田邊容『花鉢』読解以前 - B-REVIEW
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批評対象
作品を読む

田邊容『花鉢』読解以前    

<批評対象作品>
花鉢


抒情は心理の描写ではない。情を抒(く)むというのだから、むしろ読解に近い。「目にうつる全てのことはメッセージ」(荒井由実)だ。恋しいやら切ないやら、お仕着せの形容には収まらない思いを、情景に託し描写で匂わせるのが、究極の抒情であろうし至極の叙景でもあろう。文章の凝縮とはそういうことだ、まさにこの作品『花鉢』の文体だ。みごと純文学的な、大胆に極端な筆致だから、小さからぬ弊害もあるが、魅力はその弊害を補ってあまりある。 まず作品のあらすじを整理しよう。舞台は滋賀県の田舎町、雨上がりの夏至のできごと。語り手は近所のお姉(水島さんちのお嬢さん)に失恋した。夕方の犬の散歩中に、乙姫街道の路上でお姉に会い、かの女が結婚して街を出ることを告げられたのだった。詩の最後の2聯には、その夏至の短夜に語り手が見た、二重の意味での夢が描かれている。 全文の辻褄を合わせると、そのような脈絡が読み取られる(最後の2聯には大きな解釈の幅があるが、本稿はそこに踏み込まない)が、修辞も構成も高度なのでなかなかに難解だ。たとえば冒頭、語り手がお姉から結婚の事後報告を受けたとおぼしい場面。 >焚き火をやるのかと訊かれたから違うと答えた。日が長くいつまでたっても明るい。夏至だった。 >今一番したいことは、これから先、一生口を噤んでいていいと言われることだ、と思う。 >息継ぎに、声帯を震わすのはいらない。 >宵の明星だといった。生返事だけした。見なかった。 >ずっと近所に住んでいたお姉は街の外に出るのにきっとこの国道を行ったのだ。まっすぐで、どっちも山に消えている。どっちが北でどっちが南か、すぐにはわからない。わかる必要がない。 > >雨はひどく降った。声も電波も、テレパシーも全て叩き落とされる、と思った。乙姫街道には誰もいない。水を張った田が、烟った。 >「わたし、出ていくねん」 (作品冒頭~2聯2行) 2聯初行の「雨はひどく降った。」は、客観的な事実ではない。「焚き火をやるのかと(お姉に)訊かれた」と書かれているのだから、この場面に雨が降っていないことはあきらかだ。このあとの叙述にも「夜に雨が降ったらしかった。」「昨夜の雨は上がっても至るところに残っている。」などの説明が続出する。 つまりこの「雨」の具体的な状況ではなく、語り手の心境の比喩、お姉の前ではこらえていた涙の象徴。このように文脈を注意深くみないと、読解以前の内容把握にすら至れないのが(そして読解以前にすら至れずとも、読解はできてしまうのが)この大胆に極端な筆致の小さからぬ弊害だが、魅力はその弊害をはるか上回って大きいのだ。 この無骨で強情な、なんとも不器用な訥弁に、語り手の「そういう齢で、季節」(5聯2行)がめざましく映えてみえる。夏至の舞台にふさわしい、まさに朱夏の熱情が。 * 詩中でなにより目を引くのは、「宵の明星」(ヴィーナス)「乙姫」「山の神は女」そして題名『花鉢』、お姉への思いを象る選語の列挙。