悟り - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

わたしがいのることは

とても重い

みんな経験したことがあるであろう、とても重い"ちょっと"が詰まっている。

錠9

生きる

声なき声を拾いたいと思ったことはあるか

わたしは、ある。 あなたの胸を叩き 何故なのかと問いただしたい そう呼び止められた時 わたしは何と答えられるだろうか。 静かにだが確かにこの詩からは 張りつめた足音が聴こえる

ぼんじゅーる

天皇陛下万歳

知的破産者及び愚昧界の金字塔

平成天皇と存命中に呼び不敬を極め、大正・令和を外す選別賛美。明治から平成まで乱暴に万歳する時代錯誤と挑発精神が光る奇作。

大人用おむつの中で

好きです。

切れのいい、知性あふれる現代詩だと思いました。

ことば

ことばという幻想

純粋な疑問が織りなす美しさ。答えを探す途中に見た景色。

花骸

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)



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悟り    

我は月なり 我は太陽なり 我は空なり 我は草木なり 月は我なり そへ静けさを返す 太陽は我なり そへ温かさを返す 空は我なり そへ遥かさを返す 草木は我なり そへ優しさを返す 我は宇宙なり 宇宙は我なり そへ永遠を返す 一切皆空 諸法無我 もはやこれ以上は存在しない 私に幸せがもたらされた 心からの満足を感じた 永遠なる世界よ やっとたどり着いた幸せよ


悟り ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 42
P V 数 : 7140.3
お気に入り数: 0
投票数   : 2
ポイント数 : 0

作成日時 2024-01-21
コメント日時 2025-01-31
#現代詩
項目全期間(2025/12/05現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性00
可読性00
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技巧00
音韻00
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閲覧指数:7140.3
2025/12/05 21時40分20秒現在
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    作品に書かれた推薦文

悟り コメントセクション

コメント数(38)
俗悪ちゃま
作品へ
(2025-01-21)

自己とは、つまり世界の投影であり、対話であり、鏡面でありまた、つまるところ世界とは我自身である それはなにもないけれど、なにもあるものである それは感じるかどうかである と感じました

1
黒髪
俗悪ちゃまさんへ
(2025-01-21)

仰る通りですね。感じることが出来るかどうか、観点が確立できているかどうか。 人から指摘され、直して(それが必要だから)、真実に至るならば、実に楽に生きられる。 何事も、無明(無知)から発しているのが、全ての人間でありますから、全ての執着を 除き去って、本当の自由で善なる心によって、空なる真理の下に世界をありのままに見るのです。 うたかたやかげろうのように、この世を見るのが正しい、なぜならば、全ては執着して、 本質があるような気になって、その果てに苦しんで、この世から去っていくのであれば、 慈悲の心も持ちがたく、自己中心の暗闇の中で、他者との真の触れ合いもなく亡くなっていくの ですから、その後悔と無念たるやいくばくか。そうなる前に、毒矢を抜き去って、真理に 到達しなければなりません。皆が悟り得ると教えられてきました、誤った考えに縛られて、 真実へと導かれない道を選んで、迷子になるならば、時を浪費して、虚しさの中に沈んでいくでしょう。 世に描かれた価値観の中でレペゼンを持って、執着しないで見るならば、全てが報いられるはずでしょう。

1
俗悪ちゃま
作品へ
(2025-01-21)

世界の価値とはつまるところ、自身が意味を与え色付けするものである 無為だと思えば無為であるし、またそれを価値あるものと見做す意思がそこにあるならば、それはまた誰に否定されようが覆せぬ価値となる  仰る通り真理でしょうねこれは

1
黒髪
作品へ
(2025-01-21)

日本では、世俗的な価値観が強く、子供の頃の共同体的に、大人にならずにいる人も多いです。 何がホントの大人なのかは、理解しているわけではないんですが、いずれにせよ、無常 の価値観に違うことは、みんな間違っています。自己に対して、厳しくあらねばならないですよね。 そして、他人に対しては、しっかりとした認識の上に優しくあれ。

0
黒髪
俗悪ちゃまさんへ
(2025-01-22)

上のコメントは、俗悪ちゃまさん宛てです。

1
作品へ
(2025-01-22)

