コンビニの駐車場から車を出そうとすると、窓を叩く音がした。ドアを開けると、お婆さんが立っていて、財布を落としたので、帰りのバス代を三百円ほど貸してくれないかと言う。日に焼けて少しやつれて切羽詰まった顔。「お婆さん、三週間ほど前にもここで会ったよね」、なんて野暮なことは言うまい。僕が三百円を渡し。返さなくてもいいですよと言うと、お婆さんはホッとした表情で、有難うございますと頭を下げた。
もしかすると、寸借詐欺をしている女性がいるとして、「正義の告発」をする人がいるだろうか?でも、僕にはできない。僕には「正義の告発」に伴う苦い記憶があるからだ。
もう五十年も前のことになる。僕は母子家庭だったので、給食費を免除されていたのだが、そのために、「給食費を払っていないやつは給食を食べるな!」と、クラスの半数から罵声を浴びていた。担任の先生(なんとも頼りない人だったが)は、その罵りを避けるために、一応、他の児童と同じように給食費を僕からも集めて、後で返すようにした。すると、その給食費を返すところを見つけたやつが、「やっぱり給食費を取ってないやないか!」と騒ぎ始めた。もちろん、それを聞きつけた連中が集まって、大騒ぎとなったのだが、そこには「正義の告発」があった。
給食の時間には、児童が給食を注いでゆくのだが、僕のところにはほんの少ししか入れようとはしない。それを見とがめた男の先生(担任ではない)が、「何で川口には給食を入れへんのや?」と訊くと。その女の子は「川口くんは給食費を払っていないから」と、昂然と言い放った。それを聞いた先生は、「それがどないしたんや、入れんかい!」と怒鳴った。すると、ほんの少しまた注がれる。「もっと入れんかい!」と先生がまた怒鳴る。ようやく、僕の器はおかずで一杯になった。これは僕の幼少時における苦い記憶である。
僕は結構保守的で「自己責任論」、「排外主義」に惹かれやすいタイプの人間であり、いわゆる「人権活動家」の偽善性が嫌いだ。ただ、人は経験から学ぶこともある。世の中には多数に拠る「常識」というものがあって、僕もしばしば賛同しそうになるのだが、僕の苦い記憶が安易に諸手を上げることを止めてしまう。
改めて言うまでもないことだが、ものは使いようだ。「正義」だって同じで、その「正義」の根底にある動機、それを主張する人の人間性を慎重に見極める必要がある。物事は単純化できるものではなく、視点によって、その立場によって、「事実」の様相は随分と変わって来る。僕の痛感するところだが、俯瞰的かつ複眼的な見方が重要である。
でね、お婆さんにまた会ったらどうするかって?
また三百円を渡すよ。
それは変わらない。
作品データ
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作成日時 2025-07-08
コメント日時 2025-07-14
#現代詩
#縦書き
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2025/12/05 21時11分39秒現在
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日常にあった一コマを切り取り、そこから人文学的な飛躍へと話が移って、作者様の才気が迸る名文かと思われます。 そうですね、ふーむ。私も同じ場面に出くわしたら、三百円気前よく渡してしまうかも知れません。 おばあさんの人懐っこさ愛嬌、そういったものが男というものに与える哀愁は贖い難い物がある。 規律を守るのは何故か? 一つは他人に迷惑をかけたり、傷つけたりしないためというのがあると思いますが、少数者へのマナー違反はどこまでも許していいとなりがちなのが、民主主義多数決社会です。 母子家庭のために、公に給食費を払わないことが免除されている立場でありながらそれを責め立てられることと、お婆さんが、公の免除なく個人にお金を貸してほしいと催促することに不信を覚えることは、イコールの問題で捉えるべきことではないかも知れませんが、そこは気前の良さで、貸してあげたいから貸してあげたという選択をとり、それで気持ち良しを取る自由はあると思います。
