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『GHOST IN THE SHELL』で草薙素子はバトーに次のように語る。
われ童子の時は語ることも童子の如く、思うことも童子の如く、論ずることも童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。
しかしこれはいささか素朴すぎる台詞だと言っていい。実際、押井は思想性の濃いクリエイターとして知られ、そうした哲学的な厳密さは往々にして無数の批評を生産し続けてきた。しかし、ここで私たちが着目するべきなのは、むしろ押井がこの文章のみを引用として選んだというその事実自体、いわば無意識の「躓き」の方である。たとえば、この引用文の前部は以下のように記されている。《全き者の来たらん時は全からぬ者廃らん》(『文語訳新約聖書』)。つまり、本来の文脈では「人と成りて」は神秘主義的な超越性の到来に重ね合わされており、それは決して作中の文脈と対立しない。にも関わらず、押井は作中でその弁証法的文脈を回避している。また引用がなされる作中のシーンでは、そもそも素子は大人ではなく、童子の姿で登場している。つまりそこでは押井は映像と台詞をともに逆立させ、言い換えれば、パフォーマティブな効果(映像的シーン)とコンスタティブな効果(引用文)をあえて対立的に用いているのだ。
もちろん、キリスト教的な世界観に照らし合わせれば、素子の幼児化(復活)には何ら矛盾はない。押井は哲学的思弁と同時に、また神学的隠喩を好む作家としても知られており、彼の作品ではしばしば「ルシファー」や「生命の樹」といった聖書的メタファーが展開上の重要な手掛かりとして登場する。しかし、他方で私たちはそれを神学的隠喩とはまた異なる文脈で、いわば押井守という作家の哲学的な過剰=「残余 reste」として理解することができるだろう。そしてそれは、言い換えれば押井を実にタルコフスキー的(それこそ優れてゴダール的なのだが)に読むということである。繰り返すが、押井は『GHOST IN THE SHELL』において、あくまでも超越性を回避しようとしていた。にも関わらず映像上では、彼は文字通り、超越性を志向してしまっている。これは一体何を意味するのか。以下、その簡単な着想を記しておきたい。
近年のインタビューで押井は、『イノセンス』に至る攻殻二部作を「80年代的な遺物」として振り返っている。そこで押井はギブソンの作品群を筆頭に、70年代初頭に台頭したニュー・ウェーブ、いわば「内宇宙的 Inner Space」な作風を批判し、それとは異なる作風の必要性を強調していた。
たとえば、ギブソンが1984年に記した『ニューロマンサー』では、電脳社会(サイバースペース)による自由主義の実現というテーゼが「情報集合体」という上位の存在として理想化されている。インターネットにも似た電子網が世界中に張り巡らされ、情報の共有のみならず、意識の共有までも成功した社会にて、人は何も不自由することがないように思える。しかしいくら人間の情報技術が発達しようと情報戦争はなくならず、実際、本作にて登場する「電脳都市」は「財閥」と「ヤクザ」によって経済的に管理されている。つまり格差が存在する。では合理的な社会において、どのように宗教的感情は回復されるのか。
ギブソンはその回復可能性をネットワークの集積のなかに、言い換えれば人間の「認知限界」に見出そうとする。たしかに環境はエントロピーの情報形態であり、そこに絶対的な価値はない。しかしかといって、未来でも全てのメカニズムが解明されているわけではない。そこでも、いまだ人々は、そもそも「情報」とは何か、生存本能とは何かといった形而上的学を原理的に退けることができず、相変わらず「私」の問題について悩み続けているだろう。したがって、そこでは必然的にその情報共有のブラックボックス自体が、その不可知性ゆえに新たな超越的存在として具現化されてしまう。『ニューロマンサー』に登場する高度情報集合体は、作中では人間には不可知な超越的な存在として、いわばクラークや小松左京が想定した、押井の言葉を借りれば「80年代的」な想像力として現れていた。そしてそれは言い換えれば、否定神学的な想像力にほかならない。