これらが詩に「お姉はおれの花鉢には収まらない高嶺の花だった」というような核心をもたらし、ただでも高い文章の密度を、なお高めてみせている。 たとえば上記引用の「雨はひどく降った。声も電波も、テレパシーも全て叩き落とされる、と思った。乙姫街道には誰もいない。水を張った田が、烟った」(2聯)。号泣を象る豪雨、雨音にかき消されて届かない声、溺没、乙姫のいない竜宮城と、みごとな聯想(文学極道ふうにいえば「イメージの連鎖」)が失恋の痛苦をあざやかに展開している。そして「水を張った田が、烟った。」の一文が、涙ぐんだ語り手の視界を描写しながら、終盤の「山の神は女だ」(6聯)への伏線を張っている。 山中に祖霊の常世があるというのは、日本全国に普遍的にみられる信仰だ。また農民の民俗において、山の神は田の神でもある。その女神は春になると里へ降りて稲作を守護し、秋になると山へ帰るという。作品の舞台は夏至だから、女神は里に降りているはずなのにいない。いまだ語り手の女神であるお姉は、街を出てもう戻らない。だから語り手は終聯の幻想、二重の意味での夢のなかで、山中の常世へ旅立つのだろう。文字通りの無我夢中に、かれの女神の「憶持のない身体」(終聯終行)を求めるのだろう。 この「憶持のない身体」は、突拍子もなく哲学的にみえるが、個人的に受ける印象はどうにも生々しい。その印象は題名『花鉢』、題名に採られているのに一度しか登場しない比喩により強く受ける。 >顔は見なかった。勝手にしあわせになっとけ。 >土と水だけあるとこで、どんづまりでもないどんづまりで、日にしろくくだけた花鉢がかすのようになるのを、あんたはもう知らないと言うんや。 (4聯1-2行) この花鉢の残骸は、「梅雨が来て、去って、育った」(7聯4行)のちの、酷暑の朱夏の象徴として、まことふさわしいものだ。青春の花が散ったのち、その草木も枯れ果て、花鉢まで砕け散っても、残滓を遺し続けるという未練の宣言。5聯で青春時代のお姉が語った死体の腐敗の話が、この比喩にすべてのしかかっている。思い返せば冒頭の「焚き火をやるのかと訊かれたから違うと答えた」(初聯初行)も感慨深い、それは死んだ恋を火葬できないという宣言か。それとも新しい花鉢をもう焼かないという宣誓だろうか。 ところで処女喪失の類語に「新鉢を割る」というのがある。だからわたしには語り手の恋が「青春の花盛りを捧げ合ったのに実らなかった」ように読まれるのだ。詩中にそんなことは一言も書かれていないが、そもそも恋やら愛やらが一字たりとて書かれてないのだが。文章の密度が高く、行間が深いから潜れてしまう。その深みへの耽溺は、ここでは遠慮するとして。 以前別の推薦文の冒頭で述べたことを、本稿の締めにも繰り返しておく。 「このように凝縮と含蓄に長けた、高度に濃密な抒情詩は不遇だ。修辞も構成もすこぶるつきの難関だろうに、読み飛ばされやすく、どれほど洗練させても評価にはつながりにくい。その不遇に屈せずこれほどの高水準を達成した書き手に、わたしは敬服する。」 ※※※ この読解以前は筆者の自己表現であり、一切の責任を筆者が負う。この読解以前にある問題は、読解対象の問題ではなく、その著作者の責任でもない。



