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自分
ふだん それこそ何気なく 自分 自分と言っているが ある機会に その必要性から この言葉を 漢和辞典で調べて 驚いた 驚かされた なんと そこには 私の知らない しかし 知っておくべき もっとも根源的な意味が書かれていた しかも それは 長年 私が希求していた事柄についてのものだった まず 「自分」という言葉の 語源が詳説されていた それによると 「自」は おのれの鼻の形をかたどったもので 古代人は その鼻を指しながら 「この自分」という意志表示を行っていたという しかも この文字の「ジ」の音は 鼻が顔面から突き出ているという ところから来ているらしい どうやら 古代人にとって いろいろある顔の造作の中で 独り平面から突出した鼻こそが きわめて重宝であり お気に入りであったらしい そのため 後には ハナを意味する ハナ専用の文字が出来たとか そこで 今度は 乗り気で 広辞苑を覗くと そこには 思いがけないことが記されていた それは まさに 「自」の形而上学的思索 とでもいったものだった それによると 「自」には 二つのいみがあるという 一つは「おのずから」であり いま一つは「みずから」であるという どちらにも共通する 「から」は 「柄」の意で それ自身の在り方を表すという そこで 両者をまとめると まず「自ずから」は「己つ柄」であり 自分自身の本来の在り方を意味することになり 「自ら」は 「身つ柄」であり おのれの身体的存在に着目していわれる 「自分自身」のこととなる ここで 私のこころを強く惹きつけたのは 「自ずから」である これは 私の考えでは 宇宙いっぱいに遍満するいのちの その不断の働きであろうと思う それ故 これは 私たちのいのちをこえたものとして存するように思われる それを さらに具体的 直接的にいうなら 自然の営みということになろうか ところが である 私のそうした平板な推量を 遥かに凌ぐ ある高名な精神病理学者の記述を見て 動顚し 軽い眩暈をさえ覚えた 「『自ずから』と『自ら』との関係は、対等なそれではない。前者は 後者の基礎になっていて、後者は前者の身体というリアリティーを 介しての派生態だということになる。つまり、『自ずから』が『自ず から』として成立しているかぎりでのみ、私たちは自分の身体的存在 に着目して『自ら』ということを言えるのであって、その逆は成り立 たない」 とくに後半は 私に眩暈を起こさせるに十分の 内的衝撃力を持っていた それには 二つの思いがある 一つ目は なぜかそのことを 予め私が知っていたような気がすること しかし それは気がするのであって 改めて指摘されると 圧倒的な内的衝撃力を以って私に迫って来たこと これが 「自ずから」のまことの威力なのだろう ところが この後 妙なことが起こった 私の脳裡に いきなり 芭蕉の俳句が思い浮かんだことだ それも 誰もが知る「蛙」の俳句…… (私はいつも、何かにつけて、これを愛誦していた) 恐らく これは 私が 「自ずから」を直観したことによる出来事なのだろう 「蛙」が 「自ずから」に誘引されて登場したのだ それは もちろん 芭蕉が「自ずから」を体得していたからだ ここには 言葉をこえた いのちの伝達がある ところが 私は曲がりなりにも 西欧風の教育を受けて来た 西欧世界の根幹は デカルト的二元論 精神と物体であり 理性とモノである ここで信じ難いことは 身体が物体と見なされていることだ これほど 奇怪にして 理解し難いことはないのではないか あれだけ 西欧の伝統的世界像を批判したニーチェでさえ 「身体とは偉大な理性であり ひとつの感覚を持った多様なのだ」と 熱く語っている 「自ずから」を逸するとき 自然さを逸する 自然さを逸するとき 人間は人間性を喪失する 人間性を喪失したとき 人間は最後に「自ら」をも失う
自分 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 657.0
お気に入り数: 1
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2025-08-04
コメント日時 2025-08-11
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


「自ずから」「自ら」、つまり自己の法(ダルマ)ということが書いてあると思いました。 世にある全てのものは、それぞれ固有の法を持っています。それは、本来的には、空 であるため、固定したものではないのですが(一切法空)、法同士、存在同士も網の目のように 関わって存在しながらも、網の目という区分けは存在しているということは見逃せません。 ひとつのけじめというのは、あらゆる事柄について存在することです。自分のけじめは、 自分でつけなければなりませんが、そういう法への理解が持たれている限り、その人は、 他者や社会から受け入れられ、共に助け合って生きていく権利を持ちますね。
0お読みいただき、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします。
1おはようございます。 再読させて頂きましたが、漢和辞典が出てくるのが好きです。 ちょっとずつ理解して行きたいです。考えさせられます。
0お読みいただき、ありがとうございます。今、ふと思いついたのですが、サッカーなどの国際試合では、まず試合開始の前に「国歌」を斉唱します。その「国歌」ですが、他の国々のものは、いかにも勇ましい行進曲風のものですが、わが国のものと来たら、「君が代」以来の国の成り立ちを歌った壮大なものです。第一、壮大故に沈鬱にして、荘重です。とても、この歌の調子では、相手に奮い立って、戦えるようなものではありません。しかし、私は気に入っています。これは、これでよいのではないか、と思っています。その点、外国の「国歌」は、すべて「自ら」のそれのようで、存分におのれが奮い立っている。こうした点についても、考えて見たいと思います。どうもありがとうございました。
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