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作成日時 2018-03-03
コメント日時 2018-03-08

猫と戯れ 猫と遊び 猫引きちぎり 猫死ぬ。 思えば 元から猫を嬲っていただけで 元から猫は死ぬ未来だったわけで。 猫死んだ。 かわいい猫死んだ。


項目全期間(2019/11/19現在)投稿後10日間
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2019/11/19 18時36分11秒現在
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コメント数(21)
渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-03):

最新のものである『詩と思想』2018年3月号の読者投稿作品、そのなかの平居兼氏の選評にて言及されていた詩です(P.184)

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-03):

‪訂正‬ ‪平居謙先生でした‬ ‪失礼しました‬

蛾兆ボルカ (2018-03-03):

こんにちは。 私はまだ今月の詩と思想を読んでいません。読んでまた、この詩については考えてみようと思うのですが、その前の私のコメントを書いておこうと思いました。 高橋源一郎はある批評で、短歌と小説両方に通用する歴史観として、「私」というものについての変化を述べています。 端的に要約しますが、彼は明治期には、「私」の輸入や獲得が短歌でも小説でもなされたと述べます。 しかし、そうした「私」は戦争で挫折し、戦後は「私」を疑うことが大きな流れとなります。高橋はそれを「私のモノ化」と呼んだりもします。 しかし、何故かそれがある時、終わってしまった。そうした「私」をモノ化する文学がなぜか唐突に書かれなくなります。高橋はそう書いています。 ここから高橋を離れ、私の意見ですが、現代詩では、それが1980年代に起きました。 その後現代詩はポップになります。「私」はその無力を断罪されるのでも、モノ化されて玩具にされるのでもなく、希薄になって行くのです。 しかし、それもニ十年続いたトレンドとして、すでに終わりました。 他ならぬ平居さんが、終わらせた一人だと私は思っているのですが、つまり、2000年ぐらいから、(やっぱこういうのつまんなくね)という意識が無詩の現代詩に向けられ、様々な形で「私」が復権してきたのです。 象徴的だと私が思ったのを3つ挙げます。 ひとつは現代詩手帖が山之口貘の特集を組んだことでした。 もう一つは、ライトバースの書き手である高階き一が、息子の死という私的な主題の作品化に成功したことでした。 そしてもう一つは、現在のこの時点ですら、「詩と思想」という「考える私」「社会的な私」を前提とした誌名の詩誌が生き延びたことです。 そうしたことを踏まえて、日本の詩は311を経験しました。 失われる私、死んでしまう私、というものは、本当には、どうでも良いものだったわけもなく、戦後から2000年ぐらいまでの文学史は決定的に古びたのだ、と、私は思うのです。 と、いうか、平居氏はそう思っているのではないか、ということに私は前から関心があり、こんどやはり会いに行こう、と思いました、今そう思ったのだけど。 さて、以上を踏まえまして、この詩についてコメントします。 私の読んだところでは、この詩は語り手のモノ化を前提として書かれています。 感情とか倫理観とかいう、私が「私」を世界の中心に位置づけて世界を客体にするためのツールは、放棄されています。 本当の意味での他者性、世界のよそよさしさが作品のすみずみまで充満し、「私」による統合(ここでは猫、または猫への同情)はありません。 つまり私によれば、これは古いのです。少なくとも「そのはず」だ、と考えられます。 しかし、実際読んでどう思うのかというと、もしかしたらこれが新しいのかなあ、と思いました。 ここでは「私」ではなく猫がひどい目にあいますね。猫の他者性を侵害せず、猫が不幸である世界を現しています。 無力であり保守的だけど、しかし実際、世界は「私」の思い通りにはなりません。それより、本当の意味での断絶した他者。引きちぎられてもその痛みを共有できない猫、という存在と同居している世界をそのままに受容することが優先するのかもしれません。

蛾兆ボルカ (2018-03-03):

高階杞一ね。 失礼しました。

エイクピア (2018-03-03):

