ラファエロ - B-REVIEW
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ラファエロ    

軌道から外れた惑星の旅が、終わっていく夜。2019年の大晦日には、宇宙の隅で方舟が燃え上がる。降り注ぐ火花を仰ぎ見ている黒豹。 僕らの差し伸べた手は、炎に焼かれて誰のもとにも届かず。包帯だらけの天使は、ガラス張りの天井を見つめている。誰が望んだのでもない結末。不幸せな血肉。片目を失ったバッドエンディング。 「幸せの余りをあげるよ」 かつてそう口にしたラファエロは、今では僕らを冥府へとエスコートする死神。天使の涙も枯れてしまった。憐憫も慈悲もない荒れ地。そこではヒビの入った墓碑が、粉々に砕かれるのを待っている。 天使の日々は無為だった。 天使の日々は徒労だった。 天使の日々は無駄だった。 「幸せの余りをあげるよ」 ラファエロ、あなたは夢の都へ人々を導くはずではなかったのか。彼の描いた天使は、血で汚れた羽根をもがれてなお、神を信じている。誰も望まないディストピア。誰も望まない終焉。 「幸せの余りをあげるよ」 ラファエロ、あなたは誰をも傷つけない理想郷を目指したのではなかったのか。彼の描いた聖人は今では、空を舞う天使を機関銃で撃ち落としている。誰がこんな惨劇を望んだというのか。 手放したはずの絵画にこだわり、手放したはずの画材を引き寄せ、誰にも絵を描かせない。誰にも自由を与えない。画廊では黒豹が飼い殺しにされている。 奴隷たちが涙ながらに、黒い太陽のもとを歩き、夢魔がわずかな寄贈品で、王でさえ操れると思い込む世界。わずかな捧げもので女王でさえ娼婦に出来ると盲信する宇宙。 天使は邪魔だった。 天使は目障りだった 天使は駆逐すべきだった。 誰もが疲れ果て、ラファエロがその饒舌で、天使を自害へと誘う独断の地。ラファエロ、それがあなたの望んだ夢だったのか。それがあなたの望んだ未来だったのか。 ラファエロ、天使が監獄の中で凍えながら、祈りの手を燃やし尽くされる終末。それがあなたの望んだハッピーエンディング。 ラファエロ。 お前の肖像が燃え尽きていく。


ラファエロ ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 63
P V 数 : 5173.1
お気に入り数: 1
投票数   : 0
ポイント数 : 62

作成日時 2019-09-11
コメント日時 2019-09-17
#テキスト #アドバイス募集
項目全期間(2024/03/28現在)投稿後10日間
叙情性55
前衛性44
可読性44
エンタメ2929
技巧88
音韻00
構成1212
総合ポイント6262
 平均値  中央値 
叙情性11
前衛性0.80
可読性0.80
 エンタメ5.82
技巧1.62
音韻00
構成2.40
総合12.411
閲覧指数:5173.1
2024/03/28 19時50分40秒現在
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    作品に書かれた推薦文

ラファエロ コメントセクション

コメント数(63)
三浦果実
(2019-09-13)

これはダメだと思う。投稿するならば、自分を喜ばせるより、読者を喜ばせるより、俺の作品で世界を変えてやるという情念が宿っていなければならないと思う。

0
survof
(2019-09-13)

ステレオさんの作品ってあえて形容詞をつけるならフィクショナルな詩って感じだと思うんですど、フィクションってとにかく細部の作り込みの甘さが如実に作品全体のリアリティを損なってしまうところがあると思います。以前の作品でも古い言葉をどう使うべきか、についてコメントしたときも似たようなことを考えていたんですが、ステレオさんのフィクションって世界観の構築が正直なところかなり甘いように感じてしまうのでした。SFの形式でもなんでもフィクションって深い思索(あえて思想とは呼びません)の上の結果でない限りただのハリボテになってしまいがちだと思っていて、ステレオさんの作品はハリボテ感が毎回結構半端ないです。で、そのハリボテ感こそが作品のテーマだといえるほどハリボテについての思索の跡が見られないように感じてしまうので、「これはハリボテですよ」というステレオさんのレスすらハリボテ感があるように思うんです。 この作品に限って言及すれば、それぞれの「小道具」が本当に小道具としての役割しか果たしていないように思います。 冒頭を例にあげれば >軌道から外れた惑星の旅が、終わっていく夜。 正直、この一行を掘り下げれば十分長い作品が一つや二つできるレベルです。一つのフレーズで作品がいくつもできてしまうようなフレーズが思索の跡もなく(もしかしたら実際にはすごい思索があるのかもしれませんが、少なくとも私は感じ取れなかったです)ただひたすらコラージュされていく。繰り返しになりますが、コラージュ的手法に対する自己批評性もあまりないのでやはり「小道具」の羅列というか、毎回ステレオさんのアイディア帳を読んでいる気分になるんです。 私はいま「俺ガイル」読んでいるんですが、あのラノベはすごいなって思えるところがすごくたくさんあって、深い思索を随所に感じます。ラノベなのに、何回も立ち止まってこちらも深く考えざるをえないフレーズで溢れています(異論は認めます、笑)。エンターテイメントとしてももちろんめちゃくちゃ面白いんですが、なんだろう、フィクションの奥深さを考えさせられました。ラノベって確かに普通の小説と同じ手法では細部のリアリティを追求していません。例えば、登場人物の造形については自分で想像することよりもイラストを想像することが前提になっています(多分)。で、優れたラノベというのはそうしたラノベ自信がもつテンプレート性みたいなものにすごく自覚的であるように感じます。つまり、「純文学」と同じ方法で細部のリアリティーを詰めてはいけなくてラノベの作法で詰めないと読者がついてこないってことを分かっているんだと思うんです。じゃあ、何が「リアル」なものとして残るかっていうと主人公の思考だったりだと思うんですが、そうしたものもテンプレ化したなかで進められます。ですのでいかにテンプレをうまく使いこなすか、がリアリティに繋がるというような側面があるように思うのです。 ちょっと論理としてうまくまとまっていないところがあり、ツッコミどころ満載だと、自分でも思うのですが、まあ、そんな感じのことを考えさせられました。

2
stereotype2085
(2019-09-13)

いやあ気持ちいいですねえ。昨夜のキャスではこちらがはばかられるほどの褒め言葉をいただいたんですが、それとは一変。ほぼ一言酷評。笑けてしまうくらい気持ちいいです。俺の作品で世界を変えるという情念。この作品にはそれがなかったかもしれませんね。あるのは個人的感情の浄化、昇華。作品として観れるものにするというアプローチ。それはそれで良いと個人的には思うのですが、みうらさんには届かなかったみたいですね。爽快感さえあります。昨日お話ししたり、幾度もディスカッションした信頼感の上に成り立つ、厳しい意見。中々良いですね。こういうこともありますよ。順風満帆で行きましょう。そして行くつもりです。 survofさんへの返信は今しばらくお待ちください。

0
鈴木歯車
(2019-09-13)

内容のわりに「宇宙」「天使」の単語がデカすぎると思った。 ぼくが中学2年生のときに書いたやつにとてもよく似ている。

0
stereotype2085
(2019-09-13)

鈴木歯車さんへ。中二の時に書いたやつによく似ている、というのは厨二病チックとのある種の揶揄でしょうが、この詩に秘められた意味を含めて考えると、似て非なるものですよ。あなたが中二の時に書いたものとは。似て非なるものです。

0
黒髪
(2019-09-13)

ものすごく孤独なものが、孤独を払おうとする物語が描かれていると思います。個の孤独は、真実としてまで、 受け取れました。ただの幸福な作り物ではないと言えます。 「僕らの差し伸べた手」というところなど、手を差し伸べるという言葉が、現実生活で、なかなかないような 映像として思い浮かばせられ、創作物ならではの、表現だと思います。手を差し伸べることの意味があります。 この詩は、親密だったものが、現実の中で救われず、終わっていく物語だと思いました。 なんとなく、作者ステレオさんには、こうした、力が報われずに、意図がずれていくことによる、「終末」というモチーフが よくあるような気がします。 「滅びの美学」というような言葉が思い浮かびました。http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%C7%A4%D3%A4%CE%C8%FE%B3%D8 終わりがあるから美しい。 そういうことを、はっきりと意識させられることは、僕の生きてきた今までまだありませんでしたが、 そういうことを、叙情的に描いている作品に触れ、感じて、思い返してみると、そこにも救いが美という 形であるのだと、考えられて、とても新しく受け取られました。 人類同胞への思いを考えさせられました。誰かが思うからこそ、未来がつながっていく。 大人になりたいものは大人になればいいし、子どもでいたいものは子供を生きればよい。 いずれ自然に行きつく先はある。では、自分を越えたものの中には、良いものはどれほどあるか? 人が、希望するものの中には、自分で意識して思い願ったことについて、それで十分に良いものであったと言いうるか。 自分の願ったものと、現実に得られたものは、結果として、完全に素晴らしいものであったのか。 本当に望むなら、何を望むのが良いことなのか。望みを知らずに終わることが、承服できないこと としてあります。可能である願いを願うことなく終わることのないように。

0
stereotype2085
(2019-09-13)

survofさん、コメントありがとうございます。ハリボテ感。それは思索も思想性も何もないといった意味でしょうか。確かにこの作品にはそういう一面があるかもしれませんね。なぜか。それはこの作品がノンフィクションをメタファーの渦で覆った作品であるからです。この作品はフィクションではありません。現実に則した人物、出来事を「ラファエロ」や「天使」に置き換えて、それから受けた感慨や感情を表した作品なのです。この詩には理想郷や冥府、天使と言った分かりやすい表現、言葉が出てきますが、それは暗喩だらけのこの作品の敷居を低くするためであり、読みやすくするためです。完全なフィクションを作る場合、今の私ならこのような表現は避けたでしょう。この作品はフィクションを扱っているため、詳細に種明かしをして作品自体を擁護するのが難しい作品でもあるのですが、ラストの一節、権威や形骸化した思想、権威主義といったものの象徴でもある「ラファエロ」の肖像が燃え尽きていくというのは、避けられない悲劇性と運命のようなものも表していて、なかなか劇的だったのではないでしょうか。自分ではとても気に入っています。 さてsurvofさん仰るところの「メモ帳…」というご指摘は中々に面白いなと思いました。実際私は頭のメモ帳からアイデアを引き出しているのかもしれないのですから。それは思春期や20代、最も多感だった時期に蓄えた貯蓄とでもいうべきものです。 最後に「俺ガイル」を引き合いに出しての分析。分かります。平明で分かりやすいテンプレ的な文章でも深い思索があれば、それが作品に反映され、厚みが出るという感覚。今回の作品は恐らく色々な原因が重なり、思索のあとがsurvofさんには感じられない詩になったのでしょうが、これまでもそしてこれからもより一層思索、思想性が感じられる作品を書いていきたいですね。貴重なご意見ありがとうございました。

0
survof
(2019-09-13)

