よい父は、死んだ父だけだ。これが最初の言葉であった。父の死に顔に触れ、わたしの指が読んだ、死んだ父の最初の言葉であった。息を引き取ってしばらくすると、顔面に点字が浮かび上がる。それは、父方の一族に特有の体質であった。傍らにいる母には読めなかった。読むことができるのは、父方の直系の血脈に限られていた。母の目は、父の死に顔に触れるわたしの指と、点字を翻訳していくわたしの口元とのあいだを往還していた。父は懺悔していた。ひたすら、わたしたちに許しを請うていた。母は、死んだ父の手をとって泣いた。──なにも、首を吊らなくってもねえ──。叔母の言葉を耳にして、母は、いっそう激しく泣き出した。
わたしは、幼い従弟妹たちと外に出た。叔母の膝にしがみついて泣く母の姿を見ていると、いったい、いつ笑い出してしまうか、わからなかったからである。親戚のだれもが、かつて、わたしが優等生であったことを知っている。いまでも、その印象は変わっていないはずだ。死んだ父も、ずっと、わたしのことを、おとなしくて、よい息子だと思っていたに違いない。もっとはやく死んでくれればよかったのに。もしも、父が、ふつうに臨終を迎えてくれていたら、わたしは、死に際の父の耳に、きっと、そう囁いていたであろう。自販機のまえで、従弟妹たちがジュースを欲しがった。
どんな夜も通夜にふさわしい。橋の袂のところにまで来ると、昼のあいだに目にした鳩の群れが、灯かりに照らされた河川敷の石畳のうえを、脚だけになって下りて行くのが見えた。階段にすると、二、三段ほどのゆるやかな傾斜を、小刻みに下りて行く、その姿は滑稽だった。
従弟妹たちを裸にすると、水に返してやった。死んだ父は、夜の打ち網が趣味だった。よくついて行かされた。いやいやだったのだが、父のことが怖くて、わたしには拒めなかった。岸辺で待っているあいだ、わたしは魚籠のなかに手を突っ込み、父が獲った魚たちを取り出して遊んだ。剥がした鱗を、手の甲にまぶし、月の光に照らして眺めていた。
気配がしたので振り返った。脚の群れが、すぐそばにまで来ていた。踏みつけると、籤細工のように、ポキポキ折れていった。
作品データ
コメント数 : 14
P V 数 : 1251.8
お気に入り数: 2
投票数 : 4
ポイント数 : 0
作成日時 2025-04-13
コメント日時 2025-04-30
#現代詩
#縦書き
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
閲覧指数:1251.8
2025/12/05 20時27分23秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
※自作品にはポイントを入れられません。
この詩は、小気味良いですね。 「父」が死んで、どれほど嬉しかったか分かる。 ルンルンしている。 だけど、田中さんの詩は、 普通はドス黒く汚れてしまいそうなことばたちが、 ちょうど良い距離感を保ち、 作品へと昇華されています。 モラルを問うのはナンセンスだと思います。 ありがとうございます。
0レモンさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
0田中宏輔さんの「くろい家庭」シリーズ(と勝手に命名)で、やはり、なにかしら「芯」のようなものがあるように感受したのですが、無学菲才なのもので、初読では分解しきれません。考えがまとまったら、また記述したいと思います。
0おまるたろうさんへ お読みくださり、ありがとうございました。
0この「わたし」と「母」と「幼い従弟妹たち」の親類でありながら相互理解の無さは相当なものですね。すなおに読めば、まったくの機能不全家庭のサバイバ―による独白で最初から最後まで、話者の心の安定がおとずれる様子は一生なさそうです。まず、「点字」を読む、という発想のが面白い。混沌のなかから、秩序を見出そうとする話者の願望みたいなものなのかもしれません。「優等生だった」という語り手自身の自己認識も、その“点字”の読解者であることと符合する。あと、もうひとつ注目したのが、母です。単なるヒステリックな女性像(無共感、無感情な他の家族とひときわ対比的)にとどまらず、涙で秩序を保とうとする“権威”としての母権性を想いました。死んだ父の言葉は読めるのに、生きて泣く母の真意は読み取れ(ら)ない。語られない“エピソード”の強度が、母の嗚咽と、叔母の何気ない一言との対比で輪郭を持ち始める。これは、語り手があえて語らないことで、母という存在が“語りの外側から”語り手を支配している構図にも読めますし、この配置は実際に(機能不全家庭などに)ありがちな構図でもあり、リアルだなと思いました。最終的に、話者が唯一つながっていた「父」にすら幻滅し、母的なもの、つまり自分の心を温めうる最後のものすら破壊しようとする「脚の群れ」への暴力に至る最後は、自己を守るために他者との連結をすべて断ち切る儀式のようで、その徹底的な孤独の描き方が歪だが美しいです。
