作品を読む
詩を書く勇気
ながめていると「Je est un autre」の世界観が見えてくる。まあランボーほどの早熟さは感じないのですが。あくまで資質を問題にしたい。これは大変なことだと思います。 ここにちょくちょく出没するつまんねー書き手がいて、以前私はこんなふうに評したのですよ。 「そっちょくにいって「闇が深いな」と思う。 俺はカウンセラーじゃないから、こういうものいいはフェアじゃないことは 承知しているが(何度も読んできたから、もう分かってきた) さんざん言われてきたことだろうが「つかみずらい」詩で、 そこが作者さんの人格の本質なのだろうとも思う。 見世物としての完成度がすごいのは認めるが、これは「嘘」の良さであって、強度は低い。 たとえると、遊園地のエンターテイメントの良さ。 脳内で、現代詩と大衆詩の区分があやふやなのだろう、としか思えない。 作者さんは、今まで難しい本を読まなかったのではないでしょうか? そこが作者さんの闇を深くしていると、わたしは睨んでいます。 難しい本を読むのは苦行に他なりません。 一行一行、最後のページまで、 噛みしめるように読むという経験。 わたしだって毎度、ハフハフ言いながら読んでますけど、 優れた書き手、詩人でそれを通過しなかった人はいないと思います。 このままだと、何も残せずに歳をとって死ぬという未来があると 思いますよ。まじで」 azさんは余裕で、基準をクリアしています。 詩の世界には「嘘の良さ」というものがあって、50歳、60歳の凡人が箒ではいて捨てるほど沸いてくる。 しかし20歳の天才はぜんぜん出てこない。 端的に澱んでて腐ってるんです。天才っていうのは1作出して大爆発して終了、みたいな奴のこと、ようするにカートコカインみたいな奴。でも逆にそういう奴がいっとう面白い。 ここで私が「強度」といって問題にしているのは、つまり、たんなる社会課題とか現代的な風俗を超えた部分というのが必要だってことで。詩書きの「僕・私の意識の高さ」なんて、読む方からすれば、知ったこっちゃない。そんなものゴミですよゴミ。燃やす価値くらいしかない。 だから衝動とか必然性なんですよ、なによりも「詩」で書かなければならなかったという必然性。それを感じさせてほしいわけです。あと肉体性とか、そういう部分がいちばん大事。 で、とするとazさんの本作、前作に比べるとポエジーレベルは下がっています。だとしても今月投稿されたどの作品よりも優れている。そのくらい資質がいいわけです。
詩を書く勇気 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1220.4
お気に入り数: 0
投票数 : 2
作成日時 2025-08-30
コメント日時 2025-08-31


こんにちわ。貴方のいうつまらない書き手です。 https://www.breview.org/keijiban/?id=13427 ですね。なつかしいです。みなさんがわかるようにリンク貼っときますね。では!