今朝コメントしたときからまたいろいろ考えたので先ほどのコメントとは矛盾する点もあるかもしれませんが、再レスさせていただきます。 >ハリボテ感。それは思索も思想性も何もないといった意味でしょうか。 いえ、違います。言葉同士がきちんと組み合わさった関係性を構築できていないという意味です。ですので私の感想は鈴木歯車さんの感想ともとても近いのです。言葉一つ一つ、あるいはメタファーであるとおっしゃるのであればメタファーの一つ一つが悪目立ちしすぎていて、お互いに自分以外の言葉やメタファーがもつリズムや豊富な連想など無頓着なままそこにあるように思えるということです。この部分は思想性の問題というよりも技術的な問題かと思います。つまり凄く下手くそなオーケストラを聞いている気分だということなのですが、これが私の言おうとしていた「ハリボテ感」であり「コラージュ感」であるわけなのですが、では意図的にそれがなされたのか、というところ、作者がそういった言葉それぞれの不調和に自覚的であるようには感じられなかった、つまり「わざと」下手くそなオーケストラを意図的に演奏しているようには感じられない。なぜなら、そうした場合には作者は過去の作品からの自身がもつ作者としての文脈において、あるいは作品そのもののなかにおいて、それが自覚的また意図的になされたことを暗示するのが常であるからで、私が読む限りの作品においては、ステレオさんというコンテキストにおいてそうした暗示は感じられないし(たとえばサンプリングの作品においては、かつて指摘させていただいたように「作者が運営であることに伴って自然発生的に生じてしまう権力勾配的なものへの無自覚」を私は感じて、それゆえに、そしてただその一点のみにおいてあの作品は私にとってとても不愉快なものでした)この作品においてもそうした技術面での意図的な綻びをあるいは破綻を暗示させるものが、私にとってはですが、全くなかった、ので、そこからステレオさんはもしかしたらそうしたことをあまり深く考えてはおられないのではないか、少なくともステレオさんにとっての主な興味の対象ではないのではないかと帰納するに至った次第です。 そして鈴木歯車さんが暗示した「厨二っぽい」という印象は実は私も全く同感で、「厨二っぽい」とはどういうことかを私なりに定義すると、それは「客観性の欠如」なのですが、鈴木歯車さんのコメントに対して、ではなぜ鈴木歯車さんが「厨二っぽい」と感じたかについて思索をめぐらすことはなく(あるいはめぐらしたもののコメントには書かなかっただけかもしれない)むしろ「似て非なるもの」であると断言することによって、ステレオさんは客観性が欠けていること、少なくとも、その点について客観的に考えようとしていることを示さなかったという点において、逆説的ではありますが、暗にご自身の「客観性の欠如」を証明してしまったようなものだと思いました。つまりこの「客観性の欠如」こそが私が指摘している「思索の欠如」です。 「この作品はメタファーである」といって自己弁護してしまうのは容易いです。しかしそれすらも私のとっては「厨二っぽい」ハリボテな自己弁護にしか聞こえないのです。この作品のタイトルはラファエロです。そしてステレオさんは「ラファエロが形骸化した思想、権威主義」の「象徴」であるとおっしゃる。それはステレオさんご自身がラファエロの人生や作品を深く研究して至った結論でしょうか?それに現代日本に生きる私たちにとって果たしてそれは適切なメタファーでしょうか? 私はラファエロの人生についてはよく知りません。ただ、私は画家や彫刻家や作家、科学者の評伝を読むのが大好きです。レンブラント、ロダン、ヘミングウェイ、アインシュタイン、グレン・グールド。彼らの評伝を詳しく読めばいかに彼らのパブリック・イメージが彼らの「本当の」姿とかけ離れたものである場合が少なくないかを知ることができます。あるいはいかにそれを裏書きするかを。そして広くは知られていない苦悩、矛盾、葛藤に溢れています。ですからそうした著名人の名前は彼らの複雑で常にアンビバレントな思想、人間としての苦悩、時代との葛藤、あるいは成功の喜び、深い挫折(わたしのこれらの言葉がすでにハリボテなのは自覚しています)、そうしたものすべてを背負っている。つまりラファエロは何かの象徴であるとしてしまうこと、それをメタファーにしてしまう安易さ。それを私は改めてハリボテと指摘させていただきます。 ステレオさんは、ツイキャスで是非コメントが欲しい、とおっしゃった。なので私は自分をむき出しにしてコメントを書きました。多少きつい物言いがあったかもしれませんがご容赦願います。

0
survof
(2019-09-13)

追記: 途中で「ハリボテ」の意味が肥大していますね。失礼しました。私の言葉も所詮ハリボテなのです

0
三浦果実
(2019-09-13)

ステレオさん 私はレスレスをやらない主義ですが、今回は書きます。一言だけ。 ステレオさんは、何もわかっていらっしゃらない。survofさん・歯車さんへのステレオさんから御二方へのレスをも含めて、読んでそう思いました。 更に、付記します。 何もわかっていらっしゃらない という一言で、全てをわかられる人はわかるのです。しかしながら、ステレオ さんにはこの付記が必要だということなのです。ステレオさんの今後にとって大事なことかと、勝手ながら考え言います。もっと御二方のコメントを読まれ、悩まれることを願います。以上です。

0
stereotype2085
(2019-09-13)

survofさんへ。非常に面倒なコメントが来たなという印象。ですがさすがsurvofさんとも思ったので丁寧な返信を。「下手くそなオーケストラ」という批評はまあ上滑りでとらえてしまえばどうでもいいことなので、いちいち拾いたくないけれど拾うならば、そういうことを言い出すと文字の世界、文章の世界ではあらゆる他人の文章が「下手くそなオーケストラ」に聴こえる可能性はありますよ。人間、他人の感情や気持ちの動きには時に不寛容だったりするものです。しかも文章には完璧な譜面と云うものがない。音楽に例えるならエディヴァンヘイレンのギターはただの騒音で音楽として聴くに値しない、と思う人もいるだろう一方で、彼の音楽は音楽史を変えたという人もいる。聴く人によって音楽の印象は変わるものです。ついでに言うと文章も。また「音楽は聴く気持ちのない人にとってはただの騒音である」との言葉もあります。以上のような条件を踏まえると、たまたまsurvofさんにとって合わなかったであろう音楽を「下手くそなオーケストラ」と紋切型で批判するのはいかがなものかと。それこそ不協和の騒音を聞かされている気分にもなります。こちらも熱を込めて書いている以上失礼を。 また客観性の欠如云々については。先のコメントにて客観性を示しているつもりですが、伝わっていないようですね。この作品には私情や私怨が深く込められた抒情詩であるがため、表層的に宇宙とか天使とかを安直に使っているのではない。齢を幾ばくか重ねた男性の心情が託されている。ですから表面的にスケールの大きな詩を書こうとして宇宙や天使が使用されているのではないということです。それが私の客観性の提示です。さてじゃあ歯車さんの作品はどうだったのかとなると、見てもいない、読みようもない中二の頃の作品と比較されても私は知りようがありませんし、またどうして私がそんな評にお付き合いしなければならないのか、理解に苦しむばかりというのが私の正直な感想です。 ラファエロの人生について深く思索し、調べた結果かとの指摘については。では逆にsurvofさんにお聞きしますが、誰か人名を使う時にあなたは、その人物の全生涯をつぶさに調べる義務があると考えておられますか。もしそうだとしたら詩を一つ書くよりも評伝を幾冊も書くことで人生が終わってしまうでしょう。私たちの人生は短いのです。ソフトバレエというバンドに「VIETNAM」という楽曲がありますが、そのタイトリングをした藤井麻輝さんは「特に意味はありません。最後楽曲が出来た時『VIETNAM』だったから『VIETNAM』にしただけで」と仰っています。私はそのような感覚、センスを尊びます。ラファエロの人生が詳細にどうだったか、そして後世においてそして現在の日本において、どのような位置づけかを事細かに定義して使うよりも、「形骸化した思想。ラファエロかな。だからラファエロだったという」という使い方です。これを思索の欠如としてsurvofさんが退けられるのなら、survofさんはインスピレーションとか、俗に「言葉が降ってくる」とかいうのを嫌い、疎み、軽蔑し、それらを一切しない詩人なのだなとの解釈に私はなりますが。繰り返しますが私たちの人生は短い。「作家は否が応にも技術を磨くべきなのだ。だからゲーテはインスピレーションを軽蔑したのだ(要約)」と仰っていた芥川龍之介さんは早めにこの世をお暇しましたからね。そういうことも含めて考えるとインスピレーションというのはあながち軽蔑出来ないと個人的には思っています。 さてお互い熱を込めて話し合ったあとで私の大好きな映画「王立宇宙軍」より、名シーンのセリフを引用してハリボテ論を締めくくりたいと思います。 シロツグ「おい、見ろよ!戦車だ!」 マティ「よく見ろ。ありゃハリボテだ」 遠方に見える宇宙ロケットを前にして。 シロツグ「ハーリボーテー♪ハリボーテー♪おぅ、超巨大なハーリボテッと!」 ハリボテの奴も意外とやるかもしれませんよ。

0
stereotype2085
(2019-09-13)

三浦さんへ。分かってらっしゃらないということの根拠を何一つ示さずに、何か私が問題のある詩書き、物書きであるかのように囲い込む。survofさんのコメには丁寧に返信しましたが、三浦さん、鈴木さんのコメには「俺は分かっているが」という根拠もない、明示もされていない権威めいたものを後ろ盾にしてる気がして、真剣に返礼する気になれない。ですが三浦さんの示されたステレオさんの今後にとって、という文言は意義がある気もするので受けとめようとは思いますよ。では。

0
survof
(2019-09-13)

えっと、何も伝わっていない・・・という虚脱感を覚えると同時にタカンタさんと長々とやりとりしたときのエンドレス感を思い出しました、汗。本当にとてもよく似ています。 >誰か人名を使う時にあなたは、その人物の全生涯をつぶさに調べる義務があると考えておられますか。 例えば、これ。どうしてそうなるの?って感じです。私がいいたいのはそういうことじゃない。でも私が先ほどのコメントで書いた書き方でこれが要点じゃないってことが伝わらなかったのであれば、おそらくこの先どんなに論理的に意見交換しても不毛でしょう。私はタカンタさんとのやりとりでそのことを学びました。 そして、みうらさんの2回目のレスにすべては要約・集約されています。私は全く同感なので、みうらさんのこの発言を根拠がないと切り捨てられるにはとても残念です。あまりに勿体無い。暗示を汲み取れないのに優れた暗喩を書けるとは到底思えません。みうらさんの先ほどの暗示は結構な情報量ですよ?