返す、という発想がとても興味深いです。返すということは、何かを借りているという前提がある。

1
田代ひなの
田代ひなの
作品へ
(2025-01-22)

宇宙の真理を説いているような詩ですね。 自然をふんだんに使った壮大な表現に引き込まれました。

1
黒髪
類さんへ
(2025-01-22)

命というものは、全て仏さまの一部でありますから、そのご恩、分けていただいているものを、 返すのだと思っています。仏さまのお助けを、ありがたいと思って返すことが、人の自然な 心の在り方だと思います。インドの言葉で言えば、ブラフマンとアートマンということが 言われています。この心臓(フリダヤ)の中に眠る偉大なものを、まさしく生きている間に、悟ることによって 目覚めさせていく、そうした密教的な働きというのか、即身成仏を、目指しているわけです。

0
黒髪
田代ひなのさんへ
(2025-01-22)

自然は、絶対に差別をしません。自然と共に暮らすなら、自然がありがたいと思い、私達も 自然にならって差別をしないようにしよう、そう思うべきかと思います。宇宙の真理は、 宇宙の中にあり、私達自身の中にもあります。それに気づくなら、宇宙は私のためにあり、 私は宇宙のためにある、という簡単で壮大な境地を楽しむことが出来ます。そう知ったならば、 何かに困っていたり、悩んでいることが、解決可能か不可能かを見極めて、愚かにおろそかに 生きないようにしようと、誰もが思い、実行することが出来るでしょう。自らと人の中に眠る 偉大なるものに、気づいていた人々を、幾人も見てきました。生きることが喜びそのもので ありますようにと、願っているところです。自然に支えられて生きている、ということは、 現代では忘れられがちではないでしょうか。どう転んだって、いつか死ぬわけですから、 最後は私達も自然と区別がなくなる、ということです。ただ、生命には仏性があります ので、死後にどうなるかは、分からない話であり、様々に幸福を説く宗教の、示すままに思い、 日々精進努力し、真理を理解、体得することに、大きな意味があると思います。自分で考える、 行動する、話す、書く、見る、心を落ち着ける、そういったことが、誰しも出来るのであり、 人間というものは、もともとは完全性を持っているものであると思います。完全性に至るなら、 もう迷うことなく、楽しんでやっていくことが出来るでしょう。慈悲は、人に対しても、 自分に対しても、持つべきであり、責任は、他者に対してのみでなく、自分に対しても 持たなければならない、すなわち、他者だけでなく、自分も幸せでなければならないのです。 それが、仏さまの命を分けていただいている我々個人が、果たすべきことであると思います。

1
ayami
ayami
作品へ
(2025-01-27)

自分という確固たるものは存在せず、空であることに気づきながら、月や太陽、空、草木の存在に気づき、自分が受け取っているものへの感謝が不思議と湧いてくる、素敵な詩だと思いました。

1
湖湖
湖湖
作品へ
(2025-01-27)

文面から貴方が悟りに至ったのか、病気の陽性期なのか、それとも詩的誇張のロマン主義なのか判断しかねます。こんなことを書いてしまう躊躇もあるのですが、悟りってありふれたことでは無いように思うのですが、黒髪さん、大丈夫ですか?あなたの詩は大胆な事柄に触れていて、誇大妄想に入ってらっしゃるのか、危ぶまれました。私の場合はそうだったので、申し上げているのですが。こんなこと言ってすみません。

2
黒髪
ayamiさんへ
(2025-01-27)

私だけがわがままを言ってきて、月も太陽も空も草木も、何ひとつわがままを言わない、 そういったことを反省して、それらのものが私達を見守っていてくれるということ を思うようになりました。詩人と自然は、親和性が高いと思います。

0
黒髪
湖湖さんへ
(2025-01-27)