田邊容『花鉢』読解以前 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 17
P V 数 : 1684.0
お気に入り数: 1
投票数   : 1


作成日時 2023-08-10
コメント日時 2023-08-15

田邊容『花鉢』読解以前 コメントセクション

コメント数(17)
田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2023-08-11)

こんばんは。澤あづさ様。 さいきん、川端康成の「雪国」を読んだのですけれど、文脈の整合性がとれないでいます。その川端は、なんでも「うつくしい」と書く。しかしそれは純文学として例外である旨、学習しまして、お仕着せの形容には収まらない思いを、情景に託す。納得しました。文章の凝縮は、凝縮なのですけれど、そこに傷があります。小さな傷ですね。少なからぬ弊害でしょう。 その、ズバリ書きますけれど、一連目、難解ですよね、>焚き火をやるのかと訊かれたから これね、僕は、おれの、家族か誰かに言われたのだと解釈したのです。 そうすると、これ、言いますけれど「おれの焼身自殺」だと解釈しました。 一連目 >息継ぎに、声帯を震わすのはいらない。 →それがとても怖いことだから。 >(おれはおれに)宵の明星だといった。(おれは)生返事だけした。 →慌てていて落ち着くための一人芝居です。 見なかった。 >ずっと近所に住んでいたお姉は街の外に出るのにきっとこの国道を行ったのだ。まっすぐで、どっちも山に消えている。どっちが北でどっちが南か、すぐにはわからない。わかる必要がない。 →お姉はもう結婚して出て行っている、おれは死ぬから、わかる必要がない つまり、この作品のスタートは二連目のその、涙からだと思うのです。 なんで、おれが焼身自殺したのか。 お姉に 死ぬことについて >馬鹿にされていると思った。 からなんだと思います。 これで多分、その文中、恋の火葬、火葬という語が使用されていますが 整合性はとれるのではないかとおもわれます。 どうでしょうか。

1
田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2023-08-11)

その、自分は日々の歳時記片手に生活してますけれど、その、作者さんの手腕には感服するのですよ。澤あづささんの読解にも。ただ、おれ、のメンタリティですね、諦観もありつつ、そつなくコメントしたのはやはり、おれ、のメンタリティを僕が拒否したからでしょうね。死んではいけないと。

1
三浦果実
作品へ
(2023-08-11)

澤さんこんにちは。 何度か読み返してコメントしようと思ったんですが、初読の感想をコメントします。ビーレビにいくつか出された評文のなかで、一番良いと思った。私でも読み入れる、わかりやすい構成が要因としてあるのではと思った。(前からこんな構成で書いてるよ?ってならごめんなさい) 冒頭のイントロなんかはやられた感がありました。

1
澤あづさ
田中恭平 newさんへ
(2023-08-11)

貴重な読解披露をありがとうございます。ネット詩が決定的に欠かしている「評者と評者の合評」の機会に恵まれたことを、心からうれしく思います。 このような貴重なコメントをいただけるとわかっておれば、評文をもっと練ったのですが、もはや取り返しはつきませんので、ブログで書き直すことをさっそく決意しました(その記事には田中さんの読解を引用させていただくつもりです)。推薦文はこのような使用が最高ですね、田中さんのような有益な評者に恵まれなければ、実践不可能な僥倖ですけど。 >その、ズバリ書きますけれど、一連目、難解ですよね、>焚き火をやるのかと訊かれたから >これね、僕は、おれの、家族か誰かに言われたのだと解釈したのです。 >そうすると、これ、言いますけれど「おれの焼身自殺」だと解釈しました。 ええもちろん、そのように解釈できると思います。文中に「最後の2聯には大きな解釈の幅があるが、本稿はそこに踏み込まない」と書いたその「解釈の幅」がまさに田中さんのその読解です。「焚き火」に注目した場合にはむしろ、そのようにしか読解しようがないとすら思います!  ただこれもご指摘いただいた通り、わたしは二聯以降の「雨」の伏線を凝視していましたので、語り手が実際に焼身自殺したという解釈には至りようがありませんでした。「焚き火」以外になんの鍵句もなく、その「焚き火」が綿密に描写されているわけでもない、そんな脆弱な伏線がこの濃密な「雨」の伏線に埋もれておっても、整合性が取れないので注目に値しない。有り体にいいますと、仮に「焚き火」が焼身自殺を意図して書かれたものであるなら、作者が自分の意図を書ききれていない(描写が不充分である)と判断した次第です。 そのことは作品コメ欄ですでに指摘しましたし、本稿で考慮する必要を感じませんでした。読解は作者のお気持ちのお察しではありませんし、批評は作者のための作文添削ではないからです。これが本稿の判断ですが、それはそれとしてもちろん、田中さんの読解は妥当にして有益、きわめて純文学的と思います! ●ところで純文学の話 「純文学的」という用語は「芸術的」と並んで語弊が多かろうに、軽率に用いて申し訳ありません。川端が純文学的でないなど、もちろんわたしは考えていません。 ただ詩は言語芸術の極致ですので、それを小説で実践するのは、川端大江レベルの作家であっても不可能でしょう。小説にとって重要なストーリーやキャラクターを犠牲にしない限り、言語芸術の極致は目指せないからです。(まあストーリーを一顧だにしない芸術的な小説家も、特にポスモにはざらにいますけど。) たとえばこの詩が「芸術性のためにストーリーを犠牲にしている」という見解は、田中さんにも、われわれの読解(わたしのは読解以前ですが)の相違からご理解いただけると思います。

