なにもかもが
かじょうだから
かくさんして
密度をうすめるための
みずが
すいすいとあつまる
ここは中間地点です
どちらかといえば
どちらでもなく
いまなら
どちらにでもいけます
チェーン店が立ち並び過ぎた
秋津駅と新秋津駅の間を歩く
無駄過ぎる五分間は
かの地と接続するために必要不可欠な時間で
秋津駅の推し獅子が
こっそり入れ替わってしまったことなど
通勤・通学者の目には留まらない
接続に必要のない情報を
とどけにきました
はかいしたこと、ありませんか
あ、ありますね。寝ている間に、夢の中で誰かと闘っていることがあって。殴ろうとした、その瞬間に目が覚めて、壁を殴ってしまうことが一年に数回あります。一回だけ、壁を蹴ってしまったことがあって、壁に穴が開いたかもしれないと思ったら、足の爪が割れてしまって、元に戻るまで一年ぐらいかかりましたね。はかいした、というより、はかいされた、のかもしれません。
それは、ほんとうに、もとにもどったのでしょうか
何かを思い出すために
海に行く
何かを思い出したくないから
海に行かない
接続を拒む権利を
誰かに手渡したような
盛りの時代が到来して、早数年
かじょうは
かじょうに拍車をかけて
メイクオンメイク
それでも
人類は皆
メイドインマザー
の時代は
いつか
かこうされるのかもしれない
じゅんすいむあか、だねえ
いやいや、むく、だよ、むく
むくむくむくと
はじはかきすてて
どうけい
いやいや、しょうけい、だよ
いじょう、だね
え?
え? え?
生まれつきの耳の異常を誰かと共有できないけれど、言葉にするならば、常に、耳の中に水がつまっているような、プールに入った後のわずらわしさがずっと残っているような、だから、何回も、なんかいも、聞き返してしまって、ごめんね、ほんとうに、きこえにくくて、でも、いいかえれば、きちんと、ききとりたくてね、それでも、海には入りたいんだ、耳がもっときこえなくなってもね
海は
かじょうすぎない
波の動きと音と
その上にあるいくつかの動物と静物が
語りかけてくる
その声をきいていればいい
それすら煩わしければ
海に入って
かじょうを
けしさればいい
キメはダブルのギャルピースで、100枚ほどの自撮りに費やしたスタンプは約200個で、ズッ友から言われた「ヤバい」は500回を優に超えて、500円のカフェモカでは物足りないからオプションでつけたホイップとかチョコチップは1000円ぐらいで、こんな記号的過剰を書き出してみても、やっぱり、私もあなたも、メイドインマザーなのです、ここまでくるのに語り過ぎたね、誰も聞いちゃいないね、あとはもう、シンプルにさ、
ハイ、
ピース
作品データ
コメント数 : 9
P V 数 : 670.3
お気に入り数: 2
投票数 : 3
ポイント数 : 105
作成日時 2025-10-26
コメント日時 2025-11-09
#現代詩
#縦書き
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
| 叙情性 | 30 | 0 |
| 前衛性 | 10 | 0 |
| 可読性 | 5 | 0 |
| エンタメ | 10 | 0 |
| 技巧 | 20 | 0 |
| 音韻 | 10 | 0 |
| 構成 | 20 | 0 |
| 総合ポイント | 105 | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
| 叙情性 | 30 | 30 |
| 前衛性 | 10 | 10 |
| 可読性 | 5 | 5 |
| エンタメ | 10 | 10 |
| 技巧 | 20 | 20 |
| 音韻 | 10 | 10 |
| 構成 | 20 | 20 |
| 総合 | 105 | 105 |
閲覧指数:670.3
2025/12/05 19時55分48秒現在
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カッコいい作品ですね!作品として完全に成り立っており、修正すべき箇所が見当たりません。じつは、わたしも、足の爪を打ってしまい、剥がれました。高い技量と詩情の取り扱いが、美しい人々の行為を描き出して素晴らしいです。
0壁と爪のエピソードが印象的ですね、詩でも散文でもないような、乾いた文体と言うのでしょうか、語り掛けられているような気もするのですが、ポイントはずばり記号過剰にあるのかもしれません。海の純粋性ではないと思うのですが、海に入って過剰を消すみたいな企みは、意外と有効なのかもしれません。
0ありがとうございます。冗長的だったり、むしろ、描写が不足していたりと、見返すと弱い部分が見えてしまうのですが、他者からよく見られるのは嬉しいです。何かしらの経験を共有できたり、逆に、できなかったり、個的なことが人の心をどう動かすか、問い続けます。
1ありがとうございます。壁と爪のところは、自分にとってはよくあることだったりするのですが、そこが目を惹くポイントになっているのが面白いです。語りも過剰だったりしたかなと思ったりもしたのですが、文字通り、無心になれる場、というのが、海に限らずあるかもしれないと気がつかされました。例えば、運転中の車やお風呂の時、あれは、過剰を消してくれているような。
0様々な詩のスタイルが、使い分けられているようで、工夫が有ると思いました。「はかい」と平仮名で書く感性。最終連の写真、カメラのエピソードで締めくくられて居ます。