精神病が治ることを悟りと思ってやって来ました。修行に失敗すると、精神錯乱に陥り、 やがて地獄に行くだろうと、ブッダも言っておられます。全ての仏教徒は、悟りを目指すもの なので、私もそうしたというだけです。発菩提心というものです。私は、悟りに至ったと、 自分で判断しました。その境地は、詩に書いた通りです。私の詩に、誇大なところはあるでしょうか。 様々な道がありますが、これから、皆が悟って幸せを、望んでいいのだと思うのですよ。 お釈迦様の仲間であった5人の苦行者は、ブッダの説法を聞いて、わずか二か月でみな悟った といいます。初転法輪の瞬間です。清浄にして汚れなき法眼を、あなたも開けます。 大覚成就の瞬間でなく、初転法輪の瞬間にこそ、仏法豎立(firmly established)がなったのであり、 確たる教えが広がっていく、ということが、地球上で初めて確かになったのです。 末法の時代を過ぎ、今悟りの拡がる瞬間が訪れたと、私は確信しています。 天上及び地居の神々が、一斉に大声をあげて、つぎのように言ったそうです。 「『世尊は、バーラーナシーのイシバタナ・ミガダーヤにおいて、このように無上の法輪を 転じたもうた。それは、もはや、沙門・婆羅門、あるいは、天神・悪魔・梵天、もしくは、 この世の何者たりともくつがえすことはできないであろう』」 法輪を転じ続けることで、無知から克服されていきます。信心強く、教えについて考え、 教えを広めようとされてきた各宗祖の方々も、皆そのありがたさを知り、それぞれのやり方で、 悟りを説き続けてきたはずです。湖湖さんが教えを受けてきた、学校の先生方は、 みな立派なことを述べてはいませんでしたか。先生方に恩を返すべきならば、 それは返さなければなりません。仏教を信じるのであれば、釈尊に対しても、 同様のことが言えるのではないでしょうか。意味がないように思えた人生にも、 煩悩の曇りが取れれば、輝かしい人間の心が、慈悲の形で現われてきます。 私の場合、あまりに苦痛が大きかったので、信念が強くなったところがあります。 仏教においては、どのような過去を持つ者も、特性のものも、入門が可能である、 悟りを得られる、のであり、学校の先生方がクラスのために心をくだいてきて 下さったように、等しく歓迎されます。現在ある仏法僧を知り、永遠の涅槃へと 入っていくことができるよう、頑張ってみませんか。あなたの善根は、確かな力を持つと思います。 悟りは何も大それたものではなく、それを得たいと願うもの全てに、確かに訪れるものであると 考えるのです。途中であきらめてしまうなら、そこには至れませんが、本当の価値、真理を 知ること、そして善行を行うことを真の生き方として見ることしか、私はできません。 『終末のワルキューレ』という漫画では、お釈迦様は、不幸な福の神に向かってこう言います。 「君も、一緒に悟らないか?」 自らの感情に乾いており、水が欲しくて仕方がない渇愛状態を抜け出るためには、欲望の 高ぶりに従いほしいままにするのではなく、自己を抑えてものごとのありのままの状態を 穏やかに観察することが必要です。一切皆苦のこの世にあって、楽しいと思えるような 状態に至れるのであれば、一切の苦行も歓楽も、終わりをつげ、やましいことのない すがすがしい心持で生きて行けるのです。私はそれを良しとする、それだけのことです。 私に、今までなかったことが起こった、それを詩にしたためた、それだけのことです。 南無阿弥陀仏と唱えるだけでも、誰の心にも変化が訪れるでしょう。人に対して、 やましいことをしてきた我々は、無知無明のために、何をしていいか分からなかったのでしょう。 もっとベストな瞬間に、ベストなことを成す、その機会を逃さないで。世の風俗が、 描き続けてきたこと、それらの儀式的な奇跡の瞬間において、目覚めることが出来ます。 楽しい玩具のように物語を使い、真理とはそのような一般的喜びとも通じているということを、 否定するものではないのです。

1
湖湖
湖湖
黒髪さんへ
(2025-01-27)

丁寧な長文で色々と教えて下さりありがとうございます。 黒髪さんが体調がお悪い訳では無いようで杞憂でした。 良かったです。 バラナシは旅で行きました。 アジャンタやエローラの仏教石窟寺院も見たものです。懐かしいです。 悟り自体が難しくレアケースなのかな、という印象だから無教養も手伝って驚きました。 私も宗教に造詣を深めたり、万巻の書を当たったりする生活に羨望があるのですが、悟りなんて贅沢に過ぎるのです。 他者に話せないトラブルを抱えていますし、家族には食い扶持を稼ぐ努力をするように期待されています。でも、誘って下さりありがとうございます。

