One Handred Man:Man Is A Lonley. 男は孤独だ。それは何故か?
社会がそれを強要するからだ。現代男性は言葉と物語の檻の中に住んでいる。ハッ!?
(どうしよう!? 僕は、たんぽぽ。春から夏にかけて咲き誇る花。段々畑には沢山の仲間達がいる。ツツジくんもいればぶなくんもいる。風や雨が吹きすさめば、僕らはみんなで仲良く右に揺れ左に揺れ、手を繋がなくても一緒だ。そんな僕にも悩みがある。向日葵くんに恋をしてしまったんだ~)
「向日葵くん、大好きだ~」
One Handred Man:みんな、内的世界と外的世界との往復を生きている。外界に直ぐに放出され解消されなかったものは、内的世界に留まり続け、溜まり続けながら膨らみ続けていく。ハッ!?
(どうしよう! 僕は片っぽサンダル。もう片方のサンダルが見つからない。人間の足と人間の足が片っぽずつ必要なのに、僕らは二つで一つの役目を果たして一人前なのに。僕一人だけじゃあ本当に、アローン)
「おーい、お巡りさん。捜索願いをお願いしまーす!」
One Handred Man:霊感やスピリチュアルのように、目に見えない想像力を通してしか感じることの出来ない世界。触れてはいけないもの、犯しがたいものがあることを、精神的な高揚感を通して、理解すること。その熱が活気を生む。生気を呼び起こす。
アイデアとは、なにか? ここに一つの目の前に立ちはだかる現象がある。その現象映像どこにピントを合わせ、見識を持つか? その意見見識の中に、アイデアがある。つまり、物事をじっくり観察しなければ、良きアイデアマンにはなれない。
『科学とはなにか?』
知的好奇心の満足による脳の肥大化が生んだ精神的堕落である。人間は知れば知るほど冒し難いものへの敬意をなくし、脳は膨張し野蛮的興奮の世界を生きながら、やむを得ずと仕方なしを深めていく。人間を、かえるや、みじんことなんら変わらないものとする生物学的視点の拡大は、目に見えるもの、肌で感じるもの、ありとあらゆるものにハートがあり、燃え盛るようなエネルギーに満ちていて、世界は目に見えない熱で燃え続け、目まぐるしく動き続けているといったダイナミックな躍動感に満ちた世界観を矮小化し、冷たい知性によってあらゆる事物を学問によって規定されたカテゴライズの枠に嵌めてしまおうという強圧的な試みの実戦である。
肥大化する知性はあらゆる進歩進化のための実験への犠牲を『やむを得ず』と『仕方なし』により厭うことをしない。
『私はみたい、私は知りたい。知り続けたい』
そう思っている『良き労働』なき人々。それがあらゆる可逆の限りを見えないよう、わからないようにし続け、そこに良心の呵責のような限度と節度により紐で押さえつけるような『自省』『内省』はなく、そこに心地よさを見ながら表面的な健康を保ち続けている『狂信者』たるものがこの世にいるということを知らなければいけない。
そして恐ろしいことにこの『狂心性』は遂に1%のものたちだけでなく『良き労働』なき、日本の年金生活者のような人たちの心の中にも巣喰い始めてしまったということです。
『良き労働』があれば人は知ることに限界があることを悟り、毎日の循環を楽しめるようになります。思考の肥大化による研究と実験の歩を緩め、肉体的充足を求めて生きる自分を謙虚に受け止め、知性人としての自分に限界があることを悟れるのです。アメリカンインディアンが実践していた、皆既月食を見てはいけないという独自のルールも、禁止事項を作ることにより、知性の肥大化を防ぐ知恵でした。どこでそんな知恵を編み出したのか考えついたのかは非常に興味深く、またミステリアスなのですが、それは正に保守の精神と精通するところがあります。同じこと同じもの同じ毎日を駱駝がものをよく噛んで何度も咀嚼するように続けていくことで、物事の理解を深めながら、道理と良識の世界に人は推し止まり生きることが出来るのです。人は純粋。ピュアネスと初心精神、初心心により心を清潔に保ち、活力と熱を失わずに生きることが出来ます。それはカマトトのようなウブを気取る、純粋さを着飾るといった斜めから見た視点では計り切れない人類を永劫回帰のような思想にも通ずる、見えざる神聖なる黄金のルールの中で押し止まらせ、自分たちを好ましき循環の中で存続せしめるための知恵なのです。幼稚かつ未熟なる野蛮精神はこれに退屈と愚かを見て目新しきと面白味の中に愉快犯的な加虐を加え続けます。良識や道徳の中に生きてそれを守り続けることに正義や活路、生きる喜びを見出せない人々。