批評:そもそもBE-REVIEWは始まってたんですか? - B-REVIEW
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批評対象
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批評:そもそもBE-REVIEWは始まってたんですか?    

<批評対象作品>
B-REViEWは終わった


初めに、評者は本作品の批評を行うにおいて次の点を明確にしておきたい。それは、「批評とは何か」ということだ。 批評、という言葉を辞書で調べると、それは [名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。「論文を批評する」「印象批評」 goo国語辞書より とある。また、「批評」を英語に訳すと「critic」であり、「value(評価)」や「judge(判断)」とは異なることに留意しなければならない。そして「批評家(critic)」には「批判する人,いつもあら捜しをする人(webrio和英英和辞書より)」という意味が含まれていることも見逃してはならないだろう。「critic」における「批判する人,いつもあら捜しをする人」という意味は、当然のことながら皮肉であって、そうでなければならない、ということではない。 ただ、このサイトにおいて「批評」とされているものの多くは「あら捜し」でしかない、とも評者は感じている。そのため評者は作品を投稿する際の「酷評OK」は「どうぞあら捜ししてください」と同じ意味だと考えている。なのでこのテキストにも「酷評OK」タグは付けない。そんなくだらないことに付き合う気はない。 しかし、批評家もまた一読者である以上、作品に対して否定的な評価をくだしたくなることもある。その場合における最も効果的で、かつ恐らく最も正しい批評は「無視」だ。評者はその意味でこのサイトの多くの作品に対して「無視」という「酷評」を下しているし、また、評者の作品もそのような「酷評」にさらされているのだろう。 評者は最初、これから述べる本作品についても同じく「無視」という「酷評」をくだすつもりだった。その理由は、本作品におけるコメント欄でも指摘があったように、本作品が「内輪向け」のものであると感じたからだ。 だが、作者はそうではないと言う。ならば、その言葉を信じてみよう。 評者はこのサイトに参加してまだ一月経つか経たないかである。このサイトの歴史的経緯など知らない。正直、興味も関心もない。本作品が内輪向けの作品でないのであれば、そのような人間による本作品に対する批評が可能だろう。 よって、お前の批評は的外れだ、なぜならお前はこのサイトについてよく知らないから、という批判を評者は受け付けない。 加えて、評者はこのサイトに何も愛着を感じていない。いつでもここから立ち去るつもりでいる。「 BE-REViEW」が厳密な意味で≠「BE-REVIEW」であろうとなかろうとどうでもいい。「終わった」とタイトルにあるが「そもそも(BE-REViEW=BE-REVIEWであるならば)始まってたんですか?」というのが評者の本心である。 「BE-REVIEW」という固有名詞に「一般的な」価値はない。また、この世界のほとんど全ての人にとって「特別な」価値もない。「終わった」とか「終わってない」とか以前の問題である。 評者は今だにこの「BE-REVIEW」というサイトがなんなのかよく分からない。かつての「BE-REVIEW」についても知らないし、興味もない。評者はただ「詩と批評のフォーマット」というこのサイトのキャッチフレーズを(愚かにも)鵜呑みにしてうっかり参加してしまっだけの者だ。少し後悔してるくらいだ。 そもそも、あらかじめこのようなことを述べなければならない時点で、実際には作者による「この作品は内輪向けではない」という反論は矛盾している。評者がこのサイトをどう思っているのか、なぜ、どういったつもりでこのサイトに作品を投稿しているのかということもまた、多くの人にとってはどうでもいいことだろうから。 とは言うものの、評者はこの作品が作者にとって「BE-REVIEW」という特別な対象を描いていることを批判しているわけではない。小林秀雄が述べているように、あらゆる芸術家は普遍的な対象ではなく個別の対象を狙って創作するものだからだ。芸術とはそういうものだ。