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富永太郎の詩『秋の悲歎』の冒頭部に対する感想
富永太郎の詩『秋の悲歎』の冒頭部 「私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去った。道路のあらゆる 直線が蘇る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さえも闇を招いては いない」。 富永は「自然」に対して、決して韻律の抒情に溺れることのない、「 理性」の詩を書く。この散文詩も、その名に恥じない見事な作品であ る。出だしは、「透明な秋の薄暮の中に墜ちる」とある。この「墜ちる」 は、いっとき「自然」に対峙するわが「理性」を休止する、の意である。 そのとき、何が起こるか。それは、突然「戦慄」が去り、さらにはこれ まで眼にすることの出来なかった「道路の直線」が、にわかに「蘇」る。 畏れ多くも「直線」とは、所謂文明の起点ではなかったか。それが、い っとき「蘇る」とは、いかにも原初的にして根源的な、思いがけぬ出来 事である。くわえて、秘匿されていた「自然」がーーとは、まさに「自 然」の象徴である、かの「貪婪な樹々」さえもが、「闇」(「虚無」)を「 招いてはいない」という。これこそは、まさに訪れ難き「自然」の至福 のときではないか。…… ところで、これは「理性」を、独自に捉える術を心得ている富永の独 白だが、安易に真似ようものなら、その身は危ない。なぜなら、彼の言 う「自然」の内には、紛うかたなく「死」も、「生」と共存しているから である。
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富永太郎の詩『秋の悲歎』の冒頭部に対する感想 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 234.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2026-01-22
コメント日時 2026-01-22
| 項目 | 全期間(2026/01/25現在) |
|---|---|
| 叙情性 | 0 |
| 前衛性 | 0 |
| 可読性 | 0 |
| エンタメ | 0 |
| 技巧 | 0 |
| 音韻 | 0 |
| 構成 | 0 |
| 総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
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| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


青空文庫で当該の詩、読みましたが.......あの詩は あなたがいうような「韻律の抒情」がどうのという詩じゃ ないような気がします。自然と理性のはなしでもない。 いったいあの詩のどこをどう読んでらっしゃるのかわかり ませんが、 わたしがパッとみてすぐに吸い寄せられるのは「白痰」 にまつわる描写です。これは結核の痰です。当時は致死 性の病いでした。そして事実、富永太郎は24歳の若さ で夭折するのですが、死を前にして悩み悩み抜いた挙げ 句、「わたしは(中略)斜面に身を任せよう」「……私は 私自身を救助しよう」と覚醒したときに、冒頭のフレーズ がくるのでは? 懊悩のなかに世界を見失ってたいた彼の 視界が現実をとりもどしてあらゆる直線が、すなわちリ アルな世界が眼のまえによみがえった瞬間です。理性とか 自然とかいうはなしじゃなくて、意識のはなしです。意志 と覚悟のはなしです。孤独を受け入れ宿命を受け入れて、 凛として立ち上がった心的な境界をあらわしている詩で す。 まるでガッコーの試験の論文のような散文は、どうもこの 詩にはまったく似合わないような気がしました。 風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。 という一節をもっと真摯に受け取ってほしいです。
0読んでいただき、ありがとうございます。私がこの詩に対して、見当違いの読解をしているとのご指摘、納得致しました。ありがとうございました。
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