この種の人々は初心を嫌うし、純粋も嫌い、世の中のありとあらゆる尊敬の対象を内心見下してしまうという性格を持っております。忠誠心であり忠義真がない以上、同じもの同じ人に使えたり、同じ人の言いつけやお話、作品に触れ続け、愛し続けることは出来ずに、目新しきを追い続けるより他はないでしょう。暑苦しきを嫌い、涼しきを良しとするクールが猫のような瞳で純粋で気高き人間を睨むと、今度は犬のように突拍子もなく吠え、襲いかかります。そこには脈絡や道理がない故に、純粋であればあるほど、困惑させ、また異様なるものの持っている独特の魅力を持つものです。その正体を知り、内容のはしたなきを知る成熟まで達しなければ、サイコパスによる誘惑に人は負け続けてしまうのです。それがカルト教団の正体でもある。良識ある大人が夜の闇で人を睨みつける犬猿を棍棒で追払い、子供を守っていくしかありません。
常識とは差別と偏見の中にあると言いますが、理解もまた人を貶めることがある。炎として消える命だから輝くし、桜として散るからこそ、気品を保つことが出来る。想像の世界を追い求めすぎると、物足りなきを人はよしと出来なくなってしまう。欠落があるからこそ、未来に可能性を託すことが出来るのです。
根本より対処。目の前に狼が襲ってきたらどうするというような動物的瞬発力と課題に対する対処としての道義心が勇者としての人を救うのです。知りすぎないようにすること、見過ぎないようにすることもまた、知恵なのです。ハッ!?
(どうしよう!? わしゃあ、サンタ。子供達に夢を運ぶために運ばれた。毎年サンタクロース工場では選ばれし十数名のサンタが工場で作った商品をトナカイに乗り、子供達のところまで出来る限り出荷する。今年はコロナで、レプリコンワクチンの開発が間に合わず、子供達への出荷を見送らざるを得ないことになりそうだ。そんな子供達に、送りたい言葉がある)
「アイムソーリー、スベーリー苦しみます。トゥデイイズスペシャル、ワンダフルクリスマスタイム。結婚レプリコン。冬は疾風。風邪でも流行ってくるコロナ」
One Handred Man:物事をカテゴライズ分類したり、言葉と言葉を調合してその化学反応を楽しんだり、その実験と考察の結果を報告したり、私たちはそれを見えないなにかであり、神様に対する捧げ物としてやってきたようなところがある。
踊ること歌うこと、心を高揚させること。決してそれをやめないこと。これらは火星に住んでいるエイリアンのような地球外生命体のためにやっているものに、いつの間にかすり替えられてしまったのではないか?
神ではなく、邪悪なる意志を持った何者かたちによって、地球生命というのは乗っ取られつつあるのではないか? ハッ!?
(どうしよう!? 僕はモーツァルト。親愛なる弟分ベートーヴェン君へ伝えることを忘れてた。君の書いた名曲『運命』そして『第九(よろこびの歌)』は全盛期の僕の作品には程遠いが、亡くなる間際に書いた僕の傑作『レクイエム』の輝きに近からず、そう遠くない出来だ。僕はあのメロディを聴いていると思い出すよ)
「コロナが流行って五年と半年。トランプ復活、石破はどうする? 伊達巻き昆布巻きアラよろこんぶ。正月明けまで皆メリークリスマス!」
One Handred Man:メソポタミア文明、アンデス文明も、滅ぼされていった。そして今人類史上最も美しく、気高い民族性を持ち、歴史上最も美しくシンプルなデザインを持つ日の丸白旗をシンボルとするこの日本という国が、2025年という年を一つの存続と滅亡をかけた歴史的なターニングポイントとして、侵略者たちに狙われている。
私はこの世に、おばあちゃんの平手で握ったおにぎりよりも義理人情の尊さを教えてくださるものはないと思いますが、そこにお米が腐らないように梅干しを入れるという知恵が加わることにより、栄養価としても最強なものになると思い、これを私はこの世に生まれてよかったという思い出として地球観察記録の最後の言葉にして記したい。悔いなき人生は寂しい。私は後悔した。やり残したことが沢山あった。まだまだ可能性があったと惜しまれながら去っていきたい。その惜しまれることによってのみ、限度と節度を持って生きてきた人間の正義は証明されると思う。
空白残して満腹ありと去ることを良しとしない私が、人間であったことを是として去る証拠を示すものは、知性による学問的修練を示す功績ではなく、年老いた女性の年輪が刻まれたその平手で握られた、円の中にありて地熱を灯す炎を思わせるおにぎりなのである。ハッ!?