1
黒髪
湖湖さんへ
(2025-01-27)

眼が完全に治りきっていないところもあり、物事の裏表が様々に映るのですが、 私への攻撃ではないと知って、安堵しました。人間への信頼が、揺らぐことが多々あるのですが、 湖湖さんは、私の身体を心配して下さったのだと知って、ありがたい思いです。 優れた人間の裏を読んでしまい、フォースの暗黒面に堕ちてしまう危険は、まだありましたが、 眼を治しきったなら、人騒がせではない、太陽のような心で、物事に対して行けるかな と思っています。ちょっとした動揺によって、全てを投げ出さねばならないという頭に なることが、最近多くて、もう少し頑張らないとな、と思っています。人は、踏みにじるもの ではなく、助けるべきものであると、心に命じて、菩薩様のようにおおらかで温かい心で見て 行っていくのみです。きちんとした判断ができるような自分でありたいものです。 And in the end the love you take is equal to the love you make.(the Beatles 「the end」)

1
湖湖
湖湖
黒髪さんへ
(2025-01-27)

私も病気のせいも有って被害妄想とか、勘違い、認知の歪みとか有り、困ります。ゆったり生きないとならないのでしょう。お互い弱さを抱えてされど柔らかく強くなれたら良いですね!

1
おまるたろう
おまるたろう
作品へ
(2025-01-28)

黒髪さんは”大人”だもんなぁ。まじでbレビの良心。

2
黒髪
おまるたろうさんへ
(2025-01-28)

悟りという詩に関しての事柄なんですが、極端を避けて、中道を守るといことを心掛けることで、 心の曇り(煩悩)がとれて、大人になれるのだと思います。悟っていれば動揺はしないのですね。 私自身もまだまだと思って、自分で考えられるように、自分で良い判断が下せるようにと考え、 それを日々実践しているところです。とてもやりがいがあり、苦しみが晴れてきます。 人自体が悪いのではなく、人の性質として、無明ということから始まっているので、 あらゆる物事の運行に対して、うまく制御できないことが多いんですね。貪瞋痴を 失くそうと実行してみることで、徐々に徐々に楽に思考行動が出来るようになってきます。 貪瞋痴は、みんな極端なんですし、ほとんど自分のせいなので、それらを改善する修行 が必要となります。貪らない、怒らない、愚かな考えをしない、くらいのことは、 現実的な場面で盛んに行動判断する方法を考え、現実のものとしていくうえでは、 ただ意味がないことだと、理解できるはずです。計画実行の手ごたえが、人生を 進めるうえで、大事であって、醍醐味です。詩や芸術に関わる人は、実人生で、 必要な手段を用い、各段階のステップを踏んで、高い所へ上っていく、 そんなことをすることには、本当に大きな意味がある。 ほとんどの現実的な問題は、無知から起きるので、よく人や物事を知っていれば、 貪瞋痴は抜け出せるところです。知らないことを行うことは出来ないので。 初めから知っている貪瞋痴の煩悩が暴れ回るのが、人間の良くないところで、 心と魂がボロボロになっていきます。 良く学んで、知ればわかる、知るために努力と縁がいる、関心を、失くしてしまったら、 修行の機会もなくなるので、確信できるようなことを、増やしていくといいと思います。 「たといどこにあっても 他人を軽んじてはならない 互いに他人に苦痛を与える  ことを望んではならない」(「慈しみ」中村元譯) 今までやってしまったことは仕方がない、例えたくさんの人を殺めてしまった人であれ、 反省の上で修業を行えば、悟りが開ける、そんな教えが伝えられてきたと聞けば、 世の芸術、学問的世界探索の、遠足気分が開けてきませんか。全ての人は、苦しみ持つゆえに、 他者の気持ちを想像し、共感できるのです。理解不能な人や物事は、存在しないのです。

0
おまるたろう
おまるたろう
黒髪さんへ
(2025-01-28)

>互いに他人に苦痛を与える ことを望んではならない 表現の場にも関わらず、ストレス(=苦痛)・フリーな状況を望むような人は、激弱でしょう。少なくとも、もの書きとしては失格者だと思うんですよね。黒髪さんならよくご存知の通り、仏教の中道とは、修行(苦痛)を全否定しているわけではないのでね。 ちなみに、前にチューブで、なぜインドで仏教が衰退したのか?という動画があって、見たのですけど、その理由は「むずかしすぎだったから」でした。ちょっと笑ってしまいましたね。

