冬が来る前の、秋の匂いが好き
透き通るように、悲しむように
昔のことを思い出す
残り続け反芻される記憶というものは
必ずしも劇的なものではなく
たとえば私は、四歳の頃に食べた肉まんの
あのあたたかさや美味しさを、ひどくはっきり覚えている
弟が生まれる前、まだ父は優しく
私の世界は私のもので
緩やかに揺れる車の中、
父が買ってくれた肉まんを
私は私の小さな指で
ちいさくちいさく頬張っていた
免許をとってから知った
いつも幼稚園に迎えに来てくれた父の
返しきれない、大きな愛と
幼い私の、掠れた高揚
夜遅くまで仕事をする父は
友達がみんな帰ってから迎えに来る
そしてコンビニに寄って
いつも肉まんを買ってくれる
私の中の、いちばん古い風景は
だから、車窓から見る夜空であり
見て、聞いて、嗅いで、触れて、生きて
けれど、見たものは薄らぎ、聞いたものは遠く、
匂いはいつも、今にしかない
嗅覚とは、過去方向に向かわない感覚である
私たちは、
匂いを嗅いで何かを思い出すことはあっても
匂いそれ自体を思い出すことはない
いちばんは、熱
いまだ直らぬ、早食いで
喉を通って、腹に沈む
肉まんの熱いこと、温かいこと
腹の底から熱が広がり
私の背中は、静かに震える
味わうのも忘れて、夢中で頬張って
半分ほどになってから、慌ててじっと噛み締める
きっと、寂しさは冷たさに似ていて
幸せは、暖かさに似ている
そして、寂しさは、悲しみに似ていて、悲しみは、幸せに似ている
同じ色、違う温度、同じ匂い、違う感触、首長竜の、涙を雨と、間違えた日の、燻んだ網膜
母と繋ぐ手は柔らかく
弟の手は、小さくて
私を撫でる父の手は乾いて荒れていた
寂しさとは、幸せがないことではなく、かつて幸せが在ったことなのだと、私たちはずっと、知ってしまっている
私たちが、時折無性に寂しがろうとするのは、
それを埋める熱を、
より鮮明に知覚しようとしているから
私たちが、自傷のように、愛撫のように
涙を流し、自分の皮膚を指先でなぞるように
無性に寂しがろうとするのは、
私たちが、泣きじゃくる子どもであり
私たちが、それを抱きしめることのできない
泣き疲れた大人であるから
それゆえに、
私たちは、冬を待ち
冬の冷たい風を待ち
冬の冷たい雪を待ち
冬の冷たい星を待ち
冬の冷たい雨を待ち
冬の冷たい褥を待ち
冬の冷たい窓を待ち
銀色の、神経系の形をした、わたしたちと、わたしたちの神の名前の、巨大な蝿の羽根の上の、薄い氷と、濡れた土に、落ち葉で隠した、屍体に滲む、温い脂を、世界と呼んで
寒さに震え、指先を悴ませながら、それに歓喜し、わなないている
のびる、のびる、異端の茨
アルミニウムの仔牛のように
私たちは、楡の朽木に干した女のはらわた
(火を噛み煙を噴きながら)
私たちは、熱硬化性の巨人
(崩れ落ちる塔と雷鳴を踏み砕く)
私たちは、帰りたいと泣く老婆の褥瘡
(かつて怪獣であり、
やがてUFOであり、
いずれ人間であり、)
溶岩の川を渡り、世界樹を跨ぎ、
紫苑の花を積みにゆく
沈む、沈む、水銀の毒
細胞膜を虹色に染めて
私たちは、蛇行する鉄橋
(七度その身を蛹に溶かし)
私たちは、陽を浴びる心臓
(平行宇宙を数珠繋ぎ)
私たちは、錆びた自転車
(肺胞の、ひとつひとつに神殿を編み)
私たちは、なめし革の翼
私たちは、アスファルトの上の蠍
私たちは、プテロダクティルス
私たちは、神品致命者
私たちは、ストロボの濁点
私たちは、ダイヤモンドを貪る水母
私たちは、回転する大亀
私たちは、クリプトグラム
私たちは土、私たちは時間、私たちは力
私たちは、そして私たちは、
観測される、ある角度において、
必ずあなた方である
惑星と惑星が擦れ合う、
細胞と細胞が重り合う、
有害な、有害な、狂おしいほど有害な
不協和音と、
奇形の喇叭、
それを吹く象牙の小人と、エホバの顔をした羽虫
慰めては、偽り得ず、宇宙が頭蓋の形をしているのだと、吐き捨てるように喧伝し、脳漿を撒き散らしながら、真鍮製の子宮を自らに埋める哲学者達の、唇の端に、あなた方の歯を立て
恒星に葡萄酒を注ぐ
噴出する蒸気のように
ある、情景において、
全てのものが輝く粒子を纏っていた時代があり
ある、情景において、
膠を薄く塗ったような空を横切る飛行機があった
さぁ、乾杯しよう
さぁ、踊り明かそう
私たちは、もう、過去にはおらず
私たちは、もう、過去には帰れないのだから
さぁ、祝祭を望み
冒涜を鬻ぐ私たちのために
太陽は、あんなにも濛々と烟っている
稲穂が枯れ果てて
