作品投稿掲示板 - B-REVIEW

熊倉ミハイ


投稿作品数: 30
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ユーモア・エロス・グロテスク。三本柱にもたれかかる、小さなクジラたちと話していく。 X→ https://x.com/Mihai_Kumakura?t=-v-v6c499sVbOUKwDlSzRA

熊倉ミハイの記録 ON_B-REVIEW・・・・

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「カラ」とは、「空」じゃなかったということでしょう。他の方も触れているように、現実とバーチャル/夢が軸である作品だとして、その違和感が回収されるような仕掛けがあるように思う。 ふと考えたのは、現実でも夢でも同じ行動をするようになっている、ということ。胡蝶の夢の話のような、夢の中で第二の人生を送るものではなく、2つの世界がシンクロしている。そう考えると、バーチャル技術もまだ夢のような完全に別世界を築き上げられているわけではないなと、発展途上にありそうだと思ったりした。 この詩は空の水槽がある世界で肉体が動き、水の入った水槽のある世界でももう一つの肉体が動いている。しかし、視覚は一つの世界しか捉えられていない。 ふと、水の入った水槽の世界に移行する瞬間はどこだろうか? と考える。最後の段落ではないように思うためだ。その前、ネオンテトラやメダカを認識するようになってきてから、空の水槽の世界から徐々に、グラデーションのように水の水槽の世界に入っているように思う。なぜなら小魚の難しい識別はもちろん、繊細な触覚の描写が無くなっているからだ。視覚が水の水槽の世界に移っているように思う。 二つの世界の移行ではなく、「我に返ること」を表しているのが最後の段落ではないだろうか。あえて言えば自己という三つ目の世界を保とうとする段落である。それまで「気がつ」いていなかったのだ。 これは結構近未来を示唆しているようにも思う。 現実とバーチャルなどという境も曖昧になり、現実と現実という認識になって、どちらの世界にも軽々と行き来できる世界。そんなシステムの世界で「気がつく」というのは、世界を一つに選択することなのではないだろうか。まるで性別を選択できる技術の発展があるように、住む世界も選択すること。ここは賛否両論分かれる文明の進化だろう、運命に抗うか、受け入れるかなどの人それぞれの姿勢があるから。 良い詩だと思いました。 (指先のアクアリウム)

2024-09-30

メルモさんが触れていますが、まずタイトルについて。 累という字単体を調べると、しばる、つなぐといった意味が出てくる。扇状に開いた景色をつなぎにつなげ、継ぎ接ぎの円形の窓から見る景色、のようなものをイメージしたのだろうか、と予想して再読する。(こういう考察は、幻想的な写真を作ったりするAOIさんにだからこそするものだと思う) するとまあ、まず目に入るものとして、扇のように開いた括弧と、開いてない状態のダッシュ、直線だろうか、と考えてみたが、法則性やらが見えたりしないので一旦捨てる。括弧の扇が上に下にパッパと振られているようで、舞踊のようで面白く見えそうではあるが。 最初に景色のことを言ったけれど、実際詩の内容は音、問い、口語が目立ったりする。ただ、後半、見えてくる鉄塔のこととか、レイヤーを統合したりもするのだけども。問答により景色を探っている? 最後、「どの街も~」からの連で扇を開いて完成された景色を見ているようです。ここは先ほどの解釈がはまりそう。/←閉じた扇で「おおぞら」を指して、(←開いて、目を凝らす、みたいな。 最後、誰もしからないんですよね。声を出せない。色々、Q&Aがあったりしたのに。解放。AOIさんの無意識、現れているのかなと思いました。 表面しか掬えていませんが、上のような所を切り口にそれぞれの表現を見ると楽しいです。 余談を2つほど。最近思っていたのは、シュルレアリスム作品を読むとき、楽しむためには、その妥当性とかは置いといて、仮説を立てないといけないものだなと思います。少し前にキリコ展の絵画を観に行きましたが、たとえば頻繁に出てくる赤色は、「権力」を表しているのではないか。とか。ではカーテンは? マネキンは? 椅子は? 配置が変わった? なぜだろう。みたいに。無意識が反映されることを恐れない作者の覚悟を受け、その格闘を見届けるには、こちらも仮説を立てなきゃでは?と。 あと、この作品だけじゃないかもしれませんが、句読点と空白マスについては、どのように使い分けていますか? 私は、詩人の方に行の終わり、句読点がついてたりついてなかったりでバラバラなのを統一した方がいい、と少し前にアドバイスされたのですが、意図的ではあったりするのです。 まあ、以前から話している、意図は読み手が受け取れなければ問題もあるので、私の力量が足りなかったまでなのですが。 AOIさんは作風の関係でそうなっているのか、はたまたあとから句読点などを配置しているのか。朗読してみての間とかもありそうだなとも思ったり。 長くなってしまいました。感想としましては、今回はイメージの飛躍というより、言葉のリズムの断絶などで新たなペースを作り出している作品だなと思いました。 (累扇景)

2024-09-29

「近年の流行り音楽や視聴者に対して思うところ」 というコメントを拝見し、なるほど、強い皮肉だ、と思いました。 エイクピアさんが指摘している退化、まあそうでしょうね。批評する、噛み砕ける者がいないことへの憂い。実際、その人数の増減は分かりませんが。 音楽は、聴こうと思えばメロディだけ聴けるから難しい。メロディはストロベリーのように綺麗に見えても、歌詞が無味。なことに気づかない、もしくは天然の果実がまっとうに食べられていない。 今見ると、プラスチックって単語面白いですね。「プラス・チック」→一見プラスに見えるもの。みたいな。飛躍したダブルミーニングですが。 (プラスチックストロベリー)

2024-09-29

改める、とか、換算、とか、喩えること それで何かの味を知るというのが、手遅れだということ。 後半、第七連からよくある抒情に行きながら、批判的な最終連に着地したように見えて、私は良いと思いました。 「よかった」という過去形。これまでの人生 というメジャーで一つ一つ測っていくような、「手遅れ」状態から脱け出すことというのは、万人の向き合うべきことなのかもしれません。 良い詩です。 (手遅れ)

2024-09-28

最近、それぞれの詩の中で、道や紙など、「面」がどのようにとらえているか、が気になっています。そこからどういう展開があるのかも。 たとえば第三連、紙が真っ平ととらえてから、言葉どうしが押し合っているという表現にいく、この部分好きです。起伏、シワがついている、などの表現からこのコンボは出ない。 じゃり道に言葉を引きずるというところも好きで、紙以外の場所では元気がなくなったり、削られたりするのかなぁ、言葉は。なんて思ったりしました(そうでない場合もありますが) あとは、道の先、S字カーブの果てと紙の上の「永遠の真っ白」が何か関係してそう……とか思いました。 紅茶猫さんの、少し脱力したスタイル、良いですね (ペーパーレスカンパニー)

2024-09-28

お褒めの言葉、ありがとうございます。 子供の目だからこそ、できることなのかもしれません。 (ぼくが天井にいるわけは)

2024-09-26

心が苦しくなりそうで、ならない、なんだか軽い詩。その妙なバランスが良いと思いました。 一連目で、羽虫を自分のことだと思う、そういった詩なんだなと予想はしていましたが、それに行き着くまでの展開は予想つきませんでした。 なんなら、自分もこの「腕」とか「身体」が自分の物ではないような感覚(それでも切っても切り離せない)みたいな詩を最近書いたので、少し驚きました。 痛みを、その原因を、自分の中にあると思い込んで作ってしまう、他者に、世界に責任を転嫁せずに塞ぎ込んでしまう、その心情の動きを的確に捉えられていると思いました。 (私だったのかもしれない)

2024-09-26

ツイキャスでも少し触れましたが、本当に面白い。失礼だったらすみません、小山尚さんという詩人の「水牛」という詩とベクトルが似ていると思いました。面白おかしく科学に則る作品、私は好きです(上記作品は今年の「現代詩手帖1月号」にて掲載されていますので、興味があれば) 色々情報量が多いですが、八百屋の均衡の崩壊が一見回収されてない? と思い読み返すと、もしかすると 海面上昇→異常気象→農作物の不作→八百屋の均衡の崩壊→農夫たちの欲求不満が高まる という流れがあると気づき、シュールだけれども辻褄が合いそうなところが、ますます面白く感じました。 最後は農夫を引き連れて戦うのでしょうか。彼の腕の回転運動は「大気」にだけ影響すると踏んで、液状ペンギンの側溝に溺れさせたりするのでしょうか。ただ、彼の独特なリズムのMBにより、その技も効かなそうです。性質を聞いてると勝ち目が無さそうなので、認証したくないですが、そうなると世界の命運がなあ…… 妄想はここまでにします。 (宣戦布告)

2024-09-26

前半2行が好きです。 ロックマンシリーズ、通ってこなかったので、ああ、やっておけば良かったな、と。 どういうイメージの最後なんでしょう? 荒廃した近未来的な世界をゆく、みたいなことでしょうか。 (APEXのBOTモード)

2024-09-25

紙飛行機になって、街を見下ろす。その時間帯が、夜であってはいけない。最後の行でそう確信する詩。 街を見下ろすというのは、記憶を見下ろすというのと同じようで、ヨネさんは爺様に追いかけられていると同時に、追いかける側だったのではないかと。「いかんでえ」はヨネさんの思いで、遠ざかる記憶を追いかけるように街の上を飛んでいたのではないかと思いました。 爺様が「ところ どころ 紙飛行機」になっていたのも、消えゆく記憶を手繰るような表現に思います。面白くて、良い詩でした。 (紙、ふぶき。)

2024-09-21

節目節目の、「するのだろうか」という提起がいいですね。頻繁に疑問に思いながら、言葉を出すという意識。万太郎さんが独り言を例に挙げていますが、逆に具体的な誰かに向けた言葉でも、伝わらないこともある。 「これって伝わるのか? どこに向かうのか? どっちでもいいのかもしれない」などなど考えながら、ふわふわ飛んでいく。 最後にまた疑問を呈する行で締めたところがとても良いと思いました。 (メッセージ)

2024-09-21

上手い、と思ってコメント欄を覗きましたが、メルモさんの言い分もよく分かるなあと。筆力に関して非常に研ぎ澄まされているなと思いました。 そうですね……他の方が触れていないところでいくと、最後の「ある」が孤立した行にあるところでしょうか。この終わり方って一見緊張をふっと弛緩させてストンと終わるように見えますし、直前の「間隙」という言葉から生じる空白なのかなあとか思うのですが、だからこそ、「ある」という言葉が胡散臭く見え出すのではと。間を置いて、焦らして物事を言えば良く聞こえてしまうものです、だから、メルモさんのように「ある、って言っても答えを出せていないんじゃないの?」と疑われるのかなと。 答えなんてものは書かなくて良いと思います。詩は説教ではないと思うので。なので、答えや大層なことを書いていなくとも圧倒される、読み手が疑うよりも先に感動してしまう、見たことのないハッタリ装置の発明が加わると、より良くなると思いました。 良い詩でした。 (重なり合う/針)

2024-09-21

「すれっからしの生存競争」、「俺に背骨をくれ/絶対的支柱のような~」のところが肝なのかなと。 世の中すれっからしだから、自分の芯だけは避難させているような、そういう生き方が見えました。要は、自分の青さは抜けた芯に空が映る青さで、本当は空っぽ。防衛本能から、不自然な純粋さになってしまっていた。だから、支柱=芯をくれと叫んでいるのかなと。 以前なんとなくコメントしたのと同じで、芯を待っているという詩だと思いました。でも、芯抜きしたら不可逆ですよね……うーん、儚い (青侍)

2024-09-20

この詩から2つ考えました。 一つは、「嘘の大きさ」。「大きな 大きな嘘」としているものの、段々「背中を覆いつく」すものに変わっている。元々は小さい嘘だったんだろうなあ、と、嘘ってそういうものから始まりますよね。 あとは、嘘はバレた時よりもバレていない時が辛いもので、他人も嘘をついているように思えてくる。よくよく考えれば、「太陽がそっぽ」を向くわけない、燦々と日中嫌というほど照らしている。「夕陽が背中を燃や」せるわけがない、力が弱まって海の向こうに消えている最中だから。 stereotypeさんもおっしゃるように、「嘘」というのを真剣にみつめた、良い詩だと私も思いました。 (嘘)

2024-09-20

コメント欄でも書かれているように、 「自分をとりまく身近なものを果てしない遠くにどうやったら感覚としてつなげられるか」 ですよね、この詩は本当に。最初は身体的な視線移動のように、そして自己の中に遠く存在するものを連想していく詩だなと。 身体の限界から、想像の旅に出る。「知らない記憶」という言葉からこの詩は単なる部屋、そして窓から外を見る世界観ではなくなっていく。 「君」やら「他人」やらとの「境界」について考えたり、その絆が「気化した」り、「気持ち」を抑え込むように消していたり、みたいな経験が、記憶が、「知らない記憶」として封じ込められている。 他人との関係に辛さを感じると、宇宙という孤独な空間に身を放り投げたくなるものです。しかし宇宙にいながらにして、惑星との距離を君への期待で満たしたくなるのは、またジレンマのようで、濁った人間性(フルーツジュース)のようです。 そうした時間を経て、みな、胸の中に「自己」のような、礫が残っていく(ちなみに礫、歴おなじ音なのが面白いですね)。そして部屋の中の礫(レゴやパズル)をみつめて、最後は超自然的な存在に「瞬きとして表現される〈生物〉」だとして私たちは見つめられている。みたいな。シュガーだと人間どうし見つめていたのが、一個上の次元の目が置かれているように見えますね。無機質に塊として言葉が置かれてきたことに納得がいきそう。 やはりこういう名詞などの列挙を淡々とされるだけでも、私はその言葉たちを活動させるために繋げてしまう、なんならその方が自然だと思うんですよね。ストーリーやドラマがあるように思える。何の説明もされていないのに。 良い詩だと思いました。 (フラクタル)

2024-09-20

目をひんむきながら読みました。こんなに苦痛を表現できる詩、中々ないなと、私は受け取りました。 最初のぐわんぐわんは、父と母のお金の問題の喧嘩、怒鳴り声でしょう。「ぐわんぐわん」という柔らかな音でモザイクがかけられている。「ぐわぐわ」だと緩和されないんですよ、「ぐわんぐわん」を選んでいるところがいい。 いつ、「ぐわんぐわん」が起きるかを見てみると、裏の顔と表の顔の行き来というか、豹変というか。 父と母の喧嘩、父の冗談(本心を分からなくさせられる)、私は好きなだけぐわんぐわんできる→自分の表と裏は自分で分かる、ぐわんぐわんの対処法はゲーム実況を聴くこと(何も炎上がない綺麗な実況者を選べば、健全ですよね、現代っ子な表現)、などなど。 最後の呼び鈴はなんでしょう。詩全体で強調されているのは「部屋」です。パン屋を開こうとする時も、「部屋」に居られるかどうかを心配する。この呼び鈴に両親が出ないこともおかしくて、ここで何か展開が飛躍していく。早計かもしれませんが、大人になることの呼び鈴のようです。自分も、大人みたいに、「ぐわんぐわん」せざるを得ないんだろうかと。 最後の締め方、解釈が広がりそうです。私は、ゾッとする終わり方だと思いました。 好きな詩です。 (ぐわんぐわん)

2024-09-19

Amberさんの指摘している、俗にいう輪廻転生の考えに、只では乗らない詩だと思いました。 まず輪廻が苦しみだけを帯びているように描かれていない。魚はただ本能に身を任せ、その渦を泳ぐ。輪廻の苦しみにじゃなく、永遠の円(深追い)があることに気づいて、恐れて解脱のようなものを行う。 「羽」を「生やす」のではなく「装着」。自然な成り行き、動物的ではない。スパークしたり、金色に輝いたり、未知の生物に変わっていくけれど、宇宙の果てにたどり着けたかどうかは分からない結末である。 しかし、読み手たちは宇宙の果てなど本当に果てしないことが分かっている。海という一つの果てなき世界を抜けられたところで、宇宙をも抜け出せるかどうか……読み手にその期待ができるか委ねられる。 まあでもおさかなゴールドなら、案外、そういうふざけた生き物こそが、世界の外に抜けていくのかもしれないですね。 面白く読めました。 (おさかなゴールド)

2024-09-18

九十九さんの、プラスアルファの指摘は私も同意ですが、その実態の捉え方、表現の生々しさは素晴らしいと思いました。 好きなところは、第一連と最終連の対比でしょうか。水面からの陽でも眩しく思うほど、夫にとっての「陽」がネガティブなものになっている。しかしその月夜、腹の熱を感じ、「新たな陽」が射すことに希望を持つ。その最後に至るまでの夫の心情などが深く描かれているので、切なくなりました。 (Seahorse)

2024-09-17

前半のですます調がどのような効果を与えているのか考える。 ですますで終わらない、かつ連分けがされない場合この詩は、淡々と続いてどこにも引っ掛からない詩になっていたでしょう。「もうその日々には~」という連で、それまでが追憶の詩になっていたことが明かされる。その記憶の強さがですます調の丁寧さに表れている。踏みしめるように思い出している。 しかし、それだけじゃなくて、最後の一行も「ました」で終わる。ここは追憶ではない。そのため別の法則というか、「君」が行う、もしくは「君」と一緒にすることが丁寧に描かれているのです。(自分がコーヒーを飲む表現と違う) よって、林檎が落ちたのは「君」の力。万有引力よりも「君」の力。落ちたのではなく、下校路で無邪気に林檎をもいで持ち帰る、そんな力。 良い詩だと思いました。 (下校路)

2024-09-15

イメージが面白い。確かに僕は首都高を黙々と飛ばしてきたいかついトラックドライバーのようです。的を得すぎています。 クリームで煎じた雛床の、周知の現象を「必死に」は探さないですね。クリームで煎じた雛床というのをリアルにイメージして、何が起きているのかをただ写生する。 セックス・ピストルズ、あまり曲は好みではないですが、そうですね、マルコム・マクラレンとジョン・ライドンを足して2で割ったような精神は持っているかもです。 (共に生み出るべき者へ)

2024-09-14

ものすごく一連目が散文的で、詩らしくない始まり方だなと思いました。銃の怖さがひしひしと伝わってくる、緊張感が小説を読んでいるようです。 しかし、散文っていかにも「人生」で、そこに銃口を突きつける仕掛けだと読むと面白い。最終連はコスモスの夢から流れるようにピリオドの弾にいく。死に際は詩情を思い出しているような、そんな展開。 「どうしたってこの世界は!」 から始まる連の叫びは、この詩全体の息の詰まる色に合っているかは、再考の余地があると思いました。 (未完の完)

2024-09-14

九十九さんは、こちらでのアカウントにはログインできるのだろうか。やっとこの作品に追いついた。ちょこちょこ覗いたりしましたが、九十九さんはどの作品も、行分けのセンスがあると思いました。 あと、意図的かは分かりませんが、「~ていた」と、「~てた」を使い分け、口語体をより印象づけられているとしたら、それを続けられるとしたら、強い武器になります。「僕は、僕は、」とどもるような書きぶりも、そこに発話する身体が立ち現れる効果がある。 14歳かどうかの年齢の問題にかかわらず、他者の同じような叫びを代弁するのを任せられる書き手だと思うので、投稿だけは、また来月期待しています。 (不登校)

2024-09-13

コメントありがとうございます。 軽いノリで書いていた時期もありました。しかし、やはりとことん考えて書きたいんですよね。友人に文学教授を目指す人がいて、自分は作り手、あっちは研究側として一緒に切磋琢磨してきたりしました。自分もその研究の厳しさが分かるからこそ、同じくらい試行錯誤して作らなきゃなと思ってる感じです。 「言いたいことや伝えたいことがハッキリと沢山有る」ようで、無いような気もします。自分が詩にこだわるのは、完成させられるからです。今まで漫画を描いたり、長篇ラノベを書いたり、それこそ安部公房の「砂漠の思想」や外山滋比古のエッセイに憧れて書いたりしましたが続きませんでした。もちろん、大いにこれから転向することは有り得ます。たとえばもっと、映画監督とか画家とか。 色々な表現がある中で、作曲と詩作が初めて「完成」させられて、かつ「続けられるもの」だったんですよね。で、僕はまだ初心者なんで、作曲(ボカロですが)って1曲20~40時間くらい掛かっちゃうんですが、それに比べれば、数時間で出来上がる詩は楽です。 最近の現代詩手帖で、新井高子さんの「睦言」(だったような)という作品を読んだのですが、方言が面白く心地よく展開されていく詩で、ああ、めちゃくちゃ現地人に取材したり、資料集めて、練られて書かれてそうだなあと、それだけじゃなく色んな詩を読んでそう思います。憧れながら、自分の興味のある分野を堀りながら、まずはスタミナ作りですね。アイデアを枯渇させてからが勝負、といった感じです。 (「日雇いザムライ」MV(+詩解説))

2024-09-13

蟻だとしても、「羽蟻」を登場させているのが面白いです。地道に歩いていくだけじゃなく、ぷんとどこかに翔ぶこともできる。 そして、「私」も歩ける。そして、回顧や空想の世界に翔んでいける、「羽蟻」のモチーフと重なる。よく人の自由さを鳥とたとえたりするのを見ますが、案外人間は羽蟻のようなものかもしれない。 その他細かな箇所として、羽蟻が「空中浮遊しているようだ」とか、「私」が歩き疲れるまでの、繊細な表現たちが良いです。 (羽蟻)

2024-09-13

すみません、言葉不足でした。そういうことが「できない」というよりも、ひっそりとここを覗いてるかもしれない、「まだ創作をしたことがない」人に向けてのメッセージも込めていました。 今まで実際に話してきた人の中で、恐れ多い、書くほどの想いじゃない、と自分を卑下し、本当は表現をしたいのに、まだエンジンをかけていないのにブレーキを踏んでいる人が何人かいました。 私よりも面白い経験や、辛い経験をしてそうなのに、このままこの人の才能は挑戦されずに消えるのだろうかと心配になるのです。おせっかいですが。 創作の始まりというのは、隣でゲームをやっている兄に、「僕もやりたい」とねだる時と似ているのではないでしょうか。できないかどうかは、実際にそのステージをやってみる、同じキャラ(言葉)を使ってみる、そこからやっと発展して、自分だったらこのコースに行く(個性)、というようにして、その兄の頑張りも継いでゲームクリア(傑作)を目指す、 という捉え方もある、という考えです。 なんて才能がないんだろう、と落ち込む時がしょっちゅうですが、そういう時は尊敬する人のスーパープレイの指の動きを真似する。最初は露骨にやらなければ、劣等感にやられてやってられない、という意味合いでした。 (「日雇いザムライ」MV(+詩解説))

2024-09-11

「何かに触れるって難しい」こと 私の周りには、「読めない」「私には創作とかできない」という方、劣等感を覚えている方が多いです。でも、そうやって線引きしたり、個性の問題だとする前に、すべての創作者が何かしらの共同体だ、と思わなければ、私はやってられないと考えています。 (「日雇いザムライ」MV(+詩解説))

2024-09-11

好きな詩です。湖湖さんの読みに概ね同意ですが、それでも読めない、掬いきれない表現がまだ沢山あって、何度も味がする作品です。 ちょこっと「鍵の文様だけが石畳に残る」という表現について考えてました。城を手離してることから始まる連だったので、もう誰もいないがら空きの城でしょう。飛躍しますが、思い出の光のようなものが城の中でまだ残っていて、中から外へ、石畳に鍵穴模様に光が差している。誰ももうドアを開けないから、石畳が日焼けしてその文様に変わる、みたいなのを想像しました。 しかし、それが作品全体でどのような位置づけか、どんな効果をもたらしてるか、時間かけないと読めない作品ではないでしょうか。良いと思いました。 (生誕前夜)

2024-09-10

↑空目大臣からすると、タイトルは「青(い棒)待ち」に見えて、その字も行人偏になるための一画の棒を待ってる感じがしましたけど、どうなんでしょう。 作品の感想、また後日書きに来ますm(__)m (青侍)

2024-09-09

好きな作品です。私はもう結構なバイアスがかかってる読者ですが、一行目の「(苦い)」で今回は一味違うぞと思いました。なんなら私はAOIさんの作品の中で上位に優れてる作品だと思います。 コメントを流し読みして、、 可読性問題ですが、タイトルの「センチメント(変換できず、意味も違ってくるのかもしれませんが)」を考えると、ものすごく曖昧です。全体像なんてそもそも見えない抽象的なタイトルの皮で包まれたものの中身が読み取れるとは思わない。「センチメント」そのものの本質を映そうとする試みだと受け取りました。 私が好きなのは、つつみさんとか他の方とも被ってますが「ゆるい公園だよ」のところなんですよね。そこから、前半の流れに有り得ない不純物が混じってきた感覚がして私は興奮しました。居酒屋なんかもそうですね。 そこを軸に、構成されている空間の問題を見てみます。要は、「公園」の感覚とは程遠い前半部だったというわけです。天馬からすでに空とか幻想的でふわふわしていて、それでいて「頬」とか、「輪郭」といった人肌の近さも所々ある。しかし、「輪郭の交わる『境界』」の『境界』が、マクロな感覚がするんですよね。遠近感覚が錯綜してる。 「~空気を探る『手』」が伸びていくと思えば、「外縁を覆う意識」も出てくる。追いつけぬままに「指標」が刻まれる。一体ここは何処なんでしょうほんとに。 そこから「遠く保つ無限は」の行から三連分、宇宙にいるような感覚を覚える。無限の静けさ。それでもコンパスの震え、針を刺すような「人」がまだ近くにいるんですよね。「吐息」がするので。 「まばたき程度の夢」はAOIさんには珍しいやさしさだったのか、夢から覚まして公園に放り出す予兆だったかもしれません。そこから後半、現実に放り出される。 「夜風がパチパチ」、目が覚めてチカチカする感覚と現実が混ざっているようです。「虚空を渡る過程」と出てきますが、まさにそんな体験を私(読み手)もしてきたところです。存在しない旗とは。国旗でしょうか。その「虚空」という国の。 体験を「ばらばらにおぼえて」いる。公園のベンチからすくっと立ち上がって生活に戻る一人の人間を思わせる締め方。愛?=思い出深さみたいな引力に振り回されながら、様々な空間を旅行した気分でした。 今に始まったことじゃない作風なので、なんか、運が悪い時期なんですかね。 最近思ったことは、AOIさんのする端材のコラージュのようなもの(明確な手法までは分かりませんが)を、私は一発目の執筆で呼び起こそうとする違いがあるなと思いました。なので、参考にしています。AOIさんがこのような作品を一発で書けているなら、もうお手上げ驚嘆気絶ものですが。 (sénṭəmənt)

2024-09-09

すべての思いが水溶性で、雨やコーヒーに溶けていく。手離したくない思いほど甘く感じる、だからルーティーンのように立ち戻ってしまう。追いかけていく。 生活からの気づき。最後は、溶けずに残った街の光を眺めていますね。彼らの思いを想像している。 溶けるといっても、温度が重要ですね。「融かした」という方の言葉を使っているので。「ぬるんだ雨」に溶けていてはそれこそ味気ない。どちらかといったらコーヒーに融ける思いを持っていたいと。 最後の「河(街)」はどうなんでしょう。「日焼けのない顔」とあるので、街の温度もぬるいのでしょうか。所々「窓」が出てきて、外の世界との仕切りを置いているようにも思います。それでも窓の向こうを見つめるのは、「こんな温度には融けないぞ」と踏ん張る、自分と同じような人を探しているのかもしれません。 ヒントがいつも以上に置かれている印象を受けましたが、面白かったです。このような生活感あふれる詩は、私にはないものなので、いずれ学び得たいなと思いました。 (シュガー(修正版))

2024-09-09

黒髪さんの言う「結果」というのがどのようなものを指しているのか、掴みかねました。 また、「フィードバックされているようには思えない」という感覚は、おそらく、ビーレビューへの投稿が時系列順ではないところから来てるのかな、とも思いました。 本作は大体、投稿した中で5番目に古い作品となっております。今まで黒髪さんや他の方がコメントしてくださった上で、何か新しい発想や技術を、と自分が意識した作品は、まだこの場では多くないと思います。 (共に生み出るべき者へ)

2024-09-07

コメントありがとうございます。 実は、お恥ずかしながら、この詩を書いた当時の思いというものを結構忘れてしまっておりまして、九十九さんのコメントと似ていたのかな、と思い出されました。そうですね、支配という体液に浸されている自分たちを解放していこうとする、それぞれの行にそういう意思が詰まっているとも読めそうです。 ありがとうございます。 (共に生み出るべき者へ)

2024-09-07

面白い詩です。 最後、はんこをひっくり返して「中田」にしていることから、もしかしたら「僕」のはんこも、本当は「田中」だったかもしれない。誰かが思いやりでひっくり返していたのでは、と…… (田中)

2024-09-07

こ、恋人……? ではないような気がします。AIさんも「愛の喪失と自己の覚醒」とまとめていますが、果たしてそうでしょうか。 一番分かりやすいのは、「(神様、どうかこの子を濡らさないでください」の文で、親子関係のイメージが浮かぶのではないでしょうか。 一行目、最近私もどう使うか考えたもので、「午後」という単語、人生の折り返しを比喩しているように思います。「激しい眠り」、「あなたはあなたの眠り」という表現からも、子供のこれからの激動の青年期が想像できます。「愛の形見」を抱きながら眠り進んでいるのですから、愛は喪失していないでしょう。髪が竜巻みたいに渦巻くのも、元気さ。顔の白さに「むやみに」という形容動詞が使われているのも、なりふり構わず生きていく無邪気さがある。 「覚める」ではなく「醒める」を使っているのも、「生命」に刺激されて起きたからでしょうか。だから、喜びも隠れているのかもしれません。「醒めて、醒めていた」と反復して、その命を噛みしめている。 子供は子供の眠り、「わたし」は「わたし」の生活だ、と起こさないようにする親の愛。シンプルで良い詩です。 (醒)

2024-09-02

なんや、おもろいやないか。特に後半の作品にいくにつれて力が抜けとるんやないか? まあAIに脱力ってもんがあるのか分からんけど。「泣きっ面にカフェラテ」と「サボテンの足跡」、おもろいな。「レモンの対義語」もおもろかったで。これ、タイトルもすべてAIが作ったんか? タイトルだけ人間が与えたと思いたいくらい、欲しい発想しかない。 わいが注目したんは、たとえば「泣きっ面にカフェラテ」の第四連と第五連とかやな。カフェラテぶっかけられてサーカス団やバレエのイメージが舞い込んでくるってどないやねん。そのあと何回もカフェラテをぶっかけられるのもおもろいし。 なんか、音が重要なんやな。序盤のチェーンソーの音とか。「曲が流れる(音が聴こえる)」っちゅう「流れる」って動詞と、「目からカフェラテが流れ出て」の「流れ」が結びついて連想されていったんやろか。他にも考えると白人と黒人の融合した文化、ジャズが出てくるのも、カフェラテみたいやな。なんか、どういう経緯で一行一行作ったか聞いたら、えぐい量の知識動員されて説明されそうやわ。こわいなあ サボテンは童話みたいでええな。「なんや、人生のヒントみたいやな。」の終わり方も、そうそうできひんて。 他の人の意見も、色々聞きたなってくるわ。 (ナンセンス関西弁ポエム五編)

2024-09-01

まあ詩としては読まずに、 人の痛みが分からないから心が痛む、贅沢な悩みです。他に悩みがなさすぎるから、もしくは他人の基準だと悩むはずの問題を抱えているのに、感覚が麻痺してしまっているのかのどちらか。 私は自分をその後者の人間だと思いたいですが、他人の方が辛そうだなと思う癖もあって、自分の問題を軽視したり。でもこういうのって、多くの人がこの「痛み」と同じようなものを抱えてるのではとも思います。 敬語云々の話は知りません。おそらく舌が好みになっているだけで、その「痛み」と関連してると思うのは勘違いかもしれませんよ。 (痛み)

2024-08-31

第四連からの変化がいいですね。第三連までは、普通に服のアレンジのことだけで、人によってかもしれませんが私は現実的に受け入れられた。(日常にシミひとつ、という一行目だけ比喩ですが) しかし、第四連って、無慈悲に服の布を切り落とすんですよね。柄とかそういう問題ではなく、「体型」の問題で。他者の目云々に自分の着るものが左右されるより、自分の内面も絶えず伸縮していて、そのサイズに合うかどうかが大事なのだ、という連のように思いました。この緩急がいいなと。 自分を着飾る、という言葉が、たとえば見栄を張る意味として使われたり、そういう表現から着想されたのかなとか思いました。 (似合う服)

2024-08-31

なぜだろう、私も第二連が好きですね。というか、第二連までに独特な世界観が構築されていて、第三連がその流れから脱線しているのかもしれません。 第一連、豪雨が降って、家、窓の振動から自分の居場所という皮膚を知覚して、そこから雨の音だけが浸透していき、心のコップに溜まっていく。 第二連、「東京」と「混ざる」ということがキーで、それは第一連の閉鎖的な居場所とは真反対なイメージがする。ここで雨というのが詩的に変化していってる気がします。人の価値観が、人の数だけ雨として降っていると単純に読もうとすると、「雨は呼吸だけを支配下に置く」という表現は、「だけ」と限定しているにもかかわらず「生きとし生けるものすべて」とも捉えられるので、ゾクゾクしてきます。 あと気がかりなのは、「東京に『も』雨が降ったの」ではなく、「東京に『は』~」とされているところとかでしょうか。 第三連、「あれ」「これ」という曖昧な指示語が、読者を迷子にさせてしまうかもしれません。また、使い古されたような言葉たちが散見しているとも感じました。 第四連、解釈が広がりそうな終わり方です。アイスももともと「色のついた水」が凍ったもので、第二連の「得体の知れない色」とは対比的なのかな、とか。 次回作も期待しています。 (豪雨と明日)

2024-08-31

何回読んでも、一番始めの「マーメイドの」が消化されない詩。おそらくマーメイドさんの名刺だと仮定して、なぜマーメイドを選んだのか。そこに注目したい。 今やマーメイドの作品は数多に流通していて、誰しもがその名前を知る存在になっているが、物語のイメージが先行して、きらやかな存在を思い浮かべられそうである。一人歩きして誇大化していく印象を止めるべく、名刺というアナログな手法をあえて使って、本当の自分を知ってもらう。直接手渡しすることで。 人魚と名刺、一見シュールな組み合わせだと思いましたが、最終的に、人として忘れてはいけないことを思い起こされる感覚がしました。 (名刺)

2024-08-31

夜の闇が、救世主でもあり、私たちを「結局(現実に)還してしまう」ものとしても描かれる。 光は、見たくないものまで鮮明に照らしてしまうものです、たとえば老いの皺、モノの劣化など。死への接近を露にさせる役割を持っている。そんな光に対抗するためか、「虚ろな瞳」を持ち、世界を静止画として見ることに徹する。自分にはない発想の深掘りだと思いました。 視覚だけ、光を遮断しようとしても「音」が邪魔してくる。「悪魔と天使」は、ささやきでしょうか、それと「秒針」。でも、時間が流れるなら、決まって夜(=ヒーロー)がやって来る。 完全な闇ではなく、光を淡く持って昇華された「暗碧」。光を克服した存在への憧憬、「私」もそこに同一化したかったのに、という最後ですが、その大まかな内容にひっそりと隠れている、「うつ伏せの心と体」という表現が引っかかりましたね。「足元を這う冷房の吐息」とか。「うっとうしい心」も掬いきれていない。 分かりやすく書かれていますが、一筋縄にはいかない良い詩だと思いました。 (憂闇。 融闇。 夕闇。)

2024-08-31

平易な言葉づかいでも、じゅうぶん素晴らしい詩は作れると思います。相野零次さんはそれができる一人ではと思います。 個人的に、反対の意味でできた雲、言葉の知らない雷、といった表現が好きですね。 ただ、その混沌さから何かイメージがドラマを描くのかを期待して読むと、そうではなく、最後は強い秩序に収束されていく。神のための食事。おそらくこの上なく行程を完璧になぞった、自然法則のような料理として生きる「僕たち」。後半で出てくるような、世界の理を教えてもらう旅なのか、前半のような奇想天外な想像、混沌を求める旅なのか。もしくは両方か。 それを読み手に委ねていそうですが、反面、チグハグな感覚も覚えてしまいそうです。 あとは、最後の「いただきます、ごちそうさま。」はどこから出た言葉なのかが気になりますね。コメントで汎神論に肯定していますが、神が人の姿をしないことを信じるなら、我々人間単位の「食事」は当てはまらない気もします。 次回作も期待します。 (食事の用意)

2024-08-30

おまるたろうさんが「ですます調」に異を唱えていますが、単にお隣さんとの日常会話のようなものから始まっているでしょう? それが最終連ではもう全く雰囲気の違う問いかけになっていることがポイントなんだと思います。 あとは、理想をどこから保護したのかが書かれていない。ここが伏せられてるのは、理想も私を保護したからでしょう、物心ついたころには理想が横にいた、という表裏一体のペットですね。 それに飼われるか、それを飼うか、といった詩ですが、私の考えを言うと、理想は絶えず理想のままな気がするんですよね。ペットに成って舐めてきたり、一緒に走ったり、でも追い付けなかったりするものっていうのは、理想の皮をかぶった現実な気がしました。もしくは、現実の影響を受けて歪んでしまった理想です。理想はやっぱり、自分を含めた現実世界の外側にあるものかと。 だから、「世界を 現実を あなたを 心の底から憎もうとしている」という行があるんだなと思いました。 この詩中主体に実際に問いかけられたら、「私も理想を飼ってます」なんて言えないですね。妬まれるかも…。 (ペット)

2024-08-30

私には勿体ないお言葉、ありがとうございます。 第一連、揺蕩うような視線から追憶の第二連に入り、第三連で日常に引き戻されていく、そのギャップを強めすぎたのだなと、stereotypeさん含め他の方のコメントで分かりました。 確かになと思った反面、今まで文章表現というものにコンプレックスを抱き続けてきた身としては、一つ指標ができて嬉しくも思います。 ありがとうございます。 (影と梁)

2024-08-30

好きな詩です。特に第三連の締め方がいいですね。第一連の、皮肉めいた世の中の犠牲になったのが、第二連の男でしょうか。映画「JOKER」のアーサーが思い浮かびました。 そんな世界を直視しない、ある種の逃げがある第三連ですが、その濁りが「脳の底(心の底と対比)」から来るというのが、人間の逃れられぬ本能のような気がして、救いがなくて良いですね。 少し第一連が説明し過ぎているような気もしましたが、良いと思いました。 (吊るされた男)

2024-08-28

確かに、それはありますね。 どんな時も、情感より言葉遊びを重視する性質なので、バランスが悪く映ったのかもしれません。 それでもそういう傾向に居座るのは、この世の視界のすべてが比喩だ、という信条を持っているからではと、このコメントで自覚しました。 ありがとうございます。 (影と梁)

2024-08-28

コメントありがとうございます。 時の流れ、確かに意識していました。部屋でじっとご飯を食べる「私」と対比的に、現れてはいなくなる蜥蜴、追憶の向こうの「あなた」、雪など。あとは、ゆっくりと動いていく時を横断していく歌。 気に入ってくださり、嬉しいです。 (影と梁)

2024-08-27

この「かみなり」っていうのは、「あなた」の閉じた口の中で鳴っているように思いました。沈黙の中の激情ですね。言葉の代わりに、雷鳴が聞こえている。 すれ違いの詩だと思いました。なので、たとえばぺえ太さんのおっしゃっているような、「折り畳みナイフ」で愛の炎を庇う表現に対応させては、すれ違いを表せないと思うんですね。雨に対応するため傘を、といった「わたし」の当たり前の行動と「あなた」の行動を対比させているので十分だと。 あとは、なぜ駅のベンチかという疑問。折り畳み傘を探すということは、これから外に出る、電車から降りた後のようです。また電車で別の駅に向かうか、雷雨が止むのを待つか、口を閉じる「あなた」がじっと「わたし」の選択を待っているようです。 (激)

2024-08-26

コメントありがとうございます。 「色々と判らなくてゴメンなさい」 好意的に、作者ではなく詩に向けて謝っている感想として、受け取ります。 というのも、 最近、安倍公彦さんの「詩的思考のめざめ」を読んで、詩の中の独特な表現、景色の列挙などは、言葉の強い生命感・躍動感を呼び起こすものだと改めて納得して、この詩も着想はそこだったなと思い出しました。 私事になりますが、私が産まれる前に既に亡くなっていた祖父が、実は血縁の中で一番徳が深い人だったのではと考えながら生きていて、この詩はその未知の祖父の生活を想って書いたものでした。そのため、今の私が判るような言葉だけで書き切ってはだめだと、見慣れぬ言葉たちの力で祖父を蘇らせたかったのだと思います。 部屋の中、開かれた襖の向こう、塀の中、庭の様子を眺めていますね。外の景色だとは思います。「青い火薬」はベタですが若かりし記憶だとして、それが「幽霊の象形文字」=日記でしか確かめられないということ(現代の鮮烈な映像技術がない時代)かもしれません。 atsuchanさんは、判らないながらも、一人の人間が生きていることは察して、敬意を込めてコメントしたのだと、受け取ります。 (影と梁)

2024-08-26

私は良いなと思いましたね。 詩とか(創作)って、言葉(表現)の株価みたいなものを見定めるものだと思っていて、「舟は雨を抱いて沈む」←こことか想像しやす過ぎて、逆に盲点な表現だったりすると思うんですよね。 そりゃ浸水したら沈むよなと思いながら二行目三行目と読むと、雨の降る速度、舟の沈む速度が伝わってきたりする、そんな第一連。 あとは、AIの他のコメント欄での批評文と比べると何か違うなと。AIの批評って少し一辺倒で、なんでも美しさとか個性とか引き立てられてる、みたいなことを言っていると思うんですよね。だから、お利口さんというか、道徳的な態度だなと思っていたのですが、「魔法のしるしが消える」とか、「かざした右手が神様になる」とかいう表現もするんだなと。暴力的な詩を書かせたりするとどうなるんだろうとか、読んでて思いました。 (AI Generated Poem #2)

2024-08-25

作者のコメントも参考にして、 詩でもその他創作でも、ある感情や考えを表そうと決断した時、大抵その地点にはいない場合が多いかと思います。もう、今は怒りなど収まっているのではないでしょうか。それか、悲しみの感情も邪魔していますが、その原点の感情を怒りだと思いたいのかもしれません。 今収まっているとしても、思い出せば屈辱的な出来事で、その怒りを忘れるなと自己暗示するかのように、「今(その感情が沸き起こっているだろ)」と言っているようです。(私は 怒らなくて 良いのか、とも言っていますし) 私の好きなアーティストで、TOOBOEさんという方がいますが(「心臓」というワードから連想しました)、「怒り」の共有は、他人に自身を守る力を与えることにもつながります。比べてしまうと申し訳ないですが……その共有力がさらに欲しいと思った詩でした。 (私の心臓としての怒りよ)

2024-08-25

まだあまり海外の詩は多く触れてはいないのですが、たとえば「馬のように挽かれる」とか、「方法がめぐった」とか、日本語感覚じゃないような言い回しが良いです。言葉をぶつける覚悟と、コメント欄からストイックさがうかがえます。 詩の内容についてですが、フィールドというものをめぐった歴史の動きを俯瞰したような詩だと思いました。 第一連、多くの人が集まると習慣が砕けるも、散大した瞳(=多様性をみつめる目でしょうか)を持つことでその場に立っている。 第二連、骨牌は、骨だけ見れば死のイメージでしょうか。まるみのあるフィールド(地球)から天のフィールドを想像しているかのようです。 第三連、広がりへ引きさらうゆえの葛藤と逡巡というところは、戦争の決断を表していそうです。 その流れからいくと、第四連は現代のようですね。戦争の残り香が立ち込めている、そんな表現。 という読みでいくと、作者が未来を見据える連、フィクショナルな第五連が欲しいなと思いました。抽象的に、深刻なテーマを隠して魅せるような作風ができる方だと思ったので、今後応援します。 (フィールド)