1
おまるたろう
おまるたろう
黒髪さんへ
(2025-01-28)

ちなみに、本作への私見ですが、原理主義を突き進んでいて、「近寄りがたい」というのが、あるとおもいますね。むろん、「キャッチ―」すぎるのも問題ですが、「近寄りがたい」というのも、やはり中道からは外れてしまいます。

0
黒髪
おまるたろうさんへ
(2025-01-28)

僕の知っている限りでは、あらゆる修業は、苦労を苦も無く出来るようにする作務などを含み、 労働自体を否定はしませんが、苦痛は感じてはいけないのだと思います。子供の頃に 痛い思いをして、体の使い方を覚える必要はありますが、痛みに特化した表現には、 恐らく意味がないでしょう。痛みを追求しても、何の意味もないです。例えば、 極楽浄土がこの世で実現されることもあり得るのだ、と考えた宗派のことを考えれば、 苦痛を減らさねばならないと考えられるでしょう。全ては、慈悲の心を理解すること から始まります。

0
おまるたろう
おまるたろう
黒髪さんへ
(2025-01-28)

慈悲が大事なのは、同意していますよ。 そもそも生きることも、「死」も、苦でしょう。 本質の問題というのはいつも、ありえないくらい、 むきだしなんであって。 そこから目を背けては駄目ではないですか。 なぜ人々が生死、とりわけ死について考えないのかといえば、 まず第一に、死が自らの消滅だと、考えたくないからでしょうね。 ゴーダマですら悟りを得て、その状態に永遠にとどまると考えたでしょう。 だからこそ、その死も静かで穏やかだったと伝えられる。 (実際は暗殺だったと個人的には確信していますけど) ゴーダマの足元にも及ばない私たちは 無駄に生きて、無駄に死ぬのです。 生きること、 生きることの連続としての生きることのその一瞬一瞬を享受するだけです。 もしそこからさらなる歩みを進められて「組織化」させて、 「発展」させるのではない限り。それこそゴーダマのように。 そういう歴史的プロセスを抜きにして 「全ては、慈悲の心を理解することから始まります。」と言っても、 「むずかしい」わけですよ。

2
黒髪
おまるたろうさんへ
(2025-01-28)

仏さまがおられるから、法が悟られるわけです。法との付き合い方が、世でのありようであり、 一切法空を知れば、法に近づけます。どのブッダも法に従うことを説かれます。 法を侵してはならないからです。 「むずかしくない」ことを申しますと、この世は、うたかた、またかげろうのようなもので あると見よ、という教えがあります。執着するべき何ものもない。分かりやすいと思います。

0
おまるたろう
おまるたろう
黒髪さんへ
(2025-01-28)

わたしはブッディストというより、歴史主義者なので、 キャッチコピーには否定的なのですよね。 もし本当に自分の仏教を語りたいのなら、法を説きたいのなら、スレで済ませるのではなく、 きちんと精緻に言語化して、論文を書くべきでしょう。 あと、やりとりの客観性というのかな、 「法」っていわれていても、一般人が共有している「法」とはイコールではないわけで、 そんなふうにカジュアルに原理主義に突き進んでは、ほしくないかな。 黒髪さんはサイトの運営者でもあるのでね、やはり一応。 黒髪さんの仏教理解を疑っているのではないが。

1
おまるたろう
おまるたろう
黒髪さんへ
(2025-01-28)

キャッチコピー、というかスローガン、かな。

0
湖湖
湖湖
黒髪さんへ
(2025-01-30)

黒髪さんの影響で、さっきコンビニ本なんですが、ブッダの100の言葉、というやつを読み始めました!人生の足しになると良いです!