砂粒が、剥き出しの後悔を甚振るとも
あなた方は、私
私に、弟が生まれてから
お父さんは優しくなくなりました
お母さんは私のものではなくなりました
私は私のものではなくなりました
それらは全て不可逆性であって
弟が生まれてから
私は泣いて、私は怒って、私は憎んで
私は妬んで、私は疎んで、私は嫌って
それらは全て不可逆性であって
それから私は、弟と一緒に肉まんを食べました
ああ、太陽が揮発して
くろぐろとしたさみしさの偽物が
月光に溶けて揮発している
ねぇ、
あたたかいということばを、
口にするだけで少し、あたたかいんだよ
空に浮かべた、銀の雫と、星の切先
車窓に覗く、八つ目の魚
とげとげウロコの、翅のない龍
瞑目して、足を引きずり歩む、背筋の曲がった山々は、あなたの脳が見せる、あなた自身であり
私の視神経が見せる、私自身である
骨が軋み、喉が枯れ
熱を欲し、身を屈め
私たちは、街へ出る
帰る場所はあるのに
帰れないような、振りをして
髪が揺れ、電線が揺れ
車が揺れ、瞼が揺れ
首都高を走る、父の背中は
夜の景色に似ていたと
現在地点にいる私は懐かしみ
過去地点にいる私は、
まだ、自分が幸せであることを知らない
作品データ
コメント数 : 5
P V 数 : 393.6
お気に入り数: 1
投票数 : 3
ポイント数 : 155
作成日時 2026-01-22
コメント日時 2026-01-23
#現代詩
#縦書き
| 項目 | 全期間(2026/01/25現在) |
| 叙情性 | 50 |
| 前衛性 | 30 |
| 可読性 | 5 |
| エンタメ | 0 |
| 技巧 | 30 |
| 音韻 | 20 |
| 構成 | 20 |
| 総合ポイント | 155 |
| 平均値 | 中央値 |
| 叙情性 | 50 | 50 |
| 前衛性 | 30 | 30 |
| 可読性 | 5 | 5 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 30 | 30 |
| 音韻 | 20 | 20 |
| 構成 | 20 | 20 |
| 総合 | 155 | 155 |
閲覧指数:393.6
2026/01/25 17時02分06秒現在
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とても若いころはたくさん恋をしてたくさん失恋をしました。 この作品を読んでいると失恋をすることで本当の恋だったと 気付かされます。と言っても肉まんの話しですが大切ですね
0上手いと思います。にくまんという言葉の生活の匂いと、さらっと流さず丁寧に描かれている事のリアリティが、まず目を引きました。その後の描写も、とても丁寧で、読み易かったです。迷わず、一票。
0一種の都市(東京)論として読みました。ちょっとコメント欄で済ませるわけにはいかない大作です。別途、こちらのサイトで考察を書きたいと思います。
0読んでいる間ずっと、身体の奥で温度が行き来していました。肉まんの熱や、車の中の揺れ、父の背中、夜の景色。あまりにも具体的で、だからこそ私自身の記憶まで呼び起こされる感じがしました。 >匂いは今にしかない >寂しさは、かつて幸せが在ったこと その言葉たちは説明ではなくて、誰もが知ってしまった無意識に近い感覚を、そっと確かめさせてくれるようでした。 途中から一気に広がるイメージの奔流も、現実から逸脱していくというより、むしろ、生きている感覚そのものが肥大して噴き出しているようで、圧倒されながらも目が離せなかったです。 そして最後の >過去地点にいる私は、まだ、自分が幸せであることを知らない ここで、すべてが静かに着地した気がしました。取り戻せないものを知ってしまった現在と、ただ生きていた過去が、同時に肯定されているようで涙が溢れました。 寒さを待つこと、寂しさをなぞること、それが生を確かめる行為なのだと、この詩は残酷なくらい美しく教えてくれると思いました。
なんか期待していた橙色さんの作品と違う気がしたな 現代詩手帖にでも応募する感じなのかな? 家族を巡る話なのになんか飛躍が過ぎると言うか悪魔合体してるわみたいな感じになってる 橙色さんの良さが消えていて残念 久しぶりの投稿だから読んだけど 現代詩手帖くらいならいけると思うけど、 昔からの作品と比べても良さは消えてる感じ。 中の人変わった?
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