0単に好みの問題ですよね。 感覚的で申し訳ないのですが、 azさんの詩は、 どっしり地に足がついてて、お酒で言えば、しっかりモルトの味がする。 ビールなら、昔ながらのしっかりしたラガー。 対するA・O・Iさんの作品は、 創作の名前も風変わりな飲むのを躊躇うけれど、 口に合うひとはハマるオリジナルカクテル。 私はどちらも好きです。 それにしても、A・O・I スレッド、 めちゃめちゃ熱い! オールスター大激論。加われなかったのが残念です。笑 おや? おまるさんのスレッドに書き込みしてしまいました。 いつぞやは、いろいろと荒らしてごめんなさい。 おまるさんのスレッドは、とても刺激的なので、また書き込みさせて貰っても良いですか? 二度と荒らしませんので。
0ぞんざいにあつかうと釣られてくる... アホのヤリマン並みだな
0引用されている詩も読みました。ランボーの私とは他者であると言う宣言と言うのか、表明に匹敵する詩の登場を待望していると言う事が伝わって来ました。
0代表者意識とはニュアンスが異なる地点で「表明」というのがあってもいい。たとえば「仮名序」のようなものが。そんなことを思いました。
0A・O・Iさんの詩、読ませて頂きましたが この方の詩全般についていえることは この方、まさしく言葉の美学の旅人ですね。 ちょっとキザですが。 こういう詩は読者としてはただそのことばの 旋律に利き耳を立てて味わうか、 批評者としてはただ技術的にのみ具体的に 指摘、言及、指導するかのどちらかだと思う。 おまるたろうさんは技術的アドバイスはでき ないようだし、読者としてもいい読者とはいえない。 こんなことをしているとたんにA・O・Iさんの ここで書く意欲をそぐことにならないか心配だ。 詩がわかっていないし書けないおまるたろうさんは でも詩人に対するあこがれはある。 それなら中途半端ではなく三年くらいこもって 自分が好きな詩人を徹底的に読み倒して自分の詩を みつけだすことじゃないかと思う。 このままじゃどうもよくない気がします。
2まだ生きてたんですね、この人、、、驚
02024年にネット詩で起きたことというのは、ようするに佐々木春が「文学極道的なるもの」を滅ぼしたんだよね。まあ、私もその一翼を担ったかもしれないが。 今は、その佐々木春も退場して、なぜか私が立て直そうとしている。
0いやどうも驚かせてすみません。 思いもしない方角から唐突に礫が飛んできて 不快だったかも。もうしわけありません。 わたし的には「文学極道的なるもの」というのは「中二病」の「日記詩」 のことですが、「説明詩」といってもいいでしょうか。それは滅びる どころかあらゆる投稿サイトで燎火の如く燃え上がっています。 A・O・Iさんのはめずらしくそいうものではないところがありまして もう少しここで大事に育ててあげて下さってもいいのじゃないかと 思い、失礼ながら一文を投げかけました。ご容赦。
2「罰を受けても行動を変えない人」の科学 https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/182406/2
0室町も万太郎もAOIもりつもアラガイもテイムラー隆一も必読の論考
0懲りないオールスターズ。笑
1また承認要求の強い奴のくだらない感想文に、ちょこっと名前を見かけたので一言コメントするが、批評対象作品としてコメント載せるのならば、少しは自分為りにでも解析評を述べてみたら如何か? 『単身ワンルームの逆襲』az 見てなかったので、ちょこっと読んでみたよ。 確かに内面に切り込んだ様子にも伺える佳作ではある。と思う。 特に対人関係を終えて寛げるバスルームというのは自分の内省を振り返るのには適した場所だ。 ~人は過去を切り捨てる事と受け入れることを同時に行おうとする~ 自身の可能性を信じるとは自身の不可能性を信じない、ということではない、逆も然りである。 この作品で作者が語り手を通して言いたいことの肝が置かれてある。 後文におかれてある。~自身の可能性を信じるとは自身の不可能性を信じないということではない。逆も然りである。とは、 この逆説的な意味合いは自分自身に対してあえて念押しをしている。 つまり他者から見えている自分を否定してでも自分の可能性は信じる他ないのだ。というポジティブな捉え方を示唆しているのだ。 それから先に書かれてある、~人は過去を切り捨てる事と受け入れることを同時に行おうとする。への読みに解析は関係してくるのだ。 社会生活を通して対人関係を考えた場合、ポジティブな関係を保とうとすれば無理にでも嫌なことは忘れるしかない。しかし そのすべてを忘れることは不可能なので、自己の内にある他者(矛盾)を受け入れることも必要になってくるのではないか。 