しかし、その作品を敢えて個別性から引き離し、普遍性の舞台に晒し出すのが批評だ。 よって、先に結論を述べるならば、本論の趣旨は別に本作品の批判でもなければ「BE-REVIEW」批判でもない。本作品が描こうとしている「終わってしまったBE-REViEW(という暗喩によって語られているBE-REVIEW)とは何か」を「BE-REVIEW」という文脈の外からつかみ取ろうとする試みである。 さて、ようやく本題に入ろう。冒頭、この作品はタイトルを象徴するような「詩」で始まる。 「B-REViEWは終わった そこに人間関係は生まれず 人は 自らをあたたかく 迎え入れて くれる新たなコミュニティを探して 旅立つのでした」 まず、この「詩」が示していることは、この作品が「ポストB-REViEW」について語っているということだ。かつてB-REViEWという名の「コミュニティ」が存在した、と。しかしそこはコミュニティであるにもかかわらず人間関係が生まれなかったために「終わっ」てしまった。つまりB-REViEWとは「コミュニティ」であった。 そして物語が始まる。登場人物は語り手である濱埜と、彼がコンタクトを取るユウだ。 この物語から明らかになることは、冒頭の「詩」は濱埜が出会い系アプリに投稿したものだ、ということ。つまり濱埜はかつてB-REViEWというコミュニティに所属していたが、そこが終わってしまったので現在は別の出会い系アプリを自らのコミュニティとして所属しているのだ。 そして、B-REViEWという場は冒頭のような「詩」を投稿することが許される、あるいは歓迎されるような場だった。しかし、今彼が所属している出会い系アプリはそうではない。だから彼は敢えてその場に冒頭の「詩」を投稿したのだし、それに反応したユウとコンタクトを取りたいと思ったのだ。 ということは、濱埜にとって「詩」とは「真実」であり「実像」なのだろう。それに対して出会い系アプリに投稿するようなことは、彼にとって「虚像」でしかない。そうでなければ、出会い系アプリに「詩」を投稿する理由がなくなってしまう。 「詩」が「実像」であって「虚像」ではないのか、また、このことから飛躍して「実像」を描いたものこそが「詩」であり、そうでないものは「詩」となりえないものなのか、ということは議論を擁する問題だと評者は思う。とりあえず、少なくともこの作品の語り手である濱埜はそう思っているようだ。 そうして濱埜とユウは実際に会うことになる。普通に考えるなら、そのことによって二人は互いに互いの「実像」を見せ合うことになるはずだ。リアルとは、そういうことだろう。 しかし、濱埜はその会話の中で自分を偽っているという感覚を覚える。また、ユウが彼を「健吾」と呼んでいることから、濱埜が出会い系アプリで健吾というハンドルネームを使用していることも明らかとなる。 つまり、二人が出会うことで現れた「実像」そのものが、実際は「虚像」に塗れたものでしかないのだ。 そして濱埜はユウに自分の別の「詩」を見せる。それはこんな「詩」だ。 「 しっかり読んでくれている。   でもしっかり読んでいない。   一つ一つ噛み砕こうとする。   でも諦めて飲み込んじゃう。」 この「詩」はまるで現在の濱埜の気持ちを表現したもののようだが、実際にはそうではなく、濱埜はBE-REViEWの画面をユウに見せているのである。そして濱埜はユウに「もう投稿はしていないんだ」と言う。 ということは、実は作品のこの時点においてBE-REViEWはまだ「終わっていない」のだ。終わった、というのはあくまでも濱埜の主観的世界の中だけのことだ。そのことを客観的な、現実的な事象として語るなら、BE-REViEWは「終わった」のではなく、中の雰囲気が何らかの理由によって変わってしまったのだ。 この「詩」を読んで、ユウは「コメントがたくさん付いている」と好意的な意見を述べる。そうして次の「詩」のような連につながる。 「あぁ嫌だな。  どうして初回から  牽制し合ってるんだか。  もう詩を書くのはやめて、  純粋な所から出会い系したいのに。」 ここで気になるのは、ここまで提示した「詩」はそれぞれ文章の最初に何マス空けるのかが異なっている、ということだ。 つまり、この作品において「詩」の形態をしたパートはそれぞれ発表した「場」がことなるのだ。 最初のマス空きがない詩は出会い系アプリに、二つ目の二マス空きの詩はBE-REViEWに発表した詩である。では、三番目の一マス空きの詩はどうか。 