壊れてしまってはまずい、意味をなくしてしまったらまずい、ということです。エルクさんがあげてくださった方々の作品をお読みしていないので断言はできないと思いますが、その方々の作品と私のやろうとしていること(それが成功しているかどうかは別としてですが...)は、おそらくかなり違うのではないかと推測します。「重心をズラす」というご指摘は技術的なことに関していえば的を得たご指摘かと思います。いずれにせよ、私の作品はどれもなかなかレスがつきにくいのでコメントとても嬉しく思いました。ありがとうございます! (意味はない)

2017-10-25

細かい改行のせいでしょうか、とてもカクカクとした不思議なリズムを感じます。意味がよく分からないのはあまり気にならないんですが、言葉の構築が少し理屈っぽい気がします。なので映像としてイメージがあまり立ち上がってこないのがもどかしいです。あるいはそれなりに全体として意味の繋がりということなのでしょうか...。私とは全然違う感性や認知構造をもった方が読めば全然違う感想になる作品ではないかな、と思いました。 (水柱の重さに)

2017-10-22

最初に投稿された時から気になって折に触れて何度も読み返しているのですが、うまく感想を言葉にできないでもどかしい思いでいます。意味を考えることを放棄して読んだとき、非常に美しい作品だと思いました。ただ、おそらく何かしらの比喩としての作品なのだろうな、という印象があるのですが、その部分になかなかたどり着けず...。何度読んでも言葉やリズムの簡潔な美しさに眩まされて、「表面」をひたすら撫で続けているようなそんな感覚に陥ります。いろいろな方のレスをお読みすればもっと具体的な何かを掴めるのかもしれないと思ったのですが、やはりそれでも読む時に私の感覚はひたすら作品の表面を周回します。あるいは、そんな作品なのかもしれません(私は個人的に詩に意味を求めないことが多いのでそれはそれで十分なのですが...)。開かれて、そして紡がれては閉じられていくイメージの断片、美しいです。 (ゆくえ)

2017-10-22

一連の連想が無関係のようでいて、その実とても繊細なつながりがありとても素晴らしいと思いました。特に「人生にこと」から始まった連想の連鎖が「つまりそれは裸のまま外に出たことを/改札を過ぎた後で気づいてしまったことと同じだ」の2行の着地するあたり、ああ、なんていい表現なんだと唸ってしまいました。わがままをいうと、タイトルと最後の2連がとても勿体無い気がします。最初の5連がとても緊密に組まれていて最後だけ取ってつけたような印象があります。かといって5連目で終わりにするのだとちょっと物足りない。あるいは、最後だけ緊張の紐をわざと緩めた、ということなのかもしれないのですが(だとしたらもっと一気に緩んでも良かった気がします)、個人的には最初の5連と同じ緊張感でビシッと練りこまれたラストも読んで見たかったです。 (辞書でしらべたこと)

2017-10-18

これは何かとても凄い何かですね。何かとても切実な何かで何かとても大好きです。「何かは何かのように何かされ、何かの上で何か何かしていました。」のラストが何かとてもヤバいくて何か鳥肌のような何かでした。何かしながら何かしら何かしてしまうんじゃないかと思って本当に何度も読んでしまいましたが、何度読んでもやはり何かが何かしてしまいそうです。これは本当に何らかの何かを何かしてしまう何かだ...。 (南下する太平洋の横断幕)

2017-10-14

まりもさん またもや返詩ありがとうございます!たしかに連詩になりそうですね、楽しいです。これは夕景を描いたものですが、実はそこにそれを重ねていたんです! では最後自分の返詩で締めますね。即興なので今ひとつ緩いですが... --- 伽藍堂になった闇は濃度を深めながら 反時計回りにぜんまいを巻いては回転し 密かに鼓動を孕ませる 赤でもない、ぼうっとした色、滲むとき やわらかに (17:58)

2017-10-13

homaさん コメントありがとうございます!風景を想像していただけて嬉しいです。それから、終わり方はとても悩んだので、このように言っていただけて非常に嬉しく思います。 (17:58)

2017-10-13

まりもさん返詩ありがとうございます。美しい! せっかくなのでさらに返詩を... --- 覆うだけで、すぐにでも剥がれそうな 膜の軽さに皮膚は驚き 少しばかり震えては、また 黙するばかりで、抗うこともなく やがて塞がれて炎に横たわる (17:58)

2017-10-12

「突然/アップデートしていく/自動更新で/どんどん僕が/リニューアルする」の出だしがとても魅力的でした。使ってるスマホやアプリがいつも自分の意志とは無関係にどんどんアプデされていく感覚を思い出します。もしその感覚と自分自身の(人間としての?)「アップデート」を重ねようとする試みだとするなら、その発想はとても面白いと思ったのですが、「自分自身のアップデート」とつなぎ合わせることに縛られてしまって、勝手にアップデートされていくあのなんともいえない(いらいらでもないし、かといって特段嬉しいわけでもない)不思議な感覚を表現することの面白さがいささか犠牲になってしまっているように感じました(そんな意図はないといわれればそれまでなのですが...)。「自分自身のアップデートとは?」みたいな人生の教訓に対する思索的なものを思い切って切り捨てて、より感覚的な部分にフォーカスしたほうが詩としてはより面白くなったのではないかと感じます。感想として、完全に自分の好みの問題なのですが、徐々にでいいからさんの以前の作品を思い出しながら、感覚的な部分を、説明的にならず、より鋭くコンパクトにまとめる力量がある方なのでは、、と感じていたので、そういったものをもっと読みたいというワガママな気持ちがあるのかもしれません。 (自動更新)

2017-10-10

待ち合わせ場所が夢中夢というのはこれまた随分と距離を感じさせますね。この設定には悪夢と甘さを掛け合わせたような独特の魅力を感じます。それから2連目、とても魅力的でした。視点が手元からふわっと空にひろがっていく感覚、空間が一瞬重力を失うかのようなそんな感覚があります。「青年がニスを塗るように/憧れをなぞるてのひら」以降は構成に難を感じました。「わたしたち/遠いの?/遠いよ/遠くても/遠いから//会おうよ」の部分も読んでいて生ぬるいというか、ちょっと恥ずかしくなります。「愛してる?」「愛してるよ」っていうやりとりを読まされているような感覚に似ています。1−2連の非常に魅力的な立ち上がりと、夢中夢という着地点、もっと巧い繋ぎ方があったのではないかな、、と、着地点がとても魅力的なだけに、そんな感想を持ちました。 (link)

2017-10-10

まりもさん <(幼稚園に)いきたくない、を言えなくて、いたくない、いたくない、と泣いていた子どものことを思い出しました> まさしくこれですね。小さい子供って言いたいことは明確にはっきりしているけど、言語能力がおっつかなくて、時々こういう欠損した表現が生まれて、そこにものすごい必死さを感じたりします。言葉が「意味」をなしていなくても(あるいは文法上、崩壊していても)確実にメッセージはあるというのはよくあることだと思っていて、例えば全然わからない言語の映画でも、その発話の語感から感情をなんとなく読み取れるような感覚。音読を繰り返しながら推敲したのは、その感じをどれだけ出せるか、というのを意識していたからかもしれません。 <書いたって、の書をはずすと、「いたって」という副詞が現れる、居たって、と漢字を当てると、また別の意味が現れる> そうなんです。これは書きながら自分でも新鮮な発見がいくつかありました。読む人によってたとえば「いたって」をどう解釈するのか変わってくるのではないかと思います。そういう面白さは是非楽しんでもらいたいなと思いました。ただ、この部分に関してはいろいろな組み合わせが他にもたくさんあるのでもっと派手に実験してもよかったのかな、、という思いもあります。ただ、それをやり過ぎてしまうと、花緒さんがおっしゃるところの「ループ」感がなくなってしまう。なかなかバランスが難しいものです。 <意図しない、為にあえて意図された作品> おそらく、「意味」ということを軸にして考えていくと、自己言及のパラドックスじゃないですけど、論理が自己循環を起こし始めて埒があかなくなる気がします。今回自分が考えていたのはもう少しプリミティブなことで「意味」ということについて深く掘り下げた結果こうした作品コンセプトに至った訳ではないんじゃないかと思います。ちょっと言葉にするのが難しいのです。説明できないから、この作品を書いたってことなんですけど、自分でもこの作品について語ろうとすれば語ろうとするほど迷宮に入っていきますね。。作品の外見からイメージされるほど、コンセプチュアルな作品ではないと、個人的には思っています。音楽性とまではいかなくても、もう少し直観的な何かです。もしかしたら、その感覚自体が若干メタ寄りなのかもしれませんが。。 (意味はない)