これは人が人を相手に社会生活を営むときに働く必要不可欠な自己認識で、 ~人は過去を切り捨てる~この人とは自身も含めた「他者承認と自己承認」という諦めにも近い心理状態が見てとれるのです。 上に述べたようには作者(おそらく95%は女性だろうが)は、この心理状態に対して言葉を絡ませながらも、伝えたいことは読み手のわたしにも受け止めるができるのです。 おまえ(オマル)嫉妬してるな。 お仲間のような完備に、最近褒められてる。やきもち焼いてんだろう?違うの。 まあいいや。完備は気持ちしっかり持てば何処へ出しても恥ずかしくない書き手になるだろうな。ずいぶん美的感覚が研ぎ澄まされてきたもんね。 きみも、承認要求染みた泣き声ばかり吠えてないで、イイモノ書けよう。印象で他人を貶してばかりいないでさ。 失礼
2『単身ワンルームの逆襲』az読ませて頂きましたが これはわたしの区分では詩じゃないのですけど (わたしのカテゴリーでは「公開日記」もしくは 「小説断片」です。日々の陰鬱や諦念や喜怒哀楽 やらの「説明文」です)が、 あくまでもわたし個人の弁別です。このサイトで 詩ということになっているのにそれに反逆するわ けではありません。 このサイトの詩といわれるほとんどの投稿は99 %が公開日記です。自分の懊悩や喜びや悲しみの 説明文です。隠喩も思想もそこに込められるから 詩だとみなさん錯覚しているのでしょうが、わた し個人の腑分けでは詩ではありません。でもいち おう詩ということになっているから詩ということ で感想を述べるなら、言葉の選択と転換が希薄だ から詩の価値が感じられないということになるで しょうか。公開日記もしくは小説断片でも自然に 韻律がそなわっている稀有な方もいますが、ほと んどの方にはそれが希薄ですし、 えーと、アラガイさんのいうような個人の思想的 な表面は、えーっとそのまったく詩の価値にとっ てはあまり大きなウェイトを占めるものじゃない ので、そりゃよほど見たこともない思想ならとも かく、なんだっけ自己を信じるか信じないかなん たら.....という作者さまの思想は選挙演説中にそば をそそくさと通りすぎる駅の通勤客の心境と同じ でどうでもいいです。笑 でも候補者が演説マイクをもちながら裸ダンスで も踊りだせば通勤客も立ち止まるでしょう? 笑 詩のことばの選択と転換とはそういう芸当なので す。その芸当がここの投稿者さまにはほとんど見 受けられない。 いや、ほかでもそうです。現代詩フォーラムもC WSも詩と称してるけどみな公開日記です。そう いうのね、もう大衆は通勤客はだれも相手にし てくれないということを皆さまキモに刻んで投 稿してもいいかもしれませんし、いや、わたし たちのこの狭い空間で互いに認め合っていれば いいのですというのならそれもいい と思います。
1これはこれは手厳しい反応が返ってきましたな。 そういうあなたがおっしゃる、みたこともない思想や「裸ノダンス」とは如何様なモノでしょう? まさか『コジキの思想』吉益剛造の世界観でしょうか?そういうえば彼の詩に見たことがありますね。 薄い猫毛のような文字をしたためたモノ(タイトル忘れち)を。 あなたがおっしゃる詩とはどのようなものでしょう? 参考にしてほしい詩人とは誰でしょうか? 是非聞かせてほしいものです。
0初めまして。 もしかして、室町さん? ご本人でなくても室町さんをご存知ですか? あなたの考える詩とは、室町さんが考える詩と、 一致しているのです。 例をあげます。 百合の花は美しい これが、説明的文章。 百合の花はグロテスク、醜くて、おぞましい これが詩であると。 この理解で宜しいのでしょうか?
0室町のオヤジだべ(笑 レモン(りつ)さん、百合の花はグロテスクはまだいいけど、醜くておぞましい、は百合の花に失礼でしょう。笑 それを表現するなら百合の花はグロテスクで死者のいびきだ。(笑)でしょう。もっとも誰だっけ、詩は表現ではない。とおっしゃる偉いお人もいたよ。
2https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=392025 現フォに投稿された室町さんの詩の手法をアップしておきます。
1おお、詩は表現ではない。入沢康夫だべっち。
0もう、アラガイsさん、 決めつけるのは、危険ですよ。笑
0結局ね、室町(takoyo2)の旦那はね、転換させて新しい価値観を生み出せって言いたいのよ。 そりゃわかるよ。そこまでできたらみんな悩んで大詩人だ。笑
0詩は表現ではない。俺じゃないよ。俺はわからない。入沢康夫が書いてるのよ。
0アラガイsさん、ごめんなさい。 「詩は表現ではない」の意味が分かりません。 もし良かったら、解説して貰えませんか?
