月の夜だった。欠けるところのない、うつくしい月が、雲ひとつない空に、きらきらと輝いていた。また来てしまった。また、ぼくは、ここに来てしまった。もう、よそう、もう、よしてしまおう、と、何度も思ったのだけれど、夜になると、来たくなる。夜になると、また来てしまう。さびしかったのだ。たまらなく、さびしかったのだ。
橋の袂にある、小さな公園。葵公園と呼ばれる、ここには、夜になると、男を求める男たちがやって来る。ぼくが来たときには、まだ、それほど来ていなかったけれど、月のうつくしい夜には、たくさんの男たちがやって来る。公衆トイレで小便をすませると、ぼくは、トイレのすぐそばのベンチに坐って、煙草に火をつけた。
目のまえを通り過ぎる男たちを見ていると、みんな、どこか、ぼくに似たところがあった。ぼくより齢が上だったり、背が高かったり、あるいは、太っていたりと、姿、形はずいぶんと違っていたのだが、みんな、ぼくに似ていた。しかし、それにしても、いったい何が、そう思わせるのだろうか。月明かりの道を行き交う男たちは、みんな、ぼくに似て、瓜ふたつ、そっくり同じだった。
樹の蔭から、スーツ姿の男が出てきた。まだらに落ちた影を踏みながら、ぼくの方に近づいてきた。
「よかったら、話でもさせてもらえないかな?」
うなずくと、男は、ぼくの隣に腰掛けてきて、ぼくの膝の上に自分の手を載せた。
「こんなものを見たことがあるかい?」
手渡された写真に目を落とすと、翼をたたんだ、真裸の天使が微笑んでいた。
「これを、きみにあげよう。」
胡桃ぐらいの大きさの白い球根が、ぼくの手のひらの上に置かれた。男の話では、今夜のようなうつくしい満月の夜に、この球根を植えると、一週間もしないうちに、写真のような天使になるという。ただし、天使が目をあけるまでは、けっして手で触れたりはしないように、とのことだった。
「また会えれば、いいね。」
男は、ぼくのものをしまいながら、そう言うと、出てきた方とは反対側にある樹の蔭に向かって歩き去って行った。
瞳もまだ閉じていたし、翼も殻を抜け出たばかりの蝉の翅のように透けていて、白くて、しわくちゃだったけれど、六日もすると、鉢植えの天使は、ほぼ完全な姿を見せていた。眺めていると、そのやわらかそうな額に、頬に、唇に、肩に、胸に、翼に、腰に、太腿に、この手で触れたい、この手で触れてみたい、この手で触りたい、この手で触ってみたいと思わせられた。そのうち、とうとう、その衝動を抑え切れなくなって、舌の先で、唇の先で、天使の頬に、唇に、その片方の翼の縁に触れてみた。味はしなかった。冷たくはなかったけれど、生き物のようには思えなかった。血の流れている生き物の温かさは感じ取れなかった。舌の先に異物感があったので、指先に取ってみると、うっすらとした小さな羽毛が、二、三枚、指先に張りついていた。鉢植えの上に目をやると、瞳を閉じた天使の顔が、苦悶の表情に変っていた。ぼくの舌や唇が触れたところが、傷んだ玉葱のように、半透明の茶褐色に変色していた。目を開けるまでは、けっして触れないこと……。あの男の言葉が思い出された。
机の引き出しから、カッター・ナイフを取り出して、片方の翼を切り落とした。すると、その翼の切り落としたところから、いちじくを枝からもぎ取ったときのような、白い液体がしたたり落ちた。
その後、何度も公園に足を運んだけれど、あの男には、二度と出会うことはなかった。
作品データ
コメント数 : 10
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作成日時 2025-04-13
コメント日時 2025-05-12
#現代詩
#縦書き
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2025/12/05 21時25分16秒現在
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この詩を読んで、両目を一文字に切り裂いたり、首をギロチンで切断されたりしたくなりました。 田中さんの詩には「魔力」があります。 ともすれば、読む者を死へと誘ってしまう魔力です。 文章には影がつきまとい、とても孤独で不安です。 それらが妖しく透明に揺れ震えています。 田中さんの詩を読むと、 時折、「はなはなと震える僕の美しい顔」というフレーズが入った(散々調べたのですが、タイトルは解りませんでした)美少年の詩を思い出します。 ありがとうございます。
0レモンさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
1物語詩として確立しているように感じました。 魅力的で、詩としてはボリュームがあるのに一気に読み終わってしまうぐらい夢中にさせる詩。
0秋乃 夕陽さんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
0歌舞伎の世界とでも表現していいような。 全体に「カミングアウト」ということを想いましたね。 瞳を閉ざして天使、、ですから。 それと、ゲイの今の人たち、そして年配の人たち、その世代の差異みたいなものを考えました。 今のゲイは「陽キャ」全盛という印象があります。 Xでちん○晒して1000万imp、、みたいな世界線。 もはや天使だらけなのかも。 昔はそうではなかった。
1おまるたろうさんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
0球根を植えると白い天使が。おもちゃを弄ぶようなお話ですが、楽しさ半分切なさ半分という感じでしょうか? 爽やかな読後感がいいです。
0万太郎さんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
1現実にありそうな不思議な物語に引き込まれました。 最初は主人公の孤独をまるで自分の事のように感じて、心にぽっかりと穴が空いたかのような感覚でした。 そして、その心の穴を満たすかのように天使の美しさや神秘さが表現とともに染み渡って、主人公が天使に抱く気持ちがはっきりと伝わってきました。 そして、最後の触れてしまった瞬間、壊れてしまう天使の姿に、まるで自分が抱いていた感情が「ダメなもの」のように感じて、行き場の無い感情に葛藤させられました。 短い物語で、心の中が揺れ動く素敵な作品だと思いました。ありがとうございました。
1蒼澄さんへ お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしいです。
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