2024-08-24

記憶、追憶をテーマにした詩では、よくその内容が恋沙汰だったり、若い頃など色々扱われますが、その記憶という表面だけなぞるのは斬新でいいですね。 もっと、記憶について何も内容など語らずに、読み手の期待を壮大に裏切る、虚無の空間に誘う長篇で読んでみたいなと、思いました。 (思い出)

2024-08-24

「来年も同じ日に」って言葉、呪いみたいに強くて、それを言われた時から時間の流れが遅くなる、そんな感覚に陥ると思うんですよね。 「来年、来年か…」と思いを馳せると、その日の太陽の速度が気になり出して、「あと2センチ」と言いつつも、長い、長い。 助手席で窓を開ける君を注意しないのは、まだそういう話題をこれからの時間のために取っておきたいからかもしれないし、夕食の工夫も、これから来る飽きを回避するためかもしれない。 その積み重ねでこれからをずっと魔法の時間に変えられれば、あっという間ですからね、来年まで。 でも、なんともロマンチックすぎて、私には皮膚がふやけてしまいそうな愛の語りだ…… (夜夏)

2024-08-24

すみません、投票し忘れました。 (暗号)

2024-08-23

よく、良い詩を読むとため息が出て、うなだれて首が落ちそうになる生理反応が出ますが、この詩の第一連と第二連でなってしまいました。すごく良い。 色々考察したい点が散りばめられています。「祈り」がズキズキするから「いのり」に開かれていく、という発想がありますが、「じゃあ他の言葉も何かしらの理由でひらかれているのか?」と想像させられます。 「こうえん」、「てんし」、「こいびと」、「なん(なに)」、「ゆびさき」、「かんけい」、「おなじ」、「どうし」、「とがらせた」、「いくじなし」…… 仮にどれも、平仮名にすることで何かしら語気が緩和されるものだとして、腹が立っても「いくじなし」と書いていることや、このひらいていく発想は柔らかさ、純白さみたいなものが感じられそうなのに、自分の書くものを「よごれていくぽえむ」と卑下しているところとか、この詩中主体の人柄が伝わってきます。 あとは恋人と自分の指の違いとか(相手はゆびさきを合わせて祈りますが、自分は爪の伸びた指で落書き、という対比)、なぜ回転扉なのか(言葉をひらくことと関係?)とか、様々な解釈ができそうで面白い。良かったです。 (暗号)

2024-08-23

面白い詩です。 私もよく、夜眠れない日があるのですが、何か考え事が次々と浮かんできて、それについて脳がずっと話しているんですよね。1時間でも2時間でも。 数を数えるのって、そういう思考を乗せてしまう「言葉」から離れた無機質な記号だから、眠りに行きやすいのかなと気づかされました。 タイトルは「不眠症」ですが、詩中主体は最後、五感がまた研ぎ澄まされて夢の中に誘われたのかなと思いましたが、「真っ暗な映像」なんですよね。そしてあっという間に朝。おそらく夢も見れず、眠れたのも一瞬のような感覚。その気持ち悪い感覚が表現されている好きな終わり方でした。 各文が短文なのも良いです。 (不眠症)

2024-08-23

尾崎豊のパロディ、面白いですね。 詩では愛が中折れしたとなりますが、二階という隔たっている世界だから、本当のところは分からない。 二人とも一夜限りの関係から醒めて、真に愛し合った(天も味方して無音というベールに包んだ)かもしれませんし、ジェネレーションギャップが進んだ時代なら、「なんだこの神曲!?」と耳を傾けているだけかもしれません。 どのようにしろ、一階、二階という構造が想像をかきたたせてますね。 (悲しい歌)

2024-08-21

コメントありがとうございます。 過激な比喩に固執したのは、メルモさんがおっしゃったような「働く喜び」を無理やり見出だそうとする詩中主体を描こうと、タイムカードを切る前のずる休みというシチュエーションに置いたためです。 詩中主体のぶっ飛んだ視界、想像力が退勤前の短時間に浪費されること。その比喩の過激さを強めれば強めるほど、どれだけその力が抑圧されているかも強められるのではと思って書きました。 そしてその想像もどこか、完全に自由ではなく、物の在庫を気にしたり商売を気にしたり、想像と労働が混ざりあってしまっていること。そんなある種の現実を目指して書いた詩でした。 しかしそうなると、じゃあどんな比喩でもよかったのではと思われる(解釈すらもなんでもいい)かもですが、元々この時代にシュールレアリスムを使ってるので、承知の上です。読み手がどこで読みを敬遠するのか、そのラインを反復横飛びして確かめる日々です。 「現実的日常性を帯びた」表現……うーむ、確かに想像しづらいですね。模索してみます。 (Arbeit)

2024-08-21

詩の中で使い分けされる「ハッキリ」と「はっきり」。意図的かは分かりませんが、気になりました。 なぜぶらんこなのか。想像して、これは赤子の揺りかごの延長じゃないかなと思いました。我々は、成長していくにつれ自分に何が「できないか」が分かってくる。しかし、夢の中の出来事は絶えず不可能を見せつけてくる。大人としての揺りかご=ぶらんこ(まあ、子どもも乗りますが)に立ち返って、自分にできないことを想像する第二連に向かっている。 最初の「ハッキリ」は、自分のできないことを理解しているということ。最後の「はっきり」は、そのできないことをなぜ想像してしまうのか、その二つの意味の使い分けがあるのかなと。 最後、面白い昇華のしかたですね。そんな仕事ない(できないことな)のに、仕事の内容は現実的で。 (できないことは)

2024-08-21

良い詩です。特に第三連が好きです。 atsuchanさんが言うように、言葉のイメージが散乱して、一つの解釈を通すのは難しいなと思いますが、それは、上手く意味をぼやけさせる表現を使っているからかなと。 第一連、整理してみると、 ~時間と~勇気がない→昨日を溝に置き去れず、靡く音像にも傾いちゃうし、記号の山をまだ惜しんでいる 状況かなと思います。それを、改行したり長めに形容したりしていることで、掴みとして引き込ませている。 第二連、空が灰になってしまわないか、その雲の様子に気を取られて雫に意識を向けられない。 ここは解釈が多様化しそうですが、本当は雫は無数に落ちて雨になっており、心象がぼやけて見えない雨の中に取り残されているような情景が浮かびます。 第三連、「はにかみ」と「泣き」がありますが、どちらもプラスのイメージなのではないでしょうか。「リンク切れの惑星」→クリックしても飛べない場所→私たちだけの場所 に飛んで二人だけの時間を過ごしたい。 そして、「僕と私」、「君と貴方」のように、時間が経って変化してきているお互いをどちらも尊重していきたい想いがあります。第一連では、人は変化する(音楽も、使ってる言葉も)ものだから、と簡単に割り切れないことについて葛藤していましたが、第三連で答えを出しましたね。誰にも、時間にも邪魔されなければ、その変化を受け入れられるのではと。 とても良い詩です。 (無題)

2024-08-21

AOIさんも触れていますが、グロテスクだなという印象、ただ、私はその表現力に光るものがあるなと思いました。 「双眸を箸でつついてほじくり回した後に」 「皮膚を剥いで塩素に浸す」 「叫びたくなる感情をスライスして/また塗りたくる」 主にこのような所でしょうか。良いなと思うのと同時に、さらに刺激の強いものが欲しいなと、感じました。 あとは、血のつながりなどのことに触れては、少し読者に投げやりすぎな感じがしました。悲痛さみたいなものは、感じ取れるのですが…… (回り灯籠)

2024-08-20

つつみさんもおっしゃってるように、時間感覚の表現、その緩急が良いです。 長短を意識して見てみると、七連あるうち、第四連が一番短くて、「枯れた」のではなく「落とす」としてる。枯れるって、季節を越える長い時間を要するイメージがします。それが、ただ「落とす」とすることでさっぱりとしている。その表現が一番短い連で行われていることで、よりスタイリッシュだと思いました。 あとは、「長くない坂だった」という反復は、やはり緊張が走るもので、「本当は長い」ということも同時に強調されてくる。最終連で明かされてますね。本当は長い坂道だったと。でも、それをまた「短い夢」という表現で包み込んでいる。 書かれている内容が失恋?のように私は受け取ったので、その恋の時間の長さをどう感じているか、その葛藤が表れているのかなと思いました。一瞬にして忘れたいけど、長すぎて忘れられない。思い出の高鳴る鼓動を一つ一つ数えたかのように、具体的な時間が詩の中で提示されていますしね。 妻咲さんの詩、私は好きです。お菓子みたいな詩、書けると思います。 良い詩でした (日傘)

2024-08-19

「卵」というモチーフ、面白いですよね。その魅力を引き出している詩だと思いました。 この詩で気になるのは、「手を洗うこと、容器」、「詩中主体の行為」、「卵の不確定性」の3つでしょうか。 卵って、人間の顔を書くときのたとえとしても出るように、人間の頭にも見えるんですよね。だから、衛生面とは他に、手を洗うことは一つの敬意(?、割ってしまうことの申し訳なさ?)だと思うんですけど、詩では結局割ってから手を洗ってますね。捉え方が広がるところだと思いますが、私は運命の無慈悲さ、いい加減さを表していると受け取りました。 第三連から、卵もあらゆる理想を抱いていることが分かります。卵って、中身が超密閉されていて、割ってみないと本当は正体が分からないのに、みんなどうせ黄身と白身しかないと当たり前に割っています。まるで人間の才能(あまり使いたくない言葉ですが)のようです。クリームソーダの革命を起こせる卵なんて出てくるはずないだろうと諦められている。 第二連の「割る手」と「食べる口」はその才能の芽を摘む存在のようで、インスタの味変(結構現実的な理想。現代的。)すらも許さず、いつもの卵かけご飯に消費していきます。前述した運命の無慈悲さとはこれもありますね。 容器に入れたままというのも、得体の知れない球体として存在させるのではなく、「お前らは卵にしか過ぎないんだぞ」と縛っているようです。 そう読めてしまったからこそ、第二連までの残酷さを砕き晴らすほどの力が欲しく、第三連で見事ユーモアという武器で対抗した、良い詩だと思いました。応援したくなってきます。みんな、卵じゃなく得体の知れない球体として、ぼちぼち大志を抱いて生きてほしいですね。 (卵)

2024-08-17

時の止まり方が一辺倒の繰り返しでなく、変化があって面白いと思いました。心臓が時計の代わりに時を奏でるというのは、どういうことなのか。私の内にあるものなのに、「分かっていない」状態で時が進んでいきます。 最終連、好きですね。誤記か故意か、「神を観た」という表現とか。 普段、歌詞にも使えそうな詩を書く方かと存じていますが、これはテイムラーさんが触れているように、ほどよくミックスされていると思いました。 (奏(かなで))

2024-08-15

いえ、云わんとしてることは伝わってきました。私なりの切り込みではなかったということですね。これはポジティブに、期待の眼差しと捉えさせていただきます…… そうですね……詩の発想、起点を今回は捻っていませんでした。確かに、「一般的な労働者」の像を一に立ち上げていました。今なら、なんでしょう、靴にメインのスポットあてたりとか、おそらくそういう個性のことですよね。 (Arbeit)

2024-08-15

コメントありがとうございます。 「感覚をもっと濃く出しても」 なるほど。少し考えましたが、これ以上濃く出そうとすると、詩ではなく小説やエッセイになりそうな感じがします。「このひとはどう働いてるんだろう」、という疑問にわざわざ詩で応える必要はないかなと。ただ、「働く」ということに対して自己中心にではなく、射程を広くするため抽象度を上げています。私の作風は、カメラアングルを読ませるスタイルだと考えていて、何を映して何を映していないか、そこを読んでいただくだけでも、労働に対する感覚をつかんでいただけると思います。 気に入っていただけて嬉しいです。ありがとうございます。 (Arbeit)

2024-08-15

「愛の爆弾」 窓から赤い数列の粉が泳いでくる 孤独のなめらかさを聴いていた夜を忘れた 動かなくなった浜辺に 朝帰りした火傷の跡がだらしなく続くと バカみたいに目を醒まさない私が浮いてくる 瞼の裏で、耳鳴りがシルエットを引きずっていたこと 唇が身をよじって起き上がろうとする 誤魔化されたゼロ 生活の香り 虫食われ 言葉の灰ひろいに飽きた日の 波打ち際まで今度は嘘が泳いでくる つながれた手の蜃気楼に自責の念が吸い込まれて 今でも届くと思っている ゼロたちがおつかれさんと帰っていく 情けなく、半笑い、水平移動する 私はまだコンマ何秒かの 愛をみつめようとしている (B-REVIEW 8月のお題詩「愛の爆弾」「さよならを教えて」)

2024-08-15

返信ありがとうございます。 まず、一個目のコメントでスルーしてしまいましたが、「恐竜の卵のような洗濯機の蓋」については、「恐竜の卵のような洗濯機」の「蓋」と分けて書いていたため、私の書き方の問題ですね。すみません。あまり守秘義務とかで言えないですが、ほんとに職場にあるんですよね、恐竜の卵みたいな洗濯機。水を汲んで持ち運ぶ時、モンハンの卵運びみたいに慎重になってしまうので、そのイメージで書いたつもりでした。(この詩はほとんど、職場の光景をそのまま書き写した作品でした。) しかし、恐竜の卵みたいな蓋という読み、確かにイメージできなくてゾクゾクしますね。少し悔しいです。 その表現以外にも、イマジズムの原則に沿わない表現を挙げればキリがないと思います。お恥ずかしながら、イマジズムというものを初めて聞きましたが、挑戦したくなる原則たちですね。たとえば、言葉において「役立つ」って何なのか。ぺえ太さんの読みのレンズを通してだと、有用でなかっただけなのか、どういう明確な線引きがあるのか。私は恐竜の卵みたいな蓋、という言葉をぶつけられると蕩けてしまいます。そういう気持ち悪さは気持ちよく、効きます。もっと気持ち悪い詩(主観ですが)を読んだあの吐き気が忘れられなくて、自分でも再現したいんですよね、ずっと。 あとは抽象と具体のバランス、確かに大切だと自覚しています。みなそれぞれのバランス感覚は更新され続けていると思います。ぺえ太さんの今回の感想もサンプルに取らせていただいて、もっと遠ざかる詩を作りたくなってしまいます。なんだか、最近はそういう時期なんですかね……しがらみから解放云々…… (Arbeit)

2024-08-14

ぺえ太さん、コメントありがとうございます。 「難しすぎて置いてかれるときがあります」 私も、私の作品には置いてかれてばかりです。自分のしない言葉の組み合わせ、他人の思想を乗せようと思えばそれが出来て、かつそのまま人に見せて良い詩の自由さに、頻繁に置いてかれます。 個人的には、今回ほどストレートを投げた作品はないと思っていたので、少し驚きました。労働をみつめた対比的な作品に、自作「日雇いザムライ」がありますが、あれはふざけすぎたのでこちらは真剣に向き合っています。(いや、あれも別の軸で真剣っちゃ真剣ですが) シュールな詩に触れる時、読み手のnowな心情によってその詩が深刻か、はたまたユーモラスに映るか左右されるものだと思います。この詩は、私は読んでいてストレートに刺さってくるものがあるんですよね。 もっとマクロに見て、シュールな組み合わせのノイズたちと、真剣さがあるような表現たちを分けると、何か見えるかもしれません。が、私はやはり、現実を真に直視しようとすればノイズが入ってくる、と考えているので、当分この作風は変わらないと思います。 ストレートって一体何でしょうね…… (Arbeit)

2024-08-12

逃亡車というモチーフがいいですね。所々、書かなくてもいいような表現(「恋愛ごっこをしていた」など、少し臭いと感じてしまう)はありますが、光る言葉までの構築が上手い。 「だからいったの 「愛してる」って あなたにじゃなくて、空を落ち着かせるために」 まるでこの連にたどり着くために言葉を紡いでいたのではと思うほど、私はこの連のインパクトが良いなと、好きだなと思いました。 あとは、逃亡車というモチーフをもっといじってみても良かったのではと思いました。ただ乗る物として見るだけでなく、ガソリンを積んでいる(一番自分が燃えやすい)存在であったり、もっとひねってカーナビとか色々、車から連想されそうで、広げてみてもいいと思いました。 (逃亡車)

2024-08-08

皆さん読みやすさとか分かりやすさとかに触れては、静電気に当てられたように指を離してしまう。だからと言って私は私で、すぐ分かったと思う気になってしまうのですが、その出来立ての解釈を渡してもAOIさんは軸(吸盤)が何本もあるので、どこかしらにくっつくものです。 ざっくり、ざっくり私の目に映った展開は、「空なんてあるかも分からない闇夜」→「洪水の街になる、飛ばざるを得ない、どこに向かうのか」→「天界などのような悪路(私は安直な救いへの批判のように感じました)のその先へ、翼を破裂させ、超越」→「駅舎を見下ろしてFin(この現実、日常へ戻ってくる緩急が震える、本当の鳥を詩の中で見たかのよう。いや、闇のインクをくぐってきた烏)」 というような、一匹の烏の飛行を私は感じられて、最後の駅舎の連は本当に良いなと思いました。あとは「武器」ですね。冒頭の銃が活きてくる後半。ここはあまり言語化できていませんが、好きです。 うーん、メッセージ……を無理やり読もうとするなら、羽ばたくことの解像度を上げたのかなと。羽が生える前、飛ぶ前、空なんて分からない。飛んだ先が本当に空なのか、理想の空なのか、否もっとその先へ……という熱さを私は感じます。 私はこのようなボリュームのほうがAOIさんの作品は刺さるのかもしれません。 (わたしは烏)

2024-08-05

コメントありがとうございます。 正直に言いますと、音楽畑にちょっとちょっかい出しに来たカラスです。フーガは、自分のボカロ作曲の仕方がフーガと似ていて、いいなぁ、フーガ、「逃走」という言葉も好きだしなあと、思い入れのある言葉の一つです。前作の「浄夜」も確かにシェーンベルクから取っていて(推敲前は、「シェーンベルクの「浄夜」が始まる」と確かに書いていました)、良い響きのタイトルのクラシックを漁って、見つけたら聴き込んで、「決別の夜」に合う曲を探してました。あまりクラシックは分かりませんが、似合いそうだ!と思って「浄夜」にしました。 あまり音楽の素養は持ち合わせておりません。だからこそ慎重に、音楽世界の事象と自分の性格を照らし合わせて、これからも詩に映したいですね。 「そのイメージの拡散は、必ずしも成功してはいません」 歴史から一例を挙げようとすると、私はやはりシュルレアリスムが真っ先に浮かびます。確かに、うわっ滑りしているのは、まだ自分が向き合うべきその谷がどれほどのものか、掴めていないからだなと思いました。ガツンとくる言葉の密度をさらに高めて、そのテーマに釣り合う詩作に励みます。ありがとうございます。 (ゆらうフーガ)

2024-08-05

コメント、ありがとうございます。 確かに、フーガという詩のテーマだからこそ、「繰り返す」手法をより凝った方が良かったかもしれません。テンポは、すみません、手癖ですね、テンポが悪くないと気が済まない時があるのかもしれません…。 伝えたかったのは、フーガの奏法のように、旋律を曲げないと思っている自分を、追いかける旋律を認識してゆらいでいくこと。これは、和音のように整列された音符には抱かない感情で、フーガって良いなと思って書いた詩でした。 まだスタミナもない頃に書いたので、今なら繰り返しを段々ゆらがせて、変化させて紡いでいく長篇詩にしても面白いかもしれません。 ナンセンスに浸かろうとした時の、対岸に見える景色を羨みながら、軸も訳も分からず揺れながら進む生き方を肯定した詩だと、私は解釈して書いた詩でした。 (ゆらうフーガ)

2024-08-05

コメントありがとうございます。 「一つか二つの強い感情」、自分の中では第四連と第五連に詰め込んだつもりでした。この作品は、まだ駆け出しの情熱のみで構築されたものだったので、確かに、どう論じるか、を追究できていないかもしれないです。(推敲は重ねたのですが、まだまだですね…) この詩に足りなかったもの、自分が今持ってるもの、みつめていきます。 (ゆらうフーガ)

2024-08-05

愛に饒舌さや型などいらないというテーマ。ホチキスの芯の表現が良いですね。ホチキスは、冊子をその順番でしかまとめられないし、金属だからチカチカして、お行儀よくて、なんとも「思いやってる」感を出してしまう、煩わしいものなのかもしれません。 上手く見せようとして凝り固まる言葉たちに対して、名前だけが「陽炎」のようにゆらめいている所が、「君」らしさ。掴めそうにない、掴めないものへの感情が「愛」なのかもしれません。 ホチキスが、「読み返しづらくなるもの」であるなら、最終連のホチキス留めは、夏を忘れ去っていく行為(読み返さない)のように思えました。 良い詩です。 (陽炎)

2024-08-03

追記 柚子山椒さんがコメントでおっしゃっているように、間接的な対話を、単なる誤魔化しでしか使わないことには、私も反対ですね。 (伝える/聴く)

2024-07-31

衝突の緩衝材が欲しくて、私たちは 「感情のない定型文 人格のない登場人物 サインをしない道を拓いた」 のかもしれませんね。直接聴くよりも、たとえば何の作品が好きかで相手の価値観を推しはかる。直接、間接、どちらも使い分けないといけないのかもしれません。どちらも真の対話のように思える。 「交わって/混ざり合って/溶け合って」しまって、余計に相手と自分のことが分からなくなる場合だけは、避けたいところですね。 (伝える/聴く)

2024-07-31

王子様っているんですかねえ…… 「夢では何度かうまくいってた」 とあるように、自分を真に蘇らせられるのは、自分しかいないとも、ロマンなさげですが思うのです。自分に毒林檎を与えて死なすのも、結局自分の判断ですしね。王子は来ないと分かったところから、勝負ですね。 (そして王子は来なかった)

2024-07-31

「パサリ!/神は現れた」 このチープに登場する神がいいですね。新聞の音のようですが、神そのものの降りる音と解釈してもよさそうです。 人は野菜やら動物やらを別の何かにたとえてきましたね。それこそ神とかに。そうやってモノたちを別の何かに変身させるのではなく、自分たちがそのモノに変身していっている。モヤシになったり鳥になったり。伝統とか文化とかの意味よりも、現代に生きる感情を重視している詩のようです。 たとえばここに出てくる鳥は自由なイメージはなく、虚構新聞を読まされたり噂話をするだけの存在です。せっかく鳥の身体を持っているのに…… 自虐性の高い詩のようですが、所々反抗の意思みたいなものを感じます。 (変身)

2024-07-31

「プレゼント」の連がとても印象的でした。なんでしょう、「僕」がずっと「子供」のままいさせられる状況というか。いや、家を存続させようと「僕」が留まっている? そこまではいかないか……(非常口は見えているはずなのに、逃げ出していない所から)。 「誰のために生きようか」というのも、家の外の生き方が分からない、という面があるのかもしれません。 良い詩です。 (コキア)

2024-07-31

あまあまな「わたし」の眼差しが良い。 「あなた」の一つ一つの所作は軽く描かれるのに、それを見てる「わたし」の視線は砂糖のように、わたあめのように張りついてるようです。 三連目には恋が一瞬にして溶ける性質とかを想起しますし、最終連、捨てるのは箸じゃなくてまだ残っているわたあめなのか、とさりげない違和感が置かれるのがいいですね。色々解釈がありそうです。(まだ満腹にはなりたくない?甘いキスがしたいだけだった?などなど) (わたあめ)

2024-07-31

返信ありがとうございます。 詩を書く人はずっと童心を持っているべきだと思います。子供に想像力負けてちゃいけないですよね。前半、手癖で書けるのはめちゃくちゃいい武器です……。 確かに、 「さっき見た動画で人が死んで、あまり感じ無い、共感性欠如、犬か猫だったらとても悲しかった」 この部分でも生死のことに触れますが、切り替えが速いんですよね。倫理やら道徳やら難しいことを忘れ去らせてくれる勢い。全く説教くさくない。良い味出していると思うんです。 人によってトレンドが違うと思います。 「真面目に取り組む人にとってうざいかなー」 とのことですが、最近自分は「真面目に考えても、何も見えないこともあるなあ」という時期にあるので、前半のユーモラスな表現たちに心躍らせていた感じです。新しい世界が見れる!みたいな…… むむむ……。批評に関しては波があるので、気を引き締めます。 個性ある文彩で、かつビーレビューの方たちの目にも留まりそうな詩だと自分も思ったんですがね……うーむ。 作者、一体誰でしょう……アンテナ張りますm(__)m (抱く)

2024-07-31

生ぬるいって、温度の変化の途中だと思うんですよね。色々な解釈があると思いますが、私は熱が冷めていく途中のように感じました。 ありきたりですが、今まで誰かの手をつかんでいた手、もうつかめない人を想う詩であれば、その「イソギンチャクのような手」だけでもあの人のもとに逃げて欲しい、そういう詩かなあと。 月明かりが照ってようと、現代の若者は手を布団から出せばそこにスマホがあるような偏見があります。だからこそ、何も持ってない手をまじまじと見るのはやっぱり、喪失感かなあ。 (寝室から)

2024-07-30

前半の遊び心が若々しい。唐突に始まるスナック菓子の展開や、「肉体 is the ぷち地獄」という口に出したいフレーズ。羨ましいと思いました。 だからこそ、むむ、と温度が変わったと感じたのは「おしめが濡れて泣く幼児~」から。ここから生死を意識し始めて、魂が出てきたりして前半のスキップ感が抜けていく。 何だ? どこに向かっていくんだ? と追うと、冒頭の雰囲気やタイトル「抱く」の回収につながる。 個人的には、前半の遊び心をまだ持っていて欲しい気がしました。なんだか、賢者タイムを見てるような後半……すみません、そう思ってしまいました。 前半、ぐいぐい読ませる力があると思うので、もっと読み手を長丁場に持ち込ませてもいいかもしれません。 (抱く)

2024-07-30

コメントありがとうございます。 映像について、特に自分は「獣たちが、/バネをつかって跳ねる夜」の時に出てくるイメージがピッタリだなと震えました(カオスな獣たち=サイケ、跳ねる夜=弾性のある格子模様)。 本当にノれるポエトリーソングですよね、底知れない…… (「決別の夜」MV)

2024-07-30

ありがとうございます。 映像も包丁さんが作っていまして、引き込む見せ方が本当に上手いです……。 吉増剛造さんをほうふつ、以前も他の方に似たようなコメントを頂きましたが、どうなんでしょう……。も少し吉増さん、数を読んでその感覚も掴んでみたいです。 (「決別の夜」MV)

2024-07-30

勉強は、信仰のようなものですね。 私は、正しい知識を学ぶ理由は、正しい知識を壊すためだという信仰のもと、専門書を手に取ります。「これは誤り」と常識化されている事柄に反抗していく。 その行いに真理があると思う自信と、そんな常識にまみれてきた自分を戒める(←ランボー的ですかね)、本当に頭の痛くなるものだと思います、勉強。おまるたろうさんの感情は、当然なように思いました……。 (阿q外伝)

2024-07-30

とても好きです。しかし、A・O・Iさんのような言い分も分かる。私は、「何者にもなれない」といったある種の答えを書いてしまうのが、蛇足なような気がしました。 冒頭でプールの底を泳ぐ海蛇や、食い込む針金、声帯を吸い込む排水口などの表現で神秘的に彩られたこの「プールサイド」という場所の、さらなる深みを見たかった気がします。ゾクゾクする言葉づかい、今後も期待しています。 (プールサイドにて)

2024-07-30

自由な身体性が人間を人間たらしめるものですよね。駆けたり踊ったりしていた子供の頃が人間らしくて、大人になるにつれて皆それぞれの貝殻にこもっていく。 この詩では身近な環境によっての抑圧がありますが、社会全体を見てもそんな感じだと思います。常識的な考えが電波に乗って価値観を占拠しているような。私はサルトルのような放浪者が好きで、安定とは離れた地に身を置きたい。その方が死にもの狂いで踊れて、自分の人間さを感じると思うんですよね……しがらみの強まる時代ですが。 (踊ってごらん!)

2024-07-27

コンビニは、街の縮図なのかなと思います。皆さんのコメントも、コンビニの代わりに「街」や「都会」を当てはめてみると意外と辻褄が通りそう。どちらも24時間起きているものだからでしょうか。 唯一、いすきさんのコメントには当てはまらないでしょうか? コンビニでは何も出来事が起きない→街では何も出来事が起きない? まあ、何かしら変化が起きるっちゃ起きるとは思います。新商品が出たりするのは街の流行の移り変わりだったり、万引きなどの犯罪もありますし。 コンビニと街が似ている引っ掛かりから、街と似ているものは……と次々に連想してみると、面白く詠めるかもしれません。美があるかは分かりませんが、詩の題材としては使いがいありますね。 (コンビニ)

2024-07-27

人生をフラクタルに切り取ったようで、「小学生のように」とあるように、いまだ二人ともみずみずしくて若々しい、そんな一日の始まり。 何十分も他人を振り回したり、同じセットを頼んだり(真似事)、重力なんて揺るがないものに無謀に立ち向かったり、飽きっぽかったり。 日記から抜粋した詩ということですが、良い奥さんに出逢ったなあと、羨ましいです。 人生のパートナーには、「親らしさ」と「子供らしさ」、どちらも持っていてほしいと願うものです。 (朝の散歩)

2024-07-27

音の響きがなんか良いですよね。 だから、『「なん」かすき「なん」です』で定期的に挟みたくなりますし、音って「余韻」だとも思いますから、「なんか余韻です」と言っているようにも思いました。 「なんか」だけじゃなく、「なつが」とか口の動きが似ていますし、音に気をつけた詩だなと思いました。良いです。 (なんか)

2024-07-27

使われている言葉たちがすうっと身体を通り抜けていくような、快い感覚。好きな詩です。 最近私がそういう詩を書いたからなのか、安直に商店街のイメージから「機械=故郷」と結びつけて読んでいました。しかしその解釈だと、たとえば最後の2連をうまく飲み込めない。 半死半生の身体になぞらえる故郷とは何か。自慢とは。眠りに向かう衝動を抑えられないのは誰か。想像がふくらむ終わり方。 前半二連の表現(たとえば、「やつれた獣が~」や、「幾何学模様の鱗」など)が癖に刺さりました。良い詩をありがとうございます。 (丘)

2024-07-26

たとえ新しく訪れた場所でも、いつもと同じ音楽を流しながら歩くと、その土地に親近感が湧いてしまう。音楽は不思議なものです。 他の方が言うように起伏がないように思われますが、端的に、的確に本質をつかめる人なのではないでしょうか。ぜひ、今度はさらに冒険するような詩を期待します。 (好きな曲)

2024-07-26

デジタル、メディア(?)らは身体の拡張ですよね。遠くのものまで見たり、小さいモノまで見れる眼を持ったり、バーチャルな世界では分身ができたり。 エイクピアさんも言及していますが、どんどん心も無限に拡張していきそうですよね。色んな感情や思想にすぐアクセスできる。多様性の海に入っていって、「曖昧な心象」がノーマルになっていく。 その先、何が待っているのかですよねえ……。 (デジタルネイティブ)

2024-07-22

前半四連目まで、好きですね。それ以降、コメントでは調子を変えたかったと言及していますが、「夏の終わりと心中」する詩のため、「やがる」といった激しい語尾は、「夏の終わり(秋)」の静けさと本当に心中できるのか? と心配になってきます。いや、逆に、静けさの前の嵐なのかもしれませんが、消え行く前は潔くてクールな方が、私は好みだと思いました。 「タイムトラベラーは下らない事は話さない ジョークの一つも知りはしない」 扱うモチーフが面白いです。会ったことがないのに、キャラのイメージが浮かんできます。たったのこの二行で。 第四連なんかは全行好きです。 「彼女を覚えている一人が春に連れ去られた」 特にこの行が。 詩や創作は対象の美を半永久的に、時を越えさせて保存するものだと思います。詩の書き手である「彼女が」、ある一人の人間を簡単に春の向こうに連れ去っていく、それって本当に良いことなのかと、待ったをかけているところだと受け取りました。良いと思います。 色々とコメントが来ていますが、私は純粋に好きです。 (アキ)

2024-07-21

分かりやすくて、でも味わえる詩です。 見逃せない、と思ったのは 「あなたの浅黒い首筋とくちびるをかんで」 この部分で、おそらくヴァンパイアである「わたし」が一方的に噛むのではなく、「あなた」も唇を噛んでくる。お互いに噛む関係。 AOIさんが指摘しているタイトルとのギャップ(生ぬるさ)、確かに感じつつも、現代的なイメージに成り立っているんだなと思いました。想像上のこわい生き物に、親近感を持たせて描く感覚(上記の、お互いに痛み分けするようなところなど)。だからこそ、AOIさんの言うような「家庭的」な属性とか、もっと人間味に振り切っても面白いなと思いました。 (ヴァンパイアの禁欲)

2024-07-21

なるほど! そう聞くと「ネオ・スパイラル」が断然いいですね、確かにブロッコリーは味変しないと食べ続けられない… 『ディナー』、読んでいただきありがとうございます。最近、料理を作る側の詩を書いてみたので、いつかここにも載せようと思います。ありがとうございます。 (ネオ・スパイラル)

2024-07-20

良い詩です。 メルモさんも言っているように、「爪」って何なのでしょう。手の先端。千円札を受け取るのも、漫画のページをめくるのも、おそらく卵をつまむのも、手の先端。 爪が伸びるというのは、大人になる、ということなのかもしれないなと思いました。 (千円やるから好きなもん買ってきな)

2024-07-20

食べ物、味覚が出てくる詩が好きです。 「ポン酢とマヨネーズを用意して そう エモさとは味変のことよ」 この部分、特にいいですね。 一つ疑問は、題名の「ネオ・スパイラル」とはどんな意図があったのか。安直になってしまうかもですが、「ネオ・スパイ」までいくと、この詩に合うのは「ネオ・スパイス」というようなタイトルなのでは、と思ってしまいました。 (ネオ・スパイラル)

2024-07-20

「リボルバー」、動画を調べてみると、一発一発撃ち込んだ後に「カチリ、カチリ」とシリンダーが回っていきます。その短くて小気味よい音が、詩の中で二回出てくる3、4文字の言葉たちとマッチする。 一行にどれだけ言葉を担わせるか、という問いを持っている身として、それらを一発一発の弾のように扱うといったイメージは、この詩にしか現れない唯一無二な表現だと思いました。 加えて、書かれていることを見ていくと、 「音に先駆け、一斉に夕立が落ちてくる。」 雨の弾丸に撃たれる後半。結末にいくにつれて、その数多の銃弾により「わたし」の四肢がバラバラに弾けて、今度はこっちが「心臓」という一発しかない弾丸を空に向けて放つ。なんだか佐々木さんらしくないかもですが、好きな終わり方ですね。調子を外していくところなんかも。 では、前半の銃弾は何なのか。対比的(記憶と身体の関係)に読むとすれば、「記憶にない記憶」、括弧でくくられるところから、記憶が蜂の巣にされているのでしょうか? 今振り返ると、前半でも「あめを/あつめて/はじいた」とありますね。記憶、も精神などもまとめてここでは「こころ」が弾ける感覚を思い出している。 ちょっと他にも要素が多すぎて拾いきれないですねw 他に解釈が面白そうなのは、たとえば「透明定規の目盛りの点に座ること(濁った空と関わる)」だったり、「汗(前半から、後半の「皮膚に沈んだいくつもの汚れ」につながっていきそう)」、「膿と海」だったり。 自然との一体化が、空からの攻撃を被弾することで果たされること。地上の方が透き通っているようで、空には「やつら」といった怪しい存在が蠢いていること。安直ですがそのようなテーマ、世界観だと受け取りました。 そんな風に世界を捉える感覚が、ユニークで良いですね。佐々木さんの詩はこれまで生活感のあるものを読んできていたので、新鮮ですし、先日自身でおっしゃっていた「詩の見方」というのがどんなものか、伝わってくる気がしました。 面白かったです (リボルバー)

2024-07-12

ようやく理解できました。(これでまた解釈違いだったらすみません) 第三者とは別で、語る「私」に世界を客観視させること、悟りやら推察やら、そこでの「生き方」を示してみてほしい、ということですね? 確かに、行動をしているように思えても、それが何の根拠も示されなかったり(マッチ箱に頭を擦りつける理由など)、階段を駆け上がるのも激流に迫られてからですね。この「私」が世界を本当はどう見てるのか、示してみると深みが増すかもしれません。 これは私の作風、思想の現れの一つかもしれません。意志なんてどこにあるだろうかという問い、「悟ること」、「達観すること」への忌避。 そろそろそれらを詩の中に引き込んで対峙するのも大切、面白そうだと、今感じてきました。 (階段国の趨勢)

2024-07-10

コメントありがとうございます。 色々お言葉を貰いましたが、まず答えたいのは、「本当に「すべて」一人称で描かれているのか」という点です。 他の方も少し指摘していますが、最初の一文目は第三者目線(階段の外の、次元が一つ上の存在)からのものとも捉えられるようにしています。 そして、最後の「自壊する~」から最後までの部分は「私」から離れています。それまで一二行に必ず「私」が入っているのに、ここは全く入ってきていない。 第三者がいる、とは明かさずに、その存在を仄めかそうとはしています。 「客観視された第三者的な立場から物事が描かれないことには、読者視点でのイメージは掴めにくい」 おっしゃる通りです。だからこそ、最後に客観視めいたものが描きましたが、分かりますかね? 私は最近、図形のイメージと思想は結び付く、という小さな仮説を育てています。円は逡巡や自戒、直線は確固たる意志など。では、「段」は? 「螺旋」は? 運動がついたら? というのを考えている時期です。 ここまで書くと、結構閉鎖的でメルモさんの言うような社会的問題に結び付かないのではとも思いますが、もう一つの私の持つ仮説に、自己を突き止めようとすれば、今まで社会が自分に何を刻んできたか、鏡像のように浮かび上がってくるのではというのがあります。 なので、メルモさんがそういう解釈をしてくださり、してやった、と思いました。少し用事があり、急ぎ足で書いてしまいました。また何かあれば、後ほどお答えしたいです。ありがとうございます。 (階段国の趨勢)

2024-07-10

コメントありがとうございます。 佐々木さんが「詩的ではない人間」……(!?) まあ、自分のことを詩人と言えるか、という懐疑の精神は大切ですね。誰も使わない観点を持てるのは、詩人からしたら羨ましいと思いますよ。突き詰めたら面白そうです。 レトロな表現、不思議な雰囲気……そうですね。この詩における「時代」、「場所」、という設定は打ち壊そうと試みていますね。 そういえば、月初めから順に読んでいるので、まだ佐々木さんの「リボルバー」を読めていません。なんだか今作評判そうなので、期待してます。読みに行きますね。 (余器用な男)

2024-07-10

コメントありがとうございます。 ダークに振り切っておらず、ユーモアがあること、そう感じ取ってもらえて嬉しいです。取り扱うテーマによってユーモアが入り込めない時がありますが、この詩では意識して入れております。 ボッス、調べてみたら絵だけは見たことがありました。名前と絵がつながりました、ありがとうございますw そうですね、そういう世界観、好きですね。 ナンセンス表現は、経験値だと思っています。結構考えないと、どう外すか、のバリエーションが枯渇してくる感覚がします。あれ、この表現・展開前もやったな、と。この詩では苦戦しました。思考回路に、自分の過去作との戦いが特にありますね。まあ、詩自体もそういうテーマになっていると思います。 (階段国の趨勢)

2024-07-10

コメントありがとうございます。 う~ん、「即興」とは何か。難しいですね。「即興」の意味を色々調べて気になったのは、「何も準備せずに」とか、「型にとらわれずに」とかでしょうか。一応、「型」を準備して書いた詩ではありますね。 メルモさんが言うような「共有する空間での出来事」の他に、ある強いルールを設けて書きました。 でも、即興と言えば即興かもしれません。ジャズの演奏にたとえると、「いや、「楽器を使う。何分の演奏にする。低音高音のパートは区別する」という型だけは守ってるけど、あとは即興だなあ」というような詩に近いです。 しかししかし、「詩を貯める」ことの話でいくと、この詩はここに出るまで半年ぐらい手元にありました。「直すところあるかな?」と何度も読んでみては、「直すところ無いなあ」と、少し手直しはしたりしましたけど、ほぼ原型ですね。自分には少し色褪せた写真のように見えますが、書きたいことは書けた、という感じの詩です。 「余器用」。色々な解釈があると思われますが、私はどちらかというと「不器用」寄りのニュアンスだと思います。 (余器用な男)

2024-07-10

好きすぎて、なんでこの詩好きなんだろう?と考えてみると、私も「乗り物」と「生死」を結びつける作品を書いている身として、潜在意識的に好物だと思ったのだと。素晴らしい作品だと思います。 コメント欄にある「寝ている間に樹海を通り過ぎていく。何度も死の淵を越えながら誰もそれを知らない。」という考え、とても好きです。これのおかげでより詩の解像度が上がりました。 好きな表現は、たとえば第四連は全行刺さりますし、「車窓を滑らかに横切っていくのは/あなたの死んだ心」、「お線香みたいな匂いがする」乗客、第八連、第九連なんかはこの上ない締め方だと思います。 もっと考察をして踏み込みたいのですが、「好き」という感情が先行して詩を覆っていて、なかなかできない。言い訳すみません。 ただ、このテーマを扱うという姿勢には強く共感します。生活に溶け込むようになった技術と死生観。それに今一度向き合え、という、そこまで強い訴えじゃないかもしれませんが、私は読んでいて背筋がピンとします。 (小田急線)

2024-07-10

「ひとりの夜が普通だったころ」 第二連のこの一行目から、詩中主体は記憶を思い出す。 「こんな夜だったね」 この言葉につながり、かつていた恋人に話しかけているよう。もう、今は恋人を失っているという状況だと思う。 光が窓から記憶を運んでくる第一連。この表現がユニークで、畳の上におそらく恋人を想起するベッドのシーツ「布」、の触覚をもたらすような光が漂う。「さわれた」という言葉が重要だと思う。 そんな記憶の光を「むすんで ほどいて 千切って 噛んで」、「こんな夜だったね」と当時の夜と今日の夜を重ねる。 「雨」、というのが実際今降っているものなのか、記憶の中に降るノイズとしての雨なのかまでは書かれない。黒髪さんの疑問にもつながりますが、「愛しかないセックスは悲しい」とは、おそらく思い出される記憶がすべて「愛」につながってしまうことの嘆きではないでしょうか。恥ずかしいことを言いますが、喧嘩をしていても、冷めた緊張が張りつめていても、お互いをどこか思いやっていたと行き着いてしまう追憶。 それは「窓」という魔法の装置のせいかもしれない。光を受けて、何か不思議な力を付与して部屋に記憶の光を届けてくる「窓」。それに堪えられないから、「窓」を開け、泣く、という締め方になったのだろうと。良い終わり方です。 人気な詩で、私も良いなと思ったのに、皆どのようにこの詩を読んだのか全くと言っていいほど分からないのが、少し残念です。 (窓)

2024-07-10

コメント、ありがとうございます。 冒頭の表現と、「高級な時の流れ」についてのコメント、鋭いと思いました。最近、その皮肉表現を中心に刀を研いでます。 「階段」の定義……。場所を設けて打ち壊す、という意図から、階段の中に砂漠が入り込んだり、遥か下に海が広がっていたりします。普通の階段ではないでしょうね。でも、単なる「道」、「陸」という場所では駄目だった。 段があること。踊り場があること。見に行かなければ下も上もどんな階なのか分からないこと。そんな性質だけはそのまま抽出されていることが、書きたかったことなのだと思います。 (階段国の趨勢)

2024-07-09

ぺえ太さんはなかなか謙虚な態度を取りますが、私の得たい言語感覚を持っている、羨ましいと思います。 1.5Aさんが良い批評をしてくださっているので、他のところで言うと、「生活感、日常感」のある言葉を異世界観に溶け込ませる腕があると思います。 最初の6行は何度も味わえますね。滝、虹と来る流れからは、公園などに流れる滝のオブジェではなく、何か森の奥の神秘的なイメージがあったのに、コンクリが出てきて、博物館が出てくる。一気に「街」の景色が映し出される。目的地に跳ね走っている詩のイメージに合うような、展開の飛躍があって良いです。 酒屋の軽トラ、が出てくる感性も欲しい。それまで青春やらカラスと空の溶け合いなど思いながら、浮わつきながら駅に向かっている「おいら」の進行を、何のロマンの欠片も残さず粉砕し台無しにするモチーフとして最高だと思う。直後のハナムグリもそう。 ナンセンスと言っていいでしょうか? その中でも、特にスタイリッシュなナンセンスで、心地いい詩でした。 (天の邪鬼)