2017-10-10

壁紙の向こう側に大きな目があることのシュールさと、受験勉強中にそれを見つけてしまうという状況のシュールさに、ホラーよりもむしろコミカルなものを感じました。シュールな笑いとして読むとそれなりに楽しめる作品だと思います。 「高校の数学問題にはその全てに正解が用意されている」の表現はあまりに説明的すぎるので少し興ざめしてしまいます(果たしてそうだろうか?という疑問も含めて...)。「あらゆる数字や代数はカッコの中へと集約されていく」はとても巧みな言い回しだと思いました。ただ、あえて受験勉強の内容が数学に限定されていることにより、この詩的な表現が柔軟性を失ってしまっている気がします。「数学では虚数iも存在の一つだ」という表現も虚数の「虚」という文字に振り回されすぎなような印象を受けます。個人的に「虚数」が「存在の一つだ」ということに対して「?」とは思わないので、むしろ「数学では虚数iも存在の一つだ」とあえて宣言しなければならないことに「?」となってしまいました。 (受験勉強)

2017-10-08

真夜中を「真 夜世 中」、夢を「夢芽」、闇を「闇見」落ちるを「落散る」、目を瞑るを「目芽を    摘むる」、そして夜を「夜流」、などと言い(書き)換えてるのでしょうか、言葉が、音が重なりあい、意味がすっと深まっていくような、文字ならではの味わいのある表現だと思いました。かくかくとした、どこか不気味な舞踊(それも人形が痙攣するような...)を感じます。 (舞踏)

2017-10-05

1連目〜3連目の冒頭にかけて、「弾けて割れた」湯呑、走る「蒼白い閃光」、「脳髄の先端」そして「ぴちょん ぷちゅん」と(おそらく音をたてて)「鎮まること」のない波紋、そして広い「空洞」、このイメージの連鎖がとても鋭く、激しさと冷たさを同時に表現したような鮮烈さを感じました。それに対して3連目からは、例えるならいきなりモノローグが展開されるような語り口で、冒頭のスピード感との落差から、いささか説明的になりすぎているような感覚を受けてしまいます。あるいは、作品の本体は3連目からで逆に冒頭の部分を演出しすぎた、ということなのかもしれません。いずれにしても、何度もじっくり読まされました。 (焼成)

2017-10-05

とても語呂がよくて気持ちいいですね。私の頭の中ではラップ調で脳内再生されます。 (きっとカジュアル)

2017-10-03

意味は全然分かりませんが、ものすごく好きです。何度も読み返したくなる中毒性のある作品ですね。よく読むとシュールなのに、わざとらしさがなくて非常にコンパクトにまとまっているあたり、凄いなぁと憧れてしまいます。 (工事中)

2017-10-02

「飛英」、私も初めてみた言葉だったんですが調べたら「花びらが散ること」「散る花びらのこと」といった意味があるようですね。その意味を知った時に「海鳥たちがひとつの飛英を/共有する」という表現がとても美しく感じられました。「波紋は隙間なく/夥しい改竄を繰り返し」という表現もとても好きです。なかなか思いつかない表現だな、、と思いましたが、なんだかとてもしっくりきます。まりにゃんさんが指摘しておられる語尾の重複に関しては同じ感想を持ちました。特に「海鳥たちがひとつの飛英を/共有するから」と「〜ながら」で「ら」が連続してしまっているのはとても勿体無いな、と感じました。 (No title)

2017-10-02

いくつかの風景が重ねられた多重露出の映像のようだな、と感じました。書かれたそれぞれの短い言葉がお互いにオーバーラップして重なり合うような錯覚を覚えます。とりたてて鮮烈に視覚に訴えかけてくる言葉や表現があるわけでもなく、どちらかというと平易な言葉が選ばれているにもかかわらず視覚、聴覚がとても刺激されるのが不思議です。 いくつかの筋に解体して読んでみたいような誘惑にもかられますが、非常に巧みにより合わされているようにも感じられ、「誰も見なかったのだ まだ誰も見なかったことにはできない」といった分断された表現や、まりもさんが指摘されておられるような不統一も、作品の魅力をそこなうというより、どこかポリフォニックな感覚を演出するのに一役買っている気がします。 (単調な旋律)

2017-10-02

エイクピアさん コメントありがとうございます!「書いたって意味が(は)ない」をスマホ上で解体してコピペなどしながら、再構築して作った作品でした。ですので、解体された見かけをしていますが、解体する作業よりも構築するほうにたくさん時間がかかった作品(つまり構築した作品)でもあります。音読しながら何回も推敲を重ねました。読んでくださる方が色々感じ取ったり、あるいは「意味」を付与したり、または何かを考えたりしてくださるきっかけになるような作品になればといいなと思っています。 花緒さん このように言って頂けるのは純粋にとても嬉しいです。ビーレビューでいろいろな方の作品やコメントに触れるなかで考えさせられた事や刺激を受けた事柄が沢山あり、そうした諸々がこの作品を書く動機となっています。もちろん、花緒さんの作品にインスパイアされている部分もあるのではないかと思います。ビーレビ運営に関してはいろいろと大変なこともあるかと思いますが、とても刺激的かつ面白い場所であることには間違いがないので、今後より洗練された刺激的な場所になるのをとても楽しみにしております。 (意味はない)

2017-10-01

>完備さん やはりそうだったんですね。以前お読みした「units」が数学用語だらけだったので、もしや?と思いました。 (誰にでもわかるような僕の悲しみについて)

2017-09-30

「好きな人に彼氏がいる」という悲しみを「誰にでもわかるような僕の悲しみ」として説明することで、それが「誰にでもわかるわけではなく、僕にしかわからない悲しみ」であるということを表現しようとしたのかな、と感じました。だとするなら、とても面白い試みだな、と感じます。もう少し緊密にそれぞれの要素が絡み合っていたら、よりグッとくる文章になったのではないかな、と、これは読み手としての我儘なんですが、そんな感想を持ちました。完備さんが指摘しておられる「解」の用い方に関しては、同感です。完備さん、ハンドルネームから察するに数学がお好きなんですね? (誰にでもわかるような僕の悲しみについて)

2017-09-30

追記:立派な詩歴を持っておられると知られている方が、こうした作品を投稿した場合とそうでない場合、の違いについても。。 (あくむ)

2017-09-30

ネット文化そのものが「荒らし」や「冷やかし」を内包していると感じるので、ネット特有の言い回しを用いることに関しては賛否両論あるかと思いますが、ネットスラング含めネット文化特有の言語世界・言語表現というものがあって、そうしたものとの接点を探るというのはとても面白いと感じます。ただ、2chのような掲示板では、そうした独特の言葉や記号に対して一定の文法が存在しており、文脈を把握していないと理解できないやりとりやユーモアが多数あるのも事実だと思います。私などは「( ^ω^)」も「〜お」で終わる文体もそれがどういう文脈で、またどういうニュアンスで用いられるものなのか分かりません。ですので、こうした表現がもつ新鮮さは面白いな、と感じるわけですが、さらに面白いな、と感じたのはこれは一種の風刺にもなり得るな、ということです。いわゆる「詩」の形をとりながら語尾だけはネットの文法に従う、という形式。高度にハイコンテキストになってしまっている「現代詩」は、「現代詩」に深くかかわらない人からすると、この作品を読んだ時と同じような違和感をもしかしたら覚えるかもしれない(自分は時々覚える)、ということを考えさせられました。「詩」「現代詩」「ポエム」「散文」といった言葉で作品を安易に分類してしまうことは要するに既存の価値観・美意識に寄りかかっているにすぎない。ただ詩において、いろいろな人たちの実験を通して、ここまで言語表現が自由になってしまった以上そうした枠組みで縛る他ない、ということもあるのかな、とも思ったりします。一番先鋭的な実験作になればなるほど、評価されるためには、ある意味「保守的」にならざるを得ないのではないか、ということです。この作品の本意は私にはしっかりと読み取ることはできなかったですが(これが仮にただの冷やかしだったとしても)、そうしたことをもろもろ考えさせられる作品でした。 (あくむ)

2017-09-30

あ、自分もMacユーザーなので、あの音で脳内再生でしたよ、笑。 (あったこともないのによく知ってる感じ)

2017-09-28

こういう遊び心大好きです。「オーバー/ヒートな十年を経ては(ファーン!)」の「(ファーン!)」が特に好きです。 (あったこともないのによく知ってる感じ)

2017-09-28

キュレーターさんの作品だけにどう読んでいいのか悩んでしまう部分があります。冒頭の「いますぐしんじゃいそうな/わたしのうつを/癒しておくれ」からしてかなりのインパクトで、こういう表現をあえて確信犯的に使うことで、難しい言葉や隠喩を使いたがる「お偉い」感受性を逆に揶揄していると取るべきなのか、あるいは揶揄というより三浦さんがコメントしておられるように単に自虐風コメディーとして読むべきなのか、あるいはものすごいメタな構造が仕掛けられていて、よっぽどの予備知識がないと掴めないなにかがあるのか、あるいは普通に素直に読むべきなのか...。全体的にもゆるっとしていて全然締まりが感じや、言葉のリズム感がグダグダな感じなど、自分としては自虐風コメディーとして読んでみたいところなんですが、だとしたら少し物足りないです。笑いのツボが少しずれていたというだけなのかもしれません。個人的にはこういう「ポエムな」言葉選びは決して嫌いではないので、もう少し引き締まった形でまとまっていれば、普通に素直に読んで楽しめたかもしれません。すべては好みの問題なのかもしれませんね。 (音楽)