0
エイクピア
作品へ
(2025-01-30)

悟りの境地を詩にすると言うのは、意欲的な試みだと思いました。月、太陽、空、草木。「空」は「くう」と読むのかもしれません。一切を皆、空と喝破する。これ以上存在しない存在。「幸せ」の到来。「永遠なる世界」にこの詩の意義があると思いました。

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黒髪
湖湖さんへ
(2025-01-30)

足しになるといいです。発菩提心と言って、入門する気持ちを持ったならば、その瞬間に、 全ての人がさとりを約束されている、と言います。煩悩を持っていることが悟ることである、 という、煩悩即涅槃とも言います。

1
黒髪
エイクピアさんへ
(2025-01-30)

この世での苦を受ける我々は、行ってきた善行の力によって、仏さまに救い取られ、 永遠の平安を約束されています。この世で、いかに苦を避けるかということ、智慧を いかにしてつけるか、満足した行いをすることによって、この生の甘露を味わえます。

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田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2025-01-30)

おはようございます。 斎藤茂吉の説いた、実相観入が率直に語られる前半パート、私は月である、というところ。 斎藤茂吉の処女作は「赤光(しゃっこう)」というタイトルなのですが、これは友人が唱えていた 仏説阿弥陀経から採用された言葉です。 この共通意識が私にとって非常に興味深い点です。 最近私は法(ダルマ)というのは、道(タオ)に似ているんじゃないかと 考えていた一時期があったのですね。全くの出鱈目ではないと思いますが ダルマを中心として A=Bである B=C である A=Cであるといったことが 無尽蔵に展開されて世界秩序を構成している。 今、私の手元にはコーヒーがありますが、コーヒーは私である、法を介して。 というところにワンネスの小悟がある。 この小悟を正念によって、つまり正しい瞑想法によって、醸成されたものが 悟りなのではないかと思われます。 しかし、後半のパートでは、「幸せ」として語られますが 世界観として「ここまで」の感が強い。 悟ったらば、そこまでしかないというパラドックスですね。 じっさい、釈迦も悟ったあとに、二度、自ら入滅しようとしていますね。 そのとき、天界?から使いがきて、法を説いて下さいと懇願されて それをやめるのですが。 稲垣足穂が言及したように、生とは一つの部屋に住んでいるようなもので 死は、そっと隣の部屋に移ることに他ならないのかも知れません。 ともかく私はこの詩を、希望と絶望のないまぜとして読んだのですけれども。

2
黒髪
田中恭平 newさんへ
(2025-01-30)

「自ら入滅」ということについては知らないのですが、「ここまで」というのは、境地の意味、 すなわち無上正等覚ということです。自らを意識しないので、自然と合一している。 そういう感覚は、タオとも共通していますね。絶望が感じられるということを聞くと、 まだ体の悪い私が出ているのだと思います。エントロピーの増大法則に従って、物事は、 だんだんと無秩序になっていくのですが、生命のみが、ある範囲では秩序を作る ことができるのです。秩序を作ることが、良い仕事となると思います。無感情ではなく、 慈悲と愛情があるから、人間は人間であれるということだと思います。 世界人類の全てが悟った場合、何が世に起きるかは、全く分かりません。 恐らくは、地球に革命が起きるでしょう。その方向に歴史は進んでいると考えます。 煩悩を克服した状態に至れば、理想を達し、苦のない生を、生きることが出来ます。 その方向へ向かって、八正道を歩むしかありません。幸福は、自然にやって来るものですが、 自ら企図して、物事を達成していく、即ち、業の作り方、得方に、自らの意思を加える、 ということを、否定しているものではないと思います。全ての人生にはストーリーがあり、 自ら望むものを、誰しもが持っていて、それなしでは自らの生が完成されない、そうした 要素を、否定することこそ、禁欲に陥る愚かな考えであり生き方であると思いますので。 慈悲と愛情を涵養していく程度には、仏さまであったとしても予期できないものがあるでしょう。 大きな影があるところにこそ、光が存在しているということです。当然ながら、未来はまだ 決まっていません。小さな満足を欲に対して思って、大きな物事を成していく喜びに打たれる、 そうした生き方こそ、人間の栄光と言ったものかと思います。理想が高いのは悪いことでは ありません。阿弥陀様のご誓願は、いかに偉大であったか、余人のはかり知ることのできない ところです。まだ知らぬことがいくらでもあり、それを知っていくことが、人間的に基本的な 働きだと思います。勉強も修行も、共に行っていくべきことです。大きな宇宙を、 よりよく知っていくこと、豊かな自然に癒されること、人生の味わいは、すべて、よりよき 働きを実現していく方向に向いています。良心を持って、人生の良き面を育てましょう。 自分とは、決して捨てたものではなく、宗教の必要が、常識に変わって、哲学的に、 従って科学的に、全ての人が論理を辿れば理解できるように、経・律・論を分かりやすく、 整備していくことが大事だと思います。私は、経・律・論の三学を、学問的に勉強することを、 とりあえずの大きな目標として据えています。人生における人間性の涵養も、様々な 人々と交流し、学び合いながら、目指しているところです。そうしないと、自分に対して がっかりしてしまいますし、大人になって、人が大きくならなければ、世の働きが 悪くなってしまいます。すると、また不幸が増える。そういったことを乗り越えなければ、 苦が増大していきます。まとめていうと、真理が悟りによる幸せを、約束している、という 結論に達します。般若心経に書いてある、真言の部分を参考になさってください。