2
澤あづさ
三浦果実さんへ
(2023-08-11)

お褒めにあずかり光栄です。本稿は諸事情により、ゆうべ眠気と戦いながら30分で書きなぐった誤記まみれではありますが、最近「求心力を発揮しうる詩評」ということを考える機会があったので、その成果が反映しているかもしれません。 たとえば批評対象の短所を隠してひたすら絶賛してるだけのステマじみた評に、説得力が出るわけないとかの一般常識をですね、いまさら意識しはじめたのですよ。この話はおっぱじめると、終わりが見えないレベルで長くかつ濃くなるので、とりあえず遠慮しときますけども。 特にイントロの件が三浦さんのお目に留まったのは、まったくすこぶる光栄なことです。これは文極名物「読めないやつは書けない」の境地へ至るのにたぶん必要な布石です。たぶんね。よかったらぜひ詩作でご実践ください。

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田中恭平 new
田中恭平 new
澤あづささんへ
(2023-08-12)

やった!ついに、あづささんのブログにひょっこり載るのか?私は(笑) 夢叶っていってるじゃないですか。おいら。嬉しいよう。 ただ、なんか、、、僕の先のコメントがグシャグシャなので、編集でどうにかしてほしいなぁという要望があります。だめを、ですね。 >焚き火をやるのかと訊かれたから その、着火ライターやら、新聞紙やら、家?家か、でガサゴソとおれが集め出したんだと思ったけれども、それは僕の直感ですね、読解なのかは、わかりません。今。すいません。 ただ、自分が書き手として、着火ライターとか、新聞紙、そういう語を書いちゃうと、置いちゃうと、反対、なんか書き込み過ぎてて違うかな、という気があって、実際、そうしたら駄目だと思います。 その、それによって整合性がとれないにしろ、作家側から、これじゃ駄目じゃん、みたいな要請がある。あったとする。 その、あづさ様、あづささんの批評家としてのスタンスは清し、なのですけれど、(作家<作品)私は、作家さんのそういう要請にさらされる、みたいなのをちょっとわかってしまって、駄目なのかなと、また反省しました。 そうすっと、やはりスタートは「雨」になると思うのですよ。その過去の回想になると思うのですけれど、ストーリーとしてスタートは雨だと僕も思います。 ただ、そうビビビッと来たのは批評文、この作品を通してからです。 あっ、今、朝で、その作品と批評文に瞠目したところにはふれてなくて、純文学についても 書けてないんですけれど、ともかく嬉しいので、送信します。

1
田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2023-08-12)

ん。世間はお盆ですか。いや、日本はお盆ですか。世界でお盆ですか。「らしい」、作品という意味でも、精読に傾けるという意味でも、推して上げておきます。

1
澤あづさ
田中恭平 newさんへ
(2023-08-12)