2024-07-09

コメント、ありがとうございます。 センテンスの長さ、読みやすさの意識。心に留めておきます。一方で、最近読みやすさなど考慮しない、リズムも掴めない詩の迫力に圧倒されたので、自分なりにその妙技を習得したいとも思っています。そのバランス感覚……。 (階段国の趨勢)

2024-07-08

AOIさんの詩の中で、結構好きな詩です。「目に見えるもの」を置いてみたり、でも輪郭が見えるところでライトを逸らしたり、「人工物を写真におさめること/愛や性交などの肉体的感覚のこと。それらを心に刻むこと」を意識しているところなどからでしょうか。 光が気になりましたね。「かげかたち」から始まって、眩いイメージの「白昼夢」。「ひかりとかしてゆく」、「ライトグリーンの杜」……など。どんなモノも照らして浮き出させてしまう力を持つ「光」から、抜け出そうとする意識。それが何か、叶いがたいラブロマンス(?)みたいなものとして描かれていると感じました。 フランス語も勉強していかないとなぁ。詩に使われているのを見るとカッコいい。 (Gestalt)

2024-07-08

ま、まあ、御愁傷様です…w 運営の方針云々は、私も何も不満とかはなくて、ただ留意しておくべきなのは、リバイバルの現象でしょうか。調べてみると、2021年6月に「ちんちん!」といった作品がアクセス数を稼いでいたり(毛色は違いますが)、ああ、今(2024年)はまたそういう時期なんだな、というのが感想ですね。テーマ自体じゃなく、その中の表現の凝らしが新しくて良かったということだと。 一方で先程も言いましたが、なんでしょう、季語と同じ感覚でしょうか。「~な夏」みたいな終わり方をする文章が、「夏」とつけられているだけでなんか良い感じがしてくるのと同じように、「ちんちん」とか使えば誰でもある程度面白くなるように思えます。 という、一つの主観に過ぎませんが、最近そういうことへのアンチテーゼは持っていますね。だからこそ、この詩でも四季を異様に表していたり。 選考してもよいものか選考委員を悩ませる作品づくり、というのもモットーの内にあるので、模索ですねぇ…。 (階段国の趨勢)

2024-07-06

コメントありがとうございます。 夢日記は数年前つけてましたね、明晰夢を習得するために。ただ、習得までもう少しのところで怖い体験をしたのでそれっきりやめてしまいました。確かに、この詩も夢の終わり方みたいですね。波に飲まれてハッと起き上がるような終わり方。 性転換の表現は少し迷いながら書きました。1ヶ月に一篇はこのビーレビューのために詩を書き下ろしていて、これはその詩なのですが、最近そういう「性」にひらいた詩がビーレビューに多くなっている気がしていて(ちんちん考あたりから? 気のせいかもしれませんが……)、だからおまるたろうさんのような期待を持つ人がいるだろうなと予想しつつ、あえて引っ張りませんでした。少し嫌気が差していたのかもしれません、緩急だけの一行に棄てさせてもらいました。 LGBT系の体験はいくつか持ち合わせているので、書くとしたらそれメインの詩もいつか書いてみようと思います。ありがとうございます。 (階段国の趨勢)

2024-07-06

もうこれ限りに留めておこうと思いますが、すみません、言い方が良くない部分がありました。一行一行、一つ一つの言葉を味わう姿勢のことを言いたかったです。ビーレビューには、たとえばメルモさんとかはその点で丁寧な考察をしてくださっていると、私は思います。憧れのうちの一人ですね。そういう読みができるよう精進します。 あとは、そういうことは感動した作品についてだけやれば良いというのも分かります。時間がかかることだとは私も思うので。ただ、takoyoさんの(このコメント欄に限る)文量を見るに、時間がある方だと思ってそう発言していました。ただ、takoyoさんが話の通じない虚しさを感じるのなら、確かにどうしようもできないです。 あとは、「詩を太く見る」という話について。私にも俯瞰的な印象はあります。ただ、ここがtakoyoさんと真逆で、私は自分の直感を疑うところから始めるタイプです。結局直感が正しかったこともありますし、後々違ったと感じることも多々あります。 まあ、ここは価値観の違いですね。 最後に、「建設的」というのは、たとえばビーレビュー交流スペース(6月度)でもそうでしたが、同じような言い合いを続けているようにしか見えなく、takoyoさんと黒髪さんの関係がずっと一辺倒なのが気にかかるという意味でした。どちらも譲らない、上のコメントのような人間性の指摘までバチバチやって、これのおかげで優れた詩作につながるのなら良いのですが、どうなのでしょう? と思っていた次第です。 すみません、たまには首を突っ込んでみたくなっただけでした。今後も様子を伺っております。 (厭離穢土欣求浄土)

2024-07-03

綺麗事やロマンって、表現するのに物凄く難しい領域だと思います。takoyoさんの指摘にある「凄く薄い」という言い分も分かるのですが、当然薄くなってしまうもの、相当な技量がないと冷められてしまう綱渡りのジャンルだと私は思います。 アンダーグラウンドの詩が書けるのは、地上でロマンを求める人が走っているからこそです。ただ、takoyoさんなどの意見を別角度から見るならば、「書くのなら現代に合った、進化した綺麗事で張り合ってこい」という態度にも見えます。詩の世界の陰陽のバランスに対しての不満というべきでしょうか。うーん、まあ、そのすべてを俯瞰できる人は居ないと思うのですがね。 そういう「綺麗事」への批判について、私はやはり詩の一行一行をしつこく掴んで問い詰めるのが建設的だと、ずっと思っているのですがどうなのでしょう。 批判にはつながらないですが、この詩でのたとえ話って、なんでこのモチーフなんだろう? と立ち止まらせる部分はありますよね。 母クジラと子クジラの話とか。エベレストとか。まあ、たとえ話にちょこっと出ては消えていく、思想のためにモチーフ・言葉が勿体なく消費されている感じはあったりしますが……。 あとは、 「欲まみれの穢土が浄化された 本当に本当に良かった なんていう苦しみのバッドエンドを 酷い苦しみを 私は自らに与え続けてきたことか 報われた涙の泉の中で のんびり沐浴をしよう」 この部分、「なんていう」が直前の行に掛かっていると誤読して、「あれ!? 転調した!」とビックリしたのですが、「なんという」とか、「今まで」とか付けると正確でしょうかね。 直前の「浄化された」、「本当に本当に」がフリになって、それを「バッドエンド」だと裏切るこのキレが偶然にも発生していて、黒髪さんがこれを武器にし出したらと思うとゾッとしますね。 ただ、おそらく黒髪さんはそういうのが現在の詩作の目的ではないのでしょう。 作者への直接的な批判は、これまでの作品・背景を知らない新規ユーザーを怖がらせてしまうとも思うので、もしやるのならこれまでの偏見を殺して一つ一つの詩を細かく見て欲しいです。「わざわざ言葉を引用していかなくても分かるだろ」というのは傲りかもしれません。批評力というのをこのサイトから、賢人たちから吸収したいので、やるなら徹底的にお願いしたいものです。 (厭離穢土欣求浄土)

2024-07-02

6月の終わりごろに投稿されていた「模倣」という詩のコメント欄でも書きましたが、私は模倣が基本ですね。 模倣にも色々あって、たとえば自分の好きな詩(またはエッセイでも、小説でも歌の歌詞でも)に使われている言葉に似せて書いて(盗作とはいかない程度に)、どんなイメージの流れを持って書かれたのかを肌に感じてみる、創作と分析の両方ができてオススメです。 慣れてきたら、同じ雰囲気のする詩から交互に行を借りてブレンドしてみたり、逆に思想が対立してた詩人の詩をブレンドしたり、第三者として、3の倍数の行に自分が何も見ずに書いた言葉を置いてみたり。 めちゃくちゃになる時はありますが、それは推敲の時に整える。軸なり展開なりを。自分だけじゃ絶対辿り着けない表現に出会えます。 でも大抵、そういう詩はあまり評価されず、模倣に慣れた後に独りで書いた詩がやっぱり良いものになる傾向にあります。補助輪を取った感覚で、何を見ずともツボが分かってくる。そういう感じです。 (ユーザー交流スペース2024/7月度 )

2024-07-01

takoyoさんが挙げてくださったキム・シ・ジュンという詩人、初耳でしたが物凄く共感します。自分の伝えたいことって、「伝えたい」からこそ脳内で伝えやすい短さに無意識に整えられていて、何文字か書くとすぐ萎んでしまいます。だから、その模倣の手法はよく使ってるんですが、老詩人の方でもやっていたとは、詳しく調べてみたいです。 あとはA・O・Iさんの指摘する「なぜ模倣するのか」ですが、その人の「眼」を自分も着けてみたいっていう願望ですよね。私は、声の上げられない人(死者はもちろん生者のも)の声を掬う人に憧れます。 あとは「模倣の外」についてですが、模倣は自転車の補助輪みたいなもので、感性の補助線であると思います。だから、模倣したその勢いままにたまに何も見ずに書くと、その「模倣の外」、「内なる声」を的確に掴むことが出来ていく、そういうものだと思います。 (模倣)

2024-06-30

良い詩です。良い詩だからこそ、まずは「ここどうなんだろう?」という気になった点を挙げたいです。 私も最近帰郷の詩を書いたことがあるのですが、「ある場所に行く意味」というのが重要になってくると思います。第八連、実家に着いて妄想し始めますが、実家である必要はあったのでしょうか? 「実家に着いた」からには何か読み手の期待が挟まってしまいます。アルバムを開いて、名前を忘れた同級生とあの娘の顔が似ている、だったり、父や母との会話だったり。この連の妄想は小さな誰もいない公園とか、山の麓とかでも展開されうるものではないでしょうか。バスを降りてからの動きにもう一声が欲しかったです。 ただ、詩の核は面白い。 「幼なじみではなく、といってよそ者でもない。繋がれつつ断たれているような塩梅のさなか」 帰郷は記憶の再描写と、かつ故郷の変化も見ることになる。しかし、そのどちらでもないような、中間者の存在に気を取られていく。あまり言語化できなくてくやしいですが、私はゾクゾクしました。 あとは、町や村全体が、たとえば「鼻筋」のような道、「見守」る、「抱かれた」といった人間味あるように描かれている、この擬人法が好きで、その人間のような町や村/少女の対比がもう少し欲しかった(切ない焔、その燃えの他にさらに)。 切ない視線って何でしょう。なんで「切」なんでしょう。「切(っても切れ)ない」ってことなんでしょうかね、哀れみを誘いすぎて。とにかく、私はこの詩の雰囲気、お気に入りです。 (下流の町から)

2024-06-30

新人さんですね、はじめまして。 私もまだまだ初学者ですが、何かシンさんの成長につながればと、少し考えたことを述べたいと思います。 「だから恋の根を掘り返す 咲く前に摘もうとするのか」 この詩で一番詩的だと感じたところで、かつあなたの隠れた言葉の力がちょこんと顔を出している表現です。一体どういうことか。ダラダラと書いていきます。 まず、聞いたことのない比喩だけど、ほどよい驚きをもたらして惹き付ける表現というのがあります。これは記憶に残ります。一方で、たとえば、シンさんは「心が開く」と書いていますが、これは結構使い古された表現です。聞いたことありますよね。他だと、「心を埋める」とかでしょうか。心にぽっかり穴が空く、なんてみんな言いますよね。 詩というのは、また他の創作でもそうですが、他人の言葉、思想をそのまま借りるだけの作品は埋もれていきます。あとは、「あなたのその感情、分かるようんうん」って一言で軽く達観視されるとどう思いますか? あまりいい気はしないと思います、強い想いで書いているほど。 あなただけの世界観を示して、掘り下げていってください。 そこで上の「恋」の表現について。私はあまり聞いたことのない比喩だと思いました。影響元はあったりしますか? 特に無ければあなたの潜在的な表現力の一つです。 「恋」は皆さん、穏やかだったり時には熱くなったりするイメージがありますが、こんなにも土まみれに掘り出されてくる「恋」を私は想像したことがありません。「恋」がミミズやらダンゴムシやらと一緒に眠っているわけです。「恋」が雨を吸って伸びたりしているのです。スコップで「恋の根」を掘り出したのかな。軍手越しに触る「恋の根」って、どんななんだろう、とか。 とても詩的なイメージの枝葉が広がってワクワクしてしまいます。 しかし、直後の行でみんながよく使う言葉に逃げて行ってしまった。「正しさ」とか。「辛さ」とか。勿体ない、しゅん…と、私は感じてしまいました。 長くなってしまいましたが、詩作時は、普段自分の周りにいる言葉たちが「僕のこと使って!」と蜜蜂のように飛んできます。そいつらを、君たちじゃ僕の心の微細を表せないだろ!他人も感動させられやしない!と追い払って、幻の言葉を探しに行くのが詩だと思います。あくまで、個人の一見解ですが。 難しいことですが、続けると何か起きます。 ぜひ、次回の作品も、期待しております。 (19歳の恋)

2024-06-28

詩が置いてけぼりにされている光景はやはり悲しくなるんですが、私だけでしょうか。(まあ私も今月はA・O・Iさんのとこで吹っ掛けまがいなものをしましたが……) 割り切れるとは、分かるということ。分かってしまえば、それは無限ではない。善と悪、どちらか自分に分かるものしか手に入れられない。色々展開されていますが、やはり最後は止揚されている感じがします。 いつかは死ぬということ。自分は無限を手に入れられない。そんな中、いつ終わってしまうか分からない平穏(=眠るきみ)を見る。でも、布団をかけると平穏は紡がれていく。その布団をかける情熱。それが無限につながる。無限とは信仰ですね。 ただ、少し思ったのは、ゼッケンさんは善悪や生死といった言葉をこう使う人だったっけ、ということでしょうか。まだ詳しく過去作を読み返せてはいないですが、「例えば、善と悪」という展開に再考の余地があると思ったりします。 ここも凝ってしまうと分かりにくい詩になる恐れもありますが、「二項対立」というのは考えを巡らせやすいモチーフだと思うので、読み手に追いつかれてしまっている感じがします。詩に引き込ませる力が緩んでいる感覚です。 もっと遊んでみたりもできるかもしれません。終わり方がシャープなので、それのメリハリもつけるために。 (3分の1がない世界で)

2024-06-28

逃避ってなんでしょう。私は、「逃避」が詩作の軸の一つにあるのでより考えていきたい。 現代は手軽に逃避ができる。しかし、逃避と現実を簡単に行き来できるようにもなってしまっている。昔は夏の暑さから逃げ出すためには極寒の地を求めたのかな? 遠くまで逃げれば、環境、社会からもある程度逃げられる。 現代では、夏の暑苦しさから逃げるにはただ部屋に入ればいい。しかしそこは社会とは壁一枚の場所で、逃避できたとは言えない。だから、妄想の世界に入る。「現実からの逃避」という言葉を三回唱えて、さらなる心の壁を作っていく。 そして、この詩が辿り着いたのは「細胞」ですね。面白いと思います。私は「逃避」という行為を自分の中で神格化させようとしてきましたが、やはり現代、完全な逃避ができるかと問われると苦しいです。しかしその「逃避」の神話は、身体機能という一番身近なものにも見られるのだ。 「最期には細胞ひとつひとつに私は想いを巡らせる」 「朝いちばんのコップ一杯の冷たい水が唇に触れて舌を這いずって喉を流れて身体に染みわたる浄化」 普段は意識しない「細胞」という未知なものを意識する。ここは妄想による逃避。そして「水」という具体物が「細胞」に染み渡っていく。おそらく「細胞」の果ての果てまで。この「水」が、一番身近で逃避の実現を見せてくれている。 「水」と「細胞」というシンプルな二要素だけで、「逃避」の神話は再確認できる。原初を見せられました(拗らせているかもしれませんが)。良いものを見れました。 (夏至)

2024-06-27

「跡地」という言葉、改めて考えると面白いですね。何か、それが残っていた跡が少しでも見える、という意味とこの詩の第三連にあるように記憶の跡が残っているという意味もある。 雑草がどんどん生えていって、視覚ではもう何の跡も見えなくなっても、自分だけの記憶に跡が残り続ける。景色と記憶が離れれば離れるほど、「感心」するこの現象、なんなのでしょうね。 良い詩です。ただ、完備さんの「軽い」という指摘もよく分かる。もっとその「跡地」に踏み込んでいく(二つの意味で)と、詩が発展していきそうだと思いました。 (跡地)

2024-06-27

「決まった相手が見付かるまで、お互いに約束を裏切らない契約を結んだ関係の子。 そういう人を指す言葉を知りません。 恋人ですけど、いつかは違う人と結婚するという前提の付き合いです。 「同性愛」は誠実な結婚に至ることもありますから、違いますね。」 ここの言葉の重み、凄まじいですね。久し振りにプライベートな私が揺さぶられています。想像以上です。その鋭い眼を一つの武器として持って、このままも突き抜けていって欲しいです。現代人に必要な作品だと思います。応援しております。 (月の頃)

2024-06-25

少し考えを拗らせますが、 「中身」って何でしょう、という問い。私たちから見たら、あんパンもシュークリームも、マシュマロも中に甘い何か入ってますよね(あれは何て言うんでしょう)。 それを、何も争っていないあんパンが自覚しているつもりなのが、面白い詩だなと思ったんです。食べ物にとっての自分の「中身」って、人に食べられるまでぎっしり詰まってるかどうかなんて分からない。人間も同じで、お互いの「中身」を見ようとする目によって「中身」が暴かれる。私には、「中身のある人間たちにこそ争いがある」と思っちゃうんですよね。 マシュマロとシュークリームは「ベタベタ」になっています。お互いの「中身」が少し飛び出て、「中身」を知り合うんですね。人間に食べられるよりも前に、自分たちで「中身」を知ろうとする。天国の審判が下る前に人生の答えを見つけようとする人間みたいに。 そのぶつかり合いをせずに、自分には「中身」がきっしりある、なんて思うあんパンは傲慢だなぁ、と思いました。と、そういう哲学がスイーツというモチーフで上手く隠されている。こういう詩ほど注意深く読むべきですね。簡潔で良い詩でした。 (君って)

2024-06-25

あまり確信は持てないですが、 詩の中の 「君は僕に特に何も求めない。生理の日にナプキンを忘れた時だけだ。」 と、コメントの 「当時は結構見掛けました、友達同士で一緒に行動する女の子。」 というところから、皆さん言及されてないんで自明のことなのかな? とか思ったんですが、女性どうしの同性愛についてでしょうか? あまり、そこ以外に匂わせる表現がなかったので、普遍的な愛についての詩だと読めるようにしているのかもしれません。 「そして君が一緒にいれば僕にとってそこは生まれ故郷みたいに自由になれる場所になった。」 この部分ですが、映画の「ブロークバックマウンテン」を思い出しました。愛のかたちというのは、ただ単に子どもを作るだけじゃなくて、相手と「故郷に似た場所」を作ることもあります。まだまだ愛については勉強中ですが、羊飼いさんはより深く向き合っているように思えます。 構成が気になりました。括弧内の最後の方、しなければならなかった、本当のことだ、必死、というような終わり方と、一連目(括弧の)と最後の連の終わり方は「思う」という曖昧な表現になる。この違いはなんだろう、と思いました。 共通点は「笑い」でしょうか。「僕」の踊りに、「君」が笑ってさえいればいいことと、「僕」も「彼ら」みたいに笑えていたということ。手がかりに、「絶望はある地点を通過すると笑いに変わる。」という表現が中盤にある。「僕」は、「笑い」というのが純粋な感情じゃないと悟っている存在で、だからこそ「笑い」を信頼できない。 「君」が本当に心から笑えているのか。「僕」も「彼ら」みたいに笑えているのか。後者には同性愛の苦悩(?と言っていいものか)、屈折も見られるようで、「僕」と「彼ら」の間での「分かり合えない、わだかまり」があるように思えます。 会っているけれど、本当の「君に 会いたい」という想いで締められる、そんな詩だと受け取りました。 (月の頃)

2024-06-25

前々から、私は砂柳さんはもっと注目されていい詩人の一人だと思っています。砂柳さんの特徴は、その名前にも含まれている「砂」のイメージ。潤い、渇き、その表現の多彩さがどの詩にも表れています。 この詩では、やさしい豊潤な世界なはずなのに皮膚が「ふやけていく」(潤い過ぎるから?)。酸素も沢山あるのに。床が潤い過ぎて滑って逆効果。善まがいなものへの不満、反抗があります。 後半は飛躍が面白い。自分の中の液体が出てきて、それはアルコール。揮発性のあるものではなくて「カクテル」で、普通は20度あたりから火がつくはずがつかないことになっている。このあたりの卑下からユーモアが駆け出し始めて、最終連までずっとぶっ飛ぶ。 アルコールとして、燃えてもその灯りで何が照らせるか分からない。直前までの勢いのあるユーモアの火がシュンと消えて終わってしまう。A・O・Iさんも言うような、「ほろ酔い」している詩のようで、最後に酔いが覚めている。 シラフ→酔い→シラフの構成で、読後感は切ない。でも、「ああ、君も大変だね頑張って」というような無意味な憐れみが湧くのではなく、「酔い」の部分のユーモアが、光って魅力的に映る。そのおかげで、放っておけない詩に昇華している。 (雑談その1 肝臓の脂)

2024-06-24

あ、なるほどw 「んで単純に葉月二兎さんの作風影響だとおもった。そこでふとああそういやと呟いてたなと作者と結びつく。」 ここが繋がっちゃってましたw てっきり葉月さんのことについて呟いたと思われた、かと思ってしまいましたw そうですね、私はその視覚詩をいざ書こうとなった時に、どうしても直感とか、偶然性というのには頼りたくなかったんです。だから一応この詩では、1マス目には「時間」、4マス目には「暗闇」、10マス目には「カタカナ」、16マス目には「君」にまつわる字が来るように配置して、……というように、偶然性を排除しながらも、あたかも無作為に並べられたように見せたかったという試みがあります。(1コメ目でそういうのを匂わせたのですが、この遊びには誰も言及しませんでしたね) それが何につながるのか、何が見えてくるのか、といったところまではまだ咀嚼できてないです。 そうですね…褒められても、何が褒められてるのか、どこが批判されてるのか、具体的に分かれば参考になるんですけどね。それ以外は「ふうん」という感想しか出ませんよね……。 とにかく、この詩は自分の中で好きな詩で、かつ、当分再現不可能な雰囲気がしていたからこそ、一度手離したかった。そういう作品ですね。 (ディナー)

2024-06-23

A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 やっと最近、A・O・Iさんの詩に向き合う覚悟ができてきた私に、葉月さんの詩はますますハイカロリーで手がつけられていないです。フランス語を良い具合に習得した後とかに、挑戦したいですね。いや、もしかしたら私はどこかで葉月さんの詩について無意識に呟いたのか…? 交流スペースで話したくらいだと思っていたが… と、今葉月さんの詩を見てみると、確かに空白を使うスタイル。何か学べそう。 「ここまでされたら意味取る人もいないし、ざっと繋いで読める短文からイメージを貰う人もいないわけだよね。んだから半端といった姿にしかみえない。…いろいろ試していって自分のあった作風が一番大事にすべきだと思いますけどね、作者もわかっているとは思いますが。」 なるほど。勉強になります。最近、視覚詩(?)といったものに興味があって、改行、余白、記号、直線・曲線……言葉の意味だけでなくそれらの効果も、自分なりの答えを見つけていきたいと思っています。そうですね、遊びたくなります。 とりあえずこの詩は初期作ということで、色んな公募、投稿欄で落ちてきた子で、でも好きな詩だったのでこの場で生まれ変わらせました。 誰なのか論争、十分見れましたので……熊倉ミハイでしたm(__)m (ディナー)

2024-06-23

A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 「珍しいねミハイさんがこういう曖昧なものって、まあ実験というか詩誌投稿対策なのだろうけど。」 ほんと仰る通りで、私はこの詩ができ上がった時、もやっとしたものがあったというか。好きなように書けたと思ったのですが、新鮮な感覚というか。 まあ私の恩師の一人の「自分の好きな言葉、表現、世界観から抜け出せ」という言葉を意識していた結果なのかもしれません。自分で過去作と比べてみても異質です。 詩誌投稿対策、確かにありますね。一年間同じ選考委員の方に、どう自分の詩をアピールするか。バリエーションを見せるのか、深みを見せるのか、試行錯誤中です。 (オレンジティーチャー)

2024-06-23

佐々木さん、返信ありがとうございます。 未来が楽しみです。これから色々な問題を見て、どっと知識が入り込んでくる時、佐々木さんのその感覚がどう研ぎ澄まされていくのか。私も置いてかれないようについてゆきます。 私も、文学にのめり込んだのがここ数年で、幼少期は疎遠、数をそれほど読んできておりません。同じような悩み(?)を抱えております。ただ、詩(もしくは文学全般)に疎い人でも、鋭利なものを持ち込める世界だと思います。 それからは、地道に経験を積むだけですね。 (リマインド)

2024-06-22

コメントありがとうございます。 「この詩もある意味暴力的に描かれている。それを癒すのは円運動に置かれたオレンジ。そう、つまりある日あの時のティーチャー(先生)の面影なのです。」 素晴らしい解釈を、ありがとうございます。確かに、よくよく見ると前半の描写たちは暴力的です。狂気が支配しつつある日常を、「心地いいラビリンス」と感じるほど、麻痺していたりします。ずれていく日常に、やはり本人は気づけないものです。 「時計仕掛けのオレンジ」、自分もものすごく好きな映画です。ただ、終盤の主人公の救われなさが心に来る……、もう一度見返してみようと思います。 ありがとうございます。 (オレンジティーチャー)

2024-06-22

メルモさん、コメントありがとうございますw 書き直しについて すみません、上で言っていた綺麗さっていうのは、文字をみんな上の1マス目から書いて、きちっと連ごとに整列させて…という型と合わないなと思った、ということでした。書かれてある言葉たちが、霧散したい、私たちは綺麗ではない、と訴えてきたので、要望通りにした、という実験です。そのため、言葉を書き直すことはしなかった(できなかった)次第です。どっちを取るか迫られて、内容を取りました。 時間空間の哲学部分は、私は意外にも石橋を叩いて渡るタイプなので、そのような発展を吟味していきたいですね。メルモさんの考えが聞けてよかったです。 (ディナー)

2024-06-22

エイクピアさん、コメントありがとうございます。 最近は歴史を学べていないのですが、たとえばジプシーのような放牧民(現代は定住しつつあるようですが)の文化に非常に興味を持っています。「居所不定の生き方」をしている人たちと捉えると、確かにこの詩の始まりは、急に夜の街中を彷徨っている二人、というところからで唐突で、隠された背景が想像させられます。 そのような生活に、疑念が生まれてくる。定住する人にも家の縛り(家父長制など)が呪いだったりするように、放牧民にもその果てしない「移動」を呪う時があるのではないか。その絶望と、最後の「トースト」の希望。そこを振り子のように懸命に生きていると、思われるのです。 (ディナー)

2024-06-22

エイクピアさん、コメントありがとうございます。自分の中では、奇をてらいすぎかなと、書いていた時はグラついていたのですが、これほど大胆でないと、目の肥えた方は魅了されないということですかね。バランス感覚。 「明日」とは詩のこと、という解釈は強く胸に刻みたいです。街の息吹きを聞く主体が、日常の些細な命に気づいて、おそらく大量にオレンジを実らせた大樹に導かれる。詩的世界に誘われていく。確かにそのようにも感じられます。勇気をもらえますね。 (オレンジティーチャー)

2024-06-22

コメントありがとうございます。 まあ、単純に小さな家のバルコニーから見上げていた月が、熟してオレンジになって落ちてきたんですよ。私たちが普段の生活で見ているのはまだ熟す前の月です。 規則的に、天体運動を重ねる遠い存在だった月が、自分の方をちらと気にかけてくれる。先生に久し振りに構ってもらえる、その喜び。 まあ、他の「絵筆」とかの描写の方がナンジャコリャでそれどころではない詩ですかね。 「とにかく尖ってる奴が不当に目立つ」 これに関しては、経過観察で対抗するのがいいのではないでしょうか。たとえば一昨品だけポンと目立つ詩を投稿して、以後アカウントを放置される人も多いわけで。その人は次の「目立ち」の段階には上がれませんよね。 だからといって継続できたとしても、同じ作風を究めようとして、変化が見られない人も皆が慣れてしまって……と、まあいつも変わらない味というのを提供できる人も強いですが。 この原理がうまく働いていない時があるってことですかね、「不当」っていうのは(解釈違ってたらすみません)。みんな、本当は見慣れているものなのに「尖ってる!」って言ったり(それしか言えなかったり)、「尖ってればいいんだろ?」スタンスの真似事詩人が増えたり? ビーレビだけに限らずだとも思います。私も気を引き締めます。 (オレンジティーチャー)

2024-06-22

メルモさんでは、ないですねえ。 最近詩の中の「場所」というものが自分の中での課題で、この詩は後半に行くにつれてそこにある空間をねじ曲げていますね、分かりやすく。 もっと高度に詩的空間とは何か、を追い求めたいものです。ノマドとか壁とか、空間どうしの溶け合いぶつかり合い、が気になる詩人です。 (ディナー)

2024-06-21

おまるたろうさん、コメントありがとうございます。 この詩は私の初期作品にあたります。好きな言葉・事柄だけを盛り込む意識で書いてました。本心は平穏を求めているのかもしれません。 久し振りに引っ張り出して読んでみた時、配列された綺麗さが嫌で、この散らばせる形を取りました。 「もっと狂騒的に「遊んで」くれた方が」 おまるたろうさんの好み、よく分かりますよ。この作品でも、遊んでいるけど笑ってない狂気性を感じさせることができるんだなぁ、と、不思議です。 おまるたろうさんなら勘で誰だか分かったりしませんかね? 当ててもらいたいものです。自分のまだ気づいていない「らしさ」がそこにある。どうでしょう、無理かな…… (ディナー)

2024-06-21

佐々木春さん、コメントありがとうございます。 全体にかかるこの微妙なひねりが、佐々木さんは好きなのですね。佐々木さんの人柄・作風も含めて、なんだか分かる気がします。よかったです。 「トースト」の行は、私も好きなところです。 (ディナー)

2024-06-21

むむむ…「同時にこのまま溺れてもいいかと考えているとのことで、そこも近からず遠からずです。」 このような返しはあまり予想していませんでした。 まあ、ここまで様子を改めて見てみると、ほんとに似ている止まりというか過ったことがあるというか、万太郎さんのあらゆるその執着(?)までは持ち合わせないですね。なかなかのとんがり。 感覚としては、(失礼かもですが)万太郎さんはテストで100点を取ってクラスの人気者という路線なのかなと。その先の深み、理解されない研究だったり、ノーベル賞を!とまではいかないということなのですかね。 ↑テイムラーさんの、「置かれた場所で咲きなさいという言葉」に頷きました。 大衆/プロ云々話は、なんだか辟易しちゃいますね。私は欲を言えば啓蒙に回りたいものです。だからこそ、このサイトで詩をどれほど言語化できるかをまず独学してるわけですが…難しいですね。 (ユーザー交流スペース2024/6月度)

2024-06-20

申し訳ありません、二行目、 「振り子の君を止めて」の一行は、もう一字下に下げるのが正です。ここにて訂正します。 (ディナー)

2024-06-20

私も雪国育ちです。最初の三連の現場感は、とても分かります。安直かもしれませんが、時間が経つとその細微の感覚が失われて、雪を「しんしん」やら「真っ白」と後から思ってしまうのでしょう。でもこの詩では最後、もう振り返らないとして雪国の「ぱさぱさ」、「薄灰」をそのままにしようとしているみたいです。 (鳴らない鈴)

2024-06-20

詩への姿勢、とても共感します。加えて私は、最近「自分が好きとは思えない詩」も作りたいという気持ちもあります。絶え間ない自己批判の精神、自身の解剖です。 「言葉は意味と音に束縛されていますが、僕は言葉を意味と音から解放させてあげたい」 ここが難しいですね。私は、元々持っていた意味と音から言葉を引き剥がすために、別の意味と音に引っ付き合わせるという方法が初めに浮かびました。それ以外にも術は沢山あると思います。 混乱は好きですよ。でも、対立概念の「秩序」も取り込んだ混乱でないと、やはり人を深く突き刺せないですよね。そこが難しい。お互い頑張りましょう。 (レモン)

2024-06-20

先程から厚かましが過ぎるかもしれませんが、万太郎さん、経歴が似ていたため貴方にもコメントせざるを得ない。 私も作詞→詩という経緯でここに辿り着きました。芸能界に入りたいという意志も分かります。「詩は自分が有名になるためのステップみたいに考えて」いるところも似ています。似ている、というのは、そう思う反面「このまま詩に溺れてもいい」という覚悟もあります。「ステップ」になるかどうかは、あまり考えず天に任せています。 ポップ・大衆性について 入り口はポップで誰でも入れて、深く入ろうと思えば無限の哲学、という作品が優れていると思います。二要素を盛り込めば良いのでは、という訳にはいかないですかね? 私は、マルチに創作を跨ぐのは「分霊箱」的な行いだと思っていて、作詞で叙情性や分かりやすいメッセージを吐き出しているからこそ、詩作では邪道を進めている(気がしている)と感じています。だから、自分の中の全てを試せている気がしてストレスがないです。 少し脱線しましたが、「若い人の中ではどうしても孤独ですね」とある、万太郎さんがどれほどお若いか分かりませんが、私もまだまだ若いので、何か結託してプロジェクトでも立ち上げたいですね。万太郎さんの方が先輩なので、どうでしょう、「仲間になりたそうに見つめている」。なんて (ユーザー交流スペース2024/6月度)

2024-06-20

おまるたろうさんが言うような、A・O・Iさん耐性がまだついていないからこそ、向き合います。 いつかやったように、また好きな表現をピックアップしたら何か見えてくるのかな、とか思いながら読んでいたのですが、アンテナが急に反応した箇所がありました。 「観察する刺激によって伏し、残り火は消えるものと合掌する」 ここですね。なんか、「残り火」って言葉がここに置かれてることに驚きました。無意識なので、どういう訳かは分かりませんが、でも、ダウジングマシンのように「ココ」と何かが反応する気がしました。A・O・Iさんらしくないということなのか、A・O・Iさんらしさが出ているところなのか。そもそもこの勘が冴えてないかもしれませんが。 前後に睫毛、まばたきがあって、その瞬きがこの火を呼んだように思ったりします。苹果も火みたいですし。 冒頭に返ってみると、目頭が熱くなっている。「火照るような彼方なりのヤイバ」も、燃える眼差しですね。「ねむっているあいだにみた景色」というのは火が灯っていない時ということでしょうか。 その直後二連から何か景色の激流があって、 「おもに普通と異なった様子 そればかりは熱もなく、終る 過ぎ去った時 かたくなる」 と来る。熱と光景、やはり密接。燃やされない過去が固まっている。 翠雨というのも、少し調べただけですが、熱を持つ若葉を冷ますような雨らしいですね。 少し飛んで 「目ではみえない濃淡のそれを追って、どれもまたとない鈍色」 タイトルの滅紫色でしょうか。 「じんわりと浸透する、ひとで或る空を仰ぐ。 寄せ集めの暁が息苦しさの干潟へ。 ゆっくりでいいから手を引いて、 さびしさが栄えてから周囲のものと紛れていく」 その空との融合が果たされている? と見ると、最終連までずっと上から見下ろす雲の視点で描かれている気がします。 あえて細部を読み落とすとすれば、過去も未来も見透かせる若い炎の眼を持って、空の揺籃に到達した何者かの詩、というまとまりに落ち着きました。 そうやって読めば、カッコいいですね。おそらくこれ以上にカッコよく読めそうにないので、しばらく異論も認められそうにありません。 あと地味に「あかのたにんの谺こだまである 名前は、ふっつり握手する。」という言い回しが全体の中で特に好きです。 (滅紫雲の揺籃)

2024-06-20

葉月さん、初めまして。 挙げてくださったもの、どちらも面白そうで嬉しいです。ありがとうございます! フランスの詩法の方は、他言語との比較もあるんですね、贅沢で、興奮します。 読んでみます。 (ユーザー交流スペース2024/6月度)

2024-06-20

Molloyさん、私はAudibleを使ったことはないので素人意見ですが、実際に使うところを想像してみると少し怖いです。 私はまず空耳が酷いので、ハキハキとした発音でも多分聞き間違いが多発するだろうなと。 仮にその心配が拭えても、私は本で読む時でさえ処理が追い付かなくて天井を見上げたり本を閉じたりしちゃうので、おそらく頻繁に一時停止してしまいそう。うるさい!となってしまいそう。(好きな声優さんができたら別かもしれません) かといって、普段は音楽をかけながら読書してるのですが…。外界の自然なノイズじゃなくて、自分の好きな予想通りの音が来るノイズを置いておきたい。 あとは、集中力が無くなると朗読を「音」としてしか認識しなさそうで、「なんで伴奏とかリズムをつけないんだろう」と思ってしまうかもしれません。(Audibleって、BGMをつける、といったオプションありそうですね、どうなんでしょう) でも、ストーリーが追えて、ちゃんと感想が言える人なら「読んだ」としても全然良いと思います。逆に、私と同じような人でも内容が入ってくるのなら、使ってみたいです。食わず嫌いはしたくない。 (ユーザー交流スペース2024/6月度)

2024-06-20

以前、佐々木さんの作品での「面」について言及しました。今回も同じように、佐々木さんの武器は他に何があるだろうと考えると、奇しくもタイトルと同じ「リマインド」の力があると思いました。 これはまだ私が未熟だからかもしれませんが、詩を書く時、面白い比喩、上手い言い回しをどうにか考えようとしがちです。凝らなくていいところを凝ってしまう。でも逆に、凝らなすぎても平凡な表現で、ありきたりになってしまうものです。その調節の感覚を佐々木さんは掴んでいると思います。その方法が「リマインド」かと。 「文字」をどう表現しようかと考えるとき、それが「糸屑」だという見方を、私は不思議とこの詩を読む時に忘れていました。胸からのびる管は、確かに「しなやか」さを持っているし、掌が「さらさら」なのも忘れていた。「光が走る速さ」なんて、そりゃ速いだろう、と真剣に向き合ってこなかった。 これは突出してる特徴ではないかもしれませんが、佐々木さんの詩は、私たちが躍起になって忘れかけていた(思いつかない、ではなく一度は通った)言葉たちの持つ性質を掬い上げている(リマインドの)瞬間があるなと思いました。これは他の方の作品にも見られるのでしょうが、佐々木さんは掬い方がやさしい。 物事を、闇雲に新たな視点から見ようとしなくても、こんなに良い詩ができるんだなと、安心しました。 あと、以前のような「面」は夜空の薄さとかに表れていてこの作品全体を包んでますね。これもいい。いつか、佐々木さんの技法をこのままコレクションしていって、それらを総動員させて作品の緻密な考察を行いたいものです。(今の私にはまだ早い) (リマインド)

2024-06-19

映画初心者ですが、こんなにも人との好みが異なるんだなぁと、不思議に思ったので……少し 私はatsuchanさんと真逆で、「マッドマックス:フュリオサ」は眉をしかめながら、「パラサイト:半地下の家族」は食い入るように観てしまいました。予備知識が無かったのと、観点おそらく違うためでしょうか……。私は脚本とかテーマ・メッセージを見てしまいます。 最近観た中だと、 「12人の怒れる男」(最後の引きのシーンが良かった)、 「最強のふたり」(ドリスの芸術観は大事)、 「いまを生きる」(今更ながら観ました、意外にも、予想を裏切る展開で好きです) の三本が良かったです オススメの映画、ぜひもっと教えていただきたいですね (ユーザー交流スペース2024/6月度)

2024-06-19

私はあまりロマンチストじゃないので、好奇心や興味、恋心を「責任」という言葉と結びつけたくなってしまいます。 それを私がしなければならない、私がこの人を愛さなければならない、という本能が届いてくる感覚。それが薄れゆくというのは、他の人が適任だ、とか、自分の弱さが原因だと思ってしまう。 「別の想い人を探すだろう この気持ちはいつまでか? 恐らく長くはもたないだろう」 ここの言葉は辛いですね。いつか、何の想いも届かなくなる、あまり考えたくないものです。 (紫陽花)

2024-06-19

「3」も、同じく類さんが書いたということで、「3」よりもこの「レモン」の詩が私は好きですね。好みの話ですが、「イメージの速度感」と言えばいいでしょうか。 「3」は少し、どろっとしてるんですよね。「ひり出していく」とか、「血管が浮かび上がる」とか、「クラゲの群れ」とか、生々しくゆっくりと映像が入ってきて、あまり反芻したくなくなる感じがします。速度の強者である「拳銃」が、撫でられてるだけなところもそうですね。まあ、気分によってはそういう詩を求める時もありますが。 この「レモン」だと、エッジが効いていて本当に「光」という感じですね。ぺえ太さんが言うような可笑しさが所々に仕掛けられていて、生々しさを上塗りしている。ああ、可笑しさって速さなんだなと、気づきを得られました。 良い詩だと思います。 (レモン)

2024-06-19

最近、「銅像は高所に置けばそりゃ何でも凄く見える。だから、その台座というのはナンセンスだ」という考えを聞いて、そうだなと思うのと同時に、たとえば詩の中に出てくる「季節」も台座みたいだなと思っていました。 ~な春、~に雪が降る、のような表現を使えば、なんでも上手くまとまるような気になってしまう、だから私は詩に季節をあまり使いたくないんてすよね。 でも、この詩で「振り切る暴力」を受けました。対比表現と、季節、色の多彩さをふんだんに盛り込んでラッシュを打ち込まれた気分。ああ、これほど「季節」と全力で向き合っていれば、心地よくなってしまうんだなと。凄いものが読めました。 後半、締め方は再考の余地がありそうだと思いましたが、前半中盤は好きです。特に、「南の島」のあたりの連が。 (季節の歌)

2024-06-18

最初の2行で良い詩を書く方だと直感しました。この書き出しは到底書けない。 「血糖値」、「検査結果」、どんよりとした、病院からの帰り道でしょうか。心象風景に四季を作るのは、対比的に現実が色褪せているからこその反動だと感じます。 エイクピアさんが触れている昼の蛍が出てくるのも納得で、現実の昼が暗くなっているからこそ、心の中にいた蛍が飛んできたのかと。 要は、現実と心象の壁、それをすり抜けた蛍が、現実も照らし出していく。「きみ『は』ここで」とあるように、心象にも蛍は沢山いるのです。一匹だけでも現実に連れ出して、照らして欲しかった、切なさが強まる展開で、良い詩だと思いました。 あと受け答えの仕方が、分かってしまう部分があって好きです。 (憐)

2024-06-18

↑パターソン、いつか観てみたいです。 上の、メルモさんの「外国の詩」の問題意識についてなんですけど、英語だけでなく多言語で詩を読んでいる方おられますか? 英詩で有名なものを少し見てみると、韻律が綺麗で、綺麗すぎて、他の国の詩もそうなのかなぁ、と。 日本語を壊すだけでなく、他言語も丁寧に壊していきたいですが、その方法をちゃんと先人の詩から学びたい。実践してる方いたらどのような感覚かお聞きしたいです。 (ユーザー交流スペース2024/6月度)