0まるで、言葉そのものが息をしている感じがしました。 いまの時代の「過剰さ」と、それに抗うような「素のままの身体」が交差していて、軽やかに読めるのに、読み進めるほど痛みが増してきます。 ひらがなのバランスが絶妙。 この詩ではそれが、「生の余白」として機能してるような気がしました。 特に冒頭の >なにもかもが >かじょうだから >かくさんして すべてが盛られる時代に、かくさん(水で薄める)という言葉選びがとても繊細です。拒絶ではなく、希釈というやさしい抵抗になっていますね。 >推し獅子 >とどけにきました もいいです。 過剰な情報の洪水の中で、接続に必要のない情報を届けるという矛盾のやさしさ。SNSの潮流へのアイロニーにも読めるし、他者への微弱なメッセージとしても機能しています。 あと、個人的にとても好きだったのが > え? え? >生まれつきの耳の異常を誰かと共有できないけれど ここで一気に、詩が外の現実と接続する。それまでの軽やかな韻律が一度破綻して、「聞こえにくい」という生理的な違和感を、世界全体のノイズと重ねています。 >耳の中の水 この水は、さっきの「かくさんして」の水と呼応してるようでもあります。 そして最後の >語り過ぎたね、誰も聞いちゃいないね、あとはもう、シンプルにさ、 >ハイ、 >ピース ここで、過剰な言葉の時代を見下ろしながら、「過剰の中の素朴」を肯定して終わる。「ピース」で締めるシンプルさこそ、この詩全体の清涼な呼吸のように感じました。 素晴らしい作品だと思います。
手を変え品を変え、その考えられた経緯には拍手を送りたい。 ひと言でここに書かれた趣旨を言い表せば、 こちらに書かれてあるとおり、 現代社会の溢れて余る過剰さにはうんざりです。 ってことになるのでしょう。が、 ここからちょっと批判的な見方になります。 わたしが古典現代を問わず詩を眺めるときには 何を一番に興味を持って読んでいるのか、 、ということを常に念頭に置いています。 時代の変化と共に詩で扱う言葉もスタイルも当然変化していきます。 変わらないのは、人間を前提とした喜怒哀楽という感情でしょうが、 これもAIの進化によって覚束ない時代に変化しています。 どなたかがナラティブな見方云々とおっしゃっていましたが、 わたしなどもナラティブな見方から離れられない。 詩によって描かれた背景にある思想世界観をどうしても重視してしまう。 なのでひと言で括られるような感想を持つ語り手による詩ならば、 だから、何が、どうしたいの、って不誠実な解答しか起きてこないのです。 偏見的な見方ですが、女性の書く詩にはこのような(至らなさ)が多い気もします。 もしもこの詩が自己的且つ矛盾に彩られたイマジネーションに溢れ、 壊滅的な状況に置かれてあるのならば、 先に上がっている作品の、~火球が降ってくる。というような、 前衛的ともなんとも言い難いわけのわからん作りになったでしょうね。 無論、わけのわからなさを批判的に見ているわけではありません。 前衛的な作品がわからないのは然るに、であって当然でしょう。 どちらにせよ、 詩に託している希望は未来で、皆さんも同じだと思う。 その意識が高くなればなるほど、未知の領域に興味は引かれるのです。 コメントにもあるように、 語り自体は工夫されて書かれてある。 そのことに敬意を持ちながら、長々と愚痴のように書き込んでしまったことを、心よりお詫び申し上げます。 すっかり日も暮れてきました。どうやら雨もあがってきた様子です。
0ありがとうございます。 ふと書いた時のことを思いだしたのが、ひらがなだと文字数が多くなり、漢字だと画数が多くなり、どちらが過剰なのだろうということも考えていたかもしれません。 一言でいってしまえば、今の世の中、やっぱり過剰だなあと。それは誰にとって、どの点が、とか、やはり考え始めるときりがないです。過剰さを語るために、自らも過剰になりたかった、ということもあるかもしれません。 「接続」という言葉は作品内で使っていて、あと、「外の現実」という言葉を用いてくださったのですが、そういう点はあまり意識していなかったというか、そういうところに着目されて読まれたのかと、新鮮でした。 今思うと、誰かと接続するための手段に、過剰、はやっぱりある気がしていて、その功罪を改めて考えたくなりました。
0ありがとうございます。 こういうお話を引き出せたというだけでも、この作品の意義はあったのかもしれないなあと。 >現代社会の溢れて余る過剰さにはうんざりです。 確かにそうではあります。ある意味で、その一言を詩にしてくれる方法が、この作品における語り≒過剰、つまり、現代社会の溢れて余る詩にはうんざりです、なんて、置き換えが、でき、ないですか、ね。 >偏見的な見方ですが、女性の書く詩にはこのような(至らなさ)が多い気もします。 というのは、私(作者)が、女性、である、と見たのでしょうか。それなら、万々歳です。 >詩に託している希望は未来で、皆さんも同じだと思う。 >その意識が高くなればなるほど、未知の領域に興味は引かれるのです。 というのは、なるほどなと思いました。今すぐ何かお返しする言葉はないですが、そういう考えは、ちょっとパクりたいですね。 過剰とも言える想いをぶつけていただいて、ありがとうございます。
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