2017-09-28

意味は全然分かりませんでしたが、どこか音楽のようだと思いました。文体に酔わされて、良く分からないのに最後まで読んでしまいました。文章が作り出すうねりがとても気持ちよかったです。 (Sept Papillons)

2017-09-28

まりもさんへ  まりもさんの今回のコメントには深く頷く部分がとても多いです。<理念が先行した手法と、結果的に同様の手法を取るに至った場合、の差異、について> これは私も考えさせられた点で、もし<結果的に同様の手法を取るに至った場合>はやはりそれなりの必然性が欲しい。どうしてもこの手法をとらざるを得なかったという説得力が欲しいと感じます。その点、この作品が結果としてこの手法を選んだ作品であると仮定した場合、「結果的にこの手法を取るに至った」、取らざるを得なかったという必然性をあまり私は感じることができません。それは作品の完成度のせいなのか、あるいはそもそも「結果的に...手法を取るに至った」作品ではなく「理念が先行した手法」であるからかもしれない。(kaz.さんの他の実験的な作品を含めて)おそらく後者の度合いが強いのだろうと思うのですが、後者だとしても、もしかしたら何かしらの切実さがその「理念が先行した」実験へと作者を駆り立てているのかもしれない...。だとすると、「結果的にこの手法を取るに至った」ということに、やはりなるのではないか、と思考がループしてしまうのが難しいところです。 コンセプトを明瞭にするという一種の割り切りのなかに、時には個人的な感覚・感情を散りばめていくという手法もあると思うのですが、kaz.さんの作品においてはその方法は取られていないように感じるんです(あるいは取ろうとして失敗しているのか...)。まりもさんの言葉をお借りすると「既知のものを既知の言葉で語る、それが標準化している世界を描いた前半部と、未知のもの(いわく言い難い感情)を、語ろうと苦悩する後半部」で完全に分離してしまっているように感じます。それが脈略もなく共存してしまっている。それを「問いかけ」と取るべきなのか、実験の「失敗」と取るべきなのか、あるいはこれを含めて「表現」と取るべきなのか、それともそもそも作者は「表現の誠実さ」のようなものに懐疑的であるために、こうした「実験」を繰り返しているのか...。最後のが本当だとすれば読者が真面目に考えたり、語ったりするほど馬鹿馬鹿しいということにもなると思うのですが、だとしたらもっと吹っ切れていて欲しい(そうなると「詩の解体作業」ということにやはりなるのかもしれませんが、解体しきれていないところに何か意図があるのか、あるいは...)。といったことを考えています。そうしたアンビバレンスを内包している状態(作品そのものではなく作品の有様がアンビバレントである)に魅力を感じる、もっといえばその一点だけに魅力が集中しているともいえるのかな、というのが今の個人的な感想です。なかなか考えがまとまっていないところもあるのですが、(作者の他の実験的作品を含め)こうした議論を喚起できた時点で、作品としてはある程度成功しているという見方もできるのかもしれません。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-25

まりもさんへ まりもさんの「私には、その脱線によって、淡水、熱帯魚を巡る思考という本来のテーマが、真綿でくるまれるように曖昧にぼかされていく印象があり、その真綿の質感の方に意識が削がれてしまう、そんな不満を感じたのでした」という印象にはとても賛成です。ただ、脱線していく有様、さらにいえば脱線することによって全体の意味が不明瞭になっていく有様そのものにこの作品が表現したかったかもしれない「感覚」が宿っていると感じました。つまり「言葉がもつ意味」によって「意味」の伝達を図るのではなく、「言葉」が配置されている有様(たとえば論理が解体されていく有様)によって「意味」の伝達を図る、言葉を超えたところで感覚の共有を図っている、そうした感覚がこの作品の面白さなのかもしれないな、と私は感じています。仮にそれが意図であるとするならば、手段や手法が真逆のベクトルを持つということはあるのかもしれませんが、必ずしもまりもさんのおっしゃる<個別的体験から「詩」を取り出していく、生み出していく、方向性>とこの作品が真逆のベクトルを持っているとは感じません。勿論作品としての完成度の問題は残りますが、「詩の解体作業」として単純に片付けてしまうのは少し寂しい気がします。と、私自信もうまく自分の感覚をまとめられたかどうか...というところですが。。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-22

「そこまで書いて私は眠気覚ましに真水を飲んだ。」から絵文字が出てくる直前の「その辺に埋めておくと猫が掘り返すことが往々にしてあるため、水に流してやるしかないのである。」までの部分、それから「五月雨と書いて、さつきあめ、さみだれと読む。」から始まる段落。全く別の話題へと次々としかも非常に滑らかに遷移していく様。非常に論理的な文体で綴られ、理路整然と論理を展開しているかのうように文章が振舞っていてるにもかかわらず、その実、論理的にはどんどん解体していく様子がとても魅力的でした。そうした見かけの整合性と内容の論理的な繋がりの不整合性のギャップから生まれる不思議な違和感はとても好きなのですが、(仮にそれが作品の一つの狙いであるとするなら)絵文字の使用や、唐突な引用、冒頭の詩などは、そうした「整合性の皮を被った不整合」の魅力を損ねてしまっているように感じられ、残念に感じました。あるいは、論理的な文体はあえて犠牲にして「言葉のサラダ」感にもっと寄せていったほうが絵文字や唐突な引用は効果を発揮したのではないか、とそんな気もします。私が感じたのとは全く別の効果を狙って書かれたものかもしれないので、あくまで個人的な感想ですが...。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-20

フォーラムで森田さんがお好きだ、ということでマグリットを挙げておられましたが、「僕は青空を飛翔する/そんな鳥の絵」といった表現をはじめ、まさにマグリットの絵を想起させる世界観だなと感じました。「僕」の「悲しみの感情」の理由には一切ふれられていないのが、「悲しみ」という言葉を重さから解き放つ効果を持っている気がして、コンパクトな美しさを感じさせます。そういったとことも含めてマグリットの絵っぽいな...と感じました。 (リトル・ムーヴメント)

2017-09-20

森田拓也さん こんにちは。コメントありがとうございます。世界観が好きと言ってた頂けるのはなによりも嬉しいです。最後の1行、人によって感想が別れる部分かもしれないですね。何かしら感覚を共有できてとても嬉しいです。 (君の写真)

2017-09-20

ベタつかないどこかクールな温度感と透明感が感じられて、それがとても魅力的でとても好きです。気になった点があるとすると「僕はたったひとり、ひとりきりなのだとわかった」で、「ひとり」が被っている部分、読んでいて少し突っかかる感じがあったのでどっちかを削るともっと格好よくなったのでは、と思いましたが、これはこれで魅力的な気もします。「また明日にひらく朝顔ではないので僕たちは永遠に取り込まれなくてはならない」「ただ硝子のようにすべらかに僕とのつながりを阻む」といった表現がとても好きです。 (語られない言語)