0おまるたろうさんへ ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。 ぼくの内心の声を聞いているみたいに思いました。
0田中さんはいつも高度な遊びをしているなと感心しています。 この陽の埋葬シリーズはとてもミステリアスですが、今回は言葉の遊びや実験は抑えられ、伝えたいことがあるからこその簡素な形に収まっていると思います。 以前も語られていた、自身の過去。そこに触れるたびに、文章はいつも翳りを帯びますね。 >どんな夜も通夜にふさわしい。 こう言った意味を伝えることを考えると使うことを躊躇いがちな言葉も不思議な説得力があり、言葉を自由自在に使い操れる技術が素敵だなと思います。
0>どんな夜も通夜にふさわしい。 こんなコメントしか残せず申し訳ないですが、この表現を読むことができて僥倖です。 そして叔母の存在感。このような事を言う親戚が確かにいるなあという。 死んだ父が点字で語る。もしかしたら父方の一族は、死んだ後もしばらくは語るだけではなく、見ることも、聞くこともできるのかもしれない、そんなことを思いました。
0万太郎さんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
1fujisakiさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
0良い詩です。 まず、第一連で特に気になったのは「翻訳」の問題です。「わたし」は父の点字の言葉を翻訳できるという体質を持っていますが、読み手に届いてくる具体的な訳文は「よい父は、死んだ父だけだ」のみで、他は「父は懺悔していた」と端的で、仔細が省かれている。「わたし」は、なぜその「最初の言葉」だけ意識したのか。おそらくうわべだけで、予想の範疇にある懺悔や許しの言葉からは外れた、「わたし」にとって異質な言葉だったのではないか。読み手からすれば「父」の言葉の中でその一文しか明確でないが、「わたし」から見たらそこだけが「翻訳」できなかったように、引っ掛かっている。 そもそも「父」は、この「最初の言葉」や「岸辺」の追憶で「わたし」につきまとう、執念としていまだ生きていくように描かれる。 この家系の本当の呪いが、「点字」が浮かんできてしまう体質=遺言が出てきてしまうのを制御できないことだとするならば、他人に遺すべき言葉を生前に遺し尽くし、「点字」の体質を克服(死後、点字が全く現れないように)することが「よい父」の証明だったかもしれない。単に死ぬだけでは、駄目なのである。「よい父」にはなれない。 一方「わたし」はどうだろうか。親族たちに対して秘匿な面や恨みのようなものを抱え、従弟妹たちを海に返すという、比喩的だが叔母からしてみれば身勝手極まりないような行為をする。それが死後、後悔した選択や暴露として点字に現れるかどうか、そんな危うい芽が出始めている。 しかし、これで良いのだと、「わたし」にはそんな強い決意も見える。だからこそ躊躇なく、まるで「小刻み」にその足跡で点字を打ってくるような「鳩」の脚を踏み折る。「わたし」と「体質」の永い対峙が、「よい父」とは何かという問いの上に拡がっていきそうな締め方である。 とても良い詩でした。
1熊倉ミハイさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
0父の死、通夜、親戚一同が集い、その夜に生じる回想。いとこたちを水に返してやる場面はどうしても、水子の連想から、まるで生まれなかった、胎児のまま死んでしまった子らであると言う連想が働くのですが、一番最後の場面の脚がポキポキ折れて行ったと言う場面も印象的でした。
0エイクピアさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
0