これは、どこにも発表されていない濱埜の心情である。 ということは、その次の詩 「詩が流れていく けんけんとかたぶいて 礎を心を惑わせず」 や 「気がつけば 皇居はランナーでいっぱい 不文律のマナーと 緩やかなマナー違反の ないまぜを 泳ぐのが 速くてもキレイでも もう此処も少子化から逃れられなかった もう誰も生まれません。」 は出会い系アプリに発表した「詩」だ、ということになる。 さて、作品もいよいよクライマックスである。 ランニングをしている濱埜=健吾はユウと再会する。ユウは濱埜の「詩」の感想を告げたくて、濱埜をストーキングしていたと言う。 そうして濱埜はユウから容赦ない酷評を受ける。それはユウの「本音」であり、そうであるが故に「実像」なのだろう。 そのシーンを受けて次の「詩」が現れる。 「 そんなこと言われても、  夜風に   さらさらと  髪は  流れ   ていくだけ。 (以下省略)」 この詩は一マス空きと二マス空きが交互に繰り返されている。それはかつてBE-REViEWに発表した詩とこの瞬間の濱埜の心情がシンクロしていることを表しているのではないか。 そして濱埜は出会い系アプリに次のような詩を投稿する。 「後ろ姿の ケツが めっちゃ、美しく揺れる。」 さらに、次の詩もやはり出会い系アプリに投稿した詩である。 「B-REViEWは終わった 運営がいなくなり CGIボーイ という少年の 絶対領域へ迎え入れられ 言葉は皆 旅立つのでした」 これらは作者による意図的な読者のミスリードだ。実際にはこの作品の世界においてBE-REViEWなるコミュニティは終わっていない。 にもかかわらず、なぜこの作品では「BE-REViEWは終わった」という言葉が繰り返されるのか。それは、「BE-REViEWは終わった」というのが語り手の願いだからだろう。あの頃と変わってしまったBE-REViEWなんて終わってしまえばいいのに、という。BE-REViEWとは何か。それは、実像を求めて詩を書くことであり、それを分かってほしいと求めることだ。濱埜はそんな願いから逃げ出したいのだ。 しかし、この作品の最後では、やはりマス空きなしの「詩」と二マス空きの「詩」、つまりBE-REViEWに投稿した詩と出会い系アプリに投稿した詩が繰り返される。 ということは、濱埜は結局、「金輪際現れなく」なることも「西鉄の旅人に乗ってっ」たりすることもないのだ。彼はやはりBE-REViEWというコミュニティと出会い系アプリという二つのコミュニティに所属し、そこで虚像を演じたり演じられたり、本音をさらけ出したりさらけ出されたりしながら生きていくのだろう。 虚実入り混じってもはや自分自身ですら何が本当で何が嘘か分からない言葉を 「  しっかり読んでくれている。   でもしっかり読んでいない。」 と呟きながら。 さて、以上が評者による本作品の批評である。そして評者は読者に謝罪しなければならない。なぜなら、評者はこの評の中でこう述べた。 「作品を敢えて個別性から引き離し、普遍性の舞台に晒し出すのが批評だ。」 だが、ここまで読み進めた上で、正直なところ本作品に普遍性があるかどうかはよく分からない。批評ではなく評者の感想を述べるなら、「あんたが何をどう思おうがどうでもいい」である。この作品が語ろうとしたものが、作者以外の人にとって、あるいはBE-REVIEWのような詩の投稿サイトに参加していない人にとって、この作品に何か意味があるとは思えない。 そもそも「詩」が実像でそうでないものは虚像なのかどうかということ自体、それは既にこのサイトに参加するような「詩」や「文学」に興味がある人にとってのみ関心があることだ。 そしてここまで行ってきた解釈もまた、評者があらかじめぼんやりとであってもBE-REVIEWというものをイメージできるからこそできたことだ。 そういうわけで、本批評は失敗作である。批評の体をなしていない。この評もまた、この評がBE-REVIEWという場で読まれるということを前提としている点において「内輪向け」であり「甘え」ている。 しかし、それでもここにこうして発表するのは、この評で語ったことの中に、それはこの作品と直接は関係がないとしても、この作品から引き出された言葉の中に、批評というものが提示するべき普遍性がある、と評者が信じるからだ。 その意味では、この作品にもそういうものがあるだろう。そこを本評において明確に提示出来なかったのは、評者の力が及ばぬがためである。