2017-09-18

まりもさん コメントありがとうございます。勝手にまりもさんの作品を引き合いに出してしまい、こちらこそ恐縮です(しかも、まりもさんの本来の意図とは無関係に自分が感じたことを主体に語ってしまいました)。その後、まりもさんがコメントでメシアンに言及されていたのでメシアンの「鳥のカタログ」を聴きながら改めて「奏楽」をお読みしたのですが、なるほどイメージに相通じるものがある気がしました。メシアン自身、共感覚に似た感覚の持ち主だったと云われていますので、音から色や形や空間が自然に生まれていく、そうした「生成」のイメージはメシアンの曲にちょうどぴったりのものかもしれませんね。 それぞれの詩を丁寧に読んで下さりとても嬉しいです。ご指摘の通り1連目はわりと緊密に書けたな、という気がしているのですが2連目はまだ書き途中の段階でこの作品に無理やり組み込んだ感があり、やはり後半部分、散漫になってしまったのは否定できません。もちろん、ご指摘のように「不統一のもたらす不安感」を狙った部分はあるのですが(ちょうどショパンのソナタ2番の終楽章のような…)もう少し練り込む必要がありました。具体的なご指摘、とても嬉しく思います。ちなみに「誰かが弾くショパン」、これは自分のなかではまさしくプレリュードです。でもワルツでもいいかもしれませんね。楽しいはずなのにどこか心許なげで、不安さえ顔を覗かせる、そんなところがワルツのひとつの魅力だと思います。 <三連目。ここは、三面鏡を直角に立てて覗き込んだ時の、永遠の回廊に迷い込んだような心細さと酩酊感を思い出す部分でした> このご感想はとても嬉しいです。「酩酊感」!まさしくそれなんです、表現したかったものは!あと最後の部分はご指摘の通り、もうちょっといい表現がありそうですね。改めて読んでみて〈出鱈目な永遠という事になるらしい〉の部分で、確かに集中力が切れてしまってる感があるなあ、と気づかされました。 <冷蔵庫の中にそれを探す、という無茶ぶりが、逆に面白いと思いました> この4連目に関して言うとこれは冷蔵庫じゃないとどうしても駄目なんです、ごく個人的な理由なんですけど、冷蔵庫がとても大事でこれは外せませんでした、笑。自分のなかではどれも関連しあっているんですが、確かに全体的にちょっとシュールな連鎖かもしれないですね…。「深い所でつながっている、そう納得させるものがあります」と言って頂けたのがとても嬉しいです。 「花葬」という言葉に関して言うとちょっと安易に使いすぎたな、、と思っています。改めて読んでみて、ただでさえ無関連に思えるものが連鎖している表現のなかで「花葬」というさらにイメージの強烈な(しかも「人によって、かなりイメージも異なる」)言葉を持ってきたのは無謀だったかもしれません。もう少し静謐な雰囲気の言葉を慎重に選ぶべきだったかもしれないな、と思います。 いろいろと勉強になりました。丁寧な読解、ありがとうございました。 (不眠症のポエム)

2017-09-18

深尾貞一郎さん コメントありがとうございます。こういう具体的なご指摘はとても嬉しいです。ご指摘の二つの表現は最後の最後まで入れるか入れないか悩んだんです。個人的には「僕」がどう感じたかは極力排除しほのめかす程度にしつつ読者に読み取ってもらいたいな...という気持ちがあって、どちらの表現も当初はなかったものなんですが、これだとあまりに宙ぶらりんで伝わりにくいかな...という気もして付け加えたんですが、改めて読んで見て、やはりご指摘の通り、どちらもないほうがしっくりくるような気がします。特に最後の一文はやっぱりどう考えてもわざとらしいというか、余計ですね。ありがとうございました! (君の写真)

2017-09-17

コメント修正)「例えばその部分の文章をカルチャーショック的な内容に絞って」ーー>「例えば1段落目の文章をカルチャーショック的な内容に絞って」 でした。失礼しました。 (アメリカ論)

2017-09-15

アメリカの田舎の風景にはどこか憧れがあって、自分は主にヴェンダースや初期のジム・ジャームッシュの映画を通してしかそういう風景は見たことがないんですが続編をもっと読んで見たいと思いました。2段落目の最初の文章で「ところで、所謂バックパッカーとして旅をしてきて一番大きなカルチャーショックを受けた国はどこかと聞かれればそれはインドネシアでもミャンマーでも、グアテマラでもなく、アメリカ合衆国、それもほとんど旅行者がいかないような田舎だ。」の部分なんですが、1段落目の語り口がどこか淡々としていて、カルチャーショック度合いがあまり伝わってこなかったように感じてしまったので、例えばその部分の文章をカルチャーショック的な内容に絞って、その他の雑感を省略するなどすると、もしかしたら、2段落目の最初の「実は秘境とは一般的に思われていないアメリカが秘境だったんですよ!」っていう驚きがもっと強烈に表現できたのかもしれないな、などと感じたりもしました。もしかしたら「アメリカの秘境」というものを風景としてもっと強烈に感じたいという自分の中の勝手な憧れがそう感じさせたのかもしれません。 (アメリカ論)

2017-09-15

この詩からはとても潔い読後感があってどこか爽快でした。答えを要求されているのに答えを出すこと自体を放棄する。っていうときには爽快な割り切りの結果である場合と、なんだか捻くれてしまったような自暴自棄の結果である場合がある気がします。分からないことには分からないって素直に言える人でありたいと思うし、ときには要求されている正解に対してあえて白紙でもって答えるそんな潔さも持ち合わせていたいな、と、この詩を読んで感じました。 (白紙)

2017-09-15

沢山ご説明ありがとうございます!ちょっと咀嚼に時間がかかりそうです、もう少し読み込んでみます。 「感覚的に何かを感じることさえ拒まれている印象」と、感じたことをそのまま書いてしまったのですが、もしかしたら感じることを拒否していたのは私のほうなのかもしれないですね。 (ペルセポネの哀しみ)

2017-09-14

m.tasakiさん コメントありがとうございます。複雑なだけになかなか表現するのが難しいものですね。精進します! (君の写真)

2017-09-14

内容については私が無学なせいだと思いますが、非常に難解で、感覚的に何かを感じることさえ拒まれている印象を受けました。「詩行の形は、冥府への下り坂を、 一段一段、階段を降りていくイメージ」ということに関しては、おそらく縦書きであれば直感的に感じられるものだったかもしれない、というのが少し残念です。日本語を縦書きで書くという行為そのものが上から下に向かう一定の重力を持っているものだと思います。作者が縦書きで書いた文章と横書きで書いた文章、あるいはアナログで書かれたものとデジタルで書かれたもの、デジタルであってもキーボードで入力されたものとフリック入力されたもの、内容は似ていても「書く」という行為に付随する重力というか物理的な力学はそれぞれ違っているので、必然的にそうした物理的要素が内容にも反映されるのかもしないな...といったことを深く考えさせられました。 (ペルセポネの哀しみ)

2017-09-14

作品のなでも「浮遊」という言葉が何度も出てきますが、文章自体にも不思議な浮遊感があって非常に魅力的に感じました。「この世界全部が夢でも幻影でもなく本当に存在しているのかどうか確信が持てない」といった説明的な表現もあまり説明的とは感じさせないところがとても不思議です。「137センチ」や「5.9センチ」といった半端で具体的な数字が度々出てくるのも、また、いちいち木槌で叩いて「本当にそこに存在しているかどうかを」確かめるといった行動を取るといった描写もなかなかに偏執症的だと思うんですが、それが淡々とした語り口のせいなのか、強迫的で神経質に感じられるというよりはむしろ、ふわふわとした独特の心地よさと共に感じられる気がします。表現されている感覚に対するある程度の共感もあるのかもしれません。 (視点)

2017-09-14

返詩、荒らしと紙一重だったので投稿しようかどうか悩んだんですが、うまく伝わったようでとても嬉しく思いました。それから過去作品へのリンクありがとうございます!いくつか読み始めていますが、やはりとても好きな作品が多いです。特に短い作品ほど惹かれるものがあります。意味が分かるとか分からないを超えたところで感じる恍惚とした美しさがあります。沢山書かれているので、じっくり読んでいきたいと思います。 (紙の本という文化は、地球上で最も奇妙なビジネスの一つである。(未完成))

2017-09-11

こういう実験スピリットは嫌いじゃないです。がkaz.さんの作品の中では、叙情的な小品がとても印象に残っており、もっとそういう作品が読みたいな、という我儘な気持ちもあります。 せっかくなので返詩を書きます。 --- 拡散希望(完) #拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望#拡散希望 (+261/140) (紙の本という文化は、地球上で最も奇妙なビジネスの一つである。(未完成))

