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2021年12月大賞作品「平等」
2021年12月の大賞作品は「平等」だった。投稿された当初、特にコメントをすることもなく、読み飛ばした作品の一つだった。ところが、今改めて、本文を読み、更にコメント欄を読んで、批評文を書いてみたくなった。 先月も、一つ、過去の名作を批評文として取り上げた。結果として興味深い空間が生まれたと思う。それは、作者不在の場所において「作者に気遣うことなく、率直に作品についての複数人の考えが表明できた」ということ。 そこで、あまりビーレビ大賞作品は読まれていない(三浦の実感)と思うし、良くも悪くも大賞作品について言及したかったという方々が多くいらっしゃるのではないかと。 これが反響よければ、毎月の大賞作品を取り上げるシリーズにしたいと思う。 前置きの最後に、これが三浦だけのアイデアではないことを、健全な悪だくみでないことの証明として、武田地球氏との雑談のなかで生まれたアイデアであることを明かしておきたい。では、投稿する。 まずは私の拙い批評を。 この作品について加藤万結子氏も批評文をお書きになれていて、拝読した。 https://www.breview.org/keijiban/?id=8644 加藤万結子氏だけでなく、ある一定の読者に反響があったことがうかがえる。なかでも、作品コメント欄にある湯煙氏の「平等即差別 ですね。求められるべきは公平さでしょう。」が一番印象に残った。なぜなら私もこちらのコメントに概ね同感だから。経験値から云うと、三浦の場合、平等などこの世にはないと悟ったのは中学生の頃で、在るのは差別だと。人それぞれ差異があるのだと。その差異を全人がお互い認め合い共存しあおうねという思想に目覚めだしたのは社会人になるころだったと思う。で、精神的に大人になった(今もなっていなかもしれないが)頃に、「公平さ」を求めるようになった。それはマクロでいえば社会。ミクロでいえば、びーれびみたいなこういうコミュニティ(大賞選考システム含む)に。で、作品「平等」について。良い意味でも悪い意味でも「青さ」(若さという意)が出ていると思う。存分にして率直にその思うところのことを直截に書かれているところに好感を持つけれども、告発するべきは公平さではなかろうかというという、作品クオリティとしての惜しさ。 そのような三浦の読みですが、皆さんいかがでしょうか。 作品を読んであなたが思うことを、ご自身が言語化することを、言語化作業と丁寧に向かいあって、2022年12月の大賞作品に思うことを教えてください。
2021年12月大賞作品「平等」 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1508.3
お気に入り数: 1
投票数 : 0
作成日時 2022-02-02
コメント日時 2022-02-03
「喪失」の詩であると、エッセンスを汲み取られているコメント。おっしゃる通りだと思います。 まったく話を逸らしますが、批評文のなかで大賞作品は読まれていない実感があると書きましたが、大賞作品どころか、他人の作品すら読まない連中が多い。で、そういう人らの作品は共通して稚拙。他人の作品を読んで「感想文」から初めたほうがいい。昨年のイベントにたくさん応募してましたが、あの連中の大半がそれだと思いますね。他人の作品が読めない承認欲求だけの作品を書く人たち。関係ない話をすみません。(関係あるんですけどね)
1まずは作品を読んで下さりありがとうございます。 平等を書いた茉と申します。 数多くのコメントも有り難く、非常に興味深いものでした。 詩については、私がいろいろ言える立場ではありません。様々な人が、詩を読み独自の解釈で楽しんでくれることを祈っています。 最後になりますが、本当に読んで下さりありがとうございます。まだまだ、寒い日が続きます。体調にはご自愛くださいませ。
0作者ご本人からコメントをいただけて感謝いたします。内心ほっとしました。 作品は、作者の手からリリースされれば、作品をどう読むかは読者に委ねられる物と、そういう思想が私にはあり、その考えには完全なる正しさがあるとも一方では思っておらず。特にビーレビという限定された人(参加者)の空間である場合には、作者と読者の距離はかなり近いわけなので、作者への一定の配慮は必要にも思うのです。けれども、この場所が「批評」を標榜するのであれば、作者への配慮より、作者でも読者でもない第三者へ向けた作品批評が発せられないものかと、そういう意図で「平等」を取り上げさせていただきました。作者さんの投稿第1作目に当たる作品ですが、大賞受賞おめでとうございます。
1コメントありがとうございます。先日、放送しておりました中でも触れさせていただきましたが、私は私の作品に対して明らかな酷評コメントがあっても、それに対して「ありがとうございます」などという社交辞令で返していた、というのがネット詩へ参加を始めた頃の姿勢でした。その姿勢を「なぜあなたは真正面から向き合って返さないのか?」と叱責を受けてやっと気が付きました。それは酷評をされたコメンテーターと向き合うのではなくて、自己の思考を言語化する、その困難な作業から逃げ、不誠実に言語と向き合っていないことへの指摘だと、そう思えたのです。天才的に自分は上手く書けると「思っている」人がいる、自由に気ままに感じるままに書きたい人もいる、けれども、それらの人の大概が自分の作品を客観視出来ていないのではと思うのです。他人の作品を読んでその受けた思念を言語化して批評文として丁寧に表そうとする時、何かのレベルが着実に上がります。詩を書くレベルではありません。詩を書くレベルをも含めた何かが上達します。実感ですが。 長々とおぢさん語りしてすみません。
1あまり頻繁にサイトを開かないので、大賞を取ったことも先ほど知りました(笑) 色んな意見が錯綜してそれはそれでいいのかなと思います。 また、これに甘んじず精進していきたいと思います。
1「平等」の詩においておそらく一番重要な問いかけである何か喪ったものってそのまま読むと共感性なんですよね。 当初赤ん坊の声とか聴いて「どうにかならんのかい!」って思ったけどどうにかしようと思ったら弱者としてアピールの上手い人が勝てるからどうにもならんよな。と きっと皆同じこと考えて何もできないってわかってるから何もしないんだな、これが大人か…。みたいな気持ちには当初感じてたはずの弱者への共感性がなくなってるので。 この詩が受け入れられるのって、この詩が提示している未来が簡単だからじゃないの?無気力な大人が傷をなめ合ってるだけでは。 という難癖じみた気持ちがあったんですが、室町礼さんの批評を読んで、なるほどね。と。 あんまり完璧な詩って意外と捨てちゃいますよね。 脆いけど取っ手があるみたいな詩の方が案外手に馴染んできたりする、気がする。 「平等」もそういう詩で、何か一言いいたくなる、そして言おうとして読み込むと中々面白いな、魅力があるな、思ったよりよく考えられてるぞ、と思える。 良い取り組みだと思います。
0こちらの受賞作品が第一作目の投稿作品であるというのが、今作を成立させている重要なファクターではなかれうかと私は思っていて。 というのも、往々にして、最初の作品には作者さんが持つ創作の全てが出ちゃうんじゃないかと。 そうであるとしたら、この作品が持つ社会的な思想の微妙な危うさ(?)を、作者が持っていたであろう「詩にしようとする初期衝動」が生々しい喪失感を生んだようにも思うのです。
0危うさ(?)を× 危うさを覆す○
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