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ふじりゅう
(2019-09-13)

みうらさん、鈴木歯車さん、こんばんは。運営の藤井です。 批判的コメントを当サイトが制限するものではないが、批判的コメントを書かざるをえない場合、 >合評の名にかこつけた、他者を攻撃する行為を厳格に禁ずる。また、十分な理由を明示しない酷評/罵倒を禁ずる。一言コメントでの酷評はしないこと。批判的な評を書かざるを得ない場合、作者や場に資するように配慮して書くこと。 という、ガイドラインの規定を遵守するよう、お願い申し上げます。 批判的コメントが、必ずしも他者に明確に伝わるように、論文と見まがうほどに記述しろなどと申すわけではございませんが、両者のコメントは「十分な理由を明示しない」という箇所に接触しかねないと私は判断するところでございます。これは、B-REVIEWというサイトが「荒れない」サイトを目指すことによる、健全かつ円滑なコミュニケーションによって詩作への思慮を深めるためでございます。以上の点、どうかお守りの上、今後とも当サイトをご利用いただければと存じます。 本件に対する、このコメントフォームでのあらゆる発言を禁止します。ご返信なども不要です。本件に対して仰りたい事柄が存在する場合、当サイトのフォーラムや私への連絡などの方法を活用されますよう、お願い申し上げます。 最後に、このような形でコメント欄を使用致しましたstereotype2085さんに、深くお詫びを申し上げます。

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stereotype2085
(2019-09-13)

ですねえ。survofさんのような優れた詩書きさんに断絶感を抱かれてしまうのは非常に残念ですが、そう思われたのなら仕方ありませんね。一日日を置くとまた違った景色が見えるでしょう。冷静に、見えることもあるかもしれません。暗示は汲み取っているんですよ。充分に。その目線、伝え方に余りいい印象を抱いていないだけで。とにかくもsurvofさんのような詩人と距離が出来てしまうのは残念でなりません。まあまた明日。人間には明日がありますから。適度に熱を冷ますのもいいことでしょう。私もsurvofさんも。では良い夜、良い週末を。

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survof
(2019-09-13)

ありがとうございます!ですね。一旦寝かせますか。

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stereotype2085
(2019-09-13)

寝かせましょう!私としても余りに不興を被ったので、感情的になってしまった面もあるかもしれません。その点はお詫びを。今一度survofさんの意見に目を通してみようと思います。そうすれば「全生涯に目を通す…」云々などの反駁、反発は生まれないかもしれません。ここに私がsurvofさんと意見交換をする意義を見い出せます。まず優れたお人柄であること。持論を展開するより、相手の心情を慮った対話を重視する人物であること。survofさんはそのどちらにも該当します。ですから心では「痛いところ突いてくるなあ。だがただ『そうですね』では芸がないし」となってしまうのですよ。明日「優しい気持ちで~♪」また臨もうと思います。

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stereotype2085
(2019-09-14)

この場でこの作品についての私見を述べることをご容赦ください。まず昨夜のふじりゅう氏と花緒氏のコラボキャスにおいて、花緒氏が再三に渡り「ラファエロは私ではないか」と仰っていましたが、ここにしっかりと言明させていただきます。ラファエロは花緒氏のことではありません。構造的に世の中に存在してしまう権威主義者とでもいうべき存在の置き換え、言い換えであるのです。ですからその対立軸、いや被虐者としての天使も花緒氏が考えられたように私のことではありません。そこまで憐憫の情が入っているのなら私はこの作品を公開しなかったでしょう。 それと今しがた三浦氏ともDMで軽いやり取りをしましたが、私に強い怒りを抱いているとのこと。理由も明らかにされず、「分かってらっしゃらない」などと仰ったことの意味を尋ねたのですが、それにお答えいただく気配もなく、お怒りの理由も示されずこちらも残念です。この作品で一部の方を困惑させてしまったことを深く省み、今後の創作活動に活かす所存です。それでは。

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survof
(2019-09-14)

おはようございます! まず前置きとして、今回の件に対する雑感を述べさせていただきますね。ツイキャスもお聞きしました。まずステレオさんは率直なご意見を求めていたはずです。それに対して、私は勇気をだして否定的なコメントをした。が、ステレオさんはそのコメントのいわんとしていることを汲み取ろうとはしてくださっていないように感じられた。それに私のコメントは決してステレオさんがキャスでおっしゃっていたような「作品のいわんとしていることを深読みした上での過敏な反応」では決してないんです(そこまで深く読ませるものがなかったのが正直なところです)。ステレオさんはいってみれば「なんでもいってね、怒らないですよ」というスタンスを取りながら、いざ正直なところをコメントしてみたら「怒って」しまったということだと思います。みうらさん、鈴木歯車さんの言葉も同様に受け止められることなくステレオさんは感情的になってしまった。ここにみうらさんが当初おっしゃっていた「ステレオさん作品へのコメントのしにくさ」というのを感じます。つまり、ステレオさんはやはり「プライドが高い」ので、今回の展開は予想されたものなのです。でも先回みうらさんとのキャスでステレオさんは「それでもコメントが欲しい、自分は受け止める所存である」的なニュアンスのことをおっしゃいましたよね?でも今回は結局「プライドが高い」ゆえにどの意見も受け止めずに自己弁護に終始しているような結果になってしまっているように思えます。「自己評価の高さ」と「矜持を持つ」とはまったく別のことである、というと私は思っていて、いまのステレオさんは「自己評価だけがとても高すぎて」(つまり「プライドが高い」)これ以上生産的な議論ができるかどうか、ちょっと心配なところです。私はさらにステレオさんの反論に対してさらなる反論を試みることはできますが、ステレオさんは本当に否定的な意見を受け止められますか?ご自分の都合のよいように、相手の言葉を捻じ曲げるのではなく、まずその言葉の真意を汲み取る心のゆとりはありますか?みうらさん、鈴木歯車さんも言葉は足りなかったかもしれませんが本当に感想としてツボをついていらっしゃいます。もし本当にステレオさんにその心のゆとり、自分の高すぎる自己評価と向き合う準備があるというのなら私はこの先さらに議論を進めたいです。私は、今回掲示板が荒れたとは思っておりません。荒れたのはステレオさんです。一度私が今回書いたことを深く考えて欲しいです。もしかしたら朝からまた気分を害されたかもしれない。しかも意味不明かもしれない。ですが、ここをクリアしない限り私は議論において前に進めないのであえて書かせていただきました。私からすれば掲示板が荒れたのではないではなく、ステレオさんが荒れたのです。 この点について、もしよろしければご意見お聞かせください。そのあともし建設的な話ができるようでしたら、作品について話し合いたいです。もしやはりお互い感情的になるようでしたら、宙ぶらりんで気持ちが悪いところはありますが、議論は打ち切ったほうがよいでしょう。 もう一度お聞きします。今回の件、本当に「掲示板が荒れた」と認識されていますか?あるいは荒らしたのはみうらさんや鈴木歯車さん、あるいは私のいずれかであると認識されていますか? 朝から偉そうにつらつらと書いてしまいました。私のいわんとしていることが伝わることを願います。

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st
(2019-09-14)

大変興味深い作品ですね。ステレオさんの好きな宇宙、惑星、方舟、天使、 ラファエロ.......を登場させて、2019年の大晦日----平成の30年間の最後 を、世紀末のようにとらえて、この作品をお創りになったように感じまし た。 新たな令和を迎えて、これまでの世界を振り返ってみると、この詩のよう な世界だった------。 >軌道から外れた惑星の旅が、終わっていく夜.... 平成の30年間と、その最後を表現していると思います。 ラファエロという絵画の世界の第一人者と、その描いた絵のなかの天使など を、その業績として使い、堕落した権威者の有様を表現した作品で、とても 興味深いものですが、ラファエロのファンにとっては、少し酷かもしれませ んね。

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stereotype2085
(2019-09-14)

survofさん、おはようございます!「プライドだけが高く」「コメントしづらく」「荒れたのはステレオさん」。耳に痛い限りです。私としては自己弁護のつもりはなく、子供(作品)がちょっと困ったことになっているので、親として少しは守ってあげたいな程度の気持ちだったのですが、そう映ったのなら過敏な親でもあったのでしょう。 「掲示板が荒れた」かという点において「荒れたかも?」程度の認識は持っております。しかしそれはsurvofさんや三浦さん、そして歯車さんのせいではなく、私を含めてみなの意思疎通がうまく出来なかったことにあると思います。何よりも私はsurvofさんの返信に丁寧に応えたはずです。ですがそれが捻じ曲げた解釈と取られたのは私の読解力にも問題があったのでしょう。しかし誠実に応えていました。そこはしっかりとご理解いただきたいです。 さて作品についての議論を続けるかという点ではイエスです。survofさんが筆の労を惜しまず書いてくださるのはとても貴重なことですからね。拝聴したいと思います。ただこれ以上の私の掲示板上での人格や人柄についての叱咤、叱責は避けるようにお願いします。子供を守る親心が悪く作用したのは、認めているところですので。 作品についてのお話なら歓迎いたします。それではお話を再開致しましょう。返信は明日以降になるかもしれません。その点はご容赦を。 またこの詩に肯定的な評価をくださってるstさん、黒髪さんへの返信は今一度お待ちください。

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survof
(2019-09-14)

了解しました!それでは、昨日いただいた反論に対する私の反論含めて作品についてのコメントを後ほど書きますね。今回のコメントするに到るまでの経緯は忘れることにします。午後以降になるかと思いますので、ステレオさんの返信も明日以降で全然大丈夫です。むしろゆっくりとしたテンポのほうが建設的かもしれません。

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渡辺八畳
(2019-09-14)

あまりにコメント欄が長いので流し読みしかできていないが、survof氏がこの作品にて言っていることは、以前私がこの作品(https://www.breview.org/keijiban/?id=3681)にて石を例えに書いたものと意味は同じなんじゃないかなあと思っています。その作品にてステレオさんは石の例えを難解な語句と解釈していましたが、むしろ私は「含意量が多い語句」という意味で使っていました。食材で例えるならパクチー。あれって上手く使わないとほかの食材と全然調和せずに料理がただただパクチーの味になっちゃうじゃないですか。その料理の中にたとえば味噌、チーズ、くさや等、同じく主張の激しい食材が調和を目指さず入っていたら、主張と主張がぶつかり合ってしまう。つまりこの詩はそういう状態なのかなと。「料理に載った食材(=詩文に含まれた語句)」ではなく「食材同士が調和した料理(=語句を総合しての詩)」を目指すなら、調和はさせなくてはいけない。肉、玉子、米すべてが絶妙なバランスで成り立ったカツ丼が理想です。カツ丼協議会。 違かったら御免。

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survof
(2019-09-14)

渡辺さん あ、そうです!おそらくいっていることがほぼ同じです。

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三浦果実
(2019-09-14)

ここが白熱でなくて、荒れてるというのなら、レッドカード覚悟で、書きます。ステレオさんが自分の作品について、多くの説明をコメント欄でさらておりますが、そこまで自説を加えなければならない作家の作品など二度と読みたくありません。潔く、作品をどのような受け取りでもいいとなぜに言えないのか。そこまでいうならば、この作品はハリボテ風とか厨二廟的にとらえないでくれと、コメント欄に書かずに、あらかじめ作品内にわかりやすく書いておいて欲しいと本気で思う。

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stereotype2085
(2019-09-14)

みうらさんへ。その通りですね。今みうらさんの私への置き土産。「わかってらっしゃらない」を噛み締めているところです。どのような受け取り方でもいい。我が子(作品)を雨風に晒してでも過保護は良くない。たしかにその姿勢は今後私に必要となってくることでしょう。 また白熱とのこと。私も「荒れたかな?」程度の認識で、みんな燃えて熱くなってくれているなとの気持ちは持っております。ここまでみうらさんから厳しい言葉が出たのは、私が「わかってくれる」と思ってくれたからこそ、と捉えています。非常にこの作品において、二人の間にズレが生じてしまったのは、本当に残念で悲しむべきことだと思っています。 私は自分自身を深く省み、いつかまた陽気で明るい「miuステ!」をお送りしたい、また詩人同士として、知り合った者同士として二人の埋めたいと思っています。またこの溝を作ってしまったのも恐らく私に大部分の非があるのだろうとも思っています。また陽気に話せることを願って。それでは。