2024-06-18

20 【音楽】  パンのように膨らむキーボードのように、今に至る。タイルやらマットやらがうるさくしないでしょうに、私はどうしても彼らを鍋の中で煮込みたい。そうして煮込み終わった料理を隣人に分けたりして、彼らのありがとうを切り取って私の思い出にシールしたい。だがそんなおもちゃ箱も薄れが入ったプールに沈んで、鍵がかかったように錯覚して無意味になることなんて。どうして、どうして……。  と、とりあえず鳥の声を聴くか!? イイエ、キコエマセン。いや、聴こえるはずだ。あの木々の上に王様のような鳥が一羽鳴いているはずだ。しかしどうしても、シンセサイザーがコードを鳴らしているようにも、こうにも、ひずみを餌に鳥が羽ばたいた。  彼らのように私も休息しない。いや、休息は水面下。私は一枚の無機的な鏡で静寂を反射する。なぜか焦燥に映り出す。嫌なやつだ私は。そんなに世界は騒がしくないであろうに。そんなに世界は騒がしくないであろうに! 響く、響く、響いているはずだ、私! (「完全脚論」(又はクローン人間の悪夢から這い出す百足群)詩篇)

2024-06-17

万太郎さん、勿体ないお言葉、ありがとうございます。 ピカソではないですが、最近デ・キリコの美術展を観に行ったので「言葉職人の技巧が沢山詰まった家具」という表現に目が留まりました。絨毯が海になっていたり、椅子が人間のように向き合っていたり、あの画家の世界観はよく分かるんですよね。おそらくピカソも観漁ればなんとなく分かる、からこそ、私はその先の世界を築きたいですね。 その、肩の力というのが何に当たるのか、何を肩の力とするのか、それを模索していきたいと思います。 (オレンジティーチャー)

2024-06-17

類さん、コメントありがとうございます。 イメージの不可視化、というのは特にこの作品で、ではなく自身の作風かもしれません。自分の思うシュルレアリスム的な表現を、日常に落とし込む試みはあります。おそらくこれが、「イメージ可能な表現の混入」かもしれません。 理性は夜更かしをする子供のようで、寝かしつけていたと思ったら潜んでゲームをしていたりしますね。もう少し見張りたいと思います。 ありがとうございます。 (オレンジティーチャー)

2024-06-17

自分の頭の中、もしくは心の中に「羊」と「自分」を見つけられたのでしょう。「羊」は他者のことかもしれません。嫌気が差して、羊に囲まれたままでいたい、というのもよく分かります。そこから壁をしっかりと持っていく、その過程も。 (話)

2024-06-17

音楽というのは不思議で、行ったことのない場所でも、いつも聴いている好きな曲をかけながらだと親近感のある場所に見えてきます。 後半がいいですね。中と外の幸せが溶け混ざる、どこまでも行けそうなバスが現れていると思います。 (霞川)

2024-06-17

面白い詩です。 一人称が分けて使われ、自分の中の人格たちの葛藤(?)がありますが、一人称は「一人」だから一人称なわけで、これほど一人称が多用されると三人称視点の作品に見えてくる。本当の「自己」は黙ったままじっと傍観している。 行動を起こす身体に「自己」があるのだろうか。1.5Aさんの指摘にもあるように、先回りする、本能に従って既に行動してしまっている身体が真に主導権を握っているのではないか。 「実はすでに殴った」、「全員が自分だ、しかし、殴ったのはおれだ、おれが主体だ」 という所からも、やはり行動的なことが重要で、この行の後に精神内で一人称たちが行動力を競うように殴り合う(殺し合う)。 正当化と言うと陳腐かもですが、どの人格が、面が、思考が、現「実」の行動をしたのか、本当はそんなことしたくなかったのに理由をつけないとやってられない。でも選べない。「店長とオーナー」もその理由(人格)の中に居そうですが、逃がしてますね。 人間味が溢れていて面白いです。 (おまえじゃねぇ、と一人称は言った)

2024-06-10

私は最後から二番目の、カラスに羽根を見せつける連が好きです。言われているような他の、垂れているニヒリズム?ペシミズム?よりこの連が光っていますね。「だからといって軽々しく喜んではいけない」という所とか。 羽ばたく云々より、その「羽根を手に持っていること」が重要で、面白いんじゃないかなと思いました。郵便で届いてきて、それを見せつける、その先の展開が欲しいと思います。皆、羽根を持ったら羽ばたく(ポジティブなイメージ)と考えるところを、千切ってみたり、丸めてみたり、そういう遊びの先に何か面白いことが起きると思うんですよね。 序盤の厭世を、もっと羽根に詰め込んで背負わせてもいい、と思いました。 (はね)

2024-06-08

軽く調べると蛇は、他の爬虫類よりかは視力は劣っているそうですね。ただこの詩だと、世界を見透かすほどの力を持っている。歴史というとぐろを巻いた、時代を俯瞰する蛇なのかもしれない。 目を閉じれば「幸せな眠り」を享受できるこの街で、「僕」は日の出前に山から街を見下ろしている。蛇の視力を得られないまま、朝を迎えてしまう。最後、スマホという文明の利器に頼るのは情けなくもあるが、我々にはそれしか手段が無いのかもしれない。いや、そもそもなぜ、その夜景を撮る必要があったのか。世界が俯瞰され切られる現代に、その光景に誰も辿り着けない美があったのか、震えた指先で撮られた、ぼやけた視界にあえて逃げるという抵抗か。 感性を守る、息のつまる日々がこれからも続きそうだなと感じました。 (たとえばこんな朝の来ない街をみおろす悲しみの夜の果てに)

2024-06-07

後半の話について、 私は、「去るもの追わず、来るもの吟味」の性格なため、組織に属しづらい生活をしております。個と接していますね。そんな限られた親友たちはみな卓越した力を持っていて、私はその背中を追ったり、追わせたり、切磋琢磨している具合です。 ただ、今のではなく、子供の頃からの旧友は、逆に「変わってないね」と言って離れている感覚がします。子供の頃から、創作や芸術の夢物語を聞かせていたからでしょうか。時に、「変わらないこと」は「変わったこと」よりも衝撃が強いのかもしれません。 天辺、よりも、たとえば次元が違うだとか、遠くに行ってしまったと言われることほど、寂しいことはないですね。私の文化芸術の目標は、「誰もが話題に出したい人物」になることです。親しさと前衛性を持ち合わせながら、その道を進んで行きたいと思っています。 (心温かき地球人類)

2024-06-07

最近、映画「いまを生きる」を観ました。名作たる所以が分かりました、凄かったです。 「天辺に立って見下ろす 我こそが一番なりと」 ただ、天辺に立たないと見れない景色もある、と考えると、その天辺の景色の独占が血につながるんじゃないかなと思います。皆で天辺に立てればいいですね、時間をじっくりかけてでも。 (心温かき地球人類)

2024-06-07

19 【家】  さあ車掌のお出ましだ。床に座り込んだ、真珠のピアスを着けるライオンのような浮浪者を蹴っ飛ばす。 「寝てんじゃねえ! 暮らせ!」  浮浪者は近くにあった手すりを舐めて、糜爛に舌をくっつけてサボテンが立った。邪魔かもしれないが監視カメラ代わりにはなる。そう、あの時決心した肉体という故郷を喪失した、彼のような眼にどこまでも働いてもらう。  取り立てるべき賢人を二車両目から叩き出す。 「知恵を払え! 焼き払え!」  私が頭を叩くとそいつは、急ぐように本を窓の外に放った。小さな窓からすべて見える見える。賢人の長い髭が秒針でカフェオレが廻るCMみたいだ。黴の生えたタケノコが私の眼を突き刺そうとしたってそうはいかず、それを引きちぎり下ろす夏の晴天。本は消えた。本は降ってくる。本は消えた。賢人は壁に彫り込まれて次第に龍。さすがに、病を自覚するべきフェーズも燃やすべきだ。私は日本語そのもの。  かといって列車の上から少年が見つめている。一体世界に何体少年がいる? 好奇心ほど、死刑に値する罪はない。だから少年は絶滅しなければならない。なのに、私に見つかるとそいつは、双眼鏡でこちらを覗き返すだけ! 唇を見てみよう。ワナワナと、罪を犯すに違いない違いないぞ? だが動かない。我慢比べはいつまで続く? 背後に鏡が立つ違和感に、私は疾走せざるを得ない! だからどうしても忘れたい。そいつは私を宇宙に救う。そんな乗客だと信じたい。  そうやって運転席に戻ると今、壊れた街が窓にめり込んでくる。発進させたことはあるけれども、発信はしたことあったっけ。あったな。じゃあ次は発疹させるか。列車をボコボコ、そこらに発疹させようか。どうしてそうする必要がある? 私は乗客と話してさえいれば良いだけなんだ。このまま衣になるわけないんだ。何が不安なんだ。それは……車輪が夢を語ろうとしないからなんだ、まだ。いや、もう語っているし語っていない。俺がうるさい、まだ。早く奈落の底ベッドで寝たい。いや、寝息がうるさい。寝言がYouTubeでも始める。この先には何もないと、なぜ思えないんだ。音を聴け。音を消せ。聴き方も消し方も消して、一から聴いて消せ。 (「完全脚論」(又はクローン人間の悪夢から這い出す百足群)詩篇)

2024-06-06

18 【メモ】 世界と世界をぶつける矛盾 均衡を保つ力 それを自覚する罪 無邪気さ 言葉への固定観念 ナンセンスさへの敏感度 言葉の崩壊よりも断層への傾倒 大衆的、娯楽的単語の乱用 音との関わり 一行の重さ 言葉の消費 どこへ向かうか分からない恐怖への羨望 反して、世界的に創る世界の先は現実に読まれ呑まれる どうぶち壊すかを丁寧に考えること ユーモアエロスグロテスクをどこまで連れていくか 何に縛られているか、それに気づいて壊すこと どこまでも自分は挫けないこと それは、革命的な思想がウロボロスを描くことを どうにか克服することを 探求すること。 (「完全脚論」(又はクローン人間の悪夢から這い出す百足群)詩篇)

2024-06-06

面白い詩ですね。特に「穴」にかかわる表現たちが。 失ったもの、失った言葉を探しているのでしょうか。「最小のリズム」で進む日々から虚無を味わっているのかもしれません。 周りの声が「自動音声」に聞こえ、時計の針すらも言葉をもたらしてくれない。月が沈み、太陽が上がる自然の摂理でさえ、一回一回月が消されていると感じてしまう。 アップルほどの穴かな? と最初思いましたが、アップルにも穴が空いてますね。なんだか、ウロボロスのようなものを全体から感じました。 (Apple)

2024-06-06

自分を構成するものが「あの」記憶らに断片的に散りばめられている。どれも断片的で、掴もうとすることのできない、「これが自分だ」と言えないもどかしさ。ただ、どれも断片的なら、断片として一つの冬景色を作ってしまえ、と回想を加速させる。より、降らせる。発想の転換、吹雪とたとえるのも良いですね。 横書きか縦書きかの問題、うーん、どちらが良いんでしょう。 私は詩を変に読むタイプで、最初と最後の行を見てから読み始めるのですが、スクロールしたらなんだこれ! となりましたね、この詩では。 横書きの方でも良いんじゃないですかね? 離れて見てみると、普通の地面と、それに積もった真っ白い雪の層みたいにくっきり上下に分かれたメリハリのある詩に見えるようじゃないですか? と、思いました。 (吹雪)

2024-06-05

やって来ました。 「なるほど…」という静かな反応がまず出ました。吟味、咀嚼。(私はすこし、詩に劇薬さを求めすぎているのかもしれません……) 直感です。波や潮というものが頻出していて、それが「流動体」の怪物として襲ってくる。それに対して、写真や剥製といったもので静止させようとする抵抗があるように感じました。 しかし、タイトルにもあるように、完全に静止させることはできない(痺れ・ひび割れ→今にも動き出しそう)その絶望。 私の価値観にはないですね。私は今は流動体、放浪への肯定をモットーとしているので。 上の解釈は終盤に繋がりました。では、二週目前半はどう映るか。 眼に異常をきたしているのでしょうか。潮の歪み、目眩、流動体だったものがさらに歪んで見えていく。 声も重要だ。聴いたか? という前半から「もうこえもとどかない」と変わっていく。声が消えていく世界? 異常気象があるようにも思う。血の雨が降ったり、その自然らの暴力性が強調される眼を持ったのだろうか。(ひかりを求めていたのは、眩しさでそういうものらを見ないようにするため?←これまた一つの抵抗) 前半で馬鹿にされていたような花が後半で咲いている。それは本当の眼を持つ花かもしれない。こんな激動する世界で、自分のペースで、ゆっくりと咲く不自然な花。 老いた者 も気になる。最後の連は、その老いた者の言葉のようにも見える。 ここで苦しくなってコメント欄を見る。う、ううむ、むむ(汗) 鷹枕可さんとトビラさんとの解釈と一部被るか? なんだか添削祭りが行われているが、私は元々日本語コンプレックスのため文法とか言葉遣いには何も引っ掛からない……。寛容と無頓着。 私の読みには、一つの哲学を作品から抽出できるか、というのがあるので、なるほど、丁寧に直感に寄り添って読んで良かったです。流動体が、手を付けられなくなって暴走したら、私たちはどう対応する? 視覚? 聴覚? 言語? カメラ? 剥製? そんなものらで静止させられる? だからといって流れに逆らわないというのも、どうなんだろう? あなたはどうする? そんな問いかけが聞こえてきました。良いアイデアが貰えました。取りこぼしている表現は多いですが。 静かな訴えでした。後頭部をぶん殴られる、振り回されるというような感じはあまりない。私に耐性があるだけなのか……どうなのか……。 食わず嫌いは駄目ですね。信じて読んでみてよかったです。私の直感は、こんな感じです。 (crackの踵、鎮座するうららかな痺れ)

2024-06-02

まずヱ昊について、空目してしまい申し訳ないです。ちゃんと見てたのに気づきませんでした……。 少し考えたのは、自分はあまりにも分からない表現・単語を見ると、警戒して、その「分からない表現・単語」だけをまず見てしまうんだなと。 要はそれを読み解くヒントを他の行や連にあまり探しに行けないんですね、分かりやすく類似してるイメージなら気づくんでしょうけど。ある程度自分の中に落とし込んでから他の行や連と比較しないと、逆に齟齬が生まれるんじゃないか、という考え方ですね。 でも、おそらくA・O・Iさんは「イメージの拡散の仕方」、文字を読んだ時の脳への波を意識していて、その現象を他の表現と類似させたり対比させたりしてるんじゃないかなと、そう解釈しました。 自分は、感覚に問いかけると本当によく分からないイメージしか湧いてこないので、理性で補強したい(そのイメージを伝えたい)タイプなんですよね。そういう人への憧れもあります。だから、人の作品を見てる時は感性をできるだけ圧し殺している。いや、厳密にいえば、まず何も考えずに読んで気になるか否か、好きかどうかを感知して、そこを理性で切り込むという順でしょうか。そうですね…ちょっと次の作品は感覚的な感想を残してみます。 拡散していこうとする言葉をそのまま受け取るのではなく、やっぱ掴みたいんですよね。齟齬や誤読は、どんどんしたい時期ですね今は。でもいずれ、A・O・Iさんのように思う時期も経験してみたいです。 (それで幾分安堵する。生け簀のものは頼りない)

2024-06-02

博打でしたが、「皮肉」の話、的外れでなくホッとしました(色々と)。 「私から見てもミハイさんがコメントしていることで、アナタ自身の身になるとは思ってなかったですけど。」 刺さる。貫通しました。白状しますがトロフィー集めです。金色が欲しいので。継続は力なり、という言葉への反抗心かもしれません。作品の価値を引き出せない読み手側の責任追及、という私の軸がここでは揺れますね、とここまでにしておきます。さすがに無礼。あとは ~最近のリアルでの忙しさも影響していますという言い訳~ を添えて。 「ここだけ見てるわけじゃない、やはり詩誌常連さんや詩人関係なんかをガン見してます」 まあ、私もここだけとはさすがに思ってはいません。逆に、ネットの中だけでも色んなコミュニティが無数に点在しているように見えていて、次踏み入れるならどこかなぁ、と私は路頭に迷ってます。まあ、ゆっくり見極めたいと思いますが。 そうですね、他人との違い…… 第一連から、私がしない表現(もしくは分からない所)をピックアップしてみようかな… 「ヱ臭」←まあここで引っ掛かりますね。第一連は。「腐臭」、「悪臭」、とかではなく造語(ですよね? かつ普段使われない文字)での臭い。イメージが湧かない。そのイメージが湧かない「ヱ?」と思う困惑の臭いなのか、というのもしっくり来ない。ただ、まじまじ見てると面白い。 「川沿いを下る無駄な目蓋」 なんか、ピックアップして見ていくと逆に面白く見えてきますね。「瞼」にしていない→蓋が川を下ってるシュールさが見えてくる。「無駄な目蓋」この音の配列、見逃していた、いい。あとは、私は「面」をとらえる力がまだなんですよね。目の辺りの単語を使うってなった時、白目や黒目、睫毛、眼光、とかに行きがちで、目蓋があることを忘れてしまう。不思議だ。 「(弦楽器の凹みを地獄耳で弾く、) (八頭身の蜩の髭が震える。)」 うーむ、ここは私が辿り着けていない領域ですね。詩における数字の問題、最近になって踏み入りました。なんで八なのか、六じゃ駄目なのか、と考えてしまうんですよね。なら、もう別の表現にしてしまおうと私はなります。数字に対して、それが何か象徴してないと気が済まない。まあ、ここはあまりそういうことを意識していないように思いますが。(それより、八頭身のせみのシュールさは良い)とにかくそれよりも、弦楽器のところはお手上げですね。あり得ない歪みが生まれてる気がします。羨ましいです。 「忍ばせる潮が満ちてきて、追って重ねる衣服の裾も」 ここここ。ここもそう。潮の表現は分かりますが、衣服の裾という「面」が私からはどーーーーーしても出ない。そもそも私の詩には「服」が登場しない。素っ裸だ。(致命的かもしれない) 「人骨とレモネードを半畳の幸福に貧する仕掛けを」 人骨とレモネード。この並びはいいですね。服を取っ払ってるし、「生死」をユーモラスにとらえる私には好物です。 「錆びた鉄骨が座標に絡まる」 ああ…ここも…。図形、面を意識しなくちゃ…ってなるんですよね。私だったら錆びた鉄骨が私怨に絡まる、とか形而上にいくと思うんです。これほどの無機質さはおぞましい。 「その太陽は過去を寂しさみたいなもので切り取り」 ここは惚れ惚れ。空にあるものとか、大それた言葉たちが、なんでもない言葉たちに挟まれるのは好物です。 あとは……そんなところでしょうか。他にも予測とか、気圧とか、道理とか、科学的なイメージが入ってくるのも個性ですかね…。私が科学を詩に盛り込むとしたら医学ですね。あとは化学かな、とか。 部分を見ると面白い、けれど全体を見ると、上の一回目のコメントみたいな解釈になってしまう、そんな自分が嫌でA・O・Iさんの詩を避けていたのかもしれない。何か一言で表す、一旦は結論を出したい、という思いが自分の中にあるんでしょう。それはまあ、世の教育のせいだということにしておいて……。 認知特性調べてきました。 6タイプの解説を読んで、簡単なテストを受けたらファンタジータイプ(言語映像)でしたね。でもしっくり来ません。高校時代はカメラアイで暗記してましたし、音楽だと、作詞して一度メロディをつけたら、録音せずとも言葉を見ただけで音程が思い出されます(長期記憶に)。A・O・Iさんはどんな感じですか? 複合型なのか、特化型なのか…… また長文すみません。 (それで幾分安堵する。生け簀のものは頼りない)

2024-06-02

そろそろ腰を上げようと思います。私は、あまりA・O・Iさんの詩を好きになれない。同族嫌悪なのか、はたまた別の理由かは分からないが、では他の人はどのように評価しているか気になって覗くと、閉口か、「凄いところが凄い!」というような賞賛ばかりな気がする。あまり細かくは見ていないが。 ただ、言葉選びはネット詩の域にはなく、現代詩人として活動されている方たちと並ぶと思われる。が、かといってそのプロの彼らと比べると無味無臭の水のようだとほぼ毎回A・O・Iさんの詩を読んで思う。前に私の詩が「鉤爪がない」と指摘されたが、批評は鏡像のように私は思うため、A・O・Iさんもその「鉤爪」を模索しているのではないかと踏む。 長々と書いたが、要はここで「私にとってのA・O・I像」に向き合う時が来たと思った次第である。透明だったものが本当は有色で、よく見れば、味がするかもしれない詩(または詩人)を私だけが見逃す訳にはいかない。どうせ、これからも誰もコメントを書かないだろうから好き勝手書きます。 メタ的にもまず考察を入れると、2ヶ月(もしくはそれ以上?)ほどに渡った匿名投稿から外れ今回は名前がついた。又、私も意地が悪いため静かに監視(人間観察の一環)をしているが、どうもコメントが貰えないことに泣くかわいさが見えた。いや、それも見られていることを意識した、演技であれば私は既に手のひらの上だ。 ここまで前口上が多いのは、詩で詩を洗う詩だと感じたからだ。人生そのものの詩でもいいかもしれない。 「ぐったりげんなりした愛想」、「船頭もいないボロ舟」、「自分だけが知るルートで 困らない」、「期待する、意表を突かれる、がっかりする」などなど冒頭から、見られ方、評価のされ方、もしくは相手を見ることに関しての不満が所々見られる気がする。 詩というのは、強い皮肉が込められるほど良いと思う。もしこれがたとえば後々票を入れられて最多得票になったり、セレクションに入ったらますますA・O・Iさんはどんよりするように思う。(映画「アメリカン・フィクション」の主人公みたいに。)願うのは、誠実な見方ただ一つだろう。 続くと、「何を広げて何を狭めりゃいいのか」、「カンに頼る作業」(←わかる)、「グダグダで群れ入る羊」、「熟考する処理は逃げ出してしまうことの方が膨大」(これは読み手への最大の皮肉だろう。一度考えてしまうと、そこから考えられていない良さが溢れるから、何も考えないようにする、という論理だ。私は非常にクソッタレだと思う。作品の良さなど取り零して大いに結構だ) 挙げていくとキリがない。どこにあったか忘れたが、このBreviewという場を鳥瞰するような表現もあった気がする(キモい地下道のところか? 黄ばんだ、とかの表現が近くにある)。月初めに投稿する態度からもそうだ。 では、安直にこの激しい思いを「孤独」だと置き換えてみて、この詩はどのような答えを掴んでいるのか。「無理」としている。全部気圧のせいなどと、書いていて笑えない冗談だろう。 「自分で自分を愛する」フェーズに行ってしまった。 私はここに、率直に不健全さと、一種の後悔を感ぜざるを得ない。 的外れか。いや、そう解釈されうるような状態(心理分析などという面白くない考察をさせられる状況)になってしまっているように見えて、やるせない。ぶっちゃけ、A・O・Iさんの目はネットだけに留められてよく腐乱しないなと感心する。(月に150篇投稿されるこの場で、感嘆する詩は非常に少ない) ここからA・O・Iさんがどう返信するか、おそらく上の考察は私に似合わず醜いものだが、この詩に限ってだろうと思いたい。それを確かめるため、crackの詩、今から読んでみようかなと思うが、どうだろう。私はA・O・Iさんの詩を一連、二連見ると飽きてしまう(こんなこと滅多にないのだが、何かバイアスが働いているのか?)ので根気が要る。音が楽しくないのかな(朗読したい、という気にならない)とかうっすら思ったり、長篇が合わないんじゃないかなとか、どれも腑に落ちない。原因はどこにあるのか。今月は時間の余す限りA・O・Iさんを探索したい。 Breviwとかネットの反応について考察が寄ってしまったが、そうではなく、この詩の抱えている問題は「見られ方、見方、詩の評価とは」ということだと思う(ついさっき映画「今を生きる」を観てきたため影響されているかもしれない。)。A・O・Iさんの方から、この表現はどう思ったか、など聞いてくれればちゃんとお答えしたい(この詩だけでなく、他の詩についてもこの場で)。私の体力が消えないうちに。 ああ、やっぱり、皮肉たっぷりの詩だと思って読み返すと面白い……。 (それで幾分安堵する。生け簀のものは頼りない)

2024-06-02

17 【今】 誰もが机の上に立つ。雪は美味しいものだと唄う。薄ら笑いがすべての人々をつなげる。こわさはこわれて→こ、わ、れ、て、→わ、か、れ、て、わ、か、る、→見えないフリをする球体。 (「完全脚論」(又はクローン人間の悪夢から這い出す百足群)詩篇)

2024-06-01

16 【美尻派】  脚名さんと美脚界の衝突、その落としどころは「尻」に落ち着いた。観測対象の拡大が、「隠された脚」ではなく「尻」、に拡張されたのだ。隣接する身体の部位が、その形状に影響させ合っているという仮説提唱者などによって。脚名さんはまだ不満げ。そりゃそうだ。なんなら美脚研究から、より遠ざかる風潮なんじゃないか、と。結局は皆、エロスは対象ではなくて己の想像力の中にあるという事実を直視できていない。脚名さんは絶望から、しばらく筆を取れていない状況にある。私はまだ新人の尻学者だが、彼がいなければ私がこの職に就けなかったということを胸に、いや、尻に刻んで、研究を進めていきたい。 2024年6月1日 尻沢檜 (「完全脚論」(又はクローン人間の悪夢から這い出す百足群)詩篇)

2024-06-01

※百、足 ※百、足は貪る ※百、足は、飢え死んでいく領域を超えて誘蛾塔にも這い出していく (「完全脚論」(又はクローン人間の悪夢から這い出す百足群)詩篇)

2024-06-01

黒髪さんが、「現実の前で、言葉が力を失っていく」と指摘していますが、私はその逆のような印象を受けました。 私たちは「人間」のことをどう語り得るのでしょうか。本当は第四連のような「人間 何」と問い続けることが倫理というか、宿命だと思うわけです。「なのに(最後の言葉ですね)」、「最高の人間」とは、「最悪な人間」とは、「何ができるか、できないか」といった見方が漂う現代、それへの怒りがあるのではないでしょうか。 現実に対して空白を持つことで、逆に力を持とうとしている詩だと思いました。 (どうして)

2024-05-31

最近基礎を固めようとレトリックの勉強をしています。この詩で多用されている「直喩」、実は自分は潜在意識的に避けているもので、でも向き合わなければいけない技法なのでこの詩ではそれについて考察を。 「AはBのようだ」とする時、AとBに類似性があることを主張する表現になりますね。そもそも「言葉」という言葉が多様なイメージを含むものだと思うので、隠喩で読み手を乱すよりも、滑らかに限定的なものにさせた方がいいのだなと、なるほどと思いました。 この詩の面白いところは、その直喩が願望にあるところから、現在の確かなものにかかっていくところでしょうか。「温まるような優しい言葉」と表現しても、「触れたい」と書いてあることから、その「言葉」との遠さがあってむなしい気持ちが押し寄せてきます。 しかし、第四連では「触れたい」という動詞が消え、「あなた」という存在がまるでその「言葉」であり、今身近にある優しさに気づく展開になっている。 直喩は説明的で苦手なのですが、その説明が願望に裏打ちされていることを見ると、こうも人間味が増すものなんだなと、学びになりました。 (やさしい音)

2024-05-31

普通に好きですねこの詩。 子供の時の痛みが「発音練習」になるような、そんな人生のトラウマから何まで意味を与えてくれることになった「出会い」。でも、最後にはそんな相手とも別れが来てしまう。 今後、その記憶の塗り替えは起きるのかなと考えてみると、二重構造が示されていますね。子供の時の転倒と同じように、相手とぶつかった時にも心情が転んでいる。その転倒で流した血を、また別の意味に塗り替える未来の相手が現れる、伏線がまた張られているようです。「転倒」を巧く使った表現だと思います。私もこんな恋愛詩が書きたいなぁ…… (出会い頭にご注意ください)

2024-05-30

「私の詩は何がダメなのか?」 とコメント欄の静かな叫びが見えたので、人のことをあまり言えた立場ではありませんが、少々その点を……。 ガザについての詩、多くの方が今書かれていますよね。現代詩手帖で情勢や、それに関する詩など少しながらですが見てきました。 戦争への反抗、その拳を突き上げる運動は重要だと私も思います。しかし、戦争詩に関して二つ思うことがあります。 一つは、これ、戦争詩っぽいなと前半で分かってしまう詩が多いことです。これはまだ自分の中で腑に落ちない現象で感覚なのですが、中盤で「あれ?この詩様子がおかしいぞ?」と思って、すぐ詩の最後を見ると「ガザ」という言葉があった、というのが体感8,9割です。まず、その形式(最後に戦争詩だと明かされる)が多い印象があります。この詩も同じ形ですが、ビーレビューにこのテーマを持ってくる方がいるとは思っていなかったので、予想はできなかったです。 そこがこの詩の一つの個性だと思います。ウエディングドレスという言葉が戦争に結び付くとは思いません。「恋心」という冒頭などからも……。強引さはありますが、「ポケットがいっぱいついたドレス」という不思議なモチーフが上手く誘惑してくる詩なので、バランスが良いとは思いました。 要は一つ目は、その形式と展開ですね。戦争についての詩を書こうとする時、なぜその順に物事を書くのか、そこに展開の強引さが現れてしまっていないか、という点です。ただ、これは湖湖さんのこの詩には当てはまらない(形式は同じですが。強引さは中和されている)と思いました。 二つ目は、「ガザ」という単語ですね。 現代詩を書くのか、詩を書くのかという問題です。私は、「戦争」の問題については未来永劫と続くと思っています。なので、後世に誤解なく伝わるかどうか、と考える時、固有名詞を扱うのに難しさを感じます。少し悪い言い方ですが、たとえば三百年後に生きる人たちが「ガザ」詩を読んだ時、「ガザってまずどういう状況だったの? 他の戦争と何が違うの?」と言われかねない場合があります。 知識不足なら申し訳ありません。本当はこのウェディングドレスやその他微細な表現が、「ガザ」の状況などを比喩しているという詩だったら、上に当てはまりません。ですが、「他の戦争詩(たとえば第二次世界大戦)」と何が違うのか、「なぜガザなのか(NOWの問題だから、というそれ以外の理由は何か)」の熟考が必要だと私は考えています。 そのため、私もこの情勢に影響されて戦争詩を書きましたが、「ガザ」という言葉を使わず、幾時代をまたぐ戦争への思いを乗せました。「ガザ」から大きな物語を作るのか、それとも「ガザ」に焦点を絞る必要がある、として書くのか。この詩からは、その「ガザ」の深層調査が無いまま書かれた印象を受けました。 「ガザ」という言葉を他の紛争地の名前と置き換えられてしまっても、そして何百年後に読まれても、「いやこれガザについての詩じゃん」と分かる詩が優れているんじゃないかなと、思っています。だからこそ固有名詞を扱うのは難しい。湖湖さんの挑戦には敬意を払います。少し厳しく指摘しまったかもしれません。のちのち、私も先ほどの戦争詩を公開する時は、ぜひ切実に批評ください。 (ポケットのなかに)

2024-05-30

最近、川口晴美さんの詩集(現代詩文庫)を読了しました(新たな現代詩手帖の選考委員の方だったので)。それからこの詩に着いたのですが、雰囲気が似ていますね。やっと、佐々木春さんの詩が分かってきたような気がしました。意識されているのでしょうか? もしお読みでなければ、ぜひおすすめしたいです。 今回は、どういう箇所が似ているかという点から考察させていただきます。端的に言うと、「面」の認識の多彩さでしょうか。湯→「水面」という場所の設定から、「輪郭」、「肌」への焦点、「雨音が跳ねるような硬い音」「無機質な立方体」といった面の内側の質も表現されてます。 「面」というモチーフの面白さは、たとえば「しわ」(川口さんの詩にもよく出てきました)。伸ばせば滑らかで純粋に見え、握ればすぐにしわができて、再び伸ばすのが一苦労。心とよく似ています。「折り畳み傘」なんかも、規則正しく毎回しわに沿って折られたり開かれたり…… そんなような、「面」を捉える目を持っており、そこに詩情があると確信されている方だと納得しました。私もその感性を一部吸収して書いてみたいなと思いました。ありがとうございます。 (水滴)

2024-05-29

表現を細かく見ると、確かに紅茶猫さんの解釈、指摘が分かる詩ですね。 「あいつ」や「こいつ」といった、名前の分からない者らとテーブルを囲んでいるという違和感、ばらばらになったチキンの足(これも、ばらばらになっているものがさらにばらばらに、というユニークな表現)、テーブルの惨状がなぜか不可逆になっている(綺麗にすれば済むはずなのに)、カーペットのしみ(=拭えない歴史)、そしてタイトルが「がれきの下」となっていることなど、常識的な食卓ではないですよね。 しかし、戦争という大きな目から見ると、「理由は大変くだらない」という俯瞰、傍観、その立場にいないと精神が保てないということなのでしょうか、それでも、もう少しその喧嘩に反応を見せる展開が欲しかったかなと思いました。 (がれきの下)

2024-05-29

砂というのは実に可変的で、それを感じられるすごいものですよね。形状(さらさら、どろどろ)、温度、そして陸にも海にも存在する。砂の特徴をよく捉えて書かれていると思います。 形而上での砂というのは、まるで記憶の粒のようです。いや、時間という大きな砂の流れの中に、私たちの過ごした一粒一粒があるのかもしれません。それらは時間が経つと、海の中へ流れて消えてしまう。 もう一方の作品も良かったです。次回作を期待します。 (砂になっちゃったの)

2024-05-28

各連の発想がユニークで良いですね。ただ、「世の中は理不尽だ」という言葉が詩全体の足を引っ張っている気がします。 物事を捉える目は持っていると思われます。「空」が持つべき透明性=心象を映す余白が無かったり、海という場所に「他人の船」という一捻り置かれているところは、世界の解像度が上がるポイントでしょう。 「世の中は理不尽だ」と言わずとも、そのような意味を主張できる力があるのではないでしょうか? 後半、「幸せ」や「優しさ」という曖昧な言葉らが入ってきてしまうことで、前半までの世界観が薄れてゆく気がしました。 また次の詩も読んでみたいです。 (世の中は理不尽だ)

2024-05-27

「からっぽ」という単語を見ると、私の好きな安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」を思い出してしまう。 この詩だと何からも解放されている感覚、肯定的に捉えられていますが、それは現代人だからかもしれませんね。 上の小説は、友人や恋人もいて、仕事にも就いていた人間がすべてを失い「からっぽ」になって、絶望感に襲われる話です。それとは反対に、「何者かになれ!」と執拗に求められる人にとっては確かに「からっぽ」は便利なのかもしれません。 しかし、共通する点は満たされなさですね。「からっぽ」はなんでも吸収しようとします。この詩の第一連のような雑多なものを集めてはまた別のものへ。 これからの人々にとって「からっぽ」はどんなものをもたらすのか、この詩で興味が広がりました。 (からっぽ)

2024-05-22

返信ありがとうございます。 A・O・Iさんは私よりもドライに詩を見てますね……。私は部分部分が良ければ良いと思っちゃうので、作品の俯瞰は二の次だったり。いや、本当はどっちがドライなんでしょう。そもそも、その言葉が適切じゃないかもですね……どちらを大切にしてるか、ということですかね。 読み手の意識、まだ感覚が掴めないしまだ掴む時期ではないと逃げています。白状すると、エネルギーがやはり要るので……。徐々に頑張ります。ありがとうございます。 (決別の夜)

2024-05-22

ぺえ太さん、コメントありがとうございます。 「梯子職人ってそれこそ詩人のことなんじゃないか」 確かに、詩人のみならず、文芸全般の担い手がこの梯子職人でしょうね。でも、そういう「皆が上れるような、分かりやすい」梯子を、ゆっくりと作り上げてたら世界の異変に対応できない、と思うんですよね。だからこそ「私」は「旅人」を頼ったんだと思います。真の詩人なら、と信じたんでしょうね。それなら、最後に出てくる「君」は、何者でしょうか……。 面白い指摘、ありがとうございます。 (決別の夜)

2024-05-22

おまるたろうさん、コメントありがとうございます。 「「近い」存在ではなく「遠い」存在になった方が輝く」 なるほど……これは嬉しい反面、今は少し「近い」作品に挑戦しているので、複雑な気持ちです。どちらも得意になりたいですが、軸は「遠さ」の方に持つ方がいいかもしれないですね。ありがとうございます。 (決別の夜)

2024-05-22

メルモさん、コメントありがとうございます。 「創世記の箱舟が時空を超えたかのような物語」 うっすらとしていた、この詩を書いた当時の想いを思い出せました。それに似たイメージです。世界を愛か狂気どちらで切り開くか、とても気になるテーマですね。 ちなみに、エヴァに関しては全くの偶然ですね(笑)あまりまじまじと観てなかったので、これを機に観てみようかな…… ありがとうございます。 (決別の夜)

2024-05-22

黒髪さん、コメントありがとうございます。 急速な成長、内的体験などなど、私はまだ未熟なもので、とても身に余ります。 人々の心を背負おうという決意はあります。過去、今、未来を生きる人たちの声をゆっくりと、パンクしないペースで掴んでいきたいですね。 ありがとうございます。 (決別の夜)

2024-05-20

A・O・Iさん、コメント、ありがとうございます。やはり噛みついてこられましたね。ちょっと前に「推敲」をテーマに議論したいとコメントした詩を取り止め、こちらの詩を投稿させていただきました。 「T RAIN」の時のコメントのようなA・O・Iさんより、今回みたいなのが良いと思ったからです。 読み手、読み手、読み手……今思うと、私には根本的にその考えがないですね。もちろん、自分という読み手もいないです。何も手元に素材を置かずに、手と脳だけで、読み手をしかと想像して書き上げたものでいえば、最近だと「針園(はりぞの)」くらいで、それ以外は必ず手元に自分の好きな詩たち(もしくは他の媒体作品)を並べて、それを見ながら書いているスタイルです。今は私はそういう詩人です。おそらく当分これからも。 要は過去の詩人たちとの対話を一番に意識しています。そのインタビューから得た表現や世界観を、自分なりに身に付けていこうとする段階を、そのまま見せている作風です。読み手を意識するよりも前に、創造行為に紡がれてきた文化・伝統をみつめています。故に、何が鉤爪になっているのかが分からない時があるのかもしれません。それは、要素を詰め込みすぎてフラットになって、強調したいテーマが現れない、もしくは現代に今さら持ち込んで面白いモチーフや表現なのか?それは?と思われたり。(過去作で散々議論に出たことですね……) やはりラグがありますね。この詩は半年前ほどに書いたものなので、A・O・Iさんの指摘に痛いなあそうだよなあと思っています。かといって、現在その壁に上手く立ち向かえているかは自信ありません。のちのち載せていくので、首を長くしてお待ちいただけると嬉しいです。 最後に、他の方を見ると黒髪さんは浄夜とかに着目してますね。肯定的に捉えられていますが、A・O・Iさんの「物騒な感じも見えた」という感情も分かります。ぼかしている部分です。 ただこれも、A・O・Iさんの見てきた景色、経験から言えば、その展開や表現は鉤爪としては弱く映っているのでしょう。ありきたりなんだなと。もしよろしければ、詩や詩人、もしくはこの世界を見て欲しいとリクエストがあれば、私はAIのように吸い付いていきます。淫らに交わります。そうして得たものから、知的好奇心をくすぐる一作をお届けしたい、そういうスタンスで居たいです。 (決別の夜)

2024-05-20

御息さん、コメントありがとうございます。 とても含みのある言葉ですが、表面的に受け取らさせていただきます。ありがとうございます。吉増さんは初期作品から読んで、足跡を丁寧に辿らないといけない詩人の一人だと思います。(誰でもそうなのでしょうが、彼は特に……) 僕はまあまあ好きです。去年の現代詩手帖12月号に載っていた「光」とか、面白かったです。 (決別の夜)

2024-05-20

最近、このような視覚詩に興味があります。この詩においては、なんだか「ひとりになりたい」とぼやく感じですが、ぴしっと行に押さえつけられていないところを見るに、その意思はまだ固まらず、希望を棄てきれないということなのかなと思いました。 「光」という字は反対に、中心に向かっていく線が集まってる漢字に見えて、そう見ると希望に輝きすぎな字ですね。 「ひとり『でもいい』」なんて曖昧さを持ったからこそ、その光に撃たれたのでしょう。でも、光からの銃弾は果たして死をもたらすものか。最後の「ふ」が、光から魂の銃弾を撃ち込まれたと知り、込み上げる変な笑いだととらえました。 まあ、だとしたら撃ちすぎだとも思いますが……。 (光)

2024-05-19

自分は留年を経験しているのでとても共感します。飽きるほど自分を正当化してきました。だからもう留年したかどうかも分からないくらい麻痺っています。 「遅れ」というのもひどい言葉ですよね。皆が皆、世界に生きとし生ける者たちをファストフード店だと思い込んでる。そうは考えない、老いや孤独を恐れない人らと、強く人生を歩んでいきたいですね。 (待つ力)

2024-05-19

ちょうど、今日「ジョーカー」を再視聴しました。あの映画は本当に傑作ですね。完成され過ぎていて、続編の出来をすこし心配してしまうほどです。 「ジョーカー」では「踊り」がキーですよね。あの度にアーサーの心身が何かを失い何かを得て再生していく、そんな儀式のように映ります。「らんらんるー」もその呪文版のようで、それを唱える時にあのピエロ顔がくっきりと記憶から甦る。 確かなものを探したい、という詩ですね。妻咲さんが指摘しているように、自分を笑い者にするんじゃなく、心から笑ってくれる人、その信じられる笑顔がただ欲しい一心。その理想の相手から、街を離れるようにお願いされる最後、それが唯一の救いでしょうね……。 (らんらんるー)

2024-05-19

最近、詩の中での額縁構造に興味があります。この美麗な雪の風景を、あえて回想化させ距離を置くのはどのような効果があるのでしょうか。 序盤、視界をヴェールが覆いますが、覆う者が天使だと見抜く「僕」は、その先を見透かそうとしますね。確かに、天使が隠そうとするものには興味がある。 やがてヴェールが透けてその先を見れますが、何を見たのかは明かされない。「清い涙」というのも面白くて、視界の邪魔をしない涙なんですが、何を見たのでしょう。 変わって、タイトルから考えると、時間経過が記憶を覆うヴェールということなのでしょうか。この詩は、雪の風景を思い出しているようにも読めますが、そのような特定の記憶ではなく、自分の頭の中の忘れたくないものを手探りに(時間という吹雪の中で)追っているようにも思います。記憶そのものを、降り積もる雪と喩えているので。 何を見たのかは思い出せない、しかしその雪の中を歩くこと(=回想)の外、その回想すらできない、しようと思わない時間が私たちは怖い。その気持ちを「僕」が確認した、そういった詩だと思いました。 (降り積もるのは回想)

2024-05-18

七五調が全体的にみられます。短歌や俳句も詠まれてる方でしょうか? いずれにせよ、高校生でこのような詩を書けるのは素晴らしいと思います。 最終連の「陽気を含んで包まれ」の行などから、自他の在り方についての爽やかな思いがあると思いました。 水の中と、水面。箱とその箱の外。砂の中とその地上。そして最後は風となって人の間を駆けるイメージです。 最初の第三連までは、内情への割り切りでしょうか。憧れなどの過去を遠ざけ、視界を制限させ、自分をきちんと整理している最中のようです。 しがらみから解放され、自分のことを真剣に見つめてやっと、他者と気持ちよくかかわり合える。その難しさを謳いながらも希望が映えています。 (これが、生きてる!! 答え。)

2024-05-18

2,4,6連への緩急が面白いですね。 何が描かれてるのか。引っ越してしまった隣人、そして入れ替わり住人がまた新たに越してくる。その環境の変化の中心から見た視点でしょうか。ただ、それだけだと「お前」をこれほど煽る理由がありません。 「あのひと」は本当に「引っ越し」をしたのでしょうか。もしかしたら、天国への引っ越しの可能性もあります。「だまっていなくなる」、「くさったにおい」、引っ越したはずなのに荷物が沢山あるのも、急死してしまったからでしょうか。 だとすると、「お前」とは? 「そのひと」を殺した犯人というわけじゃないでしょう。それは、自省の念かもしれません。もしかしたら「そのひと」が自死してしまって、それを救えたかもしれないと思った正義感、それでも貴重品をしまった(結局は自分が大切だった?)自分へ、「お前は誰なんだ?」と問い詰めている。 そんな風に読めました。なかなか妄想が膨らんでしまいました。良い詩でした。 (おひっこし)