作成日時 2019-05-19
コメント日時 2019-05-25

批評:そもそもBE-REVIEWは始まってたんですか? ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 14
P V 数 : 1581.7
お気に入り数: 0
投票数   : 0

批評:そもそもBE-REVIEWは始まってたんですか? コメントセクション

コメント数(13)
かるべまさひろ
(2019-05-19)

ありがとうございます。一読しただけなので、近日中に丁寧に返事を綴ろうと思います。 8割方 意識した読まれ方で驚いています。ひとえに嬉しいです。 批評として失敗という点はシステム上の罠の部分ですので、十二分に成功しているかとは思いました。 取り急ぎで失礼いたしましたが、ありがとうございます。

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stereotype2085
(2019-05-19)

ビーレビューに、もしくはその歴史に愛着も関心も興味もないという方に、何かコメントするのは気が引けるけれど、少し気になる点があったのでコメントを。ビーレビューはスタートしてまだ間もない歴史の浅いサイトです。大層含蓄のある方には物足りない部分もありましょう。だがしかし哀愁亭さんはまだ投稿作四作。投稿歴も浅い方。これまでのビーレビューの批評文、コメントを総じてご覧になられたとは思えない。その割にビーレビューの批評の多くは「あら捜し」でしかないと断じておられる。少し軽率なのではないと感じました。数多の詩人が合評に加わり、切磋琢磨し、腕を磨いてきた事実への想像力が欠如しているのではないかと。この点、論評中にその種の指摘は受け付けないとも書かれているので、頑なに拒まれるならそれも構いませんが。またこの詩の合評サイト、ある種のコミュニティに加わったことに後悔さえしているという。後悔して早々に立ち去るつもりならお引き留めはしませんが、長い間ビーレビューに投稿し、現在では運営を受け持っているという点から「ビーレビューがそもそも始まっていたのか?」と懐疑的な姿勢さえ取る哀愁亭さんに呼びかけたいです。では今からでも遅くない、ともに実りある論評活動をし充実した合評サイトを作ろうではないですか、と。そんなチープな呼びかけに応える義務もつもりもない、となればそれはそれでこの点も構いませんが。やや違和感を感じる考え方が散見出来たのでコメントさせていただきました。しかし「内輪受け」の作品を評論していきながら、この論評も「内輪受け」の域を脱していないと自己評価する文面自体は、興味深く拝見させていただきました。では。

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哀愁亭
(2019-05-19)

かるべまさひろさん、コメントありがとうございます。 言い訳ではありませんが、本論中でも述べたように、この評論は作品の批判でもこのサイトの批判でもありません。 そのことだけは御理解いただければと思います。 また、僕は批評は作者へのメッセージではないと思っています。批評が想定する読者は作者ではなく、自分以外の読者です。 もちろん、作品は当然作者様のものですから、意に添わぬ批評、見当違いで誤解される恐れのある批評があれば、作者としてそれに反論するのは当然の権利だと思います。 本論が少なくともそういうものではないことを心より願っています。

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哀愁亭
(2019-05-19)

stereotype2085さん、コメントありがとうございます。 数多の詩人が合評に加わり、切磋琢磨し、腕を磨いてきた事実への想像力が欠如しているのではないか というご批判は当然のことだと思います。古くからこのサイトに関わり、現在は運営にも関わっている、という方に不快な思いをさせてしまったのであれば、申し訳ありません。 ただ、それでは逆にお尋ねしますが、僕は多少言いすぎたかもしれませんが、本作品を批評するにおいて、このサイトに対してこれくらい突き放した態度をとらなくても可能であったとお考えでしょうか。 結果的には本論中でも述べたようにこの批評は内輪向けであることから抜け出せませんでしたが、評者としては少しでもそうならないようにしようという意思がありました。 なぜ僕がこの評論でわざわざ言わなくてもいいものをここまで言ったのか、ということも、想像していただければ幸いです。それは思慮に欠いたものだったかもしれませんが、必要なことでした。そしてそのことは、本作品が描こうとしたテーマとも関連するのではないでしょうか。 また、 実りある論評活動をし充実した合評サイトを作ろう ということについて、僕は異論ありません。そのつもりです。ご指摘の通り僕はまだ四作しか作品は投稿していませんが、批評は本論を含めて二作投稿していますし、割と積極的に他の方へのコメントもしているつもりです。少なくとも参加してからここまで、僕がこのサイトに積極的に関わろうとしていないとは僕には思えません。なぜそのような呼びかけをされるのか疑問です。

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stereotype2085
(2019-05-19)