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stereotype2085
(2019-09-14)

二人の溝を埋めたい○ 二人の埋めたい×

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ほば
(2019-09-14)

2019年の大晦日てことは令和始めての大晦日なんですね。そう思うと終わり、と新たな始まり、一つの権威が燃えて新しいものが生まれようとしているのかもしれない。権威的なものへの恨みや失意だけでなく。。 読んでいて天使やラファエロなど一つ一つのの声がでかくて渋滞して流れが悪い印象。喩やその他の言葉が陳列されているだけで、意味が共鳴していない。詩においては喩と喩がぶつかるとき読み手のなかの意味に火が飛んで、書き手さへ予想しない詩情が生まれていくと考えています。それがこの詩では書き手の書きたい内容でストップしているような印象を受けました。 作中、ラファエロは理想であったり権威的なものを暗示していて、失墜するべくして失墜するものの末路と挫折、そんなものの象徴でしょうか。このラファエロをそれだけの存在としてしまったところが残念だなと。 ラファエロを詳しく知るわけではないが、権威や理想の象徴であったその存在自体も血が通った人物であったし華やかさの裏側や実像があったのではないだろうか。隠喩だから実在のラファエロは関係ない、ではなく作品世界のラファエロにもそういった背景があるはず。天使にも言える。詳細に描かれてなくともそれをちゃんと設定しているか、いないか、で詩は全く違う様相を呈すると思います。 それが垣間見えたとき、この作品は生き生きと動き出すのではないだろうか。今のままではこれは優れた散文の書き手のラフスケッチで終わっているように思えます。

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survof
(2019-09-14)

改めて、せっかく反論いただいたのでさらにコメントさせていただきますね。できるだけ作品論に徹するつもりですが、作家を語ることなしには語り得ない部分もあるかもしれません。できるだけ人格批判にならないように注意をしますが、やはり本気で書きたいので少し言葉が過ぎることはあるかもしれません。あらかじめご了承ください。 >「下手くそなオーケストラ」という批評はまあ上滑りでとらえてしまえばどうでもいいことなので、いちいち拾いたくないけれど拾うならば なぜ私があえて「オーケストラ」の例えを用いたのか考えていただきたいです。つまり「いちいち拾って」欲しい例えです。私は音楽について語っていたのではなくオーケストラについて語っていたからです。ゆえに Van Helen を使った返しは全くの的外れです。 >たまたまsurvofさんにとって合わなかったであろう音楽を「下手くそなオーケストラ」と紋切型で批判するのはいかがなものかと 繰り返しますが、私はステレオさんの作品を音楽としての「オーケストラ」に例えたのではありません。ですから「下手くそなオーケストラ」という例えは必ずしも「下手くそな作品」という意味ではないのです。ましてや作品が好みにあるかあわないかについて論じていたのではないです。 私の先のコメントを丁寧に読んでいただければお分かりいただけると思いますが、私は、言葉同士、あるいはメタファー同士の関係を語る文脈で「下手くそなオーケストラ」という例えを用いました。私は言葉通しの調和、メタファー同士の調和について論じていたのであり、しかもそれは好み以前に技術的な類の問題として提起したつもりです。 つまり「下手くそなオーケストラ」という例えにおいて私が意図したものは(「下手くそ」が言葉として強すぎて、扇情的出会ったかもしれない点はあったとしても)まさしく調和が乱れているという点であり、調和が乱れている以上、「下手くそなオーケストラ」がどんな音楽を演奏しているのだとしても、聞き手は調和がとれていないことに気を取られて、音楽には全く入っていけない、ということです。 例えば、オーケストラにおいて楽器のチューニングがバラバラならどうなるでしょうか?誰も指揮者をみずに各パートのリズムがズレズレだったらどうでしょうか?演奏されている曲が私の大好きな曲であろうとなかとうと、それ以前の問題ではないでしょうか? つまり要約すると、ステレオさんのこの部分の反論はそもそも私の批判の要点を完全に外しております。 (続く)

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survof
(2019-09-14)

(続き) 次に移ります。 >また客観性の欠如云々については。先のコメントにて客観性を示しているつもりですが、伝わっていないようですね。 はい、つたわっておりません。先ほどの論点をまた引き合いに出さねばなりませんが、「下手くそなオーケストラ」という例えに例えに対してのステレオさんの反応はまったく感情的であり、客観的なものではないと感じます。文脈に照らして論理的に整理すれば要点が容易にはっきりする点においていとも簡単に要点を外しています。同じように、私の批判に対するステレオさんの反論は全体として感情的なのです。 一つお聞きしますが、ステレオさんにとっての「客観性」とはなんですか? 私はここでちょっとずるい論理展開をしますが、是非ついてきてください。そもそも「客観性」なんてあるんでしょうか?本当に「客観的」に何かを論じることなど可能なのでしょうか?「客観性」を持ち出したのは私なので最悪の論理展開だと自負しておりますが、私はそんな「客観性」など実は1ミリも信じていないのです。どんなに「客観」を意識したとしても「主観」とその「客観」を隔てるものはなんでしょうか? >この作品には私情や私怨が深く込められた抒情詩であるがため、表層的に宇宙とか天使とかを安直に使っているのではない。 さて私にとって「客観を意識する」とは「読者が作品をどう捉えるかに対する鋭い意識」のことです。つまりそれは自分自身の思考に属するもので決してその外に出ることはできないという意味でそれはあくまで「主観」にすぎないというわけなのですが、「読者が作品をどう捉えるかに対する鋭い意識」が欠如しているのではないか?という点を「客観性の欠如」として私は指摘しました。 ですから、作者がどんなに作品に託した私情や私怨を託したと主張しても、あるいは作者どんなにそれが「表層的に宇宙とか天使とかを安直に使っているのではない」と論じたところで読者にそう感じさせてしまったのであれば、作品としてはそれまでなおではないでしょうか? 作品は発表した時点で作者の手を離れるものではないでしょうか?であれば「自分はこうこうこういうつもりで書いた、だから・・・」というのは反論にも何にもならないんです。 この点でいえば「この作品は花緒さん批判である」との可能性をあえて否定しないでおけば、作品として非常に面白いものになったと私は感じます。花緒さんが「これは自分のことだ」といっているのを聞いて、そしてその路線で読んではじめてこの作品はもしかしたら面白いかもしれないと思いました。 しかし、今ステレオさんはこれはもっと日常的な権力に対する批判である、花緒さんは全く無関係であると断言されている。断言してしまうことでステレオさんは読者の想像力を狭めたしまったわけです。ただでさえ想像力喚起力に乏しい作品に対してさらに読者の選択肢を狭めてしまった。であれば、作品は読者にとってステレオさんが規定した範囲でしか想像力を許されない。もしかしたら読者に関係のあることを扱っているのかもしれない。ただ、一連のステレオさんの発言から読者にとってはどちらかというと「よく分からないけどステレオのプライベートで起こった出来事をメタファーで置き換えて語っている作品」なんだな、ということになってしまう。 では、読者にとってそういった漠然としたメタファーによって暗号化されてしまった場合、どうやって作品を楽しめばよいのでしょうか?(これは、ステレオさんの作品に限らず現代詩、あるいは詩というものが抱える重大な問題の一つだと思います)読者に残された選択肢は純粋に言葉のもつ響き、言葉の組み合わせの響き、あるいはメタファーによって喚起されるイメージやそれらの組み合わせ、そういったものが孕む面白さ美しさに身を委ねる、あるいはストーリー性を楽しむということなのかもしれない。 そうなると、純粋に技巧的な部分の不調和が大きな問題として再び大きく首をもたげるわけです。そして、私の「下手くそなオーケストラ」へと論点は再び戻っていきわけです。 (続く)

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survof
(2019-09-14)

(続き) >ラファエロの人生について深く思索し、調べた結果かとの指摘については。では逆にsurvofさんにお聞きしますが、誰か人名を使う時にあなたは、その人物の全生涯をつぶさに調べる義務があると考えておられますか。もしそうだとしたら詩を一つ書くよりも評伝を幾冊も書くことで人生が終わってしまうでしょう。私たちの人生は短いのです。 これも例えの要点を思いっきり外しています。私は選択の安直さを指摘しているのです。美術に限って語るならなぜ権威の象徴としてたとえばブグローではなくラファエロだったのでしょうか? 印象派を蹴落とした権威としてラファエロは印象派以降の美術詩において、ブグローや彼が属していたいわゆるアカデミーの評価は地に落ちました。サロンアートは20世紀中盤まで悪趣味な作品群として揶揄の対象だったのです。では、印象派の反抗によって何が生じたか。そもそも印象派に属してたアーティストの大半がもともとはアカデミックな美術教育を受けていたいわゆるエリートであったわけですが、それはさておき今度は「現代美術」というものが一つの権威になりました。印象派からキュビズム、フォービズム、表現主義やデュシャンのダダイズムに現代の精神は受け継がれて戦後アメリカの抽象表現主義に至るわけですが、今度は彼らが、つまり「現代美術」の権威となったわけです。ですから抽象表現が終わって、ポップアート以降へと美術が発展してそれが「コンテンポラリーアート」と呼ばれるようになった過程でデュシャンと抽象表現主義への批評的、批判的言及が高く評価されるようになりました。こんどはポロックのような抽象画が「白人のアートの権威」として批判の対象になったのです。同時にかつてのブグローのようなサロンアートのようなアカデミックアートの再評価が20世紀後期に進みます。それは音楽でいえば、例えばラフマニノフやマーラーの再評価が同時期に進んだのと少し似ているかもしれません。 さて、ここまでの私の知識の開陳は対して意味はありません。重要なのは、例えば私よりももっと美術に詳しい読者が、例えばラファエロと同時代の美術に非常に詳しい人がこの作品を読んだとき何を感じるか、という点です。 ここで論点は先ほどの「客観性」に戻ります。つまり「読者が作品をどう捉えるかに対する鋭い意識」の必要性です。 そうした美術に詳しい読者にとってラファエロや天使といったキーワードは適切に扱われない限り作品を楽しむうえでの障害にならないでしょうか?こうした些細な綻びがある読者にとっては致命的なものとなり得るのですが、そのことに対する無自覚を私は批判したのです。 >ソフトバレエというバンドに「VIETNAM」という楽曲がありますが、そのタイトリングをした藤井麻輝さんは「特に意味はありません。最後楽曲が出来た時『VIETNAM』だったから『VIETNAM』にしただけで」と仰っています。私はそのような感覚、センスを尊びます。 ですので、この直感で何かを選ぶ、ということは特にラファエロというメタファーの導入に関していうならばかなり危険な行為であると感じます。なぜならこの作品においてラファエロはしっかりとした役割を与えられているからです。「VIETNAM」という曲を私は存じ上げませんが、「VIETNAM」という単語はその曲においてしっかりとした意味を与えられていますか?Rage Against the Machine がベトナム戦争に関連したイメージ(焼死自殺の僧侶の写真)をアルバムジャケットに使うのと「VIETNAM」というタイトルを感覚で選ぶことには大きな違いがあるわけですが、ステレオさんの「ラファエロ」のタイトルの選択はどちらかというとRage Against the Machineの選択に近いです。なぜなら明確にメッセージ性をそこに込めているからです。ステレオさんはあえて「ラファエロ」にしたわけですよね?権威の象徴として。 あるいは本当に軽い気持ちで「ラファエロ」を権威の象徴として選んだのであれば、作品自身も軽いもの、ということになりませんか? そうなるとやはり「ラファエロ」は「厨二病的な」小道具にしかならないのではないでしょうか? >そういうことも含めて考えるとインスピレーションというのはあながち軽蔑出来ないと個人的には思っています。 安易な選択をインスピレーションと混同してはいけないと思います。そもそもインスピレーションってステレオさんにとってはなんですか? 夏目漱石は「吾輩は猫である」のなかで次のように書いています 「職業によると逆上は余程大切な者で、逆上せんと何にも出来ない事がある。その中で尤も逆上を重んずるのは詩人である。詩人に逆上が必要なることは汽船に石炭が欠くべ可らざる様な者で、この供給が一日でも途切れると彼れ等は手を拱いて飯を食うより外に何等の能もない凡人になってしまう。尤も逆上は気違の異名で、気違にならないと家業が立ち行かんとあっては世間体が悪いから、彼らの仲間では逆上を呼ぶに逆上の名を以ってしない。申し合わせてインスピレーション、インスピレーションとあも勿体そうに称えている。 これは彼等が世間を瞞着(まんちゃく)する為に製造した名でその実は正に逆上である。プレートー(プラトンのこと)は彼等の肩を持ってこの種の逆上を神聖なる狂気と号したが、いくら神聖でも狂気では人が相手にしない。やはりインスピレーションと云う新発明の売薬の様な名を付けて置く方が彼等の為によかろうと思う」