突然ですが、田中さんの上の再レスの読解詳述に刺戟されたおかげでいま、わたしの脳内でこの詩の読解が完成しました。本文で述べた「読解以前」に、けっこうな誤読が含まれていることも判明しました。眠気と戦いながら30分で推薦できるような作品ではなかったですね。猛省します。 ブログにはこの合評の記録を添えて、正式の「読解」を公開するつもりです。お盆は忙しないので時間がかかるかもしれませんが、完成したらこのコメ欄で記事を紹介させていただきますね。刺戟的な合評とあたたかいご声援に、心より感謝申し上げます。 ※純文学の話は要領を得ませんので返信不要です、暑気で脳みそ溶けててすみません。この話題については大江の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』がおすすめです。未読でご関心とご余力がおありでしたら、ぜひ。

1
田中恭平 new
田中恭平 new
澤あづささんへ
(2023-08-12)

あっ!完成したのですね。 そうなんですよね、この手の作品、作家の手腕になると正解みたいなのが出てくる。 その澤あづささんと僕の正解は違うとしても。 不思議な話してると思うんですよ。 その、国語で、えっ、文学に正解はないよねってスタンダードだったんですよ。 僕の世代では。 で、芥川の「羅生門の続きを書け」、って問題があって、僕は 「にきびを気にする年頃だから、そんな深く事件を考えてなくてその後普通に奉公しました」 って書いたんですよ。そしたら罰、でしょう。だから詩人を目指しているのかもしれない(笑) ありがとう、先生。 では、感想。瞠目について。 その批評文の瞠目したのは 山から霊峰富士のコノハナノサクヤヒメみたいな、要は山の女神さまを 引いてきたラインだと思うのですね。 僕は、その又「おれ」ですね、なんか最近この「おれ」が好きになってきたのですけれど その閉塞感からですね、山は山としてしか捉えないで、流しちゃったので。 その、お姉ぇ、っていう明記、存在、コンプレックスもあるのでしょう 私は心理学が駄目なので鍛えているのですけれど(澤あづさ様はお詳しいでしょう) その、山の女神に彼女をダブらせないと、後半に流れている妙なエロス、って 説明がつかないんですよ。あっ、説明じゃなくて、読解ですね。 それがふと胸を落ちる解釈だったのですね。 その、自分がちょっと前、日本の神様に身を託してた時期はあったけれども 僕は何を見落としているんだ、と思いました。

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田中恭平 new
田中恭平 new
澤あづささんへ
(2023-08-12)

あっ、長文コメントの前に、お体労わって下さい、でした。すみません。ごゆるりと。

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田中恭平 new
田中恭平 new
澤あづささんへ
(2023-08-12)

あっ。ちょっと違うな。ごめんなさい、コメント下手で。その山の神が女である記述はあるけれども、そこに至る伏線を、伏線と思わず、読み流しちゃった、ということです。 ただその伏線だったのか、これってなるには 行から行の上昇、が必要でしょう。 スクロールを上へ上げて拾ってゆく。 また書くと怒られるんだけれども、これがネット的なのか、非ネット的なのかっていったら 実際、ネット的なのだろうけれど、そうは読まれてない。 上へ行かなきゃいけない、って読みはスタンダードとしてされないから。 だから、あえて言及すれば、上へ ゆく 読み方も今後促してゆきたいという意味で この作品を選択した、推薦したのは、私は良いと思いました。

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澤あづさ
田中恭平 newさんへ
(2023-08-13)