それではお返事を。筆者様が、当合評サイトへ積極的に関わっていないという指摘を私は一つもしておりません。ただビーレビューの歴史に興味がない、何なら関わったことを後悔しているという筆者様へ、不満足なサイトならばより一層の献身と努力でサイトを充実したものにしてみませんか?と呼びかけるのは不自然でしょうか。私は不自然だと思いませんでした。確かに筆者様は批評文も二作投稿しておられるし、積極的でしょう。当サイトの至らぬところも目につくことでしょう。ですがそれゆえに不満と無関心を表明するよりも、変えていく志向をともに持つのも有意義ではないかと思った次第です。この辺り私自身も顧みて、という文言だったので言葉不足だったのなら失礼を。また突き放した態度を取らなければ、かるべ様の作品を批評出来なかったのではないかという問いに対しては、「あら捜し」する批評ばかりが目立つという指摘をしなくとも充分に可能であったと私自身は考えております。では。

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哀愁亭
(2019-05-19)

stereotype2085様 何を言ったか言わないかという言葉の厳密な意味についての話がしたいわけではありません。 また、僕の言葉遣いがstereotype2085様にとって不快であったということであれば、改めてその点について謝罪させていただきます。誠に申し訳ありませんでした。

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哀愁亭
(2019-05-19)

改めて、これを読んでくださった方全てに申し上げます。 本論は当該作品批判でもこのサイト批判でもありません。 「BE-REViEW」という言葉が、普通に考えれば「BE-REVIEW」を想起させるということを考えた場合、評者としてはどうしても「BE-REVIEW」そのものについて無関心で批判的であるかのような立場を取る必要がありました。そうしなければ、本論は結局「いやいや、作者さん、このサイトはいいところじゃないですか」という所に落ち着かざるを得ないと思ったからです。 言い方云々についてもっと他にやりようがあっただろうと言われれば、その通りかもしれません。それは僕の力足らずな所です。 ただ、そう言うのであれば僕はこう申し上げたい。 だったらあんたがやれよ と。 それはこの作品に関しても同じです。僕は本論においてこの作品がこのサイト批判であるかどうかには触れていません。 また、この作品の表現手法云々についても同じです。それに文句をつけるならお前がやれよ、と僕は思うからです。それが批評する者としての作者への最低限の礼儀であると僕は考えます。 本論の書き方、論理の構成、そういうものに不満があるのであれば、あなたがより優れたこの作品に関する批評を書けばよい。 また、このことはこのサイトについても同じです。 僕は本論中でこのサイトに無関心であるかのように書いていますが、当然のことながらそれが本心ではないというか、常日頃そう考えているわけでもありません。 そうであればわざわざこのような批評を投稿したりはしません。 僕はこのサイトがより活気のある場所になることを願っていますし、この評論もまた、それに資するものとなると僕は信じて書きました。 どうかそれだけは御理解ください。その上で僕のことを何と思っていただいても僕は構いませんので。

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花緒
(2019-05-23)

大変面白く拝読した。当該作への「読解文」としては、極めて分かりやすく、丁寧に書かれていると思う。 では、批評としてどうなのか、というと、 「作品を敢えて個別性から引き離し、普遍性の舞台に晒し出すのが批評だ。」 という評者の定義に従うなら、という前提条件つきでだが、批評として成立しているように思える。 上の定義における、<普遍性>が何を指しているかについて、明確なものが示されているわけではないが、評者の論を読むに、幅広く一般的に通用する文脈と語彙で表現する、といった意味で使われているように思料される。 私はかるべ氏の当該作においては、B-REVIEWワードを知らなくても、味読できるものと考えている。B-REViEWの代わりに<詩の投稿掲示板>という語で置き換えても、意は変わらないからだ。詩の投稿掲示板という語を使わずにB-REVIEWという語を使っても成立するのは、ここがB-REVIEWであるからだが、B-REVIEWでない場で当該作が投稿されていると仮定しても、その場合は、詩の投稿掲示板、に置換すれば、それで事足りる。 その意味においては、かるべ氏の当該作は、B-REVIEWについて語っているように見せて、それはあくまで読者の興味関心を惹くためのフックに過ぎず、実のところ、B-REVIEWについては殆ど語っていない、というか、確信犯的にそもそも違うことを語るつもりで綴られた作品のようにも思える。そう思う論拠は上に書いた通り、一般的な語で置き換えても、作品の意に殆ど差異が生じないからだ。