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survof
(2019-09-14)

長くなりましたが、ひとまずは以上です。

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stereotype2085
(2019-09-14)

さてお待たせしました。survofさんを先にして返信することをお許しください。まず「下手くそなオーケストラ」が何を指すのかという点について。「言葉同士の不調和」納得しました。確かにこの作品において、暗喩の衝突、不調和が多く起こっているのは自覚しているところです。そして私の多くの作品においても暗喩や表現の衝突が起こっている、という指摘も納得できるものがあります。今回は非常に込み入った事情でこの素材、特定の人物を責め立てるような作品にしてしまったため、より一層言葉同士の衝突が「下手くそなオーケストラ」のように響き、目立ってしまっただろうことは容易に想像出来ます。作品自体を音楽に例えて「下手くそだ」と指摘していると誤解してしまったのは、私のフライングであり、ミステイクでしょう。過去の私の作品たちも含めて下手くそな「音楽(作品)」だ仰っているのではないという点は極めて私を安心させました。良かったです。 次に「客観性」とはどのようなものか、という点について。「読者にどう読まれるかを意識する客観性の欠如」。それも私にはあったことでしょう。私の客観性の提示が不十分であったのも認めるところです。私は主観が大部分において差し挟まれると判断するなら、今後自作について多くを語ろうとはしないでしょう。実は昔文極で「あなたのレスポンスはオウム返しだ」と批判されたことがあり、より一層言葉を尽くして作品の解説に努めようとしたのです。私は作品についての自論を滔々と喋りたいのではなかった。ひとえに過去の反省から来るものです。それが今、作品論として機能していない可能性があるのなら、それを吟味し多くを語るのを自重することでしょう。これでみうらさんへの返礼の一つにもなると思います。 では三つめラファエロを「形骸化した思想」の象徴として扱ったのは完璧に失敗だったと思っています。私自身ラファエロの偉大さは知っていますし、私が最も尊敬するサルバドール・ダリは「近代絵画がラファエロを超えたと思うならどうかこの本なんて読まずに愚直に人生をお生きなさい」と著書の中で、画家を目指す者たちのメッセージとして書いています。そこまでラファエロの知識、功績を知りながらなぜラファエロを「形骸化した…」の象徴として選んでしまったのか。それは日本語で云う不思議な感覚によるものですが、それが安直なチョイスであり、「厨二病的」と指摘されるのなら、私は甘んじてそれを受けるでしょう。ちなみに私は厨二病という言葉が好きでもなく、大して重きを置いていません。ある分野の表現やその傾向を切り捨てるには便利かもしれません。しかし表現の幅を狭める可能性もこの言葉には宿っていると感じています。しかしこれはあくまで蛇足です。次に行きましょう。 四つめ。ラファエロが花緒氏ではない、と明言したのは想像の余地を奪ってしまったのではないか、という点も納得です。しかし花緒氏を貶めるつもりがないのはこの作品の真実の一つであり、口にはしないといけなかった。花緒氏のためにも私自身のためにも。結果このような面白味がないと読み手に解釈される作品になってしまったところは私も自覚するところです。個人的私怨、私情をテーマにしたものは、よほどの完成形を見ない限り公開してはならない、という点を今回は学びました。 さあ最後の五つめ。ラファエロを私自身の知識を無視してまで、選んだのは私の中の「不思議」が作用した結果です。しかしそれが安直な選択だと、客観性の一つである「読み手がどう感じるか」という点においてそう見えたのなら、私の「不思議」はとても弱いインスピレーションの一つだったと言えるでしょう。またインスピレ―ションとはどのようなものとお考えか、との質問に対しては引用していただいた漱石の文面にもあるように劇薬でもあり、天啓に近いものとも捉えています。しかし預言者や聖者などと呼ばれる人々が、多くの知恵と知識をたくわえた上で閃きを得ていたことは、またより絶大な力を持つ「不思議」を獲得していたことは、現在では恐らく多くの人が知るところであり、今後一層安直な選択か、高度なインスピレーションかの選別を図りたいと思います。 さてこれで私の返信は終わりです。survofさんとの対話として進めたつもりですが、納得し、満足していただけたでしょうか。私はこの返信において最大限の誠実さと冷静な客観性でもって臨みました。まだ不足があるなら、あるいはこれだけはステレオさんに伝えておきたいというメッセージがあるなら、この作品のコメ欄でもツイッターでも、またsurvofさんが時折遊びに来てくださる、ツイキャスにおいても呼びかけてください。それでは今日はこれにて。以上です。忌憚なきご意見、まことにありがとうございました。

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survof
(2019-09-14)

丁寧にご返信ありがとうございます。最後にひとつだけ、夏目漱石の引用部分ですが、ぜひ「吾輩は猫である」をできれば全体を通して読んで見てください。あの引用部分はかなりきつめのブラックジョークですよ、笑。つまりバカにしてるんです(あの本はかなり自虐入っていますのでそれがさらに面白い) ステレオさんには本当にこの本をおすすめしたいです。 最後に今回のやりとり、お付き合いいただき、こちらこそありがとうございました!

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stereotype2085
(2019-09-15)

返信の順番が前後するのをご容赦ください。まずは蛾兆ボルカさんへ。 【意味と言語】 「その言葉が伝える意味と無関係に、純粋に言葉として【も】読む、という姿勢です」 この指摘は大いに今となっては感得出来るところです。「ラファエロ」においては含められた意味を想像して楽しんでもらうことを企図していましたが、純粋に言葉として読めば、表現のある種のチープさと平明さが読み手を興ざめさせ、客観性のない感情の発露と捉えられかねない作品になっていたのは自覚するところです。また冒頭数行は浮いているとのご指摘。私は音楽のイントロデュースのように食いつきの良さそうなフレーズを狙って持ってくることが時折あるのですが、この作品においてはかなりの部分失敗したようです。 【詩とレトリック】 「作品「ラファエロ」の登場人物たちや事柄は、本当に隠喩なのか、という疑問を私は感じました。作者が隠喩としているので、とりあえずは隠喩として読みますが、カフカの短編がそうであるように、意味深く、しかし読みとかれぬよう巧まれた表現として、『ある特殊な意味で、隠喩』だと私は解釈します」 私は隠喩、直喩、そして詩におけるレトリックについて恥ずかしながら、ボルカさんほどの思索をしたことはありません。しかしボルカさんから頂いた思考の材料を借りるならば、「ラファエロ」は象徴と隠喩が混然一体となったため、読み手を困惑させ、読むのに乗り切れない作品になったであろうことは想像出来ます。また「ある特殊な意味で、隠喩」と解釈していただいたことは、作品の提供者としてとても助かるところであります。隠喩。詳細に規定すれば効果的に力を発揮するが、今作のようにおぼろげに「これは隠喩です」として使ってしまうと空疎な作品になることも大いに理解できます。またこの箇所の返信において、私の解釈不足があるだろうと思われますが、その点は私の情報不足。ご容赦ください。 【『ラファエロ』の解釈と感想】 私としては「僕ら」=守るべき人々。「天使」=守る存在。「ラファエロ」=天使を生み出した存在。などと規定していますが、それが伝わらなかったのは、大部分において読み手にたいしての情報不足、親切なエスコート不足であっただろうと思っています。これも感情の書きなぐりの一面が当作においてあったためですので、ご容赦ください。第一スタンザについては先述しましたように、特殊な楽曲のイントロデュースとして機能させたつもりですが、コメントを拝見する限りやはり上手く行かなかったのでしょう。 「詩を書くひとの感情の流れのラインを整理し、そのラインを乱さないように再構築したほうが良いのでは」 全くその通りかもしれません。この詩は現実で起こったことを仄めかしながら進むという作品だったのですが、その現実についての詳細な言及、種明かしがなければ、仄めかしの連続で読者にとって読みづらい、感得しづらい、そして物足りないものになったのは大いに理解出来ます。 最後になりますが、これほどの貴重な進言を、これほどの長文にて授けてくれたことに最大級の感謝を。返信に物足りないところがあるとするならば、ひとえに私の実力不足でしょう。それでは、今後ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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stereotype2085
(2019-09-15)

帆場蔵人さんへ。使われる単語が大きすぎて渋滞、そして書き手が書きたいことでストップしてる印象。今となっては、まったくもってその通りだと思います。まず今作においては書きたいことがあった。それをどれだけ直截に言い表さず、書き記すかが、書き手としてのテーマだった。しかしその書きたいことに執着する余り、盲目になっていたのかもしれませんね。まったくもって心に思い当たる節のある指摘ばかりです。ラファエロと天使についての詳細な記述があれば作品がもっと活き活きと、という進言はありがたい限りです。ですが私はこの路線の詩はもう書かないでしょう(私情を過度に交えたものとして)。帆場さんのアドバイスについては、驚く形であるいはひっそりと気づかない形で私の今後の詩作に反映されるでしょう。ありがとうございました。 追記・2019年の大晦日を終わりと、新たな始まりと解釈していただいたことは嬉しい限りでした。では。

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stereotype2085
(2019-09-15)