1
田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2025-01-30)

付け加えて書いておきますと 哲学者のハイデッカーの場合、存在というものは、石ころなどの無生物、それから動物 そして人間、という風に、ブツブツに分別してしまってから検討をはじめていますね。 詩的ではなく、且つ宗教的でもなければ、日本人の大多数、世界の大多数の方も このような分別といいますか、分類を持って暮らしていると思います。 そうして、動物というのは人間に比べて、知覚が制限されているか、特定の知覚が 異常に発達しているという各々の「環世界」の中で過ごすものであると。 ハイデッカーはここで、人間と動物の差異を見い出し 「環世界」から別の「環世界」へと自由移行できるものとして人間を最上のものだとした。 今までの西欧「哲学」のハイデッカーに於いてはそういう認識論です。 しかし、宗教家である釈迦の場合、特に日本の大乗仏教の場合には もっと人間と動物のそして無生物の差異を無くし、無分別にそれを処理する。 「命」ですね。 その、「命」というか、金子みすゞなどがそうですが (あの、宮沢賢治にもそういう一面がありますね) 読むとほろほろと「来る」「こたえる」ものがあるのですが この詩はドライに渇いている方向に舵を切っているというのが興味深い点です。

1
田中恭平 new
田中恭平 new
作品へ
(2025-01-30)

いや、すいません 環世界から別の環世界へ自由移行できるから人間が偉いのではなく そもそも人間がそもそも備わっている知覚活動が動物に見られないので ハイデッカーは人間を特別扱いしている。 ともかく、ハイデッカーのバックグラウンドとして人間特別観みたいなものが 備わっているのかも知れません。

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黒髪
田中恭平 newさんへ
(2025-01-30)

僕も人間を特別に見ます。阿修羅や天界の存在も含め、私たちが人間であるからそう思うのでしょう。 蝉であれば、蝉を特別視するでしょう。人間は、言葉を使って、知識を伝達します。 言葉によって、神様等と意識を交わします。 仏さまは、もともとは人間であり、人間にして人間ではない存在となりました。 人間は、信じたり疑ったりして進んでいきますが、愚かな方へ突き進む人間というものが、 いないわけではなく、一般常識からしておかしいのですが、それは、無知によるでしょう。 知恵はコンピューターも扱い、どんどん知識が洗練されていきます。 ところが、最終的には実践が大切で、体験をできるのは生き物だけだと思われます。 哲学的に考えると、タブララサといったことや、鳥の雛の刷り込みと言ったことがありますので、 生物同士の境界には、多少のあいまいさがあると思います。

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おまるたろう
おまるたろう
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(2025-01-30)

田中恭平 new 「ハイデッカーは人間を特別扱いしている」 黒髪 「僕も人間を特別に見ます」 ...180度違う意見の者同士が結局360度回って完全一致したみたいな...笑 まあ、いいや... 田中恭平さんがおっしゃっているハイデガーは、 おそらくメルロポンティや木田元経由かなと思うのですけど、 間違っているわけではないのですけど、 ハイデガーってとことん闇属性の人なので、 そこを捨象して仏教に接続するのは、 俺は反対するんだよな (ハイデガーの実体性の否定が仏教に接続できるのは間違いではない) ゴーダマと一番ちかしい思想家は、じつはデカルトなんじゃないかなって思うのですよ。わたしは。 ようするに、独我論の超克の課題ですね。 本作もデカルト的な視点で読むと、かなり興味深いという気がしますね。