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花緒
(2019-05-23)

-REVIEWのことを書いているようで、実のところ違うことを書いている(あるいはそのように感受しうる)かるべ氏の作品に対して、評者は、B-REVIEWへの無関心を表明することで呼応しているように見える。かるべ氏の作品がそうであるように、この評文においても、B-REVIEWを<詩の投稿掲示板>に置き換えれば、誰でも読解可能だし、評文を辿れば、門外漢の人間にも、<詩の投稿掲示板>のことを指して語られていることくらいはわかる。その意味においては、本作は、一般的な文脈と語彙で説明することには一定の成功を収めているように感じられる。 ところで、ここまで私は、普遍性の舞台に晒しだすこと=一般的な文脈と語彙で説明すること、と敢えて雑駁な解釈のもとで書いているが、実際には、普遍性の舞台に晒しだすこと、はより多くの意味を含んでいるだろう。 例えば、なんらかの価値の体系を示し、その体系の中での位置付けを示す、ことも批評の役割であるはずだ。 体系的な枠組みとその中の位置付けを示すことによって、その枠組みの外の人間にも、伝達しうる<普遍性>を宿す評文を書くことが、本来、批評として要請されていたものの一つだろう。 しかしながら、現代詩や現代的な作品を位置付ける体系的枠組みなるものが、現在、可能なのか、という疑問がありうる。体系的枠組みを示すことが出来ないのであれば、批評は、一般的に通用する文脈と語彙で説明すること、以上のものにはなり得ない。 なぜこういうことをウダウダ書いているかというと、かるべ氏の当該作と通底しているテーマであるように感じるからだ。 他者と通じ合うためのコミュニティには、通じあうことを可能とする前提が必要になる。 その前提がもはや失われていることを知り、出会い系で即物的に人と繋がることを求める作中話者は、詩を見せ合うが、そして、 詩に対して、率直な感想を得るが、それが繋がりに開かれきらないのは、結局のところ、前提が失われているからだ。

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花緒
(2019-05-23)

本評文がもし批評として失敗している点があるとすれば、前提となる価値体系が示されていないからだが、その意味においても、 かるべ氏の作品と通底しているように見えて興味深い。哀愁亭氏の指摘する、そもそもB-REVIEWなど始まっているのか?は、詩の批評や、詩の通交ができる前提などそもそも存在していたのか?という指摘と読めるが、それ自体が、当該作の優れた読解になっているように感じる。 本作は評文として大変優れていると思う。本評文については、かるべ氏の作品と同様、B-REVIEWとは関係がないものとして語った方が、実りがあるのではないだろうか。

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哀愁亭
(2019-05-23)

花緒様、コメントありがとうございます。 僕は花緒様が以前このサイトに投稿された「ネット詩人の墓」を拝読しており、コメントはしていませんが強く印象に残っていました。そのような作品を書かれた詩人の方からコメントを頂いたことを感激しています。 コメントを拝読して思ったことをいくつか述べさせてください。 ご指摘された「前提」について、もしも僕の解釈が間違っていないなら、それは「失われている」のではないように思います。敢えてそれを言葉にするなら、それは僕たちが「詩や批評という言葉の力を信じている」ということです。なんて、あまりにも陳腐で安っぽい表現ですが。 その陳腐で安っぽい「前提」のために、その陳腐さや安っぽさをごまかすために、さらに多くの「前提」があると僕は思います。それが「芸術」だったり「詩」だったり「現代詩」だったり「ネット詩」だったり「BE-REVIEW」だったり「出会い系サイト」だったりする。どこかの場やコミュニティそのものというよりも、その場やコミュニティに言葉を投稿する理由として。 前提が「ない」というよりもむしろ、今生きている僕たちは「前提をそのまま直視できない」。前提を直視できないまま、前提の上にさらに前提を重ねる。「前提」を直視しないまま、それでも「詩」だとか「BE-REVIEW」というものに何かを「見て」いる。その結果、あらゆるものが乱立して相対的に無価値のように感じてしまっている。そんな気がします。 ただ、それでもそういった大元の「前提」まで辿り着くような「詩」や「批評」といったものがあり、それこそが「普遍性」であり、優れた「言葉」なのかもしれない。なんて、こんな表現もまた、あまりに陳腐ですが。 あと、僕がこの評で定義した批評について。「なんらかの価値の体系を示し、その体系の中での位置付けを示す、ことも批評の役割」 というのは、正しく仰る通りだと思います。それは、恐らく今の僕にはできないことだけれど、そういうスタンスで批評する人がいてほしい。そう強く願います。 恐らくその価値体系は僕にとっては「虚像」です。でも、その「虚像」は必要なものだと思うから。先の話に繋げるならば、あらゆるものが乱立して相対的に無価値(虚像)になってしまっているとしても、そうじゃないと言い続ける人が必要です。お前が言うな、という話ですが(汗 そして僕のスタンスがご指摘されたように「一般的に通用する文脈と語彙で説明すること、以上のものにはなり得ない」というのも、その通りです。付け加えるならば(多分このことは敢えて触れずにおいてくださったのだと思いますが)、僕のスタンスは論理的な必然として、知名度が高いことや人気があること、というような凡俗な価値付けの肯定につながります。そうなることを回避する術を今の僕は持ち得ません。そして恐らく、このサイトはそのようなことのためにある場所ではない。 本評、並びに当該作品を「B-REVIEWとは関係がないものとして語った方が、実りがある」と仰っているにもかかわらず、その部分にこだわったコメントとなっていたら申し訳ありません。 本評に真っ当なご批判(この「批判」は通俗的な意味ではなく、本来の意味での「批判」です)を頂いたこと、心より感謝いたします。ありがとうございました。