渡辺八畳さんへ。「含有量が多い語句」という指摘は大いに納得できるところです。まだ治っていませんね。笑えてしまいますが。パクチーとカツ丼を使った例え、示唆もとても役立つものでした。ありがとうございました。

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stereotype2085
(2019-09-15)

stさんへ。好意的なコメントありがとうございます。2019年というのは平成の終わりでもあり、令和の始まりでもあるという意識が、潜在的に私の心にあったのは想像出来ます。それを世紀末ととらえて、振り返ってみると…という解釈は僕が狙っていた一部分をしっかりと把握していただき、嬉しく思います。2019年という年はなんだったんでしょうね。またどうなるのでしょう。僕にとってもプライベートでも色々なことが起こり、不思議な感慨を抱いています。一つの時代が終われば、オプティミスティックになること。それしかないと思っています。ありがとうございました。

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stereotype2085
(2019-09-15)

黒髪さんへ。コメントありがとうございます。いつも思うのですが、黒髪さんのコメントはそれ自体が詩的で独立した読み物としても読めるような印象がしています。だから黒髪さんからコメントを貰うのはとてもありがたく、嬉しいことだとも思っています。破滅の美学。僕にはそれがあるかもしれません。隠したり、克服したはずの視点、視座の一つなのですが時折、それが見え隠れしてしまうというのは、私の根っこにあるものの一つなのでしょう。やはり。避けられない。現実の中で救われず終わっていくという感覚。これはある種のヒロイズムだとも考えているのですが、僕はこうした感覚、感受を表現することも多いかもしれません。とにかくもこの作品にここまでの感情を抱いていただけたのは喜びに堪えません。人類同胞への視点もそこまでこの作品の意図したところを汎用して感じてくださり(実際僕が狙っていた以上の感想、感情を黒髪さんは抱いてくださった)ちょっと当惑するほど嬉しく思っています。死にも、終わりにも救いがある、というのは黒髪さんとこの作品で共有出来た感覚として、今後も胸の隅にしまって大切にしていきたいと思います。ありがとうございました。

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stereotype2085
(2019-09-15)

花緒さんへ。今一度確認して、再発信させていただきますが「ラファエロ」は花緒さんのことではありません。これ以上話すとプライベートも絡んでしまうので、ラファエロがどういった存在、人物からイメージ、造形されたものであるかはお答えできません。このような私怨を交えた作品を「どうにかなるかなー」レベルで投稿したのは、私のミステイクであり幼稚と批判されるのも仕方ないでしょう。繰り返しますがラファエロが花緒さんでない以上、仮定での批評にはお答えしかねます。申し訳ありません。 続いてツイッターで詭弁家、悪人とかを花緒さんへ向けてエアリプを飛ばしたとのご指摘も、あれは一般論として思い描いたものを痛切に呟いたもので、花緒さんを標的としたエアリプではないのをご了承ください。 重ね重ね私怨の謎解き、種明かしが出来ない作品を投稿し、批評の遡上に乗せたのは私のミスであり、花緒さんへいらぬ疑念を抱かせたのは私の軽挙の一つでしょう。 最後に二つの疑問にお答えしますが、一つ「率直な感想が欲しい」と思ったのは、単純にどう映ったかを知りたかっただけです。しかしそれをキャス上で催促したのは運営として相応しくない行為だったとの認識は有しております。また「特定個人の私怨がベース」の作品を投稿したのは苦しみを吐露、示したいとの平凡な欲求からきたものであり、それが稚拙だとか幼稚だとか批判されるのは今ではしっかりと認識しております。 それでは以上です。これ以上のレスポンスにはお答えかねます。その理由は上記に示した通りです。

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survof
(2019-09-15)

単純に疑問なのですが、ステレオさんはすでに削除されたツイートのなかでこの作品には「炎上要素がある」という趣旨のことをいっておられましたよね? 読者が「種明かしが出来ない作品」のどこに「炎上要素」があるのですか? (別の仕方で炎上したわけですが、このツイートはたしかステレオさんがみうらさんのキャスにてコメント欲しい旨表明する前のものです)

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stereotype2085
(2019-09-15)

炎上要素とは、まさに私怨をこのレベルで披露したことへの言及です。ほらお前天使なのかよ、ほらお前の敵はラファエロなのかよ。幼稚だな、稚拙だな、という点です。 survofさんへ。

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survof
(2019-09-15)

いかなる色のカードも覚悟の上でいいますが、改めてステレオさんの返信は全体として「政治家的である」との感想を述べさせていただきます。

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stereotype2085
(2019-09-15)

政治家的とは、事実を覆い隠して、はぐらかすといった印象でしょうか。 実際事実を述べたのに、覆い隠したと思われるのは残念です。 これも政治家的と言われるのでしょうか。残念です。 survofさんへ。

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survof
(2019-09-15)

これはメタファーですので「政治家的である」ことの意味は残念ながらここで詳細に述べることはできません。これ以上の返信にはお答えしかねますし、これ以上ここにはコメント致しません。長々と失礼しました。それでは。

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stereotype2085
(2019-09-15)

素晴らしい皮肉を込めたコメが入ったのて「炎上要素」についてもう少し詳しく話しましょう。 私は私怨というキーワードがネット上の誰かを標的にしたと誤解される恐れがある、という点をも「炎上要素」としたのです。 事実私のことではないか、と花緒さんから指摘されたわけですし。 私が予想した展開の一つが現れたわけです。 そういう要素をわかっていながら、当作をどう読んでいただけるかと公にしたのを、今ではとても後悔しています。省みることも多々です。 以後このような軽はずみな投稿は控えるでしょう。 以上で少しは謎解きが出来たしょうか。 survofさんへ。

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三浦果実
(2019-09-15)

ステレオさん以外の運営者の方々 これ以上コメントが続きますと、本作品スレッドが「荒れる」と懸念しますが、審議を要求します。 先のふじりゅうさんからの当スレッドにおける勧告を考慮しての要求です。 どこまでの内容のコメントであればガイドライン内なのかお示しいただけますと助かります。

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ふじりゅう
(2019-09-15)

皆様、こんにちは。運営の藤井です。 本件、まず謝意を申し上げたいのは、私の前回の忠告は「白熱するのは全然OKだが、ガイドラインの引用文面に引っ掛かっていると推察できるから気をつけてね」とする意図でありました、が、議論をやめろ、口調が悪いぞ、と述べるような文面となってしまい、折角皆様が思い思いの合評を繰り広げられている中水をさすような行為となってしまったのは痛恨の極みです。大変申し訳ございませんでした。 さて、こちらのスレッドですが、荒れる、と表現するのはいかがかな、と私見を述べさせて頂きます。私は前回の文面当時は存じ上げなかったのですが、当作品の作者は本サイトとは全く別のアプリ「ツイキャス」におきまして、作者が「忌憚なき意見」を求められたと情報が入っております。そして、本作はどうやら作者自身が「私怨」を描写した作品であると述べたとされており、それを作者は否定していないことから、事実であると認識しました。 まず、こちらに寄せられたコメントは上記の情報から考慮するに、悪質な荒らしであると断定することはとてもじゃないができません。むしろ、皆様が真摯に本作に向き合って頂けたと感じる所でございます。そのことに関しては非常にありがたく、うれしく思っております。 そして、これもまた私見ではあるのですが、「忌憚なき意見」を求めておいて、いざ忌憚なき批判意見が散乱するとコメントフォームを閉じるというのはよろしくないかな、と考えておりますし、こちらに寄せられた非常に素晴らしいコメント群を否定することになりかねません。よって、コメントフォームは私としては、閉じない方がいいかな、と考えております。 そして。 例えばツイキャスにおいて、「ガイドライン違反してもいいからどんどん罵倒してくれ」と発言した場合、そして実際にそのようなコメントが多数寄せられた場合、部外者でありその事実を全く存じ上げない運営からすれば「マナー違反」としても何の問題もないわけですし、その意味ではツイキャス(など別媒体の発言、行動)における発言を運営としての判断に反映させるのは、あまりよろしくないのかもしれません。 ただ、そこまで厳格に「他所での発言を本サイトに反映することを厳格に禁止し、どのような事情、あらゆる状況下であっってもガイドラインがすべてだ、やりあいたいなら外でやれ」とするのは、本質を見失っている気もします。あくまでマナーを守るということがそれこそ「円滑なコミュニケーションの実現による詩作の向上」「コメントフォームという媒体におけるコミュニケーションに、ただの不毛な罵倒合戦ではなく他者に伝達しうる有意義な情報交換をしようぜというフックをかける」ことに目的があるとすれば、前述の制限は「荒れない」ことだけを目標としていて、目的となる本質が置き去りになっている気もします。 よって、マナーということがどういう事かを突き詰めれば「他者に伝わるか」「ただの不毛な罵倒合戦になっていないか」というところにあり、お互いの合意の上でのこちらでのやり取りを制限するのは表現をする場という貴重なチャンスを失っているとも考えることができます。 で。 私がしてほしかったのは一点。そのことを運営にもしくはコメントフォームでだれかが伝えておいて頂ければな、と真に思います。私は完全に勘違いをしておりましたし、これはまずいんじゃないか、と考えたのは件の発言などを知らなかったことに寄ると思います。 ガイドライン関連に関して細かく書きたいのですが、それを記述し多数の方からコメントが寄せられることを考慮するとフォーラムに場所を移した方がよいのではないかと思い至るところです。よって、続きはフォーラムにて記述したいと考えるところであります。 以下に要点を載せます。 1.コメントフォームは閉鎖しない。 2.議論が白熱したことに感謝している。 3.私の忠告文面の言い方に対する謝意。 長文失礼いたしました。

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三浦果実
(2019-09-15)