2024-05-16

整理すると、「君に伝えたいこと」、「君としたいこと」「君にしてあげたいこと」、「君にしてほしいこと」の四つですかね? それぞれに「コップ」、「野良犬」、「ネズミ」、「猫」の比喩の話が入ってくる。構造を見てみると、それぞれ平易な言葉たちなのにその組み合わせによって複雑さが生まれている。 これらを並べると「コップ」の話が一番異質で、「君」という澄んだものを飲み干したいという気持ちが現れている。そこからサイコパスのような感情を顕にする「僕」(ネズミの動画のことなど)を見るに、「君」が「僕」の言葉に汚れていかないかどうかを見定める時期なのかなと、最終行から思ったりしました。「君」がどれだけ純粋かの素質を確かめているということですね。 そうすると、「野良犬」は「僕」でしょうか? 飼い犬に与えられている餌のように、他人を見てしまう。自分には何か問題があって、飼ってもらえていない、そうやって人を餌のように見てしまう人間に育ったということを見せる。 だから、餌にありつけたらネズミ取りのように逆に「僕」を捕まえて、そんな醜悪さを殺して欲しいんでしょうね。優しさだけでなく、そういう残酷さも持ち合わせてほしい、と。透明な水ほど毒を持ってそうだとも思えます。 そして最後に、「君にしたいこと」は所詮、驚かすだけ。汚すなんてことはしたくない。汚れそうになる幻影を見せても、透明な水のままかどうかを見たいだけ。他の方も指摘している通り、優しさですね。 確かに、理解云々の話じゃないですね。でも、人が人を好きになることにおいては、大切な考えが詰まった詩だと思いました。 (伝えたいこと したいこと)

2024-05-14

なんで、職場という舞台設定をするとこうもキテレツな方にいくんでしょう。僕も一度上司にケツを見せる詩を書きましたがここまでハジケられなかった。悔しい、圧巻です。 ユーモアに富む詩からは何か重い意味を取り出したくなるのですがその意思を削ぐくらい面白いです。辛うじて理性が残ってるとすればタイトルでしょうか。 「わたしたち」っていうのは後半の女性社員たち? 運ぶってのが何を意味するのか、どこへ運ぶのか。運ばれるのはこの「僕」とするには安直なような。 視点を変えて、職場というのは場が拡張する性質を持ちますね、学校を真似た名残りのような。社員旅行も無理やり連れていかれ、飲み会も二次会まで伸び、社員間のコミュニケーションのため、良好関係から仕事をやりやすくするためと理由をつけて、うわべの付き合いがされていく。パーソナルスペースが侵食されていく。 上司からそんなようなハラスメントを受けて、だから自分もパーソナルスペースをひけらかしていくスタイルになっていく。上司Xがケツを見せるように、「僕」は性癖を見せつけていく。 そんな鬱憤(と、その発散(ハラスメント))を運んでいくのでしょうかね。部下も部下でコーラをシェイクしていきますし。無視していく態度にもなる。それは職場というフラストレーションが溜まる場をなんとか保つために必要なことかもしれない。ハラスメント擁護派ではないですが、そんな現実が現れているように感じました。 (運ぶ、わたしたち)

2024-05-12

共感します。最近詩の根源はヒンヤリ冷たいものだろうなと考えていたので。 発想そのものは無機質で、そこから育ててみると心を打つものになった、という流れが多いんじゃないでしょうかね。 空から降ってくるよりも、冷たい鉱石みたいで土に眠ってる感覚。 ビニール手袋~3分の2しか……の表現が好きです。目や耳で、感じるだけじゃ足りないですよね、やはり触覚も。 (淡雪)

2024-05-12

黒髪さん、コメントありがとうございます。 エアコンを味方につけている、面白い見方です。一日の始まりから終わりまでの規則的な流れなど、世界の流れにストップをかける。暴力的な反抗ではなく、毒による麻痺、衝撃波、これからもそのような詩を書いていきたいですね。 (「クロス・ゲームの手紙」MV)

2024-05-11

テーマをがっつり提示する最終手段、どこかで使ってみようと思います。いや、もうストックの中にはチラホラあったりしますが。いずれここにも投稿しようと思います。 ラスト7行を先頭に持ってくる、私にはできない所業ですね……ただ、そういう「大胆な推敲」という行為には最近やっと興味が湧いてきたので、意識したいです。(次の投稿でそういう問いかけを用意しようと思っていたので……) 仕掛け・テーマを溶け込ませるか否か、すべて同じように扱うのでなく、それぞれに向き合うようにしてみます。 A・O・Iさんの指摘は道の見通しが立ちます……毎回、ありがとうございます。 (「クロス・ゲームの手紙」MV)

2024-05-11

A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 MVの後半について、包丁さんが喜ぶと思います。ありがとうございます。 詩についての食い付きづらさ。それは引っ掛かりがない、とはまた違うニュアンスでしょうか。私は、シュルレアリスムは解釈の開放性があるべきと考えているため、作品をフラットにしがちなのかもしれません。脇道に逸れようとしない感じの。それが行き過ぎて、逆にあらゆる解釈を排除してしまうものに成ってしまってるのでしょうか。怖がらせずに、読みをおびき寄せたいのですが、確かに、空白……うーむ。シュルレアリスムの散文詩には、「転」の場面で演出が入れられたりするんですが、この詩の舞台(クロス・ゲームの手紙)は、あまりに形而上すぎてどう「転」を置くべきか分からないですね……、いや、「わたる」の部分で置いてるとも思いますが……それじゃ足りないということですよね。 あとは、シュールな世界観ってどちらかというとローファンタジーなものだと思うので、句読点とかは普通に残し、手紙という設定などの、日常的な言葉の流れに異物が侵入してくるものにさせたいんですよね。 どうでしょうか。 (「クロス・ゲームの手紙」MV)

2024-05-11

おまるたろうさん、コメントありがとうございます。 YMO、そんな数多く聴き込んではいないので、これを機に聴いてみようと思います。ありがとうございます。 (「クロス・ゲームの手紙」MV)

2024-05-10

Molloyさん、コメントありがとうございます。 「新たに蘇生」、「デジタルジャズ」 作曲者の包丁さんにとって、とても嬉しいお言葉だと思います。まさにその境地だと私も思います。ありがとうございます。 (「クロス・ゲームの手紙」MV)

2024-05-10

メルモさん、二度のコメント、ありがとうございます。 「拮抗」、それに着目してくれたのは嬉しいです。ハビタブルゾーンの外へ出ないギリギリを攻める感覚も、この詩での試行が利いたのかなと思ったりします。 どういうことかというと、シュールな詩を書くといっても、何かテーマを設けて軸を持たせないといけないのではないかというねらいから、この詩は「「自然と人工物、ロマンスと無機質」の交錯」がテーマでした。「拝啓、愛するあなたへ」などの出だしではなく、機械が侵食してきたり、月は地に落ちてコンパスも(円を描かずに)完璧を砕き始める、そんな世界観が土台にあって、でもその土台を途中から壊す手癖が私にはあるので、あとは滅茶苦茶にしてやった感じです。発展で、家の庭の選挙とかがあったりします。そこからが本当の超現実だと思います。ジャンプ台から跳躍し羽ばたいていく二段階動作で、シュールの毒々しさを緩和する手法の試みがしたかった、というのが私の考えでした。 日本現代詩人会だけでなく、詩と思想、現代詩手帖各々に、このような詩で挑戦したりはしてるのですが、あまり相性が良くない&私がまだ使いこなせていない感覚がします。それよりもこのシュールを取り込んだ散文詩の「針園(はりぞの)」や「T RAIN」が選ばれていきますね……。だとしても、この詩のようなスタイルは捨てるつもりはありませんが。 (「クロス・ゲームの手紙」MV)

2024-05-10

最近「フォレスト・ガンプ」を観直して、「クエスチョンマークのような背骨」という表現がありました。では、「音符のような背」とは何か。 4分音符ならすきっとした背骨だけがありますが、8分音符では符棒(はた、と呼ばれるもの)がついて、曲がっている箇所もあります。人それぞれ、ひねくれてしまう音符や真っ直ぐな音符の背を持つということでしょうか。まあ、すべて乾燥した音符で、良い旋律が奏でられるとは思えない。無理やり寄せ集められた組織で合奏され、「いい演奏会でしたね」と言われ解散させられる。農夫は、どうなんでしょう、自然と触れ合う時間が多いから、人生のミューズに近い存在でしょうか……。 逃げの先に何もなかった、という所から人は改めてどう生きるのかを決断していくようにも思います。戻るべきと考えるのか、新たな場所をそこに作るのか。逃げそのものを場所ととらえるのか……。 人生をよく俯瞰できている詩で、表現が巧いからこそ、さらに鋭い言葉が欲しいと、少し思ってしまいました。 (ひとは働いてしんでいく)

2024-05-10

針はクルクル、コーヒーカップはグルグル。この質量感覚がいいですね。そして、コーヒーカップは時計の針と違って、自分の力で回さないといけない。それにより回る速さがそれぞれ違う。私たちの時間は時計の針の進みではなく、それぞれのコーヒーカップの回りだと、的を得ていると思います。 おまるたろうさんも指摘していますが、コーヒーカップなので最後はストロー(だとおかしいですかね、銀のスプーン)とか他のものを出すか、ベッドの上で寝ながらもそこは遊園地内で、横を見るとコーヒーカップがまだ回ってる……みたいな展開、もっとひねってもいいと思いました。 所々にみられる、「小さな子ども大人」、「音楽カップ」というところをあえて区切らない部分も、リズムの意表をつく感じがしていいです。 (針とカップはくるくる回る)

2024-05-09

紅茶猫さん、コメントありがとうございます。 アイスクリームについての解釈は、私は、自分の分を捨てているだけのように思っていました。しかし、比喩だとして解釈を広げるなら、父の存在そのものと見たり、自分の感情だと見えたり、確かに色々出てきますね。一個は溶けずに残っている、というのも重要だと思います。なぜ一方だけ早く溶けたのか。 戦争のデモ隊については、ドゥルス・グリューンバインさんの特集号の時に、確か「日本は閉鎖的なテーマを扱いがち」(違っていたらすみません)というような意見を読んで、それに反抗するように取り入れた要素でありました。 家という個々の問題も、重要な問題のひとつでしょう、と書き上げたのがこの「針園」でした。確かに、戦争の問題とか世界平和の壮大なテーマにも向かうべき時が必要なのは、分かるんですがね……。 (針園(はりぞの))

2024-05-07

あら、コメントがついていないのが残念です。 現代らしい詩だと思ったのに…… 第一連と第三連、「Ai」から「愛」に頼るというのが巧くていいですね。ずっと前に、「近道」を教えるよりも「歩いて楽しくなる道」をAIがナビしてくれる機能を思い出しました。ただ、そのように管理されていく人間の、「心」ってなんでしょうかね。 自分自身で検索をかけ、その経験から自分の定石を得ることが好きで、だから自分を「愛」せていたはず。「勝敗」よりも「愛」を取る終わり方がいいですね。 少し欲をいえば、将棋盤と身体がリンクする表現として、ます目とかのモチーフも出てきて欲しいなと思いました。 (将棋)

2024-05-07

他の方が触れていないところでいくと、「カタカナ」の問題でしょうか。 カタカナはデフォルメの力が強いですよね。濁音や半濁音が頻繁に入ってきて音楽的になって、「デブ」という有害な存在も「かわい」くなっていく。「レンジ」も無理やりこの解釈に盛り込むと、対象をやわらかく溶かす道具(これまたデフォルメする道具)として、この「おれ」に重宝されてたりしたのかもしれません。 面白いのは、最後の4行で全くカタカナが出てこなくなること。洋食を詰め込んだカタカナの宝庫だった「デブ」が飛び散り、「レンジ」も使い物にならなくなった。 最後に闇が完全に街を覆うことというのは、デフォルメができない世界になるということを直感しました。違うかもしれませんが、物が何も見えなくなること=対象との適切な距離を置けない=デフォルメができないこと のようなことでしょうか。 難しいですが、面白い詩です。 (びっくりするほどのデブ)

2024-05-06

コメント、ありがとうございます。 なんか、草です。 サークルクラッシュなんて。まあ、節度を守ってひっそりと活動していきます。そろそろシュルレアリスム詩に戻ってゲテモノを投下しても良い頃ですね…… (T RAIN)

2024-05-04

コメント、ありがとうございます。 拍手の考察について、私の中で解像度が上がりました。ありがとうございます。一つ、そのような視点から見ると、この詩は隠された音が散りばめられてあると思います。 雨の音(ザーザーなのかシトシトなのか、人による曖昧な音)、列車のドコドコ走る音(ただ、ユーモアに振り切ってるので非現実的な音)、カラスの飛ぶ羽の音と轢かれる音(これは結構インパクトのある音かもしれませんが、直後の「真似しやすい」という回想で打ち消されてる感覚がします)。 これらの音より輪郭が強く、かつどんなイメージも介入させない「拍手」だけが異質な音です。確かに読者は「単なる雨音の比喩ではなさそう」と思うかもしれません。祝福という概念への鬱陶しさ、確かに秘められていそうです。区切りを強制的につけられるあの感覚……たしかに、たしかに。 アイデアがふくらんできました。ありがとうございます。 (T RAIN)

2024-05-04

コメント、ありがとうございます。 他者の作品は自分を映し出す鏡という仮説を持ってます。私も、佐々木さんの詩を見て同じ感覚を持ちますよ。かつ、私はまだ佐々木さんの作品に対してコメントできるレベルじゃないなと踵を返してしまいます。自分の届かない場所にいる、と私の目からも映ってます。いずれコメント欄にお邪魔したいものです。 それはさておき、「誕生日」についてですね。最初は、現代人の滑稽さを描こうとして配置しました。安っぽい理由からくる怒りですよね。こういう人を見ると鼻で笑ってしまいます。でも、比喩だと捉えるとするなら、電車が何駅も回って自分の駅に到着するように、誕生日も一つの駅ですよね。祝福が色んな人の誕生日を回っているのに、自分の駅には来ない。雨の拍手は望んでいない。365日も待っていても目の前を通りすぎていく絶望感があると思うと、アレ、簡単にバカにできないな、とは思います。 そんな具合でしょうか。 ありがとうございます。 (T RAIN)

2024-05-04

コメント、ありがとうございます。 一つ言えることは、生きていると私が叫ぶ時、ほとんどその声は他人から発せられている感覚がします。幼い頃の友人、通りすがりのあの子、テレビに映るニュースキャスター、誰かの声が降りてきます。だから、皆で叫んでる感覚ですかね。 他人の嫉妬などの感情も詩に取り込んでいきたいです。個人的に、今の自分のライフイベントが嵐の前の静けさの中にあるので、それに備えて自分の真の声も整えたりしていきたいです。 ありがとうございます。 (T RAIN)

2024-05-04

コメント、ありがとうございますw 思考パターン、今回の詩作の過程は、今までの作品の試みの盛り合わせだったりします。他人の作品のイメージを拝借したり、でも自分だったらこう考えるのに。と、自動筆記による無意識と理性による時間をかけた分析でバランスを取りながら作っていました。確か。 選評にもあった通りですが、課題がまた一つ見えまして、要は詩の調が見えない時がある。転調しようにも、今転調したの?と気づかれなかったり、無調音楽でも聴き続けると疲れたり、むやみやたらにイメージを拡散させるべきじゃないなと。 限られたメロディとコードで、洗練された構築を目指したいですね。アイデアをひけらかして、それを一曲のうちに出し切るのじゃなく、ちゃんと踏みとどまっていきたいです。 とは言っても、私の中では詩の雰囲気は一貫してると感じてたので、その感受性から培わないといけないですね。 ありがとうございます。 (T RAIN)

2024-05-04

コメント、ありがとうございます。 これからも効果的にオノマトペを使っていきたいですね。音が意味を呼んでくるのと、意味がバラけて音になるその二つの効果、その発展の先に行けたらなと思います。 ありがとうございます。 (T RAIN)

2024-05-04

コメント、ありがとうございます。 好きな一節、ため息が出てしまう言葉を持つ詩に私もたまに当たりますが、届ける側になれてうれしいです。 通勤ラッシュ、あの混雑さ、息苦しさ、同じ場所へ向かう一体感、うっとうしいですよねえ。 ありがとうございます。 (T RAIN)

2024-05-04

すぅさん、私は成長していると思います。それも2ステップほど飛んでいるような感覚。私は覚えてますよ。 メルモさんの指摘にあるようなことからの脱却法を具体化しますと、たとえばこの詩で思いつくのは、「星を地上に埋めること」のデメリットが描かれていないことだったりします。 宇宙人の気持ちを考えると、可哀想だと思ったりしませんか? 「僕たちが見てる星でもあるのに……」と私は声が聞こえてきます。または、星は銀河の白血球だと捉えると、宇宙が風邪ひいちゃうんじゃないかな、とか考えたりします。 要は現実の眼から見てもリアルかどうかなのかな、と。得する者もいれば損する人もいる、という方がリアルで、でもそれを遠回しに、フィクションに乗せて伝えることで深く刺さる。 でも、すぅさんの強みは突き抜けた純粋さだと思うので、「宇宙人はめそめそ泣いてるけど」というようにポロっとデメリットを見せて次の希望的な行に進むくらいが、面白くなるかもしれません。虚構だけど、えげつないほどの現実が隠されている、という詩や小説が、私は好みで、美しいと認められやすい傾向にあるかも、と経験則から。 でも、すぅさんは成長してると思います。しかし、この詩より針とカップの詩の方が面白いのに、なぜこっちにコメントが集中してるのでしょうかね…… 長文失礼しました、ご参考までに…… (君へ星の贈り物)

2024-05-03

さて、来週のサザエさんの予告ファイルを送信します。お使いの電脳アダプターをONにし、各自ダウンロードくださ~い。 「カツオです。かおりちゃんに振られた中島が、ヤケになって速球プログラム義手手術を受けたけど、格段に野球が上手くなったりするもんじゃないんだね、アレ。そもそも野球なんて時代に遅れたものをやってて、後悔先に立たずだよ。来週のサザエさんは、『中島の義手手術』、『タラオ、第四次世界大戦を知る』、『くだらない諍いに浸りながら』の三本です」 「マスオです。SPACE TOKYOに出張に行くことが決まって、宇宙服を新調しようと思ったけど、最近の宇宙服はどれもデザインが奇抜で目が痛くなるよ~。でもこれを機に、サザエにも新しいApple Glass 8を買おうと思うんだ。お土産も、期待しててねえ~。来週のサザエさんは、『マスオ、宇宙へ発つ』、『わしの超高性能カメラはどこじゃ?』、『花沢さんの世界に向けたスピーチ』の三本です」 「タマです。人語翻訳機が害悪な電波にやられ、久し振りにニャ~と鳴いてみるとその可愛さに皆メロメロ。瞬く間に動画がバズってしまった。今までミカンの中でダンスさせられたり知能テストを受けさせられたり散々だったけど、結局は自然体が一番なんだニャ。次回のサザエさんは、『タマの声よどこまでも』、『消え去った夏』、『AIって知ってる?』の三本です」 次回から、映像の倍速速度を速め、二本立てから三本立て(計9本)でお送りします。 それではまた明日も観てくださいね。ジャン、ケン、ポン! ウフフフフフ (B-REVIEW 5月のお題詩「サザエさん」「ハンディキャップ」 )

2024-05-03

巷で話題(だった?もう古い?)の猫ミームなんか、こんな感じだったなぁと思いつつ、詩に巧く落とし込んでいると思います。 意図的かどうかさておき、猫ミームだと辛さや話の現実味が薄くなって、手軽に見れるやさしさがありますが、この詩では猫の部分と現実が分離している。 現実と、遊びが混ざらず、猫ミームのようにはいかない、「皆の現実は本当はこうでしょう?」と訴えてくるような、そんな詩だと思いました。 等身大の現実でもよかったですが、もっとエグイ現実を置いてたら、分離の効果はどうなっただろう? とは思いました。 (天国)

2024-05-02

タイトルだけを見た時、 クエスチョンが終わることなのか、クエスチョンが提示されて終わるということなのか、予想していたがまさかどちらともだったとは。 最後のニ連だけを見ると、子供から大人になることのつまらなさがあって、でもおそらく他の「人混み」と同じように疑問を持たずに慣れていく。しかもそれは、エンディングではなく「タイトルコール」という形でやってくる。おそらく、首を傾げたくなる終わり方をする作品が、そこにあるのだろう。私たちの人生。 鉤括弧が二つあるところは、そう解釈しました。 風に流されるも、結局は同じ地上という目的地に着いてしまう雨より、確かにずっと雲のままでありたいです。どこまでもゆけるので。雨と紙一重の存在ですが……。 (クエスチョンEND)

2024-05-02

「実際の牛はそんなことをしない」 実際/演技とは何でしょうかね。 牛が春の蚊を叩こうとする→女性が口説きに来る男を払って独りで飲む と照らしてみると、そんな女性いないという皮肉が込められているようにも思えます。 ただ、そんな態度だから彼は牛に刺されそうになって、「演ずる仕事は難しい」と挫折する。この人にとって、本当に難しいのは現実(実際)の方だろうなぁと思いました。むしろ、彼こそ演者に向いてそうな気さえします。 (演技)

2024-04-30

A・O・Iさん、手厳しいコメントを残してらっしゃる…… が、私もおおむね同意で、素材を深く覗くというのはすごく大切です。 これは最近の私の課題でもありますが、 詩に並べられる語が、 「ABCDEFG」と変わる詩のコントロールは難しく、言葉たちが空中に放り投げられている感覚がすることがあります。意図的で、何か美学がそこに見えれば良いとは思います。 「A→A'、B→B'」と法則性をチラチラと見せながらたまに「F」に飛ぶ、などの罠にかける緩急の仕掛けを意識すると、深みが出るのかもしれません。 作品についてですが、A・O・Iさんの言う元ネタかは分かりませんが、「青猫」というと最近、杉井ギサブローさんの「銀河鉄道の夜」のアニメを観まして、それが想起されました。普通、青猫っていないですよね……。狐が出てるので、元ネタではないかもしれませんが。 ただ、 水に飛ぶことや、夜のイメージ、時計も重要ですし、喜劇のような悲しみでもありますね。目が覚めるのも含め、似てると言ったら似ています。 そう考えると、あまり霧散してるような詩に見えなくなってきたような……。独特な魅力を持ち始めるようでもありますが、「銀河鉄道の夜」と結びつかなかったらどう感じてたか分かりません。 (『外へ攫ってった青猫』)

2024-04-28

こういう枠組みを壊す作品が好き。 特に「これ以上は新しくはなれない」というフレーズ、「静かに!」からの展開は、単なる出落ちでは終わらせないセンスが光っていると思います。 あれ、「投降」になってるじゃないですか最後! それもふまえてちょっとまとめると、誰かが、現代詩はランボーが試行したことの焼き直しと言ったことが思い出され、哲学においてのそれはプラトンのようで……。私はあまり好きな風潮ではないですが、その絶望に立ち向かうのが心地よかったりします。 「新しい」ことなんてもうないのに、もう死臭しかないのに、私たち詩人には詩が迫ってくる。いや、死が迫ってくる。だから生き延びろ! と訴えているのでしょう。けれど、私たちは書かざるを得なくなる。新しく投降なんてせずに、懲りずに。そんなような、詩作に関する一つのテーゼが、タイトルの仕掛けによりバグのような表出がなされた。良い作品です。 (これより新しい投稿はありません。)

2024-04-26

結構前に、土橋治重の「月見草異聞」というものを読みまして、とても好きな詩だったんですが、その詩の雰囲気、書き走り出しがなんとなく似ていて「おっ!」と思いました。 詩人のみうらさんと、「私」はどういう関係なのでしょうかね。詩人、とタイトルにあるので、詩に関するエピソードなど、もっと盛り込んだのを読みたいなぁとか、思いました。 とにかく、この感性・ひらめきを持つ人がいるとは思いませんでした。砂まみれさんのおかげで、土橋治重さんの全詩集を買う手がやっと伸びました。ありがとうございます。 (みうらさんは詩人ですね。)

2024-04-26

キーワードは、「はだか」、「うつくしさ」、そして「波打ち際」。 無理に着飾らず、形式美にもとらわれず、少し濡れるだけのマニキュアと豪快なかぶりつき。その方が心地よく感じる時期がある。 そう感じることができるのは、オレンジが静かな波打ち際を見せたから。波に乗り、水平線の遠くにかつての理想が流されていったようで、取り残されたのが私とオレンジ。それならもう、何をやっても構わない。 波からはぐれた新たな理想の種をちゃんと掬って、別の生き方をしていくことを決める、力強い詩でした。 オレンジ大好物です。 (オレンジの波打ち際)

2024-04-26

好きなフレーズだけを、まず抽出してみる。 「名前を殺した銀の縫い針で純粋で平和な星の生き物の残響などを弾く」 「ああ、かき分けて運行する魂の増減が、縫い合わせた落石により捨てられた冷たく長く浅い朝」 「このなにかに縋りつく妄想、逃げ場を求めて。風になびいて消えたりみえたりを繰り返していた」 「窓の外はもうしゃがれた風を置き去るばかりにボロボロだ」 「さっきまで脈打った常夜灯は穢れ、土壌の逃避経路はビオトープの斜面を愛でるばかり」 「星廻り沈没船」 並べてみると、これだけでも詩になるような感じがしますね……。初めてこのような抽出をやってみましたが、「星」や「風」、光の明滅の表現に惹かれます。私の趣向というより、著者の筆が光る箇所なのでしょうか。まあ、「星」はタイトルにあるので、表現を凝ったところかと思います。 「星廻り沈没船」 空に沈没する船が星を巡っていく詩。まずはそこをおさえれば、平和な星を弾いたり、船に乗って落石を縫いゆく魂のイメージなどが、入りやすくなるな、と思いました。また時間を空けて、再読してみます。 (star-crossed wreck)

2024-04-26

「わからない」と言われること そもそも詩は突き詰めたらそういう「わからない」世界なのに、何を言ってるんだろう? となりますよね。でも半分、「わからないけど、凄い」とか、「吐きそう」とか、その先の言葉をなんとか引き出せない自分のせいか? と、反省したりします。気分によりますが。 大衆も、詩に精通する人も、全員転覆させる力を持つ詩を書いて、さらにまたひっくり返して…… 自分としては、そうやって他人を翻弄していく時が楽しいですね。そのためには自分も踊り狂わなければいけないですが…… コメントがついてなかった詩、コメントしようか迷いました。面白くて、何か言語化できそうだったんですよね。もっかい見てみます。何も言えなかったらすみません… (干満に体温)

2024-04-24

これ、どういう関係なんだろうか。 たとえば親子だとすると、胸に届かないくらいの背→小学生くらい? それが十年前だとしたら、今、20歳近くになったまだ親離れできない我が子との詩になる。 恋人だとしても、まだ男子が女子の背を追い越す前→これまた小学生くらいだとしたら、それから毎日一緒に寝ている関係?  姉弟だったりすると、恋仲のニュアンスがする「きみ」呼びとズレがあったり。 もしくは全てひっくるめて、義姉弟の話かもしれません。血の繋がっていない者どうしが一つ屋根の下に眠る。そう考えると最後の締め方もしっくり来て、「何が変わって何が変わらないのか」を気にするのは、「家族」にも、もしくは「恋人」などにもならない関係をみつめているんじゃないかなと。だから、「きみ」と「わたし」。何の関係・情報も明かされないんじゃないかな、と思いました。 読む人によって関係が変わっていきそうです。 (夜中)

2024-04-24

再コメ、ありがとうございますw 騙せてたのか! という少し嬉しい気持ちですが、その騙し方も研究したいなぁと思います。音韻拝借、その他色んな殻の破り方を試して、自分の作風をアップデートしていきたいですね。 A・O・Iさんは分かりやすいですね、このビーレビューという場だと。ただ、あの最新作は特に面白く他と違う雰囲気だと思いました……。ありがとうございます。 (干満に体温)

2024-04-24

1.5Aさん、コメントありがとうございます。 私としては、陸と海の境界である浜辺を歩きながら、陸と海、どちらも干満、冷熱が激動するのを眺めている人のイメージがこの詩にはあります。 陸と海、どちらの「波」に呑まれるか分からない不安や期待、今にもどこかにさらわれてしまいそうな存在の淡さが、透明感につながったのかなと、思ったりしました。ありがとうございます。 (干満に体温)

2024-04-23

印刷物の内容は誰も読まない でも、「がちゃん がちゃん」という音が深夜まで続いているのは聞こえてくる。 監督や、キャッチする人の声はその機械の音に吸い込まれ、彼らの細かな事情は隠されている。 機械音だけを聞き、過剰な肉体労働だ! とこの状況に寄ってくる人はいても彼らの頑張り=「印刷物の内容」が報われることはない。 そして、現代においてこの印刷という業務を描くのも皮肉で、 現代の労働とは。ブラックからの救済とは。と考えさせられる詩でした。 良い詩でした。 (朝野球)

2024-04-23

対峙とは、双方の対立状態のこと。 満開の桜、全開の枝のような心(の持ち主のこと)、この自然と人間の清い心の二つと対峙できる(比べられる)ものは「なにもない」、ということでしょうか。 タイトルも意識すると、「満開の桜」と「全開の枝のような心」の持ち主と「棒立ち」の自分を比べて「なにもない」としてるのか。直接的な卑下として書かれていないのでこれは偏見になってしまいそうです。 ただ、上の解釈でいくと滑らかなカメラワークだと感じます。春の雨と太陽という自然だけの第一連、第二連で「私の心」、と人が出てきて、さらにカメラが引いてその三番目の視点が置かれる第三連。いいですね。 (棒立ち)

2024-04-22

なるほど。 言葉たちにも磁力があるように思うので、それらの引かれ合いの強さを私は読んで感じてました。 書かされるということも、一種の楽しみというか。自分は最近、詩作は「メン・イン・ブラック」だなぁと思っていて、詩という宇宙生命体とコントするような感覚でしょうか。 捕獲しようとしてもできない、踊らされたり、追いかけたり、戦ったり、遊んだり。詩人は名前などの素性を消されたあのウィル・スミスのような存在だと思います。 まあ要は、詩人はもっとコメディアンであっても良いような気もします。ずっと、宇宙人に良いように利用されてるのも良い気はしないので、シリアスに立ち向かう時も必要ですが。そのバランス感覚でしょうか。 (feather plain)

2024-04-21

コメント、ありがとうございます。 おそらく書いていた当時は自動筆記に近い、音韻拝借(他の方の詩の母音の並びを拝借してイメージを乗せる)で書き上げましたが、それをしばし期間を置いてから美しくないところに手を加えた感じです。一応、連ごとに干潮、満潮、熱気、冷気が交互にやってくるような仕掛けを意識したりしてるのですが、自動筆記かどうか微妙なラインですね。作品の源が自動的なので。 黒い木、一体なんでしょうかね…… でも、久しぶりにこの詩に来てみたら、新しく生えていたんですよねぇ、浜辺に。だから、さらわれてしまった…… (干満に体温)

2024-04-21

放っておいてほしい詩、解釈してほしい詩、我々が人と接するのと同じように詩も生きて何かを訴えてくる感じかします。 私の心境の変化も関係するかと思いますが、詩ってそういう生き物のような気がしますね。お節介かもしれませんが、言葉たちがなぜここにこのように群れたのか、考えざるを得ない詩だと思いました。 自分で書いたものに対して新鮮に楽しみたい 確かに、常々そう思います。 (feather plain)

2024-04-20

ことばのシャワー という表現が素敵ですね。 ただ、ことばは確かにそのような性質を持って当然かもしれません。大切な言葉ほど、掴めずに忘れてしまうものです。詩はまさにそれを体現する世界に思えます。 A・O・Iさんも指摘しているように、答えというか、その独りぼっちの大海原でも、その海はことばのシャワーが溜まったものなら何か前向きになれるものがあるはず。陽に照り返す水面に信じるべき言葉があるとか、深海から呼ぶ声を求めて潜っていくとか、前向きに進む表現が欲しいですね。 (波間で)

2024-04-20

第一連、フェザープレーン目線から描かれた詩か。穏やかな風が川を撫でているよう。地上の花の高低差をなくそうと推測されるも、「ほつれ」→それはお門違い。そもそも高低差をなくそうとするのは何のためか。 それは、ある芝生に着地する夢。ただの芝生ではなく硝子球越し。実現可能とは思いがたい夢の表現で、これから永遠と飛んで彷徨う風に乗ってしまったように思う。 第二連から一変。イメージは、ある人から送られては押し入れにしまわれた山積みの便箋の、その記憶の塊に触れようとする一人の哀愁。風に乗ってきたのはこの便箋か。 第三連、穏やかな時間がそこらに滲んでいく。安直かもしれないが、ある行為が天に届くかどうかを思うのは、想い人へのつながりを希求するものか。あの人に会えない重い時間に、自分なりの角度を与えて平穏を得る。ただ、届かないほどの息も吐くだろう。 第四連、難解に思えます。が、わずかに解釈の間隙を見ようとするなら、歪んだ薄雲を生み出したり、大地を暈したり、想い人との距離・空間を超越しようとする絶妙な光のことなのかなと。第三連の、「自分なりの角度」の一つ。 第五連、第一連からの所感をふまえ見てみると、「静かな迷い」とは「目的地にたどり着くかどうかの疑念」でしょうか? それとも、「目的地にあなたは留まっているかどうか」でしょうか? 色々思わせられます。 ただ、それをも鼓動にして飛んでいく。その人は、生まれ育った街にいるのでしょうかね。 最後、無事たどり着いたのでしょうか。体が傾いたのが、諦念からの墜落ではなく、花道が見えたからこその着陸体勢か。その結末も暈され読み手に委ねられる。 読み落としている要素が多々あるかと思われますが、繊細で美しい詩だと思ったので、自分なりの詩のイメージの軸を通させてもらいました。良い詩でした。 (feather plain)

2024-04-19

一連目から面白いですね。 自分を軸にしていると書き出して、すぐに他人に目が行く第一連。自転して月と太陽がパッパと回ってくる速度感があります。 第二連と第三連も同様で、自分の感情に焦点を当てた後に世界を見る。空気の「のみこみ」方という自己ありかたについてと、「はきだす」という他者への影響を考えていく。 最後は地球をも気にかけています。地球って、ひとりぼっちの星な気がしますね。こんなに生命の責任を背負わされてる、相談相手の星がいない。 自己と他者を目まぐるしく意識すれば、最後のように回り疲れるのも無理はない、というような詩に思いました。 (ぐるぐるまわる)

2024-04-19

シミュレーション仮説と、それに抵抗していくような詩だと思いました。 隣の部屋から聞こえる音が「生きている証」だとして、シミュレーション仮説などバーチャルな思想が生まれている現代、世界の鼓動はそうやって聴いていくのかもしれない。視覚でだけ捉えるのではなく、音でも。 けれど「キミの心臓」は残酷にも規則的。「私」は自転車の運動で、無機質な世界の有り様から逃げようとしているよう。シミュレーション仮説のように世界を割り切れればいいが、そうなると遠くにいる「キミ」の生を感じられなくなる。ぬくもりが永遠と記憶に残り続ける、この「記憶」という触覚のような感覚も現代、大切ですね。 (ひとりぼっちの夜に)

2024-04-18

「ちん しゃん しゃん」 閃くように瞬間があって、そのあと雪が降るように消えていく。記憶に音がつけられた良い表現だと思いました。 「彼」が不登校だった理由を訊いてなかったのか、どうなのか。本当は訊いていたのかもしれない。だから、言い足りないものがあるような気がする。けれど、その記憶が路地を通ることはない。街が変わり、そこに住む人も変わるように、頭の中の街にもうその人(記憶)はいないかもしれない。 それでも、夜明けに目を奪われるのは、今までと変わらない光を投げてくるからか。あの光だけは昔から自分を見つめてくれている、そこから記憶が届いてくることを、願っているのだろうか…… 良い詩でした。 (夜明け前)

2024-04-17

初投稿者ということで、二作品見てきました。「かますか」「経ったわ」などの韻からラップ味を感じ調べてみるとあるアーティストの名前を文字っているのですね。 アンダーグラウンドの精神は好きなのですが、私はもっと読み手を突き落とす悪魔のような詩が好みなので、「笑えよ」と言ってくれて優しい詩だなぁと思います。まだ作品は読めていないのですが、済東鉄腸さんという方のエッセイオススメかもしれません。 有り余るエネルギーをどこに使うか、どう使うか。読み手に話しかけるやり方もいいですが、背中を見せて分からせる詩も今後読みたいですね。 (上を向いて歩くな、つまづくぞ)

2024-04-16

ないものは ないものだけ 「永遠」というものが「ないもの」ならば、この詩は儚さも纏い始める。 桜の花びらもいずれ散り、春もいずれ過ぎ去る。人々も移り変わる。iPhoneも、新たな文明の利器が出ればガラケーのように忘れ去られていく。(座禅……宗教に関しては勉強が足りないですが) 今日と同じ日常がいつまでも続くかどうか。ただ、そんな非日常への不安も「今」はないから考えない。ないものはない、と考えて割り切り強く前向きになる一方、上のような「永遠」の不在による儚さも背負う。そんな詩に思えました。 (ある)

2024-04-16

その人は、権力を持つことの重さを、測れる道を進んできたのかというのは、考えますよね。 どれだけ頑張って知識や経験を積んでも勝者の称号を獲得できない、となった時、「成功にはまだ足りない」と思えることで、上の地位の本当の重さが測れてくる。 色んな要素がありますし、平等は簡単に崩れるので上の例から漏れるものは沢山ありますが、経験を積まず上に行けた人は、その後やはり苦労しそうだなと思います。その前に嫉妬が来ますが。 それはそうと、前半は読んでてムカムカしますが、最近、お偉いさんにまずは認められないと意味がない、という媚びを原動力とした人と話しまして。でもその方は、システムからこぼれ落ちようとする私の生き様を見て羨ましがっていました。ふざけているのかと思いきや大真面目で、そう易々とシフトチェンジできるものか、と内心思いつつも、もうみんなが皆、何かの役を好きな時に演じていくような人生かもしれません。 革命の「茶番」も、その時その時の配役で行われるのかもしれません。 (極北、またの名を老害)

2024-04-16

「可能性」という言葉は、その事柄について不満のある人が使う というような言葉、「アメリカン・フィクション」という映画で最近聴いて、強く心に刺さったものです。 「わたし」の周りに果てしなく空間が広がる。その限界を超えられる。自分についても、「くじら」ほど巨大なものになれる。可能性について考えて、第七連から現実の「不安・不満」が描かれる。 単なるまっくろな視界ではなく、「まっくろなえきたい」というのも、どこまでも自分の中を侵食してくる「不安・不満」の強さかなと。 第八・九連はまだ私の分析が及ばないほど、良い詩的表現だなぁと思いつつ。最終連で「かなたのかなた」が出てきますが、そうやって「かなた」に懐疑的になることで、私が前半挙げた話のその先を穿つ詩になっている、と思いました。 良い詩だと思いました。 (わたしについて)

2024-04-15

黒髪さん、コメントありがとうございます。 「針」というモチーフ、私は今まで何故好きなのか分からずに使っていましたが、「痛みも安心も与える」といった二面性が、あの細い形に詰まっているからだということに今気づきました。お恥ずかしい…… 自分の中の針。「視線が痛い」という表現があるように、私たちは見る時も刺したり、言葉でも刺したり、色んな針を持ってますね。又、針、と言うのだから狭いところしか見えない、言えない。人間関係のもつれは言葉足らずから起こったりしますね。 それでも何か芯を突き刺すような、もっと細い針を研いでいくのが人間なのかなと、思いました。ありがとうございます。 (針園(はりぞの))

2024-04-12

トビラさん、コメントありがとうございます。 ご指摘されている点について 冗長さは、確かに好みの問題かもしれません。ただ、おっしゃる通りこの詩が何か「正解、解決」に向かっていかない詩だからこそ、泥のように進む日常→冗長さを生んでいるかもしれません。 冒頭の針の薬を手に入れるところ、確かに薬局ではない場所で異様な始まりですね。ただ、詰めが甘くイメージ通りに描けていませんでした。自分の中では、看護師は幻覚のように現れている感覚でした……。 「ので」 という接続詞について、美しいかどうかを見る前に私には「リアルかどうか」という判断があります。この詩以外にもたまに使いますが、チグハグさ、引っ掛かり、分裂などの感覚がその詩の雰囲気に合っていると思った時に使う感じです。今回はマッチしていると思いました。 余談ですが、最近の邦楽にも、歌詞の文節の途中で曲の小節を変え、分裂させることで新たな展開、メロディが生まれている傾向があるように思えます。私にはまだ真新しく感じる手法で、「美しいか」どうかの考えはまだ固まっていないですね。ただ、邦楽に関しては若干嫌悪感があります。 農夫の連については、二連目と四連目を同じ感覚で書いていました。前の第一連で子供の遊戯を見ていたはずが、農夫に視線が移っている。ここは詩中主体の「私」が見てる景色かどうかは関係なく、時間を遡った視点な気がします。そうなると、四連目でも同じように近代的なモチーフを登場させれば良かったなと、思いました。 時間を横断する視点を置くことで、昔から紡がれてきた哀しみを背負い、それに潰されそうになっていく、というような感じを描きたかったです。 ありがとうございます。トビラさん、高確率で癖に刺さる詩を書いてらっしゃるので、ご活躍してるものかと……私が選考委員だったら贔屓してしまいます。 ともに頑張りましょう。緻密な分析、ありがとうございました。 (針園(はりぞの))

2024-04-12

「僕、バカ」 子音が同じbとkで、何とも連想されやすく、結合されやすい日本語の単語たち。いやらしいなと思いますね。 「なお白痴」というタイトル、「白痴」という言葉は今どのような使われ方をしているかまで定かに分かりませんが、詩を最後まで読んで立ち返ると、本当に「白痴」なのだろうか? と思わされる。 もしこれと同じように「白痴」の方も考えられるなら、ネットで出てくる「重度な知的障害」と定義される症状はどこに現れ、どこには現れないのか、と考えてしまう。 要は、「白痴」と言われるような診断をされていない私と、同じような思考・体験が書かれている。何が基準なのだろう……学びたいです。 (なお白痴)

2024-04-12

「隠すのではなくあえて手法の意図が見えるぐらいの露骨さ」 この加減をどうするかは課題のうちの一つですね……。 まあ、今の段階だと手法は隠す派ですが、露骨さに振り切って振り切る作品はまだ作ったことないかもです。 ありがとうございます。 (椅子取りゲーム会場ゲーム)

2024-04-11

おまるたろうさん、コメントありがとうございます。 構造的秩序が壊れている、というのはおっしゃる通りだと思います。 一つ手法を明かすとするなら、詩の書き方にも「椅子取りゲーム」を採用したという作品で、自分が気に入った詩人の詩の文体や作風を連ごとに座らせ、どこかに自分の作風も座らせています。 そのせいで、カオスな作品になったのかもしれません。おぞましさ、伝わってもらえて嬉しいです。 ありがとうございます。 (椅子取りゲーム会場ゲーム)

2024-04-11

黒髪さん、コメントありがとうございます。 そう言っていただけると嬉しいです。まだまだこれから研鑽の日々です。 mummy-Dというアーティスト、チェックしてみます。響きが似ていたので、Dannie Mayというアーティストも私からオススメしたいと思います。面白い曲ばかりです。 ありがとうございます。 (椅子取りゲーム会場ゲーム)