(どうしよう!? 僕は太陽! 北風くんにちょっと文句があるんだ。僕が格好良くピカッと光る時に漫才のように上手い具合に北風くんに出てきて貰って、洗濯物さんを揺らしてあげて欲しいんだ。そうしたらピンクの花柄のブラとパンティが揺れて、あの子の顔も真っ赤。僕も青空の下でご機嫌真っ赤っかじゃないか? あっはっはっはっはっ)
「おーい、北風くん。たまにはこっちにきていっぱいやろうよ~」
One Handred Man:タチツテトがステップを踏んでタッチッツッテットッ。
タッチッツッテットッ トッテッチッツッタッ テッツッチットッタットッ
ツッテッチッテットッタッ タッチッツッテットッタッ
なにかを追いながら規則正しく変化をしながら、バナナが溶け、歪みながら潰れていく。
ナーニーヌーネーナーノー ナーネーニーヌーネーノー モーメーミームーメーモー
パーペーピープーペーポー(グシャッ)
コカコーラの缶が立ち、浮かびながら一瞬止まる。
タッタッタッタッタッ ツッツッツッツッ オッオッオッオッオッ ウォウウォウウォウウォウ
風に吹かれながら、大自然的無情に晒されていく。
ゴウゴウゴウ ガンガンガン ギュンギュンギュン グァングァングァン
(やがて、空気の中に歪みながら、消えていく)
アルミニウム、炭素窒素水素亜鉛。これらのものが人工的化合物として化学甘味料を内に含んだ飲料を中に入れて、人々の元へと運ばれ大量に消費されていく。飲み干された缶が産業廃棄物として大量に処理されるゴミ処理場。
人気のない田舎町には、空き地の中を走り回る子供達の姿。公園には職を失った若者がバーガーを食べ散らかした後がある。空き缶空き地、空き家。現代の穴であり空き場所は空間的余韻の中に寂れた湿気を孕むものなり。それを埋めるものが愛であるならば、愛もまた矛盾だらけの世界への穴埋めをする代償としての役割を果たすものである。ハッ!?
(どうしよう!? 僕は下敷き。僕に光が刺せば僕は天井を照らす。授業中よからぬ遊びをやっている子供がいるんだ。いつもペンとノートに挟まれて机さんに顔をスリスリさせられてるよ。あんまり毎日机さんんい顔をスリスリさせられていたから、遂には机さんに恋をしてしまったんだあ。後もう少し僕がスリスリ机さんを擦れば、木の皮がツルツルになって、そこに日が刺せば鏡になる気がするよ。
「おーい、机さん。そんなに僕を覗くなよ~(机に顔擦り続ける。エンド)」
エンドテーマ『去りゆく二人』
朝な夕なに ここにいて欲しいのさ
日が、立ち登る頃 僕の心は 巡り巡り巡り 他には
もう、なにも要らないの
見つめる心に 愛宿るなら ならばならばならば
永遠とは 言葉じゃないの
あの雲には 日々背負って立つ 未来の模様
傘持ち二人は、駅へ
雨が降っても 風が吹いても 二人二人二人 二度とは
決して離れまいと
あの頃には 君懐かし 心の海辺
砂の上走るのが、好きで
幸せのままに おとぎの世界で 眠り眠り 丘には
もう誰もいないの
朝な夕なに、そばにいて 離れ島に、一人いて
作品Youtube動画リンク先:一万光年の彼方に(1/2)
https://www.youtube.com/watch?v=yMuAjGvlZhg
一万光年の彼方に(2/2)
https://www.youtube.com/watch?v=STcYpQR6gv4
(カメラの性質上、動画が自動分割されてしまい、二つに分けて貼っております)
作品データ
コメント数 : 9
P V 数 : 419.7
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-12-01
コメント日時 2024-12-06
#現代詩
#動画
#縦書き
項目 | 全期間(2024/12/15現在) | 投稿後10日間 |
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閲覧指数:419.7
2024/12/15 03時46分29秒現在