0ああ、こういう意味かも。 詩は表現ではない。生き様だ。
0詩は表現ではない。剥き出しの自分を晒せ。 とか?
0入沢康夫氏に聞いてみてよ。笑 それについてはいろいろと本にも書かれていますね。ネットで調べてみてください。 そしてわたしにもそのこころを教えて~
0詩は表現ではない。そろそろtakoyo2さんが出てきて解説してくださるでしょう。南無妙法蓮華経
1詩は表現ではない。 詩の根幹である意識の深みから、ポエジーを抽出すること。 確かにA・O・Iさんは、分かりやすく、やってると思う。 もうひとり、ホロウ・シカエルボクさんを挙げておきます。
0入沢康夫の解説を読んでください。
0こんにちわ、レモンさん あなたのその例でいえば 百合の花は 空の色 これがわたしのいう詩かな。 上句と下句のあいだに選択が ありますよね。それが転換に 結びついている。 これはあくまで最小単位の話ですが 説明文公開日記小説断片とは違うところ だと思っています。
1良いですね。 言外のポエジーを感じます。
0もう、拗ねないで、これを聞いてくれれば、私がホロウさんの名前を挙げた理由が解って貰えるかと思います。 https://youtu.be/P5ITz7tIZYg?si=kVYKAXr8NL7qhaiz
0笑、無理強いだな。 百合の花と空の色? そりゃ人それぞれイメージングは勝手だけどね、百合の白い花びらと空の青さに、白い雲?。何かこれをイメージさせる言葉が前にこないと、僕には無理。
0さて、では本筋のazさんの詩について、 少し所感を。 「単身ワンルームの逆襲」は、 詩が映像として浮かびました。 この詩は、更に展開させて、小説に仕上げると、面白い作品になる!と思いました。 ただ、前回の幼馴染みが「悪人」と描かれていたことから、 おまるさんの仰有るように、 ポエジーは前作が上だし、抽象表現から言っても、前作の方が好きです。 詩でも小説でも、この先が楽しみな作者さんであることは、間違いないです。
0幼馴染 - B-REVIEW https://share.google/2gGqhTfYsseyzfB7n azさんの前作です。参考までに。
0「Compulsive(固執・強迫観念型)」。 このタイプの人々は、罰を受けてもその原因に気づかず、 さらに明示的な説明を受けてもなお、危険な行動を繰り返します。 しかも驚くべきことに、 研究チームが参加者に「最も良い戦略は何だと思いますか」と尋ねたところ、 彼らはしばしば、それが明らかに間違った選択である場合でも、 まさに自分が実践していることを具体的に説明しました。 特にCompulsive型は50歳以上の高齢層に多く、 年齢による認知柔軟性の低下とも関係している可能性が示唆されました。 https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/182406/2
0おまる氏、青十字氏の一連の投稿、興味深く読ませて頂いています。この投稿もそういった観点からの投稿だと読んでいます。言葉の選択と言った技巧的な問題を問うのではなく在り方といった本質的なものを仰りたいのだと読みました。そこに付随するものとして脳科学を出されている。 私個人の見解ですが、法律やルールを繰り返し破る人というのは、そもそも「倫理観」「道徳心」が欠如しているのではないかと思っています。『悪い事』と認知していなければ変える必要がない。だから往々にして罰が不当なものだと反論や反撃に転じる。それって認知行動療法等で治るのかしら?そもそも自分が悪いと思ってないなら積極的に治療を受けないよね、というオチ。笑
0付け加えるなら該当の彼らの承認欲求の強さが問題になるかと思います。相手側の主張を理解するよりも自分の主張を飲ませることに終止する。だから対話は一方通行に終わる。社会やプライベートで人間関係を構築出来ない程の承認欲求の強さは何処から来るのか、それは承認が満たされたことのない人生経験からではないかと思います。まぁ、人間なんてあれやこれが複雑に絡み合って出来上がった個々のパーソナリティだから難しいですよね。
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