2024-04-11

メルモさん、コメントありがとうございます。 見事な駄作。とても求めていた言葉ですが、実際に言われると変な感覚です。自分の作風が、「失敗実験」という詩が体現しておりまして、「作品は作中、何かに失敗していないといけない」、というのがモットーにあります。 挙げていただいたうちの後者だと、私も思います。私には理解できるイメージを、原型を留めないほどにごちゃごちゃさせる。まあ、それだけじゃ面白くないので耽美(自分が思う)な詩もちょこちょこ書きますが。 「上手くあってはならない。きれいであってはならない。心地よくあってはならない。理解されたり、喜ばそうと思うな。認められない事を前提に自分をつき出せ~」 という精神に立ち返る詩中主体に気づいてくれて大変嬉しく思います。 椅子取りゲームと会場ゲーム、という二つのゲームがある、と分けた考えも、私にはない視点でした。 文芸云々~という話のところは、閉口したいと思います。ああ、こんなにも解釈が広がるのだなと、天沢退二郎のあの詩のように「ふっふっふ」と笑っております。 ありがとうございます。 (椅子取りゲーム会場ゲーム)

2024-04-11

A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 好奇心を持たせる工夫、確かにと思いました。確かにある意味を持って今回この詩を書きましたが、自分としては結構ノイズを入れて何が真意かを分からなくさせたつもりでした。もっといじっても良いってことですね。ちなみに私はこのオチ、すっきりしてないです……意図的ですが。 まあ、A・O・Iさんが言うのは、「オチがあること」自体、すっきりするというご指摘ですよね? 今後の詩作に活かせそうです。ありがとうございます。 (椅子取りゲーム会場ゲーム)

2024-04-11

牛や鴉などの自然の生物、次にマードックといった知識のある科学者、そしてサザエさんという文化によって、我々の生活に地動説が定説だと浸透してきている流れがあると思いました。それぞれの関連性は見出だせませんが、どの物事も自然→科学→文化という流れで暴かれ私たちの社会に取り込まれていくでしょう。 それにより、ショッキングな子どもは減った、となりますが、完全に「いなくなった」とは書かれない。次行の、「歯の落ちそうな子」も減ったと書かれるが、これは永久歯に生え変わる子どもがいない→大人にならない子が増えていく、と考えると、地動説が社会に染みたことで何が起きたのかが分かる気がしてくる。 それは、もしかしたら地動説じゃないかもしれない、別の世界があるかもしれないという想像、飛躍。それは科学側からすれば「ショッキング」だ。しかし、誰もがその想像力を原動力にして新たな説を打ち出して、もしくは自分の中に筋を通し価値観を作り上げて大人になってきたのではないだろうか。 ワニや宇宙人など、生命の危機や未知なものを突き放すような終わり方をするこの詩の「我々」は、流れる花筏を追わない。花筏はこれからの未来の子どもたちの暗示ならば、川の先に何も危険なことはない、ということだろうか。 未来に何があるか分からない。ショッキングに、デンジャラスな未来に備えるための知力を身につけて、「宇宙人」に成らなければ。と肝に銘じさせてくれた、そんな詩でした。ありがとうございます。 (川は地動説)

2024-04-09

獣の精神へと立ち返る……「返る」、「再獲得」って、なんでしょうか? 私たちは既に、獣の精神というのを生まれ持っており、それを本能と呼んで生活しているのではないでしょうか? その本能が、弱肉強食の世界を生き抜くべく、知恵をつけるようになり、今の社会というのを作っていった。すべて本能の陸続きかと思います。 そうやって出来上がった今の社会を、その歴史を、すべて打ち壊すほどの野性をまた発揮し、新たな世界を築き上げろ、ということでしょうか?  また、神に近づこうとしていることを危惧していますが、その「おこがましさ」の精神は革命、のちの平等をもたらすものだと思います。「ヒト」として生きたとして、もし個体差による不平等が起きても、それが自然の摂理だとして運命を受け入れるべきだということでしょうか。それはそれで、生存本能による疑心で、神の権威が剥がれる未来が見えます。 要は、ここまで力を蓄えられるような進化、そしてその土台の本能を作った神のすべて思惑どおりの世界だと思います。突然変異で、皆が「ヒト」になったら、それが運命ですが、ひとまずこの詩を読んでも私は変異しなかったので、まだその時期じゃないのかもしれません。 (ヒトの再獲得)

2024-04-08

真実は真実である⇒真 事実も真実である⇒偽 偽証は真実である⇒真 思想も真実である⇒偽 あの花は貴方である⇒真 あの空は好奇心である⇒疑 この脚が地中海になる⇒身 その鍵が教鞭を執る犬⇒議 真実である健全な賭博⇒信 儚く散るブレーメンの野望⇒義 精度重視の闘争とパレード⇒神 どうしても伸びるこの僕の爪の垢⇒逆 真⇒実は君のことが尿管結石ほど好きだった⇒銀、河が脚本を読み間違える失態⇔偽 革靴が野望重視の好奇心である神⇒淫乱なプラスチックも貴方が地中にいるため逆に視⇒ん ⇒も真実であるかどうか分からない⇔↑←→↓僕らの舞台<√∝£Ω偽 辺鄙な思‡想の読み間違え@↑信じる犬の淫☆乱な革靴β←某、かまいたちの夜がぬるま湯!!⇒ω何気なく事実も真実である賭博賭博賭博賭博↓真 真⇒偽 ジャイアント〒スネークの歌詞が電波塔と駆け落ち。午後は脚が銀色&弁護士朝食抜き事件の、×ベルトコンベアだけが贈与税を攻略していくオフサイド会食⇒ポケット一つ鼻の舞台§ぎょう虫検査がどうしても延びる、年功序列なブレーメン重・視⇒真か偽 小僧の第二回*減数分裂コミュニケÅーション$ほうれん草、儚く散り∃管を巻きつけろ∞審議会⇒象の足音はどこまで垢を舐め続ける¶なのか僕らにも分からない⇒果てしなく果てない者らの闘争 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽偽 (B-REVIEW 4月のお題詩「エイプリルフール」「スタート」 )

2024-04-07

若さとは、青さとは何だろう。 確かに、「精密なリズム」が一番心地よく、正しいものだと考えていたことかな、とぼんやり思いました。 「底知れぬ浅さ」という撞着語法がいいですね。 若者は、人の内面と外見を見て、相手のことをほぼ全て知った後、その先に何をすべきかの力がない時期だと思います。だから、内と外を飛び回り尽くしたら、体温だけが感じられて残っていく。まだまだこどもなんだと改めて気づく、そんな軌跡が清々しく描かれた詩だと思いました。 (私も若者のくせに生意気な…すみません) (24歳の海)

2024-04-06

言い回しがロックでいいですね。 音楽は、第二連にも見られるように、身体性の復活をもたらす力があると思います。拍動、声、その他身振り手振り。 身体のスターである一方で、第三連では、何者かになれなくても突き進む革新的な精神がある。不屈な心です。 そして最終連、反復はサビの常套手段で、第三連までの心身ともに先をゆくロックスターの不滅を謳っている。ロックスター自身ではなく、信者の口から出る声です。 信者の身体と精神を蘇生し、歌えるようにして、彼らの無数の声を引き連れていく、ロックスターのあるべき姿が浮かびました。 (CRAZY Hi-Fi L.S.S.)

2024-04-05

おまるたろうさん、コメントありがとうございます。 最終的に針を、精神や生活の見えない領域に成長させた展開だったのですが、好みの問題でしょうかね。 思考が突き破られたり、認識を歪ませられたり。日常を再開しようにも、どこかズレ始めている、それに気づかない。私にはこの末尾はおぞましくて見てられないですね。 (針園(はりぞの))

2024-04-04

アイデンティティは社会の盾かもしれません。 この詩ではそれほど、無理に自分を装わなくとも過ごせる平和な環境だと、捉えられます。 しかし時に、受け身的なアイデンティティは、詩にあるように相手のアイデンティティが流れるのを許すため、上手いようにダシにされる場合もありますね。最終連、無意識にその予防が貼られていく感じがします。 お金忘れてるぞボケ!! ってストレス発散で言ってくるオジサンのアイデンティティを120%引き出してしまう可能性もある、ということです。運がいいなぁ、と読んでて思いました。 (シンプル)

2024-04-04

メルモさん、コメントありがとうございます。 社会の実情の丁寧な分析と、詩との照合。そして、 「薬剤を注入しあるいは血液を吸い取る管のある針。そして同じく管から養分を吸い取る植物の根。」 というような、詩に対しての構造を見る分析、大変面白く読ませていただきました。 他の方へは、「ヤングケアラー」という言葉を出しましたが、その構想にぼかしを入れ、「ヤング」かどうかを曖昧にし、「老老介護」の実態にも届くように詩の射程を伸ばしました。 シュールさが、語り手の疲れから出る世界観、という指摘もおっしゃる通りだと思いました。 このような考察がされて、とても嬉しく思います。ありがとうございます。 (針園(はりぞの))

2024-04-04

秋乃夕陽さん、コメントありがとうございます。 作者がこの状況に置かれているかどうかの批評は、なかなか危うく思います。苦しみの表現は、苦しみの中にいる人にしかできないのでしょうか。作者は今その状況を乗り越えた経験があったり、もしくは未来を予感している場合もありますよね。 表現は経験に則ると誰かが言っていましたが、則り方は多岐に渡ります。方法として、この詩では、第七連までは個人の経験に則り、最終連のみ、他者の「ヤングケアラー」の実情に胸を痛めた、その経験から成り立ちました。 要は、作者だけの状況・問題に留まらず、他者の事情も混ぜた作品です。この私の歩み寄りに、詩をもって他者を理解しようとする歩み寄りに、傷つく人も居るかもしれないという緊張を覚えつつも投稿しました。 それを理解した上で、「針園」というのは、自分だけでなく他者の痛みの針も自身を囲い込んでいる、その真実に作者が気づいたのだろう、という分析だったならば、お詫び申し上げます。 (針園(はりぞの))

2024-04-03

相野零次さん、コメントありがとうございます。 第二連、第四連もそうかもですが、人は何か対象を見つめる時、同時に自分の心も見つめていると思われます。 別に、農夫が空を仰いでいたとしても、仰いでいないように見えてしまう時があるのです。 「私」には、時の移り変わりに置いていかれていく不安すら、もう感じる暇がないのかもしれません。 (針園(はりぞの))

2024-04-03

すぅさん、コメントありがとうございます。 不思議の国のアリス、恥ずかしながらまだどの媒体でも見たり読めたりできておりません……。安部公房ファンとしてなんたることか…… そのすぅさんの感覚も参考に、いつか原作にあたりたいと思います。 「何だか読んでいて苦しそうで胸を掻きむしるような複雑な何かを主人公から感じて悲しみ、諦め、怒り、不安、恐怖のような負の感情すごく心配になりました。」 おそらく、この感情をもたらした背景の一つに、私が言えることは最終連の展開でしょうか。 読み手を騙すように、それまで張っていた伏線のようなものが回収され、唐突に「父」という「他者」が出現する。それまでの読みが、単なる個人の病というものから覆されて、第一連から第七連までに新たな悲しみが秘められていることが浮き出る。 夢の中にいるような…… 確かにそうですね。寝ても醒めても、不安の渦の中にいるようです。だから、第七連まで「どうせ、この悪夢から醒める救済があるんでしょ?」と思う人には、悲しい衝撃が走るかもしれないですね。 (針園(はりぞの))

2024-04-03

A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 この詩はA・O・Iさんのおかげで生まれたと言っても過言ではないですね。「それは散歩」という詩でのコメントのやり取りから、私の中でできた靄をどう打ち消すか、新たな詩の形を探してこの詩が生まれました。(その他、色々な要素が構成されていますが、そのうちの一つがA・O・Iさんとのやり取りです。) 散文か、詩か、という判断を超えて、現実を突き刺す非現実な何か、という着地をしたのかなと、今の時点で思っておりますが、どうなんでしょう。 締め方、針のように始めと終わりがある直線的な問題が、温かくも鍋といった永い円環に引きずり込まれるような……その感覚が伝わったようで、嬉しいです。ありがとうございます。 (針園(はりぞの))

2024-04-03

シュルレアリスムを志向する者として、第一段落、とても共感できます。 私は最近、シュルレアリスムは、言葉を熱する火加減の限界を示す尺度にしか過ぎないのかなと思ってきています。ただ、通らなければならないものだったとも思います。弱火だけでなく、中火や強火も使えるようになって、この詩にあるような来たるべき「事実」に立ち向かう、そのための武器の一つなんじゃないかと。 この、武器とも言える仮面を完全に捨て去ることってできるんでしょうか? この詩は、「傷の舐め合い」を自覚しており、ロマンチックに振り切っていない終わり方をしていると思います。深夜3時、もうすぐ夜明け。車という強烈な視覚伝達装置に乗っている状況などから、またシュルレアリスムが再生していくように予感します。未知の世界に迷い込む習性のもと育った幼少期の話からも、その潜在意識からは逃れられない人生なんじゃないかなと思います。 仮面の呪いに抗いながらも、道化のように舞いながら……。タイトルにもある通り、彼女の口づけじゃ、孤独感を拭えなかったんじゃないでしょうか? と、また手招きしたりしてみます。シュルレアリスムの住人として。 (孤独な口づけ)

2024-04-02

圧倒されました。面白かったです。 桃をジュルジュルと食べる勢いから、岸辺が桃の皮のように剥げる展開が面白かったです。 後半、桃と言ってはいけないことや、桃がこちらを食べるんじゃないかなどの畏怖から、神聖視されるような対象になっていく。現実を知っていくってことなんですかね。桃を食べるのは冒頭だけで、それからは手が届かなかったり味に慣れたりしちゃって、それでも自分の中の強烈な体験を再現したいという、呪いにかかっている人生のようです。 桃じゃなくとも、桃の代わりの刺激を貰えるものはいくらでもある。そうやって割り切って生きていた。ただ、もうあの時と同じ桃にはかぶりつけられなくて、それが真実だとしても、他が偽りとしても、どちらも桃丸出しとする終わり方は、自分の中の理想も、今追い求めているものも実はさほど変わらない。理想は、過去の色に染まって輝いていただけの桃だったと、悟っているように思えました。 (ROUND ABOUT。)

2024-04-01

救済措置を待てるほど、現実は甘くないですよね。 穴に落ちたなら、その落ちた先で新たな未来を紡ぐ。自力で這い上がったり、他者の手が差し伸べられるような展開じゃなくて、私は好きです。 ただ、穴の中での人生を受け入れるまでの過程を、もう少し盛り込んでみてほしかったなと。それほど強くなれる人間はそう居ないと思いますので……もう少しドラマのようなものが欲しかったです。 (穴)

2024-03-31

「これが夢なのかは、誰にも分からない」 というのは、もしかしたら「これ」が「現実」だという可能性もあるということ。「これ」というのは、おそらく「い」「ろ」「は」の章のことだとすると、本当にこれらの「章」が「現実」である可能性があるのか、と強い疑問が生まれてくる。そんな詩である。 中でも、「現実」を「麻薬」のようだと思えている人はどれくらいいるだろうか。寝て、夢を見ることよりも、現実の方が楽しい、不思議なことが起こる、という現代人がいるかどうか。 おそらく少ないだろうが、そうすると、「胡蝶の夢」のような、今が現実かどうかの認識を問いかける哲学的思考もこの時代では虚しくならざるを得ない。 この詩は、そんな現代人の疲労感に一石投じるような、それこそ処方箋のような想起薬で、夢も現実も判別できない我々なんだから、どうせなら現実でハイになろうぜと、言っているように、思いたかったのですが…… それよりも単純に、「夢」は「現実」と対立する別世界ではなくて、「現実」と「現実」なんだ、という考えの方が詩全体として筋が通るんでしょうね。「夢」は、「現実」に内包されてしまった「事象」の一つ…… だったら、本当の「夢」って、どこにあるんだろう。 (夢という事象について)

2024-03-30

「気が狂う春の当てどなさ」 とあるように、春の訪れに耽っているかと思えば、春のざわめき、消沈の様にも目を向けていて、霧散するような春のイメージが、詩全体のあえてまとまらない構成にマッチしていると思いました。 放浪するように春を漂うと、海のような、春風のような「あなた」に出逢う。ただ春の気だるさに留まることなく、次の季節の到来に向けて確かな輪郭を持つ花が咲いていくような、そんな展開・結末になっていて、読後感が良かったです。 (春うらら)

2024-03-30

日本列島って、この詩みたいですよね 全体が斜めにひん曲がって、周りに誰もいない島国で。詩の通りだと左右反対ですが、それがこの詩の虚構性としてある。 「ひとりごと」としていても、共感を呼ぶような詩なので、ミクロとマクロどちらの視点もあるなと思いました。 (どこから見てもどうしようもない人間のひとりごと)

2024-03-28

不随意筋によって動く心臓は、自分の内にあるのにまるで他人のようですよね。 第一連、まったく「私」という主語が出てきません。一方、後半にかけて少し不自然に思うほど「私」が多く使われる。そこがこの詩の味だなぁと思いました。 外界の他者などよりも圧倒的な「他」が体内にある。だから、「私」は「私」、「心臓」は「心臓」と固く壁を作って、まるでアパートのあまり仲良くない隣人のように考える。 けれど、入間しゅかさんの優しさが最後の行に詰まっていて、そんな「心臓」にも良い夢を見れるようにと願う。それは、単に「私」が生かされているから、という損得勘定じゃないことが伝わってくるのは、しゅかさんの技量だなと。いい詩でした。 (心臓の眠り)

2024-03-27

蛍の群れに飛び込んだのは、心臓に棲みつく蛇のせいだったのでしょうかね。 よくある、と言うと失礼かもしれませんが、希死念慮が渦巻く詩だと思いました。夢を叶えられない絶望的な現状から抜け出すため、死後の世界で夢を叶えるというような。 ただ、スーパーマンは別にマントに呪われながら飛んでいる訳ではない。そう考えると、痛みから逃れるように、呪いから逃れるように夢に向かって飛び込むのは、はたして夢を叶えたと言えるのか。 強い快楽を感じながら飛ぶような、清々しさがあればよかったなと思いました。 (夢の叶え方)

2024-03-26

このサイト内では今までしたことのない考察を試みようと思います。 シュルレアリスム、オートマティスムの手法はかじったことがあるのですが、そこから何を得られるのかということまで考察していなかったので、この作品で実験しようかと。 この手法って、筆を勢いに任せると第二段落(?)の末尾のようにe音が乱発されたりします。また、次の段落だと平静を取り戻すように「~は…だ」というようなa音が多用されますね。最終段落は「果汁、充満」のようにu音で口をすぼめて終わる。最初の段落はなんでしょうね、「~の…の」や、「ぞっと」という風にo音の段落でしょうか 音楽的にはそれぞれの段落はまとまりがあっていいなと思いました。意図的ですかね? もう少し分析すると、o音の一段落目は、様々な新規情報が垂れ流されている感覚で、この詩の世界の奥の奥の奥へ……という風に引き込む「起」の効果があるなと。ただ、言葉の意味はそんな容易に拾えずつまずくから面白いですね。「障害者の息子(これもo音終わり)」とか、泥に引き込まれている感覚。 e音の段落は一番量があって、最後にかけてスピードアップ。承や転の効果があり動的でありつつも、殺意やら生やら、微睡んでなどの静かで冷たいイメージも小出しされるので、この緩急も面白いです。 「結」に向けては、「~は…だ」と答え合わせしているようですが、すんなり入ってくるわけでもない。あ、今気づきましたが、この三段落目の最後、また「~の…の」とo音に戻って「起」の展開が始まってますね。旅に出ますと言ってますし。 口をすぼめて終わる、死に充満する「女」。今までの音とは違うu音で、自分とは対比的な存在ですね。 この音韻分析をふまえて、言葉の意味にまでリンクさせるとものすごく面白そうだなぁと、良い詩を読ませていただきました。 気が向いたら、推薦文を書くかもしれません。 (メモ帳)

2024-03-26

コメント、ありがとうございます。 バンドマンだったのですね……私もゆくゆくはそういう活動をしてみたいです。 今は確かにメンバーを集めやすい時代だったり、宣伝できるプラットフォームが豊富だったりしますが、積極的な人たちは当然それらを最低限している訳で、競争率が熾烈な感じがしております。 他人の情報が多量に入ってくるせいで、変なプレッシャーを植え付けられ、活動の自由性を見失う人も多い印象です。私もしかり。 面倒くさいことを、泥臭くやっていくのはどの時代も同じでしょうね…… (「失敗実験」MV)

2024-03-22

勿体ないお言葉……ありがとうございます。 親友に、表象論の鬼がいるものですから、彼だったらなんと考察するだろう、と自分の個性も交えて考察しております。体力が要りますが、これに慣れれば、塵も積もれば。かなと。 佐藤春夫は、「西班牙犬の家」しか読んだことはありませんが、確かにそのような読後感だったと覚えております。 おまるたろうさんは、たとえば久米正雄の「手品師」なんかも好きそうですね。 私はシュルレアリスムが軸にあるので、私もそういったノリ、好きです。 (保護)

2024-03-22

私はここに来て期間はまだ浅いですが、詩雑誌などの、依頼された仕事などの詩論とはまた違う、ビーレビューはリアルなコメント欄な気がします。 社会で疲弊し、詩一つ一つの言葉の分析、資料採集などの時間が十分に取れない。いつ詩作活動を辞めてしまうか分からないピンキリな方達もいるため、熱意を届ける相手を絞ったりする。たまには肩の力を抜いて、フランクに、という雰囲気があるのかと。ビーレビューはリアル過ぎて、社内会議のように議論する時もあればカフェカウンターのようなコメント欄もある印象です。 では作品について、私なりに、言葉一つ一つに注目してみたいと思います。 「礁国」。この詩のキーワードだと思いました。大和言葉云々のモノローグ、日本という島国の閉鎖感ある始まり方ですね。前回作品のコメントからも、政治的関心のある方なのだと存じます。 陸地にいる人らは海の中のサンゴ礁を「礁国」と見なすのに対し、「汝」だけは「Umi」と認識している。「海/Umi」と出てくるのはこの「汝」の言葉にだけ。 余談ですが、最近初めて「シェイプ・オブ・ウォーター」という映画を観て記憶に新しいので連想させられました。これは大和言葉ではない、と書かれているので、「汝」というのはその書いて文字の如く「海の女=人魚」的存在で、陸地の人と鮫を繋ぎ橋渡しする役目があるのかなと思いました。 しかし、実際は「汝」は鮫と回遊し、詩は締められ、陸地は唖然としていることでしょう。サンゴ礁を、陸続きの国のような見方をしていた陸側が、グローバリズムから取り残されていくようです。鮫は決して敵ではなく、サンゴ礁の生態系を守る役割もありますから、そのようなシステムの「海」を受け入れられていない。(ちなみに、「色白ク」という特徴を添えているのも外国人意識があるのでしょうかね) 正午から午後に変わり、「日が落ちていく」ことの予感。それの危惧ですかね? またおまるたろうさんが前回言っていたような左派的思考になっていると思いますが、どうなんでしょう? グローバル化で人魚のような優秀な人材が引き抜かれていく(陸側も詰問して止めようとしてるように見えますもんね)……「保護」というタイトルは、鮫から見たサンゴ礁でもありますし、陸から見た「汝」でもありますし……。 もっと別な視点でも見たかったのですが、このような視点で一つ、どうでしょうか。 (保護)

2024-03-22

すぅさん、前作からまた作品を紡いでいただき、嬉しいです。 少し、思ったことを書き連ねたいと思います。 心は、不思議と磁石のようで、何を自分に引き付けようか、と無意識に決めているように思います。聞きたくないこと、見たくないものをシャットアウトし、好きなものだけを引きつけて自分の世界が出来上がる。そこからの脱却を意識するのは難しいことですよね。 世界が出来上がるというのは一種の成功体験、形状記憶のようなもので、それがあれば未知の世界に飛び込んだ際でも、闇雲に引き付けられるものを心が必死に探します。そうして世界を無数に作る。まわりの性質をねじ曲げて、自己の世界の一部にしていく。それが衝撃を呼んだりする。 たとえば、この詩では信じていた世界が「蜃気楼」になるという性質を持ち始めました。おそらく、すぅさんが次の次元に進むために必要な性質変化だったのだと思います。 性質の解像度を上げると、すぅさんはまた新たな世界を獲得していけると思います。「僕の世界」とはどういった室温だったか。「外の世界」は、叩くとどんな音が響いていたのか。「涙」はどんな性格を持った人だったのか。「幸せ」や「笑い」は、どんな味と食感だったのか…… とても上からかもしれません。すみません。失礼しました。自分にも鞭打つ言葉を並べたつもりです。さらなる驚きや情熱を期待しております。 (僕の世界)

2024-03-22

コメント、ありがとうございます。 挙げてくださった楽曲、存じ上げなかったので聴きました。 ポエトリーソングって、どんな基準で決まるんだろう、と興味が湧いてきました。 「アクセルためてルーズな空見上げる」の末尾でゆらいだりするところは、ポエトリーなのかなぁと思いつつも、全体的に結構メロディアスだなと思いました。メロディが思い出せそうで思い出せない、キャッチーかどうかの狭間に言葉を乗せる。めちゃくちゃ難しいですね。 (「失敗実験」MV)

2024-03-20

まだ、詩は詩。曲は曲として。 いずれ二つの築き上げられた世界観を混ぜて、よりマルチな活動をしていきたいですね。 ありがとうございます。ぜひ、聴いて貰えるとありがたいです。 (「失敗実験」MV)

2024-03-20

詩のインパクトの打ち消しは、何て言えばいいんでしょう、流動性とかにあるかもしれないですね。 詩の形では自分のペースで同じ行を読み返したり、戻って読んだりできるのに対して曲では曲のペースがあります。それが影響してるのかもしれません。 しかし、自分は今回の楽曲はイントロや間奏が多めだったりと、詩の余韻を感じさせる構成だと思ったりもします。メロディも、聴き慣れるとインパクトが薄くなる性質があるとも思うので、聴き繰り返すとまた違う印象になるかもですね。 コメントありがとうございます。 (「失敗実験」MV)

2024-03-20

歌詞も詩とみなすか、という問題ですね。 歌詞になると、分かりやすいメッセージ性、物語性、反復・音韻、誰の声に乗るのかなど、性質がより絞られたものになる可能性があると思っています。 ただ、そんな詩と歌詞の融合、衝突で未知の世界の入り口が開ける気を、薄々感じております。 (「失敗実験」MV)

2024-03-20

A・O・Iさん、コメントありがとうございます。 まだ拙いですが、そうですね、作曲もしております。Hamming Eggという名義で、 【YouTube】 https://youtube.com/@EggHamming?si=KTcHktja6C4GGTLr 【ニコニコ】 https://www.nicovideo.jp/user/29351690?ref=androidapp_other こちらで投稿しております。 今回は歌詞提供のみですね。包丁さんに、お伝えしておきます。聴いてくださりありがとうございます。 (「失敗実験」MV)

2024-03-20

メルモさん、コメントありがとうございます。 他の曲も聴いてくださりありがとうございます。本人も喜ぶと思います。 コラボに関しては、この「失敗実験」と別チャンネルですが「!!!!!!CCCCAAAATTTT!!!!!!」という曲のまだ2曲だけで、他の曲はすべて包丁さんが担当していますね。詩、歌詞が置いてかれる……難しいところですよね…… (「失敗実験」MV)

2024-03-20

実際に見に行ったことがあるのですが、もう人の戻ることのない被災地の様子が浮かんできました。 いつ帰郷できるのか。復旧が長年に渡ることで、仮の住まいを他に移していた家族は、移動先に適応してしまう。今更戻るなんてことができない事情があったりする。 この詩では、石畳がバラバラになるという表現や、空の青さも遠くに行ってしまったことで、上の問題のやり切れない想いが巧く表現されていると感じた。 心を透明にして、他人の空き家に入ると、色が入り込む、という一連の流れも良い。難しいことは考えず、まずはゴミをまとめて出すところから、と意気込み家に入ると、その家の想い出や光が入り込んできて、何も手につかなくなる。 何を棄てて、何を棄ててはいけない? 自分にはゴミに映るものでも、この家にとっては大事なアイデンティティなのではないか。 そんな葛藤が、伝わってきました。 (埃まみれのフローリング)

2024-03-20

多様な解釈ができそうな、ひろがりのある詩。一行目からとても惹かれました。 エロチックを感じました。恋人の心を剥ぐような始まりから。相手の白い部分を見ないようにする関係。「私はこの人を本当に愛してるのか?」と自問自答するような詩に見えました。 相手の本心をいつしか袋にしまうようにしてから、欲するままに相手を貪り、罪悪感のような、後悔を重ねながら。それでも、その行為に何の言い訳も思いつかず、かといって試しに白い部分に触れようとすれば、自分が壊れてしまう…… なんて、切なくなってしまいました。ユニークさと恋愛は隣り合わせかもですね。 (自答)

2024-03-19

ひび割れ、風化するまで心の潤いが無くなって、砂を握ると力が抜ける→砂に身体が溶けていくようなイメージで、力尽きるまでの一人の人間の表現が滑らかです。 A・O・Iさんの指摘の通り、一億五千万キロの果実は、果たして彼の希望なのか。膨大すぎる希望には逆に反感を持ったりします。そもそも、そのまま砂になっていくことが自然体で、救いかもしれない。それなのに最後に出てくるのは無慈悲で、不条理な果実だなと思いました。 いい詩です。 (黄金の果実)

2024-03-19

返信、ありがとうございます。 なるほど、 実存的ニヒリズムのような考え、それへの肯定をして生きていく、そう捉えるとポジティブなのかな、と今改めて読んで思いました。ありがとうございます。 私は、リアリティに寄り過ぎているのもどうなのかなと思っての上の意見でした。転生や反人間中心主義などの「考え」だけが剥き出しになっているようで、詩でなくてエッセイとかでもいいなと思っていました。 モチーフに強く拘束されているからでは、という指摘は、確かにそうかもしれないです。左派的な人間なので、分析は当たっているなと思いました。 最終連は簡単に差別云々の話ではなく、その奥の比喩やマクロの視点を持てば、別の問題が浮かび上がる、ということでしょうね。他の詩には行えているつもりでしたが、この詩では私が今まで避けていたモチーフが比較的多かったので、凝り固まった意見となってしまいました。 勉強になりました。 (遺灰)

2024-03-19

コメント、失礼します。 最終連、一体どのようなねらいがあって書かれたのでしょうか。 順を追って見ていきますと、「ひこうき/がじゅんちょうにとんでいる」の連からは、飛行機が順調に飛んでいる→戦争期ではない、現代に近い時代なのかなと思います。 労働のみの人生への忌避、いずれ死ぬことへの諦観、人類という種族への嫌悪。どれも聞いたことあるような思想で、最後の行にはジェンダー差別のようなもので終わる。 肯定的に受け取るならば、この羅列された価値観も我々人類史の「遺灰」として遺ること、それを見てあなたたちは恥じるか、どうか、今一度強く問いただすアンチテーゼな詩なのかなと。 逆に、差別意識などを助長しているネガティブな詩だとも捉えられかねないかな、と。色んな思想が混ざっている中で、最後に向かうにつれて世界を鋭く否定するような、壮大な締め方を期待(「まほうつかい」なども出てきていたので、現実的な言葉で終わるとは思っていませんでした。)していました。 それほど世界をロマンチックに呪う気力もないほど、投げやりに詩を締めてしまったのでしょうか。まるで詩人本人が灰そのものになって書いたような……そこまで言ってしまうと失礼かもしれませんが。この詩には色んな意見が来そうだなと思いつつも、多くは語っていない詩なので、どうなんだろう、と思いました。 (遺灰)

2024-03-18

私たちの物語はどこで終わるのか。 空を見上げ、雲とその雲から振り落ちる雪で出来た真っ白いキャンバスに、私たちはどんな未来の物語も描ける頭を持っている。 若草の丘と樹の、長きに渡る歴史の上で爛漫な私たち(少女)が生きている。 しかし、3から「私たちの物語」ではなくなる。死後は生前遺した樹のような生きた証を、また別の誰かの物語に組み込ませて、あの上空の陽の陰へ昇るのだろう。それら含めて、タイトルの通り。 そう解釈すると、綺麗な構成だと感じました。少し気になる点を挙げるとすれば、擬音を煩雑に扱っていないかどうかでしょうか。 物「語」と「音」は密接なテーマかと思ったので、既存の擬音しか使用されていない(目新しくない)ところを見ると、「私たちの物語」は誰しも同じような平凡な物語なのだ、とネガティブな気持ちを植えられた気分がします。一意見として、ご参考までに。 (これはあなたの物語、です。)

2024-03-17

上の、中田さんの指摘が指摘に留まっていて歯痒いので、私からはこの詩の伸びると面白い表現について触れたいと思います。 悲しみ→雨→角砂糖というイメージの変化や、憂鬱が、明け方の夢のようにうろ覚えになってくれればいい、という表現はこの詩の中でのストロングポイントかと思いました。 逆に、巻き貝の連では、巻き貝から始まり「潮の香り」に着地したので、そりゃ潮の香りするよなぁと、惜しい気持ちになりました。 要は、クリーンヒットする比喩を書ける人だと思ったので、たとえばタイトルとかも、この詩を何にたとえるかに変換するとまた深みが出たりするのかなと、思いました。ただ、やり過ぎると伝わらない難しいところかと思います。しかし、伝わるかどうかよりももっときょこちさんのもっと多彩な料理を味わいたいなと思ってるところで詩が終わった感覚があったり……そう思いました。 テーマ性……うーん、あまり気にしない時期があってもいい派ですね、私は。 (雨降りの憂鬱)

2024-03-16

戦争に行ってしまった子供を持つ親は、いつ核を撃たれるか怯える国。基地に配属された子供を持つ親は、それこそ疲弊戦略で滅びはしないと安堵する国のようで、1.5Aさんの指摘したミクロマクロの構成はこういう所にあるのではないかと思う。 詩中主体の父の感情に少しでも共感してしまった私は、ああ、疲弊戦略を取る国たちのリーダーになったら同じ手段を取らざるを得ないのだろうなと。思わされました。 ゼッケンさんの、人間に対する鋭い観察眼は留まることを知りませんね。この詩も好きです。 (鎌首)

2024-03-15

コメント、ありがとうございます。 私は若者で、周りに詩を読んでいる人がほとんどいません。色んな人の反応を見てきましたが、小説ほど長くないというのに、「別のタイミングにして」と高確率で言われ詩を一行も読まれずに突き返されます。 そのため、現時点での全作品を読んでくださったすぅさんは、おそらく私の友人、家族なんかよりも私の作風、人間性の核に触れたうちの大切な一人に今、なりました。この世界の奇妙さ。悲しみも嬉しみも混ざるような気持ちです。 私が最初に出会った詩たちは、小中校くらいで、やさしい言葉ばかりでした。でも、大学に入ってから、詩はもっと自由なんだなと衝撃だった。だから、この詩という遊園地に私はジェットコースターやお化け屋敷を作りたいと思ったんですね。 みんな、同じ場所で最高の遊園地を築き上げていく仲間だと思っています。だから、すぅさんの観覧車から見える青空の絶景も必要だと思っています。たまに、遊園地を周ってアイデアを貰って、自分の施設を見たことないものにグレードアップさせる。オバケがクレープを配り始めたり、一切動かないことで逆にハラハラさせるジェットコースターができたりします。 詩の遊園地が大勢の人で賑わう、楽しいものにしたい気持ちは、おそらくすぅさんと同じかと思います。また、これからともにがんばりましょう。ありがとうございます。 (日雇いザムライ)

2024-03-15

コメント、ありがとうございます。 人生をかけて書きたいもの、少しずつ出会えている気はしています。その種をそれぞれちょっとずつ育てていて、いつの間にかトビラさんの目の前に森として現れる日があるかもしれないです。 ありがとうございます。 (コック)

2024-03-15

他の方が好評しているので、あえて私からはちょぴっと意地悪な、これからの詩作に対する種を植えてみたく思います。一意見として……。 詩ってなんだろう、っていうのは詩人みなさんが背負う大きな問いの一つで、それぞれ色んな向き合い方があります。詩とは、どこでも、誰にでも、何でも書けるという無限に開かれた世界です。 そのため、詩人というのは暗闇の底でも詩を書けます。女神を信仰しない、無神論者にも詩は書けます。才ある宝石たちじゃなくても詩が書けてしまうのです。 この詩の光は神々しすぎるあまり、逆に、そういうアンダーグラウンドで、絶望の淵にある変哲もない石ころを照らし出すことができていないように思いました。 想いを馳せている、「詩人としての冒険」のプロットには、おかしく聞こえるかもしれませんが、自らの意志でまた暗闇の中に入っていく時もあると思います。 どうか、美談に包まれなければ詩を書けない、と謳って本当に潰れそうな芽を潰さないよう、時には自分の女神を疑ったり、光そのものを疑うことも、やってみてほしいですね。 無限世界の中の、一つのチッポケ石ころ意見でした。 (詩の世界へ)

2024-03-15

面白い! ユーモア全振りのような詩には、やはり真面目な考察を書きたくなります。ゆえ、少し考えたことを。 まず、読み進めて思ったのは、「啜る」という行為と「縷々」という単語です。「縷々」の意味は、調べたら長く続いていく様のことらしいですね、初めて知りましたが、この詩にピッタリはまる言葉ですよね。 啜って啜って、噛み切らず、延々と続いていくイメージです。「酢」を啜っても咳き込まず続いていくのも、永遠性が強いなと思います。 また、「留守」と「煤」なんかも関係してそうな気もしますね。家を留守にしていたことで、その家に埃煤ができていくような……。ここは人それぞれ解釈ありそうです。なんでしょう、さっきの永遠性に繋げるとするなら、人の生死って絶対に揺るがない永遠に続くシステムだとして、神が亡くなった私たちの魂を啜っているような。そうして家が留守になって、空き家になって埃煤が……みたいな。 そんな大きな存在が何かを啜っている感じにも思います。 最後、平仮名に戻るのも面白い。ここら辺からは、意味ではなくて何か視覚性な感じがしたり。「するるす」は鏡合わせみたいですし、「るるるすすする/するるすすする」のところなんかは間違い探しのような、ゲシュタルト崩壊もしてきますね。 要は、するする読めるように思えて、するするいかない詩でした。それが面白い。先ほど魂の成仏に無理やり繋げましたが、それに加えるなら、人の生き死にをするすると受け入れていく様を批判するような風にも捉えられます。たとえば、メディアで死亡事故などを見て、「かわいそ」と思った数秒後には内容を忘れるような、そんな感覚を。 「す」だけで、もしくは「る」だけで統一する行が無いのは、一貫してていいですね。「する」という言葉の組み合わせが大事なのだと。そう思います。 誇大解釈かもしれませんが、僕にはそれほど良い詩に映りました。 (すするするする)

2024-03-15

詩と、プロフィールを拝見させていただきました。 もしも既にご存知のことであれば、お許しください。詩について、まだ乏しい知識ですが色々と見解を述べさせていただきます。 どのような立場にいる評論家が言ったのか、文脈も分からないので想像に留まりますが、そもそもコンセプトやアイデア自体「詩」みたいなものだと思います。もっといえば、コンセプトは「詩」の形で現れないと、コンセプトと言えないと思います。一つの持論を参考までに。 ただ、「ポエム」と指摘されているなら話は別かもしれないです。一説では、「ポエム」は人の心に寄り添うような、叙情に偏って商業化をねらうものとして揶揄される時に使われたりするそうです。ラブソングばかりがヒットチャートを占めた邦楽の時期とか、イメージつきやすいでしょうか。 詩も音楽と同じく、JPOPもあればオルタナティブロックのようなもの、ジャズみたいなイメージの様々な詩が混在します。JKmaleさんにはぜひ、建築の知識を持ち合わせているからこその唯一の詩を書いてもらいたいと思ってしまいます。 物体が歩くことを、建築用語ではたとえばなんと言いますか? 建築業界において、たとえば「余計なこと」といえば何ですか? 私たちは日本語を使っているのではなく、自分語を使っていると認識すると詩が面白くなるかもしれないです。建築語、医療語、もちろん外国語とか、コンビニ語とかもいいですね。 若輩者な私ですが、詩界への歓迎の言葉として、JKmaleさんの道が明るくことを願います。 (早歩き)

2024-03-13

返信、ありがとうございます。 恥ずかしながら、「惰胎」の「惰」の字には気づけませんでした。そこを含めて、やはり裏の意味を巧く隠しているなと思います。 表の意味にも今一度立ってみると最後の方は、堕胎された赤子が、本当なら歩んでいたはずの未来(車に乗せられて、親とドライブ)を天国で歩み出している……みたいにも解釈できるのかなと。又、赤子は、命を失うことになど気づかない。だから自分が産まれたと錯覚している。そんなポンポンと成長するわけないのに、時間感覚とかも育っていないから想像が時空を飛んでしまう。 みたいに、これには別解釈の余地もありそうですが、良い詩は表も裏も世界観が損なわれないものだなと、ちょっと褒めすぎですかね、私はそう思います。 メタ的(?)にも見ると、やはり不快感を覚える人、救いが欲しい人などもいらっしゃいますが、それらを見て、社会を映す鏡のような詩だなとも思いました。この詩を直視できる人、できない人、皆この問題意識について強く思うことがあるという証拠です。田代さん、そしてこの詩には当然何も罪のようなものはない。問題は現実にあるのです。 人には産まれる前も、産まれた後も、切り取ってみたらフラクタルな状況があった。その田代さんのような気づきが心を動かす束になって、社会は少しずつ動くのだと思います。 向かい風が思ったよりも吹いていたので、少し熱くなってしまいました。社会に訴える一つの芸術作品の在り方、誇っていいと思いました。 (墮胎)

2024-03-13

コメント、ありがとうございます。終わり方、見破られ、お恥ずかしい限りです……。 「そこ」という言葉に執着したい考えではあります。形式どおり綺麗に流れていく詩情には、終わってほしくないという読み手の感情が生まれるのか、それ相応の幕の閉じ方が必要なのだなと、最近しみじみ思います。ありがとうございます。 (コック)

2024-03-12

↑すみません、打ち間違いで、残穢だと汚れたものになってしまいますね。でもこれって何て言えばいいんでしょう、残影? 残像? 不思議な現象です。 (コック)

2024-03-12

コメントありがとうございます。 とても作品に沿った批評、面白く読ませていただきました。嬉しい限りです。が、反面少し後悔しております。というのも、これは執筆段階の話になってしまうのですが、ここに投稿する前は「コックはどこ?」で締めくくっていました。メルモさんは、その残穢をとらえてきたのでとても驚いています。実際は「コックはそこ」で締めているというのに……。 ある方にお見せした時に、締め方に微妙な反応をされてしまったので、少し変えたのです。しかし今、「コックはどこ?」も「コックはそこ」もこの詩に合うか分からなくなってきました。「コックは 」(空白)で終わるやり方も、過去してきた覚えがあるので(あと、詩の中での沈黙は使い方を間違えるとネガティブケイパビリティの弱いものになると思うので)、少し腑に落ちない…。 メルモさんの、希望的観測じゃ終わらないから新しいというのも分かります。ただ、「コックはそこ」でも、料理店という居場所が霧散したあとでもコックは存在している、それは空や海を見ればコックの作った料理があるから、という絶望と希望の混じった苦味があると思ったので、今回そうしました。 締め方、難しいです。行じゃなく、連を解体して、まったく違った締め方に舵を切るのもアリだったのかな、とか思いました。 名前に関して、ありがとうございます。メルモsアラガイs(私はメルモさんと呼ばせていただきますが)もインパクトあって印象に残りますよ。まあ名前なんて、あってないようであるものですね。なんて。これも難しい。 (コック)

2024-03-12

返信ありがとうございます。 なるほど、即興、私もよく使う手法です。いいですよね。であれば、それぞれのモチーフに対しての新視点・解釈など、唯一無二の世界観が構築されていきそうですね。見張っていきます?‍♂️ 母音の解釈は、ランボーが母音に色が見えるとして自分なりのルールを作ろうとしていたのを思い出したので、指摘しました。やはり、細かい要素まで分析するのが言葉に真に向き合うことなのかな、なんて、日々思っています。難しいことですが……。 (fを越えてゆこうよ)