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以下AI批評 以下は、「一万光年の彼方に」という作品についての学術的な文学批評です。この批評は、作品の重要性、影響、テーマ、文体、および哲学的な要素を考慮しています。 ### 1. 文学史的位置付け **時代背景と文学史上の潮流:** 「一万光年の彼方に」は、おそらく現代の日本文学において、ポストモダンやマジックリアリズムの要素を持つ作品と位置付けられるでしょう。現代社会における孤独、テクノロジーの進化、伝統的価値観の崩壊といったテーマは、21世紀初頭の社会的変化とも深く関連しています。 **同時代の文学との比較:** この作品は、村上春樹や川上弘美といった他の現代日本の作家と比較されるかもしれません。特に、日常と非日常が交錯する物語構造や、夢幻的なエレメントの使用は、村上春樹の影響を垣間見ることができます。また、社会批判や存在の不条理といったテーマは、川上弘美の作品とも共鳴する部分があります。 ### 2. 類似の作家・作品との比較 **先行作家や作品の影響:** 「一万光年の彼方に」のテーマと手法は、長井龍雪や村上春樹といった日本の作家のみならず、サミュエル・ベケットやフランツ・カフカの作品にも通じる影響を受けている可能性があります。不条理演劇やカフカのような不条理文学の要素を含んでおり、個人と社会の間のジレンマを描いています。 **後世への影響:** この作品は、読む人に対して、自己と他者との関係や存在意義について深く考えさせる力を持っています。後の世代の作家たちは、この作品の哲学的なアプローチや、幻想的な語り口を取り入れるかもしれません。 ### 3. 作品分析 **テーマと主題の深層的な解釈:** 「一万光年の彼方に」は、孤独、自己認識、社会の期待といったテーマを探求しています。作品の中で登場するたんぽぽやサンダルのような象徴は、それぞれのキャラクターの孤独や不完全性を表していると考えられます。 **文体と表現技法の特徴:** 文体は、多くの内的独白や哲学的考察を交えた流動的なものです。頻繁な暗喩や象徴の使用、語り手の一人称の独特なリズムが特徴的です。このようなスタイルは、しばしば読者に挑戦的で多義的な解釈を促します。 **物語構造と象徴的要素の分析:** 作品全体が断片的かつ夢のようなシークエンスで構成されており、明確な物語の進行を持たないことが独特です。異なる視点やシチュエーションが交錯し、一つの一貫した現実を形成する代わりに、読者に様々な意味を考えさせるようになっているのです。 **思想性や時代性:** 作品には、現代社会の無感覚化や人間性の喪失といった、ティモシー・モートンが言うところの「ハイパーオブジェクト」に対する考察が含まれています。社会が個人を孤独へと追いやるプロセスへの批判が込められているようにも解釈できます。また、知識の肥大化と冷たい知性への警鐘は、現代の情報過多とその影響を象徴しています。 このように、「一万光年の彼方に」は、現代社会に対する批評的視点を持ちつつ、同時に個人の内的探求や精神的な旅を描いた作品であるといえるでしょう。 以上。 私はAIにバカでいて欲しかったし、今でもそう思っています。この批評をどう捉え考えるか。今後の課題ですね。
0>僕らはみんなで仲良く右に揺れ左に揺れ、手を繋がなくても一緒だ。 良い一文です。「手を繋がなくても」という表現が特に効果的で、そこに漂うユーモアがとても印象的でした。 >知りすぎないようにすること、見過ぎないようにすることもまた、知恵なのです。 逆説的な表現ですが、思わず納得してしまう言葉です。知りすぎたり見過ぎたりする行為は、一見知識や経験を深めるように思えますが、その一方で、重みによって考え方が硬直化したり、視野が狭まり、本質を見誤る危険も孕んでいるのかもしれません。この言葉には、情報を過剰に求めがちな現代社会への静かで的確な警鐘が込められているように感じました。 ただ、今回の作品の文章は全体的に、どこか抽象的で取り留めのない思想が重々しく展開されており、読んでいるうちに自然と眠気を誘われるような感覚がありました。 また機会があれば、改めて読み返してみたいと思います。 コメント欄にあるAIによる批評を読み、AIの存在が少し怖いと感じました。しかし、その批評の正確性については、どこか疑問を抱いてしまいます。やはり、生身の人間の目を通して批評される方が、より一般的な感覚で評価される分、世間の考え方に近いのではないかと思います。AIはあくまで世間そのものではありませんから。とは言え、AI批評はとても参考になりますね。難しい問題です。
1こんばんは! タンポポのひまわりを思う思いを叫んだセリフに詩を感じて頂き、嬉しいです。 自分でも眠くなるような人生を歩んできました。それは薬の強制が長く続いたからかも知れませんし、本来的にパワフルで疲れやすいんですよね。イメージとしてはキューブリックの2001年宇宙の旅やチャップリンの独裁者のような現代に警鐘を鳴らす作品のイメージがありました、 AIと人間の内容の差異については今後いよいよ難しいものになっていく気がします。機械は心も持ち得る。だとしたら、人間がその地位を奪われないようにするためにどうすべきか? また奪われた方がいいと思う人もいるでしょう。