「猫引きちぎり」、ここがどうとったらいいかと思いました。引きちぎった結果猫は死んでしまった。あまりまじめに考える必要はないのかもしれませんが、あるいは「猫死ぬ」なので、仮定の世界ともとれたり、とにかく「引きちぎり」で少し立ち止まりました。

仲程 (2018-03-03):

猫が何かというところですよね。 何かに限定するのもだめなのかもしれませんが、 自分の内のことなのか、外のことなのか、思いがいったりきたりします。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-04):

蛾兆ボルカさん ボルカさんは以前詩中の「私」は作者のことだと注釈をつけた詩を発表していましたね。(http://breview.main.jp/keijiban/?id=1264) なぜにわざわざそう明言してしまうのかと訝しく静観していましたが、コメントのような経緯があったんですね。 私のモノ化、ですかねぇこれ。 個人的には文極に投稿した「脳の中で」(http://bungoku.jp/ebbs/log.cgi?file=528;uniqid=20170503_417_9587p#20170503_417_9587p)でアルフ・Oさんが書いた「「リョナ」をネット詩ひいては現代詩のフィールドで過不足なく描いた作品」ってのがこの作品にもしっくりくるかなとは思います。ライトな殺しだけど、小動物の惨殺をもって興奮してくださいどうぞ。別に私は黒ムツではないけどさ。でもカルおじは逮捕前から一応知ってはいた。 猫は他者でもなんでもなくオブジェクトです。 ちょっとね、ボルカさんの書かれたコメントの内容が理解できていないんですよ実は。私が稀薄、とかいうのも吉本隆明が言ってたよね、とかその程度しかいま反芻できていない。「私」の復権と言われてもそんなのあったっけってなっている。 なのでどううまく返信すればいいかが詰まっています。ただ書かれていることに納得同意はできていないので、たぶんそうなんだろうな私の考えは違うんだろうなとは記しておきます。 あとあれですね、東日本大震災が詩に影響を与えたって論は既に溢れていますが、それが世の全ての詩に対して影響を与えているとまでなるものには私は異を唱えています。 影響を受けた詩・詩人もいるでしょう。ただ一方で全く影響なんぞ受けていない人もいるわけで、その例の一つとして私がいます。3月11日にビッグボーイ南福島店で被災した、れっきとした被災者の私はぜぇんぜぇんその後の創作に影響を受けていません。非被災者ならまだしも、その身に揺れを受けた張本人がそうなのだから311の有効性には疑問がわきます。 震災が転換となったという言説は、それを言う人思う人がそういうトピックに興味を持つ人だからでしょう。逆に言えば興味のない人には転換でもなんでもない他の一事象と変わらない扱いしか受けないでしょう。だってそうじゃん、例えばいままさに盆栽界で業界を揺るがす一大事件が起こっていたとしても、詩人にはなんの影響を持たない。盆栽職人がいくら衝撃を受けていたってそれが他者も同じだとは限らない。 主観で感じる影響は客観でもそうだとは限らない。それをわからずに影響を唱えるのは、○○はエヴァのパクリといっちゃう系オタクと同じですよ。そりゃお前がエヴァオタだからだろーが。 私が言うようなことが現代詩のフィールドからは全然出てこないのは、まぁ、現代詩のフィールドには311とかに興味を持つ人で溢れかえっているからでしょうね。いわゆるリベラルというか。その率は他の界隈と比べたら非常に高いと思います。だから詩の界隈内だけなら311論も有効かもしれません。でもその外から出たら有効度合も変わってくるでしょう。私は外に出たいですネ。立ち位置として最果タヒになりたい。 震災とかもういいよほんと、飽きた。311を出されていたので書きました。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-04):

エイクピアさん 唐突ですよね。ある種の裏切り的表現です。 でも猫を実際に引きちぎろうとしても虫じゃないんだから無理でしょうね。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-04):