●朗報 批評対象のコメ欄も(投票期限切れだというのに)田中さんのおかげで盛り上がっている渦中ですが、予告のブログ記事に、蛾兆ボルカさんの貴重な読解も引用させていただくことになりました。記事本文の誤読を正すため、必要不可欠の引用です。 ご閲覧のかたのためいちおう説明しますと、蛾兆ボルカさんとは、下記のわたし史上最高傑作ネット詩評の批評対象著作者です。 ・拙文「飛躍、構造主義。蛾兆ボルカ『青い空の下だと銀色の車は青い』」 https://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-67.html ※ビーレビの本年4月分推薦文の改訂版です。 ※これを執筆するきっかけをくださったのも田中さんです。 奇しくも今作のは技術論が上記の対ですので、題名もおそろいで「列挙、構造主義。」と銘打つ予定です。技術論の作例には上記に引いた塚本邦雄に加え啄木と漱石を挙げるので、ネット詩代表として、ゼンメツさんのと右肩さんのも拝借しましょうかね、両名とも塚本や漱石と並べるにふさわしい書き手です。ひとりで勝手に大変盛り上がってまいりました。 評者同士の合評の成果がここまで発展するという理想が、田中さんのおかげで二度もかなったこと、そしてわたしの知る限り、田中さん以外の人がこの理想を叶えたためしの一度もないことは、ビーレビの全参加者に周知されるべきでしょう。 ●お褒めにあずかり光栄な話。 >山の女神に彼女をダブらせないと、後半に流れている妙なエロス、って >説明がつかないんですよ。 >その山の神が女である記述はあるけれども、そこに至る伏線を、伏線と思わず、読み流しちゃった。 ご安心ください(?)、わたしの「読解以前」も、みずから凝視したはずのその伏線の真相を盛大に読み飛ばし、華麗に誤読しております。このコメ欄で田中さんに刺戟されなければ、気づけなかった誤読ですよ。 こうして誤読とその是正を積み重ね、評者は(マジレスすると是正に努められる者だけが)大きくなるのですよ! ●以下、作品についてはブログに書くので、唐突に深刻な余談。 批評も読解も自由ですが、妥当でなければなりません。文学以前の国語の問題です。そして国語は作者のお気持ちのお察しではありえません、「妥当に書かれていない文章が妥当に読まれるわけがない」という事実を度外視した愚見など論外です。作者が書けていないのか評者が読めていないのか、見極められないままの合評が、向上の糧になる道理はありません。 現にビーレビでの合評は、賛否を問わず一律に、信用に値しないという前提でやり取りされていますよね。評言(特に読解)の当否が問題視されないということは、はなから期待も信用もされていないということですよ。合評の場では、批評こそ批評されるべきなのに。詩への批判が自由であるなら、批評への批判だって自由でなければならないだろうにね。 ネット詩で罵倒や暴論が一種の求心力を発揮してしまうのは、批評が機能していないからでしょう。その原因を根源まで突き詰めれば、「詩は自由に読んでよい」という、評者にばかり都合のよすぎる曲解の横行に行き着くでしょう。最近そんなことを考える機会がありましたので、わたしは今後、ネット詩評の怠惰な風潮に抗するつもりです。このコメ欄で実践している通り「自分の誤読を正すよう努める」ことからその抗戦をはじめます。以上、長い余談でした。

2
田中恭平 new
田中恭平 new
澤あづささんへ
(2023-08-13)

>奇しくも今作のは技術論が上記の対ですので、題名もおそろいで「列挙、構造主義。」と銘打つ>予定です。技術論の作例には上記に引いた塚本邦雄に加え啄木と漱石を挙げるので、ネット詩代>表として、ゼンメツさんのと右肩さんのも拝借しましょうかね、両名とも塚本や漱石と並べるに>ふさわしい書き手です。ひとりで勝手に大変盛り上がってまいりました。 ごめんなさい、笑ってしまいました。

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田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2023-08-13)