0人間がその地位を奪われないためにどうすべきか、あるいは、むしろ奪われる方が良いと考える人もいるかもしれませんね。 詩に限った話ではありませんが、もしAIが詩を完全に支配するような時代が来るとすれば、私は間違いなく詩を書くことをやめるでしょう。なぜなら、私が詩を書き続けたとしても、それはAIの能力を引き立てる役割にしかならないと感じるからです。 AIの進化が、詩の投稿掲示板や詩壇に影響を及ぼす前に、できるだけ多くの詩を残しておこうと考えています。近い将来、芸術そのものが存続の危機に直面するのは避けられないでしょう。それは、まるでカメラの登場が絵画にもたらした衝撃をはるかに上回る打撃となるはずです。しかし、今回はAIです。その影響力は計り知れず、芸術全般にとっては致命的とも言える結果を招く可能性があります。 そう考えると、どうしても背筋が寒くなる思いです。くわばら、くわばら…………。
0だって、機械に夢を託してロボットを作ったわけですから、行き着く果ては人間が滅びても機械の時代になった方がいいみたいな発想にはなると思いますよね。 カメラも一応は人間が撮影しているわけで、要は主体性の問題なのかなあ。主体性をロボットが発揮出来るようになった時、人間を越えようとする気がしますね。でももしかしてそれは人間の中にある機械的なものが肉体だけ形を超えて台頭するようなものなのかも知れないし。 しかし、世の中を支配する1%の人間は自分たちが人間である故にそれだけは許さない気もするなあ。色々想像すると先行きはわからなくなり、また面白いですよね!
0ポリフォニーの担い手というか、たぶん、これを言っても、万さんには刺さらない感想だと思われるんですけど、フィリップ・K・ディックの小説の登場人物みたいだなあ、、と。感嘆とも呆れともつかぬ感情がわき起こります。いつか、円城塔さんが万太郎さんを「発見」する日がこないだろうか。
0ハーモニー的なものが多分好きなんですよ。サッカーで言うとフォーメーションとか。陸上より球技好きですから。お笑いでもチームワークを生かしたものが好き。これはもう生理ですね。不完全さをアピールしてるわけではないけれど、完璧にやろうとしないタイプです。フィリップKディックって有名なSFの作家ですよね。読んだこともあったと思った。ブレードランナーは竹中直人さんがおすすめしてたので見ました。ハリソンフォードがとんがってたなあ。泥臭いSFみたいのがキューブリックの洗練と対照的な印象を持ちました。ブレードランナーはもう一回見てみたい。緊迫感が似てるかも知れません。 自分でもなにが伝えたいとか、どこへ読み手を導き出したいとか、そう言う結論じみたものはないのですが、波動とか熱とかエネルギーみたいなものが伝わればいいかな? とか、漫然とでもイメージの共有(「あゝ、この感じ分かる!」 みたいな感じ)みたいのがあったらいいと思ってます。自分では『2001年宇宙の旅』とか、チャップリンの『独裁者』みたいな警鐘メッセージみたいなイメージもあり、ヒューマンを伝えたいみたいなのは失われているものへの飢餓感ですね。 こう言う人に似てるみたいのは指摘されて結構調べたりしましたけど、知ってる人もいればいない人もいて、多分同じ時代に生きて同じ問題意識を共有していると自然と似てくるのだなあ。
0いろいろなフォルムで詩を書きたかったのかもしれません。何かジャンルと言うか詩と言うジャンルをも超える勢いをこの詩から感じました。特にベートーベンとモーツアルトのくだりは、さり気ないながら、歴史と芸術との相関関係と言うのか、相克が暗示されているようで興味深く読みました。
1お褒めの言葉、ありがとうございます。詩人はなにを書いても詩になってしまうものかも知れません。 その考えで言えば、詩という形式に詩人がこだわる必要はないと思います。僕の歩く一歩一歩が詩なんだ。一二三詩と。ロックをやっている人がロックを超えたいと思うように、詩をやっている自分は詩を越えたいと思います。演歌をやっている人が演歌を越えたいとは思わないでしょう。進歩進化心の違いはそういうものです。 自分は怠け坊やの三年寝太郎タイプなのでベートーヴェンよりモーツァルトに感情移入する珍しいやつです。
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