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邪道
哲学は、何のためにするのだろうか。 そう、ふと一人思う。 運動は良いものだ。 やるだけで健康の糧となり、そして続ければ、貴方は他人よりも身体的優位を得られる。 極めれば、その肉体だけで富や名声すら得られる。 例えばスポーツ選手、あの輝ける様はまるで人生の花道のようだ。 そう上手くいかずとも、貴方の肉体は前よりも強く、剛健になっていることだろう。 勉学も良い。 やるだけで人より賢くなった気分になれる。 もし身につけば、貴方は本当に賢くなれる。 そして医学や工学ならば日常にも応用できるのだ。 政治家や化学者はその極地だと思う。ひとたび指示をすれば、それが間違っていても人々は疑問を持たずに従うだろう。 それはまるで、人生を楽に生きる抜け道のようだ。 そう上手く行かずとも、貴方の得た教養は社会規範の中で決して無駄にはならないだろう。 ならば、哲学は何が残るのだろう。 読書をしても、もちろん鍛えられはしない。むしろ腰と目を悪くする。 問いを思い浮かべても、数学のように一つの答えが用意されてはいない。答えなどないものもある。 道徳心は育たず、むしろ人や社会の汚い所ばかりが目について参ってしまうだろう。 極めたとしても、残るのは自己嫌悪と無力感、そして幾ばくかの懐疑心だ。 そもそも、極められるものでもない。 なら何故人々は問い続けるのか。 それは答えが近くにあるように見えるからだ。 目の前に出口の光があるように見えて、実際には遠く離れている。そもそもそこに出口が存在しているのかすらも分からない。 足元は暗く、足元にあるエゴイズムという茨が貴方の道徳心に深く傷をつけていく。 永遠の問いに絶望し、足を止めたとしても、またしばらくしたら光に向かって進んでしまう。なぜならそこにあるから。答えのようなものが目の前で掴めそうなところにあるから。それだけで人はその過酷な道を進んでしまうのだろう。 そう、つまり邪道である。真っ暗な道の中、魅惑的な光が煌々と目の前に輝く危険な道。 傷つき、果てにはそこで朽ち果ててしまったとしても、また別の人間がその強い光へと誘われていく。 それで私もまた、あの光へと歩みを進める。 拒むにしてはあまりにも綺麗で、暖かな光なのだ。 これが罠であるはずがない。 貴方はどの道を選ぶ?
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邪道 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 219.8
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2026-01-10
コメント日時 2026-01-11
| 項目 | 全期間(2026/01/12現在) |
|---|---|
| 叙情性 | 0 |
| 前衛性 | 0 |
| 可読性 | 0 |
| エンタメ | 0 |
| 技巧 | 0 |
| 音韻 | 0 |
| 構成 | 0 |
| 総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
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| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


ただ過酷なだけで何も手に入らないなら、哲学はきっと興りもしなかったはず。 でも何かがあるからこそ、その道は数千年間延々と続いてきたように思える。 ……というか、問いを延々と投げかけること自体が哲学が哲学である所以であり、もしかすると答えは答えで用意されたとしても、「俺たちは問いたいのであって”正解”を用意してほしいのではないんだ!」って思いっきり拒否してきそうなのが哲学者なんだよな。 ソクラテスが良い例(あの人は問答をずっと繰り返すことで、”善”への羅針盤のその修正を永遠に続けることを目的にしていた気がする) きっとどの道も尊いものだとは思う。 運動という道も、勉学という道も、哲学という道も…… (というか”文武両道”という言葉が指し示している通り、一つの道に一辺倒でもいけない気がする。全部の道を選ぶべき)
1運動をパワフルにやるとスッキリする。 勉強もしっかりやれば理解出来た時、腑に落ちる感じがする。 哲学もまた、ピンとくる。腑に落ちるという感じを持ちながら、本当のクリエイティブとはもっともっとという感じで答えと問いの間を何往復もするものかも知れない。 いい点数を取るためのものではない。良い子良い子で頭を撫でられて納得するのではない、硬派で負けん気が強く、堅苦しくで頑固な。星空を見上げながらああでもないこうでもないと模索空想するような。 終わりのない音楽のようななんとも言えない高揚感に包まれた。哲学。 「生きていくことは、エネルギーの消耗である」 とチャップリン。人が生きた数だけ人生訓があり、哲学がある。綺羅星のように光り輝いていればそれでいい。そういうものではないかと。 しかし仰られているような危険な道のことを邪道とイコールにするのが正しいかどうかは分からない。 邪道とは、よこしまの意味がある。 文章の高揚感に包まれて流れの中で出てきた言葉かも知れませんが、些か乱暴にも感じます。 >そう、邪道である このフレーズはなくても、流れとしては良い流れになる文章ではないか? 私はそう感じました。 哲学というものを『光』というイメージに詩的に集約する思いに共感しました。
1本当に仰る通りです。 哲学の異質さを書きたくてわざわざ邪道という、一見貶すような表現にしたのですが、コメントの通り、本当に全部良いものなんです。 その熱意のあるコメントで自分も新しい気づきを得ました。自分もまだまだなんだなと。 僕が哲学を語るには、もっと道を歩く必要がありそうですね(*'▽'*) コメントありがとうございました!
0コメントありがとうございます! 哲学の表現方法が素敵ですね✨ 哲学という不思議な学問を説明するには僕の語彙力ではなかなかに難しく、哲学者の最後が悲劇的なものも多いので、今回はちょっとだけ悪意を込めて「邪道」と呼ばせていただきました。 確かに哲学に邪な意味は特にないですよね…客観的な意味と勢いだけで書いてしまいました、すみません?
1×すみません?→️○すみません。 めちゃくちゃ煽りみたいになってしまいました、すみません。
1哲学をなぜするかという自問に対して 「そこに山があるからだ」というジョージ・マロリー のことばをもってきた。それで正解じゃないのでしょうかね? この問いはさて置いておいて別に哲学してるからといって そこらのなーーんにも哲学しない人より立派なわけじゃない。 なにか哲学することが人より違った「光り輝く」道とか、 そんなふうに考えた瞬間、それこそは邪道に踏み誤ってはいった 瞬間じゃないでしょうかね。いまはそういう輩ばかりですが。 つまりそういう邪道が本流になっている。哲学することに 意味なんかないのです。立派でも光輝くことでもなんでもない。 芋虫が葉っぱ齧るのと何の違いもない。哲学をなにか独特の 有意義で人より凄いものと感じている人たちこそ哲学を糞にして いる張本人です。
0運動や勉学がもたらす 「可視の成果」に対し、 哲学は終始、成果を拒む。 この点は唯物論的価値観においては なんの意味をなさないように思える。 だが 「貴方はどの道を選ぶ?」と 問いかけておきならが すでに〈哲学という邪道〉を選んでしまった者であるという自己規定に戦慄した。
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