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かるべまさひろ
(2019-05-25)

「本作品が内輪向けの作品でないのであれば、そのような人間による本作品に対する批評が可能だろう」 「本論の趣旨は別に本作品の批判でもなければ「BE-REVIEW」批判でもない」 「冒頭の「詩」は濱埜が出会い系アプリに投稿したものだ」 ―――――――――― 今、「ポスト多様性」の真っ只中を生きています。 AIが自分に合ったものを選別してくれますが、 「自分」が行方不明だった「多様性の時代」を終えて、 ディープラーニングで計算され適した「自分」を提示してくれる時代です。 一つのエスノグラフィーがあって、 それは「詩と批評のインターネットサイトに参加する人とそこに生まれる何か」について社会学的な研究者の視点から、質的なアプローチと文章解釈のAIプログラムから全文章を定量的に分析するアプローチの両方の手法を織り交ぜて、構成されています。 (かるべは【学術的たる言葉・一般的に通用する文脈と語彙】を持っていない、失ってしまった、発見できなかった、言語体系が違う、学習能力が足りなかった、などの理由でこのような語りになってしまって、なるべくわかりやすい比喩と事実と思考の垂れ流しで語ります。それが僕にしか書けないもので僕なりの反応として、僕にしかできない「批評」に通じると「信じて」いるからです。論拠や根拠も示しているつもりですが、殊更研究が少なく、喫緊性が高く、そして僕がかるべでしかないため、アカデミックに平易に述べられていないことを釈明します。) 検索をかけてみました。 1ページ目のそれらから恣意的に選んでみました。 Google作(2019年5月25日10時作)「芸術 内輪」より『閉じつつ開く。開きつつ閉じる。新しいコミュニティのかたち | 水戸芸術館 高校生ウィーク』 http://hssw.arttowermito.or.jp/?page_id=3377 Google作(2019年5月25日10時作)「多様性 時代」より『朝井リョウさん「素晴らしき“多様性”時代の影にある地獄」|平成 -次代への道標|NHK NEWS WEB』 https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_07.html  「実像」と「虚像」という語で、詩・コミュニティ・アイデンティティについて丁寧に解釈された哀愁亭氏の投稿は、とても重要である。かつ、読みやすい点も評価したい。一読者としての私は、読解の章に関して違う読み(投稿詩は一つもないとも読める)もあると思うが、この差異は作品の構成上の機能であり、一筋の読解としてほぐれていることにも違いはない。  さて、私は当該投稿を「批評」と受け止めているが、「批評」の結びにて「批評」ではないと記されている。なるほど、解釈や構造の関係上「当該評」と呼ぶよりもあくまで「当該投稿」と呼ぶこととする。  当該投稿では、「作品から引き出された言葉」の中に「普遍性」があり、「明確」に「提示」することが、「作品を敢えて個別性から引き離し、普遍性の舞台に晒し出す」ことにつながり、「批評」と成すと説明されている。  「普遍性」とは何か、そして何が「普遍」的であるか、この2点を明らかにすること・明らかにできないこと・明らかにできなかったという事実が読者に託された。それは結果的に、非意図的に辿り着いた結びであると読解できるが、私はこの構造が根本的にエスノグラフィーだと考えている。  そして私が主張したいのは、この「エスノグラフィー的参加」自体が現在を生きる我々の「普遍」であり、今の「ポスト┣多様性┳ダイバーシティ┫」の時代を語る上で重大な視点であるということだ。そして、この視点は「自滅」を防ぐ「礎」であると考えている。 ―――――――――― 「「無視」という「酷評」」 「この世界のほとんど全ての人にとって「特別な」価値もない。」 「これは、どこにも発表されていない濱埜の心情である。」 ―――――――――― コンテンポラリー。同時代性。 詩に関して、医学的分類が可であるならば、 極めて長期的に、診断を下す必要があると思います。 体系的に述べることは「多様性の時代」において 僕のような発達の偏り・生きづらさの解釈において相当な役割でもありました。 これは、 「戦後」と指す時代を、東京オリンピックや高度経済成長の観点から語ること。 歴史の見方が多様化したこと。 ソーシャルワークは必要があって体系化されたけれど、 アセスメントは向き合い、評価し、予測すること。 インターネットの歴史というものは、 言語圏のみならず、各々、ガラパゴス化していました。 以前はCGIというシステムが「掲示板」の主流でしたし、 皇居ランナーもポストモダンの時代から漸増していきました。 ―――――――――― 「虚実入り混じってもはや自分自身ですら何が本当で何が嘘か分からない」 「BE-REVIEWという場で読まれるということを前提としている」 ――――――――――  私は、詩を読むということが、必ずしも批評的たれとは思わない。詩を書くことも、私に関しては必要があって書いているにしか過ぎず、批判的姿勢・アクチュアル主義でもない。だからといって批評は不要だとも思わない。「そもそも、あらかじめこのようなことを述べなければならない時点で、実際には」無視が酷評だとも思わない。「万人」という「虚実入り混じってもはや自分自身ですら何が本当で何が嘘か分からない」相手をもう想定もしていない。 それはとても、内輪的だとも思い、 果たしてこの矛盾のもとに、 「内輪」ではないと記したことを、 もう一度、噛み砕く。 しかし、「 そんなこと言われても、/ 夜風に/  さらさらと/ 髪は/ 流れ/  ていくだけ。」 なぜ、エスノグラフィー。 僕がやはり内輪でないと言うことになんら論理の矛盾を感じません。 哀愁亭氏の言葉に、 普遍性があります。 評の読者は、 「虚実入り混じってもはや自分自身ですら何が本当で何が嘘か分からない」という 自身の事実に晒し出され、 それでも 一筋の世界への解釈が 自身をまた支える「像」であることに気が付かされ、 B-REVIEWで今、読んでいることを、 俯瞰し、 自身の個別性と普遍性という指標を得ました。 これは、 僕が言う 「多様性」のあとの時代で生きる上で、 見失ってはいけない指標・視座です。  だから、僕は、哀愁亭さん  ありがとうございます。

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哀愁亭
(2019-05-25)

かるべまさひろ様 作者としていくつかの重要なご指摘、ありがとうございます。 投稿詩は一つもないとも読める というのは、確かにその通りだと思いました。そのような解釈で改めて本作品をもう一度味わってみたいと思います。 また、そのことも含めて「構造が根本的にエスノグラフィー」だということも、なるほどと思いました。 さらに、そう述べた上でコメントの最後に評者の説を受け止めた文章を入れてくださったこと、評者としてはこの上ない喜びです。 批評、あるいは解釈は、結局は窓から見た風景みたいなものだと思います。窓の外の風景は、ずっとずっと広い。 そして詩や、あるいはコミュニティも、窓であると同時に風景でもあると思います。多様性とはなんでもありなわけでもなんでもいいわけでもなく、どこまで行ってもこの向こうには更に風景があるかもしれない、ということを受け入れることのような気がします。 お話を伺えてよかったです。 ありがとうございました。

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