2017-09-11

花緒さん ちょっと、というかだいぶ長くなりますが、改めて返信させて頂きます。自分のコンセプト的なことを直接書いてしまうのはあまり好きではないのですが、今回はなんか語りたい気分なので、お時間があるときにでも読んでくだされば嬉しいです。 まず花緒さんのコメントで「日を変えながら何度も読んだ。」という言葉がとても嬉しかったです。というのは、そもそも作品をこの形に閉じ込めたのは、ネットにおいて表現物(詩、文章に限らずイラスト、写真そういったものすべて)は、本当の意味で深く鑑賞されることはあり得ないかもしれないし、自分もまるで消費するかのように鑑賞してしまっている(情報量の多さゆえにそうせざるを得ないし、おそらくこれからもそうだろう)、という一種の諦めが出発点となっているからです。 消費するように表現物を鑑賞してしまうというのは、あるいはネット上のことだけではないのかもしれません。自分の場合、昔のいわゆる文豪が書いた文学作品などはそれこそ時間をかけて本当にじっくり味わいながら読みますが、最近の作家さんの作品はどうしても消費するように読んでしまうものが多い。自分の怠慢だと云われればそれまでの話なのですが…。 詩であれば、例えばリルケの詩を読むときは一つ一つ隠喩の意味を考えながらじっくり読むのに、最果タヒさんの詩の場合は理解することをある意味放棄して、表面の感覚だけをさらうように読んでしまうところがある。(ちなみに最果タヒさんは大好きで詩集は何冊も持ってます。自分は詩のコンテキストにはあまり通じていないので、あくまで素人意見なのですが「グッドモーニング」などを読んでると、自ら他者の理解や共感を拒否して書かれているようにも感じます。一番好きな詩集のひとつです) で、自分の作品の話になるんですが、今回の4連はもともと別々の作品として書いたものです。自分が個人的に体験した感覚とか、または論理的な文章にはならない思考とか、そういったものをどうしても表現したくて、技術的には拙いながらも、かなり切実な思いで書いたものです。 で、最初の出発点に戻るんですが、どんなに切実な思いで書いても、それは読者には伝わらないのではないかという疑念、そして自分も他の人の詩に対してそこまでじっくり対面できていないし、もしかしたらものすごく切実な思いで書かれたものに対して、とても的はずれで辛辣なコメントをしているかもしれない。そう考えたときに、じゃあいっそのこと、自分が大切な思いで描いたこれらの作品を表面的に扱われるようにしてしまおうと考えたんです。 そして、どうすれば表面的にしか読んでもらえないような形に落とし込めるか、ってことを考えたときに、まりもさんの「奏楽」をお読みしたときの自分の感覚を思い出しました。まず綺麗な長方形のフォルムに目を奪われてなかなか読み始められなかった。もう一つは読み始めてもなかなか頭に入ってこなかった。ということです。ただ、まりもさんの詩は個人的にとても好きなのでやっぱりきちんと読みたいと思った。何回も読んで、少しずつ頭に入ってきたな、と感じたときに、詩で描かれている情景がとてもコンパクトに感じられてこれは非常に美しい、と感じました。それでそのフォルムをそのまま自分の作品にも適用してみようと、ということが一つあります。 (すごく好きだなと思う詩人さんは他にも何人かいらっしゃって、それでも残念ながらじっくりと対面するというところまでは読み込めない。スマホで読むときはもっと親密さをもって読むことができたりするんですが、それでもやはり深いところまではなかなか潜れない。) もう一つは消費される表現、ということを考えた場合にやはりTwitterが頭に浮かぶんです。なので、Twitterの制限文字数140文字ぴったりに収めて、なおかつ長方形のフォルムしてみたら、フォルムは綺麗になるし、読みやすさは減るかもしれない。やってみると、どの小品もだいたい140文字前後。あとは改行の位置の都合であちこち微調整をする。でも、改行を意識して仕上げたのでそのままツイートしたら言葉のちょっとリズムとかが変わってしまう。そのこだわりは残したい。限りなくツイートのよう見えて、厳密にいうとツイートではない、ツイートできない。 長方形のフォルムに無理やり押し込めることで、自ら理解されること、共感されることをある意味拒んでおきながら(というより、そういう心持ちでいながら)、やっぱり消費されるように鑑賞されたくはないという気持ちがあって、この方法は自分の今のアンビバレントな感覚にうまくマッチしている。などと、いろいろグチグチ考えた結果、この表現に落ち着きました。 意図どおりの効果がでているかどうかは、まだ自分でも客観視できていないので他の方の意見が欲しいところでもありますが、まずこのコメントで書いていること自体、正確に理解されないのではないかという思いもありつつ……(あるいは自分がきちんと書ききれていないのではないか、という問題もありますが….) <書かれている内容というよりは筆致を楽しむタイプの作品だと思う。とするならば、純粋に技術力こそが批評の俎上に上がるべきだが、下手だとは思わないが、秀でて上手いと思わせる詩文もない。> 以上の流れがあって作品を作ったので、花緒さんのこのご指摘は、私にとってとても核心をついたものに感じられました。おっしゃる通りで、もし自分が「純粋に技術力こそが批評の俎上に上がる」ような詩文を書けていれば、もっと格好がついていたはずで、それこそ Taylor Deupree のようなミニマルな美しさをより十分に表現できたかもしれません(そして内容に関してはじっくり読んでくれた限られた人だけに何かしらが伝わればいい)。ただ、こればかりは一朝一夕では何ともし難く、あとは数書いて技術を磨くほかないのが今の所なんとも悔しく、またもどかしいところであります。 と以上、長文失礼しました。 (不眠症のポエム)

2017-09-10

花緒 さん コメントありがとうございます。レスしにくいという点に関して言うと、前作は無意識のうちにそんなものができあがってしまった。今回は、レッサーが評価しにくいものをわざと作ってみたい、と意図したところがあります。が、とんだブーメランですね。いざレスを頂くと(勿論とても嬉しいのですが)、レスに対するレスを返すのが非常に難しいです(汗)。Taylor Deupree をあげてくださったのはとても嬉しかったです(大好きなので)。しかも、Taylor Deupree の作品のなかでも4つ打ち系の作品ではなくアンビエント系の曲を挙げてくださってたのが特に。 花緒さんのコメントでいろいろ考えさせられたことがあるので、もう少し頭を整理してから(うまくまとまるかどうか自信はないのですが)また後日改めて返信させてください。 (不眠症のポエム)

2017-09-10

コメント修正:「全面」(誤)... 正しくは「前面」です (君の写真)

2017-09-10

まりもさん いつも丁寧に読んで下さり、ありがとうございます。他の方の作品へのまりもさんのコメントもよく読むのですが、詩の読み方や書き方について学ばされる点、新鮮な点が多々あり、いつも興味深く拝見させて頂いています。 <凄惨だけれども(だからこそ)興味をそそられて、聴いてみたい、と、〈君〉が思うことはないのか。そんな、ちょっとひねくれたことを考えたりもします。> このコメントはとても嬉しく思いました。この作品で自分が表現したいと思ったことがいくつか明確にあるのですが、その一つがまさにこれに近いことだったからです。全体の読みも、この路線でもっとひねくれて読んでいただいたほうが自分の意図をもっとお伝えできたのではないかと思うのですが、そこは完全に自分の技量不足です。 <チャンネルを変えた時の、〈君〉の態度が、さりげなく示されていたら。また、〈僕〉の絵に、何が描かれているのか(ここは、読者の想像に任せる、という方法もあるでしょう)そんな案が浮かびました。> なるほど。そうですね。確かに最初のセクションは、推敲していく過程でも一切いじることなく、最初に書き起こしたときからそのままだったので、工夫が足りない部分だな、とご指摘を受けて思いました。中間部分はかなり悩んで何回も書き直したのですが、なかなかうまい表現が見つからず、でも、もっとうまい書き方があったと思います。ご指摘ありがとうございます。 これは今回一番力量不足を感じた点なのですが、「もうとっくに手遅れだった」ものが果たして本当に「僕」と「君」との関係だけだったのか、「感覚のずれ」以上の何かがあったのではないか、そもそもこれは二人の関係に関する作品なのか、といった部分へのもっと深い読み、まりもさんの言葉を借りれば一種の「ひねくれ」た読みにもっと読者を誘いたかったな、というのが正直なところで、かといってあまりそれをダイレクトに全面に出したくはない。表現の引き出しが少ないというのも原因の一つだと思うのですが、表現したいと思っていることを、きちんと読者に伝わるように表現するというのはとても難しいことなんだ、と自分で書いてみて改めて、文章のプロの方達の凄さを感じています。今後の課題としていきたいと思います。 (君の写真)

2017-09-10

ツイッターの制限文字数で書くというのは使い古されたネタではありますが、書いていて楽しかったです。 (不眠症のポエム)

2017-09-07

追記:文章の分断そのものよりも、その分断に気付かずに書かれた文章であるというのが気味の悪さの本当の正体なのかな、という気もします。 (君の写真)

2017-09-06

花緒さん ありがとうございます。感覚を共有して頂けたのがとても嬉しいです。どこからどう見てもヘタクソな文章なので(感傷的なものを書こうとして派手に失敗してる文章に見える)、この奇妙な感覚は伝わらないままスルーされるか、影で揶揄されて終わるだろうな、と思っていたのでとても嬉しいです。 実は当初この3倍くらいの分量で、全体のまとまりや繋がりをかなり意識して書いた散文だったのですが(それが果たしてまとまりのある文章だったかはさておき...)、とても感傷的な仕上がりになってしまったのが気に入らず、そこから無駄だと思えるものを片っ端から削いでいったり、細部を何度も書き換えたりした結果こうなりました。推敲の段階では、花緒さんが言及しておられる「気持ち悪い感じ」「何度か読んでも、やはり変な感覚」というのには自分でも気付かず、出来上がってみて初めて「あ、なんかこれ気味が悪い」と自分でも感じたという経緯があり、作為的にこの感覚を作った訳ではないんです。自分で読んでもあまりに気味が悪かったので、全面的に書き直そうかとも思ったのですが、ただ、その気味の悪い感じが、ちょうど自分が表現しようとしていたことに実はぴったりなのかもしれない、ということに気づいたので、そのままでいくことにしました。 この「変な感覚」は意図的に作り出したものというより自然発生的に生まれてしまったものなので、その感覚のカラクリは自分でもはっきりとはわからないです。ただ自己分析してみて、おそらく文章が分断されている(つまり文章が全体としてものすごくヘタクソである)ことが主な原因ではないかな、と思っています。文章が論理的に、あるいは情緒的にこの次繋がっていくのだな、と頭が経験的に予測し、その次にむけて待ち構えているところで突然繋がりが失われてしまう。連の区切りである「・」の使用も当初は長めの散文を章ごとに区切る意味合いで使っていたので、全く別の意味をもっていたのですが、最終的にはその分断に一役買っている気がします。文章がどれも「〜だ」「〜た」で終わってるのもかなり大きいと思います(これも意識的に行ったわけではないのですが...)。これで全体のリズムや繋がりが著しく損なわれている気がするんです。だからどこか気持ち悪い。もしかしたら内容そのもの(例えば「怖い」という言葉の濫用)よりもむしろ、こうした文体由来の気持ち悪さの比重が大きいのかもしれないと感じたりしています。 もしこの文章を読んで似たような奇妙な感覚を覚えた方がいらしたら、是非感想をお聞きしたいところです。 コメントありがとうございました! (君の写真)

