何も柄のない、ベージュの天井を見ていた、
人差し指に、ふと、目を向けた、
ささくれ
が、できていた。
ある人は、これを何時か外傷だとするだろう。
ささくれ
が、
ある人は、これを僕の心理的な悲しみとするだろう。
ささくれ
が、
ある人は、自分にもそれが無いか、確認するだろう。
ささくれ
が、
ささくれ。
いつできたんだろう。
見ている時間に応じて、痛みが増してくる。
一分経って、また痛くなってきた。
また一分経ったら、そしてまた一分経ったら、
また痛くなるんだろうか。
一時間経ったら。二時間経ったら。
考えて、眼をめぐらせて、観察して。
いつのまにか、引っ張っていた。
ささくれ。が、長くなっていく。ぐんぐん伸びて、ぐんぐん伸びて、細く、長く、なっていく。短いときは、あまり細く見えないけど、長くなるとより細く見えるからだ。ささくれが、繊維になっていく。僕は蚕になり得る。蚕は、ささくれで繭を作って、新しい僕を作る。繭は、新しい僕を生んで、動く肉塊を生成していく。新しい僕も、悲しみを持っているだろうから、ささくれがある。ふわふわ紡績工場。それは、れんが造りであっても、石造りであっても、なんでもいい。悲しみがどんどん紡がれていって、一つの大きな銃になった。銃はひとびとを支配するだろう。新しいαは新しいβを作って、新しいβは銃を作る。
тот берег
紡績の糸は、波のように海を作るのだ。 それは、おそらく、de golpe、海のシニフィエ。波のような空間は、エントロピーは、増大していく。繭、繭、そこらじゅう。新しい僕は?ある人は、この海を見て、なにを言うだろうか。繭と銃に埋め尽くされた世界は、新しい魚群を作る。魚群探査機が必要だ。ふわふわ紡績工場。魚群探査機は無数に残る脳の蒼穹を照射する。その映画はアカデミー賞でも取るだろうか。
糸
糸 糸
糸
糸
あなたは、あなたであり、?
僕は、僕である、?
オレンジ色の摩耗と裏舌の中で、形成されたネットワークは、無数を抱擁する。
蚕になり得る指先は、触覚と紡がれていて、針が糸を通せなくなるとき、僕は胸のささくれを抑えつけられて、愛を愛として受け入れられるだろうか。
作品データ
コメント数 : 3
P V 数 : 992.5
お気に入り数: 1
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2025-05-12
コメント日時 2025-06-26
#現代詩
#縦書き
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
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| 可読性 | 0 | 0 |
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| 可読性 | 0 | 0 |
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閲覧指数:992.5
2025/12/05 16時10分10秒現在
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この詩には「痛み」という言葉は出てこないのだが。私がこの詩から感じたのは痛みである。ささくれ、それは自分の皮膚にできた、ごく小さな異物。日常に入り込んでくる微細な痛みであり、それを引き抜くことも、治るまで待つことも、自分の選択に委ねられている。だが、ただ眺めてしまえば、ささくれはやがて不安の種となり、繊維、悲しみ、銃、魚群、探査機、蒼穹へと形を変えていく。 それらが“糸”となり、運命の糸、僕の意図、あなたの意図がもつれあいながら、ささくれを蚕へと変容させていく。 「蚕になり得る指先は、触覚と紡がれていて~」という最後の一行は難しく、読みてそれぞれに解釈の余地を生む。私には「痛みを無理やり愛として丸め込もうとしている」ような、繭の中に閉じこもる姿に映ったが。 この詩は、感覚の触覚そのものが繭となって自己を包む、僕のささくれの記録であり、日常の些細な痛みを巧く詩に転化した一篇だと感じた。 ちな、ささくれはニッパーで切るときれいに処理できますぜ(笑)
1素晴らしい詩、佳い詩なだけに、コメントがむずかしく、しかもA・O・Iさんのとても素晴らしいコメントを拝見しましたので、他に付け足すことも思い浮かばず、故に「ささくれ」のみにフォーカスします。 ささくれ。きれいな言い方です。 私は、さかもげと呼びます。笑 さかもげなら、きれいな詩になりそうもないです。 しかも、そのさかもげ、発見したらだいたい、びよーんとひっぱって伸ばし、ぶちっと切ります。 だいたい血が出ます。 びよーんとひっぱって切れない場合は、爪切りでぶちっとやります。 やっぱり手遅れで、血が出ます。 そんな、ささくれで詩作品を創られたこと自体が、 すでに素晴らしいです。 そして、そのささくれが、最後の1文に登場することで、この詩を見事な作品にまとめあげています。 こころから血が出ても、愛を愛として受け入れられるように、 努力したいと思います。 ありがとうございます。
1「ベージュの天井」から始まることが、芯を食っているような気がしました。 何もない、まっさらな身体を持つ天井と、「ささくれ」が出来てしまう自己の身体。その比較から始まる。 次に「ある人」が続々と出てきますが、こんな風に「ささくれ」に言及してくる人など、実際そうそういない。これは、自分の些細な部分までもが、知らぬ間に分析されていくことの一種の違和感(恐怖と近しいような)かなと思います。 ささくれを「心理的な悲しみだ」とする人が出てきますが、次の連では、「ささくれ」を見たら痛みがやってくる。心→身体の流れではなく、身体→心の流れがある。 (次連、「新しい僕も、悲しみを持っているだろうから、ささくれがある」とあるが、「悲しみ」を「持つ」とは冷静で、違和感がある。やはり具体的に、「ささくれ」が先立っているような気がする) ささくれが「繭」になり、心の悲しみが紡がれて「銃」となる。紡績工場のように量産され、「тот берег=あの岸」へと続く海ができていく。「あの岸」とはなんだろうか。「あなた」がいる岸か。「僕」が発った元の岸を振り返り見たのだろうか。はたまた、冒頭の純粋な「ベージュの天井」に、カオスでありつつ純粋な海になり接近していくようだ。「ある人」は、「ベージュの天井」にも「繭と銃の海」にも、何も言えず閉口するだろう。 最後、「胸のささくれの抑圧」とは、この「ささくれ」から始まった自己の放散を、「あなたは、あなたであ」ると一人の個に戻してくれるということだろうか。それが、「愛」だということか。 良い詩でした。
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