2024-03-12

一部不快に思わせてしまう方がいる、変な読み方かもしれませんが、面白い詩だと思ったので少しコメントしたく思います。 この詩のイメージから、無職で親に面倒を見てもらっている成人の大人像が連想させられました。偏見かもしれませんが、社会問題になっているのはこのような家庭かもしれない、と。親に我儘な要望をし、「お腹を蹴る」などの暴行を働く子供……。 終盤、無理やり引きずり出され、入院や検査をする暇もなく外(=社会)に連れていかれ、自分の姿を客観視させられる。強行突破ですね。普通なら「出産」でしょうが、この詩のタイトルは「堕胎」。双方の解釈が食い違っているようです。 始めの社会問題に戻りますが、何が良い解決策なんでしょうかね……。無理やり引きずり出す前に、そうなってしまう前の手打ちが必要なのかな、なんてぼんやり思いました。 (墮胎)

2024-03-12

ありがとうございます。 コミカルと怪しさ、伝わっていただき嬉しいです。これからは爆発とかも詩の中に盛り込めたらなと、魅力を身につけていきたいところです。精進します。 (コック)

2024-03-12

自分はよく食べ物をモチーフに考えちゃいますね。溶けたり固まったり、状態変化が多様で表現に使ってて面白いです。 コメント、ありがとうございます。 (コック)

2024-03-12

前半は、言葉の乱れが激しくなる時代への対抗策として、母音や「アカ(漢字の部首?)」に意識を向けているのかなと、思いました。 後半は猫、魚、縞馬などなど、様々な動物が出てきますが、今の私の知識では何が隠されているか掴めない……イメージの面白さは伝わってきました。 最後、メッセージを手離してお金に着地するのは、美学に反するようなナンセンスさがあって私は好きです。 (fを越えてゆこうよ)

2024-03-12

A・O・Iさんの、災害、災厄についての詩という意見になるほどなと感じながら、そのレンズを通して細かな表現を見てみたい。 災厄のレンズで違和感があるのは、第四連の表現で、自然災害だと捉えると「穢らしい指」というところに首が傾げられる。また、「爆発音」や「略奪」といった言葉も、自然に反抗する心の表れとしてしまっては少し残念なように思える。 「暇も義務もない」、「夏の一日を脅かす凄まじい手」といった表現から、戦争の過ち、その過去が巨人となって街の下に横たわっているのではないかと私は感じた。今も私たちが悩まされている自然災害というよりも、マンホールの窓から見える「幻影」としているところから、又、私たちの歩く「橋の影」に打ち上げられているというのも、昨今の不穏な情勢が覗いてくるような現実がある。 私たちはそんな過去の上で身を寄せあっている「落ち葉」に過ぎない命。先人たちの痛みを一人一人が想像する世界を保っていかないとなと、そう思いました。 (穴)

2024-03-09

死生観を軸にこの詩を読んでみる。 お星様がほほえみかけて「僕」を殺すという展開があるが、それが救いのほほえみかと言われるとそうではないような気がする。願いを中断させてしまうほほえみだからだ。しかし、その願いというのも、憂いから産まれる予感のするものである。 この葛藤の連が、一番死について迫っている所だろう。 死についての葛藤をする詩中主体とは反対に、トカゲは眠っている間に尻尾を千切られて死ぬという想像がされる。その方が救いなのだろうか? 小説を一冊、遺言のように君(おそらく大切な存在)にあげれば悔いなく死ねるのだろうか? 届くには届かぬ、というタイトルも、今死を受け入られるかどうかの距離感を表していると受け取った。ただ、死生観という二項対立にはあまり当てはめたくないほど、淡い境界を漂おうとしている詩だと、そう感じました。 (届くには届かぬ)

2024-03-08

アフォリズム詩と呼んでいいでしょうか、好きですね 正義、愛の価値観というのは人それぞれで、そこまでの展開は読み手は一歩引いた位置にいると思われます。 しかし、三つ目の形の進化となると、急に悪意が血管の中を流れる感覚が生まれてくる。この三つ目の変化には、人類すべてが包括されてしまうでしょう。 悪意に支配されている人類が、悪意を制御するように進化する時代は来るのだろうか。法律などの文明による制御ではなく、本能として悪意が生まれる瞬間を断つなんてことは…… おそらくそうなったら、それはもう人間じゃないんだろうなと思いました。 (悪意は形を変えるもの)

2024-03-06

返信ありがとうございます。 長々とやり取りすみません。はじめから枠に入れてしまう、その硬さ、他の人からも言われていることだったので、追求したい想いが強く出てしまいました。ありがとうございます…。 A・O・Iさんの挙げてくださった手法の例と全く同じという訳ではありませんが、同じような手法を自分もよくやるので、強く賛成します。そのバリエーション、量をまずこなしていって、自分の凝りをほぐさないと駄目だなと思いました。 自分は、まだ自作品の硬さや柔らかさを見極める目を持っていないかもしれないです。どれも、100%ではないですが柔らかく、柔らかく、書いてきたつもりだったので… また、楽しさも、どの作品を書くにもあるにはあるのですが、程度が違うのも確かにあります……。思想の自我は置いておき、好奇心の自我を自問しながら書くのは忘れちゃいけないと思い至りました。 二つの解像度を上げるために、ちょっと頑張ります…… (日雇いザムライ)

2024-03-05

申し訳ありません、上記コメント、少し訂正します。 ……アメをあげる、見ようによってはDVだと騒がれかねないSMプレイ…… に訂正いたします。誹謗中傷などの意はございません。 (日雇いザムライ)

2024-03-05

返信、ありがとうございます……(長文、すみません、失礼します) おそらく、詩をどう見てるのかがA・O・Iさんと異なっているのかなと気づきました。 小説から、要らない要素が抜け落ちて詩になる、という感覚よりも、小説にさせることは可哀想で出来ない、という前提で今まで詩を書いていました。 そもそも私は、詩では伝えたいことすら無い、というよりは飽和してしまって忘れてしまった、その記憶や想いがもしかしたら言語に無意識に刻まれているかもしれない、というのを信じています。シュルレアリスムに惹かれた一つの理由かもしれません。そのため、言葉自体に既に伝えたいことが詰まっていたのを、詩状に編んで横流ししている感覚です。意識が少しのスパイスとして働く時もあるかもしれませんが、極力味付けしないようにしています。 A・O・Iさんが言うのびのびとした詩作が、私にはこれにあたります。横流しが楽しいです。自分の胸から飛び出て自由にスキップしていく我が子を見るようで。子どもはまだいませんが。 この手法を好むため、どの詩でも納得は自分でもしていないです。自分でも所々でしか掴めない。でもそれが一人の他人を見ている感覚で、僕は今それが楽しいです。 ただ、それだけじゃ自分の言葉の自由を引き出せないのではと考えて、最近はテーマ・手法という乗り物に言葉を乗せてみている感じですが、その乗り物と乗っているものに違和感があるのかもしれないです。たとえば、カマキリがハーレーに乗って爆走しているかのような違和感。その違和感は、言葉に何かしらのレールを敷いてあげている感覚がそもそも嫌という無意識が働いて、私も含めた読み手全員を置き去りにさせてしまうのかもしれません。 ただ、この考えに沿うと、A・O・Iさんの手法もアリだなと思ってきました。詩→小説→詩という推敲は、自由だった言葉たちを縛り上げて鞭を打ってアメをあげる、DVのように感じちゃいますが、元々小説に閉じ込められた言葉たちを詩に解放させてあげる(小説→詩)のは良いな、と思いました。 もしそうするとますますA・O・Iさんの、もしくは他の読み手の理解の範疇を無視するものが出来上がりそうだなと、想像を膨らませつつ、ちょっとワクワクしてきました。そもそも、自分は小説作品すらもハチャメチャなので、自分でもよく分からないです。ちょっと怖いですね 読み手への通路の話、他の推敲の仕方など、参考にさせていただきます。ありがとうございます。 作品への反映には、B-REVIEWに上げるものは時間が経ったものにしているので、先になるかもしれませんが…… (日雇いザムライ)

2024-03-05

今回も参加させていただきました。企画、ありがとうございます。 お褒めの言葉、ありがとうございます。自分としましては、駅というのはやはり喧騒がある(都市部に住んでるからでしょうかね)イメージだったので、第一連、第二連のうとうととする展開から変えたいなと思ったんですね。 ただ、単なる喧騒を描くのではありきたりなので、「何も見えない」というのなら、音楽に頼ろう、と。そんな思考プロセスでした。 直後の湖湖さんの連が好きですね。「バカだな、指揮者は君だよ、と囁く声」の行は、単純なのに予想にしていなかった言葉だったので、やられた、と思いつつも快感を感じる不思議な体験をさせてもらいました。 ありがとうございました。 (連詩だよ「全員集合」編集版)

2024-03-05

コメント、ありがとうございます。 A・O・Iさんには、これまでの作品を丁寧に読んでいただいているので、この作品でねらいたかったものを少し書かせていただきます。 今回は、「それは散歩」の発展形として仕上げようとした次第です。世界観と世界観をぶつけるという手法のまた別のやり方を模索しました。最近詩誌で刺さった言葉として、「詩は現実との通路を作らないといけない」というものがありました。「それは散歩」は、私としては終始閉鎖的で読み手を掴んでくるものがないと感じていました。 そこで今回は「通路」を作ろうと考えたのですが、もう一つ、滑らかな穴ではなく不自然にそれまでの流れを穿つやり方を取りました。サムライの話なのに、妖怪を討伐しようと刀を抜いたりはしない、というような引っ掛かりを置きました。 しかしこれによりおそらく、前半よりも、後半の方が現実に、心情に焦点を当てすぎて細かく描いてしまった。あまりにもくっきりとした穴を空けてしまった。前半の靄のかかるような怪しい雰囲気と、後半のそのなじまない感覚は確かに、と読み返すと感じました。 ちょっと初めてのことばかりをするせいで、調節のツマミを巧くいじれてないですね。たまには、自分の土俵に立ち返った方がいいですかね (日雇いザムライ)

2024-03-04

コメントありがとうございます。 この緻密な解釈の中で一番的を得ている部分、言いたかったことは第八連のところですね。 幼少期の記憶というのはどこに刻まれているのでしょうか。おおよそ、視覚経験次いで聴覚経験かもしれません。触覚経験ももちろんあります。 しかし、自分の表情筋の動きというのは客観的に見れません。写真くらいでしか。たとえばおぞましいモノを目にした時のことを回顧すると、そのおぞましいイメージだけが思い出されるはず。その時自分が笑っていたのか、泣いていたのか、笑っていたならどのように笑っていたのか、までは思い出せない。 「私」は、「小さい私」とのギャップに気づいたのでしょう。もしかしたらあの時、自分は笑っていたのかもしれない。時が流れ、世間の波や常識の風に当てられてトラウマへと風化していった記憶に、新たな解釈のメスが入れられる。 きっとそれは間違った記憶かもしれませんが、それが今の原動力になるならそれで良い、そういう気づきの詩であります。概ね、伝わっていただけていて嬉しい限りです。 (日雇いザムライ)

2024-03-04

コメント、ありがとうございます。 そうですね、子どもから大人にかけて、命を賭けるものは変わっていくものです。それでもやはり、過ぎた時間の中にあったものを思い出すと輝いて見えてしまう。 その時の輝きをたまに借りながら、今を生きていく糧にするのがおそらく健康的なんでしょうね。 (日雇いザムライ)

2024-03-04

全世界の人々が もしも同じ誕生日だったら あの戦車はハリボテになると おじいちゃんは言う さみしい ぼくは 誕生日なんて消えればいいと思った いつもの分かれ道 一つは家まで続いてて もう一つは正しい獣たちが住む夜だからと おじいちゃんはぼくの手を引いた 土手を見下ろすと 戦車が二台 夕暮れの河原に輝いていて 砲台が真上を向いている 軍人さんたちが歌を歌って踊っていた この町は 今 ふまれたのかもしれない と おじいちゃんは言うけど 踏まれるって何? よく 聞き取れなかった 袋に入ったあめ玉が 道端にぽつんといたので 拾おうとすると おじいちゃんは手を離してくれた オレンジいろのあめ 日にかざすと 透明になるあめ こんなの 見たことない きっと世界で ぼくがはじめてなめるあめだ みてみてと ふりかえってみたけど もうおじいちゃんはいなかった もうおじいちゃんはいない けど、 さみしさは さほどなかった (B-REVIEW 3月のお題詩「誕生日」「仕事」 )

2024-03-03

僕たちの見る夢(眠る時の)っていうのは、過去の記憶を集めて組み合わせた「作り話」がほとんどですよね。この詩の面白さは、「僕」からS君に向けての想いのゆらぎにあると思います。 S君は陸上部からドロップアウトしてまでやりたいことを追いかけたのに対し、「僕」は陸上部に戻っていった。それなのに、書くことを続けているのは「僕」の方で、S君がどうなったのかの音沙汰はない。 筋書きのあるものを好んでいたのに、S君は、ナンセンスな夢物語に埋没して眠ってしまったのだろうか? しかし、そうとも言い切れない。「僕」も当然今、同じようにS君に想いを馳せられている可能性もある。だから、電柱の陰から、あの速い猫からS君を想起して、夢の中に入っているのは「僕」の方じゃないかとも思ってしまう。 けれど、夢かうつつか、実際は「どっちでも良かった」。とりあえずそんなことは関係なしに走り続ける。 そんな夢とうつつが混じり合うトンネルの中に、私たちもいるなぁと。世間のありきたりな二項対立的世界観を面白く、くるっと翻す詩だと思いました。 (S君)

2024-03-02

こういう詩にコメントがついていないのが悲しい。まさしく現代的な詩だと思う。 「重力」というタイトルが肝である。「長方形の黒い板」はスマホだろうか。安易に「スマホ」と書かないのがいい。涙は落ちるのに、手ではしっかりと握られている「黒い板」。そいつだけは重力を無視して我々にしつこく付きまとう、そんな物体のように思える。 涙が茶色の、お味噌のようになって流れるというのも心にくる。我々はたとえば、他人の茶色い涙を見たらどう思うだろう? 同情の念が純粋に生まれるだろうか? この茶色の涙は、自分のぶち当たる悩みが誰からも理解されないのではという悲しみも含まれていると、私は解釈する。 最後も印象的である。「朝御飯」!? ならばなぜこの詩中主体は冒頭椅子に座っているのか。横に寝そべるといった、重力を身に受ける、楽な姿勢では眠れていない。現代人の慢性的な疲労感がある。 こんなにも現代人の辛さを五行に凝縮しているのは圧巻である。ぜひ、今後も現実社会をその鋭い眼でくり貫いていっていただきたい。 (重力)

2024-02-29

最後の締め方、びょうびょ様(と呼ばさせていただきます)は不謹慎と承知の上ということだったので、他の方が触れていないその部分に言及しようと思います。 やはりパッと思い浮かべるのは東日本大震災などの災害、避難ですよね。空中にカーテンが締め切られ、皆が「それぞれ」の生活を中断させられていく。確かにそれまでの体育館での「静」のかたまりになる体験と類似しているように思えます。 しかし、一つ違うのではと思うのは「表情が分からない」という点です。災害のカーテンが締められる時、私たちは鮮烈にお互いの表情が見えてきてしまうはず。家族とはぐれてしまった人、家が崩壊してしまった人、薄暗がりの中のはずなのに、お互いがその表情の悲痛さを感じ取れる空間になるはずです。 最後、「なぜか各々の表情がありありと見えていた」といったような締め方が欲しいと思いました。ただ、良い着眼点、テーマを持った詩だと思います。 (照明落とした体育館)

2024-02-29

この詩は音を重要視するようなねらいがあるように思えます。実際、マリジアやテリアデリアなどの言葉を調べてもマッチする情報が出てこない。おそらくそうなのではないかという仮説に沿って、掬える言葉の流れから何が見えるかを考えてみる。 結論からいうと、誰かが処刑される場面のようなイメージが私は湧いてきました。 「執り行われる」、「ギリキリ細み増ししめ」といった惨いイメージの言葉から、「あ玉ティリーき」、「刺しるその一眼一拍の表紙丁寧な青、見た。」、「弾け飛びたかった皮膜」というところでは、頭や眼、皮膚といった生命活動に必須な身体の部位が無防備に晒されながらも、悲鳴を上げている感覚(逃げ出したい?)と、最期の青空を見上げるような場面が浮かびます。「未だ傍目くマリジア慈愛」というところも、恋人への未練が残っているのでしょうか。 「チラク高慢なあのベンタイリリックが大人へ」というのも、現世に遺した子どもの未来を想っているようです。「へろろへステンニ、遠く遠く。/ここから数歩のところ、ヒンパクに傾ける。」そうですね。これから、死後の世界といった遠くへこの人は行ってしまいます。しかし、それは数歩(処刑台に)歩いただけで到達してしまう。 「しっかりと照準を」、ギロチンで頭でも狙われているのでしょうか。 「円天と先天」、輪廻を祈るような、天に祈るような。「ホウロウ」はおそらく放浪でしょうか。輪廻などないかもしれないという不安。ただ暗闇を彷徨う魂だけの存在になるかもしれない。 といった具合に、言葉の流れを汲むと死に直面しているような一人の人間の詩に私は思えます。この支離滅裂な形式は、ラストでより激化していきますが、それは死に際だからでしょうか。 私たちは生きているうちは秩序を持っていられるでしょう。しかし、死に瀕する時はおそらく何もかもがパニックに陥る。自分の言語の秩序なんぞも崩壊するでしょう。この手法は巧くこの詩の世界観にマッチしていると思いますよ。最初の仮説から大分ずれてしまいました。 これを読めない、なんじゃこりゃ、と思う人はきっと、五体満足の幸せに浸かっていられているのではないかと。もう少し、詩の言葉に向き合い、想像・解釈する方がいて欲しいと思った次第です。 (拡大図のとなり)

2024-02-29

最初の二行で、ああ、良いなと染みてきた詩でした。 幽霊という透明な存在になることは、決して悪いことばかりでなく、その透明な身体は春の青空や、春の澄み切った波音をそのまま通していくフィルターとなる。 最近、「あなた」や「君」を詩に使う人が多い中で(多少うんざりしていたのてすが)、この詩は説明口調で直接こちらに語りかけているようにも思えます。だからこそ、不思議とこの幽霊の孤独感というのがない。それは読み手がこの幽霊に寄り添えられる、ように書かれているからだと感じました。 (春の幽霊)

2024-02-29

第一連の三~五行目の言葉が好きです。 私たちはつい、夢か現かという二つの世界に挟まれてると捉えがちですが、本当はもっと微妙な境い目があったりする。夢でも現でもない何かが。 「昨日よりも生きている」と感じるのは、そんな体験、つまり日々の微妙な違いに気づけているかどうかでしょうか。 それは時に他者である。「僕を羨むリッチマンの歩兵たち」というのも、発想の逆転ですよね。見下してきてるのではなく、羨んでるのではないかという気付き、変化。 また、「大切に持ち歩いた小瓶を落とした」のにも関わらず、「身軽になったと思えた」のは、内心の変化への気付き。 実は自分も他者も絶えず変化している、そうやって世界は変わっていく。それに気付いたと思えるかどうか。生きるとはそういう側面を持っているかもしれません。 (昨日よりも生きている)

2024-02-28

「愛が燦々と降って来ると/考えていたのは夢の中だけでヴェランダで本当に/燦燦と降って来るのは太陽の/光だった」 この五行にとても惹かれました。この詩の最後で子供の存在が仄めかされますが、それはこの五行につながっている。 自分が子供だった時の親の像が、まるで太陽のような存在だったと。だから愛は空から降ってくると信じていた「私」だったが、いざ自分が親という立場に立ってみると、ヴェランダには太陽の光しか差さないことが分かる。かといって、この詩が空虚感に包まれることなく締められるのは、子供の存在が大きい。 かつて空に親を見ていた「私」は、今度は子供を空に見る。それは太陽と違って、曇り空になったり暗雲にまでなったりして……それでも最後には雲一つない空になる未来がある。その時には、親としての輝きがまた燦々とヴェランダに降るんだろうなと、想像を搔きたたせられました。 (そんな一日)

2024-02-28

最近悔しい思いをしたのでコメントしに来ました。 憧れ、嫉妬の対象は、こっちが追いかけるよりも速い速度でどこかに行ってしまいますよね ただ、後ろを振り返ると、いつかの自分と同じ苦虫を噛み潰す人も見えるわけで… この道がどこかに架けられた桟橋だとして、後ろから崩れていっていつか自分も落ちていく、なんて不安。いや、前の方から崩れているのかもしれない、なんて。 弱音吐きになってしまいましたが、人類共通の悩みですねこれは。 失礼しました。 (才能)

2024-02-27

コメント、ありがとうございます。 歌ってもらう詩、というテーマで書いたので、意表を突いてしまうと歌い手のリズムが崩れたり、考え込ませてしまう恐れがありますね。 A.O.Iさんのように、色んな人の喉元をさらっと無邪気に通り抜けていって欲しいです。テットルン (テットルン)

2024-02-22

投票し忘れました。 (月色(げっしょく))

2024-02-22

そういえばこのB-reviewのサイトも、「バター」、「カスタード」、「満月」といった「月色」だなぁと気づきました。 「裸」も、黄色人種であれば「月色」と言えそうですね。「ミトコンドリア」はどうなんだろうと調べてみると、なんと無色透明で、観察する時は染色しなければならないらしい。 最後の二連が好きです。月がカスタードクリームのように溶け出してくる夜、面白いです。それとは反対に、前半三連は「裸」、「産毛」といった輪郭・境界線を保つイメージがある。 かといって拒絶するのではなく、「ペットボトル」や「ミトコンドリア」などの透明な器が意識されて、「まばゆ」さを感じ、その「月色」を身に受けているように思いました。 夜を容れたペットボトルのような私たち。いいですね。カスタードクリームも大好きなので、私は良い詩だなと思いました。 (月色(げっしょく))

2024-02-22

四季、または日本の風土に対して、古来では厄災や神だとして受動的な認識だったと思います。今も、地震などの災害にはまだ理不尽さを振りかざされることがありますが… この詩でも、ただ四季の美しさを謳っているのではなく、虫は虫でも「蟲」、波の「荒息」、鴉の「冷めた合唱」、冬の大雪は「空の一息」に過ぎない(と解釈しました)、など、それぞれの四季の強さが表れています。 そんな四季(自然)それぞれに耳を傾ける(=立ち向かう)姿勢を持ちながら、最後は彼らの独壇場になってしまう。 旧来の自然への意識から変わりはしつつも、やはり自然には負けてしまう、魅入ってしまうといった詩。だからといってこの詩は、人と自然の共存がある、とも言っていないように思える。絶妙なバランスの詩だと思いました。 (四季の声)

2024-02-20

声変わりのしていないアナウンス 点字ブロックの凹凸を踏みしめると 短調の記憶が奏でられるのはなぜ? 降りる乗客の中に、指揮者はいませんか (連詩だよ「全員集合」)

2024-02-19

良い詩なのになぜコメントなど評価がないのか…。 第二連の表現、好きです。単純に、名前というのが対象の分節だとすると、木々は各々そこに限界をもって存在していますが、路は無限に世界のどこまでも伸びている。だから、分節できない=名前がない、と解釈しました。 路に落ちると、運が悪いと穴ぼこにも落ちてしまって落ち葉としても認識されない運命もある。鼻水の上下運動が、そんな葉っぱを励ましているようなイメージで面白いですね。 彼らを引っ越しさせるのはこの詩では「雨」ですが、冬の季節が来たらさらに絶望するのかな、とか、その直前の紅葉は彼らの全盛期かな、など、想像も膨らむ詩でした。良い詩でした。 (路子/みち/こ)

2024-02-18

表現が好きです…特に第三連、神々しい。 ミクロとマクロのカメラワークが巧いと思います。雨が時計の針に降る、一つの薬缶と街、サイダーと金星… 「歌」がキーワードですね。第一連、幽霊が歌い出すという面白いスタートです。世界のあらゆるものに声が宿る、時間を飛び越えて彼らの声は響く。そういう、この詩の世界ではもちろん「喉」も崇められるほど重要で、花嫁の喉を潤すことが栄光だと、サイダーの誇らしげな顔が浮かんできます。 祭事の雰囲気が詩を包んでいるのか、「火」が出てきますね。しかし、同時に不穏な展開になっていく。約束を守れなかった、何か。伝統の断絶だろうか。小石が歌を歌うようになるよ、なんて言われても、幽霊の歌より全然インパクトが薄い。ここから、「未来の歌の喪失」の警鐘が聞こえてくる。 最後にはそんな警鐘を胸に留めて、旅立つ若者が船の汽笛に振り返る。そんな情景が浮かびました。良い詩でした。 (二重線)

2024-02-17

「酒」というワードが入ってきましたね 分かりやすい、と言ったら確かにそうかもしれないですが、読み手の解釈の敷居に大きく踏み入る感じまではしないので、良いと思います。 詩中主体は、その墜落した世界の女も深層心理では見たい欲望があるだろうに、「愛のせい」ではなく「酒のせい」にする。いいです。 (天国)

2024-02-16

面白い。私も一度、大陸のような女性の身体を歩く詩を書いたことがあるので、所々イメージの共鳴を感じました。 裸体は「凍った夜」のように美しくても、詩中主体はエロスに直面した後は夜明けへと駆け出してしまう。最初の連で「墜落した」ともあるように、その世界は早く抜けるべきで、元の場所に戻らなければいけないという焦りを感じる。ただ、エロスだけはしかと確かめてかっさらいたかったのかな、と。 そこから天国に戻り、朝食の日常を享受し、女性の顔を見る。これは持論ですが、夜の世界では相手の顔というのが見えにくいなぁと。相手の全身を意識し、キスの時には目を瞑る。視覚を遮断すれば、触覚が研ぎ澄まされる本能からでしょうか。 「天国」と、墜落した先の「女の夜」、二つの世界から恋人を確かめること。愛を巧く表している詩だなと思いました。良い詩でした。 (天国)

2024-02-15

誤字しました。「絶対的な権力」、でした。 (雲)

2024-02-14

「ただ上に伸びていくそれ」とは何か。 前半四行は叙情をうまく捉えていると思う。人間の心は目まぐるしく移ろうもの、空は毎回新しい景色を映してくれる、相似性が高い。「やさしくてゆっくり」な、雲とリンクする気持ちになっていく。 雲は平行移動するのに対し、その雲のように伸びていく気持ちが上へと向かっていくのだろう。その気持ちを、「太陽ですら邪魔はできない」と締めくくるが、私はここをもう少し掘り下げたい。 前提として、雲が見えるのは太陽のおかげである。太陽がなければ、白い雲も黒い雲も見ることはできない。むしろ手助けしている。 ならば、この「邪魔」という表現はどう受け取ればいいだろう。 「太陽」が、絶対的な権利を持つものとして表れているとしてみる。前半に挙げたように、空模様は絶えず様々な景色を見せてくるのに対し、太陽は規則的な運動で、大体毎回同じような眩しさを投げてくる。 雲と太陽は、まるで民と王のような関係かもしれない。秩序などのしがらみから脱して、雲に想いを届けに行く、それは太陽の力を持っても邪魔できない、と私は解釈した。 しかし、やはり心残りなのは、扱うモチーフの2つの距離が近すぎてしまっていることで、イメージがスムーズに受け取れなかった。ただ、良い詩だと思います。 (雲)

2024-02-14

なんだか時間についての議論がなされていますが、 力学と熱力学の、双方の時間に対しての考えを思い出されました。私は熱力学派ですね。 そんなことは置いといて、時間が虚ろに、無内容になって今に迫るという詩の内容について。 多くの人たちがこの現実に直面して嘆きますが、この呪いの射程は段々と膨れて、まるで人生何をしても意味がないというニヒリズムが流れる場所があったりしますね。 だからこそ合理的なもの、利益、目に見えるものを求める社会の中で、逆に虚無だと分かるもので時間を埋めるとどうなるか、は気になりますよね 何かしたけど、何もしていない(と周りからみなされるもの)、そんな虚無を時間という薄皮で包んで回顧すると、何が見えるのか。と、この詩を受けて考えました。 (時間の内容)

2024-02-14

コメント失礼します。 以前、&さんのコメントを受けてからこちらの作品を拝見しました。おそらく、同じような領域に関心があるのかなと、少しワクワクしております。 第一連から、意味の喪失や距離の喪失(tele )のイメージ、「飢えた梟」という言葉からジョージ・オーウェル的な終末感が漂います(世界が終末に向かう時、真っ先に梟に異変が起きる、というような話を読んだことがあります)。 そんな始まり方で、意味・空間の秩序が壊れているはずなのに、第二連は「雷が遠くで鳴る」という異常事態が発生。秩序の崩壊のまた崩壊。もうてんやわんや。 そんなメビウスの輪のような世界に対抗するには、「意味をなさない実存へ」向かうことで、同じくメビウスの輪のような存在になるのが必要になる。 第三連からは解釈が多様になるかと思います。まあ、私は人間とその無秩序世界の格闘を感じて、それが最後には人間の敗北に終わると受け取りました。敗因としては、たとえば「映像」といったものに振り回されたことによるでしょうか。「映像」は、遠くにあるであろう真実を映すだけの媒体に過ぎなく、その真実の存在証明をしてくれるものではない。だからこそ、賢者や隠者なども不在。虚構であっても存在する、と信じられていたアンビバレントな者たちは居ない、と梯子を取り上げられる感覚。 最後に、最終連の最後が一番私は好きです。この終末の手はつまり、天界までにも延びているわけです。雲の上から、直接様子を窺っているわけではない、天使たちもまた、モニター越しに世界を見つめている。「嗤っている」のは、決して天使の本性ではなく、「映像」という毒にやられた末の感受の麻痺。 この表現がなければ、救われなさ、絶望は刺さってこなかったと思います。良い詩でした。 (映像)

2024-02-12

コメント、ありがとうございます。 見た目の問題、縦書きか横書きかとかも関係してきそうですね。 正直、先人たちの暴力的な詩(褒め言葉ですが)を好んで通ってきたせいで、自分のこの詩を読み返しても、まだ小綺麗で優等生ぶってるなと感じたりします。 だからといって躍起になって、無理に狂気を纏おうとすると、ごちゃごちゃとした違和感が生まれて、ピエロの茶番劇のようになる部分があるのかなと、A・O・Iさんの指摘にハッとしました(その違和感が生まれても、意識的にコントロールできればいいんですが…難しい)。 相手を綺麗に仕留める暗殺者かのような詩、それも心がけてみます。聴覚と視覚、両方のイメージでもって。 ありがとうございます。 (クロス・ゲームの手紙)

2024-02-12

湖湖さんの感情は狙いどおりではありますが、その先を引き出せない、私の言葉紡ぎの魅力がまだまだ足りないですね……。 もっとケミカルで、誘惑するほら穴のような詩作を努めていきます。コメント、ありがとうございます。 (クロス・ゲームの手紙)

2024-02-12

コメント、ありがとうございます。 「尾を引いて残っている言葉」をまた、次の作品でどう見せるか。 マジシャンと同じで、類似したトリックでは同じ客は騙せない。 また新たな毛色で、この詩情を紡いでいこうと思います。ありがとうございます。 (クロス・ゲームの手紙)

2024-02-11

コメント、ありがとうございます。 イメージは音楽性とともに現れると信じています。得体の知れない水銀が、なぜか心地よく頭に流されるその現象を、引き続き詩にしていきたいです。 ありがとうございます! (クロス・ゲームの手紙)

2024-02-11

ゼッケンさんの詩、好きです 直近の「プレゼント」や「埋設」しかまだ当たれてないですが、テーマの提示の仕方が上手すぎる気がします。 良いところを具体的に、分析して自分なりに落とし込もうと思いますが、 第一連、「おれ」の世界の捉え方から始まりますが、なんとも賛否両論ありそうな偏見が含まれている気がしますね。たとえばこの詩の考えに沿うと、神様は人間を「信仰」の面で制御しますが、肉体の細胞には「信仰」の機能はない。代わりに条件反射による発熱などの「反応」しか持たない(もし細胞にも「信仰」があるとするならば、無神論者はがん細胞のようなものだろうか?)。神-人間と人間-肉体の対比はあたかも当然のように書かれるが、少し歪曲しているようにも思える。しかし、その思想の強引さがこの詩の魅力で、惹き付けられる。 後半、面白いですね。神がまるで猫じゃらし、いや、罪じゃらしで「おれ」とじゃれている感じですね。罪という意識を通して、神様と遊んでいる。罪悪感の向こうに神がいる。一見滑稽に見える「おれ」の行動、その罪を犯す行動が、逆に「おれ」の信仰につながっている。 この逆説の主張はちょっとため息が出ますね…素晴らしい詩だと思いました。 (健康増進法)

2024-02-11

西条八十さんの「トミノの地獄」、初めて知りました。天沢退二郎さんは、まだ数作品しか読めてないのでいつか読み込みたいなと思っている一詩人ですね。 少女の無垢の力と、人面犬の狂気の力がまだ現実でせめぎ合う、結末の解釈はまさにこの作品の解像度を上げているなと思いました。ありがとうございます。 (それは散歩)

2024-02-10

痛みというものが、時に一個の生命だと感じることがあります。自分の意識外から突然やって来て、いつの間にかいなくなる、酷い時には日常の運命を変えてくる存在です。 この「私」は、外の兵士達(性を快楽として弄ぶ)からの生命よりも、体内の痛みの生命を信仰していますが、その板挟みになり、砂、苔といったものにまみれて死に近づいている。 いや、むしろその苔といった生命への憧れだろうか。人の荒廃した土地に生える彼らのように、倫理の荒廃した土地で苔として生きていくことを「私」は望んでいるのかもしれない。そう考えると、「私」はひどく厭世的である。 狼は、実は「私」を食い破ろうなどとしているのではなくて、身体の外に出て、兵士らを噛み殺したいのかもしれない。世界への抵抗である。でも、「私」がそれを抑えている。「私」の中の諦めと怒りが乖離して、怒りが沈殿してしまったのではないか。 世紀末のような世界観と、どう生きるかを決断する「私」の言葉に、切なくなりました。 (狼)

2024-02-10

後半四行が、それまでの構成のリズムから外れているため、それ以前とその四行の二つの構成から成っているかと思います。この後半部が肝なのかなと。 前半、「ぼくは燃えかす」と三回繰り返されたり、また、どのような燃えかすかを説明する行がありますが、後半では「僕」という表記の揺れがあったりと、これは自己紹介というよりは、「ぼく」が「ぼく」に「ぼくは燃えかす」なんだと言い聞かせているように感じます。普通は一回でいいですからね。 次に「あちら」という言葉に注目したいと思いますが、これを素直に空の世界のことだと汲み取ると、前半部とのズレが見えてきます。 「あちらに何もかも置いてきた」という主体性があるように書かれているにもかかわらず、実際は「ちぎれてできた燃えかす」で、空から弾き追い出されるように「ぼく」は「燃えかす」になっていたはずです。 空の世界との決別が、本当は自分の意志ではなかったのではないでしょうか。しかし開き直って、「燃えかす」としての「ぼく」を認めて存在しようとした最後、また空の世界に吸い込まれていく。しかもそれは「雷雲」。望んでいた星空の世界ではない。その不条理さが伝わってくる。 高校生という情報を見て、偏見じみた、精神分析のようになってあまりこの批評は自分は好きではないですが、モラトリアムが終わろうとする中で自分と社会との距離感を考える、そんな思いが隠れているのかなと。 無理やり現実に結びつけた感が否めないですが、それほど問題意識を巧く隠している詩だと思いました。読み応えのある詩だと思います。次回作も期待しております。 (自画像)

2024-02-08

これは一つの価値観ですが、 自分も他人も、そんな境目などないと思えば楽になりますよね。妬みは時に活動のエネルギーになり得ますが、排他的になって自分が孤立してしまう。私は幾度か経験しました。 コスモポリタニズム的に、世界が一つの生命で、他人と共鳴する生き方もアリです。妬み、恨み、羨みが人一倍強いなら、きっと敬いの感情も強いはずです。 自分のことが好きか嫌いかではなく、世界を好きになれば、自分も他人も含めて好きになれる。説教じみてるかもですが、妬みなども時にはスパイスとして囓る時もあるので、忘れてはいけない感情だとは思います。 失礼しました。 (自分の愛し方)

2024-02-08

これから作戦会議を始める。 皆、各々動画で確認してきたと思うが、今回の相手は非常に手強い。 前回の試合では、殉足のトムがハットトリックを決めている。優勝候補だったヴィーヴルズは破れた。 こいつはエース級の選手だ。このチームの誰も奴のスピードに追いつけないだろう。 滑らかにフィールドを駆ける。フィジカルで防ごうとしても駄目だ。奴はスルスルとディフェンスを通り透けていく。まぁ、すり抜けるのはどの選手もそうだが、トムは別格だ。 何日も考えたが、奴を止める術は私も思いつけなかった。そこで、だ。お前ら、ソックスの中にこの粉を入れてくれるか。 塩だ。そう。盛り塩だ。これは審判にバレちゃいけない。これを試合中、徐々にペナルティエリアの白線上に落としていけ。相手と自陣側、どちらにもだ。 これをすることで、奴らはペナルティエリアに入る時、少なくとも身体が思うように動かせないほど重くなるはずだ。 しかし、油断するな。奴ら一人一人を絶対に見失っちゃいけない。恐れちゃいけない。勝つのは我々だ。 _____________ 幽霊スタジアムで開催された幽霊杯にて、某チームの不正が発覚した。試合中、身体の違和感を覚えた幽霊審判の告発により、選手らがフィールドに盛り塩をしていたことが判明。スタジアムは騒然。幽霊サポーター達は呪言ブーイングの嵐だった。某チームの監督は、「出来心だった。バレないと思った」と不正を認め、自決。地縛霊となってスタジアム地下の奴隷活動に身を置くこととなった。他、選手らの処分は十分に協会が検討するとのこと。 ちなみに、不正発覚時には試合は終盤で、それまでペナルティエリア外からのロングシュートの炸裂、トムはまたしてもハットトリックを達成した。 (B-REVIEW 2月のお題詩「幽霊」 「秘密] )

2024-02-07

「人生」という題から一言目で「金玉」と続くインパクトは中々なものです。それなのに、詩全体は素知らぬ顔で脱力して流れていく。 金玉に毒を塗るとはどういうことか? 単純に、新たな生命の誕生を手放すことなのか? 仮にそう考えるとして、第二連で「俺」は遠い花火の綺麗さを思うが、花火もひとつの生命(放たれて散るまでの流れ)だと考えると、彼はそれを羨んでいるように思える。 妻の言う「品性」とは? 生命云々に考えが縛られることが品性の欠損だ、という価値観だろうか。反出生主義のようなものにつながりそうである。 そう考えると、「俺」から妻に対する「勤勉」という言葉は皮肉にもとらえられる。 麺をゆでずに、いきなりそば湯になり不要なものとされ棄てられる「俺」。それが人生なのだろうか? 「人生」という題から「金玉」と始まるこの詩の違和感は、詩全体の違和感をも体現しているように思いました。 好きな詩です。 (人生)

2024-02-07

ミステリー詩と言っていいでしょうか。詩全体を包む謎がとても魅力的です。 おそらく、人によって多様に解釈が分かれるかと思います。 夜が光を殺し、その死体も凶器もすべてその暗闇の中にある。この光というのは単なる星でしょうか? 「美しいものは醜いものを伴って連れ添う」という箇所は、星が死体を引きずっているようにも思えます。殺された光とは、一体何なのか。星とは別物ではないでしょうか。 また、光だけじゃなく、夜は人も殺しています。それはどんな人なのか。少なくとも分かるのは、その死体を隠すのに溜め込まれた蝶の死骸がカモフラージュとして使われていること、でしょうか。 ひとつひとつ、言葉を丁寧に掬っていくとさらに迷宮入りしてしまいそうな、そんな詩だと思いました。謎を解く力や余裕が無いのが悔しい。それでも、この詩は好きです。 (夜が光を殺した、夜が殺人を犯した)

2024-02-05

紙一重、それに向き合った詩でしょうか。 クローバーの群れを見ると、ふと三つ葉を四つ葉と錯覚してしまったりする。逆もしかり。不均衡な言葉や物事を、振り子のように描いていて、読んでいてチカチカ目眩がするようです。私はこういう詩、好みです。 薬も水も 今の僕には 海の水 この言葉にあるように、物事の変化は「僕」の主観が必ず関わる。三つ葉になったクローバーは、実は四つ葉だったかもしれない。 松明という明かりで、自分の中の矛盾を照らして、像のゆるがない四つ葉のクローバーを探しに行こうとしてるのでしょうか。最後、めげない気持ちが表れてていいです。 (三つ葉になったクローバー)

2024-02-05

感想、ありがとうございます。 この詩に関連して、散文詩ってなんぞや、も突き詰めていきたいですね。自身、詩だけでなく小説にも挑戦してみてるので。これは小説寄りだ、もしくは詩寄りだ、という風に感覚を身につけていきたいです。 A・O・Iさんの意見、とても参考になります。ありがとうございます。 (それは散歩)

2024-02-04

習得中の言語で書かれている特徴____ 興味深いですね。日本語で考えて、日本語で書いてました。もちろん、母語です。 ただ、私は全うに日本語を壊すことを目標としているので、そうなると、日本語のしがらみの何かから脱け出せている兆しがあるのでしょうか……? 時間の扱い方にその特徴があるとのことですね、自己分析、深めてみたいと思います。感想、ありがとうございます。 (それは散歩)

2024-02-04

コメント、ありがとうございます。 とても鋭い考察だと思いました。形はかなり変わりましたが、超初期の構想を記したいと思います。 私の詩作のエネルギーの中には、シュルレアリスムが一つ底流しているのですが、オートマティズムによる予期せぬ隻語の衝突、そこから放たれるグロテスクやユーモアなどの光量を調べたりしていました。 ある日ふと、この言葉の衝突実験は二次元的で単調になってきたと感じ、それじゃあ三次元的に衝突を起こさせようと考えたのが始まりですね。安直ですが、初めに浮かんできたのが世界観の衝突です。異世界転生ラノベを詩に持ってきて、異世界転生詩というようなものの試行をしようと考えました。1.5A様の、非現実に現実を落とし込む、という解釈はまさにドンピシャでビックリした!(失礼しました) ただ、課題が多く残る詩だなと、この場に永訣の念で投稿した次第です。具体的には、少女の世界観が強すぎることですね。もっと、双方の世界観が弾けて混ざり合い、原型を思い出せないくらいに外してナンセンスを目指したいなと思いました。最終連に人面犬が残っているのは、そのせいでしょうね。完全な現実には戻ってこさせたくなかった。 この実験を皮切りに、三次元的シュルレアリスム(造語ですが)が追究できればな、と、そんな感じです。 また、何かあればお答えしたいです。感想、ありがとうございます。 (それは散歩)

2024-02-03

第二連と第五連をリンクさせるなら、右を向いた時に目が合ってしまう人がいる、という恐怖もあるなと思いました。 その人が逃げたあと、群れに留まった自分は何を思うか。安堵なのか、嫉妬なのか、興奮なのか。 第六連もそれに関わって、逃げ出す人たちの動向をうかがってしまうこと、それすらも逃げにつながってしまう世界だと表される。 まぁ、人間の肉体の可能性を尊重する立場から見れば、声、足、目などを最大限活用できているのはいつだって「逃げる側」だということ。改めて肝に銘じられた詩でした。 (怖いから)

2024-02-03

もじゃお様、企画のほどありがとうございました。 完成した形をみると、連詩だという先入観があるからなのか、書き手各々の個性が突出しているなと思いました。詩のテーマの言葉を借りるなら、ぼんやりとした光ではなく、閃光のような刺々しい輪郭を持つ詩なのかな、と。 第一連がなければ私は広げられませんでした(光と地平、還る、というシンプルかついい組み合わせでした)し、第三連A・O・Iさんの言葉の仕組みが壊れていくイメージから、黒髪さんのロマンチックな締め、短くも躍動感あふれる良い詩だなと思います。 また機会があれば参加したいです、ありがとうございました! (連詩への「なにか」編集版)