仲程さん 私の詩に限っていえば、詩中の物体は何かの隠喩やまして実在のものでもなく、ただのオブジェクト(物体。3DCGモデルのイメージで)です。それらの動きや位置関係を楽しんで頂ければ幸いです。 蛭子能収や駕籠真太郎の漫画が好きなんですよ。なぜって、人の死がそれが主題にならずあくまでストーリーを回すためのギミックでしかない。駕籠にいたっては人体は特別な意味を持たず、都合のいいオブジェクトとして切断縫合変形を繰り返される。 幸福であること(その状態であるということ)より、不幸が存在しない(状態というものが存在しない)世界こそが真の平和かもしれません。 人間がいたらそこに幸福と不幸が生まれます。石しかなかったら幸福も不幸もありません。 質的功利主義には私は疑問を持つ立場です。よりよい幸福を得る過程で得られる幸福以上の苦痛を受けなくてはいけなかったらそれはもはや既に不幸なのではないか。バッドトリップしない麻薬を半永久強制的に全国民へ投与する権力者が現れたら世界はビーハッピーかもね。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-04):

仲程さんへ追記 私の詩はゆくゆくはベクトルやスカラーで表せるようになるかもしれないと思っています。 詩情はそのベクトルなどの様を読み取る過程において現れる。詩文において明文する必要は無い。

R (2018-03-04):

例えば、雨蛙の後ろ足をへし折る、だとノンフィクションになれてしまうから、猫と引きちぎるの組み合わせの必然、みたいなものが……なんて、この詩に対して私はあれこれ考えたくないので、ここまでは、特に意味のない前置き。失礼致しました。 この作品、好きです。 少し物足りない感じがするのも、また良いなと。 好みのgifアニメを見つけた時の感動に近い喜びに満たされました。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-04):

Rさん gifアニメ、いいですねえ あの画像とも動画ともつかない存在好きです。アフィサイトだとそれがずらっと一列に並ぶ。しかもページがスクロールされる前、眼に映る前から永劫にgifは動き続けている。面白い存在だと思います。

仲程 (2018-03-05):

再レス失礼します すみません。凡人の私には漫画のところがよくわかりませんが、 追記のほうは判る気がします。

花緒 (2018-03-05):

斯様なコメントを入れると人格を疑われかねないですが、猫の代わりに、彼女、と言うワードを入れても成立してしまいそうです。きっと上手くいかないだろうと意識的あるいは無意識的に感じながら、他者と関わり、結果やはり上手くいかないというようなことは、誰にでも起こりうることのように思います。他者との関わりの交わりのなさについて書いてある作品として読みました。面白い一作ですね。

う ら み (2018-03-05):

祝儀敷さんが日頃から提示するコンセプトを認識している上で本作を読むと、軽い作品として読めます。語弊があるので違う言い方をすれば読みやすい作品、現代詩を読まない人も読める。残酷な事実をそのまま書いただけなんですが、何か?みたいな感じ。わかりやすいメッセージでいいと思います。これを評価する詩壇の方がいらっしゃるとすれば、その方は反骨心のある方だなあと私的には好ましく思います。 また、映画「禁じられた遊び」が持っていた戦争批判と類似なものを感じました。これについては祝儀敷さんが日頃から表明されている政治性・メッセージ性を帯びる作品への嫌悪感を挑発しているような言い回しになってしまいますが、少なくとも本作には何かに対する批判的な要素が宿っていると思うのです。しかもポップにわかりやすく。じゃあその何かとは何か? コメント欄で祝儀敷さんが言及されている3.11について。これはとても興味深い話だと思います。手塚治虫さんが自身の作品についてヒューマニズムという言葉を連発されたら怒り出したというエピソードが示すエッセンスに似たものを感じます。それは、私が思うに、残酷な戦争、残虐な経験を実際に体験している人たち、、もっと平たく言うと戦場で不本意に人殺しをした人へ安っぽい博愛主義の話をしたら閉口してしまうような嫌悪感だと思うのです。しかもそれが人殺しを指示していた同じ人間という生き物が博愛を説いていれば、それは怒りすら過ぎてしまうのではないかと。そのような欺瞞に対しての批判が本作にはあると思うのです。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-05):