実際、ギブソンは作中にて「都市千葉市(チバ・シティ)」を筆頭に日本的/中国的な用語や地名を頻繁に用いており、私たちはそこにギブソンという作家のもつ一種の「憧れ」を見ることができる。同時代の『ブレードランナー』(1982)が示すように、当時のSF界では東洋的な無我——今でいうクールジャパン的傾向——がその内容的軽薄さにも関わらず、それゆえに西洋の没落から免れる「SF的理想郷」として解釈された。たとえば、明治文学の異質な文体を評価するというように。しかし、文学に詳しい読者なら分かる通り、その文体は言文一致、いわば西洋と東洋の癒着の混乱によって要請されたものであり、決して「解放」などではない。したがって私たちはそのようなメンタリティこそを、サイードの言葉を借りれば「オリエンタリズム」の典型として位置付けることができる。西洋的視座から東洋的神秘への転向は、より正確には転向ではなく、内面的な「発見」にすぎない。たとえば柄谷行人は、当時吹き荒れていた「知の変容」を「不幸な意識」として徹底的に退けていた。
ポスト・モダンの思想家や文学者は、実はありもしない標的を撃とうとしているのであり、彼らの脱構築は、その意図がどうであろうと、日本の反構築的な構築に吸収され奇妙に癒着してしまうほかない。これを消費社会のせいにすべきではない。日本の消費社会こそこのせいなのだ。日本の自然=生成に揺さぶりをかけない思想は、制度的である。依然として、われわれは「一人二役」としての〈批評〉を必要とする。(柄谷行人『批評とポストモダン』)
日本には構築(エートス)がない。したがって「脱構築」という転倒そのものが機能しない。にも関わらず、日本のポストモダニズムでは《一人二役》という「ねじれ」が忘却され、大量消費社会の「倒立」が安易に、いわば超越論的に肯定されてしまった。《このとき、宣長のいう「自然」は、自ら成る事実にほかならない》、《もし、われわれが、神・超越者あるいはそのバリエーションに対して、西洋人のように闘いを挑むならば、的外れである。「制作」という観念に対して反抗するならば、的外れである》。この「的外れ」は、より具体的に記すならば、戦後のマッカーサー体制をめぐる対立構造の「ねじれ」に象徴されている。たとえば憲法改正について、改憲派はGHQの改竄=改竄の事実を主張し、護憲派は先行形態(カント)としての文化機能を主張するが、ここでは両者ともに憲法の「選び直し」という概念が欠落している。言い換えれば、それは欧米の憲法論においてトクヴィルの「異邦人」性が忘却されるような、そのような倒錯した認知であると言っていい。小林秀雄が指摘したとおり、日本には「批評」は存在せず、奇妙な散文の意匠(モード)が繰り返されているに過ぎない(「様々なる意匠」)。しかし小林秀雄はここで決して印象批評を援護しようとしているわけではない。彼がここで「批評」を自己懐疑の方法としたのは、むしろそのような「混乱」を起点とする物語=作者の終焉(コンテクストの分裂)をこそをある種の超越性として消費するためである。したがってそこではアイロニーそのものが超越的な優位に置かれ、人々は個人の孤独なダンディズム、いわば「自己救済」を強いられる。
押井守の『GHOST IN THE SHELL』もまたその一例として解釈できる。作中で幾度も言及される「私とは何か」という問いは、むしろそれを問う「私」の逆説的な存在証明(デカルト的コギト)において、超越論的な優位を保ち続ける。たとえば素子がバトーに「このわたし」の必要性を語るとき、素子は決してバトーの返答を求めているわけではない。というより、そもそも彼女はこのような問いに経験論的な答えがないこと、いわば「くだらない」ことであることを知っている。たとえば、素子はバトーに、電脳化された身体について次のように語る。