2017-09-06

追記:もしかしたらどこかで既出の意見かもしれませんが。。 (門)

2017-09-05

「ネットならではの」実験ということであれば、例えばニコニコ動画での弾幕やアスキーアートといったネットカルチャー独特の文字表現、言語表現への意識的な言及があるともっと重層的な作品になったのではないか、と、ふとそんな感想を持ちました。 (門)

2017-09-05

追記: 長文投下したうえに追記だなんて、申し訳ありません。上記読み返して見て、批判とは取られたくないな、と思ったので追記します。B-REVIEWの運営の方は全く頭が下がることにほとんどすべての投稿に対して誰かしらがコメントされています(つまり評価を試みておられます)。なので、この掲示板の存在によって、面白みを見いだせる文章の幅をどんどん広げていきたいという「脱権威主義」的な理念もあると思っています。それはとても素晴らしいことだと思います。 なんだか全体的に理屈っぽくなってしまい申し訳ありません。。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-09-03

ポエム論、なかなか面白そうな議題なので参加させてください! ポエム問題(とポエムを蔑視する風潮問題)は花緒さんが貼ってくださったリンク先のページにあるように、ネットの普及との関連が一番大きいのではないかと思います。昔は、イラストであれ文章であれ、音楽であれ、写真であれ、他の人に見てもらったり読んでもらうためには同人活動をするか、あるいはそれなりに権威のある雑誌といったメディアに投稿して、そこの審査員に認められる必要があったのに対して、ネットの登場でそうしたフィルターがいらなくなった。一種の権威主義が崩壊したというか、それとは別の軸が発生してむしろそちらがメインストリームになっていったという印象があります。で、ツイッターとかの普及によって、ちょっとしたの感傷的なつぶやきとかを共有できるようになって、そういった手軽なものが、<感情を共有するという役割を果たすものとしての「詩」>の役割を果たすようになったのではないかなあと(例えばですが)。なので個人的な意見なんですが、「ポエム」として蔑視されるものと一般に「詩」として評価されるもの一番大きな違いは、それを評価・批評する枠組み(というか権威)があるかないかの違いだと思います。 花緒さんのおっしゃる「中学生がノートに書いて喜んでるような若気の至りな詩篇をポエム」と呼ぶ、という定義はつまり、そうした「若気の至りな詩篇」は詩、文学、思想のもつ文脈に照らした本格的な(あるいはアカデミックな)批評に耐えうるものではない、よって「詩」とは呼べない、ということではないかと感じました。じゃあB-REVIEWにおける「詩」とは何なのかということになるんですが、意地悪な言い方をすればB-REVIEW運営の方達(という一種の権威)が何かしらの形で評価し得るものかどうか、シンプルにただその一点に尽きるのではないかと思います。つまり運営側の花緒さんが「構築されていたり抑制されていたり重層性の伴うものを詩と呼ぶ」と定義されている以上、B-REVIEWにおける詩というのはそういうもの(あるいは運営の他の方が詩だと定義できるもの)であるというほかないのではないかと。良い悪いではないとは思いますが、それはこうした掲示板の性質上どうしても避けられないことではないかと思います。おそらく運営の方々もその辺りのことにはとても自覚的でいらっしゃって、それに伴って発生する問題については頭を悩ませておられるのではないでしょうか? 個人的には、よく揶揄されるようなネット上の「ポエム」に対してはどちらかというと肯定的です。気軽にみんなが感情や感覚を共有しようとしているのだから、それは素晴らしいことじゃないのかと......。あとは好き嫌いでしかない、という気持ちがあります(アカデミックで権威主義的な批評も最終的には好き嫌いの問題に行き着くといういうのが持論ですが、ここを語り始めるとさらに長くなりそうなので、このへんで、笑) (こんなに-し合っている私と君は)

2017-09-03

中間部分の読みにくさに関してですが、私の場合、特に情緒的な文章を読むとき大抵頭のなかで音読しながら読むことが多いんです(というか、そうしないと読めないんです。もちろん実際の音読とは微妙に違うのですが.......)。で、そのせいもあるのだと思います、シンプルに途中で息切れしてしまって読むのがしんどくなってしまうというのがあるかもしれません。かといって分量的には一気に読んでしまいたい誘惑にかられるので、そこで感覚の齟齬が生じるという感じです。 あとは視覚的イメージの話になりますが、一つ一つの言葉に対してイメージを膨らめせていくと、頭の中が自分のなかにある青のイメージでどんどん埋め尽くされてしまいパンクしてしまうといえばいいんでしょうか、、「青の断章」どころではなくなり「青の氾濫」となってしまう感覚を覚えました。 とても個人的な感覚なのですが、少しでも参考にしていただければと思ってコメントしました。 最初と最後の1行は個人的にはとても味わい深く読ませて頂きました。「青にはなれない青。見られることのない青。」はそこに人生を重ねることもできるかもしれません。どこかとても切ないですし、「眼はいつまでもその姿を見ることができない。」という自己言及のパラドックス的フレーズもとても好きです。ロラン・バルトの「エッフェル塔」というエッセイを思い出しました。 (青の断章)

2017-09-02

>自分だけ作風がちょっと頭でっかちなのじゃないか、と憂鬱になったりもしますが……。 いや、そんなことはないと思います、どちらかというと読み手としての私の問題かなと...。というのは自分は小説読むときなんかも基本的に頭の中で映像化・音声化してからでないと読めないので読む速度が遅いですし(論理的文章だとまた違うのですが)、意味を理解するのにとても時間がかかるタイプなんです。ただ、友人のなかには自分の倍くらいのスピードで読んでも自分以上に中身を理解している人などもいるので、そうした人それぞれの特性の違いも関係しているのかな、と感じました。文章を読むのが速い人に話を聞くと必ずしも文章を映像化・音声化しているわけではなかったりして驚いたことがあります。 (道へ)

2017-09-02

文章がただひたすら美しすぎます。言葉が生み出す色彩だけで頭のなかがいっぱいになってしまい、私の脳内で容量不足発生、肝心の詩の内容をイメージしようとするときに、例えば古いパソコンで動画がカクカクしてしまうような独特の感覚になってしまって全体をうまくイメージできない、でもひたすら美しい。そんな不思議な体験をしています(断片的な映像は浮かぶのですが、それぞれがどうしても繋がって行ってくれない)。どちらにせよ何度読み返しても言葉とリズムの美しさに目と脳がくらみます。 「鶯の歌も、遠い街の花火も、幻想は波のうえでだけ舞うのであって、乾いた土が濡れるのはただ、紙片がめくられつづけるからだ」はこの一文だけでもものすごく味わいがあってとても好きです。暗唱したいくらいです。 (道へ)

2017-09-02

完備さん >「ヘタクソだと感じました」 そうですね。自分でも読めば読むほど下手くそですね。コメントありがとうございます。 (薔薇の花弁)

2017-09-01

6行を6連、しかもすべての行を(空白ふくめて)同じ文字数にしてしまった技術的な凄さもさることながら、文字でできた正方形の塊が6つあるという一種の威圧感というか、とんでもない存在感にまず圧倒されました。そして、躊躇しながらも読み始めて、すこしずつ見え始める景色はコンクリートのようにソリッドな外観からは想像もつかないほど繊細で柔軟な広がりと揺らめきを持つもので、その対比が、分厚い石のカーテンで仕切られて全く見えない向こう側を、そこに開けられたとても小さな窓から覗き見るような感覚を生み出していると思いました。 表現に制約があると逆に想像力が刺激されて景色が広く感じられたりするものですが、こんな方法があったんだと、とても新鮮でした。それと同時に、響き渡っているはずの「奏楽」がとても遠くに聞こえ、「決して自分がその風景の一部になることはないんだ」という、詩で表現されている世界に対する一種の疎外感を感じてしまったのも否めません。それは裏を返せば描かれている風景にとても憧れを感じるからこそなのですが...。 ひとによって大きく感想が変わってくる作品だと思うので色々な方の感想も見てみたいです。 (奏楽)