ふじりゅうさん わかりました。私からはこれ以上特に申し上げることはありません。ご対応ありがとうございました。

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survof
(2019-09-15)

stereotype2085さん 今回の謎は解くのにとても時間がかかりました。が、私のなかでは解けました。以下に私の推理を書きます。 ミステリーもののフィクションとしてお楽しみください。形式としてはクリエイティブ・ライティングの形式を取らせていただきます。 ■まず「炎上要素」について >炎上要素とは、まさに私怨をこのレベルで披露したことへの言及です。ほらお前天使なのかよ、ほらお前の敵はラファエロなのかよ。幼稚だな、稚拙だな、という点です。 しかし、私とのやりとりにおいてstereotype2085さんは「表面的にスケールの大きな詩を書こうとして宇宙や天使が使用されているのではない」とはっきりと言明されました。つまり私へのこの反論の時点でのstereotype2085さんの主張はこれらの「メタファー」が「表面的ではない」ということです。 ところが、この「炎上要素」でのstereotype2085さんの発言からは、みうらさんに作品に対するコメントを求める前の段階で、すでにstereotype2085さんがこれらの「メタファー」の「幼稚さ」を自覚していたことになります。 このことから導き出される「事実」は可能性として ・stereotype2085さんは本当に作品作成当初に「作品の幼稚さ」に自覚的であり、私への反論の際にはその自覚とは反対のことを論じた ・あるいは、その逆に当初は「表面的なものではない」と「作品の幼稚さ」を自覚していなかったものの、コメントのやりとりを通してそれを少なくとも表面上は認めざるを得ない形となった(もしくは本気で認められた)が、どういうわけか「炎上要素」について突っ込まれた時に「作品の幼稚さ」に言及した もし一つ目が真実であるなら、私とのコメントのやりとりは茶番だった、ということになりもし二つ目が真実であるなら「炎上要素」についてstereotype2085さんは何かしらごまかさなければならないことがあった、ということになります。 stereotype2085さんが誠意を持って対応してくださったことを信じているので私とのやりとりが茶番だったとは思いません。 となると「炎上要素」についてstereotype2085さんは何かしらごまかさなければならないことがあった。これが真実です。 ■さて次に「政治家的である」ことについて 私が「政治家的である」ことについて言及した際、私は上記の「炎上要素」についてのやりとりの流れでそのような発言をしました。 作品の「炎上要素」についてのstereotype2085さんの返答にたいする私の返答としてです。 ですから、私はその際「事実を覆い隠して、はぐらかす」類のことについては一切触れていなかったわけです。 しかし私の >改めてステレオさんの返信は全体として「政治家的である」との感想を述べさせていただきます。 に対する返信 >政治家的とは、事実を覆い隠して、はぐらかすといった印象でしょうか。 >実際事実を述べたのに、覆い隠したと思われるのは残念です。 のなかで、stereotype2085さんはなぜまず事実の隠蔽に言及したのでしょうか? 可能性がいくつかあります ・私が「ステレオさんの返信全体」を対象にして述べていたので、それを早合点して、直前の花緒さんとのやりとりでのstereotype2085さんの返信に対する言及ととらえられた(私がコメントしたタイミングもその早合点を促進した) ・実際に事実を隠蔽していたのでそのことを後ろめたく思った さて、私は「政治的発言」といった際、まさしくstereotype2085さんの返信すべてに対してその表現を使いました。なのになぜいきなり事実の隠蔽に話がでてきたか。 まず「炎上要素」についての推理で「炎上要素」についてstereotype2085さんは何かしらごまかさなければならないことがあった、ことが私の推理(笑)によって判明しています。 そのことを踏まえると2番目のオプションである、実際に事実を隠蔽していたのでそのことを後ろめたく思った、可能性がより信憑性が高いものとして浮上してくるように思われるのです ■ラファエロだ誰か? これもstereotype2085さん自身のコメントから推理することしましょう。 >私は私怨というキーワードがネット上の誰かを標的にしたと誤解される恐れがある、という点をも「炎上要素」としたのです。 さて、なぜこれが「炎上要素」になりえるのでしょうか?それは読者の中にラファエロにかぶさって読める人物がいたから、ではないでしょうか? もしラファエロが誰にも被らないならそもそも炎上のしようがないからです。 さて、本作品をきちんと読むとわかることですがビーレビユーザー(つまり反応して炎上する可能性のある人たち)の中にラファエロがかぶる可能性のある人物は本当に限られた数しかいません。花緒さんもその一人ですが、そのほかにいるとしても本当に限られた人数でしょう。少なくとも私ではない。しかも権威として象徴される存在。現運営の方々、旧運営の方々。そのうち今の作品を読む可能性のある人物。しかも「私怨」の対象になりうる人物。 前述の結論である、stereotype2085さんが事実を隠蔽していた、ということが真実であるならば、話の流れからいって「花緒さんを対象にして書いたものではない」ことを隠蔽した、というのが真実であるということになります。 そして花緒さんを念頭に読むと確かにぴったりと当てはまる。 つまり、コメントの一連の流れのなかでstereotype2085さんはラファエロが実は花緒さんであることを間接的に証明してしまったのです。 ラファエロはやはり花緒さんなのではないでしょうか? ■結論 上述の私の推理(笑)にはいくつかの論理的弱点があります。ですからこれは「推理(笑)」なのであって、あくまで可能性としての結論です。 さて、私はstereotype2085さんをどこまで信用すべきでしょうか? stereotype2085さんの発言を、作品をどこまで信用すべきでしょうか? 私はstereotype2085さんが私の作品に対するコメントに対しては非常に辛抱しながら丁寧に、かつ誠実さの限りを尽くして対応してくださったことを確信しています。 しかし、この作品は「私怨」がテーマであると公言されています。少なくとも花緒さんはラファエロはこれは自分のことではないかと勘ぐった。そして第三者の私からしてもそう考えるだけの十分の証拠が私の推理(笑)によって得られた。 では本当に花緒さんでないならば、「私怨」がテーマです。stereotype2085さんは少なくとも花緒さんとのさらなるやりとりを拒否するような対応をすべきではなかったと思います。「私怨」の当事者だと思ってしまった読者に対しては最大限誠実に対応すべきではないでしょうか? それこそ私の作品に対する批判などは極論をいえば、こいつわかってねーな、と軽くあしらっても何も問題はないでしょう。しかし私怨を向けられたと感じた当人に対しては本当に誠意を尽くすべきである。とくに「作品のテーマが私怨である」と公言している以上ななおさらです。 これが私の意見です。 以上、最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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stereotype2085
(2019-09-16)

survofさんへ。とても面白味のある、かつ長大な推理をまずありがとうございます。私の作品にここまでこだわってくれたことに感謝します。結論から言うと、やはりラファエロは花緒さんではないのです。申し訳ない。ここまで懇切丁寧に推理を重ねていただいたのに淡泊な返答になってしまって。今作を作っていた時の私の一連の心の流れを詳細に説明します。まず冒頭の「軌道を外れた惑星」は私の人生自体が軌道から外れていたとの印象から私自身のことに近いなと感じていました。そして天使、僕らと言ったフレーズは私にとって心地の良い響きを持つものをそれこそ感覚的に配置していきました。僕ら=守られるべき純粋な人々。天使=彼らを守るべき奉仕的な存在、として描いていきました。その中で天使というフレーズからの連想でラファエロという画家が登場したのですが、初めは形骸化した権威などの意味合いは持たせていませんでした。しかし書き進めていく内に、これは天使や僕らと対立構図を持たせた方が良さそうだとの制作意図が芽生えました。そこで初めて形骸化した権威という意味を後付けとして設けたのです。そしてここに正直に言います。書いている途中、熱がこもっていく内にラファエロが花緒さんではないかと誤解される恐れがあるなと思い始めたのも事実です。ですから私はツイッターで「炎上要素がある」と呟いたのはそのことなのです。花緒さんが(この言葉を花緒さんに使うのは失礼なのでなるべく避けたいのですが)誤解もしくは勘ぐる可能性がある、少し良くない作品だなと感じていたがゆえの呟きだったのです。花緒さんは舌鋒鋭くロジカルに、しかしある一定の方向に結論を導いていくのが技術的にとても素晴らしい方です。実際キャスでお話させていただいた際、私はあらゆる選択肢を封じられ、花緒さんの求める結論へ導かれる感覚を感じていました。ですからこのラファエロ=花緒さん説も花緒さんの痛切な論旨(実際彼は幼稚な精神性ということに四点の批評ですべて言及されています)で私が一定の結論に導かれる恐れがあった。ですから今となっては本当に失礼だったかもと思うのですが、あのような形でこれ以上のレスポンスにはお付き合いしかねます、と述べさせていただいたのです。ここに私に一定の非があったのは認めるところです。ラファエロ=花緒さん説はとても面白いものです。ここまでsurvofさんを夢中にさせたのもそのような要因によるところが大きいでしょう。そして私も実際その説が浮上することを半ば自覚的に知っていた。ですがやはりラファエロは花緒さんではない。今では花緒さんと誤解される恐れがある作品だと自覚していながら、投稿したのは本当に失敗であり、よくないことだったと大きく省みています。ここに花緒さんにも誤解させ、不快にさせてしまったであろうことに謝意を表したいと思います。これでも不十分であると仰るならラファエロが誰をモチーフにして描いたかということに言及しなければならないでしょう。根幹にあるのは私の学生時代の教師です。それにこれまで私が見聞きした権威的な人物(メディアを通して知ったり、その後の社会生活で出会った人なり)を複合的に重ねていった。その中で今現在における花緒さんと私との関係性において、花緒さんを彷彿とさせかねない描写も無意識的にてじょうが書いていた。それが事実です。以上で回答になっているでしょうか。survofさんの推理はラファエロ=花緒さん説を追求するのに最高峰の出来栄えと思っています。それに私も誠実に応えた。これ以上ラファエロ=花緒さん説について私に語るべきことはないように思います。なおこの作品が権威とその権威に打ちのめされる人々を描いた作品として、非常にテンプレートな作品になってしまったのは、今としては多くの優れた物書きさんから指摘され認めるところです。それではこれにて失礼させていただきます。

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三浦果実
(2019-09-16)

ステレオさんのこの返信、読んでよかったです。おやすみなさい。これへの返信は不要です。

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survof
(2019-09-16)

ステレオさん、丁寧なご返信を本当にありがとうございました。あとはステレオさんの誠意を私が信じるかどうかという問題でしょう。そして私はステレオさんの誠意を信じることを進んで選びます。ご返信、改めて本当にありがとうございました。

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survof
(2019-09-16)

追記:論理的な穴をつき始めればキリがないです。ですが、こうしたコメントでのやりとりでは特に論理的に穴のない論理展開というのは無理な話です。つまりもうこの段階になると相手を信じるか信じないか、という話にならざるを得ない。そして、信じるか、信じないか、は入手可能な限りの情報を集めた上で、では自分が相手信じたいか、信じたくないかということになるかと思います。で、私は、ステレオさんを信じたいと思ったということです。

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stereotype2085
(2019-09-16)

survofさん、おはようございます!論理的に穴のあると言うのは、ある意味ロジカルな思考も必要とする物書きとして、悲しい指摘でもありますが、私を信じたいという選択肢を選んでくださったことに何より喜んでいます。 私もsurvofさんが、物書きとしての知的好奇心、探究心から一連の推理とやり取りをしていただいたと、信じて揺るぎないところです。 時折見逃せない欠点も見せてしまう私ですが、どうか今後ともよろしくお願いします。 そして最高の帰着点へ導く「推理」を書いていただいたsurvofさんへ最大級の感謝を。そして今作に貴重なアドバイス、コメントをしてくださったすべての方にありがとうを。それでは仕事開始です!