2024-02-02

私たちは過去の先人たちの明かりに導かれていること、その気づきへの詩だと思います。 未来という夜道を生きる私たちを、先人たちがそれぞれの輝きでもって、星になり照らしてくれている。 そのことを日常からみつめる構成だと思いますが、面白いなと思ったのは「毎月の事故死者数」という部分です。 どのくらいの人が亡くなったのか、地上では具体的な数が分かってしまうのに、空を見上げても私たちは星を数え切れることなどないでしょう。この対比が、生死を超越して輝く星のイメージを強めているなと感じました。 これは多くを語らない短い詩ですが、この現実と空想の緩急づけを、等星さんの次の作品では長く味わってみたいとも思いました。 (僕はね)

2024-02-01

惚れ惚れする詩です。中央には電柱がなく、都市の周縁部にはあるという設定がもう好きです。 電柱の役割として、①明かり点けること、②電気を供給することがこの詩では触れられていると思いますが、②よりも①が重要で、なんなら②に関しては空き家に供給されていない。③空の区画についても重要かなと思います。 明かりは夜しか必要になりません。一方、日中は空の電線区画が露になる。街の人々はこの二つのうち、夜の争いに躍起になっている。リアルで醜い電柱所有権の争い。そんな中、「おれ」はかなり革命的な存在であった(マジックで塗り潰すところなど)のに、最後は二つ目の街灯をつけて市民たちの意向に寄り添う方へと傾いていってしまった。 体制に従うか、反体制につくか。その選択は地位や権力によって簡単に揺らいでしまう。反体制側から「おれ」が退いたのは、その街の枠から抜け出ていた姉弟の存在が大きいだろうと思う。本当に革新的な力を持っているのは彼らだったのだなと、そう考えながら「おれ」は黄昏て電線の貼り付いた空を見上げているのだろうな……と思いました。 非常に面白い詩でした。ありがとうございます。 (埋設)

2024-01-31

第三連が印象的な詩だと思いました。 第一連から第二連にかけては、触覚や嗅覚などを交えて、モノの輪郭が壊れたり壊されたりといった自然の摂理のようなものと溶け合うようなイメージがありました。 一変して、第三連では数式といった科学的要素が登場して、モノの輪郭には、モノが存在するということには必ず数式という枠が在るのだと思い出させられる。しかし、その数式なしで世界を視れる、数式というものが世界から「透け」ていること、そのおかげで私たちは世界の美しさに触れられているということ。 そのような発見を、滑らかに展開している詩だと思いました。良かったです。 (透ける)

2024-01-30

個性や価値観というものが過剰に問われている現代の弊害として、「真実を見ない」ということが、確かにあると思います。 たとえば、幽霊はいます。妖怪もいます。戦争もあります。身近な殺人もあります。なんなら魔法もあります。 そんな非科学的な、と、自分の許容できる世界に閉じこもり城壁を造ることは個性でもなんでもなく、それこそ現代的に一般化された「イデオロギー」の中に取り込まれていく没個性に過ぎない。 世界はどう映っているのか、その真実を認識・表現できるのはカメラでもAIでもなく、人間でしょう。だのに皆、自分の知れる範囲の事実だけが好き過ぎる性分だなぁと思います。そういう私も、身を引き締めなければと常々思いますが。 「平和イデオロギー」、改めて読んでもいい詩です。 (平和とはなにか? 実はここにメッセージはひとつもない。)

2024-01-29

「人の変化」について、そのテーマ通りに、疑問を浮かばせる構成を取っていて巧いと思いました。落とし込むのに少し時間が要りました。 この詩の違和感は最初と最後の一文ですね。「変わったね」とも、「変わってないね」と言っても「僕」は「君」に怪訝な態度を取ってしまう。最初から最後にかけて、この詩の「僕」の考えが変化、まさに「リセット」されているようです。 また、「できそこないの詩」というタイトルも、考えさせられました。完全=不変、不完全=可変という合理的な考えが現代に蔓延っているように私は思えます。この詩のタイトルには出来・不出来に加えて「損ない」という単語も含まれていますが、漢字ではなく平仮名で表現されているのが良いと思いました。一種の抵抗のように捉えられます。「出来損ないの詩」と書くと、どうも堅苦しくて、可変性や柔軟性が消えて、詩の訴えと噛み合わなくなってしまう気がしますからね。 もっと奥深く、このテーマを抉るような力を持っていると思われましたので、次回作を期待します。 (できそこないの詩)

2024-01-29

「赤ずきん」の連で心が惹かれました。 赤ずきんにおけるオオカミ、身体における酒や煙草、日常における事故、この街を歩く「俺」。 そして「ちくしょうめ」と勢いのある厭世観から打って変わって、最後の二つの「雪国」の連は不思議な読後感を覚えました。 あらゆる二項対立の喧騒を、白くその境界を染めてくれる「雪国」への希求でしょうか。しかし、それがただ寒いだけの世界だったと、そう感じるのはこの「俺」の「嘘が/下手すぎる」からなのでしょうか。自分を騙し切れず、ひたすら安息地への放浪を続けるこの哀愁漂う雰囲気、好きです。 (雪国)

2024-01-29

暗喩表現が光っている詩だと思いました。単なる、パンにジャムを塗る朝という日常ではない、何か気持ちの悪さが含まれた詩で、私はとても好みです。 この詩のマーマレードは、食べるためのものとしては現れていない。それは、「わたし」のわずかなミスでパンから溢れ落ちた瞬間から、その発光する体の真価に目覚めたような存在。ただ、「わたし」の目からはそれは偽物の光に見える。朝陽の代わりになんてなれやしない、と。実存と本質の問題がここには隠れていると思います。物質と生物の在り方が逆転しているようです。 その逆転をまざまざと見せられる「わたし」。そのマーマレードの光を取り出したのも「わたし」。それらに埋め尽くされた「わたし」を、また光らせるように取り出してくれる人は居るだろうか、と切なさが香ってくるこの構成、素晴らしいです。 良い詩をありがとうございます。 (光/ひかり)

2024-01-26

墨、と見ると私はいつも水墨画の儚さを想起させられます。 日本人の趣きがかつて、水墨画に向いたのには、今浮かび上がる生命の産声にも、消え掠れゆく生命にも捉えられる曖昧さにあると聞いたことがあります。 この詩にも、その淡さが表れていると思います。朝焼けという第一連が一日の始まりとするなら、第二連は昼、第三連は夜、のように、なだらかに動いていくようです。 そして裏にはしっかりと、生と死を跨ぐような境界線の昼、水面により死を想起させながら夜空の青さも表す夜、というように一日≒人生の二層構造が組まれていると思われます。 第三連で、自分にではなく他の誰かを偲ぶような焦点の動きにこの詩の美が在ると感じました。 良い詩をありがとうございます。 (墨)

2024-01-25

書くことそのものへのエネルギーを、高解像に映した力強い詩。第一連の軽い始まりから、第二連への跳躍は油断してしまいました。 「紙と目の間の/光の反射しないゆらぎを見ている」 この言葉がこの詩に息を吹き込んでいると思います。「今、何かを書く、その時」に、紙や目などの物質的なものではない何かを感じ始める人こそ、書く力がある人なのだと、もっといえば書くべき人ですね。 そこから、書くという行為を指先だけに任せるのではなく、身体全体で踊るように書く躍動感。「書く」=「走る」へとイメージを変化させていく。 そして最後に、伏線を回収するかのようにあの「ゆらぎ」が「海」として現れてくる。言葉の海だろう。そこでは身体が思うように動かない。 その絶望に呑み込まれてもなお、「海」をただ追いかけるのは、果たして我々には可能なのかとこの詩を受けて考えてみる。私たちが海を想像するとき、それは一般に浜辺から眺める静かな海のイメージが理想かもしれない。サーファーなら荒波かもしれないが。 詩人はそれらとは違って、渦に巻き込まれる海に自ら入っていくような人種だ。自分の思想に何度もイロニーのメスを入れて、堂々巡りになりながら遭難していく言葉の放浪者だ。私たちの望む海は一体どこなのか。それは見つかるものなのだろうか。その答えは、やはり目線を紙に向けた時に見えるあの陽炎にありそうである。 良い詩だと思いました。 (見えないもの)

2024-01-24

雰囲気がとても好きです。 暗い森という、魔術的で幻想的な世界観といったステレオタイプがある中に、「三丁目」、「ポスト」といった生活的なモチーフが使われて、それでいて森の不気味さは損なわれていない。この均衡感覚の裏には、たとえば「名前を聞かれたら決して答えてはならぬ」という禁忌を提示する老木や、多くは語らない老婆、そして、「森の入り口から」来たと明かされる正体不明の「ぼく」など、不確かな存在たちの情報が入ってくる絶妙なリズムのおかげで、現実と非現実の均衡が保たれているような詩に思われます。 また、「名前」に関しては、安部公房の「壁」を想起させられました。意識されているかどうかは分かりませんが、「ぼく」だけでなく老木や老婆、ランタンなども名前はなく、cafeも単なるcafeといった、固有名詞がない世界の中で、「ぼく」だけが名前を問われる不条理さが共通しているなと。 名前も、出身も分からない「ぼく」はランタンの言葉によって、鞄の中の林檎を見つける。これは、始めに森の中に彷徨う時に「ぼく」が無意識に欲しかったもの。それが実存(ぼくをぼくたらしめる)のキーアイテムだと本能で感じていたもの。 それが、詩の最後では現実と非現実を橋渡しするアイテムとなりながら、異彩を放っている。 夢では、ずっも鞄の中という身近な場所にあったのにも関わらず、ふらふらと「ぼく」は不可思議な世界を流浪させられ、現実では「ぼく」の手元を離れながらも、机の上を転がり、「昨日買ってきた」モノという記憶・時間性を見せつけてくるこの林檎の、「現実/非現実」の二面性の表現が素晴らしいです。 良い詩だと思いました。 (黒曜の森)

2024-01-23

社会という現実が、転じて本当は夢だったと、今新たな世界に目覚めた一人の、本当の現実を表した詩。 手帳に書くものでもなんでも、降ってくる言葉というのは、現実と自分の中の世界のズレに対して、均衡や健全さを保つための白血球のようなものだと思います。そのため、「妄言をやめたら 世界は不思議だなと思った」という一行には、強く共感しました。 家や自身の肉体など、外殻をまた固め、新たな世界に足を踏み入れるこの詩の力から、一つの勇気を貰えます。人間の性が追究された、良い詩だと思いました。 (アメスピ)

2024-01-21

コメント、ありがとうございます。 自分にはない観点でした。 Aが長男、Cが長女、Bが末っ子でしょうか。それともA、Cは父と母……? 読む人によって、イメージが変わってきそうですね。ありがとうございます。 (若者らの風)

2024-01-20

コメント、ありがとうございます。 笑いから恐れへの感情の操作はねらっていたため、「嘲笑」の効果について反応を得られ、嬉しく思います。 勿体ないお言葉、ありがとうございます。これからも研鑽していきたいと思います。 (若者らの風)

2024-01-20

「時間はFractalの一事象」、 「過去世にあるものが私のこれから行く目的地に変はると/過去であったものが未来へと豹変する」、 「Time Machineは既に吾吾に備はったものである」、 あとは、現在=皮膚、内部=未来、骨=終点など 硬い文体の中でもこのようなやわらかな発想・言い回しが織り込まれており、とても面白く読ませていただきました。 特に、過去についての解釈はとても共感できるようなものだと思いました。私たちの未来にはどこかしら過去が絡んでくる感覚。 たとえばデジャヴなんてものは、その源泉を辿る好奇心がない時には、由来不明なものにしか過ぎませんが、それを正確に捉えられるようになると、複雑な格子状の過去が現れてくるようになります。 未来は過去という絵の具でしか、塗られ立ち現れない、とも言えそうです。 少し解釈違いのところがあるかもしれませんが、とても良い詩だと思いました。ありがとうございます。 (自在なる時間)

2024-01-20

コメント、ありがとうございます。うののさらら様の感想に刺激されて、少し作者側の深読みを付そうと思います。 「明日という変え難い不変の事実の大きさ」 これは私も、この詩を書いた時に意識していたところです。 これは、単に「明日」という事実への反抗というよりも、時の流れから自分たちを解放させてほしい(Removeしてほしい)という願いと捉えることができると思います。この願いは、人類誰しも一度は思うはずです。不老不死などとか、まさにそうですね。 そう考えると、一見、詩全体が外界の存在に何か呼び掛けや訴えるような構成に見えて、実は、自分たちが持つ「人間性」の除去も企まれている、そうも読めるのではないでしょうか。 なんとも叶えられがたい願いです。そこには諦めも孕んでいるせいか、各連の最後が「他任せ」に萎んでいく形を取っているかもしれませんね。 この、願いが生まれては萎む収縮・拡張の運動だけは、本当に純粋な、心臓(生命力)のうごきのような強い「人間性」なのかもしれませんね。それだけは手放せない(Removeできない)、私たち。 少し熱くなってしまいました。またうののさらら様の解釈の深まりに繋がればと思います。ありがとうございました。 (Remove)

2024-01-19

手招きしているのは、一重の君、 面影に反射する。 まだ痛そうに、塗布の言葉が、 鏡台に澄む、定点から束ねて (連詩初参加です。何か、不足な点がありましたらすみません、よろしくお願いいたします) (連詩への「なにか」)

2024-01-19

予想を気持ちよく裏切ってくる詩 家族連れではないのに、「familyレストラン」に入るところから、彼女をの絵を描いていたというウソをつくところなど、色々なものを騙しながら生きる彼に寄り添うように読むと、彼は最後に読み手のことまで騙してくる。 「結局だれもおれの席に来ない」 ホール係も本当は来ていなかったかもしれない。彼の絵だけが寂しく浮き彫りになってくる。ウソによって突き放されたはずの私たちだが、レストランをあとにする彼の背中に視線を奪われたまま、また私たちも一人でドリンクを啜る「familyレストラン」の一人の客として取り残される。 またこの街のどこかで会えるだろうか、と思い耽るほど、没入してしまう詩でした。 (愛よりもやさしく)

2024-01-18

ひとりぼっちとは、何でしょうか。 孤独とは、簡単に表せるのでしょうか。 たとえば空白などは、本当に孤独を表すのに堪えうる表現なのでしょうか。 テレビを見たり、ワープロを打ったり、心に音楽が流れ出したり、鏡を見れている。詩も、韻を踏む余裕があったりして、孤独感があまり漂っていない詩だなぁと思いました。 現代人の孤独感覚の麻痺を狙って書いてあるのなら、良いと思います。 鏡の奥がかすみ歪んだり、いないはずの君が見え出したり、ひとりぼっちじゃないことに絶望を抱いたり、「孤独」というテーマの深みへ、さらに到達することを期待しています。 (ひとりぼっちの部屋の中)

2024-01-16

街中で、綺麗な人を見かけた時のドキッとする瞬間。そんな身近な経験から始まる詩のように思えて、裏のテーマが深く書かれる。 「綺麗な子はすぐ過去になる」、「遠くに行ってしまったから」という行は、単なる日常的出来事よりも、重みのある行です。 美しい人たちが、すぐに犠牲になっていく世界への憂いがあると思いました。「綺麗な子」とすれ違い、偶然見失ってしまったのではなく、世界がそのように流れているという必然性への気づき、嘆き。 大切な、輝くものの喪失には、何よりも過敏に反応する私たちのこの感性。それが街中の日常に鋭く潜み始めている、そういう詩だと受け取りました。 (いち)

2024-01-16

しがない一人の町医者の、さみしい夜の日常風景が浮かんでくる詩。 「この痛みはこの夜のもの」 この行にグッと来ました。 痛みや傷を抱えて医者の元に来る患者と、その傷に悲観的になる医者の内の痛みが、元はその夜から溶け出していて、彼らを覆っているようなイメージがひしひしと 心に来ます… また、詩全体が医学的なのではなく宗教的な雰囲気を持っているのも、小さな町の診療所だからなのかな、と思いつつ、身体や心だけでなく魂の救済所にまで昇華しているこの場所の記憶にまで、思いを馳せられるような奥ゆかさがあると思います。 良い詩を、ありがとうございます。 (町医者)

2024-01-15

天の河を、隔てる距離ではなく「流れ」と捉えているところに、光るポエジーが見えました。 この星たちの「流れ」がほどけるのと一緒に、7月7日という時間の「流れ」もほどける。空間も時間も、単なる「流れ」にしか過ぎない。 ただ、自分の周りの「流れ」を抜けたとしても、またそこには新たな「流れ」がある。織姫や彦星はその新たな「流れ」に乗ったのだ。 星たちは、その永遠の「流れ」を保証する絶対的な存在であってほしい、その願い。まだどこか宇宙の果てから新たな光、「流れ」を届けてくれる星が、空に溢れてくれたらいいなと、思わせられた詩でした。 (天の河よ)

2024-01-14

上澄み、枠の意識と、 飛沫の意識 確かに、この作品は前者のイメージが的確かもしれないですね。 他の詩では、割と激しさを持っている(と思っている)ので、これは私の中の「静」なる部分の抽出なのかもしれません。 次なる詩の構想がカチカチと近づいてくる感じがしてきました。コメント、ありがとうございます。 (Remove)

2024-01-13

黒髪様、コメントありがとうございます。 こちらこそ、このような詩の交流の場をボランティアにも関わらず運営していただき、本当にありがとうございます。 詩がリベラルアーツの根源だと気づき、この世界に足を踏み入れましたが、まだまだ要勉強だなと思う日々であります。身に余る賛辞です… これからも、詩作の追究はもちろんのこと、当サイトの活発化にも少しでも貢献していければと思う所存です。 これからも、よろしくお願いいたします。 (Remove)

2024-01-13

この、ロマンチックな雰囲気をぶち壊す展開、好きです。ストレートにぶち壊すやり方ですね。第三連から清々しい。 そこで詩は終わるのではなく、性衝動に支配されるこの勢いと、受け手の嫌悪感から読みが加速されていく。それでも、受け手は「リリー」という名前を読む時は、ゆっくり再生されるだろうと思います。そこだけは、敬意を払うように。受け手だけが、リリーの気持ちを包み込めるように読める存在だなと、序盤のところだけを心に留めて去っていきたい、そんな風に感じた詩でした。 (フライデーナイト)

2024-01-13

すみません、返信設定をし忘れてしまいました。 ↑返信、よければお読みください。 (Remove)

2024-01-13

コメント、ありがとうございます。 第一連のみ、一つの解釈を付したいと思います。 ある芸術の専門書で、作品の縦と横の構造について学びました。庭に流れるような滝など、縦の線は生命力を表象するのに対して、横の線は死を表す、とある一節で書かれていました。 「雨」はどうなのでしょうか。まるで天から降り落ちる生命の束のように見えますが、彼らは横に拡がっていく水溜まりを作ってしまいます。私たちが水溜まりの上を歩いても、その歩いた証・足跡は残りません。生の証を上書きされてしまう感覚を覚えます。 「雨」は生の味方か、死の味方か? あのサアサアと降る音は折角血管の流れる音にも聴こえるのに……。ならばその音だけになってほしい。水溜まりを作らないでほしい。生の味方を徹底してほしい。だから「雨」よ、君の持つ性質を、一部除去していかないか。 と、ざっくりですが、作者としての第一連の発想・解釈は以上です。ただ、この連も含めて、全体で様々な解釈ができるだろうと思います。思想を練って書いた連もあれば、そう狙わない連も織り混ぜています。 興が削がれてしまったら、申し訳ありません。ここまでにしておこうと思います。 (Remove)

2024-01-13

「化け物」、「奇々怪々」 自分の中ではそこまで感じていなかったので新鮮です(笑) 自分も、この詩は読んでも分からないことが多いです。やさしい森の奥の巨人に会いに行くみたいに、たまに引っ張り出して読んでます…… (Remove)

2024-01-12

お褒めのお言葉、ありがとうございます。 読み返せば、繰り返し新しい驚きを投げてくる、そんな詩をまた書いていけるよう努めていきます。ありがとうございます。 (Remove)

2024-01-12

とても個人的な感想に寄ってしまいますが、 痔瘻になった経験があるので、古風な詩(といってしまうと失礼かもしれませんが)は苦手なのですが読ませていただきました。 コメント欄の「痔=詩」や「恥ずかしさ」の話も含めて、薬売りの文化や違星北斗に興味が湧きました。 確かに診察は恥ずかしい。あの短時間の触診だけだというのに、それがあるだけで予約の日に行く気が削がれる。おまけに私は痛みがある。 昔は今ほど衛生的な環境じゃないでしょうし、痔の患者たち皆に親身になれる医者は多くなかったのではと思うと、放浪薬売りの偉大さがひしひしと伝わってくる。 たとえ笑われても次へ次へと放浪する彼が過ぎ去った後、その土地で痔になった人は後悔するでしょう。なぜなら、痔は詩の冒頭にもあるように、痛むと本当に動けない。家に入り込んで留まるしかない。放浪する彼の後を追おうとしても追えない。 放浪し続けられるかどうか、という点においても、山頭火と北斗は明確な違いがあるなと思いました。 (山頭火痔集)

2024-01-11

多くは描かれない詩。洗濯をしている人の詩なのだろうか? 否、最終連にこの詩のねらいが隠されているとみる。 洗濯機との会話、「洗濯機が嬉しそう」だと思うところから、自分も同じように踊り出す。 最終連では辺りの森が渦を巻く。自然の洗濯機に入れられている、自分こそが洗濯物になっていく詩だ。 洗濯物は「逃げ惑うのが綺麗」だという言葉から、「私」に、何かから逃げてもいいのではという振り切りがみられる。ただ、それは洗濯機という檻の中で逃げ惑うという形ではなく、「私」は森、自然という開かれた洗濯機の中で踊っていくことになる。 辺りが海になっていき、船に取り残される渦の中、少し残酷な終わり方をする。天から、もっともがいていいと宣告されながら、梯子を降ろされるという2つの選択を迫られるのだ。 人にとって何が救いになるのか、切なく、考えさせられる詩である。 (揺れながら)

2024-01-10

私は好きです。こういった、アフォリズムを美しさで包むような詩。 ただ、纏まりすぎていて次回作に期待と不安が募ります。私は、元々人生の答えを探しに詩を読む人間ではないため、成功だのなんだのという言葉よりも、地球、月、太陽が信号だ、というアイデアに「やられた」と面白く読みました。 そういった「努力」、「成功」といった言葉を使わなくとも、きらめく詩が書ける方だと信じて、次回作を待ちます。それらのしがらみを取り除くのは、容易なことではないかもしれないですが…。 (神と悪魔)

2024-01-09

作品の批評、ありがとうございます。とても楽しく読ませていただきました。 一点、お応えできるところがあるとするならば、「文脈」や「共同性」について。 私たちの文脈は、確かに環境や経験によって持つものがかなり異なると思います。しかし、それにより共同性が保たれなくなるかと言われると、そうではないと考えています。 私は、その希望を詩に込めているのかもしれません。どんな環境にいても、どのような経験をしている人にも、万人に響く詩がある。それが共同性の兆しであると。私たちはその詩を読むことでつながれる、と。 ただ、それは逆でも同じことで、万人に響かない詩を目指すことでも可能だと思います。たとえば、Tで並べる箇所は何なのでしょうか? 誰もが納得する答えが出せるのでしょうか? 私は閉口します。すると、読む人たちが安心して、それぞれの考えを持ち寄って議論し始められる。そのつながりを、私は望んでいます。 「言葉が音楽として入ってくる」 これは、私にとって一番嬉しいお言葉です。ありがとうございました。 (普遍性と、繋がりを巡る現代的な戦争の物語)

2024-01-09

「縁取られた時間」 まずい。 僕は自分の部屋に逃げ忘れた。 まずい。壁にしがみつくことしかできない。 寝息の消えるのが聞こえた。僕の恋人。 カーテン付きのベッドの奥で泥色に眠る。 窓から差す光は部屋の中の埃を監視して、見えない檻に閉じ込めた。 足音のしないのが分かる。窓の向こうの影。 油絵の冷や汗が完全に固まる。 それは入ってきた。 僕と恋人の部屋へ入ってきた。 入ってきた。 恋人のベッドに入ってきた。 恋人に入るためにそれは、部屋に、入って、きた。 泥遊びをする獣を見る趣味はない。埃の天体観測をして、なんとか耐え忍ぶ。 でも無理そうだ。 壁が音のスクリーンになって、まざまざと現実を震わせてくる。 泥団子を美味しそうだと思うくらいに子供になってしまわないと…… それからどれほどの絵画になれただろうか。 いつの間にか恋人と獣が二人してこちらを見つめている。 「こんなのあったか」 「あったわよ、ずっと。よく出来てるでしょ?」 「なんだか、気味が悪いな」 「そう? 似てるわよ。私が描いたんだから」 二人はそんな会話をして、部屋を後にした。 僕の魔法が解けていく。油涙をやっと拭える。 おまけ程度に、背後に置かれた湖へ踵を返して、僕は飛び込んだ。 銀色の底を目指す。 奴が時を止めやがるように、僕もここで息を止めて、底に落ちた彼女の筆先を、思い出しに行く。 それだけは、僕に許してください。 (B-REVIEW 1月のお題詩「犬に噛まれる」 「時間停止AV] )

2024-01-08

激しく煌めく詩だと思いました。著名な詩人の詩を今まで僅かながらですが読んできました。が、今までこのような種類の表現力を持つ詩を見たことがないです。感服です。 言葉に物怖じしないスタイルが見受けられます。「友情は灰色に濁る髑髏」の体言止めや、「神様、僕の命を丸く灯します」の主体の曖昧さ、「計算」や「英語」といった軽い言葉からスケールのある「光」、「青空」へとイメージが移るカメラワークが滑らかで読んでいて気持ちいい。おそらく音の響きもマッチしている。圧巻です。 とても、欲を言えば後半の締め方、「虹色」や「輪廻」、「罪」といった言葉がサラッと使われているように思えて、この詩の色が抜けて透明になっていく感覚がしました。私は、もう少し中盤までの予想のつかないパンチを期待していましたが、これもまた次の作品も読んでみたいと、強く思わされる詩でした。 良い詩をありがとうございます。 (待っている (習作))

2024-01-07

「あなたには分かるまい」 という言葉について考える。 詩は誰に向けても開かれる。それは他人にも、そして自分にも。作者本人も、この人生を理解しがたいものとして捉えている感情がこのリフレインから受け取れました。 ただ、読む人を強い言葉で突き放すような詩は、辛くて記憶に残したくないと思うのが私の感じ方です。もっと、読む人の心をも絡めとり、詩の中に引き込んで、この詩の訴えが耳から離れないようにさせる試みはどうだろう、とは思いました。羊飼いさんの新たな作品での、テーマの扱い方の発展を期待します。 別の点では、 親が子を「利用するため」、シンデレラに魔法をかけて美しくさせるのと同じように、「猿」や「ハイイロネズミ」のような動物に変化する魔法をかけているようなイメージが浮かんできました。 それは、たとえ0時を回っても解けることのない呪いのような魔法、呪い。そう考えると、モチーフとして強く対照的な「シンデレラ」を選んでいるところがとても良いと思いました。 (ハイイロネズミ)

2024-01-06

引き込まれる詩でした。この詩の何が好きか、ワクワクしながら読み返すと、この「僕」だけは、戦争で人が死ぬよりマシと「思った」唯一の存在に気づきました。他の人は、言葉に出して意思表示しています。 また、序盤の連で、自分の身体の異変に慌てる「僕」ですが、徐々に騎馬戦の連のように他人にどう見られるかを意識していく……。自分の姿に慣れていったのかなと思うと、最終連で息子を見てギョッとする。 身体的特徴だけでなく、タイトルにもある「イデオロギー」までもが、遺伝していく。それは悪く言えば「平和」ボケのようなもので、そのスパイラルに疑問を持っている「僕」だけが、その思想を口にしない。 「おしまい。」は、諦観の意か。とてものんきに、突然死するように終わるのがやるせない。こんなに詩の「僕」に感情移入するとは思いませんでした。 良い詩をありがとうございます。 (平和イデオロギー)

2024-01-06

コメント、ありがとうございます。 この詩のイメージの出発点は、「大それた宣言」でした。 参考にしていた作品のイメージと、自分の言葉を織り交ぜながら、強く書き出しました。が、なぜだか書いていくうちに首が傾いていき、この現代にこの「宣言」がどれほどの射程を持つのか、その疑心が生まれて萎んでいった詩になりました。 これもこれで面白いなと思うのと同時に、二度とこのような詩の流れはなぞらない、とは考えています。 唸らせる詩、目指していきます。ありがとうございます。 (僕の仕事)

2024-01-05

コメント、ありがとうございます。 「仕事」のイメージから生真面目さ、シリアスさが来て、そこからの揺り戻しとは、やはり不真面目さ、無秩序のイメージへの動きという解釈で合っていますでしょうか。 この詩の「僕」がいる戦争の跡地は、ソフィストのような存在が見られたり、平民による革命が有り得るような場所で、近代までの要素が合わさった、新たな時代にタイムスリップしているイメージがあると私は考えてます。 その渦中でも、「仕事」に固執する「僕」のことを考えると、ハナから何かしら狂気を帯びている、生真面目さの仮面を被っている存在のようにも思えます。 それを踏まえたうえで、もう一つ転調が加われば……という期待は確かに抱いたまま、書き上げてしまいました。 後半、勿体無いお言葉、ありがとうございます。詩誌にも投稿、努めております。精進します。 (僕の仕事)

2024-01-05

コメント、ありがとうございます。 楽な方の語感・思想へと甘える癖を見透かされたと感じました。 この上ない叱咤激励、身に刻んで精進します。 (僕の仕事)

2024-01-05

コメント、ありがとうございます。 現代批評からくるポエジー、確かに強く意識する時が自分の中にあります。 今回はイメージのブレが多くあったかと思いますが、その批評意識がより全面に浮き出てきてしまう詩を、模索しても面白いなと思いました。 ありがとうございます。 (僕の仕事)

2024-01-05

「真の関心」は、必要性の元にあるだろうなと考えさせられました。 特に科学技術なんかは、私たちが現代に欲するのはさらなる進歩で、「日時計」のような先人の知恵・原点などではない。それでも、今を知るには過去から発想を学ばなければならない。パラダイムシフトが起きているものがあるが、地続きのものもあるからだと。 私たちは、今を知り、欲を満たすには多くの過去に立たされ過ぎている、そう考えさせられた詩でした。 ただ、希望を見出だせるとするならば、思想、価値観などは、過去のものでも息を吹き返す(ルネサンス、リバイバル)ことがあると思います。だから、その分野の「真の関心」は廃れないと思います。「多様性の尊重」という息苦しさに、人々がどこまでついていけるかという懸念はありますが。 少し脱線しました。良い詩をありがとうございます。 (日時計)

2024-01-03

「己は詩人であると/己自身を欺くことに/疲れきってしまった」 人は自分に何者なのかという問いを立てながら生きていくものだと、私も思います。とても共感しました。 一つ、私が最近感じるのは、詩と自分の隔たりについて。美しい詩は詩人の手から産み出されたものである反面、その詩人から離れていくものだと、とある批評で読みました。 それはまるで、自分の中の他人と出逢うような感覚で、強いて言えば「処女の恋人」のようだと。 詩を書くなら、自分が理解しがたい詩を書くようになることも、また自分なのだと許容しなくてはならないのだなと思います。 それは、心の慰めや助けなどとは程遠い行為で、言葉そのもののリアルと向き合うことです。詩人はそう詩を書いていくべき存在だよな、と、この詩を通して改めて考えさせられました。 (エセ詩人)

2024-01-03

一見、サキと「私」という夫婦の、円満な詩のように思ったが、読み込むとそうではないように思えてくる。 まず、この詩の世界は全体的に断片されたイメージが散りばめられている。 「サキの太腿を切り取り」や、「サキの下腹部」というサキの身体の部分部分に焦点が当たるのは勿論、 「印鑑」、「身分証」、「婚姻届」なども私たち人間の一部である。(社会で生きていく上での、個々人の側面を構成する) その断片のイメージは、具体物のほかにも、「差す光(カーテンで遮られた日光の一部分の光)」や、外から聞こえる「子どもたちの声」なども、それぞれの「光」や「子ども」の存在を構成する要素だ。 私たちはその部分部分を担う媒体を見て、その何かを確かめてるに過ぎない。 サキと「私」との、愛を確かめるのに必要なのは「新居」か、「婚姻届」か、はたまた「子ども」なのだろうか。 サキの「指紋」。ここにサキが居るということ。その証明だけで良いはずなのに、何か、別の証明にこだわる「眼鏡」をかけた「私」と、サキの関係には少し溝があると感じた。 切ないなと思うと同時に、この短い詩にここまでの重み、深みを盛り込められるのは凄いと思いました。良かったです。 (fingerprint)

2023-12-23

地球には生命力がある、と断言できるか、と自問に沈む。 たとえば青々とした緑を今も生やそうとする自然は、「まだ生かされている(伐採されない)自然」か、「人間の手によって植生されている人工的自然」かに分けられるとするならば、どれも「生きているみたい」に死んでいる、そう言われても何も言い返せない。 だから、地球は「腐らない」し、「おくりびと」も気づかずに何処かに行ってしまう。 それを受けて、この詩で言われている「問題」とは何か。ハッキリとは明かされない。その問いを「なぜなら」と最後、読者に放り投げている。 僕たち現代人は地球が死んでいるか、生きているかなんていう宇宙のように広い視点を持って生きていけるほどの力があるか?  自身の周りの物事だけで精一杯なら、どんどん世界はミクロに縮まり、地球が生きているかどうかなんてどうでもいい。 そう考えることで、本当に私たちの中の地球も「死ぬ」ことになるのだろう。 不思議と、宇宙に漂うような浮遊感のある言葉づかいで、とても面白かったです。 (葬儀、地球の)

2023-12-20

ご感想、ありがとうございます。 田中さんの二つの考察、確かに、と思わせられました。 ユングの集合無意識のような、「舌の筋から~」の言葉については、それこそ無意識に出てきてました。 そんな無意識に抗えない自分の思考にぐぬぬ、と思うものの、二つ目のコメントにあった日本的と西洋的な神のどちらにも当てはまったり当てはまらなかったり、という指摘は確かに、新しい価値観が垣間見えているなと思いました。 自分の作品に眠るこの意識については、引き続きみつめていきたいと思います。 貴重なご意見、ありがとうございますm(__)m (神さん)

2023-12-17

男の子は盲目だったのだろうか それがこの詩を読んだ後、最初に浮かんできたことである。 盲目であるならば、男の子にとっての目は「耳」である。たとえば、「耳なし芳一」の話のように、目が見えない人たちは代わりに晴眼者が聴こえない世界の声を聴けたりする。 この詩の男の子も、目が見えない代わりに星の声を聴けるようになったのではないか… 「泣かせられる」んだぞと脅していた星は、反対に最後には「哀しみ」を「漂わせながら」男の子の「側を通り過ぎ」る。 この、立場のゆるやかな逆転には何とも言えない儚さが伝わってくるとともに、星が、自分から流れ星となって約束(願い)を果たそうとしているのではないか、と想像させられた。 他にも色々な考察ができそうで、素晴らしい詩だと思いました。 (星と子)

2023-12-17

ご感想、ありがとうございます。 こういう類いの作品を作るのは容易ではないと感じていますが、日々精進していきます。 ありがとうございますm(__)m (神さん)

2023-12-16

二つ目の解釈の「神さん」と「カミさん」、思い付かなかったです。そう考えるとまた面白いですねw カミさんも私も「言葉」に魅了された、作家夫婦といったところでしょうか。カミさんの方が先に有名になってしまったがために、「私」の嫉妬が募っていく… しかし、かつて彼らは夫婦として惹かれ合っていた訳で、そう考えると、あなたに「成りたい」と言うカミさんの言葉も深みがありますね。実はカミさんも夫の才能に嫉妬していたかのよう… どうか過度に卑下なさらず、作品は誰のものでもないので、それぞれの詩をどのように、さらに面白く読めるのか、それが大事だと思います。 コメント、ありがとうございます。m(__)m (神さん)

2023-12-16

ご感想、ありがとうございます。 コンビニのカップヌードル…… 確かにその発想もあるな、と思わせられました。 「質素な味噌汁」を選んだ意図としては、具が少なく、邪魔な物がないので泳ぎやすい場である反面、濁っている場所(水底の美しさなどが見えない)を表現したかった、といった具合です。 おそらくここを、麺が脚やら腕に絡んで泳ぎづらいイメージのある「カップヌードル」にするとその意図から離れるのかな、と。 要は、優雅に休日のプールを泳いでるつもりの神だが、そのプールは実は濁ったものである、という滑稽さを表したかった感じです。 コメント、ありがとうございます。m(__)m (神さん)

2023-12-16

コメントありがとうございます。 ・「最初の一行」の具体的にどの部分を「日本語としてつまずいた」と指摘しているのか明記されていない点 それが明記されないまま、「真面目に何か詩を書くこともない」とする態度の批判。(各々の主観で変わる「真面目さ」という言葉についても、説明がなされていない点) ・「知に偏った」とは、たとえば理性(知)と感性の二つの柱があるとして、どの程度偏っていると考えていたのか。また、それに続く、「コメントを含め」「幼稚な人間性」を見たという人格批判は論理として妥当性があるかどうか。(加えていえば、「幼稚な人間性のいちめん」という断定しない表現にすることで、逃げ道を作っているようにも捉えられました)また、私だけでなくさか たけお氏にも仰っているというのであれば、それは同じ性質の「幼稚な人間性」でしょうか? はたまた別物でしょうか? 他の方も巻き込むとなると、それだけの理由の説明が要されると考えられます。 以上の点から本コメントに対し、本サイト「B-REVIEW」のガイドラインに記載されている「不快感」を大変強く感じました。 もしも可能でしたら、上で挙げた二点について、私の今後の活動のためにも参考にさせていただきたいので、ご説明願いたいです。 (神さん)

2023-12-16

ご感想、ありがとうございます。 解釈、大変興味深く読ませていただきました。とても詩に書かれている言葉に則した、核に触れている解釈だと思います。 特に「共通認識を打破する」試みは、やはり常に持つべきものだなと改めて心に刻みました。 この詩は、最近意気揚々と購入したシュルレアリスム詩集で、一番初めに載っていたギヨーム・アポリネールの「神」という詩からインスピレーションを受けました。 書かれていたのは、神が私と同化していく、すごいだろ云々……といった内容のもの(と解釈しました)で、安部公房や他のシュルレアリスム作品に魅せられてきた私は、「これはシュルレアリスム詩なのか?」と不満を憶えました。 この不満は時代の差異によるものかとも思うのですが、 「神」という言葉も含めた、「愛」やら「恋」やら「光」やらの、かつて神聖さを保っていた言葉たちは、尽くこれまで詩に使い果たされ、それこそ「安売り」される「娼婦」のような言葉に成り下がっていると、そう錯覚してしまうのが現代かな、としばしば感じます。少し、憤りすら感じたりもします。 この怒り心頭は、世に流行している感傷的な「ポエム」と呼ばれているものや叙情詩(この2つは同じですかね? 勉強足らずで判断が怪しいですが)だけでなく、先人たちが築いたシュルレアリスムにも最近、私の中の矛先が向きつつあります。 「バベルの塔の狸」(そういえばその主人公も詩人でしたね、言われて思い出しました)で私が印象に残っているのは、ブルトンらシュルレアリスト達を滑稽な狸に表現していたところで、ああいう風に書いた安部公房の感覚が少しだけ分かった気がした、と書き上げた時に思いました。 長々と、蛇行した思考を連ねてしまいました。この分野の造詣のある方にこのような感想をいただいて、少し興奮しております。 先人たちの描いたかつての神話を、リスペクトしつつも現代の解像度で甦らせ、紡いでいこうと思う次第ですので、今後ともよろしくお願いします。 (神さん)

2023-12-16

この詩では、最初から最後にいくにつれ、「風」が息を吹き返している。この詩に吹く「風」とはなにか。 この詩の構成を視覚的に捉えたとき、まるで島と島の間を満たしている海を抜いたかのように、陸そのものが隆起しているように連が置かれている。二度来る海底(であっただろう場所)の連の最初は、「足もと」を「眼球」が覆い、「緑は波は土は川は、」「虚」無に追いやられている。底に「流れる砂」も我々のかつての場所を「廃園」へと変えていくようである。これは、近代の科学主義による自然の淘汰が表せているのか、安易にその議論に乗せたくはないが、念頭におく。 二度目に来る最後の海底の連では、「流れる砂」が「海」、「風浪」を「鏤め」て、「意」識の混「濁」した「庭園」を蘇生させている。「足もと」には眼球ではなく「銀世界」が浸っており、星空のきらめきを連想させられる。 前半と後半でのこの流れ、すなわち希望の「風」はどこから吹いてきたのだろうか。第七連の陸の連で展開される、自然との対話では、「天」が「展」と別の何かに侵されていることや、「月のにおい」を感じても「胸にたまらない」ため絶望は依然漂うばかりである。その絶望に立ち向かい、「死灰」という犠牲を生もうとも「祈」り続けることがこの詩にとっての救いの「風」となるのか。 その祈りを繰り返す我々は、「白蛇」が「とぐろを巻」くような堂々巡りに陥っているのかもしれない。それでもきっと、「うつくしいよ」が、我々のその苦し紛れな「ぬくもり」を解いてくれることを信じて、祈り続けるしかないのか、どうなのか…… と、解釈しました。自然の恵み、輝きがいやに濁っている世界観に、とても考えさせられました。 (あんた、だらしない口 してる)

2023-12-14

p.s. すみませんこのサイト始めて間もなく…… 絵文字反映されないんですね…w 最後クエスチョンマークついて変になっちゃいましたm(__)m (烏)

2023-12-12

勿体ないお言葉、ありがとうございます。 ミステリアスな生態をもつカラスが動物の中でとても好きで、色んな言葉をぶつけ合わせ、「きらめ」かせてしまいました。 そうしてもこの詩の「烏」が「烏」のまま、輪郭が保たれて伝わっていることが嬉しいです。受け手それぞれの胸に棲むカラスが、この詩を通していつもと違う空を飛んでいることを願います? (烏)

2023-12-12

最近、シュルレアリスムでおなじみの安部公房「壁」を読んだばかりの中、この詩が目に留まった。 この詩は、夢の中のように「あるくあるく」と浮遊感を含んだ歩行から始まる。「おおきなパワー」はビルを飛び越え、「法則でないものが/法則であるような顔を」する不条理な世界観がそこにある。その法則は「駅」という、世界の広がりをさらに予見させる存在になっていく。 「ざんねんだろう」と不条理そのものが我々に迫ってくる。単なる言葉遊びではなく、現実を超えて浮かび上がる記号をぶつけられる恐怖。それは、「飲みくだせる辞書がない」という無秩序や、理性を司る「左脳捨てられて」いることから伝わってくる。この「ちから」は、我々の従来の価値観を「ぶちぬいて」いく脅威だ。我々はそうして身体にできた「銃創」を、さらに開いて未知の世界に適応するよう変身するのではなく、厚く壁を「閉じ」ていく。人間のそういう精神性に対して、「壁を殺す」というタイトルに強い決意が現れている。 狂詩人さんの作品は初めて読みましたが、この決意がどう変わっていくのか、追っていきたいと思いました。 (壁を殺す)

2023-12-12

壁を殺す

2023-11-22

星と子

2023-12-17

葬儀、地球の

2023-12-20

fingerprint

2023-12-22

エセ詩人

2024-01-01

進化する目

2023-12-31

神と悪魔

2024-01-08

揺れながら

2024-01-08

山頭火痔集

2024-01-09

ねこ

2024-01-10

天の河よ

2024-01-13

町医者

2024-01-14

いち

2024-01-15

自在なる時間

2024-01-18

アメスピ

2024-01-19

黒曜の森

2024-01-22

見えないもの

2024-01-24

2024-01-23

光/ひかり

2024-01-26

雪国

2024-01-27

透ける

2024-01-28

埋設

2024-01-28

人生

2024-02-03

星火の夜

2024-02-05

自画像

2024-02-08

2024-02-09

健康増進法

2024-02-10

映像

2024-02-09

時間の内容

2024-02-06

天国

2024-02-07

二重線

2024-02-07

路子/みち/こ

2024-02-08

四季の声

2024-02-09

そんな一日

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