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せいいき
修道女になろうと、おもいつき、数Ⅱの教科書と聖書を鞄に突っ込んで、わたしは教会に通っていた、 教会ではコーヒーを出されて、わたしは戸惑う、コーヒーのあじをしらないわたし、 神父は、神とわたしを並列繋ぎするための、 、(ガムシロップのようで)、 それほど尊敬されてばかりではないのですよ、 という言葉、そんけい、わたしそんなものは要りません、糞食らえです、 と、クソ、にアクセントをつけて、神父はケタケタと笑って、グレーがかった目を細める、 十年がたち、わたしはやはり修道女ではなく、下記休暇中の数学の教師であり、 実家にわずかに帰省することも厭わしく思う、オヤフコウ者だった、 わたしはよくサウナにいき、オロポを飲む、 コーヒーの味は、もう、覚えた、カフェインとは、教師の並走者なのだ、とわたしは思うが、同僚たちもみな同意するだろう、 あらゆるひとと連れ立ってあゆみ、ときに私たちを背に負ってくださるのが、Jesus、 と神父が言ったことを思い出す、ああ、そうだったか、聖書を開こうとして、自宅の本棚を漁る、 やっとそれを見つけたとき、紙が一枚、かさり、と落ちる、 そこには、理学部数学科へ進学を決めたわたしを送る会をささやかに開いてくれた日の、神父と、まだ化粧もしらない、わたしがぎこちなく笑っている、あのひとも写真が苦手だった、 わたしは携帯で神父の名前を検索する、上京し、時のなかに信仰が流れ出していき、わたしは、意図的に避けてきた、 記憶に取り巻かれている一瞬のうちに、ヒットする、ジョージ神父、帰国、日本のために60年余り、の記事、 ああ、わたしのせいいきよ、 わたしはすぐに、忘れてしまう、 「つらいことはありませんでしたか?」 「それは答えたくないしつもん」 神父は笑ったが、わたしが聞きたかったのは、(目に見えないものを信じ続ける方法の、かいつまんだ要点、のことだった) 記憶の中の神父は、いつも笑っている、 ぎこちなく、満面の笑みで、皮肉くさく、心から、 仔細の差はあれど、いつも笑っていた、神父よ、 わたしのせいいきよ、 わたしは、すぐに、忘れてしまう、 ペンをとり、壁に貼ってあるメモへ、書きつけようとする、
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せいいき ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 273.6
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2026-01-01
コメント日時 2026-01-02
| 項目 | 全期間(2026/01/05現在) |
|---|---|
| 叙情性 | 0 |
| 前衛性 | 0 |
| 可読性 | 0 |
| エンタメ | 0 |
| 技巧 | 0 |
| 音韻 | 0 |
| 構成 | 0 |
| 総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


この作品は信仰を語っているようで、実際には信仰が生活の中でどう薄れていくかを描いている。 数Ⅱの教科書と聖書を同じ鞄に入れる冒頭から、信仰も学問も「等価な道具」として扱われている点が率直だ。 神父もまた権威ではなく、神と私のあいだを曖昧につなぐ、人間的な存在として描かれる。 十年後の数学教師、サウナ、オロポ、カフェイン。 ここにあるのは信仰の放棄ではなく、日常に流され言葉を失った状態だろう。 写真の場面も感傷に寄らず、不器用さのまま記憶を置いている。 「わたしのせいいきよ/わたしは、すぐに、忘れてしまう」という反復が、この詩の核心だ。 信仰とは守るものではなく、忘れてしまう自分を自覚するための装置だった。 最後が読点で終わるのも未完ではない。 書く前に途切れる、その人間的な中断そのものを、正直に残した終わり方だ。
0矢張りタイトルの、「せいいき」とすぐに、忘れてしまうと言うセリフ。写真が苦手なのは神父の事なのか。記憶の中の神父。回想記なのか。などなど様々な事が思い浮かびました。
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