[素子] 人間が人間である為の部品は決して少なくない様に、自分が自分である為には、驚くほど多くのものが必要なのよ[……]あたしの電脳がアクセス出来る膨大な情報やネットの広がり、それら全てがあたしの一部であり、あたしという意識そのものを生み出し、そして同時にあたしをある限界に制約し続ける。
しかしこのような「限界」は容易に超越的な自我を要請してしまう。ここでは「私」とは、むしろ絶えずメタ意識をつくりだす悟性的機能ではなく、《全てがあたしの一部》であるのにも関わらず、《限界に制約》し続ける、無限の問いとして提出されている。この問いには終わりがない。しかし終わりがないゆえに、「私」の優位性は保たれるのだ。作中、素子は一貫してモノローグ(独白)を語るが、そこには決して「観客」といった他者がいない。
このことはまた別の意味に言い換えられる。繰り返すとおり、素子は作中にて「私」の限界を語る。実際、このアニメ映画はストーリーのみを追えば、『ニューロマンサー』にあまりに酷似しており、その指摘は決して誤りではない。しかしもし本当に、押井が素子を新たな象徴的存在として表象するのであれば、彼はそこに信仰を見出す「他者」を想定しなくてはならないはずである。吉本隆明が指摘したように、〈社会〉の下部構造=共同幻想はつねに解釈の共同体、いわば先ほどのギブソンの東洋賛美のような、自己幻想的な「転移」を必要とする。不可侵な「象徴」=国家は、その状況そのものを特権化する他者、言い換えれば情報の理解がなくては成り立たない。つまり物語化されなくてはならない。しかし、押井はここで素子の演技性を強調することによって、そのような転移関係を回避している。これは一体どういうことか。
しかし押井の作家性を知る者ならば、ここにこそ、押井守という創作者の特異性を指摘することができるだろう。そもそも押井は『ビューティフル・ドリーマー』以降、一貫してそのような啓蒙スタイル——表現の極限においてジャンルを内破させる臨界的(critical)な作品群——を志向してきた。たとえばそれは『ビューティフル・ドリーマー』においてはモラトリアムに耽溺するオタク批判として、『ご先祖様万々歳』では高橋留美子的な小世界性の徹底として、『パトレイバー2』においては幻想としてのクーデターという政治的意匠において表現されたと言っていい。そこで押井は、映像の質的表現とはまた別の目的のために、作中に宗教性やドラマを持ちこみ、観客を切り捨ててきた。90年代以後、この啓蒙的姿勢は、のちのアニメ界においては庵野秀明の『Air』に、ゲーム界においては麻枝准の『AIR』、『CLANNAD』などに継承されていく。
加えて、これらの作品に共通する他者の排除的傾向は、映画全体の感情移入の構造にも指摘することができる。『GHOST IN THE SHELL』の大部分はバトーと元子の関係性に集約されるが、しかし作中では決して素子側の内面が描かれない。冒頭から分かる通り、そこでは素子は一貫して冷静沈着かつミステリアスな女性として登場し、作品全体の不透明さにただただ奉仕するだけである。これは決して押井のミスではない。そもそも設定上、「私」を疑う素子に自己告白などできるはずがない。これは設定上の必然であると断言できる。先述したように、作中でたしかに素子は「私」を独白する。しかし観客には彼女の内面をセリフのみにしか見出せなければ、またそれが真実であるかも保証されない。つまり、そこでは素子は観客の感動を宙づりにする異質な存在として、いわば「不可能なもの」として登場しているのだ。