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万太郎
万太郎
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(2025-01-31)

私は客観性を失うことが怖くて、常に他者を求めていくようなところがあり、悟りの持っている孤立性に警戒心が強いのです。 愛について考えたんですけどね。愛って言うのはフィクションを共有することによって孤立した自我同士に橋をかけることで成り立つと思ったのです。この場合の私の言いたいフィクションとはなにかと言うと、嘘ではなく現実というただそれだけでは冷たいものに対し、温度を与えるようななにかです。例えば物語ですね。それに対し悟りと言うのは、孤立し漂流している自我が、自然神と意思疎通して自覚であるとか目覚めであるとかを得、迷いをなくしていくようなことなのかな? と。漂流していることで与えられる苦難から逃れようとして誤って感じた悟りだとしたら鵜呑みにしてはいけない。それは自己欺瞞になるから。しかしそうでないというぐらい自信がおありだからこそ、公の場を借りてお書きにおなりなのでしょう。 ブッダがたどり着いた悟りの境地は虚無主義という彼岸だったと言われています。あらゆる強迫感情、執着心、利己心から逃れ、その上でなにもない、この世にしがみつくようなもの、執着すべきようなものはなにもなかったというような彼岸によって想いのままの人生を生きるというような、壮大なものだと思います。私の場合それを落語的知性によって、立川談志師匠から学びましたが、どこまで実践出来ているかというと脳で理解するのがやっとです。 黒髪さんが主観的に悟ったということの中に入ってもユーモアと客観性を失わずに、上手に橋渡しを出来る人で有らせられ続けますことをお祈り致します。

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黒髪
おまるたろうさんへ
(2025-01-31)

ChatGPTなどにも聞いてみたのですが、デカルトの「思考」といのは、智慧なしでは、錯誤して 「無明」となる恐れがあるので、デカルトも、「思考」の固定化を乗り越えなければならないという ことのようです。「思考」自体が原理原則であるわけではない、ということのようです。 そういう意味では、やはり僕は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」のような考え方の方が、 より良いと思います。

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黒髪
万太郎さんへ
(2025-01-31)

祈って下さりありがとうございます。愛なしでは人間精神は成り立たず、また、お互いに甘えるのでは、 大人の愛ではありません。人間として自立して、その上で特別を選ぶと言ったところが、続く愛 だと思います。したがって、フィクションの共有ということは、危うさを含んでいるような気が します。客観性とは、他者に気づきを与えられるという側面もありますが、自己自体が自立 していれば、自然と客観視は行えると思います。それは、己の観点のみに溺れない、ということ かと思います。主観性しか持たざる者は、客観性でみる修行を心掛けないと、偽の愛で 終わってしまうことも、よくあるのかと思います。何事も、考え方次第、すなわち、 智慧しだいなのです。仕事をするのに、客観性を持ってしないですれば、道具を使う、すなわち、 マルクスの行ったような仕事が出来ません。身体と道具を使うことに修練することで、 自己の力は増し、他者に教えることも出来るかと思います。これも、ウィトゲンシュタイン 的な見方です。与えられる前にまず与えることを考えないと、受け身になります。 しかし、一方では、悟りとは、受動的に得られるものであるとも言います。すなわち、 あらゆる手段を絶たれた人間が、瞑想という方法によって、悟りに至るという道を考える こともできます。悟ったのちに、他者に教えを与えるとき、世界は救われるのです。 悟りは歴史上に起こったことであり、後々まで伝わっています。現実手段を整えるよりもまず、 食物を取らずとも、瞑想を続けることをされたのですが、結果として苦行の無意味を悟ることに なり、乳粥の施しによって、思考力を取り戻して、瞑想を続けた結果、全てを悟られたのが 釈尊であると、私は理解しています。全ての苦しみがなくなる状態に至った釈尊が、 どれほどほっとされたかは、計り知れないところです。世界の命運を、肩に乗せ、決意の通り、 悟られて、天上の神々も、鳥たちも、獣たちも、全ての存在がそれを祝福されたということのようです。

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