随分と昔のことだが、愛媛県西条市に、従業員百人ほどの縫製工場があった。主に、工場労働者の制服や作業着を作っていたらしい。ぼくの母も広島から故郷に帰ってずっとその工場で働いた。ある日、母と歩いていると、そこの部長さんとすれ違ったことがある。明るく気さくな感じの人で、ある有名な漫才師に似ていた。彼は車に乗っていたが、母に気が付いたようで、車を路肩に止めると窓から顔を出し、「○○さん」と、母に声を掛けた。彼はぼくを見ると、「息子さん?ええ息子さんやなあ、うちの会社に来てくれたら大歓迎やで!」と、母に話しかけた。ぼくは恥ずかしくて何も言えず、母も戸惑った様子で軽く会釈をしただけだった。
それから十年以上の時が流れたが、会社は繊維不況の波に飲まれ、倒産してしまった。母に退職金はあったが、たったの五万円だった。退職直後、母は交通事故に遭い重体となったが、無事に回復して、入院した病院の補助看(入院患者の食事の補助やベッドメーキングなどをする)の仕事に就いた。
部長さんは、その後、どうしたかというと、新たに小さな縫製工場を立ち上げた。まだまだ壮年ではあるし、ずっと縫製畑で働いてきたことから、俺なら上手くやれるという自信のようなものがあったのだろう。その話しを母から聞いたとき、不景気の真っただ中で、しかも縫製業という斜陽産業を今から始めて大丈夫なのだろうか?と、ぼくは思った。取引先の伝手はあるにしても。
残念ながら、ぼくの悪い予感は当たってしまって、元部長さんの工場は、二年足らずのうちに潰れてしまった。そして、借金のためかどうかはっきりとはしないが、彼は住むところも失って、公園で寝泊まりすることになった。母もその姿を見たらしいが、声を掛けるのははばかられたと言った。ただ、市役所もそれを放っておくわけにはいかず、彼は福祉施設に入ることになったようだ。数年後、彼はその施設で生涯を終えた。
彼はとてもいい人で、どちらかというと幸福な半生だったが、晩年において突然暗転してしまった。運に恵まれなかったといえばその通りなのだが、彼に時勢を読む力が欠けていたことも確かなのだろう。今思うに、彼が会社を起こした時代は、よほどの実力と強運の持ち主でなければ、成功は覚束なかった。
起業をする人は多いが、事業を軌道に乗せ拡大させることができる人は少ない。商売はその知識だけでも駄目で、人間力といったものが必要となる。それが自分にあるかどうかを見極めるのは非常に難しく、やってみないとわからない。やらない後悔よりやった後悔の方がましだという人もいるが、その後悔が致命的でないという条件付きであることは説明するまでもない。何ごとも始めるにおいては逃げ道を残しておくべきというのがぼくの考えだが、退路を断つことに美学を感じる人もいる。確かに、人生は突き詰めると、博打ではある。
ぼくが今住んでいる釧路でも、去年あった会社が、今年にはテナント募集になっていることが少なくない。
「勝者は勝ちてしかる後に戦い、敗者は戦場に勝ちを求むる」、孫子の言葉で、ぼくもその通りだと思うが、概観すると、部長さんの人生が失敗に終わったとは必ずしも言えない。勝負は時の運、戦いに負けることがあるのは当然、恥にて恥ならずである。
作品データ
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作成日時 2025-06-01
コメント日時 2025-06-05
#現代詩
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2025/12/05 22時20分36秒現在
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部長さんの反省全てが失敗でなかったことを祈ります。 そうでもなければ、ただ世知辛い世であるだけになってしまうから。
0部長さんの人生は、外から見ると失敗かのようですが、 本人はやり切ったのですから本望でしょう。 後悔することはなかったと思いますよ。
0頷きます。 例えば大谷翔平の陰には何百何千という、何らかの理由で野球を諦めた選手がいるのでしょう。会社にしてもそうですね。安易に立ち上げた経営者。大手に飲み込まれてしまった会社。失敗。 企業するにしても何をするにしても一割に充たない勝者がいてほとんどの人間は敗者でしょう。その選んだ目的に於いて勝ち負けで判断するならば。ですね。 もちろん運不運という要因も憑き物だと思います。 ただ人生の失敗者としてあの世に逝きたくはない。それだけが希望です。
0そうですね。 部長さんにとってはやり切って本望でしょうね。
0メルモsアラガイsさんの仰るように、勝者の周りには敗者の屍が累々と並んでいますね。 ただ、臆病で、何かをしないといけない時に、眼を背け逃げるとすれば、それが人生の失敗者なんだと思います。 そうではないように心がけて生きていきたいですね。
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