この意味において、観客はもはや素子に感情移入することができない。そこでは観客は徹底的な孤独、いわば「不能感」を味わうほかない。そして一部のアニメファンなら分かる通り、観客に「不能感」を与える作風は、押井の十八番であると言っていい。たとえば1975年の『天使のたまご』においては、正体不明の少女と青年の他に登場人物は存在せず、そもそも台詞すら数えるほどしかない。そこでは登場人物への同一化は巧妙に退けられており、したがって観客はもはや作品内のアレゴリーの読解、いわば批評的言説の生産によってでしか、作品世界に入り込むことができない。
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しかし筆者が語りたいのは、そのような不能感の「自覚」といった構造ではない。なぜなら筆者には『GHOST IN THE SHELL』には『イノセンス』とは異なり、作中には素子とはまた別の読解の回路があるように思われるからである。素子は観客の同一化を退ける。その失敗によって「大人」になることをオタクたちに要請する。しかし筆者は以上の物語を素子を主人公とした、円環的かつ否定神学的な「不在」の物語として理解しない。むしろそれらはバトーを「主人公」とした物語として、より正確には家族的な「父」と「子」の物語として解釈されなくてはならない。一体どういうことか。
前述したように「私とは何か」の必然性を問う実存主義は、その問い自体が超越的である。そのように「問う」ことこそ、「私」の優位性を補完することだからだ。そしてそこではもはや、押井の超越の企ては自覚的な虚構の円環、言い換えれば神秘主義的な視座に限りなく接近してしまう。機械や人間の差異を引くことは不可能であり(機械=人間だとしても、それは人間の反復に過ぎない)、不在によって物語を復権することも不可能である。したがって、そこではもはや人々は絶望的になるほかないように見える。実際、続編である『イノセンス』では押井的な饒舌は息を潜め、膨大な引用とCGを活用した壮大な映像美だけが物語を形作っており、それはあたかも押井の「敗北」を象徴するように思える。
しかし、その不能感は思想的とはまた別の次元にも見出せる。たとえば『GHOST IN THE SHELL』には公安9課の真相追及とは別に、ラブストーリーとも解釈できる余地がある。実際、続編の『イノセンス』ではバトーは素子を探しに街を転々とし続ける。しかし同時に彼は「私」の罠にハマっていない唯一の登場人物であり、素子の思いに共感することができない。たとえば作中では素子はその苦悩のため、瀕死に追い込まれ、最後には「人形使い」と同化してしまうが、バトーは一貫して、その行動に「くだらなさ」を感じ続けている。結果的に、素子はその同化によって機械とも人間ともいえない存在に変化するが、それは観客にとっては素子というキャラクターの喪失、いわば主人公の「死」を意味し、バトーにおいては理不尽な「恋人」の死、あるいは「仲間」の死を意味する。
一方で、押井は作中でその「死」を、ギブソンと同様に超越的存在を想像することで、克服しようと試みる。だからこそ、押井はこの作品を80年代的な「ユートピア作品」として自己批判せざるおえなかった。しかし他方で、筆者には当時の押井はむしろ、その喪失をまた異なるベクトルの「希望」として語りなおそうとしていたようにも思える。前述した通り、素子はバトーと分かり合えなかった。苦悩を共有できなかった。そしてバトーは失恋し、当の素子も消滅した。しかしかといって全てが終わったわけではない。むしろ希望はバトーの側にこそ存在する。最後、《人形使いと呼ばれたプログラムも少佐と呼ばれた女もいない》世界でバトーは新たな「草薙」にこう語りかける。
[草薙]インテリアの趣味は良いみたいね。ここバトーのセーフハウス?
[バトー]自前のな。ここに来た人間はお前が始めてだ。居たけりゃ何時まで居てもいいんだぞ。
[草薙]ありがとう。でも行くわ
[バトー]なぁ。奴と一体何を話したんだ?奴は今もそこに、お前の中にいるのか?