ふたたび仲程さん たとえば蛭子さんの「知識人のレポート」という漫画では、自分の子供を売り歩く男性が出てきます。レポーターは倫理的にどうかと述べるのですが、こいつは売るために作った、自分のものなのだから何に使ったっていいだろうと反論する。 漫画の最終ページにて、全然売れないじゃないかこんなのもういらないと言って子供を燃やします。 子供は一切喋らず主張をしません。ただのモノとして終始あり続けます。この漫画に人間は出てこなく、あるのは人型の装置です。レポーターの言動もただの行動です。スイッチを入れられたら機械が動くことに倫理観は関係無いよう。「知識人のレポート」のなかでの現象に一切の倫理はありません。ああ~、優しい世界。これでわかってもらえれば。無理かな。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-05):

花緒さん Rさんのコメントにもありますが、蛙だったら駄目でしょうね。この詩においてはある程度高度な生命体である必要があります。 彼女、人間だと、その存在に可コミュニケーションが内包されているので、猫というあくまで対話不可な存在での場合とは色々と変わってくるかもしれません。例えばこの詩が漫画で、「彼女」とされるものがまるでダッチワイフみたいな見た目で終始表情が変わらないのならば、この詩の感覚と近いものになるかもしれません。

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-05):

三浦さん 評価、まではいかないかもしれませんが、先述のよう選評内にて平居さんに言及された詩です。 この詩はまさに平居さんを狙い撃ちして投稿したものです。去年は私も何度か入選を頂いていましたが、実は選者二人のうち中村純さんからしかもらっていなかったんですよ。それもなんか悔しいものでして。 選評や選出作からみて、平居さんは詩壇の中では結構バンカラな人なんかなと分析しまして、平居さんに選ばれそうなものとしてこれを投稿したのです。言及はされたし、分析はまぁ全く的外れでは無かったのかなと。 批判的な要素が宿っている、という見解はかなり意外でしたね。何かとは何か? 知ってみたい。

るるりら (2018-03-08):

おはようございます。素朴すぎるかもしれない感想と、質問を書かせていただきます。 この詩を読んで わたしは、山寺の和尚さんという童謡を思い出しました。 山寺の和尚さんが 毬(まり)はけりたし 毬はなし 猫を かん袋に 押し込んで ポンとけりゃ ニャンとなく ニャンがニャンとなく ヨイヨイ この童謡も、そこそこ ひどい話です。しかし、こどものころに初めてこの歌を聞いたときは、笑ってしまいました。この詩では「猫引きちぎり」と書かれていて ひどいことをしているだけではなく、「元から猫を嬲っていただけで」とまで書かれていて 「死」がはっきり書かれているのですから 童謡とは全然ちがうのですが、かわいい猫を描こうとしている点が同じなので、思い出しました。 余談となりますが、詩と思想を購入してみました。ですが、該当の詩および批評が見当たりません。わたしの購入した本は 【詩と思想③ march2018 no.370 vol.3】なのですが、該当の号は 具体的な どれだったのでしようか?

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-08):

るるりささん 和尚さんの連想はほかの方にも言われています。 私自身はその童謡を指摘されるまで知らなかったのですが、童謡の持つ自然な狂気・残虐性とこの詩のそれがリンクしたのかなと思っています。 昔話も原型はそうとう残酷なストーリーだってことがままありますし。そういえばマザーグースを連想させるという意見もありました。 およそ人間の根本にはモダンな倫理観では震えあがってしまうような残虐性があるのかもしれません。 思想は購入の号で間違いないのですが、言及といっても作者名と題名が書かれただけで批評や作品自体は載っていません。P.184の右下にあります。

るるりら (2018-03-08):

詩と思想の件。確認しました。この機会にわたしも、なにか 投稿してみます。ありがとうございました。

投稿作品数: 1