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survof
(2019-09-16)

もちろん、ステレオさんや私の論理展開に穴がある、という意味でもあるのですが、そもそもこの世の中にロジックだけで完璧に証明しうるものなど数学の定理くらいなものなんじゃないか、あるいは、数学すらも基礎まで掘っていくと今度は「論理」というものの無矛盾性を論理によって証明するという話になっていくわけで、数学では「論理自身の無矛盾性は論理そのものでは証明できない」ことが証明されています(よく考えれば当たり前の話ですが)。つまり論理で証明できるものは世の中に一つもないのではないということになるわけですが、例えば物理学がある物理理論を論理的に隙なく証明することが不可能であったとしても、それが入手可能なあらゆる実験結果と概ね合致する限りにおいてその理論を「信じ」かつそれを活用して人を月面に送ったり、量子コンピュータを構築したりすることが可能であるように、人間関係において相手の誠実さが信頼できるかどうかというのは実のところロジックによって証明されるものではないし、証明され得ないものだけれども、それでも相手が誠実であると判断したほうが妥当であると判断し場合に、それをお互いに信じることで人間関係というのは何とか成り立っているのだと思っています。それでも、信じたくないと頑なになっていれば、どんなに妥当な証拠を目の前に突きつけられても、それを信じないという選択肢は少なくとも論理的には常に用意されているのです。 と、またもや長くなりそうですが、論理に穴があるということに決してステレオさんをこれ以上責める意図は全くありませんので悲しく思わないでいただきたいです。それは私のことでもあるのですから。 そして、こちらこそ楽しいやりとりでした。私自身の創作にも活かせるようにしていきたいです。

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survof
(2019-09-16)

修正:つまり論理で証明できるものは世の中に一つもないのではないということになるわけですが ー>つまり論理で証明できるものは世の中に一つもないのではないか?ということになるわけですが

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stereotype2085
(2019-09-16)

survofさんへ。数学の世界でさえ「論理の無矛盾性は論理では証明出来ない」と証明されているのですね。確かに。論理に矛盾がないことを論理で証明することほど矛盾するものはありませんからね。しかし私たちはある程度の論理性、そしてそれによって証明してきたことで、またその証明を「信じる」ことで、繁栄の一部を手に入れているというお話、とても興味深く拝見しました。加えて人間社会でも証明出来ないことも多いが「信じる」ことにおいて人間関係を円滑に成り立たせているというご指摘もとても面白く、目を見開かせられるものがありました。今回私にもsurvofさんにも論理の落とし穴は当然あっただろうというお考えの中、「信じる」ことを選択していただいたことに今一度感謝し、頭でさえ下がる思いであります。survofさんの推察、一つの追及はビーレビ史に残る華々しいものだったと思います。掲示板上でとはいえ折角出会えた詩人、物書き同士が「信じあう」ことをチョイスしたのはこれに勝る喜びはないのでしょうか。最後になりますが、多くの示唆、そして私に閃きを導く叱咤にも感謝します。ありがとうございました。

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stereotype2085
(2019-09-16)

勝る喜びはないのではないでしょうか〇 喜びはないのでしょうか×

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survof
(2019-09-16)

正確にいうと「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、自身の無矛盾性を証明できない」(wikipediaから、笑)っていう内容でゲーデルっていう人が不完全性定理という名前で証明しちゃいました。 ちなみに論理全般に適用した私の使い方は実はちょっと間違っていて、もっと数学的の理論(公理系って呼ばれてます)に限定された話なのですが、それでも最初知った時はどんなに論理的の精緻を極めた数学でもこんな限界があるんだ!・・ってびっくりしました。 実はこの定理にはもう一つの定理とセットになっていて「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、証明も反証もできない命題が存在する。」(Wikipedaからコピペ、笑)というもので、要するに、きちんと矛盾なく数学の論理の前提を揃えて、そこから論理を展開しても、その理論体系とは矛盾しない、かつ、その理論体系からは証明できない独立の命題が必ずあるよ、って意味で、こちらも数学の限界を示していると共に、裏を返せば、数学のある理論体系はいくらでも拡張可能だよ、っていうちょっと希望のある話でもあります。 このゲーデルっていう方はこんな難しいことを考えすぎて晩年は精神に支障をきたしてしまいました、涙。 今回の私も、あまりに論理的に考えすぎてちょっとコミュニケーションに支障をきたしてしまったようなところがあったかもしれませんが、それでも本当に丁寧にご対応いただいて非常に嬉しく思いました。最終的にはいろいろ考えさせられる機会となり、やはりリクエストに答えてコメントしてよかったな、と思っています。 こちらこそありがとうございました!

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るる
(2019-09-17)

わたしは、この作品に恩を感じています。とはいえ初めて読んだときは あまり良い印象をもちませんでした。 わたしが この詩を初めて読んだ時、感情というものがなくなってしまう瀬戸際に私はいました。私の中で善悪の大どんでん返しが起きていたのです。私の母は、全盲目指して暗く厳しい状況に向かってすすんでいます。耳も、よく聞こえていない。日々、コミュニケーションが難しくなっているので、遠方にいらっしゃる名眼科医との誉れ高い病院への旅先で 私はこの詩を読みました。  医師は、けして良くはない結果を やんわりと伝え。母は けして悪くはないと理解したようです。そして 旅先の様々な人々は とても親切でしたが、 母は あきらかに おかしい ハプニングを色々としでかしてくれたので、厳しい状況を想い知った旅でした。 帰途についてからも、母と私の状況は 当然、厳しいです。以前から 毎日毎日、一メートルも 離れていないのに「おらんのか」と言われてきました。いままでの私は毎日毎日、一言の声かけも 六回くらいはしてました。小さな声から だんだんボリュームをあげて喋るような毎日でした。わたしとしては、それが最善だと思っていました。しかし、旅から帰ってきたある日、耳の不自由なはずの母の前に 普通においた食器の音が「暴力的だ」と罵られました。そのとき わたしは 発狂し、大声をあげ 人ではない獣のような声をあげました。とても轟音でした。声が枯れましたし。でも、その声は、母には聞こえず。すやすやと母は寝たのです。 天使の日々は無為だった。 天使の日々は徒労だった。 天使の日々は無駄だった。 この箇所が まししく私自身のことのようだと感じました。私にとっての善が無駄だったんです。なにもかも辞めたくなりました。夕方になると、意味のない大声を 遠吠えるかのように発することが 二日間ほど続きました。喉は常に痛い状況なので、声がでなくなりました。すべての会話が とても小声になりました。私の思考力は低下しました。友達との約束を記憶できてないことが複数あった。孤立傾向です。 そして、この詩を 再び読みかえしたとき、私は、なんと ちょっと笑えたんです。 >軌道から外れた惑星の旅が、終わっていく夜。2019年の大晦日には、宇宙の隅で方舟が燃え上がる。降り注ぐ火花を仰ぎ見ている黒豹。 宇宙的視点なのに、デジタルに世界が終わるんです。んなわけなんぢゃん。すこし笑えました。そうでしょ?ほんとうの物事って、デジタルみたいには終わりはしないもんでしょ?ある日突然 発火するような出来事があったとしても すべてが終わることはないんです。それって、笑えるではないですか? この作品は、記号で編纂されています。たとえば、【ラファエロ】。彼は、宗教画を多く描いた画家でした。宗教画というものは、様々な約束事のモチーフによって宗教を伝えるために描かれています。宗教がこの世にない時代でも きっと、世の中にできわくすべての事柄は 善と悪という二項対立にありわけて考えてしまうものであったことでしょう。それってカオスすぎて問題解決が困難です。だから、記号化です。ラファエロの描く善と悪は、明確で記号的。個々の人々がそれぞれの立場で、善と悪を当てはめるために 記号的表現がなされています。仮に善悪にふりわけることが人には必要だからだと思います。しかし、世の中は 実際には割り切れないことばかりです。人間は不器用な生き物なんだと思います。人とは一応は二項対立をしないと 身動きがとれない生き物。だから宗教では 一応は、しばしば二項を対立させるのだと思います。 しかし、現実では すばらしいと思える事柄だって、ある日突然に みすぼらしいへと 裏返る。この詩のような年末で世界が終わるどころか、ひとりの人間の心の内側では 秒単位で世界かが終わったかのような心境に陥ることは ある。しららずしらずに善悪を決めていた。それに 私は気が付きました。 この詩には大嘘があります。世界が終わったかもように思うことって、どう考えても大嘘ぢゃん。と、感じたとき。わたしは笑えた。すると変化が起きたんです。喉は変な声を出したせいで痛い状況でしたので声はでなくなってました。すべての会話は とても小声になった。でも すこし笑えると感じたら すこし穏やかになれたんです。すると、不思議なことに 母は わたしの言いたいことが理解できる傾向が現れはじめています。小声なのに なぜか母の耳に聞き取れるらしい。 ありがとうございます。なんか やってけそうなんです。 ※追伸。みなさまへ 私は私の身においてしかこの詩を読みませんでした。みなさまの文章も読まなかったわけではありません。ですが、お礼を言わせていただきますこと どうぞお許しくださいませ。

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stereotype2085
(2019-09-17)

るるりらさんへ。まずはこの作品を親の導き方が間違った愛息子と表現するのをお許しください。お母さまの目の状態は公式ツイキャスなどでもお伺いしています。お母さまがるるりらさんから食器を静かに置かれただけで「暴力的だ」と口にしたというエピソードも、そしてそれに続くるるりらさんの心の動きも、耳にするだけで胸が切なくなり、痛ましい気持ちにさえなります。るるりらさんとお母さまを労わる思いで私は一杯です。私の愛息子は生まれた時(書き始め)は素晴らしかったのに、親である私の目が行き届かなかったせいで、恨みや憎しみなどの暴力性もはらみ、成人する頃(完成する頃)には人へ悪さを働き、困らせるような息子に育っていました。私はこの子を教え諭して世に出るに相応しい子にすることも出来たし、そうするべきだったのですが、何を思い違いしたのかこの愛息子にも、世の中で何か出来ることがあるのではと思いこんでしまった。そこに私の親としての大きな過ち、失態があります。愛息子は当初おぼろげに予想していた通り、やはり近づく人を傷つけ、親切を働こうとする人に悪態を口にするような子だった。そしてさらには私はそんな息子を可愛さゆえにかばってしまった。愚かだったと思います。だがしかし、世の中と折り合いがつかない息子にも、人の心がまだ残っていたのでしょうか。ふと耳にしたるるりらさんのご家族のお話を耳にするにつけ、そっとお見舞いの花でも贈るようなことをしたのでしょう。まさに二項対立ではひも解けないことを息子は期せずしてるるりらさんにしていたのです。世界がデジタルに突如として終わるなんてことなんてない、そのことを絶望と憎しみにとらわれていた息子は身をもって知っていたのかもしれません。だからこそ僅かながらでもるるりらさんのお力になれた。るるりらさんの「わたしは笑えた」「やってけそうなんです」とのお言葉を耳にして、私はようやく息子と和解し、彼をもう一度家に出迎えることが出来た。今では頭の一つでも撫でてやりたい気分です。お前はだめ息子だったが、一人の人物の心を辛うじていたわれた、救えた。だから少しだけ褒めてやりたい。親として二度と今回のようにかばってはいけないとの自戒は忘れずに。若干私の人柄に似合わず、笑ってしまうような浪花節の人情ものの話になってしまいましたが、正直そんな気持ちなのです。これ以上息子(作品)について何かを語るのは野暮というものでしょう。今ではゆっくり息子と向き合い、またこれから生まれる作品たち(子供達)をどう導けるか考えたい気分です。二項対立では収まらない世界、デジタルでは決して終わらない世界。この二つをるるりらさんに改めて気づかせていただき、この愚息にも何か出来ることがあったと本当に喜びに満ちています。心からの感謝を込めて。ありがとうございました。お母さまの状態が少しでも良くなることを願って。 追記・この返信はこの作品が、読み手へ生んだあらゆる誤解や不快感を擁護したりするものではありません。ご理解くださるようお願いします。

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stereotype2085
(2019-09-17)

誤解や不快感を与えたことを擁護したり〇 誤解や不快感を擁護したり×

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