しかしここでバトーは決して素子に語りかけているのではない。ここではバトーは、むしろ草薙自身に、いわば新たな素子に、オリジナルの「面影」が存在するという事実自体を問うているのである。つまり、そこではバトーは新たな「草薙」なる人物に素子とは異なる主体性を認めている。言い換えれば、ここで彼は「草薙」を素子そのものではなく、素子の「子ども」として扱っているのだ。
これはいささか強引な読解に思えるかもしれない。しかし実際、草薙が全き「他者」であるならば、そもそもバトーは草薙を愛すことなどできるはずがない。彼女は草薙素子ではないが、しかし「人形使い」でもない。それは得体の知れない存在、フロイトの言葉を借りれば「不気味なもの the uncanny」であり、もはや感情移入の対象ではないからである。つまりここではバトーは、先ほどの例を使えば、押井作品によって不能感を強いられる「観客」と同じ地平に立っている。というよりも、押井はむしろそのバトーの視点という極限においてこそ、読者に唯一の「感情移入」の回路を開こうとしている。
恋人が死に、新たな情報集合体が生まれ、希望はことごとく息絶えた。そしてそのとき、バトーから「草薙」はどのように映っただろうか。それはむしろ父でもあり母でもあり、かつどちらもでもないような、そんな中間的存在としての「子ども」ではなかっただろうか。そしてバトーからすれば、そのような草薙は自身の「家族」同然に、より正確には「素子との唯一の接点」のように思える。《ここに来た人間はお前が始めてだ》、《居たけりゃ何時まで居てもいいんだぞ》。このときバトーは恋人としてではなく、むしろ「父」として、いわば「家族」としての役割を担おうとしているのだと言っていい。
素子はもはや存在しない。したがってバトーは恋は決して成就することはなく、素子とバトーにはもはや何らの繋がりもない(そしてそれは観客も同様である)。しかし、それでもなおバトーが素子との繋がりの中に立ち尽くすのならば、バトーは草薙の「父」として、いわば自己にとって「異質なもの」を家族とするほかない。というより、そもそもバトーの「恋愛」はそのような倒立した方法でしか成就することができない。疑似的な父親として振る舞うことによってのみ、素子との「恋愛」は事後的に完了する。このような倒錯が倫理的に許されるのか、今の筆者には判断することができない。しかし少なくとも、このような「恋愛」の形はまた新たな形で素子の意思の「継承」を可能にするだろう。
バトーは、観客は、「素子の死」に強烈な不能感を感じる。しかし、それを「不在」のダンディズムによって超越論的に彩るのではなく、むしろそこから新たな「家族」をつくりだすこと。押井はここでバトーの「失恋」と「喪失」を、不能感の自覚といったオタク批判に留まるのではなく、新たな素子という偶然的な第三者(子)による疑似家族をつくることで、その問題圏自体を乗り終えようとしている。そして筆者にはそれこそ、押井が長年苦悩してきたポストモダンの問題——不在が絶えず超越化され、物語の復権が叫ばれるような時代——の「希望」であるように思われてならない。
死によって異質さを引き受けるのではなく、むしろ生によって物語を生み出していくこと。「私」の話でもなければ、「あなた」の話でもない、その隙間のネットワークについて思考を巡らし続けてみること。物語はもはや成立しえない。公共性も存在しない。しかし物語らしきものならば、私たちは語ることができる。大きな物語でも、小さな物語でもない、未成熟でゆるやかな「擬似家族」という理論的可能性。『GHOST IN THE SHELL』は、おそらくそのような視座のもと、位置づけ直さなくてはいえない。そしてその視座に立ってのみ、『イノセンス』のポップな「美学」は私たちの前に、また異なる「抵抗」の方法として立ち現れるだろう。だとすれば、ここから私たちはより新しい時代と文脈で、押井という作家について語らなくてはならない。少なくとも、私たちがバトーの恋愛を援護する限りにおいては。
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作成日時 2025-12-26
コメント日時 2025-12-29
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2026/01/12 09時18分05秒現在