0※作品のテーマとあまり関係ないコメントだろうけれど許して >僕は結構保守的で「自己責任論」、「排外主義」に惹かれやすいタイプの人間であり、いわゆる「人権活動家」の偽善性が嫌いだ。 前の『人文学と多様性』でも書かれていたような気がするけれど、今のポリティカル・コレクトネス的な左派や文系に対して辛辣な感じがある。 ……でも、保守的というわりにはあまり粗暴な感じがしないのは、waterさんの『苦い記憶が安易に諸手を上げることを止めて』いるからだろうか。 『大阪以外の都会だと、ビッグイシューを売る人には侮蔑の眼を向けられるだろうが、大阪だと誰も恥ずかしいとは感じないし、敷居を入れ寝そべられないようにした不愉快なベンチもない。そこが、大阪の懐の深さだと思う。』 ……という文章(『愛媛、大阪、釧路、そして、人間到る処青山有り』より引用)を書ける人が本当に『自己責任論』に対して簡単に諸手を上げるとは思えないのがより説得力が増す(本当に諸手を上げる人はビッグイシューというものすら知ることないだろう) 結構ブレーキが強い人な感じがする、waterさん ※とはいえテイムラー隆一は文学部出身&昔の進歩的文化人への同情ゆえに、waterさんの言い方(『「人権活動家」の偽善性が嫌い』とかの記述)を見ると「うーん……そこまで偽善的か? それに偽善だとしても何も掲げない人よりはいいでしょ」と思ってしまうことはある(『人文学と多様性』でのwaterさんの意見と同じように、僕も最近の人文学のポリティカルコレクトネス的な方向はどうかと思うことはあるけれど。)
0ラストが好きですね。 優しいとかそういう理由ではないところで、好きです。 「正義の告発」 これはまさに考えさせられるテーマ。例えば昨今であればネットを介して匿名で吊るし上げることも可能なわけですから、告発のハードルは非常に低くなっている気もします。 だから自分はどう立ち振る舞うのか、考えさせられました。
0公けの免除があることと公の免除がないことは、確かに異なりますが、ただ、公の免除そのものが気に入らないという人は少なからずいて、なかなか人の考えに対してその人が納得するような説明をするのは難しいところがあります。論理的というより心理的な問題ですから。ただ、アンナ・カレーニナの有名な書き出しにあるように、幸せな家庭は似通っているが、不幸な家庭はそれぞれに違っていて、不幸な状態については一つの型に押し込めるのではなく、ケースバイケースで考えるのが大切なのだと思います。そして、万太郎様の仰るように、人(特に女性)を助けるのは男として気持ちのいいものですね。
1私は人を見る目がある、と言う人に限って人を見る目が無かったりするものですが、そういう人は外見(思想も含む)から人間の全体像を創り上げていることがありますね・外見は必ずしも人間性と一致しませんし、外見が人間性を変えるとは言い切れません。私も長い間生きてきて、人間と言うものは一筋縄ではいかないなと感じていますので、人を判断するのは慎重でなくてはならないと常々感じています。そこにはもちろん、過去の苦い記憶も影響しています。ただ、人間不信の塊になってしまうと、人生において過ちを犯す可能性が高くなりますね。ですから、最終的には人間を信じた方がいいですし、裏切られてもそれはそれで個別の事象と考えるべきです。ポリティカルコレクトネス的な方向は、人はそれぞれ違うとよく言いますが、外から見えるものが中身を決めるわけではありませんし、大体ごく一部の人を除いて人間の中身は概ね似たり寄ったりですね。それよりも、お互いに違いを認めるのではなく、一致点を求めるべく議論の中で模索を続けるべきだと思います。右派は人間を人種、民族など外見で判断する傾向が強かった、左派も最近は一見異なるように見えて同じ過ちを犯していると思います。だから、言っていることが抽象的なイデオロギー中心で、具体性に欠けています。人を救うのためには何よりも具体的でなくては。
0「正義の告発」は気持ちのいいものですし、最近はネット上でそれを行う人が増えていますね。そこには一長一短があり、一概に駄目とは決めつけられませんが、「正義の告発」をする前にはよく考えた方がいいと思います。そして、何をするにせよ、それは自分の決めたことですね。
0ああ、正義の告発怖いですね。御婆さんとのエピソード。保守的と言う感じもなんとなくわかる感じがしました。
0単なる卑俗な衝動に基づく行為でも、それを正当化するために、人は「正義」を濫用するものです。 それを冷静に見つめるべきで、私の「保守的」というのも、概ねそうした意味合いのことです。 変化の速い昨今ですが、何ごとも熱狂ではなく冷静に行きたいものですね。
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