あっ。狼煙を上げられるのですね。それは素晴らしい(謎)。 その、要は、僕が、そのコメントすると、わからないらしいのですね。 その、まあビーレビのツイキャス?今日したのですけれどね。 他の作品のコメントで、僕は「智」のレンジっていう書き方してて 「智」のレンジって何?ってはなしなんですけれど。 ともかく僕のコメントはわからないらしいのですね。 その、わからないよ!って言われたとき、清い風が吹いて。 人それぞれ整合性をとる、とか知識、とか知的教育に幅があって 僕が澤あづささんに提供できるのって「直感」となんだろ、固執するところ? だけなのですよ。たぶん。 それはたいへんに申し訳なく思っております。 ただ、その、澤あづささんの選評に対してのコメントでは あづさ様自身も、僕のへたコメを汲んで下さって、へたコメが精査できるわけですから。 ん?へたコメって新しくないか?、とか書いちゃうからいけないのだ僕は。 まあ ですから、こんなへたコメさんでもテーブルに着いてOKなのは それって、批評文、批評家に対する信頼ですよね。うーむ。 みなさん、そういうことです。 テーブルへつく、って僕は気に入ってますけれどね。 ●詩人に拠る軽率な、批評家へ対するメッセージ 作品「花鉢」にしろ、ボルカ様の作品にしろ なぜ私たちは「死の匂い」周辺をグルグルと周回しているのか? これって本当にふしぎなことじゃありませんか?  

1
澤あづさ
田中恭平 newさんへ
(2023-08-15)

●悲報 気忙しすぎて、ネット詩のための時間をまったく取れません。夫の盆休みが終わるまで、記事執筆にかかれそうになく残念です。 >ごめんなさい、笑ってしまいました。 笑えたポイントがわたしの趣味のネット詩推し活であったら幸甚ですが、今回の記事にゼンメツさんと右肩さんを拝借する計画は頓挫しました。別のコメ欄で芦野夕狩さんのお名前を見かけ、そういやかれにも列挙の説明にうってつけの作例があることを思い出してしまい、きりがないので別の記事に全員まとめて拝借することにしたからです。 趣旨からしてネット詩推し活である記事に、別のネット詩推し活を3本も放り込んだら、もはやなにがしたいのか理解不能ですからね。批評は主意を明瞭にしなければなりません。これは列挙という話術にも言えることです。趣味のネット詩推し活はこの場でやることにします。 ●ご質問への返答のふりして趣味のネット詩推し活 >作品「花鉢」にしろ、ボルカ様の作品にしろ >なぜ私たちは「死の匂い」周辺をグルグルと周回しているのか? >これって本当にふしぎなことじゃありませんか? これは実に重要な提議ですが、いま依存性物質みたいな詩を読んだせいで脳みそ麻痺してるので保留して、ひとまず客観的な事実を整理します。 わたしの新読解において『花鉢』の死の匂いは、乙姫の玉手箱から湧いた水烟であって、客観的な事実ではありません。また『青い空の下だと銀色の車は青い』(以下略して「青車」)に死の匂いを嗅ぎ取る読者も限られるでしょう。青車は構造(文脈からは読み取れない背景)を読まなければ読解できませんし、その構造の読解可能性も一義単線ではありません。難解とはいえ確固たる文脈のある『花鉢』とは、作りがまったく違います。 『花鉢』に真に匂わされているのは失恋ですよ。恋情ほど凝縮に適した題は歴史上ありません。ゼンメツさんのアレも、匂わせが失恋であればこその、プラチナクラスの超高密度です。 ▼ゼンメツさん(無題) https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2010 この作品の末尾一文「ほんとね、さっさと死にたいです。」は、ビーレビでも文極でも大した物議を醸したのですが、匂わせはすなわち黙秘です。「死」の字を使って実際の死を匂わすということは、原理上(作者のお気持ちのお察しなど低レベルなスピリチュアルとは関係なく)ありえません。この作品に指摘できる原理は、当然『花鉢』にも指摘できます。 では真なる死の匂わせがどういう事態か考えるのには、芦野夕狩さんのアレが大変有用です。 ▼芦野夕狩さん「ある朝冬の車道にて」 http://bungoku.jp/monthly/?name=%88%b0%96%ec%20%97%5b%8e%eb#a07 この作品は、通勤ラッシュの停車中に車道で死んだ犬だかタヌキだかを見たという具体的な状況を、一見意味不明なほど徹底的に黙秘しています。その黙秘の理由にこそ作品の核心があります。作者のお気持ちのお察しなど低レベルなスピリチュアルにかまけている限り、その核心には永遠に到達できません。 そしてもちろん詩は、みっちみちの抒情を列挙したうえで核心を黙秘しさえすれば、それでよいというものではない。下記の右肩さんの浄瑠璃世界&常世神(※私見)のように、ゆるい列挙を踏まえて軽やかに展開する非抒情詩も、大層よいものです。 ▼右肩さんの浄瑠璃世界&常世神 http://bungoku.jp/monthly/?name=Migikata#b01 この紺碧の浄瑠璃世界と、青車のスミレ色の浄瑠璃世界の違いが、非抒情と抒情の違いを浮き彫りにしているように個人的には思います。以上、趣味の雑なネット詩推し活でした。