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いやあ、かなりむつかしいし、長文でした。 『攻殻機動隊』は、自分探しや哲学的な理屈の物語ではなく、 実は切ない失恋と新しい家族の形の物語である」と 仰りたいのだということはおぼろにわかります。 ただ、...... わたしはアニメがどうも肌に合わなくて観たことないのですが、 当然この『攻殻機動隊』という(タイトルだけみると戦記アク ション物のような)アニメを観たこともないです。ただ、この 手のアニメ批評には接する機会があり、その度に、"たかがアニ メ"にどうして脱構築だのなんだのと高尚な思想哲学を持ち込む のかと不思議でなりませんでした。いわゆるサブカルチャーの 良いところは、西欧のポストモダン思想のようなところから抜 け出して、若者の実感に即した物語によって、愉しみながら今 の時代に生きる人々の喜怒哀楽を伝えようとするものであるべ きだと思っていました。ところがいざ批評をみると、まさに 「ブルジョアの倫理」と皮肉されるメインカルチャーの思想が 持ち込まれて、その思想哲学の難解さによってサブカルチャー の商品価値を押し上げようという、知によるサブカルチャーの 退行現象といいましょうか、裏切りといいましょうか、そんな 感じの風潮が生じているなという感じにみえました。もちろんアニ メを観もしないのに一概に批判できませんが、わたしの素朴な 感想としてはそうでした。『攻殻機動隊』のような若者向けの (当然恋愛ばなしもある)戦記物アニメを、大卒の批評家たち が、その知性ゆえにどんどんサブである特性を殺して知的な堕 落といえばいいすぎですが、アカデミズムのほうに(つまり自 分たちのほうに)引き寄せてしまったとしか思えませんでした。 そうすることでさらに商品に市場価値を上乗せするのですが、 この批評文をわたしがその手の、一種の知の堕落のように感じ てしまったのは「自分探し」という滑稽.....といっては失礼です が、いささか欧米では流行の雲を掴むような哲学がとりあえず 批判されずに、批判されないまま否定的に論じられています。 「高尚なアニメ哲学」といわれると噴き出してしまいそうにな るのです。「高尚なアニメ哲学」という市場的な擬制の商品価値 にすぎないものに惑わされ、どうしてこんな異様な批評文を書 いてしまうのか、そこが理解できません。 なぜ日本の知識人は、これほどまでにアニメを借りて哲学を語 りたがるのか? さまざまな要因があるので長くなりますから そこは飛ばしますが、結局のところ、筆者が提示した批評文も、 「アニメの純粋な感動」を「言語の遊戯」に変換すると いう、知識人の悪癖から逃れられていません。知識人にとって アニメは、自分の思想を投影するための「便利な鏡」になって しまっているような気がします。一方で若者の中にも「選ばれ し者」になりたいという特権意識への渇望がある。「単に消費す るだけの大衆」とは違う存在でありたいという欲求を持つ層が 一定数存在するのじゃないでしょうか。そういう層がアニメの 難解批評や難解解釈を「どうだあ、まいったか」と持ち上げる。 ただ、 わたしが少し思ったのはでは、このような難解な批評について いけないわたしのようなふつうの知的感覚をもった若者は どうしているのでしょうか? こういった知の優位性による商 品化というか格上げを批判しないでわかったふりをしているし かないのでしょうか? 知の格付けが進んでしまった結果、 「普通に感動した」という素朴な感想を、公の場(SNSなど) で発信することを躊躇するようになっている一定の層ができ あがっているとすれば哀しいことですし、また、投稿者さまに は失礼ですが、そういった層の側にたってサブカルの本来の面 さを批評できる知性が存在しないことにも、いまのこの国が 経済優先、市場優先のために知性が消費されているだけになり 下がった愚かな国だなという感慨を、持ってしまうのです。 長文なのでだんだん調子が下がってきましが、笑 以上のような 読後感でした。
1ざっと読んだだけですが雑にまとめると バトーは新しいタイプの父となった、という、かなり都合のいい解釈なんじゃないかな。 かねてより、GHOST IN THE SHELLもイノセンスも、あまりに女権的だと個人的に考えていて、だからこそバトーは自身で比喩的に「去勢」を断行し、その潔さに女オタクが喝さいをするわけですよ。その「問題」に切り込まないのは駄目じゃないですかね。
0昨日、渋谷駅で見た広告のイラストがどの映画のイラストか思い出せなかったのですが、お陰様で思い出せました。 ありがとうございます。
0長大な論文、評論、押井論だと思いました。詩としてのポエジーを含ませているのかもしれません。読み応えが有ると思いましたが、詩としてなのか、評論としてなのか、判断を保留したいほどの読み応えでした。
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