2017-09-01

徐々にでいいから さん 嬉しいコメントありがとうございます。詩って嘘をつかないものですね。キザなことを考えてるときは自然と言葉もキザになってしまうのかもしれません。よくも悪くも自分がそのまま出てしまう、というのが詩の一番の面白みの一つなんじゃないかなと個人的に思います。 (薔薇の花弁)

2017-09-01

まりもさん 私はバラがとても好きなんですけど、バラが枯れていくときのあの感じが最初は衝撃的で「なんて汚いんだろう」と思ったのを思い出します。でも、そんな枯れ方がどこか人間に似てるな、とも思っていて、美しさについて、特に人間が持つ美しさと醜さについてよく考えさせられます。 それからバラを「薔薇」と書いてしまうことで発生する引力というか重力には凄まじいものがありますね。「薔薇」という字面にまとわりつくどこか退廃的で耽美な世界観とか滅びの美学とかにはそういうのには強く反発する自分がいて、それでも、まりもさんの言葉を借りれば結局自分自身が「若く美しい間に散りたい、という、美意識を持っている人」(あるいは過去形になるのかもしれませんが...)なのかもしれないな、、などと鏡に自分の顔を映し出されたようにも感じました。 (薔薇の花弁)

2017-09-01

この詩かなり好きです。やりすぎると品が悪くなってしまいがちなところを、丁度いいところで整える、そんな絶妙なユーモアに知性を感じさせられました。「角が立つ」という冒頭から連想したのですが、初期の夏目漱石のあの独特のユーモアとどこか共通のものがあるような気がします。こういう風に書けたらなあ、、と憧れさえ感じます。 (斜になる)

2017-09-01

補足: 自分がこれを読んだときに感じたのはもしかしてこれは単なる恋愛の詩ではなく、モチーフは実は死別なのでは、という連想でした。だとすると文体のライトさと内容の深刻さの対比が物凄く重たいものになって、鳥肌がたったんです。(あくまで、深読みなんですけどね...) (Adieu...)

2017-09-01

とても素敵な詩で何度も読み返しました。情景がくっきり立ち上がって、音まで聞こえるようです。「細かい傷が目立つ/しかし清潔な/ガラスのコップ」が自分にもとても愛おしいもの(ひと)に感じられ、この詩の隠喩がもつ独特な曖昧さそのままで、この叙情的な世界観に浸っていたいな、とそう感じられました。 (contour)

2017-09-01

何回も繰り返される「また逢えるよな/サヨナラじゃないよな」のフレーズは「また逢えるよな(?)」「サヨナラじゃないよな(?)」という問いかけとも取れるし「また逢えるよ(う)な/サヨナラじゃないよな」とも取れるように感じました。深読みしすぎなのかもしれませんが、このフレーズをこの二重の意味で捉えながら読むととても胸が締め付けられます。最後のほうで二回繰り返される「すべて 本当だよ」が何かしら不穏な出来事を暗示しているようで、また何とも切なく感じられました。 (Adieu...)

2017-08-31

三浦果実さん 何かしらテーマを読み取ってくださり「私もこのテーマで書きたくなった」と言っていただけるのはとても嬉しいです。もしかしたら、私が自分で思っているよりもずっと「他者の美意識や感覚の差異」についての詩なのかもしれないな、とコメント頂いて気づきました。ありがとうございます。 美意識の差異ってどうしようもなくって、それでもその差異に寛容でいられる人には憧れます。結局そういう一種のおおらかさがその人の美意識を深めるものなのかもしれないな、と思ったりします。 (薔薇の花弁)

2017-08-31

追記: 発起人の方の作品ということで思ったことをズバズバと書いてしまいましたが、そういえば、酷評しておきながら具体的な理由を書いていませんでしたね。マナー違反で失礼しました。 「詩が本来持つべき内発的な何かが作品から根本的に脱落しているように」感じた理由というのは、コメントに対する三浦果実さんのレスのほうにはそうしたものを強く感じたにも関わらず、コメントで語られているその熱い思いが詩からはあまり感じることができなかったということです。前回の「持論」もそのように感じたというのも大きいです。作品よりもむしろ私コメントに対するレスの方が持論としてきちんと成立していると感じたくらいで、今回もコメントと作品が逆だったら表現としてより説得力があるのにな、と感じました。なかなか作品の内容そのものに触れることができずすみません。 (夏のハルディン急行)

2017-08-30

全体としてリズムや比喩がそれなりに計算されていて、詩としての形をそれなりに保っており、さらにそれなりのひねりも加えられているのにも関わらず、詩が本来持つべき(だと私が個人的に考える)内発的な何か(作者の動機や衝動、思想などとといいかえてもいいのかもしれませんが、承認欲求を超えたもっと切実なもの)が作品から根本的に脱落しているように感じました。 細かな表現一つ一つに感じる若干の違和感については、まりもさんがコメントのなかですべて語り尽くしてくださっている感じで同感です。とくに2連目は...。 あるいは、もしかしたらこれが音楽の歌詞だったら、ものすごく魅力的だったのかもしれないな、、と感じたりしました(ネットで「ハルディン・ホテル」で検索したときに、平沢進さんという方のそのタイトルの曲がヒットして聞いてみたんですが、ああ、もしかしたらこういう音楽が三浦果実さんの頭のなかで流れていたのかもしれないな、、と詩のイメージと一致する部分がありなんだか妙に納得したりしました) (夏のハルディン急行)

2017-08-30

冒頭の「わたしには拇指か人差し指がない/あるいはどちらもなくて/なにか余分なものがついただけ」がとても印象的でした。何か喪失感というか虚無感というか、心の中で何かがひどく欠落してしまって、もうどうしようもなくなってしまったもどかしさや痛みみたいなものが伝わってきました。これはなかなか凄い表現だな...と。とても好きです。 ただ、もし仮に最後の「純白」が「純潔」を指すのだとしても(自分はそう読んだんですが)、そうでないとしても、全体にもう一捻りあればより味わい深い作品になったのではないかと思ったりします。というのは「もう戻ってこない」ものとして「上履き、筆箱の中身、食卓、」が挙げられていて、それらが戻ってこないことの意味を一つ一つ考えた時に、激しい痛みを読み手として感じたからで、詩のなかにこの3つを失うことに関する表現がもう少しあったら全体のまとまりとしてもよりよかった気がしますし、「わたしには拇指か人差し指がない/あるいはどちらもなくて/なにか余分なものがついただけ」という表現がさらにインパクトを持ったのではないかと感じました。 (拇指)

2017-08-30

なかたつさん とても丁寧に読んでくださりとても嬉しく思いました。私はあまりこうした解析的な読み方を普段ほとんどしないのですが、こうして丁寧に解析していただくと自分でも見えなかったところが見えてくるように感じます。  <展開される詩行は「未来」について語られたものですが、その「未来」を「過去」と置き換えても違和感がないようになっています。> これは鋭いご指摘です。それが意図のひとつだったので。。 <これは、これから起きるはずであることを先取りしたものなのか、それとも、過去に起きたことが未来に繰り返されることを予測しているのか。> 自分のなかには、この点に関してはっきりとした答えというか前提みたいなものがあるのですが、あえて明言は避けます。が、この詩で一番表現したかったことの本質に触れてくださっている一文でしたのでとても嬉しく思いました。この詩全体が、なかたつさんのこの言葉の周辺にある感覚と感情に関するものなんです。作品としてもう少し上手に表現したいと思っているので、これからもこの感覚・感情の表現にトライしたいと思っています。 他にもドキッとさせられるご指摘がいくつかありました。中には「まさにその通り」というものもあり、そうした点を共有できたことをとても嬉しく思います。 丁寧なご感想ありがとうございました。 (未来の)

2017-08-27

まりもさん コメントありがとうございます。なるほど、確かに架空恋愛としても確かに読めますね。私にとってとても新鮮な解釈でとても嬉しく思いました。 実は詩の着想となる具体的なモチーフ(人生のおける出来事とでもいいったほうが正確かもしれません)があってそれをもとこの詩をに書いたのですが、 そのモチーフを直接連想させる言葉はできるだけ削って、読者に解釈の余地を多分に残した抽象性を持たせる、ということを今回強く意識したんです。 <美しい思い出だけを残して、全てを(事前に)棄ててしまいたい。そんな未来を憧憬しながら悲嘆するという、不思議なジレンマが歌われているように感じました。> 自分が詩にすることでしか表現できなかった感情、感覚をこうして読んでくださった方が言葉にしてくださるのがとても嬉しいです。「ああ、そうか自分の表現したかった感覚って論理的に説明するとこういうことなのか」と。「未来を憧憬しながら悲嘆する」はまさしくそのような言葉です。 (未来の)