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田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2023-08-15)

あい。すみません。呆然も含みつつ、推し活にw その、また、インターネットで、おすすめされるというのは、良いものです。 まあ、その、執筆時間が無い、たいへんなことです。 だけれども、その、返信が不要なのですけれど、またこんなことを書くと 冷たく受けとられて嫌なので・・・。 また直感でいえば 澤あづさ様は「和」なのでしょう。 ここで僕の編集技法でサイバーネットワーク警察強権発動、バリアすれば(謎) その日本人というのは古代は知れないけれども非常に識字率が高かったと。 色々な説がありつつ、一番信頼できるのは、江戸中期以降の大衆文化で ここで俳諧が登場する、俳句、点取りで金子を出す川柳なんかが生まれる かの坂本龍馬が手紙魔で、しかしそれは当時としては非常に独創的な文字、テキストで 日本ニツポンを今一度せんたく(洗濯)いたし申候事ニいたすべくとの神願ガンニて候。 なんか、意味(ミーニング)として読めるわけですよね。 その、ヴァーチャル空間で、批評家と向き合うと詩人しなければと思う。 もうなんか、さいきん、詩人じゃないのですけれど。 ただ詩人としての批評性を発揮したいと思う。 やっぱりこの批評文の瞠目は山の女神さまのところなのだから。 その、以前、ドゥルーズが心理学をファッション化しているという指摘があり まあ、フロイトな方はそうだろうと最近、腑に落ちて反省しているのですけれど だから澤あづささんも、歴史認識大切にされて「和」だな、とくりかえし、言うわけです。 すいません、提示された作品はこの後読みます。

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澤あづさ
田中恭平 newさんへ
(2023-08-17)

※このコメはsageます、返信不要です。 本日ここで報告できる進捗はないのですが、昼にサイトが落ちたようで、けさ打ったコメがすべて消えているので、試し打ちを兼ねて。 笑えたポイントが実際に推し活であってなによりでしたが、上の推し活は、なにせシヴァの祭の大麻饅頭みたいな詩を読んだ直後に書いたので、右肩さんの浄瑠璃世界だけ題名が抜けるなど不手際がありました。右肩さんのの題名は『本当の蝶はこの世に四匹しかいない』です。 http://bungoku.jp/monthly/?name=Migikata#b01 そのシヴァの祭の大麻饅頭みたいな詩ですが、けさ再コメしに行った(そして消えたのでいま様子みてる)ら、奇遇にも田中さんのコメの直後でした。その田中さんのコメに、わたしハート打ったのですけど、消えてしまって残念です。以上、日記。 ところで、 >以前、ドゥルーズが心理学をファッション化しているという指摘があり >まあ、フロイトな方はそうだろうと最近、腑に落ちて反省しているのですけれど 『アンチ・オイディプス』の話でしたら、心理学でなく精神分析学ですし、ガタリの著作であってドゥルーズは編集者にすぎません。ガタリのオリジナル版も出版されています。そのガタリがファッションであるという指摘は、まあ事実といえるでしょうが、「ガタリと違ってフロイトはファッションでない」という意見がもしあるとしたら、わたしはそれには賛成しかねます。

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