2017-08-27

修正: 「タイトルにも「夜」からそのように感じるのかもしれません。」 → タイトルにすでに「夜」が含まれていて、そこからすで夜のイメージは十分頭の中に広がっていくのに対して、「夜」が二重になることで「重さ」に関するイメージが限定されてしまう感じがしてしまう。 という感じのことをいいたかったです。 文章を修正中に「送信」をおしてしまい、連投してしまいました。すみません。。 (夜の水遣り)

2017-08-27

この短さがとても好きです。たくさんの音や色が実際に見える気がして詩の持つ世界にグッと引き込まれました。都会の狭いアパートのベランダ、とそこに置かれたいくつかのプランター。外から聞こえてくる車の音、ブザーの音、切り替わる信号の色、遠くの電車の音、ジョロで水をあげる音、花の色、窓から吹き込む風の音、室内のテレビの音、切れかけた蛍光灯の色。。 少し勿体無いな、と感じたのは「夜の重さ」と書くことで「重さに揺れる花」のイメージが「夜」という言葉にしばられてしまうことで、頭の中で「重さ」に関する連想が重なっていかないもどかしさを感じました。おそらく、タイトルにも「夜」からそのように感じるのかもしれません。 (夜の水遣り)

2017-08-27

言葉をできるだけ削っていく姿勢、とても好きです。また「赤い旗」を「〜赤い/旗」と改行することで生まれる独特のリズム感・独特の突き放すような感覚に対して、最後ではそこを改行せずに「赤い旗」と書くことによって生まれる対比・最後の連での風景の広がりにハッとさせられました。 それから「彼らは今頃赤/い旗の向こうで生活/でもしているのか愚問」のフレーズがかなり好きです。 (手を振る)

2017-08-27

好みはいろいろだと思いますが、自分はこれ好きです。最後の一文が特に。抑え気味の淡々とした流れのなかで、相手に対する本当の気持ちが最後にどうしても抑えられなくてはみ出てる感。 (好きだった人にいっそ嫌いと言ってもらいたい)

2017-08-26

三浦果実さん 鋭い感想をありがとうございます。 「明るい未来を望んでるのに、最初からバッドエンドはわかってんだよ、という切なさなのかもしれないし、その切なさを、今作「未来の」は表現したかったのかもしれない。」 ニューシネマの映画自体はあまり観ていないのでニューシネマの雰囲気についてはあまりよくわからないのですが、それでもこのご指摘はかなり近いです。この言葉で表現して頂いて自分でもはっとさせられたくらいです。こうして自分の表現したいことを形にすることで、他の人が自分のことを自分より正確に映し出してくれるということもあるのかもしれませんね。何かしらの形で自分を表現をすることの意味を新しくひとつ見つけた気がします。 「その視点でみると時間軸のねじれ方がよくわかるんだけど、何かもうワンパンチ足りないような気がする。」 これはおっしゃる通りなんです。できるだけ重たくならないように、センチメンタルになりすぎないように、深刻になりすぎないように、ある意味突き放すように、ということにかなり気を使って書いたのですが、なかなか難しいものですね。「時間軸」に関してはまだまだ表現したいこと、表現しきれていないことがあまりに多く、これから少しずつ深めていきたいと思っているテーマの一つです。 (未来の)

2017-08-25

返信ありがとうございます。なかなかに衝撃的な内容でした。 ノーマル日常生活のまま「ゾーン」へ突入することが出来ないかと、考えておる次第です ノーマルであることを厳しく自覚しながらも「自死する者が異常な状態にて直前に現すであろう言葉」としての「狂気」に、ある意味激しく憧れ、その境地に達するために自分の心身を激しく痛めつけていく。三浦果実さんの定義する「狂気」とは違うかもしれませんが、これは私にとってはある意味立派な「狂気」です。HAneda kyou さんのの最後のコメントに通じるものがあるかもしれません。 そういう意味では、ひとつひとつの作品だけでは決して完結しえず、三浦果実さんの生き方、言動そのものが、あるいは作品となるのかもしれませんし、もしかしたらそうした作品を意図されているのではないか、、などといろいろと深く考えさせられました。表現することに本質に触れる問題を提起してくださっているように感じますし、表現物がそれ単体では「表現」として完成しえないことの多さについて考えさせられます。形式が持つコンテキストからは独立し得ないということもそうですが、表現者自身がもつ文脈とは無縁ではいられないということについてです。 (私個人としては表現そのものが単体としてもつ強度や普遍性というものに対してもっと純粋でありたい、と望んでいますが、それはもしかしたら叶わないことなのかもしれないと思ったりもします) (詩論:再び偽りに終わったとしても)

2017-08-25

花緒さん コメントと素敵な解釈ありがとうございます。解釈そのものが一つの作品のようで、このようなコメントを書けるのはとても素敵なことだと思います。個人的には解釈をあえて公にすることに関して、ちょっとした違和感をいままで感じていたのですが、いざ自分の書いたものに対して解釈をいただけると、こんなに嬉しいものなのかと、経験としてとても新鮮なものでした。改めて自分の詩を読んだときに新たな景色が見えてぐっと視界が広がったような気がしました。ありがとうございます。 (未来の)

2017-08-25

ネットにはたくさんの言葉とか写真とかイラストとかが溢れていて、たくさんみてもらいたいとか、もっと「いいね」が欲しいとか、そんな欲求が世界を回しているけれども、すごく好きなものって「いいね」もなにもしないでそっと自分の携帯に保存して何度も何度も見返したり、読み返したり。本当はそれが一番純粋な鑑賞方法なのかなと思ったり。でも、そうしてるだけだといつのまにか作るのをやめて消えてしまうひとが多かったり。せっかく素敵だったのにって残念になるけど、でも反応や共感ってどこまで本物で純粋なんだろうっていう一種の疑いもあって、あえて反応しないでいたい自分がいたり。。あえて反応してみてあとで自己嫌悪に陥ったり。。なんだか自分でも意味不明ですが、そんなことを色々と考えさせられるくらい好きな作品でした。「好き」しか言葉がないのかと、ちょっと情けなくなりますが。 (不法投棄)

2017-08-24

「生きた人はもう、/ずいぶんと前に/作りました」の部分の衝撃が深く深く余韻を刻んで何度も読み返してしまいました。本当に好きな詩に巡り合った時っていつも言葉を無くします。あまりに語ってしまうと何かがダメになりそうに感じてしまって、ただただ何回も読み直します。 (手作りの命)

2017-08-24

ものすごく素朴な感想なのですが、「狂気を書こう」とすればするほど、それは狂気からは離れていくような気もします。何をもって「狂気」とするか、の捉え方の問題なのですが、個人的には「狂気」ってもっと日常的な姿をしているイメージなんです。何をもって「狂気」とされているのか、三浦果実さんにとっての「狂気」とは何かっていう部分をもっと読みたかったな、、という気がします。こちらの読み取り不足もあるのかもしれませんが。。 (詩論:再び偽りに終わったとしても)

2017-08-24

「ずるぷかる君」というネーミングあまりに秀逸で、このネーミングがなければあるいは最後まで読めなかったかもしれないな、と思いました。こればかりは、なかたつさんの意図もあるのでどうにもならないことなんだと思いますが、最後にもう一度「ずるぷかる君」に会いたかった気がします。個人的には「ずるぷかる君」ということばの響きとその響きが喚起する豊富なイメージ、それから「23:15:53」を口に出して読んだ時に自分が感んじた語呂のよさ、がこの作品で特に気に入ったポイントでした。 (縁)

2017-08-24

「すくってもすくっても/てのひらは濡れず/ただ指の間を流れ去る」の部分がとても心に響きました。昔大好きだった石川啄木の歌を思い出したからかもしれません(「いのちなき 砂のかなしさよさらさらと 握れば指のあひだより落つ」)。 流れるように滑らかな文体にはどこか視覚を刺激するものがあり、美しい波文様をみているような気分になりました。とても好きです。 (流露)

2017-08-23

リズムがとても気持ちいいです。音楽的でとても好きです。ただ、「男も、喫煙者も、北朝鮮人も」の下りが(時勢的な問題もあるのだと思います)私にはノイズが多い言葉となってしまうのか、ひっかかりを感じてしまい全体のリズムを壊されてしまったように感じとても残念でした。全体のリズムがとても心地いいからこその感想です。ただそれだけひっかかりを感じてということは、その部分がもしかしたらこの詩のなかで一番大事な部分だったりするのかもしれませんね。 (ローリン、ローリン)

2017-08-23

帰路

2020-11-08

縮こまり快楽

2021-06-05